邪馬台国畿内説 Part862
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1675948905/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 まあぶっちゃけ誰も卑弥呼の墓だとは思ってないわけだ
[箸墓古墳]
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。 >>886
>吉野ヶ里遺跡では、大規模な環濠集落内において、北内郭と南内郭内における建物配置と北墳丘墓と南祭壇の配置の規格性が強調されました。
吉野ヶ里持ち上げ隊が一生懸命強調するけど
北内郭と南内郭内における建物配置と北墳丘墓と南祭壇の配置の規格性って
ぜんぜん無くね? 纒向古墳建造キャンプ場で木製道具で土木工事をしていたころ
富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭~後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、
刃部には真鍮を削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
何この文明の差は ニュース:箸墓古墳で馬具出土
2001年12月「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
■魏志倭人伝の記録
倭国に馬はいなかったと書かれている
■馬と人との歴史
鐙をはじめて本格的に使ったのは、5世紀のフン族(アッティラ王が率いる北アジアから東欧の幅広い地域を根城とした騎馬系遊牧民族)だと言われています。 >>900
白石発言は捏造
石野と寺澤は高齢組で年代論が若干昔流なので卑弥呼の墓にできないだけ >>905
それwikiだよ
本当に捏造なら書き換えればいいじゃん >>904
>■魏志倭人伝の記録
>倭国に馬はいなかったと書かれている
倭人伝が書かれたより後の纒向に馬がいても
なんの問題もないのだが >>902
>纒向古墳建造キャンプ場で木製道具で土木工事をしていたころ
泥の湿地では木製道具が有用 >>907
ウィキはクレージーな九州信者が暇にあかせて荒らすので
ちゃんとした人が訂正入れてもまたニセ情報に戻るらしい 桃がお供え物とか言ってたがあれは捏造だったんだね
纒向建物と桃の種は関係無い
桃の種が発見された場所
https://i.imgur.com/NW4G5f0.png 東海系43%
河内系13%
山陰系11%
近江系8%
吉備系7%
阿讃系(13%)
関東系(2%)
最新のはwikiとは違うみたいね
相変わらず九州とは疎遠みたいだけど
合計97%だから3%がその他 >>897
この人は伽耶や百済が亡んだ時に大量の亡命者や傭兵を畿内が受け入れた歴史を知らんのだろうか
無学なんだな九州説信者って >>915
>纒向建物と桃の種は関係無い
現地調査した人は関係あると言ってるが
関係無いと言うのが捏造じゃないのか? 吉野ヶ里程度じゃ奴国の中心地の博多、比恵那珂遺跡群より
はるかに規模が小さいから まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>918
九州王朝説を九州説と思っているお前が無学。 >>865
邪馬台国の、候補地って言う通説ねー
笑ちゃった、ナイスボケ >>917
>相変わらず九州とは疎遠みたいだけど
九州の土器は筑前型庄内甕なので関川は畿内系と区別できなかった >>923
>九州王朝説を九州説と思っているお前が無学。
いや普通に九州王朝説は九州説だ >>926
遠いから少なくてもおかしくないけど南北九州と半島の土器も出てはいる 纏向が大市ってのは間違ってないかもと俺は思ってて人が集まって物々交換してたんじゃないかな
これは伊勢遺跡も同じ 伊勢遺跡の円周上の建物は大型と言っても小さいし
あんな中に人が閉じこもってるのも変
あれ蔵じゃないかな? >>930
マツリゴトってのは本来広場でやるもんだ
朝廷の廷だって庭の廷だろ 箸墓が卑弥呼の墓だよ。
卑弥呼以外に道教指導者の女性は存在しない。
岱輿では昼夜の伝承が弱い。また、九州のイタコ鬼神に曹叡は親魏を与えん。曹叡は自身の病に巫女を呼んだが効果無く、殺してる、にも関わらず卑弥呼には称賛している。特別な関係であったということだよ。無駄だよ、微動だにしない。卑弥呼は五斗米道巫女。漢中を見てきた女性。 鬼道には諸説あるが卑弥呼が老子を祀っていたとは思えない >>887
邪馬台国が最先端という記述もないが?
願望定義かな? 伊都国がバイリンガルの力で輸入独占してウハウハ儲ける時代が終わると、奴国が技術力で九州のトップに躍り出た
けれど国内じゃ買い手市場で、政治的イニシアチブを畿内に取られた
博多商人が政治に首突っ込まないスタンスはこの頃からの伝統
そんな構図が見えてくる客観的状況だね 奥山相変わらず、論無き一行書き込みが多いなー
このスレの長文以外の畿内説支持の書き込みのほとんど奥山。
トホホ >>929
俺もそう思う。纏向の掘立て建物は、葬儀などを儀式が行われた場所だと思う。儀式の時人が集まり豚部交換してたのだろう。
纏向の建物は、柱穴に見られるように基礎も軟弱だし、柱も細いように感じる。王宮では無く平屋の斎場みたいなものだったのだろう。 「日本の島の数が倍増」
そんな島国日本でも、「阿波」だけだろう。
阿南市蒲生田「舞子島古墳群」
「島嶼(とうしょ)部に立地する古墳群であり、海を基盤とした活動をおこなった集団との関連が考えられる重要な遺跡である。」
沖合の小島に10基もの古墳群があるのは、阿波南部の海人族・長国(狗奴国)だけだろう。 @阿波 無駄だよ、ホトを突いてしまっているから箸墓は道教の巫女なんだよ、隠そうとした者が証明しているんだよ。鬼道は儒教(孔子道)対する鬼=反だよ。いくら卑弥呼じゃないと言い張ったところで中華尺の纏向、そして道教の女性墓箸墓は存在するんだよ。九州はこれを説明出来ないだろ。九州はフェイクを続けるだけだな。 >>6
> 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
↑
瀬戸内海や北陸なんかは寒冷化の影響を受けて無いと言うことかなぁぁ?
理解に苦しむ 影響はあっただろ、倭国大乱らしいから。卑弥呼は3世紀後だね、乱とは直接関係無いし年齢も合わない。7、80年前に住んでた連中、おそらく帥升ら100国と言えるでしょ、そう書いてある。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1676409897/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
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なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>947
さすがカルトの巣窟のお奈良、気狂い度が半端無い >>847
道教という言葉で誤魔化しているが貴様の卑弥呼は五斗米道なのだろ。ホト云々無関係じゃないか?コメ集めて健康祈願で民衆は惑わない。中華尺だから道教とか安直。十王は道教の影響だが仏教=道教かね?内容がキチガイ過ぎて誰も相手にしてないだけだがあえて言ってやるよw >>947 訂正
道教という言葉で誤魔化しているが貴様の卑弥呼は五斗米道なのだろ。ホト云々無関係じゃないか?コメ集めて健康祈願で民衆は惑わない。中華尺だから道教とか安直。十王は道教の影響だが仏教=道教かね?内容がキチガイ過ぎて誰も相手にしてないだけだがあえて言ってやるよw カルト?そんな言葉を浴びせたとこで無駄だよ、
君らはそれ以下の解釈力だよ、こちらは、もうエベレストか富士山から下界を眺めてる気持ちなんだな。一度くらい考え直して説明してごらん、いままでの話では全然だめだね。 952.勉強不足の上に分析力無し、こういうことには向いていない。本居のような生き方はうまそう。 >>955
それより「>>」がないぞ。
勉強してくだされ。 >>948
>瀬戸内海や北陸なんかは寒冷化の影響を受けて無いと言うことかなぁぁ?
>理解に苦しむ
これって、砂丘上に展開していた海浜集落と潟港が悪影響受けたって書いてあるんでしょ
普通に読めば砂丘上の集落とか潟港が少ない地域は影響あんまりないってことでは? >>956
言えてるw
しかも、反論にもなっとらん。 >>954
>エベレストか富士山から下界を眺めてる
あんたの視力じゃな〜んにも見えないだろうな。味噌も糞も同じに見えよう。 九州説の人は倭国の範囲を小さくとらえるしかない
そうでなければ自説が成り立たないことを自覚しているから
しかし、実際は伊勢遺跡も唐古鍵遺跡も疑いなく存在していた
九州説諸君はこれらの事実から逃げずに、それがいったいどんな遺跡だったのかを語らねばならない
それらは、倭国の一部だったのか、そうでなかったのかを語らねばならない >>960
九州説でも倭国は日本列島に100国ほどあるよ
北部九州の女王国30国と東の倭種の国が70国 >>940
王宮である事に変わりはないし祭祀もやってたでしょう
その上で各地の豪族たちは物資を持ってきてたんでしょう
墓が目的で纏向があると思ってないし時代もズレてるんじゃないか? >>960
>しかし、実際は伊勢遺跡も唐古鍵遺跡も疑いなく存在していた
伊勢遺跡や唐古鍵遺跡などの近江湿地や奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。 @阿波 >>966
32cmの柱は細くないし細いのと合わせて45本の柱で支えてる >>968
あれでも当時とそては最大級
てか他のと比較しろよ >>969
纒向は建坪が最大級だと言ってるんだよ
体積はかなり小さい
数人で建てられるような規模だ 王だか首長だかが亡くなったら数日で宿泊施設を建て、奴隷をかき集め、古墳造りに取りかかったのだろう
そして古墳が完成したら建物は撤去し、みんなで打ち上げやって解散だ >>976
お前の今っていつだよ?
もう令和時代だぞ? >>971
まさか、この写真に収まってるのが全て?!
>>890 当時の神社の遺跡は何処にもない
ただし神明造の棟持ち柱建物が北部九州にはない 聖地と言うのは継続するのが世界史的にも通例だから
神社が少ない=そこを聖地とした住人の集団が少ない >>979
発見されたのは手前から小、小、大の建物3棟だけだよ 纏向は殆ど調査されてないから今後何が出るかお楽しみ >>986
発掘までできたのがごく僅かという意味だから勘違いしないでね
実際のところ意外と広範囲にくまなく調査されてる
しかしめぼしい場所は見つかってない >>987
富雄丸山古墳みたいに何が出るかわかんねえじゃん >>988
そこは出て当たり前の遺跡
奈良の3世紀以前はほとんど何も無い >>957
日本海航路が衰退したのがわからいね!
畿内説の日本海航路説を否定したいのかな? まさにその2世紀にあったのが伊勢遺跡
纏向遺跡ではない 地球規模の気候変動で銅鐸を見限ったのかもね
この役立たずが! 伊勢遺跡に集まって食料の融通とかしてたんじゃないかな?
「家宝の勾玉だがやむを得ん」 >>960
>しかし、実際は伊勢遺跡も唐古鍵遺跡も疑いなく存在していた
伊勢遺跡や唐古鍵遺跡などの近江湿地や奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。 @阿波 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。