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邪馬台国畿内説 Part865
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/02/21(火) 19:51:55.07
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1676706059/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:53:01.02
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:53:32.09
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/02/21(火) 19:54:09.35
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:54:47.93
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:55:18.97
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:55:49.94
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:56:32.86
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:57:16.44
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:57:47.64
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:58:19.03
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:58:51.14
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:59:21.63
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 19:59:51.97
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:00:24.28
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:00:57.03
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:01:29.24
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:02:12.58
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:03:00.77
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:03:32.45
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:04:02.05
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:04:32.68
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:05:02.00
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:05:32.10
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:06:01.76
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:06:31.99
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:07:01.70
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:07:32.90
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:08:02.16
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:08:34.54
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:09:06.45
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:09:37.81
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:10:08.85
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:10:38.94
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:11:08.70
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:11:40.66
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:12:12.22
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:12:42.00
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:13:14.86
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:13:45.21
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:14:16.55
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:14:49.26
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:15:24.22
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:15:58.13
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:16:30.78
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/02/21(火) 20:17:00.40
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/02/21(火) 20:17:31.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/02/21(火) 20:18:01.62
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/02/21(火) 20:18:31.67
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/02/21(火) 20:19:02.09
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/02/21(火) 20:19:31.63
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/02/21(火) 20:20:12.24
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/02/21(火) 20:20:44.25
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:21:15.64
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/02/21(火) 20:21:48.50
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/02/21(火) 20:22:21.39
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/02/21(火) 20:22:53.85
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/02/21(火) 20:23:23.47
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/02/21(火) 20:23:56.20
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/02/21(火) 20:24:30.99
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/02/21(火) 20:25:01.59
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0063◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:25:31.95
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0064◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:26:01.64
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/02/21(火) 20:26:32.56
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/02/21(火) 20:27:03.91
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2023/02/21(火) 20:27:35.99
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/02/21(火) 20:28:06.49
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/02/21(火) 20:28:36.58
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:29:07.93
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:29:41.91
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:30:11.53
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:30:41.89
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:31:14.50
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:31:42.03
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/21(火) 20:32:12.34
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0078日本@名無史さん
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2023/02/21(火) 21:10:41.14
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、甕棺墓の殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/21(火) 22:08:41.19
10年もスレ立てに命をかけるキナイコシはキチガイだろ
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/21(火) 22:18:56.65
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/21(火) 22:55:51.22
>>79
作ってすぐ壊してるんだから吉備から来た古墳製作チームのプレハブ事務所よ。
ずーと何個も古墳作り続けてるうるさいとこに神殿なぞあるわけない。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/21(火) 22:57:22.78
>>79
作ってすぐ壊してるんだから吉備から来た古墳製作チームのプレハブ事務所よ。
ずーと何個も古墳作り続けてるうるさいとこに神殿なぞあるわけない。
0085琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/21(火) 23:35:53.47
無駄だよ、適当な事しか言えなくなったな。
説で成る程ここに卑弥呼が居たに違いない、という話をしなさいな。できないでしょ、九州なんかに居ないから。九州はねぇ半島の影響強すぎるのよ、そんなところで鬼道は広まらない。
祇園山は阿残墓だろ、阿人の墓だよ、まあ、隋の時代には王国があったんだろうが、卑弥呼の時は魏の制圧中だろ。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 07:27:59.50
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 08:28:18.71
>>81
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 08:58:05.20
嘘と誤魔化しの畿内説
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 08:59:07.59
>>76
前スレってどれだよ、バカ
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 09:13:13.43
1は犯罪者
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 09:13:40.19
纒向遺跡と箸墓古墳を根拠とした畿内説は
考古学統一教会が霊感商法で押し売りしてる壺である

いまこんな感じだよな
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 12:22:35.84
未だに半島系DNAが近畿に集中している事実を知らないアホ考古学は廃止の方向で
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 12:25:30.09
服部遺跡は誰が調査したんだろう?
あれはしっかり調査されてるし広報もしっかりしてる
うそハッタリ羅列の纒向遺跡とは大違いだな
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 12:34:12.28
半島の南部は元々倭人の国なのを無視するなよw
古来から大陸と行き来しとるし皇族同士は子弟交換しとるのに。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 13:30:52.00
>>97
妄想乙
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 13:54:20.54
本格的に近畿の整地が始まるのは5世紀頃であり、3世紀時点では東の倭種の国だ
その時代の畿内に連合政権が存在したかどうかなんてわかりゃしない
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 13:58:00.49
そんな戯言何時までもいい続けても虚しいだけだぞw
邪馬台国なんて畿内でとっくに確定事項。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 13:59:16.26
三角縁神獣鏡は鬼道支配の証だからな。
出土稽古はそのまま女王国か女王に協力的な国だから。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 13:59:30.83
>>97
今どきもう聞かない珍説だな
もうその線が無いのを知らないのか?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 14:02:30.53
銅鐸も三角縁神獣鏡も北部九州からも出てるしな。そこは奴国で女王国協力国の証。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 14:22:42.81
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 14:31:35.14
すっかり詐欺の宗教と化した低能考古学の成れの果て
立民より頭悪いしw
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 15:20:53.35
妄想ではなく三角縁神獣鏡は現実に出土したものを統計としてカウントしていますよ。
つまり九州説の一部の方が鉄器が出土したものをカウントする事も只の妄想ですね。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 15:51:50.67
畿内説は自分で自分の首を絞めてるのよ。水行陸行を方角変えたらどこでも良くなる。
邪馬台をヤマトと読むなら九州にもある。
250年頃の墓でいいならどこでも良くなる。
風俗、特産品は倭全体のことなのでどこでも良くなる。
鉄は溶ける?絹は残らない?鏡は動く?卑弥呼も動く?

じゃぁどうすんのか?
ゴッドハンドも年代のごまかしもきかない環壕集落で探すしかないのよ。
これが落とし所だろ。
邪馬台国は環壕集落がある所だ。
戦中なので卑弥呼は狗奴国から離れた所にいるかもしれん。
でも、マキムクは平和すぎる。のんびり墓なんか作れんて。男が沢山死んで男一人に奥さん3人とか5人とかなってるんだから。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:00:02.91
9割の古墳が盗掘されている状況において600枚も発見されている三角縁神獣鏡は当時数千枚流通していた物と考えられる。
魏志倭人伝によると卑弥呼が貰った鏡はたったの100枚である。
その後銅鏡を頂戴した記録は無い。

よって三角縁神獣鏡は魏からの下賜品であると主張するのには論理的に無理がある。
三角縁神獣鏡は国内で入手しやすかった国産品と見なすのが妥当である。
なお当時は国産の原材料が無かった時代ということもあり、再鋳造を繰り返した可能性も否定できない為、成分分析で下賜品かどうかを見分ける事は論理的に不可能である。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:01:08.93
馬韓の祭祀がある日本の中の古代韓国吉野ヶ里は
博多比恵那珂遺跡群よりも小規模で発展もしていない
3世紀の博多と密接な交流関係なのは畿内
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:14:31.60
>>109
>なお当時は国産の原材料が無かった時代ということもあり、再鋳造を繰り返した可能性も否定できない為、成分分析で下賜品かどうかを見分ける事は論理的に不可能である。

それが、わかりんだよ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:18:24.55
纒向遺跡の建物は卑弥呼の宮殿とは絶対に言えない。

・ほんの数人で建築できるほど小規模であり王宮に相応しくない
・また、柱穴には礎石も無く大型の建造物を支える事を前提としていない
・周辺に民衆の住居や生活痕も無く、居住のための施設とは考え難い
・柱を何度も抜き差しした痕跡がある事から、何かある事に建てられた仮設の建物と考えられる
・魏志倭人伝に書かれた宮殿とは正反対の様相であり非常に無防備な施設である
・鉄器など大陸や半島との交易の痕跡が全く無い

周辺に大型の古墳が立ち並ぶ事から、古墳建造時の臨時施設であったと考えるのが妥当である。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:19:00.81
>>108
>ゴッドハンドも年代のごまかしもきかない環壕集落で探すしかないのよ。

倭人伝に環濠集落は出て来ないので、環濠集落は失格
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:25:48.59
>>110
畿内など東の倭種の国と関係の無かった領域が女王国である。
魏志倭人伝ではそれらの国の国名すら紹介されていない。
後漢時代の倭国は100国あったと記されており女王国は30国であり、倭国全体の3割弱の規模である。
よって魏志倭人伝の女王国は北部九州限定と見なすのが妥当である。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:31:40.65
三角縁神獣鏡は勿論国産ですよ、なので卑弥呼の鬼道の証です。
畿内中心に出土しているのはその証拠以外何物でもありません。
三角縁神獣鏡を御神体とする鏡作神社は百襲媛の生誕場所の直ぐ近所にありますからね。
これ程明確な証拠なんてないのですw
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:36:16.92
>>115
ダメ
統合が進んで100国が30国になったと考えるのが普通だから
さもなきゃ7万戸の大国が紀元前から有ったことになり九州説めでたく死亡
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:36:43.24
また保津宮古遺跡とは元々は幻の弥生集落と言われていた事実もありましすね。
本来は鍵唐古遺跡ではなくこちらが有名だったのですよ。
つまり鏡作部のある田原本辺り一帯が本来の都候補地という事です。
孝霊天皇の宮所在地もこちらの方になります。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 16:41:57.22
>>116
畿内や吉備は桃の種が出土している事から、鬼道では無く道教の領域である。
その地域は古くは銅鐸文化圏であった地域である。
熊本県の墓からは意図的に変形させた女性の頭蓋骨が発見されている事から、祈祷師による鬼道が浸透していた事が伺える。
同様の事例は畿内では全く見られない。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:03:17.32
どうしても九州は高麗盗人がはびこった島なので
纏向や畿内にケチをつけて、本州を切り離して「北部九州」という語を使えば
3世紀に九州でもっとも発展している博多が自動的に手に入るという盗人根性で考えるが、
博多は博多よりも発展していない九州内の影響などは一切受けていない
博多の首長層が影響を受けている葬送儀礼は畿内の前方後円墳と供献土器
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:05:53.30
>>116
>三角縁神獣鏡は勿論国産ですよ、なので卑弥呼の鬼道の証です。

三角縁神獣鏡は勿論「阿波」産ですよ、なので「倭人(阿波勢力)」の畿内その他への進出の証です。   @阿波
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:08:18.64
>>121
博多の首長層が影響を受けている葬送儀礼は「阿波」の前方後円墳と供献土器(「東阿波型土器」)   @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:11:40.69
ツングースの積石塚の流刑地阿波が畿内の影響を受けるのは3世紀末
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:21:26.26
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:26:02.65
>>125
東四国・畿内に多いのは、
飛鳥時代に倭国(阿波)王権の庇護により、朝鮮半島動乱避難渡来人の移住があった為。   @阿波
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:30:09.13
熊本のトンカラリン、変形頭蓋骨の年代比定は弥生時代中期なんで邪馬台国の時代とはかけ離れていますよ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:38:01.49
道教なんて四世紀以降に中国で成立した宗教です。その辺り滅茶苦茶な価値観の人が多すぎです。
鬼道は三世紀の時点ではまだ初期段階で地域により雑多な民間宗教の総称でした。
また神道と同じく多神教な部分もあり、日本の神道も初期道教的な部分、神獣、例獣や神仙思想的な文様を取り入れながら現在に至ります。
奈良盆地での三角縁神獣鏡の国産、配布は正にその証拠です。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:39:46.52
>>129
>奈良盆地での三角縁神獣鏡の国産、配布は正にその証拠です。

三角縁神獣鏡は勿論「阿波」産ですよ、なので「倭人(阿波勢力)」の畿内その他への進出の証です。   @阿波
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 17:59:49.80
人の行き来がある地域の宗教は互いに影響し合うのは当然です。
桃だから道教とか単純バカが多い事w
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:05:50.89
>>131
トンカラリン自体は鬼道=神仙思想の要素が無いのがね。あれはそもそも朝鮮式の物だし。
大体熊本自体が狗奴国のエリアですよ。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:11:34.73
>>135
>大体熊本自体が狗奴国のエリアですよ。

大体、寒村の熊本自体が超大国「狗奴国のエリア」に入れる訳がない。   @阿波 
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:17:59.83
まあやはり三角縁神獣鏡の出土数=名神大社数=卑弥呼の鬼道支配の国、もしくは協力国という図式で問題無しという事。
鏡作郷のある奈良盆地から全国に配られた物。三、四世紀はこの流れだね。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:18:45.88
>>135
女王国と狗奴国は同系統だから対立したんだよ

卑弥呼の後の男王は狗奴国の男王だろう

臺与はどこの子か知らんが
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:19:23.12
奈良盆地は飛鳥時代まで「忌部一族(阿波勢力)」の巨大墓地。    
飛鳥時代の奈良盆地は、倭国(阿波)王権の庇護のもと、百済人など朝鮮半島帰化人が暮らした朝鮮人街。
奈良盆地の発展は、8世紀の倭国(阿波)からの遷都(大和朝廷)から。   @阿波
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:27:14.30
>>138
>卑弥呼の後の男王は狗奴国の男王だろう

①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:32:47.15
>>138
元々私もそういう意見だよ。だから個人的に変形頭蓋骨の人が弥生時代中期というのは重要な点だね。邪馬台国は三世紀の話だからな。

百襲媛は主な活躍場所は瀬戸内海東側だが台与の活躍場所は瀬戸内海西側から大分、北部九州の可能性が高いだろう。
瀬戸内海の水路が使えるようになるのは、台与のバックには狗奴国側の人物が要るからという説だよ。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:39:08.46
そしてやはり鍵は崇神天皇、ミマキイリヒコだろう。
美馬の丹男は四国阿波の利権を持っていて畿内ヤマトで王になっている。
イリは丹生や丹を表す意味合いを持つ名前だね。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:40:50.76
イリは入ったと言う意味
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:47:38.30
>>141
>台与のバックには狗奴国
ないだろう。女で戦乱が収まるのは後継問題だ。問題の先送り。狗奴国にそんな力があるなら狗奴国の王がたてばいいだけ。共立と言う言葉に目が眩みすぎではないか。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:50:22.90
>>141
>百襲媛は主な活躍場所は瀬戸内海東側だが

ずばり、「阿波」と「讃岐」だけ。   @阿波
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:50:41.90
イリが付く名前は崇神天皇関連の人が多いからな。だが出雲の飯入根という人物もいる。
出雲の神宝をヤマトへ兄に内緒で献上してしまった人物だ。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:54:15.25
>>144
13歳で国中が収まるのはやはり背後に力が無いと難しいだろう。

百襲媛は出生場所も父親も田原本辺り以外にない、母親も磯城県主の娘なので妄想するだけ無駄だぞ。
場所も弥生時代遺跡の集積場所だしな。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:57:47.40
>>147
「倭迹迹姫命」は、大市(市場町)の箸墓(市場町箸供養)で大坂山(市場町大阪峠)の石を運んで造った墓に葬られた。   
そして、生まれ育った地が吉野川対岸の国府町(旧黒田村)の「黒田廬戸宮跡(蔵殊院辺り」。   @阿波
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 18:59:37.28
卑弥呼の親族の女王を狗奴国側が立てるなら何とか収まるだろう。狗奴国の男王が立つなら荒れるのは当然。
これは元々卑弥呼も狗奴国側の出身なら可能な話だから。
あとは台与の次に機会をみて男王が立てばすむ話、それが空白の四世紀。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:01:40.85
>>147
だから、そんな力がある勢力があればそいつが王をやればいいわけですよ。
トヨちゃん13歳で国が収まるのは後継者たる皇子たちがいったん矛を収めるから。
男王揉めて→卑弥呼で収まる→男王揉めて→トヨで収まる
典型的な皇子たちの争い。壬申の乱前にも大海人皇子は天智天皇に対して皇后を天皇にする様に進言した。
「とりあえず女にしときましょう」ってな事です。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:04:15.00
>>150
関係なし。   @阿波
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:06:15.09
>>150
具体的に示せるのは、「阿波」と「讃岐」だけ。   @阿波

「倭迹迹姫命」は、大市(市場町)の箸墓(市場町箸供養)で大坂山(市場町大阪峠)の石を運んで造った墓に葬られた。   
そして、生まれ育った地が吉野川対岸の国府町(旧黒田村)の「黒田廬戸宮跡(蔵殊院辺り」。   @阿波
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:10:10.80
全くない!   @阿波
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:11:00.62
>>151
それでは又荒れるのは目に見えているだろう。表面上一度卑弥呼の血族に鬼道を使い従わせるのが国が収まる方法なのはいうまでもない。
各地に配る三角縁神獣鏡の配布はその為だろう。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:11:52.61
狗奴国がトヨに絡むって畿内説としては致命的では?
ってか畿内説の狗奴国って一人一説か。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:14:48.38
飯入根については結局神宝は謎のままだがヒントはある。
飯入根の孫にあたる人物に野見宿禰がいるが、桜井出雲地区に墓と伝わる墓があったが、戦前に地主が破壊して田畑にしてしまった。
中には多量の水銀朱が入っていて初瀬川に撒いてしまい暫く川が真っ赤だったと言われいる。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:17:34.45
>>156
いや、そんな事はない。
スサノオの子、オシホミミの相続に待ったをかけたタカムスビがオシホミミに娘のトヨを嫁がせて生まれたのが天孫ニニギ。
ニニギにはタカムスビの血が入ってるので問題解決さ。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:34:43.48
>>160
根拠となる痕跡が無いのに、記紀で遊ぶ記紀バカども。  わははははは   @阿波
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:39:12.79
少なくとも「とりあえず女王」は事態の収拾に効果があるのは間違いない。
鬼道の力、巫女力・・・とてつもなくお笑いだよ。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:43:25.67
魏志倭人伝には卑弥呼は鬼道使いで民衆を納めていた事は明記している事だからな。
邪馬台国は七万、投馬国は五万の大国だよ。いきなり武力行使なんて出来る訳がないから。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:46:40.07
民衆はそうだろうね。鬼道が何だか分からんがイタコ芸だとしても何だとしても
王家の人間はインチキなのは知ってるだろうよ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:46:56.29
荒神谷遺跡は興味深いな
膨大な銅製品が見つかっている
弥生時代中期までの集落かな
銅の元締め、ヒノカガヒコの集落跡の可能性はないだろうか?
近くに

加茂岩倉遺跡は所謂イザナミの集落跡かな
古代出雲の力の源泉は銅なんだろうか
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:47:45.22
近くに銅鉱山があるらしいが当時はどうだったんだろう
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:50:57.86
飯入根の入も丹生と解釈するなら全て話は繋がりを見せる。
この実態のはっきりしない出雲神宝は、出雲国が押さえていた伊勢、宇陀水銀の採掘に関する事だろう。
だからミマキイリヒコも飯入根も同じイリの名前となる。
なので外山にある前方後円墳には200キロの水銀朱が、桜井出雲郷に伝わる野見宿禰の墓からも多量に使われたのである。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:54:20.37
>>164
その通り、だから出来の悪い鏡もどんどん作られたのですよ。
なので三角縁神獣鏡はいくら出土しても私は全く困らない。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:56:22.94
ヒノカガヒコがイザナギに切られて、血は様々な神に死体は様々なヤマツミになる
死体の胸ムネがオドヤマツミ
小戸?
ムナカタの地と関係あるのだろうか
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 19:59:09.12
出雲といっても本来は丹波地方を含むのは出雲大神宮の位置が丹波亀岡にある事から、もともとの位置がこの辺りを
含む事を示している。
また丹波の名前自体が丹生由来ともいわれてるからな。

野見宿禰自身は土師の祖であり、赤土にはずっと縁があるのはその為と言えるだろう。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:02:21.98
イザナギの剣オハバリはハリ、張と関係あるのか?
播磨風土記によるとイワ大神の国作りは尾張でオワリという

尾張まで国作りを終えたイワ大神が紀元前後に荒ぶる銅使いを倒したのか?
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:07:08.34
丹後国風土記によれば丹波も丹後も元は一つの国で田庭国だったらしい
トヨウケが五穀の種をもたらし稲作が始まったことに由来するという
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:09:44.97
渡来人がやってきて力を持ち始めると俺が王になると荒ぶり出すのかもな
それを鎮めてきた在地の集団がいたのかもしれない
0176琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/22(水) 20:10:35.50
ほう、卑弥呼の鬼道はお笑いだというのかね?
はははは、そいつはいい。
大神を笑い、斎宮を笑うがいい。バカなやつら
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:14:54.26
用が済めばヤマトから外へ出てかっての縁者を回りながら女王国の東端、伊勢へ落ち着く。可哀想な話だね。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:19:04.50
>>176
「卑弥呼の鬼道」と「大神・斎宮」は無関係。バカはお前。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:19:48.10
まあ聖徳太子は祖先の真相を知っているから保津宮古遺跡を掠める太子道で毎日孝霊の宮を参っていたんですよ。
法楽寺は孝霊の宮跡に太子が立てたとされている。
太子道が通るのは太子関連の物が大半だからな。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:21:40.87
今日も電波がすごいなこのスレはw
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:21:56.96
大陸で敗れ国を失った集団は日本列島で故国の再興を目指すのかもな
荒ぶる神になり、それを祓う集団がいて、その繰り返し
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:28:46.16
>>181
温羅と五十狭芹彦命みたいな?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:32:53.18
>>163
>邪馬台国は七万、投馬国は五万の大国だよ。

なんの資源も黒潮もない、畿内や北部九州にそんな大国が興る訳も無し!   @阿波
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 20:54:39.54
こうやって考えてみると、縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って稀有なんだな。
「阿波」以外に無いんじゃなかろうか?   @阿波
0187琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/22(水) 21:54:08.81
卑弥呼以前に文字もない倭人に道なぞない。
陳寿の鬼道とは中華の鬼道。太平道と五斗米道、巫女を取込んだのは五斗米道、五斗米道は老子道徳経、老荘思想の道とは太一。斎宮は太一が旗めく。りっぱな卑弥呼の道。道教は漢武帝も志向するし卑弥呼朝貢後魏では玄学が始まる。
0188琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/22(水) 22:06:52.26
178.無関係であるなら始祖は誰だ?誰が広めた?
答えられんだろ。思い込みで言うなよ。説明できて初めて反論だよ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 22:09:55.64
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0190日本@名無史さん
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2023/02/22(水) 22:30:43.13
つたへきて國のたからとなりにけり聖のみよのみことのりぶみ

聖徳太子は能力主義で登用とか色々時代を先取りしてたのかもな

明治天皇の歌は本当に勉強になる
古の歴史を語る歌もあるようだ
0191日本@名無史さん
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2023/02/22(水) 22:34:56.86
魏志倭人伝には帯方郡から近い順番に倭国の国々が記されている

九州では奴国までの比定値はほぼ違いがない、そこから東へ100里の不弥国から諸説あることになる
しかし、奴国から100里の距離の海沿いの地点であることは誰でも推定できる

そこから水行20日で、投馬国
そこから水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る

つまり、不弥国から邪馬台国までは2カ月の行程と書かれている

この行程を当てはめれば、不弥国から日本海沿岸を航行して20日で投馬国

投馬国からさらに日本海を沿岸航行10日で上陸、それから1カ月の陸行で邪馬台国となり矛盾なく説明できる

ただ不弥国から投馬国への方角が「南」と記述されているのがこの行程と合わないことになる
ここが「東」であればほぼ矛盾なく説明できる

こういう場合、なぜこの不合理が発生したのかを考えることになる
陳寿も魏の役人たちもこんな間違いをするはずがない
これは写本の時点で紛れ込んだ間違いなのだろう

これが単純で一番簡潔な解釈となる

それ以外に解釈しようとすると、複数個所の記述間違いを想定しなければならなくなり、単純明快とはいかない
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 22:42:16.12
鹿児島の南が紀伊なのだ
頑なやのう
0194日本@名無史さん
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2023/02/22(水) 23:02:37.46
>>188
思い込みの激しい中華卑弥呼よ。「始祖」とは何の話だ?広めるとは?お前の思い込み脳内でしか不明なんだよ。
>斎宮は太一が旗めく。
バカには理解できないのか?太一は単に最高神を表しているだけの事。太陽としての神格は大日如来とも習合している。これが理解できないなんて知的に障害でもあるのかと?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 23:07:53.93
「太一陰陽五行」の思想が日本に入って来るのは奈良時代以降。
単なる習合、大日如来のそれと同じ。
元々の神道に密教の思想はないのと同じ。バカも休み休みにして下さい。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 23:17:56.84
今も畿内説の考古学者っているの?
昔は殆ど畿内だったんだけど絶滅してない?
九州説が元気すぎる。
誰かいるなら教えて。本読みたい。
昔のは読んでるから最近の。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 23:35:22.37
>>196
当然ながら学者はほぼ全員畿内説だ
九州説は定年後の生き残りがまだ数人生存
0198琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/22(水) 23:38:49.19
194.それでは説明になっとらんよ。誰が始祖だ伊勢わ。
0199日本@名無史さん
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2023/02/22(水) 23:40:05.98
>>191
邪馬台国を中心国にするからだよ。
共立されたのは卑弥呼、邪馬台国ではない。
遠方の広範囲な地域。女王の都に過ぎない
邪馬台国の過大評価と邪馬台国は立派な建物が並び、豪華絢爛、物が豊富であって欲しいという願望があるのでは?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/22(水) 23:57:03.97
>>198
だから「伊勢の始祖」の意味がわからん。お前の思い込みは理解できん。

八坂神社では祇園信仰があるが素戔嗚尊はインドの祇園精舎と何か関係があるのか?仏法守護神か?
牛頭天王と習合したからであって本来この二柱は無関係で別の神格。
「天照」と「太一」も本来無関係で別の神格。理解できたか?
「太一の旗」の話は二度と書くなよ。書いたらお前は知的に足りないって事。

それから伊勢に行った古代の天皇は持統天皇だけ。理由が説明できるかい?記紀編纂以降は勅使が行ってるようだがそれまで皇室から相手にされてないんだよ。
女帝から孫と言う前代未聞の皇位継承の正当化や、最高神・高皇産霊尊や太陽神・彦火明に男系で辿れないなどの理由で代わりに皇祖にされたただの祖先の女性だから。
阿波忌部当主の三木氏も本来の最高神は高木神こと高皇産霊尊で天照大神は新しい神であると明言されている。
持統天皇の次に伊勢に行った天皇は誰だと思う?何と次は明治天皇。皇室は日本書紀以外に極秘の本当の歴史書を隠しているのではないかと勘繰りたくなるよ。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:05:14.15
地軸は公転軌道に対して垂直ではなく、約23.4度傾いている

だから現代の地図上の東と、弥生時代の太陽から判断した東とは、約23.4度分、較正する必要がある

これホント?
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:12:39.97
>>202
大嘘。
地軸の傾きは現在およそ23.4°ですが、この傾きは22°〜24.5°で周期的に変化します。 傾きが大きくなると夏・冬の差が激しくなります。 また、その周期は4万1千年です。
って事だから修正しても0.125°くらいか?
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:25:08.87
>>203
地軸と公転軸のズレ自体を弥生時代の人間は知識がないよな、という話じゃないの?
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:32:53.15
>>204
弥生人の知識は関係ないのでは?
実際に太陽の出る方角の話かと。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:36:53.25
冬至〜夏至の範囲
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:43:16.83
>>205
実際の太陽の出る方向と、現代の地図の方向とズレてんじゃね、という話では
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 00:55:58.01
俺の永平寺アーカイブより

735 ニューノーマルの名無しさん 2021/07/15(木) 11:15:11.93 ID:UT3ee60x0
もちろん北極星の位置も違いますw

航海では使えませんw
夜はどっかの島や浜で一泊ですw

https://i.imgur.com/D8al0ZR.png
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 01:15:29.00
「現在、われわれが使っている地軸の方位を真北・真南で表した地図にあてはめる場合、軌道
に対して、23度27分、地軸が東に傾斜 しているから、これだけは、必ず修正しなければならない。
そうしないかぎり、倭人伝の方位が今の地図上の上では合わなくなる。」

「野津氏はこのように述べて図 6「太陽方位と地軸方位の差」を載せている。
現代の我々は磁石を用いて地軸の南北を知るが、古代人は太陽や北極星から南北を求めた。
太陽を用いる場合は太陽の方位になる。地図は地軸を用いているから、地軸と太陽の方位のずれ「23度27分」は必ず修正しなければならない。」

p26~p27 佃收「伊都国と渡来邪馬壹国」
https://tsukudaosamu.com/pdf/2-1.pdf
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 01:24:23.85
>>209
そいつって、ばか?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 01:33:23.87
中学生以下の知識じゃねえか
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 06:08:43.14
邪馬台国王家は天皇家になったんだろうけど
奴国王家ってどうなったの?流石にそう簡単に消えないと思うんだが
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 06:13:13.82
>>209
東南→北東?
墓遺跡ばかりだ。
ダメな典型
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 06:36:43.63
>>213
地球の仕組み、少しは勉強しろってこと
小学生じゃないんだからさあ
黄道傾斜角は東に傾斜してたりしないの
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 06:53:37.32
>>215
ネタ切れで、ついに地球の仕組みにまで踏み込むようになるとはww

トンデモは必死だな。  わははははは   @阿波
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:09:40.69
>>199
発言の意味が取れない

魏志倭人伝では邪馬台国が女王の都するところと記述されている

「邪馬台国が共立された」などと私は発言していない

女王の都にすぎないとはどういう意味か
邪馬台国の過大評価とは何を指しているのか
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:14:16.03
>>217
国々の集まりである。
邪馬台国出身者なら都であるが他国にとっては都でもない。
過大評価
最も鉄や絹が豊富とか?
最も立派な建物が並ぶとか?
最もお宝が豊富とか?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:21:47.10
>>216
ネタ切れで、安徳天皇生存伝説とか放送する邪馬台国阿波説のラジオ番組w

トンデモは必死だな   わははははは   @阝可シ皮
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:23:31.31
>>217
結局、中心国として見ているのでは?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:32:20.55
結局、説文解字の

「都」=「有先君之舊宗廟曰都」

っていうのがよく分からないんだよな
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:42:20.16
>>221
一文字だからさ。
女王国之所都と記述があれば中心国と取るけど
女王之所都だからね。
方向も停泊場所も省かれたと思う
邪馬台国には軍事や租税についての記述もない。
はたして中心国なのか?疑問に思う
伊都国には一大卒等の記述はあるのにね。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:47:03.97
>>222
あるから伊都は地方都市
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:48:04.61
>>222
続き
女王国の範囲や倭地や倭国にあればいいものを邪馬台国にあるとかね
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:48:52.61
>>223
邪馬台国も地方国
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:50:56.55
>>218
倭国が国々の集まり

倭国の女王がいる場所が倭国の都

過大評価と評されるような評価など、私はで何もしていない
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:51:53.31
>>217
無理やり九州説を押し通すには
言ってることが他人には理解できないくらい
発狂しないといけないってことだよ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:52:16.84
>>220
倭国の中心を考えるのなら、それは女王のいる邪馬台国
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:55:53.21
>>226
代々、男王は伊都国で政治や国際交流をしていたのでは?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:56:58.16
>>220, 221. 222

君は>>218を投稿した人物と同一人物だと思うが
なりすましで、複数投稿をするのは止めてほしい
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:57:34.73
>>229
俺は違うだけだな。
女王国を構成する国々のひとつに過ぎない
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 07:59:12.61
>>231
221は俺ではないよ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:01:48.72
>>231
ID表示してくれとスレ主に前々から
希望しているが?
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:08:07.95
>>228
邪馬台国は近畿だけどね。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:08:37.43
>>229
その通り!   

「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東讃岐+南淡ぐらい。
その倭国の中心が「邪馬臺国(粟国)」。
その「邪馬臺国(粟国)」の中心が「女王之所都」。
その「女王之所都」が鮎喰川下流域集落群   @阿波
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:17:42.13
>>235
それが最も確立が低いんだよ
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:22:49.33
■学者はそもそも魏志倭人伝をきちんと読めていない状態で議論している

史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
魏志倭人伝の「里数」表記の行程は中国側の記録で、「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり内容は一緒。
たとえば、卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた。
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

倭人は距離を里ではなく日数で表現したり、独自の呼び名で半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など
中国側が知らない地名を使っていたため、誤った解釈が記録されてしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説だが、日本列島全体を指すと解釈すれば各説とも有効と言える。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:23:35.55
>>237
最も高いだな
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:24:20.61
>>238
成る程
邪馬台国は近畿だな
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:26:34.75
>>230
>代々、男王は伊都国で政治や国際交流をしていたのでは?

九州説よ
倭人伝を無視するな
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:28:28.50
>>238
>■学者はそもそも魏志倭人伝をきちんと読めていない状態で議論している

トンデモ九州説が倭人伝を読んでいないという告白頂きました
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:34:30.69
>>242
ゲノム解析でわかってきたんだよ
考古学はもう不要
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:35:50.52
>>232
卑弥呼の時代の倭国の王都は考古学的な調査から纒向遺跡と推定されている
また、その中にある箸墓古墳は魏志倭人伝に記されている卑弥呼の墓と後円部の大きさがぴったり一致している
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:38:57.71
>>235
>邪馬台国は近畿だけどね。
そんなに広いのか?近畿のどこかと言いたいのか?
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:45:16.83
ジンムなんて居ない。
スジンなんて居ない。
記紀はデタラメ。
卑弥呼は百襲姫だ(`ω´)キリッ

アホとしか思えんw
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:47:24.39
今日も電波がw
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:47:59.60
しかしこのスレも何だかんだいっても詳しい人がいたりするので助かる。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:50:43.41
出雲飯入根の事を思い出したのが助かった、書き込みしてくれた人ありがとう。
畿内外をソトと呼ぶ事を書いてくれた人も。
0251琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/23(木) 08:51:01.38
201.まだぁ、卑弥呼と後が繋がらなきゃならないとか考えとるのか?、昭和天皇の話はしたはず、
伊勢では太一は旗めいているんだよ。また天武も祀っとるがまた別の意味な。無駄だよ、状況証拠は明らかに初期道教、卑弥呼でなければ他の道教指導者の存在を考えなければならない。里も無く、文字も無い列島に道があるはずも無く、理念なぞまだ無い、遅れたところだよ。
卑弥呼の武器は鬼道だよ。鬼道で國を纏めたのだよ、その鬼道とは何か?
それで答は出ているのだよ、頭蓋骨矯正なら、多くの頭蓋骨矯正が出てこなくてはならない、当然1000人の奴婢達もだ、馬鹿馬鹿しい話を続けているのが九州。
列島の骨を創ったのが卑弥呼、その第一比定者はわが姫、大体な、陳寿は岱輿と書いたんだよ、岱輿な、中華の消えた霊山だよ。全然無駄だね。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:52:53.81
変形頭蓋骨の話なら時代が違いすぎるからね、あれは邪馬台国の時代と離れすぎている。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:53:40.33
>>244

> 卑弥呼の時代の倭国の王都は考古学的な調査から纒向遺跡と推定されている
村おこしの妄想ですね

> また、その中にある箸墓古墳は魏志倭人伝に記されている卑弥呼の墓と後円部の大きさがぴったり一致している
箸墓は3世紀末で大きさは径二百歩です
年代も合わないし大きすぎますね
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:53:48.13
やはり真正の・・・だったかw
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:56:01.47
>>245
7万戸だから近畿でも収まらないだろう
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:58:08.14
ChatGPTで聞いてみた
<質問>
古代日本の邪馬台国の位置については北部九州説、四国説、近畿説などがありますが、どの説が最も確率が高いでしょうか?

<AIの回答>
https://i.imgur.com/Croti0q.png

しかし、各説の中でも、北部九州説がより説得力があるとされることが多いようです。
しかし、各説の中でも、北部九州説がより説得力があるとされることが多いようです。
しかし、各説の中でも、北部九州説がより説得力があるとされることが多いようです。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:58:31.32
>>253
理由をいえよ
言えないのはトンデモ説と言う自白だ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:59:25.11
>>246
ジンムなんて居ない。
スジンなんて居ない。
記紀はデタラメ。
モモソヒメも居ない(`ω´)キリッ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 08:59:46.88
七万戸は畿内なら可能だろう、かなり広範囲にはなるけど。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:02:20.03
弥生時代の推定人口は日本全体で約60万人
一戸5人でも邪馬台国だけで35万人。当時の倭人でありえない戸数。
距離も戸数も司馬氏の過大報告。だから畿内説は成り立たない。
猿でもわかる倭人伝の本質を理解出来ない人がいるのは何故だろうか?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:04:51.57
>>259
ヤマトであり当時の日本のことだよ
範囲が何処までかと言われてもわからんけどかなり広大
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:08:44.57
私的には

神武天皇は崇神天皇の祖先の複数話、畿内部分はおそらく剣主や珍彦関連の逸話を流用している。
崇神天皇は阿波に基盤を持つ狗奴国系の王で丹生男。
古事記は物部系の記録史 。
日本書記は唐に向けた、仏教普及目的も兼ねた日本正史広報記録誌。
百襲媛は卑弥呼、ただし卑弥呼はある意味役職名というところ。狗奴国の血統の可能性も。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:10:23.30
>>259
当時は大阪が海だった時代だぞ
可住地面積
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:13:40.99
>>263
当時の倭の海人は基本的に海岸線、湖周辺に住む。
また邪馬台国は鬼道の国なので形跡が少ない九州内陸部は無理だな。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:15:00.17
>>262
狗奴国王がヤマトを名乗る理由がない。チラシの裏レベル。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:15:52.28
>>253
学術的な検討に基づく結論

あなたが納得できないのなら
その検討を丁寧に批判すべき
妄想などと言い捨てるのは、批判にはならない


箸墓古墳の築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半

「歩」は中国の長さの単位、右足、左足と通常の二歩分で一歩となる
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:17:58.71
>>241
意味不明
邪馬台国は近畿だな。
九州にはない
はてな?なんだな
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:18:33.00
>>264
あれも倭の範囲が何処までかわからんのよね
宋書 倭の五王武の上表分
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:19:52.73
>>264
全然、
其餘旁國遠絶 不可得詳
要するに範囲も不確定。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:20:12.98
>>266
充分ある、狗奴国が都であるヤマトの主権を握る話だね。
卑弥呼も狗奴国と本来は近い関係だろう。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:20:30.62
神社の建物には本殿と拝殿がある。
これを玉垣や瑞垣で囲んでいる。
纏向遺跡はまさにそれ。
ただしこの時代は王宮と宗教施設は分離していなくて、崇神天皇までは八咫の鏡を枕元に置いていた。
それで崇神天皇がうなされたため、中庭に倉を立ててそこに八咫の鏡を納めるようになった。
纏向遺跡の建物が3棟なのはそのため。
中央の建物は、現在の伊勢神宮の八咫の鏡を納める本殿と同じ神明造。
纏向遺跡は崇神天皇の磯城瑞垣宮。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:22:09.33
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神(アマツカミ)として九州や本州の王族である国津神と区別された。
博多湾以外で海人族の勢力の中心にあったのが、宗像氏族が聖地としていた沖ノ島であり、その磐座信仰がおそらくは高天原(タカアマハラ=祖なる海の城)の天照(アマテラス=海を支配する王)に対する祭だろう。
宗像氏族が支援したのが高天原から筑紫への天孫降臨であり、降臨先が筑紫の日向(博多湾沿岸)とされている。
降臨した天孫ニニギが大山積から娶った姫が木花咲耶姫(細石神社)であり、天孫の息子である彦火々出見(山幸彦)を祭る宮が高祖宮である。
しかし記紀によると天孫族による筑紫の支配は三代で終わったとされている。
四代目の彦火々出見は筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移り、後に神武と呼ばれた。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:22:50.75
倭の国境線自体一定ではないからな。
狗奴国はおそらくクニの語源にもなっているだろう。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:25:06.96
>>213

奴国王は志賀島の倭王、安曇氏、豊国王家。
記紀では豊玉彦や大山祇の名前で出てくる。
皇祖の王統の一つ。
神武の祖母や曽祖母の家系。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:25:12.49
倭人伝の文章は誤解されている。
伊都国までは使者の旅程、
伊都国以降の記事は、現地で伝聞した伊都国からの旅程。

伊都国は言わば行政都市。
使者は伊都国で全てを済まして、
女王に謁見することなく帰っているということ。
なぜなら卑弥呼は、
巫女であり謁見するのが仕事ではないから。

預言者っすよ、預言者w
籠って占いをやって下に指示を出していた。
そう考えると辻褄が合う。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:29:09.45
天神は筑紫の日向の倭王のこと。
高天原の天照も出雲の素戔嗚も、生まれは筑紫の日向の小戸。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚である。
畿内は筑紫の祖先崇拝の祭祀を丸ごと継承している。
全国のほとんどの神社は鏡が神宝で、八坂神社は例外的に矛。
いずれも筑紫を中心として広まった青銅器である。
特に鏡は天照が八咫鏡を自分のかわりに奉斎せよと神勅を下しており、大半の神社は天皇家の祖先神として筑紫で生まれた神を祭っていることになる。
神道の祝詞の中でも最も重要な大祓の祝詞は、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊について述べている。
そして筑紫の倭王の権威を継承することで天皇家の正統性を主張しているのが正史として定められた日本書紀なのである。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:30:17.72
結局昔は三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡、出土したら決まりだという考え方だった。
でも多量に出るようになって卑弥呼の貰った鏡ではないという結論に。

だが今は回り回ってやはり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡という結論にいたるんだよ。
多量に造って鬼道の為に配布する物だからな。なので出土の少ない場所は卑弥呼を受け入れてない場所という事だよ。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:31:40.14
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:37:07.64
九州説の致命的な部分はやはり三角縁神獣鏡の出土分布や神社数の少なさにつきますね。
熊本や宮崎を中心とする狗奴国側勢力も東側に勢力を拡大するうち三、四世紀にかけて内部分裂したという事。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:38:57.82
>>282
筑紫、豊国等?
魏志倭人伝にはない。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:39:51.50
>>283
当時神社なんてないしどうでもいいけどね
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:40:48.33
崇神天皇はやはりミマキイリヒコ、美馬の丹生男で正解という結論になります。

出雲の神宝とは伊勢、宇陀の水銀鉱山の利権に関する物でした。
出雲と伊勢は少なからず因縁がある理由も分かりやすい。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:43:36.41
出雲の飯入根は兄が筑紫に出かけている最中に崇神天皇に神宝を渡してしまう話でしたね。
飯入根にもイリの文字があるのもそれを示唆したものでしょう。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:46:31.63
ト骨、鉄、絹
真珠、青玉、丹、植物等の分布での
範囲と宮室樓觀城柵嚴設(吉野ヶ里、唐古・鍵遺跡、妻木晩田遺跡、伊勢遺跡等)
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:49:38.45
以前から疑問に思っていた飯入根の名前の件をここで書き込みしてくれた人のお陰で思い出した、本当にありがとう。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 09:50:17.93
>>281
>なので出土の少ない場所は卑弥呼を受け入れてない場所という事だよ。

なので出土の無い場所は「倭人(阿波勢力)」が進出が少ない場所という事だよ。   @阿波
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:07:29.66
畿内説ってさあ、結局日本人は縄文人から発展したということにしたい右翼説でしょw

でも、考古学的な結果を見ても、弥生人以降の日本人の体質は大陸人の影響、
というか、体質のほとんどは新モンゴロイドから受け継いでいるわけで、
旧モンゴロイドである縄文人の影響は名残程度(例えば、他の東アジア人に比べてやや毛深いとか、二重目がやや多いとか)しか残ってないのが現実。

そして文化的にも大陸の影響を否定する人は頭がおかしい人にしか見えないわけでw

特に近畿人は周囲(近畿から見て東側・西側)の日本人に比べて極めて新モンゴロイド的体質が強いのを見ても、
近畿地方に渡来人のコロニーが多数あったのは疑うべくもない。

その渡来人がどこからやってきたのか考えると、半島から渡って来たとしか考えられないわけで。
半島から渡ってきて最初にたどり着くのは北部九州がデフォでしょ。

素直に考えて、渡来人 ( 弥生時代も古墳時代もね ) が最初に勢力を作るのは北部九州だろっての。
東征伝説は九州の勢力が近畿地方に勢力を伸ばしていく過程のお話だろうというのが、素直に考えての結論でしょ。

なんで素直な考え方に逆らうのかな???
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:09:35.82
>>291
いきなり人種が変わったりするか、バーカ
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:19:48.51
邪馬台国は三世紀の話なんだよ、既に大陸との交易なんて本州の広範囲にある事位は考古学で立証済みの話だから。

九州だけに拘る方が余程ひねくれた考え方なんだぞw
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:23:02.20
>>292
だからそう言ってるのに、
あなたは文意を全く理解できてないようですねw

そもそも
縄文人の人口って少なかったんだよ。
特に近畿地方は。

そして渡来人のもたらした文化である弥生時代になってから、
生産性の向上もあり、縄文時代に比べ飛躍的に人口が増えたんだよ。

で、縄文人の少なかった近畿地方に渡来人は移動して、根付いた。
それが大和時代の勢力の基礎となる。
その後九州からの渡来人の波が何度か来て、政権交代が起きて大和政権になった、
というのが素直に考えた大まかな日本の建国の様だろ。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:30:50.26
>>299
近畿の何処に?
一応滋賀には比較的多くの縄文遺跡がある
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:31:10.36
>>298
そのまま返すわ、熊本や佐賀、福岡の内陸部の事だろw
特に熊本なんてそもそもが狗奴国だ。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:33:05.16
縄文時代12000年、弥生時代600年、何処で人種が入れ替わるんだ?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:34:51.81
九州説の連中は何故そこまで三世紀の時点で九州だけに拘るか全く理解不能なんだよね。
何でも史実に反発して発祥にしないと気が済まないのは性格的なものなのか?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:36:13.49
>>279
何回教えたらわかるんだ。アホなのか?
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は【牛頭天王】
廃仏毀釈で素戔嗚に変更された。
何でも筑紫マンとか高齢とかどうしようもないアホが多すぎる。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:36:15.43
>>304
世間の声
畿内説の連中は何故そこまで三世紀の時点で畿内だけに拘るか全く理解不能なんだよね。
何でも史実に反発して発祥にしないと気が済まないのは性格的なものなのか?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:36:38.67
>>300
滋賀は山で比較的冷涼だからだろ。

で、大和政権の中心地は奈良と河内平野でしょ。
遺跡そのままじゃんw
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:38:56.08
>>306
どこの国の人なんだ、日本の歴史書では三世紀の時点で既に大和朝廷真っ只中ですよw
神武東征も紀元前の話で書かれています。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:40:10.84
史実かはおいておいて少なくともヤマト王権が筑紫発祥を自称はしてるわけです。
筑紫に何もなかったって事はないだろうね。

倭が東遷して日本と合併ってのが史実だろう。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:40:25.69
>>303
だから、縄文時代の人口は少ないって言ってるだろ。
人種が入れ替わった訳じゃない。
区域違いで共存してるんだよ。
で、混血もした。
で、弥生文化を担った人々は人口を増やし、持ってる文化も進んでいたので、勢力が伸びた。
ただそれだけの話し。

なんで素直に単純に考えられないかなあ?w
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:40:57.71
>>307
河内湾の岬の先端部、大阪城の辺りに縄文遺跡があって各地の土器が出てる
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:41:24.50
>>309
年代の偽装は明白。何言ってんの?バカなの?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:41:42.20
>>308
その割りに畿内と比べて圧倒的に神社の数が少ない時点で意味の無い比較と気づかないとなw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:42:43.59
>>311
素直に考えてるよ
縄文時代、弥生時代を通して移民の流入があった
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:43:02.58
>>295
痕跡とは何?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:45:15.95
いきなり縄文人が弥生人に変わったりしない
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:45:28.08
魏志倭人伝に登場する倭人は縄文人だぞ

魏略など中国史書には、倭人は呉・越の末裔だったと記されている

ハプログループの解析によれば、渡来人は大きく二つのグループに分けられる
①弥生初期に呉・越から直接九州へと渡ってきた渡来人=倭人=邪馬台国民
②当初は半島へ入植し、弥生後期頃に海を渡って山陰~近畿に入植してきた渡来人=弥生人=ヤマト民族

現代においても近畿地区ほど半島系DNAが濃いのは、先祖②の名残りである。

参考図:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:46:07.95
九州説の人達はよくアマテラスやイザナキとか神話の人引っ張りだすけど、肝心の神社数がめちゃくちゃ少ないよね。
かなり矛盾してる考察でしょ、それ。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:46:26.06
>>316
バカよりは、いいんじゃない?バカより。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:47:12.22
>>312
別に縄文遺跡があってもいいだろw
何も否定材料にはなってないw
ただ、東日本や南九州などに比べ縄文遺跡が少ないのは確かだし。

で、時代の違いもあるだろうし。
農耕の時代と狩猟採集の時代、生業が違いにより時期も違うだろうし。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:48:38.35
誰かが言ってたけど学校作るために浜寺の墓地を整備したら縄文時代から現代まで脈々と続く墓地だったらしい
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:48:43.92
>>320
神社なるのもが登場するのは神武東遷後、ヤマト王権の時代だから。
畿内(うちつくに)に多いのは当然。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:48:57.89
>>319
意味不明
中国人が奈良まで見に来た痕跡はないという阿保もいる。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:49:51.72
阿蘇の一宮でも創建は確か孝霊天皇の世なんだよね。
孝霊天皇の宮は大和奈良盆地、弥生集落のエリアにありますよ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:50:38.58
>>267
>中国人が奈良まで見に来た痕跡はない

私が発言したことと関連しているとは思えない
どんな意味の発言なのか?
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:51:04.07
>>318
入れ替わることはなく、同化していっただけ
パッと見て縄文人とわかるような見た目の人が平安時代頃までその辺を歩いていたそうだ
まあ今でもいるけどな

狩猟民族は獲物が増えない限り人口は増えないが、農耕民族は農地開拓によってどんどん人口が増えた
そして共存していたので同化していった
それだけのこと
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:52:48.01
>>318
だから、
キミには何度も言うけど、縄文人の人口は少なかったわけですよ。

そして渡来してきた弥生人が弥生文化を担って、縄文人と比べ圧倒的に人口が増えた。
そして縄文文化を担った人々とも混血した。

それが今の日本民族だろ。
大まかに考えても何も矛盾はないだろw

キミは時間経過も考えに入れようねww
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:52:51.19
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:53:25.07
>>321
いや、俺様が正義の人は大体回りが見えないバカです。ボンクラともいえますね。
賢い人は回りが見えて冷静な思考が出来ます。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:54:58.47
>>319
>現代においても近畿地区ほど半島系DNAが濃いのは、先祖②の名残りである。

ツングースク分布図
朝鮮人固有DNAの分布
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png

東四国・畿内に多いのは、
飛鳥時代に倭国(阿波)王権の庇護により、朝鮮半島動乱避難渡来人の移住があった為。   @阿波
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:55:37.81
>>329
つまり縄文時代既に入れ替わってた
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:56:02.22
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

<倭国伝>~AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された

<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。

■結論
・畿内ヤマトと九州倭国は人種が違っていた
 ※飛鳥の公用語は百済語だったとのこと
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:57:05.87
>>328
縄文時代12000年、この意味を理解できてないな
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:57:43.87
>>319
>魏志倭人伝に登場する倭人は縄文人だぞ
なわけないwww
それを言うなら縄文系弥生人だよ。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:57:47.27
>>327>>295へのレスでした 失礼しました
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:58:55.60
>>334
大和政権時代になってからの半島からの移民というのはあるだろうね。
特に近江や山城は渡来人によって開拓されているから。

でもそもそも、百済・新羅・高句麗の関係なく、半島移民を受け入れてる素地は、
大和政権自体が、半島人と関係が深かったのだろうということが示唆されているよね。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 10:59:25.62
>>331
周りどころか目の前も見えないバカよりいいよwww
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:02:16.71
縄文時代は弥生時代から現代までの5倍くらいという途方もない長い期間があるんだよ
いきなり人種が変わるか!
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:04:43.76
■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。

>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:05:23.35
>>343
縄文人って、生業が生業だから、
長い間人口が増えなかったのね、
今でも、狩猟採集民て人口少ないじゃん。
絶滅に瀕している民族もいる。

人口増加には、農耕民に比べ圧倒的に不利なんですわ。

キミはそういう事も考えに入れようwww
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:05:44.70
>>340
滋賀は比較的縄文遺跡が多いんだけど書き込み読んでます?
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:05:58.16
>>342
いや、そんな話じゃなくて弥生時代に縄文人は存在しない。

【弥生人は弥生時代に日本列島に居住した人々】
大きく、弥生時代に朝鮮半島とアジア大陸等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」
縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」
および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:06:57.63
>>345
だから縄文人が定住したんだろ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:08:15.03
>>346
だから少ないだろって、遺跡が。
で、弥生時代とは全く時期が違うんですよ。

キミは社会的・産業的な知識や、時間の経過と言うことを頭に入れて論じようねwww
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:08:22.26
>>347
その分類で行くと
縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」
が平安時代まで居たそうだ
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:09:09.40
>>350
何言ってんの?
多いんだって
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:10:37.38
>>78
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:11:22.47
縄文時代は弥生時代から現代までの5倍だぞ
現代までだぞ
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:11:40.92
>>347
狩猟採集民は近代までいたんだよ、この日本にも。
アイヌもそうだし、マタギ(半農半猟)も狩猟採集民の文化を受け継ぐ人々。
伝説的なサンカと呼ばれる人々も恐らく狩猟採集民の子孫だろう。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:12:47.20
--- 卑弥呼の墓の大きさは径百余歩ではない ---
魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
よって径百余歩という記述は、陳寿が殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と併記したのでしょう。
あるいは何歩だと聞かれた倭人が歩の事を足の大きさだと勘違いし径約25mを径百余歩と換算して伝えたのかもしれませんね。

卑弥呼の墓の情報に最も適合する祇園山古墳
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:14:06.49
>>354
福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
 ↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟→祇園山・ダンワラ古墳)
 ↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)

JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:14:38.93
縄文時代は弥生時代の5倍じゃなくて
弥生時代から現代までの5倍だぞ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:15:30.03
>>358

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:16:44.05
>>360の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:16:56.30
--- 畿内説の仮説は成立しない ---
陳寿は手元の史料に南方向だと書いてあったからこそ「里数を計算すれば会稽東冶の東に当たる」と判断したわけであり、
畿内説が主張していた南は東の写し間違いだという仮定はそもそも成立しません。

現時点、畿内が邪馬台国を名乗る理由は皆無ですね。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:17:34.66
>>336
古の倭奴国であって
邪馬台国ではないが?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:18:46.71
>>362
畿内説が主張していた南は東の写し間違い?
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:19:10.56
つまらん長文コピペなんて価値はない、誰も読まないから労力のムダなのにねw
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:19:30.03
確かに近畿に縄文遺跡は少ないのよ
でも例外的に多くあるのが滋賀なんだって
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:20:39.78
九州説なんて邪馬台国と合致する部分があまりにも少なすぎる。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:22:41.71
■基礎知識4
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
※後漢時代の倭国は100国だった
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:23:39.07
奈良の盆地部分にだって縄文遺跡はありますよ。山間部とかには普通にある。
そもそも遮光式土偶の破片の本州西端が橿原だったりするしな。
最近は神戸も出たかも?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:24:36.63
日本人の営みは瀬戸内海がまだ陸地だった旧石器時代から続いているからな
旧石器時代は大阪は起伏に富んだ古大阪平野だったんだが今では沖積層の下になっている
それでも丘陵からは旧石器時代の跡があちこちで見つかっているけどね。全国どこでも同じように旧石器時代の痕跡は残っているけどね
当時陸地だった瀬戸内海の海底から瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
二上山も旧石器時代から続くサヌカイトの産地だな
香川の五色台も同じ
その時代の跡竪穴式住居が伝わるが、最古の竪穴式住居は二上山の麓の河内から見つかっている
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:26:30.81
>>372
前提が間違ってるから正してるだけなのに何言ってんの?
結論ありきで話し進めるのやめて
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:26:32.47
>>374
109 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 16:00:02.91
9割の古墳が盗掘されている状況において600枚も発見されている三角縁神獣鏡は当時数千枚流通していた物と考えられる。
魏志倭人伝によると卑弥呼が貰った鏡はたったの100枚である。
その後銅鏡を頂戴した記録は無い。

よって三角縁神獣鏡は魏からの下賜品であると主張するのには論理的に無理がある。
三角縁神獣鏡は国内で入手しやすかった国産品と見なすのが妥当である。
なお当時は国産の原材料が無かった時代ということもあり、再鋳造を繰り返した可能性も否定できない為、成分分析で下賜品かどうかを見分ける事は論理的に不可能である。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:26:44.74
>>78
>>361
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(→尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上(刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:27:49.18
奈良田原本の保津宮古辺りにも実は縄文時代の遺跡はあります。
つまり奈良湖自体は実はかなり古い段階で範囲が狭くなっていたという事。
0379日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:30:12.16
>>358
>>376
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 〜中国・曹操高陵の発掘責任者が見解〜

「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査を担当した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1cm。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。

潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の大多数が銅鏡だったためだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

 潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡は直径が21cmと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
0380日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:31:08.57
三角縁神獣鏡はヤマト王権の勢力範囲

鬼道とかいつまで言うのか?
鏡背に描かれる文様は神仙世界を表すとされるが、必ずしもその世界観を深く理解して描かれたと思えないものもある。
畿内を中心に広い範囲から出土
主に古墳時代前期の古墳から出土
同笵鏡(同じ鋳型もしくは原型から作成された鏡)が多い
0381日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:31:23.07
>>376
三角縁神獣鏡は勿論国産ですが?
卑弥呼が貰った鏡の一部、画文帯神獣鏡を参考に、女王国配下に配られる目的で多量に作られます。
なので鏡作神社の御神体も三角縁神獣鏡の初期の物なんですよ。
0382日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:32:40.48
>>369
邪馬台国と合致するもんて何かしら?
0383日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:33:16.19
>>357

卑弥呼の死の直前に張政らりが倭国に派遣された
そして、台与が即位し再び国が治まるまでの間、邪馬台国にいた

卑弥呼の墓の規模は張政らが直接測定したものと考えられる
0384日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:33:45.59
>>379
まぁ、曹操高陵やダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に比べたら、三角縁神獣鏡なんて女の子のオモチャみたいなもんだなw
0385日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:35:18.84
しかし未だに三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡じゃないから畿内説はアウトなんて主張する人いるんだねw
昭和の時代じゃないんだから。

国産の神獣鏡を造れる方が神仙思想の影響下にあると、普通の人なら理解できますよ。
例えそれが表面上の理解でも当時の流行りだった証拠です。
0386日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:35:54.52
>>377
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0387日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:36:57.07
>>362
それは「倭国ではなく倭地」について記述してある部分
狗奴国から南西諸島にかけての地域を説明している部分
0388日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:37:23.64
>>377
>卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(→尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。

吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!w
0389日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:38:50.47
>>383
考えられないね
0390日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:39:44.71
>>388
弥生時代(吉備楯築墳丘墓・ホケノ山)には殉葬がないのに、古墳時代(箸墓)になって突然野蛮な殉葬を始めたとする時代錯誤な畿内説!w
0391日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:40:36.34
畿内説が否定される理由

・倭人条の文章から見言い出されるさまが畿内ではない。
・方向が違う。
・遺跡がない。(こじつけられた遺跡はあるけどw)
0392日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:41:05.12
>>387
分けて考えるほど知識があるわけねえ
0393日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:41:54.37
>>384
沢山配る為にはそれでいいんですよw
三角縁神獣鏡の出土が女王国の範囲の証明になりますからね。
筑紫、出雲や丹波、吉備ときて畿内中心に多量に出る。
つまり奴国と投馬国、邪馬台国の位置関係になります。

卑弥呼が貰う金印や鏡なんて持ち運びされたら何処に出てしまうので証拠としては厳しい。

鬼道の影響下で造られた三角縁神獣鏡の方が、実は重要な証拠なんです。
0394日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:42:54.78
>>391
倭人在帶方東南大海之中
まんまだろ
0395日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:42:54.96
画文帯神獣鏡は西晋鏡であることが
銅の成分分析から分かっている。
三角縁神獣鏡も徐州を傘下に置いた晋の時代以降に作られた仿製鏡で間違い無い。
一方、卑弥呼の鏡は成分分析の結果、
同一工房内で作成過程で徐州の銅が枯渇して、
魏内の銅を混ぜて作った事が分かっている、
平原遺跡の方格規矩四神鏡で間違い無いだろう。
0396日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:43:54.71
>>390
初期ヤマト王権の大王墓の築造年代を早めて、邪馬台国の遺跡と喧伝工作しているのが畿内説ということだね。
0397日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:44:49.15
>>389

>卑弥呼の死の直前に張政らりが倭国に派遣された
>そして、台与が即位し再び国が治まるまでの間、邪馬台国にいた

これは魏志倭人伝に書かれていることがら
そこから、>卑弥呼の墓の規模は張政らが直接測定したものと考えられるとした

君が
>考えられないね
というのなら、整合性のある理由を付さなければならない
0398日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:45:32.34
九州説の人の思考はちょっと古すぎでは?本当に30年前と変わらないなあ
0399日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:46:26.97
>>394
それは中国から見てだろwww
列島自体が東南大海之中だからwww
何も畿内を示唆してないw
0400日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:47:07.86
『渡来系弥生人』が九州から本州へ移りさらに東に進む速度は速かった。弥生時代前期にすでに大陸の遺伝子の要素もった人骨が愛知から出ている。ところが、九州内の南下の速度は異常に遅くその理由には『縄文系弥生人』の抵抗が考えられる。それはおそらく、後に熊襲とか隼人とか呼ばれる人たちで邪馬台国時代では狗奴国などが想定される。
このような考察からも邪馬台国は九州北部と考えるのが妥当である。あらゆる側面から考察しても九州となってしまうのだが畿内説が頑なに折れないのはやはり歴博の年代印象操作が根深いのだろう。
0401日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:47:16.99
>>377
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0402日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:47:59.37
>>340
ツングースク分布図
朝鮮人固有DNAの分布
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png

東四国・畿内に多いのは、
飛鳥時代に倭国(阿波)王権の庇護により、朝鮮半島動乱避難渡来人の移住があった為。   @阿波
0403日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:48:31.56
>>399
当たり前だろ
中国から見てに決まってる
0404日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:49:17.82
ダンワラの鉄鏡は9寸であることから、
公司貴人に送られた魏鏡で間違い無い。
ソレに皇帝クラスの装飾を施した唯一無比の鏡である。
0405日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:49:34.50
>>396
正にそれ!「邪馬台国論」と「ヤマト王権の歴史」の両方に迷惑な犯罪的仮説。
0406日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:49:56.62
三角縁神獣鏡が北部九州からも出る時点で、畿内からの勢力も来ていた事は証明済みだしな。

大陸からの交易で九州から南ではなく東側へ向くのは明白だから。
0407日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:50:22.32
>>396
近年の考古学の進展により、記紀による比定【伝承】の誤りが続々と明らかになってきた。

典型的な例が、伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)の順不同や西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)。
ということは、箸墓≠モモソ姫♀陵も誤りなのだ!

女の墓という記紀による誤った比定の定着を悪用して、卑弥呼の墓匂わせに悪用しているわけだ。


卑弥呼の冢…祇園山古墳(甕棺墓の殉葬66体。うち刺し違え2体)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
饒速日の墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)

細かい順不同はともかく、概ね記紀の系譜と築造編年がほぼ合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0408日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:52:16.28
>>404
あれ何処から出たもんかわからんから鵜呑みにするわけにもいかない
0409日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:53:09.57
>>401
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0410日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:53:13.70
>>410
間違いないだろう、でも出土状況や遺跡の年代からもそこは邪馬台国の場所ではないけどな。
0411日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:54:11.35
卑弥呼はズバリ倭姫命である。
コレが葬られたのが
弥生後期に数十人の殉死が認められた祇園山古墳で、
平原遺跡の16人の殉死と合わせて、
合計100人近い殉死が認められる。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:54:46.20
>>400
縄文時代と弥生時代の境目には、大きな生活文化の画期があった。
縄文文化を享受する人が縄文人と呼ばれ、その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人と呼ばれる。
縄文人も弥生人も、在地の日本人ってこと。   
文化形態が変われば、特徴が変わるのはごく自然なこと。   
一例:食生活の向上により、戦後70年で日本人の平均身長も大幅に伸びている。
縄文時代の終わりに、遺伝子を変えるほどの、大量の別人種が日本列島になだれ込んだ事実は見当たらない。   @阿波
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:54:49.87
>>403
そもそも
そうやって”倭人在帶方東南大海之中”と大まかだが正確に方角を指し示す文章が書かれているのに、
東を南と間違えるとか方向違いをすること自体が考えにくいだろwww

まして南なんて、太陽の南中方向なわけで、その当時としても起こりにくい凡ミスじゃんwww
0414日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:55:17.42
>>409
ワ(もしくはイ)としか読めない倭、ダイワとしか読めない大倭(大和)をヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:56:22.34
まあ権力基盤のある場所の証明なら、富雄丸山古墳の出土品の方が遥かに価値がある。
空白の四世紀、やはり都は既に畿内にあったとしか言えない。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:57:38.86
>>414
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=和を以て貴しとなす)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:57:51.57
>>413
だから俺は
帯方郡→対馬→出雲→伊勢遺跡だと言っている
0418日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:58:21.96
>>415
まあ権力基盤のある場所の証明なら、矢野遺跡の出土品の方が遥かに価値がある。   @阿波
0419日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:58:47.46
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

もしかして、中身(御遺体)も一緒に?!
0420日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 11:59:04.86
>>416
プヨンくん、スレが違うよwww
スレチな話題出さないでくださいwww
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 11:59:45.89
丸山古墳の盾型の鏡もこれから注目だな。
前方後円墳の型との類似もこれからの研究課題だね。同年代で近場にある鳥の山古墳も注目かな。
0422日本@名無史さん
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2023/02/23(木) 12:00:31.92
>>416
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に帯方郡の鉄の独占輸入権要請→親魏倭王金印】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:01:02.44
縄文人、弥生人の話は阿波はちゃんと理解できてるのになんで他の連中バカなの?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:01:40.44
>>421
まあ権力基盤のある場所の証明なら、庄・蔵本遺跡の出土品の方が遥かに価値がある。   @阿波
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:02:21.67
となると、倭国大乱は狭穂彦王の乱であり、
邪馬台国は彦坐王の国で、
伊支馬長官が生目垂仁であり、
西都原古墳群の男狭穂塚が狭穂彦王を、
女狭穂塚が狭穂姫を記念して作られた墓標であることが分かる。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:03:14.43
>>361
侏儒小人国は四国か!
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:06:46.96
邪馬台国は狭穂彦王の時代に投馬国まで進出。
南の生目の垂仁の勢力と争ったのが倭国大乱で、
そこで生目に討ち取られてしまった結果、
生目を長官にして彦坐王の姫達を生目に差し出したのが倭国大乱の顛末で、
ヒバヅメノ姫との間に生まれた倭姫命を邪馬台国の女王にしたというのが、
邪馬台国の卑弥呼である。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:06:56.57
倭人条に、
邪馬台国の東側の海をわたると倭の別種が居る という文章があるけど、
それって畿内説だと、どこも当てはまらないだろwww

大和でもなければ、河内でもないw
大和には海はないし、河内・浪速の海は西向きだw

畿内説は地理的に大無理www
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:07:03.11
>>412
流石にそれは遺伝子って言う証拠があるから無理w
縄文人には存在しなかった大陸系のY染色体のハプログループが弥生人骨から出ているのは事実。
「大量」かどうかはわからんが別人種が日本列島に入ったのは事実。徳島県人は非科学な事が大好きだからユダヤのアーク云々言うんだよ。情けない。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:07:27.42
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:07:50.17
やはり畿内説スレは今日も活況だね、他は終わってるが。
なんだかんだ言ってもこれが現実、他説は興味がないのでしょう。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:10:32.91
その後、生目長官は瀬戸内勢力の
彌馬升=御間城崇神の一族の吉備津彦と結びついて、
大和に進出していった。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:11:05.78
>>430
縄文時代に大陸から来た奴は居ないのか?12000年もあるのに?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:11:33.92
>>432
バ仮説なのに通説顔してるからだよ。
歴博が年代偽装を取り消せば誰も来なくなる。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:15:38.70
>>431
え?
またこじつけてるの?www
クナ国だよね?w
クナとクドってこじつけそのものだろwww
わざわざ渡海せずとも歩いて行けるだろwww
東海道に当たるものはあったろうしwww

渡海って、海を渡ってどっかの沿岸にたどり着くという意味だと思うけど、
陸路で行けるのに、わざわざ渡海するかね???w
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:17:59.78
縄文時代12000年、弥生時代600年
弥生時代にいきなり人種が変わるなんてあり得ん
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:18:18.66
>>432
そもそも南を東と無理やり読み替えてる事自体、畿内説は無理ありすぎるwww
それがなければ成立しない説だからwww
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:19:53.94
>>429
女王国から倭国以外の区域に言及する場合、九州上陸地点からの方角で位置を示している

女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有りとは四国のこと
魏では、そこに複数の倭人の国があることは認識していたが魏との交流がなかったために、その存在に触れたのみとなっている
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:20:57.76
生目氏の景行は崇神との血縁を生かして
大和に進出して、纏向を乗っ取ってしまい、
勢力拡大して美濃に進出して八坂入姫と婚姻した縁で、
御間城崇神系とは疎遠になってしまい、
ヤマトタケルの尊を倭姫命の養子に追いやってしまった。
しかし、この縁を活かして、吉備津彦の勢力と結びついて、
出雲から丹後丹波へ進出していき、
丹波國造となって、
ヤマトタケルの外戚として力を振るい、
神功皇后の時代に大和王権の実権を完全に握る事になるのである。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:21:40.21
>>439
>>361
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:22:50.16
>>430
>「大量」かどうかはわからんが別人種が日本列島に入ったのは事実。

その通り!   
倭国(阿波)王権は、百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を利用して、8世紀に避難疎開遷都した大和朝廷へと発展させた。   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:24:01.47
>>442
>>358
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:24:55.06
日本書紀や古事記は、
この北部九州の丹波國造氏と、
南部九州の生目氏と、
吉備の豪族御間城氏を、
一系に纏めて、
更に出雲大和連合の大国主の話をまとめたモノである。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:27:36.37
邪馬台国の東を海で渡れば倭種の国があるというのは、
邪馬台国の範囲が大分を含む範囲であることを意味しており、
狭穂彦王の乱で、投馬国=妻、西都原まで進出していった事と一致する。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:27:42.87
>>445
良いけど人名を漢字で書かないで
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:29:46.60
>>447
>邪馬台国の範囲が大分を含む範囲であることを意味しており、

なんの根拠もないけれど、もやっとそう思う訳だよな。  わははははは   @阿波
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:30:53.52
>>442
私は畿内説
倭国以外の地理的な説明は、九州の上陸地点を起点として説明してあるということ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:34:31.31
後漢書東夷伝に登場する
107年に朝貢した倭面土国王帥升は、
ヤマト国の彦坐王の使者の可能性が極めて高い。
コレは、57年に朝貢して金印を授かった奴国が倭面土国に傘下に下った事を意味する為で、
朝貢した奴隷は奴国の奴隷であり、
107年に奴国を制圧した勢力=山門八女の邪馬台国しか考えられないからである。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:35:50.06
【参考】唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。

■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:36:24.62
>>451
なんの根拠もないけれど、もやっとそう思う訳だよな。  わははははは   @阿波
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:38:34.76
【纒向は古墳造営基地局説】
纒向調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

奈良盆地はもともと墓場として周辺国に活用されており、大型古墳を建造する際には大型宿泊所(平屋)を設置し、
東海地方から来た労働者が古墳建造に従事していたものと思われます。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:40:30.48
>>451
倭面上国の誤写だってのに。どうしても「わみゃと」にしたいのかw
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:41:21.60
あと卑弥呼関連で言うと、
狗奴国との戦いで卑弥呼が
張政から黄幢を授かった下りが、
倭姫命が夷狄との戦いで活躍した大幡主に旗を授けた伝承や、
その弟が卑弥呼の世話をしたという伝承が、
歳の離れた弟が卑弥呼の世話をしたという魏志倭人伝の記述と一致する為、
邪馬台国の卑弥呼=倭姫命
で間違い無いだろう。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:43:36.37
伊都国は数多くの舶製鏡の出土した、
平原遺跡のある怡土糸島で間違い無いだろう。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:45:43.11
>>213
筑紫君磐井
あれ奴国王
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:47:11.29
卑弥呼の鏡である事が確定した方格規矩四神鏡が大量出土する事で、
大陸からの贈り物を管理したと明記されている伊都国が、
糸島怡土の平原遺跡周辺であることは確定している。
動かし難い。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:49:07.72
邪馬台国は天皇家の外戚になったのな。
神功皇后よ。
天皇家は生目氏から養子でもらったヤマトタケルが継いだ。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:50:55.71
記紀は女王国の東にあった倭種の国々の歴史書です
邪馬台国とは関係ありませんのでお間違いの無いよう
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:51:10.72
出雲国とは、大国主と大物主の連合国家で、
コレは銅鐸の出土範囲と時代変遷が、
國造神話と一致する事で確定している。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:51:30.70
>>457
魏から黄幢を貰った?まずいなあ、書き換えときましょう
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:52:05.26
結局はこうなります。

神武天皇は崇神天皇の祖先の複数話、畿内部分はおそらく剣主や珍彦関連の逸話を流用している。
崇神天皇は阿波に基盤を持つ狗奴国系の王で丹生男。
古事記は物部系の記録史 。
日本書記は唐に向けた、仏教普及目的も兼ねた日本正史広報記録誌。
百襲媛は卑弥呼、ただし卑弥呼はある意味役職名というところ。狗奴国の血統の可能性も。

これで出雲の神宝の正体もわかりましたね。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:53:40.33
平原の王墓なんて東の出雲の様式だしな。出先機関です。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:54:08.46
更にいうとスサノウが出雲に進出した地は、
大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡で間違い無いだろう。
そして初期の銅鐸が大量出土する加茂岩倉遺跡が、
大国主の出自した地となる。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:57:10.73
>>460
>>462
じゃあ、今の糸島市が邪馬臺国の行政都市だったと考えてるわけですね。
卑弥呼はどこに居たんですか?
倭人条の文章を見る限り伊都国からはるか南側にの地域に居たと思えるんですが?
(正確に言うとはるか南南東方向の地域?)
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 12:57:26.22
>>444
魏志韓伝での済州島で方角間違えてるから、方向間違い説は既に実証済みです。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:00:23.67
高天原から天孫降臨した族は、
日向の高千穂に降臨した
天皇家だけでなく、
河内から大和に降臨した
饒速日尊の一派がある。
饒速日尊の一派は、
更に長野県の安積野に
進出して行った事が伝承として残っており、
コレが近年長野県から大阪湾型銅戈が出土した事で、
大阪湾型銅戈が饒速日尊の祭祀の道具であることも確定した。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:01:54.18
崇神天皇の出雲神宝事件では、日本書記では出雲振根は九州の筑紫に出向いた事が明記してあります。
その留守中に飯入根が崇神天皇に出雲神宝を献上してしまった話ですね。
やはり出雲からは人が筑紫に往来している事が明記されてます。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:06:34.19
まあ崇神天皇の時代、三世紀後半辺りでは水銀朱は大変な貴重品だと倭にも知られてきたのは間違いないでしょう。
なので場所を知られる訳にはいかないので、物が何なのか、場所は何処かはトップシークレットだったはずです。
神宝はこれらの何かでしょうね。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:14:06.16
>>397
尺とかの単位もないけど?
歩数は倭人でも数えられる
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:14:30.52
卑弥呼はズバリ山門八女にいた。
コレは記紀の東征の行程から、
日向高千穂=宮崎市生目辺りから、
岡田宮まで31日と明記されているため、
古代の水行31日が宮崎市生目→岡田宮であり、
その2/3の水行20日はおよそ美々津となって、
投馬国が妻・都間であることが確定し、
その半分の水行10日は、
距離で言えば宇佐か大分と言うことになって、
陸行1月は、唐書に倭国は東西5月行南北3月行と明記されているため、
およそ百数十キロとなって、
これらを狗奴国と南で接する地域に当てはめると、
不彌国から大分まで行って、日田を経由して百数十キロ歩いて山門八女に着いたという工程になる。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:15:24.03
>>478
別に卑弥呼がいてもいいが
邪馬台国は近畿だな
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:17:14.28
出雲飯入根は伊勢国の名前由来に関連する事も風土記等で記述がありますね。
やはり飯入根には伊勢にも関連していました。
伊勢といえばも勿論水銀朱の鉱山所在地です。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:21:11.33
饒速日尊の天孫降臨で、
高天原が銅剣を祭祀の道具とする部族である事が判明し、
つまり古代に銅剣を祭祀の道具としていた地域が、
博多湾周辺である事から、
高天原は博多湾周辺である事が確定する。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:22:31.12
>>462
墓遺跡ばかりですな。
伊都国の一部でしょうが
宮室樓觀城柵嚴設の遺跡はどこでしょうか?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:24:33.66
>>481
当然無理です。
伊都国の範囲ですから
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:26:56.95
少なくとも記紀に描かれた舞台は信貴山、二上山周辺を想定していますよ。

天安川、剣や鏡作りの環境に堅石の存在が全て揃うのはこのエリアです。
天安川や堅石は他でもありますが、金山彦、鏡作神社があるのは奈良盆地西部辺りだけです。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:28:18.39
ということで、
前2世紀の銅剣の出土する出雲の荒神谷遺跡は、
前2世紀に博多湾周辺から出雲に進出した部族の遺跡で、
記紀に照らし合わせて、
要するにスサノウの遺跡である事が確定している。
そしてそこから出土した銅鐸と同じ銅鐸が大量出土する加茂岩倉遺跡が、
大国主の遺跡であることも確定している。
そして、銅鐸とはズバリ須勢理姫が持って、山の枝に触れて鳴ったという天昭琴である。
山の中から出土することが、
その神話の記述と一致する。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:29:55.02
>>491
伊都は本来は出雲です。北部九州にあるのは奴国で北部九州の伊都は出先機関ですね。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:34:30.90
伊都国の外交施設は三雲・井原遺跡の番上地区だろうな。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:34:38.37
アンカwww
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:37:15.19
出雲は大国主と大物主の同盟国で、
銅鐸の出土範囲であって、
伊都国とは無関係。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:37:27.43
出雲代表の振根が筑紫に出向いているしな、間違いない。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:39:15.61
出雲地方から直で半島へは渡れないからな。推測だけでなく実際北部九州には中継地は必要なんだよ。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:42:03.77
>>496
何の根拠もない
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:45:24.64
おそらくは最も初期の銅鐸が吉野ケ里の銅鐸で、
それらを出雲に持ち込んだのがスサノウであり、
ソレが前2世紀の事で、
そのそれのコピーを配ったのが大国主で、
オレにも作らせてくれって言ったのが大物主でコレが1世紀中期頃。
この勢力が長野県まで広がっている事が記紀の記述と一致し、
コレが高天原の勢力に国譲による侵攻を受けている事から、
出雲が伊都国を支配したという構図は成り立たない。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:47:21.88
>>491
墓遺跡ばかりだけだな
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:48:23.93
大物主はモモソヒメと婚姻した記述が記紀に記載されており、
御間城崇神に取り込まれて消滅した。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:48:34.47
↓アンカーズレてるぞ

498 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2023/02/23(木) 13:43:08.10
>>501
別に変ではないけど??
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:52:27.17
三雲・井原遺跡の番上地区は住居跡な。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 13:59:07.87
銅鐸は恐らくは山で獣道に吊るして
動物よけやら狩りの鳴子として利用したのではないか。
それらが駆逐されたのは犬を狩猟に持ち込んだからで、
これが吉備津彦の桃太郎伝説の犬となる。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:05:52.41
>>505
墓遺跡ばかりだな
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:06:37.86
かつては銅剣銅鉾文化圏や銅鐸文化圏と言われていたものも、
銅剣銅鉾を祭祀の道具とする博多湾周辺の部族の日本進出=高天原の国譲。
銅鐸の分布と時代変遷は大国主の國造の時代変遷と一致として解釈する事になっている。
これに付随して、高地性集落は、国譲に際して事代主が船を壊して隠れ住んだとされる青柴垣である事も分かる。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:08:55.00
>>505
//www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/170/20171129102855.html

弥生前期の集落だな
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:12:44.92
記紀に国譲りや天孫降臨など記録されている様に、
博多湾周辺の部族の日本進出は強烈で、
日本全国至る所に博多湾周辺の地名が残されていることからもソレが分かる。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:16:02.95
>>477
中国人が中国の長さの単位を用いて記述しているもの
歩数を記述しているものではない
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:20:41.20
ちなみに卑弥呼の後に女王になった臺與が豊受大御神で、
これが丹後の赤坂今井墳丘墓だろうな。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:31:43.87
ちなみに丹後ちりめんで有名な丹後の絹織物は、
天橋立伝説で8人の天女によって伝えられた事が分かっているが、
8人の天女=八女である。
弥生時代に絹織物の一大生産地だった北部九州から、
丹後に絹織物が伝わった記録が、
天橋立伝説として残っているのである。
弥生時代後期の話しなのだ。
日本の歴史もなかなかのモノだよ。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 14:40:30.28
>>500
こいつ「つまり九州説はウソ」と呟いてるのと同一人物で
対立煽りやってる荒らしだろ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:03:10.34
纏向は、
外来土器の出土状況が崇神が四道将軍を派遣した範囲に一致する事、
特殊器台埴輪が吉備の古墳と一致する事、
桃の種や犬の骨の出土が吉備津彦の桃太郎伝説と一致する事等から、
御間城崇神が建設した王都であることは間違い無い事で、
議論の余地は無い。
後はこの御間城が魏志倭人伝の彌馬升副長官にどう繋がっていくのかと言う事だろうな。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:27:31.40
>>516
つまり倭人伝を無視し考古学を無視し
記紀ファンタジーに結びつけることで
東遷説方向に持っていくという
九州説サギ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:38:22.32
>>512
徑百餘歩しかないが?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:43:24.28
池上曽根遺跡は興味深い
男女に見立てた2本の立柱があり、女の方は先が二股に分かれた木(Yの字、三叉)を使っていた

三叉の木に関しては山の神の話を思い浮かぶ
山の神は女神でありYの字の木は神が宿っているとされ、切るのはタブーであった
長野県では、大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえるという
山の神は年神とも関係しているのだろうか?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:44:00.60
>>520
中国人が「歩」と言う長さの単位を使ってて
それを中国の度量衡ではないと言い張るのは
トンデモ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:45:33.27
>>516

官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 

邪馬台国だけ副はない
その後の任那に続く?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:47:43.67
>>522
トンデモは君だな。
中国の度量衡とは限らない。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:52:02.26
>>522
倭人から聞いたのみかも?
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:55:06.21
>>512
魏志倭人伝に
>径100歩ほど
と記載されている

この「歩」が中国の長さの単位、右足を踏み出し、次の左足を踏み出した長さ 通常の一歩の二歩分の長さ
当初は1.35m程だったが徐々に長くなり唐代には1.56m程度となった
仮に1.5mとすれば、100歩は150mとなる

箸墓古墳の後円部の径は約150メートル
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:57:19.94
>>526
実際に行ったのかは定かではない
倭人から聞いた場合は考えないのか?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:58:02.89
>>499
>おそらくは最も初期の銅鐸が吉野ケ里の銅鐸で

「阿波」だ。 「阿波」が最小。   @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 15:59:53.26
>>510
こうやって考えてみると、縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って稀有なんだな。
「阿波」以外に無いんじゃなかろうか?   @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:00:11.00
吉野ヶ里だろうな。最小などは問わない
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:01:12.67
>>529
放置遺跡ばかりだ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:12:42.73
>>527
卑弥呼の死の直前から塞曹掾史の張政たちを派遣し
卑弥呼の死を経て、台与が即位するまでの混乱期を台与と共に過ごしている記述がある
卑弥呼の墓の大きさはこのときに測定されたものと推定できる

仮に日本人が歩数で測り中国人に報告したものだとしても、中国の歩の単位と整合性の撮れるように操作するだろう
中国人が中国人向けに書いた書物で用いた長さの単位は、中国の長さの単位であるはず
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:16:51.77
池上曽根遺跡からは鳥形が見つかっており、大阪辺りは百舌鳥、白鷺、鴨、大鳥など鳥トーテムの名残りがある

石器時代のような原始の社会の集団で普遍的によく見られるのは鳥トーテムらしい
原始社会に於いては生殖は乱婚であったという
そういう段階の社会は強い母権制社会であり契約婚の段階に移行しても当初は母権制社会らしい
そういう段階の社会では鳥と卵は命と繁栄の象徴として、集団のトーテムになることが多いらしい
民族としての始まりの段階なのかもしれないね
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:19:06.32
>>532
共に過ごす?どの位の期間?
それにしては記述が少ない。
狗奴国との関係とか
卑弥呼亡き後の男王の名もないね
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:34:44.72
>>526
「径」は墳丘の大きさではなくて、墳丘周辺部を含んだ「墓域の大きさ」を指しています。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:39:20.32
狗奴国が強固に女王国に抗い続けたのは守るべき大切なもの、家族や民族としての存在があったんじゃなかろうか

殉葬や鬼道とか古代の日本人からしたら異質なものに思えるんだよな
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:49:50.74
>>524
>トンデモは君だな。
>中国の度量衡とは限らない。

中国の度量衡ではないものを
中国の役人がなぜ使うの?
それってトンデモでしょ
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:52:11.97
>534

魏志倭人伝は異例の分量の記述があるということになっている
君が不足と感じても、文句を言う筋合いはいささかもない

張政たちが派遣されたのは、正始8年に狗奴国との紛争の訴えがあってから
それから卑弥呼の死(おそらく正始10年ころか?)、男王が立つが国中が従わずに内紛となった
卑弥呼の宗女の13歳の壹與が即位し国中がついに定まった

壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、政(張政)たちが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦20匹を獻上した。

壹與の即位の年は記録されていないが、張政は即位を見届けて、国が定まったことを確認して帰国したのだと思う

卑弥呼の死から、男王の混乱の時代を経て、s年は経過していたと思われる
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:53:06.45
>>535
>「径」は墳丘の大きさではなくて、墳丘周辺部を含んだ「墓域の大きさ」を指しています。

じゃあ何故筆者は
「大作冢。径ーー」って書いたの?
それって文章無視したトンデモでしょ
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:53:42.95
>>536
俺は卑弥呼に対して卑弥弓呼が不満を持ってただけだと思ってるから
おまえがどういうのを想像してるか全くわかんね
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:55:34.28
--- 卑弥呼の墓の大きさは径百余歩ではない ---
魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
よって径百余歩という記述は、陳寿が殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と併記したのでしょう。
あるいは何歩だと聞かれた倭人が歩の事を足の大きさだと勘違いし径約25mを径百余歩と換算して伝えたのかもしれませんね。

卑弥呼の墓の情報に最も適合する祇園山古墳
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:57:15.97
>>538
>卑弥呼の死から、男王の混乱の時代を経て、s年は経過していたと思われる

2,3年は経過していたと思われる、と記載するつもりで途中でリターンキーを押してしまいました
失礼しました
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 16:57:25.60
>>525
>倭人から聞いたのみかも?

じゃあ、卑弥呼の墓は当時列島に来ていた中国人が身にいえないくらい遠方にあるってこと?
邪馬台国は北部九州じゃあり得ないってk女とで
いいのpね?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:00:27.96
>>529
ヤマト国阿波説の致命的欠陥
その後、阿波から大和に遷都した形跡、記録などが一切ない事。

ヤマイ国阿波説の致命的欠陥
阿波がヤマト王権に併合されたり滅ぼされた形跡、記録などが一切ない事。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:01:06.93
殉葬の痕跡なんか何処にも無いんだし他の国と間違えたとかそんなんじゃないの?
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:04:26.09
もしかすると卑弥呼の墓は潰されて存在しないとか
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:10:40.72
殉葬は謎だね。
中華「この墓に殉葬はあったのか?」
通訳「一緒に死んだ人は?」
倭人「あー(混乱で)100人以上は死んだのかも?」
中華「うむ、殉葬100人と。」
案外、この程度の事だったりして。
または、共同墓を勘違いしたとかしかないな。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:10:48.00
◆畿内説による印象操作
「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png

建物と桃の種は無関係でした

畿内説の言い訳
「建物を取り壊した後に祭祀が行われ物が埋められた」

なぜ取り壊した?
の説明は無し
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:12:35.50
>>530
理由は無いけど、なんとなくそう思う訳だな。  わははははは   @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:15:16.51
>>536
>狗奴国が強固に女王国に抗い続けたのは守るべき大切なもの、家族や民族としての存在があったんじゃなかろうか

そんな靄っとしたもんじゃないよ。  辰砂利権だよ。   @阿波
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:21:54.60
>>544
>その後、阿波から大和に遷都した形跡、記録などが一切ない事。

極、簡単な話。

記紀に、「阿波」に王都があったなんて書くわけがない。 
ついこの間、「阿波」から引っ越してきたことは、記紀の編纂者も含めて、
当時の奈良大和の人々(阿波人)は、みんな知り抜いているんだから。   @阿波
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:22:06.18
箸墓古墳は古墳時代の幕開けを告げるような画期的な古墳
築造当時は他に比肩できるものがないほど圧倒的な大きさだった

その後の巨大古墳でも、箸墓古墳より大きいものは10個しかない

倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇皇女とはいってもこの規模の古墳が作られたことには驚く

また、箸墓伝説では、被葬者は人々にも神々にも愛された存在として描かれている
人々が手渡しで大坂山から石を運んだとある、昼は人が作り、夜は神が作ったとある
このような敬愛を受けた被葬者は他に知らない

築造年代から考えれば、実は卑弥呼の墓だったとすれば、墓の規模も人々の敬愛も納得できると思う
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:24:03.25
辰砂に価値を見出さなくても狩場や山が荒らされ水が汚れるのに反発してもおかしくはないけどね
水銀汚染とか起きてたのかもな

綺麗な水って凄い貴重なんだよね
色んな国の風土記にも井戸を掘って清らかな水を得た話が書いてある
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:24:17.51
>>549
無関係という証拠なし
建物が取り壊されたという客観的な状況があって、その直後に土壙祭祀が始まっているので、学者が撤去に関係があると判断した
九州説は反学問・反通説だから支持者がいない
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:25:10.42
>>553
箸墓古墳は、完全な葺石墓。  4世紀の築造だと確定済み。   @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:26:39.16
>>555
韓国人みたいに強引にこじつけて言い張るだけが学問とかw
さすが底辺の寄せ集め考古学w
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:27:22.23
該当するものがないのに無理矢理当てはめなくて良いんだぞ
壊されて既に存在しないでも良いんだし
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:31:39.05
>>559
素人でも4世紀の築造だと分かるものを、御用学者は頬かむり。  わははははは   @阿波
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:32:55.77
>>548
王宮に奴婢女が1000人居る方が無理だと思うけどね。

タリシホコでも、後宮でだけど700人だろ? 
法隆寺と斑鳩宮新築して小墾田宮だっけ?

纏向で良いのか? 女給1000人なら、
失業で、ばあさん100人程度の殉葬は有るだろ?
殉葬って、全部女性って条件も有るんだよな。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 17:49:45.35
>>560
地元の人は他にも色んな時代の古墳があるから
新旧の違いぐらいはわかるそうだ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:12:57.78
記紀の記述でも三輪山周辺は各地の豪族の娘を集めて巫女としていたはず。
また神武伝承でも大物主の血をひく神の娘を三輪山周辺で見つけて婚姻しているからな。
ちゃんと魏志倭人伝の記述の卑弥呼に関する記述と合致している。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:15:26.07
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png
↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
↑魏志倭人伝の描写と全く異なる建物
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:16:02.12
阿波説の致命的な欠点はやはり神獣鏡出土、神社数の少なさですよ。
三世紀以降の都の場所としては有り得ない少なさだからな。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:19:49.37
>>562
相変わらず、高齢中は伝承だけ。  わははははは   @阿波
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:23:29.48
>>565
でも、
畿内に無くて、「阿波」には王都遺跡が在るんだから決定的なんですよ。  わははははは   @阿波
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:28:29.11
>>569
アホな妄想だけで語られるより遥かにマトモだけどなw  わははははは   @阿波
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:31:55.48
あれだけ多数作られる三角縁神獣鏡が僅か数枚しか出土しない国。
その理由はやはり鉱山が見棄てられたのかな?
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:36:26.05
>>571
>あれだけ多数作られる三角縁神獣鏡が僅か数枚しか出土しない国。

下賜する側の倭国(阿波)に、いっぱい有る訳ないわな。  わははははは

有難く拝領しておけ。  わははははは   @阿波
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:38:22.46
阿波は哀れな国の意味かもな?鏡作神社も奈良に集中してるのにね。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:40:37.24
>>573
>鏡作神社も奈良に集中してるのにね。

8世紀のな。  わははははは   @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:43:30.58
まあ四世紀は鉱山活動が終わる時期でもあるから、やはりその時点で阿波国が衰退しているのは確実だな。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:47:11.43
神社数も僅かな数しかない、対岸の和泉にすら負けとる国が 8世紀まで都とかw
本気で言ってるなら確実に病んでるな。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:53:56.93
>>576
>神社数も僅かな数しかない、対岸の和泉にすら負けとる国が 8世紀まで都とかw

7世紀末までな。  わははははは   @阿波
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:57:08.21
まあ崇神天皇が三世紀半ば以降に阿波から畿内邪馬台国に来たという事でいいだろう。
話はこれで全て丸く収まるからな。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:57:46.24
入れ墨は弥生時代は瀬戸内海、東海が中心みたいだね
纏向遺跡からはこの2地域の土器が多数見つかっている
近畿では入れ墨を示唆する弥生時代の資料は殆どないようだ
古墳時代、特に5世紀以降埴輪などに記された入れ墨の資料が近畿でも増える
文献では、安曇や馬飼、猪飼などに入れ墨の風習があったらしい
四道将軍で入れ墨の人々が全国に散った後5世紀頃再び奈良に侵入したのかもしれない
近畿は元々山の民が多かった可能性があるんじゃなかろうか?
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 18:59:04.15
>>578
>まあ崇神天皇が三世紀半ば以降に阿波から畿内邪馬台国に来たという事でいいだろう。

「倭人(阿波勢力)」がな。  わははははは   @阿波
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:02:34.19
崇神天皇の墓だが、私の説ではやはり桜井茶臼山古墳を推したい。理由はやはりあの水銀朱の量は突出している。
また一つ離れた場所にあの規模だからな、外からきた王としか考えられない。
住所も外山だ。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:16:24.53
魏志倭人伝に描かれた倭の海人の風景はやはり伊勢志摩辺りだろう。
丹波から琵琶湖、伊勢遺跡辺り経由で松坂に至るルートで、弥生時代中国人の来た形跡も数多いからな。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:20:38.52
>>304

3世紀の時点で中国の視界には九州しか入ってない。
畿内にどんな勢力がいたかとか関係ない。
後漢が博多湾沿岸の倭王に金印を与え、それを魏が継承した。
それだけのこと。
倭王卑弥呼も博多湾沿岸の王だし、だからこそ郡使も博多湾沿岸の伊都に駐在した。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:20:44.58
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、
大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ]
別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を
野蛮な風習とみなしたためとされました。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:21:46.37
>>309

> >>306
> どこの国の人なんだ、日本の歴史書では三世紀の時点で既に大和朝廷真っ只中ですよw
> 神武東征も紀元前の話で書かれています。

日本国と倭国は別なんだよ…
日本の歴史書に卑弥呼は出てこない…
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:23:46.88
>>581
>崇神天皇の墓だが、私の説ではやはり桜井茶臼山古墳を推したい。理由はやはりあの水銀朱の量は突出している。

崇神天皇の墓ではないが、「倭人(阿波勢力)」の墓ではある。   @阿波
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:25:51.32
>>582
>魏志倭人伝に描かれた倭の海人の風景はやはり伊勢志摩辺りだろう。

だったら、畿内説なんかさっさと止めて、伊勢説にでもしろ。  わははははは   @阿波
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:27:36.38
海にいた入れ墨の人々が内陸の里山で農耕を始めて入れ墨が不要になったんじゃないのかな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:31:16.01
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:34:47.87
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:35:01.45
>>585
そんなトンデモが歴史を語るなよ
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:35:56.48
>>539

「径」の隋書における使用例(祭壇だけど)

「方丘在國陰六里之郊。丘一成,八方,下崇一丈,方六丈八尺,上崇五尺,方四丈。方一階,尺一級。
其壝八面,徑百二十歩,内壝半之。」

→丘は八方形で、方6丈8尺、
壝(だん:祭壇の周囲の土塀)は八面体で、直径120歩、内側はその半分
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:38:28.33
>>582
やはり辺境の故郷推しかw やはりな。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:40:37.43
>>557
そうやって根拠もなく罵るだけで反論がひとつも出来ないから
九州説は亡んだ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:43:57.24
>>561
>タリシホコでも、後宮でだけど700人
見栄張りだろう。数字は全くあてにならん。
倭人伝の距離も戸数も司馬氏の見栄の産物だよ。
「俺もっと遠くから強国を連れてきたもんねー!」だろう。
実際はこれだよ。>>1が未だに短里を論破してるのが虚しい。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:44:33.53
>>583
そうやって根拠のない偏見決めつけを連呼するだけだから
九州説は学問でいられなくなったんだよ

>後漢が博多湾沿岸の倭王に金印を与え、それを魏が継承した。

与えたものは継承できない
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:46:10.46
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:47:48.15
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって冊封された倭王は、博多湾沿岸にいた。
それには倭王卑弥呼も含まれる。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:48:13.50
確かに畿内説の想定する強国に対抗できる狗奴国の設定が無理すぎる。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:53:04.76
>倭が東遷したとはまったく書かれていない
魏志倭人伝や後漢書にも書かれるわけがあるまいw
何言ってんのw
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:56:10.43
卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
2019.9.2

魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している

https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:57:26.23
■もっと古い前方後円墳や、その前に東日本には前方後方墳がありますが?

古墳時代の始まりをどーしても卑弥呼や邪馬台国に関連付けたい畿内説の苦しい言い訳
まるで霊感商法詐欺のような印象操作w

『遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとする説がある。
寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の
概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。』
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 19:58:12.98
>>599
私は伊勢生まれでは勿論ないのだが。
元々は実は熊本だよ。子供の頃大阪に来たけどね。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:26:16.19
>>601

つまり3世紀の倭は博多湾沿岸のままなんだよ。
畿内は中国との国交を持っていた証拠がない。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:29:24.73
え?中国と畿内の交易の痕跡なら、河内や淡路島の弥生時代中期の遺跡から貨泉が出土してるのだが。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:36:46.43
>>592
「大作冢、径百余步」
大いに冢を作ってその径が百余歩なんだから
作られた塚が径百余歩なのであって
”「径」は墳丘の大きさではなくて、墳丘周辺部を含んだ「墓域の大きさ」を指しています”
というのは史料無視でしょ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:41:00.80
>>605
理由言わずに言い張るだけ
それが九州説
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:43:02.67
>>598
>魏は漢から禅譲を受けているので、外交関係も継承している。

それ、関係ないから
国王というのは官爵でって、勝手に相続はできない
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:50:17.81
>>603
>古墳時代の始まりをどーしても卑弥呼や邪馬台国に関連付けたい畿内説の苦しい言い訳
>まるで霊感商法詐欺のような印象操作w

理由も言わずにただ罵っても
それって反論にならないから
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:50:46.26
>>603
>古墳時代の始まりをどーしても卑弥呼や邪馬台国に関連付けたい畿内説の苦しい言い訳
>まるで霊感商法詐欺のような印象操作w

理由も言わずにただ罵っても
それって反論にならないから
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:52:04.20
>>600
>確かに畿内説の想定する強国に対抗できる狗奴国の設定が無理すぎる。

ただ「無理」って口で言うだけなのも反論になってない
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:52:57.28
>>605
>畿内は中国との国交を持っていた証拠がない。

ただ「ない」って口先で言うのは何も証拠出してないからね
相手に「証拠がない」って指摘してもダブスタになって反論できてない
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:54:20.32
要するに、ただダダこねてるだけで何も反論できてないのが九州説
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 20:58:12.06
>>606
>中国と畿内の交易の痕跡なら、河内や淡路島の弥生時代中期の遺跡から貨泉が出土してるのだが。

え?淡路島は読んで字のごとく、倭国(阿波)なんだが?   @阿波
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:01:03.20
>>607
倭人からの報告で殉葬100人と聞いたから径百歩としておいたんだよ
倭人は「歩」なんて単位は知らないから
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:03:37.14
>>606

交易ではなく、国交だよ。
貨幣なんぞ流通にのって流れていくから意味がない。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:06:06.43
>>609

だからわざわざ郡使を送って博多湾沿岸の状況を確認した上で、改めて倭王の承継を認めたんだよ。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:06:07.99
>>617
ほら、九州説は反論ができない
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:07:15.49
>>616
>倭人からの報告で殉葬100人と聞いたから径百歩としておいたんだよ

それ、空想だよね?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:07:33.86
>>612
だったら、狗奴国はこうだ!って言えばいいんだよ。
お前も反論になってないし無駄レス。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:08:39.39
>>619
>だからわざわざ郡使を送って博多湾沿岸の状況を確認した上で、改めて倭王の承継を認めたんだよ。

そんなことは史料のどこにも書いてないが?
九州説は倭人伝無視をやめるように
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:09:47.82
>>621
>国交があった証拠を出せばいいだけだろ。

国交があった証拠とは、具体的には何?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:11:04.59
>>624
>だから畿内が中国と交渉していた証拠を出せと。

九州が中国と国交があった証拠、ある?
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:11:06.71
>>624
青銅器
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:12:13.31
淡路島に宮を持っていたのはハエイロネ、勿論畿内の磯城県からきた人物ですから、
淡路島は畿内勢力の前線基地みたいなもんですよ。
阿波自体も多気から来たオオゲツヒメの 国でしたねw
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:14:15.15
>>623
>だったら、狗奴国はこうだ!って言えばいいんだよ。
>お前も反論になってないし無駄レス。

どういえば良いかはお前如きの決めることではない
主張に根拠の提示が伴ってないことを指摘するのは、非常に有効な反論の典型だよ
九州説はまた反論を受けて論破されたと言うことで
いいね?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:14:39.26
国交の証明の証拠なんて何処の国にも無いのにねw
金印?あの田畑から出たという出土状況では 証拠にはならないですよ。
最低でもど同年代の遺跡から出土しないとな。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:15:17.70
>>631
淡路島に宮を持っていたのはハエイロネ、勿論倭国(阿波)の磯城県からきた人物ですから。   @阿波
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:16:00.32
>>626

貨泉みたいな流通品ではなく、金印(志賀島)や璧(三雲南小路遺跡)のように、中国皇帝から託された王権の証拠かな。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:16:37.45
ここの九州説なんて基本的に只の個人的な願望を垂れ流ししてるだけなんだしな。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:16:42.20
>>633
でも、  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい?  わははははは   @阿波
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:19:31.91
>>633

金印が見つかったのは巨石の下、つまり支石墓だよ。
弥生時代の遺跡そのものだ。
嘘つきの詐欺師め。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:19:52.59
>>638
さあ、後付けの奈良じゃないので、分からん。   @阿波
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:20:40.53
奈良の黒塚出土の謎の鉄器は黄幡の可能性が高いからな。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:21:27.97
>>639
中国から手に入れてるから
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:23:13.47
分からんのに説を垂れるなよw

磯城は神武伝承でも兄磯城、弟磯城が登場するように、河内、生駒から宇陀までの古くからこの辺りの地名だよ。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:23:34.24
>>642
碌な鍛冶炉遺構の無い畿内に、「黄幡」など有る訳がない。   @阿波   
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:24:34.06
>>644
そうなると九州にも証拠がない
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:24:50.54
>>645
>分からんのに説を垂れるなよw

後付けの奈良じゃないので、分からん。   @阿波
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:25:03.32
金印出土場所に何の情報もないのにね、偽でしょあの出土の仕方では。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:26:29.58
後付け以前に只の妄想を垂れてるだけじゃバカでも出来るw
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:28:13.31
>>652
でも、  
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いだろ?
異論あるかい?  わははははは   @阿波
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:29:40.98
またレスが乱れだして、ずっと阿波なんか自分にレスしてるからもう訳わからないw
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:29:52.12
>>651
あれを信じろってのは無理だわ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:30:28.55
そもそも三種の神器を副葬された歴代倭王の墓は弥生時代を通じて博多湾沿岸にしかない。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:36:00.43
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。
邪馬台国は福岡県しかあり得ないではないか。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:36:16.51
>>657
そらそうだな
あんな場所から出るわけがない
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:39:35.18
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

後漢書は魏志倭人伝と同じ短里で書かれていて、九州上陸までで一万里を費やすため、邪馬台国の位置は福岡県の範囲に収まる。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:40:43.87
満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)は、山口県下関市長府沖、瀬戸内海(周防灘)中の2つの無人島であり、原生林が満珠樹林・干珠樹林として国指定の天然記念物となっている。
忌宮神社の飛び地境内であり、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。
また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もある。
この宝珠を神功皇后に授けたのが、海神族の安曇磯良である。
安曇磯良は志賀海大明神ともいい、常陸国鹿嶋大明神や大和国春日大明神も同一とされる。
民間伝承では、阿曇磯良は豊玉姫と彦火々出見(山幸、伊都の高祖宮)の子とされており、「日子波限建」と冠されることのある彦渚鵜葺草葺不合命(彦火々出見の息子、神武の父)と同神であるとする説がある。
潮満瓊と潮涸瓊は、海幸山幸伝説にも登場する。
山幸彦(彦火々出見)は兄の海幸彦から借りた釣り針を失くして困ってしまうが、志賀島の綿津見神宮へ行き豊玉姫から潮盈珠と潮乾珠を受け取り、海幸彦を懲らしめる。
筑紫の日向を逃れた海幸彦は九州南部の隼人の祖となった。
山幸彦の子が彦渚鵜葺草葺不合命、孫が神武天皇である。
これらは全て玄界灘を支配した博多湾沿岸の倭国の海神族の伝承である。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:40:54.43
>>658
>邪馬台国は福岡県しかあり得ないではないか。

そもそも論として、福岡県は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  
温暖な「阿波」は、米の二期作が出来るが、温暖でない福岡県は米の二期作が出来ない。
気候・植生はトンデモ説のようなウソをつかない。   @阿波
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:41:42.05
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:42:21.11
>>660
>邪馬台国の位置は福岡県の範囲に収まる。

そもそも論として、福岡県は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  
温暖な「阿波」は、米の二期作が出来るが、温暖でない福岡県は米の二期作が出来ない。
気候・植生はトンデモ説のようなウソをつかない。   @阿波
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:42:44.39
志賀島の倭王を讃える山誉め祭りの神楽

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや

別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:45:28.65
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神(アマツカミ)として九州や本州の王族である国津神と区別された。
博多湾以外で海人族の勢力の中心にあったのが、宗像氏族が聖地としていた沖ノ島であり、その磐座信仰がおそらくは高天原(タカアマハラ=祖なる海の城)の天照(アマテラス=海を支配する王)に対する祭だろう。
宗像氏族が支援したのが高天原から筑紫への天孫降臨であり、降臨先が筑紫の日向(博多湾沿岸)とされている。
降臨した天孫ニニギが大山積から娶った姫が木花咲耶姫(細石神社)であり、天孫の息子である彦火々出見(山幸彦)を祭る宮が高祖宮である。
しかし記紀によると天孫族による筑紫の支配は三代で終わったとされている。
四代目の彦火々出見は筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移り、後に神武と呼ばれた。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:50:13.59
伊都高祖宮の近くには倭国大乱より古い王墓である三雲南小路遺跡とその宗廟である細石神社がある。
そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
博多湾沿岸の伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化、鉄器文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、女王国から北にある対馬海峡を支配するのが伊都国に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国の中枢である。
そして三雲南小路遺跡が伝承通りに木花咲耶姫(と邇邇芸)の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
高祖宮には木花咲耶姫の息子である彦火々出見が祭られており、かつては細石神社まで御渡り神事があったという。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、邇邇芸や彦火々出見の王宮であった高千穂宮の実体だろう。
天孫族の王たちや卑弥呼は、日の神として太陽を背にして天神として君臨したのである。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:50:39.81
>>666
理由なき断定から始まる駄文
それが九州説
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:51:18.11
【伊都国】

伊都には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国式山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にあり彦火々出見を祭る高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った彦火々出見ら日向王家の王墓であると考えられる。
倭国の王と王妃の墓である三雲南小路遺跡の拝殿である細石(さざれいし)神社は木花佐久夜毘売を祭神とし、墓は天孫ニニギと木花咲耶姫の墓と考えられる。
平原遺跡や三雲南小路遺跡などの特徴は三種の神器に相当する副葬品があることであり、筑紫の伊都が記紀にあるように倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

魏志倭人伝では伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武が天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
高祖宮は伊都から日の出の方にあり、倭王は太陽を背にして君臨していた。この様式は大和の三輪山などと同じ配置である。
伊都は神道の基本である太陽信仰の都だったのだろう。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 21:55:13.01
>>667
>そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。

つまり卑弥呼の墓じゃないことは承知だね?
そして卑弥呼の前び倭女王はいないから、北部九州には邪馬台国などないのも認めるね?
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 22:04:50.53
>>669
高祖宮が彦火々出見を祀るのは後世の付会。要は捏造。
『三代実録』に【高磯】比盗_とあり、怡土には【宅蘇】吉士が居住しており、これは『応神記』に「韓鍛【卓素】」の名が見えるように、製鉄の鍛工の名でもある。
高祖神は天の日槍の後裔が県主の土地の鍛神であるヒメコソの神と思われ卑弥呼ではありえない。
駄文である。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 22:10:34.50
>>672
平原遺跡の被葬者が卑弥呼でない事と北部九州には邪馬台国がないは無関係。
畿内説の卑弥呼は中国人なのか?味噌と糞を混ぜてはいかんよ。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 22:25:48.47
>>669
>ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名
はたしてそうだろうか?系統と言うには他に誰かいるのか?【速日】が付く神は多いが?
正哉吾勝「勝速日」天忍穂耳尊
「甕速日」=武甕雷男神の先祖であるとも記されているが、その後に「樋速日」神、甕速日神、武甕雷男神が同時に生まれたとも記されている。
「乳速日」=饒速日に随伴した三十二人の防衛の一人
登美「建速日」=登弥神社の祭神。一説に長髄彦。
0676琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/23(木) 22:45:23.49
無駄だよ、九州にあるのは半島祭祀だよ。やがて大きな香春信仰の連中が半島から逃れ大分に王国を築いたんだろ、隋書にそうなっている。
奈良盆地は邪馬台者成だろ。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 22:46:50.79
>>658
金印は国ではなく王個人に与えられたものなので、通常、王の墓に埋葬される。
委奴国王印が発見されたのは、委奴国王が正式に埋葬されず、滅ぼされたから。
0678琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/23(木) 22:49:40.67
そのとおり、金印が本物なら、落としとるから滅んどる。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 22:51:57.91
委奴国王とは何ぞや?
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 23:07:14.08
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 23:22:23.11
>>674
>平原遺跡の被葬者が卑弥呼でない事と北部九州には邪馬台国がないは無関係。

思考停止?
平原1号の被葬者が卑弥呼だから邪馬臺国が北部九州って主張してたんじゃないの?
ほかに理由ないでしょ?
だから九州説は全部ぺけ
です
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 23:29:07.79
>>682
貴様が論破しているのは伊都説であって九州説ではないと言ってるんだよ。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/23(木) 23:37:47.42
>>677
>委奴国王が正式に埋葬されず、滅ぼされたから。
女王国の構成国の「奴国」ではないって事か?滅ぼされた?
親魏倭王の印綬の際、漢委奴国王印の扱いはどうなるんだ?
ちょっと時系列で解説してくれよ。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 03:32:40.52
>>537
倭人から聞いただけかもしれんてことよ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:07:51.03
>>686
理由もなく倭人伝は間違いだと言い続けるなら、九州説は終わり
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:11:08.58
>>684
>親魏倭王の印綬の際、漢委奴国王印の扱いはどうなるんだ?

土の下に埋まっていたかもしれないし
無権利者が持っていても当然そんなもん無効だ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:14:19.14
>>683
>貴様が論破しているのは伊都説であって九州説ではないと言ってるんだよ。

つまり九州説なんて説はないんだよ
実体がない
思考をやめた爺さんの脳内にある漠然とした願望の総称だ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:33:07.10
>>687
誰が間違いと書いていないが?
理由がないのはそっちだな。
何故、尺ではないのか?
歩数は倭人でも数えられる。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:41:14.18
北部九州に邪馬台国がある訳ないでしょ。勿論畿内しか有り得ない。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:46:19.35
>>691
倭人から聞いたのか、
実際に魏の使者が測たのか定かではないて事ね?
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:48:08.81
>>693
当然だよ。両建て考えるさ。
いづれにせよ断定できる根拠がない
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:52:34.19
>>691
>誰が間違いと書いていないが?

君は倭人伝が間違いだと書いてるんだよ
中国人が書く「歩」は中国の度量衡なんだから
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:53:35.60
>>693
まあ、邪馬台国は近畿だな
九州にはない。卑弥呼が共立され九州だな。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 07:54:51.63
>>696
間違いとは書いていないが?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:06:18.50
魏志倭人伝読めば判るよな、七万戸の邪馬台国は畿内にしか存在出来ないから。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:07:16.78
倭人は里も歩も知りませんでした
隋書でもまだ倭人は里を知らんと書かれている
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:08:17.57
>>699
当時から畿内は可住地面積が少ない地域です
弥生時代の遺構も少ないのです
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:08:26.07
>>700
歩の記述はない。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:11:44.21
>>703
知らなくて歩数は数えられる。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:20:50.70
>>705
両方で考えるてこと
どこまでが聞いた事なのか?
定かではないのでね
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:24:10.04
まあ箸墓古墳が大き過ぎる事は畿内説も分かってるはずだ
だから昔、後方部は後から継ぎ足された物で本当は円墳だったのだ
なんて言ったりしてた
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:32:26.14
大規模な古墳が沢山造れる場所=倭で最大の七万戸が可能、こんなの当たり前の話だねw
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:34:34.33
また鬼道が支配的な場所=鏡が沢山出土する場所、特に神獣鏡は畿内中心です。
これだけで邪馬台国の場所は畿内で確定です。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:35:56.94
弥生時代の奈良は住居跡も墓地もほとんどなく長い間人が定住していた可能性は無いに等しい
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:36:33.11
シンプル、簡潔に説明出来る場所が最強なのはいうまでもないからな。

変な屁理屈捏ねる必要があるのは元々無理な場所なんだよね。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:39:04.14
>>711であるがゆえに、日本国形成のための都を造ることが出来たわけで
最後まで空き地として残ってた土地だから
そんな土地を均したことが「ナラ」という地名の由来だ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 08:53:48.95
神獣鏡は畿内中心です。
これだけで「ヤマト王権」の場所は畿内で確定です。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:04:23.92
>>715
単に銅鐸→銅鏡のリサイクルが盛んだった地域
それだけの事

なんたってなんの役にも立たない銅鐸を大量に作ってた地域だからなw
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:12:20.03
>>701
近江77万5千石
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:15:20.76
奈良盆地中央より南側は弥生時代通じての遺跡集積地です。
葛城地方では既に西日本では最大の水田跡所在地ですから、九州より大きいのですよ。
また橿原地区は縄文遺跡も多く、遮光式土偶の西端発掘場所でもありますね。
二上山周辺はサヌカイト供給場所だったのは、普通の考古学の知識がある人には常識問題です。

つまりむしろ他の地区より昔から集権的な土壌だったという事です。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:19:48.53
神獣鏡は勿論倭の固有の文化ではありません、神仙思想の具体化された紋様から判るように、
それは基本的に大陸の思想の影響下によるものです。
それは一般的に三世紀当時「鬼道」と呼ばれています、中国での話ですが。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:21:37.36
>>717
「倭」が東遷し銅鐸文化の「日本」と合併した結果ですよ。
大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ
とは、そのような事でしょう。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:28:35.50
まあ卑弥呼が日本史から消されたのは、
当時の道教的な思想の影響を消したい、仏教メインにしたい事もあるだろうな。
その為隋と交流していた卑弥呼の存在はなるべく消さないといけない、こんなところだろう。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:34:52.06
>>691
この話題について最初に記述した者です

ひとつは魏志倭人伝に歩で記載されていることによります

また尺も長さの単位ですが、親指と人差し指の間の長さ
一方歩は、右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺

測る距離を考えればこの場合は歩を用いるのが適当ではないでしょうか
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:37:08.24
王政復古主義だった厩戸皇子とブレーン秦氏は、あえて邪馬台国の時代の祭祀女王と近親者男性執政者の図式を復活させたのだろう。
積極的に隋に交流を開始したのもその為。
でもそれは次世代の執政者からは仏教布教者として利用された感が強いね。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:38:31.50
>>722
なぜ消されたと?卑弥呼は名前とは思えない。
古代天皇も中華に本名を言ったりしない。多利思比孤や主明楽美御徳などと名乗る。
別名で記録されている可能性がある。もっとふさわしいのは大日霊女貴であるが。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:42:13.31
>>724
魏の役人が測ったと仮定した場合
と倭人から聞いたと仮定した場合
両建てで考えている。九州説で言う短里なら里
とか記述するのでは?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:43:45.07
>>725
いやいや、多利思比孤は男王だよ。
これは蘇我の地の濃い天皇の隠ぺいだな。

推古天皇は以下のような謎の歌を残している。

真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
【訳】大蘇我の人よ! 蘇我のお前さんたら、馬で言えば、日向産の名馬だわ。太刀で言えば、呉(くれ)産の名刀だわ。ほんとにそうだわよ。だから蘇我の子を大王がお使いになるのもきっと当然なのだわ。

推古天皇以外に「大王」の存在が示唆される。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:46:34.70
>>724
失礼しました
尺は、手を広げた時の親指の先から中指の先までの長さでした
訂正します
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:48:28.65
おさらい

--- 卑弥呼の墓の大きさは径百余歩ではない ---

魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
よって径百余歩という記述は、陳寿が殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と併記したのでしょう。
あるいは何歩だと聞かれた倭人が歩の事を足の大きさだと勘違いし径約25mを径百余歩と換算して伝えたのかもしれませんね。

卑弥呼の墓の情報に最も適合する祇園山古墳
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:49:24.24
>>698
>間違いとは書いていないが?

間違いだと書いてるんだよ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:50:37.43
聖徳太子の時代の王の可能性が高い皇子なら彦人皇子しかいないだろう。
斑鳩の対岸に宮を持ち、石舞台古墳と同クラスともされる古墳に埋葬されている。
だが知らぬ間に消えているが、後に皇祖とも呼ばれている存在だからな。
因みに子には山背という皇子までいる。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:51:11.52
>>730

根拠もなく倭人伝をあちこち間違いだということにしないと成立しないのが九州説
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:52:55.64
朝貢記録に殉葬百人と書いてあったからだいたい百余歩だな
と陳寿は解釈したんだろう
里数が短いのもそういう事かもしれない
里を倭人からの情報をもとに里数を推測して換算したとか
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 09:55:25.60
>>733
間違いという訳ではない

情報源は何なのか?編纂時の作業環境および陳寿の知識は?
などという条件を考慮して解釈するべき物
歴史家なら常識だろ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:00:49.37
>>735
だから俺も国家のヤマトを集落だと勘違いしたと言ってんじゃん
その違いが中国人にわかるわけねえだろ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:02:32.20
>>732
彦人皇子なら隠ぺいする理由がない。
隠ぺいされた人物とは「聖徳太子」などと謎の名前呼ばれるその人だろう。
皇子に「ウマヤド」なんて名前を付けるわけがないし「トミミ」ときたら耳が良いではないか。全部架空名だ。
蘇我の善行をすべてのせて神格化したのが聖徳太子。蘇我は悪として闇に葬られたのだろう。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:14:14.49
>>736
勘違いというより時代が違うのだと思う
中国は過去の記録も含めて里数行程で認識していた
しかし倭国大乱が収まり久しぶりに朝貢してきた倭人は全く視点の異なる行程説明をしてきた
里数行程はおそらく倭国大乱以前の情報であり、大乱収束後は邪馬台国という女王国連合になっていたという事
大雑把に対馬海峡を渡れば邪馬台国だったという事だろう
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:15:23.03
実際彦人皇子は元々厩戸のライバル候補なのに、いつ亡くなったのかもわからない位隠蔽されてるからな。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:20:56.27
>>742
馬小屋で生まれたからって皇子にそんな名前はつけない。
景教(ネストリウス派キリスト教)の影響だろう。作り話だ。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:28:15.69
>>744
唐の都、長安で景教が布教されていたことは史実だ。
イエスと聖徳太子の類似を早くから指摘したのは、明治・大正時代に活躍した歴史学者・久米邦武(くめくにたけ/1839〜1931)です。久米は『上宮(じょうぐう)太子実録』(1905年刊)のなかでこの問題に言及し、飛鳥・奈良時代に中国に渡った僧侶が、当時、西域(さいいき)をへて中国にまで伝わっていたキリスト教のことを知り、聖書のイエス伝を太子伝に付会したと考えるのは決して荒唐無稽なことではない、と指摘しています。
知らんかったのか?畿内スレは無知が増えてきたなぁ・・・
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:28:31.36
ちなみに彦人皇子の墓なんて延喜式の資料を信用するなら仁徳天皇稜の約10倍という広さにもなってしまう。
つまり馬見丘陵のある広陵町の名前の由来もこれ。
そんな人物が死去の記述も無いのはあまりにも不自然だろう。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:33:10.20
景教というより、台与の13歳で即位というのもユダヤ教的な部分だからな。
13になるのを待って即位した可能性を指摘しておく。
狗奴国側がたてたと推測する理由でもあるな。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:33:50.02
たしかにあの時代の記述はどうにもきな臭い。
が、ちょっとスレ違いすぎるな。自粛するわ。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:46:15.68
魏志倭人伝でも台与の即位で13と年齢が強調されるのも、それは重要な情報だからだろう。
普通は年若く、とかまだ年端ゆかないで済む部分だ。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:47:48.14
>>747
萬幡豊秋津師比売命はオシホミミの妻になるんだから13にはならないとな。ユダヤとかwww
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:52:55.65
台与が狗奴国が立てた女王だとすると、その後も女王制は続いたのだろうか?
熊本の向野田古墳とかあるし
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:54:04.12
製鉄の様式だって辿ればインド東辺りの物なんだから、別にルーツを中国に拘る必要はない。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 10:57:58.32
私は畿内説だが熊本辺りがもともと巫女の供給地だった可能性はあると思ってるからな。
だから卑弥呼も元々は狗奴国側との関係の可能性を指摘している。

百襲媛だって天孫降側の皇女が大物主に嫁ぐ話だろう?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:02:37.20
>>753
なんで畿内説なんだよ
熊本説でええやろ
東に海がありそれを渡ればまた倭種の国がある
狗奴国は隼人とすれば納得
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:06:42.75
ちなみに銅鐸だって後に奈良時代で発掘されたときはアショーカ王の秘宝発見か!と騒動になってるからな。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:08:31.50
熊本には三角縁神獣鏡の出土がすくないから、私の説ではやはり狗奴国でないといけないからだよ。
鬼道の証明=神獣鏡だからな。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:20:29.26
>>756
いや三角縁神獣鏡は全く関係無いだろ
三角の多い地域は銅鐸文化圏と重なるだろ
銅鐸というリサイクル原料が豊富だったからだ
となると中国から貰う必要性は無い
三角にこだわるなら三角が少ない地域の方が卑弥呼が居た確率は高い
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:32:51.24
丹後国風土記と摂津国風土記によれば
トヨウケは丹後の伊去奈子嶽(いさなごだけ)にやってきて地元の神に五穀を伝え

高天原に昇る 

その後は摂津国の稲椋山(いなくらのやま)にあった膳廚之處(みくりや)に常に住んでいた。後に事故(さはること)があり、これを避けられずに、遂に丹波国の比治真名井(ひぢのまない)に還ることになった。

比治真名井
この井に8人の天女が降りて来て水浴びをしていた時、和奈佐老夫(ワナサオキナ)・和奈佐老婦(ワナサオミナ)という老夫婦が来て密かに1人の天女の衣裳を隠した。それから衣裳のあった天女は皆 天に飛び上ったが、衣裳の無い天女は1人で地上に留まり、水に身を隠して恥じていた。

7人は天に、
1人は
それから天女は竹野郡(たかののこほり)の船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り、そこで村人たちに「此処で私の心は奈具志久(なぐしく=平穏)になりました」と言い、この村に留まった。これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す豊宇加能賣命(トヨウカノメ)である。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:37:25.63
三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡に続き鬼道の証として国々に配られた物と考えていりからな。
それに孝霊や吉備津彦、百襲媛の宮、保津宮古遺跡近くにあるのも鏡作神社で御神体は初期の三角縁神獣鏡だ。
なので私的にはもはや畿内説しかない。

でもここも厳密に言えば邪馬台国ではない、邪馬台国とは奈良だと旧サンチュウ側で大和川より北側だろう。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:46:09.44
奈良は無関係

魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年~) 上狛古墳 京都府山城町
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:56:00.05
残された天女が読んだ歌
天原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも

残りの7人の天女が去った天は何処なのか?

天の原は富士にかかる枕詞でもある
伊豆や甲斐は聖徳太子の領地が多く、神猟の神事も残っていたと風土記にある
また伊豆は応神天皇の時代、楠から船が作られた場所でもある
その船は葉のように軽く走ったという
楠の葉の軽船かな?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:58:29.89
畿内中心だな、奈良盆地辺りで作成して各地に配布するから。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 11:58:57.31
甲斐国の菊花山の話も興味深い
「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

この歌の注釈として風土記には、甲斐国の鶴郡(つるのこほり)にある菊花山(きくかさん)に流れる水で菊を洗い、その水を飲めば人の寿命は鶴のように長くなる とある。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:04:34.93
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:08:44.31
箱根の山は険しいからな
山の民じゃないとどうにもならないやろな
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:10:21.93
>>762
希望的観測はやめましょう
大和川どころか淀川より北だ
その領域の南端付近にあたる向日市には箸墓と双子の前方後円墳がある
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:13:07.69
>>731
どこに?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:15:15.61
>>731
根拠もなく倭人伝をあちこち間違いだということにしないと成立しないのが畿内説?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:16:47.78
いや大和川より北だな、矢田丘陵と生駒山は外せないだろう。
箸墓や巻向は大和川より北、南側にある桜井茶臼山古墳は外山だ。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:20:18.54
>>769
そうやってこじつけなきゃ成立しない説のか?
世間では子供の作文レベルだぞ
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:24:52.41
>>762
逆だな。物資供給拠点がないと
いきなり内陸部には着手できない。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:31:42.02
ちなみに矢田丘陵エリアだと水運は木津川方面、つまり琵琶湖も近いという事になるからな。
つまり周囲は水運にも恵まれている。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:40:18.22
邪馬台国は、その官名から畿内確定
あとは卑弥呼が誰かだけ
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:44:28.29
では、そのハエイロネという人物が伊弉諾尊なのですか?阿波さん
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:46:23.13
>>773
魏志倭人伝には琵琶湖の描写もありません
琵琶湖らしきものは一切出てこない
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:48:23.19
畿内説は魏志倭人伝の描写に畿内の地勢が全く記載されていない事をどう考えてる?
特に纒向ありきの畿内説だと中国の使者が訪れた証拠が皆無なんだが?
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:51:45.07
聖徳太子は甲斐の【黒】馬に乗り富士を越え、河内のシナガの地にやってきたのだ
シナガは元々は伊豆の東側の地でそこの人々が河内に住んでいたのかもな

聖徳太子は豊郷耳、母は楠で無数の結界石に守られた存在だよ
豊と楠の絆が聖徳太子
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:53:41.52
>>778
邪馬台国に絞った地勢も書いていない。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 12:56:23.96
>>781
倭人の風習 ト骨だろうな
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:24:56.25
>>784
根拠は?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:26:49.52
魏志倭人伝における邪馬台国の位置は南であり、東には海があり倭種の国々があると書かれている
そして更に南に敵対する狗奴国があったとも書かれている
AIに聞くと共通して倭の西南部という回答である

これらの条件を何一つ満たせない畿内説は相手にする必要はない
オカルト説として一蹴しても構わないほど粗末な説だ
考古学者の過去の言動からすると、長く飯を食いたいがための時間稼ぎなんだろうよ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:29:03.76
>>786
そのクセに畿内説スレに書き込むのか?
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:31:50.90
邪馬台国の情報なんて五万戸投馬国より更に遠方の七万戸の国としか書いてないからな。
九州説の大半が倭人の情報と勘違いしてるだろ。

また丹山と青玉が身近に採掘出来たのは畿内しかないからな。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:38:37.97
畿内の人々は侵略者ではないっていうのが分かるよな
あべこべの歴史を広めてきた歴史学者とマスコミの責任は重い
ちゃんとした歴史を広め直す責任があるんじゃないか
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:43:59.69
隋書?国伝には倭国の都は邪靡堆で魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)であると書かれている

遣隋使が往来し時代は飛鳥時代になっても、魏の時代と同じ都はヤマトという認識だった

逆に言えば魏の時代の都も同じ場所にあったことになる

さらに倭国の大きさを東西五か月、南北三か月で海に至るとしている点
南北より東西に伸びているという認識は注目すべき点だと思う
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:46:29.81
琵琶湖は美倭湖だな、琵琶の形に見える場所なんて無いからw
三輪山も本来の意味は美倭山だろう。どちらも倭を象徴する山なのである。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 13:48:34.84
隋書では東に行くほど山も高いのだから、勿論本州を指しています。

阿蘇の火山について触れているのもヤマト朝廷が隼人まで統一化した後だから可能になるのだからな。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 14:05:19.73
>>792
ヤマタイとヤマトは別物です
中国語では一文字違うだけで別物です
中国はヤマトが元ヤマタイだと言い張ったのでその旨を追記したのです→邪馬臺者(邪馬臺国出身者)

邪馬台国時代から続くヤマトだったのであれば金印を見せれば済む話であり、そうすれば古の邪馬臺也の一言で済んだはずです

やはり旧唐書の通り魏の時代の倭国とは別種だったのでしょう
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 14:15:08.18
>>785
卜骨を調べてる学者が言ってる。
倭人の風習だと言う根拠はあるのか?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 14:38:46.98
>>797
どこのインチキ学者だよ?
卜骨なんて人類共通の古代からの風習だろ
人類史からすりゃ弥生時代なんてつい最近だぞ
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 14:44:04.91
>>798
島の日本に縄文時代に広く行われていた、というような根拠はないのか?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:08:20.14
>>803
北海道
続縄文
www.town.yoichi.hokkaido.jp/kurashi/kurashinojouhou/kyouiku-bunka/files/fugoppe2003.pdf
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:10:01.72
>>805
九州では
壱岐、有明海沿岸にあるが?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:11:51.36
>>806
寒冷化で南下かな?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:12:56.65
>>790
気になって気になってしょうがないのか?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:18:53.83
>>797
何という学者、文献などの参考 よろしく
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:25:25.03
>>731
で魏志倭人伝の行程での一里は何歩?
で何m、中国の度量衡なんだろ?
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:32:59.84
一歩25cm・・・足の大きさ
一里75m・・・300歩
だろ

結果的にそうなのか倭人の独自規格なのかは不明だが
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:41:22.94
>>812
すると倭人は里数知らないというのは
誤情報かな?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:45:52.45
>>814
それにしては九州上陸の千里はおかしいな?
上陸地の想定地が違うかもしれん
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:48:14.92
考古学者は同時期の遺跡で長さなど共通する単位があったかどうかは調べてないのか?

調べてないだろうなアホやから
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 15:48:25.48
東南なのに途中から北東だしな
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:11:16.90
>>818
魏志倭人伝によると、対馬→壱岐のラインが南北なので伊都は東南で構わないね
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:18:29.55
>>811

中国の里は300歩四方の面積を現していました
のちにこの1辺の長さが距離の単位となりました

秦・漢の時代は
1尺は23cm
1歩は6尺(秦・漢の時代の定義)で1.38m
1里は300歩で414m
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:52:11.55
>>28
洗礼者ヨハネの首を盆に載せて来た
ヘロデヤの娘サロメと、

イエス・キリストの十字架の死に立ち会った
サロメとは別人でしょう。


これで、恐らく、白山菊理姫は善人サロメだろうか?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:53:38.47
>>819
糸島市方面が間違いて事
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:55:40.00
>>822
まあ、各地から出土がある以上
風習だろうな。地域によってない所もあるだけ
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:57:54.48
イエス・キリストの死に立ち会ったマリアの姉妹では、
もっともっと有名になっていいはずだ。
それが、あまり有名ではないとすると、
恐らく、善人サロメは聖母マリアの叔母なんだろう
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 16:58:53.47
>>826
伊都国>糸島市だっただけ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:01:23.87
>>829
一部だった所
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:02:03.07
ナザレのヨセフの墓所が淡路伊射奈岐神社にあることを考えると、
伊弉諾大神はナザレのヨセフ
伊邪那美大神は聖母マリア
白山菊理姫は善人サロメ
だろうか?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:04:10.32
>>825

卜骨は弥生前期に出雲、大和、伊予に伝わり
弥生中期には九州を除く関東まで拡がった
同時期の九州では首狩り、頭顔面ど変形の風習があった
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:04:41.80
しかし、伊邪那美大神の墓所は阿波にあると阿波さんは述べているが、
聖母マリアの墓所は佐渡にあるはず
ちょっと私が間違えているのかな
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:07:48.60
35 名前:CHRISTIAN☆DINNER☆February.2月の果実◇HalleluYHWH[] 投稿日:2023/02/24(金) 16:54:43.47 ID:EYL7BSdV [2/2]
ヨハネという名は、

聖書には何人いるでしょうか。

五人という説が正しいようです。

36 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2023/02/24(金) 17:06:50.63 ID:JeJ5ND86 [5/5]
使徒ヨハネ
洗礼者ヨハネ
福音記者ヨハネ
黙示録のヨハネ
もう一人ですか
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:09:31.64
>>832
壱岐にも出土
有明海沿いにには後期以降のもんがニ箇所ある
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:15:16.41
紀元前に琵琶なんて言語、漢字が倭に合ったのかw
別次元からきた奴がスレにいるな。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:19:54.17
>>835

壱岐は弥生中期
卜骨の風習がなかった九州の有明海北部沿岸の牟田寄は後期に出現した海浜集落の貝塚から出土
焼灼パターンⅡ bは足守川加茂、唐古・鍵のもの
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:32:33.10
>>837
バカだろ
人名地名は漢字で書くなと言ってるのに
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:33:01.81
>>684

> >>677
> >委奴国王が正式に埋葬されず、滅ぼされたから。
> 女王国の構成国の「奴国」ではないって事か?滅ぼされた?
> 親魏倭王の印綬の際、漢委奴国王印の扱いはどうなるんだ?
> ちょっと時系列で解説してくれよ。

その通り。
畿内説は後漢からの倭国の連続性を無視している。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:34:49.04
>>837
琵琶湖の名が文献に現れるのは16世紀。それまでは確認できない。
古くは近淡海・淡 海・水海・湖・近江の海・ 細波・鳰 の海などと呼ばれていた。

このスレは妄想癖ホイホイだよw
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:35:10.34
卜骨の集団はあちこち移動していた可能性もあるけどね
殷滅亡後は移動民になったようだし
商人だからな
おいしい儲けのネタが女王国を作ることだったのかもな
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:35:49.58
>>840
中国名倭国、日本名ヤマト
無視しとらん
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:37:30.63
>>812

> 一歩25cm・・・足の大きさ
> 一里75m・・・300歩
> だろ
>
> 結果的にそうなのか倭人の独自規格なのかは不明だが

東夷伝全体がこの規格なので、倭人だけということではないようだ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:40:39.22
>>829

> 伊都国は福岡市西区あたりと推定されてる

筑紫の日向の小戸?
いやいや、伊都国には郡使が滞在したのだから、楽浪帯方土器が出る糸島市三雲地区しかないだろう。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:42:44.35
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。
邪馬台国は福岡県しかあり得ないではないか。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:44:48.88
>>672

> >>667
> >そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
>
> つまり卑弥呼の墓じゃないことは承知だね?
> そして卑弥呼の前び倭女王はいないから、北部九州には邪馬台国などないのも認めるね?

意味不明
倭国大乱後の最初の女王は卑弥呼なのだから、平原遺跡が卑弥呼の墓なのだろう。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:45:02.24
37 名前:CHRISTIAN☆DINNER☆February.2月の果実◇HalleluYHWH[] 投稿日:2023/02/24(金) 17:38:01.79 ID:EYL7BSdV [3/3]
1. キリストの生誕に道を整えたヨハネ。
彼はヘロデヤの娘サロメが、首を盆に載せて来ました。彼は殺された洗礼者ヨハネ。

2. 使徒ヨハネ。彼はイエス・キリストが十字架の磔刑前に母マリヤを託された使徒ヨハネです。

3. マルコによる福音書を書いた
マルコと呼ばれるヨハネ。✡ペテロはこうとわかってから、
マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。
(使徒の働き)

4. ユダヤ人の支配者階級の祭司
アンナスの親族のヨハネ。

✡明くる日、役人、長老、律法学者たちが、
エルサレムに召集された。大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、
そのほか大祭司の一族もみな集まった。 」
(使徒の働き)

5. ペテロの父の名もヨハネです。

✡イエスは彼に目をとめて言われた、

「あなたはヨハネの子シモンである。

あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と
呼ぶことにする」。(ヨハネによる福音書)

38 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2023/02/24(金) 17:42:19.66 ID:JeJ5ND86 [6/6]
つまり、福音記者ヨハネと黙示録のヨハネは同一人物ということですね?
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:46:51.19
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:52:05.88
>>846
そうそう、それを知らない畿内政権が手ぶらで訪朝して倭国の別種扱いにされた訳だ
あとは旧唐書の通り
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 17:52:24.78
比叡山から見ても伊吹山からみても琵琶湖は琵琶には絶対見えないからなw
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:10:53.39
>>853
ヤマタイ→ヤマトイ→ヤマト
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:14:08.93
伊都→イツ→イズモ
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:26:50.40
>>854
その最初のヤマタイがもう捏造だし
魏志倭人伝には「邪馬壹」と書いてんだから
ヤバイだよ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:36:11.18
>>847
確かに女王の墓だとしたらそう言う事かもな
ただし伊都国王の身内の墓かもしれないから断言は出来ないだろ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:45:27.79
>>851
旧唐書は倭国伝からすでに本州の事が書いてあるが?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:46:18.30
>>849
相変わらず痕跡等の証拠がなく
繰り返しの馬鹿
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:52:57.94
>>858
未だに誤写の邪馬壱とか言ってるのは古田信者だけ。誰にも相手にされない。土偶のアラハバキでも拝んどけ。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:54:55.58
ほんとだ

・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 18:56:34.08
ヤマトの語源は壹をトと読んだ知的底辺によるものだったのか
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:11:45.99
>>859

伊都国にいたのが倭王なんだよ。
ただし平原遺跡からは甕棺墓ではなく方形周溝墓に変わるので、倭国大乱を挟んで大きな変動があったことになる。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:17:31.66
三雲南小路遺跡などの甕棺墓の王墓には漢鏡が副葬されているのに、平原遺跡からは国産の鏡が増えるのも特徴。
これは後漢末から倭と漢の国交が途絶えたので、独自の銅鏡製作が発達したことを示している。
平原遺跡の超大型内行花文鏡は、後漢末からかなりの年代が空いていることを示している。
卑弥呼の治世は半世紀に及んでおり、それから平原遺跡が作られたと考えるとちょうど年代が合う。
平原遺跡の年代に該当する倭王は卑弥呼しかいない。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:21:19.29
そもそも、半世紀ほどの卑弥呼の治世の前は、乱世を挟んで男王の時代が70〜80年あったと書かれている。
このような歴史は記紀に記されたヤマト王権の歴史とは全く相容れないものである。
つまり記紀にある日本の歴史と、魏志倭人伝などにある倭の歴史は別のもの、別の国なのだろう。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:22:22.98
>>864
邪馬壱国は存在しない。
(1)3世紀『三国志』原本を見た人は誰もいない。3世紀の原本は存在して無い。
(2)現存『三国志』の版本は12世紀以後のものである。『三国志』の成立から12世紀まで、およそ900年経っている。
(3)11世紀より前の史料で、女王国の名を「邪馬壱国」と記すものは一切ない。
(4)福岡県筑紫郡大宰府町、大宰府天満宮に伝来する『翰苑』の9世紀写本は、卑弥呼の宗女の名を「壱与」では無く「台与」と記し、その都を記すのに「馬台」と「台」の字を用いている。これは12世紀以後の版本と異なっている。
また、7世紀の隋書俀国伝では魏志にあるのは邪馬臺国と証言している。

未だに古田の妄想に囚われている人がいるなんて伊都説や中華卑弥呼よりキモい。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:33:45.31
>>867
乱世 素戔嗚尊が収束
卑弥呼 大日霊女
男王 天忍穗耳尊
台与 萬幡豊秋津師比売命

つまり記紀にある日本の歴史と、魏志倭人伝などにある倭の歴史は全く同じなのだろう。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:47:34.81
>>869
同じというよりモデルにした
創作に近い。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:47:58.19
天忍穗耳尊は高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売)との間に瓊瓊杵尊をもうけた。高皇産霊尊がこの孫を葦原中国の主にしようと画策するのが『日本書紀』神代紀第九段の内容である。以降の天忍穗耳尊の事績は無く、系譜上のみの神となっている。
大国主神から国譲りがされると再び天忍穗耳尊に降臨の命が下る。天忍穗耳尊はその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊に行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天降ることになる。

神話でも王位を禅譲させられているようだな。そのまんまじゃないか。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:52:41.57
>>870
と、思いたい気持ちはわかるけど。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:53:13.37
>>865

糸島にいたのは三雲地区の弥生中期末に始まり2世紀後半がピークの楽浪系辰韓人と
大木を立てた平原蘇塗跡の馬韓系韓人
平原蘇塗1号は200年ころの墓
伊都国は畿内から博多に至る女王国の隷属国
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:57:54.96
>>865
ト骨の風習を持つ者が入ってきたのだろうな。
平原、佐賀、筑後、うきは市、日田に
前方後円墳より先に前方後方墳や方形周溝墓等が先にできる。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:59:30.24
考古学、日中文献、共に矛盾がないのは東遷説しかない。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 19:59:45.43
>>866

平原蘇塗1号の鏡群は製作工程でサビ色に塗装した平原蘇塗跡にしかない
古鏡のレプリカ品のような鏡群なので
国産かどうかの根拠というのはない
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 20:05:05.63
>>877
九州にか?
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 20:11:37.33
>>877
文献上げとく
repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/M1413001.pdf?file_id=8311
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 20:37:43.87
播磨の一ツ山大祭と三ツ山大祭は興味深いな
一ツ山は五色の玉を持つ石神、伊和大神のようだ
三ツ山は五色の神、二色の神、小袖の神(少彦名?)
五色は五色台の石神、二色は二上山の石神だったりするのだろうか?

この祭りは、尾張で終わった伊和大神の国作り、その後の石津神と天津神の三都のまぐわいを連想する
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 20:54:04.70
>>849
だから陸地で行けるだろってのw
なんでわざわざ船で行くんだ?w

大荷物を運んでるならいざしらず、
人が行くだけなら、伊勢から遠州なら陸路で行くだろがw
東海道に当たる道もあったろうしなw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 21:34:35.97
>>881
何か勘違いしてないか?>>849はガチでうざいけど「女王國東渡海(伊勢湾)」を否定しているように思えるのだが?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 21:47:29.34
>>875
弥生後期〜古墳時代
考古学にはないと思うけど
痕跡あるのか?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 21:49:36.29
>>884
>「女王國東渡海(伊勢湾)」を否定しているように思える

千余里というのは千里眼を以てしても見えない距離

三重から伊勢湾を見ると対岸が見えてるから千余里という表現は合わない

なので東の倭種の国々は静岡あたりにしておこう

というその場しのぎの言い訳だよ
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 21:53:01.92
えべっさんやな
ひること五色のえべっさん
昔誰かが日本人はみなえべっさんの子と言ってたのを思い出すわ
ほんとその通りやな
数万年前の旧石器時代から脈々と続く日本人の歴史は凄いよな
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:01:05.53
>>869

年代錯誤はなはだしい。
卑弥呼がいた3世紀は、日本の歴史では崇神天皇とかそのあたりだ。
まあ、纏向遺跡は崇神天皇の宮なんだけどな。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:04:46.53
>>877

だから王統がたくさんあったんだよ。
伊都国代々の王家とは別に倭国大乱後に卑弥呼が共立されて王都である伊都に招かれたということだ。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:06:48.67
>>875

東遷して畿内に成立したのは日本国。
卑弥呼がいたのは九州に残った倭国。
だから卑弥呼は記紀に登場しない。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:07:26.57
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:28:01.10
>>888
3世紀末から4世紀の纏向を捻じ曲げた結果おかしくなっただけ。
0895琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/24(金) 22:31:56.73
卑弥呼の刺史が伊都におるのになんで伊都が都なのだ、ほんとにわからん連中だな。全然ダメ
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:39:26.94
>>892
『旧唐書』は倭国伝から日本伝に切り替わっている。併立などない。そして内容は倭国伝の頃から本州の内容。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程。本州だ。東遷は済んでいる。
九州の倭国が東遷して畿内に成立したていた日本国と合併。 ノータリン古田の妄想にいつまでもすがるのは見苦しい。ありえない。遮光器土偶に阿良波々岐神と名付けて拝んどけキチガイめw
0897琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/24(金) 22:40:17.46
ヒナモリ、お雛様に桃の節句、三船は当時の政治は道教を認めないと記す、まだ良心があるよ、干されたけどな。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:45:23.89
>>896
「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。」か

倭国は古の倭奴国であると書いてあるな
じゃあ卑弥呼時代に畿内政権など無かったということか
0899琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/24(金) 22:45:28.01
そもそもな倭王武の上奏とその後のでは中華のエリートを騙せんよ、文を見ればすぐバレる。現代でもそうだろ、面接官が比べりゃバカでもわかる。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:48:43.99
>>898
卑弥呼時代の畿内では出雲や阿波の勢力が流入し国家を形成していた。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:49:47.53
>>1が目の敵にしている古田説というのはコレか?

古田氏は、次のように考えている。

・中国からは「倭」と呼ばれていた九州王朝が、「日本」と称するようになった。
・しかし中国は以前からの「倭」という国名で呼び続けた。のち九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ。
 九州王朝は、白村江の戦いで壊滅して、以前から遣唐使によって唐と結んでいた大和政権が九州王朝を併合し、日本列島を代表する政府となったのである。
0902琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/02/24(金) 22:52:09.31
だから、裵世清に言い訳しているだろ、田舎もんだからって、武とは違う連中の政権だよ。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 22:54:13.33
>>901
九州王朝説の中には壬申の乱の舞台が九州というトンデモもいるぞw
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/24(金) 23:47:13.64
>>890

首狩り甕棺墓は2世紀までにど没落したので
王統はたくさん無い
卑弥呼が共立されて王都である伊都に招かれたというのはお前の民族的作り話
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 00:53:47.91
>>900
阿波も畿内も同じだな。
開拓地だな。墳丘墓や古墳も様々な形状がある
投馬国は四国、邪馬台国は近畿。
メインの日本海ルートから瀬戸内、太平洋ルートに徐々にシフトしていく。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:12:00.73
>>898
だったら伊勢遺跡では何やってたんだ?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:12:21.34
>>890
いい考え方
既存説である邪馬台国が中心国だの
卑弥呼と邪馬台国が一帯という固定観念
から脱却。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:32:41.48
>>907
まず伊都国は糸島なのか?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:45:38.01
>>908
糸島も含んでいたのだろう。
伊都国=糸島市でなく
伊都国>糸島市だったかも
衰退だな。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:56:47.65
>>909
かもしれん
その頃の投馬国、邪馬台国は東の倭種だった
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 01:57:46.25
>>911
=ではないが?
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:06:58.99
>>904
おまえの作り話はなんだ?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:10:16.96
>>913

千餘戸の伊都国が吉野ヶ里を中心に糸島まで含むとか
有明海北部沿岸勢力が近畿の女王を吉野ヶ里に連れてきて共立したとか
妄想が過ぎる
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:25:34.95
>>915
阿保
共立されて九州だな。
各地への鉄の安定化供給、
魏との交流等を考えている。
情報伝達に往復120日かける方が妄想過ぎる
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:44:37.74
>>916

鉄の入手と魏との交流のためになんで有明海沿岸に
人に会わない女王を連れていくんだよ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:54:40.94
>>917
輸出、輸入の重要地点だろ?
人に合わないとかの記述はない。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 02:58:37.23
>>918

有明海沿岸は首狩り甕棺時代から発展していない
「自為王以來少有見者」
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:04:48.81
>>919
理由は?

自為王以來少有見者であって
合わないとは書いていない。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:06:38.33
>>919
魏の使者なら謁見するよ。
卑弥呼自体が交流求めているのでね
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:08:58.83
>>919
宮室樓觀城柵の遺跡は?
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:13:16.86
>>923
魏の使者もそうかな?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:13:55.91
>>923
で遺跡はどこ?
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:14:39.66
>>924
当然
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:15:59.04
>>928
だからその遺跡がどこにあるのか?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:17:58.91
>>928
魏の使者との謁見はなかったというのか?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:19:02.41
>>929

だから奴国の中心地博多の首長層と親密な関係な畿内の纏向遺跡が女王の都の最有力候補地
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:21:47.73
>>932
当然だよ。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:23:15.68
>>932
なんで合わないになるのか?
サッパリわからん
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:30:15.58
>>935
それで?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:33:18.82
>>935
自為王以來少有見者?
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 03:38:11.87
常有人持兵守衛
卑弥呼の顔知らなくていいのだろうか?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 07:33:03.07
地形が東西五ヶ月、南北三ヶ月で東側の方が山が高い場所が九州である訳がないよなw
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 07:43:44.85
>>941
そしてそこが裴世清の訪れた「邪靡堆」という倭国の都
そしてそこは昔「邪馬台」と呼ばれた場所。
「ヤマト」と読むんですよ、どっちも。
むろん場所は畿内。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 07:47:35.95
>>942
残念だが東遷後の記事である。

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。
貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 07:56:54.10
>>943
そんなこと史料に書いてないし
大和が魏志いうところの邪馬臺だと明記してる
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:19:14.04
>>944
その記事は新唐書にて追加される。
日本と倭が併合したのは間違いない。
「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:27:07.68
>>906

伊勢遺跡では大国主が新嘗祭をやっていたのだろう。
だがそれは中国から認知されていない。
九州北部にあった倭の別種としてしか知られていない。

魏志倭人伝
女王国から東に渡海したところにもさらに倭種がいる。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:29:46.18
>>910

伊都国と奴国はもともとあわせて倭の王都なのだろう。
その中で王宮はあちこちに作られたということ。
記紀では筑紫の日向の名前で出てくる。
伊奘諾が禊をしたのは筑紫の日向の小戸、邇邇芸が即位したのは筑紫の日向の高千穂宮というように。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:32:27.34
>>917

むしろ卑弥呼が有明海沿岸の出身の肥国女王で、筑紫を合わせた倭国女王に共立された時に伊都に入ったのだろう。
壹與の宮は肥前與止日女神社だし、そこには熊襲タケルの宮もあった。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:33:52.93
理由をひとことも言わないのは九州説がトンデモであるという証明だよ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:34:30.26
>>928

平安時代だって、高貴な女性は御簾の向こうに隠れて姿を見せない。
帝だって朝議以外では姿を見せないことが多い。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:39:31.74
北部九州にある大国は奴国しかない。伊都は千戸しかないのは、畿内からの勢力の出張先だった証拠、後の大宰府と同じだよ。
出雲から常駐していた場所だね。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:41:18.11
崇神天皇の逸話で出雲振根が筑紫に行っている逸話がある、北部九州に出張先がある事は描かれているからな。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:44:29.71
奴国が大きくなりすぎたので、首都機能だけ防衛に適した伊都に移転したんだよ。
糸島の鎮守である高祖宮は、山城である怡土城の中にある。
九州北部の他の山城が朝鮮式なのに、怡土城だけは中国式という特徴もある。
高祖山は日向山とも呼ばれ、いわゆる筑紫の日向の高千穂宮のことだろう。
女王の宮城は楼閣高くとあるしね。
山城ならそりゃてっぺんの楼閣は天にも届くように聳えていただろう。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:45:31.17
>>954

倭国に使いでも送ったのだろう。
中国からの使いも伊都に駐在したのだから、同じこと。
大和から倭国への朝貢だったかもね。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:48:22.16
伊勢遺跡の特徴は30のサークル状の建物だからな。つまり使いを送る30国が集まる場所だったんだよ。
倭国大乱時は出雲国。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:48:59.97
>>955
>高祖山は日向山とも呼ばれ、いわゆる筑紫の日向の高千穂宮のことだろう。

高祖山はヒナタ山、高千穂宮はヒムカ
ぜんぜん別の場所
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:50:45.42
七万戸の国は畿内しか想定出来ないので畿内で確定です。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:54:41.01
>>954
東遷前の拠点だろ。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 08:54:41.95
>>954
東遷前の拠点だろ。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 09:30:58.26
>>959
距離も戸数も10倍されている。司馬氏には動機がある。
0963◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/02/25(土) 09:38:39.50
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1677282927/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 09:51:11.27
景初2年(238)司馬懿が公孫淵を討伐したとき陳寿は5才
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 09:51:51.09
>>962
そんなことする習慣ないし
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 10:44:09.77
大国である奴国がある場所に伊都を設ける理由があるのは東側の国である出雲しかない。
北部九州沿岸部の島に所謂お宝が多いのもその為、平原だって出雲方面の影響下にある。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 10:55:24.92
>>965
習慣じゃない。大月氏国より遠く強大な事にしたかっただけ。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 11:20:27.19
吉野ヶ里の追加調査エリアは首狩り甕棺墓の初期の墓地エリアだった
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 11:38:35.66
>>971
そんな中傷ばかりして
「証拠がないのが九州妄想」と立証してしまう九州説の醜態
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 11:44:12.06
>>947
邪馬台国は認知されず
卑弥呼が認知されている。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 11:47:24.41
邪馬台国はヤマトでいいんだけど他の畿内は関係ないんだよな
なんで巻き込もうとするんだろう
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 11:55:47.97
>>976
第V様式圏で共通だからだ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:10:12.76
>>978
文化圏と国が同じとは限らんよ。
仏教やればインドですか?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:22:33.60
>>972
そんな中傷ばかりして
「歴博の特異な箸墓年代以外に証拠がないのが畿内説」と立証してしまう畿内説の醜態
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:25:40.87
>>980
そう、少なくとも敵対エリアでは無いだろうって推測くらいしかできんよ。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:29:59.78
>>982

だからそれだと九州の各集落も敵対してないだろうって推測くらいしかできなくなる
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:30:50.10
>>959
七万戸は女王国の連合ではなく女王の都す邪馬台国だけだろ?数値自体がありえない事に何で気が付かないのかな?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:33:34.44
卑弥呼は三輪山の神である大物主の神託を受ける立場
三輪山を離れては卑弥呼はあり得ない
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:35:44.60
有り得ないサイズの古墳を造れるのが、七万戸の可能性を証明しています。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:37:43.50
>>983
弥生時代の熊本は少し文化が違ったようだか?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:38:53.87
>>985
それはモモソヒメ。完全に意味不w
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:55:37.62
>>984
また理由を言わないのは
九州説がトンデモな証拠
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:57:56.02
>>981
>「歴博の特異な箸墓年代以外に証拠がないのが畿内説」と立証してしまう畿内説の醜態

別に特異でないから証拠はたくさんあるよ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 12:59:25.91
>>979
>文化圏と国が同じとは限らんよ。

単なる文化圏でなく通婚圏と見なされている
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:16:28.39
>>967

> 出雲には倭の都である資格が充分すぎる程あるならな。

その出雲の王権を倒して筑紫に王権を戻したのが出雲の国譲り。
一時的に出雲が優勢だった時期もあろうが、永続的ではなかった。
それは考古学的にも明らかだ。
200年代の卑弥呼の治世において列島で最も優勢だったのは、平原遺跡に豪華絢爛な副葬品を用意できた筑紫だけ。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:20:06.52
>>992

大和もその他の畿内も、出雲も吉備も、魏志倭人伝においては倭の別種だよ。
伊都に郡使を派遣した魏にとって、交渉相手は博多湾沿岸の倭国しかない。
それは後漢書からも明らかだ。

後漢書

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族、倭の別種である。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:20:40.04
>>992
通婚圏=同じ国とは限らないよって言ってるの。
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