邪馬台国畿内説 Part800
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1658974836/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後bフ指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>984
>あるんだったら出せって話ですよ。
大日霊女命(別名天照大神)=「卑彌呼」をお祀りする正一位、式内名神大社は、
全国でただ一つ、「阿波」だけにある。 @阿波 な、みんな。わかってるな?
阿波に話しかけちゃダメだぞ荒らしの仲間んなっちまうからな >>79
「阿波」にコテンパンにやられるからな。 そりゃ、怖かろう。 わははははは @阿波 >>981
>卑弥呼の墓はどこにあるのか?
脈々と「阿波」で祀られ、守られている。
大日霊女命(別名天照大神)=「卑彌呼」をお祀りする正一位、式内名神大社は、
全国でただ一つ、「阿波」だけにある。 @阿波 >>82
逃げるばかりで、「阿波」がそんなに怖いか? わははははは @阿波 魏志倭人伝をまとめてみたyo!
伊都国(一大率→壱岐〜九州北岸一帯を監視)
↑北
女王国(筑紫平野)
↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野) >>82
しっ! 話しかけるな
返事もするな
● 煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。 >>84
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。 >>85
「阿波」にコテンパンにやられるからな。 そりゃ、怖かろう。 わははははは @阿波 「阿波」がコテンパンにやられるからな。 そりゃ、辛かろう。 わははははは @阿波 >>86
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) 徳島県博物館紀要 第9集
昭和52年度 の文章中(16ページ)に興味深い表が有るのを見つけました。
天日鷲神・大麻比古神・天石門和気八倉比神の神階叙位の歴史である。
忌部にスポットを当てた研究の文章であるため、
天石門和気八倉比神の神階が、他の神より、常に上だった点には触れられていないのが残念ですが。
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/39/39672/88750_1_%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%80%E8%A6%81.pdf >>90 板野に居たの
どこが興味深いんだ?
売郷奴のお前には、自分の口で言えんのか? 情けないやっちゃのう。 わははははは @阿波 PDFの16ページめ、紀要のページだと12ページの表な。
天石門和気八倉比売神は、承和8年(841年)の時点で、正八位上やったんやな。
延喜式成立前の話やけどな。 >>93板野さん阿波は邪馬台国とは何の関係もありません >>94
>>95
古代阿波は、ヤマト連合の構成国のひとつである可能性は有るんだから、全く関係無くはないでしょう。 @卑弥呼より1世代(倭国大乱)前と思しき、伊都国の平原女王(国内最大の内向花紋鏡)が天照大神であることは、伊勢神宮の八咫鏡と同型鏡であることからほぼ間違いない。
A丁度そのころ、吉備では楯築弥生墳丘墓が造られた(150年頃)。
B神武は伊都国・平原女王(祖母)の八咫鏡を以って投馬国領域の日向から宇佐に向かった(275〜300年頃→謎の4世紀)。
C箸墓はヤマト王権初代大王に相応しいから真の神武陵と考えられる。よって4世紀第1四半期(300〜325年)ごろの築造だろう。
では、
B伊都国・平原女王の孫である神武がなぜ投馬国王となったのか?だが、天「孫」降臨伝説=曹魏と争っていた「孫」呉の強力な後押しが考えられる。
むしろ、神武は孫呉の艦隊に護られて「東征」した可能性がある。そして孫呉は280年頃司馬懿仲達の西晋によって滅ぼされてしまうが、その時倭に逃れてきて神武と共に大和に東征した可能性も否定できない。
三角縁神獣鏡は、曹魏の帝都洛陽では全くと言って良いほど出土しない呉鏡であることからも、西晋に滅ぼされた時、大量に倭に亡命してきた孫呉の鏡職人が想定される(鏡作神社)。
日本語に音読み(漢音)だけでなく、訓読み(呉音)があるのも、その名残である可能性が高い。
どうかね?w >>98
日本の神様には、天津神(天孫「呉」降臨)と国津神(スサノオ・大国主・大物主・饒速日系)ってあるけど、
前者は(西晋に滅ぼされて処刑を免れるために)倭に亡命して来た呉の皇族たちが担ぎ上げたのが投馬国王の神武であったと。
そして神武は(腐っても鯛)孫呉の大艦隊と共に東征を開始し、不弥国(宇佐)を滅ぼし、(筑紫)邪馬台国の台与から倭王位を禅譲させw、安芸・吉備を従えてヤマト王権を打ち立てたとw
どうかね?w >>102
君イイね!それで決まりだよw
西殿塚は欠史八代(綏靖・安寧・懿徳・考安・孝昭・孝元・孝霊・開化)の誰かだね! >>102
卑弥呼の冢=祇園山古墳
台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は男弟)
神武の墓=箸墓
綏靖の墓=西殿塚
どうかね?w >>105
お前ら、妄想だけは達者じゃのうww わははははは @阿波 >>105
だめ
祇園山も那珂八幡古墳2号主体も箸墓より新しい >>105
筋がイイねぇ〜、君w
天津神(天孫族)が国津神(スサノオ・大国主・饒速日)から国譲りさせてヤマト王権ができた!ってことで納得だよ、君w
今日の昼飯は、天津飯が美味しく食べられそうだよw 阿波くんとどうかねくんは荒唐無稽な妄言を定期的に投稿し続けるbot みたいなもんだから。基本新しいこと何も言わないし >>109
年代繰り下げ詐欺は九州説だよ
学界で全く相手にされてない >>110
>基本新しいこと何も言わないし
基本、「阿波」意外、新しいこと何も言わない。 @阿波 奈良湿地や河内湿地の窪地に、倭の女王を埋葬することに、
なんの疑義も持たないのが、アホの三流学者。 @阿波 「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
トンデモは、妄想だけは達者ww わははははは @阿波 流刑地阿波はツングースの積石塚で、倭人の風習が出ない非倭人 >>110
ほらみろ
阿波に触ったら無駄レスが三つも返ってくる
迷惑だから、さわるな >>981
>卑弥呼の墓はどこにあるのか?
脈々と「阿波」で祀られ、守られている。
大日霊女命(別名天照大神)=「卑彌呼」をお祀りする正一位、式内名神大社は、
全国でただ一つ、「阿波」だけにある。 @阿波 流刑地阿波の民族信仰は他人に災いをもたらす犬神信仰なので
触ろうがスルーしようが荒らしが基本 「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
トンデモは、妄想だけは達者ww わははははは @阿波 どうせたいした事書いてないから簡単にスルー出来るのが阿波 自治厨もレス多くてうぜーので、一緒にNGできるように@自治厨とか何かつけてくれ >>122
>どうせたいした事書いてないから
一切、「阿波」に反論できないヘタレトンデモ。 @阿波 >>122
>どうせたいした事書いてないから 「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
一切、「阿波」に反論できないヘタレトンデモ。 @阿波 >>122
>どうせたいした事書いてないから
「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
一切、「阿波」に反論できないヘタレトンデモ。 @阿波 鬼道と呼ばれた原始道教は不老長生を求める神仙思想を基盤としている
神仙思想で東方の海に浮かぶ壺の形をした三神山(瀛州、方丈、蓬莱)には仙人が住み不死の薬があるとされた
周濠に囲まれた壺形の大規模前方後円墳や前方後方墳は単に首長の墓というだけでなく
仙郷を表現した建造物であるので、
環状列石や、五重塔、大仏などと同様の宗教的モニュメントである >>122
>どうせたいした事書いてないから
「女王之所都」を、集落遺跡群で示せられるのは唯一「阿波」だけ。
一切、「阿波」に反論できないヘタレトンデモ。 @阿波 ちなみに、大麻比古神も、
小松島の金長狸も正一位。 >>122
ぐうの音も出ないヘタレトンデモ。 @阿波 讃岐には卑弥呼の伝承があるが阿波にはない。
関係がありそうな伝承は阿波に海人族の安波夜別命と言う人物がいた。 >>134
>讃岐には卑弥呼の伝承があるが阿波にはない。
分かり切った嘘をつくな!
讃岐にある伝承は、「倭迹迹日百襲姫命」。 @阿波 「倭迹迹日百襲姫命」は第七代孝霊天皇の皇女で、
徳島市国府町(旧黒田村)の「黒田廬戸宮跡(蔵殊院辺り」」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
阿讃山脈を越えて留まった地域が式内社「水主神社」(香川県東かがわ市水主1418)付近。
その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭神「倭迹迹日百襲姫命」を祀っている。 @阿波
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社」(東かがわ市馬篠440番443番)。 @阿波
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社」(東かがわ市小磯)。
そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社」(高松市仏生山町大字百相神宮寺)。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。
船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。 @阿波 >>134
ぐうの音も出ないヘタレトンデモ。 @阿波 >>139
板野の売郷奴が、トリップを外して金魚の糞を演じている模様。 わははははは @阿波 どうせネタなんて尽きてるし讃岐や阿波や土佐の古代史「真面目に」話したいなら別に構わんと思うけど。スレチにならない範囲ならな >>141
「倭国」や「邪馬臺国」を言うんだから、讃岐や阿波の話になるのは当たり前。
トンデモなんだから、ネタが尽きるのは当たり前。 @阿波 >>140
おまはんトンチンカンにも程があるなあ。
ほれより、オオゲツヒメが、古代は正八位だったのは理解していただけたんかいなあ? >>143 板野に居たの
>ほれより、オオゲツヒメが、古代は正八位だったのは理解していただけたんかいなあ?
お前は心底のアホじゃのうww 延喜式が制定される前に位階を賜うこと自体が栄誉なこと。
お前は心底のアホ売郷奴じゃのうww 心底はずかしいわ。 @阿波 ほらほうじゃ、朝廷の神祇を担った忌部の祖神なんやし、ほんなんあたりまえとちゃうの? ほらほうじゃ、朝廷の神祇を担った忌部の根拠地粟の祖神なんやし、ほんなんあたりまえとちゃうの? >①卑弥呼より1世代(倭国大乱)前と思しき、伊都国の平原女王(国内最大の内向花紋鏡)が天照大神であることは、伊勢神宮の八咫鏡と同型鏡であることからほぼ間違いない。
伊勢神宮の八咫鏡は崇神が放り出したもの。
その鏡がそもそも何で崇神の元にあったのか。
崇神の母君が物部のイカガノシコメだから。
平原は筑紫物部の土地、だから崇神の鏡と共通したものが出てきた。
だいたいそんなところに卑弥呼なり女王はいない。
そして何で崇神がその鏡を放り出したのか。
鏡に崇神がコロした神の怨霊が映ったからだろう。
その怨霊の正体が、崇神の時代まで生きていてモモソヒメと結婚した大物主じゃないか。
名前はスサノオ8世孫の阿田賀田須という。
そして大物主の怨霊を恐れた崇神はオオタタネコを大阪から呼んで、大物主=阿田賀田須を祀る神官にした。
日本の天皇家とは管が主を倒した征服王朝だ。 × 日本の天皇家とは管が主を倒した征服王朝だ。
〇 日本の天皇家とは官が主を倒した征服王朝だ。
伊支馬=垂仁
弥馬升=崇神 古代中国でも臣下が主を倒す「易姓革命」があった。
その際、武力で主を倒しながらも「王位を譲ってもらった」などとのたまった。
日本でもそれを真似た。
それが「出雲の国譲り」だ。 >>102
出雲で国譲りではなく、実際には大和で国譲りしたってこと? >>98
禅譲とは、結局、軍事を掌握した将軍に取って代わられるってことだよね。
天皇家(神武)が軍事的に優勢だったからこそ禅譲したわけで、その軍事的優位は亡命孫呉によってもたらされたと。
どうかね?W >>147 板野に居たの
>朝廷の神祇を担った
ドアホの売郷奴が、さも簡単そうにぬかすが、
朝廷の神祇を担ったのは、全国広しと雖も、「阿波」だけじゃ!
これがどれほど重要なことか、売郷奴のアホには分からんww じつに情けなくて「阿波」の恥。 先祖に申し訳ない。 @阿波 >>154
補足:
神武(現在の天皇家)が饒速日(出雲スサノオ)王朝に対して軍事的優位を持っていたからこそ禅譲が行われたわけで
どうかね?w >>143 板野に居たの
>ほれより、オオゲツヒメが、古代は正八位だったのは理解していただけたんかいなあ?
お前は心底のアホじゃのうww 延喜式が制定される前に位階を賜うこと自体が栄誉なこと。
お前は心底のアホ売郷奴じゃのうww 心底はずかしいわ。 @阿波 >>147 板野に居たの
>朝廷の神祇を担った
ドアホの売郷奴が、さも簡単そうにぬかすが、
朝廷の神祇を担ったのは、全国広しと雖も、「阿波」だけじゃ!
これがどれほど重要なことか、売郷奴のアホには分からんww
じつに情けなくて「阿波」の恥。 先祖に申し訳ない。 @阿波 ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 ドアホの売郷奴よ、なんぞ言え!! どカス! @阿波 >>156
無理。神武天皇もスサノオの神裔。大物主の娘、五十鈴媛との婚姻はスサノオの血統の合流。
神武天皇を畿内に導いた八咫烏は、大物主の岳父で五十鈴媛の祖父。完全に合議による合併。 >>160
発狂したキチガイの相手はいちいちしとれんわ、
もっと落ち着いてから書き込みなはれ。 >>162 板野に居たの
>相手はいちいちしとれんわ
情けない逃げトンズラの売郷奴。 ほとほと呆れるわ。 @阿波 ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 ドアホの売郷奴よ、なんぞ言え!! どカス! @阿波 >出雲で国譲りではなく、実際には大和で国譲りしたってこと?
崇神は、大和にいた出雲系大物主と、
山陰出雲にいた国主の二人を同時に倒し、大王になった。
前者が阿田賀田須、後者が出雲振根。
出雲振根を倒し、神宝を奪ったことは日本書紀にも書かれている。
それが「八尺瓊勾玉」
阿田賀田須を倒して奪ったのがスサノオ直系の刀「草薙剣」
今でも子孫はこの二つがないと「天皇」に即位できない。
https://toyokeizai.net/articles/-/569041
阿田賀田須の怨霊を怖れ建てられたのが大神神社、出雲振根の殺害現場に建てられたのが出雲大社だ。 >>167
いくら記紀をこねくり回して妄想を膨らませても、根拠となる遺跡は出てこんぞ! わははははは @阿波 草薙剣が天孫降臨でニニギに渡されたというのは真っ赤な嘘、創作。
実際にはスサノオ直系の8世孫・阿田賀田須から崇神が奪った。
妻であるモモソヒメに会いに来ていた阿田賀田須が殺された場所が大神神社のある桜井市茅原。
元明天皇の好字令が出る前は「血原」であろう。
大和にいた出雲系最後の大物主・阿田賀田須の血だ。 >>168
崇神が出雲振根を倒し、神宝を奪ったことは日本書紀にも書かれている。 >>169
いくら記紀をこねくり回して妄想を膨らませても、根拠となる遺跡は出てこんぞ! わははははは @阿波 >>170
>崇神が出雲振根を倒し、神宝を奪ったことは日本書紀にも書かれている。
「阿波」でな。 @阿波 >>154
>天皇家(神武)が軍事的に優勢だったからこそ禅譲したわけで、その軍事的優位は亡命孫呉によってもたらされたと。
>どうかね?W
神武は関係ない、崇神の時代まで大物主が生きているからね。
だいたい神武は大王ではない、王配(=女王の婿) >>170
「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 >>171
>根拠となる遺跡は出てこんぞ!
大神神社の摂社「狭井神社」
最後の大物主殺害現場はここ・
だから今でも大物主の荒魂を祀っている。 >>175
>だから今でも大物主の荒魂を祀っている。
奈良大和へ避難疎開遷都してからな。 わははははは @阿波 >>175
>だから今でも大物主の荒魂を祀っている
もちろん、大神神社も
奈良大和へ避難疎開遷都してからな。 わははははは @阿波 ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 899 1 2022/08/02(火) 22:05:26.33 ID:
市長「(阿波説推すと)東大派閥とかに怒られる?」
商工会議所「怒られるまでいったら良いと思います。相手にしてもらえない。」 >>147 板野に居たの
>朝廷の神祇を担った
と、ドアホの売郷奴が、さも簡単そうにぬかすが、
朝廷の神祇を担ったのは、全国広しと雖も、「阿波」だけじゃ!
これがどれほど重要なことか、売郷奴のアホには分からんww
じつに情けなくて「阿波」の恥。 先祖に申し訳ない。 @阿波 >>143 板野に居たの
>ほれより、オオゲツヒメが、古代は正八位だったのは理解していただけたんかいなあ?
ほれより だと! さっそく逃げ誤魔化しかましやがって!
お前は心底どずるいやつじゃのうww
延喜式が制定される前に位階を賜うこと自体が栄誉なこと。
お前は心底のアホ売郷奴じゃ! 心底はずかしいわ。 @阿波 じつに情けなくて「阿波」の恥。先祖に申し訳ないのが@阿波 板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚。 @阿波 冷静でなくずる賢くて、間の抜けた雑魚の売郷奴=@阿波 >>185
お前は、閑古鳥スレの心配しとけ! わははははは @阿波 >>182
延喜式以前にも、弘仁式や、貞観式が有るのは、もちろんご存知だよな? >>181
>>朝廷の神祇を担ったのは、全国広しと雖も、「阿波」だけじゃ!
重要なことを担った「阿波」が忘れられた存在になったのは、なぜか?
ご意見をどうぞ。 >>187
弘仁格式や貞観格式に神名帳は残ってたっけ? >>188
>重要なことを担った「阿波」が忘れられた存在になったのは、なぜか?
それは言うまでもなく、奈良大和へ避難疎開遷都したため。 @阿波 >>189
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚だから。 @阿波 >>190
避難疎開ですか。戦争でも起こったんですか? >>192
それは言うまでもなく、白村江の戦。 @阿波 板野いい加減にしろ
ゴミみたいな阿波談義に誰も興味ないぞ
畿内説となんの関係もないだろう
薄汚い寄生虫ども まあそう言うなよ、私は畿内説を補強したいだけじゃよ。 >>193
よくわからん。
白江の戦いを検索したら
西暦663年8月27日 – 西暦663年8月28日
白村江の戦いは、天智2年8月に朝鮮半島の白村江で行われた、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
どんな関係があるのか >>197
阿波説でも狂信派は、何故か飛鳥時代まで阿波に日本の都が有った事にしたいらしいから、
都が阿波から大和に移って、結果、阿波が忘れられたと言いたいらしい。
これは解説なしに理解しろって言われても無理。 >>199
寄生虫さん
解説いらないから出ていって欲しい
阿波説に興味ないから >>197
>どんな関係があるのか
唐軍に攻め込まれる恐れがあるからさ。
だから、海に近い倭国(阿波)王都から、山奥の奈良盆地へ避難疎開遷都したと言う訳。 @阿波 >>197
ちなみに、8世紀に山奥の奈良盆地へ避難疎開遷都する前は、
王宮が小松島市一帯で王都が鮎喰川下流一帯に在った。
その王都たる根拠遺跡の一部が「観音寺・敷地遺跡」である。
「観音寺・敷地遺跡」
この遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、唯一日本最古であり、
役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)
・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など
古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土している。
日本全国、どこにもこんな特異な遺跡は存在しない。
よって、ここが8世紀奈良大和へ避難疎開遷都する前の、倭国(阿波)王権の王都の一部である。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/ >>203
ここは「阿波」でもっているんだから、感謝しろ! わははははは @阿波 >>204
おまはんの貼ったリンク先にはこうある。
「今回、重要文化財にしてされる徳島県観音寺・敷地遺跡出土品(922点)は、平成9年度から平成20年度の環状道路建設に伴う発掘調査で、徳島市国府町観音寺・敷地で主に流路跡(りゅうろあと)2条から出土した阿波国府に関する出土品です。
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。」
内容理解してないでしょ? >>200
ギャラrーが誰もいなくて空いんだろ
カスだな >>206 板野に居たの
なっ、
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚だろ。 わははははは @阿波 >>209
荒らしと思うなら、構わずほっとけよ。
荒らしにかまうのも荒らしと一緒や。 >>208
個人攻撃は効かんぞ、悔しければ論で説き伏せるんやな。 >>209
板野は、自分の意見も言えん、ずる賢きだけの奴。 @阿波 >>210
荒らし野郎の言うセリフかそれ
くっさいゴミ野郎が
巣に帰れカス >>210
あなたたち、なんで畿内説スレに寄生するの? 板野はどこへ行っても嫌われ者だな。 わははははは @阿波 板野はどこへ行っても嫌われ者だな。
他人はよく見とるわ。 わははははは @阿波 >>86
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸 >>217の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね♡【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…誇張」 >>213
自分の書き込み見直してみて下さい、あなたも充分荒らしの資格ありですよ。
>>214
阿波の恥さらしを葬るため・・・かな? >>219
また無駄なレスが一つ増えただけですね。 >>217
>>218
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 >>220 板野に居たの
>阿波の恥さらしを葬るため・・・かな?
大きく出たな。 自分の意見も言えんヘタレのくせに。 わははははは @阿波 >>222
妄想を垂れる前に、妄想に見合う集落遺跡を示せ! まず、それからだ。 @阿波 >>222
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>213
この下品な口調は高鴨神社境内立小便穢れ犯人
@阿波と同じ穢れ人種 >>224
>中央忌部の本貫は大和国高市郡金橋村
こう言う、中央忌部などの表現は、8世紀の避難疎開遷都の後からなんだろう。 @阿波 >>226
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>229
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2682年w)。 地方忌部は部民=隷属民
「日本書紀」 で明確に記された地方忌部は、紀伊、阿波の二国だけ >>231
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書 >>232
>地方忌部は部民=隷属民
これも、8世紀の避難疎開遷都の後からなんだろう。 @阿波 @阿波は高鴨神社境内立小便穢れ犯人と同じで根拠なく言い張るだけ
板野のほうが正しい考察姿勢 >>236
>板野のほうが正しい考察姿勢
板野が考察なんぞしたことないぞ。 イチャモンはいっちょ前だがな。 わははははは @阿波 >>235
>証拠は一切出さない阿波妄想
お前はどんな証拠を出したんだ? わははははは @阿波 中臣氏など多くの伴造が連姓、造姓であるのに対し、
中央忌部氏は下位の首姓
首姓はより直接的に在地を支配する形態を示す
天武天皇9年正月、はじめて連姓を賜わる >>239
>中臣氏など多くの伴造が連姓、造姓であるのに対し、
>中央忌部氏は下位の首姓
どのみち、中臣氏も忌部氏も「倭人(阿波勢力)」。
「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。 @阿波 >>240
こういうことが言えるのは、「阿波」だから。 @阿波 @阿波は根拠なく言い張るだけだから
つまり自分だけが絶対的に正しいという韓流「自己絶対正義」 >>242 板野に居たの
お前は阿保の自論無しだから、間違い云々以前の問題だ。 わははははは @阿波 >>244
>橘氏だけ、遡れないのが不思議だ。
「橘」だから、間違いなく「倭人(阿波勢力)」だよ。 わははははは @阿波 >>239
>中臣氏など多くの伴造が連姓、造姓であるのに対し、
>中央忌部氏は下位の首姓
どのみち、中臣氏も忌部氏も「倭人(阿波勢力)」。
「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。
こういうことが言えるのは、「阿波」なればこそ。 @阿波 >>248
「乙巳の変」も「壬申の乱」も「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。
こういうことが言えるのは、「阿波」なればこそ。 @阿波 >>248
「丁未の乱」も「乙巳の変」も「壬申の乱」も「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。
こういうことが言えるのは、「阿波」なればこそ。 @阿波 >@阿波は高鴨神社境内立小便穢れ犯人と同じで根拠なく言い張るだけ
根拠って、どこでもいいから崇神以前の奴婢大量誅殺痕跡を示せと、ずっと言ってるのに、
誰一人示せない、大笑いだw
示せないなら卑弥呼の墓は高天彦神社参道の150mの塚に決まったからね。 高天彦神社前の自然斜面にあるのは、昭和に立てたホラ洞窟話石碑だけ 橘氏って、ただ天皇氏ということでいいんですか?
それとも、橘三千代の血筋を阿波さんは言われたのですか? 敏達天皇の後裔って、血筋というわけではないのだろうか? >>253
石碑は昭和だが、だから何なのだろう。
高鴨神社側も認める日本最古の神社の参道なのだが。 >>256
お前の話で事実は一つだけしかない
その従一位の高鴨神社の境内でお前が立小便をしたということだけ >>259
なんや、正一位ちゃうんかいなww 大したことないな。 わははははは @阿波 六国史終了時点887年)で、流刑地阿波には従三位以上の神社はない >>257
卑弥呼やトヨを産んだ王族の墓が、すっかり忘れ去られて、どこかの土の中に眠っているとでも思ってるのか?
当時は王族(おうぞく)なんて言葉はない。
あるのは王(きみ)大王(おおきみ)。
その「きみ」の語源は神(かみ)。
つまり卑弥呼やトヨを産んだ王族は「神々」。
神々はどこにいた?
高天原だろ。
だから卑弥呼の墓は高天原(奈良県御所市高天)にあると言ってるだけ。
こんな簡単なことも分からないのか。 >>261
お前が必死に唱える流刑地阿波に、
なんで従三位の神社が六国史終了時点887年)で、あるんだ? 説明してみろや! わははははは @阿波 >>259
>その従一位の高鴨神社の境内でお前が立小便をしたということだけ
フェンスに亀頭を差し入れ、神社敷地外に放尿。
普段はブルン、ブルンと2回しか尿切りしないが、
念には念を入れてブルン、ブルン、ブルン、ブルンと4回も尿切り。
私には一切非はない。 >>263 板野に居たの
>金長狸も、全国のお稲荷さんも正一位だね。
なっ、アホだろ? 式内社もくそもいっしょにするアホさらしが板野の売郷奴。
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚。 わははははは @阿波 ところで、5ちゃん専用ブラウザ以外で書き込めている奴いる?
俺は無理だったから専用ブラウザを使っている。
zarakokuは専用ブラウザを知らないだろうし、知ってても使いこなせないから書き込めないはずw
ストレスたまりまくってる姿が目に浮かぶ。www >>266
>念には念を入れてブルン、ブルン、ブルン、ブルンと4回も尿切り。
罰当たりが! 亀頭が腐るまで振り続けろ! @阿波 >>266
葛城は下品で頭も悪いからc14も年輪年代も理解できない >>271
マジ??
プロバイダーの問題かな。
どっちにしても太国やAA荒らしが消えたのは良い事。 >>267
おわさはんも正一位やけど、天石門和気八倉比賣神より、数百年遅れて叙階しとるけんなあ。
天石門和気八倉比賣神が正一位を叙階したんは、矢野の神山では無く、神領の今の上一宮大粟神社に祀られていた時期の話やな。 阿波は流刑地ちゅうても近流な。隠岐や八丈島の島流しとは違うんよ。 藤原京は、藤原鎌足生誕地とか。
藤原姓は、どうも、地名らしい。 >>261
お前が必死に唱える流刑地阿波に、
なんで従三位の神社が六国史終了時点887年)で、あるんだ?
逃げずに説明してみろや! わははははは @阿波 >>280
従三位以上の神階を持った神は居なかったが正解。 こうなったらいっそのこと@讃岐とか@伊予とかも爆誕しないかなw >>281 板野に居たの
どあほ! そんなこと聞いとらんわ! 売郷奴は理解出来んめくらか! @阿波 >>261
お前が必死に唱える流刑地阿波に、
なんで従三位の神社が六国史終了時点887年)で、あるんだ?
逃げずに説明してみろや! わははははは @阿波 一番の荒らしは>>1
毎回同じ「桜井市纒向以外にありえない。」という間違いをしつこく張り続けている。 >>1が荒らしと思うなら、このスレに来なければいいだけのこと >>288
と、板野の売郷奴におちょくられている閑古鳥スレ主が言うとります。 わははははは @阿波 纒向は物流拠点なんだよな
近隣の首長が各人で九州まで特産品持ってくのは大変だから
一ヶ所にまとめて効率化しましょうと
そこの管理人、大倭がニギハヤヒ >>289
>>290
巻向説だけが畿内説ではない。
うぬぼれるな。 >>1
>倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
倭の女王の都はどこに在ったのであろうか?
それは桜井市纒向ではありえない。 @阿波 倭の女王の都はどこに在ったのであろうか?
それは桜井市纒向ではあるわけない。 >>248
「丁未の乱」も「乙巳の変」も「壬申の乱」も「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。
こういうことが言えるのは、「阿波」なればこそ。 @阿波 >>239
>中臣氏など多くの伴造が連姓、造姓であるのに対し、
>中央忌部氏は下位の首姓
どのみち、中臣氏も忌部氏も「倭人(阿波勢力)」。
「倭人(阿波勢力)」同士の権力争い。
こういうことが言えるのは、「阿波」なればこそ。 @阿波 >>197
ちなみに、8世紀に山奥の奈良盆地へ避難疎開遷都する前は、
王宮が小松島市一帯で王都が鮎喰川下流一帯に在った。
その王都たる根拠遺跡の一部が「観音寺・敷地遺跡」である。
「観音寺・敷地遺跡」
この遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、唯一日本最古であり、
役人の身分を表す腰帯具、文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、
斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)・紡織具(ぼうしょくぐ)
・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など
古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土している。
日本全国、どこにもこんな特異な遺跡は存在しない。
よって、ここが8世紀奈良大和へ避難疎開遷都する前の、倭国(阿波)王権の王都の一部である。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/ >>147 板野に居たの
>朝廷の神祇を担った
と、ドアホの売郷奴が、さも簡単そうにぬかすが、
朝廷の神祇を担ったのは、全国広しと雖も、「阿波」だけじゃ!
これがどれほど重要なことか、売郷奴のアホには分からんww
じつに情けなくて「阿波」の恥。 先祖に申し訳ない。 @阿波 >>143 板野に居たの
>ほれより、オオゲツヒメが、古代は正八位だったのは理解していただけたんかいなあ?
ほれより だと! さっそく逃げ誤魔化しかましやがって!
お前は心底どずるいやつじゃのうww
延喜式が制定される前に位階を賜うこと自体が栄誉なこと。
お前は心底のアホ売郷奴じゃ! 心底はずかしいわ。 @阿波 >>293
何の考古学的根拠がない高天彦神社付近などは畿内説ではない >>302
>疎開とは限らないのでは
ではなに? @阿波 >>291
はぁ?人違いもいい加減にw
板野は性格の悪いの徳島人だがバカではない。
@阿波はバカ。(ヤマモトタケルと榊正志よりは少しマシ) >>303
後の時代の言葉だが「切捨御免」ではないかな。
と思う >>301
崇神天皇が4世紀初頭から前半で決まり。
ならばその数十年前のトヨという最高位の女性は天トヨ津媛しかいない。
そしてその3世代前にヒメ(蹈鞴五十鈴)后がいる。
二人とも住処は奈良県御所市。
邪馬台国論争は1分で終わる。
王族の住まいや墓は今では神社。
だから考古学の入れない世界だ、何でも掘ればいいってわけではないんだ分かったか下人。 大宜津比売が正八位より、式内社・大宜津比売神社が存在しないことの方が重要。
これを指摘すると上一宮大粟神社を出してくるバカがいるがここは、天石門別八倉比売神社の論社であって延喜式の当時、大宜津比売が祭神でなかった事は明白。
阿波にとって大宜津比売とは何ぞや?阿波の古の女神たちはうち捨てられ突如として古事記に登載されスーパースターとなった大宜津比売に鞍替えしたのだろう。
天日鷲命・母神八倉比売の神格を抹消し大日霊女に仕立て上げる
同じく・后神言筥女命を吾平津媛にでっち上げるなど悪質。
徳島県にかつての忌部の面影なし。県ぐるみ歴史の捏造に手を染めた日本の恥域。 >>305
なんやそれ? はっきりよう言わんのか? 中途半端な返答すな! @阿波 >>307
と、板野の売郷奴におちょくられている閑古鳥スレ主が訳の分からんことを
ぐちぐち言うとります。 わははははは @阿波 >>308
歴史は詳しくないで、年号、人名は出さないけど、
大和飛鳥から変わる時、例えば、江戸時代から明治に変わる時のような 何かあったのかも。
「さらば大和」があったかも。阿波は奈良からも遠いし、共にサヨナラ。 >>310
>大和飛鳥から
そもそも、そんなもの無いから。 @阿波 >>310
>大和飛鳥から
奈良の飛鳥遺跡と言われているものは、ぜんぶ朝鮮半島避難民の遺跡。 @阿波 >>312
そうなんですか。
それなら、協力者の阿波は、切られたのだろう。 >>313
>それなら、協力者の阿波は、切られたのだろう。
だれに切られたんだ? @阿波 >>313
はっきり、よう言わんのか? 中途半端な返答すな! @阿波 >>313
>それなら、協力者の阿波は、切られたのだろう。
だれに切られたんだ? @阿波 >>319
おそらく、すでに死んでいるので土の中。かな 魏志倭人伝に登場する倭人の人名は日本人の語る音を漢字で写したもの
漢字の文字には意味は無い
当時の日本人は「后」という漢字の意味と音を活かして言葉を生み出すということはなかった
熱心な考察の中に、このような誤解があると残念なのであえて発言しました 邪馬台国の場所について論争が続いているわけですが
各論者に一つ共通している土台はある
それは、いずれ大和に首都がおかれるようになること
それぞれの主張に「いつからいつまでの期間その首都があったのか」の考察も加えてほしい >>321
あのアホを支持する人は誰一人といないのでご心配なく。 >>309
お前は反論が出来ない時はいつも「訳の分からんことを」だなw >>324
反論してやるから、訳の分かることを書け!カス! @阿波 >>322
>それぞれの主張に「いつからいつまでの期間その首都があったのか」の考察も加えてほしい
それぞれの主張にいつからいつまでの期間その首都が「あった根拠」の考察も加えてほしい。
それが出来るのは、「阿波」だけ。 @阿波 ヤマト連合の首都と女王国は必ずしも同じでなくても構わない。
そういう意味では、阿波や伊予に女王がいても構わない。 ここでいちいち何度も何度も出ていけだのアラシだの言ってるがヤツがほんとうざい >>329 板野に居たの
>ヤマト連合の首都と女王国は必ずしも同じでなくても構わない。
自論を言う自信が無いくせに、いっちょ前なこと言うな!
お前の言う「ヤマト連合」の首都はどこや?
根拠遺跡も示せんくせに、ええ格好すな! @阿波 >>322
>それぞれの主張に「いつからいつまでの期間その首都があったのか」の考察も加えてほしい
それぞれの主張にいつからいつまでの期間その首都が「あった根拠」の考察も加えてほしい。
それが出来るのは、「阿波」だけ。 @阿波 まあ畿内説スレに来て、一日中スレチの話ばかりダラダラしてる阿波と板野の二人組は悪質な荒らしだよ
誰もお前らに興味はない 私はヤマト国の中心は畿内に有ったと思ってますよ、
王都は少なくとも粟では無い。
一方で、神話の舞台の一部は粟であったのでは無いかと考えています。 >>326
どこでしょう?
タイムマシンで過去に行く時があったら、調べておきます。 >>335 板野に居たの
>私はヤマト国の中心は畿内に有ったと思ってますよ、
>王都は少なくとも粟では無い。
お前の言う「ヤマト連合」の首都はどこや?
根拠遺跡も示せんくせに、ええ格好すな! @阿波 >>336
そうしろ! 分かってから書き込め、ボンクラ! わははははは @阿波 >>337
>なんで理由を言わないの?
板野の売郷奴は、いかにも冷静で偉そうに見せかけるが、
実際はずる賢くて、間の抜けた雑魚だから。 わははははは @阿波 >>335 板野に居たの
>一方で、神話の舞台の一部は粟であったのでは無いかと考えています。
なっ、はずる賢くて、間の抜けた雑魚だろ? わははははは @阿波 >>335 板野に居たの
>一方で、神話の舞台の一部は粟であったのでは無いかと考えています。
なっ、板野の売郷奴はずる賢くて、間の抜けた雑魚だろ? わははははは @阿波 >>335 板野に居たの
ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 妄想にとらわれた阿波の中の蛙さんはいつ大海を知るんでしょうね・・・。 >>344
大海は、「阿波」だから知っている。 @阿波 >>335 板野に居たの
ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 >>345
>あ~スマン相手にしちゃいけなかったんだよな。
相手にすると、ボコボコにされちゃうからな。 わははははは @阿波 無意味なことしか言わん泡の言葉
誰が聞いても興味ゼロ 阿波説は邪馬台国東南アジア説やエジプト説よりも信憑性がないからな >>218
何コレ?誰の説??
凄いね…完璧じゃん >>351
>あ~スマン相手にしちゃいけなかったんだよな。
相手にすると、ボコボコにされちゃうからな。 わははははは @阿波 飛鳥時代の王宮を阿波の各地に比定してたのも、
幼稚園児のごっこ遊びレベルのしょうもなさやけんな〜
小松島商工会議所の青年部が、まんまと騙されてサイトに載せていたのだか、
ある日突然表示されなくなって、そのままフェードアウト。
無かったことになっている。
流石に何処かからクレームでも入ったんでしょうな。 >>356 板野に居たの
ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 飛鳥の宮都(王居)が小松島市一帯。
飛鳥の王都(首都)が鮎喰川下流一帯。
ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 >>351
>あ~スマン相手にしちゃいけなかったんだよな。
相手にすると、ボコボコにされるぞ!
怖い奴はおとなしくロムっとけ。 わははははは @阿波 伊勢遺跡&纏向遺跡
理由―卑弥呼には領土もなく家来も居なかった
完璧だな 飛鳥の宮都(王居)が小松島市一帯。
飛鳥の王都(首都)が鮎喰川下流一帯。
ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所なんぞ、どこもないだろうが!
寝とぼけたことをいつまで言うつもりじゃ、どカスが! @阿波 ナイナイ、王都阿波説が全てをすべてぶち壊したと言って差し支え無い。
幼稚園児のごっこ遊びレベルの妄想を嬉し気に宣伝してるんはおまはんぐらい。 >>363
ないない言うだけで、なんのまともな反論も出来ん、負け犬の遠吠え。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、負け犬よ。 わははははは @阿波
>>364
神話の人物を実在したと仮定して話を進めるほうがバカじゃん
卑弥呼は共立王になる前領土も家来も持ってた王なのか?
そうじゃないなら邪馬台国って何よ? >>368
ヒミコはいわば宗教的トップで、カトリックの教皇的存在だったのでしょう。 邪馬台国は、ヤマトコクとよみ、ひろい意味での倭人の連合国の事。 >>370
そうだよな
みんな変な事をおっしゃる
卑弥呼の王都なんて元々はないんだよ 一般に王とは国の最高権力者のことなので卑弥呼がそうではなかったというならそれなりの根拠を提示してくれ。可能性だけなら何でも言えるぞ >>374
卑弥呼は倭王だよ
共立王になる前の話し
どこで何してたんだ? >>374
現代の感覚でモノを言い過ぎだわ
当時は今で言うところの集落が国みたいな時代だぞ?
当時の日本列島に魏のような大帝国があったわけではない むしろ邪馬台国、投馬国、奴国などは本来地域国家名であって、女王を推戴した連合王国全体を女王国って呼んでたんでないの。まあ全体を邪馬台と呼ぶこともあったかも知れんけど。 >>375-376
何がいいたいのかさっぱり分からねえ。要するに何だよ主張を言え >>379
YouTubeでまんが日本史第2話を見て勉強してこい >>380
要するに何も主張は無いんだな無視するわ >>381
卑弥呼はヤマトの国の王になり王の宮殿である伊勢遺跡、纏向遺跡に入った 七万戸の国があるのに「今で言うところの集落が国みたいな時代」なはずないだろ >>384
なんでそんなところに居るんだ?
女王国ってなんだ? >>373
>卑弥呼の王都なんて元々はないんだよ
「卑彌呼」の居た集落=女王国
「邪馬臺国」の首都=「卑彌呼」の居た集落(女王国) @阿波 >>387
伊勢遺跡、纏向遺跡が王都だからとしか言いようがない >>383
七万戸の国=大河四国三郎吉野川流域に点在する集落群 @阿波 >>390
卑弥呼は共立王になる前から豪族の王様だったのか? >>389
>伊勢遺跡、纏向遺跡が王都だからとしか言いようがない
だろうなww ほかになんの根拠遺跡が無いからな。 言い張る以外に方法は無いわけだ。 わははははは @阿波 >>363 板野に居たの
ナイナイ言うだけで、なんのまともな反論も出来ん、負け犬の遠吠え。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、
ナイナイ言うだけの負け犬よ。 わははははは @阿波
>>389
伊勢はともかく纏向が王都で卑弥呼が在したというのは従来の近畿説とそう変わらない。論点は何? >>397
ともかくではない
纏向遺跡が王都であるなら伊勢遺跡も王都だと言っている >>400
生活の痕跡のない遺跡は全て王都になるのか?どういう理屈で? >>396
那賀郡大林村に飛鳥祠があった、飛鳥祠こそが飛鳥の宮の跡に違いない?
ほんな時空や物理を超越した寝ぼけた説を信奉してる人を説き伏せるのは無理だわ、
せいぜい頑張って飛鳥祠の跡でも探せばええとおもうよ。 >>401
だから纒向が王都であるならばと言っている
生活の痕跡がない巨大な遺跡など他にない >>402 板野に居たの
ナイナイ言うだけで、なんのまともな反論も出来ん、負け犬の遠吠え。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、
ナイナイ言うだけの負け犬よ。 わははははは @阿波 >>403
すまない、わからないな
纏向が王都であることと、伊勢遺跡に生活痕が乏しいことから、どのような理屈で伊勢も纏向と並んで王都だということになるのだ?
またそのように考えることにどのような学説上のメリットがあるのだ? >>405
纏向にも生活の痕跡がないだろ
それが王都であるならばって事だ >>405-406
ふたりとも同じ意見では? @阿波 伊勢遺跡と纏向遺跡は推定年代が違う
伊勢遺跡は一世紀~二世紀
纏向遺跡は三世紀~四世紀だっけ? >>406
生活痕が乏しいことは居住区ではなく政治的ないし宗教的区画だったことを示唆するかも知れないが、それだけでなぜ邪馬台国の首都だったと言えるかよく分からないな
纏向は周辺遺跡も含めた規模や出土品などから総合して邪馬台国の有力候補地と比定されているわけで、伊勢遺跡もそれなりの根拠があればそうかも知れないって話になるかも知れないが、現状、有力豪族の根拠地かもぐらいしか言えないのでは? >>409年代が丁度ずれてるのよ
だから王都を移転した
伊勢遺跡は柱引き抜いて片付けて出ていってるから廃れたんじゃない >>409
>纏向は周辺遺跡も含めた規模や出土品などから総合して
纏向は周辺遺跡も含めた規模や出土品などから総合して、「邪馬臺国」などまったく当てはまらない。 @阿波 >>409
>纏向は周辺遺跡も含めた規模や出土品などから総合して
纏向は周辺遺跡も含めた規模や出土品などから総合して、「倭人(阿波勢力)」の「古墳造営前線基地」。 @阿波 纏向遺跡は、鍛冶炉遺構や勾玉工房などが一切無い、凡庸な取るに足らない遺跡である。 @阿波 纏向からは東海系土器の比率が高いけど滋賀南部も
東海系銅鐸が出てる
例のでっかいやつとか >>418
それ全部、「倭人(阿波勢力)」が造った「東阿波型土器」。 @阿波 纏向は市場で倉庫だから生活の跡が無いのよ
各地の産品を集めて九州の卑弥呼のもとに送っていたわけで。
逆に送られていた側ではないから九州産の土器などは出土が少ない
そしてニギハヤヒこと大物主がその管理人
大物主の「物」とは文字通り「物」だった >>421
九州は日本ではないってことだ
逆に静岡県民お前らは日本だ
いやあ誤解してたよ ああ、卑弥呼が居たところは、邪馬台国の中の女王国ということなんだあ・・・
それでは、ソロモン男王国もあったことだろうなあ・・・
剣山ということは、高知?
何か、剣山と土佐海は、男性的に思う。 阿波さん、この新説どうかねえ?何も根拠がなく、直感だけで言っているが・・・
どういや、文旦も土佐高知ですよね・・・ >>423
剣山は徳島な、勇ましい名前とは反する優しい山容が特徴。 >>425
アホの畿内信者にそんなまっとうなこと聞いても無駄。 @阿波 土佐犬というのもあるな・・・
他に高知でしっていることは、
高知城、かつお、土佐男・土佐女、室戸岬、足摺岬、坂本龍馬、土佐金魚、長宗我部氏、土佐地酒、
土佐小地鶏 (国の天然記念物) 、土佐料理、土佐のあかうし、黒潮
物凄い観光県だ。 あと、ソロモンは王様の個人名であって、王国の名前では無い、
ソロモン王の秘宝伝説はあるが、ソロモン王国なんて言う国は無いから。 >>426
県境ではなくて、もろ徳島なんだ、知らなかった。
へえ、剣山は、険しくないんだ。
剣山に、ソロモンのアークがあるって言われているよね。 >>429
いや、女王国が邪馬台国にあるのなら、当然、男王国も有ると思ってね >>428
土佐は昔から闘犬の盛んな土地ではあるが、
土佐犬は、四国犬にセントバーナードやブルドッグなどを交配して作られた犬種なので古いものではない。 土佐神社
御祭神 味すき(金偏に祖の旁)高彦根神、一言主命
雄略天皇の御代創建
一言主命は、新しい日本の夜明けに関わる神
土佐は、とっさ、そして、止作。
謀の世の中に、参拝スべき神社かも知れない。 また、天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
忌部神社や鷲神社などに祀られている。忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の末裔とされる三木家が育てた麻を元に、麁服(あらたえ)を調進する神社である[1]。
『新撰姓氏録」によれば、県犬養氏や天語連の祖とされる。
お?俺と関係する神かな?県犬養八千代、橘氏。 雄略天皇ということは、ちょっと邪馬台国と前後するね。
「 記紀 」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて 帝権 を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる。 養蚕の推奨、 新羅 への出兵、 呉 への遣使などの政策を積極的に実施した 気学では、五黄土星は帝王の御位
それが女王国を佐すると考えた。
超無理やりですけどね。 「土佐」の名称と由来
国名は、古くは『古事記』『日本書紀』では「土左」、『先代旧事本紀』では「都佐」と記されている[1]。元々は「土左」で和銅6年(713年)の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されている[1]。平安時代中期に至り「土佐」が一般的な表記となったとされる[1]。
「トサ」の語源には、俊聡・遠狭・(浦戸湾を指して)門狭などの諸説があるが明らかではない[1]
か・・・
左の土、都の佐、都の左と考えると、わかりやすいな。
飽くまで、佐だから、男女王は共にやはり阿波に居たのだろうか?
しかし、それでは、なんで女王国なんだろうか・・・ 延喜式内社
『延喜式』神名帳には、大社1座1社・小社20座20社の計21座21社が記載されている(「土佐国の式内社一覧」参照)。大社1社は以下に示すものであるが、名神大社ではない。
土佐郡 都佐坐神社 - 式内大社。
比定社:土佐神社(高知市一宮) >>442
ト(都)←こんな言葉があったと思うのか? 南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、南四国・阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、黒潮がもたらす豊かな海の恵によって漁労・航海術が発達、
内陸地域は温暖多雨による森林資源に恵まれ、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
また、「辰砂」「青玉(角岩チャート)」「蛇紋岩」「青石(緑色結晶片岩)」など希少価値の高い鉱物にも恵まれ、
「阿波」に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、自然の摂理。 @阿波 魏志倭人伝だと多分對蘇國がトサ国、蘇奴國がサヌ(キ)国 「阿波」は、蛇紋岩が採れるので、翡翠も採れた可能性が高い。 @阿波 纏向が女王の都とするところ。邪馬壹、邪馬壱、邪馬岱、邪馬臺、いずれも同義語。纏向にあった
邪馬臺が卑弥呼の道観、宗教道場。千人の奴婢達が支持されることもなく仕え学び働く場所。まさにまほろば。
地勢東高西下、奈良盆地。 >>448
それ、ウィキペディアかなんかの記事だよ? 南四国は海のはるか彼方の異世界ではある
だから罪人を流した 土佐は、雄略に対して悪事(まがごと)を言った一言主が流された土地。
その悪事(まがごと)とは、眉輪王(まよわのきみ)の変での葛城円(つぶら)大臣の焼殺事件の事であろう。
これは近年の極楽寺ヒビキ遺跡の発見により史実とみて間違いない。
記紀では雄略と一言主は一緒に狩りをしたなどと腫れ物に触るように書いてるが嘘、
続日本紀の土佐への流罪が正解、事実、土佐一宮は一言主を祀る。
葛城円の娘・韓媛は、自分の父親を焼き殺した雄略の妃になる。
このような葛城地域のすさまじい怨念の中から生まれてきた豪族が蘇我だ。 >>454
「常世の国・パラダイス」へようこそ。 @阿波 >>455
>土佐は、雄略に対して悪事(まがごと)を言った一言主が流された土地。
その土佐へ一言主を流したのが、となりの倭国(阿波)。
決して、畿内や九州ではないことは、言わずもがな。 @阿波 禍津神も、改心しさえスレばそれでいいのだな
鬼子母神のように >>457
バカは氏ねば良いと思うよ。
天皇登幸【葛城山】之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。彼時有其自所向之山尾、登山上人。既等天皇之鹵簿、亦其裝束之狀、及人衆、相似不傾。爾天皇望、令問曰「於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。」卽答曰之狀、亦如天皇之命。於是、天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。故、天皇亦問曰「然告其名。爾各告名而彈矢。」
於是答曰「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之~、【葛城之一言主大~】者也。」 日本には8か所ほどのヒスイ産地がある(地図1)。
日本海側に分布する蓮華帯および三郡帯のヒスイ(糸魚川、大佐、大屋、若桜)のほとんどは純度が高く、
90%以上がヒスイ輝石(同類オンファサイトを含む)からできている。
その他の地域では、ヒスイ輝石が80~50%を超える岩石は稀であり、
ほとんどが曹長石、藍晶石、方沸石などを多く含む。
https://www.cgl.co.jp/latest_jewel/tsushin/48/83.html 「吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、【葛城之一言主大神】者也。」
雄略に対して「悪事」が先に来ているところがポイント。
普通、日本語では「あの人の良いことも悪いことも知っている」みたいに」「良い」が先に来る。
しかし一言主は「悪事」を先に言った。
本来は雄略の悪事のみ言いたかったのだろうが、それは直接的過ぎるので善事も付けたのだろうが、
雄略の善事なんてないに等しい、悪事は山ほどあるが。 巫女は軍を束ねるのが役割
櫛をさし鏡を掲げた従軍する巫女の一群の埴輪もある
倭国大乱で各地の王が倒される軍のクーデターが起きたいう仮説も考えられるね
櫛、鏡、巫女、軍
櫛のつく神さまに櫛八玉神がある
葦原中国平定の件で櫛八玉神が料理をする話が登場する
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します 道祖神祭のストーリーは櫛八玉神の料理の話とプロットが同じ
結びの神である醜い八衢彦と八衢姫が結ばれて男の子が生まれた。新しい宮を建てる。宮を守る人々が竹でしばかれて宮に火を入れ燃やす。 >>462
陳寿が国家の邪馬台を集落と勘違いしたんでしょう
だから資料の内容と合わなくなったから女王国にした >>457
天皇射獵於【葛城山】、忽見長人、來望丹谷、面貌容儀相似天皇。天皇、知是~、猶故問曰「何處公也。」長人對曰「現人之~。先稱王諱、然後應噵。」天皇答曰「朕是幼武尊也。」長人次稱曰「僕是一事主~也。」
徳島県は香久山だけで飽き足らず葛城山もでっち上げですか?もう、見苦しいのでやめませんか? 日本書紀・古事記によると最初の天皇は奈良盆地一帯の指導者であった長髄彦を滅ぼして、畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に都を開いたとされている
神武天皇は筑紫の日向で誕生し、45歳になってから兄や子を集めて東征を開始したとある
日向に都があったとは書かれていない
一つの国の歴史について触れるとき都が語られるとすれば、神武が東征で目指したのは長髄彦らの統べる奈良の都だった 陳寿はわかって書いてると思ってるけど水行陸行とかおかしいことに気付いてないんだよ
舟行一年とか有り得ない事も書いてるし混乱してたんだよ 全く知らないところを資料を読んで想像で書いてるんだからな 舟行一年のとこは山海経からの伝聞だろうから他の記述と同列に考える意味ない 北九州までの経路と北九州周辺の風俗は実際に伊都まで行った官人の報告ベース、北九州以外の倭国の地理、風俗、政情等は倭人からの伝聞ベース、この辺までは誤情報あるにせよ一次情報に近いのでそれなりに事実が透けて見える
黒歯国とかその辺は山海経とか他の地誌からの引用、合成だろう。ほぼ意味はない >>473
だから資料をそのまま書き写してるのよ
全部分かってる身からするとそんな資料は弾かなきゃいけないけど
陳寿には重要か不要かを選別できない >>474
伊都国には行かなきゃいけないけどそれ以外は立ち寄る必要はない
対馬も壱岐もとばして良いんだぞ >>477
逆に立ち寄る理由なんかないだろ
勿論対馬や壱岐に行った人の資料もあっただろうけど なんで皇帝の使者が対馬や壱岐に寄らなきゃならんのよ へえ、伊雑宮は、天常立大神を祀っているんだなあ
最重要神社の一つだなあ・・・ 天照大神の仏相は、聖観音なのだな・・・
神涼観音は、伊勢神宮創建に尽力された観音様らしいが、
別佛らしいな・・・
違うな、聖観音が神涼観音に化身されたんだな・・・
神としては同一神で、別人物ということだろうか・・・ >>478
準構造船で沖乗り沖乗り航法だよね?
1日でどれ位の距離を移動すると想定してるのか。 水行二十日見れば当時の航海が遅々としたものだったのは想像に難くない。昼ちょっと移動して夜は停泊だろう。 >>98
これは酷い、、バカ過ぎる 孫氏を名乗っている連中は一つの血族ではないのに勘違いで勝手な話を展開しないでくれたまえ >>479
古代では神の島だから船が立ち寄って当然、そんなことも知らんとか基礎的な知識無さすぎ お前に議論に参加する資格はないね >>482
そういう理由があったなら立ち寄ったかもな トンデモの人って結局のところ立証しようって意思がないから、トンデモだって分かりやすい >>491
山陰から北陸辺りにも来てただろ
それ壱岐に寄ってると思ってる? >>492
トンデモではない
常識的に考えろバカって話し >>494
その常識がほんとに常識なのか立証しなきゃね え!なに寄生虫内説だって?
失礼なこと言ってあげるな! 魏志倭人伝でよく誤解されるのは紀行文のように読んでしまうこと
当時の倭国は29か国の連合国家、これを構成する国々を当時朝鮮半島を治めていた魏の帯方郡の役所から近い順に記載されている
邪馬台国までの8か国は、人口や官吏の名前、先立つ国からの方角・区間距離のあらましなども記載されているが、以降の21か国は国名だけが記録されている
これらは、それまで折々に中国の役人が旅行・見聞した記録をまとめたもの
実際に帯方郡の役人が卑弥呼に金印を届けたこともあったが、その際のルートについては記録されていない
おそらく朝鮮半島から日本海をとおり近畿付近に上陸したルートだったと私は想像する
倭国以外にも倭人の住んでいる狗奴国がありこの国については気候・風俗など詳細に記録している
当時の中国人も台湾のすぐ東までの島々には倭人が住んでいるという認識だった
そういう意味で狗奴国は彼らにとって身近な存在であり、文章からも倭国同様に尊重していた様子が感じられる 意味のない悪口しか言えなくなったアンチは脳死状態だな >>504
> 実際に帯方郡の役人が卑弥呼に金印を届けたこともあったが
届けてないだろ >>504
>倭国以外にも倭人の住んでいる狗奴国がありこの国については気候・風俗など詳細に記録している
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、南四国・阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、黒潮がもたらす豊かな海の恵によって漁労・航海術が発達、
内陸地域は温暖多雨による森林資源に恵まれ、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
また、「辰砂」「青玉(角岩チャート)」「蛇紋岩」「青石(緑色結晶片岩)」など希少価値の高い鉱物にも恵まれ、
「阿波」に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、自然の摂理。 @阿波 >>506
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩 >>507
四国は
>女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
で簡単に触れている
当時倭国に含まれない領域で、国としてまとまっているのかも不明だったのだろう
魏と交流のある国とは見なされていなかった >>509
九州に倭国は無い。 理由:根拠遺跡がないから。 @阿波 >>509
千里とか、四国がそんな離れてない
九州説はいつもデタラメだなあ 四国は倭国連合には含まれず、魏と交流がなかったという事実だけ指摘されている
これは不名誉なことなどではない
人々が懸命に生きてきたどの地域も同じように尊い >>512
魏志倭人伝では、釜山と対馬、対馬と壱岐、壱岐と末盧国の間が、渡海して千余里と表現されている
女王国上陸地点から見て東で、渡海部分は千余里という表現だと思う
あと、私は九州説などではないオーソドックスな畿内説を支持してます 直接伊都国に行けば良いのに何故末盧国に行ったのか?
対馬国~一支国~末盧国が資料にあったからそれ載っけただけなのよ >>508
弓遵が行ったと思ってるのか?
倭王に届けたのは 梯儁等 だ >>517
ズレたこと書いたが梯儁が行ったのは伊都国まで >>513
>四国は倭国連合には含まれず、魏と交流がなかったという事実だけ指摘されている
「国指定史跡 鳴門板野古墳群」
この阿王塚古墳の舶載画文帯神獣鏡2面も興味深いが、
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>518
>ズレたこと書いたが梯儁が行ったのは伊都国まで
そんなこと理由も言わずに言い張られてもな
これがからトンデモ説は困るんだよ >>518
王遣使詣京都帯方郡諸韓国及【郡使】
倭国
皆臨津捜露 【傳送】
文書賜遺之物詣女王 不得差錯 >>521
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>516
末盧は現在の松浦市ではなく唐津市(松浦郡の国衙)のあたりなので、単純に壱岐から直近の大規模集落である唐津(末盧)に渡って陸路で伊都まで移動しただけでしょ
当時の船なんて時速10キロも出ない手漕ぎの準構造船だろうし、壱岐から伊都に直行なんてするわけない >>525
>末盧は現在の松浦市ではなく唐津市(松浦郡の国衙)のあたりなので
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 確かに遺跡のない所に人が来てたってのは考えにくいな
今後発見されるかも知れんけど
ただ呼子はないんじゃないかな 末盧國は官名の記載がないから倭国の構成国ではない
草木が茂る道と素潜り漁の描写しかないので、
末盧國の海浜の寒村に寄港しただけ >>530
>末盧國は官名の記載がないから倭国の構成国ではない
それ説得力ない
戸数も道里もある >>533
俺も伊勢遺跡推しだけど壱岐から末盧ってところに来たのは魏志に書いてあるから
そういう人も居たんでしょう
末盧は松浦であってると思うわ
伊都国は何処だかわかんないけど >>535
>末盧は松浦であってると思うわ
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>536
お前とは考え方が違うから
対馬国;一支国末盧国で行程は切れてると思ってるから >>537
>邪馬台国は凡そ畿内第V様式圏
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>538
>お前とは考え方が違うから
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>540
魏志倭人伝に書いてある事を信じて必死に辻褄が合うように考えてるんだろ?
バーカバーカ コース考えたら末盧(唐津=旧松浦)、伊都(糸島=イト)、奴(博多=那)しかないと思うが。現在の松浦は本来の松浦郡の中心から外れたとこに地名が残っただけでしょう 対馬国;一支国末盧国に行った人は地形や住民の生活を調べて記録してるけど
奴国不弥国に行った人は怠け者で記録もしてない >>542
>魏志倭人伝に書いてある事を信じて必死に辻褄が合うように考えてるんだろ?
魏志倭人伝に書いてある事に辻褄が合わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>543
>コース考えたら末盧(唐津=旧松浦)、伊都(糸島=イト)、奴(博多=那)しかないと思うが。
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>545
>>544
記述内容が違うことをどう考える? >>548
別に文字数に制約があるわけでも無いのに俺が書く立場ならあんな書き方しない >>550
何のために対馬国;一支国末盧国の事を詳しく書くんだ? >>551
>何のために対馬国;一支国末盧国の事を詳しく書くんだ?
もちろん、倭国(阿波)へ行くルートを紹介するため。 @阿波 >>552
奴国不弥国は詳しくねえじゃん
なんも書いてねえじゃん >>553
>なんも書いてねえじゃん
「東南至奴國百里官曰?馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸」
「東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家」
いっぱい書いてあるが? @阿波 >>555
>ぜんぜん、思わないけど。
お前はな。 @阿波 >>516
自然な疑問
倭国を構成する国々を帯方郡に近い順番に列記しているだけ
誰かがその順番に移動したとか、通常その経路を通って移動するとかということとは無関係
最初の8か国は地理的な位置関係と人口等の基礎データを記載してある
邪馬台国より遠い21か国は国名だけしか記していない
ただ「帯方郡に近い順番」という原則はおそらく守られているものと思う
倭国というカテゴリーに続いて、倭国以外で倭人が住む倭地というカテゴリー、さらに倭国・倭地よりさらに遠方の地域というカテゴリーで整理されて記載されている >>556
おまえも糸島が伊都国だと思ってないんだろ? ああ、何でそんなどうでもいい話してるのかと思ったら放射説主張したくて経路説否定してんのか 阿波無視しろと言いつつあぼーんしないで相手してんのな 伊都国中心の放射説か・・・
トンデモのなかでも秀逸だな。 わははははは @阿波 >>566
>阿波無視しろと言いつつあぼーんしないで相手してんのな
だから、「阿波」なしではスレが成り立たない と何度言えばw @阿波 わははははは
まあその通りだな
魏志倭人伝読んで伊都国中心の放射説なんてわかんねえじゃん
わからない事を陳寿が意図して書くわけない 単純に陳寿が間違ってたって方がまだ説得力がある
推理小説じゃ無いんだから読者に伝わらない書き方するかよ それほんと
推理小説家感覚で倭人伝を弄ぶ流行り遊びだったのが九州説ブーム >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
根拠遺跡が伴わなければ、トンデモ説。 @阿波 >>571
間違って書いた可能性なんかほとんどないだろ常識的に >>576
>だから纒向が根拠の遺跡
纏向のどこがだ? @阿波 >>577
計画的な建設、先進的な建物、宗教施設への特化、大量の人手、巨大墳墓、他地方からの人口流入、新しい文化の創造と発信、その他いろいろ 邪馬台国とはなんぞやねん?
まずは、定義をしないと、決まらないだろう。 >>578
>計画的な建設
「阿波」には、纏向よりもっと計画的な遺跡があるが? @阿波 >>578
お前、書いてて恥ずかしくないのか? わははははは @阿波 >>583
>意味おあること言ってね、人間なら
なら、>>580に答えろ! @阿波 >>580
根拠になる史書の内容が伴わなければ、トンデモ説。
お前こそ、書いてて恥ずかしくないのか? >>583
>意味おあること言ってね、人間なら
なら、>>581に答えろ! @阿波 >>583
>意味おあること言ってね、人間なら
なら、>>580に答えろ! @阿波
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、
纏向遺跡より遥かに企画性を持つ。
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/ >>578
お前、書いてて恥ずかしくないのか? わははははは @阿波 >>588
お前がなw
ヤマタイ国阿波説ならともかくヤマト国阿波説は何をどうこじつけても嘘が簡単にバレる。
「私の魂を大和を取り囲んでいる山々の東の山に斎き祀れ」 と答えました。 この神は御諸山にいる神です。
青山四周でもなければ東に神体山もなし。史書が否定してるんだから。 罪人流刑地阿波の西長峰遺跡の集落の規模は東西50m、南北200m
纏向遺跡の300分の1
博多遺跡群の130分の1、比恵那珂遺跡群の160分の1 >>590
もはや、遺跡調査範囲の広さでしかアピール出来ない、トンデモたち。 わははははは @阿波 >>587
詳しい資料が出てこないな
お前ら遺跡作ろうとしてるだろ >>589
>ヤマタイ国阿波説ならともかくヤマト国阿波説
なんのこっちゃ? 基地外閑古鳥よ。 わははははは @阿波 >>587
「纏向遺跡より遥かに企画性を持つ」
なんて言ってる人いないのが阿波の遺跡 >>586
本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上で極めて重要である(文化庁) 他に「阿波」では、掘立柱建物は、縄文時代からある。
銀色を呈する「泥質片岩製石棒」の一大製作遺跡である徳島市三谷遺跡でも掘立柱建物。
徳島市三谷遺跡:掘立柱建物 8棟
① 6.2m*4.8m=29.76m2
② 5.2m*5.4m=28.08m2
③ 11.3m*5.7m=64.41m2
④ 10.7m*4.2m=44.94m2
⑤ 6.0m*4.7m=28.20m2
⑥ 6.3m*5.1m=32.13m2
⑦ 6.0m*3・4m=20.40m2
⑧ 3.0以上*7.6m以上=22.80m2以上 @阿波 >>598
お前の所がか? そりゃ、無理もない。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 阿波は論外としても纏向から日本の歴史が始まったかのような言い方は気に入らんな
伊勢遺跡があるしそれ以前もあるかもしれない
それと纏向の次何処かに移転したと思うがそれも発見されてない 右向きの矢印は左に向ける。
手前に向いてる矢印は向こうに向ける。
これは無駄な書き込みで、混乱し、紛争を起こす。
なので、やめるべき。 >>600
>阿波は論外としても
負けるからな。 わははははは @阿波 >>600
そんなん旧石器時代から人はいたんだから当たり前っすよ >>601
直接伊都国に行けば良いのに何故末盧国に行ったんだと言っても
そう書いてあると言って聞き入れない
糸島には碌な集落跡もないし俺は伊都国ではないと思ってる 壱岐から伊都に行く経路に末盧(唐津)があるんだから経由するの当たり前でしょ。なんでわざわざ当時の手漕ぎ船で長距離沖乗り航海なんかすると思うの >>605
>壱岐から伊都に行く経路に末盧(唐津)があるんだから
末盧(唐津)の根拠遺跡が伴わなければ、ただのトンデモ説。 @阿波 >>605
海流があるから自然に流されるんだよ
頑張って直進する必要はない 阿波の歴史や遺跡に誇りを持つのは全然構わんのだが、
他所の歴史や遺跡を認めないのは間違っとるよ、
もうちょっと敬意を払いましょう。 そもそも「根拠遺跡」などと言う謎の専門用語風のオリジナ用語を多用しているのがばったもん臭い。 >>608 板野に居たの
末盧(唐津)の根拠遺跡が伴わなければ、ただのトンデモ説。 @阿波 >>608 板野に居たの
お前に他所の歴史や遺跡を語る資格は無い! @阿波 >>614 板野に居たの
ナイナイ言うだけで、なんの反論も出来ん、負け犬の遠吠え。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、
ナイナイ言うだけの負け犬よ。 わははははは @阿波 ドアホの売郷奴よ、この「阿波」が倭王権のど真ん中じゃ!
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、
ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。 わははははは @阿波 >>620
倭王権をヤマト王権と読むことくらい阿波君はわかってるよ 伊都国ってのは一大率が置かれ王も居る特別な場所
常識的に考えればやっぱり出雲なのかなあ 大宰(おほ みこともち)・大宰帥とは、一般には数か国程度の広い地域を軍事を含めて統治・指揮する地方行政長官の役職である。率(そち)・総令・総領などとも呼ばれた。
普通に大率→太宰府でしょうね
糸島かどうかはともかく北九州なのは確かでしょう >>629
>糸島かどうかはともかく北九州なのは確かでしょう
伊都国(千戸)(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」 @阿波 >>629
そうであるなら糸島ではなく太宰府だと言え
イトという言葉が入ってるとか関係なくなるから >>621
>漂流してて草 帰りどうすんだw
帰りは、
大陸への出航地(平戸市周辺) @阿波 ちょっと何言ってるか分からないですが、伊都国に一大率が置かれてたって書いてあるんだから「イト」に類する地名の場所に太宰府の前身が置かれていたと考えるのは自然じゃないですか?
糸島だと何が嫌なんですか? >>634
つまり福岡平野一帯は全てイトと呼ばれてたってことか? >>635
言っている意味が分かりませんが、現在の糸島市の一部である怡土郡が代表的な比定地じゃないんですか? >>637
もともと伊都にあった一大率が、後にもっと開けてる博多に移転しただけでは??庁舎は絶対に移転しない想定ですか? >>636
>現在の糸島市の一部である怡土郡が代表的な比定地じゃないんですか?
伊都国の根拠遺跡が伴わなければ、ただのトンデモ説。 @阿波 >>638
>もともと伊都にあった一大率が、後にもっと開けてる博多に移転しただけでは??
8世紀にな。 @阿波 >>621
>漂流してて草 帰りどうすんだw
帰りは、
大陸への出航地(平戸市周辺) @阿波 >>629
>糸島かどうかはともかく北九州なのは確かでしょう
伊都国(千戸)(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」 @阿波 伊都国に置かれていた一大率は誰が置いていたのか
少数派の意見だが私は帯方郡が置いていた役職だと思う
一つは役職名が漢字であること
「ひこ」とか「ひなもり」とか、和語の職名を漢字の音で表現した官職名はあるが漢字での職名は他にはない
市を監督する大倭という表現があるが、これは物々交換する市を倭国が監督していたという意味だと思う
二つ目は一大率と書いてからそれを魏の刺史のようなものだと説明している点
刺史は監察官で不正が横行していた役人の汚職を取り締まるためのもの
倭国で同じような職務を行うものとして特に名称を設けたものと思われる
三つめは「諸國畏憚之」として諸国がこれを恐れはばかっていると説明している点
諸国は諸国の役人の意だろう、彼らが恐れはばかってこそ監察官の意味がある
汚職が常態化しているからこそ恐れることになった 一大率は、五斗米のいうところの姦令なんだな。
厳しいのだよ。 「魏の時代になると刺史の役割は行政官に変わり監察官ではない」
中国擬晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授 中国の刺史のようだと中国人が見て思ったんだろうな
中国人は何を見てそう思ったんだろ? >>646
刺史の実際の任務は時代・州により変化したようです
>【後漢・三国時代の官職24】刺史(州刺史・部刺史)・牧(州牧)
>>https://three-kingdoms.net/10900
地方官として州のトップ2の州牧と刺史の任命形態は魏・呉・蜀とも同じで
陳寿が一大率は刺史のようなものと言うとき、それはやはり監察官としての刺史を指したと思います >>651
州牧と刺史は同じものだよ
より権力の拡大したものが州牧 >>644
>伊都国に置かれていた一大率は誰が置いていたのか
もちろん、倭国(阿波)王権。
筑紫忌部が担当。 それ以外に誰もいない。 @阿波 >>653
当然、その根拠となる遺跡や遺物が有るんですよね?
> >伊都国に置かれていた一大率は誰が置いていたのか
>
> もちろん、倭国(阿波)王権。
>
> 筑紫忌部が担当。 それ以外に誰もいない。 @阿波 >>654 板野に居たの
金魚の糞の登場。 わははははは
当たり前だろうが! 「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい、
ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。 わははははは @阿波 >>655
>忌部。
>自慢できるものか?
後世の一部族「忌部氏」と違う! 「倭人(阿波勢力)」だ。 @阿波 九州北部の多くの地名が、配置もセットにして畿内に移転したらしいから、倭の訓読みであるヤマトもそうだったのでしょう。
三国志の直前の時代を記載している後漢書において、倭とは北限が半島南岸の狗邪韓国で、南限が倭奴国。
すなわち倭国は玄界灘に広がる海峡国家という認識だった。
魏の時代に直接訪れた中国人は、さらにその南側すなわち熊本県あたりにも倭人の国があり女王と対立していることを知った。
さらに、女王国より東にも海を渡ったところに倭人が住んでいることを知った。 >>656
根拠となる遺跡や遺物も示せんのに、ずいぶん偉そうやなぁ。 >>658
忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、
全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>656
史書が完全に否定しているのに、ずいぶん偉そうやなぁ・・・と思う。 >>660 板野に居たの
何回も示しとるのに、知らんてか? ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。 @阿波 >>662
>史書が完全に否定しているのに
お前ら、トンデモのことか?
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい。 @阿波 さっそく、ダンマリかww どいつもこいつも、腰抜けばっか。 わははははは @阿波 >>644
>伊都国に置かれていた一大率は誰が置いていたのか
もちろん、倭国(阿波)王権。
筑紫忌部が担当。 それ以外に誰もいない。 @阿波 >>669 板野に居たの
筑紫忌部が担当。 それ以外に誰も居ない。
他に居るなら挙げてみろ、ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。 @阿波 >>670
ほなけんほのか根拠を示してよ、ほう思うだけではあかんのでよ。 >>670
ほなけんほの根拠を示してよ、ほう思うだけではあかんのでよ。
一文字削除 >>661
それは、「説」と言うのか、それとも、確証があるのか? >>672 板野に居たの
積石墓や水銀朱、勾玉、「東阿波型土器」 その他
他に居るなら挙げてみろ、ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい。 @阿波 >>674
わざと話を逸らしとるのかな?
伊都国に忌部が一大卒として駐留しとった痕跡があればええだけなんやけんどなあ。 山口県の土井が浜、ここには故郷の大陸に向って頭を向けている。鵜を抱いたシャーマンに私は注目しています。
骨の分析では、中国の呉から(朝鮮を経由したかも)きた民でしょうか。島根県に入れば銅剣358本出土の荒神谷と、39個も銅鐸が発見された加茂岩倉ですね。
そして最近注目されている、西谷墳墓群ガあります。
ここは2世紀の倭国大乱の前の出雲王国で、四隅突出型墳墓がでています。出土土器が多く、北近畿、北陸、山口西部、吉備の土器が見つかっております。各地と交流があり葬儀には集まってきた証拠です。もちろん中国とも交易がありガラス製品が出ています。
朱が墓に厚く敷き詰められていました。これがなんと、中国陝西省の鉱山で採取されたものと分析されています。
陝西省は昔の秦の国、今の長安あたりです。
山東省でも山東半島には非漢民族が住んでいたことも基本知識として知っておきたい >>651
管理人自己紹介
管理人は歴史学者ではありません。
特に中国の歴史書は非常に簡潔に記載されていますので、
間違った解釈をしている可能性もあります。
https://three-kingdoms.net/about-us >>675 板野に居たの
>伊都国に忌部が一大卒として駐留しとった痕跡
図々しすぎ。 そんなものが有るんなら、とっくに決着しとるわ!、ボケ!
積石墓や水銀朱、勾玉、「東阿波型土器」 その他 総合的に状況証拠を積み上げると
「倭人(阿波勢力)」しか居ない。
他に居るなら挙げてみろ、ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。
「阿波」以外の畿内や九州に「阿波」に匹敵する所が在るなら言うてみい。 @阿波
>>677
少なくとも変なこと言ってる中国人学者より詳しそうだな >>678
さっそく、ダンマリかww ずる賢くて、間抜けの売郷奴を筆頭に
どいつもこいつも、腰抜けばっか。 わははははは @阿波 3世紀の前半の博多の前方後円墳那珂八幡は纏向石塚と同じ封土作冢
罪人流刑地阿波はツングースの積石墓 >>659
陳寿が知らなかっただけでそのくらい知っとるわ >>681 板野に居たの
お前は、逃げてばかりの、ずる賢くて、間抜けの売郷奴。
積石墓や水銀朱、勾玉、「東阿波型土器」 その他 総合的に状況証拠を積み上げると
「倭人(阿波勢力)」しか居ない。
他に居るなら挙げてみろ、ずる賢くて、間の抜けた雑魚よ。 >>681 板野に居たの
これだけ煽られても一言も言い返せないずる賢くて、間抜けの売郷奴を筆頭に
どいつもこいつも、腰抜けばっか。 わははははは @阿波 悪いけど質問に答えてもらえんようなので、もうええよ、
他の人に迷惑やしな。 >>687 板野に居たの
それは、どずるいお前だ。 @阿波 >>687 板野に居たの
これだけ煽られても一言も言い返せないずる賢くて、間抜けの売郷奴を筆頭に
どいつもこいつも、腰抜けばっか。 わははははは @阿波 >>686
>@阿波は徳島でも他人に迷惑がられてるんだろうなw
いや、お前らトンデモには迷惑がられているがな。 わははははは @阿波 日本に来た使者はちゃんと記録をのこしてるんだよ
でもそれを読むだけの陳寿じゃ理解できないし間違うんだよ
東の倭種にも実際来た人が居て記録もあったんだろうが陳寿には理解できなかったんでしょう >>86
>>218
陳寿は倭に来たことがないから、結局、魏使の報告書を中国人読者にも解り易く、中国大陸側の地理で表記してしまったんだよ
そのせいで、倭国のどこにも比定できなくなったわけ...orz 邪馬台国が九州だとしたら、なんで九州以外の倭人国家の記述がないのか不可解なんだよな。出雲や近畿には既に北九州以上の有力勢力が存在していたはずだし、半島との交流もあったはずなので帯方郡の役人や朝鮮半島人がそれを知らないわけないから、東の海を越えた先にも倭人がいるなんて雑な記録で終わるわけねーと思うんだが。 大率についての説明は、伊都がいかに強大な権能をもって周辺地域を支配していたかを説明しているものだろ。
そもそも王について言及されているのが伊都国と狗奴国しかないし。
代々王は伊都国にいる=すなわち当代の女王卑弥呼も伊都国にいる、というのが魏志倭人伝。 陳寿は知らなくても、大陸政府は朝鮮半島に植民地作りまくってたし、辰韓なんて秦韓とも呼ばれるぐらい漢族だらけ、北九州の地理ぐらいよお知ってたはず
朝鮮半島は漢族勢力圏、漢字文化圏だったことは間違いないしん >>693
九州北部以外は、中国との直接交流がなかったからだよ。
漢代には倭の多くの国々が大夫^_^名乗って朝貢していたが、倭奴国への金印による冊封で、倭の代表権は九州北部が独占することになった。
倭が遷都したなどという記事は中国側になく、魏の使いがわざわざ伊都国を訪れて、倭の女王は引き続き博多湾沿岸にいることを確認して改めて金印を魏の名前で更新した。 >>695
>大率についての説明は、伊都がいかに強大な権能をもって周辺地域を支配していたかを説明しているものだろ。
なんでそんな出鱈目を平気で言えるんだろう
伊都国は管理される側の属国だって明記されてるのに >>218
魏志倭人伝をまとめてみたyo!
伊都国(一大率→壱岐〜九州北岸=福岡平野・直方平野を監視)
↑北
女王国(筑紫平野)7万戸
↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野) >>575
なんで当代一流の学者がまちがえるんだ?
間違えるなら倭人の方だろ 卑弥呼は共立前は筑紫平野にいて、共立されて倭王に即位したときに倭の王都である伊都に入ったというのが自分の見立て。
九州説からの異論は認める。
そして墓は平原遺跡。これしかない。
卑弥呼の年代の王墓であり、被葬者が女性という点で完璧。
しかも空前絶後の大型内行花文鏡、八咫の鏡で決まり。 >>699
伊都の大率を周辺諸国が畏怖していたということは、伊都国が最強だったということ。
何を恐れていたのかといえば、女王の代行者たる大率を恐れていたと書いてあるのだが? @卑弥呼より1世代(倭国大乱)前と思しき、伊都国の平原女王(国内最大の内向花紋鏡)が天照大神であることは、伊勢神宮の八咫鏡と同型鏡であることからほぼ間違いない。
A丁度そのころ、吉備では楯築弥生墳丘墓が造られた(150年頃)。
B神武は伊都国・平原女王(祖母)の八咫鏡を以って投馬国領域の日向から宇佐に向かった(275〜300年頃→謎の4世紀)。
C箸墓はヤマト王権初代大王に相応しいから真の神武陵と考えられる。よって4世紀第1四半期(300〜325年)ごろの築造だろう。
では
B伊都国・平原女王の孫である神武がなぜ投馬国王となったのか?だが、天「孫」降臨伝説=曹魏と争っていた「孫」呉の強力な後押しが考えられる。
むしろ、神武は孫呉の艦隊に護られて「東征」した可能性がある。そして孫呉は280年頃司馬懿仲達の西晋によって滅ぼされてしまうが、その時和に逃れてきて神武と共に大和に東征した可能性も否定できない。
三角縁神獣鏡は、曹魏の帝都洛陽では全くと言って良いほど出土しない呉鏡であることからも、西晋に滅ぼされた時、大量に倭に亡命してきた孫呉の鏡職人が想定される(鏡作神社w)。
日本語には、音読み(漢音)だけでなく、訓読み(呉音)があるのも、その名残である可能性が高い。
どうかね?w >>700
伊都国・平原女王から、筑紫邪馬台国・卑弥呼に倭王権が移ったんだよ >>693
>>698
九州も畿内も中国と交流あった
九州 北朝と交流
畿内他 南朝と交流 古代の王宮は高殿、つまり宮だ。
纒向は現代で言うと神社一つ分のセットの建物しかない。
伊勢遺跡は、時代は違うが、高殿が20ほども円形に並べてあり、各地の首長が集った特別な場所であったことがわかる。
ここが記紀の出雲だったと言われれば、そうなのかと思うくらい。
ちなみに、纒向は土器の流通から言えば尾張の傘下にすぎない。 >>705
卑弥呼の前は男王だったとぎに明記されている。 >>708
魏志倭人伝が平原女王の存在を端折ったと考えられる。 銅鐸祭祀の伊勢遺跡は、纏向とは無関係だと何度言えばわかるんだ?w >>704
平原遺跡の推定年代は200年代、つまり卑弥呼の時代直撃。
はれより前の後漢代では、後漢鏡が全てであり、独自の八咫の鏡を作る必要がない。
後漢との交流が倭国大乱や公孫氏の反乱により断たれたことにより、独自の八咫の鏡の製作につながったのだろう。
つまり平原遺跡は後漢滅亡後の卑弥呼の時代の女王墓。
そして卑弥呼の前の王は男王であったことがわかっている。
神武は八咫の鏡を筑紫から持ち出していない。
それは饒速日との会談で持ち出した身分の証が天羽羽矢だったことからわかる。
神武は三種の神器を持ち出していない。
八咫の鏡を含む三種の神器は、景行天皇を迎えた筑紫の女王、神夏磯姫が持っていたと日本書紀にある。 >>710
それって、私へのレスかな?
それはちゃんと時代が違うと注釈したのだけれどねw
どちらも高殿があり、規模では圧倒的に伊勢遺跡の方が大きいと言いたかった。
遺跡の範囲の定義の問題で、纒向は奈良盆地の何%を纒向と呼びたいのやら。
明らかに他の遺跡も意図的に含めてしまっているし、伊勢遺跡は付属する周辺施設を伊勢遺跡と呼んでいないだけ。 「宮室楼観城柵厳設。常有人持兵守衛」
吉野ヶ里が卑弥呼の王宮であってもおかしくないわけだな >>713
吉野ヶ里遺跡は工業団地のせいで発掘できない部分を含めると現在の史跡公園の10倍くらいの超巨大環濠集落だった可能性があるとか…orz
工業団地を造成した時に「卑弥呼の冢」もそれとは知らずに崩されてしまった可能性もあるとのこと。 >>713
吉野ケ里はたまたま残っただけ、同じような風習のクニはたくさんあっただろ >>695
魏志倭人伝によると伊都国の人口は千余戸
一方女王の身辺の従者だけで千人、それ以外に武官が常時警備していたと書いてある
当然分文官もいたことだろう
それ以前にそもそも女王の都の人口は7万余戸と記載されている
伊都国のキャパシティーではとてもおさまらない 魏志倭人伝の記述に完全に一致するのは、吉野ヶ里遺跡だけ。 甘木朝倉の平塚川添遺跡(平野部)の台地に当たる小田・一ツ木には、ブリジストン工場があり発掘できない。
おそらく筑紫平野と福岡平野、日田への要衝にあたるここが卑弥呼の王宮であろう。 まず、九州をグーグルマップでズームアップして観て欲しい。
おまいらならどこに都を置く?それが答えだ!w >>723
(福岡平野と筑紫平野と日田を結ぶ)甘木朝倉!って言わせたんだろ?w >>716
忌部の話しはスレ違いではあるが、かと言って適切なスレが有る訳でも無い。
簡単に紹介する、
アワの忌部は、東に移住して、房総半島南部に拠点を築き、
後に安房国となる、さらに北上して、茨城、栃木あたりまで勢力を範囲を広げています。 九州北部だけ中国と交流があったと吐かすなら当然そこから魏の遺物が出土しているはず。そこが邪馬台国 >>725
訂正
甘木朝倉!って言わせたいんだろ?w
投馬国が宮崎だとすると、不弥国は九州東北岸の、直方平野、中津平野、大分平野のどれかだな。どれ? >>727
だから、「阿波」 だと何度言えばw @阿波 >>728
だから、不弥国(千家)(築上町辺り) だと何度言えばw @阿波 >>218
阿波は侏儒(小人)国だったのかぁ・・・ >>728
>投馬国が宮崎だとすると
邪馬台国はもっと南になるので九州説死亡 魏志倭人伝は九州について書いてあるのではないのか。
他に似たような所があったのかもしれないが、それは、他の文献を見つけるのが良いと思うが。
大和以前は、女性が治めてる所(女王様ではないぞ)は多かったかもしれんし。
大和以前の文献を探すべき。 あの書き方で伊都国に卑弥呼が居たってのは無理がある
伊都国に関しては結構記述があるのに
もし居たなら倭王が居るとか女王が居るとか書くはず >>738
なんで勝手に魏志倭人伝が九州だと決め付けてるんだよ
俺は伊都国は九州じゃないかもと思ってるけどな 伊勢遺跡は確かに時代がずれてるけど卑弥呼は既に居た
だから伊勢遺跡から纏向遺跡に移したのが卑弥呼だとしても時代的には合う >>741
>だから伊勢遺跡から纏向遺跡に移した
なにを移したんだ? @阿波 銅鐸祭祀の伊勢遺跡は、纏向とは無関係と何度言えばwww >>704
コピペしつこい 同じ孫だから同じ一族とでも妄想してんのか、低能過ぎるね 伊勢遺跡は興味深い遺跡だが、纏向以前の倭国の中心地というにはまだ材料が足りないように思う >>744
>宮殿だよ
宮殿を移してどうするんだ? 卑弥呼一人引っ越しか? なにがいいたいんだろう? @阿波 なんでそんな人が住んでいないところに王宮があるんだ? @阿波 >>750
人混み どころか人が住んでいない所だぞ? 世界中、そんなところないぞ! @阿波 >>743
>銅鐸祭祀の伊勢遺跡は、纏向とは無関係と何度言えばwww
いや、伊勢遺跡は銅鐸祭祀終焉の地というのは、ちゃんとした学者の言っている説だ
それで次の段階は纒向のスタイルに昇華すると >>738
>魏志倭人伝は九州について書いてあるのではないのか。
そう思い込みたい気持ちはわかるが、理由がない 伊勢遺跡の近くの大岩山から出土した銅鐸は三遠式が混ざってる
だから纏向で東海系土器がたくさん出てもおかしくない 周辺にはちゃんと人が住んでるし立派な遺跡もある
でも伊勢遺跡と纏向遺跡には生活の痕跡が無い 静岡県民はてっきり毛人だと思ってたけどそうじゃないみたい >>754
>人が住んでないとか、それは嘘
しかし、中らずと雖も遠からず だな。 @阿波 >>754
>人が住んでないとか、それは嘘
人がほとんど住んでいない ならいいのか? わははははは @阿波 >>755
>伊勢遺跡の近くの大岩山から出土した銅鐸は三遠式が混ざってる
混ざっているというより、近畿式と三遠式の合一だと紋様を分析した考古学者が言っている
銅鐸祭祀が次の段階へ進む画期だと
雪の山古墳が前方後円>前方後方秩序の画期だというのと同じ
画期はなぜか近江で続く >>762
>卑弥呼の処居にピッタリだね
で、人が大勢住んでいる王の都はどこなんだ? @阿波 >>762
>卑弥呼の処居にピッタリだね
さあ、みんなで畿内説を掘り下げていこう。 @阿波 そもそも、自給自足がベースの時代には、都市が発達するにも限界がある。
やたらと人だけ集まっても、あっという間に飢えて散り散りになる。
物流が整わない場所に都は作れない。 >>765 板野に居たの
売郷奴が畿内説のフォローに入りました。 滑稽である。 わははははは @阿波 >>765 板野に居たの
売郷奴が、へんな言い訳がましい自分だけの主観で、畿内説のフォローに入りました。
実に滑稽な姿である。 わははははは @阿波 >>762
>卑弥呼の処居にピッタリだね
で、人が大勢住んでいる王の都はどこなんだ?
さあ、みんなで畿内説を掘り下げていこう。 @阿波 >>761
それは有名なでっかいやつだろ
あれは近畿式と三遠式の合作
でも三遠式のもちゃんと出てる >>770
その有名なでっかいやつが国宝で、
矢野銅鐸がスルーって・・・
これが今の考古学会の姿。 @阿波 伊勢遺跡は周辺に生活痕も田畑もあり、しかも日本海側と瀬戸内海をつなぐ交通の要所だろ。
伊勢遺跡の名称は中心部分のみの呼称なんだよ。
まあ、倭種だから邪馬壹国とは関係ないけどね。 伊都国推しではあるけれど、吉野ヶ里はワンチャンあるだろうとは思う。
少なくとも卑弥呼を共立した国々に確実に含まれる。
そして、卑弥呼の治世において緩やかに解体されていったので、卑弥呼のいる王都に集約されたのだろう。
卑弥呼の王城も、吉野ヶ里のような構造であっただろうと想像できる。
なんなら、スサノオの八重垣の王宮も同じようなものであったのだろう。
吉野ヶ里の北側に続く墓域がいよいよ発掘されると報道されているね。
神社という聖域として手付かずで残された、いわば吉野ヶ里の王墓域だろうから、とんでもないものが出るかもしれない。 人が住んでないからってしょぼい訳じゃないからな
当時最大級の宮殿跡だ >>774
>当時最大級の宮殿跡だ
なんでそう思う訳? @阿波 しかし吉野ヶ里がどれほどすごくても、魏志倭人伝が伊都国についてだけかなりの字数を割いているので、やはり伊都国こそ邪馬壹国の中心なのだろう。
楽浪土器や青銅器、鉄器、玉璧などの財宝の出土量において、糸島は桁違いに圧倒的なんだよ。
ここを王都と呼ばずしてどこを王都と呼べばいいのか。 >>775
当たり前だが柱の跡が残ってる
ちゃんと柱引き抜いて片付けて出て行ったみたいだけど >>776
>ここを王都と呼ばずしてどこを王都と呼べばいいのか。
「阿波」の鮎喰川下流集落遺跡群。 @阿波 纒向信者は、人や物が集まっているから王都だといってみたり、人がいないから王都でないわけではないと言ってみたり、苦しすぎるな。 >>776
糸島は生活の痕跡どころか建物すらねえじゃん >>771
大岩出山出土のでっかい銅鐸って、重要文化財とちゃう?
最近国宝になった? 纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
この世紀の大発見を、下手に邪馬壹国と結びつけて有耶無耶にしてしまったアホウが畿内説。 >>780
何を言っているんだ?
弥生時代末期には博多に次ぐ貿易の中心地で、鉱工業については同時代最大級の中心地だ。
魏志倭人伝には代々倭王がいると書かれ、三種の神器を有する王墓も複数ある。
硯など文化水準の高さもうかがえる。 >>777
それがなんで当時最大級の宮殿跡 となるんだ? @阿波 >>785
お前のところの物置みたいのと比べてみれば >>786
>お前のところの物置みたいのと比べてみれば
それがなんで当時最大級の宮殿跡 となるんだ? @阿波 >>776
>ここを王都と呼ばずしてどこを王都と呼べばいいのか。
「阿波」の鮎喰川下流集落遺跡群。 @阿波 やまたいこく・・この言葉に我が国が翻弄されるのは新井白石以降のこと
それまでは「やまとこく」と誰もが当然のように読んでいた
新井白石が新しい読み方を取り入れたのは彼の通訳がそう読んだから
ただ、この通訳はオランダ語の通訳だった
やまたいこくの響きが人を惹きつけるのか、やまたいこくの場所探しに人々を夢中にさせる
魏志倭人伝で「やまたいこく」が登場するのはたった一回だけ
卑弥呼が住む首都に言及したときのみ
魏志倭人伝で語られているのは「倭国」、「女王国」
なぜか人々はこのことを忘れたかのようにふるまう
よく「帯方郡から邪馬台国まで一万二千里」などと言う
そんなことは魏志倭人伝には一切書かれていない
「自郡至女王國 萬二千餘里」
女王国までの距離が書かれている これは倭国のこと 倭国の上陸地点までの距離が述べられている >>789
>女王国までの距離が書かれている これは倭国のこと
女王国までの距離が書かれている これは女王国までのこと。 @阿波 >>783
>魏志倭人伝には代々倭王がいると書かれ
真っ赤な嘘 やまたいこくには二重母音が含まれている
大和言葉としては異質な響きである
この異質感、異国を思わせる雰囲気が人々を惹きつけ、日常から飛翔させるのかもしれない >>782
10~14代あたりの天皇の時代と邪馬台国の時代は被ってそうな気がするがね >>218
>>217
ええっ?!日数行程は倭国内の地理じゃないの?中国大陸沿岸の行程を倭国の行程として無理矢理描写して、「その道里を計るに當に会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(海上)にあるべし」って嘘を書いたわけ?!
道理で、倭国内のどこにも比定できないわけだ…orz >>789
倭国までの距離だけど上陸地点ではない
誰かが行って記録したんだけど何処かが分からない >>789
>女王国までの距離が書かれている これは倭国のこと
女王国までの距離が書かれている これはあくまで女王国までのこと。 @阿波 >>795
だろうな。沖縄と台湾の間位になっちゃうもんね。
どう考えても倭国の地理じゃない。中国大陸の地理を倭国のそれとして描いている。 会稽東治だから場所がはっきりしない
ただ九州でも近畿でも東だからどうでもいい >>794
過剰に長い在位年代を校正すると、神武が卑弥呼の直前くらいになる。
つまり、神武が王都であった筑紫を出た後に筑紫の倭王となったのが卑弥呼となる。
どうりで記紀に卑弥呼が登場しないわけだ。
神武は卑弥呼共立前夜の倭国乱で政権を手放して都落ちしたのだろう。
福岡県の奈良県の繁栄の度合いは雲泥の差であり、わざわざ筑紫を出る理由は、政権の座に居られなくなったからとしか考えられない。 記紀は、八咫の鏡を含む三種の神器を誰が大和に持ち込んだのかを明記していない。
そもそも天孫ニニギが三種の神器を筑紫に持ち込んだと記紀には書かれている。
神武と饒速日の会談では天羽羽矢を見せ合っているので、この時点で三種の神器は神武の元にない。
景行天皇の時、筑紫の女王が八咫の鏡を持っていた。
崇神天皇の時はすでに大和に八咫の鏡があり、今日では纏向遺跡と呼ばれている宮に置いておけずに伊勢まで追い出す話が出てくる。
4世紀から5世紀のどこかで三種の神器は大和に運び込まれた。 >>799
帯方郡から南または南東だから、畿内にはならない。 >>740
>>753
中国の古い地図には九州が「倭」と称して書かれてる。 >>804
地図書いてるしそんなに古くないでしょ
知らないなんて有り得ない 當在会稽東治之東は倭国や邪馬台国に言及した部分ではない
倭国とも邪馬台国とも関係がない
この部分は狗奴国から台湾付近までの倭地について記述している部分
今でも、たいていの日本人はワイとほとんど同じ緯度に日本領があることを意識していない >>797
女王国ということは、男王国、真の邪馬台国が他にあったのですか?阿波さん 女王というのがおかしいことにまず気づかなければいけないと思うのですが・・・ >>808
>女王国ということは、男王国、真の邪馬台国が他にあったのですか?阿波さん
女王国 >>805
魏志倭人伝は魏から見た「倭」を書いてる。
倭人からすれば、有るものが無かったり、事実と違う事もある。 >>808
>女王国ということは、男王国、真の邪馬台国が他にあったのですか?阿波さん
女王国(鮎喰川下流集落遺跡群)は、数ある構成国で成る「邪馬臺国」の首都。 @阿波 卑弥呼の時代も中国大陸の人々にとっては石垣島など台湾の近くの島々にも倭人が住んでいるという認識だった
琉球王国を思い出す人もいるかもしれないが1429年から450年ほどの間のこと、南西諸島に住んでいる人々ももちろん日本民族
魏志倭人伝を読むときくらいは、このことを思い出してほしい 短里で帯方郡から南に一万二千里という報告を、中国本土にいた人達は長里で理解してしまった。
だから、倭は会稽の東あたりになると考えられる、という記事になった。
それでも断定ではなく、推定と明記しているあたりに慎重さがうかがえる。
移動速度が1日千里に及ぶことになってしまったからた。
つまり、帯方郡かれ邪馬壹国までは、里程なら一万二千里、日程なら水行12日というのが中国側の認識である。
帯方郡から末盧国上陸までで一万里余を費やしている。
対馬海峡か三千里なので、邪馬壹国は九州北部を出ることはない。 >>811
正に俺もそれが言いたい
陳寿が知らないだけで日本に来て記録した奴は知ってるのよ 倭人在帶方東南大海之中ってのは日本に来て記録した奴が居るんだよ 里程一万二千里は邪馬台国までではなく女王国までの距離な
女王国に属し、使者の駐在地だった伊都国までの距離だろうから北九州だろう。そこから女王国の都の邪馬台国まではかなり距離がある。 >>815
だから、筑紫の邪馬台国より南にある狗奴国や投馬国の情報が増え、東の本州や四国にも倭種がいるという情報が増えているわけだよ。
しかし郡使は、伊都国からあまり遠くへは行かず、せいぜい奴国と不弥国までしか出かけなかった。
行った場所は、里程がきちんと報告されている。
里程が記録されていない場所は、郡使が訪れなかった場所。
郡使は福岡県すら出ていない。 郡使はせいぜい奴国や不弥国までしか行かなかった←これは全くその通り
だがもし筑紫が邪馬台国なら、なぜ都に使者を滞在させず、伊都にとどめ置いたのか。
また使者はなぜ出雲や大和のような大国の情報を入手できず、南九州の情報など持ち帰ったのか。 近畿が本国なら遠すぎるので、北九州の政庁で使者をもてなすのは分かる。しかし筑紫が都なら大した距離ではないのだから使者を都に滞在させるべきだし、親魏倭王の称号を得ようという女王国が随分ぞんざいなことをする。そこがよくわからない。 >>817
卑弥呼は国など持ってない
持ってると言うならそれは倭でありヤマトであり日本
まあおそらく距離は卑弥呼の居る宮殿て事だろうが 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>818
そんなオレサマ結論だけ断定的に言い張られても
理由がないので聞いてる人は「ナニソレ唖然」状態だ >>822
その謎主張本当に意味わからないけど議論に影響ないからどうでもいいですね。邪馬台国が女王の都するところなのは魏志倭人伝に明記されてるので、そこが女王個人の領国なのか宮殿の所在地なのかはどうでもいい。
そして邪馬台国は女王国(とされる連合王国)を構成する一国に過ぎず、伊都国からはかなり距離がある。なので一万二千里は女王国までの距離(おそらく伊都国までの距離)ではあっても邪馬台国までの距離ではあり得ませんね。 >>820
伊都にとどめ置いたのは、そこが王都だからだよね。
伊都から離れなかった郡使が、なぜか卑弥呼に謁見して金印を渡して、卑弥呼の人となりを報告している。
また、出雲や畿内が栄えていても、筑紫の方がもっと栄えていて、外交代表権を持っていたら、本州のことなどどうでもよい。
狗奴国は大きくはないが、邪馬台国のすぐ南にあり卑弥呼を脅かしていたから、記載するに値した。
卑弥呼や帯方郡と関わりのない畿内や出雲など、わざわざ詳細を知る必要もない。 >>821
伊都国が王都だと考えれば全ての矛盾は解消する。 >>826
でも邪馬台国が女王の都するところって書いてありますよね?
南至邪馬壹國。女王之所都 >>825
卑弥呼は王になる前領土を持ってたと思うのか?
もし持ってて邪馬台国と言う国でそこを統治してたんならそうなんだろう >>829
どうでもいいです。関係あること言ってください。 >>830
関係あるんだけど通じないね
卑弥呼が王になって統治したのは倭でヤマトで日本 >>831
あなたがなぜ卑弥呼が直轄領を持っていたかどうかにこだわるのかよくわからないんですが、それ以上に、そのことが何に関連するのかよくわからないです。
卑弥呼が直轄領を持っていなかったら何が変わるんですか?帯方郡から一万二千里がどこを指しているかが変わるんですか? >>832
お前が邪馬台国という国を統治してたと言ってるんだろ >>833
女王国の都とは言いましたが統治してるとは言ってないですね…で、それいま重要なんですか? あんまり関係ないけど脊髄反射でレスしただけですか?それならもう続ける必要ないと思いますけど 後漢書も魏志倭人伝の引用だから間違えておるのだよ。
漢倭奴国までは九州。
元は男王住むこと7、8十年、漢倭奴国は滅んどるか、帥升らに移っとるかで元の男王は九州とは言えない。
隋書で邪馬台者也で地勢東高西下、前方後円墳は隋代位まで続いておるんだから、この者達でいいのだよ。倭人は巫を一番信じる。聖地を変えたりしないのだよ。畿内。 後漢書は、王都である邪馬台国と、国境である狗邪韓国を分けていて、邪馬台国から楽浪郡まで一万二千里、国境である狗邪韓国から楽浪郡までは七千里と明記しています。
国境から邪馬台国までは五千里もありますが、魏志倭人伝によるとそのうち三千里は対馬海峡です。
後漢は楽浪郡から一万里余りの倭奴国に金印を渡して、倭の代表として冊封しました。
卑弥呼はその後継として、魏から金印を受け取っています。
注
後漢の時代にはまだ帯方郡が楽浪郡から独立していなかった。
また、九州北部にあたる邪馬台国から南や東の情報は、後漢の時代には中国側に届いていなかった。
後漢書は魏志倭人伝より後に書かれたが、後漢の時代の状況に即して書かれている。
そして魏志倭人伝と整合性が取れるようになっている。 ただ倭奴国ってのは倭人の言葉に文字をあてた日本語なんだよな
倭国は中国語だろうけど >>837
都合の悪いことは書き間違いですむなら、議論になりませんよ。
後漢や魏が認める倭の王は一代に一人なので、後漢代に相当する男王七、八十年というのは倭奴国のことに他なりません。
しかも代々の聖地なら、歴代の倭王の墓があった伊都国こそ聖地ですね。
福岡平野と糸島平野がどこかですり替わってますが、高祖山周辺と捉えれば大差はないのでしょう。 天神は筑紫の日向の倭王のこと。
高天原の天照も出雲の素戔嗚も、生まれは筑紫の日向の小戸。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚である。
畿内は筑紫の祖先崇拝の祭祀様式を丸ごと継承している。
全国のほとんどの神社は鏡が神宝で、八坂神社は例外的に矛。
いずれも筑紫を中心として広まった青銅器である。
特に鏡は天照が八咫鏡を自分のかわりに奉斎せよと神勅を下しており、大半の神社は天皇家の祖先神として筑紫で生まれた神を祭っていることになる。
神道の祝詞の中でも最も重要な大祓の祝詞は、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊について述べている。
そして筑紫の倭王の権威を継承することで天皇家の正統性を主張しているのが正史として定められた日本書紀なのである。 伊都国と奴国が別に書かれている以上、完全に同一視はできないと思いますが、伊都が何だったかについて倭人伝以外に参考になりそうな資料って何かありますかね。 倭の極南界が倭奴国だから日本列島だし東南大海之中にあるのが倭奴国でしょう 魏志倭人伝には、王は代々伊都国にいるとあります。
伊都国が周辺国を抑えるための政治機構としての大率につあても説明してあります。 【伊都国】
伊都には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国式山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にあり彦火々出見を祭る高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った彦火々出見ら日向王家の王墓であると考えられる。
倭国の王と王妃の墓である三雲南小路遺跡の拝殿である細石(さざれいし)神社は木花佐久夜毘売を祭神とし、墓は天孫ニニギと木花咲耶姫の墓と考えられる。
平原遺跡や三雲南小路遺跡などの特徴は三種の神器に相当する副葬品があることであり、筑紫の伊都が記紀にあるように倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
魏志倭人伝では伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武が天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
高祖宮は伊都から日の出の方にあり、倭王は太陽を背にして君臨していた。この様式は大和の三輪山などと同じ配置である。
伊都は神道の基本である太陽信仰の都だったのだろう。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。 こういうのはだいたい現地の神社見ればどういう人がいたのかわかるもんだが、怡土郡の高祖神社は山幸彦(神武祖父)、玉依姫(神武母)、神功皇后を祭神とする神社。しかし元々は高磯比咩神=天日槍から逃げてきた妻神と関連すると思われる神社。
盛り上がって来たな… >>845
博多は日本列島の極南界にはなりませんよ。
後漢の当時は倭奴国までの情報しかなく、本州の存在も中国には知られていなかったので、倭は対馬海峡の国と理解されていました。
当然、中国との交流がなかった出雲や畿内が倭の代表となることなどあり得ません。
列島を代表して中国との交渉を行っていたのは、博多湾沿岸にいた倭王であり、卑弥呼もその一人です。 >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
この嘘を君は800回も繰り返してきたわけだ。
君が荒らしだ。
嘘はもうやめよう、ちょうど「嘘八百」ということでいいな? >>850
陳寿が本州を知らないだけだって
倭人在帶方東南大海之中と記録した人は知ってるよ >>849
>盛り上がって来たな…
ぜんぜん?
卑弥呼は1分で解けるのでね。
スサノオ(107年帥升)ーアマテラス
オシホミミ
ニニギ
ホオリ
フキアエズ
イワレヒコ(200年ごろ).━━ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
綏靖
安寧
懿徳━━トヨ津媛 海の向こうに異民族がいる、そんな危ない博多という土地に卑弥呼がいるわけないだろアホ。
子どもが考えても分かる。 三国志って陳寿が書いたの?
江戸城は家康が造ったのでは無く大工さんが造った、みたいな意味で
陳寿の下に何十人かの部下がいて
部下に書かせて、指示・監修だけ陳寿がやってたんでないの?
メインの魏志・蜀志・呉志だけでも大変で
さらに列伝までやってたら
倭人伝なんかどーでもいいわな
部下の最近入った新人君に
「仕事に慣れるため、まず倭人伝でも書いて練習しなさい。後でてきとーに修正しておくから」とかだったりしてな
そんなのを1700年後の日本でクソマジメに
あーだ、こーだ議論してるのだったら笑える >>837.都合悪くないんだよ。隋書で方角も訂正されてるでしょ。
大体倭人伝を正確な方向距離なら九州でも無いだろう。
漢代までは半島含む島々に100国で最南端が倭奴国と考えていたと解釈し、その後住む場所が変わった倭王帥升(陳寿がいうところの男王)が倭国乱になり、卑弥呼に代わって畿内邪馬臺に道観を建て原始道教で纏めたんですよ。卑弥呼は武力で女王になったのではありませんよ。鬼道です。隋代まで一番信じる巫道ですよ、その痕跡は九州にはない、九州はありえませんよ。
ご都合主義なのは鬼道を説明しない九州でしょう。この列島に斎宮、太一を持ち込んだのは誰だと思っているんですか。 >>855
陳寿の文章は国名を列挙する癖があるからな
それにそぐわないのは書けないし逆に国名が書いてあったら適当に並べたんじゃないかな
だから侏儒国裸国黒歯国とかとんでもないのが混ざってる >>854
海の向こうの狗邪韓国も倭国の一部であり、住んでいるのは倭人ですよ。
しかも対馬海峡の渡海技術は倭人しか持たず、その海は伊都にいる大率が検察して回っているのです。 >>856
ずっと博多湾沿岸の倭奴国が舞台だったのに、いきなり断りもなく畿内に舞台が移るわけがない。
中国はずっと、九州北部=倭国ですよ。
だから本州は倭の別種と書かれている。 しかし東征が史実だったとして、どういう気持ちで東に向かったんだろな。何を思っての遷都? >>858
>海の向こうの狗邪韓国も倭国の一部であり、住んでいるのは倭人ですよ。
だから何なんだろ。
倭人だけしかいなかったって言うのか。
「国、鉄を出す。韓(かん)、?(わい)、倭(わ)、皆従いて之(これ)を取る」
海の向こうに異民族がいるという実態は変わらない。 >>856
その時代の日本の宗教なら、道教ではなく神道ですよ。
三種の神器ですよ。
八咫の鏡ですよ。
榊ですよ。
太陽信仰ですよ。
すべて筑紫が起源です。
それも、博多湾沿岸の筑紫の日向が聖地です。 >>860
普通は故郷を捨てるなんてしないわな
正に背水の陣
何の為に? >>852
>八咫の鏡ですよ。
筑紫物部の祭器。
だから物部の母を持つ崇神に受け継がれていた。
三種の神器の八尺瓊勾玉は出雲。
古代から玉造が盛んだし、玉造温泉なんてのもあり、
西谷3号墳墓から豪華なコバルトブルーの勾玉が出ている。 >>860
都落ち。
倭国乱で政治が乱れたので、親戚にあたる饒速日を頼って東に向かったと書いてありますね。
あと、神武が長髄彦を倒したと思っている人がいるみたいだけど、神武と饒速日の和睦に不満を漏らした長髄彦を、饒速日が討ち取ったとあります。
畿内の実力者は、物部氏や尾張氏の祖となる饒速日でした。
三輪山を東にいただく、奈良盆地で最高の立地をおさえていたのは物部氏であり、石上神宮がそれです。
纏向遺跡の主人と思われる崇神天皇も、母方は饒速日の末裔です。
そういえば纏向遺跡の外来土器の大半は尾張からのものですが、尾張氏も饒速日の末裔ですね。
あれれ?三種の神器の一つ、草薙剣を保有しているのも尾張の熱田神社でしたね?
偶然ですかね? 饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」
饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。 摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る
ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされるが、その実は山門郡太神村の磯上物部神社に由来するのだろう。三輪山の神とは、本来の畿内の支配者である物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
畿内は筑紫からの入植地ですね。 >>861
ても、渡海できるのは倭人だけで、制海権は卑弥呼の配下の大率が完全に掌握しているのだから、安全なのですよ。
おそらく狗邪韓国とは、半島南岸のリアス海岸の淵に兵士と漁民を配した程度のものだったでしょう。
それでも、有事にはすぐに大率が水軍で駆けつける手筈になっていたはず。
海軍国である島国の倭にとって、海に面していることはリスクにはなりません。 トンデモの人はオラが結論を演説するだけなので見分けやすいね まったく説得力無しの話ですね。
当時、里も知らぬ倭人が斎と太一は生み出すんですか?
斎、太一、これは原始道教。倭に無いでしょう、一体、誰がどのようにして生み出したんですかな?
3世紀からの勾玉の形、あれも自然と生まれた形ですか?
何で箸墓前方後円墳は魏尺何ですか?
無理な理由付けをするだけでしょう。 まだお酒の神様の話を言ってるんですか?
卑弥呼は最期に神と契約を結ぶんですよ、そして、万物の神になったんです。三種の神器は剣と鏡と印璽です。 >>867
>畿内は筑紫からの入植地ですね。
加茂岩倉や荒神谷との兄弟銅鐸が畿内に拡散している。
時代はBC3世紀ころ。
つまり出雲からの支配者層の入植。
筑紫からもいたであろうが平民。
もともと筑紫は出雲の支配民。 日本は無宗教と言われる。
無宗教にしたのは大和だと考える。
大和は外来。降臨したのだと、いきなり現れたと考えます。 >>868
>海軍国である島国の倭にとって、海に面していることはリスクにはなりません。
だからと言ってなんでわざわざ海に面した博多にいたことになるんだ。
奥津城にいた方がよほど安全だろ。
実際、弥生時代の青銅器分布は、博多や瀬戸内は銅剣などの武具ばっかり。
これは白村江敗戦後と同じで、博多や瀬戸内に大陸勢力への迎撃態勢が整っていたという事。
そんな危険な土地・博多に卑弥呼はいない。 見落とされがちだが、半島北部の良質な鉄を入手するため、楽浪郡の公孫氏に朝貢していた期間の方が長かった。
卑弥呼が魏に朝貢し出したのは、公孫子が滅ぼされた時期だから、「半島北部の鉄が手に入らなくなる(狗奴国王・卑弥弓呼が先に魏に朝貢して横取りするかも)!という焦りで卑弥呼が朝貢した可能性が高い訳で、
従って三韓系・楽浪系の土器が出土する場所に卑弥呼がいた可能性が高いのである。
三韓系・楽浪系の土器が最も多く出土する日本列島の場所と言えば、どこ?w >>876
降臨は筑紫に行われた。
大和へは筑紫からの東征。
たまに、神武が東遷したと言う人がいるけれど、記紀では東遷ではなく東征。
筑紫勢力が畿内を征服したという建前となっている。
神武より前に畿内に降臨した饒速日も筑紫の生まれ。 >>879
博多湾の武装は、防衛のためではないですよ。
対馬海峡を渡航する能力が倭人特有なら、誰が博多湾に攻め込めますか?
事実として、博多湾沿岸の倭奴国が金印を貰い、志賀島から見つかった。
三種の神器を含む威信財も博多湾沿岸からばかり見つかる。
後漢書も魏志倭人伝も考古学的資料も無視して、勝手に妄想しても説得力がありません。
吉野ヶ里説の方がまだマシです。 ■ 大祓の祝詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす >>86
>>222
卑弥呼の冢=祇園山古墳
台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は男弟)
神武の墓=箸墓
綏靖の墓=西殿塚
どうかね?w 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>704
日本の神様には、天津神(天孫「呉」降臨)と国津神(スサノオ・大国主・大物主・饒速日系)ってあるけど、
前者は(280年西晋に滅ぼされて9親等まで全員処刑を免れるために)倭に亡命して来た呉の皇族たちが担ぎ上げたのが、伊都平原女王(天照大神)の孫でもあった投馬国王の神武(磐余彦)であったと。
そして孫呉の大艦隊を従えた神武は筑紫邪馬台国の台与から倭王位を禅譲され(台与が恐れをなしてw)、祖母の平原女王の八咫鏡を持って東征し、不弥国(宇佐)・安芸・吉備を従えてヤマト王権を打ち立てたとw
そのシンボルが自らの巨大王墓=箸墓であったと。
どうかね?w >>889
> >>86
> >>222
> 卑弥呼の冢=祇園山古墳
祇園山は平原遺跡より新しく、平原遺跡の女王が不明になってしまう。
壹與ならありかと。
> 台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は男弟)
前方後円墳は物部氏の墓制だから違うでしょう。
> 神武の墓=箸墓
前方後円墳は物部氏のry
場所的にも周辺は物部氏の地盤。
箸墓は突然できたわけではなく、多数のプロトタイプが説明できません。
> 綏靖の墓=西殿塚
>
> どうかね?w
欠史八代までの墓は小さくて見つからないと思います。
畿内の実権は饒速日物部氏にあったようなので。
崇神は母方が物部氏。
纒向遺跡も崇神の宮のようですし。 >>893
神武は筑紫の日向の生まれです。
筑紫の日向の小戸が高祖山の麓なので、神武東征の出発地である高千穂宮は、今の高祖宮すなわち魏志倭人伝の伊都国です。
高祖宮の祭神は彦火火出見ですが、これは神武の祖父と、神武本人の名前でもあります。
彦火火出見の母である木花佐久夜毘売を祭るのが、三雲南小路遺跡の細石神社です。
ちなみに投馬国は彦火火出見の弟である海幸彦の国だと思います。
海幸彦の末裔が隼人とされています。 >>722
>>723
安本美典先生の「甘木朝倉説」が日の目を見る日が近いな
狗奴国卑弥弓呼→阿毎多利思比狐の王宮も、熊本城の地下だから発掘できない
古代から便利な自然の高台(「山」麓の「台」地)は王宮の適地だから仕方がないがw >>893
スサノオは筑紫の生まれだけれどアマテラスの子ではないので天神系ではない。
しかしニギハヤヒはアマテラスの直系であり天神系それも天孫族とされている。
天孫は二人いて、筑紫に降臨したニニギと交野に降臨したニギハヤヒだが、ニギハヤヒの方が兄とされている。
記紀によると、ニギハヤヒが王国をうまく経営していると塩土爺から聞きつけて、神武らは東征を決意したとされている。
神武ら四兄弟は筑紫の日向の高千穂宮で相談して、大和へ向けて出発した。 スサノオは高天原(御所市高天)にいた。
高天原が九州なんて江戸末期にでてきた説。
なんの根拠もない。 根拠はないがわたくし、巨根18.2p砲を持っております。1回だけ22p(先細り)砲の黒人留学生に完敗…でも雁首のデカさは勝ちますた! >>898
天の多利思比孤の城は熊本まで行かず、福岡県内でしょう。
天と付くので天神系だからです。
ちなみに、タリシヒコの諡号は歴代の天皇で九州系に多く使われています。
有名なのは、大帯日子忍代別命こと景行天皇でしょうか。
以後、タラシ朝と呼ばれる天皇が続きます。
アマのタラシヒコが倭国の王すなわち天皇家の一員であることは間違いないのです。
なぜか記紀に登場しないだけ。 >>898
甘木朝倉は山ではないし、熊本は国津神系だし、ツッコミどころ満載ですね。
十年ROMりませんか? >>903
阿蘇山大噴火は今日も裁判傍聴しているんでせうか? どう考えても纏向の前は伊勢遺跡だろうがよ
なんで九州から来た事にしたいかね >>898
>安本美典先生の「甘木朝倉説」が日の目を見る日が近いな
見ない
老醜晒し晩節穢すだけ
出版する本の題名みんなプロレス新聞の見出しみたいで藁 >>906
神話の我流解説だけでお話が作れて楽だから >>906
なんで伊勢(滋賀)みたいな好立地捨てて奈良の山奥に移ったんですか おそらく卑弥呼以前の男王も共立王にでしょう
だから奈良の勢力が滋賀の勢力を倒したとかそういう話しではない
近畿の王宮は大した理由もなく移転するから >>909
東山堂の王者に東海道の王者が挑んで勝ったってのが、っこの1の説だな >>906
九州から来たのはいわゆる天孫であって
伊勢遺跡から纏向に来た勢力はそれを迎えた(対抗した)勢力だからだろ?
何でわからないの? >>910
卑弥呼以前の男王は後漢の時代なので、倭王帥升の後継、志賀島の金印を貰った博多湾沿岸の倭王のことだよ。 >>910
卑弥呼以前の男王は後漢の時代なので、倭王帥升の後継、志賀島の金印を貰った博多湾沿岸の倭王のことだよ。
伊勢遺跡も纏向遺跡も関係ない。
本州は後漢とはぼ交流はない。 >>912
つまり迎え撃ったのは纏向勢力ってことだよな
特に変わった様子もないしわからんね >>912
纏向遺跡は前方後円墳と関わりがあるから天孫系。
伊勢遺跡は国津神系。
直接は繋がらない。
前方後円墳は物部氏の墓制と言われるが、纒向は石上神宮に近く、まさに物部氏の地盤。
物部氏の祖はアマテラスの孫つまり天孫であるニギハヤヒ。 >>918
直接輸入したわけではなく、筑紫経由だよ。
筑紫を経ずに大陸半島へアクセスすることは不可能。 >>913
俺もそれ気になってる
何処かに埋まってるんだろうな 古墳時代以前は、各王族が一人ひとり宮を営んでいた。
その姿をとどめるのが今の神社だ。
纏向遺跡も、典型的な神社の建築様式だ。 一応伊勢遺跡のある辺りの旧地名が物部(モノべ)で物部氏を祀った神社もある
俺はこういう話は信じてないが何故地名が伊勢なんだろうとは思ってる 纏向や三輪周辺は物部の地盤で、物部の没落に合わせて蘇我氏の地盤の飛鳥に造宮地が移ったってとこらへんは疑念なかろう 年代観がおかしな人が多くて困る。
纏向遺跡はすでに記紀の時代であり、どの天皇の時代なのか考えなければいけない。
そしてその様式からは、崇神天皇の磯城瑞籬宮が最も有力。
纏向遺跡は崇神天皇の実在性を証明するとともに、初期の天皇制を考える上でも重要だ。
磯城纒向は物部氏の石上神宮のエリアであり、崇神天皇の母方は物部氏、つまり天孫饒速日の末裔だ。
だからこそ前方後円墳である箸墓とも関係する。
奈良盆地の中でも、東に神奈備である三輪山をいただくエリアは物部氏の領地。 ニギハヤヒ
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って
河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。
他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、
天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする。
Wikiより引用
あと、Wikiの『石切劔箭神社』の社史とやらは総説としてわかりやすかった。
読むべし。 伊勢遺跡発見は40年程前で何もない所からいきなり発見された
地名はそれ以前からある >>919
天照国照彦火明を天孫の系譜に繋げたのは記紀の偽装だと思いますよ。
物部氏は飛鳥大神の系譜。 纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。 >天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って
無知。正しくは「天神御祖」から授かった。誰なのかは大っぴらに言えない(=アマテラスではない)のだ。 >>929
伊勢遺跡の建築様式もそれなのよ
伊勢遺跡から南下して伊賀辺りで右に行けば纒向で左に行けば伊勢神宮 >>928
天照国照の称号は先代旧事本紀にあるが、その名は天神つまり天照大神と国津神つまり大国主の権威を継承したということ。
天照大神が出雲の大国主を倒して天地つまり陸海を統治するために降臨させたのがニギハヤヒだとされている。
むしろ記紀は飛鳥大神や三輪山大神などの、天皇家より強い権力を持っていた物部氏の系譜をぼかしている。
それに対して、天照国照の称号を明記して大王に位置付けたのが先代旧事本紀ということになる。
実際のところ、奈良盆地の中でも最もより場所、磯城や纒向、石上、三輪山を支配したのは物部氏であり、神武は橿原、磐余など隅っこに置かれている。 >>931
山も川も無視した強引な説明だな。
そもそも伊勢遺跡と纏向遺跡では年代がまるで違う。
纏向遺跡は一代限りの王宮で、だからこそ崇神天皇の宮という話になるのだが、伊勢遺跡はそうではない。
多くの首長が集まる施設として作られ、建物の特徴は出雲に近い。
類似性もあるが、直接の関連があるわけではない。
間に何世代もあるはず。 >>923
地名の由来は、
地区の神社の皇大神社が天照大神が主祭神で、伊勢神宮系だからじゃないかね? >>930
妄想だけならなんとも言えるな。
記紀も先代旧事本紀も天照の末裔としているのに。
新撰姓氏録だけが、天照系ではない天神系としているようだが、いずれにしても天神系であることにかわりはない。 >>934
明治維新でほとんどの神社は天照大神を祭るようになったから、当てにはならない。
だがそれ以前から伊勢という地名であったなら興味深い。 滋賀県守山市伊勢町(伊勢村)の地名記録は江戸時代をさかのぼらないようだ。
皇大神社由来に一票入れとこうか。
>>935
旧事本紀は物部傍流が本宗家を仮冒してまで物部氏の権威復活を目指した書物。
日本書記の捏造にはもちろんのっかりますよ。 >>939
先代旧事本紀は、記紀が天皇家中心だったのに対して、物部氏もオオキミなんだと主張するために対抗して書かれたようにも読める。
天照国照の称号にそれが表れている。 >>937
5世紀以降だという根拠をどうぞw
妄想乙 伊勢遺跡では破鏡も見つかっている。
破鏡といえば、八咫の鏡を破鏡して副葬した平原遺跡を思い出すね。 日本書記にも、天照国照彦火明の名は登場している。
後の物部氏が遠祖、櫛玉饒速日と習合させたのか、
日本書記が本来一人の天照国照彦火明櫛玉饒速日を分離したか。
習合させた理由として権威付が考えられるし
分離した理由としては、天照の名を持つ人物が女神アマテラスの系譜でないと困るから。
併せて尾張氏の始祖捏造もからんでくるんじゃないかと。 饒速日に十種神宝を授けたのを「天神御祖」とぼかす理由もこれだろ。 伝承とか後付けな気がして信用しないんだが地名は気にはなる 邇芸速は播磨国風土記では大汝命の子になってる。別名の櫛玉命は大物主の別名の櫛甕魂命と類似している。
饒速日は神武に帰順した奈良の先住勢力。大物主は大己貴命の和魂で三輪山の主で神武の岳父。
まあ関係はあるやろね。 播磨国風土記では「火明命」が大汝命の子ではなかったですか? >>946
確かに、伊勢町のすぐ隣は、栗東市「綣(へそ)」だしね、
知名度でへそはさすがに珍しすぎ。 >>948
そうだった。まあ饒速日=火明命ならってとこか 伝承とか由来とかわかんないけど一世紀頃の伊勢遺跡は存在するわけで
これと伊勢神宮はどっちが先かと言ってもわかんないからな トンデモは、伝承とか地名とか記紀神話に頼らざるを得ない、情けない説。 @阿波 トンデモ阿波は、脳内妄想に頼らざるを得ない、情けない説。 @阿波 生活痕跡の希薄な祭祀遺跡は、縄文時代にすでに有るけど、
大規模な建築を伴う祭祀遺跡の存在は貴重だわ。
仏教伝来以前から、宗教的建造物の建築が始まっていたと言うことだからね。 >>952
邪馬台国っぽい遺跡が残ってる事を自慢されてもなぁ〜w
文献が完全否定してるんだから意味ないでしょ?
阿波は「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」の内の一つですよ。 >>954
守山の伊勢町は遺跡が出るまで由来するものってないのよ
なんでそこが伊勢町なのかわからなかった 伊勢遺跡に関しては、たまたま、最初に伊勢町で見つかったから伊勢遺跡と名付けられたけど、
近隣の阿村町や、栗東市野尻町で先に発見されていたら、
違う名前になっていた可能性もあるので、
伊勢の名前に囚われない方が良いよ。
色々妄想は膨らむけどね。 >>957
皇大神社が有るので、神社由来の地名と考えるのが自然。
皇大神社は名前からして天照大神を祀った神社なので、
明治以降後付けの祭神では無いと思われます。 >>955 板野に居たの
>生活痕跡の希薄な祭祀遺跡は、縄文時代にすでに有るけど
どこにや? @阿波 邪馬台国っぽい遺跡がご自慢の徳島県では
大物主がご鎮座されておられないのに王都とかお笑いですねwww >>956
>文献が完全否定してるんだから
具体的に言ってみな。 @阿波 勝部神社 主祭神 物部布津神(天火明命・宇麻志間知命・布津主神)
この祭神が創建当時からだとすれば、やはり火明=饒速日は間違いないか。 >>962
>大物主がご鎮座されておられないのに王都とかお笑いですねwww
「大日霊女命」がご鎮座されておるよ。
大国主の変名、大物主ごときが! わははははは @阿波 >>970
阿波忌部祖神天日鷲翔矢命の母神、八倉比売をこれ以上侮辱するのはやめろ!
良心が痛まないのか? >>971
地元をなにも知らんよそ者が口出しするな! @阿波 >>972
よそ者であるが故に願望などを持たずに正しく阿波の古代史を理解している。
お前とヤマモトタケルと藤井栄は阿波の神々を愚弄する糞県民。
健全な多くの県民に土下座して詫びろ! >>971
>阿波忌部祖神天日鷲翔矢命の母神、八倉比売
「天照大御神」や「大日霊女命」や「八倉比売命」は、阿波忌部だけの神ではない。
「倭人(阿波勢力)」すべての部族の神だ。 地元をなにも知らんよそ者が口出しするな! @阿波
阿波が注目されない理由はお前トンデモのせい。
正しい歴史を発信しろ!カス! >>975
>阿波が注目されない理由は
「阿波」を注目したくないのは、怖いから。 わははははは @阿波 守山の皇大神社も由来よくわかんないからなあ
皇大神社って明治ぐらいの開拓民が建ててる例もあるみたいだし 伝承をなんでも捏造だと言って忌避していたら何にもわからない。
ニギハヤヒのように、後世にいろいろ混同されている例もあるだろうが、存在しなかった根拠にはならない。
ニギハヤヒの十種の神宝は、その中の鏡が籠神社に現物が残っていて、年代も一致する。
創作と切り捨てるのはもったいない。
あと、奈良盆地の先住勢力は長髄彦らの登美の一族だよ。
ニギハヤヒはそこに侵入してきた支配者であることが記紀にも明記されている。
奈良大阪を中心に具体的な足跡が山のようにある。
先代旧事本紀には、その時の船団の船頭たちの名前まで記録されている。
そんなものを創作する必要があるのかね? >>978
トンデモは、伝承とか地名とか記紀神話に頼らざるを得ない、情けない説。 @阿波 >>979
>あと、奈良盆地の先住勢力は長髄彦らの登美の一族だよ。
トンデモは、伝承とか地名とか記紀神話に頼らざるを得ない、情けない説。 @阿波 >>977
>守山の皇大神社も由来よくわかんないからなあ
板野の売郷奴が言うことは、「軽薄短小」「浅学非才」だから、真に受けないように。 @阿波 伊勢町の区画がほぼ方形で、遺跡の広がりとは一致して無い。
四角形の一辺が650m弱なので、町の範囲は条理制の六町とほぼ一致する。
六町四方を領有する、有力な地主が居たのだろうな。 >>979
奈良盆地の山奥に、船団だの船頭だの、的外れ。 ちっとは常識の思考を持て! @阿波 >>983
質問があります。
「伊豫二名洲」は、四国の事のようですが、何故にこう言うのかご存じですか? >>984 板野に居たの
>六町四方を領有する、有力な地主が居たのだろうな。
そりゃ、奈良遷都後の8世紀ともなりゃ、そうなんだろうて。
板野の売郷奴が言うことは、「軽薄短小」「浅学非才」だから、真に受けないように。 @阿波 >>982
同勢力じゃないよ。
長髄彦を討ったのは饒速日だしね。
饒速日は磐余彦を同族として迎え入れた。
記紀が嘘をついているとしたら、饒速日が磐余彦に恭順したという印象操作をしたことだろう。
記紀編纂時にはすでに物部氏が没落していたから書き放題だっただろうからね。
それでも日本書紀全体は異説を紹介するなどして、わりと公平な編集をしている。
日本書紀の中で完全な創作の部分は割と少ないのではないか。 おまはん、関係ないのに横から口を挟まんといてくれんかなあ。
阿波人に多い悪い癖よ。 >>989 板野に居たの
そうはいかんのじゃ! 「阿波」の恥じゃけんのう。 @阿波 磐余彦と饒速日のどちらの立場が上であったのかは、大和川の最上流であり神奈備の三輪山の麓に陣取ったのが饒速日すなわち物部氏であったことを思えば自ずと明らかだ。
石上神宮も纏向遺跡も箸墓も全て物部氏のもの。
纏向遺跡が崇神天皇のものであっても、崇神天皇が物部氏系の天皇だし。
神武の痕跡はわずかしかない。
橿原神宮は明治になってから大々的に造営したものだからね。 >>992
もちろん、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都後の8世紀。 @阿波 >>988
饒速日の妻が長髄彦の妹で、その子供が物部の祖の宇摩志麻遅命なんやろ。饒速日の後ろ盾が長髄彦だったのを切って神武に帰順したってことやないの >>996
>物部とか三世紀にいないし
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。 @阿波 >>998
>そもそも物部とか居たの?
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。 @阿波 このスレッドは1000を超えました。
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