ここらで【阿波の真実】とやらをまとめておくか。
A=現・八倉比売神社 B=現・大御和神社

Aは、神体山を持つ、式内社・大御和神社であった。祭神は大己貴命。〈大日本地名辞書〉
大御和と言う全国的に珍妙な漢字の使用は出雲国造家との関係が伺える。〈出雲国造神賀詞〉
それから数百年後Aは、高天原が阿波国であったとする捏造を企み祭神の大己貴命からみて伯母にあたる天照大神の出身地を阿波に偽るために伊勢伯母宮を作成。そして、時は流れたがその祠が一つ程度では歴史が改変される訳もない。
寛保年間(1741年-)ごろから杉尾大明神と称していたAは、一宮氏の台頭で祭祀が途絶えていた八倉比売に祭神を変更。
AとBの協議があったのであろうB(印鑰大明神社・祭神は弁財天十五童子の印鑰童子)〈玉牆神路巻〉は、式内・大御和神社を自称。印鑰童子を抹消し、国司の印鑰を保管したと言うの由緒を捏造。
伯母宮はAとBの共同管理となったのではないだろうか。〈阿波志、隣村共祀〜〉
1773年偽書「御本紀」の作成。八倉比売を天照大神の別名に仕立て上げ正五角形の石積みの祭壇なども作成し用意周到。
このタイミングあたりで阿波志の調査。(1790年〜)
まんまと、Aは天石門別八倉比売神社の式内認定。Bも同様に大御和神社の式内認定。(おそらくAは上一宮が大宜都比売を祭神としていたため競合がなくBも競合がなかったため)阿波志がBの調査に対してわざわざ記す必要のない「印鑰童子に非ず」としたのは神社側の主張であろう。
伯母宮は、邪魔な存在となり倭健命の伯母「倭姫命」にすり替えた後に近くの八幡宮へ合祀。〈阿波國名東郡村誌〉
1831年御本紀解説本「杉の小山の記」千家俊信(第七十六代出雲国造千家俊秀の弟)が発表。
Aは、明治3年(1870年)・杉尾大明神より現在社号に改号。祭神を大日孁女命に変更もこのころか?
式内大社の論社であるにかかわらず名神大社と表示するなど捏造のかぎりを尽くし現在に至り邪馬台国阿波説の根拠の一つとなる。
また、Bの捏造由緒「四十二代 文武天皇 大宝二年(七〇二年)、當国国司 国璽の印...云々」は敏エナージ(岸本 敏広)によって、「この閤宮(こうのみや)より国印と国庫の鍵を差し上げしより」とさらに捏造され日本国国印が阿波より持ち出されたとし王都阿波説の証拠の一つになっている。