邪馬台国畿内説 Part721
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1630467493/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>709
>またメチャクチャ言ってるな
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」「都」したのが邪靡堆という場所なのだから
「則」で受けるのも「邪馬臺」という場所
またメチャクチャ言ってるな
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
魏志には「邪馬臺」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男(おそらく東大理系博士号自称男?)が、バツ。 >>710
なんでそんな苦しい言い逃れをしなければいけないか分かる?
大和説学者らの解釈が間違っているからだよ。
嘘を付くから無理が生じる。
こういうのを背理法というんだよ。高校の頃習ったろ。 例『馬の骨』
つーちゃんねる(現在5ちゃんねる?不明)、
名無し?みたいなネタ、元ネタ? >>713
アンタ「則魏志所謂邪馬臺者也」の「邪馬臺」が
「魏志に書かれているかのような嘘吐き騙し」の、
苦しい解釈して赤っ恥かいた人でしょ?
もう恥の上塗りはやめなよ。
大和説シンパの人らだって迷惑してると思うよ。 >>1
このような(不明)よりも、
金、朴、李?のほうが・・・上のほうの存在。
なぜかネタみたいにしている人達もいるけどw
ほんとーの話。 あと三國志みたいな、
・・・に出てきたりする名前(氏、姓?)の家、人達も上のほうのw 晋の学者郭義恭がまとめた「広志」(※ 3世紀末〜4世紀末晋朝期ごろに書かれた史書) という類書の記事が引用してあった。後漢時代の倭国の状況を紹介した記事らしい。その中に「倭国(末蘆国か?)の東南に陸行して五百里行くと、伊都国に着く
。また南に行けば邪馬嘉国に着く。
古田ぺーテンでは、邪馬嘉国もなかった事になる。 日本の話。
例えば、オマエの家の近所にも住んでいるでしょ?
金、朴、李(かね、ぱくり?)とか、・・・ほんとーはw上の人間w
あと三國志に出てきたりするような名前の人、家とか。 >>806
両方とも読めるよ。
読んではいけないという決まりがあるのか? それにしても、おかしな話ばかり。
老婆談によると、家の近所〜周辺にも、
金朴李(あとは?)〜みたいな人ばかり住んでいたとかw
どういう事なんだろう。 >>759
>田窪努の説(143種の遺構・遺物の編年を定め、古墳の遺構・遺物と照合)
崩年
崇神 273年
だからそのおっさん、応神没年を即位年の390年以前に設定してただろ。
その時点で信憑性ゼロ。 邪馬台国《九州》説は、大和朝廷の存在事実を“抹殺”し天皇制廃止を狙う極左キャンペーン
──邪馬台国論争そのものを即時絶滅させることが、天皇制度護持に不可欠な緊急要諦
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2013#more-2013
中川八洋、筑波大学名誉教授
“偉大な史書”記紀を尊敬し修理保守してこそ日本の学者──内藤湖南と中川八洋 父親も言っていたしな。
俺は日本で生まれたから、
むこう(向こうの国)の言葉は、わからないみたいな人達も・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いた?いるw なぜ馬の骨みたいな人間が嫌いなのか、
いい加減に、わかっただろう?
〜成り上がって、増長したり、
実際はゴミ、クズのような系統、類の人間なのに。
いるでしょ、日本の話、 ほんとーは、ゴミ、クズのような類の人間、
いるでしょ?日本の話w実際は、何も知らないような人間。
ただ成り上がった、何やら〜、それだけの人間とか。 正確には、何の家でもないのに、
悪く言うと、成り済まし、騙り?そういう類とか。
箔がつくからなwという書き込みと同じ。
あるときは神、帝(天帝)になってみたり、
皇帝・・・大王、君主?聖人でw 例『天王』?
日本のメディアで言っているのは、
ただの成り済まし、騙りなんだけどな。
日本の歴史、知らないんだろう? なぜ漫画、アニメ〜、創作?なのか知らないけど、
ウラシマまりんのような人物がいて(ほんとーの何かの家)、
『日光 猿軍団』みたいな事をさせていたりする。 歌え、踊れ〜?みたいな人物、
なぜか、うらしま(キャラクター名、仮名)w
なぜか『日光 猿軍団』みたいな・・・。 例えば某国の「もらんぼん楽団」でもないしな・・・、同じような? 何度も説明したから、わかっているはず。
そういう話と、家の老婆談、なぜか、ほとんど同じ?
むかーしの芸能関係とか・・。 最近どこかで見たような気がする、
さるの惑星?有名な話なのかな。 例『チャルロス』
それとも他のキャラクター?
なぜか同じような・・・ばかり。 ほんとーの話w池沼みたいな・・・がいるんだろう、
家は軍人、警官?とか、そういう家でもないしw
『』このような家、
何かの制服を着ている、子供の頃の写真。 〜院みたいな家?
ほんとーは、むかーしの古代中国の何かの・・・みたいだしな。 成り済まし、騙り?いろいろと偽造、捏造?
何なのか知らないけど、そういう話みたいだしな・・・。 >>765
>壹ではなく「臺」が正しい理由
3世紀末、陳寿によって『三国志』が著わされて以降、11世紀初頭『三国志』刊行までの間に多くの書物にそれは引用・参照されて来たが、「邪馬壹」「壹與」とするものは、ただ一つの例外『太平御覧』(984成立)「珍宝部」の「壹與」を除いて出現しない。
http://hyenanopapa.obunko.com/tai_ga_tadashii.html
ハイエナのパパの論は、既にYahoo掲示板時代に論破済み。
その論破論旨は、
まず、三国志の写本版本に於いては「壹と臺との錯誤があったと出来る例は皆無」である事。
また5世紀の范曄の後漢書の「邪馬臺國」は「こうやの宮〜久留米付近」であり、
魏志の「邪馬壹國」は「福岡平野〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」であり、
始めから対象や説明が違うものであった事。
また、後代の唐代以後の史家の「自己解釈に拠る魏志の書き換え」という事になる「邪馬臺國」の記載は、
始めから、3世紀の魏志の「邪馬壹國」を否定出来る根拠にならない事。
ハイエナのパパは、現在まだ生きているのか?は知らんが、
皇国史観という思想宗教にクルって、安本派から大和説に転向して、
Yahoo掲示板時代にアル中になって、textream時期に議論に負けて出て来なくなった・・・・的人物である。 >>769
また、スゲー強引な、
同時代の実地の見聞や計測の記録という史料事実や史料実態の、
曲解や否定の嘘吐き騙しだな。
皇国史観戦争国家主義の唯我独尊の大和説者らにとって、
マジに古田説は殺戮テロ対象だな。
国民をそんな・・・・人種と、一緒にするなよ。 >>828
同時代の実地の見聞や計測の記録という史料事実や史料実態の、
曲解や否定の嘘吐き騙しが古田説だよ。 >>775
またデタラメ書いて人を騙そうとしてる
>宋に来た「日本の僧」の提出した書物をほぼそのまま載せたのが新唐書だ
「宮」を「城」に変えたのは朝貢国だから王宮と呼ばなかっただけ
いや、新唐書は、「日本の僧」の提出した書物を「ほぼそのまま載せて」はおらず、
「阿毎氏」や「筑紫城」や、
「卑弥呼や倭の五王らの存在」の否定や、
欽明の「欽明之十一年,直梁承聖元年」や、
用明の「亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」の事件も記載し、
「其俗」が、煬帝以前と以後で変わった事も記載し、
「太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢」を記載し、
「遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還、久之」で、九州倭國と礼を争った事も記録し、
更に「更附新羅使者上書」や「時新羅為高麗百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅」があった事も記載し、
九州倭國と白村江で戦って勝利した事を記さず、
「子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝」があった事を記載し、
「咸亨元年,遣使賀平高麗」を記し、
「後稍習夏音,惡倭名,更號日本」を記し、
「使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所並,故冒其號。使者不以情,故疑焉」があった事を記し、
「又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云」として、
九州倭國とは違う事も記載している。 >>779
>者が漢文においては必ずしも人間を意味するわけではないとか於は置字というものだ
普通に、漢字を逐次式に読み、受け止めて行けば十分理解出来る事であり、
そんな事は何ら問題にはならない事だ。
とにかく、ごく基本的な史料に記載された事実や実態を、九州説の人に教えられても
頑として修正を受け付けないのは大和説の人なんだけど >>780
>3世紀末、陳寿によって『三国志』が著わされて以降、
11世紀初頭『三国志』刊行までの間に多くの書物にそれは引用・参照されて来たが、
「邪馬壹」「壹與」とするものは、
ただ一つの例外『太平御覧』(984成立)「珍宝部」の「壹與」を除いて出現しない
同時代の魏の役人たちに拠る「実地の見聞計測の記録」を踏襲した倭人伝などの記録や、、
それの写本や版本が、最も確率が高い情報であるのであり、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」になる後代文書の記載は、確率が非常に低いものだ、
という事が人類の常識だ。 >>831
九州説の人に教えられても
頑として修正を受け付けないのは古田説の人なんだけど >>784
>>凡三十二世が、ほぼ筑紫城付近にいた、という事になる。
>筑紫日向宮だよ 南九州だ
宋代に来た「日本国の僧」の「筑紫日向宮」という説明文言を、
新唐書は「筑紫城だ」と訂正した形であり、
そして、新唐書は、当然「隋書の竹斯國」が九州北岸にあった事を知っているから、
「筑紫日向宮」を「九州北岸の筑紫城」だと訂正した事にもなる。 >>788
タリシホコ時代の俀国の都邪靡堆が、すなわち魏志の邪馬臺だ、なんて論は、
唐代の魏徴らの「自己解釈に拠る書き換え」の文であるから、根拠にならず、
タリシホコ時代の俀国の都は、当然奈良ヤマトにはならない。
よって邪馬台国畿内説は、間違い。
↑大和説の空論を一撃で粉砕する強烈な三段論法 >>792
>>筑紫日向宮だよ
>その「筑紫日向」ってどこなのさ、って話。 @阿波
当然「筑紫の日向川や、日向峠やその東西山麓部の早良平野部〜糸島平野部」の地域。 >>805
>晋の学者郭義恭がまとめた「広志」(※ 3世紀末〜4世紀末晋朝期ごろに書かれた史書) という類書の記事が引用してあった。後漢時代の倭国の状況を紹介した記事らしい。その中に「倭国(末蘆国か?)の東南に陸行して五百里行くと、伊都国に着く
。また南に行けば邪馬嘉国に着く。
載っている翰苑自体が、
はるか後代の唐代の「自己解釈に拠る書き換えの多い」文書であり、
その記載の「正しい確率が大幅に下がる」文書。
はるか後代の嘘吐き騙しの大和説ぺーテンの主張の「邪馬嘉国もなかった事になる」も、
全く信頼性がない。 >>811
>邪馬台国《九州》説は、大和朝廷の存在事実を“抹殺”し天皇制廃止を狙う極左キャンペーン
──邪馬台国論争そのものを即時絶滅させることが、天皇制度護持に不可欠な緊急要諦
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2013#more-2013
中川八洋、筑波大学名誉教授
“偉大な史書”記紀を尊敬し修理保守してこそ日本の学者──内藤湖南と中川八洋
中川八洋と言う男も、まあ酷い「皇国史観国家国粋の戦争狂」の人物のようだな?。
こんな明らかな・・・・を名誉教授にした筑波大も、それを承認した文科省?も、
こりゃ全く正常な人種ではないんだろうなあ。 >>837
九州説の根拠で「広志」を取り上げる奴
全く信頼性てことだな。 九州説の根拠で「広志」を取り上げる奴
全く信頼性がない。 福永晋三(田川説) 赤村内田の巨大前方後円墳
古田ぺーテンと別な考え方になるな。 >>836
>当然「筑紫の日向川や、日向峠やその東西山麓部の早良平野部〜糸島平野部」の地域。
結局、筑紫も出雲も日向も阿蘇も隼人も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者ども。 わははははは @阿波 >>841
>福永晋三(田川説)
田川辺りは、奴国(二万戸)だ。 惜しかったな。 @阿波 奴国(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」 @阿波 >>833
どの説も弱点はあると思います。
私は畿内説が一番弱点が、多いと思います。
倭人伝記述からヤマト王権へ結びつけらのも良いですが、
三世紀から記紀編纂までの文献が残っておらず、
記紀神話を倭人伝と強引に結びつけるのは反対です。
纏向や箸墓を記紀神話と結びつけることや、前方後円墳と卑弥呼と結び付けるのは勝手ですが、
邪馬台国論叢の基軸はあくまで魏志倭人伝です。
畿内説は、憶測の積み重ねが多いように思えるのは私だけでしょうか。 >>840
九州説の根拠で「広志」(※ 3世紀末〜4世紀末晋朝期ごろに書かれた史書)を取り上げるのは、
倭人伝と一致する方角・行程という点で、極めて高い合理性がある。 >>845
>どの説も弱点はあると思います。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いという。
なんで九州各地の風土記に、天皇の行幸記事が一切無いのだろうか?
九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>847
阿波よ、>>845 のいうとおりだ。
記紀にすがり、天皇の行幸云々をいうのは、大和朝廷の言い分を囃し立てる阿波踊りの一種にすぎぬ。
やはり阿波は、阿波踊りのボケ役止まりだな。 >>848
>記紀にすがり、天皇の行幸云々をいうのは
一つ突いたら、あっと崩れる九州説、だな。 わははははは @阿波 >>848よ。
>>847に対し、為す術もないヘタレ九州説。 矜持はないのか! @阿波 >>848よ。 安心しろ。 九州を一突きで崩せるのは「阿波」だけだから。
宿敵畿内説でなくて良かったじゃないか。 顔を上げろ! わははははは @阿波 >>840
>九州説の根拠で「広志」を取り上げる奴
全く信頼性がない
広志の紹介引用を載せているはるか後代の翰苑が、その信頼性が半分であれば、
その翰苑が紹介した広志の信頼性も半分以下であった事になり、
大和説の根拠に広志を紹介した大和説者の信頼性も半分以下であるし、
まして、「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「日本國者倭國之別種なり」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の曲解や否定の、
嘘つき騙しの大和説者は、信頼性が殆ど0である。 天皇枠にこだわり過ぎて笑えるよ阿波社くんはw
まぁせーイッパイの知識で視野狭窄が重度化してるな
邪馬台国卑弥呼と相対的な立場なんだよ天皇家の歴史は
キメが荒いから理解するのは無理だろうけど >>852
九州説根拠で「広志」を取り上げる奴
全く信頼性がない。 >>846
魏志に「邪馬嘉国」はない
基本的な史料に記載された事実や実態に合わない
倭人伝と一致する方角・行程という点も合わない >>841
>福永晋三(田川説) 赤村内田の巨大前方後円墳
古田ぺーテンと別な考え方になるな。
福永が「田川」説か。
また、通説大和説側の論客学者が一人、九州説に傾き出したんだな。 >>766
>父娘でヒメヒコなんて聞いたことがない、まぁお前がアホだからだろうな
そもそもヒメヒコで血縁関係が分かっているのはそんなにない
埴安姫と埴安彦は母子だし、そのクニの中心の血縁・一族の中での
男女のトップ一対以上のことは、どこにも規定なんていないし
父娘でヒメヒコがないなんていうルールはないww
まあ、左側スロープ君は漢文も読めないし、記紀もきちんと読んでないし
無能だから分からないんだろうねww >>857
埴安姫と埴安彦の例を出すなら、崇神と娘がヒメヒコの諸減と言ってた話はなしにするという事でイイネ。
どっちみち崇神が、卑弥呼であるモモソヒメの40歳年下なんてアホ説は、普通の人間なら恥ずかしくて言わないがね。
それと吉備津彦がモモソヒメの何歳年下で四道将軍のときには何歳だったかという質問に逃げまくってるようだが? × 諸減と言ってた話はなしにするという事
〇 初現と言ってた話は「なし」にするという事 文献と擦り合わせて今城塚を継体墓とする。
これは理解できる。
ならば同じく文献と擦り合わせて行灯山を崇神とするのが普通。
なぜなら「山辺道上」「山邊道勾岡上」は渋谷向山と行灯山の二つしかなく、
被葬者たる大王は景行と崇神の2人しかいないのなら、崇神は古い方の墓となるからだ。
>>1のドアホはそれを認めると、崇神から数十年前のトヨがトヨ津媛しかいないので葛城説を認めざるを得なくなるから、
必死で抵抗してるのだ、惨めな奴wwww >>860
妄想漬けだな
1だけじゃない
ほとんどの歴史学者は記紀の天皇にアテハメしない
帝王系譜が信用ならないから >>861
>ほとんどの歴史学者は記紀の天皇にアテハメしない
当てはめることが出来ないの間違い。
当てはめてみたものの、おまえのように崇神は卑弥呼であるモモソヒメの、
40歳年下の弟なんてアホ説に行きつくのが関の山。 >>853
>邪馬台国卑弥呼と相対的な立場なんだよ天皇家の歴史は
「邪馬臺国」 と 天皇家 を切り離さないと総崩れする九州説。 @阿波 この腐臭を放つ汚いスレを浄化しよう。
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織田信長の時代に宣教師のフロイスが地球儀をもってきた。
そしておおよそ江戸時代になって、この大地は丸い球であるという事実が日本人に定着。
それ以前は仏教にもみられる平面世界観であった。
この大地は円盤状の世界で、その中心に高山がそびえ、月や太陽はその周りをまわっているという考えである。
その高山を模したものがお寺の塔(ストゥーパ)であり、
その高山の頂上、神が住む有頂天を表したものが各家庭にある仏壇(須弥壇)である。
記紀に登場する「高天原」も、この大地は丸い球であるという事実を知る以前の平面世界観での産物である。
だから蘇我馬子が推古天皇に高天原のある葛城の領有を願い出たた時、
私は今まで叔父の言う事は何でも聞いてきましたが、それだけはできませんと断られる。
この大地の、この世界の中心、日本の最も神聖な場所を蘇我に明け渡すわけにはいかなかったのである。
江戸時代に登場する本居宣長に代表される高天原=天上説は、
この大地は丸い球であると知って以降の考え方であり、
それ以前の平面世界観での高天原を説明できるものではない。
このように、平面世界観では、高天原は「どこか」に見立てられてきたのであり、
それは古来から高天山と言われた金剛山の麓、奈良県御所市高天しかない。
そこに卑弥呼の墓もある。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg >>864
もちろん、高天原に「卑彌呼」の陵墓はない。 陵墓が在るのは、高千穂(豊葦原中国)。
ところで、お前の高千穂(豊葦原中国)はどこなんだ? @阿波 この腐臭を放つ汚いスレを浄化しよう。
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金関 恕氏が発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるのか。
繋がります。
和邇氏はトヨから始まります。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000143.png
卑弥呼の死後に立ち千人が死ぬ争いをしたのは建甕尻(別名タケミカヅチ)だと分ります。
敗れたタケミナカタは諏訪の大神となります。
7世紀の朝廷が魏志倭人伝のこの記述が何のことか知りながら、あえて時代を「神代」に設定したことが分かります。 >>865
高千穂と豊葦原中国は同じなの?
俺は全然違うと思う。
豊葦原中国は中鴨社こと葛城御歳神社のあるあたり。
もちろん式内・名神大社。 >>866
>卑弥呼の死後に立ち千人が死ぬ争いをしたのは建甕尻(別名タケミカヅチ)だと分ります。
その建甕尻(別名タケミカヅチ)を、日本で唯一お祀りしているのが、「阿波」なんだがw お前、どう始末付けるんだ? @阿波 >>867
>高千穂と豊葦原中国は同じなの?
もちろん、同じだ。 表現が違うだけ。 @阿波 >>867
>豊葦原中国は中鴨社こと葛城御歳神社のあるあたり。
あほ! そんな山の中が、豊かに稲や稗などが稔るところの訳ね〜だろうがよ。 諦めろ。 @阿波 >>784
>だからそれでいいじゃないか何言ってるの。
じゃあ、行燈山古墳「3世紀後半」-4世紀前半頃でいいんだな?ww
318年じゃないとやだーって、いうのが左側スロープ君の言い分だったのに
行燈山古墳は崇神陵で確定ではないけれど、行燈山古墳が崇神陵でも
3世紀後半築造でよければ、それでもう問題ないだろ
行燈山古墳の築造が318年とか限定して言うのはおかしいって話
行燈山古墳が4世紀だから、崇神の崩年が3世紀なのはダメっていうのは
根拠にならない
3世紀後半築造でいいんだから >>786
>邪魔なので消えろお前。
どう見ても邪魔なのは、妄想だけの駄説にもならないデタラメなオハナシを
延々と書き散らしている左側スロープ君だろ?
自分の葛城スレのお手入れとかした方がいいんじゃないの? >>797
>関東忌部の活躍だ。 @阿波
縄文時代に?ww
その、「泡の言う忌部」の実体って後世の忌部とか関係なしに、
ただの「日本列島に住んでた人」じゃね? >>810
>応神没年を即位年の390年以前に設定してただろ。
>その時点で信憑性ゼロ。
何度言っても、左側スロープ君には理解できないのは分かってるけどさ、
応神即位390年というのは、「日本書紀紀年二運繰上げ説ではそうなる」ってだけで
確定でも何でもないんだぞ?
都合のいいことは、確定
都合の悪いことは、古代のことだからはっきりしない、または、
後世に勝手に書いたとか、何々を隠すため、とか適当なことを言うww
ダブスタ以前の、デタラメさがカルト説の特徴だが、左側スロープ君は
デタラメさが極点まで達してるから、その点はある意味面白いw >>831
>普通に、漢字を逐次式に読み
漢「文」なんだから、文章として読めよ
文字一つ一つ読んでも意味は通じないぞ >>874
>縄文時代に?ww
縄文だろうが、弥生だろうが、「忌部一族(阿波勢力)」以外にいるか? よく考えろ! @阿波 >>841
>赤村内田の巨大前方後円墳
あれは、どうやっても古墳じゃないよ
左右で高さが揃ってないんだから >>874
>その、「泡の言う忌部」の実体って後世の忌部とか関係なしに、
だから、
「忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 と何度言えばw @阿波 >>858
>崇神と娘がヒメヒコの諸減
諸減って何?
もしかして、端緒って言いたいの?
ヒメヒコ制は、古くからある日本の地域集団の主張の在り方に対する推定であって
崇神朝でヒメヒコ制が始まったとかの話ではないぞ?
40歳差でも姉弟は、生物学的に可能
実際には崇神の崩年も3世紀後半で、40歳差は必要ないだろうけどね >>860
>崇神から数十年前のトヨがトヨ津媛しかいない
「崇神から数十年前」がまずデタラメ
それから、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛が、神武の后でヒメ后
トヨ津媛も、懿徳の后なのに、どうしてトヨ后じゃないの?ww
そもそも、土蜘蛛と蜘蛛窟の蜘蛛二文字が同じってだけの妄想なんだから、
いい加減、現実を見ればいいのにw
尾根切り一つない自然地形の尾根って時点で塚じゃないし
https://i.imgur.com/cxunquy.jpg
土蜘蛛を洞窟の入り口に岩を置いて閉じ込めたなら、助け出さない限り奴婢にはできないし
奴婢が被差別民になるルートなんてないし
それ以前に土蜘蛛が奴婢になるルートもないw
土蜘蛛と王族が200メートルの距離に住んでるご近所さんだし
土蜘蛛が生き埋めにされた尾根に王族が追葬されるってのも、どこまでもデタラメだし
記紀の人物名を使うくせに、記紀の系譜が嘘扱いにして勝手に修正するしww >画像の蜘蛛窟、そこに土蜘蛛が埋められた。
>いや洞窟の入り口に岩を置いて出られなくされた。
>岩を置いたのは神武軍だ。
その話、高天彦神社の前の山草園の人に聞いたんだっけ?ww
すごいねw
土蜘蛛が生き埋めにされたのが、どうして奴婢大量埋葬痕跡になるの?
奴婢じゃないよね? 使役もされてないし?
それに、神武軍が生き埋めにして殺しただけで、
どうして卑弥呼の殉葬になるの?
卑弥呼、まだ生きてるよね?
これが卑弥呼の狥葬者奴婢百餘人なら、土蜘蛛が生き埋めになってるところに
卑弥呼の墓が作られたってこと?
だとすると、卑弥呼が土蜘蛛の殉葬者になるんじゃない?ww >>767
>低いところは下人だからだよ、箸墓のような。
本質的に、左側スロープ君も日本の歴史、皇統に対する尊崇の念がないんだよな
大仙古墳も低いところだが、大仙古墳被葬者の大王も下人なのか? >>767
>前にも言ったが元々の王墓の近くの洞窟に土蜘蛛が住み着いて神武がそれを処理した。
もともとの王墓だっていうなら、土蜘蛛の痕跡があろうがなかろうが
殉葬の跡にはならないよな?
もともとはお前は、王族は高地の水源だから住んでるって言ってたよな?
王墓の近くじゃなくて王族の宮処の近くだって言ってたんだぞ?ww
王族の宮の近くに土蜘蛛が住み着くのを許す王族って、権威も権力も
まったくないってことだが、それ、王族じゃないだろww
>追放されたスサノオ以外、みんな同じ場所。
で、蜘蛛窟の中にみんな一緒に葬られてるのか?ww
同じ場所って、どこだよ?wwwwwwwww 泡の根本的に頭おかしいところは
「その、陵墓築造の一定規律の元となったのが、
「冢」の直径が約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、」
という主張なのに、「頂上部には五角形の祭壇」がある墳丘墓が一つしかないことww
一定規律なのに、その規律に従うものがないww
「直径が約35m」で大王墓と認められているものも皆無 >>772
>土蜘蛛が埋葬されてるのは蜘蛛窟で大いに関係あります。
また嘘をついてるww
お前の主張は
「>画像の蜘蛛窟、そこに土蜘蛛が埋められた。
>いや洞窟の入り口に岩を置いて出られなくされた。
>岩を置いたのは神武軍だ。」
これだろ?www
入口に岩を置いて、生き埋めにするのは「埋葬」とは言いませんww
自分の言ったことには責任持てよww
蜘蛛窟の標柱はある しかし、作られたのは昭和15年ww
その根拠は御所市の伝承
「むかし、千本の足を持つ大きな土蜘蛛が住んでいた。
時の天皇は御悩みであったので、勅使が来て、字サルチ(猿伐)から
矢を射て殺した。矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍らに埋め、蜘蛛塚といった。
蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東にある。」
御所市史編纂委員会『御所市史』(S40.3.10.御所市役所)
この「蜘蛛の居た窟は神社の前の並木の東」に従って、適当に建てたのが蜘蛛窟の標柱
で、高天山草園のおじさんに聞いた、出所不明の土蜘蛛を岩で閉じ込めた話を
絶対に正しいと言い張って、内容がまるで異なる記紀の土蜘蛛討伐を同一視する
まあ、どこまで行ってもデタラメだわな >>773
>お前がよっちゃんなんて糾弾されても仕方ない言い方してた被差別部落の数だよ。
それを書いたのは俺じゃないし、お前に知性は期待していないが、
その被差別部落の数はいくつなの?
いくつ以上あったら圧倒的なんだ?
基準は?
閾値で示してくれるとありがたいが? >>778
>土蜘蛛と蜘蛛窟、蜘蛛塚が関係してることは子供でもわかる。
まあ、土蜘蛛ってのは普通名詞だから、どこにでもいるしな
それを、神武紀の土蜘蛛討伐と結びつけるのが、デタラメであり捏造だってこと
>お前なんで俺の説に執着して反論しようとしてるのかな。
前にも書いただろ?
俺は「頭の悪いやつが大嫌い」なんだよ
左側スロープ君の説に執着してるんじゃなくて
左側スロープ君がバカだから言ってることが自己矛盾だらけだし
デタラメなオハナシだってことを、あからさまに示しているだけ
左側スロープ君に、人並みの理解力と羞恥心があれば
とっくにいたたまれなくなっているはずなんだが、
バカに限って厚顔無恥だから、延々とバカにされ続けて今に至るってだけだよw >>866
>和邇氏はトヨから始まります。
この話を延々と繰り返しているけれど、左側スロープ君の説が正しければ、
その和邇氏が倭国王統の正系ってことになるが、それならなぜ和邇氏は
ただの豪族に成り下がったんだ?
何が悪くて、和邇氏は王権を失ったんだ?
説明してみておくれw >>885よ。
陵墓築造の一定規律の大根源が、山稜に築かれた「冢」であって、
決して、奈良盆地のような平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した
「前方後円墳」ではないってことだ。
何回も言わすな! @阿波 >>877
>縄文だろうが、弥生だろうが、「忌部一族(阿波勢力)」以外にいるか? よく考えろ!
つまり、「日本列島に住んでいた人全員」を指しているということだねww
つまり、何の意味もないことを泡は言っている訳だww >>886
高天山草園の所有者は森村氏らしい
蜘蛛窟は南側に出入口ありとの伝承ありということなので、
神武天皇が大きな岩で出口を塞いだのは高天彦神社の下というのは
高鴨神社境内立小便犯人のよっちゃんのホラ話であることがわかる
https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMapfBIT5fqTSwU7VdVFPzLk5c2M26-TN12wjJC=s1600-w800 >>878
まあ、そうだろうな。
古田ぺーテン同類。 >>892
じゃそれでいいじゃないか、
これで奴婢埋葬痕跡が証明された。
ところで箸墓は? >>889
系図左端にいるのがスサノオ直系の大物主。
これが当時のオオキミ。
神武なんぞ大王でも何でもない。
その大物主の最後の阿田賀田須命が崇神に殺された。
クーデターだ。 >>888
>左側スロープ君の説に執着してるんじゃなくて
>左側スロープ君がバカだから言ってることが自己矛盾だらけだし
>デタラメなオハナシだってことを、あからさまに示しているだけ
まるで崇神が、モモソヒメである卑弥呼の40歳年下の弟であるという自分がバカではないみたいな言い方じゃないか。 >>887
>それを書いたのは俺じゃないし、
ハイ、また逃げた。 邪馬台国や卑弥呼を材料に食って行く
畿内説の学者は馬鹿ばっかり、
素人でも論破できる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています