邪馬台国畿内説 Part743
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1639144233/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし テンプレにあるような「土器の流入が支配の証拠論」は
いい加減、このスレでも否定されつつあると思うが
じゃあなにがあれば支配してる・してないと言えるのか考えてみた
古今東西の支配者は貴重品を集める
それは邪馬台国時代の日本でも同様なことは
墓・古墳の中に貴重品が埋められてることでも明らかだ
では畿内が北九州を支配していたら
北九州に貴重品が集積されず、
畿内に集積されるはずだ
しかし大陸産品のような貴重品は
邪馬台国時代には北九州に集積されて
畿内には乏しい
やはり畿内は北九州を支配していないのでは? >>75
うん
倭国と違う文化程度の低い地域が畿内にあったで良い。 かなり昔から奈良が神棚で大阪がダウンタウンみたいな感じなんじゃないかな
下手したら神武東征の前から >>75
>しかし大陸産品のような貴重品は
>邪馬台国時代には北九州に集積されて
九州発祥の文化はない。 縄文時代前期から文化発祥は「阿波」。
「田井遺跡 所在地 徳島県海部郡美波町由岐田井」
縄文時代前期〜中期・様々な道具とアクセサリー
田井遺跡は海水浴場として知られる田井ノ浜の北西約300mにある標高約20mの小山のすその微高地上にある。
2001年(平成13年)に道路建設に伴って発掘調査により、縄文時代前期末〜中期(約5,000〜4,000年前)にかけての、
主に石器を製作した跡とみられる遺構が発見されている。
出土した遺物として土器・石器類が多いが、なかでも注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。
石鏃にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳飾には滑石や蛇紋岩というように、
それぞれの道具に適した石を選んで製作していたことが分かっている。
※縄文人が、海を通じて広く交流をしていた様子が各種の遺物から分かる。 ← 言葉を濁しているが、倭国(阿波)の海人族のこと。 @阿波
田井遺跡で出土したけつ状耳飾
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5022996/ ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
☆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸☆ ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
☆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸☆ >>81の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) >>81
>ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
難しく考える必要はない
狗邪韓国から伊都国、奴国までに掛かる日数だよ
陸行一月は末盧国から伊都国、奴国までに掛かる日数だから陸行一日の誤記だ
3世紀の日本で陸行一月なんて出来る道無いから。 >>82
>>81
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を倭国の地理として描写→目的は「その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」
帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」 >>84
>3世紀の日本で陸行一月なんて出来る道無いから。
大有りだ。 @阿波 >>85
ええっ!?陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の行程日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の行程日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??
これじゃ投馬国の北(奴国2回書きで念押し)南(会稽東冶之東)の両方に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!
どうりで、九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…
むりやり日本列島に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山誠義氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz >>75
>テンプレにあるような「土器の流入が支配の証拠論」は
いい加減、このスレでも否定されつつあると思う
証拠は >>83
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
>>85
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した忖度(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`) >>87
>ええっ!?陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の行程日数じゃないの??
不弥国からじゃなくて帯方郡からだな
「帯方郡→投馬国→邪馬台国ルート」
距離で説明した帯方郡→狗邪韓国→伊都国ルートを時間で再度説明してるだけ >>85
九州説と畿内説(×)を比較してみた!
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(玄界灘沿岸)→投馬国(出雲)→→★邪馬台国(大和)狗奴国(東海)…「南⤴東」畿内説×
☆邪馬台国(筑紫平野)__↓「南水行二十日」(帯方郡→建業)
狗奴国(菊池・熊本・八代)投馬国(宮崎平野)
熊襲(薩摩)〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南水行十日」(建業→東治)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南陸行一月」(東治→東冶580q)
東冶の東〜〜〜〜〜〜〜〜〜邪馬台国(陳寿の嘘) >>89
高良大社は、卑弥呼の宮殿「居處宮室楼観城柵厳設」跡地に、(古墳時代の敵国→飛鳥時代の同盟国)高句麗の大使公邸ジャマイカ?
祇園山古墳の回りには高句麗系の集団墓地が造られているらすぃし >>90
そんな説明ないから読者にわかんねえじゃん >>92
脱字スマソ
阿毎多利思比孤が建てた高句麗大使公邸ジャマイカ? 投馬国と邪馬台国だけ何故帯方郡に戻るのか理由を言わないと
里数から日数に変わってるからだけじゃ理由になってない 谷川健一の『隠された物部王国「日本」』を読んでいるのですが、
面白かったので、
この著者で他におすすめのタイトルあったら教えてください 俺も帯方郡に戻る派なのよ
理由は陳寿の勘違いで里数に依る不弥国迄の行程の後に
帯方郡→投馬国→邪馬台国の行程を貼り付けたから
そうなると不弥国迄の行程は何の関係もないのよね >>95
里数から日数に変わってるだけでも十分な理由になると思うが
対馬国の方可400里と一大国の方可300里を距離とすれば伊都国、奴国までで12000里になることだな
末盧国から伊都国を東南と記してることからも
末盧国への到着点は東松浦半島の北端
帯方郡からの出発地は帯方郡の南端の海岸
端から端までの距離が里数として記されてるから
島の大きさも里数に入ると考えられる >>90
やはり、「帯方郡放射読み」が正しいんだね >>98
帯方郡に戻る説明がないんだから不弥国迄の行程って何なのよ >>88
証拠連呼ジジイ
私も土器の流入は支配の根拠にならないと投稿してますよ。
生活用品の土器は権力の象徴では無く単なる流通ですよ。
前方後円墳は流行ですよ。前方後円墳を作る職人集団がいたかも?
古墳時代にヤマト王権は全国支配していないのに各地で前方後円墳は発見されてますよ、 倭人伝「不弥国より南水行二十日で投馬国に至る」=「帯方郡放射読み」のカラクリ
−帯方郡→不弥国↓
−(帯方郡)→投馬国→邪馬台国 >>100
奴国から不弥国迄の行程は周旋5000里の説明の一部だな
不弥国の次にはシマ国が来る
シマ国から奴国まで20か国経由が4900里なので
奴国から不弥国迄が100里なんだ >>101
>古墳時代にヤマト王権は全国支配していないのに各地で前方後円墳は発見されてますよ、
「倭人(阿波勢力)」が、全国各地へ進出したからね。 @阿波 >>104
4900里は(500+100+100)3×21=4900
末盧国から不弥国迄の行程の平均から不弥国、傍国、奴国までを推定したんだな >>104
正直何言ってるのかわからんし周旋5000里の記述は
侏儒国・裸国・黒歯国も含んでて出鱈目だから >>107
侏儒国・裸国・黒歯国は倭国じゃないから「周旋可五千餘里」には含んでない
侏儒国・裸国・黒歯国は倭種より更に遠い国々
「周旋可五千餘里」は倭国一周だよ。 >>87
森村伊作が、気の毒すぎる???
インチキ古田からの脱却だから幸運だな。
詐欺の被害最小に食い止めた。 >>99
「帯方郡放射読み」と云うよりも
単に帯方郡から距離と時間で説明しているだけだな
より丁寧に分かりすいつもりだったんだろう >>91
なるほど!陳寿の蛇足を安直に「南→東」に90度捻じ曲げたのが、箸墓オレオレ詐欺か!納得w >>109
含んでないと解釈する方が難しい
倭種でも倭地でも無いのに何の為に書いたんだ? >>112
だったら邪馬台国迄書けよ
なんで不弥国で終わってるんだよ >>115
よんで、
正しいの理由がないからだよ。 >>116
邪馬台国は伊都国、奴国、傍国等を含んだ北部九州地域全体ですよ
邪馬壹國 女王之所都
邪馬台国は女王の全ての所
自動翻訳でも所都は「全ての所」だな >>85
「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし」とするための、
倭人伝「不弥国より南水行二十日で投馬国に至る」=「帯方郡放射書き」のカラクリ
帯方郡┐
↓(女王国島・不弥国)
↓「南水行二十日」
建業(投馬国島=宮崎都万)
↓「南水行十日」
東治(奄美大島)
↓「南陸行一月」580q
東冶(邪馬台国島) …「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東(海上)にあるべし(嘘)」 >>121
不弥国からじゃなくて帯方郡からだな
「帯方郡→投馬国→邪馬台国ルート」
距離で説明した帯方郡→狗邪韓国→伊都国ルートを時間で再度説明してるだけ
これだけ? >>120
その解釈でも良いんだけど何故不弥国の後に繋げたの?
説明が無いとあれじゃわかんないよ >>124
つ>>81
とにかく南に南に、邪馬台国島を東冶(呉越国境・帯方郡から12,000里)まで持って行きたかったから 帯方郡に戻るなら不弥国迄の行程は何の関係も無いってのが一番しっくりくると思うがな >>103
>>122
帯方郡に戻ると正直に書くと読者が混乱するから、あえてそのまま不弥国の後に木に竹を接いだわけか。。。 >>127
さらに混乱するよ。
ふたつにわけたルートを書くよ。
なので間違い。却下だな。 >>85
>>91
倭国は狗邪韓国の南海上からベトナム国境まで届くような南北に細長〜い島々という認識だから、不弥国の後に投馬国を直線的に書かないと違和感があるからね >>128
現代中国の認識じゃなく、古代中国の認識だから仕方がないよ 放射説だと帯方郡から10日で九州まで来なきゃいけないし
帯方郡→投馬国→邪馬台国なら里数の説明で出て無かった投馬国何処よって話し 現代の地理観で倭人伝を解釈すると、とんでもないことになるわけだw >>116
>だったら邪馬台国迄書けよ
>なんで不弥国で終わってるんだよ
里数は不彌国で終わってはいない。
その後に「自郡至る女王国萬二千余里」と里数で締めくくられている。つまり差し引きすれば、不彌国から残り1300里だ。
が、このように読者に軽く暗算させ、参加意識と優越感を持たせるのも、執筆テクニックの常套手段。探偵小説もそうだろ。
但し、生涯、ゴチゴチの学術論文しか読まない優秀な学者どもには、文筆家陳寿の文章のアヤはわからんだろな・・。 >>133
中二病を説得しようとするだけ時間の無駄だよw >>130
古代中国の認識だから仕方がないよ???
当時の認識なら順次になるよ。
だって放射読みて昭和に入ってから、
ぺーテン古田が言い出した。
ぺーテン古田原理主義者内でやってくれ。 >>135
こういう輩を説得しようとするとこうなるわけw >>101
脳キウス
誰も「土器の流入は支配の根拠」と言ってない >>116
>だったら邪馬台国迄書けよ
>なんで不弥国で終わってるんだよ
飛行機と新幹線で行き来する現代人なら、里数≒日数でおおむね比例するので、まあまあ問題ない。
叉、古代でも、中国大陸の大平原が舞台なら、里数≒日数でこれまたナントカ通用した。
しかし本件の帯方郡からの距離に関しては、沿岸水行あり、大海を渡る決死行ありで、特例中の特例といってよい旅だ。
現代でいえば、前澤の宇宙旅行みたいな具合だったのだろう。
だから、里数はそれとして、
んじゃ、いったいぜんたい、日数とおカネはいかほどかかるんだい。天文学的な金額じゃね・・、と、読者の興味は尽きなかったのだろう。 >>133
箸墓纏向オレオレ詐欺集団の畿内説脳には決して読み取れない、陳寿が仕掛けたクイズ
「帯方郡から不弥国までは10,700里です。そして帯方郡から邪馬台国・女王之所都までは12000里です。
では、不弥国から邪馬台国までの距離は何里でしょう?」 >>139
へんな質問だな。
帯方郡から邪馬台国・女王之所都までは12000里ではありません。
自郡至女王國萬二千餘里の解釈
共通ではないのに。マイルールを押し付けるのだろうか? >>139
「おじいちゃん(叔父さん)、オレだよオレオレ!893と事故っちゃって困ってるんだよ。今から言う口座番号に100万円振り込んでくれよ!」 >>138
それ不弥国で終わってる理由になってない 帯方郡に戻るのもおかしいし不弥国からそのまま繋げても日数的におかしい
里数から日数に変わってる不自然さがあるんだから陳寿の勘違いが一番しっくりくる >>140
>へんな質問だな。
>帯方郡から邪馬台国・女王之所都までは12000里ではありません。
あれか、古田が云った島めぐりのことか??
あれは、島のぐるりを検分すると称して、立ションベンに寄ったんだからなあ。 >>141
九州説は、箸墓纏向オレオレ詐欺に引っ掛かっている「付和雷同・寄らば大樹」おじいちゃんたちを守る郵便局職員の役目を果たしているのかもな >>138
>それ不弥国で終わってる理由になってない
不彌国で里数が終わってると読むオメの脳みそが可笑しい。ちゃんと、女王国まで1万2000余里だったと書いてある。 陳寿が仕込んだ知能指数テストw
「帯方郡から不弥国まで合計10,700里です。
帯方郡から邪馬台国まで合計12,000里です。
では、不弥国から邪馬台国までは何里でしょうか?」 >>147
>ちゃんと、女王国まで1万2000余里だったと書いてある。
別にな。 帯方郡から女王国まで直線距離で1万2000余里だった とな。 @阿波 >>149
つまり、不弥国から邪馬台国まで1,300里というこつ? >>151
>つまり、不弥国から邪馬台国まで1,300里というこつ?
陳寿は、そんな計算していない。 @阿波 >>145
不弥国から帰路と不弥国から
南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
南至邪馬壹國,女王之所都。南至は出発方向で進行経路関する
情報が抜けている。大雑把に聞いたのみ。 >>151
そういうこと。つまり福岡平野の南、筑紫平野にあるということ。
オレオレ詐欺の50歩(四国説)100歩(大和説)には決して読み取れないIQテストw 陳寿は1万2千里を行程距離だと勘違いしている
おそらく元記事は直線距離だな >>124
伊都国、奴国、不弥国がワンセットで女王国だからだろうな
この辺が邪馬台国の中心部
>>126
書いた方は12000里の説明が終了してるから続けて読むとは思わなかったんだろうな
>>131
投馬国は狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部地域の倭地だな
狗邪韓国と伊都国にだけ至ではなく到が使われているからな
狗邪韓国:投馬国
伊都国:邪馬台国
>>147
伊都国、奴国、不弥国がワンセットで女王国だから
不弥国まで書いてる
更に「周旋可五千餘里」の説明の一部にもなっている
>>149
合計12,000里って書いてるんだから内訳を合計すれば12000里になるように書いてる
對島國の方可四百餘里と一大國の方可三百里
400里×2と300里×2も行程の一部だよな。 >>156
合計12,000里って書いてるんだから内訳を合計すれば12000里になるように書いてる
對島國の方可四百餘里と一大國の方可三百里
400里×2と300里×2も行程の一部だよな
ここは同意、陸行はない。 >>157
最終目的地が不弥国なのにここが邪馬台国ですと言ってもわかんねえだろうがよ >>153
>情報が抜けている。大雑把に聞いたのみ。
あのな、郡の使いが来たのは1回だけではない。
紀元前に設置された楽浪郡(平壌都)の時代から「楽浪郡使」というのが設けられていてな、
その楽浪郡使と、その跡を継いだ帯方郡使(ソウル)とは、何百年かにわたって数十〜数百回渡来したという。
だから、その都度報告書を上げていたんだと思うよ。
陳寿はそれら膨大な情報をを要約して、2000字に纏めたの、だから情報の省略も莫大あったのだよ。 >>145
「方可四百餘里」は面積じゃない事は明白なんだ
面積を知るには島を一周しないといけないが魏使にそんな暇はない
島の片面の沖を通過しただけだから距離なんだよ >>156
計算してみると、合計が100里合わないぞ、オレオレ詐欺だな。 >>158
目的地は到が使われている狗邪韓国と伊都国だよ
最終目的地は伊都国だね。
>>159
陳寿は距離と時間での情報を持っていたから両方書いたんだ
まさか続けて読むとは陳寿も予想外だったろうな。 >>161
女王国は伊都国、奴国、不弥国の総称だからだよ >>160
それが詐欺論ぽい
片面の沖を通過したから300x2と400x2を行程に追加するって
勝手な妄想でしょ >>155
いやいや、勘違いしているわけではない。 別けて、切り離して記述してるだろ? @阿波 >>159
当然だな。
もっと細かく投馬国、邪馬壹國あってよさそうなのに
ないのはどうしてか?
又、日数と戸数が可なのか?
歴史の浅い国、新興国と見ているけど。 史上最大の歴史捏造、歴史に対する冒涜、箸墓纏向オレオレ詐欺に比べれば、小さなもんだw >>160
「方可四百餘里」は面積じゃない事が明白だとか、小学生以下のことを口走る。
ついに、死学の化けの皮がはがれてきたな。 >>162
伊都国であっても同じ事だ
邪馬台国に行くんでしょ
何故伊都国が邪馬台国なんだ? >>164
魏志倭人伝の行程文では国の端から端へだからだよ
帯方郡の南の端から出発して狗邪韓国の端へ7000
狗邪韓国の端から対馬国の北端へ1000
対馬国の北端から対馬国の南端へ400x2
対馬国の南端から一大国の北端へ1000
一大国の北端から一大国の南端へ300x2
一大国の南端から末盧国の北端へ1000
こんな書き方になってる
次は末盧国の北端から伊都国、末盧国の国境へ500里(1里80mとして40km)
計算も現実とドンピシャ >>165
末盧国までで1万里だから阿波まで到達しないだろ >>172
>末盧国までで1万里だから
陳寿は、そんな計算していない。 @阿波 >>169
12000=7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100
伊都国と奴国の境で12000里だよ
>>170
伊都国に卑弥呼が居たからだよ >>174
陳寿は、そんな計算していない。 @阿波 >>168
「方可四百餘里」は面積じゃない事が明白だろw
島を上から眺められないから面積なんて分からない
横からしか見てないんだからな >>173
何言ってんのかわかんない
不弥国迄の行程はなんだと思ってるんだ? >>175
陳寿は12000里の内訳の説明は終わったつもりだよ
だから日数も書いたんだ。 まあ、近畿説は卑弥呼は九州、
邪馬壹國は近畿(災害復興、開拓)なので邪馬壹國に行く必要がない。
邪馬壹國は中心国でもない新興国。
自郡至邪馬壹國萬二千餘里でなく
自郡至女王國萬二千餘里なので範囲。
郡から会稽東治から円を書いて南〜南東が範囲
出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹筱簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以爲滋味。有獮猴、K雉。其俗舉事行來,
有所雲爲,輒灼骨而卜,以占吉凶,先告所卜がおさまる。 >>166
邪馬壹國の内訳の説明が対馬国から不弥国、傍国の説明なんだよな。 >>174
テンで理屈になっていないぞ、
支離滅裂になって、クチからゲロ吹いてきたな。 >>177
>不弥国迄の行程はなんだと思ってるんだ?
順次行程。 不弥国以降も女王国までの順次行程。 @阿波 >>177
順次行程も直線距離。 不弥国以降も女王国までの順次行程。 @阿波 >>178
不弥国の次に千三百里邪馬台国と書いてあればそう言える
その場合投馬国何処って話しだけど >>176
オメもテンで理屈になってないぞ。ま、立ちションベンに回り道したんだろうな。 >>182
なるほど、わかった
ただ投馬国の記述が無いのが不自然だな >>179
卑弥呼の出身が近畿の邪馬壹國で九州に住んだという完全な九州作り話 >>187
>ただ投馬国の記述が無いのが不自然だな
ある。 「官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」 @阿波 邪馬台国が食い意地張った関西人と同じ拠点とか悪口でしかない >>190
不弥国〜投馬国も里数がない。 九州を離れたら、里数表記がない。 今、分かるのはそれだけ。 @阿波 >>192
だから不弥国〜投馬国の里数が無いのが不自然だと言ってるんだけど
九州を離れたらって事かもしれんな 三千里投馬国とでも書いてあれば別だとわかるんだがな >>171
そういうインチキ計算が猜疑の証明
法則性ないだろ
伊都国の国境まで行って、なんで伊都国横断の距離書かないかそれは
詐欺だから >>193
つまり魏人にとっては
里数も日数も似たようなもんだって事
どっちも道里に変わりない >>121
お前が日本語知らんから何度も書き直す。ガキじゃん。 >>42
> ◆FAQ 47
> 弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、
そんな動機ないだろ、弱体化させてる勢力の主たる者は反乱する民衆である、
それらに対し小国からの貢など何の効も無い。
>帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
帥升等 とは普通に解釈すれば帥升を首長とするクニの使節団等である。 >>193
>だから不弥国〜投馬国の里数が無いのが不自然だと言ってるんだけど
>九州を離れたらって事かもしれんな
これ又、陳寿お得意のクイズになってるんだよ・・、
つまりこれは、その後にでてくる「自女王国以北 戸数道里可略載 其余の傍国は遠絶にして不可得詳・・」、のマクラになってる。
たしかに投馬国には里数が書かれていない・・、ということは、ハハンもしかしてこの国は、女王国の南にあったのではないか、
そういえば、投馬国の第一候補は宮崎の都万だったな、ちょっくらググッてみるか。
どれどれフーン、なるほど都万は、肥後熊本の女王国より遥かに南にあるじゃん・・・、、 >>194
>九州作り話の活動の中心は関西
そうだな、九州作り話の死学活動拠点は関西。纒向作り話の活動中心も関西、
さすが、ヨシモト天国の五畿/関西だけあるな・・www >>192
陸地で繋がっていれば、水行20日と
陸路での日数記載する。つまり陸路ではいけない
四国が投馬国。南至り水行10日で紀伊半島
邪馬壹國,女王之所都
復興、開拓中であり、葛城
葛城掖上宮室、秋津島宮、磯城瑞籬宮
纒向珠城宮と移動していたから定まらず
陸1月と答えようがなかった。 >>188
理由は?共立でせ?
紛争地域の安定化はかる
貿易、食糧、資源の安定化
主体は、卑弥呼と軍事的な力をもつ
奴国、この二つがひとつになったのが
後の大和政権、なので九州地方の神話が多い。
また、内部抗争の原因の一つとなる。 >>180
指宿あたりから南至り10日で紀伊半島
指宿にあった小人伝説を聞いたのであろう。 >>197
>つまり魏人にとっては
里数も日数も似たようなもんだって事
どっちも道里に変わりな
道里の定義が不明なのですが、、 >>197
だから、>>199の
>陸行一月を自説で説明してみろよ!
に
答えられないのです。 >>203
太平洋航路は賛同できます。
投馬国が四国全域を指すのか?それとも一定の地域(たとえば高知とか)を指すのか解説してもらいたいのですが、、 >>139
>「帯方郡から不弥国までは10,700里です。そして帯方郡から邪馬台国・女王之所都までは12000里です。
では、不弥国から邪馬台国までの距離は何里でしょう?」
設問自体が、間違いです。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「帯方郡から不彌國や邪馬壹國女王之所都」までの道のり的距離が、
對海國と一大國のそれぞれの二辺の海岸沿いの陸行をしているので、
萬二千余里」です。 >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
テンプレで纏向遺跡は一部天理市にもまたがるのだが、何故桜井市だけ強調するのですか? >>144
>帯方郡に戻るのもおかしいし
賛成です。
>不弥国からそのまま繋げても日数的におかしい
日数は、萬二千余里という「郡からの女王之所都への里数の記載」の意図とは違うものだから、
おかしいのは君の脳。
>里数から日数に変わってる不自然さがあるんだから陳寿の勘違いが一番しっくりくる
「不自然」なのは君の解釈であり、
「陳寿の勘違い」も、君の解釈間違い。 >>209
全体です。
記紀に古くからある温泉
有馬は、記紀以前からあると思います
道後、南紀白浜 開拓等の結果かもしれない。 >>149
>陳寿が仕込んだ知能指数テストw
陳寿は「知能指数テスト」など仕込んでいないし、仕込む必要もない。
同時代の魏の役人らの「実地の見聞計測の記録」をほぼそのまま紹介しただけ。
>「帯方郡から不弥国まで合計10,700里です。
帯方郡から邪馬台国まで合計12,000里です。
では、不弥国から邪馬台国までは何里でしょうか?
「邪馬台国」も存在もしなかった文言だからバツであり、
「10,700里」も「合計12,000里」も「余」がないからバツです。 >>151
>つまり、不弥国から邪馬台国まで1,300里というこつ?
いえ、記載里数の最小里数記載が(四捨五入した結果?で)百里であり、
不彌國で記載里数合計が萬二千余里になっていて、
その次の不彌國から邪馬壹國女王之所都への里数が書かれていないから、
50里以下であったという事になり、
だから、不彌國の出口から邪馬壹國女王之所都の入り口までが、50里以下であった、
という事になります。 >>186
面積を知る為には島の形を知る必要がある
旅の途中で島の横を通過しただけの魏使が島の面積をどうやって知ったんだよ?
自分達の通過した距離しかわからないだろ
この当然の理屈が理解できないの?
>>196
「東南至奴国 百里」が伊都国横断の距離だよ
伊都国の西の国境から東南の国境へだ >>185
陳寿は対馬国の方可四百餘里も一大国の方可三百里も行程の距離として書いている
この400里×2と300里×2を含めるから12000里は終了している
だから陳寿は12000里の内訳の説明は終わったつもりだよ
不弥国の次に来る国は斯馬国だよ
日数の行程は里数行程を再度説明しているだけ >>153
>不弥国から帰路と、
帰路は、原則として記録された往路の行程を逆に辿ればよいのだから、
始めから書かれていない。
>不弥国から
南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
南至邪馬壹國,女王之所都。南至は出発方向で進行経路関する
情報が抜けている。
投馬國は不彌國からの側副傍線行程國としての、倭人からの伝聞情報の記載であり、
だから、不彌國の次が邪馬壹國女王之所都である事になり、
情報は別に抜けていない。
>大雑把に聞いたのみ。
君は、倭人伝の読み方の方が、大雑把であり、雑である。 道案内として成立してない時点で
それ以上詮索してみたところで全て憶測になっちゃいますよね
他のことを考えた方が思考経済上有益かもしれませんね >>193
つまり魏人にとっては
里数も日数も似たようなもんだって事
どっちも道里に変わりない >>199
>陸行一月を自説で説明してみろよ!
それが出来るのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>193
水行20日しかないから九州から離れた。
併記で陸行XX日がない以上は九州から離れたと推測
宮崎、四国と投馬国は悩みました。 >>202
畿内説は我国の学者の通説なので
九州の学者も当然畿内説 >>206
>道里の定義が不明なのですが、、
それが九章算術をちゃんと読めばわかると言うこと >>217
>「東南至奴国 百里」が伊都国横断の距離だよ
>伊都国の西の国境から東南の国境へだ
末盧国から東南に来たのに
なぜ伊都国の西の国境なの? >>155
>陳寿は1万2千里を行程距離だと勘違いしている
いや、魏略逸文も、
魏志倭人伝と同じく、「自郡至女王國萬二千餘里」を書いているようだから、
「自郡至女王國萬二千餘里」は魏の役人らの記録であった事になり、
「陳寿は1万2千里を行程距離だと勘違いしている」という事にはならず、
君はバツだ。
>おそらく元記事は直線距離だ
いや、おそらく、
魏の役人らの「郡から邪馬壹國女王之所都の記載の折れ線的道のり里数の合計」で、
郡から女王国への里数だろう、と推定したものだ。 >>222
>>193
>つまり魏人にとっては
>里数も日数も似たようなもんだって事
倭人はIQが低いからな、区別が出来ないのさ
その点、IQも偏差値も格別上等の漢民族/帯方郡の役人たちは、キチンと使い分けてるってこと。 >>216
50里以下であったという事になり、
だから、不彌國の出口から邪馬壹國女王之所都の入り口までが、50里以下であった、
という事になります。
阿保すぎ、50里以下でも計測可能だよ。
目的が邪馬壹國なんだろ。
徑百餘步とか細かく書いている。 >>227
末盧国から東南に来て伊都国の西の国境に付いたんだよ
末盧国の北岸(名護屋浦、呼子付近)に上陸、東松浦半島内を南下、唐津市街地から東へ
1里80mとして500里は40kmだから
糸島市の伊都G.C.付近が伊都国の西の国境 >>157
>合計12,000里って書いてるんだから内訳を合計すれば12000里になるように書いてる
對島國の方可四百餘里と一大國の方可三百里 400里×2と300里×2も行程の一部だよな
ここは同意、陸行はない。
「陸行はない」の部分はバツだな。
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の、
「可五千餘里」の計算でも、「參問倭地」は、
「絕在海中洲島之上或絕或連周旋」は明らかに陸路の参問をしている記述であるので、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
になるから、
400余×2+300×2は、對海國と一大國の陸路計算になっている、
という魏の役人らの計算法を、説明しておいてある。 >>158
>最終目的地が不弥国なのにここが邪馬台国ですと言ってもわかんねえだろうがよ
これもバツです。
魏使らの目的地は、当然女王之所都であり、邪馬壹國の中にある。
また、魏の役人らは、目的地として、別個に侏儒國付近まで行っているから、
「又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」の、
船行の出発地付近の確認もしている事になる。 >>232
>末盧国の北岸(名護屋浦、呼子付近)に上陸、東松浦半島内を南下、唐津市街地から東へ
>1里80mとして500里は40kmだから
それの、どこからが「東南」で
どこからどこまでが「五百里」なの? >>160
>「方可四百餘里」は面積じゃない事は明白なんだ
面積を知るには島を一周しないといけないが魏使にそんな暇はない
島の片面の沖を通過しただけだから距離なんだよ
これもバツだな。
「方〜里」は、元々正方形的な地の「一辺の長さを示す事での近似的面積説明法」であり、
だから、對海國の「方可四百餘里」は、
對海國が大体「一辺が四百余里位の正方形」的な面積である事を示し、
当然海岸線の陸地側の一辺長で表した事になり、
だから、海岸沿いの二辺長の陸路長を示す事になる。 >>161
>計算してみると、合計が100里合わないぞ、オレオレ詐欺だな。
奴國へは、途中移動があった事を示す文言がないから、側副傍線国としての記載であり、
魏使らは通っておらず、案内の倭人からの伝聞情報であり、
だから、「合計が100里合わない」のであり、
だから、この投稿子も、オレオレ詐欺の(大和説者らの?)仲間だな。 >>163
>目的地は到が使われている狗邪韓国と伊都国だよ
最終目的地は伊都国だね。
「到」は「至り立つ」という文字形であるから、
「至」に比べて、「ようやく至り立った」という意味を示すので、
狗邪韓國での「到」は、
郡からはるばるやって来て、ようやく「倭地」に到着出来た、
という意味であり、
伊都国での「到」は、倭地の中で、以前から王や一大率がいて、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」
をするような、倭國の関門のような大事な国にようやく着いた、
という意味。
>陳寿は距離と時間での情報を持っていたから両方書いたんだ
まさか続けて読むとは陳寿も予想外だったろうな。
賛成です。彼らや大和説者は、アホでしょうね。 不彌国で1萬2000里か。
んでそこが、女王の国であり都である7万戸の国で、安徳台あたりということな。
そんなせまっかい田舎町に閉じ込められて、関西人が唱えるフルタ死学もついに雪隠詰め、進退窮まったようだ。 >>226
ヤラセだろ^_^
九章算術ではわかんねーよ日数=労働日数だから、距離は関係ねーよ
ヤラセ確定 >>233
ふーん
テンプレではさー日数表記部分は
万二千里から万里引いて2千里だろ
二千里に魏里をかけりゃ、約800キロ
だから、北部九州から纏向までの距離が日数表記部分だってさ >>233
「參問倭地」これは倭地に付いて問いを集めるって意味だよ
倭人に倭地に付いて聞いたんだよ
話を聞いて魏使が倭地は「周旋可五千餘里」くらいかなと推定したんだ
実際に「周旋可五千餘里」したのではないよ。
>>235
名護屋浦、呼子付近から「東南」で
名護屋浦、呼子付近から伊都G.C.付近までが500里
>>236
「方○○里」は、元々縦横一辺の長さが○○里の土地を指していたが
転じて一辺の長さが○○里の正方形の土地の面積も示すようになったんだよ。
>>239
京都大学の元教授の漢字研究家白川静氏が
「至」は矢が地面に刺さった形
「到」はその横に人が立っている形
だと説明されている
「至」は全てのものに使用可能だが
「到」は到着など、人の行動に限られる字
つまり狗邪韓国と伊都国が目的地で他の場所はたまたま通っただけの場所。
>>240
女王国とは邪馬台国の中心をなす伊都国、奴国、不弥国のことで
邪馬台国はこれらを含む北部九州地域全体のこと
7万戸は北部九州地域全体の戸数 >>244
>京都大学の元教授の漢字研究家白川静氏が
ま、そういう通説もあるという程度だな。
そもそも「到る」の字の立刀部分は、銅戈の「戈」の古い象形だそうな。
戈とは、槍か刀のようなものの長刃の途中に、鋭い突起が突き出た形であり、
兵が頭の上にかざす盾の上から振り下ろして、盾ごと兵の体を突き破る「T型三ッツ又」のような武器のこと。
それから転じて、T字路ないし三叉路に分かれる街道を、誤りなく行くことを意味した。 >>244
周旋って1周の意味じゃなく行程の意味らしい。三国志原文の周旋はほぼそんなかんじみたい >>244
>「到」は到着など、人の行動に限られる字
「人」を表すのは、昔から「人偏・ニンベン」と相場が決まっておる。
人偏の付く字は山ほどある。だから、あえて「到る」を人間の行動に当てる必要はない。
それに比べ「リ・リットウ」を持つ漢字は極めて少ない。古来、このツクリを「立刀」といい習わす如く、武器(戈)に由来するのである。 >>246
本来、周旋は1周の意味じゃなくて何回も回るって意味だよ
1周以上すれば周旋
1周半したのを曲解して行程の意味とか出鱈目な事を言う人がいるね
三国志原文の周旋も1周以上している
入口と出口が違うから1周してないとか馬鹿な事を言ってるね
1周半か2周半みたいに半周が付いてるだけなのに
>>247
京都大学の元教授の漢字研究家白川静氏によると「到」の場合は
「到る」の字の立刀部分は、刀ではなく人だったのが象形文字では形が似ていたので立刀になってしまったんだと >>246
翻訳でもそれらを巡ればって書いてあるしそんな感じでしょ >>244
>名護屋浦、呼子付近から伊都G.C.付近までが500里
伊都G.C.付近?
そんな場所になにしに行くの?
九州説って馬鹿ではないの?
いや、馬鹿だよね 畿内説の研究でも魏志倭人伝をどう読み替えても畿内に行かないから、
魏志倭人伝の読み替えを諦めてる節があるよね
ヤマト王権の古墳が日本全国へ広がりつつあった時期だから、
ヤマトに邪馬台国があったに決まっているという先祖返りに戻ってきた 倭人伝にも寿命が百年、あるいは八〜九十年とか書いてあるけど
この辺からも不老不死の薬が信じられてたんでしょう
いい加減なもんだ 確かに何でも陳寿の間違いにしてしまうのは良くないかも知れんが
明らかにおかしい部分の指摘も許さないってのはどうかと思うわ
身長三、四尺の人々なんか居るわけねえじゃん 裸の王様だな
おかしいと思ったものをおかしいと言っちゃダメなんだから >>250
>京都大学の元教授の漢字研究家白川静氏によると「到」の場合は
>「到る」の字の立刀部分は、刀ではなく人だったのが象形文字では形が似ていた>ので立刀になってしまったんだと
それは、京都大学の一人の日本人学者の一つの見解にすぎぬ。
象形文字を調べてみれば明らかだが、「人」の象形、則ちのちの「人偏」は、カタカナの「ト」のように、突起が右方向へ飛び出している。
しかしリットウの象形では、「ト」を左右反転した形であり、突起は左方向へ飛び出している。
これは「人偏」とは真反対であり、何に似ているかと言えば「戈」であろう。
であるから、現代の中国語でも、到は「苦労して到った」、「やっと着いた」というような意味に使われる。
なお白川ではないが、別のライバル大学者は、到は、真っすぐでなくて「大きく曲がっていく場合」としている。 >>163
>女王国は伊都国、奴国、不弥国の総称だからだよ
これ間違いね。「女王國」の定義や範囲は、
七万戸の邪馬壹國女王之所都の説明の後に、
「自女王國以北其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕不可得詳。次有斯馬國・・・」であるから、
其戶數道里可得略載された「對海國〜投馬國〜邪馬壹國の国々」、
と定義された事になり、
狗邪韓國は、倭地のようではあるが、戸数が書かれておらず、女王國に含まれるのか?は不明であり、
其餘旁國の21國については、
「遠絕不可得詳。次有斯馬國・・・次有奴國,此女王境界所盡」であるから、
そこまで女王の境界所盡だとしているから女王國に含まれ、
しかし、その南の「其南有狗奴國,男子為王其官有狗古智卑狗,不屬女王」は、「不屬女王」であるから、女王國には含まれない事になる。
そして、「自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國」の「自女王國以北」は、
当然始め「自女王國以北」の定義を受けているから、「對海國〜投馬國〜邪馬壹國女王之所都」の範囲を検察する事になり、
狗邪韓國と其餘旁國の21國を検察したのか?は一応不明である事になり、
狗奴國は、全く検察していなかった事になる。 >>169
>それで、なぜ100里あわないんだよ?
伊都國の東南百里の2万戸の奴國は、魏使らは通っておらず、
側副傍線行程國としての説明であったから。 >>171
>魏志倭人伝の行程文では国の端から端へだからだよ
帯方郡の南の端から出発して狗邪韓国の端へ7000
狗邪韓国の端から対馬国の北端へ1000
対馬国の北端から対馬国の南端へ400x2
対馬国の南端から一大国の北端へ1000
一大国の北端から一大国の南端へ300x2
一大国の南端から末盧国の北端へ1000
こんな書き方になってる
次は末盧国の北端から伊都国、末盧国の国境へ500里(1里80mとして40km)
計算も現実とドンピシャ
そうですね。ほぼドンピシャリですね。 >>174
>12000=7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100
伊都国と奴国の境で12000里だよ
奴國は、
(伊都國からの)側副傍線國としての説明であるから、魏使らは通っておらず、
だから「不彌國と邪馬壹國女王之所都」で、ほぼ萬二千余里になります。
>>170
伊都国に卑弥呼が居たからだよ >>176
>「方可四百餘里」は面積じゃない事が明白だろw
島を上から眺められないから面積なんて分からない
横からしか見てないんだからな
「方〜里」は、ほぼ正方形の形状のものに対する「一辺の里数」での、
近似的表示法である。 >>253
伊都G.C.付近が末盧国と伊都国の国境だからだよ
伊都国は伊都G.C.付近と日向峠、糸島峠との間の糸島市南東部
>>261
投馬國は朝鮮半島南部地域、邪馬壹國は北部九州地域全体だから除外して考えないといけない
「自女王國以北」とは伊都国、奴国、不弥国以北の魏使が通って来た国々のこと
此女王境界所盡や不屬女王の女王と女王國は別の概念
女王は邪馬台国の事(女王之所都を省略して女王)
女王国は伊都国、奴国、不弥国の邪馬台国の首都圏の事 >>265
島を上から眺められないから面積なんて分からない
従って「ほぼ正方形の形状のものに対する「一辺の里数」での、
近似的表示法である。」なんて使えないんだよw >>180
>邪馬壹國の内訳の説明が対馬国から不弥国、傍国の説明なんだよな>
「女王國」の定義や範囲は、
七万戸の邪馬壹國女王之所都の説明の後に、
「自女王國以北其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕不可得詳。次有斯馬國・・・」
であるから、
其戶數道里可得略載された「對海國〜投馬國〜邪馬壹國の国々」、
と定義された事になり、
狗邪韓國は、
倭地のようではあるが、戸数が書かれておらず、女王國に含まれるのか?は不明であり、
其餘旁國の21國については、
「遠絕不可得詳。次有斯馬國・・・次有奴國,此女王境界所盡」であるから、
そこまで女王の境界所盡だとしているから、女王國に含まれ、
しかし、その南の「其南有狗奴國,男子為王其官有狗古智卑狗,不屬女王」は、
「不屬女王」であるから、女王國には含まれない事になる。
そして、「自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國」の「自女王國以北」は、
当然始めの「自女王國以北」の定義を受けているから、
「對海國〜投馬國〜邪馬壹國女王之所都」の範囲を検察する事になり、
狗邪韓國と其餘旁國の21國を検察したのか?は、一応「不明である」という事になり、
狗奴國は、全く検察していなかった事になる。 >>264
末盧国⇒伊都國⇒奴國⇒不弥国⇒斯馬国⇒傍国諸国⇒奴国であり側副傍線國なんて書かれていない
魏志倭人伝は極めてシンプル >>268
「女王國」と「女王」の違いが分かってないね。 >>197
>つまり魏人にとっては 里数も日数も似たようなもんだって事
どっちも道里に変わりない
「里数」記載と「日数」記載を、きちんと書き分けているから、バツ。 「此女王境界所盡」これは「此女王之所都境界所盡」を省略している
これ女王(の全ての所)の境界の尽きる所、又は、これ女王(の統べる所)の境界の尽きる所
「不屬女王」も「不屬女王之所都」の省略だな んなわけないっしょ。
君はもう議論に参加しないほうがいい。
もし略だとしても直前の女王國の略だし。 伊都国に卑弥呼が居たってそれ平原遺跡が卑弥呼の墓だと決め付けてるだろ え?違うん?
八咫鏡が出てきたんじゃないの?
勾玉とか劔もなかったっけか >>275
結論ありきで倭人伝の解釈をするから何言っても聞かない >>222
>つまり魏人にとっては
里数も日数も似たようなもんだって事
どっちも道里に変わりない
ダメです。
道里は「道の実際の里数」であり、「日数」は「所要日数」であり、
漢人たちは、明確に区別してます。
この男は、オレオレ詐欺師です。 八咫鏡は、鋳型から取り出すときに割れてしまった出来損ない
誰かが贋作に失敗して投棄したゴミ >>82
>>83
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 >>224
>水行20日しかないから九州から離れた。
併記で陸行XX日がない以上は九州から離れたと推測
宮崎、四国と投馬国は悩みました。
いや、投馬國は、
九州北岸付近の不彌國の南の方だと、最初にきちんと書いており、
また陳寿は「水行」と「渡海」を、かなり区別して書き分けており、
「水行」は、出発地点からの(同一陸地の)沿岸的航行を意図している書き方であり、
従って、九州北岸からの、東回りか?西回りか?の「水行二十日の)沿岸的航行で着けるところだ、
と説明している事になります。
だから、宮崎は可能性がありますが、
四国は、別個にも「女王國東渡海千餘里,復有國皆倭種」と書き分けていますから、
バツです。 >>281
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>280
そんなものお墓に副葬するわけないだろw
ウソつくにしても、もう少し考えてから書き込もうよ。
文字数だけで稼げると思うなよ >>283
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>225
>畿内説は我国の学者の通説なので
九州の学者も当然畿内説
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
畿内説を唱える大和説学者らは、始めからオレオレ詐欺師であり、
当然、九州説が、国民や世界の学者らの通説。 >>285
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(来年は皇紀268年w)。 >>226
>>道里の定義が不明なのですが、、
>それが九章算術をちゃんと読めばわかると言うこと
いや、「道里」は、当然「道のりの里」数であり、
「日数」は当然「所要日数」であり、区別されており、
九章算術の筆者は、その区別が出来ず、曖昧であったエセ学者です。 >>287
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 >>243
ふーん
>テンプレではさー日数表記部分は
万二千里から万里引いて2千里だろ
これまた、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説者の津港のようだね。
>二千里に魏里をかけりゃ、約800キロ
魏代になっても、民間では、周代からの周里(短里)と、
始皇帝里(長里)との混乱使用が継続していたので、
明帝の時に周里(周髀算経里の短里)の使用が決められたのであり、
この大和説男らの言う「魏里」が、
「魏朝里」の事を言っているのか?、始皇帝里の事を言っているのか?が不明であり、
アホですね。
>だから、北部九州から纏向までの距離が日数表記部分だってさ
「纏向」説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>273
女王が女王國と同じ意味女王國と書くさ
一字だけ省略したりしなかったりとかは無いな
>>274
平原遺跡を卑弥呼の墓だと決め付けてはいないが
可能性は高いな
>>276
投馬国は朝鮮半島南部地域の名称で
狗邪韓国は投馬国の中の一つの構成国だろうな
>>282
「女王國東渡海千餘里」これは伊都国、奴国、不弥国辺りから船で千餘里(80km)・・・丁度、山口県付近が倭種だな
「去女王四千餘里」こちらは邪馬台国の端(大分県)から4000里(320km)・・・関西くらいかな
魏志倭人伝では女王国と女王が混在して使い分けられている。 >>280
副葬が現認されていたのではない。墓の近辺の畑から、農作業中に多数の破片の状態で見つかった、
それを伝え聞いた大六が破片をかき集め・・であるかのように推定復元して飾ってる。
そのことは、本人が著書の中で触れている。 >>83
邪馬台国は共立王権。実質的な政治は弟がやり、姉の卑弥呼が死んだ後、彼が即位したが同盟国は従わず、再びお飾りの台与が立つと収まった。
こんな不安定な共立王権に、箸墓みたいな巨大王墓はムリ。
世襲王権にならないと(×作大冢→○大作冢)! >>292
当たり前みたいに書いてるけど同じ行程なら名前変えるのはおかしいでしょ
俺が言いたいのはそういう事で結論ありきだとおかしい事をおかしいと思わなくなる >>244
>「參問倭地」これは倭地に付いて問いを集めるって意味だよ
倭人に倭地に付いて聞いたんだよ
いや、「参」の文字があるから、魏の役人らが実際に、
倭地に「参」して「質問し問いただした」事を示す。
>話を聞いて魏使が倭地は「周旋可五千餘里」くらいかなと推定したんだ
実際に「周旋可五千餘里」したのではないよ。
推定では、「可五千餘里」だなんて里数が書ける筈がない。
当然、実際に見聞計測した事を記録するもの。
いい加減な事を書いて、部下らに拠って、皇帝にバレれば、首が危ない。 >>294
現代流に解釈すれば、
倭国=女王国(EU)=邪馬台国(ドイツ)+投馬国(英国)+狗奴国(ロシア)みたいな感じかな? >>296
「いい加減なことを描いたら首が飛ぶもの」
こいつも愉快犯w >>244
>女王国とは邪馬台国の中心をなす伊都国、奴国、不弥国のことで
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
7万戸の邪馬壹國は、伊都国、奴国、不弥国とは区別されて書かれており、
女王之所都の国である、として書かれている。
>邪馬台国はこれらを含む北部九州地域全体のこと
邪馬壹國は、福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地付近の国として書かれ、
倭國(≒女王国)は、狗奴國を省いて、
ほぼ九州島とその周辺島嶼群の国として、
行程説明をした8国と「其餘旁國遠絕不可得詳」の21国の、合計29国の国だ、
として書かれている。
7万戸は北部九州地域全体の戸数 >>245
>>京都大学の元教授の漢字研究家白川静氏が
>ま、そういう通説もあるという程度だな。そもそも「到る」の字の立刀部分は、銅戈の「戈」の古い象形だそうな。
戈とは、槍か刀のようなものの長刃の途中に、鋭い突起が突き出た形であり、
兵が頭の上にかざす盾の上から振り下ろして、盾ごと兵の体を突き破る「T型三ッツ又」のような武器のこと。
それから転じて、T字路ないし三叉路に分かれる街道を、誤りなく行くことを意味した
魏志倭人伝では「至」と「到」の書き分けが存在したのだから、
今は、その書き分けの意図を正確に推定する事の方が、大事。 指名手配愉快犯
−投馬国=半島南部男
−近畿説男
−大阪説男
−「いい加減なこと書いたら首が飛ぶもの」男 >>257
>確かに何でも陳寿の間違いにしてしまうのは良くないかも知れんが
明らかにおかしい部分の指摘も許さないってのはどうかと思うわ
身長三、四尺の人々なんか居るわけねえじゃ
現在でも、低身長人が残っているんだし、
発掘でも低身長の人があちこちで発掘されているし、
成長ホルモンの分泌が早期に終われば、低身長のまま残る事は幾らでもあり得る。 >>259
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や、
オレオレ詐欺の大和説者らって、
ここまで歪んじゃったの? >>301
>魏志倭人伝では「至」と「到」の書き分けが存在したのだから、
>今は、その書き分けの意図を正確に推定する事の方が、大事。
その通りだ。その意図は以下の2点の「到」の説明で納得できるのではないか。
第一の「到」
・・・帯方郡から南下し、半島の南西岬で大きく東へ転じて狗邪韓国に「到って」いる。
第二の「到」
・・・末盧国から南下し、多久市で大きく東へ転じて佐賀大和町川上の伊都国へ「到って」いる。 >>282
沿岸的航行を意図している書き方でありません
いや、投馬國は、
九州北岸付近の不彌國の南からと、最初にきちんと書いており、
また「渡海」は水行に含まれます
定義や解釈違いですよ。
よってあんたがバツ >>264の訂正
>12000=7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100
伊都国と奴国の境で12000里だよ
奴國は、
(伊都國からの)側副傍線國としての説明であるから、魏使らは通っておらず、
だから「不彌國と邪馬壹國女王之所都」で、ほぼ萬二千余里になります。
>伊都国に卑弥呼が居たからだよ
「卑弥呼がいた」のは、邪馬壹國女王之所都であって、
伊都国とは区別されて別の国であるから、バツです。 >>296
「参」とは集まる、集めるの意味です
「参」してとは集まること
倭地に集まったりしてないですよね
参拝・・・神様の下に集まり拝む
参内・・・偉い人の家に集まる
参議・・・集まって議する人
参上・・・偉い人の前に集まる
参考・・・考えを集める
訪問と參問を間違えてるな
「可五千餘里」・・・可は五千餘里が推測したものである事を示しているですよ
自分が実際に通った距離なら可はいらない。
>>297
女王=倭国=邪馬台国=女王之所都
女王国=邪馬台国の首都圏=伊都国、奴国、不弥国
投馬国は朝鮮半島南部地域
狗奴国は女王(倭国)に含まれないと明記されてる >>308
邪馬壹國女王之所都とは
邪馬壹國は女王の全ての所、又は、邪馬壹國は女王の統べる所
つまり邪馬壹國は女王の全領土である倭国(北部九州地域全体)のことだよ >>308
「卑弥呼がいた」のは、邪馬壹國女王之所都ではありません。
邪馬壹國目的なら50里以下だろうが、しっかり
書きますよ。 あんたがバツ >>309
愉快犯現る!w
投馬国=朝鮮半島南部男 バツ男のザラコクは、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置!、 指名手配愉快犯
−投馬国=朝鮮半島南部男
−近畿説男
−大阪説男
−「いい加減なこと書いたら首が飛ぶもの」男
−「周旋可五千餘里」拘泥男 >>267
>島を上から眺められないから面積なんて分からない
従って「ほぼ正方形の形状のものに対する「一辺の里数」での、
近似的表示法である。」なんて使えないんだよw
勿論、居住している倭人や案内人らから聴取した「近似的情報」であり、
適切な表現。 >>303
そういう事なのよ
もうちょっと素直に読んでおかしい所はおかしいと言えば良い >>316
混乱の原因は陸行一日を陸行一月誤記した事だな
この誤記が無ければ素直に里数と日数が同じ行程だって直ぐに分かったろうに。 50里以下だから記載せず重要な目的地なんて
まさ首が飛ぶよ。仮に諸葛孔明と司馬懿の関係で
そういう報告するかな?
古田て根からぺーテンだな。 >>306
「到着」とかの熟語の場合は何処で転じるの? >>317
陸行一日ではない
裸国黒歯国の舟行1年同様なんも考えずに書き写したんでしょう 畿内説だと1〜2世紀頃のヤマト勢力はどうなってんの? 同じ行程であれば投馬国邪馬台国も里数を書くでしょ
なんで不弥国で終わってるんだよ ですね。
当方は、近畿説ですけど
畿内説だと
1〜2世紀頃のヤマト勢力はどうなってんの? バツ男のザラコクは、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! 九州説だと金印もらったの2つの国(クニ)は同系になるが近畿説はどうなってるの? >>300の訂正
>女王国とは邪馬台国の中心をなす伊都国、奴国、不弥国のことで
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
7万戸の邪馬壹國は、伊都国、奴国、不弥国とは区別されて書かれており、
女王之所都の国である、として書かれている。
>邪馬台国はこれらを含む北部九州地域全体のこと
邪馬壹國は、福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地付近の国として書かれ、
倭國(≒女王国)は、狗奴國を省いて、
ほぼ九州島とその周辺島嶼群の国として、
行程説明をした8国と「其餘旁國遠絕不可得詳」の21国の、合計29国の国だ、
として書かれている。
7万戸はや邪馬壹國。の戸数 バツ男のザラコクは、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! >>314
全部同じ人物かもなwww
>>324
早速、近畿説男(時間泥棒)ハッケソ!w >>331
早速、近畿説男(時間泥棒)ハッケソ!w
それは、いいことだな。
あれ、二重投稿 スマン 自作自演の一行男も、同じ愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! 帯方郡→投馬国(朝鮮南部)→大阪
邪馬台国=ヤマト国=日本だから不弥国迄の行程なんか
何の関係も無いと言ってるのは俺だよ 近畿説で金印は本物と推測。
中国や日本から似たようなもんの出土があれば偽が高い。
で移動できるもんだから、発見した場所が当事国とは限らない。 >>337
ヤマト勢力が金印もらってたらあんな発見のされ方はおかしい >>323
>同じ行程であれば投馬国邪馬台国も里数を書くでしょ
>なんで不弥国で終わってるんだよ
情報ソースが違えば、別に珍しいことじゃない >>337
当事国は近畿にはないだろう、金印は57年だぞ? >>339
いや、だからそうなると不弥国までの行程は関係ないでしょ 自作自演の一行男も、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! >>341
>いや、だからそうなると不弥国までの行程は関係ないでしょ
なぜ関係ないの? >>344
不弥国までしか書いてないんだから何故それが邪馬台国への行程だと言えるの?
邪馬台国への行程は情報ソースが別なんでしょ 指名手配愉快犯(時間泥棒)
−投馬国=朝鮮半島南部男
−近畿説男
−大阪説男
−「いい加減なこと書いたら首が飛ぶもの」男
−「周旋可五千餘里」拘泥男
−「不弥国までの行程必要ないでしょ」男 >>346
−「いい加減なこと書いたら首が飛ぶもの」男
−「周旋可五千餘里」拘泥男
この二つは俺じゃ無いな >>340
九州説だと金印もらったの2つの国(クニ)?
意味不明、57年は国に与えられたもん。
親魏倭王は近畿にある邪馬壹國に与えられたもんではなく
卑弥呼に与えられたもん。
後の大和政権は卑弥呼と奴国が母体。
魏志の副官(卑奴母離) 卑弥呼と奴国
記紀に九州地方の神話が多い理由
最初は、小国、近畿、東海等災害地から流入と復興地、開拓地
異種文化を卑弥呼が鬼道、宗教によってまとまて開拓が進む
卑弥呼が共立され九州の地へ
で可7万戸と見積もるまで成長だけ
九州と近畿に日本海ルート以外に四国
太平洋ルート確立。でも中心国ではないよ。
キーパーソンは壹與 >>349
具体的な反論お願いします
大和勢力が奴国を母体としているなら金印も継承されるはずである >>345
>不弥国までしか書いてないんだから何故それが邪馬台国への行程だと言えるの?
だって倭人伝に邪馬台国までの日数として書いてあるでしょ?
>邪馬台国への行程は情報ソースが別なんでしょ
不弥国から邪馬台国まで経過日数しか書いてない別の情報ソースがあったら
不弥国まで里数のある資料と合わせると今の倭人伝みたいになるでしょ? >>352
>不弥国から邪馬台国まで経過日数しか書いてない別の情報ソースがあったら
それがあったとすればね
ただその場合投馬国何処よ? 師升 → 倭
奴国 → 倭
邪馬台国 → 倭
倭の五王 → 大和勢(後に政権簒奪があった為記紀と整合しない)
争いごとでトップに立ったヤマトはもう争いが起きないよう「和を以て貴し」とした >>351
意味不明、大和勢力まだできていないよ。
その後と書いている。それまでは別もの。
卑弥呼の共立で関係性もつ
血縁関係ではなく祭祀は卑弥呼、軍時は奴国みたいな関係
大和政権以前に金印返却途中で難破もありうる
封泥等が発見あればハッキリすると思う。 >>353
>ただその場合投馬国何処よ?
出雲でも吉備でもOK >>357
あんた別の人でしょ
同じ行程を里数と日数で書き分けたんじゃなかったのか? >>356
奴国から婿を迎える。面白いね。
開拓で九州地方の地名を流用だろうな。
大和州に奈(奴)良(奴国より良し) >>355
自動翻訳?
英語で書いてくれた方がわかる気がする >>355
> 意味不明、大和勢力まだできていないよ。
> その後と書いている。それまでは別もの。
母体としたなら継承されるだろう
>金印返却途中で難破もありうる
難破であの場所とか無理過ぎ >>358
>あんた別の人でしょ
誰と誰が?
>同じ行程を里数と日数で書き分けたんじゃなかったのか?
そんなことした文献、どこかに有る? 日本人の「完成」は古墳時代だったって最近DNA研究で判明してきた
弥生時代の日本列島には未だ縄文系の人が多く住んで居た
朝鮮半島南部地域にも縄文系の人が居たらしい
今日では朝鮮半島に縄文系の遺伝子を持つ人は殆どいないから古墳時代に日本列島へ移住してしまったようだ
朝鮮半島に在った投馬国が任那になり、任那滅亡で住民が日本列島へ移住したんだろう >>361
母体としたなら継承されるだろう
なんで?継承されるもんでもない。
返却するもの
あの場所で難破したのか? なんで金印が継承されるとか、おかしなことを考える人がいるんだろう
まったく理解できない
勝手に相続することさえ許されないものなのに >>349
>九州説だと金印もらったの2つの国(クニ)?意味不明、57年は国に与えられたもん。
親魏倭王は近畿にある邪馬壹國に与えられたもんではなく 卑弥呼に与えられたもん。
後の大和政権は卑弥呼と奴国が母体。魏志の副官(卑奴母離) 卑弥呼と奴国・・・
何だか変な文を書いているな?と思ったら、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの指摘に反論出来ず、
このスレへの投稿が九州説者一色になっているで、あせって、
九州から大和の全体が女王国(≒倭國)だ、という、
国民を騙すオレオレ詐欺の大和説者が、のこのこと出て来たようだな。
しかしダメだな。
大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服されて出来た、
九州倭國の別種分家の倭種の旧小国の「市を監督する大倭職」の国であり、
ヲホド継体の反乱で九州倭國の一族に参加出来、
白村江の敗戦の後で九州倭國を併合吸収継承出来た国。 >>366
だな。
調べないんだろうな?
似たもんの出土あれば 偽の可能性出てくる。
ここにもあるよという情報があれば済むのに。 >>356
>壹與から大和勢の可能性あり
ない。
大和が西日本の盟主になれたのは、701年の大宝元年の建元から。 >>357
>>ただその場合投馬国何処よ?
>出雲でも吉備でもOK
「南≠東北」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>366
金印に限らず印はその国の支配者として認めた証で個人に与えられた物ではないから
印を与えた中国の王朝が存続している間は代々継承されるものだよ >>369
継体天皇の嫁入りで大和へ政権が移ったんだ >>367
「正北抵新羅の倭國は九州」魏志にないのでバツ
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」など書いていないので
バツ
何言ってんだよ
「南→南」だよ。
「卑弥呼の冢→定かではない」 >>372
間違えた
持統天皇の嫁入りで大和へ政権が移ったんだ >>359
>奴国から婿を迎える。面白いね。開拓で九州地方の地名を流用だろうな。
大和州に奈(奴)良(奴国より良し)
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
このオレオレ詐欺の大和説は、バツね。 >>375
古田詐欺が詐欺だと?
「正北抵新羅の倭國は九州」魏志にないのでバツ
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」など書いていないので
バツ
何言ってんだよ
「南→南」だよ。
「卑弥呼の冢→定かではない」 >>371
中国の王朝が存続している間は代々継承されるものだよ
中国側の王朝が変わってもか?
漢 三国 晋 >>371
九州説の人って、なんで平気でそんなウソをつくの? >>377
王朝が変われば印の効力は失われるな
卑弥呼が金印を貰ったのも漢が滅んで魏に変わったからだな
壱与が晋に朝貢したのも新しい印を貰う為だな >>372
実質的にその頃だろうな。
>>369
壹與から大和勢の可能性あり
別に盟主になったとは言っていない >>368
>半島から来た勢力がヤマト勢力となった
倭人は、周の頃は「燕の南」でいて、
半島南岸〜海峡まで流れ広がって来て、
その中の天孫族の阿毎氏が、委奴の地に進出し、
更にその中の五瀬命や神武らが「東征毛人」して、
大和に拠点を造って、別種分家の倭種の「市を監督する大倭職」の旧小国を建てたもの。 >>379
古い金印、下手にもっていたら旧勢力として
敵対視される可能性もあるからな。
壱与が晋に金印なくしたというの報告もあるかもね。 >>382の訂正
>>363
>半島から来た勢力がヤマト勢力となった
倭人は、周の頃は「燕の南」でいて、
半島南岸〜海峡まで流れ広がって来て、
その中の天孫族の阿毎氏が、委奴の地に進出し、
更にその中の五瀬命や神武らが「東征毛人」して、
大和に拠点を造って、別種分家の倭種の「市を監督する大倭職」の旧小国を建てたもの。 >>374
>間違えた
持統天皇の嫁入りで大和へ政権が移ったんだ
ふーん、成程。 >>378
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などのような、
大和説の人って、なんで平気でそんなウソをつくの?
皇国史観戦争宗教にクルったオレオレ詐欺師仲間だから?。 ✖ バツ男のザラコクは、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! >>381
>壹與から大和勢の可能性あり
別に盟主になったとは言っていない
(宗女の)壹與の女王に頃には、張政らがまだ九州倭國にいたし、
その後大和に移った記録もないから、
「大和勢」論はバツ。 >>386
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説=トンデモだな >>388
まったく根拠がないのが、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説学者らの説。 >>395
「正北抵新羅の倭國は九州」
など魏志にはない。バツである。
「南→南」や「卑弥呼の冢→定かでない」
古田詐欺の説 だな。
南至投馬國、南至邪馬壹國 南は出発方向
東南 伊都国は出発方向と言うのだからね。
500里は計測し50里以下だから省くて?
目的が邪馬壹國ならきっちり書くよ。 ザラコクはツガルみたいなニセ古文書を本物と言い張る詐欺師の一味 >>397
(宗女の)壹與の女王に頃には、張政らがまだ九州倭國にいたし、
その後大和に移った記録もないから
大和に移ったなども書いていない
壹與の婿とも書いていない。
たんに婿しか書いていない
大和、新羅など当時はないが邪馬壹國はある。
南は南です、卑弥呼の冢→定かではない
が近畿説。 >>399
>>(宗女の)壹與の女王に頃には、張政らがまだ九州倭國にいたし、
その後大和に移った記録もないから
>大和に移ったなども書いていない
大和は、自昔に、(阿毎氏の神武らが九州から)東征毛人して「地方の市」を造った、
九州倭國の別種分家の倭種の旧小国。
>壹與の婿とも書いていない。たんに婿しか書いていない
壹與に、婿がいたのか?は不明であるし、
卑弥呼と同じように独身であった可能性が高い。
>大和、新羅など当時はないが邪馬壹國はある。
大和は九州倭國の別種分家の倭種の「市を監督する大倭職」の国であったし、
邪馬壹國は不彌國の南だから、(大和ではなく)九州である。
>南は南です、
有難う。
>卑弥呼の冢→定かではない
「冢≠前方後円墳」であり、卑弥呼の冢は祇園山の可能性が非常に高い。
>が近畿説。
「南≠東」や「制北抵新羅の倭國は九州」などに拠って、「近畿説」がバツ。 ✖ バツ男のザラコクは、愉快犯のかまってちゃん。・・・放置! >>400
近畿説
「南≠東」とか書いていません
南は南
「制北抵新羅の倭國は九州」などはないですので
バツです。 >>400
は九州倭國の別種分家の倭種の「市を監督する大倭職」の国でないので
不彌國の南は出発方向なでバツです。
目的が卑弥呼なので、なんら邪馬壹國に行く必要性もない。
中心国でもない災害復興で流入人口が多い
のですが、開拓、宗教地です。
開拓、復興で移動が多く
樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛や
環濠集落遺跡がないところが邪馬壹國。
なので、南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶のみ。
あとはほとんど女王国で邪馬壹國という文字は出てきません。 >>402
>近畿説
近畿説を唱えた瞬間に、「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>398
新撰姓氏録や記紀をベースに
あれこれ付け加えた松野連文書もある。
エセ文書の見本てして重宝している >>404
古田説と同じだな。
なのでアンタがバツ >>366
> なんで?継承されるもんでもない。
> 返却するもの
冊封関係にある国が新たな中国王朝に印をもらう際に返却するものだろう、奴国は冊封国ではなくなった、返却されるのは官位に対する印綬で退官の時
> あの場所で難破したのか?
何言ってんの?難破したとか言ってるのはあんただけ >>403
>は九州倭國の別種分家の倭種の「市を監督する大倭職」の国でないので
不彌國の南は出発方向なでバツです。
変な文ですね。脳が大丈夫ですか?。
大和王権は、倭奴の地からの神武らに拠る東征毛人で征服されて出来た、
別種倭種の「大倭」職の旧小国です。
不彌國の南は、(可七萬戸の)邪馬壹國女王之所都の国です。
>目的が卑弥呼なので、なんら邪馬壹國に行く必要性もない。
女王之所都は邪馬壹國の中にありますから、まず邪馬壹國に行く必要があります。
>中心国でもない災害復興で流入人口が多いのですが、
そんな事は書かれていません。
>開拓、宗教地です。開拓、復興で移動が多く、樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛や
環濠集落遺跡がないところが邪馬壹國。
逆です、「ある所が邪馬壹國」です。
>なので、南至邪馬壹國女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶のみ。
あとはほとんど女王国で、
有難う。
>邪馬壹國という文字は出てきません。
邪馬壹國女王之所都の国として、でています。 >>407
何が言いたいのがさっぱりわかんない。
意味不明
あの場所で難破とか書いていない
難破の可能性しかかいていないけど。
なぜ、そこで見つかったのは知るわけない。 >>495
新撰姓氏録記紀をベースに
あれこれ付け加えた松野連文書もある。
エセ文書の見本てして重宝している >>408
いいえ
南至邪馬壹國女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶のみ。
です。それ以外に邪馬壹國の文字はありません。
女王之所都は邪馬壹國の中にありますけど
邪馬壹國に行く必要がありません。
卑弥呼が九州にいるので必要ありません。
有難う 江戸時代、邪馬台国論争で盛り上がってた頃金印発見だってさ
出来過ぎだよな >>414
それはわからん
木箱などに入って漂流
まあ、あらこれ言ってもしょうがない。
似たようなもんが出土されればエセしか言いようがないな。 >>411
ただの集落があれほどの生口は送れない
金銀印は周辺国中主要であると認めた国に印綬される >>410
邪馬壹國の方だよ。
後発国だよ。もとは小国、倭国を併合
大きければ57年、107年の記禄に記載が
あるんでは? >>408
書き忘れ
大和王権は、倭奴の地からの神武らに拠る東征毛人で征服されて出来た、
別種倭種の「大倭」職の旧小国も魏志に書いていませんけど >>411がまた失敗。PCの調子が非常に悪いので、また書き直し
新撰姓氏録も、松野氏の祖として「呉王夫差」の名前を記しており、
記紀やその他の国内系図伝承には「卑弥呼」の名前などどこにも載っていないのに、
(松野氏)姫氏系図は、(記紀は殆どベースにしておらず)、
呉王夫差の子供の「公子忌」の名前もあり、
倭奴國王や帥升や卑弥呼や壹與の名前なども載っており、
難升米ら大夫の名前も、熊襲らの名前も、倭の呉王らの名前も、
欽明や推古の宮の名前までも載っている。
(松野氏)姫氏系図は、(後代の左注の書き足しもあるが)
貴重な系図記録として重宝している >>418
倭国は古の倭奴国なんだから日本の王であって奴国の王ではない
勿論倭国の日本名はヤマト国なんだけど >>406
私は、古田さんや古賀さんや正木さんらとは、全く同じではなく、
大体は同じであるが、
しかし、姫氏系図や二中歴の解釈や祇園山や△の解釈などに関しては若干違い、
大和説の、年輪年代法や放射性炭素計測のAMS法のプラズマ化の欠陥性の評価などでも、
若干違う。 >>420
>>後代の左注の書き足しもあるが
胡散臭い言い訳だな。うそこけ。
記紀記載の天皇名一切、掲載ないのかな?
新撰姓氏録 出自 しかない
付けくわえできる。
そういうエセ詐称文書、多い >>418
>邪馬壹國の方だよ。後発国だよ。
元は「邪馬」部族と「壹≒伊など」部族らの合同國であったんだろう、と思うよ。
>もとは小国、倭国を併合
それは、大和の事なら、バツね。
>大きければ57年、107年の記禄に記載があるんでは?
「倭國亂」で統廃合があった、と思うから、
「大和の事だ」とするんなら、バツね。 >>413
「漢委奴國王」印だから邪馬台国よりも古い
邪馬台国論争で盛り上がってなるら「親魏倭王」印を偽造するだろ
材質も純度95%の金で漢代の物と一致してる
江戸時代だと幕府が金を独占してたから純度の低い小判か手に入らないし
漢代の金が純度95%の金とか当時の文献には書いてない
日本には漢代の中国製金製品も無いから
ここまで精工な偽造品を作る事が出来ない >>425
元は「邪馬」部族と「壹≒伊など」部族らの合同國であったんだろう
と思わない。
大和とは違うよ。規模が全然違う
近畿にある邪馬壹國だよ。 >>419
>大和王権は、倭奴の地からの神武らに拠る東征毛人で征服されて出来た、
別種倭種の「大倭」職の旧小国も魏志に書いていませんけど
記紀の神武東征の記録や、古事記の「大倭」の記録や、
「倭奴國」という呼称を記録した隋書や三唐書や、
宋書の「自昔・・・東征毛人五十五國」の記載などが、
根拠。 >>422
>倭国は古の倭奴国なんだから日本の王であって奴国の王ではない
「日本」という呼称は、
3世紀末頃の九州倭國の西晋惠帝への遣使らの名乗りが最初であるから、バツね。
>勿論倭国の日本名はヤマト国なんだけど
勿論、西晋最後の惠帝に「日本」という国名をなのったのは、九州倭國の方なんだけど。 >>431
集落レベルじゃなく国家レベルの王だって事を言いたかったんだけどね >>424
>>後代の左注の書き足しもあるが
>胡散臭い言い訳だな。うそこけ。
「左注」は後代の書き足しの可能性があるが、
「右注」や頭書きは、同時代の説明であった可能性が非常に高い。
>記紀記載の天皇名一切、掲載ないのかな?
大和王権の天皇名は一切ない。ただ欽明と推古の「宮」名が「左注」に書かれていた。
>新撰姓氏録 出自 しかない 付けくわえできる。そういうエセ詐称文書、多い
呉王夫差の子供の「公子忌」の名前や、
居地呼称としての「火の国山門」や「委奴」や「大野」や、
倭奴國王や帥升らの別呼称や、卑弥呼の実名の「刀良」や、
記紀に載っていない熊襲の沢山の人名や、倭王武の次の「倭國王哲」などは、
記録や伝承がなければ書けるものではないから、
実在であった可能性が非常に高い。 >>426
>「漢委奴國王」印だから邪馬台国よりも古い
邪馬台国論争で盛り上がってなるら「親魏倭王」印を偽造するだろ
材質も純度95%の金で漢代の物と一致してる
江戸時代だと幕府が金を独占してたから純度の低い小判か手に入らないし
漢代の金が純度95%の金とか当時の文献には書いてない
日本には漢代の中国製金製品も無いから
ここまで精工な偽造品を作る事が出来ない
成程。ご紹介有難うございます。 >>434
意味不明
大和王権の天皇名は一切ない。ただ欽明と推古の「宮」名が「左注」に書かれていた。
あるだろう。
呉王夫差の子供の「公子忌」の名前や、
居地呼称としての「火の国山門」や「委奴」や「大野」や、
倭奴國王や帥升らの別呼称や、卑弥呼の実名の「刀良」や、
記紀に載っていない熊襲の沢山の人名や、倭王武の次の「倭國王哲」などは、
それらを裏付けるもんは何?
全文、リンクよろしく。
松野家代々の出生、没がわかる寺の記禄とかあるのか?
また、誰によって発見されたかにもよる。
物語がかけるけど。 >>427
>>元は「邪馬」部族と「壹≒伊など」部族らの合同國であったんだろう
>と思わない。
ご自由に。・・・・オレオレ詐欺師は、原則しして、まともには相手にしない。
>大和とは違うよ。規模が全然違う
「福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」と、
「大和盆地の一部」とでは、規模が全然違う。
>近畿にある邪馬壹國だよ
近畿説でも、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などに拠って、バツ。 >>436
呉王夫差の子供の「公子忌」の名前など
中国文献参照にできるよ。
精巧な偽書 多いよ >>437
詐欺師から詐欺師と言われた。
無条件でバツでだな。 >>437
「正北抵新羅の倭國は九州」などにないのでバツ
南は南。 >>437
>大和王権の天皇名は一切ない。ただ欽明と推古の「宮」名が「左注」に書かれていた。
>あるだろう。
室伏さんが紹介された系図の範囲内にはなかった。
大和天皇家は、(松野氏)姫氏とは全く関係がなかったみたい。
>呉王夫差の子供の「公子忌」の名前や、
居地呼称としての「火の国山門」や「委奴」や「大野」や、
倭奴國王や帥升らの別呼称や、卑弥呼の実名の「刀良」や、
記紀に載っていない熊襲の沢山の人名や、倭王武の次の「倭國王哲」などは、
>それらを裏付けるもんは何?全文、リンクよろしく。
系図は、自家一族だけのお宝であり、いわば、「孤立」的な情報。
>松野家代々の出生、没がわかる寺の記禄とかあるのか?
出生や没は、書き込む系図も書き込まない系図もあり得
名前だけの系図はいくらでも起こり得るし、
寺は400年頃の雷山のインド僧の渡来が最初であり、
倭の呉王らは関係しなかったようだ。
>また、誰によって発見されたかにもよる。物語がかけるけど。
江戸末から明治の学者で、東大教授などになった人物の収集であり、
現在は、その収集本は、国立国会図書館と静嘉堂に保存されているらしい。 >>438
>呉王夫差の子供の「公子忌」の名前など中国文献参照にできるよ。
公子忌が、「海に入りて倭になった」なんて、何に載っているの?。
>精巧な偽書 多いよ
いや、精巧な部分も少しあるが、大体は「名前や称号」の羅列ばかりだな。 >>439
オレオレ詐欺の大和説の半分バツ男の詐欺師が、
やっぱり詐欺師と言われた。
無条件でOKだな。 >>443
>>公子忌が、「海に入りて倭になった」なんて、何に載っているの?。
それが作り話だな。エセ文書の証拠 >>442
要するに裏付けが取れないてことだな。
エセ文書としておく。 >>89
俺も数年前までは祇園山古墳とか高良山周辺と思っていた
でも合理的すぎないかな
合理的な場所にあったら謎が生まれにくい。変な、イレギュラーな場所にあったからこそ謎が生まれた気がする
今は吉野ヶ里遺跡がちょうど良く不合理かなと思う 戦闘指揮所としての幕府は、平和時と戦闘時で場所が変わる
関ヶ原のときの幕府は関ヶ原に置くが、平和な時は江戸に置く
幕末になると薩長と戦うので将軍は大阪城に移る
関ヶ原→江戸→大阪と移動
ここで関ヶ原のときの大阪城(西軍)を狗奴国に比喩すると、
関ヶ原が邪馬台国(東軍)になる
東軍のトップは奴国王なんだけど、関ヶ原土着の女土蜘蛛なんぞを共立してしまったから混乱が起きた
魏から見ても関ヶ原にいた卑弥呼はすでに時代遅れで、占いで政治をされても困る
先進国から見たら不合理な場所と人物 古代学者の中には狗奴国が勝利したとみる人が少なくないのと、
狗奴国東遷説まであるので、
関ヶ原の本陣を東に移したからのちに関ヶ原朝廷みたいな名前になったのでは?
邪馬台は本陣があった場所でしかない。江戸を関ヶ原幕府というようなもの
奴国が移ったので奴羅(なら)という説もある 関ヶ原(邪馬台国)に本陣を敷いた奴国王が事実上のトップ。銀印をもらっている
つまり邪馬台国は場所でしかなくて、
本陣≠首都
あくまでも本陣の名前であって、首都=最も栄えていた場所とは限らない。ややこしいことをしたから陳寿もよく分からなかったのでは?
そうなると分からずに書いている文章からは特定できない 金印は名目上、卑弥呼が貰っているだけで、実質は奴国王が貰うべき
家康に相当するのは奴国王であって、卑弥呼はたまたま関ヶ原にいた(時代遅れの)占い師
卑弥呼が狗奴国との交戦中に死去しているタイミングは間違いないので、金印は奴国王が引き継いだのでは? 厄介なのが、その奴国が奈良へ移ったのなら、箸墓古墳から金印が出てもおかしくないかもしれない
森浩一などはそこまで考えて「金印が出た場所を邪馬台国と思ってはいけない」と生前に言っている 陳寿が使った原資料には「邪馬台国は伊都国のすぐ南」という位置関係
奴国の南じゃなくて伊都国の南なので、佐賀平野寄りという解釈も出来る 1 交戦中における幕府
2 交戦中における合同庁舎
本来は分けるべき。1を吉野ヶ里、2を太宰府か久留米にすれば良かった
たまたま1にいた女土蜘蛛が2のトップも兼ねたので、魏からみたらやはり後進国となった(魏は狗奴国の方を先進国と見ていた説が実際にある) もし吉野ヶ里に本陣を置けば、
狗奴国はまずここを見なければいけないので、いきなり太宰府へは兵を向けられない
仮に吉野ヶ里が落とされても、背後の山に入れば奴国(今の那珂川町)へ通じているので逃亡できる
山の入り口という意味で山戸
逆に吉野ヶ里を落としたと思い込んでいる狗奴国の背後をつくために、奴国側からの援軍を吉野ヶ里の背後に補給することも出来る
(Googleマップを拡大すれば、那珂川町から細い平野が断続的に連なって吉野ヶ里遺跡の背後に出るのが分かる)
(奴国を大阪城に例えたら、吉野ヶ里は真田丸にあたる) 後の大和朝廷は天照大神(伊勢神宮)を厄介な存在として遠ざけている
卑弥呼=当時からすでに時代遅れ
こういう世界観があったのでは? 交戦中の場所に墓なんか造営している場合じゃないので、それで祇園山古墳の場所に作ったのでは?>>89 >>457
今失念しているから書けないけど、学者の本にソースあるよ
伊勢神宮を厄介に思っている部分と、魏が卑弥呼を時代遅れと見ていた部分、両方学者の研究にある >>243
>二千里に魏里をかけりゃ、約800キロ
なぜの残りの2千里だけ魏里を使うのか理解できない 322日本@名無史さん2021/12/15(水) 10:20:15.32
畿内説だと1〜2世紀頃のヤマト勢力はどうなってんの?
俺も知りたい どうせクニがどうしたとかムラがどうしたとか
空疎な妄想以外は具体的なことは何も語れないよ。
奈良の弥生遺跡と縄文遺跡との関係だって説明できないでしょ 近畿説だとヤマト勢力とかもない。
東海、近畿で大規模の災害
内部は水害、沿岸部は壊滅的
邪馬壹國もないか、出始めた時期
なので、畿内説の言う支配とかは程とおい。
卑弥呼、共立され九州へ。安定化。鉄供給が安定し復興、開拓がすすむ。
(弥生後期から古墳期に鉄は増える)
復興、開拓で広範囲の移動が多いから
立派な建物、大規模弥生性環濠集落が不要。
それらがない所が邪馬壹國
ヤマト政権など後の話。
乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼,事鬼道自爲王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀
,城柵嚴設,常有人持兵守衛、,大作,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人は九州。
伊都国か不彌國のいずれかにいる。
なので使者は九州以外は行っていない。後は倭人から聞いたり、交易がある外国人から
聞いたりで記禄。 深夜族は、狗奴国を過大評価し過ぎだ。そんな大敵ではなく、ただのイザコザだ。
それよりも、歴史の時系列を良く勉強認識しろ。原文8行の間に相当の年月が経過している。
(其六年)
詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 ・・・(難升米に黄幢付假の件)
(其八年)
太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 ・・・(対狗奴国説明の件)
(其○年)
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之 ・・・(難升米に黄幢拝假の件)
(其○年)
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
(其○年)
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 ・・・(倭国内にて男王更に立つの件)
(其○年)
復立 卑弥呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定
政等以檄 告喩壹與 ただのイザコザレベルならばわざわざ他国が史書に紹介しないよね。 >>465
近畿説では当然だよ。
小規模だよ。
卑弥呼との関係と思う。 >>465
内ゲバで更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
は記載あり、狗奴國との戦争での数は記載なし。
緊張状態とも考えれる。 >>85
>>83
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
>>85
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した蛇足(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`) >>445
>>公子忌が、「海に入りて倭になった」なんて、何に載っているの?。
>それが作り話だな。エセ文書の証拠
通鑑前編?だったか?の記述だよ。 ただのエセ文書を静嘉堂文庫が大金を出して蒐集すると思うか?w >>466
読めない男だねえ
これは、読者の関心を南の狗奴国へ惹きつけるためで、本当の乱は、倭国内での内乱の再発(更立つ)による、當時殺千餘人だ。
これを隠すため、狗奴国の記事を意図的に挿入しているのだろう。
倭国内の本当の敵は、傍国の最後に登場した弥生時代以来の旧宗主国「奴国(博多奴国)」だったのだ。
なぜわかるかというと、
狗奴国記事の前の其の6年には、既に難升米に軍旗(黄幢)が仮授されており、きな臭い状態になっているからだ。
具体的に、佐賀平野と福岡平野の中間の甘木朝倉や筑前町あたりでは、当時の戦乱の跡が広域に発掘されている。
(其六年)
詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 ・・・(難升米に黄幢付假の件) 卑弥呼の姿は、どうせ語った方もフィクション入ってるから、真面目に考えてもしようがない。
記紀もあえて書いてないことがある、その裏テーマに秘密が隠れてるかも。
箸墓の謎は、記紀の違いや一書に隠れてるが、正体は暴かず和を尊ぼうと。 (この謎は壬申の乱にも続く。)
崇神天応や応神天皇は、実年代は貿易拠点を変更した頃だろうか。 もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、その狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!
倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。
倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、
「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」 >>446
>要するに裏付けが取れないてことだな。エセ文書としておく。」
いや、歴代中国史書群が証言し、
通鑑前編?が「呉王夫差の遺民が海に入りて倭になった」と証言しており、
新撰姓氏録にも記録され、
松野氏系図の「最後に記録された人物」は、
関ヶ原の合戦に西軍の宇喜多家の家来になって敗戦後行方不明になり、
そこで系図が断絶した、という事も真実性を示しており、
鈴木真年氏が収集した系図が国立国会図書館と静嘉堂文庫に現存している、
という事も、明治政府は評価を与えていた、という事の証拠になり、
その事をその後の政府や大和説学者らが、その存在を一切論拠にもせずに隠蔽して来た、
という事も、真書性の現れ、になる。 >>472 追加
>>466
佐賀平野と福岡平野の中間の甘木朝倉や筑前町あたりで、当時の戦乱の跡が広域に発掘されていると書いたが、
発掘の状況からして、
南(佐賀・筑後方面)から来た敵が圧倒的に優勢で、戦死者多数。
集落の人民は農具から家具・台所用品まで打ち捨てて、あわてて北の方角へ逃げたらしい。つまり博多や、大宰府や、筑豊の田川方面へだ。 >>474
張政の命令だったかはともかく、巫女の台与から筑紫で倭王位を譲位された神武東征後に、誕生したヤマト纏向王権は、その後崇神・垂仁・景行・成務・仲哀で国内統一を果たすと、
神功皇后によって再び筑紫甘木朝倉に西遷し(九州に戻り)、倭の五王や阿毎多利思比孤らは九州に留まって半島派兵を推し進めた。
しかし、天智の代になって唐と新羅が同盟を結び、百済を滅ぼしてしまったため、白村江で完敗し、再び大和に東遷した。
まとめると、
筑紫奴国(漢委奴国王・帥升)…外交デビュー・倭国大乱
筑紫邪馬台国(共立)→神武東征(東遷)ヤマト纏向王権…国内統一
筑紫甘木朝倉←神功三韓征伐(西遷)「倭の五王」in筑前一之宮筥崎宮・宇佐八幡宮・「阿毎多利思比孤」in阿蘇
筑紫太宰府→天智白村江完敗(東遷)…畿内中心の歴史のはじまり >>449
>古代学者の中には狗奴国が勝利したとみる人が少なくないのと、
狗奴国東遷説まであるので、
関ヶ原の本陣を東に移したからのちに関ヶ原朝廷みたいな名前になったのでは?
邪馬台は本陣があった場所でしかない。江戸を関ヶ原幕府というようなもの
奴国が移ったので奴羅(なら)という説もある
何だ?、何だか変な投稿だな?、と思ったら、
この投稿男は、結局、オレオレ詐欺師の大和説男だったのか。
読んで、損した。 >>453
陳寿が使った原資料は2種類あり
里数で記された帯方郡、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国(距離無し順番だけの傍国20か国、奴国)
日数で記された帯方郡、投馬国、邪馬台国
の2つだよ。 指名手配愉快犯(時間泥棒)
−投馬国=朝鮮半島南部男
−近畿説男
−大阪説男
−「不弥国までの行程必要ないでしょ」男
−「いい加減なこと書いたら首が飛ぶもの」男
−「周旋可五千餘里」拘泥男
−狗奴国戦争ただのいざこざ男 >>83
卑弥呼の冢=祇園山古墳(高良大社)
台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は父「男弟」)
神武の墓=箸墓(台与から倭王譲位→吉備東征後) >>474
神武東征の出発地は宮崎県じゃなくて
伊都国(糸島市)の東の日向峠付近だろうな
記紀編纂時に宮崎県にして事実をボカシだんだ >>481
台与から倭王を譲位された投馬国王(神武)の吉備大和東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側から)
………………………._______
5 段目……………-/神武+百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>481
畝傍山の北東の麓だろ
多くの古代天皇陵が不明な中で神武天皇陵はだいたい分かっている
神武天皇が実在し、神武天皇それほど昔の人ではない証拠だな
天武天皇は神武天皇陵に必勝祈願してるからね >>482
良い着眼点だ!
投馬国の官・弥々(ミミ)は、スサノオとアマテラス(平原女王)の長男アマノオシホミミと言う説がある。
宮崎には美々津、耳川など、ミミという地名が至る所にあり、伊都国と投馬国(宮崎都万)は本家と分家だったと思われる。
(アマテラス→アマノオシホミミ→)阿毎多利思比孤もその末裔なのかもしれない。 >>478
「狗奴国が勝利した」とか全く根拠のない話だからな
狗奴国東遷説とか妄想以外のなにものでもないな >>471
『資治通鑑』朱子学
通鑑前編も参考できるだろ。
ただのエセ文書ではないよ。
貴重なエセ文書、参考になる。
静嘉堂文庫、国会図書館自体はなんら、発表していない。 >>485
台与から倭王位を譲位されて神武東征が行われたとすると、その実年代は260年。
それをBC660年に800年遡らせるには、古墳時代中期5世紀・応神仁徳朝の天皇を100歳越えにするだけでは、足りずに欠史八代が考え出されたんだろうw
神武と崇神は共にハツクニシラスで親子だろうから、欠史八代は崇神の弟達を、兄達という設定にしたものと考えられる。
>>483
橿原神宮の北にある現在の神武天皇陵は、明治政府が捏造整備した方墳だから、箸墓が真の神武陵でモモソが追送されたとすれば一応辻褄は合うな。 >>449
>古代学者の中には狗奴国が勝利したとみる人が少なくないのと
それは、中国王朝と親交のあった邪馬台国が勝利して東遷し、大和王朝を打ち立てたという筋書きでは、
国体にキズが付くからだ。
そういう心理で狗奴国の肩を持つ国学者・神学者が少なくない。それだけの事。
事実は、逆だ。
弥生以来、平穏だった倭国九州に、
後漢〜魏の後ろ盾(黄幢、つまり軍旗=錦の御旗)を得た邪馬台国・伊都国勢力が渡来し、
唐津に上陸して佐賀から熊本平野まで進出して、武力で領土を広げていった。
そして、旧宗主国の博多奴国や熊本南部の狗奴国(隼人)を平らげ、最終的に奈良平野に朝廷を開いたということだ。 >>489
神武は倭王ではない
倭王が直々に東征なんてしない
倭国の分流が東方植民したんだよ
記紀の編纂される少し前の天武天皇の時代に神武天皇陵の場所が分かっていたんだから橿原神宮の北にある現在の神武天皇陵で合ってると思うがな >>475
著名な人物は史料があるから
巧妙なエセ書できる。
それらがない松野氏代々の
出生、没、場所がわかるもんあるのか? >>474
倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、
「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」
>>486
スサノオが帥升だったら、奴国王と思われ、奴国王帥升(スサノオ)と伊都国・平原女王(アマテラス〜八咫鏡)の血を引くサラブレッドとして、東征将軍に投馬国の神武に白羽の矢が立ったということかも! >>490
そんな事があればさすがに中国の史書に書くわ >>490
>後漢〜魏の後ろ盾(黄幢、つまり軍旗=錦の御旗)を得た邪馬台国・伊都国勢力が渡来し、
その前の倭奴国はどうなるのよ?
倭奴国が伊都国(邪馬台国)に発展したんだろ >>491
神武は橿原神宮で即位してるんだから倭王でしょw >>475
遺新撰姓氏録に呉王夫差の遺民が海に入りて倭になったと
あるのか?どこの箇所
リンクしてくれないか?
証言があれば正しいのか? >>496
当時は大和地方の王になっただけで
倭王(天皇)になったのは天武天皇以後だな >>474
247年時に13歳なら、260年で26歳。吉凶(GO/STOP)占いはできても、そんな国家戦略を実行できる政治能力はあったとは思えないから、張政の命令で神武が東征したと見るのが妥当だろう。
>>489
「BC660年の神武天皇即位は、実際は(800年後の)260年ですよ」と記紀の編集者が、我々にメッセージを送ってくれているのかも! >>497
新撰姓氏録くらい図書館で借りてきなさいよ
公式文書では最古クラスの文字資料でしょう >>495
記紀の云う通り、狗奴国は神武東遷に随伴し、隼人と称されるようになった >>498
九州を抑えた倭王として大和に東征してきたんだから、同じことだよw >>499
魏の意思が入ってるなら中国の史書に書くって
別の国として書いてるんだしそんな事有り得ない >>489
なるほど
BC660年←260年を800年も繰り上げるために、欠史八代(崇神の弟達)や応神仁徳朝の100歳越えが考え出されたわけか!
箸墓の築造年代50年繰り上げて「卑弥呼の冢」と喧伝している畿内説が他愛なく思えるなw >>494
卑しい東夷ごときの内乱を魏王朝が後ろで操ったとなると、中華王朝の天子様の手が汚れる。
だから、後漢・魏の後ろ盾があり、張政の活躍で・・、とは書かずに、
「親魏倭王」の女王卑弥呼様の鬼道の力で、倭国の統一が成されたと、ごく上品に倭人伝に記されたのさ。 >>505
馬鹿馬鹿しい
俺前に書いたけど卑弥呼のやった事って国内的にどうなのよ
他国の権威で治めようとしたら反感持たれても仕方ないと思うけどな >>502
九州を抑えてる倭王は別にいて
大和に東征して来たのは分流だろ
当時、九州の倭王は朝鮮半島への進出に夢中 最終的には日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。に行き着く訳で
中国王朝の臣下みたいな扱いは受け入れられないのよ 魏の介入があったかなかったかは別にして日本は国としての纏まりがあったって事だよな
その国の名前は何?
倭は中国での呼び名だよな >>507
そうさ、旧宗主国の博多奴国側から反感を持たれたからこそ、
卑弥呼の死後、倭国内で男王が更立って大騒動になったと書いてある。
その更立つ(前にも増して強力にの意味)を、張政の檄文と告諭を容れて、
「親魏倭王」の邪馬台国・伊都国など女王国側が(武力で)抑え込み、再び臺与女王の擁立に成功したのさ。 >>512
そんなんで国が治まるかよ
反感を持つ勢力の方が大きくなるわ >>500
意味不明
新撰姓氏録 出自しかないのだよ。
呉王夫差の遺民が海に入りて倭になったなど
記載はない。 >>475
全般的なもんで
明治政府は評価を与えていただけだよ。
松野氏系図の
偽、真の判定はしているのか? 卑弥呼の在位期間は50年くらいあるんだしずっと狗奴国と揉めてたんじゃないだろう
てか敵国と言うより同じ組織内の揉め事だと思うがな
それに魏の権威を利用したのが卑弥呼 >>489
>古墳時代中期5世紀・応神仁徳朝の天皇を100歳越えにするだけでは、足りずに欠史八代が考え出されたんだろうw
欠史8代の事績がないのは、魏志倭人伝の卑弥呼やトヨを説明してしまうから。
石槨時代を大きく変えて、神功皇后の時代に卑弥呼を持ってきたのに、事績を書いてしまえば元も子もない。
>箸墓が真の神武陵でモモソが追送されたとすれば一応辻褄は合うな。
箸墓と同時代か少しあとに交野に雷塚という箸墓ミニチュア古墳ができるが、
被葬者は先代旧事本記紀に交野連とかかれた多弁宿禰いがいにいない。
ならば箸墓はその父親で崇神の叔父になるうイカガノシコオ以外にいない。
時代も合うし、崇神が敬意をもって自分の墓(行灯山)を箸墓より小さくした理由もわかる。
箸墓が神武の墓っておまえはアホなのか。 >>512
認識がぐちゃぐちゃだな
倭国=邪馬台国=女王(女王之所都の略)=北部九州地域全体
邪馬台国の首都圏が女王国(伊都国、奴国、不弥国)=博多湾付近
狗奴国=南部九州 >>491
>記紀の編纂される少し前の天武天皇の時代に神武天皇陵の場所が分かっていたんだから橿原神宮の北にある現在の神武天皇陵で合ってると思うがな
神武の真陵は畝傍山の丸山。
根拠は律令時代の五色の賤である陵戸が配置されていたこと。
神武の墓になら真っ先に陵戸が配置されたのは当然だからな。
他にそのような場所はない。 王位の座を争ってて魏の皇帝が倭王として認めてるのは卑弥呼だと言わせたんじゃないか 魏志は北九州の勢力とヤマトの勢力が覇権を争っている端境期だったんじゃないか。
最終的に勝ったのはヤマトの方であることは、その後の古墳の分布を見ても明らか。
古墳があるということは、それを作るために余剰の農業生産力ができたということと、生口が多く生まれたことを意味するかも。 >>461
>畿内説だと1〜2世紀頃のヤマト勢力はどうなってんの?
俺も知りたい
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
記紀伝承などによれば、九州からの、
紀元前100年頃の「五瀬命や磐余彦らの東征」の頃の、奈良盆地やその周辺地域は、
九州からの先行渡来民や、長脛彦ら毛人や、出雲系などの先住民がおり、
欠史八代の頃は、それらの部族の共存で、時には争い時には戦争をする状態であり、
大和政権は、地方の市を監督する大倭職になったり止めたりした状態であり、
その大和政権に、九州倭國の東征軍が入って、毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の葛城や唐古鍵を、
征服しはし始めたのが、2世紀末の開化や崇神の頃から。 >>463
>近畿説だとヤマト勢力とかもない。
東海、近畿で大規模の災害 内部は水害、沿岸部は壊滅的
邪馬壹國もないか、出始めた時・・・
近畿や大和に「邪馬壹國」があった、かのように言い始めた時点で、
オレオレ詐欺の騙し。 >>513
キミは現代の民主主義の世を前提に話しているようだね。
古代はそうではない、種族独裁主義の我こそはというクニグニばかりだったんだよ。
隙あらば、隣国を攻め落として奴隷=労働力を確保する、それが「三国志の時代」だった。
そんな諸国乱立の中で、群を抜いて力=武力を付けてきたのが後漢〜魏で、
魔武力のネタは、後漢の第五代皇帝の時代に発明された軽くて切れ味鋭い最新のハガネ鉄だった。
従来の青銅や軟鉄の武器は大根か竹やり程度、簡単に打ち破られてしまった。
その最新の強力武器で武装した魏・帯方郡下の軍勢は、もちろん倭国でも猛威を振るい、旧来の弥生社会をことごとく撃破し、
九州は勿論、中国・四国のクニグニを平らげ、従えて、大和まで進軍した。
それが記紀に云う神武の東征だったのだ。 >>525
ばらばらなのかヤマト国として纏まってたかで違うでしょ
俺はヤマト国だったと思ってる >>523
紀元前100年頃の奈良盆地周辺がなんでそんなに栄えてるの?
遺跡か何かある? 日本全体が倭国で倭種の国なんてのは陳寿の知識が不足してるからそう書いてるだけ 古き良き日本列島は、大陸から渡ってきた縄文人のクニグニだらけだった。
其の後、紀元前数百年頃に、朝鮮半島から渡ってきた倭人(倭種)で、
九州は倭国、中国〜畿内は倭種のクニグニになり、一定の安定度を持った弥生社会になった。
そこに、2-3世紀ごろから楽浪郡・帯方郡傘下の漢民族が流入し始め、
倭国の大乱と、卑弥呼後の再大乱を経て、九州は漢民族王朝の国になり、更に東進して大和まで漢民族の支配する国になった。
それが「日出ずる国・ヤマト」の始まりなのである。 >>473
>卑弥呼の姿は、どうせ語った方もフィクション入ってるから、真面目に考えてもしようがない。
記紀もあえて書いてないことがある、その裏テーマに秘密が隠れてるかも。
箸墓の謎は、記紀の違いや一書に隠れてるが、正体は暴かず和を尊ぼうと。 (この謎は壬申の乱にも続く。)
崇神天応や応神天皇は、実年代は貿易拠点を変更した頃だろうか
この男も、卑弥呼の記述、が大和説にとっては都合が悪いから、
倭人伝の卑弥呼の記述そのものを抹殺しようとするオレオレ詐欺の大和説者なんだろうなあ。
しかし、魏は、魏使だけではなく、複数以上の魏の役人らも来ているんだから、
嘘でっち上げを書けば、同行者にバレて、直ぐに首が危なくなる、
という事が判らない・・・・アホ詐欺師なんだろうねえ。 >>531
ヤマトには漢系の痕跡はなく半島系ばかり 古墳時代には現代人と変わらない遺伝子なんだから
白村江で撤退したのは半島に進出してた倭人て事だよな 筑紫(神器の筑がある紫宮)、白日別(別名:天の太陽)、九州(九鼎)
畿内には天皇がいたであろう地名が殆ど無い 断定はできないけど
日本書記の木角宿禰の出てくる辺を読むとそう思えるよね。 倭国の大乱
145年〜147年ごろに、盟主国を巡って、連合国家内で政権争いが激化、邪馬台国(卑弥呼)が盟主国に、そして次の、「壹与」の時代(266年)頃までは、安定していたようですが、中国の国内事情もあり、半島及び列島(九州島周辺)と、中国との関係が希薄になり、半島、列島の集団が自立を始めます。 「九州倭国連合(邪馬台国、卑弥呼、壹与)」を支えていた、「男王集団」が分裂し、九州島に残る「男王集団」と、新興開拓地を求めて近畿地方に進出する「男王集団(神武、纏向)」が現れ、それぞれ独自の歴史を展開しています。 次の大きな転機は、396年の「高句麗」による「百済討伐」です。 高句麗好太王により、半島南部に居た「熊津百済」が滅亡し、王族集団が九州島に移動して来ます、これが、「倭の五王(讃、珍、済。興、武」で、「倭の五王集団の分派で、近畿地方に移動したのが、日本書紀の言う、応神、仁徳…」でこれらも、それぞれ独自の歴史を展開しています。 「九州島の倭の五王集団の後継者が筑紫君磐井」、「倭の五王集団の内、越地方に進出していた継体が、近畿地方の分派(武烈)と入れ替わります。 畿内説の論者って言い訳っぽい理屈ばかり述べてる。
邪馬台国自体は倭人伝の記述の産物なわけで、
そちらの記述を元に論じて行かなければならないのに、
墓がどうの、出土物がどうのばかりで、
確実性の無い勝手な決めつけで論じている様にしか見えない。
これはなぜかと言うと、
結果ありきで、理屈をそれに合わせようとしているから。
倭人伝の文章を素直に見る限り、
九州のどこかにあったのだろうことが示唆されているのに、
畿内説の論者はそれを無理に捻じ曲げている様に見える。 >>536
あの報道を真に受けるな、サンプル数
【 3 】
だぞ? 何の参考にもならん 魏・帯方郡下の漢民族は、九州に渡来して九州に卑弥呼王朝を建て、
そして東進してヤマトに漢民族の大和朝廷を立てた。
その漢民族の大和朝廷の命令で、
故地の帯方郡・楽浪郡・遼東郡を奪還すべく、漢民族将官の指揮のもと、九州の倭人豪族・倭人兵たちが駆り出され、
大挙して半島へ攻め入り、白村江で敗退して逃げ帰った・・。こういう顛末だろう。 >>540
俺は九州を指してる事は否定してないよ
ただ行程の1万2千里と直線距離の1万2千里を陳寿は勘違いしている
それと考古学より倭人伝の記述重視はその通り
その上で大阪だと言っている >>542
帯方郡以前に朝鮮半島の南端辺り(弁韓含む)は倭人の地である
【魏書弁辰伝】
倭人とも習俗が似ており、男女とも入墨をしていた、武器は馬韓と同じであった、礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。
飢饉の際、新羅に行ってるが海を渡って行くはずがなく以下は半島の倭人である
【三国史記】
193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した。 >>527
紀元前100年頃の奈良盆地周辺には未だ倭人は殆どいないな
当時は縄文系人の世界だ >>540
だから理論がハチャメチャで常人には理解出来ない
畿内説を理解出来るのは畿内説の学者と畿内説の学者から洗脳教育を受けた人だけだな >>546
邪馬台国はヤマト国で日本の事だ
だから帯方郡→投馬国→邪馬台国(ヤマト国)が行程
不弥国までの行程は何の関係もない >>528
魏志倭人伝には北部九州地域が倭国で山口県からは倭種だって書かれてるね
張政等の報告書によるものだから出鱈目とも言い切れないし
最近の古代人DNAの研究成果とも合っている >>550
倭種とやらは中国と交易が無かったと思ってるのか? >>550
現代日本人がにっと日本列島に居たのではないんだよな
古墳時代頃になってやっと現代日本人が日本列島に定住したんだ >>544
>帯方郡以前に朝鮮半島の南端辺り(弁韓含む)は倭人の地である
倭人が住んでいたから倭国だったとは言えないが、倭国でなくても倭人は住んでいたであろう。
まして倭人は、もともと弥生の始めに半島方面から渡ってきた人々だ、
だから東夷伝のうちの倭人条に記載されて、「アズマ エビス」の一種の扱いとされた。 >>553
何言ってんの?
じゃあ日本以外に日本人は何処に居るの? >>552
倭種やそれより東の裸国や黒歯国とも中国は交易をしていたと思うよ
だって女王を去る4000里と書かれてる
当時は里を知るのは中国人で倭人は知らないから
誰か分からない中国人が倭の奥地まで探検してるな
中国人の冒険商人だろうな。 >>555
古墳時代に現代日本人は誕生したんだよ
その前は朝鮮半島にも縄文系の人が住んで居たくらいだからな >>556
不老不死の薬を探しに来てるんじゃないか
その時記録もしてるはず
陳寿が知らないだけなんだよ 遺伝子から読めば半島から九州の地に(天孫降臨)降り立ったが、九州王朝の地では地盤を築くことが出来ず東征(東方への移植民)、近畿に落ち着いた 日本人の原型は朝鮮半島南部地域や北部九州地域で生まれ
古墳時代に日本列島全体へ拡散したんだろうな ニュースになってる古墳人の遺伝子は半島系ではなく大陸系、もう一度書くがサンプル数3なのでこの調査はあまり参考にならない 陳寿の知識がないから倭国と倭地を分けてただけで日本人はそんな事思ってないでしょ 東にも陸地があってそこにも倭人が住んでるみたいだと言ってるだけでしょ サンプル数3は、その学者オリジナルの今回表面上の数字だろな
英字誌に投稿するくらいだから、バックデータは、
他の学者・研究者・医療機関・警察など含めて、古代人や現代人など、相当多数あるんだろな。 今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。 >>474
>もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、
その狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、
張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!
この大和説男の、分裂幻覚の妄想のようなオレオレ詐欺宣伝は、
もしかしたら、この男だけではなく、大和説学者らや、
マスコミや教育委員会や教科書会社や文科省などの、
全てに広がっている詐欺かも、知れませんよね。 >>554
国はわからないが倭人のクニ(集落の集合体)はあっただろう >>289
>台与から倭王位を譲位されて神武東征が行われたとすると、その実年代は260年・・・
神武東征は、二中歴年代歴の証言に拠って、紀元前91年頃の前になるから、
この投稿子バツね。 >>523
>九州倭國の東征軍が入って、毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の葛城や唐古鍵を、
征服しはし始めたのが、2世紀末の開化や崇神の頃から。
2世紀末は神武の時代。
その神武は葛城を征服していない。
葛城在住の神の娘と結婚してるわけだから、
結婚することを「征服した」なんて言うやつはいない。
神武と、義理父である「事代主」のどちらの地位が上か、
もう圧倒的に事代主。
そしてその息子で、神武の義理兄にあたる天日方奇日方(鴨王=かものおおきみ)も
神武よりはるかに上、「おおきみ」だからな。
神武は大王ではなかったんだよ。
だから7世紀に新称号「天皇」で粉飾してあげたのだよ。 >>490
>事実は、逆だ。弥生以来、平穏だった倭国九州に、
後漢〜魏の後ろ盾(黄幢、つまり軍旗=錦の御旗)を得た邪馬台国・伊都国勢力が渡来し、
唐津に上陸して佐賀から熊本平野まで進出して、武力で領土を広げていった。
そして、旧宗主国の博多奴国や熊本南部の狗奴国(隼人)を平らげ、最終的に奈良平野に朝廷を開いたということだ
史料事実や史料実態は逆だ。
紀元前91年頃以前に、九州倭國の別種分家の神武らの「東征毛人」軍が、
奈良盆地の一部を占領して、地方の市を監督する大倭職を置いた、という事だな。 このニュースでは「現代人のDNAルーツは古墳人にさかのぼるらしい・・」、と言っている。
つまりこの論文では、逆に「現代人の多くは古墳人のDNA子孫であるらしい」といってるに等しい。
ということは、現代人の(多くは漢民族のDNAを持っているという)検査結果が既に大量に存在し、(関係者の間では常識化し}ているということだ。 >>492
>著名な人物は史料があるから巧妙なエセ書できる。
それらがない松野氏代々の出生、没、場所がわかるもんあるのか?
姫氏一族の「代々の出生、没、場所」などは、
大和政権の記紀などに拠って、殆ど壊滅的に無視され抹殺されていまったから、
殆ど、現存していない。 >>568
なーんだ、
✖ バツ男は、ゴチゴチの皇国史観の極右翼だったのか。 >>496
>神武は橿原神宮で即位してるんだから倭王でしょw
神武は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人」の将軍らの一人に過ぎず、
だから倭王にはなっていない。 【新羅本紀】
紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。
この時代のヤマト勢に遠征軍など送れるはずもなくヤマト勢力の存在すら疑わしい
ヤマト勢(或いはその母体の一部)は半島から逃げ九州へ渡ったが強大な九州王朝の地では何も出来ず東方へ植民、手つかずの耕作可能地が潤沢にあり植民は順調、次第次第に人口も増え最大勢力となった
その成り立ちはそのまま書けるようなものでなく、出目やその成立を粉飾して出来たのが記紀 >>500
新撰姓氏録 出自しかないよ。
呉王夫差の遺民が海に入りて倭になったなど
記載はどこいあるの?
偽書だな。 >>497
>遺新撰姓氏録に呉王夫差の遺民が海に入りて倭になったと
あるのか?どこの箇所 リンクしてくれないか? 証言があれば正しいのか?
「呉王夫差の遺民が海に入りて倭になった」と証言したのは、通鑑前編だ。 >>499
>247年時に13歳なら、260年で26歳。吉凶(GO/STOP)占いはできても、
そんな国家戦略を実行できる政治能力はあったとは思えないから、
張政の命令で神武が東征したと見るのが妥当だろう。
>「BC660年の神武天皇即位は、実際は(800年後の)260年ですよ」と記紀の編集者が、
我々にメッセージを送ってくれているのかも!
二中歴の年代歴の証言によって、東征した神武の即位元年は、紀元前91年頃であるから、
この大和説男は、オレオレ詐欺師男だな。 >>502
>九州を抑えた倭王として大和に東征してきたんだから、同じことだよw
いや、東征将軍らは、九州倭國の別種分家の「大倭職」の旧小国であり、
「倭王」にはなっていないから、バツだな。 傍証がありすぎてね
松野正信の居城の横に卑弥呼ケアセンターもあるし >>577
流用文献あげてもしょうがない。
>>新撰姓氏録くらい図書館で借りてきなさいよ
公式文書では最古クラスの文字資料でしょう
バカすぎる。それら文献を元にエセ書をつくるんだ
よ。間抜けすぎ。全部公開しろよ。 ・
>>581
傍証すらまったくないな。
流用文献と創作
松野正信の居城の横に卑弥呼ケアセンターあるし
商売ネタか! 山東=ヤマト
ヤマト王権とは山東省から来た秦の始皇帝である >>578
>二中歴の年代歴の証言によって、東征した神武の即位元年は、紀元前91年頃であるから、
記紀の内容からして神武東征は5〜6世紀頃だよ
古墳時代の終わり頃だね >>584
ウィキペディアより
壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、
出雲の間の交流を示すとされる。姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、
出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があると指摘されている。
楽浪郡土器などなんら邪馬壹國を証明するもんでもないけど >>515
>全般的なもんで明治政府は評価を与えていただけだよ。
松野氏系図の偽、真の判定はしているのか?
いや、鈴木真年氏は、全国の膨大な諸家の家系図を収集しており、
当然個々の家系の偽真の判定などは、おそらくしておらず
だから、明治政府もその証言の確率の高さを認めて、
鈴木氏を東大教授や高官に任じたんだろう。
だから、国会図書館や静嘉堂に保管された系図の、頭書きも右注も左注も、
おそらく、松野氏の末裔が保管していた、そのままであったんだろう。 >>516
>卑弥呼の在位期間は50年くらいあるんだし・・・
魏使らが卑弥呼と面会した240年頃の時にすでに「年已長大」と見られており、
「年已長大」は30〜35才位でであり、
250年直前の40〜45才頃に亡くなっており、
仮に壹與の即位が13歳で幼少と見られていたのなら、
卑弥呼は20才位の即位であった事になり、
だから、在位は20〜25年位である。 >>522
>魏志は北九州の勢力とヤマトの勢力が覇権を争っている端境期だったんじゃないか。
いや、大和は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国で、
九州倭國の別種分家の倭種の「地方の市を監督する大倭職」の旧小国。
>最終的に勝ったのはヤマトの方であることは、その後の古墳の分布を見ても明らか。
巨大前方後円墳などは、征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして、
巨大墓を造らせる事が出来たから。
>古墳があるということは、それを作るために余剰の農業生産力ができたということと、
生口が多く生まれたことを意味するかも
好太王墓の碑文にも、征服した新羅や百済民を守墓人にした、
という事が記載されている。 >>527
>紀元前100年頃の奈良盆地周辺がなんでそんなに栄えてるの?
遺跡か何かある?
別に、栄えていた、という訳ではないだろ?。
毛人蝦夷や蜘蛛人や、九州からの流れ人や、出雲系銅鐸祭祀部族らが、
時には争ったが、原則としては、共存的に生存していた。 >>528
>日本全体が倭国で倭種の国なんてのは陳寿の知識が不足してるからそう書いてるだけ
6世紀の説明の梁書でも、列島では、
九州倭國と、出雲文身國と、越の大漢國と、侏儒國と、大和の扶桑國と、
中部山岳部以北の「女國≒紅毛碧眼の鮮卑系の秋田美人の國」の6国の記録がある。 >>537
>筑紫(神器の筑がある紫宮)、白日別(別名:天の太陽)、九州(九鼎)
ふーん。 >>543
>俺は九州を指してる事は否定してないよ
ただ行程の1万2千里と直線距離の1万2千里を陳寿は勘違いしている
それと考古学より倭人伝の記述重視はその通り
その上で大阪だと言っている
「大阪」説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>549
>邪馬台国はヤマト国で日本の事だ
だから帯方郡→投馬国→邪馬台国(ヤマト国)が行程
不弥国までの行程は何の関係もない
邪馬台国なんて存在もしなかった「嘘つき騙しの造作文言」であり。
大和説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだ。 倭(女王)国(九州)と「東渡海千里複有国皆倭種(本州)」と「又有侏儒国(四国)在其南」は別々の島国ということ >>588
原文調査
全文公開がないので偽書としておく >>600
調べもしないで本物もテキトーすぎん?
全文公開がない
原文調査など聞かない
真偽判定もない 雑な世界だねぇおたくらの業界
系図学界ではやっていけないね >>603
意味不明?
偽書扱いが嫌なのか?
本物にしたいのか? >>604
意味不明
>>系図学界ではやっていけないね
宝賀 寿男の所だろ。
系図学界の見解は? >>569
>2世紀末は神武の時代。・・・
これ、始めから間違い。
二中歴の年代歴で、
(大和での)神武即位元年の絶対年代は、紀元前91年頃、
と確定している。 ウィキでは偽書扱いだな。
偽書で扱いでいいよ。
真偽判定していないから勝ち負けはつかない。 >>581
>傍証がありすぎてね
松野正信の居城の横に卑弥呼ケアセンターもあるし
ふーん。
そういえば、熊本出身の代議士に「松野」氏がいたし、
女子マラソンの「松野〜」も熊本出身であったし。
「松野正信」という人物の居城や「卑弥呼ケアセンター」というのは、検索してもよく判らんかったが、
松野氏姫氏系図の姫氏の子孫であった可能性はあるし、
「卑弥呼」という名前を出す位だから、
自分らは卑弥呼一族の子孫である、という伝承を持っていた可能性もあるね。 >>587
>ウィキペディアより
壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、
出雲の間の交流を示すとされる。
ふーん。海峡の天照らは、古代の出雲國のNo.2であったから。
>姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、
出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があると指摘されている。
楽浪郡土器などなんら邪馬壹國を証明するもんでもないけど
古代出雲の「国引き神話」では、出雲は「縄や木」の縄文道具を使って、
越や新羅や北朝鮮付近や沿海州からの「国引き」をして建国した、
という説明になっているから。 >>588の訂正
>全般的なもんで明治政府は評価を与えていただけだよ。
松野氏系図の偽、真の判定はしているのか?
いや、鈴木真年氏は、
全国の膨大な諸家の家系図を収集しており、
当然個々の家系の偽真の詳細な判定などは、おそらく余りしておらず
しかし、明治政、その証言の確率の高さを認めて、
鈴木氏を東大教授や高官に任じたんだろう。
だから、国会図書館や静嘉堂に保管された系図の、頭書きも右注も左注も、
おそらく、松野氏の末裔が保管していた系図、そのままであったんだろう。 >>613
無い、可能性もあるな。
可能性て便利だな。 >>526
>ばらばらなのかヤマト国として纏まってたかで違うでしょ
俺はヤマト国だったと思ってる
九州倭國の東征軍に拠って、葛城や唐古鍵なども征服されて、
奈良盆地が統一的になったのは、3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚頃から。 >>617
当方は、近畿説だよ
韓国南部、投馬国説なんて
ユニークだよ。既存の説の追従よりは面白い。
佐賀、宮崎、熊本、久留米説は筋がいいよ。
その辺に墓があるかも?
祇園山など被葬者のDNA等の調査希望している。
まあ、魏志書き上げた以降に墓の移動もありうる。 葛城や唐古鍵などがそもそも九州からの東征第二波や第三波だったろう >>581
>傍証がありすぎてね
人に言わなきゃ意味がない >>609
二中歴って6世紀くらいから始まるんじゃなかった? >>557
キミは韓国の人だと思うけど、
韓国には縄文人は住んでないよ。
日本語に近い言葉を話した人々は住んでた可能性が高いけど。 >>622
エセ松野連文書並みに本を書けば
売れるよ。経典扱いになる。
勝手に本物扱いしてくれる。 >>528
>日本全体が倭国で倭種の国なんてのは陳寿の知識が不足してるからそう書いてるだけ
日本全体が日本国の地なんてのは、大和説者らの知識が不足してるから、
そう思っているだけ >>543
>俺は九州を指してる事は否定してないよ
有難う。
>ただ行程の1万2千里と直線距離の1万2千里を陳寿は勘違いしている
魏略も「自郡至女王國萬二千餘里」という文を書いているようだから、
「自郡至女王國萬二千餘里」は魏の役人らの記録であったのであり、
また、魏の役人らも陳寿も、
一寸千里の応用を使っての「萬二千余里」の直線距離を計測する能力があったのか?、
は疑わしいから、郡から女王國の萬二千余里も、
魏の役人らの行程記録の合計の「萬二千余里」も、どちらも、直線距離ではなく、
道のり距離である。
>それと考古学より倭人伝の記述重視はその通り その上で大阪だと言っている
「大阪」説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツです。 >>549
>邪馬台国はヤマト国で日本の事だ・・・
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり
邪馬壹國が「ヤマト国で日本の事だ」と言うんなら、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだ。 しかしこのスレを俯瞰してみれば743まで行ってるのに遅々として議論が進まない(合意の未形成)、1000まで行ってもかわらないだろう。
お前らみんな馬鹿なんじゃないの? だってみんな自説を一方的に連呼するだけなんだもん
スレの中身も書いてる奴らもここ数年ほとんど一緒だしw >>629
そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波 >>617
ここまで本物と言う証拠が一個も出ないからしょうがない。 畿内説ってそれっぽい遺跡さえ見つかれば強引にこじつける連中だから
北海道にそれっぽい遺跡が見つかってもこじつけるんだろうな
南=北東とか言い出してなw >>635
近畿説は「南=南」
「東南=東南」
「東南≠北東」
ですよ。 「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ)4日間で170km走破
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵
常識的に考えて、これは不可能である!
これも、大河吉野川北岸での乱なのである。 @阿波 >>634
大和説者からは、ここまで、
「史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙し」のオレオレ詐欺しか出ず、
大和説が本物と言う証拠が一個も出ないんだから、
負けても、しようがない。 >>636
>近畿説は「南=南」「東南=東南」「東南≠北東」ですよ。
近畿説も「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」で、バツですよ。 >>640
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」なんでバツ。
近畿説は「南=南」「東南=東南」「東南≠北東」ですよ。
「南≠東」にしたいらしい。
ぺルタぺーテン ぺルタぺーテンていいけど
詐欺師にふさわしい、プルタぺーンにする。 >>639
ザラコク、意味わからん。
大和説が本物と言う証拠が一個も出ないんだから、
負けても、しようがない。
大和説が偽と言う証拠が一個も出ないんだから、
負けても、しようがないのでないのか?
松野エセ文献の話だけど。 >>629
九州説老人たちが寿命で死ねば、議論は終わるよ
だって彼ら、本は読まないし、人の話も全く聞かないんだもの 最近の母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるみたいだな
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
阿波は独立していて混血の強い広島がやや徳島寄り
阿波のルーツは興味深い
因みに混血の強い京都大阪が一番近いのは東北グループ >>624
人骨のDNAの解析で昔は朝鮮半島にも縄文人が居たことが判明している
しかし現在の韓国人には殆ど縄文人の影響は見られない
殆どが日本列島へ移住してしまったんだ
>>646
人骨のDNAの解析が段々と進んでるから畿内説の消滅も時間の問題だな 鈴木真年は国学者
国学者の本居宣長は馭戒慨言で江戸幕府以前の外交史の観点から漢意の批判、排除をし
国学者の鶴峯戊申は襲国偽僣考で熊襲偽僭説(熊襲の女酋長が大和の神功皇后の名を偽った)を述べた
鈴木真年が収集した松野氏系図は熊襲の系図
皇国史観、国粋主義に影響を与えた国学を根拠にしているのが九州王朝説 >>650を少し訂正
国学を根拠にしているというより
皇国史観、国粋主義に影響を与えた国学をパクって朝鮮起源説にしたのが九州王朝説(=反日有害活動) 論理で反論できなくなると
政治的民族的なレッテル貼りで逃げるのは
歴史マフィアの末端構成員の常套手段ですな >>647
>九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
それみんな、「倭人(阿波勢力)」が進出して行ったところと一致するから。 @阿波 倭の五王
最初から四番目までは
朝鮮半島南部の倭人説
最後で雄略天皇
なんで記紀に載らない? >>655
九州王朝で統一など無理
倭人伝より國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人
な風土。 >>646
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説者らが、寿命で死ねば、議論は終わるよ
だって彼ら、本や史料事実はまともに読まないし、人の話も全く聞かないんだもの >>650
>・・・鈴木真年が収集した松野氏系図は熊襲の系図・・・
これ、間違い。
松野氏姫氏系図では、熊襲は卑弥呼の系列ではなく、卑弥呼とは別系列部族であって、
卑弥呼の直後頃から卑弥呼の系列に合流した、
というような書き方である。 >>652
>論理で反論できなくなると、政治的民族的なレッテル貼りで逃げるのは
歴史マフィアの末端構成員の常套手段ですな
そうですね。
東大理系博士号自称男らのような「歴史マフィアの末端構成員」は、
街宣車の殺戮戦争極右の・・・・と同じであり、
議論に負ければ、直ぐにテロに走る・・・・ですから、
危険ですから放置するのがベターでしょうね。 >>650
熊襲の系図?
文献等に精通している
詐称文書としている。 >>656
>倭の五王 最初から四番目までは 朝鮮半島南部の倭人説
最後で雄略天皇 なんで記紀に載らない?
倭の五王は、
阿毎氏系の筑紫の磐井やタリシホコらや、
大和王権系の神武〜ヲホド継体以後に続く阿毎氏らとは違って、
卑弥呼ら以後の東海姫氏國系の王だから。 >>486
アマテラス(伊都国・平原女王)、アメノオシホノミミ(投馬国の官)、阿毎多利思比孤は、同系統なんジャマイカ? ジャマイカ野郎とか見てると、つくづく九州説は」学問じゃないと思うよ >>474
>>483
スサノオ(奴国王帥升)┬アマテラス(伊都国平原女王)
宗像三女神(長女卑弥呼)└長男アメノオシホミミ(投馬国官弥々)
(姪台与)........................└ニニギ三兄弟(日向三代)
(台与から東征命令)...............└磐余彦(神武)
>>666
平原女王でわかるな。
九州説でもたちの悪い方
ペーテン古田系 >>666
>アマテラス(伊都国・平原女王)、アメノオシホノミミ(投馬国の官)、阿毎多利思比孤は、同系統なんジャマイカ?
平原女王は壹與の可能性が非常に高いだけですが、
いずれも、(卑弥呼や倭の五王などとは違って)、「阿毎(アマのイ)氏」系ですね。 >>667
「南→東」とか「卑弥呼の冢→前方後円墳」とか、
「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らとか見てると、
つくづく大和説は学問じゃない、と思うよ。 >>670の小訂正
>アマテラス(伊都国・平原女王)、アメノオシホノミミ(投馬国の官)、阿毎多利思比孤は、同系統なんジャマイカ?
平原女王は壹與の可能性が非常に高いだけですが、
いずれも、(卑弥呼や倭の五王などの姫氏とは違って)、
「阿毎(アマのイ)氏」系ですね。 >>668
欠史八代(崇神の弟達→兄達へ)や仁徳朝の100歳越えは、実年代は260年代の神武即位をBC660年に、800年繰り上げるために記紀の系図が水増しされているとすると、
日向三代が三兄弟の可能性は十分ある(近世徳川将軍家も家康・秀忠・家光は親子孫だが、家綱・綱吉は兄弟)。
スサノオ(帥升)とアマテラス(伊都国平原女王)の誓約(婚姻)によって、アメノオシホノミミら5人の男子が生まれるわけだが、
倭国大乱の原因は、中国大陸で起きた黄巾の乱同様、大飢饉の他に、スサノオ(娘3人=宗像三女神)に男子がなかったことによる皇位継承戦争と思われる。
そこでスサノオの長女を卑弥呼として急遽共立して繋いだものとすれば、一応辻褄が合うが、摂政の男弟がなぜ帥升の跡を継いで倭王になれなかったのかが気になるところではあるが、これ以上の詮索は想像するしかない。
其国本亦以男子(帥升)為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歷年、乃共立一女為王、名曰卑弥呼。
事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治国。 >>670
>いずれも、(卑弥呼や倭の五王などとは違って)、「阿毎(アマのイ)氏」系ですね。
それがつまり、彌生時代の初めから博多湾岸を制覇していた東夷の倭人系の「倭奴国(博多那の津国)王朝」なのさ。
でその32世の孫女が、三世紀後半ごろ、ウガヤフキアエズに嫁入りしたわけ。 >>667
プルタは学問でなく宗教
すぐに反応、ザラコクが典型。
それ以外の九州系が学問 ほらな。経典、教義が同じだから
内輪だけの話で終わるでしょ。
九州説とひとくくりにするのも考えんもん。 >>673
弟スサノオと姉アマテラスの誓約とは、近親結婚ではなく、それぞれの子供を、姉弟間に出来た子供と言うことにしたということジャマイカ?w
つまり、弟スサノオの3人の娘(宗像三女神)と、姉アマテラスと投馬国王の間に出来た5人の息子を、あくまで戸籍上の8人兄弟姉妹ということにしたと。 >>670
>欠史八代(崇神の弟達→兄達へ)や仁徳朝の100歳越えは、
実年代は260年代の神武即位をBC660年に、800年繰り上げるために
記紀の系図が水増しされているとすると、日向三代が三兄弟の可能性は十分ある
二中歴の年代歴の「(神武の年始以後の)二倍年歴年数が569年であった」、
という記載に拠って、神武即位元年は660−569=91によって、
紀元前91年頃になるから、「日向三代」が紀元前2世紀頃になり、
崇神の紀元200年頃と全く合わないから、
バツね。 >>673
神武が実在するとすれば、古墳時代(台与の後)の大王だからね
800年も繰り上げるのに記紀の編集者たちは苦労しただろうな 『国宝 翰苑の世界』 天満宮に残る唐の事典
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1639662610/
邪馬台国の卑弥呼などが記される
関連する北部九州での出土品も展示 福岡 >>670
>欠史八代(崇神の弟達→兄達へ)や仁徳朝の100歳越えは、
実年代は260年代の神武即位をBC660年に、800年繰り上げるために
記紀の系図が水増しされているとすると、
単純な質問。
なんで800年も繰り上げるの? >>677
スサノオの娘・宗像三女神の誰かが卑弥呼だとしたら、アマテラス(平原女王)は叔母(父の妹)に当たるね >>683
記紀が九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤)の10王を消すためだよ >>684
訂正
✕叔母(父の妹)→○伯母(父の姉) >>683
>>685
事実上中国全土をほぼ支配していた姫氏の東周王朝(BC770〜BC256)と同じくらい歴史のある王朝だ!ということを示すためもあるかもな >>687
>事実上中国全土をほぼ支配していた姫氏の東周王朝
なにそれ
本気で言ってんの?
歴史無知?
歴史無視?
どっち? 邪馬台国は九州で決まりだが、その後本州に成立したヤマト王権と倭の五王や阿毎多利思比孤との関係が古代史解明の鍵だ。
九州王朝(倭の五王・阿毎多利思比孤)とヤマト王権(仁徳朝・推古)は本家と分家の関係だったとするのが、一番シックリくる。 中国のようにまだ国家統治のシステムが出来上がってないのに、王朝だけ置き換わることはありえない 2世紀『後漢書』倭王師升
2世紀前半 漢鏡の出土は主に北九州
2世紀中頃 倭国大乱(九州 vs 近畿 vs?)
3世紀 近畿勢力が卑弥呼擁立
3世紀前半 漢鏡の出土は主に近畿、銅鐸衰退
3世紀中頃 卑弥呼死、纏向型古墳出来
3世紀中〜後半 台与政権、纏向型古墳増
3世紀後半 倭王崇神、古墳は前方後円型へ >>683
大和王権はヤンキーの高校デビューなんだよ
高校で天下とったけど中学時代は脇役で小学時はパシリだった、そんなヤツに過去話させたら色々粉飾して話すしかないんだよ、崇神より前の話を真に受けたらだめ ヤマト王権は出雲吉備の本州連合王権で、筑紫邪馬台国に吸収されて、九州と本州が統一されたとみている。
崇神・垂仁・景行(日本武尊)・仲哀は大和に宮を置き、国内が統一され、神功の代で再び九州に遷都した。
続く、倭の五王(仁徳応神〜雄略朝)も筑紫に留まり、百済と新羅の救援を大義名分として半島に派兵し、高句麗と戦争を繰り広げ、継体がクーデターを起こし、熊本の狗奴国が倭王となり、阿毎多利思比孤が高句麗戦争中の煬帝に無礼な国書を贈った。
そして唐が成立すると新羅と同盟を結んで東西から百済を滅ぼし、白村江で大敗した天智が近江に亡命してきて、畿内中心の歴史が始まるのである!! >>695
まあ、それがないと
二中歴の年代歴とか作れない。
学者もどきの本が売れない。 >>695
あなたみたいな知性の低そうな人がそう言うからには逆に全部真実なんだろうな
ただ東征の時期だけはちょっと早目に書いてみました的な感じかもな
景初3年より後にすると魏志と整合性が出てきちゃって逆にヤバいからな >>696
初期ヤマト王権=出雲吉備連合王権(ホケノ山)
ヤマト王権=神武崇神朝(箸墓) >>698
俺の知性はどうでも良いけど君が思う歴史解釈を>>683みたいに1投稿にまとめてみて
ここのスレは全体に話しがマクロ過ぎる >>696
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 >>701
九州と大和の間には瀬戸内海があるが、湖みたいなもんだよ。 >>700
いや欠史八代に関しては他に言うことがないから
東征の部分以外は記紀そのままということでw
ただ神武天皇より前は、どこに来るのかは神のみぞ知る領域かもw 2世紀『後漢書』倭王師升
2世紀前半 漢鏡の出土は主に北九州
2世紀中頃 倭国大乱(北部九州内乱)
3世紀 伊都国、奴国、不弥国が卑弥呼擁立
3世紀前半 漢鏡の出土は主に九州、銅鐸衰退
3世紀中頃 卑弥呼死
3世紀中〜後半 台与政権
5〜6世紀 神武東征
8世紀初頭 大和朝廷の成立 >>700
ヤバい扱いされたな。
何がヤバイのかは知らんが
事実がでれば組み入れるだけの話。
なんら、ヤバくもない。
むしろ、そっちの方いい。
証拠さがしや説得できる論理考えるだろう >>706
漢鏡7期−1から神武東征
漢鏡7期−2では畿内定着 >>710
>>景初3年より後にすると魏志と整合性が出てきちゃって逆にヤバいからな
「ヤバいからな」と余計な事書くからだよ。
俺に言われてもな。 >>696
武が東に毛人って書いてるから九州にはいないと思ったんだが >>708
漢鏡5期 唐古・鍵遺跡 最盛
漢鏡6期 唐古・鍵遺跡 倭国大乱で滅亡 >>714
面白いね。
このレス、コンセンサスなど皆無だから
いいかも? >>660
夫差ー忌ー順ー恵弓から熊鹿文(注;委奴國王)ー厚鹿文(書紀;熊襲の首長)ー市乾鹿文、市鹿文に繋がっている熊襲系図
熊襲偽僭説の偽系図 >>693
>2世紀『後漢書』倭王師升
2世紀前半 漢鏡の出土は主に北九州
2世紀中頃 倭国大乱(九州 vs 近畿 vs?)
少し違う。3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
>3世紀 近畿勢力が卑弥呼擁立
これは、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。卑弥呼共立は九州付近です。
>3世紀前半 漢鏡の出土は主に近畿、銅鐸衰退
3世紀前半 漢鏡や魏鏡の出土中心は北部九州
大和はまだ毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や九州からの東征軍の大倭職の混在時期
>3世紀中頃 卑弥呼死、纏向型古墳出来
3世紀第二四半世紀 九州は卑弥呼の死や庄内 大和は第五様式期
3世紀中〜後半 九州は壹與政権後と、東征の再度の活発化と前方後円墳や布留の始まり
大和はまだ第五様式
3世紀末 大和は「市」を介して庄内の伝来と、古墳は前方後円型へ >>724
加古川の竹島どろぼう反日有害鮮人のデマ年代 >>724
2世紀中頃 倭国大乱(九州 vs 近畿 )
近畿は、水害からの復興中だよ。
乱の跡はみつからない。
倭国の乱は九州、青谷遺跡(もうちょい古いかも)ぐらい >>724
なんで九州説の人は平気でこんなデタラメが書けるんだろう
どういう神経なのか脳を見てみたい >>726
そんな関ケ原の合戦みたいなのが古代に起こるかよ
何の為に九州と近畿が争うの? >>307
>3世紀前半(漢鏡7期−2)は主に北九州ではない・・・
まず3世紀前半の「漢鏡」なんて殆どない。
明帝下賜鏡と渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡なら北部九州に大量にあり、
更に、3世紀後半には那珂八幡にも△があり、3世紀末には糸島に黄金△も出る。
それに対して、大和での鏡は3世紀最末〜4世紀のホケノからであり、
△が大量に副葬されたのは、4世紀。 >>727
なんで大和説学者らは平気でこんなデタラメが書けるんだろう?。
どういう神経なのか脳を見てみたい >>728
>何の為に九州と近畿が戦うの?
九州が半島から来る鉄を独占してるからだよ >>731
武器はなんだよ。
鉄無しは九州の主張ではないのか? >>732
>武器はなんだよ
実際は、出雲や日本海側には少量は行ってるし、ヤマトや各国にも流れて鍛冶の技術もあるでしょう。
農具には行き渡らなくても、武器は作れただろうし、弓矢の方が主戦武器だったのでは。 >>733
水害は確認されている。
武器より農具、復興に使うよ
ないので木ぼりが多い
食わずにどう戦う
戦乱跡もない。 戦闘を、どの程度行ったかは分からないが、その鉄への要求と4世紀からの使用状況の変化は確かだから 九州や畿内の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 @阿波 古墳時代に人口は10倍ぐらいに増えるから、農業生産能力は相当上がっただろう >>735
遺跡等調べてから書いてくれ。
鉄が増えるのは弥生後期〜古墳期 >>738
具体的な情報は持ってないので、逆に教えて欲しい。 弥生後期、いつ頃から? 弥生時代の鉄器は殆どが九州からしか出土しないからな
鉄器の普及した北部九州は農業生産性も向上して人口も多かったんだ。 >>739
弥生後期 クグレ。
パソコンか、スマホだろ。 >>740
3世紀辺りだとにも鉄の工房跡があるし近畿に鉄が手に入り難かったとは考え難い
まあ近畿と言っても淡路島や彦根なんだけど >>739
>具体的な情報は持ってないので、逆に教えて欲しい。 弥生後期、いつ頃から?
あなたの日本語わからない
弥生後期とはいつ頃から? の意味なのか
鉄の増加は弥生後期のいつ頃から? の意味なのか この頃の鉄は、板状の軟鉄を弁辰から購入していた。
日本で鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀の半ば。
購入や輸入の権利は、帯方郡が管理していたんだろうな。 >>740
>弥生時代の鉄器は殆どが九州からしか出土しないからな
九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 @阿波 >>724
> 3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
> 3世紀前半 漢鏡や魏鏡の出土中心は北部九州
史料お願いします
> 大和はまだ毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や九州からの東征軍の大倭職の混在時期
製造が3世紀で止まってるので3世紀前半衰退でおかしくないと思うが、徐々に衰退とでも書けばよいか >>739
まず、九州説スレで下地を作ってから
書いてくれ。
ここは畿内説スレ。 >>726
九州は近畿に攻め入る必要ないので逆はある、九州vs近畿だけではないでしょうけど
青谷上寺地遺跡は大乱の跡と思う >>750
水害て言っているだろう。
九州説で質問しなよ >>752
北九州は半島ルートへの要衝なのでここは必要 >>735
>>755
日本語がわからない人は俺にからまないでくれ >>753
735ではなくおまえあてだ
日本語がわからないヤツはからまないでくれ >>754
>九州は近畿に攻め入る必要ないので
なんで? 9条信者か。
こちらが平和的に武器を放棄すれば、
あちらも好意的に武器を放棄して仲良くしてくれるとでも?
太平洋を支配するための要衝である日本列島に、
突如として米軍も自衛隊もいなくなったらどうなる? >>760
畿無脳は9条を超えてる。
圧倒的武力と地理的好条件を持つ相手が、何も持たないこちらに攻めてくることがないという前提の上に、
さらに何も持たないこちらこそが、豊かな相手を攻め落とすという、鬼畜の所業。 >>738
>遺跡等調べてから書いてくれ。
鉄が増えるのは弥生後期〜古墳期
弥生期は、北部九州は大和の二百倍?位。
大和の鉄鏃が始まるのは、3世紀最末〜4世紀のホケノから。 >>766
鉄鏃を
埋めたのが3世紀最末〜4世紀のホケノ
使用なのでもうちょい前。
宗教地なんで野ざらしにはできない。 >>739
>具体的な情報は持ってないので、逆に教えて欲しい。 弥生後期、いつ頃から?
弥生と古墳時代の区分時期は、前方後円墳の始まり時期であり、
北部九州の前方後円墳は、3世紀後半半ば頃の那珂八幡などからであり、
だから卑弥呼の冢は弥生末になり、
大のの前方後円墳は3世紀末の石塚からであり、だから大和の古墳時代は3世紀末から。 外で鉄鏃が出土していないから、
鉄鏃を使用するまでも無く征服したのであろう。 >>747
>>3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
>「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
それ、後代の5世紀の、自己解釈に拠る書き変えの多い范暢の後漢書の記載だから、
信頼性がなく、半分バツ情報。
>> 3世紀前半 漢鏡や魏鏡の出土中心は北部九州
>史料お願いします
大和の鏡は3世紀最末以後のホケノ以後であり、九州には卑弥呼の下賜の「鏡片」や、
明帝の下賜の内行花文鏡群や、「尚方作」の21枚の方格規矩鏡群がある。
>> 大和はまだ毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や九州からの東征軍の大倭職の混在時期
>製造が3世紀で止まってるので3世紀前半衰退でおかしくないと思うが、
徐々に衰退とでも書けばよいか
何の、どこの、話なんですか?。 >>349
>吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡はどちらが古い?
吉野ケ里には前方後円墳があるので、3世紀後半半ば頃までは存在していた。
纏向は、3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚以後だから、3世紀末以後。 >>750
>九州は近畿に攻め入る必要ないので逆はある、九州vs近畿だけではないでしょうけど
「自昔・・・東征毛人五十五國」を上表したのは、倭王武。
>青谷上寺地遺跡は大乱の跡と思う
半分バツ書の後漢書のいう「大乱」はなかった。 >>775
> >>747
> >>3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。
魏志倭人伝も3世紀初頭を否定してる
> 大和の鏡は3世紀最末以後のホケノ以後であり、九州には卑弥呼の下賜の「鏡片」や、
> 明帝の下賜の内行花文鏡群や、「尚方作」の21枚の方格規矩鏡群がある。
↓これが間違ってるの?
https://ameblo.jp/tomoishi1976/image-12016349248-13282658977.html
銅鐸の製造が3世紀で止まってるのソースはwikiから >>760
>9条信者か。
はい、そうです。
戦争は、ヤクザ暴力団や極右殺人狂や宗教狂のような、
「何でも一番になって、殺人をしてでも勝ちたい」という、
殺し合い戦争が大好きの・・・・同士が起こすものです。 ☓「何でも一番になって、殺人をしてでも勝ちたい」
〇「勝たないと殺されるから、勝たざるをえない」 >>776
>吉野ケ里には前方後円墳があるので
ありません
また九州説のニセ情報 >>781
そういうお前もなにも根拠提示が無いだろ? >>771
大和説学者らは、
ニセ年代と、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐きオレオレ詐欺の、
妄想で出来てるのだね >>777
> 「自昔・・・東征毛人五十五國」を上表したのは、倭王武。
倭国大乱時とは背景が異なる、倭国大乱は鉄を巡る争い
倭王武は 東征毛人 とあるから畿内 >>778
>蝦夷は東北 毛人は?
毛人は、当然「毛むじゃら」部族の総称であり、
九州にも「猿田彦」や「えみし」の記載があるし、
その他の列島各地に「蜘蛛」人などの毛深い事を示す呼称があるし、
東北の蝦夷も、やや「毛むじゃら」的である。
しかし、日本海側への渡来系の胡人や、「紅毛碧眼の白豚」の秋田美人の鮮卑らは、
「毛人」とは呼ばれなかった可能性がある。 >>784
>そういうお前もなにも根拠提示が無いだろ?
畿内説の年代論の根拠はテンプレにも書いてあるし通説なので問題無い >>787
すでに近畿〜北部九州抑え
それ以外の九州地域
にいる熊襲や隼人と推定。 >>741
日本海側からの出土は点数は多いが小物ばかりで量が少ない
>>743
微々たるものだね
>>778
毛人は特定の人々じゃなくて東に住む人達のことだな
>>786
「渡平海北九十五国」とあるから倭王武は九州に居た
関西からだと西になるね
「東征毛人五十五國」は中国、四国、関西地方の国だね >>788
毛人 愛瀰詩 蝦夷
いずれも「えみし」と読み、ヤマトの東に居住する 夷
「日本書紀」
東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。 >>794
時代が違うからな
アメリカでも同じ西部って言っても時代と共にどんどん西に移動して行ったからな。 >>793
中国、四国、関西地方に毛人はいない。
のでバツ
北部九州はすでに抑えているので
「渡平海北九十五国」だよ。 >>793
決して根拠を示すことのない九州説ごくろうさま >>796
>中国、四国、関西地方に毛人はいない。
なんで? >>797
文献という根拠を元に話をしている最中に、
根拠も示さず茶化すしかない畿内説ごくろうさま >>793
> 「渡平海北九十五国」とあるから倭王武は九州に居た
> 関西からだと西になるね
西服眾夷六十六國,渡平海北
とあるから西に渡ってから北に行く
北九州内の西側に衆夷の六十六カ国は多すぎる >>793
>「渡平海北九十五国」とあるから倭王武は九州に居た
>関西からだと西になるね
これが典型的な詐欺ね
倭王の都が畿内だろうが関東だろうが、海北に渡るのは九州からだ >>799
>文献という根拠を元に話をしている最中に、
>根拠も示さず茶化すしかない畿内説ごくろうさま
九州説って、なんでそんなウソつくの?
根拠も示さずに 科学が進歩しすぎてもはや畿内説では手に負えないんじゃないの?
箸墓古墳のミューオン透視はどうなったのだ? >>779
>>3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。
魏志倭人伝も3世紀初頭を否定している
魏使らが卑弥呼に会った240年頃の時に「年已長大」と見ており、
中国では「長大」が「30〜35才」位である事を示す文言であり、
まさか0才で女王に共立される筈がないし、壹與の共立?が13才位と見ているから、
卑弥呼共立を仮に20才位だとすると、「30〜35才」の「10〜15年」位前だから、
卑弥呼共立は215〜235年位になり、
歴年というのは8〜10年位だから、10年とすると、連続的事象であったとして、
「倭國亂相攻伐」が始まったのは「205〜225年」位からになる。
だから、「其國本亦以男子爲王住七八十年」も、平均75年とすれば、
連続的事象であったとして、「130〜150」年からだった、という事になる。
>大和の鏡は3世紀最末以後のホケノ以後であり、九州には卑弥呼の下賜の「鏡片」や、
明帝の下賜の内行花文鏡群や、「尚方作」の21枚の方格規矩鏡群がある。
↓これが間違ってるの?
https://ameblo.jp/tomoishi1976/image-12016349248-13282658977.html
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの「岡村」の年代説では、
全く信頼性がなく、根拠にはならないな。
>銅鐸の製造が3世紀で止まってるのソースはwikiから
それが「3世紀の何時なのか?」が問題。
大和の銅鐸はほぼ唐古鍵付近が最後になり、その直後頃の3世紀末に庄内1の石塚が造られるから、
大和での銅鐸の製造が止まったのは、3世紀後半〜末になる。 >>801
上奏文は倭王の居る都を中心に書かれている
何でそこだけ九州視点なんだよ
関西から北に海を渡ったら沿岸州だろ >>810
近畿〜北部九州までは抑えていた。
ので範囲。 >>808
> >>779
> >>3世紀初頭頃 倭國亂(北部九州付近での亂)だな。
>
> 「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。
> 魏志倭人伝も3世紀初頭を否定している
>
卑弥呼から紀年ではなく男王からの紀年で3世紀に届かない
其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐
> >大和の鏡は3世紀最末以後のホケノ以後であり。
>
漢鏡は埋葬古墳からの年代区分ではなく様式からの区分で7期−2となっている、これがいつの時代に相当するのかが争点
> >銅鐸の製造が3世紀で止まってるのソースはwikiから
>
> それが「3世紀の何時なのか?」が問題。
> 大和の銅鐸はほぼ唐古鍵付近が最後になり、その直後頃の3世紀末に庄内1の石塚が造られるから、
> 大和での銅鐸の製造が止まったのは、3世紀後半〜末になる。
あちこち見ても3世紀まで製造とある、後半〜末であればそのように記載されるのでは? 卑弥呼が王になったのはおそらく倭国大乱直後だから2世紀後半で
その時かなり歳をとってたみたいだし3世紀中頃まで生きてたってのを信用して良いものか
何か間違いがあると考えた方が良いんじゃないか >>782
>☓「何でも一番になって、殺人をしてでも勝ちたい」
〇「勝たないと殺されるから、勝たざるをえない」
勝つ必要がありません。
生物も人間も、生命体の宿命として、生まれ出でて体を使って生存する限り、
組織の疲労や損傷は避けられず、
それを一つずつ再生をしても100%の再生は不可能であり、
いずれ生きる事が出来なくなって、
(最小限であっても婚姻に拠って子孫を造っておかない限り)死に絶えるものです。
人類皆兄弟。
人もまた、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。
諸行無常。万物流転。栄枯盛衰。奢る大和説者、久しからず。 >>818
そんな難しく考えることはない、
卑弥呼の在位年数+臺与の在位年数=神功皇后の在位年数(紀元201年〜269年) >>782
>>「自昔・・・東征毛人五十五國」を上表したのは、倭王武。
>倭国大乱時とは背景が異なる、倭国大乱は鉄を巡る争い
いや、「倭国大乱」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>倭王武は 東征毛人 とあるから畿内
倭王武は、九州倭國の王。 >>822
中国の史書に書いてる事だしそれがどれだけ信用できるかって話し >>787
>西の衆夷という表現も何か微妙
「服」は、この場合は「服属せしめる」という他動詞的使用。 >>818
>かなり年をとっていた ☓
年已長大は成人
卑弥呼は、(数えで)15,6歳で即位し、魏使来訪の時は、最近18歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。
https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/16---ab1b.html >>789
>畿内説の年代論の根拠はテンプレにも書いてあるし
テンプレは、私の「年輪年代論の批判」にも、
「ベータ崩壊の計測のAMS法の欠陥や批判」に反論していないし、
>通説なので問題無い
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの通説は、問題大ありであり、
根拠にならないよ。 倭国大乱の時期は中国の史書に記述があって2世紀後半だし卑弥呼はその直後に王になってるはず
その時既に年長大と書かれてるから若くない
それで3世紀中頃迄生きた
全て中国の史書なんだけど何処かに間違いがあるんじゃないか >>797
決して
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐きオレオレ詐欺の根拠を示すことのない、
大和説様ごくろうさま >>800
>西服眾夷六十六國,渡平海北 とあるから西に渡ってから北に行く
いや、「服」は目的語を持つから、「服属せしめる」という他動詞的使用。
>北九州内の西側に衆夷の六十六カ国は多すぎる
いや、「服属せしめた」の目的地は、九州島付近全体。 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。」(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。
普通にこれにならって178〜184間に倭國亂でいいと思うんだが >>804
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺の大和説者らって、
なんでそんなウソつくの?
根拠も示さずに >>830
年齢について別の解釈をするなら
ーーーーーーー
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国大乱
ーーーーーーー
この記述も受け入れないとね >>835
受け入れてるし卑弥呼が王になった時期を探ってるんだから終わった時期が重要 >>832
九州王朝の位置は九州の西北よりだろ?
その位置から九州全土を西服とは書かないな >>818
>卑弥呼が王になったのはおそらく倭国大乱直後だから2世紀後半で
半分×書の後漢書の「倭國大亂」なんて、始めから根拠にならない。
>その時かなり歳をとってたみたいだし3世紀中頃まで生きてたってのを信用して良いものか
何か間違いがあると考えた方が良いんじゃない
魏志の記録の方を「何か間違いがあると考えた方が良い」なんて言うこの男の、
脳がおかしい、と考えた方がよいのじゃ、ないの?。 俺なんかは逆に霊帝の光和年間(178〜184)と桓帝・霊帝の治世の間(146年〜189年)と
違いがあるから信用できると思ってる
中国人から見て倭国が乱れてる時期なんて解釈に依って違いが出るだろうよ >>838
始めから根拠にならないのは良いんだけど何が間違ってると解釈してるの? 五王の時期に半島に前方後円墳があるから倭の五王は畿内勢力に他ならない >>827
>AMS法の欠陥や批判
Nature、Scienceあたりに投稿したらいい >>822
>そんな難しく考えることはない、
卑弥呼の在位年数+臺与の在位年数=神功皇后の在位年数(紀元201年〜269年)
そんな難しい事を考える必要がない。
卑弥呼の在位年数も壹與の在位年数も魏志倭人伝には始めから記載されておらず、
「神功皇后の在位年数(紀元201年〜269年)」という一倍年歴的記載も、
二中歴の年代歴に拠って書紀の「西暦478年以前の大和は二倍年歴になる事」によっても、
始めから合う訳がなく、バツね。 >>833
>『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。」
(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。
普通にこれにならって178〜184間に倭國亂でいいと思うんだが
梁書も、自己解釈などに拠る書き替えが非常に多い半分偽書の後代史書であり、
卑弥呼の年代決定の根拠には、ならないもの。 >>837
>九州王朝の位置は九州の西北よりだろ?
その位置から九州全土を西服とは書かないな
いや、倭王武の頃の首都は久留米付近だし、
九州島付近の「服属せしめる」は、ほぼ終わっていた。 >>846
根拠にはならないと考えるのは良いんだけど何が間違えてると解釈してるか書けよ >>846
『梁書』だと期間が絞られてて本当なら都合が良いのですが、史料の信頼度はこんな感じですか?
『三国志』>後漢書>>梁書 信頼度が高いとか低いとか思うのは良いんだけど倭国大乱があったと考えるなら
必ず年代があるはずでそれがどのくらいかくらい書けるだろ
それすらも出来ないなら自分の意見が無いのに他人の意見を批判してるだけだと思われても仕方ないぞ
別に不確かな事が前提なんだからいい加減でも良いんだよ 孝霊天皇が倭大乱の視察に吉備行幸してるな。
日野郡誌に詳細あるな。 >>848
>>>『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。」
(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。
普通にこれにならって178〜184間に倭國亂でいいと思うんだが
>>梁書も、自己解釈などに拠る書き替えが非常に多い半分偽書の後代史書であり、
卑弥呼の年代決定の根拠には、ならないもの。
>根拠にはならないと考えるのは良いんだけど何が間違えてると解釈してるか書けよ
Yahoo掲示板時代には、(天誅君が「畏友」と呼んだ)「イリヒコ」という大和説男が、
魏志倭人伝や魏略から太平御覧までの7〜8冊の史書の記載の、
「差異の対比」表を造っていたので、私は、それで、
「後代史書群が魏志倭人伝をどれ位書き換えていた事になるのか?」の根拠にしていたが、
Yahoo掲示板の古代史の欄の閉鎖やtextreamに変わる前に、
天誅君やハイエナらの大和説者がYahoo掲示板から撤退し、
更にイリヒコのサイトも消えてしまった。
だから、今は、「何が間違えてる」のか?の提示をする事が困難であり、
知れたければ、自分で「倭人伝と梁書」の記載の対比表を造ればよい。 >>849
>『梁書』だと期間が絞られてて本当なら都合が良いのですが、史料の信頼度はこんな感じですか?
『三国志』>後漢書>>梁書
いえ、三国志も後漢書も梁書も、いずれも、
信頼性のある「新しい情報の提示」部分や、
前史の「自己解釈による少し書き換え」部分などが、混在していたようであり、
だからイリヒコ氏の「差異の対比表」が便利であったんですよ。
しかし、三国時代に関しては、
同時代の魏の役人らによる「実地での見聞計測の(貴重な客観性の高い)記録」が多くあり、
史料価値が最も高いのですよ。 >>853
つまり九州説のニセ歴史偽造屋は、そうやってちゃんとした研究者の仕事をドロボウして悪用してるんだ >>850
>信頼度が高いとか低いとか思うのは良いんだけど
有難う。
同時代の役人たちらによる実地での見聞計測の記録であれば、信頼性も確率もかなり高い。
>倭国大乱があったと考えるなら
「倭國大乱」なんてなかったよ。魏志に拠れば「倭國亂」があった。
>必ず年代があるはずでそれがどのくらいかくらい書けるだろ
史料事実や史料実態や、古田さんの史料事実根拠や史料批判に拠れば、
3世紀初頭の8〜10年位になる、という事であったな。
>それすらも出来ないなら自分の意見が無いのに他人の意見を批判してるだけだと思われても仕方ないぞ
別に不確かな事が前提なんだからいい加減でも良いんだよ
きちんと「史料事実やそれの信頼性の史料批判」などに拠った論であれば、
確率がかなり高くなるもの。 >>776
吉野ケ里には前方後円墳があるので、3世紀後半半ば頃までは存在していた
前方後円墳??? あったけ?
3世紀後半半ば頃???
西暦270年頃でいいのか? 倭王武の頃の首都は久留米付近???
なんで、そうなるの? >>855
>倭王武の頃の首都は久留米付近???
なんで、そうなるの?
根本的には、
百済王から送られた「七支刀」の人形が、瀬高付近の「こうやの宮」に残っていた事だ。
卑弥呼が大野付近にいて、壹與が肥前の與止姫で、
その後糸島の一貴山銚子塚の黄金三角縁鏡王らが続いたが、
大陸で扶余の亂や西晋や楽浪滅亡や317年の東晋成立などの戦乱の余波を受ける事を恐れて、
倭國も、糸島から「こうやの宮〜久留米付近に遷宮」したようで、
その事は、聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」事と、
更にその200年前に「久留米の近くに遷宮していた」という記述がある事が傍証になっていた。
ちなみに、517年は、阿毎氏の磐井が、
東海姫氏國の最後の王であった(倭王武の次の)倭國王哲から王権を奪って?、
九州年号の「継体」を開始した年であり、
磐井は高良大社に居したという伝承も高良大社にある。
そして、タリシホコの即位頃の遺跡としては、久留米の「古宮」遺跡は、年代的に近い。 >>89
>>859
高良大社は、卑弥呼の宮殿「居處宮室楼観城柵厳設」跡地に、阿毎多利思比孤が建ててあげた(古墳時代の敵国→飛鳥時代の新規同盟国)高句麗の大使公邸ジャマイカ?
麓にある祇園山古墳の回りには高句麗系の集団墓地が造られているらすぃし 今朝も、「正北抵新羅」の演説が始まってるな
いつもの北朝鮮系しんら男のプロパガンダ、、、 >>860
>高良大社は、卑弥呼の宮殿「居處宮室楼観城柵厳設」跡地に、阿毎多利思比孤が建ててあげた、
(古墳時代の敵国→飛鳥時代の新規同盟国)高句麗の大使公邸ジャマイカ?
高良大社は、
神功と同時代頃で「一緒に玉を使って新羅討伐をした」となる初代玉垂命(女性)が、
開祖になっており、そうすると、360年台頃になり、
また、(姫氏ではなく阿毎氏の)磐井も高良大社にいた、という記録があり、
また、阿毎タリシホコが兄と弟との「兄弟」執政体制をとった事を隋に申告していたようであり、
そうすると、兄のタリシホコが神職になって高良大社にいて、
弟や大和側(推古?)が古宮遺跡で執政を執った、という可能性もある事になる。
>麓にある祇園山古墳の回りには高句麗系の集団墓地が造られているらすぃ
祇園山から100m位離れた場所にある祇園山古墳群に関しては、
宝賀さんは、「高句麗系か?」という事は述べておられませんね。 >>862の訂正
>高良大社は、卑弥呼の宮殿「居處宮室楼観城柵厳設」跡地に、阿毎多利思比孤が建ててあげた、
(古墳時代の敵国→飛鳥時代の新規同盟国)高句麗の大使公邸ジャマイカ?
高良大社は、
神功と同時代頃で「一緒に玉を使って新羅討伐をした」となる初代玉垂命(女性)が、
開祖になっており、
そうすると、二中歴の年代歴で計算すると神功在位は西暦339〜364年頃になり、
その頃が高良大社の創建時だろう、という事になります。
また、(姫氏ではなく阿毎氏の)磐井も高良大社にいた、という記録があり、
また、阿毎タリシホコが兄と弟との「兄弟」執政体制をとった事を隋に申告していたようであり、
そうすると、兄のタリシホコが神職になって高良大社にいて、
弟や大和側(推古?)が古宮遺跡で執政を執った、という可能性もある事になる。
>麓にある祇園山古墳の回りには高句麗系の集団墓地が造られているらすぃ
祇園山から100m位離れた場所にある祇園山古墳群に関しては、
宝賀さんは、「高句麗系か?」という事は述べておられませんね。 >>855
おまえは自分の論を言ってないんだから史料事実とかなんの話しだよ
答えになってないだろうが 高良大社=高麗大社
祇園山古墳の在る高良台=高麗台 >>860
祇園山古墳の周囲にある集団墓地が高句麗系なら、百済に加えて新たな同盟国となった6世紀後半以降の須恵器などの出土物とも符合するな
高句麗の大興王は、厩皇子の師・慧慈(高句麗の高僧)から、推古が飛鳥に大仏を造らせようとしていることを聞き、鍍金用の黄金300両を贈って来たから、そのお礼とも考えられる 史料事実はおまえが探して来い
それが俺の答えだとでも言いたいのかね >>866
>祇園山古墳の周囲にある集団墓地が高句麗系なら、百済に加えて新たな同盟国となった6世紀後半以降の須恵器などの出土物とも符合するな
高句麗の大興王は、厩皇子の師・慧慈(高句麗の高僧)から、推古が飛鳥に大仏を造らせようとしていることを聞き、鍍金用の黄金300両を贈って来たから、そのお礼とも考えられる
ふーん。 >>859
糸島から「こうやの宮〜久留米付近に遷宮」したようで、
>>したようで???
聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」事
原文でお願いします。
ぺーテンは仮定した場合を用いる。 >>863?
宝賀がどうしたの
権威主義なのか?
>>宝賀さんは、「高句麗系か?」という事は述べておられませんね。
ようする、ノーコメント。
どっちにも取れる或いはどちらでもないてことかな? 何説でもいいから先に原文書いて貰いたい。
説明になると自己解釈が入る恐れがある。 >>859
「七支刀」の人形は物部氏と推測
記念して宮を作ったとか?
七支刀自体は奈良県天理市の石上神宮に伝来。 >>857
吉野ヶ里に前方後円墳とか無い
ガセネタ
北内郭が廃絶したあとの三世紀前半、前方後方型墳丘墓が営まれてる
つまりあの地域に外来の支配者が来て集落は潰されたってことだ >>876
箸墓オレオレ詐欺師は、そういう短絡思考しかできないのかね?w >>878
「短絡思考」という感想より
そっちの見解はどうなのか?
そっちの方が大事。 殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人? >>876
しばらく、行っていないので
新しく発見されたのかなと思った。
サンキュー。 >>880
わからんない。なんせ後で都になるからね
当時状態で残っているとも考えにくい。
殉葬者移動させらたり、長い年月の間にいろんな事が想定
される。内部調査、被葬者入ればDNAとか期待 >>876
倭人伝云うところの、
末盧国(唐津)に上陸し、東南の高来(多久市)から伊都国(佐賀大和町)へ進んだ帯方郡下の勢力だったのだろう・・、 >>885
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「弥生集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無いくそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 前方後円墳の前方部は、前期は柄鏡型で、中期で全体的に台形に、後期はほぼ三角に広がる(今城塚古墳)。
箸墓の前方部は撥型(先端だけが少し開く)で、柄鏡型の先端を両脇から補強する◢▢◣技術革新が加わっており、中期への過渡期(前期後葉)にあたる。
前期後葉〜中期前葉(3世紀末〜4世紀初頭)の時代相を持つ箸墓が「卑弥呼の冢」ではないことは明らか。 >>885
糸島市より合理的だな。
「出発方向で後は案内人とか」
なら全ての行程でもいいのでは?
皆臨津搜露も伊都国は本庁みたいなところで
各港(津)に支所みたいなもんがあると想定。 >>877
吉野ヶ里の前方後方墳はIb期に遡るので、吉野ヶ里は三世紀初頭には終わっていた >>887
柄鏡型(那珂八幡)を撥型(箸墓)の進化形としているのが、纏向箸墓オレオレ詐欺の特徴だなw >>891
特定はできないが九州
被葬者が見つからないとかあるのでは?
無論、違う場合もある。 >>887
世界でたった一人自分が唱えてる結論を
理由なしでいくら連呼しても
誰も相手にしないだろ >>892
前方後方墳のみで判断できないのでは?
他の出土品等の総合的に見てHP作成じゃないの? >>893
>特定はできないが九州
古墳のないところから、どうして古墳が移動してくるの? >>895
>前方後方墳のみで判断できないのでは?
できます
あのHPは研究が足りてないだけ >>888
その通り、
先を急ぐ郡使の主な入港地は唐津であったと思われるが、
天候、潮、積み荷、客人の数、男女子供別などの都合もあるから、入港/出港の津は1か所とは限らなかったであろう。
とりわけ末盧国内の最良港の伊万里には、臨津捜露のための大き目な支所・施設があり、もしかしてここには一大率の部下が常駐していたのかも・・。 >>896
たとえが悪かったね。
卑弥呼の冢(九州)→箸墓(奈良)
被葬者の移動てこと。 >>898
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「弥生集落遺跡」を示せ! アンポンタン。 @阿波 >>897
スマン、なんかへんだと思ったら
>>890 あてだった。
前方後方墳だった。 >>898
港がいくつもあるのだから、ひとつのみじゃ
間抜けな水際作戦になるよな。 >>899
>被葬者の移動てこと。
なぜ自分のご先祖と全く関係のない他国の墓制で葬られるとか思うの? >>905
それ、自分のご先祖と全く関係のない他国の墓制ですか? >>903
自分のご先祖と全く関係のないとは限らん。
冢は仮とか、宗教の変化もある。
政治的意図 理由はいくつもある。 >>906
他国の墓制て何?
十字架の親戚もいるが。 >>904
前方後方墳、方形周溝墓と二つあるけど。 >>898
邪馬壹國の想定地は違うと思うけど
部分的なコンセンサスは、得れた。
畿内説は九州通ることは確かと思うが
各想定地推定あるのだろうか? >>907
>自分のご先祖と全く関係のないとは限らん。
じゃあ、どう関係があるの? >>907
>自分のご先祖と全く関係のないとは限らん。
じゃあ、どう関係があるの? >>911
>畿内説は九州通ることは確かと思うが
それが何? >>910
>方形周溝墓はどうなの?
政治的中心部を墓域にしたという点で
吉野ヶ里が終わったことは同じ >>912
全く関係のない他国の墓制という決めつけが
わからん。なぜ、そう判断したのか?
冢が仮なら、他国の墓制になる理由なのか? これまでの論争を見て案ずるに、
伊都国(大和町川上・七ガ瀬)と不彌国(吉野ヶ里・目達原)と邪馬台国(肥後・阿蘇)に根拠地を得た「邪馬臺者たちの部隊」は、
やがて、東の山あいの日田〜邪馬国川を通って、豊の中つ国(中津市)へ達し、
ここを集合起点として東征の旅へ出発した。
そして出雲・吉備・四国のお阿波を入らげて畿内へ至り、大和のカシハラに初期のヤマト王権を打ち立てた。
(纒向は、その一部隊の物部の駐屯地だな) >>915
終わった年代はHPどうりでいいのか?
鵜呑みは禁物と思い、書いたんだが。 【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ)NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』
https://www.youtube.com/watch?v=nUY92z3p5Es >>919
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「弥生集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無いくそ田舎の九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>885
末盧国への上陸場所は末盧国の北端(名護屋浦、呼子付近)だよ
皆臨津搜露も末盧国の北端(名護屋浦、呼子付近)に卑弥呼の家臣が集合したんだよ
末盧国の北端(名護屋浦、呼子付近)から500里(40km)で丁度伊都国に着く
末盧国から伊都国への風景描写を見ると
濱山海居・・・海と山の間の狭い海岸に家が立ち並ぶ呼子付近の風景
草木茂盛行不見前人・・・東松浦半島の草木が生い茂る風景
好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之・・・二丈海岸の風景
明らかに内陸の多久市や佐賀大和町方面へは向かっていないな。 >>815
おーい、俺だ。
>>不利になったら逃げるんかい、畿内説
ところが俺は畿内説でなく近畿説。
3時位なら付き合えるぞ
あやうく、ぺーテンプルタになるところだった。 >>923
(この2行は末盧国内の風景風俗)
又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之
(そこから東南に向かった500里先の伊都国は・・)
東南陸行 五百里 到伊都國 有千餘戸
官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
末盧国のことと、伊都国のことは、明らかに分けて書かれている。
これは初歩的な読み別けだ。小学生じゃあるまいし、ごちゃまぜにしてくれるなよ。 >>926
>(この2行は末盧国内の風景風俗)
そうだよ魏使一行が末盧国内を通過した時に目にした風景風俗だよ
この風景に合うのが順番に呼子付近、東松浦半島、二丈海岸だ
つまりその先が伊都国なんだよ
二丈の先、現在の糸島市南東部が伊都国なんだ。 >>928
>二丈の先、現在の糸島市南東部が伊都国なんだ。
そうか、そんなら二条から東南500里になるな! >>930
「東南陸行 五百里 到伊都國」
二条から東南500里?
呼子付近から東南500里だよ
二条から東南500里なら呼子付近〜二条の陸上移動が無くなる。 >>931
>そうだよ魏使一行が末盧国内を通過した時に目にした風景風俗だよ
>この風景に合うのが順番に呼子付近、東松浦半島、二丈海岸だ
自分で「末盧国内を通過した時に目にした風景風俗だよ」と言ってるではないか。
だからの通過した後の二条から東南500里に決まってる。。 >>932
言ってる意味が分からんな?
東南500里は末盧国上陸後の陸上移動距離
つまりは末盧国内を通過した距離だよ??? >>890
>吉野ヶ里の前方後方墳はIb期に遡るので、吉野ヶ里は三世紀初頭には終わっていた
吉野ケ里の前方後円墳のIb期を、いつ頃に設定したのか?は知らんが、
形態的にも、当然「卑弥呼の冢≠前方後方墳」であり、前方後方墳は卑弥呼の後であり、
更に前方後円墳は、更に前方後方墳の進化型になるんだろうから、
那珂八幡と同じ頃の3世紀後半半ば頃だとしても、ちっともおかしくない。 >>892
>柄鏡型(那珂八幡)を撥型(箸墓)の進化形としているのが、
纏向箸墓オレオレ詐欺の特徴だなw
ふーん、成程。
大和説学者らは、ここでは、
「吉備や西播磨の後方部の形態が箸墓の後方部の元になった」という論理を、
ひっくり返すオレオレ詐欺をしていたんだな?。 >>898
>その通り、
先を急ぐ郡使の主な入港地は唐津であったと思われるが、・・・
いや、(明帝の詔書や金印や大量の下賜品を運ぶのが仕事の魏使らではなく)、
郡役人らであれば、一大國から南渡海して、対馬海流に乗って、
糸島半島の伊都國に直行する事なら、いくらでも在り得る。 >>899
>たとえが悪かったね。卑弥呼の冢(九州)→箸墓(奈良)被葬者の移動てこと。
まあ、そんなアホな事をする可能性は、後継者が余程の・・・・出ない限り、
99%ないな。 >>905
>徳川家康 日光
家康は、最初は静岡の久能山に葬られたんだろ?。
それを後継将軍らが、自分の価値を高めるために、日光に新築した。 >>936
伊都國は糸島半島じゃないよ
糸島半島は旧志摩郡で魏志倭人伝では斯馬國だよ
伊都国は糸島市南東部 >>898
唐津は砂浜で魏使の乗って来た大型の船舶は接岸出来ないし長期間停泊させられる場所もないから魏使の上陸地点は唐津ではない >>940
>唐津は砂浜で魏使の乗って来た大型の船舶は接岸出来ないし
そもそも砂浜のような海岸に面した港は「浦」といった。
唐津の場合も砂浜に面したところは接岸できなかったので、
松浦川をやや遡ったところに船を着ける場所が設けられていた。
このように、川をやや遡ったところに船を着ける淡水の港は「津」と読んで、浦とは区別されていたのだ。 >>938
久能山→日光 後継将軍 ご威光
卑弥呼の冢(九州)→箸墓(奈良) 天皇 ご威光
政治利用 同じだろ >>919
>これまでの論争を見て案ずるに、
伊都国(大和町川上・七ガ瀬)と不彌国(吉野ヶ里・目達原)と邪馬台国(肥後・阿蘇)に根拠地を得た「邪馬臺者たちの部隊」は、
やがて、東の山あいの日田〜邪馬国川を通って、豊の中つ国(中津市)へ達し、
ここを集合起点として東征の旅へ出発した。
そして出雲・吉備・四国のお阿波を入らげて畿内へ至り、大和のカシハラに初期のヤマト王権を打ち立てた。
(纒向は、その一部隊の物部の駐屯地だな)
魏使らが、「安全が第1の道のり選択」の原則で、
山越えや渡海や水行などの危険なルートは出来るだけ避ける、という事と、
紀行文説明では「出発説明+途中説明+到着説明+付加説明」といい順次式説明をする事が原則であり、
「東南」は出発時点での出発説明であり、
伊都国はずっと見えていないから、魏使らはその方向を記録する事が出来ない事と、
伊都國は「皆臨津搜露」出来る場所にあるから、前原〜糸島水道付近になり、
佐賀平野の山裾方面は否定される事、などで、
佐賀平野説はバツね。 >>941
川を遡れるのは小舟だから荷物を沖で積み変えないといけないし
大型の船舶の停泊も出来ない
唐津付近に魏使が上陸した可能性はないな。 >>945
あくまでも、例だからこだわらないよ。
権力者は政治的に使うという考え >>944
>伊都國は「皆臨津搜露」出来る場所にあるから、
「皆臨津搜露」した場所は伊都国ではなく魏使の上陸した末盧国の港(呼子付近)ですよ。 >>944
聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」
原文まだかな?
皆さま 待っているけど? >>920
>終わった年代はHPどうりでいいのか?
あれは確実に間違い >>921
>【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ)NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』
この投稿が本物だとしたら、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
「藤井 榮は、頭が悪いんです」 ぷぷぅ〜 >>921
>【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ)NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』
この投稿が本物だとしたら、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
「藤井 榮は、頭が悪いんです」 ぷぷぅ〜 >>946
>川を遡れるのは小舟だから荷物を沖で積み変えないといけないし
>大型の船舶の停泊も出来ない
大型の船は川を遡って停泊する
潟港には泊まれない >>951
聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」
原文まだかな?
皆さま 待っているけど? >>944
>伊都國は「皆臨津搜露」出来る場所にあるから
伊都國で「皆臨津搜露」したのであれば、「皆搜露於伊都国」と書かれるはず。
「皆」とは、(伊都国に限らず、入港する使いは、
どこの港に入港しようとも)皆津に臨んで(=津へ出向いて)捜露した・・、」という意味だな。
そうでなければ、糸島の港でなく、唐津屋、今宿や、博多那の津や、神湊に入港した使いは捜露できない。 >>955
明らかな間違いだな。
久留米に遷都したのは第7代の時だから。
517年ではなく157年頃だろう。 >>940
>唐津は砂浜で魏使の乗って来た大型の船舶は接岸出来ないし
長期間停泊させられる場所もないから
魏使の上陸地点は唐津ではない
私は、魏使らは、「東松浦半島の東北端〜唐津港の間に上陸」説。 「邪馬台国」を文字通りに解釈する一例としてだが、野生の邪悪な性格の馬を台にする、つまり野生の性格の悪い、人間の
思い通りにならない馬に乗ることの多い国となる。それにぴったり当てはまるのが、日本最古の馬具(鐙)が出土した纏向
遺跡ということになるのか? >>957
説明はいい。
聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」
原文よろしく。 >>941
>そもそも砂浜のような海岸に面した港は「浦」といった。
唐津の場合も砂浜に面したところは接岸できなかったので、
松浦川をやや遡ったところに船を着ける場所が設けられていた。
大和説者らの「上陸」比定地は、「松浦川をやや遡ったところ」では済まず、
もっとはるかに遡る所である。
また、「松浦川をやや遡ったところ」では、東南陸行が直ぐ山越えになってしまい、
魏の役人らの拒絶を喰らう。
>このように、川をやや遡ったところに船を着ける淡水の港は「津」と読んで、
浦とは区別されていたのだ。
さあね?。魏の役人らが「津と浦」とを区別していたのか?も不明であり、
倭人伝にも、伊都國に「津」が書かれているが、
「津」と「浦」とを区別したようには、書かれていない。 聖徳太子は四天王寺とか大阪の人だろ
秀吉とかとみたく大阪の民衆に支持されたのと
仏教の普及 >>963
よくわからんけど
ザラコクによると
そういうのがあるみたい。
原本をみたいのだが?
松野エセと同じかな? >>942
>久能山→日光 後継将軍 ご威光
卑弥呼の冢(九州)→箸墓(奈良) 天皇 ご威光
政治利用 同じだろ
大和は、始めから、(姫氏の卑弥呼の女王国の、直接的な支配地ではなく)、
九州倭國の伊都国系の阿毎氏らの東征毛人五十五國で征服された、
別種分家の倭種の「大倭」職の、間接的な関係の旧小国であり、
「天皇」でもなく、「御威光も政治利用」も関係がない。 >>946
>川を遡れるのは小舟だから荷物を沖で積み変えないといけないし
大型の船舶の停泊も出来ない
唐津付近に魏使が上陸した可能性はないな
成程。 >>964
唐津からはるばる陸路やってきたモノや使いを、わざわざ「津において捜露する」というのはおかしな文章である。
伊都国の津において捜露したのであれば、船は糸島の伊都国に入港したということだ。
つまり、遣いが唐津で下船するはずはないのだ。
だが、どうやら使いだけが唐津で下船し、下賜の品々は糸島へ入港させた・・、と主張するつもりらしいな。 >>967
ボンクラ
卑弥呼の冢(九州)→現在(あっちこっち)
町おこし >>949
>>聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」
>原文まだかな?皆さま 待っているけど
自分で探せばよい。
久留米という文言ではなく「この地」というように書かれていた筈だよ。 >>953
>大型の船は川を遡って停泊する
潟港には泊まれない
大型の船は、浅い川を遡って航行するなんて事は、しない。
大和説のように、上流の支流の上陸地点から、また元の付近まで戻る、
なんて事もしない。 >>956
>>伊都國は「皆臨津搜露」出来る場所にあるから
>伊都國で「皆臨津搜露」したのであれば、「皆搜露於伊都国」と書かれるはず。
いや、魏志倭人伝の「伊都國」の説明の所に書かれているから、
「皆搜露於伊都国」と書く必要がなく、
「津」は伊都国の「津」である。 >>956
3世紀に中国の大型船が入港可能なのは名護屋浦や呼子付近だけだな
魏志倭人伝の記述では中国船の入港地は名護屋浦や呼子付近に決まってたみたいだ
>>958
>「東松浦半島の東北端〜唐津港の間に上陸」
この根拠は? >>977
>「津」は伊都国の「津」である。
ならば、船は糸島の伊都国の津へ入港し、荷物はそこで陸揚げしたということだな。
それで、糸島で大型船が入れるような津はどこにあったのか?
もし大型船が入れなかったというのなら、小舟に積み替えて陸揚げし、そこで捜索露したというんだな? >>976
川か
古田説は松浦川の存在すら知らないから、東唐津から虹の松原まで東に陸行なんて言い張って信用を失ったんだったな >>957
>>聖徳太子伝暦に、
「617年の太宰府への遷都の100年前の517年に、久留米へ遷都していた」
>原文まだかな?皆さま 待っているけど?
>明らかな間違いだな。久留米に遷都したのは第7代の時だから。
517年ではなく157年頃だろう。
もう15〜20年位前に古賀さんが紹介した内容であり、
聖徳太子伝暦の、
「この地(久留米の事)は明年(617年)に遷都すべき。
この地は都して百年になる。(つまり都したのは517年)
またこの地域に都したのは三百年前である(つまり317年)」
というような意味の文であった。
つまり、東晋滅亡の317年にこの地域に都を移し、
磐井が、東海姫氏國の倭國王哲から倭國王を譲られて、
517年に「継体」年号を始めて、久留米の高良大社に居し、
617年に、久留米(のおそらく古宮遺跡)から「明年に(太宰府に)遷都すべし」、
とのたまわった事になる。
そして、それを大和政権が聖徳太子をでっち上げて、その「聖徳太子伝暦」に、
ついうっかり記載してしまう、という失敗をした事になる。 >>981
古田氏は解釈に強引なところがあったな
良い線まで行ってたけど詰めが甘い >>970
>唐津からはるばる陸路やってきたモノや使いを、わざわざ「津において捜露する」というのはおかしな文章である。
伊都国の津において捜露したのであれば、船は糸島の伊都国に入港したということだ。
つまり、遣いが唐津で下船するはずはないのだ。
だが、どうやら使いだけが唐津で下船し、下賜の品々は糸島へ入港させた・・、と主張するつもりらしいな。
違うな。
「特置一大率檢察,諸國畏憚之。
常治伊都國於國中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露。
傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」
だから、一大率は、伊都國に常治し、卑弥呼の遣使にも郡使にも、
傳送文書賜遺之物詣女王を皆(全部)臨津搜露した、という事だ。
だから、末盧國経由で陸行して来たものも、一大國から直接水行して来たものも、関係がなく、
皆臨津搜露した、という事だ。 >>978
>「東松浦半島の東北端〜唐津港の間に上陸」
この根拠は?
魏使らは、安全路が第1選択であり、
危険な山越えや水行は必要最小限、という事が原則であるから。 >>982
157年に都になった時期があって、
豊国や佐賀など移動した時期があって、
317年にまた戻って来ていたということだな。 >>979
>伊都国に「津」なんて無いよw
だから古田さんは、伊都国を「前原〜糸島水道付近」に比定されたのであり、
伊都國を、糸島平野南東部の内陸部に比定した大和説者や、佐賀平野説者や、
一部の九州説者はバツであった、という事だ。 >>981
川か
大和説者らは、松浦川の「渡河」の必要であり、
浅瀬が、必要であり存在した事すら知らないから、
松浦川の中流まで川沿いに行く主張を言い張って、
信用を失ったんだったな >>983
大和説学者らは解釈に強引なところがあったな
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しまでしてたけど、
詰めが甘いオレオレ詐欺師であったなあ。 >>984
>だから、末盧國経由で陸行して来たものも、一大國から直接水行して来たものも、関係がなく、
>皆臨津搜露した、という事だ。
「皆臨津搜露」とは、
王の遣使が京都帶方郡諸韓國に出かける場合や、及び郡使が倭國に来た場合は,どちらのケースも(皆)、津に臨んで(上船/下船に際して)搜露した・・・、である。
しかしそれが糸島の津のみで行われていたとするなら、唐津に上陸して東南へ陸行する者たちは、搜露されないことになる。
逆に、佐賀平野からきて唐津で上船し、半島へ向かう者たちも搜露されない。
ま、そもそも郡の役人たちは、北東の田舎糸島には用なく、佐賀川上の伊都国に用向きがあったのだから何の不都合もなかったわけだが・・・、 伊都国は入国管理局みたいなもんでしょ
勝手に日本の中に入ってこられても困るし >>990
>「皆臨津搜露」とは、
王の遣使が京都帶方郡諸韓國に出かける場合や、及び郡使が倭國に来た場合は,どちらのケースも(皆)、津に臨んで(上船/下船に際して)搜露した・・・、である。
しかしそれが糸島の津のみで行われていたとするなら、唐津に上陸して東南へ陸行する者たちは、搜露されないことになる。
逆に、佐賀平野からきて唐津で上船し、半島へ向かう者たちも搜露されない。
ま、そもそも郡の役人たちは、北東の田舎糸島には用なく、佐賀川上の伊都国に用向きがあったのだから何の不都合もなかったわけだが・・・
関係がない。
書かれているのは「郡使」であって、魏からの使者である「魏使」とは書かれておらず、
また、「皆臨津搜露」する対象が、船で来たものだけだ、とも書かれておらず、
末盧國上陸したものは省く、とも書かれていないし、
末盧國経由で来たものも省く、とも書いていない。
要は、「搜露」する場所が「津に臨んだ」地であった、というだけの事。 >>991
伊都国は今で言う、「出入国在留管理庁」。 その長官は、倭国(阿波)王権から遣わされた、筑紫忌部の長。 @阿波 陳寿に倭国の情報を伝えた役人は何人でどの場所まで行ったのか。
それ知ってる人いる? 中国からの使者が常に立ち寄って何もって来たか検品するんでしょ
勝手に入ってこないでくれってのは国としてあたりまえだ 王(女王)の遣使が京都帶方郡諸韓國に出かける場合や、及び郡使が倭國に来た場合は・・、と書いてある。
しかもその両方の場合において、津に臨んで・・、だな。
それが糸島では、唐津に入港・下船し、或は唐津で乗船する者にとっては不便この上ないし、
或は唐津から東南へ佐賀平野へ抜ける者にとっては検査・監視が無いことになる。
抜け穴だらけの糸島説www
、 >>984
自女王國以北 特置一大率檢察
ですから一大率は伊都国ではなく対馬国〜末盧国に居たんですよ
「皆臨津捜露」の皆は一大率ではなく卑弥呼の家臣達ですよ
末盧国の港(呼子付近)で卑弥呼の家臣達が荷物を検めたんです。
>>985
安全路が第1選択なら最短の航路で呼子付近に上陸ですね
東松浦半島には高い山も無いし二丈海岸は海岸沿いに進んだんでしょう。
>>991
卑弥呼の都が伊都国です。
>>995
着いた直後に検品するのが当然ですね。 はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ はぁ〜♪
硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ
長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる
婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる
楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ このスレッドは1000を超えました。
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