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邪馬台国畿内説 Part866
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/02/25(土) 08:55:27.84
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1676976715/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:56:30.08
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:57:01.61
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:57:33.00
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:58:04.68
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:58:34.47
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:59:05.03
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 08:59:36.73
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:00:08.86
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:00:39.59
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:01:10.08
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:01:41.95
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:02:14.11
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:02:44.98
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:03:15.95
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:03:52.00
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:04:24.10
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:04:57.39
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:05:29.49
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:06:01.43
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:06:33.22
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:07:05.33
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:08:15.94
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:08:47.77
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:09:19.99
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:09:51.85
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:10:22.48
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:10:53.72
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:11:26.69
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:11:57.57
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:12:29.17
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:12:59.95
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:13:30.72
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:14:01.96
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:14:31.63
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:15:07.57
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:15:39.72
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2023/02/25(土) 09:16:11.99
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/02/25(土) 09:16:42.92
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:17:14.67
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2023/02/25(土) 09:17:45.56
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:18:17.38
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:18:49.36
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0047◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:19:23.32
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0048◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:19:56.04
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/02/25(土) 09:20:25.86
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/02/25(土) 09:20:57.48
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/02/25(土) 09:21:29.41
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/02/25(土) 09:22:01.91
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/02/25(土) 09:22:34.77
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/02/25(土) 09:23:07.17
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/02/25(土) 09:23:37.39
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/02/25(土) 09:24:09.72
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0058◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:24:45.50
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/02/25(土) 09:25:18.18
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/02/25(土) 09:25:49.63
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/02/25(土) 09:26:21.19
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/02/25(土) 09:26:53.65
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/02/25(土) 09:27:25.28
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/02/25(土) 09:28:11.82
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/02/25(土) 09:28:43.46
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0066◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:29:15.13
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/02/25(土) 09:29:52.40
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/02/25(土) 09:30:25.05
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/02/25(土) 09:30:56.34
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2023/02/25(土) 09:31:28.13
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/02/25(土) 09:31:57.83
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/02/25(土) 09:32:26.28
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2023/02/25(土) 09:32:58.01
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/02/25(土) 09:33:29.82
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:33:59.86
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:34:31.52
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0077◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:35:06.88
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0078◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:35:38.12
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0079◆ondZSOlfxeS6
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2023/02/25(土) 09:36:08.18
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:32:52.88
畿内説は根拠なく信じるしかないカルト
学者から見放された妄言に過ぎない
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:41:32.57
前スレ>>988

>>985
それはモモソヒメ。完全に意味不w

初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:45:14.51
>>84
それは旧約聖書の天地創造より前から居る事になってるエジプトのファラオを亡き者にしたキリスト教徒のやり口を日本史に流用しただけ
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 13:52:48.66
>>85
君の言っていることは、卑弥呼の時代に畿内には天皇がいたという説
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:00:24.59
>>86
違うな。日本には中国から暦が伝わるまで太陰太陽問わず1年と言う周期の時間単位がなかったから古代天皇の没年齢が異常になってるだけ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:01:55.24
>>85
日本書記に記された欠史八代は不存在で娘の百襲姫も同様だが大物主神の巫女という設定は有効でそれが倭人伝の卑弥呼だと。
全く根拠のないご都合主義妄想にも程があるwww
アホすぎるwww
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:02:59.69
>>87
卑弥呼は実在した歴史上の人物
彼女の時代に畿内に天皇がいたのかいなかったのか、どう判断するのか?
0090日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 14:05:00.32
百襲姫が卑弥呼として、男弟がどうして祟神なの?
大叔母だよね、祟神から見て百襲姫って
畿内説の矛盾その1
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:07:02.07
>>88
三輪山への信仰は歴史上に存在する実態がある

箸墓古墳も纏向遺跡も歴史上確認できる実態のある存在
その由来が後世に脚色されたものということ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:09:23.50
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:11:14.55
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:13:13.47
>>92
当時の畿内は倭国の範囲に含まれないということか?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:16:51.07
>>95

>>89を書いたものだが

>初代天皇は卑弥呼より後の時代の実在人物と推定

は、私の推定と一致する
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:17:04.28
男根の象徴の石神さまは縄文時代からいると思うけどねえ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:19:04.06
>>96

後漢書では、倭国は半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国まで。
本州や四国は倭の別種。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:20:43.65
>>97

私は神武は卑弥呼と同年代かわずかに年上だと思う。
卑弥呼共立前の倭国大乱で筑紫を出たのが神武だろう。
それまでの伊都国王統は伝承通りなら神武の祖先の天孫族。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:22:12.59
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると年代的にも矛盾がない。
記紀にある日向三代の王家は、魏志倭人伝にある卑弥呼の前の男王70〜80年に相当するのだろう。
記紀にある長寿の天皇の年代を現実的な長さに補正すると、神武東征は200年頃となるという説がある。
天孫族が伊都を去り、その後に卑弥呼が伊都で倭王に即位したと考えると、伊都における甕棺墓から木棺墓への変遷も説明ができる。
卑弥呼は天孫族ではなく、他から招かれて倭王に共立されたのである。
記紀に卑弥呼が登場しない理由は、天皇家の一族ではない卑弥呼が倭王となった歴史を認めたくないからだろう。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:29:42.13
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、畿内の交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:32:26.66
【豊国】

考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、筑紫の王権とは別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸から遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルは名島神社や志賀海神社であり、倭国は伊都の天孫族王家と博多の海神族であった豊国王家の連合王国であった考えられる。
伊都の天神族が魏志倭人伝のとおりに北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、
豊国の海神族は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラス系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。
彼らはアマテラスと同様に筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊から生まれており、後に筑紫に戻って来た天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。

後に仲哀が穴門豊浦宮(下関市)から香椎宮(福岡市東区)入りしたときは、伊都高千穂宮(怡土の県主、糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、北九州市)がそろって出迎え、仲哀は香椎宮に迎えられた。
仲哀自身はもともと関門海峡周辺の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能としたとされている。
現代の北九州市は福岡県に組み込まれ、豊前豊後は大分県としてさらに東に圧迫されている。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:33:50.04
>>104

関門海峡から西は、本州に倭人の風習の卜骨が拡がった弥生中期に
首狩り、頭顔面ど変形していた島
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:34:20.79
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:37:57.06
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






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0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 14:39:32.13
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:03:42.71
>>83
>畿内説は根拠なく信じるしかないカルト
>学者から見放された妄言に過ぎない

畿内説は学者たちが唱えてるんだけど
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:05:47.05
淡路島の五斗長垣内遺跡は弥生時代後期・1世紀頃の150年間にわたり存在した
時期的に、倭国王帥升が後漢に朝貢した107年から倭国大乱が収束するまでの期間に重なる

この大規模な鉄加工工房が稼働するためには定期的に朝鮮半島から鉄材を輸入する必要がある

倭国のごく初期の時期のこの工房の存在は倭国成立当時の我が国のありようをを伝えるもの

この時期の集落遺跡で最大のものは滋賀県の伊勢遺跡、倭国の中心はそこにあったのだろう

 
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:11:40.49
>>115
>淡路島の五斗長垣内遺跡は弥生時代後期・1世紀頃の150年間にわたり存在した

倭国(阿波)の中では、遅い方だがな。   @阿波
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:14:21.33
>>115
>この時期の集落遺跡で最大のものは滋賀県の伊勢遺跡

「井の中の蛙大海を知らず」   @阿波
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:27:13.64
>>114

情報が古すぎる。
もう畿内説を表立って擁護する学者はいなくなりつつある。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 15:45:29.41
>>120
素人に笑われる考古学者ww  わははははは   @阿波  

 
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:22:46.83
共立されたのは卑弥呼だが
女王の都 邪馬台国が中心国になる記述はない
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:26:07.62
>>117
>自称学者というアホ?詐欺?

大学など教育機関や研究機関に勤務している専門分野の研究者だよ
理由なく罵っても否定できません
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:27:52.02
>>119
>もう畿内説を表立って擁護する学者はいなくなりつつある。

証拠が出せなきゃ虚しい妄想
九州説がさらに惨めになるだけ
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:31:39.38
【邪馬台国と周辺の国】基本的に連続していますが、場所が飛ぶ事は有り得るてな想定します。

1番 斯馬国は柏原市周辺、芝山は旧称シマ山、蘇我の本拠地でもあり蘇我馬子は嶋大臣と称した。
2番 己百支国はミマキ、上牧、牧地区のある馬見丘陵から桜井巻向辺り。
3番 伊邪国は伊勢国
4番 都支国は津、松阪辺り
5番 彌奴国は美濃、尾張の国
6番 好古都は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は?
9番 對蘇国は?
10番 蘇奴国は曽爾村
11番 呼邑国は吉野
12番 華奴蘇奴国は花園村
13番 鬼国は紀伊、和歌山
14番 爲吾国は伊賀
15番 鬼奴国は木津
16番 邪馬国は山城
17番 躬臣国は近江
18番 巴利国は播磨
19番 支惟国は吉備
20番 烏奴国は広島
21番 奴国は長門、本州最西、関門を挟んで再び奴国。
つまり狗奴国が奴国の南側、九州中部になります。

邪馬台国の範囲は河内湖生駒山から三輪山辺りまで山間部、旧サンチュウ。
投馬国は旧出雲、丹波地方を含む。廣志におけ伊都とは出雲大神宮のある丹波亀岡辺り、もしくは伊勢遺跡のある辺り?

女王国は瀬戸内海周辺から紀伊半島東側まで。
つまり女王国東の倭種とは房総半島辺りを指します。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:37:48.89
弥生後期以降
墳丘墓、古墳の形状が九州になかったのが現れる
ト骨の風習も入り、外部系土器も出土される。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:42:17.48
西日本では前方後円墳が優勢な勢力
九州でも前方後方墳は少なく、小さい
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:45:25.14
>>128
どちらにせよ外部からである。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:49:42.39
>>129
どちらにせよ「阿波」からである。   @阿波
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:50:29.53
西日本の前方後円墳勢力に対抗できるのは、東の前方後方墳勢力
つまり「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 16:51:55.65
>>131
>西日本の前方後円墳勢力に対抗できるのは、東の前方後方墳勢力

どちらにせよ「阿波」からである。   @阿波
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:09:52.84
播磨の一ツ山大祭と三ツ山大祭は興味深い
一ツ山は五色の玉を持つ石神、伊和大神のようだ
三ツ山は五色の神、二色の神、小袖の神
五色は五色台の石神、二色は二上山の石神だったりするのだろうか?

この祭りは、尾張で終わった伊和大神の国作り、その後の石津神と天津神の三都のまぐわいを連想する
倭国大乱前の国の形じゃなかろうか?

小袖の神ってなんなんだろう?
小にかかる枕詞は狭衣の、どういう意味なのか?
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:09:57.59
>>131
対抗していなけど?
共同体だよ。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:11:04.45
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:20:18.42
自称学者というニートが乱入してきたかw
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:21:30.76
三ツ山ってことは小袖の神さまも山ってことだろうか?
卑弥呼の時代に近い崇神、垂仁天皇の時代、日本書紀に狭山に池を作る話がある
小袖の神さまは狭山に関係するのだろうか?
関東にも同じ地名があるが何か関係するのだろうか?
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:26:40.53
纏向遺跡のあるのは三輪山だな
三輪の神さまの荒魂は狭井の神さまだな
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:34:52.32
>>134
ト骨の風習は共通地域
対抗というより倭種だな。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 17:43:28.29
>>140
と思うけど?
邪馬台国は近畿だな。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:18:09.83
>>141
近畿w
おおまか過ぎ。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:45:14.30
>>142
>おおまか過ぎ。

by、そのものだから。   @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:49:00.65
>>125

魏志倭人伝の国とは、基本的に国邑つまり集落の単位なんだよ。
倭の五王だって、何十もの国を征服していただろ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:51:03.76
女王国から東に渡海すると倭種がいるというのだから、女王国は九州しかあり得ないんだよ。
畿内に何がいても、倭種でしかない。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:58:24.49
>>145
>女王国は九州しかあり得ないんだよ。

全く、女王国に見合う集落遺跡は無いけど、もやっとそう思いたい訳だな。  わははははは   @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 18:59:34.66
九州北部は遺跡だらけだろ。
平地はどこを掘っても出てくるからな。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:02:14.29
>>142
可7万戸
単体遺跡では無理だな。
州レベルだな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:10:27.86
>>145
その倭種の国々とは四国のこと
魏志倭人伝の記述は極めて論理的に構成されている

まず倭国、

次に倭地、倭国以外で倭人が居住する地域のうち魏と交流のある地域、具体的には狗奴国と南西諸島

次に倭種の国々、それは倭人が住んでいるが魏と交流のない地域、具体的には四国

次は倭人が住んでいないが隣接する地域、具体的には侏儒国、裸国と黒歯国
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:17:53.99
三國志では高句麗が三万戸だからな。これは過小評価だと思うが半島の状況を考慮して、二万戸だと大国、千戸で集落というところだ。
投馬国五万から更に邪馬台国七万戸なんてとてもじゃないが九州に収まる場所なんて無いから。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:19:00.01
狭山池の近くが太田田根子がいた陶邑の大田の森だ
名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかってつけられたらしい
荒田直は陶荒田神社の祭神である高魂命の直系の子孫だったとされている

色々複雑になってきたな
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:20:45.12
大陸からの交流の流れは、弥生時代半ばから既に北部九州から東側に向いているだろ。貨泉や鏡の出土で判るのは基本中の基本認識だから。
九州を南側に進む交流の形跡なんて皆無だからな。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:21:18.41
邪馬台国までの行程は九州が終点

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png
倭の位置関係:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png
里数行程は中国があらかじめ持っていた情報である
久しぶりに倭人が朝貢に来たので行程を確認した

朝貢に来た倭人は次のように説明した
郡から船で南に20日行くと投馬国(半島南部)
さらに南に10日行くと邪馬台国(北部九州)
邪馬台国上陸後は徒歩で女王の都に行けます
合計30日ほどの行程です

中国は通訳を通じて次のように記録した
南至投馬国水行二十日・・・
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・

単なる中国の誤認識だったという事だ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:21:35.37
>>149
全く、女王国に見合う集落遺跡は無いけど、もやっとそう思いたい訳だな。  わははははは   @阿波
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:23:51.30
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:24:13.58
女王国は瀬戸内海、西の端が大分になるんだよ。神夏磯媛がいた辺りだな。
淡路島や吉備、讃岐で活動していた百襲媛は勿論卑弥呼。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:25:22.53
>>154

東夷伝で最大の国邑である奴国があるだろ。
奴国を含む九州北部が邪馬台国。
九州南部が投馬国。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:26:23.62
三世半ば以降、畿内に大規模古墳をバンバン造っていた場所こそ七万戸にふさわしいのはいうまでもない。
これは九州には無理です。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:26:30.45
>>156
>女王国は瀬戸内海、西の端が大分になるんだよ。神夏磯媛がいた辺りだな。

全く、女王国に見合う集落遺跡は無いけど、もやっとそう思いたい訳だな。  わははははは   @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:28:21.14
なんで投馬国の方が遠いんだよw
そういう点はちゃんと記述どおりに解釈しろ。
だから九州説は妄想パズルと揶揄されるのだ。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:28:26.16
>>157
と、なんとなく、もやっとそう思いたい訳だ。  わははははは   @阿波
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:30:41.24
>>158

卑弥呼の死後の話じゃん。
前倒し詐欺も限界か?
卑弥呼がいた間は畿内は抑圧されていたんだろ?
卑弥呼の治世にあっては富は全て伊都が吸収していたのだから、卑弥呼がどこにいたのかなんて明らかだ。
3世紀前半に一番栄えていたのはどこか、答えてみろよ。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:31:52.05
>>161

帯方郡から水行十日で九州北部、水行二十日で九州南部だからだよ。
縦に繋げるなよ?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:32:14.42
廣志だと伊都の南にあるのが邪馬◯国で隣接してるのがシマ国だから。

これは出雲、ヤマト(生駒)、シマ(近つ飛鳥)の位置関係でしか説明出来ない。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:33:57.29
>>165

志摩郡に隣接していたのは怡土郡つまり伊都。
あわせて現在の福岡県糸島市だな。
伊都の南なら筑紫平野に邪馬台国だ。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:34:19.18
栄えていたのと戸数は関係ない話だなw
そもそも三世紀前半だと一番最大の遺跡は妻木晩田遺跡なんだからな。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:35:20.21
>>157
九州北部が邪馬台国という説はちょっと難しい、諸々説明がつかなくなる。

本州へも関門海峡越えてするっと渡れてしまうのに海の向こうに別の倭種が成り立たない。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:36:37.91
>>170

郡使は関門海峡も通ってないし見てもいない。
見ていたら魏志倭人伝に書いただろう。
郡使は九州北部から出ずに卑弥呼に謁見して金印を渡している。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:38:52.32
女王国を本州にした方が、もっと海の向こうの倭種が説明できない。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:38:56.28
伊都の南側に邪馬台国、その次ぎにシマ国じゃ九州では位置関係があわないな。

畿内だとシマ(柏原あたり)~巳百支(牧、上牧か巻向~伊邪から美濃、名古屋まで近鉄大阪線ルートそのままだからなw
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:41:28.80
>>171
当然、遠方の投馬国、邪馬台国には
行っていない。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:41:38.72
>>173

筑紫平野が邪馬台国でピッタリ。
七万戸なら太宰府を中心に九州北部全域でいいだろ。
太宰府羅城は列島で最大の国邑だしな。
倭国の王都にふさわしい。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:42:23.96
>>171
聞けるけど?
0177日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 19:42:47.72
しかも>>125の傍国で選らんだ場所は、まず弥生時代後期の遺跡、三角縁神獣鏡、古代伝承地や有力国しか選んでいないからな。
0178日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 19:42:53.04
>>174

投馬国へは行っていないが、卑弥呼の邪馬台国には行ったはず。
そうでなければ金印を渡せない。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:44:30.14
九州北部全域で七万戸?伊都、奴国や投馬国も消えてるぞw
無茶苦茶だわ、話にもならんな。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:45:13.92
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:47:50.40
しかもシマ国を柏原辺りに比定すると青玉産出地、河内青玉という豪族がいる点でもれなく証明できる。
丹山、水銀朱も勿論伊勢までの間で証明済み、真珠も伊勢志摩でバッチリ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:48:32.84
>>166
「阿波」は不滅だ。  わははははは   @阿波
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:48:49.15
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2~1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:49:26.32
伊都は元々出雲勢力の北部九州出張先だからな。
これも出雲振根が筑紫へ出張していた話で証明できる。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:49:29.92
>>178
共立なんだから九州にいる。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:50:01.84
>>172
>女王国を本州にした方が、もっと海の向こうの倭種が説明できない。

だから女王国は「阿波」。   @阿波
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:50:09.44
>>184
不潔と思うが?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:51:11.80
>>175
全く、「邪馬臺国」に見合う集落遺跡は無いけど、もやっとそう思いたい訳だな。  わははははは   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:51:26.65
>>186

阿呆
記紀を適当につまみ食いするな。
出雲を倒して筑紫に王権が移ったんだよ。
だから文化的には繋がりも大きい。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:51:38.14
>>188
そんなアクロバティックな記述はあり得ませんな。
他の魏志、三國志でそんな書き方はないだろう。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:54:30.93
>>193
つまみ食いはそっちだろう。
筑紫、出雲、大和とハッキリと関係がある証拠だな。
北部九州の場所争い=伊都の奪い合い。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:54:35.78
畿内説は古墳建造した人々を畿内の人だと言い張るが、それは奴隷の毛人だと思われる
それを示す遺跡は現在調査中とのこと
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:55:03.43
>>194

あり得ないというのは意味のない個人の感想に過ぎない。
邪馬台国も投馬国も領域の名前なのはわかるだろ?
そして郡使は九州から出ていない。
だったら国邑と領域、重なるのは仕方がない。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:55:25.39
>>195
墓遺跡しかない
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:57:22.63
>>196

奪い合い?
そうだろう。
そして博多湾沿岸を支配した者が倭王と呼ばれたんだよ。
伊都国の王墓が甕棺墓から木棺墓に倭国大乱を境に切り替わった。
切り替わった最初の女王墓が平原遺跡、卑弥呼の墓だよ。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:57:32.00
弥生時代後半、硯も北部九州と出雲で見つかってるからな。
それに墨書土器の出土が多いのは伊勢松阪辺りだから。やはり伊勢水銀目当てだろう。
ここで出雲飯入根の逸話とも繋がる。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:57:35.48
>>200
>なんで阿波は女王国なのですか?

「阿波」のなかに女王国も在る。   @阿波
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 19:58:43.26
中国から見て倭とは博多湾沿岸のこと。
そしてそこを支配した者が倭王として冊封される。
本州に何者がいても、中国から見たらただの倭種。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:00:18.64
>>202

筑紫は出雲から国譲りさせたのだから、当然出雲も栄えていた時期もあった。
しかし伊勢遺跡を含め、卑弥呼共立の頃までには没落している。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:01:44.70
女王国から東に渡海したところにいる倭種、本州の中でも特に出雲など日本海沿岸の国を想定してたかもね。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:02:04.97
出雲と伊勢の長い間の因縁は出雲神宝事件だからな。
それに関係するのが崇神天皇と出雲振根と飯入根。伊勢国の名前由来にも登場するから。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:03:12.86
>>208

卑弥呼と関係ない倭種の小競り合い。
魏志倭人伝に伊勢なんて出てこない。
出雲も出てこない。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:03:22.66
安曇族が日本全国に散らばっていった事が、
安積や那珂などの地名が日本全国津々浦々にある事に現れている。
弥生後期の北九州地域が人口の密集地であった事は明白で議論の余地は無い。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:05:29.07
>>210

つまり九州北部、それも奴国伊都国志賀島など博多湾沿岸が倭。
安曇が卑弥呼の前の倭王なのか後の倭王なのかは不明だけど。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:06:31.74
志賀島の倭王を讃える山誉め祭りの神楽

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや

別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:07:52.43
正体が秘されていた出雲神宝を大和の崇神天皇に献辞してしまったのが飯入根。
どちらもイリと名前が付く理由も丹生と解釈すれば簡単に理解できるよな。

つまり出雲が持っていただろう伊勢の丹生鉱山を大和に明け渡した話。

魏志倭人伝には丹山有り、勿論重要な話ですねw
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:08:17.73
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:09:03.20
伊都高祖宮の近くには倭国大乱より古い王墓である三雲南小路遺跡とその宗廟である細石神社がある。
そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
博多湾沿岸の伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化、鉄器文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、女王国から北にある対馬海峡を支配するのが伊都国に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国の中枢である。
そして三雲南小路遺跡が伝承通りに木花咲耶姫(と邇邇芸)の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
高祖宮には木花咲耶姫の息子である彦火々出見が祭られており、かつては細石神社まで御渡り神事があったという。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、邇邇芸や彦火々出見の王宮であった高千穂宮の実体だろう。
天孫族の王たちや卑弥呼は、日の神として太陽を背にして天神として君臨したのである。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:09:28.01
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると年代的にも矛盾がない。
記紀にある日向三代の王家は、魏志倭人伝にある卑弥呼の前の男王70〜80年に相当するのだろう。
記紀にある長寿の天皇の年代を現実的な長さに補正すると、神武東征は200年頃となるという説がある。
天孫族が伊都を去り、その後に卑弥呼が伊都で倭王に即位したと考えると、伊都における甕棺墓から木棺墓への変遷も説明ができる。
卑弥呼は天孫族ではなく、他から招かれて倭王に共立されたのである。
記紀に卑弥呼が登場しない理由は、天皇家の一族ではない卑弥呼が倭王となった歴史を認めたくないからだろう。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:09:58.53
【筑紫の日向】

記紀における神代の王都である筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:10:30.97
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

http://inoues.net/yamahonpen2.html
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:10:54.51
>>209
筑紫も出てこん
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:11:46.79
阿波、狗奴国出身の崇神天皇、ミマキイリヒコは伊勢、宇陀水銀の利権を握っていよいよ磐石の体制に。
瀬戸内海航路も使え北部九州との連係もやり易くなったんだろう。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:11:49.03
>>219
要するに
邪馬台国は近畿
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:11:53.71
九州説の人に聞きたい
君たちは、君たちの思い描く倭国と卑弥呼を誇りに思えるのか?
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:13:25.46
三輪山の狭井の神さまは薬の神さまであり花鎮めの神さまでもある
花鎮めってなんなんだろうな

古来より春、花が散るのに乗って疫神が病を起こすという
それを鎮めるのが鎮花祭らしい

崇神の時代、疫病が流行ったとある
崇神の前はちょうど卑弥呼や台与の女王の時代か
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:15:48.73
>>221
あと四国の水銀
真珠、青玉、丹
揃うのは四国と紀伊半島。
物流網が日本海から瀬戸内、太平洋と
徐々に移行して行く
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:18:02.98
まあ私の畿内説だと丹生を中心にずっと話を説明出来てしまう。しかもそれは大和=邪馬台国、出雲、傍国の舞台でな。
勿論卑弥呼=百襲媛が前提であらゆる証拠を文献、出土品も活用している。
神獣鏡=鬼道としてな。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:18:20.78
狭いヤマトの地に七万戸も人を集めたら疫病が流行るのは必然
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:22:10.03
漢委奴国王金印が阿曇族の氏神神社のある
志賀海神社のある志賀島から出土した事を考えても、
奴国が博多湾周辺の阿曇族の国であることは明白。
ここが当時の銅剣銅鉾の一大生産地であり、
ソレが弥生後期に日本各地から出土する事を考えると、
安曇族の進出=高天原の天孫降臨の神話とリンクするのは間違い無いだろう。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:26:09.82
サは神稲の意味という説もある
狭井、サ井、サイ、神稲と井戸、
風土記では井戸を掘って酒殿を作る話があちこちにある
狭井の神さまは酒殿と関係するのだろうか?
三輪の神さまは酒造りの神さまでもあるが
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:28:02.22
まあ発展的な解釈をすればなぜ出雲はそこまで神宝を隠していたか?という話にも行き着いてしまう。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:33:41.28
出雲は時代的に見て、
荒神谷遺跡の銅剣が
最も初期の博多湾周辺の部族の
出雲進出を示しており、
コレが高天原から最初に出雲に進出した、
スサノウに相当すると現時点で考えられる。
コレが前2世紀ということで、
前2世紀の女王の墓のある三雲井原遺跡が、
天照大御神が居た地ではないかと考えられる。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:42:33.95
で、荒神谷遺跡から出土した銅鐸と
同型の銅鐸が大量出土した加茂岩倉遺跡が、
大国主の遺跡ではないかと考えられる。
で、この銅鐸の分布の時代変遷を見ると、
一大生産地が出雲から大和に変化した時代があり、
コレがスクナビコナから大物主へ、
同盟が変化した神話と一致し、
更に、銅鐸の分布範囲が神話の大国主の勢力範囲に一致するため、
考古学的にも銅鐸の出土範囲が出雲国の同盟国の勢力範囲と言えるだろう。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:50:09.38
>>233
スサノウじゃなくてスサノヲ。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 20:56:21.12
熊野に銅鐸と関係する磐座がある
世界遺産の、ゴトビキ岩、琴引岩と呼ばれる巨大な岩があり銅鐸の破片や銅鐸を模造した石製品が見つかっている
ゴトビキはヒキガエルという話も残っている

近くの阿須賀神社(飛鳥や堺のアサカと同じ音)とその周辺には弥生時代〜古墳時代の集落跡が見つかっている 玉製品や土師器も見つかっている
祭神は事解男命(ことさかおのみこと)
平安時代の熊野参詣で必ず参られた地らしい

事解男命、事の役を解かれたという意味か
サカ、酒や坂と関係あるのか?
ヒキガエルの岩に導かれこの地に逃れてきて事の役を解かれたのか?

薬と酒の神さまスクナヒコナは潮岬から常世に去った
坂鳥のは朝越えに掛かる枕詞
鶏が鳴くは東に掛かる枕詞
常陸国風土記には常陸国の山野や里に坂鳥が住むとある
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:00:39.02
>>223

誇り?
歴史を冷静に分析しているだけだ。
畿内説は思い込みと捏造でしかない。
0238日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:01:19.10
>>198
だろ
やっぱ邪馬台国は列島で投馬国は半島なんだよ
0239日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:02:22.31
伊勢に猿田彦がその上に立った、タニグクと呼ばれる興玉神石がある

サルタヒコ、サタヒコ、神稲の田の日子
狭井の神さまと関係あるのだろうか?

国土の隅々まで知り尽くす存在であり、石の性質を持つ神さまであるタニグクとは何なのか?
0240日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:04:25.53
>>164

南が帯方郡からということなら水行十日で至ってしまう九州北部以外どこでもいいということになる
つまり行程では比定はできない
0241日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:05:10.24
>>236
普通に言離ちゃうの?妄想マニアくん。
0242日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:05:33.37
銅鐸は恐らく、大国主がスサノウの館から
スセリビメを背負って逃げた時に、
木の枝に引っかかって鳴ったと言われる
天昭琴で間違い無いだろうな。
森の中から出土する事から考えても、
森の中で鳴らして使ったのは間違い無いだろう。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:06:28.94
高天原の天津神が国津神を下して筑紫に天孫族の政権が誕生したというのが出雲国譲りから天孫降臨までの記紀のストーリー。
その後は筑紫が倭国の中心となるのだが、彼らが来た高天原とはどこだったのか。
原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、高天原は高貴なる海人(あま)の都という意味になる。
長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島は高天原の候補となるだろう。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神(大山祇とも同じ)と婚姻関係を深めていく。
高天原は綿津見の竜宮城とも意味が通じている(同じものだというわけではない)。
海神族こそ、玄界灘沿岸を起源とする弥生文化の播種の担い手、倭王の一族である。
漢からもたらされた倭王の証である金印が志賀島から出土したのがその証である。
アマテラスとは、海を照らす(支配する)海神族の王の称号である。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:08:28.03
>>243

郡使が足を運ばなかったところは全て遠絶。
倭人は里数を知らず、具体的な距離を伝えることができなかったから。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:08:43.52
>>237
同意。個人的願望を歴史に見出すとか狂気だわ。
>>223は阿波や伊都と同様に恥ずかしい奴だ。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:10:55.02
>>229
暴れ吉野川だしな。結局
採掘跡つまり放置遺跡
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:12:51.81
卑弥呼が伊都にいたかどうかはわからない。
しかし中国側は伊都を倭の王都と見做していた。
卑弥呼も伊都からせいぜい日帰り圏内にいただろう。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:15:47.67
>>224
アマテラスとはアマテルをパクった捏造神名。
0251日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 21:16:00.58
>>245

糸島水道沿岸を通るから奴国の中心地博多を通る
そこに博多の筑前型庄内甕が多量に搬入され、
前方後円墳が三雲より先に造られ、糸島唯一の式内社志登神社がある
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:16:58.55
>>237
>>246

自国の歴史に誇りを抱くのはごく自然な感情
他国を考えてみても、その国の歴史に誇りを持つような人物と友人になりたいと思う

なぜ君たちにはこの問いかけに同意できないのか?
それは、意図的に自国の歴史を歪めている自覚があるから
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:19:20.80
>>252

自国の歴史を歪めているのは畿内説だ。
記紀の3世紀に卑弥呼の治世など入り込む余地はない。
畿内説は日本の歴史を否定する邪説だ。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:20:02.84
>>253
寝ぼけろ。
海を照らし寄来る神とは「倭大物主櫛甕玉命」である。
国津神の筆頭だ。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:20:43.82
纏向遺跡は崇神天皇の磯城瑞垣宮。
それを卑弥呼にこじつけるなど、日本の歴史に対する冒涜だ。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:23:46.21
魏志倭人伝が間違ってると考えるならそう言えよ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:25:01.84
>>240
>つまり行程では比定はできない

つまり、トンデモだということだ。   @阿波
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:25:53.14
>>255

海を照らす神は複数登場する。
例えば猿田彦もそうだ。
世代や地域が異なるのだろう。
天照はその中でも出雲を下した功績が大きく、その名が後世まで残ったのだろう。
安曇ら海人族も天津神も海の王達だ。
何しろ倭国の歴史は長い。
多くの王がいたのだ。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:27:07.43
>>260
猿田彦も国津神の大神ですが何か?
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:29:52.21
>>261

猿田彦は海と陸の両方を照らす神とある。
それは支配地域の説明なのだろう。
天津神は血統の説明も兼ねている。
国津神であっても、海の一部を支配することがある。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:30:42.44
>>254
記紀のほうが年を間違ってる可能性大
武内宿禰は330歳まで生きたことになってるが
季節の変わり目を一年とカウントして計算を間違えたと仮定すれば、当時にしては御長寿な85歳だったと人間らしくなる
おそらく間違って4倍にした情報と、四季を1年とした情報の両者が入り混ざっているのだろう
神話の天皇が古代の天皇と同じくらいの寿命だとしたら、神武天皇は卑弥呼と同じ時代か、その後の時代の可能性が出てくる

ただ、神武天皇自身が東遷しているため
もし邪馬台国と関連があるなら九州説、畿内説もどちらもありうる
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:31:41.35
>>262

それはお前が捏造した説だろう?
投馬国は九州南部、宮崎県都万を中心とするエリアだ。
半島南岸のリアス海岸に五万戸など入るはずがない。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:32:05.90
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:33:28.63
>>267
記載されていません
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:33:47.37
>>254
>卑弥呼の治世など
それが九州説の基礎にある感情なんだろう

>>256
崇神天皇は実在したとすれば、台与の治世時期と重なることになる
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:35:38.43
>>265

甕棺墓の三雲南小路遺跡が天孫族の木花佐久夜姫と関係しているので、伊都国の代々の王は神武の祖先の天孫族。
ただし彼らは倭国大乱を境に没落した。
倭国大乱後は、木棺墓の平原女王墓に移行した。
つまり倭国大乱で神武らは筑紫を出た。
卑弥呼と神武は同年代。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:35:59.81
五十鈴イスズ川は伊勢だが、よく似た名前の川が堺にある。石津イシヅ川
猿田彦が消えたのは五十鈴川の川上だが、
石津川を遡っていくと陶邑にたどり着き、石津川の水源がちょうど狭山池の辺りになる

石津川と五十鈴川は関係あるのかわからないが
大和国風土記に石津神と天津神の三都のまぐわいの記述があるので石津はかなり重要な意味がありそうだ
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:38:16.38
>>269

壹與と崇神が同年代なら、畿内説は成り立たないということ。
神夏磯姫と景行が同年代、田油津姫と仲哀が同年代で、九州は女系の邪馬台国王統、畿内は男系のヤマト王権で、全てが説明つく。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:39:39.80
>>264
泣いても喚いても「天照国照日子火明命」がアマテル神。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:42:29.79
>>276

天照は地位の名前だから、継承されるんだよ。
天照大神と大国主の両方、つまり天津神と国津神の権威を継承したのが、天照大神の孫である天照国照ホアカリだよ。
何の問題もない。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:43:30.35
>天孫族の木花佐久夜姫
また香ばしいのが出てきたなぁw
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:43:32.94
2世紀、饒速日や神武が畿内に九州北部の銅鏡文化を持ち込み、先住の銅鐸文化を駆逐した。
ただ、両者は八咫の鏡は持っていなかった。
いずれも身の証には天羽羽矢を持ち出したことから分かる。
3世紀末、崇神天皇は纏向から伊勢に八咫の鏡を追い出した。
その一方で、4世紀に景行天皇が筑紫の梟帥である神夏磯姫に会ったとき、姫は榊に八咫の鏡など三種の神器を掲げて登場した。
いつ、誰が畿内に八咫の鏡を持ち込んだのか。
八咫の鏡は何枚あったのか。
卑弥呼がいた3世紀前半において、三種の神器があった倭国の王都はどこであったのか。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:43:36.19
尚那賀川・・・その3
https://youtu.be/u_wfGlIGmsE

まあでも筑後川も暴れ川として有名なので、九州北部も筑後川沿いは大差ないわなあ。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:43:42.35
>>275

九州説が他の九州説を批判しているのを畿内説スレでは見たことが無い
学問の通説畿内説はただの斜面説のような間違った自称畿内説は徹底的に批判している
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:44:25.27
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

http://inoues.net/yamahonpen2.html
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:45:49.58
>>270
もしかしてだけど
倭国大乱で北部九州〜南関東が統一されて、各地に支配者の一族や親族らが派遣された
畿内に派遣されてそこの豪族たちを従えたのがサヌ王
サヌ王は畿内で勢力を強め、その子孫が筑紫の本家を倒した
さらに後世の人たちはしれっと本家の存在を隠し、サヌ王が初代天皇として即位したことにした
とかあったりするんかな
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:47:07.16
天照大神は「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。
命じられた宗像三女神が祭られるのが沖ノ島を含む宗像大社なわけだが、そもそもは沖ノ島の祭祀は、天照も祭っていたのではないか。
さらに踏み込んで言えば、沖ノ島こそ天照の宮があった高天原なのではなかったのか。
それでこそ、古代最大級の聖地として沖ノ島の祭祀が大々的に続けられた意味がわかろうというものだ。
沖ノ島から筑紫に降臨する天孫を送迎する宗像氏族と猿田彦の船団の行き来をみあれ祭に見ることができるのだろう。
宗像大社は交通安全の神様として知られるが、それは天孫の降臨の道中の安全を守るようにという天照の神勅に基づいている。
そして天照は天孫に自らの形見として祭るようにと八咫の鏡を託したのだが、西海道風土記逸文によると、八咫の鏡はある時期において宗像大社の辺津宮に祭られていたのである。
弥生時代と思われる当時においては、沖ノ島から九州本島への渡海さえも、一大事だったのだろう。
博多湾沿岸の筑紫の日向の小戸で生まれた天照や素戔嗚が博多湾を去った後は、イザナギ王の息子である大山積が博多湾の王だったのだろうが、天孫が博多湾に戻ると大山積は娘の木花佐久夜姫を輿入れさせている。
親族同士の婚姻は血統を重んじる当時の部族社会においては重要であり、出雲の王となった素戔嗚も大山積の孫である櫛名田姫を娶っている。
九州に上陸した天孫が向かったのは筑紫の日向であり、かつてイザナギが禊をしたとされる小戸も筑紫の日向にある(福岡市西区小戸)。
小戸は高祖山の北にあり、高祖山の東には日向川、高祖山の南には日向峠があるので、高祖山一帯がかつては筑紫の日向と呼ばれていたのだろう。
天孫は筑紫の日向で即位して豊葦原中国の王となったので、魏志倭人伝の伊都から日の出る方に太陽を背にしてそびえる高祖山にある高祖宮こそ、記紀において神代の王都として知られる高千穂宮なのだろう。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:49:54.21
>>274
台与は史書に記された歴史上の人物

隋書?(倭)国伝では倭国について、
>邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
つまり、台与の都は卑弥呼同様ヤマトだったことは史書に書かれていること
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:51:16.31
>>153

リアス海岸である半島南岸に50000戸は入らない。
日数は帯方郡から邪馬台国、投馬国それぞれへの日数であり、投馬国の方が邪馬台国より遠くにある。
投馬国は宮崎県都万を中心とする九州南部だ。

これ、このスレで2度目だぞ?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:52:18.96
博多湾に昔は岬があり、立ち鼻つまり橘と呼ばれていた。
橘より東の水門が大戸、西が小戸と呼ばれていた。
大戸は後の那津つまり博多港であり、庶民の国である商都奴国の港だ。
小戸は王都であった伊都の港だ。
イザナギが禊した筑紫の日向の橘の小戸とは、伊都の港という意味になる。
そして博多湾を見下ろす高祖山つまり筑紫の日向の高千穂への入り口が、山門である。

この文章を声に出して音読するといい。
水門、大戸、小戸、伊都、山門
すべて一貫した地名であることがわかるだろう。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:52:47.26
>>278
問題だらけ。
日本書紀はイザナギ・イザナミの間に生まれた神を「日神」だと記す。
異伝でこの神を「一書に曰く天照大神」と呼んでいる。「俺は知らんけどこの神が天照なんだってさ。どこかに書いてたよ。」と、要は嘘なのだ。
伊勢に行った古代の天皇は持統天皇だけ。記紀編纂以降は勅使が行ってるようだがそれまで皇室から相手にされてない。
女帝から孫と言う前代未聞の皇位継承の正当化や、最高神・高皇産霊尊や太陽神・彦天火明尊に男系で辿れないなどの理由で代わりに皇祖にされたただの祖先の女性だから。
阿波忌部当主の三木氏も本来の最高神は高木神こと高皇産霊尊で天照大神は新しい神であると明言されている。
持統天皇の次に伊勢に行った天皇は何と次は明治天皇。皇室は日本書紀以外に極秘の本当の歴史書を隠しているのではないかと勘繰りたくなる。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:54:10.57
>>290
ヤマトは奈良
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:55:25.07
>>289

1度目は畿内説の俺のレスへのアンカだろ
>>153は毎スレ同じものを貼るからその都度批判しろ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 21:56:21.70
>>279

三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社の祭神は木花佐久夜姫であることは事実なのだが?
また、近くにある高祖神社の祭神はその息子の彦火火出見だ。
伊都にいた甕棺墓の王族は天孫族だということ。
そして中国から承認された博多湾沿岸の倭王でもある。
伊都こそ倭の王都。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:01:11.99
>>292

伊勢が重んじられていたのは、そんなところに天照大神はいなかったからだ。
そもそも天照は海の神の意味だから内陸にはいないし、まして伊勢は後に八咫の鏡かたどり着いた場所に過ぎない。
すぐ上でも書いたが、天照大神がいたのは沖ノ島。
沖ノ島における祭祀には、筑紫も畿内も参加している。
つまり共通の祖先を祭っていた。
海の上の磐座にいた王、天照大神である。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:02:03.70
邪馬台国の卑弥呼は倭姫命(ヤマトノヒメミコ)だから、
間違いなく天照大御神に関連している訳だが、
天照大御神がスサノウの姉で、
前2世紀の人物であるので、
直接天照大御神が卑弥呼ではない。
倭姫命=卑弥呼が祀っていたのが天照大御神であり、恐らく伊都国にそれがあった。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:02:50.95
>>294

両方合わせてだよ。
アホが半島南岸を投馬国と呼んだのを見かけたら、宮崎市が投馬国だと書き込むようにしている。
アンカーはブラウザの仕様で二つは貼りにくい。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:04:23.48
>>297

違う。
それは投馬国宮崎県都万神社とセットなんだ。
半島南岸投馬国アホと一緒にするな。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:05:46.23
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:08:55.02
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:08:57.17
>>269
天照大神(女神)は持統天皇の創作だから。

持統天皇6年(692年)中納言直大弐の三輪朝臣高市麻呂は、上表して諫言し、天皇が伊勢国に行幸して農事を妨げることを中止するよう求めた。
3月3日に行幸の留守官が任命されると、高市麻呂は冠位を脱いで天皇に差し出し、「農作の節に車駕を動かすべきではない」と重ねて諫めた。天皇は聞き入れず、6日に発って伊勢に行った。

ここまで反対されて強行した理由は新しい神の創作。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:09:07.97
平原遺跡と同時期に作られた墓が祇園山古墳で、
平原遺跡の殉死が16人、
祇園山古墳の殉死が推定66人で、
伊都国でない祇園山古墳のほうが、
邪馬台国の卑弥呼の墓にふさわしい。
ただ平原遺跡も卑弥呼の死亡時期に
16人の殉死を出しているということで、
卑弥呼に関連の深い土地であった事は間違いなく、
ソレは倭姫命が天照大御神を祀っていた巫女であり、
天照大御神が元々伊都国の女王と関連するモノであろう。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:09:33.99
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:09:56.82
>>296
だった。これでは高齢中。反省w
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:11:57.03
つまり邪馬台国と投馬国は九州の北部と南部で兄弟国だつたんだよ。
郡使はそんな事情は知らないから地名と帯方郡からの日数だけ記録した。
しかし記紀と照らせば、邪馬台国が山幸彦の国、投馬国が海幸彦の国で、それぞれ福岡県と宮崎県だとわかる。
神武を卑弥呼と同年代の倭国大乱の時代の人間だと考えると、九州説は日中双方の歴史書と矛盾なく一致する。
畿内説がありとあらゆる史書を否定しないと成り立たないのとは対照的だ。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:13:22.57
>>305

なんでも創作と決めつけないと成り立たない時点で、畿内説は破綻しているんだよ。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:14:56.61
>>306

いろいろ間違っている。
祇園山は発掘したのが全体の3分の2で、殉葬が66人分。
つまり全体では約100人。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:14:58.05
>>311
俺、畿内説じゃないし。本当の天照は彦火明だと言ってるだけ。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:16:45.08
>>272
そうであったな
スマソ
まあ、似たようなもん
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:18:21.76
【筑紫の日向】

記紀における神代の王都である筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:20:05.90
>>313

それは間違いではない。
だが、天照は複数いるのだ。
高天原にいた天照の孫のホアカリもまた天照だ。
ホアカリは出雲の国譲りを受けて国照の名もあわせて持っている。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:22:40.80
>>315
>高祖山の別名は日向山

ヒナタ山だろ
ひゅうがタカチホとは別モノだ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:22:42.22
古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説がある。
アマテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である博多の倭国の王にふさわしい諡である。
そのような読み替えにより、神という超越的な存在を用いることなく、古事記などの記事をうまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない権力者である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主である。
サルタヒコも海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されているが、その支配権は博多湾沿岸などに限られるようだ。
ヤマツミ(山祇)とワダツミ(海祇)もそれぞれ博多湾周辺の陸上と海上を支配する国津神(地祇)の尊称である。
海洋と陸上の分割統治はアマテラス(天神)とスサノオ(地祇)、海幸と山幸にも見られる倭国の普遍的な王権の姿である。

倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていた。
出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王が登場する。アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために記紀ではニギハヤヒが重要視されなくなった。
実際には、物部氏は古代のヤマト王権において祭祀と軍事、すなわちヤマト王権の実権をほぼ掌握していたと考えられている。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:22:46.71
>>302

帯方郡からと

記載されていません
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:24:02.56
で、邪馬台国のあったとされる山門八女だが、
高良大社や玉垂宮の高良玉垂命が月の神と言われており、
これが天照大御神の弟の月読命と考えられる。
つまり伊都国が姉、天照大御神の国で邪馬台国が弟、月読命の国であったのである。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:24:44.56
>>318

表記や読み方には時代により揺らぎがあるんだよ。
天皇はスメラミコトと読むべきところをテンノウと呼読んだりするだろう?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:27:29.56
>>317
天に太陽が二つ無いように天照も一柱である。
ちなみに
即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で神武天皇を助けた高倉下の夢に高御産巣日神が登場する。【高御産巣日神は天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令する。】また、のちの皇室は高御産巣日神の血を引いているが、【高御産巣日神が本来の皇祖神だとする説がある。】
ぐらいは知ってるよね?日本書紀の明言しない記述からしてそう言う事なんだよ。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:27:43.62
>>321

月詠は海の向こうに行って帰ってこなかったんだよ。
月詠は対馬の王。
天照は沖ノ島の王。
その時代に筑紫の倭王であったのは大山祇だろうね。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:29:38.21
>>323
前提だと里数だよ。
記載されていません。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:29:53.57
高良大社に卑弥呼の墓があって、
玉垂宮が当時の港と言う事で、
高良大社と玉垂宮の間に、
邪馬台国の都があったのは間違い無いだろう。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:30:34.30
宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:32:06.44
>>326

里数と日数の併記だよ。

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:35:01.16
>>312
>祇園山は発掘したのが全体の3分の2で、殉葬が66人分。
>つまり全体では約100人。

祇園山には殉葬ありません
須恵器も出てて
後世まで続く共同墓地
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:39:23.89
>>327
皇祖は単に天皇の祖先の意味だからそうだけど。皇祖神ではなく最高神と言えばいいか?
本来の最高神は高御産巣日神。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:41:09.38
>>330
投馬国の記述はないし
狗奴国も字も違う、東になっているけど?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:41:35.50
で、生目八幡宮があるが、
コレが恐らくは生目=伊支馬が、
倭国大乱以降に生目より邪馬台国に進出した
長官の出先機関だろう。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:42:34.86
>>330
投馬国が邪馬台国より南になっちゃったら倭人伝と合わないから
その説はペケですね
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:44:09.28
九州説の人はこんな風に言う

倭国は九州北部、本州は倭地

でも、一方こんなことも言う
百襲姫も崇神天皇も実在していて、卑弥呼・台与の時代と重なる時代を生きた

卑弥呼は倭国の女王、しかし畿内は倭国ではなく、そこは統べてはいなかった

本当の倭国はどちらなのか
卑弥呼の倭国なのか、それとも畿内の政権なのか
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:44:29.97
アマテラスの荒魂は廣田神社に祀られていて奥宮は六甲の山中にある磐座だな
縄文時代中期に作られたんじゃないかと言われている磐座

天とは雲の上で、山頂の磐座だろう
磐座を照らす神さまで、磐座の神にお供えする神稲を作る稲作の神さまだったんじゃなかろうか
それが荒魂になったということは、磐座の神によからぬことをしたんじゃないか?

トヨウケには8人の天女がいたようだしアマテルにも複数の玉があるのかな?
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:46:11.62
あるいは誰かに利用され、意にそぐわないことをさせられたとか
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:48:32.71
六甲山はかつては廣田神社の神域で磐座だらけの山
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:48:43.01
>>334
中国文献を疑うことがないのだろうな。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:49:11.48
高良大社は丹波氏が初代大祝家と言われている。
コレは丹波道主命の関連出自の神功皇后の熊襲征伐に関連したものと考えられるが、
丹波道主命の孫娘が倭姫命である。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:49:13.75
>>338
廣田神社の祭神は戦前まで【瀬織津姫】と明記されていた。
因みに、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命のムカツヒメはムカツ→六甲(ろっこう)の語源である。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:53:53.69
従って、邪馬台国は彦坐王が初代王と考えられ、
おそらくこれが倭面土国王帥升の事だと考えられるのである。
57年に奴国王が朝貢したあと、
邪馬台国が奴国を制圧して、
奴隷を従えて漢に朝貢したのが107年になる。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:57:52.20
天照大神が居ないなんて言うのは正直俺も心苦しいのよ
でも居ない
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:59:11.37
>>344

多くの学者は後漢に朝貢した帥升も博多湾沿岸の王だと考えている。
なにしろ後漢書には倭とは狗邪韓国から倭奴国までと書いてあるから。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:59:55.03
祇園山古墳からは卑弥呼の死亡時期と同時期の時代編年の甕棺墓がある。
相当数が卑弥呼の死亡時期と同時期の
殉死を示す墓で間違い無いだろう。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 22:59:56.46
>>348

神様だと思うからそうなる。
神とは王のことであると分かれば、ただの王の名に過ぎない。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:00:46.16
東北の伝承も興味深い
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをして、龍の黒神は北に追いやられた
岩隠れは意味がわからないが、岩戸の向こう側に行ったのだろうか?

石切神社の上之社はトミの長髄彦が祀られているという説もあり黒い龍神が祀られている
トミの一族は体が大きく力が強く戦闘や道具作り、建築に長けていたが、稲作や金属加工の技術は持っていなかったらしい

おそらく鹿使いの赤神も稲作の技術がなかったんじゃなかろうか
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:01:24.40
>>348
瀬織津姫は饒速日命(天照国照彦火明と同神か?)の后神ともされる。
『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。なお、荒祭宮は、かつては正宮に位置していたと推定される。

現在、天照とされる女神がとても怪しいものであるのは誰でもわかるだろう。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:01:34.51
平原遺跡の副葬品は、後漢鏡より新しい大型内行花文鏡が含まれているので、後漢滅亡より後の王墓。
あえて余裕を見ても、後漢と倭の交流が途絶えた倭国大乱より後の王墓。
180年頃の倭国大乱から後の倭王は、247年頃に亡くなる卑弥呼しかいない。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:01:57.88
英彦山辺りが、彦坐王が陣取った場所だろうな。
ここを拠点に奴国を制圧したのだろう。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:02:33.50
>>346
日本国を名乗ったのは唐の時代

倭国と日本が並立した時代があったのではなく、国号を日本と改めたもの
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:04:11.13
>>356

旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:06:20.81
>>358
邪馬台国は別種だったんだな。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:06:48.53
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産であり、その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:06:57.39
丹後国風土記の浦島太郎の話によれば常世には白と黒の玉があり五色の亀姫もいたとある
常世は磐座の神の玉が暮らす場所なのか?
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:07:53.56
>>359

邪馬台国は女王の統べる国。
本州は女王国から比較渡海したところにある倭の別種。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:08:11.43
>>359
倭国はいにしえの倭奴国
57年(金印)のこと
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:08:54.72
>>362
女王国の記述はない
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:09:26.16
57年が漢倭奴国王で、
107年が倭面土国王。
で、奴国は3世紀中期にも奴国として
魏志倭人伝に存在が記録されているので、
倭面土国は奴国ではない国ということになり、
読み方からして邪馬台国の別表記ということになるだろう。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:09:59.30
>>362
邪馬台国は女王の統べる国の記述もない
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:11:25.89
>>365
なりませんけど
定かはないけど
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:12:06.00
つまり博多湾沿岸が倭。
卑弥呼は倭の女王。
つまり卑弥呼がいたのも博多湾沿岸。
3世紀においては伊都が最も王都にふさわしい。
郡使が滞在する外交の場であり、大率が周辺国に畏怖されている内政の中心でもある。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:12:53.00
>>362
少なくとも「倭国」と言うべき

本州は倭国でない別種であるという認識か?

別種に何か呼称はないのか?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:13:37.37
>>368
卑弥呼は九州だろうな。
邪馬台国は九州以外だな
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:14:31.02
卑弥呼の後の女王の臺與は、
もちろん、ズバリ豊受大御神だよ。
おそらく臺與の時代に、
丹後に進出したと考えられる。
臺與の墓はおそらく赤坂今井墳丘墓で、
天橋立伝説の8人の天女が八女の巫女だ。
で、北部九州の絹織物の製造を伝えた。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:14:38.49
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年というのは、帥升から始まる年代のことで、王都が奴国から伊都国に移った時代。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:15:50.99
>>368
伊都国は邪馬台国ではありません。
魏志倭人伝に明記されている以上、
それを受け入れるしかない。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:16:30.43
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:16:34.87
>>357
畿内の天照?勧請?違いますね。
伊勢の天照大神は「大日霊女貴」であって本来は天照と申し上げるべき神ではないんです。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:16:54.24
>>374
唐の時代まで日本という国号は無かった
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:18:26.00
卑弥呼の後の壹與はズバリ肥前川上の與止日女だよ。
のちに畿内に勧請され、淀川の名前の由来でもある。
豊臣の淀姫も同じ由来。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:18:31.55
天女の羽衣は松の木や岩にあるんだが漁師などが羽衣を奪い天に帰れなくなる話が各地に残っている
0381日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 23:19:15.82
>>375

邪馬台国は領域なので、それを構成する国邑として伊都国も存在している。
0382日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 23:19:20.64
邪馬台国の都は伊都国→奴国→不彌国→水行20日陸行1月の場所にあると魏志倭人伝に書かれている以上、
邪馬台国の都が伊都国でない事は明白。
0383日本@名無史さん
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2023/02/25(土) 23:21:35.20
>>378

列島の主権は筑紫の倭にあったから、中国の史書には倭しか出てこない。
しかし畿内にも何らかの名前はあったはず。
旧唐書の書き方だと、中国が知らなかっただけで日本国は少し前からあったように読める。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:21:45.13
卑弥呼時代は鉄器時代でした


猿でもわかる卑弥呼女王国と東の倭種の国々
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

大陸や半島と交易の多かった地域は必然的に鉄器も多くなります
当時の倭人の人口もこのグラフと比例します
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:23:53.38
九州説の人々は倭国は九州で、本州は違うといいながら
その本州にある国の呼称についてこれまで考えたことがなかったのだろうか
私たちの祖先の住んでいた土地、祖国であることに思いをはせなかったのだろうか?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:27:06.69
饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、後にそれが纏向遺跡として発見された。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:27:52.08
邪馬台国の場所は、
狗邪韓国(金官伽耶)ではない、
對馬国(対馬)ではない、
一支国(壱岐)ではない、
末盧国(松浦)ではない、
伊都国(糸島怡土)ではない、
奴国(那の津、那珂)ではない、
不彌国(宇美)ではない、
投馬国(妻、都間)ではない、
狗奴国(隈、球磨)ではない場所で、
筑後川から南の山門八女から、日田、大分、宇佐を含む範囲で、
全盛期には妻国西都原古墳群辺りまで進出していたことが分かる。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:28:36.60
>>387
日本という国号が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:30:01.26
>>386
なんだこいつ。今までさんざん出てきただろ。
「(饒速日の)『日本』は乃ち小国。(神武天皇の)『倭』の并す所となる。故に其の号を冒せり」
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:30:45.44
龍の絵画土器は唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡から見つかっている
龍トーテムの人々も仲良く一緒に暮らしていたんやろな
ウカノミタマ、葛の葉伝説にも出てくる水晶は、日本最大の水晶玉が信太の和泉黄金塚古墳から見つかっている
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:30:47.43
>>302

この倭国だと後漢から金印をもらった一番南の倭奴国は宮崎になる
阿曇連が祀る少童命(綿津見神)は住吉大神と共に日向國生まれなので
志賀島から金印が出たということは日本書紀とは整合する
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:32:37.40
>>391
倭の字が嫌になって旧国名を出して来たから。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:34:06.37
>>389
それは、
>そらみつ 倭(やまと)の国

万葉集は万葉仮名を含む漢字で書かれている
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:34:10.07
>>314
遠賀川も暴れ川
日本の川は急流が多い
www.aso-group.jp/history/achievement_12.html
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:37:32.17
なぜ邪馬台国の範囲が、
筑後川より南で、
大分、宇佐まで含む事が分かるかというと、
不彌国から水行20で投馬国=妻に到着するという事で、
本来、その間に国として書かれるはずの宇佐や大分の国の記述が無い事と、
邪馬台国は海を東に渡れば倭種の国があると言う事、
そして卑弥呼の後の女王が豊の姫であるという事から、
宇佐、大分の豊の国を含む範囲が邪馬台国であるということになる。
そして水行10日、陸行1月かけて邪馬台国の都まで行くということで、
奴国から直接山門八女に行けないということで、
筑後川が邪馬台国の境界であることが分かるのである。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:42:12.60
そこから更に倭国大乱が狭穂彦王の乱である事を考えると、
狭穂彦王と狭穂姫を記念して作られた墓標が、
恐らくは西都原古墳群の男狭穂塚女狭穂塚であり、
対立した垂仁が生目で、宮崎市生目古墳群付近の豪族であるので、
邪馬台国の全盛期は投馬国を含む範囲であった事が分かるのである。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:43:32.14
>>391

旧唐書からは、それ以前から小国として存在していたことがうかがえる。
ただ、それ以前は中国にとって国交の相手はあくまでも博多湾沿岸の倭であったため、本州四国のすべての勢力は一まとめに倭種と呼んでいただけのこと。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:47:08.57
九州は倭地だが九州北部は女王国の外だよ 
一大卒の管轄下の国々
女王国の外にあり境界をなす国が傍国で、奴国は傍国の一つ
投馬国は九州南部のミミの国だが女王国の構成国の一つでしょう
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:48:13.15
>>394

綿津見も住吉の神も博多湾沿岸の筑紫の日向の小戸、現在の福岡市西区小戸の生まれ。
だからこそ住吉神社は博多にある。
安曇の倭王も博多湾沿岸にいたわけだから、わざわざ宮崎県を引き合いに出す必要はない。
宮崎県都万の投馬国は分家に過ぎない。
海幸彦は山幸彦に負けて筑紫の日向を追い出されたんだぞ?
その逃げ落ち延びた先が宮崎県。
海幸彦は隼人の祖とされている。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:48:42.87
>>400
旧唐書が完成したのは945年のこと
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:51:07.50
>>398

里程の後に日程を繋げたら、やっていることは畿内説と変わりないではないか。
里程と日程は別記事なんだよ。
投馬国まで水行二十日は、帯方郡が起点。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:51:58.14
>>400
隋書では日本は出てこない
記紀との照合性をとると倭国だよ。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:52:32.67
>>399

投馬国と邪馬台国が入れ子になるのはおかしいだろ…
お前、畿内説のデマ係か?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:52:53.17
>>404
起点は不彌国か、伊都国だろうな
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:54:36.55
>>405

隋書の倭国は九州だよ。
阿蘇山の話は出てくるが、三輪山も富士山も出てこない。
畿内は推古天皇の時代なのに、倭王の名は男王であるタリシヒコ。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:55:32.72
>>402

住吉三神は、
審神者曰「今不答而更後有言乎。」
則對曰「於 【日向國】 橘小門之水底所居 而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」(日本書紀巻第九)

なので、伊弉諾尊が濁穢を秡除して神々が生まれた「筑紫日向小戸橘之檍原」は【日向國】
「又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。
又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。
又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。
凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是?住吉大神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是【阿曇連】等所祭神矣。
然後、洗左眼、因以生神、號曰天照大神。復洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。
復洗鼻、因以生神、號曰素戔嗚尊。」
(日本書紀巻第一)

阿曇連が祀る綿津見三神(少童三神)も住吉三神も
日向國で生まれた神
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:55:38.97
>>407

里程と日程は別記事なので、繋げてはいけない。
単位が違う数字をつなげるなと学校で教わらなかったか?
ゆとりか?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/25(土) 23:58:19.30
>>408
其國境東西五月行南北三月行各至於海
だから違うな。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:00:17.64
>>413

本州は東北地方が蝦夷の地なので、周りが全て海という表現は当てはまらない。
当てはまるのは九州。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:03:22.27
古事記の方が原典に近い。
日本書紀はいろいろ歪めて嘘を混ぜている。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:04:53.05
>>414
当てはまりせん。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:07:04.80
>>414
認識していたか ないかの違いだな。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:08:04.61
>>414
隋書には蝦夷の地の記述はない
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:10:15.37
高良大社には八乙女が舞を舞う伝承がある。
コレが天橋立の8人の天女と同じルーツの伝承だろう。
当時の絹織物の先進地だったのが北部九州で、
丹後地方に絹織物の製造を伝えた8人の天女は、
高良大社の八乙女で間違い無いだろうな。
コレが豊姫ということでドンピシャ、
元伊勢籠神社の豊受大御神が、
邪馬台国の臺與である。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:11:00.83
>>419
九州説は阿保なんだ
現代人並みの地理知識があるというのが前提
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:15:04.73
文献でも、文書でも書いてありゃ
正しいとか、一致すれば正しいとか?
参考文献が基なら一致するのが当たり前
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:17:44.78
日本書紀を編纂した最大の動機は、筑紫にあった倭国王権の存在を黒歴史にすることだからね。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:19:05.44
>>404
アンタのああ思うこう思うはどうでもいいんだよ。
狗邪韓国(金官伽耶)ではない、
對馬国(対馬)ではない、
一支国(壱岐)ではない、
末盧国(松浦)ではない、
伊都国(糸島怡土)ではない、
奴国(那の津、那珂)ではない、
不彌国(宇美)ではない、
投馬国(妻、都間)ではない場所で、
狗奴国(隈、球磨)と南で接し、
東に海を渡る場所があって、
奴国から直接南下出来ず、
不彌国から水行10日、陸行1月、
南に4000里(280km)に侏儒国(種子島)がある場所。
筑後川を北の境界とし、宇佐大分を含んで、全盛期には投馬国を含む範囲
(倭国大乱で生目に破れて以降は投馬国は手放した)、
コレが邪馬台国であると言い切れる。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:19:05.64
>>421

前提が誤りなんだよ。
畿内説は勝手な思い込み、妄想を積み重ねている。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:19:44.69
>>424
畿内だよ
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:20:36.66
>>426
九州説の妄想ね
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:21:02.92
>>425

郡使が伊都に滞在したことと矛盾する。
言っていることは畿内説なみにアホだな。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:22:05.99
>>424
根拠ないな
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:29:17.32
>>431
九州説は日本書記 無視だからね。
相違はあるがね
都合のいい所だけ記紀を引用
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:29:20.99
25日は明日香村と王寺町の明神山で狼煙の伝達イベントをやっていたな。
16キロ離れていてやや霞んでいた天候だったが、やはり問題なく確認出来たようだ。
古代の澄んだ空気と古代人の視力なら余裕だっただろう。つまり敵が河内湖にやって来ても飛鳥や桜井辺りの場所で瞬時に反応出来たという事。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:30:02.74
>>387
ヤマトか?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:31:51.41
また、大善寺玉垂命が兄で高良玉垂姫命が妹。
で最初に大善寺玉垂宮があって、
その後に高良山玉垂姫が奉られたということで、
月読命が有明海の潮の満ち引きを観測するための月齢を読む神で、
コレが伊都国の日の神の天照大御神の弟になって、
伊都国と邪馬台国が日と月の兄弟姉妹の国になる。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:33:00.60
>>435
東西五月行南北三月行も無視
範囲とか考えないのでは?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:33:09.28
>>429
何で矛盾するか。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:33:23.66
奈良も元々は銅鐸と勾玉、龍の絵画土器があり、鳥装束のシャーマンがいる場所だったんだけどな
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:36:14.33
>>405
だからヤマトだろ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:37:10.65
奈良は土蜘蛛も仲良く暮らす地だったんだろう
いつのまにか渡来人の拠点になってしまった
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:37:15.21
もう奴国は107年に制圧して、
その一族をひっ捕らえて、
奴隷として漢に朝貢している。
アンタのアタマが整理できていないだけで、
姉の国の伊都国に、一大率を置いて、
難所筑後川より北の国を管理していた地勢を理解すればいいだけの事。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:44:23.93
倭であろうが日本であろうがヤマトだよ
日本人は倭(ワ)なんて言わねえよ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:46:08.01
スサノウと荒神谷遺跡、
大国主と加茂岩倉遺跡、
大国主の國造と銅鐸の分布と時代変遷、
国譲りと銅剣銅鉾の分布と高地性集落など、
考古学的な発掘成果と、
記紀や伝承は見事に一致することが分かる。
魏志倭人伝の邪馬台国の卑弥呼は倭姫命(ヤマトノヒメミコ)として、
生目氏は伊支馬長官として、
御間城氏は彌馬升副長官として登場する。
豊受大御神は臺與として登場する。
後は考古学的発掘成果に基づいて、
記紀を解釈すればいいだけの事。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:50:15.17
中国人はちゃんと歴史を記録に残そうとしてるのに当時の日本人は酷いな
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:54:28.42
まず博多湾周辺に高天原があり、
天孫降臨族が居た。
中つ国=出雲を含む本州には大国主や大物主が居た。
先ず最初に博多湾周辺からスサノウが前2世紀に出雲に進出。
そのスサノウの持つ先進的な技術を大国主が学んで、越や木の国に伝えて國造を行う。
後に大和の大物主と結んで駿河や信濃まで、國造の範囲を広げる。
コレが1世紀中期の話し。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:54:29.70
一大卒の前身は南方刀美だと思うけどな
人が集まり胸が熱くなる、アツの話が播磨国風土記にある
南方刀美は九州で敗れたと思うけどな 
イワイの姫島などに大蛇の伝承、風土記には鹿春の里に龍骨がある話も載っている
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:58:38.20
1世紀ころ博多湾周辺にいたのは天孫降臨族じゃなくて首狩り族だろ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:58:42.69
一大率を天率と捉えて天帥と読む

これなら天帥道である五斗米道と
同じ鬼道だと思ってもおかしないね

陳寿さんw
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 00:59:33.19
>>446
魏志倭人伝
邪馬台国のみ副がない。
であとの二人は誰だろうな。
兄弟、親子?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:00:19.38
トミの一族は建物を建てるのが得意で農耕はするが稲作の技術はなかったらしい 
三内丸山遺跡はトミの一族が作った遺跡かもな
龍トーテムの遼河文明の影響が強い集落跡
東北の伝承にある龍の黒神かもな
東北の伝承通り、九州北部まで勢力を広げていたが鹿使いの赤神に敗れて北に追いやられたんだろう
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:00:24.62
ちょうどその頃の57年、
北部九州では、
奴国が覇権を握って漢に朝貢し、
金印を授かったものの、
107年には倭面土国=邪馬台国と伊都国の兄弟姉妹国が
奴国を制圧して、奴国の奴隷を引き連れて、
漢に朝貢した。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:01:16.89
>>454
朝貢したのか?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:05:06.04
元々遠賀川上流は縄文時代から九州一円に石器を出荷する石器製造の一大拠点で石神の地だったんじゃないか?
トミの一族を呼んで九州の国を纏める国作りを始めたのかもな
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:05:50.82
スサノウが出雲に進出後から、
既に安曇族の本州進出が始まっていた事が、
銅剣銅鉾分布から分かるが、
吉備や阿波など瀬戸内海周辺に進出したのが御間城氏の一派で、
河内から大和に進出していったのが饒速日尊の一派になる。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:09:57.34
伊都国の爾支が一大率だろうね

ニシ、ジシどっちで読もうと
>於國中有如刺史
シシの如し

似てる発音w
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:16:17.76
倭面土国王帥升は彦坐王か丹波道主命で、
2世紀前後にはその王子の狭穂彦王が投馬国=西都原付近まで勢力を拡大する。
その時九州南部には生目氏が勢力を張っていた。
コレは考古学的には博多湾周辺の出自の部族とは関係が無い事が、
銅剣銅鉾が分布しないことから分かる。
コレが垂仁や景行の部族で、ヤマトタケルを経て、
天皇家となる。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:21:39.10
で、この邪馬台国の狭穂彦王と、
生目の垂仁が争ったのが倭国大乱であり、
記紀では狭穂彦王の乱と言われるもので、
ここで邪馬台国の狭穂彦王が破れて死んでしまい、
邪馬台国の長官としてのし上がったのが生目氏の垂仁になる。
この時、垂仁が邪馬台国の姫達を人質にとって、
産ませた娘が倭姫命で、
この倭姫命を邪馬台国の女王としたのが、
邪馬台国の卑弥呼の女王共立となる。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:22:54.43
あれま、相変わらず活発なスレだな。
九州の古墳の分布が面白いな。
古墳前期限定に前方後円墳は
那珂八幡、赤塚、久里双と海岸線に近い
前方後方墳は内陸部の赤坂、焼ノ峠、吉野ヶ里
うきは市の双方中円墳と九州では珍しい
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:33:46.32
で、この頃、吉備の豪族御間城氏は、
先に大和に進出して行った饒速日尊と血縁を結んで、大和に進出して行った。
そして崇神が纏向に都を構え、
大物主をモモソヒメと婚姻させて取り込み、
大和を掌握して日本各地に四道将軍を派遣して、
日本を収めたのが3世紀後期から4世紀中期の話し。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:44:30.97
で、このあと、生目垂仁が、
御間城氏の有力一族の
吉備津彦の娘、播磨の姫を
息子の景行の嫁にして、
縁を結んで大和に進出して行ったのが、
実際の今の天皇家の大和進出になる。
この間に生まれたのがヤマトタケルだが、
景行が美濃に進出した際に八坂姫と婚姻して、
播磨の姫とは疎遠になってしまった。
で、播磨の姫の息子のヤマトタケルを、
景行の妹の倭姫命の養子にして、
播磨の姫の吉備津彦の一族と同盟して、
熊襲征伐を行い、そこで倭姫命が死んで、
その後に出雲を制圧して丹後に進出していったのが、邪馬台国の豊姫になる。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 01:54:18.42
前方後円墳を見て分かっちゃうのは、九州には頭ひとつ抜けた勢力はなかったって事なんだよね
それで九州説の支持者が居なくなった
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 02:27:02.84
伊都国:天照大御神
邪馬台国:月読命→彦坐王→丹波道主命→狭穂彦王→倭姫命→豊姫→ヤマトタケル→神功皇后
??→出雲:須佐能

出雲:大国主
瀬戸内海:事代主
大和:大物主

博多湾周辺→河内→大和→信濃:饒速日尊
博多湾周辺→安芸→吉備→阿波・播磨→山城→大和→四道将軍派遣:御間城氏

南部九州→邪馬台国→吉備・播磨→大和:生目氏→垂仁→景行→ヤマトタケル→天皇家
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:11:24.92
隋書に

「自竹斯國以東,皆附庸於倭」

とあり、隋書の頃も九州が倭国の中心ということは確定しているのに
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:29:18.82
阿保過ぎて
竹斯國は玄関口な
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:32:58.05
>>437

ヒノモトだろう。
命名の地は日下だからね。
もとは日本と日下と同じ地名だったのだろう。
なら共通の読みはヒノモト。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:41:49.96
>>465

どこ勢力が強いかしか頭にない畿内説のアホさが透けて見えるな。
魏志倭人伝では卑弥呼の時代はともかく、その前後は戦乱が続く不安定な政情だったことがわかる。
記紀でも筑紫は常に不安定だった。
魏志倭人伝の倭国は筑紫のことだよ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:43:55.62
>>467

> 隋書に
>
> 「自竹斯國以東,皆附庸於倭」
>
> とあり、隋書の頃も九州が倭国の中心ということは確定しているのに

南側は倭国ではない勢力がいたからだよ。
筑紫より東は全て倭つまり博多湾の天津神の領域。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 07:59:21.74
筑紫も出雲も丹後も倭国の一部
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:08:35.57
>>474
「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東讃岐+南淡ぐらい。
その倭国の中心が「邪馬臺国(粟国)」。
その「邪馬臺国(粟国)」の中心が「女王之所都」。
その「女王之所都」が鮎喰川下流域集落群   @阿波
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:10:09.85
>>472
>>473
結局、九州説は古墳時代に大和を中心とした全国政権が萌芽していたといy日本歴史の常識を否定しないと存続できないトンデモ説なのだ
まともな国民まともな学者が支持しないのは当然だ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:20:01.25
>>477
>古墳時代に大和を中心とした全国政権が萌芽していた

なんら根拠は無くても、なんとなく靄っとそう思いたい訳だな。  わははははは   @阿波
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:31:26.20
隋書の倭国の地形は東西五ヶ月、南北三ヶ月で東側の方が高地になる地形です。

勿論九州ではありませんねw
倭人伝にない阿蘇山の様子が登場するのも、ヤマト朝廷が九州南部の隼人まで同化させた事によるもの、
当たり前ですが古の邪馬台国とはヤマトと既に証明済みの話。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:31:34.64
【最新】邪馬台国の行程は北部九州で完結し、畿内説は韓国式ウリナラ起源説だったのです

史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
魏志倭人伝の「里数」表記の行程は中国側の記録で、「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり内容は一緒。
たとえば、卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた。
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

倭人は距離を里ではなく日数で表現したり、独自の呼び名で半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など
中国側が知らない地名を使っていたため、誤った解釈が記録されてしまった。

邪馬台国と周辺国: https://i.imgur.com/Z7Om5EP.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説だが、日本列島全体を指すと解釈すれば各説とも有効と言える。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:39:06.77
【基礎知識】卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏:https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
邪馬台国行程図:https://i.imgur.com/AjvTnCM.png
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:40:57.62
【邪馬台国と周辺の国】基本的に連続していますが、場所が飛ぶ事は有り得ると想定します。

1番 斯馬国は柏原市周辺、芝山は旧称シマ山、蘇我の本拠地でもあり蘇我馬子は嶋大臣と称した。
2番 己百支国はミマキ、上牧、牧地区のある馬見丘陵から桜井巻向辺り。
3番 伊邪国は伊勢国 水銀産出地
4番 都支国は津、松阪辺り
5番 彌奴国は美濃、尾張の国
6番 好古都は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴国は?
9番 對蘇国は?
10番 蘇奴国は曽爾村
11番 呼邑国は吉野
12番 華奴蘇奴国は花園村
13番 鬼国は紀伊、和歌山
14番 爲吾国は伊賀
15番 鬼奴国は木津
16番 邪馬国は山城
17番 躬臣国は近江
18番 巴利国は播磨
19番 支惟国は吉備
20番 烏奴国は広島
21番 奴国は長門、本州最西、関門を挟んで再び奴国。
つまり狗奴国が奴国の南側、九州中部になります。

邪馬台国の範囲は河内湖生駒山から三輪山辺りまで山間部、旧サンチュウ。
投馬国は旧出雲、丹波地方を含む。廣志におけ伊都とは出雲大神宮のある丹波亀岡辺り、もしくは伊勢遺跡のある辺り?

女王国は瀬戸内海周辺から紀伊半島東側まで。
つまり女王国東の倭種とは房総半島辺りを指します。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:41:20.88
鉄が溶けやすい地域で出土が少ないのは当たり前
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:42:00.15
畿内説考古学者の頭の固さは日本の学問を崩壊させるアカデミックテロに繋がる諸悪の根源である
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:44:05.91
>>485
それらの国は遠くてよくわからないとして国名だけ紹介された地域ですが?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:44:36.55
>>483
魏志倭人伝には九州の地理的特徴である火山や温泉の記述がない、逆に丹山は紀伊半島、四国にしかない。
また九州中部より南側は本州に比べて中国との交流の形跡が少なく、倭国に比定するには無理がある。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:46:50.40
>>474

倭国側の立場ではそうなのだが、中国側からすると代表である博多湾だけが倭なんだよ。
魏志倭人伝における邪馬台国とは、中国から見た倭とはどこかという話なんだ。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:47:00.00
>>488
邪馬台国の傍国だから。投馬国、邪馬台国は里数ではなく日数表記だから当然遠方の国々。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:52:24.96
【卑弥呼の住まいは?】
魏志倭人伝『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

↑誇大表現を多用して大騒ぎしてるが
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:57:49.46
>>477

萌芽だけでは倭国の代表としての女王国にはなり得ないというのが理解できないのか?
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 08:59:56.79
>>486

元素としての鉄が消えるわけはなく、錆として残る。
畿内説の頭は錬金術でも入ってんのか?
アホなのか?
アホなんだろうな。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:00:50.98
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市・伊佐早市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:02:36.08
>>484
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の「倭人(阿波勢力)」の進出地であったと見なせます。   @阿波
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:02:43.12
>>477
トンデモ九州王朝説を九州説と言ってるお前がトンデモ。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:04:14.81
>>502
トンデモ九州王朝説は
九州説の一部だろ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:05:16.43
>>500
好古都は中国人に聞くと「ハカタ」と発音するんだが?
あと長崎県の諫早市は埋立地であり、弥生時代は大村湾と有明海が繋がってたはずだよ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:06:37.71
>>501
そうか、阿波の鉄が無くなるほど進出してたのか
じゃあ当時の阿波には何があったんだ?w
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:09:36.45
>>505
>そうか、阿波の鉄が無くなるほど

心配いらん。 しょっちゅう朝鮮半島へ鉄器素材を取りに行っているから。  わははははは   @阿波
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:10:04.14
>>494
邪馬台国は畿内で河内湖から生駒、奈良桜井辺りと書いてるのだが?
普通は図解しなくてもこれで判るはずだぞ。
もしかして日本の地理には疎いとか。

>>485の傍国も三角縁神獣鏡出土地であったり、記紀に登場する古代史の主要な場所等で選んであるからな。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:13:44.94
>>507
自称学者のくせ図解すら出来ないのかよ低脳
言いがかりで反論するやつは間違いなく低脳
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:13:54.01
ちなみに>>485ではハカタの候補を?としているのは候補が複数あるからなんだ。
畿内葛城地方のハカタ、瀬戸内海ハカタ島、河内方面にもハクタは存在している。
これらは文献上は勿論九州の博多より古いからな。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:16:01.61
>>507
三角縁神獣鏡が関連する根拠は?

いちいち根拠がミラクルなこじつけでしかない畿内説はすでに破綻しているということだ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:16:26.30
>>508
あまりに酷い書き込みだな、動揺してるのか。本当に大丈夫か?

というよりそれくらいは自分で調べろよw
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:18:54.04
>>511
頭の中にある物を絵に描けない奴は学問に向いてないのは常識
ロジカル思考が麻痺してるか持ち合わせて無いからな
どこの学者だよ?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:21:04.97
三角縁神獣鏡は勿論卑弥呼の鬼道支配下にある証拠だ。
奈良県磯城郡田原本町にある、鏡作神社の御神体として初期の国産三角縁神獣鏡が存在しているだろう。
画文帯神獣鏡から影響を受け倭国用に呉の職人が新たに造ったのが三角縁神獣鏡。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:22:02.26
魏志倭人伝の方角について
帯方郡から邪馬台国までの行程説明に出てくる方角には東と南という文字しか使われていません
なので郡の東南海の中に倭人が居たという大雑把な説明も記載されています
そして編纂者の陳寿は里数を計算して会稽東冶の東に当たると推定しています
陳寿が参照した資料の行程において南が最も長距離だった事がわかります

よって南は東の間違いであるという畿内説は全て作り話という事になります
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:23:00.88
>>514
>卑弥呼の鬼道支配下にある証拠だ。

という希望的雄叫びじゃなくてその証拠を示せよ低脳
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:23:38.57
>>513
ちなみに私は絵画、グラフィックは得意中の得意で仕事にもしているよw
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:25:48.51
>>517
能書き垂れるぐらいならさっさと出せよその絵をw
いつまで誤魔化してるんだよw
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:27:30.66
呉人は4世紀結構日本列島にやってきたようだ
宗像に呉人の姫が嫁いだ話もあるし、播磨国風土記だったかに和歌山の大田の村にも住みその関係で北摂や播磨の大田の村に移ったような話があったな
呉人の娘を娶って呉を名乗り始めた一族もいる
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:27:50.70
魏志倭人伝の鬼道は勿論初期の道教、神仙思想がベースにある。
神獣鏡は当然それらを表現したものなのは基礎認識だから。
三角縁神獣鏡はそれを国産して大量に配布、その初期の物が鏡作神社に御神体として祀られてるのが証拠だ。
四世紀の神道が道教的な物に影響されたという事だね。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:34:17.50
>>504

ありがとう。
参考にする。
博多がそこに入ると順番の意味がわからなくなるけど、発音は大事だな。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:35:01.95
弥生時代後期から古墳時代前期にかけて三角縁神獣鏡の出土が多い場所は、大和、山城を中心とした畿内。
あと瀬戸内海、山陰地方、東海、そして筑紫だからな。

この三角縁神獣鏡出土エリアが女王国、投馬国、奴国という証拠となる。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:37:32.68
>>512
九州の博多や福岡は中津であり奴国、地名が後からなのは確実な話だが?
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:39:06.37
>>527
>弥生時代後期から古墳時代前期にかけて三角縁神獣鏡の出土が多い場所は、大和、山城を中心とした畿内。

つまり、「倭人(阿波勢力)」が進出した地域ってこと。   @阿波
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:39:30.84
ここまで登場した畿内説

①自称研究者(>>1)
②自称学者というアニオタニート
③卑弥呼は九州だが邪馬台国は近畿という新参
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:40:15.14
>>507

それは邪馬台国ではなく、饒速日の日本国だな。
日下江に上陸し、生駒山から国見をしたとされている。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:41:49.75
>>533
証拠は?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:42:23.65
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:43:52.47
>>533

伊都国と斯馬国をあわせて現在の糸島なように、九州の場合は古地名がかなり残っている。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:47:26.28
九州の地名なんて大半大和朝廷が征服した際に持ち込んだ物だろ、普通に考えれば判るw
阿蘇の一宮だって孝霊天皇の創建という事になってるからな。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:48:55.72
神獣鏡の分布が畿内中心の時点で誰でも理解できるよな。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:51:41.72
名神大社数も三角縁神獣鏡の出土傾向はよく似ているしな。畿内が圧倒的。
九州中部より南側は筑紫や山陰地方、瀬戸内海に比べて極端に少ない。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 09:53:09.21
もはや月刊ムーのネタしか残っていない畿内説

547 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 09:51:41.72
名神大社数も三角縁神獣鏡の出土傾向はよく似ているしな。畿内が圧倒的。
九州中部より南側は筑紫や山陰地方、瀬戸内海に比べて極端に少ない。
0549日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 09:54:27.93
>>546
畿内中心の出土傾向は妄想ではなく現実なのだが?筑紫でも沢山出てるし。
現実逃避したい気持ちは判らないでもないがw
0551日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 09:56:19.63
>>549
奈良は関係無いな

魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年~) 上狛古墳 京都府山城町
0552日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 09:57:49.19
超後世の神社まで関連付けてる無脳が1人w
完全に学問外の妄想
0553日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:00:15.98
>>544
倭国(阿波)から近かっただけのこと。  わははははは   @阿波
0554日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:00:56.89
>>547
倭国(阿波)から近かっただけのこと。  わははははは   @阿波
0560日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:28:22.76
畿内の地名なんて、筑紫の海人族が征服した時に持ち込んだものだろ。
普通に考えればわかる。
0565日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:32:33.24
国産鏡はすべて平原遺跡の超大型内行花文鏡の影響下にある。
筑紫の銅鏡銅矛文化が全国を席巻し、畿内の銅鐸文化は消滅した。
0566日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:34:29.92
鏡作神社は古くから幻の弥生時代大集落と呼ばれた保津宮古遺跡の直ぐ近所に隣接してるからな。
それにここらは孝霊天皇、百襲媛、吉備津彦の出生地だ。

阿蘇の一宮は孝霊天皇が創建したという。まあ九州は征服された側ですね。
0567日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:35:41.06
>>482
那珂八幡古墳は?
0568日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:36:34.53
北部九州は出雲勢力、つまり東国の出張先。平原は勿論出雲勢力のエリアだよ。

出雲振根も筑紫に出張していたことは文献に記述されている話だな。
0569日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:37:01.00
>>522
倭人にとっての鏡は太陽の依代であり、天照国照彦火明として祀るものである。
証拠として神獣鏡の鏡背に描かれる文様は神仙世界を表すとされるが、必ずしもその世界観を深く理解して描かれたと思えないものもある。
要はただの模様であり神仙世界など知ったことではない。太陽としての彦天火明を表現する物に他ならない神道の祭具である。
鬼道?はぁ?近接地域の宗教が影響しあうのは当たり前だが単に鏡が伝わっただけ。
0571日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:38:27.67
>>568

出雲を征服して筑紫の王権が確立されたと記紀の出雲の国譲りの物語は伝えている。
0572日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:39:11.76
>>561
当たり前だろ、対馬壹岐ときて北部九州の筑紫、それから出雲や瀬戸内海方面にかけて神獣鏡や神社数は増えてゆく。
0573日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:39:43.63
>>570
筑紫は魏志倭人伝にはないけど?
0574日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:40:06.17
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
『延喜式』の『伊勢大神宮式』でも、『皇太神宮儀式帳』でも、神鏡を収めている樋代の内径が一尺六寸三分(約49センチ)としている。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。

伊勢神宮の宝鏡は、『神宮儀式帳』によると内行花文鏡であるという。
『伊勢二所皇御大神御鎮座傳記』(新道五部書)によれば「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座である。
平原遺跡の超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないため、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これを含めた八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都平原に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
0576日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:41:19.02
>>573

筑紫の名前は出てなくても、魏志倭人伝はのちに筑紫と呼ばれることになる福岡県の栄えている様をこれでもかというほど伝えている。
0577日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:42:43.24
>>576
伝わらないな
0578日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:44:15.51
>>570
総合的に見て、卑弥呼の時代はまだまだ多くの人種が居た時代であり、多くの神代文字や言語が存在した時代
多くの宗教が混在していた時代であり、墓の形式はその被葬者の希望や宗派によって決められたと考えられる
だからどれが起源かという考え方自体が間違ってると思うよ
0579日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:46:29.28
>>571
だからそれが倭人伝が記述された時代だろう。九州にあるの出雲の出張先である伊都が海運属をバックにの独自に力を持った後の話。
以降は瀬戸内海航路が使えるようになった。なので倭人伝の投馬国とは出雲の事。
0580日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:48:17.05
>>576
それなら国産み神話でもっと最初に出てくるから。現実は普通の扱いでしょ。
0582日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:53:30.14
>>579

伊都の大率は周辺諸国から畏怖されていた。
出雲もう大率の支配下で伊都を畏怖する立場だったろう。
それは筑紫が出雲を降伏させたという出雲の国譲りの話と一致する。
0584日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:54:49.70
巻向遺跡の発掘調査なんてまだ10%にも達していないのにな。
0585日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:54:49.87
>>581

崇神天皇の宮だが、所詮は田舎の豪族。
天皇号はのちの後付けだからな。
0586日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 10:55:23.70
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 10:59:26.96
そもそも地名や伝承的には奈良盆地の宮所在地は巻向だけじゃないからな。
一番は規模がありそうなのは鍵唐古遺跡から保津宮古遺跡辺。
それに橿原から葛城山にかけてだね。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:00:19.82
高天原の天照大神が出雲の大国主に国を譲るように迫り、大国主がそれに応じたので天照大神の孫の邇邇芸が豊葦原中国の王となるために筑紫に赴いて即位した。
つまり出雲型国権を喪失して筑紫王家がそれを継承した。
0591日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:01:37.45
一大率とは中国の刺史のような人
刺史とは今の日本で言うと知事のような人
では当時の日本で知事にあたる役職と言えば当時30国または100国あった王のことだよ
0592日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:03:35.03
>>585
大王だよ。一般に天皇号は推古天皇から天武天皇あたりからが始まりだと。
田舎豪族は言い過ぎだろう。連合政権で中央集権的な絶対権力でなかったのは確かだが。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:03:57.74
奈良の保津宮古を基盤にする孝霊天皇、百襲媛、吉備津彦の伝承範囲は富士山のある東海地方から
丹波や出雲、近江、瀬戸内海周辺に淡路島、それに阿蘇にまで及んでいるからな。
これが三世紀頃の倭のエリアと見てもよいだろう。
0594日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:05:22.55
中国から見ると倭王とは博多湾沿岸の王だけなので、やはり王でも天皇でもないなら豪族としか言いようがない。
のちに畿内が政権の主役に躍り出てから後付けで天皇としただけ。
実際、纏向遺跡は伊勢遺跡などと比べても貧弱。
0596日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:07:01.22
>投馬国は、四国と推測
瀬戸内、太平洋側に徐々にシフト
兵庫〜徳島に物流や工業地帯を置く
近畿も同様に様々な形状の墳丘墓や古墳がある。
四国は有力者が少ない地域である。
丹後、吉備などが合同で開拓と推測。
出真珠青玉 其山有丹 四国と紀伊半島
女王の都だった近畿に
衰退しても唐古・鍵遺跡は残って
0598日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:07:33.99
今調査してる場所を巻向遺跡全てと思ってる奴いるのか?
後でまた恥かくだけだぞw
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:07:47.18
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:09:22.04
宮室樓觀城柵はあるけどね。
0601日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:09:52.13
>>582
実際、出雲に向かったのは素戔嗚尊の子である天穂日命なんだから平和な合併だよ。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:10:52.10
>>581
有りもしないものを想像で描いた誇大広告乙
その図の人の大きさは3歳児ぐらいだぞw
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:12:25.61
>>598
もちろん『九州王朝説』の脳腐れどもはそう思ってるよ。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:13:52.02
>>584
纒向自体はほとんど調査済み
めぼしい物があったから発掘してみたというのが全体の5%だったということ
もう掘っても大したものは出てこない見込み
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:16:57.94
>>604
「大したもの」って何?
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:16:59.82
そら纒向は古墳造営キャンプ場だからな
広い空き地(キャンプ場)の一画で建物(3棟セット)が一つ出ただけ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:20:55.23
>>594
邪馬台国らしいと思うけど
立派なもんが立ち並び、豪華絢爛とか
中心国である、とかの必然性あるのかな?
記述もないのでそういう
0609日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:21:26.99
>>606
邪馬台国らしい一部な
0610日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:22:39.22
卑弥呼の時代の倭国の姿をどうとらえるのかがポイント

九州説は九州内に限定してそれを倭国とする

魏志倭人伝では倭国の歴史が語られている
元々は男子が王だったが、その期間が70~80年後のあと倭国大乱となる
>相攻伐歴年
この暦年は8年±数年間
倭国が建国してから倭国大乱が収束するまでが78年ほど
倭国王帥升が後漢へ使者を出した107年はこの期間に含まれることとになる

つまり卑弥呼は倭国王帥升から始まる倭国の王だったということになる

この倭国大乱の範囲が倭国の版図を推測する手掛かりとなる
これを九州内に限定するのはかなり無理がある
一般的には北九州から出雲、山陰、畿内に及ぶ範囲だったと考えられている

また、2世紀には近畿地方、中国地方などで盛んに作られた銅鐸が卑弥呼の時代になって急速に作られなくなったことも、卑弥呼の時代の文化的な側面を示すとも言われている
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:22:53.04
>>600
無いよ
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:25:50.12
>>610
倭地域で一番強い国の王が倭王だろ。
卑弥呼が帥升から始まる国の王とは限らないな。
それに帥升自体の存在が大変疑わしい。
0613日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:26:12.66
>>610
成る程
丹の国内産が出回る頃だしな。
邪馬台国は近畿だな
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:27:14.38
>>612
共立ですけど?
0615日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:29:08.68
>>612
1番強ければ、卑弥呼は不要では?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:31:30.02
>>601

大国主の英断で無血幸福となったが、矛で脅しているから実質的に出雲の負け。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:31:47.29
俺も広大な敷地から未だ生活の痕跡が発見されてない事から
纏向遺跡が王宮の本命だと思ってる
でももう一つ秋津遺跡てのがあるのよね
こっちは建物跡がたくさんある
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:32:46.47
>>608

魏志倭人伝を読んだ?
女王の宮城は楼閣高しと明記してある。
纏向にはそんなものはない。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:33:58.16
>>615
「女」で戦が収まるのは王位継承問題。
国々の共立だとしたら卑弥呼の出身血統が筆頭になってしまう。
そんな共立なんてありえないんだよ。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:34:46.76
>>610

魏志倭人伝に書かれた倭国の歴史は、記紀に書かれた畿内の歴史とまったく合わないんだよ。
考古学的証拠とも一致しない。
倭国大乱も、宮城の楼閣も、畿内にはない。
崇神天皇の前後において女王の半世紀に及ぶ治世など、畿内の歴史には見当たらない。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:35:42.70
>>610

畿内の銅鐸が卑弥呼の時代に廃れたのは、単に筑紫に降伏したからだろ?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:37:17.90
>>617

崇神天皇の磯城瑞垣宮だろうが、それは瑞垣の中だけだよ。
周囲何キロもあったら、景行天皇の宮とかどうするんだよ。
0624日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:37:44.71
>>612
倭国王帥升は史書に記される倭国の最初の王
何を根拠にどう疑うというのか?
この倭国の歴史については魏志倭人伝に書かれていること
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:38:12.97
>>619

だから伊都の筑紫王家ではない卑弥呼が筑後から共立されて伊都で即位したんだろうね。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:39:04.65
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって冊封された倭王は、博多湾沿岸にいた。
それには倭王卑弥呼も含まれる。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:40:27.92
要するに畿内説は誇大妄想
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:40:35.55
しかしながら、中国から見た倭国とは博多湾沿岸のことであり、魏志倭人伝は伊都がどのように周辺国家を治めて畏怖されていたかを説明している。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:41:06.06
>>621
卑弥呼の時代確かに銅鐸は廃れてた
でもそれが何時なのかはわからんし纏向から銅鐸の破片が出てるのよ
0630日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:41:57.38
>>564
「阿波」から勧請された鏡作坐天照御魂神社を、鏡作神社と詐称する詐欺師畿内説。   @阿波
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:42:39.85
>>629
銅鐸の耳ひとかけらだけ
しかも遺構から出たのでは無い
落ちてたんだよ
0632日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:43:00.93
>>629

わからんで逃げるなよ。
畿内の威信財が筑紫の様式に塗り替えられたのだから、畿内は実質的に征服されたんだよ。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:43:06.40
>>628
>>591
0634日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:44:21.52
>>620
纏向遺跡、箸墓古墳は残っている これが考古学的な証拠
楼閣はおそらく発見されるだろう
すぐ近くの唐古鍵遺跡には楼閣の描かれた土器が出土している
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:44:27.00
>>632
纏向に卑弥呼が居たってことでいいのか?
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:45:01.56
纏向遺跡と呼ばれている磯城瑞垣宮は、筑紫から伝わった八咫の鏡を収める倉があるのが特徴。
つまり筑紫勢力が侵入して突如として成立した植民地。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:45:05.79
>>634
唐古鍵遺跡と纒向遺跡は無関係
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:46:05.36
>>624
『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「倭面上國王帥升…」とある。
また、北宋版『通典』には「倭面土國王師升等…」とある。
また、『唐類函』「百十六巻」「邉塞部一」「倭」の条には、『通典』からの引用として、「倭國土地王師升等…」と書かれている。
また、『日本書紀纂疏』の、後漢書を引用した箇所には、「倭面上國王師升等…」とあり、
『釈日本紀』「解題」の、後漢書を引用した箇所には「倭面國」とある。

本当に倭国王なのか?
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:46:17.61
>>621
倭国大乱は倭国内での乱ではなく九州の倭国と畿内の国の乱だったということか?
詳しく聞かせてもらいたい
0642日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:46:26.96
>>631
破片と二つ出てるんだけどその時代に纏向はあったってことだよな
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:46:35.88
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:47:46.11
>>636
だから纏向に卑弥呼が居たのか?
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:49:33.15
筑紫倭国における乱を収めるために卑弥呼が共立されたなら、卑弥呼は筑紫にいないとな。
神武は逃げたしたようだが。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:50:20.53
>>646
銅鐸の時代に既に纏向はあったって事だよな
0650日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 11:50:28.61
>>626
>卑弥呼の前の男王の時代70~80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
倭国の建国当初から倭国の範囲はさほど変わっていないと思う
それは北部九州から本州関東あたりまでの範囲
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:53:28.10
>>650
倭国なんて国が建国された歴史はない。
中華が勝手にそう呼んだだけ。
ヤマトに倭の字をあてるのは後の歴史。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:54:27.57
>>640
少なくとも陳寿はそう認識していた
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:54:48.26
纏向の推定年代は2世紀後半て説もある
それなら辻褄が合う
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:55:00.17
>>649
ただし

■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。

>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
>纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 11:58:10.05
>>644
銅鐸を生産していた近畿がそれを止めたのは、筑紫に降伏したためと言ったのではないのか
普通に解釈すれば、筑紫と近畿間で紛争があったという意味だと思うが違うのか?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:00:58.51
>>651
倭国王の朝貢が史書に記録された
それから卑弥呼に伝わる倭国の歴史も魏書に記されている
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:04:35.27
大倉山の銅鐸は伊勢遺跡で使ってたかどうかもわからんのよね
あの辺たくさん古い集落遺跡があってそこで使ってたかもしれん
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:05:46.92
大岩山だった
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:08:29.58
>>618
衰退しているが唐古・鍵遺跡があるけど?
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:11:09.41
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:11:59.99
>>657
>>661
それらは中国視点
Japanの事が記されてる
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:15:38.01
>>662
誰だよ。
唐古・鍵遺跡ホームページ参照しているが?
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:19:23.95
近畿説から言えばどの時代にどんな人物が居たかが重要であって
それが九州からの移住者の子孫であっても構わない
てか現状そんなの確かめようもないし
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:21:57.51
>>661
651の
>倭倭国なんて国が建国された歴史はない。
という言明は成り立たないことを認めてもらえればそれでいい
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:23:25.05
>>667
それ中国視点
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:27:02.93
>>668
君の視点ではどう言えるというのか?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:27:27.66
>>669
ヤマトの王
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:29:41.54
>>670
なるほど、ヤマトの王であれは私も納得

ただ、発言の意味が伝わるように話してほしい
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:32:26.02
>>671
お前が相手してたのは俺じゃないからそいつの真意はわからん
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:33:02.81
>>665
まあ、女王の宮城は楼閣高し
唐古・鍵遺跡、吉野ヶ里遺跡
妻木晩田遺跡 各地にあるかもね
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:34:51.38
山門(ヤマト)か、なるほど

奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来
「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だと
する説を紹介し「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」
との見解を示した。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:38:00.54
【参考】唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。

■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:38:34.67
何度もいうが田原本周辺の弥生時代の遺跡は鍵唐古遺跡だけじゃないから。
西側にも点在しているし、保津宮古の方に鏡作神社や各種伝承地が多いのだからな。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:39:44.79
>>673
そうと思うけど、
邪馬台国にしかないもんとかの記述もない。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

ここだけで、伊都国には一大卒の説明はあるが
邪馬台国には軍隊や租税とかの記述はない。
女王の都はだった邪馬台国は中心国とは思えない
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:40:04.54
>>676
古墳時代にかけても集落は健在だけど?
そもそも私も以前手伝っていたしな。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:40:25.35
>>678
「阿波」から勧請された鏡作坐天照御魂神社を、鏡作神社と詐称する詐欺師畿内説。   @阿波
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:41:42.92
唐古・鍵遺跡は洪水で流されて弥生時代後期再生して
更に規模を拡大したとwikiに書いてあるな
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:42:19.78
なんでここの九州説の一部の連中は、バレバレの嘘つくのかな?
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:44:02.13
>>678
当然だよ。代表的に上げただけだよ。
近畿には稲部遺跡、伊勢遺跡等もあるし
大阪にもある。三重には丹もあるしね
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:44:41.37
>>683
>唐古・鍵遺跡は洪水で流されて弥生時代後期再生して
>更に規模を拡大した

そしてまた洪水で埋まり、廃絶した消滅遺跡だ。   @阿波
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:45:48.20
邪馬台国の情報なんて戸数と日数表記の行程しかないからな。
プラス卑弥呼が都としたという点。その卑弥呼は民衆を鬼道で修めていたのだから、鬼道の形跡が強い場所を探せばいい話だろう。
弥生時代後期ならそんな場所は、神獣鏡が沢山出土する畿内しかあり得ませんから。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:46:15.40
>>687
こうやって考えてみると、縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って稀有なんだな。

「阿波」以外に無いんじゃなかろうか?   @阿波
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:47:50.72
>>687
おまえが言ってるのは弥生時代中期でその後再生したんだって
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:49:01.08
>>692
>弥生時代中期でその後再生したんだって

そしてまた洪水で埋まり、廃絶した消滅遺跡だ。   @阿波
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:50:11.32
>>692
再生ではなく一部再利用された、だろ
当時出て行った人たちが何百年も生きてるわけないんだから
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:50:25.67
>>693
でも、
王都遺跡が「阿波」にしかないんだから、どうしようもなかんべよ。  わははははは   @阿波
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:51:38.43
阿波なんて集計しても神獣鏡10枚程しかないんだよなw

奈良なんて一つの古墳でも軽く越える数字だろ。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:51:53.25
>>688
そうなんだよ。
立派な建物立ち並ぶとか?
鉄や絹が豊富だの?
豪華絢爛とか
記述がないのに
最初からの定義が違うのでは?
邪馬台国はこうあって欲しいという
願望定義が先行していると思うけどね
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:52:29.07
>>695
wikiには再生して更に規模を拡大したと書いてあるけど
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:53:08.10
阿波の脳内に広がる王都、誰も見たことのないオカルト王国だね。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:55:09.48
>>701
九州説もそうだろう。
鉄や絹が豊富とか?
貧弱とか?
貧弱も邪馬台国の一部かもしれん。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:56:42.03
>>702
唐古・鍵遺跡の事なんだけど?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:57:35.45
よく知られてる唐古・鍵遺跡の建物の時代のが洪水で流されたんじゃないか?
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 12:58:47.96
>>706
Wikiには学者が纒向は関係ないという記事が多く畿内説が「誰でも書き込めるので信憑性はない」と言って拒絶反応を示すのだが?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:00:19.44
>>697
倭国(阿波)王権からの下賜品を有難く拝んでおけ。  わははははは   @阿波
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:03:12.45
>>710
嘘が書いてあると言うのであれば証拠を出せば良いだけ
証拠が残るものだから
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:05:31.80
巻向遺跡と箸墓、鍵唐古遺跡なんて目と鼻の先、歩いても30分かからない距離だからな。
しかも大和川でも繋がっていて、弥生時代後期の古道跡まで確認されているから。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:07:57.50
【卑弥呼の住まいは?】
魏志倭人伝『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

↑誇大表現を多用して大騒ぎしてるが

おまけ
[奈良県]唐古鍵遺跡の建物
https://i.imgur.com/yUsOFWO.png

宮室ではなく監視用の物見やぐらでは?
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:09:27.83
更に奈良盆地でいうと遺跡集中場所は巻向や鍵唐古の辺りだけではないからな。
葛城や橿原、馬見丘陵に集中している。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:10:26.10
纏向遺跡と唐古・鍵遺跡は出土する土器が違うらしいわ
関係ないかも知れんし存在する目的が違うんだろう
これは伊勢遺跡と周辺集落も同じだろう
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:10:36.79
吉野ケ里の復元資料には鍵唐古遺跡の物が使われていますw
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:12:43.93
>>719
唐古鍵遺跡の土器に書いてあった楼閣をモチーフにした
のは寺〇だが?


ちなみにこういう考え方もできる
佐賀で見た楼閣を土器に描いて奈良に持ち帰った
そしてミニチュアを建てた
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:12:44.67
>>717
バラバラでもないよ、保津宮古遺跡や藤原京のように、遺跡の下にまた遺跡がある場所が多いからな。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:12:56.02
>>719
物見櫓みたいなやつだろ
吉野ケ里が参考にしたとは思えない
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:13:10.24
>>714

吉野ヶ里の建物は韓国人は喜んだ
日本の中の古代韓国なんだから
だから関西の在日も喜んで何度も貼っている
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:15:06.00
>>714
唐古・鍵遺跡と吉野ヶ里遺跡
両方とも何度か行っているが
規模の違いだけだよ。
で邪馬台国は吉野ヶ里でいいのか?
或いは伊都国か。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:16:05.25
>>724
後漢時代は100国だったからな
しかし卑弥呼時代に仲良く朝貢に出たのは九州一帯の30国だけ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:16:37.22
>>718
唐古・鍵遺跡は古くからいた勢力
纏向遺跡は倭国大乱のあとに他所からきた勢力

戦国時代のあと徳川家が諸大名を従わせ、主要な地域に徳川の一門や側近を派遣して統治させたように
倭国大乱を経て北部九州から南関東を統一した何者かが、主要な地域に統治するための大規模な役所を作った可能性はあると思うわ
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:17:38.50
>>726
邪馬台国は北部九州一帯だと言ってるのに何言ってんだよ今頃
このスレで吉野ヶ里単体を邪馬台国とする説がどこに書いてあるんだよ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:18:17.83
>>728
だから伊勢遺跡から来たんでしょう
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:19:18.21
>>723
古代韓国(百済や伽耶の祖)と一緒なのは褒め言葉
古代韓国を滅ぼして現在の韓国ができた
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:19:34.82
資料なら家屋文鏡もな。これも奈良の馬見丘陵北部、佐味田宝塚古墳の出土だよ。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:22:34.70
秋津遺跡は興味深いよな
室秋津宮は孝安天皇と押媛、五十坂媛の宮があったのだろうか?
安という字は新婦が廟に座っているという意味の漢字だな
孝の姫が嫁いできたのだろうか?
室の意味とも合致するな
押媛の子は大吉備諸進命なので吉備と関係するのかもしれない

大吉備諸進命が卑弥呼の次の男王で、吉備と孝の姫の子かもしれないね
孝とは何なのか?という謎もあるが
孝徳天皇、光孝天皇も孝がつく‥
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:22:38.36
>>714
吉野ヶ里と唐古・鍵遺跡
姉妹都市みたいな関係じゃないか?
ト骨も唐古・鍵遺跡から出土。
吉野ヶ里から案外近い
所から弥生後期以降のト骨が出土。
吉野ヶ里から近畿系の土器も出土。
前方後円墳より先に前方後方墳とか?
絹も滋賀の稲部遺跡出土と個人的には類似とみている。乱で逃れた人々が移動してとか?
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:23:23.20
>>716
洪水埋没遺跡ばかり。  わははははは   @阿波
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:23:48.66
吉野ケ里復元には他地区、特に奈良の物も多いの知らない奴が増えたのかな?
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:24:09.71
>>732
元寇の時、日本への進行を妨害していた「三別抄」という韓国独立派組織も今の韓国人に皆殺しにされたんだよな
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:26:40.65
卑弥呼が天照のモデルなら卑弥呼の次の男王は孫世代で天照国照という仮説も考えられる

国津の孝の姫と、天津の吉備の男の子なら天照国照でもおかしくはないな
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:27:22.57
そもそも吉野ヶ里という名前自体がね。
奈良の吉野は神武先導役だった珍彦、その母親井光媛がいた縄文時代から栄えていた場所だからな。
水銀朱産出場所なんだし。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:27:59.06
>>741
何も全ての時代で全部一致することはないし
二世紀以降の話だよ
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:28:24.44
>>740
土石流   @阿波
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:28:38.29
>>650

倭国建国をいつだと思ってる?
福岡県内の弥生王墓は紀元前からあるのだが?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:29:44.48
>>744
有明海沿岸から大村湾まで長期間にわたり継続してい遺跡が多いね
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:30:24.80
>>744
>水銀朱産出場所なんだし。

「阿波」の辰砂採掘技術集団によるものだな、高齢中よ。   @阿波
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:30:32.87
>>744
佐賀、長崎に丹山神社多いな。
宇佐同様に交流はあるだろうな
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:31:02.43
>>732

いや、褒め言葉というか、
韓国では
「吉野ヶ里出土遺物は韓半島の農耕文化が日本に伝来し、
古代日本の社会の発展に影響を及ぼしたことを示す貴重な資料だ。」
「当時、青銅器時代?初期鉄器時代にあった韓半島の農耕文化が日本に伝わり、
日本の古代文化の発展に大きな影響を与えたことを示す遺物である。」
と紹介してるのだから、そら喜ぶ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:33:32.89
二上山がサヌカイトや金剛砂、サファイアまで鉱物資源の豊富なのは有名だしな。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:34:05.54
>>752
弥生時代だ。   @阿波
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:35:30.53
>>656

それは記紀をよく読めばわかる。
出雲の国譲りで国津神は天津神に降伏した。
畿内にいた長髄彦は国津神である事代主の末裔で、天津神である天孫饒速日に戦うことなく服従したんだよ。
神武に対しては饒速日の指示で戦ったが、饒速日が神武を同じ筑紫の天津神と認識して戦闘終結を指示した。
だかこれらは中国の視界の中にない地方での出来事に過ぎない。
魏志倭人伝における倭国大乱は、筑紫における戦乱であり、神武らか筑紫を出る理由となったもの。
その詳細は日中どちらの史書にも記録がない。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:36:13.86
>>751
それあながち間違いじゃないだろ
縄文人が独自に米作りを始めたわけではないんだし
中国から半島を経由して伝わった物や文化も多々あるわけで
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:36:17.50
卑弥呼の次の男王の時代は内乱が起きて邪馬台国と狗奴国の和睦成らずか
次は台与だな
トヨウケは摂津北部にいて障ることがあり丹後に戻るんだよな

トヨウケは最終的には富士の辺りに
伊豆は猪の拠点だったとこかな
片目の猪、事代主と関係するのか?
思ったより早く鶏が鳴き事代主が妙な動きを始める
事代主が、豊の玉を使ったんじゃなかろうか
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:36:40.93
>>660

唐古・鍵遺跡の時代、畿内と中国の間に国交はない。
後漢代の倭とは狗邪韓国から倭奴国までの間だけ。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:37:55.41
>>666

考古学的にわかるだろ?
畿内の銅鐸は打ち捨てられ、筑紫の銅鏡銅矛文化が畿内を制圧した。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:38:23.33
ちなみに葛城辺りに希少な銅な出る場所があったとも言われてるのだが、土地は某著名人が現在所有しているという話。
残念だがこの詳細は全く不明。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:38:29.17
>>751
あれ、最近の研究と違うんじゃないか?
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:39:07.59
>>758
唐古・鍵遺跡では中国の銅を原料に銅鐸作ってるから
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:39:32.74
>>743
ひ孫じゃね?
下手したらひひ孫
外戚や臣下が血筋のよい幼児や子どもを王に祭り上げるパターンもありがち
古代は10代で子どもを作るのが普通だし、下手したら12歳くらいで親になってる
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:41:10.38
>>698

鉄鏃を使う兵士が高い楼閣がある宮城を守備していたんだよ。
魏志倭人伝を読み直せ。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:41:30.84
鶏が何らかの理由で予想外に早く敗れて朝を越え東国に避難し、事代主が動くというストーリーも考えられる

鶏は鶏冠は古代はサカと言っていたようだ
地域によっては鶏冠のことを烏帽子と呼ぶ
千葉辺りから烏帽子を思わせるとんがり帽子を被った埴輪が出ている
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:41:52.63
>>759
それだと纏向の時代と卑弥呼の時代が合って来るしそれでいいなら
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:42:05.93
そもそも銅鐸自体がね。中国、むしろインド東側辺りの影響があるはずだからな。
これはたたらや占いも同じ。

九州説の視野の狭さには呆れるしかない。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:43:55.47
>>766
卑弥呼の時代が拡大期になる
洪水の後再生して古墳時代も続くんだから
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:45:04.36
古代日本列島に渡ってきた人を一緒くたに渡来人と表現すると、
・魏と交流した頃の倭国民は呉越から渡った渡来人だったと記録されている
・しかし東の倭種の国は半島から日本海沿岸部へ渡った渡来人だったと考えられる

半島系固有遺伝子の分布
https://i.imgur.com/1Wcwctg.png
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:45:42.28
>>714のように関西の在日朝鮮人からしたら
日本固有の大規模前方後円墳や纏向遺跡じゃ朝鮮人が喜ぶ要素がほぼ無い
日本の中の古代韓国の吉野ヶ里なら大木を立てた民族の祭祀もあり
在日朝鮮人の大先輩であるからとても嬉しい
だから何度でも貼り続ける
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:47:47.84
卑弥呼の次の男王で内乱が起き、トヨウケには何か障ることが起き、誰かが和睦の邪魔をしていたのか

旧体制が主導する和睦をよしとしないグループがいたのかもな
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:48:06.54
>>730

伊勢遺跡は筑紫に降伏した出雲のもの。
神奈月に新嘗祭をするために各地の首長が集まったので、高殿がたくさん円形に並べられていた。
しかし伊勢遺跡が衰退して日本海側は筑紫伊都の一強となったことが考古学的にわかる。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:48:31.74
>>758
畿内説でもないが
なんで断言できるのか?
不思議なんだけど?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:49:30.85
>>780
全く根拠がないな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:50:11.63
>>774
中国系固有遺伝子の分布は?
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:50:27.53
これか

中文が読めない
反論は出来ない
中傷と妨害しか出来ない
対話が出来ないコミュ障の特徴丸出しで安価不使用のつぶやき連発
口に出す悪口は自分に一番に該当
当然ながら何事にも証拠は絶対に出さず、出せと言われると逆ギレしてワメき出す
行き詰ると脳内幻覚に現れる九州王朝説と戦いだす
事実に対し、証拠は?と聞き返す癖がある
理由も言わず他説はウソと 呟く
これ、畿内説統一教会信者の特徴
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:51:23.93
>>750

> >>744
> 佐賀、長崎に丹山神社多いな。
> 宇佐同様に交流はあるだろうな

それで九州と畿内とどちらがオリジナルかといえば、九州の方が圧倒的に全て古いわけで。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:53:00.64
>>785
地勢的なもんだろー。
古いだけではなんら証拠にもならん。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:53:48.50
>>763

銅は列島各地に広く分布していたから、別に畿内だけのものじゃない。
何の根拠にもならない。
畿内が九州北部を無視して大陸と交渉できるわけないだろ。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:56:27.64
>>787
鉄もそうだよ。関東まで出土
絹も滋賀にもあるし、
九州説の根拠にもならない。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 13:57:18.76
>>781

後漢書

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族、倭の別種である。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:00:25.00
一昨年発表された母系遺伝子の研究によれば母系から見ると日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別されるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重愛知岐阜静岡、東北富山石川和歌山
それ以外は混血の傾向が強いが、京都大阪が1番近いのは東北グループだった
東京を含め関東は東北とは離れた位置という興味深い結果だった
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:00:51.39
>>789
その場合纏向は卑弥呼の時代にあったことを前提に話をしてもらわないと
因みに俺は纏向は王宮だけど箸墓の時代はズレてると考える
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:01:08.00
>>791
残念ながら
大倭王は邪馬台国にいただな。
共立で九州だな。
翡翠、真珠、青玉、丹
がなければ鉄も輸入できない。
物流網や経済だよ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:02:27.82
>>792
そもそも伊勢遺跡と出雲の関係が不明
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:02:50.44
>>790

滋賀は出雲の勢力下たからいろいろあるんだよ。
でもそこは畿内ではない。
そして出雲は降伏して筑紫の王権の一強時代となり、卑弥呼の平原遺跡で絶頂期を迎えた。
あの圧倒的な財宝の量は弥生時代でもトップクラス。
それに肩を並べるのが直ぐ近くの三雲南小路遺跡だ。
どちらも伊都国にある。
もうね、考古学的にはそれだけの威信財が集中する倭の王都は伊都しかないの。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:03:56.06
>>793
銅も地域差あるが?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:04:08.84
畿内は東北の伝承にある龍の黒神、或いはアラハバキの母系の影響が比較的強いのかもな
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡から龍の絵画土器が見つかっているし
三内丸山遺跡もこのグループか?

東北北陸大阪京都は昔から身長が高いんだよな
トミの一族は身体が大きかったと言われている
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:04:43.59
>>798
べつに畿内説ではないと言っているが?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:05:59.87
>>774

奈良に頻度が少ないということは
L682は早くても平安時代以降からの流入ということだな
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:06:08.67
>>793
量が多い所が邪馬台国という記述もない。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:08:09.84
>>791
後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國

さて魏志倭人伝との照合は?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:08:52.80
>>797

焼きレンガは出雲の系列だけ。
あと、高殿をたくさん並べて各地の首長を集めていたのは、出雲の新嘗祭しかないたろ。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:09:28.29
>>774
在日朝鮮人の影響じゃないか

大阪は今でも日本一O1b2の割合が低いけどね
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:10:26.91
>>806
狗奴国=反奴国の国という意味
後漢時代に対立していた国が東(出雲?)にあった
魏の時代は南の熊本が対立していた
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:11:26.65
伊豆や関東の青銅器や鉄は何処から入ってきたものなのかって事
勿論阿波かも知れんが日本海側は考えにくいかな
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:12:20.38
>>808
今でも大阪人だけ日本で浮いてるだろ
自意識過剰で何でも起源を主張するという某隣国と同類扱いで
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:12:22.80
>>807
焼きレンガは伊勢遺跡以外は出土例がない
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:13:33.80
>>809
拘だよ。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:15:45.65
アジア圏で有名だな
旅行に来た日本人は何とかして現地語で話そうとするが、中国人と大阪人は意地でも自国語で話し続けると
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:16:28.21
>>809
魏志倭人伝 東千里はどこ?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:16:39.23
>>810

江島神社も鹿島神宮も筑紫の神を祭るのだから、筑紫から海人族が運んだに決まっている。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:18:59.54
>>814
1人ごと?
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:19:58.46
>>817
近畿や阿波にもあるから
てか輸入したのは日本海側の出雲だと思ってるよ
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:20:15.38
>>818
勝手に丸をつけただけ。
猿以下だな
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:21:20.14
大阪のYDNAハプログループは
O1b2a1a1(O-CTS713)の17.5%とD1b1a2の15%が多いようだな
O1b2a1a2a(O-L682)は5.8%
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:22:42.30
>>821
バカだから、仕方がない
繰り返しだけの九州説w
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:27:48.62
>>817
>江島神社も鹿島神宮も筑紫の神を祭るのだから

嘘はいかんぜよ。 勿論、「阿波」の神様だ。   @阿波
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:31:05.90
出雲の国譲りより前は、出雲が甲斐路を通って内陸から武蔵に進出しようとしていた。
それが関東最古の大社、鷲宮の縁起に書かれている。
しかし出雲の国譲りから後は筑紫の海人族が関東に進出した。
鹿島神宮と香取神宮は香取海の入り口を南北から守る鎮守府たった。
鹿島香取の祭神は出雲を攻め落としたのと同じ武甕槌と経津主。
両者は奈良の春日大社にも祭られている。
武甕槌は神武が大和を攻めた時にも登場する。
大和を支配していた饒速日物部氏が石上神宮で祭っていたのも経津主であった。

畿内も関東も、出雲の支配から筑紫の支配に切り替わった。
出雲の国譲りが全国に波及したのだろうね。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:31:56.59
また、近年では2019年5月13日に国立科学博物館により発表された話だが、
いまの日本人のDNAを全ゲノム解読できるようになった結果、縄文人由来のものは10%程度にすぎず、
紀元前から朝鮮半島より渡来した弥生人と混血したことが示されている。

じつは、ほかにもさまざまな人々が日本列島に渡って混血してきたという説も唱えられているが、
その後も弥生時代から飛鳥時代にかけて、多くの人々が百済や高句麗などから渡来し、大和政権で
大きな役割を果たしていたことはよく知られているとおりだ(この時代に大量に流入した
東アジア系の人々を古墳人と呼び、現在の日本人の遺伝子と最も近いという研究も存在する)。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:32:40.16
関東の歴史がかなり重要な気がするんだが何せ記録が消されている
武蔵国風土記とかあればいいんだが
寒川神社の御神体の猪の頭も謎だしな
関東の歴史に詳しい人いないかな?
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:32:40.54
>>824
日本海含んで30カ国も成り立つしな
阿保過ぎて、返す気もない
翡翠等の輸出品とか
物流経路の確保とかの側面も当方は考えている
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:32:51.36
>>820

卑弥呼の時代は出雲は通商能力を失っていて、貿易の要である対馬海峡の制海権は伊都の大率が掌握していた。
出雲からは、伊都にあるような財宝は見つかっていない。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:34:15.37
>>827
倭国(阿波)王権は、百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を利用して、8世紀に避難疎開遷都した大和朝廷へと発展させた。   @阿波
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:34:30.53
つまり卑弥呼時代の日本は
西から
縄文系倭人----半島系倭人----縄文系倭人

という並びであり倭種と呼ばれたのは「半島系倭人」に言語などの違いが見られたためだろう
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:35:21.76
>>833

魏志倭人伝では制海権は伊都が掌握し、抜け荷などがないように厳しく検察していて周辺諸国から畏怖されていたそうだ。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:35:59.64
普通に考えたら関東特に北関東は東北の影響が強いはずなんだが
何で距離的に遠い和歌山大阪京都より、東北と離れた遺伝子なのか?
関東で何が起きていたのか?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:36:12.42
>>827
倭国(阿波)王権は、百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を利用して、8世紀に避難疎開遷都した大和朝廷へと発展させた。   @阿波
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:36:25.75
>>834
一大率とは中国の刺史のような人
刺史とは今の日本で言うと知事のような人
では当時の日本で知事にあたる役職と言えば当時30国または100国あった王のことだよ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:36:41.86
>>836

そもそも水稲稲作文化が上陸して普及し始めるのは博多湾からなんだよな。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:36:59.02
>>837
だから何?
大倭を使いとあるだろう。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:37:42.71
魏志倭人伝に大和も登場してるから安心しろw

「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:38:44.40
>>834
出雲から財宝思いっきり出てんじゃん
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:39:31.29
>>844
丹後もあるけど
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:40:14.09
>>840

実質的には王だろうけど、中国の史書としては、王とは皇帝が指名したただ一人の人物に限定されるので、倭の場合は卑弥呼だけを王と呼ぶ。
魏志倭人伝においては、強いから王とか、実質的に支配しているから王というわけではなく、あくまでも中国にきちんと朝貢して親しくした代表者が王。
まあ、そこを一番理解できていないのは畿内説なんだけとね。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:40:48.48
>>846
高価であろう青銅器が沢山出てんじゃん
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:42:26.84
>>844
近江には九州にも丹後にもなオルドス剣も出土
丹後では鉄剣がまとまっての出土もあったな
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:43:24.58
>>848

青銅器はどこにでもある。
それに贅沢品ではなく実用品なので、財宝ではない。
そもそも荒神谷は出雲が降伏して武装解除した痕跡だろ。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:44:45.66
>>849
いつの時代だろうか?
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:44:45.99
>>847
その通りで中国には皇帝がいるだけなのよ
だから刺史の様に見えたんであってそれが王だと思わなかった
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:46:11.49
>>851
祭祀用であって実用品ではない
0855日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 14:48:00.30
>>851
滋賀の大岩山、淡路島の銅鐸もかな?
銅鏡国産品の材料とか?
0856日本@名無史さん
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2023/02/26(日) 14:48:48.20
>>714
唐古鍵遺跡の楼閣は遺跡で発見された土器の模様を基に復元したもの
また、吉野ケ里遺跡の楼閣はこの唐古鍵遺跡出土の土器の模様をもとに復元したもの
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:49:53.42
実用品は鉄
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:50:43.58
>>847
当方は近畿説
卑弥呼が九州へ
共立だしな。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:50:45.14
>>852

神武が卑弥呼と同じ200年頃なら、それより数世代前、伊都国が栄え始める頃、後漢に朝貢していた頃だろ。
筑紫の倭奴国が倭人の代表となった頃。
三雲南小路遺跡に木花佐久夜毘売が葬られた頃。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:50:58.21
>>856
吉野ケ里のは土器の絵と全然違うよな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:52:11.78
>>859
となると出雲は倭国になるが?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:53:57.22
>>834

平原蘇塗跡1号は200年頃だから女王卑弥呼の前の時代の
馬韓系祭祀の遺跡
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 14:58:31.52
>>861

日本人から見たら出雲も倭国の一部だが、中国は博多湾沿岸しか相手にしていない。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:01:08.54
>>755
その文言と>>621がどうつながるのか?
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:01:52.58
>>863
阿保過ぎだな。
其餘旁國遠絶 不可得詳
定かではない。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:02:59.65
>>863

3世紀前半の女王国の構成国奴国の中心地博多の首長層は纏向と同じ前方後円墳と供献土器
糸島は女王国に30年ほど隷属した小国伊都国
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:03:14.04
>>759
筑紫と畿内との間に紛争があったということか?
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:07:38.23
世界規模の天候不順で役立たずがってことで銅鐸が捨てられたような気がするけどな
銅鐸に代わって銅鏡になった証拠もない
銅鏡を何に使ってたかもわからんし
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:11:13.46
>>780
伊勢遺跡は縄文時代から室町時代にかけての複合遺跡
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:12:26.73
>>870
そうかもしれんが唐古鍵遺跡で銅鐸作ってたからな
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:14:26.39
>>871
その場所に人が暮らしてた痕跡があるだけでそれはちょっと違う
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:14:32.10
奈良県桜井市の大福(だいふく)遺跡で、弥生時代後期~古墳時代前期(2~3世紀)の筒状銅器が出土し、
市文化財協会が22日、発表した。槍(やり)や杖(つえ)の柄の部分の装飾品とみられる。
銅鐸を使用した祭祀(さいし)が終わる時期にあたるため、
協会は、銅鐸(どうたく)を壊してリサイクルした副葬品の可能性もあるとしている。

https://www.sankei.com/article/20130423-ZOTTP7BRGFKU7EYWSRUTT26DGE/
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:17:55.25
>>869

記紀に書いてある。
三種の神器として榊に掛け、船の舳先に立てていた。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:21:43.75
>>876
記紀に書いてあるんですか?
こりゃまたまいりましたなあ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:21:55.88
>>798
いつ出雲が筑紫に降伏したのか?
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:22:10.57
山誉め歌で夜間に王の船をそれと認識できたのは、三種の神器が掛けてあったからだろうと思う。

志賀島の倭王を讃える山誉め祭りの神楽

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや

別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

安曇の君=博多湾沿岸の倭王
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:25:15.78
>>877

日本書紀の景行天皇と神功皇后のところにそれぞれ出てくる。
あとは、崇神天皇が同衾していてうなされた話とか。
なので、現在では天皇が八咫の鏡と同衾するのは即位の後に一夜だけ。
こらは今上もやっているはず。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:34:53.37
>>828
神話を捻じ曲げて解釈してとにかく筑紫の支配に結びつけようとする
あきれ果てる
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:39:08.46
吹上の浜は現在の吹上御所の名前の由来だよなと思って調べたら、鹿児島県、兵庫県淡路島、和歌山県、静岡県などにもあるのな。
これ、香椎から出発した海人族の足跡だろ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:40:54.56
>>882

反論になってない。
出雲が優勢だった時代もあったことは認めてあるだろ?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:43:37.45
>>885
根拠がなんもない
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:46:51.88
>>886

何についての根拠?
銅鐸が廃れて、筑紫の銅鏡銅矛文化が西日本も東日本も席巻した事実で十分だよ。
ああ、天皇家がレガリアとしているのが筑紫の王墓と同じ三種の神器であることも重要かな?
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:48:09.18
>>863
日本から見た倭国とはどの範囲を指しているのか?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:51:29.16
弥生時代とは、博多湾沿岸に成立した倭国王権が全国に進出して、水稲稲作を広めた時代と定義を変えた方がいい。
博多の天神すなわち天津神が中国の史書では倭王と書かれていたわけだから、倭王卑弥呼も博多湾沿岸でいいたろ。
王宮は博多湾沿岸であちこち移動したわけだから、どこかは知らん。
伊都でも香椎でも高良でも太宰府でも。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:52:31.45
>>875
ゆがめた神話の話を史実のように言うのはやめてもらいたい
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:53:22.25
>>888

内部でははっきりとした境界なんて認識できないだろ。
筑紫、出雲、越などの緩やかな連合体だから。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:54:58.03
>>880
神話の話を史実のように言うのはやめてほしい
しかし筑紫がどこから出てきたのか?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:56:31.53
>>885
君の話は反論にも値しない荒唐無稽なもの
恥を知れ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:58:40.61
筑紫を統合するどころか席巻するような政治権力は無かった
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:58:45.41
>>891

反論になっていない。
畿内はもともと登美の里と呼ばれていて、出雲の事代主の末裔である登美の長髄彦が治めていた。
そこに出雲を下した天神の子である饒速日がやって来て、長髄彦は饒速日を主として迎えた。
饒速日は生駒山から国見をして、その地を日本と呼んだ。
そこへまた筑紫から天神の子として神武が来たわけだ。
どこか間違っているか?
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 15:58:59.65
>>887
当時たくさんあったものが重要とは思えない
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:00:55.31
そもそも優勢とか何の話なんだ?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:01:28.41
>>895

倭国の政情が不安定だったのは魏志倭人伝にある通り。
しかし卑弥呼の時代だけは比較的安定していた。
それは平原女王の膨大な副葬品を見ればわかる。
伊都は完全に交易品を独占してあた。
魏志倭人伝にも、伊都の大率が周辺を検察し、には確かに女王の元まで届いたと書いてある。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:02:54.95
>>892
国を語る場合まず地勢的な位置が問題となる
それをはっきり認識し出来てから、すべてが始まる

出雲、越も倭国としているなら九州限定などとはとても言えない
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:04:54.57
>>893

出雲の国譲りを経て天孫が豊葦原中国の王となったのは筑紫においてだった。
つまり筑紫にとってはここで政権交代が一度起きている。
しかし高天原の天照大神も、そもそもは筑紫の生まれ。
出雲の祖である素戔嗚も筑紫の生まれ。
分家を含めた争いがあり、筑紫の王統が入れ替わったことが記紀に書いてある。
しかし、大事なのは筑紫にいることだった。
筑紫の支配者であることが倭王たる条件。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:05:26.52
出雲で玉類を作ってた頃近畿では廃れてるのよ
だから主に買ってたのは九州の豪族だと考えられるけど
これどっちが優勢なんだ?
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:06:46.37
>>900

地勢的に圧倒的に有利なのは博多湾。
ここを抑えないと中国と国交を結べず、倭王として冊封さらることもない。
そもそも中国から見た倭とは、後漢書にあるとおり博多湾沿岸のことだし。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:07:25.20
それと中国から青銅器が手に入りにくくなった事も考えられる
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:07:33.67
>>896
それがどうして筑紫と出雲の間の紛争になるのか

国見をして呼んだのは「倭(やまと)」
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:09:25.92
>>902

その九州にいたのが倭王とその一族だろうよ。
もっとも、平原遺跡を見る限りでは九州の方では中国からの玉の方をより珍重していたようだ。
つまり九州においては出雲も畿内ももはや取るに足らない相手だった。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:12:23.61
>>904

畿内など西日本には中国から青銅器が入りにくくなっていた。
全て九州北部が独占するようになったから。
平原遺跡など伊都には膨大な量の青銅器も土器も宝飾品も輸入され続けていたが、他の地域には出回らなかった。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:12:33.10
>>906
だから何を根拠にどっちが優勢なんだ?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:14:29.94
>>901
天孫降臨の時の話なのか
あきれる
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:14:40.23
>>905

饒速日は筑紫の生まれで、宇佐で船団を二つに分けて、瀬戸内海を通じて畿内に上陸したとされている。
上陸地は日下江と交野で、どちらも当時は海に面していた。
登美の長髄彦は饒速日を主人として迎えた。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:15:39.01
>>907
もうちょい後の時代な
中国と国交がなくなるからな
てか魏の時代も漢代より手に入りにくかったんじゃないか?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:16:55.87
>>910
日本史の板で神話を史実のように語るのはやめてもらいたい
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:17:42.10
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり饒速日物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260~280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:18:54.04
>>908

国内からの富も国外からの富も、九州北部に集まっている。
出雲には何も残されていない。
畿内も何もない。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:21:22.69
>>911

魏は大量の鏡を送っているぞ?
平原遺跡にはたくさんの鏡がある。
一部は国産だが、その材料はどこから手に入れた?
魏の時代は銅の輸入は不足していない。
ただ、九州北部にしか出回らなかっただけ。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:23:33.79
>>914

> >>899
>
> 平原蘇塗跡1号は200年頃

年代推定には幅があるよね。
ピンポイントで年単位の推定はできない。
200年頃というのは、つまり卑弥呼の時代の女王墓だということ。
卑弥呼は倭国大乱後の190年頃までには共立されていたはずなので。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:26:24.18
【平原遺跡の年代】

副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
特に耳璫は女性専用の飾りであると考えられている。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢との交流が途絶えた倭国乱より後の様式である。
技術的には古墳時代に多くみられる国産の大型内行花文鏡に属する。
玉と鏡に刀を一振りだけ加えてあえて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王の地位にあったことがわかる。
寺沢薫氏ら畿内説の学者を含め、平原遺跡が王墓であることに反対している学者はいない。

平原の管玉と同類のものは日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は共伴している土器や鉄器から3世紀前半から4世紀と考えられている

耳璫は漢末六朝初期(2世紀末~3世紀)に流行した形状である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。

周溝から出土した土器片が庄内並行期と見られることから、200〜250年頃である。
鏡の編年で言えば、舶載鏡であることがほぼ確実な内行花文鏡・虺龍紋鏡の「長宜子孫」銘は漢鏡最後の第六期(〜190年)に多く見られるものであり、平原遺跡はそれ以降といえよう。
また、国産の超大型内行花文鏡はその後の畿内の前方後円墳から出土する大型内行花文鏡の先駆けである。

結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
卑弥呼の前の倭王は男王とされているので、その年代の倭国女王は卑弥呼と壹與しかいない。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:28:33.81
>>919
史実でなければ語る価値がない
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:29:35.28
>>922

後漢時代なら後漢鏡を収めれば十分だった。
しかし後漢からの鏡の入手が困難だった時代がある。
倭国乱と公孫氏の時代だ。
平原遺跡はそれよりも後の時代、しかも独自の技術発展をする余裕を経て、魏との交流再開で材料も潤沢に手に入るようになった後の女王墓。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:29:51.01
>>921

伊都国が女王国に隷属したのは30年くらいだから
平原蘇塗跡1号の200年頃はまだ女王国とは関係ないころに生きていた馬韓系の商人あたり
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:30:18.95
>>924

考古学的証拠と絡めて離しているのだから、史実でないと言い張るなら根拠をどうぞ。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:32:27.99
>>926

200年頃というのは、前後に何年ほどの誤差を見込んでいいのか?
また、その科学的根拠は何か?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:33:22.07
>>923

学術調査の結論では200年頃
有害荒らしど素人が年代を決めて連呼しても何の意味もない
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:34:35.88
>>927
君の狂気には付き合いきれない
神話を史実としているなら、一人だけでその世界に浸っていなさい
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:35:34.14
>>929
自分では調べもしないの?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:39:22.22
我が国の歴史とは何の関係もないけれども
平原蘇塗跡1号のサビ色塗装鏡群は、
何で製作工程でサビ色に塗装したのか?は今後暇があったら奈文研あたりで分析されるだろう
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:46:17.58
地理的に高麗盗人が横行した海域と島なので
3世紀の倭国でも問題視されて糸島に一大率を置いたのだろうな
弥生前期から国造りより盗品集めてる首狩り甕棺墓がある土地柄だから
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:50:57.82
>>935
一大率とは中国の刺史のような人
刺史とは今の日本で言うと知事のような人
では当時の日本で知事にあたる役職と言えば当時30国または100国あった王のことだよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:54:57.06
>>937
王が居るんだから置く必要もない
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:56:32.52
>>938
もっと上位の他国の王が、必要あって置いたんだよ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:58:29.22
>>940
だったら置いたのは卑弥呼じゃない
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 16:58:58.35
>>941
伊勢遺跡だ
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:00:55.34
>>943
>伊勢遺跡だ

しがない消滅遺跡なんだがww   @阿波
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:03:06.50
>>945
綺麗に掃除して出ていったんだよ
神聖な場所だから
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:03:47.46
>>930

根拠を聞いているのにな。
答えられないのに200年頃と信じるのならカルトと変わらない。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:05:44.51
平原遺跡に関してはなあ、最近造ったんじゃないの?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:10:22.34
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:10:26.48
>>931

出雲がなぜ廃れたのか。
なぜ荒神谷に大量の武器を放棄したのか。
なぜ大国主が降伏したという説話が記紀に書かれたのか。
事実だと仮定して何も矛盾しないし、むしろいろいろ合点がいく。
制海権をめぐる争い、国交を結ぶ代表権の争いのいずれにしても、神話でも何でもないリアルな紛争の記録だろう。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:11:25.12
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:18:39.43
>>956

放棄ではなくて埋納祭祀
九州では中細形までは副葬されるが
出雲で埋納された後、中広形からは埋納されるようになる(対馬を除いて)
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:24:59.62
>>957のコピペは>>1が反論出来ない時のコピペだよ
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:31:42.30
>>947
>綺麗に掃除して出ていったんだよ

土砂をどけてから出ていけ!  わははははは   @阿波
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:38:49.90
>>959
そういう妄想が九州説の死亡を伝えてる
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:42:10.91
イザナギとイザナミは実は話し合いで別れたという伝承もある
別れ際イザナギが唾ツバを吐いたという
ツバ、椿、杜若
杜若には八橋だが、鳥取の八橋の琴浦辺りも弥生時代の遺跡が多く興味深い
銅鐸や木棺墓が見つかっている

牛鬼は椿の古根で古い海神らしい
山陰は牛鬼伝説が残る場所でもある
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:46:32.24
蓬に菖蒲(杜若)は厄除けの植物

群馬などの昔話では、鬼は身体が溶けると蓬を嫌い、刀のようだと菖蒲を怖がるらしい
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:57:46.69
>>959
そう言う男が往々にして犯人本人
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 17:59:55.69
>>964
いや本人はコレだよ
いわゆるキナイコシってやつ


961 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2023/02/26(日) 17:38:49.90
>>959
そういう妄想が九州説の死亡を伝えてる
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 18:13:17.35
>>965
そうやって、なんの証拠も無いことばかり言い張るのが
九州説という脳の病気
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 18:20:56.90
つか、畿内説スレをコピペで荒らすのは、アンチ畿内説だけだろ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 18:23:18.10
与太話だが、中国から見た、仙人が住む東方の五神山は日本列島かもな
大陸から見たら太古の人々が住む場所

仙人が住むといわれていた五神山の一つ。五神山には蓬萊の他に、「方丈」(ほうじょう)・「瀛洲」(えいしゅう)・「岱輿」(たいよ)・「員嶠」(いんきょう)があり、そのうちの「岱輿」及び「員嶠」は流れて消えてしまったとされている。

タイヨはトヨっぽく、インキョウは殷墟で殷の末裔が日本に来てたりして
方丈はホコウで鉾

冗談だけど
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 18:32:26.16
荒神だから荒ぶったんだろう
荒ぶるのは覇権を求めることが大半じゃないか
火の神じゃないか 銅の神さまの可能性もあると思うけど
0971◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/02/26(日) 19:26:30.18
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1677404118/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:31:16.77
>>903
倭の一部
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:32:57.08
>>931
日本書紀の神話部分はイザナギから上の代で次代からは歴史書の「神話化」ではなかろうか。
昭和58年(1983年)に荒神谷遺跡が発見される前の歴史本には「古代の出雲は人が住める土地ではなかった。出雲神話などありえない。」などと平然と書かれていたもんだ。
トロイア遺跡も神話から発見されたという事実をこの板で知らない者はいまい。
完全に史実として扱うのも危険だがしょせんは神話と何も検討せず切り捨てるのはあまり正しい姿勢とは言えないな。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:33:35.07
弥生時代後期における日本列島最大規模の鉄器生産集落の五斗長垣内遺跡は私たちに何を教えてくれるのだろうか
倭国が建国された1世紀末ころからこの鉄器工房も生産を開始した

この工房が稼働するためには定期的に朝鮮半島から原料となる鉄材を輸入しなくてはならない
逆に言えば、その輸入が可能なことが確信できる状況だったからこそ工房が作られたことになる

淡路島と朝鮮半島間の物流に支障がないということを確信できると言うことは、その間の経路に障害が発生しない見込みがあること、つまり一つのとしてまとまった地域であったと想定できる
倭国の成立時点でそれが可能だったのは、淡路島も九州北岸も倭国という一まとまりの国の一部として存在していた可能性が高いことになる

二つ目は、この工房から供給される鉄器の需要が工房の周辺にあったということを示している

三つめは倭国大乱が収束する時期に突然生産が終了していること
私の想像では、鉄器生産が高い殺傷能力の獲得に結びつき、それが倭国大乱の原因になったのではないかというもの
その反省から卑弥呼の時代は武器生産の抑制が行われたのではないだろうか
環濠集落の環濠をわざわざ埋めたということもそういうことに繋がると思う
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:36:55.92
>>966
そのような脳の病気はありませんよ

そうやって、なんの証拠も無いことばかり言い張るのが
畿内説という心の病気
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:39:14.56
>>941
間借りではないのでね。
中心国ではない女王の都だった邪馬台国も国々のひとつに過ぎない。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:41:15.17
神話を嫌うのは畿内説だろ?
説が成立しなくなるので記紀を否定はしたいが百襲姫が卑弥呼とか見苦しく一部の利用をしてしまう軽薄さ。二律背反の形にならない恥かしい説。何なんだろうねいったいw
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:51:49.83
>>974
鉄の原料は何と交換したのだろうか?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:51:51.49
>>974

私の想像では以下の部分は全く脈絡がない。
卑弥呼の宮城は鉄器を持った兵士が警護していたというのだから、鉄器の生産が抑制されたわけではない。
直ぐ上で書いている条件が満たされなくなった、つまり淡路島と九州北部が別勢力のものとなったか、間の流通に支障をきたす条件が出現したか、周辺で需要がなくなったか。
しかし畿内を含め周辺では開拓が進んでいたので需要がなくなったとは考えにくい。
それならば、九州北部と淡路島が別の国になったということ。
淡路島で政変が起きた可能性よりも、戦の多かった九州北部で政変があったと考えた方がいいだろう。
つまり倭国大乱は九州北部における政変であり、九州北部こそ倭国であったと。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:53:54.76
畿内説は、日本の歴史書も中国の歴史書も否定しないと成り立たない。
それはもはや根拠のない妄想だろ。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:54:29.07
>>978
私は詳しくないので想像でしか話せないが、貴重な鉱物資源のようなものではないだろうか
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:57:26.42
>>979
逆だよ。地勢的に重要な貿易拠点
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 19:59:18.60
>>981
ただで鉄は輸入されるのかな?
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:01:14.26
>>979
鉄器生産の抑制はすべての兵器を抑制というのではなく卑弥呼の宮殿の警備などに使う分は生産していたのだろう

畿内での需要を満たすことに制限がないのであれば引き続き生産は行われていただろう

淡路島での生産を阻害する要因が九州で発生したとしたら、倭国はその阻害要因を排除するだろう
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:04:03.56
>>984
当然
農業、開拓等にも支障をきたす。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:04:09.04
>>958

祭祀だと言えばなんでも誤魔化せると思うなよ?
祭祀だという根拠がない。
日本のどこにも、何百本もの剣を埋める宗教儀式などない。
まして人を集めて大々的にイベントを開催できる地勢でもない。 
山あいにひっそりと人目につかないように埋めてあった。
儀式なら特別な剣を一本埋めればいい。
荒神谷の剣は祭祀用ではなく実用品の武器だ。
それを埋めたのは武装解除しかない。
指示されて埋めたのか、再蜂起を期すために埋めたのかはわからないけどね。
しかし出雲において軍事勢力の解体が現実に行われたわけだ。
これを出雲の国譲りと関連づけて考えるのは無理のないこと。
そしてその後に半島大陸との国交交易を筑紫が独占する時代がやって来て、畿内や瀬戸内海、出雲など日本海沿岸は鉄の供給が途絶えてしまう。
鉄器生産は福岡と熊本に集中し、中国との国交の証は福岡の中でも糸島に一極集中した。
そして卑弥呼が亡くなった3世紀後半になって、ようやく畿内など西日本各地は再び成長し始めたことが考古学的にわかってきた。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:04:31.48
>>983
鉄以外の鉱物資源という意味
私はこの辺は詳しくない
ただ、倭国大乱の収束時まで淡路島の工房の生産が継続していたことは考古学的な証拠で裏付けられる事実
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:10:04.09
>>984

事実として関西圏では鉄の供給が失われた。
関西圏は大陸半島へのアクセスが失われた。
関西圏は九州北部におけるその要因を排除できなかった。
これでは帯方郡を通じての魏への朝貢は不可能だ。
やはり倭国とは後漢書にあるとおりに九州北部のことで、だからこそ郡使も九州北部を目指してやって来た。
魏志倭人伝によると親魏倭王卑弥呼は大陸と熱心に交流していたし、倭人も鉄を十分に半島で手に入れていた。
関西圏はその時点で倭国の女王国の範囲に含まれていなかったということ。
魏志倭人伝には、女王国から東に渡海するとまた倭種がいると。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:10:51.35
滋賀の稲部遺跡とかあるけど
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:11:48.49
■畿内説学者(松木氏)の見解

北部九州では紀元前1~2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。

~ここから畿内説統一教会の霊感商法が始まります~

ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。
北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。←脳内ワールドに突入
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:12:22.88
>>987

鉄こそ最も重要な鉱物資源だ。
次いで水銀朱。
いずれも九州は大陸や半島から豊富に手に入れていた。
しかし倭国大乱後の卑弥呼の治世では、関西圏はそれらを手に入れられなくなっていた。
それが意味するところは、関西圏は女王国ではないということ。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:14:36.50
>>988
倭国が倭国王帥升にはじまり、卑弥呼もその系譜だったことは魏志倭人伝に書かれていること
魏は十分に事実関係を認識していた
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:15:53.76
>>988
それはないな
九州にある近畿系の土器。
那珂八幡古墳の3世紀初頭の前方後円墳
出土した神獣鏡等
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:17:20.17
>>986
銅剣を使った痕跡が無い、実用品じゃない
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:18:08.68
>>990
弥生時代後期における日本列島最大規模の鉄器生産集落は先述したように淡路島の五斗長垣内遺跡
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:18:13.51
>>991
鉄は実用品
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:18:22.73
>>991
意味不明
丹後、徳島にも中国朱と同時に
国内産も出回る。貢ぎもんにもなっている
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:20:43.61
たくさんあるから市場で売り買いされるのよ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/26(日) 20:20:49.95
>>989

3世紀から4世紀ごろとされているが、3世紀でも240年と260年ではまったく政治状況が違う。
しかし考古学ではそんなピンポイントの年代比定は不可能。
稲部遺跡は荒神山古墳という大型前方後円墳を伴っているから、250年より前ということはないだろう。
もし前なら箸墓より古い大型前方後円墳になってしまい、畿内説や古墳の年代観が根本から狂ってしまう(稲部遺跡は畿内ではない)。
つまり、卑弥呼が亡くなった後に鉄の供給が再開されたことを裏付けているだけ。
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