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邪馬台国畿内説 Part881
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/07(金) 21:57:16.51
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1680378607/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 21:58:16.55
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 21:58:47.65
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 21:59:17.36
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:00:17.03
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:00:46.79
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:01:17.89
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:01:46.86
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:02:21.38
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:02:53.53
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:03:23.15
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:03:57.96
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:04:26.85
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:04:56.73
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:06:01.97
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:06:31.94
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:07:01.95
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:07:31.90
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:08:02.03
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:08:32.06
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:09:02.58
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:09:32.17
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:10:01.71
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:10:31.83
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:11:02.52
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:11:32.67
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:12:03.22
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:12:32.87
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:13:03.16
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:14:33.56
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:15:03.06
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:15:33.18
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:16:02.46
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:16:33.18
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:17:03.88
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:17:33.23
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:18:03.02
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:20:03.26
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:20:33.79
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:21:03.79
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:21:37.34
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:22:07.16
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:22:37.90
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:23:17.94
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:23:47.20
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/04/07(金) 22:24:16.75
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/04/07(金) 22:24:48.46
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/04/07(金) 22:25:20.46
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/04/07(金) 22:25:53.01
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/04/07(金) 22:26:33.44
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/04/07(金) 22:27:02.20
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/04/07(金) 22:27:35.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/04/07(金) 22:28:07.02
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:28:39.27
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:29:17.26
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/04/07(金) 22:29:53.33
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2023/04/07(金) 22:30:33.16
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/04/07(金) 22:31:02.62
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/04/07(金) 22:31:32.32
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/04/07(金) 22:32:03.56
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/04/07(金) 22:32:41.61
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/04/07(金) 22:33:12.94
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/04/07(金) 22:33:47.63
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/04/07(金) 22:34:21.91
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/04/07(金) 22:35:01.97
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2023/04/07(金) 22:35:43.42
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/04/07(金) 22:36:17.54
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/04/07(金) 22:36:52.24
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/07(金) 22:37:21.98
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:38:02.07
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:38:33.11
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:39:02.80
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/07(金) 22:39:33.00
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/07(金) 22:40:06.34
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/07(金) 22:40:37.65
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 03:21:13.59
黄幢はイクメが九州から持ち込んだのよ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 06:02:49.82
前スレ999日本@名無史さん2023/04/08(土) 02:38:01.07
>投馬國の中のどこかわからない途中になる
>萬二千餘里を書いている意味がない

理由がまったく分からない
説明へたすぎ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 07:54:49.67
>>76
黄幢は軍旗で主に戦地、占領地で使われるものだから持ち込まれたものだろうね
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 07:58:46.41
>>79
なんでも泥棒しようとする九州起源説
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 08:09:11.70
三角縁神獣鏡に描かれている笠松紋様は黄幢を表してると思う
倭国の侵略支配を記念してるように見えるね
0083岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 08:45:44.06
みなさん「纏向学からの発信」読みましたか?
最新の纏向学では、「平原大鏡=八咫鏡」の方向でまとまってるみたいですよ。
それにしても寺澤先生がこうも熱心とは意外でしたね!
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 09:25:33.09
>>83
もともと森浩一の教え子だから。神話伝説方面にユルい所はある
0085岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 09:29:39.36
それにしてもヤマト自生説なんかも、かなり論難されてましたね。
考古学的には「柳田 ー寺澤」ラインの考えで纏まって来そうな雰囲気が出ていましたね。
1さんお疲れ様でした 笑
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 09:54:10.77
つまり畿内説は韓国製霊感商法詐欺だったということですね
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 09:56:25.88
他人の墓を勝手に卑弥呼の墓であるかのように印象操作したり、掘立て小屋倉庫をあたかも宮殿であるかのように印象操作したり
まさに韓国式歴史捏造手法のオンパレードだな
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 10:06:55.48
九州説は相変わらず流言飛語専門なんだな
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 11:51:58.97
>>90
処罰されるのは九州説だけ
ニセ情報流しすぎ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 12:14:25.12
>>93
デマまみれ九州説の悪業が裁かれるんでしょ?
0095岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 12:20:43.87
久しぶりにのぞいて見ましたが、考察らしいものも無いし、
議論と呼べるようなものすらないというのは、ちょっと寂しいですね。

次号の邪馬台国新聞に、簡略ながら新説を載せて貰う予定です。
卑弥呼の死亡年の決定打というべき新説です。
配布始まったらまたこちらでもご案内差し上げます。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 12:21:48.24
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 12:39:16.45
>>94
デマは関係ないんだが?w
韓国式歴史捏造を推進してきた畿内説が裁かれるだけw
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 12:41:59.08
>>97
デマと中傷専門だから九州説はステマしないとでも?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 12:44:27.51
>>98
このスレが考古学会のステマに使われてるわけよ
お前がステマの意味すら知らないのはエセ日本人だから
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:07:11.98
>>99
>このスレが考古学会のステマに使われてるわけよ

考古学会は商品を提供する事業者じゃないよ
九州説さん、あなたステマの意味すら知らないエセ日本人ってバレちゃったね
0102日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>83
そりゃそうだ
俺もその考えだよ、畿内論者は考古学重視だからほぼ全員平原の大型内行花文鏡を八咫鏡だと思ってるだろうね
0103日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

応神天皇の代で伊都国のレガリアが持ち込まれたんでしょ
丁度その頃から阿蘇ピンク石とかが運ばれるようになるしさ
0104日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>91
そもそも対等な議論にすらなっていない
軍旗は畿内の黒塚古墳からしか出土してないわけだし
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:24:00.88
>>105
>畿内説のステマは違法行為だからな

証拠は?
0107日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

しょうもないレスバだな
お前ら荒らしレベルだよ
0108岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 13:29:57.99
>103

応神まで待つ必要はないでしょう。
纏向の宝物庫があるし、日本書紀通り崇神・垂仁期というのが妥当です。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:31:11.83
ステマは、例えば新聞の記事広告(タイアップ広告、PR記事)

出版社が九州説の本を売るための有料広告であるのに
さも新聞記者が取材した文化面の通常の記事の体裁で書かれている記事
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:31:20.69
邪馬壱国までろくに国の数が出てこないのに、遠くてよく分からない国が21も出てくる。
仮に、畿内であったならば、これら21カ国は奈良より東側にあることになる。
極めて不自然。

21カ国は当然九州以東の国と考えるべきである。
そこには畿内も含まれているだろう。
例えば、華奴蘇奴国は大阪だろう。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:36:54.96
旁國はかたわら、わきの国
だから魏使のルートから外れた国々
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:38:15.68
>>110
>仮に、畿内であったならば、これら21カ国は奈良より東側にあることになる。

理由なし
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:44:35.77
>>114
そういうの、証拠って言わないから
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 13:45:53.94
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

また、高良大社は7世紀・飛鳥時代の倭王・阿毎多利思比孤(@理由もなく噴煙を吹き上げる阿蘇山に祈祷)が、卑弥呼の王宮跡地に建ててあげた新同盟国・高句麗の大使館だとすると、麓の祇園山古墳の周囲には、須恵器が出土する高句麗系の集団墓地があることの説明が付きますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0117日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 13:51:01.43
南を東に変えるのはあり得ない。
南と東を間違えるわけがない。
では、なぜ東としたのか?
ただ倭人からそう聞かされただけで、実際には行ってないからだ。
0119日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>117
拝仮倭王なんだから邪馬臺國まで行ってるよ
0120日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

黄幢らしき旗は黒塚古墳からしか出てない...もう九州vs畿内論争に決着はついている
0121日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:01:14.66
>>116
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0122日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:03:28.55
正始八年には、載斯烏越等を郡に遣わし、相攻撃する状を説き
張政が倭国に来て詔書、黄幢を難升米に拝仮している
つまり難升米は狗奴國との戦争に直接関わっている倭国の中枢の人物
0123日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:05:04.16
>>116
>そして3世紀中頃の築造で、同時期(甕棺墓)の殉葬者66人(差し違え2体を含む)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

吉備弥生楯築墳丘墓にもホケノ山にも殉葬がないのに、吉備特殊器台の箸墓になって突然野蛮な殉葬を始めたとする御都合主義(結論ありき)な畿内説w
0124日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:08:42.25
>>123
初期ヤマト王権の大王墓箸墓の築造年代を「魏志倭人伝」に合わせて早め、邪馬台国の遺跡とオレオレ詐欺してるのが畿内説ということだぬw
0125日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:11:00.83
>>123
>吉備特殊器台の箸墓になって突然野蛮な殉葬を始めたとする御都合主義(結論ありき)な

畿内説のどこの誰が、そんな主張した?
0126日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:12:06.09
特殊器台の箸墓に殉葬なし!w
0127日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

なんで特殊器台だと殉葬無くなるんだ?形象埴輪じゃないぞ
0128日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:13:03.59
南に水行30日、陸行1月。
60日も全然違う方角に進んだけど、畿内に辿り着きましたって、どんだけ馬鹿なんだよ(笑)
しかも、帰りは北向けに帰ったのは間違いないから、畿内から帰る時に、北に陸行30日、北に水行30日って日本海だぜ?
完全に馬鹿だよ(笑)
0133日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:15:23.40
>>116
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」と結論付けるため。

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0134日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:15:56.07
>>130
だな
0135日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:16:34.45
>>116
>>133
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0136日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

なぜ魏から貰った黄幢が黒塚古墳に収まっていたのか?銀印出てないからここは難升米の墓じゃないと思うが
0137日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:17:44.87
>>135の模式図だyo!【陳寿の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0138日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>137
魚豢の魏略にも1万2000里はあるから数秒で破綻だねその説
0139日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:20:45.95
>>116
>>121
祇園山古墳と日田市ダンワラ古墳は、GoogleMapで見ると東西一直線(太陽の道)に並ぶ

卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 〜中国・曹操高陵の発掘責任者が見解〜

「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査を担当した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1cm。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。

潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の大多数が銅鏡だったためだろう。その中に「親魏倭王」卑弥呼専用に鉄鏡1枚が含まれていたとしても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、▶最高品質の鉄鏡◀を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

潘氏は、「三国志展」のため来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
2つの鉄鏡は直径が21cmと同一で、曹操高陵の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において皇帝クラス最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
0140日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:22:38.35
それとも、往路は「南と思って間違って」60日間、実は東に進んで奈良に着いたけど、
帰りは西に陸行1月、西に水行30日かけて九州まで戻ったのかな?

畿内説とんでもすぎて草
0141日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:22:45.55
>>139
筑紫平野で決まりだなw

次は「ヤマト王権初代大王」墓と目される箸墓の被葬者(初代大王)は誰なのか?に諸兄の全能力を使うことだよ。
西殿塚は手白香(継体妃)で記紀の誤比定だから、モモソ(女性の墓)も誤りだろう。

福岡平野(末盧国←伊都国【一大率】→奴国・不弥国)→女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種
 ↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里
筑紫平野(卑弥呼・男弟→祇園山・ダンワラ古墳)
 ↓
菊池平野(狗古智卑狗)
熊本平野(卑弥弓呼)

JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!
0142日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

なぜ魏から貰った黄幢が黒塚古墳に収まっていたのか?銀印出てないからここは難升米の墓じゃないはず

この謎が解けない限り畿内説は前進できない
0143日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:27:42.59
>>141
近年の考古学の進展により、8世紀の記紀による比定【伝承・言い伝え】の誤りが続々と明らかになってきた。

以前から、伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)の順番がおかしいことは有名だったが、決定的なのが西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)であること。
ということは当然、箸墓≠モモソ姫♀陵も誤りである可能性が高い。

つまり、畿内説はモモソ=女性♀の墓という記紀による伝承(洗脳)を、そのまま卑弥呼♀の墓という匂わせに悪用している霊感商法なのだ!
まとめると、

卑弥呼の冢…祇園山古墳(同時代=甕棺墓殉葬66人。うち刺し違え2体を確認)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
ニギハヤヒの墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)

細かい順不同はともかく、概ね記紀の系譜と築造編年がほぼ合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神
0144日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:32:21.25
>>141

>JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいにピッタリだ!

こういう人が筑紫平野説
0145日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:33:38.22
>>133
>>137
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
>>121
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち刺し違え2体)確認されている祇園山古墳を比定。
0146日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:47:13.63
ここまでまとめると、
畿内説はオレオレ詐欺でした
という事だな
0147日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 14:57:49.48
>>145
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0148日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:03:12.83
>>144
あの三国志の英雄・曹操が持ってたのと同じ鉄鏡だよ?!そんな超貴重品が日本の古墳から出たとすれば、もう決まりだろw
>>139
0149日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:07:49.61
鉄鏡だから銅鏡100枚の1つじゃないわな
0150日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:09:18.05
>>147
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0151日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:23:31.83
難升米は景初2年6月に帯方郡を出発して12月、洛陽に到着。
海を渡らずに地図上の最短距離で約1800キロ。
なので、1日で約10キロ進んだことになる。
一方、畿内説の場合、大阪から奈良の巻向辺りまでたった40キロしかないのに1月かかってる。
4日で着く距離に30日もかかるw
太陽暦ではなかったとしても28日。
陳寿君は与太話を掴まされたんだね。
0152日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:24:38.66
>>150
ワ(もしくはイ)としか読めない倭(大和)をヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。
0154日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:27:07.73
鹿児島を南に行けば和歌山
不思議でも何でもないがプライドが邪魔をして理解できないようだ
0155日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:27:52.85
卑弥呼(八女津姫);神功皇后のモデル
0156日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:29:40.76
畿内の在地の人々は侵略者でもなく旧石器時代や縄文時代の日本人の血を守り抜いてきた人々だよ
明治、特に戦後デタラメなレッテルを貼り貶めてきた歴史学者の罪は重い
0157日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:37:43.87
>>154
鹿児島から南に行って和歌山に着いて邪馬台国に到着したとして、帰りは北向けに進むから1月かけて舞鶴辺りについて、水行30日日本海に進み続けるとw
0158日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:38:44.69
>>152
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子(倭→和へ書き換え=以和為貴)」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
0159日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:39:26.32
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0160日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:44:41.08
継体の阿蘇ピンク石じゃん!ピッタリだ!
0161日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 15:46:38.71
>>158
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=倭人伝、※神功=日本書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(「倭女王」と錯誤、西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→継体→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0162日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:09:32.00
第二次物部氏東征で黄幢が九州から畿内に移動したのだよ
0163日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:14:32.28
>>156

在地?
その言葉の定義からして不明。
いずれにしても支配者層は筑紫または出雲から来たことは間違いない。
葛城の地名は、在地の土蜘蛛を葛で編んだ網で捕まえたことに由来する。
0164日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:19:27.64
>>83

> みなさん「纏向学からの発信」読みましたか?
> 最新の纏向学では、「平原大鏡=八咫鏡」の方向でまとまってるみたいですよ。
> それにしても寺澤先生がこうも熱心とは意外でしたね!

天照大神のモデルとなった卑弥呼が八咫の鏡を持っていたのだとしたら、平原遺跡が卑弥呼の墓でいいじゃないか。
もう卑弥呼の墓は発掘されていたんだよ。
邪馬台国論争はこれにて終結!
0165日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>164
平原は邪馬臺じゃなくて伊都です
0166日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:32:35.94
邪馬台国に卑弥呼の墓が作られたとか一言も書いてないよな
0167日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:35:30.70
もし平原が卑弥呼の墓だとしたら畿内説とくに纒向説はまるまる歴史捏造活動って事だな
0168日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:41:03.21
卑弥呼は1人じゃなかった
これが今や定説となりつつあるのに
墓に拘る理由はない
0169日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

黒塚古墳U字型鉄製品を持ち出した時の九州論者の狼狽えぶりは凄い
0170日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

その割に全然注目されてねーのはなんでなんだろ
じゃあ土日中Youtubeに動画上げて白日の下に晒すか
0171日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:47:27.62
「倭国乱れ、何年も攻め合った。そこで女子を共立して王とした。名は卑弥呼という」。
中国の歴史書・魏志(ぎし)倭人伝は卑弥呼誕生の経緯をこう記す。

2世紀末、九州から畿内にかけて大規模な戦乱があり、各地の王が卑弥呼を擁立したとされている。

しかし、「倭国乱」の記述について寺沢さんは、西日本各地の遺跡を精査し「2世紀後半〜末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と指摘する。

弥生時代、矢じりや剣が突き刺さった人骨などが発掘されれば、戦乱の跡と推測される。

北部九州を中心に弥生時代前期にはこうした人骨が多数見つかっているが、2世紀後半に西日本一帯で急増した状況はみられないという。
0172岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 16:52:37.12
>>164
確か大和巌が、平原=ヒミコ、箸墓=トヨの想定でしたっけ?
寺澤先生も箸墓=トヨの想定だったと思いますので、実質的なは差は大きくないですね。
0173日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 16:58:02.45
以下、北陸説の方の見解より

纏向遺跡は、邪馬台国ではありません。
最大の理由は、鉄の出土が皆無だからです。魏志倭人伝に『竹箭或鐵鏃』(矢じりに鉄を使う)とあるのにも関わらず鉄の欠片すら出土していません。
奈良県全域でも、邪馬台国時代の鉄は十数点しか出土していません。

以前は、九州説の学者が『鉄』の存在をしつこく突いてきました。しかし、今は話題になるのを避けています。
理由は簡単です。邪馬台国時代の鉄の出土が一番多いのは、高志(北陸地方)となったからです。

九州説学者も説明が付かなくなり、畿内説学者っと共に『鉄』に触れないのが暗黙の了解になってしまいました。

畿内説学者も九州説学者も、実用性のない銅鏡や銅鐸の分布を、未だに主張しています。

 ちなみに、高志(北陸の福井県)の林・藤島遺跡からは、1999年に2000点を超える鉄器が出土されています。
 ・桃の種 2800個
 ・鉄器  2000個
どちらの価値が高いでしょうか?

桃の種の大騒ぎは、奈良県桜井市のマスコミ操作の上手さと、新聞記者のレベルの低さが招いた、愚かな事件でした。
新聞記者っもそれに気がつき、すぐに記事を削除したのでしょう。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 17:00:15.13
伊都国は九州に上陸して南東だからね
糸島ではないのは確かだな
1000戸の国、池上曽根遺跡クラスの単独の集落が1番想定しやすい
伊都国は吉野ヶ里じゃないか
0176日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まず難升米に黄幢が渡された。じゃあなんで黒塚古墳に黄幢があるんだ?
難升米=奴国王族という私の推測が誤っているのか?
0177日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 17:13:49.53
皇室原版では「黄憧」になってるからねw

幢 ではなく 憧

まずはそこから精査した方がいいよ

俺はすでに答え出してます!
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 17:17:28.29
黒塚だの黄幢だの妄想甚だしいな
倭種の国の墓なんてどうでもいいんだよ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 17:27:36.14
黄幢は郡に起きっぱだと思うね
半島の地も任された、倭人は

神功皇后の話が三韓征伐なのも
これに由来するんでしょ

魏と倭で半島の制圧・支配を行おうとした
が、司馬懿のアレで魏はそれどころではなくなったと
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 17:29:33.04
童という字は興味深い
入れ墨をする為の針の象形と人の目の象形と重い袋の象形
奴隷という意味か
0183琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/08(土) 17:29:39.02
畿内、卑弥呼は内行花文鏡などという安物の日用品は鬼道に使用しない。
九州の鬼神イタコは使うのであろう。
平原は阿残墓。半島から流れてきた阿人の墓だろ。
因みに華奴蘇奴は宇佐の前身だと思っているよ。
八咫鏡と卑弥呼が繋がる証拠はない、伊勢にそう言われているという話が広まっているだけ。
それから、悪かったねトナカイさん。私は道教とほぼ確信している、その後の列島、書物の不自然さも全て解決がつくからだ。
1.もおそらく道教と考えている。巻向に道教の証拠を求めている。
他ではもう無理だな。
臺も墓も中華の知識であり陰陽9を中心とし、北枕だ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 18:02:28.79
正始元年、正始4年、正始6年、正始8年
4回も中国人が邪馬台国に来たような記述が見られる。
仮に、邪馬台国が奈良にあって、本当に中国人が邪馬台国に行ったのならば、
九州を陸行1月+水行30日+陸行1月(奈良まで)+福岡県→帯方郡(約900キロなので70日)、
したがって、行きだけで160日、往復すると320日かかる。約1年。
畿内説は非常に疑問。

※大分県→大阪府まで約400キロの水行が30日なので、福岡県→帯方郡900キロを70日とした
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 18:13:12.13
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣「臺」 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

魏志倭人伝の最後の方に臺の字と壹が存在する。
壹の字は、邪馬壹を含めると多分4回登場する。
したがって、魏志倭人伝においてはやはり、邪馬壹は邪馬壹であって、邪馬臺ではない。
勝手に書き換えてはならない。
0186琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/08(土) 18:18:22.63
深く行程を考えない、裵世は3ヶ月畿内におる。
0187岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 18:18:39.85
>>183
内行花文鏡の価値に未だに分からないとはね。
卑弥呼の鬼道というものの実質が道教と考えるのは物証を欠く空想ですよ。
0189琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/08(土) 18:27:57.71
物証が出ていないわけではない、神獣鏡と桃。
盆地の山奥に桃があるのだよ。
箸墓伝説は道教の指導者
を否定しておるのだよ、これが何よりも決定的。
その上巻向は中華の知識なく造れない。北枕だよ九州は北枕か?
卑弥呼に関しては無駄だよ、もう比定者の段階。
0190岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 18:42:56.38
神獣鏡とか、階層性はかなり下位というのはもう常識の範疇ですよ
0191琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 18:43:01.71
卑弥呼の鬼道を道教と捉えず空想と結論づける根拠を聴かして欲しいな。
陳寿は鬼道と言っておるのだよ。まず普通最初に中華鬼道老子道徳経ではないのか?から考え始め否定できたならそれを
説明すればいい話なんだよ、否定できないだろ。
そう願っているだけだね。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 18:51:49.94
女王国東渡海千餘里復有國皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」
水行=海岸に沿って船で行くこと

東に渡海すると皆倭種は、九州なら問題なくクリア。
方角も問題なし。
ところが、畿内説ではなぜか南至投馬国と南至邪馬壹国だけ、東にするという乱暴なことをする。
0193岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 19:03:17.69
>>191
鬼道が道教であるという証拠を神獣鏡と纏向の桃ぐらいしか挙げることが出来ないのが、
空想であると言う何よりの証拠ですよ。

鬼道というは「怪しい宗教」ぐらいの意味ですね。
0194琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/08(土) 19:04:55.08
老子道徳経の三種の神器は鏡と剣と玉璽なんですよ。
鏡は重要です、神仙思想ですから。
何々コリ狐狸、ひなもり鳳雛、台与岱輿、宝来山古墳?蓬莱山でしょ、最後は大仙で、ここは溢れてますよ原始道教が。勾玉の形が3世紀に変化します。万物を生み出す物の形です。庭園、池は子宮の形でしょう。否定してください、こちらにも理解できるように。
0195琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/08(土) 19:08:18.19
怪しい宗教を指示し女王にしたのは倭人です。
伊都の王も相当アホだったということですかね。
0196岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 19:09:31.60
>何々コリ狐狸、ひなもり鳳雛、台与岱輿、宝来山古墳?蓬莱山

これ、何の語呂合わせですか?
ご自身は納得されても他人へ説得は無理です。
0197日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>193
では、なぜ『鬼神道』や『鬼神を祀る』と書かなかったのだ?
魏志韓伝などでシャーマニズムを形容する時は上記の表現を用いているようだが?
0198日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

鬼神ではなく鬼道なんですよ
三国志で鬼道が出るのは五斗米道と卑弥呼だけ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 19:18:36.02
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0200日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 19:19:22.65
正始元年、正始4年、正始6年、正始8年と4度中国人が倭に来た形跡がある。
・九州→投馬→邪馬台まで60日間、南に進み、帰りは邪馬台→投馬→九州まで60日間、北に進んだわけだ。

かつ、これを4回も繰り返した。
したがって、畿内説はあり得ない。
どう考えても畿内に行けない。
順次読みは九州であった場合にのみ可能。
0202日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『拝仮倭王』とある梯儁は確実に邪馬臺國まで行ってるでしょ
んでもって張政が政等以檄告喩壹與だから邪馬臺國まで行って次代女王と会っている可能性がある
でもその程度
0204日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

『鬼神道&祀鬼神』と『鬼道』は区別して書かれているように思えるが?
0205日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 19:27:50.08
>>202
行ってても九州。
どう考えても、南に30日水行して、南に30日陸行して畿内に辿り着くことはできない。
帰りは北に30日陸行して、北に30日水行すると、畿内だと日本海を彷徨うことになる。
0206日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

『魏志倭人伝、中国人はこう読む』が鬼道=怪しい宗教説を広めてるんだろ
俺九州論者の本は一通り目を通してるから知ってるんだよ
0207日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>205
いや水行20日で出雲、水行10日で若狭湾
若狭湾から陸行1ヶ月で奈良ね
0208日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 19:30:15.80
>>207
不弥国から南に水行したらその場所にどう考えても辿り着くことはできない
0209琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 19:31:51.17
岱輿に諭しているから直接会ってるだろ、褒美も増えとるしな。
0210日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

かくいう私も、中高生時代邪馬台国九州論者だったから古田武彦や安本美典や高島忠平や若井敏明や坂靖や福永晋三の本を読破しているわけでな

九州論者が何を考えているのかなんてお見通しなんだよ、君達のバイブル全部知ってるんだから
0211日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

学習を続けていると、ある閾値を超えたところで畿内説に転向する仕組みになっている
江戸しぐさの虚像を暴いた原田実さんも転向された
https://i.imgur.com/omJRyeE.jpg
0212岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 19:33:52.58
>>198
鬼道と言われてるは、張魯の母のことですが、
それが五斗米道とも太平道にもまだ整理されていない状態であったが故に
「鬼道」と書かれたわけです。

歳を取っても若いという怪しげな女性が、劉焉に近づいたわけですから、
確かに非常に怪しい。

「怪しい宗教」をざっくりと表現したのが「鬼道」です。
0213日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>212
だから卑弥呼の宗教が単に怪しいだけだったのなら朝鮮半島諸国と同じく『鬼神道』や『鬼神を祀る』と書くだろう

五斗米道や神仙思想薬中に似ていたからわざわざ『鬼道』という表現を使ったのだ
0214琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 19:38:09.68
あんな、陳寿は漢中の近くの育ちなんだよ。
五斗米じゃなきゃ何か説明されてるよ。
0215日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

いやまあ俺も流石に五斗米道が渡来したとは思わんがな
道教の部分集合たる神仙思想だけが渡来したんだろう
0216日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

画文帯神獣鏡が箸墓に先行するホケノ山古墳に埋まってたんだから、魏使は邪馬臺國で西王母信仰しながら桃喰いまくって不老不死目指すカルト集団を目の当たりにしてるんだよ

朝鮮半島にもこんな奴らいなかっただろう
まさに道教集団さ
0217琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 19:45:50.93
しかも30ヶ国に(を)纏めたんですよ。そして運営する知識もなくてはならない。それまでの倭は纏めることを知らない者等が争っていたわけですよ。貴方の信じる物はまだ後だと思いますね、名称変わってますけど、元は道教ですよ。
0218日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

銅鐸祭祀は神仙思想に負けて廃棄されたんすよ

銅鐸って動物が遊んでたり人々が農業してたりそんな事しか書かれてないでしょ
神獣鏡には西王母が描かれてるんですよ、つまり人格神との接触。これはカルチャーショックだったでしょうね
0219日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

銅鐸は豊穣を象徴していたと考えられていますね
でもそんなの支配者からしたらどうでもいい

とにかく長生きして長く世を治めたい。病気にも罹りたくないのです
0220琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 19:58:14.00
いやいや、理念だけでは国を纏められないのだよ。黄巾族が潰れていくのもそういう理由であろう。また、劉備でさえ大変な苦労だ。政治経済、国家的システムも知らなければならない。
国家形成の経験者、最低でも五斗米の幹部クラスでなければ無し得ない。
0221日本@名無史さん
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2023/04/08(土) 20:01:40.45
仮に畿内だった場合

⭕倭人は帯方東南
⭕また南、一大国
❌ 南至投馬國水行(東に行けばなら正解)
❌ 南至邪馬壹國(東に行けばなら正解)
❌ 女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳(女王国以西はならば正解)
❌ 女王國以北特置一大率檢察(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種(そもそも畿内より東に海がない)
0222日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>220
107年の時点で【倭国王】帥升がいる
0224日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

西王母=道教は短絡的
西王母は元々神仙思想の仙人であって、後の時代になって道教教団に取り込まれたのだ
0225岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 20:12:04.17
いえ、ですので、神獣鏡=道教で、それが中心的なら、そういったふうに埋葬されているはずでしょう?
で、実際はというと、銅鏡の階層の最上位は内行花文鏡、しかも大型のものですから。
神獣鏡は、棺外で粗末に扱われていますよね。

銅鐸を駆逐したのは、銅鏡祭祀で、それは内行花文鏡を頂点としていますよ。
モノを見るとそうなってるんですから、解釈で変えようとしても無意味です。
0226日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>225
銅鐸祭祀の入れ代わりで入ってきたのは画文帯神獣鏡ですわ
0227日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

そもそも三角縁神獣鏡の大きさが道教の本に書かれてることピッタリでしょ
黒塚古墳での配置もそうだし
0228岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 20:27:25.06
銅鏡の階層性全体では、画文帯が最上位ではありません。
まぁ舶載で上位ではあるでしょうけど。

纏向王宮(日代宮か?)の宝物庫(C棟)に入るにふさわしい、
最上位の銅鏡は当然ながら大型内行花文鏡です。
まさしく「日代宮」の名に合致します。
0229日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>228
なるほど
では当時既に伊都国まで畿内の手中に入っており、そのレガリアが奪われて纒向に保存してあったということですか
0230日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

私はそこまで過激な考えは採りませんがね
伊都で生まれた応神天皇が畿内に帰ってきた時に持ってきたのでは
0231琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 20:34:05.76
すいしょうらは面会を求めたとあるだけで国を纏めていたかは不明。
五斗米は七歳から道徳経を読まされ、荘子、墨子の影響もあるのだよ、悪く言い残されている部分は政治状況であり、真に受けてはいけない。
国を築いた鬼道は五斗米しかない。善政を敷き劉備、曹操からも一目置かれる。北魏の拓跋は最初道教国を立ち上げたが266年炎帝の席に岱輿の使い等と同じ場にいたのが面白いところだよ。
0232岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 20:39:43.28
>>229
逆ですよ。伊都国が東方に引っ越して来たのが、纏向王権ですよ。

今まで(数年間に私が2chでカキコしていた時)は、私が好き勝手に言っているだけな感じでしたが、
最近は「寺澤、柳田のライン」もかなり本音のところで勝負してきています。
特に寺澤先生は、かなり明確に
「平原大鏡が、神明造りの纏向C棟に入って、それが伊勢神宮に移ったというストーリー」
を頭の中で描いていることがわかりますよ。「纏向学からの発信」を読んでみてください。
0233琪瑛教大祭酒
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2023/04/08(土) 20:42:05.32
鏡は1.にあるように広漢西蜀なんだよ。そして神獣鏡の時代だよ。卑弥呼は自分で持ってるよ。ただし印璽は持っていないであろうと思うね。
何度も書いたが最後に契りを結ぶのに必要なんだな。して、大いなる物の主になったのだよ。
0235日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>232
伊都国が東方に引っ越してきたのなら土器など東遷を示唆する証拠が他にも見つかるはずだが
0236日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

神武東征は実際には吉備勢力の奈良盆地への出撃譚だろう。神武が吉備国の高嶋宮に8年滞在していることや、楯築墳丘墓が畿内へ伝播したことからも分かる

九州出身云々は4世紀以降の仮冒だ
0237岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 21:15:36.54
土器が出るところが勢力の母体だ、なんてのはなんかの教条に過ぎないんですよ。
纏向に関して言えば、土器を見れば東海、特殊器台を見れば吉備でしょうね。
銅鏡文化ということで見ると、纏向の源泉は九州北部、伊都国だ、ということですよ。

まぁ土器というのは、当時の梱包材みたいな役割もあるでしょうから、現在日本で見れば、
MADE IN CHINA で溢れていますが、それは中枢の権力構造とは全く関係ありません。
0238日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>237
銅鏡文化は九州由来じゃないよ
銅鐸と交代で現れたのは、ほぼ九州で出土しない画文帯神獣鏡だからね
0239日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

3世紀に大型内行花文鏡が畿内に持ち込まれていたという物証は無いんですよね
0240岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/04/08(土) 21:23:42.11
>>238
あのねぇ。畿内で画文帯しか出ないなら兎も角、畿内でも丁重に扱われたり、天皇陵から出たり、
大型化されたりしているのは、内行花文鏡でしょう?
崇神陵の銅板とかご存知ないですか? どうして画文帯の銅板がでてなくて、内行花文なんでしょう?

答えは簡単ですよ、王権にとって、内行花文こそが特別な紋様だったからです。
0241日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>240
崇神陵の銅板は伊都国で出土した鏡と全然違うじゃん
伊都国の方は八葉鏡だぞ
0243日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神陵(そもそも私は行燈山古墳を崇神天皇陵だと思っていないが)銅板は六頭花崎四葉鏡
伊都国や八咫鏡は八頭花崎八葉鏡

やっぱり八咫鏡が畿内に伝来したのは応神天皇の代だろうね
0244岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 21:40:06.13
>>241
墳丘に置くような広く見せるための銅板なので、簡略化させているんでしょ?
画文帯と内行花文、どちらが当時の王権(皇室)にとって重要か、あなたも薄々気付いてるでしょう?
事実が、多分自分の組み立てていた論考と齟齬になるから考えたくないだけ。
0245日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>244
簡略化は無いわ
これ俺が作った説明図だけど、八咫鏡一番の特徴は八葉座であることなんだからな
https://i.imgur.com/yzOPFfl.jpg

四葉座だったらそりゃもう平々凡々の鏡なんよ
0246日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

四葉座の内行花文鏡なんてどこからでも出土するだろ
伊都国大型内行文花文鏡は八葉座だからこそ、八咫鏡と同型だと考えることが出来るのだよ
0247日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

俺は原始時代伊都国東遷論者だったんだから、同国や八咫鏡の知識で負けるはずがないんだよ
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 21:46:01.85
>>212

「魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君」

張魯はかくて漢中により、鬼道によって民を教導し、自ら師君と号した
0249岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 21:50:07.29
八咫鏡の紋様を広く人目に触れる墳丘状に展示するわけないでしょうよ。
もちろん秘中の秘という扱いですよ。

四葉座の内行花文鏡ですら、大型化して絹で覆って別室に丁重に葬られるわけですよ。
これが平々凡々と言われるなら、内行花文以外で類例を提示して下さい。
平凡なら類例ぐらいいくらでもいくらでもあるはずですよね?
0250日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>249
別室というか中央の主体部ではないだろうから、従属的な被葬者のもんだろ
0251岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 21:55:13.08
>>248
いい線いってますね。
張魯が「鬼道」を広めたという経緯を調べてみてください。
「鬼道」の具体的な分かるはずです。
0252岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/08(土) 22:00:26.51
>>250
従属的かどうかは、解釈する側の問題ですから水掛論でどうでも良いです。
下池山や柳本大塚のように埋葬された銅鏡の類例をあげて見て下さい。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 22:19:08.11
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 22:25:53.70
>>251
>張魯が「鬼道」を広めたという経緯を調べてみてください。

魯遂拠漢中、以鬼道教民。自号「師君」。其来学道者初皆名「鬼卒」。受本道已信、号「祭酒」。

「鬼道」は他称だけど「鬼卒」が自称だから
>鬼道というは「怪しい宗教」ぐらいの意味ですね。
は間違い
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 22:28:21.44
鬼道=道教

九州論者反証出せず
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 22:44:50.97
脳内妄想による物語づくりしか能が脳無し畿内説がこの先生きのこるには

あっ最初から死に体だったっけw
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 22:48:13.75
鬼道=道教で神獣鏡が集中する畿内邪馬臺國確定
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 23:01:15.18
>>260
4世紀神獣鏡が畿内に集中で邪馬台国?
鬼道に相反する道教すら理解できないとはw
希望的観測で脳がパンクした畿内説の典型w
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 23:12:18.43
>>261
「4世紀神獣鏡」
「鬼道に相反する道教」
 これら根拠なき妄想
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 23:31:13.91
>>263
そうやって言い張るだけで
ひとことも根拠を言えないのは>>261が妄想な証拠
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/08(土) 23:39:14.33
>>265
理由の何もない妄想を
また理由もなく世界の定説とか言い張っちゃう九州説って
明らかに脳が腐ってないか?
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 00:19:12.90
>>265
ぜんぜん証拠なく事実と反対のことを繰り返し言い張る
すぐ感情的になって口角泡を飛ばす
自分の言ってることの方が世界の常識だーと叫ぶ
九州説信者と韓国の反日活動家が似てすぎる
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 00:34:45.84
>>261
相反するってよくわからん
道教のことを鬼道と呼んでいたんだぞ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 00:51:49.60
>>268
そう確定するなら確定した証拠を出せ
だと思う、とかそう推測する、では無い
確定した証拠を出せよ
ダラダラと1日中書き込んでる鹿と岡上は
何一つ確定した証拠無しでイチャイチャしてる
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 01:01:51.87
>>269
>そう確定するなら確定した証拠を出せ

「4世紀神獣鏡」
「鬼道に相反する道教」

こんなトンデモを世界の常識と確定するなら証拠を出せ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 01:05:39.40
九州説は何があろうと証拠など出しません
そんなことすれば崩壊するから
0273日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

道教ってのは一義的に定義出来ねえのよ
神仙思想が倭国にも渡来していて、それを目の当たりにした魏使が、同じく神仙思想を取り込んでいた道教教団との類似性を見出し『鬼道』と評したってそんなところだろう
0274琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/09(日) 02:22:48.17
いままでの根本が壊れてしまうとでも思い込んでいるのが九州だな。
まあ、それは止む終えないとこでもあるかな?
曹叡はよく知りもしない者に親魏は与えないし、
中華皇帝が我甚哀汝なん
て簡単には言わないんですよ。そして忠義と孝行とまで言ってる、が晋の代では関係が途切れてしまう。
曹操に仕えた張魯配下だからですよ。曹操の元では天后とされたのが琪瑛です。
天后即ち水神なんですな。
老子道徳経は太一を祀る。市とは仙人の住む場所。列島の骨を造ったのが箸墓の被葬者卑弥呼と呼ばれた老子道徳経の巫女ですな。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 02:44:53.99
有一女子名曰卑弥呼
年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆

後漢書では鬼神道となってるね
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 08:10:05.73
>>277
真人を崇めてるけど?
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 08:15:33.62
八幡神のルーツは道教の最高神として信仰されている「玉皇大帝」である。 宇佐神宮の名を高めた大神比義は「仙翁」と呼ばれたなど、道教の教典に出てくる伝承が多い。
 託宣集には八幡神は「震旦国の神であった。」と自ら述べたと記録されている。また「八幡とは諸葛孔明の四頭八尾の八陣図戦法を元に唐代に生まれた破陳楽舞で使われる八っの旗から来ている」 と福永光司氏が論証されている。
  以上参考-『日本史を彩る道教の謎』から
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 08:22:17.98
テスト
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 08:34:14.72
魏志倭人伝と全く整合しない畿内説は韓国式歴史捏造テロです

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:03:01.82
投馬国を通っているなら狗邪韓国の前に書かれているはず
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:03:41.98
>>281みたいに、陳寿の書いた行程は間違って俺の言うことが正しいんだーと言っちゃうと
倭人伝が根拠から消えて「俺の言うことが正しいんだー」しか残らないんだよね
つまり九州説の消滅
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:08:45.45
>>281
正解
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:10:00.46
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方東南
⭕また南、一大国
❌ 南至投馬國水行(東に行けばなら正解)
❌ 南至邪馬壹國(東に行けばなら正解)
❌ 女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳(女王国以西はならば正解)
❌ 女王國以北特置一大率檢察(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種(そもそも畿内より東に海がない)


これでもう完全に畿内説は破綻してる
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:29:38.95
邪馬台国のようなものが畿内説
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:34:11.55
>>287
いや、破綻してるのは九州説脳だ
畿内説は、陳寿の行程情報には間違いがあるのが確定したから比定地を決める根拠に使わないと言っている
これは合理的判断だ
九州説は情報が誤りと認めながら比定に使おうとする
方法論として破綻してるんだよ
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:38:18.17
正始元年、正始4年、正始6年、正始8年と4度中国人が倭に4回も来ている。
・九州→投馬→邪馬台まで60日間、南に進み、帰りは邪馬台→投馬→九州まで60日間、北に進んだわけだ。

かつ、これを4回も繰り返した。
それなのに、方角を間違えたなんて有り得ない。
したがって、畿内説はあり得ない。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:53:59.91
帯方郡→水行二十日で投馬国=對馬国=対馬→水行十日で伊都国=出雲→陸行ひと月で伊勢遺跡
倭人在帶方東南大海之中
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 09:58:35.52
>>292
不彌国までだな。
奴国、投馬国、邪馬臺国には行っていない

邪馬臺国は近畿
卑弥呼は九州以外
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:08:38.96
九州から水行20日投馬国まで南に進んでると思ったら実は東に進んでて、しかも20日間誰も気付かない、
投馬国から水行10日南に進んでると思ったら、実は東に進んでて、しかも10日間誰も気付かない。
陸行1月、南に進んでると思ったら実は東に進んでて1月も誰も気付かない。

帰りは、北に陸行1月進んでると思ったら実は西に進んでて誰も気付かない。
水行10日北に進んでると思ったら、実は西に進んでて誰も気付かず投馬国に着き、
投馬国から水行北に進んでると思ったら、実は西に進んでて20日間誰も気付かず、九州に戻る。

これを正始元年、正始4年、正始6年、正始8年の4回繰り返したというのがとんでも畿内説。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:14:02.18
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:14:06.15
要するに畿内説の邪馬台国はバッタモノ
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:16:45.98
こんな関係だろう

ホンダ→ヒュンダイ
三菱→三星(サムスン)
邪馬台→ヤマト
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:16:53.96
>>291
それは無理らしいよ。
畿内説の奴が言ってる。
調べたら古代船は1日に3〜5キロしか進まなかったと。
帯方郡から福岡まで900キロある。
よって、180日もかかる。
1日で10キロ進めたとしても90日かかる。
なんで、それは無理筋。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:21:20.02
>>299
何言ってるのかわからんが海流に乗ってすいっと
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:23:25.36
>>290
>それなのに、方角を間違えたなんて有り得ない。
>したがって、畿内説はあり得ない。

畿内説は「方角を間違えた」なんて主張してないのに
誰と懸命に戦ってるの?

もしかして九州説信者って異常に頭の悪いひとばかりなのかな
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:25:11.17
>>299
>畿内説の奴が言ってる。

どこの誰が?
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:32:09.02
九州説の人の言うことって
出処不明の気情報ばっかりなんだよね
信用なくすよ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:33:43.69
>>300
じゃあ、船で3〜5キロはデマだということだな。
対馬まで約730キロ。
1日で36.5キロ進めたわけだ。
最も遅い実験結果の10倍。
あり得ない。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:34:48.32
畿内説は方向音痴のアスペルガー症候群だな
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:34:59.24
>>301
じゃあなんて主張してるんだ?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:36:38.64
>>295
東南500里もな
糸島市方面ではない
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:39:43.95
>>307
東南500里よりも酷いのが、南至る投馬国、南至る邪馬台国。
真東に進んでるのに、南という。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:41:30.22
>>306
>じゃあなんて主張してるんだ?

再三言った
「陳寿の残した行程の情報は間違ってる」と
ひとの話を聞かないから九州説は常に論争に負けるんだよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:41:37.52
>>308
不弥国から南だから問題ないだろ
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:42:30.49
>>309
間違っていると言う証拠は?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:44:09.95
ああ、ソースを勘違いした。
古代船の時速が3〜5キロ。
すなわち、1日12時間しか進まなかったとしても、1日で40キロぐらいは進めたわけだ。
ということは、大分→大阪まで10日で行けたわけだ。
ところが、30日もかかってる。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:44:38.65
>>311
何が言いたいの?
ひとと会話のできない心の病気ですか?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:45:34.89
>>309
南に水行30日、陸行1月で畿内に辿り着ける場所は、日本海上しかありませんが?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:46:05.40
>>312
>間違っていると言う証拠は?

会稽東冶の東には日本列島は無い
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:47:53.58
>>315
だから何?
ひとと会話のできない心の病気ですか?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:48:28.36
>>316
南でも北でもない概ね東だから間違いではない
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:49:23.88
>>317
頭の病気ですか?
行程が間違っていたとしても、南に水行30日、陸行30日で畿内にたどり着ける場所は日本海上しかないよね?
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:52:02.86
陳寿の言う東というのは推察ね
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:52:14.59
畿内説の人らが会稽東治ではなく会稽東冶にしたがるのって、倭人伝がデタラメってことを強調するためなんだよね
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:53:04.66
>>318
>南でも北でもない概ね東だから間違いではない

中国の地名だとどのあたりに当たるかという趣旨の説明中で
「計算するとちょうど会稽東冶の東」と書いてある
そこは台湾沖だ
間違ってるね
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:53:11.48
>>316
そもそも会稽から船で直接日本に向かってない。
したがって、会稽から東に日本があるというのはただの推認にすぎない。
ところが、邪馬台国までは半島から島つたいに渡って、陸を歩き、船に乗り、陸を歩いて行ってる。
60日間も東を南と誤認するわけがない。
帰り60日間も西を北と誤認するわけがない。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:54:36.97
>>321
いや、通説
会稽東冶と会稽東治は同じ場所だ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:55:03.41
倭人伝を否定したなら卑弥呼も否定することになるのが畿内説
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:55:59.93
>>323
>そもそも会稽から船で直接日本に向かってない。
>したがって、会稽から東に日本があるというのはただの推認にすぎない。

間違い
陳寿はちゃんと「計算すると」と書いている
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:57:10.81
>>326
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方東南
⭕また南、一大国
❌ 南至投馬國水行(東に行けばなら正解)
❌ 南至邪馬壹國(東に行けばなら正解)
❌ 女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳(女王国以西はならば正解)
❌ 女王國以北特置一大率檢察(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種(そもそも畿内より東に海がない)


これ全部原典が間違ってたのか?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 10:57:59.57
>>325
>倭人伝を否定したなら卑弥呼も否定することになるのが畿内説

そういう100%信じるかゼロかと言う思考は
文献批判ができないと言うことだから
あなたに歴史研究はできません
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:00:15.02
>>330
都合の良いところだけ否定する畿内説
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:00:39.92
>>329
だろうね
彼に嘘を書く動機はない
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:01:22.68
>>331
>都合の良いところだけ否定する畿内説

と言う証拠がない
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:01:55.10
>>304
寝てても海流で勝手に進むからな
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:02:36.80
さらに、廣志
「廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次」
広志に曰く、倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又、南して邪馬嘉国に至る。女王国より以北は、其の戸数道里をほぼ記載できる。


廣志も以北としている。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:03:51.78
>>334
それなら、大分から大阪まで30日もかからない。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:05:41.59
>>335
意味がない
倭人伝を写せば当然そうなる
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:05:47.67
>>336
帯方郡→水行二十日で投馬国=對馬国=対馬→水行十日で伊都国=出雲→陸行ひと月で伊勢遺跡
倭人在帶方東南大海之中
俺これだから
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:07:20.59
>>336
実際、律令時代に都から大宰府まで船で30日
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:10:15.78
以上のことからすると、やっぱり中国人は邪馬台国まで行ってない可能性は高い。
邪馬台国は伊都国の近くにあった。
南至投馬国水行20日に、南至邪馬台国水行10日陸行1月は勝手に付け加えたか、放射読み。
邪馬台国に行っていたとしても九州なら論理的に問題ないが、畿内だと明らかにおかしい。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:13:27.06
>>333
お前は自閉症だな
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:18:13.73
東と南を間違える馬鹿なんていない。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:19:17.80
>>341
すぐ論破されて中傷専業になるいつもの九州説パターン
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:20:17.82
>>340
>以上のことからすると

その「以上」が実在しないという九州説の異常
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:21:30.35
>>342
盲信決めつけ以上の馬鹿は無し
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:21:51.39
>>343
病院でオクスリ貰ってこいよ間抜けなキナイコシちゃん
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:22:33.89
>>345
九州説型老人性痴呆
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:23:48.04
阿波ってマジで常世に行ったのか?🙏
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:23:54.47
>>347
こんな信者しか残っていないという九州説の悲劇
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:24:53.07
>>345
あったな
完全に破綻したな
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:27:20.80
不弥国までで1万700里ぐらいだっけ?
とすると投馬国と邪馬台国は放射読みか、陳寿が間違って付けたしただけ
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:27:34.23
キナイコシも死ぬまでオレオレ詐欺スレを立て続けるのか、寂しい人生だな
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:29:57.04
>>352
>とすると投馬国と邪馬台国は放射読みか、陳寿が間違って付けたしただけ

理由が不明
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:31:06.28
>>352
間違った原典の引用。陳寿は魏の周辺国については紀伝体の体裁上仕方なく書いただけ
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:34:29.59
>>352
陳寿が意図して放射読みなんてあり得んよ
読者にわからん
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:34:46.46
東南とかしょちゅう出てくるのに、南至投馬国と南至邪馬台国だけ、本当は東なのに間違えましたとかバカの極み
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:36:35.85
>>356
じゃあ、付け足しだな
どう考えても、残り1300里では畿内に行けない
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:37:39.75
>>357
誰も間違えたなんて主張してないのに
九州説の一人相撲はバカの極み
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:38:59.93
>>358
隋書は九州説にも畿内説にも有利に働かない
訂正したのは里数だけで行程が皆無
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:39:13.87
>>359
>どう考えても、残り1300里では畿内に行けない

考えてないだけ
なぜなら理由が言えない
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:40:15.38
>>361
隋書は畿内で決定してるよ
そう明記してる
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:41:24.06
>>363
隋の時には奈良まで行ってるからな
魏の時は九州だけど
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:42:05.75
>>359
意図せず帯方郡に戻るのはあり得る
一方は不弥国までの行程でもう一方が邪馬台国への行程だから
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:43:43.48
>>360
原典が間違えてるとかほざいてたけど?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:46:09.60
>>367
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方東南
⭕また南、一大国
❌ 南至投馬國水行(東に行けばなら正解)
❌ 南至邪馬壹國(東に行けばなら正解)
❌ 女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳(女王国以西はならば正解)
❌ 女王國以北特置一大率檢察(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種(そもそも畿内より東に海がない)
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:48:58.90
230年に呉の孫権は日本を侵略しようとしたが失敗している
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 11:52:43.57
隋書以降、畿内説による邪馬台国オレオレ詐欺が続いてるわけだ
なるほど
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:04:24.75
>>371
女王国の東の海を渡ったら皆倭種も転写ミスか?
畿内説に都合の悪い部分だけ方角をミスするんだな(笑)
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:07:01.45
>>373
可能性を言ってるだけ。いずれにせよ魏書の記述通りなら邪馬台国は南西諸島付近の海中
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:11:34.25
>>373
その人はそうだったってだけ
門司辺りに来た人が居たんでしょう
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:21:11.78
向こうに見える陸地にも人が住んでるんですよと説明を受けた人が記録した
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:22:08.60
迷子の迷子の畿内説あなたのおうちは倭種の国
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:22:12.20
完全に畿内説は破綻してるな
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:24:30.85
本州に行った中国人が居ないと思うほうがおかしい
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:28:35.77
邪馬台国は太陽のある場所と言えば
方角は解決する

女王は天照大御神だと言うことも
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:32:14.21
三国志呉主伝にはこう記されている。
「(黄竜二年)春正月、将軍衛温、諸葛直を遣わして甲士万人を将い、海に浮びて夷洲及び亶州を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老伝えて言う、秦の始皇帝は方士の徐福を遣わし、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱神仙及び仙薬を求めしむ。此の洲に止まりて還らず、世々相承けて数万家有り。
其の上の人民、時に会稽に至りて布を貨うこと有り。会稽東県の人、海に行き、亦だ風に遭い流移して亶州に至る者有り、と」(季刊邪馬台国98号 加藤哲也氏『徐福伝説を往く』より抜粋)
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:32:51.00
畿内説の唯一の根拠

纒向調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・周辺には住居や農地が無い
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの被葬者の遺族の宿泊所)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:42:25.89
>>382
呉では日本は亶洲と言ったのか
会稽東県と行き来してた
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:50:04.73
>>383
九州説って、もうニセ情報流ししか打つ手がないの?
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:50:53.93
陳寿が会稽の東と記したのは会稽から九州に流れ着いた者の話から推察したのであろう
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:53:51.52
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:54:05.07
>>386
会稽東冶と会稽東県が同じかわからん
もし同じなら何故呉の領土を魏志に書いたんだ?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 12:55:28.39
>>366
>原典が間違えてるとかほざいてたけど?

いつ、どこで誰が?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:01:39.22
会稽山にまつわるエピソードが挿入されてんだから会稽東冶じゃないでしょう
会稽山のある紹興市の東なら種子島くらい
東西方向の長大さを鑑みれば結構良い線行ってるよな
九州ならば
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:02:24.83
>>386
>陳寿が会稽の東と記したのは会稽から九州に流れ着いた者の話から推察したのであろう

そいつ、どうやって帰ったんだ?
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:10:52.59
>>391
遣唐使が使った航路とかじゃない?知らんけど
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:12:55.77
>>388
三国志が出来たのは呉が滅んでからじゃなかった?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:13:06.33
魏との交易ルートとは別に呉との交易ルートもあった
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:13:23.19
>>390
>会稽山にまつわるエピソードが挿入されてんだから会稽東冶じゃないでしょう

海南島の話も出てるから、中間の会稽東冶がピッタリ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:27:28.77
>>397
倭が朝貢したのは魏だから
0399日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 13:27:48.98
>>397
会稽の夏時代の統治者に刺青があったのを踏まえて倭人の刺青の風習と合致させた
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:28:02.71
>>397
倭が朝貢したのは魏だから
0401日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 13:31:40.46
>>390
>会稽山のある紹興市の東なら

そこに会稽東治は無い
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:31:42.55
?洲や徐福の記述は後漢書にもあるんだな
これをどう解釈すれば良いのか混乱するな
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:41:19.79
>>396
そんな屁理屈はじめて聞いた
段落も違うところだし
すごいね
色々考えるもんだ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 13:48:15.11
後漢書には會稽東冶縣と書いてあるが
計其道里當在会稽東治之東とは書いてない 
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:12:27.14
会稽から東に船を出せば海流に乗り九州に到着するので間違いではない
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:16:37.15
>>382
これ台湾だろ
台湾=夷州だからな
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:23:02.84
・九州から水行20日投馬国まで南に進んでると思ったら実は東に進んでて、しかも20日間誰も気付かない。
・投馬国から水行10日南に進んでると思ったら、実は東に進んでて、しかも10日間誰も気付かない。
・陸行1月、南に進んでると思ったら実は東に進んでて1月も誰も気付かない。
・帰りは、北に陸行1月進んでると思ったら実は西に進んでて誰も気付かない。
・水行10日北に進んでると思ったら、実は西に進んでて誰も気付かず投馬国に着く。
・投馬国から水行北に進んでると思ったら、実は西に進んでて20日間誰も気付かず、九州に戻る。

これを正始元年、正始4年、正始6年、正始8年の4回繰り返したというのがとんでも畿内説。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:23:03.94
道教無し
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:24:33.60
画文帯神獣鏡(鬼道)は畿内を中心に分布
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:25:05.05
>>403
>そんな屁理屈はじめて聞いた

反論できないなら悪態ついてないで素直に降参しなさい
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:25:46.01
>>364
>魏の時は九州だけど

根拠なし
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:26:41.10
黄幢は畿内黒塚古墳でのみ出土
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:31:42.57
黄幢に関しては決定打すぎるから畿内説も触れないようにしてあげてるんだぞ
向こうだって観光客集めなきゃいけないのに可哀想だからな
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:35:17.22
俺は九州とも関西とも縁もゆかりもないから言える。
残念ながら見下された倭奴国=邪馬台国は九州。
後世の地図上、明らかに倭奴を九州に比定し、本州を日本としている。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:35:53.03
黄幢って勝手に言い張ってるだけだからな
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:42:09.95
黄幢に触れないのはお約束だぞ
核兵器みたいなもんだからな。類似するものが一切日本の他の地域で出てないんだから確定だし
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:44:28.08
>>414
魏使が畿内まで持って行った証拠にはならない、
九州で貰った黄幢を持って東征したと考えた方が自然
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:45:52.11
邪馬台国東遷説って纏向が4世紀じゃないと成り立たないんだよな
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:46:28.58
神獣鏡て南方の鏡じゃない?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:46:46.98
黒塚から黄幢が出ているということは畿内の近くに狗奴國があったということ
それは東海であり久努國
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:49:19.88
奈良に到着
倭人「この東の海を渡ったらまた倭種の国があります」
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:50:22.53
>>426
つまり伊勢湾
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:52:21.69
九州に到着
倭人「この東の海を渡ったらまた倭種の国があります」
裴世清「あ、魏志倭人伝のやつガチだ」
旧唐書→日本は倭国の別種である。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:54:44.06
後漢書で東の海の先に狗奴国があるようになってる
たぶん矛先が南から東に変わったんだろうね
晴れて畿内は狗奴国としてデビューしたわけだ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 14:58:42.73
仏教も道教も九州が窓口
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:04:13.32
狗奴国を文字から想像すると毛人かも知れんがまあどうでもいいでしょう
卑弥弓呼が毛人のわけないし
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:04:23.95
>>430
東の海を渡って千余里で拘奴国だから、畿内というかヤマト王権のことだと思う。
この時代には確実に中国地方もヤマト王権の支配下だからね。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:10:45.80
>>430
熊本から有明海を西に海を渡ったところが邪馬台国だという事だよ
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:11:02.23
敵が狗奴国って出来過ぎだろ
作り話じゃないのか?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:13:04.16
>>436
鉄鏃の分布図に戦闘の跡が現れてるだろ
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:14:33.26
>>432
畿内説は脳が韓国製だから時間の方向もわからないんだよ
方向音痴だから
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:17:44.29
范嘩が後漢書を書いた450年くらい?は、ヤマト王権が中国側にも認識されたから、「魏志倭人伝の狗奴国って九州王権とヤマト王権が争ってたって意味だろう」と思って、
【東の海を千余里渡ったら拘奴国があって、みな倭種だが女王に属さない】って書いたんでしょう
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 15:32:33.32
宇佐神宮の祖宮である薦神社の社紋は道教のシンボルである太極図と似ている
https://i.imgur.com/0LLExDu.jpg
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:13:30.94
大和王権などない
九州倭国から派遣された者が大和を拠点に畿内を攻略しただけだ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:28:20.62
>>442
今更そんな常識呟やかれても・・・
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:29:55.64
>>443
そんな非常識呟やかれても・・・
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:33:27.19
>>444
でも重要だよ
魏の領土を巣通りしたんじゃないだろう
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:36:21.14
>>445
素通り?
意味わかんない
画文帯は後漢鏡だよ
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:39:31.60
>>447
そうなの?
だったら呉から何が入ってきてたの?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:39:57.52
昔、遠距離恋愛していた愛知県の彼女のアパートから甲子園を見に行くためにレンタカーで行ったことがある。
甲子園を見終えて、愛知県に行く途中にたまたま奈良県を通過したのだが、クソほど田舎だった。
あれって、クソ田舎だから色々掘り起こせるんだよね?
九州も宮崎と鹿児島以外はレンタカーで回ったことあるけど、福岡とかもう掘り起こすの無理ゲーだよね?
俺は北九州説を採ってるけど、福岡・大阪・名古屋・横浜・東京とかは地中に色々埋まってるはずだけど、掘り起こすの無理だよね?
考古学の専門家さん、私の見解どうですか?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:40:49.61
マジレスすると公孫氏は呉とも結んでるから、公孫氏経由で画文帯神獣鏡が入ってきたんだろ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:41:34.15
>>450
ど田舎だけど古墳が掘れない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:41:42.19
>>434
短里なら違うな
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:46:16.41
>>451
会稽東冶と書いてるのに意地張るね
それに銅鐸いつまでも使ってたの?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:55:01.43
>>455
九州征伐の時、掠奪品?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:55:03.17
>>448
>画文帯神獣鏡は卑弥呼の鏡から脱落しました

妄想
魏代にも作られている
ホケノ山から出た
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 16:56:50.12
>>453
>短里なら違うな

短里とか実在しないので考慮する必要なし
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:00:00.70
>>451
>マジレスすると公孫氏は呉とも結んでるから、公孫氏経由で

あり得ない
公孫氏は来た呉の使者をすぐ殺してるから
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:03:25.35
>>449
>だったら呉から何が入ってきてたの?

入ってこない
魏が奪って来た戦利品くらいだろう
0461日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』買った人おるか?先月発売されたばかりよな
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:08:03.77
>>460
会稽東冶と行き来があったと書いてるだろ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:10:35.79
>>455
後漢書と合わせると、狗奴国畿内で黄幢が見つかるのは整合的だね
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:16:49.12
画文帯神獣鏡(鬼道)は畿内に集中
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:17:05.22
>>458
実在する1里は何m?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:17:48.25
内行花文鏡は太陽信仰だから魏志高句麗伝にもある通り、天神を祀るだぞ
九州は天神で本州が鬼道(道教=神獣鏡)
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:19:06.07
>>462
>会稽東冶と行き来があったと書いてるだろ

どこに、どこの誰がと?
日本語が不完全な人だな
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:20:04.87
>>466
>実在する1里は何m?

400mと少し
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:22:10.36
銅鐸から鏡への変化に支配者の交替まで想定しなくとも
ある種の宗教改革と見れば充分なわけだ
それが墓の巨大化とどう関係あるかだな
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:24:03.75
>>468
横からだけど

三国志呉主伝にはこう記されている。
「(黄竜二年)春正月、将軍衛温、諸葛直を遣わして甲士万人を将い、海に浮びて夷洲及び亶州を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老伝えて言う、秦の始皇帝は方士の徐福を遣わし、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱神仙及び仙薬を求めしむ。此の洲に止まりて還らず、世々相承けて数万家有り。
其の上の人民、時に会稽に至りて布を貨うこと有り。会稽東県の人、海に行き、亦だ風に遭い流移して亶州に至る者有り、と」(季刊邪馬台国98号 加藤哲也氏『徐福伝説を往く』より抜粋)
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:33:26.53
画文帯同向式神獣鏡 ホケノ山古墳出土

銘文の訳文(KME訳)
呉国皇帝陛下が三国統一されんことを願い、古来の図案を参考にして、この鏡を作くった。
役人は奉仕の精神で、徳を持って正しい政治を行い、果断なく善政を行えば民衆は幸せになり、
豊かになり、子孫は繁栄します。身分の高い役人は、長生きし、皇帝陛下の威光は、光かり輝きます。

これは、呉国皇帝を呪詛する言葉とも取れます。もし、この鏡の所有者が呉国の役人だったとすれば、今は亡き主君の皇帝陛下を呪詛した銘文を破壊し、黄泉の国に一緒に連れて行こうと考えたのではないだろうか・・
以上転載

つまりこれは魏鏡ではなく呉鏡ということですわ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:35:21.96
>>471
夷州は台湾で、亶州は沖縄だな
でも多分ただの作り話
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:40:22.42
>>471
「又使徐福 入海求神異物、還為偽辭曰『臣見海中大神・・・』」
詐欺師だった
0477日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

行き来はねえよ
孫権遠征失敗してるし、黒潮に逆らうのはムズい
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:48:55.09
そもそも徐福が作り話か詐欺師だからな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:49:03.54
>>472
専門家の鑑定では魏鏡
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:58:18.63
鏡がどうとか、どうでもいいけどな。
九州派も必死に反論してるが、その必要はない。
クソ田舎の奈良で出るなら、大都会福岡はビルの下にも当然たくさん埋まってる。
でも、掘れないんだからどうしようもない。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 17:58:33.46
>>473
徐福の話だし亶州は沖縄じゃないだろ
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:00:29.54
>>481
ビルの下は掘ってるけどな
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:06:51.53
>>482
徐福がどこに行ったのかなんて知りようがないけど?
会稽から東に行くなら、もう沖縄しか考えられない
沖縄本島に着くまでに多分死ぬから、せいぜい石垣島だな
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:09:37.11
>>484
徐福の話は嘘だと思うよ
ただ亶州は何処を指してるかと言うと日本本土でしょう
0487日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>485
時代全然違うしあんま関係ないよね
遣唐使ですら命がけだし
0488日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>481
福岡の都会の部分って奴国があったところだろ
邪馬台国は関係ないよ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:23:32.83
>>487
遣唐使の時代に突然航路が出来たわけじゃあるまいし、航路は縄文時代からあったのだろうよ
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:24:52.75
最初に間違いなく沖縄に到達した中国人は唐大和上東征伝の鑑真
でも、1回は暴風のために失敗
2回目も暴風で海南島に流される
両目を失って3回目でようやく沖縄に到達
会稽から直接、本州に行くのは無理だと思う
そんなことした記録もない
0491日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>489
遣唐使の時代に突然航路が出来たに等しいよ
仇敵の新羅が半島統一したから半島経由ルート使えなくなって渋々東シナ海横断なんかしたわけだろ
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:38:51.38
>>491
広島の呉に定住した呉からの難民はどういうルートでやってきたのかな?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 18:52:29.85
遣唐使船を作ったのは呉からの難民で彼らは呉からの航路を把握していたのだよ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:11:26.61
>>494
関係ない
全て文化財保護法で対処する
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:30:45.61
宇佐神宮に呉の人が作ったと言われる呉橋があるがその形状は船を逆さまにしたような形をしている
0499日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>493
呉からの航路はそりゃ黒潮乗ってけばいいだけだから、まだマシだろう
だが日本列島から呉はかなり難しい
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:38:43.02
>>499
だから遣唐使が往復出来ているだろ
0501日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

応神天皇紀にも、呉への道がわからんから高麗人に案内してもらおうって記事があるしな
0502日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>500
いつの話してるんだよ
邪馬台国って3世紀だぞ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:45:11.93
>>502
前例があるから遣唐使がその航路を使ったのだよ
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 19:51:00.26
寺澤は小説家になったのか
0505日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>503
少なくとも応神天皇の時代は使われてないね
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 20:01:38.51
>>505
身狭青は華南と往来しているがな
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 20:13:16.81
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 20:29:04.32
要するに遣隋使よりも100年以上前に華南ルートが存在していたという事です。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 20:53:12.86
有鉤銅釧 
愛知〜千葉の太平洋側からも出土
南西諸島、太平洋ルートもあるだろうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 20:58:43.24
巻向学者の何たらかんたらっての調べたいんだが、何で検索すればいい?
0511日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>498
東の倭種の謎が解けたわ
良書
0512日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

紀年銘鏡は15枚出土、そのうち13枚は西暦230~240年代の魏や呉の年号が書かれており、分布は9枚が奈良県以西の本州。
2枚が東日本。1枚が出土地不明。九州は宮崎県の1枚のみ。

なるほどね
邪馬台国の時代には九州が対中外交の主体ではなかったってことかな
0513日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

九州完全スルーされてたんだね
0515日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

九州唯一の紀年銘鏡が存在しない『景初四年』でワロタ
0516日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:08:53.39
●魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年~) 上狛古墳 京都府山城町?

●呉の年号が記された鏡
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市
0517日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:10:07.38
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0518日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:11:43.48
『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。』
0519日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

三角縁神獣鏡除外したら紀年鏡がもっと近畿に集中してワロタ
0520日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:13:38.30
つまり畿内説は韓国式作り話でしたとさ

卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0521日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>520
紀年鏡出てないから中国との外交主体が九州にはいなかったのよ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:15:30.15
結局畿内説の唯一の根拠は「大作冢」の3文字のみ

魏志倭人伝より
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人

魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述は朝貢記録の一部として記述されており、当然ながら倭国の状況は倭人が説明した内容です。
倭人は中国で使われていた「里」など距離を示す単位は知りません。
そんな倭人が墓の大きさを中国の「歩」という単位を使って説明するわけがありません。
おそらく倭人は卑弥呼の墓は大きく造り、殉葬は百余人ですと伝えたはずです。
陳寿は殉葬百余人から推定した大きさを径百余歩と見積り、中国の読者にもわかるようにと併記したのでしょう。

祇園山古墳(福岡県)
https://i.imgur.com/3jJf8mz.png
0524日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

紀年鏡も出ない
黄幢も出ない

なんだこりゃ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:16:54.77
逆立ちしても魏志倭人伝と全く整合しない畿内説は韓国式歴史捏造テロでしたとさ

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
 
0526日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>523
だから、三角縁神獣鏡除外したらもっと紀年鏡が近畿地方に集中しますよ?というか近畿地方にしか存在しなくなる
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:18:24.27
掘れば九州からいくらでも出てくる
出てこない方が不自然
だから、鏡が出てきたは無意味
0529日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

反論出来ずにコピペ連打し始めたぞこいつ...
0530日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>528
九州で出てきたのは実在しない年号が書かれた鏡定期
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:21:11.15
>>530
景初4年が存在すると豪語していたのは畿内説だが?w

いずれにせよ三角縁と卑弥呼は時代が合わないので悪しからず
0532日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

紀年鏡が出てないんだから、当時の外交主体は九州じゃないのよ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:22:47.89
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』

後世のヤマトがなぜ「大倭」という文字を選んだのか?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:24:00.89
>>532
考古学的、物理的、物量的、経済的に卑弥呼時代の交易は九州中心なのは畿内説の学者も認めている
0535日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>534
交易じゃなくて外交主体の話してるんだよ
0536日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

江戸時代で交易してたのは九州のごく一部だったけど、外交主体は江戸の幕府だったでしょ?
0537日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まあ正確には長崎会所は天領になってるのか
伊都国に一大率置かれてるようなもんよね
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:27:12.46
そもそも、史書にも「数万枚の鏡を配布しました!」とか書かれているわけではない
それなのに、魏鏡です、呉鏡ですとか言って、何十枚も何百枚も出てくる方が不自然
絶対に九州にもたくさん埋まってるけど、仮に畿内に顕著であるならば、「関西人は鏡が好きなんですね」としか思わない
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:28:05.49
とうとう江戸時代まで時空ジャンプ始めたぞw
基本が成ってないんだよ低脳畿内説は
0541日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>何十枚も何百枚も出てくる方が不自然

だから、11枚しか出土してない魏の紀年鏡の話をしてるのでは
0542日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>540
紀年鏡を探せ!
軍旗を見つけよ(´・ω・`)
0543日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州論者のみんな
早く黒塚古墳の軍旗に類する物をみつけたまえよ(´・ω・`)
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:30:31.64
古墳の95%は盗掘されている
にも関わらず600枚も出てくる三角縁は一般流通していた副葬用の銅鏡だろ
当時は数千枚は流通していたと思われ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:31:17.42
NHKか何かの番組をYouTubeで見たのだが、
畿内説をとってる考古学者も「日本で作られた物なのか、中国で作られた物なのか分からない。そもそも製作所すら日本でも中国でも見つかってないので、これをもって畿内説と決めつけるのは違う」と述べている。
0548日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>531
それ九州論者のエージェントだから
0550日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

絹織物が付着していて、パイプ内に紐状のものがあったのだから旗として使われていたのは明白ね
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:35:16.74
>>546
当時の銅鏡も銅鐸も全部中国製の材料で作られてるからな
国産の銅が採掘され始めるのは8世紀以降
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:36:43.07
>>534
>畿内説の学者も認めている

誰が?
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:38:01.93
このように畿内説は自分勝手な思い込みをあたかも証拠であるかのように装う韓国式歴史捏造テロなのです
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:38:49.83
>>546
>畿内説をとってる考古学者も

誰が?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:39:37.35
>>549
全くそれに見えないけど?
あなたには見えるの?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:39:39.24
>>554
>このように畿内説は自分勝手な思い込みを

どのように?
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:40:21.33
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:40:22.47
>>556
証拠は?
0563日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>557
そのものだよ
中空の鉄パイプは当時の日本じゃ作れないから大陸製
そして絹織物付着、パイプ内には紐状のものあり
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:41:46.25
>>551
だから?
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:42:13.97
>>560
その人は森浩一の弟子でゴリゴリの九州説ね
年代観がおかしい
0566日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。

魏志倭人伝すら読んだことが無いみたいだね~。邪馬臺國と中国人はほぼ直接交流してないよ、伊都国に常に往来し滞在するんだから。そんでもって一大率が伊都国で賜り物や文書を確認し女王の元に届けると魏志倭人伝にハッキリ書かれてるじゃないか

中国と盛んに直接交流しているのは伊都国までだと魏志倭人伝に書いてあるのに、なぜか邪馬臺國が盛んに交流していた事にする。曲解も甚だしい
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:45:07.02
>>547
の事例かな?

『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』
0569日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

黒塚古墳の黄幢が何よりも魏と交渉していたことを示しているというのに
0570日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>568
>倭人は鉄鏃を使う
伊都国までの風俗が描かれているだけだから当たり前。黥面文身も全部伊都国までの風俗
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:47:07.69
>>567
いや、銅が日本で産出されないから何?
0572日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国以降は見聞録が途絶えている事を無視するな
倭人の習俗記事も伊都国までの記録だよ
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:47:38.90
畿内説は韓国式なので真に受けないようにご注意ください

纒向遺跡が宮殿?はあ?

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png


[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:48:33.08
>>567
>成分分析で区別出来ると勘違いするのは典型的文系(のおちこぼれ)

できないと言う理由は?
理由もなく言い張るのは文系理系以前の小学生
0576日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>574

tps://i.imgur.com/8pkaLfD.png
tps://i.imgur.com/RDaERDD.jpg
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:49:28.76
>>571
銅鐸はどうだったよ?
成分を調べれば中国産だが中国では出土しない銅鐸の話を知らんのか?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:49:57.70
>>568
>卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。

証拠は?
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:51:36.05
>>568
>「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、

溶けやすいですけど
0583日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>580
黄幢に一番類似してる出土物が黒塚古墳U字型鉄製品だからねぇ
悔しいならもっと、いや少しでも旙に見えそうな物を九州から見つけ給え(´・ω・`)
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:54:12.12
平原で40枚の銅鏡が出ました。
東日本でも何百枚も銅鏡が出ました。
魏志にはそんなに何百枚も何千枚も銅鏡を授けたとは書いてません。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:54:26.70
>>583
結局は「黄幢に一番類似してる」という希望的観測が根拠ですか?
おまえ韓国人だろw
裏で「当時の人は強制徴用されたはずニダー」とか言ってんだろw
0586日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>584
平原の鏡って古いから当たり前やろ
0587日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>585
で、反証は?
もしかして九州にはないんすか旗
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 22:56:11.39
>>584
しかも卑弥呼自身が鏡を使ったとも書いてない
市場の監視バイトの「大倭」に頼まれた品物かもしれないしな
0589日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:57:08.20
>>587
旗に見えないけど?
0590日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 22:59:16.63
魏志では銅鏡100枚だからな
銅鏡多すぎて不自然問題
0591日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:00:02.12
大倭:なぜか倭種の国に「銅鏡」が高値で売れるんで100枚ほど頂戴できませんかね?
卑弥呼:魏に聞いてみる
0593日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

ある

ない

どちらかで答えてください
0594日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:02:31.14
韓国式畿内説さん
成分は中国産だが中国では出土しないという銅鐸は中国製なのか?
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/09(日) 23:04:01.96
>>555
卜部行弘
すまん、卜部さんは畿内説をとってるかどうかは明言してなかったわ
0596日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:10:01.21
関西人、鏡好きすぎ問題
0597日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

黙っちゃったかぁ、黄幢効きまくりだな
次のスレタイは『【黄幢】畿内説 Part882』でよろしく
0598日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:17:10.92
>>597
それに見えないからどうでもいいよ
学者も慎重だし
0599日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>598
で、九州に旗っぽいものはあるの?
0600日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:25:24.50
>>594
>成分は中国産だが中国では出土しないという銅鐸は中国製なのか?

成分が中国産だから中国製だとか、誰か言ったのか?
誰も言ってないことに文句言っても、誰かに反論したことにならないよ
0601日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:36:50.43
一般の朝鮮人や中国人が銅鏡を売りつける為に日本に来たか、鉄や銅鏡が欲しい関西人が「売ってけれ〜」って言って北九州に来たんだろうな。
関西人はとにかくなぜか銅鏡が好きだった。
出土してるだけで4000枚?なら、土に埋もれてるのは3万あっても5万あってもおかしくない。
卑弥呼に下賜した銅鏡はたった100枚なのに。

琉球王国の役人は福州で、中国人の役人に無駄な物をたくさん買わされてマイナスだったからな。
中国のゴミ役人が銅鏡を100枚以上持って行って、伊都国の役人に大量に売りつけていたとしても不思議ではない。
伊都国の役人は「こんな何千枚も買わされていらねーよ」って言って、たまたま鉄を買いに北九州に来た関西人に「これは凄いんですよ。中国様の銅鏡ですよ」って転売した可能性も決して低くない。
0603日本@名無史さん
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2023/04/09(日) 23:56:05.26
>>601
まあそういう事でそんなに珍しいもんでもない
でもどんな鏡かわからんのに勝手に八咫鏡と言って根拠にしてるのは九州説だぞ
0604日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 00:13:14.69
中国鏡が珍しいものじゃなくなったから自分達で超巨大銅鏡作ったんだろうね
0605日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国の内行花文鏡も、皇室のレガリアたる八咫鏡も同じく八頭花崎八葉鏡で『8』に拘ってるみたいだけど
どういう意味があるんだろうね
0606日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 00:21:59.64
旗っぽいから畿内ニダー!とか言ってるあたり、畿内説はもう風前の灯と言うことだ
所詮低能キナイコシだから相手にするなよ
0608日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

やっぱり『卑弥呼以死』は「卑弥呼既に死す」と読んだほうが良さそうだな
難升米に黄幢と詔書渡してるのが謎すぎる
0609日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

卑弥呼は244年頃に死んでいた
0610日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

年輪年代やC14年代だと、庄内0式は177年が上限だし、布留0式も240年ごろが上限になる

寺澤さんは布留0式3世紀後半説を採ってるから卑弥呼の墓=纏向石塚とせざるを得ないんだろうけどそりゃ無理あるよ
倭女王だぜ?小さすぎる
0611日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『昼は人が造り、夜は神が造る』突貫工事によって張政が邪馬臺國へ来たときには周濠や墳丘の基礎工事が進んでいたのだろう。


張政「卑弥呼の墓ってどれですか?」
倭人「丸い部分ですね。前方部は祭壇にしたり殉葬奴隷を埋めたり」
張政「なるほど。丸い部分は“径100余歩”くらいの大きさだな」
0612日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 01:30:25.36
>>610
>年輪年代やC14年代だと、庄内0式は177年が上限だし、

間違い
169年
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 01:41:52.99
A.D.169樹皮つきの井戸枠のそこから月影式が出たので、結局庄内0を180年からとヤマカンで言ってた石野がニアピン賞
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 01:49:45.16
これで庄内式スタート200年前後、庄内3が3世紀第2四半期という通説が科学的裏付けを得た
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 02:22:56.01
伊都国で貰った黄幢が畿内で出土してのであれば、
卑弥呼の死後に邪馬台国が東征した証拠になるな
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 02:29:33.48
>>615
>伊都国で貰った黄幢が

妄想
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 07:07:12.46
>>618
庄内式って、弥生式が東京の本郷弥生町で見つかったんでそう命名されたのと同じで
最初の発見地で名づけられてるだけで、畿内広域の土器なんですけど

九州説の人って、そんな常識も知らないんですか
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 07:23:09.90
>>619
>庄内式って、畿内広域の土器なんですけど

庄内式って、「東阿波型土器」の土器なんですけど

畿内説の人って、そんな常識も知らないんですか  わははははは   @阿波
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 07:39:00.87
畿内説=学者の通説
九州説=素人の流すデマ

ってこと?
0623日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 07:42:11.32
>>622
畿内説=御用学者の通説
九州説=素人の流すデマ

ってこと   @阿波
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 07:57:35.69
>>623
お前は常世の国に逝ってしまったんじゃねえのかw
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:03:02.03
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
一時期は出雲が覇権を掌握したが、国譲り以降は筑紫が復権したというのが記紀の内容。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していたことが、三雲南小路遺跡や平原遺跡などの豪華な出土品から考古学的に明白である。
博多湾沿岸に稲作が上陸し、初期の倭国王権が成立した。
イザナギが矛(武力)で獲得したはじめの領土は能古島(おのころ島)であり、イザナミと別れてから禊をしたのが、筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園)とされている。

筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神(アマツカミ)として九州や本州の王族である国津神と区別された。
博多湾以外で海人族の勢力の中心にあったのが、宗像氏族が聖地としていた沖ノ島であり、その磐座信仰がおそらくは高天原(タカアマハラ=祖なる海の城)の天照(アマテラス=海を支配する王)に対する祭だろう。
宗像氏族が支援したのが高天原から筑紫への天孫降臨であり、降臨先が筑紫の日向(博多湾沿岸)とされている。
降臨した天孫ニニギが大山積から娶った姫が木花咲耶姫(細石神社)であり、天孫の息子である彦火々出見(山幸彦)を祭る宮が高祖宮である。
しかし記紀によると天孫族による筑紫の支配は三代で終わったとされている。
四代目の彦火々出見は筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移り、後に神武と呼ばれた。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:19:24.02
>>625
常世の国は、奈良大和にとっての故郷「阿波」のことじゃ。 逝くもなにもない。   @阿波
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:25:31.20
>>624
と言う証拠は?

証拠もない事を言い張るのは文系でも理系でもなく
ただのばか
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:40:22.57
>>629
祇園にゃま?
小さな方墳でしょ
時代も4世紀だし殉葬の痕跡もないのに?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:42:27.58
ここは何という国ですか?
八女たい→ヤマタイ
だったというオチ
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:49:30.35
>>624
学者はそれに応えてるふしがあるわな
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 08:56:19.60
>>633
学者は答えてるけど?
畿内説でね
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 09:10:09.76
>>1は学者に全く支持されていない妄想家です
畿内説はデマ拡散に抵触する可能性があります
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 09:14:16.61
>>635
という証拠は?
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 09:20:06.74
>>632
いい線いってるが、「山たい」が正解
日本も中国も、山や川など自然を地名にすることが多い
北部九州は山がたくさんあるが奈良は盆地
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 09:48:40.15
日田の隣りは山国→邪馬国
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 12:04:59.59
>>627
あの世に旅立ったのかと思ってたよw
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 12:06:48.19
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 12:59:04.69
卑弥呼は梯儁と伊都国で会っているでオッケー?
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:00:06.31
>>642
可能性はある
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:15:01.74
>>643
じゃあ台与も伊都国で張政から黄幢を貰ったでオッケー?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:25:04.37
黄幢は難升米だったな
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:30:12.90
当時の日本の連中(敵国)が黄幢見てもナニソレだと思うけど?w

前にも書いたが
半島の支配を目論む魏が
冊封された倭の協力(従属化)のもとに軍事要請して共闘

そのときに役立つのが黄幢であり
率善なんちゃらだったってこと

で、これを知って
倭の五王もクレクレマンしたとw
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:31:00.05
>>644
可能性はある
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 13:34:49.06
可哀そうなぐらい相変わらず、トンデモどものレスはレベルが低いのうww    @阿波
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 15:24:20.29
眉山から金印はよ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:05:13.61
>>630
殉葬なんてないから
方形周溝墓は規模が小さく固まってる
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:08:46.42
けど埴輪は殉葬の代わりに生まれたんだろ
自分からそういうことを言い出せる大王がいた倭国民は幸せだよな
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:10:01.12
>>646
卑弥弓呼に見せたら効果があるんだよ
敵国なら魏の冊封に入ってないから権威なんか関係ないのよ
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:10:48.39
ステマ工作で通説を装ってきた畿内説の実態が暴かれつつあるな
低能が心を閉ざして希望的観測を崇める宗教w
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:12:25.39
言い伝えは違うが宇佐の百体神社が気になります
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:20:58.34
そもそも卑弥呼の時代の畿内に迎賓館はあったのか?
遣隋使の戻りの船に裴世清が乗っているという知らせを受けて突貫工事で難波津に迎賓館を作った慌てようだし。
0658日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

迎賓館があったのは伊都国でしょう
帯方郡使が常に往来するに滞在する所

だからね
0659日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>653
垂仁天皇の代だよな
ちょうど形象埴輪が現れる時期と一致する

崇神や百襲(卑弥呼)は殉葬しまくってたんだろう
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:23:35.44
>>656
ただの百太夫神社でしょ?卑弥呼の墓と関連してるとでも?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:26:46.51
>>658
伊都国で金印の受け渡しがあったと考えるのが合理的だな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:29:04.45
>>660
宇佐神宮は人柱を祀る事があるのでね
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:41:39.76
>>662
高磯 → 高祖・・・皇祖なら彦火火出見命だ〜

百大夫(ひゃくだゆう=ひゃくたいふ)→百体・・・隼人百人の首を云々〜
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:47:40.13
>>663

凶首塚古墳は隼人征伐以前の古墳らしいので伝承は信用できないかと
0665日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>661
いや拝仮倭王してるから邪馬臺國まで行ってるよ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 16:55:02.32
>>664
西日本の神社の末社としてたくさんある、ただの百太夫神社だと思いますよ。
百体神社は中世では「百太夫殿(ひゃくだゆうでん)」と呼ばれていました。
「ひゃくたいふ」が百体となりそれらの伝承と混ざって何やら恐ろしげな由緒が出来上がったのでしょう。
高祖神社も同じですよ。本来の祭神は高磯比刀B彦火火出見命は後世の付会でしょう。
0667日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

箸墓古墳のミューオン調査結果発表しろや
0668日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

名古屋大&橿原考古学研究所共同研究チームはミューオン調査結果を公表せよ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:09:16.75
>>661
伊都国にて拝仮倭王だな。
遠方の邪馬台国ではない

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:15:22.13
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:15:48.56
地元民の噂やらなんやらがごちゃごちゃになって神社の由緒が変わる事は珍しくないです。神社だってありふれたものは合祀で消える事は珍しくありません。
徳島県では江戸期から現代人までが神社の由緒を絶賛捏造中ですw

天照大神生誕地
賀志波比売神社(徳島県阿南市見能林町柏野)
https://momijiaoi.net/kashiwahime/

卑弥呼の墓がある御祭神 大日孁女命(別名天照大神)
八倉比売神社(徳島市国府町西矢野)
https://momijiaoi.net/amenoiwatowakeyakurahime/
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:28:36.63
>>665
邪馬台国に行ったとは書いていない、倭国で倭王に授けたと書いている
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:33:33.94
可哀そうなぐらい相変わらず、トンデモどものレスはレベルが低いのうww    @阿波
0676日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政って247年に邪馬臺國に来て卑弥呼の墓の大きさ確認してるんだよな
そんで卑弥呼は244年に死んだ可能性があると

周濠掘って墳丘の基礎造成するのって3年で終わるか?
0677日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「昼は人が造り、夜は神が造る」だから昼夜問わずの急ピッチだったんだろうが
3年でそこまで出来るものだろうか
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:43:23.25
ゼネコンの見積もりで仁徳天皇陵が20年
0679日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや葺石持って来るのは含めず荒造成まででいいんですよ
荒造成終わってれば墓(後円部)の大きさってだいたい分かるじゃないっすか
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 17:54:46.82
魏志倭人伝→東に海を千余里渡ったらまた国があり、みな倭種
魏志倭人伝→ 次に奴国有り。ここは女王の境界の尽きる所。その南に狗奴国あり。女王に属さない。倭女王は狗奴国の卑弥弓呼と争っている

432年に范嘩、後漢書を書き始める
「そういえば、この間来た倭人が奈良の南に狗奴国みたいな国はないし、昔からそんな伝承もないって言ってたな。
だけど、東にはまだ服属しない国もあるって言ってたな。じゃあ陳寿さんの間違いだ。直してやろう」

後漢書→女王国から東に海を千余里渡ったら拘奴国がある。皆倭種だが女王に属さない
0681日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか仁徳天皇が20年なら箸墓は10年くらいで完成するやろ
そんでもって荒造成なら5年もありゃ出来る

張政は築造途中の卑弥呼の墓を目撃し、倭人に尋ねた「これは卑弥呼の墓ですか?」
倭人「ええ。丸い部分が卑弥呼の墓で、四角い部分には殉葬者埋めたり祭壇にしたりします」
張政「なるほど。径100余歩だね」
0682琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:07:29.62
真南に墓となっているから以前から円丘はあった可能性はある。元は祭壇かもしれぬ。
箸墓、280m×140m×15m=約41万リュウベ。千人×1日3立方m=3000リュウベ×150日=45万。一年かからん。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:08:19.99
木製の土木用品じゃあ20年はかかるんじゃね
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:11:19.02
432年、范嘩さん後漢書を書き始める
「そういえば、この間きた倭人がヤマトって言ってたな。邪馬壹(ヤマイ)は明らかにおかしいよな?
邪摩惟だろ。多分聞き違いだな。でも全部変えるのはさすがにやりすぎだし、とりあえず、それ風の近い音にしとくか」

後漢書→ その大倭王は邪馬臺国にいる(今その名を案ずるに邪摩惟のなまりである)

邪馬壹または邪馬嘉を、ヤマトに近付ける為に勝手に漢字をいじってしまった范嘩さんのせいで「邪馬台国」なる有りもしない国が今も日本の教科書に😭
0685琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:12:55.43
20年もかかるなら人生の半分だよ。次の代も死んどる。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:25:13.40
>>684
隋書では邪馬臺では無く邪馬堆と改められ語尾がタイである事を明示している
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:27:22.97
>>681
卑弥呼の墓の制作は

日本が韓制圧戦の後裔に参加しなかった言い訳、
帳政を連れて帰った
65 其八年 太守王?到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與

の、一年以内で成立している。
帳政は伊都迄しかきていない。

卑弥呼の墓は、
糸島半島北岸から伊都早良付近の間に有る。
古墳ですらない盛土なんて、残って無くないかね?

糸島?海、有ったし?
0688琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:32:56.08
勝手な妄想。
箸墓は確実に道教の指導者の墓。これはもう揺るがないのだよ。どう屁理屈を言っても無駄だよ。
あんたらが信じてる書物さえそう念を押しちゃっているんだから。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:33:43.49
何を言ってるのか判らないんだろ?
古墳ですらない、卑弥呼の盛土は
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:34:53.56
>>686
邪靡堆な
これは当然ヤマトと読むべき
それかヤマトに極めて近い音 
遣隋使も送ってるのに、ヤマタイはない
0692琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:36:15.08
そしてカリスマ性が薄れないうちに葬儀は執り行うであろう。一瞬のうちに築造したであろう、物理的に無理では無い。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:36:29.28
倭国の後継を騙ったのだろうな
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:38:26.73
卑弥呼の先代の墓が平原古墳なら卑弥呼の墓もそんなに大きくはないと思うがな
0696琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:38:53.26
あのな、隋代まで影響力を残す巫女道なんだよ。
隋代まで九州のイタコを信じていると思っているのかね?おめでたい。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:39:02.01
>>694
それは間違いなく奈良
裴世清が行ってるから
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:42:00.43
記紀の日本の王統に
卑弥呼なんてもんは有り得無いんだから

倭人伝の邪馬台国ってのは、記紀の日本の古代史とは
関係ない、九洲や半島の歴史だろ?

あたりまえだろ?
0703琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:47:08.71
魏志言うところの邪馬台者、地勢東高西下、眺めた奈良盆地だよ。
倭の別種は五王の後だろ。大仙までは前方後円墳を築く集団政権。だから、倭の別種なんだろ。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:48:00.98
>>697
邪靡堆は日本だろ
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:54:49.27
>>701
詐欺っていうか中国人が勘違いしただけな
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 18:55:16.95
邪靡堆は都と書いてあるな
でもその前の其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下は日本の事だろ 
0708琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 18:55:37.15
フェイクばかり言いふらしても無駄よ。
畿内、纏向箸墓は中華尺で構造は中華の都。
そういう者が居たところ。
何を叫ぼうがこれは事実。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:00:51.27
日本で言うヤマトは奈良じゃなく日本の事だ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:02:27.79
>>701
中国人「首都ヤマイだよね?魏志読んだよ」
関西人「ヤマトですけど?」

中国人も日本人も気付かなかった悲劇
それは台湾と沖縄が同じ琉球と1000年近く勘違いしたことと似てる
邪馬壹国は九州なのに、後から関西人が中国に行くから混乱してしまう
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:04:19.08
>>681
昨日読んだ本の成果は?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:05:03.85
>>708
>そういう者が居たところ。

集落遺跡が無くても、言い張るアホ。   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:14:36.83
>>289みたいに、陳寿の書いた行程は間違って俺の言うことが正しいんだーと言っちゃうと
倭人伝が根拠から消えて「俺の言うことが正しいんだー」しか残らないんだよね
つまり畿内説の消滅
0714日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 19:17:17.05
>>713
それなら沖縄辺りで探しとけ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:18:13.31
記紀編纂の頃、つまり白村江の敗戦の少し後に、筑紫倭国から畿内大和へのすり替えをしたんだろ。
以後、1000年以上も畿内が昔から列島の盟主であったと嘘をつき続けたと。
つまり畿内説は嘘つき。
0717日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 19:19:27.09
>>716
ヤマトだろ
0718日本@名無史さん
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2023/04/10(月) 19:20:55.47
日本はヤマトと読むんだろ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:21:39.82
>>699

まあ、そうなんだよ。
対馬海峡を渡っているから、九州だろうね。
記紀の3世紀に邪馬台国や、卑弥呼の半世紀に及ぶ治世が入り込む余地はない。
まして纏向遺跡という、崇神天皇の王宮が見つかった以上、古代天皇の実在性は証明されたと言っていい。
0720日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州王朝説って日ユ同祖論と同レベルだろ
オカルト板でやってくれや
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:24:58.05
>>695

卑弥呼の先代は男王だが、平原遺跡は女王。
年代比定に誤差があることを考慮すれば、平原遺跡の被葬者が卑弥呼である可能性が高いよ。
0722日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

平原卑弥呼説も九州スレでやりゃいいじゃん
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:28:35.45
>>666

その高磯姫が卑弥呼だろ。
明治維新の時に隠して先代男王であった彦火火出見に戻しただけだね。
どうせみんな伊都に都を置いた倭王だし。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:30:02.43
>>658

筑紫館や鴻臚館にあたるものが、3世紀には糸島の三雲にあったのです。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:30:25.08
>>718
読まないよ
お前「日本」をヤマトと読むの?
0726日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本をヤマトと読むようになったのは8世紀初頭くらいからだろ

万葉集でヤマト(夜摩苔)が出てくるときはみんな奈良を指してるぞ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:39:09.04
>>721
だな
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 19:48:09.63
やまこけ
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:12:55.91
>>724
ねえよ。
墓遺跡
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:36:38.33
>>715
壬申の乱も九州とか言うのか?まるで阿波説だよ。九州王朝説きんもーっ☆
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:37:30.63
>>726
沖縄本島みたいなゴミのように小さい島に、3つの王朝があったんだが?
・山南(王は承察度)
・山北(王は怕尼芝)
・中山(王は尚巴志)
明朝はこの3つの王朝を全て承認した。
ただし、中山の尚巴志が最終的に琉球を統一。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:38:01.30
>>720
沖縄本島みたいなゴミのように小さい島に、3つの王朝があったんだが?
・山南(王は承察度)
・山北(王は怕尼芝)
・中山(王は尚巴志)
明朝はこの3つの王朝を全て承認した。
ただし、中山の尚巴志が最終的に琉球を統一。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:39:20.31
>>725
だったらなんと読むんだ?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:41:38.13
>>734
にほん又はにっぽん
Google中国語翻訳にかけると、ジーベングゥオとなる
やってみてくれ
ジーベングゥオと聞いたマルコポーロがジパングとしてジャパンにつながる
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:43:09.89
>>735
当時ニホンなんて言葉があったのか?
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:43:47.49
>>734
すまん
日本だけじゃなくて「日本国」まで入れてジーベングゥオな
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:45:50.97
>>736
それは分からない
ただ、倭はその名前が煌びやかでないから日本とした
その時に「にほん」と読んでいたかは分からない
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:47:19.32
日本という国号は饒速日の国見に由来するが、その場所が日下なんだよな。
つまり日本と日下は同じなんだよ。
つまりヒノモトが正解。
生駒山周辺に誕生したヤマト王権が、白村江の後で敗戦国となった倭国にかわって列島の盟主になった。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:49:42.23
>>740
倭国自悪其名不雅は文字の事だよ
だから倭も日本も読みはヤマト
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:51:34.53
>>741
まあ、ヒノモトでしょうね
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:53:30.43
西日本で朝鮮半島くらいの大きさになる
その朝鮮半島はいくつかの王朝に分かたれていたわけだ
陸続きでもない日本列島に単一王朝しかないと思う方がなんだかイデオロギッシュじゃないか
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:55:07.06
>>731
>壬申の乱も九州とか言うのか?まるで阿波説だよ。

「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ)4日間で170km走破 
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵
常識的に考えて、これは不可能である!   

これを愚直に信じている人は畿内説のアホだけ。
ちなみに、16世紀の整備された主要街道行軍の「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」である。  
壬申の乱の舞台も、もちろん「阿波」での出来事。   @阿波
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 20:58:22.34
琉球・沖縄史は全ての謎を解決するツール。
それを日本人は誰も使わない。
非常に残念なことです。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:44:48.35
>>749
「壬申の乱」の真実も分かり易いかろう?  わははははは   @阿波
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:45:59.63
>>742
その説明は当時の中国人にとって意味不明で信用できないと書かれていたな。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:46:13.41
「布留0式古相は270年、よって箸墓は卑弥呼の墓ではない」考古学者寺沢薫
0753琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 21:46:41.94
仮に邪馬台が九州だとしようが、3世紀東倭種の纏向箸墓は中華尺の伊 勢の祖形の中華式都があったのだよ。
偏向したナショナリストが叫んだとこで無駄なんだよね。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:53:21.76
狂人が叫んでる方がもっと無駄なんだけどね。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:56:08.74
>>752
>「布留0式古相は270年

それ、寺澤はもう訂正したよ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:56:31.08
布留0式新相とか布留1式古相とか言われてもわからん
お前の考える絶対年代も併記しろよ
0757琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 21:58:56.05
ただいうだけじゃあ、ダメなんだな。
専門家が出した答えをキチンと受け入れないと。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 21:59:59.26
>>737
>白村江の敗戦の少し後
壬申の乱は9年後だろ。少し後だし「すり替え」などと言うなら乱だけ畿内で起こった矛盾はどう説明するんだ?キモいんだよ、どアホの九州王朝。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:02:03.05
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:02:10.67
布留0式古相(270~290)←箸墓古墳
布留0式新相(290~310)
布留1式古相(310~325)
布留1式新相(325~340)

平原が卑弥呼の墓で、箸墓は臺與の墓
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:04:31.85
布留0式古相(270~290)←箸墓古墳
布留0式新相(290~310)
布留1式古相(310~325)
布留1式新相(325~340)

平原が卑弥呼の墓で、箸墓は東遷伊都国王臺與の墓
0762琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 22:06:56.52
辻褄が合わない話を勝手に作り何とか自身の信じる書物に合わせようとするのが九州だわね、だからもう消滅したのよ。
0763琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 22:09:45.22
投馬国は岡山だわな。
我輩は桃魔と思っているがね。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:15:58.16
東遷説って天皇家の周辺を固めていた
渡来系豪族はどうなってたん
元々、奈良周辺に渡来系豪族が住んでる所に天皇家がやって来てヤマト王権作ったんか?
それとも、天皇家と一緒に九州から渡来系豪族も奈良に来たんか?
0765琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/10(月) 22:16:30.95
岱輿の墓が箸墓のわけないだろ、カリスマ性に劣るだろ。
13才が王になってなんで安定するんだ、卑弥呼の後継者だからだよ。卑弥呼が選んだ者だからさ、卑弥呼の地を移動するわけないだろ。
九州は人間も考えない、話しにならない。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:17:10.96
>>751
>その説明は当時の中国人にとって意味不明で信用できないと書かれていたな。

それは実は間違い
唐会要には
「蓋惡其名不雅而改之」
とあるので中国側の推測
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:19:51.63
>>761
その数字の根拠は?
0768日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ホケノ山以降、古墳の埋葬施設が北頭位になるのと道教ってなんか関係ある?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:26:58.29
>>764
日本書紀にあるとおり。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:33:42.79
考古学なんてゴミ
いくらでも解釈のしようがある
いくらでもブツを移動できる
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:38:09.55
前方後円墳の起原は阿波。    @阿波
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:39:46.90
>>746
>4日間で170km
当時の奈良は水路だらけでずっと走ってないし天武天皇の神性を強調する「盛ってる」ってやつだろ。
>手勢30人→3万人に急増兵
不破を塞いだ時点で勝利確定だから参加しないと損だよ。

>>749
阿波爺の正体知っているの?阿波古事記研究会の取り巻きだと思うんだが。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:46:43.65
ヤマトなんて名称が本当に存在したのか?何を表すのか?
すら調べられないような低能が魏志倭人伝を読み解ける訳がない
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:48:19.17
>>773
>当時の奈良は水路だらけ

吉野の山越えに、なんで奈良の水路? どアホが!   @阿波
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:55:48.72
>>774
悪態ついても反論にならない
第一だれに向かって言ってるのかも他人に伝わらない
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 22:56:57.20
蛙石だな
伊勢の興玉神石のタニグクと熊野のゴトビキ岩
これでいいんだな
0779日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神が3世紀中葉なら神武って1世紀前半くらいの人物か
橿原宮なら四分遺跡だね
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 23:00:36.59
>>720
沖縄本島みたいなゴミのように小さい島に、3つの王朝があったんだが?
・山南(王は承察度)
・山北(王は怕尼芝)
・中山(王は尚巴志)
明朝はこの3つの王朝を全て承認した。
ただし、中山の尚巴志が最終的に琉球を統一。
0781日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

当然神武の事績はほぼ脚色だろうが「磐余彦(磐余の男)」と呼ばれる有力豪族は居ただろう
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 23:04:03.75
>>779
他の豪族系図を参照すれば神武天皇から崇神天皇まで実際は三〜四世代ほど。
それに崇神天皇は3世紀後半から四世紀初頭だろう。
0783日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神天皇は、古事記の記述や西山塚古墳との近さを見るにその真陵は西殿塚古墳であろう。つまり3世紀中葉の人物だ
0784日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏志倭人伝に登場する邪馬臺國官「弥馬獲支(ミマワキ)」とは「ミマキ(崇神天皇)」のことなのだよ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 23:09:50.21
>>784
言葉遊びはやめようぜ。
0786日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

・邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」は「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」に対応
実際、崇神も3~4世紀に活躍した人物だと推測されている

・邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」これも崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」に対応

・卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」これって崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」に対応

・径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓って『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m

・魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に大乱が起きた』これも日本書紀で百襲姫死亡の次の記事にある崇神帝による四道将軍派遣に対応

・魏志倭人伝『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』これ流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀ったってのと対応

これが全部偶然の一致だと思う人は変だよ。その癖してほぼ記述も無い根拠薄弱な筑紫の女酋長が卑弥呼だとか言うんだから謎すぎる
0787日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纏向遺跡って各地から徴用して都城・古墳築造に動員した跡なんじゃねえの?

敵対国の狗奴(東海)から人間連行しまくったから土器もたくさん出土してるみたいな
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/10(月) 23:32:44.43
>>787
もう少しだね
もう少し洞察を深めるといいよ
全国の前方後円墳の周りに畿内系土器が分布するのはなぜか
0789琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 02:31:23.38
卑弥弓呼が敵対国?で、官の名まであるんだぞ、
卑弥呼と卑弥弓呼の彦巫女制度だよ。跡目の不和。敵対国で卑弥呼無き後、なんで13に負けるんだよ。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 05:59:00.32
>>788
>全国の前方後円墳の周りに畿内系土器が分布するのはなぜか

「前方後円墳」「三角縁神獣鏡」「東阿波型土器」
この三点セットが4世紀に於ける「倭人(阿波勢力)」進出の証。 

他にも「鉄器」「勾玉」「水銀朱」等々あるが割愛。   @阿波
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 06:03:06.63
>>776
>近江から吉野と勘違いした。

お前の偏向した思考は、すべて勘違いが元によるものだ。  わははははは   @阿波
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 06:30:31.29
>>779

全体にもうあと半世紀ほど後じゃないか?
神功皇后が卑弥呼より120年後の4世紀末だろ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 07:27:09.33
>>797
それ、考古学的に否定されてます
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 08:24:59.30
つまり、阿波説は拝金主義者と屈折した劣等感による郷土愛者のトンデモコラボ。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 08:44:34.08
>>804
九州王朝説な。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 09:28:41.88
前方後円墳は物部氏のビジネスモデル、その物部氏のルーツは北部九州。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 09:50:11.18
>>808
物部氏の祖、ウマシマジの母は飛鳥大神(事代主)の娘。
0812伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/04/11(火) 10:19:01.82
>>806
ヤマタイコクと言うクニは最初から無い、有ったのはヤマト、
ヤマタイコクは、朝廷とは関係ない
別のクニと言う筋書きに沿って名付けられたもの。

江戸時代の国学者の創作。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 10:24:58.32
この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあります。そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 10:47:51.37
物部の大綜麻杵の孫が崇神
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 10:58:00.67
考古学も魏志も無視して記紀の我流解釈に走る
それが九州説
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 11:00:25.04
阿波説のように明らかにネタでやってると判るようにしてない分九州説は質が悪い
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 11:11:06.25
物部氏の祖である饒速日も、天皇家の祖である神武も、筑紫の日向つまり伊都で生まれた天照大神の孫。
飛鳥大神こと事代主は、筑紫の日向つまり伊都で生まれた素戔嗚の孫。
それらが大和に集まって新天地を開拓して成立したのが、饒速日が命名した日本。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 11:12:19.93
>>820

これは創作ではなく、記紀に書かれて千年余りの間、我が国の正史とされてきた内容なのだが?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 11:38:14.96
畿内説は時間と金の無駄遣いだな

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:00:32.11
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:07:20.28
水行30日から邪馬台国に上陸し、そこから女王の都までは少し歩かなければならない

ここがミソ
0828日本@名無史さん
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2023/04/11(火) 12:14:08.54
>>827
少しじゃなくてひと月だから
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:24:03.67
>>824

「里数」表記の行程が中国側に残っていた記録なら、
萬二千餘里で至る奴國が会稽東冶之東なので
奴國は沖縄
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:31:13.46
倭人伝の行程記事どおりに
不彌國から水行三十日陸行一月なら
奴國、不彌國が会稽の東
邪馬壹國が東冶の東
0832琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 12:31:21.91
短里は使われていない。
倭人伝3000里400×3000=1200000.
書記2000里
韓尺550×2000=1100000.
倭人伝の数値を韓尺表記に変えただけ。短里なんてご都合主義の妄想。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:32:51.60
>>829

陳寿は一里を435mで計算したので会稽東冶之東に位置すると思ったわけよ
手元にあった記録文献に記されていた里が75mほどしかない事を陳寿は知らなかったから
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:36:27.11
つまり中国側の記録で行くと不彌国が終点であり、女王の都だ
現時点では宇美あたりと比定されてるようだが、どうかな
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:39:01.88
>>834
陳寿は基本的に渡された記録をコピペし、合間に自分の想像を書き加えて編纂した
陳寿は倭国なんて行ったこともないし勘違いしている事に気づくわけもない
0840琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 12:41:47.49
妄想と嘘が九州。
書記2000里。なんmだよ?
0841日本@名無史さん
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2023/04/11(火) 12:52:01.55
邪馬台国は不弥国の南を探せばいいだけ
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:55:34.15
つまり畿内説は仮説の仮設すら不可能な妄想作文なので終了
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:55:45.95
物部天皇という言葉がある
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 12:58:13.79
不弥国から二月間南行けば会稽、東冶の東に邪馬壱國がある
0847日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

国産の天蚕絹製品って纏向遺跡で出土したのが初めてなんだな
これ知らなかったわ
0849日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

北九州で見つかってるのはみんな中国の家蚕なんだね
まあ天蚕は綺麗だけど栽培難しいらしいからな
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 13:37:08.83
どう考えても九州なんだよな
0853日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纏向ってやっぱ都市というか工事跡っぽいな
各地の豪族が部民持ってきて動員したから搬入土器も多いんだろ。そんでも足りない人手は敵対している東海狗奴國から連行しまくったから東海系土器が多いと
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 14:05:12.79
>>835
宇美に隣接する太宰府あたりは怪しいと思うよ
北部九州を統治するには好立地だから大宰府設置前にも何かあっただろうなと
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 14:33:26.28
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方から東南にある(Googleマップで見れば九州も畿内も東南にあるので正解)
⭕対馬からまた南に進んで一大国
❌ 南に進んで投馬国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 南に進んで邪馬台国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 女王国以北はその行程や距離を示すことができる(女王国以西はならば正解。畿内から北に進んでも日本海しかない)
❌ 女王国以北は伊都国の一大率が監視している(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国が有り。みな倭人である(そもそも畿内の東に海がない)

南投馬国と南邪馬台国だけ、南を東と間違えたとするのは都合が良すぎるイカサマ解釈
0858日本@名無史さん
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2023/04/11(火) 14:48:30.57
>>855
既に掘ってるしなんも出ねえよ
0861日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

卑弥呼の都城
超時空要塞纏向
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 16:44:16.94
>>859
>景行天皇九州巡幸

明治の世になるまで、天皇の九州行幸は無いよ。 残念だな。  わははははは   @阿波
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 17:04:40.96
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0864日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>862
そういや記紀でも、天皇が九州の地を故地だと懐かしんだりする記述一切ないよな
0866日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

西殿塚古墳より黒塚古墳の方が若干新しいんだっけ?
0867日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

黒塚も西殿塚も葺石に玄武岩安山岩どっちも用いられてるタイプで、土器だと布留1式だっけか
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 17:18:44.21
>>867
箸墓古墳も葺石だから、4世紀の築造だ。  残念だな。  わははははは   @阿波
 
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 17:27:02.45
>>867
布留0新相
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 17:32:48.39
>>869
布留0新相?

そこまでやるか?  痛々しいのうww  わははははは   @阿波
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 17:48:33.79
>>846
ホツマツタエか竹内文書で見た事があるようなないようなw
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 18:21:52.59
昔の九州弁と関西弁って、今より相当の違いがあったのは間違いない。
東に渡ったらまた倭種とは、方言の違いを言ってると思う。
九州人「関西人とは話は通じるけど、俺らとは何かちょっと違う」→東に渡ったらまた倭種

ペリーの記録「琉球語は日本語の亜種である」
0873日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>872
沖縄では北を「ニシ」と読むから、3世紀ではそれがまだ九州には残っていて齟齬が生じたって話もあるね
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 18:39:03.00
>>872
古い大和言葉は、「阿波」言葉。
関西弁は、どう間違っても、絶対に、決して、九州弁ではない!   

関西弁の元は阿波弁なのである!   @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬臺國人「我が国からニシへ行くと九州に着きます」
中国人「えーっと確か、倭語(九州方言)でニシは北って意味だったよな(メモメモ」

中国人「じゃあ邪馬臺國は南にあるってわけか」
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 18:41:56.97
邪馬台国は太陽のある場所と言えば
方角は解決する

女王は天照大御神だと言うことも
0877日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>869
そういうのってどこに載ってんの
一覧表みたいの無いの?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 19:01:30.01
>>860
邪馬台国は倭種の国
女王国は倭種の国々の集まり
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 19:04:09.10
征夷大将軍ってもう名前から、野蛮人を倒す将軍ってことよな
東北の老人は今でも何いってるか分からない
0882日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

古代東北は原アイヌ語と日本語のクレオールかしら?
といっても邪馬台国には関係ないか
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 19:16:39.44
奈良時代・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍(征戎将軍)が
征西大将軍
0884日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

全国古墳集成だと黒塚と箸墓が同時期になってるけど意味わからんわ
それは無いだろ
0885日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あーこれめっちゃ古いじゃん
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 19:46:56.13
>>883
つまりその時代まで九州と畿内はほぼ無縁
少なくとも纒向には交流の痕跡はない
0887日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州に一大率置いてた主体は女王国連合内の投馬(出雲)や支惟(吉備)だろう
畿内から九州支配は流石に遠すぎる
0888日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

出雲振根とか筑紫でも仕事してたみたいだしな
女王国の九州支配の主体は出雲や吉備なのよ
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 20:04:50.21
>>886
なるほど。その視点はなかった
0890日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬臺國が一大率を置いていたなど一文字も書かれていない
女王国が置いていたんだよ
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 20:34:36.22
倭人て黥面文身(顔に刺青、身体に文様)なんだぜ?
そんな土人由来みたいな文化って畿内じゃなくて九州だと思うけどなあ。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 20:58:10.44
>>874
阿波弁(あわべん)は、徳島県(旧阿波国)で話されている日本語の方言。県名から、徳島弁(とくしまべん)と呼ばれることもある。四国方言に属するが、四国方言の中では近畿方言の影響を最も多く受けた方言である。特に南部の海部郡は大阪弁の影響が大きい。

なぜ、徳島県の方言が関西のアクセントに近いのか、徳島大学の岸江信介教授(方言学)は、Jタウンネット記者に「江戸時代中期に見られた『白拍子(しらびょうし)』の名残だからです」と説明する。
白拍子とは、少なくとも江戸時代以前から存在していた歌舞の一種。当時の上方(大阪、京都)のアクセントで、「高い発音、低い発音、といったように口うるさく」(岸江教授)話すようにと厳密に指導されていたという。
0896日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

やっぱり纏向の東海系土器って半ば強制連行された人達の持ち物なんじゃないの
庄内式って東海には全然分布してないでしょ
なのに東海系土器は一方的に纏向に持ち込まれまくってる。相互交流ではない
0898日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>892
当然、当時の畿内の人々は黥面じゃなかったでしょうね
0899日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国の人々は黥面だったなんて書かれてませんからね
「常に往来するに滞在する所」たる伊都国の習俗を倭人の習俗として書いただけでしょう
0900日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国以降見聞録は途絶えているのだから、詳らかな倭人習俗記事は伊都国までの文化を記載したものだと考えるのが妥当
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 21:35:10.40
倭人伝は「【男子】無大小 皆黥面文身」
黥面土器は瀬戸内と東海に集中して多い
文身は倭水人
「以朱丹塗其身體 如中國用粉也」
これが女子の風習だろう
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:01:27.71
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:07:42.94
>>883
やはり邪馬台国は九州だった
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:10:40.09
もはや霊感商法詐欺を繰り返すしかなくなってしまった畿内説だが
飯の種の壺は全く売れないという現実
0905日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

畿内と東海の交流が一方的な物であることがわかったね
東海の人々は畿内に搾取されていた
0906琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 22:17:52.72
九州以降は、倭人の風習は大体記し、邪馬臺まで特別変わった物は無かっただけであろう。隋書も秦王国だけ細かく記し、後は飛ばしている。
別に不思議はない。また、臺では指示も無く動く奴婢らがいる邪馬臺に強制移住連行し、昼夜墓をつくらせることもないであろう。
次に、狗奴国が東海では範囲がデカすぎて関ヶ原だよ。
女王死、男王立つ、おそらく卑弥弓呼か、河内彦。東海狗奴国が13才女王国に敗れるのも不自然。
で、結局無駄なんだな。
纏向箸墓が老子道徳経、
陰陽の国が始まるのだよ。
三船は記した、時の政治は道教を認めない。と。
良心があるな。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:40:32.72
百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。
さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。
国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。


お墓作るの早すぎワロタ
どう考えてもデカい墓じゃないな
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:46:11.58
卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。
さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。
国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:48:02.14
卑弥呼死亡

墓が完成

男王が立つもまた戦争状態に入る

箸墓は10年かかった?
じゃあ箸墓は卑弥呼の墓じゃねーな
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 22:58:50.00
三国志全文検索すると
径は直径の径ではなく、小道的な意味で使われてるどれも

そもそも埴輪が殉葬者の代わりなら
埴輪のように殉葬者も並べられていたはずだ

あたかも小道が出来てるような

百余歩と百余人は、対になってると考察するのが妥当
0911日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

仁徳天皇陵が盛り土140万立方メートルで20年
箸墓古墳は盛り土30万立方メートルだから4年半もあれば完成か
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 23:06:09.63
>>910
>百余歩と百余人は、対になってると考察するのが妥当

その通り
倭人は「歩」という単位を知らなかった
倭人は「大きな塚に埋めた。百人ほどの人が卑弥呼の後を追って自害した。」と報告した
その記録を読んだ陳寿はその規模を径百余歩と見なし、そう記載しただけ
0913日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>910
いや箸墓の時代はまだ特殊器台だし埴輪無いでしょ
人間の身代わりにするのは形象埴輪だろうし記紀でも殉葬辞めたのは垂仁天皇からだし
0914日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>910
あーそういうことね
失礼誤読した
0915日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>912
張政は邪馬臺國まで行っただろう
0916琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 23:27:42.04
生け贄的な殉葬なぞない。殉教を知らない、陳寿が後追いをそう記したに過ぎない。人の命を粗末にするような指導者ではない、それは朝貢に出ている。
後の埴輪は殉教を込めた思いの人形だ。
0917琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/11(火) 23:37:48.10
墓作りは書いた筈だ、鉄は熱い内に、昼夜、何年もかけない。おそらく、岱輿という跡目を決めていた以上、円丘はあったのだろう。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 23:42:21.73
卑弥呼死ぬ(244年か245年)

247年、この年が中国の使者が来た最後の年となった。(ワンチャン、この時に卑弥呼の墓を見た可能性もある)

箸墓古墳は10年かかったんですか
へ〜そうですか
0920日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>919
仁徳天皇陵が盛り土140万立方メートルで20年
箸墓古墳は盛り土30万立方メートルだから4年半もあれば完成だったわ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/11(火) 23:58:38.18
>>920
木製土木用品では倍以上かかるな、しかも雨の日は仕事にならんだろ。土方殺すにゃ雨の3日も降ればいいと言うしな
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:05:26.70
あ、違うな

247年倭女王卑弥呼は狗奴国男王卑弥弓呼素と争っていると報告しに来た。

卑弥呼死ぬ(247年か又はそれ以降)

墓作る

どう考えても、張政は卑弥呼の完成した墓見れねーわ
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:12:26.04
張政が卑弥呼の墓見れるとしたら、小さくて工期が極めて短い墓しかない

箸墓古墳は10年ですか
へ〜そうですか
0924日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>922
>倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素

卑弥呼は卑彌弓呼と素より和せず。と前史を書いているに過ぎない
0925日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

仁徳天皇陵の大林組の試算は
>1週間に1回休み、1日8時間労働と仮定する

だからね
箸墓古墳の場合「昼は人が造り、夜は神が造る」だから昼夜問わずの急ピッチに
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:29:01.73
>>890
旧唐書 倭国者古倭奴国也~~~四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附
ここにも一大率が出てくる
それは良いとして四面小島五十餘国をどう解釈する?
周辺の東西南北四方に小島があるって事なのか?
九州、四国、本州、北海道の事なのか?
俺は九州、四国、本州、北海道だと考える
0928日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政は邪馬臺國まで来て、滞在しても一年程度で速攻帰ってるだろうし
248年くらいには箸墓完成してたはずだ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:34:54.28
奈良の年間雨天日数の100日も計算せんとな
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:36:08.38
卑弥呼と箸墓は無関係なんだけどな
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:36:22.80
>>924
へ〜、じゃあ卑弥呼が死んで男王が立ち戦争状態に入ってから、247年に帯方郡に報告しに行ったんですか
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 00:47:54.81
畿内派の珍説

247年以前に卑弥呼は死んでいた(珍説)

247年、難升米が狗奴国と争っている「どうにかしてけれ〜」と帯方郡に報告にきたので張政を派遣した(事実)

狗奴国と争っていたはずなのに、張政が邪馬台国に着いたら、いつのまにか狗奴国との争いは無くなってて、男王が立って内戦が始まった。(珍説)
0935日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 00:50:41.81
訂正
畿内派の珍説

247年以前に卑弥呼は死んでいた(珍説)

247年、載斯烏越等が狗奴国と争っている「どうにかしてけれ〜」と帯方郡に報告にきたので張政を派遣した(事実)

狗奴国と争っていたはずなのに、張政が邪馬台国に着いたら、いつのまにか狗奴国との争いは無くなってて、男王が立って内戦が始まった。(珍説)
0936日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 00:54:35.68
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。
(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」


倭女王卑弥呼が狗奴国の卑弥弓呼と和せずって書いてるのに、これも無視する畿内派やばすぎて草
0937日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 00:58:54.84
畿内に魏使が来た形跡ってなんかある?
0938日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>935
狗奴國との戦いは張政がいるときも続いてるでしょ。張政は檄を以て告諭してるんだからさ。

そんで男王が立って国が荒れていたのも244~247までの話だよ
0939日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>936
素より和せずでしょ?何も矛盾してないじゃん
0940日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:07:22.81
>>939
頭が悪いのかな?
0941日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:12:37.03
>>938
続いてないよ
0942日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:14:56.56
卑弥呼と卑弥弓呼はよく知る間柄で仲が悪い
0943日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:17:16.83
狗奴国と戦争しながら、内戦もしながら、同時に10年もかかる巨大な墓を作ったそうです
0945日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:18:06.43
国が割れるような強大な国ではなく個人的に仲の悪い狭い範囲の話し
0946日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>943
10年も掛からないっすね
仁徳天皇陵が盛り土140万立方メートル8時間労働で16年だから
30万立方メートル昼夜問わずの箸墓は3年も要しない
0947日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

というか箸墓古墳を作るからこそ狗奴國との戦争が激化したんだろ
大量の奴婢を調達しなきゃいけなくなるからね
0948日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:22:49.44
張政が来た時、九州から畿内に至るまでの大帝国は、内戦状態になっていたそうです
張政さんはそんな内戦状態の中で3ヶ月かけて首都邪馬台国の奈良まで行ったそうです
0949日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:24:46.63
>>946
専門家の見解
3世紀の技術では10年
0951日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:25:36.40
>>950
俺ソース人間好きじゃない
0952日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>948
張政が来たときはもう臺與が女王になって内戦終わってるでしょう
張政は臺與にも告諭してるわけですからね
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:26:14.65
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
個人的に仲が悪いと書いてある
それに魏が認める倭王は卑弥呼だと宣言を出した
敵国なら魏の権威は関係ないから 
0954日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:27:45.40
>>952
魏志を完全に無視してるな
本当にひどい
0955日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:29:12.86
>>953
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。
0956琪瑛教大祭酒
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2023/04/12(水) 01:29:12.88
10年は要さないと考えるが、仮に卑弥呼が死してから築造10年では岱輿と合わない。10年はありえないし、カリスマ性が薄れる。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:29:32.36
>>954
個人的に仲が悪いんだから卑弥呼が死ねば関係ない
0958日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

東海系S字甕は纏向からメチャクチャ見つかるのに畿内の土器様式に全く受容されてないんだよな
纏向の中で東海人は孤立していたってことここから想定できるのは、彼等が奴婢として連れてこられてたってことだな

そんで卑弥呼の死で箸墓造営のため東日本からの奴婢調達が苛烈になり、狗奴國も強く抵抗して戦争が激化したってことね
0959日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:31:19.54
>>955
仲が悪い悪いんだし攻撃するわな
おそらく権力争いだろうけど
0960日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>954
魏志無視してるのは君でしょ
男王で国中荒れたから皆が納得する臺與に代わったんでしょ?
なら臺與の時代には内戦終わってるはずじゃん
0961琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 01:34:02.14
中華はコロナ期1ヶ月で収容施設を築いた。1年だよ。
0962日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:34:08.56
卑弥呼を失脚させようと企む卑弥弓呼
0963日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

張政は248or249年に帰還したんだろうから、それまでには臺與が女王になってなきゃおかしいよね
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:36:08.21
内戦と狗奴国との戦争は別腹
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:37:38.14
卑弥弓呼素が名前だよ
0966日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:37:40.67
>>960
張政が来た時は九州から畿内に至るまでの大帝国が内戦状態になってる時
張政が壹与に替えろと言って大帝国の内戦が治った

大帝国だったならな
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:38:06.62
卑弥呼を失脚させようと企む卑弥弓呼
だから魏の権威の効力があるんだよ
0968日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 01:38:11.44
>>965
だな
0969日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

卑弥呼死去(箸墓造営開始)
男王立つ
臺與擁立



これ全部244~248or249の出来事ですよ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:44:38.35
>>969
箸墓古墳の完成もその時期なんだろ?
張政が見届けてるからな
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:49:10.95
認めたくないものだな、畿内説が誇る纏向遺跡の圧倒的優位性というものを
0973日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「女王国と狗奴國の不和」

纏向都城造営のため、女王国は東海地方を度々攻撃して労働力(奴婢)を獲得していたわけです。それが纏向の東海系土器の多さとして現れているんですね。
そして卑弥呼の死後、前代未聞の巨大墳墓を築造するため更に人手が必要になった。そういうわけで奴婢を求めて東進した女王国と狗奴國との摩擦は激化し「相攻撃」する状態へ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:51:05.94
>>971
統計学的な適合度16%なのに?w
0975日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>974
え?纏向より適合度高い遺跡は存在しないよ
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:53:16.39
卑弥呼が死んだ年代もイカサマする畿内説って本当にいい加減だな
0977日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

例えば九州だけど
『魏志倭人伝』には奴国が二万余戸、邪馬台国は七万余戸とある。
つまり、邪馬台国を九州島内に求めるならば奴国よりも大きな勢力地域を見つけ出さねばならないわけだけどそんなもの見つかってないからね
適合度0%なのよ
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 01:54:54.32
>>973
九州、四国、中国地方も内戦状態なのに、東海地方とも戦ってたわけですか、そうですか
0979日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>976
卑弥呼が247年に死んで247年に狗奴國と女王国の戦いが激化して248~249年までに男王立って臺與擁立してって流石にスケジュール詰まりすぎだよね
張政263年帰還説とか絶対ありえないし
0980日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>978
何がおかしいの?
日本書紀の記述見る限り、四道将軍派遣して四方八方攻撃しながら並行して箸墓造ってるけど
0981琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 01:59:35.56
東海からは卑弥呼を慕って付き従った者等で強制はない。それは張魯がそうだから。そうでなければ、隋代まで信用されない。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 02:00:25.08
>>979
違うよ
卑弥呼と卑弥弓呼素との戦いが激化したから帯方郡に「助けてくれー」ってお願いに行った
で、張政が邪馬台国に到着し後に卑弥呼は死んだ
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 02:01:57.71
>>980
それ内戦じゃないよね
女王国はまとまっていたのに、卑弥呼が死んでから内戦が始まった
0985日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>981
もしそうなら東海系S字甕が大和の土器様式にも受容される筈だよ
纏向で一番多く見つかってるのに在地の連中に影響与えてないってことは、交流が無かった、差別されてたってことだ
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 02:04:21.12
>>982
違うよ
魏が承認した倭王は卑弥呼だと宣言を出した
0987日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>984
日本書紀だと、百襲姫が死んだ次の記事が崇神天皇四道将軍派遣だから完全一致してるじゃん
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 02:06:24.03
>>986
意味不明
0989日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:06:52.69
>>987
してないよ
0990日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:06:57.96
卑弥呼様の鬼道とやらで九州から畿内に至るまでの大帝国がまとまっていたそうです
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 02:07:43.03
>>988
卑弥呼を失脚させようと企む卑弥弓呼
だから魏の権威の効力があるんだよ
0992日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:08:31.64
>>991
多分、噛み合ってない
0993日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>990
いや九州は女王国じゃないから
一大率置かれて外部的に統属してる。特殊器台の分布からも分かる通り女王共立には参加してない
0994日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:10:48.21
>>993
一大率が九州から畿内まで監視してたのか
へー、そうですか
0995日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>994
いや一大率が監視してるのは北九州だけだよ
0996日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:11:57.04
次の珍説が予想できた
0997日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:12:40.02
>>995
はは、やっぱり珍説来た
そんなこと魏志には書いてない
0998日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>997
女王国以北(以西)でしょ?
本州女王国から見て西側の九州だけを監視してるんだよ
0999日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

そもそも「一大率」と「太宰帥」てほぼ同じだしな
1000日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 02:14:49.11
畿内派やべーなマジで
九州は女王国じゃないとか一大率が監視してたのは北九州だけとか
卑弥呼はすでに死んでたとか
もはや何でもあり
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