邪馬台国畿内説 Part734
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1635523650/50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 巫女王ならそれ斎宮しかないじゃん
祖先神を祀る女性らのことやろ ◆FAQ 3−1
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 >>983
>応神37年(西暦306年)だと
まだ北方民族が華北を制圧してない時期やろ
応神元年は、まだ二倍年歴の時期であり、
二中歴の年代歴に拠って、一倍年歴に直せば、西暦399年頃になり、
だから、二倍年歴での応神37年は一倍年歴に直せば、
399+(37−1)÷2≒(西暦)417年という事になるから、
この男はバツ。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 なんかの練習のつもりで頑張ってるんかね?
とにかくおかしなことやってるからな ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>50
>布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
中葉の後半ということは、前、中、後と三分割した中葉の後半という事だろ?
ならば260年から270年あたりかな。
卑弥呼の墓ではないじゃないか。 >>90
その想定、中葉の前半はいつから、いつになるの? 豊城入姫命の墓だったら大神神社の伝承ではホケノ山古墳と言われとるらしいやないけ
群馬にあった毛野氏は御諸別王以降が現地赴任したらしいけその子孫がおるんやとさ
豊城入彦のひ孫からやの 仁徳天皇とか応神天皇なども時代的には本人の可能性あるわけか >>95
お前はカスだな。 お前には矜持というものがないのか? 畿内説消滅が怖いか? @阿波 >>90
中葉の前半は3分割で33年として234かな。
だから中葉の後半は250年からだね。
卑弥呼の墓ではないね。 箸墓は卑弥呼の墓では無い
1.南は南だから、畿内に邪馬台国は無い
2.前方後円墳である
3.築年不詳
4.性別不詳
5.さしたる遺物無し 240年に建造開始でも無理だからね。
17歳〜20歳で189年即位説をとるとして推定、卑弥呼は70歳くらい。
70歳近くになって慌てて墳丘墓を作り始めるはずがない。
作ったのは卑弥呼の埋葬部分。
ただしこれは石室ならすでに完成はしていただろうから、石室がある箸墓ではない。
作ったのは「棺あり 槨なし」でわかるように木棺直葬の埋葬部分。 布留0式土器が出土しても、纏向3(新)式期の場合もあれば、
纏向4式期の場合もある。さらに、纏向2式期の場合もある。だから、出土し
た布留0式土器だけでは、それが出土した古墳や集落遺構などが、どの時
代のものかであるかは、特定できないのである。
そのため、寺澤薫自身がいうように、「実際に布留形(あるいは影響)甕の認識一つで、纏向3(古)式や纏向2式とされてきた様式認識までが布留0式になることも現実にありえた」し、寺澤薫と他の研究者とで「実際に畿内地域の個別遺構(例えば纏向遺跡辻土坑4下層など)の様式認識は大きく異なっている」という事態が生じている。
だから、本来は年代の幅がある布留0式土器を纏向3(新)式とするのは、マスコミなどがいうように確定した学説ではなく、
寺澤薫やその支持者たちによる恣意的な判断の結果である危険性がある。 >>99
「はずがない」とか妄想で言い張っても意味なし
倭人伝には死後に巨大な墓を作り始めたと書いてある >>100
>布留0式土器が出土しても、纏向3(新)式期の場合もあれば、
>纏向4式期の場合もある。さらに、纏向2式期の場合もある。
なんで?
明らかに異常なことおっしゃってますけど 箸墓は三輪山に現れた神とトトヒ姫の神前婚の話だもんよ
被葬者はその三輪山の神と結婚したトトヒ姫 三輪の神を祀り始めたから宮中で祀っていた天照大御神を祀る場所を外部(伊勢)に移したって話やけ その三輪の神の子孫が三輪氏
子孫の諏訪氏が水神系の神を祀ってるからな 三輪氏ってことは大神氏
大神神社に残る社殿では伊勢神宮の斎王、豊鍬入姫命の被葬地がホケノ山古墳 なんか、すごい単純な発言で恐縮なのだが、
そもそも畿内説って、
倭人伝記述の南を東に読み替えないと成立しない説なのだが、
今も昔も中国人が大雑把な感覚で物事を進める民族なのは
変わらないのだろうが、
南と東を間違う?
どっちも生活には重要な方角だし、
Japanは東ってわかってる時点で間違わないと思うが?
そんなんが教科書に有力な説と載るとか、
どんだけ紀元節という出鱈目に忖度してるんだよ?w 説じゃねえもんよ
日本内において資料として公開されとるもんや ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸! >>90
>>(スレ主)布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
>中葉の後半ということは、前、中、後と三分割した中葉の後半という事だろ?
ならば260年から270年あたりかな。 卑弥呼の墓ではないじゃないかな?
そもそも庄内と布留は、形態的にかなり明確な差異があるものであり、
「庄内最新相」とか「布留0」とかの、
子供だましのようなインチキ区別をしている事自体が、
大和説学者やスレ主らの、口先言葉尻摩り替えの
人々を騙そうとするオレオレ詐欺性や犯罪者性を感じる。
庄内最新相なら庄内3とか庄内4とかいえばよいのであり、
布留0なら、始めから布留1の最古相、とでも言えばよい。
そして、問題は、それを前方後円墳の絶対年次や編年の根拠にしている事であり、
根本的に、卑弥呼の冢≠前方後円墳であり、
だから筑紫の前方後円墳の那珂八幡などは(間に壹與の天円地方の墓を挟んで)3世紀後半半ば過ぎになり、
石塚や箸墓は、くびれ部の状態や前方部と後円部との比率の程度に拠って、
筑紫の那珂八幡の「進化発展型」であるために、那珂八幡よりも後代になってしまう、という事であり、
石塚は3世紀末で、ホケノが3世紀最末〜4世紀になり、箸墓は4世紀になる。
また、庄内に関しては、列島で最古の庄内も、筑紫に3世紀前半に発生したとされており、、
列島最古の布留の方は、米田によれば越だが、
米田はその越と筑紫の庄内の先後のチェックをしておらず、越か筑紫か?は不明であるが、
大和の前方後円墳の(那珂八幡の進化型で)3世紀末になる石塚が庄内1であったから、
やはり、大和の庄内3のホケノが3世紀最末〜4世紀になり、
従って布留1の箸墓は、4世紀になる。 >>110の模式図だyo!【魏志倭人伝の「女王之所都≒東冶」印象操作】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 >>112
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状●(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) 九州から直接、半島に船で乗りつけようとしたら潮流に流されてしまうのよ
渦潮が発生してそれに飲み込まれればそのまま一気に数百メートル下の海底にワープやぞ
潮の流れに精通した連中らなら時期を見て渡れるが素人にはほとんど無理
出雲から船出するのは潮流を避けるって意味もあるんだろ 潮流は冬場に発生するからな
春から秋にかけては台風シーズンだしよ 暖かい地方では潮流ほとんどないが日本あたりは寒冷地帯との前線だからな
海底温度が下がる地域で発生するの >>107
間違い?
文献や記禄に基づき
陳寿の地理観だよ。
書き換えた可能性もある。 >>111
>>113
卑弥呼の冢=祇園山古墳
台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は父「男弟」)
神武の墓=箸墓(台与より倭王位禅譲→吉備を従え、大和東征後) >>114
>九州から直接、半島に船で乗りつけようとしたら潮流に流されてしまうのよ
バカなことを。 秀吉の朝鮮出兵はどうなるってんだ?
長崎の平戸市周辺から出航すると、対馬海流に乗って半島へ着ける。
そもそも、潮流じゃないから。 潮流は、潮の干満流を言う。 @阿波 >>118
箸墓断面図(北側より)
.………………………_______
5 段目……………-/神武(百襲姫)\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に...
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操高陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜200年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌・珠龍文・鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工芸技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。 >>122
銅鏡百枚にプラスして、鏡マニアの卑弥呼に特別に贈与したのだろう。 >>122
>>112
奴国(志賀島の金印)→不弥国(日田の鉄鏡)→投馬国(串間の玉壁)すべてがピッタリと符合w
https://www.asahi.com/articles/ASP8W6SN1P86TNAB001.html
宮崎県串間市で出土したとされる円盤状の器「玉璧(ぎょくへき)」。
古代中国で権威の象徴とされた品が、どのような経緯で串間の地にもたらされたのか。
直径33・3センチ、重さ1・6キロの円盤状。「軟玉」と呼ばれる鉱石でできており、真ん中に穴が開いている。
動植物がモチーフの文様が施され、ほぼ同じ大きさ・文様構成のものが、中国南部の「南越王墓」から出土しており、紀元前2世紀ごろに中国で作製されたものと推定されるという。 >>125
>あなたが、理解できないだけ。
何の理由説明もなく、専門に研究してる学者が論文に書いてることと違うことを断定されても、理解できる人はいないでしょ >>126
「女王之所都は(帯方郡から12,000里の)東冶の東の海の上」という結論(プロパガンダ)のために、
「帯方郡→不弥国ルート(里数表記)」の後に、さらに「帯方郡→東冶ルート」を「投馬国→邪馬台国ルート(日数表記)」として木に竹を接ぎ、中国大陸沿岸部の水行日数を付け足したんだよ(中国の読者向け)
>>112
帯方郡(不弥国)
↓「南水行二十日」
建業(投馬国島=宮崎県都万)
↓「南水行十日」
東治(邪馬台国島≧奄美大島)
↓「南陸行一月」=580q(1日19q)
東冶(女王之所都)=12,000里 ←陳寿の言いたいこと「計其道里 當在会稽東冶之東」
倭国は「山島を以って国邑をなす」列島(複数の島々)だから、それに合わせて、
まず、帯方郡(不弥国)→建業(投馬国島=宮崎都万)は「水行」、
次に、建業(投馬国島)→東治(邪馬台国島≧奄美大島)も「水行」、
最期に邪馬台国島の上は「陸行」、という描写にした >>127
学者が言った事が全てでは無い。
それは説であり、確定では無い。
だから反論もでる。
古代については不確かな事が多く、この邪馬台国論叢も結論が出ていないのが現実である。
特に土器編年については、過去から個人の恣意からこねくり回されており、これと言って学者間で統一された意見は無い。 >>100
>布留0式土器が出土しても、纏向3(新)式期の場合もあれば、
纏向4式期の場合もある。さらに、纏向2式期の場合もある。だから、出土し
た布留0式土器だけでは、それが出土した古墳や集落遺構などが、どの時
代のものかであるかは、特定できないのである。
成程。
>そのため、寺澤薫自身がいうように、
「実際に布留形(あるいは影響)甕の認識一つで、纏向3(古)式や纏向2式とされてきた様式認識までが布留0式になることも現実にありえた」し、
寺澤薫と他の研究者とで、
「実際に畿内地域の個別遺構(例えば纏向遺跡辻土坑4下層など)の様式認識は大きく異なっている」
という事態が生じている。
フーン、成程。
>だから、本来は年代の幅がある布留0式土器を纏向3(新)式とするのは、マスコミなどがいうように確定した学説ではなく、
寺澤薫やその支持者たちによる恣意的な判断の結果である危険性がある
成程。 >>112
「女王国【東】渡海千里 複有国 皆倭種、又有 侏儒国 在【其南】人長三四尺 去女王(之所都)四千里」
「本州(女王国東渡海千里複有国皆倭種)の南にある四国(侏儒国)が、女王の都とするところからは4千里離れている」
ということは、四国(侏儒国)の【北西】4千里の場所に女王之所都があるということ。
つまり、女王国は北部九州ということです。
古畑任三郎でしたw >>129
>だから反論もでる。
なら、反論書いて下さい。
正反対の結論だけ言い張るのは反論じゃないから 邪馬台国畿内説を宣伝してきたプロ固定の脳の出来栄えが悪いので、5ちゃんねるが不活発になったな。 >>128
>>120
神武東征ルート(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→難波→熊野→大和)が、なぜ天孫降臨の宮崎(投馬国五万戸)から出発しているのか?
投馬国(宮崎)の官・彌彌(ミミ)とは神武のことかもしれない。
あるいは、神武の高(5代)祖父・アメノオシホミミ(スサノオとアマテラスの長男、ニニギの父)では?
倭人伝と記紀の一致点ハッケソ!w >>136
>なぜ天孫降臨の宮崎(投馬国五万戸)から出発しているのか?
ウソはイカンぜよ。 宮崎(投馬国五万戸)から出発していない。 そんな文献はない。 @阿波 >>136
何気に大発見やんw
スサノオ(奴国王帥升)アマテラス(伊都国平原女王=伊勢神宮の八咫鏡)
↓(アメノオシホノ)ミミ=倭人伝「禰々(投馬国の官)」
↓日向三代(ニニギ)
神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→熊野→大和)
ということかもw >>117
>(南≠東問題) 間違い?文献や記禄に基づき陳寿の地理観だよ。
書き換えた可能性もある。
「可能性はほぼない」な。
陳寿は「同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録」に準拠して書いただけだし、
陳寿自身も(女王国の位置に関して)「計其道里當在會稽東治之東」と、
ほぼ正確に「東だ」と言い当てている。 >>138
ウソはイカンぜよ。 宮崎(投馬国五万戸)から出発していない。 そんな文献はない。 @阿波 >>128
えっ!?不弥国→投馬国→邪馬台国ルートって倭国内の水行日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って書いたわけ??
道里で、どこにも比定できないわけだ…無理矢理、日本地図に当てはめようと七転八倒した宮崎康平さんが、伊作が、気の毒すぎる… orz >>128
>「女王之所都は(帯方郡から12,000里の)東冶の東の海の上」という結論(プロパガンダ)のために、
「帯方郡→不弥国ルート(里数表記)」の後に、さらに「帯方郡→東冶ルート」を「投馬国→邪馬台国ルート(日数表記)」として木に竹を接ぎ、中国大陸沿岸部の水行日数を付け足したんだよ(中国の読者向け)・・・
>倭国は「山島を以って国邑をなす」列島(複数の島々)だから、それに合わせて、
まず、帯方郡(不弥国)→建業(投馬国島=宮崎都万)は「水行」、
次に、建業(投馬国島)→東治(邪馬台国島≧奄美大島)も「水行」、
最期に邪馬台国島の上は「陸行」、という描写にした
陳寿は魏志倭人伝に書いてもいない「東冶」という文言や、
存在もしなかった「邪馬台国」という文言を、立証根拠に使った時点で、
この男は「結論先にありき」のオレオレ詐欺師である事になり、バツである。 >>131
>「女王国【東】渡海千里 複有国 皆倭種、又有 侏儒国 在【其南】人長三四尺 去女王(之所都)四千里」
「本州(女王国東渡海千里複有国皆倭種)の南にある四国(侏儒国)が、女王の都とするところからは4千里離れている」
ということは、四国(侏儒国)の【北西】4千里の場所に女王之所都があるということ。
つまり、女王国は北部九州ということです。
古畑任三郎でしたw
成程。少し問題はあるが、大体合っている。 >>112
>>113
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴国 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>144
消去法って言葉の意味、分かってないだろ >>144
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>138
↓倭人伝「禰々(投馬国の官ミミ)」=(アメノオシホミミ)
↓日向三代(ニニギ)
↓神武東征(宮崎・日向の美々津港より船出)
宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→熊野→大和
その通り、、、 >>146
筑紫邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら「記紀伝承地」に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 どうやら
畿内説ー学界ーアカデミック
九州説ー素人ートンデモ
ということで完全決着のようだね >>148
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2681年w)。 旧唐書
倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見
其國本亦以男子爲王
日本國者,倭國之別種也
邪馬壹國 共立一女子爲王,名曰卑彌呼 親魏倭王,假金印紫綬
更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹 >>150
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 テンプレに間抜けなイチャモンつけてたキウスは恥かいて蟄居したのかな
>>150
唐代(618〜)に、白村江の戦い(663)で惨敗した天智が、太宰府を捨て、亡命してきた百済王族や百済の将軍に護られて、瀬戸内海を通って近江大津宮に逃亡した時に、畿内に首都が移った(北部九州王朝説)。
唐では、日本の使者たちを疑いの目で見てはいたが、遜(へりくだ)って朝貢して来る以上、その歴史書をそのまま受け入れただけのこつ。 >>156
とうとう九州説は
日本史学をすべて否定する羽目になったね >>149
悔しいそうだな
このスレの流れは、アンケート通り九州説が断然有利だ。 >>156
明治天皇の江戸(東京)行幸と同じようなもんかな?
京都(博多太宰府)の人たちにしてみれば、騙し打ちに遭った気分だったろうねw 卑弥呼の墓は強くは推せないが倭の五王の墓は近畿だと認めてくれよ >>113
>>120
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓や西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人? 倭の五王の墓が近畿ならなし崩し的に卑弥呼の墓も近畿って事で >>149
どうやら
大和説ー「畿内や邪馬台国」のような、史料事実などの曲解や否定の
皇国史観の学界やマスコミや文科省ーオレオレ詐欺師
九州説ー史料事実やその史料批判実態からの帰納的確率的でアカデミックー学問的
ということで完全決着のようだね >>160
安心してほしい
河内の巨大古墳は、北部九州王朝の奥津城(王家の谷) >>139
「可能性はあるな」
倭人在帶方東南大海之中
計其道里當在會稽東治之東
出真珠、青玉。其山有丹〜
この範囲でだな。 >>157
とうとう大和説は
日本の史学を根底から否定する羽目になったね 神武東征→デタラメ
そんなものない
あったのは神武のヤマト入り
東征、出雲討伐、熊襲討伐やったのはヤマトタケル >>164
九州説は史料事実などの曲解や否定のプルタぺーテンと
それ以外別れる。 倭人在 帶方東南大海之中
計其道里 當在會稽東冶(×東治)之東
出真珠、青玉(翡翠)其山有丹(その山々に水銀あり) >>160
卑弥呼の墓は、ほぼ祇園山で決着だが、
倭の五王や磐井らの墓も、久留米周辺だと認めてくれよ >>159
天智帝も明治帝も「行幸(また帰って来はる)」とばかり思っていたら、実は近江(江戸)遷都だったってかw >>162
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓や西殿塚は、
東征毛人五十五國の「大倭」職の将軍らの遺跡ではないと思う人? >>170
さらに自郡至女王國萬二千餘里。
は南と言及していない。 >>172
>>152
そして気が付いたら、天智の太宰府は「大和朝廷の出先官庁」ということにされてしまいましたとさ…orz >>163
卑弥呼の祇園山や倭の五王の墓が久留米周辺なら、
なし崩し的に倭國も北部九州って事で >>171
王の墓があんなみすぼらしい訳ねえだろ
やっぱ世界遺産に指定されるくらい立派じゃなきゃ >>139
「計其道里當在會稽東治之東」
ほぼ正確に「東だ」と言い当てている。
吐噶喇列島各島にあたり
ほぼ正確でも屋久島、種子島が範囲
九州本島にはあたらない。 >>168
五瀬命と神武らの東征→紀元前1〜2世紀頃の河内潟の存在などで、東征神話が保証された
そんな実態が実際にあったらしい
神武は、熊野を回って、ヤマト入り
東征、出雲討伐、熊襲や南九州討伐やったのは、
九州の「久留米付近の浮羽の倭國」の一将軍としての、
ヤマトタケルや景行であったらしい >>101
>「はずがない」とか妄想で言い張っても意味なし
倭人伝には死後に巨大な墓を作り始めたと書いてある
ならば殉葬もあったわけかな?
どこに? >>158
>このスレの流れは、アンケート通り九州説が断然有利だ。
理のない有利は虚しいよ >>180
>ならば殉葬もあったわけかな?
あった可能性を否定できないだろ?
逆に「筈がない」は可能性の否定だから無理なんだ >>178
続き、なので陳寿の地理観、
書き換えも可能性あり。 >>175
>そして気が付いたら、天智の太宰府は「大和朝廷の出先官庁」ということにされてしまいましたとさ…orz
太宰府と言った時点で都じゃないから 去年発表されたINTCAL20で年代測定やりなおしたら
纒向編年は古いほうにズレるでしょ 女王が死んでから、完成まで10年近くかかる墓を造り始めましただとw
そんなもの当時の平均寿命の半分、20歳くらいから造り始めてるさ。
魏志倭人伝に書いてある、だから正しいなら、殉葬も正しいという事で良いね?
ところが日本に殉葬はない。
どういう事なんだろう、アホの>>1君w >>182
>あった可能性を否定できないだろ?
有った可能性のある古墳は? >>188
7年でもいいよ。
なんで7年も殯を行う必要があるんだい? 箸墓の周濠から布留0式がでたわけだけど
纏向にある箸墓より古い前方後円墳をみると周濠が無いものがある
249年ごろの最初の箸墓は周濠がなくて円墳と
それに付随する儀式をする場である前方部で
周濠は10年くらいあとに作った可能性があるのと
当時の人が円墳部のみを墓と認識していたなら矛盾はない
>卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。 >>189
土の量から千人動員して5年という試算があるが
前方部の大半が後付けならもっと短くて済む >>1君には、
殉葬の可能性がある畿内の古墳を答えてもらおうか。
それなら平原や祇園山のような九州に古墳にしか殉葬の可能性はない、
もちろん、あれらは殉葬ではないけども。 >その死には、棺有りて槨無し。
これは卑弥呼の墓について書かれているというわけではなく
倭人の風習が箇条書きされているところにでてくる
卑弥呼の墓の棺や槨の有無は魏志倭人伝には書かれていない
原文はこうなってる 普通に考えれば民衆の墓のことで卑弥呼の墓のことではない
その風俗は淫ならず。男子は、皆、露?し、木綿を以って頭を招(しば)る。
その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。
婦人は被髪屈?す。衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
禾稲、紵麻を種(う)え、蚕桑す。
緝績して細紵、?、緜を出す。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。
兵は矛、盾、木弓を用いる。
木弓は下を短く、上を長くす。
竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃。有無する所は?耳、朱崖と同じ。
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。食、飲には?豆を用い、手食す。
その死には、棺有りて槨無し。 ←←←
土で封じ冢を作る。
始め、死して停喪すること十余日。
当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。
已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。
以って練沐の如し。 殉葬なんか本当にやってたのかね
代わりに埴輪じゃないの
中国でも兵馬俑なのに >>192
>土の量から千人動員して5年という試算があるが
千人も動員できるかよ。
都合の良いことばかり言うな。
たとえ完成まで5年であっても、そもそも客死でもない女王を、
5年も殯る必要がどこにあるんだ。
最初から墳墓だけ作っておいて、女王の死後にハカドコロを創ればいいだけ、それなら1日で済む。
魏志倭人伝の記述はそういう事だろう。
事実、箸墓の円墳部分に、後世に作られた円丘があるよね。
これは墳丘の完成後、時間が経過してその円丘が造られたという事。
つまり卑弥呼の墓ではない。 >>169
大和説は、
史料事実などの曲解や否定の、スレ主や東大理系博士号自称男らのオレオレ詐欺群と、
それ以外の阿波説や大阪説や近畿説などに別れる >>196 織田さんの親族か配下が奈良を領地にしたときに
箸墓の円墳の上に茶室作ったの >>170
>倭人在 帶方東南大海之中
計其道里 當在會稽東冶(×東治)之東
出真珠、青玉(翡翠)其山有丹(その山々に水銀あり)
陳寿の女王国の位置推定文は「計其道里,當在會稽東治之東」であって、
「計其道里,當在會稽東冶之東」ではないから、
この男(おそらく大和説男)も、オレオレ詐欺師ね。 >>194
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛
卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
上記も邪馬壹國,女王之所都にあるとは書いていない。
塚は、移動も考えられる。使者は、移動前の塚を見たかもしれない。 箸墓ってモモソ姫の古墳墓だろ
三輪山の神と神前婚した女性やん
なんで卑弥呼の墓候補? >>183
賛同します、
会稽東治の東は私もそのように思います。陳寿の世界観から来てると思います。
中華思想、中国が世界の中心
鎮守は倭国には来ていません 「橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。」
これって後付けでしょ。
墳丘の完成後、時間が経過して新たに造られたとしか考えられないのだが。
事実、椿井大塚山、桜井茶臼山と同系の大型2重口縁壺が出ているもんね。
つまり箸墓被葬者は4世紀初頭。
イカガノシコオしかいないのだけど、何が卑弥呼なんだ馬鹿なの? 埋葬部分は後円部だし前方部とは分けて考えて良いんじゃないか
前方部は人が乗ってたんでしょ >>174
>さらに自郡至女王國萬二千餘里。は南と言及していない
郡から邪馬壹國女王之所都への行程の説明では、
「東南」というよりは、「南南東」方向の説明でる、という説明であり、
「ほぼ南方向」とも言える説明である。 >>196
>千人も動員できるかよ。
なんで出来ないと決めつけるんだ?
>事実、箸墓の円墳部分に、後世に作られた円丘があるよね。
そんな「事実」は世界の誰も知らんぞ >>203
>事実、椿井大塚山、桜井茶臼山と同系の大型2重口縁壺が出ているもんね。
同系だから同時代だなんて説はないのだが? >>175
そして気が付いたら、
大和日本國の斉明や天智は、九州倭國王の側室?やその子供であり、
九州の留守番役的な地位にされていました、とかさ。 >卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
>更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。
>復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。
>政等は檄を以って壱与に告諭す。
>壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。
>因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、
>白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。
張政は魏に帰る時に台与が派遣した人たちに送ってもらってる
台与が派遣したこの人たちがヤマトから派遣されてた場合
卑弥呼の墓や男王を立つとかこの辺りはその人たちから聞ける 173
その中国皇帝に上奏して連絡したの誰?
直じゃねえのかな? >>206
「自郡至女王國萬二千餘里」であって
「自郡至邪馬壹國女王之所都萬二千餘里」
ではありません。
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日
南に水行ができる所が不彌國の想定地であり
東か西で沿岸航法では「南→東」になり
バツです。 >>177
>王の墓があんなみすぼらしい訳ねえだろ
やっぱ世界遺産に指定されるくらい立派じゃなきゃ
魏の薄葬令の中での、親魏倭王の卑弥呼の墓が厚葬に出来る筈もなく、
せいぜい楽浪太守墓程度の冢で精一杯であり、
箸墓のような巨大な前方後円墳に作れば、一発で親魏倭王を剝奪されてしまうな。 直やその後継、忌寸に任命されたの漢公、秦公だぞ
彼らはもともと渡来人だしな 連公に皇族が多く、臣に名を連ねるのが天皇に従ってる皇族以外の者らだぞ >>178
「計其道里當在會稽東治之東」 ほぼ正確に「東だ」と言い当てている。
そして、ほぼ(女王国の最南部の)佐多岬付近の投馬國に当たり、
邪馬壹國女王之所都はその北の「水行二十日」の筑紫付近に相当するから、
女王国は、九州本島付近全域に相当する。 台与が派遣したのは倭の役人20人と奴隷30人の合計50人
結構な規模で首都ヤマトから来たと思うんだよ
そして倭の役人たちは 卑弥呼以って死すとか更に男王を立つとか
壱与、年十三を立てて王と為すとか
中央の政局に詳しくてもおかしくない >>207
>>事実、箸墓の円墳部分に、後世に作られた円丘があるよね。
>そんな「事実」は世界の誰も知らんぞ
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
同時期ならなんでそんな特殊な作り方をするんだい? 鏡は信用するが、
殉葬は信用しない
畿内説
同じ倭人伝なのに >>208
>同系だから同時代だなんて説はないのだが?
同型なのに箸墓だけ50年も早いという説はないのだが? >>181
このスレの流れは、アンケート通り九州説が断然有利だ。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
理のない大和説学者らの、オレオレ詐欺は虚しいよ >>220
それほんと思うわ
どうせ卑弥呼の鏡だと確定する訳無いのに
逆に卑弥呼の墓だと確定した後ならそこから出た鏡は魏から貰った鏡だと思うけど 東漢氏とかが日本に来たの記録通りならまさに日本のヤマトタケル大王の時代
なんで応神天皇の時代に来ただの言ってるんだかな >>182
>>ならば(箸墓などには)殉葬もあったわけかな?
>あった可能性を否定できないだろ?
かなり探したらしいが、それでも見つからなかったんだから、
「あった可能性」や確率が、殆どない。
>逆に「筈がない」は可能性の否定だから無理なんだ
いや、逆に、「あった可能性」や確率が、殆どない。 >>225
>かなり探したらしいが、それでも見つからなかったんだから、
それ、ソースは? その発言があったからヤマトタケル大王の時代が応神天皇の時代にすり替わったんだよ >>222
>このスレの流れは、アンケート通り九州説が断然有利だ。
それ、証明できないでしょ? >>217
しませんし、筑紫などの記載はありません。
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國である。
投馬國が女王国に属さないなら理解できる。 >>220
>鏡は信用するが、
残ってるからね
>殉葬は信用しない
残ってないからね
普通の判断だろ? >>183
>続き、なので陳寿の地理観、書き換えも可能性あり。
いや、陳寿が「(同時代の)魏の役人らの記録を、自分の地理観で書き変え」たら、
そりゃ、一発で「魏朝から庶民にまでバレて」しまい、
西晋朝以後の中国で評価されて「3史書」として残った、
という事になる筈がない。 >>219
>同時期ならなんでそんな特殊な作り方をするんだい?
なんで特殊だと思うの? >>221
>同型なのに箸墓だけ50年も早いという説はないのだが?
あるよ
通説だし 崇神天皇の時代に豊城入彦だのおったろ
関東職として東国統治を命じられた天皇の王子な
実際には関東入りできなくてそのひ孫の御諸別のときに関東入りしとるの
時代的にはヤマトタケルの時代あたりと重なっても不思議じゃないんだよ
つまり出雲の国譲りだのもこの時代に一気に進んだ可能性があるんだよ 科学的に調べて卑弥呼の時代の可能性があると言ってるんだからしようがないわな
殆ど信用してないけど絶対違うとも言えんし >>185
>去年発表されたINTCAL20で年代測定やりなおしたら
纒向編年は古いほうにズレるでしょ
INTCAL20なら、どっち道、AMS法のプラズマ化をしているんだから、
プラズマ化でベータ崩壊が促進して古い年次が計測されてしまう欠陥計測であり、
そんなデータなど、根拠にもならず、何の価値もない。 >徇葬者は奴婢百余人
これについての個人的考えだけど
2回の日食により譲位を迫られた卑弥呼は抵抗して
男女200人集めて戦いを仕掛けたけど負けて
100人が処分されたってことじゃないかな
日本書紀 崇神天皇10年 9月の項に
武埴安彦夫婦がそれぞれ軍の指揮を取って
東西両面作戦を実施したけど失敗して半分以上が斬られて鎮圧された
更に同じ9月の項には続きがあって
百襲姫が願うので夫である三輪山の大物主が白蛇になって
百襲姫が会いに行くけど百襲姫は白蛇の姿に驚いて叫んで
大物主が怒って帰っちゃって
百襲姫がしゃがんだときに箸が刺さって死んで箸墓造営 >>236
なんの価値もないのはお前のトンデモ科学だ 箸墓を中心として三輪山の中心的存在となっとるらしいやん
三輪山の大物主を神として祀る一族の任を受けたのが伊香色謎命(物部)
ならその一族ら中心の古墳群かな? 三輪山の神の子孫は三輪氏、大神氏だけどな
三輪氏の子孫だのが諏訪に移されたのもこの時代かな? >>236 昭和にできた纏向編年が
科学的データと乖離が目立ってきてる
ここ10年で箸墓は3世紀中葉となってきてる
候補となる遺跡が無いのに諦めが悪い九州と違って
橿原市は邪馬台国あきらめたからね
いまでは邪馬台国の前身とか言ってる >>242
3世紀中葉なら時代は合うだろ
なんで諦めるんだよ 橿原市と桜井市の境界にある坪井・大福遺跡は
たぶん邪馬台国の前身じゃないけど
時期的に住民たちが纏向造営に参加した可能性はとても高い 242
時代的には古墳なんてまだねえんだよ
あっても墳丘墓、あとから造成して古墳としたのかみたいな話だろ
モモソ姫の三輪山の神との神前婚の話はほんと
つまり大神氏なんてのは下手すればモモソ姫の子孫らと言うこととなる 卑弥呼から日本の歴史が始まったとは思わんし偶々中国の史書に出てきただけだろ 大神氏がモモソ姫の子孫らなら祖先神であるモモソ姫を祀るための大神神社を作っても不思議じゃないしな 理由のない?
伝記に書いてあるじゃん
すべて資料通りのことしか話しとらん >>191
>箸墓の周濠から布留0式がでたわけだけど
布留0式自体が、3世紀末以後。
>纏向にある箸墓より古い前方後円墳をみると周濠が無いものがある
249年ごろの最初の箸墓は、
箸墓は4世紀であり、249年論がバツ。
>周濠がなくて円墳とそれに付随する儀式をする場である前方部で
周濠は10年くらいあとに作った可能性があるのと
前方後円墳自体がその墳丘の回り土を掘って積み上げる事も非常に必要であるから、
ほぼ同時であり、「10年くらいあと」」論もバツ。
>当時の人が円墳部のみを墓と認識していたなら矛盾はない
周濠が同時であれば、「円墳のみ」の時期がある筈がなく、バツである。 日本の史書は中国の史書を読んで辻褄合わせてると思うけどな >>192
>土の量から千人動員して5年という試算があるが
前方部の大半が後付けならもっと短くて済む
周濠が一周取り巻いていたんなら、前方部と後円部はほぼ同時であり、
5年後論もバツである。 百襲姫の箸墓は10代崇神天皇稜や11代垂仁天皇稜より大きい
墓のサイズをみたら百襲姫が卑弥呼だとしてもおかしくはない >>193
>>>>1君には、殉葬の可能性がある畿内の古墳を答えてもらおうか。
>それなら平原や祇園山のような九州に古墳にしか殉葬の可能性はない、
もちろん、あれらは殉葬ではないけども。
有難う。
もちろん、あれらは殉葬であるし。 >>252 INTCALだと布留0式は2つ出る 3世紀中葉と4世紀前半
そして土器としては出来が悪い
一方布留1式は出来が良くなって3世紀後半のひとつだけでる
状況的に布留0式は布留1式より古いと考えるのが自然なので
2つ出る布留0式は3世紀中葉の方の可能性が高い >>251
>伝記に書いてあるじゃん
>すべて資料通りのことしか話しとらん
ほお
古墳とかまだ無いとか
それってどんな伝記に? 253
中国の史書よんで狂いまくってるのは年代設定だよ >>257
屁理屈乙
数が少なすぎてどうとでも誤魔化せる >>260
>数が少なすぎてどうとでも誤魔化せる
九州説じゃあるまいし
測定結果をどう誤魔化せるの? >>262
鏡自体は珍しく無いからな
鏡と一緒に埋葬された女性てのはインパクトは強いけど 纒向勝山古墳には周濠があるけど最古級の纒向石塚古墳にはないよ
まだ前方後円墳が出始めたばかりの頃は様式が決まってない
纏向は卑弥呼が死ぬ249年以降も開発は続いて運河や水路が作られる
その時に周濠ができた可能性もある
否定ありきで都合よく考えすぎだ
もうちょっと勉強しよう >>255
>百襲姫の箸墓は10代崇神天皇稜や11代垂仁天皇稜より大きい
墓のサイズをみたら百襲姫が卑弥呼だとしてもおかしくはない
モモソヒメと卑弥呼では時代が違います。
箸墓は崇神の磯城地域での前王・イカガノシコオさんです。 日本が二倍暦法を使っていたなら
崇神天皇即位〜武烈天皇死去がすべてこの範囲に収まる
西暦180年〜西暦507年 >>1君には、殉葬の可能性がある畿内の古墳を答えてもらおうか。 >>260 INTCALは世界的に主流だよ
昭和のやり方が正確だって言う方がおかしいし
ひとつの説としては認めるべき 卑弥呼が死んだとされるのが中国の史書を頼りにするなら西暦240年一250年ころ >>239
>箸墓を中心として三輪山の中心的存在となっとるらしいやん
>三輪山の大物主を神として祀る一族の任を受けたのが伊香色謎命(物部)
>ならその一族ら中心の古墳群かな?
纏向古墳群は物部の墳墓。
だから6世紀末の物部守屋の死と同時に前方後円墳の造営がピタリと止まる。 かなり正確な情報を導き出せるわ
年代を修正してから答えを導きだせば >>231
3史書以外の史書に
偽とか半分嘘とかいう阿保がいるが?
残っている。
本流は魏、呉、蜀であって
東夷伝のほんの一部だよ。 ■ 行程と里数:
帯方郡〜末盧国(唐津/伊万里) 10000里
帯方郡〜不弥国(吉野ヶ里一帯) 10700余里
帯方郡〜投馬国(宮崎平野/都万) 水行20日(末盧国迄10日+都万迄10日)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇) 水行10日陸行1月(末盧国迄10日+阿蘇高千穂迄1月)
帯方郡〜女王国/女王之所都(熊本平野/阿蘇) 12000余里
三国志は古代中国王朝の史書であるからして、魏志の視点は、すべからく洛陽にあった。
又、東夷伝(韓伝/倭人伝)における視点は、当然、東夷支配拠点の帯方郡にあった。
因って現代日本人にとって行程が明確でない場合は、古代中国人の寄る辺に思いを致し、視点/始点を帯方郡に置くべきなのである。 >>233
>>同型なのに箸墓だけ50年も早いという説はないのだが?
>あるよ
>通説だし
おまえらの仲間内で通説であっても意味はない。
知恵遅れ集団なのだから。 布留0式だけで年代を判断しているわけではない
布留0式といっしょにでる庄内式との比較もした総合的判断だよ
考古学ってそういうもん INTCAL20ではより年代が絞られて
桃の種は卑弥呼が使用していた可能性がでてきた
>鬼道に事え能く衆を惑わす >>277
布留0式時代に建造開始でも、
25歳で死んだ人と、75歳で死んだ人なら、
当然、埋葬時期が違う。
箸墓古墳は後者。
その埋葬時期は4世紀初頭、葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山とほぼ同時期。 >>269
じゃあキミは殉葬の可能性がある九州の径百余歩の墓を答えてよ >>272
>だから6世紀末の物部守屋の死と同時に前方後円墳の造営がピタリと止まる。
まだ物部麻呂とかいるのに? >>280
>じゃあキミは殉葬の可能性がある九州の径百余歩の墓を答えてよ
ないよ。
おれは九州説ではないし。
殉葬というか、大量の奴婢殺害記事は神武東征紀にしかなく、
その場所は葛城。
邪馬台国の王都とは葛城。
大和朝廷の発祥地だし、なにも文句なかろう。 >>279
>布留0式時代に建造開始でも、
布留0式時代に築造完了して、布留1式時代にはメンテ終了してますが? >>281
物部を名乗るのを憚って、石上と改名。 多くは、忌部を名乗ったと見られる。 @阿波 >>281
丁未の乱(ていびのらん)で物部宗家が滅んだね。
そのあとには前方後円墳が造られてない。 281
物部王家が途絶えたんだよ
物部一族の王家(宗主家)がな >>282
>邪馬台国の王都とは葛城。
カラ連呼はやめろ。 王都に見合う集落遺跡を見つけてからにしろ! しょんべん野郎。 @阿波 >>284
43歳まで物部で、それまでもけっこう出世してますが? >>283
>布留0式時代に築造完了して、布留1式時代にはメンテ終了してますが?
メンテて何?
被葬者埋葬が布留1式時代。
土器が証明している。 >>279 昭和の説そのままだな
橿原市考古学研究所がそういってたんだろ
橿原市自慢の瀬田遺跡を邪馬台国にするには
そのあと発展する纏向を新しい方にずらすしかないからな
じゃないとつじつまがあわない
橿原市考古学研究所は昭和に
そうやって調整して瀬田遺跡を3世紀中ごろに無理やり合わせたいので
瀬田遺跡のあとてくる坪井・大福遺跡の年代を調節して
さらにそのあとでてくる纏向遺跡の年代を調整して4世紀ってことにされた
やり方としては九州の甕棺編年と変わらない
人の手により調整が入ってる
最近は大学教授とか立場のある学者は纏向が邪馬台国と考えてる 蘇我氏なんてのも元々は葛城氏に仕えてて葛城氏が滅んでから台頭してきた一族やぞ
大臣になって葛城の地をよこせといって天皇に迫ったわけだろ
そこにあるのは葛城一族の古墳群だよ >>287
>物部王家が途絶えたんだよ
物部は新興豪族で、王位には縁が無いよ >>275
■ 行程と里数:
帯方郡〜末盧国(唐津/伊万里) 10000里
帯方郡〜不弥、奴国(吉野ヶ里一帯) 10700余里
まで同意見だな。その南に狗奴國。
投馬国は、水行以外に行けない、南至り四国
南至邪馬壹國,女王之所都は、水行十日,陸行一月
和歌山、三重、奈良の山中と
和歌山、三重の海岸線。
山中霊場と沖縄の海にある御嶽みたいなところ。 >>296
>物部は新興豪族で
だってさ。 わははははは @阿波 >>289
遺跡なんて必要ない、崇神以前の式内名神大社が葛城にしかない。
王都の根拠。
また神武以降、孝安までが葛城に住んだ。
彼らは大王ではないが、エスタブリシュメントではあったので、
これも葛城が王都の根拠。 >>292
>メンテて何?
濠は泥で埋まるに任せ、墳丘には木がぼうぼう
>被葬者埋葬が布留1式時代。
>土器が証明している。
してない
そんな説を言ってる学者もない 天皇、斉明天皇は拒否した
蘇我の王(宗主家)の連中らが暴れまくった
聖徳太子の子供まで殺してな
そして中大兄皇子(天地天皇)に討ち取られた >>294
蘇我氏の話なんてしていない。
神武の義理父・事代主など鴨族の話。 >>300
>そんな説を言ってる学者もない
箸墓の二重口縁壺が葛本弁天塚、椿井大塚山、
桜井茶臼山と同型であることは考古学者全員が認めてる 福岡市の日佐原遺跡の甕棺を3世紀半ばに合わそうと
無理やりKXaからfを作って甕棺を延命させてる
ただその努力は無駄に終わる
3世紀半ばに甕棺が続いたことになってるけど
平原遺跡が木棺、祇園山遺跡が石棺で
3世紀半ばの卑弥呼が甕棺に入るってのが合わなくなってきた 中臣(藤原氏祖)なんてのはもともと関東に縁の深い氏族だぞ
常陸(鹿島)におったらしいしな
藤原不比等なんてのは車持(毛野)与志古の娘が母親だ
つまり中臣鎌足の妻が毛野氏から来ていた 毛野氏ってのは東国の盟主的立ち位置におったしな
つまり関東惣領を務めていた
御諸別王の末裔やからの >>311
>中臣(藤原氏祖)なんてのはもともと関東に縁の深い氏族だぞ
そりゃ、「忌部一族(阿波勢力)」なんだから。 @阿波 >>307
デタラメ言ってはダメ
布留0式古相で同型といえば30年以内くらいの幅で同じ時代と言えるし
布留式で同型といえば百年くらいの幅で同じ時代と言えるだけだ
無知を晒すな >>310
>関川さんが言ってるだろ。
何と言った? >>314
>布留式で同型といえば百年くらいの幅で同じ時代と言えるだけだ
布留式前半がなんで百年くらいの幅になるのかな?
椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚が100年も違うわけがない、
4世紀初頭前後。
無知を晒すな >>309
ははは、畿内説の自己矛盾がここにもか。
北部九州の甕棺墓が畿内勢力に逆征服されて駆逐されたストーリーにしたいけど、
そうなると平原遺跡は木棺墓だから、甕棺墓時代の後の新時代女王となり、
出自がどこであれ、倭国乱後の共立女王卑弥呼の筆頭になる。 >>314
同型が同時代でないのなら、布留0式2つが3世紀中葉と4世紀前半なら、
布留0式は3世紀中葉と4世紀前半のどちらともありえることになり、
布留1式の年代決定には何の説得力も無くなるね。 >>310
>関川さんが言ってるだろ。
関川は細かい年代の分類は出来ないって主張の人だからな
彼が同じ型というなら何百年差があってもいいんでない? 6世紀末に時代遅れの前方後円墳なんか誰も造っとらんわ 布留式は広域分布&規格性が強いからね。
各地で個別に発展していくならもっと地域差が大きくなる筈であり、
広域分布&規格性を保ちながら発展していく以上、
同型なら同時代だろう。 >>320
>彼が同じ型というなら何百年差があってもいいんでない?
何百年差があるわけないだろ、失礼にも程があるぞ。
おまえのような「こどおじクソ野郎」は言葉を慎め。 >>316
>布留式前半がなんで百年くらいの幅になるのかな?
布留式前半といえば布留1と布留2だから7、80年あるな
>椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚が100年も違うわけがない、
それは布留1だから3、40年だな
>4世紀初頭前後。
もう誰も言ってない 布留式は同型でも年代のばらつきが大きい
=布留式は年代決定に何の意味も持たなくなる
布留式は同型なら同時代
=箸墓と葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山は同時代
さあ、どっち!?
畿内説はどっちを選ぶの!!? 6世紀、古墳時代だろ
慕韓が滅んでから作られとらんかい?
向こうに残ってるのが気になるんだけどよ
造営時期が慕韓滅亡→毛野地域古墳群造営となってる感じがするの
向こうのやつら毛野将軍のことよく知ってるからな >>323
>何百年差があるわけないだろ、失礼にも程があるぞ。
関川は様式の分類が出来てないだろ? 朝鮮半島における現地責任者を務めていたのが毛野一族なんでな >>324
>>椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚が100年も違うわけがない、
>それは布留1だから3、40年だな
なら箸墓被葬者埋葬も同時期なんだから、つまり卑弥呼の墓ではないね。
>>4世紀初頭前後。
>もう誰も言ってない
久住編年ではなってたよ。 関東にいた連中らの祖先となっとるのは毛野兄弟の弟の方の家系でこれが下毛野氏の祖となっとる
兄の方の家系が上毛野氏の祖となっておりもともと半島における責任者として現地に赴任してたのや >>325
>布留式は同型でも年代のばらつきが大きい
>=布留式は年代決定に何の意味も持たなくなる
何の意味もないよ
布留1〜4、それぞれを古と新、その前に布留0
細かい分類の出来ない人は年代決定が出来ない 布留式は同型でも年代のばらつきが大きい
=布留式は年代決定に何の意味も持たなくなる
布留式は同型なら同時代
=箸墓と葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山は同時代
さあ、どっち!?
畿内説はどっちを選ぶの!!? 継体天皇の時代に百済に領地を譲ったろ
そんで百済領地となったが向こうで制作されていた時代がプツリと途絶えてから毛野(群馬)における古墳作りが本格化すんだよ >>327
なにを呼び捨てにしてんだ糞野郎。
布留1式といえば行灯山もそうだな。
崇神が4世紀初〜前半であるのは確定なので、
葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山、箸墓古墳は同時期。 このときに毛野一族はみなすべて日本に帰国した可能性が高いのよ
古墳作るってことは氏族を広げていたってことやからな >>329
>久住編年ではなってたよ。
十年以上前だろ
今は桜井茶臼山や黒塚が三世紀、椿井は意見が分かれてる 3世紀半ばの福岡市はヤマトの支配下
調査したのは福岡市で3世紀半ばと発表したのも福岡市
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
https://mainichi.jp/articles/20190303/ddp/014/040/012000c
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。 >>334
>なにを呼び捨てにしてんだ糞野郎。
大きなミスして主任で定年、再就職先は町役場の嘱託だ
>布留1式といえば行灯山もそうだな。
布留1の後半ね
4世紀初頭でいい 布留式は同型でも年代のばらつきが大きい
=布留式は年代決定に何の意味も持たなくなる
布留式は同型なら同時代
=箸墓と葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山は同時代
さあ、どっち!?
畿内説はどっちを選ぶの!!? >>336
>三世紀
三世紀たって末だろ。
4世紀前後と矛盾はしない。
箸墓も同時期だと認めろよ。 >>340
>布留式は同型なら同時代
>=箸墓と葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山は同時代
同時代だよ
50年くらいの幅の中でな >>339
>大きなミスして主任で定年、再就職先は町役場の嘱託だ
1年365日5ちゃんの前にいるお前よりよほど素晴らしい。 福岡市が行った那珂遺跡群34次調査説明会の画像
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/76/c93468b601104d5eb8a2df8dbbfb58f2.jpg
紙に書いてる内容 読めないところは□
那珂八幡古墳後円部
南側周溝下層出土土器
(那珂遺跡群34次調査)
□弥生時代終末期〜古墳時代初頭の
□□□(「西新町式□□」、「庄内式」□
□「□□式」□□□□□□
大阪府豊中市で作られた庄内式210〜250年と
福岡市早良区で作られた西新町式240〜260年が
福岡市博多区で出会った〜 日本に馬が現れだすの西暦500年代だろ
それから群馬に馬の古墳埴輪が作られたり馬場などもできた
百済には馬がおったってえからな
そのときに持ち帰ったのかもしれん
それを示す証拠などが古墳群からもかなり出てきておる >>342
>50年くらいの幅の中でな
50年という根拠は?
あと箸墓だけが50年早いという根拠もないよね。 >>341
>三世紀たって末だろ。
箸墓が3世紀半ばで桜井茶臼山が3世紀末
半世紀スパンで同時代だが、何か言いたいのか? 群馬の王墓らしき被葬者も発見されとる
クビに勾玉を付けておった、もちろん大王剣も一緒に被葬されとった
東国最大とまで言われた巨大古墳も作った >>344
古墳時代に豊中市と福岡市だと、片道半年くらいかね。 >>347
>箸墓が3世紀半ばで桜井茶臼山が3世紀末
箸墓が3世紀半ばというのは建造開始時期だろ。
被葬者埋葬時期は椿井大塚山や桜井茶臼山と同時期だ。
50年も早いなんて夢見てるなボケ。 すべて繋がるし辻褄も合うし証拠を示すものも出てきとる
かなり重装備な軍装を身につけとるしの
向こうで手に入れたもんか、、、 >>346
>50年という根拠は?
C14分析で布留1初頭が260〜270年ころ、終わり頃が帯金具編年で4世紀初頭だ
>あと箸墓だけが50年早いという根拠もないよね。
布留0だから最大50年早いよ >>352
新しいものに合わせるのだから布留1だろ >>352
>C14分析で布留1初頭が260〜270年ころ、終わり頃が帯金具編年で4世紀初頭だ
C14分析で20年幅なんて出るわけないんだよ。
年輪年代で布留0古相が258年。 >>352
>布留0だから最大50年早いよ
なんで? >>355
>C14分析で布留1初頭が260〜270年ころ
10年幅になってるじゃないか、なめてるのかお前。
C14分析で10年幅なんて分るかボケ。 >>355
>C14分析で20年幅なんて出るわけないんだよ。
理由なく吠えても無駄
>年輪年代で布留0古相が258年。
布留0古相が240〜260という説と合ってるね >>357
>>布留0だから最大50年早いよ
>なんで?
布留1が50年続いてたなら、布留0とは最大50年差だろ? >>359
C14分析なら布留0古相は4世紀初頭当たりの数値も出てるね。 >>360
>布留1が50年続いてたなら、布留0とは最大50年差だろ?
50年続いてたという根拠がない。 那珂八幡古墳の南側の南側周溝下層で
庄内式210〜250年と西新町式240〜260年がでてきたことから
240〜250年あたりにヤマトから福岡市に派遣された人がいた可能性がある
239年に難升米たちが魏の皇帝に謁見して献上
翌240年魏が梯儁を派遣して親魏倭王詔書、印綬、
金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を渡しに伊都国に来る
>女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
>常に伊都国に治す。
240年ごろ九州北部はヤマトに完全に支配されており
伊都国に来た魏の使者梯儁の目にもそう映ったってことだろ つか関川って布留0と布留1の区別はつかないって主義なんだろ?
なら、彼の言う同時代ってすごく年代幅あるわけだが みんなにおかしいとおもわれながらなんとかごまかしてえんめいしていてもどこかのじてんでむじゅんがかくせなくなってこんかいのせんきょのようにげんじつをつきつけられることになる >>361
>C14分析なら布留0古相は4世紀初頭当たりの数値も出てるね。
出てません >>359
>布留0古相が240〜260という説と合ってるね
建造開始時期であって被葬者埋葬時期ではないね。 >>367
>ほう。第一人者がそう言ってるんだ。
第一人者じゃなくて落伍者だな >>363
卑弥呼の共立は2世紀後半と言われているし、
景初二年には朝貢しているのだから、
>240〜250年あたりに
それだと遅すぎるね。
平原女王の卑弥呼が内行花文鏡を持たせた東征将軍たちが
>240〜250年あたりに
東征をはじめた、というところだろう。 布留0を240〜260年としたのは国立歴史民俗博物館の研究グループ
歴博グループは、放射性炭素年代法によって
全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、
この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して
240〜260年を導いた。 国立歴史民俗博物館研究報告
古墳出現期の炭素14年代測定
https://core.ac.uk/download/pdf/294897787.pdf
研究の途中経過も理解するなら読めばいいよ
自分は結果だけいいや >>376
ふむ。
であれば、お隣りのホケノ山古墳に埋葬されたのが240〜260年。
卑弥呼はさらにその後じゃな。 >那珂八幡古墳の南側の南側周溝下層で
>庄内式210〜250年と西新町式240〜260年がでてきた
庄内式=西新町式=210〜250年なら、
那珂八幡古墳のほうが箸墓古墳より古くなり、那珂八幡古墳から全国へ拡散したことになる
庄内式=西新町式=240〜260年なら、布留式は3世紀後半以降となり、前方後円墳は卑弥呼と無関係
240〜250年あたりに畿内から福岡市に連れてこれた人達がいたのなら、
2世紀後半から北部九州にいた卑弥呼の元へ、
畿内から福岡市に連れてこれた人達がいたことになる(船行一年)
さあ、どうする!?
畿内説はどれを選ぶの!!? >>374
グラフなど誰が見ても同じ。
見方などない。
つまりC14など根拠にならないという事。
根拠になるのは年輪年代布留0式古相=258年。
布留1式の椿井大塚山や桜井茶臼山と同型の壺が出てる箸墓を、
それらの古墳より50年早いなんて言ってても、
被葬者埋葬時期が258年を遡ることはできないね?
つまりおまえの負け、箸墓は卑弥呼の墓ではない。 >>379
いや、選ぶ必要がない
布留0って布留直前、庄内式新段階って意味だから >>379 卑弥呼が伊都国生まれで畿内に移動して共立の女王となったとする
そして畿内で40枚出た平原の被葬者のように銅鏡を使って
宗教活動をしたと思われる
伊都国が卑弥呼の出身地で畿内に移動してからも
直轄地として機能していた可能性がある >>381
>被葬者埋葬時期が258年を遡ることはできないね?
なんか発狂してる?
布留0が240〜260頃に使われてて、そのひとつに258の測定値が出るのは当たり前でしょ
258年を遡ることはできないとか、脳が正常に人は言わないよ >>383
>卑弥呼が伊都国生まれで畿内に移動して共立の女王となったとする
それは無いでしょ
伊都国ってたぶん畿内と仲良くない >>384
>布留0が240〜260頃に使われてて、そのひとつに258の測定値が出るのは当たり前でしょ
だからそれは建造開始時期だね。
埋葬時期がそれを遡ることはないね?
発狂してるのはおまえだね? >>381
>布留1式の椿井大塚山や桜井茶臼山と同型の壺が出てる箸墓を、
>それらの古墳より50年早いなんて言ってても、
あなた、基本的にボキャブラリーが分かってないの
型式ってのは技術の系譜だから、わりと長い年月の間も変わらないの >>386
>だからそれは建造開始時期だね。
なんでニセ情報出すかなあ
箸墓は布留0古相の間に完成してて、布留1の頃もうには荒れている >>388
何を屁理屈言ってるのかな。
布留1式の古墳と同系の土器がある箸墓被葬者の、
その埋葬時期が布留0式古相(240〜260)を遡ることはないね? 国立歴史民俗博物館研究報告は2009年発表で古いINTCALを使ってる
布留0は1800BPだとして古いINTCALを使うと20年くらい古くなってでてる
歴博はこれを他のものと比較して相対的に240〜260年としたんだろう
そして去年発表されたINTCAL20に
1800BPを当てはめるとちょうど240〜260年辺りになる >>389
>箸墓は布留0古相の間に完成してて
根拠は?
なんでニセ情報出すかなあ >>390
>その埋葬時期が布留0式古相(240〜260)を遡ることはないね?
ないよ
何か不満? 歴博は古いINTCALが古く出るという欠点を相対的に修正したんだろう
去年発表されたINTCAL20が過去のものより正確になっているってことでもある >>393
>ホケノ山古墳があるから_
あるから何?
日本語ヨロ >>394
>ないよ
そうすると箸墓に埋葬された卑弥呼とやらは260年以降に埋葬されたのかw きびちー
ホケノ山に布留0が副葬されてるせいで
きびちー
布留1から布留0を分離して、さらにそこに箸墓の完成まで詰め込むの
きびちー
がんばれ畿内説! >>395
>調査報告書
それを出すのがおまえの役目だ早く出せ、こどおじクソ野郎。 >>399
>ホケノ山に布留0が副葬されてるせいで
されてませんが? 箸墓伝説のうち、女性巫女が被葬者だという部分だけ切り取る時点でアレなのだが。
あとは夫がいたやら箸で突いたやら、卑弥呼じゃない伝承でいっぱい。 >>400
出すも何も、紙の書籍はネットに出せんし >>402
>あとは夫がいたやら箸で突いたやら、卑弥呼じゃない伝承でいっぱい。
それが信用に足らないという論証をしてるのがテンプレ >>403
>出すも何も、紙の書籍はネットに出せんし
はい負け!w
奥山君、号泣www >>404
じゃあ箸墓の被葬者が女性巫女であるという部分も信用に足らなくなるな。 >>394
>ないよ
そうすると箸墓に埋葬された卑弥呼とやらは260年以降に埋葬されたのかw >>394
>ないよ
そうすると箸墓に埋葬された卑弥呼とやらは260年以降に埋葬されたのかw >>401
>されてませんが?
はい負け!w
奥山君、号泣www >>405
いや俺が負けたら奥山が泣いてくれるかも知らんが、紙の書籍はネットに出せない
これは仕方ない
だが誰でも図書館で見に行けるのだから
お前の負けだ >>407
>そうすると箸墓に埋葬された卑弥呼とやらは260年以降に埋葬されたのかw
どうして?
240〜260のどこか以降なら、260年以前もあるだろ? なるほどIntCal20で土器編年が新しくなるのをある程度防御しつつも世界標準で動くものは完全には防ぎようがないから根本の所属土器相をずらし始めたのかそうなるとこれまでの議論の前提条件常識の全てがずれまくるからもともと矛盾していたものがさらに矛盾だらけになって結局は学問としての土台の崩壊をきたして今回の選挙結果のように最後は厳然たる科学的事実を突きつけられる最期がもう目の前に迫っていると思いきやもうとっくに最期は通り過ぎているという。 >>412
>240〜260のどこか以降なら、260年以前もあるだろ?
年輪年代の布留0式古相258年に納得してたのに何言ってるの?
布留1式古墳と同型の土器がでる箸墓被葬者がなんで布留0式古相258年を遡る時期に埋葬されてるの? >>411
要領をかいつまんで言えばいいだけだが? 考古学学会を揺るがす衝撃の発言
>>390
>埋葬時期が布留0式古相(240〜260)を遡ることはないね
>>401
>>ホケノ山に布留0が副葬されてるせいで
>されてませんが?
根拠の提示を求ム!!! 炭素年代測定法は古く出てたが去年でたINTCAL20では修正されてるぞ
さっき気付いた
intcal20だと布留0の1800BPは240〜260年と4世紀はじめ
桃の種(平均値1824BP)もintcal20でみたら布留0より少し古いのと4世紀はじめ
どちらも複数の年代が出ちゃうんだけど箸墓が240〜260年で
桃の種も卑弥呼の生存時期と一致する可能性はある >>415
>要領をかいつまんで言えばいいだけだが?
渡り堤の発掘で、築造中と判定された箇所から布留0古相の甕出土
完成直後の層からも布留0甕出土
その後に周濠が墳丘に茂った樹木からの落葉で埋まる途中の泥層から布留1甕出土
一緒に出た木材から三世紀後半のC14値 >>418
そうだ!君は真実に気づいた!
魏志倭人伝に記載された、卑弥呼の倭国邪馬台国に、桃の木は無い!
馬具出土!
4世紀はじめでも新しすぐるくらいだ おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! 布留1が平均1710BPとすると260〜290年と340〜400年の二つ出る
これだけ見ると布留0、布留1が4世紀の可能性はある
ただ纏向遺跡は4世紀になると廃れるので
その頃纏向の近くの天理市布留で土器を作る意味合いは薄い
3世紀に作られたってことの方がしっくりくる 征服先の奴隷に稲作させて鉄鎌で稲を十公零民で根刈り全回収
ノー住居 蛙食
征服先の奴隷に土盛りモリモリ作らせる
ノー倉庫 いやあ年代誤差クリアしただけで世の中聡明になってきますなあ(°▽°) おまえら発狂してるだけなんだね(°▽°)
よく分かったわ >>420 あぶみがでても馬がいた証拠にはならないよ
紀元前には朝鮮半島で馬が飼われてた
纏向に半島から来た渡来人があぶみ状のものに紐や布を通して
リュックの金具みたいにしてた可能性はゼロではない おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>194
>>その死には、棺有りて槨無し。
これは卑弥呼の墓について書かれているというわけではなく
倭人の風習が箇条書きされているところにでてくる
卑弥呼の墓の棺や槨の有無は魏志倭人伝には書かれていない
原文はこうなってる 普通に考えれば民衆の墓のことで卑弥呼の墓のことではない
卑弥呼も倭人であるから、
常識的には「その死には棺有りて槨無し」という事になるもの。
もしも、「槨有り」であったんなら、
張政らは当然「有棺有槨であった」と書き分けるもの。 >>195
>殉葬なんか本当にやってたのかね 代わりに埴輪じゃないの
中国でも兵馬俑なのに
張政らは、当然「殉葬奴婢百余人」を見たから、記録した。 >>432 その論破は簡単だ 続きを読め
>家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。
卑弥呼の場合は国を挙げてだ
故に>その死には、棺有りて槨無し。は卑弥呼のことではないということが
魏志倭人伝の原文の連続した文章から読み取れる >>431
>日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!!
考古学者に限らず、朝鮮半島の倭人領土とか肯定してる学者はいないから >>101
>居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛
卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
上記も邪馬壹國,女王之所都にあるとは書いていない。
これは、例の「大阪説」男ね。
勿論、「邪馬壹國女王之所都」は「邪馬壹國の中に女王之所都がある」という意味。
>塚は、移動も考えられる。
卑弥呼の墓も「塚」ではない。「冢」であるから、この男はバツ男。
>使者は、移動前の塚を見たかもしれない
張政らが記録した「冢」は、女王之所都内にある、とは限らないが、
常識的には邪馬壹國や女王之所都の中にあった、と思われ、
そうでなく別の地であったんなら、張政らは、その別の埋葬地を記録するものである。 >>434
同じ習俗の部族の頂点が(女)王なのだから、
故に>その死には、棺有りて槨無し。は卑弥呼のことでもあるということが
魏志倭人伝の原文の連続した文章から読み取れる
キナイコシ、ざ・ん・ね・ん!!! >卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
卑弥呼の墓でわかってるのはこれだけだ
それ以上でもそれ以下でもない
アホみたいな勘違いをするな九州 >卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩(短里の可能性あり)。徇葬者は奴婢百余人。
卑弥呼の墓でわかってるのはこれだけだ
それ以上でもそれ以下でもない
アホみたいな嘘誘導をするなキナイコシ おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>202
>賛同します、
会稽東治の東は私もそのように思います。陳寿の世界観から来てると思います。
中華思想、中国が世界の中心 鎮守は倭国には来ていません
陳寿は、当然倭國に来ていないから、
魏の役人らの「実地の見聞計測の記録」に拠って、
女王國の位置を「会稽東治之東」と推定したもの。
「実地の見聞計測の記録」を見なければ、
「会稽東治之東」という位置推定が出来ないもの。 >その死には、棺有りて槨無し が
卑弥呼の墓のことだろ論理的に説明できるか?
原文だとこの二つの文章はものすごく離れたところにあるぞ〜>>439
論理ってわかる? >卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩(短里の可能性あり)。徇葬者は奴婢百余人。
平原遺跡の1号女王墓+2号陪臣墓=大いに冢を作る
共有する周濠=径百余歩(短里の可能性あり)
ほほぅ やりなおし
>その死には、棺有りて槨無し が
卑弥呼の墓のことだと論理的に説明できるか?
原文だとこの二つの文章はものすごく離れたところにあるぞ〜>>439
論理ってわかる?
わからないなら説明してやってもいい
ただし自分の眠気次第だ おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>419
>渡り堤の発掘で、築造中と判定された箇所から布留0古相の甕出土
>完成直後の層からも布留0甕出土
その後に周濠が墳丘に茂った樹木からの落葉で埋まる途中の泥層から布留1甕出土
一緒に出た木材から三世紀後半のC14値
建造開始から完成まで布留0であったとしても、
予想通りというか、被葬者埋葬時期とは時間差があるということだな。
被葬者埋葬時期が椿井大塚山や桜井茶臼山と同時代である以上、
箸墓は卑弥呼の墓ではない。 同じ習俗の部族の頂点が(女)王なのだから、
故に>その死には、棺有りて槨無し。は卑弥呼のことでもあるということが
魏志倭人伝の原文の連続した文章から読み取れる
キナイコシ、ざ・ん・ね・ん!!! >>205
>埋葬部分は後円部だし前方部とは分けて考えて良いんじゃないか
前方部は人が乗ってたんでしょ
箸墓は、全体に周濠があり、その土を積んだんだから、
前方後円墳の全体がほぼ同時着工。 >その死には、棺有りて槨無し と
>卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩(短里の可能性あり)。徇葬者は奴婢百余人。
はとっても離れてて関連があるとかい言うのは無理があるぞ
しかも卑弥呼の場合は国葬だろ
その功績から家単位であるわけが無い
アマテラスになるんだぞ
卑弥呼の争議が家族単位で済まされたことを過去の文献を提示して説明できるか?
自分はできないと思うよ まあ工程として、まず周濠を掘って、全体の区画を確定するわな。
土盛りについては、一部だけ先にってのはありえても、
周濠に囲まれた全域の地ならしが真っ先になされているのは建築学的に確定。
キナイコシ乙。
踊れ踊れ、踊って衆院総選挙を待てw おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>339
関川さんは、まともだと思うよ、畿内説の体勢に逆らったから干されたと思うよ >>453
逆らった途端に落伍者呼ばわりだからな。
こえぇよな。 卑弥呼の墓や葬儀が庶民と同様だと思うか?
思うならアホだ 同じ習俗の部族の頂点が(女)王なのだから、
故に>その死には、棺有りて槨無し。は卑弥呼のことでもあるということが
魏志倭人伝の原文の連続した文章から読み取れる
キナイコシ、ざ・ん・ね・ん!!! >>212
>「自郡至女王國萬二千餘里」であって「自郡至邪馬壹國女王之所都萬二千餘里」
ではありません。
勿論「女王國」は、ほぼ九州島付近であり、
その女王國の中に「邪馬壹國女王之所都」がある、という関係になるから、
問題はありません。
>南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日
これ間違いです。「南至邪馬壹國女王之所都」であり、
「女王之所都水行十日陸行一月」という関係です。
>南に水行ができる所が不彌國の想定地であり 東か西で沿岸航法では「南→東」になり
バツです。
いや、不彌國から「至投馬國」では、
至の前に途中移動をした事を示す文言がありませんから、
魏使らが移動しておらず、
だから「水行二十日」は、
不彌國の南の方の「水行二十日」の所要日数の所に投馬國がある、という意味です。 甕棺墓も大王から大人までの墓。男女別なし。
木棺墓も平原女王から大人までの墓。甕棺墓よりもっと古い。
男女別なし。
いやむしろ北部九州では女性巫女の被葬者多数。
失せろキナイコシ >>454
今、纏向学研究センターの橋本氏が悶々としてると思う。本音は纏向王都や箸墓卑弥呼に疑問を持っていると思う。
しかし、逆らえない。 >>456 その説明ではまったく反論として足りてない
論理的なことを書けよ
それはオレをバカにしただけでなんの証明にもなってない >>218
>台与が派遣したのは倭の役人20人と奴隷30人の合計50人
結構な規模で首都ヤマトから来たと思うんだよ
台与なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男はバツであり、
「首都ヤマト」説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 倭国でない畿内の文化圏の話が好きだな畿内説は、、
文化圏としては、発掘物から三世紀の畿内は文明的に西にくらべ劣っていたと思う。力まかせの古墳は参考にならない。 書けば勝ちだと思うなよ
科学もそうだが考古学でも判定は第三者が行う
書いた本人はその判定を待つことしかできなくて
書いただけでは証明として成り立っていない
間違ってることをいくら書いたところで無意味 >>459
彼に教えてあげるんだ
魔法の言葉「その、可能性がある」 >>461 記紀によれば豊鍬入姫命って巫女的な人が三輪の近くにいて
その役目を倭姫命が継いで伊勢に社を建てる
とよすきいりひめ とよ
てか可能性を消すにはその説明では全然足りてない
可能性ゼロに証明は難しいよ 悪魔の証明って知ってる? おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>461 魏志倭人伝の記述を否定すると完全に九州に芽がなくなるんだけど
放射説とか歪ませて読むこじつけすら放棄したら何も無いよ九州
邪馬台国に比定される遺跡がないんだもん >>229
>しませんし、筑紫などの記載はありません。
「筑紫」は現在表記としての使用文言です。
>次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國である。
この「女王」は「女王國」ではありませんから、
卑弥呼の直接的支配地域(≒邪馬壹國付近)、という意味であり、
遠隔地は含みません。
投馬國が女王国に属さないなら理解できる。 >>462
同じく、纏向遺跡はただ広いだけで、同時代の遺跡と比べ、さしたる建造物も無く、遺物も土器、桃の種、カエルの骨、、、、
当時としては、みすぼらしい遺跡である。大型建物も柱も細く、基礎床も無い粗末な建造物である。 >>470
よくある話、、変換ミス。
そんなのつっこんでも意味は無い。 おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>469 それは誤解だ 建造物はあるぞ
纏向遺跡の大型建物跡
東西約12・4メートル、南北約19・2メートル
福岡市西区の吉武の遺跡の大型建物より大きく
大阪の曽根池上より広い 倉庫が一杯になるだけの米俵を献上するんだよ
蛙の骨をかじりながらひたすら働くワープア >>242
>昭和にできた纏向編年が科学的データと乖離が目立ってきてる
ここ10年で箸墓は3世紀中葉となってきてる
卑弥呼の冢≠前方後円だけでも、「箸墓は3世紀中葉」説はバツだよ。 >>474
吉武は回廊付きの明らかな宮殿だし、
周りに住居多数、王を守る戦士が世紀を越えて大量に埋葬されている。
池上曽根も周りに住居多数。
そして何よりも、絵画土器により、現在池上曽根に復元されているような、
南方系の建物であったと判明している。
纏向にとっては宮殿であったことに反する証拠遺物だ。
で、何が言いたいんだね? >>245
>橿原市と桜井市の境界にある坪井・大福遺跡は
たぶん邪馬台国の前身じゃないけど
時期的に住民たちが纏向造営に参加した可能性はとても高い
「坪井・大福」が纏向造営に参加しても、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、「卑弥呼の都や墓」にはならないよ。 >>459
然り
若い学者を潰す畿内説。
おかしい?と思っても発言できない。そして畿内説に毒され思ってもいない、畿内説の立場で発信する。
吐いた言葉は飲み込め無いから泥沼にはまっていく。生きる支えは、地位と収入だけ。俺は学者だろうかと悶々とする。
それを、屁とも思わない者が畿内説を代表する学者となるのであろう。 池上曽根は考古学学問的に忠実に建物を再現したから、
目をつけられて干されているらしいな。
これもキナイコシの言う落伍者かい。 >それを、屁とも思わない者
おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>255
>百襲姫の箸墓は10代崇神天皇稜や11代垂仁天皇稜より大きい
墓のサイズをみたら百襲姫が卑弥呼だとしてもおかしくはない
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って「百襲姫が卑弥呼」説は、バツ。 福岡市の吉武高木遺跡の大型建物の技術は
曽根池上遺跡や纏向に引き継がれたと思うぞ
柱に穴を開けて梁を通すのは当時の人は
>>478 論理的否定になってないがエスパーは得意だ多分
相対的に考えようよ
違う種類の土器が一緒にでたとか古い地層からでたとか
年代が同じか古いかとか考古学者は確認する
立場のある考古学者は複数の要因から結果を導いてる
魏志倭人伝の全体を読まないで一部分だけを都合よく解釈する
アホ行為と一緒にするべきではない
>>479 そもそも池上曽根の大型建物は形状から王の住まいとは思われてない
集会所とか儀式の場と考えられてる
池上曽根の大型建物の中って圧迫感あるぞ
対して纏向はくつろげそうな部屋が3個あると考えられてる
生活感があるのは纏向だろ >>480 >>484 論理の飛躍で何言ってるかわからない
論理的にたのむ そしたら答えられる おおぉお!?
三国志東夷伝韓伝に記載された、
朝鮮半島の倭人領土を否定したいキナイコシが、
日本の考古学会に物申しておりまするぞ!!! >>257
>状況的に布留0式は布留1式より古いと考えるのが自然なので
2つ出る布留0式は3世紀中葉の方の可能性が高い
AMS法のプラズマ化の失敗に拠って、「布留は3世紀中葉」説が×である。
「3世紀中葉」説はバツ。 >>264
>九州説じゃあるまいし
測定結果をどう誤魔化せるの?
「プラズマ化に拠って、50〜100年位古い年代を出し」て、
誤魔化したの。 纏向、箸墓からおかしな方向に向かった畿内説。
浮足だって花火をぶち上げたが、その後さしたる発見無し。邪馬台国、卑弥呼と念仏を唱えて収入を得る集団と化した。 >名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。
>夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。
>王と為りてより以来、見有る者少なし。
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。
卑弥呼を世話する侍女が千人
待機場所は必要だけど
>>488 intcal20で検索して出てくるグラフから1800BP付近を見てな
240〜260年が含まれる 4世紀もあるが
とりあえずなんの否定にもなってない
3世紀ではないとそれでは証明できてない intcal20で過去の古く出る問題はマシになってるぞ 検索しろ
そしてアップデートしろ おまえら古い >>266
>纒向勝山古墳には周濠があるけど最古級の纒向石塚古墳にはないよ
まだ前方後円墳が出始めたばかりの頃は様式が決まってない
纏向は卑弥呼が死ぬ249年以降も開発は続いて運河や水路が作られる
その時に周濠ができた可能性もある 否定ありきで都合よく考えすぎだ
もうちょっと勉強しよう
「プラズマ化の失敗で50〜100年位古い年次を計測して」も、
そんなものは根拠にならないよ。 何度も何度も炭素年代測ってどうするのかねー
他の遺跡の調査に金を落としてもいいと思うがねー >>493 年代はC14のみで判断されるわけではない
歴史書や遺物が出てきた地層で古い新しいを判断する
考古学は多面的なんだよ 中国や欧米の歴史書により
古代の火山の噴火時期とかはっきりした年代が判明している場合がある
大噴火だと地球をめぐって日本でも灰が積もって地層として残って
それを参考にすれば出てきた遺物の年代は絞られる
そうやって年代をしぼる
現状intcalで基準としている1〜3世紀のヒノキのサンプルの状態が
あまり良くなくて年代が複数でたりするがこの時期の
年代がわかって状態のいいサンプルが新たに出てくる可能性もある >>474
大きいと言っても、すぐに壊れるような立て付けだし、
周りに何も無く、ポツンと4軒立ってるだけじゃん。倉庫?斎場? intcalが間違っているという証明をしてないのにでたらめだとかいうのは
科学的でも論理的でもない
間違っているという根拠を提示せずプラズマとかいわれても >>348
>日本が二倍暦法を使っていたなら 崇神天皇即位〜武烈天皇死去がすべてこの範囲に収まる
西暦180年〜西暦507年
二中歴の年代歴の、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七〜)に拠って、
大和の517年までの39年間は、「結縄刻木以成政」の一倍年歴であった事になり、
西暦478年頃に「二倍年歴から一倍年歴になった」事になり、
ヲホドの継体の一代前の武烈時期(二倍年歴での498〜506年)は、
既に一倍年歴になるから、
二倍年歴にはならないでしょうね。 >>497 周りは川や運河だよ 王の守りを重視してる
>宮室、楼観は城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。
何も無いのはあたりまえだ G7を街中でやるか?
王の住んでいる近くに庶民は住まない >>485
それで、何人暮らせるの??
巫女千人、兵、行政職の人はどこでくらすの? >>275
>三国志は古代中国王朝の史書であるからして、魏志の視点は、すべからく洛陽にあった。
又、東夷伝(韓伝/倭人伝)における視点は、当然、東夷支配拠点の帯方郡にあった。
因って現代日本人にとって行程が明確でない場合は、古代中国人の寄る辺に思いを致し、視点/始点を帯方郡に置くべきなのである
魏志倭人伝は、明らかに魏の役人たちに拠って、帯方郡からの旅程として記録されており、
「洛陽からの視点」論はバツ。 >>277
>布留0式だけで年代を判断しているわけではない
布留0式といっしょにでる庄内式との比較もした総合的判断だよ
考古学ってそういうもん
文献や金石文があれば、考古よりの文献記録や金石文が優先される。
学問って、そういうもん。 >>502 当然の疑問だ だがわからん
記紀によると10代11代天皇は三輪山の山すそに宮をおいてることから
行政職はその辺りにいたかもしれない
当時も奈良盆地には集落はある唐古鍵、坪井・大福
兵士や婢千人は離れたところから通ってたかも たぶんブラック >>278
>INTCAL20ではより年代が絞られて 桃の種は卑弥呼が使用していた可能性がでてきた
鬼道に事え能く衆を惑わす
INTCAL20がプラズマ化を使った限り、実際よりも古い年次を計測してしまっており、
「桃の種は卑弥呼が使用していた」も、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>505 日本での文字の使用はもう少しあとだ
朝鮮の好太王碑みたいに石に文字を彫るとかもない
残念だが資料そのものがなく勝者が都合よく書いた記紀を参考にするしかない >>280
>じゃあキミは殉葬の可能性がある九州の径百余歩の墓を答えてよ
祇園山。 >>507 そんなことない 現物をみろ
古く出てた過去のintcalと比較して修正が見られる >>283
>>布留0式時代に建造開始でも、
>布留0式時代に築造完了して、布留1式時代にはメンテ終了してますが
大和の前方後円墳の始まり期の庄内1の石塚が3世紀末であり、
庄内3のホケノが3世紀最末〜4世紀であり、
だから、布留1の箸墓は4世紀ですが。 いまの考古学は科学や統計学とか他分野を用いる
それらの知識を身につけるべき
複数のサンプルで炭素年代測定を実施して
統計学でいうところの95%信頼区間に入れば否定は難しいよ
計算式は俺も理解できてない
ただ否定できる可能性は5%以下ってなる >>293
>・・・最近は大学教授とか立場のある学者は纏向が邪馬台国と考えてる
その「大学教授」は、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったから、
人間的にオレオレ詐欺の×人間であり、
「纏向」説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠っても、バツ人間。 >>509 ちいさい 長辺23.7m 径百余歩ない しかも長方形で円墳ではない >>297
>・・・投馬国は、水行以外に行けない、南至り四国
南至邪馬壹國,女王之所都は、水行十日,陸行一月
和歌山、三重、奈良の山中と
和歌山、三重の海岸線。
山中霊場と沖縄の海にある御嶽みたいなところ。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>436
俺も女王国は邪馬台国の中にあったと思ってるよ
邪馬台国は日本の事だから当然女王国はその中にある >>448
同時着工なんだけど後円部を踏みつけたりしないでしょ >>300
>>被葬者埋葬が布留1式時代。土器が証明している。
>してない そんな説を言ってる学者もない
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者は、
全員が、オレオレ詐欺の×学者。 >>485
吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径 30cm 前後 深さ 15〜70cm
建て付けが全然違う。
纏向遺跡の大型建物は広いだけで、耐久性に欠ける。簡易的な建物と言わざるを得ない。 >>514 こぴぺするだけのきみに大学教授より知能があるのかな
てかそういうの論理の飛躍っていうんだぞ >>520
>吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径30cm 前後 深さ15〜70cm
建て付けが全然違う。
纏向遺跡の大型建物は広いだけで、耐久性に欠ける。簡易的な建物と言わざるを得ない。
ほーーなるほど >>309
>福岡市の日佐原遺跡の甕棺を3世紀半ばに合わそうと
無理やりKXaからfを作って甕棺を延命させてる
ただその努力は無駄に終わる
3世紀半ばに甕棺が続いたことになってるけど
平原遺跡が木棺、祇園山遺跡が石棺で
3世紀半ばの卑弥呼が甕棺に入るってのが合わなくなってきた
祇園山は、卑弥呼の墓で、卑弥呼は「巨大な箱式石棺」墓。
平原1号は、天円地方思想の前方後円墳の淵源のような、壹与の墓。 >>520 吉武高木は紀元前で1世紀の池上曽根のいずみの高殿の柱は直径60cm
200年の間に重量計算とか屋根に軽い素材を使うとか発展があったんじゃね
とりあえず柱跡の太さだけでは判断は難しい >>521
彼の
>「纏向」説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」
への反論が先では?? >>314
>布留0式古相で同型といえば30年以内くらいの幅で同じ時代と言えるし
布留式で同型といえば百年くらいの幅で同じ時代と言えるだけだ
「布留0式古相」であっても「布留式」であっても、庄内の進化型であるから、
3世紀末の庄内1の石塚や、
3世紀最末〜4世紀のホケノの庄内3の後である事には変わらず、
いずれにしても、4世紀だ。 >>525 文献における証拠がなにもないよね
違うことの証明ってたいへんだよ >>436
「邪馬壹國の中に女王之所都がある」
中にあたる文字がない。
張政らの後に移動なのどうして記録できるのか? 平原女王墓が卑弥呼の墓で計算しても
航続には何の問題も無く成立するんだけどね。
科学的な考古学に反して
韓人に利するだけの
キナイコシ論理からは早く離脱してほしいんだなこれはもう
よーく考えてみてチョンマゲ >>527
書いた事が正しい証明もできない。
陳寿の主観も入る。 >>523 祇園山が卑弥呼の墓の墓というのであれば
高松塚古墳みたいに保存処理とか近くに記念館とか建てそうだけど
雨ざらしじゃん?
内側に朱色がちょっと残ってる石棺の破片とか
あれはものすごく貴重なものだぞ >>336
>今は桜井茶臼山や黒塚が三世紀、椿井は意見が分かれてる
庄内1の石塚が3世紀末。庄内3のホケノが3世紀最末〜4世紀。
布留1の箸墓は3世紀。
だから、桜井茶臼山も黒塚も椿井も4世紀以後。 >>530 原文を読めばわかるが陳寿の追記は報告書に基づく矛盾のないものだよ
「南≠東」
「冢≠前方後円墳」
これらの証明って見たこと無いんだけど
どの文献にかいてるの?
3世紀半ばの倭人は後円は墓で前方は催事場と認識してた可能性は
絶対に誰も否定は出来ないはず 現存する文献や資料がない
纏向以降の前方後円墳においても儀式は重視された
その結果できたのが造出(つくりだし) >「南≠東」
>「冢≠前方後円墳」
まずこれを説明しろ
その説明が論理的で無い場合は認めない
てか当たり前だろ第三者の意見を聞かずに強弁を繰り返すとか何の意味も無い 箸墓じゃないと思ってるけど埋葬部は後円の方だから一応納得は出来るけどな >>337
>3世紀半ばの福岡市はヤマトの支配下
いや、3世紀半ば大和は、九州倭國の東征毛人五十五國の別種の倭種の、
「大倭」職の旧小国。
>調査したのは福岡市で3世紀半ばと発表したのも福岡市
福岡市では、全く信頼性がなく、信用出来ないし、
>福岡・那珂八幡古墳 全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
https://mainichi.jp/articles/20190303/ddp/014/040/012000c
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
「冢≠前方後円墳」であり、だから前方後円墳は。
3世紀中頃の卑弥呼の冢ではなく、壹與の平原1号でもなく、
だから3世紀後半半ば過ぎになる。
>同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ
くびれ部が(シャープではなく)滑らかであるから、
後円部・前方部の比率の計測が困難であり、
大和の石塚や箸墓の方がシャープであり、進化型。 >>344
>大阪府豊中市で作られた庄内式210〜250年と
福岡市早良区で作られた西新町式240〜260年が
福岡市博多区で出会った〜
大阪の庄内は、筑紫の3世紀前半の庄内が、
東征将軍の「大倭職の市」を介して、伝搬した。 出雲の四隅突出型古墳は人が上に乗れる構造をしている
出入り口は4スミの4箇所
倉敷の楯築遺跡も円墳の周りに2箇所人が乗れそうなところがある
>>536 だから証明しろって 文献はなに?
てかだからの使い方おかしいぞ
消去が足りてない 二つだけかよ すべての可能性を潰す必要があるぞ
論理を理解しろ >>347
>箸墓が3世紀半ばで桜井茶臼山が3世紀末
半世紀スパンで同時代だが、何か言いたいのか?
箸墓は布留1であり4世紀。桜井茶臼山はその後。 てかふたつの否定も論理的に否定になってないな
書いたらいいとか思ってるだろ 不足してる説明をしろ
おれは面倒だけどやってるつもりだぞ 長くてもいい読むから >>352
>C14分析で布留1初頭が260〜270年ころ、終わり頃が帯金具編年で4世紀初頭だ
あと箸墓だけが50年早いという根拠もないよね。
箸墓の布留1は、4世紀。
布留0も、庄内3のホケノの後だから「3世紀最末〜4世紀」以後。 >>541 根拠はある intcal20
論理的に飛躍しすぎだ 可能性を潰しきれてない
絶対に布留1が3世紀ではない証拠を提示しろ
いまのところできてないぞ >>533
報告書や記録によって
陳寿の主観、地理感もかわるよ。
報告書に雪とかあれば又変わる。
会稽などいい例、データ不足と見る。 >>355
>年輪年代で布留0古相が258年
欧米の大平原のような、気温や降水量や日照時間などの共通性が保証される地域ではなく、
列島のような山岳地帯での年輪年代は、検体木と基準木との、
生育時の気候や気象条件や温度変化などの「同一性」が保証されている訳でもなく、
千差万別であり、年輪型の完全一致など、殆ど期待出来ず、
列島における年輪年代法は、欠陥法。 >>524
いや。学者は柱穴や柱床、現実に見つかった柱からしか建物の構造は言及できない。他に材料が有れば別だが。 強弁<証拠
繰り返し言えば真実になると思うなよ
>>543 それは違う 陳寿の主観ではなくて
3世紀当時の中国の世界観と常識に基づいてる
陳寿の追記部分は文章としての流れやわかりやすさを重視したものだ
>>545 木によって性質がちがう
防虫や固さや劣化が余り無いことからヒノキが理想的だが硬くて加工が難しいし
まっすぐを探すのも大変
纏向の大型建物の木はわかってないが
柱跡だけで古代の人の工夫を考慮しないのはおかしい
桐とか >>547 だとしてもどの部分かを書いて欲しいんだよ
大丈夫 それでおれわかるから
てかここ何言ってるかわかる?わかったら解説
>「冢≠前方後円墳」であり、だから前方後円墳は。
>3世紀中頃の卑弥呼の冢ではなく、壹與の平原1号でもなく、
>だから3世紀後半半ば過ぎになる。 >>546
古代の人の工夫??
纏向の大型建物か先進的な技術や木の素材が良いと立証ができればの話でしょ。
憶測の域を超えられないと言うか、、、 >>540 建設する際の設計者の苦労をわかってあげて
試験に受かっても重量計算はちゃんとしないといけない
姉歯しらない?
君は柱の太さとか適当に作ったと思ってるんだろう
おれが君と違うところはおれは古代人をバカにしてなくて君はバカにしてると思う
パルテノンのエンタシスの柱知ってる? >>548
彼では無いが、解説します。
南は記述通り。
冢の漢字の説明は省きます。
先方後円墳の場合、径 百歩とは記述しない。後円部の端から端まで実測したとしよう。すると、両端から前方部が見え円墳と認められない、またその場合は前方部から後円部までの歩数も記述する。 >>550
馬鹿にはしていない。なんでそういう発想になるのかなぁ >>549 木の素材の使い分けは現代の職人もやってる
スピリチアルな古代人がしないわけ無い
おれは古代人をアホだとおもってない
あるもので最大限の努力をした
石でヒノキの加工は時間がかかるだけで不可能ではない
>>552 それは当時の倭人が墓の範囲をどう認識していたかにより
資料不足のため確定しない >>553 それならいい でもてことは君の自然科学的知識は足りてないってことだ
万物に興味を持って調べろ
古代の人は自然に存在するものに興味をもって調べた >>554
資料不足はその通りですが、
今ある材料で論ずるしか無いでしょ >>555
柱穴から見える大型建物の構造と関係がないのでは? 再掲、、今ある事実
吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径15〜32cm 深さ15〜70cm 古代人が行った創意工夫はエジソンやテスタと同等だと思ってる
彼らは当時有する知識を最大限に活用して新しい物を生み出すことに勤めた
その行いは現代人と変わるところはない
>>556 その通り だから後円部のみを墓として認識してた可能性も消せないし
時系列的に四隅突出墳や楯築遺跡の円墳の構造が
前方後円墳に影響した可能性はある そして共立
出雲や吉備の要素を合体させた結果が前方後円墳であれば
前方後円墳は共立の女王の墓としてふさわしい
>>557 大型建物Dは9列×5列で45本の柱を使ってる
太い柱を出来るだけ使用しないで部屋を多くするってのが
王のための配慮なんじゃないか
建物内部の障害物が小さくなれば細い柱にもメリットはある >>558
>再掲、、今ある事実 再掲
吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径15〜32cm 深さ15〜70cm
成る程ね!広さだけで、
纏向学研究センターでは「当時国内では最大規模を誇る」と言ってたのか。間違って無いけど。 >>558
>再掲、、今ある事実 再掲
吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径15〜32cm 深さ15〜70cm
成る程ね!広さだけで、
纏向学研究センターでは「当時国内では最大規模を誇る」と言ってたのか。間違って無いけど。 纏向の大型建物は古墳作りな土木作業員の雨風防ぐ家でも良いかな、、
それとも、斎場??
ようわからん ことことさようで、畿内説は大袈裟に旗を掲げる。
どうせ旗を掲げるなら、白旗を掲げて欲しいな >>546
>防虫や固さや劣化が余り無いことからヒノキが理想的だが硬くて加工が難しいし
>まっすぐを探すのも大変
それを言うなら、ケヤキだ。 ヒノキは真っ直ぐ。 @阿波 >>559
柱穴は、土木技術、建物の規模・構造、労働力の編成方式などを探る上で重要な情報を多く内包しています
以上、奈良文化財研究所より >>568
その通り
加工がし易く、硬いのはけやき >>520
>吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径30cm 前後 深さ15〜70cm
建て付けが全然違う。
纏向遺跡の大型建物は広いだけで、耐久性に欠ける。簡易的な建物と言わざるを得ない。
↑
同意する。マスコミは騙されてるな!テレビでも纏向の大型建物は取り上げるが、他遺跡との比較は精査されていない。
コラを、マスコミ誘導と言うのだろう。 纏向大型建物が柱穴で沈没したなWw
纏向は古墳造営基地兼斎場決定。
住居跡があまりにも少なすぎるし、、、 纏向(北部九州王朝の奥津城「王家の谷」)の大型建物ABCDは、4世紀の王宮としてもあまりに貧弱で、歴代大王が北部九州から墓参りや即位式に来た時の行宮。
鍬の再利用wの木製仮面は陵戸(留守番)の余興、桃の種は大王のデザート(吉備)、本州島各地の土器は名産の献上品(大王の御馳走)の名残り。 以上、誤説をまとめると、
−邪馬台国と狗奴国(さらには熊襲)との混同…熊本説(白鳥庫吉、宮崎康平、森村伊作)
−邪馬台国とヤマト王権(幻覚)の遡上混合…畿内説(内藤湖南) >>363
>那珂八幡古墳の南側の南側周溝下層で
庄内式210〜250年と西新町式240〜260年がでてきたことから
240〜250年あたりにヤマトから福岡市に派遣された人がいた可能性がある
ダメだ。大和の庄内1は、石塚の3世紀末からであり、
「240〜250年あたりにヤマトから福岡市に派遣された人」がいた確率がない。
「3世紀後半中頃あたりに筑前から大和にやって来た東征将軍や大倭職」なら、
いた可能性がある。
紀元前91年頃から大和は天孫族の阿毎氏系の「大倭」職らによって、少しずつ支配地が広がり、
広がっていたが、
伊都国に来た魏の使者梯儁の目には全く写っていなかった事だろう。 俺もまとめてやろう、、俺の投稿じゃ無いけど
吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径30cm 前後 深さ15〜70cm
建て付けが全然違う。
纏向遺跡の大型建物は広いだけで、耐久性に欠ける。簡易的な建物と言わざるを得ない。
また、奈良県文化財研究所は
柱穴は、土木技術、建物の規模・構造、労働力の編成方式などを探る上で重要な情報を多く内包していると解説、はたして、巻向の大型建物は王宮であったと断定できるのであろうか。 >>370
オレオレ詐欺の大和説学者らは、第一人者じゃなくて、
人生としても、人間としても、落伍者だな >>552
墓に行った人の記録なんでしょ
実測したとは思わんしその人は前方部に居て後円部を見たのかも 箸墓の後円部が出来た時に記録した、とか言ってるオレオレ詐欺(印象操作)大和説へ
>>113
完成して、少し離れて全体像を見てから、長辺を記録するだろ普通w 【直越へのこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも】
阿波市から、古代の難波奈良街道に沿って阿讃山脈(大坂峠)を越え、香川県さぬき市津田の「前期難波大隈宮」見て詠んだ歌。
絶対に、 奈良盆地を見て海は見えない。 奈良では説明できない! @阿波 >>582
墓の大きさの実測なんて何の為にやるんだ? >>376
>布留0を240〜260年としたのは国立歴史民俗博物館の研究グループ
歴博グループは、放射性炭素年代法によって
全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。
箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、
この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して
240〜260年を導いた。
国立歴史民俗博物館の研究グループも、布留(布留0を含む)は、
庄内3の3世紀最末〜4世紀のホケノ以後になる事が判らず、
放射性炭素年代法もプラズマ化の失敗に拠って、
50〜100年古い年次が計測されていた失敗計測であった事も判らなかった、
オレオレ詐欺師集団。 >こんなとこ『封鎖』して何になるんだ。
何にも知らないから教えてやろう。
ここは、香川県さぬき市津田の「前期難波大隈宮」に通じる、古代の難波奈良街道。
あとはお前の言う通りだ。
>大海人皇子が不破道を防ぐことによって
>大友皇子は東国(香川県さぬき市津田)での徴兵ができなくなり、大海人勝利が確定したようなもの。
となる。 分かったか? >>128
>>112
陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート」を「南=東」に90度捻じ曲げたという点では、
阿波説と大和説は、五十歩・百歩のオレオレ詐欺(印象操作)w 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が、
「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が、宇豆彦の葬場である西山谷2号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳で、中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m、 墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土、棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 @阿波 ■ 行程と里数:
帯方郡〜末盧国(唐津/伊万里) 10000里
帯方郡〜不弥国(吉野ヶ里一帯) 10700余里
帯方郡〜投馬国(宮崎平野・都万) 水行20日(末盧国迄10日+都万迄10日)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇) 水行10日陸行1月(末盧国迄10日+阿蘇高千穂迄1月)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇) 12000余里
三国志は古代中国王朝の史書であるから、魏志の視点はすべからく洛陽にあった。
又、東夷伝(韓伝/倭人伝)における視点は、当然、東夷支配拠点の帯方郡にあった。
因って現代日本人にとって行程が明確でない場合は、古代中国人の視点に立って、其の始点を帯方郡に置くべきである。 >>378
ふむ。であれば、
お隣りの庄内3の前方後円墳のホケノ山古墳に埋葬されたのが、3世紀最末〜4世紀。
卑弥呼や壹與とは全く関係がなく、大和の前方後円墳は、
3世紀後半半ば頃の(前方後円墳の)那珂八幡の王らの配下の東征将軍や大倭職らが亡くなって、
造られた墓、という可能性が非常に高い訳だな。
そのな。 >>379
>庄内式=西新町式=210〜250年なら、
那珂八幡古墳のほうが箸墓古墳より古くなり、那珂八幡古墳から全国へ拡散したことになる
庄内式=西新町式=240〜260年なら、布留式は3世紀後半以降となり、
前方後円墳は卑弥呼と無関係
賛成です。 >>380
>纏向石塚古墳は3世紀初頭でもっと古い
庄内1の石塚は、那珂八幡の後になり、3世紀末。 >>383
>卑弥呼が伊都国生まれで畿内に移動して共立の女王となったとする
そして畿内で40枚出た平原の被葬者のように銅鏡を使って
宗教活動をしたと思われる
伊都国が卑弥呼の出身地で畿内に移動してからも直轄地として機能していた可能性がある
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
魏志倭人伝では、卑弥呼は九州倭國の親魏倭王として筑紫で亡くなっており、
大和になど「移動した」という記載が全くないから、バツ。 >>589
始点を帯方郡に置くべきって意見は同じだけど不弥国までは関係ない
そうじゃないなら帯方郡から伊都国が500里で不弥国までが100里としないと >>384
なんか発狂してる?
布留は、3世紀最末〜4世紀の庄内3のホケノの後である事が確定しているから、
4世紀頃に使われてて、そのひとつに「年輪年代」で258の測定値が出たら、
そりゃ「年輪年代法」自体の失敗であった事は、当たり前でしょ
258年を遡ることはできるとかも、
脳が正常に人は言わないよ 纏向大型建物ABCDをまとめてみた。
−畿内説…卑弥呼の王宮
−九州説…東征将軍神武の本州開発庁(北海道庁)
−北部九州王朝説…大王の行宮(御用邸) >>478
>「箸墓は3世紀中葉」説はバツだよ。
実際には260年ごろから建造開始、
270年ごろに完成、
被葬者埋葬は300年頃であろう。 >>595
>始点を帯方郡に置くべきって意見は同じだけど(帯方郡から〜)不弥国までは関係ない
倭人伝の行程記事の前半は、
帯方郡から不彌国まで10700里の内訳を、国ごとに地誌・地理・里数を交えて細かく説明している。
そしてその後に、帯方郡から(不彌国経由の)投馬国/邪馬台国までの後半の行程が、水行○日/陸行○日で追加説明される・・、 >>384
大和説学者らは、なんか発狂してる?
庄内と布留は、その壁厚などで明確に区別出来るものであり、
ホケノが庄内3であれば、建物群や土坑の庄内3も、3世紀最末〜4世紀にしかならず、
布留の箸墓は4世紀以後にしかならないし、
幾ら布留0を造作しても、それも4世紀にしかならず、
「布留0が240〜260頃に使われててそのひとつに258の測定値が出る」
という事自体が、インチキになるのは当たり前でしょ
258年に遡ることはできるとか、脳が正常に人は言わないよ >>528
「自郡至邪馬壹國女王之所都萬二千餘里」
の次は「南方至」?
「南至」なのにぺーテン師匠と同じく改変ですな。
当然、移動していないよ
奴国、邪馬壹國、投馬國なので不彌國止まり。
>>勿論「女王國」は、ほぼ九州島付近であり
当然だろ、北部九州〜近畿だからね >>383
魏志倭人伝の後に移動もあるな。
九州で、被葬者がいないてあるだろう。 >それが神武天皇とどう関係があるのだ?説明してくれ。
何回も言わすな!
東征の参謀役となった速吸の門の大人・宇豆彦が、「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られ、
その背後の山が、宇豆彦の葬場である西山谷2号墳だ。 分かったかボンクラよ。
西山谷2号墳がなんで畿内にないんだ?
へぼ畿内め。 @阿波
>>583
別に奈良でなくても、
旅先などで歌っただろうな? とにかく、畿内にも九州にも、古代倭の面影が無さ過ぎる!! よくもまあ、そんなクソが「邪馬臺国」がどうたらこうたら言えたもんだ。
恥というものを知らんのか? 馬鹿垂れどもよ。 @阿波 >>597
>纏向大型建物ABCDをまとめてみた。
>−畿内説…卑弥呼の王宮
>−九州説…東征将軍神武の本州開発庁(北海道庁)
>−北部九州王朝説…大王の行宮(御用邸)
ウマシマジ、ヒコユキ、イズモシコオの物部三代、
申食国政太夫(おすくにのもうすまえつきみ)、
今でいえば、官房長官か防衛大臣に匹敵、
その政庁跡であろう。
By葛城説者 >>606
邪馬壹國近畿説は避難地、開拓地がスタートなんで、
なんで歌の数が少ない、貧弱が邪馬壹國の特徴
卑弥呼が土台になって壹與から古墳時代に入ると鉄も増える。 >>608
邪馬壹國近畿説は避難地、開拓地、宗教地がスタートなんで、
当然 歌の数が少ない、神話も少ない
貧弱が邪馬壹國の特徴
卑弥呼が土台になって壹與から古墳時代に入ると鉄、絹も増える。 >>418
>(INTKAL20)どちらも複数の年代が出ちゃうんだけど箸墓が240〜260年で
桃の種も卑弥呼の生存時期と一致する可能性はある
一致する可能性はない。
卑弥呼の生存期間は3世紀初めから248年頃まで。
土坑の桃の種や建物群は、庄内3だから、3世紀最末〜4世紀。
箸墓は布留だから、4世紀。 痕跡を出してるのは、いつもずっと「阿波」だけやんけ。 お前らなんも無いから、有るのは妬みだけ。 ほんと、なさけねぇww @阿波 >>419
>渡り堤の発掘で、築造中と判定された箇所から布留0古相の甕出土
完成直後の層からも布留0甕出土
その後に周濠が墳丘に茂った樹木からの落葉で埋まる途中の泥層から布留1甕出土
一緒に出た木材から三世紀後半のC14値
いずれにしても、箸墓は、布留であり、
ホケノや建物群や土坑の庄内3の「3世紀最末〜4世紀」よりも新しいから、
4世紀。 箸墓の時代相としては3世紀第4四半期(275〜300)だね。 九州説がデタラメ考古を脳内で育んでいると、世間に通用する確率は限りなくゼロに近づいていくね >>467
魏志倭人伝の記述を否定すると完全に大和に芽がなくなるんだけど
「南→東」とか「冢→前方後円墳」とか「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しで、
歪ませて読むこじつけばかりしていていたら、何も無いよ大和説
邪馬台国なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言だもの。 >>612
その頃、九州の冢から
邪馬壹國に里がえりだな。
壹與かもしれない。 >>468の訂正>>229
>しませんし、筑紫などの記載はありません。
「筑紫」は現在表記としての使用文言です。
>次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國である。
この「女王」は「女王國」ではありませんから、
卑弥呼の直接的支配地域(≒邪馬壹國付近)、という意味であり、
遠隔地は含みません。
投馬國が女王国に属すから、理解できる。 >>618
「正北抵新羅の倭國は九州」が
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しで
ある。 >>621
つまりそれ、俺様の節に反対する奴はウソつきだーって叫んでるだけだ >>622
反対する奴はウソつきだーって叫んでるだけ
はあんただな。
「畿内」は現在表記としての使用文言です。
となんら変わらん。
卑弥呼の直接的支配地域(≒邪馬壹國付近)、という意味でないし、
遠隔地は含みませんなどの記載もない。改変だな。
投馬國が奴国より南なら、属さない。 >>491
>intcal20で検索して出てくるグラフから1800BP付近を見てな
240〜260年が含まれる 4世紀もあるがとりあえずなんの否定にもなってない
3世紀ではないとそれでは証明できてない
一つの遺跡から、古い年次の遺物と、それと同種類と新しい年次の遺物が出れば、
その遺跡の年次の原則は、
古い年次の遺物は、新しい年次まで残っていた可能性があるが、
新しい年次の遺物は、古い年次には出来ないから、
新しい年次を選択する事になる。 >>112
女王之所都は、投馬国の北(奴国)と南(東冶の東)に2つあるってことか! 九州説、畿内説、etc で「邪馬台国」は使用する人は
「邪馬台国」は現在表記としての使用文言です。
でいいな。 >>498
>intcalが間違っているという証明をしてないのにでたらめだとかいうのは
科学的でも論理的でもない
間違っているという根拠を提示せずプラズマとかいわれても、
AMS法のプラズマ化で古い年次が出る、という事の論理は、
プラズマ化は、原子の外周電子を無くす処理であり、それまでの原子は、
原子核内の陽子(群)のプラス荷電と、外周電子(群)のマイナス荷電との引力で、
安定した原子構造を保っていたのだが、
プラズマ化で、外周電子を無くしてしまえば、原子核内の電磁場構造が不安定になって仕舞って、
原子核は、安定化を志向して(余分な)、ベータ線(電子線)を放出して安定化を図る事になり、
だから、プラズマ化は、それまでのベータ線放出よりも多くベータ線を放出する事になるから、
プラズマ化をした時間や量だけ、ベータ崩壊が増大していた事になり、
古い年次が計測されていた事になる。 今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。 @阿波 菊の十六紋を神紋とする「神武天皇を祀る樫原神社」
痕跡を出してるのは、いつもずっと「阿波」だけやんけ。 お前らなんも無いから、有るのは妬みだけ。 ほんと、情けねぇww @阿波 侏儒国裸国黒歯国は日本の事じゃないのに面白そうだから倭国として書き加えただけなのよ
魏志倭人伝なんてその程度のものだから 物部守屋の一族が纏向古墳群の盟主らしいからの
日本史通りや 畿内説は大変だな。
近畿説はその点、楽だな。
定義が逆だしな。邪馬壹國が支配などしていない。
卑弥呼と奴国が基軸と思われる
鉄鏃、絹が古墳以外から出ないのが邪馬壹國、
墓場造り、墓地公園も宗教地、邪馬壹國だから当然。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛、
徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人なんぞ近畿の一部である奈良
から出土した時点で邪馬壹國ではない。 三輪山の神の子孫が三輪氏やからの
守屋の一族が大物主を祀る祭儀官に決まったときに諏訪に移ったのやろ >>624
>一つの遺跡から、古い年次の遺物と、それと同種類と新しい年次の遺物が出れば、
考古学も炭素年代も、全く理解できていないようですね
遺物の場合は、同じ層位なら新しい方を採るけれど、遺跡単位でそんな判断はしません
炭素年代の場合は無条件に新しい方を採るとか、そういう原理のものではないのです >>637
そういうこと。
邪馬壹國の定義なんて
そもそも書いてあったけ? >>634
>物部守屋の一族が纏向古墳群の盟主らしいからの
>日本史通りや
なるほど、そうなのか! 宗家の古墳が最大古墳として作られてその周囲に一族の古墳が作られていく
物部一族の宗家が滅んだときに古墳制作は止まった >ただ勧請されてきた神社
どこからだ? 菊の十六紋を神紋とする神社を、勧請したのはどこなんだ?
ほら、これですよ。救えないでしょう。 わははははは @阿波 会稽東治はおそらく帯方郡から1万2千里で二等辺三角形だから東にあると言ってるんだよな >>566
たぶんそうだろう。柱穴のあたりと思う。着眼点ときれあじから、たぶん。 古墳と呼ばれておるものだったら高句麗にもあるぞ
積み石古墳てやつ
日本の古墳とは似ても似つかわん >>649
縄文時代だよ。
半島にもいたんだよ。
混血種が弥生人、それが南下 >>650
何処かはともかく1万2千里は行程じゃなく直線距離だな >>651
祇園山古墳
方形墳丘墓および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。
戦前の調査があるよ。 >>653
そう直線距離。
行程合算とするのが間違い。 >>647
着眼点のワンパな間抜けさと鈍さでわかるよ
惨敗続きだからな >>655
畿内説は「直線距離」と「短里」を取るべきだったな。
帯方郡(平壌)から奈良まで約1000`だから、一里83mだ。 一里83mなら、直線距離(万二千里)で奈良盆地に届く。
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」も、1里430mよりも、言い訳が立つというものだ。 @阿波 >>597
それ、畿内説以外は個人的な意見だけどね >>657
俺は近畿説
短里、長里などない。
公の里とそれ以外の変動する里がある。
会稽と同じ距離を取ったんだろうな。
伊勢志摩あたり。 物部氏は物部氏で天皇家とは別に古代神宮を作っていたらしいからよ
物部氏関連の祭儀関係もあるんだろうがよく分からない
主催神は大物主神 >>638
全国各地に人がいたので、纏向から三世紀の物が出ても騒ぐ必要は無い。 そこに蘇我氏が推し進める仏教が入ってきて聖徳太子の一族なんかとも縁戚を結んで勢力を伸ばした
国津神主催派の物部氏と仏教推進派の蘇我氏との間で起きた戦争が丁未の乱 >>663
物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。 @阿波 天皇家の祖と物部氏の祖はまったく別物と書かれとる
この辺は遺伝子調査でも明らかに 神武天皇の夢に天神が現れて天神地祇を祀れ
とお告げがあったそおな
そおしたら大和の豪族らも従うようになったんだとよ >>521
>いまの考古学は科学や統計学とか他分野を用いる それらの知識を身につけるべき
複数のサンプルで炭素年代測定を実施して
統計学でいうところの95%信頼区間に入れば否定は難しいよ
計算式は俺も理解できてない ただ否定できる可能性は5%以下ってなる
ダメだ。計測の原点である「AMS法に拠るプラズマ化」をした限り、
プラズマ化をした「量」に拠って、いくらでも「古い年次」が計算計測されてしまい、
だから、計測値もある範囲内の年次になってしまい、
だから、元の資料が持っていた年代に一番近いのは、
「一番新しい計測年次である」事になってしまう。
それが、ホケノの計測で4世紀が得られる理由。 ■ 行程と里数:
帯方郡〜(唐津)〜不彌国(吉野ヶ里一帯) 10700余里
帯方郡〜投馬国(宮崎平野・都万) 水行20日(末盧国迄10日+都万迄10日)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇) 水行10日陸行1月(末盧国迄10日+阿蘇高千穂迄1月)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇高千穂) (水陸)12000余里
三国志は古代中国王朝の史書であるから、魏志の視点は、すべからく洛陽にあった。
又、東夷伝(韓伝/倭人伝)における視点は、当然、東夷支配拠点の帯方郡にあった。
因って現代日本人にとって行程が明確でない場合は、古代中国人の視点に立ち戻って、始点を帯方郡に置くべきなのである。 >>520
>吉武高木遺跡の大型建物 柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1
纏向遺跡の大型建物 柱穴 直径 30cm 前後 深さ 15〜70cm
建て付けが全然違う。
纏向遺跡の大型建物は広いだけで、耐久性に欠ける。簡易的な建物と言わざるを得ない。
成程。 >>673
古代中国人の視点に立っても投馬国と邪馬台国を別にするのはおかしいだろ
だったら伊都国も奴国も不弥国も帯方郡からだと考えろよ >>674
唐古でも 柱60cm、83cm
つまり、水害地等から逃げたきた人ができるだけ
多く人を簡易的に住ませ、加工し易い木を使う
近畿説の邪馬壹國の定義にピッタリ。 >>530
>書いた事が正しい証明もできない。
陳寿は、倭地には来ていないから、
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録を見て、
必要があれば、その記録からの帰納的確率的な推論をするしかなく、
だから、「殆ど正しい」と推定出来る。
>陳寿の主観も入る。
だから、「陳寿の主観」と思われる部分も殆どない。 纏向も柱だけじゃなく吉野ヶ里みたいに適当に立派なの建てとけば良いのにな >>533
>「南≠東」「冢≠前方後円墳」これらの証明って見たこと無いんだけど
どの文献にかいてるの?
「南≠東」は、周髀算経や礼記に、東西南北の求め方、として書いてある。
「冢≠前方後円墳」は、始皇帝冢や馬韓の家屋や、
中国の「崋山の尖がり山々」に対する形容として使われている。
>3世紀半ばの倭人は後円は墓で前方は催事場と認識してた可能性は
絶対に誰も否定は出来ないはず 現存する文献や資料がない
纏向以降の前方後円墳においても儀式は重視された
その結果できたのが造出(つくりだし>
その可能性は別に否定しないが、
西晋武帝から「天円地方」思想を教わった壹與の墓の「平原1号」が、
前方後円墳型の墓の始原であったようで、
その後、筑紫に、那珂八幡などの前方後円墳形が広がった。 「にぎはやひ」から「はやひ(し)」(饒速日命)
「本郡林村郷司谷に宮居せる神ありて、河畔に梅林をつくり給ひ、自ら慰みておはせ事ありき其後 開化天皇の御宇、
伊香色雄命来りて同村日吉谷に宮居し給ひし頃、梅林を東西に分ちしと伝ふ。」(阿波郡誌) @阿波 >>662
>全国各地に人がいたので、纏向から三世紀の物が出ても騒ぐ必要は無い。
これ何度も繰り返し言ってる人がいるけど
意味がわからない >>669
>天皇家の祖と物部氏の祖はまったく別物と書かれとる
>この辺は遺伝子調査でも明らかに
いずれも、徳島人のDNAだよ。 @阿波 >>678
邪馬壹國の一部の纏向
ケヤキなど加工する鉄がない。
卑弥呼が共立され、北部九州が安定し
鉄供給が安定しだしたことが、弥生後期から
鉄が増える理由。
立派もんとか、鉄、絹も同様
ないから邪馬壹國という定義が持論
そんな所に使者は来る必要性はない。
卑弥呼が共立され北部九州に定住
なので移動表す文字がない。里数でなく、
倭人から聞いたのみで詳細な事は情報不足と
なっている。 物部氏、蘇我氏、葛城氏等、朝廷の伴として仕えた倭の有力豪族の祖は、
「伊迦賀色許売命(いかがしこめ)」・「伊迦賀色許男命(いかがしこを)」の姉弟である。
「新撰姓氏録」には「伊迦賀色許男命」は「饒速日命(にぎはやひ)」の六世孫とあり、
イカガシ姉弟の祖神は「饒速日命(にぎはやひ)」となる。 @阿波 阿波町の長峰一帯は、「饒速日命」の支配地であったとみられる。
「阿波」には「にぎはやひ」の「はやひ」が変化して「林(はやし)郷、郷司(はらし、ごうし)」谷となった伝承が残る。
そして、周辺には「饒速日命」に因んだという古代からの「林」が西林・東林として今もなお残っている。
また「饒速日命」は「古事記」の神武東征条で、伊那佐の山の歌のあと、神武のもとに天降ってきて天津瑞(みしるし)を献ったとある。
郷司谷のすぐ下流(東)に伊沢(旧 伊那佐和(いなさわ))、伊沢谷川(伊那佐和谷川)があり、その上流が歌の中の「伊那佐の山」にあたると伝わる。
さらに神武天皇が即位後の国見で「昔、饒速日命がこの国に降ったとき、そらみつやまとの国と名付けたと曰う」とあるが、
郷司谷のすぐ上流(西)が「そら地方、みつ地方のやまと」にあたる美馬郡なのである。 @阿波 このように饒速日命伝承が残る「長峰」は阿讃山脈から南に伸びる七つの舌状丘陵が櫛状に連続する地形。
西から数えて二つ目の丘が弥生中期後半を中心とする高床式建物や竪穴住居等二十数棟が発見された西長峰遺跡。
まさに、饒速日命の伝承が生まれる条件は備っている。 @阿波 >>616
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのオレオレ詐欺の大和説学者らが、
デタラメ考古を脳内で育んでいると、
世間に通用する確率は限りなくゼロに近づいていくね >>625
>女王之所都は、投馬国の北(奴国)と南(東冶の東)に2つあるってことか
漢語は文字や文言の「順次式」の説明をする言語であり、
邪馬壹國が女王之所都の国だ、と書かれているのであり、
投馬國は、不彌國の南の方の「水行二十日」の位置にある、という説明であり、
女王国(≒倭地)は、会稽東治之東の位置にある、という陳寿の推定である。 >>626
>九州説、畿内説、etc で「邪馬台国」は使用する人は
「邪馬台国」は現在表記としての使用文言です。
でいいな
歴史上でも現在にも存在もしなかった文言を造作して、論拠に使用すれば、
それは、嘘つき騙しのオレオレ詐欺です。 >>645
もう、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
オレオレ詐欺の大和説は、
トンデモ一色に染まったんだな 毛野の娘と結婚しとるから六腹朝臣の連中らが朝政に参加したときに付いてきたんだろ
そんで藤原となったと >>690
「短里」、「長里」とかもな。
昭和で造作したぺーテンがいるな。 阿保の九州土人が、最悪最低の奈良盆地目指して引っ越しだとよ。 アホとしか。 わははははは @阿波 朝鮮半島からの渡来人らも多く関東に住み着いてるがその地が関東惣領の支配地だったからだろ >>690
>それは、嘘つき騙しのオレオレ詐欺です。
皆さーん、
嘘つき騙しのオレオレ詐欺の元祖・本家・プロフェッショナルに注意しましょうね・・、 >>690
「邪馬台国」は現在表記としての使用文言です。 阿保の九州土人が、最悪最低の奈良盆地目指して引っ越しだとよ。 アホとしか。 わははははは @阿波 >>653
>何処かはともかく1万2千里は行程じゃなく直線距離だな
厳密性はともかく、「萬二千余里」は、
郡から女王之所都までの「ほぼ道のり距離の合計」であり、
郡から「女王国(≒倭國)」の中心への「ほぼ直線距離」だな。 房総半島あたりにも那賀氏が来てるからな
忌部氏これのこと言っとるんやろ
阿波に古代、那賀国(ながのくに)ってのが今の徳島県の半分くらいの領域を支配しとったらしいけ
神武御霊神社⛩が阿波に祀られておるしな >>701
>阿波に古代、那賀国(ながのくに)ってのが今の徳島県の半分くらいの領域を支配しとったらしいけ
そこが、「狗奴国」だ。 @阿波 科野国造となった多氏は皇別氏族とされとる
倭人系集団として百済にはいり向こうの政治の文官を務めていたものもおったらしい >>695
だな。阿保過ぎる。東海地方の水害等や
山陰等の戦争から逃げてきた人々がルーツかも?
木製仮面から毛人もいたかもしれない。
纏向には、方形周溝墓
円墳らしきもんもある。 >>666
>理解できない低脳野郎乙
すぐ罵るだけになるのは九州説が負けた証拠だよ >>659
>俺は近畿説 短里、長里などない。公の里とそれ以外の変動する里がある。
会稽と同じ距離を取ったんだろうな。伊勢志摩あたり。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この近畿説俺は、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのオレオレ詐欺師である。 >>662
>全国各地に人がいたので、纏向から三世紀の物が出ても騒ぐ必要は無い。
それを、「卑弥呼の遺物だ」と主張すれば、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態によって、否認する。 古代の日本の地方の王号として建(たける)号が使われとるやろ
建〇〇なんて名前の神らもおるがもともとは大和朝廷に従っておらず戦ってその後に帰順した連中らに多く見られる >>676
>近畿説の邪馬壹國の定義にピッタリ
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南になるから、
ほぼ福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地であるから、
近畿説はバツであり、
また「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの史料事実や史料実態に拠っても、
近畿説はバツ。 >>706
「南≠東」「東南≠北東」
「方可三百里」「方可四百餘里」
陸行?
プルタぺーテン >>705
史料事実や史料批判や史料実態からの帰納的確率的な推論が出来ず、
すぐ罵るだけになるのは、
オレオレ詐欺の大和説者が負けた証拠だよ 中国史文献と日本史文献で一番のネックだったのがまるで時代が合わないってことだったわけだよ
だから違う時代の人物を当てはめてこの人のホントの正体はこれだ!みたいのやってたわけ
時代背景が重なればすべてのピース🧩が嵌まる様にスラスラ解けていく >>711
「邪馬台国」は現在表記としての使用文言です。 >>712
その通り。
崇神を考古学的にも蓋然性が高い4世紀前半にしたら、
その数十年前にトヨがいる。
さらにその3世代前にヒメ后がいる。
二人が住んだのは葛城。
はい、終了。 ヤマトタケル大王なんてのは自ら動いて軍勢を率いとるからね
景行、神功、応神あたりまでこれが見える
そのあとは天皇自らは動かず朝廷軍を指揮したのは日本国内ならほとんど物部将軍やねん
大連と呼ばれる職につき軍事氏族として伸びたからの >>700
>郡から女王之所都までの「ほぼ道のり距離の合計」であり、
>郡から「女王国(≒倭國)」の中心への「ほぼ直線距離」だな。
それって矛盾してないか
二兎を追う者は一兎をも得ず 天皇自ら動いていた時代には葛城将軍だのもでとる
つまり天皇自ら率いる軍勢の中でね そおなると古墳の被葬者らってすべて本物ってなっていくんだわな
ただしそれはこの一族だ!って目論んだ人々の予想とは違っておるかもしれない
その辺は日本の古代の文献を読み解きながら探さなければならない 古墳作りは大和朝廷において律令制(中国式の律令制)が公布された頃を持って廃止されとる
あれはすべて神となった人物らを埋葬しとるもんやからな
そのあとも作られとるがそれは古墳作りを文化として伝播した連中らが作ったもんで朝廷とは関係なくなってくる >>719
古墳を造れるのは、「忌部一族(阿波勢力)」だけだしな。 わははははは @阿波 >>718
文献だけでなく
被葬者自体のDNA、炭素測定等の科学も必要だな。
採取できるなら性別、亡くなった時期や年齢
死因原因、姻族関係がわかりそう
宮内庁管轄以外は先にできそうと思う 古墳を企画・設計・施工出来るのは、「忌部一族(阿波勢力)」だけ。 @阿波 >>721
>被葬者自体のDNA
間違いなく、徳島人のものだよ。 @阿波 >>722
畿内土人は土方として、採用だ。 わははははは @阿波 皇別氏族、天孫族は天皇家と同じでなければおかしいぞ
天神系、国津神系は天皇家とは別でもおかしくねえけどよ
藤原氏なんてのはあれは天神系氏族
物部氏も同じ ヤマトタケルの伝承は有名やが時代が合わないから架空の人物とされ伝承の中にのみ生きる存在みたいな扱いやったからな >>725
天皇家も藤原氏も物部氏もみんな、「忌部一族(阿波勢力)」。 @阿波 >>720
それで、泡がお入りになる古墳の工事はどれくらい進んでいるのか? >>714
>崇神を考古学的にも蓋然性が高い4世紀前半にしたら、
崇神の「西暦での即位元年」を、二中歴の年代歴で概算してみると、
西暦190年頃になるから、「4世紀前半」論は合わないよ。 >>730
>崇神の「西暦での即位元年」を、二中歴の年代歴で概算してみると、
西暦190年頃になるから、「4世紀前半」論は合わないよ。
爺ちゃん、俺だよ俺。
ちょっと会社でしくじってしまって大至急500万程必要なんだ。
明日、俺は忙しいから代理の者に取りに行かせていい?
おっと失礼。
二中歴の年代歴で概算してみてはダメなのですよ。
悔しかったら大至急500万用意してね。 5世紀頃朝鮮半島を支配しようとしてるから実在したか知らんけど神功皇后はこの時代だよな >>681
簡単、全国各地で三世紀に巻向に人々の営みかわあった。炭素年代で、巻向から三世紀の物と分かっても何の意味ももたない。あえて言えば人が3世紀に纏向に居ただけの証明にすぎない。 >>733
訂正、
纏向以外でも全国各地に三世紀に人々の営みはあった。炭素年代で三世紀とわかっても、それは纏向に人が居たていどの証明にしかならない。
箸墓の周りに見つかった炭化物だけで箸墓を三世紀と決めつけるのは危険。
ただ、3世紀に箸墓近辺に人がいたと言う証明にしかならない、煮炊きは全国各地で三世紀にしていたのだから。 国内の交流は縄文時代からあったから土器とか根拠にならない >>735
>国内の交流は縄文時代からあったから
縄文時代の晩期末には、「阿波」がその中心地だったがな。 @阿波 倭の五王の時代と神功皇后の時代が被るように思うんだが 倭の五王と神功皇后と大阪のでっかい墓は同じ時代だろ 畿内説って
倭国の王=邪馬台国の王=卑弥呼と言う説で良いの?
もしそうであれば、
纏向が初期ヤマト王権発祥の地と言うのなら、邪馬台国の初代王は卑弥呼で良いの? >>742
邪馬台国の王はヤマトの王で勿論倭国の王だと俺は思ってる 卑弥呼と大和朝廷との繋がりは可能性はあるけど分からない >>734
>箸墓の周りに見つかった炭化物だけで箸墓を三世紀と決めつけるのは危険。
別に箸墓の周りに見つかった炭化物だけで箸墓を三世紀と決めつけてないか問題ない
建設中の遺物と築造直後の遺物で決めている >>742
>倭国の王=邪馬台国の王=卑弥呼と言う説で良いの?
一応そう。
>もしそうであれば、
>纏向が初期ヤマト王権発祥の地と言うのなら、邪馬台国の初代王は卑弥呼で良いの?
俺は纏向が初期ヤマト王権発祥の地と思っていない。
卑弥呼は其国の男王が続いて倭国大乱がおき、女王を立てたらそれが収まったというのだから、
卑弥呼は初代王ではない。
纏向が初期ヤマト王権発祥の地と言ってる畿内説者は、2世紀前半からは存在した其国の男王を説明できていない。
唐古鍵だろうと言いつつ、その唐古鍵の王墓を提示出来ていない。
>>1をはじめとするこいつらは馬鹿である。 言葉の誤魔化しだと思うけど三世紀中頃の可能性はあるけど
そうじゃない可能性もあるだろうしそれもちゃんと言わないと
個人的には全否定はしないけどあまり信用はしてない >>746
巨大な建築物は時代が合ってれば墓がなくても根拠にはなるでしょ >>745
>建設中の遺物と築造直後の遺物で決めている
築造直後というのは完成直後ということかな?
ところが君の説に欠けているのは被葬者埋葬時期。
完成直後=被葬者埋葬時期ではない。
タイムラグが十分あるし、実際、箸墓被葬者は4世紀前後であろう。 >>750
見つかってないだけかもしれんだろ
そもそも近畿には弥生期の墓もあるでしょ >>751
それなりの墓が見つかってないのなら王はいない。
大したことのない方形周溝墓など出されても王墓とは言えない。 卑弥呼とは世紀前半からは存在した王族の一女性だね。
ならば2世紀前半からの王族墓を探せばいいだけ。
この時点で纏向古墳群は候補から消える。 × 卑弥呼とは世紀前半からは存在した王族の一女性だね
〇 卑弥呼とは2世紀前半からは存在した王族の一女性だね 卑弥呼の日本での評価がわからんからな
中国に朝貢なんかしやがってこの恥さらしがって感じで墓を潰されたかもしれんし 『翰苑』
「蕃夷部」「倭国」の条
後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至
「後漢書に言われていることには、 安帝の永初元年、倭面上國王帥升が来た。」
倭面上國とはヤマト国としか考えられない。
ほら魏志倭人伝にもあるように2世紀前半にはいた其国の男王が見えてきた。
ではその男王は纏向にいたのか?
違うだろ、王族=神々が居たのは高天原だ。 俺は近畿説ではあるけど纏向とも箸墓とも思ってない
根拠は何故大和はヤマトなんだ? 倭面上國王帥升(Shuai sheng )はスサノオな。
2世紀前半からはいた男王、そして卑弥呼、トヨまでスサノオの末裔。
その王権では卑弥呼やトヨは便宜的に立てられただけで基本は男王。
ではその男王を何というのか。
それが大物主だろ。 日本意味するヤマトという言葉はいつからあったのか
邪馬台がヤマトであるなら山に関連する言葉ではなかったって事だ 731
中国の方の年代に合わせても無駄なのですよ
そんなことは分かってるんだよ 759
違うよ
まったく年代が合わない
スサノオは倍暦を持ちいたら起源前200年代くらいにあたる >>728
地消地産
木材の特長として、加工が容易
卑弥呼の木 その時代に何が起きたか?
って考えたら秦の始皇帝による中国統一により次々と向こうの国家が滅んだ時代 神武天皇はヤマトの国に現れて天神地祇を祀り王として認められた天皇
起源前の中国の方の戦乱の始まりのころがちょうど天照、素戔嗚兄弟の生きていた時代となるんだよ そこを起点として計算しなきゃならねえの
そおすれば日本史における年代も算出できんだよ 天神系の神の子孫とされる者らがおる
これは神武天皇の時代にもともとは神武天皇率いる天孫族(伊奘諾の命の子孫ら)と敵対していたが日本におった天神の子孫らが天皇に天神を祀れ!って要求をして祀るようになったから天皇に従うようになったのを始まりとするわけ
この続きが日本神道における祭儀の始まり 渡来人らが日本に来たとされる時代があるだろ
その渡来人集団らの中にも多氏なんてのも見える
これが系図にある多氏と重なるならもともとは日本から向こうに渡った縄文人らの末裔ってことになるんだよ
そっちの記録は書いてないからな
多氏は神武天皇より始まる皇別氏族となってるからな
多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君(火国造)、大分君(大分国造)、阿蘇君(阿蘇国造)、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、伊余國造など九州を中心に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹波臣(丹羽県主)、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造や県主になっている例も多い。 こおいった連中らもすべて半島におったとしても西暦520年までには日本に渡ってきておらねばならない
つまり住んでいた地が滅んだからな 神武天皇の生きた時代を算出するなら起源前100年ころ天皇に即位したとなるわけな
神武天皇の子の神八井耳命は子とされるから起源前から大陸に渡り始めた神武天皇の子らがおったとなるわけよ >>741
>倭の五王と神功皇后と大阪のでっかい墓は同じ時代だろ
神功が仲哀を継いだ(書紀が正しかったとした場合の)年次は、
二中歴の年代歴で概算すると、西暦339年頃になりますね。 >>743
>邪馬台国の王はヤマトの王で勿論倭国の王だと俺は思ってる
邪馬台国なんて歴史資料に存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
ヤマト政権は、倭人伝や唐書群や記紀の記載に拠れば、
九州倭國内の、「天孫族の阿毎氏」の伊都国系の武将らの「東征毛人五十五國」の中の、
別種分家の「地方の市を監督する大倭」職の、
旧小国の一つでしかなかった事になるんですよ。 記紀神話は、信じるか信じないかでしょ
邪馬壹國と関係無いと思うがなー
記紀神話を部分的に邪馬台国論叢にら引用するのは違和感を感ずる。 >>744
>卑弥呼と大和朝廷との繋がりは可能性はあるけど分からない
卑弥呼は、一応「火の国山門に渡来した呉王夫差の遺民の姫氏の末裔」の娘であり、
姫氏の一部が「委奴」の地の「倭人の天孫族の阿毎氏」と合同したらしい時期があって、
しかし、またそれから一部が「大野」の地に分かれて、そこで卑弥呼(刀良という名前)が出た、
という事になっています。
しかし、大和政権は、
委奴の地の天孫族の阿毎氏の五瀬命や磐余彦(神武)らが東征して建国して、
(古事記に拠れば)欠史八代の中の4人に「大倭」の称号が伝承されていますので、
(卑弥呼の姫氏とは直接関係がなく)、
天孫族の阿毎氏の伊都国系の別種分家の部族の後裔の「大倭」職の旧小国であった国です。 >>745
>>箸墓の周りに見つかった炭化物だけで箸墓を三世紀と決めつけるのは危険。
>別に箸墓の周りに見つかった炭化物だけで箸墓を三世紀と決めつけてないか問題ない
あ、そう?。プラズマ化のAMS法を直接的な根拠にする事を、諦めるんですね?。
>建設中の遺物と築造直後の遺物で決めている
じゃ、土器編年が中心なんですね?。
しかし、庄内と布留は殆ど確実に区別出来、布留は庄内の進化型である事と、
前方後円墳は「冢」ではなく、石塚や箸墓は那珂八幡の進化型である事で、
箸墓は4世紀である事が、確定的ですよね。 >>748
>巨大な建築物は時代が合ってれば墓がなくても根拠にはなるでしょ
これもちょっと難しいなあ。
「大型」でも、柱などが吉竹高木や唐古鍵だったか?よりも細かったようだし、
小型建物や柵を入れても、
「以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
に足りそうもない。 >>758
>俺は近畿説ではあるけど纏向とも箸墓とも思ってない
根拠は何故大和はヤマトなんだ?
ああ、「近畿説」男か。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>777
だったら唐古鍵に居たと考えれば良いじゃん
別にどっちでも良いんだぞ >>772
倭の五王は朝鮮半島の支配権を要求してるから
神功皇后はこの時期か後かくらいじゃないか >>779
>だったら唐古鍵に居たと考えれば良いじゃん
じゃあ、唐古鍵で終わってしまったのか? @阿波 >>783
大洪水でたびたび放棄している。 そんな奈良盆地に王都など興る訳が無い。 @阿波 >>784
だから大阪じゃないかな
まあ場所なんかその時代に大規模な集落跡があれば何処でも可能性があるんだし >>785
「卑彌呼」時代の大阪の大規模な集落跡ってあるか? @阿波 >>786
だから大阪城の下にでっかいのが埋まってるんだって >>785
ずばり、「卑彌呼」時代の大規模な集落跡があるのは「阿波」だけ。 @阿波 >>787
いくら大阪城がデカいといっても、そこだけじゃあ王都にならんよ。 @阿波 結局、奈良や大阪では「邪馬臺国」は有り得ない・興り得ないことが分かるわけだ。 @阿波 >>790
後の時代とは言え宮とか京とかの類があったんだし有り得ない根拠にはならない >>791
肝心の「卑彌呼」時代には有り得ない・興り得ないことが分かるわけだ。 @阿波 >>792
滋賀には卑弥呼より古い時代の伊勢遺跡もあるんだけど >>793
まあ、そんなのは滋賀だけじゃないけどね。 滋賀は置いといたほうがいい。
結局、肝心の奈良や大阪では「邪馬臺国」は有り得ない・興り得ないことが分かるわけだ。 @阿波 吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1 m
床面積 214平米
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径15〜32cm 、深さ15〜70cm
床面積 238平米 >>795
ところで、吉武高木遺跡似には竪穴住居跡はないの? @阿波 >>795
>吉武高木遺跡の大型建物
柱穴 直径1〜1.5m、深さ0.7〜1 m
床面積 214平米
纏向遺跡の大型建物
柱穴 直径15〜32cm 、深さ15〜70cm
床面積 238平米
俺が君主なら、吉武高木遺跡の大型建物に住むな。纏向のはただ広いだけじゃん。テントみたい。 >>798
>俺が君主なら、吉武高木遺跡の大型建物に住むな。
一人ぼっちでかい? @阿波 >>796
あるみたい。竪穴住居は古代から平安期まで建てられていたから、、 >>798
吉野ヶ里遺跡 卑弥呼が居る所
以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛
邪馬壹國,女王之所都は
紀伊山地の霊場と参詣道と紀伊半島の海岸線 >>799
そりゃ、周りには巫女千人と兵をはべらすさWw 結構ってよく分らん。 巫女千人と兵をはべらすさ だけ? @阿波 >>1
柱穴はもう飽きましたので、無視返すようですが、
FAQ61の
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
ですが、本当ですか?根拠は?下記のQへの回答ですが、距離に言及したAですが本当に10倍にして公表する習慣があったのですか?
根拠を示して欲しい。
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ! >>807
そんな習慣なんてねーよ
スレ主の捏造に決まってるじゃん >>808
>伊勢遺跡、稲部遺跡
滋賀は置いといたほうがいい。
結局、肝心の奈良や大阪では「邪馬臺国」は有り得ない・興り得ないことが分かるわけだ。 @阿波 <行程と里数>
帯方郡〜(唐津)〜不彌国(現・吉野ヶ里一帯) 10700余里
帯方郡〜投馬国(宮崎平野・都万) 水行20日(末盧国迄10日+都万迄10日)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇) 水行10日陸行1月(末盧国迄10日+阿蘇高千穂迄1月)
帯方郡〜女王国(熊本平野/阿蘇高千穂) 水行+陸行 12000余里
三国志・魏志の視点は、すべからく洛陽にあった。
又、東夷伝(韓伝/倭人伝)における視点は、当然、東夷支配拠点の帯方郡にあった。
則ち、現代日本人にとって行程が不明確に思える場合は、古代中国人の視点に立ち戻り、始点を「帯方郡」に置くべきなのである。 官有伊支馬,次曰彌馬升(崇神天皇 御間城),次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮 >>807
>これは実測したとしか考えられない!誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
実測したとしか考えられないという理由を明らかにせよ! >>808
伊勢で物足りず、近江まで畿内説は広げちゃうの? >>814
スレ主が作ったQだから、スレ主に聞くべき。 >>811
そこまでは開拓期と見ている近畿説
繋がる交通インフラ、農業の拡大
水銀による交易、まずは、インフラと経済
ほとんど戦ていないと思う
4〜5世紀は、退治とか規模が小さい
経済、祭祀、政略婚姻による統合 >>813
>官有伊支馬,次曰彌馬升(崇神天皇 御間城),次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮
…官有伊支馬,次曰彌馬升(崇神天皇 御間城),次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮(ナカテイ 中臣) >>131 南部九州(薩摩・宮崎)や中部九州(熊本)じゃないってこつ?
>>126 北部九州(大分・福岡・佐賀・長崎)のどれか? >>821 >>112
>「女王国【東】渡海千里 複有国 皆倭種、又有 侏儒国 在【其南】人長三四尺 去女王(之所都)四千里」
この場合の「女王国」は、共立記事の後に出てくる国なので、
倭30国により共立された倭女王国(倭国)のことである。 >>816
>スレ主が作ったQだから、スレ主に聞くべき。
じゃなくて、キウスの捏造だろ >>801
>・・・邪馬壹國,女王之所都は
紀伊山地の霊場と参詣道と紀伊半島の海岸線
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>825
「南=南」や「正北抵新羅の倭國」
などの史料事実や史料実態に拠って
邪馬壹國,女王之所都は
紀伊山地の霊場と参詣道と紀伊半島の海岸線
である。 >>824
何勘違いしてるのですか?私が質問してませんよ。
いつもの話題逸らしは辞めた方が良いですよ。
わたしの質問はテンプレのスレ主の主張の
FAQ61の
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
距離に言及したAですが本当に10倍にして公表する習慣があったのですか?
根拠を示して欲しい。
FAQ61の
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
ですが、本当ですか?根拠は?下記のQへの回答ですが、距離に言及したAですが本当に10倍にして公表する習慣があったのですか?
根拠を示して欲しい。 >>828
あんたって白痴?
みんなテンプレに書いてあるじゃないか >>779
>だったら唐古鍵に居たと考えれば良いじゃん
大洪水でたびたび放棄している。 そんな奈良盆地に王都など興る訳が無い。 @阿波 >>828
>何勘違いしてるのですか?私が質問してませんよ。
>いつもの話題逸らしは辞めた方が良いですよ。
なら
>Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
> これは実測したとしか考えられない!誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
これ、誰が書いたの? >>833
そういうのがなんで奈良・大阪にない? @阿波 >>815
畿内説はスレ主等
畿内説にしたがる理由がわからん
元々、近畿説なのだよ。 >>836
>元々、近畿説なのだよ。
いや、元々は奈良説だろ? @阿波 かなり日本内からの行動が見えてきたでな
古墳時代初期においては後方方形墳が作られてるからな
大陸においては高句麗古墳とか呼ばれる石積みの古墳が向こうでは作られてるがこれは日本の古墳とはまったく似ても似つかないもの 九州王朝が東遷してきて大和王朝になっただのってのがふざけた妄想だからな >>156
>>175
大和朝廷など幻想にすぎない(天智まで倭王朝はずっと北部九州だった)わけか。 >>150 隋(書倭国伝)代(587〜618)には、倭王・阿毎多利思比狐の王宮(愛妾600人)が阿蘇山麓にあったわけだから、
旧唐書の直前に倭王権が北部九州から奥津城大和(王家の谷)に東遷したってことだね。
>7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
>魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
>隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
>日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
>別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
>また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
>来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。 >>836
トンデモを見分ける最も簡単な方法
結論は書くが理由が書いてない >>843
>旧唐書の直前に倭王権が北部九州から奥津城大和(王家の谷)に東遷したってことだね。
旧唐書って平安時代の後期だよね >>845
旧唐書(唐618〜907)の「日本の使者の説明」の元史料が書かれた時代という意味w >>845
もしかして、唐王朝(618〜907)三百年の出来事がすべて、出版の直前に一斉に起こったと思ってる人?w 唐だって下手すれば日本から入った仕組みを利用してるかもしれんぞ
唐の女帝さんと持統天皇は個人的な文のやり取りをするくらい仲がよいからよ
そのやり取りの記録も残っておる 日本に要求してきたこともはとんどが唐の女帝さんが決めたことやろ
それ守らなければ遠征軍あったかもしれんしな
日本国内から軍人らがおらなくなる時代もある
それも唐から要求してきたこと >>150
>>849
いずれにしても、記紀の編纂を開始した天武持統朝の意志で、この国の古代史は大きく改竄されていることは確か(森友学園問題の赤木さん)…orz >>834
発見されてないだけじゃないの?
だって伊勢遺跡に居た人たちは何処に行ったの?
後の時代宮殿とか造った人は何処から来たの?
元伊勢や後の宮殿は転々としてるのに一か所に留まってると考える方がおかしい >>849
まあ、女性だし、
先駆者の卑弥呼、壹與もいる。
共通するもんを感じたかもね。
書簡があるのかな? >>853
そういう遺跡て多いな
妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡 ピンポイントで場所を特定するなんてほぼほぼ不可能でしょ >>852
邪馬台国論争はまさに森友学園問題そのものw
史実より権力に従って出世する畿内説か、史実だけを求める北部九州王朝説か、両者の間で揺れ動く堂々巡りの九州説か >>847
>旧唐書(唐618〜907)の「日本の使者の説明」の元史料が書かれた時代という意味w
いつ書かれたか分からんだろう >>858
少なくとも唐王朝が開かれて以降だろうねw 大阪には巨大な墓があるんだし権力者が居たのは間違いないよ 日本に建築技術とか齎したのは秦公だよ
職人らの棟梁だからな
仏教寺院なども彼らが関わり日本国内に建築された
建物の様式なんかも一斉に変わるしの
それまでは南方由来の弥生建築くらいしかねえしな >>860
>大阪には巨大な墓があるんだし権力者が居たのは間違いないよ
大きな墓はあっても、権力者がいた痕跡がないんだが? @阿波 >>857
北部九州王朝作り話は、
竹島は韓国に統治権があると言い張っている反日有害工作活動 860
河内彦で調べてみな
あそこに住み着いた連中らは大和朝廷の連中らからも別王朝の者らって読ばれとるからよ
大和朝廷の天皇が直にお逢いになる別王朝の王だから直(あたい)って姓となったんだよ >>863
もちろん、居たさ。 「阿波」に。 @阿波 日本では王を名乗るのは禁止
その替わりに〇〇直って姓を名乗った >>864
北部九州王朝作り話が、竹島の統治権にどう繋がるの?? 869
やつら九州も自分らの領土だのふざけたことほざいてるんだよ 869
なんか呑気だねあんたさ
とことん自分のワガママ言わない連中らと似てるわ >>859
>少なくとも唐王朝が開かれて以降だろうねw
旧唐書が書かれた直前かもわからん >>868
ごめんな。 見栄っ張りの忌部有力豪族が、これ見よがしに権勢誇示をしちまったのさ。
へんな期待を持たせて申し訳ない。 @阿波 >>870 それと日本側の国内問題である北部九州王朝説とどう繋がるの?? ワガママ言わない連中→自分のワガママしか言わない連中
の間違い >>874
北部九州王朝作り話は、
ど素人の反日有害工作活動なので言い張っている根拠の全てがデマ まあ紀元前から畿内に王朝が存在した形跡が無いからなあ
ヤマト王権自体が九州にあったと考えてもおかしくはない 筑紫の君なんてのも神武〜崇神時代の間に別れた連中らだよ
大和朝廷の勢力を伸ばしたのはヤマトタケルだからな >>876 つまり自分の論拠を説明できないってこと?w 記紀通りなら神武天皇から別れた一族なども半島に渡っていたことになる
てより漢の時代あたりから日本と向こうでも何らかの付き合いがあったようなことも伺わせるしな >>878
俺は逆の考え
ヤマトと言う言葉自体近畿だと考える >>883
縄文時代から倭人が半島に行って鉄掘ってたって記録があるんだよね
だから住んでは居たんでしょ
いつから倭国として支配しようとしたかだな >>870
>>885
九州王朝説と韓国がどう関係するのか説明ヨロ >>762
>違うよ
>まったく年代が合わない
>スサノオは倍暦を持ちいたら起源前200年代くらいにあたる
なんで倍歴なんか用いるの?
そんなことしたら全然時代が合わないよ。 >>886
魏志の後の時代
奴国の中の城のみの部族かな?
卑弥呼亡き後、伊都国王クーデータ(鉄の独占)
失敗で出雲へ。
壹與と関連で筑紫国、豊国できる、想像だけどね。 >>889
韓国で流行した分国論の方法論を借用して何でも九州起源に従ってるのが九州王朝説だから
剣道も茶道も韓国起源とか言ってるのと同じ手口を使ってる >>892
でも九州王朝説が倭国は韓国起源だなんて一言も言ってないんじゃないの? >>888
>縄文時代から倭人が半島に行って鉄掘ってたって記録があるんだよね
そんな記録はない 倭の五王は朝鮮半島の支配権を寄こせと言って朝貢してたんだよな
それが認められないから朝貢止めて実力行使したんじゃないか
結局白村江で追い出されたけど >>893
逆に日本府実在説だな
右翼天皇主義のミニチュア版だろう >>893
現代の嫌韓を利用した畿内説のデマだよw >>894
そうだっけ?
遊牧民とかいろいろ混ざって鉄掘ってたって記録なかったっけ? >>898
縄文遺跡から鉄出土とかクグレば
でてくるかも? >>893
九州王朝作り話は、
朝鮮にいた部族が北部九州を手始めに東征してヤマト王権を創ったという反日工作活動
根拠はデマ >>900
ってことは、上皇の「ゆかり発言」もデマ?w >>882
>筑紫など魏志にはないな。
書紀は、全部は覚えていないが、「磐井」の時に「筑紫」と書いてあった気がするな。 任那日本府は中国は認めてないけど日本はいろいろやってたみたいだし
神功皇后はこの時期じゃないか >>889
>九州王朝説と韓国がどう関係するのか説明ヨロ
九州王朝≒燕の南の倭人と呉王夫差の遺民の姫氏らが中心となった倭國 >>901
>ってことは、上皇の「ゆかり発言」もデマ?w
韓国/朝鮮といっても内部は三韓時代を引きずっているのだそうだ。
つまり、百済系と、高句麗系と、新羅系の微妙な関係は、半島では今も健在らしいのだ。
で、上皇の「ゆかり発言」は百済との関係のことで、九州王朝説はかって神功皇后をやっつけた新羅系のデマゴギということ。 >>832
知らないよ!しつこいね!
韓伝に載ってるなら、なんらかの方法で調べたのでしょう。 >>1
FAQ61の
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
ですが、本当ですか?根拠は?距離に言及したAですが本当に10倍にして公表する習慣があったのですか?
根拠を示して欲しい。 >>908
>書いて無い
>説明がつかない。
字が読めない人? >>897
>現代の嫌韓を利用した畿内説のデマだよw
畿内説は学問だから正常な日韓交流がある
嫌韓とか無いな 卑弥呼の時代以前は特に記録もないし朝鮮半島は国の体を成してなくて
倭人が勝手に住んでたって感じじゃないか なぜ畿内は起源を主張したがるのか?
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png
あの民族のDNAがそうさせてるのですね >>913
やめときな
アホの>>1は放って置いて良い。 >>919
朝鮮半島を支配しようとした倭の五王は大阪の何処かに埋まってるって >>915
向こうはそう思ってるってことさ。
だから、のちに白村江でも激しく対立した。というか、唐と組んで勝ったと威張っており、今に尾をひいてる。 >>919つつき
やってる事もよく似てる
「遺構は、すでに埋め戻され」
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 >>916
どこに、なんと?
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
の根拠書いてあるの?
習慣なんでしょう。習慣の意味ぐらい知ってますよね そもそも3世紀時点で大阪は存在していなかったんだし
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html >>924
阿保か、お前が答えて無いだけじやん。
答えられないならバンザイしろよボケ >>919
畿内説は日本全国の学者の通説
九州王朝作り話は青色が濃い大阪が中心
ついでに阿波も濃い 907
うん、筑紫君磐井だからな
君号を使ってるならほとんどその地域の王と同じよ つまり最高責任者、最高指導者みたいなもん
国主と同じ
連を名乗るのは大和朝廷の軍事部門に所属しておるやつらだからの
大連を独占したのが物部氏
連の連中らが組織しておる軍勢を指揮できる
連はほとんど皇族が占めてるから地方に散らばる皇軍を指揮できる参謀格ってとこ >>924
撤退?
私は24時間貼り付けいていないので間を置くことはありますが、、
それより、テンプレのどこに >戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
の根拠が書いてあるのですか?
わたしは前に「テンプレに数多く反論されてる」と投稿した時、何処で?との問いに対して、苦労して貼り付けてやりましたよ。
あなたも、貼り付けるぐらいできるでしょ。 筑紫が動員できるのなんざせいぜい筑紫一族くらいだけやぜ
物部軍なら当時でも4万人は動員できるんだぞ
ちなみに古墳時代の日本全国の人口は60万人な >>928
>畿内説は日本全国の学者の通説
通「説」とは、あくまで「ある学者集団が唱える一つの説」止まり、
決定でも、確定したものでもない。 白杉江のときは6万人動員したろ
日本全国の総人口のおよそ十分の一よ 人口的にも中国なんかとも張り合えないしな
漢末期の総人口が向こう二千万人だろ >>934
>それより、テンプレのどこに >戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
>の根拠が書いてあるのですか?
字が読めないの?
知能がないの?
どっち? 両方?
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝) 倭の五王から白村江まで日本は半島でいろいろやってるから
神功皇后の三韓征伐はこの時期でしょう
そうなると卑弥呼の時代は神武天皇が間に合うかどうかってところだな
実際その間の天皇が居ればの話しだけど 5世紀以降に渡来した半島人の末裔ほど畿内説を主張したがる
邪馬台国は何処?
アンケート結果
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png >>934
>わたしは前に「テンプレに数多く反論されてる」と投稿した時、何処で?との問いに対して、苦労して貼り付けてやりましたよ。
それは嘘
「いろんな方から指摘を受けてますよ」と嘘をつき
キウスは指摘を一つも貼り付けなかった 943
倭の五王に目されてるのは仁徳天皇の子供や孫らだろ
応神天皇の時代に半島に渡ったのが毛野将軍(君)やぞ
この人物が倭軍代表を務めて大和朝廷に情報を送ったり中国の皇帝あたりともおそらく連絡のやりとりやったんやろ 竹田恒泰さんがおっしゃってたけど
どっちみち関係ない。
物証として前方後円墳がある以上
そして後の大和朝廷がもともと奈良の人間じゃないことを考えると
政権の地固め、奈良での覇権、各国との提携
にそれぞれ数世代は必要だっただろうから
神武天皇に相当する存在まで遡ることになる。 系図予想はこうなる
ヤマトタケル一景行天皇(妻、神功皇后)一応神天皇一仁徳天皇一倭の五王時代 >>944
九州説(作り話)は一人一作り話
竹島どろぼう反日有害朝鮮人も九州作り話(朝鮮起源工作)
畿内説は全国の学者の通説 >>934
>撤退?
>私は24時間貼り付けいていないので間を置くことはありますが、、
毎回泣きながら撤退してるだろ
FAQ58でも78でも負けて、61では二度負けた 日本統一戦争を行い古墳勢力と呼ばれるものを広めたのはヤマトタケルやぞ
この時代に国造らに任命される者らが現れてるんだよ 毛野氏もヤマトタケル時代に発生してんだぞ
おそらくヤマトタケルの東征に同道してそのまま東国に残ったのやろ すでに天皇自ら出て戦う時代は終わってるからな
その一門の皇族や大連らが派遣されて戦闘やってんだよ
神功皇后のときは葛城襲津彦が参謀やったらしいがこれが最後くらいやろ >>951
毎回のことですが、濁すのはやめて答えてください。
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
の根拠が書いてあるのですか?
次スレに持ち越しますか?
今回は柱穴で、遊びましたから、、満足です。 >>957
文字が読めないの?
異常に知能が低いんだね
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝) >>957
>毎回のことですが、濁すのはやめて答えてください。
>次スレに持ち越しますか?
毎スレ泣きながら撤退してるだろ
FAQ58でも78でも負けて、61では二度負けた >>957
今後も柱穴レスはよろしくお願いします。考古学悪用の畿内説が調子に乗るといけませんので。 >>961
馬鹿すぎて九州説が世間から見捨てられるぞ >>963
ほっとくと勝手に自滅してくから九州説は面白い そもそも纏向説は邪馬台国とも関係ない、年代も合わない遺物を妄想で繋ぎ合わせただけだから
纏向で桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構。
土坑は建物の柱穴より深く連続していない遺構なので関連性は不明。
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
少なくとも建物と桃が同時期のものでない事は確かだ。 >>966
大型建物を囲う柵(南側)の下から出土したってことは、桃の種は大型建物の住人とは無関係ということだね。 なんでピンポイントで場所を決め付けようとするかね
卑弥呼と書いた表札が出る訳でもないんだし >>162 「箸墓&纏向ありき」のオレオレ詐欺、畿内説! >>966
あなた、調査期間の発表とぜんぜん番うこといってますけど 「箸墓&纏向ありき」の白いカラス(黒い詐欺)、畿内説! >>931
>朝鮮半島の住居が密集する北部九州
http://blog-imgs-60.fc2.com/z/a/r/zaru3386/2013102123501541c.jpg
そうか。
半島の「松菊里」型の家屋、と言うのは、やはり、
韓伝の「居處作草屋土室,形如冢」の「冢」の、錐体(台)的な形であり、
倭人伝の「其死,有棺無槨,封土作冢」の「冢」も、竪穴式住居であって、
それも、錐体(台)的な形態であったのか。 >>973
公孫氏→帯方郡や伽耶と盛んに交流していたんだから、女王之所都は北部九州とするのが自然(倭地に牛馬なし)。
文字使用の痕跡のない王都に金印をやっても意味がない。 纏向って物部氏の古墳群なんだからそちらに資料がないとね 三輪山の神、大物主を祀る神官になったのが物部一族だろ
三輪山の神と神前婚した女性が百襲姫やからな
その中で箸墓が百襲姫の古墳とされてるんだろ
ホケノ山古墳が豊鍬入姫の古墳や >>970
>>974
もし「倭地に牛馬有」なら、畿内説もあり得たのだろうがねw >>958
だから、十倍に公表する習慣のが古代中国でオーソライズされてる、証拠や根拠を質問しているの。
習慣の意味わかりますよね。 >>1
奥山さんでは埒が開きません。
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり<
と言ってる。日本の学者名をあげて下さい。
そこで、調べます。
学者名よろしくお願いします。 >>128
えっ!?不弥国→投馬国→邪馬台国ルートって倭国内の水行日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って書いたわけ??
道里で、どこにも比定できないわけだ…無理矢理、日本地図に当てはめようと、九章算術持ち出したり、十倍報告習慣とか言ってるヌレ主、宮崎康平さん、伊作が、気の毒すぎる… orz 伊勢に移って伊勢神宮の基礎を築いた倭姫命の古墳が伊勢の尾上古墳と言われとるしの 古墳時代なら伝説的な人物ならみな古墳作られとるやろ 不弥国も投馬国もどっちも日本には名称すら痕跡ねえもん なぜその古墳などの名称が残ってると思う?
文字があったからや >>110
>>112 奴国(女王之所都)が、投馬(都万)国の南北に、虚(会稽東冶)実(博多)「2つある」ってことか! 博多なんてねえだろ
太宰府が作られたの西暦903年だぞ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1636011872/50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>988
桃の種の上に大型建物の柵列が造作されたわけだねw >>988
>桃の種が発見された場所からして建物とは無関係
素人のお前の感想はそうでも
学者の調査結果は違うんだよ >>989
まあな。
外敵、火山、台風と多いからな。
壹與の後、情報遮断だしな。司馬懿だろ
国内統一開始を知られたくなかったかも? >>980
>だから、十倍に公表する習慣のが古代中国でオーソライズされてる、証拠や根拠を質問しているの。
>習慣の意味わかりますよね
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝) >>993
大宰府など北部九州は、倭国(阿波)王権を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。 @阿波 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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