邪馬台国畿内説 Part771
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1647746199/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>832
キウスなにを治めようとしてんの。種を蒔いたのは奥山だから放っておくべし。 >>850
ごめんなさい
伊都国ではなく不弥国でした >>850
>ところで、伊都国から邪馬台国に至るまでの間の地名が投馬国以外全く記載されていないことについてはどのように考えておられますか?
??? 伊都国から邪馬台国に至るまでの間の地名
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>847
私は畿内説の人間ではないけど、短里はないと思いますよ
そもそも、朝貢してきた国に下賜する品を持っていくための道中でいちいち測量をしながら進むとはとても考えられず、
かなりいい加減な数字になっているのは間違いない
でもって、朝貢してきた国が立派な国であればあるほど皇帝の権威は高まるから、
相手の国を立派な国に見せるために実際よりかなり長い距離にして報告したというのが実際のところかと
それを短里だと言えばそうなるかもしれませんが、そもそもきちんと測量しているとは思えんので、短里ではないと思います
実際、「十倍」の話が出ていたけど、毎回十倍になっているわけではない
要するに、ただ大袈裟に誇張して盛った数字を書いただけ
そもそも、魏志倭人伝は日本のことを「正確に」伝えようという意図をもって書かれたものではない
全ての数字は皇帝の権威を高める目的でかなり大袈裟に盛られた数字になっていると考えるのが自然であって、
距離も日数も戸数も国の大きさも墓の大きさも全て誇張された数字になっているはず >>845
そううだ。修正する必要まったくない。
ノープログレム>>50は正しいのだ
水行20日は2日でいいのだ >>852
投馬国が太平洋沿岸一帯の巨大国だからだよ。 なんせ5万戸だからね。 @阿波 >>854
>そもそも、朝貢してきた国に下賜する品を持っていくための道中でいちいち測量をしながら進むとはとても考えられず
そもそも、朝貢してきた国に下賜する品を持っていくための道中でいちいち測量をしながら進むと考えるほうが異常。
「倭人(阿波勢力)」によって、そんな情報はとっくに知れ渡っている。 @阿波 >>853
たしかに里程の条件を省けば瀬戸内航路を使って畿内に入る説より説得力かあるように思います
参考にさせていただきます >>859
>たしかに里程の条件を省けば
「里程の条件」ってなに? @阿波 >>854
短里が独り歩きしているようですが、
私は郡から北部九州一帯の里数を実距離で整合させると
短里が出たものと思っています。
比例計算上も成り立ちます。
なお、あなたは七千里のみ取り出し破賊文書を用いることはどう思いますか。
もし破賊文書を引用するならば
私なら、報告は誇大報告されているにとどめますが。 帯方郡から邪馬台国まで12000里
一里が何kmかの大まかな目安は帯方郡から狗邪韓国までの距離を参考に考えるべきと考えています 魏志倭人伝では、繰り返し、繰り返し、「壹與」と記録された人物が、
奥山氏が邪馬台国畿内説の根拠としている後世の中国の文章では、「臺與」に変換されてしまっていることは、
重大な物事だね。
中国人は、意味ではなく発音記号として使用する文字を、試行錯誤したのだが、
そもそもの邪馬壹國を邪馬臺國と変換した全ての原因は、
発音についての推測からではなく、
後漢書の作者が、5世紀の大和王権のことを伝え聞き、魏志倭人伝の九州の邪馬壹を畿内の邪馬臺の誤記なのだと邪推したことであり、
邪馬壹國を邪馬臺國と変換してある後漢書を読んだ者が、邪馬壹國や壹與と書かれていた魏志倭人伝と読み比べ、
「魏志倭人伝時代の後から5世紀以前には「壹」の字の発音が変化し、魏志倭人伝時代の「壹」の発音は、「5世紀以降の壹の字の発音」とは異なり、「5世紀以降の臺の字の発音」と同じ発音だったのだ。」
と誤認し、
魏志倭人伝で倭人の固有名詞の音を表す文字である「壹」の字が、正確な発音としては時代遅れになったと考え、全て「臺」の字に変換してしまった可能性があるな。
梁書、、、629年 祁馬臺 臺與 「其後復立男王並受中國爵命」
隋書、、、636年 邪馬臺
案今名邪摩惟音之訛也。李賢。唐。。。676年
太平御覧魏志曰、、、、977年から983年 耶馬臺 臺舉 >>861
>なお、あなたは七千里のみ取り出し破賊文書を用いることはどう思いますか
七千里のみに破賊文書を用いるのはただのご都合主義でしょ >>856
阿波さん、阿波さん
無理なお願いしてもよろしいでしょうか?
もし、まだ保存しているのであれば、
倭人伝記述の各国間の里数と実距離で出された短里の図式を再掲願えないでしょうか?
無理なときは返信しなくて結構です。
唐突なお願いでお申し訳ありません。 >>864
>七千里のみに破賊文書を用いるのはただのご都合主義でしょ
ご都合主義だと呼ぶ理由は? >>867
では逆に聞くけど、七千里のみに破賊文書を用いることができて他には適用されないと考える理由は?
邪馬台国を畿内にするにはそうじゃないと都合が悪いからだろ?
他に何か理由ある? >>857
なんでだよ。韓と同じように倭国は魏の国に従属したんだろ。
どこが違うの?戦わずして勝つも立派な戦果じゃん。
武力で制圧したのに限定かい。
限定なら、魏は(馬韓)(辰韓)(弁辰)を武力で制圧したという証拠でもあるのかよ。
馬鹿も休み休み言え >>846
少なくとも北九州から南九州までおさえているであろう邪馬台国が南徳島にある小さな小さな狗奴国ってのに手こずってるんかい? >>867
なんでだよ。韓と同じように倭国は魏の国に従属したんだろ。
どこが違うの?戦わずして勝つも立派な戦果じゃん。
武力で制圧したのに限定かい。
限定なら、魏は(馬韓)(辰韓)(弁辰)を武力で制圧したという証拠でもあるのかよ。
馬鹿も休み休み言え >>50に記載されている通り、魏には戦果報告を十倍にして公表する習慣があります
これによって、「水行十日陸行一月」は実際には水行1日陸行3日、「水行二十日」は実際には水行2日となります
これにより魏使が畿内に辿り着くのは不可能なので、邪馬台国畿内説は終了www >>867
バーーーーーカ
お主は奥山ともうバレてんだよーーーー >>867皇帝 ◆pnmlEhLdR2
おい奥山 指摘が来てるぞ
>>871
韓と同じように倭国は魏の国に従属したんだろ。
どこが違うの?戦わずして勝つも立派な戦果じゃん。
武力で制圧したのに限定かい。
限定なら、魏は(馬韓)(辰韓)(弁辰)を武力で制圧したという証拠でもあるのかよ。
馬鹿も休み休み言え >>868
>では逆に聞くけど、七千里のみに破賊文書を用いることができて他には適用されないと考える理由は?
破賊文書に該当する可能性があるのは七千里の部分だけだから
他の部分に、ある? >>874
>おい奥山 指摘が来てるぞ
どこが奥山?
>韓と同じように倭国は魏の国に従属したんだろ。
>どこが違うの?戦わずして勝つも立派な戦果じゃん。
どこが破賊? >>866
これかな?
帯方郡(沙里院市)
↓【南 或は 東】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町 出航地 厳原町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→紀伊半島
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>853
阿波さんありがとうございます。
以下 保存しておきます
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>875
>破賊文書に該当する可能性があるのは七千里の部分だけだから
ほー。ではなぜそこだけが該当するとお考えになられるのでしょうか? >>880
ありがとうございます
短里を説明するのに、これが一番わかりやすいです。 >>870
>少なくとも北九州から南九州までおさえているであろう邪馬台国
「魏志倭人伝」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波
北部九州は、「倭人(阿波勢力)」の進出地域に過ぎない。
>南徳島にある小さな小さな狗奴国ってのに手こずってるんかい?
そりゃ、鉄器を自在に自作できる強大国「狗奴国」なんだから。
その倭国(阿波)を統一するのは、並大抵じゃないことに思いをはせろ! @阿波 >>50によって、魏志倭人伝の「水行二十日」は水行2日のことであることがわかったから、もう議論の必要はないなw 誰がいつ
(馬韓)(辰韓)(弁辰)を武力で制圧したの?。 >>877
皇帝かなんか知らんけど
答えろよ
誰がいつ
(馬韓)(辰韓)(弁辰)を武力で制圧したの? >>889
部従事呉林以楽浪本統韓国、分割辰韓八国以與楽浪。
吏訳転有異同、臣智激韓忿、攻帯方郡崎離営。
時太守弓遵、楽浪太守劉茂興兵伐之。
遵戦死,二郡遂滅韓。 >>891
誰が?
魏の使いか?
いつ?
全部、魏志倭人伝の時代か?
お粗末でした
そんなのコピーしてググればバレんぞ >>891
漢代には楽浪に朝謁していたという記録に基づいたのでしょう。部従事というのがどれほどの地位かわかりませんが、こういう決定を一人で出せるならかなりの高官です。直接、韓に対応する部下の官吏や通訳は、反発を買うのがわかっているから、言葉を濁す。どう言いつくろっても領土を奪う事実は変わらないわけで、呉林の決定そのものが戦争を呼び起こしている。辰韓は馬韓の辰王が管理していました。だから辰韓だけではなく、韓全体と戦うことになります。帯方太守、弓遵が戦死するほどなので、かなり激しい戦いだった。先に書きましたが、戦いが終わったのは正始七(246)年五月のことです(魏書三少帝紀)。したがって、弓遵の戦死は五月以前になります。韓王の箕氏一族は根絶させられました。
戦死した弓遵の後任には、玄菟太守、王頎が転任しました。辞令がいつ出たかわかりませんが、実際に着任したのは正始八年になってから(倭人伝「八年太守王頎到官」)。二つ隣の郡に移動するのに八ヶ月以上かかっています。中央へ報告が届き、玉突き的に人事異動が発生するので、後任の選定には様々な調整が必要です。決定後、辞令が届けられ、太守が移動する。広大な中国大陸、最も早い移動手段が馬ですから、何をするにも、現在より、はるかに時間がかかる。そういうことが忘れられがちです。
すなわち、魏志倭人伝での七千里とは関係ありません。 >>885
>>870だが南九州じゃなくて四国南部の間違い
いずれにしろ、倭国の範囲については全く相容れないのでもうレスは不要 >>893
おめーも読めねーだろ
和訳ならググれば載ってるよ
魏の使いと関係ねーし
魏志韓伝の記述を、破賊文書にすべて当てはめてみろよ。
チンプンカンプンになるぞ。
おつかれさーーーーーん >>894
>すなわち、魏志倭人伝での七千里とは関係ありません。
どうして? >>897
桓霊之末韓濊彊盛 郡縣不能制 民多流入韓國 建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方 >>897
もっと詳しく教えてくれないか
魏の使者は戦果報告する任務もあったの?
魏の使者が七千里と報告したとして、嘘はバレなかったの? >>896
>魏の使いと関係ねーし
なんで魏の使いと関係ある必要が? >>898
それのどこが
「魏志倭人伝での七千里とは関係ありません」
っていう理由? >>899
>魏の使者が七千里と報告したとして、嘘はバレなかったの?
なんで突然、魏の使者の話になるの? 短里は東夷伝で使われているから
東夷を支配していた公孫氏が使っていたんだろう
短里が記載されてる基資料は公孫氏を滅ぼして入手した資料から転記したもの
魏志倭人伝の距離での行程も公孫氏の資料からの転記で
そこに、新たに張政等の魏使が行った時の日数行程記事を書き足したんだ。 >>900
>>902
あんた本気で七千里は戦果報告と思ってんの? >>900
だろ、本気で七千里は戦果報告と思ってねーんだろ
思ってねーなら力説すんなよ ボケ 今日の結論
ゆるぎなき九州説
水行3日投馬国(九州から出ない)
水行1日陸行3日(九州から出ない)
邪馬台国は九州で決定しました。 >>908
だな畿内説哀れ>>908
だな畿内説哀れ
自身のないことをガーガー言っても迫力ねーし
すぐ論破されちゃうな
典型がこれ、答えられねーじゃん
>>904
あんた本気で七千里は戦果報告と思ってんの?
自身のないことをガーガー言っても迫力ねーし
すぐ論破されちゃうな
典型がこれ、答えられねーじゃん ごめんよ
くちゃくちゃになった
やり直し
>>908
だな畿内説哀れ
自身のないことをガーガー言っても迫力ねーし
すぐ論破されちゃうな
典型がこれ、
以下に答えられねーじゃん
>>904
>あんた本気で七千里は戦果報告と思ってんの?
よっぽど自信がないのかね まだ、諦めないのか?スレ主の七千里の解釈は知らんが、中国史は大体踏襲するもので魏志以降も七千里で計算されとるだろ、そもそも行程、正確な位置なぞ主題ではない。あくまで曹魏曹叡と卑弥呼の話なのだよ。航海術がマトモになったのは19世紀で北極星を見たところでわからんわ、また、司馬炎の時には裴秀がおり七千里に疑問点はないんだろ。 >>900根津 ◆aWy6sZF1ao
>なんで魏の使いと関係ある必要が?
あんた魏志倭人伝と関係がある投稿したのか。
関係がある投稿なら当然、魏の使い関係あるよ。
あんた、本気で七千里は戦果報告と思ってんの。 >>898
それのどこが
「魏志倭人伝での七千里とは関係ありません」
っていう理由? >>913
答えになってないのでは????
彼は
>あんた本気で七千里は戦果報告と思ってんの?
と聞いてるのに、、コミュ障? >>912
>関係がある投稿なら当然、魏の使い関係あるよ。
なぜ?
>あんた、本気で七千里は戦果報告と思ってんの。
可能性あるでしょ? 917 912 910 909 905 904 899 896 892 889 887 箸墓古墳、池の周囲の墳丘まで入れるんだ。初めて知った。
https://youtu.be/vk3v1DJbH1E そうだ
キウスだ
可能性があるーーー
そんな生半可なことで
テンプレつくんじゃねーよ
チンピラ奥山
御前が名無し投稿する理由はテンプレに自信がねーからだよ
案の定これだ
5ちゃんと言えど、学をつんでこい。
畿内説が誤解されるマネはすんな
チンピラ奥山
みろ、このありさまだ
水行20日で2日、完璧に他説に揚げ足取られてんだろ
>>920
のうち6つは俺だよ。あとはお前の批判票だよ
誰も納得しねーーーはーーー
このありさまはなんだ
名無しで時には 助け舟だしてやったがもうしねーー
阿波と対峙するのも10年はえーーよ
チンピラ奥山 882 873 871 869 865 851 834 831 825 819 かな 嘘つきがまともに相手してもらえると思ってる時点でいろいろとおかしい 724 737 749 750 810
恥ずかしすぎるな >>922
うまい締め方したつもりだがそうはいかん。
今日も10倍戦果の嵐はくる予感。 くだらないFAQについての、くだらない討論でも、>>1奥山氏が、完全に論破されてしまったな。 韓国は方4000里なのだったな。
そしてその沿岸を帯方郡の境界である北西の角から、南東の角へ移動すれば、8000里になるな。
従って、魏志倭人伝の作者やその部分の資料となった文章の作者にとっては、
「狗邪という地点は、その1000里手前なのだ。」
だと認識されていたのでは、ないのかな。 >>50に記載の通り、戦果報告は十倍にして公表する習慣がある
つまり「水行十日陸行一月」は実際には水行1日陸行3日、「水行二十日」は実際には水行2日
魏使が畿内に辿り着くのは不可能なので、邪馬台国畿内説終了w
纏向は邪馬台国の都ではないことが明らかになりましたwww >>933
つまり、貴方は、今、7000里が実測されたかどうかという、くだらない物事よりも、魏志倭人伝の作者やその部分の資料となった文章の作者にとっての幾何学的な認識にだけ注目した
のだね。 >>935
やはり、貴方にはわかりましたか。
そして、「魏志倭人伝の作者やその部分の資料となった文章の作者にとっての幾何学的な認識では、方○○の地域をやり過ごすには、その沿岸を、航行し、方形の南北成分や東西成分を、加算したのだ。」という真実が、より、重要なのだったね。 >>936
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。 >>933
つまり、貴方は、今、7000里が、一体、何キロなのかという、くだらない疑問よりも、魏志倭人伝の作者やその部分の資料となった文章の作者にとっての幾何学的な認識にだけ注目した
のだね。 >>939
やはり、貴方にもわかりましたか。
そして、「魏志倭人伝の作者やその部分の資料となった文章の作者にとっての幾何学的な認識では、方○○の地域をやり過ごすには、その沿岸を、航行し、方形の南北成分や東西成分を、加算したのだ。」という真実が、より、重要なのだったね。 >>939
魏志倭人伝では、一寸千里の法が使用された可能性が、高いが、そのことは、あまり、重要ではないのだな。 >>937
7000里×魏里434m=3038キロ >>941
7000里が、一体、何キロなのかという、くだらない疑問は、このくだらないスレッドを活発化したい朝鮮の者だけが、ことさらに、話題にしたがる、くだらない物事だよ。 最後まで話を聞け
7000里×魏里434m=3038キロ
戦果報告は十倍にして公表する習慣があるから
3038キロ÷10=3038キロ
釜山からソウルまでは直線距離で約320q
つまり、魏里で説明可能
短里なんて存在しない >>946
せっかく立てるなら破賊文書おいれて欲しかったな。>>946 間違いがありそうだな。
947日本@名無史さん2022/04/06(水) 09:09:04.16
最後まで話を聞け
7000里×魏里434m=3038キロ
戦果報告は十倍にして公表する習慣があるから
3038キロ÷10=3038キロ
釜山からソウルまでは直線距離で約320q
つまり、魏里で説明可能
短里なんて存在しない >>949
ムフ
誰が立てたか知っているようだなムフ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。