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邪馬台国畿内説 Part869
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:14:59.82
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1677737087/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:15:53.30
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2023/03/04(土) 20:16:30.49
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2023/03/04(土) 20:16:59.89
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀
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2023/03/04(土) 20:18:11.64
編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう.。



◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
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2023/03/04(土) 20:18:47.48
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
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2023/03/04(土) 20:19:18.63
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
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2023/03/04(土) 20:19:51.46
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である
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2023/03/04(土) 20:20:25.92
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2023/03/04(土) 20:20:59.62
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:21:31.54
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:22:02.02
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:22:33.47
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:23:04.75
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:23:41.72
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:24:11.39
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:24:42.21
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:25:14.01
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:25:47.29
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:26:18.88
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:26:52.56
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:27:26.19
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:27:56.73
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:28:27.31
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:29:00.60
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:29:33.28
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:30:06.70
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:30:37.83
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:31:12.53
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:31:43.81
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:32:16.41
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:32:48.40
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:33:22.98
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:33:54.99
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:34:31.94
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:35:02.91
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:35:34.85
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:36:07.55
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:36:37.53
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:37:09.35
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:37:39.59
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:38:12.25
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:38:43.02
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:39:17.57
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:39:48.29
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/03/04(土) 20:40:21.50
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/03/04(土) 20:40:55.60
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/03/04(土) 20:41:31.67
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/03/04(土) 20:42:02.64
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/03/04(土) 20:42:33.44
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/03/04(土) 20:43:02.80
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/03/04(土) 20:43:32.33
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/03/04(土) 20:44:01.80
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:44:32.39
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/03/04(土) 20:45:01.78
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/03/04(土) 20:45:32.58
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/03/04(土) 20:46:02.31
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/03/04(土) 20:46:34.18
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/03/04(土) 20:47:03.52
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/03/04(土) 20:47:32.95
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/03/04(土) 20:49:02.52
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/03/04(土) 20:49:32.61
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:50:07.60
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/03/04(土) 20:50:36.93
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/03/04(土) 20:51:09.25
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/03/04(土) 20:51:50.58
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/03/04(土) 20:52:22.09
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/03/04(土) 20:53:17.20
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:53:46.64
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:54:18.70
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:54:54.56
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:55:31.73
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:56:03.69
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/03/04(土) 20:56:35.83
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/04(土) 20:57:08.81
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 20:57:31.46
>>960
>旧石器時代、まだ瀬戸内海が陸地だった時代

おいおい、瀬戸内海が誕生したのは20万年前だぞ。 いい加減なウソつくな!   @阿波 
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:00:56.77
最終氷期は瀬戸内海は陸地で四国と淡路島は陸続きで、大阪は起伏に富んだ古大阪平野が広がっていたんだよな
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:15:35.54
纒向遺跡のせいでどんどん邪馬台国から離れていく畿内説。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:20:02.72
河内とかの方が都会だったんじゃないの?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:21:33.79
わざと自説と違う説を熱心に繰り返して、その説の中に誤謬を混ぜることで信頼を奪うという作戦をとる人もいる
ま、一目瞭然の浅はかな知恵だが、そういうときはいちいち関わらずに離れて動静を見守るのがいい
そのうち、我慢できなくなって本性を表すことになるだろう

葬儀にかかわる部分の記述は興味深い
これは私は狗奴国以南の風俗を写したものと考えるが、倭国も同じような形態だったと思う
神道の初期ににどのように使者を弔っていたのかという、祖霊崇拝の一部について活写されている

人が死ぬと棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない 土で封じて盛った墓を作る
死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日 その間、肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む
埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする

葬送儀礼の期間は十日余で、その間、喪主は泣き叫んでいるが、他の人たちは歌ったり踊ったりして酒を飲む

この周囲の人のふるまいは敬虔な仏教徒などから見ると若干不謹慎なようにも見えるが、実際にこの風習は現代にも生き残っていると思う
まことにリアルな描写と思われる方もいよう

この葬送儀礼は仏教とかの宗教に以前に古代から根付いていたものなのだとわかる
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:22:42.55
>もし、阿波(徳島県)が倭国なら倭人はどんなルートで渡って来たの?

2万7千年前、ホモ・サピエンス(白保人)が石垣島に到来して以来、黒潮に乗ってやって来た。   @阿波源郷
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:22:52.98
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國 
以北だから女王国も含んでるよ 
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:25:47.57
>>78
近畿説は近づくよ。
開拓地、復興地、開発地、宗教地。
立派な建物が並び
宝がザクザクという願望定義など
は当方はない。中心国などまだ後の話。
可5万、可7万は見積もりだよ。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:26:53.34
纏向の箸墓古墳は前方後円墳だから魏志倭人伝の卑弥呼の墓の描写と大きさが違う
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:33:19.86
>>80
九州説は九州説スレで喚け
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:36:01.01
>>84
後円部が冢
前方部は儀式など葬送儀礼を行うスペース

冢の大きさは直径百余歩
ひったり合うことになる

仮に前方部も含めた寸法にすべきだと君が主張しても
そんな巨大な墓は卑弥呼の時代に存在しなかった
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:36:45.81
>>84
近畿説 別に違ってもいい。
卑弥呼の冢は九州だろうな。
共立で九州へだからね
九州で見つからないなら
箸墓へ移動も考えられる。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:47:02.91
前方は盛り土されていて、登るのも大変
儀式の場所とは考えにくい
0090日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というかいくら箸墓のネガキャンした所で径100余歩の円墳方墳は九州に無いんすよ...
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 21:50:59.64
箸墓は台与の墓でしょ
卑弥呼の墓はない
0094日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

お前ら結構頭いいよな
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 22:08:41.94
魏志倭人伝より
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人

魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた里など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の歩という単位を使って説明するわけがありませんから、規模は殉葬百余人とだけ伝えたはずです。
陳寿は殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と換算して併記したものと考えられます。

祇園山古墳(福岡県)
https://i.imgur.com/3jJf8mz.png
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 22:11:49.84
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 22:12:02.61
>>92
>御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に
>ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、>現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
>これが宇佐神宮の創建です。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 22:56:07.37
女王国(邪馬台国)の葬送の習慣として、「その死には、棺有りて槨無し」と書いています。

これは棺(ひつぎ)はあるが、棺を保護する外槨(がいかく)はないという意味です。纏向遺跡の古墳はすべて外槨をもっています。対して北部九州からは、棺有槨無に一致する「甕棺墓(かめかんぼ)」という特徴的な墓が発見されています。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 22:57:28.93
宇佐神宮の上社は、亀山(小椋山)という小山の頂上に建っています。

亀山の山頂は、直径80mです。また江戸時代に記された『八幡宮本紀』には「本宮が建つ山上の周りを390余歩」と記されています。これは直径に換算すれば125歩となり、「径百余歩」という記述と一致します。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:00:22.89
宇佐神宮の本殿下には石棺が埋まっているので古墳なのは間違いないだろう
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:03:38.13
宇佐神宮が祀っている比売大神こそ卑弥呼なのだろう。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:04:49.00
宇佐の地にはその隼人の首が100体埋められているという伝説が残されています。

その100体の魂を慰霊するために建てられたのが、百体神社です。

さらに百体神社の近くからは、棺有槨無に一致する「甕棺」が数回にわたり、いくつも出土しているのです。

径百余歩」と「奴婢百餘人」という2つの条件に当てはまる卑弥呼の墓の比定地は、日本全国で宇佐神宮しかありません。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:05:37.11
>>99
葬送儀礼について触れている部分は狗奴国以南の倭地の風習についてふれたもので、ごく一般的な庶民の暮らしの葬儀を描いているもの
倭国女王の弥呼の墓とは同列には論じられない
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:07:00.72
>>100
それは造成された墓ではなく自然の地形
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:08:29.63
>>101
そうだとしても創建時(725年)に造成されたものだろう
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:09:07.11
亀山は人工的な盛土などではない、自然の山だとされています。しかし初期の古墳には自然の山や丘陵地に手を加えたものが多いので、亀山も同じものだと考えられます。
0108日本@名無史さん
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2023/03/04(土) 23:10:03.01
>>102
>八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
0109日本@名無史さん
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2023/03/04(土) 23:11:34.72
>>106
古墳の上に神社を建てる例はたくさんある。

例えば静岡県沼津市の西椎路山神社古墳
0110日本@名無史さん
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2023/03/04(土) 23:13:53.24
>>103
隼人の反乱は養老4年(720年)に起きたもの
3カ年に渡って抵抗する隼人を平定し、723年に帰還したといわれる
百体神社はその時のもの
0111日本@名無史さん
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2023/03/04(土) 23:14:57.46
>>107
誰がそういう説を言っているのか?
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:16:06.53
>>109
古墳の上に立てたものとする説は、誰のものか?
0114日本@名無史さん
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2023/03/04(土) 23:19:28.92
子ノ神神社も子ノ神古墳の上に立っている
佐賀県には中津隈宝満神社境内古墳
福岡県には埴安神神社古墳
鹿児島県の大塚神社は唐仁大塚古墳の上に建っている
大分県には臼杵神社が臼杵古墳の上に建っている
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:19:43.35
>>108
比売大神が降臨したのは本宮の御許山(大元山)ですし、
筑紫の君は宇佐の奥の安心院に三女神社を祀っています。
安心院は安曇氏が由来なので、卑弥呼の出自は安曇氏だったのかもしれませんね。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:21:45.24
吉野ヶ里で今発掘中の場所も神社があったな
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:30:05.14
>>116
>>117
今話題にしているのは宇佐神宮について
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:31:49.33
宇佐神宮と卑弥呼を結びつけるのは無理
とんでも説であることをひけらかしているようなもの
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:32:40.94
根拠を示さず、無理とかとんでもとかレッテルを貼るのはいかがなものか?
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:33:22.89
>>120
根拠は十分に示してある
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:37:32.46
>>122
一言も触れた人はいない
誰の説なのか明らかにすべき
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:41:58.41
>>124
主張するなら、誰の説を根拠にしているかを述べるべきだということ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:42:11.34
宇佐神宮が卑弥呼の墓の上に建っていることを否定した学者は1人もいないね。
否定してるのは君だけ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:42:24.12
>>118
宇陀、宇高、宇部、宇和島
とあるから航路だろうな。
朱絡みかな?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:43:19.46
>>125
説が根拠とは笑止
説の紹介なら本を読めばいい、ここで議論するまでもない
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:43:30.07
>>126
そんな主張をしている学者など、一人もいない
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:44:49.05
>>128
ここでその節を紹介するなら、誰の説なのか明らかにすべき
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:48:54.31
>>132
それは私のルールなのではなく、議論を進める当然のルール

それが理解できないなら、それも九州説の破綻を自ら明確にする行為となる
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:49:50.22
高木彬光が宇佐説の小説を書いていたと記憶しているが、本殿下に石棺が埋まっていたと書いていたような気がする
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:52:35.03
>>134
もしそうだとしたら、それは725年の宇佐神宮の創建時のことだろう
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:56:49.38
>>136
証拠も出さずにいい加減な発言をすることはどこでも認められない
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:58:43.73
>>135
8世紀に石棺はないんじゃ無いの
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:59:39.40
>>137
すぐに提示すればいいものを、なぜこんなに時間がかかるのか
その史料はあとからゆっくり読ませてもらう
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:02:43.51
>>139
宇佐神宮の創建以前に、その場所に埋められていたとする説があるのか?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:03:18.14
>>137
鉄鏃をまた、根拠に入れている
ダメだ こりゃ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:05:10.54
邪馬台国は七万戸、一番最優先しないといけない条件を基本九州説は無視してるよね。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:05:56.44
>>137の論考なるものは私がここで反論した論で網羅されているようだ
とても、批判対象にもならないもの
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:07:47.40
>>140
いちいち上から目線なのね。なんであなたの気にいるようにしなきゃいけないのか
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:09:18.63
>>146
それが議論を進める最低限の礼儀
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:10:57.08
>>142
邪馬台国近畿説

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

投馬国含むと60日もかかるんだな。
軍事に関する記述はない。
乱とは程遠い地域
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:14:38.68
まず魏志の記された当時の基本的な常識を頭に入れるようにしないとね。

半島
高句麗3万戸
馬韓10万余戸
辰 4~5万戸

倭国
奴国2万戸
投馬国 5万戸
邪馬台国7万戸
傍国?
他に強国であるだろう狗奴国も有り
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:16:24.67
>>149
ないな。必死に邪馬台国周辺に
狗奴国を何故、探すのかサッパリわからない。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:18:24.54
>>149
じゃ畿内説スレでなく該当スレを盛り上げれば?
畿内説スレ以外過疎ってるぞw
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:19:45.95
漢書地理誌に「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。」とある。
つまり倭国は100余の小国からなるということ
邪馬台国は30余の国を従えるとある。
邪馬台国が近畿にあるとすると、関ヶ原より東には50ヵ国くらい合ったってことなるけど、ちょっと勘定合わないんしないかな
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:22:22.68
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

官名だけでもイコマ ミマ (カミマキ、マキムク) ヌカタと畿内では遺跡、歴史的に重要な場所ばかりだね。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:22:36.47
九州に30、中国、近畿、四国に40、東国に30くらいでちょうど合うけど、そういう研究している学者はいないのかな?
遺跡の数で大体わかると思うけど
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:25:57.60
>>154
邪馬台国は30余の国を従える
などないよ。
広範囲の地域だよ。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:31:28.09
>>141
神社の創建時に墓を作ってその上に本殿を作る事などあり得ないと思わないかい?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:31:40.32
>>155
広範囲だからね。
官4名もいる。
これしかない
「楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」
なんで邪馬台国は30余の国を従えるとなるのか?
わからない。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:31:41.49
伊和大神の国作りは尾張で終わりとある
その後の国作りは伊勢遺跡を舞台にした、大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいかもな
卑弥呼の前の時代は、近畿に加えて関東甲信越、瀬戸内海〜九州北部の三拠点で国作りが行われた可能性もあるんじゃないか

南方刀美は九州の国作りをしていたんじゃなかろうか?
スサノオ(伊和大神?五色の石神?)とトミの母の子かもな
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:35:23.87
>>162
30のうちのひとつが邪馬台国。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:37:51.08
静岡県沼津市で3世紀中頃に築造された高尾山古墳は前方後方墳だから文化圏が関西と明確に違うね
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:38:37.60
魏志倭人伝では従えるでなく
共立。後は属するのか属さないと
交流がない地域
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:40:09.65
>>160
生駒山の麓は額田の地名があるのも分かりやすい。また奈良盆地側にも額田郷は竜田近く平群にあり、また大和郡山にもある。
そもそも推古天皇も幼名は額田部皇女という名前だしな。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:40:25.29
支配とか従えるとか出てくるのか?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:40:28.82
>>159
30だろ

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:42:04.99
>>112
豊前の平野なら7万は余裕だよ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:44:28.66
七万戸プラス鬼道の痕跡がない場所は無理だな。
畿内だと神獣鏡の分布の広さ+出土量の集中で説明可能だね。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:46:26.38
共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない
なんで邪馬台国は30余の国を従えるになるのか?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:50:44.87
>>170
魏志倭人伝
その死には、棺有りて槨なし。

ってあるから、

九州でのみ発掘される甕棺墓がそれ
近畿は皆棺を覆う槨があるから、近畿ではない
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 00:53:02.80
>>172
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
だから冢は九州だよ。
なければ、箸墓に移動かもしれない。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:01:58.73
>>175
移動後だろう。
変わっただけだよ。
俺の仮説に過ぎない
それよりも九州よサッサ探せよ。
宮内庁管轄でどうしようもない
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:02:43.87
宇佐での鬼道の痕跡は米神山にあり
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:05:01.82
二の御殿(比売大神)は731年の神託を受け733年に遷宮により造営されている(『八幡宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』)。
二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。
また『弥勒寺建立縁起』(844年作)も、比売大神は応神天皇より以前から亀山に鎮座していたと記録する(太田静六「宇佐宮本殿形式の成立問題―八幡造の祖形と源流」。九州歴史資料館編『大宰府古文化論叢』下巻、吉川弘文館1988年に掲載)。

宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されている(明治40年、昭和16年)。
明治40年(1907年)、神楽殿前の広場にそびえる楠の大木と、内陣・三之御殿の向って右側にある楠の巨木が根を張り出し、建物の一部が傾きかけた。
そこで、内陣の部分をある程度掘り返し、根を切断すると同時に建物の一部を修理する工事が行われた。
その時、巨大な石棺がその全貌をあらわした。目撃証言によれば、「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。
石の節理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、国東半島にはこういう石は存在しないそうである」「この石棺にふれることは許されなかったので、目測にたよるほかはなかったわけなのだが幅も高さも1メートル強、長さは2メートル数十センチ、しかも表面はまるで鉋(かんな)でもかけたようなきれいな平面になっていた。
とうぜんのことだが、蓋はべつになっており、その間からはみ出したと思われる朱が、横に一線正確な直線を真赤に描き出していた」(目撃者の山本聴治の証言を高木彬光が著書『邪馬台国推理行』角川書店1975年で紹介)
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:05:09.52
>>175
近畿説
吉野ヶ里 北
平塚川遺跡周辺
と集落はあるんだから
期待している。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:14:35.11
>>178
卑弥呼の墓なら金印があるかもしれないですね
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:25:57.99
あっても証明にはならない。
移動できるもんだし
時の権力者がもっていたかもしれん。
副葬品に年代と合うもんがありゃ
いいけど判断に難しい。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:35:43.97
>>175
>箸墓には槨(石室)があるから、箸墓ではない

石室は槨ではない
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 01:44:39.89
>>154
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 02:16:12.28
>>183
それ、誰が決めたの?
自分の思いつきをテキトーに口に出しても説得力無いよ
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 04:32:37.47
>>172
それは一般的な倭人の仕様、卑弥呼は女王で大きな塚、径100歩ともあるので仕様は全く違う。
魏志倭人伝の記述でいうならそもそも丹山、青玉が当時九州ではとれないだろう。
0188日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

取りあえずもう埒明かないゆっくり解説動画にしてYoutubeアップロードするか
ここで書いてもせいぜい数十回再生だけど
youtubeならもっと広められるかもしれん

上げたらみんな評価よろしく!👍
0189日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

すまん詳しい人、那珂比恵遺跡群よりデカい遺跡って当時の九州で見つかってるっけ?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 06:35:03.63
>>175
>箸墓には槨(石室)があるから、箸墓ではない

箸墓は、完全葺石墓だから、4世紀の墓である。   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 06:48:30.90
馬王堆漢墓みたいに保存状態がいいのと
記録物等の出土ないかね。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 07:42:35.13
>>191
お笑い九州説
まったく攻めてこないのに防戦とか無いから
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:00:50.80
郡評論争に決着を付けた藤原宮跡出土木簡「上挟国阿波評松里」も
阿波評(安房地方)の付札(荷札)木簡という「阿波」との不思議な因縁である。   @阿波
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:08:15.59
>>157

魏と交渉できた30カ国が卑弥呼の支配下の邪馬台国に属しているというのは妥当な考えだと思うけど?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:12:41.55
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:19:55.98
>>104

魏志倭人伝は当然卑弥呼の墓制についても意識しているはず。
槨なしが一般人だけの話だなどという解釈はなんの根拠もない。
それなら、一般人の他に王族の墓制についてどこかに記載がなければおかしい。
むしろ、大事なのは王族の墓制の方だよ。
その者たちが何者であるかを示す重要な話だからね。
前方後円墳であれば前方後円墳とわかるように記載しただろう。
しかしそのような記載はない。
ならば、槨なしは王族の墓のことであるとしか考えられない。
一般人の墓のことなど書く必要はない。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:25:26.90
その死には、棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。始め、死して停喪すること十余日、当時は肉を食らはず。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒に就く。すでに葬るや、家を挙げて水中に詣り澡浴すること、以って、練沐の如し
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:29:00.98
どう読んでも書かれてるのは一般的な倭人の風習だな。
卑弥呼の墓は違うから別の項でわざわざ描いているのである。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:33:43.07
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。」
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:40:57.40
>>202
九州説さん、倭人伝読んでないのがモロバレですよ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:42:46.49
>>206
九州には大型墓そのものが無いから失格は確定
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 09:49:30.85
吉野ヶ里遺跡で発掘されてる墓群は身分の違いで埋葬方法が違う
一番多い一般人のものも思われるものが甕棺墓

佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法だ

掘った横穴に甕棺を埋め、その中に死者を埋葬し、蓋をし土を盛る

他には身分の違いで土坑墓、木棺墓、石棺墓と遺体を納める棺が変わってくるが、やはり礫はない
身分が高ければ大きく盛り土し、墳丘墓にする。

魏志倭人伝の墓の埋葬方法の説明は一般人のもの限定ではなく、身分に関係なく共通することがらを記載したものだろう。
そして、卑弥呼の墓は大きく塚を作ったと特徴を追記した。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:03:55.53
>>202
刺青についてひとしきり語った後、

>その風俗は淫ならず。男子はみな露?し、木緜を以って頭を招(くく)る。その衣は横幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫ふことなし。婦人は被髪屈?す。衣を作ること単被のごとくして、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る
から倭地の風俗について語り始める
葬送儀礼も次に並んでいる これはごく普通の倭地の風俗の一環として書かれているもの
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:11:42.33
>>211
九州説の人は>>202 みたいに実証をおろそかにして自分の感覚だけで想像するから、学問じゃないと言われるんだよ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:13:47.30
九州では少数民族首狩り甕棺墓は2世紀までにど没落した
全羅南道では6世紀まで存続する
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:17:32.57
>>197
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
武帝が朝鮮を滅ぼしたのは紀元前108年 
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:17:52.38
>>197
邪馬台国も卑弥呼に属している
国々のひとつに過ぎない。
0217日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 10:17:53.45
>>209
>魏志倭人伝の墓の埋葬方法の説明は一般人のもの限定ではなく、身分に関係なく共通することがらを記載したものだろう。

じゃあ倭人がハダシだという記事を見て卑弥呼は靴を履かないと断定するか?
服喪期間も一般人と同じか?
書いてあることは書いてある
書いてないことは書いてない
こんな普通の判断が九州説の人には何故できないんだ
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:20:44.19
邪馬台国は伊都国の南にある、畿内には無い。
0219日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 10:23:54.96
>>217
卑弥呼は外出しないんだから靴履く必要がないだろ
畿内説の人は九州説を否定することで消去法的に自説を展開するから説得力もなく、こういう初歩的なミスをする
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:24:45.69
>>218
それ、倭人伝に書いてないよね?
0221日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 10:26:59.06
>>219
外出しないとかの記述はない。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:31:20.48
畿内説は阿波説に毛が生えた程度のトンデモです
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:33:50.15
魏志倭人伝を根拠に出来ない畿内説はトンデモ
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 10:38:36.42
畿内説のように魏志倭人伝を無視するのであれば芝公園にある前方後円墳だって卑弥呼と言えるだろう。それだけトンデモの畿内説なのである
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:01:54.08
当時の中国人が前方後円墳の石室を見たら、槨としか表現しょうがない。
現代日本の考古学用語で強弁しても無駄。
畿内の前方後円墳を郡使は見ていない。
そもそも郡使は伊都までしか来ていないし。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:08:08.78
>>212
私は九州説などではない

>>202の人は箸墓は卑弥呼の墓ではないとの主張 つまりその人が九州説
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:08:16.85
>>229
>そもそも郡使は伊都までしか来ていないし。

お前も、強弁しても無駄。   @阿波
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:08:28.79
芝公園

古くはこの地は飯倉御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。
江戸期の増上寺の総構えのわずかに東に位置する芝大神宮がかつては増上寺や東京タワーの場所にあった。
芝大神宮は天照皇大御神 - 伊勢神宮内宮の主祭神、豊受大御神 - 伊勢神宮外宮の主祭神を奉る。
古墳の中腹には円山随身稲荷大明神を祭る。

ふむ。
畿内説が成り立つなら、芝公園説も成り立つな。
古くから栄えた人口密集地だし。
東京は今でも行政の中心地だ。

みたいな話をしているようにしか見えないんだよ。
畿内説は。
卑弥呼よりずっと後世の姿を200年頃に前倒ししている。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:09:08.46
>>229
おまえの言ってるのは前方後円墳とか槨とかなんも関係ない
畿内じゃ無いから行ってないと言ってるだけだろ
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:10:52.19
>>232
遺跡があるから
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:16:05.59
>>234
へっぽこ遺跡がか?  わははははは   @阿波
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:18:17.70
徇葬者は奴婢、百余人なり。

箸墓は100人の遺体見つかったのか?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:30:03.93
>>236
そんなの何処にもないでしょ
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:30:16.14
>>219
>畿内説の人は九州説を否定することで消去法的に自説を展開するから説得力もなく、こういう初歩的なミスをする

根拠のないことを言って罵っても反論になりません
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:33:14.15
>>229
>当時の中国人が前方後円墳の石室を見たら、槨としか表現しょうがない。

何も理由を言わずに突然「俺様の結論」を言い張るだけの九州説は
学問じゃあり得ませんな
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:34:42.50
徇葬者は奴婢百余人が無いから箸墓じゃない
じゃあ他ならあるのかと言えばそれもないわけで
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:35:33.26
>>234

だからさ、その遺跡が邪馬台国と関係することを畿内説は何ひとつ証明できていないでしょ?
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:36:32.42
畿内説が自身の根拠を示さなくてはいけないのに、数百スレ費やして根拠が皆無。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:38:21.13
>>219
>こういう初歩的なミスをする

ミスって何?
あなたの空想と違うこと言うとミスなわけ?
あたま悪いね
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:38:55.58
>>244
皆無って証拠は?
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:39:44.30
>>243
>だからさ、その遺跡が邪馬台国と関係することを畿内説は何ひとつ証明できていないでしょ?

とか断定する理由は?
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:46:31.45
>>243
そこまでは難しいね
だから年代が合致すれば名乗りをあげるわけで
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:49:14.36
>>249
正直でよろしいが、結局阿波ほど厚顔ではないというだけで、ではなぜ出雲や吉備や諏訪や武蔵ではダメなのかと言うことになる。
大和が陸行一月か?
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:50:34.44
>>250

棺の存在が確認されているなら、妄想ではないと思う。
学術調査がされていないだけ。
それだと畿内の多くの陵墓と変わらない。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:58:26.70
>>251
ダメじゃないと思うよ
それに相応しい遺跡が出てくればね
郡使を招くんだし見栄があるからな
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 11:59:59.28
>>251
>結局阿波ほど厚顔ではない

いっちょ揉んでやろうか?  わははははは   @阿波
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:02:35.70
郡使を招いて儀礼的な事もやるわけでそれなりの場所ってもんがあるでしょ
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:04:19.18
>>256
その場所が、鮎喰川下流域だ。   @阿波
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:05:21.15
>>251
>ではなぜ出雲や吉備や諏訪や武蔵ではダメなのかと言うことにな

そこに広域政権のあった形跡がないから
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:05:27.09
>>257
集落遺跡に倭王が居るかね?
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:08:29.56
>>248
テンプレに出てるよ
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:09:37.25
>>259
「卑彌呼」が隠棲していたのは、鮎喰川の上流「神山」。

鮎喰川下流域は、倭国(阿波)の都だな。   @阿波
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:19:43.11
>>259
「卑彌呼」が隠棲していたのは、蟋蟀喰川の上流「神山」。

蟋蟀川下流域は、倭国(阿波)の都だな。   @阿波
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:25:50.11
>>259

それな。
一般人の集落と王宮を分けるなら、奴国と伊都国でいいじゃんという。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:28:21.83
>>263
別の国だからダメ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:28:53.37
>>258

いやいや、出雲や吉備ならあったでしょ。
武蔵だって遺跡から言えば東日本のめちゃくちゃ広域の交易圏があり、集落遺跡も大量にあるぞ?
関東地方は縄文時代以来、人口が多い土地だからね。
東京23区はどこを掘っても弥生時代から江戸時代までの移籍が重層して出てくる。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:29:24.48
>>263
>一般人の集落と王宮を分けるなら、奴国と伊都国でいいじゃんという。

これを、厚顔という。   @阿波
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:30:54.75
纒向遺跡と唐古・鍵遺跡はまるで同じ国であるかのように話すくせに、奴国と伊都国は別だというダブルスタンダードぶりはなんだろうね。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:33:10.48
島根県民の間では邪馬台国出雲説が一番支持されているらしい。
まあ、根拠は畿内説よりマシかもしれない。
全国レベルでは九州説が過半数の支持を集めているけどね。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:34:05.00
>>263
郡使御一行も100人くらいは居るだろうし数百人は集まれる場所じゃないと
それくらいの施設は必要
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:47:59.94
王宮は中国を真似てたんじゃないかと思ってて
生活してる所を通るなんてみっともない事しないでしょ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 12:59:54.83
>>274
逆に俺はそれこそが王宮の証明だと思ってる
ヤマト(日本)の王であって奈良県の王じゃないからな
伊勢遺跡も同様
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:01:29.09
>>275

纒向遺跡と唐古・鍵遺跡の人たちは人種や言語が違っていたのかもしれない

伊勢遺跡は無関係
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:02:22.59
>>274
>纒向遺跡と唐古・鍵遺跡は全く別物と判明しています

どうでもいいけど、そんなのしかないのかよww  とほほww   @阿波
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:06:25.21
鯰だよな
中国では日本でいうナマズのことを鮎と呼び、大鯰のことは鯷と呼ぶらしい
漢書の呉地の条には「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」の記載がある

日本列島にも東鯷人が住んでいた可能性があるんじゃなかろうか
呉とも関係するのかもな

九州の風土記には鮎の話がちらほら出てくる
阿波の神社の何処か忘れたが縁起にも鮎が出ていたな
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:08:27.27
>>276
そこまで言うと根拠がない
其大倭王居邪馬臺國は王宮の場所を指してる
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:11:25.87
倭国大乱前までは、飯塚辺りに大倭の拠点の一つがあったんじゃなかろうか?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:13:23.07
>>281
大倭って何よ?
日本語のダイワなのか中国語の大倭なのかはっきりさせろ
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:16:32.09
>>266
どちらも王がいるから別の国
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:18:35.21
>>283
だから出鱈目が書いてあるってか?
魏志だって後の時代
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:18:45.04
信憑性のある記録は魏略と魏志のみ
魏略には女王国は記載されているが邪馬台国という国名は出てこない
これが朝貢する前の記録
倭人が朝貢に訪れた後、魏志倭人伝の行程に日数行程が追記された
それは帯方郡から北部九州までの道のりである
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:20:46.59
>>274
>纒向遺跡と唐古・鍵遺跡は全く別物と判明しています

そりゃ場所が違うもの
何が言いたいの?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:21:14.70
>>286
何を根拠に?
陳寿が趣味で書いた三国志の方が信憑性が薄いだろうよ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:21:23.24
>>285
魏志倭人伝は西晋で陳寿により編纂されており
ギリギリ臺与の遣使と面会した可能性がある
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:22:29.01
>>269
それは同じ国の別の都市
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:24:05.54
>>286
>魏略には女王国は記載されているが邪馬台国という国名は出てこない

それって証拠ないでしょ
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:35:56.25
>>289
>ギリギリ臺与の遣使と面会した可能性がある

陳寿が西晋に仕えたのは泰始4年からだから無理
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:38:45.47
>>280
記述ないけど
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:38:48.29
>>292
>常識ですが?

いや非常識
魏略はわずかな断片しか残っていないので
「魏略には女王国は記載されているが邪馬台国という国名は出てこない 」
と言う主張は異様なまでに非常識だ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:42:09.00
俺は狗奴国なんて存在しないと言ってたけど匈奴ってあるでしょ
書物として面白くするためにこれに習って適当な名前付けたんじゃないかと思ってるんだけど
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:43:12.48
>>294
記述って其大倭王居邪馬臺國でそのまんまだけど
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:47:14.34
鎮西上人の伝説だよな
【7歳】で大日寺の小僧になり後に明星寺に住む
修行中【しきみ】の【薬】をとって来るようにいわれ、苦労の末成功する
シキミの別名はハナノキやマッコウや花榊と言われ、仏事に使われることが多く冥界と関係が深い植物
愛宕山 しきみが原に 雪積り 花摘む人の 跡だにもなし
という歌もあり後々は火伏せとも関係してくる
三輪の神の荒魂狭井の神さまは薬とも関係が深い

熊野では、死者の霊魂が手向けられたシキミの葉を手に阿弥陀寺に参詣し、鐘をつくと伝承されており、この鐘は「亡者の一つ鐘」とよばれる
阿弥陀寺がある妙法山は、樒山(しきみやま)ともよばれる
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:47:26.96
>>297
王宮の場所はひとつとは限らず
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:49:02.58
続き
あるとき虚空蔵様(明星寺の山中にあり。)の前で真っ赤にうれた柿の実に墨で黒々と丸と井形とそれぞれしるして,お願いしていうに「私がもし偉い坊さんになることができるならば無理なことだが,このようなしるしの柿の実をならせてほしい。」と。

そしてこの実を境内に埋めたのであるが,やがてみごとに丸印や井印のついた実がなったという。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:51:00.64
>>299
それはその通り
俺なんて伊勢遺跡→纏向遺跡の移転説だからな
ただ国名としてはヤマト
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:52:47.37
そして一回英彦山に行くたびに【松】の木を一本ずつ植えて願かけの日数を数えた。
その原っぱを日数ガ原といっていたが今は訛って彼岸原という。

上人が英彦山に参る時はいつも白い衣を着て夜中に出発した。
村の人びとの間に「【一つ目】小僧が通る。」といって大さわぎとなった。
そこである夜、【鯰田】の城主葦ガ谷右京という人が上人を目がげて弓をひいたところ矢は上人のたもとをかすめて空中に飛んだ。

一つ目で思い出すのは諏訪大社の七不思議にある片目の大魚や播磨風土記にある片目を掘り潰された五色の玉を持つ石神、片目の猪などかな
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:56:10.55
>>301
女王国はヤマトより大きい?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:59:05.48
このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぽり、仏教の奥義を学んだ。

そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発した。

建立の材木も毎日.遠賀川をのぼり、木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の地名がついた。

五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集ったご飯の白い山はいっこうに減らずついにご飯の塚ができた。

これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。

伊勢遺跡のある比叡山で認められ故郷に凱旋し明星寺の立派な塔を建てたのか

明星寺には湯屋の池があり明星の光が奇しく映ったという
明はアカル
イワイの姫島のアカルヒメと関係があるのか?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 13:59:09.32
>>303
同じだよ
卑弥呼が居なきゃ女王国じゃないしそこはなんて名前よ?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:01:51.84
倭国大乱で飯塚辺りにあった拠点は潰されて、アカルヒメ姫を連れた牛引きは大陸に逃れた可能性もある

黒曜石の産地、イワイの姫島には七不思議があり大蛇が住む池もあったらしい
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:02:23.84
>>299
当然ですね。居た所だから
中心国とは限らない。
出身地の場合もある。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:05:25.54
鯰だよな
鹿島や香取の要石は大鯰を抑えているらしい
大鯰が瓢箪や猿に退治される話もある
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:07:36.12
倭国の範囲とか女王国の範囲とか邪馬台国の範囲とかあほな事考えてるな
そんなの中国人にわかってたまるか!
中国人の認識はもっといい加減で漠然としたもんだよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:08:15.71
阿蘇も阿波も鯰や鮎に関係してくるんだよな
阿は鯰と関係がある、鯰は呉と関係があるという仮説は検証する価値はありそうだな
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:11:54.44
>>311
誰にも確認できる事実だから常識
超絶無知な人以外はみなが知ってること
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:14:23.54
中国語の倭国と日本語のヤマト
どういう事何だろうと考えた結果生み出されたのが女王国だよ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:14:37.85
遠賀川は縄文時代のはるか昔から弥生時代まで石器の一大製造拠点で九州一円に出荷していたんだよな
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:15:37.73
>>307
倭国女王の都がある場所だから倭国の中心国
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:16:36.50
>>309
あたり前、あくまで中国視点なんだから
正確なもんはない。距離にせよ。
100里単位 おおまかなもん
予備知識やガイドがないと
迷子だろー。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:18:35.75
>>315
とは限らず
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:19:25.21
>>315
繰り返しか
お付き合いよろしくな。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:19:28.42
磐井の岩戸山古墳だよな
猪を盗んだ盗人の石像もある
元々磐井の祖先は九州の人だったのかな?
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:21:00.68
韓国より南=倭
倭地にある国々=倭国
女王に属する国々=女王国
そして狗耶韓国から伊都国、不彌国、奴国などは中国が後漢時代から聞いて知っていた国名

しかし実際に卑弥呼時代に朝貢に来た倭人は対馬海峡の半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬台国として紹介した
魏はその最新情報を中国側の認識している行程の続きだと勘違いしてしまった
または陳寿が編纂する際に勘違いして併記ではなく追記してしまった

卑弥呼時代の倭国: https://imgur.com/Z7Om5EP.png
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:21:37.03
>>317
理由なにひとつ無しに言い張っても信用する人はいない
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:22:22.78
>>321
繰り返しか
お付き合いよろしくな。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:22:29.82
岩戸山古墳は風土記にも内部の描写が残っていて奈良時代から壊されることなく今に至っているんだよな
人々に大切にされていたのかな?
国宝にしたらいいのにと思う
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:23:01.82
>>321
別にどうでもいい事
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:23:53.32
>>321
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:25:10.67
>>324
誰からも信用されない人は、どうでもいい人
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:25:37.29
>>321
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:25:53.27
>>326
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:26:24.59
>>326
あんたもどうでもいい人
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:26:47.72
>>320
倭と倭国をおまえは分けてるけど中国人はもっといい加減な感覚で書いてる
はっきり言えば違いは無いけど大体伝わるだろうという使い分け
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:27:08.71
>>326
それで?
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:27:56.65
>>326
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:28:39.28
>>323
大きいものは作るのも壊すのも労力がかかる
どっちも必要が無きゃやらないよ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:30:04.34
>>326
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:31:05.86
>>334
埋めつもりか?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:33:12.44
>>335
当然、繰り返しだから、
楽なもん。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:33:27.05
倭人在帶方東南大海之中が中国人の認識
朝鮮半島にも倭人が居ることも知ってるけどこれで大体伝わるだろうって感じ
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:36:46.04
>>326
>>326
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:39:26.39
陳寿が想像力を働かせて書いてるんだよ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:44:24.57
>>339
陳寿説と言ってもいいと思うけどね。
実際にはないが陳寿の頭の中にはある。
記録物をもとにそれを書いた。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:46:30.27
>>339
范曄もそう。
大倭王とか他書には見つからない
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:49:04.24
>>284

> >>266
> どちらも王がいるから別の国

同時代ではないですね。
魏志倭人伝の時代は伊都国の方にしか王はいません。
奴国から伊都国に遷都したのでしょう。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:52:50.23
>>344
当然、ひとつの国
可7万戸。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:53:40.09
>>342
あれは意味は伝わるでしょ
みんな王と称してるけど大倭王が居るのは邪馬台国
俺が言いたいのはなんでそんな言葉の違いに拘るのか?
著者が違いを把握してるかどうかだからな
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:57:48.16
>>347
受け手
人、それぞれだからね。
中心国と取る人もいるけど
俺はとらないだけだよ
なので
繰り返しになる
お付き合いよろしくな
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:58:47.28
>>348
なんの話やねん?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:59:10.05
>>345
根拠なし
7万戸の都市などない
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 14:59:45.44
>>344
>その二つが別の国なら、畿内説など成り立ちようがない。

理由なし
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:01:47.47
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:02:08.87
>>343
>魏志倭人伝の時代は伊都国の方にしか王はいません。

証拠なし
言い張るだけの九州説は学問ではない
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:02:45.15
>>349
生活跡は運良く僅かにある。
工事跡も人がいた証拠
纏向説でもないがね。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:05:16.05
>>350
326のノータリンの話
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:06:11.28
>>293
臺与が居たかどうかは不明だが

■晋書 巻3 武帝紀
太康10年(289年)
「是?,東夷?遠三十餘國,西南夷二十餘國來獻」
東夷30余国が病床の皇帝を見舞いに訪れていたが、この晋書以降「女王」という文字は出てこない
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:06:37.61
>>348
都と記録されていれば中心地だから
人それぞれではない
明らかに間違った説を誰が支持するだろうか
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:08:40.91
>>356
罵っても反論位なりません
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:10:26.91
>>357
266年(267年?)には
女王の記述あったけ?
クグルと思われる のみでハッキリしない。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:11:20.83
>>359
反論などしていないけどね
繰り返しか
お付き合いよろしくな
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:12:41.71
>>359
おいーゴミ 反論などしてないぞ。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:13:00.00
女王国の女王は卑弥呼を指してるわけでじゃあ卑弥呼の居ない時代そこはなんと呼ぶんだ?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:13:56.78
>>363
男王国
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:17:24.64
>>362
>反論などしてないぞ。

つまりお前は反論ひとつ出来ないゴミと名乗った
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:27:54.25
>>365
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:29:14.52
>>365
おーい、ゴミ 反論などしていないぞ
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:31:41.64
>>365
おーい ゴミ 今度は無視か?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:34:55.41
おーい ゴミ 無視か?
も使えるな。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:37:01.55
>>366
君は脳の論理回路がおかしんだね
罵られたと認識することは、罵った内容を認めることではない
馬鹿に生まれつくと言うのは悲しいことだな
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:37:42.16
>>370
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:38:01.04
>>347

把握していないだろうね。
そもそも陳寿は長い三国志の一部に過ぎない倭人伝の中のそんな細かい表限の違いに気を遣っている余裕はなかっただろう。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:38:57.73
>>370
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:39:47.21
>>370
おーい ゴミ 今度は無視か?
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:43:51.88
①倭人伝の卑弥呼(ヒメコ)の「ヒメ」、②宇佐神宮主神のヒメ大神の「ヒメ」、③天照大御神の本名「日靈」の「ヒメ」、に共通する 「ヒメ」は同一人物と判断するのが妥当です。即ち、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大御神(日靈=ヒメ)と言うことです。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:46:07.50
>>370
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:48:45.91
>>370
おーい ゴミ 今度は無視か?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:51:33.44
>>377
正解ですな
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:52:15.41
>>370
おーい ゴミ 今度は無視か?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:57:50.34
>>381
自分が罵倒以外なんにも出来ないって気づいてる?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 15:58:55.62
>>382
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:02:39.88
>>382
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:04:10.99
>>383
知能低いんですね
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:04:44.61
>>382
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:05:03.52
>>385
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:07:10.16
>>385
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:10:12.76
>>385
君よりはマシ程度
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:12:04.25
>>385
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:14:43.71
>>377
つまり百襲媛の又の名が日女命、日神ですのでまさに卑弥呼以外何物でもないという事。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:15:51.12
>>385
ゴミが反応した
おまえはゴミの自覚はあるんだな
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:22:30.23
>>391
前後関係の人との照合あるかな?
57年の王から壹与までの人物
が誰なのか?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:25:25.01
>>375
だったら倭国のままで良いだろ
倭国と女王国の認識が一致してるんだから
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:26:02.90
>>393
父親は孝霊天皇で母親がハエイロネ、別名がオオヤマトクニアレヒメ。
訳すると大倭を産んだ媛の意味になるからな。しかも宮は淡路島に持っている。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:28:18.66
>>393
「卑彌弓呼」=須佐之男命   @阿波
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:30:31.84
>>394
狗奴国や交流もない国もあるしな。
倭地、倭国、女王国さて他になんて呼ばいいのだろう?
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:32:22.61
>>395
弟は?
姫のそばにずーといた記述あるの?
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:32:31.64
>>397
だったら認識が一致してないだろ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:35:33.66
>>399
卑弥呼が亡くなって男王たつ
狗奴国は属さないとするとなんと呼べばいい?
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:39:30.86
何を揉めてんだか、親魏倭王の金印もらってんだから
倭国だろ
女王ってのが面白いから女王国って言ったにすぎない
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:42:11.94
>>398
弟は吉備津彦なので武闘担当のポジションだな、桃太郎のモデルだし。
この兄妹は瀬戸内海周辺では神として扱われている。
村上水軍も当初百襲媛を始祖として扱っていたからな。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:45:10.15
>>401
だが天皇より大きい墓なんだからな。
後から女王扱いしなくなっただけだろう。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:46:11.57
邪馬台国近畿説
狗奴国も交流がないのも
含めて倭国と中華が認めただけだからな
内情などどうでもいいんと思う
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:48:34.40
>>400
陳寿はなんと呼ぶか知らないから女王国なんでしょ
卑弥呼の死後その国はなんと呼ぶんだ?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:49:20.74
>>403
姉「倭迹迹日百襲姫」の弟、「日子刺肩別尊」を全国で唯一祀る「阿波」。
父が第7代天皇「孝霊天皇」
母が第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」
姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人「大吉備津彦命」
すごい兄弟なのである。
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 
一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。   @阿波
https://genbu.net/data/awa2/amasajinowake_title.htm
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:49:22.83
>>403

吉備にはちゃんと大勢力がいるじゃん。
なぜ邪馬台国吉備説を唱えないんだ?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:49:28.82
>>408
女性だからだよ。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:52:29.12
>>409
女王国を引き継ぐ男王かな?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 16:54:14.61
>>408
そのパータンもあるけど?
君ならどういうふうに呼ぶ?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:00:59.75
>>410
どこが凄いのかわからんけど
弟は姫のそばにいたの?
政治を助けていたの?
いくつでなくなった?
姫同様に死亡原因は?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:03:33.55
>>413
卑弥呼は親魏倭王だから倭で良いんだよ
陳寿は区別するために女王国にしたんじゃなく
書いてあることが理解できないから女王国にしたんだよ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:04:21.69
>>411
何故吉備説になる必要があるんだ?
孝霊天皇や百襲媛の宮が畿内のヤマトにあるのだから、そこが基準だろう。

それに出雲丹波や近江、東海地方との関係を考えると畿内しかないだろう。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:07:51.16
>>416
まあ、共立で女性だから
中華の歴史にはないものだしな。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:10:13.40
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:12:33.69
>>418
共立とか百国あってそれぞれ王と称するとか中国にないから理解し難い
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:16:45.28
なぜ陳寿が倭国のことを女王国と呼んだのか
それは陳寿の生きている時代 少なくとも三国志が成立した時期まで、倭国は女王国であり続けたからだと思う

陳寿の生年は233年、台与のそれは235年
三国志が280年に成立したとしたら、そのとき陳寿は47才、台与は45才

言うまでもなく倭国と女王国はまったく同じもの、違う言い方をしたのは上記のような事情によると思われる
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:16:55.78
>>415
>どこが凄いのかわからんけど

姉が、「夜麻登々母々曾毘売命」
弟が、四道将軍の一人「大吉備津彦命」

古代史に名を残す、すごい兄弟なのである。   @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:22:55.23
>>420
それに邪馬台国が武力等での制圧でもない。
女王の都だったのは間違いはない
かっと言って
女王の都だから中心国という固定観念はない。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:25:29.55
>>422
島国レベルだけど
共立でおさめる方が自慢できる。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:37:34.07
>>421
陳寿はちゃんと理解してたって考え方なんとかならんのか?
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:47:17.85
>>424
阿波が言うとチンケで
下品なもんになるからなw
0427日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>363
当然共立女王居なかったら女王国解散でしょ
崇神天皇が四道将軍送って各地征伐したのはそういうこと
0428日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

女王国まで1万2000余里の時点で女王国=倭国説は破綻してるから
対馬や壱岐や伊都は倭国ではないとでも言うつもりか
0429日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

女王国、倭国、邪馬台国

全部別の概念を指してるのよ
0430邪馬台国 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』
垢版 |
2023/03/05(日) 17:55:13.60
倭人は帯方(朝鮮半島中西部)の東南大海の中に在り
始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。
山島に依りて国を為す。元は百余国あり。漢の時朝見する者有り。
今、使訳(言葉が通ずる)諸国は三十国。

倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない。
武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下部を短くして上部を長。え
竹の矢に鉄の矢じりや骨の矢じりを用いる。
産物の有無はタンジや朱崖と同じである。
稲や苧麻を植え、桑で蚕を飼い、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作る。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国(邪馬台国)以北には、一大率を置き北方諸国を検察しこれを畏憚す。
常に倭の伊都国で統治し北方の諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
女王が使を中華に遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
邪馬台国の卑弥呼に倭の国々は文書、賜遺の物を伝送し詣らすに差錯するを得ず。

魏書 第三十巻収蔵 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:55:45.24
>>426
お前には何も無いからなww  わははははは   @阿波
0432日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 17:55:48.04
雑魚烏合の衆www 野次馬パワー爆発の低能北方諸国www
0433日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>415
弟の吉備津彦は四道将軍の一人
箸墓からも吉備の『特殊器台』が見つかってるね
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 17:57:07.83
>>428

女王国の中心の意味だろうね。
概念的に一万二千里としていたが、実際に行程を足してみると一万五百里じゃんとなったが、仕方ないのでそのまま史料の数字を載せた。
0435神話となった邪馬台国や倭国とは
垢版 |
2023/03/05(日) 17:57:15.10
倭人達は帯方(古代中国王朝の朝鮮中西部にあった朝鮮半島統治拠点)
東南にあたる大海にあり、山島に住み国を成している。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。倭人は主に海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接し、魏の時に至って三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万有り、男子は大人、子供は皆、顔と体に刺青を施している。

そして倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国史上初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達も沈没して魚類を取るのを好み、同様に刺青を施し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国・浙江省”)の東に当たる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせて?ぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れ、皆おかっぱ頭で裸足である。

倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
0436神話となった邪馬台国や倭国とは
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2023/03/05(日) 17:57:55.46
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

倭国における重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

倭人国家の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢代末に大規模な倭国内乱が起こり、やがて倭人達は共に女子を擁立し倭国家の女王とす。
其の女王の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
卑弥呼は役人を遣し帯方に至り宣帝に朝見した。その後も朝貢が続き遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

晋書 第九十七巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本列島の何処にあったんだろう?
0437日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:00:10.85
>>427
当然、中心国でもない
これから中心国になって行くんだな
先ず、物流網と経済だよ。
ヤマト政権との関係性はイマイチわからんけど?
0438日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:07:27.16
>>433
そもそも箸墓の年代比定はこの古墳頂上辺りに散乱していた宮山型特殊器台なんだよね。
勿論箸墓の年代は吉備の古墳の方の年代を基準にしてるから、九州説の先生方がいつも主張する四世紀説なんて難癖にすぎないのが判る。
よく言われる馬具の出土だって水流入も激しい周豪なんだからな。
酷い奴だと巻向遺跡と混同してる奴もいる始末だ。
0439日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:09:12.29
また吉備と畿内二上山辺りは共にサヌカイト産出地でもあるからな。
石器時代からの所縁があるという事。
0440日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:27:50.52
サヌカイトは香川の五色台と二上山でしょ?
0441日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:29:05.34
>>439
>また吉備と畿内二上山辺りは共にサヌカイト産出地でもあるからな。

つまり、石器時代から「倭人(阿波勢力)」の所縁があるという事。   @阿波
0442日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 18:39:28.28
遅くとも、阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、
卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」
石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。   @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:43:49.31
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿~東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。
この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。
阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂Ⅲ遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。
南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、
これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、
東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、
姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。   @阿波
0444日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>437
箸墓古墳の辺りは大市と呼ばれていたじゃないですか
大市とはbig marketです経済力ならありますよ
しかも崇神紀に丹波丹後抑えて日本海貿易もガッツリやれるようになります
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:50:35.40
「纒向学の最前線」って桜井市のページにあるレポートのpdf読んだけど未だに三角縁神獣鏡を大陸由来って言い張ってる人のがあったり、鉄が出ないのは調査不足とか言ってる人のがあったり寒気がしたわ。自分で掘れと。
しかし、あえてもう邪馬台に触れずに冷静に畿内の遺跡をレポートしてるのが多くて好感もてる。現役新聞記者さえ箸墓のレポートで卑弥呼に一切触れていなかった。
炭素年代測定で纒向の年代特定に採用した方法をヨーロッパでやると全て年代が遡ってしまうとかいう報告もあって畿内説考古学者の罪深さに戦慄する。
まだ読んでない人は読んだ方が良い。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:51:02.11
阿波も元々スサノオの拠点で尻の毛から生えてきた槙の地じゃないか?用途は棺
河童が狙う尻子玉は、阿波のスサノオの玉だと思うんだよな
棺に槙の木片を入れる風習が阿波の物部に残っているね
阿波はかなり重要と思うんだよな
ひるこが流される前は阿波にいたんじゃないかと睨んでいる
徳島は念入りに伝承が消されているんだよな
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:52:29.67
ひるこのえべっさんの特徴は耳が遠いんだよな
耳を残して流されたのか?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:55:40.70
>>446
ひるこが流されたのは、吉野川。   @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 18:59:35.27
>>446
例えば何が消されていると?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:02:58.01
何もないということですね
どの地域もそれなりの歴史を残す伝承があるが阿波には何もない
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:06:29.74
>>446
蛭子命を乗せた葦舟は、吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作ったのだろう。   @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:08:17.65
>>445
>炭素年代測定で纒向の年代特定に採用した方法をヨーロッパでやると全て年代が遡ってしまうとかいう報告もあって畿内説考古学者の罪深さに戦慄する。

あたま狂ってるの?
炭素年代測定で纒向の年代特定に採用した方法をって、欧米の科学者が作ったもんなんだけど
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:09:49.64
>>450
はぁ?それはあなたが無知なだけです。阿波忌部の伝承は立派に残ってますよ。何言ってんだw
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:10:01.28
>>444
おー、いいね
水平思考
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:13:03.09
>>444
神大市比売に由来してるだけかも知れませんよ。出雲の大年神の母ですから。
0456日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「銅鐸祭祀から銅鏡祭祀への転換」じゃなくて「銅鐸祭祀から“道教”祭祀への転換」です

西王母など神仙の神々が描かれた画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が畿内から広がり、卑弥呼の宗教が鬼道と評されていること、纒向から桃核が大量出土したことなどから分かりますね
道教そのものです
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:25:10.58
畿内は侏儒国より遠い、1万六千里の先にある
0458日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なぜか銅鐸から銅鏡に変わったからそれは九州の影響なんだ神武帝なんだと主張する人々がいたけど、九州で流行ってたのは長宜子孫内行花文鏡とか後漢鏡だろ

むしろ畿内が鏡コピーしまくって神獣鏡祭祀を日本中に広めたという方が適切だよ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:29:54.48
阿波は侏儒国であるという事実を消すために、躍起になって邪馬台国説を主張しているのだろう
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:30:58.41
>>458
>むしろ畿内が鏡コピーしまくって神獣鏡祭祀を日本中に広めたという方が適切だよ

畿内にそんな勢力が居た痕跡など無い!   @阿波
0461日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>450
水主神社の伝承がある!
たぶん後世作ったものだろうけど
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:31:23.58
>>458

根拠なし。
九州が畿内に配ったのかもしれないし、畿内が九州の下請けで生産しただけかもしれない。
銅鐸祭祀が断絶したことを無視している。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:31:29.65
>>444
水平思考はいいけど
抑えるのでなく
活発化と思うけど。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:33:09.43
>>451
善入寺島(旧粟島)が中洲になったのは承徳2年(1098)の洪水が発生してから。
それまでは現在は支流となる善入寺川(旧粟島川)が本流であった。
0465日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>462
言い方悪いけど銅鐸って人々の素朴な暮らしが描かれてるだけなんですよ。
一方で神獣鏡に描かれるのはまだ誰も見ぬユートピア。道教呪術なら治病祈祷、安全祈願、不老不死の夢まで見せてくれる
そして何よりも卑弥呼自身が年を取れば取るほど道教神仙思想の体現者として求心力を強める事ができる

ですから容易に銅鐸祭祀が求心力失い廃れ破棄されていくのも当然と言えるでしょうね
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:34:02.09
>>462
九州説は空想ってことですか?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:34:11.74
福岡県糸島市平原遺跡から八咫の鏡と同じ大きさの大鏡が出土している

八咫の鏡」の文様について、「八咫花崎(やたはなさき)八葉形なり」という記録がある。これは、平原遺跡出土の大鏡の、「内行八花文(内むきの八つの円弧)と、「八葉座(紐[中央のつまみ]のところの八つの葉の文様)」にあたる。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:34:26.45
>>461
>たぶん後世作ったものだろうけど

捏造だ捏造だと自分に言い聞かせて、「阿波」に痛めつけられた心の傷を舐めているアホ。   @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:34:27.84
>>458

後漢鏡のあと、平原遺跡で畿内より早い時期に国産化していたよ?
その技術が三角縁神獣鏡に使われたことはすでに明らかにされている。
論文は自分でググれ。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:35:22.28
>>461
その通り。祭神も捏造。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:36:37.12
>>470
捏造だ捏造だと自分に言い聞かせて、「阿波」に痛めつけられた心の傷を舐めているアホ。   @阿波
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:36:53.34
>>456

纒向遺跡の建物は別の時代なんだろ?
その議論はおかしいな。

纒向遺跡は建物の特徴から明らかに崇神天皇の磯城瑞垣宮だよ。
そして八咫の鏡を納める倉があり、後の神社の様式の基礎となった、初期の神道を代表する宮造りだよ。
畿内説は、これ以上、日本の歴史を土足で踏み躙るのはやめてくれ。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:36:53.97
『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について、「棺あって槨なし」と記す。
北九州出土の甕棺や箱式石棺であれば、「棺あって槨なし」の記述に一致する。

おもに四世紀におこなわれた前方後円墳などの「竪穴式石室」などは、たとえば、近藤義郎編の『前方後円墳集成』(山川出版社刊)
などが、「竪穴式石槨」と記すように、棺をおおう「槨」の一種とみるべきである。『魏志倭人伝』の記述と一致しない。

『晴書』「倭国伝」などは、「死者を斂(おさ)むるに棺槨をもっです」と記す。のちの時代のわが国の墓制が、『魏志倭人伝』のころと、異なっていたことを示している。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:37:29.21
>>465
ト骨も廃れる
亀の時代に
神獣鏡の世界?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:38:04.11
>>468
お前のオノゴロ島の比定地は完全に間違い。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:38:07.73
神獣鏡は見事に畿内の奈良京都辺りを中心として出土しているからな。
まあ三角縁神獣鏡を御神体とする鏡作神社が奈良の田原本にあるのだから当然だろうが。
丹波出雲吉備ときて九州では北部九州が中心に出土するが、他はかなりすくない。
これはやはり鬼道支配をそのまま表している物だろう。
0479日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>467
それ応神天皇が持ち込んだんですよ
応神天皇が生まれた場所
筑前国【怡土】郡長野村蚊田でしょ?

考古学的にも4世紀終盤から一気に阿蘇ピンク石石棺など九州産物品が畿内に流れ込んでくるようになる(逆も然り)時代
その親九州応神系が断絶し継体天皇が奈良入りしてから僅か九ヶ月後、呼応するかの様に磐井の乱が起きていることも示唆に富むね
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:40:26.71
九州で卜占の遺物としては、鹿やイノシシの肩胛骨を用いた卜骨片が出土しています¹。卜骨片は、火を当てて亀裂を生じさせ、その形から吉凶を判断するという方法で卜占を行ったものです¹。九州大学附属図書館には、福岡県糸島市の平原遺跡から出土した卜骨片が所蔵されています¹。

(1) 倭人伝の道. http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/annual_exhibitions/WAJINDEN2004/02-4.html アクセス日時 2023/3/5.
(2) 卜部氏 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F アクセス日時 2023/3/5.
(3) 九州国立博物館 - トップページ. https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/dazaifu/no02-05.pdf アクセス日時 2023/3/5.
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:40:37.37
>>465

九州にいた卑弥呼が畿内を教化したんだよ。
三角縁神獣鏡はそのために配ったのかも。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:42:31.55
>>474
那珂八幡はどうなの?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:42:48.06
>>473
だが延喜式における名神大社数と、三角縁神獣鏡の出土傾向は似通っているからな。
神道も三世紀以降初期の道教、神仙思想の影響を受けた事は否定は出来ない。
後世その為に道教の影響が強い卑弥呼の存在を歴史から消したとも言えなくはないだろう。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:44:48.24
>>483
神仙思想は九州発祥では勿論ないw
それに神獣鏡自体は大陸、呉辺りの影響が強い。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:45:19.52
>>476
記紀バカよ、
板野の売郷奴がトリップを消して、カキコしてるんだから、その意を察してやれ。  わははははは   @阿波
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:45:26.05
宇佐における鬼道の痕跡は米神山にある
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:46:34.62
>>479

ふーん、応神天皇も伊都の生まれだったのか。
もうこれ伊都が西日本を征服したようなものじゃん。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:47:43.67
>>482
三角縁神獣鏡を御神体とする鏡作神社が奈良、しかも百襲媛の出生地にあるから話が繋がらないな。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:49:05.63
>>484

九州においては伊都に検察され伊都を畏怖した奴国の臣民のものでしょ。
それが畿内にも広まったと。
誰か夜逃げ都落ちでもしたんじゃない?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:49:38.26
>>490
「阿波」から勧請された「鏡作坐天照御魂神社」を鏡作神社と偽る詐欺師。   @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:49:59.85
>>485

延喜式は史料として古すぎる。
畿内王権がまとめたらそうなるのは当然で、根拠にはならない。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:50:02.27
>>489
その大王って、伊都で降伏した韓国人の王さまを支配下に置いたお母さんから生まれたんでしょ?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:51:13.40
阿波なんて神獣鏡自体の出土数が少なすぎて比較するレベルにすらないんだよなw
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:51:20.00
>>486

纒向遺跡には八咫の鏡を納める倉があったのだから、神道の時代だよ。
すでに論破された妄想を繰り返すばかりで進歩がないな。
0497日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>473
道教と神道が相互背反だと思っているのですか
いいえ違いますよ、神話や神社の方位から何から何まで道教の影響受けまくり☯
0498日本@名無史さん
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2023/03/05(日) 19:52:37.78
>>488
邪馬台国近畿説
3世紀末頃の赤塚古墳も
あるしな。
同笵品が、福岡県石塚山古墳、京都府椿井大塚山古墳などからも出土している
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:52:39.21
>>495
そりゃ、下賜する側だからな。  わははははは   @阿波
0501日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>494
よくわからんけど伊都懸主は神功皇后への自己紹介で「私の祖先は高麗に天下った日鉾です」と言ってるね
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:53:12.10
>>491
>州においては伊都に検察され伊都を畏怖した

倭人伝に書いてあることと違います
九州説は倭人伝無視だね
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:54:50.47
>>500
>父親は住吉の神と呼ばれた筑紫博多の王だけどな。

どんな史料にも書かれてない
九州説って史料無視だね
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:54:59.06
>>493
古すぎる意味がわからないけど?
神道の広まっていた場所を知るには極力古い資料を見ないと。
それが古墳時代前期までの神獣鏡の出土傾向と同じなら、それは神道も神仙思想の影響を少なくとも3~4世紀にはうけていたという事になるだろう。
0506日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>503
ではなぜイザナギは黄泉の国から逃げ帰る時、追手に向かって「桃」投げて退治したの?何の意味もなく桃登場させただけでしょうか?
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:55:48.84
>>496
>纒向遺跡には八咫の鏡を納める倉があったのだから、

妄想
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:56:13.39
>>491
神武か?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:56:43.66
>>502

魏志倭人伝を読み直してごらん。
大率が諸国を検察し、諸国はこれを畏怖した。
伊都が女王国北部の支配的立場になる。
ところで畿内説だと女王国の北側って、出雲や丹後半島、若狭湾まで伊都の支配下だったの?
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:56:56.14
>>496
何も論破されてませんが?
その巻向遺跡の直ぐ近所にある鏡作神社では三角縁神獣鏡が御神体になってますよ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

天之御中主神とかまさに天帝思想だよね
そして天帝は「“天皇”大帝」じゃないですか
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 19:59:00.60
>>509
>伊都が女王国北部の支配的立場になる。

そんなこと倭人伝に書いてない
九州説って倭人伝無視ですね
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:00:06.99
>>513
証拠は?
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:01:23.95
>>515
>学者の意見にお前がケチをつけるな

なんて学者?
名前と論文名よろ
0519日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>517
帯方郡使「卑弥呼は鬼道(道教)やってるらしいぜ...」
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:02:08.67
九州説は捏造と史料歪曲で出来ている
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:02:11.58
>>514
共立で卑弥呼に権限があると思うが
伊都に置いただけじゃないの?
支配とかの記述は見当たらない
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:02:48.47
>>510
「阿波」から勧請された「鏡作坐天照御魂神社」を鏡作神社と偽る詐欺師。   @阿波
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:03:43.87
実際に桃を投げるとかw
山桃はただの食べ物です
弥生時代の畿内はかなり豊かになり食べ物の対象が選別されてくる
主食は米、魚は鯛、果物は山桃だったらしい
0525日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>520
なわけ
余傍20カ国が女王の境界内にある&共立という表現から女王国が連合国家を指す語だというのは明白

もし余傍20カ国も邪馬臺國の一部だとしてしまえば残り10カ国しか無くなり、使訳通じるところ30カ国の意味が通らなくなります

女王国と倭国と邪馬臺國全部別々の概念ね
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:04:29.66
>>522

検察して貿易品を独占して畏れられていた。
それを支配というんだよ。
支配していたことを具体的に言って詳しく説明したら、畿内説信者のアホにはかえって理解できなくなったと。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:05:55.47
イザナギ逃走ルート
①比婆山(高越山 イザナミ神陵)②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷)
④モモの種(桃ノ木谷)⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原   @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まず「女王国まで1万2000余里」から伊都国は女王国域外だと判明するわけで、邪馬臺國伊都国説なんて一番最初に除外してよい
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:07:32.56
「イザナギ逃走ルート」
①比婆山(高越山 イザナミ神陵)②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷)
④モモの種(桃ノ木谷)⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原   @阿波
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:07:41.37
>>527

伊奘諾は黄泉比良坂を越えて、つまり陸路で博多湾沿岸の小戸まで帰っている。
ちなみに小戸は伊都の港。
つまり伊奘諾も伊都の王。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:07:56.37
>>526
独占していたの?
反発しそうだね
共立した意味があるのだろうか?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:08:37.04
>>512
天之御中主神は古事記編纂時に考えた神だからね。
天帝思想がそれより遥か昔からあったわけじゃないよ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:08:42.66
>>531
「イザナギ逃走ルート」
①比婆山(高越山 イザナミ神陵)②山ぶどうの実がなる(上勝町雄中面おなかづら・生実・喰田)③竹の子(那賀町竹ケ谷)
④モモの種(桃ノ木谷)⑤千引の岩(内山千引の岩)⑥黄泉の比良坂(ヨミ坂トンネル・ユヤの坂)⑦橘の阿波岐原   @阿波
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:08:54.59
>>532

でも周りの国はそもそも卑弥呼を共立してその支配を受け入れた立場なんだよ。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:10:21.70
>>428

日本列島という場合は、北海道、本州、四国、九州の4島とそれらに付随する島々(千島列島、南西諸島)を指す
これが地帯構造的に日本列島を構成する島々

朝鮮半島と九州の間に対馬があるが外国から対馬に来た外国の人が日本に着いたとは思わない
九州に上陸して初めて日本についたと認識する
これが地帯構造的な認識の意味合い

例えば、アメリカにもカナダにも付属する小さな島がたくさんあるが、例えば大西洋からプリンスエドワード等にヨットで上陸した人はカナダについたとは認識しない
あくまでカナダに付属する島に着いたと認識する
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:10:22.16
>>536
独占はしていない。
配分も考えていると思うが?
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:11:14.54
>>532

戦乱よりはマシだったのでは?
奴国も支配下にあれど発展して出雲や吉備の産物も集まり、人々は列島で一番豊かな暮らしぶりだったわけだからね。
0540日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>528
いや余傍20カ国を邪馬臺國に統合したら

①狗邪韓国
②対馬
③壱岐
④松浦
⑤伊都国
⑥奴国
⑦不彌国
⑧投馬国
⑨邪馬臺國
①〇、狗奴國


で10個しか国なくなるよね
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:12:32.17
>>537

対馬や壱岐などは固有の領土だよ。
それは魏志倭人伝の頃から変わらない。
やはり畿内説は反日だな。
0543日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>533
中心じゃなくて女王国までね
女王の境界は何処何処にあるとまで記載してくれてるんだから
0545日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>537
これマジで言ってる?
「倭の北岸」て明記されてますよね
ちゃんと読みましょう
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:15:03.08
>>543

楽浪帯方に近い側の国境が狗邪韓国ね。
視点は楽浪帯方にあるから。
そして、傍国は女王国より遠い側の国境。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:15:08.76
>>539
要する物流の活発化
各地は生産性を上げる。
鉄安定化、農耕、開拓とかね。
環濠が邪魔だな
0548日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>544
余傍20カ国は女王の境界内にあると明記されています
女王国は連合体です
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:16:59.35
>>547

だから奴国は環濠をなくして、卑弥呼の庇護のもとに発展していたわけだ。
その代償として大率による検察を受け入れてね。
0550日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>532
伊都国は共立に不参加だよ、共立に参加したのは吉備・出雲・畿内のみ
その紐帯の証が特殊器台
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:18:45.64
>>548

その通り。
狗邪韓国から奴国、伊都国を含めて傍国まで30カ国が女王国だよ。
畿内説みたいに伊都国や奴国を女王国から外したら、30カ国が意味不明になる。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:19:54.08
>>550

それだと、倭の北岸は狗邪韓国とか、倭の国境が楽浪帯方から七千里の狗邪韓国などの記述と食い違う。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:20:26.37
対馬や壱岐は固有の領土です。
反日キナイコシは頭おかしい。
0554日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>551
30カ国は倭国全域のこと
女王国は女王共立に参加した本州諸国のこと
邪馬臺國は女王がいた国のこと
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:22:16.50
>>549
そうだよ。別にそこは問題にしていない。
邪馬台国は近畿
別に中心国でもない。
0557日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>552
そりゃ、倭と女王国は別の概念だからね
狗奴國が典型だろ
女王国に歯向かってるからどう考えても女王国じゃないけど倭国であることに違いはない
0558日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>555
狗奴國は倭国だけど女王国ではないよね?
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:26:39.97
>>549
輸出入の要
魏との関係
遠方では不合理なだけ
地政的なもんだし。
0560日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭國=女王國=邪馬臺國説なんて数秒読めば間違いだと分かる

邪馬臺國=女王国=倭国なら倭国の人口7万戸。なら投馬5万と奴国2万で人口全部埋まって他の国々は0人居住じゃんかw
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:29:15.50
>>555
魏志倭人伝と後漢書も
食い違いあるけど?
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:30:18.83
>>557
じゃあ、なぜ親魏倭王の金印なんだよ
魏が認めた倭国は邪馬台国何統べる30ヵ国だろ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:32:18.08
>>541
対馬や壱岐は固有の領土
魏志倭人伝でもそう言っている
私も当然そういう認識

しかし、同時に魏志倭人伝は同上陸地点までの距離について記述している
これが地帯構造的な捉え方ということ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:32:40.25
>>562
邪馬台国でなく卑弥呼です。
0565日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>562
うん、女王国と戦ってる狗奴國が女王国だと思う?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:34:09.18
>>545
倭の北岸は拘邪韓国のこと
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:35:12.24
>>560
其餘旁國遠絶 不可得詳だしな。
でも対馬、壱岐、伊都国の王は
卑弥呼ですから女王国ですよ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:35:26.80
>>542
倭人にとって奈良時代に入って来た新しい思想って意味です。
0571日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>567
伊都国には別に王が居たでしょ
その伊都国王達は代々女王に統属しているとあるじゃないですか
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:44:11.60
>>563

九州上陸は、そこが最終目的地だからだよ。
国境はあくまでも狗邪韓国。
0573日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>570
いや直列順々に紹介されてますが
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:46:50.52
>>570
王は誰だろうな記述ない。
卑弥呼と思うけど?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:47:01.41
>>571

別にいたなんて魏志倭人伝には書いてないんだよなあ。
代々王がいたというだけで。
つまり、陳寿は伊都が倭の王都だという認識で魏志倭人伝を書いているんだよ。
本州のことなど知らないしね。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:48:20.24
>>572
最終目的地という言い方はどうかと思うが倭国までの距離というとき、九州上陸地点までの距離を魏志倭人伝は記している
0578日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>575
女王の都するところが邪馬臺國と明記されてるのに伊都国は都とかさ
もう一度読み直してきてください
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:48:49.59
>>571
していたですね。過去の事では?
王の名がありません。
卑弥呼が王ですからね
0580日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>576
なるほど、では投馬国は倭国じゃないのね
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:49:36.33
>>574

根拠なし。
女王国から東に渡海するとまた倭種がいるとあるので、実は投馬国も倭種なんだよ。
しかも帯方郡から水行二十日で邪馬台国より遠いところにある。
0582日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>581
投馬国が倭国から除外されるならば使訳通じる所30カ国とはどういう意味?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:52:04.61
>>578

倭人が住む土地の中で女王が支配するのが女王国で、邪馬台国と同じ。
それは領域を示している。
国邑では伊都が中心だよ。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:53:02.70
>>581
根拠のないのは君。
属さない狗奴国は記載ある。
末盧國は官も副も王の名もない。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:54:17.34
>>579

過去のことであり、現在のことでもある。
先代の男王にかわり、魏代には卑弥呼なのだから、王がいる王都そのものは変わらず伊都なんだよ。
それが魏志倭人伝の前提。
遷都したなんて書いてないだろ?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:55:19.91
>>582

傍国20国と、壱岐とか対馬とかだろ。
狗奴国が対抗して独自に使いを送っていたら、あわせて30ほどになる。
0587日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>583
であれば人口が矛盾しますね
投馬国と奴国だけで7万いっぱいだ。投馬国を倭国から除外とかいうウルトラCしても今度は使訳通じるところ30カ国が辻褄合わなくなる
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 20:57:15.02
>>583
てっか伊都国に置いた
だな。中華的な中心国が見出せない。
国々の連合
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:00:48.86
>>585
なんせ、共立王とか中華にはないから
のようなもんになる。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:00:51.22
>>584

狗奴国は卑弥呼と倭国代表の座を争っていたから特別だろ。
しかし魏としては倭つまり博多湾沿岸を支配していた卑弥呼の方を正統と認めた。
博多湾沿岸が倭だからこそだよ。
だから魏志倭人伝も、ちゃんと卑弥呼が博多湾沿岸をきちんと実効支配していたことを述べているんだ。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:01:48.35
>>585
邪馬台国近畿説
別に遷都などしていない
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:02:07.73
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:02:39.28
>>590
特別て何?
0594日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>586
一、狗邪韓国
ニ、対馬
三、壱岐
四、松浦
五、伊都国
六、奴国
七、不彌国
(投馬国)
八、邪馬臺國
九、狗奴國

十、斯馬國
十一、巳百支國
十二、伊邪國
十三、都支國
十四、彌奴國
十五、好古都國
十六、不呼國
十七、姐奴國
十八、對蘇國 
十九、蘇奴國 
二十、呼邑國 
二十一、華奴蘇奴國
二十二、鬼國 
二十三、為吾國 
二十四、鬼奴國 
二十五、邪馬國 
二十六、躬臣國 
二十七、巴利國
二十八、支惟國 
二十九、烏奴國 

あれ?投馬抜いたら29になっちゃった
まず史料ちゃんと読もうか
0596日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>590
1万2000里離れてなきゃいけないので博多湾ではないですね
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:03:58.75
魏志倭人伝による倭人が住んでいる地域についての記述

最初に倭国29か国
次に狗奴国これを倭国とは区別して倭地と区分している

これで30か国、これらは通訳で交流が可能とある
上記から狗奴国は倭国には含まれないことがわかる

次に東に渡海千余里に複数の倭種の国々がある これは倭人であるが魏と交流のない国々、四国を指している
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:04:14.69
>>592
想像は自由だけど
其餘旁國遠絶 不可得詳だしな
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:05:06.57
>>594

最後の奴国はどうした?
周旋五千里で戻る派?
なら九州が中心だよね?
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:05:16.74
>>597
徳島から中国朱 あるけど?
0601日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>599

>>592で自分で最後の奴国除外してるのに何を言ってるんだ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:06:24.31
>>599
卑弥呼がいたからね。
邪馬台国は近畿だけどね。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:06:32.61
>>598

伊都国に引きこもっていたからだろ。
逆に、それらの国に行かなかったのなら、どうやって畿内にたどりつくんだ?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:07:33.83
阿波の忌部について少し調べたら忌部本宮は多那穂忌部神社のようだ
摂社には鯰の神さまも祀られている
0605日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

畿内説九州説全会一致でボコボコにできるゴールドスタインが伊都だな
百歩譲って1万2000里が女王国の中心を意味していたとしても、それでも10600里の伊都国が中心になることはどう読んでもありえないのだから
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:08:20.33
>>600
魏の人々はそう認識していたということ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:09:23.34
阿蘇の神使も鯰だし、阿波も鯰に関係する
やっぱり阿の字と鯰は関係するんじゃないか?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:09:30.30
>>601

ああ、それはコピペだから。
でも、概ね計算は合うね。
それに、投馬国は人口に含まれなくても、魏と交流だけはあったのかもよ。
それなら30カ国には含まれる。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:10:20.76
>>599
不彌国並ぶ奴国
まで周旋5千里
半島7千余里で万二千余里で一致。
投馬国、邪馬台国には行っていない
中心国でないで方向や停泊場所が省かれただけだな。遠方だしな。
0612日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>609
使訳通じる三十カ国は倭人の国だと冒頭で書かれていますが
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:12:39.26
>>612

倭人の国と倭国は違うだろ。
残りの70カ国も倭国ではないが倭人の国だ。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:12:42.19
>>613
終わりだよ。
投馬国、邪馬台国には行っていないのだからな
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:14:27.92
伊都国は邪馬台国内のバチカン市国みたいな国
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:15:35.12
>>613
其餘旁國遠絶 不可得詳も
行っていないからね。
九州ではない地域も含む
0618日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ごめん間違えた
伊都国は10500里だったか
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:16:32.36
>>612
つまり、使訳通じる三十カ国は、鉄器王国「阿波」の国々だ。   @阿波
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:16:33.83
伊都国には巫女養成学校があったそうな
0621日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>614
残りの70カ国って何?
昔は百余国あったって書いてあるだけで今あるとは書いてなくね
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:18:04.61
呉由来の渡来人が東鯷人ってことはないかな?
銅関係の技術をもたらした集団とな?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:18:55.79
>>622
訂正集団とか
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:19:57.20
>>612
つまり、使訳通じる三十カ国は、鉄素材を入手していた鉄器王国「阿波」の国々だ。   @阿波
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:20:18.65
>>609
阿呆か
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:22:30.78
>>624
阿波はどうあがいても侏儒国に決まっている
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:23:16.21
>>626
でも、使訳通じる三十カ国は、鉄素材を入手していた鉄器王国「阿波」の国々だ。   @阿波
0628日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国の動画作ろうと思ってるんだけどタイトルどうしよっかな

・「邪馬台国の卑弥呼、日本書紀に書かれていた!答えはあの人物」

・「魏志倭人伝に“天皇の名前”が書かれている!?卑弥呼と天皇の関係とは!」
0629日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

タイトルに天皇入れたほうが思想強い人達も見てくれるかもしれないし後者でええか
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:29:31.05
銅の物流、鉄の物流
ヤマタノオロチは鉄関係な気がするんだよな
銅はどうだったんだろう?

ヤマタノオロチはスサノオに切られた
同様のエピソードで思い出すのはカグツチとイザナギの話か
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:32:20.87
>>630
ヤマタノオロチ伝説の、「頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体」というのは、

大河「四国三郎吉野川」に流れ込む、数多の大支流を表したのが、ヤマタノオロチ。   @阿波
0632日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ヤマタノオロチ伝説は出雲の北陸征伐のことだよ
出雲国風土記にはスサノオのヤマタノオロチ退治出てこないけど、代わりにオオナムチの「越の八口」討伐記事があるでしょ

・高志八俣遠呂智(コシノヤマタオロチ)
・越の八口

似てるよね、実際北陸も四隅突出型墳丘墓文化圏になるしね
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:34:18.39
>>630
ヤマタノオロチ伝説の、「頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体」というのは、

大河「四国三郎吉野川」に流れ込む、数多の大支流を表したのが、ヤマタノオロチ。  

吉野川本流が胴体。 流れ込む支流が頭や尾。   @阿波
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:34:36.71
>>611
>残り千四百里では福岡県を出ない。

妄想
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:34:37.00
>>611
>残り千四百里では福岡県を出ない。

妄想
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:34:42.90
カグだよな
天香山もカグがつく
四国は山が落ちてきて2つに割れた話があるな
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:41:40.46
真っすぐ東西に80kmをも貫く暴れ川「四国三郎吉野川」を上手く「八俣遠呂智」に見立てている。  @阿波 
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:42:44.90
ヤマタノオロチ伝承は奈良の矢田丘陵や天理東側、竜王山辺りの集落でも伝わってるからな。
奈良と大阪にまたがる大和川は亀の瀬を中心に河川が分岐する様を八股の竜に見立てた物。
奈良にも河内にも八尾の地名があるのはその名残という話。ヤマトノオロチとも呼ばれたとか。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:51:11.32
まぁ、事程左様に「阿波」は何かにつけて「魏志倭人伝」「記紀」の話題に事欠かない。  わははははは   @阿波
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:58:41.72
鹿島神宮と香取神宮の総掛かりで抑えないといけない大鯰は凄い存在だったのか
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 21:59:07.73
もっと具体的なヤマタノオロチ話だと、奈良の松尾山周辺に伝わるでんでらこ、という話がある。
話自体は大和を舞台にしたほぼヤマタノオロチなのだが、スサノオがオロチを退治する際に唱える言葉がてんてらこ、と呼ぶ。
また興味深いのがこの時に退治する剣が草薙の剣だという事。

富雄丸山古墳も近い場所なので、草薙の剣が登場するのは注目だね、蛇行剣だし。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:04:25.65
草薙剣は熱田なので熱と関係あるかもな

蛇行剣を思わせる記述は播磨風土記にある
昔、近江天皇(天智天皇)の御世、丸部具(ワニベノソナフ)という仲川里の者がいた。この者は河内国の免寸村(とのきのむら)の人が持って来た剣を買い取った。しかし、剣を買って以降、家を挙げて悉く滅んでしまった。

その後、苫編部の犬猪(イヌヰ)が滅んだ家の跡地に畑を作ろうとしたところ、土の中から剣が出てきた。その剣は、周囲1尺(約30cm)ばかりの土を取り去ると出てきて、柄は朽ち失せていたが、刃が錆びておらず、その光明は鏡のようであった。ここで犬猪は怪しんで剣を取り出して家に持ち帰ると、すぐに鍛人(かぬち=鍛冶)を招いて刃を焼かせた。すると、この時に剣が蛇のように伸び縮みしたので、鍛人は大変驚いて作業を止めてしまった。そこで、犬猪は異剣(あやしきつるぎ)を朝廷に献上した。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:05:34.54
まあヤマタノオロチ伝承が矢田丘陵に伝わっているのも、私が生駒山東側を邪馬台国の主要エリアと考える理由でもある。
官名も筆頭はイクマだしな。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:07:46.97
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:11:42.72
大和三山の争いがやっぱり大和にある政権の謎かもな
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:15:50.96
>>631
吉野川は一本グソのツチノコ
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:17:03.93
東大寺山古墳の鉄刀に始まり大和盆地の主導権を巡る争いが延々と繰り返されたのかもな
和爾の時代もあり葛城ー蘇我の時代もあり
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:23:07.20
さて、畿内説が滅んでから随分と日が経ちましたが
皆さん、いかがお過ごしですか?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:25:40.15
>>620
邪馬台国近畿説


没其門戸及宗族とある

戸は門戸、家は宗族かな?
壱岐と不彌国は家
家と戸違い。
税とか兵役とかの説があるが?
違いは何?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:27:44.48
>>648
負けた事を知らない横井庄一みたいなのが数名残っている
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:28:09.19
>>648
九州説が滅んだ後
畿内説も滅んだよ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:28:43.85
>>452
おれが書いてるわけじゃねぇし。
炭素年代測定についてはとりあえず読んで見たらわかる。
畿内説の本丸の桜井市だからな。
勝手に畿内説どうしで潰しあってくれ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:33:24.85
今は余裕で畿内説のウイニングランも済んだ状態だからな。
他説のスレはもはや見る影もないw
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:33:29.94
NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送での発表では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:36:43.53
>>654
九州のどこよ?何遺跡
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:41:28.75
畿内説はオレオレ詐欺で歴史を捏造しているアカデミックテロ事件である

魏志倭人伝『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

↑誇大表現を多用して大騒ぎしてるが・・・
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:43:18.17
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:43:34.95
>>656
成る程
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へが成り立つ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:43:58.17
■基礎知識
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:45:06.53
>>657
日本語わかるのか?
遺跡なんだけど?
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:45:57.35
>>660
成る程
邪馬台国は九州
卑弥呼は九州へ
成り立つな
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:46:33.46
>>659
一度も魏志倭人伝を読んだことが無いんだろ
「南至邪馬壹國 女王之所都」
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:47:28.11
>>662
真似するなよ。
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へが成り立つ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:50:07.16
>>663
君がね。
「南至邪馬壹國 女王之所都」であって
「南至邪馬壹國 女王国之所都」ではない。
読み返せ。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:50:34.85
畿内説が必死で偽書扱いしている文献はすべて中国史書と整合している

翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。

https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬臺国。

伊都国の又南が邪馬臺国なのです

※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている

【参考】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩?弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:51:19.98
>>666
なるほど
邪馬台国は九州以外
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:53:25.67
>>668
だよ。
女王国の都ではない
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:54:04.56
「邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。」

岬は伊都国に届き、傍らは志賀島と連なる

博多湾の光景だな
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:54:14.58
>>668
埋めようね。
お付き合いよろしく
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:56:27.52
>>669
韓国より南=倭
倭地にある国々=倭国
女王に属する国々=女王国

その女王の都があるの国が「邪馬台国」だ
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:57:23.46
畿内説スレでスカスカな九州説をいくら力説しても無駄なのにな。
話のレベルが低すぎて読む気にもならない。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:57:28.36
女王は天照大御神のこと
卑弥呼は天照大御神を神降ろしできるイタコ(女王の代理)

女王国は、天照大御神信仰の拡大領域

つまり、女王(天照大御神)の都があるところが邪馬臺国
と言うわけだ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 22:59:00.70
>>674
畿内説という平屋の屋根から九州説という楼閣の屋上は見えないんだよ馬鹿
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:00:52.62
唐古鍵と纒向で7万戸ニダとかいう畿内説は日本人じゃないだろ

可住地面積

奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:02:44.94
魏志倭人伝の1里は435mニダ―とかいう畿内説も池沼

崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:03:57.06
>>672
女王国の都だよ
女王の都でもない
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:06:58.58
<総合的に見て、畿内は東の倭種の国である>

魏志倭人伝の里数表記の行程は中国側の記録のコピペであり、日数表記の行程は朝貢に来た倭人による説明である。
倭の北岸である半島南部が投馬国、対馬海峡を渡り倭の南岸が北部九州=邪馬臺国なのです。

邪馬台国行程図:https://i.imgur.com/AjvTnCM.png
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里・・・」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
https://i.imgur.com/Xb0IWL8.png

■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島

■見解
女王国視点で紹介される倭の国々の方角は「北・東・南」のみということから、
そこは西の端すなわち九州島に位置していることが伺える

■日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:07:55.97
>>680
成る程、邪馬台国は九州以外
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:14:08.28
8世紀の平城京の推定人口が5-10万人なので、
3世紀に7万戸は盛りすぎでありえんな
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:21:48.84
>>666
糸島市は昔海で二つに別れてたのだけど、別れてた伊都の郡と志摩の郡が当時の海面7m上がってても繋がってた所がある。
その細い所に小さいお宮が間隔あけてあるんだけど神武天皇のお姉さんのとかある。記紀にも書いてないので神武のお姉さんということで面白いとニュースになったこともある。
伊都の南には山が連なってるけどそれを越えたら山門郡
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:26:38.95
>>676
いくら吠えてもここは畿内説スレだからなw
畿内説スレ以外は誰も来ないほど過疎ってる、これが現実だから。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:28:47.49
>>683
成る程、邪馬台国は九州以外
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:32:09.08
>>686
逆かもしれんな
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:39:12.86
九州説はどれも可能性がある話ばかりだから、スレ立ってもそだねーで終わるから盛り上がらないけど
畿内説はツッコミどころ満載だから活況
それだけとんでもってこと
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:40:04.34
>>684
唐古・鍵遺跡もあるしな。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:40:36.22
>>688
成る程、邪馬台国は九州以外
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:50:02.12
畿内説は自己認証しか出来ない説だと現代人は気付いてるな

最近はまた九州説が増えてるそうだw
知り合いの桜井市民ですら纒向で畿内説を見捨てたとかw

2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:51:35.86
史書に登場する倭人は中国の呉・越の末裔だと書いてある
呉越から直接渡ってきた倭人は北部九州に邪馬台国をつくった
同じ倭人でも一旦半島を経由した倭人は弥生人となり山陰・近畿から入植した

参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:55:00.20
畿内説の変な主張


・理由は知らないが倭人伝の南は実は東だったニダ

・奈良も鉄器社会だったが近畿は鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ

・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠ニダ

・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿に違い無いニダ

・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だったニダ

・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ

・博多湾から投馬国までの水行20日の道程は無人地帯だったニダ

・投馬国から水行10日+陸行一月の道程も無人地帯だったニダ

・中国産の銅しか無い時代に作られた三角縁神獣鏡の成分が中国産だと分かったので銅鏡は中国製なのだニダ

・中文は日本の漢文と同じニダ
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:55:46.24
>>693
成る程、邪馬台国は九州以外
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:56:54.42
>>694
やっぱり、邪馬台国は近畿だな
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:58:15.01
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

<倭国伝>~AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された

<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。

■結論
・畿内ヤマトと九州倭国は人種が違っていた
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:59:00.37
>>691
この、ここみちゃんンネルは、是非、チャンネル登録してください。
ものすごく重要な動画が多いです
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/05(日) 23:59:09.09
 橋下氏は「日本の人文系の学者の酷さが次から次へと出てくる。
こやつらは『自分は賢い!一般国民はバカ』という認識が骨の髄まで染みている」と批判した。

 「税金もらって自分の好きなことができる時間を与えてもらって勉強させてもらっていることについての謙虚さが微塵もない」
 「しかも社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事でも学問の自由の名目で許される。もう少し謙虚になれ」
と記した。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:01:31.18
有能な人に見捨てられた畿内説

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:02:40.00
>>701
で邪馬台国は九州以外
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:06:51.55
畿内説による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」

しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png

建物と桃の種は無関係と判明
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:07:54.47
>>703
成る程、邪馬台国は九州以外
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:10:40.69
>>705
で邪馬台国は九州以外
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:12:22.40
畿内説統一教会の特徴

・強い者には媚びへつらい、見下している者にはどんな非道も許される、「事大主義」という精神を持っています。
・他人に迷惑をかける事で、優越感を得ようとします。
・自分より「下」の人間を見つけないと自らの存在意義を見出す事が出来ません。
・努力を嫌い、他人を引き摺り下ろす事にばかり情熱を注ぎます。
・現実を直視できず、想像の世界で生きています。
・「~すべき」「~であるべき」といった強迫観念に常に囚われています。
・「自分の価値観こそが全面的な正義だ!」と押し付ける、「情の文化」が有ります。
・嫌いな相手の悪評を虚実無関係に言いふらし、孤立させようとする、「離間事(イガンヂル)」という文化が有ります。
・短絡的で扇動に乗り易く 何度も同じ過ちを繰り返します。
・「嘘も百回言えば真実になる!」という文化があり、自らをも暗示にかけ、嘘を吐き続けます。
・人の心を洗脳する事を非常に得意としています。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:13:24.70
>>708
成る程、邪馬台国は九州以外
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:16:30.75
>>711
成る程、邪馬台国は九州以外
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:20:02.52
畿内説、一言も反論できず
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:20:40.85
>>714
成る程、邪馬台国は九州以外
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:24:00.77
ほらまた荒し始めたぞ、九州説の連中はやはり民度に難があるらしい。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:24:04.74
九州説、カスネタ切れか?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:25:31.38
>>717
邪馬台国は九州以外だから
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 00:42:09.28
邪馬台国、卑弥呼動画で参考になるのをあげてくれ
陰謀的なものがなしで
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 01:34:48.54
でんでらこ、ヤマタノオロチ伝承を奈良で伝えるのは大和郡山杵築神社神社だが知らない人が多いのだね。
松尾山といえば矢田丘陵、例の富雄丸山古墳のすぐ近所でもあるから確かにちょっと興味深い話。
そもそも出雲風土記にはヤマタノオロチ伝承なんて載ってないからな。記紀にはあるのに。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 01:39:46.02
上では草薙剣の話を書いてたがあれは間違い、でんでらこで草薙剣は出てこない。記紀の逸話。
だが大蛇退治だけに巨大な蛇行剣は関連ありそうではある。
そもそもでんでらこの意味だが、これは恐らくダイダラボッチと同じ意味、ダイダラからの転化だろう。
長崎のでんでら龍も同じ意味だが、もともと長崎の方言にでんでらなんてのはないからな。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 01:47:14.41
化け鳥のオロチをオオナムチが退治する話がある
気多大社の異国の王子も一緒になってオロチを倒したんでしょうな
そのことでしょうね
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 05:27:38.21
>>701
>有能な人に見捨てられた畿内説
>坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
>著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
>現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。

つまり「有能な人に見捨てられた畿内説 」って真っ赤なウソなんだよね

彼って同志社大卒で森浩一の弟子だから、元々九州説
九州説最後の生き残り世代が定年になって現役を退きましたって話だ
主張は旧態依然とした前世紀の考古学で
箸墓を布留期とかトンチンカン言ってる
布留0式が庄内期であるという常識がわかってない
と言うことは、この1点で彼の九州説が最初から崩壊してるってこと

明らかに優秀じゃない人だよね
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:05:30.29
>>701
あたり前
邪馬台国にはいないのでね。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:31:27.52
>>724
畿内説の学者に優秀な人はいるのかよ?
そもそも優秀なら医者や弁護士になって稼ぐ方を選ぶだろうがな
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:35:13.44
>>701
さらに無能な九州説になったのか?
魏志倭人伝 読み直せよ。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:37:33.24
>>726
学者を愚弄しても
死んだ九州説は生き返らない
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:43:19.38
無能な者は九州説って図式は完成してるようだ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:45:28.35
>>701
無能な九州説になったのか?
後漢書も読み直せば?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 06:48:40.22
>>701
無能な九州説になったのか?
旧唐書も読み直せば?
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:04:53.83
魏使が九州に上陸し周旋したのはそこが目的地だったからだよ、畿内が目的地なら裴世清が辿ったルートになるはずだがな
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:06:26.70
>>732
当然、邪馬台国ではないてことよ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:07:30.37
>>732
裴世清が辿ったルートが邪馬台国だよ
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:12:33.62
裴世清の見た秦王国がいにしえの邪馬台国だよ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:14:59.66
>>735
秦王国は秦王国
邪馬台国ではない
無能な九州説になった?
隋書 読み直せば?
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:18:05.71
>>735
いにしえの邪馬台国の記述はない
無能な九州説になった
旧唐書も読み直せば?
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:19:13.68
>>736
アホには理解出来ないようだな
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:19:51.28
畿内説て学者の権威にあぐらかいてるだけだから学者からの否定論には滅茶苦茶動揺するよなw
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:23:59.72
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

この女王国の場所は豊前なのだが秦王国の位置と一致している
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:25:52.81
>>738
無能な九州説には理解は無理だね
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:27:18.65
>>740
わざわざ、海渡るの?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:28:20.67
>>740
隋書には豊国の記述はない
隋書読み直せば?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:28:45.18
>>741
畿内説はただのフィクション。インチキと捏造で出来ている。
そしてそれを信じる脳が無い信者w
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:30:19.17
>>744
別に畿内説でもない。
近畿説
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:31:46.05
>>745
なんだ妄想ニート君かw
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:33:05.98
妄想ニートの相手は阿波の相手をするよりつまらないので、じゃあな
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:38:58.50
>>746
なんだ無能か?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:41:51.08
>>747
無能な九州説 さいなら。
無能な九州説はまた
くるのであろう。無能は学習しない。
魏志倭人伝等、読み直せよ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 07:47:06.58
妄想ニートにも
あしわられる無能 九州説w
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 08:38:46.02
>>739
全く動揺しない
森浩一の弟子である坂が九州説の残党なのは羞恥の事実
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 08:57:31.16
このように、証拠に基づいた論理的な会話が全く出来ないのが九州説信者の知能
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:07:19.27
>>754
ほら、証拠に基づいた論理的な会話が全く出来ない証拠が提出されました
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:08:05.73
九州説がまた自殺点入れた
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:13:48.27
箸墓妄想に尽きる
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:36:53.72
>>757
妄想だという証拠は?

九州説信者が証拠に基づいた論理的な会話を全く出来ない
と言う証拠がまた提出されました
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:47:08.51
箸墓なんてまさに自称学者が自称卑弥呼の墓と名乗らせてるだけだもんな
何一つ証拠は無いのに
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 09:58:16.11
>>758
卑弥呼の墓と仮定してるだけの妄想だろ
仮定は未定。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:00:12.98
>>756
魏志倭人伝等の中国史書
よく 読んでいないから
仕方がない。
後は、書籍の鵜呑み。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:06:50.39
倭人が東南海の島に居た
そして倭人曰く、郡→南至投馬国→南至邪馬台国
女王国の東に海がありその先千余里に倭種の国々がある
さらに南には侏儒国(種子島)がある

畿内説は韓国式オレオレ詐欺確定だろ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:07:01.72
もし箸墓が卑弥呼の墓と仮定すると邪馬台国は畿内にあったというのが畿内説。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:07:03.76
>>756
また、図入りで阿保な講釈
魏志倭人伝は図解入りではない
文だけでたどりつけるのかを考えない。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:07:44.99
>>762
ちびの国なんて無い
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:12:49.53
史書解読を拒む考古学会は日本の学問の恥晒し
<総合的に見て、畿内は東の倭種の国である>

魏志倭人伝の里数表記の行程は中国側の記録のコピペであり、日数表記の行程は朝貢に来た倭人による説明である。
倭の北岸である半島南部が投馬国、対馬海峡を渡り倭の南岸が北部九州=邪馬臺国なのです。

邪馬台国行程図:https://i.imgur.com/AjvTnCM.png
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里・・・」
・韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
https://i.imgur.com/Xb0IWL8.png

■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島

■見解
女王国視点で紹介される倭の国々の方角は「北・東・南」のみということから、
そこは西の端すなわち九州島に位置していることが伺える

■日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:13:53.35
>>767
身長三、四尺の人が居たと思ってるんですか?
マジですか?
頭大丈夫ですか?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:14:21.64
>>769
短い里が使用されている
という証拠なし
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:17:08.73
>>767
>文だけで畿内は倭種の国の一つと確定している

どうやって確定させるの?
理由をひとことも言えないのに
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:19:57.59
>>766
ないな。よく読んでいるよ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:20:53.16
>>770
ミニモニは4尺足らずだな
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:21:38.79
>>772
お前はキナイコシか?
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:22:42.89
>>766
福永伸哉に言ってやれよ
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:23:32.13
>>775
理由が言えなくて九州説また敗北
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:25:32.95
>>774
>ミニモニは4尺足らずだな

証拠は?
絶対に証拠を出さない九州説
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:26:39.66
いつまで経っても魏志倭人伝が読めない人がいるな
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:26:58.24
>>769
南水行20日、10日陸1月は?
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:32:10.89
>>779
九州説だな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:34:18.92
>>769
投馬国はどこ?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:38:20.94
>>777
イエスかノーで答えろ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:39:39.91
>>780
帯方郡
↓船で半島沿岸に沿って南に20日
投馬国(半島南部)
↓船で島伝いに南へ10日
邪馬台国(北部九州)
↓徒歩
女王国

合計30日(一月)

この記録を地理感のない陳寿は誤解釈した

通訳を挟めば十分に起こり得る誤解だ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:49:40.49
福永伸哉の仮説の信者がキナイコシ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:56:51.18
>>787
なにも証拠を出さない九州説は嘘つきと推定される
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 10:56:51.51
>>787
なにも証拠を出さない九州説は嘘つきと推定される
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:02:19.04
九州説いつもウソつく気まんまんだからな
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:08:12.38
日本に巨大古墳を造らせたのは半島からの入植者
作業員として使われた奴隷は縄文人
従順な縄文人を牛や馬のようにコキ使って無駄に大きな墓を造らせたのが古墳時代だ

しかし卑弥呼時代の記録にそんな記述は一切無い
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:10:59.77
>>792
ほら
九州説はなにも証拠を出さない
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:12:41.49
>>763

仮定や仮説ばかりで何も証拠を出せない畿内説。
そんなのは妄想とかわりない。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:14:59.79
>>740

邪馬台国は博多湾沿岸の筑紫、秦王国が遠賀川流域の豊国、海を渡ってその他の倭種
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:21:23.42
>>792の縄文人を奴隷扱いしていたのが後のヤマトではないか
という話が出ている
これは天皇家にとってはイメージダウンになってしまう話だが事実なら仕方ない
陛下が縄文時代ブームに対して少し不安な発言をしていたのを覚えている
知ってたんじゃ無いのかな?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:30:15.22
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
これで良いのだ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:32:27.53
>>784
循海岸水行もない水行
南へ行く。済州海峡 東への記述はない
済州島から南 尖閣諸島、宮古島まで
陸地らしいもんはない。
九州には到着できないよ。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:33:02.31
>>792
半島にそんなもん無いから
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:33:55.89
>>796
隋書には豊国の記述は見当たらない
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:38:48.21
投馬はどう考えても対馬だろ?常識的に考えて
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:39:31.93
>>769
>魏志倭人伝と同様に短い里が使用
いや、倭人伝の情報からだから当然だろうな。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:44:33.84
>>804
水行の日数の行程ではそうならない。
別もの
南 南だからだよ。。
南 東 南でないと到着しない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:49:44.75
郡に戻るはないな。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:53:28.47
南→東南もないしな。
水行 日数のところは南→南だ。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:54:50.57
>>762

郡から南に水行4千里と渡海3千里で南へは7千里分
半島南岸を東に水行3千里だから
上陸地から東に4千里=半島の縦辺の距離の地点が帶方東南大海之中
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:57:04.85
>>809
水行 日数には東の記述はない。
済州島をさらに南下する事になる
九州には到着できない
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:58:06.55
>>806
なんで?
帯方郡から二十日だろ
里数行程と日数行程は別の資料だろ?常識的に考えて
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 11:59:14.37
>>808
倭人在帶方東南大海之中
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:01:25.79
>>813
たんなる寄港地でしょ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:01:48.33
>>811
日数 水行行程は南→南だよ
南→東→南or南→東南でないと
対馬には到着せず。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:02:44.68
>>812
南→南は間違いでいいのか?
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:03:14.78
>>815
帯方郡から水行二十日だから
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:04:12.96
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:04:20.72
>>816
到着できないよ。
南→南だ。
水行しかない。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:05:26.34
>>818
投馬国からは?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:06:17.68
>>816
文だけでたどり着くか?
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:06:35.16
>>820
倭人の説明を中国側がどう解釈したかだ
海洋民族の倭人に水行という概念は無く単に航行と伝えた
それを中国が水行と解釈したと思われる
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:06:43.20
>>817
勿論、行程に組み込まれてるから関係ない
日数の投馬国→邪馬台国だけが正しい
目的地は邪馬台国だから
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:07:51.94
>>826
方向は間違いでいいのか?
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:08:17.88
>>823
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
本当は伊都国も関係ないんだけどね
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:09:32.16
>>827
投馬国から南は?
東海岸線に沿う記述がないよ。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:09:48.78
>>828
方向は倭人在帶方東南大海之中
だから行程の方角は間違い
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:11:43.81
>>826
行程に組み込まれてる?
どこに?
郡から北岸狗邪韓國でなく
水行 日数は
郡から投馬国だろー
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:12:36.09
>>831
両方とも南は間違いなのか?
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:14:40.27
九州説は魏志倭人伝読んでないだな。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:14:59.09
>>832
伊都国→奴国→不彌國の行程は関係ない
不彌國で切れてるから
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:16:59.10
>>833
正しいのは帯方郡→投馬国→邪馬台国だけで
方向は帯方郡の東南にあるんだから
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:21:37.68
>>835
投馬国はどこだよ?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:22:32.67
魏志倭人伝の行程について仮説すら立てられない畿内説はオワコン
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:24:15.26
>>837
狗邪韓国へ行く方角がない。
投馬国の西部に到着
南へ行くだろう
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:24:24.18
一応補足で投馬国は寄港地で半島側に属した国
邪馬台国はヤマトで倭人在帶方東南大海之中で日本列島
ただし魏志倭人伝では集落を想定している
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:24:54.77
>>839
対馬だと言ってるだろ
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:24:56.04
>>838
お前だ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:25:46.65
>>843
半島南部の阿保に聞いている。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:25:58.81
日数表記の行程が帯方郡から目的地までの行程だと考える人がもう1人居たな
帯方郡→投馬国=半島南部含む対馬国が10日
帯方郡→邪馬台国=北部九州が20日だっけ?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:27:22.71
>>846
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:29:23.86
>>847
水行 日数で九州へ到着できない。
半島南部の西の端と東の端はどこなのか?
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:30:00.39
>>847
お前がな
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:34:04.03
考え方を柔軟にしなきゃ解かり難いかも知れんが
投馬国(対馬)はこれから日本列島に向かうぞという半島からの出発地点
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:34:42.85
>>849

循海岸水行と
東への方向の記載なし。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:35:42.35
>>849
半島南部の西の端と東の端はどこなのか?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:37:32.76
もう一人いる日数表記の行程が帯方郡からの人に言いたいのは
半島からの出発地点を半島内にする理由が何処にある
釜山からなんてあり得んよね
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:38:57.74
>>849
済州海峡を東へ向かう方角の記述ないぞ
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:40:28.62
>>856
九州説は阿保過ぎだな。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:42:27.81
>>855
おそらく出来る限り一回あたりの航行距離を短くとっていたと思われる
渡海が命懸けだった時代だからな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:44:27.18
>>859
済州島を左折して海流に乗って対馬でいいじゃん
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:52:26.93
>>861
あの辺りは潮が不規則な領域だろ
セウォル号が沈没した際に半島西部沿岸の航行の難しさが説明されてただろ
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:53:12.12
>>858
九州へ到着しないぞ?
投馬国のどこに停泊し
或いはどこの方向に
進むのか?
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:54:41.10
>>862
沿岸の方がリアス式海岸で危なそうだろ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:55:31.43
>>858
済州海峡を東へ向かう方角の記述ないぞ
投馬国には到着できるのか?
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:56:16.65
>>863
お前の希望的観測なんかどうでもいいんだよ
IQの低さは遺伝だから諦めれば?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:56:42.72
>>864
座礁しそう
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:57:07.92
>>866
済州海峡を東へ向かう方角の記述ないぞ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 12:58:02.08
>>866
反論できない九州説は阿保
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:00:39.23
とにかく日本への出発地点を半島内にする理由がない
済州島か対馬で良い
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:00:58.62
>>866
半島南部の西の端と東の端はどこなのか?
IQあるのか?聞いているんだが?
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:03:17.17
>>873
あるぞ IQ 0がな。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:06:09.65
>>875
畿内説ではない
近畿説
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:11:02.53
>>877
いたよ。出身地或いは宗教地と推測
ずーっといたとは限らず
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:14:46.57
>>877
事鬼道能惑衆ていたし
共立されたあとは九州だけどね
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:15:54.95
朝鮮半島の沿岸部は細かい島がたくさんあって危なそうなのよね
地図で見るだけだしわかんないんだけどもっと離れた洋上を通ったんじゃないかな
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:16:56.45
>>880
さらに西になるけど?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:19:14.80
>>881
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
俺はこれだから
対馬海流に乗ってすいっと
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:19:20.90
狗奴国について記している部分で

>男子は大小なく、みな黥面文身す。いにしえより以来、その使、中国に詣(いた)るや、皆、大夫を自称す。

狗奴国から中国本土に、昔から何度も航海して渡っていること記されている

葬儀について語った後に

>その行来して海を渡り、中国に詣るに、常に一人をして、頭を梳らず、?蝨を去らず、衣服を垢汚し、肉を食らはず、婦人に近づかざらしむこと、喪人の如し。名づけて、これを持衰と為す。もし行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す。もし疾病有るか、暴害に遭へば、さらに之を殺さんと欲す。その持衰が勤めずと謂ふ。

その航海の様子がさらに詳しく述べられている それは持衰について語っている部分
海を渡って中国に詣でるとある つまり半島を経由しないで中国大陸に直接到達する危険な航海だからこそ持衰が必要になる

持衰は航海が成功すれば財物を得、障害があれば殺されることになる
持衰を伴った航海が数回のみならばこんな書き方はしない 古来何度も繰り返し行われた航海だからこそ、この記述となる
往復の航路には触れられていない 一度航海して着いたなら、一定の期間はその場所にとどまっていたのだろう

倭国から朝貢の記事は数度あるが、とてもその比ではない回数の航海があったのだろう
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:20:15.15
>>880
水行のみだから
循海岸水行の記述もないから考えられる。
沖合に出たかもしれん。さらに西になるね
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:22:20.17
>>882
帰りは?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:23:22.56
>>885
頑張って漕いだんじゃないか?
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:24:48.25
>>886
君は面白い。
頑張って漕いでくれ。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:24:50.95
>>883
狗奴国について記している部分じゃないだろ
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:27:46.25
帯方郡が再度 起点で水行?
バカでしょ
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:28:33.69
>>883
>狗奴国について記している部分で

狗奴国じゃ無くて倭国に関する記述だろ

植生や葬祭や卜骨占いなどの記述は倭国全般を紹介する文章なんだよ
だからクスノキが無くても構わないと首を突っ込んでるのが畿内説ってわけ
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:30:09.48
>>886
九州で超マッチョな弥生人の骨が発見されてたよな
ぶっとい腕で船を漕いでたんだよ
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:30:18.24
>>889
里数行程と日数行程がつながってると思う方がどうかしてる
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:31:58.94
>>892
で投馬国はどこ?
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:34:20.20
>>894
対馬
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:35:24.65
>>892
九州説の大部分が
半島南部でいいのか?
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:36:12.16
>>895
九州説の大部分の認識でいいのか?
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:37:09.32
>>896
何言ってるのかわけわからん
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
俺はこれだって
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:38:42.17
どっちなんだ?
対馬or半島南部
九州説の総意は?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:39:14.66
俺が近畿説なら臺与にかけるな
卑弥呼の死後は短い期間とはいえ男王の時代がある
卑弥呼と入れ替わりで臺与が女王に即位したわけでは無い
その臺与時代以降に畿内に遷都して邪馬台国と名乗った

という流れならまだ理解できる
箸墓古墳は臺与の墓の候補とする
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:39:36.98
>>899
おまえは頭おかしいのか?
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:39:52.03
>>898
君だけでいいんだよ。
九州説に聞いている。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:40:10.15
>>888
>>890

北部九州からなら朝鮮半島への航海となるだろう

狗奴国、熊本以南だからこそ直接中国大陸へ航海することになる

ただ、どこにもよらず中国大陸へということではなく、途中は南西諸島を経ていただろう
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:41:00.89
>>901
九州に伊勢遺跡あるのか?
九州説に聞いている
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:41:41.45
>>902
投馬国=対馬は俺だけだろ
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:43:15.04
>>905
君だけでいいんだよ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:43:51.65
>>896
それは九州説に限った話では無い
魏志倭人伝を正しく読むための共通認識だ
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:46:00.31
>>905
=では無いと思う
対馬が治めた半島南部一帯だろうよ
対馬の官だけ「大官」と記載されている
まああんな所に陣取れるようなヤツは只者ではないはずだ
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:46:18.49
>>907
畿内説よ。
半島南部が投馬国でいいのか?
共立認識?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:46:30.11
頭悪いなまったく
九州説だっていろいろ居るわな
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:47:14.44
>>910
共通認識だな
共通認識?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:48:50.76
>>909
地図を見ろ
対馬は朝鮮半島に圧倒的に近い
半島から日本への出発地点だよ
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:49:56.70
>>911
いないとは書いていない。
大部分か?は聞いたけど。
で君の投馬国はどこだい?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:50:13.32
>>913
いわゆる海賊国家みたいなもんだろうな
ちゃんと手続きして所定の航路を取らないと沈められる
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:51:24.44
從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東  
で、到着地点が対馬 
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:53:11.98
>>914
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
うるせえよおまえ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:53:19.50
>>911
水行
帯方郡が起点ではない九州説て
いるのか?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:53:57.70
>>917
伊勢は九州か?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:56:15.12
>>918
里数の行程通りなら帯方郡に戻るわけない
そんな説明書きないし
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 13:58:30.41
>>920
当方もそう思うよ。
そこは君と同じ
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:08:19.93
里数の行程は不弥国までの行程であって邪馬台国への行程と関係ない
関係ない別の資料をくっ付けたんであって陳寿は間違ってると俺は言っている
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:08:53.81
>>910
>畿内説よ。
>半島南部が投馬国でいいのか?

いいわけない
狂人だけの主張
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:10:42.39
>>922
邪馬台国には行っていないて事ね
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:12:13.29
>>923
やっぱり そうだよな。
サンキュー。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:14:03.86
>>924
邪馬台国はヤマトで日本だから当然言ってる
中国側は王宮の場所を指してるみたいだがそれでも拝暇倭王で行っている
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:21:02.19
>>926

不彌国もヤマトなんで
不彌国で宮もあり、謁見でもいいんだよね。
伊都国でもいいんだよね?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:23:02.54
>>927
まあそういう事
俺は伊勢遺跡だと言ってるだけで
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:25:05.80
>>927
王宮いくつもあってもいいのだから
そうなる。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:26:09.40
>>928
君の考えはいいから。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:26:16.21
一つ言っとくと伊都国だけは無いな
ここは伊都国王が居るから一番可能性の低い場所
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:27:44.30
>>929
卑奴母離か?
面白いね。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:28:19.45
>>925
私は君と議論したことがあるから投馬国は対馬と音が似ているから対馬から朝鮮半島にかけての国と主張していたのを記憶している
夢から覚めて正しい認識を得たのなら喜ばしい
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:29:01.44
>>931
伊都国王は卑弥呼だよ。
別にいるなら名前は?
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:29:37.02
>>933
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
それ俺じゃないか?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:30:02.19
>>933
認識はなし。面白いとは思うが?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:31:18.30
>>935
伊勢遺跡某 仲間だな。よかったな
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:31:46.93
>>918
里数行程のまま北部九州上陸し、日数行程は博多湾から東回り、西回りという説もある
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:32:07.71
>>934
代々女王国に統属してる伊都国王だよ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:33:10.12
>>938
そんなの魏志読んでもわかんねえよ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:35:40.15
>>918
>水行
>帯方郡が起点ではない九州説て
>いるのか?

いないなら
九州説は完全に死んだ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:36:13.66
>>942
出雲→吉備→伊勢遺跡じゃないか?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:36:43.83
>>941
投馬国の後に「又〜」という文字が無いので連続した行程だと言い切れないんだよ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:39:28.84
>>945
邪馬台国だけ不彌国に戻るなんてわかんねえよ
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:40:16.69
>>946
だから伊都国だっつってんだろうが
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:41:04.95
>>938
おk、先人が書いた書籍の鵜呑みバカの
石頭ではなさそうだな。
でも南へ水行だな。循海岸水行もなく
東か西へ向かう記述もない。川登り?
或いは、里数表示がある国が
九州の西か東の海に接するか、
有明海にあれば説明がつく
後は人口とか鉄や外国産品の対価となるもんはなのか?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:41:26.72
>>922
>陳寿は間違ってると俺は言っている
     ↓
正しい行程はこうだー 理由はオレ様がそう言ってるから
     ↓
   満座の失笑
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:43:11.02
>>950
里数と日数の行程は俺は別だと思ってるよ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:46:25.89
里数と日数をつなげる不自然さ
それが正しいと言うなら沖縄でも行ってください
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:49:24.50
>>949
東回りは大分〜宮崎
西回りは平戸〜有明海沿岸

個人的には熊本も候補地に入ると思う
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 14:56:25.71
間違ってると思うもんは間違ってると言えば良いんだよ
それを陳寿は全て分かった上で書いてるとかバカか?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 15:06:12.51
>>953
博多とか九州北岸ではないて事?
南に水行できない。東や西に行く記述もない。
川登り?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 15:21:54.83
>>953
西なら東に海渡りて千里の倭種は没だな
東なら何処を推測する?
倭種も二つの考え方がある。
女王国内の倭種
其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國等の国々かもしれん。

属さない倭種なら属せずの字があるだろう。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:05:11.20
>>958
博多湾ではないて事?
南には水行できないし
東へ西への記述もない。
里数ある所は何なの?
不彌国、奴国の紹介て事?
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:09:08.91
陳寿は読者にわかるように書いてるんであって推理小説を書いてるんじゃないから
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:09:57.08
>>959
俺自身がそういう説を検討したわけじゃないから詳しくはわからん

畿内説があり得ない事は確かだ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:11:53.22
>>959
当然、博多湾ではない。
起点は、北九州市の東側の海になる?
0963◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/03/06(月) 16:13:42.94
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:13:43.05
>>960
陳寿は倭人伝の編纂に際して相当悩んだらしい
一度破り捨てたという逸話もある

じゃあどこでどう悩んだのか?を考えながら読まないとどの箇所が勘違いしてる箇所なのかを見出せないぞ
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:16:39.52
畿内説に聞く
30日間もの水行行程において道中に国が一つもない理由は?
陸行一月もの間についても同様に理由は?
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:19:56.96
>>964
つまんないからでしょ
これじゃ売れねえわって感じ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:20:46.88
>>962
サッパリわからん。
方向は南なのに東や西に行く
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:24:43.67
>>960
郡に戻るとかないよな。わかるように
書いてあるならね。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:24:46.34
>>965
元々投馬国(対馬)と邪馬台国(伊勢遺跡)しかないし
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:32:34.96
>>970
倭人在帶方東南大海之中
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:36:05.68
>>971
それは倭種の国々を含む大雑把な領域
具体的行程説明の中で東北に進む説明は無い
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:37:27.58
何度も何度も倭人は東南に居ると口を酸っぱ~くして書いてあるのに
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:37:36.47
>>967

>サッパリわからん。
>方向は南なのに東や西に行く

(畿内説)書いてあることが誤りなだけ
(九州説)事実と違うけど倭人伝は絶対正しい ← 狂気
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:40:03.87
>>965
畿内説ではないが
近畿説は
卑弥呼が九州にいる事
邪馬台国は中心国でもない
行く必要がない。南に至の後、方向が省かれ
停泊場所も省かれ、人口と官名のみ
出身地や宗教地までの経路の紹介した。
或いは出真珠青玉 其山有丹の場所を
隠しておきたかったかもしれん。
あくまでも共立は卑弥呼、邪馬台国ではないし
中心国とは思えず。一大率等の説明はあるが
邪馬台国には、税や軍事の説明がない、
開拓、復興地、宗教地と見ている。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:42:42.34
>>974

(畿内説)書いてあることが誤りなだけ ← 理由なき現実逃避
(九州説)倭人伝には少なからず脱字や誤解がある ← 正論
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:45:55.33
>>976
言ってる事は同じに見えるが
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:51:11.18
>>977
畿内説はどれが誤字なのかとか、何処をどう勘違いしているという事を合理的説明出来ない
その状態で持論を拡張する一方なので思考停止と言われて当然だ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:51:47.83
>>965
纏向も一部に過ぎず。
別に立派な建物が並ぶ必要もないし
豪華でなくてもいい。
古墳工事とか書かれるたびに
邪馬台国は近畿という確証が深まる。
事実、古墳があるのだからね。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:53:22.98
>>979
古墳建造作業員は毛人だ
古墳の多い地域=毛人領域
倭人は毛人では無い
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 16:55:04.61
>>978
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
今まで散々説明してるつもりだが
行程と倭人在の文も別人
矛盾してるからね
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:00:44.02
妄想・御託をいくら言っても

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:02:02.10
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:04:23.63
>>980
毛人と倭人はどう違うの?
半島系と書いたり
わからん。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:07:32.31
>>978
>畿内説はどれが誤字なのかとか、何処をどう勘違いしているという事を合理的説明出来ない

出来ないって証拠は?
九州説ってば、また中傷?
程度悪いね
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:11:38.61
官4名で副はない。
対等関係
丹後、吉備、近江、東海による
のJV工事みたいなもん。
様々な墳丘墓や古墳があるので
推測する。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:16:48.67
>>980
毛人だけじゃ、人数足りないよ。
食糧や海からの物資の経路も必要になるのだから。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:22:16.68
いつも出る九州説のナイナイ君って、畿内にナイ纒向にナイって叫ぶ
でも、それって証明できないんだよね
つまり証明できない意見を叫んでるだけ
それって反論じゃないんだよ

九州説の人は反論ができない
それはズバリ、知能が低いからだ
違うかい?
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:25:33.31
>>989
ある事を証明できていない畿内説があるある詐欺やってるという指摘だろ
もう通報されてるかもな
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:27:53.88
>>980
徳島〜奈良〜三重に
出真珠青玉 其山有丹
サヌカイトと財源は豊富。
卑弥呼にあとは鉄等の安定供給託す
地政的に
輸入出の要は九州である
魏との交流は軍事的に難があるのでは?
遠方の邪馬台国にいる方が不合理。
伝達に往復120日はナンセンスと思うが?
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:29:48.93
>>989
知能が低いのは畿内説考古学者、知能が高ければ医者や弁護士を選ぶだろう
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:42:10.81
>>990
>ある事を証明できていない畿内説があるある詐欺やってるという指摘だろ

それ、証拠がないのでニセ指摘
九州説って犯罪だね
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:44:26.47
>>992
考古学をやりたい人間が
どうして職業に医者や弁護士を選ぶの?

九州説信者は頭がおかしいね
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:47:03.77
>>994
無能だから土掘りしたという考古学者がいたな
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:52:08.17
>>995
証拠出せないことばかり言う人が無能
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:55:04.09
>>992
>知能が低いのは畿内説考古学者、知能が高ければ医者や弁護士を選ぶだろう

お前、医者や弁護士?
でないと九州説信者は知能が低いって主張してることになるんだが
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:57:23.78
知能の低い九州説がまた自爆したようだな
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/06(月) 17:57:26.61
考古学が厚顔無恥の世間知らずで天然のペテン師である事は日本国民がよく知っている事実
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