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邪馬台国畿内説 Part863
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2023/02/15(水) 06:24:57.73
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1676168263/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:25:51.24
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/02/15(水) 06:26:23.32
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/02/15(水) 06:26:54.70
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2023/02/15(水) 06:27:25.89
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
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2023/02/15(水) 06:27:56.78
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2023/02/15(水) 06:28:27.56
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2023/02/15(水) 06:28:58.68
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2023/02/15(水) 06:29:46.71
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/02/15(水) 06:30:17.55
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:30:49.44
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2023/02/15(水) 06:31:30.40
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:32:01.37
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:32:31.81
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2023/02/15(水) 06:33:01.47
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:33:32.56
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
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2023/02/15(水) 06:34:03.52
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2023/02/15(水) 06:34:32.49
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:35:03.94
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:35:33.44
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:36:04.31
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
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2023/02/15(水) 06:37:17.56
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
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2023/02/15(水) 06:37:48.39
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:38:19.61
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:38:50.31
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
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2023/02/15(水) 06:39:23.03
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
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2023/02/15(水) 06:39:57.29
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:40:28.63
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:40:59.46
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:41:30.86
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:42:01.23
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:42:32.42
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:43:04.12
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:43:32.03
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2023/02/15(水) 06:44:01.78
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2023/02/15(水) 06:45:32.76
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:46:03.71
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/02/15(水) 06:46:33.65
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/02/15(水) 06:47:04.59
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2023/02/15(水) 06:47:32.57
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/02/15(水) 06:48:03.97
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2023/02/15(水) 06:48:34.79
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2023/02/15(水) 06:49:06.35
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2023/02/15(水) 06:49:37.69
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2023/02/15(水) 06:50:07.90
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かな
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2023/02/15(水) 06:50:38.53
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/02/15(水) 06:51:07.57
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/02/15(水) 06:51:40.71
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/02/15(水) 06:52:11.42
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/02/15(水) 06:52:41.65
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/02/15(水) 06:53:11.67
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/02/15(水) 06:53:42.05
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/02/15(水) 06:54:13.93
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/02/15(水) 06:54:44.83
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/02/15(水) 06:55:15.69
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/02/15(水) 06:55:47.70
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/02/15(水) 06:56:19.36
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/02/15(水) 06:56:50.64
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/02/15(水) 06:57:20.84
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/02/15(水) 06:57:53.75
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/02/15(水) 06:58:24.83
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/02/15(水) 06:58:56.01
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/02/15(水) 06:59:27.81
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/02/15(水) 06:59:59.22
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/02/15(水) 07:00:29.85
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/02/15(水) 07:01:00.48
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/02/15(水) 07:01:31.59
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/02/15(水) 07:02:01.91
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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垢版 |
2023/02/15(水) 07:02:34.28
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/02/15(水) 07:03:06.15
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2023/02/15(水) 07:03:37.98
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2023/02/15(水) 07:04:11.08
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2023/02/15(水) 07:04:43.70
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/02/15(水) 07:05:14.05
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2023/02/15(水) 07:05:46.51
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 07:25:13.66
畿内説は邪馬台国論争から退却しました
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 07:47:51.34
>>78
脳が死んでいるのかな
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 08:24:23.22
つまり畿内説は脳が消滅
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 09:20:40.55
これは重要だからコピペさせてもらいました。
九州の式内社 名神大社(座数)

筑前 19 16
筑後 4 2
豊前 6 3
豊後 6 なし
肥前 4 1
肥後 4 1
日向 4 なし
大隈 5 なし
薩摩 2 なし
壱岐 24 6
対馬 29 6
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 09:22:22.41
対して畿内中心なのが明白な神社数

式内社が多い國 式内社 名神大社(座数)

1 大和 286 50
2 伊勢 253 4
3 出雲 187 2
4 近江 155 13
5 但馬 131 14
6 越前 126 2
7 山城 122 29
8 尾張 121 8
9 河内 113 9
10 陸奥 100 15
11 伊豆 92 5
12 摂津 75 18
13 丹波 71 5
14 丹後 65 6
15 遠江 62 2
16 和泉 54 1
17 阿波 50 3
17 播磨 50 7
17 因幡 50 1
20 信濃 48 7

陸奥が意外に式内社が多い
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 09:33:09.65
古来からの物と考えられる名神大社数で比較しても畿内方面が圧倒的だな。
神道を旧鬼道と考えれば答えは完全に現れている。
特に九州は中、南部が話にならない程少ないのは、鬼道の国、七万戸の国とするにはあまりにも無理がある。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 09:53:58.77
東の倭種の国なのに邪馬台国に成りすまそうと必死な畿内説の壺売り係
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:10:32.04
神社数=旧鬼道と考えれば必然的に答えが出たな。
何より壱岐や対馬は出雲や畿内方面にちゃんと見合った神社の数がある。
筑紫も少ないが名神大社数で何とか面目を保っているともいえる。
つまりここが奴国で伊都の出張所であった事も間違いない。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:14:29.35
熊本や大分、宮崎辺りはやはり元々鬼道使いの卑弥呼とは対立関係があったのだろう。
あまりにも極端に神社数が少ない。
とても奴国より多い戸数の国があったとは結論出来ないエリア。
やはり単純に魏志倭人伝は東を南と間違えていたのだろう。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:18:12.41
>>90
別にかまわないけどな、そもそも鬼道は中国人からみた観念だぞw
鬼道使いの卑弥呼が倭国最大の七万戸の国を都としていたとあるなら、当然神社数にも反映するだろう。
鏡を御神体にしている神社も多いしな。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:20:29.62
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66体(うち刺し違え2体)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:24:30.90
神社数で見ると、奴国二万戸が筑紫、投馬国五万(出雲、丹波地方含む)だな。
畿内方面の山城、大和で邪馬台国七万戸でかなり近い感じ。
傍国がその周辺エリアで女王国の端が紀伊半島東辺りか。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:27:01.75
>>93
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:30:56.58
>>95
福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
 ↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟)
 ↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)

JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 10:48:13.15
>>93
近年の考古学の進展により、記紀(畿内説)による比定【伝承・言い伝え】の誤りが続々と明らかになってきた。

典型的な例が、伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)の順不同w
西殿塚=手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)ということは、箸墓=モモソ姫♀陵も誤りである可能性が高い。
つまり「女の墓」という記紀による誤った【伝承・言い伝え】の定着を悪用して、そのまま卑弥呼の墓との「匂わせ」に悪用しているわけだw

まとめると、

卑弥呼の冢…祇園山古墳(殉葬66人。うち刺し違え2体)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
饒速日の墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)

細かい順不同はともかく、概ね記紀の系譜と築造編年がほぼ合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0102日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 10:50:45.79
>>96
それが延喜式における神社数と何の相関関係がある?
この事実を無視して奇妙な妄想ばかりしてるのが九州説の連中なんだが。

九州南側に少ないのは、大和朝廷に反抗していた事実とも合致しているな。
0103日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 10:53:19.18
>>101
弥生時代(吉備楯築墳丘墓・ホケノ山)には殉葬がないのに、古墳時代(箸墓)になって突然野蛮な殉葬を始めたとする時代錯誤な畿内説!w
0104日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 10:54:04.30
肥前肥後でたったの10社しかないからなw
やはり鬼道に対抗していた国々は神社数が少ないで全て説明出来るだろう。
0105日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 10:54:48.87
>>103
記紀の間違った伝承&似非考古学で初期ヤマト王権の大王墓の築造年代を早めて、邪馬台国の遺跡とオレオレ詐欺してるのが畿内説ということだね。
0107日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 10:59:14.78
>>105
畿内説=オレオレ詐欺で町興し+学者の食い扶持づくり

奈〇県立橿〇考古学(捏造)研究所
桜〇市立纏〇学(捏造)研究センター
0108日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:00:59.86
昔から九州説の大先生が丹や鬼道から逃げていた理由がよく解りますね。
だから記述にもない鉄器を推すしかなかったんだろう。
0110日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:02:56.38
平安時代の神社数に何の意味が?w
0111日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:05:30.08
平安どころか現代の地名が似ている!と東遷を説明する先生もいるくらいだけどなw
0112日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:11:37.03
平安時代の神社数でも神話の国である出雲や丹波、丹後、そして魏志倭人伝に確実に登場する壱岐や対馬も多いんだからな。
九州は南にいく程少ないのはやはり対抗勢力だと観るべきだろう。
そうなると邪馬台国への行程とすればやはり南ではなく東が正解だな。
0113日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:11:53.23
>>93
>>101
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0114日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:15:27.56
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬(出雲)国を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉の口八丁に騙されたぁああ!!」(三角縁神獣「銅鏡千枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(4世紀の崇神纏向王宮)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は(記紀の後付け地名)ヤマト王権ってあれほど言ったのに...orz」
0116日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:46:25.23
>>97

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0117日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:49:23.44
>>85
畿内は、古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が「阿波」に比べて圧倒的に少なすぎる。   @阿波
0118日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:51:10.83
>>96
7世紀だな。   @阿波
0119日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:51:17.34
>>116の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0120日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:53:04.91
>阿波には神社が少なすぎる。

「阿波」が元社なんだから、当たり前。 全国に分社が拡散しているだけのこと。  わははははは   @阿波
0121日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 11:55:19.92
>>113
>>119
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち刺し違い2体)確認されている祇園山古墳を比定。
0123日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:07:05.59
九州説は反論出来ないとコピペ荒ししか出来ないとは、昔のまんまだなw
0124日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:08:44.03
>>110
どのみち、奈良の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。  
当然、「阿波」からだろう。 
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。     
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。  わははははは   @阿波
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:09:39.84
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0126日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:09:49.14
>>121
消去法により、先に九州説が消える
0127日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:09:59.97
阿波は神社が少ないというより地方の一国というかんじだな。出雲地方は多いのに。
勿論そんな神社が少ない場所に都は元々ないw
0131日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:13:06.50
弥生時代に神社なんか無いってばよ
遺跡がないでしょ
0132日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:13:55.67
>>127
徳島は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多い。
例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、
奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。
式内社以外でも、徳島県の神社の祭神はほとんどが古事記神話の神である。
これらの事実からも、古事記神話は倭国(阿波)で起きたことを記した記録なのである。   @阿波
0133日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:14:24.40
>>121
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0134日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:16:50.04
出雲丹後や近江、畿内方面には弥生時代の遺跡が沢山ありますよw
勿論壱岐や対馬、筑紫方面にも。神社数の多いエリアと一致。

現在の弥生時代後期最大の遺跡は出雲方面の妻木晩田遺跡ですね。
0135日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:17:54.35
>>133
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0136日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:19:02.31
阿波もせめて百があればね、絶対数が少なすぎで論外ですねw

何しろ邪馬台国は七万戸なんで鬼道の国とすれば阿波では話にならない。
0138日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:20:46.08
>>85
卑弥呼の時代は神社の社殿なんかない。式内社の数で推測できるのは飛鳥奈良時代の都が何処であるかまでだろう。
0139日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:21:05.11
>>135
ワとしか読めない「倭」や、ダイワとしか読めない「大倭(大和)」を無理矢理ヤマトと読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、北部九州時代の首都・筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2683年w)。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:21:51.98
纒向遺跡の建物は3棟合わせた建坪が最大級ニダー

注意 3棟で一つの建物とのことなので実質建物は一つしか発見されていません
0141日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:22:12.49
>>139
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=「和を以て貴しと為す」の意味)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:23:09.73
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

もしかしたら中身も一緒に??
0143日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:23:18.82
>>132
祭神名=神社名は祭神のすり替え対策だと思われる。実際にやってるしな。
0144日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:23:43.10
平安時代の出雲は既に国を分割されてるからな。
本来出雲大神宮は京都の亀岡にあります。つまり出雲の国域は本来丹波地方をも含む国ですから。

その南側には山城と大和、つまり邪馬台国が位置する関係になり、廣志の国関係、伊都と邪馬壱国の関係が成立してあます。
0145日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:24:54.89
>>140
周りをもっと調査すりゃいいのにね
難波や博多の遺跡調査は困難だろうけど、田舎ならなんとかなりそうなのに
0146日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 12:27:30.25
>>198
名神大社の数を重視しても同じ結果だからね。
やはり壱岐対馬から筑紫、出雲、畿内への流れの順番は変わらない。
これらは鏡や貨泉の出土傾向とも変わらないしな。
熊本や宮崎辺りが少ないのはそこが対立国だからに他ならないだろう。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:29:57.20
>>145
難波や博多は開発で既に掘り返してる
田舎は民家や田んぼで掘れない
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:32:57.52
民家や田んぼは遺跡が保存されてるからいいんだけどさ
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:33:40.58
奈良盆地なんて葛城地方ちょっと掘ったら一気に弥生時代中期で最大の水田跡を持つエリアになったしな。
地下鉄も地下街も新幹線も無い場所、南部なんていくら掘っても終わらないw
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:39:29.53
>>151
埋め戻しは良いけど破壊は二度と元に戻らないからな
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 12:52:01.47
>>136
>阿波には神社が少なすぎる。

「阿波」が元社なんだから、当たり前。 全国に分社が拡散しているだけのこと。  わははははは   @阿波
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:00:05.31
藤原京の造成時には弥生時代の遺構が破壊されてるだろうな
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:02:24.24
>>145
纒向も既に広範囲に調査済みだよ
そな結果それなりの発見が無ければ発掘調査は行えない
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:04:54.13
>>149
基本
遺跡が残ってる=その時代以降は利用されなかった土地
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:06:57.99
>>154
>藤原京の造成時には弥生時代の遺構が破壊されてるだろうな

藤原京跡地の下にある遺跡は、唐・新羅軍に追われた百済人の居住跡。   @阿波
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:10:10.87
阿波に在るのは大和でパッとしなかった古代氏族の逃亡先の跡
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:10:25.03
上に建てても柱跡は残るでしょ
難波宮は前後期残ってるし
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:16:05.59
>>161
堆積物が違うのにそんなわけあるか
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:22:40.14
九州説はニセ情報流しすぎ
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:22:41.91
鍵唐古の西側、保津宮古地区の遺跡下にも弥生時代の大集落跡があるのは判っているよ。
でも中世の遺跡の下で既に何メートルか削られいる。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:24:43.11
柱を何度も引き抜いてるのがわかるのもその度に乗っかる堆積物でしょ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:27:34.18
>>157

下部構造というか、近畿地方の地表面より上の盛土の埋葬(墳丘墓)だと、
瀬田の円形周溝墓のように残るのはほぼ周溝だけ
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:37:42.52
>>168
深さとかじゃなくて乗っかる堆積物
地層
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:42:43.58
掘立柱建物は礎石を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床とした建物
伊勢神宮も礎石は使用しない
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 13:54:10.75
場所が違えば堆積物も違うしわかんないだろうが
隣接する建物なんかはどっちが先とか後とかどの遺跡も発表してるでしょ
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 14:02:17.50
春日大社やあの辺の寺社の下には卑弥呼より前の弥生時代後期の凄い遺跡がありそうやけどな
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 14:07:16.23
そもそも邪馬台国は南であり東には倭種の国があった地域なので畿内説は必要ありません

そもそも箸墓古墳はおよそ径二百歩なので卑弥呼の墓として候補にはならないので畿内説には参加資格がありません

そもそも纒向建物には警備厳重な城柵も楼閣も無いので卑弥呼の宮室候補とは言えず畿内説は失格です
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 14:09:02.16
>>176
理由なき呟き乙
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 14:13:08.71
南だと言い張りながら、帯方郡から南にしたり、
奴国から1、2日しか南に行かないのが北部九州説
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 15:02:29.82
俺は大阪城の下には難波高津宮があったと思うが
あれだけの巨大建築物だから完全に潰されてるかもね
墓があるから何か居たはずなんだが
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 15:05:45.50
>>175
唐古・鍵遺跡、吉野ヶ里、妻木晩田遺跡
ぐらいだな。他にあるかな?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 15:24:43.77
>>181
邪馬台国は近畿だな。
復興、開拓、宗教地
共立で九州だな。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 15:30:04.45
引っ込みのつかなくなった畿内説は苦し紛れに
畿内では鉄は溶けるのだーなんてトンデモ発言をするのだろうか
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 15:33:11.10
大阪城の前は石山本願寺があった(1533年~1580年)
その前は古墳があり、太古より生国魂神社の境内だったとか
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:09:18.04
>>183
鉄はどこでも溶ける
九州説は常識がない
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:16:41.65
>>185
嘘に嘘を重ねるのが畿内説にとっての常識なのかな?
佐原氏が言ったのは「畿内は」鉄が溶けやすい

だぞ?
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:19:47.31
近畿地方も他の地域と同じで紀元前は環濠もありまだまだ纏まりはなかったと思われる
最初にこの地域に纏まりを作り環濠が無くなる迄持っていったのは誰なのか?
播磨風土記だったかに、伊和大神の国作りは尾張で終わりとある
尾張の朝日遺跡も1世紀迄は畿内と同じ勾玉銅鐸木棺墓の集落だった

フツ主の別名であるイワイ主と伊和大神は名前が似ているんだよな
神話は時系列がめちゃくちゃだったり同じ存在が別の名前だったりするのかな?
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:52:14.03
>>160
>難波宮は前後期残ってるし

違う! 前期難波宮は、 さぬき市津田辺り。   @阿波
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:53:46.78
>>154
>藤原京の造成時には弥生時代の遺構が破壊されてるだろうな

藤原京跡地の下にある遺跡は、唐・新羅軍に追われた百済人の居住跡。   @阿波
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:55:04.10
ヌシ(主)は、ウシ(大人)から派生し、7世紀前後に成立した比較的新しい用語
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 16:58:05.29
『出雲国造神賀詞』では、高御魂命(タカミムスビ)が皇御孫命に地上の支配権を与えた時、出雲臣の遠祖・天穂比命(アメノホヒ)が国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告して、自分の子の天夷鳥命に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したとされている

これもある程度出雲国造の主観が入った脚色はあると思うが、
フツ主が国作りの礎を作り皇御孫命に地上を託したということか
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:03:35.32
日本は北魏でタイプは渡来人との浸透王朝。律令国家魏晋と親交がターニングポイント。邪馬台国最高!
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:08:18.41
そもそも邪馬台国の位置論争に鉄は無関係だからな。
鉄が溶けようが錆びようが関係ないんだよw
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:25:06.84
卑弥呼の時代の東国がどうなっていたかだよな
播磨風土記によれば最後は琴になったハリの木があったようだ
尾張もハリっぽいしな
伊和大神の子の伊勢津彦の砦があったと思われるところは名張だしな

筑波の神は飯名というらしい 豬名と同じか
筑波の神と富士の神の親は同じでミオヤノ神らしい
イワイ主と関係あるのかないのか
武蔵国風土記はないが、明治天皇の歌から想像するに東京辺りは萩の地だったようだな
花札では萩に猪
近畿の歴史は東国とも密接に関係していると思うんだよな
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:36:02.92
>>193
魏志倭人伝には倭人が鉄鏃を使っていたと書いてあり、
魏志韓伝には倭人が半島まで鉄をとりに来ていたと書いてあり、
畿内説の壺には鉄は関係無いと書いてあるんだなw
あからさまな現実逃避おw
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:38:27.61
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:39:07.99
>>195
>魏志倭人伝には倭人が鉄鏃を使っていたと書いてあり、
>魏志韓伝には倭人が半島まで鉄をとりに来ていたと書いてあり

まさに鉄器王国「阿波」のことだな。  わははははは   @阿波
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 17:55:11.22
>>187
近畿地方という都会的な語彙の錯覚を暴くと
古代や江戸時代は神戸という地域は村単位の小さな船の発着場があった集落だったし
穢れた大和の土地を捨て辺鄙な山々に囲まれた山背という鄙びた名で呼ばれた京都は
桓武によって土地を開拓された京都という名で人が集積しただけだしな
小さな河内国地域が実は一番、古代の大和奈良より謎を秘めた区間

神戸村の歴史:村の誕生から明治維新まで
https://www.youtube.com/watch?v=Dru9cDrmRDw
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:01:51.45
>>195
倭人とあるだけで一言も邪馬台国とは出てきませんねw
その内容では邪馬台国の位置論争には全く関係ありませんよ。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:16:45.72
倭人と倭種人は別物
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:27:50.25
>>200
当然、鉄器は関東あたりまで出土
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:34:08.62
>>170
恥かくから、やめとけ
式年遷宮って知らないのかね、、
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:34:29.71
>>199
なんで神戸なんだ?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:43:28.43
>>200
あなたの間違いです、
倭人伝では、邪馬台国の様子のなかで
  兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

が出てきております、
なお、其山丹有は倭地の様子です
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 18:43:29.05
>>200
あなたの間違いです、
倭人伝では、邪馬台国の様子のなかで
  兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

が出てきております、
なお、其山丹有は倭地の様子です
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:06:26.31
>>204
纏向遺跡も伊勢遺跡も建て替えやってんじゃん
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:06:29.31
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:12:54.92
>>207
>なお、其山丹有は倭地の様子です

なお、其山丹有は倭地の長国(狗奴国)の様子です。   @阿波
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:19:06.45
>>191
出雲国造神賀詞で最も興味深いのは代々の出雲国造が朝廷に赴いて奏上した賀詞であるにもかかわらず日本書紀と内容が異なる話が許されているところにある。
天穂日命は出雲国造神賀詞では立派に務めをはたしたとしているが、神話では大国主に媚びてしまい三年の間復奏しなかったとされた。
その理由は、天穂日命は須佐之男の子でもあるので出雲が統治権を平和理に譲渡したが、大物主が神武天皇に大和国を譲った話を東征としたため再度不要な出雲の国譲りを行なったからである。その為に、大物主に大国主という別名を与えて出雲国譲り神話を創作し辻褄合わせに杵築大社(出雲大社)が創建されたのは言うまでもない。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:20:24.36
>>199
://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/51.htm

兵庫なら龍野と周辺だな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:23:40.74
>>213
北部九州説が間違いてことだな
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:24:19.25
>>208
纏向はあんなに柱穴が多いのは、建て替えの度に動くから、大型で無く小型かなぁ?
あれ、建て替え、建て替えのとき同じ穴なら、礎石などまもなく建物が弱すぎるよな。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:29:01.75
「関西出身なのに九州説」の人がいたら
コロナワクチンに関しては様子見か脱ワクが多いんじゃないかと推測している

>>213
ごく普通に生活しているだけなら
テレビの言うままにワクチン打ちたいだろうし、邪馬台国も大和朝廷と発音が似てるし、テレビでも纏向と言ってた
ここから反ワクや九州説になるには何かしら追加情報が必要

>>214
まさかマジで言うてないよね? 難しいならもっと説明するけど
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:31:20.23
>>215
柱は打ち込んでるんじゃないから建てて埋めてる
先尖ってないでしょ
それに直径32cmの柱は細くない
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:31:53.79
>>209
平均脳以上の人間には理解出来ない内容w 猿相手に講義してなよwww
0219日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 19:33:31.06
>>208
立て替えてても、柱穴の大きさが違う。
伊勢神宮の場合、20年毎でも中心的な柱は直結70センチ。伊勢遺跡は80センチだったかな?
纏向は太さ30センチぐらいだったかな??
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:37:32.87
テレビしか見てない人はワクチン信じるしかないし、纏向でしょとなる
そういう人には追加情報>>213を与えればいい
一番良いのは与えられなくても自力で勉強出来る人。だから「関西出身なのに九州説の人がいたら情強」という意味やで>>214

>>209
中国の学者は陳寿オリジナルの記述はそれじゃないと言っている
写本の時に倭国東遷後の情報で書き変えられている。文体とかで分かるらしい

関西なのに九州論者だった故・森浩一は「動かせないものが大事」と言っている
文字は写本のとき動かせる、一つしかない金印は持って動かせる
動かせないものを分析すれば
「奈良」にある研究所であっても九州説になる
奈良県立橿原考古学研究所「邪馬台国の勢力圏は北部九州限定だった」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645967816
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:38:17.92
>>219
直径70とか80cmの柱なんてない
伊勢遺跡は30~40cm
纏向は32cm
0222日本@名無史さん
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2023/02/15(水) 19:39:48.55
>>207
邪馬台国に絞った記述は
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

ここ以外ないな。あなたの理論では、
邪馬台国以外の奴国、不彌国、伊都国等には
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 ない事になる
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:40:44.14
>>221
もっとも、魏志倭人伝に寸法などないけど。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:40:47.88
柱は真っ直ぐじゃなきゃいけない
そんなに太い柱は取れない
0225琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/15(水) 19:41:38.21
九州の卑弥呼はイタコ鬼道で倭人を纏め、九州の倭人は、隋代までは確実に一番信じられていたそうだ。アホが住んどる所だわ。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:50:47.84
>>220
動かせないものてなんなんだ?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:53:53.54
>>226
山に丹とか?
宮も柵も動かせるし
あっちこっちにも作れる。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:54:11.44
動かせないものは普通に考えると遺跡だな
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:55:52.87
>>228
引っ越しはできるけどね。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 19:57:42.55
>>229
当時の痕跡が残ってるものはそれ以外ないでしょ
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:00:31.98
>>230
後は山とかだな。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:01:33.91
>>231
だから「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」。  はい、お仕舞い。   @阿波
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:02:06.60
>>231
当然、遺跡も
鉱物資源、動植物の分布も重要
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:03:20.90
>>232
三重までだな。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:03:28.86
>>232
まあそういう事だな
当時そこで採掘してれば動かしようがない
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:03:32.35
常陸国風土記に箸墓伝説と似たような話がある

茨城の里の北にある高い丘に晡時臥山クレフシ山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗刀iぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗唐フ元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗唐熕_の子ではないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗唐ヘ蛇に自分では養いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗唐ェここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗唐ェ盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:07:36.46
能の三輪によると、三輪の神さまも伊勢の神さまもイワクラらしい
三輪の神さまは蛇で、斎宮歴史博物館のホームページの記事によると伊勢の神さまも蛇らしいエピソードがあるとか
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:11:03.41
>>220
森氏もそうだが九州説の先生方に共通する点は卑弥呼が鬼道使いという点の考察だね。
丹や神獣鏡の解釈がとても甘い、割りと重視されるようになったのはここ15年位だから仕方ないが。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:15:48.18
丹生の神、丹生津姫神社があるのは高野山麓です。
また空海も丹生の神として聖地にした場所は多気、伊勢の丹生鉱山でした。四国出身なのに阿波じゃないですね。
倭に丹山有というならそれは紀伊半島しかありませんよ。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:30:04.83
>>239
丹は貴重品だろうしそれが採れるのは重要な場所でしょう
勿論青銅器や玉類も貴重品だろうし需要も必要
それらを総合的に考え合わせると大阪湾沿岸
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:32:43.40
蛇神の子神を退治したのが瓮と甕
斎瓮イワイベ、イワイ【部】かな?
斎瓮は万葉集の歌にもあるが夜這いを防ぐまじないの要素がある

クレフシ山はアサボウ山と言うらしい
織物関係の人々が住み着いたのか?
倭文神があちこちで祀られている

かつて西南にあった山が日陰を作るのでダイダラボウが動かしたという伝説もある
カガセオは香川の五色台の石神、五色の玉を持つ石神だったりして
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:36:35.89
蛇神は種付けをして去っていく托卵の風習があるのか?
時鳥も托卵の習性があるが
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:37:36.34
>>240
弥生時代中期に水銀朱を計測してた秤が出土した場所があるのは久宝寺、八尾辺りだからな。
この辺りは河内湖があり海人の土地でもあるね。
貨泉も確認されてるし後々物部の本拠地となる場所でもある。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:38:35.84
>>233
>当然、遺跡も
>鉱物資源、動植物の分布も重要

まさに「阿波」一択だn。  畿内説も九州説も論外。   @阿波
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:39:22.94
大阪湾の流通が活発だったから淡路島も地理的に重要だった
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:40:41.16
>>243
>弥生時代中期に水銀朱を計測してた秤が出土した場所があるのは久宝寺、八尾辺りだからな。

まさに「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡だな。  わははははは   @阿波
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:41:39.22
>>221
彼の勘違いかも、
しかし、伊勢遺跡の柱穴は
大型建物(SB-1)の柱穴
これらの建物の柱穴は長径2m〜2.7m,短径約0.8mの長楕円形をしており、深さは1.2〜1.4mにおよぶ大きなものです。柱穴の断面形状は長い斜路となっており、柱穴底の規模形状からみて直径50cmを越える大きくて長い柱が使用されていたと催促できる。

伊勢遺跡の案内より
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:42:18.18
阿波の鉱山のある場所は通年通して人がいたような場所じゃないのがね。
本当に飯場のみという感じかな。
伊勢の丹生産出地区は山と平野の境目で、直ぐ伊勢湾に繋がる場所。何より直ぐ近所には斎宮跡もある。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:42:27.19
>>245
勿論、淡路島も地理的に倭国(阿波)。  淡路島は、読んで字のごとく、倭国(阿波)。   @阿波 
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:44:01.16
言喧くー唐、韓、百済
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:45:09.99
>>248
>阿波の鉱山のある場所は通年通して人がいたような場所じゃないのがね。

無知!  これでも食らえ!

徳島県阿南市水井町若杉山遺跡・丹波坑口・長生町奥ノ谷遺跡
出土遺物
①石器(石臼・石杵)
②土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生Ⅴ様式後半~布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
③玉類
 蛇紋岩製勾玉
④鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
⑤自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片

想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半

 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:47:02.95
阿波からは貨泉が出てないしな、対大陸との港的な場所ではない。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:48:06.02
>>248
>伊勢の丹生産出地区は山と平野の境目で、直ぐ伊勢湾に繋がる場所。何より直ぐ近所には斎宮跡もある。

伊勢の鉱山のある場所は通年通して人がいたような場所じゃないのがね。  わははははは   @阿波
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:48:23.35
>>222
文脈を辿ってください。
これは、各説の研究者の共通認識ですが、


また、邪馬台国の様子の中で出てあるから、他国は無いはあなたの飛躍した考えであり、倭人伝では触れられていないあが正解でしょう、
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:49:04.20
>>247
まあでも直径32cmの柱が細いなんて事はないし
大小45本の柱で支えてるんだし纏向も十分な強度があるでしょう
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:49:21.90
>>224
出雲大社なんか凄いよ!
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:49:26.28
>>253
「阿波」から出土していないのは、弥生時代の遺跡からの貨泉ぐらいのものか?  わははははは   @阿波
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:50:24.14
>>256
>伊勢の丹生産出地区は山と平野の境目で、直ぐ伊勢湾に繋がる場所。何より直ぐ近所には斎宮跡もある。

伊勢の鉱山のある場所は通年通して人がいたような場所じゃないのがね。  わははははは   @阿波
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:52:32.28
>>258
確かにあれは太いだろうな
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:53:25.88
>>256
おまえがいくら駄々をこねても、「阿波」には通用せんよ。 さっさと諦めな!  わははははは   @阿波
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:55:41.47
>>224
出雲大社なんか凄いよ!
直径1.4mだよ
三本束ねて、一つの柱としてるから直径3メートルだって。
基礎に柱穴の底、周りに石を詰めてますよ。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:56:04.07
>>249
阿波への路なのか?
何処から?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:58:18.32
>>264
都である大和ですね。阿波自爆w
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 20:58:32.33
神宮寺は、三重県多気にある寺院なんだが山号は丹生山なんだよね。女人高野山丹生山神宮寺成就院と号する。通称丹生大師。
つまり丹生の神宮寺である。高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれる。通称の丹生大師とは空海(弘法大師)のことである。

空海も丹生山とは伊勢多気だと認めているんだよね、阿波君w
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:00:17.90
>>264
>阿波への路なのか?

阿波からの路だ。  わははははは   @阿波
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:01:14.95
また伊勢多気から派遣されたのがオオゲツヒメで阿波の国そのもの、国体になってましたね。これは阿波一宮の伝承ですがw
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:02:00.92
>>266
空海も丹生山も、「阿波」の山師の痕跡だ。  わははははは   @阿波
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:03:43.01
>>268
>これは阿波一宮の伝承ですがw

オオゲツヒメが馬に乗ってやって来たというやつか?  わははははは   @阿波
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:04:25.34
四国の聖人も阿波の丹生鉱山をスルーしてるんだよね、
つまりお墨付きではなくヤミの鉱山だったんだろうかw
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:14:22.29
>>271
>四国の聖人も阿波の丹生鉱山をスルーしてるんだよね

無知の恥知らず。  これでも食らえ!

磯輪上乃秀真国是阿波国也(舎心山 太龍寺縁起) - awa-otoko's blog (hatenablog.com)
天長二年、空海教王護国寺の管長になりて三年、阿波国太龍寺縁起金剛遍照撰を修め、
「阿波国那賀郡舎心山太龍寺天神七代之内六世面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是阿波国也」と阿波国太龍寺に一文を寄せた。
倭神道に造詣が深かった嵯峨天皇の勅命を受け、阿波の古社や摂寺を整えたのが空海。
当時、空海がこれまでの内容を知らずして「磯輪上乃秀真国是阿波国也」などと安易に書くはずがありません。

磯輪上乃秀真国、これ阿波の国なり。   @阿波
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:14:52.69
まあ阿波のはヤミ鉱山、穴場的な場所だったんだな。
伊勢は歴史的に見ても大仏建立の際にも登場するし、白粉で使われるのも有名だった。
魏志倭人伝で登場する倭の海人の生活に当てはまる場所は伊勢志摩の方。
丹後から伊勢遺跡経由で伊勢へ向かうルートだね。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:15:39.72
>>268
延喜式に大宜津比売を祀る神社は存在しません。
その神社は平安時代までの祭神は八倉比売なわけだよw
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:16:50.53
>>274
>丹後から伊勢遺跡経由で伊勢へ向かうルートだね。

いずれにせよ、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡だ。  わははははは   @阿波
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:17:00.36
>>273
あれ、由緒の類いは信用しないんじゃないの?
でも現実に空海が聖地にしたのは高野山だしな。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:18:16.02
>>275
つまり、大宜津比売=八倉比売なわけだよw  わははははは   @阿波
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:18:49.28
>>275
オオゲツヒメの由緒を入れないと都合悪いから加えたんだろうね。
正確に記せよと指導されたのかもよ?
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:19:07.67
>>257
纏向考古学通信より

>柱穴の深さは15cm~70cmとば らつきがありましたが、これらは後世に一定の削平を受けたものと考えており、多くは残存する深さ15-30cm前後のものです。
また、柱材は総て抜き取りが行われ、柱穴内には残っていませんでしたが残された柱の痕跡か らその太さは32cm前後のものと推定されます 


柱の太さ、柱穴の深さ、基礎の強度から、当時としてはさほど強固なものとは言えません。同年代の他遺跡と比較すると一目瞭然です。
纏向な、建物は一時的な、祭祀のため簡易的に作った建物だと言う研究者もいるようです。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:20:21.22
>>277
>あれ、由緒の類いは信用しないんじゃないの?

どあほ! 空海が阿波国太龍寺に一文を寄せたものだ。   @阿波
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:20:53.25
>>273
無知の恥知らず。  これでも食らえ!

この文章はズバリ、阿波説ブロガーたちの捏造です。 太龍寺縁起には正しくは以下のように記されています。
『天神七代之内六世、面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是也』 そして、本州、そして四国の紹介となり 『三云、大宜都比売是阿波国也』 。単純に古事記の国産みを記載しているだけです。

神世七代の第6代の神、【面足尊、と妹の惶根尊=秀真国】 【大宜都比売=阿波国】
捏造糞民族、国賊、朝敵阿波人。皇国から消えてなくなってほしい。
はずかしくないの?本当に、良心が傷まないの?馬鹿なの?死ぬの?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:21:52.25
>>281
馬に乗ってか?  わははははは  お花畑!   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:23:49.39
>>283
>単純に古事記の国産みを記載しているだけです。

アホが言うには、伊勢から来たらしいぞ。  わははははは   @阿波
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:25:40.36
>>284
>で、その空海はどこを聖地にしたのかな?

「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡があるところだ。  わははははは   @阿波
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:27:27.30
>>287
あいつは俺が指摘するまで延喜式も知らなかったおバカさんだよ。
知っていたらあんな解釈には絶対にならない。矯正不可だねw
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:32:02.66
空海は、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡があるところを
わざわざ聖地にした。  わははははは   @阿波
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:35:15.04
本当に虚言癖があるみたいだね、病院行った方がいいかもよ。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:36:26.32
>>280
柱穴が1mであっても柱1本の状態だと倒れるだろ
柱穴の深さはそれ程重要じゃないんじゃないか?>>280
直径32cmの大きさ考えてみろよ
今の一般住宅でこんな太い柱使ってる家無いし細くはないって
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:42:54.08
>>279
>正確に記せよと指導されたのかもよ?
薄っぺらアホバカめw
延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っている。
しかしながら、宮司家の簒奪や記紀に登場しない八倉比売ゆえに次第に名前以外は忘れられ大宜津比売に差し替えられていったのだ。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:50:28.65
空海は、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡があるところを
わざわざ聖地に選んだ。  わははははは   @阿波
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 21:59:41.06
>>259
ト骨も絹もない
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 22:15:16.30
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 22:30:45.92
聖徳太子の慧眼は凄いわ
全てを見抜いていた
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/15(水) 23:57:06.48
>>255
文脈に沿っても
邪馬台国に絞った記述ではないですな。
各説の研究者の共通認識を
提示してくだされ
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 00:00:23.83
くもりなく世をたもてとて千早ぶる神のさづけし鏡なるらむ

榊葉にかくる鏡をかゞみにて人もこゝろをみがけとぞ思ふ
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 00:56:32.10
さて、畿内説が破綻してから随分と日が経ちましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 01:05:08.34
初めから破綻の九州説
悔やしそう
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 02:12:27.56
>>293
素材、建築技術も進歩してるので現在の家と比べても仕方ありませんが、現在では家を建てる場合はご存じのように、地震対策も含め全体の基礎工事に相当な時間をかけています。
纏向は32センチの柱に対し柱穴は深さは15〜30センチです。また、基礎に石、砂利、木、等を使われていません。
再度
伊勢遺跡 直径50センチ 柱穴の深さ 120〜140センチです。

柱穴の基礎については、福岡県の平塚川添遺跡の柱穴の画像を見ていただくとわかりやすいです。一般の住宅でさえ礎板を使い柱の強度を上げています。
纏向の建物は同時代のものと比べ大型建物と言うには軟弱そのものです。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 02:54:28.68
>>303
おのように九州説はニセ情報を流してテロを続けようとするが
コンテンツ制作能力という面での力量不足で失敗している
せっかく作ったニセ情報が、チっとも本物っぽくないのだ
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 03:19:54.42
と捏造のプロ畿内説が寝言を言ってる
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 06:33:34.36
>>305
軟弱という感想言っても
建物は建物だよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 06:45:35.30
>>306
崩壊した九州説の特長だな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 06:48:11.11
>>309
魏志倭人伝にも柱の大きさなどの
記述はないですな。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 07:26:09.19
>>297
「阿波」から出土していないのは、ト骨と絹と弥生時代の遺跡からの貨泉ぐらいのものか?  
他にはないのか?
それ以外は、全部「阿波」にあるってことなんだな?  わははははは   @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 07:29:26.65
>>316
ネトウヨvs半島系な構図はな、半島DNAだからそうなるんだぞ
似たもの同士ほど対立する
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 07:34:20.23
下賜品と思われてる五尺刀
もっとも、移動できるもんだから
邪馬台国にあるとは限らないし。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 07:46:20.23
丹後に出土あるね
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 08:03:30.66
>>320
長さのみ取るといくつかあるかも?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 08:05:21.71
120cm前後
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 08:39:11.59
>>325
「突出型墳丘墓」も「双方中円墳」も「阿波」が発祥だ。

すべて、「阿波」から出て行ったものばかり。   @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:05:32.11
>>327
関東まであるな
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:06:46.44
しかし、淡路島、滋賀は皆無
エセ?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:07:25.44
>>331
>流石にそれは無い

と、そう思いたいトンデモの心境。  わははははは   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:27:23.42
まあ邪馬台国は畿内で確定してるのよ。騒いでるのは一部の妄想や虚言癖のある奴だけだし。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:30:34.50
阿波に圧倒的に不足してるのは延喜式における神社数だよねw

あれでは衰退した昔少し栄えた国、としか言えない。
対岸の和泉にすら負けてるのでは話にもならないよ。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:32:52.25
定期貼りが必要だな、このコピーも。

畿内中心なのが明白な神社数

式内社が多い國 式内社 名神大社(座数)

1 大和 286 50
2 伊勢 253 4
3 出雲 187 2
4 近江 155 13
5 但馬 131 14
6 越前 126 2
7 山城 122 29
8 尾張 121 8
9 河内 113 9
10 陸奥 100 15
11 伊豆 92 5
12 摂津 75 18
13 丹波 71 5
14 丹後 65 6
15 遠江 62 2
16 和泉 54 1
17 阿波 50 3
17 播磨 50 7
17 因幡 50 1
20 信濃 48 7
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:38:55.85
>>338
偉大な英雄が「阿波」に居たから、

「阿波」は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多い。   @阿波
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:39:56.34
「率川坐大神神御子神社」「石上坐布都御魂神社」「多坐彌志理都比古神社」「鏡作坐天照御魂神社」
「大和坐大国魂神社」「村屋坐弥冨都比売神社」「高市御県坐鴨事代主神社」「飛鳥坐神社」など
畿内の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。  
当然、「阿波」からだろう。 
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。     
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。  わははははは   @阿波
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:40:14.07
古くからの有力社と見てよい名神大社数で見ても、やはり大和、山城が多く摂津や近江も多いのが如実に判るな。
出雲は元々丹後、但馬、丹波地方を含むのでやはりここも多い。
弥生時代後期の遺跡が多い場所はやはり神社数も多いという事だね。

やはり名神大社数で見ても、旧出雲が投馬国五万戸、山城、大和が邪馬台国七万戸が相応しいのだろう。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:40:38.10
>>325
「突出型墳丘墓」も「双方中円墳」も「阿波」が発祥だ。

すべて、「阿波」から出て行ったものばかり。   @阿波
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:43:15.10
この名神大社数では阿波なんてとても七万戸の国は無理だな。
壱岐や対馬、筑紫エリアと比較してみても名神大社数は30は欲しい、3では話にすらならない、比較対象ですらない。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:43:40.62
>>341
>式内社(名神大社)は圧倒的に奈良、伊勢が多い(名神大社は奈良に次いで京都)

それらはすべて、「阿波」から勧請された分社にすぎない。  
なぜなら、古事記神話の神名が付く神名延喜式内社がほとんど存在しない。
一方、徳島は古事記神話の神名が付く延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多いことがわかる。
例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、
奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しない。   @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:45:08.49
>>343
「阿波の式内社の特徴」
一つ目の特色は、日本の国造りの根幹に関わったとされる神を祀る神社が多いことです。
二つ目の特色は「欠史8代」の天皇に関わる登場人物をご祭神とする神社があることです。
三つ目の特色は、以上のほかにも記紀神話に登場する方をご祭神とし、神様の名前そのままを冠した神社が多いことです。   @阿波
https://yottyan.blog.ss-blog.jp/2011-10-26
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:46:03.80
>>336
考古学の壺売り乙
まあ邪馬台国は結局九州で完結してるのよ。騒いでるのは一部の妄想や虚言癖のある奴だけだし。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:46:17.60
阿波たったの三社w
よくこれで阿波説なんて主張できるな、恥ずかしい
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:47:51.37
>>343
お前がいくら駄々をこねても、本家「阿波」には到底太刀打ち出来るものだは無い。 弁えろ!  わははははは   @阿波
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:49:04.52
>>344
また虚言ですか?
コピペばかりしてるから、アンカの内容があってないのだがw
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:50:51.41
虚偽の広報は犯罪です

実際のところ纒向建物と桃の種は関係無い

桃の種が発見された場所
https://i.imgur.com/NW4G5f0.png

考古学者が言うには、桃の種が埋められたのは建物を撤去した後との事
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:53:00.84
古事記にある内容なら阿波そのものであるオオゲツヒメは伊勢多気からやってきた事になるな。
また淡路島に宮を持つモモソヒメの母、ハエイロネにしても、出身は磯城県主の娘、つまり奈良の鍵唐古だね。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:54:20.03
桃の種なら大和川沿いにかけて、鍵唐古遺跡辺りまで散在しているよ。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 09:57:15.30
阿波たったの三社しかないのがジワるな。
やはり忌部の没落をまともに受けたのだろう。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 10:01:51.56
神社数というのはどれだけ人数を周囲に抱えているか、も表すからな。
旧鬼道=神道とみるならそれは卑弥呼の影響下にあった場所とも言える。鏡の配布エリアにも重ねられるだろう。

やはり七万戸の国は畿内しかあり得ないのがハッキリと判るな。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 10:33:41.52
倭人伝当時に、奈良纏向に王都を作った形跡が有るとして、
出雲、越、近江、尾張、摂津、播磨、吉備との関係は確立してても
九州の関与が薄くて、九州側に大陸関係の遺物が多い。

伊都国は九州であって、一大卒を置いたのに
九州が畿内王朝に参加していないようだ、
と 言うのはおかしいだろ?

247年の張政は、伊都に常駐したようだが、
同年
詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
政等 以 檄告喩 壹與
と 言うのは、壹與、難升米が、
奈良から伊都に呼ばれたのか?

倭国の統一王なんてのは、まだ居なくて、
  次有、列記21国、各国に称王が有って、計7万戸
  此 女王 境界 所盡
  其南 有 狗奴國 男子為王 不属女王
  自郡 至 女王國 萬二千餘里
で、
 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
しかない、小地域国を纏めた女王が卑弥呼でした、
って、記録が倭人伝だろ。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:17:13.25
>>354

「阿波」が元社なんだから、当たり前。 全国に分社が拡散しているだけのこと。  わははははは   @阿波
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:18:24.77
>>355
>やはり七万戸の国は畿内しかあり得ないのがハッキリと判るな。

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内に、「七万戸の国」など興る訳がない。   @阿波   
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:20:32.13
魏志倭人伝の九州の記述は北部九州の一部のみとみるしかない。
対立国狗奴国が熊本や九州南部にあたるのだろう。
これは大和朝廷とずっと対立していた史実とも合致している。なので隋の時代では火山の記述が書けたのだよ。
後世九州での北部九州以外の神社数の少なさは、やはり卑弥呼の鬼道に従うか否かによる物だろう。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:22:59.35
>>359
名神大社がたった三社しかない国に議論に参加できる資格はない。
マジな話遺跡規模からみても精々五千戸の国だよ。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:31:51.54
>>361
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内に、議論に参加できる資格はない。 わははははは   @阿波   
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:32:46.22
筑前筑後で18社、壱岐対馬も各6社あるからな。
筑前が多いのは奴国だからで問題無く説明出来る、対馬壱岐も勿論海上交通の拠点だからな。
その次に多いのが出雲や丹後方面なのが、古くからの対半島方面ルートを証明してしまっている。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:33:12.16
>>361
奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:36:13.69
>>364
畿内には参加していいものが何もない。  わははははは   @阿波
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:56:32.54
弥生時代中期の鏡、多鈕細文鏡にしても出土分布は北部九州、本州西部ときて河内、葛城山の麓に流れているからな。

葛城山麓には当時既に日本最大級の水田跡もあるので、もう弥生時代中期の時点 である程度王朝的な物があったと見てもよいだろう。
何より銅鐸と鏡が同じ場所から出土してるのもこの地だけだし、神武東征話でもこの場所を目指している。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:58:38.41
>>327
当時の人口も比例しているんだね
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 11:59:08.02
阿波のイメージダウンも甚だしい、勿論虚言癖のある一人の狂人のせいだが。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:11:20.14
>>345
全部捏造及び間違いでした。

阿波説の捏造糾弾スレより
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:23:58.58
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:24:48.67
>>361
君はオオゲツヒメが伊勢から阿波とか言ってる薄っぺらバカかな?
飛鳥時代の状態の推測ならともかく、邪馬台国の時代と延喜式を関連付けるとかイカれてるよ。阿波説を支持する訳ではないかがね。飛鳥の都説は否定材料になる。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:26:54.55
古墳時代の始まりは東日本の前方後方墳であり、前方後円墳ではありません

https://i.imgur.com/aVtC9SB.png

前方後円墳を起点とするのはさすがに歴史捏造の領域だぞ
卑弥呼時代と奈良の古墳起源を重ねるための印象操作だよ
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:32:37.33
延喜式、阿波のセイで
陳腐で下品なもんになったな。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:43:04.91
鉄器出土量は正直ですね

猿でもわかる卑弥呼時代の文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

大陸や半島と交易の多かった地域は必然的に鉄器も多くなりますからね
倭人の人口もこのグラフと比例するのでしょうよ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 12:43:56.19
>>336
信じるものは騙される、早く目を覚ますのじゃ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 13:19:23.58
>>376
嘘データですね
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 13:26:00.66
>>373

纒向古墳群のホケノ山(80m、葺石有)は3世紀第2四半世紀となっている
前方後方墳のメクリ1号墳は28m
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 13:54:06.12
>>381
淡路島、滋賀は?
0383伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/16(木) 13:57:34.07
>>381
出典が不明で、(おそらく)昔のデータを元にしたグラフじゃあ参考ならないです。

もっとも、最近は、データが毎年どんどん更新される為、
このようなグラフが作られる事が少ないのですが。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 13:59:40.01
北部九州ではまだ手付かずの鉄器が山積みになってますから
鉄器である事が確認出来たらまた増えるでしょう
0385伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/16(木) 14:00:20.46
>>382
県別データの盲点で、淡路島のデータは兵庫県に入ってます。
似たようなな例で、淡路島産タマネギの生産量も、兵庫県のデータに紛れています。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 14:07:57.16
>>381
本物という証拠なし
出所不明
0390伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/16(木) 14:18:56.03
>>389
出典の記載が無いグラフなんか意味ないよ、
最低限、何年のデータを元に誰がまとめたデータがぐらい記載しないと。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 14:37:57.76
鉄は邪馬台国には何の関係もないから。
それに鉄の神を祀る金山彦神社所在地は信貴山なので結局畿内説に有利になるだけなのにね。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 14:44:23.32
>>372
現実から目を反らしてはダメだぞ、少なくとも延喜式の名神大社の数は古くからの所在の参考にはなる。
鏡や貨泉の出土傾向と同じで北部九州、出雲や丹波地方には多いからな。

阿波のオオゲツヒメの由緒にしてもそれを加える理由があったからなんだろう。
阿波の国体は元々そこにいた訳ではない、という事は確実だろう。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 14:49:23.51
飛鳥時代の神道対仏教の戦いを見ても、神道は既に畿内方面には古来の物として古くから定着した存在として伝えているだろう。
延喜式における畿内、大和の数値の多さを裏付ける物だな。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 14:56:51.63
>>391
鉄器出土が多い地域=倭人が多い地域(呉越出身)
数百年後の神社の多い地域=倭種が多かった地域(半島出身)

という事だね
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:08:02.00
>>393
卑弥呼の時代はそこから400年程前だから神社なんか存在しない
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:14:32.08
縄文人に人間を祀る文化は無いと思うんだが
神社は渡来人の文化じゃないのかな?
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:18:36.31
卑弥呼は鬼道使い=初期道教で鏡や水銀朱を重視しているからな。
神社も鏡や朱色を象徴的に使用している。つまり神社は卑弥呼の鬼道をそのまま継続したものだろう。
延喜式における名神大社の数はハッキリと明示している。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:20:01.62
縄文時代の祭祀跡でも水銀朱が使用されている。吉野や伊勢の伊勢跡なんか有名だからな。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:24:00.24
>>395
そりゃ半島に近い方が鉄が多いだけだけどなw
それに本来半島の南側は倭人の国だぞ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:27:05.40
>>402
君の妄想願望はどうでもいい話ですね。
現実は神社数は対馬壱岐、北部九州にも多く、そのまま東側に向いて多くなる点が重要。
邪馬台国の位置問題の話だから。

九州を南側には進んでないことは明白だしなw
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:28:58.25
井戸を掘って酒殿を作る+大倭の徴税が神社のルーツかもね

神饌や幣帛をお供えするのは元々は税みたいなものだったのかもな
税を治める場所→国津社に幣を備える→神社
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:28:59.78
>>404
いやいや神社の起源なんて誰も知らないんだぞ?
オカルト脳のお前の妄想なんかどうでもいいんだよ
0407日本@名無史さん
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2023/02/16(木) 15:29:18.81
さすがにこれでは話にならんなw

九州の式内社 名神大社(座数)

筑前 19 16
筑後 4 2
豊前 6 3
豊後 6 なし
肥前 4 1
肥後 4 1
日向 4 なし
大隈 5 なし
薩摩 2 なし
壱岐 24 6
対馬 29 6
0408日本@名無史さん
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2023/02/16(木) 15:29:28.08
>>405
供える
0410日本@名無史さん
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2023/02/16(木) 15:31:13.08
丹生関係の神社も始まりは酒殿神社だったようだ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:31:22.86
>>406
少なくとも飛鳥時代より古く、仏教以前には根付いているだろう。
また卑弥呼は鬼道使いだからな、しかも邪馬台国は七万戸だ。
鬼道の痕跡はそのまま神社に置き換わっている。
0414日本@名無史さん
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2023/02/16(木) 15:34:36.58
邪馬台国と神社は無関係
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:35:30.24
>>392
やっぱり薄っぺら君かwww
覚えたての子供のように「延喜式」を使いたいのが丸見えwww
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:37:04.58
九州説の連中、延喜式の神社数との関係を否定するなら、鬼道の祭祀施設の痕跡を探さないといけないんだぞ?
しかも七万戸の国で。

そんなの絶対無理な話だからw
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:38:54.57
お供えには建物もある
黒い龍、長髄彦の一族は建物を建てるのが得意だった
そういう神さまを鎮める為に建物をお供えする
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:39:28.87
>>415
悪口言っても反論になりません
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:41:07.13
肥前肥後でたったの10社しかないんだもんな、九州説は終了だわ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:43:12.75
実際九州説は反論出来ないから罵倒しか出来ないよな、まあ仕方ないよw
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:47:42.21
神社の起源

神が降臨する木や岩があり、その近くに仮設された建築物がのちに常設されるようになり社や宮と呼ばれた

鬼道と全く関係ないとの事

実際宮司の知り合いがいるけど思いっきり朝鮮系なんだよな
0424伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/16(木) 15:52:10.68
>>394
30年や40年前の古いデータな時点で意味ないよ、
差が更に開いている場合、差が詰まっている場合、差はあまり変わらず全体の数字が増えてる、など、様々なパターンが予想されるのだから。

最新に近いデータで比較しなきゃ無意味だって言う話。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 15:54:17.37
>>395

鉄器出土が多くて、倭人の卜骨の風習が無ければ、
韓、ワイ=非倭人地域ということになる
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:03:59.66
>>399
>吉野や伊勢の伊勢跡なんか有名だからな。

高齢中よ、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡がな。  わははははは   @阿波  
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:09:18.38
>>426

現代のハプロL-682の分布なら、
半島南部は倭人ではないということになる
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:20:46.64
>>432
ここ20年で何処の鉄器がどれだけ増えるか考えてみろ
ここ20年の調査実績を調べてみろよ
なぜそれが出来ないんだ?
俺は北陸が増えた事は確認したぞ?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:22:05.82
>>395
つまり
邪馬台国は九州にはないて事だな
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:25:52.10
>>419
でも実際、君はここのスレ民としては知識が圧倒的に少ないよ。
すでに>>422さんが書いてくれてるから省くけど延喜式などその時代と少し前の状態しか推察できない。
薄っぺら君が阿波を語るのも1年早い。徳島県の本質を理解してない。戦後時代に国分寺すら消失するような戦乱の中で式内社も失われ江戸期から明治になりすましが横行した。徳島県の神社の由緒などとてもそのまま受けいれられるような状態ではないんだよ。もっと勉強してからにしないか?
中華卑弥呼や斜面遺棄のような狂気もないし単に知識のないやつのカキコミって見てるだけでつまらないんだ。ツッコミしてくれる人がいるうちにやめておけよ。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:31:18.27
阿波に被れる奴は間違いなく薄っぺらな知識しかないのがよく判るな。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:33:28.50
>>411
鬼道の痕跡なんてない
神社の痕跡もない
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:34:30.00
>>423
桃は神仙思想の仙菓、それに魏志倭人伝の頃はまだ道教という文言は存在しないからな。
なので三国志で鬼道というと基本的には初期の道教の事を指す、常識問題だよ。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:39:41.46
老子を尊び、神仙思想を取り入れた教団の
治病を主とする教法が鬼道と呼ばれた
神仙思想はアニミズムの一種
アニミズムは山の神や大きな岩に精霊が宿っているという信仰
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:40:54.14
>>440
ないだろうが
屋外だろうが何か祭祀をやってた事は否定しない
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:47:56.43
まあ私は考古学に携わってから文献資料編纂にも携わっていたからな。君達が目を通す資料は提供する側だった。
更に言うと実家は戦前から神社の氏子でもあり元々鉱山持ちだからな。何故か祖先の墓は奥の院にある。
多分薄っぺら呼ばわりされる立場ではないのは確かだ。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:50:50.00
>>443
常識的な考えを持て
神社の痕跡などない
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 16:56:58.58
信仰の対象として仏様が支持されて慌てて神社を作ったとかそんな感じでしょ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:07:32.94
>>443
高齢中よ、お前の薄っぺらい身の上話は聞き飽きた。   @阿波
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:13:40.23
まあ阿波君は知っていたようだが、以前は孝霊厨の名前で書き込みはしていたが、一年以上は5chにも来てなかった。

でも矢田丘陵、特に丸山遺跡は今後注目した方がよいとは書き込みしたはずだからね。
明神山、信貴山周辺が今後の鍵ともかなり前から言ってるが、実際そうなるだろう。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:15:28.75
>>446
なんだ。こやつにはすでに呼び名があったのか?薄っぺら君がピッタリだと思ったが残念だな。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:15:47.83
>>446
まあまた書き込みは暫く止めるから気にするな。
何なら注目する遺跡、古墳教えてやってもいいけど、素直にするならな。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:17:52.47
>>448
元々日本史板の阿波スレは私の隔離スレだったからな。でも私は阿波説ではなく畿内説なんだからな。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:18:08.09
>>447
丸山遺跡とやらがどうかしたのか? 話題として聞いたことないがw   @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:23:52.07
>>551
君は本当に阿波説なんて真剣にやってるの?端から見ても評判下げてるだけにしか見えないが。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:28:07.09
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:31:59.41
>>449
潔い逃走だなw
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:39:30.03
なんだ、阿波の仲間だったのかよ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:42:48.61
キナイコシと奥山は畿内説をクビになったから
もう来ないよたぶん
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 17:55:12.23
>>447
丸山遺跡とやらがどうかしたのか? 話題として聞いたことないがw   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:11:43.32
明治天皇の歌は色々勉強させられる

神社

いにしへの姿のまゝにあらためぬ神のやしろぞたふとかりける
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:39:28.20
>>443
>実家は戦前から神社の氏子
マジで薄っぺらいなw
延喜式名神大社じゃねーのかよwww
最近まで延喜式知らなかった訳だから無理かw
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:45:31.32
>>460
>最近まで延喜式知らなかった訳だから無理かw

高齢中は、伝承専門だからな。  わははははは   @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 18:57:29.75
>>433
元のデータがダメ
川越調査は原調査報告書の時代区分をそのまま使ったことを明言してるので、1950年代の認識も2000年近くなった頃の認識も全部混ぜこぜになっている
学者の間で今でも認識の分かれる弥生終末と古墳初期の区別など、厳密な時代区分には使えないデータだ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:18:31.77
時鳥一聲

あしひきの山時鳥ふた聲となのらぬ心たかくもあるかな
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:42:30.00
>>460
バカバカしい、延喜式を知らない訳ないのだが、誰か別人と勘違いしてるだろう?
高野山で判ると思いますが、紀伊の一宮は名神大社ではないですかね?
オオゲツヒメも祀られてますよ。
もっとも実家は高野山大水害以降は住めないので大阪へ越していますが。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:46:20.20
>>462
>元のデータがダメ

そもそも、出土鉄器の多寡より、鍛冶炉遺構の多寡を言うべきだからw 

どのみち、鉄器王国「阿波」の独断場だ。  わははははは   @阿波
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:50:37.86
>>464
>高野山で判ると思いますが

空海は、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡があるところを
わざわざ聖地として選んだそうな。  わははははは   @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:56:11.93
うちの鉱山関係の戦前からの話を手繰ってみても親戚には阿波に親戚は一切居ませんでしたね。
京都丹波、新潟が多かったですよ。
坑夫は大阪方面、尼崎の松本組だったそうです。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 19:59:42.58
>>467
>うちの鉱山関係の戦前からの話を手繰ってみても

どあほ! 弥生時代の親戚ってか! こいつの思考感覚、理解不能だわ。  わははははは   @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:04:26.33
どちらが異常な思考かは誰でも判りますねw
阿波君は本当に阿波説なんか推してるの?
それは絶対無いことだけは確実です。

関わるだけ損しそうなので以降レス不要です、きちんと話したいのならそれなりの書き込みをしましょうね。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:08:19.04
>>469
>それは絶対無いことだけは確実です。

相手してやるぞ。  「絶対無い」ことを挙げて見な。  絶対逃げること請け合いだ。  わははははは   @阿波
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:32:44.68
>>464
お前、本当に薄っぺらいなw
その大食津比売大神は阿波の国玉たる大宜津比売と同一神格か?
切られて穀物になったのか?それとも羽山戸神の妻か?
それもいつから祀られてるってんだよwww

>>469
お前、紀州の人間じゃないのか?異常のレベルは俺に言わせれば阿波と同じだよw
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:40:15.78
さて、畿内説が破綻してから随分と時が過ぎましたが、九州説・阿波説の皆さん仲良くやってくださいね
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:46:01.67
しかし、高齢中とやら。お前ほどカキコの度にツッコミどころがある奴は珍しいぞ。
異常な思考(狂土愛)レベルはともかく、知識レベルでは@阿波の圧勝だけど?
あ、@阿波の成りすましじゃないよ。
俺は、阿波説の捏造糾弾スレの1だから。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:48:52.59
阿波説の人ってやはりまともなのがいないのは理解したw
というより同一人物としか思えない性格の異常さだね。

まあ阿波説の完全に詰んでいる部分はやはり七万戸の部分。
エリア的にも不充分だし、何度も出てる名神大社数が少なさかな。
やはり筑前以上はないと七万戸の国とはとても言えない、他の出雲や丹波、近江も多いんだから言い訳は出来ないんだよw
それに対中華の痕跡の乏しさだな。弥生時代遺跡に貨泉なし、鏡なしではダメでしょう。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:53:22.29
>>472
>さて、畿内説が破綻してから

畿内説はずっと通説だけど?
学者はほとんど畿内説だし、反論もない
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:54:59.74
>>476
異常な投稿
アンカーも含めて
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:55:20.05
古の倭国の都論として語るなら、少なくとも延喜式の数において最低でも100、名神大社なら20以上は欲しい所だろう。
いくら何でも3ではダメでしょうなw

流石に知ってるとは思いますが、邪馬台国は倭人の国で最大の戸数の国ですよ。

こんなのバカバカしくて議論する余地すらない。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 20:56:47.49
>紀伊の一宮は名神大社ではないですかね? オオゲツヒメも祀られてますよ。
延喜式・丹生都比売神社は一座だろ。だから何だと言うのだ?
俺には頭がおかしいとしか思えない。承元2年(1208年)に勧請されたと伝えるのにこれが何だと言うのだ?しかも、氣比神宮(福井県敦賀市)からだ。
0481伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/16(木) 20:56:48.76
>>475
邪馬台国阿波説の弱点は、40年前には既に指摘されてます。
初期は神山(神領&上山)が邪馬台国候補地とれていましたが、
人口5000人の神山町ではそもそも七万戸は無理すぎでした。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:00:20.28
>>475
>まあ阿波説の完全に詰んでいる部分はやはり七万戸の部分。

七万戸は、大河四国三郎吉野川流域の弥生時代集落群だ。  お前には無理な話だ。  わははははは   @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:02:26.91
>>481
四国山上説だっけ、そんなの唱えてた人もいましたが、魏志倭人伝を読んでるのかと言いたいね。
海人なのに何故山上に?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:04:06.37
>>479
>少なくとも延喜式の数において最低でも100、名神大社なら20以上は欲しい所だろう。

8世紀の神社がどうたらこうたら言っても、しょうなかんべよ。  わははははは   @阿波
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:05:14.81
距離も戸数も司馬氏の誇大報告だろ。
ただ、そうなると北九州説しか成立せんな。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:06:25.69
七万戸は四国の遺跡状況だと四国全土は必要と思いますね。
北部九州の奴国で二万戸ですから。
阿波程度ならどんなに多くても五千戸です。
だから延喜式の神社数は割りと弥生時代後期の実像を捉えてると言える。

山城、大和エリアで七万戸でもまだ足りない位だろう。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:07:26.36
>>485
北九州説って実在しないから
そんな論文ないでしょ?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:09:16.14
>>479
古の倭国の都論として語るなら「神社は関係ない」
ヤマト王権の都論として語るならお前の言う通りだ。
王都阿波説は成立しない。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:09:40.03
>>482
吉野川流域
日本一の暴れ川、無理。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:09:52.75
肥前肥後や九州南部の神社数が少ないのは卑弥呼の鬼道支配に対抗していた国、つまり狗奴国を比定できます。

つまり九州の山門は邪馬台国側と狗奴国側との境界線という事です。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:11:35.15
>>491
女王国側な。共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:11:36.14
>>483
>四国山上説だっけ、そんなの唱えてた人もいましたが

自分もそんな説、端から信用していないんだが、先日埋蔵文化財センターでの講演で、
四国の弥生時代山稜遺跡の話を聞いて驚いた。
四国の峰々に結構な集落遺跡が点々と存在していて、ネットワークが形成されていたようだ。   @阿波
 
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:13:18.47
>>493
四国は投馬国だよ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:16:13.36
>>493
私はこの10年ほど毎年剣山周辺の集落にお邪魔させてもらって生活もしてたからな。
紀伊半島とはよく似ている。移動は山の尾根伝いだろうが生活は大変だ。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:19:28.44
また私が畿内説を取る理由の一つ、七万戸が可能なエリアを一望出来る山の存在だからな。
二上山や信貴山、またアマテラスの名前の山、ヒルメ山は河内、奈良盆地どちらも見渡せる。
淡路島から三輪山、吉野まで一望だからな。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:25:16.27
河内は狗奴国でしょうな
邪馬台国は大和盆地で
それでいいんですよ
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:31:17.54
私的には阿波は崇神天皇の関連した国、という立場ですね。
理由は名前もミマキイリヒコ。美馬地区由来でもあり、美馬から来た男でもいいですが、イリヒコは丹生の男でもありますからね。
なので私は桜井茶臼山が被葬者という説です。狗奴国側、もしくは狗奴国と関連のある男王とする説ですね。
0500琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/16(木) 21:36:28.01
まあ、無駄だな。一望できることは大切なところで、隋書にもあるように魏志言うところの邪馬臺者成り、地勢東高西下、奈良盆地なんだよ。
鬼道は、当時一国を築き上げ巫女を取り込んだ道は張魯しかおらんのだよ。万が一中華の知らない道が存在し国を纏め、その臺の奴婢達が生き生きと動き回ることがあるとすれば、陳寿は詳しく説明している。中華では卑弥呼の朝貢以降玄学が動き始める、これは恐らく卑弥呼の影響と考える、司馬懿はこれを警戒する。まあ、無駄だね
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:41:28.54
世界遺産ごとびき岩、三内丸山遺跡、百舌鳥古市古墳群の歴史を解明したら色々分かりそうだな

百舌鳥古墳群の和泉にも6世紀に蛇行剣が侵入している
その頃に何があったのか
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:42:01.02
>>500
>地勢東高西下、奈良盆地なんだよ。
まるで統一教会の信者なみw

>鬼道は、当時一国を築き上げ巫女を取り込んだ道は張魯しかおらんのだよ。
100%妄想スタート

>万が一中華の知らない道が存在し国を纏め、その臺の奴婢達が生き生きと動き回ることがあるとすれば、陳寿は詳しく説明している。
妄想の中の万が一ってw

>中華では卑弥呼の朝貢以降玄学が動き始める、これは恐らく卑弥呼の影響と考える、司馬懿はこれを警戒する。
妄想の中でさらに妄想w

>まあ、無駄だね
おまえの人生がなw
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:43:53.04
信貴山に鉄の拠点を設けた物部氏は理にかなっているんだよ。奈良盆地の西の入り口。
金山彦金山媛神社もこの場所だしね。その対岸にはヒルメ山で、尾根伝いの横には芝山、これは箸墓の石を供給した山だ。
芝山の旧名はシマ山という、なので邪馬台国の傍国にあるシマ国とは近つ飛鳥辺りという説だね、私は。
蘇我の本拠地、つまり武内宿禰の出生場所も近い。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:47:56.19
>>496
ヒルメ山って佐渡市では?この上なく怪しいな。
0505日本@名無史さん
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2023/02/16(木) 21:48:37.16
おい阿波、高齢中とかいう基地外どうにかしろよ
おまえの友人なんだろ?
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:51:31.18
>>478
鋭い指摘です。
0507琪瑛教大祭酒
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2023/02/16(木) 21:51:59.88
502.自説で対抗しろ、バカ者、どうせ古韓尺だろ?
ひとつ話してやろう、TVであるジャーナリストが昭和天皇と同乗する機会があり、何処からきたんですかねぇ?と聴いたら、陛下が半島から来たと仰ったそうだ、そうお考えになる方もおるということな。
ナショナリズムで語っても聞かんよ、ちゃんと説で口説け。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:53:08.70
>>504
今は明神山だよ。旧名ヒルメ山。送迎山と書いて由来は聖徳太子が近つ飛鳥に移動おくられた際に使われとあるが、
この辺りは何でも太子の逸話にされるからね。
江戸時代までは元伊勢として扱われているが、ここに参拝していたのは阿波の人だそうだよ。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 21:53:26.50
>>496
>また私が畿内説を取る理由の一つ、七万戸が可能なエリアを一望出来る山の存在だからな。

一望出来る山があったところで、七万戸に見合う集落遺跡が無いことには、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:01:20.03
>>510
負け惜しみを言ったところで、消滅遺跡しか無い河内平野では、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:04:42.72
送迎されたというヒルメ山の麓には孝霊天皇の御陵があるが、法隆寺から飛鳥へむかう太子道でも孝霊天皇の宮の横を通るからな。
まあ倭国の王として礼を払い毎日宮前を通り、亡くなった際にも御陵の横を通過している事になる。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:04:58.90
>>507
>ひとつ話してやろう、TVであるジャーナリストが昭和天皇と同乗する機会があり、何処からきたんですかねぇ?と聴いたら、
>陛下が半島から来たと仰ったそうだ、そうお考えになる方もおるということな。

昭和天皇が百済は兄弟のような国で大変重要な国だった、とおっしゃったのは聞いてる

要するにヤマト王権は半島系って話だろ?
朝鮮人固有DNAの分布
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png

しかし中国に対し東日本を意味する「日本」と名乗った
半島からの入植者と東日本勢力が鍵だ
それがのちのヤマト王権
そして古くから歴史のある九州邪馬台国に成りすますことで中国の警戒を解いた
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:07:46.43
>>512
そんなことより、

一望出来る山があったところで、七万戸に見合う集落遺跡が無いことには、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:09:51.10
>>515
そんなことより、

平安時代の名神大社がいくらあったところで、七万戸に見合う集落遺跡が無いことには、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:21:33.52
>>508
怪しいなぁw 旧名の文献的ソースありですか?
阿波でも「日の峯山」の旧名が「籠山」で天の香具山だと言う捏造がありましてねw
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:22:54.87
高齢中が黙り込んだよ。  わははははは   @阿波
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:24:20.60
>>498
河内も邪馬台国ですよ。
寒冷化で日本海から
温暖な太平洋側にシフト期でもある。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:24:40.82
>>520
>阿波でも「日の峯山」の旧名が「籠山」で天の香具山

九州には何にもなくて、かすりもしない蚊帳の外。  わははははは   @阿波
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:26:31.01
>>523
>河内も邪馬台国ですよ。

そんな戯言より、

七万戸に見合う集落遺跡が無いことには、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0526琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/16(木) 22:26:51.24
513.そちらのほうが妄想だよ、言ってることの一つ一つの根拠を説明してくれないとな、勝手にそう思い込んでる。
。まず東日本がなんで日本なんだ?その東日本がなんで邪馬台に何時如何なる理由で成り済ます必要があるんだ?という説明は必要だよ、あまり聞きたくないけどな、一応聞いとくよ。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:28:55.34
奈良盆地を見て地勢東高西下なんて特徴を言う奴は調査する人間として失格だろ。
どう考えても四方が山の天然要塞だろ。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:32:22.54
>>528
>どう考えても四方が山の天然要塞だろ。

だから、倭国(阿波)から避難疎開遷都するのに最適地だった。   @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:33:32.86
>>522
今頃、涙目で自分の間抜けなカキコを悔いてるから言ってやるな。
0533琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/16(木) 22:38:23.19
はははは、女王国が天然要塞、そりゃあ光栄だな。根本の国の形の認識にズレがあるね。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:39:16.51
>>531
完膚なきまでに論破されて絶賛逃亡中。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:40:42.33
>>524
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

福岡にも日の峯山あります。
岩にしめ縄があったような。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:41:34.00
>>520
ヒルメ山の事は王寺町も今は観光スポットとして売り出ししてますので、調べればすく出ますよ。
元々は蛭目山とも書いていたようですが。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:44:48.51
>>528
逆だよ。滋賀と合わせ東西との中間
若狭から瀬戸内海、東海と南北の分岐
物流網だよ。
0539琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/16(木) 22:50:01.49
隋代まで影響は絶大なんだから神社数も無視はできないでしょ、大神宮は斎宮であり太一が旗めくんですな。どして?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:51:04.64
なので近畿や周辺国が
開拓だな。いろんな形の墳丘墓や古墳がある。
四国も同様に開拓地。投馬国と邪馬台国は開拓地でもある。丹の国産流通が増え出す時期。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:52:07.54
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:54:04.39
明神山、ヒルメ山について最近ずっとご執心だったのが橿考研の前館長菅谷氏だったね。
亡くなる直前も新聞に手記を寄稿したり、明神山山頂も最近整備され説明文も菅谷氏になるものが建てられている。
まあ私は2ch時代から散々この山の逸話を書き込んではいたが。
元伊勢として整備されていた昔の逸品は実は麓の某所に今も保管されてるよ。
ここの住所がまた大変興味深い。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:54:05.27
>>536
畠田内の垣内(カイト)の「送迎」はヒルメと訓む。その起源については、
一.昔、聖徳太子が斑鳩から河内磯長へ往還の途次、村人が送迎した時、ヒルメシを食べた。
一.同地に大日孁(ヒルメ)命社を鎮座した。
一.送迎越えは河内と大和の国境、伊勢街道の宿場で、同地の明神(送迎)山からヒヨリを見た。ヒヨリメ→ヒルメに転訛した。

これは無理だよw 俗説過ぎる。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:57:34.39
【送迎太神宮】
明神山山頂の水神社の場所にはかつて、太神宮が祀られていた。阿波の国から伊勢へのおかげ参りが 起こったのをきっかけに、1830 年に祭神オオヒルメノミコトを祀ったのが始まりであるという。

少なくとも古代史とは無関係だね。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:57:34.71
>>539
普通の人はそう考えますね、ここで書き込んでる反畿内説の人は都合悪いみたいですがw
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 22:58:21.42
とうとう畿内説も人材が尽きてしまったようですね
さて、滅びた畿内説はほっといて本命の九州説に戻りましょう
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:00:38.24
>>543
蛭目山の由来は表には出ていないからな。
この地の逸話は聖徳太子関連になってしまっている。
信貴山も本来は磯城山だと言われてるよ。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:00:56.72
>>545
そのアホな畿内説が言ってることは、
纒向で鯖の骨が発見されたから纒向は昔海だったのだ!
といってるようなものだ
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:04:06.03
韓国人のこういう話があったな
韓国人はアリランを知っている
エベンキもアリランを知っている
エベンキは韓国人の末裔ニダ!

畿内説と脳が同類w
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:04:08.08
>>539
普通の人はそう考えませんねw
太一は単に最高神を表す。習合ですよ。天照大神は一説にアスラ王・マハー・ヴァイローチャナとも同一視される毘盧遮那如来=大日如来とも習合してますがインドの神かね?バカも休み休みに願いたい。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:04:33.66
興味深いというか、怖いのがその保管場所のある住所は今地図にはないからな。
普通に現地に行けば地名は書かれているが地図には住所にはない。
子供の頃は地図にも出てたのたが。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:07:08.88
誰も止めないから、さっさと該当スレに帰りましょうね。
本当に過疎スレになってますよ。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:10:38.04
>>547
すまんが阿波臭しかしないw 聖徳太子ってのも怪しすぎる。
信貴山が本来は磯城山だと言うのは全然不思議でもない。そうなんだろうなと思うだけ。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:14:55.41
>観光スポットとして売り出し
これもものすごくマイナスポイントですw
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:16:19.28
魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。

■卑弥呼の時代にもそこに存在していたクスノキ

樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市木宮木の來宮神社

樹齢1800年あたり
・確認できず

奈良盆地にクスノキが自生していた形跡はありませんね
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:20:32.87
外国人にあっさり占拠されてしまう奈良盆地

■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:36:50.49
>>558
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の居るところは「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」と書かれています。
この漢字の並びを見ただけでも物々しい警戒がうかがえます。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:52:17.47
色んなひるめがいるが、ひるの主な性質は穀物かもな
廣田や廣瀬の神に通じるかもしれん
中には織物の性質も併せ持つのもありそうだ
一部水の性質を持つのもいる
薄い衣はまだまだ珍しかったのかもな
各地の天女、羽衣伝説の元やろな
羽衣は元は松や岩の持ち物で漁師が無理矢理奪う話だな
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/16(木) 23:57:57.90
渡来人の姫の話だろう
ひる、ひろ、ひら、平
関東で後々活躍するヒラナスにも関係するのだろうか
3世紀後半から4世紀前半は狩猟民が山に逃れ影響力が弱まり開拓が加速するんやろな
野を潰して池が作られていく
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:02:06.16
鳥取にも羽衣伝説があり、岩にかけてあった羽衣を漁師が奪う話
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:05:30.53
>>547
ただヒルメ山の位置は360°パノラマで淡路島から奈良盆地、吉野から京都方面全て見渡せるのは紛れもない事実。
元伊勢として阿波の人達が参っていたのもね。
それに尾根横は箸墓の石提供場所、芝山で対岸は金山彦神社がある位置関係であるとか、麓は孝霊天皇の御陵なのも。
かなり重要な山なのは間違いないんだからな。

太子道は必ず孝霊天皇関連の場所を通るのも事実なんだしね、法楽寺も聖徳太子が孝霊の宮跡に建立していたり。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:07:17.92
ちなみに鳥取の地名もこの芝山麓の集落の人達が移動した事により付けられた名前だからな。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:08:04.54
ヒルコも名前から想像するに成長して田長になったのかな?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:09:16.17
>>555
それについては私も同意しておく。以前から危惧していたが、まあ諦めてはいるが。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:20:52.68
時鳥はシデノタオサ、死出の田長、黄泉の田長
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:47:06.88
>>561
邪馬台国ではないですね。
共立されて居る所
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:53:13.13
>>518
>向遺跡は本当に貧弱なんだな。

>>519
>畿内説はダブルスタンダードと妄想でできています。

理由ひとつ言わず、こんなニセ情報だけ垂れ流すのが
既に負けて滅んだ九州説の残党
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 00:56:52.10
>>557
>外国人にあっさり占拠されてしまう奈良盆地

何も根拠のないニセ情報を垂れ流す九州説
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 01:38:39.48
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 01:42:27.98
九州説のデマ製作現場がひとつ明らかにされた
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 02:19:51.39
九州説とか存在しないし
雑多泡沫説の総称
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 07:40:18.18
>>577
またデマ?
九州説って芸がないね
0580琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/17(金) 07:51:05.02
暖かい処なら楠なぞ何処にでも生えとるんだよ。しかも遠目実に大木って感じなんだな。邪馬台に向かう途中にいくらでも生えとるわ。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:05:16.39
>>584
皇室に馴染みがあるのは、クスノキよりもタチバナだな。 そして「勾玉」も。

文化の日に親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:08:06.23
>>585
タチバナは九州なら何処にでも生えてるぞ
そもそも柑橘類なんか珍しく無いだろ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:08:38.15
そもそも論として、畿内や九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  
温暖な「阿波」は、米の二期作が出来るが、温暖でない畿内・北部九州は米の二期作が出来ない。
気候・植生はウソをつかない。   @阿波
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:11:12.89
勾玉は縄文時代の遺産だ
縄文時代に作られた勾玉がその後弥生時代にも流通していた
しかし弥生時代に流行ったのはガラス玉だな
青いやつ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:11:34.95
そもそも論として、畿内・九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  
温暖な「阿波」は、米の二期作が出来るが、温暖でない畿内・北部九州は米の二期作が出来ない。
気候・植生はトンデモ説のようなウソをつかない。   @阿波
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:13:20.79
>>586
現代農法ではな。  バナナやマンゴーもな。 アンポンタンよ。 わははははは   @阿波
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:14:55.04
>>590
>九州、畿内をガン無視するという

なんにも見るべきものがないんだから、しかたなかんべよ。  わははははは   @阿波
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:39:00.46
ヒラはピラで元々は斜面という意味があるとか
洪積台地は縄文時代以前から狩猟民が好んで住んでいた場所だね
稲作も低地に作られるもの、水路を整え斜面に作られるもの大きく2パターンがある
播磨風土記にも下流と上流で農民同士が水を取り合う話があるね
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 09:59:03.36
纒向出土の弧紋円盤はクスノキ製
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 10:03:14.16
>>550
中傷しかできない九州説は死に体
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 10:06:26.43
池上曽根出土のクスノキは樹齢700年
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 10:08:14.85
>>548
これも空想による中傷
九州説って素行が悪い
0600伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/17(金) 10:09:47.96
>>587
まだ修正できずアホウな書き込みを続けてるのか、
北部九州と阿波は比較しても気候的な大差はない。
気象データは嘘をつかない。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 10:46:24.66
元々ひることひるめはセットな気がするんだよな
ひるめを知るにはひるこをしらべないとな
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 10:47:53.08
やっぱりえべっさんに行き着くんじゃなかろうか
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:16:31.28
>>586
当時は珍しいのよ。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:42:52.20
>>589
今日も糸島の方が暖かい
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:43:36.29
魏志倭人伝に記載された情報と全く関係ない話しか出来ない畿内説は半島系霊感商法詐欺

犯罪ですよね?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:52:34.14
つまり畿内説は霊感商法詐欺に騙される霊感商法詐欺でした
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:56:00.52
語源の話で言えばイヅモはヘブライ語で最先端、果て、頂点の意味なんだよな。
流石にこれはあまりにもはまりすぎ。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 11:57:22.06
オハイオ州は日本語のおはように由来してると言うようなもの
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 12:10:44.29
>>596
>纒向出土の弧紋円盤はクスノキ製

まさに、「阿波」の痕跡。   @阿波
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 12:11:58.03
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 12:46:29.22
>>614
わかるわけないよ。
阿保過ぎて
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:03:18.06
>>606
そもそも論として、畿内・九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  
温暖な「阿波」は、米の二期作が出来るが、温暖でない畿内・北部九州は米の二期作が出来ない。
気候・植生はトンデモ説のようなウソをつかない。   @阿波
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:16:09.82
阿波なんてなにもないからな。神社も対岸の和泉以下の数しかないのにw
せいぜい五千戸の国なので七万戸の邪馬台国なんてナイナイw
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:17:49.50
>>621
でも、  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい?  わははははは   @阿波
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:25:58.24
>>621
>せいぜい五千戸の国なので七万戸の邪馬台国なんてナイナイw

でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:38:30.69
米が作れない洪水地帯は縄文時代と農業生産性が変わらないから
五千戸もないだろう
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:43:24.08
えべっさんはあちこちあるが畿内の古老の話では、西宮と堺のえべっさんはひるこで、今宮と八坂のえべっさんは事代主、年神の大黒さんと昔は三柱のえべっさんは明確に区別されていたらしい
ひるこは元々西宮と堺辺りに根付いたのかもしれない

堺の言い伝えによると、ひるこのえべっさんは葦船に乗り茅渟の海に上がられた【いわった】さん
未熟児の神さまであったが長い年月をかけ他の神々との暮らしを経て立派なえべっさんに育ったらしい
その後人間たちも一緒になり村落を作った後、天に上がられたという

いわったは、イワの要素もあり、タの要素もある名前
えべっさんは様々な文物をもたらす神さま、多くの神々の要素を吸収して成長したのか?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:47:12.17
西宮にはえべっさんの他に廣田神社もある
廣田神社は、アマテラスの荒魂が祀られている
西宮のひるのえべっさんに何か起きたのか?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 13:48:49.11
>>624
奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。   @阿波
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 14:04:30.49
あらゆるものを吸収したえべっさんは見る角度で様々な顔になるのかもな
葦でありひるであり夜であり田であり

イワの面を見ると全てを飲み込む蛙石なのかもしれん勝手な想像だが
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 15:23:11.44
>>619
そもそも魏志倭人伝には2期作の事は書いていない、バカか
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 15:24:42.50
阿波は海賊が本業、つまり泥棒民族だ
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 16:11:00.74
お待たせ

テンプレ追補

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
事実に対し、証拠は?と聞き返す癖がある
理由も言わず他説はウソと 呟く
これ、畿内説統一教会信者の特徴
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 16:18:27.43
>>632
>対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発

などと安価不使用でつぶやく九州説毎度のブーメラン死
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 16:49:03.46
>>632
事実だっていう証拠が必要だろ
言い張るだけじゃ事実にならない
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:00:25.17
基本的に畿内説以外の連中はかまってちゃんなのは確実だよな。
他説のスレが何故過疎ってるか理由を考えてみればいい。勿論内容があまりにバカバカしいからなんだからなw
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:18:37.57
>>635
不当な手段で通説の地位を得たのだから他説から叩かれるのは仕方がない事です。
歴博のマスコミ発表がなければココは誰も寄り付かないスレになっていた。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:21:22.20
>>629
ゑびす考スレでも立てろ!スレ違い甚だしい!!
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:35:01.12
畿内にはヤマタイどころかヤマトすら無かったんだよ

【おさらい】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:37:31.14
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 17:58:50.84
>>630
>そもそも魏志倭人伝には2期作の事は書いていない、バカか

米の二期作が出来る所=「倭地温暖」 バカか  わははははは   @阿波
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:02:30.69
>>636
でも、  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい?  わははははは   @阿波
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:05:08.85
>>636
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:25:45.33
>>637
叩く連中のレベルが低すぎて話にもならないのだが。
殆んどが虚言癖と妄想願望だけの内容しかない、しかも成り済ましにバレバレの自演なんだしなw
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:28:26.55
現実の阿波なんて弥生時代は七百戸くらいだろうな。何しろあの神社だw
あれでよく邪馬台国論に参加しようと思ったもんだ。やはり地域振興策の一貫かな?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:30:02.11
倭人伝も記紀もガン無視の妄言しか出てこない畿内説は人間社会では相手にされてないな
会社でも畿内説は1人もおらんw
邪馬台国?若い子は何それ?ってw
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:31:25.50
>>586

柑橘類といえば九州の特産品かな。
近代には四国や紀伊半島にも増えたようだが。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:32:26.57
>>646
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:35:48.04
>>586
>柑橘類といえば九州の特産品かな。

現代農法ではな。  バナナやマンゴーもな。 アンポンタンよ。 わははははは   @阿波
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 18:38:03.43
>>653
卑弥呼時代は寒冷期
飢饉も発生していたと記録されている
そんな時代の阿波は福井ぐらいの気温だろうよ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:00:05.56
>>654
それが本当だとしたら、北部九州や畿内はシベリヤぐらいの気温だろうよ。  わははははは   @阿波
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:06:56.43
奈良は他に法隆寺、東大寺、飛鳥に吉野と歴史遺産が飽和気味だから、邪馬台国推しなんて殆んどしないでしょ。
桜井市では流石に推してるが。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:10:18.40
>>659
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:12:26.21
>>660
だから、奈良の歴史は8世紀から。   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:27:10.09
四国遍路は世界遺産登録を目指しているようだが
残念ながら徳島の霊場が元の四国遍路の形態を維持していない
韓国籍で元統一教会の住職になってしまっているので難しいだろう
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:29:19.15
>>663
でも、奈良の歴史は8世紀から。   @阿波
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:39:56.49
>>666
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもないんだよ。  わははははは   @阿波
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:47:44.14
>>637
>不当な手段で通説の地位を得たのだから他説から叩かれるのは仕方がない事です。

それを証明できないでゴネるだけのお馬鹿さんが
九州せつをさらにミジメのものにしてるって
気づかないの?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 19:56:16.33
対中国の拠点は信貴山辺りというのは、龍田神社の存在が全て説明している。
祀られているのはシナツヒコなんだしな。
まあ金山彦神社といい、全てこの信貴山周辺に集まっている。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:01:03.87
>>670
学界での発表・検討のまえになぜマスコミ発表を急ぐのか。
歴博は有力な反証が現れると、追加調査などを行わずにこれを無視し、ただちに、マスコミを使って新たな事実が見つかったように報道を行い、他の説をつぶそうとする。
科学は検証によって成り立つものであるが、歴博はマスコミ報道の宣伝力で正しさを 証明しようとしているようにみえる。
考古学者の森浩一氏は、発表前に世論の操作を行おうとする歴博のこのようなやり方を、「研究者としてやり方が卑劣です」と怒りを顕わにしている。

橿考研が発刊した報告書『ホケノ山古墳の研究』には、歴博年代論と明確に矛盾し、歴博年代論を否定する重要な測定データが掲載されている。歴博はこのデータについて一切触れようとしない。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:02:56.95
>>670
毎日新聞は、6月1日の朝刊で、土器付着物の年代が他の資料よりも古く出ることに触れ、研究発表の後に、データの信頼性などに質問が続出したことを報道。学会として承認されるまでに至っていないことを伝えている。
また、毎日新聞は、6月8日夕刊でもこの件を取り上げ、「波紋を呼ぶ歴博発表。懸念される数値の独り歩き」として解説している。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:05:16.81
>>670
畿内説は元からミジメな捏造だって気づかないの?
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:07:08.88
>>671
でも空海は、「阿波」の辰砂採掘技術集団の痕跡があるところを
わざわざ聖地として選んだそうだぞ、高齢中よ。  わははははは   @阿波
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:13:28.28
>>674
それを証明できないで中傷するだけのお馬鹿さんが
九州説をどんどんミジメのものにしてるって
気づかないの?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:15:00.93
>>673
>毎日新聞は。

明らかにデタラメな記事だね
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:17:56.72
>>677
それを証明できないで中傷するだけのお馬鹿さんが
元からミジメな畿内説を益々ミジメなものにしてるって
気づかないの?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:19:01.76
>>672
>歴博は有力な反証が現れると、追加調査などを行わずにこれを無視し、ただちに、マスコミを使って新たな事実が見つかったように報道を行い、他の説をつぶそうとする。

そんなことしたって証拠は?
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:20:18.02
>>672
>橿考研が発刊した報告書『ホケノ山古墳の研究』には、歴博年代論と明確に矛盾し、歴博年代論を否定する重要な測定データが掲載されている。

という証拠は?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:21:45.31
>>677
別にどうと言うことでは無い、当時、煮炊きしてたのは纏向近辺だけで無く全国、煮炊きしてたんだから。
箸墓と結びつける方がおかしい。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:22:29.16
>>672

心理学者でイベント業を営んでいる人が書いた文章なんだろうが、
天井が崩落しているホケノの小枝の炭素14年代測定のデータは根拠にはならない
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:24:02.78
>>680
騒ぐ事では無い歴博そのものが畿内説なのだから
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:26:15.09
>>676
君ね、罵声ばかりでなにも論じて無いよ!
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:27:26.09
>>685
罵声じゃなくて正しい指摘
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:28:53.58
>>684
君が知る限りでしよ、
毎日新聞の取材で広がってるよ。

ワハハ
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:29:31.17
>>677
その正しいを証明できないで中傷するだけのお馬鹿さんが
元からミジメな畿内説を益々ミジメなものにしてるって
気づかないの?
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:29:42.82
>>681
>別にどうと言うことでは無い、当時、煮炊きしてたのは纏向近辺だけで無く全国、煮炊きしてたんだから。
>箸墓と結びつける方がおかしい。

箸墓と関係ある遺物が測定されているのだから
結びつけるのが当然でしょ?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:29:48.72
>>686
その正しいを証明できないで中傷するだけのお馬鹿さんが
元からミジメな畿内説を益々ミジメなものにしてるって
気づかないの?
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:29:58.27
>>686
何を指摘したのかね?
具体的に論じろよ!
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:33:01.82
>>688
>その正しいを証明できないで中傷するだけのお馬鹿さんが

でも、明らかにデタラメな記事でしょ?
正しいって証明できないお喋りだけで歴博を中傷してるのが九州説
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:33:36.01
>>672
蛇行剣や盾形銅鏡の事を 知りたがってるからでしょ
こんなん出ましただけでその後非公開だと納得しないだろ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:34:30.82
>>691
>何を指摘したのかね?

九州説が自分の主張を証明できないという事実
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:38:20.05
>>689
なんで、、
じゃあさ、、
ある遺跡で5世紀の炭化物の付着した土器が、見つかったらその遺跡は五世紀に作られたと言うか??
箸墓はどこで見つかったと思ってんの?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:39:54.99
>>692
>でも、明らかにデタラメな記事でしょ?
デタラメって証明できないお喋りだけで毎日新聞を中傷してるのが畿内説
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:40:12.93
>>694
知らんよ 、君が中身の無い投稿するから
聞いてんだよ。なにを指摘したの?
九州説に致命的な事?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:42:08.49
奥山級のドアホが騒いでんな。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:42:10.33
>>696
明らかにデタラメだもの
学会とは承認する機関じゃないんだから
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:43:44.21
>>697
九州説にとって致命的な事だね
senspiegel証明できない事を主著王してるってことは
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:44:53.72
お前が畿内説だから、報道が気に食わないだけだろ!
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:45:02.63
>>698
こういう嘘をつくのも九州説だけ
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:45:17.48
>>700
明らかにデタラメならそれを証明すれば良いだけ。出来ずに毎日新聞を中傷してるのがミジメな畿内説。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:47:59.57
>>695
>ある遺跡で5世紀の炭化物の付着した土器が、見つかったらその遺跡は五世紀に作られたと言うか??

築造時点での付着であれば当然五世紀に作られたと言う


>箸墓はどこで見つかったと思ってんの?

箸中
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:48:19.87
>>701
それさ、飛躍しすぎだよ
君さ、ここに来てる奴も、マスコミも、九州説の代表じゃないよ。
一つづ丁寧になぞってから言えよ。
それで、なにが気に食わないの?
論じろよ!
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:50:51.91
>>704
もう証明されてる
問題はむしろ新聞がそんなデタラメを報道した事実があるかどうか
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:50:55.19
>>705
炭素年代がた出しいとして、そこで煮炊きしてた人がいたという証拠なんでしょ。三世紀だけかよ人がいたのは?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:51:57.94
>>707
だから、その証明を論じろよ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:52:00.60
>>706
九州説はウソをついて中傷するなって事だね
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:54:04.07
>>709
だから、もう証明されたでしょ
学会は承認する機関ではない
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:56:01.01
>>707
証明されてない上に、お前がこの記事を知らない事に驚くのは俺だけなのか?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:56:26.46
>>710
九州説じゃ無くて、マスコミか特定のひとに対して言ってんだろ!
なんで、ターゲットが九州説になんのかね?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:57:30.93
>>708
>炭素年代がた出しいとして、そこで煮炊きしてた人がいたという証拠なんでしょ。三世紀だけかよ人がいたのは?

三世紀に煮炊きした痕跡が箸墓建設時点の遺構から出た
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:57:58.40
>>712
君ほ言う通りです。


奥山級のバカは無視してやってもいいと思うよ。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:58:25.52
>>712
証明された
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 20:59:39.75
>>713
じゃ、嘘をついているのは誰?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:00:52.93
>>702
>お前が畿内説だから、報道が気に食わないだけだろ!

そんな報道、実在するの?
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:02:53.83
>>714
だから、その土器が建設中のものか、建設前のものか、建設後の、ものかどうやって証明すんのよ。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:03:12.24
>>712
>証明されてない上に、お前がこの記事を知らない事に驚くのは俺だけなのか?

証明されてないと言う証拠は?
この記事が実在すると言う証拠は?
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:03:12.24
>>712
>証明されてない上に、お前がこの記事を知らない事に驚くのは俺だけなのか?

証明されてないと言う証拠は?
この記事が実在すると言う証拠は?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:04:47.05
>>717
君が嘘と思ってんるだけだよ。
何が嘘なんだよ!
マスコミなの?それを紹介した人なの?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:05:58.53
>>715
ここって前からこんなにレベル低かったですかね?
まともな人間が畿内説を諦めた結果だとすれば納得もできるのだけど。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:06:46.56
>>719
>だから、その土器が建設中のものか、建設前のものか、建設後の、ものかどうやって証明すんのよ。

周濠の最も底と、墳丘を築く土取り穴の底から発見されたので完成直後である
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:08:46.50
>>714
そんな事言ったら、出てきた馬具もよ
三世紀でいいんでねーの
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:11:09.17
>>724
だからさー。掘る前にすでにあっかもしれんじゃん。どう証明すんのかねー、
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:11:27.05
>>722
>何が嘘なんだよ!

学会は発表内容を承認する機関ではないので
「学会として承認されるまでに至っていないことを伝え」たのなら、嘘
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:14:20.84
>>726
>だからさー。掘る前にすでにあっかもしれんじゃん。どう証明すんのかねー、

三世紀の土器は当然ながら発掘する前に既にあった
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:15:05.21
>>724
やめとけ、あんたと言うより畿内説の学者のご都合推理にしかすぎないと思うよ。墓の内部から大量に三世紀の物が出れば良いけど、、
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:16:06.62
>>725
>そんな事言ったら、出てきた馬具もよ
>三世紀でいいんでねーの

四世紀の土器と一緒に出たので四世紀に投棄された
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:16:43.08
>>728
すると、三世紀以降に箸墓は造られた。
さていただろう?
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:18:20.43
>>729
さて、三世紀以降のいつだろう?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:19:05.95
>>729
>やめとけ、あんたと言うより畿内説の学者のご都合推理にしかすぎないと思うよ。墓の内部から大量に三世紀の物が出れば良いけ

ご都合推理と呼ぶ理由がない
完成直後の層位から出土した土器なのは事実
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:20:08.49
>>730
いっしょに捨てられたと言う根拠は?
木だから、流れて三世紀の土器といっしょになつたかもねー
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:20:46.46
>>731
>すると、三世紀以降に箸墓は造られた。
>さていただろう?

完成直後が三世紀であるから、それ以降に作られることはない
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:21:45.20
>>733
完成直後ってどう証明すんのかねー
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:22:24.21
>>734
>木だから、流れて三世紀の土器といっしょになつたかもねー

四世紀の土器と一緒に出た
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:24:27.64
>>736
>完成直後ってどう証明すんのかねー

周濠底部のシルト層から出たので直後と証明された
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:26:36.67
>>673
>また、毎日新聞は、6月8日夕刊でもこの件を取り上げ、「波紋を呼ぶ歴博発表。懸念される数値の独り歩き」として解説している。

ふ~ん。 「数値の独り歩き」かww  わははははは   @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:26:45.57
>>732
三世紀中葉と測定された
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:28:07.07
>>740
「数値の独り歩き」らしいぞ!  わははははは   @阿波
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:28:17.51
>>739
数値は独りで歩かない
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:29:25.31
>>742
何人もが歩かしているらしいぞ。  わははははは   @阿波
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:31:13.72
>>733
横からゴメンよ、
あんた、完成直後の層だとしたらだよ。
その層にで煮炊きしたと言う事でよろしいですが?するとその層の発掘ブツはすべて三世紀の物と断定して良いですね?
横からですが、回答の内容によっては反論させていただきますよ、
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:33:55.66
>>738
744
と同じ質問
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:38:01.98
>>744
>その層にで煮炊きしたと言う事でよろしいですが?するとその層の発掘ブツはすべて三世紀の物と断定して良いですね?

破損しやすい消耗品に限った話
煮炊きし(ていて破損し)たので投棄したのが完成直後時点だった
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:38:11.04
>>740
あんた、適任です。
南→東はなぜ?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:38:21.26
退屈な話だな
俺は箸墓が卑弥呼の時代とは思ってないし
http://www.kashikoken.jp/museum/permanent/kofun/kofun-top.html
ここも3世紀後半と言ってるからそうみたいね
ただ思ってるだけでその証明なんてできない
炭素年代測定でそう出たんならそんなもんかと思うしかないし
炭素年代測定を全否定する気もない
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:38:50.15
廣田神社に詳しい人いないのかな?
かつて六甲山全体が廣田神社の神域だったらしい
六甲山には無数の磐座が残されている
どういう場所だったのか
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:40:17.65
>>746
憶測の域をでない。
と思う程度の回答です。
ガッカリ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:48:55.11
>>750
反論できないなら素直に降参しなさい
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:51:50.07
>>748
前方後円墳だもんな
南→東もロクに説明出来ない畿内説だもんなー
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:52:47.30
炭素年代測定の結果をこれは正しいけどこれは間違ってるとかそんな判断できないよ
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:55:03.81
>>751
君に質問したかな?
南→東はなぜ?
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 21:57:05.22
>>754
倭人在帶方東南大海之中
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 22:01:55.68
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 22:11:32.66
>>752
>南→東もロクに説明出来ない畿内説だもんなー

説明した
反論はなかった
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 22:27:35.85
>>757
見逃したのかな?
説明もう一度してくれます?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 22:35:11.93
二度とできない
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 22:46:46.22
やすからむ世をこそいのれ天つ神くにつ社に幣をたむけて

この歌はどういう意味なのか?
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 23:07:46.17
>>759
恥ずかしくて、二度とできないのだろう
ワハハ
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 23:11:45.51
>>758
会稽東冶の東には日本列島は無いから南の信頼性がないことは確定
となれば、倭人伝の中で間違いであるとせねばならない箇所を最少にするためには
南→東が唯一で最良の方法である
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 23:36:19.85
>>762
修正すべきは方角ではなく距離。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 23:36:58.68
今日もキウスが思い込みで大暴れ
反論されると対抗できないので
阿波のまねして話題そらし
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/17(金) 23:37:50.75
相対的な南を意識しすぎ!(笑)
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 00:07:21.44
>>765
具体的には?
0769五芒星
垢版 |
2023/02/18(土) 00:13:32.14
空海って、何者ですかね
仏教界で突出していると思いますが
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 00:30:30.09
焼畑もかなり地域性があるな
黒ボク土の分布は興味深い
九州南部と阿蘇山の北側、関東〜東北の太平洋岸
縄文時代にやってきた東南アジアからの渡来人か
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 00:38:27.69
カグツチとかアタゴとか関係あるのだろうか
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 01:01:28.76
ムサシのサシも焼畑に関係するという説もある
常陸国風土記のサソリ丘も焼畑と関係するかもな
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 01:25:59.50
>>762
投馬国、邪馬台国に行く重要性や必要性がない
ので省かれただけだよ。
狗奴国と緊迫状況下もあるので南下のみで省略
種子島あたりで黒潮に乗る。会稽あたりの位置になる。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 01:38:39.44
卑弥呼が共立で九州にいれば
投馬国、邪馬台国にも行く必要性もない。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 02:07:35.65
>>774
いなければ必要性ある
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 03:44:45.34
>>775
居れば必要性はないし
共立されたのは卑弥呼であって女王の都とする邪馬台国ではないのですからね。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 03:57:45.78
卑弥呼亡き後の男王の名前もない。
狗奴国との関係もわからず
牛馬はいない、目撃していないだけかもしれん
カラカミ遺跡や遠賀川で馬の骨の出土ある
一大国以外 其餘旁國遠絶 不可得詳
目撃されていないが妥当
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 05:14:39.75
>>774
背乗り定期
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 05:30:51.39
現在の気温
糸島12℃
徳島4℃
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 06:25:32.95
>>780
キナイコシと@阿波と伊勢遺跡が入院患者かな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 07:09:56.69
>>779
これは、いかに測候所の立地環境によって、観測値に大きな差がでることを物語っている。  

単純に一つの測候所のみで比較できるものではないことがよく分かる。   @阿波
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 07:16:15.18
各県内にある各測候所の観測値は、各測候所での通年定点観測のために測候している。 

単純に他地域との観測値を比較する為のものではない。これ、常識。   @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 07:24:09.55
>>783
こんな常識を理解できないアホが、板野の詐欺師と北部九州のアホ。  わははははは   @阿波
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:00:43.79
阿波必死の連投
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:13:33.05
>>785
つまらんことしか言えんアホ。   @阿波
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:19:43.48
関係あるかわからないが東南アジアの焼畑民では焼畑をする範囲の区切りをカキ、自分らのことをアタというらしい
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:44:22.31
台与の時代まだ邪馬台国と狗奴国の対立は続いているな
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:53:03.54
私の個人的な見解ですが卑弥呼が死んでから狗奴国の男王が立ったのだろう、だから国が再び乱れたと思います。
台与は狗奴の側が立てた女王でしょう。
その後は狗奴国側の血統が続いたのでは?
元々卑弥呼も狗奴国側と近い関係だとも思いますね。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:53:41.56
>>788
その通り!   
①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:55:03.53
>>790
出雲は狗奴国(長国)。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 
これが記紀に言う、「出雲の国譲り」  
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、
倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、
倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。   
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:56:18.74
卑弥呼亡き後は吉備系の王でしょう
吉備討伐に繋がるしね
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 08:58:32.70
狗奴国系が政権に関与するのは垂仁天皇とされる時代の橘の姫の時代からでしょうね
4世紀〜
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:00:21.59
そもそもクニは狗奴が語源になっているとしか思えないですからね。
奈良盆地でも盆地部分より南側は昔からクニナカ、生駒や天理、宇陀の山間部はサンチュウと呼び文化圏が違いました。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:02:07.73
>>794
まあ、「狗奴国」と「橘」は共に「倭地温暖」で繋がる。   @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:03:24.91
>>795
まあ、奈良の歴史は8世紀からだけどな。   @阿波
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:04:18.24
私の見解では狗奴国とは元々熊本や宮崎辺りから四国の土佐にあったと思いますね。
またミマキイリヒコが阿波に出生の基盤があったと。
これは名前が美馬からきた丹生男の意味となります。確か母方が阿波にいた。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:05:58.06
>>797
そんな有り得ない話をまだしてるの?
だから工作員呼ばわりされるんだよ。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:06:48.29
>>798
>私の見解では狗奴国とは元々熊本や宮崎辺りから四国の土佐にあったと思いますね。

そんな広域を想定するのは、確たる根拠がないから、そうせざるを得ない為。   @阿波 
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:11:08.28
クニナカに対してヤマナカではなく、サンチュウと読みの時点で対立が判る。
旧邪馬台国の場所がサンチュウの方だな。
モモソヒメもクニナカ出身でサンチュウ側に嫁いでいる。そう考えると色々繋がってくる。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:14:42.27
阿波は簡単に言ってしまうと、ヤマトこと邪馬台国の主権を乗っ取った側の方ですよ。
勿論地理的にも阿波が都となった事は一度もありませんね。場所的に無理ですから。
邪馬台国とは昔からずっと畿内です。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:16:15.69
>>802
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:22:36.17
またサンチュウ側で興味深いのが結構最近まで土葬の習慣のあったエリアの存在ですね。
私も知り合いの葬儀に参加した事あるので様子を覚えています。
また何故か顔、身体的にはとても濃い感じ、分かりやすく言うと平井堅のような感じの人が多かった。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:24:43.22
阿波にはとてもではないが七万戸の国なんて無理だな。遺跡規模が全然足りない。
四国なら土佐や松山の方がまだ大きい。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:27:49.27
>>805
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:29:15.51
>>805
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが畿内には無いんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:30:27.78
結論とすればヒルメ山の名前は360°パノラマ、狗奴国、邪馬台国どちらも見渡せるから。
孝霊天皇の御陵が麓にあるのも納得、聖徳太子伝承にも強引に登場するしな。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:32:19.05
>>805
でも、
七万戸に見合う弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がないんだから、
どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:32:56.24
>>810
でも、
七万戸に見合う弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がないんだから、
どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:36:44.72
また法隆寺と飛鳥への太子道で唯一古代天皇の場所を通るのが孝霊天皇の宮とされる場所。この地に建てられた法楽寺も太子が創建している。

またこの場所は鍵唐古から箸墓、巻向方面へ繋がる古道と太子道が交差する場所でもある。
田原本の旧名の名前が都、(宮古)村の名前も納得だろう。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:39:23.95
ヒルメ山を元伊勢として参っていたのが阿波の人達だからな。まあ関係は深いのだろう。
淡路島には磯城県主の娘、ハエイロネが宮をもっていたからな。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:40:19.75
>>813
まあ、奈良の歴史は8世紀からだけどな。   @阿波
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:40:45.45
>>814
まあ、奈良の歴史は8世紀からだけどな。   @阿波
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:41:02.39
>>814
江戸時代の話しても意味ないよ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:45:45.96
そりゃ奈良はそれ以前大和、大倭。魏志倭人伝の言う邪馬台国という名前だからなw
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:47:23.89
伝承の「丸のみ」感がどうにも高齢臭がする。当たりですか?
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:47:49.01
>>818
でも、
七万戸に見合う弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がないんだから、
どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:47:54.14
>>817
参っていた事実は消えないよ。それにヒルメ山には元々ある古い逸話もあるがこれは絶対言えない。
何故偽であるとうち壊されたのかも。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:50:34.36
>>819
別に隠してる訳でもないが、今更ここでコテを名乗るつもりもない。
それに伝承を丸呑みでもなく取捨選択しているだけの話。
ネットで口外出来ない話の方が多いしな。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:50:44.96
>>819
もろ当たりの高齢臭だ。   @阿波
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:53:40.83
>>824
??  前からずっと高齢臭に言われているが、意味わからん。   @阿波
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:54:59.19
>>823
阿波爺は腐敗臭だ。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 09:55:18.20
@阿波はひたすら関係ない話をしたり、同じ事を延々コピペ。
そして全ての起源をむちゃくちゃな理屈で主張する等な。

まんま韓国人工作員のやりそうな事w
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:00:11.69
阿波、四国の汚鮮度合いが酷いからな。
@阿波がネットで暴れてるのも納得か
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:00:18.31
>>827
でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:01:51.38
>>818
大和州だよ。県レベルでなく
州レベル。回るのに28日かかる。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:02:03.24
>>823
やっぱりそうか。思考が薄っぺらすぎる。
徳島県生まれなら阿波説にどっぷりつかっていただろうw
糸島生まれなら高祖宮が云々と言ったのだろうな。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:05:40.51
>>782
なんじゃその言い訳、バカかキチガイか
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:10:03.50
>>832
仮に徳島県に生まれても阿波説なんかに浸かる訳がないのだが。
遺跡や出土状況を考えても有り得ないからな。
薄っぺらいも何も結論なんてシンプルな物だろう。小難しく語る方が自己陶酔してるだけの話。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:10:40.22
>>833
と、ワメクのが精一杯のバカでキチガイ。  わははははは   @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:12:05.50
>>821-822
>絶対言えない。
>ネットで口外出来ない話の方が多いしな。

明治から大戦中ならともかく令和になって言えないのは内容があまりにも成立不能なアホバカ話だからだ。
チラシの裏にでも書いて身内だけで永遠に語り継いでおけ。どアホが。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:13:43.44
>>834
>四国で温暖だと言えるのは高知ぐらいだろ

高地でも、山間部は温暖ではない。

これは、いかに測候所の立地環境によって、観測値に大きな差がでることを物語っている。  

単純に一つの測候所のみで比較できるものではないことがよく分かる。   @阿波
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:15:02.28
>>834
>四国で温暖だと言えるのは高知ぐらいだろ

高知県でも、山間部は温暖ではない。

これは、いかに測候所の立地環境によって、観測値に大きな差がでることを物語っている。  

単純に一つの測候所のみで比較できるものではないことがよく分かる。   @阿波
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:17:32.17
>>837
いい歳して口が悪いな、見苦しい。
それではまともな思考は無理なのは理解した。
保管者や遺跡出土管理者から口外するなと言われたのだから仕方ない。
まあ妄想願望だけで語るよりはマシだと思うけどね。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:19:15.16
>>835
>結論なんてシンプルな物
だから、お前は歴史の中での人の流れによる入れ替わりや神々の習合が理解できないのか?本当に薄っぺらい奴だよ。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:23:31.11
>>840
俺もとある人物から口外するなと言われていたが仕方ない。
暴露する。邪馬台国は東遷したんだって。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:34:46.73
>>843
口外するなと言われていたので詳しくは語れない。でもこれは正しい・・・

なんて主張が通ると思ってるのか>>840 薄っぺら高齢君?
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:50:32.29
私はハッキリ明言しておくと畿内説、やはり河内平野から生駒、宇陀にかけて。
矢田丘陵から八幡辺りが所謂邪馬台国だろうという説だな。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:53:08.19
>>844
信じる信じないは貴方次第ですからw

本当に重要な話なんてネットに、ましてや5chには書けないだろう。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:53:29.58
>>846
口外するなと言われていたので詳しくは語れないwww
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 10:53:31.23
>>842
卑弥呼が九州へ行ったので西遷だよ。
左遷だ。記紀ではツキヨミ。
登場がほとんどない。
後の筑紫である。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:21:23.98
>>852
高齢臭は、口伝しかないから。   @阿波
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:22:17.86
昨日あたりから、奥山に匹敵する相当レベルの低い畿内説のバカが投稿してるなWW
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:34:35.26
>>854
それでも反論できない九州説の知能レベル低さは致命的
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:35:19.31
基本的に九州説の人は何かの本かネット情報の受け売りなんだろう。
なので具体的に反論出来ない、しても至るところ矛盾だらけ。
だからキレてコピペで荒らすの繰り返しだな。
阿波男もパターンは基本的に同じだ。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:36:24.33
>>854
そいつの呼び名は高齢中と言うらしいです。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:38:44.62
>>856
>阿波男もパターンは基本的に同じだ。

でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が在るところが「阿波」しかないんだから、どうしようもなかんべよ。  
反論できないんだろ?  わははははは   @阿波
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:39:14.01
基本的な考古学の知識と歴史認識、魏志倭人伝を読めば畿内しかないのは直ぐに判るのにな。
そこに変なバイアスが入ると邪馬台国東遷とか、お国自慢的な地元起源論のような物に取りつかれる。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:41:38.39
>>859
>基本的な考古学の知識と歴史認識、魏志倭人伝を読めば畿内しかないのは直ぐに判るのにな。

でも、
七万戸に見合う弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がないんだから、
どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0862伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/18(土) 11:42:33.73
>>858
阿波に七万戸って時点でほれは無理と思うだろう、
戸数の問題は、例えそれが盛りに盛った数字であっても、
阿波とは整合しません。

目を覚ました方がええと思う。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:47:02.69
延喜式神社数で名神大社数というのは、やはり古来からその信仰が、その土地である程度古くからの物とみるのは当然の話。
当然仏教よりは古くからあるだろうからな。

そうなると必然的に畿内は倭人の国で最大の戸数の国とみるしかない。
中国地方や北部九州、対馬壱岐も多いのだからな。
阿波では全く少ない、桁が足りてない。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:49:15.01
>>855
それで、
南→東の解説してくれよ!
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:49:35.49
また神社数が少ないのは鬼道の影響下には無かったとみるしかないだろう。
肥前肥後、日向、薩摩が少ないのはそう判断せざるを得ないな。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:49:40.73
>>863
>延喜式神社数で名神大社数というのは

延喜式神社数で名神大社数というのは、平安時代の話な。  下がってよし。  わははははは   @阿波
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:53:22.81
地理的に方向間違い例なんて既に沢山ある。
散々証拠も出されてるのに未だ固執する理由なんてあるのか?

まあ神仙思想下ならそもそも半島から東に行くと中国人憧れの扶桑国だぞw

つまり神仙思想の影響下では東へは進めない。これが方向間違い説の一因でもある。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:56:40.53
>>866
平安時代であっても弥生時代後期の出土品等を考慮すれば、結果は出るだろう。
他の地区は比例して多いのだからな。
まあ阿波だけでは遺跡規模も小さく、神社数も少ないので話にならないが。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 11:58:35.19
>>856
畿内説の人は基本的に南→東を解説できない。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:03:46.11
>>868
>弥生時代後期の出土品等を考慮すれば

弥生時代後期の出土品等を考慮すれば、「阿波」一択だ。  わははははは   @阿波
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:05:12.54
>>867
ふーん
瀬戸内海を往復二回、4回航行して間違うかそれも片道で水行30日、合計120日だよ 。
それで間違えた例をらあげろよ、
瀬戸内海航路は西から東へ海上で一直線だよ。
間違わないよ。
太陽が1番高く昇る方向は真南、北極星は北の空。
魏の使いが間違いようもないよ!
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:05:31.16
>>868
>平安時代であっても

畿内の歴史は、8世紀から。   @阿波
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:11:46.88
畿内説は馬鹿の集まり。
畿内説によると
北部九州から投馬国の南は東の間違い。
ニ往復で4回、間違えた
投馬国から邪馬台国の南は東の間違い、
ニ往復で4回、間違えた

合計8回、魏ほ使いは南→東の間違いであった。
そんなアホな、、、
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:15:36.79
>>874
「間違えた」と言ったのは誰?
捏造かな?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:16:50.98
>>864
>南→東の解説してくれよ!

解説済み
反論はない
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:17:40.27
>>869
これは嘘
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:20:33.16
>>872
現地の人が仮に間違えなくても、編纂する側はわからない。
そもそも地図もないし確認出来ないのに。それに当時の中華思想、神仙思想のバイアスが加わるなら東へは進まない。

それに魏志倭人伝の投馬国は出雲、丹波ルートだよ。

だから時代が進んだ瀬戸内海ルートが使えた隋書倭国伝では南から東へ訂正後してるだろう。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:28:31.67
隋書倭国伝では火山の記述があるのも、大和朝廷が九州を南側まで成敗した史実でも一致しているからな。
やはり延喜式の神社数がヤマトを中心に多いのは古来からの集権の記録を反映している。
それは三角縁神獣鏡の配布から始まるものだろう。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:37:46.58
>>879
>やはり延喜式の神社数がヤマトを中心に多いのは

やはり延喜式の神社数がヤマトを中心に多いのは、畿内の歴史は、8世紀からだから。   @阿波
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:48:02.16
奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、7世紀末まで「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。   @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 12:52:33.34
畿内は、7世紀末から遷都造営に着手したので、古墳が造られなくなっていった。   @阿波
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:04:37.82
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:04:50.48
阿波の無駄な足掻きが見苦しい。
三角縁神獣鏡はもっと出土が増えてよいな。結局神獣鏡が鬼道の証明をしてくれるだろう。
延喜式の神社数はその出土エリアの延長上にある。中国地方はもっと出土例は増えるはずだ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:05:55.23
ChatGPTに現時点での邪馬台国所在地の最有力候補を聞いたら 大和地方すなわち近畿 との回答だった
Webでは素人の九州設が圧倒的支持なので意外だった
ソースで重みづけしてるのかな?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:10:03.48
>>884
>阿波の無駄な足掻きが見苦しい。

でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が「阿波」にしかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:10:58.42
AIには書き込み個人を特定出来るから工作しようがないからな。
ネット上で暴言や成り済まししてる奴は後で後悔するの判ってるのかな?
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:11:51.79
王位継承権を持つ卑弥呼と卑弥弓呼の二人に依る権力争いで
狗奴国が何処にあったとかどうでもいい話し
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:16:17.89
>>870
一部の阿保な九州説明だよ。
現糸島市ではない。遺跡が墓地遺跡。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:17:34.52
横からだけど、畿内説が自分では何も証明せず、証拠は?証拠は?と言い続けているのがうざかった。
考古学的資料も都合が良い解釈を押し付けてばかりに思える。
ああ、個人的な感想だから無視してくれて構わないよ。
だけどこのままでは畿内説は誰も納得しないだろうね。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:19:09.74
大和が邪馬台国、河内が狗奴国
東海が邪馬台国、畿内が狗奴国
元は下のパターンで邪馬台国の版図が大和まで広がった可能性もなきにしもあらず
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:19:22.12
戦国時代でも江戸時代でも室町時代でも天皇家の勢力なんてどうでもいいでしょ
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:20:01.17
畿内説の証明なんて散々してきてるのだが。
それだけで元々ガチガチの九州説なのがバレてるなw
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:21:16.73
>>890
俺もそれ批判してたけど説明しない九州説も酷いわ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:24:51.52
魏志倭人伝を読む、解釈するなら邪馬台国、卑弥呼の情報は遠方の七万戸と鬼道しか確実なものはないからな。
必然的に畿内しか対象は絞られるはず。

それを今まで無視してきたのが九州説、邪馬台国に直接関係ない鉄の話や行程のこじつけばかりしてきた酬いだね。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:26:54.14
>>890
>横からだけど、畿内説が自分では何も証明せず、証拠は?証拠は?と言い続けているのがうざかった。

お前、確実に頭おかしいだろう
自分がなにか証明してるかしてないかと
他人が証拠だすか出さないかは無関係だぞ
お前、社会性ないだろ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:30:55.97
畿内説 東→南
九州説 東南→北東
どちらも納得していない
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:34:24.58
水行ひと月陸行ひと月の行程は魏志倭人伝に書いてあるのが
間違ってるのか?と何度も九州説論者に聞いてるのに答えないのよ
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:36:01.37
>>897
最低でも3回として6往復だしな。
帰路の説明がないので往復だろ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:36:38.99
>>890
>だけどこのままでは畿内説は誰も納得しないだろうね。

納得しないのはゴリゴリの九州せつ盲信者だけだから
ひとの9割9分は教科書に書いてあることに納得する
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:39:34.10
>>897
済州島が馬韓の西と書いてあるのが魏志の間違いと言われて納得しないのは狂人だけ
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:41:37.98
>>901
間違いとか書いていない
納得しないなのである。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:42:07.26
>>875
なんと言ったの?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:42:29.19
鹿児島を船で南に行けば紀伊半島、次は伊豆、次は房総半島
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:43:10.07
間違ってるなら間違ってるで良いんだけど答えないはダメだろ
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:45:13.19
>>876
逃亡者か
どのように解説したの?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:47:33.23
>>878
憶測なら誰でもできる。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:52:57.75
>>898
間違ってたら、畿内説に都合が良いかもね。難波から纏向まで陸で一月よかからない。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:53:06.15
>>902
東南→北東は
伊都国の墓地と帯方郡住民地域
で一部。範囲は佐賀 有明海あたりまでと考えればよい。行政的な地域ではない所を想定してしまったんだな。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:58:36.98
>>909
デタラメ考えるのいけません
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 13:59:30.94
>>899
あのー
松浦には一回しか言っでないので、片道一回ですよ、
伊都国は必ず往来するけどね。
草木深い、前向くか人も見えない状況から、間違えたでも成り立つし。東南に向かっことは認識してたでも成り立つね、
邪馬台国の往来に伊都国は必ず通過するが末盧国は??
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:00:27.66
>>836
阿波がクソ呆けジジイなのは世間の定説じゃ、バカが
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:00:55.38
南と東の方角をしつこく聞いてるのが居るけど
俺は中国側が国家の邪馬台(ヤマト)を倭王が居る集落だとだと勘違いしてると言っている
中国語の倭がヤマトなんだから東南の大海の中にある
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:01:48.29
>>908
だから答えないのか?
そんなんじゃ話にならん
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:03:16.78
>>907
その憶測もできないのが九州説
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:05:01.66
>>911
毎回海の上から見えてるでしょ?
なんで間違えるの?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:05:09.67
>>902
東→南は間違いでなく。
女王の都とする邪馬台国は中心国でもない
行く重要性もないから、途中の停泊場所も含め
省かれただけだよ。遠方だし、魏との交流、
物流の出入口と卑弥呼が九州に行く方が合理的。
狗奴国との関係で前線の奴国は危険なので
伊都国か、不彌国に居るのである。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:09:17.75
いくら南に行っても邪馬台国なんて集落は存在しないと言ってるんだよ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:11:43.27
>>911
なんで1回なの?
誤ったという記述もない。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:14:02.69
>>917
辻褄は合うな。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:21:13.21
>>920
ト骨の風習も見れるよ。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:26:36.32
>>920
もうひとつ、南下で大村湾へ
さらに西へ進む北上で五島列島で橘の自生も見れる。大村湾でも自生が見れたかもしれん。
持衰にも最適な地域と思うが?
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:26:43.58
7万戸の集落なんてない
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:30:47.10
イザナギ・イザナミの正体までは、阿波さんもわかりませんか?
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:33:16.47
>>923
当然
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
これのみの説明しかない。

中心国でもない女王の都とする邪馬台国
は広範囲だよ。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:37:23.49
>>895
>必然的に畿内しか対象は絞られるはず。

絞られるはず、と言っても
七万戸に見合う弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がないんだから、
どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:43:24.91
阿波なんて遺跡の規模でも畿内に全く及ばないのに、何をいつまでも寝言言ってるのだろう?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:45:43.78
官名でもイコマだしな、やはり邪馬台国とさ生駒山、信貴山中心なのは間違いなしだよ。
例の富雄丸山古墳の存在も四世紀以降、権力所在地を指す証拠でしかない。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:46:02.29
>>899
>帰路の説明がないので往復だろ

「使往來常所駐」

往來とあるから、伊都国より先の国から帰ってきて
また伊都国に駐している。
伊都国は通過国ということ。   @阿波
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:48:13.19
まて卑弥呼による鬼道による支配はそのまま三角縁神獣鏡の配布状況に比例していて、
それは延喜式の神社数へと継続している。鏡作神社の所在地は奈良盆地の田原本にある。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:48:42.52
>>927
>阿波なんて遺跡の規模でも畿内に全く及ばないのに

でも、
七万戸に見合う集落遺跡群が「阿波」にしかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:50:40.96
>>929
意味は理解してるが以前揉めたから一応言っとくと
駐しているなんて言葉はない
必ず立ち寄る場所だな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:51:41.17
>>930
>鏡作神社の所在地は奈良盆地の田原本にある。

正確には、「鏡作坐天照御魂神社」

畿内の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。  
当然、「阿波」からだろう。 
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。     
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。  わははははは   @阿波
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:53:17.54
考古学的にみても弥生時代の阿波は精々七千戸だな、贔屓目にみてそんなもんだ。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 14:55:57.55
阿波は三角縁神獣鏡でもたしか片手で足りる程しかないw
神社数の少なさはやはり実態と同じ、ただの小国だわ。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:16:55.62
>>910
で君はどう思うのか?
辻褄が合う説明できるのか?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:17:10.71
和泉黄金塚古墳の日本最大の水晶玉だよな
ウカノミタマに関係すると思うんだよな
この時代は何処にあったのか?
卑弥呼か卑弥弓呼か、大倭かはたまた別のところか

話は変わるが
この時代はシタテルヒメ、建御名方、事代主の兄弟のモデルとなった人々も関係してそうなんだよな
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:23:58.58
シタテルヒメの夫はワカヒコだったかな
スクナヒコナの子孫ってことはないか、想像を膨らませ過ぎか

大倭って大国主じゃないかと思うんだよな
九州の建御名方、東国の事代主、中のワカヒコとシタテルヒメ
大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいっぽい
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:24:17.04
>>937
現糸島市を伊都国とするのが間違い
博多湾にしたい一部の北部九州説が、ダメなだけだw
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:25:37.83
卑弥弓呼は所謂ワカヒコじゃなかろうか
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:28:50.49
>>939
大倭が中国語なのか日本語なのかどっちよ?
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:34:05.86
九州の建御名方は敗れて統治システムと配下の兵は一大卒に組み込まれたんじゃないか
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:34:21.11
>>934
いくら駄々をこねても
七万戸に見合う集落遺跡群が「阿波」にしかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:35:42.51
>>935
いくら駄々をこねても
七万戸に見合う集落遺跡群が「阿波」にしかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:38:15.02
>>932
意味はそういうことだ。   @阿波
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:38:47.02
>>899
>帰路の説明がないので往復だろ

「使往來常所駐」

往來とあるから、伊都国より先の国から帰ってきて
また伊都国に駐している。
伊都国は通過国ということ。   @阿波
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:41:48.81
やはり三角縁神獣鏡の地域別出土状況は見事に延喜式の名神大社数とも比例してるな。
奈良、京都、兵庫ときて福岡の順になる。京都兵庫は出雲丹波でもあるからな。
近江は相対的に低いからまだまだ出る可能性はあるのかも?

阿波は神社数と同じで3なんだな。次元が違う少なさで話にもならない。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:45:01.11
弥生時代後期、権力基盤が北部九州から畿内に移動した可能性は鏡の出土からはまだ見いだせる。
だか阿波からなんて全く見当たらないなあ。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:47:01.56
>>948
>やはり三角縁神獣鏡の地域別出土状況は見事に延喜式の名神大社数とも比例してるな。

やはり延喜式の神社数がヤマトを中心に多いのは、畿内の歴史は、8世紀からだから。   @阿波
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:48:47.39
>>949
「三角縁神獣鏡」も勿論、「阿波」での製作品。   @阿波
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:49:05.50
>>947
要するに往路で立ち寄るよる所。
帰路も同じだな。末盧國 伊都国 奴国 不彌国以外の記述はないしな
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:51:46.95
>>952
要するに往復で立ち寄るよる所。
往來とあるから、伊都国より先の国から帰ってきて
また伊都国に駐している。
つまり、伊都国は通過国ということ。   @阿波
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:54:20.66
>>952
要するに往復で立ち寄るよる所。
往來とあるから、伊都国より先の国から帰ってきて
また伊都国に駐している。
つまり、伊都国は往復で立ち寄る国ということ。   @阿波
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 15:54:43.27
>>937
一回のみとか納得
いくわけがないだろw
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:00:01.82
>>952
つまり、伊都国(直方辺り)は、往復で立ち寄る国ということ。   @阿波
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:06:07.63
>>955
当然だな。
で可7万戸、ヒナボリもない
中央としての軍事や租税の記述もない理由は?
一大卒やら伊都国には於國中有如刺史
刺史みたいのがある記述はあるが?
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:10:35.96
>>957
卑弥呼を倭王にした豪族たちが居るんだよ
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:13:46.52
>>957
「於國中有如刺史」
この國中、
当時の中国で、自国のことを「國中」と呼び習わしていたのだろうか? 疑問だ。   @阿波
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:15:24.98
>>930
鬼道は神道って事なんだろうか?
延喜式大社・鏡作坐天照御魂神社は像鏡を「天照国照彦火明命」として祀るもので卑弥呼は彦火明命に仕えていたのか?彦火明命と卑弥呼の関係は?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:15:28.23
>>959
で見解は?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:17:39.08
>>948
>やはり三角縁神獣鏡の地域別出土状況は見事に延喜式の名神大社数とも比例してるな。

やはり延喜式の神社数がヤマトを中心に多いのは、
畿内の歴史が、8世紀から始まるからに他ならない。   @阿波
0963伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/18(土) 16:19:24.23
>>945
七万戸に見合う集落遺跡は、流石に阿波だけでは無理、
ましてや昔は粟国と長国の二国だったのだから、更に条件は厳しい。

更に言うと、阿波の式内大社は全て粟国のエリアであり、
大麻比古神社と忌部神社が名神大社、
天石門別八倉比賣神社は大社であるが、
延喜式の名神祭の項目に記述はない。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:21:31.25
>>962
>畿内の歴史が、8世紀から始まるからに他ならない。
そんな事は絶対にないが延喜式を3世紀の列島の状態と関連付けする主張はお前以上にイカれてるな。
こんなバカを言うのは高齢中か? 
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:22:27.27
>>961
当時の中国で、自国のことを「國中」と呼び習わしていたのであれば、中国のことなんだろう。

そう呼び習わしていないのであれば、倭国(阿波)のことなんだろう。   @阿波
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:27:24.46
当然
邪馬台国は中心国でもないんだからね
唐古・鍵遺跡や中西遺跡があるけどね。
衰退したり消滅したり。飛鳥京、平城京とか
半島系を利用したあたりだろう。
0967伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/18(土) 16:27:32.45
>>962
ほの畿内の歴史は八世紀からと言う苦しい主張もあかんなあ。
少なくとも三世紀末、遅くとも四世紀初頭には畿内に権力を持ったグループが個人が存在している事は、明白な事実で有り、
其れを認めた上で、拮抗するような勢力が阿波にもいたって言うはなしなら、
まだわからんでもないんやけんどなあ。

尚、阿波で前方後円墳は.五世紀になるとサッパリ作られなくなっている。

何かの事実を示唆する物であろう。
0968伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/02/18(土) 16:29:12.45
>>962
ほの畿内の歴史は八世紀からと言う苦しい主張もあかんなあ。
少なくとも三世紀末、遅くとも四世紀初頭には畿内に権力を持ったグループか個人が存在している事は、明白な事実で有り、
其れを認めた上で、拮抗するような勢力が阿波にもいたって言うはなしなら、
まだわからんでもないんやけんどなあ。

尚、阿波で前方後円墳は.五世紀になるとサッパリ作られなくなっている。

何かの事実を示唆する物であろう。

一字訂正。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:31:58.91
>>967
中心国としてだな。
歴史は当然八世紀以前からある。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:34:04.52
>>964
だが三角縁神獣鏡の出土状況と、延喜式の神社数は比例しているからな。
神獣鏡=神仙思想を基盤とする鬼道の証拠でもある。

西日本において卑弥呼の鬼道の支配下にあった土地=三角縁神獣鏡出土エリア=延喜式での神社数となる。
だから抵抗していた肥後肥前や日向、薩摩それに土佐には少ないという図式だね。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:35:19.08
>>969
>歴史は当然八世紀以前からある。

その八世紀以前からある畿内の歴史は、
奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、7世紀末まで「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。   @阿波
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:36:58.60
鬼道も4世紀には埴輪道に変わりそうやけどな
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:36:59.85
>>961
当時の中国で、自国のことを「國中」と呼び習わしていたのであれば、中国のことなんだろう。

そう呼び習わしていないのであれば、当然、倭国(阿波)のことなんだろう。   @阿波
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:37:21.73
それにやはり大規模古墳を連続して造れる場所は、可七万戸の決定的な証拠でしかない。
つまり卑弥呼の鬼道と七万戸を可能とする場所は畿内にしかないのは、誰でも判る話なんだけどね。
何故今更九州説とかまだ言ってるのだろうと不思議で仕方ない。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:38:19.31
>>970
覚えたての延喜式を言いたくて仕方がないのかw
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:39:02.47
>>974
>それにやはり大規模古墳を連続して造れる場所は、可七万戸の決定的な証拠でしかない。

奈良湿地や河内湿地は、
度重なる大洪水に見舞われるまでは、「倭人(阿波勢力)」が稲作をしていたが、
その破滅的災害の後は、7世紀末まで「倭人(阿波勢力)」豪族のお墓の見本市の場となった。   @阿波
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:39:38.10
>>970
神仙思想がどうしたって?
延喜式大社・鏡作坐天照御魂神社は像鏡を「天照国照彦火明命」として祀るもので卑弥呼は彦火明命に仕えていたのか?彦火明命と卑弥呼の関係は?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:40:33.07
>>949

弥生時代末期ではなく、古墳時代なのだろう。
畿内の伸長は卑弥呼が亡くなってからかのだろう。
それをほんの数十年、考古学的には区別できないくらいわずかに前倒しするだけで、まるで畿内に卑弥呼が来たかのような誤認を誘導することもできる。
まあ、愚かにもそれを論じる本人が誤認しているかもしれないが。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:43:11.37
>>980
>だが数値は嘘をつかないからな

しかし、平安時代のな。  わははははは   @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:43:29.90
>>971
邪馬台国の一部な。
いろんな形状 墳丘墓や古墳がある、
要する各地から集まった地、
近畿及び周辺国の復興、開拓地でもある。
東西南北と物流網の整備。
物流が日本海から瀬戸内海、太平洋地域に
徐々に移るのである。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:44:00.33
>>913

帯方郡から九州北部までは、朝鮮半島西岸を南行四千里、半島南岸を東行三千里、対馬海峡を南に三千里なので、概ね帯方郡の東南で九州北部が倭というのが中国の認識。
その中国から見た倭すなわち博多湾沿岸の女王が卑弥呼。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:44:40.57
>>980
>だが数値は嘘をつかないからな

しかし、平安時代のな。  わははははは   

しかも、「座」が付く神社ばかりな。  わははははは   @阿波
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:44:54.75
近江77万5千石
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:46:10.86
>>972
ト骨もな。鬼道との関係は定かではないが
亀トに移行する。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:46:34.56
阿波18万3千石
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:47:12.29
徳島最大の前方後円墳は5世紀中頃の渋野丸山古墳(105m)だから
畿内と拮抗する勢力はいない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 16:50:05.84
阿波は高天原の真似をして指令を九州に奈良に飛ばしていた可能性もあるな
卑弥呼の裏には間違いなく黒幕がいるはず
大陸との交渉に長けや大陸の流儀に詳しい集団
0991日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 16:51:07.32
>>984
大和と阿波ではあまりにも絶対数が違いすぎて比較にもならないぞw
そもそも神が集まる場所が都、阿波は逃げ出されてる証拠だな。
0992日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 16:51:46.94
>>988
畿内の「前方後円墳」は、「倭人(阿波勢力)」が造ったものなんだから意味無し!   @阿波
0993日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 16:52:55.27
倭文神とか卑弥呼の裏にたくさんの渡来人がいるのでは?
0995日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 16:54:19.39
>>991
>大和と阿波ではあまりにも絶対数が違いすぎて比較にもならないぞw

そりゃ、遷都して随分経った平安時代の話だからな。  わははははは   @阿波
0996日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 16:56:41.51
3世紀九州でもっとも発展しているのは外港都市博多
その博多の首長層は畿内と親密な交流関係がある
だから糸島や佐賀や筑後のどうでもいいところが
纏向遺跡や日本の考古学者を罵る
0998日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 17:01:38.02
>>983
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→伊勢遺跡
0999日本@名無史さん
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2023/02/18(土) 17:04:09.77
>>996
畿内と博多に密接な関係は見られない
そこが畿内説の強引な印象操作
ストーカーという犯罪でもある
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/18(土) 17:04:24.53
>>996
発展というか貿易だな。
デカい銅鐸や丹の精製、玉作りなどの
工業技術は、島根、丹後、近江、阿波、摂津、吉備だろうう。
10011001
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