X



邪馬台国畿内説 Part845
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:29:22.53
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1672635331/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:30:16.84
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:31:13.45
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:31:53.52
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:32:27.85
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:32:59.33
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:33:30.70
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:34:00.49
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:34:42.40
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:35:41.12
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:36:23.08
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:37:16.29
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:37:48.72
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:38:18.16
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:38:52.11
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:39:25.08
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:39:57.93
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:40:31.05
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:41:00.78
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:41:31.71
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:42:00.87
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:42:32.04
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:43:01.19
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:43:32.02
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:44:01.93
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:44:32.00
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:45:02.68
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:45:32.43
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:46:01.91
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:46:32.50
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:47:01.98
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:47:32.25
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:48:03.34
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:48:31.89
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:49:01.90
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:49:34.33
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:50:05.05
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:50:36.82
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:51:08.90
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:51:39.75
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:52:11.09
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:52:43.45
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:53:12.21
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:53:42.80
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:54:15.33
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:54:47.87
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:55:22.52
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:55:53.63
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:56:24.76
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:56:56.59
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:57:28.33
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:58:00.49
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:58:31.77
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:59:10.19
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 15:59:42.25
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:00:14.63
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:00:53.40
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:01:26.95
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:01:59.51
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:02:32.04
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:03:07.63
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:03:40.62
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:04:12.00
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:04:43.89
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:05:15.01
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0066◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:05:47.43
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:06:32.43
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:07:04.43
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:07:43.18
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:08:16.94
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:08:49.82
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:09:29.36
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:10:02.70
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:10:33.75
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/04(水) 16:11:03.15
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:22:49.95
【追補】畿内説とは、古代中国の史書を現代の日本語感覚で勝手解釈している低偏差値の代名詞でした

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録である。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で表現したり、半島南部の投馬国や北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
倭の地理勘に乏しい中国側は混乱し「水行20日,水行10日,陸行30日」と誤って記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭国の位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:23:43.26
【詐欺注意】卑弥呼の墓の大きさは径百歩ではない

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:49:46.69
【史書の読み方】
倭人伝の内容は中国で保管されていた古い記録の写しと、当時の朝貢の記録、そして筆者の想像をまとめて文章化したものである。
隋書倭国伝には倭人が里を知らないことが記載されている。
隋書琉球伝には朝貢に来ていた倭人に質問をするシーンが記載されている。

【例】魏志倭人伝より
中文「計其道里 當在会稽東治之東」
翻訳「道のりを計算すれば、会稽東治の東にあたる」

この一文は陳寿が推定した位置を語っている箇所であり、陳寿に土地勘が無いことを示している
また丹耳と同様の南国であるという記録もあったため、倭国がかなり南にあると勘違いしていたのでしょう
「里数」表記の行程の後に倭人の記録「日数」表記の行程を連続して追記したのもその勘違いのせいでしょう
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:53:09.42
>>76
>魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録である。

根拠なしに言い張るの?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:54:08.35
関東まで鉄が出土か?
投馬国(東海・関東)が女王国でなく倭種だとしたら。不彌国起点とすると
水行10日陸1月近畿、10日で関東か?
投馬国、(東馬国)あずまか?
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:55:46.65
>>76
>魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

証拠もなく結論だけ言い張る九州説の持病か
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:58:04.67
>>78
>倭人伝の内容は中国で保管されていた古い記録の写しと、当時の朝貢の記録、そして筆者の想像をまとめて文章化したものである。

なんで理由も言わずに決めつけるの?
読者がついて行けない
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 16:59:26.22
>>81
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されているが、

ただし、万二千余里は女王国まで直線距離。   @阿波
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:01:35.89
>>82
陳寿は当時の記録をコピペするのが基本
しかし倭人からの伝聞記録には里数表記は無かった
後の隋書で倭人が里を知らないことが紹介されている

今さらこれぐらいの事はほぼ基礎知識だろ
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:02:20.73
>>魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
魏の定める里より短けれいいんだよ。
あとはそれぞれの見解だな
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:08:00.37
>>86
それの、どこがなんの理由?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:17:39.27
>>85
>魏の定める里より短けれいいんだよ。

なんでそんな単位を、どこの誰が使うの?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:19:41.98
>>88
>お前は非社会人で知能が低い人だから理解できないかもね

説明しなければ誰にも理解できない
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:19:51.43
>>81
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されているが、

ただし、万二千余里は女王国までの直線距離。   @阿波
0092sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:21:14.63
畿内説はいちいちツッコミを入れているが、まったく反論になっていないから、無力感を見せつけるだけになっている。
畿内説はオワコンであることを印象付ける結果となって逆効果ではないのか?
0093sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:22:13.50
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:22:15.25
>>92
反論になっていないと言う理由は?
0095sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:23:02.23
九州説だけどさ、纒向があまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
纒向の建物は神社の建築様式そのものであり、あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが貴人が住む本殿の最大の特徴だ。
だけれども、貴人は一人だけだった。
家臣に訓示を述べる大型建物の拝殿はあっても、他の貴人達を迎える構造にはなっていない。
伊勢遺跡は同じような宮がいくつも環状に配置されており、首長層の会議に使える規模だった。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人、物部氏の一人が駐在していたんだよ。
まあ、それが後に崇神天皇と呼ばれる人物でも構わないけどね。
どうせ当時の大和の天皇家は地方政権だから。
せっかくの大和王権の発症を示す遺跡に邪馬台国を無理やり絡めてミソをつけたのは誰の責任だ?
0096sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:23:41.40
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260~280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0097sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:24:06.10
小沢毅氏
「纏向遺跡を都市とみるには多くの問題がある。都市的要素にしても都市の存在は推定にとどまっており、
何よりも、集住を示す住居や居住区の確認例があまりにも少なすぎる、という現実につきあたる。
こうした点は、都市の定義の根幹をなす集住自体が、はたして寺沢が想定するような規模でなされていたかどうかを疑わせる。(中略)
纏向遺跡の段階に、王宮を核として多数の人々を恒久的に集住させるような必然性があったとは
到底思われない。(中略)また、かりに王権による強制的集住があったとしても、それが都市とするにふさわしい恒久性を有していたかは検討を要する。(中略)以上、纏向遺跡については、居住者
の質の問題はともかく、集住の規模と期間に疑問があり、都市としての要件を満たしているとはいいがたい。」
0098sage
垢版 |
2023/01/04(水) 17:26:01.06
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:27:20.33
>>93
>※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

なぜ邪馬台国の位置が九州北部になるの?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:27:54.74
>>89
九州説やもろもろだな。
別に強制はしない。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:31:12.80
>>98
畿内説ではないが
たくさんて幾つよ?
卑弥呼の時代と思われる出土はどの遺跡?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:32:03.80
>>97
で。それは誰のどんな意見に反論してるの?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:34:31.50
>>84
そう言う話以前に、倭人からの聞き取りの行程なんて無いよ?

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳革頁 可七萬餘戸

これは240年に建中校尉梯儁が女王宮まで行軍した時の記録
軍船での水行は野営なので、寄港する港間を里程で示すことはできない。

投馬國と邪馬壹國は、海峡が有るが隣国なので
馬韓と辰韓の距離は?みたいに里程で示す距離概念は無い。

地理的な位置を示すために、通過国名を記録した。
陸行1月は使用地図上の座標単位だが、約2千里。

水行二十日は歴韓国と同様、4千里で、
乍南乍東 到 其北岸での、東に3千里と
千里の渡海三回、6千里で水行が十日で邪馬台国に入国。
残りの女王宮までの陸行1月行の2千里を
陳寿が合計して、萬二千里とした。

梯儁の渡海は、魏が奇襲に使用した帆船だと
狗邪韓國、対馬、壱岐ルートを使ったかどうかは判らないが
官有 伊支馬が、壱岐の馬なら、
女王国の植民地と思われる狗邪韓國以外は、博多海人ルート。
帳政の末盧國上陸はアホで、博多に入港するのが、当たり前。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:36:57.35
>>98
>「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
>10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4

「西暦300年以前」を弥生時代だと言ってる学者はいますか?
「10種の魏晋鏡」なるものが 魏晋鏡だと認めてくれる学者はいますか?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:44:55.82
>>98
これって年代の根拠がないから、もう崩壊した九州説だよね
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:46:42.18
>>98
絹織物は0
まあ、邪馬台国らしいな
水行30日で陸1月、内陸部かな?
どこの国が量が多いとか少ないとかの
記載はない。女王国の範囲内にあれば済む
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:49:13.00
>>104
横でごめん。

「10種の魏晋鏡」
てか、魏はこの時動画無くて
曹家鉄鏡を作ったんだよね。
卑弥呼の銅鏡は、主に漢鏡では無いのかな?

まあ、日田で出た曹家鉄鏡は、
いったい誰がいつ持ち込んだかが
謎だが。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:56:56.02
>>107
曹家鉄鏡?
似ているだけでは?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:59:02.21
>>108
確定はしていない可能性。
断定まで至らない
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 17:59:05.89
>>95
伊勢遺跡も円状の中心にでかいのがあるし配置が違うだけで
本殿拝殿らしきものがあって棟持ち柱建物もある
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:02:44.82
>>107
青龍三年に高堂隆が明帝を諌めて
「中尚方純作玩弄之物、R燿後園、建承露之盤」
と言ってるので
青銅器生産は復旧してますね
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:03:42.40
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:03:48.39
>>97
その疑問だったら正しいのよ
でもここで言ってる古墳作りの労働者の施設だと住んどるやないかいって話になる
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:08:56.72
>>113
いや、都市だと言ってる人がいないと正しくないよ
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:16:48.92
>>114
言ってる人が多かろうが少なかろうが正当な理由であればどうでもいいよ
生活の痕跡が無いのに何故そこに労働者が居たと思えるのか?
0117sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:24:48.64
>>110

配置は重要
伊勢遺跡は日本海側の文化で出雲の系列
大国主の神奈月の神々の集合地
畿内は関係ない
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:25:24.11
纏向は都市並みの規模だけど都市ではないってのはそうかもしれない
じゃあなんなんだって話だわな
0119sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:25:42.54
>>116

しかし建物が少ないから都市ではないし、定住していたわけではない
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:26:36.79
>>111
諌めて復興という事は、魏では
金銀象嵌の鉄鏡が作られていたことは確かで
日田から出たなら、何らかの繋がりが有る。

銅が無いと言っても、曹家以外に鉄鏡が作りたい
理由は無いわけで、古墳用の鉄鏡が腐るよ、
って、現場は知らなくないかなw

腐らない鉄剣の古墳とかもだけど
日田で出たのが凄いと思うんだが?

記紀以前なら、金石じゃなくても、本当は、
古墳には墓誌みたいの
一杯あったんだと思うんだけど・・・

最悪、皇室が保存してれば良いんだろ?
ど~すんだよ。 日本の古代史。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:27:57.09
>>117
出雲ってもしかして出雲大社の事を言ってます?
当時そんなのないし伊勢神宮もない
0122sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:28:57.16
だいたい、纏向遺跡は玉垣の中の建物の中だけであるべきだ。
他の周辺の宮と領域が重なっている。
纏向遺跡が崇神天皇の宮だと思うが、纏向には他にも垂仁天皇や景行天皇の宮があったはず。
それを無視して広域で纏向遺跡と呼ぶのはおかしい。
日本史を無視して邪馬台国畿内説をでっち上げるための強引な説を流布している。
0123sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:29:37.07
>>121

実際にあったのは伊勢遺跡なんだろ。
0124sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:30:25.34
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0125sage
垢版 |
2023/01/04(水) 18:32:35.66
伊勢遺跡は出雲の神奈月に神々が集まったという伝承に真実味を与える貴重な遺跡だ。
纏向遺跡は崇神天皇の実在性と八咫の鏡のエピソードに真実味を与える重要な遺跡だ。
それを無理に邪馬台国に結びつけるのは、日本の歴史に対する冒涜だ。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:33:17.88
>>122
>それを無視して広域で纏向遺跡と呼ぶのはおかしい。

そんなこと言ったって広域の遺跡なんだから仕方ない
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:37:19.69
>>124
一つ気になるのは纏向遺跡の建物には心御柱がないけど伊勢遺跡にはある
伊勢神宮にはある
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:40:18.82
>>127
別にある必要性があるのか疑問?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:41:33.45
>>121
関門海峡以前の日本海ルートが、機内に繋がるなら
出雲じゃなくて敦賀から琵琶湖水運が伊勢だよねw

吉備なら出雲からでもなんとか?
出雲、丹後、越は日本海ルート諸国だけど?

記紀の神々の時代以降で、出雲って完全に冷や飯組じゃね?
阿波が恥さらしの馬鹿なのは有名だけどw 
島根、鳥取だろw 

関門海峡以前の場合、日本海って言ったって、
琵琶湖水運~淡路島~瀬戸内海海運と繋がらないと?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:44:28.28
>>128
現代の伊勢神宮では結構重要だと思うよ
伊勢遺跡が廃棄された後周辺に棟持ち柱建物を建ててるけど心御柱はない
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:49:27.43
>>129
出雲は金持ちだぞ
効率で言えば丹後や小浜とかもっと近くに来れば良いと思うけど
一大率が出雲に居たんじゃしようがない
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:50:56.39
陳寿はおそらく王沈魏書をまるまるパクって、文章だけは自分の好みに変更しただけだろう

そして、王沈魏書は後の劉知幾などからは、
「其書多為時諱,殊非實?。」
→その書は政治的配慮が多く、事実でないことも多い。
と評されている
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:53:36.18
>>117
東長峰遺跡の系列は?   @阿波
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 18:53:51.60
最終氷期の旧石器時代
当時瀬戸内海は陸地で大阪は起伏に富んだ古大阪平野が広がっていた
当時陸地だった瀬戸内海の海底から瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
サヌカイトの二大産地は香川と二上山

まさに天地開闢の時代
日本神話の天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
最終氷期が終わり海面が上昇し瀬戸内海の多くの島や淡路島が誕生した
敷島の葦原の国、日本の始まりの記憶やね

旧石器時代から日本列島にいた人々はC1a1の集団だったと言われている
1番最初に出アフリカをし拡散したホモサピエンスのグループ
ヨーロッパのクロマニョン人やアボリジニーの親戚やね

二上山と五色台が日本人の根である
歴史はここから始める
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:02:09.19
>>132
三国志に関しては、同時代人なんだから
仕官した王に関して、陳寿の忖度の傾向は有るだろw

倭人伝は、他人事で張政や梯儁の記録を書写して
司馬氏の東夷政策での歴史的快挙な話にしただけだよ?

快挙じゃなくて、日本はこれで
対魏の富国強兵政策に転換した。

これが、日本の古代史の転換点なんだが?
半島忖度と記紀忖度が手を結んでいられるのは
いつまでなのか? 

と言うより、
誰だって、ホントの事言えるだろ?
言ってみw
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:09:51.28
卑弥呼の時代、弥生時代末期の代表的な遺跡の一つ池上曽根遺跡は、
巨大神殿、楠の巨大井戸、巨大なヒスイの勾玉、銅鐸、鉄工房、蛸壺、龍の絵画土器など様々な文化が見られる大集落跡
二上山産のサヌカイトで作られた石剣や石槍、数千点に及ぶ紀ノ川産の石の石包丁、石器の祠がある石器時代の文化を色濃く残した集落である
池上曽根遺跡の住居跡から1000人くらいの人々が当時この集落で暮らしていたと推測できる
この数字は池上曽根遺跡のある摩湯丘陵に残る伝承とぴったり一致する
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる

スサノオの眉から生えてきたのが楠で用途は船と定められた
枯野伝説では楠の大木から軽船が作られたとある

ひるこが乗っていた船は古事記では磐樟船、日本書紀では軽船

池上曽根遺跡を作った人々の祖先はひるこの船に何か関係があるかもしれないね
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:15:06.53
堺には2つのえべっさんの伝承が残っている
まだ村落が作られる前にやってきたえべっさん、そのあ長い年月を経て降臨した五色に輝くえべっさん

堺のえべっさんの伝承

むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり着かれたそうです。そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:17:44.25
このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。
ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。こうした中で浜のえべっさんは、どんなときでもどんな願いも必ず聞いて下さるのだそうです。
村落の人達はそんな浜のえべっさんを慕いあがめて、お願いへと鳥居をくぐり、いつの時代においても変わらず手を合わせているそうです。また五色に光る陸のえべっさんの御陰で、いかなる転変地変が起きようとも、それが自然によって起きたものであれ、人間のごうがなしたことであれ、へだてなくこの地で生きる人々に再生の力を授けてくださるのだそうです。それから、同じえべっさんでも、浜のえべっさんへお願いする時は、神社の後ろ側から拝むのだそうです。ここから拝むと、どのような願いでも叶えてもらえるそうです。浜のえべっさんは耳が遠いので、前から拝んでは聞こえないのだそうです。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:24:29.84
【纒向は市場でした】
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります

纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:25:20.74
【纒向は古墳造営キャンプ場でした】←有力

纒向遺跡調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

奈良盆地は唐古鍵閉鎖後は墓場として周辺国に利用されており、大型古墳を建造する際には遺体安置所兼遺族の宿泊所を設置し、
東海地方から来た労働者たちが野宿をしながら古墳建造に従事していたものと思われます。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:26:59.01
【大型建物と人】

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:27:57.13
>>136
池上曽根遺跡は紀元前後辺りでかなりの権力者が居たんだと思う
ただ王も集落の中で一緒に生活しててそれが一般的
伊勢遺跡と纏向遺跡は特殊な遺跡であれが王宮だとでかい
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:28:52.50
アタシ達は歴史認識を改めなければならない。

倭人伝は縄文時代から九州弥生時代への転換点である。
日本人には、魏の公孫氏、韓王朝滅亡で、防衛戦力が必要だった。

戦国史の中国に対し、石器人~縄文2万年は平和土人?
人間類、動物の変化歴史である。

で、日本に軍事統一政権って
織田信長なんじゃないのかね?

倭の五王は、西も東も北も南も平定した?
何の話だ? 土地を所有する王を任命するだけだろ?
始皇帝のような軍事力は、要らんかもな?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:30:37.09
五色に光るえべっさんとは何なのか?

香川には五色台という海と山に囲まれた要塞みたいな、旧石器時代からのサヌカイトの一大産地がある
播磨風土記の古墳時代の記述に五色の玉を持つ石神の話が乗っている
神嶋。伊刀嶋の東にある。神嶋と称される所以は、この嶋の西の辺りに石神があり、その形は仏像に似ていたので この名が付いた。
この神の顔には5色の玉が付いている。胸には涙の流れた跡があり、これもまた5色である。
泣いた所以は、品太天皇の御世に新羅から客人が来朝し、この神の顔に付いていた奇偉で思いの外に珍しい玉を見て、これを取ろうと顔をほじったところ、眼を一つ掘り潰してしまった。よって神は泣いたのである。
それから神は大いに怒り、暴風を起こして客船を打ち壊してしまった。この船は海を漂って沈み、やがて高嶋の南の浜に漂着したが、乗っていた人は悉く死んでしまった。よって、その浜に埋葬した。故に韓濱と名付けられた。今でも此処を通過する者は、韓人に拘らず盲の事を戒めて謹んで渡るようになった。

同じくらいの時代、仲哀天皇ではないかと言われている五色塚古墳が作られ、その際讃岐の石工が呼び寄せられたという話が残っている

五色の玉を持つ石神や五色塚古墳を作った石工たちはその後どうなったのか?

堺に降臨した五色に光るえべっさんは、その後イワ山を作ったという言い伝えもある
何か関係があるのだろうか?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:30:54.92
>>139
国々だから市は各地でやってる
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:36:22.83
>>141
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が九州へ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:37:37.68
>>145
別に他ではやっていないとかは
書いていない
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:45:27.17
>>144
どうでもいい。
堺を拠点として盤踞した石津連の祖神。天穂日命もしっかり祀ってやれよ!石津社の初代神主は野見宿禰なんだろ。
いくらエビス信仰が金になるからって祖神そっちのけかよ。あっちもこっちも情けない神社ばかりだ。エビスなんざ漂着物やクジラやらイルカやら水死体やら何でもエビスなんだよ。堺の漂着物なんざスレ違い甚だしい。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:47:25.58
>>145
国々に市が有るなら
これを監督する大倭ってのは何なんでしょう?

卑弥呼が設置した、一大率?
これは女王国の国々の中の伊都の話。

だけど、一大率は、九州に置かれた防人機関だろ?
これ、記紀が、対応可能だと思うぞ。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:54:20.40
ひるこ、えべっさんの歴史が狗奴国の歴史じゃないの
根の国からイザナミを受け入れた黄泉の国の歴史も同じでしょ
浦島太郎が留まった竜宮城、常世の歴史も狗奴国の歴史の一部かもね
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:56:50.78
>>149
國國有市交易有無
おまえは市がどういうものだと想像してるんだ?
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 19:57:45.26
>>149
女王の都の邪馬台国には中央としての
組織は置いていない?
記述がない
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 20:00:24.55
関西はえべっさんと子どもの守り神お地蔵さんの信仰があつい地である
近世以降、消されつつあった歴史がえべっさんとお地蔵さんに詰まっているんじゃないの

旧石器時代からの人々と共にさまざまな人々を受け入れ、外来勢力の女王国、ヤマト政権に抗い抜いた在地の人々の歴史があるんじゃないの?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 20:01:28.88
倉は集落ごとにあるんだし税として集めた物を売買するんだし監視する奴が居るのは当たり前
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 20:24:57.05
道饗祭は狗奴国の歴史を端的に表しているんじゃないの?
ひたすら守り抜いた歴史

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 21:14:45.50
>>150
エビス信仰、特にヒルコのそれはそんな古い信仰ではない。消えろ。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 21:44:45.69
狗奴国との戦闘状態中に箸墓築造は無い、民に長年の土方を従事させるより戦闘に従事させる物だろう。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 21:54:59.10
>>157
戦闘状態中じゃないんだろ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 21:59:38.34
魏志倭人伝によると、
伊都国の南に邪馬台国
邪馬台国の南に狗奴国

伊都国の南に奈良盆地←アウト!
奈良盆地の南に河内国←アウト!

伊都国の南に筑後山門←ÒK!
筑後山門の南に肥後山鹿・菊池←ÓK!
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:00:20.04
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

卑弥呼の死後はとても平和とは呼べない時代だよ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:04:05.64
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:04:24.45
>>160
人類ってのは、そう言う時ほど故指導者様の巨大銅像とか作ったりするもんだ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:06:42.45
>>159
>魏志倭人伝によると、

結局、九州説にとって「南」だけが頼みの綱
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:09:29.58
>>163
南だけじゃないよ
魏志倭人伝や記紀の記述と考古学を照らし合わせればことごとく北部九州を指す

絹、鉄器、大陸系の銅鏡、大陸系の土器、環濠、墓制、位置・方角などことごとく
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:11:14.83
>>159
魏志倭人伝によっていない
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:12:20.94
>>164
指さない
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:15:12.09
>>167
何回見ても九州ではない。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:16:32.38
>>167
まあ、邪馬台国の一部
水行30日陸1月だから物資は不足だよ。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:17:04.26
>>162
数人で作れる銅像と、数百人が何年もかけて作った箸墓を同様に語るな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:28:18.13
>>167
>考古学的に見て如何に纏向が邪馬台国ではあり得ないかが

考古学者は纒向と言ってるんだけどね
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:31:06.94
>>171
箸墓が卑弥呼の墓だと言っているアホな考古学者はいるのか?
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:34:24.52
絹、鉄器、大陸系の銅鏡、大陸系の土器、環濠、墓制が邪馬台国に絞ったもんという記述はない。
女王国にあればいいもの。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:47:32.52
>>172
たくさんいるようです
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:50:01.09
モモソヒメの死因は箸による激しいジイコウイだろ、現代でも電球入れて破裂して死亡したようなもの
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:51:53.34
>>174
畿内には㋖の考古学者が多いようだね
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:52:07.86
>>171
考古学者にもいろいろいるよ
纏向=邪馬台国を主張する考古学者も数年前はやたら多かったが、今はずいぶん減っているように見える
纏向からびっくりするほど邪馬台国の根拠になるものが何も出ていないからな(詳細は>>167の動画を見ればわかる)
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:56:24.89
>>173
動画を見ればわかるが、纏向に限らず奈良の遺跡からそれらがさっぱり出ないんだよ
九州からはザックザック出ているのに
さすがに纏向=邪馬台国説は客観的に見てムリ
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 22:57:30.59
>>177
何回見ても九州ではない。
勝手な定義でウダウダ述べているに過ぎない。
邪馬台国の根拠になるものてなんだ?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:00:32.86
>>177
その動画はダメだね
科学的なことが全然わかってない人が解説してちゃねえ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:00:35.70
伊都国の南に女王国はある
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:01:47.70
>>181
投馬国の南では?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:02:56.80
>>182
奴国の南だな。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:03:39.68
>>183
そういう説もあるな。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:10:07.26
>>180
科学的なこととかそういう抽象的な話ではなく、「大陸と交流している地域であれば出てくるはずの出土品(九州からザックザック出て来る大陸系の銅鏡・大陸系の土器・鉄器等)が如何に纏向など奈良の遺跡からさっぱり出て来ないか」というひたすら具体的で実証的な話だ
畿内説大和説は考古学的に如何に成り立たないかが(人並みの知能があれば)誰にでもわかるような話だ
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:10:13.15
>>167
長いし眠いけどこの人の言ってるのは纏向は古いが箸墓は四世紀って事だよな
まあそうだろう
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:12:34.40
文献でも九州説
考古学でも九州説
邪馬台国は少なくとも北部九州であることははっきりしている
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:14:43.03
>>187
まったくハッキリしていないよ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:14:55.34
関西の考古学者も本音では結構九州だも思っている人が増えていると先日動画を上げた倉本一宏氏が言っていたな
そりゃそうだろう
これだけ纏向からさっぱり何も出ないのだから
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:16:40.77
>>182
投馬は大村湾辺りではないかと思う
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:16:42.52
関西考古学界の大畿内説キャンペーンは完全敗北で間もなく終了
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:16:44.08
>>189
妄想だよ
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:17:09.04
>>185
中国と交流がないと銅鐸用の銅が手に入らないだろう
銅鏡を溶かして銅鐸にしたんじゃないからな
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:17:59.91
>>189
倉本一宏氏の取り方であって
九州説にはならないな。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:18:40.15
>>191
いや、このまま畿内説が定説になるよ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:21:00.05
>>195
当然、邪馬台国は近畿
卑弥呼が共立で九州へ。
なので遠方の女王の都へ行く事はないし
中心国でもない。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:21:22.79
我々の生活でも輸入品は大量に購入しているが、自分で外国に買いに行ってないだろ
国内の流通ネットワークで手に入るから

3世紀の青銅も同じ
しかし鉄の筑紫外への流通は伊都国が絞っていた
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:22:20.47
>>197
国産じゃないのに何処から手に入れるんだよ?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:24:33.92
>>200
君は国産じゃない物を自分で海外に買いに行っているのか?
輸入品は国内で流通するんだよ、余程の貴重品や希少品でなければ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:25:12.89
>>201
銅は貴重品でしょう
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:26:10.96
>>203
根拠なし
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:26:20.09
>>194
客観的に見て、考古学的根拠に基づいて纒向が邪馬台国の都なんだがな
詳細はテンプレにある
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:27:54.96
>>205
鉄もな
だから卑弥呼の時代関東でも出るから
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:29:04.35
>>207
奈良で銅鐸作ってたから
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:29:50.28
>>210
青銅器も地域差大きいでしょ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:30:41.59
>>211
銅鐸は邪馬台国の根拠にはならない
魏志倭人伝に書いていないし国産なので大陸との交易の根拠にもならない
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:31:14.51
>>213
銅は?
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:32:04.53
>>207
なんで奈良なんだ滋賀にも絹出土ある
鉄もあるが?
丹後にも鉄出土、ガラスとか?
四国、近畿にも朱が出土。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:32:21.86
>>212
地域差は大きいが輸入の最上流の筑紫が絞っていないだろう
鉄と違って
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:32:26.23
鉄こそ根拠になってないのよ
中国じゃないから
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:33:28.26
>>210
なんで?魏志倭人伝には邪馬台国が多いとか記述はない。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:34:13.48
>>217
鉄は大陸との交流の根拠になる
当時は国内からは出ない(製鉄ができない)から
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:35:03.77
>>219
多い少ないは邪馬台国根拠にはならない
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:35:20.05
>>218
魏志倭人伝によると普通に鉄鏃があるのが邪馬台国(連合)
鉄鏃の出土は福岡熊本が圧倒的
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:35:55.45
>>219
大陸言うな
朝鮮半島の南の端の方だろ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:36:35.92
>>220
なるよ
大陸と交流できない分際で邪馬台国候補に手を挙げる資格はない
邪馬台国は大陸との交流によって我々に知られることになったクニだ
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:37:33.43
>>223
中国から輸入してる銅があるから
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:37:59.89
>>221
邪馬台国連合はない。
卑弥呼連合はある。
九州が紛争とかが多いだけ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:40:17.24
>>223
意味不明。
交流があるかないかなんだけど?
多い少ないは関係ない
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:40:54.37
>>223
畿内は大陸と深く交流してますが?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:41:29.50
>>224
筑紫が輸入したものが国内の流通ネットワークに乗っているだけ
出雲は輸入してるかもだけど(ただし半島側での鉄採取の利権は持ってないようだ)
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:42:02.56
>>228
根拠なし
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:43:04.30
>>227
その考古学的根拠がない
文献上でも当時の中国史書に畿内であるとはっきりしている地名・人名が一切ない
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:44:24.02
>>230
九州にはあるか?
記紀は証拠にはならない。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:44:57.04
>>229
輸入品の出土状況でわかる
3世紀前半の大和が大陸と全く交流していないのは考古学的に明らか
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:46:15.53
はっきり言って鉄なんか良い値段で売れないんでしょう
市に持ち込んでも大倭がしぶる
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:46:51.52
>>230
>その考古学的根拠がない

考古学的根拠ありますけど?

>文献上でも当時の中国史書に畿内であるとはっきりしている地名・人名が一切ない

ヤ・マ・ト
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:48:08.78
>>231
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国ははっきり九州
倭王帥升も通説は九州(有力な対抗説なし)
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:49:36.46
>>234
ヤマトは筑後山門の可能性がある
甲類乙類は日本側の発音なので中国人が聞き分けた保証なし
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:50:06.79
>>232
>輸入品の出土状況でわかる

畿内で出てますねぇ
九州にないでしょ?

>3世紀前半の大和が大陸と全く交流していないのは考古学的に明らか

考古学者の言ってることと逆ですが
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:51:46.85
>>237
どこの考古学者がそんな間違った主張してるんだよw
議論に負けたくないだけの嘘の主張はやめよう
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:52:38.21
>>235
投馬国、邪馬台国はハッキリしないよな。
いろんな説がある。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:52:51.52
>>236
>甲類乙類は日本側の発音なので中国人が聞き分けた保証なし

じゃあ、なんで使い分けられてるの?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:54:05.51
>>235
倭王帥升も通説は九州(有力な対抗説なし)
思い込みでは?
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:55:48.30
鉄は錆びるし祭祀用じゃないし威儀具でもない
金ぴかの青銅器が良いに決まってる
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/04(水) 23:58:55.67
>>242
私見だけど、
倭王帥升は九州〜山陰でいいと思うけど
等なんだか、倭国に山陽、近畿等勢も加わったと思う無論、投馬国、邪馬台国も等に含まれる。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:00:39.90
>>245
別にかまわん。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:02:09.18
>>238
>どこの考古学者がそんな間違った主張してるんだよw

全員
魏鏡も出てる
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:03:29.58
>>247
貨泉も出土あり
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:07:15.59
>>243
武器や農具には鉄の一択
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:09:12.33
>>249
当然、大事に古墳へ
野ざらしにはできない
宗教地でもある
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:13:52.92
>>246
滋賀には九州や半島からの出土がない
オルドス剣などが出土。
丹後には、五尺剣を始め、鉄剣がまとめて出ている。翡翠絡みか?富山にも絹が出土
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:17:39.32
>>250
鉄の九州からの出土は圧倒的、畿内では超希少品
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:19:27.30
>>252
だという証拠は?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:21:09.01
>>209
テンプレが偏向してるという証拠は?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:24:02.10
>>253
橿原考古学研究所の寺沢薫氏作成資料より
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:32:07.55
>>255
という証拠は?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:33:31.30
>>257
資料を見れば一目瞭然。てかお前キナイコシだろ?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:36:02.37
>>258
証拠が出せないの?
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:40:17.79
>>259
お前が探せない無能なら出してやっても構わんがな
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:44:28.90
橿原考古学研究所の寺沢薫氏「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方で多く出土する事実は変わらない、鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」「(弥生時代後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルートを持っていたというような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」
(日本の歴史02「王権誕生」2002年講談社刊)

https://i.imgur.com/eItrtCx.jpg
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:48:46.94
>>261
じゃあ、なぜ鍛冶遺構が有っても鉄器で加工された木材が大量に出土しても、鉄器そのものが出ないの?
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:52:34.32
嘘、捏造、等は日本文化と言うか大和文化なのでしょう。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:55:16.51
>>262
その鍛治遺構はどこのもので、鉄器で加工された木材はどこで出土しているのかな?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:57:34.84
>>264
纒向
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 00:59:21.78
>>263
捏造は九州説の専売特許だ
畿内説はちゃんとした学問なので、そんなことはしない
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 01:02:06.58
ヤマト説ですけどね
他の畿内が女王国という根拠は何もない
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 01:06:08.46
中国とのつながりを示す青銅器があるんだし別に良いじゃん
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 01:13:01.14
>>267
前方後円墳集成編年で古墳第一期を比較すると
全長で
250m超:1(奈良)
150m超:1(京都)
100m超:9(京阪奈5、山陽3、東九州1)
 50m超:30

これは古墳前期における国内の力関係を反映しているだろう
畿内における外来勢力を言う人は、畿内の力を過小評価してる
逆に畿内の中で女王国に含まれない地域を抽出できない
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 01:31:41.27
アホの九州説は鉄器がどうのこうのと言うが鍛鉄と鋳鉄と焼き入れの区別がつかない。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 01:49:57.93
>>265
それは3世紀前半のものなのか?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:11:02.32
>>268
鉄鏃は必須
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:26:50.06
奈良での鉄鏃出土数はたったの4つ、福岡は400個近い
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:28:22.12
>>271
>それは3世紀前半のものなのか?

発見済みの鍛冶遺構は3世紀中頃の二箇所だが、鉄器で加工された建材は3世紀初頭から大量に出ている
一方、鍛冶遺構は有っても成品は出ない
確実に鉄器が普及している時代でも妄りに遺棄されない
つまり、鉄器が出土しないということは鉄器が無いことを意味しない
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:29:46.43
>>272
中国と交易してた証拠だけど
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:33:51.68
>>275
魏に朝貢した証拠にはならない
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:35:01.55
>>274
その遺構と木材出土のurlはある?
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:37:05.92
>>276
脳みそあります?何処が朝貢してたか問うてるんだよな?
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:40:42.71
>>277
出版物
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:43:05.29
>>276
魏に朝貢した証拠など九州にも無い
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:47:55.73
桜井市教育委員会資料によれば

纒向遺跡における鉄製品の生産は専ら鉄素材を加 工する工程にあたる小鍛治とよばれるもので、量は 少ないながら、第 42・80・90・102・174 次調査など で鞴羽口や鉄滓・砥石などが出土している。
この鍛冶資料の分布の状況からは小規模な工房が 集落内に散在し生産にあたっていた様子が想定され、 当時の集落内における鉄器の生産体制を考える上で 注目すべき資料であるが、これらはいずれもが布留 0式期~布留1式期(3世紀後半~4世紀前半)を中心とするもので、残念ながら庄内式前半期 に遡る段階の資料は未だ確認されていない。
なお、出土した鍛冶関連資料の中には北部九州に特徴的な形態の鞴羽口などの存在もあり、先 進的な北部九州系の鍛冶技術が取り入れられていた様子が伺える。

https://www.city.sakurai.lg.jp/material/files/group/54/maki-hozon.pdf

とあるので残念ながら3世紀前半の物では無いようですね。

https://i.imgur.com/Kmj7VuV.jpg
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:52:56.58
>>281
布留0だから3世紀中頃
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:53:01.14
>>281
纏向に鍛冶工房なんてあったのか
だったら生活してんじゃん
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 02:54:04.53
>>283
官営工房だろう
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 03:37:10.86
>>285
寺澤は保守的だからね、布留0を260〜280としている
だが、それだと楽浪の対外活動衰凋後もまだ倭国で楽浪土器が出てて、ちょっと合わない
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 03:42:11.06
>>280

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 03:52:59.97
>>287
ほら
証拠がないだろ?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 03:54:22.01
>>286
説得力なし
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 03:55:28.46
>>288
読解力なし
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:02:16.67
築造に何年もかかる箸墓が張政が帰国までに完成していたかは大きな疑問だな??
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:06:22.14
>>290
でも、証拠出せてないよね?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:09:55.23
>>292
朝貢のお返しに魏使が九州まで来ている訳だが
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:13:34.70
>>289
寺澤が布留0を
3世紀の終わりじゃなくて260〜280としているのは
理解できた?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:15:14.02
>>294
そうだとしても卑弥呼の時代には届かない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:35:37.30
>>295
だから布留0は実はもう10年古いんだけどね
寺澤の年代観のままでも問題ない
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 04:52:56.35
>>296
箸墓は4世紀だな

邪馬台国大和説の考古学者を含む多くの人々は、箸中 山古墳(箸墓)を卑弥呼墓に比定するが、魏志にいう卑 弥呼没年のAD247年か248年と箸中山古墳出土土器は一 致しない。1974年に実見した記憶とその後の宮内庁による公表(中村・笠野1976)で見る限り箸中山古墳(箸墓) 円丘部出土土器は布留1式で邪馬台国に都を置いた倭国 女王・台与(壱与)の墳墓と考えるのがふさわしい。布 留1式土器は3世紀末から4世紀初頭に該当する。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:02:43.09
寺沢薫氏は、土器の編年を、西暦の実年代にあてはめることの難しさについて、箸墓古墳の「布留0式期」(布留0式という型式の土器の行なわれた時期)に関連して、つぎのようにのべる。

「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」(寺沢薫「箸中山古墳[箸墓]」、石野博信編『大和・繼向遺跡』学生社、2005年刊所載)
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:03:54.97
>>297
これは0点ね
墳丘上の祭祀には追祭祀が有るので、それは使えない
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:07:14.10
>>300
その論理なら周濠からの土器はもっと使えない
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:10:08.38
>>299
それで彼は少し新しく間違っちゃってるんだよ
本人も10年くらい遡る可能性を認めてる
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:14:02.60
箸墓築造前に使用済みで捨てられていた土器を、後世に捨てた可能性を考えられないバカな学者達
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:17:44.05
箸墓しかり馬具しかり絹の巾着しかり、全部土器を利用したインチキだよ
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:21:20.82
>>303
そういう場合だと、同じ時代の土器だけ揃って出ることはないので時代が判定できる
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:29:54.58
>>305
その程度の連想しかできないようじゃ学者にはなれんぞ
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:43:01.37
後世に大池を拡張した時に出土した土器片を、必要無くなった周濠にまとめて廃棄したのだろう
https://i.imgur.com/zpOYOcX.jpg
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:49:50.93
>>306
祭祀用の土器は祭祀ために焼かれる
炊飯用の甕は壊れやすく、最後に使われた時の吹きこぼれが付着している
盛り土の中の土器の時代と埋没していく濠の一番底に埋まった土器の時代の間で、築造年代は決まる
調査する学者は出土状況を精査して層位を判断する
多数のサンプルから時系列を見るんだよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:52:34.44
>>307
>後世に大池を拡張した時に出土した土器片を、必要無くなった周濠にまとめて廃棄したのだろう

それだと土器の様式が揃わないし、濠の一番底には埋まらない
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 05:57:59.94
>>308
本当の築造年代を判明するには副葬品で判断するしかないだろ、周濠のゴミで判断するのはペテン。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:04:13.12
>>310
様式が揃わないとは限らない
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:06:25.78
やっぱ、近畿だな。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:07:19.76
>>312
そんな偶然は起こらないよ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:11:56.24
>>314
別の周濠からは馬具と共に布留1式が大量に出ているがこれはどういうことかな?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:15:42.69
>>315
周濠が機能停止して泥で埋まっていくとき、同じ層位には同じ時代の様式の土器が溜まる
そういうこと
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:19:00.19
>>316
それも捨てられたゴミだろ、むしろ箸墓の築造年代を布留1式だと疑わざるを得ない要素でもある
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:23:51.09
>>317
疑うのは薄馬鹿だけ
築造後に堀が埋まるくらいの時間差がある
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:34:03.05
>>318
布留0式に関してはリアルタイムだと言い、布留1式に関しては時間差だと言うダブルスタンダード。まさに詐欺師にペテン師。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 06:47:39.24
>>319
もしかして知能ないの?
濠の一番底に埋まるのは築造直後のリアルタイム
何十年もかかって濠が埋まれば時間差あり
どこもダブスタではないよ
お前の知能が低いだけだ
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:24:05.68
キナイコシの纏向=邪馬台国の結論ありきの恣意的解釈が凄いな
畿内説の正体見たり枯れ尾花って感じ

これを見ると同じ畿内説でも寺沢薫はまだ客観的で誠実に見える(関西考古学界への遠慮とか忖度は見られるが、まあ関西考古学界はそういう閉鎖的な体質なんだろう)
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:25:39.13
>>320
0式の出た周濠はただの溝ではないだろう、大池が拡張されるまでは用水路の役目もあったはずだ、農家であれば理解出来るだろうが年に一度は村人総出でミゾサライをするものだよ。
その部分が埋められたのは大池が拡張され用水路の役目を終えたからだよ。

写真は大池拡張によって出来た排水口
https://i.imgur.com/OvfTPJO.jpg
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:33:16.10
>>323
土の下から出たんだよ
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:38:30.14
>>324
弥生土器というのは普通は土の下から出るだろ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:39:51.96
他の学者が3世紀半ばだ3世紀後半だと言っているのをイヤイヤ3世紀前半だと強弁しているところ悪いけど、3世紀前半からの遺跡じゃ邪馬台国とは言えないんだよな
卑弥呼はAD190年頃に共立され、その前にはしばらくの期間の内乱があり、さらにその前に70~80年に及ぶ男王の期間があると魏志倭人伝に書いてある
1世紀末か2世紀初頭からの痕跡がある遺跡でなければ邪馬台国候補としては弱い
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:44:15.07
3世紀に突発的に出来た遺跡では、仮に卑弥呼時代の後期と被っていたところで邪馬台国とは考えにくい
東に海を渡った倭種も頑張ってたね、というだけの話だ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:47:24.77
>>327
内乱の前って邪馬台国の話じゃないから
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:56:05.76
考古学者がよく「考古学では畿内説」と言うが、それは「文献を無視すれば畿内説」と言っているようにしか私には聞こえない
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 07:57:39.06
>>332
耳が悪い
0334琪瑛教大祭酒様
垢版 |
2023/01/05(木) 08:06:14.93
>>327.その認識は完全に間違っているよ。
卑弥呼はそこまで長生きじゃあないな。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:08:56.60
>>331
>根拠が完全にゼロ

根拠は後漢書と隋書だよ
倭国乱で歴年無主になる
断絶があります
隋書は魏へ朝貢したのが最初の倭国と認識している
それ以前は倭奴国だから別の国
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:11:26.64
>>335
でも実際に文献を無視してるのは九州説であって畿内説じゃないね
dって、具体的に何を無視しているのか指摘できないでしょ?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:16:37.69
>>337
反論できないで罵るのは
また九州説が論破された証拠
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:18:52.63
>>342
後漢時代の倭国は100国だ
隋時代には卑弥呼も臺与も居ないし邪馬台国自体も存在しない
0344sage
垢版 |
2023/01/05(木) 08:22:05.34
畿内説は魏志倭人伝も考古学も無視している。
すでにほとんどの学者は畿内説を見放している。
0345琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 08:23:26.32
336.の言う通りだよ。
文献を無視していない。
ちゃんと考察しているよ
。400年後の物は頭ごなしに信じて話を創って語らないだけ。
0346sage
垢版 |
2023/01/05(木) 08:23:54.01
魏志倭人伝に畿内の話はカケラも出てこない
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:25:16.69
>>346
という証拠は?
0348sage
垢版 |
2023/01/05(木) 08:25:19.36
隋書は、倭というのはその昔に倭奴国と呼んでいた国のことですよと言っている。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:27:24.07
>>343
で?
反論は無いのね?
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:28:39.28
>>348
>隋書は、倭というのはその昔に倭奴国と呼んでいた国のことですよと言っている。

という根拠は?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:30:04.53
中国側は奴国、面土国/面上国、邪馬台国は全て倭国の話として書いている
倭国の中が百余国だ三十国だと小さなクニに分かれているという認識だ
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:31:41.25
畿内説だと箸墓が卑弥呼の墓になり、卑弥呼が皇室になるわけだが、そうであれば記紀にそれなりの書きようがあっただろうと思うが実際はそうではない。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:31:56.28
>>344
九州説よ
そういう空虚なスローガンはいいから
証拠のあること言え
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:35:45.23
箸墓は棒で激しいオナ二-して逝ってしまったモモソヒメの墓
0356琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 08:49:11.08
>>352.勝手に繋げるなよ。書いただろ、頭ごなしに信用し話を創って語らないと。
学者の結論と文献、共に考察された上での結論だよ。
きつい言い方するとな、
記紀をまるのみして語るなよということ。己れが統一二世とかわらないことを知ることだな。その空気の中で生まれ育ち、そう考えるべきと出来上がってしまったわけだ。
ところが何故か、あんたらは勝手に年代操作して史実に書物を合わせてるわけだな。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:51:16.09
>>355
>反論するまでもない
>畿内説の主張自体が成立していないんだからw

一言も反論できなくて悔しい?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:53:03.98
考古学でも、鉄器王国「阿波」   @阿波
0359琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 08:54:19.24
おめでとうございます、先生、あと4649..
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:56:55.58
「魏志倭人伝」の植生でも、「阿波」   @阿波
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:57:58.27
「其山有丹」でも、「阿波」   @阿波
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 08:59:25.39
いずれにせよ前方後円墳じゃあ卑弥呼の墓の候補とするには問題外
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:04:35.93
記紀には九州から吉備を経由して大和に入った勢力が天皇になったと書いてある
記紀に書いてあることがディテールまで全て正しいとは言わないが、骨子は史実を反映していると私は考える

奈良盆地の弥生勢力が成長してヤマト王権に繋がったとする畿内説は、記紀がなぜ九州からの支配勢力によって建国されたという創作をする必要性があったかを合理的に説明できなければならない
同時に、纏向は奈良盆地の在地勢力が連続的成長の結果作ったもので巨大前方後円墳の淵源が奈良盆地内で前時代から見られることを立証する必要があるだろう

纏向は3世紀前半からありました、はい邪馬台国で決まりです、という関西考古学界の主張は歴史学を舐め腐っているとしか言いようがない
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:06:16.66
>>362
>いずれにせよ前方後円墳じゃあ卑弥呼の墓の候補とするには問題外

理由も言えないって九州説
惨めじゃないの?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:07:17.48
>>356
人に物を伝えるのが苦手な御仁の様ですね、何を言いたいのかよくわかりません。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:10:24.45
>>362
確かに、珍しい物を見たのならここぞと書くはずだ。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:12:17.79
>>363
なんでそんなことを説明できなきゃ行けないの?
卑弥呼の時代にもう古墳時代が始まってました
これだけで決まりでしょ
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:22:07.27
>>361
絹なし、ト骨なし
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:23:55.52
>>363
骨子は史実を反映していると私は考えない。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:27:33.05
>>367
何だよそのお粗末なロジック 笑
狭い狭い関西考古学ムラでしか通用しないよ
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:35:05.93
>>363
>記紀には九州から吉備を経由して大和に入った勢力が天皇になったと書いてある

一切、書いていない!   @阿波
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:37:04.77
>>367
>卑弥呼の時代にもう古墳時代が始まってました

その通り!  ただし「前方後円墳」はまだ無い。   @阿波
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:38:00.27
記紀に書いてありゃ正しいのか?
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:39:44.28
記紀神話神社でも、「阿波」   @阿波
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:45:52.11
>>363
>記紀には九州から吉備を経由して大和に入った勢力が天皇になったと書いてある

一切、四国は書いていない!   @阿波
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:49:31.79
>>378
違います
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:51:41.19
>>379
では何だ?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:52:39.58
未だに纒向が邪馬台国関連の遺跡だとか言ってるやつがいるのか
考古学会って頭悪いやつの寄せ集めなのか?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:55:57.62
>>380
定かではない。
其死有棺無槨 封土作冢
とあるが、卑弥呼の冢がそうなのか?
定かではない。
祭祀に鏡を使用した記述もない。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 09:59:47.42
>>382
だな。いっしょに置く風習はある。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 10:04:37.95
>>381
九州説みたいなもんだよ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 10:04:53.35
未だに九州に邪馬台国関連の遺跡があるとか言ってるやつがいるのか
田舎の素人って頭悪いやつの寄せ集めなのか?
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 10:11:02.91
>>382
神輿には鏡をぶら下げたものもあるが、これは祭祀で使った名残りではないのか?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 10:23:16.27
魏志倭人伝の記述に適合した遺跡は北部九州には畿内と違ってたくさんあるわな
大陸系の銅鏡、大陸系の土器、鉄鏃などの鉄器、絹や養蚕、棺ありてカク無しの箱式石棺墓、環濠や楼観のある国邑跡等々
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 10:45:35.23
銅鏡は限界まで磨くと魔鏡と呼ばれる状態になるので、祭祀に使うのはありだろう
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:00:13.03
>>390
>魏志倭人伝の記述に適合した遺跡は北部九州には畿内と違ってたくさんあるわな

そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖」でアウト! 不適合!   @阿波
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:02:49.26
>>390
それが邪馬台国とは限らないし
女王国の地域のひとつ。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:05:00.88
銅鏡は威信財であったり祭祀用であったり100%国産の三角縁神獣鏡のように埋葬用であったり色々だな!
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:05:38.22
>>395
当然、水行30日陸1月で遠方なので
九州比べ少ない方が邪馬台国。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:08:29.40
>>392
想像だが鏡は屋内にいる卑弥呼に、日光を反射させてスポットライトで照らし出す事に利用したのでは無いかと思う。それが魔鏡ならばより幻想的なものになるだろう。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:08:57.19
北部九州だけで魏志倭人伝と矛盾なく完結できる九州説
北部九州の出土品に依存しなければ成り立たない畿内説
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:11:25.02
>>398
依存としての取るとはなんだよ 笑
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:12:37.97
>>400
北部九州だけで魏志倭人伝と矛盾なく完結できない九州説 だよ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:16:08.94
>>400
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖」でアウト! 不適合!   @阿波
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:16:42.85
>>402
天照大神説もあるわけで、太陽を上手く利用したのでしょう
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:27:20.26
そもそも銅鏡は三種の神器でもあるわけだから祭祀に使うのは当たり前、平原古墳から出土したのは八咫鏡。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:43:56.04
>>409
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0413伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/05(木) 11:53:06.19
>>411
おまはん諦めの悪いやっちゃなあ^_^
大和はとまかく、北部九州が温暖で無いなら、
阿波ももちろん同じく温暖でないと言うことになるやけんど、
認めたくないのはわかるけど無理。
0414伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/05(木) 11:54:39.41
>>411
おまはん諦めの悪いやっちゃなあ^_^
大和はともかく、北部九州が温暖で無いなら、
阿波ももちろん同じく温暖でないと言うことになるやけんど、
認めたくないのはわかるけど無理。

なお、畿内なら、大阪の南部は阿波と対して変わらない。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:54:47.66
>>413
そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:57:33.26
>>414
>なお、畿内なら、大阪の南部は阿波と対して変わらない。

だったら、畿内説などと言わず、大阪南部説にでもしとけ、雑魚!  わははははは   @阿波
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 11:59:12.07
「魏志倭人伝」の植生は、ウソ付かない。  阿波の売郷奴はウソ詐欺師。  わははははは   @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:01:30.18
>>418
ト骨、絹は出ん
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:03:52.47
3世紀から生えてるクスノキなど一本も無い阿波れ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:03:57.58
>>419
泣け!  わははははは   @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:03:58.80
別の周濠から出た土器で年代測定してるのは平原遺跡だろ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:05:25.74
>>419
売郷奴にとっては、耐えられんだろう。  わははははは   @阿波
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:17:36.76
>>423
正確な年代はまだ特定出来てないのかもしれないが、科学の進歩により卑弥呼とジャストミートする可能性は残っていると思うよ。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:19:33.04
九州説をしっかり調査する能力の無い連中が畿内説に逃げてんだよ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:24:43.51
>>427
被葬者がないのが致命だな
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:25:07.82
九州説はしっかり調査する必要性がないくらい畿内説に確定なんだよ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:33:27.99
>>430
権威主義だしな
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:34:39.64
>>425
お前は「阿波」を下げることしか頭にない。

これに反論できない。

そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波 
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:37:12.91
>>425
「魏志倭人伝」の植生は、ウソ付かない。  阿波の売郷奴はウソ詐欺師。  わははははは   @阿波
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:39:01.41
>>419
売郷奴にとっては、さぞかし歯がゆいことだろう。  わははははは   @阿波
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:40:16.58
>>423
平原に周濠は無い
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:55:10.47
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 12:55:55.34
>>429
人骨が残るケースは少ない
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:05:44.80
>>439
なので致命的
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:07:00.15
>>440
被葬者はあった
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:12:46.53
致命的なのは発掘出来ない箸墓の方だろ、でもそれをいいことにインチキしまくる畿内説だけどな
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:13:18.05
腕輪とか副葬品が残ってたなら遺体はあったと言える
盗掘されて遺体だけ盗むなんて事は無いだろ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:15:55.48
>>441
残念
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:16:20.24
>>442
残念
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:16:50.36
>>443
残念
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:17:05.56
正確な年代測定はまだ無理だと言ってるんだしそれが正しいんでしょう
その場合箸墓だけじゃなく全部間違ってると考えなきゃ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:17:55.08
「倭地温暖」の倭地は倭国を指しているのではない
魏志倭人伝の倭地とは倭国以外で魏と交流のある倭人の居住する国・地域を指している
具体的には、狗奴国及び南西諸島のこと
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:34:05.57
>鬼道に事へ、よく衆を惑はす。

卑弥呼は神に仕える巫女だった
人々が畏れ敬ったのは卑弥呼が使えた神
その神の言葉を卑弥呼は人々に伝えた

日本最古の神社は
大神神社(おおみわじんじゃ)、三輪山を神体山としている
古くは美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれたが明治時代に改名された

この神への信仰があったからこ、倭国大乱を治め卑弥呼の治世が長く続くことになる
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:35:33.85
>>449
鬼道
鏡を使ったのかは定かではない。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:44:22.36
>>450
そうなんだよな。
卑弥呼が三種の神器使ったという記述もない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 13:56:40.82
>>451
魏志東夷伝において短い里で表現されている事は確かだ
しかし短里という単位があったかどうかはどうでもいい事だ

魏に朝貢した倭人は里を知らないから全行程を日数で説明したわけで
帯方郡から南に水行20日で半島南部の投馬国、そして更に南に水行10日で九州の邪馬台国に上陸する
シンプルに考えろ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:01:49.28
>>453
>九州の邪馬台国に上陸する

そもそも論として、九州北部・畿内は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:08:49.94
>>453
単位が周の時代のであれば行程も周の時代って事になる
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:09:49.56
>>448
28 其 風俗 不淫 男子 皆露? 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈? 作衣 如 單被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

これは、何らかの文献の引用のようだけど、
但耳 朱崖 は中国のハワイ海南島なんで行き過ぎ。

服装や裸足、海の民が潜る漁のを好むとか、で想像して
文書的に漢書地理志の 但耳 朱崖 と似てるから
陳寿が思い出して、一行だけ、書き足してみたんじゃないかね? 
冬が来るのも知らんのに? 想像で。 意味無いけどw

漢書地理志より
武帝元封元年 略 以為 但耳 珠崖 郡
民 皆 服布如 単被 穿 中央 為 貫頭 男子耕農 種 禾稻 紵麻 女子桑蚕 織績
亡馬 與 虎 民 有 五畜 山多 麈嗷 兵 則 矛 盾 刀 木弓 弩 竹矢 或骨 為鏃
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:15:13.00
阿波はついに気が狂った様だ、まるで壊れたレコードの様に同じフレーズを繰り返す

               Ω\ζ°)チーン
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:19:25.72
気温の高い所が邪馬台国なら阿波より台湾だろ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:23:32.23
>>458
>気温の高い所が邪馬台国なら阿波より台湾だろ

台湾に「其山有丹」は不適合!   @阿波
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:24:36.42
日本はハワイよりも南になる地点がある
石垣島は、ハワイよりも南

現在の日本人も、当時の倭国に住む人々もなかなか意識できないことだったが
卑弥呼の時代の中国人は倭人が温暖な南の島々にいることを知っていた
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:25:50.19
>>458
「魏志倭人伝」は倭国(阿波)を書いているんだから、他所では不適合。   @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:28:15.01
九州説や畿内説は、基本的なところから間違っている。   @阿波
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:31:22.39
古墳がどうたら、土器がどうたら言ったところで、
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:37:05.61
>>463
生活臭のある遺跡は何処にでもあって阿波が特別じゃない
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:39:11.06
>>465
>生活臭のある遺跡は何処にでもあって

だから、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内 と言っている。   @阿波  
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:42:19.73
阿波はただの荒らし
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:43:14.06
>>467
なんで?   @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:43:43.28
>>461
阿波は東冶の東にないからアウト
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:49:13.85
>>464
周の時代は定まってなかったらしいし陳寿が古い資料を丸写ししたと考える方が自然でしょ
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:53:27.96
>>471
周の時代でもどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:56:39.77
>>472
どうでもよくはない
魏の時代に短里なんて使う理由がない
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:57:52.75
>>473
理由なんてどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 14:59:11.24
陳寿が「鬼道に仕え」と書き残してくれたから、卑弥呼のいた場所が一か所に限定されることになる
それは日本最初の神社が創建された三輪山のふもと

諸説がいろいろ言い募っても三輪山を動かすことはできない
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:00:55.96
>>474
わからないけどわからない事を前提にしないと
短里こそが正しいと決めつけるのは違うでしょ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:06:29.64
>>475
その三輪山信仰は、8世紀から。 そもそも、名前が悪い。 大御和にするべきだった。   @阿波
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:08:43.74
>>476
短里が間違いであってもどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:17:39.59
>>363

記紀神話では、
国津神から天津神が国譲りされ
ニニギはよくわからなかったので西のはずれを治めることにした
神武は塩土老翁から東に美しい土地があり、天磐船で降りた者がいると聞き
そこが天地四方の中心だろう、私はそこを都としたいと発議した
記紀が編纂された8世紀初頭は律令が制定され、政治と仏教が強く結びついた時代
つまり、天竺(=ナーランダ)から仏教が伝わり、奈良の都で国を治めることを書いている
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:24:04.48
>>475
残念ながら九州には三輪山より古い神の山がある、宇佐神宮の奥宮のさらに奥に。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:31:53.43
>>478
三輪山に大物主神を祀ったのは大国主命
まだ天孫が降臨する以前のこと

>>483
神体山のある場所が卑弥呼がいた場所ということに同意していただいてありがとう

さて、あなたのいう神体山を説明している文献を教えてほしい
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:34:24.86
>>484
日のピン音表記はriだがズィと読むのが近い
つまり日本国=ズィポンクオ=ジパング
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 15:50:59.80
>>486
483だけどまだあまり知られていないのでたいした文献はないが、Youtubeがあったので貼りますね。

https://youtu.be/FzWROAbmvWE
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:02:44.00
卑弥呼の鬼道が道教なのか呪術なのかシャーマニズムなのか今の神道と同じものなのかは定まってないよな
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:06:25.60
>>488
三輪山より古いということを説明する文献がないのでは説得力に欠けます
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:13:25.14
>>490
米神山では奈良盆地が湖だった縄文時代から祭祀が行われていたらしいので、三輪山より歴史は古いと思うよ
0493琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 16:35:20.00
>>489.そう想定して調べているからこそ桃を重要視しているのだよ。しかしながら本居のような連中がそれを認めない、と云うわけだな。だが、箸墓が道教であることは間違いない。秋成も解っておった。
列島に流れを作った最初の大倭王は卑弥呼以外にいない。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:36:45.19
>>491

安心院の佐田京石は宇佐神宮の八幡神とは関係ない
「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」(八幡宇佐宮御託宣集)
八流(八方)の幡は密教の習慣
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:40:33.65
>>491
卑弥呼は倭国の女王

三輪山は神奈備として記紀において神の鎮座する山とされている
縄文時代にも同じような信仰があったかもしれないが、問題にしているのは、倭国の卑弥呼が巫女として仕えた山について
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:43:19.47
どうせ神社なんか存在しないんだしどっちが古いとかどうでもいいよ
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:49:27.45
魏が卑弥呼を「倭王」と認識したのは間違いないが、当時の中国人が呼ぶ「倭」「倭国」はそもそも北部九州ないしそれに朝鮮半島南部も含めた対馬海峡一帯だからな
現代の日本人が一般にイメージする「日本列島の全部または大部分」に近い領域を前提とした「倭王」ではない

そこを勘違いしているから関西考古学界は畿内説などという珍説を主張する
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:49:27.78
>>495
>問題にしているのは、倭国の卑弥呼が巫女として仕えた山について

鮎喰川上流の「神山」。
「上一宮大粟神社」は、「卑彌呼」が隠棲した奥の院。   @阿波
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:51:02.18
>>497
>「日本列島の全部または大部分」に近い領域を前提とした「倭王」ではない

その通り!  「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東讃岐+南淡ぐらいだな。   @阿波
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:53:03.04
>>497
倭人在帶方東南大海之中だって
大海の中の島に倭人が居るそうなってのが中国人の認識だよ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:58:44.11
>>500
で、お宅の女王国はどこ?   @阿波
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 16:59:35.21
海岸から指を指してこの方向に真っ直ぐ行けば倭人が住む島がある
イメージとしてはこれくらいが当時の中国人の認識
0506琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 16:59:38.81
>>450.卑弥呼の鬼道は鏡と剣を使うのだよ、曹叡はそう言っている。
剣、鏡、印璽、これが卑弥呼の鬼道、老子道徳経の五斗米道の神器。
また、その後の天皇らも玉璽が重要な筈なんだがいつのまにか勾玉に変わった。半島人の好物だよな。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:02:00.72
>>501
楽浪海中や帯方東南大海中とは対馬海峡のこと
対馬海峡の海で活動して朝鮮半島にも来ていたから彼らは倭人(北部九州人)を知っていた
0509琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:03:29.96
>>497.それは倭奴国までの時代の話。金印がホンモノならば、倭大乱で滅んでる。1.にも説明されてる。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:03:36.09
>>507
大海じゃねえ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:04:01.09
>>494
個人的にはストーンサークル(京石)は古墳だと思ってる、山の傾斜とは別の不自然な盛り土がそう思わせる。祭祀は頂上で行われていたのだろう、そこで祭祀をしていたのは日の巫女ではなかったろうか。八幡神(応神)と神功皇后は後から割り込んできた神で本来宇佐は比売大神が降臨した場所です。本殿のセンターは比売大神で脇に応神天皇と神功皇后が祀られているのです。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:04:09.84
>>506
卑弥呼の鬼道は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。  
大麻と言えば「倭人(阿波勢力)」。   @阿波 
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:06:34.65
>>513
対馬なんか見えてんじゃん
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:08:18.27
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:08:33.51
>>508
>阿波より少し温暖な筑紫

大うそ。 その測候所だけが特別異常に高温なだけ。   @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:10:51.92
>>509
10世紀に書かれた旧唐書に「倭国は古の倭奴国なり」と書かれていて、倭国と日本国の関係についてあれこれ推測している
その当時まで中国側は「倭国」は北部九州との認識
0519琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:15:07.92
卑弥呼以前の倭は内向花文鏡の銘文の意味を理解して埋葬してあるみたいだから、九州に中華語を理解する者がいたことは確かだわね。でも鏡の使われ方が宗教儀礼から外れてるな。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:15:30.93
>>495
悪いけどモモソヒメと卑弥呼は別人だし、三輪山は倭国でも無いし。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:16:43.79
>>518
その後に書かれた地図は倭と日本を分けてるんだよな
ちゃんと理解してるんじゃなくてその程度の認識なのよ
10世紀に九州が別の国なんてあり得ないでしょ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:19:00.72
>>521
倭国と日本国の関係が本当にわからかったんだよ
倭国は九州のはずなのにその東から来たと言う日本国とはなんぞや、と
0523琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:19:06.53
阿波先生は、鬼道がおかしい、隋代まで大麻吸い続けてれば解る話。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:19:56.83
海の向こうがどうなってるかなんてわかんないのよ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:20:47.53
>>522
それが10世紀なのか?
あり得ないよ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:23:34.75
>>525
君があり得ないと思うかどうかはどうでもいい
旧唐書に書いてある

私は九州の倭国が畿内の日本国に滅ぼされたのが6世紀の磐井の乱だと思っているが、中国側はそんな細かいことは知らないのだろう
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:23:42.45
>>497
倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者

つまり、倭は100以上の国に分かれていて、統一された国家ではない。
という事は知っているんだよ。
その中の一国の王が 漢時 有 朝見者 で 倭奴国王の印

今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

魏時に遣使を送って、30国を知る所となった。
その倭について市の説明による、
郡至倭の話が始まるのが、倭人伝。
247年に倭人船で渡った、張政の里程による行程が始まる。

魏が金印を与えた、親魏倭王 卑弥呼は、
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
にあって、
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
の、21国を纏めた、倭王の一人。

魏が知った、残りの9国は、
狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國 伊都國 不彌國
24国5万戸の投馬國 
21国7万戸に邪馬壹國 
?の女王国の南の狗奴國
は、馬韓のような概念の国
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:24:03.97
ようやく、狗奴国陣営の人物比定ができましたw

狗(拘)古(右)智卑狗 くぉ・うちひくぉ = 狗(拘) + 珍彦(ウヅヒコ)

ウヅヒコ こと サオネツヒコ
神武東征時の功臣、のちの大和国造です!
(右智or古い智恵と当て字されるのも納得の人?w)

クコチヒコ? キクチヒコ? コウチヒコ? 誰ですか、それw

狗(拘)は国名だと思うので
狗奴国の官は誰か? 答え完璧です!
0529琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:28:39.34
百襲姫を別人と解釈するのは自由だけど、箸墓は道教の巫女の墓だよ。
そう紀は書き記してしまっている。
ここは絶対なんだな。
だから、もう無理だよといっているんだよ。後は学者が証明してくれるのを待つだけなんだな。
そして、次に来るのが、じゃあ卑弥呼は一体誰だ?という話だよ。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:28:49.47
百襲姫は卑弥呼じゃなく台与

台与の諡号が百襲姫

百襲姫は崇神天皇と生きている時代が被るので卑弥呼ではあり得ません
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:29:55.75
ピンポイントの場所はわかるし経験があるから所要時間もわかる
でも周辺の地形とか他との位置関係なんてわかんねえよ
だからまともな地図が書けない
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:31:50.73
>>526
>私は九州の倭国

九州に倭国が在った痕跡なし。 単なる希望的妄想。   @阿波
0533琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:39:03.52
530.箸墓は夜は神がつくり、と言うような墓なんで、100人の殉葬が出る墓でもあります。岱輿では力量不足でしょう。
岱輿の墓なら卑弥呼は何処へ?岱輿のほうがありえません。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:48:21.98
>>533
>.箸墓は夜は神がつくり、と言うような墓

日本書紀にそうあるが、その箸墓は奈良ではないから。   @阿波
0536琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 17:49:39.37
526.滅ぶっていうのが結構ややこしい話ですねぇ、血が途絶えるなら一杯あったと思いますね、だから、ひとつに纏めたんでしょう。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:50:50.42
>>534
よくできてるな
ところで左にあるでかい島はなんだ?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 17:52:10.29
>>537
朝鮮だと思うよ
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:02:35.74
倭迹迹姫命は、大市(市場町)の箸墓(市場町箸供養)で大坂山(市場町大阪峠)の石を運んで造った墓に葬られた。   @阿波
0541琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 18:10:08.17
>>530.そもそも、崇神と百襲が同時代と力説されても困るんですね。孝霊の娘ですよね、その間に2代ありますわね、で開化の子ですよね崇神わ。
その話を史実にする訳ですか?。そこは整理しないとダメですね。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:12:05.68
箸墓の伝承は面白いな
昼は人が作り、夜は神が作ったか
関係ないと思うが、夜の食国を治めたのは月夜見
卑弥呼の墓は、古墳時代に入って作り替えられた可能性はあるな
野見宿禰が相撲に勝って景色が変わった可能性もある

箸は一寸法師の櫂なんだよなあ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:12:40.62
>>527
57年の金印、漢の倭奴国は、おそらく奴国なので、
卑弥呼は、奴国2万戸を含む、21国7万戸の王なので

小国とは言っても、漢57年の皇帝よりは、
魏帝の 親魏倭王の金印 の方が
やりがいが有ったんじゃないかな?
3倍以上www

てか、魏帝って、まだ三国分裂の戦乱王であって
倭王の朝貢に金印って、ただの東夷戦略的はったりだろ?

韓制圧の245~6年の、黄幢と檄に応じなかった
で、九州が本州と組んで、防人防衛に向かったってのは、
日本の古代史上、最高の快挙だと思うぞ。

牛馬来たし。 じゃなきゃ正月も
和牛のすき焼き無くて、お屠蘇がトンスルだったかもよ?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:14:13.48
>>520

>古事記 上巻 第三部に御諸山の神

御諸山とは三輪山のこと

大国主が国造りに行き詰まった時、大物主神に助力を頼む条件として奈良の御諸山に祀ることになります

三輪山は倭国ではないというあなたの見方ですが、すでにこの出時点で倭の山と指定しているわけです

大物主神は大国主命にこう語ります

「吾をば倭やまとの青垣の東の山の上へに齋いつきまつれ」
こは御諸の山の上にます神なり

倭国の倭とは、奈良のこと
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:14:44.76
>>542
倭迹迹姫命は阿波市市場町に痕跡を残している。

倭迹迹姫命は、大市(市場町)の箸墓(市場町箸供養)で大坂山(市場町大阪峠)の石を運んで造った墓に葬られた。   @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:16:57.74
>>542
そして、生まれ育った地が吉野川南岸の石井町旧黒田。   @阿波
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:19:47.60
>>542
そして、生まれ育った地が吉野川南岸の国府町(旧黒田村)の「黒田廬戸宮跡(蔵殊院辺り」。   @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:20:43.65
>>544
古事記が編纂された当時には倭国になっていたのですよ、あくまでも卑弥呼の時代はまだ倭国ではありません。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:21:02.76
>>538
萬二千里ってのは、算数問題苦手な陳寿の計算でも
地理的に、九州島の西の島は、済州島とか、琉球、
か、台湾じゃないか? 
あ、
但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣
海南島か?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:28:35.95
はしは土師じゃないのか?
殉葬止めて埴輪でしょ
殉葬の墓は潰した可能性は大いにあると思うが
ヤマト政権にも殉葬があったと日本書紀にあるのに、その跡が見つからないのは跡形もなく片付けたんでしょ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:30:35.37
当時の阿波って、みんな冬も裸足だったのか?
海有るって阿波じゃなくて、徳島全域じゃね?

瀬戸内海海運って、250年以降でしょ?
陳寿の算数無能論の吸収可能範囲でも熊本なら桶。
太平洋ルート、遠いぞ?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:32:45.39
>>548
おいおい
卑弥呼は倭国の女王だぞ
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:38:13.41
中国の認識は倭は倭人の住む地域ってだけで
何処から何処までとかわかってないって
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:42:22.78
>>552
奈良の三輪山の事ですよ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:47:53.98
>>548
倭国に大和と言う名前を付けるなら
大和朝廷が日本を統一後、になるが?

記紀、万葉集以前の倭国時代に、
箸墓の奈良はヤマト名になり得るのか?

邪馬臺国は卑弥呼の臺が
梯儁が参問して漢字にした邪馬国に有ったから、
名前の無い女王国の仮称にしただけ。

陳寿は、これを採用すべきでは無かった。
倭の弥か彌国なんじゃないかと、思うね。
日本式なら備なのかな?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:50:05.00
四道将軍が出て行って空っぽの奈良に当麻蹴速がいたのかな
野見宿禰が勝ってどうなったのか

纏向遺跡は2世紀末に始まり4世紀に突然営みを終えるんでしょ
四道将軍が出て行って奈良は空っぽになったんじゃないの
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:52:54.05
極南界だって日本の中の極南界は何処だろうと考えてるけど
そんな詳しく知らないって
半島の倭人地域が北で対して南が列島ってだけ
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:58:26.35
邪馬台国の表記は卑弥呼のいた筑後山門のこと
「ト」の甲類乙類は後世の日本の発音の違いであって、当時はそんな使い分けはなかったor当時から使い分けはあったが中国人には聞き取れなかった
大和の地名も東遷した神武勢力(おそらく筑紫の朝倉あたりの出身)と物部ニギハヤヒ(おそらく筑紫の鞍手あたりの出身)が共通の祖国である筑紫の連合国名をつけたのだろう
「ト」の発音が違うのは筑紫のヤマトと奈良のヤマトを区別するためだろう
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 18:59:16.32
遠くに住んでる方の倭人がわざわざ来たよと言いたいんだよ
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:02:27.97
>>548
魏志倭人伝に倭国と記されている
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:06:22.27
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝 
すっげえ遠いのによう来てくれた 
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:07:45.14
>>556
邪馬臺は中国人が倭人の発音を聞いて漢字で表現したもの
倭人が話した音は「やまと」
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:09:19.80
漢書王莽伝にある、「東夷王度大海奉國珍」

これって大海を越えてることから「倭王」だと思うけど、あまり話題に出てこないね
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:09:54.34
四道将軍は国土を4等分する話みたいな神楽が残ってるよな
真ん中を欲しがった武埴安彦は討たれたという内容もあったな
四天王の時代か
ぽっかり空いた真ん中はどうなっていったんやろか
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:15:54.65
>>556
ヤマトのネーミングは神倭伊波礼毘古(神武天皇)から取ったと考えます。九州から神なる倭が東征して作った国で大倭の国。ただ実際の年代は台与以降ではないかと思います。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:17:54.02
>>566
なんで大倭や倭がヤマトになるんだよ?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:18:57.88
ヤマトだから大倭や倭なんだろうが
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:20:31.90
箸墓伝説で百襲姫に突き刺さったのは黒蛇のはずなのに、三輪山の神さまは白蛇という謎
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:30:52.83
卑弥呼の墓を潰して殉葬させられた100人の奴婢を弔ったのかもしれないね
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:31:48.32
>>566
250年の日本に13歳の女王は立たない。
台与を女王にした、筑紫の内政なんて
公孫氏、韓王朝滅亡で
魏との戦争の可能性を迫られた
日本本土には関係ない。

危機感を理解できた、誰かが、
記紀の中に居るはずなんだけどね?
なぜか、馬鹿、なんだよwww
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:32:30.58
>>563
倭人が話した音は阿波弁の「わぁ・わい」   @阿波
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:39:22.00
大国主は大黒さまでしょ

大物主が大国主なら黒なんじゃないの
色々おかしなことになっているな
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:41:15.34
>>573
>大物主が大国主なら黒なんじゃないの

日本書紀の大物主は、眉唾者だから。  わははははは   @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:47:56.30
纏向の終焉は筑前海人族勢力の応神朝に滅ぼされたのだろう
応神朝勢力は、筑後(4世紀半ば、筑後山門の田油津媛滅ぶ)と朝鮮半島(4世紀後半、三韓征伐・広開土王碑文)に勢力を伸ばしてから畿内に攻め上ってきた
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:48:28.86
>>571
台与に英才教育をしたのは張政だよ、張政が国に帰るまでの266年まで指導していたのなら良い女王になったに違いないし子孫の事が気になりますね。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 19:53:27.82
九州倭国と畿内日本国の緊張関係は磐井の乱まで続いていたと考えられる
両雄並び立たずで日本国に征服統合
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:07:00.07
>>577
>九州倭国

そもそも論として、九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 不適合!   @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:29:46.82
卑弥呼亡き後、百人の奴婢を殉葬させたのは誰なのか?
0580sage
垢版 |
2023/01/05(木) 20:30:55.57
>>389

卑弥呼は鬼道を使うとあるのだから、祭祀を行う巫女であったというのが広く認識された解釈。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:34:31.03
奈良って、大阪や和歌山よりかなり寒いんだよね。
こんなところ、邪馬台国なわけない。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:35:01.44
日本列島の単一王朝、万世一系は天武天皇・藤原不比等が記紀編纂の時に建前として持ち出したナラティブに過ぎない
むしろそのナラティブを国民の意識に植え付け海外に建前としてアピールするのが記紀編纂の目的だ

「歴史」として考える時は、ナラティブを割り引いてその背後にある真実を見極めなければいけない
日本は九州や東北に別の王朝があった時期もあるし、天皇が別系統に入れ替わったことも何度もある
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:36:14.47
>>426

これはアホだな。
国産と舶載が同じ鋳型なら、そもそも判定が間違えているんだろう。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:37:20.11
>>583
本質はそこではなくて、海外にないものを輸入品と分類する関西考古学界がそもそもアホ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:38:12.10
>>423

平原遺跡は炭素年代に使える有機物がなかったのに、卑弥呼の時代のものであることを否定するために畿内説が無理に炭素年代にこじつけようとしているだけなんだが?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:38:28.39
中国に存在しないものを中国から輸入したと主張する頭の悪い関西考古学界
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:42:32.13
>>452

確かに記述はないのだが、それ以前から三種の神器は副葬品としてしばしば出土するので、葬礼で用いられたことは間違いない。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:43:56.87
日本の天地開闢は葦の芽から
瀬戸内海がまだ陸地で淡路島は四国と陸続きで島ではなかった時代
縄文時代より遥か昔の時代
日本人の根はそこにあるんだよ
サヌカイトの石器を使っていた人々
二上山と五色台の歴史を蔑ろにしたらダメだよ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 20:46:27.16
>>585
>卑弥呼の時代のものであることを否定するため
これは何を調べたんだ?
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:03:46.60
>>473

陳寿自身は、その記録が短里か長里かなぞ知る由もないから、ただ下の資料から書き写しただけだよ。
だから短い里でも気が付かなかった。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:04:59.91
>>476

魏志倭人伝と実際の地理を比較すると、なぜか短い里が使われていたことだけは間違いない。
小学生でもできる計算だ。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:05:24.56
卑弥呼の時代も九州と大和にはそれぞれ全く別個の勢力がいた
九州には筑後山門に巫女女王の卑弥呼がいて、大陸利権を握った筑前伊都国と連合して筑紫勢力(倭人伝の言う女王国)を形成していた
同じ頃、元は筑紫の一勢力だった神武勢力が吉備勢力や物部ニギハヤヒ勢力(これも元は筑紫の一勢力)と組んで奈良盆地で力をつけていた
それが纏向を作った崇神朝に繋がる

九州と大和のどっちが日本を代表して魏に朝貢したか、などという発想をする関西考古学界は本当に幼稚な勘違いをしている
両方に独立地方勢力がいて遠くのお互いのことをあまり意識せずにそれぞれの活動をしていたのだ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:05:54.57
>>590
そうだろうと俺も思う
じゃあその資料はどんなものか気になる
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:06:23.42
>>585
>平原遺跡は炭素年代に使える有機物がなかったのに、卑弥呼の時代のものであることを否定するために畿内説が無理に炭素年代にこじつけようとしているだけなんだが?

こういうニセ情報を平気な顔して触れ回るのが
九州説
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:06:24.60
>>483

住吉の神だって、大三輪より古いだろ。
イザナギイザナミの時代の由来なのだから。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:07:37.89
>>591
何か理由があるでしょ
例えばそれが周代の資料だったとしたら?
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:08:17.19
>>489

とっくに神道の時代だよ。
崇神天皇がうなされるから、皇居から八咫の鏡を追い出した頃。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:08:50.90
>>587
そこなんだよね。
記紀や神社、前方後円墳と卑弥呼の道教
すり込んだ混んでいるんじゃないか?

定かではない。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:09:13.24
>>590
いや、短い里なんて実在しないから
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:09:49.08
>>493

卑弥呼より前の後漢代の倭王も、大倭王は邪馬台国にいると書いてある。
魏志倭人伝を読んでも先代の男王のことが書いてある。
畿内説は頭おかしいでしょ。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:10:17.75
>>601
書いてありゃ正しいのか?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:11:17.11
>>596
そんなものは無い
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:11:17.90
>>592
俺も近畿の勢力に九州が含まれてたと言い切る気はない
絶対含まないとも言わんけどまあどうでもいいわ
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:11:47.69
九州と畿内はどちらかが総取りではない
並立しながらそれぞれの活動をしていた
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:12:27.58
>>603
何故無いと言い切るんだよ?
おかしいだろ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:15:34.14
三角縁神獣鏡は全く同じものが中国から出ないと言ってるだけでしょ
製作場所がわからない
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:16:27.10
>>605
畿内に卑弥呼がいたなら、九州も同じ国か同盟関係じゃないと魏に遣いをやれない
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:16:48.15
>>601
>魏志倭人伝を読んでも先代の男王のことが書いてある。

書いてないよ先代だなんて
安帝時朝貢の情報があったから前史を書いただけ
王統なんてものは無く、新たに共立された「一女子」だから、邪馬台国は新興国でいい
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:16:49.28
>>602
正しいとするなら短里はない。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:17:38.07
>>609
何故?
対馬→出雲は青銅器文化圏でしょう
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:20:29.63
>>607
>何故無いと言い切るんだよ?

だって無いもの
誰も発見していない
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:21:54.97
>>610
後漢書・・・其大倭王居邪馬臺國
新興国ではない
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:21:56.87
>>609
大陸利権と日本列島最先端の文化を持つ伊都国が奈良盆地の下風につく理由が1ミリもない
また奈良盆地は伊都国から鉄や銅鏡を貰えていない
どう見ても両者は殆ど関係ない

つまり伊都国に一大率を置いた邪馬台国が奈良盆地にある可能性は限りなくゼロに近い
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:21:59.81
>>610
新興国だろうな。後から倭国に加わった倭種。
107年かな?倭國王帥升等で等になっているな
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:23:08.83
>>613
何言ってんの?
魏志倭人伝の元の資料が出せるのか?
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:28:59.81
>>606
>なんだ、鏡と剣なら九州で決まりだな。
>平原遺跡からも出てるし。

九州は3世紀前半の完鏡が極めて少ない
特に糸島からは全然見つかっていない
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:30:46.64
3世紀前半の筑紫と大和は殆ど交流のない独立勢力だった
前者は大陸と外交・交易で密接に交流しつつ肥後勢力と争っていた
後者は吉備尾張伊勢など周辺の勢力と交流しつつ後に巨大古墳を作る王権を形成する途上にあった
どちらかがどちらかを支配するような段階では全くない
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:31:44.39
>>617
倭人伝にも短里なんて書いてない
0621琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 21:33:10.24
601.先代の倭王とは、まあ、帥升らのことかな?
帥升は面土国で邪馬台ではない。邪馬台とは邪馬臺、卑弥呼の道観、宗教施設としているのだよ。
おなじ地域の可能性は有るかもしれないが、大乱で収拾がついとらん。
住むこと…となっておりこの時何者かが東遷してきた可能性はあるが結局乱れ、卑弥呼に譲るはめになっている。帥升らに道なるものがあったなら纏まっていた筈であろう。道は卑弥呼が持ち込んだ物だよ、倭人であれば師匠がいなければ不自然。また、伝説の墓造りをされることも昔からある道なら不自然だろ?
しかも箸墓、纏向、共に魏尺なんだよ。無駄だよ。神獣鏡、勾玉の形の変化、後々の大神神社、伊勢斉宮、太一を祀っているんだぞ、あきらめろ。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:34:35.15
>>615
>大陸利権と日本列島最先端の文化を持つ伊都国が奈良盆地の下風につく理由が1ミリもない

伊都国は大陸利権を失ったので、ただの小国
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:34:53.46
>>620
何を言いたいのかわからん
俺は短い里になってるのは理由があるはずだと言ってるんだぞ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:37:15.41
>>612
当時の船で対馬→出雲を移動するには、海流で流されないよう陸に沿って行くしかない
陸(九州)が敵対国なら妨害される

蒸気船が発明されるまで、大陸と日本を繋ぐ船は九州を経由するものばかり
稲作の始まりは北部九州、奴国の遣漢、筑紫館・鴻臚館、鑑真の漂着は沖縄、日本初のチャイナタウンは博多、日本初の人工港も博多、蒙古襲来は北部九州、遣明船も博多港を経由、鉄砲伝来の南蛮人の漂着は鹿児島、出島は長崎…

邪馬台国の遣魏使だけ九州を経由しなかった、とは考えられない
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:38:54.42
>>625
海流に流されれば対馬から出雲辺りに着くだろう
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:39:56.27
>>624
>根拠なし

いや、通説だけど
伊都国は鏡が入手できなくなっている
0628琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 21:40:30.22
606.鏡の銘文が卑弥呼の鬼道とは思えないね。それに1.にある通り、卑弥呼の時代は広漢神獣鏡の時代なんよ。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:41:08.64
出雲は宗像と親密だったようなので対馬→沖ノ島→宗像→出雲のルートはあったのではないか
本格的な沖ノ島祭祀は4世紀後半からだが交易ルートもそれから始まった訳ではあるまい
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:42:39.78
>>626
海流に流されたら「漂流」
どこに着くか分からん
さらに海流に逆らって進むのは無謀
(嘘だと思うならボートで海に出てみなよ)

これで倭人伝に記載された魏との国交ができると思えない
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:46:01.90
>>630
海流に逆らうってのは対馬海流を直進する事だろ
0633伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/05(木) 21:48:32.13
>>512
古代阿波人はマリファナなんぞ使ってないよ。
麻酔いは知られてはいたけど、
それを積極的に利用した痕跡は皆無。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:48:54.11
>>526

白村江で倭を滅ぼしたのは唐だし、その後で王都だった太宰府を占拠して都督府を置いている。
滅んだことは知っていた。
その後を中大兄皇子に任せたのだろう。
中大兄がなかなか即位せず長いこと大兄であり続けたのは、敗戦処理のためだよ。
その後の律令制は唐の制度を丸パクリたから、傀儡政権だったのだろう。
さかんに遣唐使も送ったのは、属国としての務めだったから。
0635琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 21:50:17.33
>>615、伊都国は卑弥呼の官の風下だよ。そう書いてある倭人伝にわ。
金印がホンモノなら滅んどる。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:52:26.12
>>542

月詠神社が分布するのは九州北部から対馬にかけて。
月詠は筑紫の生まれだ。
月詠は海の彼方に行って戻って来なかったとあるが、実は対馬の王になったのだろう。
博多湾から見て対馬が遠い土地なくらい、記紀の神代の世界観は狭い。

イザナミの黄泉の国だって、筑紫から黄泉比良坂つまり陸路なので、九州でしかない。
0637伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/05(木) 21:53:46.28
>>588
縄文以前、旧石器時代に四国と淡路島が陸続きだったと言うのはまず間違いと思われるが、

縄文時代、鬼界カルデラ破局噴火によって西日本の人口は激減している。

果たしてそんな昔の記憶が継承されているのかな?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:54:35.78
>>633
マリファナなんぞどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:55:03.27
>>553

後漢書によると、倭とは狗邪韓国と倭奴国の間だよ。
本州も四国も知られていなかった。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:56:34.97
>>559

後世の畿内人が訛っていたんだよ。
古事記と日本書紀でもいろいろ違うくらいだから。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:57:26.09
>>637
鬼界カルデラ噴火なんぞどうでもよろしいがな。  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:58:01.68
>>564

後漢書は邪馬台国までの距離とかが書いてあるのに、漢書には具体的な地理情報がないから。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 21:58:18.26
>>630
行きは船で10日、帰りは陸1月
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:00:16.76
>>566

倭が周辺諸国を併合すると大倭と呼びますね。
神武の実年代は卑弥呼の直前の倭国大乱でしょう。
伊都の天孫族が都落ちして、かわりに卑弥呼が即位したのです。
これなら卑弥呼が記紀に登場しない理由もわかります。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:01:07.93
>>640
倭人在帶方東南大海之中なんだって
おまえの言う通りなら地形や境界を物凄く詳しく知ってるだろ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:01:09.49
>>571

その頃の畿内は中国や朝鮮半島と交流が薄かったから、危機感もないのでしょう。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:02:21.61
>>645
自然とゴミが流れ着くのに何が無謀なんだ?
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:03:26.01
>>644
行きは船で陸(北部九州、中国地方日本海側)に沿って10日
帰りは陸(中国地方、北部九州)を歩いて1ヶ月

これなら分かる
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:03:28.79
>>649
どうやって銅鐸の銅を手に入れるんだよ?
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:04:44.66
>>596

そういうものがあっても、郡使が再確認したものだけが公式記録になったはず。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:05:02.82
旧石器時代の人々はC1a1だろうと言われているね
大阪や徳島でも5〜10%以上いるし、沖縄にもそこそこいる
アイヌには全くいなくて何故か九州は沖縄と違ってゼロに近い
九州はモロに3万年前の姶良カルデラや7000年前の鬼界カルデラの噴火の影響を受けたのかもね
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:06:01.22
>>605

それでいいと思う。
その場合に、帯方郡と交流していたのはどちらかな?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:06:07.67
>>654
軍師の記録なら距離の違う単位を使うのはおかしいだろうが
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:08:22.05
>>646
定かではない。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:08:38.58
>>655
陳寿が採用した資料が全て魏の郡使の記録じゃないだろ
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:08:54.63
>>660
九州説もだよ。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:10:33.10
>>627

伊都国に鏡が入らなくなったのは、公孫氏のせいだよ。
だから卑弥呼が国産の八咫の鏡を作った。
もう卑弥呼の墓は平原遺跡で決まりだよ。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:10:39.80
>>658
銅を手に入れてたから近畿でしょう
対馬、出雲は青銅器文化圏
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:11:50.80
>>664
可能性て便利だけどな。
注釈ぐらいあって良さそうだけど
元資料にはあったかもしれん。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:11:58.75
>>664
理由考えるなと言うよりその方が可能性あるよな
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:12:28.58
D1が遺伝子が見つかったのは3000年前の礼文島の人骨
それより古いのは見つかってないんじゃないか
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:12:33.55
>>629

また年代前倒し詐欺?
その時代の出雲が半島で流通していた鉄を入手できていなかったから、3世紀以前の沖ノ島から出雲ルートは使われていなかった。
対馬海峡は伊都の大率がしっかり検察して抜荷はあり得ない。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:14:02.86
九州は人は新しいんだよ
火山があるという宿命だ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:14:13.47
>>667
注釈なんて他もねえじゃん
ちびの国とか何処から引用したか書いてねえじゃん
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:14:43.89
>>653

銅は古くから国内に流通してストックがあった。
銅鐸そのものは古くからあったし。
しかし卑弥呼の時代には作られなくなった。
原料不足も原因かもしれないな。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:15:32.75
>>664
でも九州上陸の千里が疑問。
上陸地が違うのか?
東南なのに途中から北東になるのも
おかしなもん
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:16:34.41
>>667
それ以上に説得力がある説を考えれば良いだけ
わからんからそれ以上考えるなってのはダメだ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:16:44.20
チビの国って阿波のことだろ?
あれだけはどこから出た情報なのか確かに謎w
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:17:19.67
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:17:27.20
>>672
山海経がベースだろうな
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:17:37.89
>>670
出雲は大陸での鉄採取利権を持っていなかっただけかも知れない
そこは伊都国の独占だったのかも
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:18:03.12
>>674

上陸地は松浦ではないのかも。
伊都国は動かしようがないからね。
伊都国は三雲、末盧国は前原あたりか?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:19:06.60
>>673
何言ってるの?
青銅器だって偏りがあるでしょ
しかも銅鐸は銅鏡を溶かしても作れない
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:20:15.76
>>680
伊都国が違うかもしれん。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:24:28.68
>>634
>白村江で倭を滅ぼしたのは唐だし、その後で王都だった太宰府を占拠して都督府を置いている。
>滅んだことは知っていた。

捏造はダメ
もう金石文が出ているのいで、そういう作り話は永久に通用しなくなった
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:32:44.52
>>682
楽浪式土器があるから違うかもしれん。
あるから伊都国というのも疑問。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:37:51.70
>>623
>俺は短い里になってるのは理由があるはずだと言ってるんだぞ

俺は短い里になんてなっていない
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:41:14.17
>>685
そうなのか?
1里は何m?
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:44:22.45
>>686
400m以上
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:45:51.08
>>687
朝鮮半島でかいぞ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:47:35.80
九州だけC1a1がダントツで少ないのは姶良カルデラと鬼界カルデラの噴火の影響
D1は他の地域と変わりなくいるので主には鬼界カルデラ噴火後に来たグループだろうね
アイヌにC1a1がいないのはアイヌは本州にいたことがないグループだということだな
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 22:50:23.77
>>689
北海道も本州と交易圏に入ってるし本州から渡った人たちじゃないの?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 23:00:19.59
C2のいるところから渡ったんじゃないのかな
アイヌはD1とC2の混血だし
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 23:00:33.91
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/05(木) 23:22:38.85
神武天皇は45才になったときに、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。
そう言って、奈良を目指した
九州説の人は、この神武の決断をどう評価するのだろうか?奈良をこの国を治める中心地という見方に共感できるのだろうか?
0695琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/05(木) 23:23:29.58
皆、逃げて来たんだろ、
阿人を考えても満州から辰韓、その時に満州に居る連中を阿残、その後秦王国が列島内に出来、香春信仰を続けるんだろ。百済も半島では百残と言われるようになり、列島に南下したんだろ。どこ行ったかは知らんが
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 01:43:03.60
下関を馬関とも言う

幕末の馬関戦争、有名だねw

馬関 = 馬韓 に漂着した馬韓人は
馬関よろしく赤馬関(あかまがせき)の穴戸国で暮らしたとさw

高天原じゃないよ、答えw
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 02:04:39.03
>>694
安曇族の母を持つ神武は本州の沿岸の隅々まで良く知っていたのだろうし、安曇族からの後方支援を受けて奈良盆地を目指したのだろう。神武の母か祖母は台与ではないかと思っている。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 07:04:20.08
>>694
私は九州説だが、その話は記紀が神武東征を美化したもので、一義的には神武東征は筑紫(おそらく朝倉あたり)からの脱出だと思っている
きっかけは2世紀後半の倭国大乱や倭国の飢饉(新羅本紀にAD193年に倭の飢饉で移民が来たと記載)あたりか
どこかで奈良盆地という権力の空白地帯(湖が干上がったばかりで強力な勢力がいない)の話を聞き、また吉備を上手く巻き込めたので奈良盆地に移住したのだろう

先行して筑紫(おそらく鞍手あたり)から奈良盆地に入っていた物部ニギハヤヒは先住民に合わせて出雲系の祭祀を行っていたが、後から来た神武勢力が筑紫系の祭祀の集団で大国の吉備がバックにいることを知って乗り換えたのだろう
神武と物部は共通の故郷である筑紫の連合国名ヤマトから取って新たな地をヤマトと名付けたと思われる
「ト」の発音の違いは後世に出来たか、あるいは筑紫と奈良のヤマトを区別するために意識的に行ったものだろう
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 07:21:51.05
>>700
>奈良盆地という権力の空白地帯(湖が干上がったばかりで強力な勢力がいない)

そんな弱小地にしか目指せないヘタレが、九州からの大遠征など出来る訳がない。 へたな妄想はうんざりだ。   @阿波 
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 07:23:13.34
北部九州発祥の遠賀川式土器が大量に出たらしい
長野は古くから糸魚川の翡翠を求めた海人族が姫川を遡って来ていたから
海無し県にもかかわらず鉄原料が輸入のみだった弥生時代の遺跡からも鉄器が出土している
奈良よりもずっと多い
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 07:24:53.69
>>700
>また吉備を上手く巻き込めたので奈良盆地に移住したのだろう

上手く巻き込める理由が無い。 実際は、吉備勢力に滅ばされるのが落ち。 へたな妄想はうんざりだ。   @阿波 
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 07:42:03.83
>>702
>北部九州発祥の遠賀川式土器

「刻目突帯文土器」も「遠賀川式土器」も「阿波」から西日本一帯に広がったという事だけ。   @阿波
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:27:07.11
>>694

それは記紀のリップサービスですよ。
それまで何代も治めた王都である筑紫を捨てるのですから、本当のところは都落ちです。
しかし畿内で饒速日が成功しているから、隣の芝は青く見えるような話だったのでしょう。
来てみたら大和には鉄器はまともにないわ寒くて作物もろくに取れないわ、失望したと思います。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:31:13.47
>>700

吉備は物部氏の領地でもあったはず。
つまり神武を助けた瀬戸内の集団そのものが饒速日の一族ですよ。
ただ、当時は情報のやり取りも乏しいので、うっかり饒速日の部下の長髄彦と戦闘になってしまったのです。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:33:29.62
古墳は水田開発の跡なのかねえ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:36:12.86
そんな時代に物部氏とか?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:38:27.42
奈良盆地は倭人にとっては単なる霊園だった
渡来人が入植出来る土地は無かった
だから奈良盆地に住み着いたんだよ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:57:30.70
>>705
>来てみたら

そんなアホなw  神武軍をそこまでアホと見るのか!  へたな妄想はうんざりだ。   @阿波 
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 08:59:17.81
>>708
モノノベなんて居ないよな
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:00:18.81
>>705
>来てみたら大和には鉄器はまともにないわ寒くて作物もろくに取れないわ、失望したと思います。

だからそんな所に神武軍が侵攻するわけがない と何度言えばw   

神武東征は、「阿波」での話。   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:04:10.58
注目すべきは神武の地勢的な見方
奈良をこの国の中心地としていること
神武の時代に奈良を中心として列島に人々が暮らしていたということ
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:04:41.78
「東の方に良い土地があり」

これは、萩原墳丘墓などが在る豊かな地の鳴門周辺を指す。   @阿波
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:05:28.17
>>713
神武の時代ていつやねん?
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:07:14.62
不弥国やな
九州北東部の国と思われるが
馬韓にも不弥国があったらしいな
不弥国の官がタモ

阿弖流為はタモ公なんだよな
馬韓は穀物と養蚕の国らしく、東北の神さまおしらさまも養蚕と穀物の神さまだ
津軽の伝承ではおしらさまは盲人の女のたこで正体はヘビだったらしい

馬韓→九州北東部の不弥国→東北のおしらさま
の流れがあるんじゃないか
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:11:05.17
>>713
>奈良をこの国の中心地としていること

どうしても、こんなファンタジーを考えたがる。  へたな妄想はうんざりだ。   @阿波 
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:11:31.53
古墳が水田開発であったとしても故郷の土地でやれば良いだけの話し
遠く離れた奈良や大阪の土地を開拓する必要はない
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:17:09.34
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
奈良は中心国でもないんだな。
内陸部の工事に着手しただろうな
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:17:17.29
奈良は江戸時代になっても開拓し尽くしたから米の収穫高が大して増えない
他所の土地を何故そこまでやる?
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:18:54.34
>>720
戦火からのがれた人や
湾岸沿いがs
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:19:12.71
山口や九州の周防灘周辺は様々な渡来人の拠点だった可能性があるね
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:23:14.87
>>723
神武の東征と話が違うな
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:23:46.04
九州北東部の勢力が一世風靡して覇権を握った時代もあるんやろな
4世紀後半はその一つかもな
最終的には東北に逃れてその地のボスになったと
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:24:58.66
>>724
違ていいんだよ。
記紀の神話は造作だからね。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:25:40.98
魏志倭人伝は帯方郡から近い順に倭国が列記されている
邪馬台国(やまと=奈良)までで8か国
さらに遠方に21か国がある
帯方郡から見て奈良よりも遠いところに21か国もあった

縄文時代は東北・関東・中部の人口が多かった
東日本の時代だった
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:27:09.84
周防灘周辺は大帯の拠点でもあった
神功皇后には二つの名がありその一つが大帯姫
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:32:24.31
母系遺伝子の研究によれば母系から見ると日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるようだ
東北は富山石川和歌山と同じグループで、混血の強い京都大阪が1番近いのは東北グループ

流れてきた渡来系の支配者に扇動されて中央と対立した時期もあったのかもしれないがむしろ畿内とは近縁のようだな
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:41:50.30
東北の青森と大阪湾岸の地域はNやC1a1が比較的良く残っているという共通点がある
1番の違いは東北はO1b2-47zの割合が高いが大阪は日本一その割合が低いということかな
これがどういう集団か分かればいいんだが
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:54:05.35
どうしても投馬国、邪馬台国が行程につながってる考え方から抜けられないのね
どう見ても別の資料をつなげてるだろ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 09:57:23.74
別の資料としたいのだろうか?
抜けられないのか?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:07:38.79
>>734
魏志倭人伝がとにかく正しく疑問を持つ事もしないんでしょう
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:10:41.50
里数表記の行程は中国国内での情報の寄せ集め
日数表記の行程は倭人に聞いた朝貢の道のり
どちらも帯方郡から邪馬台国までの行程
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:12:02.70
邪馬台国は何処か答えよ
ただし魏志倭人伝に書いてあることは全て正しいものとする
こんな感じに見える
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:13:55.70
>>700
そんな糞シナリオでは吉備が神武を戴く必要性が皆無w
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:20:27.03
海外の史書は書かれた文字を読むだけでなく、
いつどのようにして記録されたものなのか、
誰がどのような環境下で編纂されたのか、
をしっかりシミュレーションしながら読まなきゃね

日本人感覚で日本語読みしてる畿内説は論外だよ
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:21:38.47
魏志倭人伝が帯方郡から近い順に倭人の地域を列挙しているのはその通りだが、具体的には以下の通りだ

朝鮮半島南部 狗邪韓国
対馬 対馬国
壱岐 一大国
筑前(+肥前) 末盧国、伊都国、奴国、不弥国
筑後 投馬国、邪馬台国
肥後 狗奴国

周囲が以下だ
東方 倭種の国々(本州・四国)
南方 侏儒国、裸国、黒歯国
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:24:34.22
>>736
どちらも帯方郡から邪馬台国までの行程?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:29:36.82
伊都国、奴国、不彌国まで里数がある。
さてどこに向かえば投馬国、邪馬台国に
行くのだろうか?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:30:59.28
>>741
そう
倭人の説明は大雑把に
船で20日ほど南に行けば投馬国、更に南に10日行けば邪馬台国
上陸後女王の都までは徒歩
合計約30日の行程です
と説明した

この記録は土地勘の無い陳寿には難解だったはずだ
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:36:22.02
>>744
近くにあるなら投馬国や邪馬台国までの里数表示がないのが疑問に思う。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:38:15.89
>>738
でも纏向学は考古学的に見て纏向は九州と吉備の外来勢力が作ったと言っている
記紀も神武は吉備に滞在してから大和に入ったと言っている
あなたの個人的な考えの方が私よりも圧倒的に根拠がない
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:40:51.32
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 10:42:56.53
>>747
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:02:47.75
>>747
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:18:10.73
>>745
中国は倭人の言う投馬国や邪馬台国なんて国名は知らなかったんだよ
頭硬いな
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:21:15.49
>>751
意味不明
知らないから聞いたんじゃないの?
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:22:02.04
>>747

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:23:31.08
阿波って肥沃そうですね。
また、地理条件が最高に思います。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:23:41.03
あほらし
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:26:16.13
>>744
里数は不彌国で終わってるが
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:26:39.29
>>752
なんで郡からになるのか不思議だよな
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:28:33.34
>>757
じゃあ何処からなのよ?
邪馬台国への行程が書いてあるんだぞ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:30:38.20
>>757
伊都国、奴国、不彌国
から投馬国や邪馬台国までの
里数表示があってから
日数なら理解できる。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:31:57.59
>>753の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:32:09.75
>>754
ど真っ直ぐに西~東80㎞を貫く大河は見事だろ?  「阿波」が誇る自然の恵みだ。   @阿波
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:33:34.56
>>758
不彌国から南で水行20日で投馬国
南へ水行10日陸1月の場所
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:35:24.78
>>762
つまり不彌国の後につながってるって事ね
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:35:55.48
>>760
阿波は少彦名の侏儒国だったのか。。。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:37:08.14
>>747
>>760
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂w

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:37:22.88
>>763
当然だけど
伊都国からかもしれん。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:39:54.70
>>766
水行ひと月陸行ひと月の場所って何処なんだ?
不彌国まで詳しく書いた意味があるのか?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:47:34.85
>>767
>>748
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 11:52:14.74
>>769
東海狗奴国なのに、河内(大阪)彦とはこれいかに?w
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:01:29.32
>>768
何書いてるのかわかんねえけど侏儒国なんて書いてる時点で話にならん
ちびの国なんてもんが本当にあるか頭冷やして考えろ
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:03:25.03
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:10:19.02
>>772
陳寿は邪馬台国の本当の位置を知りつつ、「あって欲しい位置(帯方郡から12,000里=会計東冶の東=呉の背後)」にズラして書いてるってこと
>>760
だから、沖縄と台湾の間の何もない海上に着いちゃうってことw
0775琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/06(金) 12:10:19.50
まだ、言っとるのか、
祇園山は阿残墓と言われとる。卑弥呼の時代には首無しの墓と一緒にしたりしない。邪馬臺は奴婢らが自ら動く活気溢れた処なんだよ。
そもそも祇園山じたい牛頭山だわ。明らかに辰国人、同時代なら倭大乱の連中だな。九州にはいろんなコロニーがあったんだろう。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:12:56.11
>>774
呉なんて既に無いのにか?
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:13:16.65
高良大社は倭王阿毎多利思比孤が、卑弥呼の王宮跡に建てててあげた、新同盟国・高句麗の大使館ジャマイカ?
だから祇園山古墳の回りには、須恵器が大量に出土する高句麗系の集団墓地が造られている。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:14:12.45
>>776
目をかっぽじって良く読めw
>>753
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:23:30.20
>>737
>邪馬台国は何処か答えよ
>ただし魏志倭人伝に書いてあることは全て正しいものとする
>こんな感じに見える

台湾の東方海上になるわけだな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:45:37.56
この動画でしゃべっている連中の発言が頓珍漢で笑う
邪馬台国は90%の学者が大和だとか狗奴国は吉備だとか言っている

8年前はまだ纏向で舞い上がっていたおめでたい時期だったんだな
本人達は、纏向から邪馬台国の根拠になるものが綺麗サッパリ何も出なかった今これを見返して何を思うのか

https://youtu.be/4qGk8F9fOsw
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 12:48:02.29
>>782
不確かな物事について想像を根拠に断定していく連中だからな
知能指数が低いんだよ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:14:35.29
8年前は狗奴国は吉備だったんだなw

狗奴国は天竜川以東の東海

吉備は投馬国だよ

吉備という地名が出てきたのは5C以降だよ

それまではタマとかタマノクニと呼ばれていた
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:17:22.08
邪馬台国は大和盆地で狗奴国は大和川の南の河内
これで全ての整合性がとれる
邪馬台国を作ったのが東海勢で、東海は女王国の一部やね
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:19:09.41
>>767
不彌国まで実際に行った所
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:30:54.91
>>789
三輪山
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:31:06.90
>>785
ないない

卑弥呼の銅鐸撤廃の銅鏡信仰に抵抗して天竜川の東に大量の銅鐸を置いて結界を
張っていたところを見ても狗奴国は天竜川以東の東海

静岡市の登呂遺跡も大きいが、さらに大きい集落遺構が沼津の足高尾遺跡群

その近くから3C中頃の東日本で最大規模の前方後方墳が発見された

それが例の有名な高尾山古墳
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:32:38.69
>>789
それは本来は「ここが邪馬台国だ」と主張する側が考えるべきことではあるが、一般的に説得力を持つのは、3世紀前半以前と見られる出土品・遺構として「一定以上の量の大陸製の銅鏡、大陸製の土器、鉄器など大陸と交流している痕跡(邪馬台国は明確に大陸と交流していた)」や「絹、鉄鏃、棺ありてカクなしの墓制、環濠や楼観など魏志倭人伝の記載として一致するもの」だろう
ちなみに北部九州の遺跡には上記は全部ある
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:33:10.47
>>781
九州説よ、そういうインチキは不可だ
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:34:42.16
>>793
説得力ないんだが?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:36:23.01
>>793
当時の九州は銅鏡なし絹なし、棺なく槨有りで
倭人伝とぜんぜん合わない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:36:57.95
唐津松浦から佐賀経由熊本行きで
距離も方向もピッタリ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:39:24.35
>>795
当然だろう、どの国が多いとか少ないとかの
記述はない。水行30日陸1月の遠方なのだから
逆に少ないのが邪馬台国。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:40:24.61
>>796
吉野ヶ里には全てある
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:41:50.25
>>796
箱式石棺墓ほ棺ありてカクなし
纏向自慢の巨大前方後円墳には見事にカクがある
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:42:27.53
>>793
>ちなみに北部九州の遺跡には上記は全部ある

「其山有丹」は? 「橘」は?   @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:43:26.42
>>782
あれ? 纒向でほぼ決まりでしょ?
「綺麗サッパリ何も出なかった」は妄想
だって貴方はそれを証明できない
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:45:15.83
>>798
女王の都はそういう所だろうな。
可7万戸は、広範囲の開拓等による
見積もり、行く必要性もないし
中心国でもない。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:47:10.28
>>803
以前に方向や里数も正しいとは限らない
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:51:24.97
>>808
日数が正しいとは限らない
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:52:09.10
>>808
君がね。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:52:21.42
>>802
日本書紀には筑紫の橘という地名が出てくるのを知らんようだな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:53:18.33
>>801
>箱式石棺墓ほ棺ありてカクなし

あれ、棺じゃないから

>纏向自慢の巨大前方後円墳には見事にカクがある

あれ、槨じゃないから

教養のない九州説信者は現代日本語と古代中国語が違うのを理解できてないからトンデモ説に騙される
かわいそう
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:55:46.03
>>808
なんで無視しないといけないのか?
サッパリわからん。
不正確なもんとすれば済む事
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 13:56:39.97
>>810
全て信用できないなら、無視すべきだろ。
水餃子30個で大海の中なら、日数がお菓子
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:01:21.78
>>804
纏向から邪馬台国であったことを示す3世紀後半までの出土品・遺構として何が出たの?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:03:26.37
>>817
邪馬台国であったことを示すもんて
ないよね。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:05:27.75
>>819
九州に無い
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:07:30.51
>>820

㋖さんですねw
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:08:33.42
㋖のキは気違いのキ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:09:22.34
>>818
そんな妄想に囚われてるから九州説が終わった
棺とか槨とかいう言葉の現代日本特有の意味で考えてるから
九州説は世界に通用しない
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:10:19.02
>>819
当然、邪馬台国にあるものの
詳細な記述はない。

使者が実際に行った所の
記述が多いだけの話。
あとは聞いただけだよ。
投馬国、邪馬台国には行っていない。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:11:04.64
>>821
九州に何がある?
「邪馬台国であったことを示すもの」だよ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:11:38.57
>>823
お前だけの世界の話かよ
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:13:05.55
>>825
九州にないものは何だ?
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:13:32.15
>>819
大陸系の銅鏡や大陸系の土器や鉄器など3世紀前半以前の大陸との交流の痕跡が見られない纏向は邪馬台国候補に手を挙げる資格がない
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:13:45.01
>>819
大神神社(おおみわじんじゃ)
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:16:54.73
>>827
丹の山と翡翠とか九州から出土がない鉱物資源
それらが流通しないと鉄も得ることはできない
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:17:33.22
>>824
どこに行ったかわかんないから
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:19:26.26
>>830
丹は長崎にある、翡翠は安曇族が手に入れてる
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:19:52.78
日本に来るのは倭王に会うためだけじゃないだろうし
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:21:16.33
>>832
誰かが何かを手に入れてる
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:21:31.61
>>832
採掘跡や工場跡あるのか?
魏志倭人伝に安曇族てあったけ?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:24:14.32
>>833
まあ、それもあるが
卑弥呼が伊都国や不彌国に入れば済む事
使者もどこにいるのかわからないのだろう。
謁見の場は伊都国と思う。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:24:58.11
不彌国の箇所だけ行という文字が入ってるだろ
そこだけ東へ行けば不彌国に至る、と読むんだよ低能ども
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:27:06.93
【注意】卑弥呼の墓の大きさは径百歩ではない

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:28:36.48
>>837
まあ、至だし、到ではない
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:28:47.44
>>832
長崎で丹は採れないよ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:28:52.58
【結果報告】纒向は古墳造営キャンプ場でした

纒向遺跡調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

奈良盆地は唐古鍵閉鎖後は墓場として周辺国に利用されており、大型古墳を建造する際には遺体安置所兼遺族の宿泊所を設置し、
東海地方から来た労働者たちが野宿をしながら古墳建造に従事していたものと思われます。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:29:35.94
翡翠は糸魚川が定番。

原石は硬いので、風化で崩れた破片を拾う
翡翠ハンターが今でもいる。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:34:45.17
豊前の赤村でも名の如く朱丹は採れたようだ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:34:48.64
【結論】畿内説は韓国式歴史捏造というテロ事件でした

魏志倭人伝において「里数」の行程は中国国内の伝承であり「日数」の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が
次々と出てきたため中国側は混乱し、誤解釈して記録してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:43:18.57
>>841
根拠ナシ妄想しすぎ
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:51:38.01
>>846
帯方郡→対馬→出雲→伊勢遺跡と大差ないだろ
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:53:56.99
長崎や筑前で鉱床あっても
弥生後期〜古墳期
で使用した形跡や証拠はあるのだろうか?
0851琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/06(金) 14:55:20.04
朝鮮式歴史捏造?壇君朝鮮を創るあたりはお手本があったように思えるがね。
ところで、橘だが、益州句忍(共に月偏)には、橘園があり特産品として後漢に記されている。漢中の隣だな。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:57:41.80
>>843
未発見だよ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 14:58:01.32
>>835
ウエッブ上で読んだ事があるので探し中だが赤村で採れたようだ丹波神社もある。
安曇族は奴国の縄文からの海人族だよ。
0854伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/01/06(金) 14:58:26.85
>>754
今は吉野川が氾濫する事はほぼ無くなったが、以前は平均2年に一度の頻度で氾濫が起きていた。

ただ、川の氾濫は悪い事ばかりではなくて、
上流から肥沃な土砂を運んで来るというメリットも有った。

農民達は工夫して、川の氾濫の時期より前に収穫できる作物を育てた。

その一例が藍で、江戸時代には蜂須賀領の特産となり、
また、多くの豪農を生んだ。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:00:47.04
水銀鉱床はあのへんだと、嬉野のあたりの
佐賀と長崎の境界あたり。
丹生神社でググると良い。

水銀鉱(辰砂)も上流で砕かれた鉱石を
下流の河原で拾う採集法を取ることが多い。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:02:37.97
>>855
発見が江戸時代とかそんなもんじゃないのか?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:02:52.02
水銀朱を使用した古墳は福岡県が一番多い。
たしか、20ヶ所ほど。

畿内は2ヶ所。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:04:10.40
九洲の丹生神社は5世紀辺りから伝承があるらしいが
それ以前は知らん。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:06:52.15
>>857
墳丘墓や
日本海側は?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:07:55.20
>>857
徳島では中国朱もあるが?
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:08:33.97
水銀朱なら三重県が有名だが
周辺にそれを利用した形跡がない。

むしろ筑紫勢力が、朝鮮半島に鉄を採りに行ったように
三重県に水銀朱を取りに行って
潤沢に筑紫の古墳に使っていた可能性がある。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:10:05.16
>>855
クグても碌なもんない。
物流経路では?
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:11:45.27
生まれが大分の者だけど小学生の頃、近くで石棺が出てきたので見学に行ったら中が真っ赤だった記憶が残っている

写真は移設された石棺
https://i.imgur.com/gWl7Mh3.jpg
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:12:36.19
>>863
行ったことないだろうな。
塞いだ跡はある。阿波に運搬だろうな。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:12:48.44
>>863
縄文時代から掘ってた痕跡があるだろ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:13:57.21
あとは、熊本の
人吉、球磨地方の九州山地に
水銀鉱床がある。

いわゆる中央構造線にあたる。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:14:08.74
>>863
サンプルが少ないが
九州は。中国朱がほとんどだよ
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:17:47.75
朝鮮半島に鉄を採りにいってたくらいだから、
中国で買ってきても(朝貢貿易?)
全くおかしくない。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:18:35.52
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴国 百里 官日 ?馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

これは247年、倭人船で伊都までやって来た、張政に從る、倭人船行程の記録である。

これ以前に、韓伝でも陳寿の記述で、方可4千里なので
里程に関しては、帳政の間違いを陳寿が魏での単位に訂正する理由は無い。

魏の文官の陳寿と張政は、倭人国探検で同じ単位の里を使用している。
陳寿は三国志全体では、蜀と呉との関係で調整が必要だが、之には無い。

この後の、邪馬台国の詳細の段落は、軍人梯儁による記録だが、里程は
陳寿がまとめた、22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 だけである。

陳寿が、帳政の行程の、邪馬台国上陸までの積算1万里に、
女王の処都までの陸行1月の2千里を足しただけのことである。

陳寿は報告書の引用では、原典を尊重していると見えるが
里程に関する問題は、この時の魏人同士には存在しなかったようだ。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:19:10.97
何処かで誰かが見た記録ってだけでどうでもいいと思うけどな
どういうわけか@阿波も丹には異常に拘るな
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:21:24.08
邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)の内容説明には

朱の産地が集積しているのは九州・奈良・伊勢。と書かれている
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:23:29.86
>>872
阿波は論破されまくりで丹しか残ってないのだろう
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:24:27.40
古墳発掘で石棺の中が真っ赤なのがたびたび見られるのは九州の福岡や熊本だね
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:28:30.73
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 ?杼橡樟?櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠?桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 ?猴黒雉

これは、日本の物産に関する記述だが、
地理志などの、用例に準じて、倭の遣使から
お土産は何が良いか?などの都合含めて聴取したもの。

日本には、何が有って何が無いのか、と聞かれたのである。
女王国でも、国内流通で交換可能なものは有、
交易不能なものは無、という事になる。

阿波に丹が有るなら、使は皇帝に丹が欲しい、とは言わない。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:28:33.36
>>872
鉱山もある
大規模な工場跡は阿波ぐらい。
宇田 大和鉱山から出始めた頃かな。
阿波から中国朱が出たので大陸からの
技術者がいたか?呼んだかもしれん。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:29:56.97
>>876
なので実際には丹は下賜されていない
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:34:21.84
>>880
赤土なら九州以外にもあるが?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:35:23.13
>>873
>朱の産地が集積しているのは九州・奈良・伊勢。と書かれている

専門書じゃなくて残念でしたね
豊前の鉱床発見は奈良時代、肥前のは明治
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:35:46.38
>>876
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

丹がないのである。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:36:58.51
文化、風習も1人が調べたんじゃなくたくさん来て
目にしたものを書き留めただけでしょ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:39:01.35
>>875
九州の古墳のは国産じゃないので、九州では水銀朱が採れなかったということ
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:41:07.42
>>876
使いは欲しいとは言っていない。
魏王が選びなさいと言ったんだな
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:41:33.16
吉野ヶ里では、辰砂を砕いてた
粉がついた薬研が発見されている。

原石はどこからか買って
ゴリゴリ粉にしていたらしい。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:42:05.36
>>878
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華?五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

これは、
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼・・・

の本文なので、現物が無ければ、
皇帝の恥をかかせる事になると思うけどね。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:43:38.90
水銀、辰砂=波佐見水銀鉱山(長崎県)、相ノ浦鉱山(長崎, 大潟鉱山)、 平戸(長崎, 松浦)、因尾鉱山(大分, いんび) 、佐伯鉱山(大分, 鶴望鉱山つるみ, 大分鉱山Hg), 千怒鉱山(大分, ちぬ)
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:44:23.58
>>891
不純物でどこの物かはさすがにわかるでしょ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:49:04.84
>>893
恥はかいていない
続きまで読んでないだろ?
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:50:31.87
>>893
883
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:51:01.15
『豊後国風土記』海部郡丹生郷の項に「昔、時の人は此山の沙を取りて朱沙(朱砂)に該う、因りて丹生の郷という」とある
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:52:43.92
>>899
だから何?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:53:57.47
>>896
あなたは恥かいた
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:54:46.09
「其山有丹」の其山がどこなのか不明というだけで、北部九州の弥生後期の墓に朱丹は使われまくってるし肥前松浦などに鉱山はあるし、九州説にとって丹の件は問題ない
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:58:10.49
>>897
卑弥呼の為に 難升米と都市牛利の帰国便で、装封して持たせた。
と、皇帝が詔書に書いて卑弥呼に送っている。

正始元年は、2年後に金印を持って来た、郡使 梯儁に
併せて持って来たおみやげ。
并齎 詔賜 金 帛 錦? 刀 鏡 采物
ちゃんと読んでないだろ?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 15:59:31.32
>>900
九州で丹が採れる山の一つを紹介したのだが。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:01:33.55
>>902
いや、それ中国産と判ってるから
九州で朱は採れなかったということ
九州説にとって致命的
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:02:49.63
>>902
使われた証拠がないのである。
なので投馬国(四国)と邪馬台国(近畿)では?
採掘、開拓、物流経路には鉄が必要
なので弥生後期から古墳期にかけて鉄器が増え出した所が投馬国や邪馬台国。
卑弥呼とヤマト政権との関係は定かではないが
ヤマト政権の財源にもなったと思う。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:04:02.33
どうやら畿内説は学ぶという事を捨てているようだ
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:04:19.68
>>903
丹はないよ
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:06:21.73
平原古墳にも丹は使われている
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:06:24.48
>>903
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也 だよ
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:07:16.63
>>909
中国産だな
0912琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/01/06(金) 16:07:39.15
むかし、NHKで中華の部族に倭の字を見せて何て読むか?聞いていたが、
アカと言っていたな。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:11:01.44
>>911
片田舎の大分だが子供の頃見た普通の石棺にも使われている
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:12:28.36
>>98
絹たくさんて?いくつよ。
奈良には鼻くそみたいもんがひとつ。
滋賀には繊細なもんが出土、
私見だが吉野ヶ里(中期)から技術伝播かな?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:12:45.42
>>907
いつも九州説は反論できずに罵るだけ
つまり連敗
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:27:13.47
>>919
もっと広い範囲でもあるんじゃないか?
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:27:57.33
>>918
魏ではどうだろう?
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:38:37.30
>>915
箸墓を卑弥呼の墓って言ってる学者なんか居ないだろ
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:51:05.44
畿内説の中でも纒向説は詐欺的霊感商法に近い
情報化社会における情報発信に関しては今後何らかの規制が必要と思われ

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png


[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:54:05.23
宇佐神宮は神領から丹が豊富に採れるので建物には朱がふんだんに使われている。
神宮のイメージで国道の橋ですら赤くしている。
https://i.imgur.com/86REcVj.jpg
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:56:03.29
>>924
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が九州へ
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:57:31.45
>>925
取れる?集まる所、経路だよ。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 16:59:38.84
>>923
居ないという証拠は?
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:03:50.03
弥生時代は北部九州が一番朱丹を使いまくってるし、後世で産出する鉱山もたくさんあるのだから、弥生時代に産出された山がまだ確認されていないことは九州説にとって全く問題ではない
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:04:58.79
>>885
>生水銀の意味を知らんのか
>掘るんじゃなくて拾うんだよ

誰が掘るって言ったの?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:05:14.93
>>929
問題あるけど、使用されたのがいつなのか?
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:05:56.10
>>924
中傷しか出来ない九州説は負け組
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:07:04.47
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:08:41.34
>>928
居る証拠を出さないのがキナイコシ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:10:59.52
>>927
『続日本紀』文武2年9月28日条(698年)では
豊後国真朱(しんしゅ)を献ずと記録が残っている。
ので経路ではない
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:17:42.98
>>936
いるよ
生水銀の意味を知らんのか
北條芳隆とか
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:19:34.06
海や野山にある物をとるだけで豊かに暮らせてたんだろ
楽園なんだから
田もあるとこにはあったが農業に積極的ではないみたいな話が崇神辺りの記述にあったな
狭山池辺りは水田を伴わない自然栽培的な稲作が行われていたらしいね
適当に放置してたら稲は生えるし海山には食べ物が豊富、のんびりしてだんだろうね
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:43:13.72
>>938

> 生水銀の意味を知らんのか

何に対してのレスなのか意味不明

> 北條芳隆とか

正直知らん。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:50:15.35
池上曽根遺跡では数千点の石包丁を作っていたから稲作の人々と商売していたのかもね
唐古・鍵遺跡は木工品が商品だったのかな
大量の木工品が作られていたからね
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:50:24.50
>>937
ずいぶん、後だな。
宇佐神社はだい
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:53:34.21
古代ヤマトには海があったそうです

■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
 『倭』   19首(1)
 『山跡』  18首
 『日本』  14首
 『夜麻登』 5首
 『八間跡』 1首(1)
 『也麻等』 1首
 『夜萬等』 1首
 『夜未等』 1首

例)
大倭には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:53:58.80
立てたのは700年代だよ。
発見、ほやほやだろうな
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:54:48.39
唐古・鍵遺跡の近くの清水風遺跡からは海産物の雑炊の跡や鳥装のシャーマンの絵画土器も見つかっている
当時の人々の暮らしが分かるんじゃないか
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:55:27.55
>>944
邪馬台国にはあったけど奈良にはないかも?
邪馬台国は近畿
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:57:30.59
>>948
だけど畿内説で箸墓=卑弥呼の墓
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 17:57:57.81
巨大な銅鐸があったり、池上曽根遺跡のように石器の祠があったり物を崇める要素もあったのかもね
万物に神が宿る世界観があった可能性はあるね
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:01:55.10
>>940
>それ中傷って言わないよ、日本語では

理由も言わずに「詐欺的霊感商法」とか呼ぶのは
中傷

日本語できないの?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:03:40.16
北部九州は朱も丹も使いまくっており、
鉄朱はもちろんのこと、近隣には丹生鉱山があり
遠い中国産の丹も入手することが可能であった。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:06:16.47
中国産はいいとして
国産はどこからなのだろうか?
遺跡等あるのだろうか?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:07:25.58
>>954
可能と付けばいいんだからね。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:08:09.03
>>816
>橘は四国だけのものではない

当たり前。


>>793
>ちなみに北部九州の遺跡には上記は全部ある

「其山有丹」は? 「橘」は?   @阿波
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:10:50.08
絹、ト骨の両揃いは有明海沿いのみ
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:12:10.95
国産と推定できるのは
各地にある丹生神社で一番古いのが5世紀辺り。
それより古い資料は文献では見つからない。

ただ、丹生神社の多くは河原で原石を
採集できるところに建てられており
技術がいるわけでもないので
いくらでも古く設定できるといえばできる。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:13:22.42
>>959
墳丘墓や古墳もあるが?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:15:10.99
>>961
伝説なんだけど?
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:16:45.19
>>958
絹は中期だろ
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:16:54.32
日本で文書として残るのが5世紀あたりが限界で
それ以前はまだ文字はごく一部しか普及していない。

だから文献で5世紀以前は無理だ。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:16:59.51
>>962
徐福の長男は福永らしいな
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:21:28.15
>>957
丹も橘もある
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:22:50.06
>>949
東海大じゃあなあ
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:24:12.96
徐福は有明海に上陸しているからその周辺に丹もあったのだろう
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:33:01.39
>>967
>東海大じゃあなあ

東海大教授北條芳隆は岡山大卒
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:34:19.86
徐福は秦の始皇帝に港で見送らせた後、沖でしばらくクルージングを楽しんでから
隣の港町で全員下船させて解散し、そのままドロン

イタリア人も仰天の詐欺師
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:34:34.57
>>969

『史記』卷一百一十八と『前漢書』卷二十五、『後草書』卷八十五において、徐福の事は書かれている
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:36:30.21
>>970
ボンクラ学生を教えててもうだつは上がらんじゃろ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:36:56.96
>>905

地元で取れても、中国から頂いたものをありがたがったんだよ。
戦後の日本がアメリカ産のものをなんでも好んだのと同じ。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:37:41.92
東海大も岡山大も大して変わらんような
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:39:29.41
>>939

人も少なく稲作も乏しい、閉鎖的など田舎が奈良盆地。
鉄器も銅器もなく、金属器文明の恩恵が行き届いていなかった後進地域。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:40:39.56
九州は其山有丹であることに間違いはない
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:41:28.48
>>976

中傷を繰り返しても、世間は畿内説に靡かない。
むしろ反論すらできない畿内説に愛想をつかすだけ。
すでに学者はほとんどの畿内説から撤退したけど、君はこんなところで何をしているの?
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:41:35.37
>>957
39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 ?杼橡樟?櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠?桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 ?猴黒雉
漢字変換が、ジェーン仕様だとダメみたいでごめん。

これは、日本の 物産=有無 に関する記述だが、
地理志などの、用例に準じて、倭の遣使から
お土産は何が良いか? などの都合を含めて聴取し記録したもの。

日本には、何が有って何が無いのか、と聞かれたのである。
女王国でも、国内流通で交換可能なものは有、
交易不能なものは無、という事になる。

阿波に丹が有るなら、阿波の使は皇帝に丹が欲しい、とは言わない。

幼稚園児のように言い張るだけではいけない。
と、何度言えば、判るんですか? 泣いてる子もいるんですよ(aa略
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:43:27.51
>>977
だけどそんな、ど田舎の奈良盆地へ移住したがる九州説信者ってどうよww   @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:46:08.36
>>980
>阿波に丹が有るなら、阿波の使は皇帝に丹が欲しい、とは言わない。

お返しに倭国(阿波)も「丹」を魏王に送りつけているよ。  わははははは   @阿波
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:46:49.37
>>981

神武のことなら、王都を捨てた都落ちだろうね。
記紀は大和中心の歴史にするために強がりを書いている。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:49:10.87
>>981
結果的に北部九州だけではなく日本の天皇家として存続したのだから結果オーライ。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:49:47.46
鉄より米。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:49:52.08
>>981
丹ではないか?
神武は、山師?
ゴールドラッシュでなく
マーキュリーラッシュ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:51:37.56
>>982

> お返しに倭国(阿波)も「丹」を魏王に送りつけているよ。  わははははは   @阿波

阿波は関門海峡を通れないから行っていないのじゃ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:53:59.64
>>982
だな。欲しいとか言っていない。
下賜にない、さらに日本産を送っている。

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
  上獻生口倭錦絳縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
  掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:55:05.26
奈良の大仏は九州の銅と水銀の後ろ盾が無ければ出来ていない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 18:59:35.47
朱砂についての文献上の初見は『続日本紀』文武天皇2(698)年9月28日条で、伊勢国のほか、常陸・備前・伊予・日向国などからも献上されている。また、同じく『続日本紀』和銅6(713)年5月11日条には、水銀の献上のあったことが記されているが、それは伊勢国からのみもたらされたものであった。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:03:02.92
田目皇子は九州にいたんだよね
記紀があの形になった理由がこの辺にありそうなんだけどな
宝女王の最初の夫で子に高向王
高向王の子が漢皇子で天武天皇と同一人物じゃないかという説がある ね
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:03:11.53
>>988
おまえら、本当に漢字読めないんだな?

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻 生口 倭 錦 絳青? 緜衣 帛布 
丹木拊 短弓矢

掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬
丹じゃなくて、返礼で丹を塗った弓を送ったんだよ。

238年の難升米以降↓
60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦?刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青?緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

66 其八年 太守 王斤頁 到官
67 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
68 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

69 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
70 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
71 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
72 政等 以 檄告喩 壹與

73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:13:02.31
>>992
違うと思う
0994◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/01/06(金) 19:15:39.39
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1672997531/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:17:39.62
>>989
後盾とは限らないけど
できないよ
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:19:56.25
>>992
君が読めていない。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:26:31.36
>>997
だな
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:27:03.21
>>995
宇佐神宮の神託と後ろ盾ありきだよ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/06(金) 19:28:54.94
>>999
まあそれもあるかもしれんな
伊勢と宇佐も共通点は多い
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 3時間 59分 33秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況