邪馬台国畿内説 Part715
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1628833739/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 【畿内説パート709ハイライト】
359 日本@名無史さん 2021/07/30(金) 17:35:50.68
>>349
>水路の距離をどうやって図るのか、畿内説は考えたことがないの?
考えて、測れないと結論したよ 【畿内説パート710ハイライト】
977 日本@名無史さん 2021/08/02(月) 18:21:35.00
>>972
>シナ大陸に限れば、この古地図は正確なのか?
シナ大陸という地名は無い 【畿内説パート711ハイライト】
596 日本@名無史さん 2021/08/04(水) 17:22:39.41
>>595
いや、九州説に学者いないし 【畿内説パート712ハイライト】その1
奥山スペシャル
422 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 09:40:07.55
>>419
>ソースは?
調査報告書
築造に使われた鍬や飯を炊いた土器、壊された建材などいろんなものが捨てられてるのが現実だ 【畿内説パート712ハイライト】その2
奥山スペシャル
500 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 11:22:25.33
>>481
>報告者は廃棄の意図と言っている
つまり「馬具は捨てられたと報告された」という発言はない 【畿内説パート712ハイライト】その3
百姓ボランティア説誕生
706 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 16:38:42.45
だから乱の後に平和を長く続かせた女王の墓造りに専門職の指揮下で従事する身分が低い男たちも
自ら仕えるような(望んで作業するような)者たち 【畿内説パート713ハイライト】その1
152 日本@名無史さん 2021/08/11(水) 12:17:02.73
>>150
>それに、奈良(現在40位)がまったく耕作に適さない事実は変わらない
そんな場所が、どうして最も早い時期に大型の水田が広がった地域の一つなの? 【畿内説パート713ハイライト】その2
223 日本@名無史さん sage 2021/08/11(水) 16:58:25.55
お前の箸墓古墳が作られた当時あるいはそのすぐ後の時代の破砕供献の土器を
ゴミ捨て場と考えるのはバカしかいない 【畿内説パート713ハイライト】その3
338 日本@名無史さん sage 2021/08/11(水) 21:10:11.01
いや、墓の敷地にどこかから風か何かでコンビニの袋が飛ばされてきて
それが墓の敷地内で拾われたら、そのコンビニの袋は供え物になるのか? 【畿内説パート713ハイライト】その4
PCから書き込む時代錯誤畿内説
285 日本@名無史さん 2021/08/11(水) 19:12:42.92
>>283
弥生時代後期には硯があるし文字もある。
お前のヨタ意見なんかどうでもいい。
一日中PCに張り付いてないで少しは見識をひろめろ、カッペ。 【畿内説パート713ハイライト】その5
奥山スペシャル
647 日本@名無史さん 2021/08/12(木) 18:04:02.99
>>624
>調査報告書に土器に付着した炭化物は
>箸墓造営中に食べた物と、報告されてませんよ。
箸墓築造過程で廃棄された(炊飯用の)甕だと書いてあるんだよ
それに付着した炭化物が年代測定されたこともね
で、測定した者の書いた報告書には炊飯時の吹きこぼれを測定したと書いてある 畿内説パート714ハイライト】その1
奥山スペシャル
736 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 20:42:34.23
>>726
>ふきこぼれでついた米粒か、他の理由でついた米粒か、千年以上たってから区別できるわけないだろ
わかってんだよ
それが調査だ 畿内説パート714ハイライト】その2
773 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 21:32:01.83
>>763
別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?
大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ ↑
このように、九州説は論争に敗れ、できることは荒らしだけ ↑
このように、畿内説は論争ができず、できることは印象操作だけ まぁ、奥山は自分じゃ証拠を一切出さないけど、他人には証拠を求めるからな
ご希望どおり証拠をストックしとかなきゃ 畿内説はPCから書いてるくせに、満足に画像も貼れないのな
こうするんだよ
https://i.imgur.com/UgKlIMk_d.webp
左上の東松浦半島は見えないらしいし、空でも飛ぶのか道のない場所を直進してるし、畿内説の頭の悪さがにじみ出てるよな >>90
>まぁ、奥山は自分じゃ証拠を一切出さないけど、他人には証拠を求めるからな
お前のそれが真っ赤な嘘なのは証拠が出ているぜ >>92
>左上の東松浦半島は見えないらしいし、空でも飛ぶのか道のない場所を直進してるし、畿内説の頭の悪さがにじみ出てるよな
一部の九州説者が言うように当時の技術で三角測量が出来たなら
その直線は出せるんだぜ >>94
どこに?出してみろよ
俺は、古地図、纏向研究センター公式など、数々の証拠を出した
だが、奥山はなにも証拠を出してない >>96
>だが、奥山はなにも証拠を出してない
奥山が出してないって証拠は? >>95
三角測量の意味を分かってないだろ?
三角形の合同定理を使うから三角測量というのではない
三角関数(角度θとsin cos tan)を使うのが三角測量だ
三角関数が研究されはじめたのは14世紀になってから >>99
>あるなら出してみろ
>出せないのが証拠だ
奥山がなんの証拠を出す必要あるわけ?
お前が突然奥山に「コロナが細菌兵器である証拠だせ」とか言っても、奥山は出す義理ないよね?
つまり、出せないのはなんの証拠にもならない
お前が嘘ついてるだけ >>92
相変わらずの九州説のバカさらしw
>左上の東松浦半島は見えないらしいし、
そんなところにめぼしい遺跡はないし、東松浦半島に末盧国があったとか
東松浦半島に上陸したにだ、とか言ってるのはどうにかして短里で五百里を
ごまかそうとする九州説のバカだけw
>空でも飛ぶのか道のない場所を直進してるし、畿内説の頭の悪さがにじみ出てるよな
前のスレで教えたぞ?
大陸史書では国というか都城間の距離は直線距離で示すのが基本
泡ですらちゃんと拾ってたぞw
しかし泡も以前はもう少し諧謔みのある書き込みをしていたんだが
ボケが始まって性格が変わってきたのかしらん? 前スレ最後に暴れてた 鎧 を連発してた奴、
漢字を読めてないし、識別もできてない
これ、日本人じゃないだろ >>103
どうやって測量したんだ?
仮に測量したとして、偶然ぴったり百里になったとでも妄想してるのか?
バカすぎる 「ハイライト」も馬鹿な主張や質問の多くはキウスのもの >>98
>三角測量の意味を分かってないだろ?
>三角形の合同定理を使うから三角測量というのではない
>三角関数(角度θとsin cos tan)を使うのが三角測量だ
>三角関数が研究されはじめたのは14世紀になってから
つまり君は、14世紀になるまでの測量は絶対に三角測量ではないというのだね?
面白いね、君はwwwww
「三角形を利用して距離を測定するのは古代に遡る。紀元前6世紀の古代ギリシアの哲学者タレスは、ピラミッドの影の長さを測り、また同時刻における自分自身の影の長さを測って、自分の身長との比から相似な三角形を使ってピラミッドの高さを測定していた。また崖の上から沖に見える船までの距離を、横方向にある既知の滝までの見通し水平距離を測り、これを崖全体の高さまで拡大することにより測定していた。こうした方法は古代エジプト人にも知られていた。
これより1000年ほど古いリンド数学パピルスに出てくる問題57番では、傾きを距離と高さの比で定義しており、今日の勾配の逆数に当たる。傾きと角度は、後のアラブのアリダードの前身である、ギリシア人がディオプトラ(英語版)と呼ぶ測定棒で測った。この器具を使って離れたところから距離を測定する方法についてのこの時代の詳細な説明は、アレクサンドリアのヘロンによる「ディオプトラ」にあり、これはアラブでは翻訳されて残ったが、ヨーロッパにおいては失われてしまった。
中国では、裴秀が正確な地図作りの6原則の5番目として「直角と鋭角を測る」を挙げており、これは正確に距離を測るために必要なことであった。また劉徽は、到達することのできない場所までの高さを求める方法として、上述したような計算方法を示していた。」 >>106
測量してないのは確実
距離が正確じゃないのも確実
でも九州説の識者によると、魏志倭人伝の記述は短里で読むと正確なんですってよ!
すごいね!w
大笑い >>104
>前スレ最後に暴れてた 鎧 を連発してた奴、
そうそう、それ思った
鎧をどうやって入力してるのかも気になるw
輪鎧って何だろうね?ww
どんな馬具だよ、それw >>109
三角形の合同や相似を使って測量するのが三角測量じゃない
三角関数を使うのが三角測量だ
そう書いてるだろボケ
そもそも、魏から使いが先に進もうともせず、せっせと何か月も測量してたら、「何しにきたんだこいつ」となる
測量しにきたんじゃないのだ >>110
百里刻みであることを理解してれば、概ね正確だろうな
百里刻みを、きっかり百里なんだなと考えるのはアホだけだ >>101
見ると何がわかる?
お前ってほんとに意味あること言えないのな
脳が3グラムくらいしか無いんじゃない? >>109の補足(補説の方がいいか?w)
>>98へ
>三角関数(角度θとsin cos tan)を使うのが三角測量だ
>三角関数が研究されはじめたのは14世紀になってから
三角測量に三角「関数」は使わない
必要なのは三角比
sin, cos, tan等の表記は確立していなくても三角比の概念は古くから
理解されていて、それで三角測量は行われていたんだよw
半可通は恥をかくだけw >>114
>>100に朝からヒマなのは奥山のほうだと分かるぞ >>101
チョンビー渡土堤のハイライトはただのムダ >>119
地図で見れば分かるだろ?
畿内説がマヌケな測定してたじゃないか >>105
>ニセ調査報告書があるんだろ?奥山
なんで俺が奥山なんだ?
奥山とその報告書と、いったいなんの関係があるんだ? >>121
>やっぱり奥山でも恥ずかしいのか?
渡土堤のハイライトって全部九州説が論破されてるやつでは? 魏志倭人伝の地理的説明は誰かが帯方郡を出発し移動しながら記録したものではなく
それまでに帯方郡の役人たちが時々に旅行した記録を基に、帯方郡から近い順に記述したもの >>123
奥山によるとニセ調査報告書には、ふきこぼれでついた米粒と断定してるらしいから、その理由も書いてるはずじゃないか
どうやってついた米粒かなんて、調べようがないはずだけどな チョンビー渡土堤はチョンボはこきちらかすし、全1病だし、金印しか知らないし >>124
畿内説のマヌケ発言記録だぞ
特に、ゴミ捨て場や!という奥山に対して、ゴミ捨て場のはずあるかいな!とツッコミ入ってるのは、なかなか笑える >>113
全然正確じゃないだろw
測量もしてないとお墨付きだしw
https://imgur.com/UgKlIMk
これで確認できるけど、
五百里が30キロ
百里が18キロだ
五百里側を基準にすれば百里が6キロだから
伊都國・奴國間は三百里になる
百里の方を基準にすれば、百里が18キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには90キロくらいないといけない
実際には30キロだから二百里余だなww
百里単位っていう作業仮説は破綻していることが簡単に実証できる訳だww
二百里表記も三百里表記もないんだからさwwwww
「短里で百里単位とみれば正確」っていう君のお気に入りの言い逃れですら通用しないw
魏志倭人伝の距離記載はいい加減であてにできない
もちろん短里など想定すべき余地すらないww >>116
>>>100に朝からヒマなのは奥山のほうだと分かるぞ
日曜の朝って誰が忙しいんだ?
九州説信者って社会常識ないのか? >>127
墓場で炊飯とか、百姓ボランティアによる建造とか、風で舞い上がる鐙とか、メルヘンの世界だぞ >>129
それは空を飛んでるからだろ
上陸地点もおかしいしな >>128
>畿内説のマヌケ発言記録だぞ
>特に、ゴミ捨て場や!という奥山に対して、ゴミ捨て場のはずあるかいな!とツッコミ入ってるのは、なかなか笑える
ほら、お前は俺のことも他の人のことも、あたり構わず奥山奥山と呼んでいる
つまりお前のいう「奥山はなにも証拠を出してない」が嘘だって証拠なのだ >>134
奥山が出した証拠があるなら書いてみろよ
書けないのが証拠だ 魏志 末盧國東南陸行五百里
伊都国は現糸島市,怡土方面でなく
佐賀の唐津あたり? >>120
先生、挟角のどこが三角関数なんですかぁ?
三角関数って、三角比の周期関数への拡張を言うんですよ?
参照ページ(コトバンク)も見てきたけど、そこでの三角測量の定義は
「地上の互いに見通せる3点を選んで三角形をつくり、
その1辺の長さおよび2夾角(きょうかく)を測定して、
三角法により他の2辺の長さや頂点の位置を求める古典的な測量法。」
って書いてありますね!キャルン
三角関数を使わないと三角測量じゃないって、どうやったら分かるんですかぁ?
教えてください! 先生!
角度θが挟角って、θは単に角度によく用いられる代数表記ってだけだよな?
お前、何も理解してないだろう?wwwww >>137
三角関係を使わないで、どうやって計算するのか書いてみろよ
書けないのが証拠だな 方形周溝墓の周溝底からは共飲共食儀礼に使用した土器や底部穿孔壷形土器などが多く出る 私は畿内説だが短里を用いていても何の不都合もない
帯方郡から万二千余里は九州の上陸地点までの距離
区間距離の合計は一万里+余里の合計だが
半島と島、島と島、島と上陸地点は最短距離を測定したもの
帯方郡から上陸地点までの距離の合計は
一万里+余里の合計+島々の南北間の距離となる
これが一万二千余里 また視準できない場所を測量したことになってる
見通しできない海上をどうやって計るんだよ
海上にしるしはつけられないぞ 前スレの鎧の投稿はなるほどと思ったな
読みづらかったが
要約するとこれでいいだろう、
1.調査報告通り、4世紀に投棄された鎧と
仮定した場合、4世紀以前(鎧投棄以前)に馬が居たことは確か
2.当時先進的な鎧を使用する以前から馬を荷を運んだりして使っていた可能性は大
3.よって、三世紀に畿内に馬がいた可能性は大である
結論として、鎧が投棄された年代が問題で無い。鎧から畿内に馬がいつ頃から居たかが問題である。
ーーーーーーーーーー
こんなところかな投稿者さん
個人的には、鋭い指摘だと思う
皆さんはどう感じますか?
馬と鎧が同時に、大陸から入って来たと言う意見もあるでしょうが、証拠が無いし、、、、 >>133
>それは空を飛んでるからだろ
九州説の人は理解力が基本的に足りない
大陸史書の都市間距離表記は直線距離が基本だと教えたぞ
大陸史書である三国志の魏志三十巻倭人条の距離が正確だと主張するなら
大陸史書の表記法、逆に言えば読み方に則って評価しないといけない
直線で引いてあるから空を飛んでるなどというのは、
自分がものを知らないし理解力も足りませんと自白する謂いにしかならない
>上陸地点もおかしいしな
これもバカすぎ
末盧國、伊都國間の距離表記に上陸地点は関係ない
そして末盧国への上陸地点は松浦川河口の潟湖になるので、それを考えても
数キロも動かない
東松浦半島に上陸して陸行なんてバカしか考えないよ
荷物も多いのだから、船の方が楽
その意味でも、魏使は末盧国に寄らずに船で伊都国に行く方が合理的 >>135
>奥山が出した証拠があるなら書いてみろよ
テンプレにいっぱい乗ってるけど? >>142
>馬と鎧が同時に、大陸から入って来たと言う意見もあるでしょうが、証拠が無いし、、、、
そうでないという証拠もないので、確実に水掛け論になるから
論じる価値がない >>143
精度は低いなりに地図があるばできるだろうな
日本に地図はない
そして、当時の図解法で地図を作ろうときたら、膨大な時間がかかる
そんなことやってるほどシナ人はヒマじゃない
少し考えりゃ分かるだろ >>138
さんかくかんすう
を
どのように打てば三角関係になるのかの方が興味深い >>144
具体的にはどれだ?
どこに、吹きこぼれでついた米粒を見分ける方法があるんだ? >>147
PC爺には分からんだろうが、スマホには予測変換機能がついてる >>141
前にも説明したが測量にそれほどの厳密さを求めなくてもよい
頂上付近が見えなくとも近似値は得られる
それに船が一日、あるいは半日でどれだけの距離を進むのかは経験で得られる
時々の帯方郡の役人が何度も実際に移動した平均値で事足りる >>138
>三角関係を使わないで、どうやって計算するのか書いてみろよ
はーい、バカ確定w 大爆笑wwww
>>98で
>三角関数(角度θとsin cos tan)を使うのが三角測量だ
>三角関数が研究されはじめたのは14世紀になってから
「三角関数」って書いてたのに、「三角関係」ですってよ、奥さまwwww
自分でも「ヤベ、三角関数じゃなかった」って気付く程度の知能はあるのかな?ww
でも、「三角関係」だと男女の泥沼にしかならないぞ?ww
あー、腹いてぇw お前、凄腕の腹筋クラッシャーだな! お墨付きをやるよ!
そういうのは「三角比」って言うんだよ
>>115に書いてあるだろ?
「三角測量に三角「関数」は使わない
必要なのは三角比
sin, cos, tan等の表記は確立していなくても三角比の概念は古くから
理解されていて、それで三角測量は行われていたんだよw」
すでにちゃんと、お前よりも正確に書いてあるのにそれすら読み取れない
中等教育レベル(高校レベル)で、学校の勉強からドロップアウトしてたんじゃないのか?
三角比は高校数学で三角関数の前に習う単元だぞ? >>143
避難地として末盧國の記かもしれない。
そこから
現糸島市方面になると北東になってバツ >>151
三角比で計算するのが三角関数なのだが?
古代のは、ずっと簡略化した図解法
これは計算はしない
図上で読み取る
以前アリダートが証拠で出てきたじゃないか
知ったか乙だな >>150
まあ、そんなところだろうな
時間による概数だ >>142
です
あぶみをへんかんしたら鎧になってしまったすまん
鐙が正解、多分彼も間違っただろう >>142
>>142
「鎧」っていう文字はどうやって出すんですか?
入力方法を教えてください
読み方でもいいです
つ>>104とか>>111 >>146
何も返答になってないよな?
大陸史書では直線距離で示すのが標準ってのは理解できたか?
yes, noで簡単に答えられるよな?
そして、二百里表記、三百里表記がない以上、百里単位というのが破綻しているのも確認してくれ >>158
なんの話をしてるんだ?
魏志倭人伝の路程の話だ
寝ぼけたことでそらすな >>152
とか言ってる人の言う伊都國の候補地が糸島以下なんだからどうしようもない
1.東南じゃないから伊都国じゃない(表記原理主義)
2.伊都国へ行くのは東南じゃない(表記は間違いがある)
のどちらが合理的かと考えれば、1.を採るのが普通だし、実際これが定説になっている >>110
三国志の中国でも同じ、距離はピッタリでは無いよ、
概ねで良いでしょう いちいち巻尺で測ったわけでは無いので、、 >>153
>三角比で計算するのが三角関数なのだが?
だからお前は半可通以下
>>137にも書いただろ?
「三角関数って、三角比の周期関数への拡張を言うんですよ?」って
単位円を半周以上して、弧度法でπ以上の角度まで連続関数として拡張したものが
三角関数だ
90度以下の角度の計算は三角比で足りるし、三角「関数」という概念の成立以前から
計算もできるし、三角測量も行われてきた
それが歴史的真実
だいたい、九州説の方が中国古代では三角測量ができたから、
距離は正確、短里も正確って言ってたんだぞ?ww
短里が正確って言うのはもう通らないのは理解できたのか?ww
急に測量なんてしてないって言いだしたのは?ww >>163
それは図解法と教えただろ?
アリダートの使い方でも調べて書けよ
図解法の投入は無理だ
シナ人はそんなにヒマじゃない >>138
>三角関係を使わないで、どうやって計算するのか書いてみろよ
まず、それほど遠くない(地球の丸さが大きく影響しない程度の)山を見ながら表柱を立て、その柱の上から一尺のところに刻みを入れて
山頂が刻みの位置に見える場所まで遠ざかる
その場所と表柱との距離を測っておく
次にその場所から引き続き一直線に歩いて、山頂が棒の頂点に重なる位置まできて、そこまで歩いた距離を測る
これで山までの距離が測れる >>159
>魏志倭人伝の路程の話だ
話そらして逃げてるのはお前だ
日本人とは価値観が違う卑怯者
百里単位の概数とみれば短里で正確というのは>>129できっちり示した
それに対するお前の反論以下が「空を飛んでる」ww
空を飛ぶとかではなく、大陸史書の距離は直線距離表記だから
距離の正確さの判断は直線距離で行うのが当然
で?
大陸史書では直線距離で示すのが標準ってのは理解できたか?
yes, noで簡単に答えられるよな? >>157
答え教えたら、もう楽しめないじゃないかww
嗤ってたのに >>145
それを論ずるのが学者だけど、畿内説のの学者は触れようともしない。
何故か、、論ずると不都合だからだよ。
だから、投棄された年代だけ論ずる。
それも、四世紀の土器と一緒の所にあっただけで、四世紀と決めつける。
あぶみが先か土器が先か一緒なのかも議論から遠ざける。大量に土器と共にあぶみが出れば四世紀でいいだろうが、、 >>164
また話をそらしてる
九州説のやることはいつもそれw この言い方なら人種差別じゃないんだろ? 同じ意味だけどなw
まず、図解法が三角測量じゃないと誰が言った?
シナ人が暇かどうかはどうでもいい
三角関数を使わないのは三角測量じゃない
三角関数は14世紀だからそれ以前に三角測量はないっていう大間違いを
ドヤ顔でして大恥をかいたのがお前ってだけwwwwwwwwwwwww
もちろん、大陸から倭國に来た大陸王朝の官吏が測量なんてしてないってのは
畿内説も前から言っていることだし、だから畿内説は魏志倭人伝の距離はアテにしないんだが?
測量なんてしないと言いながら、でも短里で距離はぴったりなんだーっていうのが九州説
控えめに言って、アタマオカシイ 万二千余里を帯方郡から邪馬台国までの距離という人がまだいるが
それは間違い
島嶼部を除いた女王国までの距離
北部九州から女王国となるが首都の邪馬台国はまだまだ先
不彌國からまた船に乗り、20日の沿岸航行で投馬國、さらに10日の沿岸航行と一月の陸行で邪馬台国となる >>165
山の高さを測ってどうする
図解法の解説だ
その例で分かるとおり、目標地点が見通せないと図れない
山を迂回して見通せる三角形を一定の縮尺で図に書き、それを張り合わせて目標の地点までつないでいく
最後に図上で出発地と到達点をつないで測り、縮尺に合わせた直線距離とする、、、、が、
そんなことタラタラやってるほど魏の使いは暇じゃない >>169
>それも、四世紀の土器と一緒の所にあっただけで、四世紀と決めつける。
>あぶみが先か土器が先か一緒なのかも議論から遠ざける。大量に土器と共にあぶみが出れば四世紀でいいだろうが、、
考古学者は投棄された時点が四世紀と言っている
なんの問題もない
問題あるのはお前の脳酒 >>166
空を飛ばなきゃ直線距離は出ないな
図解法の解説は>>172だな >>170
図解法を三角測量なんて現代じゃ呼ばないからな
結局、概数だよな
距離にケチをつけるのは畿内説だぞ
伸び縮みするとか、百里刻みの意味も考えずに難癖つけてくる >>157
なるよ、おれのパソコンでも
何故だろう
鎧と鐙がでてきた >>161
この、末盧國も伊都國も示していない図で何をどう主張している「つもり」なのか? >>172
>>これで山までの距離が測れる
>山の高さを測ってどうする
また発狂しているな
連続句点は知能がゼロと認定していいな? >>148
>どこに、吹きこぼれでついた米粒を見分ける方法があるんだ?
奥山が、吹きこぼれでついた米粒を見分ける方法があると言った証拠はない
つまり関係ない >>177
壱岐から船出してしばらくしたら島影が見える
そこで上陸だろうな
糸島は東南だ >>178
しばしの沈黙を表現する手法だぞ
本ぐらい読め >>179
見分ける方法がないのに、なぜニセ調査報告書では見分けてるんだよ >>171
>万二千余里を帯方郡から邪馬台国までの距離という人がまだいるが
>それは間違い
間違ってないよ
陳寿の地理観では
朝鮮半島の循海岸水行が南へ四千里、東へ三千里で計七千里
島嶼部の渡海が千里三回で三千里
循海岸水行と合わせてここまでで一万里
ここから
「20日の沿岸航行で投馬國、さらに10日の沿岸航行と一月の陸行」が二千里になってる >>174
まだ話をそらしてる
大陸史書の距離が直線距離ってのは理解したんだな?
yes, noで答えられるだろ?
こんな簡単な質問からすら逃げないと九州説はやってられないのか? >>145
水かけ論で逃げる奥山
鐙が投棄されたのが先か馬が先か、簡単だよ馬が先に決まってるじゃん。
鎧の耐用年数とか日本製かどうかを論ずるならともかく、、
馬から逃げ回るとしか思えんな
記述のない調査報告書は持ち出すし
どうなってのかなチミは >>140
>また視準できない場所を測量したことになってる
見通しできない海上をどうやって計るんだよ
海上にしるしはつけられないぞ
南北間距離(里数)は、一寸千里。
大体の方向は経験から。
その2つで直角三角形を作図して、その斜辺長の、
一寸千里で得られた南北長との比率を求めたら、
「見通しできない海上長」が概算出来る。 >>185
邪馬台国と関係ない話で測量チョンボをごまかすなよ >>187
一辺は実測しなきゃならんが、どの点とどの点の間を実測するんだ? >>175
お前が読めと言って出してきたコトバンクの三角測量の説明
「地上の互いに見通せる3点を選んで三角形をつくり、
その1辺の長さおよび2夾角(きょうかく)を測定して、
三角法により他の2辺の長さや頂点の位置を求める古典的な測量法。」
図解法を三角測量として説明してるよな?
お前が紹介したコトバンクの解説だぞ?ww
コトバンクというネットメディアは現代のものじゃないんだ?wwww
どこまでも見苦しいよな?ww
>結局、概数だよな
>距離にケチをつけるのは畿内説だぞ
3倍違うのは概数とは言わないw
ケチを付けてるという印象操作用の用語を使っているが、
こちらのやっていることは具体例を用いた検証だ
反論するなら、具体的な数字を使って論理の通る反論をしてくれ >>190
3倍とは、どの区間とどの区間の比較だ?
空とぶ地図はいらんぞ >>178
奥山
連続句読点、懐かしいな
そろそろコテ付けろよ、
畿内説のおまえ以外の人が困ってるぞ >>178
そう言えば、連続「句読点」と書いてるな
おもしろい、これはハイライト入り奥山スペシャルだ
それを言うなら、連続「読点」だぞ、奥山 方四千里(陸)の沿岸水行を七千餘里(海)だから
陳寿が書いている里数は直線距離 >>186
また勝手に奥山にされた
>記述のない調査報告書は持ち出すし
これが真っ赤な嘘
九州説ウソつきすぎ 半島は陸路の距離が分かる
およそ7千里の沿岸を通るのに7日かかったから、1日千里 >>142
>1.調査報告通り、4世紀に投棄された鎧と
仮定した場合、4世紀以前(鎧投棄以前)に馬が居たことは確か
問題は、その「4世紀」というのが「4世紀初頭」であったのか?、
「4世紀後半から末」であったのか?、が重要な問題になる。
>2.当時先進的な鎧を使用する以前から馬を荷を運んだりして使っていた可能性は大
魏志倭人伝に「馬もいなかった」という記述があるから、
最低265年の壹與の西晋武帝への遣使の時には、まだ列島には馬がいなかった、
という可能性が非常に高い。
>3.よって、三世紀に畿内に馬がいた可能性は大である
従って、大和に馬がいた事になったのは、
最低、3世紀後半半ば過ぎ以後〜4世紀であった可能性が高い。
>結論として、鎧が投棄された年代が問題で無い。
鎧から畿内に馬がいつ頃から居たかが問題である
それを3世紀だ、と言いくるめようとしているこの投稿子が、脳が少し弱い。 >>193
しょっちゅう奥山と呼ばれてる別人だよ
誰が奥山か区別ついてないんだろ
だからお前の言う「奥山がナニした、ナニしなかった」は全部ウソなんだよ >>196
奥山はニセ調査報告書を読んだんだろ?
報告者は、いったいどうやって吹きこぼれた米粒と判断したんだ?
本物の調査報告書読んだ人は、破砕土器供献という風習から供物と判断したらしいが >>173
何も考えないおまえの脳腫
本物の学者は一つの事象から色んなことを考えるのだよ
ハイ、これで終了なんてしない >>180
バカなのか? バカなんだろうなぁ、九州説だし
渡土堤知らずの捏造君だし
見えた島影に上陸して、本土と繋がってないことを確認してまた舟に戻って先に進むの?
バカだよね? そんなことしてたら?
渡海の航行に、壱岐の人は乗ってない想定なの?
壱岐の人なら本土と常に往復してるんだから、
末盧国に行くなら末盧国で上陸するし、
伊都国に行くなら伊都國で上陸するよね?
伊都國のランドマークの、可也山はかなり沖合からでも見えるし
これは東松浦半島の海岸付近からのグーグルストリートビューの画像だけど
東松浦半島の辺りまで来れば、伊都國の方向は確認できる訳だ
https://imgur.com/ilU5axs
で?
上陸地点はどこだって?
現代の地名でいいから具体的に挙げてくれ >>197
>7千里の沿岸を通るのに7日かかった
それはチョンビー渡土堤が決めただけ
海の距離も陸の距離も直線距離 >>202
呼子だろうな
現在のフェリーも呼子発着だ
マツロ国も女王国の一つだから立ち寄ったのだろう
ショートカットしたいなら、最初から伊都国を目指すはずだから
考えることの苦手な畿内説には思いつかなかったかな >>143
>大陸史書の都市間距離表記は直線距離が基本だと教えたぞ
大陸史書の都市間距離表記は、人的移動も問題にする場合には、当然原則は、
出発都市の出口から、到着都市の居住外縁部の入り口までの「道のり里数」だ。
そうでなくて直線距離では、途中の障害物のための迂回などで、大幅な目算違を起こしてしまう事になる。
単純な「直線距離」としたこの男の頭脳も、少しおかしい、んだろう。 >>188
は?
逃げてごまかしてるのはお前だろ?
邪馬台国への距離が書いてあるのは三国志という大陸史書なんだから
それが正しいかどうか検証するにはその表記法の確認が必須
でも確認するだけで負け確だから、yes, noの簡単な二択からすらなんとか逃げようと
顔真っ赤でゴマカシ続けてるのが惨めで卑しい九州説のお前だ
空を飛ぶ飛ばないとかいうのが、関係のないムダな逃げごとだ
で、大陸史書の距離が直線距離ってのは理解したんだな?
自分で
「山を迂回して見通せる三角形を一定の縮尺で図に書き、それを張り合わせて目標の地点までつないでいく
最後に図上で出発地と到達点をつないで測り、縮尺に合わせた直線距離とする」って書いてるんだからさ
yes, noで答えられるだろ?
三角関数前から三角測量はできてたしw >>183
帯方郡から一万二千余里は
九州の上陸地点までの距離
そこから始まるのは、倭国(女王国) >>191
空飛ぶでごまかそうとしてもムダ
大陸史書は直線距離表記だから、それに沿って検証するのが当然
ものすごく譲歩してお前の考える空を飛ばない経路を
具体的に出すならそれでの検証を示すのでもいいぞ
どうやっても、3〜4倍の差が出るんだがな
実は直線距離での検証が、一番差が小さいんだぞww
知らなかっただろう?ww >>171
>さらに10日の沿岸航行と一月の陸行で邪馬台国となる
さらに10日の沿岸航行 または 一月の陸行で邪馬台国となる。 @阿波 >>194
いや、俗称は連句点で通ってたからそれでいいんだぞ 伊都国は女王国に従属している王がいる国なので
女王国+従属国=倭国 >>197
お前、バカ?
倭國までの一万里が動かせないから半島の大きさを方四千里にしてるんだぞ?
倭國基準で半島はどうでもいい書き方 >>172
>そんなことタラタラやってるほど魏の使いは暇じゃない
心配スンナ。 「阿波」はしょっちゅう朝鮮半島まで行って交易してるから、通慣れた道だ。 「忌部一族(阿波勢力)」に任しとけ。 @阿波 >>211
だから、どの区間の比較で3倍なんて出てくるんだ?
唐津ワープして空飛ぶ区間の無意味な比較だろ >>213
連句点なんて言葉はググっても見つからんぞ。。。。。。
これなら連句点と呼ぶのも分からんじゃないが >>196
奥山のせいなのだよ
奥山はスレ主なのに名無し投稿するからだよ
混乱を招いているなら、スレ主として対応すべきだよ
俺も奥山に間違われた
畿内説の恥晒してもらいたくないな >>204
やはりバカだな
卑弥呼への下賜品満載で大荷物なんだから、行ける限りは船で行くのが当然
呼子に上陸して東松浦半島を陸行とかバカしか考えないよ >>143の続き
>そして末盧国への上陸地点は松浦川河口の潟湖になるので、それを考えても
数キロも動かない
これもバツだ。魏使らは、末盧國上陸後に、
「有四千餘戶,M山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之」
をしているから、そのような光景が発生する場所を通らなくてならない。
そして、「松浦川河口の潟湖」付近上陸では、そんな光景が発生しないから、バツ。
>東松浦半島に上陸して陸行なんてバカしか考えないよ
荷物も多いのだから、船の方が楽
その意味でも、魏使は末盧国に寄らずに船で伊都国に行く方が合理的
これもダメだ。魏使らは、
明帝の詔書や金印た大量の豪華な下賜品を親魏倭王にきちんと届ける事が絶対条件であり、
遭難や沈没の可能性が十分にある「船」使用は、最小限だ。 >>220
だから、ショートカットしたいのなら最初から伊都国を目指すと行ってるぞ
ショートカットしない理由があったと考える知能を持とうな >>198
それはわからんぞ
魏の使いの行った国では馬がいなかっただけで、ほかの地域に馬が居なかったとは断定できないぞ
邪馬台国論叢から抜けてもらう地域だけどな >>204
>ショートカットしたいなら、最初から伊都国を目指すはずだから
これは前から何度も書いてる
末盧国に官名の記載がないし、一大率の入国管理の前に末盧国に寄るにはおかしいから
卑弥呼の時の魏使は伊都国に直接向かったと考えるのが合理的
大陸史書は先行史書の加筆修正で作られるから、末盧国の記事は
魏使以前の情報の挿入と見るべきと、前から言ってる
そういうことにも考えが及ばず、短里が正しいと言うためだけに
本末転倒な呼子上陸とか言い出すのが九州説クオリティだな
それで、大陸史書は距離を直線距離で示すってのは理解できたのか?
測量には、三角比があれば三角関数は要らないってのと同じくらいの難しさなんだが?wwww >>209
残念ながら、各所で検証済み
大陸史書は直線距離表記は現実だよ >>225
天然の良港だぞ
現に、マツロ国に立ち寄ってるのに、都合の悪い記述はガン無視なんだよな、畿内説は >>210
残念ながら対馬も倭國なんだよなw
お前の誤読w >>226
九州の話だぞ
直線距離は長期間の測量が不可欠
だが、そんなことやってるヒマはない 呼子の加部島に肥前唯一の田島神社(名神大社)があり、後の時代でも航海の安全祈願をしているので
呼子で風待ち、寄港するのが渡海ルートだったのだろうな >>217
だから、そう言うなら、具体的な地上経路で検証してから言えよ
それでもお前が自分で>>172で、
「その例で分かるとおり、目標地点が見通せないと図れない
山を迂回して見通せる三角形を一定の縮尺で図に書き、それを張り合わせて目標の地点までつないでいく
最後に図上で出発地と到達点をつないで測り、縮尺に合わせた直線距離とする」 >>152
>避難地として末盧國の記かもしれない。
いや、明帝→卑弥呼へのお宝などを渡さなければならない魏使らは、
「安全」が第1原則。
>そこから現糸島市方面になると北東になってバツ
魏の役人らや陳寿の「行程説明の原則は、あくまで、
「出発説明+途中説明+到着説明+付加説明」の順次式説明であり、
「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、出発時点での出発方向説明であり、
目的地方向説明ではないから、この男はバツ。 >>202
あなたの投稿で失敗したことあるよ
>壱岐の人は乗ってない想定なの? <
投馬國、邪馬台国に行くにも現地の同道者はいた
すると南を東と間違えない >>217
だから、そう言うなら、具体的な地上経路で検証してから言えよ
それでもお前が自分で>>172で、
「その例で分かるとおり、目標地点が見通せないと図れない
山を迂回して見通せる三角形を一定の縮尺で図に書き、それを張り合わせて目標の地点までつないでいく
最後に図上で出発地と到達点をつないで測り、縮尺に合わせた直線距離とする」
と書いてある通り、直線距離なんだよ
その大陸史書の距離の正否の検証は直線距離で行うのが最も合理的
その検証結果では3倍の差があり、百里単位の概数という言い逃れさえ否定される
反論したいなら、具体的な数値を出せ >>230
>だが、そんなことやってるヒマはない
心配スンナって。 とっくに「忌部一族(阿波勢力)」が測量済み。 しょっちゅう通ってるから。 @阿波 >>227
>現に、マツロ国に立ち寄ってるのに、
立ち寄ってないとするのが合理的
末盧国の記事は先行史書の引用で簡単に説明できる
逆に立ち寄っていると主張するなら、
1.伊都国に向かう前にわざわざ末盧国まで遠回りする理由
2.末盧国の官名が記載されていない理由
3.一大率の管轄外で倭国の地を踏む正当性の説明
が必要
それより直接伊都国に船で向かうのがある意味当然
末盧国上陸は伊都國とは別の佐賀平野方面の玄関口としてなら、合理的な選択となる
その場合でも呼子に上陸する意味はない
短里というデマの正当化以外にはねw >>232
無理なく視準し図示できるのは、せいぜい30mぐらいだ
草とか崖とかの障害がなくても、三角形ひとつ小一時間か
これを最短で10kmつなぐのにも300回、実際には障害物あれば迂回しなけりゃならんし、歪みを防ぐため周辺も測らなきゃならんし、天気が悪ければ中止だ
なんで魏の使いがそんなことしなきゃならんのだhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/L-Triangulierung.png/220px-L-Triangulierung.png >>235
だから、どの区間比較で3倍なんだよ
逃げずに言ってみろ >>219
>奥山はスレ主なのに名無し投稿するからだよ
お前って結局なんの根拠もなく言い張ってるだけじゃねえか
ただのデマ中傷人ってわけか >>238
>なんで魏の使いがそんなことしなきゃならんのだ
心配スンナって。 とっくに「忌部一族(阿波勢力)」が測量済み。 しょっちゅう通ってるから。 @阿波 >>230
いくら言い訳しても、魏志倭人伝を読む人(大陸人)は直線距離として読むし
陳寿もそういう想定で書いてる
その上で短里があるかどうか、距離が正しいかどうかの検証は直線距離で行うのが最も合理的
その合理的な検証では、短里はない、そもそも距離は不正確であてにならない
というのが動かせない結論だ
反論したいならお前好みの経路でいいから、具体的な数字を出せ
出せないならお前の言うのはごまめの歯ぎしり以下の戯れ言だ >>237
>現に、マツロ国に立ち寄ってるのに、
1.伊都国に向かう前にわざわざ末盧国まで遠回りする理由
安全に着岸できる、マツロ国の視察、食料調達
2.末盧国の官名が記載されていない理由
田舎だから置いてない
3.一大率の管轄外で倭国の地を踏む正当性の説明
魏の使いが寄ると言えば逆らえない
次はお前だぞ
単純明快
魏志倭人伝に、経由してないマツロ国を経由したかのように記述する理由はなにか?
畿内説に都合が悪いから、ってところだろう >>240
奥山はテンプレ以外は投稿しないとでも? >>231
魏志倭人伝に呼子を思わせる記載すらないし、
国の間の距離は中心都邑の間で示すから、末盧国中心に到達前の経路は
末盧国と伊都国間の距離五百里の検証には「まったく関係ない」wwwww
お前、バカだろ?ww >>242
見聞録なのに、道のりじゃなくて直線距離だと思うほどシナ人はバカじゃあるまい
旅行から帰った奴に、「空港から10kmもあった」と聞いて、直線距離だと思うのは阿呆だ >>242
ヨコから
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
↓
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。 >>245
呼子は今も港町、漁師町だぞ
あの辺一体が松浦(マツロ)だしな 陸を行って百里と書いてるのに、道程じゃなく直線距離だと言い張れる畿内説すげーなwww >>238
だから畿内説では測量もしていないし距離も正しくない
距離は近ければ百里、遠ければ五百里としてあるだけで
比定地推定の役には立たないって言っている
それを距離は百里単位の概数で正しいとかいうバカがいるから
丁寧に検証して否定してるんだよ >>248
呼子も候補地だよ
反論する奴もさしたる根拠も無いし
さてさて、倭人伝て罪作りな伝だね
だから楽しいのかも >>244
お前が奥山のニセ調査報告書とかデマ流してんだろ? >>239
お前が経路、数字を出す番だぞ
>>129を再掲
https://imgur.com/UgKlIMk
これで確認できるけど、
五百里が30キロ
百里が18キロだ
五百里側を基準にすれば百里が6キロだから
伊都國・奴國間は三百里になる
百里の方を基準にすれば、百里が18キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには90キロくらいないといけない
実際には30キロだから二百里余だなww
百里単位っていう作業仮説は破綻していることが簡単に実証できる訳だww
二百里表記も三百里表記もないんだからさwwwww
「短里で百里単位とみれば正確」っていう君のお気に入りの言い逃れですら通用しないw
魏志倭人伝の距離記載はいい加減であてにできない
もちろん短里など想定すべき余地すらないww >>246
>見聞録なのに
魏使にとっては初めての旅かもしれんが、「忌部一族(阿波勢力)」はしょっちゅう通っている。 心配スンナ。 @阿波 >>247
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。
その通り! @阿波 >>250
現に、百里刻みだと理解すれば正しいじゃないか
それじゃ困るから、畿内説が呼子のはずない!だの、直線距離だ!だのむちゃくちゃなこと言い出してる >>251
>呼子も候補地だよ
候補地にならん。 千里として近すぎ。 @阿波 >>252
あ、それは俺が言ってる
吹きこぼれの米粒か、なんて区別できるわけないからな
区別できるなら、その調査方法を聞きたいもんだ >>252
同じ穴のムジナだよ君は、
わたしはそんな投稿した事は無い >>253
もう言ってるぞ
呼子から、ちゃんと道を歩いていけ糸島まで行けばいい >>243
やっぱり、お前、バカなんだな
>1.伊都国に向かう前にわざわざ末盧国まで遠回りする理由
>安全に着岸できる、マツロ国の視察、食料調達
博多港の方が安全
一日の航海で食料調達の必要はない
伊都国に向かう方が距離も短く確実に着ける分、より安全
ただのその場の思いつきなんて、すぐに否定されて終わりだ
>2.末盧国の官名が記載されていない理由
>田舎だから置いてない
国である以上は代表がいるのだし、その名前がないのは1.の末盧国の視察と矛盾するだろう
末盧国より小国の不彌國にも官名記載があるのに田舎だからは通らない
そもそも末盧国は4千戸で北部九州では奴国に次ぐ二番目の大国だ
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戸。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
>3.一大率の管轄外で倭国の地を踏む正当性の説明
>魏の使いが寄ると言えば逆らえない
そんなこと、どこにも書いてないだろ
こういうのをでっち上げの捏造って言うんだよ
やはり九州説は無能と思い込みでできているのが再確認されただけだな
生きてて恥ずかしくならないか?
バカだから、九州説なんていう戯れ言に引っかかって騙されるんだろうな >>262
で、なんで魏志倭人伝にマツロ国経由で行ったかのようなウソを記述しなきゃならんのだ?
逃げずに書いてみ、畿内説 >>246
>見聞録なのに、道のりじゃなくて直線距離だと思うほどシナ人はバカじゃあるまい
見聞録の体裁でも大陸史書の都市間距離は直線距離で示されるし、
書く方も読む方もそれが共通認識
お前の書き込みはただのお前の思い込みでしかない
>旅行から帰った奴に、「空港から10kmもあった」と聞いて、直線距離だと思うのは阿呆だ
旅行から帰ったやつに聞いたならそうなんだろうが、
これは三国志という史書として書かれた記述だからその例示は例示として意味をなさない
バカがいろいろ言ってもバカをさらすだけだぞ
渡土堤に鐙があったニダーの二の舞をしてるぞww
もう舞いまくりww
幕間で三角関数でも恥をさらしてるし、忙しいなww >>247
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。
大陸文化が白髪三千丈式の誇張表現を好み、周辺異民族との関係では
より遠い民族からの朝貢をその王朝の徳の高さとみなす宗教が背景にあることを
理解すれば、短里など持ち出さなくてももっとシンプルに説明できるよ
ただの誇張表現 >>258
>区別できるなら、その調査方法を聞きたいもんだ
付着部位で判断する
口縁部外面付着物を煮こぼれ・吹きこぼれ、胴部付着炭化物を煤、
内面付着物を食物残滓と分類する >>264
陸行五百里と書いてるのに、直線距離だと思い込むんだろ?
明らかに馬鹿者だろ >>248
それは松浦郡という大きな郡があったからだよ
もともとの松浦を含む郡だから全体が松浦郡と呼ばれているだけ
松浦郡全体が松浦だったわけではなく、呼子は呼子であって
広域行政単位としては松浦郡に入れられたというだけ
で、松浦の元地名がどこだったのかを考えると松浦川の存在から
その流域がもともとの松浦、末盧だったと考えることができる
ここが末盧国の比定地とされることに不審はない >>265
自国の見栄をはるならともかく、なんで外国のことを誇張しなきゃならんのだよ >>249
>陸を行って百里と書いてるのに
残念!
そこからもう誤読w
陸行は水行とセットで、陳寿が初めて史書で使ったある意味新しい造語
それ以前にも水行、陸行という文字の並びはあるが、それは>>249が読んだとおりの意味
陳寿の用語としての水行は、循海岸水行の意味の船での移動
陸行はそれとせちぃの陸路の移動という意味
陸行百里は陸路で行く区間で、二点間距離が百里という意味
三国志以降の史書もその使い方で一致しているよ >>265
それが短里と一致するんだな、、に国とそれも倭人伝の倍もある二万4千里も
が短里で説明がついてしまうのだな、、 >>269
>自国の見栄をはるならともかく、なんで外国のことを誇張しなきゃならんのだよ
朝貢させた者の手柄になるから
戦果と同じ >>251
呼子に末盧国があったとか、呼子に上陸したとかいうのは
九州説の中でもトンデモ度の高い連中のみ
人数が少なくてもそれを推す人はゼロではないから
その意味では候補地と言い張る余地はあると言えばあるが
九州説の中でもバカにされる類いのトンデモでしかない
船で行けるところを銅鏡百枚背負って陸路で行くとか、バカ想定にもほどがあるw >>256
百里刻みなら、二百里とか三百里の表記にならないといけないんだよ
おバカさんww >>268
東松浦半島なのだが
長崎県松浦市あたりから呼子ぐらいまでは、正真正銘の松浦だぞ
ちなみに、元寇もこの辺に上陸している >>272
>そもそも吹きこぼれるのは煮汁であって米じゃない
煮汁が焦げてこびり付くんだよ
それと、奥山じゃないから >>270
地図もないのに直線距離など分からんのに、まだ諦めてないのか >>260
ついでに糸島から奴国の経路も出してね
念のために言っとくけど、呼子から唐津まで歩いても、
末盧国ー伊都国間の距離には関係ないからね?
何度も書いてるけど中国史書では国の間の距離は中心都邑の間の2点間距離だから >>277
見苦しいぞ、奥山
使い終わったら洗うだろ
また炊かなきゃならん >>263
>で、なんで魏志倭人伝にマツロ国経由で行ったかのようなウソを記述しなきゃならんのだ?
ここからもう、誤読してるからどこまで行ってもデタラメなんだよ
「末盧国に行ったかのようには書いて」ないんだ
あの部分は北部九州の国の間の地理的関係の記述
魏使の行程とは関係ないんだよ
それが先行史書の引き写しで書いてあるだけ >>279
直線距離など測れない
正確に言えば、測ろうとすれば膨大な時間がかかる >>267
>陸行五百里と書いてるのに、直線距離だと思い込むんだろ?
大陸史書の地誌情報ってのはそういう形式で書くっていうお約束なんだよ
お前がもの知らずで理解してないだけ
陸行については>>270も見ておいてね! >>271
一致しないんだよ
確定的な比定地の間を比べるだけで2〜4倍くらいの伸び縮みをする
渡海部分はさすがに強弁できないと悟って短里の例から外すようになったみたいだけどなww
もうちょっとだなw >>284
でも、具体的にどこの区間かを聞けばいつも逃げるよな、畿内説は >>276
だからそれ、松浦郡だってばさ!
出雲だって、もともとの出雲郷があって、それを含む郡が出雲郡で国名も出雲だろ
出雲国全体が出雲というのは違うのと同じ
松浦郡の中のどこがもとの松浦かを考えないといけない >>228
万二千余里は島嶼部を除いて九州の上陸地点までの距離 >>287
ずばりそのもの長崎県松浦市と書いてるが?
あそこは火力発電所で開発された町だから、古代はもっと伊万里側のほうに集落があっただろうな
そのすぐ隣の半島にある港だぞ、呼子は >>280
>使い終わったら洗うだろ
厚さ1ミリの土器なんてコゲツキを洗ってたら割れちゃうから使い捨てるんだよ
だから現実に残って発見されてる >>282
>直線距離など測れない
測れるか測れないかは、史書を書く人には実は関係ないんだ
史書を書く人は、手元にある情報だけで「二点間距離として」距離を撰述することになる
そうやって書かれたのが三国志であり魏志倭人伝なんだよ
渡海の距離は短里で測ったものじゃないんだよね?
だって測れないんだから? これは確認
ペーテンザラコク以外は九州説の連中でも
渡海千里は測定値ではないと言うようになった
そして今、渡土堤知らずの捏造君は、陸路も時間がかかるから測量はしていないという
なぜ、渡海は測ってないから短里の検証には入れず、陸行も測量していないのに
短里の見積もりに使って百里単位の概数で正確だという
でも具体的な数字は出さないし出せない
五百里の距離を稼ぐために合理的な推論なしに末盧国の上陸地点を呼子だと言い張り、
でも呼子から唐津までの距離は末盧国から伊都国の距離に入らないという
当たり前のことを突きつけられる
面白いね
人間ってこんなにご都合主義で堕ちることができるんだっていう、惨めな実例w >>290
どこまでも適当だな、畿内説は
厚さ1mmしかなかったら五合も米と水を入れたら割れる
それに、付着した部位で判断すると言ってたな
コロコロ変わってるぞ >>285
お前はバカか? いや、バカだったな、改めて訊いて悪かったよ
お前が経路、数字を出す番だぞ
>>129を再掲
https://imgur.com/UgKlIMk
これで確認できるけど、
五百里が30キロ
百里が18キロだ
五百里側を基準にすれば百里が6キロだから
伊都國・奴國間は三百里になる
百里の方を基準にすれば、百里が18キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには90キロくらいないといけない
実際には30キロだから二百里余だなww
百里単位っていう作業仮説は破綻していることが簡単に実証できる訳だww
二百里表記も三百里表記もないんだからさwwwww
「短里で百里単位とみれば正確」っていう君のお気に入りの言い逃れですら通用しないw
魏志倭人伝の距離記載はいい加減であてにできない
もちろん短里など想定すべき余地すらないww >>291
千里刻みの水路は、所要日数で測れるぞ
1日千里だ >>286
大陸史書の記述である以上、直線距離で検証するのが最も合理的
単純論理が分からない人だけが延々と寝言を繰り返すだけ
直線距離以外の経路で検証するならそれでも構わないが、
ここまで具体的な経路も数値も出さない
いつも通りのオワコンなのが九州説の実態だ >>293
そらみろ、空飛ぶ区間じゃないか
実際には、空を飛んでない
呼子からだしな >>294
>千里刻みの水路は、所要日数で測れるぞ
>1日千里だ
そんな計り方しないだけ だいたい、中国人が湖を船で渡ったことがないとでも思ってるのか?
船が一日で何里進めるか知らないと思ってるのか? >>297
現に、投馬国は、所要日数だけで記述してる
最小単位が日で、距離の最小単位が千里なら、1日千里が合理的
1日5百里なら、5百里刻みになるからな キウスの自賛・自己弁護の自演、無知によるイチャモンは議論の邪魔だしスレの無駄でただただ不快
バレてないと思っている思考力が悲惨すぎる 水行距離が測量していない距離で、陸行距離が道なり距離ということであれば
1里の距離はどうにでもなる >>289
>ずばりそのもの長崎県松浦市と書いてるが?
お前、歴史を語る能力ないな
例えば、単に松浦市をWikipediaで調べるだけで、そんな恥ずかしいことは言えないぞ?
「律令制下では肥前国松浦郡の区域とされた」
「1889年4月1日 町村制施行により、 北松浦郡のうち現在の市域にあたる以下の村が発足。()は合併を行った村。それ以外は単独村制。
志佐村
上志佐村(← 高野村・横辺田村)
御厨村(← 御厨村・大崎村・田代村)
星鹿村
調川村
今福村
福島村
鷹島村」
「1955年3月31日 北松浦郡志佐町・新御厨町・調川町が新設合併、同時に市制を施行し、松浦市(旧)となる。」
もともとの松浦の地名を持つところはないんだよ
広域合併で、そのうちの1つの名を冠することができなかったので、
旧郡名の松浦を市名に採った
合併町村の力関係で吸収合併に見えるのをよしとしないときには
当たり障りのない古い広域の名称を採る
そういう地方自治体は結構たくさんあるんだよ 魏志倭人伝の地理的説明は誰かが実際に移動しながら記述したものではない
帯方郡の役人がそれまでいろいろな機会に移動・測量した記録を基に帯方郡に近い順番に並べてあるだけ
通常の入国者・出国者は伊都國の港で大率の検察を受けるからそこまで船で来ることになる >>294
一日でたどり着ければ、ある程度遠くても結構近くでも千里なんですよね?
それ、測ってるとは言わないww >>299
>現に、投馬国は、所要日数だけで記述してる
一日刻みで表記した例があるなら見せてくれよ >>296
呼子は末盧国の中心ではない
論破終了
大陸史書の地誌記述では、中心国邑の二点間距離が示される >>299
最小単位は10日、おそらく実際の記述は旬単位だったと思われる 黒斑・煤とお焦げは土器の取り扱いに慣れていれば分別可能
また分析にあたってはお焦げの内容を決めつけているわけではない
だいたい弥生時代や古墳時代のコメは、炊くのではなく蒸していたと言われている >>301
つまり測っていないし正確でもない、ということでよろしいですね?
つまり短里に実態など想定できないしある訳がない
短里は捏造、と
私もその考えに同意します >>298
>だいたい、中国人が湖を船で渡ったことがないとでも思ってるのか?
>船が一日で何里進めるか知らないと思ってるのか?
大陸人は基本的に海に出ないよ?
海路で船が一日にどれだけ進むかの標準は大陸にはない >>303
あのな、松浦は松浦党の本拠地にもなって、単に松浦と呼べば松浦市周辺を指したんだよ
薄っぺらいんだよ
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A-136799#:~:text=%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A%E3%80%90%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%A8%E3%81%86%E3%80%91,%E5%91%BC%E7%A7%B0%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82 >>267
>陸行五百里と書いてるのに、直線距離だと思い込むんだろ?
朝鮮距離五百里を歩いて行くんだよ。 簡単な話じゃないか。 @阿波 >>307
日より短い単位、たとえば時間、刻は使われていない >>309
マツロ国の一部なら、上陸した瞬間に、マツロ国到着だな >>268
いや、「末盧国」は福津市(万津浦)辺りだ。 @阿波 >>310
壱岐からマツロ国まで千里
まあ、厳密に千里なんてないけどな
1日で着いたからと考えれば理解できるぞ >>318
>日より短い単位、たとえば時間、刻は使われていない
水行に十日より短い単位は使われていないんだよ 末廬の中心がどこか探るには、まずは近世以前の松浦郡の範囲を確認しようぜ >>321
>1日で着いたからと考えれば理解できるぞ
主観は無意味 >>278
>地図もないのに直線距離など分からんのに、まだ諦めてないのか
逆だ。 おおよその直線距離が分かっていたから、おおまかな地図が書けている。 @阿波 方向も伊都国が現糸島市あたりになると
北東になる。魏志でいう東南にならない。
陳寿は、末盧国が倭国の最北と思い込む?
現糸島市あたりが東南にくるように傾けたのか? >>323
探らんでいい
中原か千々賀あたりで決まりだ >>267
>陸行五百里と書いてるのに、直線距離だと思い込むんだろ?
直線距離五百里を歩いて行くんだよ。 簡単な話じゃないか。 @阿波 >>322
距離のほうが千里が最短だ
ならば日の単位と整合性をとるには1日千里が合理的
2日や3日かかったら、千里刻みにならないからな 「松浦(まつら)地方(佐賀・長崎両県の玄界灘(げんかいなだ)に面する海岸地方)に割拠した・・・」
「現在の佐賀県北西部および長崎県北東部にわたる肥前国松浦郡に割拠した。」
「鎌倉〜室町時代に肥前国松浦4郡を中心に割拠した・・・」
「中世、肥前松浦郡に割拠していた・・・」
「中世、松浦地方に割拠し・・・」
「肥前国松浦郡(現,佐賀県東・西松浦郡,長崎県南・北松浦郡)に割拠した・・・」 >>331
「松浦」といえば現松浦市周辺だけでなく松浦4郡全体を指すということですな >>171
>・・・不彌國からまた船に乗り、20日の沿岸航行で投馬國、さらに10日の沿岸航行と一月の陸行で邪馬台国となる。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だから、この大和説男はバツ。
また投馬國へは「至の前に途中移動をした事を示す文言がない」から、
直前の不彌國からの側副傍線行程国としての説明。
だから、不彌國の次は「南至邪馬壹國女王之所都」になり、
「至の前に途中移動があった事を示す文言がない」から、
魏使らは殆ど移動しておらず、50里以下で邪馬壹國女王之所都に着いた事になる。
そして、「水行十日陸行一月」は、
その直前の文言の(郡からの目的地である)女王之所都の所要日数説明になるから、
郡から女王之所都の所要日数説明になる。 >>312
近畿説ですがね
短里でなく変動里として見ている。
一寸千里法(海渡り千里)の欠点が諸に出ている。
区間によって75mになったり144m
また測るにしても垂直、水平をどれだけ正確に取ったのか定かではないが
使ったんでは?
変動里として65〜400m未満なら許容範囲。 >>332
南松浦郡は、通常、五島と呼ぶ
平戸も通常、平戸と呼ぶ
単に松浦と呼ぶのは長崎と佐賀の県境付近のみ >>331
いや、「末盧国」は福津市(万津浦)辺りだ。 @阿波 >>330
>距離のほうが千里が最短だ
>ならば日の単位と整合性をとるには1日千里が合理的
距離の最短は百里だろうが >>302
私ではありませんよ。
私は炭化物の内容まで言及してません。
三世紀に、箸墓近辺だけ煮炊きしてたわけでは無いので、箸墓築造年と結びつけるのはダメだとは投稿しましたが、
一応、コテつけておきます。
多分、あなたは誰かは検討はついてますが、姑息なやり方はいけません。 >>341
古代からだろう
五島も平戸も離島だ
離島は島の名前で呼ぶ >>340
>三世紀に、箸墓近辺だけ煮炊きしてたわけでは無いので、箸墓築造年と結びつけるのはダメだとは投稿しましたが、
つまり根本的に原理を誤解してるわけでしょ
そんな人は大勢いないよ >>345
水路は千里刻み、陸路は百里刻み
理由があると考えるのが自然 >>183
>間違ってないよ
陳寿の地理観では
朝鮮半島の循海岸水行が南へ四千里、東へ三千里で計七千里
この大和説男が、間違っている。
循海岸水行は、京畿湾北岸付近(おそらく海州付近)からの海岸沿い水行であり、
韓地に着いてから、「歴韓國乍南乍東」のジグザグ陸行だ。
>島嶼部の渡海が千里三回で三千里
循海岸水行と合わせてここまでで一万里
これも間違い。對海國と一大國の、
それぞれの国の海岸沿いの二辺分の合計1400里の陸行をしている。
>ここから
「20日の沿岸航行で投馬國、さらに10日の沿岸航行と一月の陸行」が二千里になってる
これも間違い。投馬國は、不彌國からの側副傍線行程説明。
また「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数説明。 >>347
>理由があると考えるのが自然
自分の考えた理由を絶対視するのは間違い >>343
古代からだという証拠は?
五島も平戸も同じ離島である壱岐・対馬と違って
別国はおろか別郡にもなってないな >>343
だから短里など固定したもんがない。
計測区間のみ通用するもん >>185
>まだ話をそらしてる
大陸史書の距離が直線距離ってのは理解したんだな?
yes, noで答えられるだろ?
こんな簡単な質問からすら逃げないと九州説はやってられないのか?
この大和説男がまだ間違っている。
大陸内距離は、対象の山頂などが見えない限り、一寸千里の応用も出来ず、
直線距離計測も不可能であり、
全て記里車や歩測や「道のりでの短い三角測量の応用の合計里数計算」。 >>351
郡で言えば五島は南松浦郡だし平戸は北松浦郡だぞ
五島や平戸としか呼ばないけどな
ちなみに、対馬も上下の県郡だが、対馬としか呼ばない >三世紀に、箸墓近辺だけ煮炊きしてたわけでは無いので、箸墓築造年と結びつけるのはダメだとは投稿しましたが、
キウスの無知蒙昧ぶりがよくわかる >>340です。
追記しておきます。
現在の発掘物だけで、箸墓を三世紀とするのは時期尚早だと思ってます。
陵墓ゆえ、調査は難しいでしょうが、
?さんみたいに、築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っていると言う嘘もいけません。(過去 レスより) >>352
考えるだけなら、いくらだって言える
一万里を七三に割っただけとか >>357
>?さんみたいに、築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っていると言う嘘もいけません。(過去 レスより)
「築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っている」なんて言ってないだろ
そういう嘘はいけません >>355
松浦郡が東西南北に分割されたのは近代ね
今でも五島、平戸は「松浦」地域であることに変わりない
コトバンクにもあるように少なくとも古代の立郡以降は
「松浦」とあれば東は唐津から西は五島までの範囲を指すのであって
「松浦」=現松浦市周辺との主張は歴史を無視した暴論ということ キウスの嘘つきぶりは相変わらずだな
ザラコク、連句点、キウスが消えてる期間のスレはまったりとして平和だったのに 私は畿内説ではありませんので、、
炭化物が吹きこぼれた米とは言うはずもありませんし、、興味もありません。 >>358
なんだそりゃ
なぜ七三で割れば水路千里刻み、陸路百里刻みになるんだ?
少しは頭を使えよ畿内説 さんざん炭化物に言及しておいて「興味ない」?
分裂症なのか? >>359
訂正、
築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っていると言う嘘投稿はいけません。 ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 >>363
>なんだそりゃ
測れるはずのない数字が出てたら、まず捏造を疑う
千里単位ってラフな数字は捏造くさいってこと >>365
>築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っていると言う嘘投稿はいけません。
「築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っている」と言う投稿があったという嘘はいけません >>359
言ってるぞ
417 日本@名無史さん 2021/08/12(木) 12:06:35.09
>>415
>築造中に食ったと言う証拠がないね
証拠は明示されている
調査報告書参照 >>360
現に、松浦を拠点とした和冦は松浦党と呼ばれてる >>370
>言ってるぞ
嘘
「築造中に作業員が食べた物と調査報告書に載っている」と言う投稿があったという嘘はいけません >>367
1日で進む距離と考えれば疑問はなくなるぞ 日本史トンデモにありがちなこと
・現代人の知識、技術、思考などを無意識になんの根拠もなく過去に遡らせて適応させること >>372
では誰が吹きこぼして炊飯したメシは誰が食べたんだ? >>373
>1日で進む距離と考えれば疑問はなくなるぞ
問題ありまくり
時速何キロの高速艇で走る気だ? >>346
原理ってなんですか?
詳細に教えていただき納得できたら、精進します。
わたしは奥山さんみたいに頑固ではありませんので、、
九章算術の指摘を私を始め色んな方が指摘しましたが、
奥山さんの頑固さには、、、
興味が有れば過去スレ見てください。 >>371
その「松浦」は唐津も五島も含めた松浦郡全体ってことでしょ
コトバンクに引用されている事典の文章を読んでないの? >>375
>では誰が吹きこぼして炊飯したメシは誰が食べたんだ?
さあね、誰がとも言った覚えはない
捏造するなよ
それに「食った」という表現が報告書にあるわけじゃないとも明言した
つまり、お前の捏造 >>377
>九章算術の指摘を私を始め色んな方が指摘しましたが、
九章算術って何か問題あんの? >>377
何がおかしい、問題だと考えているのか
まずそれを述べてみなよ >>378
離島に拠点を分散するわけないだろ
活動範囲は五島と平戸も含むが、本拠地は松浦(県境付近)だ 一度おかしいと思いこんだら
いくら説明を受けても論破されても
ずっとおかしいと言い続ける
それがキウス
やっぱり認知(ry >>379
事実と認めてるぞ
本当コロコロだな
93 日本@名無史さん 2021/08/13(金) 16:58:21.91
>>91
>炭化物の付着した土器が箸墓築造中に食べられた物と、調査報告に掲載されてると言った奴
事実だろ? 全1病患者=キウス
「希薄」が読めない人
「祭祀」って言葉を知らない人
「堤」の意味を知らない人
「補説」の意味を知らない人
似てすぎる >>384
つまり、コトバンクを引用しながらそこに書かれていない個人的思い込みを主張していると >>386
>炭化物の付着した土器が箸墓築造中に食べられた物と、調査報告に掲載されてると言った奴
「炭化物の付着した土器が箸墓築造中に食べられた物と、調査報告に掲載されてると」言った奴?
実在するなら証拠だせ >>386
>炭化物の付着した土器が箸墓築造中に食べられた物
土器は食わんだろ >>388
話をそらすのに夢中で、壱岐から来てるという大前提を忘れる畿内説 >>363
近畿説だよ。
1/10寸刻みで寸千里法。
で百里、簡単さ。 >>386
じゃ、俺は飯食いに行くから、証拠出しとけよ
捏造屋さんよ、また後ほど 日本史トンデモにありがちなこと2
・他者の発言や記述を勝手に脳内変換してそれを事実だと思い込むこと >>389
それに「事実だろ?」とコメントした奴がな
さすがに、米粒が吹きこぼれさたはまずかったよな
また奥山の黒歴史が追加されたな >>353
それで良いと思います。
実際の距離と記述された里数がほとんど近似値を示したのが短里で良いと私は理解しています。それぞれの実距離であろう現在の距離を記述の里数で計算したものが短里です。
多少幅があっても良いと思います。
倭人伝では、多少誤差はあるかもしれませんが、短里で良いと思います。
魏の使いも、事細かに計測したわけでは無いですが、適当に距離を報告したとはずは無いでしょう。 一ミリ厚の土器で炊飯wwwwwww
しかも使い捨てwwwwwwww
テキトーにもほどがあんだろ畿内説wwwwww >>396
>事実と認めた奥山が証拠だせよ
奥山が認めたって証拠だせよ >>391
壱岐から来ても唐津で問題ない
そっちこそ話をそらすなよ
コトバンクの記述には松浦党の本拠地が松浦市周辺に限定されるとは書かれていない
これを認めろよ >>395
>さすがに、米粒が吹きこぼれさたはまずかったよな
米粒が吹きこぼれたとか言ったのはキウスだろ?
違う人? >>399
奥山じゃないって証拠だせよ
ぐうの音も出なくなるとしらばっくれるからな、奥山は >>400
本拠地は松浦だぞ
それに、唐津じゃないと都合が悪いのか?
フェリーでさえ呼子発着なのに >>403
>奥山じゃないって証拠だせよ
奥山だって証拠出せよ >>406
こんなバカなこといってたのは奥山だけ
ほかは畿内説でも「祭祀のための供物」といってた >>398
1ミリは一番薄いところな
さすがに底は厚いし胴部も全体を均一に1ミリにそろえることは手作業なのでできない
でも胴部の器壁が1〜2ミリなのは事実だよ >>405
はい、振り出しに戻ったw
自分の思い込み以上のことをいえないのねw >>408
>こんなバカなこといってたのは奥山だけ
こんなバカなことってなに?
いってたのが奥山だって証拠は? >>411
矛先そらしの畿内説と違って、壱岐出航という事実を忘れてないからな >>364
言葉足らずで申し訳ありません。
炭化物の年代と築造年については興味はありますよ。
どの様に付着したかに興味が無いだけです。 >>412
お前は建造中の墓でメシ炊いて食うと思ってるのか?
奥山じゃなければ答えられるだろ >>409
>でも胴部の器壁が1〜2ミリなのは事実だよ
それが、「東阿波型土器」の企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法だ。 @阿波 >>405
横からですけど
水面下にも船体がある構造船になると、座礁していまうので遠浅ではなくドン深の方が港に適するようになります
現代の知識・意識を何の根拠もなく遡らせるのはトンデモによくあることだと指摘されてますよ >>189
>一辺は実測しなきゃならんが、どの点とどの点の間を実測するんだ?
伊能忠敬は、自分のいる地点とそれからなり離れた地点間の基線の里数を計り、
その基線の両端から目的物を見通す方向と基線との角度を計測作図して、
二線の交点を求め、
その見通した線長と基線長の比率から、対象までの距離を計測した。 >>418
小型船でも、干潮を気にしないでいいというメリットがあるのだが >>413
庄内甕も布留甕もみたことないのか・・・
九州説ってどんだけ不勉強なんだ・・・
ちなみにミニチュア品は実際に使用するものではないから形を似せてるだけだぞ >>419
図解法はな
海上では使えんという話だぞ >>415
さんさん吹きこぼれだと書かれているだろう?
バカなの? >>421
カマドも運ばなきゃならんな
野外炊飯のためには >>414
矛先をずらしてるのはアナタ
コトバンクの記述には松浦党の本拠地が松浦市周辺に限定されるとは書かれていない
これを認めろよ >>423
部位で変わるんだろ?
266 日本@名無史さん 2021/08/15(日) 14:45:20.31
>>258
>区別できるなら、その調査方法を聞きたいもんだ
付着部位で判断する
口縁部外面付着物を煮こぼれ・吹きこぼれ、胴部付着炭化物を煤、
内面付着物を食物残滓と分類する >>418
>水面下にも船体がある構造船になると、座礁していまうので遠浅ではなくドン深の方が港に適するようになります
真逆だ。 やわらかい砂地に乗り上げるのが正解。 それ以外だと岩礁にぶつかって破船だ。 @阿波 >>425
またごまかしか
本拠地は松浦
活動のため割拠してたのが松浦郡全体だ >>424
古墳時代前期に竈はない
これだから不勉強な九州説は・・・ >>429
卑弥呼の死後なのに、古墳時代前期なのか
ハイライト入りを狙ってるのか? >>421
>庄内甕も布留甕もみたことないのか・・・
庄内甕も布留甕も、「東阿波型土器」だがな。 わははははは @阿波 >>430
布留0期なら古墳時代と理解する研究者もたくさんいるよ
これだから不勉強な九州説は・・・ >>432
なんで壱岐から五島や平戸に向かわなきゃならんのだよ
魏志倭人伝に「マツロ」と明記してあるしな
それでも否定するなら、さらに離れた唐津だとする根拠をどうぞ >>424
明らかに古墳時代のもので反論してる>>413と>>424には突っ込まないのかw >>433
では、炉をわざわざこさえて炊飯したのか?
そう言えば、奥山は答えず逃げたな
やっぱり奥山だったんじゃないか >>434
だれも平戸や五島にいくなどと主張していない
勝手に脳内変換しないように
こちらの主張は
「松浦」は東は唐津から西は五島の範囲であって、現松浦市周囲に限定されるものではない
だ
末廬国の中心地は現唐津市の松浦川下流域だと想定している >>418
>水面下にも船体がある構造船になると、座礁していまうので遠浅ではなくドン深の方が港に適するようになります
真逆だ。 やわらかい砂地に乗り上げるのが正解。 それ以外だと岩礁にぶつかって破船だ。 @阿波 >>437
だから、なんで唐津なんだ?
あえて距離が合わないんや!と叫びたい一心か? 畿内説が
距離も方位や畿内説にそぐわない物は倭人伝では間違いとか言うのなら、畿内説は以下の道を歩むのだろう
1.邪馬台国は無かった
2.魏の役人は邪馬台国の都には行っていない
3.他説批判する
4.感心しないが、倭人伝に記述されて無い事を持ち出し偽装する
5.記紀神話の一部を利用する。
6.ヤマト王権と結びつける
7.その他
結論
畿内に邪馬台国ありきの説 >>426
本当に九州説って不勉強なんだな…
庄内期〜布留期は甕を接地できないので、石や土製の支脚で甕を固定して煮炊きしていたと考えられている
当然、当時の住居内や集落内でのカマドの発見例はない >>439
弥生時代から古代にかけての重要遺跡の分布
そっちこそ、方角も距離も合わせたい一心で呼子だーと叫んでないか? >>441
で、そんなもんこさえて建造中の墓で炊飯してたのか? >>442
残念だったな
唐津港の開港は江戸末期だ
古代に接岸できたか怪しいな >>315
>あのな、松浦は松浦党の本拠地にもなって、単に松浦と呼べば松浦市周辺を指したんだよ
>薄っぺらいんだよ
だからお前は論理の追えないバカだというんだ
>>303で
「律令制下では肥前国松浦郡の区域とされた」
って書いてあるだろ?
この時点で松浦と呼ばれる地域が、元の松浦を大きく超えて広くなってるんだよ
松浦党はこの律令制の松浦郡設置の後、平安後期だ
その広い松浦郡の中で、どこが元の松浦かというところで、
動かしにくい自然地名の松浦川が根拠になる
一番古い文献としては記紀に記載があるが、文字だけだとどうせ
文句つけるだけだからこれは置いておく
とにかく、お前は歴史を語る能力のないバカだとまた根拠付きで証明された
まあ、歴史を騙るのがお前の悪意ある目的だからしょうがないんだろうがなww アンカーもアンカー先も間違ってました…
×>>426
○>>436 ほらよ 短里の完全否定シリーズ
空を飛ばない経路地図も作ってやったぞ
今の道路と基本にしてるから、それなりに通りやすい経路だ
https://i.imgur.com/VeFdAO9.jpg
千々賀・三雲間(末盧國・伊都國)が37キロ
https://i.imgur.com/7QhxmCH.jpg
三雲・比恵間(伊都国・奴國)が24キロ
>>129と同じ計算をすると
五百里が37キロ
百里が24キロ
五百里側を基準にすれば百里が7.4キロだから
伊都國・奴國間は324里、三百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
実際には37キロだから154里だな
二百里にも届かなくなるww
直線距離を道のりにしたら、短い方の百里により大きく影響するから
差がかえって開くって教えておいたのにww
これで、空を飛ぶという言い訳もできなくなって
後は呼子が末盧國という言い訳しか残らないが
何度も確認するように国の間の距離は中心都邑の間だから
どうやってもムリだぞww さらに超親切
https://i.imgur.com/k1NTWpt.jpg
呼子・千々賀間は19キロ
これを入れたところで
呼子・三雲間が56キロ これが五百里
三雲・比恵間が24キロ これが百里
五百里側を基準にすれば百里が11.2キロになるが
それでも伊都國・奴國間は214里、二百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
呼子までプラスしても56キロだから233里にしかならない 直線距離計測で
末盧國・伊都國間は 一里 60メートル
伊都国・奴国間は 一里180 メートルで 3倍の差
道なりに測った場合
末盧國・伊都國間は 一里 74メートル
伊都国・奴国間は 一里240 メートルで 3.2倍の差に開く
インチキして呼子まで入れても
末盧國・伊都國間は 一里112メートル
伊都国・奴国間は 一里240 メートルで 2.14倍に縮まるけど
九州説のいう短里74メートルからは遠く離れていくww
分かっただろ?
短里なんてないんだよww テンプレ然り 奥山一個人の投稿と説は分けて、投稿してもらいたい。
奥山よあんた素人だろ俺も素人だがアンタも俺も畿内説を代表してる訳では無い。
畿内説支持者やめろ
「奥山、ええ加減にせーよ」 >>448
東南陸行五百里,到伊都國
東南でもない。魏志方角の無視 >>451
勝手に博多にしてるからな
百道あたりなんだろう >>402
違う
キウスはアンチ畿内説じゃねーの
自論はスレ違いで逃げてる
5ちゃんなのになWw
ザラコクはなんでいるのかわからん
阿波は聞く耳を持たない
奥山?はレスが進めば良いだけの奴
あと、登場人物いたっけ、、 >>443
現地では調理使用後の土器が確認されているだけなんで
すぐ近くで使用したのか、離れたところで使用したかの判断はできない
あと、使用したのも炊飯とは断定できないので勝手に決めつけないように >>456
もともと、奥山が吹きこぼれだ、食ったあとだと言い張ったのが発端なのだが 結局、個人的な思い込みしかないのな
松浦市くんはw 唐津のほうが思い込みだろ
現代の感覚で適当こいてる >>456
吹きこぼれであることも中身を食べたことも否定してないが?
炊飯だと中身をコメに限定することになるからやめろ、と言っている >>447
確実に接岸できる港は福津市(万津浦)辺りなんだが? @阿波 >>444
だからー、古代の船は構造船じゃなくて、波静かな潟湖がよい港だったの
応神紀に出て来るヤマト王権最大の船、枯野がその時点で丸木舟なんだから 自分にアンカー打っちまった…
正しくは>>458でした
度々すいません >>463
>水面下にも船体がある構造船になると、座礁していまうので遠浅ではなくドン深の方が港に適するようになります
真逆だ。 やわらかい砂地に乗り上げるのが正解。 それ以外だと岩礁にぶつかって破船だ。 @阿波 >>460
コトバンクの記述には松浦党の本拠地が松浦市周辺に限定されるとは書かれていない
ことから逃げ続ける松浦市くんw >>453
前に書いただろ?
伊都国比定地が間違っているか、魏志倭人伝の表記が間違っているかというところで、伊都国比定地の蓋然性の方が高いんだよw
伊都国を三雲遺跡群から動かしたら、九州説にはなにも残らなくなるぞ?
三雲と平原でなんとか遺跡もしっかりあるって言えるのに、それを否定したら、本当に九州説にはなにも残らない >>461
お焦げを米だと言い出したのはひょっとして... >>418
あんた、何説を支持しますか?
質問の意図はなんですか?
邪馬台国論叢に詳しい方の投稿ですか?
このスレに来たなら、それなりの意見を持って来てますか?
申し訳ありませんが、このスレで質問しなくても良いのでは >>460
じゃあなんで現在の船は遠浅の浜に乗り上げないの? >>463
秀吉は、唐津の名護屋城にいたが、唐津港ではなく呼子を使ってる
やはり、唐津港は使えなかった可能性が高いな >>467
本拠地じゃなく、活動拠点だろ
だから割拠してると書いてる >>468
>三雲と平原でなんとか遺跡もしっかりあるって言えるのに、
お墓しかないけどな。 わははははは @阿波 >>454
勝手にじゃないぞ?
三世紀の遺跡分布から、当時の奴国の中心は比恵那珂遺跡群の辺りとされている
百道辺りにする理由が逆にないんだが?w >>460
>現代の感覚で適当こいてる
現代には消失している松浦川河口の潟湖を想定しているのにか?
現代の感覚では分からないのかな?
不勉強な人にはw >>474
割愛しってるって判断する根拠は何?
見苦しいねぇ >>477
と言うよりも、船の接岸能力が高まったからだろ。 波に弄ばれて破船しなくなったからだろう。 @阿波 >>479
コトバンクを読めよ
割拠してると書いてるぞ >>474
で、コトバンクの記述をどう読んだら松浦市周辺に限定できるの? >>483
単に松浦と呼ぶ場合の土地は限定される
離島は除かれるからな >>486
割拠してる中で、単に松浦と呼ぶところを探せばいい
消去法でな >>487
だから現在の個人的な所見を勝手に普遍化するなよ >>490
消去法で分かるだろ
離島は島の名前で呼ぶのだから >>492
名護屋城だろ
秀吉がいた
でも唐津港ではなく呼子港を使ってる >>493
3世紀のはなしに近世城郭w
馬鹿丸出し >>494
元寇も松浦に上陸している
大陸ではそういう認識だったのだ
秀吉も呼子港を使ってる >>495
古代に港として使えたなら、秀吉も使ってる >>497
そうやって時代も状況も違うことを時空をねじ曲げて十把一絡げにするのは歴史音痴 お前ら、呼子も唐津も「末盧国」じゃないってことだよ。 もう諦めな。 わははははは @阿波 筑後のチョンボ炭鉱夫は結局行程では比定できないと言ってるのだから
末盧國はどこでもいいんじゃないのか 誰も秀吉の時代に唐津を使ったとは言ってない
1200年の時の流れを完全無視
自分の思い込みこそが一番というトンデモの実例だな >>423
申し訳ありません。
興味が無いものですので、
前にも投稿しましたが、煮炊きと箸墓との、、、、 >>500
だから、末盧国は、福津市(万津浦)辺り。 @阿波 >>498
時系列に沿って考えるのが歴史だぞ
現在唐津に港があるから昔も使えただろうとノホホンと考えるのが歴史音痴だな >>503
阿波さん
ご苦労様、
邪馬台国論叢も良いですが、
倭人伝記述の各論の探究も大事だと思います。
時折り、勝手にあなたをリスペクトしてます。
時折ですよ、、 >>468
書いたら何なんだ?
南を東にする畿内説と変わらない。
遺跡でも墓地公園だろうな。 >>195
>方四千里(陸)の沿岸水行を七千餘里(海)だから
陳寿が書いている里数は直線距離
アホじゃないの?。
「水行」は本来「陸行」との対比の文言で、河川行や湖水行にも使う文言であったが、
陳寿は、水行と渡海とを区別し、水行を海岸沿いの沿岸行にも使っている。
そして、韓の西岸〜南岸は、世界に名だたるリアス式海岸であり、
そんな所の「海岸沿い沿岸行」をすれば、危険も一杯あるし、
沖合洋上航行の3倍近い距離や日数がかかってしまうもの。 周旋五千余里とは、北九州から日向までの行程距離
宮崎県南部串間市には後漢王朝から天照大神に贈られた玉壁が見つかってる。
魏志倭人伝には1世紀中盤の九州が克明に描かれてる。
奈良も出雲も吉備も出て来ない。 名前の欄、固定する方法ありますか、
多分有ると思うのですが、、
浅学で申し訳わけありません。
パソコンと携帯を併用してます。
このスレに限らずネットは自宅の時はパソコン、外出の時は携帯です。 志賀島で見つかってる金印は日向の女王・天照大神に贈られたもの
後漢書には倭国の極南界から来た倭奴国の使者に印綬を渡した、となってる。
金印には委奴国と彫られてる。
委奴(イナ)とは日向(ヒナ)の当て字でしょう。 ここは
九州説のスレ
みたい
頑張って下さい
畿内説 そりゃそうだ
畿内説のスレと言いながら大部分は九州説の揚げ足取りで、畿内説が語られることはほとんどない 令和10月30日(土)〜31日(日)【9月1日受付開始】”古代史の聖地”桜井市の古墳探訪バスツアー
という動画をyoutubeで見つけました
https://www.youtube.com/watch?v=zi-ko0FzqHM
もっと見るをクリックすると詳細な日程が表示されます
興味のある方はどうぞ >>514
そりゃ、スカタン説同士なんだから、そうなるわな。
「阿波」がそれを取り持っているだけ。 @阿波 >>515
>令和10月30日(土)〜31日(日)【9月1日受付開始】”古代史の聖地”桜井市の古墳探訪バスツアー
古墳しかないからなぁw 阿波だと、
伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成〜景行天皇から皇極天皇の時代まで神社だけで古事記めぐりが出来るんだがな。 @阿波 >>519
末盧国は、福津市(万津浦)辺り。 @阿波 >>455
>キウスはアンチ畿内説じゃねーの
キウスはアンチ畿内説じゃなくて、アンチ日本、反日だよ
日本の定説畿内説に突っ込むオレカッコいいって思ってるクズ 出雲のスサノオ・日向のイザナギ・筑紫平野のタカムスビが連合して、争いの絶えない北九州地域を上手く懐柔したのが弥生中期末頃。 >>455
>阿波は聞く耳を持たない
だから、相手してやるって言ってるだろ? @阿波 また意味の分からん被害妄想か
畿内ヤマト政権が統一するんだから、その前の邪馬台国がどこにあろうと大差ない >>471
構造船、とその進化型だからだよ
泡以下だな、お前はw >>524
>畿内ヤマト政権が統一するんだから
ただし、8世紀からな。 @阿波 倭国の本来の語源は【輪の国】、つまり瀬戸内海沿岸部をグルッと囲うように出来た集合体という意味で、出雲のスサノオ自身が名付けた。 >>525
>構造船、とその進化型だからだよ
それがつまり、船の接岸能力が高まったことだ。 帆船の登場とかな。 @阿波 >>511
キウスよ、名無しで良いから、
誤字脱字やよくわからん日本語使うな
言わんとしてることは、正しいか間違いは別にしてわかるが
まず日本語を正しく使え >>487
>割拠してる中で、単に松浦と呼ぶところを探せばいい
お前、どこまでもバカだな
松浦党の松浦は律令制下ですでに拡大した松浦郡から名前を採っているから、
松浦党の存在は元松浦(末盧)の探索には何の意味も持たないぞ?
ずっと後世の平安後期くらいが松浦党の起源なんだから! 九州は西倭国、山陰・山陽・四国を東倭国、京都〜東北地方をヒノモト(日本)と呼んでいた。
西倭国の首都は日向に置かれた。
東倭国の首都は出雲に置かれた。
両倭国連合の首都は豊前に置かれた。
ヒノモトの首都は奈良に置かれた。
これが出雲神話。 >>509
周旋五千里は狗邪韓国から邪馬台国までの距離だよ
倭の領域に入ってから、女王国に着くまで五千里を
周旋(あちこちに寄りながら進む)する >>197
>半島は陸路の距離が分かる
およそ7千里の沿岸を通るのに7日かかったから、1日千里
計算間違いです。
郡の出発地点からの道のり里数は7千余里だが、始めは循海岸水行をしており、
その後の「歴韓國乍南乍東」から韓に入った事になり、その韓が「方四千余里」であり、
だから、郡から韓國の東南端まで7千余里の日数は、
「循海岸水行の日数と韓の歴韓國乍南乍東の日数」の合計になるの。 >>521
お遊びが好きなようですね
これも5ちゃんの余興ですね
ところで、貴方の言う[日本の定説畿内説]ですが
パクリ失礼
何処の定説ですか?畿内説仲間の定説ですか?各種事情があり多数を占める畿内説学者の定説ですか? >>530
お?
町村合併によって松浦になったんや!とほざいてた奴か
呼子上陸だとよほど都合が悪いらしいな 須佐之男の伝承は朝鮮半島にも残ってるぐらいで実在した人物である可能性高い。 >>202
>・・・で?上陸地点はどこだって?現代の地名でいいから具体的に挙げてくれ
おそらく、東松浦半島の東北端から唐津港の間の海岸のどこか。 >>535
>何処の定説ですか?畿内説仲間の定説ですか?各種事情があり多数を占める畿内説学者の定説ですか?
歴史教科書に載ってる定説 >>520
以外で混乱
倭人伝の方位、距離から解説してよ
短里支持はわかるけど、、 律令制下の松浦郡の位置、範囲を貼っておくよ
律令制の全期間こうだとは言わないけど
https://imgur.com/DoyGe67 >>536
町村合併で古い広い範囲の呼称を採ったのが、現松浦市
現松浦市の範囲の合併町村の中に、新市制発足前に松浦を名乗っていたところはない
ある意味逆に、現松浦市の範囲は元松浦(末盧)の候補地から完全に外せる >>458
>もともと、奥山が吹きこぼれだ、食ったあとだと言い張ったのが発端なのだが
捏造
言ったのは俺 >>502
別に謝る必要は無いよ
キウスさん
君の疑問は百も承知の上で
一言、学者も人の子、長い物に巻かれるのも常道。 >>538
そんなところに上陸して銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤他の大荷物を陸送するってバカじゃないの?
短里なんてないんだよ
結局意味のある反論一つできないじゃないか?ww
渡土堤知らずの捏造君は結局日本人かどうかの問い1つにも答えられないカスだしな >>220
>やはりバカだな
卑弥呼への下賜品満載で大荷物なんだから、行ける限りは船で行くのが当然
呼子に上陸して東松浦半島を陸行とかバカしか考えない
魏使らは、卑弥呼に詔書や金印や大量の下賜品を送る事が第1使命であり、
海難事故や山中事故で死んだり詔書や金印などを失ったりしたら、魏使の首だけではなく、
一族郎党も危ないもの。
従って、魏使らは「安全」が第一であり、その次が「最短」が原則であり、
渡海や山登りや崖道など、危険なルートは、出来るだけ避け、最小にするもの。 >>541
永島文書っていう徳川中期に他所から来た宮司が作った神社に残されていたという設定の偽書に
万津浦っていう地元民が誰も知らない嘘地名が書いてあるんだよ
その万津浦が末盧(マツラ)の名残だって飛びついた人の後追いが泡 >>541
>倭人伝の方位、距離から解説してよ
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 >>543
現に東松浦半島という名称もあるぞ
こういう使い方は、離島にはない 倭人伝より前に編纂された魏略には、陸行・水行の部分が無い。他の情報源からの引用が付け足されて混乱を招いてる。
3世紀の中国で短里は使われて無かった。 現存する最古の三国志は12世紀の写本。
それとは別に、4世紀後半頃の三国志・呉書の写本の一部が見つかってるが、それは僅か25行なのに、12世紀の写本との相違点が数ヶ所ある。
やはり倭人伝は胡散臭い。 本当に九州説の連中って本末転倒だよな
北部九州には伊都国に三雲南小路遺跡や平原1号墓といった王墓がある
先進地域で邪馬台国は北部九州に決まってる
短里で読めば末盧国も伊都国も奴国も正確に書かれている
っていう設定だったのに、いざその比定地で正確に距離の検証をされて短里が否定されると
そこは伊都国じゃないとか言い出す
九州説にとっては短里より伊都国の遺跡の方が本来重要なはずなんだが、脊髄反射以上の
能力がない連中だから仕方がないねぇ
三角関数以前には三角測量はない
根拠はコトバンク(ドヤ)って言ってたバカもこの件は撤退したみたいだが
今度は松浦党がコトバンクに書いてあるとか言いだしてる
お前の知識、情報源はコトバンクしかないのか?w キウスってオモロい奴だな
希薄から来たんだったかな、
普通は恥だが容認しキウスで通す。
なんかよう分からん奴
5ちゃんを心得て、あの手この手の奥山の方がわかり易い、馬鹿に変わり無いがな 現存する三国志は、何十回もくりかえし写本されてるから、原本とはかけ離れてる内容かも。 >>541
>以外で混乱
壱岐の郷ノ浦町辺りから出航すると、対馬海流に乗って、難なく福津市(万津浦)辺りに漂着するんだよ。 @阿波 >>225
>末盧国に官名の記載がないし、一大率の入国管理の前に末盧国に寄るにはおかしいから
卑弥呼の時の魏使は伊都国に直接向かったと考えるのが合理的
大陸史書は先行史書の加筆修正で作られるから、末盧国の記事は
魏使以前の情報の挿入と見るべきと、前から言ってる
ダメだ。東松浦半島西北沖の鷹島や黒島は松浦水軍家の島であり、
都市牛利の都市氏が松浦水軍家の家系であり、半島との海上交通などを管轄支配しており、
だから、都市牛利が難升米の「次使」に選ばれ、
明帝から「率善校尉,假銀印青綬」を貰ったから、魏朝直属の役人にもなったのであり、
だから、「官」以下の倭の役人名が書かれいなかったのだ。。
そういうことにも考えが及ばず、長里が正しいと言うためだけに
本末転倒な大和説とか言い出すのが大和説者らクオリティだな
>それで、大陸史書は距離を直線距離で示すってのは理解できたのか?
測量には、三角比があれば三角関数は要らないってのと同じくらいの難しさなんだが?wwww
ダメだ。距離記載は原則は「双方の入り口や出口の間」の道のり距離だ。 >>553
深読みできてるのか
両者とも何説なのかわからんが方位、距離はほぼニアー
チャチャを入れる畿内説の気持ちも分かるがネ >>553
三角比を使ってるんや!三角関数やない!
いやそれ三角関数のことだから
図解法では計算はしないけどな >>231
>呼子の加部島に肥前唯一の田島神社(名神大社)があり、後の時代でも航海の安全祈願をしているので
呼子で風待ち、寄港するのが渡海ルートだったのだろうな
成程。 >>550
それ広い松浦郡の中で東にある半島って意味だぞ
広い松浦郡のどこが元松浦なのかを論じなきゃいけないのに
広くなった後の松浦が元になった名称ばかり挙げられてもな
松浦党しかり、松浦市しかり、東松浦半島しかりだ >>541
>以外で混乱
壱岐の郷ノ浦町辺りから出航すると、対馬海流に乗って、難なく福津市(万津浦)辺りに漂着するんだよ。 @阿波 >>551
水行、陸行の地誌記述での使用は陳寿の発明だと思ってる
魏略は逸文しかないのでなかったというのはちょっと難しい
というか、從帯方至倭、「循海岸水行」、暦韓國到构耶韓國七十餘里は魏略にもある >>561
魏の使いに対して、ここはマツロだと紹介してるじゃないか
何の疑問があるんだ?
唐津から空飛ぶコースがコケたから逆恨みか? >>235
その大陸史書の距離の正否の検証は道のり距離で行うのが最も合理的
その検証結果では、半円路であっても、直径路の1.57倍であり、
「百里の概数」であっても、有効数字1桁概数として50〜150里という論とかなり整合性がある。
反論したいなら、具体的な数値を出せ。 >>559
短文でごまかしてスルーしてもらおうとしてるんだろうが
お前は高校数学すらドロップアウトしたバカ
三角関数が三角比の連続周期関数への拡張だって
教えてもらったのに理解できてないだろww
お気に入りのコトバンクで調べてみたら?ww
自分で引用リンクを貼ったコトバンクに、三角測量の説明がバッチリ
図解法で書かれているのにw
ここまで見苦しいやつはさすがに珍しい
渡土堤知らずの捏造君くらいだな
ああ、同じ人間かww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>553
深読みできてるのか
両者とも何説なのかわからんが方位、距離はほぼニアー
チャチャを入れる畿内説の気持ちも分かるがネ >>242
いくら言い訳しても、魏志倭人伝を読む人(大陸人)は、
基点の出口から目的地の入り口なでの道のり距離として読むし
陳寿もそういう想定で書いてる >>566
図解法なんて昭和の遺物だからな
三角関数を使わなきゃ計算はできないことも知らなかったよな?
相似とか中学生レベルのこといってたしな >>245
>国の間の距離は中心都邑の間で示すから
間違い。
国と国の間の距離は、原則は、
出発國の出口から目的國の入り口までの道のり距離で示すから 私もそうですが、ここに投稿する方って
短気で、おっちょこちょいの人が多いですね。
その典型が私ですが、邪馬台国を通じて投稿者の人柄を観察するのも面白いですよ。
人格否定ではありません、人間くささが好きです、 帯方郡から倭国に来る人が最初に上陸するのは伊都国の港
そこで大率の検察を受ける
特別の用事がない人は末盧國には寄らないだろう
ほとんどの人は寄らない
帯方郡から倭国の国々が順番に紹介されているから一大国の次に紹介されているだけ >>564
>魏の使いに対して、ここはマツロだと紹介してるじゃないか
>何の疑問があるんだ?
そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてない
本当に捏造しかしないな?
疑問なのはお前の人間性と日本人かどうかだ
空飛ぶコースとかまだ言ってる
二点間距離=直線距離が大陸史書の地誌記述
そして、お前のご要望通りに地上経路で見るとさらに誤差が拡大ww
お気に入りの呼子スタートにしても、まだ二倍超の誤差がありそれは
百里刻みの概数というのが否定されるということだ
魏志倭人伝には二百里も三百里もないからなwwwww
そして呼子スタートにすると、一短里が100メートルを超えるww
周髀算経で76メートルでぴったりとか言ってたのと大矛盾だw
どうやっても短里の正当化は無理だよw
で、短里頼りの行程パズルだけが命綱の九州説は、短里が否定されると全崩壊だw
大笑い
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>571
オレはキウスの人格も存在も全否定だよ
学問板に書き込むべき人間ではない >>569
>図解法なんて昭和の遺物だからな
>三角関数を使わなきゃ計算はできないことも知らなかったよな?
>相似とか中学生レベルのこといってたしな
やっぱり分かってないな
図解法は今でも有効だし、ずっと昔、ギリシャローマ時代から使われているのに
言うに事欠いて「昭和の遺物」ときたwww >>326
>方向も伊都国が現糸島市あたりになると北東になる。魏志でいう東南にならない。
「東南」は、出発時点での出発方向説明であり、
(見えてもいない)目的地方向とは限らない。 >>573
なんか、イエスノーで答えろと叫んでたアホがほかにもいたような
ま、いいか
で、直線距離をどうやって測るんだ?
図解法の手間は、アホにも分かるように説明したつもりだが? >>575
昭和の遺物だぞ
工事現場で三脚立てて覗いてる奴がいるだろ?
あれ、トランシットといって角度θを測る機械な
光波測距と併せてトータルステーションともいうけどな >>569
本当に分かってないな
>図解法なんて昭和の遺物だからな
>三角関数を使わなきゃ計算はできないことも知らなかったよな?
>相似とか中学生レベルのこといってたしな
図解法を使えば相似という中学レベルの数学でも、三角測量で距離が出せるんだよ
三角関数を計算で使う必要はどこにもない
そして三角測量のやり方として、お前が引用したコトバンクのページで
図解法の説明がしてある
本当にここまで踊るバカも珍しい
渡土堤知らずの捏造君くらいだな
ああ、同一人物だったかww 以下ry >>334
>近畿説ですがね・・・
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>579
で、結局測量した百里なのか?
よいこのための測量教室じゃないんだぞ、畿内説 連投です、
邪馬台国、卑弥呼で商売する畿内説の
一部かほとんどかは知らない人が嫌いです。
税金をなんと思ってるのかな。
金の出どころは税金でも良いです。
、労働の対価に見合うか?私利私欲、利己的な自己実現、名誉のために税金を使うのか?そこが問題です。
近畿?畿内?奈良?
入り乱れる、税金を使う公的団体
公務員の皆さんは、労働の対価が給与ですので、それに見合う報酬を貰うのは民間と同じです。否定はしません。私の息子も公務員です。労働の対価として、給与を貰うのは当たり前です。
しかし、この部署は税金投入に本当に必要なのか否かは感じて欲しい。
5ちゃんを承知で投稿失礼。
私は知って人も少ないですが畿内説ではありませんが、それに近いものがあります。 >>577
>ま、いいか
ま、いいかじゃなくて答えて見せろよw
それすらできない無能がw
直線距離が測れるかどうかは関係ない
測れても測れなくても大陸史書の距離は二点間距離だ
それに則って検証するのが正しい
>図解法の手間は、アホにも分かるように説明したつもりだが?
図解法の手間など、どうでもいい
図解法を使えば、三角関数もさらに言えば三角比も使わずに距離が導出できる
三角関数を使わないのは三角測量じゃないとか言ってたバカが
繰り返し繰り返し丁寧に恥の上塗りをしただけ
ここまでのバカはそうそうはいないぞ?
渡土堤知らずの捏造君くらいだ
ああ、なんだ、同じヤツかww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>569
>三角関数を使わなきゃ計算はできないことも知らなかったよな?
>相似とか中学生レベルのこといってたしな
現実に三世紀の中国で知られていたのは三角関数も図解もしないで計算で解く方法だ >>583
興奮するなよ畿内説
もともと直線距離が測れるか測れないかの話だ
分かりやすい説明のおかげで、無理だと分かっただろ?
少しだけ賢くなれた礼を述べてもいいんだぞ? >>581
>で、結局測量した百里なのか?
測量してないのはお前も認めたよな?
ということは、きちんと測った短里の距離だから魏志倭人伝を
短里で読めば正確とかいう九州説の命綱がブッツリと断ち切られる訳だ
そりゃあそうだよな? 測ってないのに正確な記述になる訳がない
同じ文脈で、渡海の千里は短里じゃないって言ってるんだしww
>よいこのための測量教室じゃないんだぞ、畿内説
なんだ、三角関数を使わないのは三角測量じゃないニダーって言い張るのは諦めるのか?
お前にしては珍しいな
未だに輪鐙(鎧じゃないよw) >>587
百里刻みがキチッと測ってるわけないだろ
少しは脳みそ使えよ畿内説 >>581
>で、結局測量した百里なのか?
測量してないのはお前も認めたよな?
ということは、きちんと測った短里の距離だから魏志倭人伝を
短里で読めば正確とかいう九州説の命綱がブッツリと断ち切られる訳だ
そりゃあそうだよな? 測ってないのに正確な記述になる訳がない
同じ文脈で、渡海の千里は短里じゃないって言ってるんだしww
>よいこのための測量教室じゃないんだぞ、畿内説
なんだ、三角関数を使わないのは三角測量じゃないニダーって言い張るのは諦めるのか?
お前にしては珍しいな
未だに輪鐙(鎧じゃないよw)は供え物だって言い張ってるのにww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>392
>近畿説だよ。・・・
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>586
>ほう、どうやって計算するんだ?
>>165で解説しておいた >>585
>興奮するなよ畿内説
興奮なんてしてないよ?
バカが踊り続けるのを見て腹を抱えて嗤ってるだけさね
畿内説は最初から測量なんてしてないし距離もあてにならないし
実際比定地の推定には使わないと最初から言ってる
九州説の立場で測量してないと明言したのは英断だぞww
それだけで九州説は即死だ
短里が根拠を根本から失うからなw
九州説が周髀算経の一寸千里とかにこだわるのは、
距離を測る手段は当時からあったに違いないって言い張るためなのにww
九州説もご臨終だな
いや、ゴメン
間違えた
とっくに息してなかったわ、九州説はww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>589
まじめな話、正確な距離よりも、何日歩けば到着するのかのほうが大切な情報誌
当時の旅行者にとってはな >>593
魏志倭人伝は、目安を記録している
それを理解しろ 話はそれからだ畿内説 >>594
それではいつまでたっても、地図が書けん。 現実におおまかにでも地図が存在している。 @阿波 >>592
>それは現代の計測だろ
いいや、三世紀、魏代の方法だ >>598
>一々山頂まで登山するのか?
登山は全く不要だ
平地を百メートルくらい歩くだけで良い >>599
ほう、どれぐらい歩くんだ?
ちなみに、歩く始点と終点から山頂の目印が見えないと測量できないぞ >>582
結局 キウスもここで遊んでる一人なんだよなWw
奥山の良いところ知らんだろ、
このスレを長い間維持してる事だよ
多少の嘘(冗談)もいいんでねーの
テンプレも素人にしては頑張っている >>600
山頂の目印? 山頂なんかに登らんのと違うか? @阿波 >>600
>ちなみに、歩く始点と終点から山頂の目印が見えないと測量できないぞ
その通り
魏代最高水準の科学でも限界があることを示した
海峡幅の測定は不可能だ >>603
だな
1日にどの程度進めるのかを目安にするしかない >>574さん
承知しました。
人それぞれですから、、 >>605
嘘つきはダメだよ
人それぞれでは済まない >>600
>ちなみに、歩く始点と終点から山頂の目印が見えないと測量できないぞ
目印は必要ない
仰角だけで良い >>582を見ればキウスの正体は明らかだろう
いつもと口調が違うだけ >>588
>百里刻みがキチッと測ってるわけないだろ
>少しは脳みそ使えよ畿内説
百里刻みは、短里ならかなりきちんと測らないと百里刻みにならないって分かるか?
お前らの言う短里76メートルなら百里で7.6キロにしかならない
百里刻みを実現するためには四百里と五百里を区別できることが必要条件になるが
そのためには30.4キロと38キロが区別できないと行けないってことだ
普通に見通してもこの差はなかなか区別できないぞ?
それこそ測量でもしないとw
具体的な数字で考える習慣のない人には分からないかな?
測量をしてないと認めた時点で百里刻みの短里っていうのは
破綻してることに気付いてないのも嗤えるけどさw
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>592
いや、中国の算術書に書いてあるやり方だよ? >>595
>魏志倭人伝は、目安を記録している
>それを理解しろ 話はそれからだ畿内説
それを、短里で正確な距離が記載されているから魏志倭人伝の通りに行けば
邪馬台国に着くって言い張ってたのが九州説なんだがねぇ
目安だったら、魏志倭人伝の通りに行っても邪馬台国には行き着かないねぇww
どんどん言うことが後退していく九州説ってオカピィww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>612
>いや、中国の算術書に書いてあるやり方だよ?
理解できないんだろ
>>これで山までの距離が測れる
>山の高さを測ってどうする
みたいな受け答えしてるやつだから、学力はかなり低いと見た 用矩之道のうち臥矩以知遠(矩を寝かせて距離を知る)を使って自宅から富士山までの距離を測定した方のレポートです
この場合は目標物の距離(=富士山の火口の直径)があらかじめ分かっている場合の例ですが、どんな考え方で測定するのかはつかめると思います
古代中国の測量法「用矩之道」
https://open.mixi.jp/user/18931674/diary/1971393730 >>614
出してくる典拠がいちいちコトバンクだしなぁ
連続句読点とは別人だと思うけど、こいつもイロモノとして相当だよなぁ >>613
目測、経験値、比例計算、時間、速さ、、、、 地形、海、川、登り、下り、感覚、
算術、天候、
三国志では、測量できない距離は経験値からかな、、概ね当たっている。 2世紀の漢鏡や短剣が全国各地で見つかってる。大和朝廷がそれらを支配地域に配ったのは明白。 >>603
>その通り
魏代最高水準の科学でも限界があることを示した
海峡幅の測定は不可能だ
相手陸地が見えなくても、
一寸千里に拠って南北間の距離を測っておいて、それを一辺として
相手陸地の大体の方向が判ればそれを斜辺とする直角三角形を作図して、
その斜辺の大体の長さを求めれば、それが海峡幅の近似的測定になる。 >>621
その実測する南北間の距離って、具体的にどこからどこまでだよ >>621
そんな事ができるなら、唐津港付近の海岸から糸島平野が東南方向でないことも測定できる
「東南陸行」とか書くことはあり得ない >>611
>百里刻みは、短里ならかなりきちんと測らないと百里刻みにならないって分かるか?
お前らの言う短里76メートルなら百里で7.6キロにしかならない
百里刻みを実現するためには四百里と五百里を区別できることが必要条件になるが
そのためには30.4キロと38キロが区別できないと行けないってことだ
見えておれば簡易三角測量が可能だし、記里車や歩測などでも近似計測出来る。
東大理系博士号自称のインチキ詐欺師では、出来ないんだろうが。 >>613
>それを、短里で正確な距離が記載されているから魏志倭人伝の通りに行けば
邪馬台国に着くって言い張ってたのが九州説なんだがねぇ
いや、有効数字1桁程度の近似値だ。
邪馬台国なんて存在もしなかったし、東大理系博士号自称の大和説者らは、
口先騙しの詐欺師だな。 探検家、登山家や陸上選手は、染み込んだ感覚で
どのくらい進んだか、どのくらいの時間がかかったかがわかるんだって。 >>624
ごく簡単なことだ
1日歩けば、それが100里
5日なら、、畿内説にも分かるよな >>617
コトバンク:
出版社などが提供する信頼性の高い辞書・辞典・データベースから
用語の意味を一度に検索できるサービス >>620
>2世紀の漢鏡や短剣が全国各地で見つかってる。
2世紀頃なら、漢委奴國王の後で倭國王帥升らの時代だから、
九州倭國が列島中心で、東征毛人の征服や「市を監督する大倭職」が置かれた時期。
>大和朝廷がそれらを支配地域に配ったのは明白
大和朝廷など、まだ存在もしなかった嘘つき騙しであるからバツであり、
東征将軍らや大倭職らが関与した。 墓場でメシ食ってたとか吹きこぼしとか言ってるレベルだからなぁ >>627
なるほどね
俺も、旅行で知らない地で朝の1時間ほど歩いたりランニングするけど、だいたいどのくらいの距離かはわかる。 >>622
>その実測する南北間の距離って、具体的にどこからどこまでだよ
出発地付近から相手国の地がほぼ全く見えないのが、對海國から一大國の渡海。 帯方郡から来た役人がそのまま邪馬台国に行く場合は
伊都国に一度上陸して、港で大率の検察を受け
水や食料を補充した後、沿岸航行で投馬國を目指しただろう
奴国、不彌國は相対的な位置関係を記しているのであって、陸に上がって陸行したわけではない
ただ、水や食料の補充に船で立ち寄ることはあっただろう >>623
>そんな事ができるなら、唐津港付近の海岸から糸島平野が東南方向でないことも測定できる
「東南陸行」とか書くことはあり得ない
旅程や紀行文の説明の(人類の常識的な)原則は、
「出発の説明+途中の説明+到着の説明+全体の補足説明」の順。
従って、「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向の説明文言。
勿論末盧國の出発時点では、伊都國は見えていないから、
そんな方向は、書けるものではない。 おはよう、
レス読みました
距離なら奥山さんの出番だな
九章算術の出番ですよ奥山さーん >>631
>墓場でメシ食ってたとか吹きこぼしとか言ってるレベルだからなぁ
葬送儀礼ではよくあること >>635
船に乗ってマツロ国に接近したと想像してみろ
左奥(東南)に見えるのがイト国だ >>635
>勿論末盧國の出発時点では、伊都國は見えていないから、
>そんな方向は、書けるものではない。
見えてなくても測定でわかるものを
サボった担当者は首が飛ぶんじゃなかったの >>628
>ごく簡単なことだ
1日歩けば、それが100里
5日なら、、畿内説にも分かるよな
これはちょっと無理だな。
古田第1書での紹介では、
翻、能く歩行す。日に二百里なる可し。(呉志十二、裴松之之所引呉書)
とあり、
長里では87km位であり、これは全く無理であり、
短里では15km余り位であり、可能。 >>641
必死こいて2百里
視察しながら昼メシ食ってまた歩けば百里だ >>641
>長里では87km位であり、これは全く無理であり、
参勤交代が一泊二日で90km
軍事行動でツワモノ個人ならぜんぜん無理じゃない >>634
>帯方郡から来た役人がそのまま邪馬台国に行く場合は
伊都国に一度上陸して、
これバツね。詔書や金印や大量の下賜のお宝を持った魏使らは、当然安全が絶対であり、
出来るだけ(一大國から最も近い)東松浦半島に上陸するもの。
>港で大率の検察を受け
水や食料を補充した後、沿岸航行で投馬國を目指しただろう
奴国、不彌國は相対的な位置関係を記しているのであって、陸に上がって陸行したわけではない
ただ、水や食料の補充に船で立ち寄ることはあっただろう
いや、魏使らは、不彌國まで陸行して、
不彌國で「南方で水行二十日の所にある投馬國の説明を受けた」
というような書かれ方である。 「関東 関西」 大抵の人が知らない地理感覚の起源
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1629039560/
日本とは、もともと西高東低の国だった
古代、聖徳太子の時代の日本人が注視していた方角は、あきらかに「西」でした。
海の向こうに極楽浄土があるという沖縄のニライカナイ信仰や、神の贈りものは
海を渡ってやってくるというパプアニューギニアのカーゴ信仰と同じように、
古代日本にとっても新しい文物、文化は、海の向こうから来るものだった。
そしてそれは東ではなく、西。つまり中国大陸や朝鮮半島へと至る海を越えてくるものでした。
しかし、「それならなぜ奈良なんだ」という疑問も出てくる。西に注目していたのなら、
大陸への玄関口となる九州、博多地域に日本の拠点があってもよかったのではないか。
そう見ると、古代日本のかたちは非常によくわかる。「もともと九州あたりにあった勢力が、
瀬戸内海を進み、そして大和地方に入った」という神話の物語をどこまで史実として考えていいのか、
それはひとつの大きな問題ではある。しかし、非常にありそうな話ではあります。九州なのか、
奈良なのか。邪馬台国をめぐる論争についても、決着の方向性が見えてくるように思います。 >>638
>船に乗ってマツロ国に接近したと想像してみろ
左奥(東南)に見えるのがイト国だ
紀行文では、出発時点での事から説明するのが原則だし、
「マツロ国に接近」では、呼子の近辺になるから、前原付近は30km位になり、
よほど高い塔でもない限り、伊都国の確認はできないだろうなあ。 >>639
>見えてなくても測定でわかるものを
サボった担当者は首が飛ぶんじゃなかったの
見えなくっちゃ、測定そのものが出来ないよ。 【中国人の疑問】三国志はなぜ日本で人気が高いの?中国人が理由を考察!
https://www.youtube.com/watch?v=mD-LeVYYVgo
日本在住の李姉妹(wikipediaにも載っています)の動画を紹介します >>647
>見えなくっちゃ、測定そのものが出来ないよ。
出来るさ
どっちからも見える場所があれば >>646
>紀行文では、出発時点での事から説明するのが原則だし、
そんな非常識な原則だれが決めた
>「マツロ国に接近」では、呼子の近辺になるから、前原付近は30km位になり、
>よほど高い塔でもない限り、伊都国の確認はできないだろうなあ。
呼子いつく前の海の上で、真東に可也山が見えるよ >>619
根拠なしで呻くだけ
これが九州説の限界
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>623
だから魏使が東南陸行してないんだって!
魏使は伊都国に直行
末盧国は陳寿(または陳寿の参照文書の編者)が古い記録を見て地誌記事として挿入しただけ
東南陸行の行き先は伊都国ではない >>626
何度も示しているだろ
短里が正しいなら、二百里とか三百里とかの記載にならなきゃおかしいんだよ
この「二」百里、「三」百里の最初の桁が信頼できる状態が、有効数字一桁で正しいと言える精度
それが合ってないんだから、デタラメなんだよ
お前の言っていることはさ >>646
これは天気イマイチで広角レンズだからアレだが、肉眼なら余裕で見えるぞ
https://i.imgur.com/XGIsQyF.png >>650
>>紀行文では、出発時点での事から説明するのが原則だし、
>そんな非常識な原則だれが決めた
東大理系博士号自称男や大和説者以外の普通の人類が行った。
>>「マツロ国に接近」では、呼子の近辺になるから、前原付近は30km位になり、
よほど高い塔でもない限り、伊都国の確認はできないだろうなあ。
>呼子いつく前の海の上で、真東に可也山が見える
可也山が見えたって、伊都国は見えない。 >>651
根拠なしで史料事実や史料実態の曲解や否定や改変をして呻くだけ
これが東大理系博士号自称男や大和説学者らの限界
で、お前は本当は、
どこの大学の卒業で、東大の何学部の大学院に入って、
何科に所属して博士号を取ったんだい?。
簡単に答えられるだろ? >>627
>探検家、登山家や陸上選手は、染み込んだ感覚で
>どのくらい進んだか、どのくらいの時間がかかったかがわかるんだって。
だが、>>652でも書いたように、有効数字一桁すらないんだぞ?w
要するに短里なんて単位はないし、それをあてにして比定地を考えるなんてのは愚の骨頂だ >>653
何度も示しているだろ
短里が正しくないなら、方四百余里とか方三百里とかの記載があっちゃおかしいんだよ。
「四」百余里、「三」百里の最初の桁が、
有効数字1桁以内での信頼できる状態が、有効数字一桁で正しいと言える精度
それがほぼ合っているから、
お前の言っていることは、デタラメなんだよ。 >>628
>ごく簡単なことだ
>1日歩けば、それが100里
>5日なら、、畿内説にも分かるよな
本当に九州説ってバカだな!
お前らの短里設定では一里76メートル!
百里で7.6キロにしかならないんだぞ?
お前の伝では3日で23キロ
それ一日どころか3,4時間で行けるぞ?
具体的な数字で考える習慣のない人には分からないかな?
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>638
>船に乗ってマツロ国に接近したと想像してみろ
>左奥(東南)に見えるのがイト国だ
またウソ書いてる
前に東松浦半島から見える可也山の写真を見せただろ
あれ、東方向だぞ!w
具体的なことを一切考えず調べもせずに適当な思いつきを書くだけ
それが九州説クオリティw
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>660
まぁだ長里、短里言ってるのか
周回遅れなんだよ、二択チョン
おおよそで言えば10kmぐらいだな
朝メシ食ってからでて、視察しながらメシ食って昼休み、また歩き出して夕方までに帰る
休み休みだから、そんなもんだろ
競歩やってんじゃないんだよ >>661
広角レンズ、曇天でもこれぐらい見える
晴れてて肉眼なら楽に見える
船乗ったことないのかよ
https://i.imgur.com/XGIsQyF.png >>654
前にも出したけどこれが東松浦半島から見える可也山
https://imgur.com/ilU5axs
ついでに唐津(正しい末盧国)の海岸から見た可也山の高さ強調三次元画像
https://imgur.com/NDSCnBu
この辺りの広い範囲から伊都国のランドマーク、可也山が視認できるから方角は分かる >>655
>またイエスノーチョンが暴れてるのか
大間違い
「イエスノーを答えられないチョン」がバカと恥をさらし続けてるんだよw
で、他人様をチョン呼ばわりするで、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>665
邪馬台国と全く関係ない
やっぱり荒らしてんのは畿内説だな、二択チョン >>662
また短里の長さが変わってるww
そんな伸び縮みするのは単位じゃないって前にも言われてただろ?w
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?
朝鮮系の人は九州説にしかいないんだよww
チョンって書くときに悔しさで指が震えてるんじゃないか?
自分は日本人ですとは意地でも言いたくないんだよな?
ミンジョクの誇り的に?ww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>666
荒らしてるのはお前だぞ?
渡土堤知らずの捏造君!ww
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>668
完全に狂気をまとっているように見える
冷静になろう! >>660
あなたの計算で行けば難波から纏向まで
50キロとして、1日で行けますね。
奥山氏は停泊も含めて陸行一月と言ってますが、
どう思いますか?
畿内説の誰かも、魏の使いは暇では無い急いで行くとも言ってますが、、 畿内説はコロコロだよ
のんびり測量してるともいってた >>670
暇とか急ぐとか、そんなことは分からない
「誰か」とかいい加減な話をやめてくれればいい >>671
九州説は出所不明のいい加減な話をやめてくれれば、それでいい >>673
いくらでも出てくるだろ
140 日本@名無史さん 2021/08/15(日) 11:29:25.76
私は畿内説だが短里を用いていても何の不都合もない
帯方郡から万二千余里は九州の上陸地点までの距離
区間距離の合計は一万里+余里の合計だが
半島と島、島と島、島と上陸地点は最短距離を測定したもの
帯方郡から上陸地点までの距離の合計は
一万里+余里の合計+島々の南北間の距離となる
これが一万二千余里 >>628
呼子から5日もかけて前原まで歩く馬鹿はおらん
舟なら半日で着く >>664
>前にも出したけどこれが東松浦半島から見える可也山
https://imgur.com/ilU5axs
前原は、可也山の東南の低地にあり、
呼子の北東付近の海上からは、確認出来ないな。
>ついでに唐津(正しい末盧国)の海岸から見た可也山の高さ強調三次元画像
https://imgur.com/NDSCnBu
この辺りの広い範囲から伊都国のランドマーク、可也山が視認できるから方角は分かる
これも、右側の山裾の向こうになり、前原は見えていないな。 >>675
また根拠もなく魏志倭人伝の記述を否定してる
マツロ国に立ち寄るよう指示されてた、海が時化てた、いくらでも理由は考えられる >>674
>>140は私が書き込んだレス
君はそれを「いい加減な話」と思っているようだが
九州の上陸地点伊都国までの距離は7000里+3000里+余里の合計+島々の南北間の長さで一万二千余里
ということ
>自郡至女王國 萬二千餘里
と書かれているのはこのこと
あくまで倭国の上陸地点までの距離
違うというのであればどこまでの距離だというのか?
ここで検察を受けて邪馬台国まで移動するケースでは港からまた船に乗り沿岸航行で投馬國水行20日で投馬國に行くことになる
そこからさらに水行10日、陸行一月で邪馬台国となる >>678
>投馬國水行20日で投馬國に行くことになる
投馬國を一つ余計にサービスしてしまった(^^;
付け加えると、投馬國の比定地は出雲 糸島で各種楽浪土器が多量に出るのは、三雲と深江井牟田
唐津からは出ない
壱岐から渡海後呼子あたりで寄港休憩して、沿岸水行で深江、三雲に行くのがルート >>680
魏志倭人伝にはマツロ国に立ち寄った記述があるんだよ
畿内説は知らないかもしれないが >>674
>いくらでも出てくるだろ
それが露骨な詐欺なんだよ
「畿内説はコロコロだよ」と誹謗してるだろ
これは畿内説が右顧左眄してるとか
追及を躱そうとして言を左右してるって意味の非難だからね
それを特異な主張を堅持してる人を例に持ってきて
「畿内説はコロコロだよ」
を自己弁護しようとしてるってことは
ニセ証拠で畿内説を陥れようとしてるってことなのさ
これは九州説がインチキでサギした証拠なんだよ >>678
水行うんぬんは、帯方郡からの所要日数
水路万里(=10日)と陸路二千里(=20日+天候不順や視察調査のための滞在10日=1月) >>652
行き先東南陸行五百里、到伊都國
どこなんだ? >>684
「水路万里(=10日)」が物理的に無理な、成立不可能説
古代船を時速何キロで航行させる気 >>683
実際コロコロだろ
直線距離だ!(測量しなきゃ出てこない)と舌の根も乾かないうちに、測量してない!と言い出す
あるいは
ゴミだ!いや破砕供献だ!いやいややっぱりゴミだ
コロコロしまくり >>682
>魏志倭人伝にはマツロ国に立ち寄った記述があるんだよ
>畿内説は知らないかもしれないが
どこの誰が? >>682
倭国の官がいない国の漁村に立ち寄るよう指示されることなどない >>687
>コロコロしまくり
だという証拠を出してご覧 >>686
そりゃ1日千里ルールで記述してるからさ
壱岐からマツロ国までも千里だからな
やや早足程度のスピードだな >>641
プリタペータン
たまにまともな事を書くが
短里などない。 >>690
例示してるだろ、奥山
奥山はいつもちゃんと読まないな >>678
>・・・ここで検察を受けて邪馬台国まで移動するケースでは港からまた船に乗り沿岸航行で投馬國水行20日で投馬國に行くことになる
そこからさらにで邪馬台国となる
邪馬台国なんて存在もしなかった詐術的な文言であるから、バツであり、
「水行10日陸行一月」は郡からの目的地である「女王之所都」の説明文言であるから、
郡から女王之所都の所要日数。 ザラコク爺風
末廬國ー伊都國
「東南≠北東」史料事実や史料実態に拠って、バツです >>679
>・・・投馬國を一つ余計にサービスしてしまった(^^;
付け加えると、投馬國の比定地は出雲
「南≠東北」だから、この大和説男もバツね。 >>694
島と島の間それぞれ1日は余裕として、半島沿岸は、現在のフェリーなら24時間程度(1泊2日)で就航してる距離
古代でも、7倍の時間をかければ進める >>700
2日だと五百里刻みでの記述になる
だが、そうなってない 日本史の板でスレのタイトルを「邪馬壱」としているスレは一つもない
「邪馬台国」嫌悪症の人は自分でスレ立て思う存分「邪馬壱」を書き連ねたらいい >>669
>完全に狂気をまとっているように見える
お前がなw まあ、踊り続けてくれ
九州説のバカさ加減の広報活動第一人者の一人だ
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>674
それ、九州説のなりすましww
そんなバカなことを言う畿内説は一人もいないw >>676
>前原は、可也山の東南の低地にあり、
>呼子の北東付近の海上からは、確認出来ないな。
>これも、右側の山裾の向こうになり、前原は見えていないな。
あのさあ、可也山は伊都国のランドマークって書いてあるだろ?
可也山の場所が分かれば、伊都国の場所が分かるんだよ
直接見える必要がある、なんていう条件はない >>677
>マツロ国に立ち寄るよう指示されてた、海が時化てた、いくらでも理由は考えられる
捏造君は今日も捏造
そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてない
いい加減に、その場の思い付きを書けばそれでいいみたいな
知性の欠片もない対応で笑いを取るのは止めてくれw
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>681
>糸島で各種楽浪土器が多量に出るのは、三雲と深江井牟田 唐津からは出ない
壱岐から渡海後呼子あたりで寄港休憩して、沿岸水行で深江、三雲に行くのがルート
魏使らは「詔書や金印や安全に卑弥呼に届ける」事が絶対的な必要条件であり、
渡海はそれしかない限り避けるもの。 >>705
私は畿内説
日本人であることはすでに答えてある >>706
私は畿内説で
話題の投稿は私がコメしたものと先ほど話してある >>693
奥山じゃない人に奥山奥山呼びかけても意味なし
証拠は出せないってことで、いいんだな?
か、お前のインチキというわけだ >>708
マツロ国に立ち寄ったと記述してあるぞ、コロコロ二択チョン >>712
証拠は?根拠は?
この決まり文句が奥山じゃなかったら、誰が奥山なんだよ >>682
>魏志倭人伝にはマツロ国に立ち寄った記述があるんだよ
>畿内説は知らないかもしれないが
また捏造している
>>262を再掲
>1.伊都国に向かう前にわざわざ末盧国まで遠回りする理由
>安全に着岸できる、マツロ国の視察、食料調達
博多港の方が安全
一日の航海で食料調達の必要はない
伊都国に向かう方が距離も短く確実に着ける分、より安全
ただのその場の思いつきなんて、すぐに否定されて終わりだ
>2.末盧国の官名が記載されていない理由
>田舎だから置いてない
国である以上は代表がいるのだし、その名前がないのは1.の末盧国の視察と矛盾するだろう
末盧国より小国の不彌國にも官名記載があるのに田舎だからは通らない
そもそも末盧国は4千戸で北部九州では奴国に次ぐ二番目の大国だ
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戸。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
>3.一大率の管轄外で倭国の地を踏む正当性の説明
>魏の使いが寄ると言えば逆らえない
そんなこと、どこにも書いてないだろ こういうのをでっち上げの捏造って言うんだよ
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? 万二千里に根拠なし
言い換えると1万2千里で示される位置に邪馬台国はなし >>705
近畿説
千里法の1寸だった。
で1/10寸刻み
欠点が多いが使った。
また過去の文献がベースなんで
それぞれの一里が可変する。 >>687
>直線距離だ!(測量しなきゃ出てこない)と舌の根も乾かないうちに、測量してない!と言い出す
また嘘を書いてる
完全に病気だな
というか民族的な宿痾というべきか?
>>291を再掲
測れるか測れないかは、史書を書く人には実は関係ないんだ
史書を書く人は、手元にある情報だけで「二点間距離として」距離を撰述することになる
そうやって書かれたのが三国志であり魏志倭人伝なんだよ
渡海の距離は短里で測ったものじゃないんだよね?
だって測れないんだから? これは確認
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?
息をするように嘘をつく辺りでお里は知れてるんだがなw 万二千里は畿内説の致命傷だもんな
根拠なんて考えずに否定するしかないよな >>719
測量しなきゃ直線距離は出ないんだよ
レクチャーした途端に、測量してない!とコロコロしたよな?二択チョン >>710
お前はしゃしゃり出て来る必要ないって言ってるだろ
>>713みたいなのを野放しにしていいことはどこにもないんだよ
というか、お前キウスか? >自郡至女王國 萬二千餘里
は女王国の上陸地点までの距離
そこに邪馬台国が無いのは当たり前
邪馬台国はそこからさらに水行20日、
さらに水行10日と陸行一月でやっとつける場所にある >>717
近畿説
過去の文献からの引用
自郡至女王國萬二千餘里
女王國であり
邪馬壹國,女王之所都とは書いていない。 >>714
>証拠は?根拠は?
>この決まり文句が奥山じゃなかったら、誰が奥山なんだよ
あんたが泥棒して逃げりゃ、店員でも警官でも
誰だって「ドロボー」っていうよ >>713
>マツロ国に立ち寄ったと記述してあるぞ、コロコロ二択チョン
それは地誌記事だって、何度も教えてるだろ?
末盧国がどこにあってどんな国かが書いてあるだけで、立ち寄ったなんてどこにも書いてない
末盧国の官名がない理由も説明できないくせにw
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>722
君のコメントにレスしたもの
君は何かこのスレの参加者に対して特権的に支持できる立場なのか? >>683
それが露骨な詐欺なんだよ
「九州説はコロコロだよ」と誹謗してるだろ
これは九州説が右顧左眄してるとか
追及を躱そうとして言を左右してるって意味の非難だからね
それを特異な主張を堅持してる人を例に持ってきて
「九州説はコロコロだよ」と自己弁護しようとしてるってことは
ニセ証拠で九州説を陥れようとしてるってことなのさ
これは大和説がインチキでサギした証拠なんだよ >>721
>測量しなきゃ直線距離は出ないんだよ
>レクチャーした途端に、測量してない!とコロコロしたよな?二択チョン
このスレ内のことなんだから、読み返せばすぐバレる嘘をよく平気でつけるよな
さすが、嘘をついて騙した人がエライって文化の人は、日本人とは違うわ
イエスノーすら答えられないチョン君w
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>728
>>713みたいなのを野放しにしていいことはどこにもないんだよ
これをよく味わって読んでくれ
「私は畿内説だが短里を用いていても何の不都合もない」
こんなことを言っているのに、畿内説とはこれ如何に?ってとこだぞ
これ、かなりバカな九州説のなりすましでよくある言い回しだ 高倉健みたいな人が日本人で誇りに思えるが
>>731が日本人なのは失望でしかない >>732
実際に何の不都合もない
なにか不都合があるのか? >>692
古田第1書での紹介では、
翻、能く歩行す。日に二百里なる可し。(呉志十二、裴松之之所引呉書)
とあり、
長里では87km位であり、これは全く無理であり、
短里では15km余り位であり、可能。
しかし、これは、呉志でも短里が使われていた事の証拠になるし、
5世紀の裴松之も、3世紀には短里が使われていた事を証言した事になるね。
はい、「短里はなかった」とする大和説学者らが、また敗北しました。 >>735
プルタぺーテン
短里はない事が証明。
変動する里はある。 >>723
違う違う、万二千余里というのは、帯方郡からの直線距離であって、行程距離では無い。 >>705
完全に狂気をまとっているように見える
東大理系博士号自称のお前がな
まあ、踊り続けてくれ
大和説のバカさ加減の広報活動第一人者の一人だ
で、お前は、
どこの大学を卒業して、東大のどこの学部の何学科の大学院に入学したのかい?、
違うのか?、担当教師や教授らの名前が知りたいわ
yes, no で簡単に答えられるだろ? >>737
魏志倭人伝の距離、例えば釜山と対馬の最短距離が1000余里
これが読解する土台となる
それが適当な数字だと否定して自説を語るのはおかしい >>736
算数できるか?奥山
7百里を700kmとする
700km÷7日÷10時間=10km/h
寝るときは陸にあがったとしても、時速10キロ
ランニング程度のスピードだ >>738
直線距離だろうな。
1里110m位
魏略
『翰苑』巻30の逸文に、倭人の出自について
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也 >>738
だからどうやって測るんだよ
畿内説は根拠を述べない >>740
ならないよ。
1里は何メートル?
プルタぺーテンも自説。 >>707
>あのさあ、可也山は伊都国のランドマークって書いてあるだろ?
可也山の場所が分かれば、伊都国の場所が分かるんだよ
直接見える必要がある、なんていう条件はない
東大理系博士号自称男は、山々の後方にある「見えない町」の位置を言い当てる事の、
困難さを、経験した事がないんだな?。
いずれにしても、町そのものが見えない限り、その町の位置など判るものではない。 >>743
東夷伝冒頭の書経禹貢篇の方万里は観念的な里数
筑後チョンボは学習能力がない >>738
>>742
直線距離でどこまでの距離を表わしているのか? >>746
観念的な距離に、道のりも直線距離もないだろ
アホだな、奥山 >>744
もう少し考えをまとめてからコメして欲しい >>748
観念的な方万里の距離に道のりなどない
チョンビー筑後 >>734
>実際に何の不都合もない
>なにか不都合があるのか?
正直、君が畿内説を名乗っていることには失望してるよ
ここのテンプレぐらいは読んで理解しているかい?
短里の存在は全く根拠がなく明確に否定されている
明確に否定されているものを「不都合もないから、
あってもかまわない」とするのは学問的な態度ではない
ここは学問板、日本史のスレなんだよ
悪意を持って荒らしに来る人間の遊びに来るところではないんだ
私が「渡土提知らずの捏造君」読んでいる人間が、学問的に意味のある書き込みをしているのを>>734は見たことがあるかい
一度もないだろ?
いじめは黙認してた人も同罪とかいうけど、
荒らしを黙認するのもよいことではないと
何度も言っているんだがな だいたい雑多九州作り話というのは
漢代の福岡市を中心とした豊富な舶載遺物を利用して
作り話でその外側に邪馬台国をもっていこうという盗人根性の作り話 >>750
観念的な距離なのに、なんで7千とか千とか百とか、具体的な数字が出てくる設定なんだ?奥山
観念的な1里と実測した1里は違うのか?奥山 >>754
スレどころか板の趣旨に反する荒らしは、どこでもいやがられるさ >>751
学問的な意味の「君の不都合」を語ってもらいたい >>749
勝手な定義
>>例えば釜山と対馬の最短距離が1000余里
これが読解する土台となる。
と書かれても答えようがないから即答しただけ。 >>753
観念的な方万里に対しての観念的な東夷の国が方四千里の韓や周旋五千里の倭
百里などは少し行ったところ >>757
落ち着いて考えをまとめてからレスしてもらって構わない >>760
釜山と対馬の最短距離が1000余里
これが読解する土台となるとか
こういう勝手な定義はなし、ならいいがね? 万二千余里が帯方郡から女王国(倭国)までの距離でなく
邪馬台国までの距離だとしたらそれは北部九州になるから畿内説にとっての不都合となるのかもしれない
しかし邪馬台国までの距離とは書いていない
それは女王国までの距離
女王国・倭国は魏志倭人伝に何度も出てくるが、邪馬台国は一度しか出てこない
それが女王の都の地誌を記述する箇所 >>756
君は不都合かどうかで学問的な正否を判断するのかい?
短里という単位が存在しないことは、縷々説明しているし、一般的な短里の否定に抵触しないように九州説がひねり出した「百里刻みなら妥当」という逃げも、このスレ内できちんと具体的な数字や九州説側が作るべき図まで明示して否定している
正しくないことに対して、不都合かどうかを、判断基準にするのが、そもそもおかしいって理解してもらえないのかな?
私が失望していると書くのは、この点だぞ
で、私が「渡土堤知らずの捏造君」と呼んでいる人が、学問的に意味のあることを書いているのを見たことがあるかい?
繰り返すがここは学問板のスレなんだよ >>761
それは定義でも何でもない 魏志倭人伝に書かれていること
私たちはそれを基礎にして初めて議論できる >>763
私は最初から不都合などないと言っている
君も不都合が無いのなら議論は始まらない >>764
魏志倭人伝に
釜山とは書いていない。
プルタぺーテン 距離は観念的、方角は誤り、
要するに、魏志倭人伝の記述はガン無視しましょうと畿内説は言ってるようだな >>765
「不都合のあるなし」を、重要視するのがおかしい、というのは理解されないんだね
私は君に触らないようにするよ
できればそちらも無関係でいてくれると嬉しい >>766
それは揚げ足取り
今は行程の距離が焦点
私はプルタなんとかではない >>768
そちらから議論を始めておいてその言い草はない
君は議論するに値しない
なぜ畿内性を代表するような言動をとっているのかわからない >>769
プルタぺーテンではないのだな?
そもそも、釜山なのか? >>767
なぜなら陳寿の地理的世界観では倭が中国の最南端の風習と近いと考えているから
「所有無與儋耳朱崖同」 >>772
突然、なにを言っているのか?
と叱りつけたいところだが
君の言わんとしているのは狗邪韓國が釜山なのかということだと思う
私はそう思う >>773
会稽東治の東を思い出せよ
古代九州に縄文文化が残っていても、なんの不思議はない
今でも鹿児島人は毛深くて、縄文チックだしな、西郷隆盛とか >>773
それは倭国とは関係ない南部九州から南西諸島の倭地についての記述
台湾のすぐ東、ハワイと同じくらいの緯度が含まれる >>770
君は5ちゃんねるに書き込みに来るにはナイーブすぎるんだと思うよ
ここには、悪意がモチベーションで書き込みに来る九州説が多数いるんだから
こちらは君と議論していたつもりは端からないよ
そして、君と学問的な議論はできないと今回のやり取りで判断もした
これで後は君には触らないし応答もしないよ
君も関わらずにいてくれると嬉しい >>777
邪馬台国と関係ない話で荒らすのはいつも畿内説だぞ
奥山とか二択チョンとかな
同一人かもしかれんが >>775
だから陳寿の地理観では會稽東冶之東あたりだと考えている
その位置を韓と倭で観念的に配置した大きさが方四千里の韓や周旋五千里(=1辺)の倭
そして倭人の中國と同じ風習が「輒灼骨而卜 以占吉凶」(卜骨)
本州の瀬戸内〜関東に弥生中期までに拡がっている
九州は無し >>774
>>叱りつけたいところだが?
さらに意味不明
当方
狗邪韓國が釜山とは断定できない >>776
東夷伝序文
「夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。
故に其の國を撰次して、其の同異を列し、以て前史の所未だ備へざるを接す。」
倭国と関係ない風俗なんか書くかご都合主義 >>781
私はプルタなんとかとは全く関係ないということ
では、釜山でなくどこだと比定しているのか? >>780
また畿内説が適当こいてる
牟田寄遺跡、西蒲池池淵遺跡から出てるぞ
帯方郡の東南だしな >>782
魏志倭人伝は倭人の居住する地域について書かれている
それは倭国そして倭国以外の倭人が住んでいる地域すなわち狗奴国と南西諸島
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
女王国の東に渡海千余里で倭種の国があるとしているが、これは四国のこと魏と交流が無いので倭種とのみ記述されている つまり倭人の風習である卜骨は弥生前期に出雲、大和、伊予に伝播し、中期に壱岐や関東まで拡がった
その後百年以上遅れて異人居留地区である有明海北岸に2カ所だけ出る >>786
南西諸島で卜骨は出とらん
「倭種」はつまり倭国と同じ風習をもつ民族
卜骨は弥生中期に関東まで拡がり、
弥生時代の黥面土器は瀬戸内と東海に多い >>787
倭地について記述してある部分で
>其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶
骨を焼いて吉凶を占うとあるがこの卜骨が南部九州から南西諸島からは発掘されていないという
その理由は私は解らない >>788
倭国に住む人も倭地に住む人も倭人
同じように中国と友好を結ぶ国でこれらを陳寿は差別していない
むしろ呉の背後に展開している倭地の住人を重要な拠点として重く見ている感がある
国交のない倭種の人々の扱いが軽くなるのはやむを得ない >>778
証拠のないことを空想して言いふらすのはデマ荒らしだな >>783
プルタぺーテンのことね
そこは謝るよ。スマン。
断定できる遺跡、海流とか考察中だが
巨済島かな >>791
陳寿の地理的世界観では呉の背後に展開しているのが倭国
だから曹真が朝貢させた蜀の西の大月氏と司馬懿の功績が並ぶ
東夷が西域並みに大きく表現されている >>790
>参問倭地
南西諸島の離島部分は魏使が実地検分したものでなく「参問」して記述したのだろう
それが
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
の部分
倭地の記述部分でも倭国についての記述が混入している部分もあると思う
>収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
以降は倭国についての記述だと思う >>795
ご都合解釈だと倭国で何を産するか何も書いてないことになる >>791
そこはあくまで倭地
陳寿は倭国と倭地を厳密に区別して書いている >>797
ご説の通り
倭国についてはあまり書かれていない このように自分に都合よく考える民族なので博多の勢力は南側とは交流できなかった >>803
私は博多の勢力なるものと何の関係もない
君の言う南側とは何か? >>804
お前が関係あるわけがない
3世紀に博多の支配層が密に交流しているのは畿内
九州内とは無い >>788
「倭」という概念がまずあって、
倭の範囲(概念)にある陸地が倭地
倭の人が倭人
倭の国が倭國
倭種の人も、当然倭人 >>805
>「このように自分に都合よく考える民族」
とは誰のどんな発言を指しているのか? >>806
「倭」という概念を、朝見した倭国に実際に訪問してわかったことを倭人伝に書いている
知らんところばっかり書いたら山海経になってしまう >>806
倭国、倭地という言葉に着目して魏志倭人伝にもう一度目を通して欲しい >>811
自分に都合よく考えている者は皆そう言う >>812
そうして人を非難するのなら、
どの部分が自分に都合よく考えているのかを指摘してもらおう >>808
山海経もベースになっているね。
しかし、卑弥呼に謁見したのか?
卑弥呼に入墨あるのか? >>815
こういう子供の答えは、言い合いバトルの片割れを想起させる
さっき、私にはもうコメントしないとか言わなかったか? >>792
イエスノーで答えろwwwwwwwと発狂してる証拠レスが残ってるじゃないか >>819
ほう、君は少なくともジジイという年齢ではないのか?
ウィークデーに何をしてる? >>822
ジジイは文章読解力や記憶力が雑だから区別できていない >>823
そう言う短文言い返しをする人で畿内説を語る人は
君しかいない >>824
この畿内説スレには畿内説者がたいてい数人が書いている
そして俺は昨日はほとんど書かなかったし、お前が言うコメントしないと言った人は別の者
お前はもうそれを区別できない >>826
それでは、今日はいつから参加していたのか? >>808
>知らんところばっかり書いたら山海経になってしまう
侏儒國、裸國、K歯國辺りを実在の国の見聞録と思っている人がいるのが不思議でしょうがない
私は>>777以降、>>806とこれしか書いてないよ?
私は >>828
>>803を書いたのは君ではないのか? >>780
>だから陳寿の地理観では會稽東冶之東あたりだと考えている・・・
陳寿の「女王國の位置推定」文は「会稽東治之東」だから、
この大和説男はバツ。 >>828
>>786に対しての倭人伝の風俗記事について話している
お前がどれを書こうが、それ↑に沿って書いている 君の>>828の後段部分は
私の>>827へのレスではないのか? >>836
君の最後のコメントの番号を言ってみてくれ >>837
>>831
いちいち聞かないで流れで判断しろよ >>838
このスレで自分の発言した一つ前のレス番を言うのがそんなに難しいことか? >>839
だから>>831と書いてやっただろ
そもそも俺はコメントしないとかのやり取りあたりは読んでない 803、805
807、810
811、812
813、815
816、819
824、826
行頭が私の発言
それに対する君のレス
>>826は私の>>824へのレス
ごまかせないぞ >阿波が邪馬台国なら、土佐が狗奴国かw
違う。
土佐は、「投馬国」だ。
阿波は、北部「邪馬臺国(粟国」と南部「狗奴国(長国」からなる。 よく覚えておけ。 @阿波 おい、畿内説よ。 古墳時代の畿内第V様式圏にどんな集落遺跡があると言うんだ? @阿波 本来なら、ワッチョイつきにすればいいんだが、それやると一番困るのが奥山だから、絶対にやらないだろうな おい、畿内説よ。 古墳時代の畿内第V様式圏に集落遺跡が無いのか?
無ければ大和朝廷に繋がらんぞ。 いいのか @阿波 >>846
私のリスト通りにたどって見ればいい
君の発言
>>803の
>このように自分に都合よく考える民族なので博多の勢力は南側とは交流できなかった
にたどり着くから おい、畿内説よ。 古墳時代の畿内第V様式圏に集落遺跡が無いのか?
無ければ大和朝廷に繋がらんぞ。 いいのか @阿波 >>853
だから何もごまかしてない
お前とは前にも話したからお前の考えはわかっている >>845
>古墳時代の畿内第V様式圏
>>777の(学問担当)だが、マジレスするとそんなものはないw
畿内第V様式土器は庄内式の前の段階だから、まだ古墳時代には入っていないよ
まあ、これでは愛想がないから
「弥生時代後期における近畿北部系土器の展開」
桐井理揮
より引用
「本論で対象とする地域は、弥生時代後期において畿内第X様式を共有する範囲およびその周縁部とする。」
https://imgur.com/CtjTFSJ
この範囲の遺跡が泡のご所望のものだと思うよ
私がこのスレで一番長文を書いてるんだがなw >>854
リストをたどって自分のヘマさ加減を確認したか >>856
辿らなくても最初からお前の都合がいい解釈にレスしているのだからわかっている >>857
そんな言い訳は通用しない
スレに記録が残っている 畿内はヤマト政権の拠点だったのだから遺跡がでるのは当たり前なのに、なぜか邪馬台国に結びつけようとするんだよな >>855
>畿内第V様式土器は庄内式の前の段階だから、まだ古墳時代には入っていないよ
そんなことは、百も承知だよ。
テンプレで、奥山が邪馬台国の範囲を、畿内第V様式土器が分布する範囲と言うから、「古墳時代の畿内第V様式圏」としたまで。 @阿波 >>858
言い訳もごまかしもしてない、そのまま
お前はお前のところから倭人の風習が出ないから
それを狗奴国や南西諸島の風俗にしたいだけのこと >>859
>畿内はヤマト政権の拠点だったのだから遺跡がでるのは当たり前なのに
どんな遺跡が出るんだ? @阿波 興味深いのは君と対話をしてからスレの参加者が激減していること
君と海南島事情を語り合ったのは君の成りすましだとしても
あとはほんの数人
目立つのはバツ付け係と阿波おどり
私はそれらも君の成りすましと疑っている >>860
>そんなことは、百も承知だよ。
そうか、それはよかった
で、ほしい情報は手に入ったのか? >>864
畿内説が逃げて回答がない。
「弥生時代後期において畿内第X様式を共有する範囲およびその周縁部」が、奈良時代へと時代が下ったとき、
どういう集落遺跡があったんだ? 無ければ、大和朝廷に繋がらないぞ。 それでもいいのか? @阿波 >>863
バツ付け係と阿波おどりと俺が同一人物w
お前も竹島どろぼう反日有害活動員と同じ被害妄想の精神疾患だ >>868
どうして>>865に答えない
煙幕が来たからもういいだろうということか? >>869
お前は倭人の風習である卜骨を狗奴国の風習にしたい
それは南九州や南西諸島だと言っている
つまりお前は博多の南〜南九州の間を倭国にしたいということだ >>867
>畿内説が逃げて回答がない
え?
画像開けないの?
弥生時代後期における近畿北部系土器の展開
桐井理揮
「本論で対象とする地域は、弥生時代後期において畿内第X様式を共有する範囲およびその周縁部とする。」
https://imgur.com/CtjTFSJ >>870
そんな姑息な思考はしない
卜骨についてはなぜ倭地から出土しないのか判らないと言ってきた >>867
>>855の図の遺跡は古墳時代までだいたい存続してるからこれで十分だろ? >>873
お前>>786で
>女王国の東に渡海千余里で倭種の国があるとしているが、これは四国のこと
と書いてるだろが まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>875
それと「姑息な思考」と何か関係があるのか? 自分の考えを簡潔に判りやすく相手に伝えられないと人生で損をするよ! >>878
姑息な思考はお前が自分で言ったんだろ
俺はお前は>>870の倭国だと書いた >>874
>>>855の図の遺跡は古墳時代までだいたい存続してるからこれで十分だろ?
で、奈良時代の王都集落遺跡はどれなんだ? @阿波 >>876
見られた?
なら、よかった
私見だけど、これが邪馬台国の中核部分でいいと思う
邪馬台国七万戸という場合は、共通土器使用範囲が広がる庄内末〜布留式初期の土器共有圏 >>882
で、奈良時代の王都集落遺跡はどれなんだ? @阿波 >>881
えーと、泡さん?
奈良時代の王都なら、平城京では? >>880
>>875で
> お前>>786で
> >女王国の東に渡海千余里で倭種の国があるとしているが、これは四国のこと
> と書いてるだろが
これはどういう意味? >>884
すまんすまん。 藤原京だな。
で、古墳時代の王都集落遺跡はどれなんだ? @阿波 言い合いバトル君は、誰かに何かを説明するような仕事には向いていない >>874
>>>855の図の遺跡は古墳時代までだいたい存続してるからこれで十分だろ?
で、古墳時代の王都集落遺跡はどれなんだ? @阿波 >>888
言った本人が意味不明なら言われた方は判るわけがない
なぜ、>>875で
> お前>>786で
> >女王国の東に渡海千余里で倭種の国があるとしているが、これは四国のこと
> と書いてるだろが
と書いたのか?
それと「姑息な思考」と何か関係があるのか?
ということ >>886
定説通りの説明になるけど
古墳時代に入る直前までは唐古鍵がヤマトの中心集落で、青銅製品分配の中心でもあった
古墳時代の最初、古墳時代に入る時期の王都が纏向遺跡
このスレの対象年代がこれ
その後は、オオキミの代替わりごとにヤマトとカワチの各所を移動する >>871
ありがとう
布留ゼロ式の分布図よろしくお願いします >>882
布留ゼロ式の分布図よろしくお願いします >>890
だからお前の倭国は四国の西が女王国なんだろ
倭人の風習である卜骨が出ないから南の狗奴国の風習にしよう
南九州や南西諸島の風習にしとこうと
投馬國がじゃまだから半島にしとこうという北部九州作り話と同じ考え方 >>890
ま、私が推測すれば、
君は、
>渡海千余里で倭種の国があるとしているが、これは四国のこと
という私の言明に賛成できない
それで、君は傷ついた
人を平気で傷つける発言をするのは姑息だ
という論理展開かな?
私の言明に君は傷つく必要がない
君には賛成も反対も自由にできる機会がある
このスレは自由に自分の考え方を述べ批判を受ける場
あなたと違う考え方をするからと言って「姑息」と非難するのは当たらない >>891
それさ、地方豪族の勢力の変遷じゃないの
辺鄙な飛鳥に遷都すること理由は? >>892
何でもクレクレはよくない
それに、この辺りは時系列で土器が変わっていくので線引きがむつかしい
自分でこれを読んでみて
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
田中元浩 2005 >>894
魏志倭人伝を読む中国の人々は女王国(倭国)に上陸する位置は明確に把握できる
その他の説明はそこが起点となる
狗奴国や倭地、それから倭種の地域、さらにその他侏儒国・裸国・黒歯国は倭人でも倭種でもないが列記されている
これは倭人の住む地域から遠ざかる地域まで魏で把握しているというアピール >>891
>その後は、オオキミの代替わりごとにヤマトとカワチの各所を移動する
そのヤマトとカワチの各所を移動した王都集落遺跡はなんという遺跡なんだ?
纏向遺跡の、後継王都集落遺跡はなんという集落遺跡なんだ? @阿波 >>894の後段に対して
>倭人の風習である卜骨が出ないから南の狗奴国の風習にしよう
>南九州や南西諸島の風習にしとこう
さっきもレスしたがそういう姑息なことは全く考えていない >>898
倭人伝の風習や倭地の産物記事は倭国の記事
中国に朝見してきた倭国がどういう国かを紹介している >>894
魏志倭人伝を尊重する九州説と、こじつけ作り話の畿内説を一緒にするなよ >>900
姑息かどうかはお前が言い出したことだからしらん >その後は、オオキミの代替わりごとにヤマトとカワチの各所を移動する
そのヤマトとカワチの各所を移動した王都集落遺跡はなんという遺跡なんだ?
纏向遺跡の、後継王都集落遺跡はなんという集落遺跡なんだ? @阿波 >>896
唐古鍵から纏向への移動は、わざわざ土木工事から始めているから、国家意思(は言い過ぎだけど)による中心の移動
代替わりごとに遷都するのは、母系の勢力争いの観点が確かに入っている
飛鳥への移動は、半島情勢がきな臭くなってきたから、防衛しやすい地域に引っ込んだという側面も大きい
この辺りまではほぼ定説 >>901
狗奴国・南西諸島も歴史的にそれまで何度も中国に朝見してきたと書かれてある
>男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
は狗奴国書かれている部分の最初にある
陳寿は倭国も倭地も平等に扱っている >>902
魏志倭人伝の行程解釈だけの雑多九州作り話と
日本の出土状況との一致で考察した学者の通説畿内説だろ >>902
君が九州説だとしたら
畿内説に欠陥のある説があったり
分裂したりしそうなら喜ぶべきじゃないのか? >>903
私は、
>>894にある
>倭人の風習である卜骨が出ないから南の狗奴国の風習にしよう
>南九州や南西諸島の風習にしとこう
という考え方を姑息と言っている >>891
>古墳時代の最初、古墳時代に入る時期の王都が纏向遺跡
答えに窮しているようだから、話を戻そう。
その纏向遺跡なんだが、なんで王都と言えるんだ? @阿波 >>905
で、飛鳥の防衛機能の発掘物は?
記紀もいいけどさ、内紛も飛鳥であるしさ 畿内説への宿題。
@そのヤマトとカワチの各所を移動した王都集落遺跡はなんという遺跡なんだ?
纏向遺跡の、後継王都集落遺跡はなんという集落遺跡なんだ? @阿波
Aその纏向遺跡なんだが、なんで王都と言えるんだ? @阿波 >>902
魏志倭人伝を尊重する九州説
末盧國,伊都國の位置関係によるが
現糸島市あたりを
伊都国とする説は除くでいいかい? >>907
遺跡も胡散臭さ満載の遺跡か?
そもそも、もしかしたらヤマト政権の遺跡で邪馬台国とは関係ないかも?と自問する学術的自制心がないだろ?畿内説には >>913
>飛鳥は百済人の移住地
倭国(阿波)王権が住まわせたんだけどな。 @阿波 >>899
崇神 磯城瑞籬宮
垂仁 纒向珠城宮
景行 纒向日代宮
成務 志賀高穴穂宮
仲哀 穴門豊浦宮・筑紫橿日宮
応神 軽島豊明宮
この最初の三代までは纏向の王と見てよい
それ以降になると、王都集落は建設されず、オオキミのいるところが宮処ということになる
妻問、通い婚で母の家で皇子が育ち、そのまま、そこが王宮になる場合もありうる
>>911
飛鳥の居館配置では、蘇我氏の邸宅が飛鳥の入口を押さえ、その後ろの天皇の宮処を守る配置になっているところまでは、発掘で明らかになってるよ >>914
呼子から見たら東南だぞ
だから懸命に畿内説が否定しようとしてる 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>916
もちろん、本国「阿波」にも百済人を保護して、多くの飛鳥寺院の建立指せている。
おそらく、仏教や習字も教えさせたんだろう。 @阿波 >>917
その纏向遺跡なんだが、なんで王都と言えるんだ? @阿波 >>918
>呼子から見たら東南だぞ
呼子から見たら糸島の三雲遺跡は真東だ 周回遅れでゴメン
あぶみ
鎧、鐙
携帯で2つ出てきた
パソコンでは鐙 >>918
呼子から見たら?
東だよ
東南陸行五百里だよ。
懸命に現糸島市あたりを伊都国とする説だよ。 >>917
>この最初の三代までは纏向の王と見てよい
じゃあ、
成務 志賀高穴穂宮
仲哀 穴門豊浦宮・筑紫橿日宮
応神 軽島豊明宮
の三代の王都集落遺跡はどこなんだ? @阿波 >>912
>Aその纏向遺跡なんだが、なんで王都と言えるんだ?
まずデカい それまでの各地の中心集落遺跡よりも格段に規模が大きい
文献(記紀)上、王都と記録されている
色々な文物の分布、配布の中心と考えられる
そこに、発掘物の年代が3世紀
その年代の大陸由来のものが出土する
まで合わせると、魏志倭人伝に記された倭国の王都がここ
という想定が一番無理がない >>909
お前がお前を姑息だというのは否定しない >>929
>まずデカい それまでの各地の中心集落遺跡よりも格段に規模が大きい
調査範囲が広いだけだろ? そんなのなんの価値もない。 @阿波 >>930
関係ないですけど、畿内説支持の在日です。
あなたの様な方が半日を煽るのです。 >>929
>文献(記紀)上、王都と記録されている
奈良纏向とは記録されていない。 奈良纏向は、後付け地名である。 @阿波 >>929
>色々な文物の分布、配布の中心と考えられる
奈良発祥と認められるものは存在しない。 よって、配布の中心ではない。
倭国(阿波)から配布されたものばかりである。 @阿波 >>919
私も久努、狗奴國推しなんだけど、現存地名としての読みが「くど」なんだよな
久努國造はWikipediaでは「くののくにのみやつこ」と読ませているけれど、本当はどうなのか分からない >>917
>それ以降になると、王都集落は建設されず、オオキミのいるところが宮処ということになる
お前の勝手自説は聞きたくない。 その根拠は? @阿波 >>931
私のどこが姑息なのか?
言ってみなさい >>932
>調査範囲が広いだけだろ?
点々と発掘が進むから最初はそれぞれに遺跡名がついていたのだけれど、それが「全部つながった1つの大きな遺跡」だと分かったから大騒ぎになったんだよ
発掘範囲の話じゃないんだ
北側では遺跡の端を確認する発掘も行われているよ >>940
姑息と言い出したのはお前だから上でも知らんと書いた
お前が自分で言うぶんには否定はしない そもそも『魏志倭人伝』すら読んでない奴が多い
(1)
「邪馬台国の東に海があって、その先に別の倭種の国がある」と書かれておる
九州→海→纏向
(2)
陳寿の使った現資料には「邪馬台国は伊都国のすぐ南」とある
(1)と(2)で分かるように理系の俺からしたら、そもそも謎が存在しない
畿内論者ってのは反知性主義者か何かか? >>934
>奈良纏向とは記録されていない
つ 纒向珠城宮 纒向日代宮
ヤマト王権の王都なんだから、奈良纏向だろ?
記録、あるよ? 魏志倭人伝をしっかり読めば畿内説は馬鹿の妄想
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
謎の水行陸行の箇所は、魏に朝貢に来た倭人から得た最新情報であり、その起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
図解:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日数で距離を示した(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 >>933
反日だろ
まぁ、チョ??連呼の人がいる限り反日は続くな、
韓国も悪いが、日本でこういう奴がいるのは恥ずかしい >>944
陳寿の使った現資料には「邪馬台国は伊都国のすぐ南」とある
なんという資料だよ? >>928
>三代の王都集落遺跡はどこなんだ?
この辺は元々集落があるなかの居館として王宮がある時代
ググれば候補地、伝承地が出て来るよ
まあ、発掘の裏付けは取れてないのが普通だけどね >>946
私は自分のことを姑息などと書いたことが無いし、書く理由もない
君は私がそんなことをしそうだと判断する根拠があるのか? >>948
チョンボとは、最近の例だと渡土堤から輪鐙が出たというような
「うっかりして間違えること。注意不足で犯す失敗。」
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%9C
森先生がこいてしまわれたのもチョンボ >>952
直線距離や!でも測ってないんや!概念的な距離や!だろ >>951
お前を姑息と書いたことがないのに根拠もなにもない
お前が自分で言い出したこと >>944
>九州→海→纏向
この写真、どこだか分かる?
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg
これ、関門海峡を沖合いから見たところ
その部分、魏志倭人伝には渡海千里と書いてあるけど、これは循海岸水行になるんだよ
だから君の論立ては破綻している >>954
自分で言いだしたのは他の人へ発言について
その発言者は君か? >>955
大分から四国に渡れるぞ
歴史好きには馴染みのある壇ノ浦だ >>956
お前はいったい何をしにここに来てるんだ? >>956
言われて悔しかったら
以後姑息な発言などしないことだ >>958
普通にこのスレの話題に参加しているだけ >>918
>呼子から見たら東南だぞ
こういうあからさまな嘘をつくから、九州説はバカにされる
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
この図を出された頃から、海は短里じゃないと言うようになってるw .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. このあたりの定型のさまざま説も言い合いバトル氏の作品だと思う >>949
横からだけど、たぶんこれ
翰苑の廣志逸文
廣志曰。倿國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、百女国以北、其戸數道里、可得略載。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安倿西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖伊耶國也。
もちろん、陳寿の現資料ではないw もうこのスレも終わりが近くなってきた
新しいスレ作成の準備を始めるタイミングとなってきたと思う
もしスレ主が今日の言い合いバトル氏の行状を見たなら、ひとこと言及があってしかるべきだと思う
そうでないなら、その理由が私には判らない >>966
>水路は最低が千里だぞ
この書き方が既に姑息(最近の流行り言葉w)
「渡海」は、最低も最大もなく
「一律で千里」なんだよ
つまり測ってないし、短里ではもちろんない >>967
畿内説は測った測ったと熱心だったじゃないか もっと具体的に言えばこの言い合いバトル氏はあたかも自分がスレ主であるかのように振舞っている節がある
違うのならそのことを言明すべき
一般の参加者に指示したり排除したりするような迷惑行為を行っている現状は改善すべきと考える >>941
>点々と発掘が進むから最初はそれぞれに遺跡名がついていたのだけれど、それが「全部つながった1つの大きな遺跡」だと分かったから大騒ぎになったんだよ
それは纏向遺跡が幸いしただけのこと。
鮎喰川下流域だって、同じことだ。 纏向みたいに継続的に発掘されてないだけ。
ただし、桜井市纏向学センターによると、纏向遺跡には明確な住居跡がないらしいがな。 @阿波 言い合いバトル氏は一人芝居で一日中バトルしてみたり、畿内説を主張しながら他説を機械のように繰り返すキャラも用いていわゆるスレ埋めをしているようにも見える
その意図がどこにあるのかは不明だが、単なる愉快犯では済ませられないと思う 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629105392/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>945
>つ 纒向珠城宮 纒向日代宮
奈良纏向とは記録されていない。 奈良纏向は、後付け地名である。 @阿波 >>945
>ヤマト王権の王都なんだから
お前の勝手自説は聞きたくない。 その根拠は? @阿波 >>950
>ググれば候補地、伝承地が出て来るよ
はっきり、ないと白状したらどうだ? わははははは @阿波 >>968
これが、渡土堤知らずの捏造君
そしてまた捏造しているw
自分が日本人がどうかの確認から、ひたすら逃げる「イエスノーの言えないチョン」
畿内説は(九州説が)測った測ったと(言っているが、当時は測量技術もなく、九州説のいうことは嘘ばかりだ)と熱心に言ってたんだよ
で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?
なぜ答えないんだ?
答えたら、死ぬのか?w >>964
倿國東南陸行五百里 至邪馬嘉國、百女国?
安倿西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖伊耶國也。
魏志と違うな。半島の関する記はないのですかね? >>977
空飛ぶ畿内説いわく
95 日本@名無史さん 2021/08/15(日) 10:11:40.99
>>92
>左上の東松浦半島は見えないらしいし、空でも飛ぶのか道のない場所を直進してるし、畿内説の頭の悪さがにじみ出てるよな
一部の九州説者が言うように当時の技術で三角測量が出来たなら
その直線は出せるんだぜ 橿原は日本書紀、古事記に登場する地名
神武天皇が都づくりをしたところ >>950
古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。
よって、奈良畿内に大和朝廷に繋がる元となるものが存在しない。 @阿波 >>980
>橿原は日本書紀、古事記に登場する地名
その橿原が、奈良だとどこにも書かれていない。 橿原も後付け地名である。 @阿波 橿原市のwikipediaには、「神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したという伝承に由来する」
とある
畝傍山は橿原市の街の中にある >>979
空飛ぶ畿内説というのが、私のつもりなら、
>>95は私の書き込みじゃないよ?w
本当に見分けがつかないんだなw
そういえば、三角関数を使わないのは三角測量じゃないとかいって、三角関数を使わない説明のコトバンクの引用URLを貼って、最後どうしようもなくなって逃げた九州説がいるんだが、
>>979はそいつが日本人だと思うかい?
できれば、yes,noで答えてくれるとうれしい >>983
その橿原も畝傍山も、奈良だとどこにも書かれていない。 橿原も畝傍山も後付け地名である。 @阿波 畝傍山は、天香久山、耳成山と並んで大和三山と呼ばれて万葉の歌に詠まれた地名 >>882
>見られた?なら、よかった
私見だけど、これが邪馬台国の中核部分でいいと思う
邪馬台国七万戸という場合は、共通土器使用範囲が広がる庄内末〜布留式初期の土器共有。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「庄内末〜布留式初期」は、筑紫が大和を50年位先行しているからでもバツ。 >>984
測量してるなんていう奴はバカだよな?二択チョン >>987
プルタぺーテン爺
魏志には筑紫も大和の記ない。 >>891
>・・・古墳時代の最初、古墳時代に入る時期の王都が纏向遺跡・・・
纏向は、九州倭國の東征毛人五十五國の中の、九州倭國の地方の市を監督する大倭職の、
九州倭國の扶養国の旧小国であったのだから、バツね。 >>929
>まずデカい それまでの各地の中心集落遺跡よりも格段に規模が大きい
弥生銀座よりもはるかに小さい。
>文献(記紀)上、王都と記録されている
記紀は倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるから、根拠にならない。
>色々な文物の分布、配布の中心と考えられる
九州倭國の伊都国の阿毎氏系の国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国であったから。
>そこに、発掘物の年代が3世紀
纏向の庄内1は3世紀末。
>その年代の大陸由来のものが出土する
九州倭國からの伝来物が中心である。
まで合わせると、魏志倭人伝に記された倭国の王都がここではない、
という想定が一番無理がない。 >>988
いや、どう見ても朝鮮系なのはお前だろ?
それに>>95の書き込みは、当時の算術書に測量の原理があるから
測量すれば直線距離は導出可能っていう正当な書き込みだぞ?
自分でも可能って言ってたのにw
ただ、空飛ぶルートって言いたいがために、忙しい魏使は
測量なんてしてられないニダーって逃げてたけどな、お前はw
で、結局は、道なり経路でも呼子起点というインチキをしても、
それでも百里刻みで短里で正しいってのが否定された訳だ
短里なんてないんだよww
そして短里頼みの九州説は全崩壊w
諦めろんw >>993
スレ主がテンプレ以外投稿してないと言う根拠は? このスレでは、渡土堤知らずの捏造君の「おかげ」で
「百里刻みの概数なら短里は正しい」という寝言がきっちり否定されました
その後、伊都国は糸島三雲遺跡群じゃないと言い出したのはご愛嬌ww
今の道路と基本にしてるから、それなりに通りやすい経路だ
https://i.imgur.com/VeFdAO9.jpg
千々賀・三雲間(末盧國・伊都國)が37キロ
https://i.imgur.com/7QhxmCH.jpg
三雲・比恵間(伊都国・奴國)が24キロ
>>129と同じ計算をすると
五百里が37キロ
百里が24キロ
五百里側を基準にすれば百里が7.4キロだから
伊都國・奴國間は324里、三百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
実際には37キロだから154里だな
二百里にも届かなくなるww おまけ
https://i.imgur.com/k1NTWpt.jpg
呼子・千々賀間は19キロ
これを入れたところで
呼子・三雲間が56キロ これが五百里
三雲・比恵間が24キロ これが百里
五百里側を基準にすれば百里が11.2キロになるが
それでも伊都國・奴國間は214里、二百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
呼子までプラスしても56キロだから233里にしかならない >>986
>畝傍山は、天香久山、耳成山と並んで大和三山と呼ばれて万葉の歌に詠まれた地名
それらは、8世紀に倭国(阿波)から遷都した後に名付けられた「阿波」の山。
初代神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 これだけ根拠をつけて長文投稿している人間を
「そう言う短文言い返しをする人」って認識してるのがおかしいんだけどな 文は人なり
選ぶ語彙や言い回しには癖が出るから、誰が書いたかは分かる人には分かるんだよ
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