平将門
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平将門の息子、平将国は戦乱が沈静化した後
京で天皇に謁見して父の反乱を謝罪し
橋口の姓を賜り薩摩に移動して
父である平将門から継承した日本刀鍛冶技術を用い
波平正国という日本刀鍛冶師になり代々継承された
ソースは鹿児島県 歴史・美術センター 黎明館 当時は親子の通字の風習はないから将国なんて子が居るわけがない >>4
維新政府が明治天皇を東京に移すまでは
坂東の英雄だった >>9
いや、東京者にとっては昔も今もずーっと変わらず英雄だぞ。
神田の氏子連が祭神の件で薩長政権に喧嘩を売って最後は明治帝を引っ張り出して頭を下げさせた話を知らないか? 国司(平高望)からたった一代で血生臭い武士(将門の父、叔父たち)になってしまうとはその間に何があったのか。 >>11
俘囚の叛乱とか、僦馬ノ党の蜂起とか、物部氏永の乱とか。
下からの暴力を封殺する為に動員された上からの暴力装置が平氏の子弟や彼等と繋がる在地土豪だった。
−−と謂われている。 それでなくとも中世以前は万事「自力」の世。
〇〇国司に任ずる、というのは要するに全部丸投げ、徴税も暴動鎮圧も何もかもお前の才覚でやれや、ということだから。
そりゃ誰だって自前の暴力装置を保有・強化するだろうよって話。 >>14
ここは歴史を語る板。
大河の話題ならドラマ板へどうぞ。
露口茂の俵藤太だろ。 いるんじゃろろ〜純一
6 考える名無しさん 2017/11/10(金) 01:06:04.16 0
外に出てオムツの中にお漏らしして感じる女ってどう思う?きもいよな。
7 考える名無しさん 2017/11/10(金) 01:45:14.18 0
またおまえかよ純一
基地外すぎるだろw
8 考える名無しさん 2017/11/10(金) 17:23:44.09 0
>>6
いいと思うけどなあ 平将門の男系子孫は存続しているか不明
平将門の次女が平忠頼に嫁ぎ産んだのが平忠常らしい。
平忠常の子孫が千葉氏、上総氏、相馬氏など 渋谷区の元になった、渋谷氏も。そこからでた薩摩東郷氏、東郷平八郎も。 将門の女系は自称くさいがわざわざ謀叛人の子孫を名乗るのが坂東の反骨 >>20
男系にせよ女系にせよ系譜や世代の辻褄が合ってる自称ならまだマシな方だ。
村岡五郎良文なんざ将門公の叔父なのに「俺は新皇の子。」だぞ。
良文の子孫はわんさかいるから関東中何処で石を投げても将門公の末裔に当たることになった。 >>22
偽作だろうが真説だろうがそんな浅層の具象はどうでも良いんだよこの場合は。
京都から見りゃ大逆賊の将門公の子孫であることが関東では名誉になる。
そういう価値観が永く広く厳然として存在した、ということこそが本質。 良文は承平天慶の乱の時の去就は不明。にも関わらずご都合主義の連中が自分じゃ何も出来ないから将門のおこぼれに預かろうとした 平将門の男系男子は反乱後に薩摩に移住した平将国(波平正国)の血統です。
鹿児島県の歴史資料館に記録有り。 >>8
通字の発祥も平氏というだけの話
源氏は平氏の後追いしかしてなくて草 >>27当時は通字は兄弟姉妹間のみだから将国なんて人物は実在しない 平 将国(たいら の まさくに、-將國)は、平安時代中期の武将。平将門の子で、長兄は良門がいると伝わる。
新皇を称した父将門が平将門の乱で討たれると、嫡子将国は大叔父の良文に護られ常陸国信田(信太)郡浮島(現・茨城県稲敷市霞ヶ浦)に落ち延び、二代新皇を称して再興を図ったと伝えられるが、戦乱が沈静化した後の足跡は不明である。
三重県紀北町の有久寺温泉は、将国が神のお告げで発見し、病や傷を癒したと伝えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E5%9B%BD
鹿児島県歴史資料館では
その後、大和で天皇から橋口姓を賜り薩摩へ移住した
と記録有り。 >>32
腐っても日本史板なんだからWikipediaなんぞを引用すると見識や人格が疑われるぞ。 平将国が関東から畿内経由して薩摩に移住して血統が存続したという
歴史資料館に記録があるただの事実を
通字を根拠にして存在しないと論じてる方が見識や人格を疑われるから安心しろ >>32当時は通字は親子では有り得ないから将国も良門も架空の人物 >>36
第10代 ミマキイリヒコイニヱ
第11代 イクメイリヒコイサチ
ヒコは兎も角としてイリは通字とは解釈できない? 何で新「皇」って言っちゃったのか。
東王くらいだったら謀反認定されなかったかも? >>41
「イリ(=入り)」は元来イニヱの属性(ヤマト入りしたのはイハレヒコではなくてイニヱだったという説あり)で、
イサチにはその名に値する実体は無かったにも関わらずそれを継いでいる。
これは「イリ」が具体的な意味を失って、称揚すべき佳字化又は記号化して承継された、即ち一種の通字と云えるのではないか。
と考えたんだが、駄目か…。 新皇と名乗り、天皇の真似をしたのが良くなかった。
東王くらいにして、朝廷の臣下という形なら、中央政府にも認められ長続きしたかもしれない
所詮は摂関家の雑兵なのだから >>45
名前なんざ枝葉末節の話。
ヤマト王権が病的に拒絶したのは将門公の新皇という名称や百官任命という行為じゃない。
将門公の思想、独立への意志だ。
「今ノ世ノ人、必ス撃チ勝テルヲ以テ君トナス。縦ヒ我カ朝ニ非ストモ僉人ノ國ニアリ。」
こんな当り前の思想が世に敷衍するまで、将門公の後五百年を待たなければならなかった。
日向のド田舎から出て来て正にチカラで撃ち勝って他人の国を奪った始祖王は、
「俺の子孫も偉くなったもんだ」と泉下で苦笑していたことだろう。 東国救済を掲げる将門公の意志は幕府に受け継がれた。 鎌倉幕府を盛り上げたのは、関東に残った平将門の縁者たち
平将門の怨念を受け継いだ 常平太貞盛の次男の系統で源頼義の岳父直方の子孫である事が坂東武者に公認 嘘だとしたら尚更将門公の不倶戴天の敵貞盛の子孫を敢えて自称したと言う事になる 頼朝は清盛のような中央進出よりも将門式の関東自治を選んだ。 >>56
将門式は奥州藤原氏のほうだろう
頼朝は将門式とも違う
京都朝廷を棚上げして日本全国の武家の中核を鎌倉にしようとした 言い方が難しいが、頼朝は藤原摂関政治のように天皇の外祖父となって、朝廷の実権を握り
朝廷の統治能力を使って天下を統治しようとしたわけではないと考える
天皇と確かな血縁関係を結んで朝廷と繋がりを確保しつつも、
朝廷とは別個の、鎌倉に建てた幕府の統治能力で天下を統治しようとした
よく平氏政権の性格が最初の武家政権か否か議論されているが、
やっぱり鎌倉幕府と平氏政権の根本的な違いはそこだろう 天下なんか統治しようとしたら自然災害や疫病の発生まで責任を取らされる 平氏で括ってしまうと、北条も平氏だからな。
でも伊勢氏のなんちゃって北条はどっちか知らん。
旧利根川あたりには、将門の名の付いた井戸だのなんだの縁っぽいところが目に入るが、
ある人によると、将門を語ると中央の役人にメンドーな奴と思われて税を逃れることが出来たから、名が語ったてるんだ、と言われたことがある。
真偽は解らないが、そういう可能性も十分ありそうだから、地元の公的機関の説明文がないところは信用しないことにしてる。
頼朝は、有能なんだろうけど、奥州藤原とか義経への対応みるとやっぱ冷徹かな
どっちがどっちかよく判らない肖像画の義直の大塔宮への対応も、やっぱヤバイ奴感に溢れてる。
そういう意味では源氏は、どっか心に闇を抱えてる感じするな 北条は偽平氏
家系図を捏造して名門のふりをした伊豆の原住民 >>61
東京全域にも滅多矢鱈と将門公所縁の地名や旧蹟があるぞ。
奥多摩町にはズバリ 将門 と云う小字まである。
地名旧蹟にまつわる伝承は伝承自体の真偽を論うことに殆ど意味は無い。
例えば将門公だったら将門公が民衆にとっても役人にとっても巨大な精神文化的存在であったという事実、
或いは将門公がそういう存在として形成されていった構造、
そっちを考察することにこそ意義がある。
因みに、
何処にも彼処にも名前と遺蹟の残る
日本武尊
弘法大師
平将門公
八幡太郎
の四人は全日本「あんたたち何人いたんだ?」四天王。 北条時政は40歳を過ぎても無位無冠の四郎
頼朝が勝ったので、最後は従五位下駿河の守になったが、親や一族の詳細も不明
北条時貞という甥だか従兄弟くらいしかいない 時政の所領が伊豆国府の三島に近いことから伊豆国府の在庁官人説もある 北条が平氏だと言うのは、源氏将軍断絶後、北条政権の威厳をつけるための後付け設定。
徳川家康が新田氏の子孫だと言い出したのと同じ そんな事じゃれっきとした平氏の子孫(特に良文流)が黙ってない 良文の子孫は平忠常の乱を引き起こすがそれを最初に討伐に来たのが平直方。その子孫を自称する事は坂東の平氏とは敵対的存在だと表明するようなもの。 坂東兵士の子孫も、頼朝軍に沢山加わってただろ
先祖云々で敵対扱いするとかねえわ 頼朝軍に加わったのは頼信の時点で家人となってた連中の子孫 将門公の首塚伝説が鎌倉時代に突然成立するから北条を語る事はスレ違いではない 源氏平氏で分けてるけどさぁ、
なんか将門とイメージ被る奴って木曽義仲なんだよね
侠気みたいなところとか、本人は優秀なんだけど身内に足引っ張れてるとか、なんとなく、いろいろと、、、平家だとなんか思いつかない 将門王国を引き継いでるのは坂東平氏vs直方系平氏をまとめたカリスマ八幡太郎。頼朝公が平氏に助けられるのは先祖のおかげ。 そう思って坂東武者が味方したが途中で違和感を感じたから出て来たのが首塚怨霊譚 首塚ってなんでガマガエルだらけなん?筑波につなげてるん?
坂東武者ってたって専任の武者じゃなくて農民だろ、将門の時代は。
将門の時代、天明大噴火の前の海が広がっていた時代。
藤原中臣鎌足とか鹿島香取両神宮とか、やっぱいろいろな謎が歴史の彼方に消えてるよな 将門の首塚は、移転前の神田明神跡地
神田明神が現在地に移転してから、首塚伝説が生まれた。
祟りの伝説は大正時代から
鎌倉時代に首塚伝説が成立とか、どこの異次元世界だ? 神田明神が将門を祭るようになったのが、1309年らしいが。
そのことか?
疫病の流行を将門の祟りと考えたらしいが。そんなもの信用できない https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/75a1da7def523251d2173bd4a01916e2
平将門の顕彰碑を建てたのは北条時頼
北条はこれまで源頼朝の妻の実家であることを強調し、九条頼経を将軍に迎える時も源頼家の娘を嫁がせるなど、頼朝の血筋を求心力にしてきた
時頼は頼朝の血筋無関係に、皇族を将軍に据えたが、求心力の補強として将門の利用を考えたのかも
ただ本格化しなかったが 北条時頼は、北条氏が平氏の子孫だという捏造工作を追加したのですね 平将門は、公式には未だに無位無冠。
将門の鎮魂をしたいのなら、将門を正一位太政大臣に任命しなさい。 天皇になろうとした人を正一位太政大臣にしたら逆上だろ
早良親王のように天皇の位を追贈しとかないと 新皇は天皇ではない。
大和朝廷の地方政権という建前 大和朝廷の方は本皇と言う建前だが征東将軍出した朝廷はあくまで敵認識 七河原の話はwiwkiによると、藤六左近が目撃者として太平記に記してあるとなっている。
吉川版しか読んだことがないが、そっちには書いて無かった気がするが本物版には書いてあるのか?
事実としては、誰かが何かの思いで首を持っていたんだろうけど、この辺の古文書は見つかってないのかな。
大手町の首塚も、史実として誰がどういう理由で建立したのか判っているのかな。首を見つけたなら、その現物がどうなったか古文書ないのかな >>87
当時の常識としては
「天に二日無し(天に二つの太陽がなく、一国に二人の主がいるべきでない)」 >>80
1309年に神田明神が平将門を祀ったのはなぜなのかは気になる
その頃、幕府を掌握していたのは得宗である北条貞時
貞時の貞は、将門の宿敵である平貞盛から貞を引用したと言われている
将軍から一文字拝領という得宗家の慣例を破って、平貞盛から取ったことに得宗が将軍の権威に依存せずに独り立ちを目指した傾向がうかがえるのは確かだが
>>82と照らし合わせると、得宗専制の世を正当化するために、
得宗は平貞盛や平将門の権威を利用したとみるべきか 北条氏が将門の墓見つけたから、東国武士を繋ぎとめるために利用しようと思ったのかもしれない 神田明神が平将門を合祀した1309年は、得宗家の北条高時が元服した年でもある
高時の高は平高望(高望王)から引用したといわれている
平氏の遠祖を顕彰する年になったのは確か 将門記が複数の原史料から編纂されたのもその頃と推定 そんなわけないだろ。
複数の文献から編纂したのならもう少し物語として
整合性と読解性があり、教訓の備わったまともなストーリーになる。
将門塚も江戸時代に埋め立てられるまで
ただの海辺。 現地を知る者が同時代に書いた史料と後世の状況から書かれた史料とが混在してるからこそ整合性を欠く。将門首塚は関東大震災後に崩されるまでは前方後円墳が存在する駿河台から続く微高地。 >>94
将門公と将門記をどうしても貶めたい関西人のお前さんには悪いが、
将門記の成立時期はどんなに遅くみても十一世紀を下らないようだ。
>>97
福田豊彦氏の『平将門の乱』は不朽の名著。 将門記の文章と構成は中世文学と比較するとかなり異質なので、やはり平安時代とみるべきでは? >>56
関東自治論は頼朝に粛清された上総介広常の方だろう
吾妻鏡によれば、かつて平将門が藤原秀郷と会った時に、将門は秀郷が加勢してくれた嬉しさの余り、髪も整えずに軽々しい振る舞いだった。
秀郷は将門に失望して離反したという故事を紹介している。
上総介平広常も、頼朝が将門に似た対応なら頼朝から離反するつもりだったが、頼朝からは参上が遅いと叱責されたので頼朝に忠誠を誓った >>98六孫王を罵倒してる部分は清和源氏の繁栄を知ってる後世の筆。もちろん同族間の争い部分は現地の事情を知ってる同時代の筆。 平清盛は、政権奪取後、関東へ出向いて将門の顕彰と鎮魂をするべきだった
そうしたら関東に残っている平氏の子孫も、頼朝ではなく清盛に従ったかもしれない。 https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
世界的権威の百科事典といわれているアンサイクロペディアの「天皇の一覧」
ちゃんと将門は「将門新皇」という名前で天皇として認められている
将門の鎮魂は政府でも朝廷でもなくアンサイクロペディアが行っているから東京は平穏無事なのだ >>104
新皇と名乗って朝敵として討たれたから
なかなかおおっぴらには将門を顕彰しにくかったかと 道教まで入ってんじゃダメだな
和気清麻呂様に謝れよ
それに三種の神器を受け継がないならやっぱ亜種だ 日蓮が天皇扱いなのに、北条政子と北条義時が抜けてるぞ
承久の乱で天皇家より偉くなった北条一族 将門公よりも四十年早く、関東から新時代の狼煙を上げた 物部氏永 について調べようとしたんだが本っっっ当に何っっっにも出て来ない。
>>98に挙げた福田豊彦氏の著書で最初にその名を知ってから四十年、研究進展は一つも無かったということか…。 本に書かれていることが、全部正しい史実ではない。
話を面白くするために、架空設定や事実の歪曲、隠蔽も少なくない。 将門公以前に反乱は何度も発生している高望王は鎮圧側として坂東に下向 元毛人、蝦夷王国に土着した源平に坂東魂、東夷精神が芽生えたw 平将門の祖父、高望王は、902年に西街道の国司となり902年に太宰府に居住。最後は911年に太宰府で亡くなっている。
903年に菅原道真が太宰府で亡くなっているが、高望王と菅原道真とは交流があったのか気になる
ちなみに将門の誕生は903年とされている 903年に道真と将門公を結びつける伝承もあるがこじつけだと言う事 平将門は、生まれながらに菅原道真の怨念を背負っていた >>116
将門公を「怨念」で片付けたいのは軍記脳か帝都脳か、それとも関西プロパガンダか。
これだけ広域にわたって拡散的に存在する列島に於いて、地域独立への志向は歴史を貫く不変(=普遍)の底流。
将門公の一挙はその顕在化の一例。
関東の鉄と馬と地形と民意がそれを可能にした。
「学問」カテゴリの「日本史」板なんだから、歴史事実を自然環境と産業動向から形成される構造或いは函数として考えるぐらいの知性は持て。 怨霊になれば、神として扱われ、高い冠位も追贈される。
平将門は、怨霊としての活躍は不十分
首塚の祟りとか、どうでもいい一般人が数名巻き込まれただけで、朝廷にしたら何も痛くない 祟りは証明されないんだから、要は噂を流したもん勝ちだ
朝廷内部で「これは将門の怨霊のせい」という噂を流す政治的思惑が、
誰にも働かなかったのだろう 祟りは当時に於いては現実的に存在する物。つまり細菌やウィルス、電波と同じ 朝廷が怨霊認定するには、生前に朝廷に出入りしていて、面識がないと無理だろ。
顔も見たことがない、無位無冠の田舎猿には、朝廷を恐れさせる怨霊となる素質はない。
平将門の元主君の藤原時平は、既に死去しているし。 前世菅原道真の宿敵、藤原時平の弟の家来になった時点で、平将門の怨霊としての素質は消えた 平将門の親戚の平清盛が朝廷を乗っ取って、平将門の仇討ち。
しかし平清盛は、平将門の敵だった平貞盛の子孫だったので、仇討ちは中途半端に終わる 清盛は後白河院の院政を停止したり、都を京都から福原へ遷都したり意のままに朝廷を動かし放題だったが、将門の名誉回復のために一切動かなかったな
同じ桓武平氏でも仲間意識はなかったのだろう だから将門公の末裔を自任する、或いは将門公を敬慕する関東の平氏諸士が清盛政権を撲滅した、と。
筋は通るな。 通らないな。頼朝は六孫王の子孫北条は自称貞盛の子孫。 武士とは桓武天皇の東北征伐から発し、阿弖流為の反乱や平将門、忠常の反乱で関東に移った元朝廷側の人間よ。 番犬が飼い主に噛みついたのが平将門の乱など。
番犬が飼い主を武力で脅したのが、平清盛や源頼朝
飼い主が番犬の下僕に成り下がったのが承久の変 やっぱり関西人てえのはネチネチネチネチとしつけえなあ。
それも千年以上前に亡くなった人物を貶めることに執着してんだから執念深さは某国民以上なんじゃねえか。 藤原忠文
天慶3年(940年)関東で反乱を起した平将門を追討するために、右衛門督兼征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれた 足利高氏は、中先代の乱の鎮圧のために独断で出兵した
後で征東将軍に任命された 伊豆北条氏は、平直方の子孫。伊豆の北条は、伊豆の国府が置かれていたところ。
このことからも、北条氏は伊豆の有力者だったことが分かる。
ただし、伊豆は所詮は小国なので、北条氏の力は小さかった。
また、北条時政は、北条氏の庶流で、彼の従兄弟のほうが嫡流だった。
でも、うまく娘が、源頼朝に嫁いで、勢力拡大につなげた。 娘が犯罪者と出来たような物だから時政は秋篠宮のような胸中 カリスマだろう。反将門の首領平良兼の娘、息子、末裔も将門公贔屓になってしまうのだから。 平将門が、あと10年長生きしていたら、関東は独立国になっていたかもしれない 史実の将門死後のように各個撃破されて終了。将門のカリスマ性だけに頼った集団 平将門級の人物が、もし本当に居たら、
少なくとも東国は、制圧されてる。
しかし、平将門の話は、
興味をそそられる。
笠間稲荷鎮圧武将?? 平将門と藤原純友とは面識があったのだろうか?
京都で平将門と藤原純友が密談して反乱を決めたとかいう創作話はあるが 将門公が討った上野の国司は純友の近視者だが自身の近親者と対立してたのが将門公だから要するに不明 平将門の次女の息子である平忠常は反乱を起こしたが。
祖父将門並みには反乱は広がらなかった >>159
空間的には拡がらなかったが、時間的には将門公の闘いよりも遥かに長く粘った。
ヤマト王権に与えた精神的/理念的な衝撃度はさすがに将門公には及ばないが、実質上の打撃としては甲乙付け難いものがあったのではないか。 上総国を荒廃させたのは確実だが源頼信に早期に下ってる。後に藤原忠通が息子にタダツネと名付けようとして無謀人と同音と止められたが要するに中央では忘れられた存在 平忠常の乱は1128年から約3年間
安房、下総、上総を中心とした反乱
平忠常は源ョ信に降伏し、京都へ護送される途中で死亡し、死後、打ち首。
子孫は許され、千葉氏、上総氏の祖となった >>162
源頼朝蹶起は云うに及ばず、
永享ノ亂、享徳ノ亂、小田原北條五代などで千葉氏が果たした役割を見れば忠常の志も将門公同様に永く生き続けた。 どちらかと言えば干されてたのが忠常流で首塚怨霊譚もこの一族による流布が疑われる 日本三大怨霊
・崇徳上皇
・菅原道真
・平将門
らしい 平将門よりは早良親王や長良王のほうが怨霊として格上だと思うが。
知名度で平将門を日本三大怨霊に入れたとしか思えない 大規模な反乱になったし、影響力が大きかったからじゃないの?
その後に争乱が起こるたびに将門が思い起こされたこともある
関東の土着民には支持されていたのもあるだろうね 平将門は一瞬で戦死したのだから、怨霊になる素質はない。
そもそも平将門が誰を恨んで死んだというのか?
崇徳上皇や菅原道真のように、冤罪に陥れた相手を何年も恨んで死んだのではない。 将門公は英雄。
それを「怨霊」に貶めたのは京都史観に偏向した奴輩。 藤原秀郷が手薄の平将門を攻め込んでこなければ、将門政権は安泰だった訳だから。
将門は奇襲で負けたようなもの >>166
怨霊を恐れて遷都したなんて話しは、先進国の歴史では聞いたことないけど、他にあるのかなぁ?
将門様の方は1000年の時を超えてもまだ影響力が続いてるからな、あんな一等地からテコでも動かないw
都心移転の裏に実は将門様が関わっていたなんて事なら、さらに興味が拡がるんだけどな。
誰かそんな噂を流してくれない? >>170同じ坂東に武者を取り込めなかった将門公の失態 やっぱ将門の乱は最高だなあ
源経基も関わってるけど
清和天皇の孫で清和源氏初代
河内源氏初代の父親だって
興世王がまったく素性の知れない
無知クズってとこも最高
権力者と関係があって記録を
抹消したんやろうねえ。。。 >>173
坂東平氏の祖、平将門公。
清盛流「平家」の祖、平貞盛。
清和源氏の祖、源経基。
北関東名族群の祖、藤原秀郷。
天慶関東戦争は歴史的意義も巨大だが講談的興味から見ても役者が揃い過ぎている。
「風と雲と虹と」最終回のラスト近く、将門公戦死後に後三者が一堂に会する外連味タップリの場面(もちろん虚構)はちょっとゾクゾクする。 平高望王も赴任そうそう領地を広げに行くとか天皇の孫なのにやんちゃすぎw >>175
何を云っている。
天皇家の創業者は九州で喰い詰め浪人になった挙げ句わざわざ関西まで出て来て他人の土地を丸ごと強奪して國を建てちまった御仁だぞ。 だって、本当はいなかっただの、
なんだのかんだのいわない? 藤原にやり込められ始めて田舎に行っていきがるとかw 妙見菩薩は将門さんを裏切ったのか
なら将門好きは妙見菩薩を信仰しない方が良いのか なんか将門の祟りがどうのとかってめっきりきかなくなったよな。 将門の祟り云々をきいて鼻たれ小僧だったワイは
「神田いった後 成田参拝し成田守りを首塚にご奉納する」
という暴挙に打って出た。当時の首塚の墓石ど真ん中に成田山の御守りを設置するというね
次の日見に行ったら撤去されたのか形もなかったwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています