「日本」は「百済」の南遷国
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白村江に敗れた百済王子扶余勇は九州北部に南遷し、大宰府を中心に51qの羅城の小国を築いた。
小国は東に展開し、近江まで進出した。そこで扶余勇は崩御した。
書紀は彼を天智天皇と諡号した。
近江政府に吸収されつつあった倭国は壬申の乱で実権を取り戻した。
旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」の「日本」は倭国を従えた近江朝のことである。
新唐書「咸亨元年(670年),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」からも、
近江朝は倭国を併せその国号を冒したので、近江朝は「日本」を称していたことになる。
壬申の乱で勝利した倭国は驚くべきことに、近江政府の「日本」を称した。
白村江で日本に渡った百済貴族が余りに多く、
天武自身も扶余勇と同じ扶余家であったので、「日本」を称したのである。
倭国は百済人に乗っ取られて「百済」を「日本」と改称したのであった。
詳しくはサイト「国際的視点からの古代史考」の扶余勇=天智天皇のページを参照 百済人は倭国を乗っとり「百済」のかわりに「日本」と号したのであった。 墓制は百済の王族から直接伝播している。そのような下地があって、百済は倭国に移動した。
以下は博士論文
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199014/1/ybunk00676.pdf
の概要の一部。
第二章においては、畿内地域における初期横穴式石室を検討した。石室の平面形だけではなく、規格、埋葬方式、遺物の構成、周辺遺跡との関係などを元に検討した結果、2つの類型に分類することができた。1類型は、ほぼすべての要素で百済と共通するため、百済から直接伝播したものと考えた。これに対して2類型は、在地の伝統的な要素が強く反映されているため、横穴式石室という新しい墓制を在地の基盤の上に主体的に導入して、模倣築造したものと把握した。そして、第一章で分析した資料を根拠として、漢城期末に百済中央地域の石室から影響を受けたことを明らかにした。特に1類型は、ほぼすべての要素で百済と同様であるため、百済から直接伝播されたものと考え、その被葬者を渡来人と想定した。このような渡来と墓制の伝播は、単なる個別的な交流ではなく、当時の王族外交などを通じた中央と中央との交流関係のなかで成立したものと理解した。 武寧王陵のように、百済の王陵は群衆墳で、古墳の塚は大きくない。
倭国では6世紀から、前方後円墳が急減し、群集墳が増える。
それを鉄器の浸透により、豊かな階層が増えたとされるが、そうではない。
百済王族昆支王らの到来に伴って
竪穴式前方後円墳の非効率が浮き上がり、
効率的な百済の横穴式が急激に増えたことと、
前方後円墳激減による墓制作労働力の余剰から貴族階級にまで古墳が普及し、
百済式の群衆墓が模倣されたと思われる。 継体は大王争いで昆支王系の日十大王に敗北した倭の五王系の代表である。
百済系高井田山古墳を始まりとする墳墓はコンパクトである一方、
継体の今城塚古墳は前方後円墳で周濠が巡らされ、大量の埴輪が列せられている。
横穴式になってはいるものの、当時としては古色蒼然としたものだった。
今城塚古墳がある摂津三島は倭の五王系であり、百済系に与しないことが墳墓の方式で理解できる。 プヨンの新スレなw
要はこの人は今までの日本史の常識を俺が覆すぞという目立ちたがり屋なのねw
だからよ、百済の後継国家だと言うのなら、百済の歴史も受け継いでるだろってことw
今に伝わる日本の建国伝説はその片りんもない。
だが、ここで勘違いしないでほしいことは、倭と伽耶の関係。
日本の源流は半島南部にあるのはほぼ間違いないだろ。
・古い新羅の地名は倭語で解釈する事ができるという。
・新羅の建国にかかわっている人が倭人であるという伝説。
・弥生式土器や朝鮮無紋土器が沿海州系である可能性。
・半島東北部に居たワイ族が扶余系民族と言語がほぼ同じであったという中国の文献。
このことから、半島倭人と言われる人々は = ワイ族だった可能性があるよね。
だから倭人=古墳人の源流は伽耶地方に南下してきていたワイ族の一派が日本に渡ったものである可能性はかなり濃厚。
で、彼らは扶余系民族とも言語が近かった可能性はある。
だから百済人との親和性も高かった可能性はあるよね。 その唐書の記述は、蝦夷の地が「日本」と呼ばれていたから、そこから国号を拝借したってことじゃないのか?
青森県に日本中央の碑とか、つぼのいしぶみってのがあって、平家物語でも語られている。 昆支王夫妻と見られる高井田山古墳は高野槙棺。
タリシヒコ(=聖徳太子)とみられる叡福寺古墳は夾紵棺。
どちらも、最高級の素材を使っている。
日十大王とタリシヒコ大王の間の大王の棺はおそらく最高級品であって石棺ではないだろう。
百済系王族であるから、場所は安宿部郡近辺で、円墳で夫婦合葬であろうと推測される。 >>9
百済王が皇后と合葬? 七支刀の370年以来、
百済王の後宮は倭人後宮で皇后は倭人の姫だよ?
王子は母と日本に帰って養育されてたわけだが?
百済は、対高句麗戦で、日本の前線なんで、
百済王族は、九州貴族以上に重宝された。
何代? ほぼ、倭人である。
半島原住民の領民というのが
石器人から存続したのかどうかは判らないが、
現代半島に縄文人のような石器人遺伝子は無い。
らしい。 何を言っても判らないのかもしれない。
プヨンちゃんは、出せば出すだけ、馬鹿丸出し。 The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています ←ここ注目
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
中国人と十分に区別できない韓国人w 武寧王陵の近くにある古墳のレンガから「造此是建業人也」。
「建業」は呉と晋の時期の王都(南京)の公式名称。宋・斉・梁・陳の時代にも、広く用いられた。
武寧王陵に隣接する古墳で発見された銘「梁官品為師矣」の入った塼から
梁の官瓦を模倣としたことがわかる。
同じく隣接する古墳の「梁官瓦爲師矣」の銘文レンガから
南朝梁から百済に職人が来たことが分かる。
武寧王陵は梁の技術による磚室墳。
宋山里6号も磚室墳。
武寧王陵に比肩できる塼王陵は倭国にはない。 最新の核ゲノムで見た遺伝的距離の図では韓国「ソウル」は「(中華人民共和国)瀋陽」と遺伝的に同じで、「ソウル」は「中国人」もしくは「中国系」と分類されてる 百済の熊津時代の王陵は宋山里古墳群、扶余時代の王陵は陵山里古墳群。
塚の直系は15から20メートルと小さい。山の斜面に密集している。
漢城時代の王陵は特定されないが、石村洞古墳群が候補で群集墳。
日本の群集墳には小型方形木棺直葬のものが5世紀に出現するが6世紀の初めには終わる。
6世紀前半から横穴式石室をもつ群集墳が爆発的に増える。
大阪府内の大型群集墳には高安千塚古墳群、平尾山古墳群、一須賀古墳群がある。
これらは山の斜面にあり、円墳、横穴式石室が主体である。
副葬品にはカンザシ、ミニチュア炊飯具形土器、韓式系土器などがあり、渡来人が被葬者である。
これら群集墳は墳墓の数から、王族の次の階層のものと思われる。
それぞれの古墳群は半島から渡来した一つの勢力を示し、
475年の漢城崩壊を契機に南下した百済の一統と見て間違いない。 >>15
つうか、大阪に渡ってきたのは任那(伽耶)にいいた人々じゃないの?
多分伽耶が百済や新羅に吸収される時期もそのころだろ。
倭の大王一族の出自が伽耶地方だとすると、その関係性で倭に渡ってきた人々が居ても不思議ではない。 伽耶地方は木棺木槨で5世紀はじめに竪穴式石室が加わり、
横穴式石室になるのは6世紀になってから。
伽倻の横穴式石室は百済新羅支配によるもの。
大阪のほうが伽倻より早く横穴式石室になったので百済支配の影響。
大阪の>>15に挙げた群集墳は横穴式石室。 >>17
横穴式墳墓になったからって、それが百済が支配したからとは全く言えないだろ。
日本の5・6・7世紀は大陸文化を輸入してた時代、生活様式が変化しても何も不思議のない話。
特に日本人の場合、現代人を見ても、古い生活様式を平気で捨ててしまう習性があるからな。
これは古来からの日本人の特性と言っても良いだろ。
だからキミがいくら墳墓様式どうたら言っても、説得力は全くない。 横穴式石室小型円墳は記念碑であるが、
大型前方後円墳は権力誇示で政治そのもの。
横穴式石室小型円墳を取り入れる事は政治的手段を放棄することになる。 王宮里遺跡は、武王(在位600-641)の都の王宮。外郭の塀は東西245m、南北490mの長方形。
正殿規模は東西35m、南北18.3m。
王宮の南半分に4区画、儀礼や儀式の建物、王の執務用建物、王と王の家族が生活するための建物。
北半分には王の庭園と後苑。
前期難波宮の図面
https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfi
les/contents/0000508/508299/04_p36-46.pdf
内側の王宮のサイズ東西200メートル南北600メートル弱
前殿(=正殿)のサイズ東西約36メール・南北約19メートル(Wikipedia(難波宮)より)
明日香宮殿にはない内裏(王の生活空間)をもった。
前期難波宮は645年から造営。王宮里より新しい。王宮里の情報の入手?。641年にギョウキ王が倭国に来ている。 >>19
誰に対する政治的手段だよ って話w
またこじ付けてるのかい?w
仏教全盛の時代になればまた埋葬形式が変わるんだぜw
埋葬形式は、政体とは無関係だろw >>20
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000508/508299/04_p36-46.pdf&ved=2ahUKEwibpvfzxZn-AhWsgVYBHaDNAH8QFnoECGcQAQ&usg=AOvVaw0XAV8_K8DHNwcpkyNIUuLQ https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/7532/1/BA86039590_2_355_364.pdf&ved=2ahUKEwi377q105n-AhXXNt4KHYV0DScQFnoECAsQAQ&usg=AOvVaw2usMhZDrW-IBhbDHJISPRi
百済木簡により、百済に律令制存在が確認。
日本の律令とは異なるとの結論だが、大宝律令との比較? 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。 九九
百済の6〜7世紀の木簡に「三四十二」などの九九がうっすらとした墨文字で書かれている。
日本には大和時代に百済から伝えられ、平安時代には貴族の教養の一つとされていたという説があったが、奈良市の平城宮跡で出土した「九九」を記した8世紀の木簡に、中国の数学書「孫子算経」と同じ「如」の文字が書かれていることから、九九は中国から伝来したと考えられると、奈良文化財研究所が2010年12月3日に発表した。また、京丹後市にある奈良時代の鶴尾遺跡で、九九が表裏に書かれた木簡1点が出土したと、京都府埋蔵文化財調査研究センターが2022年7月27日に発表した。
奈良時代は新羅経由や遣唐使再開で漢字文化が入ったことでしょうよ。 孝徳も律令制には掛け算割り算が必要だから九九を知らないと大変だっただろう。 赤米
忠南扶余邑旧衙里で百済時代の木簡8点が収拾され、そのうち1点に「太公西美前部 赤米二石」と読める墨書が確認された。
赤米は古くは藤原宮・飛鳥京・石神遺跡などの木簡にあります。記事のとおり、地方から献上された「赤米」につけられた荷札が多いようですと言っている人がいます。
百済と倭国は同じ生活同じ物流をしていたようです。 法隆寺釈迦三尊像の台座墨書銘に、「椋費」。
「椋」は物を収納するクラを意味する文字で、半島で独自に作り出された。
「費」はカバネ(姓)のアタイ(よく知られる表記は直)であり、
「椋費」はクラでの出納業務を職掌とした氏族を指す。
上宮法皇=アマタリシヒコが百済系であるとの推論は正しいようだ。 日本の「出挙木簡」の出挙とは、種稲を民衆に貸し付け収穫時に5割の利息とともに返納させる稲の貸付制度で「貸稲」という。
扶余の遺跡から、官人に「食」を貸し付けた記録「佐官貸食記」(618年)と題する木簡が出土している。貸付額の5割を利息とする慣行が百済で7世紀前半の段階で成立していた「貸食」。
百済政府は高利貸しで、それを受け継いだ日本政府も民衆相手の高利貸しだ。 百済の「佐官貸食記」が借りた穀物を返納することを「上」、未納分を「未」と表現している点、穀物の単位として「半」・「甲」などを用いていることも日本の「出挙木簡」と共通している。
「椋」が、半島の字だったように、 国字とされてきた「蚫」、「畠」も韓国出土の木簡に記されていた。国字は「大漢和辞典」だけでも141字あり、そのうち真の国字はどれほどか興味深い。 日本の木簡の源流は百済
中国で木簡が使用されるのは戦国時代・秦漢時代から4世紀頃までである一方、日本で使用され始めるのは7世紀の前半頃である。それゆえ、日本木簡は日本列島で孤立して独自に形成され発展したものと固く信じられてきた。
90年代以降、韓国において新たな木簡の出土が続くなかで、慶南・咸安郡の城山山城から現在までに約200点の木簡が出土し、それらは、6世紀中ごろの新羅領域内からもたらされた穀物などの物資につけられていた荷札であった。その書式や木簡の形態は、古代日本の木簡の原初形態ともいうべき姿をしている。 その後、7世紀初頭の羅州伏岩里百済木簡の発見によって、日本木簡の源流が新羅や百済にあったことが広く認められることになった。 まだやってんのw
文化で証明するのは無理。支配関係を証明したければ百済が倭を圧倒した軍事力を示せw五胡南北朝は力こそ正義www 日本の木簡は640年代にまでしかさかのぼれず、その頃百済から来た王族はギョウキ王。
前期難波宮の造営、律令制の導入、木簡手法の導入、九九、
すべて百済からギョウキ王によってもたらされた。
40余名の貴人は蘇我征伐後の政治体制一新のためにピッタリの陣容。
この武王の王子ギョウキ王を書紀は孝徳と諡号した。 木簡から倭国独自のものとされていたものがすべて半島経由だった。
何でも半島を経由したという前提で考えればミッシグリンクは解決する。
倭人が前期難波宮の造営、律令制の導入、木簡手法の導入、九九、を独自にできる訳はない。
物やアイデアだけが来て広まる考え方は文明をカビの胞子位に考えている。
文明は政治とともにやって来る。
難波宮は百済から来た政治家が作った。
律令制は真似では出来ない。政治家が来て制度設計し、実施した。
木簡も政治の知らぬところで行えばお咎めを受ける。政治家が採用したのだ。 >>3で示した専門家は近畿の横穴式石室は百済から来たと断定。
前方後円墳派が自発的に横穴式に替えたのではない。
百済から来た王族が前方後円墳派に大王位争いで勝ったから横穴式が広まった。
前方後円墳派即ち倭の五王系は負けたので不承不承横穴式を取り入れた。効率的だからしゃあない。
継体陵は前方後円で横穴式かつ埴輪満載で折衷状況がよくわかる。
継体は倭の五王系代表だったという推論も正しいようだ。 出たぁアアアアあああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜偽者継体wwwwwwwwwwwwwww >>35
即ち大王は百済系に替わった。日十大王は百済昆支王系との推論も正しいようだ。 >>118
朝鮮人の核ゲノムにo1b2の要素なんて殆ど残ってねえよ
東北3省人と遺伝的に全く同じで次に河南省と山東省に近い >>34
>木簡も政治の知らぬところで行えばお咎めを受ける。
??w
いったい誰にお咎めを受けるんですか? プヨン様?w
それって、李朝時代が明朝に独自で文物を作ったらやばかったという哀しい話に似てるんですが?www
もう、キミがひがみ根性丸出しの外国人だという証拠になってしまっているんですが?w 各国の教科書における韓国の歴史
ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
インドネシアの教科書
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した(が、「溺れた狼を助けると喰われる」の格言どおり、日本は逆恨みされただけであった)」
インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」 韓半島に伝わる最古の正史「三国史記・新羅本紀」によれば、新羅の建国時の宰相(瓢公)は倭人(日本人)であり、始祖の朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)、王家の一つ昔氏の第4代王昔脱解は倭種・倭人(日本人)であり、新羅の建国当初は倭種・倭人が王位や大輔を占めるほど多大な役割を演じたばかりか、<倭・倭コンビ>がいなかったら、その後36人の新羅王が輩出する金王室もありえなかった。さらに金王室36代王の姪と高麗の始祖王との間に生まれた子供の流れが8代目以降の高麗王を占め、倭種・脱解の血は伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝である高麗王朝にも流れ込んでいる。 遺伝子、出土する古墳や装飾品、人骨、日本・中国・朝鮮・高句麗等の各種記録から古代朝鮮半島、とくに半島南部は日本人種が住んでおり(古代朝鮮人の骨格や遺伝子は日本人と極めて近い)、現代の基準で言えば半島南部(全羅道・慶尚道)は日本人種のものであった。 例えば、
◎ 半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)
◎ 百済、新羅は日本の大和朝廷に対し従属(植民地)的地位にあったこと
◎ 大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在) しかし、現在の日本人と韓国・朝鮮人とは遺伝子上にも大きく隔たりがあり、朝鮮民族はモンゴル・中国系に近いものとなっており、古代朝鮮時代で発掘される人骨からわかる遺伝子とは大きく変質しているが、これは北方民族の朝鮮半島への度重なる侵攻や支配により、交配が繰り返され、遺伝子が入れ替わってしまったわけで、特に、AD 660百済滅亡・AD 663白村江の敗戦・AD 668高句麗滅亡により,百済・高句麗の王族・貴族・庶民等の多くの難民を日本が受け入れたが、残った男性は唐・新羅軍に殺され、女性は犯されて北シナ人の唐と新羅の子孫を残している。
そして、倭種・脱解の血は伝統ある新羅から禅譲を受けた高麗王朝に引き継がれたが、モンゴル「元」に攻められてかなりの倭種・倭人(日本人)系男性が殺され、「征服者は女性同伴ではなく、単身でやってきて半島女性と交わり子孫を残した」わけで、現在の韓国・朝鮮人の主な人種形成はやはり13世紀あたりのようです。 その後、高麗王朝を簒奪したAD 1392成立の蒙古・満州(女真人)系李氏朝鮮では、更に残っていた倭種・倭人(日本人)系男性が殺され、女性は犯されて、現在まで継続する蒙古・満州(女真人)系の韓国・朝鮮人種形成が決定した結果、Y染色体DNAパターンではモンゴルが源流のタイプC(14%)・K(8%)や北部シナ人が源流のタイプO2(50%)が日本人よりも大きな頻度で存在し、新羅系倭種・倭人(日本人)の余韻である日本人特有のタイプD・O2b1が激減している。 しかし、「かなりの韓国人女性のミトコンドリアDNAは倭種・倭人(日本人)と相同」なので、征服者は女性同伴ではなく単身でやって来て半島人女性と交わり子孫を残した、つまり、モンゴルや北方シナの征服により「倭種・倭人(日本人)系女性を母」に、「モンゴルや北方シナの征服者を父」に持つ新たな混血民族が誕生したが、それが現在の蒙古・満州(女真人)系韓国・朝鮮人である。従って、かなりの韓国・朝鮮人女性のミトコンドリアDNAは倭種・倭人(日本人)と相同であるが、肝心なY染色体DNAパターンにおいて、(YAP+因子)の倭種・倭人(日本人)と現在の蒙古・満州(女真人)系韓国・朝鮮人は大きく隔たりがあり、結論として、「韓国人は日本人と北方シナ人との混血だった」は間違いではないが誤解を招く不適切な表現と思われる。 >>47
ネトウヨじゃなく
狂ってるあなたを馬鹿にしに来た人々だろw
私は心情的には左派なので。
ただ立憲や共産は大嫌いだけどね。
上から目線じゃなく、民衆が暮らしやすいようになるよう望む者だが。
企業や政治家・官僚優先ではなく、一般民衆の福祉優先の社会を望む者。 >>37
律令制の源流を唐にもとめるために高向玄理を持ち出した日本だったが
今はそんな主張は通らない。
だったら、過去は律令制を唐からの直輸入にしたかった事実だけが残った。
日本と中国の間にミッシングリンクなどない。すべて百済が介在している。
律令制の件で日本の百済忌避の姿勢があらわになった。それでは歴史の真実に到達できない。
日本書紀のスメラミコトはすべて百済及び半島諸国出身だ。
百済から来た第一期は昆支王
第二期はギョウキ王
第三期は扶余勇王
である。 >>49
第一期は昆支王系日十大王からアマタリシヒコ大王まで。都は難波、途中の大王は不明。
第二期はギョウキ王から大海人。
第一期の昆支王系に代わり、ギョウキ王は律令制によって国を統治。孝徳と諡号された。
ギョウキ゚王には亡くなった子供以外にも子供がいる。
この王子が王位を継承するのは自然なことだ。大海人である。
父ギョウキ王が造営した前期難波宮は大王政権の都に作られた。
大海人も難波を首都として律令制を受け継いでいた。
百済崩壊が生じ彼は白村江などで半島を支援したが、
唐に敗れ、大海人は叱責され、封禅の儀に参列する要請を受けいれた。
第三期は白村江に敗れた扶余勇王子が倭国に渡った。
彼は、さらに唐と戦うべく北九州を中心に政府を作った。
その遺跡が大宰府、水城、大野城などの朝鮮山城、羅城である。
加林城、扶蘇山城、馬山城を配し羅城で囲まれた泗沘を彷彿とさせるものだった。
扶余勇は禰軍の計らいで倭国統治に乗り出した。近江まで進出して崩御。
王子大友は大海人に壬申で敗れた。近江政府を構成していた多くの百済貴族は大海人に帰属した。
大海人は倭国を改め日本としてスタートした。
「日本」は近江政府が国号としていたことが中国史書で解る。
このようにして、百済は倭国に南遷して日本となった。 >>50
要はおまえの言いたいことは、
天皇家の血筋が何度か絶えたので、そのたびに祖先筋の血を引く百済王族を倭国に持ってきたということを言いたいのかな?
しかし書紀では、万世一系の発想から、そこら編を誤魔化した改変が行われたということが言いたいのかな?
そういう発想ならありえるよな。
でも、現時点では証拠はない。
現時点ではおまえの妄想としか言えないわなw
ちゃんとした裏付けをしろよ。何重にも。
それが出来て初めて説得力のある説となる。 >>52
ボク右翼じゃないですwww
今朝も言ったけど、ボクは心情的にはサヨです。
福祉重視の国家を希望する。
おまえさんみたいな、朝鮮人マウント発想は大嫌いだけどねw
なんでそう現実に逆らって日本人に勝ちたいのかね…w
韓半島とか言ってる時点で日本人じゃないのはわかるけどね。
頼むから日本海を ” ドンヘ ” とか言わないでねw >>50
中国史書に扶余勇が倭国に渡ったと書いてあります。
wikiなどで調べますと善光の別名が勇ということになっています。
書紀の天智紀には白村江の戦いのあと善光を難波に置くと書いてあります。
そのあとで、初めての中国人がやってきます。
この事実の流れをなんとも思わない人はそれで終わりです。
これをありえないと思う私は事実の解明を開始したのです。
そして、扶余勇=天智の結論を得たのです。 >>54
だから、キミは結論への筋道が飛んでるんですよw
裏付けも何もされてないしねw
キミが希望的観測に従って適当に当てはめてるだけ。
この答えにまともに答えられてない時点でただの作り話でしかないw
わからないかなあ?
w >>54
過去に天智=扶余勇が通説になっていないのは、殆どの研究者が以下を矛盾だと思わなかったのです。
>中国史書に扶余勇が倭国に渡ったと書いてあります。
>wikiなどで調べますと善光の別名が勇ということになっています。
>書紀の天智紀には白村江の戦いのあと善光を難波に置くと書いてあります。
>そのあとで、初めての中国人がやってきます。
これを矛盾と思わない人なら、用語や姻戚関係ばかりを論じるのも無理ありません。
歴史は政治の常識も必要です。 >>56
だから証拠のないこといくら言い張ったところで、キミの作り話にしかならんのよ。
信じて欲しくば裏付けをみせなさい。
わかったあ? 朝鮮の妄想家さん?w >中国史書に扶余勇が倭国に渡ったと書いてあります。
>wikiなどで調べますと善光の別名が勇ということになっています。
>書紀の天智紀には白村江の戦いのあと善光を難波に置くと書いてあります。
>そのあとで、初めての中国人がやってきます。
以上はすべて誰でも検証できる事実です。
これを不自然と思わなけばセンスゼロの人。 >>58
歴史はセンスだけで研究するものではない。
センス+証拠の積み重ね
だろ。
勘だけで、決めつけても、裏付けが出来なければ、ただの妄想でしかない。
裏付けて整合してこそ事実に近くなる。
それが歴史学。
ここは歴史学の板です。
民族主張の板ではない。 >中国史書に扶余勇が倭国に渡ったと書いてあります。
>wikiなどで調べますと善光の別名が勇ということになっています。
>書紀の天智紀には白村江の戦いのあと善光を難波に置くと書いてあります。
>そのあとで、初めての中国人がやってきます。
以上はすべて誰でも検証できる事実です。
ここにある矛盾を矛盾と思わなけりゃどうしようもない。
宿題にしておこう。 >>60
いくら言い張っても
その文章からだけでは何も検証できませんw
頭のおかしいキミが悔しがって言い張ってるだけにしか見えないよwww
そもそも日本人にとっては扶余勇も扶余善光も だれそれ? の人物だしなw
みんなにわかっても欲しければちゃんと説明しなくてはwww >>1
https://i.imgur.com/BBKh6sE.jp
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。
韓国人は大陸と日本の混血。という結果。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5 散々既出だけど皇室のハプログループは統計学的に考えればD1a2だろうね。
遺伝子マーカーの変化率考えると日本人の全男子10%〜20%弱が日本の有史時代にほぼ確実に一人の男にたどり着く。 こんな近い期間で収束する人口数の巨大なサブグループ日本には他に無いしまず皇室のものと見て間違いないだろう。 >>66
そもそもネトウヨとはなんなんでしょうか? プヨンおじさん?w
そもそも右翼の意味として 朝鮮人を嫌うこととは関係ないのだがw
自分は別に朝鮮人を嫌ってるわけでもないんだけどね。
キミがしつこく日本古代史に対してデタラメで愚弄すること言うから、
キミの言ってることがいかにデタラメかということを教えてやってるだけなのだがw こっちのスレにもリンク貼っておくよ、おじさんw
これでも見て、当時の半島と倭国の関係を見て勉強して、自分がバカなことを思い知ってくださいw
https://www.youtube.com/watch?v=eAF5qT4bbBo >>70
日本人は沖縄の人とも離れてるんだね。
アイヌとの比較はどうなんだろうか? やはり日本人と韓国人は兄弟みたいなもんだな
中国人は広過ぎてどっちに近いとも言えないしな >>72
その図を見る限り、統計的には韓国人は日本人より中国人に近いだろ。
そんだけ韓国人は中国人と歴史上交配したということだろう。
日本人と沖縄人は韓国人より若干離れているけどな。
沖縄人は中国人とも韓国人ともかなり距離が離れていることになる。
まあ、遺伝子的には、日本人も沖縄人も独特のポジションにいると言えそうだね。 >>73
中国人をひとくくりにしているが
華北との華南じゃ遺伝子が全く違う
華北の極一部ならわかるが、中国全体だと韓国人は日本人の方が近いと言える じゃがいもの種芋は7−8代もすると出来る芋は大多数が小粒になります。
種芋は種芋の次の世代の中から優秀なものを選ぶのが効率が良いのです。
人間も同じです。自然まかせにすると小粒が増えるのです。
昔王位についたものは極めて優秀なスタークラスターの元になった人物でしょう。
王位を継ぐものは多くの王子の中から選ぶべきです。
争いを避けるための長子相続は、優秀な王でなくなります。王は一夫多妻制にして、優秀なものを得る可能性を高めるべきです。 少子化対策など必要ありません。
金を払えば一夫多妻制OKにすればいいのです。国庫がうるおいます。
金持ちは恐らく優秀ですし、子供をたくさん育てる金を持ってます。
優秀な子供がふえます。
仕事をつくる能力のあるものが増えますからナマポなど社会保障費が減ります。
いかが? >>77-78
まあ それらのレス見てる限り
キミって自分の種にすごいコンプレックス抱えてるのねw
正直、話題が板チだと思うのだがw
ハングル板に行って朝鮮民族優性思想を頑張って
広めてくださいw
日本史板でそれやっても、
僕らに散々いじられて終わりだよww 百済政権がそのまま日本政権になったら中国の史書に百済遂絶なんて書かれないけど。
それに周辺国に四散した百済人のその後の人生はどこも共通して消息不明wwwww百済の力なんてその程度www >>81
百済は義慈王で終わるわけ
倭国に渡った勇は義慈王の命令を受けた訳ではない。
四散した?お前知ってるじゃないかw >>83
現実に任那に当たる国々は 魏志倭人伝 (偽書東夷伝倭国条) にも出てくるのだから、
ほぼ現実にあったのは間違いなかろう。
どういう形であれ、倭国の一地域として中国史書に出てきてるのだからほぼ間違いないだろ。
それを否定するのはほぼ困難だろうねw >>85
違うだろ。
高天原族って、伽耶に居た半島倭人だろ。
倭人が鉄器化してウマや土師器を持ち込んだのが彼らだろ。
半島中荒らした倭人というのは彼らだろ。
むしろ半島東部のワイ人というのが彼らの正体だろ。
色々辻褄が合うからな。 朝鮮半島に力があったら、漢の四郡、任那日本府、唐の都督府、元の征東行省、朝鮮総督府などの外国の統治機関がこんなにいっぱいないだろwwww爆笑 自国の歴史書に属国を支配したことも書けないの?無能すぎでしょw 支配層は新古の違いはあっても全員半島人。
百済人が移動してきて倭国号を日本国号に変えた。
同化ではなく乗っ取り。過去における政権交代も半島人の乗っ取りだろう。
原住民倭人に王朝文化は有り得ない。 匈奴も鮮卑も倭も漢魏晋王朝から金印貰った民族は中国崩壊後に王朝建ててるよ。
百済はその時代には存在してないから歴史的権威ないでしょw 百済之種遂絶が真実wwwww生きてるのは靺鞨や日本に帰化して民族消滅www 百済の正統な歴史認識は満州人が継ぐべきだね。朝鮮半島はただの征服地だろw 義慈王も隆も連行された。
義慈王は隆以外を太子に指名しなかったので、百済は終った。
豊や勇の百済復興運動は行き場を失った者達のあがきで、正当性は自らの主張にすぎない。
自ら正当性を主張している王はたくさんいると思うよ、日本にも。 百済、新羅を属国にした倭国の歴史認識は三韓征伐の日本国が継承www >>90
半島の混成民族の中から倭人が新羅王になったの知らないニカ?
朝鮮半島公認じゃw >>98
ひょうたんを下げた倭人だろwww
オレは知っているwww
韓族の国家と思われている新羅も実は建国に倭人が関わっているという現実w
まあ、そんだけ半島には倭人=穢族 が影響を与えていたということだろうな。 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>101
何が真の歴史だww
外国人が適当なつじつま合わせで思い込みで決めつけてるだけだろw
中原の農業と日本列島に伝わった農業は根本的に違うだろがw
その時点でおまえの論は破綻してるんだわwww
米作ができるのは基本温暖湿潤な地域。
遼河地域は寒い乾燥地域。麦作が中心になるのは必然。
農業だと言ってごちゃまぜにしてる時点でおまえは何もわかっていないド素人www
頭悪いよねw >>101
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑
まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ
残りの旧石器人は樺太から入って来ている
両旧石器人の融合人種が縄文人だよ
残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ
沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが
沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている
そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない
弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ
それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ
ない
よろしいですかな?よろしいですかな?
短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑 耽羅は、"tam(耽)ra(羅)"で"tam(耽)"が閉音節になるが、
百済からは"ta(耽)mu(牟)ra(羅)"と呼ばれたことが記録に残っている。
百済は、朝鮮語とは発音が異なる開音節の言語を使っていたことが見て取れる。 2023年06月07日 考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源(宮本一夫)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。 日本語と朝鮮語の起源地は満洲南部で
日本語は紀元前2700年頃の偏堡文化に由来し、朝鮮半島へ広がって無文文化を形成し、九州北部に到達して
やがて日本列島の「縄文語」系統を(北海道以外でほぼ)駆逐しました。
朝鮮語は現在の北京付近の燕国の拡大に伴い紀元前5世紀頃に朝鮮半島へと到来し
やがて朝鮮半島に存在した日本語系統を駆逐しました。
この見解は、確定的ではないものの、近年大きく発展した古代ゲノム研究と整合的かもしれません。 奈良には、百済人、高句麗人、新羅人、伽倻人、濊貊
朝鮮半島にいた民族はすべて奈良にいた
奈良は、朝鮮半島の民族のるつぼ、多ミンジョク国家だった >耽羅国の王統
>もとは九韓の一つで、一説に九韓の時代に亡羅との国号を付け、
>新羅から耽羅という名で封ぜられ、百済から耽牟羅という名で封ぜられたという。
ここから推察されるのは、
新羅では「閉音節 tam-ra」、
百済では「開音節 ta-mu-ra」の言語が
使われていただろうということだ。 喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった。」
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html 逆だ馬鹿朝鮮人
古代から日本が朝鮮半島南部を支配していた
日本の方が古い前方後円墳が半島にいくつもある
必死に隠してるだろが馬鹿朝鮮人 日本神話ののっけから「ここは対岸に韓国が見えていい土地だ!」だからな 「日本」という国号すら、もともとは中国からみて日が昇るところ、つまり朝鮮半島の西部(百済)を指すものだった
ジャップは人種も言語も国名もぜんぶ半島系だよ。「日本人」とかいう架空民族をつくりあげて、そういうものになりすましているだけ 半島系w
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/information/category/press/3938.html
https://i.imgur.com/TAxboC6.jpg
>もっとも右のオキナワ人および大部分の九州 (A)の人々は緑色で示された祖先集団から伝えられた割合が大きいのに対して、他の日本人には緑色の成分は少なく、大陸の集団にはほとんど緑色成分がみられません。一方、右からベトナム人、ダイ族、中国南部の漢族、中国北京の漢族には、ピンク色でしめした祖先集団がかなり伝えられていますが、ヤポネシア人にはほとんどピンク色成分がありません。中国南部の漢族、中国北京の漢族、韓国人に多い水色で示された祖先集団の成分は、北海道から九州(B)までのヤマト人には多少みられますが、九州(A)とオキナワ人にはわずかな割合しか伝わっていません。これら南部の2集団を除くヤポネシア人には、茶色の成分が半数以上含まれていますが、韓国人では3割程度見られる >>112
アホだろ糞朝鮮人
妄想炸裂
さっさと出ていけボケが 設定ガバガバすぎて笑えてくる初期天皇 神武天皇(127歳没) 景行天皇(143歳没) 中国「この日本人とかいうヤツラなんだか嘘くさい・・・。」
『旧唐書』巻一九九上 列伝第一四九上 東夷「日本国伝」
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(和訳)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。
東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。 大昔は半島・大陸の血が混ざってるのが差別対象どころか上級ステータスだったんだよな
飛鳥時代なんて偽家系図までつくって「我は百済王族の子孫じゃ」と自称してたのがジャップ 古墳時代の日本人は基本的に文盲。古墳からの金石文出土は絶望的。
飛鳥時代の終わり頃から本格的な官僚階級が生まれてきて、知性のある人は豊かな暮らしが出来るようになり、文字の読み書きが出来る人というのは庶民の憧れの対象になる。
奈良時代には平城京の役人たちの間で先祖が韓国人という系図を作るのが大流行して朝廷がニセ系図を作ること禁じている。渡来人は文字の読み書きに強いつまりインテリの血筋というイメージがあったため、先祖が韓国人というのは憧れの対象だったわけだ。
学力によって身分が上がる社会になると、その国の知的水準が向上する。ネトウヨは低学歴低知能だから、自民党議員のような世襲政治家が好きで学力による境遇が決まる社会をとても嫌っている。
底辺ネトウヨは韓流をねつ造というが、歴史を知らないから馬鹿な勘違いをするだよな。天皇自らが桓武天皇の皇后が韓国人であり韓国との縁を感じると言ってたのにな。 そうじゃなくて、
古代朝鮮半島にはBC200 以前から
倭人や中華移民が居た。
単に国は無いから植民地だった、
なんで、今、謎の民族朝鮮人に乗っ取られてるんだ?
日本は古代史を間違って併合したんであって
朝鮮半島の原住民の歴史を作るべきだろ?
多分、居ないんだけど。
作れると思うよ。 >>118
ヤマトは原日本と大陸のハーフなんだけど、天孫族になって他の地上族とは違うんだってのが本音。 日本は対馬にあったかもしれないミニ国家
倭国は慶尚南道と福岡にまたがる大きな国 新羅 しんら
百済 くだら
加羅 から
耽羅 たんら
奈良 なら
あっ・・・ 「奈良」だとそうでもないが、「那羅」と書くと途端に半島の国っぽくなる 安羅、加羅、新羅、耽羅とか住民が倭人だもん。それは仕方ない。 奈良は、百済系だよ
(北部九州は新羅系)
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)と表記・呼称される。熊川(錦江)のほとりの都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる オレも奈良は韓語と解釈するのが正しいと思う。
奈良を均すのナラとするのは記紀にある話が元になっている
崇神天皇が武埴安彦命を討伐し兵隊が戦勝に喜んで皆で草を踏み均したという話だ。皆でジャンプして喜んだから野原の草がみな潰れてぺたんこになったという事だろう。
しかしこれは典型的な地名起源譚でお伽話のようなもの。
平城京の工事で土地を均したからという説もあるが、それならば藤原京も平安京も奈良と呼ばれるはずなのに、格の如くの話は聞いた事がない。
やはり奈良は韓語のナラが適切であろう。
記紀は大和朝廷が都として平城京を作ったと言っているが、当時のインテリ階級や都市住民の多くは渡来人だったから、昔の百済の都と同じものをより大きくして倭国に作った復興したという意識であったに相違ない。
だからウリナラということでナラという地名になった。 紀元前に秦から男女3000人が日本にやってきたでしょ
それが日本人の祖先だと思うよ
隋書倭国伝にも、筑紫より東はまるで中国って書いてあるから百済とか関係ない >>128
ちょっと訂正
隋の時代に難波と大和を訪れた裴世清が
筑紫より東は秦王国って言ってたんだよ 朝鮮人は、日本を作ったのは朝鮮人って言いたがるけど
朝鮮なんかが出来るずっと前から中国人が日本に来てるんですよ 朝鮮語のナラは国という意味だろ
奈良は国じゃなくて都なんだから、朝鮮語ならドかキョのはずなんだが >>130
で、中国人が日本に来てた証拠の考古遺構は?
サギサギチンク、サギチンク(嘲笑 >>130
そんなものは一部の朝鮮人の願望だろw
そもそも百済人は朝鮮人ではないからな、
ただ、日本人の顔を見ても半島からやって来た北方アジア人の血は入っているのは間違いなかろう。
朝鮮語を話してないから、朝鮮人ではないけどね。 板橋義三 『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』
板橋論文を大幅にかいつまむと次のようになろう:
総計111の高句麗語が収集され、そのうち47語は日本語に同源語が見られる。
周辺言語との比較では、日本語との同源性が一番高い。
僅か111語で何が言えるか?とも思ったり、その僅かな中でも47語、と濃厚に日本語との同源が推定出来る、というのは大変なことだ、とも思ったりする。
山 高句麗 γapma 日本 yama
熊 高句麗 kun[m] 日本 kuma
木 高句麗 kil/kir/kin 日本 ki/ko2i-
心 高句麗 kor 日本 ko2ko2ro2
馬 高句麗 ma 日本 ma
鉛 高句麗 namur 日本 namari
白 高句麗 sirap 日本 siro:sira-
兎 高句麗 usiγam 日本 usagi
谷 高句麗 tan 日本 tani
三 高句麗 mir 日本 mi
五 高句麗 uc 日本 itu
七 高句麗 nanin 日本 nana
十 高句麗 tok 日本 to2wo 百済人も日本書紀を作って必死に万世一系、神、土着を主張している
百済が日本と名乗ったのは、百済ぼかし。つまり唐の百済残党狩り逃れなんだな
日本(くだら)でいいじゃん 日本語と関係があるかもしれないと思っているのは、濊語。
つまり旧高句麗地名から推定される言語で、それが日本語に近いのは間違いない。
実際には高句麗語を反映するというよりも、倭人(濊人)が半島でモザイク化して居住していて
半島日本語の地名を残したとか、そんなイメージではないかと思うんですけど。
それを河野六郎先生がはじめて濊人の言語ではないかと言い始めた。
きっかけとなった証拠は、もともと朝鮮で倭人をなんと呼ぶかというとjejですね。これが濊の字音jejと一致します。
倭人の字音はwajとなるはずなんですが、中期朝鮮語の資料ではjejと呼ばれている。
それが現在の中国東北部、「夫余」の地域あたりまでJaponicで解ける地名があると言われています。 >>138
ワイ人の言葉は高句麗人と同じと中国の資料に書かれているのだから、
おそらく、倭人の言葉と百済支配層の言葉は通訳無しで通じたのかも知れない。
百済人と倭人が仲が良かったのはそういうところだろう。 侵略者が教える歴史は嘘がてんこ盛り
みんな歴史を勉強して分かったつもりでいても、色々と隠されている部分がある
例えば、1300年前に天皇が来てから無数の戦いが勃発する
なんたらの乱、なんたら合戦、なんたらの戦い・・・いつも日本のどこかで戦闘を行っている
それは全て、新羅人天皇(北朝)と百済人天皇(南朝)の戦いなのだ
半島から来た2系統の天皇が、日本列島上で私利私欲で争っているだけの無意味な歴史
隣の家の庭でネコが喧嘩していたのが喧嘩しながら自分ちの庭に移動してきたぞ、という情けない歴史なのだ
その外来種の喧嘩を小説やドラマで見てるバカはいっぺん死ねと思う
そういう戦闘にアイヌ系の原住民も巻き込まれているのだが、それは歴史上では語られない
超下らないな日本の歴史は >>109
「日本」の国号成立に百済人が関与か
https://livedoor.sp.blogimg.jp/rakushigotojyutsu/imgs/5/7/57d59532.jpg
中国の古都・西安で見つかった墓誌に「日夲」の文宇が見つかった。墓誌は678年の作としている。
日本と名乗るようになったのは大宝律令(701年)からとの見方が有力だが、墓誌が本物ならさらに遡ることになる。
祢軍という百済人の軍人の墓誌で、676年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために倭国は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江の戦いで唐・羅連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は「于時日夲餘噍據扶桑以逋誅」と記述している。
墓誌銘の文章は、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったものと見られる。
倭国はヘジュァ(海左:海東側)、ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記されており
碑文の「日夲」は現在の日本を指したものではなく、中国から見る「日が昇る所」という意味で、すなわち百済を示す。
日本書紀に「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類」とあり、「餘噍」は、百済の君臣の残党と推定できる。
「扶桑」は、中国神話で東方のはてにある太陽を生む樹と言われ、後世、扶桑国は、中国における日本の異称となった。
よって、碑文の解釈は「日夲の餘噍(百済の残党)は、扶桑(日本列島)に立て籠もり、誅伐をのがれた」となる。
このことからイ・ヨンヒョン学芸士は「日本の国号成立に百済人が関与した可能性が大きい」と分析した。 >>134
×日本人の顔を見ても半島からやって来た北方アジア人の血は入っている
○日本人の顔を見ても沿海州からやって来た北方アジア人の血は入っている 倭国の古語で大王を「タラシヒコ」と言い、太子を「ヒツギノミコ」と呼んだ。
これだけでも韓半島の文化的影響が明らかである。いや明らかという以上に韓半島起源と言ってしまって良いだろう。
まず高句麗の始祖である朱蒙は衆解ともいう。この名前の末尾の「解」は「日」と音通しており、倭語の「ヒ」とも共通する。
後魏書には朱蒙を日子と記述しており、ここから朱蒙は「ヒコ」であった事が分かる。
この「解」は高句麗や新羅などの韓民族系の王の名の中に頻繁に登場する。
例えば新羅王の南解や脱解や奈解、高句麗王の解儒留や解朱留や解愛婁など、特に初期の王に「解」が多く用いられている事が分かるだろう。
上代の韓民族には太陽信仰があり、そのために王は太陽をその名に負ったものと考えられる。
この「ヒ」であるが、記紀に天孫とされる人物の名前にも多く見られる。
例えば物部の祖の邇芸速日(ニギハヤヒ)、神武の別名の稲飯(イナヒ)、出雲臣の祖の天之菩卑(アメノホヒ)、忌部の祖の天日鷲(アメノヒワシ)など数多くいる。
ちなみに欠史八代の開花の名はオオヒヒであり、大いなるヒの中のヒつまり諸王の王と解釈できる。これはオレが欠史八代にモデルとなった人物が居たのではと考える理由のひとつでもある。
ここから古代の韓半島には太陽信仰があり、日本人の首長が彦(ヒコ)や姫(ヒメ)を名乗ったのは韓半島の文化的影響と分かるであろう。
隋書に倭王はタラシヒコと記され、記紀でもタラシヒコを名に負った天皇が多く見られる。
記紀にある日継や日の御子などの称号から倭の大王はヒの王であった事が明らかであり、ここから日本の天皇という存在の起源性を韓国に求める事が可能なのである。 >>144
おまえが撲滅の対象だろw
>古代の韓半島には太陽信仰があり
資料付きで頼むわ。 >>141
>それは全て、新羅人天皇(北朝)と百済人天皇(南朝)の戦いなのだ
具体的には?
資料付きで頼むわ。 李基文によると高句麗の言語は韓国語とは系統的に全く違うそうだ。
倭語にかなり近い言語ということなので、日本の歴史として扱うべきではないか。 >>144
おまえは外国人だからわからないのだろうが、ミコ というのは 御子 要は尊いお方のお子様という意味だよ。
ヒコ は よく古代人の男の人の名の最後につけられる語(例えば海幸彦・山幸彦・猿田彦 とか)
韓半島とか何も関係無いだろってのw
>>147
>日本の歴史として扱うべきではないか。
意味がわからないwww
言葉が近かろうが、外国は外国だよ。
日本には日本の歴史がある。
言ってることが頭がおかしいw 朝鮮半島(三韓)の国名の中から、倭国と明らかに同一か、よく似ている名を取り上げてみます。
「邪馬(やま)」 弁韓には彌烏邪馬国 倭国には邪馬台国
「狗邪(くや)」 弁韓には狗邪国 倭国には狗邪韓国
「樂奴・華奴」 弁韓には弁樂奴国 倭国には華奴蘇奴国
「躬臣・古資」 弁韓には古資彌凍国 倭国には躬臣国
「不彌(ふみ)」 馬韓には不彌国 倭国には不彌国
「卑離・巴利」 馬韓には卑離国 倭国には巴利国
魏志に記された地名だけでも、倭と韓ではこれだけ一致するもの、似たものがあることが分かりました。
これらの地名は、弁韓(任那)・馬韓(百済)の地域にいた半島日本語の話者が、
列島に移住後も故地と同じ名を付けたことを示しているのではないかと思われます。
特に彌烏邪馬国は邪馬台国のヤマでもある点は見逃せません。 始皇帝がつくった皇帝に代わる新しい君号が天王、天皇。
日本の中華と対等である意思表示は五世紀中国の後継だからこそできる。 百済 ペクチェ クダラ
高句麗 コグリョン コウクリ
新羅 シルラ シラギ
なんで百済だけ訓読みなんだ? 「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」
「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」
「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」
「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」 日本も天皇も音読みだからな
つまり当時の中国語(外国語)で読んでいた
今で言えば「エンペラー・オブ・ジャパン」を自称していたわけ
本来のヤマト言葉で読めば「ひのもと」「あますめらぎ」になる
成り立ちからして東夷の雑魚国の王まるだしなんだよな天皇って >>156
だから百済人と朝鮮人は違うんだっての。
百済語が日本語に近かったという証拠だろwww
おまえも、あったま悪いよねえw >>156
ほれ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%8A%E8%B2%8A%E8%AA%9E
”『三国史記』に記された「高句麗地名」の記録から、
古代朝鮮半島に倭語と同系統の言語が、倭人が定住していた朝鮮半島南部に限らず朝鮮半島の広範囲に分布していたとの説があり、
その「高句麗地名」は高句麗語ではなく、?語であり、倭語と?語は共通祖語・同系統の言語であるとの説がある。”
こういうことだよ。 >>159の修正
>『三国史記』に記された「高句麗地名」の記録から、古代朝鮮半島に倭語と同系統の言語が、
倭人が定住していた朝鮮半島南部に限らず朝鮮半島の広範囲に分布していたとの説があり、
その「高句麗地名」は高句麗語ではなく、ワイ語であり、倭語とワイ語は共通祖語・同系統の言語であるとの説がある。 文字を持たなかった倭人を教化したのが、百済のワニ博士だ
「隋書」 列伝第四十六 倭国 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
(訳) 倭国は文字を知らず、だた木に刻みを入れたり縄を結んで記録する程度であったが、仏法を敬い百済から経典を求めて得たことによってはじめて文字を読めるようになった。 百済 ペクチェ クダラ
高句麗 コグリョン コウクリ
新羅 シルラ シラギ
なんで百済だけ訓読みなんだ? 百済(くだら)と新羅(しらぎ)
この読み方だけは、日本のこう読ませた王朝と
これらの国々との関係を決定的に定義づけざるを得ない
日本人はこの事実から逃げることはできない >>163
クダラという言葉もシラギという言葉も現地語の日本語化した言葉だろ。
つまり、
それらの言葉が朝鮮語では意味を成さないのであれば
その当時、百済・新羅両国で使われていた言葉が朝鮮語ではないなことを示す。
その現実からキミは逃れられないwwww 漢帝国→拓跋帝国→大日本帝国が正統な漢
漢帝国→拓跋帝国→モンゴル帝国→満州帝国はもう古代漢の面影もない 現代では、朝鮮半島に倭語と近い言葉を話していた民族が住んでいたであろうことが明らかになりつつある。
それが弥生人の日本に渡る前の日本人の源流の民族なのか、倭から渡った倭人の一派なのかは不明だが、
明らかに朝鮮民族とは違う系統の言葉を話していたであろうと想像できる。
新羅の建国神話にも倭人が絡んでいる。
このような神話から、当初新羅を建国したのは、半島に住んでいた倭系民族であった可能性は高い。
それを韓系の民族が乗っ取り(被支配層のクーデター?)、のちに新羅の歴史書を作るときにその前史も合わせた可能性は高い。
新羅はそもそもが弱小国だったわけで、
北方の扶余系国家高句麗や高句麗の一派が支配層となって建てた百済に比べて非常に国力の弱い国家だった。
それが外国勢力をうまく使って、最終的に半島を統一するまでになった。 O1b2には色々な型があり
大阪に確実に百済系(濊系)と見られるO1b2型が20%以上もいるのは畿内政権=百済同系説を推していると言わざるを得ない
百済ハプログループO1b2-L682
https://i.imgur.com/IjCtWvl.jpg >>167
それは百済人ではなく伽耶人だろ。
日本の畿内政権は伽耶からウマを持ち込み渡ってきた”天孫族”が建てた政権だろ。
おまえはどうしても倭国が百済に支配されたことにしたいのだろうが、
言語が扶余語系なのと、倭国が百済に支配されたという話は全く別問題だろ。
倭国が半島に領土を持っていたのは、もともとの”天孫族”の故郷が伽耶にあったからだろう。 かつて朝鮮半島には日本語と同系言語を話す人々が大量に存在した。
これは757年の地名改正による「高句麗地名」の音訓表記から明らかであり、これを濊人の言語であると考える。
百済及び伽耶諸国と大和朝廷のきわめて密接な関係は、この濊人の仲介によるものであり、そのため通訳も必要ではなかった。
弥生時代からこの濊人を中心とした大陸倭語の話し手は何波にもわたって渡来し続けてきた。
しかし白村江の戦以降、半島側での倭語は消滅した。
列島側では半島とは異なる国家としてのアイデンティティ確立のため、制度は一新され、半島との関係は消し去ろうとした。
日本列島におけるアクセントは周圏論的な分布を示しているが、比較言語学からは中央に位置する方が祖体系であると考えられている。
無アクセントの諸方言(八丈型基層語)が日本語の古い特徴を保持しており、これらの特徴には内的関連性があると考える。
これに対し、母音優位・有アクセントの言語(近畿上層語)は遅れて広がったが、それ以前は八丈型基層語が広範囲に分布していたとみる。 8世紀濊語と平安アクセントの間には語の高起・低起に関して類似した特徴を有する可能性がある。
BC11世紀から統一新羅時代にかけて、朝鮮半島において濊語集団の活動が確認される。
濊人は中国沿海から東渡した海民として漁撈の加工品の中国市場への流通に関わる一方、
水田農民として、鴨緑江以北から朝鮮半島最南端に至る全域で活動していた。
BC1世紀には、楽浪郡の濊語話者の中には、漢字と中国語を非母語として習得する者が現れ、
4世紀の魏晋代には、江原道の濊人は、「濊貊」を「東濊」と改めるほどに漢字文化と華夷意識を内面化していた。 関西弁が日本のなかでもあれだけ特異なのは
畿内に住み着いた支配層が
半島日本語(Peninsular Japonic)を話す百済人だったから
関西弁とかいうけど、実際はただの百済人の方言 >>123
新羅はしらぎ、耽羅はたむら
奈良はなら
奈良県の名称は俺的にやめてほしいんだけどね
あの国のウリナラのナラと同じ意味だからね 韓国の作った歴史はどうせ偽物だし。どんどん馬鹿晒して笑いものになってね。 ナラは朝鮮語で国を意味する
つまり奈良は半島国家を意味する言葉
県名は大和に変更すべき ウリナラ ウリインミネ サルシアン ミディアム ロサリオ スンニーラ
偉大なる大元帥様の勝利宣言である >>172
朝鮮語はどこの国の言葉なんだろうね
今の日本語とは全く違うから >>172-176
まさに朝鮮人マインドですねwww
一つの都市の名前になんで”国”という言葉を使うんですか?www
その時点で全く適当で整合性の無い日本堕としやなw
頭悪い事しか言えないなら黙ってろやw >>178
奈良は朝鮮語なんです、その当時は地域国家なのであのあたりが朝鮮人国家だったと
いうことなんです
ウリナラのナラは国家を意味する ヴォヴィンは済州島の古い名前は tam Mura であり、日本語では「谷村たにむら」または「民村たみむら」と分析できると指摘しているね。したがって、ヴォヴィンは、15世紀以前のある時期に韓国語話者に取って代わられるまで、済州島には日本語話者が存在していたと結論づけている。 >>181
済州島を李承晩に追い出された連中の子孫は、韓国民を自称してるんだけどね
歴史的背景考えたら、バリバリの日本人だよね
それも本土の日本人以上の日本人だよね 済州島は耽羅だよ。倭国ではない。騎馬系の民族と言われている。トンハルバンから見るにモンゴル系だろうね。 >>184
李承晩に追い出された連中は少なくとも騎馬民族ではない
日本人と変わらない じつは渡来人もまた複数の言語集団であった
彼等はおもに4つに分かれる
百済系 (半島日本語 = 近畿上層語 = 日本語)
倭系 (八丈型基層語)
韓系 (古代出雲語 = 新羅語 = 朝鮮語)
琉球系 (九州・琉球祖語 = 琉球語) ハングルって出雲文字ってことを
朝鮮半島の人たちは知らないからね
出雲王朝のアヒル文字とハングルは全く同じ
李朝時代になぜかアヒル文字が朝鮮文字に
されてしまった 百済が半島日本語ってのもおかしいだろ書紀の百済人名が日本の名前に見えるか?え? 記紀からして、ウソの神話で始まり、あたかも日本人が日本列島の古来から存在してきたように見せかけ
しらーっと史実に移り、「さあ、東征して土着のバケモノども(毛人)を退治しにいくぞ!」って荒唐無稽な矛盾
いや、おまえら明らかに朝鮮半島の百済から降って湧いた侵略者だろ、てツッコミ待ちのギャグ内容だからな >>190
バカなの?w
言葉が違うだろってのw
征略伝説も何もない琉球方面の人の言語も日本語と同じ系統の言葉を話す。
列島にはかなり古い時代から日琉語族の言葉を話す人々が住んでたということの証しだろが。 白村江の戦、「日本」について
http://sakuwa.com/yz.html
>東野治之・奈良大教授(日本古代史)
>「『日本』は百済の残党の活動,『風谷・・・』は高句麗が唐の侵攻に備える様子を記しているのでは」
>中国・鄭州大の葛継勇副教授
>「『日本』と『風谷』『扶桑』と『盤桃』は対句で、ともに東方を指す言葉。抵抗する百済の残党のことを指している」 >>192
こじつけだろw
いきなり”日本于時日本餘?…□桑” って国号が出てきて、
欠けている部分を合わせて”扶桑”と言うことにしてる事自体が無理やりだろww
それもあれは”日本”という字かは怪しい。
日とされてる字は耳という字の一本横棒が欠けた字、本とされてる字は大の下に十が書かれた字、に見える。
旧字体かどうかも怪しい。
その証拠に今のところ、日本ではまともに相手にされていない。
要は日本人を意識した中国人・韓国人の希望的な異説に過ぎない。 とにかくだ、
中韓人がいくらほざいても、現時点で日本人は、中韓人とは系統が違う言葉を使っている限り、
百済日本征服説なんてのは韓国右翼の唱えてる根拠なきデタラメw。 日本は百済に制圧され、韓国は新羅が統一した
言語が違うのは当然 >>195
だから制圧した証拠なんてないだろってのw
いつまで言ってるんだ? キチガイw >>196
大阪の住吉区が百済だらけなわけを説明せよw
百済駅とか百済なんちゃらの地名とか 百済は歴史がない=敗者だときちんと学ぼうぜ!
人類史の基本 なぜキチガイの説が成り立たないかを説明。
1,痕跡が残っていない。
2,当時の百済の環境はよその国を攻め滅ぼすような状況ではなかった。
3,キチガイが考えるほど当時の倭国は弱くはなかった。
4、キチガイが考えるより倭国の首都は奥深くにあり、途中に別勢力が存在している。
5,キチガイが考えるほど当時の百済には武力はなかった。
6,倭人の話している言語と同系言語が、当時倭国の支配下にはない南西諸島方面にも広がっていること。
=現在の日本語が百済語の影響とは関係なないことの証し。
etc… >>197
百済人が大量に難民になり移り住んだだけだろうよ。
国が滅んだんだからな。
それをもって百済が日本を支配したとか言ってる事自体がおまえら朝鮮人の妄想にすぎないw 逆に百済いう言葉を頭に付けてる事自体が異質な地帯であることを示している。
仏教の伝来を始め、黎明期の日本に百済は大陸の文化を伝えたのは確かだろう。
しかし、それは文化を伝えたという事に過ぎない。
百済が日本を政治的に支配した痕跡なぞどこにもない。 属国、滅亡まで記録された百済王に天子になれる要素が全くないわけだが。何処にそんな権威あるんだw だからと言って、現代朝鮮、韓国人が現代日本人と別れた兄弟民族だと主張する根拠にはならない。
百済王族は祖国滅亡後は大和朝廷から百済王氏(くだらのこにきし)を賜って、臣下となっている。
百済王族が日本皇室を乗っ取ったなんて、ウリナラファンタジーに過ぎない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%B0%8F >>203
ウリナラファンタジーなんてものじゃなく、
日本社会にいじめられて気違ってるやつが5chでマウンティングしてるだけだろw
ここ学問板なんだからさあ、ちゃんと証拠出しながらレスしろ、って話。 高句麗、百済の扶余族が日本人になったと言うなら、広開土王の好太王も日本人やったって事にならない?
なら、姦国海軍の駆逐艦にそんな名前をつけるのはおかしくね?
まして「クァンゲト デワン」なんて変な読み方せず、キチンと「こうかいどおう」と読むべきじゃね? あたまのおかしい韓国系の言うことをまともに取り合う必要もないのだが、
風評被害もあるからね。
日本で社会科教育、歴史教育がより疎かにされてしまったから、
チョン礼賛若造や、逆に頭悪いウヨどもが、双方トンデモ説を垂れ流して
気違ってるんだろwww
まともな歴史観を持ってる身としては、双方はなはだ迷惑な話w 結局百済人を無理やり古代朝鮮人に入れてマウント取ってホルホルしたいんやろう?
でも、百済人の言語と上代日本語が近い言語やったんなら、現代朝鮮、韓国人とは全く垢の他人って事にならへんか?
事実、朝鮮って国も民族も日本より遥か後に成立したんやし、ほぼ無関係やん。 >>208
>事実、朝鮮って国も民族も日本より遥か後に成立したんやし
そういう発言が無知だって言ってるの。
国が成立したのは半島のが早いのは現実だよ。中国の影響も強かったから、
文明も倭国よりは開化するのも早かった。
ただ統一されたのは遅かったし、自国の歴史書が編まれたのが遅かったのも事実。
新羅や高麗でも自国史は編まれたであろうが、両方とも国が滅んだ時に散逸してしまっただろう。
だから、古代においては、文明の程度はやはり半島は先進地域だったのは事実だよ。
それは事実として押さえておこうね。 >>209
あのさあ、「朝鮮」って名前の国や民族の事を言うてるんやけど。
日本人でも、古代は「倭人」とか呼ばれていた訳やん。
それに、古代の百済、高句麗人は「扶余」と呼ばれた騎馬民族やったんやろ?
現代韓国、朝鮮人とは繋がらない、異民族やったって事やない?
それを在コ共は、あたかも先祖の偉業の様にホルホルしてんの?
どうせ李朝の時代は、扶余族を迫害しまくったんやろうし。 だから、現代韓国、朝鮮人が百済人の事を誇ってマウントを取りに来るのって、現代中共国人が元朝のフビライ・ハーンやその祖父のチンギス・ハーンを中共国人の先偉大な先祖やと誇っているように感じる。
俺には違和感マシマシや。 >>210
いやいや、つながらないってことはないだろ。
時代時代により支配層が変わったということで、住民自体は連続してるわけで。
ジェノサイトされたわけじゃない。
なんでそういう非現実的な考え方になるの?
受け継がれるものもあれば、時代により変化していくものもある。
>>211
中韓人は儒教文化に根差してる文化・民族は尊重する傾向がある。
だから北方民族や蛮人とされる民族は蔑み、漢民族は崇める。
モンゴル人・女真人・倭人は蔑み、
血筋として繋がっていて、漢民族の文化にどっぷりつかった百済人や高句麗人は
崇める。 >>212
スレタイは百済の王子が日本に逃れてきて天智天皇になったって話なんやろ?
百済の庶民とちゃうんやろ?
なら、支配層とちゃうか?
それとも、百済の王侯貴族が現代韓国人の祖先なんか? >>213
韓国人は扶余族は自分らの祖先の一つだということにしている。
実際血を引く人はそれなりに多数いるだろうけど、
文化としては百済・高句麗が滅んだ時点で一区切りついている。
王族直系では無いのだろうが、扶余人の血を引く人は少なからずいるであろう。 >>214
扶余の血を引く人は居るやろうね。
だけど、高麗、李朝時代のその人達の立場ってどうやったんやろね。
朝鮮人が同民族として見ていたんやろうか?
白丁として物の様に扱われていたかも知れんで。
オレには戦後に反日教育の駒に都合良く持ち上げて来た位にしか感じないな。
小中華思想と日本に不法滞在するのを正当化する為にな。 李氏朝鮮王国じゃ朱子学の儒教を国教としたんで、ご先祖を丁重に祀るのが徳に繋がると考えていたらしい。
だったら、高句麗、百済に纏わる建築物や文化財を大切にするんやないのか?
しかし、実際はそんな事には全く興味を示さず、放置して朽ちるに任せていた。
日帝統治時代に修復した寺院や文化財は結構あったと聞いている。
また、広開土王碑を韓国の学者は日帝が建てた捏造品だと主張したらしい。
こんな事をしてきて、今更
「高句麗、百済、渤海はウリ達のご先祖が建てた朝鮮民族の国家荷駄!」
やなんて、呆れ果てる程無恥厚顔な言動にしか思えない。
アチラの言葉では「鉄面皮」やったかwww 広開土王碑には韓国的に非常に面白くない内容が書かれているから
韓国の学者が認めなくない気持ちはよくわかる >>211 尚氏の先祖は源為朝だと琉球人は主張していたから、現代沖縄人が尚氏王国のことを誇るのは違和感マシマシや
…って言ってるのと、同じようなことやな >>210 扶余が存在してた頃に朝鮮民族なる枠組み自体が存在してないし、李朝の時代には扶余族なる存在は他民族にすっかり同化してしまっている >>218
う~ん、ちょっと違うような。
琉球王国って明治時代まで続いていた、沖縄の1つ前なんやし。
それなら、尚氏の2つ前位の王国があったとして、それを自慢してる感じかな?
だけど、沖縄の琉球王国以前やと、三山王時代位しか知らん。 >>219
せやね。
それに韓国では箕子朝鮮や衛氏朝鮮を拒絶して、高句麗や渤海は自国の歴史に入れて騒ぐのが余計に解らん。 >>220 >>211の論法を使ったら、大内氏は百済王子の末裔を自称してたから、山口県民が大内文化を誇りにするのはおかしいとか、色んな言い方ができる >>222
う~ん、ちょっと違う。
もし山口県民が昭和時代が終わるまで大内氏の「お」の字も言わなかったのに、平成時代になって突然何かの切っ掛けで「我々は大内氏の子孫だ!祭りだ!祭りだ!」って騒ぎ始めたらどう思う?って言えば解るかな?
もう一つの例えを出すなら、韓国が旭日旗をサッカーWC日韓合同開催の前後でどう扱う様になったか?
の方がわかり易いかな? >>223 朝鮮人が近代になるまで、百済の「く」の字も言わなかったなどという事実はないが
高麗時代の『三国史記』の時点で、百済軍のことを「我軍」を表現してるんだからな
高麗は新羅のみならず百済も継承しているという考え方に立っていた >>224
じゃあ、李氏時代はどうやったんやろ?
あの時代こそ現代韓国人に直結してんのやし、通信使でお互いを行来してやんやし。
手記や記録は残っとるやろ。 >>225 李氏朝鮮時代に国王の命で編纂された『三国史節要』は「三国に正統無し」。
民間レベルだと、百済滅亡を詠った「落花岩」の漢詩も、李氏時代に何人も詠んでるしな
百済のことが、朝鮮の歴史で忘れられたことなんかないわ
朝鮮で忘れ去られてて、近現代になって思い出された王朝があるとしたら、渤海だわ。渤海の復権は、明らかに戦後のこと >>226
じゃ韓国、朝鮮人が百済や高句麗の末裔だと称して日本人にマウントを取りに来るのは、最近の事ではないと言う事か?
何時からそんな事を始めたんや? 百済の扶余勇が倭国に渡って日本と称す。
旧小国というから太宰府辺りの羅城で囲まれたところを日本と唱えた? 白村江のあと、第二品の達率だけでも50名来ている。第十六品まであるのだから倭国に渡った百済貴族の総数ははかりしれない。これらは支配者層ですから一国の支配者が倭国移動したと言える。 なぜキチガイの説が成り立たないかを説明。
1,痕跡が残っていない。
2,当時の百済の環境はよその国を攻め滅ぼすような状況ではなかった。
3,キチガイが考えるほど当時の倭国は弱くはなかった。
4、キチガイが考えるより倭国の首都は奥深くにあり、途中に別勢力が存在している。
5,キチガイが考えるほど当時の百済には武力はなかった。
6,倭人の話している言語と同系言語が、当時倭国の支配下にはない南西諸島方面にも広がっていること。
=現在の日本語が百済語の影響とは関係なないことの証し。
etc… 1,痕跡が残っていない。
→日本書紀天智紀に残っている
→それはあなたの想像ですよね
3,キチガイが考えるほど当時の倭国は弱くはなかった。
→これもあなたの主観ですよね。
4、キチガイが考えるより倭国の首都は奥深くにあり、途中に別勢力が存在している。
→倭国の首都は畿内にある。孝徳の時に律令制が敷かれ倭国は統一されている。
この倭国勢力の支配層も百済出身だったので、あたらしく渡来した百済貴族に逆らわなかった。
あからさまに対立するのは壬申の乱。
5,キチガイが考えるほど当時の百済には武力はなかった。
君の主観ですよね。
6,倭人の話している言語と同系言語が、当時倭国の支配下にはない南西諸島方面にも広がっていること。
=現在の日本語が百済語の影響とは関係なないことの証し。
→百済支配層の言語は高句麗語で、百済支配層の言語が倭人の言語と混じった。
高句麗語が朝鮮語より日本語に近いのは百済支配層が倭国を支配したからだ。 アリバイの異なる扶余勇と善光を同一人物とするのは
扶余勇=天智の結論に行きつかないようにするトリックか? >>231
まず他スレで上げた私の根拠ねw
なぜキチガイプヨヨヨンの説が成り立たないかを説明。
1,痕跡が残っていない。
百済と交流してた記録、
百済人が移住してきた記録は
多数あるが、
百済が倭を支配してたなんて記録は
どこにもない。
そもそも
プヨヨヨンはなぜ百済が倭国の上位国に
なったのかの経緯についてはなんら説明
できていない。
2,当時の百済の環境はよその国を攻め滅ぼす
ような状況ではなかった。
周囲を強国に囲まれ、付近(伽耶地域)
のを新羅と争ってる時点で、
遠く倭国まで遠征出来る余力があるわけ
がないw
まともな思考回路を働かせてくださいw 3,キチガイが考えるほど当時の倭国は弱く
はなかった。
高句麗までチョッカイだしてるんですよ。
三韓は一時は倭の傘下にあったと記録
されてるわけだしw
それは、少なくとも半島に倭人の足跡
があったということ。
勉強しろやw バカw
4、キチガイが考えるより倭国の首都は奥深く
にあり、途中に別勢力が存在している。
百済から兵を出して、
途中に根拠地も作らず、遠く畿内まで
攻め込めるはずがなかろうwww
万が一 おまえを軍の参謀にしたら、
あっという間に敗北してしまうw
もう、これ聞いただけで、
おまえがノータリンなのがバレバレw 5,キチガイが考えるほど当時の百済には武力はなかった。
4、の記事で説明したように、周囲の国と争ってる段階なのに、
どうやって遠国まで遠征することが出来るんだよ???www
余力も暇もないだろって話www
ほんと常識で考えろよ。
まじ笑わせるよねwww
6,倭人の話している言語と同系言語が、
当時倭国の支配下にはない南西諸島方面にも広がっていること。
=現在の日本語が百済語の影響とは関係なないことの証し。
沖縄の言葉は日本語の古語と共通する。
そして、これを話すと嫌がる沖縄人もいるだろうが、
沖縄の人の基本的風貌は、
本土人よりも日本の縄文系・アイヌ系に近い。
要は沖縄の人は本土人よりも旧モンゴロイド的風貌である。
でも話す言語は日琉語族の言葉。
このことが何を示すのかわかりませんか?
日琉語族はかなり古い時代から、半島の影響とは関係なく
南西諸島まで広がっていたということだろ。 太宰府、大野城、水城等及びこれらを結ぶ羅城は665年には完成したようだが、これらは白村江で負け倭国に渡ったと旧唐書に記される扶余勇を主とした百済人達の痕跡。 >>236
それはおまえの勝手な決めつけだろ。
負けた勝ったをいったいどこで判断してるんだよ???w
おまえら朝鮮民族の祖先が日本人を支配した、それを無理矢理でも史実化したいという
願望以外ないだろwww
おまえが一番認識が間違ってるのは、百済は敵対的に倭国を見ていたという点だろうな。
それに対して日本では、百済は倭国に対して友好的だった、少なくとも態度の上では、
ということが前提に古代史は教えられている、ということであろう。
実際、百済は倭国に対して友好的に接する方が、色々な意味で得になるわけで。
粗野な倭国人に対して、へりくだって、友好的に接する方が、倭国人は良い気分になり、
色々優遇してくれるであろうから。
百済というのは仏教国家だったから、慈悲的な感覚を持っていたであろう。
日本には ” 情けは人(他人)の為ならず ” ということばがある。
当時の百済人は、そういう知識を持っていたであろう。
時間をかけて、百済は倭国と良い関係を構築したわけだ。
おまえのように幼稚で短絡的に 負けだ勝だ にこだわらず、支配だの被支配だの、
上下関係を作らず、友好的な関係だったんだよ。
なんで百済人の子孫のおまえら朝鮮人はそんな短絡的で幼稚な民族に成り下がったんだろ??? 白村江敗戦で半島を捨てた扶余勇が倭国で国づくりを目指した。
その痕跡が大宰府、水城、大野城などの朝鮮山城、及び羅城。
彼は唐に降伏していないので、北部九州・対馬などに防衛設備として朝鮮山城、烽火台などを整備。 >>238
李承晩がそれを真似しようとマッカーサーに申し出た所、一蹴された模様。
百済王族は持統天皇から「百済王氏」の氏姓を賜って大和朝廷の臣下になったんやさか、それでエエやん。 >>238
だから
大野城のような場所の北部九州に根拠地を立てたのに、
なんで瀬戸内に山城作る必要があるの?www
話に全然合理性がないだろwww
所詮、おまえの考えてることは思いつきの妄想なんだって証拠だよw
バカw 扶余勇は九州北部に拠点を持った。倭国の要所、例えば難波を善光に任せたように、各地に配下の者を置き、倭国制覇に向けて活動した。瀬戸内海もそのうちの一つだ。一つずつの山城の必要性の説明はできない。そうして、近江まで支配地を広げた。それが近江京。場所は確定しないが、朝鮮山城はあるそうな。つまり、朝鮮山城は扶余勇とその関係者が支配した証の場所といえる。勇の死後に築城されたものもある可能性は否定できないが。 朝鮮山城は人民保護のためのもの。支配様式。日本には根付かなかった。 百済王氏を戴いたのは善光で扶余勇ではない。
扶余勇は天智天皇と呼れている。壬申の乱で扶余勇の男子の直系は絶えた。
義慈王の血を引くのは善光ということになり百済王氏という姓を与えた。
義慈王でなく義慈王の父武王の血を引く人が先に倭国に渡って政治をしていた。
天武がその系統である。
天武からみると、百済は親戚ではあるが、自分は百済から放り出された身分。
百済を逆に従えたかった。それで、義慈王直系に百済王氏を与えて家来にした。 それはおまえの思い込みだろw
何も根拠なぞ無いんだよw
どこにそんな根拠があるんだよ?
いつから、天皇家の本筋が百済王家になったんだよ?w
内外の資料を見てもどこにもそんなことは書いてないんだよ。
もし天皇家が百済王家の傍流なら、
誤魔化しようがなく、
そういう出来事が史書にも残るだろうがよ。
で、誰に対してごまかす必要があるんだよ?
悔しかったらこのスレ内で証明してくださいw
言い張ってるだけじゃなくよおw >>243
扶余勇が天智天皇なら、中大兄皇子はどうした?
入れ替わったと言うなら、母の皇極天皇や忠臣の中臣鎌足が気づかないはずがない。 百済の傍系(天武系)が百済の本家(百済王氏)を家来にするという異常事態が続いた。
危機感を抱いた桓武は百済の本流扶余勇(天智)に血筋を求め、百済の復活を果たした。 書記は扶余勇の航跡を天智天皇の後半部に使った。
書紀の作中人物中大兄皇子に私は責任を持たない。墓から掘り出された鎌足は実在。 奈良時代は百済の傍系の時代。
泉涌寺に奈良時代の天皇の位牌はない。
血筋が違うからだ。 高天原=半島南部
天孫降臨=九州移住
天皇家=朝鮮民族
土蜘蛛=原日本人 >>246-249
だからその根拠を示せって何度言ったらわかるんだよ?w
日本語わからないの? それとも示せないから、そうやってごまかしてるの?w
まあ、後者なんだろうけどさww
そうやってごまかしてばかりで嘘をつき通すところが朝鮮人w
嘘で固められた民族w そういや、この手の奴等は欽明天皇を百済の聖明王と同一人物とか言うてたな。
しかし、父親の継体天皇は無視やし、話がバラバラで噛み合わない。 一つずつ片付けよう。
扶余勇が北九州に南遷して大宰府、水城、大野城などを築いたことには異論がないようだ。
書記ではこれらを築城したのは天智天皇となっているから、天智天皇は扶余勇のようだ。
中大兄皇子は倭人で、扶余勇は半島から来ているから異なる人物をつなげて天智天皇としてあるようだ。
我々がすべきことは、旧唐書によって実在が保証される扶余勇の業績を書記のなかに求めることである。
天智紀の白村江以降を倭国に来てからの扶余勇を正確に記していると仮定して辻褄が合うかどうかなのである。
私は遺跡やその後の歴史の流れも辻褄が合うので天智紀の白村江後は倭国での扶余勇を正確に記していると思う。 扶余勇=天智が確信できれば、書紀の人物は正確に一人を表していないこともあるということになる。
それなら、他の部分はどうなのか?
皇極紀に目を向けると、ギョウキ王が姿を消し軽皇子が突然現れ、そして、孝徳天皇となる。
孝徳の業績は難波宮や律令制だが、事実と照らし合わせ説明が付き孝徳の業績は事実が書かれている。
孝徳の業績は倭人軽皇子の業績のようにみえるが、百済王族ギョウキのものと考えると腑に落ちる。
このやり口(百済人を倭人にすり替える)は天智紀の手法と同じであることに気が付くであろう。 私はまず存在が保証されるであろう人物を書紀や他国の史書や金石文から求め、
その後、書記と照らし合わせてその人物の実像をみつける方法を取っている。 >>257
この論文は上手いこと出来てると感じる。
しかし、最大の問題は書いた本人が所属も名前も出していない事。
だから、全く信用に値しない。
これだけの誇大妄想を論文形式で駆けるのは、ある意味凄い才能やと思うけどな。 名前を書いてないのは、書紀をもとに歴史を作ってらっしゃる方々と争うつもりがないから。
数学の定理に作成者の名前が必ずしもないのと同じで、読者が検証し、正しいと感じれば利用していただいて結構。
疑問があるなら、ここで質問反論すれば、お答えする。
不動の真実をもとにしているので自信あり。15年間考えた結論。妄想部分は少ないと思う。 大体、天智天皇から皇統が始まっている訳や無いんで、扶余勇が天智天皇だと言うなら中大兄皇子を殺して背乗りしたと考えるしかない。
つまり、扶余勇と言う人物は祖国復興に力を貸してくれた恩人を殺害してその地位を奪った人でなしの大逆人って事や。
こういうのは、半島人らしいとつくづく思ってしまう。 >>260
>>253に天智天皇と扶余勇の関連根拠を述べた。背のり等ない。
>>254に示したように、百済人を倭人にすりかえる手法。 >>260
百済復興に手を貸した倭国王は誰か。この倭国王は旧唐書に倭国酋長として実在する。
壬申の乱がヒント。近江と倭国の戦い。勝ったのは倭国。勝者は大海人皇子。
大海人皇子が倭国王だった。天武は百済復興に手を貸した倭国王。中大兄皇子等ではない。
天武は自分の敗北を歴史書に書きたくなかった。
ギョウキ=孝得に皇子がいるから彼が王位をついでに天武になったと考えるのが筋。 >>261
第一、扶余勇ってのは、百済復興に半島へ渡っていたんか?
義慈王の王子の扶余豊璋は旗頭として赴いているみたいやけど。
扶余勇は付いていってるのか疑問。
それに天武天皇が百済王家の傍系って、父の舒明天皇やその祖の継体天皇からして百済王家の流れなんか?ってなる。
だったらどの王からの別れなんや?
皇統が縄文人からの直系って考えは持って無いけど、百済王や新羅王の別れも滑稽すぎる。
倭王としての血統を無視して、
「オレが本流なんだから、オレに寄こせ」と割り込んで来ただけやん。
乙巳の変以前から中臣鎌足や蘇我石川麻呂らと協力関係を結んで無いと、「大化の改新」なんて出来ないやろな。 旧唐書に倭国に走るとかいてあるから、勇は半島から倭国に逃げた。
続日本紀には善光は白村江で渡らなかったので勇と善光は別人。
天武は武王の子ギョウキ王(=孝徳)の王子と考えられ、武王の孫となる。
なぜならギョウキ王には死んだ子供以外に子供がいた。その子が皇太子になるはずだから。
ギョウキ王が来日して3年目に乙巳の変が起きている。
ギョウキ王は書紀では別格というか主賓扱いで、百済の意向が倭国に届けられたのだろう。
大化の改新はギョウキ王が高名な人(百済貴族?)40名あまりと来ているので、政治刷新には十分な陣容。 それに、天武天皇が孝徳天皇の子?
年代も系図もメチャクチャ。
天智天皇=中大兄皇子関係~天武天皇即位までの簡単な年表を挙げとく。
645年 乙巳の変、母の皇極天皇退位、叔父の孝徳天皇即位 大化の改新スタート
655年 母が重祚して斉明天皇即位
661年 母の斉明天皇崩御
663年 白村江の戦い、日本敗北
668年 高句麗滅亡 天智天皇即位
672年 天智天皇崩御、弘文天皇即位 壬申の乱
673年 天武天皇即位
唐の皇帝がいつ泰山で禅定の儀を行ったかは知らんけど、天武朝時代は遣唐使も行き来してなかった様や。
https://imgur.com/a/yD3m67c 斉明天皇即位が大海人皇子の王位即位の代わりとして書かれたのだろう。
665あたりで勇が唐から倭国支配を許され、大海人皇子は倭国王を降り、勇(=天智)の補佐に回る。
大海人皇子が倭国王に返り咲いたのは壬申の乱の勝利で。
封泰は666。665に倭国酋長は行くことが決定。665の倭国酋長は大海がまだ倭国王か倭国王を降ろされた頃の事だろう。 668の天智即位はそれまでは称制の意味。
称制は王でないものが執政していた。
真の王は百済王となって百済に帰った豊で、
豊は負けて高句麗に渡っており、弟の勇が代わりに執政していたと解釈できる。
668に高句麗が破れる頃に豊は捕縛され、豊は王たりえず、勇が王位に就く。これが天智天皇即位。 アンタ、系図見た?
中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は舒明天皇の子供ってなってるやろ?
日本書紀は天智天皇も天武天皇も崩御した後の720年完成なんで、辻褄を合わせたかも知れんけど、アンタの妄想通りやと皇極天皇で大和王朝は終わっとる事になる。
乙巳の変は中大兄皇子が20歳で起こした話になっとるんで、それ以前に本物の中大兄皇子も大海人皇子も暗殺されて背乗りされてないと話が噛み合わない。
孝徳天皇は皇極天皇の弟で、欽明天皇の孫か曾孫に当たる。
つまり、孝徳天皇もとっくに暗殺されてギョウキが背乗りしてないと、話が噛み合わない。
こうなると、百済は同盟先の日本を乗っ取るために王族を人質と称して刺客を送り込んでいた事になる。
百済が滅亡したから南遷したんや無くて、滅亡する前から南遷計画をしてた事にならないか? 系図は頭の中で作れるから、それを信じて研究をするのは危険。
5世紀ごろ、倭国の政治は誰が何処で行っていたかの問題。
大阪市内の大川は河内湖を排水するために上町台地を開削したもの(仁徳紀)。
その川の南に宮殿があったと記されている。
その後も大王政権はアマタリシヒコ大王まで続き、上町台地が大王政権の中心。
アマタリシヒコ大王(=上之宮法皇)一家連続死でその家来蘇我が力を持った。
それを百済は快く思はず、ギョウキを送り込んで政治を一新した(乙巳の変)。
ギョウキ(=孝徳)は難波に宮を建て大王勢力の立て直しを図ったとみられる。
皇極は(存在しても)大王ではなく、大和国の女王くらい。
大和朝廷はヤマトと言い直しているように大和でなく河内にあった。
皇極で大和朝廷の終焉と表現されたが、ヤマト朝廷は河内にある。
倭の五王政権から日十大王(人物画像鏡にでる)に変わるとき倭国は百済に乗っ取られた。
百済の裏庭のような国になった(天智まで)。
日十大王以前からも百済からは人は来ているが、
日十大王以降、百済への無条件領土割譲や百済の軍事代行、軍事支援、馬の供給などをしており、アマタリシヒコまで中国へ遣使もしなくなった。
はては百済滅亡時には扶余勇勢力の雪崩れ込み先になった。 河内には倭の五王政権以降も大王政権が存在しアマタリシヒコに見るように倭国を代表していた。
書紀は日十大王からアマタリシヒコ大王までを排除し、代わりに継体王を天皇とし、大和を歴史の中心に置こうとした。
書紀の継体王以降の記述中に国家的事案があればそれは河内の大王政権の事案だったとして間違いないだろう。 せやからな、
『26代継体天皇から以降は血統としては繋がって無く、度々百済王室から送り込まれた王子達によって都合好く大王を入れ替えて、百済の国益に沿うように操作してきた」
とでも話を作りゃ系統図は
『辻褄を合わすために捏造したもの」
とでも主張出来るんやよ。 そんでこのスレの着地点は現皇室は百済王家の子孫が天皇として倭人の頂点に君臨してる。
ムツヒトは祖国である韓半島を侵略して、祖先民族を支配しようとした。
朱子学の教えでは、これは永遠に許されない暴虐。
日本政府と国民は末代まで謝罪と賠償を続けなければならない。
本当に許して欲しいのなら、大逆者の末裔とそれを君主と仰ぐ日本人は財産と出産可能な女を置いて、日本列島から立ち去れ。
ってなるやろな。 単に歴史を信頼できる事実のみから再構築したまでの事。
書紀が書かれたころは
こんなもの嘘っぱちだ、河内のことが書かれてない、アマタリシ大王の事も国王としては書かれてない、扶余勇は天智天皇にしてあるとかの評判があっただろう。
難波宮は百済人が作ったのに倭人が作ったように書いてあるけれど、あまりのすばらしさに明日香人は目を見張ったと割とこの部分は正直に書いてあるな。
というような感想があったのではないか。
その後、歴史書として押し通しているうちに、国家主義者が祭り上げたので聖書になった。 >>273
飛鳥時代の建築物は百済から来た「金剛組」が携わったのは、歴史好きな日本人なら大体知っとるよ。
日本書紀はヤマト王朝が律令制国家として対外政策に編纂した国史書の扱いなんやさか、百済王族に系統を虫食い状態にされてるのを正直に書けるか?
逆に百済も血縁関係も薄い、系統もバラバラの日本の皇族が王位に就いていたら、正直に編纂するのか? 正直に書いてないのがみえみえの大昔の歴史書を、いつまでも後生大事に現代まで残し、さらに発掘などで肉付けしようとしてるのは、
事実を知ろうというより、政治的思惑が強いように思われる。こんな島の歴史なんぞは、世界の大勢には影響がない。吹いて飛ぶようなものだと、はなから諦めているのかもしれないね。 ジャレット・ダイアモンドの『銃、病原菌、鉄』の訳されなかった部分に「日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」として祝した。」がある。 だから、日本人は未来永劫謝罪と賠償を続けろって事やろ?
お宅のマザームーンが言うてたやん。
「日本はサタンの国だ」
って。
つまり、扶余勇やギョウキ王の子孫が悪魔に堕天したんやろ? 未来永劫の謝罪と賠償の概念ね。日本の一般国民に罪はないと思うよ。
それは政治のことであって、純学問的に日本は百済の南遷国。 いや、単純にこういったスレは、在日コリアンが日本人に真の歴史を解らせてやる。
日本は元々朝鮮民族の領土やさか、還せ!
チョッパリはウリ達の弟民族やさか、ウリ達を兄として敬い拝んで、何でも言う事を聞け!
と、主張するパターンで締めくくられてきた。
このスレもそうなんやろ? 天皇家は朝鮮の王族です
日本人は2683年間、朝鮮族に支配されてきました
全ての朝鮮人もまた私たちの王である天皇を敬いなさい 国際的視点からの歴史について意見を求めている。
>>279のような印象は読者の心理からくるもの。
内容に関する質問・反論をお願いします。政治的争いはしません。 今更、古代半島に関わった日本人、中国人、満州人を後出しの民族史観で朝鮮人に取り込むのは捏造ニダw 学術的に勇を天智天皇、ギョウキを孝徳天皇、ギョウキの子を天武天皇と見るなら、その前の天皇、つまり大王との関連性はどうなのか?がサッパリ掴めない。
継体天皇から舒明天皇までは百済王族と血縁関係はあるんか?
百済から人質として日本に来ていたのを本国が滅んだからと言って、突然他国の地に砦や城を築き、大王を名乗ってそれまで大王家の臣下がそのまま従うとは考え難い。
勇達は日本国内の豪族勢力と衝突する可能性の方が高いやろう。 年次でみれば倭の五王のあとを日十大王が襲った。日十大王は百済昆支系。
継体は応神五世孫ということは倭の五王系。継体の血筋は百済と近くはない。
百済が滅んで、倭国に来ていた豊は本国に帰り百済王として迎えられた。善光は戻らなかった。百済には弟の勇もいた。
倭国王の大海人皇子は半島を支援した。倭国は白村江で唐にまけた。
百済残党は半島をあきらめ、豊は高句麗に、勇は倭国に逃げた。
この時の倭国は唐の裁きを待っている状況。
一方、勇は唐に降伏せず、新たな国づくりを目指した。大宰府・水城・大野城などの朝鮮山城の遺跡となって残っている。
大海は百済の分家であるから本家の意向に従ったことも考慮すべきだろう。
百済再興を目指した勇が属国倭国の王を襲う意思はない。あくまで百済再興である。 益々混乱してきた。
天智天皇や天武天皇って称するなら、それはヤマト王朝の皇位に就いた事を意味するんやで。
百済残党が日本国内の豪族達と争う気が無いのに、何で皇位に就いているんや?
ヤマト王朝が百済勢力に好き勝手されてるって意味になるんやないのか? 書紀が天智天皇と諡号しただけで、勇がみずから天皇と名乗ったのではない。
大海人がはじめて天皇を名乗った。
倭国は既に百済の裏庭だから、百済残党は百済再興をこの地で果たした。既に言ったように倭国の皇位についたのではない。
倭国は百済の裏庭になったのは日十大王から。
倭国は日十大王以来、百済に任那4県を無条件割譲したり、軍事代行したり、軍事支援したり、全く百済に隷属しているので、百済がなだれ込んできても好き勝手にさせる下地が倭国に出来ている。 久しぶりに覗いたが相変わらず根拠のない妄想が酷すぎる
根拠と根拠が結びつくから歴史は面白いのだが、妄想と妄想を結び付けて何が面白のかさっぱり理解できん 大宰府・水城・大野城などの朝鮮山城と羅城を築城したのは旧唐書の扶余勇しかない。
これらを造らしめたのは天智紀では天智天皇だから、扶余勇=天智が否定できない事実。
此処から歴史は洗い直さねばならないことは認めるんでしょ? 扶余勇が太宰府、水城,、大野城等の朝鮮山城を築いたのは新事実。これと、天智紀の事実と結びつけてるから面白いでしょ。 百済国を再興する意志が百済残党には強くある。それを九洲で実現した。何時かは知らないが日本国号を使ったんだよ。日本とは百済の南遷国。実効支配地域を広げることが国としての当然の行為。近江まで広げた。難波の善光はその文脈の中にある。
一方倭国王は白村江で唐と戦って負けてまずいことになった。処罰されただろう?。封禅 な。更に勇に倭国領土を取られてゆく。奪回のチャンスを伺っていた。運よく勇の薨去が訪れた。これを機に実権を゙取り戻した。これが壬申の乱。しかしこれもまずいことなのだ。唐の承認下の近江政府を潰したのだから。だから、天武は近江朝の日本を継いだ。政権交代だと主張したかったのだ。国号を何故変えたかと問われ曖昧な答えでしかなかったのも扶余勇政権との関係を曖昧にしたかったということだ。
成りすましご苦労。よく理解しらのに理解していないふりがあらわに見えたw それと、百済人=朝鮮民族って考えは2001年サッカーWC日韓合同大会前後から出て来た気がしてきた。
上皇陛下が在位中の西暦2000年位に、翌年の大会成功と日韓の友好を願われ
「続日本紀」にある「桓武天皇」の生母「高野新笠」が武寧王を祖とする「和氏」の出自と仰られた。
反日パヨや在コは途端に
「天皇はチョーセン人!本人が自白した!」
と騒ぎ立てた。
そこから百済人が日本を征服してただの、日本にある全ての物は百済からもたらされただの、半島起源派に一気に火が点いた感じやった。
それが現在まで続いている。 また、韓国では国民感情が学術的、政治的、司法等の全てより優先される。
「国民情緒法」なんて有る位やし、日韓歴史共同研究で日本側が集めた資料に沿って発表をしていると、
「韓国に愛は無いのか!」
とあちら側がいきなりキレ出したのは有名な話。
幾ら学術的に淡々とと言いながらも、誰かも判らん「日十大王」に日本が支配されて、朝廷内は好き勝手に出来たなんてホンマにウリナラファンタジーとしか思えない。 百済をご先祖様と持ち上げだしたのは、旭日旗を「戦犯旗」なんて言い出したのと同レベルの感情なんやろうな。
現代韓国人の国民性は李朝時代から継続している。
李朝時代に嘗ての百済人で重用された人物なんておったんか?
先祖を敬う儒教の教えやと、百済人を崇めたハズや。
しかし、現実は良くて「賤民」、酷いと「白丁」として蔑んでいたんやないんか?
広開土王陵碑さえ、放置していた奴等に歴史なんか語る資格はない! >>293
ホンマそやね。
銅鏡自体は歴史的価値のある国宝か重要文化財として、大事にして貰いたい。
弟の長寿を願って、鋳造されたモノなんやしね。 日十大王の関係が必要?日本の歴史が消したのだから、消した方が罪である。
ヒントでしかないが、百済王弟昆支王が倭国に来て倭国で死んでいる。
彼には武寧王以外にも子供もいただろう。孫もいただろう。
日十大王系はアマタリシヒコまで続いただろう、何もなければ直系だろう。 昆支王の墓は580年代と思われるが、畿内の最初の横穴式古墳となった。
これを機に一気に畿内には横穴式古墳が広がり、竪穴式が消えていった。
同時に群集墳が畿内に現れ始める。文化の一大変革。
それまでは巨大前方後円墳+培塚形式だったのが追葬可能な横穴式に。
巨大古墳主義から、群集墓に。墓が貴族階級にまで許されたということ。畿内の群集墓の副葬品には朝鮮系の竈やカンザシが多く含まれている。
埋葬文化の変更は朝鮮系への変更であった。 >>299
580年代→480年代の間違いです。
昆支王の威力は畿内を百済系に替える程であった。
日十大王が百済系という傍証にもなるであろう。 昆支の長寿を願って鋳造したなら、日十大王は兄の「文周王」って事になるやろな。
父の蓋鹵王の時に首都のソウルが陥落して南に逃げ、また文周王は助長した臣下に暗殺されたらしいね。
昆支の孫の武寧王がソウル奪還するまで、百済王の権威は失墜していたらしい。
こんなんでヤマトを属国に出来たんか? それに、
「朝○古代史学者の盧重国、金鉉球、洪性和(建国大学)、金起燮(公州大学)など韓国の研究者たちは、百済の第18代の王・腆支王の王妃である八須夫人は倭人だったと主張しており、関連して、金鉉球などは、昆支王、東城王、武寧王の王妃も倭人であり、倭国王家が政策的に婚姻させたと主張している。」
ってWikiにあったけど、これってそちら的には百済王は途中から倭人やった事にならないの?
嘗て駐カン米国大使やったハリス元大使の母親が日系人との理由で「大使は日本人だ!」って大騒ぎして、大使館取り囲んでデモして挙げ句の果てには中庭に不法侵入してたやんか。
めっちゃダブルスタンダードで草枯れる。 鏡は日十大王の時に武寧王が継体(男弟王)に送ったもの。 百済の混乱時に倭国から送っている王は、昆支王血脈の者であるから百済人。 百済の倭国属国戦略は王弟を送り込んでいるので、百済王のバックアップ血脈を兼ねている。
昆支王もケロ王の弟とも文周王の弟とも言われるが、王弟を派遣する戦略に変わりはない。 半島で王家を維持するより、昆支王が倭国をほしいままにする方がたやすかったという事だろう。
手口は不明だが、倭国王位を結果的に簒奪しているのだから、昆支王系は有能だったのだろう。
王弟血統バックアップ作戦が功を奏し百済は再び隆盛した。 >>304
意味解らん。
日十大王は武寧王って事?
継体天皇は武寧王の弟なんか? しかし、嘘付いて裏からこっそりジワジワと侵略する遣り口は古代も現代も同じと言う訳か。 >>310
しかし、日十大王って百済人なんやろ?
日十大王がヤマト王朝を好き勝手出来るように支配したって言うてたやん。
だから、勇が独断で砦や城を築いたり、祖国復興が無理と悟って大王に即位したんやろ?
だから、継体~皇極までは百済傍系の昆支王系やったけど、勇からは百済本流になったとか言いたいんとちゃうん? >>257
>日本列島には複数の王族が流れ込んだ。
このような中で、過去からひとつの王権が
永続することはありえない。
河内は倭の五王の後、
6世紀も日十大王からアマタリシヒコ大王が
王権を構成していた。
これって全部キミの想像であり、何も根拠が
示されていない。
これじゃキミがプヨヨヨンってバカにされても
しょうがないw ヤマト王朝側としては、伽耶地方の鉄鉱石の発掘権を何としても守りたかったので、百済と同盟を結んで新羅を牽制していたい。
また、中華王朝に出向く際も中継地点に使えて便宜も良かった。
また、百済も日本と同盟を結ぶ事での利点もあったやろう。
無ければ同盟なんて結ばないし。
オレ等のにとっては、扶余勇は扶余善光と同一人物やな。
中大兄皇子は唐からの攻撃を恐れて、水城とかの砦を作り、遣唐使も送って機嫌取りしたけど。
斉明天皇が崩御した後に中々即位しなかったのも、大津に遷都したのも、中大兄皇子が唐をどれほど恐れていたんかが伺える。 倭国を乗っ取る方法は唯一とは限らない。
昆支の場合手口は解らないがと断っておいた。結果的に倭国は属国となっている。
ギョウキは殺害手法を取った。
勇は本国百済が消滅したので、百済再興が最大の使命である。
倭国王になることが目標だと見せたら家来に背かれるだろう。 それと、百済が王弟や王子を日本に送り込んでいたのは、人質と言うよりはもしもの時に血統を残す為の意味合いが強かったんじゃ無いやろか?
そして、妻が倭人ってのも意味があると感じる。
その子供がもし王位に就くことが有れば、外戚として日本に有利になるしね。 >オレ等のにとっては、扶余勇は扶余善光と同一人物やな。
続日本紀の天平神護2年6月28日の百済崩壊に関する記事で
「このため禅広は百済に戻らず」とあり、勇は百済から倭国に白村江後に渡っており、
アリバイが違うので勇と善光は別人物である。
これを同一人物に持って行きたい気持ちは「オレ等にとって」によく表れている。
勇と善光を別人とすることによって歴史は果てしなく変わることに「オレ等」は絶えられなくなって、
出発点を認めないことにしたわけだ。降参→捏造。歴史を気持ちで作っては終わり。 >それと、百済が王弟や王子を日本に送り込んでいたのは、人質と言うよりはもしもの時に血統を残す為の意味合いが強かったんじゃ無いやろか?
>>306 >>307で既出。自分が見つけた風に言わないでほしい。 >>315
翹岐が乙巳の変の主謀と言いたいんやろうが、そもそも蘇我氏本流は百済と太いパイプを持っていた。
何故排除せねばならないのだ?
倭国での勢力が強い事に百済は何を危惧しなければならないのだ?
それに、中華文化圏では王朝交代の際は「易姓革命」の思想がある。
朝鮮半島でもその影響は受けている筈。
なのに乙巳の変後に大王に就いた筈の翹岐が神武と成らず、その後の勇や天武天皇となった翹岐の子もヤマト王朝を引き継いでいる立場を取っているのは何故や?
白村江の戦いの前後だけクローズアップすればそんな話を当てはめられるかも知れんけど、ヤマト王朝が推古天皇の御代から天武・持統天皇の御代の間に律令制国家として整備されていく時代の流れに、天智天皇=扶余勇説はチンギス・ハーン=源義経説並の異質さを感じる。 >しかし、日十大王って百済人なんやろ?
日十大王は昆支直系と思っている。
>日十大王がヤマト王朝を好き勝手出来るように支配したって言うてたやん。
だから、勇が独断で砦や城を築いたり、祖国復興が無理と悟って大王に即位したんやろ?
その前にアマタリシヒコ大王があり、彼の一家が死に、ギョウキ王がきて、大王家を修復し、そのあとで、百済崩壊が起り、白村江で百済を放棄して、倭国に渡って百済再興を果たし、「日本」と称した。百済→南扶余→日本。その後、倭国が日本国号を継承した。
>だから、継体〜皇極までは百済傍系の昆支王系やったけど、勇からは百済本流になったとか言いたいんとちゃうん?
違う。継体〜皇極までは順当にいけば倭の五王系の血筋だが、いろいろある。
勇は、百済本家であり、先に来ていた百済傍系が得ていた大王を襲うことが目的でなく、百済を再興することが目的。そうでないと百済復興のために戦ってきた貴族たちが承知しない。 乙巳の変がなぜ起きたか。
日十大王から倭国は百済王弟の血脈が統治した。勿論支える貴族も百済出身である。蘇我はその筆頭貴族であった。アマタリシヒコ(上宮法皇)一家が絶えた時、貴族の蘇我が倭国の主になった。これは本国としては「貴族の分際で横暴な」ということになる。これを誅するために新しい王族王弟ギョウキ王を派遣した。ギョウキ王は倭国王孝徳となり、律令制で政治を一新した。 >>317
勇と善光が別人って言うアリバイなんてあるのが怪しい。
第一、扶余勇ってのは、「禅広王、余禅広』と共に善光の別名やろ。
扶余豊璋が「豊、豊章」の別名を持っているのと一緒や。
義慈王から人質として日本に送られてきたのが、豊と勇。
百済復興の戦いに豊璋(豊)は百済に帰国して、禅広(勇)は日本に残った。
それだけの事やろ。
「扶桑国に籠もった」って件も、「半島から日本に逃げた」と言うよりは「日本から出てこなかった」って意味やないか? >>322
続日本紀を確認してほしい。善光は百済に帰っていない。
「扶桑国に籠もった」は禰軍墓誌。
劉仁軌の条に「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」とある。
「倭国に(走)逃げた」と言っている。
逆に何故、勇=善光とした根拠を知りたい。 >>313
その他のページで各論が述べられているので、各論を読んだ上で根拠があるかないかを判断すべきだろう。 だから、善光は勇の和名やろう。
義慈王には、考、泰、隆、演、豊、勇の王子が居て、豊と勇が日本へ送り出されたみたいやね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%85%88%E7%8E%8B
一次史料を直接読んだりした訳じゃないけど、キミが引用する「続日本紀」の内容はwikiも引用しとるよ。
つまり、自分で読み込んで独自解釈した訳や無いと思う。
中華文化圏では成人の時に新たに名前を付けたり、何か大きな転機に改名する風習がある。
豊璋(豊章)も善光(禅広)もそういった類のものやろう。 >>326
もし、豊と勇を送り出し、勇の和名が善光なら矛盾がある。
劉仁軌の条の「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」(この時倭国に(走)逃げた)の表現は読者は勇が半島にいたという文脈で読む。先に倭国に渡って留まっている人物とは思わない。 ご参考までに英語版Wikipediaの義慈王の項です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Uija_of_Baekje
善光と勇が別人として扱われています(証拠ではない言われるでしょうが、証拠ではありません)。
日本語Wikipediaを出されましたので、英語版を返信しました。 >つまり、自分で読み込んで独自解釈した訳や無いと思う。
私はまだ扶余勇を知らなかった時に、天智紀に天智が難波に善光を置いたと書いてあることを読んで理解できなかった。
倭国王である筈の天智がこれから白村江の敗戦を裁かれる場面なのに、何故、百済人を倭国の首都相当の難波を支配させるのかと。
これは唐に対して不服従を示す行為であり、自らの戦争責任を重くする行為だからだ。
それから後に、劉仁軌の条を読んで扶余勇を知った。
扶余勇は日本では善光とされている。それなら、なおさら、扶余勇という大罪人を難波に置いていることになり、
全く理解しがたいことを天智がしていることになると思われた。
それで扶余勇を善光とは別人で、水城や大野城を作ったのは扶余勇だと思いついたら、矛盾は解決した。
その後筑紫野市のホームページで羅城が出て来て扶余勇は国を作ったと思った。
禰軍墓誌も日本ヨショウが扶余勇だと思えばすべてうまく処理できた。
このような過程を経て、扶余勇は善光と別人と思うに至ったのだ。 >>329
扶余勇は善光と別人であることを証明するのにいちいち>>329の説明をするのはかったるい。
なにか、証明はないかとWikipediaを探っていたら、続日本紀にアリバイが出ていることが解った。
政治的センス、歴史的センス、戦争のセンスがなければ、>>329で言った
「天智が戦争責任を問われる前に百済人に首都を任せる」ということを矛盾には思わないだろうw >>327
旧唐書列伝34劉仁軌伝
「扶余勇者、扶余隆之弟也、是時走在倭国、以為扶余豊之應、故仁軌表言之」
の解釈やな。
そしてキミ等は「走」を「逃げた」と解釈している。
しかし、これは古代中華の文献やさか、漢字の意味や使われ方も現代日本とは違う場合も多々ある。
そして中国語の「走」には日本語には無い意味も使われ方もあった。
https://cjjc.weblio.jp/content/%E8%B5%B0
これから考察すると、
「扶余勇と言う者は扶余隆の弟である。
この時(白村江の戦い)は倭国に滞在しており(百済には)居なかった。
扶余豊がそう返事したと、仁軌が報告してきた。」
とも解釈出来そうやな。 日本語でも古文を現代訳する時に現代語の意味を使うと解釈を間違う事が多々ある。
同じ文字、同じ音でも、使い方は時代によって意味が違う。
「をかし」が「可笑しい」やなくて、「(情緒があって)趣きがある」と訳す様にな。
ましては中国語と日本語は別言語。
有名なのは「光」の意味。
日中戦争で日本陸軍は「三光作戦」を行ったと云われていたが、意味が「殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす」らしい。
でも、日本語では「光」をそんな物騒な意味では使わない。
「希望を見出す」や「神々しい」等の意味で使う。
その誤解から解釈が食い違う。 漢文では「敗走」というように「走」は「負けて逃げる」です。
劉仁軌の条のこの文の前では白村江の戦いの模様が書かれています。突如倭国にいる人物を持ち出すのは分脈上変です。
あなた相当苦しがっているのが見え見えですよw
私の政治的センスから得られた違和感が天智を扶余勇とすることで納得でき、
その後出てくる資料や事実がすべて扶余勇=天智で筋が通るのですから。
劉仁軌の条の個々の文字を読み替えて覆そうとするのはあなたの卑しい姑息さを表しています。
「勇は善光ではない」という結論がでました。勝利でーすwwww 豊璋=中臣鎌足なんやろ?
だから別に天智天皇=扶余勇とせんでも
一連の出来事の説明はつくやろ >>334
「敗走」ってまんま日本の熟語やんwww
そりゃ現代やと日本語の熟語が中国に逆輸入されて同じ意味に使われたりしてるけど。
それに、「三国史記」に義慈王の王子で前に挙げた6人以外に王子はおったんか?
みんな名前は一文字やけど「善光」だけ最初から二文字やと違和感あるな。
庶子やったんか? 豊は高句麗に行って捕縛された。
鎌足は倭国にいて死んで墓もある。
よって豊璋≠中臣鎌足であるから、根拠もなく豊璋=中臣鎌足と遊ばないように。 >>338
その程度の代償行為でよく辛抱できるね。 妄想は何百回と唱えても妄想
妄想の上に妄想をいくら積み上げても妄想 彼等の場合、学術的、政治的正当性より、民族感情でアジアのトップに居ないと正気を保って居られない。
2001年サッカーWC以降やたらと百済を先祖視してもてはやす様になったのは、上皇陛下のお言葉がきっかけであろう。
慰安婦問題や徴用工問題も朝日新聞とかのサヨクメディアがきっかけをつくり、そこから尾ひれがドンドン付いて日本に金を集る口実になったのと同じや。
以前は日本やアメリカの資金、技術援助で近代化してもらったのを自力で成し遂げたと中共国に対してホルホルしていた。
しかし、近年それがひっくり返されたのと、文前政権が中共国寄りやったんで日本人をホルホルするターゲットにしてるに過ぎない。 そして、もう一つ歴史的マウントを取りたがる要因に「両班精神」が遺伝子レベルで刻み込まれている。
日帝統治期間にそれまでの特権や既得権益を失った元両班達の恨み辛みがWW2後に李承晩と共に半島で返り咲いた。
そして徹底的な反日と民族教育によって、欧米の留学先や出張先で失笑されて嫌悪されるモンスターが次々と増産されてきた。
でも、この怨念も後30年持つかどうかになって来ている。 イ・スンマンって日帝時代はアメリカに逃げてたんだろ。
そしてまたアメリカに逃げてったんだろw
情けないヤンバンだなあw >>346
正確には、李承晩は李朝王族の末裔らしく、政変(クーデター)を起こして自分が王になろうと画策したらしい。
その頃の朝鮮王国内は、太宗の父の大院君と太宗の妃の閔妃が朝廷内で権力争いしてて、日帝と清国が半島の支配権争いしてた時やね。
そして、その計画が漏れて捕まったかどうかは知らんけど、アメリカに国外追放処置にされてたみたい。
でも、1919年3月1日に上海で大韓民国臨時政府を立ち上げたメンバーに名を連ねていたみたいやね。
WW2後にアメリカを後楯に母国に舞い戻り、反日反共を掲げて元両班達と共にライバルや左派勢力を物理的に排除していった。
有名なんが、済州島事件。
1948年8月15日に初代大統領になって大韓民国建国。
その祝賀会中に北朝鮮が突然侵攻開始。
李承晩らはソウル市民を置きざりにしてトンズラこいて、漢江の橋を爆破した。
完全では無かったけど。 続き。
釜山付近まで追い詰められて、日本に亡命して山口県に亡命政府を作りたい旨をマッカーサーに懇願。
しかし、マッカーサーは拒否。
数年前に無くなった白将軍らの奮闘と、マッカーサーらが仁川上陸作戦の成功により、38度線まで押し返す。
そこでマッカーサーら連合軍は停戦を進言するが聞き入れず、更に北上していった。
しかし、中共国の義勇軍(自称)に蹴散らされて逃げてくる。
その際、九州への侵攻をマッカーサーに懇願するも一蹴されている。
現在の軍事境界で一進一退を繰り返してそこで停戦。
現在に至る。
1952年のサンフランシスコ講和条約締結前に独島、馬羅島、対馬島の所有をアメリカに懇願するも却下され、海上に李承晩ラインを勝手に引いて竹島を不法占拠する。
しかし、1961年に軍人出身の朴正煕が起こしたクーデターによって国外逃亡。
ハワイへ逃げて、そこで亡くなったらしい。
いとあはれwww ↑
「日本は百済の南遷国」を納得させられた憂さ晴らし >>349
つーか、まだ質問に答えて貰って無いけど。
義慈王の王子で日本に送られたのは、豊と勇や無いんか?
キミの言い分やと、善光は勇とは別人やけど、義慈王の子供とはちゃうの? それにアマノタシリヒコや上宮王家とか話が飛ぶけど、勇=天智天皇との関連性は?
やれ、5王系や何やとか闇鍋みたいに何でも放り込んでかき混ぜたがるけど、倭の五王も以前よりヤマト王朝の大王の事なのかは疑問視されている。
そこを踏まえてんの? >>350
豊と善光が送られた。
義慈王の子。
いままでの文脈を理解してない振りか? >>351
アマタリシヒコは日十大王の存在の関連で述べただけ。勇とは直接の関係はない。
倭の五王は実在し倭国の代表であった。
この政権とヤマト朝廷という架空の政府との関係など考えていない。
早くいえば、ヤマト政権というのがあって、後の王朝の元であると言うストーリーを作りたい人がいるだけ。おれは、歴史は時代順にしか見ない。 >>352
ふ~ん。
豊と勇が日本に送られたと言う話は誤りやと。
勇は最初から日本に来ていないと。
そういう事か? >>353
倭の五王が実在していないとは言っていない。
ただ、倭の五王と記紀の歴代天皇と同一人物なのかがハッキリしないだけ。
それに、歴史とは時間の流れやとオレは考えている。
天智天皇や天武天皇がイキナリ百済王家やと言われても、じゃあその元は何処にあるのか?
何故、日本の大王家が百済王家に乗っ取られたんや?
キミの説明でも、元の論文からでも小説読んでるみたいで、史実とは考えられない。
何故、中華文化の慣習に則って、易姓革命をしなかったんや? 倭の五王と記紀の天皇との照合は正確には難しいだろう。ただ事績は利用できるのじゃないか。
大阪市内の大川とか茨田の堤は発見されているのだから。
ギョウキ王が蘇我を誅するために送られ孝徳となり律令制で再統治した。→易姓革命では?
孝徳の子が天武と考えている。ギョウキには死んだ子以外に子がいたから皇太子になっている筈だから。
何が疑問ですか?
勇が敗走してきて九州に拠点を作り百済国の再興を果たした。
それだけの事です。史実とは考えられない点は何処ですか? 勇は大王家を乗っ取ったのではありません。
勇は百済国を倭国内に再興し、領土を広げて近江まで達しただけです。その国名が日本です。
その勇を書紀が天皇に列しただけです。 >>357
だから、それを記した歴史書とかを提示するのが普通やないの?
勇が日本に逃げた事を旧唐書から何度も引用してきたのに、翹岐の子が大海人皇子だとか妄想の域やろ?
史料とかあるんか? >>358
それに、易姓革命なら歴史書の作り方がおかしい。
易姓革命で前王朝の歴史書を作るのは、自分達の統治の正当性を後世に伝える為に編纂する物
ならば、日本に南遷した百済王家が「日本書紀」なんか編纂するのがおかしい。
作るなら、神武から皇極天皇迄を前王朝にして「倭国記」にでもするんじゃないか?
何で神武からずっと系統が続いてる様な書き方をしたんや? ずばり歴史書があれば既に理解されている。
歴史書(中国、倭国)と遺跡や文物等の遺物に食い違いがある場合、合理的な解釈が必要となる。
場合によっては、怪しい方の歴史書は否定されねばならない。
扶余勇=天智に関しては理解されたとしてつぎに進む。
扶余勇=天智のように、書紀には百済人を倭人とする創作があることが解った。
ではギョウキ王だが、皇極紀で別格で主賓扱いされている。かつ40名の高名な人と共にきている。
高名とは百済貴族の事である。
このような大集団が倭国にやって来て何もせず沈没したことはあり得ないと思うがいかが?
それに皇極紀ではギョウキが姿を消して急に軽皇子が姿を現し、天皇候補だ。
おかしいと思わないのか?不思議でなければそれまでの事。 >日本に南遷した百済王家が「日本書紀」なんか編纂するのがおかしい。
日本に南遷したのは勇(義慈王直系)。日本書紀を表したのは勇系を倒した天武系。
天武は武王系列であって義慈王系ではない。すなわち百済王家ではない。
それより、滅んだ百済国に血筋を求めるのは敗残を認めることになり、新しい国での統治の障りになる。 日本書紀の日本は百済→南扶余→日本の日本であるから、日本書紀=百済書紀なのだ。(血筋は捏造してあるが) もし百済から流れてきた政権と歴史書に書けば、仲間内の貴族はともかくも、
土地のものや国民に、この王家は心ここに在らずなんだなと思われるのが落ち。
最終的には追い出されることを心配せにゃならん種を植付けることになる。
これ王家の常識な。 >>361
軽皇子が急に登場したように思えるのは、軽皇子が蘇我氏の娘から産まれた皇子では無かったから。
欽明天皇辺りから、蘇我氏は娘を大王の妃として送り込み、産まれた皇子を即位させて外戚として権力を高めてきた。
乙巳の変の時は中大兄皇子はまだ20歳と言われていたので、当時の慣習では即位するには早すぎた。
中大兄皇子が目指す国家は大王をトップとする中央集権の律令制国家やったんで、叔父の軽皇子を大王にして自分は王太子として律令制の整備に務める体制を作ったのが日本書紀に書かれている。
翹岐が孝徳天皇ならばそういった事すら全て捏造になる筈。 >>362
だから、易姓革命の慣習なら天武天皇は翹岐の息子やというなら、孝徳天皇を高祖として国史編纂するのが一般的な筈。
孝徳天皇までの皇極天皇までは前王朝になるんやさか、それは司馬遷編纂の「史記」の様になっていないと変や。
また、斉明や天智天皇時代は漢代の王翦の「新」の様な扱いにならないと変。
「日本書紀」やと天智天皇も天武天皇も舒明天皇の皇子で異母兄弟という設定にしたのも変。
それに、天武天皇の妃、後の持統天皇は天智天皇の娘。
天武天皇の皇子達も其々天智天皇の娘を娶っている。
勇が白村江の戦いの敗戦後に家族共々逃げてきて、そして娘達が相次いで翹岐の息子や孫達と結婚?
益々奇々怪界な話やな。 >>364
翹岐が武力で前王朝の逆臣を討ち、前王朝の大王から禅譲されれば、それで王朝交代の正当性は成り立つ。
記紀編纂の際に中華王朝編纂の史書を参考にしていた事は有名やし確実視されている。
国内向けの「古事記」が紀伝体の仮名交じり文で書かれているのに対し、「日本書紀」海外向けで編年体の漢文で書かれている。
蘇我入鹿の横暴に反発していた豪族は多かったやろうし、豪族連合軍国家から律令制の中央集権国家へと体制を変えようとしていた時期なんで、「心此処にあらず」なんてどこから出てくる思想なんや?
推古天皇の御代から厩戸皇子と蘇我馬子が小野妹子らを随に遣わせて、中華の律令制を取り入れようとしてた時代やのに。 故に、翹岐達一行は目的は知らんけど、乙巳の変は国内の反入鹿派の若者達が起こしたクーデター。
入鹿を誘き出す口実に利用された可能性が高い。
大化の改新は、推古朝から始まった中央集権国家への国造りを進めた政策を纏めた呼び名。
中大兄皇子は百済との同盟は重んじていたので、百済復興には手を貸した。
義慈王が日本へ覇権した王子は豊と豊。
翹岐一行は体の良い島流し。
「日本書紀」が神武~持統天皇まで継続した系統を持つと記している以上、他国王族が大王に即位したなんて論外。
だから、勇は天智天皇じゃなく、百済王善光としてヤマト王朝の臣下として生涯を終えた。
以上! >>365
>中大兄皇子が目指す国家は大王をトップとする中央集権の律令制国家やったんで、叔父の軽皇子を大王にして自分は王太子として律令制の整備に務める体制を作ったのが日本書紀に書かれている。翹岐が孝徳天皇ならばそういった事すら全て捏造になる筈。
すべて捏造というか小説です。中大兄皇子の存在に私は責任を持たない。墓でもありますか?中大兄皇子って抽象的な名前ですね。
全く新しい政治制度である律令制を実施するには、学ぶだけではできない。経験者が必要と考える。学ぶにしてもどこから学んだのか? >>366
>だから、易姓革命の慣習なら天武天皇は翹岐の息子やというなら、孝徳天皇を高祖として国史編纂するのが一般的な筈。
言ってみれば蘇我を誅して政権を奪ったから易姓革命?と言えないこともない程度の話。実際は昆支王系の大王が続いていたのを新しい百済系にしただけの話。
>孝徳天皇までの皇極天皇までは前王朝になるんやさか、それは司馬遷編纂の「史記」の様になっていないと変や。
6世紀に入って日十大王からアマタリシヒコ大王までが倭国の大王。皇極天皇までは倭国王朝でないから、前王朝でもない。皇極などは書紀が天皇の祖先として見繕った中に入っているだけ。
>また、斉明や天智天皇時代は漢代の王翦の「新」の様な扱いにならないと変。
「日本書紀」やと天智天皇も天武天皇も舒明天皇の皇子で異母兄弟という設定にしたのも変。それに、天武天皇の妃、後の持統天皇は天智天皇の娘。天武天皇の皇子達も其々天智天皇の娘を娶っている。勇が白村江の戦いの敗戦後に家族共々逃げてきて、そして娘達が相次いで翹岐の息子や孫達と結婚?益々奇々怪界な話やな。
書紀の血縁は信じない方がいい。 >>367
>翹岐が武力で前王朝の逆臣を討ち、前王朝の大王から禅譲されれば、それで王朝交代の正当性は成り立つ。記紀編纂の際に中華王朝編纂の史書を参考にしていた事は有名やし確実視されている。国内向けの「古事記」が紀伝体の仮名交じり文で書かれているのに対し、「日本書紀」海外向けで編年体の漢文で書かれている。蘇我入鹿の横暴に反発していた豪族は多かったやろうし、豪族連合軍国家から律令制の中央集権国家へと体制を変えようとしていた時期なんで、「心此処にあらず」なんてどこから出てくる思想なんや?
消滅した百済から流れて来たという事実の歴史書への記載は、仲間内の貴族はともかく、他の地のものや国民にとっては「この王家の本心は半島に興味があり、腰掛王朝だな」の印象があるだろう。これでは民心を束ねられない。
>推古天皇の御代から厩戸皇子と蘇我馬子が小野妹子らを随に遣わせて、中華の律令制を取り入れようとしてた時代やのに。
アマタリシヒコ=上之宮法皇=聖徳太子(厩戸皇子)は律令制ではなく仏教を本場から習おうと派遣したのでした。乙巳の変の38年前だと思うが。律令制はギョウキが持ってきたのですよ。他に入手先はありません。 >>368
>だから、勇は天智天皇じゃなく、百済王善光としてヤマト王朝の臣下として生涯を終えた。
勇は白村江のあと渡ったって劉仁軌の条は書いているが、どうなるん? 科学的に考えられないのですな。
どうすると、物語を史実と思い込めるわけ? 相当、書紀の裏付けを頭の中で練り上げてよるんやな。
文学部なんてこんなもんと違いますか? 無駄なはかない人生w 自分の思い込みを史実だと思い込む非科学的自分信仰思考 >>369
中大兄皇子は「第二夫人の第一皇子」の意味。
舒明天皇と皇極天皇の子供。
688年に大津宮で即位して天智天皇となる。
645年の乙巳から大化の改新の中心人物。
百済復興に力を貸したのも、白村江の戦い後に水城を築き太宰府を設けて防人を置いたのも、中大兄皇子。
日本の学校教育の歴史ではそう習う。 >>370
>書紀の血縁関係は信じない方が良い。
そもそもそれを言い出す事自体間違っている。
キミの祖国の史書での王族血縁関係を同じ事言われて信じるの?
「朝鮮と中国の史書は真実で、日本だけ捏造。」
と反日教育受けたヤツは必ず言い出す。
そして、日本人自ら「『現存する最古の王朝』のギネス記録を取り下げろ」と命令し出すまでが定期。 >>371
アマノタシリヒコを厩戸皇子(聖徳太子)と仮定しての話やな。
仏教を取り入れるのが目的なら、何で603年に遣隋使小野妹子が煬帝に謁見して推古天皇からの
「日出ずる処の天子、日没する処の天子…」
で始まる親書を渡したんや?
仏教を取り入れるのに随の皇帝の許可でも居るんか?
で、煬帝は翌年604年に裴世清を日本へ遣わせている
キミの言うように倭国が百済の属国に過ぎない小国なら当時の大国の随の皇帝が遣いなんか送るんか?
https://cjjc.weblio.jp/content/%E8%B5%B0 >>375
中大兄皇子の実在の証拠がありますか。
根拠のないことを学校で教えてるの? いよいよ終わりだ。
>>377
603年の遣隋使なんてあったっけ?
604年に裴世清?知らんね。
許可?仏教は百済から取り入れたが本場の中国から学びたいと隋書に書いてあるが読んでないのか?。
倭国は属国で、それまで100年近く中国に遣使をださなかったのに、アマタリシヒコは出した。
これは外交権の主張だと私はとらえてる。百済にとっては属国の独立宣言だ。 >>370
やれ、昆支系だとか、百済王系だとか必死やなwww
「日本書紀」は対外、特に中華王朝に天皇家が日本の正当統治者である事をアピールする為に編纂された史書や。
昆支系や百済王系とかと入れ替わっているなら、神武天皇から武烈天皇までの神代25代も含めた系統をアピールすんのは絶対変や。
王の系統が代わっているんなら、「史記」の様に、夏、商、周、春秋五覇、戦国七雄、秦と別々に記す筈。
それに、そんなに皇統がおかしいと言うなら自分等が正しいと確信する大王家系図でも作って学会に出したらどう? アリバイの件はスルーすることにしたのか?ご都合主義だね。
逃げていたら全部論破されるぞ。
古事記の序文に「諸家のもたるる云々」で選録したって書いてあるじゃないか。王列伝を編纂したんだよ。
昆支系は鏡一つ、昆氏が倭国に来た事実から割り出される。
古事記所分からうかがえるように倭国の王朝は当然変わっている。書紀は変わってないとしただけだ。
わたしは、歯抜けながら倭の五王以降は作れるよ。「国際的視点からの古代史考」に出しているがね。w
くれぐれもアリバイの違いを説明してくれや。よろしくよろしくお願いいたします。w 勇=善光というなら、二人のアリバイの違いを説明してくれない限り、話を進めることは出来んのだよ。 君は日本史教育に責任を持っているのかね。
>>354ではアリバイの違いを理解した風だったが、理解するとまずい事でもあるのかい? あー確かに隋書倭国伝に
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞」
って記してあったね。
これは失礼。
でも、遣隋使や遣唐使での留学僧って仏教だけで無く、医学、建築、方術、法学等の様々な学問を修めて日本に持ち帰るのは定説やな。
小野妹子も最初の遣隋使で官位や位がない事で謁見を拒まれた説話を聞いた覚えがあるな。
隋書倭国伝の現代訳
https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm いや君は、律令制を学ぶために派遣されたと言った。ついでとは言わなかった。
ついでに政治を持ち帰るってのはない。これも政治センス。
それに留学僧が返ってくるのはだいぶ先だよ。そんなにゆっくりした政治改革かね。
こんな重箱の隅以前に勇と善光のアリバイの違いはどうなった? >>384
責任?
何でそんなもんが必要なんや?
学校教育でこう習ったんやさか、キミの言う歴史観が解りにくいだけ。
それに、天智天皇を語るのに扶余勇を出すのに、中大兄皇子を知らないってのも違和感マシマシ。
一般的な日本人やと中大兄皇子が即位して天智天皇になったと習うんやさか、中大兄皇子≠扶余勇って言われると余計に脳が拒否する。 言っておくけどね、俺は新説を唱えてんだよ。
Wikiや学校でこういってるからって反論は頼りないんだよ。 学校で洗脳された人には拒否感があるだろうね。
でも、勇と善光のアリバイが違うって事実は受け入れてもらわないとね。
それと、天皇称号が大昔からあって、受け継がれているように思っているようだけれど、
天皇は天武が最初なんだよ。それ以前には金石文に「天皇」は現れない。「オオキミ」なんだよ。 >>386
勇=善光のアリバイって何や?
そんなん旧唐書の
「是時走在倭国」
の読み方と解釈やろ?
オレは
「是時倭国に在りて走る」
と読んだ。
キミらは
「是時走りて倭国に在り」
って読んだんやろうな。
そして、
「白村江の戦いの時は倭国に居て、(半島)には居なかったor(半島)から離れていた。」
「走」の意味を日本語的に
「敗走、逃げる」
って取るか、
中国語にあって、日本語では使わない意味
「離れる、居なくなる」
を取るかの違い。
キミらは民族的感情を史実にしたがっているのは解ってんやさか、オレ達はそれに付き合う義理は無いだけやし、倭国や日本が半島国家の属国やなんて、韓国、朝鮮人と反日左翼以外からは聞いた事が無い。
中華王朝の史書にでも書いてあるんか? 劉仁軌の条は白村江の模様を描いた後で「是時走在倭国」がでてくる。
これを「白村江の戦いの時は倭国に居て、(半島)には居なかったor(半島)から離れていた。」と
突然勇が倭国にいる話を出すと名文の旧唐書の分脈があっちゃこっちゃするのだが、そうは思わないのかい? なんで急に倭国にいる勇の話を出したの?
「走在」は走りて在る。在りて走るとは曲解。なぜひっくり返すのか要説明。 「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應,故仁軌表言之。」の扶餘豐は、
白村江のあと高句麗に逃げている。ここで、豊は百済再興を計ったのだ。
その豊の意向に倭国に逃げた勇が答えると言っている。
劉仁軌の条「餘豐在北,餘勇在南,百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦相影響,」と
警戒していることからもわかるであろう。 >>392
はぁ、この陰険漫才はSAN値が削られるわ。
先ずシナ語の文法って英語とかと一緒のSVO様式。
「走」も「在」も動詞、又は助詞ならどちらを文末に持ってくるかによるな。
「是時(勇)走」で主文
「在倭国」で主文の補足。
英語やと
I thought that ......
の様に解釈、翻訳しただけやけど?
あり得ないならかまへんよ。 >>391
別に思わん。
ってか劉仁軌が誰とどの様なやり取りの文なんかも知らん。
義慈王の王子で豊と勇がまだ捕らえられて無いって事で警戒すべきと劉仁軌は進言しとるんかな?
劉仁軌の条の全文を読まないと何とも言えんよな。
旗頭となる王子を全員捕らえないと、百済再興を目論む勢力がまた戦を仕掛けてくると、マトモな武将なら考えて警戒するやろうよ。 よくお解りのようで。
禰軍墓誌に日本ヨショウがでてくるから、禰軍墓誌も参考に劉仁軌の条の解釈をすべきだ。 日本を百済の南遷国とするなら。
1、瓊瓊杵命が扶余出身で九州島に「ヒムカ国」を建国し、その曾孫の神倭伊波礼毘古命が東遷してヤマト国橿原でヤマト王朝を開く(日本建国)。
その系統が25代武烈天皇で途切れたので、百済王家から王族(日十大王の弟?)が新たに倭国大王になって継体天皇になった。
その系統が続いていて、百済本国が660年に滅亡。
百済傍系の倭国が百済本流となる。
これなら、「日本書紀」で神武天皇~持統天皇までの系統に違和感は無いかな?
2,武烈天皇までは倭人系
継体天皇から百済傍系(昆支系)になる。
そうなら何故記紀で神武からの系統にするのか?
武烈が暴君として書かれているのは、中華史書で王朝最後の王や皇帝の典型パターン。
中華王朝なら此処で易姓革命により、継体から新王朝スタートになると思う。
でもそうやない。
3、神武~皇極天皇までは同系統。
義慈王王弟の翹岐が倭国にやって来て、645年に乙巳の変により蘇我入鹿を暗殺。
孝徳天皇に即位して、大化の改新スタート。
舒明天皇、皇極天皇の皇子達はどこに行った?
で、何故「日本書紀」で翹岐を皇極天皇の弟にしたんや? 墓誌の拓本を読めばいいかと思います。
人を惑わせる解釈が多いですから気を付けてください。 4、神武~武烈は捏造。
倭の五王はヤマト大王家やなくて、九州王朝の王。
継体が百済傍系として日本を建国。
百済王家血統のバックアップを担う。
日本を百済の属国にしたいなら、これがわかり易いか?
5、倭国なんて無い。
ヤマト王朝なんて無くて、神武~皇極まで全て捏造。
百済は蘇我氏一族に属国の扶桑統治を命じていたが、馬子の頃より王の様な態度を取る様になってきた。
そこで、義慈王は弟の翹岐を送って蘇我入鹿を討伐。
そのまま属国統治を行う。
百済本国が滅亡して、義慈王の王子達も唐に捕らえられた。
1人残った勇は百済再興に執念を燃やすも、志半ばで逝去する。
翹岐の子供は百済の南遷国として「日本」を建国。
後の天武天皇となる。
孝徳天皇?天智天皇?弘文天皇?
そんなもん、存在せえへんよ。
みんな歴史を古く見せる為の捏造やwww 私は朝鮮山城がなぜできたかを考えて古代史を始めた。
何度も言うが日本書紀の天智紀を読んでいて、善光を難波に置いたところでひっかかった。
その解決を求めて扶余勇が浮かび上がった。
私の論理構成は史実、遺跡、金石文から行われている。
あなたも、思い付きではなく事実をつなげる工夫をすべきだ。 >>401
キミがどこの国にルーツを持つのかは知らんけど、オレは在日コリアンが
「朝鮮は古来より日本の兄であり、文化文明を教えた恩人である。
日本人はその事を理解して、我々の要求に喜んで応えなければならない」
と言う趣旨のスレに今迄反対意見を述べてきた。
だから、本スレにも嫌悪感マシマシやね。
史実なんかは、単なる歴史マニアなんかにどうにか出来るもんでもない。
大学や研究施設、学会所属の専攻者達の日々の研究によって解明されるやろう。
だから、本当に日本が百済の南遷国やと言うなら、こんなネット掲示板やなくて、正式に研究論文として然るべき研究施設に提出するべきではないのかと思うけどね。
百済本紀関連のサイトを見ても、豊は書いてあるが、勇は出てこない。
だから、想像も膨らむんやろな。 それと、白村江の戦い後に造られた水城が何故百済風やったのか?
これは、蘇我馬子の飛鳥寺、聖徳太子の法隆寺と同じ様に百済からやって来た渡来人か、その弟子達によって築かれたからだと考えている。
百済風の建築物は飛鳥時代の流行であって、奈良時代の唐風が流行るまで続いたのかも知れない。
日本人って古代からミーハー気質やったんやろう。
後の時代でも外国の文化を取り入れて流行っては廃れの繰り返しやし。 >>402
学会に出すには名前が必要。名前が書いてない理由は先に述べた。書紀から歴史を作ろうとする人と争うつもりはない。 >>403
数年で造られた、水城、西日本各地にあるおよそ24の朝鮮山城や烽火台、北九州の羅城を流行で済ませるられのですか。結構な財力です。 >>404
書紀も嘘ばかり書けるはずがない。
何故なら、対外的に正当性を示す国史書なのだから、中華や半島の歴史書と照らし合わせて整合性を取らないと意味が無いのだ。
以前書紀を編纂する時、持統天皇から遡っていく方式を取ったと言う説を聞いた記憶がある。
乙巳の変前後までは朝廷の記録も残っていたやろう。
ただ乙巳の変の際に入鹿の父の蝦夷が屋敷に火を放ち自害しているので、「帝紀」や「旧辞」と言った記録文献が失われたと云われている。
だから、時代を遡るに連れて中華の史書に載っていない時代は、「古事記」での記載や口伝から辻褄を合わすしかなかったやろうね。
だから、前にも書いた通りに神武から百済系でも無い限り、何処かで系統が代わったと史書を別にする筈。
前王朝も現王朝も一緒にしてしまう位面の皮が厚いなら、「百済本紀」やって檀君時代から「百済」やったとか書くはずや。 >>405
流行りの建築方法で建てるのやさか、デザインもそうなってしまうのは仕方がないのでは?
現場も百済系渡来人が指揮をとっていたなら、そうなってしまうやろう。
城や砦や寺社とか、その時代には同じ様なデザインって多いんやないか?
奈良時代は唐風が多いし、禅宗がブームの時は書院造の建物や枯山水の庭が多い。
明治時代は洋館がよく造られた。
日本文化ってのは、外交の中で優れていると感じた事は貪欲に取り入れ、それを消化、吸収してグレードアップする事を繰り返して来た。
そしてその伝統を出来るだけ伝えて行こうとする。
1000年以上前に建てられた建築物が何度も修繕されて現代に残っているんや。
それを属国だったからで済ますのか?って反対に聞きたい。
それに白村江の戦いの時期は中大兄皇子のほぼ独裁状態やったらしいさか、国防の為の出費はすぐ出来るし、当時の朝廷にはそれだけの財力もあったやろう。
蘇我氏宗家からたんまり没収したんかも知れんし。 古事記の序に、帝が「諸家のもたるる帝紀本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加う」といい、帝紀を選録する云々
とあるのは、天皇の順序は編纂したと言っているので、過去の記録は残っていたのです。
これから天皇の政治をするという歴史書に系統が変わったと書けば皇統の権威が揺らぐでしょう。 キミも在日コリアン達が主張する様に
「日本人は古代も現代も学習能力の無い野蛮で低能な民族」
にしたいなら、勝手にどうぞ。
天皇家は新羅王家の末裔だの、百済王家の末裔だのは日本史板で散々立ってきた。
遺伝子から日本の有力豪族、貴族、武将等はみんな朝鮮民族がルーツってスレもあった。
どれもこれも妄想全開やった。
「日本書紀」より「三国遺事」が史実ってな。 >>407
現場を見ず、空想だけで好きに処理。そのように書紀を理解してきたんですね。 >>408
古事記は口伝を集めて、纏めた物。
だから、整合性も取れていない部分も多い。
歴史書と言うよりは、昔話集の意味合いが強い。
それに「古事記」は正式な国史書扱いでは無い。
だから大和王朝の正式な官選国史書は
「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」と続いていく六国史となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2 >だから、本当に日本が百済の南遷国やと言うなら、こんなネット掲示板やなくて、正式に研究論文として然るべき研究施設に提出するべきではないのかと思うけどね。
かつて、「こんなところで言ってると、アイデアを盗まれるから、学会で発表しろ」ってさ。
君だってこれを学会に発表してもいいんだよ。
でも、このサイトはみんな知ってるから、君の物にはできないだろう。 >>410
そりゃ写真くらいしか見たこと無いよな。
九州に行った事無いし、遠いし。
奈良、京都、大阪の史跡や寺社は結構廻ったけどね。
でも廻りきれてないんで、大きな事は言わんよ。 >>412
そんな価値あんの?
こんなんネット内での素人の戯れやで。 「国際的視点からの古代史考」は価値あるようだ。このあいだNHKで古代の山城の話が出ていて
「神籠石山城と朝鮮山城の区別はありません。すべて天智天皇が作りました」と言っていた。
それは俺の結論の一つでもある。
NHKが映し出した山城は鬼の城と高安城だった。この二つは俺がサイトで写真を載せた二つの城さ。
奇遇すぎる。 俺は時々書き込みや思い付きを質問サイトに出したりしていたが、
禰軍墓誌が発表されたのはそのころで、俺は天の啓示を感じたね。 基本的知識皆無w
天啓w
研究したつもりで自画自賛w ウヨは質問すると負けるから遺伝子をもちだすw
じゃあ歴代天皇の遺伝子を持ちてるのか?と聞きたいね。 この光景でも観て天啓を受けたんかね?
https://imgur.com/a/p4hH0q5
でもこれは百済が南遷したと言うよりは、百済から王弟や王子が日本に送られて来た時に、色んな職種の人々も付いてきていたんやろ?
そして本国が滅亡して、復興をかけた戦いも失敗したんで、第二の故郷の日本を守る為にヤマト王朝に助力したんやと思うよな。
忠臣からしたら、まだ勇が残ってるのやさか百済王族の血統は絶えていないんやし、持てる知識と技術を使って守ろうとするやろな。 >百済から王弟や王子が日本に送られて来た時に、色んな職種の人々も付いてきていたんやろ?
そうだろう。
>そして本国が滅亡して、復興をかけた戦いも失敗したんで、第二の故郷の日本を守る為にヤマト王朝に助力したんやと思うよな。
そういうことはない。百済が崩壊して、南遷して南扶余国をつくったのと同じ。
国をあきらめてはいない。百済国の意識を持っている。だから、日本国という国号を用いた。
すでにあるヤマト朝廷に助力するんだけだったら、国号を変えることはさらさらない。 まあ中国の歴史書に全く言及されてない時点でトピ主の主張はアウトなんだけどな 隋書
新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來
新羅や百済は倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している
南遷説アウト~ >新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來
新羅や百済は倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している
無能の人の初歩的な誤読です。
この文の直前に「有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也」がある。
「以A為B」は「AをBとなす」と解釈され、「新羅、百濟は倭を大國とし・・・」となり、
多珍物のある倭国を敬仰し、常々往来していた意味にすぎない。
残念だったね。 >>386
>いや君は、律令制を学ぶために派遣されたと言った。
それ、オレがだいぶ前に言った話だがw
その人ではないよw
おまえも相手が一人だと思っているのなw
で、政治制度もだろ。
留学はいろいろな文物・知識を大陸から取り入れるために行ったんだろ。
政治制度もその一つだろ。
で、大和時代の政治体制の変化にどうしても
百済の影響ということにしたいんだろうけど、
百済の政治制度と大和の政治制度は全く違うだろwww
こじ付け野郎の勘違い野郎なんだよ、
おまえはよおw >百済の政治制度と大和の政治制度は全く違うだろ
百済の政治制度は大和の政治と全く違うと仰いましたが、百済はどのような政治制度だったのか、教えてもらえますか?
>留学はいろいろな文物・知識を大陸から取り入れるために行ったんだろ。
政治制度もその一つだろ。
それでは、律令制を中国から学んだとして、何時の遣使の時ですか?、帰って来たのは何時ですか?
総勢何人くらいですか?政治改革のための勉強に何年間費やしたことになりますか?
律令制が孝徳が着任してすぐ645にスタートしましたが、遣使が返ってから何年のブランクがあるのですか。
お答えください。 あなたの「だろ」という言い方は断定口調でありながら推測の雰囲気があります。
逃げています。今後、「だろ」は自信がないので揶揄していると受け止めます。 古代山城を観て、感動して衝撃を受けたと言うのは共感できる。
オレも史跡で写真と現実とで受ける印象も衝撃は違うもんな。
やっぱり、実物は建物だけでなく、石垣の様なモノからでも受ける印象がダンチや。
でも、そこから日本が百済の南遷国とか、属国やったとの発想に至る事は理解出来んのよね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%B1%B1%E5%9F%8E 後、Wikiで面白いモンを見つけた。
「倭・倭人関連の朝鮮文献」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E7%8C%AE
「新羅本紀」で如何に倭国が新羅を執拗に攻めていたのか解る。
倭国、つまりヤマト王朝が半島に固執してたのは、伽耶地方の鉄鉱石なんやろうと今迄考えてたけど、他の理由もあったんかな?って思ってしまう。
また、新羅本紀やと670年に「日本」へ国号を変えたと書いてあるみたいやな。
この頃はまだ天智天皇の御代なんで、本当なら面白くなりそう。 石垣や造りを見て、日本の中世ものとは全く違う実感がありました。
それと立地ですね。瀬戸内海から離れている。なのに、説明は瀬戸内海を攻め上る唐軍に備えとありました。
海岸線が当時は違ったのかと思いましたが、造山古墳が大分遠くに見えましたから、やはり海岸から離れている。
それで、標高もありますので、朝鮮山城は人民の逃げ込み場所かなとも思いました。
城から南遷国とは思い至りませんでした。
天智紀の善光を難波に置く矛盾があり、勇を劉仁軌で発見して、
勇が善光を難波に置いたと仮定して、天智=勇に全く矛盾がありませんでした。
筑紫野市の羅城のHPをみて南遷の証拠遺跡と強く確信しました。 日本国号は新羅紀にも書いてありますが、三国史記は日本書紀がネタ本とか言われるので
ここから670年を持ってくるのはちょっと気が引けました。
旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」から、「日本」は倭国を従えた近江朝のことです。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」も、
近江朝は倭国を併せその国号を冒したので、近江朝は「日本」を称していたことになります。
近江政府は「日本」を国号として670年〜672年の間に使ったと読めます。
実際は北九州の羅城で囲まれたものを小国とすればそのころから日本を称したかもしれません。 >>435
まぁ見て、何を感じ、何を思うかは人それぞれなんで、何とも言えない。
筑紫野市で古代山城を検索して、キミの言う「羅城」ってこれかいな?って思ったんやけどちゃうかな?
阿志岐山城跡
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173364 >>436
日本書紀をどうしても偽書として、非難したいなら個人的にやってて欲しい。
ただ「日本書紀」編纂は日本が律令制国家として対外アピールする為の国家プロジェクトであって、そのような重大な仕事を20年以上もかけて捏造と妄想で創り上げたなんて考え難い。
以前オレは、乙巳の変で蘇我邸で消失した記録を「帝紀」「旧辞」と書いたが、これは誤りで「天皇記」「国記」やった事を訂正すると共に謝罪いたします。
でも、何で半島出身の人は官選の正史を嫌うんかな?
「古代日本は朝鮮の属国」をスレタイにしたニキも「三国史記」やなくて、「三国遺事」が正しいとしていた。
その方が自身の趣旨に沿うんかも知れんけど、国家事業として編纂された史書と私選の史書じゃ価値が違うやろと思うんやけどな。 >>438
国家プロジェクトなら国家の意思が働くでし
ょ。 >>439
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/553104/
これが一番わかり易いと思った。
しかし、これが勇が指揮して作らせたのは一兆歩譲ってあったとする。
でもそこまでなんやないの?
善光が難波宮に滞在してたのど、翹岐の息子が壬申の乱に勝って、天武天皇になって日本を建国したのとどう繋がるのかサッパリや。
それに、どうも韓国人は古代も現代も日本人の事を人ではないゴミクズの様に見下す。
だから、そんな理屈を
「はい、そうですか」
なんて受け入れられる訳無い。
半島から日本式の遺跡が出てきたら埋め戻したり、破壊して無かった事にしてる位やのに、「史実を受け容れろ」なんて言われる筋合いなんか全く無い。 >>440
そんなん当たり前やん。
だから、周辺国で読まれても違和感の無いように正確さと整合性が必要になるやろ。
じゃないと、国家の信用や信頼に関わる事なんやし。
そりゃ「魏書」や「宋書」と完全に辻褄を合わすのは難しいけど、「隋書」とは辻褄を合してるやろう。
それに「三国史記」が「日本書紀」を参考にしてるのは仕方がないやないの?
「三国史記」編纂の方が後なんやさか、「日本の国史書は間違っているから、こちらの言う通り書き直せ!」なんて常識のある国なら普通言わない。
言ってくる頓珍漢な国は現代韓国のみ。 >しかし、これが勇が指揮して作らせたのは一兆歩譲ってあったとする。
でもそこまでなんやないの?
この遺跡からは勇が百済から逃げて来て国を作ったという結論が出ます。
書紀では水城や大野城を作ったのは天智ですから天智=勇となりますよね。
もし天智が倭人の王で難波に善光を置いたとすると、
これから白村江の罪を問われる時に百済にまだ加担しているとされ、罪を重くする行為でしょ?
だから、難波に善光を置いたのは、倭人でない百済人の勇だと。ここでも、天智=勇が結論されます。
勇=天智は百済人だからまだ唐に負けてないので、羅城などを築いたのです。
そうすると、天智カードは使われてしまいましたので、倭国の王は誰だったのかという問題が出てくるわけですよ。
ギョウキの話は直接は関係ありません。 >>442
隋書と整合性を取るなら、アマタリシヒコが国王として書紀に出てこなければなりませんが。 >>443の続き
この時点で勇と倭国王Xがいます。
Xは敗戦で罪をかぶりました。旧唐書に倭国酋長が封禅に出席することになってますから。
朝鮮山城の分布から言って、勇は近江まで進出しました。近江京は天智ですね。
勇は倭国を蚕食していますね。倭国王Xは蚕食を食い止めたいですよね。壬申の乱を起こした人はXです。
倭国が勝利しました。勝利者=倭国王=X=大海人皇子。そうです。倭国王X =大海人皇子だったのです。
斉明なんていません。国王が九州で客死したなんてあり得ないですよ。
一方でギョウキ=孝徳を追いかけると彼には死んだ子供以外に子供がいました。書紀に書かれています。
彼を皇太子にします。皇極が斉明になどありえません。作り事です。この皇太子が倭国王になります。
つまり大海人がギョウキの子供となります。 09.55
>>1
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。
韓国人は大陸と日本の混血。という結果。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5
https://i.imgur.com/vwGW9y5.jpg >>444
あー「日本書紀」には書かれてないみたいやな。
こりゃ「日本書紀」の正確性も疑われても仕方がないな。
めっちゃ裏切られた感じがする。
疲れた(T_T)
もうどうでもエエわ。 >>433
>でも、そこから日本が百済の南遷国とか、属国やったとの発想に至る事は理解出来んのよね。
それらはやつの朝鮮人的希望から出でる発想でしょw
かれらはどうしても、自分らが教わってきた歴史が正しいと考えたいわけですよ。
つまり、日本をどうしても歴史的に見下したい、近代に入ってから日帝に支配されるという歴史的屈辱を払拭したフィルターを通した歴史観を日本に押し付けたいというのが本音であろう。 >>447
それほどまでに書紀を信じていたのは何故ですか? >>429
前文とか関係ないじゃん 大国 と書いて敬ってるんだから
当時の中国の史書のまったく載ってないようなことが起きてるわけないでしょ、いくら頑張っても相手にされないよ
まあ古代史は珍説もありだから本でもかきなよ、Amazonの電子書籍くらいなら金もかからないだろ >>452
前文があっての、「以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來」です。
反論できずにまいったんだね。ダメ押しするが
「以A為B」は「AはBである」ではない。「AをBとして」である。 >>448
この手のスレを立てる在コ達の心理ってそういうのが多かったよな。
そして目的は
「ウリが全て正しい2打!」
とホルホルして済ましたいのもあれば、
「日本人が自らの手で天皇を討ち倒し、国土を朝鮮人に明け渡した後に民族浄化を受け容れろ!」
ってまでのものまであった。
ここのスレ主は何を求めているんかね? >>451
第一は国の正史として編纂されたからと、他に無いから。
我が国に碑文等の他の史料があるなら、照らし合わせる事も出来る。
しかし、そんなモノは現在見つかって無い。
だから、中華王朝の正史と照らし合わせるしか方法は無いんで、古墳や飛鳥時代を調べる史料は「古事記」「日本書紀」「風土記」の他に在るんか?
って事。 官選史書が捏造の産物なら、中華の正史も捏造って事になるよな。
日本も高麗も史書編纂でお手本にしているんやさか、お手本から捏造の遣り方を学んだって考えてしまうな。 >>460
数少ないが、剣や鏡や銘板に記述がある。これらを書紀と照らし合わせることは出来る。 >>461
日本書紀は、これから政治をする天皇がどういう由来のものかの権威づけが目的。
中国の史書はその王朝が終わってから編纂されるので、その王朝の意思が入りにくく、より客観的であろう。
例えば倭国の条だと、古い歴史書の倭国の条をコピーして古い歴史書を踏まえている姿勢を示している。
中国の官が直接把握したか伝聞であるかが明白になっている。直接か伝聞かで書き方が違う。
それに、旧唐書と新唐書があるように、いったんできた歴史書は手を加えない方針があるように思う。
私の想像では、王朝の書記官が日々の出来事などの大量の記録を日付入りで残し、
それを次の王朝になって歴史家が整理してまとめるというようになっているのではないかとおもう。
だから、表現に誇張はあっても捏造する理由がないと思うがね。 日本の単一王朝主義は現代が歴史に縛られ、現代が歴史を作る(改編)する動機が生まれる。
この点、易姓革命多王朝主義は、過去にとらわれない政治ができる。いわゆる過去を水に流すことができるのだ。 例えばだよ、
万世一系といえばそうせにゃならんのだ。大正時代になってから過去の院を天皇にするとかな。
日本は外国の侵略を受けていないといえば、歴史はそうせにゃならんのだ。
たとえ遼史に日本国王府と記載されていても、遼とは国交がなかったとせにゃならんのだ。 村上天皇以降光格天皇まで900年間天皇号も使われなかった(安徳、後醍醐は天皇号を使った)なんて知ってる?。
その間は院と言われていて、それを天皇に変えたのは大正時代なんだよな。俺らはずうっと天皇だと思てるけどさ。
時の流れで過去が風化し、消滅するのを待つというのが手法だってよくわかるよなあ。
歴史は長いからいろんな書物があるはずだけど、これらも封印してるんだと思うぜ。
だからほんの少ししか書物はないんだよ。それらは畠親房とか都合の良い本さ。見ない本を知りようがないんだよ。
歴史はこうして作られてゆくんだよ。気を付けた方がいいぜ。おまえらは、担ぎ手でしかないんだよ。 日本国王府の日本が日本列島の日本だったという根拠が無い。
遼史にあるほんの一節を拡大解釈しまくるアホ。 高丽国王府 新罗国王府 日本国王府の順に出るよ、坊や。
唐書以来、中国史書では「日本」は日本列島の日本を指しているだよ。
日本列島でない証拠を示さなければ日本列島なんだよ、坊や。
小学生でも駄々をこねるアホな部類だね。
日本国王府が高麗、新羅に続いて書かれている事実は独立国ではなかった。
その概略は「国際的視点からの古代史考」付録に書かれている。 で、大王家が百済王族の傍系だった。
日本が百済の南遷国だった。
そして、その先は何をご所望や?
単に史実を受け容れろだけや無いやろう?
この手のスレでは最終的に、大和民族が朝鮮民族に絶対服従するか、大和民族の自主的な民族浄化の了承を要求する場合が定期。 >>471
>>472
真実は鏡となって君たちの心を映し出す。歪んだものは歪んで写る。 立ち位置からの真実を主観という。主観を叫んでこられたという事ですね。
誰とも収拾がつかないでしょ? 自らを客観視できていれば
自分の妄想を「真実だ」なんていえるはずがない
それがわかっていない時点で
学問にはまったく向いていないことがわかる >>477
あなたの立ち位置からの真実=主観ですね。
それに言葉をもてあそんでるだけで、真実に迫らない。逃げている。
私は真実を求め、得られた結果を提示し意見を求めている。いまだ一歩も動く必要がない、ここでは。 >>473
歪んでるも何も、在日コリアンがこういうテーマを出して来る時は、決まってそういった要望を出して来たんやけど?
何で俺達が出ていかないとならないの?
何で割腹自殺しないといけないの?
何で革命を起こして、天皇陛下と皇族を国外追放しなくてはいけないの?
何故在日コリアンはそういった要望を俺達に突きつけて来るの? 一番不思議なんは、国史編纂事業は天武・持統朝から準備されてたみたいやけど、20数年かけて編纂して天武天皇の皇子の文武天皇に献上されて文武天皇は読まなかったんかな?
どう見ても、
「これは事実と違う」
ってなったやろう。
自分の祖父が翹岐こと孝徳天皇になって無いし、祖父が蘇我入鹿を討った筈やのに「中大兄皇子」ってなっとる。
普通なら
「こんなんやり直しや!」
ってなるんとちゃう?
百済出身なら、先祖は金の卵から産まれた朱蒙のハズやのに「朱」の字もあらへん。 >>480
何の要望もしておりません。真実の歴史を求めているだけです。 >>481
出来上がった日本書紀が政治的にどう判断されたかはわかりませんが、翌年から講義が行われています。
Wikiによれば、日本書紀完成翌年721年から朝廷主催の『日本書紀』の講義(日本紀講筵、書紀講筵)が行われ、講筵内容は、語句の訓読法、語句の疑義に対する問と解答であるらしい。 化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。日本人と漢族の混血。朝鮮人は新しい年代に北中国人と混血してる。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5 >>1
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。日本人と漢族の混血。朝鮮人は新しい年代に北中国人と混血してる。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5 負けたサイン=悔しさから血が上りここに行き着く。解消しようとするも、脳幹には深く負けが・・・・。 >>483
意味ないよな。
内容がデタラメじゃ。
推古天皇、皇極(斉明)天皇は架空の人物なんやろ?
遣隋使もデタラメなんやし。 壬申の乱の大海軍は美濃や伊勢から軍を集めて
近江を「東から」攻めたんだよ
伊勢が中心勢力になった
これは神武東征で神武がナガスネヒコを攻めたエピソードを明らかに踏襲してる
「俺たちは太陽神の軍なんだから東から攻めるのは当然だ」というやつ
で、だから伊勢神宮の歴史は「天武天皇から」スタートしてるわけだよ
崇神天皇ではなく この「太陽神の軍だから東から攻めるんだ」
というのが「日本」の名付けエピソードになってるのは俺は間違いないと思うわ
壬申の乱での大海起源説 >>291
これは百済のシマ王が作った鏡なんだから
シマ王にとっての大王だろう
シマ王にとっての大王って誰なのか?を考えれば自ずとわかる >>491
大王は倭国王の呼称。
年次を表すとき干支+年号を用いるが、年号がない場合にはその時の国王を記す。 「癸未年八月日十大王年」
干支+日十大王の年としているのは
年号がないからどの60年サイクルかを固定する必要からである。 百済のシマ王がなんで倭国の大王に基づいた年号を使うんだ?って話 日十大王と記すことによって争われていた大王位を決着させ、継体にあきらめさせる意味。
継体に長寿を願うのもおとなしくしていてほしいという意味である。 シマが日本にいたのは間違いないが
オオドが百済にいた可能性もあるんだよな
オオドが百済に滞在してたからこそ百済王家とのコネクションができた >>498
普通はそんな解釈はしない
結論から無理やり解釈を考えるからおかしな解釈になる
順番が逆だろう
結論ありきではなく、個別の出来事をそれぞれ妥当な解釈をしていって、結論を導くべき
この「妥当」には「政治上妥当な行動」も含まれる シマ王が作った鏡に「○○大王」とあれば、これは普通に考えてシマ王にとっての大王だろう
百済には年号がなかったから倭国の年号を使ったんだ、というのもわけがわからない
日本は中国皇帝の年号を使っていたとでもいうのか
いや、それもあり得るんだけどな たとえば三角縁神獣鏡の魏年号をもって「魏製のものだ」と決めつけることはできない
倭国の一部で魏の年号が普通に使われていた、だから国内製の鏡に魏の年号が入っているんだ
という推論も普通にあり得る
お前はどう思うだろうか 仮に三角縁の魏の年号は魏製造である証拠ととらえる一方で
日十大王は倭国の大王だとするなら
両者で解釈の矛盾が生じることとなる >>502
国から国に送る場合は送り主の年号を使う。
国から他国の一王に送る場合は相手国の国王名を記さないのは失礼になる。またどこの国の男弟王かも分からない。大王は倭国王の称号。 >>503
年号を持たない国がその国内で他国の年号を使うことがありうるかどうかはその国の統制力による。 >>504
なにが矛盾かわからない。
倭国の大王以外にどこの王が大王を名乗ったのか。 5世紀、6世紀の倭国王が名乗ったのはオオキミであって漢字表記の大王は7世紀が初出 >>508
稲荷山や江田船山は?
こりゃ何もかもデタラメ。時間の無駄。 >>507
高句麗だって「大王」を名乗るか送られて無かったか?
碑文で有名な好太王も「広開土大王」って呼ばれてないか?
古代日本の場合は各地の「王」を服従させて「王」の上の立場やったから「大王」を名乗っていたかも知れんし。
「スメラギノミコト」は8世紀頃からの言葉やろうし。
ただ百済人が大和言葉の名乗り方をしていたのかは知らんけど。 倭の五王時代の序列では倭王より百済王の方が上なんだから百済王家は百済王家で「大王」を自称してた可能性が高いでしょ
大王なんてのは尊称で、誰かに認定されて名乗れるものじゃないからな 百済記は日本で滅失してるから百済滅亡時に日本に逃げてきた百済王家の誰かが持ち込んだんだろ
で、例によって日本書紀編纂のときに燃やして過去の歴史を隠滅されたと
だから百済記が残ってないからなんとも言えないだけで大王を名乗ってなかったという状況証拠もないんだよね
むしろ倭国との関係を考えたら倭王だけを「大王」と敬ってるほうが不自然 史書に登場する朝鮮のはじまりは箕子朝鮮とされます。紀元前12世紀頃、中国人の箕子が建国し、都は王険城(現在の平壌)に置かれました。
『史記』や『漢書』には、箕子が中国の殷王朝の王族で、殷の滅亡後、殷の遺民を率いて、朝鮮に亡命したと記されています。箕子は中国の文化や技術を朝鮮に持ち込み、善政を敷き、朝鮮をよく統治したようです。
朝鮮半島西北部を中心に、紀元前11世紀頃のものと思われる中国様式の出土物が多く出ており、この時代に、中国からの大規模な移民があったことを示しています。こうしたことから、今日の学界では、箕子朝鮮が実在した可能性が高いと見られています。 ■有史以来朝鮮半島が日本より上の立場になったことは無い■
〜古代朝鮮は日本に二百年以上にわたって支配されていた〜
★韓国に古代の文献はほとんどない
高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、
その内容は日本古代史書である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。
(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)
ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという
「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。
これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。
そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。
「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。
しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、
ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。
そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。
外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 日本は百済の南遷国。話題を変えたのは敗北。一歩も崩せなかったね。 倭の五王系だ昆支系だ、日十大王系だとゴチャゴチャさせてるけど、キミの中では倭の五王より前に大王って存在しない事になってんの?
他スレで神武天皇こと「神倭伊波礼毘古命」は朱蒙の息子か孫だと言う主張があったけど、キミもそっち派? いつから大王と呼称するようになったかはわからない。
鉄剣によれば倭の五王の誰かが大王と呼ばれている。
倭の五王以前については調べていない。
科学的に事実のみを調べている。神話は文学。 それに、本当に「日本」が「百済」の南遷国なら、「旧唐書」とかに何で記されて無いんや?
中華の正史が忖度の無い書き方をしてたんなら、倭国へ送られていた王弟や王子が国を興し「日本」と名乗った位書くやろ。
日本の使節が唐から攻められるのを恐れて、嘘を突き通していたとでも言うんか? キミの中じゃどっからが百済系?
倭の五王も百済系?
それとも倭人なん? >>581
>日本の使節が唐から攻められるのを恐れて、嘘を突き通していたとでも言うんか?
君はある程度真理を突いている。
旧唐書「・・・或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」、
新唐書「使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。」と、
中国は歴史書に日本の使者の言うところに「疑」と記した。
中国の事実認識(百済が倭国に南遷して日本を称した)と使者の言が異なるからであると考えられる。
「実」は「まこと」、「情」は「もとのありさま」の意味である。
使者は唐に攻められる口実を与える事を恐れたので事実を認めなかったのであろうと私は想像している。 >>519
倭の五王は半島の辰王出身。
百済が高句麗に追われて馬韓に入り、伯済国となった。
馬韓の月支国にいた辰王は倭国に渡ったと考えられる。
これからどちらが辰王の正統性があるかが争われたはずである。 >>521
おっと書き忘れました。百済系は日十大王(503)以降です。 新羅本記
倭の五王(辰王)が辰韓や新羅攻めてるとかおかしいだろ 半島を追い出されて倭国で力をつけ、辰王である倭の五王は半島の再支配を求めた。
軍事力による進出の痕跡は見られないという研究者もいる。 自らは成れない辰王。
扶余隆の墓誌に「辰朝人」→唐が認めた正統な辰王系
では月支国にいた辰王は辰王ではくなったのか。
この二国は唯一無二の辰王を巡って歴史書の水面下で争っているようである。
倭の五王が百済以外の半島諸国を得たのは辰王だからだが、
百済都督を得られなかったのは百済が辰王を主張したから。
百済が倭国を属国にしたのも倭国の辰王潰しかもしれない。
例えば、半島に天皇を名乗る奴が現れたとすれば潰しにかかるだろう。それと同じ状況。 >>518
ジャレット・ダイアモンドの『銃、病原菌、鉄』の訳されなかった部分に
「日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」として祝した。」
がある。千年以上の時を超えて明治政府は半島支配の正当性を主張していたことになる。
天皇政府は半島を追い出された意識を持っていたのである。 >>520間違いがあったので再掲
>日本の使節が唐から攻められるのを恐れて、嘘を突き通していたとでも言うんか?
君は真理を突いている。
旧唐書「・・・或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」、
新唐書「使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。」と、
中国は歴史書に日本の使者の言うところに「疑」と記した。
中国の事実認識(百済が倭国に南遷して日本を称した)と使者の言が異なるからである。
「実」は「まこと」、「情」は「もとのありさま」の意味である。
使者は唐に攻められる口実を与える事を恐れたので事実を認めなかったのであろうと私は想像している。 歴史は文化の伝来とか文化の摂取とか波風のない雰囲気づくりをしているが、
実際は、外国から威力のあるものが押し寄せてきて旧秩序が崩壊するのである。
歴史とはその繰り返しである。 で、そこから導き出せる答えは、
「日王は百済の子孫二打!イルポンは故郷の韓半島を取り返そうとして、何回も韓半島を侵略して文化と技術を奪略して行った二打!
現代もイルポンは軍備を拡張して韓半島侵略を虎視眈々と狙ってる二打!
だから、我々韓国人は真の歴史をイルポンの猿に解らせてやり、兄として棒で叩いて「悌」の教義を魂に刻み込む二打!」
って事になるんやね。 まあそういうことだというのはちと早い。これは二国間の問題ではないからだ。
半島と島の関係は世界的にどの秩序の中にあるかによる。
中華秩序に組入れられている間は、中国>半島>島なる秩序がまかりとおる。
ところが、中国を攻略しようとする西洋はこの周辺諸国の秩序を崩すことから始めるのだ。
島をけしかけるのである。「お前たちは半島を追い出されたのだろう。取り戻す気はないか」と。
いま、明治維新以来そういう状況の中に半島と島の関係はある。
西洋がいなくなれば、君が言うような争いは起きないと思うよ。 >>527
一部だけ抜き出したらそう解釈出来るかもしんけど、この人の論説で決定的に抜け落ちてる所は、ロシア、ソ連の存在を無視してる所やと思う。
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html
日帝での朝鮮半島の扱いは、中国、ロシアに対する緩衝地帯として機能する事。
昨年からロシアはウクライナがNATO加盟を求めた事で軍事侵攻を開始した。
ウクライナとベラルーシとバルト三国はロシアにとってNATOとの緩衝地帯だとみなしていたからだ。
北方4島も緩衝地帯とみなしている為に返還を渋るのもその為やろう。
現在も北海道まで欲しがっているし。
日露戦争は日清戦争後の下関条約によって日本に分譲されたはずの遼東半島がロシアの圧力により放棄させられ、ロシアが要塞、軍港化した為に起こった。
大韓帝国の太宗はロシアに擦り寄り、ハーグ密使事件で日帝の保護国化を不当行為として国際問題化しようとした。
しかし、国際連盟の常任国は耳を貸さなかった。
そして、日帝は太宗を廃位して李垠を次代皇帝に即位させた。
しかし、李垠は朝鮮半島の統治を嫌がり、後楯の伊藤博文が暗殺された事で日本へ統治権の移譲を承認した。
こうして、国際的には正式な条約として日韓併合条約が結ばれた。
そうなると、朝鮮半島とロシアとの緩衝地帯が必要になった。
だから満州事変で新たな緩衝地帯を造ったのである。
朝鮮半島への回帰が目的だなんて、眉唾ものの話に過ぎない。
結果として、朝鮮半島の近代化は日本の国力低下に繋がってしまったんやし。 百済王が南遷したのに後から来た百済移民には秘密にしてたんだ不思議ダナー >>531
いや、起こる。
ってか、既に起こりつつある。
現代の日本人にとって半島やシナ大陸は汚染され、資源も無い何の魅力も無い荒廃した土地である。
ピンク色の川や、アオコが大量発生してる海なんて欲しくない。
反対に中共国人は日本の山林を買い漁り、水源を欲しがり、材木を切り出している。
そして、太陽光パネルを敷き詰めている。
日本の領海やEEZに侵入して海産物や水産資源の密猟、海底資源の所有権主張している。
韓国も日本にはEEZも了解も存在しないと主張して長崎県五島列島付近の日本による海底調査を妨害しに来ている。
在日コリアンの土地、不法占拠とか各地で起こる迷惑なデモとか、安心、安全な日常を送りたい日本人にとっては甚だ迷惑。
特に民生品を軍事品に転用しないで欲しい。 西洋が世界支配を企む過程で日本は西洋に組み込まれた。中国への橋頭堡として、ロシアの進出を阻む柵として。ここに、日本の独自の意思を示す空間はなかった。当時の西洋には東洋人蔑視があったのだから操られていたし、今も続いている。 ポツダム受け入れたら、後にヤルタ協定があった。そんなこと知る由もない計られたお坊ちゃま日本。返して欲しければ英米に頼むかロシアにくっつけや >>537
マジに考えることないよ、性格がデタラメだから。 >北方4島も緩衝地帯とみなしている為に返還を渋るのもその為やろう。
ヤルタ協定
>現在も北海道まで欲しがっているし。
極東委員会による統治が本筋だったとの思いがソ連を引き継ぐロシアにはあるのでは? >>539
噂ではプーチンはピョートル大帝もニコライ二世もスターリンも成し得なかった偉業を達成したがっているらしいけどな。
今年やったか
「北海道の全権はロシアが保有している」
とかロシアの国防大臣が声明をだしたのは。
ウラジオストックの太平洋艦隊も津軽海峡を頻繁に往来しとるし、中共国は相変わらず尖閣諸島の近海に居座っとる。
スクランブルの回数も年々増えていってるし、我慢比べが続くな。
これもヤルタ会談かカイロ宣言が関係しとるんかな? スレタイからエラい外れてしまったけど、現代日本人は中共国の冊封体制に戻る気はサラサラ無いで。
ただ、政治家に親中媚中の輩が多いんで知らん間に占領されるかもな。 >>526
唐は認めてないから「正史」にも扶余隆の子孫の「墓誌」にも辰王なんて出てこないよ。扶余隆の自称をウリナラカルトのご都合解釈とつまみ食い。ウリナラ歪曲だね。 >日露戦争は日清戦争後の下関条約によって日本に分譲されたはずの遼東半島がロシアの圧力により放棄させられ、ロシアが要塞、軍港化した為に起こった。
西洋の意思が読めてない 正史に載ってないよ。なぜ都合悪いことは無視するw
都合良い部分だけをつまみ食いしてるレベルでは学問を名乗れないぞw 中国朝廷が編纂する正史には載ってない。
扶余隆以外の百済人の墓誌にもない。
ただのつまみ食いじゃん。 新羅は大和王権の分国です
まだこの説の方が辻褄合わせられるわな >「北海道の全権はロシアが保有している」
とかロシアの国防大臣が声明をだしたのは。
ウラジオストックの太平洋艦隊も津軽海峡を頻繁に往来しとるし、中共国は相変わらず尖閣諸島の近海に居座っとる。
スクランブルの回数も年々増えていってるし、我慢比べが続くな。
やけに現状に詳しいね。ウヨの勉強会に行ってるのかい?
>これもヤルタ会談かカイロ宣言が関係しとるんかな?
日ソ不可侵→ヤルタ協定→ソ連参戦→ポツダム受諾(英米へ降伏)→単独占領→極東委員会消滅
分割統治の予定を自陣営に取り込んだ恨みは残ってるだろう >>463
私は日本書紀を信じてるわけではない。
百済が日本を支配したというスレ主の論をデタラメだと言ってるだけで。
だって何も確たる根拠ないんだもん。
想像と独自の飛躍推測をのべてるだけで。
あなたの中国史書についての考察についてはおっしゃる通りでしょう。
ただ本筋とは違う、周辺諸国の出来事については、内容がいい加減だったり、過去の内容伝聞がそのまま受け継がれたりというパターンはある。
だからその記事が正確かどうかは不明ということだろう。
当然、百済が日本を支配してたなんてどうして導き出せるのか? という話w で、このスレ主のレスは、近現代史と古代史を一緒くたにしている。
そのこと自体が、自分の願望を押し通したいだけなんだろうなというのが見て取れるw >周辺諸国の出来事については、内容がいい加減だったり、過去の内容伝聞がそのまま受け継がれたりというパターンはある。
だからその記事が正確かどうかは不明ということだろう。
「だろう」と否定すら推量→デタラメをもっともらしく言う詐欺師 >私は日本書紀を信じてるわけではない。
中国史書も周辺諸国の出来事については、内容がいい加減だったり、正確かどうか不明だろうとおっしゃるわけですから、あなたが仰る歴史の根拠は何ですか? 早い話、半島人に多い
「ウリ達が真実で正義だとイルポンに解らせてやる二打!」
何やろうね。
感情が一番でそれを満足させるのに、歴史、政治、法律が補足されてる場合が多いさかね。 >>553
言い切るやつも嘘くさい・胡散臭いと思うよw
実際見たわけでもないのにさwww
それとも。タイムマシンに乗って過去に言って見てきたの?w
偉そうに言うな、嘘つきのくせにw
実際に見たり体験したりしない限り
まことしやかに語るやつのほうが
詐欺師だよw
おまえは思いませんか?
人の信用を得るということはかくも難しい、
特にオレのように人はみんな嘘つきだと思ってる人間はwww 「実際見たわけじゃないだろう?、俺は信用しない」⇔「反論出来ない、」 日十大王は日本王だろ
本=大十
「日本」というのは百済の倭国政府のこと
百済は継続して複数の王子を倭国に派遣、駐在(倭国側は人質と主張)させていたわけで
その「倭国側の百済王子グループ」は、シャドウキャビネットというか、百済の第二政府みたいなものだっただろう
その倭国側にあった駐在百済王子中心の百済政府のことを「日本」と呼んだ
それは禰軍墓誌の「日本余礁扶桑にこもり」の用例とも一致してる
あきらかに倭国軍ではなく百済軍残党のことを日本余礁と呼んでいる で、外交戦略からすると「倭国駐在百済王子勢力」があるなら
「百済駐在倭国王子勢力」もあったはずだし「任那日本府」の存在を肯定するなら「任那駐在倭国王子勢力」もあったはず
当時の複雑な国際情勢を乗り切るための外交戦略としては当然そういう体制になる
大切な対外駐在拠点を「そのへんの豪族」に任せるはずはない で、雄略天皇以降の天皇はどれも「天皇の血脈だが幼少期に都から逃れていた」とか「天皇の血脈だが数世代地方にいた」とかいう経歴で書かれてるんだけど
それでいうなら「幼少期に百済に出されていた」とか「数世代任那を任されてて半土着化していた」ような王子もいたし
仁賢や継体の出自の「丹波」や「近江」「北陸」というのは記紀のごまかしで
やはり任那や百済に出自があったんだと思うぞ
記紀では「倭国駐在百済王子」を「人質」と書いてる以上、逆の存在を認めるわけにはいかないから誤魔化しただけで 継体は出自が半島にあった倭国王子で、だからこそ任那を百済に割譲したり、即位前から百済王子(シマ王)と交流したりしていたと ようするに
倭国にも大和王権とそこから半独立した筑紫王という東西二勢力があったように
百済にも本国と倭国に南北二勢力があったということ
その倭国側を日本と言ったと ホンマに困った。
辛い。
先ず、「隋書」「旧唐書」と「日本書紀」困る程噛み合わない。
600年に最初の遣隋使が送られたのが、隋書には記されてあるけど、日本書紀には無い。
607年の2回目は有名やけど、そこでも食い違いが起きている。
遣隋使の小野妹子の名が隋書には無い。
それに翌年の裴世清に依る煬帝からの国書も内容が改竄されて日本書紀に書かれているらしいし、小野妹子が返書を「百済に奪われた」として紛失しているらしい。
こうなって来ると、反論するのが難しくなってくる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF 第一回遣隋使の派遣主は押坂彦人王だろ
彼は母系が新羅系とつながりの深い息長氏で
「水派宮(みまたのみや)」に住んでたのだから
これは当然新羅派の任那駐在倭国王子ということ
彼の息子は田村王子で田村は当時の発音だと「タフリ」と読むことがわかってる
隋書のアマタリシヒコの息子「ワカミタフリ」に一致
ワカは若い、年少であるという意味
ミは尊称
「太陽が兄で月が弟」というアマタリシヒコの発言も、天孫族の古地である任那こそが「兄」だという負け惜しみだろう つまり第一回遣隋使は任那側の倭国第二政府(シャドウキャビネット)が勝手に送ったもの
だから日本書紀には記されていない
第二回以降が大和からの正式なものだろう
ただし第一回遣隋使の結果は大和にも当然報告されており
600年の遣隋使で隋から「太陽に祈るとかじゃなくてちゃんと政治をしろ」と言われたとおり
603年、604年に十七条憲法と冠位十二階を制定して607年の第二回遣隋使に備えてる
「言われたとおりちゃんと政治してますよ」と報告したわけやね 6世紀から7世紀
天皇の宮廷の名前として「水派宮」のほかに「百済宮」「百済大井宮」も見える
複数の王子が国外に派遣、駐在していたんだろう
600年に隋から「ちゃんと政治をしろ」と言われ、大慌てで政治の仕組みを作っていったわけだけど
その中心にいた聖徳太子も当然海外に留学(駐在)していたはずで
じゃなきゃ何語を使って高句麗や百済の僧から仏教を習っていたのかということになるし
「聖徳太子は十の言葉を聞き分けた」というエピソードも
普通に考えれば「それくらい多くの言語に堪能だった」と解釈するのが自然 推古天皇は金石文では「大大王」と記されている
大大王という、大王を2つ重ねた名称は注目に値する
2つの王権を同時に継承したのではないか
中世ヨーロッパでスペインとポルトガルの王位を一人の王が同時に継承したために一時1つの国になったことがあるが
そういうことが倭国と朝鮮半島南部のどこかの国で起きたと
だからこそ推古天皇の周辺(用明、聖徳太子など)は仏教を取り入れるのが早かった ちなみに倭の五王から遣隋使まで間が空いたことに「倭国には外交権がなかったからだ」などという主張があるが
外交は勝手にするものであって誰かに制限されるものではない
特に海路は自由に取ることができるので、制限のしようがないものである
単に、倭国は漢民族ではなく北方異民族の国である隋をあなどったいたんだろう
だからこそ冊封に入ることを拒絶し対等を主張して外交しようとした
そして海路は自由だからこそ任那のアマタリシヒコ(押坂彦人王)は大和に先んじて隋と交流を図ることができた 外交権とか決めるのは中華だけって教えてやったのにまだこの人は理解しなかったのか >>570
筑紫王磐井は誰かの許可を得て新羅と交易していたわけ? 蘇我氏の系譜を読むと
蘇我マチ-韓子の親子と稲目-馬子の親子の間に生没年不詳、事績不明の蘇我高麗という名前が見える
こういう場合、系譜が捏造されていると思って良い
つまり新興の稲目-馬子の箔付けのために、「昔からヤマト王権に関わっていた」ということにした
そのために過去の応神朝に功績のあったマチ、韓子に系譜を無理やり接続し、その接続のための「糊」として蘇我高麗という人間を創作したと で本題
蘇我稲目の娘に堅塩姫というのが見える
この堅塩は「きたし」と読む
そして欽明天皇の妃になって用明、推古を産んでいる
百済から「来た」任那王族の姫が、欽明に嫁いだからその子供の推古は両王統を継いだのではないか もちろん当時の任那各国は百済あるいは新羅に侵食され支配されつつあったのでその王位が実質的にどの程度の価値があったかは微妙だが >>571
中華との外交を制限する権限は他の国にはない 段々と日本が百済の属国から植民地化された事になって来てるwww
終いには
「百日併合条約」
結んだ事になったりして。 歴史を考えるのに、ある程度”前提”というのはある。
でも、間違った前提で歴史を考察するととんでもない結果を導き出す。
このスレはそれを体現した、そういう意味で良スレですw プヨヨヨンくんが、なぜこのスレで直接反論をしようとしないか?
これは彼が突っ込まれまくって自滅するのを警戒してるためである。
そもそも、彼が論拠としてるのは、枝葉末節の資料であり、体系的な資料というのは存在しない。
彼は彼の希望的妄想により、諸資料を結びつけているだけである。
それは彼に自覚してほしいところであるwww
そのくらいは誰でも看破してるよwww このスレを否定したいんやけど、「日本書紀」に大事な事が記されていない。
やはり、藤原不比等によって都合の良い様に改竄されていたのか?
神武の系統は仲哀天皇までなのか?
応神天皇は仲哀天皇の子でなく、武内宿禰の子供との説もある。
また、継体天皇は応神天皇の玄孫の子供になるとしたら、何で北陸に居たんや?
畿内に居っても良かったんやないの?
あ~沼る。 >>1
https://i.imgur.com/ATFEKgQ.jpeg
https://i.imgur.com/FXOcoNw.jpeg
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。日本人と漢族の混血。朝鮮人は新しい年代に北中国人と混血してる。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5 個人の遺伝子を使って姻戚関係を説明できればそちらが真だろ。 考えるに、
百済が、自分らの避難地としての植民地を探していたのは、恐らくそうだったろう。
そして、百済が倭国をうまく自分らの勢力拡大・勢力維持に利用しようと画策したのも確かであろう。
ただ、オレの考え方とプヨヨヨンと違うのは、
それは長い時間をかけて行われたということ。
百済は友好的に倭国に接して行って、
倭国に自分らの進んだ文化を伝えたり、
文物を贈り物することによって、倭国政権を懐柔していった。
これは、倭国域が広いのもあるし、倭国の政権の地までは、途中に地元勢力が多数存在し、
戦争など起こしても、長い時間がかかり、戦争を維持することなど到底出来るはずもない。
そして戦争に武力を他の地域に注いでいる間に、新羅や高句麗などに攻め込まれ一挙に滅んでしまう可能性が大だから。
そして、その懐柔策が実り、自分らの身内や家臣が移り住むまでの関係になった。
倭国の政権は、外積として百済の勢力を受け入れ、百済王族とは外戚の親戚関係になっていた、というのが、当時の大和政権であろう。
そんな中での勢力の対立が、一連の乙巳の変や壬申の乱などの出来事だったと考えられる。
大海人と大友の対立は、それらの最終局面であろう。 >>590訂正
>倭国の政権は、外積として
→倭国の政権は、外戚として 高句麗関係を日本書紀では隠しているんだけど
百済側の認識は明らかに高句麗、百済、倭国連合なんだよな
広開土王以来倭国には高句麗へのトラウマがあって、歴史書でも「触れないでおこう」という立場なんだろうけど
聖徳太子の仏教の師匠が明らかに高句麗人だったり、高句麗とも密接な関係を築いてるんだよ
百済へは、任那の領土割譲との交換で僧や経典、仏像を貰ってる
高句麗に対しても、タダで高僧が贈られるわけがない
それでいうと「大兄」という称号が気になってくる 大兄は高句麗の官位の名前で、複数の倭国王子(それも百済と関係が深い王子)についてる
高句麗の官位には小兄もあるが、蘇我小姉媛の本当の名前は蘇我小兄で、女性なので後に小姉に変えられたが
本来は小兄であり、高句麗の官位をもっていた渡来人だろう 昆支王から。河内高井田山古墳、470-490年代頃。
畿内に横穴式古墳と群集墳をもたらしたのは彼だろう。 スレ主が言いたいのは、日本の大王、つまり天皇は百済人の末裔で、間抜けなチョッパリ共はそんな事知らずに朝鮮人を日本の王として崇めてたお目出度いサルって事なんやろな。
だから、在日韓国、朝鮮人は日本に永住する正当な権利があって、それを受け入れられないなら日本から出て行け!ってか? 誰でも内心思ってることを、王の個人名で明らかにした。
追いだした王を今更崇めるのは変だろう。 南支那のブタがかった黒人造形の顔面をしたクッサイ醜悪な汚物すぎる生き物乙(ウルトラ嘲笑 南支那のブタがかった黒人造形の顔面をしたクッサイ醜悪な汚物すぎる生き物乙(ウルトラ嘲笑 蘇我物部論争ってのは宗教論争に見えてそうじゃない
ようは開国派と鎖国派の戦いなんだよ
倭の五王時代から倭人は仏教の存在自体は知ってたはずで
それを拒絶したからこそ600年まで倭国は中国との関係を断って引きこもっていた
でも百済から伝わった仏像と倭国の埴輪を見比べたら、埴輪の造形って子供の絵みたいにショボくてさすがに恥ずかしくなったんだろう
そこで主に仏教美術に使用されている木製品の加工技術と金属の鍛造技術を目当てに倭国は「開国」した
それはイコール仏教を受け入れることだったというわけだ 継体天皇の古墳に埴輪が飾られてから50年も経たないうちに倭国は百済から仏像を貰っているが
あまりの造形のディティールの差にさすがに恥ずかしくなったと思うよ
それを俺は法隆寺の宝物殿を見て感じたわ
これ、当時の倭人めちゃくちゃはずかしかったろうな
そりゃすぐに前方後円墳も埴輪も作るのやめるよな、と 仏教や漢字の導入したんは、中央集権の統一国家を作る上で必要があったからやと思うで。
国家として公用に使用する文字や思想の根底になる宗教を定めて徹底すれば最初は混乱があるけども、孫や曾孫の代になれば当たり前になって来るやろう。
世界史で見ても、軍事力や経済力だけよりは、言語、文字、宗教を国内で統一しといた方が国としては統治しやすいし、長続きしてたと思う。
みすぼらしいとか、恥ずかしいとかの外見よりも、如何に国内を安定させるかの方が統治者としては大切なんやないの?
その方が経済力や軍事力の向上に繋がるんやし。 いや100年間に渡って仏教の受容を拒絶してたやん倭国は
倭の五王の使者が宋まで行ってるんだから仏教の存在をしらないはずないし >>605
それは、倭の五王の統治者としての思想の問題やないの?
安東大将軍を中華皇帝から賜れば皆が従うと考えていたんで、先祖代々の宗教を変える必要は無いと考えたかも知れんし。
推古朝で厩戸皇子が中華王朝の冊封体制から抜けて、独立した強い国家作りを構想した時に中華王朝の儒教、仏教、律令制に目をつけたかも知れへんで。
そこから天武持統朝で形作られて、文武天皇からスタート。
聖武天皇の御代で完成って流れや無いか? ん?それは何の反論にもなってないやろ
仏教論争は宗教論争ではなく開国派か鎖国派かの争いってことになるやろ?
仏教を入れるってことは高句麗や百済の人間をがばっと入れるってことやし
仏教を拒絶するってことは高句麗や百済の人間を拒絶するってことやろ
宗教は拒絶しながら技術や制度だけ取り入れるってことはできんわけやから、そういうことやろ だから結局鎖国派の物部は負けて高句麗や百済の人間をがばがば入れて日本を日本じゃなくしましょうって流れになったってことやろ 宗教者が改宗して新しい宗教を始めることはないと考えます。
新しい宗教者が入って来るか生まれて、既存の宗教者と競うのでしょう。
歴史上は勝ったものが残るのです。
王自体が宗教者である場合は宗教の転換は統治上の問題を起こすのでは? >>608
高句麗 征東将軍
百済 鎮東将軍
倭 安東将軍 (最も格下) >>609
開国派か鎖国派の争いって当時あったんかな?
この時代に仏教を取り入れ無かったからと言って、
「仏教を信仰しないような、野蛮で低俗な国とは付き合わない」
って言われたなんて記録に無いし。
飽く迄も冊封国内での地位向上を目指している感じがする。
反対に推古朝からは、冊封体制を抜けて独立する為に仏教、儒教、律令制を随や唐から積極的に取り入れる政治改革に取り組んだって考えてる。
それに反対していた物部氏と全面対決になったんやろうと思ってる。
厩戸皇子が若くして亡くなってしまったんで、頓挫してしまったんやろうけどね。 新羅が仏教受容して10年も経たないうちに倭国も仏教受容してるんだから「ヤバい」という認識があってのことだよ >>614
そんな格下の称号で皆が従うとなんで思うわけ? >>612
格下扱いした島夷南朝はアホ。日本が新しい中華を作る原因を南朝が作ったわけだ。やっぱり北魏と日本は一緒。 >>617
小中華ぶっても東アジアで最後の最後まで仏教受容を拒んでた非文明国だったのが倭国 アマタリシヒコを解決せず仏教の伝来とかの議論はナンセンス 安東将軍だかなんだかで倭人の半島支配が認められたとか言うホラ話がネットに流れてるな
新羅攻めた倭人「余は安東将軍であるから抵抗は無駄である」
新羅人「安東将軍とか笑かすなよチョッパリw」 新羅諸軍事に叙任されてるのは事実だろ
だから少なくとも502年までは新羅は倭の属国なのは間違いない
宋だっててきとーに叙任なんかしないよ
ちゃんと半島の勢力図を把握した上で、倭王を新羅諸軍事に叙任してる >>618
倭国最大仏教の浄土宗、浄土真宗の祖寺は北魏の玄中寺ニダ >>623
倭は南朝の冊封国
新羅は北朝の冊封国だから南朝関係ない
知らなかったろ? 高句麗は
征東将軍領護東夷中郎将 だから
東夷(倭も含む)で最高位の征東将軍だよ ヤマト王は北朝のスタンスで天子になったんだね。正統な天子は魏と西晋武帝まで、南朝の白板天子は認めないという騎馬民族の歴史観を踏襲したわけですね。 任那復興会議の記事で、任那日本府を仕切ってるのは百済王だからな
任那日本府は百済の組織になってたんじゃないか?実質
だとすると「日本」の国号も百済の遠隔地第二政府のことだろうなやはり >>616
チョーセン半島の国家を従えるんやなくて、国内の豪族を纏める為やないの? 乙巳の変は「三韓の調」の場で起きた
このときの三韓は明らかに高句麗、百済、任那であり
「調」というのも倭国中心史観であって
内実は対唐新羅戦争のための会議だったろう
この会議で倭国の対唐新羅戦介入に反対したのが蘇我入鹿で、賛成したのが中大兄皇子と中臣鎌足だったのではないか
蘇我入鹿は専横や天皇位簒奪の企てにより殺されたのではなく
対外戦争に対する態度の違いにより殺された
(仲哀天皇が住吉大神と息長足に殺されたように) 神功三十九年「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。
神功六十六年「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。
天皇家は神功紀で魏と西晋武帝の天子の地位を認め、白板天子(南朝の蔑称)の外交は抹殺。まじ北魏じゃん。
日本=北魏なので残念ですた。 白村江に敗れた百済王子扶余勇は九州北部に南遷し、大宰府を中心に51qの羅城の小国を築いた。
この小国は東に展開し、近江まで進出した。小国は少なくとも670年には「日本」を名乗った。
百済→南扶余→日本は百済の南遷である。
書紀は彼を天智天皇と諡号した。 >>631
せやね。
この時期に半島情勢に積極的に介入するか、撤退するかで朝廷が割れた可能性は十分に考えられるよな。
任那はもう時間の問題やし、唐と新羅が手を組んだとなると高句麗、百済も焦ったやろね。
乙巳の変は最終的にどうするかを天皇が裁決する場で起きたのかも知れんね。 倭国で継続的に開かれていた高句麗百済任那倭国各王子の会議体のことを「日本」と言ったのではないか つまり3ヶ国+任那が主体なので、どの国にもよらない会議体の名称が必要だった
いまでいうNATOや国連のような 蘇我入鹿は唐がいかに強大かを知っていたが
中大兄皇子と中臣鎌足は唐の強大さを知らなかった
「聖徳太子が対等外交した隋の後継国だから、倭国と対等くらいの国力だろう」なんて舐めていたのかもしれない あるいは会議に参加した高句麗の使節は、倭国を引き入れたいがために「唐なんて弱小っすよ、南朝を征服できてない、中国の北の方にあるそんなに大きくない国っすよ」と甘言を言っていたのかもしれない 6~7世紀の飛鳥の古墳の壁画には「高句麗から空を見上げたときの天体図」が描かれてることもよく知られている
やはり高句麗との関係が隠されている 扶余(百済、高句麗)とチョッパリ(日本、新羅)で同族嫌悪してたわけニダ。チョッパリ新羅が扶余と日本を追い出したニダ。 >>630
臣下に南朝の官位を授け、百済に対しては華夷秩序で優位に立ちたかったのかな
南朝が宋、斉、梁と変わるのみてこんな脆弱な王朝の官位に価値ないと思ったのか征東大将軍になった時は中国行ってない 南朝相手に日出処天子は通用しないが、鮮卑姓のブルスカンを持つ煬帝には元夷狄コンプレックスが発動してしまうのである。 「多利思比孤」で面白い考察を見つけた。
これは個人名ではなくて、「天より降った太陽神の子孫」って意味だと言うもの。
つまり「天 足りし日子 大王」って言ったのを随の書記官か誰かがそう記録したんやないかな?
で、これが随では伝わらなかったので、2回目は「日出処の天子…」とダイレクトに表現して煬帝を激怒させたとwww
誰がこの書を書いたんか知らんけど、煽りスキルが高いwww
https://m.youtube.com/watch?v=BemJfb2Hy38 だからワカタケル鉄剣のワカタケルは安閑なんだよな
471年ではなく干支ひとまわりあとの531年
鉄剣には「治天下~~大王」とあるが
471年の雄略なら宋の冊封下なんだから治天下はおかしい
531年なら冊封下にないから治天下があり得る 安閑の謚は広国押武金日天皇
「タケル」が入ってる
66歳で即位されるまで長く皇太子をしており、つまり「ワカ」と呼ばれていた期間が長く、即位後も安閑の代名詞となっていたようでもある
日本書紀では勾大兄皇子と記載され、天皇に名を連ねながら大兄皇子(皇太子、ワカ)としてのほうが有名であったと
まさにワカタケルなのである さらに安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている
埼玉と熊本からワカタケル鉄剣が出てきた、その通りの事績が残っている ワカタケルを471年雄略とすると
宋の冊封に入りながら治天下の鉄剣を全国に配っていたことになる
中国の使者が仮にこの鉄剣を見るようなことがあれば、皇帝は激怒し安東大将軍も剥奪、冊封からもはずされるだろう スレ主が考察する翹岐=孝徳天皇説やけど、孝徳天皇の皇子に有間皇子が居た。
皇后との子共じゃなくて、側室との子供。
もし、大海人皇子が孝徳天皇の子供なら母親は誰なんや?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90 「タラシ」は古事記では「帯」、日本書紀では「足」と表記されている。「帯」の古代中国語音は帯[tat] で ある。中国語の韻尾[-t] は朝鮮語では規則的にlに変化するから、帯[tat] の朝鮮漢字音は帯(tal) になる。高句麗の高位の官名に大対盧、対盧などがあり、百済では「達率」として受け継がれている。「タラシ」は高句麗の官位「対盧」あるいは百済の官位「達」と関係がある。
日本書紀で「タラシ」が「足」と表記されているのは、朝鮮語で「足」のことを足(ta-ri)というからである。日本語の「タラ・シ」は朝鮮語の足「たる」と日本語の足「あし」の両点である。かくして、「タラシ」は高句麗の官位「対盧」、あるいは百済の官位「達」にあやかった称号であることが判 明する。
これによってただちに、「ワケ」は楽浪、帯方郡などの中国系、「イリヒコ」は百済系、「タラシ」は高句麗系、などと分類すること拙速である。事実、景行天皇のように「オホ・タラシ・ヒ コ・オシロ・ワケ」などのように、いくつもの称号をもっている天皇もある。しかし、日本の古代の支配階層が朝鮮半島と深いつながりもち、中国、高句麗、百済などの尊称をもっていたことは確かであろう。 名前をほじくっても、その名前が何時つけられたか不明。w 金日成、金正日のイルだよ
日=イル
イリヒコを分解するとイリ日子であって
太陽の太陽の子供になる
サハラ砂漠と同じやな 依慮(イリ)王、鮮卑のために敗られ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃阻を保つ。
明年、子・依羅立つ。自後、慕容廆、又復び国人を侵掠す。
依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る
ミマキ イリ ヒコイニエ
イクメ イリ ヒコイサチ
トヨキ イリ ヒコ
トヨキ イリ ヒメ 日本皇室のルーツには、現在大きく分けて3つの説がある。
1、縄文人の末裔説。
2、古代イスラエル人の失われた十氏族の末裔説。
3、半島からやって来た騎馬民族の末裔説。
1の場合は、皇室のY染色体ハプログループがD1a2だとされるのが元ネタなんやろな。
2は阿波説派が唱えてるよな。
で、3はスレ主の様に百済王室の一派が14代仲哀天皇を暗殺して、王朝交代をした。
又は、26代継体天皇から百済王室の系統って説になると思う。
幾らネトウヨ呼ばわりされても、約2000年近くの間に一度も王朝交代は無かったなんて考えられない。
英国王室なんて、王朝交代とちゃうん?ってのが結構あるけど、ギネス世界記録では王朝の長さは第3位やし。 2とか信じてるのは馬鹿
3の騎馬民族は殆ど来てないだろう三韓は騎馬民族と言えないし 百済、高句麗、倭国連合軍(あるいは連合会議)のことを「日本」と呼んだのが始まりだろう
いまでいうNATOみたいなもの
百済、高句麗とも隋唐の冊封国だったのに対し
倭国は唯一隋唐の冊封に入らず
「日出る国の天子なり~」と皇帝にケンカ売ったエピソードから取って
「中国には屈しないぞ連盟」として唐新羅に立ち向かったんだろう
その後高句麗、百済は滅亡し、「日本」は倭国にこもるようになると
「日本」と倭国で争いになる
それが壬申の乱であり
倭国側の天武が「日本」側の大友皇子を倒したのだが、
なぜか国名は「日本」を引き継いだ、と 乙巳の変は三韓の調の場で行われたわけで
その三韓の調の場で高句麗、百済の使者から中大兄皇子は「あなたさまの国は日出る国の天子として悠然と隋に対等を主張した唯一の国だ」
だなんだと持ち上げられて気持ちよくなって対唐戦争に参加を決めてしまったんだろう
反対する常識派の蘇我入鹿を殺してまで その三韓の調の場には当然百済の使者だけじゃなく
百済から質として倭国に滞在していた王子善光、あるいは翹岐、豊璋も会議に参加していただろう 統失は重箱の隅が好き。そのうえ自信がないから「だろう」だぜ。 乙巳の変とか全然日本の事件らしくないんだよな、普通日本人はあんな強引な事しないし >>661
2回目の遣隋使の親書は喧嘩を売った内容とはちゃうで。
仏教的には東より西の方が尊いとされているので、「日没処天子」の方が立場は上なんやけどね。
煬帝には解らなかったのか、日本側も「天子」の称号を名乗った事に腹を立てたのかは知らんけどwww。 >>668
いやだったら単に西方の天子と書けば良い
それをわざわざ日没する処の天子と書いてるんだから煽りに決まってるだろ
なんか「単に方角を表してるだけだから失礼じゃない」って論が流行ってるけど
失礼じゃないわけないだろ日没って書いて
西方を何かに例えて言い換えるなら、日没なんて不吉な例えじゃなくてもっと吉祥的な例えをするだろ礼儀を込めるなら
それをわざわざあえて「日没の国」と書いてるんだからわざと煽ってんだよ
邪な馬の台国の卑しい弥呼と書かれたことを、漢字を理解するようになった倭人がやっとバカにされてることに気づいて、350年越しに復讐してんだよ そう言ってるキミが統失だと思うけどw
自身がないから、独り言言ってるし…www
統失プヨヨヨンおじさんw >>669
ま、それが煽りなんか礼儀なんかは書いた本人に聞かんと解らんやろな。
現代でキンペーがこれを引き合いに出して、脅してくる事も多分無いやろう。 「漢魏以前の中国に戻る=外の蛮夷は天子になれない」と宣言した隋に対して最高の煽り文だな。 倭の五王時代に随分へりくだって征討将軍お願いしたけど何も良い事なくてその鬱憤晴らしに日出ずる処の~とか偉そうな態度取った、中華にペコペコしてたとか恥の歴史だから日本書記にも書けない 中華の半分の国の冊封国だったなんて黒歴史は書けないので天から降りて来たことにした 世界中の古代の国家には建国神話があって、最初の王は大体神の子孫になっとるとちゃう?
半島だって檀君は神の子になっとるやろ。
宇宙人なんはシュメール位のもんやし。 日本(ヤマト)の起源は2〜3世紀。まだ歴史書に百済が存在しない頃。 勇と善光が別人って言う史料すら無いんやろな。
でないと、妄想劇から出ない。 辰王は出目が三韓ではなく中華、扶余隆は中国で余生を送るしかない身分なので辰王に絡めて強引な中華系アピー
ル、彼の境遇を考えればそれもやむ無しですね。 アリバイが違う史料(旧唐書、続日本紀)は存在。
もう忘れた?おまえ!統失と同じ思考をしているなw トピ主の言ってることはとっくに葬られた騎馬民族征服説とそっから派生した朝鮮の学者の日本分国論の焼き直しじゃん 正鵠を射抜かれて悔しいのですね。
嘘は見破られる運命。 で、扶余勇と善光が別人だと言う悪魔の証明はまだなん? あれって主観的なもんやろ?
客観的な論点に思えないんやけど? >>686
結局自分のサイトに目を引かせたいだけだろw
アフィリ稼ぎプヨヨヨンおじさんw >>688
おれは>>686ではないけど、
そもそも、日本を百済の配下と思い込みで考えているところが朝鮮人的希望的主観的感想w >>688
現実で考えてみい。
いつも近隣の他勢力に挟まれて領地をとったのとられたのやってる状況で、遠国を支配に置こうなんて発想には至るはずがなかろう。
まして当時の倭国は東っかわに広いんすよ。
倭国の中心地まで、海をいくつも挟んでいるし、距離も遠い。
当時の百済が倭国に勢力を割いている間に自分らの国が占領されあっという間に滅んじまう…
そんな本末転倒な愚かしいことを考えるほど百済人はバカではないだろう。
現実はこうなんですよ、プヨヨヨンおじいさんw >>690
扶余勇と善光は別人の証明を求められたので685にあると答えたらそれは主観的だという。どこが主観的かと尋ねると具体的に答えがないw >>691
主観的というのは言いがかりだった。
だって、どこが主観的か言えないんだもの。
勇と善光は別人ということになります。
まだ蒸し返しますか。 気が狂っているプヨヨヨンおじいさんw
いったい何をしたいのやら…w 扶余勇≠善光は日本にとって悪魔の証明。
歴史の作り直しな。国際関係も変わるな。 扶余勇=善光の記述は歴史書にはない。
何故、扶余勇=善光がまかり通っているかが問題。 扶余勇≠善光ははっきりしているのだから
扶余勇=善光説は作為的で目的を持っている。
こうしておけば扶余勇カードが埋まると考えたのだろう。 扶余勇=天智にたどり着かれると日本が百済の南遷国である事実が浮上する。
これを消すために扶余勇カードを善光で埋めたのだろう。
この仕業は明治政府ではないだろうか。 西欧は清国を攻略する方法として周辺属国を脅かす手段を選んだ。
極東においては朝鮮国を日本に攻略させるのが狙いだった。
そのためには日本を朝鮮の上流に引き上げる意識改革が必要だった。
国民には国の成り立ちについて統一された歴史が必要だった。
日本が百済の南遷国であるという史観は国民を萎えさせるものであっただろう。
否定されねばならなかった。私は西洋の入れ知恵だと思っているが、真偽のほどは・・・・ 英国ならこれくらいの事はやりかねない。
こうして、日本をおだて利用し、日本が成功して頭に乗れば、
いつでも、扶余勇≠善光をもちだして、日本の足元をすくう算段であろう。
英語版Wikiでは扶余勇≠善光である。世界的には扶余勇≠善光が周知されている。 そもそも明治政府は薩長が主導と思っている人が多いが、
薩英戦争でリチャードソン殺害の賠償金を支払った薩摩は、
殺人指令者(殿様)の死刑を求めながら有耶無耶にした英国に恭順するのである。
こうして、薩摩は英国の指令のもとで明治維新を起こす。密留学などあらあな。 尊王攘夷の長州は下関戦争の敗戦で西洋からの300万ドルの賠償金要求を
幕府に付け替えることで許され、倒幕に走るのである。やはり長州も密留学です。
薩長は金で身を売った。こういう歴史も教育に入れてもらわねばいけませんね。
明治維新は田舎の薩長を通じて欧米が主導したんです。おわかり? 学者などの解説ではなく、当時の書物の原文または忠実な訳本を読んでください。
学者は、商売ですから、必ずしも当てになりません。
政府は国民を誘導するために学者を作り歴史作家を作るのです。気を付けましょう。
私は、歴史に関しては原文を引用しないような人の本を読みません。 完勝の秘訣は事実のみに依拠することです。
領土を取ったとられたの時代に半島から近畿にまで簡単には来れないとかはあなたの想像です。
400年代後半には昆支王が河内に来てますよ。横穴式に変わりましたね。群集墳が生まれましたね。
馬の飼育もしてますよ。500年代には馬を数十頭単位で半島に渡してますよ。
半島と九州〜河内の往来は古くから行われていますよ。変な想像で人々を惑わさないでください。 扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。
よって扶余勇=善光ではありません。 日本人なかんずくネトウヨの半島蔑視の立ち位置は、西洋が清国属国の朝鮮を日本に攻略させようとして、日本優位思想を、歴史を作ってまで国民に植え付けたことの結果生じたものと推察されます。
こういった極右思想の存在を利用して、今でも教科書の内容変更や強硬な右翼裁判を許す挙にでている政府は未だに英米のコントロール下にあることは否めず、現政府は明治政府の延長であると判断せざるをえない。
とくに英国は他国の体制を変更するとか民族の火種を残すとかの手法に長けており、自国の存在意義を狡猾にも失わない国です。あまり正直に付き合っていると嵌められますよ。ご忠告まで、ネトウヨさん。 だってあのサイトの内容もこのスレも扶余勇=天智天皇って視点から内容を膨らませてるんやろ?
太宰府の水城や塁壁を天啓を受けた幼な気がして始めたんやろ?
だったら完全に主観的な立場から観てるやん。
旧唐書の引用にしたって、自分の説に合うように解釈しとるんやし。
古代中国語は知らんけど、オレ等が習った漢文の解釈の仕方じゃ、「走」と「在」と助詞が2つある文をあんな訳し方するんかいな?
それに翹岐が孝徳天皇でその皇子が大海人なら、日本書紀に記されている有間皇子の存在はなんなん?
なんで、蘇我赤兄にそそのかされて謀反の罪を着せられて処刑されたストーリーまで創らなアカンの? それに、日本にやって来た豊は三国史記、旧唐書、日本書紀いづれにも登場しているが、勇は三国史記じゃ記述されていない。
判るのは旧唐書だけで、日本書紀じゃ「善光、禅広」で記されとる。
義慈王の王子が正確に記されとる史料って存在しとるんか?
https://imgur.com/a/Scgim1o >>708
扶余勇と善光が別人である証明はまだかと問われたので(>>684 )証明したが、
何か間違っていますか?
みずから扶余勇の名前を出しておいて、>>709では勇の存在を疑問視するって気違ってません? >>697
日本の歴史にはどうでもいい人だから。
おまえみたいな天智天皇が外国人だとキチガイ発言をしない限りなw そもそも大王(オオキミ=天皇)は父系の血筋が大事なのに、それを無視して外国人の血筋の百済第六王子をオオキミや天皇扱いするはずがなかろうwww
百済人の血が入ったとしても、それはあくまで母系、外戚としてであり、百済第六王子がオオキミ・天皇になるはずがなかろうwww
これより前の推古にしろ、後の称徳にしろ女性天皇は一代限りなわけで、あくまで天智以前も以降も、あくまでオオキミ・天皇の地位は父系に限るのは原則だろう。
プヨヨヨンおじさんの言うことは、そういう選定基準を見てもまったく現実味がないし、荒唐無稽である。
わかった?
日本史への反逆児おじさん?ww >日本の歴史にはどうでもいい人だから
名前もない扶余勇を百済王氏の善光と同一人物にした理由を知りたい。 スレ主がコテ付けるかなんかしてくれんと訳わからんのよねこのスレ >>712
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。
よって扶余勇=善光ではありません。これでも、扶余勇=善光ですか? プヨヨヨンおじさんには、
何度か説明しても全く理解していないようであるが、オオキミ・天皇の地位というのは、ただの君主ではなく神官の地位と言う性格も持っている。
だから外国人が天皇になることはありえません。
基本、反日思想を持っているプヨヨヨンおじいさんは、そこらへんを馬鹿にして何も不勉強であるのはまるわかり。
夷狄のことに関しては いい加減な記事である中国の古文書や個人の墓碑の碑文と主観だけで日本史を語ろうとするプヨヨヨンおじいさんはまったくお話になっていませんねw >>716
答えてください。
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。
よって扶余勇=善光ではありません。これでも、扶余勇=善光ですか? >>715
全く天皇の地位の話と関係がない。
百済王族が倭の国内に留まったからそのまま天皇になったと言う発想になんでなるの??ww
その話の接続が頭がおかしいwwww
百済王族が国内に留まって、そのまま百済王氏になったと普通は考えるだろ。
冷静になれよ、プヨヨヨンおじさんw >>716
日本語の論理解りますか?
日本語読めてますか?
いやなものは目に入りませんか? 答えてください。
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。ーーー>Yesですか?
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。ーーー>Yesですか?
よって扶余勇=善光ではありません。ーーー>Yesですか?
これでも、扶余勇=善光ですか? 百済の王族がいくら日本にやってきてたとしても、あくまで客扱いだったろう。
日本に百済が攻めてきたなんて話はどこからも出てこない。
それは、頭のおかしいキミの脳内の妄想ですよwww 答えてください。答えないのは都合が悪いからですか?
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。ーーー>Yesですか?
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。ーーー>Yesですか?
よって扶余勇=善光ではありません。ーーー>OKですか?
これでも、扶余勇=善光ですか? 答えないのは都合が悪いからですね。
それでは学問は成り立ちません。
私の勝利です。扶余勇≠善光が証明されました。 扶余勇は善光でないわけですから、次に、扶余勇は誰だったのかの問題に移ります。 >>720
何度も言ってるよね?
旧唐書に書いてあるからって、それが事実かどうか、天皇の地位とどのように関係あるかなんて、誰が証明出来るんですか?
キミはその一節を自分の妄想に結びつけて
天皇をコケにしてるだけだろ?
邪馬台国論争もそうだが、
そんな簡単に歴史が証明できるなら、とうの昔に片付いてる話だよ。
まして、キミは天皇選定の原則も何も無視して
荒唐無稽なことを言ってるわけで、誰もそんなものに同調するわけがなかろう。
いいかげん解れよ、それぐらい。 >>723
おまえは完全敗北者だよwww
バカタレw >>726
それならこちらをどうぞ
https://en.wikipedia.org/wiki/Uija_of_Baekje
これによると善光と勇は別人ですが。
Wikiを証拠としませんが、諸外国では善光と勇は別人扱いです。残念ねw 天皇に成る原則を作って過去もそうあらねばならないって気違ってるw >>728
扶余勇が扶余隆にされてますね。
没年も違うね。
これは、諸外国と言うより、朝鮮での説でしょ。
そこら辺に関しては朝鮮説も確定的ではないだろう。
朝鮮ではこう伝承されてますよって程度の話だろう。
で、なんでこっから扶余勇が天智天皇になるわけ?wwww
そんなこと一言も書かれてないだろうがwww
妄想家さんよw
反日思想でデタラメ書いて天皇を貶めようとするなよw
あ、ちなみに、おれはウヨでもなんでも無いから。
適当なこと言ってデタラメ言うやつが嫌いなだけ。 >>729
気違ってないよ。
継体天皇だって、父系の後継ぎがいないから、
遠い血筋を持ってきたんだろ。
桓武天皇もそうだろ。
おまえ、もっと日本史勉強してから物言えよ。
なんも知らずに人の国の歴史を非難するなよ。
おまえが外国人なのはまるわかりだよ。 そのまえに答えてください。
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。ーーー>Yesですか?
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。ーーー>Yesですか?
よって扶余勇=善光ではありません。ーーー>OKですか?
これでも、扶余勇=善光ですか?
これを放置したまま天智天皇との関係は論じられません。 そのまえに答えてください。
扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。ーーー>Yesですか?
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。ーーー>Yesですか?
よって扶余勇=善光ではありません。ーーー>OKですか?
これでも、扶余勇=善光ですか?
wikiは証拠にはなりません。
何度尋ねても答えないのは都合が悪いからですね。統失が進みますよ。 統失さーん
あなた、懸命に日本国を守ろうとしてますね。真実を前に滑稽ですよ。 >>732
古代の記述の一節が正しいかどうかなんて
分かるわけがなかろう。実際タイムマシンに乗って見てきたわけでもないのに。
現時点で記述が正しいかどうか二律背反でなんでおまえに答えなければならないの?
それをこつこつ調べて推理して答えを出すのが俺たちのこれからの仕事だろ。
過去の書物の些末な一節の記述に関して正しいかどうかをYESかNOかで答えろなんて質問するほうが頭が変なんだよwww
底抜けのバカw >>734
統失はおまえだろ。常識のないキチガイw
どうしておまえはそんな反日思想なの?
日本が嫌いなら日本史板に来る必要あるのかよ? 扶余勇は倭国に逃げたと旧唐書にある。ーーー>Yesですか?
善光は白村江で戻らずと続日本紀にある。ーーー>Yesですか?
よって扶余勇=善光ではありません。ーーー>OKですか?
上記をこれからこつこつ調べるのはあなたにとって新事実だからなんですね。
調べるほどのことではありません。確認すれば済む話です。
知らなかったのに強い拒否反応を示したのは洗脳のせいですかね。 >>736
思想ではありません。事実を白日の下にさらしているだけです。 気に入らない事実を反日思想と攻撃された気分になるのは、
新たな事実をがでても気に入らなければ認めないといってるのだからおちょくりやすいwww おちょくられてオモロ。
勇は日本に逃げたはNo
「勇は日本に居て、白村江の戦いには居なかった」が正解。 >「勇は日本に居て、白村江の戦いには居なかった」が正解。
「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」
は白村江の戦いの模様の記述の後に記されている。
「走在倭國」は敗走して倭国にいるという意味。 >>742
「是時走在倭国」
「是時」は副詞
「走」は助詞
「在倭国」は補語
主語は省略されている。
「是時(勇)走(勇)在倭国」
となるんやないの?
何度も言うけど、文として助詞が2つ重なるのは不自然。
戦いの後に日本に逃れたなら
「是後走倭国」
にならないか?
これなら、「この後倭国に逃れた」と解釈出来る。
勇は系図にも記されていない隠された王子やったのかも知れない。
難波宮に住まわさせられたのも、太宰府がもし抜かれた時に倭宮や大津宮から目を逸らせる為の策やったかも知れない。
百済王の遺児が居るとなると、唐や新羅の軍は先にそちらに向うと中大兄皇子は考えたのかもな。 >>743
「是時走在倭国」
走も在も動詞。
この時勇走and在倭国。 走 向かってる
在 そこにいる
は同時点で両立しないだろ >>745
敗走や逃走に見られるように同時ではない。
勇走and then 在 in 倭国 >>748
例えば是時敗走が敗と走の同時性を示すものでないことからも是時走在が走と在の同時性を強制するものでない 是時は走在倭国にかかり、この時倭国に在ったことを示している。在に至った前行動が走であり、勇は逃げてこのとき倭国にいたと訳せる。そして以為扶餘豐之應、すなわち高句麗にいる扶余豊に応えようとしたと続くのである。 「餘豐在北,餘勇在南,百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦相影響,」は
唐が高句麗を倒す段階の状況を記している。
扶餘豊は北(高句麗)におり、扶餘勇は南(倭国)におり、
百済・高句麗は旧知の間柄で、援助してくる可能性があり、
倭国は遠いと雖も影響があると唐は警戒しているのである。
唐は百済残党がちりじりになったのではなく、協力してくると踏んでいるのである。 以前にも書いたけど、漢字の持つ意味で日中で全く同じとは限らない。
「走」も日本語と同じ意味もあるけど、日本語じゃ使われない意味が中国語ではある。
それに「走」が「逃れていた」意味で使われたとしても「在倭国」に掛かって居る動詞なんやさか、白村江の戦いの時は戦場に居なかったと解釈した方が自然に感じる。
倭国に敗走した事を言いたいなら
繰り返すけど「是後(勇)走倭国」と記すんやないの?
https://cjjc.weblio.jp/content/%E8%B5%B0 いくとおりもある書き方の中で、自分が作文して「中国語ではこう書くはずだ」って論法は
君が漢文の大家ならいざしらず、そうでないなら、いささか尋常でない気持ち悪さがある。 >>752
旧唐書は勇が何から逃れていたというのですか? 劉仁軌の状は白村江のあと豊が逃げたこと、二人の王子その他が投降したこと等が書かれ、城も取り戻し百済残党は壊滅したと言っている。そのあと劉仁軌の上表文の話が挿入され、そして「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」とつづく。是時とは「白村江後に残党が殆ど投降したがこのとき投降せずに」を指していると思うよ。 >>754
百済本国からでないの?
「王が幼い王子を先に他国に逃していた」みたいな意味やね。 >>756
豊と善光が倭国にいたのは倭国を支配する為と王統保存の意味があった。
そこに突然百済が崩壊し義慈王以下連行された。豊は急遽百済王となって半島に戻って百済復興の戦いを始めた。善光が戻らなかったのは万が一王統がたえたときの用意だろう。他の王子は全員復興の戦いのメンバー。王子忠勝忠詩も投降しているから戦いのメンバ。
君の言う「王が幼い王子を先に他国に逃していた」の王は豊で幼い王子などいない。王子はみな豊の弟だよ。 隆は義慈王の太子で義慈王とともに連行された。残っているのは豊の弟ばかり。 外交上の儀礼で、他国の官位をもらっていた皇子は普通にいたし
倭国も扶余豊に大織冠の官位を送ってる
大織冠まで与えて丁重にもてなしてる人間を一方で「人質」と主張する記紀は意味不明なんだよな 外交上のコネクション作りのため百済は倭国に扶余豊を送り込んだんだし
倭国も外交上の儀礼として扶余豊に大織冠を与えた
明治天皇もイギリス王室から勲章と称号をもらってたからね
じゃあ倭国は?と
倭国側から百済や高句麗に出向して官位をもらった人間はいないの?と
調べていくと、普通に日本書紀に書いてあるんだよね笑 鎌足の大織冠は百済の織物で出来ており、百済特有の前立が残っているようで、百済のものではないか。 >>762
大和時代、百済の文化が日本に広まったのは事実だろう。
でもそれは、倭国に百済が仏教を始め百済を通した中原文化をもたらし、百済の職人・技術者を入れたということだろう。
それと、倭国政治が百済に支配されたということは全くの別問題。
やはり、中原文化は、なんだかんだ言っても当時の先進文化だったわけだ。
それは近代の文明開化時代だって一緒だろ。
おんなじことがあの時代にも起こっていたということさ。
いっつも強制的に支配されてきた朝鮮を故郷に持つあなたには理解できないのかなあ?w 百済の冠が倭国で使われていたことになる。
その最高位の冠を書紀はまるで倭国が与えたように書いた可能性はある。 だからさあ、物と制度が違うだろってのw
物に関しては、百済の物が伝わったが、
制度に関しては、古来の倭国の制度がそのまま使われていた。
百済の官制は、ついぞ倭国では使われなかったのが倭国が百済には支配されていない良い証拠だろ。
おまえは何も勉強してないよねw
朝鮮が日本を支配したいことにしたいという、思い込みだけwww 鎌足の冠は調べれば調べる程百済のものとの違いがない。
百済のものがそのまま使われていたと断定される。
百済から来た人は百済での冠を倭国で着用した。
百済の冠が副葬品に使われているのは被葬者にとってもっとも貴重なものだった。 >>766
おまえがいくら言い張ろうが、それはあくまで物だけの話。
物だけなら、あの時代はいくらでも百済から伝わってきてる。
でも官制は日本独自のもの。
中原文化を参考に憲法を作ったり、
官位を作ったりしたが、結局日本独自のもの。
それは外来の先進文化への憧れからのものであったろうが、百済が日本を支配したとか思いこむのは、キミたち朝鮮人の希望的観測から。
日本人から見ると、キミの言ってることは戯言に過ぎないw
思い知りなよ、何も証明できない無能プヨヨヨンおじいさんwww 半島出身者が古代倭国を支配していたと証明したいのは、あちらの民族感情なんやろうね。
全羅道南部や伽倻地方から前方後円墳や日本式の武具とかが出土するとネトウヨが
「古代チョーセン半島はヤマト王権に支配されていた!」
と騒ぎたてるのと同レベルなんやろうね。
それに、百済王族がヤマト王権の大王家だったんなら、善光に百済王氏の氏姓を下賜するのもおかしいよな。
下賜した持統天皇は天智天皇の娘なんやさか、勇が天智天皇なら善光は叔父に当たる。
臣籍降下でもせん限り普通そんな事せんやろ?
善光が臣籍降下したなんて史料あんの? >>768
その通りだね。
百済王族に、改めて日本風の氏を与えたということは、日本に骨を埋めよということだろうからね。
要は百済王族と日本の皇族は全く違うということに他ならないわけで。
どうして朝鮮人って嘘をついてまでマウント取りたがるのかなあ?
まあ、日本の右派の人々の”古代朝鮮半島支配”の考え方も大人げないけどねw
まあ、そっちは一部の特殊な人達の考え方だからね。 >>758
「王が幼い王子を先に他国に逃していた」は荒唐無稽だったね。
もう少し、百済崩壊の過程の常識をもって主張した方がいい。 「王が幼い王子を先に他国に逃していた」こともなく、反論は悉く潰され
「勇は日本に居て、白村江の戦いには居なかった」の主張も費えた。
勇は白村江口のあと敗走し倭国にいたというのが結論。
勇が天智天皇かどうかのまえに倭国で何をしたかを追っていこう。wwww 多くの百済残党が投降した中で勇は敗走し倭国に渡った。
勿論、投稿しなかった貴族も多数おり、共に倭国に渡ったのである。
投降しなかった事実は、百済再興をあきらめていないということであり、
場所を倭国に移して百済国を作るのが勇の悲願である。
それは着々と進められた。 単に命を長らえる為に倭国に渡ったということはありえない。
王族とはそんな軟弱なものではありえない。
百済勢力を結集するためには彼らを束ねるに十分なものが要る。それは国でしかありえない。
国を造らねば、百済勢力において勇自身の存在価値が失われるのである。
百済勢が倭国に渡ったホットな意識が冷めないうちに国を造らねばならないのである。 この観点で、北九州を見ると、次のような遺構があり、勇グループの国形成遺産である。
対馬・壱岐・筑紫の国に防人と烽火台を置き、いち早く連絡が来るようにしている。
大宰府の防衛施設(664の水城、665の大野城、665の基肄城)を作り居城とする。
首都としての品格を備えなければならないから水城のような威厳のある建造物が必要となる。
51qの土塁もある。百済人が造るので百済の首都泗沘に似た物になるのは当然である 663年に唐に潰されても投降しなかったグループが倭国に渡り、強く百済国を造る意思を持っている。
663〜665にかけて北九州に小規模ながら国として成り立ちうる遺跡がある。
この二者を結び付ける以外に解決策はないのである。
すなわち、勇グループが大宰府周辺の遺跡を作り、それが百済国を南遷させたものであると。
ここに、天智紀の記述は必要でなく、旧唐書の記述と、遺跡の発掘調査だけから結論されるのである。 ここで、天智紀を見てみよう。水城や大野城を造らしめたのは天智である。
我々は旧唐書からこれらの遺構は勇が作ったと結論した。
実在の人物は勇である。天智の実在は書紀上の事でしかない。
とすると、書紀は勇を天智と呼んでいるだけではないのかと考えざるを得ないのである。
そこで、勇を天智と仮定して書紀を読んでみようという事になるのである。 天智が朝鮮式山城をたてたのだとしたら
なぜ天智が百済人の土木技術者への指揮命令権を持っていたのかということになる 「天智が朝鮮式山城を建て、唐の進軍を防ごうとした」
うーん
なぜ天智が百済技術者を従えて西日本各地を回り、百済技術者に指示命令して山城を建てることができたんだ?
もともと天智は百済人部下を多く抱えていたんじゃ?
こういう疑問が出るのは当然だわな >>775
日本余礁扶桑にこもり…
日本余礁とは誰なんだ
それが扶余勇だとしたら、日本という国号の発案者は扶余勇ではないのか >>780
御名算。
我々は旧唐書から勇が唐に投降せず倭国に移ったことを知った。
同心の貴族たちと共にする彼岸は国を造ることであることも解った。
その遺跡が北九州にある。
天智紀を参照しなくても勇がこの遺跡を作ったことが解った。
禰軍墓誌が日本余礁と呼んだのは勇のことである。
まさに唐が白村江で取り逃がした一番の大物である。
「日本」は彼が作った北九州の小国の名以外に何が考えられるのだ。
「日本舊小國」は大宰府近辺の百済の南遷国を言っているのだ。 ただ倭国としても百済王子が北部九州の領民を制圧して勝手に国を作り出したら怒るし追い出そうとすると思うんだよね
それがたとえ白村江の同盟国であったとしても
だから俺は天智=扶余勇 かつ
彼は倭国と百済双方の皇位継承権者だった
(つまり男系継承に限定されていなかった)と思ってるわけ
で、だからこそ「男女継承だと国が乗っ取られる」ということに気付いた天武が改めて男系継承をルール化し、過去の皇統についても皇統を遡ってルールを適用した
その際に当然系図がむちゃくちゃになるから
風土記や国記天皇記を取り上げ、改めて日本書紀という系図の捏造を行った 扶余勇=中大兄皇子=倭国王子兼百済王子
とすれば中大兄皇子が北部九州を制圧していきなり百済後継国を作り始めたことに倭国側が反発しない理由が説明できる
それ以外に説明できない 北九州の小国に存在する朝鮮山城は西日本に広がっている。
これらも勇の一派が築いたものだ。
勇一派は西日本を次第に制覇していったのだ。
このことも、天智紀を参照しなくても遺跡だけから理解できる。
「日本舊小國,併倭國之地」と小国日本が倭国の地を併合していったことは旧唐書も示している。
天智記などなくても、勇が北九州に小国を作り次第に西日本を領土としたことが推測される。
この歴史の大河の流れの中で天智記など補助的な役割でしかない。w 勇の北九州の小国日本が西日本を併合していったのは歴史の大河である。
この結論に天智紀は参照されていない。
天智が中大兄皇子であろうがなかろうが、天智は関係がない。何度言わせるんだバカかw 逃亡百済軍くらい、倭国の勢力なら追い返すことができたはず
なんらかの合意形成があって倭国本部は逃亡百済軍に北部九州を与えたわけだ
その「なんらかの合意形成」あるいは「なんらかの合意形成に至る権力関係」あるいは「なんらかの合意形成に至る利害関係」はなんだったのであろうか
という話をしてんだよ俺は
で、それを考えるに中大兄皇子は倭国と百済双方の王位継承権者であり、双方の利益を代表する人間だったからでは?と言ってる で、じゃあ筑紫君サチヤマは何やってたの?どういう役割を果たしたの?という話にもなる
サチヤマからしたら百済人が筑紫で好き勝手してたら当然「勝手なことをするな」となるはずで
それがたとえ同盟軍の相手だとしても、自分の領地に入ってきて好き勝手荒らされたら追い出そうとする 扶余勇は倭国で百済の復興を果たした。倭国王を名乗るわけがない。
扶余勇が何らかの方法で倭国の地を併合したのは事実。
併合にどんな邪魔があったかは分からないが、併合したのは事実である。
併合過程を知るには当時の倭国の地方の状況に詳しくなければならない。
興味がある方は研究してください。相当難しいと思うよ。 ただ言えることは、唐からの攻撃に備えた勇であったが、
史実上、唐は勇を攻撃していない。何らかの和解があったと想像される。
勇は唐から倭国支配を許された可能性がある。
唐といっても、実質禰軍であろうから、禰軍の仲介で罪を免れたのではないか。
禰軍墓誌に勇のことがでてくるのは彼の人生の一大懸案事項だったという事だろう。 何度も言わせるなよ。この論理展開に書紀は全く使われていない。
書紀に出てくる人物をこの論理の中に持ち込むなよ、ボケw 書紀を金科玉条にする奴はおまえのように統失になるんだよwwwwwww 善光の子孫に百済王の姓を与えたって記述と矛盾するな 倭国に残った義慈王の直系は勇一族が滅べば善光が最も血統的に近い 倭王から家臣としての姓をもらってるわけね百済王家筋が 孝徳天皇も出自があやしいんだよな
謚は軽皇子だから
これは「カラの皇子」であって、つまりハーフだろう 倭国内で韓人というとハーフを指した
記紀では出自隠しのため文字を変えて軽皇子とした ようするに孝徳だけじゃなくハーフの皇族はたくさんいて、それが天皇に即位することもよくあったと
それでいえば倭王家の皇子が百済王家の王位継承権者を兼ねていても何も不思議ではない 最初期の天皇の宮は軽〇〇が多い。
ということは、軽は畿内の地名だな。 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
高句麗も百済も扶余人
新羅の初期の王は日本人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近 我々は旧唐書と大宰府を中心とした遺跡から勇が唐に投降せず倭国に移って小国を作った事を知った。
さらに、その小国は倭国を併合してゆき西日本に広がったことも知った。
この事実は書紀に書かれているだろうか?
書かれているとしたら、勇は何という名前で登場するのだろう?
書紀では水城や大野城を作ったのは天智だから勇は天智として書かれているのだ。
天智が近江宮を作ったのだから、勇は近江まで進出したことになりそうだ。
天智紀の白村江以降の記述は勇をモデルにしていると仮定していいだろう。
勇は百済国の再興を果たしたのだからあくまでも百済人だ。天皇などと名乗るわけがない。
書紀は勇という人物を倭国人に仕立て上げる為に天皇と呼んだのだ。 必死だなあw
イザナギの時には日本はもう存在していますよ。
日本国の国定歴史書に明記されています。 国定の教科書や歴史書を持ち出しすのは、我が理論に歯が立たなかった。
統失は羞恥心も欠如w >>769
ホンマにこんなに必死になるんは、日本人にマウント取りたくて仕方ない感情の表れなんやろうね。
オレもネトウヨって呼ばれる部類らしいけど、非韓三原則で半島との関係を断つ方がエエんやないと考えてる方やね。
有史であの民褥と関わっても碌な事は無い。
米軍も基地を完全撤収した方がアメリカの為にもエエやろね。 旧唐書から勇が唐に投降せず倭国に移って小国を作ったのであった。
大宰府を中心とした遺跡は年代的に勇が作った百済の南遷国である。
さらに、その小国は倭国を併合してゆき西日本に広がった。
我々は書紀を一行も用いずにこれを証明した。
勇を天智天皇とするかどうかは書紀自身の問題である。
勇が百済国を南遷させ倭国の一部を支配した事実を日本史は受け入れなければならない。
天智紀との整合性はその後の問題である。 日本政府は外務省のホームページで「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らか」と主張しているが、そもそも国際法には固有の領土を規定する条文が存在しないし、国際社会共通の定義すらも存在しない。
だから日本政府の主張は真っ赤な嘘だと分かる。
嘘でないなら日本政府は国際法の条文を示して説明できるはずである。 >>770
勇が日本へ逃げてきて、大王になった説よりかは数億倍マシじゃね?
旧唐書に記されているやなんて鼻息荒いけど、どんな読み方をしたらそんな解釈になるんか理解出来ん。
日本書紀の記述を信用するかどうかは勝手やけど、結局倭国に居た百済人達は白村江の戦いでの敗戦で祖国復興を諦めて倭国で暮らしていく事にした。
だから唐、新羅が攻めて来ても連れて行かれない様に太宰府にチョーセン式山城、塁壁を中大兄皇子の協力の元築いて防衛線を固めた。
だから
「日本の扶餘族は立て籠もって出てこない」
って記されただけじゃないの?
唐も百済、倭国連合軍がまた半島に出兵するんじゃ無いかと警戒してたんやし、出方を伺っていたやろうね。 国語辞典の広辞苑に「1872年(明治5年)の琉球藩設置から79年の廃藩・沖縄県設置にいたる明治政府の一連の措置の総称。形式上日清両属だった琉球王国はこの過程で滅亡し、日本に併合された」と書かれている。
日本の明治政府が琉球王国を併合したのは歴史的事実であるから、その琉球王国を前身に持つ沖縄は日本固有の領土ではない。 >>806
日本が国際上の領土と領海を確定させた時に、中華人民共和国なんて国は存在してなかった事はご存知か?
日本が尖閣諸島を領土とした時期にそれを承諾した国は清国やった。
次の中華民国政府も尖閣諸島は日本領と認めていた。
魚釣島には当時鰹節工場があって、漂流した中国漁民を助けた事で中華民国政府より感謝状が送られている。
その感謝状は国立国会図書館にあったと思う。
中共が尖閣諸島に手を出し始めたのは、1970年代に海底油田があるかも?って話が出て来た後。
それに、南鳥島なんかもレアアースが海底で見つかってから所有権を言い出している。
結局、中共は資源と経済を独り占めしたいんで、あんな事をしてるだけ。
韓国の竹島や対馬の領有権を主張するのも似たようなもんやな。
正当性があるなら、国際司法裁判所に堂々と出てくれば良いのに、絶対に裁判で決着つけようとしないのが、言い掛りをつけてると自覚してるんやろな。 >>805を覆せないで他の話をするのは朝鮮人に負けたということだな。www
気分はいかが?wwwwww >勇が日本へ逃げてきて、大王になった説よりかは数億倍マシじゃね?
作り話じゃねえんだよ、真実かどうかなんだよ、日本人さん。wwwww
それに、勇が大王になったとは一言も言ってねえ。日本語読めねえのか?w 日本史は唐に投降しなかった百済人が南遷して日本国を造ったことを歴史に刻むべきだ。
倭国領土は百済人にとっての裏庭だったとの認識を持つべきだ。 >>799
天皇の宮に軽=韓がついてるのはずばりそのとおりで
任那に駐在してたからだろ >>809
沖縄復帰50周年記念式典 岸田文雄首相式辞
https://youtu.be/ou8Mq-yBqIc?si=Q1BPBFf9QqywLYII
この動画の1分27秒からの岸田首相の発言に要注目。
岸田首相はこの式辞で沖縄について「戦争によって失われた領土を外交交渉で回復した」と発言している。
日本政府は小泉政権時代に固有の領土の定義を「一度も他国の領土になったことがない領土」と閣議決定しているので、岸田首相の「戦争によって失われた領土」という発言は「沖縄は日本固有の領土ではない」ことを意味する。
沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに現職の首相の発言によって見事に証明された。 応神天皇が軽島明宮を皇居としていた
その後難波大隅宮に移った
この記述を読み解けない人間は白痴である
応神天皇は八幡神とも呼ばれる軍神である
つまり三韓征伐の軍を実際に率いていたのは応神である
「どこを拠点に三韓出征軍を指揮していたの?」
任那であろう
応神は「即位前に」任那に駐屯して征伐軍を指揮し
その後倭国に帰国し難波大隅宮を居とした
何も問題なく読み解ける そして別の記述も読み解けなければならない
継体天皇は応神の五世とされているが
本当にそうか 日本人のほとんどは8月15日が終戦記念日だと思っているが、これは完全に間違っている。
戦争というものは一方が降伏宣言をしたからといって終了するものではなく、きちんとした手続きを取らなければ法的に終了したことにはならない。
1945年8月15日は日本が降伏宣言をした日であって、法的に戦争が終結したのは米艦ミズーリ号の船上で日本の全権代表である重光葵外務大臣が降伏文書に署名した1945年9月2日である。
ちなみに戦勝国のアメリカでは8月15日を終戦記念日だと思っている人は一人もいない。
さらに言えば降伏文書への署名日は内地と沖縄では違う。
なぜなら日本政府と軍部は沖縄を内地とは考えず、フィリピンやガダルカナル島と同じ外地として扱い本土を防衛するための時間稼ぎの場、すなわち本土防衛の捨て石と考えていたからだ。
そのことは沖縄の近現代史に詳しい多くの歴史学者が指摘している。
当時の日本政府が沖縄を日本固有の領土と思っていなかったのはこの歴史的事実からも明らかである。 継体は軽島明宮に応神が駐留していたときの子供の子孫であり
任那の管理を任されていた
こう考えると継体天皇の即位経緯や即位後の磐井の乱の背景、任那四県割譲の背景まで読めてしまう つまり継体は任那情勢に深入りしなければならないだけの個人的な利害関係をもともと持っていた
それは血縁だろう 継体の即位前の妃とその子供は継体即位後どうなったのか
記紀は詳細には記していない 外務省のホームページに「尖閣諸島情勢の概要」というのがあって、そこには「日本政府は、1895年1月、他の国の支配が及ぶ痕跡がないことを慎重に検討した上で、国際法上正当な手段で尖閣諸島を日本の領土に編入しました」と書かれている。
それなら日本政府は日本の領土ではなかった琉球を国際法上、正当な手段で日本の領土に編入したのかという疑問が出てくるが、よく調べてみるとそのような歴史的事実はない。
日本政府が「国際法上、正当な手段で琉球を日本の領土に編入した」というなら国際法上の根拠と歴史的事実を示して説明できるはずだが日本政府は説明できない。
また、琉球の編入先はどこだったのかも日本政府は説明できない。
日本政府は尖閣諸島に関しては「国際法上、正当な手段で日本の領土に編入した」とは言えても尖閣諸島以外の沖縄の島々に関しては「国際法上、正当な手段で日本の領土に編入した」とは言えないのである。
その証拠に日本政府は1879年3月27日に軍隊を動員して琉球を併合した歴史的事実があり、しかも当時の日本政府は琉球の国王だった尚泰王を藩王に格下げして東京への居住を命じている。
これは国の代表者への強制を禁じているウィーン条約法条約51条を遵守しておらず明らかな国際法違反である。
だから日本政府はその琉球を前身に持つ現在の沖縄について「国際法上、正当な手段で日本の領土に編入した日本固有の領土」とは絶対に言えない。 「日本は百済の南遷国」に反撃出来ず。認めよったww
日本人は蜂が巣をつつかれたように無差別攻撃しだしたw
完勝wwwwww 継体天皇の妃に広姫というものがおり
その父は根王と記されている
神話上の「根の国」を任那の一国(あるいは新羅)に仮託し、そこからネーミングしたのだろう
その子供に兎王子の名前が見える
兎といえば因幡の白兎であり、白兎は新羅兎である
つまり因幡の白兎というのも古代の新羅とのなんらかの関係が仮託されたエピソードであるが
その「兎」である
想像するに、任那の中でも新羅寄りの地であり
だからこそ筑紫磐井と新羅との蜜月に継体は介入したのである 継体の母は息長真手王の娘とある
息長氏もまた新羅とつながりの深い士族で
これは継体の母ひ本当は新羅人だったのを息長氏ということにしたのだろうと想像する 当然だが継体の父筋、母筋ともに名前だけが登場し何の事績も記されない
記すことができないのである >>823
島津は藩であって国家ではなかった。
領土の定義は「国家の統治権が及ぶ区域」という意味だから琉球国が島津藩の領土だった歴史的事実はない。 このスレ主は日韓同祖論の中でも日百同祖論、さらに百が日を征服した形での同祖論しか興味ないみたいだな
面白いやつかと思ったが、根底の思想というか願望がわかってしまって俺は萎えたな
学問に願望を込めてくるやつは冷めるんだよな 学問的にフラットに、常識的な読み方で読む、というのが正しい歴史との向き合い方だろう
結論から事実をねじ曲げるのではなく
書いてあることを普通に読もうという 歴史系YouTuberも日ユ同祖論は語りたがるが日韓同祖論は語りたがらない
YouTubeで気軽に語るには政治的すぎるんだろう ただ記紀を読んでもヒントは散りばめられているんだよな
たとえば允恭天皇の和風諡号の宿禰天皇ってなんなの?とか
皇居に百済宮、百済大井宮って出てくるけど?とか 百済宮百済大井宮を畿内に比定する説が定説になってるけどとんでもないからな
「天皇は横浜中華街の真ん中に皇居を置き、中華宮と名付けました」とか
本気でそんなことがあり得ると思ってるのかと やけくそになってよるぞ。見境ないぞ。無関係なことでもなんでもござれ。
余程、勇が百済の南遷国を作ったのが見読めざるを得なかったのだ。ネトウヨは心の朝鮮人に負けた。wwwwww 逃亡百済軍くらい、倭国の勢力なら追い返すことができたはず
なんらかの合意形成があって倭国本部は逃亡百済軍に北部九州を与えたわけだ
その「なんらかの合意形成」あるいは「なんらかの合意形成に至る権力関係」あるいは「なんらかの合意形成に至る利害関係」はなんだったのであろうか
という話をしてんだよ俺は
で、それを考えるに中大兄皇子は倭国と百済双方の王位継承権者であり、双方の利益を代表する人間だったからでは?と言ってる スレ主は考察が好きなように思うが
この上↑の考察からは逃げて「とにかく百済が南遷したんだ!事実!」
って強弁で誤魔化してるからな あ、そこは考察しないんや笑
と
なんつーか願望を満たすような説以外には興味なくなるんよなこのスレ主は
それが見えるから冷めると 倭国軍が追い返すとか統失の脳内虚妄に返答するのはバカ。バカ自身が自問自答してろって。こいつは勝手に仮定の命題作ってカラム癖があるw 余程、勇が百済の南遷国を作ったのが爆弾的真実でネトウヨは認めざるを得なかったのだ。蜂の巣状態がそれを示しているwwwwww ネトウヨは左翼をやっつけて幾らのものだが、逆にやられちゃ存在価値ないね。 蜂の巣状態というかお前の説が誰からも相手にされてないから俺が会話してやってるだけだろ?
それでちょっとした質問にお前が発狂して俺が正しいんだ!理由は説明しなくていいんだ!ってやっちゃうから大丈夫かな?と言ってあげてるのよ それじゃますます誰からも相手にされずに自分のホームページに引きこもるだけだぞ?
それが嫌だからここにスレ立てしたんじゃないのか? まあ、なにはともあれ、ネトウヨは以下を承諾したのだ。
旧唐書から勇が唐に投降せず倭国に移って小国を作った。
大宰府を中心とした遺跡は年代的に勇が作った百済の南遷国である。
その小国は倭国を併合してゆき西日本に広がった。
これは書紀を一行も用いずに証明された。
勇を天智天皇とするかどうかは書紀自身の問題である。
勇が百済国を南遷させ倭国の一部を支配した事実を日本史は受け入れなければならない。
天智紀との整合性はその後の問題である。
wwww >>815
あんな。
日本が西欧諸国の国際社会に参加したのは明治時代から。
それ以前は琉球王国と言う国があったとしても、明治時代には消滅して沖縄県となった。
それを隣国の清国は承認した。
それを1945年にアメリカが占領して、1972年に日本へ返還された。
それだけ。
固有と言うのは、古代からと言う意味ではない。
ロシアがウクライナが固有の領土やと主張しても、「その通り!」なんて言う国がどれだけおるんや?ってのと一緒。 >>845
いや。
先ず旧唐書の解釈がおかしい。
三国史記に勇が居ない。
日本書紀が絶対に正しいとは思ってないけど、勇と言う実在したんか解らん人物が北九州に百済を復興したなんて考え辛い。
百済の王子にはヤマトの豪族の娘とかを嫁がせて姻戚関係を作っていたんやさか、好待遇していてもおかしくはない。
百済からの移民を太宰府に集結させて防衛させていても不思議ではない。
以上の理由で日本が百済の南遷国だなんてちゃんちゃらおかしい。 >>847
書紀は一行も利用していない。
三国史記も一行も利用していない。
旧唐書と遺跡だけから結論が出る。
頼りない史書は補助につかうのみ。
紀州人、無知無能全開wごねるしか脳がない事まるわかり。
紀州人、心の朝鮮人に負ける。日本人てバカそのもの。 第一何故百済に拘るんや?
チョーセン人が百済起源を主張し始めたのは、2001年以降の記憶がある。
ウリハル婦の問題も朝日新聞の報道から火が付いた訳で、チョーセン人から始まった訳でもない。
でも、チョーセン半島に百済の文化財とか残ってんのか?
李朝500年間に何もせずに朽ちるに任せて、なんならオンドルの燃料になったかも知れない。
そんな民褥が何回も補修工事をして1000年以上前の建築物や文化財を残している日本人に何が言えるんや?
いつも変なマウティングがウザくて仕方ない。 それに、チョーセン人にとって扶余族って先祖なんか?
大和民族じゃ扶余族は先祖の一部やろな。
江戸時代に新井白石らが嘗ての百済との国交から「日鮮同祖論」を唱えた訳で、李朝側からそんな学説は出たんか?
朱子学以外の学問研究は禁止されて、迫害されていたんやないのか? 紀州人くん、扶余勇の話をしたら負けるから、別の話をするのか?
統失とおなじだぞw 同地層から出た遺物に対して「こっちはその時代のもの」「こっちはコンタミ」って恣意的に分別してるのか?まさか
いやまさか笑 日本が独立国だった琉球王国(現在の沖縄)を軍隊を動員して武力併合したのは1879年3月27日のこと。
広辞苑にも「琉球併合」と掲載されている。
また、歴史書などにも日本政府が武力的威嚇のもと琉球王国を併合したことが書かれている。
武力併合をもって「我が国固有の領土」と言えるなら、 例えばどこかの国が日本を武力併合すれば、その瞬間から、その国は「日本は我が国固有の領土である」とも言える。
日本の主権が及ばなかった琉球王国を前身に持つ沖縄を「日本固有の領土」というのはそれぐらい滑稽な話である。
だから歴代の日本政府の閣僚は誰一人として「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがないし、歴史的事実を鑑みれば「沖縄は日本固有の領土」なんて言えるわけがない。
武力併合しておきながら「我が国固有の領土」と言ってしまうと、それこそ世界の笑いものになる。
だから日本政府の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。 いや琉球王朝って源為朝が建てた王朝だろ
琉球側の主張する歴史やぞ >>852
オレがチョーセン人ぽいかどうか知らんけど、なんでもかんでも半島起源を主張する輩には辟易しとるだけ。
それに、旧唐書には勇が日本へ逃げて百済を再建したなんて書いてない。
日本にあるあらゆるもの全てが半島起源じゃない。
天皇家の祖先はチョーセン半島からやって来たかも知れんけど、だからと言ってオレ達がチョーセン人に従わないといけない道理なんて無い。 >旧唐書には勇が日本へ逃げて百済を再建したなんて書いてない。
君は読む能力が足りない。
@逃げたことについては
劉仁軌の条には「自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等,率士女及倭眾並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。」
すなわち白村江のあと豊が逃げたこと、二人の王子忠勝忠詩その他が投降したこと等が書かれ、城も取り戻し百済残党は壊滅状態したと言っている。
そのあと劉仁軌の上表文の話が挿入され、
そして「・・・扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」とつづく。
是時とは「白村江後に残党の多くが投降したがこのとき投降せずに」を指しているとよめる。
➁小国の遺跡がある
勇一派が命を長らえる為に倭国に逃げたのでなく、唐に対し負けた意識がないので、彼らの勢力を結集する。結集のためには国を造る以外に方法がない。
この観点で、北九州を見ると、次のような遺構があり、これらは勇グループの国形成遺産である。
対馬・壱岐・筑紫の国に防人と烽火台を置き、いち早く連絡が来るようにしている。
大宰府の防衛施設(664の水城、665の大野城、665の基肄城)を作り居城とする。
首都としての品格を備えなければならないから水城のような威厳のある建造物が必要となる。
51qの土塁もある。百済人が造るので百済の首都泗沘に似た物になるのは当然である
小規模ながら国として成り立ちうる遺跡があるのである。
Bこの遺跡を作ったのは勇一派以外には考えられない
この遺跡と国を造ろうとする勇一派を結び付ける以外に方法はない。
すなわち、勇グループが大宰府周辺の遺跡を作った。それはすなわち百済国を南遷させたものである。 >>859は鍵と鍵穴の関係であってだれでもなるほどとまず思う。
紀州人さん、一致しないというのならそれなりに根拠を持って示すべきだ。 百済が日本建国したなんてどこにも書いてないんだって。
きちんと漢字使えよ蕃人モンキーw 〜古代朝鮮は日本に二百年以上にわたって支配されていた〜
★韓国に古代の文献はほとんどない
高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、
その内容は日本古代史書である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。
(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)
ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという
「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。
これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。
そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。
「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。
しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、
ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。
そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。
外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 各国の教科書における韓国の歴史
ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
インドネシアの教科書
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した(が、「溺れた狼を助けると喰われる」の格言どおり、日本は逆恨みされただけであった)」
インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近 >>859
だから、前線基地としての太宰府を建設したのは勇一派としか考えられないと言う考え方に疑問を持っている。
勇は「是時走在倭国」と書いてあるように、白村江の戦いの時には倭国に居た。
唐側は高句麗に逃げた豊と倭国にいる勇がまた挙兵するかもと警戒していたようにとれる。
しかし、勇は難波宮に篭もっていて挙兵はしなかった。
太宰府の水城や塁壁を造ったのは、ヤマト政権側。
以前から百済より技術者達が渡って来ていたんで、百済式の建築物になった。
飛鳥時代の建築物は百済の嗜好が強く影響されてるんで、百済人が国を建てたように錯覚してしまうんやろう。 時代が降って奈良時代に入ると、唐風の文化の影響で平城京は唐に支配されていたと勘違いされてしまうかも知れない。
つまり、権力者が本場から職人を呼ぶか、本場で修行した職人を雇用して建てていたんやろう。
だから、太宰府の建築物が百済風やと言って、百済残党が国を建てたと言うのは早とちりに思える。 >勇は「是時走在倭国」と書いてあるように、白村江の戦いの時には倭国に居た。
「是時」は説明したように、「多くの百済残党が投降した時」と読める。「走」は漢文では敗走の意味にとらえるのが常識。
>唐側は高句麗に逃げた豊と倭国にいる勇がまた挙兵するかもと警戒していたようにとれる。しかし、勇は難波宮に篭もっていて挙兵はしなかった。
難波に居るのは善光。勇は大宰府に居るだろう。
>太宰府の水城や塁壁を造ったのは、ヤマト政権側。
以前から百済より技術者達が渡って来ていたんで、百済式の建築物になった。
飛鳥時代の建築物は百済の嗜好が強く影響されてるんで、百済人が国を建てたように錯覚してしまうんやろう。
それまで無城郭だった倭国で城郭が作られた。構築年が665年あたりまでに集中している。
倭人が作ったのなら白村江出兵以上の費用を新たに防御のために費やした理由が理解不能。
構築したのは、建物というより、防衛施設であり、城郭であり、都市であり、小国である。
倭国が小国(国内国)を作った理由は? >>390
>オレは「是時倭国に在りて走る」と読んだ。
紀州人さん、今でも在りて走ると読んでいるのですか?動詞の順序を変える理由は何ですか?
「走」は離れるという意味より「歩」に比し急いでいるニュアンスがあり、「敗走」などに使われるのです。
「走在倭国」は敗走して倭国にいたとしか訳せません。「倭国に在りて走る」とはどういう意味ですか? 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近 >>869
まぁ「走る」でも「走す」でも、どっちゃでもエエんやけど。
オレは「走」が日本語には無い、中国語特有の「居なくなる、変わってしまう」って意味の方がしっくりくると考えとるだけ。
日本へ送られてきた豊と勇の内、豊は祖国復興の為に百済王として兵を率いたが、勇は日本に残った。
だから、仁軌はそう報告した。
それだけ。 上のレスはオレな。
スマホ機種変更したさか、設定忘れとった。 古典中国語は現代北京語とは違うので、辞書は古い漢和辞典を使うことをお勧めする。
角川漢和中辞典(昭和34年)には、「走」は@走る、➁行く、B逃げる、C召使、D自己の蔑称とでる。
現代中国語辞書には「走」に「走る」という意味はなく、文語文に「走る」意味があると説明される。
「走」に「離れる」という意味は現代中国語にはある。 >日本へ送られてきた豊と勇の内、豊は祖国復興の為に百済王として兵を率いたが、勇は日本に残った。
だから、仁軌はそう報告した。
いいえ。
倭国に送られたのは豊と善光で、豊は送り返されて百済王となったが、善光は倭国にとどまった。
百済には、王子として忠勝、忠詩、勇がおり、豊と共に戦った。
白村江で豊は高句麗に逃げ、忠勝、忠詩は降伏し、勇は倭国に逃亡した。
劉仁軌の条「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」はそのことを言っている。
勇は白村江で逃走したので、倭国に残った善光とは別人物。 紀州人さん!
>>868に対して反論がないようだが・・・
>勇は「是時走在倭国」と書いてあるように、白村江の戦いの時には倭国に居た。
「是時」は説明したように、「多くの百済残党が投降した時」と読める。古文の場合「走」に「離れる」の意味はない。
>唐側は高句麗に逃げた豊と倭国にいる勇がまた挙兵するかもと警戒していたようにとれる。しかし、勇は難波宮に篭もっていて挙兵はしなかった。
難波に居るのは善光。勇は大宰府に居るだろう。
>太宰府の水城や塁壁を造ったのは、ヤマト政権側。
以前から百済より技術者達が渡って来ていたんで、百済式の建築物になった。
飛鳥時代の建築物は百済の嗜好が強く影響されてるんで、百済人が国を建てたように錯覚してしまうんやろう。
それまで無城郭だった倭国で城郭が作られた。構築年が665年あたりまでに集中している。
倭人が作ったのなら白村江出兵以上の費用を新たに防御のために費やした理由が理解不能。
構築したのは、建物というより、防衛施設であり、城郭であり、都市であり、小国である。
倭国が小国をつくったら、国内国になるわけだが、なぜそのようなものを作る必要がある? 倭国酋長が封禅にゆくのが決まるのが665年。唐に領されたと書かれている。唐に領された倭国が唐に対抗するための防衛設備を造ったとするのは矛盾。 おなら はお鳴らしの省略だ。同様に
くだら は下らしの省略で、下痢便野郎という意味になる。
百済人は自らスカトロジー民族と名乗ったのかな?
それともクダラの音の日本語の意味を理解できていなかったのか? 天皇の別名のミコトは聖なる言葉と理解され、
聖なる言葉を朝鮮語に訳すと、オマル となる。
オマルは日本語では幼児用のウンコ受けだ。
朝鮮では国王が率先して、幼児のウンコを回収していたのかな?
因みに、ウンコ酒のトンスル製造には幼児のウンコが重宝されたようだ。 日本人が最初百済に行った時に、馬の糞と人間の糞と誤認して、
百済人はいつも消化不良でウンコが我慢できなくて、そこらじゅうにまき散らすと
理解して、クダラと名付けたのかもね。 三国遺記によると新羅ではウンコの量で皇宮を決めたそうだ。
朝鮮民族は古来よりスカトロジー民族だったことがわかるね。
俺はアナール学派の視点で朝鮮を見ている。 ホモロンギ爺さん
ここに来たん?
なら、旧唐書の劉仁軌の条の解釈頼むわ。 >>884
はくたら は日本語でその意味が解釈不可能なので、
百済語と日本語は元来無関係だったことがわかるね。 >>866
>太宰府の水城や塁壁を造ったのは、ヤマト政権側。
紀州人さん!これはあり得ません。
倭国は百済援軍派遣→白村江で敗戦→
「麟コ二年(665年),封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,高宗甚ス,擢拜大司憲」
(倭国は劉仁軌に領され倭国酋長封禅の儀へ)
倭国は敗戦を認めており、この状態で大宰府一帯の防衛施設を作るのですか?
防衛施設を作るのは唐に対してまだ敵意があるという事です。 >>886
伯と百は韓国語読みだとどちらも「ペク」だから文字が変わったんだよ
もともとは中国側の史書には伯サイ国って出てくるだろ 日本側の認識では
多羅(半島諸国)の中の伯国として
伯多羅と認識してた
その呼び方がそのまま続いて百済をくだらと日本語では発音することになった 百済人は自分たちは ペクサイ と呼んでいて、
日本人が百済をもともと ハクタラ と呼んでいたということ?
伯国ということは、日本人は百済を隷属国とみなしていたということだね。 >>888
百済人は自分たちは隷属国と名乗っていたの?
それとも中国が百済を隷属国と見なしていたの? ハクタラ から クダラ に変わったということは、
日本人の認識は日本の隷属国から下痢便国に変わったということだね。
事情を知らない日本人はクダラを聞いて、下痢便しか発想しないと思う。 >太宰府の水城や塁壁を造ったのは、ヤマト政権側。
あり得ません。
倭国は「麟コ二年(665年),封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,高宗甚ス,擢拜大司憲」。倭国は敗戦を認めているのです。
大宰府一帯の防衛施設を作ったものは敗戦を認めていないのです。
倭国には、敗戦した倭国と「走在倭国」の百済人勢力の二つの勢力があったのです。
百済人勢力は負けた意識はありませんから防衛施設と国を造ったのです。それが大宰府一帯です。
倭国勢力が作るわけがないのです。 >>893
逃げてきた百済人は何人程度と考えているの? ハクタラが伯爵の国という意味で、その意味を残して音を短縮したいなら、
ハクタ、ハクラになったと思う。
クダラはあまりにも変な意味を連想させる。これでは百済人が可哀そうだね。 >>894
百済貴族第二品の達卒だけで50名余来ております(天智紀)。
第十六品まであります。下へ行くほど多いでしょうから、想像してください。 >>896
俺の想像はどうでもいい。君は何人と想定しているの?
それからクダラという音は日本語では本当に悪い意味だよ。 >>891
倭国の倭もいい意味じゃないけど倭の五王は自ら倭国王を名乗ってたぞ >>899
倭に下痢便とか没落という意味はないだろ。
クダラはあまりにも悪い意味を連想させる。 >>897
佐平の次の達卒で50名余り来ています。
周書では百済の貴族人員について佐平5名、達卒30人と出ておりますから、貴族全員が来た?。 >>901
それじゃー、あまりにも小兵力だろ。100人程度で抵抗する気だったの?
日本の記録では百済王が天皇直属の騎兵隊の将軍に3回なって、
蝦夷と戦ったことになっている。
西日本の城の建築では設計者としてだけ参加して、城自体は日本人が作った話になっている。 >それじゃー、あまりにも小兵力だろ。100人程度で抵抗する気だったの?
100人だって?おまえは馬鹿。貴族のほぼ全員が来たと言っている。
第2階級で50人余来ていると教えた。第16階級まであることも君は知った。
下の階級ほど人数は増える。総数は推して知るべしだ。 >>904
紀州君はアホ臭くなって、君の妄想に付き合うのをやめたんだよ。 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近 >>911
戦闘する場合、戦闘可能な兵の人数を把握するのは基本だろ。
朝鮮人は数値化をしないのか? >>912
歴史のことだから人数はわからない。
貴族のほぼ全員が来ただろう。理由は、第2階級で50人余来ていると天智紀にあり、全16階級ある。下の階級ほど人数は増える。
人数がわかったところで、相手の人数がわからない。勇一派としては、海を挟んでいることもあって、十分戦えると踏んで太宰府を中心とした防衛設備を作った。それに、水城の品格を考慮すれば、戦いばかりが目的ではないように思うがね。 ウヨを黙らせたwww
日本は百済の南遷国wwwwwww やっと新しいスマホへの引っ越し設定が終わった。
時間が掛かったのには、老いを感じる。
で、何でスレ主が勝利宣言しとるん?
百済人達扶余族が日本へ亡命して日本人の祖先の1部なったんは認めてるけど、百済王族が天皇の先祖なんて認めて無いで。 >百済人達扶余族が日本へ亡命して日本人の祖先の1部なったんは認めてるけど、百済王族が天皇の先祖なんて認めて無いで。
そんな大雑把な話をしていない。整理してあげよう。白村江後の状態は、
1百済残党は、豊が高句麗に逃げ、王子忠勝、忠詩が投降し、勇が倭国に渡った。
2倭国王は唐と戦って敗れた。唐と直接戦ってに負けたのだ。えらいことである。
この時倭国には二つの勢力(勇、倭国王)が存在した。
倭国王(倭国酋長)は劉仁軌にしたがって封禅の儀に行くことになった。百済、新羅、耽羅と同じく唐の属国になったということ。
勇は百済国を放棄しておらず倭国で国を立て直そうとしていた。大宰府近辺の小国がその遺跡だ。
唐にしてみれば、属領となった倭国の支配者を誰にするかの問題があった。
倭国酋長に続けさせるか、勇にやらせてみるかの選択があったのだ。
禰軍が関与したのだろうが、勇にやらせてみることになった。
それで、勇は西日本に朝鮮山城を築き支配地を広げた。すなわち、百済方式を選んだわけだ。
それが適切だったかどうかは朝鮮山城の後の姿を見ればわかる。
とにかく、唐は倭国を攻めていない。そのことからも、倭国を支配したものは唐の管理下にあったのだ。
おわかり? >>913
クダラは日本語で下痢便野郎という意味だ。
為政者が自分で下痢便野郎とは名乗らない。 >>920続き
勇は百済残党を結集するために領土を必要とした。大宰府一帯の防衛設備は彼の国なのである。
これを「日本」と名付けたとすると辻褄が合う。禰軍墓誌の日本ヨショウとも符合するし、旧唐書の「或云:日本舊小國,併倭國之地」ともぴったり。
勇は百済を南遷して日本国号を名乗ったとすることができるが、倭国を併せきれずに勇政権は終わった。
勇政権の残党を整理したのが壬申の乱。併合されつつあった倭国が日本を滅ぼした。
がしかし、なんと倭国は勇の日本国号を採用したのである。
推理すると、勇政権は唐が認めたもので、これを潰すのは唐に反抗しているのである。それは唐に攻撃の口実を与えることになる。
国号を変えなければ、政権交代で済むと判断したのではないか。新旧唐書に「疑」と書いてあるのは唐は日本の使者の言い訳を信じていないことを示している。 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近 縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
モンゴル人もチンギスハンのハプロが1番多い 倭国支配層の大元は扶余人ではないだろう。
だって建国神話が全く違うからな。
キミ達朝鮮の建国神話ともね。
やはり建国神話は民族の成り立ちを表しているからね。
日本の建国神話は陸地の民の建国神話とは全く違う。
海洋民族の建国神話だろ。 >>923
スレタイからして、君が言いたい主題はそこやないやろ。
「義慈王の王弟の翹岐が主導で乙巳の変を起こし、蘇我氏を滅ぼして皇位に就いて孝徳天皇となった。
その子供が大海人皇子で壬申の乱の後に即位して天武天皇となって日本を建国した。」
君が主張した事や。
勇が太宰府に小国を築いた云々は、趣旨を分かりにくくする方便にすら感じる。 >>931
良く理解してくれている。
このスレは「日本」国号をテーマにしているから扶余勇なんだな。
翹岐の話に遡れば「倭国は百済属国」のスレがふさわしい。 >>932
百済を日本人は伯多羅と呼んでいて、多羅での隷属国という意味だ。
日本人は百済を多羅の隷属国と認識していたの。
百済は朝鮮語でペクサイだから、百済が日本の政権を取っていたら、ペクサイと名乗るはずだ。
クダラ、日本語で下痢便野郎とは名乗らない。 百済の読みをハクタラからクダラに変えた人は百済人を笑いものに
しようとした意図があるな。 日本=百済の南遷国は少し研究すればわかる事だ。
誰を天智と呼び誰を天武と呼ぶかは書紀の問題。
書紀と関係なく「日本は百済の南遷国」。
日本の歴史に風穴があいたね。w >>932
翹岐までじゃなくて、その先を言ってたやん。
それに、皇極、斉明天皇は架空の存在やと。
更には推古天皇も存在してなくて、厩戸皇子が大王だったとかも言うてたな。
他国の歴史を天啓とやらの思い付きで、そこまで掻き回そうとしとるなら、それなりの覚悟は有るんやろ? >>936
天智が勇をモデルにした架空の人物であることが判明した以上、書紀が天皇とする人物の実在について疑いを挟んでも良いことになることは解るだろう? 姓はアマ、名を多利思比孤とする人物はオオキミと号した。多利思比孤は一般名称でなく個人名で称号は大王だった。大王は倭国王である。同時に大王は二人はいないわけであるから、何らかの事由に基づいてこちらが倭国王という人物がいたとしてもそれは作り事である。
アマ多利思比孤を書記が厩戸と扱うのは書紀の問題であり、私は論争しない。聖徳太子と扱うのは後の信仰の問題に過ぎない。
ローカルな歴史がどう扱おうがアマ多利思比孤大王は存在し他に倭国王は同時代には居ない。 >>938の続き
であるから同時代にいた推古を倭國王と主張されてもそれは主張にすぎない。もし、推古を墓誌なりから証拠物をもって倭国王であるとされるなら論争を呼ぶであろう。
そもそも、600年当時の男性倭国王が書かれていない書物は文学書にすぎない。 >他国の歴史を天啓とやらの思い付きで、そこまで掻き回そうとしとるなら、それなりの覚悟は有るんやろ?
自国の歴史である。
考察中に禰軍墓誌が出てきたのは天の啓示。
真実を求めているのに、それなりの覚悟とは何か? 斉明は倭国王として架空だと思っている。
もし実在すれば、倭国王のもとで働く女将軍ではないかと想像している。倭国王が客死とはありえないだろう。
皇極はいなかったとは言っていない。
蘇我が勢力を持っていたなら、皇極が、倭国王であったかどうかは疑問である。
大王と言われた倭国王は難波にいたと考えている。 https://i.imgur.com/zX6ATqB.jpeg
縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
モンゴル人もチンギスハンのハプロが1番多い
気狂いが倭国は百済人に乗っ取られたって主張してるけど
百済人のハプロはC2c系統で日本では少数 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近
いい加減現実を見て欲しいね 各国の教科書における韓国の歴史
ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
インドネシアの教科書
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した(が、「溺れた狼を助けると喰われる」の格言どおり、日本は逆恨みされただけであった)」
インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」 倭国が百済復興にこだわったのは、百済が倭国の属国だったからに他ならない 百済がなくなるということは倭国の属国が朝鮮半島からなくなるということ >>945
倭国は百済復興にどのようにかかわったのですか?
倭国領内に百済残党の国を作ってやったなんて前代未聞の処遇ですw 皇族は生粋の縄文人
ということは、弥生人(渡来人)は奴隷として半島から連行されてきた人々で確定
謝罪と賠償を要求汁ニダ >>947
別にそうは思わんが
第二次大戦時のパリ亡命政府の例とかもあるだろ ナチスドイツに占領されたフランスの残党がロンドンで亡命政府作ってただろ?
あのときナチスドイツが優勢のまま停戦がなされてたらフランスはドイツに征服されたままでロンドンの亡命政府は目的を失って徐々にイギリスに吸収されてただろ
白村江の後起こったのもそれと同じじゃねーの? >>949
亡命政府の承認じゃないんだぜ。
実際に領土があり、多数の城があり、羅城があり、水城があり、都市があるんだぜ。
小さいとはいえ実物の国家だぜ。統失さんよwww 城はあっても領民はいないんだから砦って感じだろ
まさに亡命政府って感じだわな >>937
勇が大津宮へ攻め上り、近江朝を開いたと言う主張は在コ達の願望に過ぎない。
天智天皇の諱(いみな)は葛城、和風諡(おくりな)号は天命開別天皇。
天智天皇が扶余勇なら、漢風諡号は有っても、和風諡号なんて有る筈が無い。
だって、扶余族はチョーセン人なんやろ?
日本書紀が編纂された時期は君の世界じゃ百済人つまりチョーセン人達が携わっているんやさか、
「〇〇の〇〇のスメラギ丿ミコト」
なんて各々の分を考えたなんて思えない。
それに歴代の百済王にも百済風諡なんて有るんか? >>952
領民などなんとでもなる。領民を集めることを難しいと思うようでは王族には成れない、統失殿www、wwww >>940
学会に発表すると、不都合があると言いながら、教科書には記載すべきと主張したのは君やないの?
つまり、責任は取りたくないけど、企みは成功させたいと言う余りにも身勝手な言動。
まるで、日本国籍は取らずとも日本国民と同等の権利だけ寄こせと喚いてる輩と同じ。 >勇が大津宮へ攻め上り、近江朝を開いたと言う主張は在コ達の願望に過ぎない。
攻め上ったのではなく、勇が近江朝を開いた。まだ発見されていないが、近江朝に朝鮮山城がある。
>天智天皇の諱(いみな)は葛城、和風諡(おくりな)号は天命開別天皇。
・・・・
勇の和風諡号が不都合?わからな〜い。
旧倭国は勇の「日本国号」を踏襲し、ヤマトと読ませ古来から日本だと主張しておるのだから、百済人であろうがなかろうが全員和風諡号w
天(朝鮮半島出身の)命(貴人)開(国を新しく造った)別(正統な直系とは言えない)という意味で勇を諡号したw >学会に発表すると、不都合があると言いながら、教科書には記載すべきと主張したのは君やないの?
教科書に記載すべきと言ったことはない。日本史は受け入れるべきと言った。
>責任は取りたくないけど、企みは成功させたいと言う余りにも身勝手な言動。
責任を取るべきは日本史学会と思っている。
私の説は検証すればすぐわかるのだから、史実を捻じ曲げたままでいいのかと問うているだけw 蒋介石が台湾に逃げて中華民国を継続できたのはなんでだと思う?お前は
百済はそういう状況ではなかったやろ >>952
51qの羅城や水城や朝鮮山城の現物を見ても砦と言うのかい?
お前はやはり何かが欠けている統失。間抜けだなwwww >>960
お前の説だとその城は倭国軍から占領地を守るための城になると思うが
異国人が筑紫に城築いたらまず倭国王権が攻めてくるだろ
そのストーリーはなんで考えないの? 倭国王権はノーガードで筑紫を明け渡したと?
得意の仮説を立ててみろよ逃げずに そこが説明できないならお前の説の根本が成り立ってないってことやぞ >>962
原爆落とされとらんからなあ。
さあ、本土決戦だぜ!って逆にノリノリで陣地構築してそうだけどw >>958
お前はな、大道を逸して、細かい疑問の解決を迫る癖がある。
統失には「領民」を食わせておけばいつまでも食いついているだろうwww >お前の説だとその城は倭国軍から占領地を守るための城になると思うが
戦う相手は唐軍です。まだ解りませんか?馬鹿ですか?
>異国人が筑紫に城築いたらまず倭国王権が攻めてくるだろ
倭国は唐に負けて敗戦国です。これまでの解説を読んでも解らないのですか?
>そのストーリーはなんで考えないの?
お前と違って馬鹿でないから考えません。
>倭国王権はノーガードで筑紫を明け渡したと?得意の仮説を立ててみろよ逃げずに
結果的にそうなってますねw
>そこが説明できないならお前の説の根本が成り立ってないってことやぞ
倭国がどういう状態か説明してあるでしょう。倭国は敗戦国。倭国酋長は封禅へゆくのです。
もともと倭国は百済属国。「百済さまが来られた。協力しよう。」とでも思ったんじゃないの?ww >>966
まともに答えられないなら根本から論理破綻ってことやな残念 百済がかつて南遷したのと同じだよ。全く戦いがないというわけではないだろうが、成功しているだろ。
行った先で攻められたらどうしようなんて心配するんじゃないんだよ。
国を遷すのはより田舎の国へは当たり前じゃないか。
君のように尻の穴の小さい小心者には田舎国の在野勢力が怖いわけだね。
田舎国の有力者なんぞ何とでもなるくらいの根性がなくちゃ支配者には成れない。まじな話w 戦いばかりじゃないよ。褒美や地位を与えてたらし込むとか、いっぱいあるじゃないか。
そんなことも考えず、ただ、在野勢力が黙ってないだろう恐れるのは、君の乙女心がそう思わせるのかね。
結構うぶだねwwwwww すでに言った通り、君は大道を逸して、細かな在野勢力問題に憑りつかれて、覆そうとしている。
そんなことは歴史の小川のせせらぎだよ。ここでの歴史の大河の流れは国を失い、再興する事なんだよ。
おわかり? 日本人が国際舞台に立てない理由がわかる気がするwwwwww 立ちたいか?
安全で清潔な日本で暮らしてるのが最高じゃね? 安全とおもってる?だめだね、認識が甘い。
清潔?伝染病は国境を越えてくるよ、甘いね。
日本が最高?結構な領民だ。飼いならされてしまった。嘘の日本史を信じてるのが証w
小川のせせらぎはどうした?w 日本国を安全と思っているから、百済人の流入を「おかされるう」ってまず思うんだろうな。w まず普通に質疑応答できるようならないとキチガイの人かな?と思われて持論の信憑性まで疑われるぞ? 小川のせせらぎは恥ずかしくって取り下げたのかいwwwwww >>969
敗走難民が褒美として与えられるようなお宝を見せびらかしてたら殺されて奪われて終わりだよ >まず普通に質疑応答できるようならないとキチガイの人かな?と思われて持論の信憑性まで疑われるぞ?
おおなんということだ。口とは裏腹に、我が持論に信憑性があると密かに認めてくれている。感謝感謝!!! 敗走難民が人に地位を与えられるわけないだろ
事実は逆
倭王権が敗走難民である百済王家に「百済王」の氏姓を与えたんだろ?
事実から逃げるなよ 敗走難民じゃないじゃん。
亡命してきた同盟国王族じゃん。
お前はクズじゃん。 >>977
予測通り統失様は、みごとに大道を外れ、微に入り細に入り、小川のせせらぎのせせらぎに行かれますなあ。
相手いたしかねます。 >>978
いや俺は最初からそうだよ
日本書紀の記述はウソが多すぎるし
俺は日韓同祖論なのよ前も書いたけど
倭に住んだ百済王族がいるなら百済に住んだ倭王族もいるはずだし
じゃなきゃ「語学」をどうしたんだよ、となる
聖徳太子なんかは百済語、高句麗語を明らかに話すことができてたと思うが
それは当時のインフラでいえば留学でもしなきゃ身に付かないものだろう >>983
>敗走難民が人に地位を与えられるわけないだろ
ってのがクズなお前の創作。
第二次世界大戦中におフランスの亡命政府があったね。
数百年に渡って朝貢してきた同盟国の王族ならびに人々。
倭国からは救援隊を出して特攻までしている。
それが敗走してきたら叩くってのは日本人の感性じゃないなあ。 >敗走難民が人に地位を与えられるわけないだろ
また、大道を外してます。倭国は百済属国です。
気違いの頭は直ぐ元に戻るようだね。永遠のループ?w この統失は苦しくなると西洋の歴史にジャンプするからなw でました。日本人の感性で歴史を語る。wwww
苦しい時の感性頼みwwww 亡命してきた同盟国王族に位を与える
当たり前のことだね。
それが当たり前でないと主張しないと成立しないあんたの説は、
嘘八百ってことだねぇ。 >>988
ああわかった。また、大道を逸して、微に入り際に行ってるのね。どうでもいいことだろう。統失の癖www こうして敗北を重ね、統失は統失を深めてゆく、あわれ、日本の馬鹿な領民。 大河の流れを忘れ、小川のせせらぎに没入する癖を自覚すれば、今日の収穫はあったというものだね。 https://i.imgur.com/zX6ATqB.jpeg
縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
モンゴル人もチンギスハンのハプロが1番多い
気狂いが倭国は百済人に乗っ取られたって主張してるけど
百済人のハプロはC2c系統で日本では少数
ぶよん爺さんはただの馬鹿 倭国が百済に救援出して百済が滅亡。
その百済が倭国で新しい国を作るなんて不可能ですね。
プロレスでいうと、
A選手がボコボコにされて、タッグのB選手が救援に入ったけども
A選手はギブアップ、試合終了。
その直後にA選手が飛び起きて、まだまだ元気なB選手をぶっ倒してガッツポーズ取るようなもの。
ありえませんね。 縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
この常識がプヨン爺さんには通用しないw
天皇は百済人で日本の支配者層は百済人らしいw 箕子朝鮮の開祖は中国人
衛氏朝鮮の開祖は中国人
新羅の初期の王は日本人
高句麗や百済の開祖は扶余人
高麗の開祖は満州人
李氏朝鮮の開祖も満州人
朝鮮人が国作ったのはつい最近
いい加減現実を見て欲しいね 各国の教科書における韓国の歴史
ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」
ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」
オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」
フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」
インドネシアの教科書
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」
アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」
カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した(が、「溺れた狼を助けると喰われる」の格言どおり、日本は逆恨みされただけであった)」
インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」
イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」 縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
モンゴル人もチンギスハンのハプロが1番多い
気狂いが倭国は百済人に乗っ取られたって主張してるけど
百済人のハプロはC2c系統で日本では少数
ぶよん爺さんはただの馬鹿 縄文系D1a2の主流系統であるハプログループD1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」というのが分子生物学の常識
モンゴル人もチンギスハンのハプロが1番多い
気狂いが倭国は百済人に乗っ取られたって主張してるけど
百済人のハプロはC2c系統で日本では少数
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