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邪馬台国畿内説 Part871
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:47:46.91
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:48:49.20
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:49:22.12
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:49:55.75
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:50:26.84
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:50:59.55
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:51:31.32
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:52:01.57
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:52:33.75
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:53:06.06
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:53:37.30
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:54:07.38
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:54:37.40
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:55:08.58
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:55:40.80
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:56:11.64
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:56:41.83
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:57:11.59
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:57:41.78
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:58:11.82
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:58:41.82
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:59:11.78
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 14:59:41.72
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:00:12.46
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:00:43.16
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:01:14.65
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:01:46.11
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:02:17.07
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:02:46.45
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:03:16.14
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:03:47.08
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:04:18.85
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:04:47.81
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:05:20.86
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:05:51.30
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:06:22.62
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:06:53.76
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:07:27.67
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:07:58.65
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:08:31.24
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:09:14.89
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:09:48.00
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:10:19.46
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:10:53.09
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:11:23.15
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/03/08(水) 15:11:56.33
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/03/08(水) 15:12:27.95
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳
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2023/03/08(水) 15:12:59.95
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/03/08(水) 15:13:31.93
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800覧「が、25里@日bフ場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/03/08(水) 15:14:01.67
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/03/08(水) 15:14:32.14
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/03/08(水) 15:15:02.93
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/03/08(水) 15:15:32.34
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0055◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:16:04.24
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/03/08(水) 15:16:36.59
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/03/08(水) 15:17:07.80
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/03/08(水) 15:17:39.32
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/03/08(水) 15:18:09.92
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/03/08(水) 15:18:44.40
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/03/08(水) 15:19:16.33
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/03/08(水) 15:19:48.28
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0063◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:20:21.36
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0064◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:20:52.66
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/03/08(水) 15:21:23.85
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/03/08(水) 15:21:53.77
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2023/03/08(水) 15:22:23.60
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/03/08(水) 15:22:55.12
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/03/08(水) 15:23:27.56
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2023/03/08(水) 15:23:57.85
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2023/03/08(水) 15:24:28.43
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:24:59.71
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2023/03/08(水) 15:25:31.77
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:26:04.53
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/03/08(水) 15:26:36.56
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/03/08(水) 15:27:22.72
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 15:35:23.66

以上、嘘つきの作文でした

以下、根拠を示さない妄言禁止でよろしく
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 16:36:56.89
畿内説はただの仮定に過ぎない。
いわゆる妄想です
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 16:52:42.26
他説があまりに推測と願望が酷すぎですからね。畿内説しか選択肢が残らないだけの事。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 16:57:54.26
>>80
>畿内説しか選択肢が残らないだけの事。

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無いのにか? わははははは   @阿波   
0085日本@名無史さん
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2023/03/08(水) 17:16:48.36
>>84
そうやって、いかなる時も証拠を出さない九州説の異常さが
皆の目に明かだな
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:23:09.33
畿内説は南が東の間違いである事について論理に説明出来ていないので、仮説として成立していません
よって現時点の畿内説は全て妄想です
0088日本@名無史さん
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2023/03/08(水) 17:28:03.35
方向間違い例なんて、既に魏志韓伝では済州島の方向間違いしているので証明済みです。
丹山、青玉、戸数に鬼道も、畿内説には既に何の問題もないんだよね。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:28:32.90
福永伸哉「箸墓古墳が卑弥呼の墓と仮定すれば...」

ハア?仮定すれば? 妄想しただけじゃんw
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:30:35.66
>>88
>畿内説には既に何の問題もないんだよね。

碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無いのにか? わははははは   @阿波 
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:43:09.60
奴國の東の不彌國から南に二か月なので
真っ先に消えるのが雑多北部九州説
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:43:50.23
まあ邪馬台国が河内から生駒山、桜井山間部辺りとして、傍国はこれで大体決まりだな。

次有斯馬國 シマは二上山西側、蘇我の本拠地、蘇我馬子の別名が嶋大臣。
また箸墓の石を供給した芝山は旧生クリームシマ山。
次有巳百支國 上牧、牧のある馬見丘陵、巻向。
次有伊邪國 伊勢、丹生産出国。
次有都支國 津、東国への渡航基点。
次有彌奴國 美濃国。
次有好古都?
次有不呼國?
次有姐奴國 信濃?
次有對蘇國?
次有蘇奴國 曽爾
次有呼邑國 吉野よ邑、丹生神社近く。
次有華奴蘇奴國 高野山麓、旧花園村、丹生津媛神社近く。
次有鬼國 和歌山
次有為吾國 伊賀
次有鬼奴國 貴生川
次有邪馬國 山城
次有躬臣國 近江
次有巴利國 播磨
次有支惟國 吉備
次有烏奴國 穴門

次有奴國 此女王境界所盡
つまり狗奴国はこの奴国の南側九州中部から四国辺りになります。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:47:30.57
邪馬台国の官もイコマ、ミマキ、ヌカタと全てこのエリアの名前と一致してるからな。
畿内説で確定ですわ。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:52:49.71
>>96
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無いのにか? わははははは   @阿波
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:57:22.38
文字が化けてるので修正。
まあ邪馬台国が河内から生駒山、桜井山間部辺りとして、傍国はこれで大体決まりだな。

次有斯馬國 シマは二上山西側、蘇我の本拠地、蘇我馬子の別名が嶋大臣。
また箸墓の石を供給した芝山は旧名がシマ山。
次有巳百支國 上牧、牧のある馬見丘陵、巻向。蛇と百襲?
次有伊邪國 伊勢、丹生産出国。
次有都支國 津、東国への渡航基点。
次有彌奴國 美濃国。
次有好古都?
次有不呼國?
次有姐奴國 信濃?
次有對蘇國?
次有蘇奴國 曽爾
次有呼邑國 吉野よ邑、丹生神社近く。
次有華奴蘇奴國 高野山麓、旧花園村、丹生津媛神社近く。
次有鬼國 和歌山
次有為吾國 伊賀
次有鬼奴國 貴生川
次有邪馬國 山城
次有躬臣國 近江
次有巴利國 播磨
次有支惟國 吉備
次有烏奴國 穴門

次有奴國 此女王境界所盡
つまり狗奴国はこの奴国の南側九州中部から四国辺りになります。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:58:07.94
>>98
>やはりルーツは紀伊半島だね。

「阿波」の辰砂採掘技術集団の進出地だな。   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 17:59:18.30
>>89
そうそう
たぶん年代が合致するはずだ、という希望的観測でしかない
0105日本@名無史さん
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2023/03/08(水) 18:01:01.75
畿内説は何一つ証明できていない。
仮説としての体をなしていない。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:01:44.59
箸墓が3世紀築造である論拠ってガバガバ炭素年代測定法しかないの?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:05:09.08
箸墓の年代比定は宮山型特殊器台、なので三世紀半ば以降なんですよ。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:05:29.63
>>95

「東南の大海中」は倭人地帯の紹介文なので女王国以外の領域も含んでしまいます
後ほど出てくる東の倭種の国など
なので女王国領域を比定するための指標としては不適切です
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:22:25.39
>>107
しかも箸墓古墳内部の出土品で測定したわけではないので目安にするにしても疑問ですね
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:32:03.53
>>115
だから箸墓古墳は完全葺石墓だから4世紀の築造 だと何度言えばw   @阿波
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:32:59.57
弥生時代末期まで紀ノ川と明確な関係があったのは池上曽根遺跡だな
紀ノ川産の石で作られた包丁が数千点も見つかっている
包丁を売り歩いていたのかな?
和泉辺りは古代だけでなく中世も近世も石の加工が盛んで江戸時代でも全国から引っ張りだこだったらしい
高野山にもたくさん和泉の石工が作ったものが残っている
旧石器時代のサヌカイトの石刃に始まり弥生時代の石包丁、江戸時代の堺極の包丁まで伝統が繋がる

池上曽根遺跡のある摩湯丘陵には温泉が湧き栄えた伝承が残っている
堺辺りの海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧き、奈良時代平安時代奈良や京都の都から湯浴みに来ていたらしい
明治時代でも奈良から婦人たちが列をなして湯屋に来て賑わっていたという
記紀や延喜式に出てくる湯津磐村はこの辺りじゃないだろうか?
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:51:31.68
>>109

帯方郡が起点ならば
「帶方東南大海之中」と「南至」と「會稽東冶之東」しか書かれていないので
倭人伝の記事だけで1か所に比定することはできない
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:56:06.99
倭人伝の行程記事通り奴國の東の不彌國が起点ならば
まず雑多北部九州説が消えて、九州西部の有明海沿岸も消える
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 18:56:28.83
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 19:22:09.58
「どの慣性系から見ても、光の速さは一定である」と仮定すれば物体が縮んだり時間が遅くなったりトンデモ現象がおこる。

「箸墓古墳が卑弥呼の墓」と仮定すれば畿内説が正しいというトンデモになる。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 19:45:33.70
サヌキの五色台は二上山と並ぶサヌカイトの産地だ
向かいの播磨にも石に纏わる伝説が残る
片目が彫り潰され顔と胸に泣いた跡がある五色の玉を持つ石神の伝説が播磨風土記にある
廣田神社の神領であった六甲山には縄文時代のものを含め無数の磐座がある
有馬温泉があるのもこの山だな
播磨風土記のこの話は興味深い
斗形山(ますがたやま)という。石を以って斗を造って桶とした。故に斗形山と呼ばれるようになった。ここには石の橋がある。言い伝えによれば、上古の時にこの橋から天に行くことができ、八十人衆(やそひとども)が上り下りして往来したという。故に八十橋(やそはし)と呼ばれるようになった。

天とは何なんだろうか?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 19:56:17.63
>>122
論理がまったく理科できないんだね
私大の文系かい?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 19:56:59.95
>>120
なんで?
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 21:14:14.29
後漢書西域伝
「大月氏国、(中略)洛陽を去ること万六千三百七十里」5千キロぐらい
1里が305mになる。
短里て1里、40m〜305mでいいのか?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 21:20:47.13
箸墓が卑弥呼の墓だと嬉しいな、というのが畿内説
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 21:24:08.14
>>127
前のレスに
0530 日本@名無史さん 2023/03/07(火) 23:17:37.12
>>522
説は色々あって問題ないがな、まあワシは目測というもののアバウトさを言いたかったのだがな
てのがあったので問題ないと思う。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 21:53:56.85
行程で里程表記終了後の、日程が直列する?
そういう読み方は、在り得ない。

水行20日は、半島南岸。 投馬国は弁辰韓5万戸。
水行十日は、対馬海峡。 で、邪馬台国には上陸。

で、女王の処都までの陸行一月は、梯儁の記録の引用だが
陳寿も知ってた謎の一月行で、残りの2千里。

簡単すぎる、算数の文章問題ですが?
漢文にすると、考古学者とか、歴史学者は読めないのかな?
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:03:33.81
>>130
行程で里程表記終了後の、日程が直列する?
そういう読み方は、在り得るだろう。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:04:14.17
>>130
おまえが漢文読めないだけだ。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:07:48.58
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:17:28.55
>>130
投馬国の西の端と東の端はどこだい?

南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:21:25.01
>>130
狗邪韓国から水行10日陸1月でいいのか?
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 22:43:00.57
>>135
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
その通りだが
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 23:36:18.64
>>138
で卑弥呼はどこにいるのか?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 23:40:23.64
>>139
珍島だと東に行くのがないとそのまま南に行く
九州に到着せず
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 23:51:48.60
>>138
不彌国まで一月て事だよ。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/08(水) 23:56:41.72
>>143
其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國〜とあるが?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 00:00:17.27
>>143
不彌国に卑弥呼がいたの?
遺跡は?
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 00:04:11.22
>>144
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

不彌国より南にある。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 00:21:46.42
>>146
不彌国より南1400里の範囲内
に其餘旁國遠絶 不可得詳 はあるのだな?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 00:45:53.04
>>147
東千里渡海だから
奴国、不彌国は九州の東海岸線にないといけない。福岡と佐賀、筑後は間違い。
糸島市あたりを伊都国とするのは間違いである。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 02:21:36.60
邪馬台国に行く方法は、伊都国から南に陸行する方法と不弥国から南に水行する2way があるという事だろう。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 03:38:20.81
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 06:56:43.30
>>148
半島南部に5万はない
あれば記述するよ。
其瀆盧国與倭接界
倭人が住む地域はあったと思うけど?
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 07:16:54.79
邪馬台国=女王国が定義ということかな
投馬国についた時点で邪馬台国てこと?
それとも
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
だから、投馬国は女王国に属さずでいいのか?
投馬国には官名しかないけど王はいないの
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:10:24.62
>>151
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:10:41.96
>>153
反論できないのは敗北のしるし
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:15:27.69
>>150
猿でもわかることは、それだとゆうに畿内を通り越す日数だと言うことだ
魏の役人が歓待を受けながらのノロノロ陸行も出鱈目
なぜなら魏の役人による調査なら里数で報告するはず
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:18:40.03
>>154
魏の時代だよ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:21:48.65
>>156
魏の役人が歓待 伊都国や不彌国ぐらい
帰路もあるから
最適な渡航時期、考えていると思う。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:21:49.40
>>157
150年~200年前だけどじゃあ何も無かったと言えるか?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:21:58.97
魏の時代、倭人は半世紀ぶりに中国に朝貢した
魏は過去の記録から女王国の位置を推測していた
それが里数の行程
倭人が来たので改めて確認した
それが日数行程

どちらも帯方郡から北部九州の女王国までの道のりである

卑弥呼時代の女王国=邪馬台国と周辺国
https://imgur.com/Z7Om5EP.png
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:24:19.51
>>159
魏志倭人伝の話
半島南部を、攻めたなら記述するだろう。
阿保すぎて誰がその後に何も無いと書いた?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:24:34.62
>>156
畿内を通り越す日数?

到達できない日数なら失格
通り越す里数なら疑わしい
でも、通り越す日数って、それ問題?
移動できない日もあり得るでしょう
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:25:43.83
>>161
攻めたとかそんな事思ってないけど
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:26:13.59
>>160
投馬国には王なしで官名だけか?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:27:33.31
>>163
三韓征伐は無かったのか?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:28:01.68
>>163
倭の五王は?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:30:32.42
>>160
半島西部 東へ行く記述はないけど?
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:32:59.08
>>168
投馬国について聞いている。
属さずでいいのか?
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:39:54.17
>>169
属するかどうかは気にすることではない
女王国とは中国の認識だから

投馬国は半島に鉄をとりに来た様々な民族による多民族国家
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:42:50.99
>>170
図からは
郡から南 投馬国の西端につく
又南で九州へたどりつけない
場合もあるて事だよな
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:45:18.81
>>171
意味不明
狗奴国はしっかり記述あるけど?
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:45:46.69
>>172
朝貢に行く倭人達はナビがなきゃ何処にも行けないお前のような引きこもりじゃないんだよ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:46:51.10
>>171
どこの勢力圏でもないて事か?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:47:42.99
>>162
まず魏の役人による旅程調査でないことは
日数記述からわかることであり、倭人からの伝聞だとわかる
それを踏まえて、魏との冊封体制の中で
移動でなきない日もあるような出鱈目な報告を倭人がするなど
あってはならない主従関係だと言える
つまり、その旅程考察はおかしいとなる
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:47:43.07
>>173
狗奴国は反奴国という注視すべき敵国だったから魏に詳しく伝えたんだろう
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:48:06.34
>>165
>>166
元々倭人の居住地域だと思ってて攻め滅ぼしたとか思ってない
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:49:29.90
>>171
>投馬国は半島に鉄をとりに来た様々な民族による多民族国家

倭人伝にひとことも書いてないことを
勝手に創作するのはダメ
九州説は妄想です
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:50:16.69
>>174
誰がそんな事、書いた?
読み手の中国人のほとんどが帯方郡の事を
知っていたのか?倭人の事を知っていたのか?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:51:11.59
>>179
なんで、そう言えるのか?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:51:23.04
大陸と交易していた安曇氏が朝貢団を組織していたのだろうな、そして卑弥呼も安曇氏だったと考えられる。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 08:54:31.04
>>178
当方もそう思うけど
5万はないな。
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国とか後の文献出るの?
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:03:35.30
>>176
>まず魏の役人による旅程調査でないことは
>日数記述からわかることであり

根拠ないので、それは妄想
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:05:23.27
>>184
宋書で倭の五王武の上表文てやつ
これが450年頃で渡平海北九十五国
白村江の戦が660年でこの頃の任那は僅かでしょう
じゃあ200年~250年はどのくらいだろう?
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:08:17.08
ここまでひたすら難癖つけるだけの畿内説w
畿内説スレなのに畿内説で反論できない無能しか残ってないw
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:09:59.62
>>185
魏の役人による調査なら同じように邪馬台国も投馬国も里数で報告される
これにて魏の役人は誰も北部九州から移動してないとわかる
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:10:49.76
天下統一してたんじゃないし西服衆夷六十六国はともかく
東征毛人五十五国は完全に平定してたんじゃないでしょう
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:12:38.32
>>188
俺は資料の時代が違うんだと思ってるけどな
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:14:59.94
日数がどのくらい掛かるかは結構重要だと思うけどな
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:25:35.66
>>186
魏志倭人伝の話だよ
ぶっ込んでくるのか?
阿保じゃない
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:25:55.74
いつ頃出発していつ頃帰ってくるかは重要で魏の時代以前から必要な情報だったと思う
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:26:59.34
>>194
だから200年~;250年はどのくらいだろう?
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:29:34.82
>>192
使者も日数数えられるから
倭人に聞く事はない。
投馬国や邪馬台国に行ったとすればな。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:30:58.99
>>195
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻

帯方郡6月到着
5~10月までだろう海水温20度以上
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:31:24.70
>>197
俺は日数行程は別の資料だと思ってるから
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:32:27.57
>>198
だからその間に行って帰ってこなきゃいけない
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:33:32.22
海水温19度以下はサウナの水風呂以下レベル
海に落ちたら死あるのみ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:36:32.62
>>200
そゆこと
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:42:23.88
>>176
>移動でなきない日もあるような出鱈目な報告を倭人がするなど
>あってはならない主従関係だと言える

倭人がそんな報告したとか誰も言ってないので
あなたの妄想だね
自分の妄想を自分で否定して
それ何か意味ある?
ばかって自白だよね

あなた、知能指数ひくい人?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:46:48.95
倭人は里を知らず日を以て距離を表現する

隋書でもまだこんな状態だぞ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 09:55:17.79
>>201
>海水温19度以下はサウナの水風呂以下レベル
>海に落ちたら死あるのみ

サウナで水風呂はいると、みんな死ぬのか?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 10:19:43.13
>>206
使者の話、
投馬国、邪馬台国に行ったと仮定すると
倭人に聞く事はないと思うけど?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 10:25:10.08
>>206
はい
知能低いって回答いただきましたw
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 10:31:53.89
>>209
九州上陸地で邪馬台国なんだから
陸1月、或いは2千里の範囲が女王国になるんだけど、卑弥呼はどこにいるのか?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:19:28.43
だから時代が違うんだって
ずっと以前から目安として片道2ヶ月くらいだと認識されてたんでしょう
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:26:28.20
楽浪郡徼去其國萬二千里
後漢書の頃から万二千里
ただしこの数字間違ってるけど
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:31:15.64
從郡至倭 循海岸水行 【歴韓国】 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國

狗邪韓國の手前に倭国の投馬国は無い
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:32:40.82
>>211
図より
対馬、壱岐も投馬国であって
女王国ではない。
成る程、女王国ではないから
狗奴国にも鉄が入る。
女王国にも狗奴国にも
鉄を供給していたのか?
死の商人みたい。
官名と副のヒナモリのみ
王はだろうな?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:36:25.50
対馬、壱岐は女王国ではないから
一大率は関係ない
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:46:26.71
投馬国は対馬国だよ
寄港地であり半島から日本に向けての出発地点
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:52:04.58
>>131

> >>130
> 行程で里程表記終了後の、日程が直列する?
> そういう読み方は、在り得るだろう。

ないわ〜
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 11:54:51.90
>>160

魏の時代、倭人は半世紀ぶりに中国に朝貢した
魏は過去の記録から女王国の位置を推測していた
それが倭人から聞き取っていた日数の行程
倭人が来たので実際に邪馬台国を訪れて確認した
それが里程行程

どちらも帯方郡から北部九州の女王国までの道のりである
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:10:59.19
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:18:34.80
>>220
あるわ〜
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:21:53.10
>>220
理由も言えずに否認だけするのは
逮捕された犯罪者くらいなもの
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:22:54.30
>>227
あるよ。
距離の計測道具が壊れたり流されても
方角さえ間違えなけれ運航はできる。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:25:02.86
>>226
回るのに1月もあるしな
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:30:34.57
>>227
投馬国、邪馬台国までは、行っていなくて
倭人から聞けば日数になるな。
ありうるけどね。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:32:40.12
>>232
邪馬台国の大きさがわかるだろー
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:37:36.13
>>233
伊都国で倭人に聞いたとしても伊都国から南となるだけだが?
倭人があたかも大国であるかのように見栄張って誇大表現したとか
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:38:20.97
畿内説を否定する理由は無し
九州説を否定する理由は山ほど有り
勝負ついちゃうのは当たりまえだよね
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:39:07.68
>>232
詳細な事は書いていないから
推測はだけど
南至で10日 直行ではないと思うから
方角、補給地等の停泊地等が省略されたと思う。
倭人から聞いただけと思う
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:40:38.50
畿内説を肯定する理由は無し
九州説を肯定する理由は山ほど有り
勝負ついちゃうのは当たりまえだよね
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:40:39.88
>>235
誇大表現もありうるよ。
詳細な事は書いていない。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:41:28.18
>>238
倭人は知らないと思う。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:44:08.38
>>237
南へ南へと向かい、女王国北部の詳細情報は得られたと書いてある
道中の国々を省略という考え方は矛盾するが?
その他は確認できず国名のみ紹介されている
そして東に倭種の国々があるというのは?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:45:00.17
>>238
それは使者が行ったという仮定だな。
倭人なら1月或いは28日か30日と言ってかもしれん。使者が1月としたかもしれん
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:48:01.71
>>244
それ書いてるやつ九州説だから
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:51:45.00
>>243
投馬国、邪馬台国は
女王国北部ではないて事だな。
東に倭種の国々
女王国に属さずの記載はない。
女王国内の其餘旁國遠絶 不可得詳の国々のひとつと思われる。どの国にあたるのかは未確認。
見れば計測できる。できたので千里となった。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:52:09.64
>>236

畿内説がありなら、同じくらい出雲説でも吉備説でも諏訪説でもいい。
畿内説なんてその程度。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:54:06.43
>>252
女王国ですけどね。
女王国に属さずの記述はない。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 12:56:19.72
>>250
何度も説明されてる

魏の時代、倭人は半世紀ぶりに中国に朝貢した
魏は過去の記録から女王国の位置を推測していた
それが里数の行程
倭人が来たので改めて確認した
それが日数行程

どちらも帯方郡から北部九州の女王国までの道のりである

卑弥呼時代の女王国=邪馬台国と周辺国
https://imgur.com/Z7Om5EP.png
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:02:08.11
>>254
何度も書いても
却下。官名と副のみで首長か王の名はない。
壱岐、対馬も副がヒナモリ、これも王の名がない。その後の中国文献にも記述がない。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:10:37.22
>>254
明らかに間違った説明なんども繰り返されてもなー
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:12:21.39
>>251
当然ありうるよ。
当方は近畿説
卑弥呼が共立で九州へ
邪馬台国は女王の都だが
中心国ではない広範囲の地域。
工事だらけと推測、遠方の邪馬台国が
中心国とはならない。
あくまで共立されたのは卑弥呼であって邪馬台国ではない。行く必要性もないてことだな。
あとは丹のありかを教えたくなかったかもしれないけどね。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:18:57.82
>>255
対馬や壱岐含めどの国にも王が居ると考える理由は?
王が居る(居た)事が書いてあるのは伊都国、女王国、狗奴国
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:22:21.22
>>257
お前の脳内説を把握してるとでも思ってるのか?
まず行程と位置関係をきちんと説明しろよ
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:26:52.02
>>259
何度言われても無視してきたでしょ?
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:33:18.91
>>258
官名と副しかいない国の例が見当たらないからだよ。王は共立王の卑弥呼と思うけど?
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:35:36.77
>>258
伊都国にも王の名はない。
伊都国の王も共立王の卑弥呼。
狗奴国は属さず、当然 王の名がある
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:40:28.42
魏の時代、倭人は半世紀ぶりに中国に朝貢した
魏は過去の記録から女王国の位置を推測していた
それが倭人から聞き取っていた日数の行程
倭人が来たので実際に邪馬台国を訪れて確認した
それが里程行程

どちらも帯方郡から北部九州の女王国までの道のりである
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:43:37.02
>>260
投馬国は四国だよ
近畿一帯が邪馬台国だよ。
出真珠青玉 其山有丹

流通経路がないと意味がないから工事だらけ
貴重な財源だから丹後、吉備、近江、東海
も魅力ある地域。なのでいろんな形の
墳丘墓や古墳がある。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:47:09.75
>>265
妄想連呼かよ九州説
ばかじゃないの?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:49:14.30
>>263
>伊都国にも王の名はない。

取るに足らない小国だからでしょ
しかも倭国の属国だし
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:51:21.47
>>269
女王国の属だから
王は共立王の卑弥呼
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:54:26.21
>>262
>官名と副しかいない国の例が見当たらないからだ

弥生時代に既に広域国家体制が確立されたかとでも思ってんのか?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:54:50.85
>>269
全盛期は糸島市周辺まで勢力があったと思うが
帯方郡の居住地とか?王の墓地とかね。
衰退だな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:55:49.10
>>270
つまり伊都国は属国
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:56:41.51
>>271
卑弥呼の共立がそう
弱いけどね。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:59:10.65
伊都国はバチカン市国みたいな国
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 13:59:21.68
>>273
女王国内の他国も女王国の属だけどね。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:01:15.06
魏志倭人伝『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』を探せばいいんだよ


[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png

↑魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の宮室とよくマッチしている

[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png

↑誇大表現を多用して大騒ぎしてるが・・・
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:02:34.22
>>279
写真から
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州とわかるね
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:07:04.92
>>281
意味不明?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:11:12.75
>>269

属国というのは畿内説の願望であり、魏志倭人伝には書かれていないこと。
むしろ、伊都が諸国を検察し、対馬海峡貿易を独占し、郡使を滞在させて外交も行っていたわけで、明らかに首都機能を完全に備えている。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:11:25.59
>>280
箸墓は何だよ?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:13:00.29
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

江戸幕府の将軍を諸藩が畏怖したというときに、江戸は将軍の支配下だから植民地だなどとは言わない。
むしろ直轄地の権威は高いのが普通だ。
各地の官とは別に広域を支配する大率の本拠地が伊都にあるということは、伊都が女王の直轄地、すなわち女王国であるということだ。
事実、大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:14:25.80
>>279
おい九州説
また負けたからってコピペ荒らしログ流し荒らしはやめろお
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:15:10.72
>>281
阿保すぎ
邪馬台国に『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
あるとかの記述はない。
まあ、しいてあげるなら
近畿
唐古・鍵遺跡、
大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡
琵琶湖周辺の稲部遺跡等
山陰行くと
妻木晩田遺跡等
九州では吉野ヶ里、平塚川添遺跡

他に探せばあると思うけど?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:15:13.55
>>280
その低能説における傍国遠絶の国々、女王国の東の倭種の国々は何処なんだよ
適当に答えるなよ
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:17:46.29
>>283
>属国というのは畿内説の願望であり、魏志倭人伝には書かれていないこと。

はっきり倭人伝に書かれてます


>むしろ、伊都が諸国を検察し、対馬海峡貿易を独占し、郡使を滞在させて外交も行っていたわけで、

倭人伝に書かれてません
九州説は史料無視ですね
学者が見捨てるのは当然だ
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:22:09.46
>>289
ノータリンに教えよう
山陰、山陽、北陸地域だよ。
有力者がいる地域
出雲、吉備、丹後、越等
鉄出土も多いよ。
四国には有力者が思い浮かばない。
瀬戸内、太平洋のルートの開拓だな。
メインの日本海から徐々にシフト。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:22:56.00
【魏志倭人伝】

伊都国には代々王が居た
今は女王国の一部であり一大率の拠点としている
周辺諸国(対馬海峡一円)に睨みを利かせている
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:25:47.89
>>292
何処をどう通って何処に辿り着いたんだよ
その道中には国が無かったわけだから弥生遺跡の無いルートという事だろう
で東の海とその先の倭種の国々、そして狗奴国を示せよ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:32:15.89
>>290
悪口しか言えない九州説は負け犬
学問的にもう有り得ないしね
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:33:56.70
>>295
それおまえ


295:日本@名無史さん:2023/03/09(木) 14:32:15.89
>>290
悪口しか言えない九州説は負け犬
学問的にもう有り得ないしね
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:36:55.60
>>294
バカじゃないの?
其餘旁國遠絶 不可得詳

南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余


つまり行っていないから経路はわからん。
方角や停泊地など詳細な事は書けないだろう。
倭人から大雑把に聞いたのみだよ
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:39:26.03
>>294
狗奴国は、奴国の南の
熊本あたりだよ。
畿内説の一部に必死に
邪馬台国周辺を探す人もいるが?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:40:56.46
>>286
物部氏はどこから来たのじゃ?
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:45:29.43
>>301
ノータリンには理解不能みたい
まあ、繰り返せば済む
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:46:50.99
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

↑北
女王国
↓南

其南有狗奴國
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:51:02.84
>>293
>今は女王国の一部であり一大率の拠点としている
>周辺諸国(対馬海峡一円)に睨みを利かせている

それ、伊都国が?
倭人伝に書いてないけど
九州説って、史料無視の妄想ですか?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:51:05.50
>>302
九州説はノータリンだしな。
鉄の対価となるもんについて
考えていないと見受けられる
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:53:25.18
>>305
ノータリンというか
九州説ノーリタン
もう死んだ
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:58:49.40
>>296
ほら、九州説は何も反論できない
学説として終わってるね
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 14:59:23.14
>>305
だな。人や物の流れとか考えるけどな。
絹と聞かれば、滋賀の稲部遺跡
鉄と聞かれたば淡路島、琵琶湖周辺だな

発祥地がどうのこうのとか、
柱が貧弱とか、アホな事ばかり繰り返す
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:03:31.37
倭人伝に柱についての記述はない
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:06:11.79
>>100
何説だかわからんけど
君の所は証明できるのか?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:23:58.18
>>309
楼閣とは高い建物を意味する
そこに女王と千人の巫女が居るわけよ
纒向の建物のように穴掘って挿しただけの細い柱で無い事は確かだ
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:27:22.34
何とまあ
理系どころか文系にすらなれなかった運動音痴の畿内説による
お門違い斜め上の反論のダサいことよ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:37:04.04
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

帯方郡
  ↓
  投馬国
   ↓
  対馬
   ↓
  壱岐
  ↓
傍国 ↑北 傍国
傍国 女王国 → 渡海 → 倭種の国々(近畿)
傍国 ↓南 傍国

其南有狗奴國
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:38:42.73
まあやはり決め手は丹、水銀朱が全ての鍵ですね。それと三角縁神獣鏡。
鬼道はこの二つは欠かせない、どちらこも弥生時代後期以降畿内に集中しているからな。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:44:16.23
>>311
で君はノータリンだしな
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:45:48.92
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

帯方郡
   ↓
  投馬国
   ↓
  対馬
   ↓
  壱岐
  ↓
伊都

投馬国 出雲

邪馬台国 大和
傍国 女王国
瀬戸内海から紀伊半島→ 渡海 → 倭種の国々房総半島


奴国其南有狗奴國
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:46:34.22
>>312
高い建物てどの位?
唐古・鍵遺跡もあるけど?
こちらは近畿説
纏向説ではないのだが?
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:58:12.84
宇佐神宮本殿下に埋まっている卑弥呼の墓だと思われる石棺は楠の根で包まれていたそうだ
https://i.imgur.com/4Wv86N9.jpg
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 15:59:08.55
>>318
高さも魏志倭人伝に記述がないからね
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:04:18.87
>>276
>ほんと文系って頭悪いよな

そんな悪口しか言えないお前、文系より理系より頭悪い無学だから
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:06:14.80
>>320
まあ、それが邪馬台国にあったとかも
定かではないけど?
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:06:36.40
福岡で発見された分銅は中国と共通規格
河内で発見された分銅は独自規格

卑弥呼時代の近畿には中国との交易の痕跡無し

いわゆる倭種の国々ですから
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:07:03.43
>>305
江戸幕府が佐渡で金を掘るのに対価はいらないだろ、それと一緒
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:07:10.37
>>313
>何とまあ
>理系どころか文系にすらなれなかった運動音痴の畿内説による
>お門違い斜め上の反論のダサいことよ

なにも反論できないお前はそれ以下
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:09:22.57
>>323
中国朱はあるけど?
無論、国内産もあるけど?
滋賀にオルドス剣なる物もあるけど?
九州からの出土はない。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:13:30.23
>>326
オルドス剣は邪馬台国とは無関係だろ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:18:48.95
>>300

物部氏の祖である饒速日は筑紫を出て宇佐から船出したという。
神武は饒速日が東の国で成功していると聞きつけ、そのルートをなぞっている。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:19:26.49
>>324
おまえ、読んでないのか?
國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭又以供給二郡
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:20:16.71
>>304

魏志倭人伝に書いてありますよ?
読み直してください。
伊都に置かれた大率が、伊都の周辺諸国を検察し、それらの国々から畏怖されていたとあります。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:21:20.09
>>331
九州説は読まないからね。
幕府とか出てくる
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:21:38.93
>>330
そんな史料ないだろ
捏造ダメ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:22:44.03
>>334
ノータリン
論じることもできないのか?
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:23:46.93
>>332
年代無視という根拠は?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:24:47.89
>>334
反論しても
わからんノータリン。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:27:27.39
丹後に中国朱ありだよ。
近畿一帯だからね
四国にもあるけどね
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:27:58.36
女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。
諸國は之れを畏れ憚る。
伊都國に常治す。
國中に於ける刺史の如く有り。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:30:25.00
>>336

『石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。
途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。
宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。
天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。
これが日本の国号の始まりとなった。
当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:33:47.22
畿内は入植地ですね。
記紀でも、長髄彦が次々に筑紫から天神の子がやってきて土地を取ることに不満を述べています。
まあ、長髄彦自身も出雲の事代主の末裔なので入植者なのですか、奈良盆地を開拓した立場としては開拓した土地が取らられるのは我慢ならなかったようす。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:34:46.85
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:36:38.41
>>328
>あなたが魏志倭人伝を先入観で読み間違えているだけです。

まったく反論できない九州説の敗北は確定
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:37:34.64
>>347

女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。
諸國は之れを畏れ憚る。
伊都國に常治す。
國中に於ける刺史の如く有り。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:37:51.32
丹後
1つの棺から約600個ものガラス玉が出土したそうです。大陸との関わりの深さがうかがえます。
赤坂今井墳墓
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:40:30.82
>>331
売っていたのは倭国だろ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:40:36.93
>>340
>反論しても
>わからんノータリン

現実に、九州説って何も反論してないでしょ
してるなら内容を言えるはず
なのにまだ悪口しか言わないのは
何も反論してない証拠だ
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:41:58.23
畿内に倭国の痕跡とかあったっけ?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:45:44.91
>>351
近畿説だよー
邪馬台国は近畿。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:46:21.92
>>352
倭国の痕跡てなんだ?
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:48:18.54
>>354
まあ、バカみたいな定義だよ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:50:28.43
>>352
倭国の痕跡て何?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:52:11.18
近畿説も知りたい
倭国の痕跡てなんだろうね
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 16:59:07.15
>>350
何を売ったの?
倭の地に鉄があったのか?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:01:26.23
倭国の証

魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。

■卑弥呼の時代に存在していたクスノキ(樹齢1800年以上)を探すと

樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社

樹齢1800年あたり
・未確認
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:02:31.45
>>359
三種の神器はあるけど?
現在はバラバラだけど?
金印?57年の事?
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:07:13.72
>>360
べつに古いとか関係ない。
植物の分布だから
近畿には橘もあるよ
愛媛
大山祇神社 樹齢約3000年と言われる。
投馬国だな 倭国だ。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:09:39.13
>>360
出真珠青玉 其山有丹もある。
四国、近畿だよ
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:09:46.16
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:13:19.17
近畿説
倭国の痕跡てなんだろうね
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:13:20.12
>>362
樹齢数千年のクスノキは卑弥呼時代を直に見ていた証人みたいなもんだから

気候変動が激しかった時代に中国使者の印象に残るほど立派なクスノキがあったわけだ

そこは間違いなく倭国だ

ちなみに奈良には無いし大阪は海だったから倭国圏外
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:15:20.00
>>366
当方は近畿説だけど?
投馬国は四国
出真珠青玉 其山有丹が
植物の分布前にあるけどね?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:16:17.80
>>366
畿内も含むからね近畿は。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:22:57.08
>>358
狗邪韓国は倭国だろ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:25:21.97
>>369
わからん。倭人がいたのだろう。
で何を売った?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:28:47.98
>>354
痕跡も無いのに倭国を名乗ってるのか?
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:29:59.45
>>370
鉄の事を話していたのじゃ無いのか?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:30:26.59
>>371
だから痕跡て何?
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:30:57.17
使役を通ずる国が30国あってみんな王と称してるから
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:31:27.87
>>372
鉄だよ。
何を売ったのか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:31:49.61
>>373
倭国だった証拠だよ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:35:18.36
>>376
だから何なのか?
出真珠青玉 其山有丹はあるけど
植物の分布もある。
おまえは何説なのか?
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:36:39.51
>>376
おまえの所は倭国ではないのか?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:47:31.38
九州説はバカ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:52:20.21
>>377
ト骨もあるぞ
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 17:54:11.45
>>381
纏向、唐古・鍵遺跡
伊勢、吉備、四国の松山とある。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:07:41.43
これが畿内説の実態
お里が知れますねえ

380:日本@名無史さん:2023/03/09(木) 17:47:31.38
九州説はバカ
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:10:50.08
>>375
絹 米 生口等々だろ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:22:10.95
>>378
東京は倭国では無い
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:23:14.69
>>384
翡翠、真珠、青玉もある。
丹も貢いでいるから丹もな。
で各地に鉄が行き渡る。
農業や開墾にも影響する。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:25:37.59
>>385
九州説はバカ
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:27:37.78
>>383
九州説の
お里が知れますねえ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:30:10.99
>>379

中華文明圏だから当然では?
3世紀の卑弥呼も帯方郡とは交流が厚かった。
卑弥呼は帯方郡に遣いを送り、帯方郡主が洛陽まで遣いを送り届けた。
半島と縁がない畿内が邪馬台国な訳がない。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:30:15.25
>>388
お里が知れわたるのも
九州説。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 18:35:04.50
>>389
理由は?
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 19:41:42.51
「だから」という言葉で理由を明示してあるのに理解できない?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 20:43:32.17
真実では無い畿内説を信じる事に意味はあるのか?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 21:07:06.34
つまり九州説は嘘
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 21:11:12.62
『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。』
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 21:16:09.27
>>389

須玖遺跡群の重り(紀元前2世紀頃)の重りは
茶戸里遺跡と同じ約11グラムが基準だから
前漢の1斤(248g)=16両(1両15.5g)、
後漢、魏の1斤(220g)=16両(1両13.75g)とは違う
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 22:08:07.49
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/09(木) 23:51:19.44
>>399
そういうところにも畿内説を唱える者の詐欺性の一端が表れとるわな
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 00:11:50.73
つまり九州説はウソ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 00:12:26.26
>>399
九州の鏡も成分分析の結果中国製とか言ってたぞ
0406琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/03/10(金) 00:17:07.34
女王国以外に神獣鏡を使う意味が説明できないだろ。
曹睿は何が必要か解っておるのだよ。無駄だな。
箸墓は道教の指導者の墓なのは絶対、その後前方後円墳は大仙までは続くのだよ、それから倭の別種の時代だ。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 01:14:22.40
>>401
半島と縁がなければ銅も手入らない。
紀元前後まで近畿独自?でなく不均衡
乱の原因の火種のひとつ
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が共立で九州に行った理由にもなる。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 01:26:23.41
>>401
データありがとうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 01:47:07.43
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

邪馬台国は登場せず、倭種の小国だったのだろう
0412日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まだ大学生で浅学なもんで、間違った知識が動画に入ってるかもしれんわ
0413日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ももそひめ説が大正時代とか出雲の北陸侵攻云々は結構適当なんだけど合ってたかなこれ
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 06:27:29.22
九州説がヤラかす詐欺はわかりやすくて笑う

>>399日本@名無史さん2023/03/09(木) 21:11:12.62
>『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
>銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
>しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
>それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。』
>>403日本@名無史さん2023/03/09(木) 23:51:19.44
>そういうところにも畿内説を唱える者の詐欺性の一端が表れとるわな

これ、畿内説側の主張をひとことも書かず
自分たちの作文を自分で批判して
畿内説に反論したかのようなお芝居してるんだよね
でも畿内説が

 三角縁神獣鏡に中国の原料が使われているから
 三角縁神獣鏡を中国製と判断する

って主張してなければ、明らかに九州説の詐欺とバレちゃう
つまり、いつもと同じ
 九州説が捏造する→九州説が詐欺やらかす
という不動の定番パターン

笑えます
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 06:27:48.56
トンデモは所詮トンデモでしか無いのである
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:10:25.90
>>415
世間常識どおりに
裴世清が奈良に来てたら潰れちゃう九州説は
トンデモ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:11:22.81
>>414
中国製の原料しか無い時代なんだけど?www

畿内説の低能さが際立ってるなwww
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:13:19.62
中国で鏡が出土しないって
実用品としての鏡はたくさんあっただろうから
それらは残ってないのかな?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:22:50.43
鉄は溶けるニダーに続く畿内説の謎言がまた一つ

銅鐸は日本製だが銅鏡は中国製ニダー

www
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:43:04.08
>>424
つまり、半島と縁があった証拠でもある。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 07:47:03.78
>>416
結局は東遷説しか残らんな。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:03:33.31
>>411
崇神の時代は垂仁もう死んでるだろ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:03:50.35
間違えた
垂仁まだ生まれてないだろ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:04:20.56
>>417
>中国製の原料しか無い時代なんだけど?www
>畿内説の低能さが際立ってるなwww

つまり
 畿内説は三角縁神獣鏡に
 中国の原料が使われているから
 三角縁神獣鏡を中国製だと言ってる
という捏造をした
九州説信者が
低脳でしかも悪質なんだよね
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:20:42.22
>>427
東遷もない。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:25:21.78
>>431
バレてんのに
まだ詐欺する気?
九州説っておつむ弱いの?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:25:23.87
邪馬台国畿内、卑弥呼九州説が
ますますゲキアツモードになってきたね

狗奴国は、もちろん国津の国(的な意味)ですw 素より不和

記紀でも「お前は国津か?」聞いてる場面が散見!
そこ大事なんですね、やっぱり
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:28:30.02
畿内説ウリ奈良ファンタジー
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:30:50.18
邪馬台国畿内、卑弥呼九州もいるのか?
邪馬台国近畿説 卑弥呼九州
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:34:40.83
既存説や鵜呑み説とは違う視点からの
考察は多いに結構。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:39:02.42
倭人伝を読めば九州内で探せばいいだけの事だとわかる
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:40:07.05
>>437
魏志倭人伝の情報は同時代ではないと読んでるのでね
その官名から邪馬台国や投馬国は数十年あとの情報

邪馬台国は卑弥呼時代になかった
つまり、これw
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:44:13.87
>>442
別に当方には関係ない。
別視点だから多いに結構な事
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:47:04.76
理由が言えないのはトンデモだって告白
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:50:09.69
>>447
中国人にとって日本の歴史なんてどうでもいい事だからな

それゆえに女王国誕生時期の魏志倭人伝は重要
中国が倭に興味津々な時代だがら
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:57:00.19
邪馬台国という国が登場するのは魏志倭人伝だけなのになw
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 08:58:11.79
倭国は古の倭奴国なり。
日本国は倭国の別種なり。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:11:02.78
>>458
明らかな間違いが多いのが新唐書だろ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:11:31.10
>>456
57年、107年の記述には
ないので邪馬台国は別種だったんだな。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:25:00.70
>>461
間違った認識は真実では無い
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:28:44.95
>>462
間違っているならより後世の史書で訂正すれば良いだけ。史書の流れを見る限り魏書の誤りを隋書で訂正したと見るのが自然でそれを覆す史料はない
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:34:28.91
>>454
それも一箇所のみ
中心国ではない事がわかる。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:44:37.62
>>438
中国の銅じゃなくて成分分析で何処で作ったか突き止めようとしてるのよ
それでそっくりの銅鏡がある
九州の銅鏡も成分分析で中国製だと主張してた奴が居たけどおそらく同じ
溶かせばわからないなら舶載鏡と?製鏡の区別ができなくなる
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:46:58.40
新唐書って記紀のコピペじゃないの?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:47:10.46
>>456
日本国は倭国の別種なりは日本人の主張で信用できないと言ってるだろ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 09:59:39.26
石見神楽は昔の人々の歴史観が反映されていて面白い

例えば道がえしという演目
神「自らは常陸の国鹿島の宮に齋はれたる武甕槌の命なり。今度異国より魔王飛び来り、わが国の人民を害すと聞く。この者の跡を慕ひ正しく退治せばやと思うなり。」
神「咲く花の栄え栄ゆる日の本に魔王が住むぞ怪しかるらん。」
鬼「咲く花の栄え栄ゆる日の本に我が住まいで誰か住むらん。」
神「峰は八つ谷は九つ音にきく鬼の住むちょうあららぎの里。」
鬼「峰は八つ谷は九つ音にきく我が住むちょうあららぎの里。」
神「双六の目に立つ石の丸なるを重六の目は我今勝ちて汝打ち取る。」
鬼「双六の目に石の丸なるを重六の目は我ぞ打ち取る。」
鬼「それに立ち向ふたる神は、いかなる神にましますぞ。」
神「そもそも自らは、常陸の国鹿島の宮に齋われたる武甕槌の命なり。汝いかなる魔王やらん。」
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:00:32.48
続き
鬼「おお我はこれ、四海万国を押領なす、大悪鬼とはわが事なり。今この島に立ち寄りしは、この島のいわれを尋ねんがためなり。早や早やこの島のいわれを申し述べ、この處を立ち去るべし。」
神「汝、この国は三国無双の神国にして、大八州の中つ国とも申すなり又日の本とも申すなり。豊葦原の瑞穂の国とも申すなり。天孫降臨、天つ日嗣の知ろしめす神国なれば、汝らごとき魔王どもの住み家にあらず。早や早や元つ国にと立ち帰るべし。」
鬼「唐天竺は申すに及ばず、アフリカ、韃靼、ヨーロツパ、スマンダラ、三分才の塔の棟までも、わが足の當らざる處なし。我に敵たふものならば、足の爪先に引つかけて中天に蹴上げ、落ちる處を三十二枚の牙にかけ、けつしめつしとかみ砕かいでおくものか。」
神「汝、只今も申す通り、この国は三国無双の神国にして、四方に神のあらざらんや。東方に鹿島香取の神、南方に讃州琴平の神社、西方に九州宇佐の八幡宮、北方に杵築の大社、祇園に須佐之男の命、その外三千一百三十二社の神国にして、古へ經津主の命、鬼神を退治したまふ事あり。この度經津主の命の御神霊をとりかけて、汝が一命打ち止めん事只今なり。」
鬼「あら恐しや、神の命とは知らずして、天に上り地に下り、秘術を盡して戦へども、神明の切先のがれがたし。命ほどは御助けなされ候へ。」
神「汝の申す通り、降参あらば、命ほどは助くるなり。汝、この後は人民を食ひ物となすこと能はず。これより西、九州高千穂の峯に千五百の稲穂あり。上天子を始め下人民に至るまで、これを食ひ物となす。汝もこれを求めて食ひものとなすべし。汝はこれより九州高千穂の峯さして歸るべし。」
鬼「あら嬉し、あら喜ばし。九州高千穂の峯にと急ぐべく候。」
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:01:21.75
>>469
作り話か
まあその通りだし良いけどさ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:03:31.96
新唐書の間違い

孝徳死し、其の子の天豊財立つ

天智死して子の天武立つ

天武死して子の総持立つ

文武死して子の阿用立つ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:04:57.13
>>465
成分比で区別するのは論理的に不可能だという事はわかってるんだよ
少なくとも理系なら

いつ何処で掘り出された銅と何処で掘り出されたスズと・・・
を何処で混ぜてインゴッドにされ、それを誰が買って何処に運んでどうやって溶かして製品化したのか?

まして青銅品の成分なんて限られてるから全く異なるルートを辿って作られた物でも同じ成分比になる可能性も大
古代の遺物なら年代も定かじゃ無いし尚更だ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:10:05.52
>>476
だったら九州の銅鏡は?
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:10:06.62
外国から九州へ様々な集団がやってきて日本列島の覇権を握ろうとしたが在地の人々が団結して抗い抜いたのかもな
その繰り返し
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:11:14.25
旧唐書の件
倭国の倭人とは別に、半島系入植者が日本と名乗って朝貢してきたんだよ

かつて倭人は正直で嘘を言わない人だと書かれていた
対して日本人は正直でなく誠実で無いと書かれた

どういう状況なのか大人ならわかるだろ?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:17:21.26
>>477
本物の中国製は物凄く少ないと思ってる
かなり早い時期から国産化してたみたいだし
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:19:00.29
>>480
言われてるの畿内説だが?

なんたって世界一捏造が好きな日本考古学会なんだから
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:21:28.32
畿内説「箸墓が卑弥呼の墓だといいな」
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:21:54.00
>>481
吉野ヶ里や福岡からも出土があるね。
九州では流行らず。
まあ、争いが多い地域だから
鉾文化が根付くとか?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:34:05.34
>>485
原始的だが模様と型の精度で見分けるのが一番妥当
三角縁は中国には無い模様が含まれている
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:41:08.69
>>479
いくら説明しても倭が旧小国で漢字2文字の国名を名乗る理由が中華側には理解できなかったから。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:42:34.95
そもそも邪馬台国文明って言うか九州には大河も無いのに何で文明が栄えたとか妄想してんだ?
中卒か何かが九州説ねつ造したんやろな
https://i.imgur.com/S7HfHti.jpg
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:49:19.79
>>488
無知過ぎるな、筑後川を知らんのか?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 10:57:39.57
筑後川と言えば九千坊
中国からきたのか?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:03:39.96
>>492
筑後川河口には徐福伝説があるけど、それと関係あるのかも
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:07:19.64
正直俺には成分分析の正確性なんてわからん
ただ九州の鏡は成分分析して中国製だったけど
近畿のは違うとか二重基準はダメだって
他の鏡だって成分分析してるんだから
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:07:42.71
蓄誤川は荒れ川だから当時の土木技術水準じゃ吉野川流域とどっこいどっこい
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:11:07.58
>>479の入植者が九州倭国の末裔であるかのように装ってヤマタイだと言い張ったのかな
本当に末裔だったかもしれないが
もしくはヤマトにそう振る舞えとけしかけたか
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:14:55.89
筑後川流域は旧石器時代から縄文時代の遺跡が多くあるので、筑後川文明と呼んでもいいかもしれない
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:16:42.92
>>494
九州のは漢鏡だろ?
なぜか鉛が使われていたとかいう特徴があったからだろ
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:18:00.08
>>498
三角縁神獣鏡も成分分析してるんだって
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:20:06.19
>>502
>>498
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:21:33.70
>>503
三角縁に特徴的な成分は含まれていない
アンチモンは全ての青銅品に含まれている物質だ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:21:38.90
>>482
>言われてるの畿内説だが?

でもニセ情報流して詐欺してるのは九州説

>なんたって世界一捏造が好きな日本考古学会なんだから

このような根拠なき中傷を繰り返してるのも九州説
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:23:25.11
追い詰められると脳内九州説と戦い出す畿内説はだいたいキナイコシ=奥山=>>1
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:24:33.92
いくら仮説を立てても証拠が無ければただの豚だよ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:25:37.23
九州説も最初から小説とかの創作に限定しておけばここまで馬鹿にされずに済んだのに
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:26:36.49
他の九州説論者も>>504になんとか言えよ
明らかに言ってることがおかしいだろ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:27:03.98
箸墓妄想っていう小説なかったっけ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:30:03.14
>>508
既存説や他説
共通の証拠となるもんてあったけ?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:31:20.00
>>511
畿内説論者が毒殺されるのは箸墓幻想かと
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:32:05.89
>>512
魏志倭人伝だろ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:37:30.85
魏志倭人伝に放射説だの短里だの創作を加えたのが九州願望
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:40:36.37
魏使が九州に上陸したのはそこに邪馬台国があるから
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:42:04.09
>>506
追い詰められて詐欺に走ってるのは九州説なんだが
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:42:31.30
成分分析の結果を信じるか信じないかだからな
九州のは信用するけど近畿のは信用しないなんてダメだ
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:44:41.42
>>514
それも解釈がバラバラだけど?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:45:25.23
>>519
理論的に不確実だとわかってるものに対し信じるか信じないか検討するのは時間の無駄であり、結局正確な答えは得られない
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:46:45.35
>>522
だから九州のは信用するけど近畿のは信用しないってか?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:46:57.06
>>515
それは畿内説の文章読解力が無い証拠
どんな読み方をしても畿内には辿り着かないのは確かだ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:49:05.39
>>525
鉛多めに入れなきゃ銀色にならないんだろ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:50:48.98
銅鐸は鉛少なめで金色、銅鏡は鉛多めで銀色
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 11:55:53.87
鉛とか銅とかの配分は後から足せる
生産地の特定は異物でしょう
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:03:58.46
>>534
だから後から足せば良いだろ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:05:52.80
最初から銅とアンチモンが混ざったのが採掘されるんじゃないから
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:08:04.47
中国産原料しか無い時代なんだから中国に調べてもらえば?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:09:34.93
>>488
まじかよwww
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:12:47.75
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:14:12.31
結局頭の悪い考古学は独自解釈の塊でしかない
世間知らずと罵られる意味すら気付いていない
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:20:11.89
>>540
専門的な事はわからんよ
わからんけど>>504みたいのにケチつけられちゃ考古学者もたまらん
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:38:51.35
>>521
まあ、
魏志倭人伝自体の信憑性もあるしな。
文献原理主義も考えもん
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:42:16.18
石見神楽の切目も興味深いな
神楽歌
熊野なる切目の王子の竹柏の葉は 髪挿に挿いて御座へ参ろや
口上
切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、黄赤白Kの色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:43:10.27
>>546
青黄赤白黒
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 12:46:43.41
速玉之男神
『日本書紀』の神話に登場する唾の神。絶命して黄泉国へ去った伊奘冉(イザナミ)を連れ戻しにいった伊奘諾は,見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい,喧嘩して妻と別れることになったが,その別れ際に唾を吐いた。その唾を吐く神をハヤタマノオと呼び,(両神の関係を)掃う神を泉津事解之男と呼ぶらしい
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 13:30:50.84
>>543
九州説は非科学だからな
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 13:37:31.07
魏使と裴世清の目的地は違う場所だ、
なぜなら裴世清は九州を陸行していない。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:15:12.35
>>555
まるで幼稚園児だな
何も証拠が出せない九州説は常に敗北してきた
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:15:59.54
>>556
ほら、それも証拠が出せない
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:17:26.39
見てこの恥ずかしい畿内説

559:日本@名無史さん:2023/03/10(金) 14:15:12.35
>>555
まるで幼稚園児だな
何も証拠が出せない九州説は常に敗北してきた
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:20:26.30
>>562
それ、恥ずかしいのは九州説だから
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:23:56.23
>>562
証拠が出せなくて負け続けるって
九州説とっても恥ずかしいよね
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:24:46.70
証拠が出せなくて負け続けるって
畿内説とっても恥ずかしいよね
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:30:14.00
>>565
>畿内説の論理的反論を提示せよw

>>414をみよ
お前らの詐欺が暴かれてるぞ
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:45:59.26
>>565
>畿内説の論理的反論を提示せよw

一瞬でバレる嘘ついて赤恥かいた九州説

>>323日本@名無史さん2023/03/09(木) 16:06:36.40
>福岡で発見された分銅は中国と共通規格
>河内で発見された分銅は独自規格
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 14:50:13.84
これが畿内説にとっての論理的反論だそうです
日本語に疎いことがよくわかりますね


574:日本@名無史さん:2023/03/10(金) 14:45:59.26
>>565
>畿内説の論理的反論を提示せよw

一瞬でバレる嘘ついて赤恥かいた九州説

>>323日本@名無史さん2023/03/09(木) 16:06:36.40
>福岡で発見された分銅は中国と共通規格
>河内で発見された分銅は独自規格
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:15:20.93
九州説ミエミエの嘘をつく→バレて自滅

このパターンが続いてます
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:17:05.14
>>576が論理的反論のできない人の典型
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:24:28.74
ただただ根拠不明な罵声を繰り返すだけの馬鹿は
霊感商法詐欺がバレてしまった畿内説の中の人です
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:31:15.39
九州説は単に古くさい、昭和の大先生方が終了と共に消滅しましたよ。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:38:59.02
何でも後から上書できるものだと思ってるのが文系落ちこぼれの考古学畿内説

理系の場合、一度定義されたものは余程の理由がない限り削除は不可です
大変な騒ぎとなってしまったSTAP細胞事件が一事例です
現代の情報社会の仕組みも同様です

つまり畿内説は学問でもなく史実でもなく、単なる低レベルな作り話なのです
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:47:36.85
STAP細胞自体は何故かハーバード大学がこっそり特許出願してたんだよね。
知らぬはメディアが報道しない日本人だけ。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:48:52.72
そもそも九州説には何の定義もないしな、あれば只のパズル遊びで幼稚なんだよなw
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:49:40.94
>>580
ほら、証拠を出さないのが九州説
理系じゃあり得ないでしょ
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:51:24.09
>>584
でも、「仮定」って言葉の意味も知らない九州説信者って
理系じゃあり得ないでしょ?
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:53:49.58
考古学では新たな出土、発見があると当然新たな考察により再定義がなされる可能性は高いだろう。
それに自説には合わないと駄々を捏ねるのが九州説なんだよね。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:56:40.12
>>588
仮定が定義だって!?

そのびっくりトンデモ学問って何処の地球の学問だ?w
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:58:18.02
>>589
>考古学では新たな出土、発見があると当然新たな考察により再定義がなされる

それを軽率な発言が許されると解釈してるのが畿内説
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 16:59:41.67
九州説は所詮は妄想願望のみで、学問とはいえる代物ではないなあ。
まあ弥生時代遺跡の出土例が少なかった昭和でのみ成立できた、只の素人のお遊び。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:07:54.96
>>590
>仮定が定義だって!?

それ、誰が言った?
そういう捏造を繰り返すから
九州説は死んだ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:09:07.28
STAP現象は世界中の大学で再現されてるらしいね
論文のできは悪かったけど理論自体はおかしくなかったと
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:09:33.48
畿内説の唯一の根拠

魏志倭人伝に大作冢と書いてあり、それに相当する墓は箸墓古墳しかないニダー!

しかし径百歩を超えてるという指摘を受け、もともとは円墳だったニダー!と主張

しかし前方部と後方部が一体構造であることが判明し、円墳部分のみの直径が径百歩ニダー!と修正

しかしそれだと径七十歩ですよと指摘され、同時代で比定できるのは箸墓古墳しか無いから問題無いニダー!と開き直り

しかし同じ規模、構造の古墳が次々と同年代(3世紀)と編年され、候補の乗り換え先を検討中 ← 今ココ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:15:23.09
>>596
現代の歴史まで捏造する九州説
相変わらず証拠は絶対に出さない
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:18:20.78
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:19:17.84
箸墓が畿内説の根拠ではなく、只の一要因だと、未だに気づかないのが昭和脳九州説なんだよなw

箸墓の価値は七万戸の根拠ではあるね、相応の労働力の証明。
三世紀半ば以降は連続して大規模古墳が奈良盆地で造られるのだからね。

いつまでも古臭いアンチ畿内説はこれから置いてきぼりになりますよw
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:21:25.18
>>599
3世紀中頃の古墳だらけになってしまった畿内説さんに質問

3世紀中頃の短期間に倭王が大量死した原因は何ですか?
 
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:22:36.67
こういうニセ情報を平気で流しちゃうのgきゅうしゅうせちゅ

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/556-557
556日本@名無史さん2023/03/08(水) 00:31:26.55
>出土した甕棺墓の時代編年から、
>平原遺跡は卑弥呼の死亡時期と同時代であることは確定している。
>でコレと同じ甕棺墓が出土する墓が、
>祇園山古墳であり、ここでは刺し違い巫女の遺体も出土しており、
>祇園山古墳で推定66の殉死、
>平原遺跡で16体の殉死で、
>合計82の殉死が推定できる。
>コレが卑弥呼の墓であろう。

557日本@名無史さん2023/03/08(水) 00:39:46.83
>で、平原遺跡から出土した、
>魏の銅を混ぜて作った事が成分分析で判明した方格規矩四神鏡が、
>徐州の銅山を領地化出来ていなかった為に、
>銅が枯渇していた魏で作られた鏡である事が判明した。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:24:27.95
>>602
>3世紀中頃の古墳だらけになってしまった畿内説さんに質問

「3世紀中頃の古墳だらけになってしまった」
というのは
誰の説?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:25:30.21
>>601
それ奈良には居住していた痕跡が無いので7万戸では無く7万テントでしょ

大量の奴隷を引き連れた東海勢力がいた事がわかってきました

そうした外部勢力の墓域だったようですね
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:27:41.94
>>605
大量の奴隷なんて居ねえよ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:29:03.47
>>570
反論まったく出来ない九州説ミジメ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:30:39.58
箸墓規模だと余裕で10年仕事だからな、古墳だけではなく回りの運河も大変な労力がかかります。
しかも古墳は暫く巻向周辺に連続しますからね。
つまり奈良盆地周辺に相当数定住しないと無理なんですよ。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:36:38.68
たくさんある古墳の中で箸墓だけ取り上げて七万戸の根拠だと言い張るのは無理すぎ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:37:24.91
>>610

ええと、10年かかる墓が畿内全体でいくつある?
古墳時代を何百年続けるのかな?
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:38:30.87
住居跡の痕跡がなくても古墳はあるのだから仕方ないだろw

橿原や桜井、田原本や葛城辺りから人が通っただけのはなし。
そもそも箸墓の伝承は人と神が昼夜関係なく造った。
プラス大坂山の石を手渡しで運んだのだからな。
つまり動員は奈良盆地から大阪柏原辺りに及んだという事。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:40:18.65
大規模古墳だけでも箸墓とその周辺、桜井茶臼山、椿井大塚山辺り、それに馬見丘陵地と連続してるぞ。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:44:54.74
>>612
>定住者が居た痕跡が無いんだが?馬鹿か?

それ、誰の説?
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:45:31.97
>>608
おまえ見たんかい?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:45:34.69
>>615
夜は天体観測かな?
神の領域
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:45:50.41
>>615
>住居跡の痕跡がなくても古墳はある

だから外部から奴隷を連れてきたんだろうと推測されるわけよ
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:49:13.63
>>620
動員しようがそこに滞在しないと工事なんて出来ないだろ。東海、三重から通うのか?
近鉄電車なんか走ってないからなw
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:49:53.31
>>615
>住居跡の痕跡がなくても古墳はあるのだから仕方ないだろw

ただし、古墳を造ったのは、「倭人(阿波勢力)」だがな。   @阿波
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:50:01.81
桜井から明日香にかけては4世紀末頃まで過疎地だろ
だから多くの半島人が入植出来たんだよ
実際大壁住居が立ち並んだ地域だろ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:50:51.48
>>621
そもそも祭祀場である巻向に人が住むはず、なんて九州説のアホな連中しか言ってないぞw
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:51:31.70
>>616
>大規模古墳だけでも箸墓とその周辺、桜井茶臼山、椿井大塚山辺り、それに馬見丘陵地と連続してるぞ。

箸墓が布留0古相で3世紀中頃
桜井茶臼山が布留0新相で270年以降くらい
椿井大塚山は布留1で3世紀末あたり
馬見丘陵地は布留2以降4世紀中葉以降

「3世紀中頃の古墳だらけになってしまった」
というのは
誰の説?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:51:39.97
畿内説が何を主張しているのかわからない。
あれで筋が通ったことを主張しているつもりなのか?
カルト信者の頭の中は常人には理解不能。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:52:52.84
>>621
証拠は?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:52:56.70
奴隷を一時的に住まわせたかもしれないというのと、女王がそこにいたかどうかは無関係だと思うけど。女王は遠くで報告だけ受ければいい。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:53:58.85
>>611
w
>>414をみよ
お前らの詐欺が暴かれてるぞ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:55:32.94
>>625
箸墓は現実に芝山の石は使ってるけどな。
つまり柏原辺りや途中馬見丘陵、田原本辺りからの動員は確実にあるだろう。

まあアホはお前だな。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 17:57:20.42
>>634
意味不明だな、何故神武が出てくるんだ?
橿原辺りは縄文時代からの遺跡がある事しらないのかよw
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:07:17.03
奴隷?公共工事かもしれん。
若狭湾 琵琶湖
大阪湾、伊勢湾
港湾整備とか
四道将軍
陸路の交通、物流網の工事とか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:16:44.97
畿内説の言ってないことを捏造し、それに反論するお芝居をするのは
九州説の常習犯罪
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:28:06.82
邪馬台国を意識し過ぎて遺跡を手当たり次第に3世紀に編年したがために空白の4世紀を作ってしまった畿内説
いわゆる歴史捏造だよなコレ
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:28:53.56
良渚文化から夏、殷に繋がっていくらしいな
良渚文化の遺跡には人骨がよく残っていて6割はO1aらしい
日本では少数だが中国地方、愛知千葉辺りで高頻度で見られる
良渚文化では絹や殉葬の風習もあったようだ
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:31:49.45
実は前提とする仮説すら成立していない有象無象の畿内説
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:40:06.21
>>643
だという証拠は?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:41:20.65
>>605
奈良には居住していた痕跡が無いって
誰の説?
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:42:44.66
>>641
>邪馬台国を意識し過ぎて遺跡を手当たり次第に3世紀に編年したがために空白の4世紀を作ってしまった畿内説

という証拠は?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:44:13.43
>>640
>とことん日本語の通じない畿内説はいつものキナイコシ

それ、なんの根拠があって言ってるの?
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:45:43.68
>>605
>大量の奴隷を引き連れた東海勢力がいた事がわかってきました

九州説さん、それっていったい誰の説?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:47:29.29
>>631
>3世紀に大量死してるじゃないかw

という根拠は?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 18:51:58.02
>>629
>畿内説が何を主張しているのかわからない。
>あれで筋が通ったことを主張しているつもりなのか?
>カルト信者の頭の中は常人には理解不能。

九州説さん
それ、誰の言った何に対して
どんな理由で、そう言ってるの?

内容なくて「常人には理解不能」なんだけど
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 19:10:37.65
>>651
>畿内説

畿内説の誰が、なんという論文で
そう言ったの?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 19:33:44.94
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/557
557日本@名無史さん2023/03/08(水) 00:39:46.83
>で、平原遺跡から出土した、
>魏の銅を混ぜて作った事が成分分析で判明した方格規矩四神鏡が、
>徐州の銅山を領地化出来ていなかった為に、
>銅が枯渇していた魏で作られた鏡である事が判明した。

なんて言った人は実在する?
九州説の作り話じゃなくって?
0655日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

畿内は沖積地で、当時バンバン新田が出来てったから栄えたんよ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 19:42:41.95
>>646
全くその通り。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 19:44:44.86
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/556
556日本@名無史さん2023/03/08(水) 00:31:26.55
>出土した甕棺墓の時代編年から、
>平原遺跡は卑弥呼の死亡時期と同時代であることは確定している

なんて説、実在するの?
九州説さんの捏造じゃなくって
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 19:46:56.67
>>656
「全くそ」な九州説
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:02:27.46
>>660
>5世紀頃な

5世紀頃に栄えた痕跡はない。 あれば示してみよ。   @阿波
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:03:48.66
>>661
その通り!   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:18:45.77
>>659
それ、妄想でしょ
証拠がない
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:18:48.49
>>659
それ、妄想でしょ
証拠がない
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:18:56.01
>>659
それ、妄想でしょ
証拠がない
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 20:30:53.11
今日も「証拠は野郎」がフルスロットル馬鹿w
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:40:02.62
邪馬台国は近畿説
卑弥呼は九州へ

5世紀?倭の五王だろ。
遠征時代だな
0670日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

だから卑弥呼は百襲姫だって言ってんじゃん
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:46:31.94
奈良の久米寺に鯰の絵馬が飾られているんだよな

鹿島大社の大鯰を鎮めている要石は九州の高千穂から持ってきたらしい
高千穂は宮崎側と隣の阿蘇側に分かれている
阿蘇には大鯰の伝承があり阿蘇の神職は鯰を食べないらしい
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:50:08.27
>>671
鹿島人
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:50:19.22
>>671
鹿島神宮
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:53:14.77
>>670
百襲姫は女王ではない。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 21:54:31.72
高千穂には鬼八伝説が残る
鬼八の娘を娶って力を得た人がいたのか
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:03:03.51
奈良を拠点にするヤマト政権で一世風靡したら皆鬼になっていくんじゃないかと思えてくる
畿内の在地の人々は侵略者でも何でもなく、ただひたすら耐えヤマト政権に抗っていただけじゃないか
ヤマト政権を始まらせたのが卑弥呼なのかな
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:06:28.41
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0678日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>674
大物主憑依させる事が出来るんだから百襲の言葉は神の言葉、完全に女王だよ
そもそも当時日本一の大きさの墓を造られたのが百襲なわけで只の皇女でないことは明白
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:17:33.79
>>678
只の皇女でないが女王ではないことは明白。
支配階層は神託がインチキだって知ってるさ。
バックに大物主を奉ずる三輪氏族らが付いてるだけの事。
0680日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>679
斎王のことを中国側が女王と呼んでいただけ
魏志倭人伝中で描写される卑弥呼も滅多に顔を見せず鬼道に耽っているなど、祭祀王としか思えない
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:42:21.41
>>680
勝手な解釈すぎる。それでは男王の下で活躍しただけだ。
祭祀王とは大王そのものだ。男王で揉めて女王卑弥呼。また男王で揉めて女王トヨ。
これを否定するのか?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:45:21.26
歴博の年代偽装から無理やりこじつけたアホバカ物語だよ。
記紀(大王は崇神)を否定するなら百襲姫なんか持ち出すなっての。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:47:50.53
歴博の年代偽装さえなければ纏向は崇神王宮跡で箸墓は皇女百襲姫の墓。
それ以上でもそれ以下でもない。関係ない異国の書物を引っ張り出して来るなっての。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:53:52.46
で、アホが年代偽装の「証拠は?」って書く。
ネットで調べろカスがw
以下堂々巡りのアホバカスレッド。それが畿内説。
0685日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>681
大王が祭祀王も兼ねるようになったのは崇神の時代からだよ
0686日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>681
とよって豊鍬入姫のことじゃん
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:54:47.68
>>683
偽装だって証拠は?
0688日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫死亡記事の次の記事が崇神による四道将軍派遣であるわけだろ
完全一致しとる
0689日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>683
そもそも崇神天皇の名前が魏志倭人伝に登場する
0690日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

元々宮内祭祀だったのに崇神天皇は天照を宮外に追い払っただろ
これがシャーマニズム国家から大王専制国家への脱皮を象徴しているんだよ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 22:59:31.92
倭国大乱前は普通に男王の治世なんだが
0692日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>691
女王は共立されてるんだから諸国が納得する人物じゃないとダメだよな

だから弟が“吉備”津彦で
夫が大国主と同一視される事もある大物主の百襲姫が擁立されたんだよ
「吉備・出雲・畿内」連合の体現者なんだよ
0693日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

僕の動画を見て頂けませんか

・百襲姫と卑弥呼との強烈な類似点
・なぜ崇神天皇は10代天皇であるにも関わらず「初めて国を統治した天皇」と評されたのか
tps://youtu.be/SrO4xsifmI8


これを見れば全てが分かります
貴方も必ず百襲=卑弥呼論者に転向するはず
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/10(金) 23:03:50.09
>>686
彼女が女王だと?バカバカしいw
崇神天皇の命で倭の笠縫邑に天照を祀っただけじゃないかwww
四道将軍に征伐された連中は男王が気に食わなかったのか?
で、女王になって大人しくなったのか?
はっきり言ってお前、バカなの?
0695日本@名無史さん
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崇神天皇(“ミマキ”イリヒコ)
卑弥呼に仕える邪馬臺國の官「ミマワキ」


これ、同一人物ですよ
0696日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:07:10.07
男王の時代から共立されてるよ
豪族たちはこんな奴嫌だと言ったんでしょ
0697日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:07:32.81
>>693
大日霊女貴と卑弥呼の方が強烈な類似点 があるってw

神武天皇は「初めて大和国を統治した天皇」
崇神天皇は「初めて秋津島のヤマトを統治した天皇」
0698日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:08:04.84
>>695
違います。
0699日本@名無史さん
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>>697
似てないよ
そもそも天照って神代の人物だろ
0700日本@名無史さん
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海部氏勘注系図「百襲姫は、別名日神(ひのかみ)」です


だからまあ天照も百襲姫だったって話で終了だな
0701日本@名無史さん
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俺はそうは思わんけど、もし卑弥呼=天照説を推すなら天照=百襲姫で卑弥呼=天照=百襲姫になるわね
0702日本@名無史さん
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>>697
天照の墓ってどれくらいの大きさなの?
箸墓は主体部150mで径100余歩と完全一致するんだけど
0703日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:18:53.50
>>700
勘注系図は倭人伝の記述を取り入れた偽系図です。
何でそっちは信じるのか?www
0704日本@名無史さん
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>>703
倭人伝の記述を取り入れるっていつ取り入れたの?現写本は江戸時代に作られたものだと分かってるけど、百襲姫=卑弥呼説は大正時代に生まれたものだろ
0705日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:20:48.02
畿内説の頼みの綱

魏志倭人伝に大作冢と書いてあり、それに相当する墓は箸墓古墳しかないニダー!

しかし径百歩を超えてるという指摘を受け、もともとは円墳だったニダー!と主張

しかし前方部と後方部が一体構造であることが判明し、円墳部分のみの直径が径百歩ニダー!と修正

しかしそれだと径七十歩ですよと指摘され、同時代で比定できるのは箸墓古墳しか無いから問題無いニダー!と開き直り

しかし同じ規模、構造の古墳が次々と同年代(3世紀)と編年され、候補の乗り換え先を検討中 ← 今ココ
0706日本@名無史さん
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百襲姫=卑弥呼説がまだ存在してなかった時代に百襲姫を卑弥呼に寄せるってどういう意味なの?マジで分からないんだけど
0707日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:21:58.22
>>692
百襲姫本人と吉備は無関係!!!
0708日本@名無史さん
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>>707
箸墓古墳から吉備特殊器台出土

どこが無関係?
0710日本@名無史さん
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次の動画では
「女王国まで1万2000余里」を「邪馬臺國まで1万2000余里」に読み替えたりしている九州説の詐欺的手法を全て世に知らしめてやろうと思ってる


怖いだろ?
0711日本@名無史さん
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>>705
後円部直径156mだから径100余歩であってるろ
0712日本@名無史さん
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卑弥呼=百襲説って笠井新也が初めて提唱したんでしょ
それまでは誰も知らなかった
なのに日本書紀崇神紀や海部氏勘注系図と魏志倭人伝に登場する邪馬臺國の関連人名が一致してる


つまり畿内邪馬臺國時代の伝承がそのまま畿内ヤマトに受け継がれてたってことよ
0713日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:48:58.10
>>712
お前、本物のバカだろ。
勘注系図の百襲姫を卑弥呼だと言ってるのはお前の勝手な希望w
0714日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:52:24.06
系図内に「日女」とか「登與」とか大量にばら撒いて
お前みたいなバカが勝手解釈出来る様になってんだよ。
0715日本@名無史さん
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>>713
~今までの流れ~

俺「勘注系図に百襲姫=日神とある」
貴方「それは海部氏系図編者が倭人伝を読んで寄せたんだ!」

俺「百襲姫=卑弥呼説が現れるのは大正時代なので、江戸時代に現写本が書かれた海部氏系図が寄せた可能性はほぼない」
貴方「勘注系図の百襲が卑弥呼とか馬鹿だろ!」


全然回答になってないんだが
0716日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>714
俺は海部氏勘注系図をあくまでも傍証として出しただけであって、メインは日本書紀崇神紀だぞ
日本書紀崇神紀と魏志倭人伝間の人名対応をどう説明するんだ?
0717日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

「勘注系図の百襲が卑弥呼」だなんて一言も言ってないぞ
「日本書紀崇神紀の百襲姫が卑弥呼」であり、また勘注系図はその「傍証」となり得ると主張したわけ
0718日本@名無史さん
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2023/03/10(金) 23:59:35.66
>>715
系図内に「日女」とか「登與」とか大量にばら撒いて
お前みたいなバカが勝手解釈出来る様になってんだよ。
そもそも論点が違う。勘注系図なんぞ出してくるなと言ってるんだよ。
0719日本@名無史さん
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>>718
日神は一人しか出てこないけど
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 00:00:14.38
卑弥呼は荒魂の撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命でしょ
神風の伊勢の国の、百伝ふ度逢県の、拆鈴五十鈴宮にます神、名は撞賢木厳之御魂天疏向津媛命なり

神風のは伊勢や八坂にかかる枕詞
拆鈴のは五十鈴宮にかかる枕詞 
拆はやぶるという意味

卑弥呼は鈴をやぶった、銅鐸の国を破壊した女王なんじゃないの?
0721日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

勘注系図のトヨが消えても日本書紀の豊鍬入姫やミマキ(崇神)や径100余歩の墓は揺るがないしな
全然ノーダメすぎるw
0722日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか勘注系図が全否定されたとしても日本書紀崇神紀と魏志倭人伝との類似は揺るがない
ノーダメである
0723日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

俺は九州論者を倒す気なんてないんだよ
百襲が卑弥呼ですと一言言ってもらえればそれだけで意気投合出来るんや
0724日本@名無史さん
垢版 |
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そうだな私は畿内論者だが、百襲姫が九州に居たって説も許容しよう
とにかく百襲が卑弥呼であるのは絶対なのだ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 00:09:08.59
何と戦ってんだ?
学問は真実を追求するだけだよ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 00:11:16.53
記紀で崇神天皇は百襲姫とのエピソードが数々あるよね

崇神天皇は4C初頭に活躍した人物だから百襲姫が卑弥呼というのはあり得ないよ

百襲姫が台与ならしっくりするけどな

台与が百襲姫だと百襲姫は上皇だから崇神天皇が頭が上がらなかったのも頷ける
0728琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/03/11(土) 00:21:11.57
文字も無いのに系図なぞ卑弥呼の時代に無い。
大体系図なぞいくらでも良く見せ書き換えられる。照合できる物がなくては、ただそう残されてるだけではまったく信用できない。簡単に信用しているようでは話にならない。
0729琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/03/11(土) 00:27:13.28
そもそも卑弥呼の時代に筑紫なぞ無い。もうすでにおかしなことが書いてある。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 00:34:05.31
名張には要塞みたいな集落跡がある
伊勢津彦が伊賀に石の城を作っていた伝承と合致する
伊勢津彦はイワ大神の子だな
イワ大神の国作りは尾張で終わりと播磨風土記にある
張は国境の拠点みたいなものだったのかもな
伊勢津彦は風を起こしシナノに逃れたという伝承もある
諏訪かもな
鳥追い祭りでシナノからきた年神のような鳥を追い払う歌が東国の各地に残っている
徴税の拠点がシナノ或いは諏訪にあった可能性があるな
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 00:43:42.48
倭国大乱前の国の形を推測できる情報は大和国風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻の記述だな
大国主と年神の二つの系譜があること
魏志倭人伝の大倭の記述
この辺は重要だな

安寧という漢風諡号は興味深い
「安」は新婦が廟に座っている形です。
新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示しているのが安の字です。

寧は屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味
伊勢遺跡は水の祭祀を行なっていたらしい
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 01:16:03.32
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ

大倭が大物主
年神が一大率
とか?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 01:22:23.76
>>728
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ

まあ、当方もそうだよ
元ネタからの創作なら
近くなるのは当然
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 01:44:24.24
>>726
卑弥呼は物部氏なのか?
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 03:06:40.70
あの墓は大物主の墓だろ
百襲姫は奥さんだったから一緒に埋葬されたに過ぎない
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 03:10:24.87
大物主のあそこは夜は大物だったが、昼は小物だったのでモモソヒメがショックを受けたのだろうw
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 03:13:29.28
モモソヒメは宗像三女神の多岐都比売命のパクリ疑惑
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 03:20:28.61
>>740
とすれば、卑弥呼はスサノオの子供だな
0742日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

すまん博識な人に聞きたいんだけど「伊都国で外国から届いた文書や贈り物の数の確認をする」て封泥し直してるってことでいいよね
https://i.imgur.com/FN9PnNN.png
0743日本@名無史さん
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なら帯方郡使はやっぱ伊都国までしか行っとらんよな
邪馬台国まで直行すんなら封泥し直す意味が全くない
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 04:00:09.88
開封検査も税関の仕事
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 04:30:59.43
伊都国で荷受けしたとして、伊都国から船で畿内まで届けられる確率は100パーセントでは無い、義経でさえ大物浦で難破している。そういうリスクを考えれば、一大率は邪馬台国と陸続きと考えるのが自然である。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 05:45:25.45
>>746
水行より不自然だ
卑弥呼が九州に
いれば問題ない
遠方の邪馬台国には行く
必要がない。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 05:49:54.12
祟神朝

即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた

即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。
引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った

どう見ても、人物比定がおかしい畿内説
百襲姫が卑弥呼? 豊鍬入姫が臺與?
上記の見て矛盾してるよね
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 06:39:52.25
>>752
伊都国が糸島市ではない
九州説ですね。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 06:57:03.92
>>752
なんで?九州説スレに行かないの?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:25:44.86
>>755
檜原神社の位置をグーグルマップで調べたら
奈良の朝倉の地名が目に入った流れで
そういえばと思い出したのこれ

あっちでも書いておこうw
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:43:09.87
>>742

封泥には皇帝の印が必要なので、封泥のやり直しはできない。
できないようにするための封泥。
だから伊都が最終目的地。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:43:39.02
佐紀陵山型古墳と言われる古墳の始まりは、時代的には神功皇后、応神天皇の時代と重なる
佐紀陵山古墳は4世紀末で、以後同地域で巨大古墳が作られ続けるが5世紀半ばまでに衰退
4世紀後半大和盆地から蛇行剣が見つかっているな
4世紀後半〜5世紀半ばの大和盆地はワニを中心にした九州勢の拠点だったんだろう

住吉さんは百舌鳥古市古墳群の勢力側についたようだ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:45:15.14
久米が畿内に来たのは摩湯山古墳ができる4世紀後半かな
それと対峙するのが和泉黄金塚古墳の勢力
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:46:30.69
九州勢の畿内侵略を証明してくれて助かるな
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:50:23.70
卑弥呼は王だろ

百襲姫は崇神天皇がいるから王じゃないよ

ゆえに卑弥呼ではない
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:52:50.41
畿内説が主張するところの、誤りが訂正された新唐書

『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。

筑紫にかつて倭王がいたことは、日中双方の史書が認めるところ。
あとは、畿内への政権移行がいつだったのかという問題。
継体天皇は筑紫を攻めたが、屯倉一つを手にしただけで終わった。
その時点ではまだ畿内は筑紫に対して十分な影響力を及ぼせていない。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:54:07.04
饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」

饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。
それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、後にそれが纏向遺跡として発見された。
0766日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>763
それが、崇神天皇の本名が邪馬台国四官の一人とほぼ同じなんだよ
ミマキ(崇神)とミマワキ(邪馬台国官)ね

実際は崇神が百襲に仕えていたみたいだ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:56:30.20
天孫族が畿内に入植するより前に畿内を開拓したのは、登美家など出雲からの入植者だった。
どちらにしても誰かが開拓しなければ、奈良盆地はいつまで経ってもぐちゃぐちゃな沼地のままだったろう。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 07:57:27.73
百舌鳥古市古墳群は5世紀前半〜
4世紀後半から5世紀初頭まで河内摂津和泉は九州勢の支配下だったんだろう
住吉の神さまに祈り味方につけ形勢逆転
鬼の腹の中から鬼を倒す一寸法師の話だな
岸和田の伝承にある復活した薬師、軽業師、山伏の話にも通じる
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:08:09.75
>>766
弥馬獲支が崇神という証拠はないなw
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:08:38.20
摂津住吉大社は博多住吉神社が元宮なので、住吉そのものが筑紫からの侵攻の象徴。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:13:53.00
住吉三神は筑紫の日向の小戸の生まれ。
つまり伊都国の水門に生まれた。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:26:20.50
九州から先ずは須磨辺りじゃないか
藤の枝が流れ着いた先の難波津にその後移ったのかな
何らかの取り引きがあった可能性はある
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:28:43.38
神武の妃となったイスケヨリヒメは、大物主の娘でありあり、神武と戦った登美の長髄彦とは近い親戚にあたるります。
また、『新撰姓氏録』では左京神別に速日命の六世孫、伊香我色乎命の後裔であるという「登美連」が、河内国神別に饒速日命の十二世孫、小前宿祢の後裔であるという「鳥見連」が記載されています。
つまり畿内にいた勢力は、そのすべてが出雲または筑紫に出自があり、皆が血縁関係でした。
出雲の王権も、その祖である素戔嗚が筑紫の生まれとされています。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:30:50.57
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:36:31.76
まあ、畿内説というのは分家を本家と思い込んだ妄言ということ。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:38:05.61
大鳥伊瀬大神の姫神と住吉さんは関係が深い
何かヒントがあるかもな
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:45:43.63
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫で生まれた大山祇の子であり、筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る

ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされる。
三輪山の神とは、現在の桜井市一帯を拠点としていた物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
河内から大和にかけての地域を日本と名づけたのもニギハヤヒである。
日本は倭の別種の小国。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:52:02.72
モモソ姫の箸墓古墳を勝手に卑弥呼の墓だと言い張ったり
纒向古墳造営キャンプ場を卑弥呼の宮殿だと言い張ったり

畿内説は妄想と虚言の塊りだ
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 08:57:38.22
石見神楽の話は面白い
神は天地開闢の前からいた
五つの姿で現れた
垂れた跡は事解男と速玉の男で伊弉諾の神社

播磨風土記にある五色の玉を持つ石神かな?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 09:00:50.90
>>775
まあ九州説なんて何でも妄想で起源を名乗っちゃう韓国風トンデモ説だけどな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 09:02:39.78
>>782

まあ畿内説なんて何でも妄想で起源を名乗っちゃう韓国風トンデモ説だけどな
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:10:33.36
五色の玉を持つ石神は暴風の神さまだ
スサノオやイワ大神のモデルかもな
イワ大神の国作りは尾張で終わり
尾張の朝日遺跡は元々勾玉、銅鐸、木棺の集落だったが1世紀勾玉や銅鐸は見られなくなり墓制も土器棺に変わる
最初の国作りは紀元前後かもな
ス【サノ】オ
神武はサノであり磐余、余は豊かなという意味の漢字で磐が豊かという名前だな
神武天皇はサヌキの五色台の石神さまかもな
天武朝で作られた記紀はかなり出鱈目な可能性がある
旧石器時代、瀬戸内海がまだ陸地だった頃から日本列島にいたのかもねえ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:13:15.44
スサノオは速玉の男でしょう
スサノオのマユから生えてきた楠
楠から作られる船は播磨風土記によると速鳥、記紀では軽船
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:22:31.92
相変わらず妄想癖ホイホイなスレ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:29:39.63
>>778
ニギハヤヒが本当に天孫なら鏡作坐天照御魂神社などの多くの神社は何故に祭神名から櫛玉ニギハヤヒを省いたのか?
その説明が出来ない何でも筑紫マンは見苦しいだけ。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:40:36.42
>>784
須佐之男命(すさのをのみこと)について、古事記は「建速須佐之男命」と御神名を書いたすぐあとに、「須佐二字以音」と書いています。
「以音」は、
 「音(こゑ)を以(もち)いる」
と読み下します。

さて、須佐之男というお名前のうち、「須佐」が「以音」と書かれているということは、「須佐」は、もともと大和言葉の「すさ」であって、その大和言葉の「すさ」と同じ意味を表す適切な漢字がないから、「須」と「佐」の音だけを用いましたいうことです。

つまり、スサ自体に意味がある言葉。

妄想癖は消えてねw
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 10:55:35.41
>もし、スサノオの意味するところが「朱砂の男」であったとしたら

スサノオは、「卑彌呼」の弟(「卑彌弓呼」)であり、また長国(「狗奴国」)の王。
長国は「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」の国。
よって、「朱砂の男」であったとしても決して不思議ではない。   @阿波
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 11:27:21.76
>>791
そんなもん特産じゃねえだろ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 11:54:58.45
熊野も色々興味深い
潮岬はスクナヒコナが旅立った地で、イザナミが眠るアリマもここにある

熊野に銅鐸と関係する磐座がある
世界遺産のゴトビキ岩、琴引岩と呼ばれる巨大な岩があり銅鐸の破片や銅鐸を模造した石製品が見つかっている
ゴトビキはヒキガエルという話も残っている

近くの阿須賀神社とその周辺には弥生時代末期〜古墳時代の集落跡が見つかっている 玉製品や土師器も見つかっている
祭神は事解男命
平安時代の熊野参詣で必ず参られた地らしい

卑弥呼の時代の後に熊野に逃れてきた人々がいたのかもな
池上曽根遺跡を初め大阪には弥生時代末期で営みが終わる集落跡がたくさんある
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 11:58:12.14
三つ柏、柏の葉で食事をとるような辛い時代があったのかな?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 12:08:07.34
枯野伝説を読むに楠も切り倒され水を運ぶ労役につかされていたのか?
播磨風土記にも楠から軽船が作られる枯野伝説と同じような話が載っている

駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

後の高砂の歌にも似ている
高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり

後記紀の古墳時代の瑞祥は雁が卵を生む話だな
天飛ぶや、は雁や軽の枕詞
あまだむ、は軽の枕詞
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 12:18:26.86
>>793
阿波爺さんは糾弾スレから逃げだして来てるからな
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 12:42:30.16
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 12:50:31.44
>>797
ニセ情報流す九州説バカといい阿波といい
ここは異国のゴミが漂着する山陰の海岸みたいだな
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 13:24:54.19
>>800
そうやって何も証拠のないことを言い張るのが
九州説の呪われた業病
それで九州説が亡んだ
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 13:46:31.50
>>801
息をするように嘘をつく分けだね
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 13:49:55.95
>>804
くだらない中傷しかできないから九州説は死んだ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 14:04:42.55
>>800

日本全国の学者の通説が畿内説
竹島は韓国に統治権があると連呼しているのが雑多九州説
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 14:05:49.08
>>807
歴博を筆頭に畿内説は不敬な連中。
むしろ、そうあって欲しい奴ら。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 14:15:23.10
>>803
ウリナラ起源の精神がDNAで引き継がれているというノーベル賞級の発見だな
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 14:51:41.33
>>803
邪馬台国は畿内だな
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 14:54:04.17
>>703
その系図は江戸はおろか昭和まで秘密扱いされてきたもの。
本居宣長どころか水戸光國でさえ見ることすら出来なかったんだからな。
つまり卑弥呼についてはそれだけ極秘扱いされてきた証拠だろう。
百襲媛は日女命、日神なんだから卑弥呼以外の何物でもない。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:00:24.11
>>703
だな。元ネタがあるのであろう
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:01:51.92
>>808

> 倭に天皇はおらず、他の国にいたと考えられる。

天皇は倭ではなく日本国の位だもんな。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:02:36.42
畿内説がまともに反論できずに罵倒するばかりで見苦しい。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:04:25.38
>>821
他の国にもいないとも考えられるけど?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:17:50.51
>>818
秘密扱いて便利だけど
胡散臭いんだよ
参考文献があるのだから
一致させるだろう
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:23:36.01
記紀に書けないが秘密扱いでも記録に残したい一族がいる、それだけだろう。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:25:50.77
大和と出雲は元々因縁もあるからな。
そもそも記紀も記録史として不完全な物だろう。
その前には蘇我本家滅亡と共に焼かれてるし。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:25:57.91
歴博は左翼の巣窟
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:29:08.18
丹後国風土記
伽佐郡は古くは笠郡という字を使っていた。宇気乃巳保里(うけのこほり)がある。宇気と称する所以は、往昔 豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が この田造郡の笑原山(やふやま)に鎮座し、人民らは その恩恵を授けたからである。故に宇気という。笠という一字で伽佐と読む。今の世に誤って伽佐乃己保利と呼んでいる。

青葉山は、一つの山の東西に2つの峯があり、そこには共に青葉神と呼ばれる神がいる。その東に祀られる神は、若狭彦神(ワカサヒコ)・若狭姫神(ワカサヒメ)の2座である。その西に向かった所に祀られる神は、笠津彦神(カサツヒコ)・笠津姫神(カサツヒメ)の2座である。
この峯は若狭国と丹後国の堺にあり、笠津彦神・笠津姫神は丹波の国造である海部直らの祖である。この2つの峯には同じように松・柏がたくさん生えており、秋には葉の色が変わる
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:45:46.03
>>820
尾張氏やその他諸々の氏族が祖である櫛玉ニギハヤヒの名をちょんぎった?あり得ん。
そもそも体制側の記録である記紀も別人扱いしているのに。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 15:58:53.47
>>825
知るか!
断定はできない
いたとは限らずだけどね。
記紀等の文献原理主義ではないのでね。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:21:34.30
>>825

倭人の風習である卜骨が九州を除く関東まで拡がった弥生中期に
九州は首狩り、頭顔面ど変形が風習なので倭人の国ではない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:22:44.17
倭国(ヤマト国)と日本国(ヤマト国)
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:24:37.07
>>822
>畿内説がまともに反論できずに

九州説なら論破済みですが
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:24:45.20
経歴詐称もあるしな
家系図など急に出てくるとか?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:38:15.03
>>833
>倭国(ヤマト国)と日本国(ヤマト国)

同じ国だね
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:42:17.07
>>836
あたり前だな。音は同じ
字を改めただけだから。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:47:03.97
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:49:07.50
>>838
確定していないけど?
記紀も後付けだしな。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:50:48.69
>>839
だから何?中国視点なんだし。
0842日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そもそも『旧唐書』の倭国の記事が『日本書紀』の記述と合致するんだけど

旧唐書旧唐書言ってる人って旧唐書ちゃんと読んだこと一度でもあんの?無いだろ
史料引用する時は端から端まで読み込んでからじゃないと恥かくよ
0843日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭も日本も同じ国なのは明白
『旧唐書』より1世紀半早く唐中期に成立した『通典』を見れば幻想は消える
https://i.imgur.com/20IqOPA.png
https://i.imgur.com/7WQQaH0.png
な?「別名、一名」の方が先にしかも多く出現してんじゃん


未だに古田武彦とか言ってるのやべえよ
邪馬壹説、九州倭国説全部荒唐無稽誰も見向きもしないけど学者が見たら数秒で喝破される。踊らされる方もリテラシー不足しすぎ
0844日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『旧唐書』より1世紀半早く成立した『通典』には【大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝】と明記してあり、同時に斉明紀にも【蝦蛦男女二人示唐天子】とある
なら蝦夷を伴って唐へ入朝したのは倭国=ヤマト=日本だろ
https://i.imgur.com/FzaBs1u.png

九州倭国が中国地方も畿内も中部も関東も飛び越え東北遠征して蝦夷捕まえて中国に献上したとか意味不明な主張よく平気でできるね?それともマトモに史料に当たってないだけ?

マジで理解出来ない。どういうことなの?
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:53:09.17
>>840

考古学的証拠も無視する畿内説。
日本の歴史を黒塗りにするつもりかな?
0847日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭国と日本が別種なんて数十年前にとっくに否定されてんのに時代遅れすぎ
九州説はまだしも九州王朝説なんて唱えたところで恥かくだけだからさっさと引き返した方がいい
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:56:43.61
>>844

日本海沿岸なら越の国までは倭国だったろうから、蝦夷と接していたと思うよ?
0849日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>848
「倭国の又の名を日本」の方が出てくるの早いし数も多いし違うわね
倭国は日本の別種なんてばかみたいな記述出てきたのは後の後の話w
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 16:58:32.27
太平洋側も鹿島が志賀島に由来する博多湾沿岸の海人族の領地。
まあ、畿内は倭国の配下の別種なんだろ。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:00:02.08
>>849

またの名をという表記を修正して別種にしたんだろう。
畿内説はいつも、後から出た文献の方が訂正されていて正しいと主張していたよね?
ダブルスタンダードかな?
0852日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

吾妻鏡に中国史の新説が書いてある!とか言ってるようなもんだろ
少しは通典とか読めよな
0853日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>851
へーwじゃあなんで倭国の出来事(旧唐書倭国伝)が日本書紀にも書いてあんの?別種なんじゃないの?
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:04:19.46
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0855日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬壹国とかも本当に恥ずかしいからやめた方がいい
邪馬“壹”国が登場したのが宋代以降で、それ以外は殆ど邪馬“臺”国ですから邪馬“壹”国は誤記であると解するのが当然
https://i.imgur.com/pFSFWJD.png
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:09:12.70
>>818
日神やら日女というたら大日霊女のモデルやとだと思わせたかったんだろうよw
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:09:57.91
>>846
意味不明
断定できないが
無視なのか?
崇神という断定する考古学敵証拠とは?
崇神天皇が持っていたものて何だ?
0858日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

同じ九州説のお仲間に完全論破された邪馬壹国説も倭国と日本別種説
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:11:30.90
>>846
崇神という断定する考古学的証拠とは?
だな。
0860日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

以後このスレで「倭国と日本が別種」なんて書こうものなら速攻粘着して論破し続けるよ
九州王朝説という【反知性主義】は許容できない
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:17:41.47
>>859
史学上のみだろう。
0862日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

え、なに?崇神の都か卑弥呼の都かで論争してんの
どっちでもあるで終了でしょ
邪馬台国官の「ミマワキ」が「ミマキ」イリヒコすなわち崇神天皇のことなんだし
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:25:00.02
>>846
>考古学的証拠も無視する畿内説。

は?
畿内説は考古学者系の主流なんだけど?
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:28:17.07
九州説が信用するのは、お仲間内だけで囁いてる変なデマだけなんだろうさ
0865日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なあ全員でBE取るかコテ付けるかしようや
ID無くて誰が誰だかわからんから建設的な議論になりようがないんよ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:38:06.92
九州説はニセ情報流して世間に迷惑かける犯罪者だからな
0867日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

みんなBE取る特色のある板になったら物珍しさで日本史板邪馬台国スレがもっと盛り上がるかもしれない
そのうねりが一般世論にも広まって、最終的に箸墓古墳前に博物館が作られるようになり、そして宮内庁も重い腰を上げ箸墓の調査に乗り出す

そんなビジョンが俺には見える
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 17:41:46.83
>>846
あれ?
古墳造りではなかったの?
まあ、それでもいいけど
古墳が実際にあるのだから。


邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0869日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

866 日本@名無史さん 2023/03/11(土) 17:38:06.92
九州説はニセ情報流して世間に迷惑かける犯罪者だからな


↑このレスもそうだろ
ID無くて発言遡れないから、こいつがなぜ「九州説は(中略)犯罪者」だと主張してるのかその理由付けが見えない
マジでマトモな議論にならない。ただの罵倒合戦
0870日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

どの辺を指してニセ情報だと言ってるのか相手に伝わらない
一度レスを打つたびに寸断される
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 18:06:21.65
>>869
これとかニセ情報

557日本@名無史さん2023/03/08(水) 00:39:46.83
>で、平原遺跡から出土した、
>魏の銅を混ぜて作った事が成分分析で判明した方格規矩四神鏡が、
>徐州の銅山を領地化出来ていなかった為に、
>銅が枯渇していた魏で作られた鏡である事が判
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1678084076/557
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 18:19:25.53
>>865
自分で掲示板でも運営すればいいだろ、勝手に仕切るな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 18:25:00.71
>>873
九州説は自演できなくなると大変だね
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 19:17:21.86
畿内説信者も九州説信者も、互いの欠陥を指摘し尽くして、いつまでも続く トンデモ同士の無限くそバトルww   @阿波
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 19:20:47.98
>>877
他人事じゃないぞ、九州説よ。  わははははは   @阿波
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 19:30:10.83
>>877
>もう学者は畿内説から手を引いてるよ。
>足元をよく見てみな

惨敗した九州説さん
苦し紛れにまたニセ情報ですか?
懲りないですね
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 19:50:21.86
>>880
他人事じゃないぞ、畿内説よ。  わははははは   @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 19:57:00.89
>>876
お前の言う通りだが
阿波は致命傷を食らって退場済みw
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:00:38.98
>>882
致命傷ってなに?   @阿波
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:03:14.77
>>862
「弥馬升」と「弥馬獲支」は何らか関連ある役職名だろう。
弥馬獲支がミマワキも正しいかどうか不明だしましてや崇神天皇とか言葉遊びが過ぎる。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:05:07.73
>>883
阿波から大和への遷都に全く根拠がない事。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:14:55.41
>>885
それがなんで致命傷なんだ?   @阿波
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:16:56.17
>>885
全く根拠がないという根拠は?   @阿波
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:18:33.25
>>886
その理由すらわからないならもうダメ。おしまい。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:20:21.88
>>888
その理由すら言えないならもうダメ。おしまい。   @阿波
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:22:09.21
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

<倭国伝>~AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された

<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。


■結論
九州倭国と畿内ヤマトは人種が異なっていた
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:27:44.11
>>889
詭弁だな。阿波から大和への遷都がないなら説自体が成立しない。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:31:14.36
>>890
はぁ?アホすぎるだろコイツw
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:31:19.43
筑紫から大和への遷都の記録はたくさんあるけどな。
畿内説が拠り所としている新唐書とか。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:42:24.22
九州は遠賀川上流で縄文時代から石器が作られ九州一円に出荷されていた
九州南部では焼畑民が縄文時代に渡来したんじゃないか
東南アジアには複数焼畑民がいるが、仲間や同族を表す言葉はアタやサツというらしい
東南アジアから複数の焼畑民が海流に乗ってやってきた可能性がある
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:45:03.36
<倭国伝>〜AD631年までの記録
<日本伝>AD701年以降の記録
これが7世紀ごろには倭と日本が併立していない証拠。
3世紀に合併済みなんでね。九州王朝とか無いからw
ただの残党とか反乱軍だろw
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:46:08.59
焼畑の範囲を示す境界を東南アジアの焼畑民の言葉でカキというらしい
現代の垣根のカキに通じるかもな
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:48:26.97
>>892
阿波から大和への遷都がないという根拠が言えないならもうダメ。おしまい。   @阿波
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:49:03.55
>>897
倭国と日本の合併は筑紫という地名が出来たあとの話

新唐書「居築紫城 ?瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州」
日本は、古の倭の奴国なり。
その王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至る迄およそ32世、皆、尊(みこと)をもって号となし、筑紫城(ちくしじょう)に居す。
彦瀲の子、神武立ち、改めて天皇を以って号となし、治を大和州(やまとしゅう)に移す。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:49:26.63
>>895
確かに渡来もあったが王権の配下に付いてる。
東漢氏が蘇我氏に臣従していたように。大和を先に占拠してたの出雲の勢力だから。
バカバカしいw
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:51:06.53
>>901
奈良時代ごろ、飛鳥地方の住民の80%~90%が朝鮮人であったことは、「続日本紀」「姓氏録」に書かれており、
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。」と井上光貞・山本健吉は述べている。

また、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、
「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。

「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」と佐々克明は述べている。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:53:04.32
飛鳥時代に倭国(阿波)王権は、百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内に庇護のうえ住まわせ、

彼らの知識・技術を利用して、8世紀に避難疎開遷都した大和朝廷へと発展させた。   @阿波
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 20:57:45.30
>>900
ちなみに「天皇」という称号を作り最初に名乗ったのは天武天皇

つまり神武伝説は天武天皇の自叙伝(作り話)
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:00:24.29
九州にも限らず日本列島は様々な集団が住み着いていたんだよ
緩やかに同化を進め地域をまとめ国作りをしていくのはかなり大変な作業だったと思うけどな 
各々の主体性を尊重しつつ支配層が率先して血縁を結び同化していく
徴税と市の監視(初期の警察機能みたいなものか)を担う大倭が国々を束ねていたのかもな
石津神と天津神の三都のまぐわい、大国主と年神のシステム
日本列島には100余国あったらしいからな
魏志倭人伝に載っている国々だけでも数十もある
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:04:08.68
>>905
>徴税と市の監視(初期の警察機能みたいなものか)を担う大倭が国々を束ねていたのかもな

徴税は女王国政府だろ
市の監視役が大倭
『国国有市 交易有無 使大倭監之』

魏に朝貢したのは女王国30国のみであとの70国は倭種の国
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:05:15.10
>>899
詭弁。根拠や論拠を出すのは阿波説の人間。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:06:09.27
倭国大乱前は九州は遠賀川の南方トミが徴税を担っていたんじゃないかな
鎮西上人の伝説の元ネタと思うけどな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:07:54.72
>>902
奈良時代に朝鮮人などいない。はっきりって頭がおかしい。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:10:22.29
石切神社にトミの一族の伝承が残っている
身体が大きく戦闘や建築、道具作りに長け、稲作の技術はないが農耕を行い、金属加工の技術は持っていなかった
黒い龍
遼河文明に連なる東北の三内丸山遺跡の系譜と思うけどな
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:13:08.20
大倭を大人の倭人とか身分の高い倭人と訳してる人が居るのよ
大倭で中国人がどういう人物か理解できなきゃいけない
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:14:50.04
>>913
中国人なら「大倭」はダーワと発音していたはずだ
その言葉から何が連想できる?

ダワダワ・・・名古屋人?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:15:14.82
>>902
>蘇我氏<朝鮮人>
完全にキチガイ。敗北者たる蘇我氏が武内宿禰の末とされているのだから疑う余地なし。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:15:37.89
年神やイチの伝承は東国によく残っている
倭国大乱前の国作りは東国まで及んでいたんじゃなかろうか
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:16:19.57
>>915
中国史書では「別種」は人種が異なる場合に用いられている表現

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:17:54.40
>>918
そこが半島から山陰~北陸に渡った別種が開拓していた地域であり
魏志倭人伝の「女王国の東の倭種の国」である
0921日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>919
『旧唐書』倭国伝にみえる高表仁の訪倭は舒明紀にも記されており倭国とは畿内ヤマトに他ならない

旧唐書旧唐書と言っているが君たちは旧唐書を読んだこと無いようだ
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:19:10.90
大和国風土記
天津神命(アマツカミ)・石津神命(イハツカミ)は三都嫁(みとのまぐはひ)、遊(うらぶれ)、面語(おもがたり)したとある。三都嫁とは結婚(とつぐ)ことである。よって、戯(たはふれ)と遊(うらぶれ)という。

三都のまぐわいを馬鹿にした記述だが、【タワ】ムレらしい
偶然と思うが
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:19:11.16
>>912
意味が理解出来ないの?飛鳥に扶余やら何やら半島から来た人がいても
それは「朝鮮人」ではない。バカ過ぎて話にならん。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:22:19.41
大国主の系譜の妻たちは、サシ【ムサシの古い言葉】国やヒカワなど東国を思わせる姫がいる
0926日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>925
『旧唐書』倭国伝貞観5年記事にみえる高表仁の訪倭は舒明紀にも記されており倭国とは畿内ヤマトに他ならない
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:27:45.22
畿内説にとって都合の悪い史書は
畿内説ありきの翻訳しか公表されてないからな

中国人に読ませるとまた変わって見える
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:29:35.90
阿波説相当の九州王朝説なんて相手にする必要があるか?
残ってるのは東遷説なんだよ。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:30:12.89
三内丸山遺跡の勢力が弥生時代にかけて一世風靡したんじゃないか
一昨年発表された母系遺伝子の研究では、東北富山石川和歌山が同じグループで畿内の大阪京都が1番近いのはこのグループだった
龍の黒神トミの一族の影響かもな
池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡からは龍の絵画土器が見つかっている
昔から東北と北陸、大阪京都は背が高かったんだよな
0931日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

旧唐書より1世紀半早く、唐中期に成立した『通典』には「倭一名日本」と明記あり
旧唐書倭国伝も日本書紀舒明紀と一致

なぜか通典から逃げ続ける九州王朝論者
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:32:25.13
>>907
詭弁。 
「阿波から大和への遷都に全く根拠がない」と言ったのはお前。  根拠や論拠を出すのはお前。   @阿波
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:32:57.71
一気に人種が変わったりしないから
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:33:15.44
今更、古田の亡霊とか脳が死んでるとしかw
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:33:35.10
>>926
倭国の定義がズレてる
倭国という一つの国家というではない
倭の地域の国はざっくり倭国と呼ばれてたんだよ
その中に様々な勢力が居た
そんな中で朝貢を継続していたのは奴国だったが、突然大和移転組が日本と名乗ってやってきた
そういうシチュエーションだ
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:34:20.90
磐樟船に乗ったひるこのえべっさん、五色に光る石を埋め磐山を作ったえべっさん、正月にやってくる大黒さんのえべっさんでしょ

ウカノミタマは最後は信太山の葛の葉伝説に
信太山の和泉黄金塚古墳からは日本最大の水晶玉が見つかっている
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:34:57.14
>>935
日本とはヤマト?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:35:21.96
>>932
詭弁もそこまでくると虚しく無いか?
有無を論争している時は「有」を主張する方が証拠を出せば終わり。
六国史にもどこにも無いものは無いのだから。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:35:33.64
唐の時代と言えば

翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。

https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png

邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。←博多湾の情景か?

廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。

中国の史書において、連続した行程の場合は「又~至る」と記述される

※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:35:53.49
>>875
そう邪馬台国は別種
属せずという記述はない。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:36:55.64
>>937
そこがよくわからん
何故中国に対して「大和」と書いて「ヤマト」だと名乗らなかったのかが不明
0942日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>935
奴国は紀元57年だろ?3世紀には倭の朝貢の主体が女王国に変わってるよ

で、日本という国号は8世紀初出でもっと後の話奴国とか全然関係ない
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:38:54.91
倭から別れた人種が日本
扶余から別れた人種が高麗と百済
匈奴から別れた人種が鉄勒と突厥
古い時代は同族
0945日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>935
>突然大和移転組が日本と名乗ってやってきた


日本とは倭国のことであると旧唐書よりも先に成立した史書に書かれてるので違いますね
https://i.imgur.com/7WQQaH0.png
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:39:40.38
>>941
中国人はヤマトが国なのか王が居る宮殿の場所なのかわかんなかったんでしょう
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:40:01.96
>>938
>有無を論争している時は

論争などしていない。
「阿波から大和への遷都に全く根拠がない」と言ったのはお前だけ。  根拠や論拠を出すのはお前。   @阿波
0948日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>943


日本とは倭国のことであると旧唐書よりも先に成立した史書に書かれてるので違いますね
tps://i.imgur.com/7WQQaH0.png
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:40:27.45
>>942
旧唐書の通り「倭国は古の倭奴国也」
元奴国だよ
当時は「筑紫」だろう
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:41:11.88
>>949
と、なんとなく、もやっとそう思いたい訳だ。  わははははは   @阿波
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:41:28.77
>>949
それ奴国じゃないだろ、常識的に考えて
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:42:45.39
>>944
旧唐書通り
小国だった邪馬台国が九州、山陰等を併合
0953日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>949
日本とは倭国のことであると旧唐書よりも先に成立した史書に書かれてるので違う
https://i.imgur.com/4hY7mAS.jpg

そして旧唐書倭国伝の高表仁は日本書紀によると難波津に来ている人物だから倭国=畿内ヤマトに他ならない
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:43:46.42
>>951
邪馬台国ではないな。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:43:47.31
>>948
だから日本と名乗りたがる連中も倭の地域の国々「倭国」の一部だから
そういうゴタゴタでも分かる通りまだまだ主権争いが絶えなかったのだろう
つまり現行の歴史通り、統一国家が成立したの8世紀で合ってるんだよ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:43:57.72
>>951
「倭奴国」とは、女王国のこと。 すなわち、「阿波」の鮎喰川下流域集落群。   @阿波
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:45:13.04
>>951
57年の王だろうな
0960日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>955
一部ではなく【倭一名日本】【倭国一名日本】である
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:45:31.40
>>954
>邪馬台国ではないな。

「邪馬臺国」そのものではない。 「邪馬臺国」の首都。   @阿波
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:45:34.67
>>952
と、倭人がわけわからん事を申しております
0963日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

隋書倭国伝の倭国がそのまま日本に名を変えているというだけ
旧唐書旧唐書言ってるやつはまともに旧唐書を読んだことがない
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:48:18.54
>>954
>邪馬台国ではないな。

「邪馬臺国」そのものではない。 「倭奴国」とは、「邪馬臺国」の首都女王国のこと。 すなわち、「阿波」の鮎喰川下流域集落群。   @阿波
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:53:47.96
>>966
邪馬台国の記述はない。
国々のひとつに過ぎない。
0968日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>967
倭の女王が卑弥呼
そして倭と日本とは等号で結ばれている
0969日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なんで8世紀の史書を無視して10世紀の史書を以て倭国と日本が別種とか主張してるの?普通同時代、近い時代の史料を基本とすべきでしょ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:58:32.89
>>966
旧唐書読んでないのか?
倭国条は~631年までの朝貢記録を参照しているんだが?
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 21:59:21.41
>>966
その九州王朝論者ってのは幻覚か?
このスレのどこに九州王朝論者が居るんだよ?
0972日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>970
旧唐書は10世紀成立
8世紀の唐暦、9世紀初頭の通典を無視して旧唐書が正しいとする合理的な理由はなに?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 22:00:36.15
>>947
六国史に記載がない。阿波から遷都などただの妄想。
0975日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>973
旧唐書は10世紀成立
8世紀の唐暦、9世紀初頭の通典を無視して旧唐書が正しいとする合理的な理由はなに?
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 22:02:57.11
>>975
旧唐書読んでないのか?
倭国条は~631年までの朝貢記録を参照しているんだが?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 22:04:36.10
3世紀の基礎知識

・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています

・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる

・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は一切使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)

・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった

・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/03/11(土) 22:05:23.45
3世紀の基礎知識2

卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0980日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>977
なぜ急に原資料の話をし始めた?
通典だって朝貢記録書かれてるし、旧唐書と違って蝦夷の記事まであるな
これは斉明天皇5年(659)の詳細な遣唐記事(蝦夷含む)と合致する
0982日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>978
邪馬“壹”国が登場したのが宋代以降で、それ以外は殆ど邪馬“臺”国だから邪馬“壹”国は誤記である可能性の方が遥かに高い
https://i.imgur.com/pFSFWJD.png
0983日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:08:14.12
>>980
史書は後世の作文ではなく中国に残っていた記録を書き写したものを
いつ頃のものか考えながら読むのが常識

魏志倭人伝を読むにもそうした考えが必要
0985日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:09:56.62
>>974
>六国史に記載がない。

六国史に、「阿波」に王都があったなんて書くわけがない。 
ついこの間、「阿波」から引っ越してきたことは、記紀の編纂者も含めて、
当時の奈良大和の人々(阿波人)は、みんな知り抜いているんだから。   
アホのお前には、それが理解できない。   @阿波
0986日本@名無史さん
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>>983
で、8世紀の唐暦、9世紀初頭の通典を無視してそれ以降に成立した蝦夷の記事すら無い旧唐書が正しいとする合理的な理由はなに?
0987日本@名無史さん
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>>984
通典って日本の作文だったの?初耳なんだけどそれどういう意味?
0988日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:11:26.91
>>982
しかしヤマトが読んだのは「邪馬壹」だと俺は思ってる
ようやく漢字が読めるようになったころの倭人が「壹」の中の「豆」という文字につられて「ト」と読んでしまった
0989日本@名無史さん
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倭国日本別種論者「通典は日本人の作文!」


え?壊れちゃったの?
0991日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:13:02.70
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0992日本@名無史さん
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>>988
へー
じゃあなんで万葉仮名でヤマ“豆”て一度も書かれてないの?
0993日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:13:48.80
>>968
倭国は漢代では百余に別れた国々。大和王権はその一部だから別種で正しい。
0994日本@名無史さん
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2023/03/11(土) 22:15:15.50
8世紀ともなれば中国は日本人が書いた作文を書き写してた時代だからな
それで大和州という文字が掲載されてるわけで
0995日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

まず「豆」は万葉仮名としての用例はないが「斗」に似た発音なのでオ段甲類の「と甲」に当たる
一方「やまと」はオ段乙類の「と乙」を持つ「やまと乙」で、奈良時代までは違う発音

こういう基本的なことを知らないと恥をかく
0999日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>996
知らないんだ
じゃあそれ間違ってるよ、豆はト乙類じゃないから
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