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邪馬台国畿内説 Part840
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:09:18.40
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1671352086/50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:10:41.76
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:11:32.69
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:12:31.73
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:13:32.41
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:14:17.10
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:14:52.88
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:15:33.43
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:16:16.92
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:17:07.55
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:18:04.95
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:19:01.98
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:27:28.09
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:28:05.86
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:28:38.87
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:29:19.99
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:29:46.95
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:30:18.79
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:32:05.83
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:33:01.74
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:33:34.38
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:34:06.86
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:34:50.19
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:35:23.16
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:35:57.60
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:36:31.46
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:37:09.19
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:37:54.78
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:38:33.69
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:39:06.45
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:39:48.06
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:40:32.85
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:41:12.54
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:41:49.13
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:42:21.48
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:43:01.99
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:43:32.03
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:44:08.52
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:44:41.53
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:45:16.99
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:45:59.93
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:46:49.01
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:47:32.66
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:48:03.31
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:48:35.22
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:49:10.13
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:50:02.41
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:50:43.23
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:51:32.52
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:52:13.08
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:52:50.43
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:53:31.99
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:54:05.09
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:54:36.62
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:55:29.77
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:56:13.88
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0057日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:57:00.00
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:57:32.47
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:58:02.86
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:58:34.69
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 08:59:12.49
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 08:59:46.69
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:00:20.90
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:00:54.28
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:01:30.62
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0066日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:02:03.42
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:02:38.64
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:03:13.85
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:03:54.22
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:04:35.64
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 09:05:17.38
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:06:00.17
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:06:32.99
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:07:01.49
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:07:32.50
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 09:56:57.02
結論:九州説畿内説は、阿波の「痛いコピペ」に反論できない。  わははははは   @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:13:14.13
>>77
お前にとってはな。  わははははは   @阿波
0081日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:25:28.81
>>80
いいからいいから、九州説畿内説は、阿波の「痛いコピペ」に反論できない。  わははははは   @阿波
0083日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:35:05.85
誰かまともに「阿波」に反論してくれないかなぁ。  こんな糞レスばかりで、退屈。   @阿波 
0086日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:51:44.49
>>85
大井川もあるよ。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 10:55:25.61
【結論】畿内説は100%勘違いの空想作文でした
魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:07:14.56
里と言う漢字の成り立ち考えたら70メートル程度を1里とは言わない
0089日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:08:21.86
魏志倭人伝が記録する当時の倭国の人口
戸数が表記されている8か国分で15万戸、一戸4人とすると60万人
残りの倭国21か国で一国当たり2000戸とすると全部で42000戸数、人口では168,000人
倭国全体では768,000人
中国は倭国の人口を長年の交流を通して、このように把握していた
その記録を基に陳寿が記載したもの

これを北部九州について記載したものとの解釈はできない
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:20:44.34
でも魏志の韓伝と倭人伝はざっくり70メートル程度が一里になっている
理由がローカルルールの短里か、公孫氏討伐時の司馬懿の報告書の露布かはわからないが
後者であれば、晋朝の実質的創始者の数字なので陳寿としても堂々と使えるし、むしろ変更が出来なかったかも知れない
0091日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:24:04.94
そう言う中国史学界からバカにされてる妄想はもうやめた方が良い
0092日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:27:35.01
>>91
何回も繰り返し指摘されている、対馬海峡三千里を長里論者はどう説明しているんだ?   @阿波
0093日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:28:16.93
中国史書専門家の孫栄建氏は露布だと言っているんだが
そもそも韓伝と倭人伝の一里が短いという客観的事実を否定するのは、それでは邪馬台国が北部九州にあったことになって困るトンデモ畿内説論者だけだよ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:29:45.82
>>91
まぁ、「魏志倭人伝」においては、短里だ。   @阿波
0095日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:30:34.94
客観的事実を否定しなければ成り立たないのがトンデモ畿内説
0096日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:31:27.29
畿内が正しいのに謬説がはびこっちゃ史学界の迷惑だからな
0097日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:31:37.97
>>93
短里でも、邪馬台国が北部九州にはならないから。   @阿波
0098日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:34:52.20
>>93
短里でも、邪馬台国が北部九州にはならないから。 

むしろ、畿内のほうが「万二千里」として北部九州より有利となる。  @阿波
0099日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:35:19.65
帯方郡から邪馬台国までは一万二千里
うち帯方郡から伊都国までで一万五百里
つまり伊都国から邪馬台国までは千五百里

一里70m程度とすると伊都国から邪馬台国は100km程度
これは邪馬台国が北部九州に収まるということ

これでは都合が悪いからトンデモ畿内説は韓伝と倭人伝の一里は短いという客観的事実を意地でも否定する
0100日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:36:17.40
とありもしない短里をでっち上げる九州説とその子分阿波説
0102日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:38:54.63
>>99
>帯方郡から邪馬台国までは一万二千里

直線距離でな。


>うち帯方郡から伊都国までで一万五百里

陳寿は、そんな計算しろと言っていない。   @阿波
0103日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:39:56.58
>>93
短里でも、邪馬台国が北部九州にはならないから。 

むしろ、畿内のほうが「万二千里」として北部九州より有利となる。  @阿波
0104日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:47:55.62
「万二千里」など遠すぎて測れないと言うが、
そうであるなら、歩いては行けない短い距離であっても測れないことになる。
何らかの測量法があったのだろう。   @阿波
0105日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 11:51:59.91
一万二千里は別に書いてるし観念的な数字だと思う
ただそれだと対馬海峡三千里の整合性が取れないな
だからわからん
0106日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:08:50.05
>>105
>一万二千里は別に書いてるし

「自郡至女王國萬二千餘里」は、行程説明とは切り離して「特記」したもの。 
なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、
「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、全くの別事項だからである。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、
帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。  
だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。  
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。    
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、
間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。   @阿波 
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
0108日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:10:40.36
観念的とかより大月氏国より遠くさらに強国であることにしたかっただけ。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:16:40.83
>>107
>なんで直線距離やねん

陳寿が直線距離で書いているから。  時代錯誤もええ加減にしろ!   @阿波
0111日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:17:58.84
当時の魏や晋には実際に公孫氏討伐時の報告書(責任者は当然討伐軍総司令官の司馬懿)や魏使の倭国訪問の報告書があった
一方で、晋の役人の陳寿としては晋朝皇室の司馬氏に忖度して邪馬台国連合はクシャーナ朝よりも遠い大国と脚色する必要があった
これを整合させるために、露布十倍の司馬懿の報告書の数値を韓伝と倭人伝に使ったのではないか
それによって数値上邪馬台国はクシャーナ朝よりも遠くなる
0113日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:19:19.12
>>111
アホが考えすぎてそういう妄想を膨らませるのはよくある事
少なくとも学問においては御法度だ
0115日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:21:09.94
>>112
その、道のりを直線距離で表している。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:23:37.53
>>109
倭人伝の戸数を疑問に思わないなんてアホバカすぎだろw
距離も考慮すりゃなるほど誇大だなって並の知能があれば思うさ。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:30:14.58
そうそう畿内説は考古学統一狂会が霊感商法で売り付けてる壺だから
0120日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:31:24.11
纏向を長年発掘研究してきた奈良の研究者
関川尚功氏や坂靖氏は纏向が邪馬台国であるのはあり得ないとして北部九州説を支持する
桜井市の禄を食む寺沢薫氏は纏向に卑弥呼がいたとの建前は崩さないものの、纏向は3世紀に外来勢力(九州と吉備)を担い手として突発的に現れたと主張する
結局、纏向の真実はこういう所に落ち着くのではないか
0121日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:32:47.15
纏向は崇神朝の遺跡だが邪馬台国ではない
どう見ても考古学はそのような結論に向かって進んでいる
0122日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:41:12.84
>>116
戸数はその国の国力を図る重要な指標
その数字がでたらめなはずがない

三国志は陳寿が記した時点からはるか未来まで中国人が読み続けるための書物
事実と異なる点があれば厳しく批判を受ける
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:55:07.64
前スレ>>904

焼灼パターンが吉備の足守川と唐古鍵だから
畿内で女王が共立される前の時代に吉備や畿内などの倭人が進出した
山鹿の方保田東原遺跡は山陰、近畿など西日本各地の土器が搬入されている
が、倭人の風習は非倭人の九州には広まらなかった
前方後円墳は筑後南部より有明海沿岸南部の宇土のほうが早い
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 12:56:17.87
前スレ>>972

糸島の楽浪土器は弥生中期末(1世紀末)から
ピークは帯方郡が設置される前のⅠA期=2世紀後半
0127日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:00:23.35
>>122
ではおかしな里はどうすんだw
0129日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:22:48.46
あれがおかしくないと思える畿内説はさすがだねw
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:26:15.70
おかしいと言えば阿波と伊都と中華卑弥呼。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:29:13.34
>>120

関川はどうでもいいとして、
坂靖はどの北部九州説を支持してるのか?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:32:16.16
>>131
>おかしいと言えば阿波

相手してやるからかかってこいや!   @阿波
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:32:59.00
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 13:51:40.46
>>127
里は歩いて測る距離

もともとは、人が一まとまりで住んでいる空間を里と言った
今でも「私の里は・・・」などと使う
これは300歩四方の面積を表していた

後に長さの単位として300歩の長さを1里とした
この歩も尺貫法の長さの単位
基礎は人間の体によるもので、右足と左足を踏み出す距離、通常の一歩の2倍の長さ

歩いて測れないときは、おおよその数で距離を現した
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:05:42.96
>>135
>歩いて測れないときは、おおよその数で距離を現した

伊能忠敬は、歩いて測れないときはどうやったんだ?   @阿波
0137日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:10:04.24
>>135
>歩いて測れないときは、おおよその数で距離を現した

弥生時代も伊能忠敬も、さして変わらないんじゃないのか?   @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:11:44.93
坂靖の纏向遺跡の形成期に対する考えは、
「おおやまと」地域は,弥生時代の拠点集落が集中的に分布しており,
奈良盆地内で最も開発が進捗し,生産力が高い場所であった。
その上流部に,ヤマト王権の支配拠点としての纒向遺跡が形成されたのは必然的であるといえる。
纒向遺跡は,弥生時代の生産基盤がそのまま受け継がれ,形成されたのであって,
「何もない」未開の地に突如として,遺跡が形成されたとする説は成立しない。
(ヤマト王権中枢部の有力地域集団)
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:18:32.01
>>139
>伊能なら三角測量も利用している

弥生時代も伊能忠敬も、さして変わらないんじゃないのか?   @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:19:04.78
伊能忠敬は陳寿の1500年以上後世の人
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:22:37.41
>>139
>伊能なら三角測量も利用している

弥生時代にもピタゴラス級の頭脳の持ち主がいても、まったく不思議ではない。   @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:26:52.57
>>142
畿内説信者や九州説信者では、このように柔軟に発想ができない。   @阿波
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:29:48.25
>>143
>天才がいても残し用が無い。

だから、残っていないのさ。 どあほ!   @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:33:35.71
たぶん、ピタゴラス級の頭脳の持ち主は、本人だけの文字媒体(記号?)をもっていたんだろう。   @阿波
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:37:21.54
あと3世紀の中国は地球球体説は採用してないから伊能とは当然違う
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:41:00.32
>>148
>あと3世紀の中国は地球球体説は採用してないから伊能とは当然違う

弥生時代にもコペルニクスやピタゴラス級の頭脳の持ち主がいても、まったく不思議ではない。   @阿波
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:42:32.10
>>148
畿内説信者や九州説信者のアホどもは、このように硬直した発想しかできない。   @阿波
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:49:42.83
>>126

それは年代が誤り。
ほとんどの学者は、伊都の楽浪帯方土器を郡使と滞在と関係していると考えている。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 14:50:15.72
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0153伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/22(木) 15:00:43.13
>>149
天才が数人いても、体系化した学問として残せない。
天才がいたかも知れな事は否定できないが、
ほれがどうしたん?って事。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:03:59.03
>>132
坂靖は森浩一の弟子
漠然とした九州説だろ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:04:45.94
>>153
>天才が数人いても、体系化した学問として残せない。

だから、残っていないのさ。 どあほ!   

天才一人いれば、時の権力には十分。   @阿波
0156日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:06:08.84
>>153
板野の売郷奴や畿内説信者や九州説信者のアホどもは、このように硬直した発想しかできない。   @阿波
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:09:53.01
>>157
>知識や技術を継承できないとシンドイね。

継承できないとシンドイと思うのは、硬直した発想しかできない板野の売郷奴や畿内説信者や九州説信者のアホども。   @阿波
0159日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:10:47.08
>>157
>知識や技術を継承できないとシンドイね。

継承できないとシンドイと思うのは、硬直した発想しかできない板野の売郷奴や畿内説信者や九州説信者のアホども。   

天才一人いれば、時の権力には十分。   @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:21:25.47
>>120
まあ、願望定義があったんだろう。
邪馬台国は、最新の国で
立派な建物が立ち並び
鉄や絹が豊富とか
豪華絢爛とかね。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:23:29.02
>>151

弥生中期末(1世紀末)から始まり、
ピークの2世紀後半には楽浪人が住んでいる
つまり魏の使者が倭国を訪問する以前からのルートであるので
唐津の東北の方位の糸島が郡使が逗留する属国伊都国に比定されている
福岡平野産の筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が今山に多量に搬入され(ⅠB-ⅡA期)
瀬戸内や大阪湾沿岸から伝わった飯蛸壺、土器製塩も今山、今宿(ⅡA期前後)に集中しているので
倭国が京都帯方郡諸韓国に遣使ときに皆津に臨むことと符合する
女王国が楽浪人の属国伊都国の港を領有している
0163日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:34:00.57
女王之所都の解釈な。
倭国、女王国の都の記述はない。
不彌国や奴国等人々にとっては都でもない。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:37:18.42
邪馬台国は女王が倭国の都とするところ、という意味
魏志倭人伝は簡潔な文章なので、文意でわかる余計な修飾語が省かれているだけ
0165日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:38:33.81
>>159
すると倭国の都はどこ?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:42:25.71
>>165
鮎喰川下流域集落群(女王国)   @阿波
0168日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:42:52.61
北部九州の30 ヶ国を統合して倭国の外交を担ったという,
邪馬台国の所在地を庄内式期の纒向遺跡に求めることは難しい。
その後,布留式期になって,ようやく纒向遺跡の遺跡規模が拡大し,
最古の大型前方後円墳である箸墓古墳が築造されるに及んで,
日本列島の東西に影響力を行使しはじめたと考えられるのである。
倭国の支配拠点として纒向遺跡が機能しはじめたのは,布留式期であって,
この段階をヤマト王権の成立と意義づけることが可能である。
絶対年代は,画文帯求心式神獣鏡や三角縁神獣鏡の製作年代などから,
3 世紀後半にそれをもとめるのが妥当であろう。

卑弥呼の死後、つまり3世紀後半の台与の時代に倭国支配の都になった
というのが坂靖の仮説
0169日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:43:35.63
当時の中華は、地球平面説だからね
郡から「直線」で1万2千里なんて有り得ないよw

>正距方位図法は、中心からの距離と方位が正しく記され、地球全体が真円で表される投影法

俺の永平寺アーカイブより

727 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/15(木) 11:06:18.17 ID:UT3ee60x0
前も書いたけど

正距方位図法なら、距離も方位も説明できるんだよねw

地図の中心から離れるほど地形が歪む

そして南米大陸のように、東にある日本も間延びして大きくなる

半島が方4千里と書かれてたのがヒントになってたよ

中華思想によって、天子のいる洛陽が世界の中心

これで魏志倭人伝の距離も方位も正しいと
また答え出ちゃったねw
https://i.imgur.com/LM4HMdk.jpg
0170日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:45:05.07
>>160
柳田、久住、森岡とか
要するにほとんどの学者
0171日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:46:26.03
通説畿内説の学者は、坂靖の考える北部九州の30 ヶ国を統合したというような倭国を想定していない
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:47:54.61
①韋誕の大魏書(240年頃成立)→魚豢の魏略の元ネタ
②王沈の魏書(254-256年頃①の倭人伝に追記したか)→陳寿の魏志の元ネタ

そして、①には邪馬台国はなく、②に邪馬台国が初出する
また、陳寿は②の記事の文章はいじったが、新情報を追加した形跡はない

すると、①と②の間に邪馬台国が女王の所都となった
0173日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:50:07.71
>>169
>正距方位図法なら、距離も方位も説明できるんだよねw

その正距方位図法とやらで、郡から「直線」で1万2千里 測ったんじゃないのか?  わははははは   @阿波
0174日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:51:23.71
>>172
>すると、①と②の間に邪馬台国が女王の所都となった

どうでもよいが、鮎喰川下流域集落群(女王国)   @阿波
0176日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 15:54:57.33
>>165
>すると倭国の都はどこ?

纒向
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:00:29.06
>>177
根拠なし。  なんとなく。   @阿波
0179日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:13:02.95
>>165
共立のイレギュラー 女性でいちいち
都は動かさない。外交の地、貿易の要は九州だ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:16:09.47
>>179
>外交の地、貿易の要は九州だ

根拠なし。  なんとなく。  わははははは   @阿波
0181日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:18:35.81
>>177
卑弥呼の時代と重なる王宮がある
0182日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:19:25.87
>>179
続き、
なので奴国。
政治、外交は伊都国で行うのが
倭国王代々のしきたりなんだろうな
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:21:17.57
>>180
反論する根拠もない
0184日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:22:25.61
>>182
>なので奴国。

根拠遺跡もなし。  なんとなく。  わははははは   @阿波
0185日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:26:57.84
女王卑弥呼は人に会わない
政治を佐けている弟の大倭王政権がいるのが畿内の邪馬台国
3世紀以降、畿内を中心とした女王国は異民族の属国伊都国の港を領有している
0186日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:27:57.75
>>184
遺跡だらけだよ。
ありったけの遺跡をズラズラ書く
カス阿波とは違うだよ。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:29:05.29
>>185
使者とは一切、面会していないのか?
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:29:46.84
>>186
>遺跡だらけだよ。

と言いながら、ひとつも挙げられないカス。  わははははは   @阿波
0189日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:30:27.61
>>188
始まったカス遺跡ズラズラの阿波
0191日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:31:56.75
>>185
>3世紀以降、畿内を中心とした女王国

と言いながら、女王国遺跡を挙げられないカス。  わははははは   @阿波
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:32:25.13
>>189
>遺跡だらけだよ。

と言いながら、ひとつも挙げられないカス。  わははははは   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:35:27.88
魏志倭人伝によると卑弥呼が居た場所には楼閣や城柵があり鉾を持った警備員が居たんだよな?
纒向遺跡にそんな痕跡は無いのに漠然と王宮だとか言い出すあたりがまさに宗教的だよな
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:37:06.33
>>192
代表的なもん、ひとつ挙げておく
クグレ、カス遺跡の阿波
須玖遺跡群
0195日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:38:00.88
纏向は崇神朝の遺跡だが、これが邪馬台国でもあったとすると、崇神天皇や垂仁天皇(もしくはその少し前の神武天皇や欠史八代の天皇)が魏志倭人伝に登場しているはずだし、卑弥呼や難升米や張政や台与が記紀に登場しているはずだ
また親魏倭王のことなども記紀に語られていないとおかしい

纏向=邪馬台国説はこのあたりをどう合理的に説明するのか?
もしくは記紀と魏志倭人伝は殆ど嘘とでも言い出すか?
0196日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:38:36.68
>>193
倭人伝によると卑弥呼が居た場所には楼閣や城柵があり鉾を持った警備員が居たんだよな?

まあ、纏向ではないが邪馬台国とは限らない。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:39:07.34
>>193

柵は集落全体ではなくて人に会わない卑弥呼が居る場所
【鉾】を持った警備員は書かれていない
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:40:55.87
>>197
外国人要人の護衛や
狗奴国との対立は?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:41:57.06
九州説は倭人伝知らずに創作しすぎ
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:42:27.27
>>199
理由は?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:42:37.83
>>198
それが何?
0203日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:43:11.14
>>200
倭人伝に纏向も書いていない
0204日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:43:47.94
>>195
卑弥呼や台与の時代は奈良に天皇に連なる政権はなかったということ

神武が奈良を目指すのは台与の数代後の後継者の時
0205日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:43:52.58
>>202
あったのか?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:44:06.73
>>201
あんた>>197見てないの?
w
w
w
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:44:39.23
>>205
無いとでも?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:45:07.66
>>194
>須玖遺跡群

わははははは  古臭い甕棺墓の消滅遺跡かよww  なんでそれが奴国(二万戸)のなるんだ?

顔を洗って出直してこい! カス!   @阿波
0213日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:46:36.13
>>195
記紀が史実じゃないと昔から言ってますが
0214日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:47:14.81
>>207
見たから書いた。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:47:27.44
>>209
>倭人伝ガン無視してるのが畿内説だが?

証拠は?
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:48:07.65
>>210
消滅カス遺跡の阿波
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:48:30.54
>>214
>見たから書いた。

書く理由は?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:49:13.87
>>217
納得せずだから
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:50:14.40
>>212
九州説は反論できず罵るしか出来ない負け組
惨めすぎ
0220日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:50:15.25
>>208
でどこにあるの?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:50:51.74
>>219
理由は?
0222日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:50:58.81
>>218
納得しない理由は?
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:51:56.43
>>222
卑弥呼の周りとか記述がないから
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:53:31.82
>>221
反論できずに罵っているだけだから九州説に負け判定が出る
悔しかったら具体的な反論を示すように
できないでしょ?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:53:57.96
>>222
人に会わない卑弥呼が居る場所
とかの記述がないから
0226日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:54:19.26
>>224
理由は?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:54:44.15
>>223
>卑弥呼の周りとか記述がないから

無いという証拠は?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:55:30.46
>>227
テンプレにあるよ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:55:31.30
あるという証拠は?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:56:10.52
>>225
>人に会わない卑弥呼が居る場所
>とかの記述がないから

無いという証拠は?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:56:51.64
>>231
魏志倭人伝に記述がないから
0235日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:59:01.67
>>226
>理由は?

具体的な反論を示せと言われても
九州説側が具体的な反論を示さないから
0236日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 16:59:48.45
>>234
>魏志倭人伝に記述がないから

魏志倭人伝に記述がないという証拠は?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:00:37.19
>>233
畿内説の人が書いたテンプレだよ
0238日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:01:29.10
>>235
理由は?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:01:42.18
魏志倭人伝より
『国国有市 交易有無 使大倭監之』

「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
0240日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:02:01.05
>>236
記述がある証拠は?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:04:07.05
>>230
>あるという証拠は?

冒頭見れば良い
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:04:23.62
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
さて樓觀とはなんだろうな?
0243日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:04:34.85
>>213
ああ、畿内説は文献を無視するからトンデモ説を平気で主張できるのか、納得
九州説はあなた方と違って文献と考古学をきっちり整合させるからね
だから邪馬台国に興味を持って調べた人の大半が九州説になる
0244日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:05:52.32
>>241
なんでこれが証拠なんだ?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:06:11.68
>>240
求められても証拠の出せない九州説の負け
0246日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:08:25.04
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0247日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:08:33.72
>>243
>ああ、畿内説は文献を無視するからトンデモ説を平気で主張できるのか、納得

無視したという証拠は?

>九州説はあなた方と違って文献と考古学をきっちり整合させるからね

させたという証拠は?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:08:59.14
>>237
お前が書いたんだろ
白々しい
0249日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:09:05.06
>>243
そう、ト骨の風習も
北東にある現糸島市や博多方面にはない
0250日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:09:45.73
>>245
理由は?
0251日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:10:05.79
>>244
>なんでこれが証拠なんだ?

証拠にならない旨の反論ができないでしょ?
0252日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:10:31.43
>>246のコピペは>>1の白旗を意味する
0253日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:10:35.28
>>251
理由は?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:10:50.80
>>248
証拠は?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:12:09.25
>>239
それがかつて小国だったというヤマトか
0256日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:12:46.30
>>249
だな。一部の九州説のごり押し
博多某
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:12:46.84
>>252
誰がやったか分からないコピペは証拠にならない
0258日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:14:39.68
>>253
>理由は?

証拠の認否で否定できず沈黙しちゃったんだから
証拠だね
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:15:22.43
>>255
邪馬台国も大倭が監視していた?
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:16:03.96
>>258
理由は?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:16:29.73
まったく反論できない九州説の負け
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:17:56.51
>>259
当然、なんら女王国を構成する国々のひとつに過ぎない。中心国でもない。女王の都に過ぎない
0263日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:18:05.51
>>260
あなたが反論をできなくなったから
0264日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:18:37.74
>>263
理由は?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:19:13.54
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:19:59.80
>>262
根拠なし
0267日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:20:38.20
記紀は史実ではないと言って自説との整合性ガン無視
頭使わない畿内説は楽でいいな
馬鹿は土だけ掘ってろ
0268日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:20:56.09
>>259
国々に市があり大倭に監視させていた

だから当時は大倭という組織か何かだろう
0269日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:21:23.68
>>264
>理由は?

あなたが反論をできなくなった理由は
あなたが完全に論破されたからです
0270日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:22:21.49
日本の考古学は頭使わず土だけ掘ってる馬鹿ばっかりだからトンデモ畿内説が主流なんだな
ようやく謎が解けた
0271日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:23:02.14
>>265
カッコが不要
伊都国に属さない
伊都国で代々の王は、政治や交流をおこなっているだけではないか?
女王国に属するけどね
0272日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:23:19.79
>>269
理由は?
0273日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:23:50.01
>>265
インチキな訳は世間に通用しない
「代々の倭王」などと原文にないし
「全ての者」とも書いてない
0274日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:24:45.20
>>272
反論できなくなってるでしょ?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:25:07.68
>>274
理由は?
0276あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 17:27:06.72
阿波は朝鮮難民の国だよ
0277日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:27:40.88
>>276
交流がある証拠だな。
0278あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 17:30:53.85
>>277
一方通行だよ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:31:34.98
>>276
>阿波は朝鮮難民の国だよ

「高句麗・新羅・百済」時代は、確かに保護した。   @阿波
0280日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:33:34.99
>>276
工場地帯と経路だよ。
中国産の水銀が出土
大陸から技術者呼んで製造や抽出等
学んだだな。奈良、三重からの水銀も
運び込まれんだろうな。
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:34:30.76
卑弥呼が居る場所は
唯男子一人が飲食を給し居所に出入するような所なので
集落全体のような広い場所ではない
0282日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:35:24.25
>>281
千人?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:37:22.10
>>279
倭国(阿波)王権は、百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を利用して、8世紀に避難疎開遷都した大和朝廷へと発展させた。   @阿波
0284日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:39:30.24
>>283
八世紀 そこはダメだな。阿波爺。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:42:28.84
>>284
>八世紀 そこはダメだな。阿波爺。

大和朝廷は8世紀から!   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:42:29.37
>>286
何処にいたのかね?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:45:59.09
>>288

男子一人が飲食を運んでいるということは、婢のほとんど卑弥呼がいるところとは別の所
0291日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:46:36.62
>>287
で法隆寺痕跡は阿波にあるのか?
奈良に行くまで滋賀とか難波だな。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:47:39.72
>>290
近くにいないのか?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:48:53.77
>>213

都合が悪いと魏志倭人伝でも記紀でも否定する畿内説。
その中身は邪馬台国の名を借りた妄想しかない。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:50:57.24
>>293
ト骨、東南をごまかす一部の九州説はいる
0298日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:51:44.85
>>295
かまどがある所と見ていいか?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:52:40.91
>>297
やっぱ、大笑い
阿波爺は楽しい
0302日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:54:19.52
>>299
別に伊都国で出なくてもいいが
基本的に出土場所を通るルートを考えるけど?
0303日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:54:44.05
>>294
まったく反論ができずに罵っているだけの九州説は、異常に知能が低いと皆が理解できる
0304日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:56:05.82
>>243

そうなんだよね。
自分もそうだった。
天孫降臨はなぜ畿内ではなく、宮崎の山中なんだと思った。
しかし筑紫の日向は福岡のことと知ってから、全てのピースが当てはまっていき、魏志倭人伝も記紀も矛盾なく同じことを書いていることに気がついた。
筑紫に倭の王都があったと。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:56:12.30
>>300
>八世紀 そこはダメだな。阿波爺。

大和朝廷は8世紀から!   @阿波
0306日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:56:15.16
>>293
>都合が悪いと魏志倭人伝でも記紀でも否定する畿内説。

証拠は?
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 17:58:46.31
>>301
>それは証拠ではなく妄想。

だという根拠は?
罵っても反論にならないよ
0309日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:01:16.20
>>271

王は伊都にいたが、伊都国の王ではなく倭王のこと。
日本国首相は東京にいても東京都知事ではない。
倭について書いているのだから、伊都に代々いたのは倭王。
倭が東遷したという記事もないので、当然のように倭の王都は伊都。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:01:44.19
>>285
>奴国も伊都を畏怖する立場だから。

誰かが伊都を畏怖するとか
倭人伝には全く書いてない
0312日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:04:23.36
>>302

弥生末-古墳初の卜骨は東日本、佐渡でも出てるからルートとは関係ない
0313日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:04:49.46
>>311
で工場は?
国産品が出回る頃かな?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:06:25.82
>>312
使者が
東日本や佐渡まで行ったて事?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:09:03.36
>>275
>理由は?

お前が畿内説に全く反論できない理由は
比類ないばかだからだな
多少のばかなら例え的外れでも何か反論できる
0316日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:09:33.53
>>315
理由は?
0317日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:11:44.67
>>312
女王国の範囲の
ひとつの目安でもあるが?
さて、使者は見たのか?聞いたのか?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:14:26.52
>>298

卑弥呼だって温かい食事がしたいだろう。
ただ、卑弥呼の部屋で煮炊きはせず、他の建物で調理して弟が御膳を運んだのだろう。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:18:20.39
>>317

女王国から北は伊都の大率が検察していたとある。
畿内説なら若狭湾から新潟まで、みんな伊都を畏怖していたことになる。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:19:30.79
>>319
まあ、そういうルートもあるだろうな。
使者が島内の様子 記述らしきもんがあるが?
0323日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:20:39.71
>>316
>理由は?

3行目に書いてあるだろう
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:21:48.72
↓の痕跡が纒向遺跡だ

魏志倭人伝より
『国国有市 交易有無 使大倭監之』

「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている

記紀によれば、纒向はかつて大市という市場だったとの事
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:23:14.29
>>320
弥生後期に
徳島にあるという事はどういう事だろうか?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:24:01.00
>>321
>畿内説なら若狭湾から新潟まで、みんな伊都を畏怖していたことになる。

どうして?
0327あqas
垢版 |
2022/12/22(木) 18:25:23.80
>>279
大麻中毒にされて乗っ取られたが正解
0328日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:25:36.12
>>324
そんなの至る所にあるから
要は徴税で集めた倉庫にあるものを売り買いしてたんでしょ
そら監視は必要だろう
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:28:10.75
>>325
>弥生後期に徳島にあるという事はどういう事だろうか?

「魏志倭人伝」にある下賜品。   @阿波
0330日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:32:15.26
>>322

上陸して一泊したから、その時にでも卜骨を見せてもらったのかもしれないね。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:36:55.47
>>332
>女王国から北は大率が検察していたから。

女王国から北が
「若狭湾から新潟まで」
だってのは、いったい誰の主張?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:39:36.76
共立した王達は軍勢を率いてた王で卑弥呼はそうじゃないでしょう
伊都国に一大率が居たならその人は伊都国王だよ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:40:04.46
>>332
>女王国から北は大率が検察していたから。

それでは伊都を畏怖していたことにならないよね
そう書いてない
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:42:04.74
>>334

戦いで埒があかないから卑弥呼を共立したわけだよね?
それに卑弥呼がどこの出身であっても、中国から見た倭が博多湾沿岸のことなら、卑弥呼は王都に入らなければいけない。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:42:49.91
>>334

伊都国王というものは明記されていない。
伊都に王がいると書いてあるだけ。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:43:09.64
卑弥呼が共立された巫女ならなんでその人が軍を率いてるの?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:44:32.08
>>338
女王国に統属してる王な
0342日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:48:27.75
畿内説は漠然とした妄想
行き当たりばったりで古墳ガーとか大型建物ガーとか言ってるだけで総合的整合性は皆無
それを指摘されると馬鹿丸出しのこじつけ論にはしる
まあ考古学会なんて偏差値40未満の寄せ集めだからな
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:48:38.01
>>334
>共立した王達は軍勢を率いてた王で卑弥呼はそうじゃないでしょう
>伊都国に一大率が居たならその人は伊都国王だよ

そんなことは倭人伝に書いてない
九州説は倭人伝無視をやめるべきだ
一大率は女王が派遣して来た官だというのが皆の理解
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:49:53.56
>>339

卑弥呼は軍を指揮しないからでしょ。
でも誰が軍を指揮していたかは魏志倭人伝には書いてない。
大率の検察も、手勢はつれていたかもしれないが、軍隊と言えるほどではなかったのではないか。
ただ権威はあったのだろう。
要するに女王国より北は、政治的に安定していたという描写なのだろう。
それは卑弥呼が倭王として十分に支配が行き届いているということ。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:51:27.78
>>343
皆の理解なんか知ったことか!
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:52:58.91
>>344
畏怖してたのは軍隊だからでしょう
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:53:25.42
>>342
具体的反論がないから単なる罵りだね

それと、考古学界の主流は旧帝大だから偏差値高いよ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:53:41.89
>>336
横レスですが、帯方郡から倭国までの間の国々、三韓を含む
0350日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:54:55.54
>>346

そうとは限らない。
統制が取れた国ならば、軍を動かさなくても秩序は保てる。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:55:15.28
>>345
お前みたいな変な読み方は誰もしないという意味なんだが
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:56:04.51
>>348
何勘違いしてるのか知らんが俺様は伊勢遺跡説だ
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:56:50.44
>>349
含まんだろ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:57:48.43
ここ、畿内説も九州説も中身はいろいろだから、この意見はどの説の人が言ったとかがわかりにくいな
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:57:58.06
>>351
全然変じゃないだろ
卑弥呼が軍勢を率いてたと考える方がおかしい
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:58:02.01
>>348
理由は?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 18:59:41.18
>>355
>卑弥呼が軍勢を率いてたと考える方がおかしい

卑弥呼が軍勢を率いてたとか
誰も言ってないので
九州説は
妄想乙
0358日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:00:06.22
卑弥呼を共立した王達は戦ってたんだぞ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:00:48.45
>>357
伊勢遺跡説だっつってんだろうが
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:03:30.19
とりあえずここで纏向=邪馬台国説はキナイコシ一人なんかね?
0361日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:05:36.91
>>325
>弥生後期に徳島にあるという事はどういう事だろうか?

「魏志倭人伝」にある下賜品。   @阿波
0362日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:05:39.71
>>360
お前が全1病なだけ
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:08:01.61
>>344
支配?共立なのに?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:08:27.96
九州説の中に、伊都に卑弥呼がいて伊都が王都であるとする意見に反対の人はしいますか?
九州説の人はみなこの意見に賛成の立場ですか?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:09:36.76
じゃあ一大率と伊都国王と卑弥呼の軍勢をそれぞれいってみろよ
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:10:31.91
>>362
お前が>>1なのはバレバレ
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:13:35.31
伊都国は邪馬台国に屈したが王の名乗りは許された。しかし、旧敵国として周辺諸国と共に一大率に監視されている。
伊都が王都であるとか高祖やら祭神捏造やらの偽史活動に騙されてるだけ。邪馬台国は北九州と言えどそんな北ではない。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:14:21.13
>>363
共立された瞬間に支配者になりますから
0369日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:16:51.25
>>361
いや、阿波爺 実際には下賜されていない。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

つまり女王国ではもはや珍しいもんではない
山に丹ありで国産品があるので実際に下賜しなかったと推測。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:16:53.71
>>368
こいつが王じゃダメだと言えるけどな
0371日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:19:30.51
>>367
安心しました
私は畿内説ですが、伊都に卑弥呼がいたなどと言うのは馬鹿げた主張だと思います

なぜなら、一大卒が伊都の港で検察して卑弥呼に手紙や品物を届けると書かれています
卑弥呼が伊都にいるのなら、そんな面倒なことはせずに、直接卑弥呼の王宮に届ければいい

合理的な考察ができる人なら、そんな頓珍漢な説は考えつかないでしょう
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:22:42.29
>>371
当たり前ですよ。あなた方畿内説も卑弥呼が中国人だとは思ってないでしょうにw
トンデモはスルー推奨ですよ。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:23:39.96
九州説だが筑前怡土に卑弥呼がいたとは思わないな
私は卑弥呼は筑後山門にいた、怡土の筑前王と山門の筑後王(卑弥呼自身か別人かはわからないがたぶん前者)が倭国王として卑弥呼を共立し筑前筑後がまとまった、という立場
伊都国に一大率がいて諸国を監察したり大陸との出入管理をしているのは、卑弥呼が邪馬台国との関係が薄い大陸や筑前内の取りまとめを伊都の筑前王に委ねているから、と考える
0374日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:24:35.72
卑弥呼の権力なんて13歳の台与と変わらない
あるのは権威だけだ
0375日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:28:03.90
>>369
>つまり女王国ではもはや珍しいもんではない

まさか、倭国(阿波)に「丹」が採れるとは思っていなかったんだろう。
逆に、倭国(阿波)王権が皮肉を込めて「丹」を魏に送りつけているなぁ。  わははははは   @阿波
0377日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:29:34.32
>>374
正にそれ。卑弥呼を過大評価しすぎ。
重要なのは王族の「女」である事のみ。王位継承問題の先送りなのは
壬申の乱勃発前の大海人皇子の提案からも明らか。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:34:33.27
>>355

卑弥呼は伊都にいて、内政は大率に任せていた。
伊都にいた王は卑弥呼本人。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:35:01.95
>>366
なにも証拠なく断定するのが九州説
0381日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:35:30.39
>>376
魏志倭人伝の合理的解釈
あと弥生中期を中心に筑前筑後の境い目の地域でそれはそれは激しい戦争の跡があって複数のクニが滅亡したおり、その戦乱後に筑後側が筑前側と講和し肥後勢力(狗奴国)と戦ったと考えられる
山門に卑弥呼がいたと考える理由は、ヤマトの地名(トの発音の違いは説明可能だが割愛)と、日本書紀の山門の田油津媛が卑弥呼そっくりのキャラと政治体制で後裔と考えられるから
0382日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:37:07.51
>>374
>>377

そう主張する根拠を教えてください

私は魏への使者を送ったのも卑弥呼の考えだったと思います
あなたは、そうは考えないのだとしたら、誰の発案だったと想定していますか
0383日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:37:27.23
>>378
オレ様の
結論を言い張るだけ
なにも理由が言えない

それが九州説
0384日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:38:03.59
畿内説は文献無視の考古学バカだから文献との整合を根拠とは考えない
だから畿内説は自説が魏志倭人伝や記紀と著しく不整合でも平気な顔
0385日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:39:14.60
>>378
あなたがそう主張するのは魏志倭人伝のどの文章に基づいていますか?
0386日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:39:30.37
「考古学は畿内説」ではない
「文献無視の考古学バカは畿内説」が正しい
0387日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:39:51.83
>>384
ト骨、北東で不整合の九州説の一部もいるが?
0388日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:39:58.64
>>371

逆に、卑弥呼が畿内にいるのなら、伊都からまだはるばる荷物を運ぶのに、開封して中身を確かめることはしないでしょう。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:40:04.62
>>382
巫女の卑弥呼が軍隊を持ってたとかおかしいでしょ
共立した王達は戦ってたんだから勿論軍隊を持ってる
0390日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:40:22.66
>>381
合理的って、どこが?
0391日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:41:48.63
>>388
なので邪馬台国は近畿
卑弥呼は共立で九州へ。
で無問題
0392日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:41:50.20
>>373

伊都の倭王が失脚して、筑後山門から卑弥呼が共立されて伊都に入ったが、親戚の卑弥弓呼が肥後で従わなくなった。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:43:08.00
>>377

そうそう。
だから共立されて、前王の代わりに伊都にいればいい。
逆に他のところにいたら意味がない。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:44:34.61
>>382

倭王となる条件

博多湾沿岸を支配すること。
中国から博多湾沿岸つまり倭の王として冊封されること。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:45:03.06
>>385

「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:45:06.47
>>391
続き
なので
邪馬台国連合とかはない
卑弥呼連合はある。
邪馬台国には支配する力などない
女王国の国々のひとつに過ぎない。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:46:05.13
そもそも前漢~西晋あたりの時期の中国にも日本列島側にも現在の「日本」に近い広域の「倭」の概念は存在せず、「倭」とは中国側が先祖が呉から来たと自称し入墨・潜水漁撈を特徴とする人々が住む対馬海峡界隈(北部九州+朝鮮半島南部)を呼んだ言葉だ
だから親魏倭王とは魏の冊封体制における北部九州の王の意味になる
この中国史書に出てくる「倭」という言葉を今日の日本人が勘違いして現代の「日本」のような日本列島上の広域を指す言葉だと思い込んでいるから、畿内説だ阿波説だと珍説が出てくる
0398日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:46:28.15
>>397
九州もな
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:47:27.13
>>384
>畿内説は文献無視の考古学バカだから文献との整合を根拠とは考えない
>だから畿内説は自説が魏志倭人伝や記紀と著しく不整合でも平気な顔

こういう具体性のないキメ台詞しか言えない九州説って
誰かに教唆されてるだけでしょ?
その証拠に
自分がそう主張する理由を聞かれると
逃げて逃げて逃げまくる
0400日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:48:23.03
>>388
私は一大率は帯方郡がおいていた役職だと考えています
理由は漢字の職名であること 卑弥呼が任命した官名ならやまと言葉の官名の音だけを漢字で書き表していたはずだと考えます

一大卒が伊都にいた理由は、郡使も常駐しており、ここまでが帯方郡の責任範囲で、帯方郡から伊都まではに発生する不正に対応するためと考えます
検察はそのための最終チェックで、そこから後は、倭国の責任ということだろうと思います
0401日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:49:30.01
>>395
九州説は、何でそういうウソつくの?
まるっと捏造じゃないか
0402日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:52:29.93
>>400
ないな
0403日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:53:11.04
>>394
>卑弥呼の権力なんて13歳の台与と変わらない
とする根拠にはならないような

卑弥呼に権力があると、なにかあなたの説に不都合が出るのですか?
0404日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:54:54.35
>>393
いいね。説は違えど既存の説脱却
別視点や根本的に見直す。
邪馬台国や卑弥呼の過大評価
願望定義、邪馬台国と卑弥呼一体思考から脱却
0405日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:56:02.55
>>400

帯方郡が置いたのなら魏の制度のもとにあるはずだが、そのような記事はない。
伊都では倭の中でも特別に漢字の利用が進んでいたのだろう。
伊都の名称も、漢字を理解する倭人が倭の卑字を避けたものかもしれない。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:56:07.89
>>391
あなたの主張は魏志倭人伝のどの文章に基づいたものですか?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:56:39.83
>>406
全部
0408日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 19:57:16.85
>>404

いいね。
見直しは大事。
私も見直しを重ねた結果、筑後説から伊都説に鞍替えした。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:00:04.82
>>403
その書き込み伊勢遺跡説の俺でレス番は他人
逆に何故権力があると思えるのか?
兵士にも感情があるし知らない巫女の為に戦えるか?
共立した豪族には兵士というより家臣が付いてるんだぞ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:01:45.10
>>408
おーいいね。説は違えど
ええ事と思う。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:06:47.59
>>405
朝鮮半島にも一大卒は置かれていたと思います
0412日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:07:27.17
>>407
答えになっていない
簡明に述べなさい
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:08:00.79
>>409
>逆に何故権力があると思えるのか?

倭人伝にそう書いてあるから
諸国から畏憚されるような刺史みたいな官を置いている
伊都国王は統属している
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:09:13.98
>>413
刺史のように見えただけだから
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:09:47.15
>>412
まずはどこを聞きたい?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:10:25.91
>>409
それはあなたの感情に基づく推測

ここは、史料を提示して議論する場
0417日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:11:08.32
>>414
だな。使者側の解釈
実際は定かではない
0418日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:11:27.64
>>411

百済に大率という制度の記事はあるけれど、中国の制度ではなく、あくまでもそれを真似た冠位十二階のようなもの。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:11:33.37
>>416
なんもおかしな事を書いてると思わないが
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:12:09.03
同調者がいないから自ら同調者も演じる
それを自演と言います
ネットで対話する場合、最も卑怯な態度です
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:13:04.03
>>414

どこが刺史のように見えたかというと、王都である伊都から出かけて、伊都の周りの玄界灘の国々を検察して回っていた様子が刺史のようであると。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:13:11.52
>>408
根拠がないからフラフラする
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:13:36.13
>>420
ひとりごと?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:14:55.02
>>415
あなたの主張の基になった魏志倭人伝の記述
複数あるのなら、とりあえず一つ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:16:18.92
>>418
中国の制度をまねたものだと思います
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:17:22.54
>>421
>どこが刺史のように見えたかというと、王都である伊都から出かけて、伊都の周りの玄界灘の国々を検察して回っていた様子が刺史のようであると。

間違い

刺史は王都から出かけない
地方都市に事務所を置いて、事務所のある郡も含めて州を検察する
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:17:42.61
>>424
男王でなくイレギュラーな女性で
さらに共立だからだよ。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:18:22.07
>>421
そこは解釈で俺は違う
使者を送り届けてるんだし明らかに軍隊
諸国が畏憚するのも矛盾しない
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:18:50.65
>>419

>兵士にも感情があるし知らない巫女の為に戦えるか?
>共立した豪族には兵士というより家臣が付いてるんだぞ

は何の史料にも基づかない、単なるあなたの感想というか感傷
0432日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:19:27.32
>>427
王都から出かけるのは何?
魏志倭人伝に記述はあるのだろうか?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:20:06.17
>>423
自演を演じている者への指摘
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:20:15.32
>>431
じゃあ俺の書いてる事は間違ってると言えるのか?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:20:42.55
>>433
いるのか?
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:21:55.87
>>428
偶然同じ官職名になったと思うほうがおかしい
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:22:19.86
>>420
おまえが卑怯とか言うか?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:22:48.04
>>426
>畿内説よりはマシ

どこが?
具体性がない

>決定打は平原遺跡

なにが決定打だか不明
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:23:58.47
>>429
それが、
>あなたの主張の基になった魏志倭人伝の記述
なのか?
いい加減にしなさい
あなたほど議論するに値しない人物も珍しい
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:25:43.39
>>430
使者を送り届けたとか
倭人伝に書いてない
0441日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:26:18.23
>>434
正当、不当をいう価値もない

共立の意味をくみ取って身命をかけて尽くそうとした兵士もいたろう
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:26:25.32
>>439
意味不明、あげたのに文句いう
珍しいな。なら質問するよな。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:26:43.78
>>440
警備なしで行くのか?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:27:40.89
>>435
いる
私のコメに引きずられている人物だろう
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:27:50.18
>>441
豪族の首長の命令であればな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:28:28.89
>>437
君が自演者か?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:28:44.62
>>444
卑怯者は君
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:28:46.05
>>432
無意味な質問だね
刺史は首都には置かれない官なのだから
刺史のような大率の置かれた伊都は首都でない地方都市
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:29:15.59
>>448
大倭は?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:29:59.04
>>442
答えになってないレスを返したから
0451日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:29:59.33
>>448
勅使のようなもんですがね?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:30:02.18
>>446
俺はいつもおまえの相手してる伊勢遺跡説だよ
おまえはいつもの不誠実な卑怯者だろ?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:30:59.36
>>447
私のどこが卑怯だというのか?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:31:26.74
>>443
倭人伝無視で捏造するなってことですよ九州説さん
0455日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:31:44.50
>>450
答えになっているからね。
気にいらないだけだよ。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:32:17.81
>>454
伊勢遺跡説だっつってんだろうがよ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:32:48.78
>>453
まず、レス番 ふらない。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:33:32.61
>>456
ナリスマシだろ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:33:56.68
>>452
君が常々自演をしているのは気づいていた

緑色のネームと青色のネームを使い分けて、不自然な君の発言への同調をする

今日は、回数が多すぎたので指摘したまで
0460日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:34:02.52
>>452
相手にしていたけ?
0461日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:34:26.69
あのさ、何説でも良いけど書き込み内容にレスしてくれない?
0462日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:35:23.69
>>449
無関係
0463日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:36:12.34
>>462
なんで?大倭はなんなの?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:36:21.43
>>457
レス版を振らなかったのは、せめてもの配慮
それで、判られているんだと気づいて止めてほしかった
0465日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:37:49.28
>>464
レス番でした
0466日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:38:51.17
>>464
余計な事、ハッキリとふればいい。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:40:26.56
>>427

部分的に似ているだけ。
完全に同じとは書いてない。
ではどこが似ているのかというと、伊都以外の地方を検察してある部分が似ている印象だった。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:41:29.70
>>466
「卑怯」といったり「余計な事」と言ったり
どちらなんだ?
0469琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 20:42:15.74
刺史は、その通り。伊都は統属国のひとつ。おそらく倭奴国の現在の説明、そして帥升が住むこと7.80年の場所が別にある。卑弥呼は纏向、箸墓は道教の指導者の墓、卑弥呼の墓。これは動かせない。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:42:44.48
>>467
伊都以外の地方を検察してるとか
倭人伝に書いてない
捏造ダメ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:43:28.81
>>430

貿易の管理は軍の仕事ではない。
女王の城が近ければ、軍隊でなくても運べる。
諸国が畏怖するのは、逆らうと地位を剥奪されるから。
軍隊である必要はない。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:44:21.41
九州説は倭人伝無視してばかりだね
0474日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:44:29.47
>>469
帥升が住むこと7.80年の場所が別には無いな
其大倭王居邪馬臺國
0475日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:45:56.02
>>436

偶然同じだなどと言った覚えはない。
むしろ同じもの。
しかし中国の官位ではない。
そして、百済の大率は中央官僚。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:45:58.98
>>471
使者に護衛なしはあり得ない
0477日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:46:35.67
>>468
両方
0478琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 20:46:37.85
別とは倭奴国とは違う場所ということで大津かもしれない。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:46:46.99
>>472
>女王国から北を検察するとある。

そんなこと倭人伝に書いてないですが?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:49:36.58
>>475
百済に大率という中央官僚はいない
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:50:36.32
>>475
>むしろ同じもの
同意、私もそう思う

発令者が違うだけで、同じ職務を行ったのだろう
国の規模によって、一国に一名配置されていたものと思う
0483日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:51:20.43
>>474

ほとんどの学者は、帥升も倭奴国王と同じく博多湾沿岸にいたと考えている。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:51:37.65
>>477
とにかく、今後はそんな愚かなことはやめなさい
0485日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:52:46.65
>>483
誰だい?その学者て?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:52:53.63
>>476

もちろん護衛ほついている。
帯方郡を出たところからずっと。
もしくは倭人の案内人は狗邪韓国を出た時からずっと。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:53:54.57
>>484
なんで聞くのかわからん
答えたに過ぎない
0488日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:54:09.47
大率の仕事は、軍事よりむしろ、抜け荷や横領の摘発ではないのか?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:54:55.97
>>488
大倭は?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:55:10.42
>>480
>では、女王国から北を検察するというのは、どこを検察しているのか?


女王国から北を検察するとか
倭人伝に書いてない
0491日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:55:13.59
>>486
それが軍隊だよ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:56:13.69
一大率が女王以北を監察する、は要は筑前諸国を監察していると私は解釈する
邪馬台国(山門)や投馬国(上妻・下妻)は筑後で女王直轄
筑前側は世々筑前王のいた伊都国が取りまとめている

魏志倭人伝に王がいると書いてあるのは伊都国・邪馬台国・狗奴国であり、それぞれ筑前勢力・筑後勢力・肥後勢力の王であると考える(筑前王は筑前筑後連合=倭国王として卑弥呼を共立)
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 20:56:34.29
>>481

どうして畿内説はこうも平気で嘘をつくのかな?

官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。

率は帥と同義であり、倭(九州北部)における行政最高官のこと。
最初の帥の記録は「倭王」とされた帥升であるが、なぜか王のはずなのに自ら漢を訪問したことになってしまう。実は王ではなく帥だったのだろうと考えられる。
律令制においてはこの役職は太宰の帥と呼ばれた。
最後の帥は有栖川宮熾仁親王であり、明治2年に帥の役職は廃止された。
0495琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 20:58:35.10
帥升が伊都周辺に居たものならば、倭奴国が伊都でない場所になる。それはないだろ。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:01:00.39
>>482

違う。
倭の大率を真似て百済が冠位十二階のようなものを定め、それをさらに真似て倭が冠位十二階を定めたということだろう。
ベースにあるのは中国の制度だろうが、中国が定めたわけではない。
魏志倭人伝には、中国が倭人に与えた官位は別に記載されている。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:04:41.20
>>493

似た考えだが、卑弥呼が倭王として冊封されるためには、倭つまり博多湾沿岸に入らなければいけない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:06:30.01
>>495

ちょっと何を言っているのかわからない。
王は代々伊都にいたとあり、それには帥升も含むのだが?
0500日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:07:04.46
>>496
私は>>475に同意した者

君が>>475に同意できないのであれば直接コメントしたほうがいいと思う
0501日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:07:10.78
私は一大国が一支国の誤記であるのと同様に一大率は一支率の誤記ではないかと考える
壱岐の方向すなわち海洋・大陸との間の出入管理や税関の役割を果たすことを示す官職名ではないかと
同時に国内(筑前諸国)の監察の役割も持っていたが
0502日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:07:52.45
>>381

山門説は国学者が山門のホラこき穢れ盗人酋長と考えたというだけの説
山門は大和民族と考えられてなかったということ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:08:49.11
>>498
私はむしろ玄界灘から見て内陸の筑後にいたにも関わらず玄界灘諸国が卑弥呼を女王として仰いでいたことを魏が評価したと考える
0504琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 21:08:52.81
倭には文字が無い、帥升は使いでは無いな、倭面土国王だろ。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:09:27.40
どこかの時点で、倭は王都を早良区から糸島市に遷都した。
しかし遠い洛陽の都から見れば、どちらもほとんど同じ倭奴国であった。
郡使が直接訪れて、奴国と伊都国の区別がつくようになった。
その時点では糸島市に遷都してかなりの年月が経っていたので、魏志倭人伝には王は代々伊都にいたと書かれた。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:10:32.02
>>502
大和民族は後世の概念
3世紀の邪馬台国がどのようなクニであったかの考察とは全く無関係
0509琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 21:11:53.43
その国元は男王住むこと…。倭奴国から続くなら住むこと120~130なんですよ。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:12:01.40
>>381

山門説は国学者が山門のホラこき穢れ盗人酋長と考えたというだけの説
山門は大和民族と考えられてなかったということ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:14:54.07
>>388

女王国領である属国の港まで郡使が持ってくるからそこで監察官に受け渡して
倭船に積み替える
0512日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:14:55.95
>>503

その可能性はなくはない。
ただ、その場合に筑後山門が倭すなわち博多湾沿岸の別種であり博多湾沿岸を併合したと書かれてしまうのではないか?
卑弥呼が筑後山門の出身であったも、倭王と呼ばれるためには博多湾沿岸に入る方が確実。
筑後にいたままで倭王に冊封されるためには、後漢書にある金印を所持していたなど、ハードルが上がるだろう。
せめて太宰で手を打たないか?
太宰府羅城の最下層の木材は卑弥呼の時代のものだそうだ。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:16:37.36
>>509

途中で王統が入れ替わった。
男王70年が日向三代なら、その前は大山祇海祇の別の男系王族になる。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:17:25.54
>>511

倭国の国境は狗邪韓国。
そこからは倭船。
倭人のみが渡海能力を持っていた。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:18:44.21
>>497
同じだと思ってるよ
おまわりさんなんか居ねえよ
0516琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 21:18:56.15
また、勝手な解釈か?陳寿は倭奴国、帥升等を説明しているんだよ。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:20:16.99
>>511
輸出は?
0518日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:21:15.88
>>397

朝鮮半島南部は倭国ではない

倭人在帶方東南大海之中(倭人伝)
倭在韓東南大海中(後漢書)
0519琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 21:24:32.87
大率はおまわりさんみたいなもんでもあるよ、
卑弥呼の姦令組織なんだな。だから畏怖してるわけだ。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:24:35.02
>>518
北岸とか倭と接するとある
この辺が資料のつなぎ合わせ
0521日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:25:38.42
持蓑の記述がある。
他の船に乞食が乗っていても、郡使は気にしなかったろう。
だがその男は郡使が乗る船に乗ってきた。
臭かったろう。
郡使は、なぜ私と同じ船にこんな奴を乗せるのかと聞いたのだろう。
そこで倭人は、渡海には必要な人物だと説明した。
つまり狗邪韓国からの渡海ですでに倭船に乗り換えていたことは間違いない。
伊都で荷を改めたのは、そこが終着地だったから。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:26:23.23
帥升の時代の我が国の最大の都市遺跡は伊勢遺跡
そこが当時の倭国の都だったと思う
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:26:29.93
>>519
卑弥呼が権力を持ってると思いたいのな
巫女にそんなもんねえよ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:27:56.39
>>522
>帥升の時代の我が国の最大の都市遺跡は伊勢遺跡

調子に乗るな!   @阿波
0528日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:29:29.52
>>522

列島で最大であったかどうかは関係ない。
中国から見て代表は誰かということ。
その者に倭王としての外交権を与え、国書のやり取りに必要な金印を与えた。
魏は後漢の与えた金印を倭王の名で更新しただけ。
違う地域の王に同じ倭の名前で金印を与えたりはしない。
筑紫と畿内なら、中国のスケールでも別の国になる。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:29:48.22
>>512
そもそも卑弥呼は中国から倭王と呼ばれたがっていた訳ではなかろう
公孫氏を滅ぼして帯方郡を接収した魏が周辺諸国に朝貢を促す使者を玄界灘沿岸に送ったことで、女王卑弥呼は急遽朝貢の使者を出した
この時の献上品は割とみすぼらしいので、卑弥呼は帯方郡に朝貢するつもりだったと私は考える
しかし倭国が割と文化や民度が高く使者もちゃんとしていたため東夷の朝貢の目玉になると考えた帯方太守劉夏の判断で使者の難升米・牛利を洛陽まで連れて行ったのではないか
0530日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:30:10.79
>>521
持蓑は狗奴国について記述した部分に登場する
熊本から中国大陸本土に直接航海した記録だと思う
0531日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:31:39.38
其行来渡海詣中國?
狗邪韓国経由?
0533琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 21:31:50.96
宗教の指導者で布教し付き従ったものらが畿内に腰を据えたのよ。張魯と同じやり方さ。自然に権力を得ていくんだよ。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:33:18.75
筑後なら、邪馬台国七万戸に含まれただろう。
だから筑後説を否定するのは難しい。
だが弥生時代の交通事情では伊都から日帰りできなくなる。
筑後に卑弥呼がいたのなら、伊都から何里とか記載があったはず。
もしかするとその時だけ卑弥呼が伊都に出向いたかもしれないが、引きこもりの描写からはなかなか難しいだろう。
まあ、なかなか会えないからこそ、姿を見るものは少ないなどと愚痴をこぼしたのかもしれないが…
0535日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:33:42.05
>>831
半島を経由しないで直接中国大陸

だからこそ必死の祈祷も必要だった
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:34:59.28
>>534
筑後が伊都国かもしれんな
0537日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:34:59.76
>>530

そんな航路の記事はない。
魏志倭人伝は雑多な記事を少ない文字数で書き込んであるので、前後の文と関係ないことも多い。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:36:02.13
>>536
東南500里だしな。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:36:30.59
>>528

筑紫は一番南の倭奴国
女王が共立されて誕生した女王国は畿内から博多に及ぶ広域の連合
伊都国はその属国
0541日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:36:34.44
>>538
楽浪帯方土器が少ないから採用
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:37:28.92
>>537
だから日本の倭人だけの記事と半島の倭人を含めた記事が混ざってるのよ
0544日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:42:09.84
>>541
ちょっこと寄ればト骨だしな
0546日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:43:01.53
>>545
近畿は無問題
0547日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:43:34.74
卑弥呼の鬼道の基盤は三輪山信仰
これは三輪山自体をご神体とする
三輪山は大国主神が国造りをしていた時に現れた光り輝く神、これを祀ることで国造りを終えた
天孫が降臨する以前の出来事

巫女が祈ると大物主神が憑依してご神託を告げた

だから、卑弥呼がご神体を離れることは原則できない
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:44:12.40
宗教的権威の女王がいたのが筑後山門
大陸との玄関で実務を仕切っていたのが筑前怡土
その連合が倭国であり女王国
0550日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:45:07.61
>>547
魏志倭人伝に大物主は出てこん
0551日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:46:27.89
>>550
記紀の人物なんか誰も出てこん
0552日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:46:47.06
>>548

その通り。
そして郡使が伊都から動かない以上、郡使は伊都で卑弥呼にあったはず。
もしくは奴国か不弥国。
ただ、それならそれらしい記述が欲しいところ。
しかし魏志倭人伝にあるのは、王は代々伊都にいるという一文。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:47:04.87
>>551
当然、異なるもの
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:48:17.94
>>552
近畿まで広がるよ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:48:54.47
>>555
別時代な。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:49:22.95
>>549
三輪山は知らなくとも卑弥呼が巫女として人々を惹きつける技を用いていたことを記している
卑弥呼の都・卑弥呼の墓は、三輪山のそばにある
いや、三輪山があったからこそ、そこに都し、墓もそこに造営された
0559日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:49:48.35
>>547
奈良三輪山信仰は、8世紀から。   @阿波
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:50:32.27
>>545

九州島は弥生中期に関東まで拡がった倭人の風習である卜骨が
まったく拡がらなかった非倭人の島
倭種は畿内から博多に及ぶ女王国連合には参加しなかった東海から関東の倭人
筑後は九州でもっとも前方後円墳が造られるのが遅い未開拓洪水地帯
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:50:55.99
>>550
魏の人々は知らないで不思議な技に驚くだけだったのだろうが、今の私たちはその技が何だったのか、はっきり判る
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:51:49.51
後世の中国の史書が疑問を呈しているではないか
この日本と名乗る連中は我々が昔から知っている奴国あたりの倭国とどういう関係なのか?と

古代の中国が認識していた「倭」は日本列島を広域に指すのではなく、北部九州および対馬海峡一帯のことだ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:53:33.68
>>562
そんな事は書いてないな
「おまえら何言ってんの?」
0565日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:54:12.98
>>560
未開なのに絹も出土
鉄も出土、銅鐸も出る。
土器も山陰から東海までの土器も出土
水銀朱が使われたもんも出土
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:54:48.12
>>563
不勉強なのか、畿内説脳がいつものように都合の悪い事実を拒絶しているだけだ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:55:12.79
>>562
記述はない。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:55:43.11
>>566
誠実に書いてるから
0570日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:56:02.14
畿内説は例え事実でも自説に都合が悪ければ拒絶する
学問かよそれで
0571日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:56:59.53
>>569
吉野ヶ里
0573日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:57:41.52
韓伝と倭人伝の一里は距離が顕著に短い
これは意見ではなく事実だ
しかしこれを認めると畿内説が崩壊するので彼らは断固拒絶する
0574日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:58:01.15
>>563

それは倭人に対してではなく、日本人に対して言ったこと。
お前ら、倭とどういう関係?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:58:25.23
>>573
近畿説は無問題
0576日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:58:35.51
>>559
>山ノ神遺跡は大正7年(1918年)5月に偶然発見されたものである。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われた。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていた。調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされるが、残った遺物には、小形の素文鏡3つ、碧玉製勾玉5つ、水晶製勾玉1つ、滑石製模造品の子持勾玉1つ、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、神具#案#案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などがあり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られている[6]。その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセットが歴然としている他、三輪山の神が農耕神としての一面を持つことが興味深く表れているといえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 21:58:47.45
>>574
それも書いてないな
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:03:01.72
>>576

魏が認識できないところで何をやっていても無意味。
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国とは関係ない。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:03:38.40
倭人伝の一里を70m程度とすると、一里=三百歩の定義から一歩は23cm程度となる
しかしこれでは径百歩(23m)の卑弥呼の墓として箸墓がとんでもなくオーバーサイズになってしまい、箸墓=卑弥呼の墓の前提で積み上がった今の畿内説は完全に崩壊する
なので、倭人伝の一里が短い事実を宗教的信念でもあるかのように彼らは強烈に否定する
誰でも電卓かエクセルで計算すれば倭人伝の一里が短いことはすぐわかるのに、だ
それが今の畿内説の体質だ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:04:05.29
>>569
ト骨は
牟田寄遺跡
西蒲池池淵遺跡
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:05:22.70
>>580
一里が短い理由は何よ?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:05:40.70
>>578
意味不明 筑後平野だが?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:06:49.62
>>579

3世紀前半の博多の首長は纏向と密接な交流関係なので
魏使が博多に来て畿内を認識できないということはない
博多とほぼ交流が無い九州内のことは認識できないことはありうる
0585琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 22:07:29.67
573.それは世界地図すら理解している今の認識だから言えること。初めて太陽系をでる、次までなんキロ、つぎなんキロ、技術なくして目測でわかるか?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:09:24.43
>>585

だから目測でわかるギリギリが千里なんだろ。
対馬海峡が三千里な理由。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:09:36.56
>>582
理由はローカルルールの短里か、司馬懿の公孫氏討伐の報告書に書かれたであろう露布十倍か、あたりだと思われる
ただし大事なのは理由ではなく、電卓かEXCELで計算すればバカでもわかる「倭人伝の一里は顕著に短い」という動かしがたい事実の方だ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:09:59.19
>>586
まあ、水行30日陸1月の
情報不足のど田舎がちょことあるだけだしな
0590日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:10:19.24
>>579
卑弥呼の鬼道がどういうものだったかを探ることは重要
卑弥呼は大国主神の巫女だった
0591日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:11:04.10
>>588
そんなものは無い
0592日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:11:10.45
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:11:15.09
>>590
大国主神は魏志倭人伝に登場せず
別時代のもん
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:12:04.75
>>588
理由は大事よ
みじけえんだからしようがねえだろ、では納得しない
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:12:21.92
>>583

神埼郡を筑後という人はいない
筑後川から佐賀側が筑紫平野の佐賀平野
0596日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:12:48.56
>>588
事実だという証拠が無いですね
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:13:14.22
>>595
佐賀平野でもいいが?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:14:13.82
>>559
消えろ。藤井のウンコ。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:14:20.98
>>595
君もおもろいよ。
筑紫平野の佐賀平野
0600日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:15:01.44
>>580
一里は300歩、この歩は今の一歩の2歩分1.5m程、100歩は150mほど
卑弥呼の墓の後円部の直径と一致している
0601日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:15:05.92
理由無しよりは陳寿が書き間違えた方がましよ
0603日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:15:11.17
>>598
阿波爺 だっ糞爺
0604日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:15:23.87
>>586

3世紀の博多の首長が九州よりももっとも気にかけたのが畿内
中国人にとって興味がある産物も本州側
0606日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:17:34.12
>>601
移し間違いや
情報不足もあるな。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:17:43.96
>>603
奈良三輪山信仰は、8世紀から。   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:18:50.17
>>608
住んでいたけど?
0610琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 22:20:05.86
はっきり言おうか、大物主とは万物の神だよ。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:20:35.52
>>590
山ノ神遺跡は古墳時代中期の岩陰祭祀遺跡と確認されている
0612日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:20:50.13
まあ理由よりは事実の方が重要だが、理由としては私は露布十倍の可能性が高いと考える
公孫氏を討伐した時の総司令官司馬懿の報告書は魏の内部にあるだろう
司馬懿は陳寿が仕える晋朝の事実上の創始者(即位はしていないが宣帝と諡されている)なので、その数字を変更なく魏志の韓伝と倭人伝に陳寿が記載したことは十分にあり得る
またこれによってクシャーナ朝よりも邪馬台国の方が数字の上では遠いことになるので、晋朝に忖度する陳寿の立場としてはますます好都合だ
0613日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:22:08.30
>>610
親もいれば子もいる。根拠のない妄想はチラシの裏にな。
あと、松沢病院の予約だ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:22:16.78
>>612
超デカい大陸なんだろうな。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:23:35.71
>>614
超デカい大陸並みの島々だな。
スマホ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:24:16.61
>>605
一歩は人間の体を基にしているから変わらない
誰でも、どこでも、歩数で距離を測ることができる

里は歩を基にしている、一里を決めてから300分の1を一歩としたのではない
0617日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:26:06.88
>>611
>>593へのレスでした
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:28:16.21
>>616
一里が露布(十倍)で表記されれば、一歩も露布(十倍)で表記されることになる
露布は恣意的に適当にやっていいのではなくきっちり十倍で揃え無ければならない
径百歩は露布ルールでは通常の径十歩に相当する
0619日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:28:26.95
>>612
つまり改ざんであって短里なんて存在しないって事だな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:30:02.10
>>617
俺だったのね。ありがとうございました。
でも古墳時代中期ですね。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:31:33.58
>>616
累計かもしれんよ。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:31:39.77
>>612
露布とわかっていたら金印が与えられただろうか?
曹爽の父親が西方の大月氏国の使いを万六千里彼方から連れてきたことの対抗して万七千里(帯方郡から万二千里)って事にしたのではないだろうか?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:33:23.97
倭人伝の里数に露布ルールが採用されているとすると、露布の径百歩=通常の径十歩=23m程度となり、祇園山古墳がドンピシャのサイズとなる
0625日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:36:19.61
>>624
で被葬者は?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:38:09.96
>>626
残っているの?
0628日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:43:12.27
>>616
箸墓古墳の大きさは張政が規模を把握して径は百余歩と記された
古墳が完成していなかったかもしれないが規模は把握できたのだろう

>政等は檄を以って、壱与に告諭す。
>壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:44:34.60
>>628>>618へのレスでした
0631日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:48:00.21
余 里なんだろうな
0632日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:50:51.62
>>621
大正7年に偶然発見された祭祀遺跡については年代が古墳時代中期以降とされた
三輪山には3か所の磐座、の他多くの祭祀遺跡がある
辺津磐座(へついわくら)、中津磐座(なかついわくら)は他、現在でも禁足地となっているものがある
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:51:45.19
>>622
意味が取れない、詳しく
0634日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:55:48.99
>>624
露布ルールは採用されないので祇園山は非該当だ
0635琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 22:56:22.83
ま~だぁ、祇園山を言っとるのか。阿人の墓だと言ったはずだ。祇園山=牛頭山だろうが、秦王国の祖だな。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 22:59:29.00
三輪山
聖水思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1

>考古学者石野博信の説によると、三輪山麓には聖水思想が古代から存在したことが指摘されている。纏向遺跡尾崎花地区の井泉と家ツラの導水施設は、古典で言う井水を浄化して聖水とするための施設であると推測し、「三輪の磐井」と呼ばれる井泉があり、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)と「三輪の磐井」のほとりで戦った御馬皇子が、「この水は、百姓のみ唯飲むこと得む。王者は独り飲むこと能(あた)はじ」(『日本書紀』雄略天皇即位前紀)と呪詛したことを挙げ、5世紀頃の三輪山麓に聖水思想があったこと、それが纏向遺跡の「尾崎花の井泉」によって、3世紀にまで遡ることが分かるとしている[8](ただし、いくつか疑問点も残している)。

三輪山の聖水思想が纏向遺跡の「尾崎花の井泉」によって3世紀にまで遡るとする説もある
0637日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:05:48.05
>>633
使者が何回きたのだろうか?
4回とすると8倍の1000余里。
一区間125里とか?
どうやって測ったのかは定かではない
0638琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 23:06:49.51
お酒の神様だよ。薬、
大祭酒さ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:08:25.89
>>638
巫女のお仕事
含み酒とかあったような?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:10:34.70
>>637
悪いが卑弥呼の墓の寸法関連で対話していた
君の推論は君自身で検討してほしい
0641日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:14:51.61
「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」

大物主大神を厚く敬った崇神天皇は神に捧げる御酒を造るために、高橋邑の活日を掌酒に任じました。活日は酒造りの杜氏の祖先にあたります。そして活日は一夜にして美酒を醸かもしたと伝わります。崇神天皇8年冬12月卯の日に大神への祭りが行われた後の酒宴で活日は御酒を天皇に捧げてこの歌を詠みました。

大物主大神自体が酒と関係しているわけではない。無知は消えろ。

0642日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:18:10.34
「倭なす大物主」の祀られていないところに王都などないわけです。
0643日本@名無史さん
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2022/12/22(木) 23:24:26.91
>>640
墓の話か?
まあ、頑張ってね
0644日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:31:39.67
博多に3世紀前半の85m那珂八幡があるから
大いに作った女王の冢がこれより小さいということはない
0645琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 23:36:56.00
大物主は万物の神だよ。
ばかもの。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/22(木) 23:48:29.38
大物主
その他
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

>明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。


>日本酒の造り酒屋では風習として杉玉を軒先に吊るすことがある。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれる。
0649琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/22(木) 23:51:46.63
陳寿の鬼道とは老子道徳経以外にない。列島の始まりはここから。倭が理念を持ったはじまり。
すべての事象と整合性がある。本居のようにただそれを認めるわけにはいかないだけ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭国・邪馬臺国・女王国

これらすべては別概念。
別概念だからこそ別の名称が付されているわけです。

・「倭国」は単純に倭人が住む地という地理的用語
・「女王国」は女王共立に参加した国々
・「邪馬臺国」は共立諸国におけるリーダー格を指します
デロス同盟におけるアテナイの様な物です
0652日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

①魏志倭人条「烏奴國の次が奴國。ここが女王の境界」
つまり、女王国の西端は関門海峡なのです。

②そして九州諸国は女王共立に参加していなかったのでしょう、女王国に征服されてオブザーバー参加の様な形になりました。
一定の独立を保っていたわけですね。
だから九州の中心たる伊都国記事だけ、代々王が居たとか特筆されているわけです。
0653日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【オブザーバー参加だった九州、いつ畿内の皇室と一体化したの?】

A.畿内の皇室と九州とは4~5世紀に一体化していたと考えます。

キーとなる国は魏志倭人条(2-3世紀倭国の様子を記す)に登場する伊都国。

伊都国出土鏡が、皇室のレガリアたる「八咫鏡」の特徴「八頭花崎八葉形」を備える唯一の鏡だという事は有名ですが、加えて応神天皇出生比定地も筑前国【怡土】郡長野村蚊田なのですよね。
https://i.imgur.com/FJmR5rX.jpg

※応神天皇は九州から畿内にやってくる史上二人しかいない天皇(もう一人は実在しない神武)
0654日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

伊都(怡土)で生まれたとされる応神天皇。彼が伊都国のレガリアを継承し畿内に持ち帰る事によって、畿内による九州支配が名実共に確立されたのでしょう。
事実、応神以降の大王墓には九州産の石が使われる様になるなど、関係の深化を伺う事が出来ます。ちなみに政治の中心も奈良から沿岸の大阪に移ります。

そんな親九州の応神天皇系が断絶し、北陸豪族継体天皇が奈良入りしてから僅か9ヶ月後、九州で磐井の乱が起きたことも示唆に富みますね。
0655日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【九州の覇者だった伊都国】

①代々王が居た。と特筆されている
・王の存在が明記されているのは、狗奴国と邪馬臺国と伊都国のみ。

②多くの官がいる
・三人以上の官が見られる国は、邪馬臺国と伊都国のみ。

③九州諸国で唯一、官に卑奴母離(ヒナモリ=鄙守=辺境を守る兵士)の名が無い
・伊都国は辺境ではない?

④豪華な副葬品を持っていた
・八咫鏡の特徴とされる「八頭花崎八葉形」を持つ唯一の鏡が出土。


以上の4点から、本州女王国に征服される以前の九州では伊都国が主導的立ち位置に居た物と推測します。
そこでは伊都国が各地に「ヒナモリ」を派遣し統治を行っていた。
だからこそ、女王国は敵首脳たる伊都国に一大率を置くだけで「ヒナモリ」の統括をも可能になり、筑紫島北部全域に睨みを利かせる事が出来たのでは無いでしょう。
0657日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【一大率≒太宰府】
倭人条から読み取れる一大率の果たす役割は2つで内政外交。つまり後世「遠の朝廷」とまで呼ばれた筑紫太宰と同じ役割を果たしていた事になります。


①内政
>自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

↓訳
「女王国より以北
(以西と読み替える※1。先述した通り、女王国は関門海峡以東に拡がる吉備・出雲・畿内連合の事なので、それより西とは関門海峡以西の九州を指している。)
は、特に一人の大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」

②外交
>王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

↓訳
「(女王国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、いつも、(一大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
0658日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

※1に関して
「以北を以西に読み替える理由は?」
2つあります。


第一に、350年後実際に都まで行った隋の使者「裴清」の見聞録に基づく『隋書倭国伝』で方角修正がなされていること。

第二に、日琉祖語から日本語と琉球語が分岐したのが1700~1450年前と推定されますから、魏志倭人伝の時代はまだ一緒だったか分岐して間もなかったか。
であればまだ、北をニシと呼称する人々が九州には残っていて、本州女王国から派遣されてきた役人との間で齟齬が生じていた可能性があります。
後世沖縄のニシバル(“北の領地”の意)を日本役人が勝手に西原と変えてしまったように。
であれば一見混同する筈の無い北と西の混同も起こり得るのが理由です。
0659あqas
垢版 |
2022/12/23(金) 03:24:27.40
九州説を許せない古代妄想の人乙、根拠が希薄だな
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 06:46:32.46
卑弥呼の時代には大物主思想はないであろう
鬼道を基に発展したのだろう。
倭人伝に記述がない以上、推測する。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 07:10:15.75
>>662
大麻といえば、阿波忌部。 
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波
0665日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 07:22:57.00
卑弥呼の鬼道はイタコのようなシャーマニズムだと思うが確かめようがないな
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 07:31:12.49
>>663
阿波爺、ヒ素も使われたかもしれん。
水銀ともに出るんだな。
悪女 卑弥呼 
://www.jstage.jst.go.jp/article/geochemproc/68/0/68_124/_article/-char/ja/
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 07:54:52.97
「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う
御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 
南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。
このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 08:18:19.13
>>630
俺もそう思う
海の向こうに得体の知れない奴らが住んでる
その距離が万二千里という事にした
陳寿は行程をその距離に合わせたんでしょう
0669日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 08:21:29.20
考古学者は纒向遺跡は関係ないと言ってるそうだ
>>1はハシゴを外されたのか?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 08:22:59.79
魏志倭人伝の里数は殆どが魏使の報告書に基づいたような具体的な記載なのに、一万二千里だけ観念的な数字とする解釈には無理があるように思う
0671日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 08:37:05.78
>>670
だな。実際にどうやって到着するのかわからん
餘里 「餘」とあり。
なので万二千餘里 は奴国、不彌国ですね。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 08:58:36.87
>>668
>その距離が万二千里という事にした

であるならば、切りの良い「一万里」でよかったはず。

現実に、帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:02:17.62
>>674
帯方郡から「一万里」では大月氏国より近くなるので却下。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:07:00.29
>>669
それ、お前の妄想だから
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:07:01.32
観念論とか持ち出す畿内説は論外
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:10:57.62
>>674
何故1里=70mなのか理由がないと結果から導き出すだけじゃな
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:13:35.44
>>676
考古学者は吉備に注目してるよ
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:21:30.34
>>675
>帯方郡から「一万里」では大月氏国より近くなるので却下。

なら、切りの良い「二万里」でよかったはず。   @阿波
0681日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:23:46.64
>>678
>何故1里=70mなのか理由がないと結果から導き出すだけじゃな

結果から導き出す以外にあるのか? イチャモン付けるにも、まともな理由がいるぞ!カス!   @阿波
0682日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:24:28.01
一大率が検察するのは
1 女王が洛陽、帯方郡、諸韓国に使いを出すとき
2 郡使が倭国を訪れるとき
上記2つのケースで、数の違いや間違いを防ぐため

1のケースで「数の違いや間違い」が発生するとしたら、伊都国から対馬海峡、朝鮮半島南部、帯方郡さらに洛陽までの間
ここで発生する不正を防止する目的だとしたら、それは卑弥呼の使者による不正とは考えにくい 不正を犯すとしたら半島から帯方郡さらに洛陽までの間にかかわる韓人や中国人

2のケースで郡からの手紙、物資をチェックするのは、帯方郡から伊都国までの間で不正が行われていたかどうかを確かめるため 不正が疑われる対象は帯方郡の使者

さらに文章表現で「傳送文書賜遺之物詣女王」とあるが、これは送る側の立場(帯方郡)に立った表現

これらのことから一大率は帯方郡が派遣した役人であると推定できる

だからこそ、「諸国はこれを畏憚す。」となった これは帯方郡が再生したばかりの当時の状況でも、その影響力が倭国までの間に行き届いていたことを誇示するものともいえる
中国は中華思想から、先進地域の自分たちは周辺の未開の人々を導くという使命を感じ、それを為すことに誇りを感じていた
後漢末に5600万人いた中国の人口は三国時代に入るころには780万人まで激減していた 国内での反乱や疫病、自然災害があったとはいえ、この減り方は凄まじい
100年くらいの間に人口の86%が減少した その時代に生きていれば生きていられるのだけで幸運な14%ということになる
だからこそ三国志の時代が始まった しかし、その苦難の時代に倭国に示した先進国の使命感には胸を打たれるものがある
0683日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:31:14.79
>>682
大倭は?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:34:08.29
>>682
>さらに文章表現で「傳送文書賜遺之物詣女王」とあるが、これは送る側の立場(帯方郡)に立った表現
>これらのことから一大率は帯方郡が派遣した役人であると推定できる

違う!
「於國中有如刺史」とあるから、倭国(阿波)の役人のことを、あたかも中国の刺史のようだと言っている。   @阿波
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:35:29.97
>>681
今調べてたら1里=75mてのは周代に使われてたらしくて一応根拠があるのな
そうなると行程も周の時代の記録と考えるのが妥当
0686日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:35:37.34
>>682
卑奴母離がある所とない所は何故?
0687日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:47:18.22
邪馬台国に官4名
中央の行政機関や組織の記述はない。
邪馬台国は中心国ではない女王の都だな。
もっとも邪馬台国に力がありゃ
狗奴国も抑えこんでいるし
卑弥呼亡き後男王たつも千人の犠牲者も
出さない。邪馬台国の過大評価だな。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:48:43.06
>>683
大倭は「倭人の中で身分の高いもの」という意味だと思う

>>686
卑奴母離が置かれていたのは九州の国々
対馬
壱岐
奴国
不弥国

末盧国、伊都国には置かれていないが、例外だったのだろう 何がその例外を生み出したかは判らない
0689日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:49:00.22
もし万二千里が周の時代の記録だと行程も周の時代で伊都国とかも周の時代という事になる
ただし投馬国邪馬台国は別記事
0690日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:51:27.32
>>687
>邪馬台国は中心国ではない女王の都だな。

「邪馬臺国」共和国の首都が、鮎喰川下流域集落群(女王国)   @阿波
0691日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 09:53:14.82
>>687
>もっとも邪馬台国に力がありゃ狗奴国も抑えこんでいるし

力があったので、「壹與」の時代に抑え込んで統一した。   @阿波
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:00:35.32
>>687
>もっとも邪馬台国に力がありゃ狗奴国も抑えこんでいるし

力があったので、「壹與」の時代に抑え込んで統一した。   

と言っても、分裂していたのは「卑彌呼」「卑彌弓呼」姉弟の不仲時代だけ。   @阿波
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:00:51.57
「壹與」はどこの国が立てたのだろうか?
卑弥呼と同じ共立かな?
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:03:00.66
①「倭國亂相攻伐」して、卑弥呼を立てた。
②卑弥呼死後、狗奴国の男王卑弥弓呼が「統合倭国の王」として立った。
③「國中不服更相誅」して、壹與が立った。   
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   @阿波
0695日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:04:28.02
行程は周の時代の記録で日数行程は魏の時代と考えると納得できるな
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:13:46.51
卑奴母離がいたのは伊都国以外の筑前勢力
(対馬・壱岐は厳密には筑前ではないが伊都国と緊密勢力と見られ、また肥前の末盧国には官自体の記載がない)
となると、卑奴母離は筑前王の伊都国が勢力範囲に置いた可能性がある

投馬国と邪馬台国は筑前諸国と官名が異なっており、筑前とは別系統の筑後勢力なのであろう

弥生時代は筑前と筑後が軍事的に激しく衝突した考古学的痕跡があり、その政治的妥協の産物が卑弥呼の共立であり邪馬台国連合としての女王国と私は考える
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:14:53.61
>>695
周の時代には投馬国も邪馬台国もなかっただな
0699日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:19:42.06
>>698
やっぱり投馬国→邪馬台国こそが正しいんだよ
訂正しとくわ
帯方郡→水行十日で投馬国→水行十日で日本上陸→陸行ひと月で伊勢遺跡
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:24:23.25
>>699
ほんまに伊勢遺跡が好きなんじゃのうww  如何に根拠を持っていないのが分かる。   @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:25:48.13
>>700
書かないと九州説と勘違いされるから
0702日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:28:29.89
奴らは纏向箸墓説以外はみんな九州説と思ってやがるあほだから
0703日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:28:29.94
卑弥呼の墓については殉葬100人の墓域を中国風に径100歩と記述された。
里すら知らない倭人は歩という単位も当然知らない。
朝貢の際には殉葬100人としか報告していないはずだ。
そうした倭人からの伝聞を記載した箇所には中国側の勝手解釈を多く含むことを念頭に置いておくべき。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:28:31.94
>>699

どうしたの?伊勢遺跡某?

698の
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州ですが
邪馬台国の過大評価だな。
邪馬台国連合はない卑弥呼連合はある。
水行(略30日、1月)に支配するとか持ち出す
のが間違い。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:28:41.67
>>701
>書かないと九州説と勘違いされるから

九州説と勘違いされる程度の内容なんだな。  わははははは   @阿波
0707日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:30:50.31
>>706
共立かな?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:31:55.66
>>704
何わけわかんない事言ってんだ?
女王国=邪馬台=ヤマト=日本だろ、常識的に考えて
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:35:58.52
ヒナモリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%83%AA

>3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国、ヤマト王権の国境を守備する軍事的長の名称

>筑前国、日向国、美濃国、越後国に残るヒナモリの地名、神社名は、そこに邪馬台国の軍事的長がいたことを意味し、そこが邪馬台国の勢力の端ということを示唆している、とする考えもある。

>ヒナ=鄙とは、本来、近畿に対して、西方や北方を指す語
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:36:26.11
>>708
日本は違うだろ。
饒速日命が名付けたのだから。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:44:45.34
>>708
君の常識ではいいんじゃないか?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:44:49.92
>>709
大宰府など北部九州は、倭国(阿波)王権を皮切りに、後に続く代々諸王権の防人出先機関でしかなかった。   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:48:36.48
現代の常識は古代の非常識
古代の常識は現代の非常識

古代のことは古代の常識で考えないと間違える
0714日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:50:19.38
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

財政、経済
中央集権に近いな。
さて統括はどこにあったのか?
誰が使わしたのか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 10:56:12.96
>>708
妄想ベースの常識は妄想って言うんだよ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:00:59.84
>>713
古代の常識は現代でも常識。

弥生時代にもコペルニクスやピタゴラス級の頭脳の持ち主がいても、まったく不思議ではない。   @阿波
0717日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:02:35.08
>>714
>さて統括はどこにあったのか?

「阿波」での話。   @阿波
0718日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:07:45.77
>>714
>邪馬台国は近畿
>卑弥呼は九州へ

旧説の継ぎはぎ説。   @阿波
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:21:24.66
>>717
法谷寺か?
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:24:59.57
>>718
ハイブリッドだけど
邪馬台国は中心国でもない女王の都。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:26:47.34
ローブリットかな?
まあ、いろいろだな
0722日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 11:32:39.15
「倭」の概念も、現代の日本の概念ではなく古代の中国の概念で考えないと間違える
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:03:18.94
>>714
その大倭がのちのヤマトになる
0725日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:07:06.14
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0726日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:14:38.75
>>725
時代遅れのコピペしか持ってない畿内説はだいたいキナイコシ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:27:40.28
>>714
それ珍しい事じゃなくて当たり前だから
0728日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:27:57.29
狗奴国について書かれている部分にこういう文章がある

>男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。

しばらく後に持衰についての記述がある

>海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。

古代から何度もそうして中国大陸本土に航海しているという

この記録は他の史書にも出てくるだろうか

『論衡』には、周代に3度倭人が訪れたことが記されている

このうち、成王の時代に「倭人は暢草を貢ず」とある
成王の在位は前1042年から1032年、

漢書地理志呉地条では、
>会稽の海の外に東?人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。

後漢書東夷伝では、57年の倭奴国、107年の帥升が生口160人を献じた記事がある

これらの史書について検討すると、明確に倭国からの朝貢は57年と107年
周代の朝貢については、あまりにも古代なので判別ができない

ただ、漢書地理志に言う東?人については、魏志倭人伝の狗奴国から船で大陸に直接渡ったという記事と結びつくのかもしれない
>歳時來獻見云
とは、年ごとに贈り物を届けに来たという意味
0729日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:33:51.43
>>728
魏志倭人伝はいろんな時代の記録が混ざってるんだろう
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:34:31.70
>>728
文字化けした部分がありました
>東?人
の?はテイという漢字、魚辺に是と書きます
0731日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:37:02.79
>>697

受傷人骨が多い筑紫野市の隈・西小田遺跡、永岡遺跡は
弥生中期の甕棺墓時代の争い
卑弥呼共立の前の倭国乱より1-4世紀以上前
南隣の津古には3世紀前半、那珂八幡と同時期に4分の1の規模の前方後円墳が造られている
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:37:38.10
結論‥・伊都国は周の時代であって魏の時代には存在しなかった
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:40:57.57
>>728
それは狗奴国の事じゃない
史書読めないのか?
文章読解力皆無なのは畿内説と韓国人ぐらいなもんだぞ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:42:09.47
>>729
山海経もあるだろう
0735日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:43:49.63
>>734
ちびの国なんかあるわけねえもんな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:53:31.18
>>735
ボルネオの
オランウータンだな。
70〜100cm
0739日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:53:56.08
>>733
古代から何度も歳ごとに朝貢をしている国が倭国であったのなら、そう記したはずだ
さらに出発地から直接中国大陸に航海したとある
倭国にこれに当てはまる航海をした記録があるだろうか?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 12:56:04.57
>>739
沖縄や台湾等が混ざっているかもしれんな
0741日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:01:58.63
>>740
呉の後背地、台湾のすぐそば石垣島のあたりも倭人が住む世界だと中国人は考えていたと思います
ただ、実際に倭人が住んでいたのかどうかは、今後検討されるべき課題でしょう
0742日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:02:19.23
>>739

樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

百余国に分かれていて倭国はまだない
0743日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:04:01.02
>>742
倭は中国が倭人を指す呼び名だから
0744日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:04:17.74
インドネシアのフローレス島に数万年前までいたホモ・フローレシエンシス
現世人類ではない原人あたりのヒト属の生き残りだったが身長は1mあまりと非常に小さい
この伝承・記憶が長らく中国に残っていて倭国の遥か南に侏儒国などという記載として紛れ込んだのかな、とも思ったりする
0745日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:05:36.86
魏に朝貢したのは30国
倭国の一部しか行ってない
0746日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:06:42.61
一応時代のずれも考慮してたけどここまでガラッと変わると思考が追いつかないな
0747日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:09:02.21
>>746
倭人伝
伝説も含むようですな
0748日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:10:48.54
>>745
>魏に朝貢したのは30国

それは、鉄器王国「阿波」の国々。   @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:19:46.09
倭人伝ででこない日本狼は
大陸から連れてきたのか?
犬、猫の記述は見当たらない
0750日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:36:10.58
南方系海の民の縄文人と北方系大陸系の縄文人の争いがベースな気がするな
旧石器時代からいる集団が抑えている豊かな地を巡る争い

鰐を追えば何か分かりそうだ
0751日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:49:58.83
中卒乙

南方系海の民の縄文人なんていません

ぜんぶ北方系ですんで

あるのは朝鮮人経由の旧石器人か樺太経由の旧石器人かだけ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 13:51:07.27
×朝鮮人経由
○朝鮮半島経由
0753日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 14:05:18.84
>>745
>魏に朝貢したのは30国

それは、鉄器王国「阿波」の国々。   @阿波
0754日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 14:10:54.44
摂津風土記にある天津大鰐が鷲になって下樋山に居座った話
事代主の話とよく似た逸話だ
島根では玉姫を求めて鰐がやってきたが大岩に阻止された話があるね
鰐の話を集めないとな
0755伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/23(金) 14:24:04.55
>>753
阿波に30もの国は無い。

板野、阿波、美馬+三好、麻植、名方、勝浦、那賀+海部の
旧郡エリアに相当する7ヶ国ぐらいじゃ無いか?
0757日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 14:40:00.65
>>755
硬直した発想しかできない板野の売郷奴がなにやら言うとりますなあ。  わははははは   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 14:44:52.81
>>756
8世紀に造った道だ。  わははははは   @阿波
0759伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/23(金) 14:47:07.01
クニっちゅうのはある程度まとまった力が無いと成立しない、

20戸や30戸程度の集落一つではクニと呼ぶには力が足りなすぎる。

旧郡程度の勢力のまとまりは必要だ。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 14:51:54.90
弥生時代は、鉄器などを作れる工房集落が一つの国単位だったのだろう。   @阿波
0761伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/23(金) 14:57:38.28
阿波古代研究所などが唱える阿波説の亜説の最大の過ちは、
大和への政権基盤の移行が8世紀としてしまった所やな。

欲張り過ぎは良くない。

阿波の最盛期は4世紀までで、5世紀には既に衰退が始まり、
大型前方後円墳の築造も無くなり、勢力が縮小したか、
他地域に移転したと推測されさる。

8世紀まで政権の中心が存在したなら、相応の遺跡も残って居なければならないが、そこまでの証拠は見つかって無い。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:10:46.69
弥生時代は、鉄器や勾玉や水銀朱などを作れる工房集落が一つの国単位だったのだろう。   @阿波
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:11:55.30
奈良盆地に弥生時代は訪れませんでした

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0765日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:15:54.03
「阿波国府跡」
徳島県徳島市国府町付近にある。発掘調査はすでに30回以上実施されている。
7世紀前半代に溯る可能性がある。
「7世紀前半代に溯る可能性がある」のは、王都「阿波」だけ。
そもそも、7世紀前半には、日本に国衙は存在しない。   @阿波
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:16:28.70
「観音寺・敷地遺跡」
特徴・評価
今回、重要文化財に指定される徳島県観音寺・敷地遺跡出土品(922点)は、平成9年度から平成20年度の環状道路建設に伴う発掘調査で、
徳島市国府町観音寺・敷地で主に流路跡(りゅうろあと)2条から出土した阿波国府に関する出土品です。
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、
文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)
・紡織具(ぼうしょくぐ)・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。
また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。
7世紀中頃の「論語(ろんご)」木簡は棒状の四面体のうちの一面に『論語』学而篇(がくじへん)第一(だいいち)の一節を記し,
我が国への論語の流入状況を示すものとしても貴重です。
また7世紀後半の「五十戸税(ごじゅうこぜい)」木簡や「板野国守」木簡は国府の成立段階の様相を示すほか、
8世紀の「勘籍(かんじゃく)」木簡は戸籍を検査し身分を確認する阿波国司と中央官庁との行政手続きを示しています。
また、木製祭祀具については、斎串や立体的な人形・刀形・舟形などは継続的に使用されますが、
7世紀末以降に扁平で板状の人形や刀形などが加わるなど、在地的な祭祀と律令的な祭祀が重層的に行われている様子がわかりました。
これらのことから、木簡をはじめとして指定品は古代地方官衙に関する諸要素が網羅されており、
政務や律令制度の実態、官人層の生活等を復元する上で重要です。
さらに出土品は7世紀から10世紀と連綿と認められることから,
律令制の浸透、経営の実態など、古代律令制化の歴史環境を具体的に解明する上で重要な歴史資料であり,
阿波国府成立過程や終焉を知る上でも,その学術的価値は高いものです。   @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:20:14.38
7世紀までは、倭国(阿波)。
8世紀に、倭国(阿波)から避難疎開遷都したのが、大和朝廷の発足。   @阿波
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:20:34.63
>>764
鉄はそれ以前からあったから必要としなかっただけでしょう
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:21:47.01
>>768
畿内では鉄は溶けるのだー!
に匹敵するアホ発言オツ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:24:32.84
弥生時代は、鉄器や勾玉や水銀朱などを作れる工房集落が一つの国単位だったのだろう。   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:25:35.31
>>769
実際銅が必要で鉄は必要としなかっただけでしょう
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:27:00.75
>>770
おそらくそうだと思うけど鉄の加工は遅い
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:30:45.81
>>772
>おそらくそうだと思うけど鉄の加工は遅い

遅くとも、弥生時代中期末には始まっている。   @阿波
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:31:38.09
同じ集落内に土器職人、勾玉職人、青銅器職人とか居たんだろうけど
それに当てはまらないのが纏向遺跡、伊勢遺跡
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:32:00.94
>>764
石器や土器と違って鉄などの金属は破損しても溶かせば再利用できるから
回収されてしまったのかも
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:46:01.01
>>771
苦し紛れの妄言w
恥ずかしくないのか?いい年して
0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:48:37.46
>>777
実際そうなってるだろ
入ってきた時期は鉄も銅も変わらない
しかも鉄は半島の市場で手に入る
0779日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:51:00.06
>>776
魏志倭人伝は魏の頃の記録と倭人から伝えられた話をまとめて記載しただけ
当時の倭国を見ながら書いたわけじゃ無いんだよ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:52:51.49
>>778
実際纒向には住居跡もなく木製品しか出土していない
鉄文化が存在した形跡が無いんだよ
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 15:58:56.91
半島で鉄が手に入ってもそもそも半島に行ってないんだよな
弥生時代も古墳時代の崇神朝も畿内はドメスティックだ

九州の海人族による征服王朝の応神朝から畿内は大陸との交流が活発になる
3世紀に魏・帯方郡と交流した邪馬台国が畿内にあったとは考えにくい
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:01:01.74
もしも博多の前方後円墳が卑弥呼の時代のものなら、畿内や吉備よりも古く、前方後円墳も筑紫から全国に広まったのかもね。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:01:12.36
阿波の阿やな
阿の歴史に詳しい人いないかな
阿津、阿部、阿波、阿がつくものが多いんだよなぁ
0784伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/23(金) 16:04:36.00
>>766
名方評の中心地に後に国衙を定めたのでしょう。

板野評や、阿波評だと阿波国の北部、東部に偏り過ぎるため、
吉野川南岸の名方に国衙を定めたと考えます。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:05:03.63
伊の歴史も興味深い
伊都、伊勢、出雲、伊豆、
0786日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:08:34.85
摩湯、播磨、須磨、住吉、有間
摩の歴史も面白そうだ
摩にいる神さまの神社とかあったな
0787日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:16:34.26
>>783
「あ」がつく名称は、「天照大神」・「粟」の「あ」に由来している。   
「い」がつく名称は、「伊予之二名島」の「い」に由来している。   
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。 
これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。   @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:18:36.52
古代には色んな言語が存在したらしいから今の日本語を基準にあれこれ関連付けるのはナンセンスだよ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:20:10.81
「阿波国府跡」
徳島県徳島市国府町付近にある。発掘調査はすでに30回以上実施されている。
7世紀前半代に溯る可能性がある。
「7世紀前半代に溯る可能性がある」のは、王都「阿波」だけ。

そもそも、7世紀前半には、日本に国衙は存在しない。   @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:23:13.30
八雲を出た出雲、伊勢遺跡、イワ大神の子伊勢津彦が治めていた伊勢の地、倭国大乱前に栄華を誇った伊都
倭国大乱前の旧体制の形かもしれん
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:23:40.12
>>780
木製品も数が少ないでしょ
人が暮らしてた遺跡じゃないんだよ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:24:57.03
>>781
銅鐸をどうやって作るんだよ?
0794日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:28:01.84
木製品は唐古・鍵遺跡が一大生産地やね
卑弥呼より前の時代やけど
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:44:36.84
やり玉にあたる纏向
0799日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:58:06.72
>>798
涙拭けよw
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 16:59:20.13
>>781
水行30日陸1月らしいけど?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:03:31.51
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0802日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:16:56.31
【要するに】畿内説とは頭悪い人たち描いた100%空想の世界でした

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:31:20.76
>>802
成る程
邪馬台国は近畿だな。
九州にはない
0804日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:40:39.14
>>803
黙れ東の倭種の国のヤマトさん
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:41:44.39
>>802
伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)?
邪馬台国の中の伊都国の南に
又、邪馬台国あるのか?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:43:04.81
3世紀の畿内は鉄も少ない、絹もない、大陸製の銅鏡も殆どない
そもそも中国側の「倭」の認識に畿内は入ってない
畿内説など到底成り立たない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:45:17.37
>>805
伊都国は女王国に属すると書いてあるから邪馬台国の外だと思うぞ?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:46:17.41
弥生時代の畿内勢力も崇神朝も実にドメスティックだ
纏向から大陸との交流の痕跡はとんと出て来ない
考古学界は畿内説の強弁はもう無理だ
もはやマスコミすら騙せないだろう
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:46:20.88
>>807
伊都国の位置はどこ?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:49:32.54
>>809
直方辺り。   @阿波
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:49:53.90
>>809
糸島から早良区だな
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:51:04.88
歴博が炭素年代法の測定結果を思いっきりストレッチして箸墓は240-260年なんて発表したが、肝心の邪馬台国を示す遺構や出土品が纏向からびっくりするほど何も出て来なかったな
考古学界、沈没
0813日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:51:34.78
>>809
紀元前の日本の何処か
0814日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:53:19.42
>>811
南だから山越えて吉野ヶ里でいいのか?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:54:44.94
>>812
肝心の邪馬台国を示す遺構や出土品て何?
0816琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/23(金) 17:56:36.84
>>802、いつまでそんなこと言ってるのだ、日本書紀2000里、韓尺550m。魏尺400×3とかわらん。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 17:58:31.15
>>817
なんだ、答えられるのか?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:02:33.48
>>812
ただ嘘をつくだけで全てを否定する九州説w
なにも根拠を出せない
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:04:09.28
考古学だけではダメなんだよ
文献と組み合わせないと
そうすると九州説一択
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:05:33.09
ト骨の風習がある。
鉄、絹がある
山に丹
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

ぐらいだけどそれが邪馬台国に絞ったもん
なのか定かではない
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸 これしかない
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:06:46.89
>>820
ないな
0825日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:14:58.09
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
楽浪郡徼去其國萬二千里 其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀使人 自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」


後漢書

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族、倭の別種である。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:16:50.43
【平原遺跡の年代】

副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
特に耳璫は女性専用の飾りであると考えられている。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢との交流が途絶えた倭国乱より後の様式である。
技術的には古墳時代に多くみられる国産の大型内行花文鏡に属する。
玉と鏡に五尺刀を一振りだけ加えてあえて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王の地位にあったことがわかる。
寺沢薫氏ら畿内説の学者を含め、平原遺跡が王墓であることに反対している学者はいない。

平原の管玉と同類のものは日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている

耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。

周溝から出土した土器片が庄内並行期と見られることから、200〜250年頃である。
鏡の編年で言えば、舶載鏡であることがほぼ確実な内行花文鏡・虺龍紋鏡の「長宜子孫」銘は漢鏡最後の第六期(〜190年)に多く見られるものであり、平原遺跡はそれ以降といえよう。
また、国産の超大型内行花文鏡はその後の畿内の前方後円墳から出土する大型内行花文鏡の先駆けである。

結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
卑弥呼の前の倭王は男王とされているので、その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:18:14.66
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=九州北部


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:19:26.46
戦後において記紀を否定するあまり、記紀が含んでいた真実の一部まで歴史学者は素直に認めることができない縛りが発生している。
それは倭王権が筑紫に成立したということ。
九州北部に上陸した弥生稲作文化が全国に広まった。
水稲栽培には暦と灌漑が必要であり、多くの王朝において、それらは王の専権事項である。
弥生時代とは、筑紫に成立した倭王権が全国に稲作による支配を広めた時代に他ならない。
記紀がついた最大の嘘は、大和における神武の年代を弥生時代のはじめまで前倒しすることで、あたかも初めから列島の覇者が筑紫の倭王権ではなく大和王権であったかのように偽装したことだ。
邪馬台国畿内説は、記紀編纂者が用意したトラップにまんまと引っかかっているのである。
卑弥呼の治世である3世紀まで、大和に独立した王権が存在したという考古学的証拠はない。
弥生時代において、考古学的に確実に王権が存在したのは、金印や三種の神器が出土する筑紫だけである。
畿内説は考古学的証拠を無視した妄言にすぎない。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:22:23.21
>>825
その国(邪馬台国)?
記述がないし、都というのもない。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:25:30.31
>>827
新唐書
記紀出来上がっているからね。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:41:41.39
座摩の神さまは興味深い
大宮地の霊言えば座摩神のことで、平安時代、神祇官西院において「御巫」称される女性神職、座摩巫により奉斎されていた神さま
上町台地の座摩神社に祀られている
「いかすり」は「居処領(いかしり)」、「居所知」の転と見られ、総じて宮所守護の神々とされる

生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神

延喜式祝詞に天御蔭・日御蔭と隠り坐しとあるのは興味深い

座摩の御巫の称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す【下都磐根】に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:44:48.10
投馬国が朝鮮半島南部でミミとミミナリという日本人名丸出しの
役人が出迎えてくれたとか

超ウケるwwwwwwww
0834日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:52:22.86
波比祇神・阿須波神は大年神と天和迦流美豆比売の間に生まれた神
天和迦流美豆比売の名前の構造は孝徳天皇とそっくりなんだよね
孝徳天皇の和風諡号は天万で、万は卍のことで和を意味する
孝徳天皇の諱は軽
天と和した軽
孝徳天皇の子が和歌山で歌を残し亡くなった有間皇子
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

孝徳天皇の父は茅渟王で片岡に眠っている
聖徳太子が片岡の歌を残している

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

この歌に出てくる【刺竹の】という言葉は、大宮や君にかかる枕詞
0835日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:56:17.12
>>830
それがヤマト王権の公式見解。
始祖が筑紫から来たなどと嘘を書く理由はない。
あるとすれば筑紫の「倭王」の末裔を詐称していると言う事なんだろう。
いずれにせよ畿内説はアウトってことw
0836日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 18:58:45.33
>>835
筑紫から出てきただけで
で邪馬台国はヤマトでいいのだな。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:00:48.43
>>834
天「知」迦流美豆比売神だろ?
(あめしるかるみづひめのかみ)

お前がガチキチなのか俺が無知なのか?。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:02:54.99
>>836
邪馬台国はヤマトで筑紫から東遷し日本を合併しそこを新王都とした。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:09:24.27
>>834
アホが妄想ぶちかましてますねwww
このスレは妄想野郎が多すぎ。
どうやったらこんな意味のない馬鹿みたいな事が思いつけるの?
しかも、こう言うカスに限って断定的に書くのは何故なんだろう?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:16:46.26
>>838
九州に邪馬台国があるという記載は記紀にはない九州説はアウト。
東遷の記述もない。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:23:20.80
文献、史学、考古学も近畿だな。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:24:04.16
>>840
東遷前の場所は「天(古事記、高天原)」って事にしたから書くわけない。
でも素戔嗚に攻められてんだからよ。「弟が邪な心でやって来る」って。
出雲から攻め込まれたんだろう。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:24:40.96
>>838
>邪馬台国はヤマトで筑紫から東遷し

東遷した時期は?   @阿波
0844日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:24:54.37
>>836

もともとヤマトも筑紫の地名。
その他にも多くの地名が筑紫から畿内にコピーされている。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:26:04.08
>>840

畿内大和の歴史である記紀に邪馬台国が登場しないからこそ、邪馬台国は九州の国であったことが明白。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:26:35.73
>>841
www頭わるーーーーーーーwww
あらゆるもんが違うって。唯一は歴博の箸墓年代偽装だけ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:27:19.68
>>844
記紀にはない。妄想
0849日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:28:41.77
>>845
なんで明白かサッパリわからん。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:30:16.71
記紀と照合性でも九州はない。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:31:02.67
>>847
らしい?不確定なので却下
0852日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:43:48.74
>>847
東遷した時期は?   @阿波
0853日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:45:13.87
倭国大乱を制したのはスサノオ。
筑紫ヤマトのタカムスビはスサノオに王位を与えたくなくて日霊女こと卑弥呼を差し出して妻とし女王とした。
神話では姉弟となっているのでスサノオが攻めてきた後で誓約と称して子作り。
スサノオの死後、主従の地位が逆転し出雲には日霊女とスサノオの子、天穂日が統治。
日霊女の死後、子の天忍穗耳尊の相続にタカムスビが待った。プチ内乱。
タカムスビの娘、トヨ(豊秋津師比売命)を忍穗耳尊の妻として女王とした。
二人の子が天孫ニニギ。タカムスビご機嫌w

これが倭人伝と記紀の整合性。女王が戦乱を安定させた理由。相続問題。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:51:17.87
>>853
記紀には筑紫ヤマトなどない。
改変する九州説
0855日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:54:13.05
>>854
わかりやすく書いただけ。邪馬台国として頂いてけっこう。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:55:20.46
>>855
邪馬台国もない
勝手だな
0857日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:56:30.94
>>855
書いていない以上
邪馬台国とはしないな。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:57:06.45
九州は絹、鉄鏃、大陸由来の銅鏡、棺ありてカクなしの墓制と魏志倭人伝とバッチリ整合する

畿内はこれら魏志倭人伝と整合する遺構・出土品がさっぱり出ない
纏向などあまりにも魏志倭人伝と合わなすぎて、もはや纏向=邪馬台国を心底信じているのは日本にキナイコシ一人しかいない有様

魏志倭人伝と考古学を照らし合わせれば邪馬台国は北部九州以外あり得ない
0859日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:57:27.24
倭人伝と記紀の整合性って言ってるんですけど?
文句の付けどころ無くて困ってる感が半端ないですよwww
0860日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 19:59:27.17
>>859
独り言
0861日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:01:15.10
東遷説型九州説は魏志倭人伝と整合しまくるだけでなく、記紀の神武東征神話とも整合するし、纏向は3世紀に九州・吉備からの外来勢力により突発的に築かれたとする纏向学とも整合する

畿内説は何とも整合しない
こんなものをいまだに信じている人間がいることが私には考えられない
0862日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:02:52.84
魏志倭人伝、記紀、考古学すべてが整合する邪馬台国候補は唯一北部九州のみ
0863日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:02:54.88
>>860
(・∀・)ニヤニヤ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:04:51.13
京都の祇園祭や大阪の天神祭では、ヒオウギは床の間や軒先に飾る花として愛好されている
ヒオウギの黒い種は射干玉ぬばたまと言って黒の枕詞

東北の伝承である龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る争い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをし、黒神は北に追いやられた
昨年発表された母系遺伝子の研究によると、日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜東海、東北富山石川和歌山
紀伊の有間はイザナミが眠る地で和歌山の母系は東北と同じグループ
八坂さんや大阪天満宮のある京都や大阪は、混血の傾向が強いが1番近いのは東北グループだった

唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡からは龍の絵画土器が見つかっている

イザナミは根の国から黄泉の国へ、上津国から下津国へ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:04:56.86
>>858
あり得るんだな
女王国の範囲は近畿まで
絹も鉄もト骨もでる。
丹もある。

宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
邪馬台国なのか定かではない。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:05:21.33
>>861
全くその通り!!
何もなくても信じるのは学問ではなく宗教。もう、怖い。金目当てか?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:10:52.47
畿内は4世紀に鉄も絹も銅鏡も一気に広まった
何故か?
3世紀に先進地域の九州から来た崇神朝が奈良盆地を征服し4世紀に畿内で支配を拡大したからだ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:16:54.74
畿内の人々は多くの人々を受け入れ侵略にヤマト政権に抗っていたんじゃないの
明治以降特に戦後真逆の歴史観が広められた
歴史学者やマスコミによる虐めみたいなもの
0869日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:20:25.14
倭国の都は筑紫の伊都。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都に代々王がいると書かれている。
伊都より北には一人の大率という役職を置き検察させ、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:23:31.98
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:24:14.42
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なんですって、天照の墓が徳島にあるって 誰が言ってんだ
0872日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:27:15.32
>>868

長髄彦は次々にやってくる天神とやらに苦言を呈していたね。
あ?
天神ということはやはり博多から来たのか?
前方後円墳も持ってきたのかもね!
0873日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:29:23.51
天神は筑紫の日向の倭王のこと。
高天原の天照も出雲の素戔嗚も、生まれは筑紫の日向の小戸。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚である。
畿内は筑紫の祖先崇拝の祭祀を丸ごと継承している。
全国のほとんどの神社は鏡が神宝で、八坂神社は例外的に矛。
いずれも筑紫を中心として広まった青銅器である。
特に鏡は天照が八咫鏡を自分のかわりに奉斎せよと神勅を下しており、大半の神社は天皇家の祖先神として筑紫で生まれた神を祭っていることになる。
神道の祝詞の中でも最も重要な大祓の祝詞は、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊について述べている。
そして筑紫の倭王の権威を継承することで天皇家の正統性を主張しているのが正史として定められた日本書紀なのである。
0874日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:33:10.58
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
風土記において、沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器はアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。
0875日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:37:42.92
■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0876日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:38:51.40
投馬国は朝鮮半島南部にあってミミとミミナリという日本人の名前丸出しの
役人が出迎えてくれたんだぞ


アー タノシーデスネー キューシューホクブセツwwwwwwww
0877日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 20:42:36.32
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 20:49:22.69
>>861
証拠がないから整合してない
0879琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/23(金) 20:53:14.65
なにもないのに信じとるのは九州説だよ。
伊都は統属、平原は阿人墓。やっとこさ隋の代に秦王国、阿人コロニーのある島。
0880琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/23(金) 20:55:46.96
とはいえ、隋代は畿内もあやしいわね。
タリシヒコはおそらく多利国の者。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:07:41.70
>>873
>祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚
祇園信仰は牛頭天王だって言ってんだよ!記紀の神は本来は関係ないの!
素戔嗚が筑紫とか何でも筑紫伊都マンは無知で欲しがりでどうしようもない。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:22:19.44
>>870
東征関連ってまとめ何?賀茂氏は筑紫ではないでしょうが!
何でも筑紫マンは九州の恥晒し。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:26:34.78
伊都は渡来神ゆかりの地。天孫族は無関係。
>>875
>祓戸の大神
瀬織津姫もイザナギの子だとでも?バカバカしい。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:30:42.38
>>870
記紀には筑紫は出ても
九州にも畿内にも邪馬台国は出てこない。
こじつけばかりだな
0886日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:35:33.98
>>877
記載されていません。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:40:23.74
>>882
大物主が韓神かもしれんな。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:44:26.27
>>879

それ、全部畿内説の勝手な思い込みで、どれひとつとしてどの文献にもない。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:47:16.13
フルは朝鮮語で流れるの意味らしいな
布留の謂れも刀が流れてきて云々
アチメが繰り返される鎮魂歌にも布留が出てくる
アチメは朝鮮語で朝、朝日の意味らしい
0890日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:47:20.49
>>830
それがヤマト王権の公式見解。
始祖が筑紫から来たなどと嘘をつく理由はない。
嘘であるとしたら筑紫の「倭王」の末裔を詐称している事になる。
どうやっても畿内説はアウトw
0891日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:47:35.78
>>887
だから白村江、WW2負けたんだろうな。
0892日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 21:48:18.13
>>881

神仏習合だよ。
そして国内では仏教の仏より神道の神の方が古い。
素戔嗚が生まれたのは、古事記では筑紫の日向の小戸と書いてある。
現在の福岡市西区小戸。
伊都の港でもある。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:48:53.54
アチメ
熱女?熱海?渥美?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:48:55.12
>>890
九州説もアウト
筑後はあれど邪馬台国は畿内にも九州にも
記述無し。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:50:18.13
【賀茂一族の系譜】
畿内を開拓した古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
新撰姓氏録には山城国の神別、天神とある。

天神玉命(天活玉命、伊久魂命)ー天櫛玉命(神櫛玉命、天押立命)ー加茂建角身命(八咫烏、陶津耳命)ー鴨建玉依彦命(玉依彦命)ー五十手美命(生玉兄日子命)
ただし先代旧事本紀には、筑紫から大和に天降った饒速日に随伴した天櫛玉命が鴨県主の祖、天神魂命が葛野鴨県主の祖とあり、それぞれが別の鴨族とされている。

賀茂建角身命はまたの名を八咫烏、八咫烏鴨武角身命、三嶋湟咋、三島溝咋、三島溝橛耳神、陶津耳命、陶津耳、天日方奇日方武茅淳祇という。
賀茂建角身命と大山祇を祭るのは伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島鴨神社、京都の上賀茂神社と下鴨神社、奈良の天理三島神社などである。
神武を助けた八咫烏の正体が賀茂建角身命とされている。
賀茂建角身命は大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まったとされる。

賀茂建角身命の息子である建玉依比古が賀茂県主の祖である。
賀茂建角身命の娘である活玉依姫(玉櫛媛、勢夜陀多良比売)が鴨川で拾った(山城国風土記逸文による)丹塗矢で懐妊して産んだ息子が賀茂別雷命、または天日方奇日方(櫛御方、鴨主)であり、娘が後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)である。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子、イスケヨリ姫の次男が綏靖天皇である。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:50:26.15
賀茂氏の系譜はもう一つある。
大己貴神と宗像の田心姫の間に生まれた味耜高彦根命と下照姫を祖とする賀茂氏である。大和葛城を拠点としていたが、新撰姓氏録では大和国の神別、地祇とされている。

同じ新撰姓氏録が山城国の賀茂族を天神、大和国葛城の賀茂氏を地祇としているので、別の氏族である可能性がある。
ただし天神であるイスケヨリ姫の父については古事記が美和之大物主神、日本書紀が大三輪神としており、いずれも大和の神であることから、異同について議論がある。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:50:37.31
筑紫だな
0898日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:51:59.55
天神は筑紫の日向の倭王のこと。
高天原の天照も出雲の素戔嗚も、生まれは筑紫の日向の小戸。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚である。
畿内は筑紫の祖先崇拝の祭祀を丸ごと継承している。
全国のほとんどの神社は鏡が神宝で、八坂神社は例外的に矛。
いずれも筑紫を中心として広まった青銅器である。
特に鏡は天照が八咫鏡を自分のかわりに奉斎せよと神勅を下しており、大半の神社は天皇家の祖先神として筑紫で生まれた神を祭っていることになる。
神道の祝詞の中でも最も重要な大祓の祝詞は、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊について述べている。
そして筑紫の倭王の権威を継承することで天皇家の正統性を主張しているのが正史として定められた日本書紀なのである。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 21:53:03.44
【筑紫の日向】

記紀における神代の王都である筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0901日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 21:55:22.79
布留は韓神かもね
葦原シコオと戦っていた天日槍は朝鮮半島の王子なので韓神?

養蚕は馬韓か?
馬を持ち込んだのも半島の勢力あるいはそれに与した勢力かもねえ
0902日本@名無史さん
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2022/12/23(金) 22:00:30.13
元々馬はいないからな日本列島には
馬の産地は朝鮮半島と関係あるかもな
乗馬に長けた田螺長者とかおしらさまとかも
おしらさまは養蚕の神さまでもあるな
0903日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:03:20.02
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






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0904日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:04:45.42
>>896
>【賀茂一族の系譜】

系譜で妄想しても意味無し。

賀茂一族の本貫地は、阿波国旧加茂地域。

「阿遅志貴高日子根神」の神陵が「丹田古墳」。

「丹田古墳(阿遅志貴高日子根神)」の拝所が式内社「鴨神社」。

賀茂一族の集落遺跡が「加茂東原遺跡」や「稲持遺跡」。   @阿波
0905日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:11:17.48
『賀茂之本地』
阿遅鉏高日子根神=賀茂別雷神
0907日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:17:52.58
>>906
奴はアホだから許せ。松沢病院の病床からの書き込みだ。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:18:10.55
>>906
その既存の史料は、阿波国旧加茂地域の賀茂一族の系譜。   @阿波
0909日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:22:11.84
新撰姓氏録ってんだろ藤井のウンコが!
0910日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:29:41.71
>>909
藤井のウンコ??   @阿波
0911日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:30:29.77
新撰姓氏録 韓神の系譜
0912日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:31:04.24
新撰姓氏録 韓神の系譜
0913日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 22:40:31.05
>>899
記紀には
邪馬台国は出てこないので
却下
0914琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/23(金) 22:43:56.26
秦王国は九州だよ。高句麗に押されて、倭畿内からコロニーを許されたんだな。香春を公然と信仰する阿人だよ。阿蘇と名付けた王がいたな。でっかい竈祭祀だろ、隋書に記されてる。
0915琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/12/23(金) 22:55:22.71
日本書紀にあるんだろ?
半島~九州は2000里と。
韓尺550メートルだよ。
卑弥呼の倭国とは関係無い。東遷東遷と煩いが都督倭と関係が深いんじゃないのか?卑弥呼の時代に筑紫、吉備、はない。多利し、タタラ、とか半島の話だろ、卑弥呼以前に奈良に多々羅が原の姫なぞおらんわ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 23:43:43.00
>>908
旧加茂地域ってどこよ?東みよし町の加茂?吉野川市の鴨島?徳島市の加茂名?阿南市の加茂谷?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 23:51:16.96
>>911

九州説は畿内の歴史も調べて論説しているのに、畿内説は九州説憎しで新撰姓氏録まで否定するんだもんな。
畿内説はすでに日本史ですらない、ファンタジーだよ。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/23(金) 23:55:40.14
>>898

住吉三神は、
審神者曰「今不答而更後有言乎。」
則對曰「於 【日向國】 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」(日本書紀巻第九)

なので、伊弉諾尊が濁穢を秡除して神々が生まれた「筑紫日向小戸橘之檍原」は【日向國】
「又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。
又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。
又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。
凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是?住吉大神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。
然後、洗左眼、因以生神、號曰天照大神。復洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。
復洗鼻、因以生神、號曰素戔嗚尊。」
(日本書紀巻第一)
0919日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 00:01:26.01
>>917
反論せず悪口だけの九州説
0921日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 00:22:32.77
>>917
>九州説は畿内の歴史も調べて論説しているのに

しているのを見たことがない
0923日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 00:28:46.09
日本の考古学界は全体が著しく視野の狭い考古学バカになっている
だから学界の意見を無知なマスコミ以外誰も信じていない
0924日本@名無史さん
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2022/12/24(土) 00:39:04.11
倭国大乱の時期に日本一の鉄器工房が淡路島にあった

【若一調査隊】淡路島が考古学史を揺るがす!? “鉄器”と“銅鐸”に関する歴史的大発見とその謎に迫る!
https://www.youtube.com/watch?v=vUN6R3ENcek
0925日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 01:09:16.04
>>922
畿内説に対して
まったく反論ができず
ただ悪口を言うだけの九州説って
完全に終ってるよね
0926日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 01:14:02.66
>>924
畿内でなく近畿説ですな。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 03:34:16.54
委奴國は伊都国
0928日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 03:41:40.58
>>927
かもしれん
奴国の台頭で弱体化
0930日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 04:00:31.42
安帝永初元年倭國王帥升等
等だから各国の王たちでうまくいっていたが
崩れたんだろうな。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 06:55:32.01
>>916
>旧加茂地域ってどこよ?

東みよし町の加茂   @阿波
0932日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 08:02:43.70
委奴国は「倭の奴国」か「イト国」か
倭面土国は「倭のイト国」か「ヤマト国」かそれ以外か
そして倭面土国王帥升は魏志倭人伝に出てくる男王なのか否か
この辺りがいまだ謎だな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 08:20:06.98
賀茂一族の本貫地は、阿波国旧加茂地域。

「阿遅志貴高日子根神」の神陵が「丹田古墳」。

「丹田古墳(阿遅志貴高日子根神)」の拝所が式内社「鴨神社」。

賀茂一族の集落遺跡が「加茂東原遺跡」や「稲持遺跡」。   @阿波
0934日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 08:32:14.33
>>918

それだと小戸で生まれた住吉の神が宮崎県ではなく福岡県で祭られていることが説明できなくなる。
おそらく、後世に筑紫の地名が近畿地方にコピーされたのと同様のことが、その少し前に筑紫から九州全体に対して行われたのだろう。
博多湾沿岸だけのローカルな倭国創建の伝承の舞台が、いつしか九州全体に、そして西日本全体に拡大されて再配置された。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 08:57:18.09
帥升の子孫が卑弥呼と台与
0936日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:02:53.56
「大國主神」こと「倭大物主」は「大御和乃神奈備爾坐」
「倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐す」と記載されている。
「大三輪」ではなく「大御和」とある。
「大国主神」は一代だけの神ではない。
「大国主」はいわゆる役職名であり、「国を司るトップ」のことを示している。
「倭大國魂」は、つまりは「倭」の代表者であるとの意味だ。
「奈良市最古の恵比須社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。
「事代主神」ならば大阪市浪速区の「今宮戎神社」等でなければならないのに、なぜか「阿波國」。
そして社殿前の立て札(御由緒)には「大物主大神の御子神」であると説明されている。
ならば「事代主神」は阿波にいたのか?   @阿波
0937日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:26:22.86
1. 邪馬台国連合は北部九州にあった
2. この中の一勢力が吉備と組んで奈良盆地に移った
3. この九州・吉備連合勢力が奈良盆地の支配的権力となり纏向を作った
4. この政権(崇神朝)が広域に支配を広げヤマト王権に発展した

このシナリオが記紀と魏志倭人伝と考古学の全てを最も矛盾なく説明できるだろう
0938日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:29:11.60
【日本で唯一、阿波にだけで祀られている記紀の神々】
阿波國阿波郡「事代主神社」 御祭神 事代主命
阿波國阿波郡「建布都神社」 御祭神 武甕槌神
阿波國阿波郡「賀茂神社」 御祭神 意富加牟積命
阿波国美馬郡「倭大國玉神社・倭大國敷神社」 御祭神 大國玉命・大己貴命
阿波国美馬郡「伊射奈美神社」 御祭神 伊射奈美尊
阿波國美馬郡「波爾移麻比禰神社」 御祭神 波爾夜須比売命
阿波國美馬郡「弥都波能売神社」 御祭神 素盞嗚命
阿波國美馬郡「八大龍王神社」 御祭神 彌都波能売神
阿波國美馬郡「天椅立神社」 御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命 
阿波国美馬郡「天都賀佐比古神社」 御祭神 級長津彦神・級長津姫神
阿波國麻殖郡「伊加々志神社」 御祭神 伊迦賀色許売・伊迦賀色許男
阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」 御祭神 天村雲命・伊自波夜比賣命
阿波國麻殖郡「秘羽目神足浜目門比売神社」 御祭神 秘羽目神・足浜目門比売命
阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 御祭神 建御名方命
阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社」 御祭神 日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命・神皇産霊尊・高皇産霊尊
阿波國名方郡「意富門麻比売神社」 御祭神 大苫邊尊
阿波國名方郡「天石門別八倉比売神社」 御祭神 大靈女命
阿波國名方郡「一宮神社」 御祭神 大宜都比売命
名西郡神山町「上一宮大粟神社」 御祭神 大宜都比売命
阿波國板野郡 「宇志比古神社」 御祭神  宇志比古尊・八幡神
阿南市伊島「当所神社」 御祭神 奧疎神・奧津那藝佐毘古神・奧津甲斐辨羅神
阿波国那賀郡「賀志波比賣神社」 御祭神 賀志波比売

なぜ、「記紀の神々」を阿波国のみで祀るのだろうか?
何の縁も所縁も無ければ、阿波にだけ 「記紀の神々」をわざわざ祀るはずがないのである。   @阿波
0939日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:31:57.70
>>938
どうでもいい
0940日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:36:12.13
>>939
その気持ち、分かる気がする。   @阿波
0941日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 09:38:37.63
「阿波」の圧倒的遺跡群

「阿波」の圧倒的神社群   @阿波
0942日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:00:29.83
>>932
帥升は倭国王と書いてあるから邪馬台国に居るんでしょう
0943日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:03:45.04
さすがだな阿波の朴李(パクリ)体質
0944日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:09:25.11
阿波は半島人の韓国起源説とよく似ている
0945日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:23:44.81
>>938
大嘘つき。バカってコピペを繰り返すよな。
伊都とか阿波とか解散とか「たまのくに」とか。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:35:45.53
阿波説はオカルト
0947日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:37:39.38
自女王國以北 特置一大率 検察諸國

伊都国の一大率は女王国と隣接していて、女王の警護も担っていたのだろう
0948日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:40:36.35
>>947
伊都国王は?
0949日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:45:12.68
>>948
伊都国王は別にいて都知事みたいなもの、卑弥呼は総理大臣
0950日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 10:46:11.74
>>932
倭奴は匈奴と同じく「倭」に対する蔑称でしょう。
中華思想的に漢字1文字の国名の方が格上。
しかし、委奴は「倭奴の略字」なのか本来的に「委奴」か。
倭の奴の国っていうの変な解釈だ。
金印が「真」であれば略字と解釈すべきだろう。
だが、「贋」であれば高祖神社や細石神社の祭神捏造を考慮すると
「伊都国」の高祖を皇祖と結び付けようとした偽史活動ではないかという説が成り立つ。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:04:23.33
>>941
別スレで完全に論破されていたけど何を原動力に頑張ってるの?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:09:50.42
>>951
>別スレで完全に論破されていたけど

論破してみろや。  わははははは   @阿波
0953日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:13:27.53
>>952
阿波で一番自慢に出来る神社って何?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:18:10.18
>>953
全部。   @阿波
0955日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:21:10.61
>>953
全部。  いっぱいあって決められない。   @阿波
0956日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:21:46.91
>>953
法谷寺だな。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:22:00.04
>>950
「倭」にニンベンが付いてる時点で人扱いしてる
「倭」は背の低い人と言う、そのまんまの意味でおけおけ

逆に「委」はニンベンが無いので、そのときは蔑称された
「倭人」なのに「委奴」とされ蔑称された

人=奴(の部分)となる、こんな答えですw
0958日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:25:23.61
>>950
邪馬台国は3文字
松竹梅でいうと梅だね。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:27:39.26
魏から異民族最上級の金印をもらった大月氏国も邪馬台国も三文字だな
0961日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:29:00.43
>>933
吉野川市鴨島や阿南市加茂谷ではないと断定する根拠はなに?
阿南市加茂谷地区には若杉山の辰砂採掘遺跡も有るし、むしろこっちが本命でないの
0962日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:29:17.27
>>959
意味不明?
貰ったのは親魏倭王の卑弥呼で
あって邪馬台国ではない
0963日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:32:31.67
>>962
そりゃ印綬を貰うのは王だからな
死んだら基本返却するし

邪馬台国が貰ったという表現は言うまでもなく邪馬台国の王の卑弥呼が貰ったという意味だ
いちいちそこまで細かく書かないと理解できないかな?
0964日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:35:00.68
>>961
>吉野川市鴨島や阿南市加茂谷ではないと断定する根拠はなに?

「丹田古墳」「鴨神社」「加茂東原遺跡」や「稲持遺跡」などの賀茂一族の痕跡。   @阿波
0965日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:36:03.94
>>963
さらに意味不明
邪馬台国の王のみではないだな。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:38:05.67
阿波に根拠などない。商業目的のこじつけ。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:42:29.50
>>965
意味不明ではないだろう
君の好む表現ではないだけで
本当に意味がわからないなら重度のコミュ障だ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:43:42.25
>>966
そう思いたくなるよな。   @阿波
0970日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:44:39.12
「邪馬台国を都とする倭国の女王卑弥呼が貰った」とでも表現しないと意味が取れないかね?
重度のコミュ障君
0971日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:45:52.22
>>968
勘違いさせるから注意してまで。
今後、気をつけたまえ。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:46:39.51
>>964
どこだっていいよ。神武東遷以前から山城国に移動してるから。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:49:22.20
>>973

邪馬台国が貰ったんではない。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 11:57:31.67
ここIDやワッチョイがないから変な奴でもNG設定できないな
0976日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:04:18.93
邪馬台国は
土木工事中だったんだろうな。
都でもいろいろ。
0977伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/12/24(土) 12:10:20.00
>>955
いっぱいあって決められないって言うのは分からんでも無いけんど、「全部」は無いだろう、小学生かいな?

せめて明らかに怪しい神社ぐらいは外そうよ、
石井の八倉姫神社とか。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:18:18.64
>>977
名前を出したら個別に論破されるから。
阿波説の捏造糾弾スレでボコボコにされてる。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:37:45.04
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0980日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:45:21.96
>>978
ボコボコにしてみろや。  わははははは   @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:48:55.06
>>934

福岡市西区小戸は筑紫國
記紀に書かれているのは
伊弉諾尊が濁穢を秡除して神々が生まれた「筑紫日向小戸橘之檍原」は【日向國】
0983日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:50:12.67
邪馬台国は卑弥呼の死と共に消滅している
0984日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 12:52:09.90
「阿波」の神社は、当局のお墨付き。

いくらイチャモン付けても、雑魚のたわごと。  わははははは   @阿波
0985日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:00:14.32
山門の邪馬台国は卑弥呼・台与より後の田油津媛の代で滅亡したと思われる
滅ぼしたのは玄界灘海人族の長(万世一系を偽装するために記紀は神功皇后という架空キャラの姿で記載)で、これが筑紫と朝鮮半島(広開土王碑文に書かれた倭の侵攻)で勢力を拡張し、畿内に上って崇神朝を滅ぼし応神朝を建てた
0986日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:00:49.30
>江戸後期に徳島では偽史活動が盛んになって偽由緒を掲げる神社が散見された。

これも王政復古・神道復古の興りによるもの。
「阿波」では火種が代々脈々と灯り続けていたから、一気に神社復古の火が付いた。   @阿波
0987日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:03:57.97
>>956
知名度無し
0988日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:09:57.45
>>987
だから、「阿波」は渋いのさ。  ミーハーの出る幕はない。   @阿波
0990日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:11:37.55
>>987

言っとくが>>956は自分ではないから。   @阿波
0992日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:18:08.73
>>981
意地悪を言うな。
あやしい神社を外したらどこが残ると言うのか?
0993日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:19:08.65
山門は未開の地ではないが伊都国や奴国のような先進地域でもない
他を圧する国力ではなく卑弥呼の宗教的権威で支配したのだろう
0994日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:19:39.82
幕末の神道復古で、一気に復活しただけ。 
「阿波」では千年もの長きにわたり、神道の火種が代々脈々と灯り続けていたから、
一気に火が付いた。   @阿波
0996日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:31:39.99
3世紀の博多は未開の筑後からは一切の影響を受けていない
0997日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:32:03.69
「阿波」では千年もの長きにわたり、僻地、流刑地を続けていたから、一気に偽史活動に火が付いた。 
0998日本@名無史さん
垢版 |
2022/12/24(土) 13:32:08.26
>>995
崇神朝は神夏磯媛や八女津媛に割と好意的だったが、プレ応神朝の神功皇后は田油津媛を滅ぼした
違う勢力・王朝なので対応も異なる
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