【敗者】上杉景虎【悲哀】
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北条氏康の七男として生まれる。上杉謙信の養子となり、その初名である「景虎」を名乗る。
謙信の死で家督の後継をめぐって、越後では景虎派と景勝派の戦いが起こった。 輝虎の軍勢の3倍4倍の軍勢率いて参り、堂々と陣を同じうするのだ。さすれば、上杉輝虎、もはや、威張れぬ 旧米沢藩上杉家の当主の血統上の先祖には、
北条氏康、上杉景勝、徳川吉宗、島津義弘、吉良義央、今川義元などがいるそうです。 越後長岡藩の第12代藩主 牧野 忠訓
牧野忠訓の先祖である松平信綱の母は、深井好秀(白井長尾氏)の娘
深井氏は武蔵国足立郡深井邑(埼玉県深井)より起こる桓武平氏長尾氏族
長尾氏は上杉氏の血も引く一族
河井継之助の主君は長岡の支配者として相応しい人だった。 上杉憲政 前関東管領の死
息子 道満丸(9才)の死 長岡市東部は、高波保と呼ばれていた。
高波氏は物部氏である。 上杉氏の祖
藤原北家高藤流・勧修寺流上杉氏の祖の藤原定方
藤原定方の父:藤原高藤、母:宮道弥益女・列子
藤原高藤の父:藤原良門、母:高田春子(高田沙弥麻呂の娘)、醍醐天皇外祖父
藤原良門の父:藤原冬嗣、母:安倍雄笠の娘
藤原冬嗣の父:藤原内麻呂、母:百済永継(現大阪府羽曳野市)を本拠とする渡来人系
藤原内麻呂の父:藤原真楯、母:阿倍帯麻呂の女
藤原真楯の父:藤原房前、母:牟漏女王
藤原房前の父:藤原不比等、母:蘇我娼子(蘇我連子の娘)
藤原房前・藤原北家祖。
藤原北家とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。 藤原定方の父:藤原高藤、母:宮道弥益女・列子
「寛政重修諸家譜」には、
「物部守屋末孫宮内大輔宮道朝臣弥益、山城国山科を領す。
その後胤七郎親直越中国新川郡蜷川に住し、その地名をもって家号とす」とある。
つまり、宮道氏は、物部守屋(もののべのもりや)の血を引き、藤原北家高藤流勧修寺流上杉氏はその子孫にあたる。 藤原高藤の父:藤原良門、母:高田春子(高田沙弥麻呂の娘)、醍醐天皇外祖父
高田氏
「新撰姓氏録」によれば、右京 諸蕃 高麗 高田首 首 出自高麗国人多高子使主也 。
「先代旧事本紀・国造本紀」によれば、久比岐國造(頚城、新潟県西部)
御矛命 大和直の同祖(椎根津彦命)の後裔。 阿賀北衆の新発田氏は強力な力を利用された後に、直江兼続にだまし討ちされた >>3
長岡地域の景虎派の武将
上杉景信(上杉一門・古志長尾家当主)と本庄秀綱・越後秩父氏高麗氏系本庄氏
越後秩父党の本庄氏
桓武平氏秩父氏系の高麗氏。秩父武基の子、高麗武家
秩父武基は平将恒の息子で平将門の曾孫。
高麗武家の子孫が、阿賀北衆の越後秩父氏の本庄氏と色部氏となる。
本庄氏からは、「上杉家に鬼神あり」とまで言われた武将本庄繁長がでる。 父:本庄繁長(ほんじょう しげなが) 景勝派 (上杉家に鬼神あり、とまでいわれた武将・越後秩父氏高麗氏系本庄氏。)
子:本庄顕長(ほんじょう あきなが) 景虎派 (繁長の嫡男として生まれる。母は上杉景信の娘。)
御館の乱では、父:繁長が上杉景勝派についたのに対し子:顕長は、
母方の祖父・上杉景信(古志長尾家当主。越後国栖吉城主(長岡市))の属する上杉景虎派について戦う。
御館の乱では、父と子で戦った悲劇がある。
その後、景勝側近の(直江)樋口兼続によって本庄顕長は上杉家から追放された。 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 本庄秀綱・越後秩父氏高麗氏系本庄氏の墓が長岡市にある
逃亡説があるけど、それはウソ 越後に逃亡して来た信濃侍に、卑怯なだまし討ちで上杉家は乗っ取られた 戦犯の山本五十六とは、
卑怯なだまし討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦犯の山本の
先祖も信濃武士系の真田家家臣を先祖に持つ人物 侍やサムライは、日本の代表として使用されているけど、それぞれ地域性があって心構えも違っていた。
米沢藩の資料には、越後侍・佐渡侍・甲州侍・信州侍などと別々に書かれている。 >>5
牧野康成 (上野大胡藩主)
牧野康成の子。
牧野忠成 (越後長岡藩初代)
娘 充(永昌院、松浦隆信正室)
松浦重信 肥前国平戸藩4代藩主 平戸松浦氏29代当主。
松浦重信の父:松浦隆信 肥前平戸藩第3代藩主 平戸松浦氏第28代当主。
母:牧野康成娘・永昌院
中山愛子 明治天皇の外祖母。肥前国平戸藩主 松浦清の十一女として平戸に生まれる。慶子を産んだ。
中山慶子 明治天皇の生母、大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母、上皇の高祖母にあたる。
今上天皇は、松浦氏を通して三河牧野氏・牧野康成の子孫にあたる。 長岡市の長岡藩三河牧野氏の祖―蘇我氏―武内宿禰―孝元天皇
新潟市の竹内式部・尊王論者―武内宿禰―孝元天皇 戦犯の山本五十六とは、
卑怯なだまし討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦犯である 戦犯の山本五十六とは、
卑怯なだまし討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦犯である 直江兼続は、江戸時代の米沢藩では奸臣とされていたのに昭和になってから
信濃侍系によってウソと捏造で神社に祀られてた 米沢藩・初代藩主は上杉景勝
上杉景勝の正室は武田信玄の娘
武田信玄といえば「風林火山」
風林火山といえば「孫氏の兵法」
孫氏の兵法といえば「兵は詭道なり」 戦犯の山本五十六は、騙し討ちをすることは何とも思わない人 「御館の乱」で景虎が勝って上杉を継いでいたらその後の情勢はどうなっていたのか…?
勝頼が義兄弟となる景虎を切って景勝と結んだのは、上杉領の割譲やら黄金の贈呈というエサに食い付いただけではなく、
実弟の支援を勝頼に頼みながら自分は出兵しなかった氏政に疑念を持った事も原因らしいが。 >>27
氏照、氏邦兄弟が名代として越後に出兵してるけどそれじゃ不十分なんか?
坂戸城を攻囲中に冬がやってきたんで雪で退路を閉ざされる前に撤退してるけど 山本五十六とは、
卑怯な騙し討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦争犯罪人である
長岡出身で同郷ではあるのですが、山本五十六を絶対に許してはいけません
敵は、味方の中にいたんですよ >>27
御館の乱は最初から専制した景勝有利だった
景勝が上杉謙信の甥であるのに対し
景虎は謙信との血縁関係がなく謙信の姪婿というだけ
勝頼は後から出かけて行って調停と称して有利な景勝と結んで妹の菊姫を嫁がせ
景虎を見捨てた 景勝が先制?
いつの時代の研究を参考にしているんです? 上杉家は、直江兼続の与板衆が乗っ取りお金を盗んで貧乏になった。
その影響は、鷹山公が現れるまで待つしかなかったのである。 >>32
こっちの台詞w
謙信が死ぬといち早く景勝は景虎派の柿崎晴家を粛正、春日山城本丸を占拠
謙信の死の11日後には景勝が家督を継いだとあちこちに手紙を出している 兼続家と志田家の与板衆は、今の大河ドラマで言うと信濃ではお仲間で、
反頼朝で木曽義仲のグループにいた。
越後の城氏にとっては敵で、源頼朝の側近の佐々木氏にとっても敵だった。 景虎派の生き残りは越後つまり新潟県に残った。
景勝派は会津から米沢に移った。
だから、元来新潟県民は景虎派贔屓である。 >>34
謙信が死んですぐに春日山を占拠?
越後でも国外でも景勝が後継者だと認識しており、
景虎も景勝と一緒に謙信の葬儀をしているんだが。 >>38
11日以内に景勝は本丸に移って当主のように振る舞ってるぞ
勝頼は背後を徳川に突かれて越後へ出兵している余裕がなくなったため
景勝に対して兵を引くから金をくれで和睦 >>39
普通に謙信の遺言通り当主になっただけで春日山を強引に占拠したわけではない。 >>35
米沢藩がキリシタンを弾圧したとき実権を握っていた最高権力者が志田氏 志田がキリシタンを庇ったなどの逸話があるけど、志田は越後の名族直江家の
女性に育てられているので否定はできないが、
キリシタンの処刑を決定した人物が、庇ったとされるのはおかしい 新潟県内は意外と知られていないけれど、江戸時代の潜伏キリシタンの痕跡が
各地にある
新潟県だけではないとは思うけど >>40
そんな遺言があったなら御館の乱は起こっていない 山形県にあった藩で、キリシタンへの弾圧を行ったのは米沢藩が顕著である。
米沢藩の北にあった上山藩(上山市)は米沢藩のような弾圧は行っていない。 >>36
上杉謙信と田中角栄だけ例外で新潟出身の男はダメすぎる 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 上山藩の新潟県の藩領
越後国
刈羽郡のうち - 21村 長岡市小国町の一部
三島郡のうち - 33村 長岡市七日市 上山藩七日市出張陣屋 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています