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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説
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0001日本@名無史さん
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2023/02/13(月) 23:39:39.14
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める
0366日本@名無史さん
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2023/07/04(火) 08:35:25.75
>>355

> >>353
> 多くは記紀創作以降に作られてるからな

大神神社だつてそうではないという根拠はない。
0367日本@名無史さん
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2023/07/04(火) 08:48:35.66
>>365
大田田根子を祖とする大神神社の社家としては、始祖の主君の娘さんの墓を間違えて伝承する事は無いだろう。

奈良県磯城郡史にはホケノ山の被葬者が豊鍬入姫だと書かれているそうだ。
0368ネ トウヨ撲滅隊
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2023/07/04(火) 09:18:13.90
渟名城入姫を渟名城稚姫とする記述があるからイリはワカと同義だろう。

これはオレが勝手に言っているのではなく代々日本紀の家とされてきた吉田家の説である。

吉田家の伝承ではイリヒコやイリヒメのイリはイラツコやイラツメなどイラと同義だそうだ。

吉田というと吉田兼倶のイメージで人によっては胡散臭い感を抱くむきも多かろうが、倭面土国はヤマトであるなど彼らの伝承はなかなか面白い。
0369ネ トウヨ撲滅隊
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2023/07/04(火) 09:28:58.38
吉田関連については語ると長くなる上に、吉田神道の話が絡んでくるから宗教くさくなる。
また中世神道についての研究書を読んでいないと理解も追いつかない。

三輪については三輪流神道についての本を大神神社が出している。
伝承云々を議論するのであれば、そう言ったものを読んでからが良いであろう。

オレは21世紀なのだから国学者の九州説など捨てろといっている。
国学研究の下敷きには吉田家の伝承があり、吉田の伝承では邪馬台国は畿内説だ。
江戸時代のナショナリズムによって九州説に変えられたと言うわけだ。
0371日本@名無史さん
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2023/07/05(水) 01:59:29.30
>>370
ある意味その通りだよな

一世紀頃から九州倭国や出雲の原点となる海洋種族=海人族が日本の沿岸各地に拠点を設けて在地の弥生民と交流し共存し混ざりあったのが倭種の原点

その中には略奪民も存在しいつしか環濠集落となる理由がこれ
この状況下で交易に有利な物資を持つ地域が力を持ち、鉄や威信財を手に入れることで権威が加速する
3世紀までこの状態が続き、それゆえ海人族や渡来人によって日本各地の文化平準化が行われた

文明的には西高東低だが一部関東や東海地域の繁栄などを見るとコメ生産力と採掘資源の豊富さが各地の力の源泉だっただろうね
0372日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 22:03:41.69
百襲姫の大物主との婚姻の際、昼に姿を見せず夜のみ姿を現すという記述と箸墓築造の昼は人が作り夜は神が作ったという記述
この2つの逸話に関連する「夜に神が現れる」状況は一体何を指すのだろうか?

類例があまりないのに百襲姫にまつわる部分のみこれが強調されるこの事象
大物主の一派が天照とは対象の存在であるという意味なのだろうか
それとも吉備勢力が関係してるのか
これは崇神時代の謎の一端を示してると思うんだけど決定打がない
0373日本@名無史さん
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2023/07/26(水) 17:38:39.25
黒岩重吾によると
「邪馬台国の祭祀は原始宗教っぽいが、大和朝廷の祭祀は太陽崇拝が入ってくる」
と。
質的な変化があったのか?
0374日本@名無史さん
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2023/07/26(水) 20:05:14.44
>>373
ひとつの要素としては銅鏡の大量生産、大量配布があったかと
元々近江、丹後、畿内、東海は銅鐸生産の先端地であり大穀倉地帯
技術を生み出し発信する土壌がある

この技術のベクトルを大国主型統治から大和王権型の太陽祭祀に向けることでより垢抜けたのかもね
0375日本@名無史さん
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2023/07/26(水) 22:27:33.24
自分達で大量に作ったのは手に入らなかったからかもな
0376日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 06:55:32.80
変化があったのではなく別の国だから

邪馬台国は北部九州倭国、ヤマト王権は畿内日本国で、古墳時代には別の国だった
0377日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 12:03:42.28
邪馬台=ヤマト
0378日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 14:20:13.59
銅鏡の大量生産と大量配布の始まりが
糸島 平原の方格規矩四神鏡。
2つの糸島の墳墓から数十枚出て
離れた地域の古墳から一枚ずつ数か所から出ている。

量産して配り、王墓に配りきれなかった
数十枚の残りを入れたような感じ。
0379日本@名無史さん
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2023/07/28(金) 21:31:36.00
>>378
この辺りが九州王権の頂点だと感じることができるね
これを魏志に照らすとまさに卑弥呼の時代でありその後九州が混乱した構図が浮かぶ

同時期に突然畿内が浮上し祭祀の創始や開発が進む
まずは威信財を含む交易権を畿内に持ち込まれたことが契機となり、先端思想である天照祭祀により威信財の担保が行われた
「ヤマト」の呼び名ももこの頃の産物

これらを達成したのが物部祖神である饒速日系統で、九州王権とは別の天孫であり、大国主系統とも繋がる大王家が畿内に君臨したとすると記紀の筋に合わせられるね
0380ネトウヨボクメ ツ タイ!
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2023/07/29(土) 08:09:35.32
邪馬台国はヤマト王権であり、日本は中華に朝貢した過去がある。

ネトウヨの歴史修正主義には困ったものだ。
731部隊の存在を否定したり性奴隷問題を矮小化したりフクシマの汚染水を安全だと言ってみたり東條やヒロヒトは戦犯ではないと主張したりと本当に困ったもんだな。
0383日本@名無史さん
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2023/08/16(水) 00:32:29.55
初期ヤマトにおける鉄器生産に関して
3世紀後半時点で鉄器出土に関して畿内では目立った成果は無い

しかし関連した周辺地域である愛知、京都北部、福井で大量の鉄器出土が見られ、その後4世紀以降の吉備で製鉄の痕跡が見られる
ただしそれらは5世紀以降には分散または枯渇し東国へ広がりを見せる様相となる
四道将軍が各地を制圧したのはこれらの関連性を思わせるものだ

特に弥生後期からの丹波、福井、愛知での鉄器出土が何を表すかが気になる
1つは技術者の移住および工業拠点化と思われるが、もうひとつの可能性として鉄鋼の産地があったのではないか?ということ
岐阜の金生山の赤鉄鉱が愛知朝日遺跡のパレス土器のベンガラに使用されていた様に、すでにこの時代には鉄鋼関連の埋蔵は周知だったはず

基本的にその前段階として九州における鉄器製造が栄えていたことも含め、この辺りの整合性を上手くまとめてみたい
0384日本@名無史さん
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2023/08/16(水) 01:00:04.67
九州文化と祭祀が畿内の政治的イニシアチブを取った背景にあるのが稲作開拓技術であるということは以前も考察したが、ここに鉄の農耕器具の革新があることは容易に想像出来る

それが後のヤマトにおける古墳造営、武器製作、石棺に使う石工や鉱山開発など古墳時代に発展する文明の根幹となったと言える

特に飛鳥時代の石工文化や寺院造営による木材加工なんかはかなり鉄器文化が発展した証左であるからこの視点で文化発達の経緯をを見ていくのも良いかもしれない
0385日本@名無史さん
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2023/09/05(火) 21:20:33.11
>>383
丹波、若狭あたりの鉄器が長野を経て関東に流れたのは、山陰が博多経由で入手した鉄器ではなく、丹波や若狭が独自に半島から入手した鉄器のその余剰が関東方面に流れたものとする研究は既にある。
ただ、愛知は、しかし、近江、大和と並ぶ鉄器過疎地の一つだったと思うが。
いずれにしても、この関東への鉄器の流入が、近江、大和、愛知ほかの鉄器過疎地が結託して大和に連合政権を作って、博多を攻略して鉄器を入手しようとする企画を立てさせる引き金になったのだろう。
そして、関東で鉄器の入手が遅れて鉄器過疎に泣いていた千葉あたりの勢力が、この大和にできた新しい連合にさてもさてもと馳せ参じたのも、やはり鉄器ほしさからだった。
これが、纏向に鉄器過疎地が寄り集まって連合政権をつくったそもそもの動機だと思うよ。
0386日本@名無史さん
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2023/09/06(水) 21:54:44.67
>>385
確かに愛知が鉄生産してた痕跡はなく明らかに間違いだったね
ベンガラは使われてたから資源の認知はあっただろうが技術が無かった

弥生末期から古墳時代にかけて鉄生産と鉱物資源採掘はかなり貪欲に行われそれが各地の富の蓄積と権力基盤になったのは文献には無いが確実に言えること

北陸に鉄生産が隆盛したのはそれを交易できる資源、すなわち翡翠や瑪瑙の採取と加工が盛んだったことと関係あると思う
0387日本@名無史さん
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2023/09/07(木) 16:33:39.28
面白いのは、山陰と北陸には四隅突出墓が造られるが、丹後と若狭にはこれがないこと。
方形台状墓が丹後と若狭の墓制。
この地方がなぜ出雲の墓制を取り入れず、またここの鉄器が長野から関東へ流れたのかが注目点。
丹後と若狭は、弥生後期から終末期にかけて、どのような立場を持つ地方だったのか。
詳しいことを簡単に教えて。
0388日本@名無史さん
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2023/09/07(木) 22:29:28.60
>>387
詳しくは無いですが考察するのは面白いですね

まず思い浮かぶのは都怒我阿羅斯等
崇神の時代に加羅国王が渡来したとあるから墓制の時代感とも符号する
加羅は任那と関係が深く当時の輸入鉄資源と関連性を感じる

次にお隣丹後の豊受大神
後の稲荷となるのだけど、個人的には九州出身で丹後に移住し狗邪韓国を繋いだ人物の印象
裏に見え隠れするのは宗像氏や物部などの天孫系と海人族
鉄器を用いた稲作技術と三輪山系祭祀や天照祭祀の一原型と考えられる

この2つの勢力が出雲勢力に割り込む形でこの地方に割拠し、それを支援したのが丹波道主命や崇神を擁する畿内ヤマトでないかと
墓制に統一性が無いのは箸墓古墳築造前の混乱期だから?

大国主支配地がヤマト王権に移行する際の過渡期のように感じます
何故これらの出来事が短期間で起こったかと考えると、やはり九州王権の混乱と分裂、衰退が契機ではないでしょうか
0389日本@名無史さん
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2023/09/07(木) 22:56:32.15
>>387
丹波道主命(彦坐王とも)と大彦は四道将軍として丹波、丹後や関東へ拠点を作る
これは鉄製品出土と符号
そもそも古墳は鉄具と石工、土器などで作られる複合技術の結晶だが、前方後円墳が制定される前はその土地の支配者の持つ有力技術によって独自性があったことが想定できる

北陸は出雲と同じく渡来系技術や輸入鉄材の入手経路となり得るので、それゆえ鉄生産に乏しい当時の本州に対してイニシアチブが取れる先進地となり得たと考えます

そしてヤマト王権に敵対するものでない事も注目出来る
何故なら崇神以降が興した祭祀や事業への関連が深いため
その後の近江の秦氏や息長氏も含めて一族総出で大王家を作り上げる、というような意志を感じます
0390日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 04:42:44.64
若狭や丹後が崇神の畿内とつながっていたら、3世紀中頃以前に纏向に鉄器がかなり入っていたはず。
実際には、近江や大和、尾張には、この時期に鉄器は全然入ってない。
近江、大和、尾張の三角連盟は若狭、丹後と連携してなかったのとちがうかな。
浦島子伝説が丹後国風土記に出ているところからすると、宮崎方面からの勢力と関連するのかもね。
0391日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 19:10:09.84
>>390
確かに時期を重視すると墓制が違うこと
丹後の豊受は伊勢遷宮の成立後に祀られたこと
鉄器が初期の纏向遺跡に存在しないこと
これらから仰る通りで、実際に都怒我阿羅斯等は崇神に会うことがなく後の垂仁に会っていることもあり、その後強力な連携を結んだとはいえ崇神期には痕跡がない

というかこの時期の時点ではまだ混乱期で割拠状態であり畿内ヤマトの優位性は無かったのかもしれないね
ではどうやって畿内の大王家が影響力を持ったのか
鉄を近辺に握られてるのに?
というところに行き着きます
0392日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 22:26:42.59
ひとつの気づきとしては
丹後や若狭の事例を奈良に当てはめようとすると崇神では無く饒速日命が妥当だということかな
その後事績に対する顕彰というか、国作り事業を祭祀として確立したのが崇神
この方式を行うことで他の豪族とは違う立ち位置を作り出した

逆に言うとこれまで権力保持してきた権力を一族祭祀の形で封じ込め、新たな事業を行う足がかりにしたのではと考えてしまう
これはその後古墳祭祀に移行することとも関係あると思う
0393日本@名無史さん
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2023/09/10(日) 03:01:31.95
崇神(260年代)のころは、若狭・丹後と大和の立場は逆転しているね。
大和から若狭・丹後へ鉄器を配布していた立場。
纏向が隆盛になり始めたのは、この頃だね。
0395日本@名無史さん
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2023/09/10(日) 09:46:49.15
大国主の本州支配は支配と言うより2世紀頃までの技術に基づく交流連合といえる
例えば銅生産や石器での稲作
玉類など

その後鉄や牛馬の導入などで稲作や探鉱が飛躍的に進歩したとしたらそれを持ち込んだ一族が地域を支配し割拠が始まる

これらは交易のみの秘匿技術であったものが邪馬台国による半島交流が活発化した事で拡張され各地に認識された事が契機なのだろう
だから吉備、若狭、丹後など初期発展の国々は資源と地政学的に優位にあったと言えるでしょうね
0396日本@名無史さん
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2023/09/10(日) 14:48:08.98
>>394
大和に鉄器が現われてくるのは、ホケノ山古墳から。
大和に政権を置いた鉄器過疎地帯連合は、この頃に博多を攻略して輸入された鉄器、鉄素材を一括して大和に集め、これを加盟各勢力に配布し始めた。
この時期の凱旋将軍が、開化天皇。
この天皇は、ホケノ山古墳に葬られた。
そのあと南九州から招かれた海人族の宗家の大シャーマンが、連合政権の大シャーマンに就いた。
270年頃に亡くなって箸墓古墳に葬られたが、この大シャーマンが崇神天皇。
博多からの鉄器一括移入と加盟各国への配布によって、崇神の纏向政権は発展し始める。

出雲など山陰は、博多からの鉄器輸入がままならなくなり没落。
丹後や若狭は、勝手に半島から鉄器を輸入できなくなり、纏向政権から鉄器の配布を受ける政治システムに統合されて、纏向政権の傘下に入ることになる。

これが、この時期の丹後や若狭の政治動向。
0397日本@名無史さん
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2023/09/11(月) 08:45:21.87
紙上テロルされた神武天皇を復権せず、
“大和朝廷の日本国”を抹殺する“マジック虚構”
「邪馬台国」論も粉砕しない“アパシー国”日本は、ローマ帝国“滅亡”再現にすぎ、必ず滅亡する──
中川『神武天皇実在論』を座右の書とすべき理由
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=3096#more-3096

筑波大学名誉教授、中川八洋

「ヤマト(のくに)」と訓むべき「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と嘘読みする“犯罪者集団”古代史学者

「ヤマタイコク」など、日本国のどこにも存在しない。
歴史学的に日本の古来には“大和朝廷の日本国”は存在するが、
虚空に描いた「ヤマタイコク」は悪質な偽情報で真赤な妄想。

日本では良心と常識ある日本人が、邪馬台国「九州、畿内」論争の存在を、
何冊かの本で知り、まだ日本には正しい歴史への再建の可能性は高いと安心している。
これら普通の常識人は、邪馬台国「畿内」説が有力で、
明らかな詭弁の嘘つき「九州」説を叩きのめす勢いに、安心している。
が、邪馬台国「九州」説も邪馬台国「畿内」説も、五十歩百歩。両者とも、
さほど変わらぬ歴史偽造だから、同じ穴の狢。

「ヤマタイコク」など、九州でも畿内でも、日本列島のどこにも存在しない。
「やまとのくに」しか日本には存在しない。『魏志倭人伝』を記録した魏の外交官たちは、
「やまとのくに」を漢字で「邪馬台国」と表記した。彼らは聞いたこともない、
実在しない超・妄想「ヤマタイコク」を記録などしていない。
0398日本@名無史さん
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2023/09/11(月) 16:35:56.53
いや、ヤマトは後漢書の記述に由来する地名だから、邪馬台国とは時期が整合しない。
ヤマトは邪馬台国より200年以上あとにできた地名だから、「やまとのくに」しか日本になかった説は無理無理。
0399日本@名無史さん
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2023/09/11(月) 21:46:57.03
いつも思うんだけど
孝霊天皇以降、ウツシコメ、イカガシコメといった物部系の女性(何故か酷い名前)が大王家の皇后となり物部系が強化される
その子らは強力な物部系となるが、孝霊の皇后のハエイロネは別系統でモモソヒメと吉備津彦の母
なぜかハエイロネは別名オオヤマトクニアレヒメと大層な別名
なのに出自は謎

でも孝霊の子孝元はハエイロネの子では無く大王家を継ぎ、物部のイカガシコメを皇后とし開化天皇から崇神へと引き継がれた
ここに何らかの作為と原点が潜んでいる気がする
ハエイロネ系統は非物部として輝くが大王系譜には入らない
実質的に物部と大王家の血が濃いのは大彦で娘が崇神の皇后となる

結論として
ハエイロネとモモソヒメ、吉備津彦系統は事績以外の何らかの力で崇神の畿内に大きく貢献してる
崇神の前世代だから2世紀後半あたり
0400日本@名無史さん
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2023/09/12(火) 00:54:20.20
古事記では、蠅伊呂泥は安寧天皇の曾孫で淡路島出身。
孝霊天皇の妃となった。
この蠅伊呂泥は、師木県主波延の玄孫だという。

師木県主波延がくせものだよ。
0401ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2023/09/12(火) 11:19:30.41
ヤマト国=邪馬台国

西暦180年頃、即ち桓霊の頃に畿内で突如銅鐸文化が消滅し、九州系の銅鏡文化に祭祀が変わる。そして纏向遺跡の建造が開始されて纏向型前方後円墳が出現する。

これは九州勢力によって畿内の銅鐸文化人が征服された事を意味しており、邪馬台国の成立が神武東征神話の元ネタだったことが分かるだろう。

あの巨大な纏向遺跡は少人数の征服者では建設が出来ない。畿内の征服は西日本各国が連合して行われた大規模なものであったろう。この連合を纏めた大首長がいたはずである。

普通に考えればこれこそが邪馬台国つまりヤマト王権の初代王と大斎王の卑弥呼だろう。
0402日本@名無史さん
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2023/09/12(火) 20:50:31.49
>>400
ハエイロネについては女系文化圏の匂いがするね
対して物部は男系に対する外戚関係確立の先駆けに感じる
これらの感覚が混じっている時代だということかもしれない
記紀はあくまで男系の目線しかないから時代感がこじれる要因なのかも
0403日本@名無史さん
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2023/09/13(水) 10:38:25.98
>>402
女系=祭祀の女王だとしたら阿波出身である蝿伊呂泥は畿内にやってきた祭祀女王の立ち位置
その後娘の倭迹迹日百襲姫命が受け継ぎ、崇神により天照大神と統合された?
伊勢や斎王は女系の名残だからね

時代的に考慮すると吉備津彦といい箸墓古墳といい瀬戸内の豪族連合との統合象徴だったのかもしれない
欠史八代は女系祭祀時代というのは時代的に符号する

物部の婚姻政策は男系大王家強化の側面がかなり強い
この考えで崇神が確立するとして、女系祭祀社会との決別が画期としてあったかもしれない

崇神が疫病による祟りを恐れた要因もこの切り替えが要因としてあるかも
さらに言うと墳墓が古墳祭祀と結びつくところにも繋がる
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/13(水) 10:45:01.20
ハエ=ウマシマジ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/16(土) 23:42:42.22
魏志と神話で妄想してみる

饒速日命は邪馬台国側の物部一族で天孫
卑弥呼より派遣された(大倭)であり邪馬台国時代においての畿内の統治者としよう

邪馬台国を滅ぼした狗奴国の卑弥弓呼と狗古智卑狗
卑弥弓呼は天孫の分家だろう
これは瓊瓊杵尊の匂いがする

狗奴国(熊襲、熊本)が投馬国(妻国、高千穂)と連合し邪馬台国に対してクーデターを起こし勝利したとする
狗奴国は筑後平野を支配
で、もう一方の投馬国の彌彌那利が天孫の天忍穗耳尊だとしたら
その孫の神武は邪馬台国を滅ぼしている側なので、畿内において同族である饒速日命から権力を奪う正当性が見えてくる
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/17(日) 01:54:47.35
その後
神武がもたらしたのは婚姻関係による連携と威信財の導入権
饒速日命による国づくりで発展していた畿内の開発は物部一族主導で進み徐々に大王家と一体化

これで欠史八代の実績の弱さが説明でき、地盤を築いた物部一族による婚姻政策で大王家の権威、実績が開化する理由となる
また天孫の祭祀として、威信財の基盤となる天照信仰が構築される理由ともなる

個人的にはこの一連の流れのどこかで権威の引継ぎとして邪馬台国=ヤマトが畿内に定着したのだと考えるけど何処にもこの根拠は無い
だから妄想の域を出ない
0407ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2023/09/18(月) 20:40:42.77
日本書紀によると允恭天皇五年に地震があったという。
地質学的にも西日本で西暦420年頃に大規模地震があった事が分かっているから、允恭の即位は410年代と推測できる。

日本書紀が暗に卑弥呼に比定している神功は彼の曽祖母だから、年代的に全く合わない。

やはり卑弥呼はモモソヒメに比定するのが適切だろうな。
そして崇神は西暦300年頃の人ではなかろうかと思う。
もし崇神を卑弥呼の男弟とするならば、忘れられた天皇が何人かいると想定せねばならぬ。

桜井茶臼山やメスリ山の被葬者は大王だった可能性がある。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/18(月) 20:42:39.49
>日本書紀が暗に卑弥呼に比定している神功は彼の曽祖母だから、年代的に全く合わない。

>やはり卑弥呼はモモソヒメに比定するのが適切だろうな。

選択肢の狭さにワロタw
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/20(水) 16:59:44.59
天照大神は氏族観点から見ると海部氏の祖神という意味
海部氏勘注系図はほぼ正解の資料
天照は日女命であり卑弥呼であり火明命すなわち饒速日命
丹波の籠神社はその後継の登与(豊受)によって成立

倭国大乱により丹波に本拠を作った豊受と生駒河内に本拠を作った饒速日命
この2つの天照を崇神期に合祀させたのが倭姫命
その後統合した天照は伊勢へ

なら卑弥呼は?
その一世代前の20年くらい前に権力分解したと見るのが適切かな
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/26(火) 23:06:29.76
やはり崇神までは女系の名残りあるよな
饒速日自体が女系を男系にすべく大和入りした天孫で神武と同一だろう
なぜ女系から男系になったかと言うとそもそも邪馬台国が連合各豪族の女性を集めて祭司的に管理させたシステムでは大王家が成立しないからだ

残った男が実質管理し男王による強力な統治を継続する必要が生まれ結果大王家が必要とされる

これは饒速日尊が始祖で多分神武と同一だけど崇神までかかったのは男系として確立するための部族の血族的統合の期間が必要だったから
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/07(土) 22:21:09.14
最近思うのは
弥生末期の九州が繁栄したのは1つの経過点 という事

教科書的な解説になるけど
海人族による全国交易拠点化が進み、大陸との中継集約地として重要度が飛躍的に増した

交易は物品のみをもたらすが、更に交易品から直接生産活動へ転換するため徐々に技術を持つ人々が拠点に移住

その代表的なものが銅生産、鉄生産、土器生産、辰砂採掘
これらが豊富な本州にて新たに集約拠点が必要となる
これが畿内大和

そもそもヤマトは九州で交易を支配する天孫族のコロニーであり倭国の窓口
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/08(日) 12:32:25.98
天智天皇の九州政権は、白村江でボロ負けして
近江大津宮に遷都。天武天皇にクーデターを起こされ
政権は機内に移る。
源平合戦で源氏が勝ち、政権は鎌倉に移る。
以後、室町時代、安土桃山時代、江戸時代へと続く。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/10(火) 09:37:46.35
饒速日物部が天皇家でないのは外戚だから
外戚という考え方が既に男系を指しているのだけどこれを女系に転換すると開化天皇の頃まで天皇家が物部とその祭祀に従う構図になる

崇神が行った本意はまさにここで、祭祀存続のための女系を切り離し一族祭祀に切り替えること
ある意味で九州を主とする女系祭祀は農耕共和制というか、配下として一族がもつ役割を軽視してきた部分があったはずだ

だからこそ武や鉄の要素の強い物部も大王家と同じく一族の結束を強めるべく男系に移行することを望んだと考えられる
また、渡来民が持つ文化、技術や職掌が一族相伝であることも関係しているだろう

崇神以降が部民制や氏名制となり古墳が一族を祀っていることからもこの要素は見過ごす訳にはいかない
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/18(水) 10:54:19.25
我は願い、主を崇める。主は鉄槌を与える。ぴ~こぴこ~☆はんまぁ~♪
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