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>纏向は卑弥呼の時代、3世紀初めに突然現れたわが国で初めての計画的な都市

その「3世紀初め」という年代主張そのものが間違いであり、失敗である。
大和説学者らの「放射炭素年代測定」は、AMS法でのプラズマ化をしているが、
そのプラズマ化をした時間帯の間には、外周電子が失われて、
炭素原子核の裸状態の「場の不安定化」を造ってしまっていて、
だから、原子核内での、
失われた電子分に相当する電子を放出(ベータ崩壊)をして、
電磁場的安定状態にしよう、とする相互作用反応が起き、
そのために、本来その原子が持っていたベータ崩壊数よりも沢山のベータ崩壊を計測してしまって、
本来の年代よりもずっと古い年次を計測してしまう事になる欠陥計測であったんですよ。
どれくらい古い年代を計測してしまったのか?は、その計測装置の能力にもよりますが、
大体、1700年位前のものなら、50〜100年位古く出る、
というバラつきの範囲位のようです。
だから、「3世紀初め」というのは「3世紀後半から4世紀」になり、
だから、卑弥呼の時代から大きく外れるんですよ。
また、「卑弥呼の冢≠前方後円墳」によっても、前方後円墳は、
壹與の時の西晋武帝の「天円地方」の埋葬思想教育の後ですから、
卑弥呼の墓や平原1号の壹與の墓よりもずっと後になり、
筑紫の那珂八幡などが3世紀後半半ば過ぎ頃で、
大和の庄内1の石塚は、那珂八幡の進化型ですから、3世紀末になり、
布留1の箸墓は4世紀になります。