邪馬台国畿内説 Part767
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1645120906/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし スレ主も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの
史料事実や史料実態を無視したり、曲解捏造の嘘吐き騙しをする、
皇国史観宗教での結論先にありきの、一種の・・・・アホ詐欺師。 マスコミさん、何だか、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に関する大和説者らの反論が、
止まってしまったようですよ。
スレ主はまだ、知らん振りして、大和説の貼り付けを続行しているようですが、
マスコミさん、このような実態を、報道してくれませんかね?。 >>100
>まあ、邪馬台国は復興。開拓、宗教地
まあ邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を持ち出した限り、
この男も詐欺師にしかならんな。
>弥生後期から急に鉄器等が増えだす地域が邪馬台国。
大和で鉄器が急に増え出すのが、3世紀最末〜4世紀のホケノの鉄鏃からであるから、
この大和説男はウソをついており、バツ。
>不彌國から南至投馬國水行二十日至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
と遠方である。
いや、
不彌國とそのすぐ南の邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっている記載であるから、
この男は嘘つき騙しの詐欺師であり、
それを「遠方」と言い換えて大和説を主張しようとしているが、
それも「南≠東」などに拠って、バツ。
>卑奴母離がないので紛争地域でもない。鉄鏃の野ざらし出土がほとんどない地域
が邪馬台国、可7万戸は実際ではなく 7万戸可能と見積もり
意味不明な無意味な文。知能がおかしい事がすぐ判る。
>邪馬台国の定義が各説 違うだけだな。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった文言を使用した限り、
この男は史料事実の曲解捏造のウソつき騙しの詐欺師である事になる。 >>80
>3世紀最末〜4世紀のホケノの
だから九州説さん、そういう嘘をいくら連呼しても九州説の評判が落ちるだけだから 九州説がどんだけダメか自己申告するスレだな、ここは >>80
古田ぺーテン嘘定義
南は南だよ。
なんで「南≠東」とか勝手変えるんだ。
ぺーテンは、東南を北東だろ。
ホケノは、埋めただけだよ。
宗教地だ。野ざらしにしない。
同時期に鉄器を作ったんじゃないよ。 九州説のお爺ちゃんたちが学校に上がってた時とは時代が違うんだろうね
今は昔と違っていろんなことがわかってるから
お爺ちゃんたちは孫らが学校で習ってる本当の日本史と全然違うこと言ってて恥ずかしくないんだろうかね しかし
投馬国、邪馬台国に卑奴母離がない理由は?
また、邪馬台国に官に序列を表す副がない理由は?
各説、どう考える? 近畿説としては、近畿、東海、若狭あたりの
共同事業、共立された卑弥呼が九州へ
紛争おさまり安定化で鉄が増える。
女王之所都だけど倭国の都ではないと思うな。
無論、支配するとかは大和政権ができるまではない。 >>86
>女王之所都だけど倭国の都ではないと思うな。
それ、自己矛盾 久しぶりにテンプレを読んだが
>22の「対馬海峡の距離で里を判断するのは
江戸時代でも対馬海峡の距離がいい加減だから使えない」という反論はおかしい
そもそも日本人の認識ではなく、中国人の認識が問題で
日本人の資料を出してもしょうがない
また海峡の距離の記述がいい加減だとしても
「対馬・壱岐の面積から割り出す」が否定されてる説明にならない
後世でも海路の距離感はおかしいこともあるかもしれないが
陸路の距離感までいい加減だったら伊能忠敬が地図を作れない
「陸路の距離の精度と海路の距離の精度が同程度」という主張はおかしい >>88
>江戸時代でも対馬海峡の距離がいい加減だから使えない」という反論はおかしい
おかしい理由を言わないのはおかしい テンプレ>15
畿内周辺部を考慮しても7万戸は多すぎやろ
弥生時代の日本の人口が約60万人=1戸5人として12万戸だから
畿内周辺に当時の日本の人口の過半数もあるはずがない
行程論で「倭人伝は距離・方角がいい加減」としてるのに
「戸数もいい加減」という結論に、なんでならないのか理解できない >>87
なんで?倭国、女王国の都でなく
女王之所都だよ。
其國本亦以男子爲王,住七八十年,
倭國亂,相攻伐歷年,
乃共立一女子爲王 テンプレを読み直してみたが、以下の理由から畿内説成立の根拠は
十分に示されてないと思う
・博多が畿内の中心の政治連合の傘下である根拠が示されてない
「畿内式の土器・古墳が博多にあると畿内傘下になる」というなら
百済式の寺を作った飛鳥時代の日本は百済の傘下になる
・「糸島は畿内勢力の監督下にあった」という主張はあるが
壱岐・対馬・朝鮮南岸まで畿内の支配下にあった根拠が示されてない
魏志倭人伝に邪馬台国の支配はこれらまで及んでいたように書いてあるから
そこを証明しないと畿内説は成り立たない
・古墳が平地から作られた証拠が示されていない
既存の丘から作られたら「巨大古墳=大国があった証拠」にならない 飛鳥時代、坊主は日本を支配していないので
首長の墓である古墳とはまったく違う >>94
飛鳥時代の寺を作ったのは権力者だろ?
だから古墳が衰退するわけだしな
www.city.shijonawate.lg.jp/site/bunkazai-shiseki/1957.html
有力者たちは大きな古墳に代わって荘厳な寺院を建てるようになりました。 >>95
>有力者たちは大きな古墳に代わって荘厳な寺院を建てるようになりました。
古墳と同じように、寺院も「阿波」から始まった。 @阿波 でも重要な点は「寺が古墳より価値がある」とみなされた所だよな
そうだとすると動員された労働力も「寺>古墳」になるはずだ
ところが「平地から古墳を作った」という前提の大林組の試算だと
東大寺より仁徳天皇陵の方が労働力がかかっているという
古墳時代の日本と、奈良時代の日本とでは
国力は奈良時代の方が上と思うが、
それなのに古墳時代に奈良時代を超える事業ができるだろうか?
やはり「平地から古墳を作った」という仮定が間違っているのではないか?
・東大寺建造の労働力(東大寺要録)
https://towa-seisakusho.com/尾根や谷を削って作られた東大寺の敷地/
延べ2,603,638人
・仁徳天皇陵建造の労働力(大林組の試算)
http://www.mozu-furuichi.jp/jp/learn/variation.html
延べ 6,807,000 人 >>95
>飛鳥時代の寺を作ったのは権力者だろ?
ご先祖様の墓じゃないからね
寺はハイカラな最新技術でいい >>97
>でも重要な点は「寺が古墳より価値がある」とみなされた所だよな
時代が違うし政体も違うので
ナンセンスな比較 >>93
テンプレは無視でよい
アホのキナイコシが作っただけの駄作
ご都合主義満載 >>100
古墳は7世紀になっても作られたのを知らないの?
つまり寺と古墳が並行して作られた時代はあった
それで古墳が消えた以上、両者は比較されたんだ 難波から纏向まで陸行一月もかからないよ。
各説 行程の日数は無視でいいんでねーの
方位はそういうわけにいかんから畿内説は✖
方位
一番太陽が高く昇る方向が真南。。。。影の長さでもわかる
北極星は北の空
畿内説は無理
唐津近辺からの東南は向かった方向だから問題なし
1,北東の陸行が成り立たない、、、、海にドボン
2,内陸部は草木深く前を見る人も見えない、、、ここでの方位確認は無理、案内人に着いていくしかない それで、新興豪族の豪華な寺との対抗上、
過去の由緒ある古墳の上には神社をおっ立て始めたわけだ。 >>104
>各説 行程の日数は無視でいいんでねーの
「魏志倭人伝」の行程にあうのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>103
古墳作りは倭人の文化、、、これは畿内に限ったことでは無い
前方後円墳は勢力の拡大では無く、流行とみるべき。だから全国各地にある。
寺は倭人と渡来人の連合体が邪馬台国と関係ない畿内を制圧後作られらた
た >◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
あきらめたほうが良い。柱が細いし、基礎もやぐい。宮殿でなく斎場か、古墳造営の飯場 >>104
2,内陸部は草木深く前を見る人も見えない、、、ここでの方位確認は無理、案内人に着いていくしかない
ここが間違い
>>方位確認は無理、案内人に着いていくしかない
創作である。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之
でみえる場所に出ている。現 糸島市・博多方面にはいかない。 地理や星には疎いんだがウクライナから北極星みても北だろ? >◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
君の主張だと畿内説にも優位に働かないからテンプレから除外したほうが良い >>110
しらんよ、
倭人伝に書いてあるからしょうがないよ
草木茂盛 行不見前人
東南陸行五百里到伊都國
各説 ここは正しい、ここは間違いなんてやってたら邪馬台国がいくつあっても足らんよ >>110
好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之
これはね、海岸の様子なの
陸行が海岸沿いは無理、地図見てみなさい
過去、誰かも解説していた
また、海岸沿いに行くなら、船を使うでしょう。
しかし陸行なんだよねーーーー残念でした >>116
>>過去、誰かも解説していた
手前みそ 意味のない解説な
>>海岸沿いに行くなら?
別に海岸沿いに行くとは書いていない。 >>115
正しいと言っているがな。
「現 糸島市・博多方面にはいかない」と書いているだけだよ。 第三次世界大戦が勃発する可能性が、高まっているのでは、ないのかな。 >>119
完全に引き籠もっている>>1奧山氏の、あまり、広くも清潔でもない部屋にも、核兵器を運搬するためのミサイルが、命中する可能性が、高まってきたね。 >>1
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>1
つまり、畿内説と共通である
伊都国 糸島市近辺も完全に破綻してしまったのだね。 奧山氏が出現し、意見を発表したのだろうか、、、
122 名前:日本@名無史さん 2022/03/04(金) 09:42:50.78
>>1
つまり、畿内説と共通である
伊都国 糸島市近辺も完全に破綻してしまったのだね。 >>123
僕達の意見では、魏志倭人伝で紹介された伊都の本部は、伊万里市の最も内陸部なのだったな。 >>124
貴方は、真実を、発表してしまいましたね。 >>120
ロシアの軍勢が、世界で3番目の規模の原子力発電所を攻撃し、悲惨な事故に発展してしまう可能性の高い火災が、出現したよ。 >>101
>テンプレは無視でよい
反論ができないので逃げるばかりw
そんなテイタラクだから
「畿内説は◯◯◯が説明できない」とか嘘をついて再三恥をがくことになる
九州説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ >>126
2013年に邪馬台国畿内説が、完全に破綻したようにして、ウクライナ国やロシア国が、完全に破綻してしまうのだろうか。 2013年に完全に破綻した、邪馬台国畿内説を宣伝することで、スレッドを活発にしようとしている朝鮮民族のプロ固定、>>1奥山氏が投稿した可能性が、高いな。
127日本@名無史さん2022/03/04(金) 10:27:25.98
>>101
>テンプレは無視でよい
反論ができないので逃げるばかりw
そんなテイタラクだから
「畿内説は◯◯◯が説明できない」とか嘘をついて再三恥をがくことになる
九州説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ >>128
合戦を食い止めるためには、人類全体への愛情の力が、必要なのではないのかな。 >>130
貴方は、良い意見を、発表しましたね。
僕達は、「完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している>>1奥山氏が、実は、朝鮮民族なのだ。」という理由で、人類の一員でもある>>1奥山氏を憎んではならないのだったな。 >>124
当然、九州上陸の千里は短いから
伊万里もありうる。そっち系統も考えているが
当時、実際にどういう地形か、どういう遺跡があるのか?
あと雲仙等の火山活動もどうなんだろう? >>130
愛でなく、交配だろうな。
まだまだそれぞれの民族の血が濃い。 楠、かるの伝説やな
この辺も大事な話になりそうだ
ひるこ、スクナヒコナの船、石楠船、かるの、仁徳天皇関係、聖徳太子
記紀編纂した勢力はひるこや楠は矮小化したい意図があったのは間違い無さそうだが >>135
奧山氏は、完全に破綻した邪馬台国畿内説のスレッドに、テンプレートを貼り付けるために人生を費やしてきたので、異性との愛情が高まらず、交配できなかった可能性があるよ。 負け組九州説が反論を諦めて呪詛に専念して
そりゃもう悲惨なことになってるな 聖徳太子の母は楠だな
諱が軽は孝徳天皇も何か関係があるのかもねえ >>137
優しい貴方は、完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している>>1奥山氏を、心配しているのだね。 >>115
>各説 ここは正しい、ここは間違いなんてやってたら邪馬台国がいくつあっても足らんよ
倭人伝だけ読んであれこれ言うとか無精で無謀なことを考えるから当然の結果だ 完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している>>1奥山氏は、新型コロナウイルスに対応するワクチンを、何回、注射して貰ったのだろうか。 >>145
貴方は、3回目の注射の後、それまでには出現しなかった幾つかの副作用に、苦しめられたのだったね。 テンプレ>45によると「纒向以降も畿内政権の都が畿内にある」みたいに
畿内説は考えているみたいだが
その証拠が今の所、見つかっていないらしい
畿内説的にも纒向〜飛鳥京の間の
畿内政権の都が明確に示されていない
本当にあるのか?
纒向が畿内政権の都としても
飛鳥京の大和政権とは連続性がない可能性が高そうだし
「纒向以降の都がないなら纒向も都ではない」とも言えそうだ 謎の人物が、出現し、奥山氏に討論を仕掛けたのだろうか。。。
147日本@名無史さん2022/03/04(金) 14:00:45.49
テンプレ>45によると「纒向以降も畿内政権の都が畿内にある」みたいに
畿内説は考えているみたいだが
その証拠が今の所、見つかっていないらしい
畿内説的にも纒向〜飛鳥京の間の
畿内政権の都が明確に示されていない
本当にあるのか?
纒向が畿内政権の都としても
飛鳥京の大和政権とは連続性がない可能性が高そうだし
「纒向以降の都がないなら纒向も都ではない」とも言えそうだ >>146
邪馬台国畿内説が、3回目の発掘研究の後、それまでには出現しなかった幾つかの真実に、苦しめられたことに似ているね。 大足姫と竹内宿禰が九州で熊襲を討伐した頃、河内にも熊楠王みたいな熊の王がいたんじゃないの?
本当の仲哀天皇? >>117
>別に海岸沿いに行くとは書いていない
よくわかってるじゃん
だから、最初は東南にむかったでいいじゃん
畿内説の主流も末盧國や伊都国の比定地は他説とさほど変わらんじゃん >>115
>各説 ここは正しい、ここは間違いなんてやってたら邪馬台国がいくつあっても足らんよ
正論 畿内説はヒドイ 大足姫と竹内宿禰、九州南部の勢力に、熊襲だけでなく畿内の熊楠王も倒されてバラバラにされ楠の姫だけ残されたのかもねえ
4世紀後半の出来事
妄想が膨らむねえ >>127
九章算術も理解できない奴がほざくなよww >>137
奥山氏は畿内説の人にも相手にされていないので、ここで発表してるのではないかな。
ここでも相手にされてないようだ。 >>141
基本を知らないボケ
倭人伝が無ければ邪馬台国も無いのだよ
倭人伝重視は基本中の基本 >>156
畿内説は倭人伝を畿内説に優位なように編集し直してるのではないのかな。似非倭人伝作り得意のようだ >>156
>倭人伝が無ければ邪馬台国も無いのだよ
基本を全く知らない白地男
倭人伝に邪馬台国とか書いてない >>148
>謎の人物が、出現し、奥山氏に討論を仕掛けたのだろうか。。。
頭が悪い人間は討論を仕掛けるのは無理だし
そもそも会話のできない人間に討論は無理だ
だって、全く根拠も理由も説明できてない
「考えてるみたいだが」とか「可能性が高そうだ」とかさ
つまり典型的な九州ってこと 歴史雑誌の歴史人に珍説が書かれていると思ったら筆者はアホの高島忠平だった。 >>162
昔はミスター吉野ヶ里と呼ばれたそうだが
今はミスった吉野ヶ里と呼ばれてるらしい >>161
>
頭が悪い人間は討論を仕掛けるのは無理だし
そもそも会話のできない人間に討論は無理だ
だって、全く根拠も理由も説明できてない
「考えてるみたいだが」とか「可能性が高そうだ」とかさ
奥山そのもんじゃん。南→東もろくに説明できないじゃん 九州説は真面目すぎる。
畿内説みたいに都合の悪いところは「誤認」「誤写」、、、で片付ければよいと思うよ
記述に基づく物証は圧倒的に九州が有利なんだから
所詮、畿内説は後世の記紀神話やヤマト王権頼り。
武器等の発掘物は西のほうが文明的に優れてる。力任せの古墳作りは得意のようだが。
ヤマト王権は西の勢力が渡来人と組んで畿内を制圧したのが始まり >>158
あほか
じゃあ ここは何のスレなんだよ
スレタイ思いっきり邪馬台国じゃん 大足姫の子は誰か、父は誰かということやね
竹内宿禰と共に生きた大足姫
竹内宿禰の子と名前を交換したサザキとミミヅクのエピソード
サザキの妻に日向の牛諸井の娘、髪長姫
大足姫の旦那は投馬国のミミ、ミミナリの子孫かもなあ
空想が広がる
4世紀後半の大足姫と竹内宿禰のエピソードは、東征神話の元ネタで、記紀を編纂した天武天皇のルーツかもしれん 「邪馬壹國」は九州にあった
「邪馬台国」は畿内にあった
魏志倭人伝は九州にあった「邪馬壹國」を記述
「邪馬台国」はようわからないがそのような国が畿内にあったのだろう
よって、このスレは畿内にあった邪馬台国のスレであり
倭人伝とも、邪馬壹國ともまったく関係ないスレであったのだ 何もかも畿内の人々に罪をなすりつけてきたかと思うとぞっとするな
隼人と険悪で、熊襲征伐に与したのが投馬国のミミだったりすると歴史観を改めないといけなくなる 東京は京都と名前が似てるから文献にある京都は東京だ!
とか主張する人いないよな
それをやってるのが畿内説だよ 大墓公アテルイ、タモ公
不弥国にタモって官があるねえ偶然かもしれないが
大墓公って大サザキ公?か 空想だが 「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 どうだ、今日も松沢病院へ行ってきたか? わははははははは @太国 その後付け地名に踊らされているアホが、太国。 わははははは @阿波 >>166
>スレタイ思いっきり邪馬台国じゃん
何か問題でも?
あたまの悪い人ですか? どうだ、松沢病院で奇声をあげてきたか? アホ踊りは踊ってるか? わははははははは @太国 >>170
>それをやってるのが畿内説だよ
九州説はまた理由も言わずに中傷か
最低だな 磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も阿蘇も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 結局、畿内説も東遷説も、最悪最低どろ沼地の奈良盆地で、息を止められる宿命だ。 @阿波 >>165
>九州説は真面目すぎる。
どこが?
妄想言いっぱなしで理由言わず
こんな不真面目な連中見たことない >>175
お前が言ったんじゃないの
>基本を全く知らない白地男
倭人伝に邪馬台国とか書いてない >>169
なすりつけてねーよ
馬鹿の教育してるだけ
纏向もトーンが下がってきたのしらないのかね
掘っ立て柱建物を王宮と断定しなくなったよ。
そしらぬ顔で、「王宮と見られている」とか他人事のような論調になってきた。 >>182
だからこのスレは邪馬台国のスレであり
倭人伝の邪馬壱国の事とは無関係なの
スレタイ
邪馬台国畿内説 >>183のように一切証拠なしで願望を語る妄想家
それが九州説 >>184
現行の倭人伝は輪違いだからな
それは常識だ >>154
懐かしいな九章算術
奥山はまだ理解できずテンプレにのっけてるな
(笑) >>185
纒向学研究センターのホームぺージ見ろよ
王宮と目されてる
と考えられています
注目されています
期待されています
主体はどこよ・・・ >>177
九章算術もわからん奴は黙っとれ
何度言ったらわかるんだ 三国史記には「倭人が朝鮮に攻めてきた」という記述がたくさんあるが
畿内政権が攻めるなら、九州政権より戦力があるはずだ
そこで三国史記で朝鮮を攻める倭人が増加した時期を分析してみたが
明確に増えたのは7世紀くらいみたいだな
・三国史記の倭人の戦力
14年 倭人兵船百余隻
232年 倭人一千余が戦死
364年 倭兵が大挙して侵入
405年 倭兵三百人が戦死
459年 倭人兵船百余隻
476年 倭人の戦死・捕虜が二百人余
662年 倭軍の軍船四百艘
731年 日本の兵船三百隻 禿同
164日本@名無史さん2022/03/04(金) 16:44:16.02
>>161
>
頭が悪い人間は討論を仕掛けるのは無理だし
そもそも会話のできない人間に討論は無理だ
だって、全く根拠も理由も説明できてない
「考えてるみたいだが」とか「可能性が高そうだ」とかさ
奥山そのもんじゃん。南→東もろくに説明できないじゃん >>179
沼地の奈良盆地も邪馬台国の一部
なんだな。 >>195
沼地なんぞ、まっぴらごめんだ。 @阿波 「九州政権より畿内政権の方が戦力に余裕がある」とすると
畿内政権の方が朝鮮を攻撃する頻度が上がるはずなので、
分析してみたが、下記のように3世紀と5世紀が妙に多い
3世紀の方が北九州邪馬台国連合が成立した時期で、
5世紀の方が畿内政権成立時期か
・三国史記の倭人の朝鮮を攻撃する頻度
1世紀 14年、73年
2世紀 121年
3世紀 208年、232年、233年、249年、287年、292年、294年
4世紀 346年、364年、393年
5世紀 407年、415年、431年、440年、444年、459年、462年、463年、476年、477年、482年、486年、497年、500年
6世紀 なし
7世紀 なし
8世紀 731年 纏向遺跡は
邪馬台国の一部。
可7万戸は無理だからな。
丹、鉄もある。絹は出土は九州よりは遅いけど。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみ
鉄が豊富とか絹について書いていない。
邪馬台国は近畿である。 >>190
また九州説は嘘をついているのだね
「纏向もトーンが下がってきたのしらないのかね
掘っ立て柱建物を王宮と断定しなくなったよ。」
とか、またも真っ赤な嘘でした >>194
>奥山そのもんじゃん。南→東もろくに説明できないじゃん
説明されてますが? 6世紀に急に朝鮮出兵がなくなるのはなぜなのか…
と調べると磐井の乱があった
「5世紀に朝鮮出兵をしすぎたのが
九州に負担が大きすぎて反乱が起きた」とか言われている
やはり5世紀の極端な朝鮮出兵は畿内政権成立と見ていいか
問題は頻度の低い4世紀に畿内政権はあったかどうかという点になるか >>127
スレ主や大和説者らは、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に反論ができないので、逃げるばかり。
そんなテイタラクだから
「畿内」とか「邪馬台国」とかの存在もしなかった嘘つき騙し文言を使って、
国民を騙そうとして、
再三恥をがくことになる
九州説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ >>138
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態によって、負け組になった大和説者らが、
反論を諦めて呪詛に専念して
そりゃもう悲惨なことになってるな >>185
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などのように、
一切証拠なしで願望を語る妄想家
それが大和説学者やスレ主ら。 >>188
大和説が「卑弥呼の女王國」論争から脱落しました >>198
>・・・邪馬台国は近畿である。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「近畿」説も、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>199
また大和説は嘘をついているのだね
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
大和説は、またも真っ赤な嘘でした >>202の訂正
>>127
スレ主や大和説者らは、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に反論ができないので、逃げるばかり。
そんなテイタラクだから
「畿内」とか「邪馬台国」とかの存在もしなかった嘘つき騙し文言を使って、
国民を騙そうとして、
再三恥をがくことになる
大和説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ 南→東、正北低新羅はウクライナから北極星見ても北にたぶんあんでしょう、南に来たと思うのよ。しかも正北低新羅は、筑紫なら九州南を征したとはないし西66国は多すぎるし、また、珍は部下隋ら13人にも平西、征虜、…の平西将軍が征九州だよ。で、晋書倭人は冢を築くで、無理なお話。 246年 百済と日本が国交を始める(日本書紀)
265年 百済の枕流王が死ぬ(日本書紀)
385年 百済の枕流王が死ぬ(三国史記)
397年 百済と倭国が友好を結ぶ(三国史記)
おそらく三国史記の方が正しく、日本書紀は古く誇張されている
もし九州政権と百済が同盟をした後、畿内政権が九州政権を倒したら
同盟は維持できないだろう
百済・倭国の同盟が長く維持されたのは
7世紀に倭国が百済再興を目指したことで明らかだ
おそらく4世紀末に百済と同盟したのは7世紀と同じく畿内政権だろう
また三国史記でも好太王碑でも4世紀後半に
倭人の大軍が来たことが書かれているから
4世紀後半には畿内政権が九州を征服し、
朝鮮に攻め込めるようになったみたいだな 大鷦鷯天皇の時代の瑞祥のエピソードは
日女島に雁が卵を産んだ話と
楠の大木が軽船になり酷使され琴だけが残った話
雁と楠の琴で本当の仁徳天皇が生まれたのかもねえ
仮に楠が母なら聖徳太子と同じだな
聖徳太子は四脚が白の黒馬に跨り全国を駆け回り富士山から河内に来た伝承がある
伊豆遠江辺りはヤマトタケルと戦った伝承がある
登呂遺跡からは琴が見つかっている
軽船は伊豆から来たバージョンの話と河内にあった楠の大木が切られて作られた話の2パターンあるのも興味深い 軽と徳と来れば諱が軽の孝徳天皇
父は茅渟王、母は吉備姫王と日本書紀にあるが、楠と何か関係があるのだろうか? >>192
>九章算術もわからん奴は黙っとれ
>何度言ったらわかるんだ
九州説が九章算術を理解できずに論破されたのは事実 履中の履は屍と復 復は踏んでいく、ひっくり返った酒壺を元に戻すの意
中は軍に旗を立てるの意
万代の耳原の伝承のことかもねえ 山門郡の田油津媛が卑弥呼の子孫だろ
媛の塚は明治までは女王塚と呼ばれていたらしいし 畿内説の人「なんで畿内が邪馬台国じゃなダメなの?!なんでなんでなんで(涙)」
かわいそうになってきた もはや畿内説は哀れみの対象でしかない
マスコミや学者の被害者だな >>151
そう
最後まで東南だな。
伊都国 糸島市近辺ではないてことね。 >>212
なんで、
魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
百済がありません。どうして? >>200
どのように南→東を説寧してるのかねーー
東南、会稽、、、、、本丸の南→東の説明しろよ
瀬戸内海で一月もいて、それも2往復
どうやったら方位を誤認するんだww >>201
磐井の乱の前に西の勢力が渡来人連合と畿内を制圧したとも考えられる。
磐井の乱は西の勢力の内乱だと思う。 >>227
もちろん違う。 伊都国は、直方辺り。 @阿波 東南陸行五百里到伊都國については
古田さんが解説していますが、
その他の学者の解説はどのようなものですか?
このスレの畿内説の方はどう思いますか?
スレを見る限り、糸島方向は船上?から目視できそうだから誤認ではなさそうだし >>228
阿波さんへ
直方の主な遺跡は?
末盧國の比定地は?
末盧國の比定地によっっては渡一海千餘里至末盧國が難解となると思いますが、、、、 >>230
>直方の主な遺跡は?
伊都国(千戸)(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」
>末盧國の比定地は?
末盧国(四千戸) : 福津市(万津浦) 辺り @阿波 >>230
>末盧國の比定地によっっては渡一海千餘里至末盧國が難解となると思いますが、、、、
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
伊都国(千戸)(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」
奴国(二万戸)(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」
不弥国(千家)(築上町辺り) : 「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」
投馬国(五万戸)(着岸地宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「田村遺跡」・「西分増井遺跡」・「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「居徳遺跡群」他
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(鮎喰川下流域) : 樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 @阿波 >>233 訂正
邪馬台国(七万戸)の内、女王国(鮎喰川下流域) : 樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡・南蔵本遺跡 @阿波 >>215
ドアホ
九章算術なんか使わねーよ
FAQに使いようがねーよ均輸の中身知らねーの
使ったバカ学者見たことねーよ 倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
だから距離を日数で表記しているところは倭人からの伝聞なので距離と方向がメチャクチャ >>223
言われてみると三国志時代には百済はなかったのか
三国史記ではすでにあったとされてるが…
同時代資料である三国志には書かれてない
実際の百済の建国は4世紀のこととされているのに
日本書紀の主張する「日本と百済は3世紀に国交を始めた」はありえない >>238
あんた読んでたら解説しろよ
できねーだろww 邪馬台国畿内説は以下の3通りのシナリオのいずれかに必ず当てはまる。
1、南という字は東の間違いである
2、東を南と方位を間違った
3、魏志倭人伝を無視する
1,魏志倭人伝には12回南という字が登場する。南という字が分からず全部東に間違えるとすごい。ます最初からこうである。
「倭人は帯方の東東大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす」
「郡より倭に至るには海岸に循って水行し韓國をへて、東あるいは東と進み、その北岸狗邪韓國に至る」
もうお分かり戴けると思うが、南を東と間違えると日本に到達することも出来ない。あえて寛大に考えると6回目と7回目に登場する南だけの字を間違ったと考えているのかもしれない。 2、東を南と方位を間違った
もう一度書くが、魏志倭人伝には12回南という字が登場する。この場合前回と違うのは、方位の南を東に間違ったのだから、間違った時は東西南北を全て反時計回りに90度間変えなければならない。そしてここで重要なことは、何としてでも邪馬台国を畿内に持ち込む戦法として、6回目と7回目に登場する2つの南だけを方位が間違い東だったと主張するのである。
さてここで分かることがある。畿内説は、字の間違いか方位の間違いかは別にして、魏志倭人伝に登場する6回目と7回目の南という字を、異常に敵視していることだ。さらに字の間違いと方位の間違いは両立することはありえない。南の字を間違えた文章を読み、更に方位を間違えたなら90度の誤差では済まされず、時には西や北、あるいは字の間違いを見ながら方位を間違うのだから場合によっては元の南に戻るかもしれないからだ。
つまり字を間違ったという一部の畿内説と、方位を間違ったと言う一部の畿内説は同じカテゴリーに入れてはならず、別々の人々ということがわかる。しかし別々の畿内説も合計すると相当数の人数になるのが現実ではないだろうか。 3、魏志倭人伝を無視する
この分類に属する人は、大和朝廷の根源を邪馬台国に求めていると思われる。きっと大和朝廷が奈良に生まれた理由をどうしても他に見出すことが出来ないのだろう。だから魏志倭人伝に何が書かれていようがおかまいなく、邪馬台国は畿内だと決め付けている。この畿内説を結果在りしと批判されても、大和朝廷の祖先は邪馬台国しかないと思っているため決して妥協しない。しかし私に言わせれば、日本という国家の根源を知りたいと思い、大和朝廷の根源を邪馬台国に求めるのであれば、その得意な根源論を駆使し、邪馬台国がなぜ畿内に発生したのかという更なる根源の説明をすればよいだけだ。
彼らは邪馬台国がなぜ畿内に生まれたかを決して語らない。大和盆地の年間降雨量や河川、平均気温や土壌などちゃんと調べて、そこにムラからクニへそして王朝へと進む過程を第三者に説明すれば良いだけの事ではないだろうか。
ムラからクニへの過程をすっ飛ばし、いきなり邪馬台国という国家が誕生しそのまま日本に唯一の王朝が畿内に生まれ、巻向で発見された桃の種が卑弥呼の鬼道だと本当に思っているのだろうか。
自然科学が苦手なら、考古学で頑張ると言う手もある。畿内のどこでもよいので、魏に使者を派遣した国際色豊かな遺跡を見つけて是非紹介して欲しい。 畿内に邪馬台国があったとすれば、九州までその支配下に収めていた邪馬台国を、数キロ離れただけの葛城地方の小国だった大和政権が倒したが、邪馬台国と北九州や大陸との交流は忘れ去られ、1世紀近くたってから大和政権はようやく再び北九州に姿を現したが、大陸との交流は何の過去の記憶もなくいちから始めて模索していったということになり、なんとも不自然なことになる。
逆に、邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。邪馬台国が滅びて数十年たったあとその故地を支配下に置いた大和政権は大陸に使節を出した女王の噂などなんにも聞かなかったと言うだけで、すべて問題は解決する。 >>190
>纒向学研究センターのホームぺージ見ろよ
王宮と目されてる
と考えられています
注目されています
期待されています
主体はどこよ・・・
>
仕方がないよ。寺澤氏は纏向王都説じゃないから。
その辺が曖昧なんだよな。纏向は邪馬台国の王都と断定してる学者は少ないと思うよ。 >>243
>邪馬台国畿内説は以下の3通りのシナリオのいずれかに必ず当てはまる。
九州説のひとは知りもしないで
こういうウソを平気でつく
畿内説の人間がいないところで吹くならまだしも
畿内説スレにきてウソをつくとは
ばかなのだろうか >>243
かなり無理がある話だね。そもそも魏志韓伝においてさえ馬韓の西側に島があるという方角間違い例が存在しているからな。
海を渡る測量なんて全くあてにはならない証拠だろう。倭人伝においてもマツラ国へは方角すら記述がない、方角はあやふやなもんだよ。 >>245
三世紀の鬼道といえば道教に他ならないだろう。三国志にも登場してる以上はそう解釈するしかない。
また道教なら神仙思想が根底にあるのだから、神獣鏡、水銀朱、桃と揃っている奈良盆地東南部以上に相応しい場所なんてない。
こんなものは宗教学的な見地からは常識問題だぞ。鬼道に関して言えば北部九州なんて全く候補地がない。 >>247
巻向は廣志においては巳百支として傍国として記述されている可能性がある。
まあ女王国なのは間違いがないが。
ヤマイチ国であるなら山城山背辺りが該当するはず。 方角に関しては元になる地図があったんだろうな
古地図とか見てもある地点から南にあるはずの村がズレた位置に書かれてるなんてことはよくある
実際には真南でもそのズレた地図上では「○○村はここから南西or南東にある」となる 方角が無茶苦茶になった理由なら複数の資料による混乱だろう。
それプラス中華思想に神仙思想が混入して、東側の果てに女王の都があるはずがないという編纂側の思い込みだね。
更にいうと北部九州と出雲ルートがあった事による混乱という解釈で畿内説の矛盾は全て解決する。 混乱してるのは孝霊厨の頭の中だから何も解決しないよ? 確かに先月九州説の人が廣志の記述を再認識させてくれた時は混乱したよ。
何故今までこんな簡単な事に気がつかないなんて!と。
倭国は結局出雲で良かったんだよな、こんな単純な話に気がつかないなんて。大混乱だった。 >>253 孝霊厨
>方角が無茶苦茶になった理由
トンデモだから無茶苦茶と言う。 @阿波 九州には伊与の後継者(当人の可能性も?)である神夏磯姫が宇佐に拠点があったんだろう。
断定するまでには資料が乏しいが、神が付く名前は重要人物とみていいはず。
ここが女王国の西端にあたる場所だね。 >>259 孝霊厨
>九州には伊与の後継者(当人の可能性も?)である神夏磯姫が宇佐に拠点があったんだろう。
考古学的根拠がなく、単なる希望的妄想にすぎない。 @阿波 歴史雑誌の歴史人に歴史学者の武光誠が面白い説を書いている。
魏志倭人伝の「年は長大で夫はいない」の「長大」とは35〜38歳の人を言うとの事。
つまり、卑弥呼は若い頃に後漢の使節に会っていると言うわけだ。205年頃の出来事らしい。
また、魏志倭人伝の前半部分は後漢の使節の記録を元に書かれているとの事。 神夏磯姫については資料も乏しいので妄想に過ぎないよ、ただし名前に神が付くのは重要な人物には違いない。
三種の神器を所有者でもあったしな。場所的には百襲姫が瀬戸内海の東側に対して神夏磯姫は西側の人物。
卑弥呼の死以降の三世紀後半、瀬戸内海航路が使えるようになりイヨが瀬戸内海西側に活動拠点を持ったのではないか?という妄想だよ。 >>247
>仕方がないよ。寺澤氏は纏向王都説じゃないから。
>その辺が曖昧なんだよな。纏向は邪馬台国の王都と断定してる学者は少ないと思うよ。
これもニセ情報
「・・・外的なイベントの存在が想起される。その象徴こそが王権最初の都宮と目される纒向遺
の突然の出現であるが、・・・」
これ、寺澤2016年 まあ阿波説については既に興味対象外。廣志においては海を渡る記述が無いと、四国は登場する場所がないからな。 >>261
武光ももう学者と名乗る資格ないな
史料無視がすげえよ >>264 孝霊厨
>廣志においては
廣志ってなんや? ひろしか? わははははは @阿波
>>261
武光もう完全にトンデモ説まで堕ちたな
もともと中国史を馬鹿にして三国志読んでないのか、それとも老人ボケになったか
素人ウケで小遣い銭稼ぎたくなったか 確かデンパの先輩コングの名。
阿電波よ
今日は院内の叫び声はいつもどおりすごかったか? わはははははは @太国 年長大も結構いい加減で呉志には20代もいる、が当時の中華皇后の寿命が40代だからそんなもんでしょうが、何度もいうように卑弥呼は五斗米道巫女で7歳から道徳経を教えられ、217年以降に列島に訪れ、大国主(多国主、30ヶ国)から神婚(共立)を受け、238年に魏に朝貢し、曹叡から忠孝と称えられ親魏を貰った初代倭大王は張魯の娘であり、記紀により玄牝の門を指して死んだとする大市(実は太一)の墓、箸墓に眠ってるんですよ。で、本名は張h瑛ですよ 神武は中国人ではない。
神武は黄金の国ジパングの金メダル国家神国日本の天皇。
中国人は水銀国家で日本の格下国家。だが華をもたせて礼はつくして
あげている。始皇帝陵の底に水銀の河が作られてると訊く。 >>263
ちゃうちゃう
寺澤は纏向は初期ヤマト王権と主張いてるだけ
邪馬台国の王都と断定していない
じゃねーの程度 娘といってる
ところをみると、金印の国王のことでも言ってるのかな?w
卑弥呼??w >>271
>寺澤は纏向は初期ヤマト王権と主張いてるだけ
こいつ虚言癖の病気か?
お前が書いたのは
「仕方がないよ。寺澤氏は纏向王都説じゃないから。」 >>262
記紀神話好きだねーーー
記紀に邪馬台国も卑弥呼も出てねーし >>271
>・・・断定していない
>じゃねーの程度
他人の言っていないことを勝手に忖度するイタコ話法は
九州説の特徴w >>268太国
お前は天皇陛下万歳だろ
結構ヨソでたたかれてるじゃんww 右翼が邪馬台国を語ると畿内説になってしまう。
知識のカケラも無い >>277
このように、すぐ論破される九州説はl、ひたすら中傷に余念がない 工作員よ 大元帥陛下万歳といえ。
オマエがたたいたところで天皇制は金甌無欠ゆるぎなきで崩壊できない。
太平洋戦争で負けてもまだ続いている。ほざいても無駄よ。
将棋でいえば皇統不詰めの棋譜同然であって、この王にどこをほじくっても
詰み手はない。思い知れ。
そして全世界は上御一人(神御一人)が統治する。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>271
>ちゃうちゃう
>寺澤は纏向は初期ヤマト王権と主張いてるだけ
>邪馬台国の王都と断定していない
>じゃねーの程度
「『倭国乱』の動向と、その収拾の結果として 生する倭国新政権の大
王都・纒向遺跡の出現前夜の緊張感が・・・」
「・・・私はこの仮称『ヤマト』国こそが『魏志』倭人伝に記され
た『邪馬台国』であろうと えている。」
寺澤 何が悲しくて国史を渡来人に書かせてんだよ、そいつらの政権だからだよな。アメリカ人に国史書かせないだろ、書いたら其の国アメリカか属国だよな。太国君。 だいたい九州説の言うことの正反対が正しいわけだな
ありがとう >>281
意味不明?
負ければ悲しいんでねえのか?
それが負けても天皇制は残ってるさ。
いまはアメリカは日本に勝ってから日本のガードマン同然のところがある。w
所詮天帝の為す技だよ。 キンペー「日本の原型であるヤマト王権は中国人が作ったもの
よって日本は中国の領土ってプーチンが言ってた」 >>274
記紀神話に無い=日本に邪馬台国や卑弥呼が存在しない、訳ではないからな。
記紀は情報を操作した文献であるにすぎないだけだろう。欠史八代の葛城に王権がある部分を消したにすぎない。
特に記録を消されたのが倭国大乱の時の王、孝霊天皇という事。 >>275
あかさん
寺澤本読め、ジャネーノ程度とわかるよ
跡はマスコミ誘導だけじゃん
責任逃れだよ寺澤は
だから纏向学研究センターのホームページも本人でなく誰かが唱えたような書きぶり
同志社のボケナスが奈良県脅威に就職して考えそうなこと 尻ぬぐいは
橋本の構図
纏向の調査進展ねーよ
最初から無理筋
遺跡としての価値は認めるが邪馬台国は遠くになりにけり 記紀神話に無い≠日本に邪馬台国や卑弥呼が存在しない
卑弥呼の時代は神話ではない。
消したんなら、古史古伝は紀の編者らと独立しており、その古史古伝
のほうは消してない卑弥呼の記述がどこかにある程度あるはずだ。
ということは、ないから紀の編者らが消したとはいえない。
九州を南下すれば、そこから畿内に卑弥呼の情報は届く距離ではない。
消したなら、古史古伝のほうには消えないで残っているはずだ。古史古伝に
卑弥呼の記事が格載ってれば紀の編者らが消したという論が成り立ってくる。
ところがいずれも無い。だから消去説は成立しない。 >>253
孝霊厨
あんたまともじゃないよ
勝手に方位は滅茶苦茶と決めつけんなよ
決めつけるなら、筋道立てて説明しないと、、、、 >>240
あほか
難波から纏向まで一月だよ
なんで、距離を日数で表記してるんだよ 記紀には百襲姫の存在と箸墓逸話については記載されているが、瀬戸内海での話は不自然に何もないからな。
また孝霊天皇も本州広く名前を残しているのに何も記述がない。出雲地方なんて伝承は数多くあるだろう。
百襲姫については丹波において海部氏系図に日女命と記されたので隠匿されてきたという事だよ。
やはりこの二人の存在がかなりまずいという事だろうね。 >>289
魏志韓伝で方角間違い例を具体的にあげているけど?
馬韓の西側に特筆するような島なんてないだろう。 >>292
罵るだけで返答もマトモにできない幼児脳って
九州説の人らしいねえ >>280
ふるーーーい
今は違うよ
一昨年のTVでも寺澤は、邪馬台国の王都と見る向きもあると濁してたよ
なぜなら、発掘調査初期からその後さしたる邪馬台国王都という新たな発見がないからだよ
石野なんか逃げちまったし >>286
>寺澤本読め、ジャネーノ程度とわかるよ
ひたすら妄想する姿勢
全く証拠を出さない九州説らしい態度
感服した
嘘つきの鏡だ >>293
それで、方位が間違ってるはどこよ。
東南は説明済みだし、会稽、、だって説明済み
ほか何処よ
方位が何か所倭人伝に出てると思ってんの
ご都合主義でここは間違いってきめつけてるだけじゃん 海を渡る際の方角いい加減例なら、そもそも対馬や北部九州ですら正確には半島の南へ進む訳ではないからな。
しかもマツラに渡る際の方角記述すらない >>296
私的立場の寺澤と公人としての寺澤は二枚舌
纏向学研究センターの責任者として公的?公人的には纏向は邪馬台国の王都と公表していない。
邪馬台国の王都と匂わせて助成金を稼いでるだけ。
所詮、纏向学研究センターなんて無用の長物
橿考でも桜井市の埋蔵文化センターでもできる仕事
天下り先を作った石野も石野だがね >>297
だから具体例として馬韓の西側に島なんてないだろう。つまり三世紀、海を渡る場合の測量なんていい加減なもんなんだよ。
方角なんて間違える訳がない、なんてのは陸地でずっと滞在する場合のみだよ。
それに編纂者が複数の資料を見る場合、ルートが複数あったなら、方角間違いは更に増えるだろう。肝心な地図が無いんだしな。 >>295
あなた、いつも証拠が出せないミスター妄言さんですね?
笑われてますよ九州説が 御都合主義はそれを言ってる者だな。
当時卑弥呼の女王国は九州に天皇国は畿内にあって、大陸は諸葛亮の
いう鼎の三分の政局だったが、日本は女王国の九州と天皇国の畿内という
二分の政局だったのさ。南になってるから東南とはこれだけでイカ様の
ハンドル切り。北斗七星で方位はハッキリ間違いない。 石野氏なら畿内説でも戸数の問題で河内平野節だったはず。最近は会ってないから知らないが。 >>299
九州説には、もうウソと中傷しか無いんだね まあ九州説はもう無理だろう、卑弥呼が鬼道使いを説明出来ない。出来る場所がないから仕方ない、紀伊半島に丹生津媛神社がある以上はここが目的地の中心だよ。
だから伊都郡の地名で残っているし、空海はここにやってきたんだからな。 寺澤 知子(偏差値40ぐらいの神戸女子大教授) と 寺澤薫との関係知ってる人いますか?
二人とも同志社卒だと思うが、、、 >>306
そうなんだ、まあ王宮であっても邪馬台国そのものではないよな。
道教に影響を受けた宮としては三輪山周辺が一番相応しいのは確かだろう。 南だから南下すればいいことだ。なにも東に行く必要はない。
空海はもっと後代だろうが。
記紀に女王国の記事などねえし消去説も古史古伝も女王国の記事が
ないんだから、紀に編者らが八代のところで消去した説は成立しない。
欠史になってるのは、八代間が倍暦で年代差が大となってて年代合わせ
がうまくいかないから欠にしてたのだ。 >>300
前から思うんだが、州胡というのは済州島じゃないんじゃないの?
州胡は鮮卑に似た弁髪で、言語が韓と異なり、牛や豚を飼っていて、中国や韓と交易している。
馬韓の西の島々に流れ着いた鮮卑の人たちじゃないかな。
後の耽羅については、神話で三兄弟が
「東の日本国」から来た三人の美女を娶って建国したとある。
耽羅の使者などは日本と共通する名を名乗っており、こちらは倭人とのハーフじゃないのかな。
別物。 アホかw
古代神道の本場九州こそが邪馬台国でFAだろが。 >>312
アホかw
古代神道と言えば忌部でFAだろが。 @阿波 卑弥呼が九州にいて
邪馬台国が近畿なら上手く説明がつくのだ。 卑弥呼が九州にいて邪馬台国は北部九州の連合国家七万戸 >>290
隋書俀国伝
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る 倭人が里数を知らないなら、東の倭種国や侏儒国までの里程は誰が測定したんだよ。
女王国より東までの里程が測定されているなら、
女王国までの里程も測定されている。
つまり、里程と日程は並列であり、
共に北部九州邪馬台国までの里程と日程を並記しているに過ぎない。 上陸地点をなるべく西に持っていくのは好きにすればいいが、
当時の海岸線は東に入りこんでたし、
大きな海水湖もあったから、
瀬戸内海を船でやって来たとして、
生駒山の西麓まではそのまま船で到着できただろうな。
ま、難波にせよ生駒山西麓にせよ、畿内邪馬台国が国際外交をしたのにふさわしい弥生時代の港町候補の遺跡というのが見つかっていないのだが。 倭人は里数を知らないから日数で距離を表す、
不弥国から投馬国まで二十日、邪馬台国まで十日 弥生時代中期以降なら普通に八尾から河内国分辺りが港の機能を持っていただろう。
船関係の出土品も多くあり、貨泉や水銀朱の付着した分銅、秤まで確認されてるからな。
またここは瀬戸内海から河内湖を経て北摂、山城、近江方面へも出れる場所だから。 >弥生時代中期以降なら普通に八尾から河内国分辺りが港の機能を持っていただろう。
陸行一日だな。 >>310
廣志の記述に従うならば、出雲辺りから上陸して東南へ進むと出雲大神宮のある亀岡が伊都になる。
その南側にヤマイチ国とあるから、山城、山背が該当国となり、ここでは方角の狂いが全くない。
また傍国もシマ国が近つ飛鳥に該当するので、問題なく説明出来てしまう。
つまり倭人伝はマツラ国に寄る北部九州ルート、廣志は本州に入るルートでの説明となり、複数の資料的があるので編纂時に混乱があるんだろう。 >>249
馬韓って朝鮮半島南西部だろ?
その西には珍島とか色々島があるぞ
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%B3%B6 又有州胡在馬韓之西海中大島上 其人差短小 言語不與韓同 皆髠頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬 其衣有上無下略如裸勢 乗船往来市買中韓
これはどうみても馬韓の西ではなく南南西だよ。 前から思うんだが、州胡というのは済州島じゃないんじゃないの?
州胡は鮮卑に似た弁髪で、言語が韓と異なり、牛や豚を飼っていて、中国や韓と交易している。
馬韓の西の島々に流れ着いた鮮卑の人たちじゃないかな。
後の耽羅(済州島)については、神話で三兄弟が
「東の日本国」から来た三人の美女を娶って建国したとある。
耽羅の使者などは日本と共通する名を名乗っており、こちらは倭人とのハーフじゃないのかな。
別物。 wikiコピペだが、一般的には済州島を指す。
三国志、後漢書によれば、州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち
[1]、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。
これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
州胡はこの後、朝鮮の三国時代に耽羅として現れた。 馬韓の西に島があるような適当な地図使ったんやろでFA 前から思うんだが、州胡というのは済州島じゃないんじゃないの?
州胡は鮮卑に似た弁髪で、言語が韓と異なり、牛や豚を飼っていて、中国や韓と交易している。
馬韓の西の島々に流れ着いた鮮卑の人たちじゃないかな。
後の耽羅(済州島)については、神話で三兄弟が
「東の日本国」から来た三人の美女を娶って建国したとある。
耽羅の使者などは日本と共通する名を名乗っており、こちらは倭人とのハーフじゃないのかな。
別物。 前から思うんだが、州胡というのは済州島じゃないんじゃないの?
州胡は鮮卑に似た剃髪(まるぼうず)で、言語が韓と異なり、「牛や豚」を飼っていて、中国や韓と交易している。
馬韓の西の島々に流れ着いた鮮卑の人たちじゃないかな。
江華島:清に劣勢となった李氏朝鮮の仁祖が避難した島
永宗島:仁川国際空港
など
後の耽羅(済州島)については、神話で三兄弟が
「東の日本国」から来た三人の美女を娶って建国したとある。
耽羅の使者などは日本と共通する名を名乗っており、こちらは倭人とのハーフじゃないのかな。
別物。 おいおいw
蛙の骨齧りで全滅したと思ってら、いまだにまだ負ける要素が残ってたのかw
これはもう負ける専門家
敗北のプロだな >>308
夫婦
二人して邪馬台国ネタで飯を食ってる
お利口ではないようだ。目立ちたがり屋かな >>317
>夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
あなたの間違いを指摘します
夷人とは倭人を指します。魏志倭人伝は倭人が記したものではありません。
また、日数で距離が表せるとしたら
畿内説では水行一月(北部九州から難波まで600キロ)と陸行一月(難波から纏向まで30キロ)
とすると、歩く速度の20倍の速度で船は動くことになります。
少なく見積もって当時の人が歩行時速2キロとして船は時速40キロとなります。古代船は速くて時速10キロも無いでしょう。 >>338
いくら九州説は考古学が発展したために亡んだので悔しいからって、嘘をついて人を中傷するのは悪いことだよ
九州説がみじめになるだけだ >>304
最近の石野氏は吉備説に傾いてると聞いていますが、、、 >>340
事実じゃん
同志社ごときは頭脳よりあの手この手で生きてくしかないじゃん
神戸女子大の偏差値40だろ。そこの教授かなんか知らんけど。
俺の高校の英語の教師は退職後偏差値45程度の大学の英文科の教授になったよ。
教授もピンキリ。いわんや寺澤なんて早稲田に行きたかったけど頭足らずで同志社だろ。
関西の私学のコネ就職ルートで奈良県教育委員会へだろ。そりゃ畿内説になるわな。
橿考の研究者の出身大学調べたらすぐわかるよ。
仲間同士で邪馬台国をこねくり回してるだけじゃん。
なんの戦果もないから寺澤なんか布留0式土器なんて無茶ぶりしちゃうし
畿内説を批判するわけじゃねーけど学問と商売は別々にしてほしいよ。それも出所が税金ならいわんや 畿内説の学者で心底、纏向が邪馬台国の王都と思ってる学者いないよ。
吉野ケ里で九州説に傾いた世論の当て馬なんだよ。
今の発掘状況で纏向は邪馬台国の王都と断定できないよ。
当て馬
当て馬 >>305
真剣に纏向学研究センターは必要と思ってるのかね__
アホじゃん 税金の無駄遣いだよ
桜井市埋蔵文化センターで充分。その傘下の一部署でもいいよ。
銭と保身まみれの関西考古学はイカン。昔はそうでもなかったがね。 >>207
「東南≠北東」
史学にまったく、向かない
ぺーテンプルタ
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>341
>最近の石野氏は吉備説に傾いてると聞いていますが、、、
ガセネタです。石野氏の主張はヤマト王権の前身は吉備だとの主張ですよ。
ググればすぐにわかりますよ。 >>345
>畿内説の学者で心底、纏向が邪馬台国の王都と思ってる学者いないよ。
そんな妄想でもしてないと正気が保てなくなったのか
敗残の九州説はみじめだな >>348です
ヤマト王権が突如奈良の地で出現したわけではない。
その辺から石野氏は吉備がヤマト王権の前身と言っているのでしょう。
邪馬台国との関係がいまいちわかりずらいのですがね。 >>345
まともな考古学者なら、「阿波」一択。 @阿波 >>321
纏向が王都なら大和川を利用すると思う。
テンプレでも
>この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点<
としてるし
しかし陸行一月、なんでやろ?
>>1さん解説してもらえますか?????? >>339
おっしゃる通り
>>317はアホの奥山だと思うよ >>350
おまえだけじゃねーの
纏向は邪馬台国の王都と断定してんのは
みな、と考える、と思う程度じゃねーの あんまり虐めてやるなよ、もう畿内説はブーメラン投げるので精一杯なんだよ >>345
>今の発掘状況で纏向は邪馬台国の王都と断定できないよ。
賛同します。
ここ数年の調査報告でも邪馬台国を匂わせる発掘物は皆無です。
報告済みの二番煎じの発掘物はあるようですが・ >>347
「東南≠北東」がなぜ生じたと思いますか?
批判は誰にもできますが >>318
>難波から纏向まで歩いて1日か2日だな
普通はね
畿内説は算数できないからしょうがねー 畿内説はね
陸行一月の解釈をね
倭人伝にも記述されてない
含む滞在日数とか含む接待とか妄想の積み重ね
以下説明してよ奥山
353日本@名無史さん2022/03/06(日) 06:58:24.41
>>321
纏向が王都なら大和川を利用すると思う。
テンプレでも
>この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点<
としてるし
しかし陸行一月、なんでやろ?
>>1さん解説してもらえますか?????? >>357
どっちもどっち
あんたも相手を中傷してるよww
どうでもいいや おはようございます。九州では鬼道が薄すぎて、無理がありますよ、卑弥呼は鬼道。これだけは絶対であり、中華人にわからない鬼道であれば説明が加味されるんですよ。鬼道を論じるともう特定されますから、皇国史観にとって都合上場所論を本居からやらせてるだけです。
記紀は万世一系で卑弥呼と五王を隠すことを考えた洗脳本です。
箸墓が卑弥呼の墓です、記紀でさえ男王の墓に出来なかった墓ですから。道徳経を身に付け一国に纏めあげる能力を倭人の娘に求めるのは愚かです。卑弥呼は鬼道五斗米道巫女であり、おそらく大国(多国)主等から譲り受け伊支馬、御間城、額田等と畿内に政権を築いた国です。 三国志に出てくる鬼道は、卑弥呼以外だと、
張魯と張魯の母だね。
張魯の祖父〜父〜張魯は道教系の新興宗教「五斗米道」の教祖的存在。
よく読んでみると、鬼道=道教、ではなく、
鬼道は、張魯と張魯母が使う呪術のような意味合い。
病を治したり、逆に悪い奴を病にしたり。
そして、彼らの「鬼道と卜占は無関係」と思われる。
よって卑弥呼の鬼道も、何らかの宗教を指しているのではなく、
もっと実用的な呪術のことを指しているのだろう。 同じ三国志に出ている鬼道は、卜占と無関係で、
道教系の五斗米道の教祖が使う「呪術」の意味。
「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
名前を卑弥呼と言い、呪術をあやつり、民衆をうまくあやつる。
巫女ではあったろうが、鬼道ってのは単に呪術を操りましたよってことだけだな。 >>366
隠していねえさ。うぬの曲解。
古史古伝にも卑弥呼と五王は載ってねえはずだ。ということは古史古伝の編者ら
は朝廷と独立してるのだから、こっちも載ってねえんだから隠したんではねえ。
古史古伝に卑弥呼らがどれも載ってるんなら、記紀に載ってねえとなれば、
それは記紀だけねえんだから隠蔽してたとの論が成立してくる。
が、古史古伝にも載ってない。これは記紀が隠匿したのではない。
箸墓は百襲媛の墓だろ。卑弥呼ではねえ。
工作員よ、天皇は萬世一系なのだよ。皇統は地球の終末まで続く。
ごくろうさん。天皇制反対のデモを気勢をあげてやっても、天皇制将棋の
詰め手はない。こういう国は世界広しとどこにもない。
それ故神国日本は萬邦無比の國體を誇る全世界の別格の格上国家なのである。 >箸墓が卑弥呼の墓です
記紀では倭迹迹日百襲姫命は大物主の妻である。
箸墓の被葬者である倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼なのであれば、
親魏倭王とは男系では大物主の支配する国家に対して与えられた金印ということになる。
それでいいのかね? >>358
断定してる学者名あげなよ
皆、
考える、思う、だろうのレベルじゃん >>343
>橿考の研究者の出身大学調べたらすぐわかるよ。
ほとんど関西の私学ですね 真実
皆、違うと、思っているが、
出世のため、同調圧力に、従っている。 >>351
>ヤマト王権が突如奈良の地で出現したわけではない。
その辺から石野氏は吉備がヤマト王権の前身と言っているのでしょう。
邪馬台国との関係がいまいちわかりずらいのですがね。
吉備からの東遷じゃないのかな。
邪馬台国も東遷??????????????? >>366
推理が先走っているようですね。
推理を裏付ける証拠が必要なのでは? >>1さん解説してもらえまか
纏向が王都なら大和川を利用すると思う。
テンプレでも
>この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点<
としている
難波から陸行一月はなぜですか。 >>346
纏向学研究センターは任意団体では無いのですか。
桜井市も赤字財政でしょ。任意団体でなければあなたのいう通り。 無駄だよ、張魯の鬼道は老子道徳経だから、祭酒は読まなきゃならないものだから、都合良く解釈しては駄目よ、また記紀上一番最初の前方後円墳が百襲女性墓で男性墓にできずに、玄牝の門を封鎖することで抵抗してる姿が痛々しい。百襲とは道教の神器剣、剣の威力は百邪を除き魑魅去るなんだな。 そして記紀に書かれた人物達よりも確実なのは、卑弥呼と前方後円墳は確実に存在したということであり、皇帝曹叡が認めた女性であるということだよ、九州説、皇国史観共に無理がありますね。 三国志に出てくる鬼道は、卑弥呼以外だと、
張魯と張魯の母だね。
張魯の祖父〜父〜張魯は道教系の新興宗教「五斗米道」の教祖的存在。
よく読んでみると、道=宗教と、鬼道=呪術、を明確に使い分けており、
鬼道は、張魯と張魯母が使う呪術のような意味合い。
病を治したり、逆に悪い奴を病にしたり。
同じ三国志に出ている鬼道は、卜占と無関係で、
道教系の五斗米道の教祖が使う「呪術」の意味。
よって卑弥呼の鬼道も、何らかの宗教を指しているのではなく、
もっと実用的な呪術のことを指しているのだろう。
「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
名前を卑弥呼と言い、呪術をあやつり、民衆をうまくあやつる。
巫女ではあったろうが、鬼道ってのは単に呪術を操りましたよってことだけだな。 どちらにせよ卑弥呼は古代神道。
呪術というのも原始的な医術とかの類だろ。
平原遺跡が卑弥呼の墓で、鳥居の跡も残っている。 『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 鬼道とは初期の道教の事ですよ。後の道教自体が雑多な呪術的な側面を持つ宗教の集合体みたいな物です。
三世紀以降畿内を中心に表れる神獣鏡は大陸側の思想の影響が顕著な、宗教的呪術具体例に他ならないですからね。
これは鬼道としか表現出来ません。卑弥呼が鬼道を使うというなら奈良盆地東南部以上に相応しい場所はないでしょう。 また三角縁神獣鏡は畿内を中心に多量に造られた物を各地に配る訳ですから、影響力を発揮、拡大した証拠でしかありません。
これこそが卑弥呼が鬼道を使って諸国を従わせていた証拠です。 >>361
東南は東南だから
ザラコクにいいなよ。 >>387
>>361
>東南は東南だから
そう、東南を北東と読み替えて得意になってた学者たちは、
結局のところ、倭人伝は三世紀の「支那人」が書いたものだからねえ・・、というところからきてるんだろうねえ 鬼道は殷やインカ帝国の祭祀みたいなものだったんじゃないの? 纏向遺跡の母体の一つ東海では江戸時代まで人の生贄祭祀をしていたようだし鬼道はこの系統でしょ 耳に纏わる神社はあちこちにあるがよく似た風習が残っている
錐キリをお供えする
竹の筒に紐を通した絵馬
竹で作った錐キリ
投馬国のミミは竹内宿禰を通して王になったのか?
大足姫と竹内宿禰
大足姫は九州で投馬国のミミの末裔の子を宿したのではないか?
ミミは霧島の山から宮崎の海の近くに進出した勢力だったのかもしれないね
東征の元ネタは4世紀半ば〜後半 >>389
あるなら
語れよ、テンプレに振るなよ
自分で説明しろよ >>379
>纏向学研究センターは任意団体では無いのですか。
また九州説は調べもせずインチキ情報を流しているな >>393
書いてあるもんを、他人がとやかく言う義理は無い >>346
禿同
税金に群がる畿内説だな
二重、三重行政反対 古代最大の豪族は物部氏
物部氏は大和から四国そして九州遠賀川まで広範囲に広がる。
卑弥呼の支配地域に重なる。 >>398
>古代最大の豪族は物部氏
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>398
>卑弥呼の支配地域に重なる。
「倭人(阿波勢力)」の進出地域に重なる。 @阿波 >.397
誰も彼も奥山に見えたり、知りもしないこと妄想してニセ情報流したり、この人は九州説が亡んだら人格も崩壊しちゃったのかな >>81
>>3世紀最末〜4世紀のホケノの
>だから九州説さん、そういう嘘をいくら連呼しても九州説の評判が落ちるだけだかra
だから、AMS法のプラズマ化の失敗により、
50〜100年位古い年次を計測してしまっているから。
マスコミさん、いつまでも大和説学者らの失敗計測に賛成する記事を書いていては、
また大恥ををかくことになりますよ。 >>82
マスコミさん、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解屋否定の嘘吐き騙しのスレ主や大和説学者らが、
どんだけダメかを、
自己申告するスレですね、ここは >>83
スレ主や大和説ぺーテンらの嘘を暴く
南は南だよ。
なんで「南→東」とか勝手変えるんだ。
古代においての全く見えない知らない遠くまでの道のりの説明の原則は、
出発時点の方向説明からの順次式説明であり、
道なき道の山越え路なんて、想定しないし、実行すらしないもの。 >>84
マスコミさん、
大和説のお爺ちゃんたちが学校に上がってた時とは時代が違うんだろうね
今は昔と違っていろんなことがわかってるから
お爺ちゃんたちは、
孫らが掲示板で知らされた本当の日本史と、
全然違うこと言ってて恥ずかしくないんだろうかね 南下しなさいを東へ90°ハンドル切るのは甘い甘いオツムの構造。w >>85
>しかし
投馬国、邪馬台国に卑奴母離がない理由は?
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使うこの男の人間性がバツであり
30国の中の各国が、官や副の呼称としてどのような文言をつかうのか?も自由であり、
僅かに考えられる事は、卑は卑弥呼らと同じ「卑」氏部族を意味し、
「奴」は「奴國」などの「在地系の猿田彦」らの「奴」部族を示すんだろうか?、
という事位。
また、邪馬台国に官に序列を表す副がない理由は?
各説、どう考える? >>89
>>江戸時代でも対馬海峡の距離がいい加減だから使えない」という反論はおかしい
>おかしい理由を言わないのはおかしい
海上の南北間里数なら、見えておれば簡易三角測量で概算出来るし、
見えていなければ、一寸千里の法で概算出来る。
また、古田さんの計算でも、水行は大体1日450里(短里)という結論になっていた。 >>127
大和説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ >>138
負け組大和説が、
反論を諦めて、呪詛に専念して
そりゃもう悲惨なことになってるな >>161
頭が悪い人間は討論を仕掛けるのは無理だし
そもそも会話のできない人間に討論は無理だ
だって、全く根拠も理由も説明できてない
「考えてるみたいだが」とか「可能性が高そうだ」とかさ
つまり典型的な大和説人間ってこと >>161
頭が悪い人間は討論を仕掛けるのは無理だし
そもそも会話のできない人間に討論は無理だ
だって、全く根拠も理由も説明できてない
「考えてるみたいだが」とか「可能性が高そうだ」とかさ
つまり典型的な大和説人間ってこと >>177
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解屋否定の嘘吐き騙しの大和説者が、
また理由も言わずに中傷か
最低だな >>181
大和説者は、嘘つきしすぎる。
妄想言いっぱなしで理由言わず
こんな不真面目な連中見たことない >>188
マスコミさん、
大和説が卑弥呼女王國論争から脱落しました 以上、畿内説にまったく反論できずに悪口ばかり連投するみじめな九州説信者でした >>198
>纏向遺跡は
邪馬台国の一部。
可7万戸は無理だからな。
丹、鉄もある。絹は出土は九州よりは遅いけど。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみ
鉄が豊富とか絹について書いていない。
邪馬台国は近畿である。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
近畿説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツである。 >>199
また大和説は嘘をついているのだね
「纏向もトーンが下がってきたのしらないのかね
掘っ立て柱建物を王宮と断定しなくなったよ。」
とかは、
またも、大和説学者らの真っ赤な事実実態でした >>422
九州説の人って、どうしてそんなにウソつくの? >>200
>>奥山そのもんじゃん。南→東もろくに説明できないじゃん
>説明されてますが?
おや?、これは東大理系博士号自称男の詐欺投稿のようだね。
スレ主は、
舊唐書の揚子江の支流の最上流の「〜城」付近からハノイ方面の方向の東南を、
東と書いているから、中国は方向を間違えた例だ、としたものだが、
実態は、「〜城」から揚子江支流の最上流では、
揚子江支流沿いに「東」方向に向かう事になり、
更に別の支流に拠って昆明付近までもが東行する事になり、
昆明付近から東南に山越えしてハノイ方面に向かう事になるから、
舊唐書は、きちんと人類の行程説明の常識に拠って、
出発時点から途中までは東方に向かう事になって、
舊唐書は方向を間違っていた事にはなっていなかったもの。
これは、以前に論破済みの話であり、
東大理系博士号自称男は、その事を伏せて隠して、世間の人々を口先でダマそう、
としている事の例証。
まあ、スレ主や東大理系は博士号自称男らは、その事を伏せて隠して、
同じ詐欺をし続けている事になる。
マスコミさん、これも大和説学者らのインチキ詐欺の例証ですよ。 >>202の訂正
>>127
スレ主や大和説者らは、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に反論ができないので、逃げるばかり。
そんなテイタラクだから
「畿内」とか「邪馬台国」とかの存在もしなかった嘘つき騙し文言を使って、
国民を騙そうとして、
再三恥をがくことになる
大和説の人って、モノを知らないだけじゃなくて、恥も知らないねえ >>420
悔しそうだな
罵声しか言葉が出ないのかよ
哀れよのー畿内説 >>215
大和説者らやスレ主が、
九章算術を理解できずに論破されたのは事実 >>424
>揚子江支流沿いに「東」方向に向かう事になり、
>更に別の支流に拠って昆明付近までもが東行する事になり、
大理古城なら湖の西側だから出発時点から途中までは「東」方向に向かう、と言うのは嘘 >>429
サラコクがそう言うなら、論破されたのは九州説なんだろうな >>423
本当のことで嘆くなよ
掘っ立て柱を王宮と断定してる学者あげろよ
よく言って、思われるぐらいじゃねーの
、 相手の言ったことをコピペして機械的に主語だけ書き換えるというzarakoku独特のオウム返し荒らしは
原理的に見て、言ってることが嘘になる >>390
ルーツをたどって行けばインドの西にたどり着くのは確実だろう。
そもそもヤマとは古代インドのヤマ教の影響は確実にある文言だからな。
ヤマとアマは元々は同じ意味だよ。 >>222
>そう 最後まで東南だな。
伊都国 糸島市近辺ではないてことね。
間違い。
古代中国での行程路の説明の原則は、実際に(山道などは避けての)、
出発時点からの移動での、平地の順次式移動説明が原則であり、
佐賀平野説は、「皆臨津搜露」が出来ないから、バツ。 マヤ文明
摩矢−→D−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→◎矢的
弓 >>248
大和説のひとは知りもしないで
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
そういうウソを平気でつく
まともな人間がいないところで吹くならまだしも、
大和説のスレにきてウソをつくとは
ばかなのだろうか 倭、大倭を大和、ヤマトなんて読ませるのはシルクロード経由で秦氏の入れ知恵以外の何物でもないしな。
ダイワとは元々は大王の意味だよ。 >>249(孝霊)
>かなり無理がある話だね。
そもそも魏志韓伝においてさえ馬韓の西側に島があるという方角間違い例が存在しているからな。
別に間違っていない。
州胡は、馬韓南岸の西端付近の島伝いの南沖にあり、海流に流されないように、
一旦馬韓西南端方向へ向かって、それから、馬韓南岸で東へ向かって交易をする事になるから。
>海を渡る 測量なんて全くあてにはならない証拠だろう。
孝霊は、「方向計測」なんて、全く出来ない・・・・アホ詐欺師なんだろう。
>倭人伝においてもマツラ国へは方角すら記述がない、方角はあやふやなもんだよ。
一大國から末盧國は、島伝いにずっと見えているから、「方向」を記載する必要がない。
要するに孝霊は、・・・・アホ詐欺師だったんだろう。 まあ方角なんか間違える訳がない、なんて主張はもう止めた方がいいぞ。
魏志韓伝の件もそうだが反論なんて証拠と共にいくらでもある。
魏志倭人伝の混乱は複数の資料の混同に根本的な原因があるのは確実だからな。
女王国の傍国の説明で奴国が再び登場するのはその為に依るもの。 >>250
>三世紀の鬼道といえば道教に他ならないだろう。
三国志にも登場してる以上はそう解釈するしかない。
「鬼道」は、卑弥呼が自分から「鬼道」だという筈がないから、
魏の役人らの推定文言であるに過ぎない文言。 廣志においては、倭国に到達してヤマイチ国までは陸行のみの記述しかないから、方角間違いはないだろうな。
なので伊都の南側にヤマイチがある位置関係は丹波出雲と大和の位置関係で間違いない。 >>251(孝霊)
>巻向は廣志においては巳百支として傍国として記述されている可能性がある。
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠ってバツ。
まあ孝霊が・・・・アホ詐欺の大和説者なのは間違いがないが。 >>441
卑弥呼も狗奴国側も黄幡の意味を理解してるのだから、鬼道とは道教という認識しかないだろう。 >>252
>方角に関しては元になる地図があったんだろうな・・・
魏の役人らは、地図なんて持っておらず、
「方向」記載は、いずれも実地での計測記録であるから、
この男(孝霊)は、一種の・・・・アホ詐欺師である。 方角が90°も変わる旅行案内書なんか現今ねえよ。
あれば「オマエの会社で買った案内書が目的地に南へ行くとあって
行ったところ、な〜んだ目的は東だったためえらく時間と金を無駄に
使わされたし、足の疲労も尋常ではないほどだった。どうしてくれるんだ。」
と「損害を賠償しろ」と各地の旅人らから苦情が殺到する。
そうなるとこの案内書は回収して社長以下会社側がお詫びをしなけりゃあ
ならねえ。そんな90°も間違えるはずがねえのさ。騙されねえさ。w
入れ知恵ではない。古事記に本州を大倭豊秋津島と書かれてるし、
欠史八代間の天皇に開化天皇を若倭根子日子大毘毘尊とあって、
孝霊天皇の号にもある。
シルク・ロードとは関係ねえ。シルク・ロードは外国だ。
オマエは中国人か? >>431
お前だろ
畿内説の恥さらし
コテつけられねーのかよww >>435
ズラコクめいたカキコだが、すっかり弱弱しくなったな
息も絶え絶え敗残兵 まあいくら悪態ついてもムダ。
九州説についてはもはや突っ込みどころしかないんだよ。考古学だけじゃなく文献資料、地域伝承、宗教学的見地からの結論だね。 >>431
あなたが適任のようです。
下記を九章算術でもなんでもいいからで反論できますか。
339日本@名無史さん2022/03/06(日) 05:55:12.13
>>317
>夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
あなたの間違いを指摘します
夷人とは倭人を指します。魏志倭人伝は倭人が記したものではありません。
また、日数で距離が表せるとしたら
畿内説では水行一月(北部九州から難波まで600キロ)と陸行一月(難波から纏向まで30キロ)
とすると、歩く速度の20倍の速度で船は動くことになります。
少なく見積もって当時の人が歩行時速2キロとして船は時速40キロとなります。古代船は速くて時速10キロも無いでしょう。 まあ戦前は商売で大陸進出組ではあったがそれ以前から代々日本にいるぞ。
母方の家は紀伊半島で鉱山管理していた家だそうだ。 >>261
>歴史雑誌の歴史人に歴史学者の武光誠が面白い説を書いている。
魏志倭人伝の「年は長大で夫はいない」の「長大」とは35〜38歳の人を言うとの事。
つまり、卑弥呼は若い頃に後漢の使節に会っていると言うわけだ。205年頃の出来事らしい。
また、魏志倭人伝の前半部分は後漢の使節の記録を元に書かれているとの事
武光は、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」
の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説詐欺師学者の筈だから、
信頼性が全くなく、根拠にならない。
それに、205年なら、既に楽浪郡なども公孫氏の管理下になっていた筈だから、後漢の役人も列島に来るはずもない。 >>429
>大和説者らやスレ主が、
九章算術を理解できずに論破されたのは事実
そうですね事実ですね。いまだにテンプレに載せてますが
理解力がないのでしょう。
奥山氏がまた毒づくのが目に見えてますがね、、、、、 >>263
>>仕方がないよ。寺澤氏は纏向王都説じゃないから。
その辺が曖昧なんだよな。纏向は邪馬台国の王都と断定してる学者は少ないと思うよ。
>これもニセ情報
「・・・外的なイベントの存在が想起される。その象徴こそが王権最初の都宮と目される纒向遺
の突然の出現であるが、・・・」
これ、寺澤2016年
寺澤も、始めから「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者であるから、
全く信頼性がなく、バツ学者。 >>456
チャンコロっていうのはいづれ土ついて泣くチャンコ料理となる中国のこと。
ロスケは炉透けで原子炉が透過させる恐ろしい固水銀首相の銀炉童子の国よ。 後漢書東夷伝は1世紀の書物で
漢の倭の奴の国王印は
倭国(日本)の奴と言う国の印だから、奴国が200年も経過すれば、東へ拡大移転するのは当然の流れ >>269
>・・・箸墓に眠ってるんですよ。で、本名は張h瑛ですよ
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態によって、バツね。 まあ邪馬台国問題なんてもはや問題とは言わないよ、畿内のヤマト以外に存在出来る訳ないからな。 >>461 孝霊厨
お前も相当逝かれてるな。 九州説といい勝負だ。 わははははは @阿波 神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ〜んぶ倭国(阿波)での出来事。
7世紀末まで「阿波」に王都があった。
「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 >>275
他人の言っていないことを勝手に忖度して、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをするイタコ話法は
大和説学者らの特徴 九州に女王国があったのが真。
南下するから90°も東は関係ねえ。 >>465 太国
>九州に女王国があったのが真。
どあほ! 九州のド田舎に女王国だと? 寝言は寝てから言え!カス。 @阿波 >>278
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」のように、
史料事実や史料実態によって、すぐ論破される大和説はl、
ひたすら中傷に余念がない 大和から遠賀川流域まで物部氏が支配してるのに九州邪馬台国ってどこにあるんだ >>280
>「『倭国乱』の動向と、その収拾の結果として 生する倭国新政権の大
王都・纒向遺跡の出現前夜の緊張感が・・・」
「・・・私はこの仮称『ヤマト』国こそが『魏志』倭人伝に記され
た『邪馬台国』であろうと えている。」寺澤
寺澤も、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ人間である事が確定。 >>282
だいたい大和説者の言うことの正反対が正しいわけだな
ありがとう しょうがねーな大和説は
水行一月は正解で陸行一月は間違いってか 紀元57年、倭の奴国が、貢物を持って後漢へやってきた。使者は自らを大夫と称した。奴国は倭の南方に位置し、光武帝は使者に奴国に官職を与えるための印鑑を授けた。 >>459
証拠がないね
また、3世紀の発掘物から文明的には西側のほうが優れてる
それ以前に東へ拡大したとしても3世紀の国の主体は九州 九州南部が投馬国で紀伊半島から1か月の奈良が女王国の都の邪馬台国、大和川の南の河内と和泉が狗奴国
これで邪馬台国論争は終わりだな >>447
>・・の恥さらし
>コテつけられねーのかよww
ブーメランで>>447死亡 >>469
いいんでねーの
寺澤はあろうと個人的感想なんだから
学者としてはどうかと思うよ
今の調査状況でよくここまで言うよ
銭が絡むと恐ろしいな
、 >>476
その線もある
しかし今の畿内説の学者は瀬戸内航路主体 >>466
どあほ! の大ケツ二等席に女王国だと? 寝言は寝てから言え!裾男。 わははははははは @太国 >>294
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に反論できない幼児脳って
大和説の人らしいねえ >>482
東行きは出鱈目。だからデンパ男のいう阿波も成立しない。 纏向ははじかれると思いますが
畿内説で倭人伝の以下の記述にもっとも近い遺跡はどこですか
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛 >>300(孝霊)
>だから具体例として馬韓の西側に島なんてないだろう。つまり三世紀、海を渡る場合の測量なんていい加減なもんなんだよ。
いや、人類は、人類が生まれた時から、日の出日の入りを元にして、
東西南北はほぼ間違えないもの。
州胡人の話は、馬韓西南端の南沖の島伝い沖の済州島から、馬韓南岸へ西から交易にやって来た、
という話であり、方向間違いにはなっていない例。
>方角なんて間違える訳がない、なんてのは陸地でずっと滞在する場合のみだよ。
それに編纂者が複数の資料を見る場合、ルートが複数あったなら、方角間違いは更に増えるだろう。肝心な地図が無いんだしな
孝霊は、おそらく、脳の異常者。 >>301
あなた、いつも証拠が出せないミスター妄言さんですね?
笑われてますよ、大和説者らが >>302
また、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
無知を丸出しにしてる大和説の恥男が笑われていますよ。 >>305
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説には、
もうウソと中傷しか無いんだね >>475
>また、3世紀の発掘物から文明的には西側のほうが優れてる
証拠がないね >>328
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの説、
それが大和説 >>340
いくら大和説が、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態や、考古学が発展したために亡んだので悔しいからって、
嘘をついて人を中傷するのは悪いことだよ
大和説自体がみじめになるだけだ >>491
合わない所は無理な抗弁でペンギン(プーチン)のように強行突破で強引に畿内に
押しとおして行くのが紀無い説。円墳も前方後円墳にすりかえる。それが
あとから工事して形を変えたとか神武の后の妻帯の矛盾を独身卑弥呼
は後家で独りになったとかいろいろ工作して変更して盲象を頑張るのが
紀無い説のやり口。 >>344
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しや、中傷しか出來ない大和説は
もう終わり >>347
「東南≠北東」
史学にまったく、向かない
ぺーテン大和説学者ら
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>349
当然
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
史学やるのが大間違いであり、
創作の部類 >>350
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのような、
そんな妄想でもしてないと正気が保てなくなったのか
敗残の大和説はみじめだな 「東南≠北東」
史学にまったく、向かない
ぺーテンフルタら
史料事実や史料実態に拠って、バツね。 >>484
>纏向ははじかれると思いますが
>畿内説で倭人伝の以下の記述にもっとも近い遺跡はどこですか
畿内説でなくとも、纒向 >>484
>纏向ははじかれると思いますが
>畿内説で倭人伝の以下の記述にもっとも近い遺跡はどこですか
名柄遺跡 > 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
タギシミミね。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭 >>490
轍が欲しくないか
やってもいいが畿内は鉄が溶けやすい土壌だから無駄だなwww >>501
吉野ケ里ね
卑弥呼の居た都とは思わないが、畿内に吉野ケ里級の遺跡がないね 纏向遺跡でコンクリートで固めたような柱の遺跡の
観光用の立派なトイレだけど。
地元民以外に年間どのくらいの人が利用してるのだろうかな >>507
箸墓の前方後円墳のこと?
円墳では無いし
地方豪族の墓じゃないかな。
前方後円墳なら全国各地に5000ぐらいあるし、
古墳時代にヤマト王権が青森まで支配してたと思えんし。 >>508
>古墳時代にヤマト王権が青森まで支配してたと思えんし。
「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡だ。 @阿波 >50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。
「観音寺・敷地遺跡」は、そんじょそこらの国衙遺跡ではない。 @阿波
阿波国観音寺遺跡出土木簡には、「評」の表記、サト「五十戸」の表記、「里」の表記、「郷」の表記、「其郷其里」の表記が見られる。
国府設置郡の評段階からの歴史的変遷(7世紀から9世紀まで)をたどれる、他に類例のない資料群なのである。
木簡から見た阿波国の古代 2021年2月28日(日) レキシルとくしま
―観音寺遺跡出土木簡を読む― 奈良大学 渡辺 晃宏 >>508
>箸墓の前方後円墳のこと?
>円墳では無いし
>地方豪族の墓じゃないかな。
>前方後円墳なら全国各地に5000ぐらいあるし、
どうして九州説の人の考えって世間常識と逆なの? 吉野ヶ里遺跡の象徴的な建造物は、
韓伝に書かれている「立大木」 >>512
畿内説の常識を振りかざされてもなー
世間の常識とは
箸墓は前方後円墳
卑弥呼の墓は円墳 >>514
卑弥呼の墓が円墳とか、根拠ないから
そもそも三世紀に円墳は無い 遺跡というのは、残ってるのは絶滅危惧種が多かろう。
なくなった遺跡はいくらでもある。3世紀に円墳があったから伝に
あるわけだ。阿蘇の噴火で遺跡は軽く崩壊だ。いまないからなかったにはならない。 >>514
ま、結局九州説は世間常識とかけ離れてるわけだが >>508
九州に150mの円墳、または円墳部分を持つ墳墓は一つもないね?
だから卑弥呼がいたのは九州ではない。
という俺も卑弥呼墓=箸墓とは思わないが。 3世紀前半には、博多に纏向石塚と同じ前方後円墳(当時九州最大)が築かれている >>517
じゃあ前方後円墳と書かれてるのか?w
>>518
南下すればそんへんに女王国があったんだよ。
南へ行くとあるのに東へ行けとはねえだろう。90°も変えてて、そんな説は
信じるなどもってのほかだ。
なお遺跡は崩壊するのが宿命的だから、そこねえから昔もなかったには
ならない。遺跡とは放置すれば絶滅危惧種的ものさ。 「卑彌呼」の高塚墳墓は、画期的な墓だ。 それまでの甕棺墓などの平墓と大違いである。
「卑彌呼」の高塚墳墓は、高塚古墳の端緒だろう。 @阿波 南に行ったら太平洋にドボン!です。九州説って馬鹿ですね。 中国人から見たら前方後円墳の前方部は祭壇に見えるでしょう。 >>>524
女王国へ旅したこの大陸人はエイトマンやフラッシュではない。
九州へきて観光も兼ねてのんびり旅してたのさ。途中脇道に外れたり具合が
悪くなったり時間がかかって旅行したのさ。
オマエだと昨日の東京マラソン的に九州の旅をしたとの主張のようなもので、
これじゃあなおさらたおれちゃう。w
馬鹿説はオマエのほうだろう。ppp 吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には消滅していました。畿内の邪馬台国に滅ぼされたのでしょう。 太国と言う人は桜餅の葉っぱ食べているから馬鹿なんだ。 >>524
>南に行ったら太平洋にドボン!です。
なんで、、、、
畿内説は陸行一月で難波から纏向なんだろ
つまり一月で30キロだろ
古代船の速度は時速10キロも無いから
水行一月、徒歩の二倍として60キロでしょ
北部九州で充分
悔しかったら
難波から纏向まで陸行一月はあきらめろよ 魏の使節が通行したのは日本海ルートです。瀬戸内海を通行したと思っている九州説は大馬鹿者です。 >>518
箸墓は前方後円墳が定説
大作冢 徑百餘歩
これで前方後円墳と言う馬鹿は
ほとんどいない アホの九州説が人間の歩くスピードはカタツムリより遅いと言っています。馬鹿ですね。 >>522
卑弥呼の墓は見つかりません
卑弥呼の都も見つかりません
だから九州説は妄想です のんびり旅行してたのさ。>>524や馬鹿的>>530はまるでマーベル社のフラッシュ
や桑田次郎氏のエイトマン的走行あるいは昨日の東京マラソン的疾走で
旅行者が九州縦断したから九州南岸でドボンしたと抜かしてるわけだ。
ウハハハハ・・・・
1か月もフラッシュ疾走できるんなら東京マラソンで金メダルだ。
いかに紀無い説が噴飯ものかは冷静な頭脳の持ち主ならすぐに気づく。 >>531
>悔しかったら
>難波から纏向まで陸行一月はあきらめろよ
別に悔しくもなんでもない
だって畿内説は「行程の記事にはマチガイが含まれてるから使いものにならない」って説だもの >>538
>のんびり旅行してたのさ
つまり、行程は邪馬台国の位置は分からない
使えないってこと 余裕をもって旅してたから九州説に不合理はない。
おまけに南下したら女王国なのに東へ90°もハンドルを切るなどと、
畿内誘導の説をやってるが、90°変更なんか現今の旅行案内書でもそうなって
る書はありっこない。あれば旅行者から出版社に苦情が来て社は回収して
苦情者にお詫びせねばならなくなる。ww 箸墓は3世紀と断定する理由お粗末
土器に付いた炭化物の炭素年代、、、、
はぁーー 墓から見つかってねーし、
炭素年代が当たっていても箸墓近辺で人が煮炊きしてた程度だよ。3世紀に人が煮炊きしてたのは箸墓周辺だけじゃねーし
馬具は後で捨てられたと言う畿内説から行けば、土器も後で捨てられたでもいいし 150mの墓はないけど別にいいじゃないか、では話にならない。 >>537
お前の頭を見てみたいよ
箸墓は前ぽ後円墳
大作冢 徑百餘歩
これを読んで、前方後円墳を想像するのは無理
魏の使いも報告するのだから前方後円墳ならこんな表現しないよ。 昔の中国の地図は東が南にひっくり返っている。この件で遣隋使や遣唐使が抗議したとは聞かない。 >>515
>三世紀に円墳は無い
語るに落ちたな
箸墓は最初は円墳で後で前方部を造ったって大嘘かい >>539
だったら南へ行ったら海にドボンと言うやつは馬鹿なんだ
テンプレも陸行一月を解説してるけど馬鹿なんだ >>542
それは無知故の誤解だから世間には通用しない >>547
>だったら南へ行ったら海にドボンと言うやつは馬鹿なんだ
>テンプレも陸行一月を解説してるけど馬鹿なんだ
理由がないね >>544
>これを読んで、前方後円墳を想像するのは無理
なぜ?
理由もなく言い張るのが九州説?
>魏の使いも報告するのだから前方後円墳ならこんな表現しないよ。
どうして? >>535
おまえはアホ
畿内説で行くと一日1キロのpace
かたつむりより早いよ >>546
>語るに落ちたな
>箸墓は最初は円墳で後で前方部を造ったって大嘘かい
そんなこと誰が言った? >>551
畿内説でそんな説を誰が言った?
九州説は言うこと全部妄想ですか? 箸墓古墳の看板には「みだりに立ち入ってはいけない」と書いてあります。
つまり、「みだりに」ではなかったら立ち入っても良いわけです。
前方部と後円部が同時に築造されたか別に築造されたか確かめてみましょう。 >>556
当然だな。卑弥呼や外国要人等
警備を考えるとあれだけなもんはどこにもない。 吉野ヶ里は内環壕外土塁柵なので、
警備を考えると作りが逆 >>533
魏の使節が通行したのは豊後水道+太平洋ルートです。 @阿波 >>536
卑弥呼の墓も卑弥呼の都も「阿波」で見つかっています。 @阿波 >>559
//www.yoshinogari.jp/introduction/restore/moat-encircled-village/
平塚川添遺跡もあるが防御に難がある。
であんたはどこよ。 >>560
正解です
最近、都は阿波で畿内は邪馬台国の辺境地のような気がしてきました。 孫に
墓を造りました。半径十センチです。粘土で作ってみなさいと言ったら
円錐形だったよ。前方後円墳ではなかった。 >>548
畿内説の常識は内輪の常識
世間の非常識 >>563
>畿内は邪馬台国の辺境地のような気がしてきました。
「邪馬臺国(粟国)」は、真っすぐ東西に80kmをも貫く大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群であり、
「卑彌呼」時代の畿内は、「倭人(阿波勢力)」が進出し始めた開拓地。 @阿波 縄文時代以前から続く畿内の人々の営みを無視する阿波はやばいわ 「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 ・585年即位・用明天皇
用明天皇以降20人後は52代嵯峨天皇で823年まで在位。
平均在位11.9年で神功皇后を含めて31人遡った神武即位は216年
・用明天皇以降30人後は62代村上天皇で967年まで在位。
平均在位12.73で神功皇后を含めて31人遡った神武即位は190年
・457年即位・雄略天皇
雄略天皇以降20人後は重祚一人も計算すると41代持統天皇で697年まで在位。
平均在位12年で神功皇后を含めて21人遡った神武即位は207年。
・雄略天皇以後30人は重祚が二人いるので52代嵯峨天皇で823年まで在位。
平均在位12.2年で神功皇后を含めて21人遡った神武即位は201年。
・390年即位・応神天皇
応神天皇以降20人後は34代舒明天皇で641年まで在位。
平均在位12.55から神功皇后を含めて15人遡った神武即位は202年
・応神天皇以降30人後は45代聖武天皇で749年まで在位。
平均在位11.966から神功皇后を含めて15人遡った神武即位は211年
・318年即位と仮定・垂仁天皇
垂仁天皇以降、神功皇后を含め20人後は29代欽明天皇で571年まで在位。
平均在位12.65で10人遡った神武即位は191年
・垂仁天皇以降、神功皇后を含め30人後は40代天武天皇で686年まで在位。
平均在位12.266で10人遡った神武即位は195年
神武と卑弥呼が同時代であったことがお分かりいただけると思う。
しかもことごとく卑弥呼の「若い頃」に一致、なぜか?
二人は夫婦だったからです。
もはや卑弥呼は一人しかいません。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后、ヒメ(踏鞴五十鈴)后である。 >>563
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
都とするが、定まっていないんだな。
広範囲だから1月なんだな。
まあ、卑弥呼は、共立されて九州にいる。
まあ、不彌國から南至て行くのだろう。
なんら魏志倭人伝は間違っていない。
情報不足なだけだな。 >>570
>まあ、卑弥呼は、共立されて九州にいる。
「阿波」には鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」など、縄文時代からずっと続く王都遺跡が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、
つまりヒメ后、ヒメ(踏鞴五十鈴)后であることがお判りいただけたと思う。
では径百余歩で殉葬奴婢百余人の塚はヒメ(踏鞴五十鈴)后の住んだ奈良県御所市にあるか。
ある。
殉葬奴婢百余人とは神武に誅殺された大和先住民・土蜘蛛。
その塚の場所は高天原(=奈良県御所市高天)である。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0001640.jpg >>569
これは有名なデンパ説。
八幡愚童訓に
黄龍2年=230年=開化48年 ← 景初3年の9年前が開化年代
とあり、10年前の千葉考古班の精密機器箸墓測定が
240〜260年
で、童訓と矛盾がない。
しかもコイツは帥升がアマテラスの弟のスサノオだといってたが、大蛇退治で
草薙剣をえたとか子の五男三女神がいた証拠など出したことがない。
皇后はNO.1の女王でないし畿内に推古まで女王はいない。到底卑弥呼
とはいえない。
つまり出鱈目である。こいつは土俵土付き国のチャンコロ料理となる大陸人
なのだろう。 うははははは・・・・・ @太国 >>573 太国
逃げるな! 九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 >>554
何が言いたいの?
なんの証拠も出せない妄言がしたいの?
九州説の人ってそんなに無能なの? >>574
オマエ少女Hスレから逃走中だろうが。w 〜そこへハンター
遺跡の存在は真偽とは無関係。
オマエの先祖は昔いなかったそうだな。
ならば松沢病院に直行するんだなあ。それとも今日も行ってきて奇声を
さんざん発していたのか? わははははははは・・・・・@太国 行程無視の畿内説は✖
魏の使いは倭国の調査や外交に来ている。
当然、相手国の場所は特定されなければ外交はできない。
そのために倭人伝では行程を記述している。
倭国やその都がどこにあるのかもわからないで報告はしない。
また、行程が間違いであれば、2回目以降で修正する。
倭人伝の行程の論議は必要であり。短絡的に無視とが誤認というのは良くない。
いわんや、魏の使いは一度しか倭国にきていないのでは無いのだから。 >>573
>10年前の千葉考古班の精密機器箸墓測定
ワロタwww
歴博の放射性炭素測定と言う言葉が出てこないのだね爺ちゃんw >>579
オマエもそろそろ松沢病院に行く支度をせい。
オマエは 240〜260年 が出てこねえな。
都合悪いからか。pupubububu >>570
投馬国は豊後か日向(候補)
都は阿波
倭人伝記述の遺物は申し分ないと思うけど。。
記紀神話を持ち出すのはあまり好きじゃないけど
神話では一番最初に生まれたのが淡路島であり、その次に四国である。 >>576
>遺跡の存在は真偽とは無関係。
存在しなきゃ偽だよ >>553
じゃあ、難波から纏向までなんで一月もかかるのだよ
記述のない滞在日数なんて入れたら各説収集がつかないよ。 >>582
絶滅危惧種が遺跡なのさ。
オマエの先祖はいま存在しないが、先祖はニセで昔もいなかったのか?
今日仏壇の前で、存在しねえからニセ先祖だと自問自答しながら吠えてみろ。 畿内説のスレにしてはお粗末
他説批判して返り討ちにあってる
他説なんてどうでもいいよ
テンプレより
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>585
ないのが決まりだな。w
記紀に日本原産の卑弥呼の記事はねえ。これは畿内に卑弥呼がいねえから。 >>571
縄文から続く王の都なら橿原に決まってるだろ、日本の常識 >>585
近畿だよ。
丹、鉄、ト骨。
卑弥呼は吉野ケ里だな。
鉄鏃、戦乱跡、ト骨 >>571
続く王都たる集落遺跡が存在しないのが邪馬壹國
災害でやられてしまったからな。
復興、開拓、宗教地だよ。
7万戸と見積もり、県ではなく州レベルだよ。 >>581
>神話では一番最初に生まれたのが淡路島であり、その次に四国である。
いや、オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た大砂洲 「粟島」だろう。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」がオノコロ島となったのだろう。
淡路の沼島では、「積り重なって」が説明できない。 @阿波 >>593
どうだあ。今日の松沢病院の奇声音はすごかったか? わははははははは @太国 >>583
>じゃあ、難波から纏向までなんで一月もかかるのだよ
かかった人がいるでしょ?
テンプレに書いてある
>記述のない滞在日数なんて入れたら各説収集がつかないよ。
だから各説収集がつかないんですよ、何百年経ってもね
畿内説だけが安泰
だって「行程記事の中には間違いが混ざってる。いくら読んでも行程じゃ女王の都は割り出せない」
って主張してるんだからね
畿内説だけが安泰 >>586
あんたが変
だって事実は
>他説批判して返り討ちにあってる
なんて真っ赤なウソで
他説の人が勝手に乗り込んできて
会えなく撃退されてるんだから
他説なんてどうでもいいんだよ
ホスト側の余裕で相手してあげてるだけ 記紀に女王の日本原産の記事がねえのさ。
畿内に卑弥呼がいねえからさ。事は簡単。
南下なのに東へ行っても記紀にそれがねえんじゃあ、紀無い説はお陀仏。
インチキ紀無い説は盲象論ww >>591
>卑弥呼は吉野ケ里だな。
>鉄鏃、戦乱跡、ト骨
ないじゃん 古事記・日本書紀に卑弥呼・台与の名前がないのはあたりまえです。別の名前だからです。
卑弥呼神社も台与神社もありません。別の名前だからです。 あまり畿内説を追い詰めない方がいいのかもしれない
何か遺跡破壊とかしかねないヤバさを感じる 九州遠賀川の流域は物部氏の痕跡しかない。
物部氏は大和の豪族。
南には狗奴国がある。
あれっ、九州説の場合遠くて名前しかわからない国が20か国余り、九州のどこにあるんだ? >>595
ahoka
滞在日数入れてる例じゃん
滞在日数入れたらだめだよ
例を挙げようか
成田空港でコロナの陽性が出て、成田付近で10日ほど隔離
その後電車で長野へ1日かかったとした場合
成田から長野まで電車で11日と記述するかねーーー
このような事は
コロナ下、頻繁に起こったけどねwww 遣隋使の場合、滞在の理由も書いてあるしね。
倭人伝を勝手に捏造するのが奥山の手口。 >>596
お前にあるのは、時間的余裕だけだろ
ここで張り付くしかねえんだろ。
社会から隔離されてるだろwww >>597
>南下なのに東へ行っても記紀にそれがねえんじゃあ、紀無い説はお陀仏。
>インチキ紀無い説は盲象論ww
それ、本気で反論になってると思ってる? 三世紀の日本を代表する遺跡が畿内には少ないよ
吉野ケ里と纏向比べたらかわいそうだけど
吉野ケ里のほうが先進的だしお宝ザクザク
吉野ケ里の対抗馬で纏向出したはいいけど、あまりにもチンケ
畿内説の学者連中良く踏ん張ってるが、、そろそろ限界だよ。
調査すれど進展なしじゃねーー国民に申し訳ない >>305
大和説には、もうウソと中傷しか無いんだね >>599
>卑弥呼神社も台与神社もありません。別の名前だからです。
卑弥呼みたらし団子なら纏向にある >>599
>卑弥呼神社も台与神社もありません。別の名前だからです。
卑弥呼みたらし団子なら纏向にある 卑弥呼の役割は衆を纏めることだね
神に使える巫女の体だが、実態は衆に使えているようなもの
名もなき兵たち、名もなき人々の集合体が物であり、大物主ということですね
従軍する、櫛を刺し鏡を掲げた巫女の埴輪もある
アマテラスと鏡と大物主は一体なんだよね 纏向遺跡は卑弥呼がいたところだが多くの名もなき兵たちがいたところでもある >>251(孝霊)
>巻向は廣志においては巳百支として傍国として記述されている可能性がある。
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠ってバツ。
まあ孝霊が・・・・アホ詐欺の大和説者なのは間違いがないが。 纏向にいたのは卑弥呼でなく景行。
記紀に纏向にいた記述は無い。盲象のインチキ。 >>600
>あまり畿内説を追い詰めない方がいいのかもしれない
>何か遺跡破壊とかしかねないヤバさを感じる
こんな中傷ばっかりしているのは九州説が負け組な証拠 >>613
そう、邪馬壹國にいたのは景行。
卑弥呼は伊都国である。
共立されて以来、合っていない。
なので記紀にのらない。
共立前の岩戸の隠れしかのこらない。
168年の日食だろうな。 吉野ケ里遺跡周辺の牟田遺跡でト骨、
八女にも出土。 卑弥呼は邪馬台国が都する処である纏向に居住していたのは確かです。
箸墓古墳もあるし隣接する黒塚古墳から魏より贈られた黄幢も出土しています。 卑弥呼神社とは伊勢神宮 内宮のことである。
台与神社とは伊勢神宮 外宮のことである。 >>620
伊勢内宮は卑弥呼に神社ではないし日神は鬼道はやってない。
同外宮は豊受大御神の祭神であり倭人伝はトヨではなく1與であって
ここのトヨではない。だいいち時代が日神等のほうが格段に古い。 ×卑弥呼に神社ではないし
〇卑弥呼の神社ではないし >>618
>吉野ケ里遺跡周辺の牟田遺跡でト骨
14km離れた別の遺跡だな
吉野ヶ里ってのはウソ >>623
纏向に巫女千人兵、管理職の住居跡が無いよりまし。 >>626
ないという根拠なしw
自分で言ってたでしょ?
「遺跡の存在は真偽とは無関係」って 無駄だよ、450年後の書物でこの時代を決めつけるのわ。伊勢は斎宮、太一がはためく。立派な道教。卑弥呼が持ち込んだのが道徳経、崇神とやら三船が名付けた者が伊勢に追いやった事になっとる。原始道教を学ぶ環境にあり、国を築くノウハウを知る女性は五斗米道巫女以外に居ないのだよ。初代倭大王、天皇太一と慕われた女王卑弥呼、存在する歴史上比定者は張h瑛しかいないのだよ。 >>625
周辺だったらウソでねえし、あの距離なら吉野g理でもやってておかしくねえ。
オマエはこのスレでのイカ様・プーチンの熱象手法同然。 >>630 太国
逃げるな! 九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 >>593
オノコロ島は沼島。
前方後円墳は沼島遠景を表したもの。 >>632
いや、オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た大砂洲 「粟島」だろう。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」がオノコロ島となったのだろう。
淡路の沼島では、「積り重なって」が説明できない。 @阿波 ・585年即位・用明天皇
用明天皇以降20人後は52代嵯峨天皇で823年まで在位。
平均在位11.9年で神功皇后を含めて31人遡った神武即位は216年。
・用明天皇以降30人後は62代村上天皇で967年まで在位。
平均在位12.73で神功皇后を含めて31人遡った神武即位は190年。。
・457年即位・雄略天皇
雄略天皇以降20人後は重祚一人も計算すると41代持統天皇で697年まで在位。
平均在位12年で神功皇后を含めて21人遡った神武即位は207年。
・雄略天皇以後30人は重祚が二人いるので52代嵯峨天皇で823年まで在位。
平均在位12.2年で神功皇后を含めて21人遡った神武即位は201年。
・390年即位・応神天皇
応神天皇以降20人後は34代舒明天皇で641年まで在位。
平均在位12.55から神功皇后を含めて15人遡った神武即位は202年。
・応神天皇以降30人後は45代聖武天皇で749年まで在位。
平均在位11.966から神功皇后を含めて15人遡った神武即位は211年。
・318年即位と仮定・垂仁天皇
垂仁天皇以降、神功皇后を含め20人後は29代欽明天皇で571年まで在位。
平均在位12.65で10人遡った神武即位は191年。
・垂仁天皇以降、神功皇后を含め30人後は40代天武天皇で686年まで在位。
平均在位12.266で10人遡った神武即位は195年。
神武と卑弥呼が同時代であったことがお分かりいただけると思う。
しかもことごとく卑弥呼の「若い頃」に一致、なぜか?
二人は夫婦だったからです。
もはや卑弥呼は一人しかいません。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后、ヒメ(踏鞴五十鈴)后。 >>630
はいはい拡大解釈ご苦労さん
誰も信用しないよ 纏向から出るだー
住居も無ェ 人もそれほど走って無ェ
巫女もいねー 兵士もいねー カエルが毎日ぐーるぐる
朝起ぎで 桃食べて 二時間ちょっとの墓づくり
鉄も無ェ 絹も無ェ 棺は一日一度来る
俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ
九州へ出るだ 九州へ出だなら
銭コァ貯めで 九州で鉄買うだー >>634
いずれ土俵土下座のチャンコロ料理となる在日のデンパ説。だれも信じねえよ。
八幡愚童訓
黄龍2年=230年=開化48年 ←9年後が景初3年となる開化年代
皇后はNO.1の女王ではないし、畿内で女王は推古から。
おまけに帥升が大蛇退治で草薙剣を得たスサノオだとか過去にぬかして
おり、そうなら五男三女神の子らが帥升にいたという事実も出せず
アマテラスという姉が帥升にいたという論拠も出したことはない。
つまりデンパ説。ppppp 記紀が歴史書として決定的に駄目なとこは、参考にした物を処分した上に時代も人物も解らないようにしてあることですよ。卑弥呼は誰だ?五王は誰だ?とかそんな歴史書ありません。藤氏家伝では入鹿(太郎鞍作)を三國志を使ってボロクソに叩いて、三國志をしっかり読んでいます。鎌足 一派は卑弥呼、五王を隠しています、まあ倭の別種は確かでしょう。ただ彼らもどうしても隠せなかったのが箸墓で百襲姫とした。これが列島初代女王卑弥呼です。 >>637 太国
逃げるな! 九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 >>627
誰に言ってんの
「遺跡の存在は真偽とは無関係」と俺いってねーし
住居跡は少しあると書けば良かったのかい
巫女千人や兵、官職の奴の住居どこよ >>638
ちゃうヤマト王権と箸墓関係ない
ヤマト王権は渡来人と倭人が作ったのだよ
曽我氏は渡来系 蘇我氏を渡来系とするのは間違いだよ。
古くから交易してた範囲が広いからそう思われるのも仕方ないが。 >>640
なら九州説さん、卑弥呼の墓と都の遺跡を見つけてね ヤマト政権は縄文人の末裔の王が多いんじゃないか
明日香、奈良時代はほとんどそうだろう
母系は縄文晩期〜弥生時代の渡来集団の系統が多いかもね
渡来人はあくまで技術者集団
弥生の王、神殺しみたいなものがあってその結果だな
王の下にいた民や奴婢などが下剋上を起こしたんだろう 古墳時代からは人の時代
天智も天武も父系は縄文系だろうな
結局争い続けて誰もヤマト政権を継ぐものが居なくなった
最後に神代の王を迎えて今に至るだな >>606
いつまでも吉野ヶ里が特別なんて事はないけどね。規模では出雲地方、特に田和山遺跡には注目だろう。
また妻木晩田遺跡の方が遥かに広大だしな。
祭祀に特化したような特殊な遺跡なら伊勢遺跡に他でもない巻向遺跡だし。 というよりまだ本気で九州説なんて支持してる連中がいるのは正直不思議で仕方ないのだが。
まあ私は元々九州説からの転向組なので、矛盾やダメな点もよく解っているつもりだからな。 九州説といってもトンデモが99%だからねえ
ま、畿内説はトンデモ100%ではあるが・・、 >>646 孝霊厨
畿内には、「阿波」のようにずっと続く王都たる集落遺跡が存在しない。 @阿波 阿電波 うんと泣け
逃げるな! そこへハンター。
〇阿波には、九州畿内のようにずっと続く王都たる遺跡自体が存在しない日本の補欠。 @阿電波 >>650 太国
碌に遺跡も出せないアホ。 @阿波 阿電波
オマエのビリケツの地は殆ど新米神社だろ。ww
遺跡は風化するからそこになくても論は崩壊できねえ。
オマエの先祖はいなかったんだろ。pp
じゃあオマエはおそらくグレイの改悪された生命体だろう。 わはははははは @太国 >>652 太国
碌に遺跡も出せないアホ。 @阿波 >>643
振るなよ九州説に俺は纏向は王都じゃない説 >>637
>八幡愚童訓
統計学にたいして神霊書なんて持ってくるなドアホ。 >>655
ドアホはうぬのほうだな。
TVでも八幡愚童訓は他国侵逼の難の時代の内容について登場するし、軽視は
できない。おまけに千葉考古班の箸墓のハイテク機器測定の結果年代の
240年〜260年
と合ってるんだから信憑性は堅い。
オマエだって、オマエの車を運転するに、速度計だって間違えれば違反で
取り締まりを受けるし計器は正確そのものだ。歴博の機器だから高価のはずで
精度は確かだよ。それに神霊書でもなかろう。
童訓に
黄龍2年=230年=開化48年
だから測定と矛盾はない。
だから開化のこの年代の9年後の崇神の代が
景初3年=239年
で崇神の代の初期だよ。ここから
崇神没年=258年
がほぼ決まる。ドアホは論説でねえ。思い知れ。 >>656 太国
碌に遺跡も出せないドアホ。 @阿波 >>653 阿電波
新米神社しか出せないオマエのビリケツ地。pupupu
オマエのビリケツの地は殆ど新米神社。ww
遺跡は風化するからそこになくても論は崩壊できねえ。
オマエの先祖はいなかったんだろ。pp
じゃあオマエはおそらくグレイの改悪された生命体だろう。
グレイっていうのはあのアダムス・ファミリーの坊主頭の男を小さく
してやせさせたような風貌でこの宇宙人にオマエは似てるようだな。 わはははははは @太国 >>659 太国
お前はなんの遺跡も出せないドアホ。 @阿波 どうだ、今日は松沢病院から遅かったようだからだいぶ前のオツム
が厄介なのだろう。院内はオマエの猛声のようにすごい奇声がウンと
聴こえてきたか?ハハハ・・・・・
新米神社しか出せないオマエのビリケツ地。pupupu
オマエのビリケツの地は殆ど新米神社。ww
遺跡は風化するからそこになくても論は崩壊できねえ。
オマエの先祖はいなかったんだろ。pp
じゃあオマエはおそらくグレイの改悪された生命体だろう。
グレイっていうのはあのアダムス・ファミリーの坊主頭の男を小さく
してやせさせたような風貌でこの宇宙人にオマエは似てるようだな。 わはははははは @太国 >>643
これ暗に畿内には卑弥呼の墓や都の遺跡は出ていないと認めてる?
偉いぞ、ようやく現実が見えてきたな >>656
>千葉考古班の箸墓のハイテク機器測定の結果年代の
>240年〜260年
>と合ってるんだから信憑性は堅い
何と合ってるの? >>665
百襲媛の没年代からこの測定年代が崇神の代だとわかって、童訓の
開化48年=230年 が矛盾ないと分かる。だから童訓は古代からの真の年代の
情報を持ってたわけでその功績は大きい。測定した片側の240年は崇神の先帝の
開化のこの年代からの10年後であって、箸墓年代が合理性ある測定だったと
いうことさ。班が熱象してイカ様なら歴博は千葉県の傘下だから公文書偽造
同行使の報告書を館長に提出したことになり、パクられることになろう。
だがそんな不正を館側から出てないところを考えると、10年もたってるし、
そんなイカ様の状況はないと観ていい。あればそのへんで見破られて大騒ぎ
になってる。だから箸墓年代は240〜260年だったのだよ。 >>666
>百襲媛の没年代からこの測定年代が崇神の代だとわかって、童訓の
開化48年=230年 が矛盾ないと分かる。
何を言ってるんだ、歴博の出したのは布留0式古相の年代。
しかもそれが正しいとは決まっていないし、
モモソヒメの没年は何も関係はない、箸墓はモモソヒメと決まっていないし、
よしんばモモソヒメであっても、その埋葬時期は4世紀前後。
墓の建造開始時期と被葬者埋葬時期は別。 大和から九州遠賀川流域まで物部氏が治めていた痕跡が残っている。
筑後川流域は筑紫君磐井か治めていた痕跡が残っている。
おそらく磐井が狗奴国王家。
あれっ、九州邪馬台国ってどこにあるんだ? 川添VS纏向
吉野ケ里VS纏向
大宰府VS纏向
平原VS纏向
その他VS纏向
倭人伝の記述から纏向は邪馬台国の王都として九州の遺跡に劣るのだよなーーー >>667
決まってないとはオマエの御都合さ。オマエの車の速度計が綿密正確に
造られてるのと同様、博物館用の年代精密測定機器は高価品であって
綿密に年代が測定できるように製造されている。オマエの脳内の勝手に
決めた年代ではなく、正確性は十分だね。念のためか幅を持たせていて
高価な精密機器はウソはつかない。オマエの車の速度計が60kmとあれば
正確そのものの速度だと同様にこの機器の数字こそ高度の信用性がある。
記紀にあるだろ、百襲媛とね。だから年代に矛盾がないということは、
箸墓が百襲媛の墓だということよ。記紀とこの機器と童訓との3セットで
もう決まりさ。4世紀ではないね。測定結果は3世紀を示していてオマエの
オツムより正確さ。w うっちゃりはもう無駄。つまりオマエの論に
重大な欠陥間違いがあるということさ。童訓の言う年代からも3世紀さ。
これで十分だな。はやくオマエのオツムのどこがおかしいか考えろ。
オマエのほうが精密機器より正確だとはオマエの慢心だよ。オマエのは
合ってねえのさ。機器がオマエのは間違いだと遠回しに言ってるのさ。 倭国大乱で分裂してた勢力のうち、普通に呉と交易出来てた側はわざわざ帯方郡の魏のところへ行く必要なんて無いんだよな
帯方郡へ行ったのは狗奴国なのに
そこんとこをちゃんと理解出来てたら九州説なんてあり得ないってわかるのに 魏志倭人伝も、よく読んで見れば、帯方郡へやって来たのは狗奴国だったって突き止めてる文章なのに >>670
手始めに、纏向に「平塚川添遺跡」をぶつけてやるよ
さて、どちらが王都としてふさわしいでしょうか
倭人伝記述の物証で比較してごらんwww >>667
百襲媛の没年だが、当時倍暦を行使していたからその計算から実年代は
240年=正始元年=紀の崇神十年
だよ。卑弥呼はもう少し後で彼女の没年はオマエも知ってるだろうが
247年=正始8年
さ。ともに3世紀だな。両者別人と分かる。 >>672
あのーーーヨコからだけど、、、、
モモソは第7代孝霊天皇皇女で
欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされてるのですけど、、、 >>677
太国 ◆ZgyHKik.H2さんよ
初産物は静かにしてたほうがよいよ
ここに長くいる人でスレ主以外に対抗しても君の知識じゃ無理 >>676
はぁー
磐井の領域
はぁー
時代考証メチャクチャ 3年前に平塚川添遺跡は近くで三角縁神獣鏡が発見されて
シンンポジウム開いて喜んでたよ 千葉考古班の箸墓のハイテク機器測定の結果年代の
240年〜260年
と合ってるんだから信憑性は堅い。
黄龍2年=230年=開化48年
だから測定と矛盾はない。
だから開化のこの年代の9年後の崇神の代が
童訓に
景初3年=239年
で崇神の代の初期だよ。ここから
崇神没年=258年
がほぼ決まる。
↑こういう具体的な記述はとても参考になります
ありがとう感謝しています(_ _;) 狗奴国は大和川の南の河内と和泉です
邪馬台国は大和国で大和盆地です >>664
>これ暗に畿内には卑弥呼の墓や都の遺跡は出ていないと認めてる?
己れの強い願望ゆえ、現実が見えなくなるのが九州説の病気だね
候補は箸墓と纒向
安定の畿内説 九州説は場所の候補が多過ぎで候補各地がどれもショボくて
場所の候補が多過ぎて統一されてないから最悪
定員1名の知事選に候補者多数(6名)立てて自由民主党と戦っている野党各党みたいな物 >>671
平原?
なんか、環濠あったか?
墓地公園なのに。 >>675
倭人伝の記述に邪馬台国に限定した
したのがあるのか? >>675
これだな そうとは思わんが
コテ調べにぶつけるにはよいかも
安本美典の邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!― 追記
しかし
このスレも限らった人しか来てないから
安本説を支持する人がいなければ無視だろうな >>678
それはウソだな、学術的な調査なんて全くなされてないから。
葛城地方の考古学的な調査なんてまだ無いに等しいレベルだよ。 >>688
曽根崎遺跡群のことじゃないかな
纏向も古墳群???と想定してかな?
両方
環濠集落でもないし
集落としては住居跡少ないし 欠史八代欠史八代欠史八代欠史八代
欠史八代欠史八代欠史八代欠史八代
欠史八代欠史八代欠史八代欠史八代 おはよう、まだ諦めないのか、箸墓が卑弥呼の墓、狗奴国が弟卑弥弓呼の河内、やがて五王に繋がる。九州に道教の宗教集団の痕跡無し、記紀は百襲を指定し道教を引用し殺す。さて、記紀の神武の前まで筑紫、筑紫とは何ぞや?月支というのもあるわね >>677
>百襲媛の没年だが、当時倍暦を行使していたから
していない。
>その計算から実年代は240年=正始元年=紀の崇神十年
崇神の墓は行灯山で4世紀前半、ほかにも四道将軍絡みの墓はことごとく4世紀前半、
稲荷山鉄剣のオホヒコもヲワケの7世代前で4世紀前半。
あきらめろアホ。
小便漏らして泣きわめけ。」 >>678
学術的にはって何、どういう事?
崇神が4世紀初頭から前半、古事記の崩御年干支を信じるとして318年没が有力。
纏向石塚が年輪年代で2世紀末。
考古学的には崇神依然尾100年から120年の王の存在が証明されるわけだが。
勿論纏向遺跡が天皇の墓という意味ではないが。 >>695
おはよう
いつまで神話の世界を語るのかね 飽きたよ >>692
この8代の天皇がいるために、実年代が相当古くなってしまいます。
彼らがいなければ歴史がすんなりと入ってきます。
記紀は年代を逆算し年度や月日は中国の暦に従って記載されています。
1年が180日というのは誰かが考え出した珍説です。
漢字に拘って古事記を読み解くと主要人物が繰り返し登場して、天皇の起源を遡らせています。
伊邪那岐命は、神武天皇前半、垂仁天皇、仁徳天皇でも登場します。
天照大御神は、神武天皇後半、仲哀天皇、継体天皇でも登場します。
神武天皇(天照大御神)が熊野から侵攻して、大和・難波を占領したのは西暦498年頃と思われます。
ていくと、神武天皇の即位は、紀元前660年 >>678
そいつらは象牙の塔の津田病にかかった左党舐め好きで歯本主義の象牙質が
崩壊しており神敬質が露帝している危険な歯層の状態にいる連中であり、
奴らは欠歯八代が代歯達多のいかれた歯層脳労にかかってるのだよ。
まあ歯科医主義者だろうがこれはまだいい。強酸糖だ出ないように重々
オマエの脳内が冒されないように警戒しろ。
オマエもこいつらの出鱈目論にだまされちゃいけねえ。 >>696 してるね。一例だが、黄龍2年が開化48年の開化の代
は2倍暦をしてたのさ。↓ これをみて明らかだな。当時の1ヵ月は現今の半月。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ことごとく月前半の2週間に収まっている。 >>697
神武がヤマトに入ったのいつだと想定しますか? >>697
318年じゃあないよ。崇神没年=258年がほぼ正解。そうじゃないと
八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
と合わないねえ。
>>704
倍暦の終焉から全逆算が必要。簡略で書くが
神武九州出発年=B.C.6年 >>678
いまロスケのペンギン(プーチン)は側近に暗殺されねえかだいぶ
奴の精神状態がおだやかでいられない気が気でない脳内の状態にあるようだ。w
歯イタの歯居他土臭いの他土侵略の遠因は歯科医主義と強酸主義にあるのさ。
日本の象牙の塔の左党大舐めの連中は歯層脳労の代歯脱多のフガフガ(不牙
不牙)の危険な歯層の状態の野郎どもだよ。騙されるな。 >>700
いや、作り話ばかりだ。
諸家の所伝をつぎ合わせて角の立たない様にしなくてはいけないので、相当創作も入ってる
当時の「歴史学」の限界でもあるんだよ >>704
>神武がヤマトに入ったのいつだと想定しますか?
そもそも実在せんわ >>702
モモソは実在して、ほかは切り捨てるのかな >>710
いや、倭迹迹日百襲姫命も実在した何人もの大巫女をまとめて作った人物だ
だって似た名前の女がいっぱい出てくるだろ?
その中の一人が卑弥呼だよ >>709
実在した天皇なんて天武以前はいない
オホキミがいたんだよ >>707
いやあ重要な点は殆どあってますよ。というのは
古史古伝も記紀と重要部分がほぼ同じなんだからツクリ話ではないね。
天皇の超長寿の記述がインチキだといっても当時の1年は半年とかだから、
当時の天皇は現代人の寿命と大して変わりないというよりもう少し短命
のようだ。
古史古伝が記紀と重要な点がだいぶ違いがあれば、これはツクリ話の
可能性が出て来るが、古史古伝は朝廷とは無関係的で内容に変わりが
重要部分にないんだからツクリ話ではない。但し神武より古い時代は
神代で神話の域だから伝説に留まるとしてもいいだろう。 天皇も物部氏の系統だよ。
物部氏の始祖がニギハヤヒ、その弟がニニギ。
なぜか弟の系統が天皇になってしまった。 >>713
>いやあ重要な点は殆どあってますよ。というのは
>古史古伝も記紀と重要部分がほぼ同じなんだからツクリ話ではないね。
古史古伝ってのは記紀にまた創作を書き加えて作るんだよ
九州説ってばかだなあ >>714
物部氏なんて新興氏族だよ
「部」だろ? >>715 アホ踊りでも踊ってろ。
そうでねえんだよ。
記紀にない挿入の出来事があるのさ。これは挿入だから記紀の記事と違う
というものとは別だ。たとえば
大成経の応神4年(時代が編者が誤認している)として編者が超新星の記述を
詳細に載せている。ということは記紀の書きうつしでねえのさ。
まだほかにもあるしな。書き写しなら記紀の代筆と書けばいこいとよ。
古史古伝は元の経の写経ではねえ。 >>717 太国
ドアホども。
碌な遺跡が無いもんが、いくら記紀を持ち出して、あ〜だこ〜だ言ったところで
なんの意味もないわ! @阿波 意味はあるさ。オメエはオメエの先祖がいねえそうだから宇宙人グレイw わはははははは @太国 お笑い神武天皇。神武天皇陵は明治時代にコンクリートで築造された。 お笑い神武天皇。神武東征で使われた兵站基地の遺跡はどこにも存在しない。 欠史八代と言えば磯城県主葉江である。これが天皇家の御先祖。 >>721
工作員の朝敵よ オマエのイカ様漫才で乙。
瀬戸内海沿岸に伝承は多数ある。これは神武が架空の人物ではないことを意味する。
戦前ならオマエは特高に逮捕されてチャン・ソンタク氏の再来となる。ppppp
神武即位は西暦元年の辛酉だ。思い知れ。
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 天皇家の先祖はアマテラス〜神武。
コンクリートは神武の骨ではない。遺跡は風化していく。
いま存在しないは当時の存在しないにはならない。
残っている遺跡は絶滅危惧種同然。 菊の十六紋を神紋とする「神武天皇を祀る樫原神社」
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが
「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武天皇の元名・「神倭伊波礼毘古命」とし、菊の十六紋を神紋とする。 @阿波
http://www.awainbe.jp/info/20190426/
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ お笑い辛酉革命説。601年を基点に干支60年✕21=1260年を引いて勝手に決めた。 天照大神 = 邪馬台国女王卑弥呼。
豊受大神 = 邪馬台国女王台与。 「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3姉弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >>727 左党舐めの工作員の朝敵よ
オメエが勝ってに決めた愚論。 わはははははは @太国
阿電波よ
新米神社で乙。 わはははははは @太国
天照大神 ≠ 邪馬台国女王卑弥呼。
豊受大神 ≠ 邪馬台国女王台与。 @「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
A「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
B「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
C「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
↑
デンパ説 >>733
そんあもんでしょうな
記紀を鵜呑みにする輩は宗教宗教 畿内説ってさ
記紀は参考程度と言いながら
都合の良い部分は思いっきり引用するなwww 卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。
これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する
↑
デンパ説 北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」
これが北史倭国伝と記紀との整合性。 @阿波 北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」
これが北史倭国伝と記紀との整合性。 @阿波 南は東と読むらしいから、湖南も湖東が正しいんだろうろな
畿内はこんなバカばかり 天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが、
徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
その大宜都比売命の別名を、天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)だと言われています。 @阿波 新米神社で熱象ご苦労。賢人はだれも信じねえから安心しろ。
今日は松沢病院の待ち時間が短かったようだな。w
さっき院内からすごい奇声がたらふく聴こえてたかあ〜? わはははははは @太国 >>744
ヤマト王権発祥の地は阿波で良いと思う
問題は阿波邪馬台国が初期ヤマト王権かどうかでは >>746
三輪山伝説は、「阿波」 の伝説。 @阿波 >>747
初期ヤマト王権?
そんなものは無い。 7世紀までは倭国(阿波)に王権があった。 @阿波 > 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
タギシミミね。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭 事代主の曾孫である建甕尻は別名タケミカヅチ。
記紀では時代特定されるのをさけるため「神代」に設定されているが、
卑弥呼の後に立ち千人が死ぬ騒乱の男王とは建甕尻だ。
そして狗奴国=静岡を攻め、天竜川を遡上、タケミナカタを諏訪に追いやり、
鹿島にたどり着く。
それに随伴したのが経津主神こと香取神。
その香取神の痕跡が千葉の神門古墳群だ。
3世紀中頃、時代も見事に合うだろ。 狗奴国は大和川の南の河内と和泉
邪馬台国は大和国で奈良です
卑弥呼の次の男王は吉備の王の系譜の温羅ですね
吉備の釜の下で眠る丑寅みさきですね >>752
沼地と山ばかり
7万戸むり、食わすのも無理
だから畿内に範囲を広げたのだよ
今や近畿まで広げる輩もいる >>752
>狗奴国は大和川の南の河内と和泉
>邪馬台国は大和国で奈良です
矛盾している。
大和説では方角の南を南東ととらえていたとしか考えられない。
河内と和泉が狗奴国なら南にならないどころか北西になる。 >>717
>大成経の応神4年(時代が編者が誤認している)として編者が超新星の記述を
>詳細に載せている。ということは記紀の書きうつしでねえのさ
後世の書き加えってことだよw >>753
それは学史の無視
つまり嘘
九州説はそういう「わかりやすい嘘」をつくことで滅んだ >>755
未知の他の文献があったのさ。記紀に迎合したのではな〜い。
記紀の編者と各独立してるということよ。ウエツフミには記紀では日本の国生みしかないが世界の国生みの記述がある。
記紀の真似ではねえんだよ。古史古伝は記紀の写経じゃあねえんだよ。うんと泣け。 >>757 太国
記紀バカがいくらホザイテも、碌な遺跡が無ければ無駄吠え。 わははははは @阿波 〇アホバカの俺がいくらホザイテも、火星の遺跡はグレイの俺の電波の発信所。 わはははははピピピピピ @阿電波 邪馬台国は外部勢力が大和盆地に打ち立てたヤマト政権の都
狗奴国は畿内の在地の勢力の生き残りで大和川の南の河内と和泉
倭国大乱から600年紆余曲折を経て不完全ながら倭国大乱前のありよう、ヤマト政権誕生前のありようを取り戻し平安が訪れるんだよな 無駄だ、卑弥呼は鬼道と書いてある、陳寿が観たわけではない、中華役人にとっても当たり前の鬼道なんだよ。当時倭国は乱れ纏められる主無く歴年。倭人に能力なし、そこに五斗米道巫女が現れ、宗教指導者として、1つに纏めあげ、忠孝から魏に朝貢し曹叡から称えられ親魏を貰いました。という話が倭人条の主旨だよ。尚、前方後円墳は中華役人から見りゃあ鬼道と直ぐわかるわ。五斗米巫女だから誰であるかも知ってる。天皇太一を補佐する者を台と呼ぶ、だから台与なの。箸墓以外にないのよ。 箸墓は百襲媛の墓。
媛は卑弥呼より7年前に逝っている。その
卑弥呼の死は倍暦計算で240年であり、これは千葉歴博考古班の
精密機器測定結果の
240年〜260年
に矛盾はない。 奈良が邪馬台国なら
纏向やその周辺に7万戸の、それらしき住居跡がワンサカ出てもいいんでねの
奈良は地方豪族の墓地 邪馬台国は地方豪族の共同開拓地
官に副なし、卑奴母離ないので鉄鏃が少ない所 >>763
>奈良は地方豪族の墓地
奈良は「倭人(阿波勢力)」の墓地。 @阿波 >>765
>邪馬台国は地方豪族の共同開拓地
奈良湿地は、「倭人(阿波勢力)」の開拓地。 @阿波 >>767
@阿波が以前から言っているように
纏向は古墳造営基地が正解だと思うよ
どう考えても、纏向が王都とか掘っ立て柱の家が王宮とは思えん >>745
太国 あなたは 教祖になればよい
あなたは学問より宗教が向いている >>768
>どう考えても、纏向が王都とか掘っ立て柱の家が王宮とは思えん
掘っ立て柱の家は葬儀場だと思うけど 造営基地として使用された説は実は重要なんだよ。
やはり三輪山の麓にある巻向遺跡は祭祀場所としか説明は出来ないという事だからな。
仮に箸墓の造営基地としても使用されたなら、正にそこが卑弥呼との強い所縁がある場所という証拠だからだよ。
なので造営には卑弥呼が影響力のあった場所から人々が集められた事になる。祭祀は女王として特に崇められていた吉備の様式でね。 また三輪山の麓辺り自体は傍国、巳百支として説明されていると思うけどな。
巳と百なんて漢字が使われているのも偶然にしては興味深い。
倭人伝の邪馬台国七万戸という過大な数は傍国含めた推測値なんだろう。 >>769
神道に教義はないからこれは宗教えはない。但し神道の派は宗教のほうの
ようだ。宗教の「宗」だけ。 >>768
別に倭国の王都でない。
女王の都とするところである
宗教地の一部
立派なもんがあって
豪華なもんがあるとかイメージは自由
だけどな。 >>772
復興、開拓、宗教地
なんで7万戸と見積もったんだな。
あくまで可能だな。
官も4名、上下関係を表す副もない。
まず不彌國 南至、経由地点や水行も詳細なこと書いていない
日数のみ。ルートがいくつかあるかもな。
遠方だし。行く必要もない国。 >>775
>女王の都とするところである
奈良湿地がか? 女王かわいそう。 @阿波 >>778
>なので”邪馬壹國”は、一カ所しかでてこない。
「邪馬臺国」は、倭の一部に過ぎないからな。 @阿波 魏使が滞在したのは、「邪馬臺国」の内、首都女王国。 @阿波 >>777
ぜんぜん、一部なんだし
宗教地なんで霊場は近畿のあっち、こっち。
なので1月。
また、卑弥呼は共立で伊都国にいる。 >>780
いや、伊都国だな。
宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛がある所 >>781
>宗教地なんで霊場は近畿のあっち、こっち。
じゃあ、纏向は「女王の都とするところである」は間違いだな。 わははははは @阿波 >>781
>また、卑弥呼は共立で伊都国にいる。
じゃあ、纏向は「女王の都とするところである」は間違いだな。 わははははは @阿波 >>782
いや、「阿波」だな。
「丹」や「橘」がある所。 @阿波 廣志においてヤマイチ国へ海を渡る記述が無い以上は邪馬台国阿波説は既に論外だからな。
どんなに阿波が悪態ついても、邪馬台国の位置は畿内しかあり得ない話だ。
魏略に女王国の南側に狗奴国がある記述から、
四国は瀬戸内海以外は狗奴国だろう。 >>785
火星の遺跡は残ってるのか?
今日はイピピピピピッと火星遺跡からデンパがオマエの脳内に聴こえるか? わははははははは @太国 藤原京の下に箸墓の前段階、類似型の円墳もあった事から、藤原京は何かを下敷きにしている可能性は高いだろうな。
蘇我に縁の深い土地柄でもある事も。
まあ石舞台古墳のあの状態を見ても判るが、色々破壊されているのは間違いないだろう。 >>774
書きこみミスあり。視力が落ちてるので・・・。 >>788 孝霊厨
>藤原京は何かを下敷きにしている可能性は高いだろうな。
倭国(阿波)王権が庇護した、朝鮮半島避難渡来人街だな。 @阿波 >>768も>>770も
何も考えてないと、よくわかる >>782
>いや、伊都国だな。
>宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛がある所
伊都国にそんなもん有るとは倭人伝に書いてない >>791
纏向で
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
これ立証できてないよ 橿原地区は畿内では珍しく東国の縄文文化との交流が見られる場所でもあるからな。
遮光式土偶の破片が出たのもその為。
耳成山周辺は蘇我の郷でもあった場所だから
広範囲の交易跡が確認されるのも当然だね。 >>793
巻向遺跡で出る可能性があるなら巻向駅の下かその西側かもね。
こればかりはまだどうしようもない、現在の発掘場所なんてごく限られた場所だからな。 >>795 孝霊厨
>現在の発掘場所なんてごく限られた場所だからな。
「阿波」こそな。 @阿波 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別されるようだな
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重愛知岐阜、東北富山石川和歌山
大阪京都が1番近いのは東北グループ
関東全域は意外なことに東北グループからは遠い位置にいる
遺伝子から見ると近畿で東北に近いのは和歌山大阪京都だね ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン氏が飼っている犬たちは、幸せにしているのだろうか。 >>799
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン氏は、秋田犬を贈呈された可能性があるのだったね。 東北の伝承
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る争い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをし、黒神は北に追いやられた
全国で繁栄を極めた黒神は東北や北陸に追いやられたが和歌山大阪京都辺りでは生き残ったということだろう
大阪辺りは在地の勢力の力が強かったんだろう >>800
秋田犬の祖先は、シベリアではなく、中国南部やチベットなのだったね。 >>802
中国人に倭人と呼ばれた者達も、中国南部やチベットからやってきたよ。 ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン氏が飼っている犬たちは、幸せにしているのだろうか。 >>793
>これ立証できてないよ
九州で立証できた遺跡は一つもない >>795
孝霊厨
言いたいことはわかりますが、期待感だけで王都とか宮殿とする畿内説の学者には困ったものです。 >>805
環濠集落 住居跡
100%無理としても近い遺跡は
吉野ケ里 川添遺跡
纏向より倭人伝の記述に近いよ 畿内説はいいかげん
行程は無視するが
こと他説になると行程を持ち出す 最近の畿内説の人の書き込みは
テンプレ7ナーバス無視しすぎ特に〇さん >>792
ないとも書いていない。また
邪馬壹國にあるともないとも書いていない。
不彌國かな? 銅鏡が3世紀製造でも4世紀の畿内の古墳から出てるのが多いそうだし
「銅鏡が3世紀畿内に多い」とするのは無理があるのではないか?
金属製品なんだし100年くらい保存はできるだろうし
4世紀の畿内人が3世紀の銅鏡を埋めたというだけではないか?
テンプレも結局なんで銅鏡の伝世を否定できるのか説明してないみたいだ
日本書紀には「筑紫の五十迹手が白銅鏡を神功皇后に献上した」とあるように
九州勢力から得た3世紀鏡を4世紀畿内古墳に埋めてもおかしくはあるまい >>811
まあ、権力者に物が集まる。
日光東照宮から金印でたら面白い。
そこが邪馬壹國になるのか?
出土したからそこが邪馬壹國とは限らん。 九州なら九州で良いから
早く場所を決めろよ
福岡か宮崎か熊本だけでも統一しなければわからない >>783
間違いでなく一部。
>>783
伊都国は女王の都でなく
居る所、本来男王が居る所 >>769
コチラにはお薦めの件はなる気がない。
とくにムー誌4月号の112頁にある野郎のような朝敵らしいまずい神道家には
ならないようにしないと。 >>812
特に近畿地方から金印が出土した場合は全く証拠にならんな
その後大和朝廷が関東から九州まで制圧したのは間違いなく事実だから、
ぶんどって持っていった可能性もある
逆に九州から出土した場合は証拠になる 勘違いしてるようだが北部九州から何が出土しても邪馬台国の位置問題には無意味なんだけどね。
そこは倭国、伊都の出張所でもあるし奴国だからな。
でも紀伊半島にある丹山、丹生神社、または海人で普段朱丹を使っていた痕跡までは移動出来ないのと、
奈良盆地のように道教=鬼道の痕跡というのは確実な証拠になりうる。 >>817 孝霊厨
>奈良盆地のように道教=鬼道の痕跡というのは確実な証拠になりうる。
奈良湿地には、「橘」や「丹」が無い。 「魏志倭人伝」に該当しない。 @阿波 >>817
九州は中国朱
畿内は日本朱
なんでだろうね? 曹操の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出現した時点で、銅鏡なんてただの塊。
現にオラが村の神社に銅鏡なんてあるか?
鉄鏡だろう。 >>821
九州は中国朱
畿内は日本朱
なんでだろうね? 卑弥呼が鉄鏡もらったという記録はないので、鉄鏡が出土した地域はその時点で邪馬台国ではない。 アホの九州説が奈良の骨董屋から買ってきた古鏡を卑弥呼の鏡と主張していた。 >>813
九州内で候補が多いということは
九州に邪馬台国があったということでいいんでねーの
王都纏向一本釣りでもいいが、根拠が少ない >>826
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
縄文時代から「魏志倭人伝」時代にかけて、辰砂を採掘していたのは、後にも先にも全国で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」しかない。 @阿波 丹山に関しては丹生キ媛神社が紀伊半島にある時点で話は終了。プラス鏡作神社も金山彦神社も全て畿内だからな。
鬼道=道教に必要な物は全て奈良盆地の周囲で揃ってしまっている。
また七万戸もの数が倭人伝の書かれた三世紀末の時点で存在する事が邪馬台国の条件だろう。
この点でも箸墓の造営が可能な場所の近くには少なくとも10年位は相当な人が滞在したいう事が確実なんだからな。
冷静に考えれば判る話、大規模古墳が奈良盆地に集中しだす三世紀半ば以降相当人口が多かったのは既に証明済みなんだよ。 >>826
畿内でも候補にするだけならいくらでも挙げる事は可能だよ。少し離れて近江の伊勢遺跡なんてのもあるしな。
南河内なら池上曽根遺跡に北河内だと高槻辺り等、八尾の久宝寺遺跡辺りも。
だが七万戸という縛りが加わると畿内全体を候補としないとても無理なのは判っているからな。
九州説では北部九州にある奴国以上という七万戸をクリア出来る場所なんてない。 >>829 孝霊厨
>少なくとも10年位は相当な人が滞在した
そりゃ、古墳造営前線基地だったからな。 わははははは @阿波 >>830
畿内にあるなら畿内全体で七万戸でいいけど、九州だとどこか一箇所で七万戸ないとダメってこと?
またしてもダブルスタンダード炸裂かよw 勝手に近畿全体を邪馬台国にするなよ。
邪馬台国、ヤマト政権は外部勢力による政権だよ。
邪馬台国は大和盆地でヤマト政権の都。
狗奴国は大和川の南の河内と和泉で在地の勢力の生き残り。
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、褐鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。 阿波は倭国の形成段階における重要な位置の国の一つではあるが、三世紀邪馬台国の位置論に置いては論外、邪馬台国関係とは無関係だからどうでもいい話だな。
邪馬台国ではなくむしろ狗奴国だろうし。 >>834 孝霊厨
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
縄文時代から「魏志倭人伝」時代にかけて、辰砂を採掘していたのは、後にも先にも全国で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」しかない。 @阿波 >>833
>邪馬台国、ヤマト政権は外部勢力による政権だよ。
根拠なし >>836
山奥の奈良湿地にそんな勢力が興るわけがない! @阿波 >>833
山奥の奈良湿地にそんな勢力が興るわけがない! @阿波 近畿の歴史はヤマト政権に抗い続けた歴史だよ
倭国大乱前のありようを取り戻そうと戦ってきた歴史
vs竹の歴史やね、ひと言で言うと >>832
七万戸という条件を考えると色々な場所が邪馬台国候補地を名乗る事が間違いだと言ってるのだが。
九州、そもそも北部九州だと奴国、投馬国、邪馬台国が入るなんて暴論以外何物でもないだろう。
まあ北部九州説を成立させるには倭人伝の情報が間違いを前提にするしかない。 >>839
>近畿の歴史はヤマト政権に抗い続けた歴史だよ
近畿の歴史は倭国(阿波)から避難疎開遷都した8世紀から。 @阿波 >>823
まだ、サンプルは少ないと思うよ。
山陰は日本産が多い。
サンプルが増えれば
混合もあるかもしれない。
国産が出始め時期かもしれない。 >>816
判断がむつかしいな
金印返却途中かもしれないし
卑弥呼が居たとしても
そこが邪馬壹國とは限らん。 >>807
>環濠集落 住居跡
>100%無理としても近い遺跡は
倭人伝に環濠集落は出てこない
当時もう無かったと考えるのが学界の主流派 >>829
古墳づくりの出稼ぎ労務者が来ただけ
それも、早くて3世紀後半
それまで、荒野だよ沼地だよ >>830
孝霊厨
あんた近畿説?畿内説?
近畿説ぽいけど。三重県、福井県入れるのか? >>836
飛鳥の公用語は百済語・・・松本清張他
畿内にあった地方豪族たちは倭人と渡来人連合に制圧されたのだ
渡来人が持ち込んだのが仏教
大化の改新は渡来人VS倭人の権力争い
王権といえる初期ヤマト王権は藤原京から もしもだよ畿内に邪馬台国があったとしよう
すると、畿内の邪馬台国は西から来た勢力(のちのヤマト王権)に滅ぼされたと考えてもいいのでは? >>846
桓武天皇の聖母も百済人
ヤマト王権は倭人と渡来人が創った 九州にも
フラッグシップ[旗艦] と成る場所をを決めてくれ、今のままでは九州はボンヤリしていてウザイだけだ >>828
何度も指摘してることだが「其山有丹」の「其」は
文脈的に「倭地」であって「邪馬台国」じゃない
九州になかったとしてもおかしくはない
また「山に丹がある」としかないので
当時、九州倭人が採掘していなくても矛盾はない
さらに漢典によると丹は「辰砂」の意味もあるが
「赤色の鉱石」という意味もあるので
「山に赤色の鉱石がある」という意味だとしたら
ベンガラのことでもおかしくない >>832
>畿内にあるなら畿内全体で七万戸でいいけど、九州だとどこか一箇所で七万戸ないとダメってこと?
>またしてもダブルスタンダード炸裂かよw
どこがダブルスタンダードなのか指摘できない九州説脳が炸裂して飛散
無惨 >>852
苦しすぎる言い訳w
ベンガラは丹といは言わない 天智天皇の歌で豊旗雲に入り日さしとある
用明天皇は九州の豊前の秦氏と関係がある?
用明天皇自身もその皇后も欽明天皇の子、あり得ない近親婚
用明天皇は、欽明天皇の皇女を娶った九州の勢力の人物なんじゃないかな
父系は投馬国のミミの系譜かもねえ >>854
だったら当時の中国語的になんて言うのか? 現代中国語だと「ベンガラ=赤土」は
「紅土」「紅壌」というらしいが最近できた言葉らしく
「中国哲学書電子化計画」の全文検索でも一ヒットもしなかったし、
漢典でも古典の例文がない >858訂正
紅土の方は封神演義に使用例があるらしい
どちらにしろ三国志時代以前には使用例はない 「ベンガラ=赤土」は中国古典では「赭」と呼ぶらしい
こちらは史記、山海経など三国志時代以前から使用例がある
だが三国志では使用されていない
単に書かなかっただけの可能性もあるが…
丹を「赤い顔料」として鉱物の赭も含んでる可能性もあるか >>851
そんなアホなことはしないよ
纏向みたいに花火を打ち上げたはいいが、その後なにもなく不発はしない。
慎重に慎重に 丹はむずかしい
鉄丹、鉛丹、丹砂、、、、
参考までに貼り付け
>「鉄丹」の丹、これこそ古代の朱(アカ)のキーワードだった。「字訓」(白川静著、平凡社)に、
「に【丹】」:土を意味する古語であるが、特に赤土のことをいい黒ずんだ赤色のベンガラとある。
丹が朱色顔料の総称であったと考えられる。古代の朱色顔料には、真っ赤な硫化水銀朱砂とやや黒ずんだ酸化第二鉄の2種類があったが当時の人にはその成分を区別する術はなかったはず。 結論
倭人伝では丹は赤色の顔料のことを指す。
丹を水銀朱と限定する根拠がない。
By牡丹 >>861
纏向遺跡は超立派な建物跡じゃん
付近には箸墓古墳や大神神社等歴史上超重要な施設も存在している 『魏志倭人伝』に見る「丹生」に関する記述
1.以朱丹塗其身如中国用粉也
2.出真珠青玉其山有丹
3.特賜・・(略)・・銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤
4.上献・・(略)・・布帛丹木柎短弓矢 >>861
できない言い訳。
「卑彌呼」の女王国は、鮎喰川下流域集落群だ。 @阿波 >>863
区別がつかない赤色塗料を朱丹と区別したんだろう。丹は基本的に仙薬として認識していて
酸化鉄、代赭でありベンガラとは異なる物としているのが抱朴子。
これは四世紀初頭、魏志倭人伝と殆んど同時期の鉱物資料としてまとめてあるからな。 >>860
>丹を「赤い顔料」として鉱物の赭も含んでる可能性もあるか
ないね
価値が違いすぎる >>863
まあ、こういう恣意的な結論を勝手に出して、学界や世間とかけ離れた世界に飛んで行くのが九州説というものだ
結果的にあらゆる分野で通説と違う事になる 卑弥呼が住んだ場所を遺跡として探そうとしても無理。
当時の王族の住まいは何かしら伝承され、今も神社として残っていると考えられるからだ。
崇神は4世紀前半、大神神社もその時代。
ではそれ以前の神社群が葛城地域=奈良県御所市近辺にしか残っていない。
そこは大和朝廷の発祥地である。
だから邪馬台国の都とは奈良県御所市なのである。 >>867
「中国哲学書電子化計画」の魏晋南北朝期の本で
赭の使用例があるのは、その抱朴子のみで
戦国秦両漢時代、隋唐時代と比べて明らかに使用例が少ない
三国志に限らず魏晋南北朝時代の人は
丹と赭の区別をつける傾向が弱かったみたいだな >>873
南下は倭人伝を読め。
崇神は畿内のほう。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 >>876
>南下は倭人伝を読め。
つまり九州説とは検証することを知らず「南」へ水行ってのを盲信するだけの単細胞ってこと >>878
東方にはならねえよ。
日本の旅行案内書で南下して目的地に着くとあって、東方へ行くのは
オマエもいたいなオツムのおかしい論者くらい。pp >>874
>丹と赭の区別をつける傾向が弱かったみたいだな
九州説は、なぜそんな嘘つくの? >>881
90°東は絶対成立しないのだね。ww
畿内に最初の女王は推古から。天皇国の地に女王国が同在するいかれた
論が畿内説。おまけに伝の借り物記述以外日本原産の卑弥呼の記事は記紀
にはない。これは畿内に女王国がなかったから畿内のは卑弥呼の幽霊にも
ならない。 わはははははは @太国 畿内は東であり南ではないと言いながら、
金印の「極南界」はあっさり志賀島だと認めるアホの九州説。
志賀島のどこが極南界なんだか。
あんなもの偽造に決まっているだろ。 >>883
志賀島は漢倭奴国王の金印のほうさ。150年位前で無関係。
金印は偽造ではない。発見したのは地元の百姓あたりか?
ならば偽造のとき字が書けねえ。つまりあんなインチキはできねえ。。
百姓らあたりが字が読めたのか?pp
偽造するなら金をコーティングする中身は鉛を使うだろうが。ww
全部中身まで金ならば、偽造するよりその金だけで売ればかなりの収入に
なるし、偽造は打ち首くらいはなろう。こんなやばいことをやればお上
見破るぜ。 ワハハハハハハハ @太国 >>884 太国
偽金印は、黒田藩内の学閥争いの産物。 @阿波 >>874
文言の意味は同年代の資料によらないと意味はないだろう。
現代でも携帯なんて意味は50年前と全く意味合いが変わってしまう。
三世紀道教が成立する時代には抱朴子が一番合致してる。
四世紀末以降は水銀朱、丹の意味もまた微妙に変化するからな。 >>863
>丹を水銀朱と限定する根拠がない。
賛同する
畿内説の陰謀であろう。
>>865も賛同する
丹の文字は何度も倭人伝にでてくる。
其山有丹だけ取り出して水銀朱とするのはいかがなものか。 >>882
>90°東は絶対成立しないのだね。ww
九州説、言い張るだけで、ばかみたい >>887
>丹の文字は何度も倭人伝にでてくる。
水銀朱のことですが、何か? >>886
魏晋南北朝時代が幅が広すぎるというなら
「中国哲学書電子化計画」の魏晋時代のみの資料に限定しても
抱朴子しか「赭」の使用例がなく、「丹」は割と使われているんだぞ
時代を狭くした所で傾向は変わらん >>888
馬鹿ではないねえ。
それは絶対ありえない大間違いであって、畿内説が大ウソの恣意的畿内への強行
誘導した盲象そのもの。90°もかわるわけがない。冷静に考えてオツムを
冷やすんだな。 3世紀の邪馬台国=ヤマト国
「第一世代」 天日方奇日方 ヒメ(踏鞴五十鈴)后 @神武
「第二世代」 建飯勝 ヒメ(踏鞴五十鈴)后 A綏靖
「第三世代」 建甕尻=タケミカヅチ 経津主神(香取神) B安寧
「第四世代」 豊御気主 トヨ津媛 C懿徳
「第五世代」 大御気主 トヨ津媛 D孝昭(みまつ=彌馬升)E孝安
「第六世代」 阿田賀田須 トヨ津媛 F孝霊 G孝元 H開化 I崇神(みまき=彌馬獲支)J垂仁(いくめ=伊支馬)
数字の人物たちは7世紀以降に「天皇」と呼ばれる。
彼らは王でもなんでもない。
みまつ=彌馬升、みまき=彌馬獲支、いくめ=伊支馬、
彼らは魏志倭人伝に書かれた官であった。 >>885
偽印やるなら鉛で造るぜ。だいいち現今の学会でイカ様ならとうの昔に
見破られるさ。今でも某博物館に展示されてるんだからウソのわけがねえ。
どこかの大学か研究所、館員とかが見破って展示なんかしねえさ。
オメエん処は銀の格下地だ。態度がでけえぞ。 わははははははは @太国 >今でも某博物館に展示されてるんだからウソのわけがねえ。
このジジイ、アホやw 末羅から500里伊都が何処で在ろうが、朱がベンガラであろうがなかろうが、橘が畿内に無かろうが、箸墓は百襲姫の墓であると、男天皇墓にしたくても出来なかった記紀が認め、明かに前方後円墳は天地水であり、陳寿が鬼道と断言している以上五斗米道3官墓であり、卑弥呼の墓なんだよ。道教を否定する記紀三船らがホトを突いて死なせたのが策に溺れた決定的な証明になってんですよ。他説はまったく愚 >>894
館員学芸員他研究所員とかはニセ物と騙されて今まで展示させてるほど
間抜けではねえのさ。pp >>896 太国
お前と一緒で、間抜けだ。 @阿波 〇お前と別で、俺は大ケツ屁抜けだ。pupupubuw・・・ @阿電波 「魏志」朱丹 塗 其身體
:朱丹(赤い顔料や鉱物性の薬物)を身体に塗る。
「後漢書」丹朱 坋身
:朱丹を身にまぶす。
・・・とあり、朱丹と丹朱の違いはありますが、ほぼ同じ内容です。
「魏志」出 眞珠 青玉 其山有 丹
:真珠や青玉を産する。その山には、丹がある。
「後漢書」出 白珠 青玉 其山有 丹土
:白珠や青玉を産する。その山には、丹土がある。
・・・とあり、少し違います。
真珠は「三国志」以前の中国文献に多く観られますが、殆どが、珍しい貝の玉からの意味のようです。
「白珠」は「後漢書」が初見?で、これも貝の真珠とことと思われます。
青玉は普通、ネフライト(軟玉)を云いますが、ここでは翡翠(硬玉)と思われます。
「後漢書」の丹土はベンガラの可能性が高く、「魏志」の丹は「土」の脱落です。
九州のベンガラと云えば、先日、大爆発した阿蘇山の古代の阿蘇湖のベンガラが有名で、弥生時代にはベンガラを採集していたようです。
景行天皇も製鉄に使えないかと思って、ベンガラ産業を見に、阿蘇に行ったみたいですね。?
卑弥呼が魏から貰ったお礼の品には、
「魏志」銅鏡百枚 眞珠 チ丹 各五十斤
・・・などがあります。「後漢書」には記載無し。
チ丹は鉛丹のことで、鉛から作る朱のことです。
「斤」は後漢の時代は約220gなので、五十斤は約11kgになります。
貝の真珠を五十斤も貰うでしょうか?
この「眞珠」は「眞朱」の誤字で、水銀朱の可能性が高いのです。!
魏は卑弥呼の欲しがる物(邪馬台国に相当する地域では産出が少なく、貴重な物)をお礼品にしたのです。
即ち、卑弥呼は九州(山口県を含む)の女王と考えるのがまともな、考えなのです。
卑弥呼は九州の土蜘蛛、そんなことは、最初からわかっているなんて、トンチンカンなことを云わないで下さい。
そう云うなら、自分はそう思うでは無く、チャンと根拠をもってネットにUPして、欲しいです。
知恵袋のサイエンス・日本史カテゴリーで、多くを学び、昔の偉い先生方の間違いを正し、子供達にも正しい知識を教えましょう。 邪馬台国の謎の解明がまったく、進まないのは、これを阻止する保守層の先生方がいるのと、主導権を持つ大学の先生方の考え方に大きな間違いがあるからです。
このような、何も分からない謎の世界を、自分や家族の生活を守る為に、トンチンカンな考え方をしてはいけないのです。常に自分の考えに疑問を持ち改訂・更新することが必要なんです。
これをしない方は邪馬台国の謎をサイエンスとして語っても、科学的な意味を持たないのです。
今はネットの時代ですから、誰もが、昔の大学の先生方の知識を持ことができます。 >>899
其山有丹
ずいぶん遅れてるよ
丹を水銀朱とする畿内説の学者はいない(以前の話題) 白珠とは水晶のことで中国では冠に付ける装飾品で需要があった。 >>880
なんで嘘なの
根拠を示すべきだね
其顏色赫然而赤、如㆓厚漬之丹赭㆒
また
丹(タン)が色を名指すときは赭土(シャド)、赤土の色の意味である。赭土の主たる発色成分は三酸化二鉄である。 よって畿内説の遅れた学者は以下を反論できない
>丹を水銀朱と限定する根拠がない。 >>904
あがいても無駄 説明できないのだから
>丹を水銀朱と限定する根拠がない。 >>907
なんど言ったらわかるだ
畿内説は丹にこだわっていない >>890
>「中国哲学書電子化計画」の魏晋時代のみの資料に限定しても
>抱朴子しか「赭」の使用例がなく、「丹」は割と使われているんだぞ
「中国哲学書電子化計画」の魏晋時代のみの資料って、何? >>909
道コ真經註、抱朴子、人物志、神仙傳、三國志、高士傳、神異經 >>912
魏晋南北朝と言っていたのを魏晋と狭くして
世説新語と水経中を外した理由は? 三国志は倭地に丹があるとし
後漢書は倭に丹土があるとする
丹土=赤い土=ベンガラだから
三国志の丹はやはり単に「赤い顔料」か
ベンガラを辰砂と誤認したのだろう
「中国人は邪馬台国の方角を間違えて
倭地の赤い鉱物の分類は間違えない」とする畿内説がおかしい I崇神(みまき≠彌馬獲支)J垂仁(いくめ≠伊支馬)
この説はデンパ説以外の何物でもない。
オーストラリアがオーストリアだといってるようなもの。pppp
天皇は王以上。 >>913
>886が「三国志と同時代資料でないとダメで
南北朝時代は同時代ではない」みたいなことを主張したからだろ? >>916
言ってることがめちゃくちゃ。
魏晋代だけぽっこり穴が空いたみたいに言葉の意味が変わるわけがない
後漢代までと劉宋以降できちんと区別されていて、魏晋だけ同じだとか
九州説の考えることはいつでもナンセンスの極みだね >>914
>丹土=赤い土=ベンガラだから
丹土=ベンガラだと言う根拠をどうぞ
>「中国人は邪馬台国の方角を間違えて
>倭地の赤い鉱物の分類は間違えない」とする畿内説がおかしい
知らない土地に行って道を間違うことがあったとしても、色の違いは間違えないよ 丹については抱朴子においては辰砂からなる仙薬である、と特定してるからな。
重要度でいえばベンガラは代用品扱いで辰砂の比じゃないのはいうまでもない。
ベンガラが採取出来る場所なんて珍しくもなんともないんだしな。わざわざ丹山有と特筆するのは普通に辰砂があるという事。
本来こんな話わざわざ議論するまでもないんだからな。 更にいうなら倭人の海人の風俗で朱丹を白粉のように塗る風習があるだろう。
これに合致する状況というのは、紀伊半島沿岸部や四国東南部でしかない。冬も温暖な場所だしな。
これらの地域は弥生時代中期の時点で現実に辰砂を採掘した跡や精製してた土器、秤を用いて計量までしていた出土品まである。
仮にベンガラを丹扱いしなくては成立しない九州説とは、既にレベルが違うのが判るだろう。 >>921 孝霊厨
>これに合致する状況というのは、紀伊半島沿岸部や四国東南部でしかない。
紀伊半島沿岸部も「倭人(阿波勢力)」の進出・開拓地。 @阿波 丹生神社が紀伊半島、吉野を中心に分布しているのは明白だからな。最古の精製跡も吉野川上村の縄文期からの物。
これは阿波の根拠よりも古い物であり、出土場所も丹生神社の境内からなので、この辺りの一族から各地に出掛けたと推測が出来る。
この辺りに元々いたと伝わるのが珍彦、つまり神武東征で先導役をしたという人物。
珍彦が淡路島辺りから奈良盆地まで神武の先導をしている
つまり四国へは水銀朱を採取しに出掛ける場所だという事になる。 どこのゴミなのか知らないけど、
いい加減に消えろと言っているのが、わからないのか? 成り済まし、騙り。
・・・・・・・・知らないのか?一系、直系?
さっさと刑務所に行け。 日本の?(テレビで言っている)テンノウとか何やら〜とか、
下の人間なんだけど、どこのゴミなんだ? 四国、阿波は三世紀邪馬台国の位置論とはもはや無関係だからな、出土品、文献解釈共にあり得ない。
廣志において海を渡る記述があれば阿波説も可能性はあったが無いからな。
少なくとも四国太平洋側は狗奴国側だろう。 チンピラなのか何なのか知らないけど、
必要ないから消えろと言っているのが、わからないのか?
お前達のような職業(不明)自体必要ない。
どこかに工場みたいなところがあるでしょ、
そういうところで仕事をしろ。 数年前にあった。
(反乱、何やら罪みたいな話)ふざけた事ばかりしているんじゃねーぞ!!!
という書きこみと同じ。
奴隷なら奴隷らしくしろ、
いつまで経っても、(日本の話)そういうシステムなんだから。 日本のテンノウ?わかりやすく言うと、
(悪く言うと)奴隷なんだと言っているだろう?
このスレッドではないけど、知っている人もいた。 日本人ではないのかな、とあるスレッドの話、
まさか中国、韓国・・・朝鮮の何かの書き込み?
なぜか詳しい人がいたり。 >>910
>根拠は抱朴子だろ
鶴 田 榮 一の「魏志倭人伝 」 と色料(顔 料 ・染料)を読みなさい
あなたが間違ってることがわかります。
其山有丹の丹は水銀朱ではないかとしていたのは昔の話 >>919
赤土ベンガラ・丹土ベンガラ・赤泥ベンガラ・パイプ状ベンガラ・鉄丹ベンガラ・ローハベンガラ
色は間違えていないでしょうね。彼の憶測でしょう。 >>917
「中国哲学書電子化計画」の隋唐時代の「赭」の用法を分析してみると
「赭衣」(赤い衣)「赭?」(赤い汚れ)など
「赤い」の用法が主で、鉱物の「赭」の用法は隋唐時代でもほとんどないみたいだ
鉱物の丹と赭を区別しようとしない傾向は隋唐時代でも変わってない >>919
kotobank.jp/word/丹土-2071166
>「丹土」の解説
>?名? 赤色のつち。あかつち。
www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/222.pdf
>「丹土ベンガラ」だったようです。 >>927
孝霊厨
丹=辰砂と思い込んでるから間違うのです。
丹の一文字で辰砂と限定するのは学術的ではありません。
たぶん、そのへんを見越して>>1さんもテンプレに丹に言及しなかったのでしょう。
>>1さんの賢明な判断です。 >>934です
訂正
×彼の憶測でしょう。
〇彼の皮肉でしょう。 说文解字
丹 巴越之赤石也。象采丹井,一象丹形。
赭 赤土也。
井形の木の枠の中の赤い鉱物が丹
そこらへんの赤い土が赭
赭衣は古代罪人穿的赤褐色的衣服
http://qiyuan.chaziwang.com/etymology-1892.html >>923 孝霊厨
>最古の精製跡も吉野川上村の縄文期からの物。
>これは阿波の根拠よりも古い物であり
大嘘。 少なくとも「阿波」より古いことはない。 @阿波 說文解字注
(丹)巴越之赤石也。巴郡、南越皆出丹沙。 >>937
バカな論点ずらししても無駄です。
議論は三世紀においてベンガラが丹かどうかというだけの話しで、少なくとも丹は辰砂、水銀朱を意味する事は既に確定してます。
辰砂は丹でない、なんて主張をやるならどうぞ、それこそ相手にもされませんよ。
それに辰砂を精製した跡が紀伊半島においては弥生時代中期以降確認されているのだから、
倭人の風俗として一番相応し場所なのも否定しようがない。
丹生キ媛神社が高野山や吉野に集中してるのも事実以外の何物でもない。 四国太平洋側は狗奴国側だと思われるので、邪馬台国位置論とは無関係。だから別にどうでもいい。 >>933
ほら、自分で説明できないで
他人の褌を借りるのは
理解できてない証拠 >>944 孝霊厨
>それに辰砂を精製した跡が紀伊半島においては弥生時代中期以降確認されているのだから、
>倭人の風俗として一番相応し場所なのも否定しようがない。
それは「倭人(阿波勢力)」の進出を示している。 @阿波 まあぶっちゃけ邪馬台国位置論については三世紀末に七万戸の国、つまり箸墓規模の古墳をいくつも作れるような場所が相応しい。
それだけ長期間に渡って人足が確実に滞在する場所だからな。
まあそれだけでも畿内で確定だよ。邪馬台国の位置論なんてその程度の話、正直議論する程の問題でもなんでもない。 >>948
それがどうかしたの?
邪馬台国の位置が畿内であるのとは無関係な話だな。
私は狗奴国の勢力が邪馬台国、ヤマト政権の実権をにぎったという見解だからな。
これは崇神天皇の母方に高屋阿波良姫がいる事からも判っている事だろう。
対して孝霊天皇は磯城県側の人物だから必然的に畿内側の人物なのも確定している。 >>944
>少なくとも丹は辰砂、水銀朱を意味する事は既に確定してます。
あなたの頭の中だけでしょう
>辰砂は丹でない、なんて主張をやるならどうぞ
辰砂は丹では無いと主張してません。丹の一文字だけでは
辰砂と断定できないと言っているのです。 >>946
キナイコシだろWW
あんたにゃ理解は無理 殺めた政敵の亡霊におののいて、
日夜、刀を振り回し四道へ出撃を命じた将がいたそうだ。
孝霊のころにもいたそうだが、秀吉とか、今のプーチンもそれだろうな、、南無! >丹の一文字で辰砂と限定するのは学術的ではありません。
これが正論だろな。 >>944
孝霊厨
畿内説、近畿説でもよかろう
これらの説では
辰砂は三重県の多気郡の丹生鉱山から持ち込まれたというのが主流 お
お
お
キ
ナ
イ
コ
シ
の
無
意
味
な
つ
ぶ
や
き
が
始
ま
っ
た キナイコシよ
お前は誰も読まないテンプレだけ作ってれば良し
名無しで投稿しても恥をかくだけだWW ◎まとめ
・三国志では倭地の山にあるのは丹だが、後漢書では丹土(ベンガラ)になってる
・三国志内に赭、丹土、赤土などベンガラのみを示す言葉がない
・三国志時代、赭、丹土、赤土などベンガラのみを示す言葉の使用が少なくなる
・後漢の説文解字では丹は「赤石」を意味して辰砂のみを指さない
やはり「丹」がベンガラを指すのに使われていた可能性が高そうだし、
魏志倭人伝も、その可能性が高そうだ >>951
何度も指摘されているが丹=水銀朱としても
主語が「倭地」=倭人のいる土地=本州・四国も含むなので
別に九州説は死なない >>953
いや辰砂が丹なのは断定してよい、抱朴子ではそうなってる以上はな。
これは酸化鉄、ベンガラが丹なのかとは別の話だから。
少なくとも倭人伝でも青玉と並んで記述してあるなら希少な鉱物として見るべき物だろう。 「魏志倭人伝」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波 >>958
実際に松阪辺りには墨書土器の出土も多いからな。また名張辺りから木津川ルートもある。
狗奴国と荒らそう時代は瀬戸内海航路が使えないという理由もあり、丹波ルートが使われているのだろう。
丹波の名前が丹由来なのもその為だね。 >>967 孝霊厨
>丹波の名前が丹由来なのもその為だね。
福井県の丹生郡は? @阿波 昔、丹波は旦波と書かれていました。丹ではなく旦です。 丹は中誤訳で 红色泥土のこととググったら出てきた
ほかにもありそうだ
やはり丹を辰砂だけに限定するのは無理のようだ >>971
で、正始4年に倭王は「紅色泥土」を献上したのか? わははははは @阿波 団体皇極天皇が鬼に見えてきたんだが
天智天皇が酒呑童子に見えてきた 調べれば調べるほど恐ろしくなってくるな
ヤマト政権は鬼だらけなのか? >>965
辰砂は丹と言いきれるが
丹は辰砂とは言いきれない
漢典によると丹はHgS以外に「赤い鉱石」という意味が
三国志時代以前からあるらしい
www.zdic.net/hans/丹
>赤色の鉱石。精製して顔料にできる
>《書経・禹貢》:「椿、ヤマグワ、イブキ、ヒノキ、荒い砥石、細かい砥石、鏃の石、丹」 鬼はやっぱり鬼なのか
鬼と神は一体なのか、鬼に関わると皆鬼になるのか ヤマト政権は隅から隅まで鬼だらけなんじゃなかろうか? >>976
>丹は辰砂とは言いきれない
で、正始4年に倭王は「紅色泥土」を献上したのか? わははははは @阿波 丹波、藤原京から出土している木簡では丹波になっていたからな。
ちなみ現在の天理市の旧地名が丹波。保津といい奈良盆地の一部エリアが丹波地区と結びつきが強い。
今二月堂でやってるお水取りだって若狭から水を送ってもらうという話。赤色の土団子舐める話なんてまるで、 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1646996309/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>980 孝霊厨
>丹波、藤原京から出土している木簡では丹波になっていたからな。
倭国(阿波)から避難疎開遷都した8世紀の話だな。 @阿波 かわいそうな九州説さん
赤土って山じゃなくても
どっからでも出るありふれたもので
特産品じゃあり得ないんですけど >>984
各地からの、物納の荷札木簡だな。 @阿波 >>979
正始4年は「丹木」(赤い木)を献上したのでは?
「中国哲学書電子化計画」では以下のように「丹木」で原文を切ってるぞ
>帛布、丹木、??、短弓矢 景初3年に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に献上した丹(朱・丹砂)は、伊都国の丹生川(嬉野町)で採取したものと考える。末盧国(唐津)から伊都国(吉野ヶ里)に至る陸行の途中、佐賀県多久市の辺りから南西30キロメートルに丹の取れる虚空蔵山がある。魏志倭人伝の「その山には丹あり」の文章のままである。 >>987
無理やりオーケーしないと九州説が即死するからね
水銀朱や硬玉翡翠が産出するあたりまで倭国だと言いながらヤマトのことは知りませんと二枚舌使ったりしたら、もう誰からも信用されないもんね
九州説は >>986
>正始4年は「丹木」(赤い木)を献上したのでは?
そんな木、なかろう >>986
>正始4年は「丹木」(赤い木)を献上したのでは?
倭国(阿波)には「丹」が有るにも拘らず、その貴重な「丹」を贈らずに訳の分らん「赤い木?」を献上したと? @阿波 わざわざベンカラを特筆して描く事はないだろw
現実に倭人で水銀朱使ってる場所あるのに、九州説の連中はマジで変な連中だな ベンガラを魏にわざわざ持って行くとか?
ガチで激怒されるぞw 「こちら、倭国からの品が届いておりまする」
「うむ、どんな物じゃ」
「倭国の山には丹があるそうだが」
「これは… ベンガラですな」
コントだろ、これじゃw 木辺に丹と書いて何と読むかな?
丹は奥深いねーー
単純に水銀朱と決めつけるのは利益誘導みたい
しかし、長崎の虚空蔵山から丹とは知らなかった
熊本県や大分の辰砂は聞いたことあるけど。
丹はあまり邪馬台国の決め手の一つにはならないみたい。
鉄かなーー ベンガラも決め手にならない
丹の中に入れるのは良いが
やはり鉄 >>993
辰砂もわざわざ持ってくか
中国でいくらでも産出してるし
紅い顔料でいいんでねーか このスレッドは1000を超えました。
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