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邪馬台国畿内説 Part839
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0001◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:28:06.17
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1671172135/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:28:51.09
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2022/12/18(日) 17:29:22.12
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2022/12/18(日) 17:29:56.86
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:30:28.88
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:31:00.40
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:31:34.70
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:32:06.59
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:32:39.91
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2022/12/18(日) 17:33:21.70
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:33:53.49
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:34:30.14
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:35:01.90
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:35:33.68
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:36:04.40
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:36:37.54
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:37:09.44
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:37:42.64
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:38:13.91
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:38:45.05
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:39:17.23
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:39:50.33
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:40:21.74
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:40:56.59
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:41:28.31
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:41:59.66
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:42:31.07
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:43:02.80
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:43:30.76
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:44:02.33
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:44:31.64
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:45:02.01
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:45:32.87
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:46:03.37
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:46:34.81
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:47:06.33
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:47:38.09
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:48:16.48
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:48:47.45
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:49:19.73
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2022/12/18(日) 17:49:50.70
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:50:22.32
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:50:54.96
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:51:26.63
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2022/12/18(日) 17:51:59.95
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2022/12/18(日) 17:52:31.35
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2022/12/18(日) 17:53:02.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2022/12/18(日) 17:53:34.22
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2022/12/18(日) 17:54:05.13
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2022/12/18(日) 17:54:40.51
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2022/12/18(日) 17:55:14.05
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2022/12/18(日) 17:55:49.05
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2022/12/18(日) 17:56:23.91
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2022/12/18(日) 17:56:57.29
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2022/12/18(日) 17:57:33.22
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2022/12/18(日) 17:58:07.03
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2022/12/18(日) 17:58:38.49
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2022/12/18(日) 17:59:11.51
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2022/12/18(日) 17:59:45.34
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2022/12/18(日) 18:00:19.35
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2022/12/18(日) 18:00:54.37
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2022/12/18(日) 18:01:33.07
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2022/12/18(日) 18:02:07.23
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2022/12/18(日) 18:02:41.58
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2022/12/18(日) 18:03:15.00
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2022/12/18(日) 18:03:49.10
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2022/12/18(日) 18:04:24.07
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2022/12/18(日) 18:04:58.80
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2022/12/18(日) 18:05:31.94
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2022/12/18(日) 18:06:06.38
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2022/12/18(日) 18:06:39.83
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2022/12/18(日) 18:07:13.96
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2022/12/18(日) 18:07:49.17
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/12/18(日) 18:08:23.85
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/12/18(日) 18:08:57.00
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:42:57.35
九州説という説を嘘呼ばわりしている者は
妄言集「畿内説」という壺を売り付ける霊感商法詐欺
0078日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:45:37.53
とくに纒向妄想は畿内説統一狂会の霊感商法の典型

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物

吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png



[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件

纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0079日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:48:57.80
>>78
佐賀も奈良も「掘っ立て柱小屋」ぐらいしかない、みすぼらしい説同士。  わははははは   @阿波
0080日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:50:35.26
邪馬台国連合ない。
卑弥呼連合、壹与連合はある。
卑弥呼の都だった邪馬台国は中心国でもない。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:51:43.27
【結論】畿内説は単なるこじつけ論
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国国内の伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、ご解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
・古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991
0083日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 09:53:09.55
>>82
なので九州説は間違い。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:11:57.06
>>82
で卑弥呼はどこにいたの?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:19:33.25
>>84
伊都国だよ
0086日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:34:59.95
伊都国は入国管理局だろう
筑紫平野には吉野ヶ里のような集落が点在しており、その総称が邪馬台国だ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:53:31.96
>>86
卑弥呼はどこにいたの?
鬼國?斯馬國?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:58:59.32
>>88
好きな国でいいんだよ。
どこの国行っても会えるだな
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 10:59:56.01
>>89
読んだ人によって違うんだね
0092日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:01:22.05
>>90
邪馬台国には変わりないからね。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:09:12.21
>>90
奴国だな。南にある。
現筑紫野市より
さらに南だな
0094日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:11:38.42
>>93
博多湾から太宰府市にはいないだね
0096日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:15:59.45
卑弥呼は筑後山門の邪馬台国にいた
筑前怡土の伊都国が筑前諸国の監察と大陸との間の税関・出入管理の役割を担っていた

筑前のリーダー伊都国と筑後のリーダー邪馬台国の連合が(広義の)女王国
0097日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:16:57.62
>>95
北部九州破れたり
0098日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:17:53.93
畿内説の学者って中国の史書を読めないらしいな
理系センス皆無どころか文系未満の読解力と相まって頭の悪い発言してる自覚が無い
宗教的だと言うのも納得
0099日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:18:20.21
魏志倭人伝で王がいたとされるのは筑前の伊都国と筑後の邪馬台国と肥後の狗奴国
筑後は肥後と敵対して筑前と組んだ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 11:30:50.88
>>100
短里だから77m、7.7km
あれ?山の中
0104日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 12:08:06.91
>>101
400mより短ければいいんだよ。
固定できないからね
0105日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 12:10:25.00
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0106日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 12:12:45.02
>>104
そうだった300mでもいいんだな。
30km だいたい山門になる
0107日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 12:14:07.86
【ヤマトの秘境探検】ヤマト政権誕生の地、三輪山麓にて箸墓の秘密と天然のラピュタ物件を発見!【パワースポット】
https://www.youtube.com/watch?v=Qxj75dHB9Ig
0109日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 12:31:34.85
>>100
>筑前怡土から山を越え 南
>100里

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)    @阿波
0110日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 13:17:09.14
>>81
江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。阿波説はそれに騙された被害者たち。人並であれば簡単に見抜ける程度のことだが「天皇」と言う地名の由来を古代の大王に求めるようなど素人は騙されるかも知れない。何よりも劣等感からくる歪んだ郷土愛が後押しする。あとは商業目的である。
0111日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 13:21:50.74
>>110
>江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。

「阿波」には、火種が有るから煙が立つ。
神の居なかった畿内・九州には、記紀神名神社は立たない。 これ、自然の道理。   @阿波
0113日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 13:33:38.34
>>112
「妄想」じゃなくて知能の低い被害者なんです。
ネットに捏造記事をアップしている奴もいて真実の様に拡散しています。
捏造記事で小説(amazonで販売中)を書いちゃったバカもいて超絶恥晒しです。
0114日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 13:38:51.47
>>110
>江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。

これも王政復古・神道復古の興りによるもの。

「阿波」では火種が脈々と灯り続けていたから、一気に火が付いた。   @阿波
0115あqas
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2022/12/19(月) 13:46:26.12
阿波は大麻の吸いすぎで誇大妄想になってしまっている
0116あqas
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2022/12/19(月) 13:49:45.80
大麻比古が忌部氏の祖先というw
0117日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 14:10:23.10
「阿波」では(劣等感という)火種が脈々と灯り続けていたから、一気に(捏造史の)火が付いた。
0118あqas
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2022/12/19(月) 14:14:08.44
忌部氏は大麻に火を付け衆を惑わしたのだよ
0119あqas
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2022/12/19(月) 14:39:59.07
一宮が大麻比古神社ってw
0120日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 15:23:56.29
>>99
後漢書に漢と交易があった三十国の王が居たと書いてあんじゃん
卑弥呼を共立した事と整合性がとれるし
0121日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 15:38:42.99
>>118
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。 
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波
0123日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 15:48:26.07
>>122
まあ、なにをとっても、「阿波」に結びつくってことだ。 真実には逆らえんのだよ。  わははははは   @阿波
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 15:57:03.12
>>124
まあ、なにをとっても、「阿波」に結びつくってことだ。 真実には逆らえんのだよ。  わははははは   @阿波
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 16:12:03.39
大麻の正当利用法・普及法を考えるべきだろうなあ・・・
危険とか言い出したら、包丁でもライターでもアルコールでも、
全て危険だ。
0128日本@名無史さん
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2022/12/19(月) 16:25:02.13
>>127
そんなに「阿波」を恐れんでもよい。 お前の古い古いご先祖は「阿波」出身の可能性があるから。   @阿波
0130日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 16:45:17.84
>>106
其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 以降はほとんど
北部九州の東になるんだ。
7万戸-(2万+1千+1千+4千+1千+1千)で
4万2千戸ある事になる。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 16:52:02.54
>>106
不彌国は、大野とか現筑紫野市あたり。
山門 ト骨も目撃できるから倭人伝と一致している。
0132あqas
垢版 |
2022/12/19(月) 17:00:57.08
躬臣國は大分の玖珠
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:02:50.41
九州だけならそこに交易してた三十国と王が居たはず
本州も中国から青銅器を手に入れてるしまあないわな
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:07:37.95
>>133
中国と交易していたのは、鉄器王国「阿波」の国々。   @阿波
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:08:36.32
>>106
又、方300、400里を入れて伊都国まで11900里
不彌国、奴国で分岐で100里、
丁度万二千余里や周旋5千余理にも一致。
投馬国は女王国でもないので
狗奴国にとっても鉄の経路。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:09:51.30
>>134
鉄は半島だから
0137日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:11:57.06
>>136
その朝鮮半島も実質中国の支配下。   @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:12:19.47
>>135
>方300、400里を入れて伊都国まで11900里不彌国、奴国で分岐で100里、
0139日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:13:15.13
>>133
交易は自由だよ。
謁見とか魏と疎通できるのが30ヶ国
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:13:17.63
>>138
こんな事考えててばかばかしいと思わんか?
0141あqas
垢版 |
2022/12/19(月) 17:14:16.81
>>129
邪馬台国じゃなくて大麻国だな
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:14:29.42
>>140
ぜんぜん、一致しない方がバカバカしい
0143日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:15:32.35
>>139
だったら卑弥呼を共立したのは伊都国と狗奴国の二つだけ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:18:03.03
>>143
投馬国、狗奴国以外の国々。
伊都国もその中のひとつ過ぎない
0146日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:18:30.79
>>140
>こんな事考えててばかばかしいと思わんか?

それぐらいしか他に妄想できる材料がないからな。  あほくさ。  わははははは   @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:20:22.86
>>145
伊都国は倭国(阿波)への通過国のひとつ過ぎない。   @阿波
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:21:12.53
>>144
伊都国から東南方面に不彌国
無論、吉野ヶ里は奴国の北
山門は奴国の南 久留米もふくむ
二万戸
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:22:22.34
>>145
九州に三十か国程の王の居る国があってそこが卑弥呼を共立したんだな?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:23:07.70
>>148
単なる、振り分け妄想。   @阿波
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:25:09.68
>>149
だよ。反対が狗奴国と投馬国
投馬国は中立
狗奴国が反対なので女王国ではない。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:27:23.70
>>151
反対したら女王国傘下じゃないのか?
満場一致になるほうが珍しいと思うが
0153日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:29:27.74
>>149
投馬国は女王国にも狗奴国にもその他にも
鉄や銅の経路だよ。
なので征伐される運命。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:31:25.44
>>153
討伐ってなんだ?
共立する意味ねえじゃん
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:32:01.21
>>152
卑弥呼に反対したのが狗奴国と投馬国。
同じ反対でも敵対するのか?中立とするのかの
違い。満場一致はしていない
0156琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 17:32:03.89
まだ、そんな話しをして己れ自信納得しとるのか、メデタイナ。
九州説は文鮮明だわ。
短里なぞ存在しないし、記紀でも2000里と歌っているんだろ、朝鮮里550mでかわらん。
狗奴国王は卑弥弓呼で官の名まで記してある、女王国だわ。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:35:10.66
>>156
短里は存在しないが魏の定めの400m以外のか
里はある。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:36:05.25
>>157
そこも奴国
0160日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:41:22.61
>>156
女王国内の内ゲバて事か?
短里はない。魏の定めた里とそれ以外の里が
記述されている。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:42:49.76
>>161
魏志倭人伝には登場せず
0163琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 17:46:48.47
倭人は里を知らないと書いてあるだろ、中華から観れば、インディアンみたいなもんだぞ。高度なものを持ってるならそう記してある。また、中華は公開(陳寿を含め)していないが倭奴国、帥升の情報は持っている。
当然、女王国の軍事等も知ってる。ばらすような事はしない。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:51:27.68
>>139

倭奴国に金印を与えてからは、封泥した国書を出して国交できるのは倭奴国だけ。
一国にお墨付きを与えて所領安堵するのが封建体制。
以降、博多湾沿岸のみが倭人の代表だ。
魏も後漢からその外交関係を禅譲により継承している。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:52:58.49
>>164
倭王は邪馬台国に居たんだけど
0167日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:54:48.30
>>166
短里はない。魏の定め以外の里がある。
0168琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 17:55:07.95
陳寿は、距離等は正確ではないと歌っている、別に本筋に影響あるわけではない。魏と女王の話だよ。南の方の遠い世界で中国人はいいんだよ。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:56:14.94
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0170日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 17:59:37.10
九州説は全体像が見えてこない
だから突っ込みが入る
テンプレ読んでないけどあんなに長々と書いてるんだから
スレ主も想像する全体像があるんでしょう
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:00:04.33
>>168
当然、変動するからね。
魏では採用されていない里があることを前提で
使っているんだろうな。役人以外の民間中国人
の独特なもんかもしれない
0174日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:01:19.51
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産であり、その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:01:43.03
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0176日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:02:27.53
>>165
居たけど北部九州にはいない。

奴国だよ。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:02:50.96
>>171
投馬国は?
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:04:25.10
>>176
邪馬台国に居たんでしょ?
邪馬台国何処よ?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:11:42.41
>>177

投馬国は邪馬台国と並列に書いてあるから、邪馬台国に含まれない。
宮崎県都万。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:15:40.42
>>180
魏志倭人伝をどう読めば宮崎になるんだ?>>181
>>181
福岡県は北部九州じゃないのか?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:23:15.58
>>171

北部九州でもっとも発展している外港都市が博多
博多の首長が親密な交流関係なのは畿内
0184日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:27:22.39
>>183

奴国博多は列島で最も発展して賑わっている。
しかし政治的には伊都国を畏怖する立場であり、権力の座は伊都国。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:31:30.99
>>178
だから一帯を邪馬台国という
その中の奴国だよ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:34:32.79
>>187
かもしれんよ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:36:04.07
>>187

陳寿は明らかに入れ子構造を想定している。
邪馬台国と投馬国は領域として並列に書いてある。
奴国や伊都国はその構成国になる。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:36:33.98
>>183
貿易の中心で政治の中心ではないて
事よ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:38:07.33
倭人の領域の中に邪馬台国や投馬国、倭種の領域などがある。
邪馬台国は倭国とほぼ同義であり、九州北部と対馬海峡のこと。
倭国の王都は伊都、女王の都する九州北部の代表。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:38:41.90
またしても中国語がしゃべれない渡来人、漢字が書けない渡来人。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:38:50.38
>>189
投馬国は中立国
狗奴国や女王国以外の物流経路でもある
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:40:51.54
糸島にいた楽浪人とは、帯方郡使のこと。
糸島の楽浪土器は、楽浪土器の中でも帯方郡型のもの。
0195琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 18:41:46.98
何を言ってるんだ、卑弥呼は鬼道、自前のがある。鏡作り神社がなんで3神2獣鏡なんだよ。
卑弥呼は益州西蜀広漢神獣鏡だよ。つまり漢中の人さ。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:47:22.89
>>194

糸島の楽浪土器は、204年に帯方郡が設置される前の北部九州編年ⅠA期=2世紀後半がピーク
3世紀前半の出土は糸島と福岡平野が拮抗する
0199日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 18:49:33.42
北部九州をマトリョーシカ人形のように戸数を縮小し
半島南部に5万戸の投馬国にしなければ倭人伝の戸数が入りきれないのが
北部九州説
0200日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:03:41.28
>>199
八女あたりまで含むから北部九州説ではない。
古典脳の北部九州説ではない
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:04:35.71
>>199
涙ぐましいイカサマなんだなぁww   @阿波
0202日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:06:08.21
>>196
それは韓の事。
中立国の倭の投馬国ではない。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:07:24.50
弥生時代の筑前と筑後の境い目あたりでは激しい戦争の痕跡があり、複数のクニが滅亡している
この筑前の勢力と筑後の勢力が和解して女王を共立したのが広義の女王国(邪馬台国連合)だと思われる

魏志倭人伝に王がいると書いている国は伊都国と邪馬台国と狗奴国の3か国だが、それぞれが筑前勢力、筑後勢力、肥後勢力の盟主だったのだろう
肥後勢力と対立した筑後勢力は、それまで激しく戦ってきた筑前勢力と手を結んだということだ

たまたまこのあたりのタイミングで公孫氏を滅ぼして帯方郡を接収した魏が、女王国に朝貢を促してきた時の記録をベースに書いたのが魏志倭人伝(およびその底本の魏略)ということになる
0204日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:07:46.23
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国が邪馬台国
渡平海北九十五国が投馬国
0205日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:10:50.03
>>204
渡平海北九十五国が投馬国と韓の事
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:12:05.39
>>205
正確にはそうだ
投馬国は対馬だからな
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:13:48.75
>>202

陳寿が読者にわかるように書いてるのが【惣〇〇戸】
倭国の戸数を減らして小国にしたいのが北部九州説
0209日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:15:11.26
>>206
吉野ヶ里や平塚川添遺あるだろう。
水害や災害が多い地域
0210日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:16:05.68
半島南部が投馬国というのが、そこはかとなく可笑しいねw

で、ミミとかミミナリとか、どう見ても日本人名の役人が出迎えてくれたとw
0211日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:16:15.96
>>208
北部九州説でないのでね
八女まで含むからね。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:17:38.37
倭奴国が後漢光武帝から金印をもらった時の「倭国」は筑前(プラス朝鮮半島南部)のみ、卑弥呼が親魏倭王の金印をもらった時の「倭国」は筑前+筑後(プラス朝鮮半島南部)だったと思われる
時代が下るにつれ中国の認識する「倭」「倭国」の領域は広がっていく
0213日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:20:18.97
筑紫の一勢力に過ぎなかった邪馬台国連合が東の大国として魏から金印を授与され魏志の異民族列伝最大の文字数で語られる理由は、もっぱら魏晋側の政治的事情による
0214日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:20:22.85
俺は一戸十人くらい住んでたと思うけど四人とか五人とかの人もいるしそれはいい
ただ東征毛人五十五国西服衆夷六十六国で131国
渡平海北九十五国だから邪馬台国七万戸と投馬国五万戸で丁度いいでしょ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:20:42.39
>>211

八女は北部九州なんだが
雑多九州説はいきなり入ってくるからどの一人一説なのかわからん
どこに何万戸なのか書きなさい
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:21:30.50
>>196

だから倭人伝にも同様に邪馬台国七万戸、投馬国五万戸と書いてあるが?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:22:04.84
>>213
「筑紫の一勢力」は適切な書き方ではなかった
「日本列島の一地方勢力に過ぎない筑紫勢力」だな
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:22:37.00
>>198

土器の編年は絶対年代は不確定。
だが魏志倭人伝の記述は年代が明記されている。
魏志倭人伝と食い違う推定は誤りだよ。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:23:19.94
>>212

後漢書の倭国は卑弥呼が共立された倭国
その一番南で1世紀に朝見したのが倭奴国
0220日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:23:42.28
>>199

投馬国は九州南部、宮崎県都万神社。
半島と言い張っているのはキナイコシの自作自演。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:24:08.80
>>213
邪馬台国連合はない。
邪馬台国が総名称
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:24:42.29
>>218
そんなんで纏向や箸墓の年代の事をよう言えたな
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:25:24.45
>>222
違うよ。中部だよ
0225日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:26:26.14
>>219
でも倭王は邪馬台国に居る
0226日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:27:03.01
>>214

お前は伊勢遺跡説だろ
お前の説は韓国の領域の人口の4分の1が日本列島の人口
0227日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:27:11.74
戸籍どころか文字すらない当時の倭国に正確な戸数の把握と記録があったはずがない
陳寿は邪馬台国連合をクシャーナ朝に匹敵する勢力として距離と人口を大きく脚色する必要があったため、大陸側の人が訪れる可能性がある玄界灘沿岸の伊都国や奴国ではなくあまりその可能性のない(玄界灘から見て)内陸の投馬国や邪馬台国の戸数を盛っただけだ
七万戸なんて当時は山門だけでなく奈良盆地も無理
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:27:19.81
>>208

九州北部に七万戸、九州南部に五万戸、さらに東の本州四国にも倭種なら、かなり大きいよ。
九州の人口を小さく矮小化した人口推定を貼っているのは畿内説の方だろう。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:28:59.48
>>226
>お前の説は韓国の領域の人口の4分の1が日本列島の人口
これの意味がわからん
俺そんな事いってないし
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:29:16.41
>>212

後漢の頃は倭は博多湾沿岸と対馬海峡、半島南岸しか認識されていなかった。
魏の使いが訪れて、もっと南の狗奴国や投馬国の存在が知られるようになった。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:29:37.14
筑後平野も奈良盆地も収容できない七万戸を九州説と畿内説で議論するのは全くの無駄
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:30:59.63
>>233
当時は半島に倭人は居なかったのか?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:32:44.06
>>235
熊本は狗奴国で何戸?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:33:35.39
>>237
だったらなんなのよ?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:34:25.31
>>235
まあ、現代の自治体で区切るのも
おかしな話だけど
0243日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:38:23.33
大和が邪馬台国、河内が狗奴国
これで全て辻褄が合う
0245日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:39:03.89
>>239

お前の願望は韓国の領域に20万戸+帯方郡、日本列島に7万戸なんだろ?
北部九州説にレスしてるときにどうでもいい伊勢遺跡説は横から入ってくるな
0246日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:40:06.16
>>234

半島南岸にわずかにいた。
狗邪韓国。
リアス海岸にへばりついていた渡海基地、規模は漁村程度。
弥生時代だぞ?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:40:40.81
>>245
おまえが勝手に伊勢遺跡説と言ってるだけで俺から言ったわけじゃない
0251日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:43:10.22
>>246
狗邪韓国の範囲なんてわからんし俺は半島の倭人は徐々に南に追い詰められて
白村江で追い出されたと考えてる
0252日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:43:35.28
>>247
福岡佐賀長崎大分宮崎鹿児島も記載はない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:44:21.50
>>251
あれ?征伐や倭の五王は?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:44:28.36
狗奴国は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に広がっていた大国

都は沼津北部にある大集落遺跡の足高尾遺跡群

そのそばにある高尾山古墳が卑弥弓呼陵
0255日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:46:55.76
>>253
だからその後任那日本府になって追い出されたんでしょ
ということはその150年前の倭人領域は更に大きい
0256日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:47:01.25
>>244

土器編年は形式的、様式的変化などで学者が編年する
九州の弥生遺跡の年代もこの方法で推定されている
ど素人のお前は福岡の学者の編年を民族的に拒絶して
お前が都合がいい年代に決めているだけ
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:49:46.50
>>255
大きい領域での文でいいじゃないか?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:51:38.24
>>258
伊勢遺跡説だが
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 19:53:27.72
>>252
当然、女王国全体対狗奴国ではないかもしれない.卑弥呼含む女王国の一部と狗奴国との
対立かもしれん。犠牲者の数もない。
男王たつも治らずの犠牲者の数はある。
さてどう考える?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:01:18.03
>>260
邪馬台国近畿
卑弥呼は九州へ。
成る程、思考がいいね。
明治から昭和生まれ人が書いた本の
鵜呑み古典的な九州説ではないみたいですね
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:06:37.43
>>251

そもそも半島における倭人の領域が小さかったのだろう。
人口が記載されていないのは、千戸未満だったからかもしれない。
リアス海岸だから100戸もあればいい方。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:07:57.22
高句麗、新羅、百済でちゃんと国家が樹立したけど
卑弥呼時代以前の半島は国家の体を成してなかったんじゃないか?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:08:46.99
>>262
小さいかわからんから
0268日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:12:05.25
>>267
だから倭人の領域ってだけで中国もよくわからんかったんじゃないか?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:20:59.98
魏志倭人伝に記録された倭国の戸数データから倭国全体の人口を推計してみる

戸数が記載されているのは8か国で合計15万個、一戸に4人としたとき人口は60万人
残りの倭国21か国で一国当たり2000戸とすると合計42000戸、人口では16万8千人
倭国の人口の合計は76万8千人

これに狗奴国の人口を北部九州と拮抗する勢力だとした前提で2万戸、8万人

総計は84万8千人

四国の人口はこの推計には含まれていない

この推計ができるのは陳寿が記録していてくれたから
0270日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:30:44.80
>>263

科学的手法はこの十数年だから
遺跡から出る大量の土器など測定されていない
0271日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:37:05.37
>>260
次の男王のは狗奴国との戦争じゃなくて内乱だぞ

フトニが銅資源を巡って出雲を乗っ取ろうとして内乱勃発

大和 対 出雲の内乱はフトニが伯耆て亡くなって大王が台与に
変わってようやく治まった
0273日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:41:33.41
銅資源じゃなくて鉄資源でした
0274日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:45:04.25
>>270

つまり、土器の絶対年代に科学的根拠はない。
炭素年代法でさえ、数十年の幅はある。
魏志倭人伝の記述を組み合わせれば年単位で土器の年代が推定できる。
そもそも魏志倭人伝を無視するなら邪馬台国論争になど口を挟まなければいい。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:50:05.97
>>274

お前が日本の考古学者の研究を拒絶するなら
糸島の遺跡はいつのものかわからないことになるだけ
お前が年代を決めることではない
0276日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:53:05.50
で、年代比定の科学的根拠は?
箸墓で学者様から梯子を外されたのに、まだ懲りないのか?
自分で科学的根拠を理解できなければ、ただの妄言を吐くだけのクズにしかなれない。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:56:22.52
帯方郡からの使者が伊都に滞在していました。
その頃の帯方郡の土器が糸島から出土しました。

こんな簡単なことを結びつけられないとしたら、頭空っぽだろ。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 20:58:43.01
>>276

歴博が箸墓周溝の土器の炭素年代を発表する前から
福岡の学者は畿内説
箸墓を根拠にもしていない
箸墓は調査できないから炭素年代的には矛盾はないという程度
0280日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:01:32.65
>>278

科学的に年代測定してない土器の年代は信用しないんだろ?
だれが帯方郡の土器だと判断した?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:04:32.80
学者の出身が何の関係があるんだ?
アホか。

糸島の楽浪土器は土器編年に絶対年代を与えることができる指標となる重要なものだ。
だが、絶対年代がわかると都合が悪い人たちもいる。
それは年代前倒しに全てをかけてきた畿内説だ。
だから彼らは絶対年代の推定に反対する。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:08:20.53
>>269で述べた人口推計はごく常識的な推計
三国志を読んだ当時の人々も同じような計算を即座にできただろう
また、陳寿の記事の元となった資料の存在自体が広く知られていたと思われる

263年に蜀漢が滅ぶまで陳寿は蜀漢の役人だった
彼も魏の情報としてこの人口について知っていたのかもしれない

つまり、九州説の人が語る、魏の人々が倭国を九州に限定された存在とする認識はありえない
対馬から九州、本州の領域を認識し、それに見合う人口をそのまま受け入れる素地があった
0285日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:12:36.67
>>282

最初の梯儁が倭国に来たのは240年
だれが糸島のどの遺跡の楽浪土器をこの年代からの帯方郡の土器だと判断したのか?
0286日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:16:46.94
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:17:42.78
土器の絶対年代がわかるって結局その年代は学者が決めるんでしょ?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:20:03.93
学者は確定的なことを言うのを嫌い、含みを持たせることがおおいが、それでも糸島の楽浪土器については魏志倭人伝に記載された郡使との関連を示唆することが多い。
まあ、無関係ということはなかろう。
楽浪帯方の土器が伊都に滞在した郡使のものと考えるのに、何の不都合があるのだろう。

ああ、年代前倒し詐欺には不都合なのか。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:20:29.08
戸籍もなく文字すらない弥生時代
中国の史書に日本列島のクニの戸数が載っていたからといって、そのまま信じるのは安直すぎる

特に魏志倭人伝は晋の役人の陳寿が司馬氏(普朝皇室)への忖度で倭国の距離や戸数を盛っている
距離の盛り方は、韓伝と倭人伝のみ他よりも短い一里基準を採用したか、あるいは韓伝と倭人伝のみ公孫氏討伐時の露布十倍の軍事報告書の記載を援用したかのいずれかではないかと推測される
人口の方は、バレやすい玄界灘沿岸ではなく内陸のクニ(投馬国、邪馬台国)の人口を盛った

陳寿が盛った人口記録で邪馬台国を論じるのは愚の骨頂
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:22:37.82
>>288
話し真面目に聞く気あります?
絶対年代とは何?
0292日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:24:45.89
>>289
>陳寿が盛った人口記録で邪馬台国を論じるのは愚の骨頂

と言いながら、集落遺跡で論じることもできないトンデモども。  わははははは   @阿波
 
0293日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:25:02.03
>>289

邪馬台国七万戸と奴国二万戸を分けるから人口の過大評価になるんだよ。
奴国二万戸は邪馬台国七万戸に含まれると考えると、あとは投馬国五万戸で、九州全体は十二万戸。
一戸4人として、狗奴国を追加しても九州全体で約五十万人。
人口が過大評価されているとは思えないけどね。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:26:08.17
>>293
と言いながら、集落遺跡で論じることもできないトンデモども。  わははははは   @阿波
0295日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:26:19.08
>>288

福岡の学者は糸島の三雲、深江井牟田で多量に出た楽浪土器は
ピークがⅠA期(2世紀後半)、ⅠB期(3世紀前半)が下限
0296日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:27:26.01
>>290

科学的手法で年代比定の精度に限界があるのは明白なのだから、文献との比較で考えたらどうかと言っている。
魏志倭人伝という第一級の史料があるのだから、無視するなよ。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:29:46.62
>>296
魏志倭人伝が正しいか検証してるんでしょ
それ根拠にしてどうする?
俺は伊勢遺跡説だからおまえとは全く違うんだし
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:32:52.70
てか相変わらず誠実じゃないな
おまえが絶対年代という言葉を使っておいてその意味を説明できないのか?
0301日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:35:59.52
>>289
陳寿が数字を操作したということもありえない
陳寿が基にした史料は当時魏の国内で広く流布していた
陳寿が盛ったなどということはない
0302日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:37:27.61
>>301
盛りはしないだろうが陳寿は知らない
0303日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:40:48.77
>>286
で投馬国の内訳は?
どこから?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:43:09.62
>>298

だから帯方郡が設置される前からの楽浪土器
三雲番上地区土器溜やサキゾノ地区住居址の楽浪土器は弥生中期末(1世紀末)からⅠB期が下限
0305日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 21:48:12.43
>>301
中国の資料に反して盛ることはないだろう
倭国の人口は中国に資料がないから盛れた

朝鮮と倭の里数は、中国に資料がなかったから盛れたのか、あるいは中国の資料がそもそも露布で十倍に盛られていたかの何れかだろう
0307日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 22:02:23.25
>>306
と言いながら、集落遺跡で論じることもできないトンデモども。  わははははは   @阿波
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 22:05:09.05
まーだやってらっしゃるのか






卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0309日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 22:30:26.29
>>305
漢書に倭国が百余国に分かれていると記載されており、毎年楽浪郡に使者を送っていると記されている
人口についての記載はここにはないが、楽浪郡の役人はそれを知ろうとしたろう
そういう積みあがった情報と陳寿の記述が違っていれば、厳しく批判されたことだろう
0310日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 23:11:04.22
>>278
出土したら、工場だな。
博多湾は貿易の中心 
魏志倭人伝では東南、
つまり、政治の中心ではない。
現糸島市や博多湾に向かう想定が違うのだ
0312琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 23:37:58.17
卑弥呼を何歳だと考えとるのだ、2世紀~なぞありえないだろ、もう少し自説を客観的に検証してから話してくれ、付き合いきれない。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 23:41:35.37
東南の甕棺墓がど没落して以降は発展しない有明海沿岸と
博多の首長はほぼ交流が無い
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/19(月) 23:42:21.49
>>312
後漢書にも登場するしはっきり言えば存在自体疑わしいけど信じなきゃしようがない
0315琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/19(月) 23:47:56.21
後漢書は5世紀、陳寿の後だわ。それと陳寿は編纂を命令されていたわけではない。司馬遷を意識していた作者だろ。
0316琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 00:03:56.91
また、箸墓を岱輿の墓も岱輿=百襲もありえない。卑弥呼径100歩の墓が存在し、おそらく百襲とは桃園姫だな。陳寿当時中華が鬼道と記した以上鬼道は五斗米道として考察に入るとこから始まるのだが、あえて避けてるのが本居ならぬ言挙げ派だよ。答えが出てしまうからな。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 00:10:28.31
陳寿の死後原本を書写させたのは晋朝
記紀が書かれたころの唐は蜀漢正当論
現在残る12世紀の版本の時代も道徳性を重視する朱子学から
魏を正統とした三国志は批判の対象だった
0318琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 00:10:40.08
半島~九州も魏里3000、書紀2000里とするとこからも7世紀では朝鮮里550だな。
0319琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 00:19:33.98
蜀漢正当論?いってる意味がわからない。陳寿は蜀漢の人間だよ。
0321琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 00:33:00.12
陳寿はプーチンに書けと言われたわけではない、
あくまで司馬遷を意識しとると言っとるだろ。
儒教、仏教、道教の時代があるのが中華、正史にどれだけ影響を与えたかは、後評価されとるだろ、蜀漢を持ち出したが劉備は張魯を欲しがった一人だぞ。
0322琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 00:43:53.18
そもそも中華正史と記紀とでは、編纂目的が違う。それを一緒に語られては説得力にかける。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 01:13:30.02
三国志の評価と道教の発展は関係ない
鬼道と呼ばれた初期道教は張陵(張道陵)が蜀郡で太上老君のお告げを受けて
始まったとされ、張魯が受け継ぎ隋唐から宋代にかけて隆盛した
日本が遣唐使を派遣して唐の文化を導入した記紀編纂の時代は
日本側も曹魏との交流は書く必要がなかった
12世紀の民間版本の時代も宋の朱熹は正統な王朝は周,秦,漢,蜀漢,晋,隋,唐を正統とした時代
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 05:25:34.17
神道とは、神話と道教と捉えれば、わかりやすいかなあと思いました。
当たらずと言えども遠からずと思います。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 05:58:11.10
魏を正統としなかったからこそ蜀と呉と言う余計な物を対等に置く三国志
0326琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 07:42:22.66
書く必要がないというのが本居派だよ。秋成の中華の影響を記さなかった、が度量衡は韓尺だな。まあ、その時代はいい、卑弥呼の時代は道は孔子道、鬼道は老荘思想それでなんの問題もない。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 07:50:23.18
陳寿の三国志は明確に魏を正統としている
皇帝の事績を書く「本紀」は魏書にしかなく、呉書・蜀書には臣下や周辺の独立勢力・異民族のことを書く「列伝」しかない(例えば劉備のことを書くのは「先主伝」)
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:16:19.14
魏と呉と蜀は別の国だから魏書・呉書・蜀書に分けた
しかしその中で魏を正統としたから魏書のみに本紀を置いた、ということだ
0331日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:19:33.10
呉と蜀を魏とは別の国としたのは、分裂していた三国を統一した司馬氏の事績を強調するためでもあろう
0332日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:21:31.00
陳寿が司馬氏に忖度する姿勢は、三国志全体を通して一貫している
倭人伝・邪馬台国についてもそれを前提に解釈する必要がある
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:23:56.34
呉と蜀を魏書の中に包含してしまえば、中国を統一したのは司馬氏ではなく曹氏になってしまう
それは事実と異なるだけでなく、普朝の都合も甚だ悪い
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:33:04.14
>>316
卑弥呼の墓は大きさより殉葬が重要
『卑弥呼が死ぬと大きい墓をつくった。その直径は百余歩で、卑弥呼に殉死した奴隷百余人が一緒に葬られた。
その後、男子の王が即位したが国を支配できず、たがいに殺し合う内乱で千余人が殺された。
卑弥呼の一族の女で十三歳の壱与が女王になると国中が治まった。』

魏志倭人伝のこの個所は朝貢の記録であり、倭人からの伝聞をもとに文章化された記事である。
倭人は「里」という単位すら知らない時代なので墓の大きさを示すために径百余歩などと報告するはずはありません。
これは倭人が告げた「殉葬百余人」という規模を陳寿が中国と同様に「歩」という単位を使って表現した箇所であり、
実際に径百余歩かどうかはわかりません。
少なくともこの記事が書かれた時点では。

なので墓を比定するとすれば、まず殉葬百余人の墓が最有力候補となります。
たとえば「祇園山古墳」のようなものです。
前方後円墳は文献とは全く形式が異なるので候補にあげる必要性すらありません。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:49:16.78
中国の史書はそれが書かれた時代の王朝の正統性を示すために書く
そのために、事実の一部を強調したり、時には少し改変したりする

晋の時代に書かれた三国志が三国に分かれているのも、その中で魏を正統とするのも、西域伝を書いていないのも、邪馬台国(連合)を東の大国のように書いているのも、全ては司馬氏の功績の強調、晋朝の正統性の強調に繋がる
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 08:52:29.75
邪馬台国を(クシャーナ朝に勝るとも劣らないレベルの)大国に見せるために、距離や人口は巧妙にいじっていると考えた方が良い
距離の方は里の単位に仕掛けがある
それがローカルルールの短里なのか、公孫氏討伐時の報告書の露布十倍なのかはわからないが
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 09:54:24.60
>>341
ろくな遺跡しかない所
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 09:59:23.55
九州じゃない、九州じゃない、と呪文を唱えつつ希望的観測しか語らない畿内説は明らかに宗教
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:07:08.52
「倭国」≒「日本」となったのは中国と外交する主体がヤマト王権になった倭の五王以降
それより前の「倭国」は筑紫の地方勢力
ここを整理できていないから、考古学的に大陸との直接交流の痕跡が非常に少ない畿内に邪馬台国を置くような珍説が出てくる
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:09:11.57
畿内説は3世紀の倭国≒日本という誤った先入観が生み出した虚構
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:14:30.56
>>324
そういうのやめてくれよ
何が神話だよ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:20:52.63
>>345
>考古学的に大陸との直接交流の痕跡が非常に少ない畿内

それに引きかえ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、倭国(阿波)だけ。  わははははは   @阿波
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:21:20.63
>>345
伊勢遺跡だっつってんだろうが
何度も言わせるなバカ!
0350日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:22:22.21
>>349
伊勢遺跡がどうかしたのか?  わははははは   @阿波
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:26:54.82
だから纏向遺跡に来たのは何処のどいつだって話しだろうが
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:29:14.19
>>344
実際、九州じゃねえじゃねえか

超ウケるwwwwwwww
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:52:31.58
>>351
だから纏向遺跡に来たのは「倭人(阿波勢力)」だって言ってんだろうが。   @阿波
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:54:28.40
>>339
>公孫氏討伐時の報告書の露布十倍なのかはわからないが

そのはるか昔から、倭は万二千里のかなたにあると言われていたので、これはない
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:55:55.29
不弥国から水行二十日もしてまだ九州北部にいるとか

さらに水行十日してもまだ九州北部にいるとか

おい、遊びすぎだろ船頭!

超ウケるwwwwwwwwww
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 10:56:06.98
纒向遺跡の勢力は九州と吉備の連合勢力だろう
皇室に邪馬台国時代の伝承が殆ど残ってないことから、この九州勢力は邪馬台国連合の支配勢力ではなく、邪馬台国連合のドロップアウト組と考えられる
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:12:56.61
>>356
伊勢遺跡に居た人達はあとかたずけして何処に行ったんだ?
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:14:43.50
>>356
その纒向勢力って何なんだよ?
纒向遺跡は住居も生活痕も無い古墳造営キャンプ場だぞ?
ドカタ連合か?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:20:08.28
福岡県朝倉市あたりの地名と奈良県桜井市あたりの地名は、偶然ではあり得ないほど大幅に一致している
朝倉は筑前と筑後の境い目に近く、筑前からも筑後からも中心地帯からは外れていると思われる
ここの勢力が軍事抗争する筑前勢力と筑後勢力の板挟みになり、脱出して東遷した可能性がある(吉備と同盟して大和を征服=神武東征)
ちなみに筑前と筑後の境い目あたりには、激しい戦争で滅亡したと思われるクニの遺跡が複数ある
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:21:36.05
理由を言わないのがトンデモの識別子
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:32:05.03
>>356
>纒向遺跡の勢力は

そんなものは無い!   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:33:09.42
>>360
逆、逆。大己貴神社周辺だろ?
大神 比義やら中央から三輪の勢力が九州に下向したからだろ。
何でも筑紫マンが考えそうな事だ。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:33:45.62
王宮だから簡単に移動出来ると思ってるのよ
集落ごと移動した例なんてあるのか?
しかも九州から近畿なんて
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:34:34.70
>>366
何でも大物主バカが考えそうな事だ。  わははははは   @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:39:16.35
>江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。

これも王政復古・神道復古の興りによるもの。
「阿波」では火種が脈々と灯り続けていたから、一気に火が付いた。   @阿波
0371日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:41:45.80
1. 崇神朝⇒九州・吉備から大和を征服した外来勢力
2. 応神朝⇒九州からの征服勢力(崇神朝からの交代)
3. 継体朝⇒応神朝から簒奪し九州勢力を平定

1と2は北部九州が畿内を征服、3は畿内が北部九州を征服
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:43:21.02
>>371
空しい思い込み。   @阿波
0375日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 11:48:56.01
>>374
さぶとん5枚w
0376あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 12:03:52.68
阿波はラリパッパ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:05:12.55
「伊予の湯(道後温泉)」
https://www.homemate-research-hot-spring.com/useful/13767_tour_052/
『古事記』には、権力抗争に敗れた皇太子の木梨之軽太子が、近親相姦の罪で流される「伊余湯」として登場しています。
さらに『日本書紀』には、舒明天皇や天智天皇、天武天皇ら飛鳥時代の歴代の天皇が行幸・入湯したとも書かれています。
日本史の教科書に登場する古代の有名人が、続々と「伊予の湯」を訪れていたことが分かりますね。

まさにこれは、四国に倭国(阿波)王権が在った証である。   @阿波
0378日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:06:14.51
卑弥呼の鬼道はおそらく神道。
中国語の鬼とは死者のことなので、祖先崇拝である神道は中国人から見れば鬼道であると言える。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:07:24.94
>>366

三輪の勢力は、筑紫の分家である出雲のさらに末裔だよ。
残念でした。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:07:48.37
播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。
南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。
それ以前の天皇・王族は、四国道後温泉だけしか行幸していない。

まさにこれは、四国に倭国(阿波)王権が在った証である。   @阿波
0382日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:08:49.06
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:11:05.97
伊都高祖宮の近くには倭国大乱より古い王墓である三雲南小路遺跡とその宗廟である細石神社がある。
そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
博多湾沿岸の伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化、鉄器文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、女王国から北にある対馬海峡を支配するのが伊都国に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国の中枢である。
そして三雲南小路遺跡が伝承通りに木花咲耶姫(と邇邇芸)の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
高祖宮には木花咲耶姫の息子である彦火々出見が祭られており、かつては細石神社まで御渡り神事があったという。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、邇邇芸や彦火々出見の王宮であった高千穂宮の実体だろう。
天孫族の王たちや卑弥呼は、日の神として太陽を背にして天神として君臨したのである。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:12:19.63
>>378
古神道、古鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」    @阿波
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
0385あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 12:17:22.89
記紀は倭国大乱を景行天皇の九州巡幸で書き記したと思う
0386日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:19:00.30
>>385
願望妄想。   @阿波
0387あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 12:20:31.78
>>384
忌部は大麻のせいで平衡感覚を失ったようだな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:21:21.12
>>379
激しい妄想だな。治療不可レベルは阿波と同じくらいか。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:22:50.59
>>387
これぞ、上古神社鳥居の姿。   @阿波
0390日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:25:21.85
高祖は日槍の系統だ。もうバレてる。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:34:33.46
まーだやってらっしゃるのか






卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)




卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0394日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:38:44.67
>>360

朝倉市小隈(平塚川添遺跡の東南1kmの台地)に
3世紀第4四半期の前方後円墳の神蔵古墳(40m)が造られ三角縁神獣鏡が出ている
低湿地の平塚川添遺跡付近でも三角縁神獣鏡が出ている
0395日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:43:55.21
纒向遺跡は古墳造営キャンプ場
異議ないよな?
建物の柱穴をこまめに年代特定していけば古墳の建造時期も明確になってくるだろう
まあ今の考古学者にそんな能力があるか疑わしいが
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 12:51:29.54
古墳築造に関わる労働者のために生活に不便な高床建物を建てるなんてことはない
0401あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 13:01:38.02
>>397
記紀では卑弥呼を神功皇后として書き記している可能性を考えれば、景行ヤマトタケルの時代を倭国大乱と考えてしまいます。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:07:09.04
>>383
何でも筑紫マンへ
京都・八坂神社は本来、牛頭天王だが?疫病神。
無知で妄想垂れ流すのはそこらへんにしておけばいかがか?
0403日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:10:23.00
>>401

それもまた年代前倒しらしいです。
実際には神功皇后は120年ほど後らしいです。
崇神天皇と纏向遺跡が3世紀末、景行天皇は4世紀初頭、仲哀天皇が4世紀中頃、応神天皇が4世紀末くらい。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:16:04.87
>>402

牛頭天王だからなんなんだ?
今日を代表する神社が今日の東側にあることの理由を考察したらいけないのか?
0405あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 13:19:30.33
>>403
では記紀では倭国大乱をどのように記したとお考えでしょうか?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:32:45.33
>>405
疫病の蔓延
0408日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:35:53.33
八女津媛=ヤノハ ?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:39:23.47
倭国大乱は北部九州の戦乱
北部九州時代は記紀では神代の話なので抽象化されていてはっきりしない
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 13:52:20.80
>>395
纏向遺跡の近くに唐子・鍵遺跡がある
自治体が違うので名称が違うが4kmしか離れていない
弥生時代末期・古墳時代初期にはどちらの遺跡でも人々は暮らしていた

纏向遺跡に住居跡が見つかっていないとして、人が住んでいなかったかのようにいう人がいるが、唐子・鍵遺跡と纏向遺跡を含めて大きな都市を形成していた
0412あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 13:56:39.41
>>410
唐子ってもろ渡来人のことだね
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:02:59.74
>>412
唐の建国は618年
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:16:30.15
>>409
倭国大乱は北部九州の戦乱

>証拠なし
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:24:38.63
>>400
後世での進化形。   @阿波
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:27:17.66
>>410
>唐子・鍵遺跡と纏向遺跡を含めて大きな都市を形成していた

消滅遺跡たった二つでか?  わははははは   @阿波
0418日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:40:44.20
>>416
消滅もしない遺跡は邪馬台国ではない。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:47:10.98
>>418
どんな理屈や?  わははははは   @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:50:43.42
>>405
素戔嗚尊が天に昇られる時、大海も轟き渡り、山岳も鳴り響いた。これはその性質が猛々しいからである。
天照大神は、もとから素戔嗚尊が荒く良からぬことをご存じであったため、やってくる様子をごらんになると、顔色を変えて驚かれ、「我が弟がやってくるのは、きっと善い心ではないだろう。思うに、きっと国を奪おうとする志があるのだろう。父母はそれぞれの子供たちに命じて、それぞれの境界を設けられた。なぜ自分の行くべき国を棄てておいて、わざわざこんな所に来るのか」
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:51:01.83
>>419
都市計画等もない。
廃墟という事だよ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 14:59:02.32
>>420
天照大神と須佐之男が、天之安河(あまのやすかわ)を挟んで宇氣布(うけふ)=誓約をした。
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」である。 
鮎喰川下流一帯弥生集落遺跡群(女王国)は、「邪馬臺国」構成国のひとつ。 実質的に「邪馬臺国」の首都。
女王「卑彌呼」が隠棲した所が、鮎喰川上流の神山町にある大宜都比売命(おおげつひめのみこと)を祀る上一宮大粟神社一帯。
女王「卑彌呼」の陵墓は、御祭神 大日霊女命を祀る、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」裏手の円墳。
そして、「高天原」が神山一帯の四国山地。   @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:00:45.87
>>421
そんなカスを、陳寿が「魏志倭人伝」に書き残すか! あほんだら!   @阿波
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:01:21.67
阿波は猿しか住めない山と満潮時に海没する地しかなかった
0425伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/20(火) 15:03:25.89
>>422
式内大社天石門別八倉比賣神社は、矢野の神山ではなく、
神領の今の上一宮大粟神社が元の社、
いつの間にかその事が忘れ去られ、
その後、矢野の神山の杉尾神社が由緒を簒奪した。

阿波の権力抗争の闇である。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:03:31.45
>>423
書き残すんだね。
三国の栄華盛衰
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:05:48.85
>>426
>書き残すんだね。

「邪馬臺国」が三国の栄華盛衰??  基地外!   @阿波
0428日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:07:31.37
>>410
復興と開拓だな。
邪馬台国の一部
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:08:58.68
>>427
魏呉蜀の事だよ。
基地外
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:12:34.45
>>429
>魏呉蜀の事だよ。

「邪馬臺国」が魏呉蜀??  基地外!   @阿波
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:14:38.21
>>430
なんで邪馬台国だよ。
陳寿は大陸の人
東夷伝など片隅に過ぎない。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:18:23.01
>>421
>都市計画等もない。
>廃墟という事だよ

そんなカスを、陳寿が「魏志倭人伝」に書き残すか! あほんだら!   @阿波
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:22:44.13
>>410
淡路島から徳島は工場地帯と経路地だな。
北は丹後、若狭、滋賀のルート。
纏向は内陸部の開拓に着手かな?
唐古・鍵遺跡も復興だろうな
全盛期とはいかないけど生活痕は残る
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:23:09.60
>>432
残すんだね
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:25:51.44
>>433
>都市計画等もない。
>廃墟という事だよ

そんなカスを、陳寿が「魏志倭人伝」に書き残すか! あほんだら!   @阿波
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:26:20.47
>>435
残すんだね
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:27:15.22
>>434
そんなカス遺跡、日本中にあるわ! あほんだら!   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:27:44.35
>>437
邪馬台国はカスでいいんだな
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:30:19.07
>>438
>唐子・鍵遺跡と纏向遺跡を含めて大きな都市を形成していた

消滅遺跡たった二つでか?  わははははは   @阿波
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:33:14.64
>>439
カス邪馬台国にふさわしいね。
カスの都出し。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:36:27.78
>>433
>カスでないのは邪馬台国ではない。

そんなカス遺跡、日本中にゴロゴロあるわ! あほんだら!
そんなカスを、陳寿が「魏志倭人伝」に書き残すか! あほんだら!   @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:39:33.33
>>441
まあ、鉄や絹が多いとか
ト骨がでるとか丹があるとかは倭国の事
宮室樓觀城柵、冢は別にカス邪馬台国にある必要性もない。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:40:04.69
>>442
書き残したんだか?
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:40:36.53
>>410
それが、唐古鍵と纒向に共通性が無いのです
唐古鍵の人々が土器など処分して去った頃、近くの纒向で最初の建造物が建てられたのです
近くなので簡単に引越しもできたはずですが、纒向には唐古鍵から持ち込まれた遺物が出土しません
纒向に居たのはおそらく別の勢力だと思われます
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:44:52.99
>>445
纏向は複合ですよ
ト骨風習も共通ですがね
伊勢東海、吉備、近江、山陰とね。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:44:54.79
>>444
>書き残したんだか?

「阿波」に在った「邪馬臺国」をな。  わははははは   @阿波
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:46:44.72
>>447
カス遺跡だしな。ありうるかも?
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:50:52.77
>>448
では、「阿波」で決定だな。  わははははは   @阿波
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:51:17.97
>>446
唐古鍵とは無縁です
吉備や東海から王墓を設置しに纒向に来ていたのです
纒向は空き地が多く大型の古墳を造るのに都合が良かったのです
0451日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:55:10.87
>>450
>吉備や東海から王墓を設置しに纒向に来ていたのです

それ、「倭人(阿波勢力)」の吉備忌部や東海忌部だ。   @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 15:55:41.88
>>450
土器のみみて
無縁とどうして言えるのかわからない。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:03:33.58
>>445
唐古・鍵式土器てあるのか?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:08:29.86
>>443
定義はそれぞれだしな。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:37:42.19
>>445
纏向の造営が始まったころ唐古・鍵遺跡で環濠を埋めた形跡があるのはどこかに移動したからではない
環濠は戦争での防御のための施設、そういう備えをする必要がなくなったから埋めた
引き続き人々はそこで暮らしていた
0458日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:43:24.49
>>457
>そういう備えをする必要がなくなったから埋めた

大外れ。  大洪水で埋もれた廃棄遺跡。   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:46:43.56
>>458
妄想乙
0462日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:49:06.89
唐古・鍵遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%8F%A4%E3%83%BB%E9%8D%B5%E9%81%BA%E8%B7%A1

>広域大規模災害であったと考えられる。ただし、他の拠点集落が廃絶・解体・移動を行うのに対し、唐古・鍵遺跡では位置を変えずに再建しさらに規模を拡大したと考えられており、こうした様相は特徴の一つとなっている
>第5段階(弥生時代週末から古墳時代前期)は、大環濠帯が消失した時期にあたる。環濠は前段階で埋められ機能を失ったが、集落は存続していたと考えられる。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:52:03.55
>>462
集落は存続していたと考えられると希望的観測を述べているが、その証拠は発見されなかった
だから唐古鍵を諦めたんだよ
0465日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:52:21.74
>>422
全部バレてるのにまだそんな事を言ってるのか。
高祖といいお前といいどうしてそんなに・・・。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:53:14.71
>>461
環濠は弥生時代中期末の洪水で埋没するが、後期初頭には再掘削が行われて復活。後期前半には溝さらえなどが行われて維持されていたが、大半の環濠は後期後半に大量の土器の投棄によって埋められている。さらに最後の環濠も弥生時代終末期に埋められて、環濠は消滅した。一方で、弥生時代後期の土器が多数検出されており、依然として集落の生産・消費活動は衰えていなかったと推定されている。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:54:57.25
>>463
纒向土器と言われている物は、「東阿波型土器」   @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 16:57:35.71
>>465
>全部バレてるのに
>江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。

これも王政復古・神道復古の興りによるもの。
「阿波」では火種が代々脈々と灯り続けていたから、一気に火が付いた。   @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:04:20.77
>>466
>依然として集落の生産・消費活動は衰えていなかったと推定されている。

と、希望的推定をしなければならない畿内説。   @阿波
0470日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:06:04.87
>>464
完全な間違い
集落は残っているし環濠も再掘削してる
0471日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:08:51.77
>>470
>集落は残っているし

土砂の下にな。  わははははは   @阿波
0472あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 17:21:49.86
倭種同士の争いw
0473日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:26:27.31
唐古・鍵遺跡
古墳時代以降
>6世紀後半ごろから唐古・鍵遺跡に後期古墳が10基あまり造営される。これらの古墳は早い段階に墳丘が崩壊したと考えられるが、小字に上塚や狐塚が見られる事から中世ごろまでは残存していたと推定される。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:28:23.29
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0476日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:45:51.70
>>473

【参考】唐古・鍵遺跡の変遷

■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。

■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:53:42.12
>>476
「倭人(阿波勢力)」が進出し、暮らした遺跡なんだが、大洪水には勝てず止むを得ず放棄したもの。   @阿波
0478日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 17:56:42.02
>>476
まぁ、水が抜けにくい地形の奈良盆地で大洪水ときたら、そりゃ住めんわな。   @阿波
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 18:05:26.35
>>480
桓武天皇も音を上げたんだろうな。   @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 18:18:28.15
>>480
道鏡事件や抵抗豪族のためと言われているが、
実際は、地政学的理由が大きいのだろう。   @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 18:18:42.29
>その後の開発により墳丘は削平されて、現在は周溝が残存するのみである。また遺跡東側からは古墳時代の集落が検出され、井戸からは馬の頭蓋骨を含む祭祀遺物が投棄されていることから、有力首長の存在が推定されている[8]。

その後、条里制により整備された。10世紀末の記録にみえる藤原宣孝の所領であった田中庄(後に興福寺の荘園)が現在の小字田中がとされる。田中では古代から中世にかけての遺物が出土しており、荘園を管理する施設の存在が推定されている[8]。

応仁の乱前後には、法貴寺に所在した法貴寺氏を盟主とした武士団の所領となり、「唐古」「唐古南」「唐古東」などの在地武士の名前が記録されている。この時代の遺構・遺物も確認されているが、こうした時代の溝や井戸からは弥生時代の遺物が共伴することが多く、遺跡が重複する部分で弥生時代の遺構が破壊されたと考えられる[8]。近世に入ると在地武士は帰農して、集落が統廃合されて唐古南に集落を形成。以降現代に至るまで水田が広がっている。また、唐古池は江戸時代後期の造成であることが判明している
0484日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 19:16:21.72
伊勢遺跡や唐古鍵遺跡は青銅器・銅鐸文化の遺跡

九州の鉄器文化を携えてきた九州・吉備連合勢力(神武東征→崇神朝)が奈良盆地に入ってきて纒向遺跡を築造し、先進文化の力と有力土着勢力との政略結婚により地域のリーダーとしての地位を確立したのだろう
旧来の青銅器・銅鐸文化の勢力はそこに組み込まれていったと考えられる

神武天皇の皇后がヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)と製鉄の名前がついているのは、神武・崇神勢力の権力には鉄器が重要な役割を果たしたことを示唆しているだろう
0485日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 19:28:11.25
地理的に筑前勢力と筑後勢力との争いの渦中にあったと見られる筑前朝倉の勢力が当地を脱出し、吉備勢力と連合して畿内大和に進出したのが神武東征、その勢力が奈良盆地のリーダーになったのが崇神天皇と考える
纒向遺跡を九州・吉備からの外来勢力が担い手と考える纏向学の研究成果とも理論的に合致し得る
0486日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 19:55:15.43
>>485
>筑前朝倉の勢力が当地を脱出し、吉備勢力と連合して畿内大和に進出したのが神武東征

こいつは、弥生時代の交通インフラや情報インフラがどんなものだったかと考えたことがないのだろうか?

アホとしか思えない。   @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 20:00:26.49
>>486
記紀(というか古事記)を読めばわかるが、イワレビコは各地に何年も滞在しながら畿内まで行き、その征服にも苦戦している
泡沫地方勢力の阿波は載ってないから記紀は読んだことないか?笑
0488あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 20:10:48.60
阿波陰部はラリパッパ担当
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 20:14:53.47
>>487
>記紀(というか古事記)を読めばわかるが、イワレビコは各地に何年も滞在しながら畿内まで行き、その征服にも苦戦している

こんなお花畑が令和の時代にもまだいるって、平和な日本だ。  わははははは   @阿波
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 20:16:22.22
>>480
道鏡事件や抵抗豪族のためと言われているが、

実際は、地政学的理由が大きいのだろう。   @阿波
0491あqas
垢版 |
2022/12/20(火) 20:24:15.08
遷都は宗教的理由だよ
0492日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:00:47.65
長野の道祖神祭のストーリーは、
結びの神である醜い八衢彦と八衢姫が結ばれて【男の子】が生まれた。新しい宮を建てる。宮を守る人々が竹でしばかれて宮に火を入れ燃やす。
同じプロットの話が日本書紀の芦原中津国平定の件で出てくる。スズキは竹でしばかれてカミムスビの新宮が燃やされる話。
道祖神はヤマト政権の前の芦原中津国の支配者カミムスビかもしれない。
また延喜式の道饗祭には皇御孫之命の名は高天原で事を始めた八衢彦八衢姫クナトと書かれている。
出雲の伝承によればサルタヒコは出雲の姫神の幸神とクナトの神の子だという。
道に関する神さまとしては、黄泉に逃れたイザナミの別名道敷大神がいる。イザナミは火が原因で亡くなった神さま。
キーワードの道だが、道の枕詞は玉鉾の。

邪馬台国がヤマト政権で狗奴国が皇御孫之命やカミムスビの国、葦原中津国かもなぁ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:35:31.14
>>486
そのくせしょっちゅう半島に行き来していたと矛盾を言う阿波、阿波礼。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:47:11.68
>>493
交易に行くのと、兵を率いて大遠征するのと一緒にするお花畑。

こんなお花畑が令和の時代にもまだいるって、平和な日本だ。  わははははは   @阿波
0495日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:50:02.76
交易で半島まで。遠征はちょっと隣り村まで40kmって阿波のお花畑。

こんなお花畑が令和の時代にもまだいるって、平和な日本だ。 
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:52:00.46
>>493
そもそも「倭人(阿波勢力)」は、遅くとも縄文時代晩期末には、日本各地へ進出している。   @阿波
0497日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:55:38.58
>>495
九州から、選りによって奈良湿地に大遠征などと、

弥生時代の交通インフラや情報インフラがどんなものだったかと考えたことがないのだろうか?

アホとしか思えない。   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:55:44.11
>>496
日本各地へ進出しているのに40km隣が最大敵対勢力w
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:57:33.08
>>498
交易に行くのと、兵を率いて大遠征するのと一緒にするお花畑。   @阿波
0500日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 21:59:53.38
誰が大遠征なんかしたと?お花畑だなw
0501日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:02:24.17
>>500
>誰が大遠征なんかしたと?

>>485のお前が。   @阿波
0502日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:04:20.14
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0503日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:06:03.49
>>501
別人。神武天皇は東遷。東征じゃない。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:07:27.64
コピペを繰り返すバカは何が言いたいのか。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:08:27.05
>>503
>別人。

なら、ロムってろ!


>神武天皇は東遷。東征じゃない。

弥生時代の交通インフラや情報インフラがどんなものだったかと考えたことがないのだろうか?

アホとしか思えない。   @阿波
0506日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:11:55.71
>>505
交易だって同じくだ。
弥生時代の交通インフラや情報インフラがどんなものだったかと考えたことがないのだろうか?
アホバカ研究所としか思えない。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:15:32.14
伊都国の官が紐解きできました

十干十二支より、解読成功ですw

爾支 = ニニギ(杵=木+午=甲午)
※木の陽(の勢力)と火の陽(の勢力)が結んで「杵」

泄謨(ていぼう)觚 = 丁卯(火の弟) = 山幸彦ホオリ
※はかりごとが洩れた

柄渠(えいご)觚  = 丙午(火の兄) = 海幸彦ホデリ
※隼人熊襲でも見られる渠帥の渠

答え見えてます!
0508日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:16:45.10
答え見えてます!
とか
はい、解散
とか
キチガイスレだな。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:17:53.81
>>445
だから伊勢遺跡から移転したんでしょう
王宮とはそういうもんだ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:18:14.26
>>506
>交易だって同じくだ。

全く違う!  阿波から半島までの交易ルートは、大昔から既成している。

九州から遠く奈良湿地まで、見知らぬ土地を、大兵団が踏みにじっていくのを一緒にするお花畑。   @阿波
0511琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 22:20:46.34
神武東遷(東征)なぞ、お花畑だよ。卑弥呼の時代に筑紫なぞ無いし、なんで多々羅が原の姫が奈良におるんだよ。訳のわからんお話しをされても困るな。
前方後円墳時代は倭五王及び官も中華名だな。
しかも左氏伝を読む政権、のち焚書したもの等がおるだろ。
0512琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 22:30:04.62
日本人としても我輩は酷く疑っている、卑弥呼後400年の書物を持ち出すなら史料としてこちらの疑問に根拠ある説明を加えて話してくれ。
0513琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 22:40:45.71
それとな倭五王武は都督倭の将軍をも自称するわけだ、都督倭とは何処だね?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:51:54.93
神武東征は記紀にはっきり書いてある
これを否定する阿波は記紀から相手にされない泡沫勢力の僻みでしかない
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 22:53:28.73
倭国・邪馬台国は北部九州
北部九州の一勢力が吉備を巻き込んで東遷してヤマト王権を樹立

これが古代の日本建国ストーリーの骨子だ
0516琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:04:57.94
藤氏家伝では入鹿を董卓としている、三國志を読んどる。にも関わらず卑弥呼は消えてる。10年以上もかけた編纂書は何故あいまいなのだ?そう書いてあるでは意味がない。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:06:45.78
>卑弥呼の時代に筑紫なぞ無い
だから?日本書紀は編纂時現在の地名を用いて説明しますが何か?
>多々羅が原の姫が奈良
はぁ?
>倭五王及び官も中華名
だから?
>キ督 倭とは
倭だよ。その時代の倭は西日本全体。
0518琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:08:43.64
その疑問に答えるのがそちらだ。はぁ?じゃない。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:10:39.87
>>516
卑弥呼=日霊女
>何故あいまいなのだ
神話化したから。皇祖神の朝貢は不可。
0520琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:11:16.66
まず、北九州の筑紫だな、卑弥呼の時代にはない、いつの話だ?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:12:09.32
まず、松沢病院を予約してくれ。話はそれからや。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:13:30.23
卑弥呼の時代の筑紫は「倭」
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:16:56.87
>>511
日本語がわからない死んだはずの中国女が流れて来て
王族の特権である祭祀にたずさわるとかどっちがお花畑なんだよwww
0524琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:17:27.67
おおひるめを卑弥呼とする根拠わ?神武は孫になっとるぞ。卑弥呼に子はいない。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:17:51.76
筑紫・吉備から来た大和征服勢力=崇神朝は鉄器の力と政略結婚を駆使して畿内で影響力を高めた
しかし玄界灘沿岸を基盤に筑後(山門の田油津媛を滅ぼす=邪馬台国滅亡)と朝鮮半島(三韓征伐、広開土王碑文の倭の侵攻)で勢力を伸ばした海人族系の九州勢力に敗れ王朝が交代した
これが応神朝だ

ドメスティックな性格の崇神朝に対し、元々海人族で半島での活動も活発だった応神朝は外交にも積極的だった
その代表的な活動が倭の五王の朝貢だ

応神朝から簒奪した継体朝(黒幕は大伴金村)が応神朝と関係の深い九州勢力を急襲(筑紫国風土記には官軍が急に攻めてきたと記載)したのが磐井の乱、また応神朝ないし九州勢力の半島の領地を五経博士などと引き換えに百済に与えたのが百済四県割譲だ

この継体朝に対し、旧応神側が531年に一族の手白香皇女の生んだ広庭皇子を担いで逆クーデターを起こして継体天皇と安閑・宣化に当たる二皇子を殺害(百済本紀に531年に天皇・皇太子・皇子が倶に崩御と記載)して即位したのが欽明天皇だ
欽明即位後まもなく失脚したとされる大伴金村もおそらくこの逆クーデターの際に殺された可能性がある

私は古代の日本史の流れをこのように捉えている
0527日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:20:04.79
>>524
>卑弥呼に子はいない。
妄想w
0528日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:23:20.17
倭国大乱から600年争いすぎてそして誰も居なくなったんでしょ
神代(ヤマト政権より前)の王を迎え平安が始まると
0529琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:23:22.87
邪馬台国滅亡と卑弥呼アマテラスでは辻褄が合わないだろ、神話化しておおひるめでもいいが、では実際の墓は何処にあるのかね?
0530琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:26:36.30
527.ほう、いるならどの国にいて何をしていたと考えるのだね?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:30:00.00
>>529
まじで病院行けよ。
邪馬台国滅亡?何それ?どこ情報?
>実際の墓は何処に
大きさは盛ってる。箸墓なんかよりもっと小さい物。
本来の皇祖はタカムスビであって偽アマテラス女神など重要な存在ではなかったのだから失われたかそのうち見つかるだろ。
0532琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:30:14.61
こら、妄想というなら答えなさいよ。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:32:30.83
>>530
日本書紀で「天」と呼ばれる地域は福岡県あたりであろう。
何をしていた?意味がわからんが日本書紀を読めば?書いてある通り。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:34:40.79
断言して糸島市ではない。
0535琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:34:43.22
531.落ち着け、525.とあんたの話とは繋がらないという意味だよ、で、実際の卑弥呼の墓、アマテラスの墓は何処に?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:38:14.19
525の妄想は俺じゃないのでつながるはずがない。
0537琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:41:16.73
533.それでは説明にならないよ。倭人伝では卑弥呼は子がいないとなっとるし年齢(いくつを想定してるか知らんが)長大で子も大きくなってんだろ?
男子1人いるとこにいるのか?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/20(火) 23:48:48.10
日本の古代史は
・弥生時代に中国が書く倭は北部九州
・(邪馬台国ではない)九州勢力の吉備と組んだ東遷が崇神朝、崇神朝の遺跡が纒向
・北部九州の海人族勢力が筑前筑後と朝鮮半島で勢力を伸ばし、畿内に上って崇神朝を滅ぼしたのが応神朝
・応神朝から簒奪したのが継体朝、これを倒したのが欽明朝
と捉えれば、様々な事象がこの流れの中でかなり整合的に整理できる
0539琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/20(火) 23:51:09.65
まあ、卑弥呼の時代の後に何者かが東遷(東征)してきたというのなら理解しない訳ではないが、卑弥呼以前に筑紫や吉備や奈良なぞ、まだ無いだろ。行程にけちをつけるくせにそのような地名は無いんだよ。でタタラ姫な、これがおかしく思わないのか。不思議だ。
0540琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 00:04:08.16
538.共通する考え方の部分もあることはあるのよ。そちらは九州から始まったとしてる訳ね。
でもねえ、倭には卑弥呼以前に理念を産み出す環境にないと思うけどね。纏めるには中華のように理念が必要なのよ、持ち合わせていたら歴年主無しはないのよ。その後の列島のように。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 00:07:19.44
>>538
どう捉えても創作は創作
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 00:09:27.99
>>538
後漢書だとそうとも言い切れない
0543琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 00:24:38.67
さて、最後は523.だな。
生きていたんだよ。
中華では宝の持ち腐れだからな、曹操は見抜いていたさ。張魯の娘の墓を掘って欲しいね。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 00:25:47.90
なんで伊勢遺跡から移転したんじゃダメなんだ?
無人の遺跡だしどう考えてもこっちだろ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 01:03:58.32
そもそも「倭人(阿波勢力)」は、遅くとも縄文時代晩期末には、日本各地へ進出している。   @阿波

ということは、元々、倭人が日本にいたんですね。名義から、当たり前だ。
しかし、縄文時代首都は、阿波ではないはず。
0546琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 01:04:19.70
伝説として残っているからです。それだけ影響力があった人物です、大仙よりもね。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 06:13:03.43
東征も東遷もない。57年の王と継続性を創作したんだな。
鉄等を取りにきたのは西に方からだよ
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 06:15:12.71
すなわち、東から西へ人が流れていた時代
0551日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:24:22.82
畿内説統一狂会が壺を売る時の謳い文句

「纏向遺跡は三世紀の初めに忽然として出現した巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており、ヤマト王権のシンボルともいえる前方後円墳がここで誕生している…。
三世紀の前半という時間幅で日本列島を切ったときに、これだけの要素をもった遺跡は他にあるでしょうか。ないだろうと思われます。…」

列島規模での内外物流の中心になっており←おいおいw

実際の纒向調査結果は
・定住者がほとんどいない大集落という空き地
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖や猪の骨)
・大型建物(古墳建造中の遺族の宿泊所?)
・農具は無く木製の土木用具ばかり
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

古墳造営キャンプ場であり作業員は通勤または野宿と考えるのが妥当だな
0552日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:32:14.37
里と言う漢字の成り立ちと距離の単位に使われた理由考えたら短里はギャグでしかない
0553日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:32:19.86
>>514
>神武東征は記紀にはっきり書いてある
>これを否定する阿波

神武東征は記紀の通り、あった。   @阿波
0554日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:39:39.84
もちろん記紀の書く九州から吉備を経て大和を征服したという神武東征はあっただろう
本当に皇室にこのような伝承があったこと以外に、記紀がこのようなストーリーを書く理由、メリット、合理性がない
畿内説が成り立たない根拠は魏志倭人伝との不整合もあるが、神武東征との不整合も大きい

記紀に殆ど出て来ない阿波説はもっと成り立たない 笑
0555日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:43:42.85
>>545
>しかし、縄文時代首都は、阿波ではないはず。

まぁ、縄文時代に首都と言えるものは無いだろうが、
縄文交易の中心ではあった。   @阿波
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:44:52.81
>>547
>東征も東遷もない。

「阿波」であった。   @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:50:35.31
>>554
>記紀に殆ど出て来ない阿波

当たり前。
そもそも、記紀は、奈良避難疎開遷都以前の倭国(阿波)の事件・出来事を記録したもの。
奈良に移った以後の出来事を記紀に残す訳がない。 アホのお前には、それが理解できない。   @阿波
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 07:52:06.53
記紀は、常世の国・懐かしい故郷「阿波」で起こった事件・出来事を忘失しないために、

今までの口伝ではなく、文字で明文化したもの。   @阿波
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:03:30.69
記紀を合理的に解釈しようという話だ
例えば仲哀天皇や武烈天皇はモロに易姓革命で倒される側の王という姿に描かれており、そのまま万世一系で次の天皇に血筋が繋がると額面通りに受け取る訳にはいかない

しかし神武東征は九州から来て吉備を経て大和征服というストーリーを虚偽で描く合理性が考えにくく、また畿内の銅鐸文化が突然終焉したことや、弥生時代は北部九州中心だった銅鏡や鉄が古墳時代から畿内で広まることや、崇神朝の遺跡と考えられる纒向が九州・吉備からの外来勢力による築造と考えられる(「纒向学研究」による)ことなどと整合するので、信ぴょう性が高い
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:06:21.22
記紀と魏志倭人伝と考古学が整合するところに邪馬台国の真実がある
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:07:55.90
畿内説がダメなのは考古学者だけの妄想だから
記紀とも魏志倭人伝とも不整合すぎる
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:11:25.12
九州説がダメなのは素人の妄想だから
記紀とも魏志倭人伝とも不整合すぎる
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:20:15.17
記紀や魏志倭人伝の記述を軽視または無視するところでしか成り立たない畿内説
つまり畿内説は成り立っていない
0568日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:23:18.41
>>560
遺跡を合理的に解釈しようという話だ
伊勢遺跡
0569日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:31:41.18
>>561
>記紀と魏志倭人伝と考古学が整合するところに邪馬台国の真実がある

それが、「阿波」   @阿波
0570日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 08:35:18.82
>>568
伊勢遺跡を合理的に解釈したらどうだったんだ?   @阿波
0576日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:09:10.73
文献とあまりにも整合しない畿内説は、考古学者だけで固まって「考古学ではこうだ!」という強弁をグルになってやっている感じだな
それで学問かよ
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:13:11.39
神武は奈良を目指した
神武の時代に奈良は既に存在していた

卑弥呼も台与も巫女、天皇の祖先ではない

神武が東征したとき、奈良にいたのは卑弥呼たちの後継者

神武の子孫は卑弥呼の政治形態・宗教形態をそのまま受け継いだ
天皇は神に対して巫女的な役割を担うことになる

卑弥呼は天照大神として日本統合のシンボルになった

現在、宗教的な権威として神武は天照大神にかなわない
0578日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:17:58.84
>>576反証を論理的にやれば良いだけなのに放射説や短里と言うありもしない妄想頼みだから九州説はバカにされる
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:31:04.99
神武など居なかった
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:32:40.85
>>577
妄想乙。本来の皇祖はタカムスビ。男系でたどれないなどその他の理由で降ろされた。
女神アマテラスは太陽神アマテルを隠ぺいする為に担ぎ上げられたただの祖先。
卑弥呼であり持統天皇の象徴でもある。
神武天皇が東遷したとき、奈良にいたのは出雲族や賀茂氏など。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:42:18.20
そりゃ神武天皇と生前に名乗った人物はいないさ
そんなことは皆わかってる
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 09:53:14.54
>>581
誰だか知らない奴がとにかく東征したってか?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:04:05.05
記紀編纂時既に前方後円墳はご先祖様が作った墓だってじいちゃんが言ってたとか
これ何?って感じじゃないのかねえ
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:21:58.66
>>580
物証は?
0585日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:24:39.11
サッパリ、わからん
九州系土器が纏向で見当たらないとか
書いた人。東征の物証とかあるのだろうか?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:26:41.83
>>582
そうだよ
古代史なんて殆どそんなもん
奴国王だって名前はわからんが金印はある
吉野ケ里に住んでいた人の名前は一人もわからんが遺跡はある
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:28:02.79
畿内説は論理性ゼロの妄言集
たぶん畿内説学者の脳は並行処理が不可能な1bit回路
0589日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:30:55.83
>>586
>吉野ケ里に住んでいた人の名前は一人もわからんが遺跡はある

そもそも、吉野ケ里遺跡の考古学的価値ってあるのか? 
ただの消滅した環濠遺跡ってだけだろ。  纏向遺跡もおなじだがww  わははははは   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:38:34.24
既存説はおしまい。
願望定義が先行している。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:47:43.73
>>586
卑弥呼は嘘を書く理由が無いから居ただろうが確信は持てない
神武は嘘を書く理由がある
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:52:21.54
弥生時代の遺跡で言い伝え通りの遺跡なんてほぼ無いでしょ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:55:35.03
>>590
だよね。
土木工事で終わってしまった
邪馬台国だったんだよ。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 10:56:47.74
>>593
「若杉山辰砂採掘遺跡」   @阿波
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 11:01:45.85
>>594
>土木工事で終わってしまった
>邪馬台国だったんだよ。

いや、「邪馬臺国」は大河四国三郎吉野川流域国家群共和国。   @阿波
0598伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/21(水) 11:03:11.85
若杉山遺跡は、古墳時代に資源が枯渇したか、
採掘していた部族が滅んだかで、忘れ去られていた為残った超ラッキーな遺跡です。

山の中腹と言う条件の悪さも逆に遺跡の保存にプラスに働いた。
0600日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:06:58.40
早速、郷土自虐史観のアホがなにやら言うとりますなあ。  わははははは   @阿波
0601日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:06:58.57
翡翠なんて日本にあることすら忘れ去られてたと書いてあった
0602日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:08:39.97
>>594
>土木工事で終わってしまった
>邪馬台国だったんだよ。

いや、「邪馬臺国」は大河四国三郎吉野川流域国家群共和国。   @阿波
0603日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:10:50.26
>>597
カス遺跡ならありうるかもしれない
0604日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:14:38.83
>>590
>既存説はおしまい。

とにもかくにも、九州にも畿内にも、カス遺跡ばから。  わははははは   @阿波
0605日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:15:11.67
>>590
>既存説はおしまい。

とにもかくにも、九州にも畿内にも、カス遺跡ばかり。  わははははは   @阿波
0606日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:15:41.46
勾玉はあったけどそれが日本製だと思わなかったんだって
0607日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:15:53.05
>>605
阿波もカス遺跡ばかりなので候補だ
0608日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:19:58.85
水行30日陸1月
山に丹あり
発展していないのが邪馬台国と言えよう
可7万戸と見積もったのみ。
0609伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/21(水) 11:20:10.89
阿波説は、中途半端に歴史好きにアピールするより、
オカルトに全振りした方が楽しいのでは無いかと思う。

ユダヤの失われたアークは剣山に埋まっているとか、
流石にそれは無いんじゃないかと思いつつワクワクする。
0610日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:21:08.01
>>606
>勾玉はあったけどそれが日本製だと思わなかったんだって

「阿波」が発祥だ。   @阿波
0611日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:27:21.42
>>610
勾玉は、縄文時代前期末~中期(約5,000~4,000年前)から作っていた「けつ状耳飾」が発展したのだろう。   @阿波
0612日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:29:26.24
「阿波」の圧倒的遺跡群。   @阿波
0613日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:39:52.36
畿内説には歴史観がない
ボーッと弥生時代の大和がヤマト王権を作り今の天皇に繋がると脳細胞を全く使わずに空想するのみだ
しかしその頭空っぽの歴史観も、纒向を九州・吉備の外来勢力が作ったとする纒向学が打ち砕いている
大和の弥生勢力が単純にヤマト王権に成長したとは考古学的に裏付けられないということだ
単純な畿内説はもはや学問的に行き詰まっている
0615日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:50:16.91
>>613
歴史観は根拠もなく妄想を膨らませる事じゃないだろ
伊勢遺跡に居た人達は後片付けして何処に行ったんだ?
どう考えても次があるだろ、常識的に考えて
0616日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 11:54:10.58
>>615
>後片付けして

大洪水の土砂に埋まっただけ。  わははははは   @阿波
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 11:55:25.24
九州説には歴史のダイナミズムがある

長江下流域の住民(元々「倭」と呼ばれていた人々)が稲作と入れ墨・潜水漁労の文化を携えて北部九州に移住
そこでクニを作り朝鮮半島と行き来して日本列島で逸早く鉄器を導入
そのクニ同士が激しく戦争しつつも筑紫の地方勢力として徐々にまとまる
そして地方勢力として前漢・後漢・魏・晋の時代に中国と交流(中国側は彼らも「倭」と呼ぶ)
その一つが、公孫氏を滅ぼした魏の帯方郡接収のタイミングでの卑弥呼の朝貢
その筑紫勢力の一部が吉備と組んで大和を征服
そこでヤマト王権を打ち立てて大きな流れとして現代の皇室に繋がっていく(ただし、実質的な王朝交代は何度かある)
0619日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:16:26.62
>>615
伊勢遺跡の住民がどこに行ったかは伊勢遺跡説が考えれば良い
九州説としては魏志倭人伝に整合せずヤマト王権に繋がらない青銅器・銅鐸文化の遺跡には興味がない
0620日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:16:45.49
>>618
>長江下流域の住民(元々「倭」と呼ばれていた人々)が稲作と入れ墨・潜水漁労の文化を携えて北部九州に移住

九州説には歴史の誇大妄想癖がある。   @阿波
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:25:34.49
卑弥呼時代について日本の記紀と海外の記録は全く内容が異なる
ヤマト王権と邪馬台国は無関係
少なくとも記紀を編纂していた頃の人たちには倭国時代の歴史認識が無い
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:32:23.09
記紀を読むと、天武・持統期の皇室に邪馬台国の伝承は殆ど無さそうだ
邪馬台国とヤマト王権はダイレクトには繋がっていないのだろう
だから私は邪馬台国東遷説ではなく、邪馬台国連合の非主流の国東遷説だ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:34:28.35
>>621
>洪水で飢饉に陥り半島に避難したんだよ

わははははは  半島に避難はよかった。

実際は、縄文的な生業と地域社会へ回帰したようだ。   @阿波
0625日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:35:03.52
>>619
ひとつ言っとくと伊勢遺跡が銅鐸文化かどうかはわからない
遺物が出てこないからな
>>621
何処から?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:36:19.87
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0627日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:42:22.38
>>612
どこが圧倒なんだ?
0628日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:45:27.92
>>627
全部   @阿波
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:45:56.84
>>628
カスだな。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:48:21.57
九州説の人は九州以外は未開の地のように言うが
卑弥呼の時代に天皇はいたのか、いなかったのか
どう考えているのか知りたい
0632日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:53:54.23
>>631

地方王権として関西には饒速日の王国があった。
その下には長髄彦ら登美族、鴨族などがいた。
そこに神武こと磐余彦らも合流した。
しかし磐余彦に実権はなく、これを天皇とするのは後世の万世一系思想のため。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:55:26.91
神風の伊勢に神風の八坂
伊勢遺跡は八坂かもなあ
0634日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 12:56:07.76
私は九州説だが卑弥呼の時代に天皇(呼び方はともかく)はいなかったと思う
神武東征は卑弥呼の時代かその少し前の倭国大乱期の可能性はあるが、奈良盆地のリーダーとして確立された崇神朝は3世紀後半からだろう
それまでは奈良盆地の中で権力を広げていったプロセスだろう

ちなみに北部九州の邪馬台国は大陸との交流で文化的には最先端だったが、政治的・軍事的にそれ以外の地域(吉備や出雲のような他の地方勢力)の上に立っていたわけではなく、日本列島にポツポツとあった地方勢力の一つに過ぎなかっただろう
0635日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:16:50.29
>>632
神武が即位したのは畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)
饒速日の王国や長髄彦ら登美族、鴨族なども奈良にいたという認識か
0636日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:19:22.77
>>634
>奈良盆地のリーダーとして確立された崇神朝は3世紀後半からだろう

まったく痕跡の無い、希望的空想。   @阿波
0637日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:20:36.93
>>635
>神武が即位したのは畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)

まったく痕跡の無い、後付け地名。   @阿波
0638日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:21:19.99
>>634
崇神朝確立したのが3世紀後半で、それまでは奈良盆地の中で勢力を広げていたとすれば卑弥呼の時代に天皇はいたということではないのか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:29:15.58
>>638
>崇神朝確立したのが3世紀後半で、それまでは奈良盆地の中で勢力を広げていたとすれば卑弥呼の時代に天皇はいたということではないのか?

天皇をどう定義するかだな
奈良盆地のリーダーと定義すれば、私は3世紀前半はそれに至るまだ過程だったと思う
ただ、それも結局は後の天皇の系統だろということであればYesだな
0640日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:38:05.47
昨日まで九州以外は未開地のような描写をしていた九州説が、奈良にも天皇につらなる政権の基盤があったという認識を示したことはまことに興味深い
では、九州にあった政権と奈良の政権、どちらが当時の倭国を代表するような政権だったのか
次に、これについて考え方を聞きたい
ただ、小用で少し外出するのでレスは後ほど
0641日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:40:50.44
私のイメージでは、神武東征は一義的には倭国大乱ないし邪馬台国連合内対立を契機とした朝倉あたりの勢力の筑紫平野脱出だ
エクソダス後、各地を移動したのちに吉備勢力を上手く巻き込んで奈良盆地という弱小勢力しかいない地域を首尾よく征服できた
そこに弱小勢力しかいなかったのは、湖が干上がって農業が出来るようになって間もない地域だからだ
神武天皇のモデルになる人物は、非常に優秀かつ幸運だったと考える
0642日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:43:19.41
>>639
唐古鍵遺跡は?
なんで遺跡を無視するかねえ
0643日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:46:35.61
>>639
>奈良盆地のリーダーと定義すれば

幽霊を見ているのか?  わははははは   @阿波
0644日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:47:14.16
>>642
唐古鍵遺跡は外来勢力に征服された側だろう
ただしその征服は必ずしも軍事的に征服したとは限らず、鉄器などの先進文化の力と政略結婚により割と政治的に支配を広げていったと考える(崇神朝のやり方は概ねそんな感じ)
0645日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:47:50.90
>>640
>昨日まで九州以外は未開地のような描写をしていた九州説が、奈良にも天皇につらなる政権の基盤があったという認識を示したことはまことに興味深い

そうでもしないと、九州説の立つ瀬がないだろ?  わははははは   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:48:45.07
>>618

北部九州の弥生文化は、
北方草原地帯のアンドロノヴォ系青銅器文化の銅矛
カリマンタンなどの島嶼部が起源のベトナム中部で栄えた成人用甕棺墓
首狩、頭蓋変形
0647日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:49:05.29
>>641
>私のイメージでは、神武東征は一義的には倭国大乱ないし邪馬台国連合内対立を契機とした朝倉あたりの勢力の筑紫平野脱出だ

まさにお花畑が花盛り。  わははははは   @阿波
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 13:55:25.43
つまり唐古鍵遺跡の勢力が奈良を統一してそれを乗っ取られて
纏向遺跡を作ったという事かな?
0649あqas
垢版 |
2022/12/21(水) 13:58:14.04
首切りは三国志でもやってる
0652日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:00:58.06
>>650
大西遺跡、唐古・鍵遺跡等が水没
近畿、東海、四国で大規模な災害があった。
又、乱による九州、山陰等からの避難民も加わり、共同コミュニティが先行していたんだな。
近畿一帯の開拓、復興だよ。
海岸線の物流インフラが先行、
陸1月の内部に着手の頃だろうな。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:11:46.23
>>652
南海トラフによる被害は東海、河内、阿波限定

九州や山陰は知らなかった可能性大
0654日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:17:19.90
地震は卑弥呼の時代よりかなり前でしょう
0655日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:18:26.72
>>653
んな事はないよ。太平洋地域には津波到達していだな。又、乱もあるんだな。滋賀の絹
吉野ヶ里からの伝播と思う。
混みいた絹製品は吉野ヶ里と稲部遺跡と共通する。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:20:55.36
>>654
当然だよ。時間がかかるんだからな。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:28:58.34
>>656
現代と違って100年単位だろうな。
現在でも東北震災復興も未だ残る地域もあるしな。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:34:48.71
池上曽根遺跡は津波で高台に移ったのかな?
調査すればわかりそうなもんだけど
0659日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:43:06.27
>>658
後期には縮小しているよ。
高地性集落にならざる得ない。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:50:40.51
>>658
弥生の大洪水で埋没消滅遺跡だよ。   @阿波
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 15:52:14.68
>>569
>高地性集落にならざる得ない。

実際は、縄文的な生業と地域社会へ回帰したようだ。   @阿波
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:00:29.78
九州が畿内を征服したという話はいかなる時代の文献にも考古学にもないのだが
そういう話を言い張る人々って何なんでしょうね
0664日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:00:40.00
>>661
異文化同士なんでいざこざが多かったのだろう。
宗教の役割が大きくなる。のちの卑弥呼等に
繋がる。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:06:00.74
>>664
異文化同士??

灌漑稲作が出来なくなった「倭人(阿波勢力)」が、
縄文的な生業と地域社会へ回帰したようだ と言っているんだがww  アホですね。   @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:08:15.54
纒向学では纒向は外来勢力、取り分け九州と吉備の勢力が担い手ということになっている
他の畿内説の反発に配慮して征服とは言っていないが
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:08:31.65
>>665
阿保、即 馴染めるか?
地域性もあるだな。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:09:57.97
>>666
>纒向学では纒向は外来勢力、取り分け九州と吉備の勢力が担い手ということになっている

いまさら、「阿波」だったなどと訂正もできんわな。   @阿波
0669日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:10:05.89
>>666
九州系の土器等とかのもんがないと
書いた九州説がいたが?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:11:50.30
あとイワレビコが九州から来て大和を征服したことは記紀にガッツリ書いてあるな
畿内説の偏向した脳はこの情報をシャットアウトするようだが(バカの壁)
0671日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:11:52.55
>>667
阿保、即 順応しなかったら飢え死にするだろうがよ。 アホですね。   @阿波
0672日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:13:15.53
>>67
阿保
対立など全くなかったのか?
0673日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:14:24.12
>>670
>あとイワレビコが九州から来て大和を征服したことは記紀にガッツリ書いてあるな

令和の時代にまだこんなことを信じているアホが九州説。  わははははは   @阿波
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:15:06.39
>>672
「倭人(阿波勢力)」同士でか? アホですね。   @阿波
 
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:15:07.22
>>670
記紀原理主義
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:16:15.62
>>674
徳島では一切人情沙汰や殺人はないのか?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:17:11.09
>>676
そりゃ、あるだろうさ。   @阿波
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:18:40.66
>>677
倭人同士でも対立はある。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:19:46.98
>>678
何が言いたい? アホですね。   @阿波
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:21:05.13
>>640

3世紀の奈良が福岡に比べれば果てしなく後進地域であったという認識に変わりはない。
饒速日らの王権については以前からずっと書き込んでいる。
福岡は対外的に倭国を代表していただけではなく、朝鮮半島からの鉄や、中国との朝貢貿易で手に入れた財宝も独占していた。
0681あqas
垢版 |
2022/12/21(水) 16:21:20.00
箸墓=神武天皇墓説の阿波がw
0682日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:22:24.25
>>679
阿保は阿波、倭人同士は対立しないのだな?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:24:02.70
>>680
>福岡は対外的に倭国を代表していただけではなく、朝鮮半島からの鉄や、中国との朝貢貿易で手に入れた財宝も独占していた。

それは、倭国(阿波)だ。  わははははは   @阿波
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:24:20.00
畿内説や阿波説のような珍説は魏志倭人伝や記紀と整合しないので安易に否定する
九州説は魏志倭人伝も記紀も考古学も大事にして丁寧に整合を取る
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:24:31.31
>>641

私の認識では、後に神武と呼ばれる人物は、倭国大乱の頃に王都であった伊都を出た元王族だ。
卑弥呼の時代の伊都国の官であった禰宜とともに、天孫族の邇邇芸の末裔だ。
神武らが出発した筑紫の日向の高千穂宮が、伊都の高祖宮、高祖城だ。
そして倭国大乱を経て筑後山門あたりから共立されて伊都の高千穂宮に入って倭王となったのが卑弥呼だ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:24:50.84
>>680
後進地域も含む
邪馬台国らしさの一部
水行30日、陸1月だし。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:25:10.08
>>682
>倭人同士は対立しないのだな?

それが、倭国乱だ。 アホですね。   @阿波
0690日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:26:19.37
>>684
では纏向に九州系を示す物証もんは?
0691日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:26:42.07
>>685
令和の時代にまだこんなことを信じているアホが九州説。  わははははは   @阿波
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:27:39.02
>>686
「阿波」国内のな。   @阿波
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:27:53.00
>>641

また、神武は奈良盆地においては饒速日の下のナンバーツーであったろう。
欠史八代の事績がないのは、饒速日の末裔である物部氏の方が優勢であったからだ。
そして崇神天皇が台頭したのは自力ではなく、母方の物部氏の血筋によるものだ。
崇神天皇の宮が物部氏の本拠地である石神神宮の近くであることが何よりの証拠だ。
当時は母系相続の要素が強かったのだろう。
その宮が、後に纏向遺跡と呼ばれることになる。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:27:54.03
>>688
倭人同士なんだけどな?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:29:29.17
>>694
もちろん、そうだ。  「倭人(阿波勢力)」同士だ。   @阿波
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:31:07.92
>>695
え?何を根拠に?
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:31:30.01
>>685
伊都の元王族が何でヤマトの名を掲げて行くんだよ。
『高祖』と言う名に騙されるな。
筑前怡土 高祖神社『三代実録』高磯比盗_。怡土県主は天の日槍の末裔と『筑前国風土記』にあり、日槍の妻が祭られている可能性がある。怡土には宅蘇吉士が居住しており、これは『応神記』に「韓鍛卓素」の名が見えるように、製鉄の鍛工の名でもある。高祖神は天の日槍の後裔が県主の土地の鍛神である。ヒメコソの神と思われる。
高祖と表記されるものの元は高磯や宅蘇、卓素であり皇祖とは完全に無関係で後世の付会(捏造)
0699日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:32:26.64
>>663

神武東征

まあ、実態は都落ちだったわけだけど、その前からいた饒速日も筑紫の生まれだからね。
あと三輪山の神も出雲の末裔で、元を辿ると筑紫の生まれ。
配下の鴨族も富族も筑紫または出雲の末裔。
つまり記紀の畿内の登場人物は全員が筑紫の末裔。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:34:09.75
>>666

神武は吉備高島宮で数年過ごしている。
纏向遺跡の研究は、筑紫と吉備、神武の足跡を証明してしまっている。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:34:46.45
>>699
兄弟の職探しだろうな。
詐称物語だよ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:35:18.78
>>700
物証は?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:36:09.21
>>669

土器は持ち込めなかった。
直接の交易はなく、支配層が流入しただけ。
土器を作る生口は逆に一部が筑紫に流れて土器を作った。
王族は土器なんて作らない。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:37:30.18
>>703
意味不明?
物証は?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:40:39.27
>>690

纏向遺跡の建物Cは棟持柱建物であり、筑紫から伝わった八咫の鏡を納めるためのもの。
八咫の鏡そのものは伊勢神宮に移されたが、今でも伊勢神宮の本殿は同じ棟持柱建物。
ちなみに纏向遺跡よりわずかに早い時代の平原遺跡にも棟持柱建物らしき痕跡があり、八咫の鏡が出土している。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:41:39.54
>>703
で九州では山陰から東海系にかけての土器は出土
まあ、鉄等を取りに来ているからね
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:42:26.04
>>694

倭人同士でも身分の差や氏族の違いはあり、しばしば対立もあった。
記紀を紐解けば、天皇家の血で血を洗う歴史がわかるだろう。
神武の息子達も互いに討伐しあっている。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:44:06.28
>>709
当然、同じ身分でも対立はある。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:44:45.50
>>698

その高磯姫が卑弥呼のこと。
ヒボコが渡来するのはさらに後の時代だ。
ヒボコの話は神功皇后紀に出てくるが、その実年代そのものが卑弥呼より120年は後の話だと考えられている。
畿内説はいつも年代を繰上げて嘘をつく。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:44:59.54
>>699
令和の時代にまだこんなことを信じているアホが九州説。  わははははは   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:45:03.69
天津神も国津神もイザナギ・イザナミと言う象徴に統合されて元は一族だから
国を譲ってもらっても良いよねって言う創作ストーリーを真に受けて
全部「筑紫出身」とか言ってるアホはおめでてすぎてお花畑。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:46:08.18
>>706
だから何?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:46:29.19
>>704

博多では畿内から来た人間が博多の土で土器を作った。
土器作りは下層民の仕事。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:47:09.68
>>711
日槍の親族だろうに。高祖って呪縛から逃れられんようだな。
俺は東遷説で畿内説ではない。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:48:20.89
>>715
>博多では畿内から来た人間が博多の土で土器を作った。

「阿波」から来た な。   @阿波
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:49:00.74
>>715
九州から東征、或いは東遷の
物証なんだけど?
考古学的にも証拠があるんだろう?
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:49:34.51
>>717
>大和の箸墓より前に博多に前方後円墳が作られている。

いずれにせよ、筑紫忌部のお墓だ。   @阿波
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:49:38.65
>>708

鉄はほとんどが半島のもの。
ただ、筑紫でそれを全て製鉄すると環境が荒れるので、出雲や尾張など、配下の有力地域に製鉄させた。
大和はもっと格下なので鉄はもらえないw
0723日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:50:50.93
>>717
当然だよ。
水行30日陸1月かかるからね。
遅れるし規模もデカい
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:51:19.29
>>714

纏向遺跡が九州の影響下にあった痕跡だろ?
筑紫から来た八咫の鏡を祭るための建物があるのだから。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:51:51.70
>>721
>配下の有力地域に製鉄させた。

実際は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。  わははははは   @阿波
0726日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:52:13.43
>>717
東の宗教法人が大都会の博多まで新しい祭祀を売り込みに来たんだろう
前方後円墳は東日本の前方後方墳の後継だ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:52:28.26
>>722
奈良 最大規模の田だな。
水没したがね
0728日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:53:30.00
>>716

日槍と卑弥呼では年代が違うと言っている。
高磯姫つまり卑弥呼を祭るのは明治維新で憚られるようになったから、卑弥呼より前の伊都の王であった彦火火出見が復権したのだろう。
なお、日槍は伊都にいたが、祭られた記録はない。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:54:22.81
>>719

銅鏡銅矛文化が波及した。
畿内で出土する大量の銅鏡が証拠と言える。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:55:08.49
>>728
>なお、日槍は伊都にいたが、祭られた記録はない。

それは居なかったからに他ならない。  残念!  わははははは   @阿波
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:56:18.78
>>72
纏向に八咫の鏡出土あったけ?
建物ものは滋賀の影響影響下では?
物証だよ。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:56:37.07
前方後円墳

全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。
以上から、畿内が前方後円墳の発祥地とは言えない。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:57:19.24
>>731
おーすまんな。中西だった
0735日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:57:25.41
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260~280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>726
0736日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:58:20.81
>>732

鏡は伊勢神宮に移したから出土はしていない。
鏡を納めていた倉の建物だけ見つかっている。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:59:17.05
>>732

建物の痕跡を物証に数えないのなら、纏向遺跡なんて何にも無くなってしまうのだが?
0738日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:59:27.09
>>733
それは、「倭人(阿波勢力)」の進出時期を如実に示している。   @阿波
0739日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 16:59:33.69
水害は日本三大暴れ川の利根川、筑後川、吉野川では毎年
0740日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:00:18.41
>>735
>纏向古墳群とは誰の墓なのか。

もちろん、「倭人(阿波勢力)」   @阿波
0741日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:00:34.40
>>733
当然、元祖 争いよりはだいたい同時期に
三世紀半には千葉にもあるが
さて信憑性となるとどの古墳も半信半疑だな
0742日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:00:39.47
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:03:47.22
>>728
>日槍と卑弥呼では年代が違うと言っている。
当たり前。何が言いたいのか?
>なお、日槍は伊都にいたが、祭られた記録はない。
祭神を天孫族に差し替えまくったからだ!見苦しい!
日槍の妻、高磯姫→彦火火出見命。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:05:18.91
>>733

朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数あるというのはデマだろ
0745日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:08:30.20
吉備まで遡れたなら東征譚までもう一息
とは言え、弥生時代の南九州と瀬戸内の交流に言及する率直さはないだろうが
0746日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:08:46.69
>>737
何わけわかんない事言ってんの?
纏向遺跡は存在する
それだけだ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:08:58.54
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0748日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:13:50.22
>>735
はいはいそうそう
古墳が完成するまで纒向の建物に宿泊してたんだよ
だから纒向遺跡は卑弥呼とは全く関係ない古墳造営キャンプ場なんだよ
物部氏のキャンプ場だったんだよ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:15:38.87
>>748
生活の痕跡は?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:18:27.48
考古学を無視すると無茶苦茶な事を言い出すな
0751日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:18:29.74
帰宅したのでレス

>>680
その後進地域が箸墓古墳造成のような巨大な土木工事を行ったことはどう評価するのか?

>>695
唐古・鍵遺跡 第5段階(wikipedia)
>布留式土器が出土する古墳時代前期では遺構遺物ともに数が増し、山陰系の土器が出土するなど、交易が行われていたと推定される。

>>699
大物主(wikipedia)
国造り
>『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:19:12.69
>>737
意味不明なんで九州限定なのか。
諸説あるのに?
0753日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:22:19.01
>>751
記紀によらないもんも同時にお願いしたい
0755あqas
垢版 |
2022/12/21(水) 17:25:25.59
倭人になりすます倭種の阿波がウザいです
0756日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:34:49.03
>>750
考古学は歴史学じゃないんだよ
ひたすら掘ってりゃいいんだよ
口出し出来るほどの脳は無いんだから
0757日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:42:01.31
>>755
やりこめられるからな。  わははははは   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:50:40.42
考古学は無視できないが文献も無視できない
両者が整合するところに邪馬台国の真実はある
0759日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:55:09.24
>>758
無視と信憑性とは違うんだな。
文献にせよ。考古学にせよ。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:55:40.86
>>760
纏向に出土あったか?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:57:23.31
>>751

今読んでいて気がついたが、この山が三輪山だとされるというのは、あとから追記した注釈だね?
倭が博多湾沿岸のことなら、東の山は福岡県東部になる。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:58:25.13
>>762
違うならどこ?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 17:59:02.31
>>761

八咫の鏡のための倉は見つかった。
纏向遺跡の建物Cは八咫の鏡を納めるための神明造り。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:01:22.63
>>764
神明造りは他の所でもあるのでは?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:01:54.00
>>751

後進地域では後に大型古墳が作られるようになるわけだが、そもそも作った本人達がどこから来たのか、またはどこに住んでいたのかは定かではない。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:02:36.16
>>765
九州以外では?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:02:52.55
>>753
大物主については記紀神話に記されている
それ以外の何について知りたいのか?
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:03:37.10
>>764
>纏向遺跡の建物Cは八咫の鏡を納めるための神明造り。

掘っ立て柱小屋が神明造り。   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:03:56.52
>>756
>>748が無茶苦茶な事を言ってるから
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:05:07.67
>>743

明治になって祭神を天孫族に差し替えたが、その前の祭神であった高磯姫とは何者か。
卑弥呼より約半世紀の後、筑紫には神夏磯姫がいた。
これが高磯姫またはその末裔だろう。
日本書紀のヒボコの話はさらに半世紀以上後。
年代前倒しすればどんな出鱈目でも言えるが、そんなものに意味はない。
時系列を真剣に考えなさい。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:07:15.66
>>768

倭とは古の倭奴国である。
本州や四国なら、山の話ではなく、海を渡ったところとなる。
まして、倭奴国の東が瀬戸内海を飛び越えて大和になる道理はない。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:07:37.60
神明造りは福岡には無い
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:20:50.50
後進地域の九州にあるのは竪穴式住居。宮殿も神殿も竪穴式住居。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:20:56.94
>>762
単なる東の山ではなく古事記では、三諸山、美和山と記されている
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:22:54.52
>>774
近いもんは宇佐神社 大分だな。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:23:48.70
>>767
その時代の最先端の事業が土木事業
農地開発や古墳造営、それがなされている地域が最先端地域
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:25:12.37
葱の花で老婆な自演基地外の荒らしって、いつの間にか居なくなったんだな

あの基地外荒らし、どうなったん?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:25:21.67
>>779
つまり、九州ではない
0784日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:26:12.05
>>780
いないなら遺跡は出てこんよ
0785日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 18:26:36.83
>>778
>農地開発や古墳造営、それがなされている地域が最先端地域

各種工房があるところが最先端地域。

農地開発や古墳造営、それがなされている地域が最後進地域。   @阿波
0786日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:26:37.46
纒向妄想は畿内説統一狂会の霊感商法の典型であり
考古学が叩かれる理由でもある

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物

吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png



[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件

纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0787日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 18:26:49.20
>>783
神明づくりではない
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:28:01.18
>>786
卑弥呼は九州
邪馬台国は近畿とわかるな
0789日本@名無史さん
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2022/12/21(水) 18:28:24.58
>>784
実際、大したもんでてない
出てきたのは市場の売れ残り商品ぐらいなもんだ
0790日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:29:34.35
>>789
たいしたもんではないのも
あるのも邪馬台国
0791日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:30:42.95
>>778

先端技術は土木ではなく、鉄器などの金属工業。
弥生時代の製鉄遺跡で一番古いものは糸島にある。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:31:06.83
>>790
そうなんだよな。
たいしたもんがないのが邪馬台国かもしれない。
願望定義が先行しているかもしれませんね
0794日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:32:33.81
>>787

神明造りが宮造りの全てではない。
竪穴住居と言うから、高床建物の例を挙げた。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:32:39.11
>>791
古いもんが邪馬台国とは限らない。
水行30日だしな遅れるのも当然
0796日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:33:31.58
>>794
俺、書いていないけど?
物証しか書いていない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:33:36.65
>>792

魏志倭人伝における文物のやり取りを見ると、邪馬台国は物資の豊かな国だった。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:34:09.73
>>792
それもあるな。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:36:08.33
>>799
775は別人。
東征、東遷の物証は?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:36:52.90
>>797
記述はないけど?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:38:07.94
>>762
図々しい何でも筑紫マン。アホすぎ。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:38:53.13
>>802
まるで阿波だなw
0804日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:40:21.78
>>780
その時代は人が住むところがすなわち農地
灌漑設備が第一に作られた

纏向遺跡と唐古・鍵遺跡は4kmしか離れていない
当然人が住んでいた
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:44:59.99
三輪山の謎

もともと三輪山の山頂にあった式内社は日向神社。
なぜここに九州の日向の名前が出る?
1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書には、「神ノ山とは三輪山を指す」という記述があり、大神神社の神体山として三輪山が正式に記録された最初の記録とされる。
えー、明治ですか、そうですか。

三輪山には磐座が3か所あり、下方のものが辺津磐座(へついわくら)、半ほどのものが中津磐座(なかついわくら)、頂上付近のものが奥津磐座(おきついわくら)。
辺津宮、中津宮、沖津宮と言えば九州の宗像大社。辺もオキもそもそも海の用語なのに、なぜ内陸の三輪山で使う?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:49:23.88
>>791
金属が時代の象徴だったのは銅鐸が生産された時代
主に近畿から出土されている
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 18:55:11.69
>>805
素戔嗚尊で飽き足らず倭大物主大神もかすめ取ろうってか。

ヒムカイだからwww
ただの太陽信仰だろ。

大神大物主神社 オホムワノオホモノヌシノ 名神大 月次相嘗新嘗
神坐日向神社 ミワニイマスヒムカヒノ 大 月次新嘗
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:02:07.03
>>801
国々には市があり有無を交換していた
物資が偏らないように大倭が監視していた
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:04:42.50
>>805
大神神社(おおみわじんじゃ)の名称は明治になってから改称されたもの
それまでは、美和乃御諸宮、大神大物主神社、中世以降は三輪明神とも呼ばれた
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:06:17.68
>>808
>太陽信仰
高宮神社(こうのみや)は現在、三輪山上に鎮座する。
祭神:日向御子神であるが神坐日向神社と記述が入れ替わってるとの説がある。
どのみち櫛御方命も大物主神の子であるが
播磨国風土記曰く火明命は大汝命の子だから
日向御子とは、大物主の子で天照国照彦火明命としても不自然ではない。

そもそも、大物主は『海を照らし』寄りくる神である。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:08:42.74
何でも筑紫マンって完全に病気だよな。ほんと阿波だ。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:09:08.84
>>811
>大神神社(おおみわじんじゃ)の名称は明治になってから改称されたもの

どのみち、「阿波」の「大御和神社」から勧請されたものだから。  わははははは   @阿波
0816日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:11:18.01
>>815
印鑰童子を祀った由緒捏造神社がどうかしたのかwww
0817日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:12:07.59
>>816
まったくどうもせん。  わははははは   @阿波
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:13:46.31
>>816
幕末の神道復古で、一気に復活した。  わははははは   @阿波
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:24:42.30
今日九州説の人から、卑弥呼の時代の奈良に一定の勢力があったことを認める発言があった
九州以外に何もないというような歴史観は成り立たない
九州と本州の間は最短距離で600mの距離、日常的に交流があったろう
何々説などと言って自説にこだわるのは馬鹿げている
歴史の真実のみに目を向けよう
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:24:56.28
>>817
それはそうだろうよwww

印鑰大明神社(玉牆神路巻 抄)
名東郡府中村印鑰大明神 奉尋御神名 印鑰又名麝香童子
丁印通用金剛 本地釋迦如来也 辨財天十五童子之
第一也當社祭禮九月九日也

【阿波志】大御和祠
延喜式亦爲小祀在府中村即大巳貴命
今穪府中宮又穪印鑰或曰
大寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也

「印鑰大明神って言うのは印鑰童子じゃなくて大寶2年に国司の印鑰を授かったからだよ。」

いやw、印鑰童子だってバレてるからwww
式内社「大御和神社」は別の場所にありますw
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:25:33.23
>>812

天照国照ホアカリ饒速日、つまり三輪山の主は崇神天皇の祖先でもある饒速日
0824日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:28:12.57
>>819
食糧生産がどの時代も最重要課題
鉄器も青銅器もとのための道具としての役割を担う
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:30:12.68
卑弥呼はアマテラスのモデルでしょ  
纏向遺跡は邪馬台国の跡で
東海勢主体の外部勢力が作った集落跡でしょ

伊勢内宮神前祝詞によれば
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
サカキであるイワの御魂を撞いて、塞がるものを取り除き天を通した、向かいの津の姫
伊勢の向かいは東海の渥美半島と知多半島やね

神風の伊勢の国の、百伝ふ度逢県の、拆鈴五十鈴宮にます神、名は撞賢木厳之御魂天疏向津媛命なり

神風のは伊勢や八坂にかかる枕詞
拆鈴のは五十鈴宮にかかる枕詞 
拆はやぶるという意味、鈴をやぶった

東海の姫を中心とした勢力が、サカキの磐に守られた銅鐸=鈴の国を破ってできたのが邪馬台国でありヤマト政権
岩戸開きの真相やね
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:30:16.80
>>824
>そのための道具としての役割を担う
です
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:32:31.48
>>826
鉄は半島の市場に売ってるから
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:41:01.31
>>821
幕末の神道復古で、一気に復活しただけ。 
「阿波」では千年もの長きにわたり、神道の火種が代々脈々と灯り続けていたから、
一気に火が付いた。   @阿波
0831日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:44:50.02
箸墓古墳も現在は森のように木々に覆われているが、造成完成時には葺石で化粧され光り輝いて見えていただろう
墳丘上には円筒埴輪や土器が飾られていた
それがそこに住む人々の土木技術の水準を誇示していた
それが灌漑や干拓や農地開発を行う技術基盤も誇示していたことになる
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:46:28.24
>>831
>それがそこに住む人々の土木技術の水準を誇示していた

「倭人(阿波勢力)」だ。   @阿波
0834日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:47:02.72
何でも筑紫マンって完全に病気だよな。ほんと阿波だ。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 19:53:08.67
>>831

住んでいなかったし、土木作業は木製用具のみ。
どこか遠くの王族が田舎の土民を使役していた。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:01:26.43
>>827
それは捏造。
向津比賣=六甲比命(むかつひめ)であり
一説に天照国照彦火明櫛玉饒速日命の妃神、瀬織津姫の別名である。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、天照大神の荒御魂とされているが現在、天照大神荒御魂を主祭神としている廣田神社(兵庫県西宮市)は、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。

これは常識の範疇だと思うんだけど。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:02:27.32
>>831
開拓はやってないな
農地は無いよ今でも
記紀の通り纒向は大市という市場で賑わった土地だ
市が開催される時だけ人が集まる場所よ
その市場に各地から産物を集めてくるテキ屋集団が大倭だよ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:02:36.13
>>809
だから何?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:02:39.83
>>835
箸墓古墳を作った人たちは、もちろん箸墓古墳自体に住んでいたわけではない
纏向遺跡、唐古・鍵遺跡などの周辺の集落に住んでいた

それを作った人はそれが誇りだったから、自分たちの居住域に作った
どこかよそに作ったなどは非現実的な考え
0840日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:04:17.10
>>806
読んだけど邪馬台国に限定した記述はない。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:06:41.47
>>837
開拓という言葉は使っていない
>灌漑や干拓や農地開発を行う技術基盤
0842日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:07:55.94
>>841
物流経路はどうなるの?
0844日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:08:53.80
>>837
農地は生きる基盤
縄文時代なら木の実や狩りでもまかなえただろうが・・・
0845日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:09:10.06
>>843
邪馬台国の記述はない。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:10:48.56
>>837
>大市という市場で賑わった土地だ

その大市という市場で賑わった土地は、「邪馬臺国」共和国を構成する、大河四国三郎吉野川流域。   @阿波
0848日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:15:52.36
>>842
水運が主だと思っています
0849日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:17:43.48
>>848
奈良は最悪だな。  わははははは   @阿波
0850日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:19:33.71
>>848
だから、奈良は河内より遅れるわけだ。   @阿波
0851日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:20:10.07
>>847
都にいるとは限らない。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:21:13.18
>>851
女王がいるから女王国。   @阿波
0853日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:23:42.22
>>852
女王がいなけれ邪馬台国は都ではない
し女王国でもない。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:25:06.30
>>853
奴国や不彌国に女王がいても
女王国
0855日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:25:23.84
>>854
当然だよ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:30:05.50
>>853
「邪馬臺国」を構成する国の一つが、鮎喰川下流域集落群(女王国)   @阿波
0859日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:31:33.50
>>857
引っ越しもありうる
0860日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:33:32.92
>>840

邪馬台国は七万戸もあるから広域だろ。
その中の産物を集めて送ったわけだよ。
これは九州説だろうが畿内説だろうが当然のこと。
ただ、纏向ちはそのような産物を集めた痕跡がない。
物資が集まっていたのは圧倒的なまでに博多。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:35:21.23
>>860
そうだよ。纏向説でもない
邪馬台国の一部だからな
0862日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:36:49.48
>>848

大和の水運は最悪。
奈良盆地は全ての水が大和川で流れ出ていくが、出て行く先の河内は纏向となぜか仲が悪く、河内との間の水運利用の痕跡がない。
纏向遺跡の土器が東海産ということは、伊賀の山をかき分けて物を運んでいたということ。
そんな辺鄙な場所で大市なんて開いても、誰も荷物を運んでこないよ。
運ぶ手段がないからね。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:37:08.92
>>860
だから邪馬台国とは限らない
地勢的なもんだよ。
輸出入の要や使者との交流とかね
0864日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:38:27.80
>>862
だから陸1月かかるだな。倭人伝と一致している
0865日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:38:46.20
>>859

饒速日は旅好きだったんたよ。
そして弥生時代は妻問婚。
つまり男性はあちこちで子供を作った。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:39:23.43
>>865
マドラス
0868日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:42:25.25
纏向遺跡の発見は多くのものをもたらした。
ひょっとすると邪馬台国かもという淡い夢の先に待っていたものは、畿内は邪馬台国ではあり得ないという絶望だった。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:46:52.02
>>858
意味が取れない
もう少し詳しく
0870日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:46:55.73
>>867
持衰で佐賀、長崎、福岡の有明海沿いな
邪馬台国は近畿だよ。
卑弥呼が九州だからね。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:47:47.00
>>867
ト骨でもそうなる
0872日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:58:05.08
>>869

箸墓を作った労働者は近くに家があっても、墓の主はどこにいたのかということ。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:58:40.22
>>868
九州も絶望だな。
既存説は投了ですな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 20:59:24.99
>>862
古墳時代は河内湖があった
大和川は南からこの湾に入る
0875日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:01:35.14
ガチキチ筑紫マンは大物主大神の簒奪を諦めたか。
しかし、何でも起源主張って阿波と伊都と本家韓国。
無知で恥知らずで見苦しいにも程がある。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:03:27.03
>>874
やたら木伐採、丹等の鉱物の産出で
自らで首を絞める。
公害、保水対策などない。京都へ移動する。
移動した為、その後 回復する
0877日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:03:30.09
>>872
当然自分の居住する地域の近くに作ったろう
0878日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:07:41.05
>>866
マドロスだな。スマホ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:21:37.58
>>860

博多は畿内の影響下にあるから
倭人の風習である卜骨が出てなくても女王国の構成国
0880日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 21:28:39.94
>>867

糸島は辰韓人のように楽浪人が住んだ土地
千戸の属国伊都国の津(今津湾沿岸)を女王国が使用している
女王国が監察官を小属国に置いたのは北部九州の韓人の統治目的
0881日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:00:28.72
朝日遺跡は元々木棺墓、銅鐸、勾玉の地だったのに、1世紀には銅鐸は埋められ甕棺の集落になるんだよな
何が起きたのか
0882日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:08:35.39
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0883日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:11:25.47
>>875

考古学的には大したものがないくせに大和大和と言い始めたのは畿内説の方なんだよ?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:15:35.82
>>880

もうそんな嘘を繰り返しても誰も引っかからないよw
君がそう自分言い聞かせないと心の平安が保てないとか?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:34:50.15
>>879
だから狗奴国は熊本でいいんだよ
ト骨は有明海沿いに出土している。
支配はしていないけど影響はしている。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 22:43:12.30
倭国大乱時卑弥呼 初代は、アマテラス
魏志時卑弥呼 2代目は、イチキシマヒメ
魏志時臺與 3代目は、トヨタマヒメ
0889琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 22:58:41.41
全然ダメ、一支国辺りで卑弥呼の生まれた処とか書いとる。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:00:28.12
>>885

3世紀前半に85mの前方後円墳が造られる博多は
有明海沿岸の影響はまったく受けてない
0891琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 23:09:55.57
そもそも卑弥呼は、五王ですら将軍止まりで、親魏に値する女王なんですよ。友好国ですよ、アメリカは魏のように親身になって助けてくれますかね?ってほど親密な理由があり、その後、晋とは朝貢は途絶える相手なんですよ。それを説明できる巫女でないとダメです、どこそこの何々姫ではお話しになりません。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:13:29.10
>>891
だから卑弥呼は問題なのよ
他国に内情を報告するとか許されるの?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:14:28.17
全ての謎は九州が握ってるからな
コレ事実
0896日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:20:35.69
卑弥呼の墓は潰されたかもな
許し難い国賊だろ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:23:25.28
卑弥呼の神社が無いのも納得できる
居ないものとしなきゃ
0898琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 23:25:07.90
現代と勘違いしているんじゃないのか?
で、タタラ姫はいつ頃奈良にいたんだ?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/21(水) 23:30:28.91
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
当時でも許されないでしょ
0900琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 23:32:42.05
卑弥呼の神社はあるよ、
列島で一番最初に創られた神社がそうだろ。それと伊勢な。
0901琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 23:37:08.58
香春や新羅、百済王神社があるくらいだから、一番由緒ある神社がそうさ。
0902琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/21(水) 23:42:54.58
899.それだけで中華は倭の別種と判断するな。
後謝罪しとるけどね
0903あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 02:10:02.85
張政が伊都国に滞在していたのなら台与も伊都国にいたのだろう
0904日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 05:30:48.92
>>885
>ト骨は有明海沿いに出土している

遺跡は九州で2つきり
0905日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 05:31:46.94
>>890
受ける必要性もないけど?
0906日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 05:56:20.47
筑前側諸国は伊都国が仕切っており筑前側に筑後の邪馬台国の直接支配は及んでいなかっただろう
邪馬台国連合は筑前王のいた伊都国と筑後王のいた邪馬台国の同盟と卑弥呼の連合王(筑前王・筑後王より上位)共立により成り立っていたと考える
(魏志倭人伝に王がいたと記載されているのは伊都国と邪馬台国と狗奴国の3か国のみ)
この筑前・筑後共通の王を中国側が倭王(親魏倭王)と呼んだのだろう

ちなみに当時は日本列島側には現在の「日本」に近い広域の「倭」の概念は存在せず、「倭」とは中国側が先祖が呉から来たと自称し入墨・潜水漁撈を特徴とする人々が住む対馬海峡界隈(北部九州+朝鮮半島南部)を呼んだ言葉だ
この中国史書に出てくる「倭」という言葉を今日の日本人が勘違いして現代の「日本」のような日本列島上の広域を指す言葉だと思い込んでいるから、畿内説だ阿波説だと珍説が出てくる
0908日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:01:20.87
>>904
卑弥呼共立前にト骨風習を持つ
者の移動してきたのではないか?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:08:07.82
「倭」とは元々は古代の中国が入墨・潜水漁撈を特徴とする人々の住んだ長江下流域を指した言葉だ
この地域から来たと自称し同じような特徴を持つ人々が北部九州に住み対馬海峡を跨いで朝鮮半島南部でも活動していたから、この界隈のことも「倭」と呼んだのだ
当時は日本列島全体を指した言葉ではない
0910日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:09:27.90
>>909
九州限定でもないけどね。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:11:48.40
>>910
魏志倭人伝・後漢書東夷伝およびそれ以前の中国史書で北部九州以外の地名・人名が「倭」とされた実例は?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:16:18.18
>>911
意味不明、九州限定の不彌国までだな。
投馬国、邪馬台国
其餘旁國遠絶 不可得詳
有斯馬國 次有巳百支國〜次有烏奴國は定かではない。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:26:55.07
>>914
誠実に答えなきゃダメなんだよな
0916日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:30:56.87
絹は近畿や富山あたりまで出土
鉄は関東まである。
丹 水銀とすると
徳島、奈良、三重。
赤色土とすると東海にも出土
翡翠などの鉱物資源だ富山あたりとなる。
限定とする物がないだな
0917日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:31:35.67
魏志倭人伝に出てくる伊都国王は筑前王、卑弥呼は筑前・筑後の倭国王(筑後王を兼ねていたかそれは別にいたかは不明だが、少なくとも別に筑後王がいたと読める部分はないので兼ねていたか)、狗奴国王は肥後の王だろう

弥生時代は筑前側と筑後側は相当激しく戦った考古学的痕跡があるが、卑弥呼の代では筑後側は筑前側と講和して肥後側に対抗したのだろう
0918日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:32:16.59
>>915
意味不明なもんは意味不明
0919日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:34:44.11
>>916
「倭」の概念は日本側が中国はさに持ち込んだのでなく中国側の概念なので、そんなことは関係ない
当時の中国側は対馬海峡界隈の住民=倭人以外の日本列島のことを交流が少ないのでよく知らなかったのだ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:36:12.96
>>919
だから九州限定とは言えない。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:38:36.57
邪馬台国や魏志倭人伝を巡る勘違いの多くは、それを古代の中国人が彼らの知識と概念と思惑で書いた、という前提を忘れて現代の日本人の感覚で解釈することから生じている
0923日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:41:50.23
>>922
だから九州限定ではないだな。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:43:58.80
>>922
その通りで当時の中国の認識は倭人在帶方東南大海之中くらいでしょう
0925日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:45:53.68
>>922
古代中国人でも違いが出るんだな。
記録した人と陳寿が同じイメージを持ったかは定かではない
0926日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:46:28.55
>>919
>当時の中国側は対馬海峡界隈の住民=倭人以外の日本列島のことを交流が少ないのでよく知らなかったのだ

当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
たびたび大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:50:55.01
>>926
其餘旁國遠絶 不可得詳 とあるが?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:52:33.48
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)。

この意味は、阿讃山脈を越え、海を隔てた遠く瀬戸内海地域などの倭国(阿波)以外の国々(吉備など)については、

「遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない」との説明である。   @阿波
0929日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:53:38.85
>>928
知り尽くされていない
0930日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:53:39.93
博多に来た人はその近辺の事はよく知ってるし
吉野ケ里に来た人もその近辺の事はよく知っている
出雲や奈良だってそう
ただし全体の事はよくわからない
0931日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:56:43.31
>>930
有明海沿いまでは実際に使者は来ているのだろう。投馬国、邪馬台国、其餘旁國遠絶 不可得詳で
奴国以外は聞いた事だろう
0932日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:57:38.84
>>931
徐福の頃から日本には来てるよ
0933日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 06:57:41.82
>>929
倭国(阿波)以外の国々(吉備など)についてはな。  わははははは   @阿波
0934日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:01:31.24
地図を書ければ全体を把握してると言えるけどそこまではできない
だから倭人在帶方東南大海之中なんだよ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:01:37.62
>>919
>当時の中国側は対馬海峡界隈の住民=倭人以外の日本列島のことを交流が少ないのでよく知らなかったのだ

当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
たびたび大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0936日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:02:53.61
>>932
徐福以前から、稲もある、銅もあるから大陸や半島からの人の流れはある。
魏の使者の話
0937日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:04:28.32
>>936
情報は引き継がれてるから魏の使者も来られるんだよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:05:15.56
>>932
伝説のみで実際きたのかは、定かではない。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:05:54.38
>>938
徐福はそうだな
0940日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:06:30.16
>>937
倭人のエスコートだよ。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:07:44.28
>>937
国賓扱いだよ。
何かあったら国際問題
0942日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:08:27.54
>>940
倭人在帶方東南大海之中くらいの情報はあるって
0943日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:11:21.98
>>942
だから、その程度だよ。
九州、限定できないんだな
0944日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:11:26.37
東南方向に向かえば倭人の住む島に行けるくらいの情報は持ってるよ
おそらく期間もね
0945日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:13:04.16
だから水行ひと月陸行ひと月なのよ
0946日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:14:14.61
>>945
起点の相違があるだけだからな。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:25:15.76
>>946
当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
たびたび大陸・半島と往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0948日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:26:23.65
>>946
まあ、情報不足
いろいろな説がでるだけの話。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:29:40.54
>>949
其餘旁國遠絶 不可得詳だしな
0951日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:37:54.45
遠絶とはどこから見て遠絶なのか、だ
世の多くの人は邪馬台国や奴国や不彌国などから見て遠絶と解釈しているようだが、私は中国から見て、陳寿から見て遠絶だと解釈している

前提として、そもそも倭国はクシャーナ朝並みに遠絶だという(言外の)主張が魏志倭人伝にはある
ただその中でも魏使が調べた(行った)何カ国かは距離や場所がわかっている
それ以外のクニは(倭国自体が)遠方過ぎて詳細は不明なままだ、ということだと私は捉えている
0952日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:43:02.44
>>951
まあ、それでいいんじゃないの?
0953日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:49:19.61
>>952
不彌国、奴国までで万二千余里だな。
まあ、そう解釈している。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:49:53.76
>>951
>遠絶とはどこから見て遠絶なのか、だ

勿論、倭国(阿波)から見てだ。   @阿波
0955日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:50:19.53
>>953
まあ、それぞれて事な
0956日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:54:56.06
>>903

> 張政が伊都国に滞在していたのなら台与も伊都国にいたのだろう

糸島で楽浪帯方土器が集中して集まって見つかったところがそうだろうね。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:57:51.63
>>922

> 邪馬台国や魏志倭人伝を巡る勘違いの多くは、それを古代の中国人が彼らの知識と概念と思惑で書いた、という前提を忘れて現代の日本人の感覚で解釈することから生じている

まったく同意。
中国から見たら外交していた倭奴国しか倭と思っていなかっただろう。
そして卑弥呼はその女王。
つまり卑弥呼は福岡県にいた。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:59:28.70
>>958
倭国者古倭奴国也
0960日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 07:59:50.15
>>956
逆だな。集中しているから違う。
工場や商売地と見ている。
直接行かないからね。
政治的な地域ではない。貿易とか工房、外国人居住地だな。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:04:37.05
後漢書には倭奴国の邪馬台国に倭王は居ると書いてあるんでしょう
俺は中国語の倭奴国と日本語の邪馬台国で勘違いしてると思ってるけど
0962日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:06:52.95
>>961
居たかもしれん。
過去形も考えられる。
都の記述もない
0963日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:08:46.86
>>961
倭国全体のことを邪馬台国としているかもしれん。范曄の解釈
0964日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:10:43.17
>>963
勘違いとはまさにその事
0965日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:15:01.12
俺の解釈だと極南界の日本から来た
倭王は日本に居る
0966日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:20:00.67
>>965
南界を極めたという解釈もあるけど?
鹿児島、種子島?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:21:07.87
>>966
それぞれって事だな
0968日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:22:02.70
>>931

郡使は有明海までは辿り着いていないと思う。
そのような記事はないからね。
伊都のすぐ近くの志麻でさえ遠くてよくわからんと書いてある。
奴国と不弥国には足を伸ばしたようだ。
それくらいの地理感覚が魏志倭人伝。
畿内なんてとんでもない。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:22:44.53
>>966
中国はそこまで詳しく知らないと思ってる
だから単純に北岸の半島と極南界の列島
0970日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:23:12.56
>>946
当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0971日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:24:12.93
>>969
当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0972日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:24:39.34
>>960

糸島の楽浪帯方土器は、そこで作ったものではなく運ばれてきたものだ。
だから工房ではない。
その居留していた外国人が郡使なんだよ。
卑弥呼はそこから日帰り圏内にいたはず。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:26:11.89
>>968
ト骨と持衰だな。
有明海沿いまでだな。
投馬国、邪馬台国は定かではない
0974日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:26:44.88
>>972
工房はどこ?
0975日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:28:12.59
>>962

都は邪馬台国と書いてある。
楽浪帯方から一万二千里の九州北部、それも福岡県内。
倭が遷都したという記事がない以上、倭の定義は動かない。
むしろ卑弥呼の時代の郡使は、卑弥呼が本当に倭奴国に女王として君臨しているのかを確認しに来たと考えるべき。
魏志倭人伝は、卑弥呼がちゃんと博多湾沿岸にいて、伊都の大率を使って玄界灘を実効支配していたことを記録したもの。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:29:49.14
>>975
当時の中国側は、倭国(阿波)を知り尽くしていた。
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0977日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:30:22.54
>>974

楽浪帯方土器は楽浪帯方で作られた。
糸島の土器は、楽浪の普通の土器より出来が良く、最上のものが選ばれて運ばれてきていたことがわかっている。
つまり民間交流ではなく、国賓レベルの人物が伊都に滞在していた。
郡使だよ。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:34:38.77
伊都から出土する品は、弥生時代として最上級のものばかり。
畿内説は何かにつけて伊都を過小評価しようと試みているようだが、むしろ畿内説が考古学を無視した妄言であると証明しているようなもの。
側から見ていて痛々しく情け無い。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:42:19.51
>>975
そうであれば邪馬台国に行かなきゃ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:42:45.81
>>978
糸島の誇りは、楽浪土器だけ。  わははははは   @阿波
0983日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:44:39.40
>>982
ショボいが
0984日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:48:12.49
>>975
遷都が出てくるだ?
後漢書なんだけど?
0985あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 08:49:16.21
倭奴国はやまと国と読むのが正しいのでは
0987日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:50:28.02
>>975
九州限定とは言えないんだな
0988日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:51:27.68
むしろ、卑弥呼は(玄界灘から見て)内陸の筑後方面にいながら伊都国や奴国がきちんと卑弥呼を王として崇めているのを見て、魏使は卑弥呼を大した王だと評価したのではないか
0989日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:52:23.64
>>986
無理に無理を重ねた結果。   @阿波
0990日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:53:13.81
>>988
無理に無理を重ねた妄想。   @阿波
0991日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:57:44.04
>>990
邪馬台国論争は江戸の昔から畿内説と九州説の仁義なき戦い
阿波はお呼びでない 笑
0992日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:04:45.72
>>991
邪馬台国論争は江戸の昔から畿内説と九州説の仁義なき泥仕合。  わははははは   @阿波
0993あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 09:10:44.44
>>992
阿波には帝国大学が無いからのう、悔しいのうw
0994◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/12/22(木) 09:12:21.17
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1671664158/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0995日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:22:34.14
>>993
それがお前のレベル。 側から見ていて痛々しく情け無い。   @阿波
0996あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 09:29:43.28
>>995
痛々しいのはコピペ連投の阿波、とりあえず痛いコピペはやめろ迷惑なんだよ
0997日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:34:42.83
>>996
お前が反論できないだけのこと。  わははははは   @阿波
0998あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 09:36:54.16
>>997
気狂いに反論とか無駄だろが
0999日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:38:00.95
>>998
お前が反論できないだけのこと。  わははははは   @阿波
10011001
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