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邪馬台国畿内説 Part749
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2022/01/07(金) 02:43:14.90
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1641204310/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:44:47.72
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2022/01/07(金) 02:45:21.90
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2022/01/07(金) 02:46:07.27
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2022/01/07(金) 02:46:40.72
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
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2022/01/07(金) 02:47:16.48
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2022/01/07(金) 02:47:54.49
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2022/01/07(金) 02:48:32.26
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2022/01/07(金) 02:49:12.42
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2022/01/07(金) 02:49:49.39
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:50:33.71
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2022/01/07(金) 02:51:09.99
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2022/01/07(金) 02:51:48.59
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
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2022/01/07(金) 02:52:20.26
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2022/01/07(金) 02:52:55.70
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
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2022/01/07(金) 02:53:28.78
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
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2022/01/07(金) 02:54:04.82
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2022/01/07(金) 02:54:42.80
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
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2022/01/07(金) 02:55:13.30
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:55:53.61
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:56:27.73
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:57:00.59
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:57:29.10
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:58:01.08
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:58:35.48
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:59:04.26
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 02:59:34.28
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:00:06.43
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:02:04.60
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
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2022/01/07(金) 03:02:46.87
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:03:17.00
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:03:49.29
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:04:21.67
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:04:52.19
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2022/01/07(金) 03:05:24.30
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:05:56.16
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:06:31.25
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2022/01/07(金) 03:07:01.75
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2022/01/07(金) 03:07:52.90
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2022/01/07(金) 03:08:25.34
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2022/01/07(金) 03:08:56.84
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2022/01/07(金) 03:09:28.60
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:10:01.84
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:10:33.00
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:11:05.16
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2022/01/07(金) 03:11:36.91
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2022/01/07(金) 03:12:08.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2022/01/07(金) 03:12:36.91
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2022/01/07(金) 03:13:09.91
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2022/01/07(金) 03:13:50.43
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2022/01/07(金) 03:14:25.33
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2022/01/07(金) 03:15:00.85
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2022/01/07(金) 03:15:30.98
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2022/01/07(金) 03:16:02.36
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2022/01/07(金) 03:16:36.07
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2022/01/07(金) 03:17:05.98
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2022/01/07(金) 03:17:37.53
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2022/01/07(金) 03:18:10.10
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2022/01/07(金) 03:18:41.99
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2022/01/07(金) 03:19:12.41
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2022/01/07(金) 03:19:42.97
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2022/01/07(金) 03:20:11.61
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2022/01/07(金) 03:20:43.89
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2022/01/07(金) 03:21:17.39
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2022/01/07(金) 03:21:49.11
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2022/01/07(金) 03:22:21.46
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2022/01/07(金) 03:22:53.06
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2022/01/07(金) 03:23:28.46
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0069◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/01/07(金) 03:24:01.63
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0070◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:24:32.02
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2022/01/07(金) 03:25:03.72
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0072◆n7jxAxKCBhb6
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2022/01/07(金) 03:25:38.13
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/01/07(金) 03:26:12.04
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/01/07(金) 03:26:55.47
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0075日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 05:04:45.37
スレ主さん、またテンプレを貼り付けているようだが、
それは、もう何度も何度も反論済みの事ばかりであり、
それに対する再反論は全くない。
また「南≠東」や、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの論点に関するまともな反論もなく、
平原1号の21枚の「尚方作」方格規矩鏡は明帝の下賜の銅鏡百枚の一部である、という事や、
二中歴の年代歴の569年が二倍年歴計算になっている、という事や、
「參問倭地絕在海中洲島之上或絕或連周旋可五千餘里」の計算が、
「陸路参問」部分の合計になっている、という事や、
松野氏姫氏系図の記録と記紀などの記録の一致性という事などの論点に関しては、
相変わらず逃げているだけであり、
キミも、他の大和説学者らや、柳田や久住らと同じく、
「象の形を形容するのに鼻の形や耳の形や足の太さや尻尾や全体の大きさなどと言った、
一部分だけを取りあげて国民を騙そう、とする、
オレオレ詐欺師の仲間の犯罪者だろう、という事になるだけだな。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 06:20:48.72
詐欺が減らない理由がわかる

>>松野氏姫氏系図の記録と記紀などの記録の一致性

記紀などの文献をベースに偽をつくているんだよ。
そくわかるようなデタラメは書かない。すぐ、ばれるだろー。
全文公開せず、松野氏代々の自体の出生、没 場所がわかる寺等の記禄
もない。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 08:00:15.05
◆FAQ 67
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視できれば
どうして伊都国なのか?
意味不明

扇状地から松浦川沿いに道がある
上流向かい多久市までに神社が多い
木切倒し運搬等に流していたと推測
東南陸行五百里なんだが?
で五百里て何Km
0078日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 08:40:47.78
>>76大和説学者らの詐欺が減らない理由がわかる
>>松野氏姫氏系図の記録と記紀などの記録の一致性

>記紀などの文献をベースに偽をつくているんだよ。

この男もオレオレ詐欺の・・・・アホなんだなあ。
松野氏姫氏系図の記載は、記紀とは全く一致していないし、載っていない、と言っているんだよ。
だから「記紀などの文献をベースに偽をつくった」という事には、ならない。

>そくわかるようなデタラメは書かない。すぐ、ばれるだろー。

この男も、そくわかるようなデタラメは書くから、すぐ、ばれるだろー

>全文公開せず、

勿論、素人おじんの私は、関ヶ原で負けて行方不明になった松野家当主で断絶した系図を、
収集した鈴木真年東大教授が国会図書館や静嘉堂に残した系図なんて、全く知らないし見た事もないし、
おそらく一生行けないから、系図原本もは確認出来ず、
尾池氏や平野氏らの転載の記録を紹介した室伏氏や内倉氏の紹介の系図しか見れない。

>松野氏代々の自体の出生、没 場所がわかる寺等の記禄もない。

どこの家の系図でも、古い時代には、
「出生、没 場所がわかる寺等の記録」なんて書かれてなくて、殆ど名前だけだし、
そもそも日本国内の寺なんても、雷山の千如寺?の5世紀頃以後だから。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 08:56:50.12
>>77
>東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視できれば
>どうして伊都国なのか?

知能ないの?
三雲が真東とわかるって話なのに
0080日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 08:58:19.12
つまり史料批判をしていない
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:03:41.00
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

これは間違えた理由
0089日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:14:22.49
>>75
>それは、もう何度も何度も反論済みの事ばかりであり、
>それに対する再反論は全くない。

その証拠がない
多分うそ
なぜなら
>また「南≠東」や、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
>「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの論点に関するまともな反論もなく、

がうそなので
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:17:25.92
>>78
>勿論、素人おじんの私は、関ヶ原で負けて行方不明になった松野家当主で断絶した系図を、
>収集した鈴木真年東大教授が国会図書館や静嘉堂に残した系図なんて、全く知らないし見た事もないし、
>おそらく一生行けないから、系図原本もは確認出来ず、

それを自説の根拠に使う人の気がしれない
明らかに偽物なのに
0091日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:20:40.19
>>88
>◆FAQ 67
>Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
>  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
>  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

>これは間違えた理由

ばかだから間違いましたと言ってるのと同じだから
理由にならない
0096日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:23:12.30
     ,、‐'''''''''ヽ、
    /:::::;;-‐-、:::ヽ             _,,,,,,,_
     l::::::l  _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
    ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
.     /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
     /: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
.    !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
    |: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
    |: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
    |: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
   /: : : : :    ○    : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
   ̄|: : :"  ,,,,,,,,,,,,,|____    : : : : : : : :.<iii/      ______________
.  /!.:   |:::::/    ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─   />>1くん!くそすれをたてないで!
    ヽ   ヽ/        ノ    : : :ヽ/   <  すぐにくびをつってしんでね!
     \  \,,_    _,,,/     : /\       \しまじろうとお約束だよ!!!
       `''‐、、__  ̄ ̄   __,,,、-‐"            ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.     //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
.   / /:::::/  ` ̄ ̄ ̄/:::::/.  \
0097日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:24:18.27
>>88
>これは間違えた理由

つまり、間違えた理由であると >>88 本人が主張している私的想像
0098日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:27:45.52
「ばかだから間違いました」なら
ばかが理由
0099日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:29:40.56
>>77
>知能ないの?
>三雲が真東とわかるって話なのに

そういうことだ、真東とわかるから、三雲は、倭人伝が記す「東南」ではないこともわかる
0100日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:32:38.27
TA期からTB期の糸島の楽浪土器の出土状況からすると
呼子には寒村に寄港だけで糸島東部にはそのまま水行する
陸行は地続きであることを示すための表現であると思われる
0101日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 09:58:01.87
>>78
松野氏姫氏系図の記録と記紀などの記録の一致性がまったく
ないのね。
>>系図原本もは確認出来きない
全部みたわけでもないのにどうしてわかる?

松野氏姫氏系 5世紀以降の系図は記載あるのか?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:02:22.79
>>78
https://lunabura.exblog.jp/30297095/
括弧がある年代等も記紀などと一致しないんだな?
記紀など、「など」だから中国の文献等も含む
0103日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:07:53.98
>>79
三雲遺跡が伊都国という理由?
さらに規模の大きい吉野ケ里遺跡
及び周辺に姫方遺跡はじめ大小多く存在する
のは東南方向だが。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:24:42.92
>>103
そんなものを誰も伊都国だと言わないのは、なぜ?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:30:32.66
楽浪土器などは理由にならない。
ヘボノ木遺跡に出土
0106日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:32:54.18
>>104
三雲遺跡が伊都国と誰も言っていないという意味?
0107日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:41:56.63
>>104
今まで、旧帝大とそれにつながってうまい汁を吸ってきた大小の学者が、
倭人伝の方角を捻じ曲げては「糸島だー」と大合唱して来たからだな。されだけのことさ・・、
その学閥のカラクリが、
佐賀平野の吉野ヶ里や、同じく佐賀川上・七が瀬遺跡の発掘で、徐々に暴露され始めた。まさに2022年は佐賀平野の幕開けだ・・・、
0108日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:45:51.24
>>102
光紹天皇、景行天皇
記紀にも登場、一致している。
一致多いよな。怪しいな
0109日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:49:22.85
>>107
その後発掘や新しい発見があっても
再考などしないのが考古学なのか?
0110日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:52:13.10
>>107
>今まで、旧帝大とそれにつながってうまい汁を吸ってきた大小の学者が、
>倭人伝の方角を捻じ曲げては「糸島だー」と大合唱して来たからだな。されだけのことさ・・、

今も学者が誰も言ってないのは、なぜ?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:55:19.62
伊都国の東南の奴國は20倍の戸数なので
佐賀平野の東南には比定できない
0112日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 10:57:13.27
>>110
「糸島だー」とは、学者は誰もいっていないんだな?
つまり、通説ではないて事でいいんだな?
0113日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:03:24.56
>>110
大学者ぞろいの学閥を敵に回して、
だれも、正面向かって云うわきゃないだろう、世間知らずの、ボンボンアフォ育ちだなあ、
まあ、あと30年生きて待っとれ、そしたら帝国学閥のピンキリ全員が、率先して佐賀平野だーと叫ぶようになるわ。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:03:44.87
佐賀平野には馬韓の祭祀があり、その東の暴れ川洪水地域の南には
顔面ど変形趣味種族が住んでいる
0115日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:04:35.14
>>111
久留米、八女、大川市、みやま一帯なら十分です。
筑後川の南一帯だな。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:06:24.16
>>113

30年後にまた来なさい
0117日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:07:29.45
>>115

無い。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:08:57.07
FAQ 67は通説ではないて事でいいんだな?
スレの主の独自判断とする。

ぺーテンF氏と繫がりがあるのか?共通だし
0119日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:10:32.60
>>117
じゃ、どこにある?
0120日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:10:33.02
>>111
云ってる意味が分からん
佐賀大和町の川上に1000戸の伊都国だから、その東南100里の現在の佐賀県庁一帯の水田・畑地帯に2万戸でピタリだろ
(注:現在の佐賀県庁・佐賀市街一帯は、有明海にせり出した海抜数メートルくらいの広い台地半島のような状態だった)
0121日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:14:53.26
>>118
>FAQ 67は通説ではないて事でいいんだな?

なんでそんな妄想すんの?
0122日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:15:31.96
>>119

もっとも発展している博多遺跡を中心として筑後北部までが庄内式の分布圏
0123日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:16:02.03
>>115
そこは傍国の邪馬国(八女国)だろうな。

>>116
オレはまだ若い、30年後、50年後、ここにやってくるのを楽しみにしていよう、じゃ元気でな!
0124日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:18:47.04
>>120

佐賀県庁一帯の水田・畑地帯の何遺跡群か?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:23:26.71
>>120
近畿
伊都国の東南でせ?
小城市近辺が伊都国?

みやき町あたりが不彌國(第一候補) 第二候補 甘木町
鳥栖市(次有烏奴かも)なので第二となる。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:25:25.88
>>121
じゃ、なに?
FAQ67は通説か?
畿内説諸君
YES,NOでよろしく?
0127日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:31:56.04
>>121
「糸島だー」とは、学者は誰もいっていないんだな?
通説なのか?
yes or noのどっち?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 11:36:35.27
>>123
奴国です。
その南に狗奴国
0129日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:04:44.11
>>127
新年早々発狂したらしい
0130日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:24:25.35
通説なのか聞いただけなのに
学者は誰も言っていないというなら
畿内説の通説は誤りですか?
YES OR NO どっちなんだが?
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:29:08.31
>>122
近畿
久留米、八女等は庄内式の分布圏外
なのか?
女王国ではないてこと?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:34:15.39
>>130
>学者は誰も言っていないというなら

誰がそんなこと言ったの?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:35:32.73
>>123

久留米あたりまでだが
筑後北部のは器壁が厚いので形だけ模倣した庄内式
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:41:35.95
>>132
104さんだよ。どういう意味でとっていいのか?
さっぱりわからん。

三雲遺跡が伊都国で糸島市のことである
なんてどの学者も言っていないのか?

そういう意味でいいのかの確認なんだけど?
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:42:15.10
>>133のアンカは>>131
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:43:28.31
>>132
FAQ 67は通説と言う学者いるのか?
誰だろうな?
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 12:57:38.08
>>137

まったく違う
0139日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:01:15.50
>>138
あそー。
意見 異なるだけの話
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:03:16.32
>>132
であなたは、伊都国 想定は
どこなの?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:09:39.80
>>139

那珂八幡(84m)はTB期、神蔵古墳(40m)はUB期、祇園山朝鮮型集団墓地はUC期
筑前型庄内甕、北部九州型布留甕の成立は博多、比恵
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:19:36.36
筑前型庄内甕、北部九州型布留甕とかの記載はないけど?
TB期、UB期、UC期 年代でよろしくお願いします。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:22:39.74
近畿
衰退期もあるから重複期間もあるだろうな?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:24:43.11
>>142

筑前型庄内甕はTB期、北部九州型布留甕はUA期成立
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:25:16.08
>>124
あのな、佐賀県庁や佐賀城やその城下町辺りの地盤の良いところは、
江戸時代までにズラ―と佐賀城や武家や商家が立ち並んだ。
三世紀に便利だったところは、中世も近世も現代も便利なところで、その後大発展して都市市街地になっている。
これは全国の主要都市でも同じことだ。
二言目には遺跡がどうのこうのというのは初歩初手から間違ってる。
ま、奈良盆地の南部は都市化から遅れた大田舎だから、ここ掘れワンワンで、掘りさえすればどこでも何か出てくるだけのこと・・、
0146日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:25:36.32
多品種多量の楽浪土器が出るのは三雲の番上地区やサキゾノ地区と深江井牟田で
TA期がピーク、TB期が下限
TB期には糸島と福岡平野が拮抗しUA期に激減する
楽浪土器と代替的に増えるのが馬韓系土器で福岡平野が中心
福岡平野産の庄内甕が多量に運ばれるのが今津湾沿岸
0147日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:28:30.72
>>145

三世紀に便利だったところで、中世も近世も現代も便利なところで、その後大発展して都市市街地の
博多からは遺物、遺構が出土している
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:29:45.15
>>125
小城市はだいぶん探した。あそこの本町あたりも三世紀の主要国だったのだろう。
しかし唐津からは400里で、あと100里たらぬ。だから500里は大和町川上になる。倭人伝は八方位だから、ここも東南だ。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:32:36.10
>>146
なんら伊都国の証拠でもない
て事かな?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:32:37.61
>>148

30年後、50年後にやってくるんじゃなかったのか?
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:34:44.45
>>149

糸島東部が伊都国、博多比恵那珂を中心とした庄内式分布圏が2万戸の奴国
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:37:52.00
>>148
なるほど。
あとは1里を何メートルとするかの違い位だな。
測量方法の記載があればなんとか予測できるけど
記載はない。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:39:53.61
>>147
博多は大したものは出ておらんな。王墓も盗掘あとだったんだろ。
それから博多は九大のおひざ元で、やたらあちこちほじくってきたからゴミだけは多い。。
しかし佐賀は考古学に遅れ、吉野ヶ里が一段落してから、考古学に目覚めた。
佐賀川上の大願寺地区も、古代の瓦が散らばっているが、手つかず。ま、此れからだ。
(もしかして大願寺遺跡数十ヘクタールは、タケミカズチの子のその又藤原の孫の鍋島家の私有地かも知れんしな)
0154日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:41:54.37
>>151
近畿
東南至奴國百里になるかな?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:43:29.12
まあ、糸島や博多を素通りする佐賀説が世間に認められることは無いだろう
無理だもの
0156日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:46:29.50
>>155
ま、遠慮なく佐賀平野を通り過ぎてくれ、お宝が出ても戻ってくるなよ。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:47:54.84
>>153
近畿
姫方遺跡
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
では?
狥葬者奴碑百餘人に子供を含むのかが定かではないが?
ほとんど盗掘されている

雄 冢は、卑弥呼の弟では?
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:51:16.80
>>101
>松野氏姫氏系図の記録と記紀などの記録の一致性がまったく
ないのね。

有難う。記紀は、
中国史書が記録した倭國の歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書だった、
という事が、判っんだね。。

>>(私は)系図原本もは確認出来きない

>全部みたわけでもないのにどうしてわかる?

鈴木真年東大教授は、松野氏姫氏系図の最後の、
「宇喜多家に従軍して関ヶ原で負けた後、行方不明になった」人物までの系図を、
見た事になっているから。

>松野氏姫氏系 5世紀以降の系図は記載あるのか?

当然、あったから、鈴木真年東大教授は転写出来た。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 13:59:43.18
>>158
>>有難う
気持ち悪い
プルタぺーテン一派
なめくじ、ゴキ 1万匹がはいまわる方が
まだまし。

鈴木真年東大教授はエセ書の転写出来たんだな。
で公開なし、判定もない。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:02:28.51
括弧内は誰が書いたんだ?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:04:31.83
>>153

吉野ヶ里は都市化から遅れた大田舎
破壊から救ったのが佐原真
0163日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:04:52.50
>>161
まあ、そこも胡散臭いけどな。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:05:18.50
>>102
https://lunabura.exblog.jp/30297095/

有難う。これで、松野氏姫氏系図を一々説明する手間が省けるから、
「お気に入り」に入れておく事にした。

>括弧がある年代等も記紀などと一致しないんだな?

記紀は、元々「倭國の歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書」であるから、
一致しなくて当然だな。

>記紀など、「など」だから中国の文献等も含む

いや、中国文献の記録は、(記紀とは違って)信憑性が非常に高い。
「など」と言ったのは、日本の「記紀以外」の文献や記録の事を言ったつもりだ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:10:07.51
>>162
近畿
どう規模の遺跡は九州では見つからない。
平塚川添遺跡に移動したかもしれない。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:10:47.48
>>105
>楽浪土器などは理由にならない。
ヘボノ木遺跡に出土

ご紹介、有難う。参考になります。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:12:21.77
>>164
あれ?半分偽書でなかったか?
魏志倭人伝以外
0168日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:17:39.90
>>164
景行天皇の12年など
記紀と一致しているんだが?
0169日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:20:51.20
学者の権威なんかどうでも良いわ、みっともない
それぞれが自分の思う事を書けばいいしそれでも今迄に出尽くしてると思うわ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:38:27.00
まあ、解決していないから
既存の説や学者、史学者、もどきが
間違いという説も出るわな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:45:08.34
邪馬台国論争なんてはっきりしないから物凄くハードルが低くて誰でも入って来られる
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:54:58.50
>>159
>数てきには文句ないけど。

時代てきに失格
0173日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 14:58:08.03
>>172
近畿
解説よろしくな。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:03:08.21
>>173
常識
弥生中期から後期の甕棺では3世紀には届かないよ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:10:47.50
>>171
それ、了見が甘いと思うよ
0176日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:43:14.30
>>174
https://sekainorekisi.com/chronology/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE3%E6%9C%9F%E5%8C%BA%E5%88%86/
後期にあたる。
https://sekainorekisi.com/chronology/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%AE%E6%99%82%E6%9C%9F%E5%8C%BA%E5%88%86%E5%B9%B4%E8%A1%A8/

境目と見るが?
もうちょい、詳しい資料探して見る。
他に数的に合う遺跡あるかな?
近辺だと祇園山、宮崎の西都原
まあ、当時のままで残っている可能も低い。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:51:10.29
FAQ67は通説か?
畿内説諸君
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:51:10.54
>>172
三世紀に急に大遺跡が建設されたというのも、無理がある。
ローマは1日にして成らず、都市にはプレヒストリーがつきものだ。
1-2世紀が出たということは、近くに3世紀〜の遺跡もあるということ・・、
0179日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 15:56:34.92
>>178
土器、銅等も同じ衰退期もありゃ
出始めもある。
何年何月何日何時何分とかで区切れるもんではないし。
重複期間はある。
古い資料だけどゆっくり読んでくだされ
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/18494
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:06:57.82
>>165

吉野ヶ里のように墓まで空環壕で囲んだ集落は特殊な集落
環濠集落は稲作開始時期に近畿で発達した集落形態で全遺跡数の10分の1くらいの数
後期には解体される集落形態
博多から春日あたりまでは遺跡が連続している
0181日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:13:57.91
>>108
>光紹天皇、

https://lunabura.exblog.jp/30297095/には載っておらず、意味不明。

>景行天皇 記紀にも登場、一致している。一致多いよな。怪しいな

景行天皇は、「左注」や「下注」に書かれた大和政権の王であり、
半分偽書の記紀に書かれた人物であるから、年代記載も怪しく、
おそらく、後代の記紀解釈に拠る「注の付加」文言であるから、
根拠にはならない。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:18:36.54
>>182

「環濠集落は源流となる韓国においても、日本列島での弥生時代を通じてみても、
標準的な集落ではなく、むしろ極めて希少な集落形態であることを明らかにした。」
0184日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:19:57.17
>>181
証明しようがない以上は
本物とする根拠かない。
松野氏系図自体の証明もできない。
エセ書判断。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:21:18.75
>>183
標準的な集落とは?
0187日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:28:12.45
環濠集落は近畿にもデカいのがあるけど弥生時代末期には衰退している
吉野ヶ里と同じだ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:28:14.95
>>176
>境目と見るが?

三世紀は土師器が登場しているので、普通は弥生後期に入れない
昔の名残りの人だけ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:29:57.27
>>183
すると図3の点がある所
佐賀平野、筑後、筑前 瀬戸内海、出雲 近畿 東海は希少てこと

この辺にあるもんは証拠にならないてこと?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:32:11.18
>>189

お前論文の中身読んで貼ってるのか?
0191日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:32:20.01
>>184
当該系図は某財団が大金を出して蒐集した、極めて価値が高い系図集と言われているんだっけ。
また、松野連自体が平安時代初期に編纂された。
新撰姓氏録に呉王夫差の末裔と記載されているのだから、
本物とする根拠しか見つからなくない?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:33:35.97
>>186
九州における後期の環濠は実に多様で、非常
に小さい円形の環濠(佐賀県原古賀三本谷遺跡)、
小さい方形の環濠(福岡県野方中原遺跡、比恵
遺跡、穴江塚田遺跡)、大型の方形環濠(佐賀県
千塔山遺跡)、平地の大型円形環濠(福岡県今宿
五郎江、平塚川添遺跡、雀居遺跡)、高地性の小
さな環濠(福岡県西ノ迫遺跡)、台地上の大型環
濠(熊本県蒲生上原遺跡)丘陵上の大型環濠(熊
本県西弥護免遺跡)など実に様々である。また
佐賀県吉野ヶ里遺跡や長崎県原の辻遺跡など前
期から営まれている環濠集落は弥生時代後期に
最も大規模化する。
とあるが?
0193日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:36:58.08
>>191
新撰姓氏録に呉王夫差の末裔と記載されている
当然、それら文献も参照している偽ものだよ。
文献精通者によるエセ書。
新撰姓氏録には出自しかない。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:39:38.89
>>191
そういう権威付け要らない
文字の無い時代の事を文字が出来た後に記録したんだろ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:41:36.93
>>178
>1-2世紀が出たということは、近くに3世紀〜の遺跡もあるということ・・、

だから、そっちは甕棺じゃないの
三世紀らしい墓制で葬られている
0196日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:46:40.00
>>141
>那珂八幡(84m)はTB期、神蔵古墳(40m)はUB期、
祇園山朝鮮型集団墓地はUC期
筑前型庄内甕、北部九州型布留甕の成立は博多、比恵

祇園山は、四隅円弧の角錐台的「冢」であり、
△と庄内が出土し、62個以上の「複数埋葬を含む」墓であり、
「冢≠前方後円墳」や「那珂八幡の前方後円墳」によって、3世紀末の墓であるから、卑弥呼の墓。
平原1号が「明帝下賜の21枚の方格規矩鏡」に拠って壹與の墓であり、
明確な前方後円墳の那珂八幡などは、平原1号よりも後になり、3世紀後半半ば過ぎ。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:46:42.01
>>191
新撰姓氏録自体も大和政権側だよ。
>>極めて価値が高い系図集と言われているんだっけ
言われていません。偽書はある。
全文公開せず、平安時代初期の原本もない。
移しの連続で松野氏代々の出生、没、場所等もわからない。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:47:08.03
>>192

それらの集落は糸島の豊富な副葬品や、3世紀の博多に出現する当時最大の前方後円墳
の遺跡群ではない
0199日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:56:58.38
>>198
近畿
前方後円墳が卑弥呼の冢という判断なのか?
当方は未だ定まらない。
狥葬者奴碑百餘人の魏志倭人伝から入っている。
まず、数に合う所がないかいくつか候補を探している
0200日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:57:13.99
>>196
>祇園山は、四隅円弧の角錐台的「冢」であり、
>△と庄内が出土し、

九州説はいつもガセネタ
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:58:18.46
小さな環濠集落は、師升の朝貢頃から倭国の大乱前までのもので、
散発的にやってきた渡来人の巣うだつを防ぐための過渡的なものだったのだろうな。

其の後、黄巾の乱の余波で、帯方郡の支援を得て、最新式のハガネ武器で武装した馬韓族(後の百済族)が一気に押し寄せ、
女王の馬台国軍(邪馬台国軍)として小規模な環濠集落を片っ端から攻め落としていった。それが所謂「倭国の大乱」。

それから二十〜三十年、卑弥呼没後の更立つ男王の乱までの間に、
彌生の小環濠集落は、卑弥呼・臺代を擁する馬台族が制圧し、環濠集落成るものは姿を消した。
つまり環壕集落は、彌生末の混迷の面影であり、
卑弥呼・臺与軍が制圧してからは、邪馬台国のような女王軍の根拠地の超大国だけに、楼観城柵が残されたのさ・・、
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 16:59:38.77
>>199

前方後円墳が卑弥呼の冢という判断以前に
3世紀前半の博多に出現している
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:00:07.24
>>200
でFAQ67は通説か?
そういう学者は誰?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:02:34.89
>>201

朝鮮起源説か?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:02:36.28
銅鏡について分析してみた

・弥生遺跡から出土する銅鏡の多くは北九州出土で
 畿内弥生遺跡から銅鏡の出土はあまりない
・「畿内の弥生時代の銅鏡」とされるものは
 古墳時代の遺跡から出土した鏡を
 「弥生時代製で弥生時代から古墳時代までそこにあった」
 と推定してるだけのがほとんど
・弥生時代製の銅鏡が、古墳時代の畿内にあったからといって
 弥生時代から畿内にあったとすることの説明がほとんどない
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:05:24.30
畿内が弥生時代に銅鏡を入手して
古墳時代まで取っておいて古墳に埋めた…としても
ほとんどが、そうなってるのはおかしい

もっと畿内弥生遺跡からも銅鏡が出土するべきだ
やはり「畿内人が古墳時代に入手した銅鏡を古墳に埋めた」が
ほとんどなのだろう

そうなると弥生時代の銅鏡の入手も
結局、北九州優位であり、銅鏡でも畿内説の有利はなくなる
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:06:56.65
魏使は240年以前の弥生時代の漢鏡は見ていない
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:09:37.24
畿内が弥生時代に鉄器を入手して
古墳時代までリサイクルして古墳に埋めた…としても
ほとんどが、そうなってるのはおかしい

もっと畿内弥生遺跡からも鉄器が出土するべきだ
やはり「九州人が古墳時代に持ってきた鉄器を古墳に埋めた」が
ほとんどなのだろう

そうなると古墳時代の鉄器の入手も
結局、北九州独占であり、鉄器でも畿内説の誤魔化しは無効になる
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:09:41.23
>>207
当然だろう。
卑弥呼、壹與も九州にいる。
近畿にある邪馬壹國は若干遅れる。
古墳の前のインフラ整備
また規模もデカい。工期も遅い

引っ越し先という考えもある。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:12:11.65
>>219

那珂八幡より纏向石塚のほうが古い
お前の間借り先は博多ではなく吉野ヶ里だったはず
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:13:20.44
>>217
いや、平原1号の21枚の「尚方作」方格規矩鏡などが明帝の下賜の銅鏡百枚の大部分であり、董卓焼き討ちで廃墟と化した洛陽が復興した後に作られた銅鏡であるから魏鏡なのであるが、数枚の本物の漢鏡もまた魏使によってもたらされたのであるから当然大率と一緒に下賜品の内容確認をした際にそれら漢鏡も魏使らは見た。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:14:04.37
>>216
>結局、北九州優位であり

違う。 「阿波」だよ。  「阿波」の前で偉そうにするな。   @阿波
0226日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:15:21.13
>>218
なんで?宗教地でもある。
武器もあるけど農具、開拓で使う。
証拠にバカでかい古墳があっちこっち
野ざらしにできない。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:17:06.03
>>223
博多など書いていないけど
吉野ヶ里及び周辺

でFAQ67は通説か?
そういう学者は誰?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:18:55.47
普通に考えたら「出土した遺跡の時期に、
遺跡周辺の人々が持っていた」とは言えても
「遺跡より100年以上前から遺跡周辺の人々が持ってた」など
考えるべきではないのに、畿内出土の銅鏡に限って、
それが通用している
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:19:00.47
>>210
銅鐸は何を原料に作ったの?
>>216
鉄の工房では何を作ってたの?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:21:47.57
>>227

だからお前は博多と畿内との関係ではなく
吉野ヶ里と紀伊山地〜伊勢湾との交流の根拠を示す必要がある
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:23:14.47
>>230
でFAQ67は通説か?
そういう学者は誰?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:24:10.99
>>231

なぜ俺に聞く?
0233日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:28:55.13
学者の事なんか知らんがな
古田とか木臼とか誰やねん
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:33:55.15
吉野ヶ里と紀伊山地〜伊勢湾との交流の根拠を示す必要がある?
博多と畿内もあるんじゃないの?

近畿だから畿内より当然広い。滋賀、若狭湾、兵庫もあり、吉備も近い
滋賀の稲部遺跡、若狭湾 丹後での鉄出土、丹との物流と見てる。
で鉄の材料はどこ経由?当方は三ルートと考えているが?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:34:54.41
>>232
畿内説だろー。
通説なのか?
0240日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:35:29.50
邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。

 邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。

 弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
 換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
 絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた場所こそが当時の贅六の海綿体である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
 それは糞の中以外にありえない。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:38:25.88
>>230
可7万戸と見積もる
近畿位に広げないと収容できないと思うが?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:38:57.22
>>146
>多品種多量の楽浪土器が出るのは三雲の番上地区やサキゾノ地区と深江井牟田で
TA期がピーク、TB期が下限
TB期には糸島と福岡平野が拮抗しUA期に激減する
楽浪土器と代替的に増えるのが馬韓系土器で福岡平野が中心
福岡平野産の庄内甕が多量に運ばれるのが今津湾沿岸

ふーん?。
同じ不彌國同士で馬韓の土器が九州の不彌國に来るんなら判るが、
楽浪土器が卑弥呼の始め頃の筑紫の沿岸地域に来る理由が判らないなあ。
楽浪土器が不彌國に来たのは、やはり楽浪鏡師らの渡来だろうなあ。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:40:49.26
根こそぎ生口として九州に連れてきたから瞬間的に七万戸になったんじゃねのw
0244日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:42:35.53
>>234

お前の主張は紀伊山地〜伊勢湾で祭祀をやってたのが卑弥呼で
卑弥呼はまだ建設中の纏向とは関係ないんだろ?
博多と関係が密接なのは纏向の大和型庄内甕や前方後円墳
お前の場合は間借り先の吉野ヶ里と紀伊山地〜伊勢湾との交流の根拠が必要
0245日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:46:03.05
>>243
大胆だな。
水害等が落ち着いた時期
復興と開拓、物流が重要
まずは若狭湾、丹後から始めたと思う
四道将軍は、道路インフラ工事と思う
記紀では、勇ましい戦いとなる。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 17:56:45.87
>>151
>糸島東部が伊都国、

東松浦半島東岸部から陸路で500里で、「皆臨津搜露」という海岸部である、
という事は、やはり伊都国は「前原付近〜糸島水道」付近。
「糸島東部が伊都国」では、一大國から糸島東部へ「渡海」してしまいそう。

>博多比恵那珂を中心とした庄内式分布圏が2万戸の奴国

「奴國」というのが間違い。
何本もの運河を造り、博多比恵那珂やそれ以南の、
列島最大の弥生銀座は、当然、邪馬壹國女王之所都の場所。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:12:17.16
>>246
魏志倭人伝の間違いて事?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:13:08.20
記紀馬鹿が記紀に頼るのは、ひょっとしたら奈良のことかと錯覚出来るんだろうな。

奈良は「魏志倭人伝」や「考古学」からは見放されているから。   @阿波
0249日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:14:44.69
>>228
>考えるべきではないのに、畿内出土の銅鏡に限って、
>それが通用している

とか妄想する理由は?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:15:04.92
記紀馬鹿が記紀に頼るのは、ひょっとしたら北部九州のことかと錯覚出来るんだろうな。

北部九州は「魏志倭人伝」や「考古学」からは見放されているから。   @阿波
0251日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:18:20.31
>>161
>括弧内は誰が書いたんだ

鈴木真年東大教授であれば、そんな「付注」など書く筈がない。
右肩書などは、普通は当然当初の系図から書かれていたもの。
「左注」や「下注」は、記紀に書かれた天皇名などが書かれているから、
普通は、記紀や新撰姓氏録が書かれた奈良朝期以後の松野氏姫氏の学者が書いた、
という事にな。。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:20:19.56
>>209
>朝鮮起源説か?

環濠技術の起源がどこだったとか、あまり意味はない。
問答無用の渡来人がたびたび侵入してくるからこそ、自衛の手段として環濠形態が発生したのだろう。
その渡来人の侵入が、朝鮮南部から始まって列島にも及び、瀬戸内から畿内まで騒々しい時代になったということさ。
それは朝鮮土着族ではなくて、大陸を追っ払われた漢民族の傍流/末裔だったのだろう。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:31:23.25
「山処(やまと)の地」

「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、

現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、

徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。   @阿波
0255日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:35:35.83
>>251
奈良朝期以後の松野氏姫氏の学者て誰?
現存するもんはいつ頃のもん?
0256日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:37:52.10
>>229
銅鐸についても分析してみたが
どうもヤマト政権は銅鐸を作ってなかったぽい
それどころかヤマト政権が銅鐸を破壊してまわっていたようだ

・銅鐸は九州でも出土するが、畿内中心に出土する
・銅鐸は村外れに埋められてるなど単独で出土することが多く、
 時期がはっきりできないはずだが、
 なぜか「3世紀製作の物はない」と言われる
・銅鐸の鋳型は畿内の弥生遺跡から出土することが多く、
 それらの遺跡のいくつかは古墳時代にも存続しているので
 3世紀畿内でも製作されていた可能性がある
・日本書記、古事記の古墳時代以前の記述には銅鐸の話がない
・末期の銅鐸は破壊されてることが多く、
 「新政権が旧政権の象徴である銅鐸を破壊した」と言われている
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:39:35.63
>>254
まあ、使いよう
卑弥呼や倭の五王を九州王朝にするための
、策略的な年表かも?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:41:39.34
>>249
学者が「そうだ」と言ってるからとしか

www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf
北部九州以外の後漢鏡のほとんどは古墳から出土するもので,
弥生時代後期に入手し,古墳に副葬されるまでの伝世が考えられてきた
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:42:57.10
>>250
近畿
松野エセの注釈等がそれにあたる。
余計なもんかいたもんだ。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:46:13.60
近畿
新年会だな。 
また 明日
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:47:52.83
>>252

環濠技術の起源ではなく、
>>201は馬韓族が女王の邪馬台国軍と書いている
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 18:53:49.86
鉄器・海外土器・絹に続いて
銅鏡まで弥生時代末期においては
北九州優位だったみたいではないか

もはや畿内優位な貴重品はほぼないやろ

弥生時代末期に貴重品を集める権力が畿内になく
北九州にあるというなら、そっちが邪馬台国だろう
0263日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:05:15.05
>>262
  証拠は?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:10:29.41
>>197
記紀など自体も大和政権側だよ。
>>極めて価値が高い系図集と言われているんだっけ

言われていません。記紀などは、半分偽書ではある。
大和政権にとっては都合の良い伝承などの集積の連続で、
中国史書に載せられた委奴國王や帥升や卑弥呼や壹與や難升米ら大夫や、
倭の五王らも載っておらず、「倭國」という国名も殆ど書かれていない。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:12:25.53
>>258
>学者が「そうだ」と言ってるからとしか

言ってるという証拠は?
0271日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:14:20.55
>>262
>鉄器・海外土器・絹に続いて
>銅鏡まで弥生時代末期においては
>北九州優位だったみたいではないか

だから、証拠は?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:35:11.06
証拠が書いてあっても、証拠は? と聞く詐術子
0276日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 19:44:11.10
高良大社に記紀には見えない様々な王子の名を摂社とするものがあったはずだが
松野氏系図とやらに何か係れば面白いな
少なくとも仲哀の時代までは博多湾と関門海峡は日矛の子孫が占めていた
魏志にいう「伊都国の代々の王」が、邪馬台国に特に係らしめられていないから
仮に卑弥呼時代の伊都王が日矛系なら、邪馬台国と日矛は別系なのだろう
それでも太祖は共有するかもしれんが
系図に鹿が頻出するしな。新羅王は鹿の角を模した王冠をつけていた
高天原の神である春日神の神獣も鹿だ
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:23:05.87
>>275
どこに書いてある?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:31:26.98
>>207
>前方後円墳が卑弥呼の冢という判断以前に
3世紀前半の博多に出現している

ダメだ。
卑弥呼の冢≠前方後円墳であり、前方後円墳は、
266年の西晋への遣使が武帝から教わった「天円地方」の思想に拠って、
九州倭人がモンゴルや高句麗などの前方後円墳を模倣したものであり、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などが前方後円墳の始まりだ。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:34:04.92
みんなわからないふりしてズルいなー
0284日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:36:51.10
>>223
>那珂八幡より纏向石塚のほうが古い・・・

ダメだ。石塚は那珂八幡の進化型だから、那珂八幡の方が古い。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:49:30.15
>>256
銅鐸は祭祀用と言われてるが元々の目的は鐘だから人がバラバラに住みだした事で
必要無くなったのかも知れない
まあそれは良いんだけど銅鐸って何か銅製品を溶かして作ったんじゃないか?
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:55:59.69
知的障害キナイコシwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:56:11.05
イソジンキナイコシwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 20:57:16.98
>>1

深夜にクソスレ脱糞してシコシコテンプレはるとか気色悪いなこいつの人生
0294日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 21:18:48.04
くせぇんだよ、喫煙豚wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0297日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 21:22:19.42
顔真っ赤
0298日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 21:31:45.87
>>284
>ダメだ。石塚は那珂八幡の進化型だから、那珂八幡の方が古い。

そんな妄想吐いてる九州説老人が世界に一人
他はゼロ
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 22:11:40.77
>>299

「博多湾貿易」の成立と解体・再論の著者久住は畿内説
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/07(金) 22:56:40.31
宮崎説

冢 西都原だろうな

畿内と史学に向かないF氏にはご用心
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 00:36:40.34
>>299
結局、素人がデータを変に加工した結果
九州説というおかしな結論が出たってわけだ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 05:48:08.77
>>298
>>ダメだ。石塚は那珂八幡の進化型だから、那珂八幡の方が古い。

>そんな妄想吐いてる九州説老人が世界に一人 他はゼロ

ダメだ。
人類や権力者は、その支配体制が破綻しないで継続する限り、
そのセレモニーなどは、前代よりも劣化する事を嫌って、
「拡大進化」してゆくもの。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 06:00:29.44
>>314
結局、大和説学者やマスコミや教育関係者らがデータを変に加工した結果
大和説というおかしな結論が出たってわけだ
0321日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 07:55:52.81
フェップップwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0322日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 07:58:08.83
研究ポスト狙いの畿内大和説も、出版物の原稿料稼ぎの九州福岡説も、
結局は、銭稼ぎ優先で、データを変に加工した結果、
おかしな結論が出たってわけだ。。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 08:31:19.83
>>322
なんの成果にもならない妄言説のおかしな結論は
言うだけ無駄
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 08:41:38.82
畿内大和説 vs 九州福岡説 のように、対立構造を煽る手法がそもそも問題だ。
学問を紅白歌合戦のようなバラエテイ番組にして、
金儲けをしている。

なんの学術的成果にもならない妄言紅白歌合戦のおかしな結論は
言うだけ無駄、
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:02:56.26
>>324
あなた、中傷ばっかりいているけど、証拠は?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:13:27.12
>>322
研究ポスト狙いや出版物の原稿料稼ぎの大和説学者らも、
結局は、本質的にはヤクザ暴力団と同じく皇国史観国家戦争宗教であり、
銭稼ぎ優先で、データを変に加工した結果、
おかしな結論が出たってわけだ。。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:29:28.07
>>324
大和説者らや佐賀説者らのような、
人類の常識や史料事実や史料実態の、
否定や曲解に拠って、対立構造を煽る手法がそもそも問題だ。
学問を紅白歌合戦のようなバラエテイ番組にして、
金儲けをしている。

なんの学術的成果にもならない妄言紅白歌合戦のおかしな結論は
言うだけ無駄、
0328日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:31:33.34
文献の検証なんか誰だって出来る
それぞれが好きに解釈すれば良いんだよ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:41:50.60
畿内大和説 vs 九州福岡説 のように、対立構造を煽る手法がそもそも問題だ。
学問を紅白歌合戦のようなバラエテイ番組にして、そこで
派手に踊ってる目立ちたがりやのポンポコリン。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 09:52:26.62
糸島市は共通
畿内説と史学に向かないF氏は、同類だな
0331日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:03:14.60
自らがまちがっていることを認めず強弁する
0332日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:03:46.32
>>330
近畿
「呪文」と「通説」の文字の違いだけかも?

FAQ 67は通説ですか?
YES OR  NO さえ返事せず。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:04:22.37
同類同士が二手に分かれ、
派手に争ってみせて視聴率を稼ぐ、5チャンネル版のプロレス興行、、、
0334日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:14:06.38
糸島を覆すことができず愚痴る
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:17:49.46
俺も伊都国は博多近辺だと思うけど東南がわかんないなあ
壱岐からなら東南になるんだがなあ
0336日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:19:54.95
糸島は、とっくに卒業しちゃったよ
落第生が残ってるだけらしい
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:21:01.29
考古学で北部九州が最先端だったのは揺るがなぃ。
そこを無視するとただの空論になることをスレ主もさすがに理解してる。
畿内説もいろいろあるだろうがテンプレ見りゃわかるように
ここのスレ主は奴国に庄内式土器や前方後円墳が上陸したことを
畿内勢力が奴国を征服した証とみなしている。
だから通説通り伊都国は糸島、奴国は博多じゃないと、スレ主の畿内説も崩壊するということ。
九州説からすれば生口や年貢の流れに過ぎないのだがw畿内黒歯国から北部九州倭国まで船行一年可至
0338日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:22:05.23
学歴詐称は良くない
☓糸島を卒業
〇糸島を認めることができずに落第
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:26:50.46
上陸地点が呼子ってのはまず違うでしょう
あんなところに出迎えに行かないだろうし漂着するんじゃ無いんだから
0340日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:30:15.30
伊都が糸島だけってのはまず違うでしょう
糸島の王墓は1世紀以降だから紀元前の早良の王墓も含んで
高祖山やクシフル岳を挟む東西が伊都。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:40:57.49
世の常として、敵は背後から突然襲ってくる

三国志もそういう歴史を満載してるんだが、、、
0342日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:46:52.19
>>328
>文献の検証なんか誰だって出来る
>それぞれが好きに解釈すれば良いんだよ

そう言って文法間違えてて赤恥かいた馬鹿は枚挙のいとまが無い
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:49:13.91
>>342
ここで間違えたって良いじゃん
それで全てが覆るとは限らないしまた考えれば良いだけで
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 10:50:45.74
畿内大和説に、九州福岡説に、佐賀平野説の三説乱立、
さあ倭人伝も、三国志そのままの乱世乱闘になってきましたよー
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 11:08:05.38
>>343
>それで全てが覆るとは限らないしまた考えれば良いだけで

キオから間違ってると恥だけかくよ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 11:14:12.28
>>344
司馬懿にあたるのは何説
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 11:22:43.84
>>346
そりゃ「馬」の馬韓ー百済系、
つまり馬韓・百済の痕跡満載の佐賀平野説でしょう。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 11:29:24.71
>>345
名無しだし別に恥とも思わないが
だからこそここじゃ自由に書き込めば良いんだよ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 11:34:48.31
弥生時代はともかく現代に於いて身長三、四尺の人々が居た事を前提に考える方が恥ずかしいと思うが
普通著者は何故間違えたんだろうと考えるだろ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 12:15:16.69
>>347

つまりそこは倭人ではない
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 12:20:32.97
>>337

奴国を征服したという畿内説はない
畿内の影響を受ける前に甕棺墓集団はど没落している
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 12:29:59.43
>畿内の影響を受ける前に甕棺墓集団はど没落している

つまり九州内での内部改革に過ぎないということか。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 12:45:42.23
>>352

九州内というようなまとまりはない
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:00:58.84
>>347
近畿
東夷伝より百済など登場しない。
おそらく、百済建国は卑弥呼、壹與が支援したのでは?
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:06:22.31
>>350
その通りだ。
つまり三世紀の九州島は、ヨーロッパの白人が新大陸アメリカへ移住し始めた頃に例えることができる。
新大陸に上陸したヨーロッパ白人は、手始めに黄色インデイアンを追っ払い、州を広げていった。
だから肌の色のちがいは今に至るもはっきりと残っている。

その時代のヨーロッパ白人に相当するのが、
三世紀頃帯方郡から佐賀平野に進出した漢族系馬韓人であり、黄色インデイアンは倭人・倭種に相当する。
しかし、この場合、顔の造りや肌の色は、漢族も倭人も大した違いはなかった。
その子孫も同化してしまえば、殆ど見分けがつかず、今に至っているが、
最近のDNA研究で、古墳時代を築いたのは、三世紀頃、新たに侵入してきた漢族の大群だったことがわかりつつあるわけだ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:09:47.97
>>355

肥前肥後は倭国から除外ということで
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:13:08.58
>>347
近畿説では
卑弥呼の時代には百済はないので
百済系とか違和感があるのである。

百済が邪馬壹國系なのである。
新羅は古くからお付き合いの奴国系なのである。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:15:00.88
>>356
近畿
奴国の系統かも。
卑弥呼 共立に反対したのであろう。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:17:39.38
我々は倭人伝に書かれた倭国について考察しておりますので
朝鮮起源説は別スレでお願いします
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:18:19.21
漢人系の血、倭人の血、分けたいのは分かるが
その程度の混血はもう山東半島時代に終わっていて
朝鮮半島の特に南部ではもっぱら縄文人との混血がメインだったと思うけどね
玄界灘を越える時点で弥生人としてある程度完成していて
後1000年かけて出身ごと(沿海州等からの渡来が予測される群)の差異が平均化されたろう
0361日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:21:02.14
肥人は馬韓人であるという自己申告がありましたので
韓伝が史料になろうかと思います
0362日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:28:03.37
倭国大乱の時代に最新の鉄剣をもった楽浪人だか
さっきから言われてる馬韓人だかが来たんだったな
彼らが九州をほぼ素通りして近畿に乗り込み、国を譲らせて
みるみる伸長していったとするなら、これを古墳人の遺伝子として
倭人よりも現代日本人に近い勢力とみることも可能だ
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:34:41.96
>>344
>畿内大和説に、九州福岡説に、佐賀平野説の三説乱立、
さあ倭人伝も、三国志そのままの乱世乱闘になってきましたよー

「三説乱立」とか「乱世乱闘」になんかならんよ。。
魏志倭人伝の行程記載は、ほぼ全て魏の役人らの記録を陳寿が紹介しているだけであり、
基本的には、その記載を「人類の普遍的な常識」に拠って読み取るべきであり、
例えば「持衰」の記録からは、魏の役人らは「持衰」を実際に見たから記録したのだ、
と受け止めるべきであり、
だから魏使らは「(海峡では)倭人の倭船に乗った」と受け止めるべきであり、
また、「皆臨津搜露」とあれば、魏の役人らは実際に、
「伊都國で常治する一大率が皆臨津搜露するのを実地に見た」から記録したのだ、
と受け止めるべきであり、
伊都國役人らがはるか遠い佐賀の地からやって来たのだ、とは解釈しないものであり、
また隋書の阿蘇山の記録も、隋使らが実際に俀國にある阿蘇山を見聞したから記載されたのだ、
と受け止めるべきものであり、
「大和へ行って来た隋使がわざわざはるか遠回りの回り道をして、
阿蘇山の噴火を見た、なんて変な事はしないし、書かないものなのですよ。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:40:14.12
そういうこと
大八州のほとんどが、今は馬韓系の子孫であるということは、
畿内大和説も、九州福岡説も、佐賀平野説も、皆同じ穴の兄弟ということだ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:45:46.26
>>363
バツである
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:51:58.98
だから、天皇陛下の軍隊と粋がって、
支那大陸へ攻め込んだのは、尊いご先祖様の地へ殴り込みをかけたようなもの、まさに愚行
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:52:27.66
ただ、倭国大乱から卑弥呼の共立を経てなお、
倭国は皆倭種とも言われていることは重要かと
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:58:35.17
>>349
>弥生時代はともかく現代に於いて身長三、四尺の人々が居た事を前提に考える方が恥ずかしいと思うが
普通著者は何故間違えたんだろうと考えるだろ

いや、人類にはアフリカやインドネシアに低身長部族がいた事は知られており、
仮に、身長80cmの人と160cmの人が婚姻して子供を造れば、
その子供は平均で120cm位の子供が出来る可能性があり、
またその次にその120cmの人と160cmの人が婚姻すれば、
その子供は平均で140cm位の子供が出来る可能性があり、
だから、混血的婚姻が続けば数世代だけでも、殆ど低身長部族は殆ど消えてしまう事があり得る。

つまり、この投稿子も、おそらく人類の常識知らずの・・・・アホ詐欺師。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 13:59:35.91
>>368
遺骨掘ってこい
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:08:00.32
>>351
>奴国を征服したという畿内説はない

有難う。
勿論「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言でもあったから。

>畿内の影響を受ける前に甕棺墓集団はど没落している

いや、大和は、九州倭國の東征毛人五十五國に拠って征服された別種倭種の、
「地方の市を監督する大倭職の旧小国」であり、
だから大和が九州倭國の影響を強く受けたのであり、
また、北部九州の甕棺は、祇園山のように3世紀中頃までは残存している。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:13:50.19
この市とは、大市十市高市の市、磯城郡の巨大な遺跡でしょうかね
大倭職とはなんなのでしょう
個人的には毛人とはやはり贔屓目にみても東海以北であり
このあたりの「征」の箇所は、水行陸行同様後世の忖度くさいです
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:20:05.45
>>351
近畿も征服などなく
もとは小国、倭国を併合である。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:21:34.23
>>357
つまり、お前の近畿説って
通説である畿内説とはまったく違うもんなんだよ

紛らわしいから似た名前なのらないでほしい
そいうの詐欺だから
0374日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:23:18.55
>>353
>九州内というようなまとまりはない

いや、狗奴國は、卑弥呼の頃までは独立國であったが、壹與の時には服属したようであり、
南九州の宮崎付近は、紀元前2世紀頃に天孫族の阿毎氏の海彦山彦らに拠って投馬國?が出来、
薩摩方面の「襲」の国は、伊都國系の大和の武将の景行の遠征で征服されたらしい。
しかし、東テイ人としては、後漢最末年に後漢の「序に就いた」という記録があるから、
卑弥呼の即位前後頃には、まだ存続していた。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:33:55.65
>>372
近畿
その後に東征毛人五十國 西服衆夷六十六國
その後に半島へ渡平海北九十五國である。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:37:14.19
>>373
お断りします。
アンタが詐欺。
どんどん、使います。
畿内と近畿で使い分けでいいよ。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:39:26.84
>>356
>肥前肥後は倭国から除外ということで

いや、肥後は、狗奴國地域であるから、卑弥呼の女王國からは除外された可能性があるが、
肥前は、壹與の與止姫伝承があるし、姫氏系図に壹與も「市鹿文」とされたり、
熊襲の人々も記載されたように、卑弥呼一族に加わった、と見るべきである。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:43:58.37
>>377
姫氏系図 エセ文書だしてもな。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:45:50.34
>>347
>近畿説では
卑弥呼の時代には百済はないので 百済系とか違和感があるのである。
百済が邪馬壹國系なのである。
新羅は古くからお付き合いの奴国系なのである。

近畿説男は、「邪馬壹國」が近畿だ、という説であるから、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
バツね。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 14:50:49.20
>>379
「南≠東」「東南≠北東」「半島、二島 陸行」
の博多湾から言われる筋ではない。
なので史料事実や史料実態に拠って、
バツね。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:06:03.34
>個人的には毛人とはやはり贔屓目にみても東海以北であり

お願い。これくらいで許して。。w
0382日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:06:51.13
自分の意見を持たないバカ相手にしてもしようがない
それより壱岐から伊都国なら東南になるんだよ
なんで末盧国に行ったんだ?
まあ俺自身は大阪説で壱岐から伊都国に行ったと思ってるからどうでも良いんだけど
0383日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:27:33.37
つか、末蘆国に上陸したなんて一言も書いてないのだが
0384日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:35:26.84
だが、狗邪韓国に上陸したとも、大海国に上陸したとも、一大国に上陸したとも書いてないのだが、
0385日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:35:43.73
>>383
そうなのよ
伊都国には必ず行かなきゃいけないけどなんで末蘆国からの距離と方向を書いたんだろ
まあ俺が伊都国は博多辺りだと思ってるからで佐賀なら成り立たないんだけど
0386日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:35:52.45
>>308
近畿 候補のひとつ。
冢 邪馬壹國 卑弥呼
それぞれ、別場所という発想である。
つまり、通った道に鎮座、足跡があれば
政治、宗教的にも効果的。
一カ所に集約という考え方ではロジックが合わないので
ある。まあ、宮崎説も一カ所に集約だろう。
まあ、既存にない見方を望む。
江戸時代からなかなか定まらない。
既存の説が間違いなんだろうな。

共通項はちらほら。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:41:19.03
それと、伊都国に上陸したなんてひと言も書いてないのだが
0388日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:42:34.83
>>387
伊都国の役割は書いてあるし行かなきゃいけないでしょ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:47:02.75
一日一泊はしなきゃいかん船ならね
夜は陸で休む
対馬を出たら、日没までに次に向かう港はどこだ
場所によっては博多は海から見ただけ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:50:02.50
>>389
陸行してるから
何故陸行したのか訳わからんけど
0391日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 15:53:51.38
>>390
草ぼうぼうのところもあったのだろ
外国の使節が通るわけないところ
船の上で陸路の大変さをただ聞かされたんじゃないのか
いや反論したいわけじゃないぞ
俺は場所分からん人
0392日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:08:25.51
呼子以降は陸沿いに進むんだから
人々が潜って漁をしている様子も
えらく狭い道を歩いている様も見えたのだろう。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:15:33.77
>>382
>自分の意見を持たないバカ相手にしてもしようがない
それより壱岐から伊都国なら東南になるんだよ
なんで末盧国に行ったんだ?

魏使らは、明帝から卑弥呼への、
「詔書や親魏倭王印や大量の下賜の宝物」を送り届ける、
という失敗が許されない業務があるから、
山越えは出来るだけ避け、渡海や水行も出来るだけ最小限にする必要があったから。

>まあ俺自身は大阪説で壱岐から伊都国に行ったと思ってるからどうでも良いんだけ

まあ、大阪説も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、始めからバツね。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:19:21.62
魏志倭人伝の路程はあるときに誰かが旅行したことを記録したものではない
さまざまな時に複数の魏の役人が、実際に各地に旅行した経験を基に纏めたもの
0395日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:21:25.68
>>835
>そうなのよ
伊都国には必ず行かなきゃいけないけどなんで末蘆国からの距離と方向を書いたんだろ

魏の役人らは、明帝に、
「郡から女王國之所都」までの行く方法や道筋を報告しなければならなかったから。

>まあ俺が伊都国は博多辺りだと思ってるからで佐賀なら成り立たないんだけ

「伊都国は博多辺り」説も、「500里」には全く合わないから、バツ。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:27:19.77
>>387
>それと、伊都国に上陸したなんてひと言も書いてないのだが

伊都国の後の、不彌國や奴國に渡海とか水行とか書いていないから、
「伊都国上陸説」がバツ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:43:56.44
>>389
>一日一泊はしなきゃいかん船ならね 夜は陸で休む
対馬を出たら、日没までに次に向かう港はどこだ

古田第1書での「水行の1日里数」は450里と計算されており、
各渡海千里は、2日位かかった事になる。

>場所によっては博多は海から見ただけ

何を言いたいのか?は知らんが、
博多海岸は不彌國になるので魏使らは通っており、
「海から見ただけ」論はバツ。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:46:01.59
>>397
プルタぺーテン
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:52:54.67
>>391
>草ぼうぼうのところもあったのだろ

勿論、「參問倭地絕在海中洲島之上或絕或連周旋可五千餘里」でも判るように、
對海國や一大國や末盧國での「海岸沿い陸路」を通った、という記載だ。

>外国の使節が通るわけないところ

いや、道さえあれば、水行や渡海よりは十分安全だ。

>船の上で陸路の大変さをただ聞かされたんじゃないのか

いや、陸路で通らなければ見られない光景や、道沿い距離計測がなされている。

>いや反論したいわけじゃないぞ 俺は場所分からん人

いや、人類の常識が判らん男のようだよ。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 16:59:04.75
近畿スレは早々と終わったな
0401日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 17:12:51.35
>>399
要はだから付会なんだわさ
結論が決まっていればそうやって一見きれいに説明してみせられる
けどもそれでは響かないから諸説乱立しているわけだろ
貴公もまた九州王朝説とやらに拠りながらも、邪馬台国の位置の比定までには
自信は持てていまい
0402日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 17:21:35.74
>>400
禁断の果実に手を出そうとして失敗してて笑えるよな
人々の生活自体は琵琶湖のが最先端だから近江を取り入れたいけど
女王墓候補と離れすぎててすぐ発狂せざるをえないw
0408日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 17:41:58.49
>>344
>畿内大和説、九州福岡説、佐賀平野説、

さあ倭人伝も、魏・蜀・呉、三国志そのままの乱立乱世になってまいりました〜〜〜、
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 17:58:13.99
>>394
>魏志倭人伝の路程はあるときに誰かが旅行したことを記録したものではない
さまざまな時に複数の魏の役人が、実際に各地に旅行した経験を基に纏めたもの

いや、倭人伝の記載は、明帝から卑弥呼への、
「詔書や金印や大量の下賜品を送り届けた魏使らの記録」が最も、
メインになったものである。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 17:58:19.69
近畿
東南陸行500里 伊都国は佐賀方面だな。
水分供給など考えると川沿いの道だな。
なぜ、直接行かないのは海沿いではないからである。
福津、唐津、中津、それぞれに伊都国から派遣か常駐だろ。
中央庁みたいな所だろー。
まして使者であるから倭国側から迎えがある。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:01:38.86
>>409
>さまざまな時に複数の魏の役人が、実際に各地に旅行した経験を基に纏めたもの

いや、しょっちゅう大陸へ行き来していた「倭人(阿波勢力)」の情報を纏めたものだろう。   @阿波
0412日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:11:38.41
>>401
>要はだから付会なんだわさ
結論が決まっていればそうやって一見きれいに説明してみせられる

有難う。

>けどもそれでは響かないから諸説乱立しているわけだろ

その諸説は、史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論になっていない箇所が多いから、
否定している。

>貴公もまた九州王朝説とやらに拠りながらも、邪馬台国の位置の比定までには
自信は持てていまい

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う人種の人間性そのものを否認しており、
邪馬壹國は「福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」である、
とほぼ自信を持って99%以上肯定しており、
女王之所都は、比恵那珂〜須玖岡本〜大野付近だ、と99%位推定している。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:14:23.10
>>409
行程は地理的な説明
帯方郡から近い順番に並べて書いてある
実際の遣使の経路とは何の関係もない

遣使は日本海から近畿に直接上陸向かったものかもしれない
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:18:10.04
>>409
>さまざまな時に複数の魏の役人が、実際に各地に旅行した経験を基に纏めたもの

その通り、
紀元前、漢の武帝が朝鮮を滅ぼした後に作られた楽浪郡の時代から、
楽浪郡使がたびたび倭を往来・調査・報告し、
帯方郡に代わってからは帯方郡使が後を引き継いだ。
倭人伝の冒頭にある「旧百余国」と書かれているのがその記録の一端だ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:18:30.93
>>413
>遣使は日本海から近畿に直接上陸向かったものかもしれない

「倭人(阿波勢力)」はそんなルートを使って魏使を案内しない。   @阿波
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:20:06.00
>>410
俺は違うと思うけどな
伊都国は大陸との窓口で常に使者が立ち寄る所で勝手に入ってこられちゃ困るのよ
それで壱岐までの行程は確実だから地理的に博多近辺だと思うけどな
0417日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:22:08.68
>>412
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を・・、だとか、
ただの九州方言の訛りを取り上げて、針小棒大に騒ぎ立てる古臭い五畿の詐術子
0418日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:24:10.42
>>416
自己陶酔!
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:25:37.75
>>413
>行程は地理的な説明
帯方郡から近い順番に並べて書いてある
実際の遣使の経路とは何の関係もない

いや、実地での見聞や里数や方向の計測の記録として説明されており、
単なる「地理的な説明」にはなっておらず、
「持衰」のような「実際に倭船に魏使らが乗った事を示す」説明もあり、
「実際の遣使の経路」そのものである。

>遣使は日本海から近畿に直接上陸向かったものかもしれない

「かもしれない」なんて何の論拠にもならず、
勿論「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などに拠って、
近畿説男は、バツ男。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:27:14.51
>>412
壹國にこだわる理由は?誤写の可能性のほうが大きいだろう
仮に貴説による国がヤマトと仮に読まれても、ただそれだけで畿内説になびくことにはならない
イという読みが大事なのだな?漢委奴国に連なるために
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:28:10.09
やっぱりわかんないのが東南方向に伊都国があるってとこだな
普通壱岐から直接伊都国に行くだろ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:30:24.60
>>421
だから、伊都国は内陸の「直方」辺り。   @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:32:01.88
>>416
近畿
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
は中央庁みたいなもん、迎賓館、宿泊施設があるのだろう

唐津、福津、中津など
(伊都国から派遣、常駐)
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯。
ようするに水際だよ。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:42:16.29
>>423
成田や関空みたいなもん
何故伊都国が倭国の政治的な役割を担ってると思うのか?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:50:35.47
>>424
「出入国管理局」みたいなもん。   @阿波
0426日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:52:35.20
なんだかんだという割には、
堂々と東南の佐賀平野に行くやつは少ないんだねえ、畿内ゴキは気の弱いやつらばかりだww
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 18:55:47.18
>>426
>堂々と東南の佐賀平野に行くやつは少ないんだねえ

初っ端の「末盧国」が間違っているからな。   @阿波
0428日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:01:22.89
>>424
成田や関空みたいなもんは津だよ。

>>416
使者が立ち寄る所で勝手に入ってこられちゃ困るのよ
当然だよ。有千餘戶しかない。
伊都国には卑奴母離はなく
かわりに以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛。

近辺各国に卑奴母離だから水際なんだよ。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:01:54.99
>>426
元々は俺は九州説で佐賀だと思ってた
でも今は大阪説で佐賀じゃおかしいでしょ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:03:59.42
>>428
だから伊都国は博多だと言ってるんだが
一大率てのは軍隊だろ
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:07:30.96
>>419
「実地での見聞や里数や方向の計測の記録」がつまり地理的説明
遣使が立ち寄る必要は全くない
近畿付近まで船で行く方が合理的

持衰は半島経由ではなく直接大陸に渡海する旅行について語った部分
極めて危険なのでそういう藁にも縋るような祈祷が必要だった
0432日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:11:04.60
>>416
海岸線沿いは津波等で
危険である。人も物も内陸へ。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:12:55.50
なんだかんだという割には、
堂々と東南の佐賀平野に行くやつは少ないんだねえ、畿内ゴキは気の弱いやつらばかりだww

>>429 も、近畿でゴタクを並べてないで、唐津から佐賀平野へ自転車漕いで、行って見て聞いてから文句を言え
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:13:27.31
>>432
実際の場所はもっと内陸だと思う
大宰府辺りかも
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:15:05.43
>>433
東南に500里ならどう考えても佐賀だろ
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:16:15.33
>>435

初っ端の「末盧国」が間違っている。   @阿波
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:18:43.12
>>436
今は大阪説だし末盧国に行ったなんて思ってない
不弥国までの行程は関係ないから
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:20:40.57
>>393
>魏使らは、、、という失敗が許されない業務があるから、
>山越えは出来るだけ避け、渡海や水行も出来るだけ最小限にする必要があったから。

>>393 も、関西の神社巡りでゴタクを並べてないで、唐津から佐賀平野へ自転車漕いで、行って、見て、聞いてからカキコしろ
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:20:51.08
>>433
近畿
大昔に歩きましたよ。
唐津から糸島市方面がきつい
立花峠とかきつい
海岸道は当時
満潮時など通行不可能と思われる。

佐賀平野方面は川沿いであり、
水供給もできる。何よりも木材も豊富
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:21:51.01
現実に半島や大陸と交流のあった糸島や博多に
倭人伝がまったく触れていないという説が
明らかに頭おかしいだろ
これは世間の常識だ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:22:09.82
>>437
>今は大阪説だし末盧国に行ったなんて思ってない

そりゃ、そうしないと自説が成り立たないからな。   @阿波
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:26:23.81
>>441
水行陸行になってるんだし明らかに途切れてるだろ
陳寿が邪馬台国とヤマト国を別物だと勘違いしてると思ったから大阪説になったんだよ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:32:42.94
>>442
>陳寿が邪馬台国とヤマト国を別物だと勘違い

別物もなにも、「ヤマト国」なんて無いからww   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:34:16.09
>>443
あるね
中国名倭国
日本名ヤマト国
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:37:02.74
>>420
>壹國にこだわる理由は?誤写の可能性のほうが大きいだろう

何度も書いた事。
宋明清代の倭人伝の写本や版本での全ての校勘において、
倭人伝の「邪馬壹國」や「壹」の文字に対する校勘数は0個である。
という事は、陳寿原本においても99%以上「壹」であった、という事である。

>仮に貴説による国がヤマトと仮に読まれても、ただそれだけで畿内説になびくことにはならない

邪馬壹國はヤマトとは読まないし、読めないからバツであり、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、またバツである。

>イという読みが大事なのだな?漢委奴国に連なるために

良く知っているんねえ。
「壹」は、海峡の天孫族の阿毎(アマのイ)氏の「一大國」の「一」の華字であり、
「天子や王ただ一人に忠を尽くす」という意味の華字であり、
「委奴」の「委」も、「アマのイ」の「イ」であり、
「怡土」や「伊都」の「イ」でもある。
天孫族の阿毎氏は、「倭」の文字が好きではなく、「委」などのいろんな文字を使用したようである。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:47:48.87
日本人は太古からこの国の形を知っていて、王権は安全な場所に遷都している。
BC3世紀ころの出雲の銅鐸の畿内への拡散がその証拠だ。

そういう日本人が、大陸との玄関先である北部九州に都など置くはずがない。
どこの家でも玄関で客と応対し、よほどでないと居間に通さないよね。
国もそれと同じ。
北部九州に都があったなんて馬鹿としか思えない。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 19:50:13.45
>>421
>やっぱりわかんないのが東南方向に伊都国があるってとこだな
普通壱岐から直接伊都国に行くだろ

やはり、魏使らは、一般の旅行者ではなく、
明帝の詔書や金印や大量の下賜品を届ける事が任務であり、
また、海峡の渡海の管理をしていた、
「東松浦半島西北沖の鷹島や黒島の(松浦水軍家の)都市牛利」も、
渡海の事故の多さを知っており、魏朝の「率善校尉,假銀印青綬」を受けているから、
自国の東松浦半島に一旦安全に上陸させて、それから伊都国へ陸路で行った、
という事なんだろう。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 20:00:21.03
>>445
北史には邪摩堆であり邪馬臺だと書いてある
必ずしも邪馬壹が正しいとは言い切れない
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 20:03:12.73
>>447
じゃあなんで東南なんだよ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 20:08:36.65
>>424
>何故伊都国が倭国の政治的な役割を担ってると思うのか?

卑弥呼の姫氏の先祖らは、姫氏系図に拠れば、
「火の国山門」からしばらくしてから一旦「委奴」の地に移った事が書かれ、
その後その一部がまた「大野」に移り、
そこで「刀良=卑弥呼」が出て、女王に共立された、
と書かれており、倭國亂のおり、倭國亂のむごたらしさが判った?小国の伊都国王が、
自分ら伊都國ではなく、
姫氏系の狗奴國にも許容され?、その他の傍國にも納得され、
最大人口の邪馬壹國の大野にいる宗教的な卑弥呼を女王に共立して、
倭國亂を終わらせよう、としたんだろう、と推定出来る。
そして、伊都国は一大率として、女王国の「検察」官的な地位になった。
0451医者コンプ贅六
垢版 |
2022/01/08(土) 21:11:54.96
966 名無し検定1級さん (ワッチョイ df16-TToH) sage 2022/01/08(土) 21:04:22.97 ID:8o71QO490
医師国家試験は簡単だよ
・異常に高い合格率(25校が合格率100%)
・医師国家試験には記述問題がなく全て選択問題
・相対評価
・合格基準は試験終了後に発表され、必ず90%以上の受験生が合格できるように合格基準が調整される
(厚生労働省が合格者数を一定にコントロールしている。)

比較として、英検1級は2028点を取れたら一次試験合格という絶対評価。試験前に合格基準は公表されている。
結果的には毎回10%前後の合格率となる。
0452医者コンプ贅六
垢版 |
2022/01/08(土) 21:12:02.36
966 名無し検定1級さん (ワッチョイ df16-TToH) sage 2022/01/08(土) 21:04:22.97 ID:8o71QO490
医師国家試験は簡単だよ
・異常に高い合格率(25校が合格率100%)
・医師国家試験には記述問題がなく全て選択問題
・相対評価
・合格基準は試験終了後に発表され、必ず90%以上の受験生が合格できるように合格基準が調整される
(厚生労働省が合格者数を一定にコントロールしている。)

比較として、英検1級は2028点を取れたら一次試験合格という絶対評価。試験前に合格基準は公表されている。
結果的には毎回10%前後の合格率となる。
0453医者コンプ贅六
垢版 |
2022/01/08(土) 21:12:06.52
966 名無し検定1級さん (ワッチョイ df16-TToH) sage 2022/01/08(土) 21:04:22.97 ID:8o71QO490
医師国家試験は簡単だよ
・異常に高い合格率(25校が合格率100%)
・医師国家試験には記述問題がなく全て選択問題
・相対評価
・合格基準は試験終了後に発表され、必ず90%以上の受験生が合格できるように合格基準が調整される
(厚生労働省が合格者数を一定にコントロールしている。)

比較として、英検1級は2028点を取れたら一次試験合格という絶対評価。試験前に合格基準は公表されている。
結果的には毎回10%前後の合格率となる。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:15:19.36
>>431
>「実地での見聞や里数や方向の計測の記録」がつまり地理的説明

だから、魏使らの移動に付いた魏の役人らの実地の見聞計測の記録。

>遣使が立ち寄る必要は全くない

魏使らの移動に付いた魏の役人らの実地の見聞計測の記録だから、
魏使らの同行していた。


>近畿付近まで船で行く方が合理的

近畿説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

>持衰は半島経由ではなく直接大陸に渡海する旅行について語った部分
極めて危険なのでそういう藁にも縋るような祈祷が必要だった

それ、三つの疑問点がある。
一つは、帯方郡からの出発時点の「循海岸水行」から、
(持衰がいる)倭船が魏使らを乗せて来たのか?の問題。
魏側が、「中国船も持っていなかった」かのような、
そんな恥ずかしい事をしたのか?、という事。
二つ目は、世界に名だたるのリアス式の半島西岸と南岸を沿岸航行出来るものか?、という問題。
三つ目は、もしそうであっても、巨済島付近から直接對海國へ直行すればよいのに、
何故狗邪韓国へ遠回りしてまで寄港しなければならなかったのか?の問題。
これらの問題は、倭地から狗邪韓國に行く時にも発生する疑問点。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:32:02.73
>>439
>近畿 大昔に歩きましたよ。唐津から糸島市方面がきつい 立花峠とかきつい
海岸道は当時満潮時など通行不可能と思われる。

いや、對海國も一大國も末盧國内でも、海岸沿いの陸路道を通っている。

>佐賀平野方面は川沿いであり、水供給もできる。

川沿いの山道など、「いばらのかき分けで、衣類の皮膚もずたずた」になり、
明帝の下賜のお宝など、直ぐに落として、無くなってしまうもの。

>何よりも木材も豊富

木材なんて、お宝を守るのに、使い物になるかい。邪魔なだけ。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:38:49.53
>>442
>水行陸行になってるんだし明らかに途切れてるだろ

邪馬壹國女王之所都まで、途切れていないし、
大阪説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだよ。

>陳寿が邪馬台国とヤマト国を別物だと勘違いしてると思ったから大阪説になったんだよ

邪馬台国もヤマト国も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
キミはバツだよ。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:39:22.74
人によって印象が違う
画像検索すると中国の船は日本のよりかなりデカい
あれだと寄港出来る港は限られるんじゃないかと思った
小さいのも有るだろうが日本に来るのに使わないだろうし
0463日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:45:39.50
大川隆法に陳寿をタコってもらうしかない
0464日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:50:09.18
>>454
最初の3件は何の根拠もない単なる君の「言い張り」
駄々をこねる幼児と同じ

最後の件について君の誤解を解いてあげよう
「其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰」
ここが持衰を説明している箇所
当該箇所は帯方郡から倭国への航海とは全く関係がない
古来からの、九州から大陸への航海について語っている箇所

ここだけは指摘しておくから確かめてみなさい
残余の問題は君自身で考えなさい
0465日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:50:47.14
>>446
>日本人は太古からこの国の形を知っていて、王権は安全な場所に遷都している。
BC3世紀ころの出雲の銅鐸の畿内への拡散がその証拠だ。

出雲は、縄文の頃の「国引き神話」の頃から存在していて、
梁書の時代にも「文身国」として、尚も国として存続していたから、
「畿内に遷都」なんてしておらず、バツね。
そういう日本人が、大陸との玄関である北部九州ではなく、
大和に都など置くはずがない。
どこの家でも玄関できちんと客ときちんと応対し、
よほどでないとトイレに横の裏口に通さないよね。
国もそれと同じ。
北部九州に都があったなんて馬鹿としか思えない。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:56:45.27
>>448
>北史には邪摩堆であり邪馬臺だと書いてある
必ずしも邪馬壹が正しいとは言い切れない

後代史書というものは、
「自己解釈に拠って、いくらでも前史の記載の書き換えを実行する」半分×書であり、
「北史には邪摩堆であり邪馬臺だ」も、全く論拠にはならない代物。
前史の写本や版本に比べて、信頼性や客観性が落ち、
0467日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 21:59:04.40
>>466
邪摩堆とか邪馬臺は何処から出てきたんだ?
0468日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:02:50.34
>>447
>じゃあなんで東南なんだよ

魏使らは、末盧國の出口から「東南」方向へ出発して行った、からであり、
魏の役人らも、
行程の説明は「出発説明+途中の説明+到着の説明」の順次式記述をする、
という人類の常識をわきまえていたから。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:04:52.19
邪摩堆や邪馬臺の名前があるのに信頼性もなにもない
その名前は何処から出てきたんだ?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:10:02.21
>>468
寄港地も言わずに何言ってんだ?
0473贅六
垢版 |
2022/01/08(土) 22:13:32.16
クソスレ排便たのちー
0476日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:17:24.34
>>464
>・・・最後の件について君の誤解を解いてあげよう
「其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰」
ここが持衰を説明している箇所
当該箇所は帯方郡から倭国への航海とは全く関係がない
古来からの、九州から大陸への航海について語っている箇所

違うな。
これは、当然、倭國に来た魏使や魏の役らの実地での見聞記録であり、
魏使らの見聞記録そのものである。
そうでなければ、陳寿がそんな実態を知る筈もなく、記載する筈もない。
つまり、この投稿子男は、魏の役人らの実地での「都合の悪い証言」記録を、
隠蔽抹殺して国民を騙そう、としている悪質なオレオレ詐欺師。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:33:40.85
>>467
>邪摩堆とか邪馬臺は何処から出てきたんだ?

「邪摩堆」は、隋書の「隋代の俀國の都の名称の邪靡堆」を、
北史の筆者が「邪摩堆」と書き換えたもの。
「邪馬臺」は、後漢書の筆者の范曄が、
5世紀の倭國の王の居地の地名の「其大倭王が居する邪馬臺國」を、
後漢代の倭國王の居地としたインチキで書いたもの。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:39:13.32
>>477
つまり邪摩堆も邪馬臺も実際あったのね
ただし邪馬壹とは関係ないと、こういう事で良いのかな?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 22:54:04.52
>>476
>>476
持衰の説明の少し前に
「男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫」
という文章がある
古来以来、持衰を伴って海を渡り中国大陸と行き来していた
これは帯方郡や魏の役人が生まれる以前のこと
ただ、知識として知っていた事柄でそれを記載したもの

このスレに登場する人物で詐欺師に近い存在がいるとすれば、君はリストに入るだろう
0480日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 23:10:37.55
>>460
對海國、海岸沿いの陸路?
無理、道の整備などもっと先の話
なんで調べないんだ?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 23:14:30.62
>>460

對海國てあったけ?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 23:26:06.04
対馬国や一支国の面積や人口を調べたのはそれを目的に来た下っ端の役人でしょう
でも女王に貢物をするような場合そんな所に寄る必要もないし直接伊都国に来たんじゃないか
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 23:49:39.05
贅六知恵遅れやからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/08(土) 23:50:09.18
贅六がのたうち回るのを見たいからニートと障害者のネット利用を禁止してほしいw
0491日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 00:48:50.46
お笑いザラコク、今年も悪質なオレオレ詐欺師で大笑い。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 04:36:15.77
>>480
師匠同様 史学する価値がないからです。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 05:12:33.94
>>478
>つまり邪摩堆も邪馬臺も実際あったのね

「実際にあった」という断定は出来ないね。
後代の「前史の書き換えという半分偽作が非常に多い史家」の使用文言だから。

>ただし邪馬壹とは関係ないと、こういう事で良いのかな

それもバツだね。
邪靡堆も邪馬臺も、いずれも、
3世紀の7万戸の邪馬壹國の領域内にあった「5世紀の倭國大王」や「7世紀の俀國の天子」の、
「居都」として書かれているから。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 05:32:10.98
>>479
>持衰の説明の少し前に
「男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫」
という文章がある
古来以来、持衰を伴って海を渡り中国大陸と行き来していた
これは帯方郡や魏の役人が生まれる以前のこと
ただ、知識として知っていた事柄でそれを記載したもの

これもバツだね。
「自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫」という記録が中国にあったとしても、
その時に倭人が中国まで全部倭船で行ったのか?も、
「持衰」を伴ったのか?も、全く記載もない。
おそらく半島までは海路で、半島からは陸路だったんだろう、とすべき。
また、魏使らが帯方郡から倭地まで、全部倭船に乗った、という危険な事をした、
という事も有り得ない。あり得る事は、狗邪韓國から末盧國の間の渡海部分だけ、
(松浦水軍家の都市氏の)「持衰のいる倭船に乗った」という可能性があるだけ。

このスレに登場する人物で、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師に近い存在がいるとすれば、
君もそのリストに入るだろう
0495日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 05:38:09.39
>>480
>對海國、海岸沿いの陸路? 無理、道の整備などもっと先の話
なんで調べないんだ?

離島であっても、人類が生存していた限り、
生活や生存に必要な「海岸沿いの陸路」は存在したさ。
なんで考えずに、調べもせずに、オレオレ詐欺をするんだい?。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 05:54:19.94
>>482
>対馬国や一支国の

3世紀には「対馬国」も「一支国」も、なかったから、
キミも嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師だよ。

>面積や人口を調べたのはそれを目的に来た下っ端の役人でしょう

有難う。
当然「魏使」らにとっては、そんな事は下っ端の「魏の役人」らの仕事だったんでしょう。

>でも女王に貢物をするような場合そんな所に寄る必要もないし直接伊都国に来たんじゃないか

いや、魏使らは、
明帝の詔書や金印や大量の下賜の宝物を、確実に卑弥呼に届ける事や、
倭地の自然実態や倭人の生活実態や国々の争いの有無などを調べ確認する事も仕事だから、
出来るだけ、安全の原則で、途中の国の実態を確認して回る事も必要なの。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 06:26:40.06
>>495
アホすぎ、南端までは無理だよ
道が険しい。
方可400余里

方可300余里も陸行の記載もない。
島の大きさの比率等も考えない

古田てインチキだな
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 06:26:54.25
>>494
>おそらく半島までは海路で、半島からは陸路だったんだろう、とすべき。

ほら、九州説は史料無視だ
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師に近い存在がいるとすれば、
君もそのリストに入るだろう
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 06:29:05.60
出来るだけ、安全の原則に反している
0500日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 06:33:08.09
まあ、魏志倭人伝に記載などない
ことまでネジ曲げてもプルタぺーテン原理主義 
0501日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 06:50:57.35
大和政権の母体。日本の神々が集まった高天原。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 07:59:38.28
>>494
持衰は九州から直接中国大陸への航海でその無事を祈祷する役職だった
このことをまず認めなさい
そしてそれが成功することもあれば失敗することもあった
つまり古来何度も繰り返した交易の専門職として記載されている
君が半島を経由した方が安全だと主張しても彼らには彼らの必然があった
0513日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:15:05.02
新年早々から、
大笑いブルタの弟子の、小笑いザラ酷がズッコケてるな、ハイお次!
0514日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:21:28.04
>>507
>持衰は九州から直接中国大陸への航海でその無事を祈祷する役職だった
このことをまず認めなさい
そしてそれが成功することもあれば失敗することもあった
つまり古来何度も繰り返した交易の専門職として記載されている
君が半島を経由した方が安全だと主張しても彼らには彼らの必然があった

そんな空想なんか何の価値もない。
素直に「魏の役人らは、持衰が乗っている倭船に乗った」、
という事になる史料実態を認めて、
それからの帰納的確率的な推論をしなさい。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:30:32.28
なに言ってんのかわかんない言い訳してるな
書いてある事を疑うなら魏志も疑えよって話し
0516日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:47:42.71
お笑いザラ酷の 醜い小ネタも すっかり読み飽きたな、

ハイお次!
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:51:28.31
「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。

この神は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。

佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。

その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と

天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することから、天孫降臨の地が「阿波」であると言わざるを得ない。   @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:52:15.97
>>515
なに言ってんのかわかんない言い訳してるな
書いてある事を疑うなら、自分らオレオレ詐欺の大和説者の脳も疑えよって話し
0519日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 08:54:36.36
>>516
お笑い大和説者らの 醜いオレオレ詐欺の小ネタも すっかり読み飽きたな、

ハイお次!
0520日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:05:44.67
阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。 まさに、高天原「空・ソラ」の地である。

倭国(阿波)には、一宇村に「天磐戸神社」  神山町に「天岩戸立岩神社」 2社が鎮座している。

いずれも、いかにも高天原然とした山深い処である。  

一宇村 「天磐戸神社」 http://ohara98jp.exblog.jp/23714547/

神山町 「天岩戸立岩神社」 https://ykoba84.exblog.jp/16566638/

その剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0521日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:16:29.25
>>460
松浦川〜厳木川 いかだが使えるんだよ。
道もいいんだよ
帰り荷物も考えないのか?
厳木川は四万十川と並ぶ水質が最も良好な河川。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:16:56.17
お笑いザラ酷の 醜い小ネタも すっかり読み飽きたな、

それにお笑いザラ酷は
敵が 後ろや上から 毛の薄い頭部をねらって接近することを忘れてる   ワハハハハ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:27:49.67
>>521
>>460
>>松浦川〜厳木川 いかだが使えるんだよ。

古皿や近畿や大和は、松浦川〜厳木川ルートで佐賀平野へ抜けるのを極端に嫌うな。
古代のハイウエイなんだけど、知らなかったんだろ。
小学・中学・高校で、歴史と地理の出来が、極端に悪かったんだろな。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:33:31.96
>>523
佐賀平野になにがあったんだ?   @阿波
0525日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:38:34.38
>佐賀平野へ抜けるのを極端に嫌うな

自分が無視されているだけであることに気づけないとわ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:40:25.03
>>523
阿波の大好きな女物が続々出土、早く行って見ろやw
0527日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:43:31.68
>>525
云いたきゃ、云いたいだけ云っていいぞ! その分、自分の首が締まるんだがww
0528日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:44:30.33
>>526
なんやそれ?   @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:57:29.25
>>528
阿波の大好物、アレ用の三種の神器!
0530日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 09:59:46.62
>>523
近畿
猛烈にバックアップなんだけど?
佐賀
佐用姫伝説、壹與の與止姫伝承 
與止日女神社

街道筋 遺跡多し。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 10:01:55.85
>>518
自分の考えは無いと言って質問を受け付けず他人の意見の批判だけする
おまえみたいな卑怯な奴話しにならねえ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 10:10:25.19
佐賀の自慢できる遺跡は、吉野ケ里遺跡だけか? 寂しいのう。   @阿波
0534日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 10:19:51.22
>>533
ま、そう簡単には見せられん。
後世の佐賀の若い人たちの楽しみに、掘らずにおいてあるわけだ。

そりゃそうと、ネットのうわさでは、阿波は年商○百億の大会社の会長だそうだが・・
徳島で大会社といえば、円墳を2つ並べて紐で結んだような女物のアレの会社か??
0535日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:13:19.90
>>534

でも馬韓人なんだろ?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:17:28.73
徳島で大会社といえば、大塚製薬とか日亜化学。   @阿波
0537日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:18:40.23
現在の生野区が百済郡
ブタを飼うので猪飼野と呼ばれた
0538日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:31:48.86
>>535
その通り、
で、馬韓族はその後、東へ進んで倭種を平らげ、ヤマト王権を打ち立てることになった。
つまり今の日本の支配層の源流というわけだ。だから天皇家も、馬韓の後流の百済とは浅からぬ所縁がある・・、
0539日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:37:21.59
日向肥人朝戸君が仁徳天皇の御代に播磨の土地をもらったところが猪養野
日本の支配層ではなくてブタの屠畜や皮なめしの源流
0540日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:40:26.04
>>536
大塚は薬の会社で、在職中はずいぶん試薬を買わされた。今は豪勢な美術館を立てたそうだな・・。
日亜は、例の青色ダイオードだったかな・・、
それから、古墳型の下着はワコール・・。 んで、阿波はどの会社の会長なん?
0541日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:40:46.48
任那日本府だから
何訳わかんない事言ってんの?
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:45:43.53
東夷伝では豚を好んで飼うのは挹婁と州胡
0543日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:50:30.50
>>539
>日向肥人朝戸君が

「肥人」はコマビトという。球磨平野の種族で、倭人伝の狗奴国の人民で弓に長けた狩人。
神武に従って東征のお供をした者たちで、畿内に着いた後は、猪・ブタの屠畜や皮なめしの業に従事したのか・・、
0544日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 11:54:02.64
>>543

養豚に長けたブタおやじ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 12:22:41.91
朝戸君: 
播磨國風土記に日向肥人朝戸君と見えるが、
之は和名抄に據つて見るに、鹿兒島郡安薩郷(薩摩郷?)の氏かと云はれてゐる。

薩摩郷であれば、鹿児島ー熊本県境の川内市方面で、球磨郷(狗奴国)とは隣り合わせになる。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 12:32:05.99
韓国人らいくら死んでも構わん感じよな

やつらの言ってること聞いてたら普通に殺したくなってくるから死人でてるだろ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:02:59.77
狗奴国は倭人なので肥人(自己申告により馬韓人)ではない
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:09:15.63
「和名抄」によれば鹿児島郡は都万・在次・安薩の3郷からなっており、
郡家の所在地は現在の一之宮神社(鹿児島市郡元二丁目)の位置であったと推測されている
0549日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:16:45.06
>>547
1.こま‐ひと【肥人】
奈良時代、南九州地方(鹿児島県)に住んでいたといわれる異種族視された集団。
[補注]「万葉集」の付訓は諸本大方コマヒトであるが、一説に、熊本県球磨(くま)地方にいたという「くまびと」の変化した語ともいう。

2.こま‐ひと【▽肥人】
古代、肥後国球磨くま地方(律令制の球磨郡)に住んでいたといわれる人。

3.所謂肥後熊本は、熊本市以北の平野部及び阿蘇地方のことで、ここが肥前佐賀・長崎と同じ馬韓人(自己申告)
0550日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:20:57.49
倭人の国が倭国
肥人の国が肥国(自己申告により馬韓人)
0551日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:25:07.82
熊本市の北に住んでいたのが、頭蓋骨と顔面を人工的に変形させて
虫の食べ過ぎで糞詰まりになっていた種族
0552日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:28:20.87
2.こま‐ひと
後世【▽肥人】と書くが、こまひととは球磨人の意味だったのだろうな
そして球磨人は、倭人伝にいう「狗奴の人」
0553日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 13:38:33.02
腸内フローラ系動画、20回目の配信になります。

謎が多いとされている邪馬台国の女王・卑弥呼。彼女が囲む食卓は意外にも栄養バランスよく、腸内フローラにもとてもよいものだったというお話しです。

https://www.youtube.com/watch?v=4mvxqI1Mcqc

チャンネル登録、高評価、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

コロナ対策や糖尿病、ダイエットなど今までの回もよろしくです。

https://www.youtube.com/channel/UChFhsNa9gV2HkgtY42u86sg/videos
0555日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:03:12.02
なんせ「阿波」には、「邪馬臺国は阿波だった」の根拠が「まけまけいっぱい」あるけんのう。  わははははは   @阿波
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:04:29.15
>>554
近畿説
狗奴国は一致

邪馬壹國は近畿
卑弥呼は伊都国に居る
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:07:05.91
>>556

間借り一人作り話
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:07:55.38
免田式土器(3世紀ころ)
 これは、生活用具ではない。
墓場に供えた酒器か花瓶のような葬送のうつわ
このころ、この地方の土着種族に、このような土着の風習風俗が有った、というだけのことであり、
古代国家の成り立ちとは無関係。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:11:22.76
>>557
アンタの所が作り話だよー
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:12:16.03
>>558

分布からは、熊本平野、球磨盆地、阿蘇は北部九州沿岸とは交流がほとんど無く
南九州との交流のほうが多いことがわかる
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:16:04.66
>>559

俺は学者の通説畿内説
お前は学問拒絶間借り一人作り話
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:19:01.33
筑紫も大津も吉野も出雲も日向も阿蘇も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:21:33.53
そして阿波は流刑地
0564日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:23:22.61
>>554
>免田式土器(3世紀ころ)の分布

3世紀ころという根拠皆無なあたりが
笑いのツボ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:25:22.85
>>560
弥生以来の土着種族(倭人)レベルの交流はその通りだったのだろう。

しかし、倭人伝が描いているのは、その土着レベルの土着文化に上書きされた、
帯方郡下の渡来人系の邪馬台国女王〜倭女王国の(漢民族系の)国家像なのだ。
そこの処は、しっかり区別して考えなくてはならない。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:27:48.77
畿内説であろうとも狗奴国を南九州に置くことは問題なかろう
免田式土器は隼人の土器と言われるが、形態的にはどうみても弥生土器の亜種であり
長崎あたりが最初で、南九州へと広がった
隼人だか誰だか知らんがそいつらは筑紫国からみて周辺に土着した人びとであり
在地色濃厚な南九州の人びとと連合しながら狗奴国を形成した
もちろん、倭国語で解釈できる官職を持つため、倭人の国だ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:30:49.73
>>561
学者の通説畿内説?

FAQ 67
で糸島市は伊都国でいいのか?
そういう学者は誰?
0569日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:34:01.48
>>565

熊本は倭人伝が描いている卜骨は無い
0570日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:36:29.05
>>566

狗奴国は倭人なので、免田式土器分布圏は狗奴国ではない
0571日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:40:07.93
>>567

学者の比定では伊都国は糸島市東部しかない=郡との交流の考古学的根拠がそこしかない
0572日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:43:22.12
>>568
あんな奇妙な形の土器に需要があるわけねえだろ
何考えて作ってんだよ
0573日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:44:49.22
>>571
郡との交流の考古学的根拠とは
具体的に何を指すの?

楽浪式土器は決め手でない
佐賀平野、久留米
八女周辺でも出土
0574日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:45:47.04
>>571
そこしかないというその郡は楽浪郡か帯方郡か?
そしてその考古学的根拠とは何か??
0575日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:48:52.82
>>573

楽浪土器が佐賀平野のどこで?
壱岐、糸島は2世紀から楽浪土器が多品種多量に出ている
3世紀前半には糸島平野と福岡平野が拮抗する
0576日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:50:07.18
>>571
三角縁も佐賀平野、久留米
八女周辺でも出土

考古学的根拠て具体的に?
決め手はなんだろうな?

畿内に倭国の王都がありかつ中心国なのか?
卑弥呼が畿内に居たという証拠になるのか?
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:52:01.23
>>568
リンク先に1800年前と証明した記述があるか??
0578日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:55:06.16
>>576

三角縁神獣鏡は奈良、京都に次いで多いのは福岡
佐賀は福岡の10分の1
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:56:40.86
>>571
倭人伝は、公孫氏亡き後の帯方郡と女王との関係を言っているのだから、
楽浪郡を持ち出しても無意味で、証拠にはならんだろう。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 14:58:44.69
>>579

楽浪土器はTA期をピークにTB期が下限
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:01:00.58
狗奴国との争いは卑弥呼と卑弥弓呼の狭い範囲の権力争いで
南とか関係ないと思うんだがなあ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:03:06.61
>>563
阿波は極楽すぎて、流刑地にならん。 すまんな。  わははははは   @阿波
0583日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:03:36.78
>>581

狗奴国は倭の五王時代の後漢書で
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」
東の倭種と修正されている
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:04:58.62
>>566
>畿内説であろうとも狗奴国を南九州に置くことは問題なかろう


「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   

これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。  何を考えているんだかwww   @阿波
0585日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:06:19.74
>>582

だが、流刑地だった
0586日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:08:11.41
丹が無い秘境は要らない
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:10:06.47
>>585
そもそも、四国は極楽地。 あえて四国で流刑地を探せば、土佐ぐらい。 
むしろ京から遠い九州が流刑地だな。   @阿波
0588日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:10:27.58
>>583
自女王國東度海千餘里って何処なのよ
南じゃおかしいと思って東に変えたんだろうが魏志を参考にしただけじゃないか
0589日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:12:35.69
>>588

伊勢湾を渡った東国が卜骨や黥面土器が出る倭種
0590日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:14:01.50
>>584
残念ながら狗奴国の力の源泉は阿蘇山麓の鉄工廠である
邪馬台国の分流に過ぎない勢力が目につけ
これをもって本国から離反したのだろう
0591日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:15:26.34
四国は坊主が修行した辺地
0592日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:17:10.57
>>589
伊勢湾を渡るって何処から来るの?
なんか違うなあ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:17:20.67
阿蘇は稲作不適地
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:18:34.70
東征当時、大和盆地には先住の政治勢力があったが
神武の遣わした使いに刺青をした者がいて
これは後にいう大伴氏族の者だったようだが
その土地の姫はそれを奇妙に思ったそうだ
つまり大和盆地の先住勢力には刺青の習慣がなかった
そして神武自身にもね
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:19:50.80
伊勢湾を横断するルートは今でも一応国道になっている
海の国道という
0596日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:23:48.48
後代には今の和泉に馬飼部が置かれ、
これも大伴氏族が担ったようだが、彼らの刺青は
動物の血液を使用していたらしく、臭くてかなわないという
苦情が出てやめさせたという話が伝わる
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:32:49.77
>>594
>その土地の姫はそれを奇妙に思ったそうだ

出雲(長国)の入れ墨を見た、中つ国(粟国)の比売多多良伊須気余理比売だな。   @阿波
0598日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:35:08.14
>>597
それですね!
あと辰韓人の一部にも刺青を入れる者はあったようです
0599日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:35:13.48
>>583
近畿
拘奴國の字も違う
後漢書 范 曄 別な資料みたのか?
悩む
0600日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:36:44.34
>>568
>「今から1800年前」

いなかの町役場のおっさん談
0601日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:40:14.69
>>593
>阿蘇は稲作不適地

現在でも、阿蘇平野は大稲作地帯だ。調べればすぐわかることなのに、何を極楽とんぼなことを。
それに、記紀にも水田開拓に尽力した記述もあるんだが・・、
0602日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:40:20.94
>>597
そんなことを言っても
ぶった切るスレで完全にボコられているのではないか?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:40:43.55
>>578
近畿
当然だよ。物流拠点は福岡
NYとワシントンDCみたな関係
0604日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:43:53.07
>>602
お前もこっちに来たのか? 馬鹿スレ主よ。   @阿波
0605日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:47:24.86
>>568
>このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白ばなし」を再掲載したものです。
>今から1800年前のむかし、あの邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)が活躍していた時代です。
>その頃は、弥生時代の後期にあたりますが、あさぎり町では人々がムラをつくって生活していました。

1800年前というのは、卑弥呼が活躍していた時代のことを述べただけであって、
免田式土器の時代を証明する数字ではないんだな。・・まさに役場のオッサンの「あさぎり面白ばなし」。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:54:49.59
>>605
なーんだ、役場のオッサンの「あさぎり面白ばなし」だと、
卑弥呼が免田式土器を使ってたみたいに聞こえるじゃないか、まさに「面白ばなし免田式土器の巻」
0607日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:56:29.28
>>578
奴国の中に伊都国、不彌國等があるイメージ。

到伊都國 有千餘戸
福岡では有千餘戸だから少なすぎないか?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 15:58:50.29
後漢書は魏志を引用してるだけなんだがはっきりわかることは修正したって感じなんだろうな
0609日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:02:30.39
>>554
>・・・[免田式土器]の分布イメージ図。作成した[松田度]氏は、
[邪馬台国]と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が
8月、謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。
[魏志倭人伝]によると、狗奴国は女王・[卑弥呼]が君臨した国々の南に位置し、
卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
[考古学者]らはその勢力圏の中心が[熊本県]内にあったとし、
狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は[福岡県]域にあったと主張している。 

ふーん。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:13:43.83
近畿
畿内説でわからんところがやっぱり、
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

方向もあるが、地理観と言うならそれもあるだろう。

問題は、中心国で卑弥呼居るならあまりにも簡素というか
大雑把すぎではないか?

魏の使者でもある。倭国側が魏に求めている側でもある。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:16:50.22
>>573
>楽浪式土器は決め手でない
佐賀平野、久留米
八女周辺でも出土

ふーん。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:19:57.18
>[魏志倭人伝]によると、狗奴国は女王・[卑弥呼]が君臨した国々の南に位置し、
>卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。


「邪馬臺国」は、大河「吉野川」流域に展開する弥生後期集落遺跡国群。   

その南に位置する「狗奴国」は、黒潮太平洋岸に展開する弥生後期集落遺跡国群。   @阿波
0613日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:20:34.77
>>610
邪馬壹國だけじゃないんだけど対馬国一支国末盧国と比べるとおかしいのよ
0614日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:21:18.49
>>601

現在は黒ボク土地帯でも化成肥料を使えるから
自然草原地帯の阿蘇は牧として使えるので
動物堆肥を施肥すればなんとか植物は育つ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:25:45.88
>>583
>狗奴国は倭の五王時代の後漢書で
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」
東の倭種と修正されている

後漢書自体が、
自己解釈に拠る書き変えを一杯実行している半分バツ書であるから、
「拘奴國」も、狗奴國のまともな根拠にはならない。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:26:54.55
>>606

いやw
卑弥呼が活躍していた時代に
熊本には関係無い人たちが暮らしていたという話
0617日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:27:35.41
>>615
魏志にも元記事があるんだぞ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:28:27.16
免田式は特に壺形土器がユニークで、細長の頚部に腹部で「く」の字に折れ、
不安定な尖り気味の丸底をなしています。
頚部の付け根から腹部の上端に数条の沈線をめぐらし、
その下に重弧文等をめぐらすことから重弧文等をめぐらすことから重弧文土器とも呼ばれています。
この時期はちょうど3世紀ごろに当たり、遺跡の規模が急激に大きくなる時期でもあります。

http://www.aso-dm.net/?%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2
0619日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:30:28.70
>>609
>[邪馬台国]と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)

ま、本人も言ってるように、・・と推測しただけのこと。
土民が墓に備える土器風の供物が、なんで狗奴国と邪馬台国の対立抗争を裏付けるのか。

まるで、「今も日本人はお盆に線香と盆花をお墓に備えるから、マッカーサーの日本占領はあった/なかった・・」、
みたいな大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人の面白話だ。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:31:30.24
>>613
近畿
すまんが、どこがおかしいのか
具体的にお願い
0621日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:37:27.70
>>620

佐賀平野の楽浪土器まだ?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:42:17.62
対馬国・・・始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶? 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
一大国・・・又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
末盧国・・・又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆?没取之
奴国・・・東南至奴国 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
不弥国・・・東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
投馬国・・・南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
邪馬壱国・・・南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七萬餘戸
短い
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 16:53:56.25
>>621
近畿
佐賀平野 久留米 周辺と書きたかったけど
途中で終わってスマソ

ヘボノ木遺跡
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:00:35.74
>>623

久留米は知っている
佐賀平野の楽浪土器はまだかと聞いている
0630日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:07:04.33
>>629
>佐賀平野の楽浪土器はまだかと聞いている

佐賀は半島への出航地だから、佐賀に楽浪土器があったら、おかしい。   @阿波  
0632日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:09:10.17
それでいて、マルクス主義者の木の葉は鬼とは似ても似つかない画鋲であるなんてことはない
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:09:14.34
それでいて、マルクス主義者の木の葉は鬼とは似ても似つかない画鋲であるなんてことはない
0634日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:09:17.77
それでいて、マルクス主義者の木の葉は鬼とは似ても似つかない画鋲であるなんてことはない
0635日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:11:45.37
コインランドリーはインターネットを内蔵したお姉さんを踏みにじるだろう
0636日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:11:49.55
コインランドリーはインターネットを内蔵したお姉さんを踏みにじるだろう
0637日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:11:52.65
コインランドリーはインターネットを内蔵したお姉さんを踏みにじるだろう
0638日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:15:43.36
>>631

その旧石器から近代の遺跡地図には出土遺物は書いてないように思うが
佐賀平野はお前に任せる

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html#2_3
0642日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:24:18.35
>>638
近畿
OK なければないならはっきりして
こっちもすっきり。
あったら書くね。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:29:07.00
>>638

佐賀は半島への出航地だから、佐賀に楽浪土器があったら、おかしい。   @阿波  
0647日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:30:44.94
>>642

まず学者の研究をよく読んで、それから作り話を考えなさい
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:34:52.25
>>643
近畿
漢の時代は入航地でもあったと思う。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:36:18.61
>>647
意味不明
ヘボノ木遺跡は出ている
0650日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:38:55.90
一生のうちに一度だけ、アンモナイトが料理を作るらしい
0651日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:38:59.96
一生のうちに一度だけ、アンモナイトが料理を作るらしい
0652日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:39:02.99
一生のうちに一度だけ、アンモナイトが料理を作るらしい
0653日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 17:42:02.34
>>648
>漢の時代は入航地でもあったと思う。

むちゃ言うな。  漢の時代でも、対馬海流の流れは変わらん。   @阿波
0657日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:02:36.05
近畿
これなんだろう?
https://saga-museum.jp/museum/exhibition/limited/2021/08/003691.html

その後の調査で、朝鮮半島に由来する外来系遺物が多数出土し、弥生時代の日韓交流を探るうえで欠かせない遺跡として、
今なお多くの研究者の注目を集めています

土生遺跡
18500_1_佐賀県農業基盤整備事業に係る文化財確認調査報告書.pdf
(1) 朝鮮系土器
日本における弥生式土器とは異質な土器群であって、南朝鮮における無文土器の系統
をひく土器群と黒色研磨土器の系統をもっ土器群とが認められる。

楽浪土器ではないが、朝鮮との関係はありそう。思わぬ発見。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:15:08.52
ミジメだな
0659日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:25:37.12
562
その国名を付けた官衙が置かれたのが八世紀だぞ

つまり正式に国名として決まりそれぞれ国造(国主)が発生した朝廷の役人らと関係ある国々の始まり

当然それ以前から自分らで呼んでいた国名だのはある
0660日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:26:04.77
>>653
黒潮の方だよ。
漢以前だな
米の伝播 
朝鮮半島か中国の揚子江
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:26:40.66
なんもないとこに好きに名前を付けただのが妄想なわけ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:26:56.01
>>649

お前は吉野ヶ里弥生枯れすすき間借り作り話だから久留米は関係ない
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:30:16.85
>>659
>その国名を付けた官衙が置かれたのが八世紀だぞ


だから、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:30:46.22
>>662
さらに意味不明
それは、伊都国の話
おまえこそ、関係ない
0665日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:32:51.42
>>660
>米の伝播

日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。   

根拠:弥生時代前期「国内最古級の畝跡」「庄・蔵本遺跡」・「南蔵本遺跡」の灌漑稲作跡遺跡。    

日本のイネは、日本固有種。   

倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。   @阿波
 
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:33:10.46
なるほど
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:36:29.94
天村雲命と高倉下命、この両者の系図が相当錯綜している
見方によっては、中臣氏と物部氏と海部氏らが一つのラインに結ばれる
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 18:47:12.64
>>667
>天村雲命と高倉下命、この両者の系図が相当錯綜している
>見方によっては、中臣氏と物部氏と海部氏らが一つのラインに結ばれる

「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。   
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。   
ここでいう「忌部一族(阿波勢力)」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波
0672日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:10:26.30
そういうわけで邪馬台国九州説の論拠は何もない。

九州に卑弥呼の墓らしき墳墓がないからである。
多少、幅を持たして考えても、3世紀の130mから170mの円墳または楕円墳がないからである。

日本で唯一、箸墓古墳の円墳部分がそれに相当するが、
九州説側は、箸墓は3世紀にならない、4世紀だという事を力説するだけで、
さりとて九州に3世紀の150m前後の円墳があるわけではない。

とはいうものの箸墓古墳の被葬者埋葬時期は椿井大塚山や桜井茶臼山と同時期だから4世紀前後。
つまり箸墓も卑弥呼の墓ではない。

この日本に卑弥呼の墓はどこにもない。

ではどうするのか。
もう一度ガラガラポンして考え直す以外にない。

卑弥呼って本当に記紀に登場しないのか?
いや登場するだろう。

私はずっとそれを言い続けるつもりだ。
ほらここに卑弥呼はいる。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊
トヨ津媛          E孝安 D孝昭
トヨ津媛      (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
0673日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:11:37.89
楽浪式土器見つからないな。
ヘボノまで外国人 居住区があった。
楽浪式土器があるのことが畿内説
ないのが近畿説
安易に外国人いれるかな?
まあ、もうちょっと探してみる。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:18:17.59
>>672
その説は見たことがある
箸墓(結局、時代は合わないようだが?)は神武の后の陵だとな
大和盆地の勢力は崇神に倒されるまで圧倒的であり
皇室の勢力は小さな島のようなものだったという
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:19:05.65
卑弥呼の居所と、邪馬台国を分離する案は
なかなか良いとは思うけど
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:21:08.24
>>672
その通りで該当するのがないから近いものでって考え方が間違ってる
考古学はあまり重視すべきじゃないと思うけどな
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:28:37.02
金髪の女性らだの言っても一般的になるのは北欧にいた連中らによるヨーロッパ各地への遠征からなんだけどな

この活動の始まりが八世紀ころから

これによりヨーロッパにおいて白人系国家が次々と現れだす

つまりコンキスタドールらによる征服活動がそのまま現代まで続いとるんだよ

イギリスの王室もルーツ的にはコンキスタドールに繋がるしな
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:30:23.38
それ以前にはそんな一般的な話じゃないんだよ

ハプロ の話が出てきたりしとるがハプロ Qもハプロ Rももともとはアジア系に近い外見だったわけね
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:33:20.90
>>676
>考古学はあまり重視すべきじゃないと思うけどな

それは現実からの逃避
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:36:48.27
>>679
直接証明するものが出てくれば良いんだけどな
0681日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:42:18.08
考古学を全く無視しろと言ってるんじゃ無いし倭の五王はおそらく大阪だろう
でも卑弥呼の場合何があれば証明になるのかわかんないんだよね
0682日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:43:24.25
>>672
>箸墓(結局、時代は合わないようだが?)は神武の后の陵だとな

いや全然違う。
偶然なのか10日戎だが、
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后、
事代主(えべっさん)の娘だ。
当時、王族(おうぞく)なんて名称ない、王(きみ)大王(おおきみ)でもわかるように、きみの意味は神、つまり神々と呼ばれていた。
事代主やヒメ后、そしてトヨ、みんな神々。

神々の墓は高天原にある。
魏志倭人伝の通り、周囲に奴婢=土蜘蛛が眠っている。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0001640.jpg
0683日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:47:46.11
近畿
佐賀平野に数にもよるが楽浪式土器の出土がありゃ。
近畿説きっぱり捨てるけどな。
まあ、ちまちま調べるとするか。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:49:47.50
>>682
成るほど、あなたのお話に箸墓は無関係と。

それしても面白いな
なかなか好みの説ですが、卑弥呼は独身であるという問題がある
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:57:21.76
>卑弥呼は独身であるという問題がある

英国のエリザベス女王も「年長大で夫はいない」が曾孫までいる。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 19:57:38.68
>>682
近畿
高天原に土蜘蛛か
土蜘蛛 災害をもたらす雲の比喩かも?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:02:45.25
卑弥弓呼は男王であるから接頭語として比売はどうだろう
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:05:05.11
奈良県人は何故邪馬台国を奈良県にあったとでっち上げゴネるかな?

奈良県から阿蘇の噴火は監視できないし、絹も出てないし、楠木の森はあるのかな?

奈良県人に教えてあげよう。

有明海は豊富な食料庫であり7万戸は普通。倭国大乱の戦闘負傷兵の遺骨。さらには絹が出土しているのは福岡佐賀のみだよ。
唐津から伊万里の広範囲がまつら国。佐賀から糸島までの広範囲が伊都國。大陸からの軍事防に防衛上にしても脊振山が防御ラインであり、筑後川も熊襲からの防衛ライン。玄関を糸島にし、脊振山を越えた一大率からアクセスのよい神崎あたりが首都機能。神崎あたりは河川も穏やかで米作りも歴史上1番栄えた。博多港は古来、神崎でつくった米を輸出するために栄えた港。

阿蘇山の噴火を監視できるのは脊振山か天山。
阿蘇が噴火すると山鹿、菊池の食料自給率に影響が発生するため熊襲が略奪のために北上し邪馬台国へ奇襲に来る。

ちなみに卑弥呼の墓は糸島で発見済。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:09:32.27
>>675
近畿
定義も逆、畿内説は楽浪土器があるが定義
当方はないのが定義、佐賀平野 調べていなかった。
なので調べている最中
探してみないかな?

皆さんはさぞかし
邪馬壹國が中心国で立派なもんとか豪華とかの
あるという思い込みも逆にしてみようが最初

案外 辻褄があうでビックリ
本物かな?
0695日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:23:47.35
>>675
面白いのは纏向遺跡
個人的な感想だけど
柱の配置とか見ると
出雲の大社造りの小型版
またあるところは伊勢神宮の小型版
みたいな感じで原型とかプロトタイプかな?
と勝手 思っている。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:36:24.17
>>695
崇神までは宮中で大倭大國魂神と、天照大神をともに祀っていたらしいので
そんな造りわけもあったかもしれませんね
現代の大和神社は春日造のようですが
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:37:39.18
>>695
正解でしょう。

纏向遺跡=物部の遺跡
出雲大社=物部の武諸隈が出雲振根を殺害、神宝を奪った。その怨霊封じのために建造
伊勢神宮=現天皇家の前王権の怨霊封じのために建造。
元伊勢はたとえば和歌山のナグサ宮であるのだが、神武が東征のおり、体を八つ裂きにして殺害した名草媛の怨霊封じの宮。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:42:13.91
>>697
物部なんて、そんな昔からいないから
0699日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:49:03.15
>>698
>物部なんて、そんな昔からいないから

「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。   

みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。   

ここでいう「忌部一族(阿波勢力)」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。

倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。

その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:49:12.75
倭大国魂神は大地主大神として天照大神とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた

一方、孝昭天皇の宮は奈良県御所市池之内の掖上池心宮
天皇の宮がどこにあるかとは別に、磯城の瑞籬宮に天照大神と地主神がともに祀られた
少なくとも纏向遺跡は崇神が造営したものではなく、もっと古いものなのだろう
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 20:53:09.98
>>700
>倭大国魂神は大地主大神として天照大神とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた


「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、

また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれており、「みま(き)」との関わりを示している。

天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、

由緒あるその名を冠したものである。   @阿波
0707日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:02:03.38
>>701
捏造なんだろ?ぶった切るスレを読んだぞ。
邪魔だから消えてくれない?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:03:05.50
>>700
>倭大国魂神は大地主大神として天照大神とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた


「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、

また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれており、「みま(き)」との関わりを示している。

天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、

由緒あるその名を冠したものである。   @阿波
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:07:32.79
いくら世が乱れて、それが二神の勢いが拮抗するためだとはいえ
貴い神が宮中から出され、斎宮が諸国を渡り歩くなどなんとも冷淡な話と思えたものだ
崇神にとり、この二神が自身にとって大して関わりのない神であり、
大和統一の戦後処理の傍ら、祭祀整備の名目で身辺から遠ざけたとも思える
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:15:19.76
>>672
そういうわけで邪馬台国や大和説の論拠は何もない。
大和に卑弥呼の墓らしき墳墓がないからである。
多少、幅を持たして考えても、3世紀中程の25〜30m位の冢がないからである。
日本列島では唯一、祇園山古墳の四隅円弧の角錐台的部分がそれに相当するが、
大和説側では、箸墓は冢にも3世紀にならない、4世紀だ、という事で終わってしまう。
さりとて大和に3世紀の前後の冢もあるわけではない。
そして、箸墓古墳の被葬者埋葬時期は椿井大塚山や桜井茶臼山と同時期だから4世紀前後。
つまり箸墓も卑弥呼の墓ではない。
つまり大和には、卑弥呼の墓はどこにもない。
ではどうするのか。
もう一度、頭をガラガラポンして、
「冢≠前方後円墳」や「南≠東」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)九州は」などの、
史料事実や史料実態も元にして、考え直す以外にない。
卑弥呼って本当に記紀に登場なあ。
いや、呉王夫差の遺民の(松野氏)姫氏系図にのみ登場している。
私はずっとそれを言い続けるつもりだ。ほらここに卑弥呼はいる。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:18:09.60
高良大社は、高牟礼神という先住の神がいるが
祇園山はあきらかに素戔嗚尊系だな
0717日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:19:33.99
奈良県人よ。邪馬台国捏造に拘るな。奈良県から阿蘇山の噴火監視は無理だぞ。ばかしゃないか?近畿説の学者モドキよ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:21:20.48
>>680
>直接証明するものが出てくれば良いんだけどな

列島では、卑弥呼の名前やその一族が載っているのは、唯一、
松野氏姫氏系図だけなんだけどなあ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 21:24:24.13
>>681
考古学を全く無視しろと言ってるんじゃ無いが、
卑弥呼らや倭の五王が載っているのは、松野氏姫氏系図だけなんだけどなあ。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 22:00:22.95
>>710
>いや、呉王夫差の遺民の(松野氏)姫氏系図にのみ登場している。

偽書に頼り切る九州説
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 22:15:11.83
臥薪嘗胆で有名な夫差の没年は紀元前473年、この夫差の姓が姫
その子が日本に渡って住み着いたという伝説がある

伝説の人物が存在したとしたら、その人物は文字を知っていたはず
つまり、日本に住み着いた後に文字を使って記録することができたはずだ
その記録は残されていない

これは日本人はシュメールの子孫とかユダヤの部族の子孫とかいう類の、ブランド志向で日本の権威付けにしようという浅はかな思考の表れ
そんなものは本来必要ないどころか、イメージを自ら貶める愚行
0722日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 22:19:21.22
>>717
>奈良県人よ。邪馬台国捏造に拘るな。奈良県から阿蘇山の噴火監視は無理だぞ。ばかしゃないか?近畿説の学者モドキよ。

阿蘇山の噴火監視なんて話はどこにも無い
ばかじゃないか?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 22:51:29.76
ヒミコにも倭の五王にも名前に文字は無い
何やってんだか全く
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 23:16:54.35
>>723
なに言ってんだか意味わからないんですけど
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 23:47:34.95
>>694
宮崎説

楽浪土器がないのが近畿説
で伊都国に卑弥呼(佐賀平野)
奴国、不彌國等(筑紫平野、久留米、有明海)
投馬國(四国)
邪馬たい國(近畿)中心国でもない
復興・開拓地で国々のひとつに過ぎない

という考え方でいいんだな?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 23:51:42.46
>>730
宮崎説
山陰、山陽はどうなんだ?

畿内説と史学に向かないF氏にご用心
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/09(日) 23:53:05.66
>>731
730>>694だな。
すまん
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 01:23:28.21
あたまわるそう
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 07:07:59.63
>>717
北部九州では見えない。
北部九州ではないてこと

久留米、日田、大分からの登山でしょう。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 07:15:50.95
>>764
阿蘇山を観測してるのは後世だにゃー
魏志倭人伝で阿蘇山が出てこないにゃー
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 07:22:56.40
阿蘇も筑紫も大津も吉野も出雲も日向も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 08:51:03.00
一番の踊らされ手が 阿波もんだけどな!
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:01:58.28
>>731
>宮崎説

同時代の魏の役人らによる実地の見聞計測の記録になる魏志倭人伝を曲解する宮崎説にもご用心。

>山陰、山陽はどうなんだ?

山陰は、縄文来の出雲國の中心。
山陽は、元は出雲の支配下であったが、九州倭國の東征毛人五十五國の軍によって、半征服された倭種の地域。

史料事実、や史料実態からの帰納的確率的な推論をせず、
「皇国史観という結論先にありき」の似非史学の「嘘つき騙しの畿内」説や、
人類の常識に反した「九州と近畿の二股かけ」の似非大和説者や安本派にご用心
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:30:01.53
>>1
奥山ヨー
南→東の畿内説の根拠示さないとザラコク退治できねーぞ。
誤認の根拠もあやふやだし。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:35:33.74
>>767
>一番の踊らされ手が 阿波もんだけどな!



一番馬鹿にされてるのがスレ主だけどな
0771日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:41:28.01
>>770
畿内説に反論ができないから意味もなく馬鹿にするしか無いのが九州説の悲しい現状
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:41:29.15
>>1奥山
他スレ、荒らしただろう!
報復くらってるぞ!
奥山の他スレ荒らしは有名だぞ。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:45:07.94
>>771
あほか、九章算術も理解できん奴はすっこんでろ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:48:33.36
>>771
君が適任だ
畿内説の南→東の根拠を理路整然と
解説してくれ。スレ主では無理だ。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:57:08.36
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A: 畿内説では南は東だから、北は西なのです。畿内から見て朝鮮半島は西だから問題なし
0776日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 09:59:30.18
根拠っつーほどではないが俺もこのスレで
毛人の国を東海以北だろーとは書いた
訂正しなかったけど、意識的には東海以東が言いたかったよもちろん
日本の国土は東に行くほど北に行く気がする
つまり南に行くほど東に行くというイメージには一応なる
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:03:18.46
>>71
>纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である

あのー巫女千人や兵がいた形跡が纏向には無いのですが。。。。

0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:04:55.27
元はと言えばあの有名な三国志だ。
畿内説-九州説の二国半端論争では、絵にならん。
やはり、畿内大和説 対 九州福岡説 対 佐賀平野説の「三国三つ巴活劇」あってこそ、邪馬台国論争も本モノになる・・、
0779日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:10:29.35
>>778
分離説 
近畿(邪馬壹國)佐賀平野(卑弥呼)もある。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:14:15.31
89日本@名無史さん2022/01/07(金) 09:14:22.49
>>75
>それは、もう何度も何度も反論済みの事ばかりであり、
>それに対する再反論は全くない。

その証拠がない
多分うそ
なぜなら
>また「南≠東」や、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
>「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの論点に関するまともな反論もなく、
がうそなので

¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
奥山さん相変わらず記憶力が悪いですね
テンプレへの反論はずいぶんされてますよ。その反論へはしどろもどろで貴君は逃げてますが、、
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:15:28.40
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
これをどの場所から言ってるかだな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:19:58.63
女王の都する所=女王国(筑紫)、邪馬台国(大和)
卑弥呼の墓は祇園山古墳
0783日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:21:29.78
>>772
また嘘ばかりついているのは排泄物連続句読点かな
0784日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:28:04.84
>>779
無理 近畿の邪馬台国は無理
畿内にしたら
0785日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:28:28.93
>>730
近畿
そうだよ。
畿内説の指摘で
「佐賀平野 吉野ケ里に楽浪土器があるのでは?」
佐賀平野、調べてなかった。
今の所、見つからないので、
近畿説の辻褄がまた合ってしまった。
まだ、答えを出す早いと思うが、
佐賀平野(伊都国)に博多並みに楽浪土器の出土があれば
近畿説は間違いということはっきりする。

だいたい外国人居住区は湾岸沿いか
山里と思う。中央から離れた位置にある。
ヘボノ木も山沿い。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:32:00.87
>>783
何知らん顔してるの
前科あるじゃん。
似非スレ、似非スレと騒いでたの覚えてないのか
特許権も無いのに騒いで荒らしまくってたじゃん
0787日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:32:12.55
南と東の問題
これを仮に後世の写本の誤記とする
すると九州説の人も記述に異を唱えることはできなくなる
ここが重要
写本の写し間違えだとすればすべての人が納得できる一つの答えにたどり着く
写本の誤記は決してあり得ないことではない
いずれ写本の誤記が明確になる資料が発見されるかもしれない
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:37:01.01
こうなってくると邪馬台国の記述を軸にした場合、
倭国大乱は東征ではなく、近畿勢力の征西によることになり
ただし、王都は筑紫でなければならないという強力な異論と
倭国黎明以来のその権威が尊重されて、卑弥呼は筑紫に都したのかもしれない
したがって大倭(王)は大倭「職」にとどまる。本人達の弁解(欠史の記録?)は知らんがね
女王の出身はどこだろうな。不明だ。台与は投馬国の出身かもしれず、安芸や阿波が考えられる
0789日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:38:48.54
>>784
どうして?無理なの

なんら中心国でも、支配もしていない
復興、開拓 宗教地でいいんだよ。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:52:02.22
邪馬台国が女王の所都は陳寿の認識が間違ってるのよ
邪馬台国の女王でヤマト国の女王で倭国の女王だ 
0791日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 10:58:48.33
>>781
>東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
>これをどの場所から言ってるかだな

四国以外にあるか?   @阿波
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:00:41.49
>>791
大阪だろ、常識的に考えて
これを言ってるのは倭の五王の武だぞ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:03:00.58
>>786がうんこ荒らしの本人と自白したな
0794日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:05:07.57
>>788
卑弥呼の時代の家族は同族社会
親戚で一つの集落を形成していた
婚姻は通い婚の女系社会
現代のような家族の形態はない
子どもは共同社会で育てた

卑弥呼も台与も一つの同族社会単位に所属していた
宗女とはそういう意味

どちらも住んでいたのは邪馬台国
0795日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:08:52.61
>>787
憶測の域を出ませんね。論理的ではないですよ。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:11:48.31
>>794
王権を担う人間の人的な広がりを軽視しているな
まあ好きに語らせてくれ。満足している
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:12:25.59
>>792
>大阪だろ、常識的に考えて

大阪だったら、南(紀伊半島)の記述があるはず。   @阿波
0798日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:13:24.36
>>776
なら
この部分はテンプレを直すか削除したほうが良いですね
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:18:30.34
郡評論争に決着を付けた藤原宮跡出土木簡「上?国阿波評松里」も

「阿波」の付札(荷札)木簡という不思議な因縁である。   @阿波
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:18:45.83
阿波国観音寺遺跡出土木簡には、「評」の表記、サト「五十戸」の表記、「里」の表記、「郷」の表記、「其郷其里」の表記が見られる。

国府設置郡の評段階からの歴史的変遷(7世紀から9世紀まで)をたどれる、他に類例のない資料群なのである。    

木簡から見た阿波国の古代  2021年2月28日(日) レキシルとくしま   @阿波

―観音寺遺跡出土木簡を読む―     奈良大学 渡辺 晃宏
0802日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:20:21.73
>>789
近畿だと和歌山、兵庫、滋賀も入れるのかな、
日本側まで邪馬台国とすると魏の使いは日本海ルートでいいの
和歌山だと太平洋ルート


あれれ、陸行が抜けた
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:21:11.50
>>797
国の範囲、王の権力の及ぶ範囲を言ってるだけだから
我が国はこれだけの範囲だと言ってるだけ
0804日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:22:01.05
観音寺遺跡出土木簡の内容W―習書木簡(30点)

「習書木簡」…律令国家の支配拠点(役所。寺社を含む)との関連を強く示唆する資料

@論語(1点)
 ・木簡の時期:内容からは特定は困難だが、字形は日本の木簡に他に例を見ないほど隷書体で
  かつ稚拙な筆致(特に表裏両面)→7世紀の早い段階に遡る現存最古級の古代木簡の一つの可能性   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:25:35.63
>>802
纏向じゃ無いと思ってる人も居るし王の居た場所が転々としてたかも知れんしね
0806日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:31:06.71
倭国者古倭奴国也
この時代から近畿が中心だったと思ってるよ
正直金印の真偽は疑ってる
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:42:57.60
>>802
近畿
卑弥呼がいるのは佐賀平野
中心国でもない
復興、開拓、宗教地の邪馬壹國に行く必要性もない。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:46:20.71
なるほどね。卑弥呼の共立も、王位も、都の位置も
筑紫を重んじてのこととも思うが、誰かが言っている通りやはり遣使との関係か
太祖の帥升が自分の名前で朝貢してしまったもんだから、
天照大神の弟にされて太祖の地位も無かったことにされたか(笑)
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:49:02.45
>>806
近畿
ようするに内ゲバ
奴国派(57年金印)と邪馬壹國派(卑弥呼 親魏倭王金印)
の対立
0810日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 11:52:07.02
>>809
何言ってるのか知らんが環濠集落に金印くれるかよ
倭奴国だ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:00:27.15
>>771
九州説や古田説に反論ができないから、
意味もなく馬鹿にするしか脳が無いのが、
大和説者らの悲しい現状
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:02:39.50
>>810
意味不明
>>環濠集落に金印くれるかよ
どちらも倭奴国。

奴国派と邪馬壹國派の対立
0813日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:05:26.76
>>798
>この部分はテンプレを直すか削除したほうが良いですね

理由ねえだろ
0814日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:05:46.21
>>811
九州説

古田説は論外 消えてくれ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:07:45.65
>>810
九州派と近畿派の対立でもいいよ。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:14:56.05
>>815
言ってる意味がわからない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:15:28.48
>>816
放置でいいよ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:16:03.38
卑弥呼が即位する前は倭国大乱の時代
その前は倭国が統一されて王が立てられていた
部族国家同士が協議して対外的に強固な国を作ろうと王を立てた

卑弥呼の次の王は卑弥呼の部族とは違う出自だったろう
だが内戦となり卑弥呼の同族の台与が立てられた

この経過を振り返ると、どこにも万世一系の天皇の姿はない
つまり天皇が生まれる以前の出来事だったということになる
0819日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:19:19.40
>>798
キウスの文章は意味不明だな
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:24:06.43
>>687
>南と東の問題 これを仮に後世の写本の誤記とする
すると九州説の人も記述に異を唱えることはできなくなる ここが重要
写本の写し間違えだとすればすべての人が納得できる一つの答えにたどり着く
写本の誤記は決してあり得ないことではない
いずれ写本の誤記が明確になる資料が発見されるかもしれない

「仮に・・・とする」とか「資料が発見されるかもしれない」とか仮定や空想の論は、
始めから根拠にはならないオレオレ詐欺。
史料批判で得られた史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をすべき。
古代中国の役人らは、周髀算経や礼記に拠って東西南北を間違える事はほぼ0%であり、
倭人も、燕の南にいたり呉王夫差の遺民であったり、
出雲縄文王国が東西南北を間違えていなかったり、
日本海側に渡来して来た胡人や鮮卑らも当然東西南北を間違えないから、
いずれにしても、古代日本列島部族は、東西南北はほぼ間違えない。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:27:23.55
>>818
>この経過を振り返ると、どこにも万世一系の天皇の姿はない

「万世一系」制が確立されたのは、天武・持統時代の律令制制定に伴ったものでは?   @阿波
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:33:23.98
>>821
なので東南500里も間違わないよ。
糸島市方面は間違い
0823日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:37:15.43
>>822
>なので東南500里も間違わないよ。
>糸島市方面は間違い
 


なおもって、その前の「末盧国」も間違わない。   @阿波    
0824日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:42:10.46
>>823
当然、福津ではない
0825日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:45:40.28
>>824
>当然、福津ではない

と言いながら、福津を否定する理由も無いわけでw   @阿波  
0826日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:46:43.85
>>824
>当然、福津ではない

と言いながら、福津を否定 出来る 理由も無いわけでw   @阿波  
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:52:54.33
>>818
>卑弥呼の次の王は卑弥呼の部族とは違う出自だったろう
そうとも限らん。大和朝廷でも、皇位継承で揉めそうになれば
とりあえず女帝をってパターンも確認できる。

壬申の乱直前の大海人皇子の提案
「願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、
皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます」
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:55:24.45
>>793
荒らしたのは、うんこにへばりつくウジ虫だろ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 12:59:56.39
>>826
近畿
阿波爺

至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,
亦南北市糴
南北市糴

南北であり、東ではないので福津は残念
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:04:10.20
>>787
>南と東の問題
>これを仮に後世の写本の誤記とする
>すると九州説の人も記述に異を唱えることはできなくなる
>ここが重要
>写本の写し間違えだとすればすべての人が納得できる一つの答えにたどり着く
>写本の誤記は決してあり得ないことではない
>いずれ写本の誤記が明確になる資料が発見されるかもしれない

前提も、仮定。
論議も、仮定、
結論も、仮定
最初から最後まで仮定
0831日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:04:49.88
北部九州から畿内まで瀬戸内海で一月も方角間違うかなーーーーー
誤写は?????????????????????????????????

纏向も住居跡はわずかだし倭人伝との整合性がいまいちだしーーーーー
箸墓は前方後円墳だし、女性の墓かどうかもわからんし年代もーーーーーーー

畿内に倭国と違う文化圏があったで良いと思うがな
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:09:49.00
>>831
邪馬台国は東南の大海の中にある倭国の事だと言っとるだろ
0833日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:14:04.02
>>832
その通りだ、そしてその倭国というのが大海の中の「九州島」のことなのだ。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:14:37.78
>>831
妄想は反論になりません
0835日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:17:19.72
纏向の土壌は鉄を錆びやすくする土壌だから鉄が出土しないのは当たり前???

福岡県からは、「鉄の鏃」は398個出土している。奈良県からはわずか4個
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する
102個と1個で、これまた福岡県からは、奈良県の約100倍出土している。
刀子も、畿内より九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土しているが、奈良県では一本も出土していない。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:20:57.62
>>785
>外国人居住区は湾岸沿いか山里と思う

賛同する
飛鳥の地は百済人の移住区
邪馬台国とヤマト王権とは関係ない
0837日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:29:34.38
>>801
時代が違う
0838日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:29:50.76
>>835
いつの時代の話?
卑弥呼の生きてた頃じゃないよね
0839日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:30:26.77
いずれにしろ九州が戦地であった証拠にはなる
0840日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:33:10.51
>>790
>邪馬台国が女王の所都は陳寿の認識が間違ってるのよ

「邪馬台国」なんて存在もしなかった詐術的な文言を使ったキミが、
オレオレ詐欺の嘘吐き騙しの詐欺師なのであり、
倭人の記録は、同時代の魏の役人らの記録に拠ったものであり、
だから「陳寿の認識が間違い」にはなる筈もなく、
間違っている筈もない。

>邪馬台国の女王でヤマト国の女王で倭国の女王だ

大和説者のキミは、国民を騙そうとしているオレオレ詐欺の犯罪者だなあ。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:35:08.78
>>834
妄想じゃねーよ
事実じゃん
0842日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:36:10.99
>>839
>いずれにしろ九州が戦地であった証拠にはなる

何百年も前にな
0843日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:37:18.34
>>842
弥生時代の物なんだろ?ソレは
0844日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:39:35.70
箸墓がモモソの墓だとして、結婚した妻が一人で巨大墓に入ることってあるのか?
0845日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:39:36.54
神武天皇は卑弥呼の時代の後の存在
奈良に憧れ東征した
神武が憧れた地に君臨していたのは卑弥呼・台与の後継の王だったことだろう
0846日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:39:41.06
>>792
>東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 
これをどの場所から言ってるかだな
>大阪だろ、常識的に考えて これを言ってるのは倭の五王の武だぞ

常識的に考えても、
「南≠東」や「倭王武の名前が唯一存在する姫氏系図」などの史料実態に拠っても、
倭王武らの倭國は九州である。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:39:53.01
>>838
弥生時代   (季刊邪馬台国53号「考古学と邪馬台国」)
0848日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:40:09.64
>>831
当然さ、邪馬壹國は紛争地域ではないてこと。
邪馬壹國に武器は不要だし、邪馬壹國に
「鉄の鏃」がざくざくとかは書いていない。
出る所は、紛争地域の九州、卑弥呼が共立され九州へ
邪馬壹國は卑弥呼の都だった所(水害地域かな)
0849日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:42:21.74
お前のウンコ国では妙な婆さんが物の種をプッと吐き飛ばしてくるんだな
0850日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:43:16.43
>>847
つまり卑弥呼の生きてた時代じゃない
0851日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:43:24.45
>>846
倭の五王の武は中国人がそう言ってただけな
なんと読むのか知らんけど
0852日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:44:33.99
>>848
倭国乱で戦争してて卑弥呼も狗奴国と戦争してて
その戦争に鉄鏃を使っていると書いてあるから
「鉄の鏃」がざくざく、と同義だな。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:45:05.08
>>850
よう、詐欺師
0854日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:45:09.53
>>841
>事実じゃん

証拠は?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:46:41.44
>>853
反論ができないと罵るのはあなたが論破された証拠です
0856日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:48:38.40
滋賀や淡路島に国内最大級の鉄の工房跡があるのよ
つまり殺し合いしてる九州に武器を売ってたって事か?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:48:48.75
平原女王墓?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:49:00.85
>>806
>倭国者古倭奴国也 この時代から近畿が中心だったと思ってるよ
正直金印の真偽は疑ってる

正直、金石文という極めて信憑性も確率も高い金石文の「真偽を疑っている」という、
キミの脳神経の異常や詐術的な犯罪者性を、疑っている。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:49:47.82
>>849
意富加牟豆美命を悪く言うな
市井の人たちを幸せにするようにと、伊弉冉尊より有り難い勅命をいただいたのだ
あなたも務めて信心しなさい。外山の等彌神社にお社と授与物もある
徳島の賀茂神社でも授与物を扱っている
0860日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:50:27.04
金印も記紀も倭人伝も間違っていると主張する説=間違った説
0861日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:53:31.22
>>852
倭国乱は邪馬壹國は関係ないし
戦乱跡はないけど水害跡はある。
唐古など。

卑弥呼も狗奴国と戦争してて
その戦争に鉄鏃を使っていると書いてあるから
「鉄の鏃」がざくざく、と同義だな。
当然、九州での話。邪馬壹國での事ではない

実際に戦争があったのかも不明
魏志倭人伝では卑弥呼の死後、男王立つも
おさまらず、内ゲバで千人死傷者の記載がある

こと狗奴国との闘いで戦死者の数の記載もない
0862日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:53:34.35
九州説は倭人伝の我流読みで出来ているから、九州説同士で結論が合わないんだよね
0863日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:57:12.79
仮に金印が本物だったとしてもなんであの場所から金印だけ出てくるのよ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:57:45.12
>>807
>近畿 卑弥呼がいるのは佐賀平野 中心国でもない
復興、開拓、宗教地の邪馬壹國に行く必要性もない。

近畿は、中心國でもないし、邪馬壹國でもない。
卑弥呼が所都した可能性が最も高いのは、
世間で弥生銀座と称される比惠那珂〜須玖岡本〜大野付近。
「皆臨津搜露」に関係がない佐賀平野に行く必要性もない。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 13:59:50.34
>>848
なので、中心国でもない、卑弥呼もいない
邪馬壹國へ行く必要性もない。

なので南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
略されて復興状況 可7万戸見積と官名のみとなる。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:00:08.83
>>862
糸島・博多・宇美を共有する九州福岡説と畿内説は、意見の合う穴兄弟ww
0867日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:02:12.66
>>864
>世間で弥生銀座と称される比惠那珂〜須玖岡本〜大野付近。

糸島・博多を共有する九州福岡説と畿内説は、意見の合う穴兄弟ww
0868日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:03:51.42
>>814
大和説は、史料事実や史料実態に拠って、ほぼ99%以上バツ。
九州説でも、古田説以外は、半分バツであり、論外 
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/izumi1228.pdf
に拠って、消えてくれ
0869日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:03:52.95
平原女王墓?
0870日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:09:31.58
近畿
陸行一月は、近畿一周に掛かる日数
当時は道の整備などなく1月或いは28日を使者が1月としたかも?
倭人が1月という単位を知っていたか定かでないが
倭人でもそういう知識がある人もいると思う
それとも倭人以外からかもしれない。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:11:20.61
>>870
九州から大阪まで使者が実際歩いたんだよ
0872日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:11:51.89
>>822
>なので東南500里も間違わないよ。
糸島市方面は間違い

「皆臨津搜露」という矛盾点がある佐賀説は、半分以上バツ。
勿論、「東南陸行五百里到伊都國」も、
魏使らの「安全の原則」や、漢文の常識である順次式で受け止めれば、
佐賀方面説は、バツ。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:12:11.30
>>829
>南北であり、

その南北は、島内での南北を指している。  残念。   @阿波
0874日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:14:59.12
>>835
>鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する

畿内の鉄器も九州の鉄器も、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。   @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:17:00.34
>>871
船で来たのに?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:17:47.02
>>836
>飛鳥の地は百済人の移住区

その通り!  オンドル跡で一目瞭然。   @阿波
0877日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:18:31.09
>>875
そうだよ
瀬戸内海には入っていけないから
0878日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:20:08.89
>>845
>奈良に憧れ東征した

最悪最底辺地の奈良盆地に憧れるアホはおらん!   @阿波
0879日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:22:06.60
>>832
>邪馬台国は東南の大海の中にある倭国の事だと言っとるだろ

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
韓の東南端の釜山付近から、
釜山付近の真南は平戸島付近であり、
真東は京都であり、東南は関門海峡付であるから、
博多付近で、南南東方向だよ。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:22:25.38
>>877
淡路島に国内最大級の鉄の工房跡があるのに?
0881日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:23:38.83
>>879
倭国てのは日本だよ
0882日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:23:39.43
>>868
爺婆ばかり
エセ健康器具、食品販売、文書会場に
集まる爺婆

詐欺にご注意だな。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:24:41.73
>>880
あれはおそらく日本海側から入ってきてる
0884日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:25:03.61
神武は奈良が一番国を治める都の地としての条件が整っていたとしていた
だから東征に出発した
九州説が語るように九州に理想的な統治基盤があったとしたらはるばる奈良を目指す必要がない
ここに着目してほしい
0885日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:25:39.99
>>881
イコールなら国号を帰る必要はなかろ
0886日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:26:18.56
>>883
爆笑
0887日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:26:28.80
>>885
倭国は中国人が言ってるだけだぞ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:28:44.71
>>838
>いつの時代の話? 卑弥呼の生きてた頃じゃないよね

弥生墳丘墓の「冢」の卑弥呼は弥生末の時期であり、
「前方後円墳」の「古墳」時代は、3世紀後半半ば頃以後であり、
大和の前方後円墳は、3世紀末の庄内1の石塚などからだよ。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:29:07.66
>>886
どう考えてもそうでしょ
琵琶湖から淀川に抜けるルートの歴史は古い
0890日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:30:59.78
>>884
ねえよ。
職さがしで出稼ぎだよ。
兄さん、いい がたいしているな、
丹 堀や道路整備の仕事があるけどどう?
が事実かも?
0891日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:31:49.15
何度も言ってるけど
中国名・・・倭国
日本名・・・ヤマト国(邪馬台国)
0892日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:36:13.68
>>889
ちなみに何説?
0893日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:36:23.98
中国人の陳寿には倭国であってヤマト国ではないと認識してた
でも日本名はヤマト国で邪馬台国だから勘違いしたんだよ
0894日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:36:44.25
>>892
大阪説
0895日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:37:18.34
>>850
>つまり卑弥呼の生きてた時代じゃない

3世紀前半末の卑弥呼の墓は冢であり、
大和説者の言う「古墳時代=前方後円墳時代」の3世紀末以後ではないから。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:39:38.56
>>873
近畿
阿波爺 期待ハズレ
もっと粋な返しが欲しかった

市糴て何?
南北17km、東西15kmしかないよ。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:40:58.22
>>855
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や史料実態に、
反論ができないから罵るのは、大和説のあなたが論破された証拠です
0898日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:42:50.78
>>896
>南北17km、東西15kmしかないよ。

なにがだ?   @阿波
0899日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:43:37.74
>>856
>滋賀や淡路島に国内最大級の鉄の工房跡があるのよ
つまり殺し合いしてる九州に武器を売ってたって事か?

いや、九州倭國の「東征毛人五十五國」の軍が、
現地調達で鉄や鉄道具や鉄武器を造ったの。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:44:10.37
>>898
島の大きさ
0901日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:44:25.74
ヤマト国の王が卑弥呼なんだよ
つまり日本の王が卑弥呼
0902日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:45:53.32
>>900
どこの島だ?   @阿波
0903日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:48:20.93
>>862
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭はは九州」の否定などの、
史料事実や史料実態曲解のや否定の嘘吐き騙しの大和説は、
倭人伝の我流読みで出来ているから、
近畿内説同士でも、結論が合わないんだよね
0904日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:48:24.53
@「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。

A「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。

B「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   

C「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。     

これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0905日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:52:45.64
>>902
一大國
0906日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:55:15.18
>>836
>仮に金印が本物だったとしてもなんであの場所から金印だけ出てくるのよ

江戸初期までは、糸島の細石神社の宮司宅が秘匿保管していたが、
江戸初期に表沙汰になってしまって、宮司らが志賀島においたおいたのを、
その後で発見されてしまったらしいよ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:55:20.84
>>905
だから何だ?   @阿波
0908日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:56:22.44
>>907
0909日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:58:00.57
>>906
邪馬台国論争で盛り上がってる時にタイミング良いな
0910日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 14:58:14.33
>>829
>南北であり、

その南北は、島内での南北を指している。  残念。   @阿波
0911日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:00:45.26
>>866
>糸島・博多・宇美を共有する九州福岡説と畿内説は、意見の合う穴兄弟ww

有難う。おかげで、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説の否定が、
やり易くなった。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:05:53.82
>>910
耕田猶不足食 亦南北市糴
島内は指していない。 
對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

亦は乗船の事 残念 
0913日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:06:36.90
>>871
>九州から大阪まで使者が実際歩いたんだよ

そりゃ、1匹や2匹の嘘吐き騙しの大和説者は歩かされたかも知れないが、
神武ら東征以来、原則としては「船で渡海」などの水行をして、
安芸や吉備などで、長い日数間の休憩や兵士の補給などをしたらしい。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:09:59.24
>>912
>亦は乗船の事 残念

もちろん、島内を沿岸航行だ。   @阿波
0915日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:13:51.12
>>872
皆臨津搜露という矛盾点がないよ
魏使らの「安全の原則」や、漢文の常識である順次式で受け止めれば、
佐賀方面だよ。
まして使者である。到着時点で
倭国側からも護衛、案内人等もつく
常識を考えろ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:15:02.38
>>913
中国のデカい船がそのまま瀬戸内海に入っていくのは無理
小さな船に乗り換えても銅鏡100枚積んだら難しいかな
何より小さい船じゃ海賊が居て危険だ
0917日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:15:26.03
>>914
面白いので採用。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:18:16.29
くやしいのうw
0919日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:19:31.63
>>879
>邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり

邪馬壱国は、「邪馬台国」の関西訛り吉本芸!
0920日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:19:51.27
>>917
そもそも、対馬海峡をお手軽に航行できると考えること自体がお粗末思考。   @阿波
0921日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:22:36.67
>>884
>神武は奈良が一番国を治める都の地としての条件が整っていたとしていた

いや、神武らは、日向から五瀬命やナルタ姫や神武らを引き連れて、
一旦委奴の地に行ったが、もう自分らの活躍の場所もなく、「猶東に行かむ」として、
やむを得ずナルタ姫を残して東征に出立して行き、安芸でも吉備でも王にはなれず、
更に東征を続け、生駒山麓の「日下」で負傷した五瀬命を亡くし、
神武が率いて熊野から紀伊山地越えをして奈良盆地で戦闘し、
在地の王たちを「仲直りの宴会に招待」して、騙し討ちに皆殺しにして、
ようやく磐余付近を征服して、建国したもの。
だから東征に出発した。 
大和説が語るように、九州に理想的な統治基盤があったとしたら、
はるばる奈良を目指す必要がない
ここに着目してほしい
0922日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:23:01.26
>>911
>有難う。おかげで、
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説の否定が、、、

いい年こいて、オメは穴兄弟の意味が分かっとらんようだなww
0923日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:27:07.76
>>872
>「皆臨津搜露」という矛盾点がある佐賀説は、半分以上バツ。
>勿論、「東南陸行五百里到伊都國」も、
>佐賀方面説は、バツ。

ザラ酷は、漢字も漢文も読めない、関西吉本外れの醜い芸人ww
0924日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:28:50.03
平原女王墓?
0925日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:55:11.98
ひどいスレだ
正しいのはザラコクさんだけ
ザラコクさんに感謝
0926日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 15:57:39.27
>>925
揶揄としちゃ面白いな
0927日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:03:01.77
>>925
>ひどいスレだ
正しいのはザラコクさんだけ
ザラコクさんに感謝

有難う、御座います。
しかし、
「ERROR: 余所でやってください。[history](MP)
問い合わせID: lav/6cb404fd3f64833e
ホスト:p1329168-ipngn200710kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>925
>ひどいスレだ
正しいのはザラコクさんだけ
ザラコクさんに感謝

有難う、ございます。」

という掲示が出ましたね。この掲示が出ると、これまでもかなり長い間、
投稿掲載拒否をされた、という経験が何度もありましたね。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:07:30.83
今日はスレ主の哀れさがよく出てるな
何回アホな投稿してるんだよ
0929日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:08:23.10
>>928
どれがスレ主?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:14:08.24
>>925
皮肉か?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:15:51.66
>>920
当然だな。時期も選ばないと
0932日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:22:40.05
>>921
ヤマト王権は邪馬台国と関係ないけどな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:24:16.24
>>891
うーーん
倭国=邪馬台国
うーーん
0934日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:27:22.80
>>929
気にしいの、おまえの事じゃねーの
わざわざ投稿しなくていいのに 残念
0935日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:29:34.82
>>933
だから邪馬台国への行程はヤマトつまり日本への行程なのに陳寿はそこ勘違いしたのよ
こう考えれば綺麗に辻褄が合うでしょ
0936日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:31:17.12
平原女王墓?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:33:55.90
倭は日本での読みはヤマトだし日本の読みもヤマト
0938日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:38:49.10
>>935
だったら対島も邪馬台国でいいの
他の国名で記述されてるが

30国合わせて邪馬台国ということなのか
0939日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:39:04.85
問題になるのは邪馬壹國なのか邪馬臺国なのか邪靡堆なのかわからんが
この言葉がヤマトなのかどうか
0940日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:40:06.76
邪摩惟だろボケ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:40:53.93
>30国合わせて邪馬台国ということなのか

九州の30国ね
0942日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:41:19.96
>>938
そういう事
倭国を意味するのが邪馬台国
中国名倭国で日本名邪馬台国
0943日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:42:57.55
だよな九州
0944日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:46:42.81
>>937
日本ってヤマトって読むって何処で調べた
著名な学者名あげろよ
0945日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:47:41.34
>>944
日本武尊は何と読むんだ?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:48:03.08
日本はにっぽんだろ

百歩譲って大和ならヤマト
0947日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:48:33.88
平原女王墓?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:51:23.70
日本武尊=倭建命=ヤマトタケルノミコト
0949日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:54:37.64
>>945
ひのもと・・・ぶそん??
0950日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:55:27.17
>>947
世有王、伊都国は代々王がいたから王墓が当然出てくる
邪馬台国時代は分からない。どっちとも取れるよね王家が存続しているかどうか
仲哀期に出てくる日矛裔の伊都県主との関係はどうなのかも
怡土地域に出てくる王墓は基本的に伊都王家のものであり、
共立された卑弥呼のものも含まれるのかどうか、判断する材料がない
0951日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 16:59:11.30
伊都国王は、何に統属したのだね?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:03:40.86
>>891
>何度も言ってるけど
>中国名・・・倭国
>日本名・・・ヤマト国(邪馬台国)

何度も言ってるんだが、
邪馬台国・・・ 邪馬台国、共立前の女王国(王は女王、後漢書によれば大倭王)
倭 国・・・ 共立前は倭の30国(王は、男子を以て王と為し・・)、共立後は女王国(王は、倭女王、倭王、親魏倭王)
0953日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:06:30.39
よくわからんが、
伊都国王というのは、女王卑弥呼には従ってたけど、
その前の男王には従ってなかった、ということか?

だとしたら、倭国王の男王時代は、伊都国王は別に独立していた?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:07:03.64
>>950
伊都国は、佐賀市大和町川上(現在発掘中の七が瀬遺跡が、その一部)
0955日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:07:58.42
平原女王墓?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:08:08.61
>>924
平原は遺物から女性の墓が有力
箸墓は不明だがお宝は見つからないと思うな
遺物から文明は圧倒的に九州が進んでいたようだ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:09:02.31
>>954
なるほど!!

倭国女王卑弥呼が平原で、
七が瀬遺跡の伊都国王が統属されていたんだな!

スッキリ!!
0958日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:09:03.05
>>957
>だとしたら、倭国王の男王時代は、伊都国王は別に独立していた?

伊都国は有ったかなかったか不明、もしかしてなかったのかも。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:10:29.90
>>958
伊都国はあっただろうが、
佐賀市大和町川上には無かっただろうなw
0960日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:10:37.71
>>952
混乱するだろうが倭国とか倭種とか分けてるのは陳寿が無知なだけだから
始皇帝の時代徐福が日本に来てるけど倭国とか倭種の国とか分けてたと思う?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:11:02.70
>>957
方角と里数が、てんで合わない
0962日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:11:30.37
倭国(弥生人)とか倭種(弥生人+縄文人)の国とか分けてたと思うね
0963日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:12:45.58
>>961
なんで?
方角と里数で、七が瀬遺跡が伊都国王
日程で、平原遺跡が卑弥呼だよ
0964日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:13:42.98
>>959
書いてないのに、時代違いの男王のころを詮索するのは無駄骨、ゴクローサン
0965日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:15:46.12
>>963
方角里数は勿論、日程でも、平原はてんで合わないあさって・・、
0966日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:16:05.77
>>964
卑弥呼と同じ国の倭国乱前の男王、と明記されてるよ

その男王には伊都国王は従ってなかったんだ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:16:07.54
>>945
時代考証がなっていないよ
『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:17:28.03
平原女王墓?
0969日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:19:10.59
>>967
何が言いたいのかわからんが卑弥呼の時代に文字はないよ
後の時代とは言え何故ヤマトにこの文字をあてたのかって事
0970日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:19:18.99
>>965
日数で表記された距離だよ
陸行一月で40キロくらい
水行一月は500キロぐらい

スレ主に聞いてくれ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:20:23.01
>本来の天石門別八倉比賣神社は神山の上一宮大粟神社でしょうしね。


そこは「卑彌呼」が隠棲していたところだな。

一方、「天石門別八倉比賣神社」から見下ろす「矢野の庄」が王都だ。   @阿波

 
0972日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:21:28.11
>>966
>その男王には伊都国王は従ってなかったんだ

統属女王国であるから、卑弥呼が女王になる前の時代のことはワカランが正解だろ
0973日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:21:34.56
>>969
硯があんだけ出土してるから、お前は☓
0974日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:22:00.26
JAPAN ジャパン が外来語だから、ニッポンにしようって人がいるが、
ニッポンもおかしくね?

音読みで、日 ニチ 本 ホン だろ
訓読みだと、日 ひ 本 もと だから
ニッポンだと、結局は漢語系の外来語

だから
日本 ひのもの が正解で、聖徳太子だよ。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:23:11.70
イミフだが
FAQ78
>A:日数で表記された距離は「道里」に該当する

だってさ「日数で表記された距離」がようわからん
速さによっても距離は違うし、宿泊日数によっても距離は違うし
同じ日数でも距離はまちまちじゃねーか
0976日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:26:16.03
里数でずっときて、日数に置き換わるのに、繋げて読む強靭な精神
0977日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:28:21.38
んで、70−802年の男王の時代には、伊都国王は倭王に従ってなかったんだな?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:29:36.18
日本の呼称は昔から日本と書いてひのもとやぞ

それ以外、自称したことはない

にほんと読みだしたのは近世だぞ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:32:26.73
日本と書いてにちほんとも読むからな

これは音読みからや

音読みの使い手なんて昔は中国関係者くらいしかおらんわ
0980日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:32:56.88
>>978
文字がないから日本とは書かない
あったとすればヒノモトと言う言葉
0981日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:33:12.21
>にほんと読みだしたのは近世だぞ
日本国王良懐は何と読む
0982日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:33:54.73
>>980
硯があんだけ出土してるから、お前は☓
0983日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:35:30.20
文字があるから金印貰えたんだろ
いつまで旧世界にしがみついてんだ脳みそアップデートしろやw
0984日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:36:55.40
982
言葉は通じなかったんだよ
知ってる漢字を書いてのやり取りで意味を理解した
言っとくが日本には中国人らおらんのやぞ
0985太国 ◆ZgyHKik.H2
垢版 |
2022/01/10(月) 17:41:48.33
徐福は来日してるな。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:45:04.23
>>954
近畿
当然
佐賀県「與止姫伝説」
與止日女神社
0987日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:49:32.46
>>984
日本全国は知らんが
伊都には楽浪人がおったな
0988日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:51:55.89
>>987
そんな事書いてないじゃん
使者が必ず立ち寄ると書いてるだけだ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:55:50.27
>>980
>文字がないから日本とは書かない

初出は678年の金石文
当然ながら中国語読み
0990日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 17:56:51.43
>>988
楽浪土器がセットで出てるから住んでるやつがいた
0991日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:01:13.12
>>990
近畿
どこだよ。
佐賀平野で楽浪土器、ざくざく出る所
探しているんだが?
0992日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:03:12.02
>>991
そんな場所ないから、平原遺跡に行って土下座してこい
0993日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:03:55.84
箸墓古墳のミューオン透視はどうなったんだ?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:06:43.61
平原女王墓?
0995日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:08:07.41
近畿説いうてるけど、卑弥呼の都も墓もなーんも示さず、
ただモわっというとるだけの説未満だからな
0996日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:09:06.75
>>990
楽浪土器がセットで出てるから、公孫氏の楽浪郡関係者棲んでたかもしれないが、
だからそこが伊都国だったとは言えない。
「陳寿が書いてる伊都国」は、漢王朝直属の帯方郡太守のもとの役人が来るところ、時代が違う。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:11:02.09
リアル蟷螂の斧
0998日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:11:50.05
>>995
まあそういう事だ
現時点で該当する物が何処にもないから無理矢理当てはめても意味無いでしょ
0999日本@名無史さん
垢版 |
2022/01/10(月) 18:13:29.70
>>991
だからよ、楽浪郡城は一時代前のピョンヤンで、楽浪土器も時代がかなり前だ。
陳寿が書いてる「伊都国」は、漢王朝直属の帯方郡太守のもとの役人が来るところだ、帯方土器を探せ。
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