お前らの父祖の戦争体験教えてくれ
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ここまで長々と、スレをお借りして失礼しました
>>57の繰り返しになるけど、かつてこのような出来事があって、このような体験をした人がいる、ということを知ってもらえたら幸いです >>62
御苦労様でした。
そして得難い話を有り難うございました。
思う所を少し整理してから書くつもりです。
単なる「感想」にしかならないでしょうが…。 >>1
横浜や東京では空襲で火事になり、皆が川に飛び込んだりしていた
沸騰してる川にな、その上にまた人が乗り火傷で死ぬ前に窒息死していたそうな
広島にはアメリカの貴婦人が住んでいるとアメリカ人捕虜に教えてもらい軍人の偉い人の家族や金持ちが一斉に移動したって話もある
実際広島には原爆一発以外は何の攻撃もされてないから捕虜の言った話に信憑性があったのだろうな
人を集めてまとめて殺す、軍人の心のよりどころをまとめて皆殺しにされて戦意喪失
全ては初めから仕込まれていたんだよな 原爆投下の日も広島市の国民はビーちゃん(B29に手を振ったりしていたらしい
今日は何か落としたぞ、食料かーと皆で原爆に向かって走っていく姿が最後だった
ここまで信用させたら絶対防空壕なんかには入らないからな
日傘でも防げそうな原爆の威力を最大限引き出すにはノーガードまで油断させる必要があったんだろうか
横浜に落とそうと思ったけど、雲ってたから止めた(笑)そんな作り話よく歴史の教科書に載せられるなと思ったけど 2021年8月15日(日) 13:55 〜 16:00
テレビ朝日
ラストメッセージ“不死身の特攻兵"佐々木友次伍長
https://www.tv-asahi.co.jp/pr/sphone/20210815_06705.html >>67
ベースとなった『不死身の特攻兵』の著者鴻上尚史による本人インタビューの実録ドキュメンタリー
https://youtu.be/0AsYZ9AlEvI >>68
特攻がヤケクソな作戦だと誰もがわかってたから、特攻は「志願」であって「命令」でないと責任逃れの発言を菅原道大はしたんだよ。
こういう無責任な過ちを二度と繰り返してはいけない。
今のコロナで大変なことになってるよね。「自粛」とか「要請」とか言って、従わないパチンコ店やキャバクラが非難されてたね。休業補償もせず、具体的な感染防止対策もとらず、「自粛」や「要請」と言ってる政治が無責任過ぎるというのがよく分かるよね。
無策無能で思考停止の自民党保守政治。
無責任過ぎる保守政治はダサいね。 >>69
生還できないの前提
正規の作戦・攻撃ではないからなぁ
正規の攻撃でも、特攻に準じた必中攻撃とかもほぼ生還できないし 工作員もいたろ
コスプレ如きの偽写真で
似非退役軍人会とか開いてた奴いたよな? 祖父はあまり戦地での事を話さなかったが、祖母は戦中の話を孫の俺にも良くしてた
夏休みに花火大会に行った時に、シュルシュルヒュリュゥ〜って花火の音にマジで慌てて焼夷弾だ焼夷弾だって興奮していたことと、
何故か東條英機よりも国防婦人会副会長だった東條かつ子にかなりの憎しみを露にしていたのが物凄く記憶に残っている 自分が3歳の時に亡くなった父方の祖父は、大工で樺太に何かを作りに行ったらしい 戦地で敵の接近などで移動する際
瀕死の重傷を負った兵士達をみんなで手分けしてオンブしながら移動したそうだ
息絶えた瞬間に背中でズシーンと急激に重みを増すので
それをもって死亡したものと判断し遺体を下ろして行進したそうだ
子どもの頃に近所に住む元軍医が自分の親に語っていた話
小学生だったのでその部分しか記憶に無い 祖父が言うには、何故か戦地で酒を確保するのが得意(たぶん他の部隊から盗んだか酒保関係に顔が利いた)で連隊内でもかなり重宝がられていたとか 祖父は工作員かもしれんな。
偽写真を見せびらかしてたのかもな。 祖父はコスプレ仲間で
似非退役軍人会を開いていたな。 うちの曽祖父は戦車で網引いて魚取ってたら上官に怒られたって話聞いたな >>6
良い記録を見させていただきました。
お爺様には、お疲れ様でしたと言いたいですm(__)m 私の祖父は海軍に招集
舞鶴→鹿児島
深い内容は聞かなかった(そのときに聞いとけばよかった)
東條の印象について聞いたことあったがよく威張ってたと笑いながら言ってた
みなさんのお祖母さんやお祖父さんは東條英機について何か語っていましたか? >>81
祖母はなぜだか東條かつ子をやたらに嫌っていたな
戦中は高等女学校の教師やってたんだが国防婦人会とモメたとか何かあったのかな? >>82
勝子夫人は誰にでも気さくな人だったというけど
よくわからんね。 ワイマール憲法下でNazisを跳梁跋扈させたのはドイツ国民。
ドイツ国民が総懺悔するのは当然だろう。
日本は国民でなく天皇陛下の臣民。英米に宣戦布告したものも、ボツダム宣言受諾も最終判断は昭和天皇だ。
昭和天皇が戦争責任を取らなかったから、戦争及び敗戦の責任総括をすることが出来なかった。
戦争責任を曖昧にするしかなかったので、一億総懺悔などという言葉が生まれた。戦争被害者の国民が何故懺悔しなければならないのか? 戦争体験とのことで祖父から聞いた面白かった話を。
祖父は戦地に行く前の訓練の時に戦争が終わってしまったので訓練時の話。
穴堀の訓練があって滅茶苦茶怖い上官から
「今から◯分以内に掘れる分だけ深い穴を掘れ」
とのことでみんな我先におっきなスコップ、シャベルをとりにいったけど祖父は出遅れて残ってたのは穴を掘るには向いてないつるはしだけ。
やっべぇ…ってなったけど言い訳も出来んのでもう必死になって掘ったけど当然全然掘れない。そして時間になったけど当然全然掘れてない。祖父は顔面蒼白になってると上官が
「よーし、全員集合。手を見せろ。」
って言って穴の深さじゃなくて全員の手を見始めた。
他のみんなは比較的手が綺麗なのに対して、祖父の手だけ真剣というか恐怖で120%の力でやってたので手は短時間なのに血豆でぼろぼろ。それを見た上官は
「◯◯(祖父)以外は全員穴堀り再開!貴様ら真剣にやれ!◯◯(祖父)は休んでよし!」
だと。いかにも日本軍らしいエピソードだけど、これが祖父も思い出に残ってるって。 84
おめえが当然だのほざけるセリフじゃねえだろアホ 牟田口は「一度、教育総監をやってみたい」と口にし、周囲の笑いものになった。 20年3月長崎港に着いた
上官「明日、乗船する」
祖父「何処へ向かうのですか?」
上官「軍事機密であーる」
地元の人が話してる「また着かなかったみたいだね」
沖縄が目的地だったのかな、途中で潜水艦の餌食
着いたとしても地獄が待っている
地元の人が材木を船に積んでいる
「現地で使うのですか?」
「いや、浮いている材木を掴んで少しでも助かるかなと思って」
直前に出航停止命令が出て99死に一生
本土決戦要員に変更され熊本の山中に
熊本の山中で「今日の長崎の空襲大きいな」
原爆だった 山本五十六、大島浩、牟田口、……こいつら」たちが悪いぞ。
山本……命令いい子バカ。
大島……ドイツ大好き誤情報伝達低能。
牟田口……「日本人は草食民族である。ジャングルは草の宝庫である。従って日本人がジャングルで飢えることは無い……宇宙に吹っ飛ばすべき核兵器的バカ!……
日本、勝てるわけねえよ。ま、これが3バカ愚将
この中でも牟田口が最高の愚将 陸軍に徴兵された人の方が東條のことよく思ってなかった印象。
自分の周りでは。海軍や当時子供だった世代はそうでもなく。何故だ?? 海軍の艦隊勤務なり航空機の搭乗員は専門知識や経験が必要。
戦争の素人である一般国民の召集は、歩兵か人足くらいしかできない。当然ながら戦争好きでもない一般人は陸軍しかない。 >>94
祖父さんも海軍に憧れていたが父親が病死し中学に上がれなかった
中学へ行った友人たちは海軍に志願
祖父は召集令状で陸軍二等兵
まあ三ヶ月で終戦
海軍に行った友人たちは全滅
一年先輩たちは半分になっていた
嫁は近衛兵の娘
戦前だったらあり得ない組み合わせ
それだけ男子不足だった 親戚の話になるが、陸軍主計兵で満州→ビルマ→ニューギニア→ラバウルで終戦を迎えた
人がいる。経理関係をしていたんだが、今村均閣下が視察をすることが時々あって、姿だけ
見たことがあるとのこと。 母方の祖父が
ラバウルの方へ行ったらしい。
で、どこでなのかしらないが一時期、影佐禎昭のそばで仕事をしていた。
影佐禎昭は祖父に
「お前に子供が生まれたら、俺の禎の字をやるからつけろ」と言ったらしい。
それで俺の母には禎の字がついている。
ちなみに影佐禎昭は谷垣禎一の祖父である。 曾祖父は日清戦争、祖父が支那事変へと志願して出征している。
ご先祖さんの生き方を子供達にも伝えたくて伝承用に動画をつくってみました。
https://youtu.be/ivDNOjjjDZE 自分が中一の頃に亡くなった祖父にも、何かエピソードがあるのだろうと、父に聞いてみた。
どうやら徴兵検査で、身長が足りなかったので戦争に行っていないらしい。まじかよって思ったね。ちなみに俺は169p。 うちの祖父もだったけど、兵隊やってた人は戦中のことはあまり話さないよね
戦後になって、あーだこーだとペラペラ話すのは前線の現実知らない腐れ将校か備後備の連中だとか言って軽蔑しているようだった ウチの曾祖母、息子5人の内3人が戦死。
しかも全員遺骨も戻らなかった。
物凄く長生きして、晩年しかしらないけど
「オレが男を産んだからいけないんだぁ!」と命日とされた日によく泣いていた。
もう絶叫に近い形で怖かったのを覚えている。 >>98
うちのおじいちゃんも支那事変行ったって言ってた
海軍だったけど、船に乗ってるとき敵から大砲撃たれて船に穴空いたので
あわててみんなで別の船に乗り移ったらしい >>1
父方は満州(陸軍)へ母方はジャワ(海軍)に出征した
空が見えないぐらいハエのように米軍の戦闘機が襲ってきたと
あと柔道で米兵を投げ飛ばしたと 三島由紀夫の事嫌ってた。理由は知らない。聞けば良かった。
東條のことは好きでも嫌いでもない感じ。ラジオでよく威張ってたと。
山本権兵衛と東郷平八郎のことは尊敬してた。海軍に居たからかもしれん >>105
三島は出征してないのに愛国ぶってたからだよ 息子が成人して戦争にとられて、自分より先に亡くなったら、そりゃ戦争勝ってもうれしくないわ もし、この時、重臣近衛の進言を入れて昭和天皇が降伏することに同意していたら、どれだけ多くの日本国民の命が救われていたことか・・。しかし、 天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」と、この進言を拒否した。近衛は「陛下は・・・梅津(参謀総長)及び海軍は今度は台湾に敵を誘導し得れば(米軍)をたたき得ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思うと仰せありたり」と言っている。
近衛とともに終戦工作をした高木惣吉海軍少将は、近衛から聞いた話として「その時陛下は『未だ見込みがあるのだ』との御言葉であった。一度叩いてから、終結するということに御期待がある」ということなのである。藤田尚徳の『侍従長の回想』によると、この時、次のような会話もあったようだ。
陛下:もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う。
近衛:そういう戦果があがれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています