X



邪馬台国畿内説 Part724
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:24:59.80
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1631859571/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:26:11.07
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:27:00.25
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:27:57.24
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:28:31.75
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:29:01.92
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:29:31.37
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:30:11.75
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:30:58.42
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:31:35.11
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:32:14.31
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:33:15.92
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:33:46.62
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:34:30.14
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:35:22.89
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:36:03.39
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:36:45.11
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:37:24.56
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:38:01.58
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:38:45.17
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:39:31.89
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:40:15.46
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:40:49.52
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:41:24.66
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:42:00.94
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:42:34.08
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:43:15.11
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:43:46.33
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:44:16.67
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:44:46.37
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:45:21.39
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:45:57.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:46:34.23
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:47:29.46
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:47:58.51
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:48:39.55
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:49:15.21
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:50:00.03
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:50:34.98
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:51:11.22
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:52:17.20
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:52:44.00
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:54:18.12
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:55:34.24
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0045◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:56:16.47
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0046◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:56:53.38
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0047◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:57:24.42
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かな
0048◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:58:03.49
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0049◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:58:28.59
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0050◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:59:00.88
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0051◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 22:59:38.46
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0052◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:04:07.40
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0053◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:04:43.85
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0054◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:05:20.44
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0055◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:07:17.16
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0056◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:08:41.79
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0057◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:09:29.08
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0058◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:10:04.55
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0059◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:10:37.06
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0060◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:11:46.11
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0061◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:12:14.79
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0062◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:12:42.89
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0063◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:14:14.36
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0064◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:14:44.13
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0065◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:15:23.70
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0066◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:16:00.00
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0067◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:16:44.09
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0068◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:17:14.00
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0069◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:17:43.16
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0070◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:18:12.35
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0071◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:18:54.88
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0072◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:19:17.97
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:19:49.68
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:20:59.44
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:21:31.39
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0076◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:22:02.38
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0077◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:22:37.43
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0078◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/22(水) 23:23:08.76
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0079日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 03:36:45.29
79
0080日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 05:09:41.36
>>1000
いかなる時も決して、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定や、
「日本國者倭國之別種也」などの、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
理由を言わないのが、
大和説学者らであり、スレ主や東大理系博士号自称男らの大和説者らだ
つまり、それって変な宗教や精神的な疾患患者
0081日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 06:01:14.99
>>80はうそ
そんな妄言を否定する理由はハッキリ言われてる
それって史料事実じゃないってね
0082日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 06:08:07.87
>>81
何をおっしゃる
九章算術の誤読を正当化しようとした畿内説はバツ
0083日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 06:20:30.84
808日本@名無史さん2021/09/22(水) 08:54:57.02
>>777
>>二中歴の年代歴に拠って

>>間違えてます。
仲哀天皇の死の前々日から十月十日で応神天皇が生まれtます。
仲哀天皇の死亡日と応神天皇の生誕日は同じ年。
倍歴でないことはアホでもわかりますね、わからないのはアホですか?<<


>間違えてます。
二中歴は、平安期の公的学者らによる、
「記紀の年代などの記載の否定や修正」の総決算的な文書であり、
「仲哀天皇の死亡日と応神天皇の生誕日は同じ年」という記載そのものに、
信頼性がありません。<

仲哀の死亡前々日から十月十日後の応神の誕生が「同じ年」と書かれてる日本書紀が倍歴か否かという話なのですが、あなたはアホですか?


>「書紀の神武即位元年から(数え年次計算で)569年間は、二倍年歴で書かれた」、
ということは、アホでもわかりますね、
わからないのはアホですか?<

全然分かりませんね、当時の平均寿命や平均在位から大きく逸脱していて、これを倍歴などと言うのは恐らく加古川のハゲ以外にはいないでしょう。
ひょっとしてあなたは加古川のハゲなんですか??
0084日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 06:38:02.51
>>83
そうですね
記紀神話を鵜呑みにし、当てはめるのは
よくありません。モモソが存在すら疑わしいし、もし存在していたとしても、年代比定はあやふや
0085日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 06:45:40.97
>>84
そうそう
単に、畿内説のいう「卑弥呼がモデルになった伝説上の人物」くらいの位置付けが順当
0086日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 07:42:53.92
>>84
モモソね
問題多いな、実在不明、年代不明、
これを、実在、年代は三世紀と決めつけ、卑弥呼=モモソなんて学問と言えないな。畿内説は学問では無い。

ちょっと言い過ぎかな テヘ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 07:57:15.86
>>86
>実在、年代は三世紀と決めつけ

まあ当然ながら正統派畿内説は
「実在、年代は三世紀と決めつけ」なんて全くしていないわけだが
0088日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 07:58:10.25
>>1
FAQに入る前までのテンプレを読んだ感想

古代畿内の研究のようにしか映らないのですが、、、
0089日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:01:12.56
>前スレ985
>(自女王國以北 其戸數道里 可得略載)
>「可得略載」で何も考えずに読み下しても「略載を得べし」と読める

この漢訳は、中文を日本語に直し、更に帰り読みして日本文として理解しているようだが、
「女王国以北の国は戸數と道里の略載を得べし(略記載できる/できた=可能)の訳では、
すでに略して記載しているのであるから、二重説明文となり無駄。
読み下しと言いながら、実は帰り読みして得べし(=可能の意?)としているところに問題がある。

依ってここは、
「女王国以北の国々は、其の戸の数、道の方角、(其道の)里の数(の三点セット)を調査確認できたので、略載しておく」と読むのが良いであろう。
さすれば読者は、「はて・・、ということは三点セットで調査できなかった国もあったのかな?」という流れになるわけだ。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:07:50.87
>>89
勝手に文字を足して読むのは邪道
誰も信用しない
0091日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:08:39.88
>>88
俺もそう思う。
地域、地域で歴史があるのがわかる程度かな?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:10:52.39
>>87
そうですか、箸墓は誰の墓だと思いますか?
0093日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:14:12.48
>>92
ヨコから
誰の墓とも現状わからない。男か女かも。陵墓の比定は記紀神話を元に当てはめているだけだから、、
0094日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:24:22.32
>前スレ985
「自女王國以北 其戸數道里 可得略載」
この文中において、戸数は「戸」の「数」であり、
「道」は或る特定の道とその方角を意味しているので、南至る投馬国の「南」は、投馬国に至る道とその方角を言っている。
そして「里」は、もちろん其の道の里の数である。

つまり「道里」を日本語風の熟語として読み、
何らかの意味・願望・妄想を付加するから迷路に入るのだ。
単に一文字ずつ、「道」と、「里」に分けてシンプルに読む方がわかりやすく、陳寿の文意に忠実なのである。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:26:12.56
>>93
すくなくとも、大王の墓ではない。  大王臣下の「忌部一族(阿波勢力)」の墓だ。   @阿波
0096日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:27:19.13
>>83
>>間違えてます。
二中歴は、平安期の公的学者らによる、「記紀の年代などの記載の否定や修正」の総決算的な文書であり、「仲哀天皇の死亡日と応神天皇の生誕日は同じ年」という記載そのものに、信頼性がありません。<

>仲哀の死亡前々日から十月十日後の応神の誕生が「同じ年」と書かれてる日本書紀が倍歴か否かという話なのですが、あなたはアホですか?

日本書紀自体も、古事記伝承記載の体裁では、
大和政権の歴史や正統性の証拠としては不適切であるとして、
大量の書き変えや盗用造作捏造をした半分偽書であり、
「仲哀の死亡前々日から十月十日後の応神の誕生」という記載そのものにも、信頼性が全くなく、証拠になりません。
あなたは、ひょっとしたら、例の東大理系博士号自称の詐欺師男なんですか?。


>「書紀の神武即位元年から(数え年次計算で)569年間は、
二倍年歴で書かれた」、ということは、アホでもわかりますね、わからないのはアホですか?

全然分かりませんね、
そりゃ、皇国史観宗教思想にクルった・・・・アホの話では、判る筈がありません。

>当時の平均寿命や平均在位から大きく逸脱していて、これを倍歴などと言うのは恐らく加古川のハゲ以外にはいないでしょう。

おや?、書紀の大和の年期記載が478年頃まで倍歴になっていて、
その後の「丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」の一倍年歴期間があり、
しかし、ヲホド継体の頃までは、二倍年歴と一倍年歴の混用があった、という事を認めるんですか?。

>ひょっとしてあなたは加古川のハゲなんですか??

「加古川のハゲ」なんて知らんし、ひょっとしてあなたは、皇国史観極右暴力団組織の街宣車のハゲなんですか?。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:30:52.29
>>90
そもそも陳寿の文章には省略が多く、また込み入った理屈もあって、読者の読解能力を試しているところがある。。
だから、その省略をいかに補って読むかが、読者の偏差値の高低程度を物語る・・、
0098日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:32:57.36
其戸數道里可得略載に続く其餘旁國遠絶 不可得詳、

と対比して読み込むべし、可と不可
0099日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:40:28.34
>>94
>つまり「道里」を日本語風の熟語として読み

中国でも熟語だよ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:42:55.70
>>91
畿内古代史の研究でいいんでねー
邪馬台国と関係ないな
0101日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 08:42:58.69
>>92
>箸墓は誰の墓だと思いますか?

卑弥呼
0102日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:01:38.11
テンプレ>>51
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。 <

これさ、何で残りの2,000里だけ1魏里432mを用いるのかな
九州本島到着までに萬餘里相当も同じにしないと整合性が取れない。
すると九州まで432メートル✖1万里=4千320キロ、、そんな馬鹿な
0103日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:02:20.09
>>100
北部九州のことも書いてあるので、明らかに嘘だな
0104日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:03:59.43
>>102
>九州本島到着までに萬餘里相当も同じにしないと整合性が取れない。

整合性がなくていい理由も書いてある
0105日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:09:37.44
>>99
つまりここで「道」とは、東南とか、東とか、南とかの方角をも包含意味する語でなくてはならない(包含しないと原文に対応しない)のだが、
「道里」を熟語化してしまうと、里数限定の「道の里」になり、方角が排除されてしまう。
それが文章の幅を狭め、誤解につながることになるのだ。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:13:30.49
>>102
テンプレ読まんでよし
馬鹿の書いたテンプレだから
しかし、畿内説はご都合主義が良くわかるな ワハハ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:14:31.23
>>104
それ、言い訳じゃん
言い訳するなら、載せない方が良い
0108日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:18:49.73
>>104
位置比定に使用しないって事

だったら、めちゃくちゃな計算は辞めた方が良い。、
算数、小学校からやり直し
0109日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:22:42.11
>>102
成程
これじゃあ 九章算術を理解できないのも無理がないな
0110日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:28:29.07
>>103
そりゃあ周りとの繋がりぐらい載せるさ、
周りの情勢だから、やや不確実だけどな
また、畿内側に立った見方をしてもしょうがないわ、
古代畿内史の研究だから
0111日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:32:16.59
>>110
郷土史に良くあるな。実際より大きく見せる郷土愛
0112日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:49:46.41
>>101
>>箸墓は誰の墓だと思いますか?

>卑弥呼

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
非常に確率が高い史料事実や史料実態に拠って、
バツね。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:55:54.52
>>107
>それ、言い訳じゃん

それを言ったら、整合性がないといかんってのも言い訳だな
0114日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:58:52.45
>>113
計算の仕方への仕方と
言い訳は違う
計算は明らかな間違いを指摘できる
0115日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 09:59:06.74
>>108
そうやって悪口しか言えないのは小学生以下だ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:00:00.90
>>114
ただの言い訳だよ
0117日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:01:58.44
>>113
すまん
計算の仕方と言い訳とは違う。
計算は明らかな間違いを指摘できる。
ここでは、単位が揃って無いので計算として成り立たない
0118日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:14:23.97
>>105
>つまりここで「道」とは、東南とか、東とか、南とかの方角をも包含意味する語でなくてはならない(包含しないと原文に対応しない)のだが、
「道里」を熟語化してしまうと、里数限定の「道の里」になり、方角が排除されてしまう。
それが文章の幅を狭め、誤解につながることになるのだ。

漢語の「二次熟語」には、前後の文字が対等の併記である場合と、
前の文字が後ろの文字の形容詞的従属的な関係である場合との、
二つの用法がある。
そして「道里」の場合は、「道と里」の対等併記だと言うよりは、
「道の里」というように「道」が形容詞的従属的な使用であり、
中心的な意味は「里」である。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:16:19.03
>>98
>其戸數道里可得略載に続く其餘旁國遠絶 不可得詳、
>と対比して読み込むべし、可と不可

その通りだ、但し対比すべきは「詳」、、
其戸數道里 可得詳(につき略載) 対 其餘旁國遠絶 不可得詳(因って以下国名のみ略載)
0120日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:23:06.32
>>103
>北部九州のことも書いてあるので、明らかに嘘だな

大和が卑弥呼の女王之所都だ、と主張すれば、その時点で、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
非常に確率が高い史料事実や史料実態に拠って、
バツだな。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:25:55.98
>>104
>>九州本島到着までに萬餘里相当も同じにしないと整合性が取れない。

>整合性がなくていい理由も書いてある

そんな「理由」は、テンプレのどこに書いてある?。
しかし、いずれにせよ、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
非常に確率が高い史料事実や史料実態に拠って、
大和説は、バツだな。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:27:18.92
>>118
道里で一番現代語に近いのは道矩ミチノリだと思います。行程でも良いかも
方位や距離を示そうとすれば、附則が必要です。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:29:32.04
>>101
女性の墓と確定してますか?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:31:29.87
>>117
当たり前
単位を揃えなさいと、小学生の時教えてもらった
0125日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:32:52.81
>>123
掘ったってわからんものを掘らずに確定するわけない
ただ女性の墓だと古くからの伝承があるってのみ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:32:57.93
>>119
>>其戸數道里可得略載に続く其餘旁國遠絶 不可得詳、
と対比して読み込むべし、可と不可

>その通りだ、但し対比すべきは「詳」、、
其戸數道里 可得詳(につき略載) 対 其餘旁國遠絶 不可得詳(因って以下国名のみ略載)

成程。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:33:57.47
>>117
単位が揃って無いって、どこが?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:35:23.11
>>116
小学校の時、計算で単位を揃えなさいと教わらなかった?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:35:38.40
他人の投稿丸写しして「成程」とか一言だけ書くやつって、どこのバカだろう?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:38:10.38
>>92
>そうですか、箸墓は誰の墓だと思いますか?

磯城地域における崇神の前王。
そして山代の五塚原や大阪交野の雷塚とも強いつながりのある人物、
つまりイカガノシコオ。
五塚原はイカガノシコオの妻の真木姫の父・長溝
交野の雷塚はイカガノシコオと真木姫の子・タベノスクネ。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:39:16.35
「〜自女王國以北 其戸數道里可得略載」

女王國までの戸数、路程は略載することができる

投馬國以降日数で記載されているので略載
里数で書かれた地域が「漢時有朝見者」の地域
日数以降が東夷伝序文の
「然荒域之外重譯而至非足跡車軌所及未有知其國俗殊方者」
「東臨大海長老說有異面之人近日之所出」の地域
=倭人が住む土地
0132日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:47:36.45
>>96
>日本書紀自体も、古事記伝承記載の体裁では、
大和政権の歴史や正統性の証拠としては不適切であるとして、
大量の書き変えや盗用造作捏造をした半分偽書であり、
「仲哀の死亡前々日から十月十日後の応神の誕生」という記載そのものにも、信頼性が全くなく、証拠になりません。
あなたは、ひょっとしたら、例の東大理系博士号自称の詐欺師男なんですか?。

それなら倍歴であるという主張も意味を成しませんね。
倍歴と言うのは奇麗に半分で割れるから倍歴なんですから。

>おや?、書紀の大和の年期記載が478年頃まで倍歴になっていて、
その後の「丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」の一倍年歴期間があり、
しかし、ヲホド継体の頃までは、二倍年歴と一倍年歴の混用があった、という事を認めるんですか?。


全然なっていませんね、神武は2世紀から3世紀。
神武即位を倍歴で紀元前というのは、やはり加古川の毛沢東三千万人殺害支持者の大ハゲしかいませんね。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 10:50:53.36
>>127

1万2千里-1万里=2千里、、単位は里で統一しています。
そこで1里=432メートルとした場合
全ての1里は432メートルに合わせる必要があります。単位を揃えると言う事です。
するとこの計算式は
1万2千✖432mー1万✖432m=2千✖432mで計算式は成り立ちます。
結果
0134日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:01:32.89
>>127

1万2千里-1万里=2千里、、単位は里で統一しています。
そこで1里=432メートルとした場合
全ての1里は432メートルに合わせる必要があります。単位を揃えると言う事です。
するとこの計算式は
1万2千✖432mー1万✖432m=2千✖432mで計算式は成り立ちます。
結果
5132キロー4320キロ=812キロ
単位は揃っています。
答えの2千里が812キロなら
引いた1万里(九州北部迄の距離)4320キロとなります。答えの2千里(北部九州から邪馬台国までの距離)812キロです。
スレ主は北部九州まで4320キロと言っているの事になります。
単純な算数の定理です。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:08:48.88
>>127
ダブル投稿失礼
計算式を無視して答えの2千里だけ魏里?を使うのは間違いです。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:13:33.01
>>1
と言う事でFAQ58も修正の余地あり
0137日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:20:36.59
>>111
畿内古代研究には笑った。
郷土史あるあるだな、
やたら過大宣伝するからな
0138日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:34:56.77
>>129
些細な事を、言うなよ。
同意したと言うことじゃん。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:40:58.82
>>138
中身がなくって邪魔くさい
0140日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:43:10.15
>>136
奥山は修正しないよ。
意地っ張りのコンコンチキだから。
畿内説にとって迷惑な人です。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:43:25.63
>>118
であるから、言葉を借りるなら「対等併記」であると主張しているわけだ。
さもなくば、各行程に書かれている方角は付けたりで、意味/用をなさなくなり、
単に戸数と里数だけを略載しただけで、方角は含まれないことになるではないか。
ま、畿内説や福岡県内説は道の方角が重視されると、その時点でアウトになるから、何が何でも除外したのであろうがな・・、
0142日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:47:01.00
>>135
>計算式を無視して答えの2千里だけ魏里?を使うのは間違いです。

誰が、誰の書いた計算式を無視してる?
0143日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:51:06.69
>>82
>九章算術の誤読を正当化しようとした畿内説はバツ

誤読してるのは、アンチ畿内説の方だよ
「道里」という言葉の意味すら理解できずにわめいているだけw
0144日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:51:16.79
>>141
>単に戸数と里数だけを略載しただけで、方角は含まれないことになるではないか。

「道」という文字に方角を示す意味が含まれないんなら、なんの問題も無いよな
0145日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:52:19.49
>>140
>奥山は修正しないよ。

そりゃ、しないだろう
正しいものを修正したら間違っちゃう
0146日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 11:57:44.80
>>100
>畿内古代史の研究でいいんでねー
>邪馬台国と関係ないな

畿内古代史を研究していった結果、魏志倭人伝に記載された邪馬臺國と時代、
状況が一致し、3世紀畿内が大陸王朝と交流していた物証がいくつも出ているから、
ならば「3世紀畿内王権が三国志では邪馬臺國と書かれたのだろう」と
高い蓋然性をもって推定できる訳だ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:03:18.45
九州説もうナリフリ構ってらんないのねw
0148日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:06:39.95
>>142
スレ主
2千里は倭人伝では記述されていない。、
1万2千里ー1万里から導き出された数値だからです。
その2千里だけに432mで計算するのは間違いです。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:07:44.73
道里遠近を道里の遠近と読まずに、道里と道里遠近は別の概念とかww
戸数多少と対比されたら、これを言うやつはいなくなったなw

日数で書いてあるのは距離じゃないとかww
日数でも里数でも道里を表現できるっていうのには、結局反論できない

未だにわめいているのは、
「里数じゃないと道里じゃない
 だって、道里は道の里だもん、一字ずつ読むんだもん」
というものくらいかな

熟語は昔はなかったとか、熟語は日本で作ったとか
デタラメばかりw
0150日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:08:22.44
>>142
FAQ58
0151日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:10:43.79
>>150
FAQ58がQ58の書いた計算式を無視してるって、言ってることがおかしくない?
0152日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:11:04.16
>>149
だったら、陸行一月に宿泊日数は入らないよね。
日数が距離なんだからね
0153日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:13:27.48
>>144
ここで「道」と言っている具体的意味は、「道とその方角」だ。
古代に道路標識は無かった。だから幾本か或る道のうちどの道とどの方角へ行く道なのかの二つは最重要・不可欠の目印要件だった。
方角指定なくして行程記載は無意味だったのだ。
それを軽視/無視し、トンデモ北東の糸島へ行ったから迷路に入った。まさに「道とその方角」を誤ったのだ。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:15:42.20
>>148
>その2千里だけに432mで計算するのは間違いです。

どうして、理由は?
その主張、スレ主じゃなくても疑問に思うな
0155日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:17:40.06
>>152
>だったら、陸行一月に宿泊日数は入らないよね。

なぜ?
人は一ヶ月も宿泊しないで歩けるんですか?
0156日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:20:59.35
>>154
畿内説の人は単純な事もわからないみたいですね。
計算式も示してあります。
あなたは2千里をどのようにだしましたか? 倭人伝には記述されてません。
もしかして、I万里は短里で2千里は魏里とでも
0157日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:21:35.75
アンチかくやの主張はわけわからんものが多いな
そうなる理由は、思い込みが強くて、説明しなくても当然だと思い込んでることを言わないから、異常なまでの説明不足になるんだと思う
0158日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:23:48.20
>>156
>もしかして、I万里は短里で2千里は魏里とでも

あなたちょっとオカシいよ
スレ主はもしかして、1万里を短里で計算してないでしょ?
0159日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:23:51.01
>>155
でしょう。だから宿泊日数もわからない、陸行一月だけでは距離はわかりません。つまり、日数だけでは距離は分かりません。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:25:32.17
>>158
その部分は遊んでるだけですよ。
さて、あなたはどのように2千里を出しますか?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:30:23.41
>>160
>その部分は遊んでるだけですよ。

なら>>117で言ってた「単位が揃ってない」というのはウソなんだね?
じゃ、FAQ 58は間違いじゃないから修正される必要もないんだね
0162日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:33:45.55
>>159
>だから宿泊日数もわからない、陸行一月だけでは距離はわかりません。つまり、日数だけでは距離は分かりません。

どうして?
一ヶ月なんだから宿泊日数は29か30と分かってるでしょ?
そして一日あたり人がどのくらい進めるかは常識があるでしょ?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:35:09.20
>>160
ご苦労様
馬鹿を相手にしない方が良いよ
1万2千里から1万里を引いた数値に決まってるよ。2千里だけ長里を使うのが正当と思ってる奴が低能なんだよ。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:36:12.30
>>162
その常識で陸行一月の距離を出してください。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:37:55.56
>>163
>2千里だけ長里を使うのが正当と思ってる奴が低能なんだよ。

で、2千里だけ長里を使うのが正当と思ってる奴って実在するの?
それとも性能の悪い>>117の脳内にだけ存在するの?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:40:04.38
>>164
>その常識で陸行一月の距離を出してください。

ざっと900〜1300里くらいだろう
0167日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:42:32.87
またアンチ畿内説が自滅したようだ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:50:55.47
>>166
それは短里ですか?長里ですか?
0169日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 12:55:34.98
>>165
スレ主 テンプレ読んで
0170日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:04:10.91
>>167
しょうもな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:05:49.84
>>159
>陸行一月だけでは距離はわかりません

だから魏志倭人伝では、陸行、水行の日数を里数に換算せずに
日数のままで道里を略載してるんだろ?

何も問題ないじゃないか?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:06:36.16
>>168
>それは短里ですか?長里ですか?

短里とか長里なんてもの無いから
魏晋朝の里があるだけ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:07:24.65
>>168
あんた賢いね、見事!
0174日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:07:45.31
>>169
>スレ主 テンプレ読んで

書いた本人は読んでるさ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:08:14.22
>>173
いや、馬鹿だろう
0176日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:19:31.32
女王国までの1万2千里は
洛陽から大月氏までの1万6千370里に対する
洛陽から楽浪郡までの5千里+1万2千里の観念的な里数
0177日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:22:11.76
>>172
すると、4〜5百キロですか。
私は3日に1日休み(食料確保等)で移動日は20日で、一日10キロ程度の歩行と考えます。山あり谷ありゆえ。すると200キロです。
人の考え方一つで同じ、日数でも差がでます。
だから、日数で距離は推し量れません。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:22:41.67
自爲王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛。

常有人持兵守衛て卑奴母離の一部ことか?

卑弥呼 生口四人,女生口六人
壹與  男女生口三十人

生口3倍、卑弥呼亡くなる前に狗奴国消滅かな?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:27:52.46
結局またテンプレが間違いだとか言ってたのは、毎度の通りアンチの自爆で終了か
いつも情け無いな
0180日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:32:26.22
>>177
>だから、日数で距離は推し量れません。

でも距離なら出てるだろう
陸行一ヶ月の距離だよ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:33:57.68
>>177
そだね
スレ主は陸行一月は難波から纏向までの距離と言ってた。50キロぐらい?
難波で相当日数停泊したそうだ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:43:25.69
アンチがまた自爆
0183日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:44:36.97
>>180
問題は魏志倭人伝です。
さてさて、陸行一月は何キロになるでしょうか?
水行も同じです。正確な距離は誰にもわかりません。
だから、水行20日の距離は推し量れません。よって方位しか正確にはわかりません。日数で妥当な数値は出ません。詳細が、わかれば別ですが。
倭人伝では距離の表記の無い日数だけでは、比定地は難しいでしょう。
だから、日数は参考程度と個人的には思っています。方位だけが頼りかな?
0184日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:51:20.81
さて、スレ主が嫌がる九章算術に行きましょうかね。
結論だけ、九章算術の日数は距離と関係ありません。あるのは賦役、、労働日数だけです。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 13:56:07.14
>>181
思い出しました。
彼の言い分が通るなら、、やめときます。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:02:46.45
>>184
また惨敗したいの?
毎日連敗だろ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:04:58.03
>>184
>さて、スレ主が嫌がる九章算術に行きましょうかね。

本人がテンプレに載せてるのに、嫌がるわけない
妄想きつすぎ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:06:45.89
>>184
あんたって>>117
0189日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:24:11.26
>>188
人違いです。
彼もいいところを突いてますが、
別人です。
あれは結論が見えてますから、参戦しても面白くありません。彼が正解。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:24:42.19
>>185
>彼の言い分が通るなら、、やめときます。

「彼の言い分が通るなら」って、彼の言い分は貴方と同じでは?
0191日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:28:31.21
>>189
>あれは結論が見えてますから、参戦しても面白くありません。彼が正解。

でも、スレ主の「計算は明らかな間違いを指摘できる」「単位が揃って無い」
という>>117はウソをついていて惨敗したんんだから
「彼が正解」というあなたも惨敗しててウソつきなんでしょ?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:46:20.71
>>191
数学の定理です。惨敗どころか楽勝のケース。
あとは彼が解説した通り。
さて

◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

ここでのアンサーは、水行で日数が書いてあるから、どんだけかわからないが進んだのは確かだでしょう。
これには、反乱しません。
しかし、関係の無い九章算術を持ちだしたところに問題があります。
九章算術は賦役、租税のひれい、比率計算であり距離は関係ありません。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:48:43.67
魏志倭人伝書いた人また聞きだった可能性がある。
畿内と言っても丹後だったとしたら、機内には収まらない。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:57:03.06
>>192
>数学の定理です。惨敗どころか楽勝のケース。

発狂したんですか?
>>117は「計算は明らかな間違いを指摘できる」「単位が揃って無い」
というウソをついていて惨敗したんんだから
「彼が正解」というあなたも惨敗しててウソつきということですが

それで決着でしょ?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:57:05.46
反乱→反論

アンサーとしては幼稚です。
単に、日数が書いてあるから進行はした。だから距離は出た、、、こんなの書くまでも無く常識。
Qが悪いかもしれません。いずれもスレ主の創作だから仕方ありませんが
0196日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 14:58:33.40
>>193
>畿内と言っても丹後だったとしたら、機内には収まらない。

明らかに日本語がおかしいのだが
0198日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:01:13.76
>>194
彼が答えた通り、
暇だから答えましょうか
彼と重なりますよ、
あなたにまず質問します。
2千里を出すにはとのような計算式とらしますか?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:02:31.49
>>195
誰への回答だかわからない
「単に、日数が書いてあるから進行はした。だから距離は出た」
これ、誰の発言?
実在します?

きみの創作ですか? 
IQが低い人かも知れませんから仕方ありませんかね
0200日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:03:05.50
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:06:17.70
>>200の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国≒儋耳朱崖」プロパガンダ…嘘】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0202日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:08:06.15
>>184
>結論だけ、九章算術の日数は距離と関係ありません。あるのは賦役、、労働日数だけです。

その日数が、道里として示されているものです

たったこれだけのことが理解できないんだから、アンチ畿内説はバカ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:08:28.51
198=キ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:08:46.91
>>198
>2千里を出すにはとのような計算式とらしますか?

「とらします」の意味がわからないが
1万2千里ー1万里=2千里だろう
0205日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:09:31.76
195=キ
0206日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:11:19.62
192=キ 他人を装う 嘘つき
0207日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:12:42.01
189=キ 他人を装う 嘘つき
0208日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:13:15.20
>>204
ですね、
各々の1里は何メートルですか?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:14:05.55
185=キ 他人を装う 嘘つき
0210日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:14:14.09
もしかして、九章算術に絡んでいるアンチの人たちは
「日数から距離が計算できない」というのを勝利条件だと思ってるの?

テンプレに書いてあるのは、
「九章算術でも道里略載が日数で表されていることが確認できる」だよ?

こんな簡単なことも理解できないの?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:16:32.76
>>203
>198=キ

というか彼、折り紙付きの低知能さんなのでは?
0212日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:17:32.54
>>184 キ
0214日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:18:44.48
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径百歩(140m)の冢(円墳)を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、行き止まりの枝葉を必死に追いかける枝葉末節な論争が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0215日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:18:58.91
>>208
>各々の1里は何メートルですか?

すべて400m+アルファ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:20:37.63
>>211
希薄をキウスと読むと思ってた御仁だよ
0217日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:21:06.75
>>213
あ、「キ」って、その印のことじゃなかったのか
カンチガイしちゃったよ
0218日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:23:55.20
>>214の意味のないコピペ、何度も何度も貼る人がいるけど、
これ貼ってるの誰??
0219日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:26:46.45
>>215
1里あたりのメートルが揃いましたので、計算式に問題はありませんね。

さて、この計算の元となる
1万2千里や1万里は何処からどこまで
ですか?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:30:32.44
>>219
>1万2千里や1万里は何処からどこまで


1万2千里は帯方郡治から倭女王の都まで
1万里は帯方郡治から末盧国まで
0221日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:30:50.79
キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行う。
一時期、名前欄の「,」を消し忘れたまま自演を繰り返し、周囲を愕然とさせた。
また、畿内説スレの>>1を騙りトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで偽スレを立てたことが数度あった。
ようするに最低のクズである。

「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」、「論じろ」など特徴的な言い回しの多用、書き込み始めると多投するなどの特徴ですぐに判別できる。
1 ◆n7jxAxKCBhb6を奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
最近では泡バカをまねて文末に「ワハハ」と書くことも多い。

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
さかんに渡来人を持ち上げることなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:32:32.43
>>218
スレ流しの荒らしをしたい低脳のアンチ畿内説だろう
0224日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:37:45.44
>>223
畿内説の者が自分たちのスレを荒らすわけないだろうが
0225日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:41:06.33
>>221
「箕」って普通は「みの」とか「み」って読むよね
「キ」なんて変換するのも日本人ぽくないよね
0226日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:41:20.87
>>202
道里は距離ではありません。道のりです。
だから、同じ距離でも上り下りで所要日数は代わりにます。均輸で言う日数は所要日数です。賦役の多寡を出す比例計算に日数は用います。距離ではありません。
荷物を運ぶのに日数がかかったら、距離は出ただろう。の反論もあるでしょうが、、それなら九章算術を持ち出すまでも
ありません。常識ですから、、
スレ主はそんなに幼稚とは思えません。
幼稚なFAQで良いですか?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:44:35.64
>>226
九章算術を読んでないと、そういう妄想をするのかな
0228日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:44:57.98
>>219
>1里あたりのメートルが揃いましたので

これが既に意味不明
大陸王朝の史書では、皇帝勅定の単位系以外は記載されていない
一里=三百歩=千八百尺

これから外れる場合は、不正確、あるいは誇張表現であると分かるというだけ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:48:33.83
>>226
>荷物を運ぶのに日数がかかったら、距離は出ただろう。の反論もあるでしょうが、、

ありもしない反論を空想するのが幼稚
0230日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:49:29.92
>>225
日本ではなじみがないがお隣の国に「箕子」っつう伝説的君主がいるんだよな
0231日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:50:23.65
>>227
叉出たー、畿内説のカラ宣言!
0232日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:51:43.76
>>226
>荷物を運ぶのに日数がかかったら、距離は出ただろう

◆FAQ 78に書いてあるのは、「日数で道里が表現されている」ってこと
里数への換算ができるできないとか言い出してるのは論点がずれてるというか、
日本語が通じない人がバカ言ってるなとしか
0235日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:57:06.53
>>226
>道里は距離ではありません。道のりです。

理由もなくあなたの信念を連呼されても何の役に立たないよ
「道里が険しい」と言えば道のりだし
「道里を取る」と言えば旅路を行くこと
「道里を計る」と言えば距離のことだ
0236日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 15:58:23.99
>>220
そうですね。
スレ主の出した
九州北部から邪馬台国までは2千里で約800キロでしたね、、1里400メートとします。
すると
彼の元になる計算では帯方郡治から末盧国までは1万里は4000キロになります。

つまり、答えの2千里だけ取り出し魏里を使うと、上記のように帯方郡治から末盧国まで 4000キロも容認しなければいけなくなります。
2千里は倭人伝には記述に無く、計算して出てきたので元になる計算式との整合性が必要です。

ここまでで、わからなければ、わたしの説明が悪いのでしょう。数学に長けてる人にお聞きしてください。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:00:48.18
間違った、あるいはたどたどしい日本語
多くの誤変換

翻訳アプリは何使ってるのかな?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:00:55.48
>>230
>箕子

箕子朝鮮は封神演義を読んだ人にはそれなりに知られていると思うけど?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:04:29.30
>>201
>>214
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0240日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:05:53.86
>>201
内容は何が何だかわからんけど
こういうデザインは好きだな。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:06:07.31
>>236
>スレ主の出した
>九州北部から邪馬台国までは2千里で約800キロでしたね、、1里400メートとします。
>すると
>彼の元になる計算では帯方郡治から末盧国までは1万里は4000キロになります。
>つまり、

つまり、
>>117は「計算は明らかな間違いを指摘できる」「単位が揃って無い」
というウソをついていて惨敗したんだよね
「彼が正解」というあなたも惨敗しててウソつきということですが?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:08:01.81
>>239
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0243日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:09:36.90
惨敗アンチ畿内説が荒らしに夢中
0244日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:10:55.65
>>242
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:14:54.59
>>232
意図がそこにあるなら
無駄な作業です。多分、道里からググったのでしょう。幼稚なFAQです。道里や九章算術を持ち出す必要もありません。
学を示そうとしたかも知れませんが駄作です。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:16:38.72
>>244
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2681年w)。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:24:31.64
道のり

?さんの家に行くにはどうしたら良いですか

アンサー
ここを真っ直ぐに行って、突き当たりを、右に曲がったら理容院があります。
その真向かいが?さんの家です。

ここには、距離は関係ありません。

補助語が有れば別ですが、
例えば、大人の足て歩いて5分(速度)とか
0248日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:25:22.20
>>245
>意図がそこにあるなら
>無駄な作業です。

理由もなく否定しても反論にならないし

>多分、道里からググったのでしょう。

そんな空想しても意味ないし

>幼稚なFAQです。

罵っても反論にならないし

>道里や九章算術を持ち出す必要もありません。

とかいう理由もないし

>学を示そうとしたかも知れませんが駄作です。

あなたが無学を晒した駄目な人です
0249日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:25:57.17
>>246
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0250日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:30:21.12
今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:31:22.88
またも惨敗したアンチ畿内説がスレ流しの荒らしに必死ですね
0252日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:32:38.73
>>249
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢(×騎馬)民族皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄の独占輸入権=親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)】
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…【半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→本家・阿毎多利思比孤・天智太宰府→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0253日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:37:17.39
>>245
>意図がそこにあるなら

「そこにあるなら」って、日本語として読めば、それ以外の意図・目的は
ないのが最初から分かるだろうに

>無駄な作業です。多分、道里からググったのでしょう。幼稚なFAQです。
>道里や九章算術を持ち出す必要もありません。
>学を示そうとしたかも知れませんが駄作です。

FAQが何のために置いてあるかわかってるか?

九州説の頭の悪い人が、「道里は道の里数だから、水行二十日は道里じゃない」って
言い張ったのに対して、
「同時代資料(九章算術)でも道里が日数で示されていますね」って教えているんだよ
九章算術は文章が短くて、誤読の余地が少ないから例示として好適なものだし

それでも「道里遠近と道里は別の概念」とか、無茶苦茶なことをいうバカは湧いて出るんだけどねw
0254日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:38:01.51
>>241
罵られても構いませんが
理解はできましたか?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:55:34.19
>>254
あなたが嘘をついて惨敗しただけで
FAQ58は正しいことが理解できました
0256日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 16:56:30.13
>>255
阿保
0257日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:00:01.95
>>248
何処を騙したか提示ください。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:06:23.97
>>257
>何処を騙したか提示ください。

誰も何も騙していないのに、何を言ってるんだ?

九章算術に触れている◆FAQ 78には、真っ当なことしか書いてないし
騙す要素なんか皆無だぞ?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:09:43.79
>>253
難しかしいよ
お前は数式理解できたか、、
単純に日数が表記されてたら短いか長いかわからんが動いてたから距離がでただけのことだろ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:09:44.21
>>249
またプルタぺーテン?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:12:26.90
>>258
単純な事をややこしくしてるだけだろ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:17:18.20
>>248
段落多すぎ
0264日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:18:36.94
纏向って桜井市限定か天理とか橿原はどう
0265日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:20:13.05
>>259
>単純に日数が表記されてたら短いか長いかわからんが

バカだなぁ
日数で、長いか短いかの比例計算をするんだよ!

それが「道里遠近」の内容であり、行道十日のように日数で道里が示されている訳だ
行道十日 と
水行二十日が、同じ形式で道里を表現しているのが分かるな? 
0267日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:22:43.41
>>258
ゴメン、私が騙したのは何処ですか
0268日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:24:41.26
またまた出たー、畿内説のカラ宣言!
0269日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:26:46.44
>>222
あんたがスレ流し、

あっ俺もか テヘヘ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:32:46.99
畿内説の奴らは詐欺師だな
残り2千里だけ魏里を使ったからって騒ぐなよ、いつもの詐欺でいいよ
0271日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:34:09.01
>>131
>「〜自女王國以北 其戸數道里可得略載」
女王國までの戸数、路程は略載することができる
投馬國以降日数で記載されているので略載

「投馬國以降日数で記載されている」と言い出すと、少し違う。
投馬國は、不彌國の南の方の側副傍線国として書かれて、「水行二十日」と書かれているから、
「水行二十日」の所要日数付近にある事になり、日数で記載されている事になるが、
投馬國の次に説明されている邪馬壹國女王之所都は、行程の目的地であって、
それに関する「水行十日陸行一月」は、女王之所都の説明として書かれているから、
郡から女王之所都の所要日数説明になり、「投馬國以降」にはならない。

>里数で書かれた地域が「漢時有朝見者」の地域

ちょっとだけ問題がある。
日向に投馬國が成立したのが、海彦山彦の紀元前2世紀頃であり、
しかし薩摩の東テイ人の「襲」が征服された時期は、
書紀が大和の将軍の景行の時と書いているために、卑弥呼の頃には「里数」が書けたのか?は不明である。

>日数以降が東夷伝序文の
「然荒域之外重譯而至非足跡車軌所及未有知其國俗殊方者」
「東臨大海長老說有異面之人近日之所出」の地域=倭人が住む土地

この文では、「東夷」として、高句麗や扶余以東〜朝鮮半島付近を指しているようであり、
「東臨大海長老說有異面之人」の「異面之人」という説明では、「東」方であるから、
朝鮮半島の南〜南東の九州付近を指しているのか?は不明であり、
むしろ、日本列島の出雲以東の異面之人の事を指している可能性が高い。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:36:59.45
>>268
>畿内説のカラ宣言!

どれが?
アンチ畿内説は、日本語がまともに使えないやつばかりで困る
0273日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:37:01.10
>>270
>残り2千里だけ魏里を使ったからって騒ぐなよ、いつもの詐欺でいいよ

どこの誰が「残り2千里だけ魏里を使った」の?
0274日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:38:21.85
>>267
>ゴメン、私が騙したのは何処ですか

先に、どれを投稿した人なのか名乗れよ
あんた誰だかわからんだろ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:45:22.91
>>267
翻訳ソフトは何を使っているのですか?

あなたがネイティブな日本語話者とは思えません。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:49:35.05
>>132
>>日本書紀自体も、
古事記伝承記載の体裁では、大和政権の歴史や正統性の証拠としては不適切であるとして、
大量の書き変えや盗用造作捏造をした半分偽書であり、
「仲哀の死亡前々日から十月十日後の応神の誕生」という記載そのものにも、信頼性が全くなく、証拠になりません。

>それなら倍歴であるという主張も意味を成しませんね。倍歴と言うのは奇麗に半分で割れるから倍歴なんですから。

いや、関係がない。
二中歴の年代歴は、平安末の公的学者らが、書紀の記録を否定訂正して、
平安朝廷の過去の歴史の年次記録の実態を示したものであり、
それでは、西暦478年頃以前には大和王権の書紀は二倍年歴を使っていた、
という説明になっていた、という事。

>おや?、書紀の大和の年期記載が478年頃まで倍歴になっていて、
その後の「丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」の一倍年歴期間があり、
しかし、ヲホド継体の頃までは、二倍年歴と一倍年歴の混用があった、という事を認めるんですか?。

>全然なっていませんね、神武は2世紀から3世紀。

二中歴は、そんな事を全く書いていませんね。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:50:19.44
九州説が惨敗しすぎだろ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 17:58:19.30
あなたが先に私の投稿に、騙したと言ったのでしょ!
そのどの部分か聞いてるのですよ。
私が騙した投稿部分も特定できず、私が騙したと言うのですか?
0279日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:01:07.66
えー、毎度お騒がせ、畿内説のカラ宣言!
0280日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:01:50.07
>>277
阿保
0281日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:02:12.62
>>278
>あなたが先に私の投稿に、騙したと言ったのでしょ!

オレが?
いつ、どこで?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:05:21.67
>>275
翻訳ソフトは、ネットで無料の物
後はお付き合いのある中国の方
0283日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:06:24.64
>>282
あと、独学
0284日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:07:21.33
>>146
>畿内古代史を研究していった結果、魏志倭人伝に記載された邪馬臺國と時代、
状況が一致し、

3世紀には「畿内」も「邪馬臺國」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったから、
始めからバツね。

>3世紀畿内が大陸王朝と交流していた物証がいくつも出ているから、

いや、3世紀の大和が大陸王朝との直接的な交流なんて殆どなく、大和は、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の、
「地方の市を監督する大倭職」の旧小国の一つであり、
それを介して大陸王朝からの流入物が大和に入って来たのは、3世紀末以降の事だよ。

>ならば「3世紀畿内王権が三国志では邪馬臺國と書かれたのだろう」と
高い蓋然性をもって推定できる訳だ

推定出来ないから、バツ。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:07:40.05
>>281
じゃあお互い、相手違いの投稿ですか
失礼しました。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:09:39.22
>>258
嘘つくなよ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:12:37.36
>>276

>二中歴の年代歴は、平安末の公的学者らが、書紀の記録を否定訂正して、
>平安朝廷の過去の歴史の年次記録の実態を示したものであり、

今はその書紀の年代の話をしており、それが倍歴かどうかという事なのに、
「平安朝廷の過去の歴史の年次記録の実態を示したもの」とは何を言ってるのですか、
禿げ頭にウジ虫が湧いてるのですか?
>それでは、西暦478年頃以前には大和王権の書紀は二倍年歴を使っていた、
>という説明になっていた、という事。

何を言ってるのですか、
禿げ頭にウジ虫が湧いてるのですか?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:17:48.81
>>241
やっとわかりました
>>117ですね、彼は嘘はついて無いと思いますが
彼のどの部分が嘘なのですか?
弁護するつもりはありませんが、
強いて言えば、意見を言い訳とした所??
それじゃ無いですね、言い訳は彼の私見だし、嘘では無いし、、
良くわかりません。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:22:19.48
>>149
>道里遠近を道里の遠近と読まずに、道里と道里遠近は別の概念とかww
戸数多少と対比されたら、これを言うやつはいなくなったなw

道里遠近と戸数多少とは、元々関係のない違う概念だよ。

>日数で書いてあるのは距離じゃないとかww
日数でも里数でも道里を表現できるっていうのには、結局反論できない

三国志でも九章算術でも隋書でも、
「日数」と「里」とは、違うものだ、として書き分けられいるよ、

>未だにわめいているのは、「里数じゃないと道里じゃない
 だって、道里は道の里だもん、一字ずつ読むんだもん」というものくらいかな

未だに「道里=日数」と喚いているのは、東大理系博士号自称男だけかな。

>熟語は昔はなかったとか、熟語は日本で作ったとかデタラメばかり

東大理系博士号自称男やスレ主は、「道里」のような二字熟語では、
「道」は形容詞的文言であって、どんな場合にも「里」が本体になっているから、
「道里」は「日数」にはならない、
という事が判らないらしい・・・・アホ。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:24:48.96
>>288
> >>117ですね、彼は嘘はついて無いと思いますが

でも>>117はFAQ 58について
スレ主の「計算は明らかな間違いを指摘できる」「単位が揃って無い」
というウソをついていて惨敗したんんだから
「彼が正解」というあなたも惨敗しててウソつきでしょ?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:26:55.50
>>153
>ここで「道」と言っている具体的意味は、「道とその方角」だ。・・・

いや「道」と「道とその方角」とは別であり、
「道=道とその方角」にはならない。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:27:13.90
>>284
魏志の時代に
宋時代の「東征毛人五十五國」?
九州もないよ。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:27:49.22
>>1
昼間にくだらん、投稿したな 
お前は24時間アホで通すつもりか
2千里だけ魏里を使うのは詐欺だよ
0294日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:29:22.06
>>293
どれが1の投稿?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:36:44.89
>>291
その通り
0296日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:37:35.69
>>286
>嘘つくなよ

何がどう嘘なのか具体的に、特定できるように書いてくれww
こういうところで、頭の良しあしが如実に出るんだけどなw

相手に伝えたいことを分かりやすく提示する

これができる九州説が皆無なんだよなww
0297日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:37:57.07
>>294
あんたに関係無い
0298日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:38:25.61
>>282
>翻訳ソフトは、ネットで無料の物

聞き方が悪かったかな?
あなたの母語は何ですか?
0299日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:40:44.87
>>293
>2千里だけ魏里を使うのは詐欺だよ

そんなこと誰もしてませんがなww
魏志倭人伝に魏里以外が使われていたら大笑いだって話

魏里で考えて矛盾がないところはある程度参考にできる
魏里に合わないところは、不正確な情報しかなかったってことだ
0300日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:42:18.81
>>258
騙すつもりは無いで良いです。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:42:19.57
>>258
騙すつもりは無いで良いです。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:45:22.51
ヒッチャカメッチカ
皆コテ付けろとは言わんがスレ主はコテ付けろよ
レス稼ぎと思われても仕方ないな
0303日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:48:17.85
>>289
>道里遠近と戸数多少とは、元々関係のない違う概念だよ。

はい、九章算術を読んでいない or 読めていないという宣言ですねww

道里と戸数を同じように比例計算に使って答えを出すんだよww
その比例計算の時の数値の大小を、
道里の場合は遠近、
戸数の場合は多少
と書いてある

同じ扱いをする同様の概念で、対句として書いてあるんだから
もともと関係ないなんていう言い分は通らないww

そして問題文中で与えてある数字が
「乙縣九千五百戶,行道十日」の形で与えてあって
戸数 → 九千五百戶
道里 → 行道十日
なのは、誰が見ても明確だろ?
小学生でもここまで説明すれば分かるぞ?

これが分からないとか、道里と道里遠近は別の概念とかいう人は
知的能力において小学生以下だってことだww
0304日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:54:31.04
>>155
>>だったら、陸行一月に宿泊日数は入らないよね。

>なぜ? 人は一ヶ月も宿泊しないで歩けるんですか?

普通は、旅程日数は、夜は歩いたり進んだりしないで、寝た場合の日数なんでしようね。
しかし、軍の行軍などでは、そんなのんびりしていては負けるから、夜も行軍した事があったかの知れない。
また天候の加減でも、何日も宿泊する事があったかも知れないが、
しかし、やはり「陸行日数」として天子に報告するのは、昼間の陸行での日数でしょうね。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:54:34.12
>>300
>騙すつもりは無いで良いです。

あなたが勝手に「良い」と言っても
本当のことが書いてあるんだから、つもりもなければ騙すもないぞ
0306日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:55:08.55
>>290
単位が揃って無いと計算は成り立たないと思うが、、
9メートルから90センチひいたら、8.1メートル
この計算は90センチを0.9メートルとして始めて8.1メートルが出るなので無いのかなあ
算数は苦手だけど間違ってるかな
余計な事言ってごめん
0307日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:55:21.01
舊唐書
倭国
倭國者,古倭奴國也
57年あたりまでは倭国は九州だな。

107年 倭国王帥升等 献生口百六十人、それ以降 
倭国王帥升「等」なので倭国の範囲が広がる
統一王朝ではないので金印など与えられず。

日本
邪馬壹國
日本舊小國 
魏志の時代に可七萬餘戸に達する。
共立王として卑弥呼に親魏倭王の
金印。邪馬壹國に与えられたもんではない。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 18:59:49.04
>>306
だから「単位が揃ってない」とウソをついて、相手の計算が間違っているかのように偽装したんだろ
間違いなんて無いテンプレをウソついて中傷したわけだ
詐欺だよな
0309日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:00:08.76
>>305
本当の事って何?
水行20日は距離で表せる事ですか?
それとも、移動したから特定できないが移動距離はあると言う事ですか?

後者は理解してますが、、
0310日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:01:57.50
>>309
>本当の事って何?
>水行20日は距離で表せる事ですか?
>それとも、移動したから特定できないが移動距離はあると言う事ですか?

水行20日は道里だって事
0311日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:06:17.07
テスト
0312日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:07:00.47
いつまで別人設定を続けるつもりなんだろね
本人以外にはバレバレなのに
0313日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:07:03.16
>>309
>水行20日は距離で表せる事ですか?
>それとも、移動したから特定できないが移動距離はあると言う事ですか?

いや、誰も言ってないことを、よく妄想できるな
0314日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:15:09.02
264 267-270 278 279 280 282 283 285 288 293 297 300-302 306 309
0315日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:20:26.99
自称 考古学に詳しいw
自称 慶応経済学部卒w
自称 愛知県の造り酒屋w
0316日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:21:14.25
テスト終了
何で投稿停止になったか分からん。
キナイコシか
都合が悪くなると停止にするのか
再度キナイコシに聞く
記紀は良いから、纏向が邪馬台国の王都とする
根拠を述べよ!テンプレはダロウダロウだけだろ。
他に無いのか、聞いてるだよ。
今の調査だけで決め付けた理由を言え!
テンプレは少しの物証だけたな、
それも倭人伝の記載と違うところでウダウダ言ってるだろ
キナイコシ、テンプレの根拠は分かったが、根拠になってねーよ
畿内説の恥晒しキナイコシ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:21:14.47
>>192の、これが爆笑
          ↓
>数学の定理です。惨敗どころか楽勝のケース。
>あとは彼が解説した通り。

結局また今日も惨敗するアンチ悲惨
0318日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:24:00.59
>>316の病気がひどくなってるな
0320日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:28:37.89
>>164
>その常識で陸行一月の距離を出してください。

以前に古田第1書に書かれた「一日の陸行里数」を紹介した事があるよ。
魏・晋朝の一日に陸行に関しては、
車駕による陸行では、
昼夜三百里来たる(魏志六、裴松之注所引「英雄記」)
駑牛一日三百里を行く(蜀志七、裴松之注所引「張〜呉録」)
「歩行」については、
翻、能く歩行す。日に二百里なるべし(呉志十二、裴松之注所引「呉書」)
魏使らの場合、韓国内の歴観の場合は「車駕の陸行」を使ったであろうが、
しかし、倭地に入ってからは、「車籠」があったのか?は不明であるが、
末盧國のように「草木茂盛,行不見前人」のような道では車籠は困難であり、
「歩行」したんだろう、と思われる。
そうすると、平均では1日250里位と推定出来、
末盧國→伊都國の五百里は2日かかった事になる。
また「陸行一月」は、30日だから大体7500里位になる。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:30:40.35
>>167
またアンチ九州説者が自滅したようだ
0322日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:30:47.04
投稿何度目?お馬鹿さん。5ちゃんてオモロいな、
知識も無いのにテンプレ作る馬鹿、
それに反応する馬鹿
よか、よか
ところでスレ立て盛り上げたら銭になるのか誰か教えてくれないか
0324日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:36:03.81
>>321
自滅してねーか
宛て自業自得でねーか、誤爆
奥山なら慣れてけど
0325日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:38:50.39
>>322
俺も知りたい
0326日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:44:16.76
>>320
ありがとうございます。
貴方のような方が多く投稿することを望みます。
        
0327日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:53:16.01
>>179
結局またテンプレが正しいのだとか言ってたのは、毎度の通り、
アンチの自爆で終了か
大和説者らは、いつも情け無いな
0328日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:58:07.21
>>1
キナイコシ
かえってきたぞ
俺も気づかなかったが、万2千里だけ魏里を使ったのか
詐欺野郎
0329日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 19:59:05.21
>>186
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しで惨敗した東大理系博士号自称男やスレ主らは、
また惨敗したいの?
毎日連敗だろ?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:05:23.98
>>328
久しぶりで手元にが狂ったよ
1マン2センリから1マンリ引いた残りの
2センリだけ魏里をつかったな

スレ主が聞いて呆れる、
学問板のスレ主やめて一個人として楽しく投稿しろ
馬鹿野郎
0331日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:08:27.48
>>317
あのーー
  
  いえ何も、、、
0332日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:11:45.05
なんかアンチって言ってる事めちゃくちゃだな
嘘と支離滅裂な呟きばかり連投してる
0333日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:15:01.29
プルタぺーテンと奥山
場所は違うけど中身は同類だな。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:20:08.90
>>333
そういう中傷ばかりなのもアンチの汚いところだ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:21:57.18
>>1
奥山さんよ何度も
>アンチ畿内説<と連呼するなよ
余裕が無いのかねーー
0336日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:27:36.72
>>335は心の病気だろう
0337日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 20:38:35.43
>>334
中傷合戦しかないので仕方がないね。
ザラコク、キナイコシ etc
0338日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:00:58.07
>>337
それだけ荒らしといて「どっちもどっち」で誤魔化そうとするアンチの醜さ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:05:47.97
>>1
確認させてください、あなたの主張は
1.纏向は邪馬台国の首都
2.箸墓は卑弥呼の墓
3、モモソは実在した
4,巫女千人と兵は通勤
5.陸行1月は難波から纏向
6.魏の使いは瀬戸内航路を使った
7.倭人伝の方位や距離はあてにならない

もっと確認したいのですが、これで良いか?

テンプレ読みなさいの回答は抜きにして下さい。長いし、あちこちに一つの解説が散らばってよくわかりませんので
イエス、ノーの質問ですので、
0340日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:06:42.48
>>338
誤魔化そうとするアンチの醜さという
中傷だな。まあループ。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:10:03.77
>>340
本当の事だから中傷にはならんだろ
0342日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:10:14.12
>>336
阿保か、
俺は関係無いけど、いちいち反応するお前も心の病じゃねーの
畿内説のスレだよ、個人評価するスレでない。ドアホ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:15:44.00
>>342
誰彼となく奥山と呼ぶ男の心が異常
0344日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:15:47.09
>>336
俺が以前も投稿してるが、畿内説が誤解されないかねない、他説攻撃や人様への批判投稿は止めろと、
あんたらが、畿内説を汚す。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:20:13.21
>>344
だから、そういう中傷が醜いと言われてるの
畿内説のフリとか、どうしょもない奴だな
0346日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:40:43.12
>>341
本当の事だからというごまかし
が中傷だな。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:47:42.13
>>1は興味ある人だな、心理学をかじった程度だけど興味ある人。
お近付きはしたく無いけど、遠くで
観察したい人だな
0348日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 21:57:23.81
>>343
本人がそれを言っちゃあお終いよ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 22:08:32.57
今日は傑作だったな
テンプレのFAQ 58と78に噛み付いた奴が馬鹿すぎて
大いに笑わせてもらったぞ
自信満々なこと言っといて、あんなに簡単に論破されるとはな
0350日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 22:08:47.29
>>325の訂正
>その常識で陸行一月の距離を出してください。

以前に古田第1書に書かれた「一日の陸行里数」を紹介した事があるよ。
魏・晋朝の一日に陸行に関しては、
車駕による陸行では、
昼夜三百里来たる(魏志六、裴松之注所引「英雄記」)
駑牛一日三百里を行く(蜀志七、裴松之注所引「張〜呉録」)
「歩行」については、
翻、能く歩行す。日に二百里なるべし(呉志十二、裴松之注所引「呉書」)
魏使らの場合、韓国内の歴観の場合は「車駕の陸行」を使ったであろうが、
しかし、倭地に入ってからは、「車駕」があったのか?は不明であるが、
末盧國のように「草木茂盛,行不見前人」のような道では車駕は困難であり、
「歩行」したんだろう、と思われる。
そうすると、平均では1日250里位と推定出来、
末盧國→伊都國の五百里は2日かかった事になる。
また「陸行一月」は、30日だから大体7500里位になる。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 22:24:14.31
>>350
これって・・古田がいかに三国志読んでなかったかバレちゃうシーンなんだよね
0352日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 23:25:47.68
>>350
ダメだこりゃ

>車駕による陸行では、
>昼夜三百里来たる
これは宮中のクーデターに董卓軍が駆けつけて怒鳴ったセリフ
>駑牛一日三百里を行く
これはホウ統が人物評で言った例え話
>翻、能く歩行す。日に二百里なるべし
これは虞翻の自慢話
どれも、とんでもない猛スピード出してる例だ
0353日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/23(木) 23:30:00.55
>>351
史料事実や史料実態の曲解が古田だよ。
書いてありゃ、事実。
阿蘇見学したから九州だと?
富士山見学したら、都が静岡というレベル。
離れていくのもわかる。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 04:37:23.91
>>351
難波から纏向まで陸行一月のより妥当じやねー
0355日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 05:06:46.27
>>354
全く妥当でないだろ古田
遅すぎるのはぐずぐずすりゃいいが
早すぎるのは出来ない相談だもの
0356日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 06:19:35.42
別に嫉妬するだのなんだの起こらないから真面目にやれ
0357日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 06:39:24.08
>>355
お伊勢参り
江戸から伊勢  15日
大阪から伊勢   5日

道路事情は江戸期が良い

古田はその半分以下の速度くらいかな
いずれにせよ机上の計算だから反論がでるのは当たり前
0358日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 06:47:40.39
昨日の結論 これでいい?

日数表記は動いているから
何里かわからないが距離が出る
だから水行20日も何里かわからんが距離が出る
0359日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:04:45.35
>>349
小学校から算数やり直し、、
0360日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:22:03.18
>>328
魏里を使ったの2000里部分
全行程のなかで、2000里だけ取り出し
魏里で説明は詐欺だな
やるなら全ての行程を魏里に置き換えて説明しなきゃいかん
詐欺でなきゃ、大馬鹿者
0361日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:26:27.64
>>360
言ってることが、わけわからん
0362日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:33:33.08
>>352
>ダメだこりゃ
車駕による陸行では、昼夜三百里来たる
これは宮中のクーデターに董卓軍が駆けつけて怒鳴ったセリフ
駑牛一日三百里を行く これはホウ統が人物評で言った例え話

長里なら三百里は一日130km余り位。こりゃ車籠でも全く無理だな。
短里なら一日23km位。これなら、普通の車籠なら行ける。

>翻、能く歩行す。日に二百里なるべし これは虞翻の自慢話
どれも、とんでもない猛スピード出してる例

二百里なら、16.5km位。これなら、少し頑張った位であり、
常識的な歩行距離。

要するに、大和説の東大理系博士号自称男?は、口先で国民を騙そうとしている詐欺師。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:35:21.86
>>353
史料事実や史料実態の曲解が、
東大理系博士号自称男やスレ主や大和説学者らだよ。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:37:53.86
>>358
それでいい
アホらしい結末
0365日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:40:27.12
>>358
>昨日の結論 これでいい?

昨日の結論は、テンプレは正しくてイチャモン付けたやつは馬鹿
これで終わった
0366日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 07:54:13.75
九章算術はマルキッリ理解してないみたい、だから話に着いて来れなく遠近道里だけ叫んでたみたい
奥山を相手してたのが間違いだった。
少しは頭が切れると思っていたが。
我々が思ってたより低レベルなFAQだった。だから噛み合わなかったみたい
0367日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:03:03.73
>>201 子供が描いた宝の地図みたいw
0368日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:03:23.34
>>366
古代史を捏造するトンデモ連中は、昨日の出来事もこんなに捏造しちゃうんだよなあ。呆れたもんだ。
「道里」が日数で書かれている史料事実が出てるんだから、「日数で書かれてるから道里じゃない」は破局。
「投馬国は女王国以北」で確定して九州説は壊滅だ
結局トンデモな人々は史料が読めないんだからマトモな説が唱えられないのは当然って事だな
0369日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:06:41.52
>>358
昨日の結論 これでいい?

陸行の里数記録は、1日平均250里(短里では18〜19km)位での近似計測。
水行は、古田さんは、1日平均450里と概算されたが、
結局、実際の「水行の里数の計測」は困難であり、日数で記載される事が多く、
また、沿岸水行では、海岸沿い陸路計算でも里数の概算が出来るが、
渡海では、車籠でも歩行でも確認計算は不能であり、
里数は一寸千里の法や簡易三角測量で概算するしかなく、
三渡海は、それぞれ有効数字1桁概数の「千余里」と概算されている。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:10:15.03
誤説をまとめると、以下のようになる。

-邪馬台国と狗奴国(さらに熊襲)の混同…熊本説(白鳥庫吉、森村伊作)

-邪馬台国とヤマト王権の遡上混同…「畿内」説
0371日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:12:44.11
>>370
理由も言わず、ただ「混同」って決めつけて悪口言っただけじゃねえか
0372日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:15:41.85
>>368
古代史を捏造するトンデモ連中は、昨日の出来事もこんなに捏造しちゃうんだよなあ。
呆れたもんだ。
「道里」は「里」数であり、日数で書かれている史料は「道里」ではない、
という結論が出てるんだから、
「日数で書かれてるから道里じゃ」というスレ主や大和説者らは破局。
「投馬国も女王国以北」で確定して「投馬国は女王国以北ではない」と主張した大和説は壊滅だ
結局トンデモ大和説の人々は、
史料が読めないんだからマトモな説が唱えられないのは当然だ、
って事だな
0373日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:18:01.69
>>370
その通り。「南=東」と読み替えた畿内説だと「女王国」が2つ出来てしまう怪現象がww

>>201
女王国→東渡海千里複有国、皆倭種→女王国→狗奴国(其南有、不属女王)「畿内説」×不正解

狗奴国(其南有、不属女王)九州説〇正解!
0374日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:23:23.51
>>373
「女王国≠東渡海複有国」と書かれているのに、「女王国=東渡海複有国」と混同した「畿内」説w
つまり纏向遺跡(結論ありき)への我田引水に過ぎない。頭悪しw
0375日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:29:36.64
>>358
要約するとこう言う結論
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
A:里数は書いて無いが、日数が書いて  あるので、何里か分からないが
  距離は進んだ

QとAのバランスは悪いがね

阿保らし
0376日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:30:52.49
百歩譲って纏向が邪馬台国女王之所都だとしようw
しかし邪馬台国(大和)と狗奴国(尾張)は「渡海」と書かれていないことから陸続きだったわけで、「南=東」という畿内説の曲解が明確に誤りと判る。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:38:42.69
陸路で南を東と間違えてるようじゃ、海路倭国に辿り着けないね、魏使&帯方郡使はw
0378日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:40:18.91
>>375
相手の主張を歪曲して勝手に書き換えれば、いくらでもアホらしい説を捏造できるよ
それこそアホな人のやることだ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:41:03.76
そこで、魏使は夏に来た!「畿内」説w
0380日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:42:13.79
>>373
>「南=東」と読み替えた畿内説だと「女王国」が2つ出来てしまう怪現象がww

どうしてそんな現象が起こるの?
説明能力ゼロさんですか?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:51:01.23
大和にヤマト王権の邪馬台国が有った。
故に大和では、親魏倭王は「親魏ヤマト王」と呼び名されていたのである。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 08:55:47.27
>>380
頭悪すぎw
纏向遺跡に邪馬台国「女王之所都」を我田引水するために「南→東」と曲解した畿内説の場合、
纏向(大和)が女王国。ということは狗奴国(尾張)は陸続きで東に隣接しているわけで、
>>201
すると「女王国東(渡海千里)複有国」と「其南有狗奴国(陸続きで東に隣接)」がダブるってこと。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:03:27.58
女王国東渡海千里「複有国」って、(出雲や吉備など)国が複数ある本州ってことだろうね。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:16:28.89
>>382
>>「南=東」と読み替えた畿内説だと「女王国」が2つ出来てしまう怪現象がww

 <どうしてそんな現象が起こるの?
 <説明能力ゼロさんですか?

>すると「女王国東(渡海千里)複有国」と「其南有狗奴国(陸続きで東に隣接)」がダブるってこと。

それ、さっき言ってた
>「南=東」と読み替えた畿内説だと「女王国」が2つ出来てしまう怪現象がww
と話がぜんぜん違う
もしかして、>>382って、とても頭が悪い人?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:20:34.08
>>382
女王国を2つ作らないと、魏志倭人伝の記述が読めなくなる、「畿内」説!w
0386日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:24:05.27
畿内説の「女王国(東渡海千里)複有国」ってどこのこと?w
0387日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:24:15.18
>>363
史料事実や史料実態の曲解が、
東大理系博士号自称男やスレ主や大和説学者
と古田ぺーテン、北部九州説だな。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:26:47.93
>>378
>相手の主張を歪曲して勝手に書き換えれば、いくらでもアホらしい説を捏造できるよ
それこそアホな人のやることだ

「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態を歪曲して、勝手に書き換えれば、
大和説者らは、いくらでもアホらしい説を捏造できるよ
それこそアホな人のやることだ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:28:37.54
>>385
>女王国を2つ作らないと、魏志倭人伝の記述が読めなくなる、「畿内」説!w

どうして?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:31:50.02
>>386
東渡海千里(75q)…伊勢湾岸や濃尾平野・東海・関東は陸続きだしw
0391日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:33:30.26
>>386
>畿内説の「女王国(東渡海千里)複有国」ってどこのこと?w

南関東や伊豆七島でいいんじゃない?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:34:45.15
>>390
陸続きでも問題なし
0393日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:34:52.03
>>391
>>畿内説の「女王国(東渡海千里)複有国」ってどこのこと?w

>南関東や伊豆七島でいいんじゃない?

どうして?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:35:38.28
>>392

>陸続きでも問題なし

どうして?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:35:48.67
>>375
◆FAQ 78 はまだまだ課題多いな!
0396日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:38:37.68
>>390
大廻りなるし大きな川があり
整備されていないと思われる。
海を渡たった方が早い。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:40:48.84
>>372
>「道里」は「里」数であり、日数で書かれている史料は「道里」ではない、
という結論が出てるんだから、
「日数で書かれてるから道里じゃ」というスレ主や大和説者らは破局。 <

賛同、
畿内説の馬鹿達には理解できないようだ。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:50:52.42
>>394
>>陸続きでも問題なし
>どうして?

FAQ 33にある
0399日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:51:59.54
>>397
>畿内説の馬鹿達には理解できないようだ。

理由のない意見を理解できないのは普通の人
0400日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:52:58.07
>>395
>◆FAQ 78 はまだまだ課題多いな!

どんな?
あんな無惨に敗退したのに、まだ諦めてないの?
0401longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/24(金) 09:54:04.73
>>401 > 景初四年は実在したと考えざるを得ない//
  そりゃそうなんだけどさ。

> 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、
魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、
再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)//

景初四年を抹殺する必要性なぞ皆無だろ。
景初3年、景初4年、正始元年の変遷を、そのまま分かる様に記録すればいいだけだ。
その、宋書志礼一とやらがそうした様にな。

> 忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である//
  別段、正始元年正月であっても構わんだろうに、正月があればさ。

> 混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、
景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない//

景初四年(正月壬午朔)で干支が合うってならさ、正始元年(正月壬午朔)と記録すればいいだけだろ。
序に云えば、正始って年号はさ、これがホントの新年号の始まりなんだよ、
という、司馬仲達の確固たる意思表示なんだと気付けよな。

景初四年は確かに実在したのだが、それは抹殺されたのだから、抹殺された理由を考えな。
存在しても不自然じゃない、なんてハナシをダラダラ書いてるだけじゃ、意味ないね。
人様の言い草を踏襲するのは構わんが、所詮、付け焼刃の書生論でしかない。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:54:07.39
>>378
悔しそうだな
理解できない自分を嘆け
0403日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:56:04.54
>>393
>>南関東や伊豆七島でいいんじゃない?
>どうして?

距離的に合う。
神門などに交流の痕跡もある
0404longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/24(金) 09:56:08.61
>>401 の続き

>>40 > 景初四年は実在したと考えざるを得ない//
人様の言い草を踏襲するのは構わんが、所詮、付け焼刃の書生論でしかない。

> 即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが・・・
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが//

閏月じゃないんだろ、そんなんが入るタイミングじゃないんだしさ。
後十二月としたって事は、本来正月行事だった事を、年末の些事に直したって事だな。

> 魏明帝は景初三年正月元日に死去したため//
  1/365 くらいの確率と云っちまえばそれまでだけどもね、それも考え直せよ。
明帝は年内に物故して、後継選びが難航したんだよ。
次の少帝曹芳って、かなり出自が怪しい、乃至は、血統的に遠くて弱いんだろ。

>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんじゃないんだよ。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 09:56:16.47
>>361
阿保には理解できないだけ
0406日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:00:45.55
>>375
そだな、畿内説の頭はその程度
0407コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 10:06:42.88
>>406 > そだな、畿内説の頭は//

張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。
たとえ>>1が、クイズ番組正解者でしかなくともな。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:08:16.45
>>392
何も理由も言わず、
なんなのあんた
野次馬?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:12:18.86
>>398
テンプレは見てもしょうもないから
見ないよ
あんたが解説したら良いよ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:18:27.71
>>330
>久しぶりで手元にが狂ったよ
>1マン2センリから1マンリ引いた残りの
>2センリだけ魏里をつかったな

都合のいいところだけ拾って反論した気になっても無駄w
>>228
「大陸王朝の史書では、皇帝勅定の単位系以外は記載されていない
 一里=三百歩=千八百尺

 これから外れる場合は、不正確、あるいは誇張表現であると分かるというだけ」

>>299
「>2千里だけ魏里を使うのは詐欺だよ

 そんなこと誰もしてませんがなww
 魏志倭人伝に魏里以外が使われていたら大笑いだって話

 魏里で考えて矛盾がないところはある程度参考にできる
 魏里に合わないところは、不正確な情報しかなかったってことだ」
0411日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:20:12.45
>>409
それ、敗者の逃避
0412日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:21:03.75
>>407
誰に投稿してるの?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:22:15.44
>>407
奥山だろ
0414日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:22:55.08
>>358
>昨日の結論 これでいい?

>日数表記は動いているから
>何里かわからないが距離が出る
>だから水行20日も何里かわからんが距離が出る

全然ダメだよ
本当に「日本語を使って論理的に思考する」ってことができないんだなw

「道里は日数表記が可能
 ゆえに、投馬国は女王国以北の戸数道里略載の範囲に入る
 奴国と邪馬台国比定地の間に、投馬国比定地を求めることのできない説はすべて破綻」

が本論で、昨日の結論は
「本論以外のことをごちゃごちゃ言ってたアンチ畿内説が自爆で恥をかいただけ」
だよ
0415日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:25:23.88
>>366
>九章算術はマルキッリ理解してないみたい、
>だから話に着いて来れなく遠近道里だけ叫んでたみたい

「マルキッリ」こんな日本語はないww

道里遠近は別の概念とか叫んでたのは、バカの九州説だぞww

内容が理解できていない&漢文が読めない&計算についていけていない、のが
アンチ畿内説の知的能力の足りない人たちww
0416日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:27:06.74
>>411
テンプレ見ないと言ったら敗者とはなんなの? 
テンプレ見ない理由はね
馬鹿の奥山が書いた物だからだよ  

あんた本を買う時、著者が誰かも確かめ無いで買うの?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:41:23.89
>>415
悔しいそうだな
0418日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:42:13.63
>>416
>テンプレ見ないと言ったら敗者とはなんなの? 

なんだって? 当然の帰結だよ
相手の言っていることを聞かずに批判したら敗北確実だろ
あなたはそれを実践中だ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:42:22.07
>>387の訂正
史料事実や史料実態の曲解が、
東大理系博士号自称男やスレ主や大和説学者だな。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:43:11.24
>>417がすごく悔しそうで、つい笑ってしまった
0421日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 10:46:04.66
>>418
テンプレ見ないで敗者になった典型
例えば>>117 
0422日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:05:15.87
>>414
アンサーが最初から躓いたって事?
1「道里は日数表記が可能

2.日数で表記された距離は「道里」に該当する

道里の定義を教えてくれないか?浅学でゴメン
0423日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:07:04.61
>>421
2000里だけ魏里を使った人が敗者だよ
まだ理解して無いようだけど
0424日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:08:57.22
>>422
>アンサーが最初から躓いたって事?

どうしてそんな誤解ができるやら
0425日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:10:41.62
>>423
>2000里だけ魏里を使った人が敗者だよ

いや、単位が揃ってないと妄想した人が敗者だよ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:21:29.36
そもそも、行程の一部について計算例を示すことには何の問題もないのに
計算例が示されtれいない箇所には違う単位を使っているとか妄想した人の脳が壊死している
0427日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:22:10.50
>>419
勝手に訂正するなよ。

史料事実や史料実態の曲解が、
東大理系博士号自称男やスレ主や大和説学者
と古田ぺーテン、北部九州説だな。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:31:13.75
>>427
そもそも史料実態っていうザラ国語がペーテンなんだけどな
0429日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:32:21.17
>>425
いや、単位が揃って無いと計算は成り立たない。小学生でも知っている。
12千里ー10千里=2千里
なんだろ、答えだけ魏里を使うのは間違い。
簡単な計算だよ1里Aメートルとすると
12千里✖Aー10千里✖A=2千里✖A
で計算式は成り立つ
最後の2千里だけ魏里を使ったら計算式は
なりたたない
あんたには理解できないのかあー
0430日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:40:34.49
>>428
そうか、追加だな。

史料事実や史料実態の曲解が、
東大理系博士号自称男やスレ主や大和説学者
と古田ぺーテン、北部九州説、ザラコクだな。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:45:43.96
>>429
>最後の2千里だけ魏里を使ったら計算式は
>なりたたない
>あんたには理解できないのかあー

君は知能が低いね
最後の2千里だけ魏里を使った
という妄想は、どこから出たんだい?
0432日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:56:37.78
>>401
>・・・景初四年(正月壬午朔)で干支が合うってならさ、正始元年(正月壬午朔)と記録すればいいだけだろ。
序に云えば、正始って年号はさ、これがホントの新年号の始まりなんだよ、
という、司馬仲達の確固たる意思表示なんだと気付けよな。

魏志の帝紀の記載では、
景初三年12月の次の月は、景初三年の「後十二月」として、
更にその次の月から正始元年をスタートした、
と書かれているんだから、
そのままでいいんであり、「景初四年」なんては始めからなかったのであり、
後代の学者らの「景初四年」の存在論では、論拠にならず、
列島の「渡来呉系楽浪鏡師の陳氏の景初四年の記銘鏡」は、
陳氏は「景初三年後十二月」の存在などを知らされていなかった」という事で、
説明が付く。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 11:59:26.98
>>431
ここで
0102 日本@名無史さん 2021/09/23 09:01:38
テンプレ>>51
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。 <
0434日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:00:59.24
>>424
意地悪しないで道里の定義教えてよ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:19:45.74
>>433
あんたが正しい
奥山はスレ主でもあり、テンプレ宣伝係Ww
0436日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:32:54.75
テスト
0437日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:34:44.61
奥山、一手詰をくらったなら
0438日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:35:50.83
訂正
奥山、一手詰を食らったなWw
0439日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:40:28.91
>>375
>◆FAQ 78
>Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
>  里数が書いてないではないか!
>A:里数は書いて無いが、日数が書いて  あるので、何里か分からないが
>  距離は進んだ

>QとAのバランスは悪いがね

お前が要約一つできない無能だってだけだぞw

Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないから、道里じゃない
A:道里は日数で書ける、「水行二十日」は道里
  根拠は九章算術

だぞww

>阿保らし

>>375の頭の程度が「阿保」らしいなw
0440日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:43:02.71
>>376
>しかし邪馬台国(大和)と狗奴国(尾張)は「渡海」と書かれていないことから陸続きだったわけで、

渡海と書かれているし、後世の東海道でも七里の渡しで渡海してるだろ?
何を言ってるんだ?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:49:24.90
>>4-3
>>>南関東や伊豆七島でいいんじゃない?

>どうして?

>距離的に合う。神門などに交流の痕跡もある

いくら「距離が合った」って、いくら「交流の痕跡」が合ったって、
「南→東」などの史料事実や史料実態の曲解や否定をしたものであれば、
始めから、バツ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:50:26.14
>>433
それが何なの?
異常に知能の低い人ですか?
説明能力ゼロなんて、社会でやっていけてる?
0443日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:51:40.63
>>383
>女王国東渡海千里「複有国」

これは、この文を置く場所が魏志倭人伝でおかしくなってるのが原因
魏略ではこの文は
漢書地理志燕地、唐、願師古注 (魏略云)
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
となっていて、対馬、壱岐、倭国本土、と渡海千里で渡っていったところも
倭人の國で韓人や漢人その他の国ではないというだけの意味
「東」とかもついていない

倭国が大海の中の列島上の國で、間の海峡を渡海した先にも倭人が
住んでいるというだけの説明文
0444日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:54:26.25
>>438
何も反論しないでは、明らかにあなたらトンデモ説の負け、畿内説の勝ちで決着ですよ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:54:44.77
>>407
>張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ

箸墓が卑弥呼の墓ではない事は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、確定事項なんだよ。。
たとえ>>1が、クイズ番組正解者でしかなくともな>
0446日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 12:56:46.42
>>445
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠っていません。
確定事項すらないよ。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:00:08.00
>>422
>道里の定義を教えてくれないか?浅学でゴメン

道里の定義は、古代の他国の言葉だから簡単ではないし、
いちゃもんもつけやすいでしょ?

だから、同時代資料で日数で道里を示している実例を直接明示しているんだよ
その実例を見れば、道里が何であるかを正確に定義しなくても
道里を日数で表現できることが確実に論証できる

論理的でしょ?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:01:27.54
>>423
>2000里だけ魏里を使った人が敗者だよ

つ >>410
>>228
「大陸王朝の史書では、皇帝勅定の単位系以外は記載されていない
 一里=三百歩=千八百尺

 これから外れる場合は、不正確、あるいは誇張表現であると分かるというだけ」

>>299
「>2千里だけ魏里を使うのは詐欺だよ

 そんなこと誰もしてませんがなww
 魏志倭人伝に魏里以外が使われていたら大笑いだって話

 魏里で考えて矛盾がないところはある程度参考にできる
 魏里に合わないところは、不正確な情報しかなかったってことだ」
0449日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:02:29.86
>>433
意味不明だけど
後半の投稿が消えたとか?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:21:07.00
どっちにしろ>>117はウソを書いてテンプレを貶めようとしたんだから
浮かぶ瀬はないよ
一発で論破されてゴミ箱行きになった
0451日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:22:29.15
>>439
それで、道里の定義は?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:23:58.14
大和には、ヤマト王権の邪馬台国が有った。

故に大和では、親魏倭王は「親魏ヤマト王」と呼ばれていたのである。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:30:15.80
>>451
>それで、道里の定義は?

つ >>447
「道里の定義は、古代の他国の言葉だから簡単ではないし、
 いちゃもんもつけやすいでしょ?

 だから、同時代資料で日数で道里を示している実例を直接明示しているんだよ
 その実例を見れば、道里が何であるかを正確に定義しなくても
 道里を日数で表現できることが確実に論証できる

 論理的でしょ?」
0454日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:31:41.08
>>452
>故に大和では、親魏倭王は「親魏ヤマト王」と呼ばれていたのである。

また捏造しているww

ヤマトではヤマト王権のトップは「おおきみ」
漢文を使うようになってからは「すめらみこと」だよ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:44:59.94
>>447
道里日数の定義は?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:47:54.21
>>454
ふーん、
んじゃヤマト王権に「親魏倭王」の勲章をもらった人はいなかったのか・・。
つまり、邪馬台国とは関係なかったんだな。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:51:15.54
全1病の人向けインデックス
265
266
272
273
275
296
298
299
303

410
414
415
439
440
443
447
448
453
454
これが同一人物で、>>1とは別人
0458日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:52:59.79
>>448
馬鹿か、2千里なんて倭人伝に出て来ないよ。倭人伝記述の里数から計算して出したんだろ、
計算の元を否定して出てきた答えだけ肯定的に考えるのは馬鹿だよ。
あんたの頭の中を見てみたいよ。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 13:55:40.32
>>455
>道里日数の定義は?

定義は必要ない 終わり

つ >>447
「道里の定義は、古代の他国の言葉だから簡単ではないし、
 いちゃもんもつけやすいでしょ?

 だから、同時代資料で日数で道里を示している実例を直接明示しているんだよ
 その実例を見れば、道里が何であるかを正確に定義しなくても
 道里を日数で表現できることが確実に論証できる

 論理的でしょ?」

ここでも「いちゃもんもつけやすいでしょ?」って書いてあるだろ?
内容と関係ないところでいちゃもんを付けて、反論した気になるのは無意味

投馬国の水行二十日は、九章算術の行道十日と同じ形式の道里の表記法
ゆえに、投馬国は「自女王國以北、其戶數道里可得略載」の女王国以北の国に入る

従って、奴国(福岡平野・確定)と自説の邪馬台国比定地との間に
投馬国を位置づけられない説はその時点で破綻するってことだ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:00:35.34
>>458
お小遣いを1万2000円もらいました。
今日、1万円使いました。残りは2000円になりました・・・、

馬鹿か、2千円なんて小遣い帳から計算して出したんだろ、
計算の元を否定して出てきた答えだけ肯定的に考えるのは馬鹿だよ。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:04:14.66
>>459
破れかぶれのナラ説が、開き直ってイチャモン付けてるな、・・、
0462日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:07:45.20
先代旧事本紀には神武天皇よりも前に、
ニギハヤノミコトが畿内へ東遷降臨したことを伝えている。
これは北九州にあった邪馬台国の東遷伝承とみていいだろう。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:09:30.62
で投馬国でどこだろうな?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:22:22.27
>>461
九州説自滅で勝負ありデス
0465日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:37:27.47
スネ夫スネ子みたいな連中が
藁をも畿内説にすがってるのがわかるんだよねー^^
0466日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:45:48.87
>>465のように
具体的指摘の域を外れて罵るだけになるのは論破された人の特徴
0467日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:51:18.93
あの〜、落ちてましたよ

■畿内説的思考一覧

・希望的観測の結果、魏志倭人伝の南は実は東だったニダ
・畿内も鉄器があったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・畿内式土器とよく似た土器がある地域は畿内政権の傘下だったニダ
・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿ニダ
・纏向遺跡は住居跡がほとんど無い大集落なので女王の都だったニダ
・日本書紀に筑紫〜任那の距離が2千余里と書いてあるが1里は0.435Kmだったニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道中は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道中も無人地帯だったニダ
・3世紀の奈良盆地の東は海だったニダ
・卑弥呼が100枚貰った銅鏡は600枚以上発見されている三角縁神獣鏡に違いないニダ
・島根県で景初三年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・中国産の銅しか無い時代に作られた銅鏡の成分が中国産なので鏡の製造地も中国で間違いないニダ
・中文は日本の漢文と同じ解釈でよいニダ
0468日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:53:36.68
>>460
>お小遣いを1万2000円もらいました。
>今日、1万円使いました。残りは2000円になりました・・・、

この場合、現金を数えられるのは二千円分だけだよな
0469日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 14:55:34.37
>>467
そんな空想してる暇があったら、現実に畿内論者が言ってることに反論してみろよ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 17:39:23.54
>>469
> 現実に畿内論者が言ってること

>>467ですね
0471日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 17:50:53.58
>>458
だよな
0472longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/24(金) 17:56:46.83
>>432
> 魏志の帝紀の記載では、景初三年12月の次の月は、
景初三年の「後十二月」として、更にその次の月から正始元年をスタートした、
と書かれているんだから//
  それが違うと誰が云ったのかね。

> そのままでいいんであり//
  論点は、景初四年が有ったのか無かったのか、だよな。
つまり、編年の改ざんが有ったのか無かったのか、という事だ。

改ざんが有ろうが無かろうが、景初三年の末月の次の月から
正始元年をスタートする/させるのは当たり前なのだから、アンタの言い草には意味がない。

> 後代の学者らの「景初四年」の存在論では、論拠にならず//
  学者らの景初四年存在論って何かね。はっきり云うがね、
その存在論ってね、私のオリジナルでさ、私は学者なんてtitle じゃないし、
>>40 天婦羅なんてさ、私に追随しただけの、書生論でしかないんだよ。

> 陳氏は「景初三年後十二月」の存在などを知らされていなかった」という事で、説明が付く//
  「景初三年後十二月」を知らなくて、その「後十二月」を景初四年正月と取り違えた、
の意味かね。見たことも聞いた事も無い椿説弓張月だな。
(続く)
0473longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/24(金) 17:58:33.78
>>472 の続き。

>>432
> 陳氏は「景初三年後十二月」の存在などを知らされていなかった」という事で、説明が付く//
  「景初三年後十二月」を知らなくて、その「後十二月」を景初四年正月と取り違えた、
の意味かね。見たことも聞いた事も無い椿説弓張月だな。

要するに、景初四年の紀年をした者は、改元を知らなかって意味だろ。
或いは、景初四年紀年鏡は、日本で作られたなんて意味なんだろ。

年号なんて、明日変わる鴨試練シロモノだ、それくらいはアンタだって知ってるだろ。
いや、即日改元なんて例を見れば、今日が令和三年って、明日にならねば確定せん。
景初四年の紀年をした者だってそれくらいは知ってるんだからさ、
彼だって紀年をしたその日がさ、間違いなく景初四年であると認識ししなければ、
景初四年なんて紀年はしないんだよ。改元がないという確信が無ければ、年号なんか紀年しない。
年号付きの記年鏡なんてごく僅かなんて事実を考えれば、当然だろが。

> という事で、説明が付く//
  書生論の40天婦羅にすら書いたる事だが、日付の干支が合わない、てのも説明付かんし、
>>404 にも書いたが、閏月の入るタイミングじゃないのに「後十二月」、というより、
「後十二月」なんて前代未聞の月の存在自体、説明が付かないだろが。
「後十二月」ってだけでも、年号改ざんの存在は否定できないね。

景初四年の存在ってさ、それなりに考えた上での断定なんだからさ、
アンタの適当でいい加減な思い付きなんぞじゃ覆えらんのだよ、身の程を弁えな。
まぁ、基本は、紀年が有るから存在するんでしょ、って事だが、
そういう前提を設定すれば、あらゆる点が矛盾なく説明できるんですよ。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:00:20.80
>>410
>大陸王朝の史書では、皇帝勅定の単位系以外は記載されていない
一里=三百歩=千八百尺
これから外れる場合は、不正確、あるいは誇張表現であると分かるというだけ

中国での度量衡は、
周代後半から、周制と、秦などの徴税増加の法での混乱が起こり、
始皇帝が「1歩=6尺」の命令で漢代には度量衡の混乱が存続し、
魏の初代文帝が受命改制の詔書で度量衡の「同一化」を指示し、
重心たちが周制への復古を上表し、
明帝が暦法の改定と同時に「1歩≒1尺」の「周髀算経の短歩」の採用を指示して、
景初から、周髀算経里(短里)が実施され、西晋朝はそれを継続したが、
三国時代〜南北朝の度量衡の混乱が収まらず、東晋朝は「始皇帝里」への復古を決めたが、
南北朝期には、混乱が存続していた。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:00:37.18
>>468
だから、数式の単位が円で統一してるからでしょう。
スレ主の計算は単位が統一して無いから、、
多分スレ主の勘違いだと思うよ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:04:22.05
>>448
あのさ
2千里はどういう計算で出したの?
0477コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 18:06:15.17
>>412 > 誰に投稿してるの?//
  ン? 付したアンカーで矛盾するかね。
まぁ、アンカーはダシにしただけで、箸墓は卑弥呼墓で確定ってのと、
クイズ番組じゃないんで、当たってればいいってもんじゃない、
と再確認をしただけなんだがね。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:12:21.48
>>475
>スレ主の計算は単位が統一して無いから、、

そういう見え見えの嘘をつくから一発で論破される
0479日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:14:00.71
>>1さん
畿内説のテンプレとしては良い線行ってると思います。
部分的に、手直しすれば尚良しですね
論理的に指摘を受けてる部分は少しだけ手直しすれば、良いテンプレになるのに、
勿体ないよ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:14:45.13
>>413
>道里は日数表記が可能

「里」と「日」は全く別の計測単位であり、固定した換算規定もないし、
三国志でも九章算術でも隋書でも、はっきり書き分けている。
 
>ゆえに、投馬国は女王国以北の戸数道里略載の範囲に入る

構わない。
 
>奴国と邪馬台国比定地の間に、投馬国比定地を求めることのできない説はすべて破綻

魏志の記載には「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
魏志では、投馬國は、
不彌國からの南の方にあって、「水行二十日」の位置にある側副傍線国である、
としての説明であるから、
この東大理系博士号自称男?の論は、バツ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:21:26.64
>>458
>馬鹿か、2千里なんて倭人伝に出て来ないよ。倭人伝記述の里数から計算して出したんだろ、

違うよ
それもテンプレで説明してある
FAQ61 >>53
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

倭国上陸までが万里だから、残りは二千里ってこと
この「万里」は「万里の修好」という修辞をそのままに受け取って
それを当てはめて距離の「数字を作ってる」

この部分を短里だのなんだの言うやつがバカww
0482日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:24:47.05
>>476
>あのさ
>2千里はどういう計算で出したの?

この文の書き方は馬具が渡土提から見つかったって捏造してた捏造君かな?

>>481で書いたけど折角だからもう一回w

テンプレで説明してある
FAQ61 >>53
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

倭国上陸までが万里だから、残りは二千里ってこと
この「万里」は「万里の修好」という修辞をそのままに受け取って
それを当てはめて距離の「数字を作ってる」

この部分を短里だのなんだの言うやつがバカww
0483日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:32:59.51
>>475
>だから、数式の単位が円で統一してるからでしょう。

大陸の度量衡、史書の単位は「里」で統一されてるんだよ
そして単位系としては
6尺=1歩(複歩)
1800尺=300歩=1里

もともとが、尺も歩も身体尺だから、これが6分の1の長さになるとかはできない
そして、里ももともとは「九夫」の面積を示す単位でその一辺の長さを取って
長さの里になっている
一夫の面積は一辺百歩の正方形で、1家族(一夫)分の畑の面積になっているから
短里を考えると一家族分の畑面積が足りずに飢え死にしちゃうんだよ

昨日、漢字は表意文字だから一文字ずつ読むとかでたらめを言っていたやつがいるけど
表意文字で「里」の意味するところ、「9家族分のさと(里)」の大きさを考えたら
短里なんて最初からあり得ないのが分かるww
0484日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:34:22.05
>>478
どのように論破する?
お手並み拝見、
0485日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:34:26.55
>>455
>道里日数の定義は?

道里を日数で表現できる

道理日数という言葉も熟語もない
従って、道理日数の定義などある訳がない

お前、バカだろ?ww
0486日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:35:56.68
>>456
>「親魏倭王」の勲章

そんなものは、過去、現在、未来のどの時点においても
この世界には存在しないぞww

どこの世界線からの来訪者ですか?ww
この世界とは無関係なお方とお見受けするww
0487日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:40:14.96
>>484
>どのように論破する?

もう、きみ論破されているよ。
「スレ主の計算は単位が統一して無いから」と言いつつ
違う単位で計算した箇所が指摘できないだろう?
嘘はついた瞬間に主張が破綻するんだ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:40:45.69
>>463
>で投馬国でどこだろうな?

出雲だろうな

案外、出雲も吉備も含む中国地方というまとまりで
「五万戸の投馬国」なのかもしれないけど

九州 のちの「遠の朝廷」      奴国  二万戸
中国 朝廷と遠の朝廷の中国(間の国)投馬国 五万戸
畿内 朝廷             邪馬台国七万戸

この程度の情報量ということなのかもしれん
0489日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:49:12.72
>>463
>で投馬国でどこだろうな?

投馬国(五万戸 土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)は、狗奴国(阿波県南地域)と隣接し、海洋資源・外洋航海交易など

邪馬台国(女王之所都 七万戸 大河吉野川流域一帯)に匹敵する強大国。   @阿波 
0491日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:53:42.89
>>434
>テンプレ>>51
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。

魏志は、(侏儒國付近までの陸路参問の五千余里の記載に拠って)、
對海國と一大國の「海岸沿いの二辺の陸行」の里数を計上している事になり、
また伊都國から奴國へも不彌國から投馬國へも、
途中移動を示す文言や移動里数がない事から、移動そのものがなかった事になるから、
不彌國のすぐ南の邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里にほぼぴったりになるから、
この男(おそらくスレ主)は間違っている事になる。

>これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。

魏朝里は、明帝の時から「1里≒76.5m」位の周髀算経里を公定しており、
だから、このスレ主の計算は、完全な間違いであり、バツ。

>参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

勿論、南≠東などの史料事実や史料実態に拠って、
スレ主の「奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)まで」という比定設定そのものがバツである。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 18:54:47.60
>>489
>土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯

四国は四国全体でも離島
中でも土佐は、そこから先に陸地のないどん詰まりの辺境
外敵も来ないから防人(夷守)さえ置かれないようなところ

そんなところに五万戸の強大国なんてないよ
遺跡もないだろ?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:02:06.40
>>492
>遺跡もないだろ?

お前、あほだよな?

投馬国(宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「田村遺跡」・「居徳遺跡群」他   

「土佐」の爪の垢でも煎じて飲んどけ!   @阿波
0494コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 19:04:35.00
>>479
> >>1さん 畿内説のテンプレとしては良い線行ってると思います//
  無駄ばかりで、ピント外れも甚だしい。所詮、出来損ないの書生論だ。
クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエというもんじゃない。

>>481 > テンプレで説明してある  FAQ61・・・
倭国上陸までが万里だから、残りは二千里ってこと//
  そんなん引っ張る必要ないだろ。それだけの話ならさ、
距離の記載のある不弥国までなら万八百里で、残りの水行30日陸行1月が千二百里、
放射説なら、伊都国までが万五百里で、残りの水行10日陸行1月が千五百里というだけ。

張政が誠実に道程記載をしたなんて前提では、どうしようもないね。
まぁ、出張旅費を稼ぐために過大に書いた、なんて説もあるが、これも違うね。

>>482 態々おなじ事を二回書くほど重要じゃない。

> この文の書き方は馬具が渡土提から見つかったって捏造してた捏造君かな?//
  ン? 腐葉土層から廃棄物として出たと聞き及ぶんだがね。
それに、捏造ってんじゃなくて、箸墓の構成部分から出たと、スで信じて書いてる気もするんだがね。

>>491
> 魏朝里は、明帝の時から「1里≒76.5m」位の周髀算経里を公定しており//

定義としての距離の里は、キッチリと500mだ。
メートルと同じ理屈で、地球サイズから作られた単位だ。
短里だの九州王朝国だのは存在しない。
そんなヨタを妄信しちまう、オ〆の膿味噌が×なんだからさ、
オツムに穴を開けて、味噌を勹ソと詰め替えな。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:05:34.41
>>443
>これは、この文を置く場所が魏志倭人伝でおかしくなってるのが原因
魏略ではこの文は
漢書地理志燕地、唐、願師古注 (魏略云)
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
となっていて、対馬、壱岐、倭国本土、と渡海千里で渡っていったところも
倭人の國で韓人や漢人その他の国ではないというだけの意味
「東」とかもついていない
倭国が大海の中の列島上の國で、間の海峡を渡海した先にも倭人が
住んでいるというだけの説明

魏略の記載は、
後代史家に拠る「内容紹介」の(二次的資料である)逸文しか残っておらず、
同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測などの記録を基にした陳寿の三国志の方が、
はるかに信頼性も確率も高く、
だから、三国志の記録を訂正するような根拠になならないもの。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:05:34.93
>>491
>周髀算経里

これも何度も話に出て、ザラコク以外は全員認識済みだが
周髀算経でも
6尺=1歩(複歩)
1800尺=300歩=1里
の関係は何も変わりはない

そして、一寸千里の法とかいっているが、尺(寸)の長さが
通常の六分の一程度の短尺を使っているなんてこともない

つまり、周髀算経は短里の存在を完ぺきに否定する資料なんだよww

以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
 → 六尺=一歩

三分里之一,即為百步
 → 三百歩=一里
0497日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:07:15.30
>>479
あなたも、かように思いますか。
同感です。
畿内説の主張に沿ってますが、
「過ぎたるは及ばざるが如し」があります。
説ですので反論があるのは当然ですが、本論に継ぎ足した余分なところで揚げ足を取られてるようです。
あなたの言う通り勿体ないです。
0498コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 19:08:59.64
>>488 > 投馬国・・・出雲だろうな//
  まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには寄り道となる出雲に、
張政は何故に立ち寄ったか、立ち寄らざるを得なかったのか、
なんてのも、考えてみるといいよ。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:09:14.10
>>486
「親魏倭王」は、ヤマトには過去・現在・未来共々いなかった/いないのか。
さすれば大和には、邪馬台国も女王之都もなかったのであるな・・、
0500日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:09:19.44
>>444
「南」や「冢」や「正北抵新羅」などのような、
史料事実や「それの史料批判に拠って得られた史料実態」に対して、
何も反論しないでは、
明らかにあなたらトンデモ大和説の負け、
九州説の勝ちで決着ですよ
0501日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:13:16.63
>>498
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには

なんで、クソ底辺沼地の大和盆地なんぞへ行かにゃならんのだ。  阿呆玉よ。   @阿波
0502日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:13:35.60
>>493
>お前、あほだよな?

>投馬国(宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「田村遺跡」・「居徳遺跡群」他 

やれやれと思って、とりあえず「橋上遺跡」でググったら
『山形県大江町埋蔵文化財発掘調査報告書1:橋上遺跡発掘調査報告書』大江町教育委員会.
山形県
『高岡町埋蔵文化財調査報告書7:橋上遺跡』宮崎県高岡町教育委員会.
宮崎県
橋上遺跡発掘調査報告書//大江町教育委員会/ ... 西高椅遺跡1 旧石器・縄文時代遺構・18〜42・93・94号墳. とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター編.
栃木県
橋上遺跡. 著者標目:, 高岡町教育委員会 (宮崎県). シリーズ名:, 高岡町埋蔵文化財調査報告書 ; 第7集
宮崎県
鎌倉橋上遺跡発掘調査団編; 出版社 鎌倉橋上遺跡発掘調査団; 刊行年 1999; 解説 杉並区埋蔵文化財報告書第25集
杉並区
というのは出てくるけど、土佐宿毛の橋上遺跡に行きあたらないんだが?

誰も知らないマイナーな遺跡名をいくら挙げても、五万戸の強大国の根拠にはならんよ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:19:02.54
>>447
>道里の定義は、古代の他国の言葉だから簡単ではないし、いちゃもんもつけやすいでしょ?
だから、同時代資料で日数で道里を示している実例を直接明示しているんだよ
その実例を見れば、道里が何であるかを正確に定義しなくても
道里を日数で表現できることが確実に論証できる 論理的でしょ

「道里」は、名詞の接続語で「道の里」という解釈しかない文言であり、
その場合の「道」は形容詞的使用文言であって、主体的な文言は「道」である事になり、
だから、「里」が本体的は意味であり、
魏志でも九章算術でも隋書で「日数」とは完全に書き分けており、
だから「日数」とは全く関係がないから、バツ。
0505コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 19:19:09.33
>>501 > なんで、クソ底辺沼地//
  そりゃ、オ〆の膿味噌なのであって、なんでと問うならば、
オ〆が自助努力というものを、一切できないオツムの持ち合わせしかない軆。
0506コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 19:21:31.70
>>503 > ほらよ//
  宿毛市に3世紀の遺跡があったからって、邪馬台国の所在とは何の関係も無い。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:21:33.16
>>498
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには寄り道となる出雲に、

寄り道にはならないよ
日本海の沿岸航路は、当時の大動脈で物流、人の移動の幹線だよ
大和と出雲の間の往還路を使っているだけ

>張政は何故に立ち寄ったか、立ち寄らざるを得なかったのか、
>なんてのも、考えてみるといいよ。

そこで、張政の名前が出る時点で、もの知らずだな
投馬国の報告をしたのは建中校尉の梯儁さんのご一行だろ
建中校尉梯儁さんが、親魏倭王の金印と封泥した皇帝勅書を持った除正使なんだから

そして、その除正使は倭国の動静を調べて帰る役目も担っているから
奴国二万戸、投馬国五万戸は、わざわざ足を運んででも実際に見に行くのが仕事だよ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:23:25.94
>>499
>「親魏倭王」は、ヤマトには過去・現在・未来共々いなかった/いないのか。

また話を捏造するww

存在しないのは
「親魏倭王」の『勲章』ww

日本語が不自由なんだろ?ww
0509日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:24:38.02
>>503
>橋上遺跡
>この遺跡からは弥生中期と考えられる石剣と石斧が出土している。

大遺跡ですねぇww
0510コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 19:26:54.67
>>507 > 寄り道にはならないよ 日本海の沿岸航路は、当時の大動脈で//
  出雲に立ち寄った遣唐使なんてないだろ。

> そこで、張政の名前が出る時点で、もの知らずだな
投馬国の報告をしたのは建中校尉の梯儁さんのご一行だろ//
  寄り道をしなければならないのは張政だけ。
それ以前の使者には、そんな必然性はない、
てのが読み取れない様では、解釈は無理だ。

まぁ、邪馬台国は畿内なんだが、クイズ番組じゃないんだからさ、
当たってりゃエエってもんじゃないんだよ。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:27:37.73
>>448
>「大陸王朝の史書では、皇帝勅定の単位系以外は記載されていない

これバツね。
漢代に既に「皇帝勅定の単位系以外」が記載されていた例が幾つもあって、混乱していたし、
魏代には明帝の発言からして短里が使われているし、
東夷や楽浪郡や倭國での役人らの記録も短里が使われているし、
梁書の列島などの記録報告でも短里が使われている。

>一里=三百歩=千八百尺
これから外れる場合は、不正確、あるいは誇張表現であると分かるというだけ」

この大和説男が、不正確あるいは呼称表現であった、という事が分かるだけ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:32:20.95
>>511
>魏代には明帝の発言からして短里が使われているし、

捏造乙
0513日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:34:40.04
>>510
>寄り道をしなければならないのは張政だけ。
>それ以前の使者には、そんな必然性はない、

どうしてそういうデタラメを自信満々に書けるかなぁww
倭国から遣使がありました
それに対して答礼使を出します これが建中校尉の梯儁さん
倭国からの遣使だけでは、本当に卑弥呼が倭国を代表する存在かどうか分からないから
答礼使(除正使)の梯儁さんは、倭国で卑弥呼が倭王で差し支えないか、
倭国内の大国に寄って確認する必要があるんだよ

地方の弱小首長が倭王を騙って、魏皇帝がそれに騙されたなんてことがあったら
皇帝権威が毀損するからね

こういうことを簡単にだけれど>>507にも書いたのに
どこまでも頓珍漢な御仁だな>>510
「除正使は倭国の動静を調べて帰る役目も担っているから
 奴国二万戸、投馬国五万戸は、わざわざ足を運んででも実際に見に行くのが仕事」

>てのが読み取れない様では、解釈は無理だ。

お前さんの脳内妄想に過ぎないものを読み取れたら自殺ものだわww
0514日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:40:29.54
>>506
>宿毛市に3世紀の遺跡があったからって、邪馬台国の所在とは何の関係も無い。

阿呆玉よ、「投馬国」を通らんと「邪馬臺国」へ行けんだろうがよ。 「邪馬臺国」の所在と関係大有りだ。   @阿波
0515日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:42:10.54
>>509
>大遺跡ですねぇww

こんな遺跡すら無いお前に出る幕はない!  下がっておれ!   @阿波
0516日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:46:20.93
>>510
>出雲に立ち寄った遣唐使なんてないだろ。

「当時の」って書いてあるだろ?
瀬戸内航路が活発になってからは、出雲や丹波の重要性は大きく低下するんだよ

テンプレは、その時期を早めに見積もっている
私はテンプレとはこの部分は意見が違って、出雲平野の西谷墳墓群を見ても
この時期はまだ出雲および丹波が重要国であり、
日本海航路が大動脈だったとみている
0518日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:51:14.63
>>517
>ここに出ている遺跡は全部、橋上遺跡よりは大遺跡だぞww

名無し遺跡がか?  わははははは   @阿波
0519日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 19:53:29.98
>>498
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには

なんで、クソ底辺沼地の大和盆地なんぞへ行かにゃならんのだ。  阿呆玉よ。   @阿波
0520日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:05:45.58
>>518
>名無し遺跡がか?  わははははは   @阿波

遺跡に名前がないはずないだろう
泡沫説男が無知なだけ
0521コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 20:07:26.39
>>513
> どうしてそういうデタラメを自信満々に書けるかなぁww//

そんなのはさ、張政に限って、立ち寄り、というより、
足止めを喰らわにゃならない事情がさ、魏志倭人伝に書いてあるからだよ。
キチンと読み取る事だね。

> 倭国からの遣使だけでは、本当に卑弥呼が倭国を代表する存在かどうか分からないから
答礼使(除正使)の梯儁さんは、倭国で卑弥呼が倭王で差し支えないか、
倭国内の大国に寄って確認する必要があるんだよ//

親魏倭王に叙しといてから、チンタラとそんな事してるのは、泥縄という。
梯儁さんにしろ誰にしろ、役目があっての遣使なんだからさ、最短の手間での直行だよ。
下船なんて必要最小限だ、菱垣廻船樽廻船的にね。

> 自殺ものだわww//
  踏み台蹴っ飛ばしたりなんて手助けはしないけど、止めもしないですよ。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:10:17.10
>>452
>大和には、ヤマト王権の邪馬台国が有った。

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男がバツ。

>故に大和では、親魏倭王は「親魏ヤマト王」と呼ばれていたのである

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、大和説はバツ。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:10:28.64
>>520
じゃあ、名前を言ってみろ!   @阿波
0524日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:14:51.09
>>453
>それで、道里の定義は?

「道の里」であって、「道の日数」ではない。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:16:23.75
>>523
>じゃあ、名前を言ってみろ!   @阿波

数ページにわたる一覧表になってるんで、全部言えとか無理な要求
0526日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:16:28.42
>>508
中華人民共和国の勲章
>国家勲章「共和国勲章」は、中国特色社会主義(zh)の建設や国家の防衛に顕著な貢献をなした勲功ある人物に授与される。
>叉「友情勲章」は社会主義の現代化に貢献し中国内外の交流を促進し平和の維持に貢献した外国人のために授与されることになる。

現代の中華人民共和国にも、外国人に授与される「友情勲章」というのがある。
つまり「親魏倭王」の金印紫綬は、今でいえばこの友情勲章に相当するといってよいであろう。
喜べ、畿内ヤマトの卑弥呼は大変な栄誉を授けられたのだぞ。
0527コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 20:16:37.80
>>516
>「当時の」って書いてあるだろ? 瀬戸内航路が活発になってからは//
  大陸と使訳を通じだした時分から、大和にとって瀬戸内航路は活発だし、
九州との通航だって、船が出来た時から活発だろ。

> 出雲や丹波の重要性は大きく低下するんだよ//

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

平安時代だって、日本海側は重要だよ。
生野って、日本海側と、太平洋/瀬戸内海の分水嶺の、最低標高地なんだしさ。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:20:52.21
>>459
>投馬国の水行二十日は、九章算術の行道十日と同じ形式の道里の表記法

いや「水行二十日」は、沿岸航行などでの所要日数説明であり、
陸上の「行道」ではないから、バツ。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:21:02.61
>>525
>数ページにわたる一覧表になってるんで、全部言えとか無理な要求

全部とは言わん。 お前が「橋上遺跡よりは大遺跡」と言う遺跡名を一つ挙げてみろ。   @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:22:42.41
>>464
大和説自滅で勝負ありデス
0531日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:26:11.85
>>466
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
具体的指摘の域を外れて、
罵るだけになるのは、論破された大和説人の特徴
0532日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:37:34.98
>>479
>>1さん
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説のテンプレとしては、
インチキがバレバレだと思います。
前面的に、手直しすれば、良しですね
論理的に指摘を受けてる部分を、大幅に手直しすれば、良いテンプレになるのに、
勿体ないよ
0533コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 20:45:52.72
>>516
> 瀬戸内航路が活発になってからは、出雲や丹波の重要性は大きく低下するんだよ//

加賀百万石てのだって、穀倉地帯として重要だったからだ。
他にも、石高の大きな大名は、日本海側にも多い。
日本海側が裏日本なんて認識になるのは、ごく近世の話だろ。
菱垣廻船樽廻船だって、日本海側が重要だったから、陸路なんて取らない直行便として繁盛した。
現在の感覚でグダグダ書いたって、昔の史料を読むことなんて、しょせん無理だ。

投馬・出雲を経由して、陸路経て邪馬台国に来るなんて、
或いは、出雲でUターンンなんて、寄り道でしかない。だが、むろん、
張政に限って寄り道せにゃならん事情は、魏志倭人伝に明確に書いてある。

>>530 > 大和説自滅で勝負ありデス//
  随分とアタマ割るそうなオウム返しだな。
序に再び書いとくが、
張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:46:01.64
>>482
>テンプレで説明してある
FAQ61 >>53
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
倭国上陸までが万里だから、残りは二千里ってこと
この「万里」は「万里の修好」という修辞をそのままに受け取って
それを当てはめて距離の「数字を作ってる」

いや、魏志倭人伝の記載は、
同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録を元にして書かれており、
前代や後代の「実地の見聞計測を伴わない」後漢書や如淳の意見よりも、
はるかに信頼性も確率も高いもの。

この部分を「長里」だのなんだのと、
言うやつがバカ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 20:51:04.98
>>479
あなたも、かように思いますか。
同感です。
畿内説の主張に沿ってますが、
「過ぎたるは及ばざるが如し」があります。
説ですので反論があるのは当然ですが、本論に継ぎ足した余分なところで揚げ足を取られてるようです。
あなたの言う通り勿体ないです。
0536コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 20:56:32.82
>>534 > 「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)//

それってね、ミクロネシアとかの事を書いてあるんですよ。
いわゆる、黒人という人たちも住んでいるんだし、
距離位置的にも、帶方東南萬里くらいのものでしょ。

倭なんて半島からすぐなんだし、
顔を墨で塗った如きで、ソウルの東南一万里(500km)くらいってなら、
そりゃ、ミクロネシアのことじゃないのかなぁ、と如淳は注釈入れてる訳だ。
0537コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 21:00:26.11
うっ・・・>>536
〇 ソウルの東南一万里(5000km)
× ソウルの東南一万里(500km)

距離の一里は、定義的には500mキッチリだ。
メートルと同じ理屈で、地球の大きさから定義している。
短里なんてものは、一切存在しない。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:00:50.50
>>483
>・・・もともとが、尺も歩も身体尺だから、これが6分の1の長さになるとかはできない
そして、里ももともとは「九夫」の面積を示す単位でその一辺の長さを取って
長さの里になっている

いや、元々は、「里」の文字の始まりは、その文字通りで「田の土」であり、
田という耕作方法が始まった時の「一つの田の標準的な大きさ」を単位とした計測単位。
従って、それが「方75m位の大きさ」であったから、「1里≒75m」位の単位が発生し、
その後、耕作農家数や耕作地域や集落が広がるにつれて、
「九夫」の人数での耕作範囲などとして、「1里」の長さも大きくなって行く事になったもの。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:04:23.18
>>485
>>道里日数の定義は?

>道里を日数で表現できる

道里は日数ではなく里数であるから、道里は日数で表現出来ない。
0540コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 21:08:33.57
>>535 > 本論に継ぎ足した余分なところで揚げ足を取られてるようです//
  本論のツモリの部分がマルでなんていない。マルでなってない連中が、
マルでなってない天婦羅の上げ足とってようが、知った事ではないですよ。

邪馬台国は畿内にあるのは確定事項だが、クイズ番組じゃないんだからさ、
あたってりゃエエというもんではないんだよ。
おなじ事を何遍も云わせるなよ、工〒公。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:09:24.58
>>488
>>で投馬国でどこだろうな?

出雲だろうな 案外、出雲も吉備も含む中国地方というまとまりで
「五万戸の投馬国」なのかもしれないけど
九州 のちの「遠の朝廷」      奴国  二万戸
中国 朝廷と遠の朝廷の中国(間の国)投馬国 五万戸
畿内 朝廷             邪馬台国七万戸
この程度の情報量ということなのかもしれん

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この男もバツ男。
0542コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 21:12:46.63
>>538 > 元々は、「里」の文字の始まりは、その文字通りで「田の土」であり//
  距離単位として里という文字が選ばれた理由なんてどうでもエエんだが、
距離の一里は、定義的には500mキッチリだ。
メートルと同じ理屈で、地球の大きさから定義している。

> それが「方75m位の大きさ」であったから、「1里≒75m」位の単位が発生し//
  短里なんてシロモノは、一切存在しない。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:18:45.52
誰にも賛同してもらえないキウスは、自演するしかないんだな(涙
0544日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:21:12.12
>>540
懲りない奥山
味方ゼーロ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:25:39.26
>>525
>数ページにわたる一覧表になってるんで、全部言えとか無理な要求

こら! トンズラ野郎。
全部とは言わん。 お前が「橋上遺跡よりは大遺跡」と言う遺跡名を一つ挙げてみろ。   @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:30:09.67
>>496
>・・・つまり、周髀算経は短里の存在を完ぺきに否定する資料なんだよww
以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
 → 六尺=一歩
三分里之一,即為百步
 → 三百歩=一里

この文は、
前半の「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」が、
周髀算経の原文部分で、
後半の「則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微」が、
前漢代での「周髀算経の収集注釈者の追記の失敗説明」であったことがすぐ判る。
「則」という文言使用が注釈であった事を示しており、
「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」の部分だけで、円の大きさは確定しており、
「位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一」なんて近似的な円を新に別に描く必要がなく、
全く無駄な詳細記載をしている事になってしまっているから。
つまり、元の周髀算経が長里を使っていた、という論が間違っていた、という証拠になる。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:30:29.94
>>498
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには

なんで、クソ底辺沼地の大和盆地なんぞへ行かにゃならんのだ。  阿呆玉よ。   @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:32:19.80
>>498コテ略 ▼
少なくとも、平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した天皇陵は一つもなく、奈良盆地の「前方後円墳」が、天皇陵でないことは一目瞭然。   

所在が分かる大王墓だと論証された、近世の天皇陵はすべて、「卑彌呼」と同じ「冢」だな。  わははははは   @阿波
0549日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:33:59.46
>>498コテ略 ▼
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには

なんで、クソ底辺沼地の大和盆地なんぞへ行かにゃならんのだ。  阿呆玉よ。   @阿波
0550日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:38:39.26
>>498
>> 投馬国・・・出雲だろうな//
  まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには寄り道となる出雲に、
張政は何故に立ち寄ったか、立ち寄らざるを得なかったのか、
なんてのも、考えてみるといいよ

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しになっていますから、
大和説者の君もバツです。
0551コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 21:45:56.62
>>544 > 懲りない奥山 味方ゼーロ//
  賛同者の多寡を、合理性の根拠とする習慣はないんですよ。
自分の苗字なんか云うツモリはないが、私はアンタの云ってる奥山さんではないよ。

てかオ〆は、自分で自分の味方とやらも兼任してそうだな。
むろん、そんな事に入れ揚げても、オ〆の<ソ投稿に合理性が発生する訳もなし。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:49:11.76
>>498コテ略 ▼
少なくとも、平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した天皇陵は一つもなく、奈良盆地の「前方後円墳」が、天皇陵でないことは一目瞭然。   

所在が分かる大王墓だと論証された、近世の天皇陵はすべて、「卑彌呼」と同じ「冢」だな。    @阿波
0553コテ略
垢版 |
2021/09/24(金) 21:50:43.67
>>550 > 嘘吐き騙しになっています//
  それはオ〆の膿味噌に宇治蒸しが涌いてるからだ。
オツムに穴を開けて、味噌を勹ソに詰め替える事だね。

宇治蒸しなんて云うと、何だか高級和菓子みたいだが、オ〆の膿味噌は極めて低級だ。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 21:52:23.93
>>498コテ略 ▼
>まぁ、そうなんだけどさ、大和へ行くには

なんで、クソ底辺沼地の大和盆地なんぞへ行かにゃならんのだ。  阿呆玉よ。   @阿波
0555日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 22:02:40.37
>>525
>数ページにわたる一覧表になってるんで、全部言えとか無理な要求

こら! トンズラ野郎。
全部とは言わん。 お前が「橋上遺跡よりは大遺跡」と言う遺跡名を一つ挙げてみろ。   @阿波
0556日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 22:12:33.86
>>510
>まぁ、邪馬台国は畿内なんだが、クイズ番組じゃないんだからさ、
当たってりゃエエってもんじゃないんだよ。

まあ、「邪馬台国」も「畿内」も、
存在もしなかった嘘つき騙し文であるる事がバレバレなんだから、
クイズ番組じゃないんだからさ、
当たってりゃエエってもんじゃないんだよ。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 22:22:50.21
>>533
>随分とアタマ割るそうなオウム返しだな。序に再び書いとくが、
張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、箸墓や大和説はバツなんだよ。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 22:26:18.77
>>537
距離の一里は、定義的には一寸千里に拠って、76.5m位キッチリだ。
メートルと同じ理屈で、地球の大きさから定義している。
「長里だけだった」なんてものは、一切存在しなかった。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 22:29:38.04
>>540
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであるし、
九州にあるのは確定事項だが、
クイズ番組じゃないんだからさ、あたってりゃエエというもんではないんだよ。
おなじ事を何遍も云わせるなよ、詐欺師の大和説者。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 23:44:10.95
>>484
>どのように論破する?
>お手並み拝見、

>スレ主の計算は単位が統一して無いから、、

という見え見えの嘘は
違う単位で計算した箇所が指摘できないという指摘一発で破られた
これにて確定
0561日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 23:54:01.91
>>518
>名無し遺跡がか?

遺跡名の一覧も前に出しただろ?
というか、本論文も前に出してる

本当に、意味のない「反論のフリ」しかしないな

泡はバカw
0562日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/24(金) 23:59:02.76
>>526
また違う時代のものを勝手に持ち出してるw

バカのやることはいつも同じw
0563日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 00:01:12.46
>>529
>お前が「橋上遺跡よりは大遺跡」と言う遺跡名を一つ挙げてみろ。

逆に橋上遺跡より小さいのを教えてくれw

あの図に載ってるのは全部集落遺跡だから、
石剣と石斧が出土しているだけの遺跡とははじめからカテゴリーが違うんだよ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 00:16:44.96
>>521
>親魏倭王に叙しといてから、チンタラとそんな事してるのは、泥縄という。

何のための封泥勅書だと思う?
倭王が嘘だったら、除正はなかったことにするんだよ
そのための答礼使
0566日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 00:20:29.16
>>542
>距離の一里は、定義的には500mキッチリだ。
>メートルと同じ理屈で、地球の大きさから定義している。

またすごいトンデモさんが出てきたなw

人間基準の身体尺と地球の大きさの間には、何の関係もないのだけれど
0567日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 00:52:55.83
>>566
いや、それ現代中国の1里(市里)だわ
メートル法と整合させたやつ
0568longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/25(土) 02:53:41.70
>>566
> 人間基準の身体尺と地球の大きさの間には、何の関係もないのだけれど//
  それはさ、フランス革命政府に云ってやれよ。
人間基準の身体尺くらいのサイズであるメートルてのはさ、
地球の大きさを基準に作られたんだよ。

ヌー速に立った関連スレから。
まぁ、同じ事はここの過去スレでも散々書いたけどな。
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1632219683/407-461n
> 魏志倭人伝の、計其道里 當在會稽東冶之東 っていう記載は、
會稽(紹興)東冶(福州)の東には、目ぼしい島なんかないんだし、
そんな所に邪馬台国なんてある訳ないだろと、張政等を、嘲ってるわけだ。

會稽(紹興)の真東は、九州最南端の佐多岬の僅かに南、
東冶(福州)の真東は、台湾最北端の僅かに北となる。
つまり、佐多岬と台湾最北端それぞれでの、緯度測定データがあってこその記載だ。
北極星の仰角を測定すれば、それが即ち緯度という事になる、と当時の人は知ってたことになる。
距離の里ってのはね、メートルと同じ理屈で定義したんだよ・・・

事実として、會稽(紹興)の真東は、九州最南端の佐多岬の僅かに南、
東冶(福州)の真東は、台湾最北端の僅かに北となるんだが、
これを偶然で片付けるのかね。
少なくとも当時の中国では、緯度という概念が存在してたと考えるしかなかろうが//

魏志倭人伝の地理記載は、地球規模の概念で書かれている、
という事が理解できない様ではさ、何一つ理解できないんだよ。
むろん、そういった事を如淳も理解していたから、>>536 の如き注釈を入れたんだよ。

>>567
> いや、それ現代中国の1里(市里)だわ メートル法と整合させたやつ//
  逆だ。1里(市里)方が、本来の里の定義に追随したんだよ。
0569longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/25(土) 03:56:41.91
>>565 > 何のための封泥勅書だと思う?//
  はァ? 親魏倭王印も漢の倭(委)の奴国王印と同じで、
きっとそうだったのだろうけどね、陰刻だからって何だと云うのかね?

> 倭王が嘘だったら、除正はなかったことにするんだよ そのための答礼使//
  綸言汗の如しって、知らんのかね。
汗も吐いた唾も、元には戻らんのだよ。それくらいの概念は、魏にもあっただろうさ。
親魏倭王叙任を無かった事にしたのはね、
魏志倭人伝が編纂された、晋王朝になってからの事だ。

邪馬台国の事は、邪馬壱国と、台与タソの事は壱与と記載されている。
台ってのは、辺境国ではなく、中国の京都・洛陽の事だ。
難升米等が遣使した景初二年六月に、帯方太守劉夏は、遣吏將送詣京都なんて書いてある。
一方、正始8年記事においては、送政等還 因詣臺(台)と書かれている。
「詣京都」と「詣臺(台)」は同じなんだからさ、京都・洛陽=台 という事だ。

おそらく難升米等は、表意文字によって単純に、邪馬都国とでも称したのであろうが、
魏は卑弥呼を親魏倭王に叙し、邪馬台国の表記に改めた。魏とは同格ですよ、といった事だ。

邪馬台国を邪馬壱国に、台与タソを壱与と表記したのは、
親魏倭王叙任は取消しですよ、といった意味合いだ。
しかしながら、晋とて魏と同様の中国王朝なんだから、綸言汗の如しは踏襲せざるを得ないので、
こういった間接的な記載で御茶を濁さざるを得なかったんだよ。

なお、正始8年記事の因詣臺(台)は、景初二年六月と同様に、因詣京都でも構わんのだが、
敢えて臺(台)としてるのはね、直近の三遍に渡る「壱与」表記や「邪馬壱国」表記は、
単純に似た字との書き間違えなんかじゃなくて、敢えての表記なんだよと、念を押してるんだよ。

それなりに考えての結論なんだからさ、アンタ如きがね、
テキト〜な思い付きなんぞを並べてみたってね、私の所論は覆らんのだよ。
言葉遊びみたいな臺(台)壱表記も含め、地球サイズ規模で書かれている魏志の記載を、
正しく解釈することだね。身の程を弁えな。
0570コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 04:12:58.77
>>558 > 「長里だけだった」なんてものは、一切存在しなかった//
  短里も長里も存在せず、距離単位の里は、500mキッチリの里だけだ。

>>559 > 九州にあるのは確定事項だが、クイズ番組じゃないんだからさ//
  いずれも随分と、アタマ割るそうなオウム返しだな。
オ〆が八゛力みたいなオウム返ししか出来んのは、ノー夕リソだからにしか過ぎん。

九州王朝国なぞ存在しない。そんなヨタ話に引っ掛かるのは、オ〆が八゛力だからだ。
祇園山古墳なんてね、区画整理で取壊されて、石棺をどかすのがメンドだったので、
集団墓地に再利用されたってだけの遺跡なんだよ。
ニスイの東冶を、サンズイの東治とに直したのは、王朗のやった事だ。

邪馬台国が邪馬壱国と表記されてるのは、>>569 に書いた通りであって、
二つの国が存在したんじゃないんだよ。身の程を弁えろ。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 05:31:03.61
ふーん、成程。
longinus_bouz とコテ略は、どちらも「一速」に投稿していた男らであり、
どちらも、「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や(史料批判で得られ))史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの詐欺師の、
・・・・宗教の大和説男らであったんですね。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 06:12:21.89
>>563
>石剣と石斧が出土しているだけの遺跡とははじめからカテゴリーが違うんだよ

じゃあ、投馬国(宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「田村遺跡」・「居徳遺跡群」他

の「田村遺跡」と同じカテゴリー遺跡はどれだ?  がんばれ!  わははははは   @阿波
0573日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 06:14:53.77
>>564
>好きなのを選べ  全部橋上遺跡より大きいぞw

で、そんなクズ遺跡ばかり並べて、いったいどれが女王がいた遺跡なんだ?  がんばって言ってみろ。  わははははは   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 06:39:55.09
>>453
道里が使われてる、多々事例がある。と言うだけで、答えになって無いです。
その事例を元に定義して初めて答えになるのでは?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 06:50:40.61
短里があったかどうかは知りませんが、
ある法則にのっとって1里は定められたと思う。東夷伝記述の各々の里は現在距離とほぼ比例している、
0576日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:06:00.95
>>575
それを短里と定義したのだよ
短里なる言葉は当時無かったのですか、
0577日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:09:28.30
短里論争:
 死せるフルタ 今も畿内説を走らす・・! の状況のようだな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:10:53.09
居徳遺跡は解体痕がある縄文晩期の人骨が出た遺跡だな
0579日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:35:48.44
>>578
投馬国(五万戸 土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)は、狗奴国(阿波県南地域)と隣接し、海洋資源・外洋航海交易など

邪馬台国(女王之所都 七万戸 大河吉野川流域一帯)に匹敵する強大国。   @阿波 
0580日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:41:11.40
>>577
>短里論争:
 死せるフルタ 今も畿内説を走らす・・! の状況のようだな

古田さんを褒めていただいたようで、有難う御座います。
私は、古田さんを囲む会以来の会員でしたが、仕事が忙しくて、
何年かに一回位、会に出席した位で、いつも一番後の隅に座っていただけであり、
何十年か?前に、一度だけ古田さんにご挨拶した事がありましたが、
古田さんは、私を全く知らなかったみたいでしたね。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:54:43.72
>>577
古田って頭いいね
0582日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:57:01.69
>>539
俺もそう思う。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 08:58:36.88
>>551
奥山確定
0584日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 09:01:41.75
>>553
ずいぶん、ほざいてるが中身何もない。
何が楽しいのかね。
ひとを罵倒するだけ
議論に参加する気が無いのかね
0585日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 09:24:07.14
>>575
正しい
距離の整合性が無いと目的地につかない。

一里が100メートル以下なのは確かであろう。
東夷伝の距離の謎を解くカギが短里であろう。

畿内説のように、何の根拠も無く東夷伝の距離は正しく無いと決めつけるのは、
学者にあるまじき行為である。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 09:32:56.97
>>564
邪馬壹國,女王之所都の
河川等の整備、開拓がよくわかる。

官有伊支馬,次曰彌馬升,
次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,
可七萬餘戶もうなずける。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 09:35:53.00
>>581
ぺーテンて頭が良くないとできないよ。
いまだに信者いる。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:00:36.95
GHQに10以上解体されたけどその旧宮家には20人は男系男子がいるらしいぞ 未婚の
法改正して生まれたばかりの男系男子赤ん坊を皇室が養子にするというやり方もある
0589日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:05:38.14
>>567
>いや、それ現代中国の1里(市里)だわ
>メートル法と整合させたやつ

それを、3世紀のことを論じる邪馬台国スレで出してくる人の
頭の程度を心配しなきゃいけないってこと
0590日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:09:58.18
>>572
>じゃあ、投馬国(宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「橋上遺跡」・

「じゃあ」じゃねーんだよww

泡が「土佐宿毛はすごいんだ! こんなに遺跡もいっぱいある!」
って言って出してきた遺跡の最初が、
「石剣と石斧が出土しているだけの遺跡」ww

これが筆頭で出てくる程度の土地に、何を期待してるんだ?ww

土佐に投馬国五万戸は、トンデモの中でも相当にトンデモレベルが高いぞww
0591日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:11:10.60
>>573
>そんなクズ遺跡ばかり並べて、

つ 「橋上遺跡」
「石剣と石斧が出土しているだけ」のすごい遺跡だよね!ww
0592日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:11:50.71
>>547
阿波爺
クソ底辺沼地の邪馬壹國には行っていない。
墓がいっぱいできる宗教地、水銀、農業地
が女王之所都
水行十日,陸行一月と言うしかないだろ。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:13:35.73
>>590
>これが筆頭で出てくる

阿呆玉よ。  こんな遺跡を筆頭だと?  適当に並べているだけだろうがよ。

で、「田村遺跡」と同じカテゴリー遺跡はどれだ?  がんばれ!  わははははは   @阿波
0594日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:15:45.28
>>592
訳の分からんことを言う基地外は引っ込んでろ!   @阿波
0595日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:17:38.89
>>574
>道里が使われてる、多々事例がある。

道里の表現に、日数が使われている事例が多々ある

魏志倭人伝の日数が使われている表現が、
「道里ではない」と考える理由はこの時点で存在しない

定義なんてする必要ないだろ?
>>574も九章算術の均輸の1問目の
「行道十日」は道里を示すものだって理解できてるんだからww

>と言うだけで、答えになって無いです。

道里の定義を訊いているなら答えになってないと思うかもしれんが、
今問題になっているのは、テンプレのFAQ78の妥当性であり、
それには「道里が日数で示される実例」が確認できればそれで必要十分なんだよ

話をそらそうとしても無駄

>その事例を元に定義して初めて答えになるのでは?

FAQ78の妥当性の議論に、定義なんていらないと、何度言えば分かる?
0596日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:20:26.28
投馬国は四国だな。
次有斯馬國〜次有烏奴國が中国地方
0597日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:23:33.76
>>575
>ある法則にのっとって1里は定められたと思う。東夷伝記述の各々の里は現在距離とほぼ比例している、

どこが比例してる?wwwwwwwwwwwwww
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg

千々賀・三雲間(末盧國・伊都國)が37キロ
https://i.imgur.com/VeFdAO9.jpg
三雲・比恵間(伊都国・奴國)が24キロ
https://i.imgur.com/7QhxmCH.jpg

五百里が37キロ
百里が24キロ

五百里側を基準にすれば百里が7.4キロだから
伊都國・奴國間は324里、三百里餘になる

百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
実際には37キロだから154里だな

全然比例なんてしてないぞww
0598日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:30:11.25
>>593
> 適当に並べているだけだろうがよ。

適当に並べる程度の資料しかないのに何を偉そうにほざいてるんだかww

本四架橋の宇野−高松ルートが開通する直前に、四国に滞在する機会があったんだが
悲願の本四架橋開通で四国の離島性が解消されるってすごくうれしそうに
アナウンサーさんが話してたよ

その本四架橋がないどん詰まりの県が高知県、土佐で、
宿毛の辺りはその土佐の中でも辺境

「石剣と石斧が出土しているだけ」のすごい遺跡が、リストアップされて
いる時点で、土佐宿毛はすごいっていうのが破綻してるwww
0599日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:36:40.20
>>598
>その本四架橋がないどん詰まりの県が高知県

「卑彌呼」の時代は、黒潮流れる太平洋側がメインルート。 

くそ最悪最底辺地ズボズボ沼地の大和盆地土民は大人しくしておれ!  わははははは   @阿波
0600日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:38:24.83
宮崎康平の1965年の連載小説がきっかけとなった邪馬台国ブームに乗っかったのが
在日朝鮮人定時制高校教師だった古田の1969年からの反日ビジネスなので
数十年前にブームが完全に終わった後なら少女像制作に一枚噛むだろう
考古学と史料批判が苦手だからな
0601日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:49:06.25
>>590
いや、そうとも言えないよ
稲作には適した地だよ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 10:54:31.35
>>597
そういうことだ。
里が比例せず、方角も合わない北東の糸島や博多や宇美なんぞへ行くから、のたうち回って苦しむのだ。
複数の中国史書に書かれているとおり、東南500里の佐賀大和町川上へ行け。
大正解は其の地にある。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:08:07.29
>>599
>「卑彌呼」の時代は、黒潮流れる太平洋側がメインルート。 

黒潮に乗って、どこに行くんだい?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:13:53.82
>>603
>黒潮に乗って、どこに行くんだい?

もちろん、「投馬国」・「狗奴国」・「邪馬臺国」だ。   @阿波
0605日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:14:15.15
>>603
クソ底辺沼地の邪馬壹國だな。
南紀白浜〜伊勢が上陸地

群馬、千葉にも鉄器。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:15:59.83
>>601
>いや、そうとも言えないよ
>稲作には適した地だよ

そうは言っても、稲作ができる平地がない
ここに投馬国五万戸だなんて、噴飯もの

土佐宿毛辺りと、畿内の平地の比較 同一縮尺
https://i.imgur.com/Vn8POAD.jpg
0607日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:17:09.50
>>605
>クソ底辺沼地の邪馬壹國だな。

くそ最悪最底辺地ズボズボ沼地の大和盆地に魅力はまったく無し!

わざわざ、そんな所を目指すアホはお前だけ。  わははははは   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:19:11.59
>>606
土佐宿毛辺りだけが「投馬国」だとバカを晒している阿呆玉。   @阿波
0610日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:20:09.77
>>607
>くそ最悪最底辺地ズボズボ沼地の大和盆地に魅力はまったく無し!
>わざわざ、そんな所を目指すアホはお前だけ。

土佐宿毛には平地がなくて投馬国五万戸を養えない、に
対する反論はできないんだねww
0611日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:22:26.28
>>608
>やはりこの地域の盟主たるのは吉備になるんだろうな

碌な弥生集落遺跡や資源の無い吉備に、「この地域の盟主」など興る訳がない。  吉備忌部の分際で頭が高い。 下がりおれ!   @阿波   
0612日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:23:01.93
>>610
土佐宿毛辺りだけが「投馬国」だとバカを晒している阿呆玉。   @阿波
0613日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:24:00.69
>>609
>土佐宿毛辺りだけが「投馬国」だとバカを晒している阿呆玉。 

人口集積が無理な平地のない土佐宿毛を投馬国だと言い張っているのは泡だぞ?ww
平地のある範囲まで投馬国を広げたとして、
その場合平地の大きい場所が投馬国の中心だろ

どうやっても、土佐宿毛を投馬国だというのはもうどうやっても詰みだww

まあ、その前に永島文書しか典拠がない末盧国からデタラメなんだけどさw
最初から最後までデタラメなのが泡説ww 泡沫説と一字違いw
0614日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:24:32.57
>>610
高知平野が控えている。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:29:33.32
>>613
>その場合平地の大きい場所が投馬国の中心だろ

その通り!   宿毛は「投馬国」の玄関口の一つにすぎん。 宿毛に限らず太平洋岸一帯が「投馬国」   @阿波
0616日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:32:29.75
>>614
>高知平野が控えている。

まさに、投馬国(五万戸 土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)は、狗奴国(阿波県南地域)と隣接し、海洋資源・外洋航海交易など
邪馬台国(女王之所都 七万戸 大河吉野川流域一帯)に匹敵する強大国。   @阿波 
0617日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:36:12.99
>>613よ。  お前の妄想では、とても「阿波」に太刀打ちできんよ。  さっさと諦めな。  わははははは   @阿波
0618日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 11:56:46.28
高知平野は阿波犬神信仰がくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地と妬む低湿地帯
0619日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:07:37.93
>>617の、そういう我れ褒めって、すごくみっともないの知ってる?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:13:18.61
>>615
>その通り!   宿毛は「投馬国」の玄関口の一つにすぎん。

ということで、土佐宿毛を投馬国の比定地だと言った泡が
嘘つきということになりましたww

玄関口までを、その国への旅程として書くことはないよ
大陸史書の地誌記事は中心国邑間の方角と距離で表すのが原則
入口を書いて終わり、なんてことはあり得ないww
0622日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:20:23.14
>>586
>邪馬壹國,女王之所都の河川等の整備、開拓がよくわかる。
官有伊支馬,次曰彌馬升,
次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,
可七萬餘戶もうなずける

この人は、幾つかの大和盆地の発掘論文の内容の話をしているんだから、
始めから「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らの説明を、
肯定宣伝する投稿をしている事になり、
国民を騙そうとする悪質な人間である。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:21:32.45
>>620
>ということで、土佐宿毛を投馬国の比定地だと言った泡が

宿毛は「投馬国」の玄関口の一つにすぎん。 宿毛に限らず、太平洋沿岸一帯どこでも玄関口だ。 分かったか? ボンクラよ。

お前の妄想では、とても「阿波」に太刀打ちできんよ。  さっさと諦めな。  わははははは   @阿波
0624日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:24:24.35
>>620
中心国邑間の方角と距離で表すのが原則
不彌國百里で不彌國?

邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
は、倭国 女王国の中心地ではない。
女王之所都は、宗教地の中心、
なのでデカい墓ができていく。
奈良、三重、徳島は、水銀産地でもある
0625日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:27:58.91
>>624
>奈良、三重、徳島は、水銀産地でもある


少なくとも、「卑彌呼」時代の水銀産地は、「阿波」だけだ。  

調子に乗るな、訳の分からんことを言う基地外は引っ込んでろ!   @阿波
0626日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:29:28.49
>>615
>その通り!   宿毛は「投馬国」の玄関口の一つにすぎん。

結局泡は、「魏志倭人伝の方角も距離も等しい、距離は短里」っていう九州説の亜流なんだよな
だから、「南」至投馬國、水行二十日に合わせなきゃいけないからというデタラメな理由で
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)とか言ってるww

土佐五万戸、阿波七万戸とか、最初から無理なのにww
0627日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:30:12.35
女王国には丹(水銀朱)が無かったというのが粟犬神信仰の主張
0628日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:40:22.90
>>595
>道里の表現に、日数が使われている事例が多々ある

「道里」は道程の「里」数であり、「日数」は「里」数ではないから、
始めからバツ例です。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:48:36.67
>>596
>投馬国は四国だな。

北部九州から四国は渡海しなければならず、
魏志倭人伝は渡海と水行(沿岸航行」とを書き分けており、
投馬國は、不彌國から南へ「水行二十日」であるから、
九州島からの(渡海ではなく)沿岸水行で行く所であり、だから南九州しかなく、
渡海しなければ行けない「四国」説はバツです。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:49:25.18
中国の古代の表現には日本人では想定つかない表現多いからな

文字構成のルールが違うのんだわな
0631日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:49:40.47
>>624
>邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
>は、倭国 女王国の中心地ではない。
>女王之所都は、宗教地の中心、

でも倭女王の都なんだよね?
それも認めないの?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:50:37.48
>>624
>中心国邑間の方角と距離で表すのが原則
>不彌國百里で不彌國?

「中心国邑間の方角と距離で表すのが原則」これは大陸史書でのお約束だから
現代日本人がどうこう言ってもしょうがないぞw

「不彌國百里で不彌國?」
これは短里とか言い出すからムリが出る
短里など最初からないってこと
0633日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:54:14.75
狗奴国は北部九州の奴国と接する
理由 鉄鏃が極端に多い。
卑奴母離
倭国内の内ゲバ防ぐ、卑弥呼を守る
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛。
卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,
塚の形状は円か方、定かではない。
ここまでは北部九州

四国、近畿
投馬国、邪馬壹國に卑奴母離なし
(大きな紛争地域ではない)。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:56:34.18
>>629
女王国に属するのか?
南九州のどこなんだよ?
0635日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 12:59:16.63
>>629
女王国に属するのか?
南九州のどこなんだよ?
>>631
倭女王の都だよ。
倭国の都ではない。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:11:00.00
>>626
>だから、「南」至投馬國、水行二十日に合わせなきゃいけないからというデタラメな理由で

デタラメはお前! 「魏志倭人伝」の通り行けば、勝手に「阿波」に辿り着く。  わははははは   @阿波
0637日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:11:53.96
>>629
博多湾から南にいけないよ。
不彌國 九州の東淵か西淵にまず
出ないといけない。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:27:31.69
>>637
間違ってるぞ。
宇美不彌国は山間のどん詰まり集落だ。
だから博多湾に出るには、まず博多の奴国に戻って通行通過しなくてはならぬ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:31:55.34
>>597
>どこが比例してる?wwwwwwwwwwwwww
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
千々賀・三雲間(末盧國・伊都國)が37キロ
https://i.imgur.com/VeFdAO9.jpg
三雲・比恵間(伊都国・奴國)が24キロ
https://i.imgur.com/7QhxmCH.jpg
五百里が37キロ 百里が24キロ
五百里側を基準にすれば百里が7.4キロだから伊都國・奴國間は324里、三百里餘になる
百里の方を基準にすれば、百里が24キロだから
末盧國・伊都國間が五百里と書かれるためには120キロくらいないといけない
実際には37キロだから154里だな 全然比例なんてしてないぞw

東大理系博士号自称男?の一大國からの到着上陸地や、
末盧國の出発地や、伊都国の到着地や出発位置などが、
はじめから、史料事実や史料実態に合わず、間違い。
0640コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 13:33:14.12
>>554 > なんで、勹ソ底辺沼地//
  そりゃオ〆のオツムが勹ソなのはさ、先天的な瑕疵を埋めるための、
努力を怠ったからだ。懐くなよ八゛力。

>>523 > じゃあ、名前を言ってみろ!//
  おい、御前、https://bokete.jp/boke/61197457

オ〆ってさ、小物丸出しなとこが、そっくりなんだよな。
https://app.famitsu.com/wp-content/uploads/2020/09/hokuto004_062.jpg
0641コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 13:34:42.46
>>584 > ひとを罵倒するだけ//
  鳴かんでもエエだろ。

> 議論に参加する気が無いの//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんじゃない。
>>550で書いた次第でさ、寄り道となる出雲に、張政は何故に立ち寄ったか、
なんて考えてみる事だね。まぁ、あれを寄り道と認識すら出来んじゃ、仕方ないけどな。
0642コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 13:36:37.10
>>577 > 短里論争: 死せるフルタ 今も畿内説を走らす・・!//
  はァ? 奔ったのは、脳味噌の溶けてる連中だろ。
オ〆たちって、こんなイメージだよ。
https://stat.ameba.jp/user_images/20210522/16/jam512412/f4/a7/j/o0957054114945736132.jpg

>>580 > 私は、古田さんを囲む会以来の会員でしたが//
  オ〆は恥ずかしい御器被りだな、宝賀寿男。

> 古田さんを褒めていただいたようで、有難う御座います//
  金銭が溶ける詐欺なら、誰でも気付くんだけどもさ、
脳味噌が溶ける詐欺って、タヒ沼で抜け出せないんだよなぁ。

>>581 > 古田って頭いいね//
  そんな自分も菓子こいってか?
出来の悪い陰謀論に耽溺してるだけだろ。
九州王朝国なぞ存在しないよ。フリーメーソンの陰謀なんて無いのと同じでさ。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:38:17.55
>>638
博多湾から南に海はない。
東か西に行って南への記載がない。
奴国が九州の東海岸か西海岸に接するのか?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 13:49:11.89
>>602
>そういうことだ。
>里が比例せず、方角も合わない北東の糸島や博多や宇美なんぞへ行くから、
のたうち回って苦しむのだ。

行程説明も記載里数も移動説明も、別に問題ないし、
「皆臨津搜露」の場所も存在し得るから、問題ない。

>複数の中国史書に書かれているとおり、東南500里の佐賀大和町川上へ行け。
大正解は其の地にある。

松浦川沿いの獣道を登り、笹原峠越えをする道は、
安全第一の魏の役人は選択しないだろうし、
多久方面では、「皆臨津搜露」の海岸が存在しないが、
糸島の「前原〜糸島水道」付近ならあり得る。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 14:02:10.59
>>624
>中心国邑間の方角と距離で表すのが原則

いや、出発地の国邑の「出口」から、到着地の「入り口」への、
道のり的な里数で表すのが原則。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 14:12:56.14
>>644
臨津の「臨」の意味を勘違いしておるな、小学生が。
伊都国にある津に臨んでなら、「於津」とすべきだろう。
そうでなくて臨津としたのは、佐賀川上の伊都国から、末盧国の津まで臨「=わざわざ出向いた」という意味だ。

古式の臨の使用例:
・天皇陛下のご臨席を賜って(臨=わざわざお出ましを頂いたの意)
・天孫降臨の峰(天孫が、天からわざわざ降っておいでになった峰の意)
0647日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 14:21:54.27
>>644
>松浦川沿いの獣道を登り、笹原峠越えをする道は、
>安全第一の魏の役人は選択しないだろうし、

馬鹿だな。安全第一だからこそ、
危険な博多湾沿いの岸壁のケモノ径を避けて、平坦で歩きやすい笹原峠(標高ただの100余m)を越えた。
そして佐賀平野を抜けて、肥後熊本の山鹿市臺(現行政区域は菊池市七城町の臺遺跡)へ向かったのだ。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 15:29:10.29
>>645
>いや、出発地の国邑の「出口」から、到着地の「入り口」への、
>道のり的な里数で表すのが原則。

その原則って、どこの現代日本人が発明したの?
0649コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 15:38:20.35
>>583 > 奥山確定//
  レス元記載の通りですよ、御八゛力様。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 15:42:08.78
>>639
最短距離で行たとでも?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 15:52:43.42
>>639
問題は、魏の使者がどのような道で行ったかでしょう。
いずれも、魏里では説明つかない。
直線距離と、地形を出して推測するしかない。
よほどひねくれてる奴が推測しない限り1里100メートル以下である。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 15:58:44.59
泡も昔はこの程度にはかわい気があったんだけどな

282日本@名無史さん2018/12/04(火) 15:47:24.70
>280
あんたが阿波説なんてトンデモ説を強弁し続けるからだろ(笑)

283日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:19:16.29
>282
ごめん、だれも阿波説なんてトンデモ説を叩き潰してくれないもんだから、ついつい強弁し続けてしまった(笑)  @阿波

284日本@名無史さん2018/12/04(火) 16:34:21.24
>283
いや何度も叩き潰されてるのに認めないだけやんけwww
0653日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:01:28.96
>>635
>倭女王の都だよ。
>倭国の都ではない。

その倭女王が、親魏倭王で倭国の王なんだから
倭女王の都が倭国の王都だよ

どうしてこういう意味のない言葉尻をこねくり回すような
ことばかり九州説はやるのかねぇ
0654コテ略
垢版 |
2021/09/25(土) 16:01:31.43
>>571 > ふーん、成程//
  人様の云ってる事に矛盾でもあるってならさ、
サッサと書けばええだろノー夕リソ。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:22:17.02
>>636
>デタラメはお前! 「魏志倭人伝」の通り行けば、勝手に「阿波」に辿り着く。

反論になってない

46日本@名無史さん2018/11/30(金) 01:29:56.42>>47
年毛神社は30年前までは年毛のお社と呼ばれた祠。
ある日突然神社本庁が公認したとかなんとかで社殿が建てられ、由緒ある神社ということにされた。
永島恒樹なんて地元じゃ誰も会ったことない人物。
急に登場した永島文書(最近では意図的に永嶋文書)には福岡藩士だった青柳種信のお墨付きなんてことにしてるが、青柳種信側の文献には漁業始めの斎場として年毛社が登場するのみで永島某なんて存在してない、
まして昭和4年には祠だけで神社など存在してない。
あの神社が建つまで「万津浦」なんて伝承があったなんて事実もない。
今じゃ宗像大社の人事に組み込まれてるし、元々は自分たちの社だったから大切にしたいって気持ちがあって迎合してしまってるが勝浦の30代半ば以上の者ならみんな知ってること。

47日本@名無史さん2018/11/30(金) 04:09:50.75>>76
>>46
昭和初期ってアイデンティティーとしての国体やルーツに関わる神社系にまつわる創作が多かったイメージがあります
顕著なのは熊沢天皇とか、、、
私は福岡出身ですが現在住んでる熊本にも大宇宙大和神なんてのを祀って全人類発祥の地とか言ってる日の宮幣立神宮というスピリチュアル系・オカルト系に大人気の神社があり、15000年の歴史とか言ってますが実際には昭和初期に完成だったりします
(神主や神社はゴリゴリのスピリチュアル系ですが、土地は本当にパワースポットと言われてて自分も行った時におぉ!ってなりました)
宗像大社が宗像氏から現在の葦津家に移ったのも昭和初期だったはずですし、多くの新興神道が生まれたのも昭和初期ですし

https://i.imgur.com/T1gqmVS.jpg
0656日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:28:36.20
>>650
>最短距離で行たとでも?

>>639の図は現代の街道沿いで道のり距離で測ってるよ
最短距離、二点間距離ではない
現代のルートは昔も通れるルートだから十分に検証に耐える距離だぞ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:31:08.18
>>651
>問題は、魏の使者がどのような道で行ったかでしょう。
>いずれも、魏里では説明つかない。

短里ではなおさら説明がつかないんだよ、お馬鹿さん

>>575
>ある法則にのっとって1里は定められたと思う。東夷伝記述の各々の里は現在距離とほぼ比例している、

という言い分が、まったく成立の余地がないことに気がついてくれ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:32:05.29
>>651
>いずれも、魏里では説明つかない。

そしていずれも短里では説明がつかない
おしまい
0659日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:35:23.51
>>651
>いずれも、魏里では説明つかない。

それを考えるときに、
1.短里があったんだー
2.情報が乏しくて正確なことが分からなかったんだな
3.魏の皇帝の徳を称えるために誇張されてるのだろう
ってところで、1だけしか考えないところが、九州説のおかしなところなんだよ
0660日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:40:51.65
>>653
「漢委奴国王」
「親魏倭王」

邪馬壹國に与えられたもんではない。
卑弥呼に与えれたもん。
宗教の中心地の意味で倭女王の都だよ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:47:07.93
>>653
畿内説は暇だな
纏向は調査されど一向に邪馬臺国の手掛かりが出てこない。
その辺でゴロゴロしてる遺物しか出てこない。
そろそろ、税金使うのやめてほしいな。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 16:55:00.01
ニューススレッドで邪馬台国ねたが出たら暴れている@阿波って何者?
0663日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:04:16.47
>>659
勝手に質問を考えるな
しょうがないな、答えようか
2.倭人伝に方位と距離の情報はある、そこから考えるのが学者 
3.それは、憶測の域を出ない。しかし、魏の使者は少なくとも2度は邪馬台国に行っている。一度目の情報と2度目の情報が大きく違う事は無い。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:04:34.44
>>662
トンデモのお前にとっては、邪魔者なんだろう。  わははははは   @阿波
0665日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:10:11.34
>>664
昔はこの程度には自分が分かってたのに

「ごめん、だれも阿波説なんてトンデモ説を叩き潰してくれないもんだから、ついつい強弁し続けてしまった(笑)  @阿波」

『阿波説なんてトンデモ説を』
0666日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:17:27.78
>>665
>『阿波説なんてトンデモ説を』

お前はアホか?  お前にはシャレが分からんのか? 日本人じゃないのか?   @阿波
0667日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:17:30.84
>>661
邪馬臺国の手掛かりて
假金印紫綬,假銀印青綬,
詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔
0668日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:21:56.06
>>653
>そしていずれも短里では説明がつかない おしまい

そして、いずれでも、長里では全く説明がつかないのであり、
大和説がおしまい
0669日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:26:02.99
>>657
>>ある法則にのっとって1里は定められたと思う。
東夷伝記述の各々の里は現在距離とほぼ比例している、

>という言い分が、まったく成立の余地がないことに気がついてくれ

という大和説者の反論が、まったく成立の余地がない、
ということに、いい加減に気がついてくれ
0670日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:33:01.81
>>658
>そしていずれも短里では説明がつかない おしまい

そしていくら「魏朝里を魏里と言い換えて」反論しても、
いずれにしても、長里では、
三国志の殆どの里記載も、明帝の「四千里征伐」も、東夷伝での里記載も、
全くのように説明が付かない。おしまい。。
大和説はおしまい
0671日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:38:34.25
>>659
>「いずれも、魏里では説明つかない。」
それを考えるときに、
1.長里があったんだろうー
2.情報が乏しくて正確なことが分からなかったんだろうな
3.魏の皇帝の徳を称えるために誇張されてるのだろう
などの、
仮定や空想だけしか考えないところが、
大和説学者らの脳がおかしなところなんだよな
0672日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:50:32.30
使者は、邪馬壹國に行っているのかな?
循海岸水行、渡海と記載せず水行のみ、大雑把だな。
邪馬壹國は重要視されていない。
次有斯馬國から始まりで最後で自郡至女王國萬二千餘里
それが邪馬壹國の記載はない。共立だから問題がある地域にいたんだろうな。
祭祀の関係で邪馬壹國に戻る程度だった。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 17:56:20.21
脳がおかしなところなんだよな
0674日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:06:13.30
>>672
>循海岸水行、渡海と記載せず水行のみ、大雑把だな。

「循海岸」は「水行」にかかる連体修飾だから、二つ目の「水行」にも係ると考えれば自然というだけだ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:07:22.96
>>674
うち間違い、「連用修飾だから」
0676日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:09:13.81
脳がおかしなところなんだよな
0677日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:23:35.03
>>656
海岸沿いに行く必要は無い、
船ならもっと合理的、
0678日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:30:11.02
>>672
>使者は、邪馬壹國に行っているのかな?

詔書や金印や大量の下賜品を女王卑弥呼に直接渡さなければならないんだから、
邪馬壹國女王之所都まで行っていない筈がないな。

>循海岸水行、渡海と記載せず水行のみ、大雑把だな。

「水行」は、陸行に対比しての使用であり、
だから「沿岸航行」と「渡海」の両方を含む使用だな。

>邪馬壹國は重要視されていない。
次有斯馬國から始まりで最後で自郡至女王國萬二千餘里 それが邪馬壹國の記載はない。

はっきり「南至邪馬壹國女王之所都」と書かれているんだから、
邪馬壹國の記載はあるし、重要視されている。
こんな嘘をつくこの男は、おそらく精神的に異常な詐欺師なんだろうな。

>共立だから問題がある地域にいたんだろうな。祭祀の関係で邪馬壹國に戻る程度だった

始めから、邪馬壹國女王之所都にいた事になり、
それを隠したこの大和説男?は、非常に悪質な詐欺師なんでしょうね。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:33:42.01
>>674
>「循海岸」は「水行」にかかる連体修飾だから、二つ目の「水行」にも係ると考えれば自然というだけだ

成程。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:34:40.37
>>678
>「水行」は、陸行に対比しての使用であり、
>だから「沿岸航行」と「渡海」の両方を含む使用だな。

違う。

渡海は、絶海を渡ること。

水行は、海の沿岸を航行すること。   @阿波
0681日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:36:29.66
>>674
循海岸水行,歷韓國,乍南乍東
にあって水行のみにはない
不自然だな。

循海岸水行、渡海もあるかもしれないから
「水行」になった方が自然。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:38:33.88
>>681
>循海岸水行、渡海もあるかもしれないから

ない! 「渡海」は、絶海を渡ること。   @阿波
0683日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:42:26.47
>>681
>循海岸水行,歷韓國,乍南乍東
>にあって水行のみにはない

何が?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:48:47.78
>>678
>「水行」は、陸行に対比しての使用であり、
>だから水行は、「沿岸水行」と「渡海」の両方を含む使用だな。、

そういうことだ。
だから考え方として、「沿岸水行(循海岸行)」と「渡海水行(海峡横断行)」のように両方に共通の使用法だが、
上のケースは、「渡海()」の()内の水行が省略されていると考えればよかろう。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 18:54:11.64
「渡海」は、読んで字のごとく、絶海を渡ること。   @阿波
0686日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 19:04:54.05
>>674
却下
0687日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/25(土) 19:14:18.40
>>684
採用
0688日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 06:19:39.65
テスト
0689日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 06:21:41.75
復帰 相変わらず畿内説は空元気だな
             ムフフ
0690日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 06:26:35.02
キナイコシ、2000里だけ魏里を使ったのか
悪徳商法はいかんがな
0691日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 06:44:23.25
「渡海」は、読んで字のごとく、絶海を渡ること。   @阿波
0692日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 07:12:23.51
>>691
鳥も絶海を渡る、ワニも絶海を渡る・・、が船ではない。
則ち、人が船で絶海を渡るさまを渡海水行と言った。

女王国東 渡海千里 復国有
(女王国の東の絶海を、渡海水行千里、復国有り・・)、この絶海を渡ったさきの復国有りに阿波も該当するのであろうな。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 07:51:28.96
>>690
>キナイコシ、2000里だけ魏里を使ったのか

こいつが嘘ついてFAQ 58を否定しようとして、バレて論破された>>117の正体かな
0694日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:01:43.06
九州末盧国上陸までが1万里であるから、
あと2000里(おおむね150q、海峡横断の2/3程度)は動かせないこと自明。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:14:21.46
考えれど 考えれど 
 猶 わが纏向 都にならざり
  ぢつと地図を見る
0696日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:26:39.91
>>694
「おおむね150q、海峡横断の2/3程度」なんてぐらぐら動くのが自明
だって、海峡横断の幅なんて三世紀の科学で測定できないからな
0697日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:29:39.85
ヤマト王権の王は「親魏ヤマト王」(魏の子分)
0698日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:33:05.89
>>696
測定できなかったという根拠は?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:33:27.47
>>694
>九州末盧国上陸までが1万里であるから、

陳寿は、足し算して万二千里などと一切言っていない。 九州説の勝手ご都合解釈である。   @阿波
0700日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 08:39:11.66
>ぐらぐら動くのが自明
3倍にはならんよ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:01:03.14
>>698
>測定できなかったという根拠は?

測定方法がない
19世紀でも大きく間違っている
0702日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:02:24.77
>>700
>3倍にはならんよ

実際3倍に間違っている
0703日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:04:21.40
七千里も沿岸航海してきたのだから、舟足はわかっている。

渡海も次の島が目測できる。

今日もキナイコシの負けフラグか。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:35:55.02
>>703
おまえ毎日負けてるよ
0705日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:37:15.78
>>701
古代大陸では一寸千里の法が知られていたのに、ここで測定法がなかったという根拠は?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:48:33.00
>>705
そんな方法ほんとうは知られていないという歴史的事実
0707日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:52:24.05
>>706
古来、そのような歴史的事実が有ったという根拠は?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 09:58:57.89
>>707
ないから不要
0709日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 10:00:16.94
>>703
あんた一撃で負けた>>117ですか?
0710日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 10:54:30.46
>>699
邪馬壹國,女王之所都が
萬二千餘里のなる記載もないな。

女王國萬二千餘里である。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:11:08.12
萬二千餘里より先が里数を知らない倭人が住む土地
=女王國(連合)
0712日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:14:34.74
>>708
「知られていないという歴史的事実」がなかったのであるから、そのような歴史的事実はあったということだな。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:19:29.50
>>712
一休さんかよ(ワロス
0714日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:19:51.36
女王国連合=ヤマト王権の王は「親魏ヤマト王」(魏の子分)
0715日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:41:02.57
南至邪馬臺國女王之所都って部分の「都」は本当に首都を表しているのかな
ヤマトの女王(王族?)が治める都市という解釈もできる?
少なくとも現代の中国語だと都は都会や都市という意味もあるらしい
「ヤマトの女王の都」とは書いてあるけど「ヤマトの都」とは書いてないのがわりと昔から気になってる
0716日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:45:15.13
>>699
そこが、難しいところ。
どうやって1万2千里を出したかが意見の分かれる所。普通は積算だが、、
日数表記になぜ変えたのかが謎。
邪馬台国まで、行っていないかも??
卑弥呼が、伊都國にいた??
0717日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:49:30.81
>>715
でも邪馬臺を指して女王国という表現がたくさんあるからこの解釈は苦しいかー
自己解決した
0718日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:52:06.99
>>716
>普通は積算だが、、

かけんなよ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:52:09.12
>>709
違うが、一撃で敗れたのはキナイコシ
キナイコシにしか通用しない論法、
ずいぶん馬鹿にされてるな
キナイコシ1人しか通用しないから、おまえがキナイコシだろうな。
畿内説の奴でお前以外賛同してる投稿皆無。
              ムフフ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 11:55:48.59
>>716
>どうやって1万2千里を出したかが意見の分かれる所。普通は積算だが、、

万二千里も、各里程も、すべて出発地から到着地までの直線距離で示している。 

なんらかの測量方法があったのだろう。 大雑把ながら、世界地図が書けているのが証拠。   @阿波
0721日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:05:14.61
1万7千里(大月氏國)−5千里(楽浪郡)=1万2千里
0722日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:19:43.24
>>717
「邪馬台国 女王之所都」の意味するところだが、
”「共立女王」が都を置いているところ” という含みではないか、
つまり邪馬台国の主邑は別にあったが、倭国の共立女王である卑弥呼の都は邪馬台国の中の或る所にあった・・・、との意味。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:20:03.05
>>719
奥山以外、畿内説の奴はここにはいない
0724日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:22:32.48
>>718
ゴメン、間違えた、足し算
0725日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:25:10.96
島の大きさを足すと一万二千里なのに、いつまでも馬鹿を演じ続ける
0726日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:29:33.32
>>718
ご乗算を^_^
0727日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:32:15.81
>>716
伊都国(歓迎式典)
下賜品引き渡し
不彌國(送迎式典)
貢物もたせ、
使者は帰路(川から海へ出る)
0728日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:36:40.41
>>722 (修正)
女王/女王国は、卑弥呼限定というわけではないな
まもなく台与がその跡を継ぐのであるから、
女王国/或は女王之所都=卑弥呼及び後継台与の国/所都、が正解かもしれぬ。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 12:39:46.18
>>728
>女王国/或は女王之所都=卑弥呼及び後継台与の国/所都、が正解かもしれぬ。

その女王国は、矢野遺跡などが点在する、鮎喰川下流域弥生集落遺跡群である。   @阿波
0730日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:03:23.75
>>729
それで、阿波にあるという台与の宮殿と墓はどこかな??
0731日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:07:11.38
>>730
「臺與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」

出生地はもちろん「阿波」

天孫三代目、彦穂々出見命(=山幸彦)の后・「豊玉比売命」を祀る二社が、全国唯一、阿波国にのみ配祀されている。   @阿波
0732日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:08:37.59
御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。
御毛沼命の母:玉依姫神 姨:豊玉姫 父:鵜草葺不合命 弟:神倭伊波礼琵古命(神武天皇)
御祭神を豊玉姫命とする豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は、各地に鎮座しているが、
同名の延喜式式内社は全国で唯一、阿波国のみにある。
式内社「豊玉比賣神社」が阿波だけにあることから分かるように、もちろん豊玉比賣は阿波の神である。
他国には、豊玉比賣の名を冠する式内社はないにもかかわらず、
阿波には「和多都美豊玉比賣神社」「天石門別豊玉比賣神社」と、二社もある。
古事記にも、皇祖に係わる大女王として豊玉比賣の物語がはっきり記述されている。
     ブログ「空と風」式内社(和多都美豊玉比賣神社)比定@ 雨降神社 徳島市」より抜粋   @阿波
0733日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:21:52.89
>>723
>奥山以外、畿内説の奴はここにはいない

それが病気だって理解できないのはお前一人だよ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:33:00.69
>>666
>お前はアホか?  お前にはシャレが分からんのか? 日本人じゃないのか?

洒落であるかどうか以前に、泡説はトンデモww

そして、今ではシャレをいう余裕すら失ってるじゃないか?
どこかで叩きのめされて性格がゆがんだのかな?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:35:34.97
>>668
>そして、いずれでも、長里では全く説明がつかないのであり、

そりゃ、長里なんて存在しないんだから説明しようがないだろ?ww

あるのは、魏皇帝勅定の公定尺の単位系の中の里だけだ
それに合わないのであれば、情報が不正確と考えるのが当然のこと
0736日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:42:42.46
>>663
>2.倭人伝に方位と距離の情報はある、そこから考えるのが学者 

周回遅れww
倭人伝の方位と距離の情報が、比定地の現実の位置関係と合わないことは確定事項
倭人伝の方位と距離の情報が正確ではないとこは検討済み

そこで、それをどう解釈するかというところで「短里を考案する」というのも
思考実験としてはありかもしれんが、実際に短里という「単位=基準長さ」を
想定することすらできないんだから、真っ先に否定されて終わりなんだよ


>3.それは、憶測の域を出ない。しかし、魏の使者は少なくとも2度は邪馬台国に行っている。
>一度目の情報と2度目の情報が大きく違う事は無い。

憶測と言えば済むと思うなよww
二度行ったところで、それを史書にまとめるところで誤解があればどうしようもない
また、二度行った使者がどれだけの情報量を持ち帰ったか、とか、考えが足りなさすぎる

日数は旬日(十日単位)レベルの情報しかないと見るしかない
方角についても、角を曲がるたびに細かく方位を記すような記録は採っていない
当時は紙の冊子体などないのだから、木簡ジャラジャラで持ち帰れる情報には限りがあるんだよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:44:15.05
隋書でも一万二千里
0738日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:45:11.23
女生口三十人と三倍になっている。
狗奴国滅亡?
一時、九州平定で邪馬壹國→邪馬臺國
0739日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:46:55.98
>>672
>循海岸水行、渡海と記載せず水行のみ、大雑把だな。

お前さんは知らないだろうが、三国志以前の史書には地誌記事で
「水行」という表現が使われたことはないんだよ
まあ、魏略にもあるから、正確には魏略と三国志の両方が参照
した書にあったんだろうけれど

魏志倭人伝の循海岸水行が、地誌記事での「水行」の初出
循海岸は、水行を定義する語句なんだよ
以下の水行もすべて、循海岸水行の意味
0740日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 13:52:51.58
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行
0741日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:00:13.27
>>672
>邪馬壹國は重要視されていない。

また脳内妄想に耽ってるww

戶數道里可得略載の範囲の国で比べると、それぞれの国の説明に使っている字数が
對馬國  64
一大國  57
末盧國 42
伊都國 42
奴國  23
不彌國 22
投馬國 25
邪馬壹國 45

海を渡った後では、邪馬台国の字数が一番多い

そして九州最大国の奴国が一番簡単な表記になってるぞ?w
ここは問題の多い地域だったのかな?ww
0742日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:04:02.81
>>677
>海岸沿いに行く必要は無い、

末盧国(唐津)から伊都国(糸島)に海岸沿い以外で行くルートを教えてくれww
現代の鉄道も道路も海岸沿いだよw

まあ、私は魏使は末盧国には行っていないと考えているけどね
末盧国から東南陸行も含めて、別資料からの混入と見る

ただ、九州説が短里が正しいというたびに、それでは合わないよという図を出すだけだ
0743日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:09:30.53
>>692
>則ち、人が船で絶海を渡るさまを渡海水行と言った。

このレベルのバカがいると困る

水行は陸地にアクセスできる状態での海の移動
基本的には循海岸で、のちの史書では島伝いでも水行の語を使うようになる

渡海は外洋に出て文字通り海を渡ること
何かあっても陸に上がることはできない

水行では船に水漏れがあったら、陸に寄せて何とかすることができるが
渡海では遭難したら死ぬしかない持衰頼みの危険な航海なんだよ

この二つはのちの史書でもはっきり区別されている

だから、九州から瀬戸内航路で東渡海千里で畿内に行くと倭種の国があるというのは
間違いになる
瀬戸内航路は水行だから
0744日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:09:41.49
>>733
奥山1人何役もするな
2000里だけ魏里を使う姑息な奴
0745日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:11:05.95
>>698
>測定できなかったという根拠は?

測定法が当時なかった 論証終わりww
0746日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:12:46.63
>>699
>陳寿は、足し算して万二千里などと一切言っていない。 九州説の勝手ご都合解釈である。   @阿波

そうだよ!
陳寿にとって、女王国まで萬二千里、倭国本土上陸まで萬里っていうのが、
最初から決まってるからね

足し算でも引き算でもなく、この二つが基準値
0747日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:15:49.23
>>736
変な奴
独りよがりだね
0748日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:19:51.61
>>703
>七千里も沿岸航海してきたのだから、舟足はわかっている。

デタラメです

分かりませんww

そもそも魏使さんは初めての土地、初めての海でどこにいるのかも分からないまま
移動しているのだから、基準となる長さが最初からない
今日の移動は船が速く進んだのか遅く進んだのかすら分からないし判断もつかない
その状態で船足が分かる訳がないww

>渡海も次の島が目測できる。

はい、これもデタラメです
朝鮮半島の海岸から対馬は見えません
また、対馬から壱岐も見えません

それに、見えたからと言って距離が目測できるものでもない
例えば伊勢の夫婦岩から富士山が年に何回か見えるが、
これで距離が目測できるというのはデタラメでしかない
https://i.imgur.com/Rx4SKYQ.jpg
0749日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:24:49.37
>>737
>隋書でも一万二千里

これはあまり意味がない
大陸史書は先行史書のコピペが基本だから、萬二千里と前から伝わっていれば
萬二千里と書くだけ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:27:02.90
>>747
>変な奴
>独りよがりだね

言いたいことがあるなら「反論」しなさい
ちゃんと論拠を付けて、論理的に理解でき文章を書いて反論すること

「変なやつ」って書いても意味ないよ
お前が無能だとさらされるだけw
0751日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:28:58.59
>>741
問題の多い地域

奴国は狗奴国と接する国、

副官 卑奴母離がある国
国同士で紛争が起こりやすい地域。
卑弥呼は奴国の軍事力を頼る。
卑弥呼、奴国 頭を取って「卑奴母離」という官を組織
0752日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:33:32.18
>>748
>そもそも魏使さんは初めての土地、初めての海でどこにいるのかも分からないまま
>移動しているのだから、基準となる長さが最初からない

朝鮮半島には紀元前から楽浪郡がある。
その朝鮮半島の各所の長さが短里で記録されている。

楽浪土器の出土や、史書から、
後漢代から楽浪人が行き来していたことも確実であり、
朝鮮半島部分の七千里から、船足はわかる。

>はい、これもデタラメです
>朝鮮半島の海岸から対馬は見えません

天候によるが、
対馬からは、壱岐も見えるし、朝鮮半島も見える。

デタラメはお前だ。
2000里だけ魏里を使う姑息な奴。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 14:52:30.90
>>752
>その朝鮮半島の各所の長さが短里で記録されている。

なんて事実、ないから
0754日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:06:37.08
>>752
>2000里だけ魏里を使う姑息な奴。

って、誰?
姑息って、全く証拠がないことばかり、その場限りの嘘を言い張る人のことじゃない?
つまり、お前
0755日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:25:09.54
>>742
>まあ、私は魏使は末盧国には行っていないと考えているけどね

トンデモだからだろ?  わははははは   @阿波
0756日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:27:39.95
>>743
>瀬戸内航路は水行だから

その通り!  絶海ではない。   @阿波
0757日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:30:50.88
>>746
>倭国本土上陸まで萬里っていうのが、

陳寿は、「倭国本土上陸まで萬里」などと一切言っていない。 九州説の勝手ご都合妄想である。   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:40:50.21
>>757
>陳寿は、「倭国本土上陸まで萬里」などと一切言っていない。

言ってなくても、郡から狗琊韓国まで7千余里で千余里の渡海が三回だったら萬里以外の何なんだ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:43:47.39
国東、臼杵市、大分から佐田岬(三崎)も水行可能
鳴門ー淡路島ー和歌山
鳥羽ー渥美半島

絶海てあんのか?
0760日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:50:38.25
>>742
>その朝鮮半島の各所の長さが短里で記録されている。

その時点で、楽浪郡が朝鮮半島の測量なんかしてないっていう証明だよw
楽浪郡は漢王朝の領土
そこで、漢朝の度量衡に従わないっていう法はないんだから

というか、「朝鮮半島の各所の長さ」って具体的にはどんな数字だ?
「方可四千里」とか言うなよ?
それ、倭国まで一万里にするための従属変数だからw
0761日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:51:27.10
九州説はないわ。
古田武彦が九州説だもんな。
古田は和田家文書が偽書と見抜けなかった輩だ。
その程度の学者が九州説を支持してるってことは、
邪馬台国は九州にはなかったってことだ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:53:03.96
>>758
>言ってなくても、郡から狗?韓国まで7千余里で千余里の渡海が三回だったら萬里以外の何なんだ

陳寿は、足し算して万二千里などと一切言っていない。 九州説の勝手ご都合解釈である。   @阿波
0763日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:53:40.94
>>743
記述内容に混乱混迷破綻の兆しが見られる、
ついに、最終段階になってきたようだ。もう病院でも治らないのではないか・・、
0764日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:54:55.06
>>759
>鳴門ー淡路島ー和歌山

絶海だ。  @阿波
0765日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:55:25.90
>>755
>トンデモだからだろ? 

末盧国に官名記載がないからだよ

そして、末盧国から東南陸行五百里が
伊都国ではない別の目的地(吉野ケ里周辺)が想定できるから

漢代に、倭面土国王帥升の遣使があり、その倭面土国が吉野ケ里方面と
想定すれば、その目的地に向かう場合末盧国で上陸して、東南陸行する経路が
意味を持つことになる

実際、末盧国の甕棺墓で卓越墓が見られるのはその時期
魏志倭人伝の時代の末盧国は、あまり良い舶来文物が出ていない

永島文書頼りの泡説とは違うんだよw
0766日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:56:57.52
>>760
>楽浪郡は漢王朝の領土

これはやや事実誤認ではないか、楽浪郡の都城は漢土と言えるかもしれないが周囲周辺は東夷の地
0767日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:57:17.92
>>765
>末盧国に官名記載がないからだよ

理由になっていない。   @阿波
0768日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 15:58:37.78
>>757
>陳寿は、「倭国本土上陸まで萬里」などと一切言っていない。 九州説の勝手ご都合妄想である。 

後漢書に「於是、濊、貊、倭、韓萬里朝獻」って書いてあるんだよ
で、濊、貊、韓では、万里にならないから、倭を万里朝献にして
つじつま合わせをしているってこと

泡の乏しい知識ではこういうのは知らないだろうから、
そういう無意味な罵りしかできないのはまあ理解できないではない
0770日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:00:46.91
>>765
>魏志倭人伝の時代の末盧国は、あまり良い舶来文物が出ていない

トンデモ比定地だからだろ?  わははははは   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:01:41.76
>>763
>記述内容に混乱混迷破綻の兆しが見られる、

だから、その混乱、混迷、破綻の兆し、を具体的に根拠を付けて
論理的に機械できる文章に書いて反論しなさいって!

そして「破綻の兆し」のうちは、まだ破綻してないぞww
本当に、反論一つまともにできない無能ww
0772日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:02:53.53
>>768
>後漢書に「於是、?、貊、倭、韓萬里朝獻」って書いてあるんだよ

陳寿は、後漢書など書いていない。 九州説の勝手ご都合妄想である。 
0773日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:04:31.01
>>767
>理由になっていない。   @阿波

これ、漢書にも後漢書にも官名はないからね

つまり、倭国各地の官名は魏使によってもたらされた初出の情報ということ
それが末盧国「のみ」ないということは、魏使が末盧国を訪問していないと
考えるのが妥当

で、末盧国から先の経路についての反論はないの?
あと、末盧国の繁栄の時期については?
0774日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:06:26.23
>>773
>これ、漢書にも後漢書にも官名はないからね

理由になっていない。   @阿波
0775日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:08:32.13
>>773
>で、末盧国から先の経路についての反論はないの?

トンデモ比定地だからだろ?  わははははは   @阿波
0776日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:08:49.34
泡は永島文書の真贋については争わないってことでいいんだよね?

>泡的には年毛神社と永島文献の信憑性はどうなの?

それらを、わざわざ偽造・偽装するほど誰にも価値があるとは思えないんだがw
また、それらは泡的に末盧国=福津・宗像説の根本じゃないから、どうでもいい話。  @阿波
0777日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:16:43.89
>私の説の根本は、
>@福津・宗像の大陸交流痕跡の存在
>A対馬海流の影響
>B元寇・朝鮮通信使の航路
>C魏志倭人伝の壱岐から千里  @阿波

「福津・宗像の大陸交流痕跡の存在」については、
大陸交流痕跡は、唐津にも糸島にも福岡平野にも合って、末盧国を特定するに
足るものではないし、福津・宗像あたりの交流痕跡はむしろ格下だよね?

「対馬海流の影響」
これは過大視しすぎ
海流の流速なんて公園の池の手漕ぎボート程度なんだからそれで大きく流されるなんてことにはならない
https://i.imgur.com/BO8F1We.jpg

「元寇・朝鮮通信使の航路」
これ、半月くらい前に渡土提知らずの捏造君も盛んに言ってたけど、
違う時代のものを持ち出しても意味ないよね
当時の港湾遺跡も博多湾沿岸では出ているのに福津・宗像あたりでは皆無だろ?

「魏志倭人伝の壱岐から千里」
短里で千里には意味がありません
当時渡海距離は測る方法がありませんでした

ということで、泡説は出だしの末盧国比定地からして事実上根拠がないw
0778日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:18:26.79
>>752
>楽浪郡は漢王朝の領土
>そこで、漢朝の度量衡に従わないっていう法はないんだから

周囲は東夷の地だから、漢王朝の領土の度量衡ではなく、
短里で測定して重税でも課したんだろ。

>「それ、倭国まで一万里にするための従属変数だからw

短里で「方可四千里」、あるいは「七千余里」で現実の地理と合致するのが事実。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:19:02.79
難所の豊後、紀伊、伊良湖水道さえ
避ければいいんじゃないの?
0780日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:20:18.61
なんのために避ける?
0781日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:23:24.65
海難事故
0782日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:32:53.79
>>776
>泡は永島文書の真贋については争わないってことでいいんだよね?

「末盧国」=福津市(万津浦)辺りの補完資料に過ぎん。  喧しく言ってるのはアホのお前だけ。  わははははは    @阿波
0783日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:40:37.96
>>746
鎮守は倭国には、行っていない。
鎮守の解釈を研究するのも良いが、鎮守が憶測で書いただろう箇所は余り重視しなくて良い。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:49:47.31
今日も君のチェリーピック宣言
0785日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:51:55.29
>>778
>周囲は東夷の地だから、漢王朝の領土の度量衡ではなく、
>短里で測定して重税でも課したんだろ。

こういうのを「根拠のない憶測」という

度量衡を皇帝勅定にする理由が、商人が利をあげるために
尺の長さを長くしたがるため、というのがある
尺を長くし升を大きくすることで、ちょっとずつちょろまかすんだよ
それを禁じるために、度量衡の制定は皇帝の勅定になっているんだよ

それを、漢朝の官職にあるものが度量衡のインチキに手を付けるなんてのは
無茶苦茶な想定
しかも、皇帝勅定の里の「六分の一」なんていうデタラメは、考える方がおかしい
重税を課すなら「5%長く」するのが常道ww
0786日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:53:08.55
>>696
>だって、海峡横断の幅なんて三世紀の科学で測定できないからな

大体南〜東南方向だから、
一寸千里の法の計測で、概算可能であるので、
この大和説男は、バツ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:55:58.62
>>697
>ヤマト王権の王は「親魏ヤマト王」(魏の子分)

親魏倭王は、「ヤマト王」ではないから、バツ。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:56:00.84
>>782
>「末盧国」=福津市(万津浦)辺りの補完資料に過ぎん。  喧しく言ってるのはアホのお前だけ。

補完資料と言いつつ他の理由が弱すぎて、万津浦という固有名詞がないと
そこを末盧国に比定する理由は事実上なくなってしまうんだよ
>>777を参照

でも、泡的にはうるさく言われても反論一つできないし、万津浦と書いてある情報源が
永島文書以外一切ないけれど、永島文書の真贋にはこだわらない
つまり、永島文書は昭和の頃のでっち上げと認めるということでいいね!
0789日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 16:58:03.79
>>783
>鎮守が憶測で書いただろう箇所は余り重視しなくて良い。

陳寿の憶測がどういったものであるかを想定することで、
魏志倭人伝の記述と現実の地理との関係を考えやすくなるんだよ
0790日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:00:06.60
>>777
>大陸交流痕跡は、唐津にも糸島にも福岡平野にも合って、

唐津にも糸島にも、「今川遺跡」のような「末盧国」にふさわしい遺跡が皆無である。   

発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。   @阿波 
0791日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:01:13.93
>>701
>>測定できなかったという根拠は?

>測定方法がない

一寸千里の法と簡易三角測量の積み重ねに拠って、近似的な計測が出来る。

>19世紀でも大きく間違っている

後代学者の中にもアホや大和説詐欺師が一杯いるから、間違った人間もいる。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:01:52.60
伊万里が末盧国かもね。
丁度、万里で伊 万里

狗邪韓國ー對馬國ー一大國ー末盧國 
各千餘里

唐津では短い
0793日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:03:01.42
>>783
そう言う見方もあるな
0794日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:03:02.28
>>783
そう言う見方もあるな
0795日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:03:30.59
>>777
>海流の流速なんて公園の池の手漕ぎボート程度なんだからそれで

これは過小視しすぎ。 手漕ぎボートを漕いで対馬海流で土ザ衛門になって来い!   わははははは   @阿波
0796日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:06:10.09
>>777
>違う時代のものを持ち出しても意味ないよね

阿呆玉よ。  対馬海流に時代もくそもあるか! お前はどこまでアホなんだ?   @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:06:13.25
>>706
>そんな方法ほんとうは知られていないという歴史的事実

周髀算経の一寸千里の法を知っていた中国王朝もあれば、
知らなかった中国王朝もあったらしい、という事が、歴史的実態。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:07:18.60
>>752
>>朝鮮半島の海岸から対馬は見えません

>天候によるが、
>対馬からは、壱岐も見えるし、朝鮮半島も見える。

>デタラメはお前だ。

正しく「朝鮮半島の『海岸から』対馬は見えません」って書いてあるだろ?
高台に上って、冬の空気の澄んだよく晴れた日には見えることもある程度

渡海に適した夏の頃にはほぼ見えないし、その前に人の背丈から見た水平線は
ほんの4.5キロ先でしかないんだよ
さらに、船の中で座った状態からは、かなり近くまで行かないと隣の島も見えない
0799日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:10:52.26
>>777
>当時渡海距離は測る方法がありませんでした

測る方法があろうがなかろうが、「末盧国」=福津市(万津浦)辺り 以外では、近すぎで対象外。   @阿波
0800日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:12:13.71
>>778
>短里で「方可四千里」、あるいは「七千余里」で現実の地理と合致するのが事実。

やっぱりそれかww

それ、倭国上陸までを一万里って決めてて、渡海千里三回分を
引いた七千里にするために作った数字だよ

一万里がもともと決められた数字としてあって、それに合わせるための七千里で
二辺で七千里(一辺は端まで行かない)にするための、方四千里

韓地にはとことん興味がないようで、数字合わせに使われているだけ
馬韓、弁韓、辰韓の国名は書いてあっても、クニ同士の位置関係や距離は一切ないだろ?

楽浪郡、帯方郡が韓地の地理を短里で把握していたなんてのは嘘っぱちだよ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:17:11.75
>>788

>>776
>それらを、わざわざ偽造・偽装するほど誰にも価値があるとは思えないんだがw
>また、それらは泡的に末盧国=福津・宗像説の根本じゃないから、どうでもいい話。  @阿波

って、>>776さんが私に成りすまして言ってるぞ。  わははははは   @阿波
0802日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:18:26.69
>>790
>唐津にも糸島にも、「今川遺跡」のような「末盧国」にふさわしい遺跡が皆無である。 

今川遺跡より、三雲遺跡群の方がよほど充実しているんだが?
唐津にもいっぱい遺跡があるねぇ
https://i.imgur.com/wK5DbqW.gif
0803日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:18:39.09
>>710
>邪馬壹國,女王之所都が萬二千餘里のなる記載もないな。

邪馬壹國女王之所都までで、(側副傍線国の奴國への百里を省いて)、
記載里数を合計すれば、
きちんと萬二千余里になる。

>女王國萬二千餘里である

女王之所都までの所要合計里数が萬二千余里であるから、
女王国までもほぼ萬二千余里になる事になる。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:20:24.80
>>802
>今川遺跡より、三雲遺跡群の方がよほど充実しているんだが?

墓といっしょにするな、ぼけ!   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:21:10.85
>>795
>これは過小視しすぎ。 手漕ぎボートを漕いで対馬海流で土ザ衛門になって来い!

誰も手漕ぎボートで渡るなんて言ってませんがなww

手漕ぎボートで出せる速度の海流に、渡海用の船が流されてしまうというのを
前提にしないと成り立たない説がトンデモだっていう話w
0806日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:21:30.39
>>797
>周髀算経の一寸千里の法を知っていた中国王朝もあれば、

それ使うと、倭は洛陽のほぼ東って結果が出ちゃうんだよ
つまり一寸千里の法なんて使ってない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:22:32.46
>>792
>唐津では短い

近くても遠くても、渡海一回千里っていう設定なんだから、それ無意味だよ
もともと海上距離は測ってないんだから
0808日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:22:36.28
>>803
なりませんね。
女王國萬二千餘里である
邪馬壹國,女王之所都が萬二千餘里の記載はない。
投馬国はどこで、女王国に属するのか?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:24:13.94
>>799
>測る方法があろうがなかろうが、「末盧国」=福津市(万津浦)辺り 以外では、近すぎで対象外。

ということで、短里で渡海距離を正確に測っていたに違いないというしかない泡説は
結局は九州説の亜流のトンデモなんだよね

近くても遠くても、渡海一回千里っていう設定なんだから、それ無意味だよ
もともと海上距離は測ってないんだから
0810日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:26:44.77
>>711
>萬二千餘里より先が里数を知らない倭人が住む土地=女王國(連合)

萬二千余里より先の、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。
又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」は、
卑弥呼共立に参加したのか?は不明であり、書かれていないから、
女王国(連合)にはならず、だから、バツ。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:27:31.03
自らの脳内設定
0812日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:28:13.36
>>805
>手漕ぎボートで出せる速度の海流に

対馬海流に逆らって、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  
まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:31:49.90
これで泡説は全否定ってことでいいかな?

頼りの万津浦を唯一記載している永島文書の真贋は争わないっていうし
 →万津浦という遺存地名は使わない
 →富津が末盧であるほぼ唯一の根拠が消滅w
 そもそも、日本語の音読みがトウである「東」の音はtungで、あちらの音韻では
 n、m、ngの音が入ってたらそれが音訳に反映されないという設定はおかしいんだよね
 ま「ん」つうらが末盧になる余地は最初からない

海流は泡が考えるほど強くないし
距離が短里で千里丁度の場所ってのは最初から意味がないし
秀吉の頃の出兵場所(渡海基地)は兵站も考えてのことで時代が違うし意味がない
0814日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:34:58.00
>>715
>南至邪馬臺國女王之所都って部分の「都」は本当に首都を表しているのかな
ヤマトの女王(王族?)が治める都市という解釈もできる?
少なくとも現代の中国語だと都は都会や都市という意味もあるらしい
「ヤマトの女王の都」とは書いてあるけど「ヤマトの都」とは書いてないのがわりと昔から気になってる

卑弥呼女王の所都であるから、「都」である。
そして、大和は、倭國の東征毛人五十五國に拠って征服され、
地方の市を監督する大倭職が置かれた旧小国であるから、
都でも首都でもない。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:35:19.59
>>801
>って、>>776さんが私に成りすまして言ってるぞ。  わははははは   @阿波

これ、泡の書き込みだよね?
今は亡き「♪邪馬台国ドンと来い!♪142」スレのコメ番68
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543404937/68
「>泡的には年毛神社と永島文献の信憑性はどうなの?

 それらを、わざわざ偽造・偽装するほど誰にも価値があるとは思えないんだがw
 また、それらは泡的に末盧国=福津・宗像説の根本じゃないから、どうでもいい話。  @阿波」

それとも、泡の中の人が入れ替わったりしてるの?
0816日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:36:23.20
>>804
>墓といっしょにするな、ぼけ!   @阿波

三雲遺跡群は、墓だけじゃないんだが?
泡はもの知らずだからなぁww
0818日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:47:06.27
>>812
>対馬海流に逆らって、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  

対馬海流に逆らってって言うけど、対馬海流を逆行するのではなく、
対馬海流を横切る方向なんだから、少し斜めに海流の流速の何分の一くらいの
速度成分を出せばいいだけだぞ
物理の力学・運動のところの練習問題でよくあるやつだ

高校物理で習っただろ?
高校に行ってないとか、物理は分からなかったとか言われると切ないけどさ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:55:12.07
>>818
>対馬海流を横切る方向なんだから

対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  
まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0820日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 17:55:32.92
>>716
>そこが、難しいところ。どうやって1万2千里を出したかが意見の分かれる所。

意見など分かれない。
方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
海岸沿いの二辺分の陸路移動の部分があるし、
奴國へと投馬國へは、至の前の途中移動を示す文言がないから魏使らは通っておらず、
不彌國から目的地の邪馬壹國女王之所都にも、途中移動を示す文言がないのは、
移動最小里数が百里であるから、四捨五入しても百里にならない移動距離は記載されていない事になり、
そして、残った途中移動の記載里数を合計すると、萬二千余里になる。

>普通は積算だが、日数表記になぜ変えたのかが謎。

謎ではない。
魏使らは投馬國への「水行二十日」は行っておらず、倭人からの伝聞情報であり、
「水行十日陸行一月」は、行程の目的地である「女王之所都」の説明文言になるから、
出発地の郡から女王之所都の所要日数説明になる。

>「邪馬台国まで、行っていないかも??

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男は詐欺師。

>卑弥呼が、伊都國にいた?

これも、バツ。卑弥呼は邪馬壹國女王之所都」にいた。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:01:14.52
>>717
>でも邪馬臺を指して女王国という表現がたくさんあるから、

後漢書の「邪馬臺國」は、魏志の邪馬壹國とは、呼称も大きさも時期も全く違う別の説明であり、
魏志には、「邪馬臺を指して女王国という表現」など全くない。

>この解釈は苦しいかー 自己解決した

この男は、始めから、嘘つき騙しの詐欺師。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:04:39.16
>>817
>三雲遺跡群は集落遺跡

中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。

こんな朝鮮半島由来の遺物は出てるのか?  単に筑紫忌部の集落だな。  わははははは   @阿波
0823日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:05:18.66
>>820
>移動最小里数が百里であるから、四捨五入しても百里にならない移動距離は記載されていない事になり、

また全く帰納しないで妄想を垂れ流してるの?
九州説はこれだからダメなんだよ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:06:12.80
>>721
>1万7千里(大月氏國)−5千里(楽浪郡)=1万2千里

魏志では、(楽浪郡ではなく)帯方郡から女王之所都が「萬二千余里」になっているんだから、
この男(おそらく東大理系博士号自称男?)の説明が間違っており、バツ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:09:32.16
>>722
>「邪馬台国 女王之所都」の意味するところだが、

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この時点でこの男はバツ。

>”「共立女王」が都を置いているところ” という含みではないか、
つまり邪馬台国の主邑は別にあったが、
倭国の共立女王である卑弥呼の都は邪馬台国の中の或る所にあった・・・、との意味。

「邪馬壹國女王之所都」だと書かれているから、この男はまたバツ。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:20:35.22
>>727
>伊都国(歓迎式典)下賜品引き渡し

歓迎式典などとは書かれていないし、
伊都國では「皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」をしただけであり、
下賜品は、当然女王之所都で行われるものだから、この男はバツ。

>不彌國(送迎式典)

「送迎式典」など書かれていないから、この男はバツ。

>貢物もたせ、使者は帰路(川から海へ出る)

「貢物もたせ」なんて書かれておらず、当初の貢物なら、
難升米らが「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈」を明帝に献上して済んでおり、
帰路にも「川から海へ出る」なんて書かれていないから、
この男は、バツ。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:22:34.19
>>817
>三雲遺跡群は集落遺跡

中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。

こんな朝鮮半島由来の遺物は出てるのか?  単に筑紫忌部の集落だな。  わははははは   @阿波
0828日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:45:19.50
>>819
>対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。

お前、分かってないだろww
まあ、泡に理系の計算を求めても無駄ってことだよな
0829日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:46:36.34
>>824
帯方郡から女王之所都が「萬二千余里」になっていない
のでバツ。そう書いていない。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:47:20.41
>>735
>そりゃ、長里なんて存在しないんだから説明しようがないだろ?ww

勿論歴史的な史料文言としては、
「長里」という文言も「短里」という文言も存在しない。
周代の周髀算経に使用された「里」の長さに対する現在呼称が短里であり、」
始皇帝の「1歩=6尺」で規定された始皇帝の里は長里だ。

>あるのは、魏皇帝勅定の公定尺の単位系の中の里だけだ

これは、嘘つき騙しの間違いであり、
漢代においては、周代の周髀算経の里と、秦の始皇帝の里の混在使用があり、
魏の初代文帝が即位の「受命改制」の詔書で「度量衡の同一化」を指示し、
魏の重臣が次々と、周制への復古を進める上表文を提出し、
魏の明帝が「暦法の改定」をした時に、「里」についても、
周髀算経の使用の「里」の採用を決めただけだ。
そして西晋朝も周髀算経の里を採用を続けたが、
東晋朝はまた始皇帝の里の採用を決めたが、また混乱が継続し、
その混乱は梁書の梁代まで継続したようである。

>それに合わないのであれば、情報が不正確と考えるのが当然のこと

その実態に合わないのであれば、
この大和説男(東大理系博士号自称男?)らの投稿が不正確である、
と考えるのは当然の事。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:48:14.99
>>814
倭國の東征毛人五十五國に拠って征服
など魏志に書いていないのでバツ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:50:56.42
>>819
方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
海岸沿いの二辺分の陸路とか書いていないので
バツ。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:51:25.25
>>822
>こんな朝鮮半島由来の遺物は出てるのか? 

半島人が渡ってきて定住したとかじゃないの?
「今川遺跡からは縄文晩期から弥生後期までの出土品がありますが
 中心は早前期(紀元前4世紀から前5世紀)の物です。」
末盧国の時代とは合わないねぇ

>遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)

「再加した」って何?
ただコピペしてるだけだろ?ww

三雲遺跡群とは、くらべものにならないね
小規模過ぎて
0834日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:51:32.99
>>736
>>倭人伝に方位と距離の情報はある、そこから考えるのが学者 

>周回遅れww
倭人伝の方位と距離の情報が、比定地の現実の位置関係と合わないことは確定事項
倭人伝の方位と距離の情報が正確ではないとこは検討済み

この大和説男の脳は周回遅れ 
倭人伝の方位と距離の情報が、
人類の常識や、比定地の現実の位置関係と、ほぼ合っていることは確定事項
0835日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:53:02.63
>>828
まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0836日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:55:49.25
>>833
>三雲遺跡群とは、くらべものにならないね
>小規模過ぎて

筑紫忌部の集落をそんなに持ち上げてくれるな、照れるじゃないか。  わははははは   @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 18:58:09.75
>>830
>魏の明帝が「暦法の改定」をした時に、「里」についても、
>周髀算経の使用の「里」の採用を決めただけだ。

そんな記録まったく無いんだが
0838日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:06:54.45
>>830
>漢代においては、周代の周髀算経の里と、秦の始皇帝の里の混在使用があり

周髀算経で使っているのは通常の単位系のみ
 六尺=一歩
三百歩=一里

以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
 → 六尺=一歩

故曰一歲三百六十五日四分日之一,歲一內極一外極。
三十日十六分日之七,月一外極一內極。
是故,一衡之閨C萬九千八百三十三里三分里之一,即為百步。
 → 三百歩=一里

この時点で、短里がないことが分かる
0839日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:09:21.03
>>836
>筑紫忌部の集落をそんなに持ち上げてくれるな、照れるじゃないか。

「半島人が渡ってきて定住したとかじゃないの?」に対してこのコメントってことは
忌部ってのは半島人だというのが泡の考えなんだね

今川遺跡は小さすぎて、三雲遺跡のような大遺跡とはくらべものにならない

これ、泡の書き込みだよね?
今は亡き「♪邪馬台国ドンと来い!♪142」スレのコメ番68
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543404937/68
「>泡的には年毛神社と永島文献の信憑性はどうなの?

 それらを、わざわざ偽造・偽装するほど誰にも価値があるとは思えないんだがw
 また、それらは泡的に末盧国=福津・宗像説の根本じゃないから、どうでもいい話。  @阿波」

それとも、泡の中の人が入れ替わったりしてるの?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:12:06.30
>>839
>今川遺跡は小さすぎて、三雲遺跡のような大遺跡とはくらべものにならない

筑紫忌部の集落をそんなに持ち上げてくれるな、照れるじゃないか。  わははははは   @阿波
0841日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:15:27.62
>>736の反論否定の続き
>そこで、それをどう解釈するかというところで「短里を考案する」というのも
思考実験としてはありかもしれんが、実際に短里という「単位=基準長さ」を想定することすらできないんだから、真っ先に否定されて終わりなんだよ

周朝の周髀算経の一寸千里の法の短里は存在し続けたから、バツ。

>>3.それは、憶測の域を出ない。しかし、魏の使者は少なくとも2度は邪馬台国に行っている。一度目の情報と2度目の情報が大きく違う事は無い。

>憶測と言えば済むと思うなよww

分裂幻覚妄想のような嘘つき騙しの憶測を言えば済む、と思うなよ。

>二度行ったところで、それを史書にまとめるところで誤解があればどうしようもない

陳寿は、当然両方の記録を見比べて魏志倭人伝を書いた事になり、だから、確認をされており、誤解など発生する筈がない。

>また、二度行った使者がどれだけの情報量を持ち帰ったか、とか、考えが足りなさすぎる

当然、二回目の使節らは、一回目の記録を持っているから、二回目は簡単に渡来出来るもの。

>日数は旬日(十日単位)レベルの情報しかないと見るしかない

気象条件などに急変があれば、宿泊が長引く事もあり、そのような場合は、「1泊」に数える事や、「十日単位」の近似値」で表す事もあり得る。

>方角についても、角を曲がるたびに細かく方位を記すような記録は採っていない

半島においては、「歴韓國乍南乍東」というように、大体の記録をきちんとしており、海岸沿い水行では、当然、一々細かく「角を曲がるたびに全て細かく方位を記す」ような煩雑な事はしない。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:19:08.66
>>738
>女生口三十人と三倍になっている。
狗奴国滅亡?
一時、九州平定で邪馬壹國→邪馬臺國

そのような可能性が少しはあるかも知れないが、
その立証根拠がないから、確率が低くて、論拠には出来ない。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:20:59.40
>>739
>お前さんは知らないだろうが、三国志以前の史書には地誌記事で
「水行」という表現が使われたことはないんだよ
まあ、魏略にもあるから、正確には魏略と三国志の両方が参照
した書にあったんだろうけれど
魏志倭人伝の循海岸水行が、地誌記事での「水行」の初出
循海岸は、水行を定義する語句なんだよ
以下の水行もすべて、循海岸水行の意味

成程。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:21:22.39
>>792
>伊万里が末盧国かもね。
>丁度、万里で伊 万里
>唐津では短い

唐津の津は、松浦川を数q遡った唐津競艇場の正門前(中原遺跡)だった。
壱岐からは約700里になるので、丸めて1000里として取り扱うのは適正である。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:45:14.90
>>843
却下
0846日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:47:52.05
>>844
却下 300里
0847日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:49:33.26
>>845
理由は
0848日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 19:50:45.43
>>847
300里だから
0849日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 20:26:48.57
>>839
>今川遺跡は小さすぎて、三雲遺跡のような大遺跡とはくらべものにならない

筑紫忌部の集落をそんなに持ち上げてくれるな、照れるじゃないか。  わははははは   @阿波
0850日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 20:30:32.02
>>748
>はい、これもデタラメです
朝鮮半島の海岸から対馬は見えません
また、対馬から壱岐も見えません

はい、これもデタラメです。
朝鮮半島の海岸から対馬は見えますが、
また、対馬から壱岐は、対馬の海岸からは見えませんが、
対馬の海岸の後山に登れば、壱岐の最高峰のてっぺんが見えるだけですから、
壱岐かどうか?の区別が出来ず、
結局、ほぼ見えません。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 20:41:49.11
>>761
大和説なんてはないわ。
大和説者らも真書の和田家文書を偽書だと言った説だもんな。
大和説者は和田家文書が真書だと見抜けなかった輩だ。
その程度の学者が説を支持してるってことは、
邪馬壹國女王之所とは大和にはなかったってことだ。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 20:55:16.87
>>765
>末盧国に官名記載がないからだよ

博多の「都市」氏は、元は松浦水軍家であり、
東松浦半島の西北沖の鷹島と黒島は松浦水軍の根拠地であり、
だから、「都市牛利」は、玄界灘から朝鮮半島間の南北通行に詳しかったから、
難升米の次の「次使」に選ばれ、だから明帝から「假銀印青綬」され、
魏の直接的な臣下の身分になったので、
倭國での「官名」を記載する事が出来なくなったの。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 20:59:40.41
>.768
>後漢書に「於是、濊、貊、倭、韓萬里朝獻」って書いてあるんだよ
で、濊、貊、韓では、万里にならないから、倭を万里朝献にして
つじつま合わせをしているってこと

5世紀の後漢書は、
魏志などの記載を自己解釈に拠る書き換えを沢山している半分バツ書であるから、
半分根拠や証拠にならないもの。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:06:17.14
>>818
>対馬海流を横切る方向なんだから

対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  
まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0855日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:18:18.15
>>800
魏の役人は、は、合計4回、来倭しており、
その度に、当然報告書を提出しており、
だから、だれかがインチキ報告をすれば、それは他の来倭使節らに拠って、バレてしまって、
その首が危なくなるから、
インチキ報告などしないもの。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:22:49.42
>>818
>対馬海流を横切る方向なんだから

対馬海流を横切って、その速度の海流よりも速く、何十時間も漕ぎ続けられるお前はすごい。  
まっ、対馬海流をその程度と思っているのは、アホのお前だけだがな。  わははははは   @阿波
0857日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:26:04.08
>>806
>それ使うと、倭は洛陽のほぼ東って結果が出ちゃうんだよ
つまり一寸千里の法なんて使ってない」

関係がない。洛陽は大体北緯35度。
そして、釜山と島根県の益田?と、
加古川の「日本のへそ公園」と京都の松尾神社などが、北緯35度。
北部九州は、北緯35度ではない。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:32:00.59
>>808
なりますね。
邪馬壹國女王之所は、郡から萬二千餘里である
女王國は、投馬國を含むから、ほぼ「九州島付近」であり、
萬二千餘里の記載に大体合う。

>投馬国はどこで、女王国に属するのか?

南九州。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:34:26.75
>>858
五万戸の遺跡、南九州にあるのか?   @阿波
0860日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 21:58:59.77
>>821
単に邪馬壹の誤変換です
騙すつもりはないです
ごめんねー
0861日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 22:10:26.35
>>858
五万戸の遺跡、南九州にあるのか?   @阿波
0862日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 22:26:59.45
>>857
>北部九州は、北緯35度ではない。

三雲遺跡が33.5度だね
つまり一寸千里の法なんか使うと、北部九州は魏の許京都よりわずか南、宛城よりずっと北ということが分かってしまう
つまり長江よりはるか北とわかるので、会稽東治の東などと思われることもあり得ない
つまり一寸千里の法は使用してないと判る
0863日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 22:28:33.06
七万戸の遺跡、畿内にあるのか?   @阿波
0864日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 22:33:06.04
>>857
当時そんなに正確に緯度を捉えていたとも
0865日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/26(日) 22:41:43.35
>>864
訂正
◯いたとでも
0866日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 00:36:56.11
>>864
魏領地中枢部の東に倭があるという結論が出る事になる
0867日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 03:30:36.94
>>823
>>(魏志倭人伝の)移動最小里数が百里であるから、
四捨五入しても百里にならない移動距離は記載されていない事になり、

>また全く帰納しないで妄想を垂れ流してるの?九州説はこれだからダメなんだ

また、大和説者(東大理系博士号自称男?)らは、
魏志倭人伝の記載実態からの帰納を全くしないで、
口先言葉尻だけの誹謗の妄想を垂れ流して、国民を騙そうとする犯罪をしているの?
大和説者らは、これだからダメなんだ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 03:38:05.13
>>817
>三雲遺跡群は集落遺跡
中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。

ふーん、そんな事が書かれていたのか。
成程。ご紹介、有難うございます。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 03:47:22.70
>>831
>倭國の東征毛人五十五國に拠って征服
など魏志に書いていないのでバツ

5世紀の宋書の倭王武の上表文は、
「自昔・・・東征毛人五十五國・・・」であったのであり、
「自昔〜」は、当然3世紀の魏代の事を含むので、
この大和説者(東大理系博士号自称男?)は、
また詐術的な嘘吐き騙し投稿をした事になるから、バツ。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 03:57:02.45
>>832
>方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
海岸沿いの二辺分の陸路とか書いていないので バツ

何度も説明した事だが、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の、
陸上参問里数の「五千余里」の計算は、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
になっており、
方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
「海岸沿いの二辺分の陸路とか書いている」事になっており、
その事を隠蔽して、
また口先の言葉尻での誹謗中傷に走った大和説男(おそらく東大理系博士号自称男?)の、
人間性が全くバツ。おそらく・・・・そのもの。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 04:15:02.96
>>833
>半島人が渡ってきて定住したとかじゃないの?
「今川遺跡からは縄文晩期から弥生後期までの出土品がありますが
 中心は早前期(紀元前4世紀から前5世紀)の物です。」
末盧国の時代とは合わないねぇ

宗像からは出雲の「陶笛」が出土しているから、元は出雲系の地域であったのであり、
その出雲の「国引き神話」では、
「高志」(越)の他に、新羅や北朝鮮や沿海州からの国引きをした、と記されており、
今川遺跡から、
「縄文晩期から弥生後期までの出土品がありますが、
中心は早前期(紀元前4世紀から前5世紀)の物」が出土しても、何らおかしくない。

>遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)
「再加した」って何?ただコピペしてるだけだろ?ww

当然「再加工した」って意味だろ?。
またこの大和説男(おそらく東大理系博士号自称男?)が、
口先騙しの詐術投稿で、国民を騙そうとしたようだな。

>三雲遺跡群とは、くらべものにならないね 小規模過ぎて

そりゃ当然だろ?。三雲遺跡は、倭奴國や伊都国や奴國の混在地域になるんだから。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 04:21:36.50
>>837
>>魏の明帝が「暦法の改定」をした時に、「里」についても、
周髀算経の使用の「里」の採用を決めただけだ。

>そんな記録まったく無いんだが

魏の皇帝で、初めて短里での発言をした事になるのは、
明帝の公孫氏討伐の「四千里征伐」の発言からだから。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 04:36:18.81
>>838
>周髀算経で使っているのは通常の単位系のみ 六尺=一歩 三百歩=一里
以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
 → 六尺=一歩
故曰一歲三百六十五日四分日之一,歲一內極一外極。
三十日十六分日之七,月一外極一內極。
是故,一衡之閨C萬九千八百三十三里三分里之一,即為百步。
 → 三百歩=一里
この時点で、短里がないことが分かる

これは、既に、
「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」で、
地面に円を描いた事が終わっており、
そこでの刻印などの作業記録は失われていたのであり、
その次の「則」以下は、一寸千里の法の度量衡に準拠した説明ではなく、
前漢代の「周髀算経の収集編集者の一寸千里の法を使わない」、「追記説明」になっている、
という事での反論否定済み。
東大理系博士号自称男は、私の「否定論拠」説明に反論せず、
同じ事の貼り付け繰り返しをしているだけ。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 04:45:10.56
>>844
>唐津の津は、松浦川を数q遡った唐津競艇場の正門前(中原遺跡)だった。
壱岐からは約700里になるので、丸めて1000里として取り扱うのは適正である。

うーん?。中原遺跡付近上陸説は、可能性は少しあるが、
魏志に書かれた末盧國上陸後としての説明文になる、
「M山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之」
の説明が付かない点が欠点。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 05:10:22.02
>>862
>>北部九州は、北緯35度ではない。

>三雲遺跡が33.5度だね
つまり一寸千里の法なんか使うと、北部九州は魏の許京都よりわずか南、宛城よりずっと北ということが分かってしまう
つまり長江よりはるか北とわかるので、会稽東治の東などと思われることもあり得ない
つまり一寸千里の法は使用してないと判定

ダメだ。
三雲遺跡は、伊都國との境界付近の奴國の地域であった可能性が高く、
邪馬壹國女王之所都の筑紫平野及びその周辺丘陵地はもっと南だし、
陳寿は、萬二千余里の「女王國」としては南九州の投馬國も含めており、
従って、女王國は北緯30度の佐多岬付近以北の、
「ほぼ九州島付近」という広域であり、
北緯30度も、会稽東治之東の揚子江河口の上海付近であり、
陳寿の会稽東治之東の位置推定で大体合っていた。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 05:16:08.11
>>872
>魏の皇帝で、初めて短里での発言をした事になるのは、
>明帝の公孫氏討伐の「四千里征伐」の発言からだから。

つまり。短里に言及した魏の皇帝なんて実在しないということが明らかなわけだ
0877日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 05:20:52.75
>>875
>陳寿は、萬二千余里の「女王國」としては南九州の投馬國も含めており、

ということは、投馬国までの道里が分かっていたことになる
つまり、投馬国は女王国以北なので南九州ではあり得ない
九州説自爆
0878日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 05:28:40.24
>>875
>邪馬壹國女王之所都の筑紫平野及びその周辺丘陵地はもっと南だし、

残念ながら須玖岡本遺跡が33.5度だね
那珂遺跡など奴国域に比定される他の遺跡はもっと北

つまり一寸千里の法など使用してないということ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 05:34:54.02
>>875
>北緯30度も、会稽東治之東の揚子江河口の上海付近であり、

これも嘘
上海は北緯31度より北で、北緯30度にあるのは紹興市
九州説が流すのは、だいたいニセ情報だ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 06:17:03.38
>>875
周教授も会稽東治之東は九州と言ってた。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 06:51:04.91
>>880
根拠なし
0882日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:01:23.36
>>873
>「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」で、
>地面に円を描いた事が終わっており、

何も分かってないんだね
周髀算経を読んでないから相手が何を言っているか理解できていないのだろう
周365尺の円を描かないと終わらないので、「周六十三歩」でざっと整地するのはまだ作業中に決まっている
0883日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:18:28.64
>>874
>中原遺跡付近上陸説は、「M山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之」
>の説明が付かない点が欠点。

当時は、現在の海岸線の砂山松林は無く、少し先で海に面していた。また中原遺跡は山裾の水辺にある。
まさに倭人伝の「M山海居」の風景描写にピタリだ。
ともあれ明け方の数レスは、畿内説にとって簗そうなところを、まとめて連続投稿したようだ。相当焦ってるな。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:33:45.37
>>875
>>魏の皇帝で、初めて短里での発言をした事になるのは、
明帝の公孫氏討伐の「四千里征伐」の発言からだから。

>つまり。短里に言及した魏の皇帝なんて実在しないということが明らかなわけだ

つまり、大和説の東大理系博士号自称男?は、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しだけではなく、
明帝は魏の皇帝ではない、という嘘つき騙しをして、
世間の人々を騙そう、としている訳だ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:38:23.63
>>883
>ともあれ明け方の数レスは、畿内説にとって簗そうなところを、まとめて連続投稿したようだ。相当焦ってるな。

相当焦った惨敗九州説の連続投稿に
順にレスがあっただけじゃね?
こう言うとこに九州説のウソつき詐欺体質が出る
0886日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:40:38.63
>>877
>>陳寿は、萬二千余里の「女王國」としては、南九州の投馬國も含めており、

>ということは、投馬国までの道里が分かっていたことになる

ならんよ。
投馬國へは魏の役人たちは行っておらず、倭人からの伝聞を記録しただけであり、
勿論、道里は分かっておらず、「水行二十日」という所要日数を記録しただけだ。

つまり、投馬国は女王国の以北で有り得、南九州であり得る。
東大理系博士号自称の大和説男は、自爆
0887日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:50:46.37
>>878
>>邪馬壹國女王之所都の筑紫平野及びその周辺丘陵地はもっと南だし、

>残念ながら須玖岡本遺跡が33.5度だね

松野氏姫氏系図に拠れば、卑弥呼の女王之所都は「大野」付近になるな。

>那珂遺跡など奴国域に比定される他の遺跡はもっと北

那珂遺跡などは、邪馬壹國の繁栄中心地であり、
早良平野周辺の奴國にはならないな。

>つまり一寸千里の法など使用してないということ

一寸千里の法の主要使用地は、渡海があった地の場合であり、
陸行地では、簡易三角測量や記里車や歩測や目測などが中心。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:56:45.28
>>879
>>北緯30度も、会稽東治之東の揚子江河口の上海付近であり、

>これも嘘
上海は北緯31度より北で、北緯30度にあるのは紹興市

あれ?、以前の東大理系博士号自称男との議論では、上海が北緯30度であった筈。
何時から変更したの?。
大和説者の東大理系博士号自称男が流すのは、だいたいニセ情報だな。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 07:57:35.53
>>874
>「M山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆?沒取之」
>の説明が付かない点が欠点。

その説明ができるのは「阿波」だけ。
それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の猿田峠・赤木峠越えの場面だ。  
こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。  わははははは   @阿波
0890日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:13:54.49
>>881
BS見れないの
0891日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:16:56.02
>>882
>>「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」で、
地面に円を描いた事が終わっており、

>何も分かってないんだね
周髀算経を読んでないから相手が何を言っているか理解できていないのだろう
周365尺の円を描かないと終わらないので、「周六十三歩」でざっと整地するのはまだ作業中に決まっている

東大理系博士号自称男?は、まだ何も分かってないんだね
周髀算経の「漢代の収集注釈本」しか読んでいないで、
それが周髀算経の原本だ、と勘違いしているから、
どれが注釈部分であるのか?を考えないで、全部周髀算経の原本だ、と勘違いしているアホであり、、
相手が何を言っているか理解できていないのだろう。
周代の周髀算経の頃は、里歩系と尺寸系は、別の計測単位系であり、その換算規定も地域に拠ってバラバラであり、
だから、始皇帝が「1歩=6尺」という換算率を強制しなければならなかったんだし、
漢代の周髀算経の収集注釈学者も、里歩系の記載に、尺寸系の詳細説明を、
何か所も書き足さなくてはならなかったの。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:19:36.65
>>886
>投馬國へは魏の役人たちは行っておらず、倭人からの伝聞を記録しただけであり、
>勿論、道里は分かっておらず、「水行二十日」という所要日数を記録しただけだ。

道里が分かっていないならば「南九州の投馬國」が「会稽東治之東」だと何故わかったの?
九州説は言ってることが支離滅裂だよ
0893日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:24:21.60
>>887
>那珂遺跡などは、邪馬壹國の繁栄中心地であり、

そこが魏の中心部の真東当たりなんだから会稽東治の東にならなくて九州説は失格ダメダメ説

>一寸千里の法の主要使用地は、渡海があった地の場合であり、

ならば上陸した末盧国が魏の中心部の真東当たりなんだから、倭人国はどこも会稽東治の東にならなくて九州説は失格ダメダメ説
0894日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:26:44.31
>>888
>あれ?、以前の東大理系博士号自称男との議論では、上海が北緯30度であった筈。
>何時から変更したの?。

そんな変なこと言った証拠なし
上海の北緯なんて誰でも調べればわかるのに、九州説は調べもしてないことを自説として言い張るんだね
困った人たちだね
0895日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:27:21.38
>>890
だから九州説は根拠がないんだね?
0896日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:29:34.66
>>891
>周髀算経の「漢代の収集注釈本」しか読んでいないで、
>それが周髀算経の原本だ、と勘違いしているから、
>どれが注釈部分であるのか?を考えないで、全部周髀算経の原本だ、と勘違いしているアホであり、、

どこが原本だか分からないような史料なら
それは歴史研究に使っちゃいけないダメ史料
0897日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:44:34.58
>>883
>>中原遺跡付近上陸説は、「M山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之」
の説明が付かない点が欠点。

>当時は、現在の海岸線の砂山松林は無く、少し先で海に面していた。
また中原遺跡は山裾の水辺にある。まさに倭人伝の「M山海居」の風景描写にピタリだ。

「M山海居・・・」とは、山沿いの岩場海岸、という光景です。
中原遺跡付近では「好捕魚鰒,水無深淺,皆沉沒取之」という事はないな、と思いますよ。

>ともあれ明け方の数レスは、畿内説にとって簗そうなところを、まとめて連続投稿したようだ。

「簗そう」とは、どういう意味ですか?。

>相当焦ってるな。

あなたも「畿内」という存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っておられますね?。
私は、史料事実や史料実態の即した説ですから、議論に負ける気が全くせず、
面倒くさいけど、暇なときにPCに向かっているだけです。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:49:09.98
>>897
畿内が存在しなかったとか、非常識なことを理由もなく言い張って
九州説はいつも意味不明だな
0899日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 08:54:35.20
>>897
>「M山海居・・・」とは、山沿いの岩場海岸、という光景です。

どう読んでも岩場海岸じゃないだろう。ハハン、オメは旧字の「M」が読めないんだなww
0900日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:01:17.00
>>885
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の投稿に、
相当焦った惨敗大和説者のイチャモン付け投稿のレスがあっただけじゃね?
こう言うとこに、
大和説者やスレ主や東大理系博士号自称男らの、ウソつき詐欺体質が出る
0901日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:07:55.26
>>900
>「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の投稿に、

だからそれ一つも史料事実じゃないし、そんなのが実態だったって証拠もない
0902日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:36:29.88
>>895
>>投馬國へは魏の役人たちは行っておらず、倭人からの伝聞を記録しただけであり、
勿論、道里は分かっておらず、「水行二十日」という所要日数を記録しただけだ。

>道里が分かっていないならば「南九州の投馬國」が「会稽東治之東」だと何故わかったの?

陳寿が、「自郡至女王國萬二千餘里」を書いた上で、
「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の話を書いて、
更に「計其道里,當在會稽東治之東」と書き、
どなたか?が、「東治」は(北緯30度付近の)上海にあった地名だ、という紹介をしてくれたから。

「南→東」や「卑弥呼の→冢前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
言ってることが支離滅裂だな。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:51:23.14
>>886
博多湾から南に海はない。
「南→東、西」北部九州説自爆だな

佐多岬付近以北
南九州も含むなら北部九州説自爆だな
0904日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:54:19.54
>>902
>どなたか?が、「東治」は(北緯30度付近の)上海にあった地名だ、という紹介をしてくれたから。

出所不明の噂話なら、根拠にした九州説はダメ説で決定だな
0905日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 09:55:38.07
>>902
「南→東or西」や
「正北抵新羅の倭國は北部九州」

史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの北部九州説は、
言ってることが支離滅裂だな。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:01:09.42
>>887
胡散臭い
松野氏姫氏系図に拠るんだよ。
全文、原本も公開しない
抜粋のみ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:06:16.42
>>893
>>那珂遺跡などは、邪馬壹國の繁栄中心地であり、

>そこが魏の中心部の真東当たりなんだから

嘘を付くな。洛陽は北緯35度付近であり、大野付近は北緯33度位であり、
佐多岬で北緯30度であり、女王国は「ほぼ九州島付近」であり、会稽東治の東にほぼぴったりだ。
大和説は失格であり、全くダメダメ説

>>一寸千里の法の主要使用地は、渡海があった地の場合であり、

>ならば上陸した末盧国が魏の中心部の真東当たりなんだから、

いや、末盧國の到着地は、北緯33度位であり、魏の中心の洛陽の北緯35度よりもずっと南だ。
九州倭人国はどこも会稽東治の東の「ほぼ東」になり、
大和説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の拠って、失格ダメダメ説
0908日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:19:03.12
北部九州説は、「南≠東、西」や「冢」
史料事実や史料実態の拠ってなくて 失格ダメダメ説。
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態はない。

投馬国て南部九州のどこよ?
奴国、狗奴國より南にあるのか?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:28:31.31
>>894
>>あれ?、以前の東大理系博士号自称男との議論では、上海が北緯30度であった筈。
何時から変更したの?。

>そんな変なこと言った証拠なし

証拠は、このスレの過去レス。

>上海の北緯なんて誰でも調べればわかるのに、九州説は調べもしてないことを自説として言い張るんだね
困った人たちだ

私は、上海には行った事もないから、知らんが、このスレの以前の議論では、
上海の範囲は、揚子江の河口の南岸〜東シナ海への出っ張りの先端付近〜杭州湾付近までだろうな。
そして、その東シナ海への出っ張り付近が北緯30度位であった筈。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:31:25.65
>>895
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の拠って、
だから大和説には、根拠がないんだね?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:39:32.10
>>909
>そして、その東シナ海への出っ張り付近が北緯30度位であった筈。

九州説はいい加減なこと言ってばっかり
上海の中心街は北緯31.2度付近
最南端の金山区が30.7度

自己都合でサバ読みすぎ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:41:36.97
>>910
>「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の拠って、

それの一つも史料事実じゃなく、実態だっていう証拠もない
というよりトンデモ系我流説だよ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:45:54.11
>>896
>>周髀算経の「漢代の収集注釈本」しか読んでいないで、
>それが周髀算経の原本だ、と勘違いしているから、
>どれが注釈部分であるのか?を考えないで、全部周髀算経の原本だ、と勘違いしているアホであり、、

>どこが原本だか分からないような史料なら
それは歴史研究に使っちゃいけないダメ史料

分かるよ。周代には、里歩系単位系と、尺寸系単位系との関係が、
地域や時期に拠って、一定でなかったから、
(だから始皇帝が1歩=6尺の関係を命令しなければならなかった)、
原周髀算経は、里歩系と尺寸系の関係を一定にして書く事が出来ず、
漢代の収集注釈の周髀算経に「里歩系の数字を尺寸系の数字に換算した記載部分」は、
その収集学者の「原周髀算経への書き足し部分になる可能性が非常に高い」という事になる。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:49:14.38
>>913
>分かるよ。周代には、里歩系単位系と、尺寸系単位系との関係が、
>地域や時期に拠って、一定でなかったから、

証拠なし
0915日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:53:14.83
夏後少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害
浙江省、紹興市、会稽山
屋久島の南、吐噶喇列島
0916日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 10:54:21.58
>>898
畿内が存在したとか、非常識なことを理由もなく言い張って
大和説者はいつも意味不明だな
0917日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:03:30.40
>>899
>>「M山海居・・・」とは、山沿いの岩場海岸、という光景です。

>どう読んでも岩場海岸じゃないだろう。ハハン、オメは旧字の「M」が読めないんだなww

浜も山も海もある所に居し、「草木茂盛,行不見前人」の山道があり、
「好捕魚鰒,水無深淺皆沉沒取之」の「水の深い浅いに関係なく皆潜ってこれを取る」という事だから、
岩場の多い海岸海岸です。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:14:28.38
>>913
>漢代の収集注釈の周髀算経に「里歩系の数字を尺寸系の数字に換算した記載部分」は、
>その収集学者の「原周髀算経への書き足し部分になる可能性が非常に高い」という事になる。

妄想ですな
そんな確率は極めて低い
というかゼロだ
周365尺四分の1の円を描く話は3651/4でなければ意味がないので、その章全体が「歩」と「尺」の安定した関係の上で書かれているということ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:18:59.12
>>903
>博多湾から南に海はない。
「南→東、西」北部九州説自爆だな

投馬國は、博多湾岸沿いの不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
という倭人からの説明であるから、当然、
九州島を、東回りか?西回りでの沿岸航行で「水行二十日」の位置付近にある事になる。

>佐多岬付近以北 南九州も含むなら北部九州説自爆だな

女王国は「ほぼ九州島付近」であり、
「以北」という「以」に拠って、「ほぼ九州島付近」を含んでそれより北になるから、
大和説者らの自爆だな。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:21:16.52
>>917
>岩場の多い海岸海岸です。

浜と書いてあるんだが
0921日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:24:41.78
>>919
>投馬國は、博多湾岸沿いの不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
>という倭人からの説明であるから、当然、

当然そこまでの道里が計算できて、それが会稽とかの朝貢以南なんだろ?
すると南九州の投馬国は女王国以北にあるんで、自己矛盾した九州説お陀仏
0922日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:25:23.97
>>906
>胡散臭い
松野氏姫氏系図に拠るんだよ。
全文、原本も公開しない
抜粋のみ

鈴木真年東大教授が収集された松野氏姫氏系図は、
国立国会図書館と静嘉堂文庫?の2か所においてあるらしいよ。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:41:03.01
>>919
佐多岬付近
女王国は「ほぼ九州島付近」

北部九州説の自爆だな
0924日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:44:25.07
>>921
>すると南九州の投馬国は女王国以北にあるんで、自己矛盾した九州説お陀仏

真逆だな。
当然そこまでの道里が計算できて、それが会稽の東なんだから、
里数記載のない投馬国は、南九州の宮崎都万に在ったと読むのが正しい。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 11:45:38.36
>>922
だから何?
あげるなら公開しろよ。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 12:13:12.17
>>924
>当然そこまでの道里が計算できて、それが会稽の東なんだから、

阿呆が南九州にあると主張する投馬国は道里を得られるので女王国以北にあることになる
それが会稽の東ということは
倭人伝の地理はメチャクチャ
0927日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 12:14:49.72
>>908
>北部九州説は、「南≠東、西」や「冢」
史料事実や史料実態の拠ってなくて 失格ダメダメ説。

大和説は、「南≠東」や「冢≠前方後円」」などの、史料事実や史料実態に拠って
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態によって、
大和説はない。

>投馬国て南部九州のどこよ?

天孫族の伊都国系の阿毎氏の海彦や山彦やウガヤフキアエズや五瀬命(や神武ら)の時は、
大体、日向付近。
大和の阿毎氏の景行の時は、襲の国を征服して浮羽に凱旋したようだから、
鹿児島県付近も投馬國になった。

>奴国、狗奴國より南にあるのか?

大体南になる。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 12:26:54.76
>>926
投馬国の「道里」が書かれているというのは、現代風のミーハー解釈だ。
道里を行程日数と解釈してしまうと、「南至る」の部分が含まれないことになり、方角はどっちでも良いことになる。
「道」とは「目的の道とその行くべき方角」のことで、里は文字通りその里数だ。
オメとはおおちがいで、陳寿はIQ200の大天才の文筆家だったのだ。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 12:34:36.72
>>927
北部九州説は、「南≠東、西」
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
よって北部九州説はない。
無論 大和説もない。

都合よく使うんだな?

記紀等の文献との創作だな。
天孫族の伊都国系の阿毎氏の海彦や山彦やウガヤフキアエズや五瀬命(や神武ら)の時は、
大体、日向付近

北以外なので
北東、東、東南等も含む萬二千餘里の範囲
0930日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:11:03.03
>>873
この部分は説明してないぞww

どこが後代の書き換え部分なんだ?
こっちの方がより直接に 
一里=三百歩で、短里の存在に致命傷なんだが?ww

故曰一歲三百六十五日四分日之一,歲一內極一外極。
三十日十六分日之七,月一外極一內極。
是故,一衡之閨C萬九千八百三十三里三分里之一,即為百步。
 → 三百歩=一里
0931日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:11:41.20
>>915
>夏後少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害 浙江省、紹興市、会稽山

勿論、陳寿の位置推定文は「会稽東治之東」であって、会稽の東だ、というのではない。
そして、東治という地名は、現在の上海市の中に見つかった。

>屋久島の南、吐噶喇列島

勿論、「浙江省、紹興市、会稽山」の会稽の地そのものではなく、
陳寿は、「東治」地区の東だろう、という位置推定。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:14:04.38
>>890
>BS見れないの

過去レス探すのめんどいから放っとくけど、その人専門家でも何でもないぞw
教授ではあるけれど、専門は別分野
0933日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:15:35.65
>>902
>勿論、道里は分かっておらず、「水行二十日」という所要日数を記録しただけだ。

「水行二十日」と道里略載されてるんだけどねぇww
0934日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:18:22.37
ザラコクが出てくると、スレが過疎になるから困る

まあ、九州説にできる嫌がらせってのはそのレベルでしかないがな
0935日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:20:29.05
>>918
>>漢代の収集注釈の周髀算経に「里歩系の数字を尺寸系の数字に換算した記載部分」は、
>その収集学者の「原周髀算経への書き足し部分になる可能性が非常に高い」という事になる。

>妄想ですな そんな確率は極めて低いというかゼロだ
周365尺四分の1の円を描く話は3651/4でなければ意味がないので、
その章全体が「歩」と「尺」の安定した関係の上で書かれているということ

妄想ですな。そんな確率は極めて低いというかゼロだ。
周髀算経の原点である一寸千里の法の使用例からして、
有効数字1〜2桁の近似値的な数字としての論であるから、
それを使って、有効数字5〜6桁程度の詳細な論を立てる事自体が、
全く、非論理であり、無意味無駄であった。。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:20:54.03
>>875
>従って、女王國は北緯30度の佐多岬付近以北の、

これもデマ
佐多岬は、北緯30度59分42秒、東経130度39分42秒。

吐喝喇列島の口之島 北緯29度58分0秒 東経129度55分0秒
北端のセリイ岬がほぼ北緯30度
0937日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:27:50.92
>>933
>「水行二十日」と道里略載されてるんだけどねぇww

二十日は誰が読んでも日数である。
ま、里数を知らぬ東夷の下等倭種が自信満々でどう読むかは知らん。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:29:20.04
>>921
>岩場の多い海岸です。

>浜と書いてあるんだが

砂だけの浜、とは書いてないでしょ?。
また、砂浜だけでは、同じような深さばかりで、
「水無深淺、皆沉沒取之」にはならないでしょうね。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:35:41.87
>>931
陳寿の時代に上海という地名はない。

浙江省だ。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:37:34.84
>>921
>>投馬國は、博多湾岸沿いの不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
という倭人からの説明であるから、当然、

>当然そこまでの道里が計算できて、

倭人から「所要日数」は聞いたけれども、
「所要日数」では道里は、計算出来ませんから、バツです。

>それが会稽とかの朝貢以南なんだろ?

いや、陳寿は、「会稽東治之東」の位置推定です。

>すると南九州の投馬国は女王国以北にあるんで、自己矛盾した九州説お陀仏

すると南九州の投馬国も、女王国以北にある事になんで、
自己矛盾した大和説お陀仏
0941日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:41:17.07
>>938
そういう子供じみた言い訳を持ち出すようじゃ、もはやオメもおしめえだよな
0942日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:42:18.88
>>923
佐多岬付近までの女王国は「ほぼ九州島付近」
「邪馬壹國女王之所都は、北部九州。
大和説の自爆だな
0943日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:42:21.21
>>937
>ま、里数を知らぬ東夷の下等倭種が自信満々でどう読むかは知らん。

熟語を知らない人は、そういう頭の悪いことを言い続けるよねww
〔一〕
今有均輸粟:
甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,
各到輸所。

凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。問︰粟、車各幾何?

荅曰:
甲縣粟八萬三千一百斛,車三千三百二十四乘。
乙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。
丙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。
丁縣粟四萬五百五十斛,車一千六百二十二乘。

均輸術曰:令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰。
甲衰一百二十五,乙、丙衰各九十五,丁衰六十一,副并為法。
以賦粟、車數乘未并者,各自為實。實如法得一車。有分者,上下輩之。
以二十五斛乘車數,即粟數。

「欲以道里遠近,戶數多少,衰出之」とあって、
戸数多少というのが 甲縣「一萬戶」,乙縣「九千五百戶」, の戸数を比べること
道里遠近というのが、甲縣「行道八日」;乙縣「行道十日」; の道里を比べること

行道八日、行道十日というのが道里そのものの表現だよ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:48:22.48
>>940
女王国の範囲を北部九州限定する
と南九州は、矛盾する。

>>「所要日数」では道里は、計算出来ませんから、バツです

南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月も道理は計算できません。
不彌國止まり。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 13:54:18.63
>>942
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國

927
>奴国、狗奴國より南にあるのか?

大体南になる。

矛盾する。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:12:01.60
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和

末盧國、伊都国、投馬国、邪馬壹國に副曰卑奴母離がいない理由?
0947日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:13:40.78
狗奴國の鉄の入手経路は?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:18:18.86
>>947
>狗奴國の鉄の入手経路は?

九州説の人はやたら鉄にこだわるけどさ、銅鏡や銅鐸の銅素材だって
全量輸入品なんだぜ?

輸入品の銅が手に入って、輸入品の鉄が手に入らないって、どうよ?
0949日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:32:19.35
>>943
馬鹿だね、数式理解できてないよ、
均輸の数式にででくるのぱ、日数のみ
道を行く、時間軸を日数としただけ。
この問題は距離は関係ない。
労働日数を道を行くとしただけ。
労働日数を穴を掘ってたとしても
計算式は変わらない。
均輸の何も分かって無い人が、、解説すべき事では無い。
知ったかぶりで、恥を晒すだけだよWw
0950日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:41:53.38
>>949
>道を行く、時間軸を日数としただけ。
>この問題は距離は関係ない。

バカだね〜ww
論理が分かってない

この問題は距離は関係ないとか言っちゃってるww

この問題は、道里の遠近を問題にしていて、
その道里の遠近を示す数値として「行道八日」等を置いてるんだよ
距離でも里数でもなくて、道里の問題!

つまり、「行道八日」が道里を示す文言
もともとの問題の投馬国への「水行二十日」が
行道八日と同じ形式だと確認できるな?

つまりこれは道里を略載した表現ということ
ということは、投馬国は自女王國以北、其戶數道里可得略載のうちであり、
女王国までの道筋の途上にあるということ
0951日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:46:03.35
>>948
九州説ではないし
輸入品の銅が手に入って、輸入品の鉄が手に入らない
とか書いていないよ。鉄鏃が極端に多い所が紛争地域

女王国の範囲で北部九州〜近畿説
邪馬壹國,女王之所都は
奈良〜和歌山〜三重の山の中(宗教地)
当然、鉄、銅も輸入だろー、
水銀朱、紅玉、翡翠、食糧等を輸出

狗奴国や国同士で問題のある地域、
輸入輸出の出入り口でもある北部九州に
卑弥呼が共立されているのではないか?

敵対する国も相当な軍事力があると思い書いたまで


兵隊の供給、兵糧の確保ができる範囲があって
狗奴國の鉄の入手経路が疑問になった。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 14:58:06.01
>>951

それは北部九州説(後に東遷説)
0953日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:14:46.42
>>952
東遷も東征もないよ。
元は小国である。魏志の時代には可7万戸成長
卑弥呼の時代には、まだそんな軍事力はないよ。
ヤマトの台頭と関連するのかは定かではないが
その後のヤマト関連すると仮定すると
西にあたるので西征だな。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:21:14.12
>>953

中央集権じゃないと近畿の女王が北部九州に住めないだろ
0955◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/27(月) 15:24:44.39
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:29:44.22
>>953
>魏志の時代には可7万戸成長
>卑弥呼の時代には、まだそんな軍事力はないよ。

人口こそ力の源泉、の時代に七万戸の最大国に成長しているのに
軍事力がないとは?ww
0957日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:32:25.18
>>951
>鉄鏃が極端に多い所が紛争地域

ホケノ山古墳  鉄鏃60本以上
椿井大塚山古墳 鉄鏃約200本

紛争地域だったんだー(棒)
0958日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:42:19.34
>>921
>>投馬國は、博多湾岸沿いの不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、
という倭人からの説明であるから、当然、

>当然そこまでの道里が計算できて、

陳寿は、「道里」は書いていないからバツ。

>それが会稽とかの朝貢以南なんだろ?

陳寿の「女王國の位置推定が会稽東治之東」なんだよ。

>すると南九州の投馬国は女王国以北にあるんで、自己矛盾した九州説お陀仏

女王国以北は、女王国を含むから、何も矛盾せず、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」からの逃避などの、
大和説がお陀仏。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:46:34.70
>>923
佐多岬付近
女王国は「ほぼ九州島付近」でほぼ矛盾なし
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実」や「史料実態」の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説の自爆だな。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:50:42.86
>>943
>道里遠近というのが、甲縣「行道八日」;乙縣「行道十日」; の道里を比べること

なまじ現代熟語を知っているから、その教養が邪魔をしてるんだよ。
甲の道、乙の道ごとに、行き来に係る日数は違うが、その所要の日数を「行道日数」と言っている。
つまり甲道の日、乙道の日のことであるから、日は里だー、というのは、明らかに間違っている。
今日は何日か、と聞かれて27里でーす、と答える馬と鹿!
0961日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:51:47.34
>>926
大和説の阿呆が南九州にないと主張する投馬国は
道里を得られていないが女王国に含まれるので、
女王国以北にあることになる
それが会稽東治の東ということは
大和説者の頭の中はメチャクチャ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:55:14.02
>>960
>その所要の日数を「行道日数」と言っている。

その「行道日数」を使って、道里遠近の計算をするのですから
「行道日数」が道里の表現ですよね!

バカでなければ分かることw
>>960さんは、バカなのかなぁ〜? そうじゃないのかな〜?ww 
0963日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 15:56:36.64
>>960
>その所要の日数を「行道日数」と言っている。

「行道日数」なんていう言葉は、九章算術にはないねぇ?
勝手な言葉を作って、勝手なことを言いだしても無意味だよ?ww
0964日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:00:48.43
>>960
>つまり甲道の日、乙道の日のことであるから、

そんなことはどこにも書いてないんだけど?

甲縣では、輸所に至るのに行道八日と書いてあるんだよ

「甲道の日」なんて謎言葉を発明されても困るww

>日は里だー、というのは、明らかに間違っている。

誰もそんなこと言ってないのに、何言ってるんだかw

>今日は何日か、と聞かれて27里でーす、と答える馬と鹿!

道里の遠近を計算するのに「行道八日」を使ってくださいね、と書いてあるのに
「今日は何日か」と言い出すとか、頭大丈夫か?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:03:14.86
>>930
>この部分は説明してないぞww どこが後代の書き換え部分なんだ?
こっちの方がより直接に 一里=三百歩で、短里の存在に致命傷なんだが?ww
故曰一歲三百六十五日四分日之一,歲一內極一外極。
三十日十六分日之七,月一外極一內極。
是故,一衡之閨C萬九千八百三十三里三分里之一,即為百步。
 → 三百歩=一里

全体が漢代の収集注釈学者の書き足し書き直しである可能性があるが、
「是故,一衡之閨C萬九千八百三十三里三分里之一,即為百步。→ 三百歩=一里」
の部分は、後代の始皇帝の「1歩=6尺」を採用しているから、
完全に書き足し。
0966◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/09/27(月) 16:06:57.69
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1632723537/50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0967日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:07:40.70
>>934
東大理系博士号自称男が出てくると、
「南→東」などの嘘つき騙しのスレ主が喜んで、
スレが過疎になるから困る
まあ、大和説者にできる「嘘つき騙しでの嫌がらせ」ってのは、
そのレベルでしかないがな
0968日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:19:31.93
>>943
>・・・行道八日、行道十日というのが道里そのものの表現だよ

「行道八日」などは、その「道」での所要日数表現であり、
その道の「里」数表現になっていないから、バツだよ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:22:25.95
>>968
>その道の「里」数表現になっていないから、バツだよ。

「里」数表現にする必要ないやんか
0970日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:24:16.79
>>964
日は日、里は里。これが漢字の法則。
なんだかんだといって、オメは何とかチョロまかそうとしているだけ。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:26:32.28
>>970
認めたら九州説が潰れるからナリフリ構わないってこと?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:27:19.40
>>944
>女王国の範囲を北部九州限定すると南九州は、矛盾する。

女王国の範囲は「ほぼ九州島付近」であるから、矛盾しない。

>>「所要日数」では道里は、計算出来ませんから、バツです

>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月も道理は計算できません。

勿論、「水行十日陸行一月」は、
郡からの目的地である女王之所都の説明文言であるので、
郡から女王之所都の所要日数の説明であるから、矛盾しません。

>不彌國止まり。

いえ、女王之所都の説明文言です。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:27:41.54
>>968
>その道の「里」数表現になっていないから、バツだよ。

まあ、九州説なんて信じてる論理的思考の
出来ない御仁に何を言ってもしょうがないけれどw

「里」数表現なんて、道里の遠近を計算するのに不要なんだよ?
九章算術が読めない人にはそれが理解できないんだよねぇ〜ww

道里の遠近を計算するのに、里数は不要
つまり、道里というのは里数を必要とする概念ではないということ

まあ、どれだけきちんと説明したところで、九州説なんて信じてる
論理的思考の出来ない御仁には無意味なんだけどさw
0974日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:29:52.66
>>970
>日は日、里は里。これが漢字の法則。

バカだね〜

「道里」で一つの言葉なんだよ
漢字の法則とか言い出して、バカですか?としかw

>なんだかんだといって、オメは何とかチョロまかそうとしているだけ。

バカの一つ覚えのように道「里」だから、日数とは違うんだーっていくら言っても
問題文から解答まで、すべて「行道八日」を道里として扱ってるんだから
何を言っても無駄だよw
0975日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:34:19.96
>>974
>バカの一つ覚えのように道「里」だから、日数とは違うんだーっていくら言っても

これを言い続けている奴も、ザラコクとあと一人ってところまで減ったけどなw
0976longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/27(月) 16:37:50.53
>>557 >「南≠東」や//
  クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃいというモンではない。
そんなものはね、畿内説なんかではないんだよ。
張政が来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は卑弥呼墓を同定するID情報として、態々書いた。
箸墓が卑弥呼墓である事は、確定事項なんだよ。

> 「卑弥呼の冢≠前方後円墳」//
  張政が来た時点でようやく作った円墳を、前方後円墳に直したということ。
ここの過去スレでも書いたけどな、ヌー速の関連スレからだ。

卑弥呼急死を受けて、突貫工事で大きな塚を作ったんだよ。
これは、魏志倭人伝の記載だけで十分わかる事だが、日本書紀の記載にも一致している。
箸墓については、昼は人が作り、夜は神が作ったなんて書かれているが、
これは、大きな塚が、昼夜を問わない突貫工事で、みるみる出来上がる様を描いてるんだよ。
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1631973181/939

径100歩の円墓にしろ、そんなサイズの墳墓が、箸墓以外に何処にあるってんだよ。
むろん、短里なんてシロモノは存在しない。
(続く)
0977日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:39:49.39
>>950
だから、計算式を、、、
均輸章の回答の計算式も解読できないの?
問題の賦役を穴掘り10日等と変えても
回答の式は変わらないぐらいわからないのかな?
行道は労働行為、日数はその労働行為、
なんら距離と関係無い。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:40:16.80
>>956
近畿一帯で7万戸
開拓地で農業、宗教地、水銀採取地
ヤマトの台頭期(壹與あたり)
ホケノ山古墳  鉄鏃60本以上
椿井大塚山古墳 鉄鏃約200本
関東、群馬あたりでも鉄鏃、古墳の巨大化は東海、関東から
はさみ込んで、毛人地域を抑える。
0979longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2021/09/27(月) 16:41:56.40
>>557 > 「卑弥呼の冢≠前方後円墳」//

径100歩の円墓にしろ、そんなサイズの墳墓が、箸墓以外に何処にあるってんだよ。
むろん、短里なんてシロモノは存在しない。

會稽(紹興)の真東は、九州最南端の佐多岬の僅かに南、
東冶(福州)の真東は、台湾最北端の僅かに北となる。
つまり、佐多岬と台湾最北端それぞれでの、緯度測定データがあってこその記載だ。
北極星の仰角を測定すれば、それが即ち緯度という事になる、と当時の人は知ってたことになる。
距離の里ってのはね、メートルと同じ理屈で定義したんだよ。
距離の里は定義としては、キッチリと500mなんだよ。
もう一つ。
でっち上げた、まがい物の女王である神功皇后の墓って、五社神古墳だよな。
日本書紀はご丁寧にさ、同規模の古墳を、まがい物女王に振り分けたんだよ。
日本書紀の編集者達だって、距離の里は500mほどだと認識していた事になるだろ。
八゛力なりにさ、少しはモノを考える事だ。短里なんてヨタ話をマに受けてるんじゃないよ。
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1632219683/407

> 「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って//
  倭國中心なんてのは、オ〆の勝手な解釈にしか過ぎない。
現在の日本は、宗谷岬、与那国島、沖ノ鳥島、南鳥島に渉る領域を領有、または実効支配しているが、
正北抵新羅と表記したって、なんの矛盾も無い。

> 箸墓や大和説はバツなんだよ//
  九州王朝国なぞ存在しない。
そんなシロモノをマに受ける、オ〆の膿味噌がバツなんだよ。
0980コテ略
垢版 |
2021/09/27(月) 16:46:14.40
まぁ、短里だの、九州王朝国なんぞ存在しないといった趣旨の、
>>976>>979 なんかの関連投稿だ。

>>931 > 陳寿は、「東治」地区の東だろう、という位置推定//
  會稽東治なんて役所は存在しない。
ニスイの東冶を、サンズイの東治とに直したのは、王朗のやった事だ。
王朗というのは、魏王朝建国時の最高幹部なのだが、彼のウィキでも読んでみな。
ニスイの東冶なんてなくなっちまえ、なんて考えても不思議のないエピソードが書いてあるだろが。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:47:03.03
>>972
鹿児島、種子島は北部九州なのか?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:48:40.96
>>977
>行道は労働行為、日数はその労働行為、
>なんら距離と関係無い。

お前が何をわめこうが、「行道八日」が「道里」遠近の計算対象

行道 : 水行
八日 : 二十日

行道八日が道里の表現だし、水行二十日も道里の表現

お前の言ってることは、ザラコクと同列だぞww
普通の人間にとって、「ものすごく名誉なこと」だよなww

あと、「里は日と違う」といいながら、「日数はその労働行為」とかいうww
「日」は「労働」でも「行為」でもないですよ?www
0983日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:50:32.98
>>977
失礼
少し修正
行道は荷を運ぶ労働対象、日数はその労働時間
穴掘りと直してもおなじ
穴掘りが労働対象、日数が労働時間
だから、FAQのQの里数(距離)とは無関係のAとなっているのです。
0984コテ略
垢版 |
2021/09/27(月) 16:51:14.56
>>955 1 ◆n7jxAxKCBhb6
> ◆1(女王所都)  奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が//

地域の特徴的な遺跡を邪馬台国呼ばわりするだけってのはさ、
その他の地域の邪馬台国ヨタとさ、何の変わりも無いんだよ。
クイズ番組じゃないんだから、当たってりゃエエってもんじゃない。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:54:50.26
>>976
>張政が来た時点でようやく作った円墳を、前方後円墳に直したということ。

女王の墓を後から改造だと?  無礼者のトンデモばか発想。   @阿波    
0986日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:55:34.03
>>982
道里の定義を言ってみなさい。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:56:01.39
自郡至女王國萬二千餘里
自女王國以北,其戶數道里可得略

北以外 北東、東、西、南
次有斯馬國〜南次有奴國,投馬国、邪馬壹國
0988日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 16:57:23.65
>>978
>ホケノ山古墳  鉄鏃60本以上
>椿井大塚山古墳 鉄鏃約200本

水銀朱や鉄器などから、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。   @阿波
0989日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:03:32.15
>>986
定義なんて不要だよ
「道里」という概念は日数で数値化できるって事実が確認できれば、それでいいの
0990日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:05:24.56
>>945
>次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
(投馬國は)奴国、狗奴國より南にあるのか?

大体南になる。

>矛盾する。

「此女王境界所盡」は、女王の支配地の一部分の境界が尽きる、という話であり、
「女王國」全体の南の境界を示すものでがないから、矛盾しない。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:07:20.42
>>976
>張政が来た時点でようやく作った円墳を、前方後円墳に直したということ。

女王の墓を後から改造だと?  無礼者のトンデモばか発想。   @阿波    
0992日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:07:26.13
>>984
>地域の特徴的な遺跡を邪馬台国呼ばわりするだけってのはさ、

誰もそんなことしとらんが?
邪馬臺国の中に女王の都があって、それの跡が纒向遺跡ってこと
0993日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:09:10.19
>>990
>(投馬國は)奴国、狗奴國より南にあるのか?
>大体南になる。

倭人伝に書いてあることと違いますけど
0994日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:10:27.52
>>992
>邪馬臺国の中に女王の都があって、それの跡が纒向遺跡ってこと

お前、早やから酔っぱらってんのか?  わははははは   @阿波
0995日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:14:49.83
常識で考えろよ
陳寿は倭女王に従う国を、「女王国以北」クループと「その余」グループの2つに分けていて、第3は無い
投馬国は「その余」じゃないんだから「女王国以北」に決まってるんだけどね
0997コテ略
垢版 |
2021/09/27(月) 17:18:21.43
>>992 > 誰もそんなことしとらんが?//
  知らなきゃさ、せめて云われて気付く事だね。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:18:49.59
>>950
>この問題は、道里の遠近を問題にしていて、
その道里の遠近を示す数値として「行道八日」等を置いてるんだよ
距離でも里数でもなくて、道里の問題!

違うな。「道里」の里数は全く出て来ず、関係もない。
「行道での所要日数」の問題。
0999コテ略
垢版 |
2021/09/27(月) 17:20:37.31
>>991 > 女王の墓を後から改造だと?//
  推定の根拠はレス元に書いただろ、八゛力。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2021/09/27(月) 17:23:12.48
>>951
>女王国の範囲で北部九州〜近畿説

「〜近畿」は、女王国(≒倭國)ではなく倭種であり、バツ。

>邪馬壹國,女王之所都は
奈良〜和歌山〜三重の山の中(宗教地)

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 4日 18時間 58分 13秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況