邪馬台国畿内説 Part707
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1624855927/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路
古田てキチガイ?
危険なら、港で停泊するよ。 >>319
古田は、血気盛んだった若いころのヨミが外れたため、
(自分ではわかっていたのだと思うが)、引っ込みがつかず、何でもありの言い訳論争を重ねるようになってしまたのではないか。
そしてついには、東日流に活路を見出そうとして力尽きたのだろう。今さら蒸し返すな、南無・・・ >>319
>松浦川も少し上流の浅瀬を選択し、出来るだけ峠越えを避けて、
>砂浜海岸沿いの道を選択するもの。
古田も実際の地理を知らないで空想してるから、こういうデタラメを書いちゃうんだよね
松浦川はとても川幅が広いから東南陸行で糸島に向かうのは無理なのに メモ
■新唐書
其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。 >>328
正確に言うと、「天皇」という称号は無かった
まあ常識だが最初の「天皇」は天武だからね 【まとめ】
倭の王は32世まで筑紫城に居たが、大和へ移動し天皇と名乗るようになった
この移動時期は7世紀中頃であり、最初に天皇という称号を使ったのは天武天皇
■旧唐書
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
・倭国条(〜631年の記録):倭国は古の倭奴国なり。
倭奴国とは、金印が発見された福岡を中心とした国家だった
・日本条(701年〜の記録):日本は倭の別種なり。
遣唐使の説明に「かつて日本は小国だったが倭国を併合した」とある
【参考】倭国の使者と日本の使者がはちあわせ?
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■新唐書
其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。 >>329
筑紫にいた頃は王ですらなかったと書いてある >>323
>卑弥呼て邪馬台国の王と共立王と兼任なの?
違うな。
魏政府や魏役人らが、倭地の中で「王」と認めたのは、
共立女王の親魏倭王の卑弥呼と、その一大率の地位の(卑弥呼共立に同意した)伊都国王と、
卑弥呼共立に同意しなかったらしい狗奴國王の、3人。
その他の共立國のそれぞれのトップは、原則として「大官」や「官」と表示され、
それが、共立以前の各国のトップ(王的地位)であった、と思われ、
だから、邪馬壹國は、単に卑弥呼女王之所都の国であっただけであり、
当然邪馬壹國全体が女王之所都の地である、という事にはならない。
また、狗邪韓國と末盧國には官以下が書かれていないが、
末盧國に関しては、村上水軍家の都市氏と同じ姓の「都市牛利」が、
魏の「率善校尉,假銀印青綬」の地位を貰ってしまっているので、
魏の直轄支配地の形になっており、「官」以下の役職やその人名は省かれたんだろう、と思われる。
また難升米や掖邪狗等も「率善中郎將印綬」を受けているが、
彼ら大夫は、松野氏姫氏系図によれば「姫氏の卑弥呼の親族的関係」であり、
卑弥呼の直属の親族であった可能性が高いが、
しかし、狗邪韓國にも「官」が書かれておらず、
難升米の「難」氏の本貫が百済と華中にあり、近年に双方の先祖供養が百済の地で開かれた事もあり、
難升米は百済語も中国語も可能であったから、卑弥呼の遣使の代表に選ばれた可能性も高く
そうすると、難升米も狗邪韓國の管理者的地位であって「率善中郎將印綬」を受けて、魏の役人にもなったから、
(末盧國の時と同じく)、狗邪韓國の「官」名が省かれた、
という可能性がある事になる。 >>330
まとめとか言ってトンデモ作文書いても世間は騙されてくれないよ >>332
自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
王ではない >>335
中国から見た「王」について
倭人独自の呼称が「尊」というだけのことだが? 【初心者向けまとめ】
後漢の時代の倭は100国あった
この頃は畿内からも朝貢を出していた
↓
倭国大乱後、女王を共立した連合国誕生
魏に朝貢した女王国は30国(北部九州一帯)
畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無い >>336
王とは書いてないんだから、勝手に作文はダメ >>330
だいたい。神武が大和に徒って初代天皇とか30代欽明11年が西暦552年相当とか書いてある史料を使って
「大和へ移動し天皇と名乗るようになった
この移動時期は7世紀中頃であり」
とか平気で書いちゃう神経がわからん >>328
魏志には記がないので
魏志より後にできた国、
魏志には登場しない国(九州ではない)
のいずれか。 畿内説って、やはり先人の言った通りだなw
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。 >>342
ほら、ひとつも証拠がないことを言い張るのが九州説 >>341のように、理由がまったく言えないのも九州説の特徴だね >>336
>中国から見た「王」について
>倭人独自の呼称が「尊」というだけのことだが?
中国人も王と呼んでいないんだから、その言い訳はインチキだろう >>345
そうか、畿内説は漢字が読めないんだったなw >>324
>古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路
この事は、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の計算が、
「倭地」であり、「絕在海中洲島之上」であるから、
「陸路での参問」里数を計算して、それが「可五千餘里」になる筈であり、
魏の役人らの侏儒國近くまでの陸路部分の里数を合計してみると、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
の計算になるから、方四百余里の對海國と方三百里の一大國の、
それぞれの海岸沿いの二辺の陸路を算入している事になり、
魏使らは、對海國と一大國の海岸沿い二辺を陸行した事になり、
古田解釈が正しかった事になる。 『大庭脩氏は中国側が壬申の乱で、倭国(天智政権)が日本国(天武政権)に倒されたという見解も持っていて、
結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している』
なるほど、現行の日本史で正しいという事だな >>325
東日流問題に関しても、
安本らの筆跡鑑定で、喜八郎さんの筆跡である、とされた原稿が、
娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、
藤本さんの原稿への「喜八郎さんの加筆」筆跡部分が藤本さんから提示され、
その筆跡が余りの悪筆で撥字であり、東日流の筆跡とは全くかけ離れた異なる筆跡である事がバレて、
安本らの筆跡鑑定が全くの虚偽であった事になり、
和田家の東日流などは全くの真書であり、
偽書説派の全面的な敗北である事で決着している。 >>349
>娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、
判った?
喜八郎さんがそう言っただけでしょ >>346
>そうか、畿内説は漢字が読めないんだったなw
論破されると反論をしなくなり
このように悪口雑言だけになるのが
九州説の特徴 >>337
>畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無い
倭種の国々は「倭国」ではなかったから記録がなかった、つまり「倭国」とは九州の事。 >>353
畿内の東の海を渡ったら九州があるのかw
認知症の薬貰ってこいw >>347
>「陸路での参問」里数を計算して、それが「可五千餘里」になる筈であり、
自己矛盾してるから、もう崩壊してる珍説だよ
末盧国のとこの五百里って、どこからdコマでだか言えるか?
その説じゃ、言えないんだよ
自己矛盾で崩壊するから >>356
>理由?
>魏志に記がないと書いている
1)魏志に記がないという理由は?
2)魏志に記がないと
魏志より後にできた国、
or
魏志には登場しない国(九州ではない)
という理由は? >>347
對海國と一大國の海岸沿い二辺を陸行した事にしたいのがミエミエ
停泊して島の様子を使者が見れば済む
下賜品等の荷物まで同行させる事はない。
荷物ごといくわけない。
それに陸路の記もない。
史料に加筆だよ。
史料実態によってバツだな。 >>358
魏志の国々に
筑紫にあたいする国名がないからだよ。
あんたは、どう思うの? >>360
魏志の国々に
筑紫にあたいする国名がない
と、どうなるの?
論理的にお願いします 後にできた国か
他の国になるかどっちかだな。
あんたは、どう思うかは書かないんだな。 >>362
「あたいする」って言葉の意味がよくわからない
後にできた国か
他の国になるかどっちか
になるって理由は? 反論ができず悪口専門になった九州説は、誰からも相手にされない >>360
>魏志の国々に
>筑紫にあたいする国名がないからだよ。
日本語として意味わからん >>340
列島の王たちの中で、誰が一番早く「天皇」を称したのか?に関しては、
常陸風土記に「倭武天皇」という文言があり、当然東海姫氏國の「倭國王の武」の事になるが、
宋末から梁初の倭王武が実際に「倭武天皇」と称したのか?は、中国文献には存在せず不明である。
そして、その次は書紀の継体紀の記載の、
或本云:「天皇二十八年,歲次甲寅,崩」
而此云:「二十五年歲次辛亥崩」者,取『百濟本記』為文。
其文云:「太歲辛亥三月,師進至于安羅,營乞乇城。是月,高麗弒其王安。
又聞,日本天皇及太子皇子俱崩薨」由此而言,辛亥之歲當 二十五年矣。後勘校者,知之也。
とあり、そのような事件は、「磐井」の話しかなく、
従って、517年頃に東海姫氏國の倭國王哲に変わって王になった「阿毎氏の磐井」が、
535年頃に大和のヲホド(継体)の命で磐井を倒した話である事になり、
従って、「日本天皇及太子皇子俱薨」の「日本天皇」は磐井の事になり、
東海姫氏國の倭國王哲から王権を奪った?磐井が内外に「日本天皇」と称していた事になり、
従って、列島での「天皇」を実質的に称した最初は、磐井であった、という事になる。
そして、磐井や葛子の40〜50年後の「阿毎タリシホコ」は、
列島で初めて「天子」を称した事になる。 アホか
それじゃ日本に中国人らが住んでいたってことになるだろ 卑弥呼が死んで作られた「冢」は、覆う・上からかぶせるという意味、つまり石室あるいはハカドコロのことでしょう。
始皇帝陵が「冢」と表記されている例は『史記』高祖本紀に「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、
等で分かります。
これは始皇帝陵(墳)の中に「冢」があるという意味でしょう。
始皇帝陵は発掘されてませんが、2003年11月、リモートセンシングという国家プロジェクトでの、
赤外線、電磁波、磁気など最新の科学技術を駆使した調査により、
始皇帝陵の地下30mに宮殿のような空間があることが判明してるようです。
つまり始皇帝冢の「冢」とは上から覆いをした、この地下宮殿のような空間の事なのでしょう。
それを卑弥呼墓最有力の箸墓に例えれば、陵(墳)の一部分に「冢=石室」があるという事、
もし箸墓が卑弥呼墓なら、卑弥呼の死後に陵の一部分、おそらく円墳部分に「冢=石室」を作ったという事です。
けっして卑弥呼の死後に「墳丘」を造り始めたのではありません。
これなら魏志倭人伝の卑弥呼の死後に冢を作ったという記述も納得できます。
しかしそれなら箸墓は卑弥呼墓にはなりません。
なぜならば卑弥呼の死亡時期248年にはとっくに墳=陵が完成していたという事になるからです。
箸墓は建造開始時期が布留0式古相、年輪年代で258年、
この時点で248年死亡の卑弥呼の墓というのはかなり苦しいのですが、
歴博が言うように箸墓建造開始の布留0式古相を240〜260年として、その240年を採用するとしても、
248年にはすでに墳丘が完成していたというのなら、なおさら時代が合いません。
いや、240年に墳丘を作り始めて248年には完成してたはずだという理屈は通るかも知れませんが、
当時の平均寿命は40歳に満たないわけで、
2世紀末に即位した卑弥呼は当時としては異例の長寿であったわけです。
常識的に考えて、平均寿命である40歳くらいまでには卑弥呼の墳=陵を造っていたでしょうから、
箸墓がもし卑弥呼墓なら、卑弥呼40歳の時期=3世紀初〜前葉、庄内0期または庄内1期には墳丘は完成していたはずです。
つまり歴博の言う240年でも常識的に合わず、年輪年代の258年ごろからでもさらに合わないわけです。
以上、箸墓は卑弥呼墓ではない。 >>351
>>娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、
>判った? 喜八郎さんがそう言っただけでしょ
>誤字まで同じ
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%81%AB%E5%8A%A0%E7%AD%86%20%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%B7%A1
の先頭にある「藤本原稿への喜八郎さんの加筆部分の筆跡」を見てみな。
ついでに、
安本ら偽書説派が「喜八郎さんの筆跡だ」とした章子さんの「丑寅原稿」の筆跡や、
明治写本群の筆跡とも、比較してみな。
素人でもアホでも・・・・でも、違う筆跡であり、別人だ、と判るから。 >>352
論破されると反論をしなくなり
このように悪口雑言だけになるのが
大和説学者らの特徴 >>357
>末盧国のとこの五百里って、どこからdコマでだか言えるか?
末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数。 >>366
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態に反論ができず、
悪口専門になった大和説学者らは、誰からも相手にされない 三角縁神獣鏡や甲冑 福岡・朝倉市の古墳出土品を展示
https://www.iza.ne.jp/article/20210719-H6YTGEQU4FIJ3NLZQW2UVNLFGA/
・・・邪馬台国の女王、卑弥呼が魏から贈られたと伝わる三角縁神獣鏡や・・・
・・・同市教育委員会などが調べたところ、中国で作られた三角縁神獣鏡と確認された。 素人でもアホでも・・・・でも、
竹島どろぼう反日有害活動員も違う筆跡であり、別人だ、と言い張っている >>375
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態によってあんたはバツだな >>367
日本語として意味わからん
理由がわからん >>374
>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数
末盧国からの「五百里」が通説の「伊都國の中心(政庁)」まででなく「伊都國の入り口付近」までというヘンテコ特諸説だということは
この五百里と、伊都国から不彌國への百里とは繋がっていない。
つまり部分里程の合計=総里程という原則が破綻している
つまり、万二千余里で女王国に着くという古田説の根本が崩壊していて
自己矛盾のため破綻している、という証しなのだな >>381
マツロは松浦だからかなり範囲が広い
長崎県平戸市、同松浦市と、佐賀県東松浦郡までが旧松浦郡(マツロ国)だ >>374
>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
>到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数。
その行程は500里に満たないが、それよりもっと問題なのは、倭人伝に云う東南でなくて、北東に当たることだ。
古田も、安本も、その他大勢も、方向感覚が90度ネジレてる。
「唐津の町の東南端付近の出口」からは、東南(の佐賀市方面)へ向かへと書かれている・・、 >>382
それで、その旧松浦郡(マツロ国)のどこに上陸したのか?
官が(常駐して)いなかったというから、きっと辺鄙な津だったんだろうけどな・・、 >>384
ずばり松浦市だな
ちなみに元寇のときはすぐ近くの鷹島に上陸してる 九州説はまず九州内予選を戦って勝ち抜いてこないと、纒向に収束してる近畿説と同じ土俵に立っちゃいけない
九州のどこかわからんが九州ですっておかしいだろ
五輪開催地でも、まず国内を勝ち抜いてから世界に立候補するもんだ >>386
偉そうなことをぬかしとるではないか!
纒向に収束といっても、首根っこの糸島・伊都国がお陀仏になれば、纒向も共倒れなんだが、そこんとこお忘れなく・・、 >>386
ピンポイントで指定するのが、ここでなくちゃ困るという場所ありきの畿内説の特徴だな
30か国連合の本拠地というのが、卑弥呼の居所なのか、政治の中枢なのか、交易の中心なのか分からんのだから、ここら辺とするのが当然の姿勢 >>385
大松浦市なら、官の2-3人の記述は有って良いはずだ。
それから、松浦は文字通り「浦(海沿いの海水の港)」であって、「津(流入河川を利用した真水の港)」ではないな。
ちと苦しいが、でもまあ一応松浦市だったとしても、その東南の伊都国・奴国・不彌国はどこだったかと言えば、結局は佐賀平野になる・・、 >>376
>三角縁神獣鏡や甲冑 福岡・朝倉市の古墳出土品を展示
https://www.iza.ne.jp/article/20210719-H6YTGEQU4FIJ3NLZQW2UVNLFGA/
・・・邪馬台国の女王、卑弥呼が魏から贈られたと伝わる三角縁神獣鏡や・・・
また大和説者が、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っており、
また、三角縁も神獣鏡も、いずれも江南付近で盛行しており、
△は、楽浪からは幾つも出土しており、洛陽からは0〜1枚の出土であり、
だから、列島の500枚以上の△は明帝の下賜の「銅鏡百枚」では有り得ず、
魏の楽浪帯方攻撃戦争で身の危険を感じた(陳氏らの)呉系楽浪鏡師らが、
吏人(役人)や母人らを伴なって、
馬韓の不彌部族の助けで、列島の不彌國付近に、流浪避難して来て、
列島各地の王や豪族らに、△を含めて大量の鏡造りに関与したもの。
>・・・同市教育委員会などが調べたところ、中国で作られた三角縁神獣鏡と確認された
朝倉市教育委員会の学者らの間違い。
彼らは、「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
唐会要倭國伝の「北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
舊唐書日本國伝の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の隠蔽などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をするエセ学者ら。 >>381
>>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数
>末盧国からの「五百里」が通説の「伊都國の中心(政庁)」まででなく「伊都國の入り口付近」までというヘンテコ特諸説だということは
この五百里と、伊都国から不彌國への百里とは繋がっていない。
つまり部分里程の合計=総里程という原則が破綻している
いや、魏の役人らや陳寿の国間里数の計測区間の原則は、
双方の国の居住外縁部や、門や柵の間の里数が原則であり、
双方の国内移動里数は、「余」という近似表記に含まれるもの。
>つまり、万二千余里で女王国に着くという古田説の根本が崩壊していて
自己矛盾のため破綻している、という証しなのだ
伊都国と奴國の間や、伊都国と不彌國の間も、
それぞれの「外縁部間距離の近似里数」記録。
だから、伊都國と不彌國の間の百里も、
糸島水道出口付近から不彌國の入り口の小戸付近までの間の、
近似的里数であった可能性が高い。 >>391
倭人伝や、魏略や、廣志の記述に背く、末盧国北東の糸島水道方面が、
伊都国や奴国や不彌国であった可能性ほとんどゼロ・・、 >>371
>しかしそれなら箸墓は卑弥呼墓にはなりません。
残念でした
冢は「封土作冢」
出発点から間違いです >>392
でも末盧国北東の糸島水道方面が、
伊都国や奴国や不彌国であった
というのが通説だしね
あなたのいうことは
誰も信じないよ >>391
>伊都国と奴國の間や、伊都国と不彌國の間も、
>それぞれの「外縁部間距離の近似里数」記録。
だという古田珍説は合計が1万2千余里になる「部分里程の総計=総里程」の原則と自己矛盾するから、崩壊しちゃったんだよ >>388
>30か国連合の本拠地というのが、卑弥呼の居所なのか、政治の中枢なのか、交易の中心なのか分からんのだから、ここら辺とするのが当然の姿勢
邪馬台国が女王所都という出発点を忘れた妄想説は支持者いないよ 松浦からなら、一度伊万里に大きく南下するから、そこからダラダラと北東(糸島)に進んでも、全体的には東南という印象になってもおかしくない >>396
たとえば江戸時代、天子様の都は京都だったが、政治の中心は江戸、交易は横浜や長崎だった >>384
肥前唯一の名神大社である田島神社は松浦郡呼子の加部島にある
航海技術が進歩した遣唐使も航海の安全を祈願した
源頼光が寄進した頼光鳥居や秀吉が祈願した太閤祈念石がある >>394
定説は定説どまり、通説は通説どまり、
多数が信じているからというのは鬼道や宗教の信者どまり、教祖の云うことは(科学的な)真実とは限らない・・、
>>397
真っすぐ捻じ曲げても、ダラダラと捻じ曲げても、結果、捻じ曲げたことに変わりはない・・、 >>400
これがねじ曲げなら、畿内説などとっくにねじ切れている >>400
金印という物証が出てる
魏志倭人伝で、奴国があると記載されている場所からな >>401
>これがねじ曲げなら、畿内説などとっくにねじ切れている
こういうのが、中身のない言い返しの典型だな。
ぜんぜん反論できないお手上げって事だろ。
情けないなあ >>404
中身がないのはお前だろ
大きく南下した後、ほぼ東にむかった
東といっても東北東だから、現在の正確な地図では、最終的に微妙に北東にあたる
でも測量しながら進んだわけじゃないから、歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない
これがねじ曲げなら、南とあるけど実は北東だった、なんてとっくにねじ切れてる
そのまんまの意味だ >>405
女王国の都なるものが、卑弥呼の居所とは断定できない
政治の中心地(たとえば江戸時代の江戸)や交易で栄えてる場所(たとえば横浜)の可能性もある
お前は断定できるのか? >>406
>でも測量しながら進んだわけじゃないから、歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない
おかしいんだよ
「最終的に微妙に北東にあたる
でも測量しながら進んだわけじゃないから、
歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない」
と
「南とあるけど実は北東だった」
は、おんなじだ
お脳がねじ切れてるぜ
畿内説の主張は「記載されている方位には間違いがある」だから
なんの問題もない >>408
ところが全然違う
南下したあと東に向かったと思ったら角度が北に10°ぐらいズレてた、に対して
畿内は90°以上ねじ切ってる
墓穴だな >>403
倭人伝には奴国が二つ出てくる。
一つは伊都国の東南100里の「奴国」、これは現在の佐賀市街(佐賀県庁・佐賀城あたり)で、当時の水田開拓前線だ。
二つ目は、遠絶の傍国の最後に出てくる「奴国」だ。
遠絶とは上品な言い回しで、じつは間柄が疎遠な不仲な国だったと解釈すべきだろう。
つまりかって倭奴国と呼ばれて全九州島の王として振る舞い、57年には漢倭奴国王の金印をもらったあの博多奴国だ。
このように考えれば、二つの奴国の謎が解けるし、
伊都国/邪馬台国勢力が、辺鄙な西の唐津からひっそり上陸し、間道を伝って佐賀平野へ進攻進出したナゾも解ける。 「末盧国の東南に伊都国あり」と書かれているにも関わらず、
大勢が北東の糸島水道方面へ流れたのは、言い出しっぺの新井白石の影響が大きい。
白石は、神功皇后こそ卑弥呼と信じていたので、半島帰りの神功皇后が立ち寄った糸島水道西端の深江湾あたりを伊都国と考えた。
それを踏襲したのが明治43年の白鳥庫吉で、
上陸地の長崎平戸から海岸伝いに糸島〜博多へ至ったと推定し、その博多で南へ転じ、肥後菊池の山門郷へ向かったと考えた。
これに猛反発したのが内藤湖南であるが、奇妙なことに糸島〜博多までは白鳥と呉越同舟なのに、
博多の次の段になると急に仲たがいし、直進して東の畿内へ向かったのだーと論じた。
要するに、唐津北東の糸島方面が通説になったのは、
明治の東大×・京大✖が共に「北東だー」と叫んで共闘したからそうなったのであるが、考えてみれば邪馬台国論争300年の最大の不思議だな。 >>411
中国人にとって都とは最高行政機関の置かれている場所で君長の
が住んでいるのが常識
常識と違う都なら注記する
でないと読者に伝わらない文章になる >>413
>要するに、唐津北東の糸島方面が通説になったのは、
>明治の東大×・京大✖が共に「北東だー」と叫んで共闘したからそうなったのであるが、考えてみれば邪馬台国論争300年の最大の不思議だな。
違うよ
いまだに異論がないからだよ >>410
>ところが全然違う
畿内説の主張は「記載されている方位には間違いがある」だから
どこも違わない 論理性の基準がズレてるので何を言っても妄想家の独り言にしかならない低能畿内説あわれ >>417
そういう具体性のない総論だけ呟いてても
妄想家の独り言にしかならないんだから
低能であわれなのは九州説なんだけどね 「(倭人伝に)記載されている方位には間違いがある・・」というセリフが、そもそも大間違い、台本を良く読んで桶。
いや、そのどこぞの帝国大学編の台本が間違っとるんだろな・・ww >>415
であるからして、
遠くは森村伊作先生や吉本彰先生が、近くはオレ様が、佐賀平野だーと超特大の異論を唱えているのだ。 >>420
反論できないくせに、そういう態度って
最低脳の所業だね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています