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邪馬台国畿内説 Part844
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2023/01/02(月) 13:55:31.83
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1672315953/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 13:56:55.21
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/01/02(月) 13:57:39.69
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/01/02(月) 13:58:17.06
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2023/01/02(月) 13:58:46.22
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
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2023/01/02(月) 13:59:29.08
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2023/01/02(月) 14:00:11.40
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2023/01/02(月) 14:00:44.97
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2023/01/02(月) 14:01:46.59
7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/01/02(月) 14:02:32.10
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:03:06.71
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2023/01/02(月) 14:04:05.84
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2023/01/02(月) 14:04:44.37
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:05:32.27
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2023/01/02(月) 14:06:23.36
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
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2023/01/02(月) 14:07:11.77
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:07:42.81
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:08:14.36
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:08:46.88
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:09:22.00
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:09:54.05
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:10:41.91
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
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2023/01/02(月) 14:11:17.03
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:11:50.39
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:12:30.66
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:13:15.38
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:13:46.90
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:14:30.83
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:15:01.07
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:15:32.18
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:16:16.60
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:16:51.18
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:17:31.17
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:18:02.79
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2023/01/02(月) 14:18:32.25
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:19:04.15
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:19:39.74
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/01/02(月) 14:20:16.41
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/01/02(月) 14:21:05.47
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2023/01/02(月) 14:21:46.39
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/01/02(月) 14:22:21.74
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2023/01/02(月) 14:23:02.65
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:23:43.24
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:24:17.65
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2023/01/02(月) 14:24:56.97
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かな
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2023/01/02(月) 14:25:32.45
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/01/02(月) 14:26:26.73
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/01/02(月) 14:26:58.41
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/01/02(月) 14:27:29.52
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/01/02(月) 14:28:00.98
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/01/02(月) 14:28:41.89
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/01/02(月) 14:29:29.68
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/01/02(月) 14:30:00.38
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/01/02(月) 14:30:30.66
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/01/02(月) 14:31:03.06
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/01/02(月) 14:31:39.94
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/01/02(月) 14:32:16.33
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/01/02(月) 14:33:00.45
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/01/02(月) 14:33:46.69
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/01/02(月) 14:34:30.32
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/01/02(月) 14:35:02.62
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/01/02(月) 14:35:30.98
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/01/02(月) 14:36:01.84
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/01/02(月) 14:36:45.26
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/01/02(月) 14:37:17.58
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/01/02(月) 14:37:52.35
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/01/02(月) 14:38:30.12
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/01/02(月) 14:39:03.05
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2023/01/02(月) 14:39:41.31
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/01/02(月) 14:40:16.13
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2023/01/02(月) 14:40:50.86
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2023/01/02(月) 14:41:29.39
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2023/01/02(月) 14:42:05.32
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/02(月) 14:42:43.79
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/02(月) 14:43:17.37
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 16:23:33.30
>>995
「魏志倭人伝」も「後漢書」も正確である。

>魏志は帯方郡から狗邪韓国が7000里
直線距離 500km  1里=71m

>で後漢書は邪馬台国から西北界の狗邪韓国が7000里
直線距離 540km  1里=77m
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 16:43:21.23
「去其西北界狗邪韓國七千餘里」 
その女王国から西北へ七千餘里行ったところが狗邪韓國。   
まさに「倭人在帶方東南大海之中」と真逆の見方をしている。   @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:10:22.16
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:22:15.96
>>78
後漢書だろ?

楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里
だよ。

正しく読もうね。 
おまえもな~(aa略

で、狗邪韓國と言うのは女王国の西北界
飛び地で、半島植民地? 多分、港街、倉庫地域なんだが、

半島側に王権が無い場合、博多湾勢力でも勝手に
港町や鉱山地域を植民地に出来たんじゃないのかな?

阿波王権が、瀬戸内海使わないで半島進出してたなら
案外すごいかもな。 松菊里住宅の分布も太平洋側経由だし。

阿波って、凄いと思うよ。 邪馬台国は関係ないけどwww
ま~た、いきなりアラシに反応しちゃったよw すまぬ。
おまえもな~(aa略
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:29:17.63
ニュー速+の七福神スレ面白いよな
葦船、磐樟船に乗って流されたひるこ、記紀から消された歴史は全てひるこ絡みかもな

堺には通称『浜のえべっさん(石津太(いしづた)神社)』と『陸のえべっさん(石津(いしづ)神社)』と呼ばれる二つのえべっさんがあり、浜のえべっさんは日本で最初のえべっさんだそうです。(注堺市指定都市推進協議会発行地図は石津太(いしづた)とルビがありますが、土地の高齢者は石津太(いわった)と呼び、『石(いし)』と言わず『石(いわ)』と言うそうです。)
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:30:47.62
むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり着かれたそうです。そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。
このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:31:49.99
ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。こうした中で浜のえべっさんは、どんなときでもどんな願いも必ず聞いて下さるのだそうです。
村落の人達はそんな浜のえべっさんを慕いあがめて、お願いへと鳥居をくぐり、いつの時代においても変わらず手を合わせているそうです。また五色に光る陸のえべっさんの御陰で、いかなる転変地変が起きようとも、それが自然によって起きたものであれ、人間のごうがなしたことであれ、へだてなくこの地で生きる人々に再生の力を授けてくださるのだそうです。それから、同じえべっさんでも、浜のえべっさんへお願いする時は、神社の後ろ側から拝むのだそうです。ここから拝むと、どのような願いでも叶えてもらえるそうです。浜のえべっさんは耳が遠いので、前から拝んでは聞こえないのだそうです。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:32:42.95
>>80
>ま~た、いきなりアラシに反応しちゃったよw 

なんで「阿波」がアラシになるんだ?  誠実に根拠を示しているのは「阿波」だけだ。    @阿波
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:33:04.16
さて、蛭子のえべっさんがたどり着いたと言われるこの浜は、石津川からちぬの海へ流れる河口にあり、ここに浜のえべっさんがあります。川を少し上ると陸のえべっさんがありここから少しのぼると温泉の採集地だそうです。松原はもちろん奈良から長尾街道、竹ノ内街道を、列をなして『堺の塩湯』へ行く女性達の姿を今もまだ90歳前後の人からは活き活きと聞くことが出来ます。

この塩湯は浜と陸のえべっさんの間の距離にあり石津川の川を挟んで反対側にあるそうです。このあたりは『浜寺』と言って海水浴場もある遊園で大人子供も楽しめる賑やかな所だったそうです。また、えべっさんがたどり着かれた、ちぬの海のそばにある堺の塩湯について、採集地の温泉につかりながら次のように採集しました。「堺の塩湯は今もあります。ここいらはどこでも井戸水は塩水です。昔は海やったと聞いています。塩湯は夏のあせもに効くと言うてあちらこちらから子供を連れて入った。入るとすぐ治った。塩湯は、おふろ屋さんだから今も昔も宿泊は出来ない」そうです
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:40:46.74
五色の玉を持つ石神の話は播磨風土記にもある
堺の五色の石を埋めた上に置かれた石を、戦時中軍人が退かそうとしたら眼に激痛が走り失明したらしい

神嶋。伊刀嶋の東にある。神嶋と称される所以は、この嶋の西の辺りに石神があり、その形は仏像に似ていたので この名が付いた。
この神の顔には5色の玉が付いている。胸には涙の流れた跡があり、これもまた5色である。
泣いた所以は、品太天皇の御世に新羅から客人が来朝し、この神の顔に付いていた奇偉で思いの外に珍しい玉を見て、これを取ろうと顔をほじったところ、眼を一つ掘り潰してしまった。よって神は泣いたのである。
それから神は大いに怒り、暴風を起こして客船を打ち壊してしまった。この船は海を漂って沈み、やがて高嶋の南の浜に漂着したが、乗っていた人は悉く死んでしまった。よって、その浜に埋葬した。故に韓濱と名付けられた。今でも此処を通過する者は、韓人に拘らず盲の事を戒めて謹んで渡るようになった。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:41:52.19
倭人伝が何を言ってるのか?
判った人は畿内説にはならない。

狗邪韓國は、方可4千里の馬韓西岸を南に4千里を過ぎた
韓南を東行3千里で、到達した女王卑弥呼所属の船が使う港。
其の対岸、対馬、壱岐を経た、処が女王国、邪馬台国である。
と言う話。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:47:08.59
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:47:36.85
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:47:56.68
>>87
>狗邪韓國は、方可4千里の馬韓西岸を南に4千里を過ぎた
>韓南を東行3千里で

「魏志倭人伝」にそんなことは書かれていない。 嘘はいかんぜよ。   @阿波
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:49:35.55
対馬、壱岐を経たところはまだ1万2千里の手前という話
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:51:22.83
>>91
1万2千里は女王国「阿波」までの直線距離。   @阿波
0094sage
垢版 |
2023/01/02(月) 17:52:59.78
>>87

まったく同じ意見だ。
対馬海峡三千里は3日かけて渡海しただろうから、一日で水行できる距離が千里だったのだろう。
そうすると帯方郡から邪馬台国まで水行十日も九州北岸までの一万里に対応することがわかる。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:54:28.08
>>93
これも、狗邪韓國まで直線距離で七千餘里だ。 勝手に4千里だの3千里に割り振るな!   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:55:50.20
>>95
そんな恣意的な曲解など理解できるか!   @阿波
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:56:05.23
【速報】畿内説は韓国式歴史捏造グループによる犯行と判明しました

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 17:57:59.29
女王の都がある邪馬台国までの行程を説明するのに
途中の不彌国まで説明したところでいきなり郡から投馬国までを説明することはない
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:04:30.74
>>96
歴韓国と言うのは、方可4千里ある馬韓を過ぎてから
すぐに東転して、3千里を水行して、7千里。
狗邪韓國 七千餘里である。

渡海は千×3 一万里で邪馬台国。
残り、陸行一月、2千里で女王に会った。

これが、240年の魏使、建中校尉梯儁が
仮称した倭人伝の邪馬台国である。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:10:09.64
>>100
歴韓国と言うのは、韓国を旅することだ。

勝手に4千里だの3千里に割り振るな!   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:10:16.74
>>95
変動するんだろ?
固定化できない。
魏の里より短ければいいんだな。
畿内も東海も範囲に入る。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:17:02.89
>>99
国の概念が
日行、月行になった時に変わった、
という事。

例えば、東京~大阪の、倭人船の里程での行程が、
地図上の説明である仁川から成田レベルで変わっている。

まあ、例として経過時間軸は逆だが?
ご都合主義じゃなきゃ、判ると思うよwww
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:17:11.03
万二千余里
邪馬台国までの距離ではないな。
奴国、不彌国までだな。
まあ、中心国でも倭国の都でもない。
行く重要性などない。
方向の間違いではなく南以降は不要なだけ。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:18:16.85
>>98
>魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

なんの証拠もない
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:26:43.10
>>105
倭人伝論争が240年の建中校尉梯儁が
三国志の魏王の金印をもって視察に来て仮称した、
筑紫域の21国の統一国である以上、

陳寿の記録の里程は、帯方郡以南の韓は、方可4千里で
対馬渡海は、千×3回が、里程の基準だ。
一月行が2千里と言うのは、想定可能な理由が有る。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:27:25.82
狗邪韓國は韓の南の辺の3千里までしか進んでいない
そこから渡海するということは、
大海中の倭国との西北の境界の狗邪韓國は残り1千里分の領域ということで
弁辰狗邪國を中心とした諸国=後の加羅諸国で
その中で涜盧国(巨済島か?)が一番南ということ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:33:22.99
>>103

日本の地理を全く知らない韓国人に
ソウルから東京までを説明するのに、
大阪まで説明して、途中でソウルから出雲までの説明を挟むと
「すみませんが大阪から東京はどう行くのですか?」と必ず訊かれる
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:40:12.28
>>107
韓半島南部、漢四郡以南は
箕氏や秦の難民がBC200からとか、だとしても、
先住民の新石器、縄文人クラスに
何が居たかはさっぱりわからないので、
中華文明が及ばない半島南部は、
全部倭人植民地だと思った方が正しい。

何で、4000BCもの時系列で
扶余や高句麗が中華貴族だったりしたのに
半島南部には、中国文明が無いのか?
が謎だろ? まあ、日本なんだけどwww
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 18:51:55.94
>>104の続き
しいって重要性があるのは丹、朱のある所だろうな。後は翡翠ぐらい。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:01:37.38
魏志韓伝
「韓」(馬韓・辰韓・弁辰)は方四千里と記載する
現代の韓国の国土面積は10万平方kmだが、その北の方は「韓」の範囲外なので、「韓」の面積をざっくり9万平方kmとするとざっくり300km四方
四千里=300kmとすると一里=75m

魏志倭人伝
狗邪韓国から末盧国までの道程の実際の距離と記載された里数を比較すると概算で以下の通り
狗邪韓国(釜山)-対馬国 一千里=約50km 一里=約50m
対馬国-一大国(壱岐) 一千里=約70km 一里=約70m
一大国-末盧国(唐津) 一千里=約50km 一里=約50m

魏志韓伝と倭人伝は上記以外も含め概ね一里は50mから100mの間となる
魏志韓伝と倭人伝の一里が顕著に短いのは意見ではなく事実、議論の対象ではなく議論の前提だ

畿内説は自説が不利になるからといって事実を否定してはいけない
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:29:09.27
>>112

倭人の風習である卜骨は、倭人が本州から有明海沿岸に進出する弥生後期まで
九州ではまったく出ないので一致しない
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:32:19.55
>>111
20mのごさ
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:34:58.81
>>111
あれ?北朝鮮は?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:35:55.64
遺跡に見られる東南海トラフ大地震の痕跡についての解説より

徳島県を流れる吉野川下流の黒谷川宮ノ前遺跡(板野町)では,同じ砂層から少なくとも4回の液状化現象が発生したことがわかった(第4図).
図には新旧2層の水田があり,古い水田に削られる砂脈aは弥生時代Ⅴ期中頃(1世紀末~ 2世紀前半)である.
砂脈bの最上部で噴砂が古墳時代初頭(3世紀中頃)の水田面に広がり,水田が廃絶している.
砂脈cは古墳時代,砂脈dは14世紀に生じた.
隣接する黒谷川郡頭遺跡では,弥生時代Ⅴ期中頃の液状化跡が見つかり,砂脈aに対応する.
また,静岡県袋井市の鶴松遺跡でも同じ年代の砂脈が見つかっており,この時期に東海地域も激しく揺れたことがわかる.
堺市の下田遺跡では,黒谷川宮ノ前遺跡の砂脈bに対応する年代の砂脈が見つかっている.
この年代は庄内式併行期といわれる古墳時代の始まりの時期で,女王卑弥呼が邪馬台国を統治した頃でもある.

■卑弥呼時代の出来事だが
魏志倭人伝ではこの大地震について一切触れられていない
つまり卑弥呼時代の倭国は、東の倭種の国で起きた出来事を知らなかった=交流が無かった
という事です。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:37:11.89
文献の話で畿内説は有り得ないという事は
理解されているのだろうか?

里程と、日行、月行の
誰でも読み替え可能な行程論。

文献的には、一連な漢文にも段落が有る。

66は、247年の張政の行程であって
57 景初二年六月以降、卑弥呼の使への
返礼である。

まあ、正月だし、もうご飯だなw
みんな、GJ、なんだよ。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:38:46.23
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長

私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:39:14.33
>>116
中期なんだね。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:39:39.85
>>118
思われないけど?
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:44:50.87
>>113
鹿の骨は犬の好物だからな
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:46:25.66
清水眞一氏の見解は最近の纏向学の見解と大略で一致するな
纏向学の中心の寺沢薫氏は纏向を作った外来勢力として九州と吉備の連合勢力を想定する
これは神武東征伝承を考古学的に裏付ける話になりそうだ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:48:13.39
>>118

邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる
という根拠が何も示されていない
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 19:58:08.17
前方後円墳集成編年で古墳第一期を比較すると
全長で
250m超:1(奈良)
150m超:1(京都)
100m超:9(京阪奈5、山陽3、東九州1)
 50m超:30(この辺から福岡が増える)

これは古墳前期における国内の力関係を反映しているだろう
畿内における外来勢力を言う人は、畿内の力を過小評価してる
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:03:47.26
>>111
韓在帯方之南とあるが?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:06:06.84
>>129
東西以海為限南與倭接もあるんだな。
俺は100mと見るが
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:06:57.35
>>130
まあ、それぞれ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:09:31.68
>>131
つまり客観的な立論は無理と
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:11:47.37
>>130
計其道里 當在会稽東治之東
があるからね。50〜120mだな。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:12:14.48
>>132
当然
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:21:13.87
邪馬台国は奈良
東海山陰吉備が主体の政権やね
九州北部は女王国が設置した一大卒の管轄下、いわゆる属国で属領やね
ヤマト政権そのもので、記紀との違いは九州勢が作った政権ではないという点やね
記紀の嘘の一つはヤマト政権誕生の経緯
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:21:27.83
魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人の伝聞記録にあった殉葬100人という情報をもとに、その大きさを具体的に径100歩と追記したのである
なので墓の大きさは不明と考えるべきであり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:23:00.50
>>136
>邪馬台国と何の関係もない

あるよ
古墳時代は3世紀中頃には始まってるから
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:27:03.52
>>140
それ東の倭種の国の出来事だから
前方後円墳より以前に東日本では前方後方墳が造られていた
巨大古墳を造る文化は奈良発祥ではなく東日本から伝わってきたものだ
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:27:50.74
>>117
万二千里は後漢書にも出てくる距離で魏の時代じゃないかもしれない
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:28:40.05
>>140
奈良で古墳時代が始まったとしても千km離れた北部九州の邪馬台国には何の関係もない
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:33:11.52
北部九州の卑弥呼が魏と交流し、あるいは狗奴国と戦争していた頃
畿内は南海トラフ大地震で壊滅していました

https://i.imgur.com/b0M21gF.png

この事実は邪馬台国の記録には書かれていません
つまり畿内は邪馬台国と関わりが無かったという事です
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:33:21.39
>>144
だって北部九州の邪馬台国なんて無いからね
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:33:59.03
>>138
>邪馬台国は奈良

「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:34:19.64
>>144

博多では3世紀前半に85mの前方後円墳が造られているから
大作冢は九州には無い
洪水地帯の筑後は5世紀後半まで無い
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:36:26.55
>>144
>北部九州の邪馬台国

「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:37:39.94
【基礎知識】畿内説は漢字が読めない民族=韓国人と同類によって誤読されたことによって出来た創作文です

魏志倭人伝:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png

・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:38:42.13
弥生時代末期の卜骨が見つかっている、東海と吉備と四隅突出型墳丘墓のエリアが奈良を平定したんじゃないの
纏向遺跡から卜骨と大量のそれらの地域の土器が見つかっているしね

卜骨も巫女王も殉葬も殷の風習と合致する
1000年の時を経て日本で殷の再興を目指したんでしょうね
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:40:34.88
【纒向は市場でした】
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります

纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:40:39.63
>>146
結局そこの根拠が畿内説にはないんだよな
①古墳時代が3世紀前半に始まった(注-実際は3世紀後半以降の可能性も高いが)
→②だから邪馬台国は大和だ
というロジック的に成立していない主張だ

百歩譲って大和で3世紀前半に古墳時代が始まったとしても、「だから邪馬台国は大和だ」には全くならない
同じ時期に北部九州に邪馬台国があっても全く何の問題もない

関西の考古学者は頭が悪いからはこの論理破綻に気付いていない
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:42:17.52
>>145

大阪湾岸中河内の中田遺跡群を中心とした津的な大集落群は
庄内期に成立し河内Ⅲ式-布留Ⅰ式に最盛期を迎えるので
壊滅していない
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:42:30.88
>>153
関西の考古学者は頭が悪いからこの論理破綻に気付いていない、だ

大事な結論に余計な文字が入っていたから訂正 笑
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:42:50.58
畿内説の人って邪馬台国とヤマト王朝の関係についてどう考えてるんだ?
九州説だと神武東征ですんなり説明できるけど
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:45:04.61
>>152
女王国にじゃない
市は国々にあった
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:46:05.10
【纒向は古墳造営キャンプ場でした】

纒向遺跡調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

奈良盆地は唐古鍵閉鎖後は墓場として周辺国に利用されており、大型古墳を建造する際には遺体安置所兼遺族の宿泊所を設置し、
東海地方から来た労働者たちが野宿をしながら古墳建造に従事していたものと思われます。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:47:43.20
論理破綻してるのは>>153の脳だったな
九州は3世紀中頃にもう序列社会の下位に取り込まれてる
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:48:13.75
>>156
伊勢遺跡→纏向遺跡→?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:48:26.05
>>155
畿内説も九州説も頭が悪いから、この「倭地温暖」を無視している。   @阿波
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:49:09.78
>>158はもう妄想確定してるw
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:50:09.11
>>158
桃とカエルじゃ腹膨れんよ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:52:34.17
>>163
そう思うのは
君が無知無教養なせいなんだけどね
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:53:49.81
>>164
神様が造ったんじゃないし人間なら腹も減る
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:53:57.14
>>159
それは文献上も考古学上も全く根拠がない
関西の考古学者だけが主張する畿内説は論理破綻している
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:55:21.65
>>165
>畿内説では邪馬台国はその後どこ行ったかわかりませんってこと?

九州説は邪馬台国はその後どこ行った?   @阿波
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:56:36.12
>>165
大阪の巨大なの古墳を造ってた頃その主は何処に居たかわかんないな
民のかまどが見える場所に居たのかな?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:57:07.18
関西の考古学者が邪馬台国は纏向で決まったようなことを喧伝して無知なマスコミが一時期その通りに報道したが、結局纏向からは邪馬台国と主張できるような遺構・出土品が何も出て来なかった
根拠のなくなった畿内説は事実上破綻している
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:58:25.45
伊勢遺跡は卜骨がないからね
時代も1世紀末〜2世紀末
近所で伊勢遺跡と同時代の銅鐸が大量に見つかっているけどね
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 20:59:03.76
奈良盆地は弥生時代が到来していませんでした

■中国史書に記された卑弥呼時代の韓国と倭
<魏志韓伝>
・「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
 国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
 諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
 また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。
<魏志倭人伝>
・「兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃」
 倭の兵士の武器は、矛・楯・木弓、木弓は上が長く下は短い、
 箭には竹を用いる。鏃 (やじり) には、鉄や骨を使用している。

この時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体である(下図参照)

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 21:00:28.53
>>171
卜骨どころかなんもない
銅鐸も勝手に言ってるだけであの場所から出たんじゃないからな
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 21:02:54.19
8世紀にようやく女王国の東の倭種の国が朝貢を開始しました

<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
 
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
 
 そして古代倭国との関係について
 日本国使者があれこれ言い訳をする。

「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
 ↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 21:11:32.44
伊勢遺跡から出る遺物は柱が沈み込まないように敷いた土器片くらい
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 21:34:58.44
>>148
意味不明
魏志倭人伝に前方後円墳てあったけ?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 21:42:37.14
>>174
成る程
邪馬台国は近畿だな
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:01:15.94
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:25:37.67
>>161
気候変動というのがあってな、卑弥呼の時代は温暖なのよ
0182sage
垢版 |
2023/01/02(月) 22:27:27.63
>>99

そうだよな。行程の途中で話の腰を折るのはおかしいよな。
伊都国、奴国、不弥国が最終目的地なんだよな。
それで意味が通じる。
0183sage
垢版 |
2023/01/02(月) 22:29:09.57
>>100

日本列島のどこであっても、陸行一月が必要なところはない。
陸行が最短となるように水行するからだ。
おそらく陸行1日の誤りだろう。
魏志倭人伝で唯一の誤記だな。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:29:13.53
結局畿内説っていうのは卑弥呼以前やトヨ以降はどうでもいいんだよな
だから部分的に一致したものがあればそこのみに拘って他との整合性なんて放り出せるんだわ
0185sage
垢版 |
2023/01/02(月) 22:29:54.52
>>102

誤差の範囲内。
魏志倭人伝において一里はおよそ100メートル弱だよ。
0188sage
垢版 |
2023/01/02(月) 22:31:53.42
>>107

いや、そうじゃないだろ。
対馬まで渡る最短距離のところに倭人が住む漁村があったという程度の話だろ。
弥生時代だから、狗邪韓国が幅千里もある大国なわけない。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:35:30.95
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産であり、その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:36:32.24
>>188

残り1千里分の領域が
弁辰狗邪國を中心とした諸国=後の加羅諸国
漁村程度は国ではない
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:39:39.05
>>182
纏向遺跡見て女王の都の邪馬台国は
わざわざ行くような所でないな。
邪馬台国に期待し過ぎですね。
水行30日陸1月で終わるわな
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:41:27.49
>>189

甕棺墓は2世紀までにはど没落した集団、
全羅南道では6世紀くらいまで存続する
平原蘇塗跡は馬韓の風習
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:44:21.38
>>189
三種の神器を祭祀に使用した記述は
魏志倭人伝にはないけど?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:45:22.73
>>194
両方とも行っていないよ。
工事だらけだろうな。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:46:11.56
>>197
さてそれが三種の神器なのか?
定かではないな
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:47:55.78
>>151

それ、筑紫から来た饒速日でしょ。
大阪湾の日下や交野に上陸したとある。
尾張氏も饒速日の末裔。
記紀や先代旧事本紀そのまんまだね。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:49:37.28
>>156

> 畿内説の人って邪馬台国とヤマト王朝の関係についてどう考えてるんだ?
> 九州説だと神武東征ですんなり説明できるけど

本当にそれ。
畿内説だと、日本史が成り立たなくなる。
纏向遺跡が崇神天皇の宮だとすんなり認めるべきだ。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:51:04.91
>>199

実際に郡使が滞在した伊都国からザクザク出てくるのだから、考古学を無視してはいけない。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 22:56:41.95
>>202
無視はしていないけど
卑弥呼が祭祀にした事と関連した事なのか定かではないだな。魏志倭人伝に記述がないのである
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:02:55.42
>>201
神武東征が正しいとか立証できるのか?
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:04:33.51
五色なんだよな
五色の玉を持つ石神、ヒルコ
五色の玉を持つヒルコがたどり着いたという伝承が堺にある
二上山産のサヌカイトの石器が多く見つかる泉北丘陵

二上山と並ぶサヌカイトの一大生産地は香川の五色台
山と海で囲まれた要塞みたいな場所

ヒルコって旧石器時代からいる集団の末裔?
あるいは旧石器時代からいる集団に根を下ろした人物?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:10:12.41
ヒルコは伊奘冉は初産だったから難産だったんだよ。
それだけのこと。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:14:15.72
延喜式に皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたとあるんだよな
えべっさんの可能性もある
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:15:52.85
五色台、坂出
堺の五色に光るえべっさん
サヌカイト繋がり
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/02(月) 23:26:45.67
播磨風土記は面白いよな
パンダではあるまいに、笹を食う猿を見たと書いてある
笹はえべっさんと関係がある言葉だな
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:01:49.02
>>201
伊勢遺跡があるし巨大な墓はある
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:07:37.20
仲哀天皇の墓じゃないかと言われている五色塚古墳
讃岐の石工が呼び寄せられたみたいな話があったな
五色で色々話が繋がっていく
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:15:49.67
堺の五色のえべっさんの神主はアメノホヒの後裔野見宿禰の子孫らしい

最初にたどり着いた葦船に乗るヒルコのえべっさんと後々降臨した五色に光るえべっさん
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:16:55.63
>>212
おまえも願望
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:20:04.31
えべっさんは子沢山なのか
あちこちに足跡があるな
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:20:24.34
>>217
だから行っていないと書いている。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:23:48.01
>>219

投馬国、邪馬台国には行っている
行ってないのは其餘旁國遠絶 不可得詳
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:29:48.60
>>220
いないな。倭人から聞いたのみだよ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 00:40:32.26
>>222
山に丹ありで丹がある所のみ
国名があるなら聞けるだろ。
0225琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/03(火) 01:05:54.51
史書に記さないだけだ。
丹山の位置も軍事力も魏は知っている。史書は機密書じゃあない。
陳寿は倭奴国とおそらく帥升の住む場所の違いもわかっている、大体でいいんだよ。書き記したい事に影響なし。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:09:05.98
>>224
卑弥呼が都だったとする所
と四国だよ。
可5万戸、7万戸は見積もりだよ。
可を使われているのは二箇所のみ。
開拓、開発地だな。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:22:44.42
>>225
敵対勢力の財源にもなるから
あえて記載しなかったも考えられる。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:32:45.86
>>227
魏の滅亡とだいたい同時期に
貢ぎをやめている。266年。
中国の政情の不安定で疑問に持ったかもしれん。
貢ぎをやめたのでは?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:37:29.69
>>226

丹がある所は投馬国だとは書かれていない
行ってない国が其餘旁國遠絶 不可得詳と書かれている
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:45:32.79
>>230
山に丹ありの記述はある
行っていない国とは?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 01:51:03.06
>>230
丹がある所が邪馬台国も書いていないが?
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 02:02:22.69
結局、倫理的に結論を出せたのが
畿内説だけだったから
他が消えたんだな
0234琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/03(火) 02:07:49.90
魏と女王国は何度も交流している。よく知ってるさ。その国もとは男王住むこと70年…、詳しくは表にしないだけ。
魏と縁のある巫女の話だよ。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 02:26:27.02
>>234
昔話を聞き齧っても史実だと言えないからね
0236琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/03(火) 03:09:17.78
それは文字の無い国に言えることだろ、当時の中華は超先進国でもあり、教育も高水準だな。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 05:41:11.67
卑弥弓呼じゃなくて卑弥弓呼素が正しいのだろう
0239琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/03(火) 05:50:27.32
女王国外の敵対国で王の名を記すのは不思議じゃあないが、官の名までは不自然だろ。女王国の1つだよ。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 06:32:23.88
>>238
先人の後追いか?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 06:59:40.73
>>239
奴国が分裂
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 07:15:58.83
>>237
倭人→通訳→魏の人→自国文字に変換→時を経て→現代の日本読み

最初に何を言ったか、正確に伝わっていない可能性が大きい。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 07:48:19.75
>>208
>五色台、坂出
>堺の五色に光るえべっさん
>サヌカイト繋がり

「倭人(阿波勢力)」の活動痕跡。   @阿波   
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 07:50:02.32
>>214
「倭人(阿波勢力)」の進出活動痕跡。   @阿波
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 08:02:44.49
卑弥呼はヒメミコ
卑弥弓呼はヒコミコ
いずれも個人名ではなく尊称だ
0248琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/03(火) 08:11:46.05
奴国分裂、なんでも適当なことをいうねぇ。
あきれる。
もう少し、出てくる人間の自然な姿が浮かびあがるような、唸るような話を出してこないと。こじつけてるだけでしょう。
陳寿は当時の人間を真剣に記しているんだからね。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 08:43:04.48
邪馬台国までの行程の有名な奴国(那の津)の他に、詳細がわからない其余の傍国の中にも奴国がある
女王国の境界は後者の奴国で尽きるように書かれている

熊本県北部の有明海沿いに玉名という市がある
筑後平野の南端にあたる場所だ
この玉名は日本書紀にタマキナと記載され、その後の複数の書ではタマイナと記載されている
タマキナ→タマイナ→タマナと変化したようだ
私はこのタマキナが女王の境界の尽きる奴国ではないかと考える
魏志倭人伝では何らかの理由でタマキナの最後のナの表記だけが残っているとの解釈だ

山門の邪馬台国は有明海沿いから筑後川流域に掛けての地域(主に筑後)を支配し、伊都国は玄界灘から御笠川等の河川に沿った内陸方面まで(主に筑前)を支配し、その両国の同盟・連合で女王国が成立したと見ている
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 08:47:35.68
>>249
>山門の邪馬台国

まず、「倭地温暖」で即刻アウトだ。 分不相応をわきまえろ!   @阿波
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 08:51:06.03
奴国が女王国じゃない、一大卒管轄下の属領というだけ
九州北部は一大卒の支配下、奈良は卑弥呼率いる纏向の兵たちの支配下
奈良も九州北部もヤマト政権を作った勢力に平定されたということやね
どちらにも関わっているのは吉備などの瀬戸内海の勢力
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 08:57:47.97
>>251
>どちらにも関わっているのは吉備などの瀬戸内海の勢力

どうしても、「倭人(阿波勢力)」とは言いたくないんだな。  わははははは   @阿波
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:03:32.72
魏や西晋の時代の中国が奈良や畿内を知っていたという根拠はどこにもない
卑弥呼の時代の3世紀前半までの畿内の遺跡にも大陸と直接交流した痕跡は殆どない

当時の畿内は出雲系の青銅器文化に支配された非支配地域であり邪馬台国とは無関係だ
文献的にも考古学的にも根拠の全くない畿内説は関西考古学界の願望に過ぎない
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:07:50.03
>>254
冬も福岡の方が少し温暖

1991-2020年の1月の平均気温(気象庁調べ)
徳島 6.3℃
福岡 6.9℃
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:09:57.88
>>255
だから、  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いだろ?
異論あるかい?  わははははは   @阿波
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:27:09.16
>>258
気温的にはそうだな
ちなみに同じ気象庁データで1月の奈良は4.2℃で温暖さでは明確に劣る
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:38:03.60
>>259
>気温的にはそうだな

測候所の場所にもよるんだろう。
桜の開花も、徳島は東京よりも遅い。 標本木による差異だな。   @阿波
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:42:59.58
肥前と肥後に挟まれた筑後が不自然。
多分、4世紀以前は、いわば肥中とでも
言うべき地域だった。

そしてそこには、旧山門郡があった。

筑前と筑後はほぼ、筑後川で分断されている。

また、のちの筑紫の君、磐井の墓とされる
岩戸山古墳群、ここには石人石馬があり
これは熊本北部の文化が色濃い。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 09:45:44.47
気温については福岡の気温は都市化で
若干上昇しており、福岡南部より
高い気温が出ることが多い。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:01:29.69
>>215
延喜式 石津太神社は一座。
(論)石津太神社(論)石津神社の二社のうち後者は「ヒルコ」は祀らない。
つまり、蛭子命・八重事代主命のうち
【少なくともどちらかのエビスは完全に無関係】である。
(両祭神が異名同神でない場合)

おそらく「戎宮」である事自体も後世のもので延喜式当時は、石津連がその祖神・天穂日命を祀った氏神社だったと思われる。
神社は平気で祭神すり替えるからそこから歴史を復元するのには細心の注意が必要。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:07:18.24
浜のえべっさん陸のえべっさんは神社の縁起ではなく、地元民の口承の話
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:16:04.48
>>265
魏志倭人伝のだいぶ後の延喜式とか?
証拠にならない
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:17:49.42
>>266
漂着物やクジラをエビスと呼ぶ。
それらの伝承がいつのまにかヒルコやコトシロヌシにすり替わったものだろう。
(論)石津太神社江戸時代には活発な勧進活動をしていたようで、明和六年(1769)に江戸湯島天神と大坂坐摩神社で出開帳を行っている。その前年には神札領布をめぐる西宮神社(戎神社の総本社とされ、石津太神社と同様の蛭子漂着伝承がある)との係争について和解が成立したという記録がある。
朝廷の力が失墜した江戸期では神社を商売に利用する事があり各地で祭神差し替え由緒捏造が盛んに行われたようだ。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:19:29.88
>>267
証拠にならない上に内容が怪しいと指摘しているのは当方なのだが。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:24:55.79
>祭神差し替え由緒捏造が盛んに行われた

阿波と九州北部固有の現象
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:25:10.97
葦船のひるこは長い年月をかけて立派な浜のえべっさんに成長、面白いやないか
陸のえべっさんは村落ができた後にやってきた天地を守るえべっさん
柱の神さまみたいな例えやな
いわ山を作った話もあるから古墳時代か?

堺と西宮はひるこのえべっさん、今宮と祇園は事代主のえべっさん
あちこちにえべっさんはいるんやねえ
移動しまくり
移動民に大切なのは方角と子育てするコロニー
方違に恵方
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:37:21.34
>>270
少なからずどこでもあったのだろうがそれは誤伝や神話に引きずられている場合もある。
しかし、阿波は悪意をもって祭神や由緒が変更されているのが明白である。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:44:05.26
神さまは天に行かれて堺に神さまはいませんと口承にもあるやん
大事なのはひるこにもその後がある
ひるこは耳が遠い
五色やイワと関係がある
それは旧石器時代のサヌカイトの地と関係がありそう
堺や和泉の摩湯には塩湯の風習が昔からあった

延喜式の湯津磐村や下津磐根は何なのかを考えるヒントにもなるということ
湯、津=港、磐イワ
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:52:12.52
>>255
直接交流した痕跡て何?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 10:53:36.40
>>242
ありうるな。狗奴国は一族だったかもしれん
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:03:42.55
下津国の場所が分かればイザナミが逃れた黄泉の場所も分かる
常世も竜宮城の場所も分かる

黄泉に逃れたイザナミが鎮座した与美津枚坂
えべっさんの地から更に石津川を上流に行ったところに弥生時代から続くヒラとサカのつく集落がある

堺にはサルタヒコ伝承に出てくる地名と同じものが揃っている
サルタヒコが溺れたとされるのが阿邪訶の海、アサカという地名が堺にあるね
サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上だが、堺に流れるのはイシヅ川
ヒラブガイに挟まれてという件があるが、石津川の川上にヒラとフカの地名の集落が並んである
その真ん中にあるのは弥生時代の遺跡鈴の宮遺跡

こじつけかもしれないが仮説としては面白いでしょ
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:03:45.31
>>274
例えば大陸由来の銅鏡や鉄器
纏向の土木用の鋤・鍬は木製でしょ
北部九州は弥生後期の遺跡から大陸製の銅鏡も出るし農具も鉄製
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:06:38.35
>>272
幕末の神道復古で、一気に復活しただけ。 
「阿波」では千年もの長きにわたり、神道の火種が代々脈々と灯り続けていたから、
一気に神社祭神復古の火が付いた。   @阿波
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:09:43.75
>>213

だから、それは誰の墓なのかと。
崇神の時代に卑弥呼の治世60年を挟み込む余地はないよ。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:13:23.12
正月早々から妄想垂れ流しのスレだな。
まったく。
魏志倭人伝を百遍読み返せ。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:16:10.70
>>280
卑弥呼の時代までにそもそも大陸との交流がなく大陸側の書物にも記載がないのが畿内
卑弥呼の時代までに大陸からの銅鏡や鉄器が出まくるのが北部九州

畿内説は何の根拠もない関西考古学界の妄想
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:16:17.55
畿内も食料増産のための植民地だけどな。
纏向遺跡では民は鉄器を使わずに木製農具で働いていた。
魏志倭人伝では、邪馬台国の兵は使い捨てにされる鏃すら鉄製だったというのに。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:17:14.85
邪馬台国は奈良でヤマト政権の始まり
狗奴国は葦原中国の生き残りの国津神の国で河内和泉
これでいいんじゃないの?
狗奴国の歴史も取り戻しさないとあまりにも気の毒
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:18:09.41
>>276
>黄泉に逃れたイザナミが鎮座した与美津枚坂

その痕跡が「阿波」に在る。
①高越山②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷④モモの種(桃ノ木谷)
⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:18:51.04
>>274

中国で作られた銅鏡や、中国で精錬された水銀朱、中国を通じて輸入された玉璧、冊封の証である金印かな。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:19:41.12
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:19:48.05
>>277
だから、北部九州は「倭地温暖」でアウト だと何度言えばw   @阿波
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:22:28.59
>>282
>魏志倭人伝を百遍読み返せ。

魏志倭人伝を百遍も読み返さなくても、「倭地温暖」で九州も畿内もアウトだとすぐ分かる。  わははははは   @阿波
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:23:52.93
>>285
>邪馬台国は奈良でヤマト政権の始まり

「倭地温暖」で即刻アウトだ。 分不相応をわきまえろ!   @阿波
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:24:54.94
>>291
>南部九州と四国本州の南岸以外も全部アウトやな。

その通り!   @阿波
0296伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/03(火) 11:27:23.20
日本@名無史さん(中略)@阿波さんは、
思い込みが強く、なぜか北部九州は四国より寒いと思い込んでしまっており、
データ見て正確に判断する事も出来ない。

都合の良いデータは信じるが、
都合の悪いデータや資料は無視する。

ご都合主義の権化、残念な人。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:27:48.52
>>262

のちの筑後となる有明海沿岸の火の国山門の女王卑弥呼が倭王に共立されて王都である伊都に入ったため、筑後は筑紫つまり筑前と一体化が進んだのだろうね。
ちなみに壹與は肥前佐賀川上の河上神社あらため與止日女神社にいる。
與止日女様はのちに畿内にも勧請されて畿内一の大河である淀川の名の由来となった。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:32:34.03
伊奘諾は黄泉から陸路で黄泉比良坂を越えて筑紫に帰ってきて、博多湾の小戸で禊をした。
つまり伊奘冉の黄泉の国も九州北部。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:35:52.93
>>296
>データ見て正確に判断する事も出来ない。

このアホは、偏ったデータ(測候所の場所による)を鵜呑みにする単細胞ばか。   

徳島より福岡の方が暖かいなどと言う話は聞いたことがない。   @阿波
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:36:21.05
>>291

それにしても奈良はあり得ない。
大阪や和歌山よりもかなり寒いらしいし。
あんなところを邪馬台国にしようなど、畿内説もよほどアホだらけと見える。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:36:36.43
>>299
その痕跡が「阿波」に在る。
①高越山②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷④モモの種(桃ノ木谷)
⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原   @阿波
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:39:30.22
>>296
>データ見て正確に判断する事も出来ない。

このアホは、緯度でも福岡の方が暖かいとほざく単細胞ばか。   @阿波  
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:46:33.91
邪馬台国が何処にあったかは、邪馬台国の定義によるだろ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:46:58.24
>>298
嘘はそっち
卑弥呼の時代までの畿内の遺跡から大陸との直接交流の痕跡が殆ど出ないのも、その時代の中国側の史書に畿内や奈良のことを知っている証拠がないのも事実
逆に卑弥呼の時代までの北部九州の遺跡から大陸由来の銅鏡や鉄器が出まくり、中国側の史書に北部九州のことがいろいろ書かれているのも事実

畿内説はどう見ても関西考古学界の妄想
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:51:48.74
>>306
>逆に卑弥呼の時代までの北部九州

だから、北部九州は「倭地温暖」でアウト だと何度言えばw   @阿波
0310sage
垢版 |
2023/01/03(火) 11:53:17.60
>>307

逆に、魏の遺物だと確認できるものって何?
Made in 魏と書いてあるの?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:54:58.17
>>279
大山古墳が誰の墓かなんて知らんがな
墓があるんだし誰か居たんでしょう
0313伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/03(火) 11:55:34.46
四国徳島の平野部が温暖だと言うなら、
北部九州も同じように温暖。

北部九州が温暖で無いと言うなら、
四国徳島も同様に温暖で無い。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:55:48.97
>>311
残念ながら植生は嘘をつかない。  わははははは   @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:57:46.77
>>287
中国から輸入された銅鐸製作用の銅
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:58:26.65
東北の伝承だよな
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る争い
赤神が何なのかやな
七福神の候補にもなっていた猩々
酒好きの真っ赤な神さまで、血染めの服を着るという伝承もある
能の乱に猩々と鷺の演目があるな
白鷺はヤマトタケルだ
ヤマト政権が平定した畿内の人々を徴兵して転戦したのかな
伊吹山で亡くなり兵だけが故地に戻ったのか
ヤマトタケル絡みも二重三重の意味が重なるからねえ
まだまだ謎が多い
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:58:51.16
>>311
残念ながら偏ったデータは嘘をつく。  わははははは   @阿波
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 11:59:19.51
>>306
銅鐸作る銅を輸入してるだろ
0321sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:00:00.73
>>276

猿田彦神社は福岡市早良区。
天孫降臨前つまり伊都国王統成立前の、奴国すなわち福岡平野側に王都があった時代の豪族だろう。
王は志賀島の竜宮城つまり志賀海神社にいた安曇の主。
考古学的には奴国から伊都国に王統の変遷があり、記紀では大山祇綿津見から天孫族への交代になる。
共通するのは、どちらも三種の神器を持つということ。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:00:18.98
319 日本@名無史さん ▼ New! 2023/01/03(火) 11:58:51.16 [0回目]
>>311
残念ながら偏ったデータを使う、板野の詐欺師は嘘をつく。  わははははは   @阿波
0324sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:01:24.99
>>320

銅は何百年も前から普及しているから、何の証拠にもならない。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:03:43.87
>>222
確かに倭人から聞いた話なら遠くて知らないなんてないな
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:05:31.53
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:06:22.36
>>324
>>283
おまえ何言ってんの?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:25:50.24
>>320
青銅は3世紀にはとっくに日本列島内に流通ネットワークがあるな
畿内は主に出雲経由のルートに依存していたのではないか
逆に出雲は青銅器とそれを用いた祭祀の力で畿内にも影響力を持っていたということになろう

それをひっくり返したのが吉備と組んで九州から入った神武勢力→崇神朝ではないか
0335sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:30:40.09
出雲を抑えて天孫が筑紫で王権を確立したというのが記紀による日本の公式な歴史だったはず。
なぜ畿内説は出雲から畿内にショートカットするのか。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:37:05.25
>>321
歴史的に江戸を遡らない神社などを根拠にするべきでない。
神社伝承学は使い方を誤ると大変危険なもの。バカには無理。止めるべき。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:41:12.81
出雲はおそらく朝鮮半島→対馬→沖ノ島→宗像→出雲のルートを持っていたと思う
筑紫側は朝鮮半島→対馬→壱岐→玄界灘沿岸だろう

神湊・宗像大社あたり以東(宗像族など)と、宮地嶽神社あたり以西の奴国を含む領域(阿曇族など)で商圏・勢力圏がわかれ、前者は出雲勢力に近く、後者は(広義の)女王国=筑紫勢力に属していたと私は考える
0339sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:43:02.13
沖ノ島も玄界灘、宗像は玄界灘沿岸なのだが…
博多湾の間違いかな?
0340sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:45:30.82
出雲の国譲りの後で、天照は孫を豊葦原中国の王とするために筑紫に送った。
天孫は豊葦原中国つまり筑紫の日向において、倭王となった。
倭王たる条件、それは博多湾沿岸を実効支配することだった。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:46:25.48
>>334
出雲に工房がないのよ
だから原料の銅を輸入して近畿で作ったものを買ってたんでしょ
0342sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:48:23.87
神武は筑紫から大和に東征したが、東遷ではなく東征なので、記紀は筑紫が倭の王都であるというだけではなく、神武の後も筑紫が王都であり続けたということになる。
記紀の編集方針は、嘘は書かないが、面倒なことは書かない、天皇家以外は実際よりも身分を下げて書くというものだった。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:49:32.26
余談だが宮地嶽古墳の被葬者を宗像徳善とする考古学界(の一部)はアホじゃないかと思う
阿曇族の地に宗像族が埋葬されるはずがないし時代も違う
宮地嶽神社内で伝承されている通り、被葬者は阿曇族で筑紫君磐井とも近い人物であろう
0345sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:51:25.27
魏志倭人伝からは、少なくとも卑弥呼の時代は玄界灘の制海権を伊都が掌握し、例え宗像だろうがたとえ出雲だろうが、筑紫を飛ばして銅などを輸入することは制限していたようだ。
おそらく宗像ルートは機能していなかった。
沖ノ島祭祀が4世紀になって発展したのは、伊都の卑弥呼のコントロールが外れたからだろう。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:51:38.68
対馬も青銅器製品がたくさん出てる
0347sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:54:42.49
対馬が伊都の大率の制海権にあったことは、大率が女王国から北を検察し、周辺諸国はこれを畏怖していたという記事から明らかだ。
ところで、畿内説だと伊都の大率の支配域は出雲から若狭湾まで及ぶということでいいのかな?
0348sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:55:12.80
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:55:31.45
>>335
出雲から青銅器製品がたくさん出るから近畿で作ったものを買ってたんでしょ
0350sage
垢版 |
2023/01/03(火) 12:58:27.12
禰宜は伊都国の官。
彼が使えていた倭王は、もともと志賀島にいた。
伊都に着任した天孫族は、この志賀島の竜宮城の姫を娶って姻戚関係となり、倭王の王権は志賀島や奴国から、伊都国に移った。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 12:58:36.48
青銅器の取引も大倭が監視してる国々の市でしょう
0352伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/03(火) 12:58:52.54
>>323
気象庁が長年蓄積したデータを「偏ったデータ」と言い切るおまはんの方がよっぽど偏向しとるわ。

ホンマ困ったやっちゃなあ。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:01:47.31
>>340
>倭王たる条件、それは博多湾沿岸を実効支配することだった。

だから、博多湾沿岸は「倭地温暖」でアウト だと何度言えばw   @阿波
0354sage
垢版 |
2023/01/03(火) 13:02:17.97
>>349

青銅器の最大の生産地は考古学的には筑紫だったから、筑紫から買っていただろう。
筑紫は当時すでに広く出回っていた青銅器は出雲などに売って荒稼ぎする一方で、重要な軍事物資でえる鉄は門外不出とした。
予想外だったのは、九州北部の邪馬台国が内部分裂して狗奴国が独立したことであった。
狗奴国は九州北部に属して鉄器も大量に生産できていたから、身内ではあるが強敵であった。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:04:55.46
>>352
>データ見て正確に判断する事も出来ない。

このアホは、偏ったデータ(測候所の場所による)を鵜呑みにする単細胞ばか。   

徳島より福岡の方が暖かいなどと言う話は聞いたことがない。   @阿波
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:04:59.68
>>354
大量のでかい銅鐸が出てるからそれは近畿でしょう
問題は銅剣なんだよな
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:05:55.15
ヤマト政権の始まりは纏向遺跡の外来系土器、卜骨の分布から推測されるのは、東海山陰吉備が母体の勢力なんだよな
吉備は3世紀後半纏向遺跡から撤退しているからヤマト政権の枠組みから離脱したんでしょうね

戦国時代と同じで東海勢が覇権を握ったんじゃないかな
猩々が盛んだったのもこのエリア
ヤマトタケルの本拠地も東海
0358sage
垢版 |
2023/01/03(火) 13:06:17.01
大量のでかい銅鏡はどうですかね。
あと、当時の武器といえば中国の影響では銅矛の方が重要。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:06:28.87
>>296
>データ見て正確に判断する事も出来ない。

このアホは、偏ったデータ(測候所の場所による)を鵜呑みにする単細胞ばか。   

徳島より福岡の方が暖かいなどと言う話は聞いたことがない。   @阿波
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:07:14.71
唐古鍵遺跡は銅鐸の工房跡がある
0361sage
垢版 |
2023/01/03(火) 13:08:19.13
鉄剣の時代に銅剣を量産している時点で、出雲も半島の鉄を自由に入手できなかったことがわかる。
伊都の大率による玄界灘の交易の管理は厳しかったのだろう。
0362sage
垢版 |
2023/01/03(火) 13:09:31.49
で?
畿内説だと伊都の大率の検察は女王国の北側である若狭湾まで及んでいたということでいい?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:09:34.14
筑前は筑後の傘下であり派遣された大率に監視されている。
旧敵国として伊都周辺諸国はこれを恐れている。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:11:13.72
>>361
青銅器の方が貴重でしょう
輸入ルートであろう対馬も青銅器文化圏なのよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:11:49.12
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県北西部の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
「大率」・・・百済などにあった上級の中央官僚
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:13:00.96
>>361
青銅器は祭祀用だから
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:15:22.76
>>364

青銅器は大量に出回っているから貴重ではない。
とは言え、輸入ルートである対馬も伊都の大率の管理下にあったことは明白であり、出雲も畿内も、筑紫伊都の許しがなければ何も輸入できなかっただろう。
大率が玄界灘の諸国を検察している時に、見知らぬ船が沖合を通過したら見咎められたはず。
玄界灘の船乗りのルールは厳しい。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:16:17.90
>>366

だから何だ?
言いたいことがわからない。
実用品であった鉄は筑紫以外へは禁輸だったことの説明?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:19:01.98
一大率の権力の裏付けは筑前のボスである伊都国だろう
筑前トップの伊都国が筑後トップの邪馬台国とともに卑弥呼を共立したために筑紫連合とも言うべき女王国が成立したが、これは邪馬台国が名(宗教的権威としての王)を取り伊都国が実(大陸交易の独占や諸国の監察)を取った連合のように見える
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:35:51.00
こうして読むと、魏志倭人伝における大率の記事は重要だな。
筑紫が出雲も大和も吉備も抑えて倭国の首長であった理由がよくわかる。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:37:29.78
>>368
鉄みたいな実用品じゃないから目的が違う
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:37:58.99
記紀において、神武の筑紫から大和への移動が東遷ではなく東征とあるのは、筑紫が王都であっただけではなく、神武が筑紫を去ってからも筑紫が王都であり続けたという認識なんだよね。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:38:06.24
伊都や対馬といった女王国北の国々は邪馬台国から派遣された大率に監視されこれを怖れている。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:38:47.06
>>367
>>369
伊都国は出雲です
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:39:47.46
>>375
何が言いたいのか不明。
銅は古くからあるから、古い銅鐸のリサイクルで済む。
鉄は鍋にもなるし鏃にもなるが、九州が半島で買い漁って独占していた。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:43:40.26
>>379
役に立つと分かれば入手してるでしょ
鉄を輸入した時期は青銅器と変わらなくて関東にも弥生時代のがある
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:45:14.36
>>381
往来の記事は限られるし直ぐ帰るから
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:46:16.90
>>375

荒神谷の銅剣が祭祀用?
数的に違うだろ。
みんなで剣舞のマスゲームでもしたのか?
鉄剣の時代に銅剣を量産しても負けるだろ。
銅矛の軍団に対してさえも勝てない。
伊都が玄界灘の制海権を掌握していたことは極めて重要。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:46:16.95
>>376
何のこじつけ解釈だ。もう一回読み直せ。九州推しの俺も何でも筑紫マンはガチキモいんですけど。

『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」

『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日ニギハヤヒというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:47:17.54
>>383

魏志倭人伝を読み直しなよ。
郡使は一度きりではなく頻繁に、かつ長期にわたり滞在した。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:47:59.37
>>384
使ってないし祭祀用でしょう
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:49:12.22
>>386
何度も行き来してるけど航海の時期は限られる
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:51:15.65
>>385

それまで筑紫の日向に豊葦原中国の王として君臨していたのに、それを捨ててもう一つの天孫である饒速日と合流しようという話だろ。
饒速日が畿内で天照国照の称号で日本国を立てて成功していることは認めた上で、大陸と交渉していた倭王は博多湾沿岸にいたと言っている。
何が不満だ?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:53:02.12
伊奘諾すら筑紫の日向にいたというのに、筑紫を抜きにして出雲から大和にショートカットする畿内説こそ見苦しい。
記紀も魏志倭人伝も適当に聞き齧ってつなげただけ。
大局が読めていない。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:54:31.95
>>388

滞在期間中はずっと郡使は楽浪帯方土器を使った料理を提供されていたわけですよ。
その伊都は糸島しかあり得ない。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:55:47.55
>>390
青銅器文化圏て事で対馬→出雲は太いでしょ
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:56:22.26
結局、筑紫が倭国の王都であったことを認めたら、邪馬台国も九州北部で決着してしまうからな。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:57:50.70
>>392
知らんけど使わない銅剣の目的は何よ?
金ぴかの青銅器だぞ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:57:58.73
>>393

しかし卑弥呼の時代は伊都の大率が検察していたから使えなくなっていた。
宗像の沖ノ島祭祀が盛んになるのが卑弥呼が亡くなった後の4世紀からというのがその証拠。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:58:30.60
博多湾もこの時代女王国つまりヤマト政権が設置した一大卒の支配下でしょ
立場的に平定された奈良と同じ立場
かろうじて東北、東国や伊吹山、河内辺りがヤマト政権に抗っていたんでしょ
卜骨、殉葬、奴婢の風習に抗う人々がいたっていいと思うが
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 13:59:14.06
>>396
伊都は出雲だと思うがなあ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:00:16.14
>>395

こっちが聞きたいを
何を根拠に200本もの銅剣が祭祀用だというのか。
実用品なら鉄剣に敵わないのは明白。
しかし出雲は対馬海峡ルートを伊都に抑えられて使えなかったから鉄剣を十分に手に入れられなかったということ。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:01:45.94
>>399
だから実用品じゃないって
出雲の王様は青銅器が大好きだったんだろう
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:02:24.20
>>398
里数的にもあり得ない。
松浦で上陸して陸路なのだから、九州に決まっている。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:04:09.73
>>353
楽浪郡と比較したら九州は温暖だよ、半島からの渡来人がやって来た当初はオンドルを作るが根付かなかったのは温暖だったから
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:04:22.93
【注意】卑弥呼の墓の大きさは径百歩ではない

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:08:19.89
>>402
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
ちょうど良いでしょ
青銅器の輸入ルートだと考えればおかしくない
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:09:25.76
私は神武東征は、筑紫で何らかの困難に直面した一勢力のエクソダスだと考える
契機は2世紀後半の倭国(筑紫)の大乱(魏志倭人伝に記載)や飢饉(新羅本紀に記載)ではないか
その勢力が東に流れた後に、うまく吉備勢力を巻き込んでまだ大した勢力のいない奈良盆地(湖が干上がって農業が出来るようになって間もない頃)に定着したということだろう
それが纏向を作った崇神朝に繋がる

筑後の邪馬台国自体は、田油津媛の代に玄界灘沿岸で力をつけた海人族勢力に滅ぼされたと見る
この勢力が朝鮮半島に攻め入り(三韓征伐、広開土王碑文)、畿内に上って崇神朝を滅ぼして応神朝を建てたと考える
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:10:19.38
>>404
投馬も對馬もツーマ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:11:34.92
そんなことだから出雲の平和ボケした大国主グループは高天原の船団の急襲に降伏するしかなかった。
稲佐の浜に降り立った武甕槌は、逆鉾を突き立て胡坐をかき、国を譲るか否か、否か賛かと迫った。よって伊耶佐小浜という。
銅剣では銅矛にすら敵わない。
まして武甕槌は鹿島神宮に祭られる鉄剣をシンボルとしていて、出雲の銅剣では敵わない。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:12:32.61
出雲の大量の銅剣は使った痕跡がないから
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:15:14.65
>>412
そら出雲の王様だからな
青銅器の輸入権益を握ってた
だから出雲は金持ち
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:15:31.14
>>408

同意。
だからこそ、伊都の天孫族の甕棺墓の没落、それに続く倭国大乱と卑弥呼共立があったと考える。
卑弥呼の墓である平原遺跡からは木棺墓にかわる。
筑紫内部ではこのような政権交代があっても、大率が対馬海峡を支配している限り、出雲も吉備も大和も、筑紫倭国には敵わない。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:18:52.18
>>411

その通り。
戦っても勝ち目がないから、大国主は降伏して、出雲の銅剣は使われることなく荒神谷に埋められた。
そして筑紫の日向の伊都に天孫族の王権が成立して、早良の猿田彦の出迎えを受け、志賀島の旧倭国王統と合流し、卑弥呼の前の男王の時代となった。
すべての文献は無理なく一致する。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:20:47.40
>>416
埋める必要ねえじゃん
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:21:21.09
>>413

鉄を手に入れられていなかったから、出雲は交易権を持っていなかった。
鉄がないと鍋釜すら作るのに苦労するんだぞ?
筑紫では鉄鍋と土器を使い分けて、穴のあいた鉄鍋は捨てていたのに、出雲は紀元前と変わらぬ青銅器時代。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:22:47.98
>>417
降伏して武装解除するのだから、簡単には取り出せないようにしないといけない。
だから山奥にひっそりと埋め、おそらく埋めた労働者も口封じに処分されただろう。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:23:50.08
>>418
青銅器は貴重だから日用品の鍋作ったりしないでしょ
庶民には手が出ない
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:24:52.08
>>409
当時の発音はヅマ。当時の日本語は濁音が語頭に来ないのでイヅモが訛った音写で投馬
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:26:17.42
>>381
楽浪帯方土器が証拠にならないよ。
何故、証拠になるのか?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:26:28.39
>>406
理由のない決めつけだよね
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:28:45.19
>>419
数メートル離れた所から銅鐸も出てるから祭祀用でしょう
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:33:50.86
>>420

出雲では庶民は鉄も銅も使えないということか。
筑紫と生活水準に差がありすぎないか?
鉄の鍬も鎌もなし?
稲作でも差がつきそうだな。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:34:53.48
畿内説は畿内だけでは何もなさすぎて出雲も持ち出したが、結局は筑紫の圧倒的な考古学的、文献的な優位性の前に敗退した。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:37:51.53
ところで、伊都の大率が女王国から北を検察していたというのは、いったいどこまでの範囲を意味していたのか?
畿内説からの返事がまだなのだが?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:40:23.30
>>426
必要としなかったんだろうな
何故青銅器は手に入るのに鉄は手に入らないと思うのか?
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:41:43.64
>>420
九州では庶民も一般の兵も、鉄の鍋や鏃を使い捨てていた。
青銅器も同じ。
何が貴重だって?
鏃なんて戦場でポンポン使ったらそのまま回収されないし、現に九州北部ではあちこちで出土する。
鉄どころか青銅すら貴重だという本州は、数100年レベルで文化水準が遅れている。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:43:37.44
弥生時代の北部九州は鉄と絹の利権をガッチリ押さえていたように見える
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:43:40.97
>>430

ブーメランだよ。
投馬国は南に水行だよ。
出雲に行くなら東だよ。
帯方郡が起点でも東南だ。
帯方郡から鹿児島周りで宮崎なら、ほぼ南と言える。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:44:20.55
>>428
それ、俺じゃないよ。
何故、楽浪帯方土器が証拠になるのか?
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:44:22.91
>>429
中国の使者を倭王の元に送り届けてたから使者には刺史のように見えたんでしょう
大名行列みたいなもんだ
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:44:47.73
>>431

稲作にも日常生活にも戦いにも、鉄は必要。
現実問題として、出雲も畿内もそれを手に入れられていない。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:45:40.16
>>433
見えません。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:45:45.36
だが北部九州の甕棺墓首狩り族は倭人の風習の卜骨がない
そして人種的にど没落した
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:46:06.22
>>433
そうだね。
ついでに王族だけが手にできたであろうガラス玉、ガラス璧、水銀朱などもほぼ独占状態だったね。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:46:23.86
>>437
だから使えるとわかったら使ってるでしょ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:46:52.06
九州南部から更に南に行くと不思議なことに和歌山なんだよね
自然って不思議
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:47:20.20
>>437
鉄は何と交換していたのか?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:48:22.37
>>441

では鉄が便利なものだとすら認識できていなかった?
それが畿内説の主張なの?
どれだけ本州の文化水準を下げていくんだよ。
世界レベルで青銅器時代はとっくに終わっているのに。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:49:28.21
>>444
吉野ヶ里では見つかっていない。
牟田、西浦の遺跡、有明海沿沿い
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:50:04.69
>>445

半島では、倭人が鉄そのものを通貨のように使っていたらしい。
その倭人とは、九州北部の倭人としか思えないけどね。
出雲など本州からは現実問題として半島に通商に来ていなかったということ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:50:19.91
>>446
金ぴかの銅は貴重でしょ
使い捨てにはできない
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:51:43.66
>>448
掘ってたのは現地の倭人でしょう
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:52:41.92
>>447

ああ、吉野ヶ里ではないけれど、吉野ヶ里の支配下。
吉野ヶ里は有明海沿岸に複数の衛星集落を持つ支配的立場だってからね。
甕棺墓だから伊都の甕棺墓の仲間だ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:53:36.15
卑弥呼の時代には近畿で鉄の加工もしてるから
0453日本@名無史さん
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2023/01/03(火) 14:54:20.18
>>450

掘っていたのは現地人。
倭人はそれを買い付けに来て通貨のように使っていたとある。
倭人は半島で大量に鉄を買い付けていたのに、それはすべて九州にしか運ばれていない。
0454日本@名無史さん
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2023/01/03(火) 14:54:26.84
>>448
思わないよ。
出真珠青玉 其山有丹は
九州のどこが産地
0455日本@名無史さん
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2023/01/03(火) 14:55:36.96
>>453
鉄は古くからあるんだけどね
0456日本@名無史さん
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2023/01/03(火) 14:55:38.28
>>415
>径百歩」あ墓域の大きさなんでしょ

どうして九州説は
倭人伝を無視するの?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:57:29.81
>>452

出雲でも大和でもない、瀬戸内海。
海人族の支配下。
瀬戸内海は宗像三女神や博多の住吉三神を祭る神社ばかりなんだよね。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:57:36.21
>>448
>その倭人とは、九州北部の倭人としか思えないけどね。

その倭人とは、鉄器王国「阿波」の「倭人(阿波勢力)」だ。   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:58:42.05
対馬は青銅器文化圏で鉄製品は多くないんだよね
つまり対馬は通り道になってない
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 14:59:13.43
>>454

現実問題として、九州で大量に使われていた水銀朱は成分分析で中国産とわかっている。
魏志倭人伝の丹ありは、阿蘇の赤土でも見たのではないか。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:00:10.60
>>457
彦根に鉄工房があるから
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:00:29.20
魏志韓伝によると、辰韓では鉄が採れて韓もワイも倭もみなこれを取っており、諸々の市場では鉄を貨幣のように用いるとのこと
鉄は貴重なので後の金本位制(金が経済的価値の淵源)ならぬ鉄本位性のようだ
この利権を当時は筑紫とりわけ伊都国が握っていたのだろう
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:00:56.45
>>459

対馬は通過してすべて九州本土に運んだからだよ。
弥生時代の鉄はほぼ九州が独占している。
対馬を通過したことは魏志倭人伝からも明らか。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:01:21.37
>>462
市場に売ってて買えるから
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:01:27.76
東海勢がどんな勢力か明らかにしないとね
一昨年発表された母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別される
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重東海、東北富山石川和歌山

三重東海は下戸が日本一多い地域
紀伊半島は黒潮が接岸するポイントで三重東海はその東側なんだよな
中国南部からの渡来人の拠点だったんじゃないの?
中国南部、ベトナム辺りは猩々の地で、東海では酒好きの猩々の信仰が盛んだった

東海の土器が多数見つかっている纏向遺跡のある三輪は杉玉の酒の地でしょ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:02:34.08
>>463
でも青銅器はそうじゃない
青銅器工房もある
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:04:52.87
>>464
誰でも買えるほど甘くないだろう
魏志韓伝によると韓・ワイ・倭はみな「従って」鉄を取る、とある
「従って」とは一定のルールや秩序に従って、ということだろう
貴重な資源なので鉄の採取には厳格な取り決めや利権があったと思われる
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:07:33.91
>>468
鉄を掘った人が市場に持ち込んでいろんな物品と交換してるんでしょ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:08:33.83
ちなみに最近の発掘成果からは、列島最古の金属器工房は今のところ糸島つまり伊都らしい。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:10:57.54
>>466
丹後、松江が特出
まあ、現出雲の発展は後の時代。
銅剣等が大量に出るのは現出雲より
南側と松江寄り。鉄を得るには何が必要?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:12:26.12
筑紫推しが気持ち悪いという意見もあるが、考古学的にも文献的にも、圧倒的に筑紫が優位なんだよね。
これはもうしょうがない。
それを認めない意見が出たら反論するしかない。
たまにオーバーキルになるけどw
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:15:41.12
>>471
出真珠青玉 其山有丹だな。
丹など国産0が出回る頃だろうな。
日本海岸線に中国産と国産品の朱の出土が出る。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:16:44.08
>>472
地勢的なもん。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:16:51.13
倭国にとって朝鮮半島南部で採れる鉄は自国の産物だったのだよ
https://i.imgur.com/okXqw1j.jpg
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:19:20.67
>>472
>考古学的にも文献的にも、圧倒的に筑紫が優位なんだよね。

考古学的にも文献的にも、圧倒的に「阿波」。   @阿波
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:19:48.59
まあ筑紫が地理的に大陸に近くて鉄など大陸系の利権を握ってはいたけど、当時の地方勢力間に政治的な支配・非支配の関係は基本的にないだろう
筑紫も一勢力、出雲も一勢力、吉備も一勢力、大和も一勢力
そういう時代だ

畿内説はこのあたりの時代観、国家観を根本的に勘違いしているように感じる
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:20:21.99
>>474

地勢的にも、後漢書や魏志倭人伝がいう倭国とは九州北部しかなく、卑弥呼はその倭国の女王。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:20:43.88
>>473
>日本海岸線に中国産と国産品の朱の出土が出る。

その国産朱は、「阿波」産だから。   @阿波
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:23:47.77
>>477
だから輸入ルートよ
対馬なら鉄を手に入れようとすれば出来たはず
でもそうしなかったのは需要がないんだよ
青銅器はよく売れたんだろう
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:23:52.69
>>477
>筑紫も一勢力、出雲も一勢力、吉備も一勢力、大和も一勢力

みんな、「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:25:13.74
>>487
地勢的にも、九州北部は「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:26:03.57
東海の弥生人は北九州から移った海人だろうな
弥生初期から遠賀川〜伊勢湾まで航路があり往き来していた
卑弥呼(アマテラス)の時代にはニギハヤヒに従い、後の尾張氏や物部氏に繋がっていく
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:28:08.79
>>478
いつも理由言わずに断定する九州説は学問にほど遠い
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:28:09.00
>>482
帯方郡と比較すれば温暖だよ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:28:54.59
>>485
当たり前。   @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:29:59.16
>>479
奈良、三重、徳島産 だな
阿波は工場だな
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:30:44.18
>>477
>畿内説はこのあたりの時代観、国家観を根本的に勘違いしているように感じる

そうyって
いつの時代かを特定できない九州説は
歴史学に向いてないね
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:33:26.95
>>487
その当時、採掘していたのは「阿波」だけ。   @阿波
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:33:54.34
>>484
>理由も言わずに
って、地勢的にと書かれてるじゃんw

納得できないならちゃんと頭使って反論すればいいのに。
あ、使える頭が無いから畿内説信じちゃうのか
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:35:56.26
今日の畿内説はレベルが低い。
もはや畿内説を信じるまともな人間はいないのだろう。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:37:23.05
>>488
何で大和が千kmもの空間をすっ飛ばして伊都国を属国にできるんだよ?
しかも鉄器を殆ど持たない後進大和が鉄器を豊富に持っている伊都国に対して

1300年以上後の織田信長でも畿内を制圧した後にいきなり九州を攻めるなんて芸当は出来なかったよ

畿内説は全く馬鹿げたファンタジーだ
まともな大人が信じる説ではない
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:38:53.54
>>486
温暖とは帯方郡からの使者の感覚だよ
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:40:09.31
>>493
>何で大和が千kmもの空間をすっ飛ばして伊都国を属国にできるんだよ?

同じく、何で九州が千kmもの空間をすっ飛ばして大和へ東征できるんだよ?   @阿波
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:41:31.10
>>493
それどっちも同じだから
じゃあ伊勢遺跡纏向遺跡はなんなんだって話し
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:41:36.98
>>493
「攻める」なんて誰も言ってないのに
相手を知らずに反論しようとするあなた
無謀だよ
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:42:23.25
>>494
陳寿の解釈かもしれんよ。
正しいとは限らない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:42:34.41
>>494
>温暖とは「橘」や「楠」が自生する所らしいよ。  わははははは    @阿波
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:42:51.13
大体ヤマト政権を作ったのは東海勢なんだよ
なんで畿内の人々の業にされているのか意味不明だわ
むしろヤマト政権に抗い続けた側だろうに
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:43:44.15
>>495
大和は湖が干上がったばかりで弱小勢力しか居なかったのと、吉備勢力を上手く巻き込んだから
ただ、神武・崇神勢力は一気に奈良盆地を制圧したのではなく、東南部を拠点にしながら婚姻を絡めて何代にも渡って(神武~欠史八代)ジワジワ奈良盆地での支配を確立しただろう
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:46:15.73
>>501
>吉備勢力を上手く巻き込んだから

反対に、吉備勢力に叩き潰され餌食となったことだろう。  わははははは   @阿波
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:46:22.93
>>499
阿波にしか楠と橘が無いと思うバカ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:47:47.42
>>500
鉄にしろ、朱にしろ九州の有利性が無くなっただな。弥生時代の松江、丹後等に鉄やガラス、中国出土の出土、九州以外のルートがあるという事。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:48:35.83
>>506
記紀が出るの?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:49:23.16
>>507
中国出土の朱だな。スマホ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:49:39.88
>>505
「自生」の意味が分からんバカ。   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:51:08.41
>>506
だから、いつまでも「阿波」にバカ扱いされる。  わははははは   @阿波
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:52:55.57
わかりやすく言えば俺としては仁徳天皇が民のかまどを見てた場所は
何処なのかわかれば良いのよ
勿論こんな話は信じてないし仁徳天皇も居ないだろうが巨大な墓はあるからな
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:53:09.46
>>511
絹、ト骨はないけどね。
まあ、女王国の範囲にあればいいだけだ。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:53:42.13
>>510
阿波には卑弥呼の時代から生えている楠はあるのか
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:53:45.49
>>512
中国文献のパックリ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:55:18.95
>>515
東征にしろ、八咫烏にせよ
パックリだしな。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:56:57.81
>>512
>仁徳天皇が民のかまどを見てた場所は何処なのかわかれば良いのよ

さぬき市津田だ。   @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:58:01.60
沖ノ島の大々的な祭祀が始まったのは4世紀からではあるものの、3世でも(まだ細かったにせよ)沖ノ島を使った大陸との交易ルートを出雲が持っていた可能性はあろう
伊都国は壱岐ルートを押さえていたが(ちなみに私は一大率は一支率=壱岐率だったと考える)、沖ノ島までは押さえていなかったと思われる
空いていた沖ノ島ルートを押さえていったのが宗像族で、出雲はここと結んだと考える
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:58:14.61
>>515
そんのこと、どうやって照明するんだ?  お前はアホか!   @阿波
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 15:58:18.34
>>516
だな。記紀など証拠にならない。
ぶっしょ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:00:01.30
>>519
記紀の証明は?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:00:56.22
>>522
天皇の歴史な。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:01:10.28
史料批判をしながら考古学とも合わせて記紀の背後にある歴史的事実を解明するのは重要
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:02:02.95
記紀や魏志倭人伝をおざなりにしないと成り立たないのが畿内説
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:02:40.70
>>525
だから記紀など証拠にならない。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:03:22.78
>>526
九州説もだよ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:04:09.22
>>527
日本の歴史書の記紀も中国史書の魏志倭人伝も考古学も整合するところに歴史の真実がある
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:04:49.81
>>529
ない所は?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:06:41.18
>>531
どこが?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:07:41.57
>>532
文献が造作とか考えないのか?h
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:10:54.44
>>534
当時の限界もあるね。
文献に天道説て書いてあるから
地道説は間違いというのと同じ。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:12:29.87
>>536
当然だな。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:12:56.49
>>535
東征は?
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:13:42.76
記紀の裏取りは中国二十四史や三国志記や考古学で行う
また考古学的成果は様々な文献や他の考古学的成果と合わせて解釈する
私は法学部出身だがそう認識している

畿内説の関西考古学界は違うの?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:18:11.73
>>539
史学ではないからね。
物証がなければ、史学の世界に過ぎない。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:21:02.60
>>540
物証は当然だが文献資料も物証の一つだろう
隅々まで正確ではないから史料批判は常に必要だが
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:22:42.81
>>541
造作の部分もあるという
物証だな。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:24:45.16
>>542
書いた人の解釈もある
けど、正しいとは限らない
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:25:10.30
>>543
当然
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:29:00.41
記紀や文献など上げるなら物証も同時に上げてもらいたいもんだ。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:31:45.05
>>493

3世紀は2万戸の奴国中心地であり九州でもっとも発展している外港都市の博多の首長が
畿内と親密な関係だから
糸島東部は服属した異民族部落
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:41:47.32
>>549
君は?
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 16:58:10.08
>>518

出雲から鉄が出ない以上、出雲は沖ノ島を抑えていなかったんだよ。
それどころか、沖ノ島が高天原なら、出雲を下したのが沖ノ島勢力だ。
通称に有利な地域にある宗像沖ノ島氏族に対して、出雲が支配的立場に立てる要因はない。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:03:05.61
>>551
朝鮮半島で「皆従って鉄を取る」ところの利権を筑紫が押さえていただけかも知れない
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:03:46.40
>>552
そんな倭人伝無視した作り話
誰も信じないよ
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:04:57.14
>>551
あと沖ノ島は宗像勢力の地盤だと思うので、出雲は宗像と交易関係があったと考える
別に宗像が出雲の支配下にあったとまでは考えない
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:11:26.80
>>553
利権は強いよ。
その利権を持つ者が栄え、王を名乗り、外交も独占できた。
つまり博多湾沿岸を支配した者が倭王。
卑弥呼も倭王。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:12:25.84
>>462

つまり、朝鮮人伊都国説の考えでは
鉄が採れる辰韓が韓、ワイ、倭の中では最強の国ということになるが
辰王には馬韓人しかなれない
辰韓よりも女王を共立した倭国のほうが大国で
魏は韓を滅ぼしたが倭国は親魏倭王としている
鉄を保有しているだけでは国力は増大しない
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:12:50.49
>>555

宗像から鉄を分けてもらえてない。
宗像氏族は古墳時代になっても独自の古墳群を形成するほど栄えており、出雲を相手にするメリットがない。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:15:51.85
>>557

筑紫が対馬海峡の制海権を掌握していたとか、韓より筑紫の方が南にあり温暖で稲作に適していたなどの要素もあるだろうね。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:19:51.37
>>547

弥生時代後期、福岡平野から三種の神器は出土しなくなり、糸島平野からは複数の三種の神器の王墓が見つかっている。
人口の大小は支配関係と関係ない。
また、密接な関係と誤魔化しているが、単に土器の様式に共通点が見出せる程度。
まして上下関係などどの学者も言っていないし、すなわち何の根拠にもなっていない。
畿内説は何か呟いて反論している格好をつけているが、実は何も反論できていない。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:20:48.89
>>554
反論があるなら具体的にどうぞ。
そちらが魏志倭人伝を読み間違えているだけ。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:23:23.40
>>559

それでは安定した稲作社会はいつ頃形成されたのであろうか。
そのかぎを握っているのは製塩業の展開である。
米は良質のたんぱく質を内臓しているが、
ナトリウムイオンがなければ体内に吸収することができない。
つまり米を主食とするには塩が必要になってくる。
弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。
3世紀になると玄海灘や紀淡海峡、若狭湾でも
こうした専業の製塩業の出現が認められるようになる。
専業の製塩集団が形成されることは、それを可能にする稲作栽培の本格化を物語るものである。
熊本県では製塩土器が出るのは6世紀の天草型製塩土器が最初であり、
稲作栽培を中心とした農耕生産が本格化するのはこの頃であったことが窺えるのである。

「農耕社会の形成」(甲元眞之 熊本大学名誉教授)
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:23:50.49
秦の商鞅は重農抑商主義の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いた
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:24:36.89
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:25:47.20
>>559
>筑紫の方が南にあり温暖で稲作に適していた

筑紫が??  二期作も出来ない所が適地なら、日本全国北海道も適地になる。   @阿波
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:26:17.72
>>558
鉄の利権は宗像族ではなく伊都国が押さえているのでしょう
宗像族にとっても出雲との貿易利権は大きいでしょう
出雲の先には出雲の青銅器祭祀の影響下にある畿内のマーケットがあるし
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:28:33.89
>>562

製塩できないと成り立たないのは内陸の大和を基準に考えているからにすぎない。
博多湾や有明海に面した九州北部は塩に困ることはない。
無自覚に大和を基準に考えてしまうのは、無自覚の皇国史観に過ぎない。
塩がないとタンパク質を吸収できないという説そのものが医学的根拠がないため、そもそもトンデモ意見なのだが?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:31:41.55
>>566

おそらく3世紀までは伊都が対馬海峡貿易を独占し、4世紀に宗像に移ったのだろう。
いずれにせよ、筑紫にとって鉄を売る先は出雲でも吉備でも畿内でも構わなかったし、事実として出雲も大和も鉄を売ってもらえていない。
政治的な上下関係はなくても、経済的な優劣はあった。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:32:32.07
>>567
でも大和は「倭地温暖」でアウトだからww   @阿波
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:34:04.92
>>565

よく読めよ?
辰韓と九州を比較しての話だからな?
九州の方が暖かいに決まっている。
弥生時代の辰韓は稲作の北限に近い。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:39:18.39
>>568
鉄などの重要資源をサプライチェーンの最上流で押さえていた筑紫が経済的に最も有利だったのは間違いない
筑紫が魏の冊封を受けたのは朝鮮半島での鉄の利権争いでも有効だったかも知れないな
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:39:22.98
沖ノ島における国家的祭祀には大和も参加したが、それは大和が主催であるということではない。
今も昔も沖ノ島の祭祀は宗像のもの。
大和が参加したのは、沖ノ島の祭祀が祖先である天照に因むものだったからだろう。
沖ノ島の祭祀は岩上祭祀で知られるが、それこそ天照の磐座に対する祭祀であり、天照を祖とする天照にとっても参加する名目があったと考えられる。
神道とは基本的に祖先祭祀、特に天皇家につながる祖先崇拝である。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:42:20.74
>>567

朝鮮人伊都国説は農耕民族ではないからそう思うかもしれないが
人類は紀元前から塩を作っている(または採っている)
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:45:56.28
>>564

女王国が従属国伊都国に一大率を置いたのだから
郡使は伊都国王が一大率に媚びへつらう姿を見て、諸国はこれを畏憚すと書かれた
伊都国の30年くらいの王たちは皆女王国に従属しているので女王国ではない
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:48:16.47
伊都国の30年くらいの王たちは皆女王国に従属しているので伊都国は女王国ではない
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:50:09.17
>>574

魏志倭人伝には伊都国が従属国だとは書いてないし、伊都国王も登場しない。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:53:23.11
>>564
大名行列が通る時道譲って頭下げただろうが
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:54:15.90
沖ノ島の祭祀が始まったのは4世紀後半

ここからは私の半ば妄想だが、私は応神朝は玄界灘沿岸の海人族から起こったと思っている
この勢力が田油津媛を倒したのが4世紀半ば、朝鮮半島に攻め入ったのが広開土王碑文によると4世紀末、つまり沖ノ島祭祀の開始はこの間の時期=この勢力の急拡大期と考えられる
この勢力は朝鮮半島から帰ってきてから間もなく畿内に上って崇神朝を倒し応神天皇が即位した

沖ノ島祭祀を始めた九州勢力が天皇になったから沖ノ島祭祀は国家祭祀になったのではなかろうか
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 17:59:28.32
鉄と青銅器はルートが違うと考えれば説明できるのに何故同じだと考える?
対馬は半島や九州と関係が希薄で違う文化圏だから
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:05:18.35
>>577
たぶん原文の「丗有王,皆統属女王国」だろう。
確かに世ではなく丗(三十)だが単位と解釈はこれでいいのかね?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:09:42.62
『丗』
三十年間。
親のあとを継いでから、その地位を子に引き継ぐまでの期間。
時代。時勢。
よのなか。社会。
代々。
受け継ぐ。代々続く。
三十。「卅」が十を三つ組み合わせた形であることから。

さて、どれだ?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:14:28.98
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:16:39.88
>>579

興味深いけど、事実はそれほど簡単ではないかもしれない。
神功皇后はおそらく仲哀一族も倒している。
仲哀の宮は関門海峡の穴門豊浦宮で、竜宮城のモデルの一つだろう。
糸島や小倉の勢力も従っていたように読めるので、この博多湾沿岸部の勢力をも神功皇后は廃している。
その一方で安曇の五十猛や住吉の神との関係も出てくるので、これらも別の海神族だ。
思うに博多湾沿岸の海人族にも多くの氏族があり、その中の誰が倭王となるかは、常に争っていたのだろう。
宗像の興隆は神功皇后と同時代だが、神功皇后を宗像と結びつけるだけの根拠は弱い。
文献的にはむしろ神功皇后は住吉の神がいた博多よりだ。
卑弥呼が筑後山門なら海人族よりむしろ山の民の印象が強いので、田油津姫についてはあっているかもだが。

九州北部だけでも複数の氏族が鍔迫り合いをしているのに、畿内の弱小氏族が口を挟む余地はなかっただろうけどね。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:20:22.72
>>584

卑弥呼の先代は70〜80年と書かれている。
30で割れないから当てはまらない。

代々なら、倭王は代々伊都にいたという意味で、卑弥呼が例外とは書いてないから卑弥呼も伊都にいた。
その時代になら、その時代に倭王は伊都にいたのだから卑弥呼は伊都にいた。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:23:36.22
>>588
またかよ
其大倭王居邪馬臺國
南至邪馬壹國 女王之所都
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:33:01.45
>>588
代々伊都にいたのは伊都国王だよ
邪馬台国にいた女王に従属している
伊都国王は、女王から送り込まれてきた刺史のような官にペコペコしている
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:35:03.02
>>576
> 魏志倭人伝には伊都国が従属国だとは書いてないし、伊都国王も登場しない。

九州説はまた倭人伝無視?
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:35:19.30
一大率は使者を王の元に送り迎えしてるだろうし大名行列みたいなもん
それを目の前で見れば諸國畏憚之に見えるだろ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:36:39.13
魏(220年 - 265年)だから、女王卑弥呼が遣使するころに伊都国を従属させている
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:37:26.60
>>592
そんなわけない
伊都国王が一大率だよ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:42:02.87
>>596
九州説、また捏造?
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:47:47.28
伊都国は辰韓人と同じで秦の労役からトンズラしてきた難民
平原蘇塗跡1号は馬韓系の商人か賊
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:50:53.62
>>598
伊都国は出雲、倭王の宮殿は伊勢遺跡
なんで伊都国には王が居るのに刺史みたいのが居るんだよ?
おかしいだろ
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:51:59.18
一大率とは
諸國畏憚之
下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪  
兩手據地為之恭敬對應聲曰噫比如然諾      
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 18:57:41.17
国王が居るのに刺史が居たら主権取られてんじゃん
あり得ない
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:00:06.89
>>565
2期作は土地が痩せるし、狭い農地しかない場所の苦肉の策
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:03:37.67
使者と一大率の行列が通るとき「下に~下に」とか言ってたんじゃないの?
それを目にした当の使者にどう見える?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:04:33.96
>>596
その通り!  筑紫忌部の親玉だな。   @阿波
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:06:16.78
>>589
また、それかよ。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:07:31.91
>>595
従の字は使っていたけ?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:08:16.70
>>603
お前こそ、苦肉のイチャモンだな。  わははははは   @阿波
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:08:17.01
>>602
それが何か?日本は先の大戦で敗北したが昭和天皇は処刑されず廃されもせず植民地支配に利用されましたが?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:10:12.06
>>608
統属だな
邪馬台国グループ傘下で卑弥呼擁立に伊都国王も一票投じたんでしょう
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:11:38.99
>>587
私も応神朝は宗像族よりも阿曇族に近い(あるいは阿曇族そのもの)と思う
ただ、三韓征伐の際は玄界灘沿岸の勢力を結集し、宗像族も参加したと思われる
宗像大社には応神天皇や神功皇后が祀られており、応神朝と宗像族の一定の友好関係・協力関係はあったろう
また沖ノ島祭祀もタイミング的に三韓征伐の時に始まったかもしれない

私は筑紫君磐井も応神朝および阿曇族と非常に近いか同族だと思っている
応神朝が継体天皇(大伴金村が黒幕か)に簒奪された際に磐井の乱が起きたのも、磐井の乱後あたりのタイミングで阿曇族が全国に散らばり宗像族の勢力が博多方面に伸張したと見られるのも、こうした背景があるように思われる
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:11:45.47
>>610
それこそそれが何か?と言いたいわ
関係ねえじゃん
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:16:21.73
>>609
お前は大法螺吹きのボケジジイ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:17:37.68
>>606
>根拠のない妄想

倭人伝に書いてる通りだけど

「そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国に到着する。
長官を爾支、次官を泄謨觚・柄渠觚という。
千余戸がある。
代々王がいたが、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。」
(平野邦雄訳)
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:20:14.06
世界人類の95%に共通すること
「人は海に面した土地に住み、そこを都とする」
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:21:18.65
>>611
>統属だな
>邪馬台国グループ傘下で卑弥呼擁立に伊都国王も一票投じたんでしょう

統属とは部下ということ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:21:43.98
>>611
一票ってなw
多数決なんてすると本気で思ってるのか?
筑前伊都連合は筑後邪馬台連合に組み込まれた女王国の構成国の一つではあるが大率を派遣され監視されている。諸国はこれを怖れている。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:23:13.91
>>600

伊都から出かけて諸国を検察したから、刺史のように見えたんだよ。
で?
女王国から北というのはどの範囲なんだ?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:24:29.91
>>616
>「人は海に面した土地に住み、そこを都とする」

ロンドン、パリ、ベルリン、ローマ、プラハ、キーウ、モスクワ・・・
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:25:07.20
>>602

大率が検察したのは伊都ではなく、伊都から北の国々、つまり対馬海峡、玄界灘沿岸の諸国だよ。
諸国は皆これを畏怖した、つまり伊都に座す権力を畏怖した。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:27:39.72
>>621
また倭人伝無視?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:28:18.66
>>611

かつての伊都国の王族も卑弥呼を共立しただろうね。
魏志倭人伝には書かれていないが、伊都国の官であるネギが先代の甕棺墓王家である天孫族の末裔だろう。
天孫族の祖は邇邇芸。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:30:33.65
>>617
それは従属だな。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:31:42.59
卑弥呼の共立とは誰が共立したのか
形式上は筑前諸国と筑後諸国の共立だが、実質的には最高実力者の筑前伊都国王が筑後邪馬台国王の卑弥呼を筑前筑後共通の王として認めたということだろう
その見返りに、伊都国は筑紫の大陸との交易利権を一手に引き受けそのマーケット(内需)を筑紫全体に広げることが出来た(もちろん筑紫以外に売る外需もある)
「王」という名を邪馬台国が取り、貿易利権という実を伊都国が取ることで女王国は成立していた訳だ
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:32:29.42
>>626
妄想
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:33:30.85
>>615

その平野というのがアホで、句読点のない中国語を読み間違えているだけ。
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいる。
全ての者は女王国(伊都国)に統属している。
主語と述語はキチンと一つずつ対応させないとね。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:33:40.67
卑弥呼としては、狗奴国との対立・戦争をする上で筑前側との友好や協力関係は是非とも必要だったろう
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:34:37.23
>>615
駐る(とどまる、とどめる):一定の場所にとどまる。一時的に滞在する。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:34:57.25
>>618

大率が検察していたのは、女王国から北の国々だよ。
伊都国ではない。
ところで、君は大率が検察した、女王国から北はどのあたりのくにのことだとおもう?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:35:03.59
>>630
別に畿内説でもない
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:35:36.89
「(邪馬台国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、いつも、(この大率が伊都国から) 港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
完全に格下。『間違いは許されない。』要は伊都が贈り物を盗まないように監視してるんだな。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:36:22.71
>>618
一大率は使者を王の元に送り迎えしてるだろうし大名行列みたいなもん
それを目の前で使者が見れば諸國畏憚之に見えるだろ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:37:12.98
>>626

伊都を中心とする筑紫が火の国から卑弥呼を迎えたことで、結果的には筑紫は筑後を手に入れたことになる。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:38:07.74
>>626
王に納得しないと争いが起きるのよ
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:39:33.61
>>629

もともと卑弥呼が肥国女王なら、肥後も領土だったはず。
伊都に入って安泰と思ったら、実家で従兄弟だか甥だかが、俺も王になる!と言い出したのだろうと。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:41:00.43
>>631

そりゃあ、最終的には帯方郡に帰るわけだからね。
しかし他に滞在地が書いてないのだから、倭国滞在中はいつも伊都に駐在したということ。
そしてそのまま卑弥呼に謁見している。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:41:50.38
>>628

世ではない、丗

三十年ほど王が有り、その王たちは皆、女王国の統制に隷属している
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:42:37.11
>>628
伊都国には力などない。
どこの国から共立されても
伊都国にて大卒、行うだけじゃないの?
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:43:09.60
>>634

荷を改めるのは、そこが最終目的地である卑弥呼の王城の最寄りの港だからだよ。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:43:13.21
>>639
何言ってるの?
其大倭王居邪馬臺國
南至邪馬壹國 女王之所都
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:44:00.94
>>643
いる所でなくいた所な。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:45:19.83
一大率は伊都国王(共立後は伊都国最高官の禰宜がそれかも知れない)の配下であり、象徴筑紫王の卑弥呼が対外的に勝手なことをしないように外交・交易利権を持つ伊都国がチェックしていた意味もあろう
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:46:10.78
それはどうかな。
倭王の金印で封泥した国書は、大率でも開封はできない。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:46:15.76
>>645
伊都国に力がありゃ乱も起こらないし
男王たつも争いは起こらない。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:48:25.61
>>639
>しかし他に滞在地が書いてないのだから、倭国滞在中はいつも伊都に駐在したということ。

捏造はダメ
駐在とか書いてない
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:48:37.11
一番危険なところ(旧敵国)に大率が置かれた。
贈り物が盗まれないように数を確認する進駐司令官。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:49:58.76
>>650
邪馬台国に駐在がないからダメて事な
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:50:23.94
>>646
どこまで捏造すんのよ九州説
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:50:54.79
後世の日本でも天皇より天皇が任命した将軍の権力の方が強かったり、将軍よりその下のはずの執権や管領の方が実権を握っていた時代があった
現代の自民党でも総裁より形式上総裁が任命した幹事長の方が
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:51:58.50
>>652
当然、そうなる。邪馬台国には行っていない
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:52:45.90
>>654
途中で送信
幹事長の方が強いこともあった

伊都国王が禰宜(魏志倭人伝のニキ)として巫女女王卑弥呼の下の地位になりつつ、筑紫の実権と利権を握っていたというのが私のイメージ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:53:21.12
文献を捏造珍読で歪め、考古学は完全無視
それが九州説
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:53:42.38
>>653
捏造大好き伊都説を九州説と呼ばないでくれないか!
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:54:18.68
>>655
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

駐在がないなら卑弥呼はどこにいるのだろうか?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:55:02.20
>>659
纒向
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:55:50.39
>>660
駐在はどこにも見当たらない
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:56:36.26
>>658
そいつがレスしている私は伊都説(って何だ?)ではなく邪馬台国山門説

そして宗教的権威の筑後邪馬台国と貿易利権の筑前伊都国が同盟・連合したのが女王国という立場
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:58:38.09
>>643
当時中国が対馬海峡周辺を倭と呼んだ時代に
倭人は対馬海峡北岸を投馬国、そして南岸を邪馬壹国と呼んでいた

後漢時代は九州や本州合わせて100国が朝貢していた
そして倭国は東南海中にあると認識された

しかし倭国大乱を経て魏に朝貢したのは対馬~北部九州一帯合わせて30国のみ
倭国は半島南部の投馬国そしてその南が邪馬台国であると認識され、
朝貢しなかった東の国々は倭種の国と記録された
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:59:28.59
>>660
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

それは邪馬台国の一部と推測だな
水行30日陸1月だな。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 19:59:46.23
>>662
>邪馬台国山門説

それ、「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:00:16.05
女王国の宗教的権威としては、最高神官が卑弥呼で次席の禰宜が伊都国王
しかし経済的な利権の掌握と筑前諸国の統括という実を伊都国王(禰宜)が握っていたと考える
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:01:19.05
>>664
>邪馬台国は近畿
>卑弥呼は九州へ

それ、「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:01:24.95
>>666
卑弥呼の弟は?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:01:48.15
>>667
阿波もアウト
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:04:00.16
>>665
「倭地温暖」でアウト!は使うの禁止な
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:04:51.99
>>670
なんで?   @阿波
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:05:08.35
>>668
卑弥呼の言葉を主に筑後諸国に伝える役割だろう(内容によっては禰宜を通して筑前側にも)
大陸との交易や筑前諸国の監察権までは卑弥呼の弟は持たなかっただろう
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:05:25.24
阿波には卑弥呼の時代の楠が一本もないのでアウト
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:06:39.27
>>671
お前んところは倭種だ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:07:11.81
>その平野というのがアホで、句読点のない中国語を読み間違えているだけ。

学者は誰もみんな同じような読み方だよ
>>628みたいな捏造読みをしてる人は誰もいない
代々の「倭」王なんて書いてない
捏造やりすぎ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:07:23.08
>>656

伊都国にいたのは倭王だよ。
ただし禰宜が前の倭王の末裔。
卑弥呼の共立に賛成するのと引き換えに伊都国のローカルなトップとして存続した。
ただし大率と一致するという根拠はないから、おそらく大率ほどの実権は持たなかっただろう。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:08:01.81
卑弥呼としては筑前を形式的に配下に置いたことで争っていた肥後狗奴国への牽制も狙っていただろう
伊都国王と卑弥呼の同盟はwin-winだ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:08:17.87
>>674
なんで?   @阿波
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:10:38.66
>>661
>駐在はどこにも見当たらない

駐在なんていないよ
倭人伝に出て来ないからね
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:11:21.48
>>663

要するに、倭国大乱後は出雲などの本州の諸国は帯方郡へのアクセスを失ったのだよ。
帯方郡とやり取りできたのは九州だけ。
半島で鉄を買い付けていたのも九州だけ。
本州からの鉄の出土例が僅かなのがその証拠。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:13:05.54
>>678
逆に何で?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:13:24.51
>>666

女王国の宗教的権威としては、最高神官が卑弥呼で、次席の禰宜は前の倭王の末裔である伊都国の官
しかし経済的な利権の掌握と筑前諸国の統括という実を大率が握っていたと考える
大率が禰宜ならそう書いてあったはず
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:15:55.38
>>682
私は一大率は禰宜たる伊都国王の配下だったと考える
伊都国王が筑前諸国に権力を持つからその名代の一大率を筑前諸国は畏れる
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:16:39.13
>>677

金印を受け取っていたのだから、伊都国にいた王達が倭王だよ。
伊都国の王ではなく、倭王。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:18:37.29
>>685
それは違う
邪馬台国女王の卑弥呼が筑紫王であり中国側の認識する倭王
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:19:50.51
>>681
>逆に何で?

「阿波」が女王国だから。

>>674
なんで?   @阿波
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:20:20.86
卑弥呼が倭国の王として即位したのは倭国大乱の後
倭国大乱は梁書によれば、178~184年ころ
卑弥呼が即位して大乱は収まった

大乱以前は70~80年間男王の時代が続いた
中国王朝が公認した初の倭国王・帥升が後漢へ使者を出した107年にまたがることになる
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:20:54.95
畿内が博多に一大率を置いていたというのなら鉄器文化は畿内が中心となっていたはずだ
当時の鉄は市で金として使える価値があったんだからな
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:21:57.11
>>689
なってるでしょ?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:22:30.44
>>681
>逆に何で?

「阿波」が女王国だから。

>>674
なんで?   @阿波
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:22:45.88
>>686

だから卑弥呼も伊都にいれば問題は解決するだろ?
少なくとも共立後は、卑弥呼が倭王であり筑紫の王であり伊都に君臨する王なんだよ。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:22:57.39
>>687

> 「阿波」が女王国だから。

大法螺吹き老人のただの希望を言っているだけだろw
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:24:03.60
なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?

■考えられること
鉄の潤っていた九州とは交易が無かった。
=一大率や大倭は近畿とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」に近畿は含まれていない。

■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。

■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:24:07.80
>>676
>伊都国にいたのは倭王だよ。

そんなこと倭人伝に書いてない
捏造ダメ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:24:41.09
>>694
鮎喰川下流域集落群が女王国。

お前の言う女王国は?  わははははは   @阿波
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:25:06.61
で?
畿内説では伊都にいた大率が検察した女王国から北というのはどこからどこまで?
若狭湾は入るのかな?
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:25:19.01
>>695
>なぜ3世紀の近畿圏からは鉄が出土しないのか?

大量に出土してるが?
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:26:07.60
>>693
魏志倭人伝に卑弥呼は伊都国にいたと書いてあれば私もその説を信じたが、残念ながら倭人伝には卑弥呼は邪馬台国を(女王国の)都としたと書いてある
これは卑弥呼は邪馬台国にいたと書いてあるに等しい
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:26:38.08
>>684

筑前に権力を持っていたその王というのは、筑紫倭国の倭王そのものではないだろうか。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:26:39.78
>>700
大量?
誇大妄想もほどほどに

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:27:23.58
>>699
>畿内説では伊都にいた大率が検察した女王国から北というのはどこからどこまで?

大率が女王国から北を検察したとか
倭人伝には書いてない
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:27:55.62
>>702
いや、倭王は卑弥呼
しかし伊都国はそれを認める代わりに交易や行政実務の実権を握った
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:29:46.17
>>703
>大量?
>誇大妄想もほどほどに

大量に出てるよ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:30:01.87
中国語の「女王国以北」は「女王国の北部」と読むんだが
畿内説は低脳だから「壹」を「ト」と読んでみたり勝手解釈ばかりしている
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:30:24.14
自民党に例えれば伊都国王は実力幹事長、卑弥呼はその後ろ盾で擁立された総裁
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:31:14.97
>>701

国の大小に気をつけないと。
邪馬台国は七万戸あるから、国邑ではない。
伊都国を含む領域だよ。
そして伊都国には代々王がいるとある。
しかし王が伊都国王だなどとは書いてない。
単に伊都に代々王がいると。
後漢書もあわせれば、博多湾沿岸に倭王がいたことは容易にわかる。
では博多湾沿岸のどこかというときに、魏志倭人伝では王は代々伊都にいたと。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:32:02.48
女王国以北を私は筑前と解釈する
筑前諸国の監察は伊都国王の権力を背景に一大率が行う
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:33:05.01
>>705

だから、卑弥呼共立前の倭王だよ。
卑弥呼の共立に賛成する代わりに地位を確保したのだろう。
そうでないなら、卑弥呼の前の倭王帥升らはどこにいた?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:33:52.43
>>706
古墳の副葬品は被葬者の遺族が持ち込んだ物であり、その土地に鉄器文化が浸透していたとは言えないんだよ
これ考古学でも常識のはずだが?

そして鉄製の農具や工具などが生活痕の一部として確認できれば出土したと言える

これに逆切れして畿内では鉄は溶けるのだなどと子供じみた反論をした畿内説の学者もいたなw
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:35:29.56
>>708

伊都にいた実力者は先代の王でしょ。
先代の総理が幹事長に居座っている感じ?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:35:41.54
>>709
投馬国の五万戸と邪馬台国の七万戸は魏・晋の内部文書にあったクシャーナ朝大月氏国の十万戸(後に後漢書西域伝に記載)を陳寿が意識した観念的数字と考える
七万石は筑後平野には入らないだろうし、もっと狭い奈良盆地はなおさら
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:37:46.96
>>713
対馬~女王の都「奴国」までだよ
南は狗奴国で、大分や長崎まで東西に散らばる集落が国名だけ紹介されている
中国の「狗」という文字は「反目」を意味する
日本語で書くなら「反奴国」だ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:38:35.33
邪馬台国肥後説では、

邪馬台国本国が肥後
女王国以北が肥前
一大率がいたのは肥前の小城

クナ国は、熊襲国で日向、大隅。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:38:47.29
>>717
私は筑後山門説
しかし戸籍どころか文字もない当時の倭国の戸数は殆ど裏付けのない数字だと思う
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:39:08.63
>>716

それなら伊都に代々いた王は倭王ではないか。

魏志倭人伝には伊都国王というものは登場していない。
王は代々伊都にいるというのは倭王のことだ。
卑弥呼が例外とは書いてない。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:42:38.24
>>721
そもそも倭王という地位は中国側の認識だろう
伊都国王を中国側が倭王と認識した可能性はある
例えば帥升は伊都国王だったかも知れず、それを中国側が倭王と認めたかも知れない
はっきりしないが
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:43:35.82
>>719

日向国国府候補の一つが都万神社
すなわち日向国は投馬国
隼人の祖である海幸彦は、筑紫で彦火火出見に負けて出ていった人物
伊都の高祖宮の祭神は彦火火出見
伊都国にいたのは天孫族の倭王
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:44:27.66
>>697
関門海峡を通れない阿波は問題外だな、わしは邪馬台国を探す身ではあるが倭国は九州内の説である
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:45:09.88
もっとも古い食糧生産量が分かる資料
延喜式 出挙稲数

畿内 2,087,126
  山城 424,070
  大和 554,600
  河内 400,954
  和泉 227,500
  摂津 480,000

西海道 5,990,581
  筑前 790,063
  筑後 623,581
  豊前 609,828
  豊後 743,842
  肥前 692,589
  肥後 1,579,117
  日向 373,101
  大隅 242,040
  薩摩 242,500
  壱岐 90,000
  対馬 3920
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:46:40.00
伊都にいたのは天皇家の祖である邇邇芸、彦火火出見などの天孫族
その証拠が伊都国にある弥生王墓から見つかる三種の神器
その倭王には帥升も含まれる
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:51:17.68
>>695
最大級の鉄工房は淡路島と彦根だしそれらは二世紀
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:54:52.00
>>727

どちらも畿内ではない。
彦根は日本海側勢力圏、淡路島は瀬戸内海勢力圏。
出雲や吉備だよ。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:57:29.38
>>722

倭王というのは、たくさんいた倭人の中の誰を中国が倭人の王の認めるかという問題。
伊都にいた王を中国が倭王と認めたなら、それが倭王。
どこかで倭奴国と伊都国がすり替わっているが、洛陽にいた後漢の役人には奴国も伊都国も同じようなものだっただろう。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:57:48.71
>>685
>金印を受け取っていたのだから、伊都国にいた王達が倭王だよ。

伊都国にいた王達が金印を受け取っていた
などという記録はないが?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:58:41.78
そもそも「倭」は中国側がつけた地域名
元々は長江下流域にいた入墨と潜水漁撈を特徴とする人々の地域を中原の中国王朝が呼んでいた言葉だったが、弥生後期に北部九州に住んでいた住民が先祖は呉から来たと称し入墨・潜水漁撈を行なっていたので同じように「倭」と呼んだ

漢の倭の奴の国王の金印を貰った奴国王は「へえ、漢ではうちらのことを倭って呼ぶのか」と思ったかも知れない
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 20:58:56.00
>>729
伊都にいた王を中国が倭王と認めたという記録もないが?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:01:22.33
実際問題として、三種の神器が出る王墓はある時を境に福岡平野から糸島平野に切り替わっている。
福岡平野と志賀島には大山祇や海祇、安曇の伝承があり、糸島平野には天孫族の伝承がある。
天孫族の邇邇芸は大山祇の娘を、その子の彦火火出見は海祇の娘を娶っている。
奴国の女系と伊都国の男系があわせて倭国の王家を形成していた。
それを抑えて筑後から卑弥呼が共立された。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:02:07.80
>>725
筑前筑後が束になっても
畿内に及ばない件
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:03:05.66
>>724
>倭国は九州内の説である

具体的に言えんわけだな? ヘタレ外道!

>>694
鮎喰川下流域集落群が女王国。

お前の言う女王国は? 言えずにダンマリ? わははははは   @阿波
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:04:07.46
>>727
「阿波」だよ、詐欺師。   @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:05:16.78
>>717
>都合が悪くなるとすぐ文献無視。
>畿内説はこれだから信用されない。

畿内説が文献無視したという証拠は?
九州説が文献無視してる証拠は山ほど有るのに
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:05:16.89
>>735

卑弥呼は肥国から共立されたから、少なくとも肥前は含めないと。
そうすると邪馬台国は畿内を超える。
肥後狗奴国は反抗したけど、肥後はそれだけで筑紫と対抗できるんだよね。
九州北部説は非常にこのような資料と一致する。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:05:30.14
>>723
高祖宮の現在の祭神は捏造。『三代実録』高磯比盗_。
高祖神は高磯、宅蘇、卓素の名が見えるように、天の日槍の後裔、県主の土地の鍛神である。
伊都に天孫はいません。皇祖と引っ掛けた捏造です。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:06:21.75
>>737
そうだな
でもだから中国側が「倭」と呼んでくるのは予想外だったかも知れない
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:06:24.04
>>741
卑弥呼が肥国から共立され他という根拠なし
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:06:54.67
>>741
>九州北部説は非常にこのような資料と一致する。

九州北部は、「倭地温暖」でアウト!   @阿波
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:08:10.84
>>739
>むしろ九州に比べて畿内の生産力が如何にも貧弱に見えるけどなw

という根拠は?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:09:35.70
>>745
>では後漢が倭王と認めた王はどこにいたのか。

不明
実際に倭王ではないだろう
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:09:55.31
>>738
阿波の鉄工房は穴のあいた鍋直したりしたところだから他にもある
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:10:05.35
>>742

日槍の話は卑弥呼の没後120年後の話だからね。
むしろその高磯姫が卑弥呼ではないのかな?
卑弥呼の没後半世紀ほど後に、筑紫に神夏磯姫という者がいて八咫の鏡を持っていたと日本書紀は伝えている。
高磯姫と神夏磯姫、名前が似ているのは偶然か?
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:20:00.87
近江77万5千石
畿内などで古代から律令の頃までに淡水湖を灌漑ができていたところ(当時の先進地)は石高は増えていません。
大和や近江はこの例です。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:21:56.57
>>734
>志賀島から金印が出ている。
>伊都の目と鼻の先。

伊都国にいた王達が金印を受け取っていた
などという記録はないが?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:24:56.70
ほとんどの学者は、帥升も博多湾沿岸にいたと考えている。
そうではない学者がいたら名前でも教えてほしい。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:28:39.22
>>754
ほとんどの学者て?
誰なの?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:29:49.60
>>751
高磯、宅蘇、卓素の名は天日槍の後裔。無関係。

場所柄「磯」の字は好んで使われただろうけど。
磯津山(しつのやま)が云々。神夏磯姫は「かむなついそ」「かんかし」どっちなのさ?
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:30:39.22
洛陽の役人は、奴国も伊都国も志賀島も区別していなかっただろう。

さて、帥升の帥と、大率の率は、中国語では発音も意味も同じだという。
そうすると、帥升というのは実は大率だったのだはないか。
考えられる可能性は二つ。

大率が代表として派遣されたのを、後漢側がうっかり倭王とした。
そもそも率または帥は倭王の称号だったが、卑弥呼が共立されてからはナンバーツーの立場だったので、魏志倭人伝では王とは書かれなかった。

さあ、どちらでしょう。
ちなみに帥は後世の九州全土を統括する官の名前でもある。
畿内説は大率を太宰の帥のイメージでとらえている?
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:32:15.22
>>727
二世紀?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:33:09.22
>>758
遺跡は二世紀~だよ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:35:20.06
>>756

磯津山は神夏磯姫が榊を抜いたからその名前なわけで、好んで使われたというよりはまさに神夏磯姫にちなんだ名だよ。
禰疑山・四極山・芝津山とも。
榊を抜いたから貫山とも呼ばれる。
福岡県北九州市小倉南区、標高711.6m。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:39:28.83
卑弥呼が共立されるまでは大率または帥は倭王だった?
伊都国の禰宜と限りなくイメージが被ってきたなw
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:40:15.49
>>759
稲部遺跡?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:41:07.58
>>763
そう
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:41:15.10
>>762
根拠ゼロ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:41:49.83
>>736
倭国が九州内だから他の諸説からは充分限定出来ている。
関門海峡を通れないヘタレ阿波の出る幕ではない、そもそも卑弥呼の時代の楠が一本も無い事を自覚しろカス
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:43:47.86
>>754
>そうではない学者がいたら名前でも教えてほしい。

松木
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:45:10.14
>>766
>倭国が九州内だから

遺跡が無いのにか?  わははははは   @阿波
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:48:52.01
>>725

東海道 10,640,176
東山道  7,305,418

平安時代に辺地の地方から高利貸しで取り立てたのが出挙
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:51:20.06
>>764
3世紀ですがね?
九州にあったけ?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 21:56:37.57
>>751
>筑紫に神夏磯姫という者がいて八咫の鏡を持っていたと
仲哀天皇の熊襲征伐の途次、【伊都県主の五十迹手】らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。

やはり神夏磯姫も天日槍の系譜かと思います。

古代の日本において、鏡・剣・玉の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であった。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:01:20.97
まぁ阿波国と伊都国の偽史活動は目に余る訳です。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:02:11.08
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:03:36.59
>>768
九州は遺跡だらけだろ
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:10:21.70
>>771

なぜか九州北部の支配者限定だけどね。
それだけでも皇室の起源が九州北部とわかる。
伊都国にいたのは皇祖、倭王だよ。
天照大神が豊葦原中国の王として送り込んだ邇邇芸の末裔。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:13:39.89
>>771

恭順と言うけれど、それは日本書紀の言い分に過ぎない。
実際、手の届かないような榊に掛けて船に載せたら、それがどうして恭順ということになるのかな?
むしろこちらは王族の御座船であると神威を見せつけているように思えるのだが?
山誉め歌でなぜ博多湾を進む船の主が我が君だとわかったのか、何か目印があったのか。
日本書紀がそのヒントに思えるね。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:14:12.00
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:15:02.85
>>774
>九州は遺跡だらけだろ

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:24:05.23
>>775
>それだけでも皇室の起源が九州北部とわかる。
そうだろうな。
>伊都国にいたのは皇祖、倭王だよ。
全く根拠のない願望でしかない。
>天照大神が豊葦原中国の王として送り込んだ邇邇芸の末裔。
阿波忌部当主も言ってましたが天照大神(女神)などは新しい神様です。
最高神はタカムスビであり邇邇芸はタカムスビの孫でもある訳ですよ。
ここら辺は日本神話好きの中では常識の範疇だと思うのですが即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で神武天皇を助けた高倉下の夢に高御産巣日神が登場する。高御産巣日神は天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令する。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:25:07.78
>>771

仲哀天皇のこの話は、仲哀天皇が香椎宮に入るときの話なので、まさに山誉め歌と同じ場所。
ただ、時代が違うのか、王の名は安曇の君となっている。
まだ志賀島に倭王がいた頃の話なのか。
しかし歌い手の名は禰宜、伊都国の官と同じで、王をいただく立場にある。
いずれにしても、伊都と志賀島と香椎宮、そしておそらく那の津も早良も、全体で一つの王都であり、その中に宮家が散在していたというのが当時の状況だったのだろう。
筑後の風浪宮は志賀海神社の別宮だそうだから、そちらも同族か。
佐賀川は筑後川に流れ込んでいて肥前佐賀は事実上は筑後と一体だから、筑前筑後肥前までで、稲作の規模だけでも畿内を凌駕する邪馬台国七万戸でいいと思われる。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:25:18.25
>>778

北部九州からは弥生時代の鉄生産用の地上炉跡が見つかっている
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:26:47.63
>>776
要するに九州説は根拠なく史料を恣意的に読み替えてるわけだ
つまり根拠のない説ってことだ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:28:40.14
>>779

皇室の起源が九州北部まで賛成して、伊都には反対って何なんだよ。
糸島も福岡も、高祖山を挟んで一体だよ。
吉武高木遺跡のある早良だって高祖山の近くだろ。
当時だって歩いて三雲と早良は1日とかからなかっただろう。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:28:58.55
>>775
>なぜか九州北部の支配者限定だけどね。

根拠ナシ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:38:19.90
>>782

日本書紀の編者らが、後世の読者の誤解を招くようなギリギリを表現をしているんだよ。
彼らは畿内大和の方が正統であると示すことが使命だったからね。
しかし嘘は書きたくないし、ギリギリのラインが他の王家を登場させつつ、その立場を県主に下げることだった。

仮に仲哀天皇のその場面で伊都と小倉の勢力が反対したら、仲哀天皇は博多湾の中で戦闘したのか?
魏志倭人伝で卑弥呼の後の大乱から1世紀経っていないぞ?
伊都と小倉の宮家が賛同したから、仲哀は香椎宮に入れた。
卑弥呼の倭王共立を思い出させるだろ?
仲哀は共立されて倭王となったから、この話はスキップできなかったんだよ。

ちなみに小倉は神夏磯姫が榊を抜いたところだから、崗県主こと筑紫岡田宮は関係者だろうね。
また宗像大社辺津宮の神宝は風土記には八咫の鏡とあるので、神夏磯姫が持っていたものかもしれない。
玄界灘沿岸の利権は複雑だが、魏志倭人伝も風土記も日本書紀も山誉め歌も、ほぼ同じ時代の狭い領域の話を別々の側面から捉えている。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:41:31.48
ちなみに香椎宮の仲哀天皇の和風諡号は足仲彦タラシナカツヒコ。
隋書にある日出処の天子を自称した倭王の名はアマの多利思比孤タリシヒコ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:45:35.10
志賀海神社と風浪宮が同じ主なら、香椎宮と高祖宮も距離的には近い関係だろう。
これらは最古の宮である吉武高木遺跡を中心に広がっている。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 22:56:21.84
>>785
九州説って、史料の何処にも書いてない話を考古学と合わない方向に妄想しすぎ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:15:41.13
>>777
なんで参考になるのか?
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:16:43.36
>>781
なんていう遺跡?
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:26:07.25
崇神朝は崇神・垂仁はともかく、景行・成務・仲哀は事績が割とスカスカで後世の政策のはずのことが書いてあったり天皇が殆ど大和にいなかったり名前が後世の名前(タラシヒコ)だったりで、真の歴史が隠蔽されている感すらあってよくわからない(この3代は非実在説も強い)

纏向を調査している考古学者は、証拠が殆ど何も出て来なかった邪馬台国のことは綺麗サッパリ忘れて、謎が多い崇神朝のことをしっかり調べて欲しい
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:33:48.61
>>792
九州説ってのは、そういうもんだ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:37:19.73
>>790
ググれ
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:48:32.82
>>791
何を勘違いしてるか知らんが、考古学者は見つかった遺跡を建設業者が潰しちゃう前に調査に行くのがデフォ
火事を消しに行く消防隊みたいなもんだ
調査には邪馬台国とかナントカ天皇とか予断は持ってない
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:50:24.99
>>794
このように、九州説は絶対に証拠を出さない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:54:06.86
>>795
桜井市に邪馬台国の期待を抱かせて調査費用を出させたんだから予断がなかった訳ではないだろう
何も出なくてアテが外れたようだが
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/03(火) 23:55:42.94
>>796
ググる事も出来ない無能かよ
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 00:02:20.80
>>776

願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。

豊前の神夏磯婆さんは
「どうか兵を送らないで下さい。わが仲間は決して背く者はありません。今すぐにでも帰順します。」
命乞いしている
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 00:14:27.66
>>798
ないのか?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 00:27:56.14
>>797
>桜井市に邪馬台国の期待を抱かせて調査費用を出させたんだから

根拠なし
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 00:31:10.87
調査はしてくれよ
潰した後じゃ遅いんだから
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 00:40:01.81
>>801
桜井市は財政難だから邪馬台国を期待する古代史ファンからふるさと納税まで募って費用出してるじゃないの
考古学者に騙された桜井市はかわいそうにw

≫谷奥昭弘市長は「纒向が邪馬台国の中心地と信じている。息の長い調査になると思うが、行政だけでなく、民間の力も活用し実像に迫りたい」と話している。

https://www.asahi.com/eco/OSK200901310036.html
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 01:02:11.44
>>757
>帥升の帥と、大率の率は、中国語では発音も意味も同じだという。
素晴らしい考察。そして升も難升米に用いられている。

『倭面上國王帥升等〜』
白の異字体「靣」はよく「面」に誤写される。王は「帥」「升」から主の誤写と推定する。

『倭白上國主帥升等』獻生口百六十人、願請見。
国の主帥である升たちは、生口百六十人を献じて謁見することを請い願っています。

つまりこれは実際にあった事ではない。生口160人に印綬がない不自然さも理解できる。王の後に「等」をつけるのも不自然だ。
倭国王帥升など存在しなかったのだ。倭面上国などももちろん存在しない。その誤写である倭面土国など言うまでもない。
この時の朝貢は、王莽時代の7年、光武帝死の直前の57年に続く、漢の王朝を言誉セレモニーだったわけです。 ここで皇帝の徳を讃える為に、倭国では多くの生口を準備して、王自身が来朝するもしくは多くの主帥が朝見を望んでいると伝えた。これはこのセレモニーを主宰した官人が言わせたリップサービスだったのだ。

倭面上國王帥升 ー生口百六十人は海を渡ったかー
https://shiroi.shakunage.net/home/kodaishi/suisyo.htm
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 01:06:55.16
>>804
うそ
ふるさと寄付金だから
桜井市に調査費用を出させたのではない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 01:16:05.88
>>803
邪馬台国論争に敗れた九州説はやけくそになって偽情報でwikiを汚染したり、纏向遺跡を調査せずに潰せと喚いたり
悪事をいろいろ働いている
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 03:12:03.36
>>807
ヤケクソになるのは名誉毀損確定のキナイコシ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 05:03:05.10
>>808
証拠もないのに他人にそんなこと言うお前、名誉毀損確定
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 05:17:38.46
>>809
スクリーンショットならたくさんあるけどな
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 05:19:58.11
>>805
等は倭国内や半島の国々の王であろう。

梁代の職貢図に倭の使者と同類で
実際にはなかった?
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 05:57:06.33
>>812
>等は倭国内や半島の国々の王であろう。

倭国内の国々の王が他にいるなら
帥升は倭国王じゃないよね
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:27:03.18
>>791

その3代は畿内には実在せず、九州に実在したのでしょう。
九州における景行天皇の足跡は非常に詳しく、地形や遺跡とよく一致します。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:28:32.01
>>795
纏向遺跡についてはそうでもなく、予断が入りすぎ。
勝手に離れた遺跡も纏向遺跡の一部にしたり、いろいろおかしい。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:31:14.24
>>815
>勝手に離れた遺跡も纏向遺跡の一部にしたり、いろいろおかしい。

それ、嘘ついてるよね
中傷だよ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:32:53.91
>>813

複数の王がいても、その中で代表として王を任命するのが冊封体制だよ。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:38:13.53
帥升ら、博多湾近隣の小国王が連れ立って
大陸見物に行って、漢倭奴国王の金印を
もらってきました。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:46:10.92
>>799

筑紫の女王をわざと豊前と矮小化するあたりがキナイコシらしくて姑息。
神夏磯姫の八咫の鏡って、宗像大社辺津宮の神宝と同じものだろ。
それに孫の夏羽は田川市に宮があった。
豊前も支配していたというだけだよな。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:46:25.70
>>818
冊封した形跡がない
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:48:24.04
>>820
誰を見てもキナイコシってw
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:51:27.73
>>819

弥生時代なのだから実態としてはそうだろう。
その結果、中国から見た倭=博多湾という認識が確立した。
卑弥呼の倭王共立は帥升から半世紀あまり後のこと。
畿内説の出る幕ではない。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:54:34.48
>>821

倭王と呼んだ時点で認定しているんだよ。
それと金印はその前の朝貢の時にすでに渡している。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:56:43.55
>>823
つまり帥升は実は倭王じゃなくて
卑弥呼とも関係ない
畿内説が正解だ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 06:59:09.16
>>824
>倭王と呼んだ時点で認定しているんだよ。
>それと金印はその前の朝貢の時にすでに渡している。

根拠のないこと空想してても意味がない
妄想ってことだから
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:02:19.53
景行天皇(のモデルとなった豪族)は
筑後中心部の要衝、高良山への侵攻をたくらみました。

宝満川から筑後川を下り、広川に侵入します。
そこに上陸して橋頭堡を築きます。
現在の大善寺玉垂宮です。

そして、地域を確保したあとは
上津荒木川沿いに侵攻し
上津地域を抑えます。
現在の上津天満宮です。
ここで現在の久留米市南部を治めました。

そうやって筑後の支配を広げていき
ついに高良山を攻め取ることができたのでした。
現在は高良山玉垂宮と言います。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:02:29.93
>>824
>倭王と呼んだ時点で認定しているんだよ。

冊封してないよね
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:05:12.03
>>813
倭国王は大倭国王ではないという意味。
倭国王、山陰王、四国王、毛人王等のイメージ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:09:21.39
中国の史書の用語では、国名は基本的には国邑の名前である。
倭が周辺国邑を併合すると大倭などと呼ぶことが多い。
この場合、もちろん盟主となる国邑は変わらない。
盟主となる国邑が変われば、その国邑の名前に変わる。
つまり大倭であっても、王都は倭、つまり博多湾沿岸であったということ。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:09:30.01
「倭」は、先祖が呉から来たと自称し入墨と潜水漁撈を特徴とする人々が活動する対馬海峡一帯(北部九州~壱岐・対馬~朝鮮半島南部)を中国側が名付けたもの
元々は呉のあたりに住んでいた入墨と潜水漁撈を特徴とする人々を呼んでいた言葉だったのが由来だ

当時の中国側からすれば日本列島の住民については彼ら(対馬海峡で活動する住民)以外は何も知らないので、それ以外の日本列島の地域を「倭」の領域に含める理由がない

魏志倭人伝に記載された邪馬台国を、北部九州以外(=「倭」以外)の地域に比定すること自体がそもそもおかしいのだ
はっきり言って、当時の中国人は奈良盆地のことなど1ミクロンも知らない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:11:03.11
>>819
そういう記述はないが?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:14:39.96
>>832
>魏志倭人伝に記載された邪馬台国を、北部九州

そもそも、九州北部は、「倭地温暖」でアウト! 論外!   @阿波
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:15:10.54
放射説も短里も否定された九州説は呪文のようにおかしいを唱えるだけだな
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:17:33.20
短里も放射説もトンデモ畿内説信者の関西考古学界だけが否定している
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:19:45.60
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:20:55.38
実態として、プロアマ問わず邪馬台国のことを調べている人の大半は九州説
関西考古学界と歴博だけが頑なに九州説に抵抗している
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:22:44.01
>>839
>倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。

そもそも、九州北部は、「倭地温暖」でアウト! 論外!   @阿波
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:25:44.31
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。
諸国はこれを畏怖している。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:32:43.15
>>842
>四方の小島

これはまさに四国「阿波」。  奈良や博多では不適合。   @阿波
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:38:08.56
>>842
近畿ですね
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:49:04.11
倭国は九州、日本国は畿内
磐井の乱まではお互い独立国として並立していた
倭国出身の応神朝から簒奪した継体天皇が、AD527~528年に倭国を急襲(筑紫国風土記に官軍が急に攻めてきたと記載)して滅ぼした
その継体天皇も、応神朝一族の手白香皇女の生んだ欽明天皇の逆クーデターで倒されたが(百済本記にAD531年に天皇・皇太子・皇子がともに崩御と記載)
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:53:24.57
>>846

滅んでない。
磐井は亡くなったが、息子が筑紫の君を継いで、筑紫倭国の国体は維持された。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 07:55:41.15
>>845
君がね
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:03:17.92
>>839
九州王朝www 未だに古田の残りカスがいるとかw

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
B 卑字を嫌い改めて日本と為した
C 日本は小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

全てが日本国が真実のままを説明しただけ。
古の倭奴ならなぜ小国の名を名乗るのか?倭奴(倭)は倒されたのか?
中華側には理解が出来ず質問攻め状態になり使者は困って誠実に答えられなかった。
この内容は「大物主の国譲り」を知らないと理解が出来ない内容であり
記紀編纂を以て新唐書で正確に訂正される。
「日本は小国で、倭が合併した。だから日本という国号を奪った。」
これは神武東遷に合致する。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:10:09.22
ちなみに磐井の乱後に阿曇族が博多湾から離れて全国に拡散したのは、磐井が阿曇族だった(日本国から阿曇族は朝敵とされた)からだと私は推測する
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:15:31.75
>>829
帥升等になってるのは倭王自ら行ったんだし盛大にだったんでしょう
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:24:01.49
>>852
ちなみに全国に拡散したのは,、「倭人(阿波勢力)」。   @阿波
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:29:44.67
磐井の系譜は東遷居残り組で特別扱いはされていたがいつまでも王族気取りなので征伐された。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:32:12.03
>>856
残念ながら、そもそも、畿内は、「倭地温暖」でアウト! 不適合!   @阿波
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:36:27.60
>>852
朝敵にしては拡散繁栄しすぎだ。無理説。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:36:44.39
>>856
残念ながら、そもそも、阿波は、「海没地」でアウト! 不適合!   @阿波
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:39:44.01
倭地温暖の温暖の定義は?記録した中華にとっての温暖とは?
場合によっては列島全てアウトでは?
で、沖縄説とかイカれたのが出てくるんだ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:41:34.22
>>859
阿曇族は継体朝の朝敵なので拡散したが、私は欽明天皇は旧応神朝側の逆クーデターで継体天皇と安閑・宣化にあたる二皇子を殺害して即位したと考えるので、欽明朝(第二次応神朝)としては朝敵ではないと考えている
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:41:52.32
>>861
>倭地温暖の温暖の定義は?

もちろん、「魏志倭人伝」の植生。   @阿波
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:42:15.89
>>856
そうか
畿内説という生活保護にあやかる御用学者の中で大勢が畿内説なのか

現実社会においては九州説しか見かけないけどな

畿内説統一狂会という宗教法人でも作れば?
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:42:58.84
徳島県の今日の気温 8:00 (水曜日)

【-3°C】

降水確率: 10% 湿度: 60% 風速: 1 m/s 晴

アウトーーーーーーー!!!
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:48:04.15
>>867
【-3°C】は寒いなぁ。  わははははは  徳島の剣山か祖谷か?   @阿波
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:49:41.11
福岡県の今日の気温 8:00 (水曜日)

【9°C】

降水確率: 20% 湿度: 59% 風速: 6 m/s 晴


セーーーーーーーーフ!!ちなみな奈良は8 °Cだよ。

徳島はアウトーーーーーーーーー!!!!!
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:52:48.15
>>864
>現実社会においては九州説しか見かけないけどな

どこかに隔離されてる人?
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:53:48.96
>>861
>倭地温暖の温暖の定義は?

もちろん、「魏志倭人伝」の植生。   @阿波

  
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 08:57:59.10
氷点下阿波乙www
阿波説の評点もマイナスだからwww
観光目的で始まった「お遊び史」はそろそろ退場を願おうか!
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:02:47.08
>>851
で邪馬台国は近畿ですね
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:04:18.78
>>864
合わせて九州説統一狂会という宗教法人でも作れば?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:16:09.55
倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
願請見とは?
実際、おこなわれたかは定かではない?
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:17:02.03
考古学会が低能ドカタと化したのも畿内説という生活保護のせいだよな

予算削減は当たり前
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:45:32.11
>>878
それまんま畿内説だろw
スレ読み返してみ?
キナイコシのセリフは常に自己紹介だからw
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:47:53.05
白村江で天智天皇がボロ負けし
その余波で唐が太宰府に攻めてくるので
現在の筑紫太宰府あたりの拠点から
近江大津に疎開した。
偉そうな天智天皇に対して
近江ジモティーの天武天皇がムカついて
クーデターして倒した。

天皇とはなっているが
事実上の政権交代なので
一緒に疎開してた官僚引き込み
新しく大和朝廷を作った。
中国のマネをして、前政権の史書を編纂した。
これが、古事記、日本書紀なのです。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 09:56:11.30
逆だよ

天武は書紀では「大皇弟」として出てくる
倭国王薩夜麻の弟です
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:04:42.53
私も倭国=九州、日本国=畿内だとは思うが、さすがに磐井の乱以後も九州王朝が存続したとは思わない
ムラからクニに発展して間もない文字もない卑弥呼の時代から、日本列島は大和の中央集権体制で千km離れた伊都国を大和が支配下に置いていたなどと考える畿内説は時代観がトチ狂ったトンデモ説だと思うが、近畿の巨大古墳を軽視して白村江まで天皇が九州にいたなどと言う古田説もトンデモ説だと思う
九州と畿内の真のバランスは、畿内寄りに過ぎる畿内説と九州寄りに過ぎる古田説との間にあるだろう
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:14:03.65
>>591
良い辞書教えてくれてありがとうございます。
現代中国文字は読めませんがw 漢文は、まだ有るんですねw
三十、卅、丗、確信が持てました。

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

これは247年の張政が倭人船で渡航した際の寄港地間の里程を記録した行程ですが
伊都の説明、 12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐

この文で、まず 世有王 で、中国人が卑弥呼の時世に
世と言う字を使用してる事が、おかしいと思わない事がおかしいですね。
王皆統属女王國だけで良いのに、魏世の女王国の王が世に有るのか?
こんな文章は、三国志には有り得ない。

宮内庁書陵部の版本の写真が、弥生ミュージアムと言うサイトに有りますが、
この、丗有王 と 評曰の 魏世 匈奴遂衰 の 世 は
書体として、書き分けられています。 版元は、読み分けていたのではないかな?
陳寿は、引用原典の字は、割りと忠実に筆写しています。
三国志での30は、三十ですが、これは、帳政が使った丗だと、確信出来ました。
ありがとうございます。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:19:56.65
日本と言う名は
元々は毛人が住む東日本を指した

ヤマト王権は、その名を自分のモノにした

これが答えですw

俺の永平寺アーカイブより

568 ニューノーマルの名無しさん 2020/12/07(月) 20:26:39.85 ID:GVm4dqYs0
実際の地図認識は
クヤン←→マツラを南北にすれば、方角はすべて解明する

ちなみに

東日本(蝦夷、関東)は、古代からヒノモトと呼ばれていた
それは戦国時代の安東氏が「日ノ本将軍」と称してることからも察する
秀吉も奥州に来てヒノモトを語ってる

15世紀16世紀頃ですら
青森県あたりは「東」と思われていた

↓俺が持ってる戦国時代本より
https://i.imgur.com/rwD0eb4.jpg

方角は分かっていたが
認識が合っていなかったワケだよ(笑)
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:40:46.35
>>885
>九州と畿内の真のバランスは、畿内寄りに過ぎる畿内説と九州寄りに過ぎる古田説との間にあるだろう

その間にあるのがまさに、「阿波」。 九州へ畿内へと影響を与えたのが、まさに「倭人(阿波勢力)」。   @阿波
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:43:37.97
>>885
>ムラからクニに発展して間もない文字もない卑弥呼の時代から、日本列島は大和の中央集権体制で千km離れた伊都国を大和が支配下に置いていたなどと考える畿内説は時代観がトチ狂ったトンデモ説だと思うが、

それはお前の脳内にあるエセ畿内説
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:48:18.76
>>885
九州から千km離れた大和へ東征したなどと考える九州説は時代観がトチ狂ったトンデモ説だと思うが。   @阿波
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:52:12.68
畿内説スレで倭人伝の話をしても、無意味なのかと思ってました。
瓢箪からコマみたいな話での解決に感謝して、文献の話。

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

これは240年の梯儁が女王宮まで来て、参問した邪馬台国21国の詳細と
地理的場所の話。 18と21は、陳寿の補足で、余計なお世話と言う感もw

文献上の話で、到と至の違い。 可と有の違い。 の論が有りますが、
原書、報告書の書き手、張政は有を使い、到と至をかき分けていた。

梯儁は戸数に有を使い、
船での行軍は野営なので里程を示す場所名が不明で
寄港地の距離について、里程を示す意味が無かった。 です。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:54:06.26
事実上、日本全土は福岡太宰府の支配下にあったが

白村江でやらかして、兵士を多く減らし
兵力が減ったところに、
あまり知らない土地に来て
やりたい放題やったので殺された。
それだけのこと。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:54:33.43
雑多の九州説は、結局どれも
九州から千km離れた大和へ東征・東遷したなどと考える九州説は時代観がトチ狂ったトンデモ説だ。   @阿波
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 10:58:15.54
>>885
>九州と畿内の真のバランスは、畿内寄りに過ぎる畿内説と九州寄りに過ぎる古田説との間にあるだろう

その間にあるのがまさに、「阿波」。 九州へ畿内へと影響を与えたのが、まさに「倭人(阿波勢力)」。   @阿波
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:16:16.56
赤壁の戦いは、海戦てはなく、長江戦だったんだね。何か海をイメージしてしまった
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:17:54.60
魏の何処から長江に船団が入っていったのだろう?
注意深く本を読まないといけないな
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:22:00.37
邪馬台国は倭国の中心国でもないのにね。
共立された卑弥呼の都に過ぎない。
0905日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:23:29.27
九州北部説って何もかも滑稽な創作で説にもなってないの

九州北部創作と呼ぶべき
0906日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:23:39.17
>>896
阿波の人間だって房総の安房に移住しただろう
余程の理由があれば遠隔に移住することはある

しかし文字もない時代に大して国力の差の大きく相手に対して遠隔で定常的に支配・非支配関係を築くのは難しい
(中華帝国と周辺異民族のように圧倒的な国力差がある上に文字が使えれば別)
0907日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:26:31.95
>>901
魏は支配したばかりの荊州の長江流域の豪族に水上戦の訓練をさせた
しかし結局赤壁の戦いそのものよりも疫病の蔓延で魏軍は撤退した
三国志演義は孔明に活躍させるために赤壁の戦いをドラマチックに描いた
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:27:49.26
>>901
>魏の何処から長江に船団が入っていったのだろう?

海から船団が入っていったのではない。長江のほとりで造船しただけのこと。   @阿波 
0909日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:28:50.77
おやあ?

建ちませんねえ次スレ
 
こりゃ敗走ですかな?敗走ですかな?

口先だけのマウント取りの南支那ブタニグロ中卒ギャグマシンw
0911日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:31:05.13
>>906
>阿波の人間だって

違う! 「倭人(阿波勢力)」の海人族だからこそだ。   @阿波
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:36:49.11
>>908
なるほど。
やはり、赤壁の戦いはあったのか
しかし、鳳雛など、軍師、先生の影響力ったら無いですね
0915日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 11:38:02.57
>>907
呉軍には疫病は蔓延したのか?
0916琪瑛教大祭酒様
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2023/01/04(水) 11:38:19.27
多良思、多利思とかは後の半島任那の連中のことであろう。半島を平定とあり、東は毛人で西は夷で倭人ではない者等が支配下に置いておったのだな。卑弥呼とは血は繋がりの無い連中だな。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:41:03.22
>>915
孔明は薬を準備
龐統は医者を準備していたのある
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:42:59.56
>>903
>大運河はまだ開通していない筈だけど、もしかしたら既に部分的に開通していたのかも。

石頭の売郷奴が考えることは、この程度。  わははははは   @阿波
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:57:19.47
>>915
そういう話は伝わっていない
魏軍に疫病が流行ったことが正史に記載されている
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 11:58:59.11
>>891
博多-奈良は直線距離で500キロ以下だボケ
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:02:59.33
>>921

まず、>>885に言ってくれ。   @阿波
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:04:14.08
>>921
直線的に移動することは無理
奈良市から福岡市まで山地を切り開いて建設した高速道路を使った自動車の移動距離で約700km
弥生時代なら移動距離はもっとずっと長いだろう
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:06:47.67
>>922
>首っこんで来るんはなんで?

「阿波」の恥さらしを見ておれんからに決まっとろうが。  わははははは   @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:09:17.58
>>924
航路では関門海峡から瀬戸内海に出ればほぼ一直線で大阪に着く
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:14:09.72
畿内政権の場合そこに九州が含まれるかなんて知らね
西の端っこがどこまでかなんて知らねえよ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:22:15.66
阿波には阿呆しかおらん
0931伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/04(水) 12:27:23.95
>>930
このスレに書き込んでおる者に関しては同意せざるを得ない、
まともな人は、そもそも邪馬台国畿内説のスレに書き込まないだろう。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:29:19.37
>>928
魏志倭人伝には北部九州を詳しく説明している
どこに邪馬台国に比定しても、北部九州との関係、とりわけ伊都国の一大率との関係を合理的に説明出来なければいけない
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:33:03.07
>>932
倭王の元に送り迎えしてたんでしょう
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:33:31.50
>>932
>魏志倭人伝には北部九州を詳しく説明している

違う! 北部九州は、「魏志倭人伝」の植生でアウト!   @阿波 
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:35:00.79
>>935
壊れたレコードの阿呆
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:35:24.58
>>932
>魏志倭人伝には北部九州を詳しく説明している

「邪馬臺国」ではなかったわけね。 早とちりだった。   @阿波
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:35:50.10
>>881

筑紫倭国が滅んだのは白村江で負けたからでしょう。
継体天皇の時ではない。
白村江では筑紫の君が捕虜となり、8年後に帰国するが、すでに倭国は解体されていた。
時代は天智天皇から天武天皇へ、動乱を伴った国体の変化があった。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:37:13.09
>>885

白村江までは倭国も筑紫の君も歴史に記録されている。
継体天皇の進攻前とかわらない。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:42:30.29
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(幸山)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
太宰府には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が崩御、翌年にはその王子である大友皇子を倒した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、7世紀以前の古代の記録の多くが失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
https://i.imgur.com/pkN2NTN.jpg

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:43:50.27
ほとんどの学者は、纏向遺跡に失望して畿内説を捨てた。
このスレのキナイコシは梯子を外されている。
素人の盲信者だけが畿内説にしがみついている。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:47:28.53
>>887

旧唐書

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。

日本アルプスから東は遅くまで蝦夷(毛人)の地であった。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 12:56:12.06
邪馬台国=山門→吉野ヶ里→日田
卑弥呼=八女津媛
女王国=出雲と北九州の同盟で出来た
北部九州と日本海側の貿易連合
鉄でボロもうけ
西暦210年から西暦250年まで
宇佐神宮と出雲神社が証明している

間違いない
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 13:44:52.18
>>939
磐井の息子の葛子など筑紫君の一族が大和朝廷に降伏して現地の有力者としては生きながらえたようだ
ただし、独立政権としての九州倭国は磐井の敗死と葛子の降伏で崩壊しただろう
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 13:55:22.22
>>943
邪馬台国は近畿て事だな
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 13:57:01.69
>>947
頭悪いのか?
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 13:57:20.75
>>948
君がね
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:02:04.85
>>949
なぜ?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:07:24.97
キナイコシはサイコパスだよ
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:16:47.68
>>932
一大卒を説明出来たら、論争自体が成立しないのではないかな?

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

これは247年の帳政の一大卒に関する報告だが、
一大卒は畿内朝廷が邪馬台国以北に設置した、防人機関のようだよね?
女王国以南の諸国は まだ畿内朝廷に参加していないから 以北に設置しているわけだが

王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王
という事は、
邪馬台国が既に魏帝との外交権を放棄しているわけで
倭人伝外交が247年で終ってるのは、この報告による、処だよ。

女王国と日本海ルート諸国は、青銅の搬入等で交流が有ったはずの
239年公孫氏滅亡に次ぐ246年韓王朝滅亡を見て
国土防衛と富国強兵政策の必要性を迫られた、から
合流して、防人機関を設置したんでしょ。 
これが、古墳時代の始まりで、歴史の瞬間でしょうが?

これって、君たちが得意な記紀の記事のどっかに
比定できるんじゃないか? と思うんだけど。
どうなの?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:18:54.15
畿内説のおかしい点はいろいろあるが、その一つは一大率を置いた伊都国との関係
何で大陸との交易利権をガッチリ握っている筑前最強国の伊都国が、遠い遠い奈良盆地の出先機関みたいなことやらないといかんのか?
奈良盆地側のその力の源泉は何なのか?(鉄器も少なくて筑紫より戦争も弱いだろうに)
あるいは伊都国が奈良盆地の言うことを聞いてやる経済的メリットが何かあるのか?

普通に考えてそれらの合理的説明が全くつかないわ
関西考古学界の主張する畿内説はどう考えても不自然極まりないトンデモ学説だ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:28:31.45
>>941
その地名の一致は
大和「大神神社」(創建 神代)
筑紫「大己貴神社」(創建 仲哀九年)
を中心に広がっている。奈良・大神氏等が九州に下向した結果である。
何でも筑紫マンの中には大己貴神社が大神神社より古いなどと
キチガイじみた主張をするものがいるが笑えないトンデモである。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:39:01.49
>>946
大和政権は筑紫に屯倉一つを得ただけだった。
大和政権よりの日本書紀でさえそうなのだから、筑紫倭国はその時点では揺らいではいない。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:41:04.02
邪馬台国は対馬海峡の南岸だから九州であり本州を含むか不明
女王国は西にあり、また東に海がありその先に倭種の国々があったとのこと
魏志倭人伝の邪馬台国は九州という意味だね
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 14:49:00.01
鉄が採れる朝鮮半島南部は北部九州倭国にとっては国内だが、畿内にとっては国外だった。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:14:17.70
短里と言う妄想単語を使用しなくなっただけでも九州説は少し利口になったな
0962sage
垢版 |
2023/01/04(水) 15:19:16.40
魏志倭人伝で使われている里が短いことは事実。
それを通常の中華世界の里と区別するために便宜上、短里と呼ぶことはおかしくはない。
畿内説のアレルギーの方が病気。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:22:32.60
などと里と言う単位がどんな経緯で出来たか理解してない九州妄想集団
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:25:54.35
ああそうか?
邪馬台国は福岡筑紫平野の21国7万戸じゃなくて、
瀬戸内海とかの何も知らないはずでも名前を知った21国を通過して
畿内に到着した所にある、邪馬台国って場所なんだっけ?

魏の船って、そんなところまで行けんの?
ロシアや清でも、空爆で降伏したならともかく
アメリカでも瀬戸内海なんて入れなくネ
魏に大和の国が征服されちゃうだろwww

まあいいけど、そうじゃなくて、一大卒が出来たから
以降の半島進出で、牛馬の移入や鉄の国内生産とか
富国強兵政策が成立したわけで、高句麗戦や
百済、新羅の建国も後押し出来て、400年で倭の五王でしょ?

邪馬台国の半島進出ったって、武力征服じゃなくて、
狗邪韓國に港作って植民地にしてるだけなんじゃない?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:26:38.45
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:27:09.49
>>962
>魏志倭人伝で使われている里が短いことは事実。

事実だって証拠は?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:28:58.44
>>959
卑弥呼の頃には近畿に鉄工房があるって
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:31:02.90
>>950
頭が悪いから
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:31:55.45
>>968
絹もある
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:34:37.52
>>962
おかしいよ。
固定できないでしょ。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:34:39.73
>>964
まさに傍国は西日本一帯を指す

改めて、傍国比定中だが
その姿は、神武東征を終えた直後の範囲と言えそう
神武=祟神も見えてきたぞなw
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:43:11.31
>>971
計其道里 當在会稽東治之東もあるから
1里150mぐらいまでいいんじゃないか?
関東まで入ればいいんだよ。固定できないんだから
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:43:50.54
考古学の話だとしても、
250年までの青銅移入とかで
日本海ルート諸国と、博多湾が
別の国だってのは明解なのでは?

九州と言っても
博多湾筑紫と有明海熊本と
宮崎、鹿児島は別の国だろ?

ああ、そうか。 200年でも
記紀信者には、統一倭国が必要なのか?
時系列かぶっちゃって、クールな神話なのに
漢四郡と戦争しそうだけど・・・
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:50:01.45
>>974
対馬は半島→九州の交易ルートの関係が薄いよな
0977sage
垢版 |
2023/01/04(水) 15:53:04.19
>>971

固定って何さw
畿内説の方が頭おかしいでしょ
もっと科学的に話してくれないと困るなぁ
0978sage
垢版 |
2023/01/04(水) 15:55:08.36
>>975

東夷伝の里は100メートル弱だから、一歩は25センチくらい。
ちょうど足の大きさ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:55:18.19
九州にコロポックルやホビットが居たなら短里の存在は説明出来る
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 15:55:18.84
>>977
科学的と言うか論理的と言うか理由もなく短くしない
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:02:42.98
>>973
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東

これは、漢書などから倭人の使者に関してや
刺青についての引用なんだけど

計 其 道里 當在 會稽東治 之東
が存在すること自体がおかしいでしょ?
其って何? の 道里 刺青に里程関係あんの?
當在 會稽東治 之東は、場所指定であって道里って何?
削除しちゃった方が良かったね。

壊す前の文に、修正の例

23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:13:54.40
>>978
歩幅だろー50〜75cm
0984◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:15:21.86
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1672813762/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:17:00.91
>>983
まあ、魏の定める里より
短かければいいじゃないの?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:21:45.58
【畿内説とは】古代中国の史書を現代の日本語感覚で勝手解釈している低偏差値の代名詞

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録である。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で表現したり、半島南部の投馬国や北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
倭の地理勘に乏しい中国側は混乱し「水行20日,水行10日,陸行30日」と誤って記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭国の位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0987日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:22:08.37
>>985
証拠のないこと言い張っても説得力はない
0988日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:24:47.09
>>987
説得?などは考えないよ。
0989日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:26:48.46
「日本中央の碑」を本物と思ってる人がまだいたとはねw
0990日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:27:15.61
>>986
>魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録である。

そんなこと理由もなく決めつけられてもな
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:28:51.48
>>988
>説得?などは考えないよ。

説得力ないから支持者もない
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:31:47.39
>>988
983だ。
まあ、それでも短いから範囲内だな。
近畿や東海・関東も入るし。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:32:47.75
魏志倭人伝より
中文「計其道里 當在会稽東治之東」
翻訳「道のりを計算すれば、会稽東治の東にあたる」

この一文は陳寿が推定した位置を語っている箇所であり、陳寿に土地勘が無いことを示している
また丹耳と同様の南国であるという記録もあったため、倭国がかなり南にあると勘違いしていたのでしょう
「里数」表記の行程の後に倭人の記録「日数」表記の行程を連続して追記したのもその勘違いのせいでしょう
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:34:49.05
>>990
隋書琉球伝には朝貢に来ていた倭人に質問した記録が記載されている
そして隋書倭国伝には倭人が里を知らないことも記載されている
0995日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:38:29.21
>>993
そういう説もあるが採用はしない。
倭人は鉄を取りにくる。
山に丹あり等 いろいろあるから
北限で考えている。
関東にも鉄出土
丹、朱なら北海道とか
植物や鉱物、絹、ト骨とか?
0996日本@名無史さん
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2023/01/04(水) 16:39:06.53
>>994
だから何?
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:41:39.80
陳寿が会稽東冶(東治説もある)の東と記述したのは、邪馬台国が呉の背後にある大国のように見せたかったため
そうすることで、そんな国からの朝貢を可能にした晋の宣帝司馬懿の公孫氏討伐の功績を大きく見せることが出来る(つまり晋の役人としての晋朝への忖度)
そもそも魏志で倭人伝を詳述したことも西域伝を載せなかったことも晋朝司馬氏への忖度だ
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:42:41.52
>>993
>この一文は陳寿が推定した位置を語っている箇所であり、陳寿に土地勘が無いことを示している

計算した結果なんだから土地勘は無くて当然では?
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:42:59.97
>>996
倭人伝の内容は中国で保管されていた古い記録の写しと、当時の朝貢の記録をまとめて文章化したものである
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:43:34.58
>>993
>陳寿に土地勘が無いことを示している

陳寿に土地勘が無くても、「倭人(阿波勢力)」が詳しく教えているから、「魏志倭人伝」の行程がある。
「倭人(阿波勢力)」は、漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたんだから。   @阿波
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