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邪馬台国畿内説 Part867
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/03/01(水) 07:38:48.25
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1677404118/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:39:26.25
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:40:00.91
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:40:32.11
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:41:01.59
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:41:31.14
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:42:03.84
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:42:31.26
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:43:02.02
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/03/01(水) 07:44:31.45
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:45:01.37
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:45:31.64
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:46:02.60
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:46:33.36
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:47:03.95
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:47:36.60
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:48:06.60
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:48:39.16
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:49:10.79
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:49:42.73
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:50:12.43
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:50:42.78
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:51:14.36
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:51:41.05
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:52:12.04
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:52:41.64
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:53:13.02
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:53:42.90
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:54:13.41
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:54:43.81
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:55:14.43
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:55:43.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:56:13.93
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:56:43.53
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:57:14.75
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2023/03/01(水) 07:57:43.95
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:58:14.61
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:58:44.77
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:59:15.15
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 07:59:45.62
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:00:16.32
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:00:46.36
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:01:17.46
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:01:47.46
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:02:21.96
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/03/01(水) 08:02:55.88
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/03/01(水) 08:03:49.10
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/03/01(水) 08:04:15.96
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/03/01(水) 08:04:46.61
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/03/01(水) 08:05:16.47
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/03/01(水) 08:05:46.69
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/03/01(水) 08:06:32.15
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/03/01(水) 08:07:16.29
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:07:46.65
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/03/01(水) 08:08:16.37
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/03/01(水) 08:08:46.79
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/03/01(水) 08:09:16.53
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/03/01(水) 08:09:46.50
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/03/01(水) 08:11:01.25
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/03/01(水) 08:12:01.02
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/03/01(水) 08:12:31.84
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/03/01(水) 08:13:02.08
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/03/01(水) 08:13:32.09
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/03/01(水) 08:14:02.05
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/03/01(水) 08:14:31.65
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/03/01(水) 08:15:02.64
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/03/01(水) 08:15:32.52
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/03/01(水) 08:16:04.90
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:16:36.85
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:17:10.82
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:17:42.11
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:18:11.62
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:18:41.50
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:19:12.10
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/01(水) 08:20:02.64
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 08:26:06.56
畿内説による邪馬台国オレオレ詐欺は犯罪です

里数表記の行程は中国側の調査記録の写し
日数表記の行程は朝貢した倭人の報告記録
単純に中国の誤解である

帯方郡
↓南に船で20日
投馬国(半島南部)
↓南に船で10日
邪馬台国(北部九州)
↓徒歩
女王の都

計30日(一月)の行程なり
0078日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 08:50:35.29
AIの回答

倭人が朝鮮半島に存在したという記録があります。『三国史記』や『魏志倭人伝』といった古代の書物には、2世紀から3世紀頃の朝鮮半島において、倭人が存在したことが記されています。これらの書物には、倭人が半島南部に住み、鉄器や織物、船舶などの技術を伝えたことが記されています。また、朝鮮半島の考古学的な発掘調査でも、この時期に倭人が存在した痕跡が見つかっています。
0079日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 08:51:23.62
またPart867かよ猿
0080日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:42:48.10
前スレ996
倭種の国は女王国のたった千里しか東じゃないので
東南になりません
九州説の矛盾ね
0081日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:44:27.93
九州説が詐欺な証拠

651日本@名無史さん2023/02/28(火) 12:46:32.35
>畿内説による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
>しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
>建物と桃の種は無関係と判明

これが九州説のサギ
実事しないニセのおかしな畿内説を捏造し
論破したかのような猿芝居をする
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 10:48:05.94
>>82
九州説の千里は?
0084日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:48:30.29
>>81
畿内説お得意の印象操作と現実逃避ですか?


ニュース記事はもう消されてるが5chのログが残ってるぞ

【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」の桃の種、かじられた跡なし 「桃が供え物として使われたことを裏付ける重要な成果だ」
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190605/2050002390.html

その桃の種を桜井市教育委員会がさらに調べたところ、すべての桃の種に動物にかじられた跡がまったくないことがわかりました。
遺跡などで見つかる桃の種の多くは、ネズミなどの動物にかじられ穴が開いているということで、古代の祭祀に詳しい
同志社大学の辰巳和弘元教授は、「祭祀で供えられたあと、すぐに穴に埋められたため、動物にかじられなかったのだろう。
桃が供え物として使われたことを裏付ける重要な成果だ」と話しています。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 10:49:47.61
>>83
渡海千余里と書いてある
千里眼を以てしても見えない距離だ

三重の海岸からは対岸が見えるから該当しない
0086日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:49:49.68
>>82
九州説が間違ってると言うことですね
0087日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:50:51.40
>>85
千葉県は見えないので該当する
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 10:52:21.42
奥山にも見捨てられたキナイコシの逃走劇がまだ続いてるのかよ
0089日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:52:44.79
>>87
そこ毛人領域だろバカ
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 10:56:13.40
>>88
九州説さん、また発狂したの?
論破されすぎた?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 10:57:32.69
>>88
逃亡中なのは詐欺やった前スレ651
0093日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 10:59:51.74
>>84
>【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」の桃の種、かじられた跡なし 「桃が供え物として使われたことを裏付ける重要な成果だ」

これを「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」に歪曲しちゃう九州説のサギぶりが酷い
0096日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 11:01:45.72
畿内説は「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」なんて言ってないから
九州説による醜い捏造だね
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:02:35.50
それを指摘されて
建物を撤去した後に何らかの祭祀が行われ桃を埋めたというニュースが出てた
0098伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
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2023/03/01(水) 11:23:50.16
>>89
房総半島は阿波の忌部氏が早くから移住開拓した土地でも有り、
毛人領域とはちょっと違う、弥生時代の後期には入植が始まり、
現地民とも交流融和し、古墳時代にかけて繁栄した土地。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:24:39.33
京都の向日市に箸墓古墳と双子の前方後円墳があり、これも3世紀後半と言い張ってるが
いったい3世紀後半という同時期に何人もの王が死んだ理由は何なんだ?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:29:04.26
孝昭が卑弥弓呼、卑弥呼の時代なのかもな
昭は太陽を招くという意味の漢字だな
孝が太陽を招き王にしたのかもな 

宮は掖上池心
心は真ん中の意味だな
掖はわき、宮殿正門の両わきにある小門の意味だな
宮殿正門の両わきにある小門の上にある池の真ん中という意味か

垂仁天皇の時代池が幾つか作られる
大きな池は狭山池と茅渟池だな
何らかの理由で拠点だった場所は池になった可能性も考えられる

布陣から守りたかった場所が絞られてくるな
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:30:55.08
下らねえこと言い合ってるな
纏向のあの規模は王宮だ
その前身は伊勢遺跡
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:41:48.00
現物がこれ

758:日本@名無史さん:[sage]:2023/02/28(火) 18:24:51.28
唐古鍵の物見櫓の柱穴なんてあったっけ?

魏志倭人伝『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

↑誇大表現を多用して大騒ぎしてるが

おまけ
[奈良県]唐古鍵遺跡の建物
https://i.imgur.com/yUsOFWO.png

宮室ではなく監視用の物見やぐらでは?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 11:46:07.23
>>104
吉野ケ里の建物を現物言うな
纏向は断トツででかい上に生活の痕跡が無い
宮殿以外考えられない
0106伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/03/01(水) 12:00:08.70
>>100
房総半島の先端はかつて阿波、後に重複を避ける為、安房国となっている、
阿波から移住した勢力が居たのは確実と見られます。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:11:17.48
今の阿波はコオロギ推しまくってるんだよな、イメージ悪い。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:14:42.14
「倭人(阿波勢力)」は、房総半島へ移住もすりゃ、朝鮮半島へも移住するわな、そりゃ。   @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:14:52.32
>>105
纒向に宮殿に値する出土品は無い
一千人の巫女が居た痕跡もない
土木用具や雑品だらけでどー見ても土木事務所
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:16:29.51
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:18:38.13
>>109
しかし、古墳造成中だけは賑わったようだ。  わははははは   @阿波
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:19:23.99
>>109
巫女が千人もいるわけなかろう。
距離や戸数など国の勢力に関わる記載は司馬氏の誇大報告だって。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:20:28.67
AIの回答

倭人が朝鮮半島に存在したという記録があります。『三国史記』や『魏志倭人伝』といった古代の書物には、2世紀から3世紀頃の朝鮮半島において、倭人が存在したことが記されています。これらの書物には、倭人が半島南部に住み、鉄器や織物、船舶などの技術を伝えたことが記されています。また、朝鮮半島の考古学的な発掘調査でも、この時期に倭人が存在した痕跡が見つかっています。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:20:39.88
三ツ柏
大谷渡り、隠れ蓑の葉
柏の葉でご飯をとりながら、黄泉の国にいたイザナミを熊野のアリマに逃す大逃避行があったんじゃないか
開化の時代頃かもしれん

熊野川東岸阿須賀神社辺りから弥生時代末期〜古墳時代初め頃の集落跡が見つかっている
西岸にはゴトビキ岩、琴引岩と呼ばれる巨大な磐座があり銅鐸の破片や銅鐸を模造した石製品が見つかっている
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:23:50.84
池上曽根遺跡も貴重なヒスイの勾玉を残したまま弥生時代末期に営みを終焉しているな
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:26:13.12
>>109
だから邪馬台国なんだな。
卑弥呼がいたら邪馬台国ではない。
共立王が地元に居るわけない。

しいてあげれば唐古・鍵遺跡かな?
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:27:07.02
>>117
さすがに「倭人(阿波勢力)」も、度重なる大洪水には勝てなかった。   @阿波
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:33:46.15
池上曽根遺跡のある和泉に摩湯という地名があり以下の伝承が残っている
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:36:29.24
>>104
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が九州だな
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:36:52.35
土坑を埋め立てて大型建物作ったように思えるけどな
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:37:31.01
巻向遺跡の重要な場所は線路下から東側だと何度言えば判るんだろう?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:38:56.88
邪馬台国は大和盆地と思うが河内和泉も邪馬台国なのか狗奴国なのか緻密に検証していかないとな
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:39:42.77
纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:41:38.38
>>124
延長上には更に建物跡があるだろうという推測。
今の調査は線路際までしか出来てないから、当たり前だけどね。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:43:17.23
>>118
お前基準じゃ無くて史書の記録に従え
従えないならそれなりの理由を論理的に述べよ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:44:33.46
>>122
俺も桃の種の土坑はもっと古い時代のものだと思う
相対的に建物はかなり新しい時代
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:45:06.63
南河内は黒田の社が幾つかあるな
黒と言えば東北の伝承にある龍の黒神だな
黒にかかる枕詞はぬば玉で、ヒオウギの黒い種のこと
ヒオウギは京都の祇園祭や大阪の天神祭では、床の間や軒先に飾る花として愛好されている

南河内は土師氏の拠点だったところだな
黒に関係があるのかもな
黒神の田が多くあったという仮説も考えられる
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:47:59.60
磯城のエリアは今の磯城郡と違い相当広いからな。桜井も磯城郡だし、そもそも河内にも志紀がある。
信貴山だって本来は磯城の意味があるだろうしな。
まあだから私は邪馬台国に連なる傍国なのではないか?という意見だね。
シマ国だったのではと思う訳で。
なので本来の邪馬台国は矢田丘陵より北側だと。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:50:14.82
孝霊天皇の宮は黒田廬戸宮
廬はくろいとか飯櫃とかあるいは仮の質素な小屋という意味
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:50:50.25
>>129
出来るだけしたがっているが?
記紀に卑弥呼が近畿にいた
記述がないからだよ。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:52:50.42
>>129
記紀に卑弥呼が近畿いたという記述あるのか?
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:52:52.64
>>134
纒向一帯すでに何十年もかけて調査してるんだよ
今出てるものが最初で最後なんだよ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:57:10.21
孝霊天皇の宮後々に法楽寺が太子により創建されてるからね。
そもそも飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道はこの宮や保津宮古遺跡の真横を通っている。
太子道は基本自身に関連のある場所を通っていて、孝霊天皇がかって倭では特別視されていた事が判るな。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:57:50.64
>>137
当然、いないのだから
記紀にはない。共立で王とか
隠したいのでは?
文献の鵜呑みは注意だな。
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
はそう思う。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:59:31.40
>>138
まだ5%程で、発掘時の説明会で橋本氏は生きているまでには終わらないといったのだがw
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 12:59:42.44
>>139
邪馬台国 女王の都とする所だけど
居るのでなく居たなんだ。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:00:18.25
>>141
共立女王を認めたく無かった連中だとすれば狗奴国
あるいは東の倭種の国としなければ魏志倭人伝との整合は取れない
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:01:54.05
>>144
それなら卑弥呼の出身地が近畿の邪馬台国だった説
とか言った方がわかりやすいんじゃないかい?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:04:04.31
>>143
掘るに値する場所が5%しかなかったんだよ
他も掘れば何か出てくるはずだがあまり価値は無いと判断されてるわけよ
しかし馬鹿学者のメシの種だから寄生を続けてるんだよ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:06:12.64
>>145
充分取れるけど?
卑弥呼が九州に入れば
奴国の南に狗奴国。
邪馬台国を近畿 伊勢から東海方面で東の倭種
真珠、青玉、丹は
四国と紀伊半島にもある。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:07:52.19
>>146
国々の集まりだから
都だからね。でも女王国の都でもない。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:18:54.79
>>149
理由まったく無し
九州説は異常
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:19:38.23
>>115
そう思いたいのはわかるがどう考えても里がおかしいだろ。
短里なんて存在しないなら誇大報告しかなかろう。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:21:34.56
>>147
>掘るに値する場所が5%しかなかったんだよ

こういうウソが平気でつける九州説は異常
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:21:39.60
>>146
又、南に至 邪馬台国も説明がつく
間違いでなく。卑弥呼もいない
中心国でもない邪馬台国。出身地の経路と
人口や官名を聞いただけだよ。
行く必要性がない。
細かい方向や停泊場所などは省く。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:22:23.17
>>150
邪馬台国は近畿ですが?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:23:32.34
>>154
理由まったく無し
近畿説は異常
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:25:18.74
>>130
>俺も桃の種の土坑はもっと古い時代のものだと思う
相対的に建物はかなり新しい時代

理由もなく公的機関の現地調査結果を否定できる九州説は異常
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:27:52.96
>>109
>土木用具や雑品だらけでどー見ても土木事務所

そんなものが出たという証拠は?
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:28:32.33
>>155
一大卒の報告に120日てアホだろー。
地勢的に輸出入の要と
輸出入地域の安定化
魏との交流とか合理的だろ?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:34:56.77
一大率は邪馬台国の近くにあったと考えるのが自然
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:35:28.21
>>135
>孝霊天皇の宮は黒田廬戸宮

倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、
旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり。
百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた
徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。
王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。   @阿波
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:35:58.83
>>154
夢は寝てから見ろ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:36:28.19
>>156
建物の年代比定の根拠教えてくれる?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:37:14.61
>>147
>しかし馬鹿学者のメシの種だから寄生を続けてるんだよ

明らかに嘘
学者は教育機関や研究機関から固定給もらって暮らしてるので
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:37:57.30
>>155
邪馬台国て
官が4名で最大だな。広範囲と推測。
副もない。対等関係の4人。
吉備、近江、丹後、東海の代表とか?
墳丘墓や古墳の形が様々。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:39:37.34
さて、纏向遺跡に見込み無しと判断され5年が経ちますが
新しいネタが一切出てきませんね?


<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%

■学者の見解
「これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:40:21.88
>>163
もう起きましたよ。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:40:53.47
>>160
いや、論理的帰結だ
そういう理由の無い決めつけは反論にならない
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:41:16.36
>>167
工事で忙しい邪馬台国の一部だな
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:41:48.29
>>171
引退組
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:42:58.14
邪馬台国の官はイコマ、馬見丘陵の佐味田、つまりマキ、ヌカタから出ていたのだろう。
場所でマキ辺りは本来は狗奴国エリアの可能性が高いかもな。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:43:27.56
>>167
>さて、纏向遺跡に見込み無しと判断され5年が経ちますが

そんな判断した人はいない

>新しいネタが一切出てきませんね?

続々出ている
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:44:29.59
纏向出土の木製仮面について

『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。

弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着しているとみられる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:46:39.77
そもそも奈良盆地で重要な弥生遺跡は巻向だけじゃないから。

名前から見ても、保津宮古遺跡の方が邪馬台国の時代の遺跡として重要だろう。
鏡作神社が集結してるのもこっちだぞ。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:46:44.43
>>173
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ。
痕跡ないんだよね。
鉄鏃等 野ざらし出土が有ればね
どちらかという周辺国とは良好関係。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:49:00.49
>>179
やと邪馬台国とかに時間が取れる。
年だな。赤ちゃんちゃんこ
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:50:36.45
>>179
君はなんのために?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:51:42.51
まあ論理性をもって物事を見る事が出来ないから考古学に走るんだろうけどな
賢い人間がわざわざ考古学という詐欺師サークルに身を投じる事はないんだし
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:53:26.29
>>164
布留0の溝と庄内3の溝に切られているので、それ以前の築造
庄内2の溝を切っているので、それ以後の築造
よって庄内2〜3にかけて建っていた
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:57:17.84
>>183
そんなふうに中傷しかできないのは
論理性をもって物事を見る事が出来ない人
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:58:40.31
人は基本的に25才までに学んだ事しか理解出来ないんだよ
60にもなって畿内説やってるという事は25までにロジカルシンキングを身につける事が出来なかった証拠
一般的に言われる文系脳や情弱のまま一生進歩する可能性は無いね
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 13:59:21.61
>>180が論理的な反論を出来なかったので
ブーメランが決まりました
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:01:48.73
>>186
近畿説ですけど?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:02:17.94
>>186
そのようにロジカルシンキングが身についてない典型のような文章を書いてしまって
ブーメランを自身に決める九州説の自殺
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:07:19.53
>>183
>賢い人間がわざわざ考古学という詐欺師サークルに身を投じる事はないんだし

でも実施に詐欺をやってるのは

651日本@名無史さん2023/02/28(火) 12:46:32.35
>畿内説による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
>しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
>建物と桃の種は無関係と判明

などと捏造してしまった九州説であって
考古学者は詐欺などしてないんだけど
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:09:15.04
>>187
害基地発言おつ
それ以前にお前の論理的反論が無い
お前には「論」が無い
意味わかるか?

畿内説は整合性を無視するのが昔からの特徴
纒向建物や桃の種の話も論理的説明抜きで作られた妄想作文のまま
側から見てると猿にしか見えんw
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:20:01.73
伊都纏向 伊都纏向
引いて引いてトントン
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:24:57.00
>>192
証拠は?
九州説さん、また捏造?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:27:06.64
詐欺というのは一見論理的なものだ、畿内説がまさにそれだ
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:31:07.60
>>191
>畿内説は整合性を無視するのが昔からの特徴
>纒向建物や桃の種の話も論理的説明抜きで作られた妄想作文のまま

ほら、何も証拠提示がなく結論部分の決めつけだけ
それが「論理的説明抜き」の典型だよ

つまり「お前の論理的反論が無い」という言葉自体がブーメランになっている
九州説は自分を猿と証明してしまった
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:32:47.97
>>195
証拠は?
九州説さん、また中傷?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:39:10.74
>>195
>詐欺というのは一見論理的なものだ、

これとか典型ね
>畿内説による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
>しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
>建物と桃の種は無関係と判明

これ、一見論理的に「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」 を否定しているように見えるが、詐欺だ
畿内説が「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」 と主張したと言うのが捏造なんだよね
典型的な詐欺
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:42:01.55
文系はだいたい詐欺だよな
社会的貢献もほとんどなくコスパ悪いし役に立たない作文しかアウトプットできないし
考古学はその極みだなw
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:44:43.25
>>196
もっと以前には桃ではなく桃の種を占いに使ったとかいう話も出してたな
行き当たりばったりの低能詐欺だろw
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:45:02.48
>>199
ほら、また詐欺して中傷に走る九州説
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:47:14.88
>>200
このように、いくら言われても証拠を出そうとしないのが九州説
低脳詐欺でした
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 14:52:27.75
畿内説によって纒向建物と桃の種は関係ない事が確定したようですね
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:08:14.45
>>203
また嘘をつく九州説
懲りないねえ
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:10:30.58
>>203
>畿内説による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

これ、嘘だったと認めるんだね?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:14:39.21
>>204
畿内説が詐欺じゃないと言い張るなら証拠を添えて答えろ
①建物がいつ何の目的で建てられ、なぜ取り壊されたのか?
②また、何度も建て替えられた理由は?
③土坑はいつ何の目的で掘られ、建物との関係は?
④桃の種が土木用具と一緒に網かごごと埋められていた理由は?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:16:56.79
>>205
一連のやり取りで事実だったと改めて認識されたよ
畿内説によるいわゆる霊感商法の事例として
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:17:03.05
>>203
>畿内説によって纒向建物と桃の種は関係ない事が確定したようですね

うそ
調査の結果、祭祀土壙SK-3001は庄内3だったので庄内2〜3にかけて存在していた大型建物の解体時に執り行われたマツリの痕跡である可能性が指摘された
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:19:22.44
>>208
要するに古墳が完成したので土木事務所を解体して打ち上げやって解散した
という事だな

100人中100人が知ってたよw
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:43:47.34
>>206
>@建物がいつ何の目的で建てられ、なぜ取り壊されたのか?

存続期間は庄内2〜3
目的は王宮(初期ヤマト政権の王の居館)とする説が一般的
鳥怖sれた理由hみ確定だが王宮は王の死と共に廃絶するのが普通

>Aまた、何度も建て替えられた理由は?

何度も立て替えられていない
しかし掘立柱建物はって変えするのが普通

>B土坑はいつ何の目的で掘られ、建物との関係は?

庄内3の祭祀土壙
祭祀の時期から、大型建物の廃絶に関わる祭祀という見方が出されている

>C桃の種が土木用具と一緒に網かごごと埋められていた理由は?

 祭祀土壙からの主な遺物は、飲食物として供献されたと見られている動植物遺存体のほか
線刻を施した短頸直口壷や底部穿孔を施した小型の直口壷、
ミニチュアの手捏ね土器・ミニチュアのS字馨などのミニチュア土器
ヘラ状木製品4点、黒漆塗りの弓1点、木製槽1点、木製容器1点、木製筒型容器2点、
木製横槌2点、剣形木製品1点、有頭棒(垂木と見られる)1点、
竹製籠6点、ガラス粟玉2点
土木用具というのは該当品がない
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:45:49.74
>>209
>要するに古墳が完成したので土木事務所を解体して打ち上げやって解散した
という事だな

根拠なし
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 15:55:20.80
>>211
時期が
 大型建物→祭祀土壙→箸墓
の順だからねえ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:00:57.95
>>210
〜なのが一般的、とか
〜なのが普通、とか

それ全く証拠に値しないし論理的回答でもなくやはり想像でしかない
一般社会でそういう返答をすれば、お前の意見を聞いてる訳ではないと一蹴されるだけ

〜と整合するので〜と考えられる、とか
〜という事例があるので〜と考えることも出来る、とかいうのが学問的解答の仕方だ

ほんとレベル低い連中だな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:02:16.79
畿内に邪馬台国があった証拠は全くないのだが
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:05:20.86
>>214
証拠て何?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:05:45.11
軽境原宮はどこを指すのか
原か‥

話は変わるが、垂仁天皇の時代に作られた茅渟池もどこにあったのか謎なんだよな

池上曽根遺跡と狭山池が銅鐸勾玉勢力の防衛拠点と仮定してその2点の真ん中は鳳辺りか
この辺は守るのには向かない立地だよな
鳳から見て石津川の対岸の方が防衛拠点に向いた立地と考えられる
この辺りには最近まで原池という大きな池があったらしい
ちなみに枕詞大鳥のは羽易にかかる。羽易は羽と羽が重なるところ

時代は倭国大乱だからいかに守るか当時の人々の思考をトレースしていかないと真実は見つからないのかもな

眉に唾をつけて妖に挑まないとな
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:05:52.24
>>212
図面見りゃわかるだろ
建物と祭祀土坑は全く関係ない
祭祀が行われた時点でそこは単なる空き地だ
もともと建物があった事すら知らずに掘られたもの
やはり箸墓建造キャンプ場だな
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:07:16.42
>>216
畿内に邪馬台国があった事を証明出来るモノ
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:07:17.53
>>165

研究職として固定給を貰うためには、畿内説が存続しなければいけないだろ?
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:08:46.49
>>220
だから何よ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:08:50.70
畿内説の学者には推測と想像の違いが理解出来ないんだろうよ
そこが文系が馬鹿にされる最も大きな欠陥なのに
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:12:54.14
>>220
九州にあるのか?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:14:31.22
>>222
証明する側が出す物だ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:16:13.09
消去法で最初に消えるのは畿内説。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:17:17.30
>>224
魏志倭人伝は九州内の事しか書いていない
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:21:10.99
纏向は使われた尺度が弥生時代のものではなく4、5世紀のものなので議論の価値はないよ?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 16:48:41.16
本日は九州説諸氏も熱心に参加しているようなので改めて質問したい

1 卑弥呼の宮殿はどこにあったのか、検証できる考古学的な遺跡があるのか?

2 陳寿が語った卑弥呼の鬼道は日本流にいうとどういう宗教に位置づけられるのか その考古学的な証拠はどこにあるのか?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:12:25.94
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:14:09.67
>>229
AIに聞いてみた

卑弥呼の宮殿については、九州説では熊本県上天草市の御所浦遺跡が候補地の一つとされています。御所浦遺跡は、3世紀から4世紀にかけての集落跡であり、卑弥呼の時代には豪族層の居住地として栄えていたと考えられています。遺跡からは、木造建築物や柿葺きの建物の跡、貝塚、竪穴式住居跡、水田跡、大量の鉄器やガラス玉、青銅鏡、銅鐸などの遺物が発見されています。これらの遺跡や遺物から、御所浦遺跡が卑弥呼の宮殿跡である可能性があるとされています。
陳寿が語った卑弥呼の鬼道は、九州説では古墳時代の祭祀や信仰と関連するものとされています。具体的には、古墳時代の豪族たちは、祖先崇拝や陰陽道、呪術、巫女信仰などの宗教的な要素を持った社会的な活動を行っていたと考えられています。このような背景から、卑弥呼の鬼道は、巫女信仰や呪術といった、当時の古墳時代の宗教的な要素が反映されたものと位置づけられています。遺跡からは、竪穴式住居や巨石墓など、豪族層の居住地と関連する遺跡が発見されています。また、青銅製の鏡や銅鐸、勾玉などの遺物から、当時の信仰や儀式に関する考え方や実践が行われていたことが示唆されています。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:18:54.35
>>229
1.吉野ヶ里遺跡、または未発掘の同類の遺跡
2.鬼道を使って民衆を惑わせるとあるので民衆にとって重要な予想をする預言者であり儀式の形式は何でも良い
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:24:54.52
>>232
私が問いかけるまでこの件について自ら考察したこともないということか

ま、AIに聞いて答えを探るのも結構

ただ、AIの出した答えを評価する責任は君にある
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:29:58.09
>>227
根拠ない
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:30:22.88
>>233
1の答えは、吉野ケ里遺跡ですか それは、君自身の研究によるものか それとも誰か野ケ里遺跡を卑弥呼の宮殿と比定した説があるのか?

2儀式の形式は特定のものを想定できないということは、何もわからないというのと同義
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:34:51.37
唐古・鍵遺跡もあるけど?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:36:38.98
>>235
根拠が無いのが畿内説
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:38:19.96
>>236
少なくとも吉野ヶ里遺跡の様相は魏志倭人伝の記述に適合している
そして鬼道については鬼道で民衆を惑わしたとだけしか書いていなく、他にこの時代の記録は一切無い
考古学的に見られるものは骨卜ぐらいでありそれが魏志倭人伝の言うところの鬼道なのかは言及のしようが無い
ちなみに上皇陛下が使っていたのは亀卜だった
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:42:26.87
>>237
共立前は唐古・鍵遺跡
共立後は、吉野ヶ里かもしれん
宮室樓觀城柵嚴設
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:44:24.24
唐古・鍵遺跡にト骨
吉野ヶ里の近辺の有明海沿いにト骨が出土
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:44:39.22
>>239
>少なくとも吉野ヶ里遺跡の様相は魏志倭人伝の記述に適合している
という金自身の判断ということか
他に吉野ケ里遺跡を卑弥呼の宮殿と比定した説はないのか?

>鬼道については、他にこの時代の記録は一切無い
九州にはそうなのだろう 畿内説には三輪山信仰の遺跡がある
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:46:53.79
>>242
ミスタイプがあったので、アップしなおします

>>239

>少なくとも吉野ヶ里遺跡の様相は魏志倭人伝の記述に適合している

という金自身の判断ということか
他に吉野ケ里遺跡を卑弥呼の宮殿と比定した説はないのか?

>鬼道については、他にこの時代の記録は一切無い

九州にはそうなのだろう 畿内説には三輪山信仰の遺跡がある
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:48:10.16
AIに聞いてみた

吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の宮殿である可能性を示すもっとも強い論拠は、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼の記述と、吉野ヶ里遺跡の発掘調査結果が一致する点です。

『魏志倭人伝』には、「卑弥呼の宮殿は、壮大な規模で建設され、柿葺きの建物であり、百余人の護衛がある」と記されています。また、卑弥呼の居住地は「邪馬台国」とされ、その場所は現在の九州地域にあると推定されています。

一方、吉野ヶ里遺跡は、九州地域の古代集落遺跡であり、3世紀から4世紀にかけての古代国家・吉備国の支配地域とされています。遺跡からは、木造建築物や柿葺きの建物、大量の鉄器やガラス玉、青銅鏡、銅鐸、石器などの遺物が発見されており、卑弥呼の時代の豪族層の居住地としての可能性が指摘されています。また、吉野ヶ里遺跡からは、竪穴式住居や貝塚、水田跡など、当時の古墳時代の生活様式が伺える遺跡も発見されています。

以上のように、『魏志倭人伝』の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘調査結果が一致することから、吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の宮殿である可能性が高く、多くの研究者がこの説に賛同しています。ただし、九州地域にも卑弥呼の宮殿跡とされる遺跡が複数存在するため、一定の検証が必要とされています。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:50:36.06
>>244
また、AI

AIに聞くのは構わないけど、その結果についての君自身の評価を知りたい
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:51:02.97
卑弥呼の宮殿である可能性のある遺跡は畿内にはないね。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:53:18.67
>>246
どこにあるのか?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:54:13.42
>>247
吉野ヶ里遺跡にある
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:56:58.42
九州説にあって畿内説にないもの

卑弥呼の宮殿と推定される遺跡
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:57:41.82
>>248
きみは>>249と同じ人?
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:57:53.64
>>248
吉野ケ里は環濠集落で卑弥呼の時代には廃れてるという説があるがそこはどう思う?
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:58:18.98
>>246
唐古・鍵遺跡があるよ。
宮室樓觀城柵嚴設で
どういうものか詳細な記述はないが
又より堅固な吉野ヶ里もある。

纏向遺跡にもト骨ある。
鼻くそみたいな絹もあるが?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:58:33.42
>>249
纏向遺跡を知らないのか?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 17:59:19.73
>>250
違うよ。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:00:23.10
>>244
魏志倭人伝のあの文面から物々しい雰囲気が見えてくるからな
正直、吉野ヶ里の発見で大騒ぎになった頃、それは無いと思ってた
しかしやたらデカい柱穴にしっかりした基礎づくり、そして復元されたらあらま魏志倭人伝のイメージそのままじゃん
てなった
そいう集落が他にもあったかもしれないが現時点で一番しっくりくるのは吉野ヶ里だよ
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:00:42.17
>>218
>図面見りゃわかるだろ
>建物と祭祀土坑は全く関係ない
>祭祀が行われた時点でそこは単なる空き地だ
>もともと建物があった事すら知らずに掘られたもの
>やはり箸墓建造キャンプ場だな

その妄想は
公的機関の調査結果と逆
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:00:48.48
>>254
そうなのか
ま、君にもそう思う根拠を聞こう
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:02:42.32
>>258
ではお前の根拠は?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:06:54.77
吉野ケ里は何を根拠に卑弥呼の時代と合致してると言われてるの?
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:09:55.84
何度も書いてるけど一方を否定したらもう一方が正しくなるわけじゃ無いからな
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:10:31.43
>>257
近辺にト骨が出土
又、唐古・鍵遺跡にもト骨出土

纏向遺跡もト骨が出土
絹も出土
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:14:21.59
>>260
いつのだ?ソースどうぞ?
まあ、邪馬台国の一部
可7万戸と広範囲と推測する。
立派なもんは稲部遺跡に絹が古墳以外から出土
鉄もある
邪馬台国は近畿だよ。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:15:04.62
>>264
それじゃダメだろ
卑弥呼の時代のものだという証拠だよ
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:15:11.89
>>264
唐古・鍵遺跡もだな
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:18:46.08
伊勢遺跡は同じ地域にある環濠集落が廃れた後にできてるのよ
それでも卑弥呼の時代に掛かるかどうかギリギリ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:20:06.64
>>267
唐古鍵に楼閣と呼べる建物は無い
小さな物見櫓も本当にそこに立ってたのかは不明
土器の絵を再現して遺跡に添えた物だから
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:20:53.18
>>266
近畿や東海系の土器も出土
前方後方墳もあるよ。
古墳時代前期まではある
ト骨も弥生後期以降のもんが
有明海沿いに出土。

無論、唐古・鍵遺跡、纏向遺跡にも
ト骨が出土
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:21:42.51
卑弥呼の宮殿を吉野ケ里遺跡に比定する人が2名現れたが
吉野ケ里は卑弥呼の宮殿ではない

縄文時代後期に吉野ケ里丘陵の周辺部に人が住み始めた

紀元前4世紀頃には集落が形成され始める

弥生時代中期から環濠が出現する。集落が発展していく

後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化

3世紀ごろには集落は最盛期を迎える

この最盛期で吉野ケ里では1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測されている

とても卑弥呼の都の規模に及ばない

古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:21:59.92
>>270
ソースは?
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:24:27.08
>>269
どこかにいる女王1人に全てを委ねたのだから
その女王の都以外は環濠集落のように警備厳重である必要はない
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:24:39.94
>>272
卑弥呼の都の規模てどの位?
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:25:46.84
>>271
神社もあるもんな
そうじゃなくて卑弥呼の時代に建物がなきゃだめでしょ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:27:31.13
>>274
卑弥呼の時代環濠集落は廃れてるのよ
吉野ケ里は環濠集落
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:29:41.31
卑弥呼が居る所はさらに厳重と思う
ヒナボリ等もある地域だな。

邪馬台国にはヒナボリもなく
軍事、税についての記述が見当たらない。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:29:51.63
>>275

邪馬台国の範囲であれば、7万余戸
1戸4人とすれば人口は28万人
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:54:31.59
じゃあ吉野ケ里の大きな建物は何を根拠にどの時代だと言ってるのか?
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:57:00.82
>>281
纏向遺跡のみで?
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:57:08.63
>>284
纏向遺跡といい、伊勢遺跡といい、吉野ケ里遺跡といい、
単発の消滅遺跡で「邪馬臺国」を妄想できる、トンデモたち。  わははははは   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:57:36.78
>>285
纏向や箸墓の年代に拘ってるんだしそれじゃダメだ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:57:37.53
>>285
唐古・鍵遺跡もな
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:58:23.03
>>289
纏向遺跡といい、伊勢遺跡といい、吉野ケ里遺跡といい、
単発の消滅遺跡で「邪馬臺国」を妄想できる、トンデモたち。  わははははは   @阿波
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 18:59:42.11
>>290
消滅していいんだよ
王宮なんて移転するもんだから
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:04:15.32
唐古・鍵遺跡も環濠集落で卑弥呼の時代も存続してたけど
ここは規模に比べて生活の痕跡が少ないんだよね
環濠集落は環濠で人を養えなくなって消滅した説がある
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:04:38.63
>>291
ただなあ卑弥呼時代は50年以上はあったわけよ
その後の男王以降は移動したかもしれないが
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:05:44.68
>>292
@伊勢遺跡様
じゃあ年代なんかどうでもいいのか?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:06:39.22
>>295
50年くらいは居るわな
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:07:14.47
>>286
本州に入ってから奈良まで国は2つ投馬国と邪馬台国

これを単純に2つに分けても邪馬台国の範囲は畿内を中心に日本海側の海岸を含む版図だったことだろう
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:08:16.04
>>298
一つでヤマトのみ
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:13:41.20
邪馬台国は集落なのかもっと広域なのかそこはっきりさせろ
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:20:47.48
>>299
どちらも倭国に含まれる
>>300
君の判断より史実が優先
>>301
邪馬台国は倭国の1構成国
集落を指す訳がない
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:23:16.05
>>293
何が一致していないの?
宮室樓觀城柵嚴設
詳細な造りとか記述はないけど?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:24:50.65
>>302
何言ってんのかわかんねえ
じゃあ末盧国、伊都国、奴国、不弥国は?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:25:22.33
>>303

それ、かなり詳細な建物の記述だよ。
それだけで纒向遺跡は脱落する。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:30:03.86
>>305
九州上陸地点から東へ並んだ倭国の国々
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:32:31.03
>>307
集落なのか?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:32:54.78
>>306
唐古・鍵遺跡から楼閣の図柄を描いた土器が出土している
楼閣の建築物が身近にあった証左

纏向遺跡にも当然楼閣があったはず
ただ、具体的に発掘されていないだけ
今後発掘されると思う
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:33:37.92
>>302
カラカミ遺跡や遠賀川に馬の骨が出土。
馬がいないは、使者等が見たり聞いた範囲の事。
其餘旁國遠絶 不可得詳なんで
定かではないと思う。
別件だが日本狼もいたのだろうか?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:35:40.13
>>309
残っていればいいけどね。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:35:48.09
>>308
おのおの単一の集落ではないだろう
1000戸としても人口では4000人ほどだろう
一つの集落とするには大きすぎる
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:37:04.28
>>309

纒向遺跡の様式はあの3棟で完結している。
新たに楼閣が見つかる可能性はない。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:38:19.18
神社の建物には本殿と拝殿がある。
これを玉垣や瑞垣で囲んでいる。
纏向遺跡はまさにそれ。
ただしこの時代は王宮と宗教施設は分離していなくて、崇神天皇までは八咫の鏡を枕元に置いていた。
それで崇神天皇がうなされたため、中庭に倉を立ててそこに八咫の鏡を納めるようになった。
纏向遺跡の建物が3棟なのはそのため。
中央の建物は、現在の伊勢神宮の八咫の鏡を納める本殿と同じ神明造。
纏向遺跡は崇神天皇の磯城瑞垣宮。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:39:38.26
>>312
ということは末盧国、伊都国、奴国、不弥国とかその他の国々は含まずに
邪馬台国ってのがあるって事か?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:40:41.26
>>310
馬が輸入され定着するのは5世紀前後
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:41:03.52
>>314
神社が何かわかって言ってんのか?
弥生時代どころか古墳時代とも関係ないんだぞ?
鳥居が出来たのが八世紀だ
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:44:52.10
>>316
定着がな。いる、いないとは別。
繁殖に失敗かもしれん。
説は違えど神尾氏とどう意見

//m.youtube.com/watch?v=x6ZjAQPLCY8
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:46:41.77
>>310
ニホンオオカミは当然生息していたことだろう
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:47:55.85
>>313
可能性を排除するものは何もない
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:49:52.31
>>315
それらの国々も邪馬台国も倭国の中の国の一つ
倭国は29か国
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:52:34.54
>>321
当然
女王国を構成する国々だな。
まあ邪馬台国は中心国とは当方はみていない。
本来男王だからね
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:53:12.06
>>312
纏向遺跡といい、伊勢遺跡といい、吉野ケ里遺跡といい、

単発の消滅遺跡で「邪馬臺国」を妄想できる、トンデモたち。  わははははは   @阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:53:56.51
>>290
おいおい、伊勢遺跡も吉野ヶ里遺跡も複合遺跡だよ、無知なのは罪。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:55:13.12
>>324
纏向遺跡といい、伊勢遺跡といい、吉野ケ里遺跡といい、

単発の消滅遺跡で「邪馬臺国」を妄想できる、トンデモたち。  わははははは   @阿波
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:55:53.96
>>321
邪馬台国は女王がいる都で、人口からしても中心国なのは間違いない
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:56:35.38
>>322
其大倭王居邪馬臺國
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 19:57:34.62
>>326>>322へのレスでした
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:02:27.78
>>327
女王に使われていた市の監視役のリーダーが邪馬台国(女王国)に居たんだな
当たり前だろ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:05:46.76
>>327
其大倭王居邪馬臺國
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:06:20.54
市に関しては関東に関係するかもな
意味はよくわからないが関東では昔話の最後に市が割れたとか市が栄えたなどと言う
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:06:57.84
>>329
居たよ。過去の事
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:08:42.36
>>329
何を言ってるんだ?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:08:59.24
邪馬台国は倭国の女王のいる都

都がどこにあるのかは、史書を書くときのもっとも基本的な情報

この部分に、もし変更があれば、それは必ず記録される

邪馬台国についてそんな記録は存在しない

女王が他の場所に暮らしていたなどと言い張るのはトンデモでしかない
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:09:34.35
諏訪盆地は近くで黒曜石が取れ、かなり広範囲にこの時代の痕跡が残っている 
人々が行き交う交易の拠点の一つだったのかもな
真偽不明だが諏訪大社の神さまの系譜に大市姫が関係しているな
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:12:40.54
>>334
変更する必要がない。
いた所だから。
中心国なら女王国都となる
そういう記述はない
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:14:15.87
>>336
市はそういう事で魏志倭人伝に書いてあるまんまでしょう
倉はどこにでもあるし税として徴収して蓄えてた物を売り買いした
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:15:41.71
諏訪の神さまは黒い龍だな
諏訪大社の七不思議は興味深い
葛井の清池の片目の大魚ってもしかしたら事代主かもな?
葛井の清池に大晦日に沈めた供物が元旦に流れつく遠州のサナギ池って遠州一宮にある事待ち池かもしれん
事待ち池は疣取り池
疣取りで有名なでんぼの神さまや長髄彦が祀られている石切神社と何か関係しているのか
石切神社の神之宮は黒い龍が祀られていてトミの一族の伝承も残っている
トミの一族は身体が大きく力が強く戦闘や建築、道具作りが得意だったらしい
農耕はするが稲作の技術や金属加工の技術は持っていなかったという
三内丸山遺跡の特徴に似ているな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:18:16.63
>>338
女王国都が邪馬台国

女王之所都とはそういう意味
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:19:09.45
鳥追い祭りが各地に残っている
年神を追い払うような祭り
鳥追い祭りの歌は信濃国から来た鳥を追い払うという内容

諏訪辺りに徴税機能が置かれていた可能性も考えられるな
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:19:58.48
>>340
訂正、上之社
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:20:40.39
広範囲に市があって物流があった
鏡とかもあげたんじゃなく何かと交換してたんでしょう
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:20:51.39
>>317

鳥居はないが、纏向遺跡という明確な考古学的証拠を無視するのはいけないな。
見つかってもいない楼閣を夢見る畿内説よりはよほどマシだと思うが?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:21:04.33
>>341
違うな。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:21:57.01
>>346
どこがどう違うというのか?
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:23:17.18
>>341
違うな
女王の都が邪馬台国だよ。
女王国を構成する国々で邪馬台国出身以外は
都でもない。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:23:56.26
>>347
女王国と女王の違い
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:24:01.21
>>320

可能性だけならなんでも言える。
そんなものは学問ではない。
阿波に楼閣と城柵が出土する可能性だってないわけではない。
阿蘇山がUFOである可能性だってゼロではない。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:24:01.34
スサノオ〜大国主の系譜も興味深い
サシとかヒカワとか関東の地名っぽい姫も嫁いでいる
卑弥呼の前の時代の国作りはかなり広範囲だったんじゃなかろうか
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:24:20.41
>>348
其大倭王居邪馬臺國
これ無視するなよ
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:25:31.94
>>352
無視していないけど?
いた所と過去だな。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:25:46.64
>>336

畿内説が成り立つなら、諏訪説だって成り立つだろう。
陸行一月なら諏訪の方がむしろ可能性が高いかもしれない。
それくらい、畿内説はナンセンス。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:26:31.57
>>348
>女王の都が邪馬台国
倭国の女王の都が邪馬台国

倭国の他の構成国にとっても倭国の都なのは当然のこと
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:26:34.40
>>353
歴代の王はどこに行ったんだ?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:26:40.67
>>352
まあループになるだけだから
楽なもん
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:27:19.34
>>356
歴代王て誰?
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:27:26.29
>>349
>>355を吟味して読むように
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:27:50.22
>>358
漢の時代の倭王
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:28:07.49
>>350
可能性がないと言い切ることはできないということ
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:28:51.66
>>362
田んぼの中?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:28:53.85
>>359
読みました。
それで?
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:29:32.33
>>360
誰だよ?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:30:32.05
>>366
金印だけ出るのかよ?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:31:22.05
邪馬台国は中心国ではないな。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:31:26.64
大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいは九州北部〜関東迄広範囲に及んでいたのかもな
各地に国々が残ったままの国作りは婚姻で繋がる帝国スタイルだったのかもしれん
徴税機能の導入も始めたのかもな
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:31:38.28
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:31:57.33
>>370
そんなのどうでもいいから
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:31:57.82
志賀島の倭王を讃える山誉め祭りの神楽

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや

別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:32:34.15
>>364
陳寿が言っているのは邪馬台国が倭国の都という意味

邪馬台国だけの都などとは言っていない
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:33:25.07
>>373
伝承だと箸墓が卑弥呼の墓だから
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:34:06.33
畿内説は日本の歴史と文化をことごとく無視しているんだよな。
反日かよ?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:34:29.91
>>376
当然
女王の都ですが?
女王国の都など記述がない
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:35:04.92
>>377
金印一個だけ出るところに倭王が居るわけねえだろ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:35:29.54
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:36:43.80
>>365
物事は2つに分けられる
可能性のあることと可能性のないこと
纏向に楼閣が発掘されるだろうことは可能性のある事
なぜならすぐ近くの唐古・鍵遺跡に楼閣の図柄を描いた土器が発掘されたから
おそらく唐古・鍵遺跡の楼閣を見て土器の図柄を描いたものだろう
その唐古・鍵遺跡のすぐ近くの纏向遺跡も同じような施設があっても不思議ではない
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:37:46.75
>>384
百姓が田んぼの中の石どけたら金印が出たんでしょ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:37:53.57
>>376
おーい
邪馬台国だけの都とは書いていないけど?
女王の都はあるけど女王国の都の記述はない
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:38:39.24
>>378
倭王は倭国王つまり卑弥呼 女性だったので女王と呼んだ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:39:26.55
>>385

唐古・鍵遺跡と纏向遺跡は時代が違い、別の氏族のものかもしれない。
また、唐古・鍵遺跡にほ楼閣そのものは確認されていない。
遥か遠くの吉野ヶ里あたりの風景を描いた土器が持ち込まれたのかもしれない。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:40:02.08
>>360
大倭王ではないの?
倭王と大倭王の違いは?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:40:20.39
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると年代的にも矛盾がない。
記紀にある日向三代の王家は、魏志倭人伝にある卑弥呼の前の男王70〜80年に相当するのだろう。
記紀にある長寿の天皇の年代を現実的な長さに補正すると、神武東征は200年頃となるという説がある。
天孫族が伊都を去り、その後に卑弥呼が伊都で倭王に即位したと考えると、伊都における甕棺墓から木棺墓への変遷も説明ができる。
卑弥呼は天孫族ではなく、他から招かれて倭王に共立されたのである。
記紀に卑弥呼が登場しない理由は、天皇家の一族ではない卑弥呼が倭王となった歴史を認めたくないからだろう。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:40:23.84
>>381
女王の都するところとは、倭国の女王が都とする所という意味
倭国の女王が都とするところとは、倭国の都
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:40:58.83
>>389
>>かもしれない。
定かではないてことだよね
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:41:16.78
とにかく邪馬台国に居た歴代倭王は何処に行ったのよ?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:41:40.75
>>390
無いでしょ
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:42:35.73
>>387
>>393を十分吟味して読むように
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:42:38.58
>>390

中国語では、単一国邑の倭が周辺諸国を併合したときに大倭とように称することが多い。
中国は本来は城塞に囲まれた国邑が一つの国だったので。
0399日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 20:43:12.27
南方刀美は九州北部じゃないか
遠賀川辺り〜博多湾を拠点に九州の国作りを任されていたのかもしれん
南方はムナカタと音が同じだな
人が集まり胸が熱くなって苦しむ神さまの話が播磨風土記にある
熱に下克上を食らった可能性も考えられる
南方刀美の配下の兵と統治システムを横滑りさせたのが卑弥呼の時代の一大卒かもな
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:44:20.14
>>393
当方はそう意味は取らない。
国々の集まりだからね
女王国の都とあれば中心国と取る。
0402日本@名無史さん
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2023/03/01(水) 20:44:53.93
>>389
唐古・鍵遺跡と纏向遺跡は時代が違いは併存していた時期がある

>遥か遠くの吉野ヶ里あたりの風景を描いた土器が持ち込まれたのかもしれない

吉野ケ里の楼閣は唐古・鍵遺跡から発掘された土器の図柄をもとに作られたもの
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:45:16.10
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって冊封された倭王は、博多湾沿岸にいた。
それには倭王卑弥呼も含まれる。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:46:30.74
>>402

そもそも吉野ヶ里の建物を描いたものであった可能性はないわけではない。
唐古・鍵遺跡から楼閣の遺構が出ない限り、ただの土産物であった可能性すら否定できない。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:46:34.03
>>400
どうやって
事鬼道能惑衆 なのか?
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:47:26.70
>>401
陳寿が言っているのは邪馬台国は女王国の都という意味
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:47:52.10
>>402

唐古・鍵遺跡と纏向遺跡が併存していたなら、両者の力関係はどうなっていた?
何をもって纏向遺跡の主人の方が格上だと信じるのか?
根拠なく信じているのか?
妄想癖か?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:47:58.46
刀美の一族が1番繁栄していたのは倭国大乱が起きる前かもな
後々背乗りした勢力はたくさんいそうだ
諏訪の黒い龍神さまもかなり巨大になり過ぎて神無月の神々の集まりに参加できなくなった昔話も残っている
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:48:04.82
>>404
上物がどんなのかわかんないから
これは吉野ケ里も同じ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:48:50.37
>>405

そりゃ神功皇后よろしく神がかりじゃないの?
その時代すでに八咫の鏡など三種の神器もあったし。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:49:06.38
>>402
君の可能性は、まったくありえない古代宇宙人説のようなもの
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:49:50.03
信州や諏訪は刀美の一族に代わって海人が勢力を伸ばすんだよな
5世紀の諏訪からは蛇行剣も見つかっている
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:50:18.35
>>406
固定観念では?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:50:45.72
復元したらそれが正しいって考えどうにかならんのか?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:51:12.31
>>407
力関係などを持ち出したのは君の方
私はそんなことは言っていない

併存していた時期があることはwikipediaなどにも記述されている
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:51:33.11
>>412
建物がどんなのかわかんないから
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:52:03.83
>>417

言っていないから聞いている。
併存していたなら、どちらか支配的だったのか?
また、その根拠は?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:52:19.86
>>416
読み直しても同じだよ。
邪馬台国は中心国ではない。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:52:56.84
>>414
それが常識
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:53:42.97
>>421
柱穴だけだから楼閣かどうかとかわかんないから
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:53:48.03
>>415

正しいとは言っていない。
しかし見つかってもいないのに纏向遺跡に楼閣があったと言い張るのはいかがなものかと。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:54:02.29
>>422
ガリレオの気持ちがわかるな。
天道説の時代みたい。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:54:12.59
狗奴国は常世のモデルで刀美一族の龍の女王を必死で守っていたんじゃないの
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡からは龍の絵画土器が見つかっている

女陰の神さま、アラハバキのことかもな
ハバキの神さま
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:54:49.84
>>419
纏向が建設された以降は卑弥呼が住む纏向が支配的という言い方もできるかもしれない
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:56:10.18
>>422
まあ、あきらめな。
中心国ではない
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:56:23.09
>>423

柱穴の太さや穴底への力のかかり方から上物が平屋か高層建物かは概ねわかる。
弥生時代の人たちも馬鹿ではないから、高い建物は太い柱で建てていた。
というかそうでなければそもそも立たない。
纏向遺跡は平屋。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:56:25.28
三内丸山遺跡も想像で建ててるだけで実際その時代にあれがあったかわかんないから
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:57:45.82
>>429
吉野ケ里のは想像で建てただけじゃん
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:58:48.76
共立前
事鬼道能惑衆 
共立後 
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

さて何処だ。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:58:50.45
>>428
根拠を述べなさい
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 20:59:20.87
>>432

> >>429
> 吉野ケ里のは想像で建てただけじゃん

同時代の土器に書かれていた建物を参考にしたならまだ許せるだろ。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:00:05.52
>>433
高さも目的もわからん
例がないし全て想像
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:00:05.78
>>435
女王国の記述がないから。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:02:06.06
>>437

屋根も壁もない高い建物なんて、寒くて役に立たないだろ。
あの柱なら屋根や壁を追加しても耐えるだろ。
当然当時の人も寒いと思って壁などを作っただろうし、そのために初めから太柱を立てたはず。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:02:10.26
>>436
あんなの土器に書かれて無いから
唐古鍵の土器の絵から当時多層階の建物があった証明でああなった
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:03:29.57
>>439
そもそも高さがわかんないから
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:11:40.40
>>325
現実に目を背けるなよ、伊勢遺跡も吉野ヶ里遺跡も複合遺跡、纏向はまだ調査が完了していないので評価は保留。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:12:24.70
>>431
弥生時代終末から古墳時代前期は大環濠帯が消失したが集落自体は存続していた
纏向遺跡が建設された以降も人々は暮らしていただろう

ただ、弥生遺跡としての唐古・鍵遺跡はその第5段階、弥生時代終末から古墳時代前期がが最終的な段階とされている

同地区は古墳時代に入ってからも、もちろん人々は暮らしていた
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:14:42.51
>>438
女王国は倭国のこと

邪馬台国はその女王国の都
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:15:16.97
>>433
あれは地中に埋まった柱の深さから推定して実際このぐらいの櫓が有ったのではないかという工学的なアプローチで建ててみた櫓ですよ。
細かな部分は残ってないので敢えて省いています。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:16:57.95
>>443
現代に至るまで掘ったり埋めたりで
必ず残るとは限らないけど
期待はしたいな。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:18:42.01
>>444
記述がない女王の都である。
女王国の都はない。
読み手の違いだけだから
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:19:44.73
一昨年発表された母系遺伝子の研究では東北富山石川和歌山は同じグループなんだよ
京都大阪が1番近いのもこのグループ
熊野はイザナミが眠る地だよね
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:21:44.51
>>
女王国は倭国のこと
倭国の都は邪馬台国にあった
だからこそ陳寿が記述する意味はそこにある
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:22:29.58
>>449>>447へのレスでした
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:25:36.39
>>447
陳寿は読み手に理解できるように書いてる
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:25:56.82
>>450
陳寿論に過ぎない。
女王国の都の記述はない。
女王之所都はある
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:26:45.09
>>451
理解している。
なので邪馬台国は中心国ではない
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:29:11.77
>>452
女王之所都は女王国の都ということ

しかし、延々とこんなつまらない話をしていて埒が明かない

では、君は女王国の都はどこだと主張するのか
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:30:39.15
>>454
>では、君は女王国の都はどこだと主張するのか

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、答えられる訳がない。   @阿波   
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:31:56.14
大市の姫神さまとスサノオの子がウカノミタマと年神とされている
市の監視と徴税はこの系譜の人々が担っていたのかもな

スサノオは暴風の神さま、播磨風土記で暴風を起こした五色の玉を持つ石神さんじゃないか?
大国主も年神も磐余、狭野、神武天皇も皆五色の石神さまから始まるのかもな
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:34:05.62
>>454
ないよ。国々の集まりだから
それぞれが都でもある
地勢上、伊都国だよ。

一大卒等の報告、卑弥呼からの指示
往復120日てアホ過ぎてな
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:34:06.13
>>456
根拠がないので、妄想に走るしかない記紀馬鹿。   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:36:26.29
>>454
埒が開かないとは思えない
まあ、今後ともループよろしくな
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:39:26.48
>>457
>女王国の都は無い

>>国々すべてが都でもある

>>地勢上伊都国

これをまとめると女王国の都は伊都国という意味

人口1000戸の伊都国は女王国の都には到底なりえない

女王の都と九州北部とどれだけ離れていようが君が心配することではない
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:40:39.40
>>454
断る
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:40:53.50
五色に光り輝くえべっさんは五色に光る石を埋め磐山を作った
5世紀後半悪役を買って出て、大和に特攻して居なくなったんじゃないか
丹後風土記に大和辺に風が吹き上がり取り返しがつかないことになったみたいな話が残っている

ウカノミタマは葛の葉伝説でしょ
部下の悪事のお詫びに水晶の玉を託したんでしょ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:41:51.50
>>461
>断る

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、答えられる訳がない。   @阿波
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:44:07.83
>>461>>459へのレスでした
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:45:34.36
播磨風土記に片目がなくなり顔に泣いた跡がある、胸にも泣いた跡のある五色の玉を持つ石神の話が書いてある

南方刀美も五色の石神と刀美の母の子だったのかもな
遠賀川上流は縄文時代から九州一円に石器を出荷する石器の一大製造拠点だったんだな
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:46:03.56
>>457
陳寿は読み手に理解できるように書いてる
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:47:08.01
>>462
近辺にト骨も出るしな。
うきは市の西ノ城古墳
のルーツ近辺だしな。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:47:36.59
>>466
だから邪馬台国は中心国ではない
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:49:04.29
>>466
その割にはいろんな説が出る。
思い込みもあるのでは?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:49:24.99
>>468
卑弥呼が伊都国に居るなんてのは無理
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:51:05.92
>>469
いろんな説が出るのは良いけど基本的な事として陳寿は読者に伝わらない事は意図して書かない
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:51:28.16
>>470
共立前
事鬼道能惑衆 
共立後 
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:52:30.52
>>471
思い込みでは?情報不足と思うが?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:53:42.70
>>471
意図しているとは当方は書いていないけど?
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:54:01.14
>>473
間違う事はあっても読者に理解できない事を意図して書かない
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:55:34.38
>>474
陳寿は推理小説を書いてるんじゃないから意図して理解できない事は書かない
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:56:10.71
>>475
理解できたから
邪馬台国は中心国ではない。
読み手の問題と思うけど?
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:56:59.94
>>474
自由にいろいろな考えを述べるのはいいけれど、少ししつこすぎないか?

君以外で卑弥呼が伊都国にいたという説を指示する人がいるのか?

あきれたトンデモでも、ごくたまにならまだ許せる

君のは許容範囲を超えている
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:57:19.39
>>477
読み手に伝わるように陳寿は書く
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:58:35.74
侵略者は渡来人に与して覇権を狙った熱なんじゃないか
裏で操る奴らがいたかもしれんが
調べれば調べるほどそういう結論になる
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:58:47.90
>>476
推理に近い。情報不足だからな
行程は様々だしな。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 21:59:53.23
>>479
その割に行程様々ですがね?
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:00:46.12
初めて俺がこのスレに来た時も陳寿は読者に理解できない事は書かないと言ってた
そのくらいこのスレで議論してた事は酷かった
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:02:22.43
>>482
陳寿が間違う事はある
でも意図して理解できない事は書かない
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:03:01.07
>>483
だから、読めば自動的に「阿波」にたどり着く。   @阿波
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:03:01.41
女王国も同じでしょ
入れ墨を入れた海人の国
内陸に海人がいるのがおかしいんだよな
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:04:08.04
>>483
陳寿は読者に理解できない事は書かない
思い込みでは?
不確定要素もあるのでは?
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:04:35.59
>>485
おまえはごまめだから
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:04:55.95
>>486
だから、奈良の舟形埴輪も「倭人(阿波勢力)」の海人。   @阿波
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:06:11.80
>>487
物書きで他人に読ませる事を目的にしてるんだし理解できない事を書くわけねえじゃん
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:07:19.71
>>487
他の人が支持しないようなトンデモ説なのだから
少なくともそのことは自覚して
間隔を置いて、遠慮がちに自説を述べてみるくらいがいいと思うよ
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:07:50.04
>>490
だから、読めば自動的に「阿波」にたどり着く。   @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:08:07.14
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:08:08.71
>>484
陳寿が間違う事があるなら
無意識かな?
意図しないつもりで書いたのでは?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:08:28.56
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:11:30.02
>>494
間違ったか事を書く可能性は当然ある
資料が間違ってればそれまでだし
ただ意図して伝わらない事は書かない
だから読者に伝わらない説は意味ない
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:17:02.16
>>490
君は全ての本は読んで理解できるのか?
難解な書物もあるが?
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:17:55.40
そもそも論として、畿内・九州北部は、「倭地温暖・植生」でアウト! 「魏志倭人伝」に不適合!  @阿波
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:18:30.42
日数行程は帯方郡に戻るとか伊都国放射説とか絶対読者に理解できないから
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:18:34.53
>>496
伝わったから
邪馬台国は中心国ではない。
受け手の問題だよ
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:22:31.78
>>496
伝わったわても
受け手は様々ですが?
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:23:45.07
>>497
そういう事を言ってるんじゃ無いんだけどな
陳寿は推理小説を書いてるんじゃない
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:25:19.43
>>501
受け手は様々にならないように陳寿は書いてる
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:26:05.31
>>502
誰が推理小説と書いたのか?
推理に近い所があるから
行程も様々。情報不足だよ。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:28:25.23
>>504
情報不足ってのは間違ってるんだからそれはあり得る
でも理解できない事は意図して書かない
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:29:05.61
>>503
陳寿はそうかもしれないが受けては、さてどうなるか?
畿内説に九州、近畿、沖縄、阿波、熊本
越とか情報不足だよ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:29:55.77
>>505
意図したとは当方は書いていないが?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:31:17.63
>>506
受け手に伝わるように陳寿は書いてるのよ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:31:59.98
>>508
当然だけど
受けての問題だよ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:33:30.18
>>508
当然だな
情報不足なだけどな。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:36:34.46
>>507
陳寿がだよ
みんな不弥国の次に投馬国があって邪馬台国があると思ったでしょ?
残念でした。実は帯方郡に戻るんだよねえとか伊都国からなんだよねえとか
こんな事は書かないんだよ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:43:02.18
>>511
当然書かないよ。
漢文ある程度理解すれば戻るなんてないよ。
読み手の問題だよ。
東南→北東
南→東
とか?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:44:44.58
>>512
読み手に伝わるように書くのが陳寿の物書きとしての仕事
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:45:01.46
邪馬台国はヤマト政権の始まりで母体は東海の海人でしょ
戦国時代と同じだな
豊かな地なのに何が不満なのか
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:48:29.23
読み手ってのは帯方郡に戻るとか伊都国放射説だよ
これらは陳寿が間違ってると言えば良いけど陳寿が意図して書くなんて有り得ない
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:48:40.78
>>513
だから何?
受け取り手は様々だけど
伝わっているが?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:52:16.72
>>516
陳寿の考えは一つ
その一つを読み解く
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:52:46.73
>>515
当然だな。意図して書いていないから
邪馬台国は中心国ではない。
又、邪馬台国は中心国だというのも
あり。
当方は女王国と書いていない以上
中心国とは思えないと
選択したに過ぎない。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:53:30.18
>>517
誰が?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:54:43.35
>>519
ここに居る連中、及び全ての邪馬台国ファン
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 22:57:50.28
>>520
説は様々だけどな。
まあ、いろんな仮説を立て見る。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:00:17.85
>>518
それでいいんじゃないの?
俺には影響はない 自由だしw
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:02:51.06
>>460

千戸では都になれないというのは思い込みに過ぎない。
伊都国はな国とセットで捉えるべき。
そして軍事的に支配するのではなく政治的に支配する場合、人口が多い必要はない。
そもそも伊都の大率が諸国から畏怖されているという記載を忘れていないか?
千戸しかなくても政治体制により周辺諸国から畏怖されていた。
それは言い換えれば周辺諸国を支配していたということ。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:04:04.37
>>470

無理というのは個人の感想にすぎないよね?

何も学問的根拠はないのだよね?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:04:11.85
>>522
それは良いんだけど陳寿は読者に分かるように書いてるんだから
裏を読むとかそんな必要はないんだよ
これは初歩的なこと
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:06:03.75
だから言わんこっちゃない結局こう読むしかないんだよ

史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
魏志倭人伝の「里数」表記の行程は中国側の記録で、「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり内容は一緒。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた。
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

倭人は距離を里ではなく日数で表現したり、独自の呼び名で半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など
中国側が知らない地名を使っていたため、誤った解釈が記録されてしまった。

邪馬台国と周辺国: https://imgur.com/Z7Om5EP.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説だが、日本列島全体を指すと解釈すれば各説とも有効と言える。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:06:21.92
>>527
分からない様に書いたとは書いていないけど?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:07:07.24
>>526
魏志倭人伝を読んで卑弥呼が伊都国に行ったなんて読み取れない
陳寿がそれを意図して書いてるなら読み取るのは無理
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:08:13.04
>>531
それも君の感想に過ぎない。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:08:16.68
距離の記事に不安がある場合、それにかかる日数を併記して情報の精度を上げるのは普通の方法だと思う。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:08:39.62
>>530
陳寿は読者に解かり易いように説明してるんだよ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:09:15.24
>>531
無理なら放置するけど?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:09:58.59
>>534
わかりやすいよ。
情報不足だけどな
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:10:42.67
>>533
あの文章でそう読み取れるの?
陳寿は読者に解かり易いように書いてるんだよ
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:11:26.11
史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
魏志倭人伝の「里数」表記の行程は中国側の記録で、「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり内容は一緒。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた。
・帯方郡から船で10日南下し、九州に上陸
・更に陸上を1日歩きます
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計水行十日陸行1日。

倭人は距離を里ではなく日数で表現したり、独自の呼び名で九州南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など
中国側が知らない地名を使っていたため、誤った解釈が記録されてしまった。

邪馬台国と周辺国: https://imgur.com/Z7Om5EP.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説だが、日本列島全体を指すと解釈すれば各説とも有効と言える。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:12:02.01
>>536
情報不足の意味がわからん
陳寿が間違ってるって事なのか?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:12:23.92
>>531

もとから前提として、後漢の頃から倭国の中心は博多湾沿岸で変わらないんだよ。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:13:49.27
わかりやすいから
そう読んだろうー。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:13:59.85
畿内説の立場だと情報不足だけど、九州説ならそんなことはない。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:15:41.15
>>542
陳寿の意図だから読み手なんか関係ない
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:21:00.35
>>539
例えば卑弥呼が亡くなって
男王がたつけどの名前は?
水行でもノンstopで行ったのか?
途中の停泊場所はないのか?
情報不足だらけと思うけど
卑弥呼の死の原因とか?
壹与の時代で狗奴国があったのか?
陳寿自体が行ったわけでもない。
実際にないけど陳寿の頭の中にはあるとか?
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:22:07.62
魏志倭人伝を素直に読んで自分の説が読み取れるか一旦考えた方がいい
陳寿の目的は読者に伝える事だから
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:23:49.21
>>545
それらは陳寿が知らないと考えた方が良いんじゃないか?
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:24:18.24
>>546
それぞれ考えた結果
いろんな説が出たんだな
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:25:30.53
>>547
知らない
情報がないて事だよ。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:25:52.12
>>548
いろんな説が出るのは良いんだけどそれが読者に伝わるか考えた方が良いよと言ってるだけ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:26:22.55
>>524
千戸で都はありえない奴国とセットでもありえない

伊都の大卒が畏怖されていることと伊都が首都だということはまったく関係ない

倭国の国々はすべて国名が記されている

伊都国と邪馬台国、奴国は倭国29か国のうちの違う国々、重複することはあり得ない
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:26:33.57
>>547
情報がありゃ、書くよ
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:28:47.27
>>552
だからそんな事を考えても陳寿はできるだけ読者に伝わるように書いてるのよ
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:31:08.53
陳寿の裏の意図を読むとかそんなん無いから
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:36:52.81
>>554
無いよ。
なので女王国の記述がない
中心国ではないと素直に読んだだけだからね。
中心国と読む人が多いだけだからね。
これも素直と思うけどね。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:39:09.24
>>553
書いていないとかは当方は言っていないけど?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:40:53.87
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:42:12.87
>>555
陳寿が書いているのは、倭国の都は邪馬台国にあるということ

伊都国が都というのは君の牽強付会
他にも数名同調者がいるようだが、その人たちは九州説の人だろう
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:43:17.69
紀元前の国産か 福岡・佐賀で出土 「文字使用、300年早い可能性」
https://mainichi.jp/articles/20190220/ddn/012/040/039000c

■硯の特徴
末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという

福岡で発見された硯
https://i.imgur.com/eWguFko.png

佐賀で発見された硯
https://imgur.com/SjYEHJz.png

表面から墨や朱が検出されるものがある
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:44:13.33
<卑弥呼の墓は径百歩というわけではない>
魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
よって径百余歩という記述は、陳寿が殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と併記したのでしょう。
あるいは何歩だと聞かれた倭人が歩の事を足の大きさだと勘違いし径約25mを径百余歩と換算して伝えたのかもしれませんね。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:44:27.95
>>556
そうとも限らないよ。
魏や晋の王に気に入られたい場合もあるからな
時の権力て奴、鵜呑みは禁物
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:44:52.35
ヤマトは [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族

黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、
大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば
[ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって
[ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を
野蛮な風習とみなしたためとされました。

しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が 
[ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:45:35.70
硯は河童の頭の皿かもな
乾くと河童は力が出ない
文字を使う渡来人と河童の話だろう
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:46:19.56
>>561
まあ、否定はできない
ありうるから。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:46:35.91
>>555
君の伊都国が都説も異様なものだが、もっと異様なのはその執拗さ
君が純粋にその説を思っているとしても自説が受け入れられないことはよくあること
君の説に振り回されてこのスレの人々は無駄な時間を過ごしている
まず、そのことを考えるべき
一人で塾講を重ねて、それでも自説を主張したいのなら間隔をあけて披露すべき
今現在は、君の妄言に皆が振り回されている状態
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:46:57.25
卑弥呼も同じだわ
外国の威信を借りて狗奴国を黙らそうとする
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:48:43.42
>>565
君が考えれば?
放置でいいのよ
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:49:50.71
>>565
突っ込んだ阿保がいただけだから。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:50:12.16
https://mainichi.jp/articles/20220226/ddm/015/070/028000c
■物証の推理から浮かぶ生々しさ
 掲題書は、3世紀の邪馬台国から、6世紀の欽明大王までを取り扱う、古代倭国(日本)の通史だ。
著者の坂(ばん)氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、数々の遺跡を発掘しつつ研究を重ねてきた。

坂氏は、関東から北部九州、そして朝鮮半島南部に及ぶ主要な遺跡(古墳や集落跡など)の、位置や規模や出土品から、
そこに存在した権力の、年代と勢力範囲を推理する。
そしてその理解を、日本・中国・朝鮮半島の史書の記述と突き合わせる。
他の多くの史書が、時代を下った8世紀に編纂(へんさん)された日本書紀の、天武朝の正統性強調を意図した記述の解釈にばかり深入りしがちなのとは、真逆のアプローチだ。
この本の分析に類書にない納得感がある理由だろう。

第一章で著者は、邪馬台国の勢力圏は北部九州限定だったと推測する。
魏志倭人伝にある卑弥呼の勢力圏は29カ国であり、近畿から北部九州までの広い領域に対応するものではないと。
現在の対馬、壱岐、唐津、糸島、福岡がそれぞれ一つの国に数えられていたことからしても、しごくまっとうな地理感覚に立った議論だ。

※無料部分ここまで
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:51:26.74
>>557
坂靖は箸墓を布留期の築造と見なす超少数派なので言うことに信憑性なし
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:52:11.50
>>568
私が何を考えればいいというのか?

スレでの発言にはそれなりの責任が伴う

思い付きを執拗に主張しているのはスレを混乱させること
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:53:17.65
【歴史】「通説に不都合な事実」「畿内説に都合が悪いからだ」 邪馬台国、ヤマト王権…実は徳島に!? [樽悶★]
https://mainichi.jp/articles/20220926/ddl/k36/070/278000c?inb=ra

■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
 『倭』   19首(1)
 『山跡』  18首
 『日本』  14首
 『夜麻登』 5首
 『八間跡』 1首(1)
 『也麻等』 1首
 『夜萬等』 1首
 『夜未等』 1首

例)
大倭には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:54:26.22
>>572
又返すのか?
埋め尽くす事になるけどな。
お付き合いいいのね
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:55:22.95
■卑弥呼時代は鉄器時代であった
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、
朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

■魏志 東夷伝 弁辰条(魏志韓伝)
「国出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
国には鉄が出て、韓、(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。

ということは、弥生時代終末期の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化浸透状況
https://i.imgur.com/M5fyOVO.png
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:56:13.56
>>572
思い付きを執拗に主張しているとか言うから
混乱するんだよ。
君が混乱の原因だよ。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:57:33.39
>>574
たとえ君が誠実に論陣を張ったとしても
それでも、
埋めつくすような振る舞いは止めなさい
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:58:53.00
>>577
又、返すのか?
執念?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/01(水) 23:59:19.55
>>576
思い付きを執拗に主張しているという以外の形容がない
混乱させているのは君

それを端的に示すものは、発言の多さ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:00:01.86
>>578
君の執拗さに付き合っているだけ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:01:47.27
>>580
続くからよろしくな。
お付き合いいいのね
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:03:18.08
>>581
止めろとは言わないが、節度を持てということ
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:11:11.16
>>582
何様なんだよ。
突っ込んでおきながら。
節度とか?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:12:37.78
>>582
放置でいいと言っているけど
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:20:10.01
>>584
気が変わったよ。
邪馬台国は近畿である。
卑弥呼が九州へ。
地勢的に輸出入の要である九州
魏との交流、鉄等物資の安定化
と合理的。情報伝達で120日?
伊都国に置いたのであろう。
邪馬台国のみの王ではない
共立であり共通問題の解決にあたるのである
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:33:54.87
>>575
円が余計だな。
まあ近畿、越だな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:36:10.47
>>587
だから
九州と書いている。津はあっちこっち
博多湾も一大卒のお仕事だよ。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:37:47.34
トンデモの特徴
それは証拠をださないこと
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:38:10.96
弥生時代の3遺跡から出土したすずりとされる板石に付着した黒い物質を電子顕微鏡で観察した結果、
墨特有の「すす」粒子は確認できなかったと、奈良県立橿原考古学研究所の岡見知紀主任研究員が7日までに発表した。

https://mainichi.jp/articles/20220711/ddl/k29/040/303000c

比恵遺跡群、西新町遺跡、田和山遺跡の3遺跡の硯には墨の付着はなかった
0592日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏志倭人伝と記紀照合すれば明白じゃん




邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」これって「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」のことでしょ?

邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」これって「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」の関連人物だよね?

卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」これって崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」のことでしょ?

径100余歩とされる巨大な卑弥呼の墓って『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳の事でしょ?

『卑弥呼が死んだ後に大乱が起きた』百襲姫死亡の次の記事の崇神帝による四道将軍派遣のことでしょ?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:42:30.89
>>589

博多湾沿岸の輸出入に有明海沿岸が関わっているというような考古学的根拠はない
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:42:40.98
>>590
ひとりごと?
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:43:53.54
>>593
考古学的根拠て何?
具体的によろしく
0596日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

吉備・出雲・畿内という巨大勢力の連合が特殊器台の出土地域から明らかになっている

これの総称が『女王国』だよね
吉備は傍系21カ国の支惟(kiwi)國
出雲は戸数5万の投馬(duma)國
畿内はもちろん邪馬臺國
https://i.imgur.com/DNfxkjm.jpg
0598日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

烏奴國は穴門で決まりだと思うんだよね
ほら、仲哀天皇も九州遠征時行宮置いてるよね
0599日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>597
>伊都国は女王国に含まれない可能性

補足だけど可能性というかほぼ確定
なぜなら伊都国までの行程が10500里で女王国までの行程が12000余里だから
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:49:51.98
>>593
ト骨出土がないだけかもしれん博多湾
有明海沿にはト骨の出土はある。
博多湾との関係性とは言いえないが
魏志倭人伝との一致という考古学的もんは
ある。
0601日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

博多湾からは出雲や吉備の土器が出土するよね
北九州が『吉備・出雲・畿内』連合から支配を受けていた物証だと思うよ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:51:22.90
>>595

博多湾沿岸の外港大都市博多は3世紀前半大和型庄内甕を母体として筑前型庄内甕が成立し
纏向石塚と同じ前方後円墳を築造している
博多の筑前型庄内甕は糸島水道東側の今山・今宿遺跡に多量に搬入されている
このような密接な交流関係は有明海沿岸には無い
0603日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

博多湾といえば奴国↓
【奴国・比定地の那珂・比恵遺跡群】
幅7m全長1.5㎞にも及ぶメインストリートの跡が発見。日本最古級の計画都市
https://i.imgur.com/8irFISc.png
https://i.imgur.com/GAjuUGd.png
https://i.imgur.com/H00p5DU.jpg

・地名の変遷
委奴国[ワノ“ナ”コク](57年:後漢書東夷伝)

奴国[“ナ”コク](3世紀:魏志東夷伝倭人条)

儺県[“ナ”ノアガタ](仲哀天皇期:日本書紀)

儺河[“ナ”ガカワ](神功皇后期:日本書紀)

那珂川[“ナ”カガワ](現在)




他にも那津[“ナ”ノツ](661年:続日本紀)など
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:53:08.00
>>601
吉野ヶ里にもあるが
支配とかは定かではない。
共立だしな
0605日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

女王の境界は烏奴國の次の奴國とある

烏奴國が穴門で奴国が福岡市だとすれば女王国は関門海峡以東に広がっていると解釈出来る
本州が『女王国』連合で、九州は女王国に外部的に統属していたというわけだね
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 00:59:11.40
>>602
博多では前方後円墳

こういうのは見つけたよ
//blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/01e48f3d86064dc48547c7be541d6749
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:01:52.84
>>602
赤坂、中八幡は前方後円墳
何故だか築後は前方後方墳が先
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:03:35.24
>>602
うきは市では吉備ルーツの古墳が先
役割分担?
0609日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>538
投馬国が朝鮮半島にあったとして、
狗邪韓国は『弁辰狗邪國』として魏志韓伝に名前を残しているにも関わらず投馬国だけ戸数5万を誇る大国であるにも関わらず同史料で無視されている理由、説明つくの?
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:07:40.66
>>606

畿内と密接な博多の前方後円墳は86m
畿内、博多とほぼ関係ない吉野ヶ里の前方後方墳は20m
0613日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神天皇が10代目天皇であるにも関わらず「始馭天下之天皇(初めて国を統治した天皇)」とまで称揚された理由がそこにある。

崇神以前のヤマトはヒメヒコ制の発展型として、巫女である卑弥呼(百襲姫)を頂点にしたシャーマン政治が行れていた、いわば祭儀権と政治権の分立。
それに不満を抱いた崇神(和風諡号「御間城」魏志倭人伝中の「弥馬獲支」)は自分の娘豊鍬入姫を祭祀王にし、かつ厄介者として天照大御神と一緒に宮外に追い払ってしまったのだ。


かくして祭儀権と政治権両方を大王一人が一手に引き受け、斎王(巫女)は以前の卑弥呼の様な権力を持たなくなったという経緯でしょうね。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:12:20.99
>>610
なんで?共立なもん出土あるけど?
奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定とあるが?
0615日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや政治も政だから祭儀権と行政権の分立と形容した方が適当なのか?
0616日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

福岡市は1万2000里より手前なので女王国に含まれませんよ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:14:54.83
倭国は女王国だろ
0618日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>617
倭国=女王国なら帯方郡から女王国まで1万2000余里がよくわからなくなりますが
対馬や壱岐や伊都は倭国の域外ってことですか?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:17:32.89
>>614
>奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定とあるが?

福岡市付近でも真似て作られた
0620日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭国=女王国ならば置き換えて読んでも不自然にならない筈ですが、不自然なので両者は違うという事です
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:19:10.98
>>607
赤坂は佐賀だったな前方後方墳
訂正
焼ノ峠古墳
福岡県朝倉郡筑前町、全長40m
にも前方後方墳がある。内陸部
何故だか前方後円墳より先にある
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:20:21.25
>>614

有明海沿岸は発展してないから発展している博多の筑前型庄内甕を盗んできたんだろう
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:20:22.57
>>619
共立だよね。
0624日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

古墳の話で盛り上がってるようですが
径100余歩(150m)なんで箸墓に決まりなんですよね
同時期の九州にこれだけ大規模な塚無いじゃないですか
0625日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>623
九州は共立に参加していないでしょうね
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:21:39.93
>>623

女王の弟が倭国の統治を佐けているということは
女王の都がある7万戸の大国の邪馬台国が倭国の中心的な国ということ
吉野ヶ里しかない有明海沿岸はほぼ関係ない
0627日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州は女王国と戦って負けたから一大率なんて物騒な物を置かれているわけだね
女王国まで1万2000余里という記述が示す通り、北九州の殆どは女王国に含まれない
負けて外部的に統属したに過ぎない
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:23:06.73
>>622
トンデモ。貿易の中心地域は当然だよ。
行政にあたる遺跡は?
0630日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

私は邪馬台国が女王国内でメチャクチャ力を持ってたとは思いませんがね当時鉄器後進地域ですし

まあ石鏃でも人は十分殺せますが、九州を相手にした戦争は専ら吉備「支惟(kiwi)」や出雲「投馬(duma)」に任せてたんじゃないですか?それにもし畿内が直接九州遠征なんてしてたらもっと唐古鍵や纏向に九州産の物品で溢れてるでしょうし逆も然りな筈ですが、無いでしょ
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:27:42.68
>>592
ただの語呂合わせでしかない。
官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。
「いきま」が垂仁天皇、みまわきが崇神天皇?序列が無茶苦茶。
0632日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

女王国内の吉備や出雲が一大率(後の筑紫太宰の様なものかな)を置いて九州統治していたのなら、畿内に九州産の出土品が少ないことが説明付きますわ

吉備・出雲が九州産の物品をあるいは畿内産の物品を独占していたのかな
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:33:55.32
>>629
大きさより先に何故
築後は前方後方墳なのか?
平塚川添遺跡もあったな。
0634日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>631
いえいえ、貴方も天皇の和風諡号にトポニムが多いことご存知だと思います
『ex.)神日本“磐余”彦(神武帝)』

すなわちイキマというのも生駒山に由来する(垂仁天皇陵は生駒山の前に築かれていますよね)トポニムであってイキマという諱だったわけではない。生駒地域を支配する豪族が歴代ずっとイキマと呼ばれていた、垂仁天皇本人ではなく関連人物もイキマと呼ばれていてそれが魏志倭人伝に載ってるのではないかという事です。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:37:25.81
>>633
一大卒に近江か東海系がいたとか?
0636日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>631
あとちなみに
貴方勝手に官を副官に読み替えてる様ですが、邪馬台国四官は他の国のそれと違い序列示されていませんよ
0637日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬臺國の官は全員「官」です、副官が記載されてない珍しい国
集団指導体制だったのかしら
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:39:04.51
>>635
成る程、考察してみる。寝る
ありがとう
0639日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あと細かいですけど一大卒じゃなくて一大率ですよ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:40:18.84
伊支馬は生馬神のモデルでしょうね
息子がもう荒ぶらないと言った神さま
出雲の風土記
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:41:25.04
>>639
ありがとうございます
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:43:46.33
中世に宮古島にやってきた誇り高き池間海洋民族との関係はどうなんだろうか興味深いところ
0645日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州諸国の官職
https://i.imgur.com/fyMG4zH.jpg

「ニキ」が見える
天孫降臨あたりは元々伊都国神話だったりするかも。ニニギ高千穂降臨時「ここは韓国と向かい合っていてよい土地だ」との発言、舞台が南九州なのは少しおかしいものな?
0646日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

西暦200年人口推定

東奥羽: 3万
西奥羽: 5000
北関東: 4万
南関東:6万
北陸: 2万
東山(甲斐信濃飛騨): 8万5000
東海: 5万5000
畿内: 3万
畿内周辺(近江伊賀伊勢志摩紀伊淡路播磨丹波): 7万
山陰: 2万
山陽: 5万
四国: 3万
北九州: 4万
南九州: 6万5000

総数60万

鬼頭宏,「明治以前日本の地域人口」
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:48:40.57
九州の風土記ではニニギは岩倉から逃げてきたとあるな
どういう意味なんだろう
0648日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

北九州:4万vs女王国(山陰+山陽+四国+畿内周辺+畿内):20万


なるほど勝てない
まあこれだけの勢力を纏めて戦わねばならないほど九州勢が強力だったとも考えられる
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:51:14.50
ヤマトは邪馬台国で女王国だが他の畿内は女王国ではないでしょう
伊吹山もヤマト政権に最後まで抗った荒ぶる神がいたし滋賀も女王国に一部平定されたが女王国ではないんじゃないか
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:53:59.28
丹波は亀山でしょ
五色の亀姫がいたところじゃないの
若狭は鶴
どちらも女王国ではないね
0651日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州と畿内の結び付きが深まった(阿蘇ピンク石石棺とか造られるようになった)のは河内に政治の中心が移ってからだよね
つまり九州で生まれた応神天皇が畿内に帰ってきて即位してから

畿内&九州神話の統合もここで起きたんだと思う
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 01:57:42.64
>>624
魏志倭人伝には前方後円墳とは書いていないのでハシバカは却下だな
0653日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国で出土した大型内行花紋鏡、これ皇室のレガリアたる「八咫鏡」の特徴全て具備しています。しかも他に出土例御座いません。
https://i.imgur.com/FJmR5rX.jpg

つまり【伊都国の神器が皇室に引き継がれてる!?】じゃあそれはいつ?もちろん応神天皇の時代よ
彼の出生比定地の一つが筑前国【怡土】郡長野村蚊田だしね

ピース繋がったよね
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:00:15.26
傍国がたくさん書かれているでしょ
傍国は女王国の傍らにある境界をなす国々
女王国以外の国の方が多いんじゃないか
0655日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>652
主体部(後円部)が墳丘で、前方部は祭壇部とも言われてるじゃないですか
じゃあ後円部の大きさだけ記しても何ら不思議じゃないよね祭壇は祭壇であって墓じゃないもの
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:03:33.86
関東東北甲信越香川愛媛は女王国ではなかろう
奈良三重紀ノ川の下流以外の近畿も女王国ではないだろう
0657日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>654
傍国21カ国は女王国に含まれるのでは?
19カ国列挙していって最後に「烏奴國の次の奴國、ここが女王の境界尽きる所」と書かれてるわけですから

列挙されている国々は女王の境界の手前すなわち女王境界内でしょう?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:04:02.78
>>655
ただの都合のよい解釈だな
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:06:03.71
倭国は北部九州、畿内は倭種。
0661日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>658
しかし九州には同時期の径100余歩の円墳方墳類似構造を持つ古墳がないのです
無いものは仕方ありませんね
0662日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>660
北部九州すら統合出来ず群雄割拠している小勢力に、北部インド全域を手中に収めたクシャーナ朝への称号「親魏大月氏王」と匹敵する「親魏倭王」印綬する合理性がありませんね...
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:10:57.83
>>661
九州の古墳が当時の現状で残されていると思うのがおかしいよ。中津の亀山古墳も突然消えているからね。
0666日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

古代中国人「畿内に来ました。ここが魏志でいうところの邪馬堆です」
https://i.imgur.com/iBxAyi3.jpg
現在日本人「いや違う!邪馬臺国は九州にあったんだ!」



古代中国人「なにいってんだこいつ...」

こんな感じですかね
私も困惑です
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:16:52.95
>>592
弥馬升はミマツ(孝昭帝)っぽいな
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:18:51.25
>>634
ミマキは三輪山麓の城ってところか
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:20:20.72
>>665
箸墓の全長を歩数で数えないのは畿内説の姑息なところ
0670日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫は、弟が“吉備”津彦
夫が蛇神大物主(≒大国主)

ですから当に「吉備・出雲・畿内」の連合を体現してる人物なんですよね
彼女が共立されたのも納得
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:32:27.41
>>669
関係ないでしょ
後円部径が約百歩なのは事実だから
0672日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

山城を支配していた武埴安彦も崇神の大叔母たる百襲姫の予言によって討伐されるわけだが、予言なんて現実には存在しないわけで実態としては百襲から崇神への命令だったのではないか
神を憑依させ同時に神の妻である百襲の言葉です。いくら崇神天皇といえど歯向かえぬ存在だった筈
0673日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼→倭国大乱を収めるために擁立
百襲姫(大物主憑依状態)→流行り病による人口半減をどうにかしてもらうために祀られ始める


やっぱ似てますよねぇ
0674日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか大物主憑依状態の百襲姫は「私を祀れ!」て崇神天皇に【命令】してますからね
これ立場上でしょ
神に乗っ取られてるフリすれば崇神すら従わざるを得なかったてわけだろ
0675日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そんな巫女に振り回されるシャーマン政治を終わらせ(天照大御神を宮外に追い出す)て娘の豊鍬入姫を初代斎王にして祭儀権も掌握したから

崇神天皇が「始馭天下之天皇(初めて国を統治した天皇)」と崇められたわけです。
初めて巫女から権力を奪い取り、全ての権力を振るった大王なのです
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 02:44:47.36
>>671
その言い訳に反吐が出る
0677日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

治病祈祷、安全祈願、不老不死。神獣鏡にも描かれる神仙の神西王母!
卑弥呼の操った鬼道(道教)は求心力絶大!そして何よりも彼女自身が年を取れば取るほど神仙思想の体現者として求心力を強める事ができた

銅鐸祭祀廃れるのも当然ですよ
0678日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

銅鐸には人々の素朴な暮らしが描かれてるだけ
神獣鏡に描かれるのはまだ誰も見ぬユートピア

どっちの方が夢あるかなんて歴然
0679日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>676
でも当時の九州に径100余歩の塚ありませんからね
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 03:20:36.94
>>679
畿内は倭国の範疇外なので悪しからず
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 03:34:53.54
>>681
ソースは魏志倭人伝
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 05:33:39.59
>>676
罵っても反論になりませんから
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 05:36:28.06
>>682
でも、倭人伝に「畿内は倭国の範疇外」なんて書いてないよね?
ただの都合のよい解釈では?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 06:16:47.35
丹生神社が紀伊半島にある時点で、畿内が倭国の主要エリアなのは当たり前、当時の九州にはないからな。青玉もそうだし。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 06:18:48.33
蛇行剣はやはり大物主、つまり三輪の神を象徴した物なんだろう。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 06:52:46.99
丹生鉱脈含むと畿内ではない。
又 橘の自生から海岸線になる
東、海渡り千里だから見える範囲
又搬出も船で川下り伊勢方面になる。
近畿説
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:02:55.96
>>685
丹生神社が紀伊半島にある時点で、「阿波」の辰砂採掘技術集団の進出を物語っている。

なっ、そうだろ? 高齢中よ。  わははははは   @阿波
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:07:55.24
>>650
女王国ですね。
物流網ですから。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:14:56.71
>>689
大陸からの技術者だよ。
海渡りて千里。倭人は知らない。
阿波にも中国産あるだろう。
精製技術 学んでいたのでは?
国産が出回る。逆 魏に送る。
銅鐸から水銀朱と銅鏡にシフト。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:18:44.38
>>689
つまり、丹絡みで大陸との交流があった
技術という無形文化財
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:23:38.63
>>692
つまり、漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々だけ。   @阿波
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:25:38.47
中国人が目指していたのは間違いなく畿内だからな。これは弥生時代半ばからの流れで貨泉が淡路島や河内平野で確認されている事からも判る。

丹山、青玉と揃うのが河内湖辺りだしな。二上山麓はサファイア産出で、
百襲姫と関連して同年代にこの辺りの豪族、河内青玉がいる。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:28:29.58
阿波や淡路島へは畿内方面から元々人が出向いているからな。
元々阿波は単に採掘目的で拓いた場所にすぎない。
国産みが淡路島からなのはそういう事だね。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:30:16.70
>>694
>中国人が目指していたのは間違いなく畿内

明らかな間違い。   @阿波
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:31:22.97
>>695
>阿波や淡路島へは畿内方面から元々人が出向いているからな。

明らかな間違い。   @阿波
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:41:48.88
>>698
九州説は理由を言わない
証拠も出さない
それがデフォ
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:43:20.31
まあ、九州説が丹山 上げるなら
上陸地点は伊万里になる。
西側に丹鉱脈。その観点からね。
長崎、佐賀に丹生神社多い。
まあ邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:48:44.88
まあ磯城県主系の人脈、つまり畿内側なのが孝霊天皇、吉備都彦、百襲姫。
対して阿波に母方の一族がいたのが崇神天皇、ミマキイリヒコなのは確定事項だろう。
名前も美馬の丹生男なのは既に説明済みだね。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:52:06.81
>>585
深夜徘徊というか出没していたとは
バイキンマンのような奴だな
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:55:43.41
>>702
ゴミが戯言
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:57:05.09
>>702
埋める覚悟でいいな。
邪馬台国は女王の都だが中心国ではない。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 07:57:59.56
>>677
倭人にとって鏡は太陽の依代。
神仙思想なんか理解していない図柄多数有り。
自己主張の強いバカはウザイ。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:02:14.74
本来倭国の王として重要人物が孝霊天皇なのは太子道が孝霊の宮跡を巡っている事でも判る。神武、崇神天皇の宮でもない。
死去して斑鳩から近つ飛鳥、太子町へ送られる際も孝霊の墓とされる場所を通っていたりするのも謎。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:03:28.62
>>702
取り方、視点が違うだけの話
誘発させるなよ。ゴミ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:05:59.83
>>708
他の鏡は?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:09:34.56
>>710
自覚症状がない
ひとり言?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:14:43.45
>>711
説や主張も しないから
710はゴミでいい。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:16:30.23
>>709
多くが民間信仰と関連が強いというが、原始道教と露骨に結びつくのは画像教や神獣鏡
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:25:32.22
>>713
複雑さは神獣鏡だな。
銅鐸技術の応用かな?
貿易で胡座かいている九州と違い
技術が発展していたのか?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:35:46.57
>>662
委奴国は金印だが匹敵したのか?
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:47:19.65
盾形銅鏡も神獣が描かれているからな。
奈良盆地勢力の技術力の高さは四世紀の時点でかなり高かったと言える。
まあ二世紀まであの銅鐸造っていた時点で判る。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:55:39.50
くだらないバイキンマンにかかわりあうのはやめて
一つ話題を提供したい

それは一大率について

たいていの説は一大率は倭国の官名としている
ただ、一部に帯方郡に任ぜられた魏の官名という見方もある 私はこの説に同調する

一つは倭国の官名であれば、大和言葉の音だけを漢字に移した官名であるはずなのに一大率はそうではない 三つの文字のどの文字にも音を写しただけではない漢字の意味がある
太夫という言い方も出てくるが、これは官名ではなく高い身分の者ということで中国の言い方をまねたものだろう

二つ目は一大率の職務からで、中国の刺史のようなものとされている
刺史は水戸黄門のようなもの不正する役人を懲らしめるのが仕事
当時の中国にはそういう不正をするような役人がたくさんいた
不正をしなければ暮らしてゆけないという環境でもあった

倭国で同じような役人の不正が蔓延するような状況は私は恐らくなかったと思う

(つづく)
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 08:56:31.48
(つづき)

第三に一大率の職務の効果について
一大卒は魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したりするとき、また帯方郡の使者が倭国に遣わされた時にその荷物をチェックするのが職務
なぜチェックが必要なのか それは不正をする役人がいるから
帯方郡からの荷物を伊都国でチェックする行為を考える場合、不正をするのは帯方郡から伊都国までの輸送を担う役人、それは帯方郡の役人だろう
帯方郡の役人の不正を一大率がチェックできたとして、帯方郡の役人をとらえて罰することができるだろうか もともと、帯方郡からの贈り物で、受け取る側が何か足りないとか言える筋合いのものではない
逆に倭国から中国への荷物を一大率がチェックする場合を考えよう ここでリストに基づき不足があったとする、それは倭国内の役人の不正となる しかし、この行為が実効性を持つためにはその荷物の発送時点で一大率がチェックするときに用いるリストが用意されていなくてはならない
当時の倭国は文字を持たなかった、墨と硯で×〇くらいをチェックすることができたかもしれないが、品物のリストを作成するようなことが行われていたかについては疑問がある

また、陳寿が一大率が刺史のようなものというとき、役人の不正を取り締まる役職ということに焦点を当てているのであり、郡の長官や副官というポストをさして「のようなもの」と言っているのではない
実際に一大率は港に出向いて点検の仕事をする これは点検を受ける側の都合を自らの都合よりも優先している姿勢

ま、決してこの見方を押し付けるものではありません こういう見方もあるるのかということで何かの参考になれば幸いです
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:00:29.02
>>716
奈良盆地勢力??

「倭人(阿波勢力)」のことか?  わははははは   @阿波
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:02:59.04
>>716
滋賀じゃないのか?
デカい銅鐸あり。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:04:19.84
>>720
矢野銅鐸のコピーだな。   @阿波
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:09:43.29
>>717
もう、遅いな。
邪馬台国は女王の都であるが
中心国ではない。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:10:12.76
>>721
デカいのはない
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:10:46.11
>>718
押し付けだな
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:12:31.76
>>724

>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:13:04.18
>>720
近江の製鉄民は信貴山周辺に移っていただろう。息長氏の足跡みる限りは。
孝霊期の伝承でも近江が天候不良で米が出来ずに困ってたという逸話がある。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:14:48.65
>>726
天候不良は各地でもある。
まあ、移動もありうるけど
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:15:20.20
>>724
>>725
一回言えばわかる

二人を装う人用はない 無駄
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:16:48.98
>>728
間違いただけだから?
覚悟、よろしくな
ゴミ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:17:17.08
>>728

>二人を装う人用はない 無駄

は二人を装う必要はない 無駄・・・でした
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:17:52.24
>>723
矢野銅鐸のコピーだな。   @阿波
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:18:04.42
>>728
何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:18:52.48
>>726
>近江の製鉄民

つまり、「倭人(阿波勢力)」   @阿波
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:19:47.06
>>728
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:20:04.71
巨大古墳の為、東海地方からの労働力は天候不良の為の公共事業かもしれないね。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:20:58.95
>>718
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:21:56.77
>>723
銅鐸王国「阿波」には、日本最大もあれば日本最小もある。   @阿波
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:22:42.06
>>728
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:29:23.24
>>737
あったけ?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:30:18.42
>>730
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:30:34.71
>>722
根拠のないこと、非現実的なことは
何度連呼してもバカ相手以外では説得力が増さない
逆に減る
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:31:02.19
>>741
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:31:59.21
botでいいから楽だな
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:33:18.30
>>715
単なる国王だから匹敵しない
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:33:25.86
>>741
>>何かの参考になれば幸いです

白々しい押し付けだな。ゴミ
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:33:31.01
>>742
勘違いしているよ

>>741は私が発言したものではない
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:34:20.16
>>746
白々しい ゴミ
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:37:10.71
>>739
「井の中の蛙大海を知らず」

トンデモは、こんなのばかり。   @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:40:39.24
>>748
「大海のクジラ、宇宙を知らず」
と返してみる。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 09:45:19.55
>>749
大海のクジラは井の中の蛙の事は知らない
と返す。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:00:47.02
畿内説は痰壺
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:14:13.89
>>551

魏志倭人伝を無視して言い張るなよ。
邪馬台国と投馬国は別枠だろ。
領域名として他と重複があるのは明らかだ。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:17:22.96
>>641
成る程。後半に造ったとある
生活基盤 60年と仮定。
AD200年前後に前方後方墳をルーツにもつ
者が入る。甕棺風習も終わっている
辻褄が合うな
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:19:37.94
ト骨も同じ時期ぐらい。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:21:50.73
さきほど、一大率が倭国の任じた官であれば不合理な部分に焦点を当てたが、これが帯方郡の任じたものであればどのように機能したと言えるのだろうか
中国からの贈り物・文書をチェックするときは発送時点の文書に基づき点検することになるだろう その時点で不足の品などがあれば担当した役人は罰せられる

倭国からの文書や送りもものについてはどうだろうか 倭国なにでの不正はありえないとして、倭国から帯方郡までの間に不正が生じないように
一大率がチェック用のリストを作成したのではないだろうか そのリストを付けて再度伊都国から出発させる
こう考えれば、一大率が伊都国にいた理由がはっきりする
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:25:59.39
>>753
どこが魏志倭人伝を無視しているというのか?

>邪馬台国と投馬国は別枠だろ。
>領域名として他と重複があるのは明らかだ。

↑こういうのを倭人伝を無視して言い張るという
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:30:48.19
>>753
邪馬台国と投馬国は行程の中にあるんだからおまえが魏志倭人伝を無視してるよ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:33:28.22
>>756

白々しい ゴミ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:41:44.85
>>756
それ否定はできない
できないが我が国の主権は?って話で
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:45:32.40
倭国なにでの不正はありえないとして???
一大率はチェックした。邪馬台国に運ぶ間に
盗難、不正等あり得るけど?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:47:19.16
まず一大率なのかイチダイリツなのか?
刺史のようなものでどっちでも意味は通るからな
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:49:42.34
>>760
確かにその主権侵害ではという視点がこの説の普及を難しくしている

救いはこの魏の出先機関が伊都国に限定されていること
世界の中心にある国として周囲の後発国を導く役割があるあるという責任感と
一方それが強権的な押し付けになってはいけないという、魏の節度のバランスだったのだと思う
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:51:17.31
まあ、どっちにでも取れるよ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:52:04.63
>>761
その盗難・不正を発見するにはリストが必要
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:52:43.06
>>763
伊都国王が居るのにそんなんじゃないわ
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:54:56.01
>>766
発言の意味が取れない
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:55:51.49
>>767
という事はイチダイリツに一大率の文字をあてた事になるが
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:56:24.47
>>763
>救いはこの魏の出先機関

間違い。
「使往來常所駐」
往來とあるから、帰りのことまで魏が関知する訳がない。   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:56:32.21
>>765
それがリストが盗難、難破もあるよ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:56:59.35
>>768
主権だよ
そんな奴が居て許せるか?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:58:14.44
>>769
発言の意味が取れない
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:59:15.19
>>773
日本の役職ならイチダイリツでしょう
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:59:25.05
>>771
倭国では品物のリストを書き、それを読むような行為が行われていたかは疑問
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 10:59:47.57
>>766
伊都国王いるの?
いたと過去と解釈している
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:01:14.78
>>763
>救いはこの魏の出先機関

間違い。
「使往來常所駐」
往來とあるから、帰りのことまで魏が関知する訳がない。   @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:01:36.44
>>775
すると邪馬台国までいちいち
魏の使者が行くのか?
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:02:27.12
>>772
主権というのは倭国としての主権の侵害という見方もできる

これは、伊都国王が政治的な役割をになっていて、その侵害ということではない

伊都国王は世襲の王で名目だけの王統のような存在だったのだろう
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:03:31.76
>>774
発言の意味が取れない

倭国が漢字の職名を使うことはない
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:03:38.14
>>776
だったら他の国々は?
それぞれ戦って命がけで護った土地だぞ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:03:56.84
>>778
当然でしょ
都に行かない使者とかゴミ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:04:29.94
>>779
何故、名を書かないのか?
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:06:11.44
>>778
意味が取れない

倭国内で贈り物のリストを作成して、それを利用していたとは思えないということ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:06:28.76
>>780
その通りでイチダイリツという言葉に中国人が一大率の文字をあてたんでしょ
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:06:38.58
>>782
その割には行程が雑過ぎないか?
方向にせよ。距離にせよ。
伊都国、奴国、不彌国までは里数表示
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:07:24.06
なに倭人伝無視してんだよお
一大率は倭女王がおいたんだから倭国王の家臣で魏の家来じゃない
まあ倭国王が魏に臣従してるなら陪臣とは言えるが
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:07:36.75
>>783
発言の意味が取れない
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:08:37.79
>>788
伊都国王の名は?
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:08:45.61
>>786
>その割には行程が雑過ぎないか?
>方向にせよ。距離にせよ。

それ、使者が報告したっていう根拠ないから
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:09:31.33
>>785
君のいうイチダイリツもイチ・ダイ・リツという漢字を読んだもの
倭国では漢字を用いることはない
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:10:03.11
>>790
行ったという根拠にもならない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:10:38.77
>>789
伊都国王の名は記されていない
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:11:35.02
>>793
何故?
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:12:18.72
>>791
だからそう書いてる
日本には文字が無いから口語でイチダイリツ
それに中国人が一大率の文字をあてたって事でしょ?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:13:32.84
>>793
いるのか?
いたのか?
ハッキリしないんだな。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:13:34.95
>>794
名前を記す必要がないと判断したからだろう
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:14:35.42
>>797
君の推測
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:15:02.04
>>795
倭国の人々は口語で中国語のイチダイリツを話すことはなかったろう
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:17:10.33
>>798
人にものを訪ねておいて、相手が答えてくれたのにその言明は失礼
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:18:58.46
>>799
何言ってるの?
日本には中国で言う刺史のような役職があってそれがイチダイリツ
それに中国人が文字をあてて一大率
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:21:13.49
>>800
ゴミか?
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:22:02.53
>>800
付き合いよろしくな
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:25:04.88
>>802
倭国の人がイチダイリツなどの漢字を基にした職名を付けるはずがない

だから、中国人が倭人が話したイタダイソツと言う言葉に漢字を当てはめということは、もともとありえない

イチダイソツは 中国人が中国語でつけた漢字の職名
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:25:18.45
まあ、伊都国王も共立王 卑弥呼であるから
代々の伊都国王はいたという過去の話
というのが当方の自説。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:27:09.44
>>805
なんで日本の役職を中国人がつけるのよ?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:28:32.55
中国人がおまえは今日から一大率なって言ったのか?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:31:48.68
>>807
一大率は中国の官名で倭国のではないというのが私の主張

しかし、それほどこだわらない 参考までにこういう考え方もあるということをご披露した
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:32:49.09
>>808
意味が不明

一大率は帯方郡が任命した役人の職名だったろうということ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:34:27.92
「一大率」はどう発音するか、当時の時代に行って聞かないとわからない。
中国人と倭人では違うかもしれん。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:35:07.72
>>809
中国で言う刺史のような役職が日本にあってあってそれがイチダイソツ(一大率)なんでしょ?
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:37:17.32
>>810
それなら意味は通る
帯方郡が名付けた属国用の役職だよね
卑弥呼が任命したのではない
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:38:56.19
>>812
中国本土の刺史のような職が帯方郡から倭国に派遣されていたというのが私の見方
同じ職名は三韓にもあった
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:45:55.65
>>815
一大率は帯方郡が任命した役人の職名
ではないな。
ようなもんにはならないのでは?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:45:58.57
>>814
>中国本土の刺史のような職が帯方郡から倭国に派遣されていたというのが私の見方

でも全く根拠は無いのでしょ?
なら妄想だから
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:47:31.60
>>816
日本の役職であるならイタダイソツ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:48:47.81
>>817
根拠思いっきりあんじゃん
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:49:47.10
>>816
当然、刺史は中国の制度
帯方郡は中国である
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:52:48.72
>>822
設置主体は帯方郡と考えるのが自然でしょう
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:54:54.72
>>823
参照したが却下だな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:56:25.50
中国が派遣したか任命したで辻褄が合うよ
卑弥呼は無い
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 11:58:11.03
>>819
>根拠思いっきりあんじゃん

何一つない
あるなら言ってごらん
言えなきゃ妄想で確定だ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:00:00.68
>>826
合うという理由もないから妄想だな
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:00:18.88
>>827
卑弥呼が任命したらイチダイソツでしょ
中国の役職だから一大率
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:01:53.73
>>826
どこが合うのかサッパリ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:02:13.82
>>831
>>830
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:02:27.29
>>830
なにそれ意味わかんね
なんで中国の役職なの?
中国の役職にそんなもの無い
発狂ですか?
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:03:25.13
>>832
あんたの妄想と合うなら妄想ってことさ
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:04:10.81
>>833
それだとイチダイソツで中国人が一大率の文字をあてた事になる
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:04:11.39
よのなかケチガイって居るんだな
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:04:59.75
>>835
>それだとイチダイソツで中国人が一大率の文字をあてた事になる

なんで?
理由は?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:06:04.88
>>837
だって日本の役職なら当時文字はない
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:06:16.84
>>837
どっちでもええがな。
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々だけなんだから。   @阿波
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:06:39.32
>>838
どっちでもええがな。
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々だけなんだから。   @阿波
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:07:29.36
一大率
魏、帯方郡、卑弥呼が任命または派遣した。
これ以外の妄想もあるぞ。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:08:27.19
>>841
頭おかしい奴っているんだな
倭人伝も読まないで
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:09:52.80
>>838
>だって日本の役職なら当時文字はない

なんで役所記名と決めつけるんだ?
妄想酷くないか?
お薬いります?
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:11:15.77
>>843
役職名を誤変換した
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:11:42.49
>>843
一大率は人名なのか?
どっちにしても日本ではイチダイソツ
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:15:13.14
>>845
証拠ないだろ
「特置一大率」の主語が如何して中国でありうるの?
明らかに倭人伝読んでないじゃね?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:18:55.61
>>827
「根拠思いっきりあんじゃん」とか言って
根拠一つも言えないって
薄馬鹿ですか?
脳不足?
恥ずかしい猿だな
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:20:56.11
>>848
根拠言ってるだろうが
当時日本に文字は無くあるとするなら口語のイチダイソツ
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:28:50.41
>>849
帯方郡から任命されたかも知れんね
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:29:31.09
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:44:05.79
一大率が帯方郡から任命だと考えるとおかしくはないな
なんか抵抗があったけど
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:56:13.99
>>601

複数の相手に従属する関係は考えにくい。
一対多であるならば、考えられるのは筑紫が王都として朝貢を受けていた可能性だ。
魏志倭人伝には博多湾沿岸の大率が周辺諸国を検察し、それらから畏怖されていたとある。
少なくとも出雲は筑紫を畏怖して謙っていたことが魏志倭人伝から推察される。
ならば吉備や大和も同じだったろう。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:57:36.25
>>602

吉野ヶ里は博多湾沿岸、特に糸島と同じ甕棺墓であり、密接な交流以上に同族と見なすことができる。
畿内説は嘘つきばかりなのか?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:58:55.96
>>609

投馬国が朝鮮半島にあったという仮定が誤りだよ。
投馬国は宮崎県都万を中心とする九州南部。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:00:12.01
崇神天皇の世では出雲から築紫に出雲武を派遣していた事が記述されているぞ。
恐れていたのではなく派出所があったのは確実、それが伊都。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:00:30.11
>>610

九州北部において支配的立場であり、奴国を含めた周辺諸国から畏怖されていたと明記されていた伊都国と同族の吉野ヶ里遺跡は前方後方墳なんだね。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:01:38.65
>>616

女王の支配地域つまり倭国の国境は楽浪郡から七千里の狗邪韓国ですよ。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:03:27.73
またその出雲武(振根)の時代の少し前だと武夷守鳥がいる。ヒナドリだからこれはヒナモリの事。
つまり九州や壱岐辺りに官を出していたのが出雲勢力でもあった事になる。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:03:29.49
>>621

朝倉までは有明海沿岸の肥国だったのでしょう。
後に博多湾沿岸の筑紫が拡大して有明海沿岸まで到達した。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:04:55.44
>>626

吉野ヶ里はすでにわかっているだけで10近い衛星集落を従えた有明海沿岸の中枢ですよ。
考古学的事実を無視した論議は時間の無駄。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:05:46.78
>>856

ほぼ西北九州だけの少数勢力首狩り甕棺墓は2世紀までにど没落した
全羅南道では6世紀くらいまで存続する
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:07:04.56
>>630

畿内から何も証拠が出ないなら、筑紫は吉備や出雲と何らかの関係を持っていたが、畿内は参加していないと考えるべきです。
邪馬台国が筑紫、吉備、出雲などの連合で、大和はそれらと隔絶した傍国だつた可能性すらあります。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:08:50.84
>>867
吉備と出雲はどう見ても関係ある
特に吉備
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:09:34.11
>>632

> 吉備・出雲が九州産の物品をあるいは畿内産の物品を独占していたのかな

逆ですよね?
筑紫が吉備や出雲の物産を独占していたことがわかっています。
また、大陸からの銅鏡や玉、半島からの鉄なども筑紫が独占していました。
魏志倭人伝では、筑紫の大率を周辺諸国が畏怖していたとあります。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:11:14.34
>>869
出雲は青銅器たくさん持ってるぞ
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:11:46.87
大和と出雲は銅鐸で古くから繋がりがある。孝霊や吉備都彦の伝承でもヤマトから何度も襲われている出雲へ賊退治に出掛けてるから。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:11:52.54
>>645

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで国璽である「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
許都が後漢末期の帝都であったのと同様に、伊都は倭の王都であったと考えられる。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:11:55.77
>>865

だから有明海沿岸には吉野ヶ里程度しかないと言っている
西日本全体で見ると少数勢力なので九州を切り離そうと日本の悪口に終始する
だが九州でもっとも発展している大都市博多は、畿内を中心とした首長ネットワークであることが
考古学研究成果によって明らかになっている
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:13:31.62
つまり北部九州が奴国、投馬国が出雲、邪馬台国が大和で全く問題がない。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:13:44.60
>>649

> ヤマトは邪馬台国で女王国だが他の畿内は女王国ではないでしょう
> 伊吹山もヤマト政権に最後まで抗った荒ぶる神がいたし滋賀も女王国に一部平定されたが女王国ではないんじゃないか

そんな国が、筑紫や吉備から干渉されずに魏に朝貢できるだろうか?
いや、できない。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:14:25.32
>>874
さてあったけ?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:15:02.60
>>875
奴国が何処を指してるかわからん
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:15:44.16
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)または博多(福岡県福岡市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:17:33.04
>>877
干渉とは?
30国は漢の時代から直接交易してたんだけど
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:17:33.86
>>855
邪馬台国からも畏怖されていた事になる
完全に魏の属国になっている?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:17:34.44
古代中国人「伊都に来ました。ここが魏志でいうところの邪馬台です」
現在日本人「いや違う!邪馬臺国は畿内にあったんだ!」
古代中国人「なにいってんだこいつ...」
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:20:05.99
>>714

三角縁神獣鏡は、伊都平原の技術を継承して作られていることがわかってます。
残念でした。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:20:30.87
>>884
伊都に来たのに何故邪馬台なんだ?
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:22:51.95
>>887
銅鐸作る技術があって銅鏡なんか難しいかね?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:23:58.37
>>762

官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:24:27.15
馬韓系平原蘇塗の技術は、まだ分析されていない古鏡に見せるサビ色塗装技術
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:25:41.92
>>890
どこの国の中央官僚よ?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:26:19.61
>>763

魏志倭人伝によると、大率は伊都の周辺諸国を検察し、それらの国々から畏怖されていた。
つまり伊都が周辺諸国を支配するための支配機構だったと考えられる。
畿内説は認めたくないだろうが、魏志倭人伝にはそう書かれている。
これにより、吉備や出雲は大陸半島からの抜け荷もできず、輸入品は全て筑紫に水揚げされ、筑紫で消費されていた。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:27:31.07
斯馬国(しまこく)河内湖、信貴山南側の近つ飛鳥辺り、蘇我の本拠地で馬子の名前は嶋大臣。箸墓の石はこの辺りの芝山から。
已百支国 ミマキ、馬見丘陵北部から三輪山辺り?
伊邪国 伊勢国、丹生鉱山有り。
都支国 三重県 津辺り。
弥奴国 美濃地方

好古都国?
不呼国
姐奴国 信濃?
対蘇国

蘇奴国 曽爾
呼邑国 吉野
華奴蘇奴国 花園 高野山
鬼国 和歌山
為吾国 伊賀
鬼奴国 貴生川 木津?
邪馬国 山城
躬臣国 近江
巴利国 播磨
支惟国 吉備
烏奴国 アナ、長門

奴国 九州奴国

そして奴国の南側に狗奴国がある。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:28:11.09
>>890

6世紀の韓民族の国では中央官僚だから
3世紀の倭国でも中央官僚でなければならないという朝鮮人の考え
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:29:00.02
>>894
伊都の場所はどうでもいいわ
大率は誰が派遣したんだ?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:29:42.64
>>809

中国の官名なら、帯方郡などの記事にそれがなければおかしい。
実際、卑弥呼の家臣で洛陽まで行ったものたちは魏の官職と銀印をもらっている。
しかし大率にはそのような記事はないから、大率は倭国独自の役職。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:31:13.60
>>842

> >>841
> 頭おかしい奴っているんだな
> 倭人伝も読まないで

畿内説はいつもそうなんだよ。
あいつら、妄想ばかり。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:32:17.20
>>901
それだと口語のダイリツってことになる
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:32:25.29
>>868

> >>867
> 吉備と出雲はどう見ても関係ある
> 特に吉備

その出雲は筑紫の大率を畏怖していた。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:33:07.81
>>894
>つまり伊都が周辺諸国を支配するための支配機構だったと考えられる。
>畿内説は認めたくないだろうが、魏志倭人伝にはそう書かれている。

書かれてない
伊都国は大率に検察されてる小国の一つ
そう書かれている
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:33:37.42
>>872

> 大和と出雲は銅鐸で古くから繋がりがある。孝霊や吉備都彦の伝承でもヤマトから何度も襲われている出雲へ賊退治に出掛けてるから。

そしてその出雲は記紀では筑紫に降伏して国を譲り、魏志倭人伝では筑紫の大率の検察を受けて大率を畏怖していた。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:34:16.76
>>907
場所は良いから大率なのかダイリツなのかどっちよ?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:34:36.21
>>874

博多は畿内より出雲や吉備との方が関係が深いですよ。
なんでも畿内畿内って、ウリナラ思想はみっともない。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:36:22.97
>>894

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

なので、女王国の構成国である2万戸奴国の北側(実際は西)の隷属国伊都国から北(西)の異民族統治=外交、交易ルートの安全の確立が目的
つまり主に異民族の伊都国が檢察対象
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:36:53.09
>>889

銅鐸を作る技術は打ち捨てられ、伊都の銅鏡製作技術が畿内に到来した。
つまり畿内は明確に筑紫の影響下に入りました。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:37:07.46
>>915
邪馬台国は行程上にはないってことね
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:38:15.36
>>900

> >>894
> 伊都の場所はどうでもいいわ
> 大率は誰が派遣したんだ?

伊都の引き籠り卑弥呼が代理に任命した。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:38:51.78
>>918
打ち捨てたは良いけど銅鏡作るのってそんなに難しいかね?
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:38:59.88
>>909

魏志倭人伝を読み直してください。
大率が検察していたのは、伊都の周辺諸国です。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:39:57.08
>>920
どの国かと聞いてるんだよ
日本には文字がないから
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:40:24.99
>>917

大国主が降伏して、「お隠れになった」。
意味、日本人ならわかりますね?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:40:48.65
>>922
ということは口語のダイリツなのね
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:50:14.02
一大率は中国語でイーターリュー。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 13:52:07.90
毛人(エミシ・蝦夷人)、肥人(クマヒト・肥前、肥後人)、阿麻弥(アマミ・奄美人)らの類を「異人」と記し、
「隼人・毛人を本土(内国)では異人と謂ふなり」(大宝律令)

およそ九州二型地域が異人
大和民族との境界ではアクセントが崩壊している

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/Japanese_pitch_accent_map-ja.png
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:15:17.60
卑弥呼がいたから伊都国は、中心国。
移動すればその国が中心国になるだけだよ。
邪馬台国は女王の都だったに過ぎない。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:18:32.47
>>914
矛盾が増すだけだよ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:26:12.76
>>887
全然ないな。墓遺跡だけだよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:36:28.14
>>896
見苦しい牽強付会
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:38:45.14
>>901
魏志倭人伝自体が君の求める記事
決して倭国の官僚が記録したものではない
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:39:20.46
>>938
おまえがな。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:42:14.25
>>939
君 バカじゃないの?
当然だろう。中国視点からみた女王国の制度
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:43:40.59
>>924
>魏志倭人伝を読み直してください。
>大率が検察していたのは、伊都の周辺諸国です。

伊都国も対象だよ
刺史は治のある郡も検察する
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:46:33.08
>>941
帯方郡の記事を基に陳寿は倭人伝を記述している
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:47:42.29
>>915
>伊都が広域邪馬台国の中心国邑ですよ。

倭人伝の記述に反するよ
妄想だ
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:48:43.94
>>943
だから何?
中国視点からみた女王国の制度は変わらん
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:51:53.72
>>890
>官有十六品。
>長曰左平、次大率、次恩率、

これは隋書の間違いで
百済に大率という官僚は存在しない
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:53:25.34
>>945
つまり魏志倭人伝が君が求める中国の記録・記事だということ

その内容に倭国は一切かかわってはいない
倭人が読むことも想定していなかったかもしれない
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:56:48.79
>>947
そういう事で中国人が読むためのものであり中国人に理解できなきゃいけない
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:58:58.25
すベて通説と常識の方が正しいんだよ
伊都国の王は女王に従属する小国の王で、女王が任命した大率に検察されていて、大率を恐れている下位の存在
大韓を送り込んでくるような女王は、伊都国からはかなり遠方にいる
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:59:17.16
>>947
倭人が読もうが読まないが
陳寿は知った事でない。
中国 陳寿 視点であるから
実態をどこまで正確に記述しているのかは
定かではない。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:59:38.76
大倭も同じでこの文字を見て中国人がどういう人か理解できなきゃいけない
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:11:07.57
>>934
当時の発音は?
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:13:05.88
>>952
どうでもいいしダイリツだと思っとけばいい
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:14:14.12
大率は軍事的な小隊という意味もあるだろ
一個小隊を伊都国に置き対馬海峡の安全を監視していた
今で言う海上保安庁または海上自衛隊かもよ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:16:18.59
>>954
そんな事は今どうでもいいし誰が派遣または任命したのか
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:26:32.71
>>956
弟かもしれんし
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:27:06.97
一大率 いたり 
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:32:51.99
>>956
その場合日本の役職だからダイリツという口語に中国が大率の文字をつけた
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:48:36.80
九州南部の宮崎鹿児島は投馬国で女王国の構成国じゃないか
0961◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/03/02(木) 15:50:29.78
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1677737087/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 15:57:10.50
>>960
推測するのはかまわないが
物証をあげて貰いたいな。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:00:48.33
考えてみれば30国が行き来してるし属国だし中国の官位を貰ってるし
卑弥呼が倭王の称号を賜り伊都国王が一大率を賜ったとしてもおかしくないか
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:03:17.27
>>963
おかしいよ
記述がない
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:04:45.70
>>964
一大率は何語なんだ?
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:16:05.31
九州北東部の不弥国迄で一万二千里の手前で更に南に船で20日でしょ
ツマはとどのつまりのツマと同じで行き止まりという意味でしょ
九州南部はツマや耳津、耳川など地名にも名残があるね
魏志倭人伝との整合性はとれるね
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:34:12.01
>>965
倭語と思う
中国側が字をあてる
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:41:46.96
>>965
>一大率は何語なんだ?

「一(a)大((big)率(leader)」
中国語の普通名詞
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:46:56.57
>>969
何故日本の役職名についてるんだ?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:18:41.64
>>973
今や「阿波」に取って代わられてしまった。   @阿波
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:25:13.32
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:25:20.30
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:32:29.57
>>973
>それ平成の打ち上げ花火として消えた説

アナタ頭変だね。畿内説は平安時代から今の今まで通説として存在してる
反論ひとつ出来ない九州説は昭和でほぼ消滅したが
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:40:26.33
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州という説
にいたる。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:53:13.80
>>971
>何故日本の役職名についてるんだ?

日本の役職名についてる?
意味不明だな
ソースは?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:55:20.47
>>978
なにも証拠の出せない九州説は、あたまおかしい教徒の信仰する鰯の頭
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 17:58:46.13
畿内説からも見放されたキナイコシの遠吠えが寂しく響き渡ってるなw
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:03:22.45
>>971
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ。
日本側には名称がないと思う
役割とかの機能はある。
検察大元締めみたいなもん。

持衰
名づけて、これを持衰と為すような

文は一大率には見当たらない。
自説ですけどね。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:16:57.97
>>982
悪口しか言えない九州説
死んでますな
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:17:46.72
既に日本史板で邪馬台国畿内説スレしか機能してないからな、これが答えだよw
畿内説しか残らないという事。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:31:52.70
海岸線で漁労と焼畑を生業にする東南アジアにルーツがある人々がいたと思うんだよな
縄文時代弥生時代の焼畑について詳しい人いないかな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:36:14.00
>>985
>既に日本史板で邪馬台国畿内説スレしか機能してないからな

それは、叩いて遊べる畿内説スレがこれしかないから。  わははははは   @阿波
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 18:47:11.77
>>987
遊んでもらえない阿波悲惨
0990日本@名無史さん
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2023/03/02(木) 19:01:35.75
>>942

刺史はあくまでも例えとして持ち出しただけで、伊都から地方に検察に出かける様子を見てそう書いただけでしょう。
魏志倭人伝全体としては、伊都の隆盛を描いています。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:04:15.92
>>954

大率が個人なのか軍団なのかはっきりしないが、伊都に置かれて周辺諸国を支配していた、つまり伊都が権力の座であった。
鎌倉幕府が置かれると鎌倉が権力の座であったのと同じように。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:06:25.24
>>971

伊都の役人は漢文が読めたから。
伊都という名前もそう。
港に出て帳簿をつけていたなら、漢文が読めたということ。
卑弥呼は国書を魏に送っていたから、伊都にいた卑弥呼の官僚たちは漢文が読み書きできた。
畿内の田舎者は文盲。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:07:20.79
>>992
論理おけしいね
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:15:52.82
>>995
今や「阿波」に取って代わられてしまった。   @阿波
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:26:44.37
>>995
痛説ですね
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:28:42.67
>>998
痛風かもしれん
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/02(木) 19:30:09.83
やっぱ、邪馬台国は近畿だな
10011001
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