邪馬台国畿内説 Part718
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>505
>畿内説は、どうしても北部九州から難波まで、水行30日の
北部九州から丹波竹野までをきっちり見たことあるけれど、
1日20キロ程度の移動でちょうどそれくらいでつくよ
1日20キロというのは、時速4キロ5時間程度で、
午前、午後で2〜3時間くらいずつの移動
距離を稼ごうと思えばもう少し進めるし、休みの日を入れても
計算に齟齬はない
瀬戸内でも距離は同じくらいだから、水行30日には問題ないぞ?w
水行30日がどうにもならないのは九州説だ
ひと頃は川の水行とかいうデタラメを一生懸命謳ってたけど、
さすがに諦めて、今は帯方郡から水行とか言い出してるが、
方角その他、無理がありまくりww >>536
>陳寿の使った原資料に「邪馬台国は伊都国のすぐ南」とある
それ、翰苑の廣志だろ?
あてになるものじゃないし、「陳寿の使った原資料」でもない
要するに、いつもの捏造 >>555
土佐日記だろー
地元民なら潮の満ち引き、地形等は詳しい >>556
その二点間距離とやらは、どうやって決めるんだ?
測量はしてないよな?
テキトーか?畿内説のように 中国の文献に書いてあるから卑弥呼が天皇だのいっちゃうバカらだからな >>558
>北部九州から丹波竹野までをきっちり見たことあるけれど、
1日20キロ程度の移動でちょうどそれくらいでつくよ
1日20キロというのは、時速4キロ5時間程度で、午前、午後で2〜3時間くらいずつの移動
距離を稼ごうと思えばもう少し進めるし、休みの日を入れても計算に齟齬はない
瀬戸内でも距離は同じくらいだから、水行30日には問題ないぞ?w・・・
大和説は、始めから、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>560
>土佐日記だろー
土佐日記がどうかしたのか? 土佐が瀬戸内海にあるとでも思ってるのか? @阿波 >>560
>地元民なら潮の満ち引き、地形等は詳しい
瀬戸内海を乗り継ぎで行けるようになるのはいつの時代だ?
現代でもなかなか出来んぞ、そんなこと。 あたま大丈夫か? @阿波 >>542
だから畿内説は纏向編年とか、布留ゼロ式とか、グダラグダラと時代を前倒しにする。とんでもない研究者が多い。 箸墓古墳が、布留式土器の時代であることはだいたいの人が認めるところ。
実際、布留式土器がいつ始まったかについては識者によって異なる。
邪馬台国畿内説の人は、3世紀終わり頃、280年くらいという人が多い。
しかし、畿内説の人でも350年頃と言う人もいる。
畿内説のいい加減さが良くわかる土器編年 >>1
テメーええ加減にせーよ
畿内説が誤解される。長々とテンプレを書くな!
畿内説で統一された論だけ載せれば良い。 >>548
庄内式でも、後期の物だから4世紀。
忘れたが、学者が指摘してた。
うろ覚えですまん、 >>570
まぁ、「前方後円墳」の元祖(萩原墳丘墓)が、「卑彌呼」以後なんだから、箸墓古墳は推して知るべし。 @阿波 >>558
吉備文化が畿内に入ってるのは周知でしょう。
だったら、畿内説では、吉備投馬国から纏向まで、水行10日、陸行一月でしょう。
よーく考えてみましょう。
理論構成できたら投稿くれよ!
アホの奥山の二の舞になるぞ^_^ >>561
>その二点間距離とやらは、どうやって決めるんだ?
>測量はしてないよな?
>テキトーか?畿内説のように
相変わらず理解してないな
「お前が何をどう言おうと」大陸史書の地誌記事は
直線方向の二点間距離なんだよ
情報があってもなくても、その体で書かれるし、読み人も
その理解で読む
で、測量していないことは確定
その点はお前のようなバカですら理解している
その上で、陳寿が書いているのは、陳寿の地理観に合うある意味
創作された数字なんだよ
その数字を、短里で読めば正しいとか、帯方郡から10日で
たどり着けるから正しいとか、もうね
バカ? としかww >>577
聞いてることに答えない(答えられない)畿内説 土器編年
最近の学者の流行か?
古代の土師器の分類もいいけどさーー
これと言った決めてあるの?
俺は土師器の土器編年なんて信用してない。 >>565
瀬戸内海を乗り継ぎ?
難所は陸路で
海で行ける所は海で
陸路との組み合わせ。 >>577
九州説も色々だから、しょうがないよ。
さて、畿内説の陸行一月をどこから、どこまでと思いますか?
航海より、謎解き難しいと思いますが、、
畿内説のどなたかが航海は1日20キロ時速3キロとか言ってましたが、、
陸行も同じ時速3キロとして一日20キロ
一月の中で20日陸行したら400キロ。
どう理解しますか、
九州説にも聞きたいが、
畿内説のスレゆえ敢えて畿内説に問います。 >>579
学者が勝手に定義を決めたみたいなもん
庄内3式出土?
勝山古墳、矢塚古墳、那珂八幡古墳、津古2号墳、川部1号墳 >>581
追記、
陸行一月は倭人伝の中で一番難しい課題です。
阿波説が唯一解けますが、、 >>578
>聞いてることに答えない(答えられない)畿内説
何を聞いた?
九州説こそ答えていないぞ
なんで比田勝から郷ノ浦にいく途中に厳原に寄るのが迂回なんだ?
理由は言えないのか? >>584
二点間距離の求めかただよ
テキトーだよな?畿内説のように >>580
そんなこと、「魏志倭人伝」に書いてるか? @阿波 >>579
同意する
どれも土師器の範疇だよな。
土師器を細かく編年して年代否定に使うのは??
土器以外で年代比定できれば良いのだが、、炭素年代も幅があるし。
やはり、倭人伝に沿う行程、地域性や、倭人伝に沿う遺物が決めてかな?? >>579
同意する
どれも土師器の範疇だよな。
土師器を細かく編年して年代否定に使うのは??
土器以外で年代比定できれば良いのだが、、炭素年代も幅があるし。
やはり、倭人伝に沿う行程、地域性や、倭人伝に沿う遺物が決めてかな?? >>578
>聞いてることに答えない(答えられない)畿内説
やはり日本語が理解できないんだな?
>>561の「>その二点間距離とやらは、どうやって決めるんだ?」
に対して、>>577できちんと答えてあるだろ?
「測量していないことは確定
その点はお前のようなバカですら理解している
その上で、陳寿が書いているのは、陳寿の地理観に合うある意味
創作された数字」って
陳寿が、勝手に作った数字なんだよ
九州上陸までは1万里 ← 万里の修好という修辞に合わせた数字
邪馬台国までは萬二千里 ← 大月氏まで萬二千里と対抗するため
さらに、渡海は測れないし遠いというために渡海一回一律千里
3回分で三千里、1万里から引き算すると朝鮮半島の循海岸水行は七千里
これを7千里だから7日間とかww
もうねw バカ?としかww >>591
創作された数字
つまりテキトーなんだよな?捏造畿内説 >>579
>俺は土師器の土器編年なんて信用してない。
それでいい
お前の自由だからな
信用する人たちによってお前の言うことが無視されるから、それでいい >>595
それで世間に通用しなかったから
九州説がこうなった >>577
呼子野郎は無視ください。
九州説を、よく理解していない、 >>577
呼子野郎は無視ください。
九州説を、よく理解していない、 >>597
いや、アンケートじやダントツ九州説支持 三国志 原文より
>春秋傳曰『天有十日、人有十等』
春秋(左氏)伝 曰く『天には十日の干があり、人には十等の位があり』
十日の干 = 十干 = 天干
>コトバンクより 十干とは
中国の殷(いん)代から、一〇日ごとに循環する日を表示する数詞として用いられ、
周代になると、十二支と組み合わされて年と日とを表示するようになった。
旅程の日数が、これまた1000里と同様に
キリの良い数字だと気付けば、十干にまで辿り着くよねw
つまり「おおよその日数(正確な日程ではない)」です
ちなみに、「陸行一月」の「一月」は干支だったり?w
おお、十干・十二支w
なお一大国は、前にも書いたとおり
陳寿の春秋の筆法によって
一
大 → 天 と読める
国
天干 = 十干 = 十日
ここまで答え出ましたw >>576
それさー
畿内説さー
説明がー
出来ない
残念 >>579
賛同
畿内説の学者による学者のための編年
こねくり回して、どうするの >>591
アンタ他説批判も良いか、陸行一月どうすんの >>552
>江戸城は、令和の建築となるのか
ごまかすな。
地層から出るもの、石室から出るものの話だ。
5世紀の古墳周溝に令和のコインを落としても令和とならないだろ。 >>554
>じゃ、通説に逆らって布留式土器が4世紀以降の土器だっていう理由は?
布留0式が3世紀後半、布留1式が4世紀になって。 >>593
適当じゃないよ?
ちゃんと理由まで説明してあるだろ?
お前の
唐津の入り口から出口まで百里(キリ) とか
7千里だから7日間(ドヤ) みたいなその場の思いつきとは違う
萬二千里は、曹一族の曹真が大月氏との修交を成し遂げたので
司馬氏の司馬懿の功績もそれに見合うように大月氏国までの萬二千里に合わせてある
倭国本土までの一万里は、漢委奴國王の遣使の時点で萬里の修好という観念があったので
北部九州までが一万里になるように数字が作ってある
渡海は1回一律千里
外洋に出るときは一日で漕ぎ渡れば千里にしてある
で、この渡海一日で千里を、循海岸水行に「そのまま何も考えずに」
当てはめてるのがお前のバカなところなんだよw
まあ、渡土堤知らずの捏造君だからしょうがないね
連続句読点の後継者だしww >>577
おまえが馬鹿だ
倭人伝を解き明かすため、努力した結果が短里なのだよ。何もせず、間違いだと言う畿内説は、だから結論ありきと言われるのだよ。 >>610
>布留0式が3世紀後半、布留1式が4世紀になって。
じゃあ
「纏向の建物の柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)の欠片も一緒に出ている。すくなくとも4世紀以降の遺構であることは確実」
と言っていた
「纏向の建物の柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)」
の「布留式土器(4世紀以降の土器)」って
布留なに式? 自分の書き込みに賛同するキウスは認知症か分裂症か自己愛性パーソナリティ障害 >>606
>アンタ他説批判も良いか、陸行一月どうすんの
他説批判って言うが、捏造君の言ってることは
ただのその場の思いつき、言い逃れで説なんていうしっかりしたものじゃないぞ?
これまでにも何度も書いているが、陸行1月については経路も含めてテンプレとは違う意見だ
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい >>612
>倭人伝を解き明かすため、努力した結果が短里なのだよ。
間違った努力は、無・意・味 キャルン
>何もせず、間違いだと言う畿内説
ちゃんと間違いの原因も根拠付きで説明してるぞ!
そもそもが百越の流れを倭とした論衡の倭と、大陸東海上からの遣使というだけで
日本列島を同一視して、大陸の知識人は倭人を南方の海洋民族と思い込んでいた
だから陳寿もそういった先行史書に従って、帯方郡スタートでひたすら南へ向かうルートで書いてる >>612
連続句読点の後継者ってのは否定しないんだww >>577
>「お前が何をどう言おうと」大陸史書の地誌記事は
直線方向の二点間距離なんだよ
違うな。
一寸千里や簡易三角測量が出来た時には、「直線方向の二点間距離」が求まる場合もあるが、
一般地誌では、
出発側の外縁部の出口や柵から到着側の外縁部の入り口までの道のり距離だな。
>その上で、陳寿が書いているのは、陳寿の地理観に合うある意味
創作された数字なんだよ
いや、陳寿も、三国志では、
過去の記録や文書や上表文などの引用では、その記載を踏襲し、
一寸千里や簡易三角測量が出来た時には「直線方向の二点間距離」で記載した場合もあるが、
一般の距離記載では、
出発側の外縁部の出口や柵から、到着側の外縁部の入り口までの、道のり距離が、
原則だな。 >>583
追記、
陸行一月は倭人伝の中で一番難しい課題です。
「歴韓國乍南乍東は韓の陸行」説や、
「對海國と一大國のそれぞれの二辺の海岸沿い陸行」説や、
「末盧國から女王之所都までは陸行」説の、
古田説が唯一解けますが、、 >>614
知らん、俺が言ったのではない。
閉鎖空間に新と古があれば新の時代になるのは当たり前。 1 周濠や墳丘の中に含まれるものは参考にしかならない。古墳が築造された時期との関係が不明。古墳築造に伴う土器・埴輪を明らかにする必要がある。
2 箸墓古墳の後円部上から、吉備系特殊埴輪・特殊器台・特殊壺が採集された。
3 同上、前方部頂上から無紋の近畿系大型二重口縁壺が多く採集された。特殊壺片も僅かに含まれている。
4 前方部頂上から出た無紋の近畿系大型二重口縁壺は、桜井茶臼山古墳・椿井大塚山古墳でみられた壺と同じ。(茶臼山型壺)
5 葛本弁天塚古墳(前方後円墳、箸墓西方約4km)にも無紋の近畿系大型二重口縁壺、吉備系特殊器台・特殊埴輪がある。
6 最古級の古墳墳丘上に壺型土器が置かれることは意外に多い。この壺型土器により古墳出現当初の時期を知ることが出来る。
7 ホケノ山古墳の墳頂上に置かれた小型装飾壺は庄内式土器である。
8 壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
ま、箸墓は建造開始時期は別として、被葬者埋葬時期は3世紀末ころだろうな。
卑弥呼でも何でもないwww
あきらめろアホの>>1 www >>612
>倭人伝を解き明かすため、努力した結果が短里なのだよ
解き明かした結果が、
測量はできないししてない
区間ごとに長さが伸び縮みするけど一日歩いたら百里
前原に伊都国があるけど前原の入り口と出口でそれぞれ一泊して
前原の入り口から出口が百里、さらに前原の出口から伊都国まで歩いてそれも百里
伸び縮みして決まった長さがなく、測量した値を換算したものでもない
そんなのは単位じゃないし、そもそもが皇帝欽定の公定尺の里と同じ文字を
違う長さの単位に使うはずもない
お前の言い分は短里の存在を否定するものでしかない
方角についても、伊都国から奴国に行くのに日向峠を越えるのはバカ、と言って
しまったがために、伊都国からの出発方向が東南から135度も回った北向きで
その後はほぼ南へ行かないから伊都国から奴国が東南というのを自ら否定
日向峠を越えるはずがないと言いながら、別ルートでも広石峠を越える
本当にその場しのぎで思いつきを書いてるだけだから何もかもデタラメww
まあ、捏造君のやることはそんなもんだ
連続句読点の衣鉢を継ぐ者だしなw 前原の出口から伊都国までジジイの散歩距離が歩いて1日だったら
呼子から三雲までジジイ魏使陸行で2週間はかかる
というか、そんなジジイは渡海途中で死ぬ >>624
短里は計測したもので無いよ。
倭人伝記述の里数を、現実測で割り出した物。当然、完全に一致はしない。
だから短里には幅を持たせてある。
ニアなら問題はない、 >>627
の続き
また、魏の使いも実測はしていない。
おおよその里数を記述している。
これも短里に誤差が出る原因である。 >>627
>短里は計測したもので無いよ。
>倭人伝記述の里数を、現実測で割り出した物。当然、完全に一致はしない。
その観測値があやふやだから
現代人の妄想ということになるんだが >>629
>その観測値があやふやだから
まぁ、「忌部一族(阿波勢力)」の観測値?だから大目に見てやってくれ。 @阿波 >>612
>おまえが馬鹿だ
>倭人伝を解き明かすため、努力した結果が短里なのだよ。何もせず、間違いだと言う畿内説は、だから結論ありきと言われるのだよ。
つまり現代人がめいめい勝手にあーだこーだと言い張ってるだけだということだろ
ちゃんとした具体的な根拠も出せないでさ
それを間違いだと具体的に立証されたんだから
諦めろよ
お前の主張は説得力のない珍説ってことだ >>631
じゃあ、畿内説では1里?メートルなの。
示しもしないで、何言ってんの
倭人伝がデタラメと言うなら、邪馬台国論叢から去った方が良い。
倭人伝が無ければ、邪馬台国も卑弥呼も、無い 距離はテキトーだ!方角はデタラメだ!
でも邪馬台国は畿内なんや
これが畿内説 相変わらずだなー
末盧国(唐津)に上陸したら、東南500里(の佐賀平野)へ向かう・・、と中国三大古典には書かれているのだよ。
畿内説も、北部九州(福岡県内)説も、阿波説も、皆そろって大間違いなのだww、 >>634
>末盧国(唐津)に上陸したら
無理! @阿波 >>623
>8 壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
布留0式と布留0式新相で「大きな時期差は認められない」ってのはまあ本当だが
箸墓の壺型土器って前方部からしか見つかってなくて、後円部の特殊器台と時間差があるというのが前方部後付け説の根拠の一つだからね
墳頂祭祀の土器だし、箸墓の年代を遅らす材料に使うのは無理 いつもそこで終わってるな
伊都国を無理やり佐賀に持ってきても、奴国が確実に福岡である以上、邪馬台国は佐賀ではない
吉野ヶ里は女王国の一部だから、それで諦めろ >>636
まぁ、「前方後円墳」の元祖(萩原墳丘墓)が、「卑彌呼」以後なんだから、箸墓古墳は推して知るべし。 @阿波 >>633
>距離はテキトーだ!方角はデタラメだ!
>でも邪馬台国は畿内なんや
>これが畿内説
ま、ある意味、それはほんとうだ
だって邪馬台国は畿内だって理由は考古学で出してるんだから
そして倭人伝それ自体の中で自己矛盾がある箇所だけ「間違いだ」って結論を出すと
畿内説を否定しうる要素がさっぱり消えるんだもの
やっぱり結論は「邪馬台国は畿内」だね >>639
>やっぱり結論は「邪馬台国は畿内」だね
無理! @阿波 >>617
>福岡付近から、出雲まで水行20日 ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
東大理系博士号自称男の大和説も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだな。 >>639
たとえ畿内ヤマト政権の遺跡でも、年代あわせりゃ邪馬台国か
それのどこが考古学なんだか
ようはでっち上げだな >>636
>箸墓の壺型土器って前方部からしか見つかってなくて、後円部の特殊器台と時間差があるというのが前方部後付け説の根拠の一つだからね
どこの誰が前方部後付けなんて言ってるんだ、まともな人間の例で言ってくれ。
>墳頂祭祀の土器だし、箸墓の年代を遅らす材料に使うのは無理
墳頂祭祀の土器だからこそ被葬者の死亡時期だろうが。 >>618
>そもそもが百越の流れを倭とした論衡の倭と、大陸東海上からの遣使というだけで
日本列島を同一視して、大陸の知識人は倭人を南方の海洋民族と思い込んでいた
いや、大陸の知識人は、倭人は「燕の南」にいた事を知っているから、
陳寿も、当然倭人は会稽東治之東の「ほぼ九州島」付近にいる、と判断していた。
だから陳寿もそういった先行史書に従って、帯方郡スタートでひたすら南へ向かうルートで書いて> >>623
>1 周濠や墳丘の中に含まれるものは参考にしかならない。古墳が築造された時期との関係が不明。古墳築造に伴う土器・埴輪を明らかにする必要がある。
2 箸墓古墳の後円部上から、吉備系特殊埴輪・特殊器台・特殊壺が採集された。
3 同上、前方部頂上から無紋の近畿系大型二重口縁壺が多く採集された。特殊壺片も僅かに含まれている。
4 前方部頂上から出た無紋の近畿系大型二重口縁壺は、桜井茶臼山古墳・椿井大塚山古墳でみられた壺と同じ。(茶臼山型壺)
5 葛本弁天塚古墳(前方後円墳、箸墓西方約4km)にも無紋の近畿系大型二重口縁壺、吉備系特殊器台・特殊埴輪がある。
6 最古級の古墳墳丘上に壺型土器が置かれることは意外に多い。この壺型土器により古墳出現当初の時期を知ることが出来る。
7 ホケノ山古墳の墳頂上に置かれた小型装飾壺は庄内式土器である。
8 壺型土器は規格性が高く、箸墓古墳の壺型土器は桜井茶臼山、葛本弁天塚の壺型土器とほぼ同じ土器形式の中にある。従って箸墓古墳は初期の大型古墳のグループに中では、他の古墳(桜井茶臼山、葛本弁天塚)とは大きな時期差は認められない。
ま、箸墓は建造開始時期は別として、被葬者埋葬時期は3世紀末ころだろうな。
卑弥呼でも何でもないwww
ふーん、成程。 >>624
>測量はできないししてない
いや、一寸千里や簡易三角測量や、記里車や歩測や日数測や目測などで、
有効数字1桁位の近似値的な測量はされていた。 >>631
つまり現代大和説学者らが、大和説にとっては行程や里数説明や方向が全く都合が悪いから、
めいめい勝手にあーだこーだと言い張ってるだけだということだろ
ちゃんとした具体的な根拠も出せないでさ
それを間違いだと具体的に立証されたんだから
諦めろよ お前(東大理系博士号自称男ら?)の主張は説得力のない珍説ってこと ここにいる人達は、
阿波さん以外、
どうやって、
飯を食っていくんだろう、今後www >>648
少なくとも、魏志倭人伝の道中ではしていない 坂靖「古墳時代の遺跡学(雄山閣)」
箸墓古墳の葬送祭儀は、墳丘に樹立された二重口縁土器から、布留1式期古段階であったと考えられる。
「布留1式期古段階」
3世紀末かな。
4世紀初頭でもいいよ wwwww
箸墓のどこが卑弥呼墓なんだ糞ボケ wwwwwww >>633
距離は有効数字1桁程度の近似値的計測値だ!
方角は「東西南北はほぼ間違えていない」という精度だ!
そしてその結果が「卑弥呼の女王之所都は、ほぼ大野付近」なんや
これが九州説 >>653
観念的里だの、二点間距離だの言い出す畿内説の、なんと滑稽なことか >>650
俺、厚生年金と個人年金もらってるあから大丈夫。
それに、邪馬台国論叢に参加するのに
あまり、金がかからない。
書物代ぐらいかな? 卑弥呼の時代の日本列島には594,900人の人が住んでいた
これは、小山修三氏による推計
九州から東北までの地域で暮らしていた
魏志倭人伝による倭国の人口は対馬から邪馬台国までで約60万人
倭国にはそれ以外に21ヵ国あり、狗奴国・南西諸島を含めると約100万人が暮らしていたと想定できる
この小山氏による人口推計より多いことになる
いずれにしても列島全体での人口推計
九州の範囲内でこの人口を想定することはできない
ここを出発点にして議論を進めるべきだと思う >>626
だから、方角は倭人が南方の海洋民族という思い込みから来る「陳寿の地理観」の中で正しいだけで
現実の地理とも照合はあまり意味がない
畿内説側が行っているのは「方角も距離も正しい」という九州説の言い分が誤謬であることを論証しているだけで、畿内説のいう「方角の読み方」が正しいという主張ではない
畿内説は「方角も距離もあてにならない」以上の主張はしていない >>627
また捏造している
こりねぇな、こいつは
現実測したら2〜4倍違うんだからニアにもならねぇよ
ゴマカシしかしない最低民族が九州説だからな! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています