足利高氏と新田義貞の鎌倉攻めは打ち合わせしてた?
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新田義貞が立ったのは、役人斬ったからって思ってたけど、違うの? 千寿王が合流したんだし連携はあったとみるのが最近の定説になりつつあるね 関東で挙兵して鎌倉を攻めるには、新田は武士団として小さすぎる
守邦親王も脱出させて旗印にして、広範に武士を集めるとかならわかるけどね
やっぱり使者の御内人を斬ってしまったのが直接の原因では? >>3
新田一族結集させれば、それなりの軍団にはなるのでは? 核となるべき新田宗家が小物では兵は集まらんだろ
当時の新田は足利一族という認識だった 途中越後の新田一族が合流して、5千くらいになったのでは? 新田義貞が挙兵したとき300騎、雑兵も入れて1000人くらいだったからね
仮に数千人くらいに増やしても、討伐されればふつうに負ける
分倍河原合戦で10万にもなった(数字に誇張はある可能性あり)のは結果論であって
最初からそこまで集められる見通しはなかった >>7
頼朝の挙兵と同じで、挙兵すれば周りもついてきてくれるって読みはあったんでないの
まあ本当についてきてくれるかどうかは運だが 当時、新田一族は、足利家の分家扱いだった。
ちなみに、室町時代、新田義重の男系子孫たちも、
足利一門の中に入れられていた。 >>8
最近の研究では、源頼朝も北条時政も決して成算があったわけではなく、かなり追い込まれての挙兵だったらしい
源頼政の反乱の失敗の後、頼政一族と親密な関係にあった北条時政は窮地に立った
挙兵失敗の後、結果として味方を集めるのに成功し、鎌倉政権樹立まで行ったらしい >>9
里見と山名は新田系だけど早くから頼朝に接近していたから新田宗家が弱体する遠因にもなったんだよね
足利義兼が頼朝と結束していたから山名里見も当然足利と親しくなるわな 足利の子分だったのに、勝手に対抗馬にまで祭り上げられて
けっきょく子孫は族滅とか報われないよな 子孫じゃないけど自称新田源氏が次の幕府開いたし、明治時代には正一位を贈られたりしてるからセーフ >>14-15
一応、青史に名を刻んだから結果オーライかな
死に方間違えて「犬死に」言われたけど >>17
従兄弟なんだよな
九郎義経と山下(山本)義経も同時代にいた二人の源義経
だから同一人物説も唱えられたことがあった >>13
気にしていたと言うか、目の敵にしていたと言うか…w
新田義重の娘(祥寿姫)は頼朝の庶兄の悪源太義平の室だったが、義平の死後未亡人になっていた彼女に
今度は頼朝が求婚している。
普通ならそこで側室にでも納まっていただろうが、政子という狂的なまでに嫉妬深い恐妻がそれを許さなかった。
義重は政子の怒りを恐れて姫をさっさと別の男に嫁がせたが、逆にそれが頼朝の不興を買い、
新田家が冷遇される原因になっている。 しかし新田の姫も義平の妻だったんだから頼朝より数歳年上だろ
政子を恐れる頃の頼朝はすでに不惑の年代に近いから当時ならもうババアの域だ >>20
新田の嫁が来たら家柄的にそっちが正室、政子は側室格下げだろう 吉川弘文館、対決の東国史シリーズB「足利氏と新田氏」(田中大喜氏著、2200円)に全部書いてあります。 >>17 >>19
12世紀初頭には同時期に藤原実兼が北家と南家で2人いる。
なお北家の方は閑院流(公実の子)で、弟(?)の子孫にやはり実兼(西園寺実兼)がいる 昔の人は諱で呼ぶことはなかったから、姓名同じでもさほど困らなかったかも知れないね
今同じ職場に同姓同名の人がいたらかなり混乱する 日本ハムファイターズにいた二人の田中幸雄は先輩が「ゆき」で後輩が「こゆき」だったの思い出したわ
スコアブックの区別は田中幸と田中雄 知人に大内義孝、義尊親子みたいに漢字は違うが読み方が同じ親子がいたな 足利も新田も行き当たりばったりだと思う。
成功したからなんか計画したように思えるけど、
九州や中国地方では失敗してるやつもいるし。 足利の倒幕旗揚げは
新田に伝えてあっただろ
新田があのタイミングで
旗揚げは、多分足利にとって
も意外だったのでは。
以上私見ですが 新田が鎌倉攻めの実質的な総大将だったから
足利の一族の中でもかなり地位が高い方だったのでは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています