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邪馬台国畿内説 Part882
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:17:17.45
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1680872236/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:18:45.97
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:19:17.60
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:20:17.47
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:20:49.81
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:21:22.11
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:21:55.71
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:22:27.61
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:23:29.08
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:24:16.72
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:24:47.24
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:25:21.20
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:26:01.87
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:26:31.81
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:27:02.12
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:28:03.21
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:28:32.18
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:29:02.10
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:29:33.10
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:30:02.15
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:30:33.39
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:31:32.69
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:32:05.25
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:32:37.05
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:33:09.81
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:33:42.27
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:34:15.50
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:34:49.02
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:35:18.19
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:35:52.73
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:36:22.99
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:36:56.96
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:37:29.83
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:38:01.92
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:38:33.31
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:39:06.95
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:39:37.56
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:40:11.07
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:40:41.61
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:41:13.53
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:41:46.74
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:42:19.36
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:42:52.69
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:43:24.93
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:43:57.65
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/04/12(水) 02:44:45.90
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/04/12(水) 02:45:17.19
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/04/12(水) 02:45:49.19
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/04/12(水) 02:46:33.58
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/04/12(水) 02:47:31.55
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/04/12(水) 02:48:32.50
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/04/12(水) 02:49:02.98
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/04/12(水) 02:49:32.09
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:50:02.05
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/04/12(水) 02:50:32.58
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/04/12(水) 02:51:04.41
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/04/12(水) 02:51:36.86
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が
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2023/04/12(水) 02:52:44.29
倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/04/12(水) 02:53:17.28
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/04/12(水) 02:54:04.16
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/04/12(水) 02:54:36.19
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/04/12(水) 02:55:07.66
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/04/12(水) 02:55:39.16
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/04/12(水) 02:56:12.60
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/04/12(水) 02:56:41.96
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/04/12(水) 02:57:13.26
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/04/12(水) 02:57:45.31
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/04/12(水) 02:58:17.25
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/12(水) 02:58:48.83
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 02:59:30.92
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 03:00:12.45
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 03:01:01.19
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 03:01:33.89
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/12(水) 03:02:03.33
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/12(水) 03:02:35.32
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 03:31:57.92
??
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 06:59:10.33
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方から東南にある(Googleマップで見れば九州も畿内も東南にあるので正解)
⭕対馬からまた南に進んで一大国
❌ 南に進んで投馬国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 南に進んで邪馬台国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 女王国以北はその行程や距離を示すことができる(女王国以西はならば正解。畿内から北に進んでも日本海しかない)
❌ 女王国以北は伊都国の一大率が監視している(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国が有り。みな倭人である(そもそも畿内の東に海がない)
🔺また侏儒国がその南にあり。女王を去ること4千里(和歌山とかなら成立し得ないこともないので🔺)
❌ また裸国、黒歯国がその東南にある。船行1年(和歌山から東南に船行しても太平洋)

↑このように都合の悪い部分だけ方角をいじりまくってしか成り立たないのが畿内説
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:06:29.11
>>78
方角が間違ってるだけだな
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:15:22.38
>>79
>方角が間違ってるだけだな

だから、トンデモ説。   @阿波
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:18:23.68
>>79
>方角が間違ってるだけだな

だから、トンデモ説が阿波   @阿波
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:36:56.35
・九州から水行20日投馬国まで南に進んでると思ったら実は東に進んでて、しかも20日間誰も気付かない。
・投馬国から水行10日南に進んでると思ったら、実は東に進んでて、しかも10日間誰も気付かない。
・陸行1月、南に進んでると思ったら実は東に進んでて1月も誰も気付かない。
・帰りは、北に陸行1月進んでると思ったら実は西に進んでて誰も気付かない。
・水行10日北に進んでると思ったら、実は西に進んでて誰も気付かず投馬国に着く。
・投馬国から水行北に進んでると思ったら、実は西に進んでて20日間誰も気付かず、九州に戻る。

これを正始元年、正始4年、正始6年、正始8年の4回繰り返したというのがとんでも畿内説。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:52:17.87
要するに九州説は破綻するどころか仮説すら嘘だったと言う事だ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 07:59:00.85
唐書を無視して畿内ファンタジー。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 08:01:05.24
畿内説が作った嘘の仮説

86:日本@名無史さん:[sage]:2023/04/12(水) 07:52:17.87
要するに九州説は破綻するどころか仮説すら嘘だったと言う事だ
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 08:31:38.70
>>90
ソースが正しいと判断されたから記載されたと言う当たり前な事が理解出来ない頭が悪い九州説
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 08:35:39.83
なんか香ばしいのがいるなw
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 08:55:32.74
>>91
中国は日本記を単にコピペするのみ
無知で自意識過剰な畿内説とは違うんだよ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 09:19:48.17
征西将軍、征戎将軍(文字通り西の野蛮人)なる役職まで作って、九州を征伐しにきたヤマト王権

畿内説→九州から畿内に至るまでの大帝国を、鬼道で治めてました。しかも、船で30日、陸で30日かかる場所まで卑弥呼の鬼道はキマッてました。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 09:21:09.16
>>96
魏使の報告も一部あるかもしれないが、ほとんどは朝貢時の記録だ
倭人からどんな話を聞いたのか?
それをよく考えるべき
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 09:36:51.90
征戎将軍(西の野蛮人を征伐する将軍)まで作らないといけなかったのに、3世紀に鬼道だけで九州から畿内に至る大帝国を支配してた卑弥呼すげー
奈良時代にも卑弥呼がいたら良かったのに
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 09:51:53.74
魏志倭人伝→女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国がある。

廣志→ 広志曰く、倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又、南して邪馬嘉国に至る。女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載できる。次に斯馬国がある。

魏志でも廣志でも、邪馬台国の隣に斯馬国がある。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 10:14:14.99
畿内を征服したのは九州の物部氏
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 10:24:52.34
>>89
新唐書ってこれだろ

「其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 彥瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州」

昔は筑紫城に巨を構えていたが神武が天皇を名乗り、大和州に移り住んだ
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 10:52:43.70
>>106
それが卑弥呼の家系だわ
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 11:18:48.01
卑弥呼ってヒミコじゃなくてヒミホと発音する方が正しいらしい
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 11:26:05.23
日ひ 卑狗ひこ
御み 彌馬升→御間叔
子こ 呼邑(子湯、児湯)
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 11:45:27.91
>>112
いやそれ本当だぞ
他にペミフーとかペイメイフーとも読める
ヒミコは日本語読みだ
0114日本@名無史さん
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2023/04/12(水) 11:51:41.42
今の中国人に読ませたらペイミーフーになるな
狗古智卑狗は、ククチピコで菊池彦にほぼ近いし
伊都はそのまんまイト
古代の中国人は違う読み方をしていたかもしれんが、
現代の日本語で読む方が明らかにおかしいわな
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 11:58:06.47
>>103

養老4年(720)7月の条の【征隼人持節大将軍】に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料
3世紀は博多を中心としたほぼ筑前(奴国、不彌国)が共立女王国の構成国
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:04:58.44
>>83
そういうことだよな
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:07:34.22
>>83

東にも南にも進まないのが北部九州説
南に進むと至るのが会稽東冶之東
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:10:08.86
現代日本語読みか現代中国語読みか、どちらか選べって言われたら普通に現代中国語読みを選ぶわな
0130日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

上古音も中古音も古い
ましてや現代日本語や現代中国語で読むとか馬鹿なんじゃないか

LHCで読め
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:29:09.41
>>132
それって捏造満載九州説のことでは?
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:30:37.10
>>79
間違いではないよ。省かれただけだよ。
女王の都だけど何ら中心国でも
ない遠方の地、行く必要性もない女王国を
構成する倭種の国々

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:33:05.30
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:33:42.84
倭国は韓半島の5万戸と同じ民族だと言い張ってるのが北部九州説
日本全国の学者の通説が畿内説
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:40:01.27
>>134
何を省いたのかわからん
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:40:08.27
>>137
日本全国の御用学者の通説が畿内説。   @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:53:27.91
>>138
南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸

つまり投馬国、邪馬台国には
行っていないので詳細な事は書けない。
謁見等は伊都国

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:53:36.42
>>137
それでいくと九州説の方が圧倒的に正しいとなるなw
畿内説はオカルト畿内原人説だもんなw
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:56:53.91
>>141
邪馬台国は首都なんだろ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 12:56:57.68
学者=考古学者
銅鏡を100枚送る→日本で4000枚

学者「100枚かどうかは関係ない。畿内からたくさん銅鏡が出てるから邪馬台国は畿内だ!」(笑)
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:02:12.16
九州であって欲しかったが
越の国→邪馬台国説に乗るわ

植民地の出雲を救った高天原九州人スサノオ(→蘇我氏へ)

九州から大阪方面に進出して
ナガスネヒコ(中臣氏系)を配下にした
ニギハヤヒ(物部氏系)

どっちも南下してきた邪馬台国配下へ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:02:56.49
>>144
首都?女王の都だが
首都ではない。
共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない。
何で中心国とか、支配とか出てくるのか?
記述はない
立派な建物とか、お宝豊富、軍事力最強とか
願望じゃないのか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:03:11.99
狂人「史実かどうかは関係ない。九州から何も出てないけど邪馬台国は九州だ!」(笑)
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:05:20.02
>>145
最近そうした学者の馬鹿げた言い訳が問題視されてる
とりあえず人文系は軽視せよという流れ
人材会社からやっぱ理系じゃないと採用出来ませんかね?という問い合わせが増えてるよ
一応そんな事ないよとは答えてるけどw
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:09:20.70
>>148
それそのまんま纒向説じゃんw
近くにデカイ他人の墓があるからとか、掘立て小屋があるから邪馬台国ニダって言い張ってるチョソw
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:11:29.00
倭国は古の倭奴国なり
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:13:16.90
>>152
邪馬台国ではないって事
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:18:33.11
>>153
畿内はね
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:19:21.03
魏志→東に海を渡ったらまた倭種
旧唐書→ 日本国は倭国の別種である
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:38:44.50
>ナガスネヒコ(中臣氏系)
なんじゃこれwww
異世界帰りか。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:39:41.12
日本国は倭国の別種である
言い換えれば、ヤマト国は九州国の別種であるということ
少なくとも中国人はそのように認識した
それは『古今華夷區域總要圖』にもあらわれる
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:40:05.82
春たからな。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:47:31.20
>>156
現実だよ低能w
これで畿内説が引きこもりの世間知らずだと明らかになったなw
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:47:35.26
魏志倭人伝
東に海を渡ったらまた倭種
壱岐から東千里、福津方面の国々

旧唐書
倭国は古の倭奴国なり(57年)
日本国は倭国の別種(女王の都の邪馬台国に
ヤマト政権の台頭(クーデター?))
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:48:37.97
>>141
日数と方角書いてんじゃん
資料があったから書き写したんでしょ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:52:21.05
>>162
あれでどうやって到着するのか?
行っていないんだな。
倭人から聞いただけだよ
中心国でもない、遠方地
行く重要性もない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 13:54:28.56
>>158
卑弥呼時代の倭人は呉越の末裔だった
そして畿内など銅鐸文化圏は半島からの移民地区
つまり呉越から北部九州(邪馬臺国)に入植した倭人と銅鐸文化圏の倭人は人種が違ったという事
だから史書では「倭種」や「別種」と表現されてるんだよ
言葉が通じていたかもあやしい
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:03:33.38
九州には邪馬台国はない。
銅鐸から朱や鉄、銅鏡にシフト

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:05:46.27
>>166
当然、東だしな
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:08:16.07
>>168
邪馬台国の会(安本)の事だ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:11:12.08
>>170
記述はないのに
願望定義だしな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:12:19.03
>>163
海上と倭人に案内してもらうんだし到達できるだろ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:13:22.75
俺が気になるのは隋書のヤマトが何故ヤマタイと名乗ったのか?だ
わざわざ文字を変えて邪摩堆と語尾がタイである事が明示されている

その理由とは
①ヤマタイは単に日本列島を意味し中国のいう倭と同じ
②渡来人に操られていたヤマトがヤマタイに成りすました
③あの一文は中国側の独り言を記載しただけ
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:17:07.77
>>172
そりゃ、行けるけど?
里数や停泊場所の記述や
詳細な様子の記述もない。
行く重要性もない国だよ。
行っていないだけだよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:17:12.43
迷子の迷子の畿内説あなたのお家は倭種の国
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:18:52.51
>>173
ヤマタイ(ヤマト)から来たと答えたんだよ
じゃあヤマタイは何処なのか?
奈良県辺りから来たともとれるが日本から来たという意味にもとれる
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:22:46.65
>>174
元々そんな記述がないならしようがない
俺は里数行程と日数行程は別の資料だと思ってるから
つながった資料なら記述がないのは確かに不自然だけど
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:28:21.84
>>178
遣隋使が九州でも別に良いけど日本から来たという意味にもとれる
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:32:16.12
バモスバモス木村
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:37:39.23
実は邪馬国だったんだな
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 14:38:15.29
バモスバモス木村
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:02:39.43
臺は王の居る宮殿を表す言葉だろ
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:07:27.71
帯方郡を平壌とソウル両説をとって間を取り、平壌とソウルの間とする。
すると、帯方郡から狗邪韓国まで7000千里だが、メートル法にすると約700キロ。
すなわち、1000里は100キロ。
また、大分県沿岸から大阪湾岸までは約400キロ、よって4000里。(水行30日)
また、女王国から南の侏儒国も4000里であり、チビであることも書いてる。
倭人は里数を知らないので、以前中国人が行ったことがあるのかもしれないし、日数で類推しただけかもしれない。

いずれにしても、仮に畿内に邪馬台国があったならば、中国人は里数で表せたはずだ。
それどころか、九州や畿内の倭人から日数を聞いて類推して里数を出すこともできたはずだ。  

なぜそうしなかったのか? 
多分、陳寿もよく分からなかった。
不弥国までですでに10500里使ってる。
それなのに、目の前には「南至投馬国水行20日」と「南至邪馬台国水行10日陸行1月」という2つの竹簡がある。
一体何なのか分からない。混乱する。
そこで、とりあえず不弥国の後の所にこの竹簡をねじ込んだ。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:08:59.66
>>185
隋書で邪靡堆に変えたのは意味があるような気がしないでもない
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:09:50.67
>>182
中国人の学者は「以」に意味はないと主張している
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:17:41.81
>>186
俺もそう思う
だから不弥国までの行程と投馬国邪馬台国は無関係なのよ
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:36:17.28
>>186

里数のルートも途中からねじ込んだかもしれない
日数ルートも狗邪韓國からかもしれないということになってくるので
行程記事は比定には使えないということになる
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:38:16.27
>>190
それも思ってる
里数行程も記述内容違うもんな
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:44:02.94
伊都国は外務省がある副首都だな
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:45:38.34
ほぼ間違いないであろう里数行程は對馬国→一大国→末盧国だけだな
この三つは記述内容が似ている
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:46:16.65
一人一説雑多九州説というのはゴールは各々最初に決まっているので
どうしても邪魔な情報がある
邪魔な情報は陳寿が間違っただけなので
魏使は遠路遥々我が家に訪ねて来てくださった
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 15:59:54.82
里数と日数が別情報なら、やはり九州北部で決まりだろう。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 16:11:43.49
伊邪那岐は

 伊都国
 邪馬台国
 那の国
壱岐国

で出来ている
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 16:21:18.69
そうそう、陳寿は何処をどう誤解したのか?そしてその理由を推測する
編纂時の状況をもっとよく考えるべきなんだよ

AIに質問した時の回答を読む時と一緒だ
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 16:25:46.37
もしメシの種として畿内説をでっち上げてるとしたら
旧石器時代捏造事件に匹敵するアカデミックテロ事件だな
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 16:33:26.32
その点、九州説は誰も信じなくなったから罪ですらないな
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 17:08:18.28
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 17:40:30.72
つまり倭人伝の行程は間違っているので
自分だけが絶対的に正しいというのが一人一説雑多九州説
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 18:09:54.12
>>201
それ以外に何か理由が?
0207岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/12(水) 19:43:11.91
>>182
そうですねー。「已に死す」で全く問題ないでしょう。
この問題はもう完全解決済みと思います。

ダメ押しについても、近々発表があります。
0208琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 20:19:03.11
また妄想。卑弥呼以死
大作冢~。
卑弥呼の死により径100歩の大きな冢を築造しました。だよ。
0209日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼の生存を確認できるのは正初四年(243年)が最後ですよ
おそらく彼女は243か244に死没していた。その後すぐ男王が立ち倭国が荒れて代表者不在となっていたから、245年の軍旗仮授は難升米を対象にしたわけですね
0211日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政は248or249帰国。まあ司馬懿が中央に返り咲いた249年が倭の遣使としてはベストだろうから同年に帰国したのだろう。

つまりだね。249年までに箸墓古墳が完成していなきゃ辻褄が合わないのだよ
0212日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

正始年間中に箸墓完成してなきゃ張政は箸墓古墳の大きさを記録する事が出来ないんだ。これがどういう意味かわかるかね
卑弥呼死没は絶対に247年じゃないんだよ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 20:29:04.28
箸墓を卑弥呼の墓だと思うところが畿内説の間違い
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 20:41:15.87
箸墓は台与陵だよ

後円部の周辺の地名は豊田に豊前だからなw
0215日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

①卑弥呼薨去
②男王立つ
③臺與擁立
④狗奴国との抗争激化
⑤箸墓完成


↑これ全部『正始四年後半(243)~正始十年(249)』の出来事ですよ
0216日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まあ別に『卑弥呼が死んだので、冢を大きく作った』と訳しても変わらん
247年に卑弥呼が死んだなんて書かれてねえからな。単なる回想シーンみたいなもんだと思えばいい
0217日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

・卑彌呼以死大作冢 
・更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 
・復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定

九州説、畿内説どちらの立場を採ろうとも上記の事件が二年間で起きたと捉えるのは不自然だろう。詰め込まれ過ぎだよ
ここは243or244~248or249までの倭国を説明したものと解するのが適当である
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 20:57:50.68
お前らスゲー倭人伝を信用しとるな
あんなの話半分どころか話四分の一くらいしか
信用出来んやろ
九割正しいみたいな感じて妄想してる
お前ら見てると滑稽だわ
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 21:03:08.36
>>218
>あんなの話半分どころか話四分の一くらいしか信用出来んやろ

そりゃ、お前がトンデモだからさ。  

「魏志倭人伝」は「阿波」を書いているからな。 わははははは   @阿波
0221岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/12(水) 21:06:43.93
>>217
二年間ってどっから出て来たんですかね?
まぁお暇なら動画のほう、古い方から順番に見ていってください。
だいぶ考え方変わると思いますよ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

冊府元亀から張政247年帰国を主張してる人もたまにいるけどこれは論拠に乏しいかな

だって11世紀の書物に突然初出の情報が現れる筈がないでしょ。こんなもの根拠にしていたら旧唐書大好き九州王朝論者と同じ所まで堕してしまうよ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 21:10:43.35
箸墓って100人分くらいの人骨出たの?
0224日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>223
宮内庁が管理してるから掘れないよ
0225琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 21:14:45.07
難しい質問だね。
265年に倭は炎帝の席にいる、このとき倭王は岱輿であり、いくつなのか?という話でもあるな。
張政は不和を抑え、卑弥呼の墓を見、男王が立つのも知り、岱輿が跡目になりそして諭した、まで邪馬台にいた、或いは関わったと思うね。卑弥呼の死は247.8年ほど早くは無いように思うね。
0226岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/12(水) 21:15:59.00
>>222
あのねぇ、文脈や文章の指示なく正始8年から始まる記事に、
それ以降の記事を読み込んで良い訳ないでしょうに。
魏志の中でそんな奇妙な書き方されている場所があるなら指摘して見てくださいね。
0227日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>225
つまり張政は十年以上倭国に居たと?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 21:19:22.15
張政は卑弥呼の墓を見ている
つまり、248年以降に箸墓が作られたことが証明できたら卑弥呼の墓じゃないの確定
まあ、種々の状況証拠や学者や団体の指摘により、もはや卑弥呼の墓じゃないの確定してるけど
0229日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

単なる帯方郡の下っ端役人なんだから張政は一、二年で帰国していると思いますがね
0230岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/12(水) 21:23:13.68
>>225 >>227
これも問題外の読み。

「247年時点で、卑弥呼は已に死んでいた。」
これが文献的事実です。
そこからしか歴史は語れませんよ。
0231琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 21:25:29.62
少し早回ししてるよね。張政が専属担当官だな。ずっといたかはわからんけど岱輿との最後は感謝だよな。
0233日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

243年の倭の遣使の主語は『倭女王』だから同年までの卑弥呼存命は疑いの余地無し。
しかし245年記事を見てみると、普通は女王に下賜されるであろう黄幢が何故か難升米に仮授されている。

何故か?そりゃあ卑弥呼が居なかったから、難升米宛てにするしか無かったのでしょう。つまり卑弥呼が亡くなったのは244年です。
0234日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

247年に至っては黄幢のみならず詔書まで難升米に渡してるわけです。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 21:43:22.70
正始八年(247年)太守の王?が着任した
卑弥呼は載斯烏越を郡に遣わしたから、247年には生きている
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 21:43:40.69
張政は難升米と台与に檄告喩してるから
一度郡に戻っている
0237日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

率善中郎将だから黄幢←まだ分かる

なぜ詔書を受け取っているの?
0238日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏は245年の時点で卑弥呼が薨去したことを認知していた。だから卑弥呼ではなく難升米に黄幢を仮授し、張政も最初から難升米に会うのが目的だったから難升米宛ての詔書を携えて渡倭してきた。

こういうことなんですよ
0240日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>239
それは分かってますよ
重要なのは、なぜ卑弥呼ではなく難升米に仮授されたのか。詔書もなぜ難升米宛てなのか

卑弥呼が既に死んでいたからでは?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:11:11.17
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州・畿内のトンデモ説は、
くだらん話しか出来んのがよく分かる。  わははははは   @阿波   
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:11:40.46
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0246日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>245
つまり卑弥呼は既に死んでいた
0248日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>247
『倭王』が載斯烏越等を派遣したとは書かれていない
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:30:54.29
>>248
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀。
主語は?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:31:44.99
・卑弥呼と同時代の古墳が九州にも畿内にもある
・仮に、邪馬台国が畿内ならば、中国人はそれらの古墳を道程見てきたはずなのに一切それに関する記載がない
・卑弥呼の古墳はそれらと比べてデカいとの記載もない

これらの矛盾を解決する唯一の解決策が九州説
0252日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>250
九州島内の伊都国以降既に見聞録が途絶えているのだから、道中の記録が乏しいことは何の反証にもなってないよ
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:34:27.65
>>252
もっと頭を使ってみよう
0254日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

奴国って戸数2万で、国際港『西新町遺跡』&巨大計画都市『那珂遺跡』擁する超大国だよ
この国の見聞録すら無いんだぞ
0255日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ただ、西新町遺跡は伊都国唯一の環濠集落の真横に位置するから魏志にある通り一大率の管轄下だったかもしれんがね
0257日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>256
倭の王都は邪馬臺國でしょ
伊都国は一大率置かれてる。いわば女王国の被占領下だよ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:42:32.96
大率が検察していたのは伊都ではなく、伊都から北の対馬海峡の国々である。
それらの周辺諸国は伊都の大率を畏怖していた。
伊都が畏怖していたとは書いてない。

「女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。
諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。
國中に於ける刺史の如く有り」

大率が検察する地域は「女王国から北」と書かれており、伊都が女王国に含まれることは明白だ。
畿内説では、伊都の大率はどこまで支配していたのだろうか?
伊都の大率が若狭湾まで検察していたのだろうか?
陳寿の意図は明らかで、伊都を女王国の都として書いているのである。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:43:12.82
卑弥呼が250年過ぎまで生きていた可能性は十分ある訳だが
0260日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>259
そしたら倭人条に卑弥呼の墓に関する記載があるのはおかしいよね
下っ端役人の張政がそんな長居するわけないんだし
0261日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政は少なくとも正始年間(~249年)の間に帰国してるんだから、ここまでに卑弥呼の墓が【完成】していないとダメ
0262琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/12(水) 22:47:31.25
そこがねぇ、倭が姫説ではあっさり通過してしまうんだね。
魏とは特別な関係なんだよ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。

>其後貢聘不絕
>其後貢聘不絕


不絶なのよ。なぜか266年まで倭と魏の通交が途絶えていたと解釈する人がいるけど違う違う。倭国は247~266の間何度も朝貢しに来ている。
単に混乱期だったから中国側の記事が現代まで残っていないだけ
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:53:13.98
秦の始皇帝の墓は確かに箸墓よりデカい
ただし、もはや秦の始皇帝の墓(350m)は3世紀には樹木が生えてて王墓とは分からなかったはず
とすると、3世紀の中国の王墓はもっと小さかった
それなのに、張政は280mの巨大古墳に驚く様子まない

すやなわち、卑弥呼の墓は小さかったのだ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 22:54:23.62
秦の始皇帝の墓は確かに箸墓よりデカい
ただし、もはや秦の始皇帝の墓(350m)は3世紀には樹木が生えてて王墓とは分からなかったはず
とすると、3世紀の中国の王墓はもっと小さかった
それなのに、張政は280mの巨大古墳に驚く様子が全くない

すやなわち、卑弥呼の墓は小さかったのだ
0266日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>265
大作冢って書いてあるけど
【大】の意味知ってますよね
0267日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

小さい墓で「大作冢」とは言わないでしょ
一行矛盾よ
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:03:26.98
>>266
大きいは主観
客観的には100歩
張政が中国の王墓と比較しなかったのはその為
0269日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>268
100余歩は箸墓古墳の後円部と一致しますね
0270日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そして径100余歩(150m)程度の円方類似構造を有する墳墓は当時の九州に存在しないと
客観的に箸墓が卑弥呼の墓ですね
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:09:55.80
>>268
無駄に粘ると醜態
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:11:10.30
>>269
多分、客観的という言葉の意味を広義でしか捉えてないと思います
私の言う客観的とは狭義の客観です
法律用語的に使用してます
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:12:55.20
>>260
おかしくない
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:13:59.60
>>272
その発言、客観的でない
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:15:19.25
>>273
薄葬令なんてものは実在しないよ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:16:05.13
>>275
私の主張そのものはもちろん主観にすぎません
理解できますか?
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:16:25.75
>>276
大作冢って書いてあるんだけど
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:17:38.48
>>279
それで客観を語る神経が理解できない
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:19:19.59
>>281
法律に詳しくないようなのでもういいです
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:19:21.19
>>278
径百余歩と客観的に書いてある
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:20:07.10
>>282
逃げるあなたが詳しくない
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:20:54.42
大作冢・・・大いに冢を作る→大きな冢ではない(作大冢)
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:23:26.97
>>285
大いに作って小さいの?
あたま大丈夫?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:24:20.95
大いに・・・大騒ぎしたってこと
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:26:37.56
280メートルの古墳というのは、3世紀の中国の王墓と比べても相当デカい。
にも関わらず、張政は全く驚いた様子がないのだ。
「まあ、大きいけど100歩ぐらい」のニュアンス。

つまり、張政の見た墓は280メートルの箸墓古墳ではなかったのだ
0292日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>291
奴国の計画都市と国際港見ただろうに見聞録一文字も記録してないのが倭人条だから、墓見て驚いたなんてわざわざ書いてなくてもなんら不思議ではない
0293日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

驚いたとか驚いてないとか記事だけじゃ分からんだろ
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:30:46.22
>>292
都市と墓は違う
ピラミッド見たら、現代人でもびっくりする
0295日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>294
だから大作冢と書いてあるわけだね
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:31:47.11
>>286
TBとは?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:32:58.50
>>291
こういうのが「客観的」の対極ね
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:33:41.95
>>295
その程度でしか書けなかった
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:35:41.24
勝手にニュアンス決めるなよw
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:37:03.51
>>296の質問に即答できなかった早稲田法学部さんは、まだまだ法律の勉強中ですね
0302日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>300
九州論者は鬼道の使い手ですから
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:41:39.30
ピラミッドを見た人は今でも世界中の誰もが驚く
仁徳天皇陵は100年も経てばただの森にしか見えなかったが、完成当初はピラミッド並の衝撃を受けるほどのデカさだったのは間違いない

ところが、張政は全然卑弥呼の墓のデカさに驚いた様子がないのだ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:41:59.93
張政は畿内には行っていないから箸墓は見ていない
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:43:11.69
張政が畿内に行った証拠は何かあるのかな?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:44:27.44
>>305
ないよ
張政は九州にある卑弥呼の墓を見ただけ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:51:10.04
>>303
このように、いつまでも言うことに客観性のカケラもないから
説としての九州説が消滅してしまった
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:52:55.37
トナカイの必死な印象操作に笑える
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/12(水) 23:56:10.92
トナカイは司法試験脱落組だろうな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:01:26.19
>>310
まあ、頑張ってると思うよ
ただしTBとは何かは答えられなかったから、相当にまだ法律の素人だよ
TBは最初の方で勉強するからね
法律用語は長々しくて面倒な奴はアルファベットにするんだよ
TBは構成要件、Pは検察官、Kは警察、Bは弁護士みたいに
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:09:06.49
中傷でしか対抗できない九州説は死亡済み
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:11:11.58
>>311
司法試験からのドロップアウト組なんだろうな、
自分も助手として早稲田の法学部卒を使った事があるけどプライドだけ大きくて実戦に通用しないタイプだったな。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:21:50.93
早稲田法学部の自治は共産党の民青だから、親が共産党の子供が多いのでは?ちなみに俺の友人にはマジそれで弁護士になったのがいる。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:35:10.12
>>313
早大より格下の出とカミングアウトする九州説信者
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 00:49:39.17
>>315
俺は早稲田OB。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 01:11:23.06
>>316
そういう人って>>313みたいなこと言わないから
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 01:36:50.59
自分の携わっていた業界には早稲田卒が腐るほどいて、大体がろくなのではなかったな、自分を含め東大出とは頭の回転が数倍劣っていた印象だった
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 04:11:37.72
東大卒って正直馬鹿が多いんだよね

勉強以外の事はまるでダメ

頭を使う事でも答えの用意されてるもの以外は全くダメ

過去の情報を吸収する事だけに特化したスポンジ人間なだけ

答えが用意されてないものに対してはまるでポンコツ

頓珍漢な珍答ばかりを連発
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 04:19:29.80
そう言うコンプをこじらせたのが田舎者の逆転願望の九州説
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 05:54:09.52
九州には希望の古墳があるからな
箸箸超えの古墳w
畿内は震えて眠れ
tps://i.imgur.com/5AaRvk4.jpeg
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 06:30:56.45
>>322
>九州には希望の古墳があるからな

しかし、希望の集落遺跡が無いからな。  わははははは   @阿波
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 06:35:12.73
>>320
九州説信者って、自分の学歴が格下って認めてるってこと?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 06:54:34.64
>>324
こうやって考えてみると、「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って
非常に稀有な存在であることが分かる。   @阿波
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 07:05:53.82
俺は畿内説だが

東大卒は馬鹿が多いというのは正直な感想

過去の情報を吸収するだけのスポンジ人間なだけでそれ以外の事は凡人未満

過去を吸収するだけで未来を創り出す能力は全くないの

つまり東大卒は未来を創り出してきた人たちの遺した情報を吸収するだけの
スポンジで他の事は凡人未満
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 07:20:00.37
歴史板でそんな事を言うから畿内説を偽装する九州説はバカにされる
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 07:21:36.20
京大卒は歴史を創造するからな
0331琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/13(木) 07:41:14.26
217年、曹操に許しを得た琪瑛は扶桑を目指したのだよ、仲違いした国を周り国家として纏められる理念を説いたのだよ。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 07:47:26.60
>>328

俺は東大ではない国立大だが、やはり東大はアホではない。
畿内説はアホだがな。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 07:49:55.56
>>333
>奴国と伊都国があわせて女王の直轄地、倭の王都だろ

裏付け遺跡は一切無いが、妄想だけは膨らむようだな。  わははははは   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 08:13:05.11
裏付け遺跡は一切無いが、妄想だけは膨らむ阿波  わははははは   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 08:28:24.45
九州説がいかにダメかのコンペ
w
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 08:37:00.51
百とか千の数字がやたら多い
人が聞いて結構大きいなと感じる数字を並べてるだけだよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 08:41:42.34
でも倭人伝があるかぎり九州説はなくならないんだな
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 08:46:59.67
>>343
もうないよ
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 09:12:31.72
>>343
無くならないではなく、九州だから
畿内が無くなる可能性の方がはるかに高い
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 10:41:39.12
>>346
こんな感じで、実態のある反論が終了してるのが
もう九州説の存在してない証拠だな
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 11:16:56.66
地面掘りまくるほど、畿内説が破綻していくという哀れさ
関西人は邪馬台国畿内説の為に税金をむしり取られるという
何年、何十年掘っても、銅鏡が100枚どころか数千枚出てきてしまうという悪循環
これは考古学者のビジネスですか?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 11:32:52.44
畿内説信者も九州説信者も、互いの欠陥を指摘し尽くしているにも関わらず、

いつまでもグダグダ続く トンデモ同士の無限くそバトルww   @阿波
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 11:35:23.68
>>351
>関西人は邪馬台国畿内説の為に税金をむしり取られるという

そんな事実があるって証拠は?
脳内の妄想で中傷だけしてるきゃは、もう説ではない

九州説は消滅した
みじめに
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 11:48:53.10
>>354
税金かけないと掘れないよ
バイトの募集とかもしてるし
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 11:58:16.12
>>356
無知丸出しだな
文化財保護法を知らないんだね
そうやって事実じゃなくて空想でお話を作って来たから九州説が滅んだ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:00:59.23
>>357
橿原考古学研究所の関川尚功も九州説だからどうでもいいな
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:02:44.33
>>358
恣意的な法の運用も可能だからどうでもいいな
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:06:38.59
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:16:19.19
>>359
もう定年
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:17:37.11
>>360
>恣意的な法の運用も可能だから

そんな行政機関ないから
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:20:34.34
>>357
福岡の発掘調査してる御用学者も通説畿内説。   @阿波
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:21:49.70
箸墓、纏向で決まりだーと言ってから十数年
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:24:09.99
>>367
箸墓、纏向で決まりだーと御用学者が言ってから十数年。 とほほww   @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:24:14.69
>>341

元気百倍オロナミンC、百貨店、百日咳、百戦危うからず、百姓、百害あって一利なし、50歩百歩 、径百歩。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:27:34.09
>>368
九州説というのが妄想なんだとよくわかる投稿ありがとう
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:36:40.10
>>368
>ほとんど誰も知らない
>みんな九州だと思ってるってさ

自己矛盾してて藁
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:38:26.91
畿内で膨大な予算と人員をかけて毎日十数年発掘調査し続けてもアレ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:41:21.41
考えてみると畿内説も千年以上歴史があるんだよな
ずっと関西人によってそういう活動が行われてきたと思うとなんだか気色悪いよな
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:45:40.16
質問: 邪馬台国の可能性が高いのは何処?

AIの答え

邪馬台国の所在地については、現在も諸説ありますが、考古学的な研究や文献の解釈から、九州北部の吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の可能性が高いとされています。

吉野ヶ里遺跡は、紀元3世紀から4世紀にかけて栄えた環濠集落で、当時の中国や朝鮮半島との交流が盛んだった地域にあります。遺跡からは、当時の高度な文化や政治組織の痕跡が見つかっており、邪馬台国という大きな政治勢力が存在した可能性があるとされています。

また、吉野ヶ里遺跡周辺からは、中国や朝鮮半島の鉄製品が出土しており、当時の国際交流が盛んだったことがうかがえます。これらの文化的背景からも、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の可能性が高いとされているのです。

ただし、邪馬台国に関する研究はまだ不十分であり、はっきりとした証拠が存在しないため、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるということを確定することはできません。今後もさらなる研究が必要とされています。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:45:58.55
>>376
そういう一瞬でバレるウソを平気でつけるのが九州説
心の病気と言えるレベルだ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:46:28.74
>>377
いやずっと勘違いしてきただけ
いま大阪の会社だけど畿内説は1人もいない
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:48:42.81
定期的に「銅鏡が出てきた!」と騒いで、銅鏡の数が増えていく一方
ちゃんとした物を掘り当てて下さいよ
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:48:52.79
もうニセ情報でしか通説に対抗できないのが九州説の惨状
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:49:42.62
>>384
AIにも否定される畿内説
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:52:47.79
九州説には、証拠の出せるものが一つもないんだな
呆れたよ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 12:59:52.36
>>390
短里じゃなかったらパプアニューギニアだけどな
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:03:11.76
>>389
大乱してたら古墳作れないしな
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:09:32.80
北部九州の殺傷人骨は弥生中期の首狩り甕棺墓時代だから倭国乱とは関係ない
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:11:41.96
九州説が通用したのは20世紀まで
いまだに九州説を信じてるのは、新しい知見を受け入れず脳みそが硬直した老人だけ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:14:21.56
畿内派の考える女王国とかいう超大国は、狗奴国に手こずって中国に助けを求めに帯方郡まで行きました

狗奴国とかいう超大国を脅かす国ってどこ?w
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:21:28.04
>>388
>それ畿内説だけど?w
>意味不明な作り話を根拠にしてさ

証拠は?
九州説には、証拠の出せるものが一つもないんだな
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:22:06.77
そのまま読むと大隅半島から種子島あたりだろうな

仮に大隅半島から陸行一月で7万戸もある3Cの145mくらいの古墳が
ある大集落遺跡ってないだろ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:22:28.38
>>395
>狗奴国に手こずって中国に助けを求めに帯方郡まで行きました

それ、倭人伝に書いてない
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:22:28.83
>>395

「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」
だから伊勢湾を渡った東
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:23:57.89
>>400
東海から関東に至るまでの超大国があったわけだ
九州から畿内まで支配する超大国だからな邪馬台国は
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:28:15.42
>>402
畿内からは支配できないから他国を畏怖させる伊都国の一大率が支配してるらしいよ
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:36:50.06
>>404
スーパー超大国の女王国は、奴国や出雲や阿波や畿内でみんなで超大国狗奴国を潰せば良かったのに、わざわざ帯方郡まで行って救援をお願いしたわけか

ところで、超大国狗奴国は東海から関東までの大勢力で良いか?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:40:26.00
>>396
万2000里は何キロだ?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:40:57.42
>>408
超大国狗奴国がこれでOK?
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:44:14.11
>>406

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」からすると
狗奴国と対立関係なのは畿内の邪馬台国の卑弥呼擁立派で
女王国は連合国なので北部九州の大国奴国は関わってないだろう
奴国は半島、糸島以西、有明海沿岸の異民族に囲まれているので忙しい
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:49:09.91
>>409
陳寿はキロで計らない
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 13:49:38.11
>>411
中国地方や四国の女王国連合はもちろん狗奴国との戦いに加わったんだよな?
それと、女王国の南4000里にある身長の低い人々が住んでる侏儒国ってどこ?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:01:25.12
>>413

中国地方や四国の女王国連合も関わってないだろう
倭国が会稽東冶之東という地理観だから侏儒国は山海経大荒南経の焦僥からの推測だろう
つまり倭人伝の里数は観念的な里
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:03:14.30
>>415
距離も方角も合わない
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:04:16.90
>>416
共立して卑弥呼を王に立てたのに何もしてくれないのか?
それでわざわざ中国に助けてもらう為に帯方郡まで行ったと?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:06:05.36
>>418
そんな事しに行ったと倭人伝に書いてない
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:06:56.15
>>418

卑弥呼は共立で倭国の争いが収束した女王だから
卑弥呼の命令で戦争するというのは筋が違う
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:07:48.72
>>414
>陳寿が引用した原典の記載

それもキロでは書いてない
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:16:29.15
>>419
だよな
方角いじりすぎだよな
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:17:30.47
>>422
一大率にはビビってるのに?
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:18:24.58
>>425
いじりすぎ?
いじってない
記述が間違いだと言っている
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:20:05.68
>>412

末盧国まで1万里と言うのは共通認識じゃないのかな?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:24:59.82
>>427
畿内説に都合の悪い方角だけ毎回間違うのか?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:27:38.02
>>426

一大率を畏憚してるのは隷属国伊都国から西(北)
女王国連合の大国奴国は東南
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:33:44.74
>>430
また勝手な解釈
しかも女王国以北だし
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:34:03.83
>>429
>畿内説に都合の悪い方角だけ毎回間違うのか

畿内説は間違ったと主張していない
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:35:57.69
>>432
>1里が600歩はほぼ一定で

根拠なし
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:38:43.64
>>434

倭人伝の方位では
女王の官がいる二万戸の奴国よりも北が隷属国伊都国と官がいない末盧國と離島二つ
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:47:47.00
女王国という九州から関東に至るまでの大勢力スーパー超大国が、奈良の南にある狗奴国に手こずって、わざわざ中国に助けてもらう為にクソ遠い帯方郡まで行ったそうです
0442日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>440
狗奴國は東海でしょ
ヤマトタケルですら殺されかけてるんだし苦戦も当然よ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:53:08.94
>>440

女王国は九州から関東にまで至らない
畿内から筑前まで
狗奴国は伊勢湾の東
0446日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

当時の濃尾平野って庄内式土器の影響受けてないよな?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 14:56:59.99
>>442
奈良の南にないし、超大国だから王が殺されても大したことない
そもそも卑弥呼は外に出ない
0448日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

春成秀爾が「S字甕は大和の土器様式に全く受容されてない。だから纏向に居た東海人は単に労働力としての役割のみを期待されてやってきた(大意」って言ってるんだけど
これ本当?有識者
0449日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>447
大したことなくないよ
東海征伐は崇神の時代から始まってヤマトタケルの時代まで完了してないんだよ
かなり手こずったってことでしょ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:01:10.31
>>449
卑弥呼は外に出ない
王が親征して死ぬことはよくある
0451日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>450
?卑弥呼が直接狗奴國と戦ったなんて言ってないよ
0452日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼は祭祀王だろうからそりゃ戦わんでしょ
死因も単に老衰でしょ
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:07:31.52
>>451
王が戦う必要なんかないよ
軍人が戦えばいい
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:08:52.22
王が死んだら、次の王
これが普通
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:11:58.58
>>408
狗奴国と邪馬台国の国境は天竜川

浜松あたりまでは邪馬台国の領土

狗奴国は天竜川以東から関東一帯までを領有する大国だったが
房総半島だけは違う国があった事が分かっている

都は沼津の足高尾上遺跡群

その側にある高尾山古墳が卑弥弓呼陵
0458日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>453
その軍人が、黄幢のある黒塚古墳に埋葬されたわけだろ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:23:51.90
東海にでかい国あったの?
0460日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>459
デカい国かは知らんが後世のヤマト王権を大いに手こずらせるほどの強者が居た事は確かだよ
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:29:02.46
軍人ごときが銅鏡を33枚も副葬してもらえる訳がないの
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:30:27.42
>>458
いやいや、ヤマトタケルが殺されそうになったというのは何の言い訳にもならない
それはヤマトタケルが殺されかけただけであって、アメリカ大統領がキューバに攻め込んで死んだら、アメリカは弱いとはならない
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:32:57.15
>>460
200年後の話はいらない
卑弥呼がいた時にスーパー超大国女王国と匹敵するほどの国が存在したという証拠はない
畿内説ならな
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:36:23.65
狗奴国という超大国の痕跡がないことは、狗奴国は大して大きな国ではなかったということを示している
したがって、女王国も九州北部に限られる
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:42:05.96
タイムマシンが開発されれば
卑弥呼は神功皇后のモデルになった
八女津姫でほぼ決定だね
物部氏の娘で天皇と血筋的に直接関係ないので
藤原が隠したという
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 15:47:48.04
狗奴国は天竜川以東から関東一帯を領有する大国だよ

ただ当時の関東は大きな集落がないから領土は巨大でも人口はそれほどでも
なかったと思われる
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:01:08.02
>>464
北部九州にも超大国の痕跡がないよ
0468日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>463
邪馬台国の時代(崇神の時代)に東海へ四道将軍送ってるのに倒しきれてないってことだよ
0469日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>465
景行天皇の時代だから卑弥呼無関係でしょう
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:07:59.20
>>467
>北部九州にも超大国の痕跡がないよ

だから、超大国が在るのは、南四国 だと何度言えばw   

弥生人にとって、南四国・阿波はまさに「常世の国・パラダイス」

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、黒潮がもたらす豊かな海の恵によって漁労・航海術が発達、
また、温暖多雨による森林資源に恵まれ、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れる。
その大河流域では、森林の栄養素により、広範に肥沃な土壌の恵みを与え続けている。
さらに、「辰砂」「青玉(角岩チャート)」「蛇紋岩」「青石(緑色結晶片岩)」など希少価値の高い鉱物にも恵まれ、
「阿波」に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、自然の摂理。   @阿波
0471日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

・邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」は「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」に対応
実際、崇神も3~4世紀に活躍した人物だと推測されている

・邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」これも崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」に対応

・卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」これって崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」に対応

・径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓って『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体部が眠る)も156m

・魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に大乱が起きた』これも日本書紀で百襲姫死亡の次の記事にある崇神帝による四道将軍派遣に対応

・魏志倭人伝『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』これ流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀ったってのと対応

これが全部偶然の一致だと思う人は変だよ。その癖してほぼ記述も無い根拠薄弱な筑紫の女酋長が卑弥呼だとか言うんだから謎すぎる
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:13:56.01
>>467
そうだよ
だから邪馬台国は北部九州にとどまる
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:14:30.47
>>468
それ史実じゃないから意味ない
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:29:07.47
>>472
>だから邪馬台国は北部九州にとどまる

北部九州に、「邪馬臺国」に見合う痕跡遺跡は無い!   @阿波
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 16:32:37.83
>>475
吉野ヶ里から八女までの広範囲に吉野ヶ里のような集落が密集してたんだよ
朝倉にもデカイ集落があるのはわかってるが住宅地なので発掘は出来ないでいる
阿波?
橘か?
九州では珍しくもなんとも無い橘w
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:00:03.04
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:13:24.45
今日もまた梯子を外された畿内説が逃げ惑うだけの展開ですね
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:20:09.19
>>476
>阿波?
>橘か?

勿論、「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡だ。

吉野ヶ里から八女までの広範囲のどこに縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡があるんだ?  わははははは   @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:34:38.77
>>481
逃げたな。  わははははは   @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:36:47.45
>>482
本当に無知なんだなw
知ってて言ってるなら畿内説同様歴史捏造テロ犯として通報する
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:39:17.61
@阿波に学習という文字は無い
0487日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

庄内式土器とか布留式土器とか
吉備や出雲の影響受けまくってるよね。でも東海の影響は受けてない
0488日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

こういう土器の成立過程について詳しくまとまった本ないのかな
そういや九州から土器持ち込まれてないから東遷説は成り立たないよね
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 17:51:43.06
>>483
>本当に無知なんだなw

無いものは知り得ないわな。    わははははは   @阿波
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 18:03:51.28
>>472
>だから邪馬台国は北部九州にとどまる

北部九州に、「邪馬臺国」に見合う痕跡遺跡は無い!   @阿波
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 18:08:11.80
>>490
勿論、畿内にも、「邪馬臺国」に見合う痕跡遺跡は無い!   @阿波
0492日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

確かに九州に邪馬臺國と見合う遺跡は無いけど、阿波はもっとないでしょ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 18:47:28.32
箸墓古墳の完成当時のイメージ図を見ると、クソでかいし赤いし鍵穴みたいだし極めて特徴的な墓
それなのに魏志では「大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」これだけ

張政が見た卑弥呼の墓は箸墓ではない
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 18:50:46.16
>>495
まぁ、この遺跡(國)一帯は、「邪馬臺国」を構成する国々の一つに過ぎんがな。  わははははは   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 19:06:40.52
百の使用例

元気百倍オロナミンC、百貨店、百日咳、百戦危うからず、百姓、百害あって一利なし、五十歩百歩 、径百歩。

中国では百は多いを表現する時に多用される数字、箸墓の百歩は実際の100歩とは違うと思うな
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 19:53:18.97
>>393

> 北部九州の殺傷人骨は弥生中期の首狩り甕棺墓時代だから倭国乱とは関係ない


甕棺墓が卑弥呼より前の男王の時代で、甕棺墓が終わった木棺墓の平原遺跡が弥生後期の卑弥呼の墓でいいよな。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 19:54:19.28
>>400

> >>395
>
> 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」

狗奴国がヤマト王権かもねw
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 19:56:24.87
>>432

> >>423
> 1里が600歩はほぼ一定で1歩から換算可能

一里か100メートル以下なのだから、一歩は26センチくらいだろ。
靴の大きさだな。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 19:58:23.14
>>442

尾張氏は天孫饒速日の末裔だから、東海も天津神の領土。
纏向遺跡も東海の土器だらけなのは、纏向が饒速日物部氏の里だからだろ。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:01:16.47
>>499
平原1号墓は西暦200年頃のものなので無理
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:02:46.44
>>460

> >>459
> デカい国かは知らんが後世のヤマト王権を大いに手こずらせるほどの強者が居た事は確かだよ

根拠なし
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:04:22.45
>>467

> >>464
> 北部九州にも超大国の痕跡がないよ

単一の国邑としては東夷伝で最大の人口を擁する奴国と、その奴国が畏怖する伊都国がある。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:08:04.38
>>488

土器は所詮、下々の者たちが作るからじゃないかな?
大事なのは祭器だよ。
西日本の祭器は、銅鐸が打ち捨てられて、九州から来た銅鏡に取って代わられた。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:09:32.64
>>503

200年といえばむしろ卑弥呼の治世なので、卑弥呼の持ち物を副葬したんだろ。
そもそも200年頃であって、その推定の幅は何十年もある。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:10:40.39
卑弥呼の前は男王だから、平原遺跡が卑弥呼の先代だということはあり得ない。
倭国乱の後の最初の女王墓が平原遺跡。
0510日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>506
俺は最初から最後まで記紀に依拠してるけど?九州説は記紀を完全に無視していますね
0511日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>507
というのは嘘で、庄内期に増えたのは画文帯神獣鏡なんだよね
九州で流行ってない鏡が本州で大流行したのよ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:27:43.24
だって記紀は畿内の歴史だろ?
九州の卑弥呼が登場しないのは当然。
0513日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>508
卑弥呼が死んでから墓を造ったので却下
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:28:14.01
>>508
>そもそも200年頃であって、その推定の幅は何十年もある。

ありません
0515日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州論者は、崇神紀と魏志倭人伝邪馬臺國の類似を「偶然だ!」と苦しい言い訳するしかないんですよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:42:01.51
畿内論者は、狗奴国と大和朝廷の仇敵球磨(熊襲)や狗古智卑狗 と熊本県菊池郡の菊池彦の類似を「偶然だ!」と苦しい言い訳するしかないんですよ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:45:57.74
>>515
沖縄説

特に傍国21国の最後の5国
邪馬(やま)=山原、躬臣(くんじゃ)=国頭、巴利(はに)=羽地、 支惟(きゆ)=許田、烏奴(おな)=恩納、奴(な)=那覇 と、現代の沖縄本島の5つの地域に比定されています
最後の極南界、奴国は、那覇です。 狗奴国は、那覇の南の百名(ひゃくな)に比定されています。

はい、普通に偶然の一致または「こじつけ」だと思いますよwww
0518日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>517
沖縄のおもろそうしに卑弥呼らしき巫女が登場したりするんですか?
崇神紀の場合は、地名のみならず人名や事件まで一致してます
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:50:30.95
>>472
>だから邪馬台国は北部九州にとどまる

北部九州に、「邪馬臺国」に見合う痕跡遺跡は無い! 

勿論、畿内にも、「邪馬臺国」に見合う痕跡遺跡は無い!   @阿波
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:53:49.86
>>518
してません。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:57:41.62
泣いても叫いてもトヨちゃん13才で戦乱が収束するのは皇子同士の跡目争いだっての。問題の先送り。トヨが豊鍬入姫なんてトンデモ暴論。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 20:59:58.15
>>520
>阿波は論外

と言うのが関の山のボンクラ。 なんの論理的反論もできない可哀そうなアホ。  わははははは   @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:03:25.39
>>522
200年以降は公孫氏のテコ入れでラクロウが活性化するので日本列島にも新しい字っふぁん氏の鏡がどんどん入って来ている
2世紀前半以前の鏡しか持っていない平原1号は古い時代の墓
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:04:35.91
>>525
悪口しか言えないのは馬鹿の証拠
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:05:45.64
>>512
それな
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:17:14.67
>>524
邪馬壹国阿波説ならワンチャンだけあるけど邪馬臺国阿波説なら論外。
阿波から大和へ遷都の記録がない。
0530日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

西殿塚と黒塚って黒塚の方が新しい?
0531日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

葺石の材料的にも土器的にもほぼ同時期よな
先後関係わからんもんかな
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:28:38.04
>>530
特殊器台のある西殿が先
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:39:04.71
邪馬台国論争、多分一生終わらない
俺の予想では博多の下に親魏倭王の印や封泥が埋まってる
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:46:43.53
>>529
>阿波から大和へ遷都の記録がない。

そんな記録を残す理由がない。
そもそも、記紀は、奈良避難疎開遷都以前の倭国(阿波)の事件・出来事を記録したもの。
奈良に遷都した経緯を記紀に残す為のものではない。 アホのお前には、それが理解できない。   @阿波
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:48:12.00
記紀に、「阿波」に王都があったなんて書くわけがない。 
ついこの間、「阿波」から引っ越してきたことは、記紀の編纂者も含めて、
当時の奈良大和の人々(阿波人)は、みんな知り抜いているんだから。   @阿波
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:48:55.57
>>533
卑弥呼からニニギ、神武天皇に引き継がれて現在は宮内庁が厳重保管という名の隠蔽かも。
0540日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>533
博多は奴国では?
てか親魏倭王印って晋に朝貢した(266)時に返却してそうな気がしないでもない
0541日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

だから見つかるなら親晋倭王印じゃないか
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:54:07.71
>>536
>当時の奈良大和の人々(阿波人)は、みんな知り抜いているんだから。 

時が経ち、民草はその事実を段々と忘れていった。
その事実を知っているのは、天皇家だけ。   @阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:56:31.38
>>535
>そんな記録を残す理由がない。
ある。それが史書と言うのも。
>そもそも、記紀は、奈良避難疎開遷都以前の倭国(阿波)の事件・出来事を記録したもの。
全く違います。阿波は青山四周ではない。東の山に「大物主大神」が鎮座しない。壬申の乱に登場する神社は奈良県の神社。
>奈良に遷都した経緯を記紀に残す為のものではない。
やってない事は書いてない。

>>536
寝言。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 21:57:00.36
「邪馬臺国」に見合う痕跡て何?
0545日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>544
奴国(2万戸)の3.5倍(7万戸)の勢力圏があった痕跡
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:02:39.36
まあそんなものはないのだから、邪馬台国七万戸は、奴国二万戸を含む領域しか求めようがない。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:04:20.48
>>523
この視点、同意だわ
カリスマ性なんか望めない13才の小娘で争いがおさまった
卑弥呼が宗教的権威でもって共立されたとか妄想だわな
0548日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>547
百襲姫(卑弥呼)が宗教的権威で擁立?だれもそんな事言ってないだろう
彼女が出雲&吉備と親戚関係だったからこそ各国が共立に同意したんだよ
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:10:24.16
>>533
卑弥呼=日御子
     ↓ 天照大御神の御子
兕馬觚=イチキシマヒメ

博多で合ってる
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:10:41.64
可だよ可
戸数は倭人から聞いている
でも倭人もハッキリ分かってない
聞いた広さからなんとなく言ってるだけだよ


対馬国 有千余戸
一支国 有三千許家
末盧国 有四千余戸
伊都国 有千余戸
奴国 有二万余戸
不弥国 有千余家
投馬国 可五万余戸
邪馬台国 可七万余戸
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:16:27.05
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:26:14.54
>>546
>邪馬台国七万戸は、奴国二万戸を含む領域しか求めようがない。

二重帳簿詐欺
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:27:09.68
ところで。
生口百人って、どこから調達したの?
やっぱり、食材よなあ……三国志時代だし
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:27:24.54
>>523
その視点初めて持ったわ
よく考えたら、男が王になったら内戦になって、13女子が王になったら平和になるってありえんよな。
その視点でいくと、畿内説もあり得ない
卑弥呼が死んだら中国地方も九州も四国も内戦になって、壹与が王位に就くと中国・四国・九州・畿内がみんな仲良くなるって頭おかしいよな
0555日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>553
卑弥呼に付き従っていた巫女じゃないの
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:30:00.80
>>547
>卑弥呼が宗教的権威でもって共立されたとか妄想だわな

それが史料無視の妄想

乃共立一女子為王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:35:18.84
>>554
神功皇后 → 三韓征伐、熊襲叛乱
推古女帝 → 衣摺合戦(蘇我大連謀殺)、小野妹子が隋にケンカ売る
斉明女帝 → 大化改新(蘇我大臣謀殺)、白村江戦役
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:40:55.36
>>557
牛馬がいる時代と牛馬なしの時代
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:41:33.05
>>543
日本書紀・大物主馬鹿の寝言。   @阿波
0560日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

黒塚古墳のU字型鉄製品を見せると九州論者ってもう何も言えなくなっちゃうのよね
0561日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

阿波にも九州にもU字型鉄製品無し!w
0563日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

黄幢は畿内に渡されました
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:44:09.53
>>556
いやいや
共立された女性がたまたまそういう特徴を持ってた
鬼道が共立された理由だとその文だけでは判別できない
トヨが立てられたことで独身の女性であることが理由だとわかるわけだ
後の女性天皇たちが独身だったことにも通ずるところがある
子を持たない女性を王にする事で王族たちの跡目争いを一時的に止めるんだよ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:44:16.59
卑弥呼は引きこもり
ジャンヌダルクじゃない
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:45:02.13
>>556
そう言うのを切り抜きって言うの。鬼道使いだから選ばれたって書いてるのか?
0567日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>564
その通り
男王だと「俺も俺も!俺も倭王になる!」ってなるからね
0568日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼に夫がいない(百襲に子どもがいない)のもそういう理由なのよ
跡継ぎ作っちゃったら戦争になる
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:46:56.35
>>561

> 九州にもU字型鉄製品無し!w

東征したから残ってないのだよ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:48:48.29
>>556
先住民の文化だろ。違う文化の者から見れば理解できない。
現在も同じで、麺類を煤って食べるのが下品と言われてもやめれないのと同じと思う。
長く続くのだろう。
0571日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>569
なるほど
では九州論者の中でも邪馬台国東遷論者以外は脱落ということで

らしいですよ
0572日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

たった今九州邪馬台国東遷論者と邪馬台国畿内論者の間で合意がなされました

卑弥呼、筑紫の酋長論(ヤマト王権と邪馬台国無関係説)は黒塚U字型鉄製品を以て破綻と看做す。以後畿内スレに書き込まないでください
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:59:28.06
>>571
東遷と東征は区別したほうがいい
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 22:59:38.20
九州まで届く卑弥呼の鬼道凄すぎてワロタ
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:01:37.64
2度の物部氏東征で畿内は九州勢に征服されたのだよ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:06:07.03
>>573
どっちも形跡ないけどな
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:09:20.28
北部九州で鉄の矢じりが700個出土
纏向はたったの4個
邪馬台国さんは東海狗奴国と戦う為に、支配下に入ってる九州さんに鉄の矢じりもらっとけよ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:10:22.04
>>574
中国じゃ黄巾が天下を騒がし鬼道が漢中に国を建ててたんだよ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:14:20.51
>>577
>北部九州で鉄の矢じりが700個

守り刀を副葬できない貧乏村長の代用品
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:17:13.76
>>570
訂正
×煤って
○すすって

日本は大和文化。
日本書紀は大和に都合のいいように書かれた書物。とずいぶん前から畿内説の悪口を言われてるが、畿内説の予言だったかもしれない。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:19:40.53
>>576
銅鐸の埋納破棄
高地性集落
弥生の畿内にはない古墳・副葬文化
東遷東征神話

形跡としては充分だけどな
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:23:34.37
>>581
九州から人が来てないので、ひとつも論拠にならない
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:25:24.20
今日も印象操作に必死のトナカイ@おっちょこちょい
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:28:42.06
>>582
配下の吉備がメインで働いてくれたからね
柳田さんの解釈

早・前期古墳が持つ構成要素には、近畿地方の弥生時代から継続されるものがない。墳丘や主体部の形態は東瀬戸内、丸底形木棺と鏡を中心とした副葬品の風習が伊都国から持ち込まれており、内面的に重要な精神文化を北部九州的弥生文化が占めていることになる。(柳田)
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:32:21.56
>>584
吉備が九州の配下になる理由がない
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:38:13.29
>>584
平原はちっさな墓のまま代々続いてるので東遷してません
0588日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>邪馬台国さんは東海狗奴国と戦う為に、支配下に入ってる九州さんに鉄の矢じりもらっとけよ

黒塚古墳には鉄鏃170本と旗があるけど
九州は?
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:48:13.30
卑弥呼の時代
東征東遷もない
ト骨の風習、山に丹あり、鉄鏃、絹

邪馬台国は近畿
卑弥呼が共立で九州へ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:56:20.34
443年 1580年~ ヒガシマル醤油
378年 1645年~ ヤマサ醤油
   1666年  うすくち醤油 円尾屋
   1697年  こいくち醤油 ヒゲタ醤油
   1781年  さしみ醤油 登茂屋
158年 1865年~ タバスコ マキルヘニー
152年 1871年~ のり佃煮 酒悦
146年 1877年~ 福神漬 酒悦
   1885年  ウスターソース ヤマサ醤油
   1896年  ケチャップ 清水屋
127年 1896年~ イカリソース ウスター
118年 1905年~ ブルドックソース ウスター
115年 1908年~ カゴメケチャップ
104年 1919年~ カルピス
99年 1924年~ 雪ちゃんの 日本海味噌
98年 1925年~ 雪印 北海道バター
   〃  ~ キューピー マヨネーズ
95年 1928年~ 牛乳石鹸 赤箱
90年 1933年~ 雪印 北海道チーズ
   1948年  とんかつソース オリバー
74年 1949年~ 牛乳石鹸 青箱
   〃  ~ ブルドックソース とんかつ
65年 1958年~ 日清 チキンラーメン
63年 1960年~ 森永 インスタントコーヒー
62年 1961年~ 森永 クリープ
61年 1962年  スープ別添 明星ラーメン
60年 1963年~ 花王 ニュービーズ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/13(木) 23:56:47.41
59年 1964年~ カルビー かっぱえびせん
   〃  ~ ライオン デンター歯みがき
   〃    中濃ソース キッコーマン
58年 1965年~ 花王 ファミリーキュキュット
57年 1966年~ 雪印 コーヒー
   〃  ~ ブルドックソース 中濃
   〃  ~ 花王 ハミング
   〃  ~ 花王 ハイター
56年 1967年~ オーケーストア
   〃  ~ 北海道 よつ葉バター
55年 1968年~ 雪印 ネオソフト
   〃  ~ ボンカレー
   〃  ~ 味噌ラーメン サンヨー食品
54年 1969年~ 塩ラーメン 東洋水産
   1970年  ねりからし エスビー食品
52年 1971年~ 日清 カップヌードル
   〃  ~ 花王 マジックリン
0592日本@名無史さん
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2023/04/13(木) 23:56:56.46
51年 1972年~ カルビー サッポロポテト
   〃    ねりわさび エスビー食品
   〃    ボディーソープ 牛乳石鹸
50年 1973年~ ごはんですよ
   〃  ~ ハウス ねりからし
49年 1974年~ ハウス ねりわさび
   〃  ~ カルビー サッポロポテト バーベQ味
48年 1975年~ カルビー ポテトチップス
   〃  ~ 明治 きのこの山
47年 1976年~ 日清 焼きそばUFO
   〃  ~ 日清 どん兵衛 きつねうどん
   〃  ~ 日清 どん兵衛 天ぷらそば
44年 1979年~ 明治 たけのこの里
36年 1987年~ 花王 アタック
34年 1989年~ ライオン ソフトインワン
25年 1998年~ 花王 カビとりハイター
0593日本@名無史さん
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狗奴國は濃尾平野でいい気がする
久努は遠すぎるし弱いんじゃないか
0594日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 00:28:24.04
>>588
黒塚古墳は卑弥呼死後50年後の墓だよな
By天理市観光協会
0595琪瑛教大祭酒
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2023/04/14(金) 00:36:56.74
うん、578.まさにその通り。
倭国大乱歴年あるじ無し。倭に100を纏める国家理念無し、また国家システムも知らず。
卑弥呼以前に倭に書物無し、ゆえに学問無し。九州にイタコが居たらしいだけ。
卑弥呼がこの列島国家誕生の始祖。
大神も伊勢も卑弥呼、老子道徳経。物氏とは大物主太一を祀る教団幹部、祭酒。
三船曰く道教を認めない箸墓が卑弥呼の墓。
我が姫は黄色の御召物を身に付け親魏倭王の印璽を胸に契約を結び休んで居られるのだよ。
0596日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

寺沢さんの本読んだけど、卑弥呼已に死す&死没年は244年説だったよ
0597日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 00:44:48.15
黒塚古墳は4世紀
0598日本@名無史さん
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>>597
3世紀末期くらいだよ
東国と戦った豊城入彦の墓だろうね
0599日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

「正始四年(243)の遣使が“倭王”によるものであることは明記されているから、卑弥呼の生存じゃ確認できる。しかし正始六年の時点では卑弥呼は死去していたので、黄幢は難升米に賜与されることになり、さらに正始八年には黄幢のみならず詔書までが難升米に授けられたのではないか。
正始八年の記事には“倭王”が使者を派遣したと書かれているわけではない。」
[上田、1996年]
0600日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

訂正
「正始四年(243)の遣使が“倭王”によるものであることは明記されているから、卑弥呼の生存は確認できる。しかし正始六年(245)の時点では卑弥呼は死去していたので、黄幢は難升米に賜与されることになり、さらに正始八年には黄幢のみならず詔書までが難升米に授けられたのではないか。
正始八年の記事には“倭王”が使者を派遣したと書かれているわけではない。」
[上田、1996年]
0602日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

「直前に『倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素和』の一文があるために、通説は卑弥呼による遣使を自明のこととして疑わなかった。しかしこの記事は、倭の女王と狗奴国の男王とが以前から不和であった事実を述べたもので、『倭の女王の存在を証明する史料ではない』」
[上田、1996年]

なるほど。じゃあ卑弥呼の没年は244年っすね
0603日本@名無史さん
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>>601
布留0式開始が240年まで遡ったから黒塚も3世紀末期になります
0604日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

【卑弥呼の没年、244年でした】

「正始四年(243)の遣使が『倭王』によるものであることは明記されているから、卑弥呼の生存は確認できる。しかし正始六年(245)の時点では卑弥呼は死去していたので、黄幢は難升米に賜与されることになり、さらに正始八年には黄幢のみならず詔書までが難升米に授けられたのではないか。
正始八年の記事には『倭王』が使者を派遣したと書かれているわけではない。」

「直前に『倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素和』の一文があるために、通説は卑弥呼による遣使を自明のこととして疑わなかった。しかしこの記事は、倭の女王と狗奴国の男王とが以前から不和であった事実を述べたもので、『倭の女王の存在を証明する史料ではない』」
[上田、1996年]
0605日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 01:01:09.33
>>601
根拠なし
0606日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 01:02:19.04
>>603
インチキ壺編年なw
0607日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 01:05:19.28
>>605
天理市観光協会の見解だがな
0608日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

俺も247年遣使の主語は卑弥呼だと思ってたけど、上田正昭せんせほどの人が言うならそうなんだろう
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:08:43.21
畿内説はインチキというか詐欺臭がすごい
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:15:24.18
卑弥呼や台与の出自は九州ならば容易に推測出来るが、畿内だと全く想像出来ない、2世紀の畿内に王家はあったのかな?
0612日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>611
2世紀ならとっくに磐余彦(神武)が来てるでしょう
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:16:54.96
>>598
布留0新相という結果が出たから270年代だろう
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:19:47.98
>>612
神武とは崇神の事で、崇神も九州で死んでいる
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:22:50.29
はつくにしらすすめらみこと=神武=崇神
0616日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>615
漢字が違いますよ
事績も違う
0617日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

狗奴國、やっぱ遠江じゃないと思うわ
だって庄内式土器運ばれてんだもん
0618日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

やっぱ狗奴國は濃尾平野だよ
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:30:34.62
>>616
漢字を当てたのは不比等、神武の時代に漢字は無い
0620日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>619
神武はイワレヒコ
崇神はミマキイリヒコ

名前が違う
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:33:59.78
>>608
>俺も247年遣使の主語は卑弥呼だと思ってたけど、上田正昭せんせほどの人が言うならそうなんだろう

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀。

動詞「遣」の主語は誰なの?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:37:41.05
>>620

はつくにしらすすめらみこと は誰のことか?
0624日本@名無史さん
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>>623
あくまで称号だから、それぞれ別
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:45:46.81
>>609
>畿内説はインチキというか詐欺臭がすごい

なにも反論できず中傷しか出来ない九州説の負け犬臭がすごい
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:47:16.38
>>622
王がいないのに?
誰が命じたの?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:47:32.17
始馭天下之天皇
はつくにしらすすめらみこと

初めて国を治めた天皇の意
「御肇国天皇」とも書く。神武天皇と崇神天皇がともにこの名をもっている。神武天皇は実在と考えられず,崇神天皇が実在の最初の天皇であろう。記紀によると,崇神天皇は天照大神 (あまてらすおおみかみ) を祭り,四道将軍を派遣し,溝池を開き,租税制度を確立したとされるが,このようなところから,この名が生まれたのであろう。
https://i.imgur.com/vHNTswT.jpg
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 01:54:15.67
トナカイが記紀を根拠にするのなら東遷説を信じているのかなw
0630日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>629
全部信じてるわけじゃないぞ
ただ、東遷があったとしてもそれは邪馬台国以前の話だろう
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:01:11.17
>>628
じゃ、狗奴国王は誰と不和なの?
0632日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>631
卑弥呼でしょう。ただ、卑弥呼と狗奴國男王が前から不和であった事実を述べたにすぎないがね
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:05:53.17
>>630
根拠は?
0634琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 02:08:08.47
悪いが
244年は無いな、岱輿の年齢が不自然。
倭の別種はまだまだ後。
時の政治は道教を認めない、その為の編纂。
0635日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>633
邪馬台国以後に東遷した形跡が一切ない
吉備の影響を受けたのは邪馬台国以前の話
0636琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 02:14:08.19
東遷したのが卑弥呼、
東征したのが恐らく倭の別種。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:15:06.71
>>635
4世紀の黒塚古墳が東征の証拠だな
0638日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

外部勢力による征服どころか、纏向遺跡も古墳群も4世紀にかけてむしろ成長・巨大化している
0639日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>637
どこが証拠なの?
在地系の農具・工具ばかり出土しているけど
0640日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

黒塚から突然九州系に変わってるのなら、古墳の造り方も以前とは大いに変わってるはず
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:18:21.12
>>632
>卑弥呼でしょう。ただ、卑弥呼と狗奴國男王が前から不和であった事実を述べたにすぎないがね

なら、不和な相手はもういないんでしょ?
戦争してたらおかしいよね?
0642日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>641
いや逆ですよ。卑弥呼が死んだから更に悪化したんですわ

箸墓古墳造るために要する労働者の数は尋常じゃない筈でしょ
じゃあその人手(奴婢)どこで調達します?当然未開の東日本よね。そういうわけで女王国は東海への進出を強めて狗奴國との対立激化
0643日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼死去以前から纏向では東海系土器が多く出土(逆に大和系土器は濃尾平野に一切入ってこない)してるから、女王国は東海から奴婢徴発しまくってたんでしょう

だから不和なんです
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:25:07.09
>>639
鉄鏃だな
0645琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 02:26:19.10
卑弥呼依然に畿内に流れ纏向を建造でもかまわないが臺は方形、真南に円丘、中華の都だぞ、根拠ある説明を添えなさいな。
0646日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

むしろ黒塚古墳の副葬の仕方は西求女塚古墳や椿井大塚山古墳と同じだから、九州関係ないんだよな
0647日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか黒塚古墳築造の直前に東遷してきたのなら、銅鐸祭祀の終焉とか一切関係なくなるね
墓穴掘りすぎ
0648琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 02:32:35.52
強制労働なんて何処にも書かれていないんだな。
1000人の奴婢らが指示もなく出入りし動きまわり、卑弥呼はよく民を惑わすだけなんだな。
0649日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>613
ありがとうございます
やはり豊城入彦でしょうね
0650琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 02:51:43.78
それとな、大率を畏れるというのを極端に受け取らない方がいいように思うけどね、枠組みができあがってそのルールに従っている程度だと考えるけどね。なんせ唯一の神なんだから。
0651日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

画文帯神獣鏡以前で西王母描かれた物品って日本に渡来してるっけ?
0652日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あぁ、方格規矩四神鏡は神仙思想要素あったか
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 02:58:44.62
>>628

正始六年(245)に難升米が黄幢を賜ったのは、卑弥呼が死んでいるから=倭王不在だからという理由で
正始八年(247)に倭王の男王か臺與が使者を遣わしたのに難升米に黄幢を拝假するというのは考え方がおかしい
臺與は王と為って檄告喩されているので、正始八年には難升米ではなく臺與に檄告喩されなければならない
0654日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや外区文様で西王母系増えるのは獣帯鏡からか
0655日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>653
新たに立った謎の王よりも顔見知りの難升米を信頼し、黄幢と詔書を渡した。大いにあり得る話である。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 04:14:52.35
>>642
>いや逆ですよ。卑弥呼が死んだから更に悪化したんですわ

じゃ、「狗奴国男王卑彌弓呼」と誰との「相攻擊狀」を説いたのか書かなきゃ
おかしいよね
卑弥呼と不和だったとしか書いてない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 04:18:43.98
>>655
>新たに立った謎の王よりも顔見知りの難升米を信頼し、黄幢と詔書を渡した。大いにあり得る話である。

いや、最初から予定通りでしょ

其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡仮授。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 04:34:53.80
>>644
>鉄鏃だな

鉄鏃なら前からホケノ山で出てるから証拠にならず
0661日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>659
だから卑弥呼が亡くなっていたから難升米に仮授したんだよ
0662日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>657
別に何もおかしくないよ
卑弥呼と不和って書けば女王国と狗奴國の関係が前から悪かったことなんて読み手に伝わるからね
0663日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

男王が立った時代は倭国はあれていたから代表者不明、よって245年は難升米に黄幢仮授
0664日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑彌呼以死 大作冢 
更立男王 國中不服
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王
國中遂定 

↑これが正始8年以降の出来事だなんて全く書かれてないけど
0665日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

247年以降に卑弥呼が死んでたら魏志倭人伝に卑弥呼の墓の記事なんて載ってるわけないじゃん
張政は遅くとも249年までには絶対帰還してるぞ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 05:24:18.83
>>661
そんな九州説みたいな変態解釈しなくたって
書いてある時系列通り読めば
八年遣使の主語は女王卑弥呼
彼女は張政の到着以降に死んで
数年後に工事中の箸墓を見て帰国した
これで何の不自然もないんだけどね
0667日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>666
いや工事中なら殉葬者百名とか分からないよね
工事終わってから殉葬するんでしょ
0668日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 05:26:14.86
>>665
>張政は遅くとも249年までには絶対帰還してるぞ

根拠なし
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 05:27:10.99
>>667
>工事終わってから殉葬するんでしょ

根拠なし
0670日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>666
卑彌呼以死 大作冢 
更立男王 國中不服
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王
國中遂定 

↑これ、全部2年かそこらの間に起きた出来事だと本当に思ってるの?
0671日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>668
じゃあ何年に帰国したと思ってるの?
司馬懿が中央に返り咲いた249年が一番自然だと思うけどね
0672日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか247年即帰国でもいいかもしれないね
魏志倭人伝の内容薄すぎるし。長居してたらもっと情報あるでしょ
0673日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑彌呼以死 大作冢 
更立男王 國中不服
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王
國中遂定 

↑ねえ、これ全部2年かそこらの間に起きた出来事だと本当に思ってるの?
0674日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

佐伯有清氏『魏志倭人伝を読む 下』

正始四年(二四三)、魏に遣わされた掖邪狗が、同八年(二四七)に倭に派遣されてきた塞曹掾史の張政らが帰るのを帯方郡に送るために、ふたたび渡海することになり、帯方郡から、さらに足をのばして魏の都洛陽に使いした。
この遣使の年代は、倭人伝に記されていないが、【正始九年(二四八)ころ】とみられている。ただし『冊府元亀』外臣部、朝貢一は、正始八年のこととし、「八年、倭国女王一與、大夫掖邪狗等を遣わす。臺に詣り、一に男女生口三十人を献じ、白珠五千枚、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す」とある。なかには、この遣使は、『晋書』武帝紀などにみられる泰始二年(二六六)の遣使に対応するものとみる指摘がある。しかし、掖邪狗ら二〇人の遣使は、帯方郡の塞曹掾史張政らの帰国を送るのにあわせてのものであったから、張政らが、正始八年の派遣から泰始二年までの一九年間も、倭国に滞在していたとは考えられないであろう。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 05:38:02.23
>>663
>男王が立った時代は倭国はあれていたから代表者不明、よって245年は難升米に黄幢仮授

根拠なし
正始6年には弓遵は対高句麗戦に出征中
魏の官位を持つ難升米へのアプローチは出兵要請だ
だが弓遵は韓国反乱で戦死して計画は頓挫した
だから8年に赴任した新太守が体制再建に派遣したのが張政
出発は翌年以降かもしれない
なぜなら年号が書いてないからだ
当時、正始が魏の最後の年号という意見が強かった
0676日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『魏志』東夷伝の他の記述は全て正始年間までで終わっている
倭だけ特段の言及なく249年以降の話が紛れ込むと考えるのは恣意的である
0677日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼247年以降死亡説を採った場合、249年までに箸墓造営が終わるはずが無いから畿内説は破綻する
0678日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

では何故魏志東夷伝の全ての記述が正始年間中で終わるかといえば、参照した原資料が王沈の魏書だからであろう
張政266年帰国説などありえないのだ
0679日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>675
年号が書かれてないのは正始年間中の出来事or247年中に遣使したからですね
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 06:05:04.58
>>679
たった一年間にできる内容じゃないこと、わかりませんか?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 06:06:18.83
張政は卑弥呼のバカデケー墓を見てるわけだから黒塚古墳は時期が全く合わないな
0682日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

247年に張政が皇帝から貰った檄を携えて渡倭。その後卑弥呼が死んで男王立った後の臺與に檄を渡すって普通に考えておかしいだろ
0684日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政は何考えてたんだ?え?
皇帝から渡された檄を卑弥呼に渡さず後の男王にも渡さず臺與になってからやっと告諭したのか
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 06:10:37.78
>>676
>『魏志』東夷伝の他の記述は全て正始年間までで終わっている

つまり、その原資料を書いたのが
魏代は正始年間で終わりだという派閥の人だということで説明がつきます
この論争は何十年も続いたのです
0686日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

張政渡倭時に卑弥呼存命中ならば、なぜ檄を以て臺與に告諭してるんだ?卑弥呼に告諭するよな
男王の時代なら男王に告諭するよな

張政が倭国に行ったときには已に卑弥呼の時代も男王の時代も終わってたとしか考えられないのだよ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 06:13:12.52
牛馬もないのに、卑弥呼の鬼道が奈良から九州までキマッてたのは凄すぎる
卑弥呼すげー
0688日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>687
九州は女王共立に含まれないでしょ

あと文字無し牛馬無しのインカ帝国は現在の日本国土面積と比べて4倍の版図を有していたよ。こういう事基本だから知っておいた方がいい
0689日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

247年時点で卑弥呼存命ならば、なぜ張政は臺與宛ての檄を持ってきてるの?
0690日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 06:21:09.93
本当に、卑弥呼尊敬するわ
0691日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 06:23:37.42
九州島を、奈良から鬼道で治めてた卑弥呼様すげーよ本当に
0692日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

247年時点で卑弥呼存命なら、なぜ張政は臺與に告諭してるんですか?
0693日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 06:25:31.69
百襲姫は箸で陰部を突き、瀕死状態で政務不可能だったから豊鍬入姫が代行した
0694日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 06:26:20.29
卑弥呼が死んで内戦になったのに、それで13歳の中1女子が治めたのも凄い
壹与の鬼道もレベチです
本当に尊敬するわ
0695日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

豊鍬入姫は単に父の崇神(男王)の傀儡として倭女王になったのだと思うけどね
本人に権力なんてある筈も無く
0696日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 06:33:27.19
>>692
瀕死だからでしょ
張政が来たの50年代かもしれないし
0697日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

巫女が女王やってたのは豊鍬入姫(トヨ)の時代で終わりだろう
次代斎王の倭姫命は笠縫邑どころか伊勢まで飛ばされるから都の政治にほぼ関与できなくなる
0699日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

卑弥呼239年遣使に対して1年で返答したのが魏だよ?
なんで247年遣使だけ50年代になってからやっと返答使送るんだ?しかも狗奴國との戦争に関する救援要請だから一刻を争うってのにさ

もうメチャクチャなんだよ君
0700日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

狗奴國に対処するため一刻も早く黄幢と詔書と檄渡すのが魏の務めでしょ
何が張政は50年代に来たかもしれない~だよ。

 あ り え な い よ
0701日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

だから順当に張政は247年に渡倭したと考えるのが妥当なんだよ。
そして彼が臺與に檄を以て告諭した理由は、247年時点で已に卑弥呼の時代も男王の時代も終わっていて臺與が名目上倭のトップになっていたからだ。

臺與擁立以前に臺與に告諭したとか意味不明なこと書く前によく考えなさい
0702日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 07:41:14.55
>>687
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0703日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 07:44:08.95
九州も女王国だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 08:00:20.77
つまり、邪馬台国は近畿だな
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 08:38:22.41
あんなに厚遇してくれたのに助けてを求めてくれたのは黄幢と檄だけ
狗奴国が強大というのは勘違いだ
倭の遣使は挨拶に行っただけだよ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:05:31.87
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史   
王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 
下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬對應聲曰噫比如然諾      
一大率の記述部分だけどこれこそ伝聞ではなく郡使が実際見たものを書いてるんだよ
だからかなり詳細に書いてる
じゃあ何時見たかだけど一大率に女王の下に送り届けてもらった時でしょう 
  
   
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:08:03.79
>>706
卑弥弓呼相手だしそれで十分
卑弥呼が魏の権威を必要としたんでしょう
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:18:41.24
一大率帯同の郡使御一行は大名行列のようなもの
諸國は畏憚してるでしょ
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:29:11.50
卑弥呼と卑弥弓呼の権力争いで卑弥呼が失脚しそうになる
挽回するのに魏の権威は強力だ
卑弥呼の政治工作だよ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:32:25.58
>>699
>なんで247年遣使だけ50年代になってからやっと返答使送るんだ?

247年遣使?
そんなこと倭人伝に書いてない
247年は後任太守の赴任した年
高句麗遠征と韓国討伐があって、弓遵は戦死した
そのあとの赴任だ
以降の年次は書いてない
嘉平年間の可能性は捨てきれないね
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:37:36.10
>>701
物事は時系列に沿って順番で書く
そういう常識を守って史料を読まなきゃ
まともに史料の解釈は出来ないよ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:46:36.26
誇大妄想は不要です。時間の無駄です。
邪馬臺国の場所は魏志倭人伝に書いてありますから。

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 09:48:46.68
身分の低い一般の村民が、支配身分のものと道で出会うと、あとずさりして路傍の草むらに入り
これに辞を伝え、また事を説明するには、蹲ったり、跪いたりして、両手を地につけ、尊敬の意をあらわす。
そのときの受け答えの声を噫というが、中国でいえば承諾の意味と同じことだ。
これは郡使が実際に見てるよ
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 10:11:22.24
>>715
>魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

根拠なし
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 10:37:39.42
>>719
任那とか倭人伝に登場せず
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 11:08:17.79
>>720
日本書記に記されている事に対して「根拠なし」とはどういう意味?
日本語知らない外国人?

日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 11:23:02.28
倭人が勝手解釈で使ってた「倭里」みたいなものがあったのかもしれないな
一里が何メートルという基準では無い感覚的な単位として
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 11:33:02.86
>>721
>日本書記に記されている事に対して「根拠なし」とはどういう意味?

「短い里が使用されている」って証拠は?
 結論
 根拠なし
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 11:39:02.49
>>723
任那から筑紫は何キロだ?
それが二千里と記されているんだがその一里が435mだと言い張るのか?
0727日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>712
一瞬で捨てられますね
狗奴國との戦争の救援要請で一刻を争う早期の返答使が必要なのに嘉平に送ったとか論外
そんな奇説は誰も相手にしない
0728日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>726
なんで数年後?檄持ってきたならすぐ渡せばいいじゃん
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:22:29.63
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0732日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>247年遣使?
そんなこと倭人伝に書いてない

書かれてます
正始八年記事の中に書かれてます
正始八年の出来事ではないと解するのは曲解です
0733日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>731
なら王になってる男王に渡すんじゃないの?そもそも卑弥呼存命なら卑弥呼に渡すであろう
0734日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼無視して男王無視して臺與になってからやっと檄を渡す理由って何?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:29:25.44
臺与の朝貢は266年だろ?
卑弥呼が死んでから19年経ってる
その時点で臺与は13才だよな?
0736日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>735
はぁ?247年から266年まで通交が途絶してたってこと?

晋書に『宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後【貢聘不絕。】及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。』とあるんだからそれはありえないよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:34:35.60
>>733

247年に卑弥呼は存命で、詔書黄幢檄は難升米宛て
245年も卑弥呼は存命で、詔書黄幢は難升米宛て
0738日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>737
檄が臺與宛てなので、張政派遣247年時点で檄を書いた魏当局は卑弥呼の死を認識していたということですね。
0739日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

檄が臺與宛てであるということは、已に卑弥呼どころか男王の治世すら終わっていることを魏は知っていたという事ですよ
じゃなきゃ檄は卑弥呼か男王に渡される筈ですからね
0740日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百歩譲って張政渡倭が247年じゃなくてもいいわ
それでも臺與に檄告諭しているならば、張政渡倭時点で卑弥呼の治世も男王の治世も終わっていたとしか考えられないのだよ
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:46:58.43
>>738

247年の檄は難升米宛て
  ↓
卑弥呼以死 大作冢
  ↓
更立男王
  ↓
國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
  ↓
復立卑彌呼宗女臺與
  ↓
國中遂定
  ↓
檄告喩臺與
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:50:12.62
卑弥呼244年死亡説だとものすごく判りにくく書いてることになる
0744日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>742
なら男王が立った時点で男王に告諭される筈だね
なぜ無視したの?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 12:57:38.88
卑弥呼が250年過ぎまで生きていた可能性も全然ある訳で
0748日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

男王が卑弥呼(百襲姫)の一族ではないってのは、畿内説否定しているのと同義だから
0749日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>747
じゃあ卑弥呼に檄告諭される筈ですね
0750日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

247年の詔書が難升米宛てだというのもおかしい
なぜ皇帝からの親書が卑弥呼ではなく難升米に渡されているのか?卑弥呼がすでに死んでいたからでしょう
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:03:35.98
>>746

臺與は卑彌呼の宗女であるとわざわざ書いているから
男王は親魏倭王卑彌呼の一族じゃないんだろう
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:04:00.76
普通に考えれば卑弥呼の後の男王は卑弥弓呼だな
それで卑弥呼派と卑弥弓呼派が争い卑弥弓呼派は敗れた
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:08:48.03
>>750

難升米に魏の皇帝の軍旗を授けるという詔だろ
使者が倭王に渡して、倭王が臣下に渡さないだろ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:13:17.14
>>573

> >>571
> 東遷と東征は区別したほうがいい

同意。
記紀は東遷ではなく東征としている。
九州説の矛盾はない。
0757日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

■244年:卑弥呼薨去
 ・箸墓造営開始
 ・更立男王 國中不服

■245年:黄幢仮授難升米
 ・復立卑彌呼宗女壹與年十三為王
 ・國中遂定
 ・狗奴國との対立激化

■247年:載斯烏越救援要請&張政派遣
■~249年:張政帰国
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:17:40.16
>>579

平原遺跡には、女王なのに立派な鉄剣が副葬されていますね。
大きな大きな守り刀。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:17:40.47
>>753
卑弥呼の後の男王
卑弥弓呼の記述はない
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:18:00.06
>>753
卑弥呼の後の男王
卑弥弓呼の記述はない
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:19:27.00
魏の皇帝の軍旗を掲げるということは、
倭王の印綬を賜った倭国を攻撃する狗奴國に対して、(形式的に)魏が軍事行動をとるということだからな
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:23:04.08
>>759
そら無いけどなんのために卑弥呼と争ってたのよ?
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:27:10.28
>>761
実際来るわけないし魏は倭王だと言えば承認するだけだよ
黄幢は卑弥呼の政治的な駆け引きで政治工作
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:27:17.62
畿内と東海が戦争した痕跡は無い

どう足掻いても破綻する畿内説
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:32:48.23
>>762
素から卑弥呼と対立
共立されたのは卑弥呼
なので死亡後の卑弥弓呼ありえないし
ありゃ記述する。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:34:05.83
>>764
近畿説は無問題

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:36:25.88
>>767
なんで全会一致で卑弥呼なんだよ?
そら不満もあっただろうよ
実際卑弥呼死後殺し合いもしてるんだし
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:37:57.39
>>766
倭王を魏が任命するんじゃないから
承認してるだけだから
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:39:56.54
>>767
たぶん、その男王は
神武のモデルだ
追放され東へとか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:42:35.28
>>769
全会一致とか書いていないけど?
卑弥弓呼の記述がない
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:44:36.15
>>772
無いけど何の為に卑弥弓呼は卑弥呼と争うんだよ?
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:46:07.06
卑弥呼は倭王だぞ
それを倒そうとするんだぞ
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:50:08.09
>>770

承認してるだけだけども、天子が倭王に任命した印鑑を渡して
実際に兵は送らないけど、旗だけ貸して冊封体制という中華秩序の立場で書いた
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:51:42.88
>>773
だから何?
記述がないんだな。
卑弥弓呼がたつの記述はない
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:53:15.25
>>775
だからそれ卑弥呼がやった政治工作でしょ
0778日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

単に卑弥弓呼の狗奴國と卑弥呼の女王国との利害関係が一致していなかっただけ
王位継承とか無関係
0780日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥弓呼は東海の男酋長に過ぎない
男王とは一切関係なし
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 13:58:17.38
>>777

卑弥呼は共立されて倭国乱が収束した女王だから
卑弥呼を擁立した政治勢力が華夷秩序を利用した
0782日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか女王国は公孫氏時代から帯方郡と通じてるから
魏になって突然挨拶しにいったわけじゃない
0783日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

政治工作でもなんでもない
単に帯方郡の支配者が公孫氏から魏に代わったから朝見しに行ったら親魏倭王貰えたってだけ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:06:02.83
>>782
もし卑弥呼を倒して卑弥弓呼が王になったとしても魏は承認するだろうよ
お前じゃダメだとは言わないだろう
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:08:00.59
>>781
卑弥呼死後の男王は
卑弥呼の弟の血筋とか?
まあ仮説だけどな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0786日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>784
狗奴國が女王国を倒せるほど強国ならそうだね
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:30:01.18
>>764
だね
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:32:20.18
>>787
近畿説は無問題
東海に狗奴国はない
奴国の南である。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:36:17.16
中国は別に人を選んで王にするわけじゃない。
琉球の山北王、中山王、南山王、みんな承認してる。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:49:11.94
だから卑弥呼と卑弥弓呼は同じ組織だって
敵国なら魏の権威は関係ねえもん
0792日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>791
どんな国相手にも魏の権威は通用するよ
当時の魏は世界最強格だからね
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 14:52:12.33
>>792
誰が王でも承認するから関係ないって
任命するんじゃないから
0794日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>793
親魏倭王を攻撃すれば魏の軍数万がやってきて攻め滅ぼされるかもしれないという心理的圧迫になるよ
0795日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 14:55:59.51
魏王は真面目に朝貢してくる卑弥呼を愛おしく思っていた
だから親魏倭王なんだよ
魏と親しむ倭王であり倭に存在する国々の代表というわけでは無いんだよ
倭には国が沢山あり、そのうち30国を同盟国とする卑弥呼女王の事を親魏倭王と呼んだ
それだけの事だろ
0796日本@名無史さん
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誰が王でも承認するけど、一度承認した勢力が攻撃されれば臣下の側に立って加勢する
それが冊封体制
0798日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:01:46.88
最終的に卑弥呼の勢力側が勝ったから旗貸しましたと書いてるんだろ
0799日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:03:18.63
我こそが魏の承認を得た正当な倭王だ
これが通用するのは同じ組織で冊封体制に組み込まれてる場合で
敵国だとその外に居るから
0800日本@名無史さん
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>>798
245年の時点で軍旗を女王国の人間(難升米)に渡すことになっているのだが
0801日本@名無史さん
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>>799
親魏倭王だから卑弥呼が倭を代表して倭唯一の王として認められたのだよ
倭自体が冊封体制に組み込まれたのだから狗奴國もその範疇内です
0802日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:05:42.74
>>792
通用するのはそれを知るエリアだけだろうね。東海地方なんかは知ったこっちゃねーって感じだろう。このことからも畿内説はあやしい。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 15:06:52.59
>>801
倭とは何?
中国の呼び名など知らん
0804日本@名無史さん
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>>802
狗奴國が熊襲だったらそもそも当時の日本語が通用しないだろう
0805日本@名無史さん
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>>803
狗奴國も含む三十カ国が倭だよ
0806日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:09:12.09
>>805
敵国なのにそこに組み込まれてなんの恩恵があるの?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 15:10:27.93
>>796
琉球では脱清人と呼ばれる琉球人たちが、日本に滅ぼされるから助けてくれって弁髪までして懇願しに行ったけど無視されたけどな
0808日本@名無史さん
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例えば新羅は唐の冊封体制に入ったから高句麗も百済もフルボッコに出来たんだろ
0809日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:14:25.51
>>807
薩摩だな。秀吉、家康は関係ない。
0810日本@名無史さん
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>>806
いや、同意しなくても倭の唯一の王が女王だと認めたのだから倭全域が冊封体制下に一方的に組み込まれるのよ
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 15:21:51.53
>>810
倭なんて知らんがな
中国が勝手に言ってるだけだから
0813日本@名無史さん
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魏が参戦してくるかもしれない
甲冑に包まれた数万の兵が派遣されてくるかもしれない

それだけで戦意消失する勢力は多いだろう
0814日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:23:48.07
三世紀

女王国
佐賀、福岡、大分、熊本北部、山口西部、愛媛、兵庫北部、京都北部、滋賀

狗奴国(熊襲)
熊本、鹿児島、宮崎

出雲
山口、島根、岡山、兵庫南部

物部
香川、淡路、徳島、大阪、奈良、和歌山、京都、滋賀南部


福井、石川、富山、新潟、美濃北部、滋賀北部、長野

日高
愛媛、三重、静岡、山梨、神奈川、東京、

蝦夷
茨城、埼玉、群馬、福島、山形
0815日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>812
百歩譲って倭を知らなくても、親魏倭王の勢力を攻撃するということは魏をも敵に回すという事だよ

海の向こうに先進超大国があったことは交易で知れ渡っているだろうし
0816日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:31:27.07
>>815
来ないんだよ
冊封体制に入ってれば官位貰ったり銀印貰ったりするけど
0817日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:34:27.35
>>804
何が根拠になっているの?
0818日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:34:38.56
日本の内乱に中国人が血を流してなんの得があるんだよ?
0819日本@名無史さん
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当時の帯方太守王頎はあの高句麗を鎮圧しているんだよね
ハッタリでも数万の兵を送るぞと狗奴國を脅迫すれば効くよ
0820日本@名無史さん
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>>818
得があるじゃなくて、冊封したのに参戦しなかったら君子の徳が下がるだろ
0821日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>816
別に官位貰ってなくても関係ない
魏が『数万兵を送るぞ』と脅迫するだけで狗奴國は震え上がる
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 15:38:20.53
>>821
関係あるよ
魏が認めた倭王の下に居るんだから
0823日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>822
じゃあ百歩譲って狗奴國が冊封体制に組み込まれていなかったとするよ
それでも女王国は魏の保護対象だから、女王国を攻撃し続ければ魏も参戦する可能性がある
その可能性だけでかなりの牽制になるってことね
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 15:43:38.02
冊封体制に入ってないなら親魏倭王も官位も黄幢もなんも関係ない
0825日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>824
いや関係あるでしょ
魏の黄幢(土徳)を持った軍隊を攻撃するということは魏の軍隊を攻撃することと同義

魏の参戦を招きかねないというだけでプレッシャーになる
0826日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 15:48:00.55
例えば関東東北の毛人が魏の黄幢を恐れると思う?
魏の旗だぞと訴えても無駄だと思うけどな
0827日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>826
関東ではなく東海ね
当時の濃尾平野には文明があったよ
0828日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

というか野蛮人相手でも、魏の一行が持ってきた大量の鎧刀金銀財宝を見せればその威光に平伏するだろう
0829日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

土器の移動は
『濃尾平野→纏向』のみで『纏向→濃尾平野』は一切なし

つまり、東海(狗奴國)は元々一方的に労働力を供出させられていた。卑弥呼死没(244)をキッカケとした巨大墳墓造営のため徴発は更に厳しくなり、耐えかねた東海勢力が245年以降に一斉蜂起。
抵抗は凄まじく、女王国は魏へ救援要請を送らざるを得なかった。
0831日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>830
エジプトはピラミッド建設従事者の福利厚生が充実してたみたいだが、古代日本は中国に生口売り飛ばしまくったり奴婢100人殉葬したり酷い扱いしてるからな
別だろう
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:33:48.50
>>831
生口は職人とか特殊技能を持った人じゃないのか?
なんもできない普通の人を貰ってもな
0833日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>832
纏向では北陸や吉備や特に東海地方系の鋤(土木用具)が発見されていますから、労働者を輸入していたのは確実じゃないでしょうか?
0834日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

纏向大溝とか箸墓とか西殿塚とか
いくら人手あっても足りんでしょ
0835日本@名無史さん
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2023/04/14(金) 16:45:28.41
それは逆に畿内に木地師が居ない
近江・美濃には木地師の山奥の村が
今でも残ってる
昭和になって廃村した村も多いが
そこから買わざるをえなかったんじゃないのか
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:46:10.21
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。 
その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「狗奴国」や「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:48:31.00
①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0839日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや纏向も7~8割は在地系の土器なのよ
残りの2~3割の外来系土器の中の半数を東海系が占めてるってことね
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:49:57.50
「魏志倭人伝」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
0842日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

S字甕が大和地方に渡来しまくってるのに、大和の土器様式に殆ど影響与えてないんだろ
これってやっぱ東海の人々は奴婢とかそういう形で動員されたと解した方がいいんじゃないですか?
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:51:59.74
>>815
>海の向こうに先進超大国があったことは交易で知れ渡っているだろうし

漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無い。   @阿波
0844日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>841
一方で大和の土器は濃尾平野に一切流入していない
0845日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『濃尾平野→大和』の移動は多いけど
『大和→濃尾平野』の移動がほぼ無い

相互交流なんて生易しい物ではなく一方的な関係だと思うね
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:54:09.44
纏向や箸墓ってのは日本の史書にのみ登場しその記述どおりに発見されているのだから無関係の中華の書物を持ちこむ理由が不明。箸墓造営で氾濫とか幼稚園児でも考えないアホバカシナリオ。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:54:48.67
>>839
>いや纏向も7~8割は在地系の土器なのよ

どれもこれも、結局「東阿波型土器」だと言う落ち。   @阿波
0848日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>846
いや径100余歩が一致するのは箸墓古墳しか無いんだから、第一に同古墳を卑弥呼の墓として検討するのが自然でしょ
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 16:56:56.56
>>848
箸墓古墳は、葺石墓だから4世紀の築造とするのが自然でしょ。  わははははは   @阿波
0852日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あれ、でも二重口縁壷って東海の影響受けてるんだっけ?
0853日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>851
いや吉備とかには大和の土器持ち込まれてるからね
濃尾平野飛び越えて南関東辺りにも影響及ぼしてる
0854日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか奈良は当時より今の方が過疎地だろう
0855日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>850
いいえ
女王共立で出雲から葺石文化が齎されたんですよ
3世紀の話です
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:04:44.96
>>850
正にそうなんだよな。ここに無理矢理発生させた歪みのせいであらゆる辻褄が合わなくなってくる。逆を言えば畿内説の箸墓年代がなければ記紀の整合性がとれるのだが。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:07:55.94
>>855
大和に出雲の存在を認めてまで記紀を否定し「女王っぽい人」だけ借用するアホバカ畿内説。三輪山に向かって土下座して詫びろカス。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:11:56.96
狗奴国は天竜川以東だよ

尾張三河は入らない

卑弥呼の銅鐸撤廃令に反発して戦争になった

だから天竜川東岸に大量の銅鐸を置いて対岸の邪馬台国に抵抗した

対岸の邪馬台国側から見えるように銅鐸を川沿いに並べたの
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:14:38.35
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0860日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>857
百襲姫は大物主の言葉を代弁し、かつ神嫁ですから女王どころか神に比肩する存在として紀で描写されていますよ
0861日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫は『能識未然』ですからね
未来の事が分かる人物ですよ。尋常じゃない
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:20:48.01
>>860
神に比肩する存在?どこが?他国の風土記から取り入れた正に神話だよ。大物主について多くを語る記が完全スルーだしね。
0864日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>863
神と結婚した人って人代以降で何人いますか?ほとんどいませんよ
0865日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

武埴安彦の乱も百襲の忠告で速攻鎮圧されたよね

まあ実際の所は百襲が崇神に命令して武埴安彦を討伐してたんだろう
0866日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

・未来を予言
・神の嫁
・大物主を憑依させ神言代弁


こんな人物他に誰がいるのよ
0867琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 17:25:50.09
仮にひみこを日野美子さん、ひみゆみ呼を日野弓彦君として、日野一族が奈良と東海に居るのか?
弟が治めるを左けるのが卑弥呼体制、中華の読者はあれ?弟どこ行っちゃったんだぁ?となるわけで、弟はもっと足元だろう、狗奴国は河内だと思いますよ、悪いけど。
0868日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

大物主を憑依させられるのだから百襲の言葉は神の言葉
彼女は大王よりも上位。実際、彼女のために大王墓よりデカい塚が造られてるのだからね
0869日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

墓の大きさは生前保持していた権力に比例するんだよ

箸墓古墳は西殿塚古墳よりも行燈山古墳よりも宝来山古墳よりも岡ミサンザイ古墳よりも五社神古墳よりも巨大
それがただの皇女だって?笑わせないでくれよな
0870琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 17:32:26.38
それはその通り。お話を続けてください。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:32:48.84
>>855
>女王共立で出雲から葺石文化が齎されたんですよ

寝言は寝てから言え。  わははははは   @阿波
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:36:15.08
>>867
>狗奴国は河内だと思いますよ、悪いけど。

適当に配置すればいいってもんじゃない!

河内に「狗奴国」に見合う遺跡はない! 悪いけど。   @阿波
 
0873日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

テンプレ>>4にもある通り、箸墓古墳は唯一の陵墓築造記事を有しているんだ
彼女は徹頭徹尾【唯一無二】なのよ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:39:31.59
墓を作るのに「石を手渡しで運んだ」ってのは播磨国風土記から。
活玉依毘売との神婚説話をモモソヒメに書き換えたものだろう。
0875日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>874
百襲姫は初代皇后の母に比肩する人物でもあるのだな
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:42:00.79
日本書記は隠したかったのだろうな。真の箸墓の被葬者を。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:47:54.37
もうすぐ造山古墳の石室が公開されるんだよな
箸墓の石室公開はまだか?
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:49:11.16
「前方後円墳」の発祥が「阿波」なんだから、箸墓古墳も「倭人(阿波勢力)」の墓と分かりそうなもんだが、
アホはそれが理解出来ない。  わははははは   @阿波
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:55:54.85
「倭人(阿波勢力)」という表現がどうかは知らんが大和の地の開拓は賀茂氏と出雲勢力によるものであろう。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 17:59:09.18
>>880
>「倭人(阿波勢力)」という表現がどうかは知らんが

「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。   
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。   
ここでいう「仮称忌部一族(阿波勢力)」とは、衰退した平安時代の
『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
倭人とは「仮称忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、
全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部(斎部)氏は、
物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 18:06:46.64
>>881
妄想。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 18:10:28.37
大田田根子の引き立たせ役がモモソヒメだよ、箸墓は大田田根子の墓の可能性がある、なんせ大物主の子孫だからな。
0884日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>883
記紀を無視するなと言いながら一番無視しているのが九州論者だった
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 18:20:52.43
>>883
俺も鴨王こと櫛御方命の系譜の人間だと思うな。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 19:39:47.00
百襲姫は大物主の祭祀権を正当なる神裔・大田田根子に奪還されたダメっ子。生前の強大な権力www
箸墓伝説は他国風土記や別伝承の焼き直し。巨大な箸墓造営は「倭大国魂神」を蔑ろにした崇神天皇への罰だとしたら話を作ってでも無かった事にしないと皇国史観的に許せないだろう。箸墓大田田根子説はなかなか一本筋が通る。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 19:44:32.94
>>886
トンデモだから、そう臭うわな。   @阿波
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 19:49:27.91
>>888
何か臭うと思ったら自分の体臭だったって?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:13:08.64
モモソヒメのもとに夜しか現れなかった大物主。

夜は神が作った箸墓の神とは大物主。

大神神社の初代神官は大物主の子孫の大田田根子。

モモソヒメと不仲になった大物主がモモソヒメの墓を作ったと言うのは無理がある
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:13:15.62
倭氏と尾張氏は天火明と大海神を祖先とする別伝がある
別伝どころが神としての性質や立ち位置が全く違う神なわけで 倭大国魂神は天火明なのか大海神なのかどっちなんだいとなる
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:16:40.69
どっちでもないというのが正解
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:17:56.95
>>585

吉備を開拓したのは饒速日-物部。
さらに神武も逗留している。
吉備は筑紫の天津神の勢力圏。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:18:52.55
>>593

> 狗奴國は濃尾平野でいい気がする
> 久努は遠すぎるし弱いんじゃないか

勝手な印象で語るなよ。
饒速日の末裔の尾張氏の地盤だろ。
0896琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 20:29:58.91
大物主は夜しか現れなかった、その通りなんだな、斉は夜行うのだよ。隋書にもそう記されている。卑弥呼は太陽信仰とは言えない。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:31:29.23
稲作の農業歴を司っていたのが卑弥呼の一族
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:33:14.02
>>891
はぁ?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:33:14.54
>>891
はぁ?
0900日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>894
へ?尾張氏の遠祖の天香山命(高倉下命)って、元々葛城の高尾張邑に住んでたんだから本拠地はこっちでしょう
0901琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 20:33:23.28
あくまで老子道徳経。
太一、神仙思想であり陰陽。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:35:36.09
>>896
夜にやるから夜這い。お前の脳ってどうなってんの?
昼間っからおせっせしないだろ。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:39:31.56
お前の脳がかw 納得。
0906日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

物部&尾張氏の伝承を詳らかに記した先代旧事本紀天孫本紀によれば、尾張氏は後の時代になってから濃尾平野に進出していますよね
0907琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 20:43:14.16
で、大物主と婚姻したとか本気で思ってないよな。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:43:30.88
そうだよ。天香具山命自身は越まで行って今や英彦山で神になってる
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:44:11.63
モモソヒメの出自は神になれるほどのものではなかった、
そこで国を救ったのが大物主の一族である大田田根子なんですね、箸墓の被葬者にふさわしいのが大田田根子。
0910琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 20:46:51.66
系図はいくらでも作れるから照らし合わせる資料がない限り外部からでは実際は解らない物であるから、真実の探求には使えないよ。
0911琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 20:50:59.43
はははは、大物主は実在したと思っているわけだ。ふ~ん、そりゃあすれ違うわね。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:51:51.97
確かに尾張氏の系図は疑わしい。真清田神社の祭神の変遷も怪しさ爆発だ。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:52:08.04
>>784

卑弥呼が倭王に冊封される条件は二つあったはず。
先代までが漢倭奴国王なのだから、その血族であること、倭奴国をきちんと治めていること。
この二つが正統性の証であり、それを確認するために張政らが実際に九州北部の状況を確認したというわけだ。
その視点で読むと、魏志倭人伝は卑弥呼が大率などを使っていかに九州北部を治めていたかを説明し、卑弥呼が正統であるということを説明する文章なんだよ。
畿内は関係ないな。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:53:21.77
>>784

王となった経緯によってはしばしばあった。
韓国の歴史ドラマとかではたまに見かける。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:56:24.98
>>913
なるほど、魏使が奴国に行った理由が継承者確認の為だったという事だったのだね
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 20:59:31.45
>>799

狗奴国の王が王を自称していたというのは、倭王を自称していたんだろ。
中国の文献なんだから、それより小さい国の首長は王とは呼ばない。
その昔に倭人の首長が何人も朝貢した時にも、皆が大夫を自称したとあるので、そのあたりの使い分けは倭人も心得ていたはず。
つまり、狗奴国の王も倭王としての承認を目指していたはず。
しかし実際には卑弥呼の方が承認された。
これは、両者とも先代の倭奴国王とは血縁だったが、倭奴国を支配していたのが卑弥呼だったから。
対馬海峡は卑弥呼の配下である大率が検察してまわっていたから、卑弥弓呼は朝貢すらままならなかっただろう。
0918琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/14(金) 21:00:06.16
>>913.関係ないな、曹魏は後漢と血の繋がりはない。また、親魏倭奴国でもない。因みに卑弥呼は公孫には朝貢はしていない。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:02:11.54
>>804

熊襲と言っても、その本拠地は肥前から筑紫平野にかけてだよ。
熊襲タケルの墓は佐賀県の吉野ヶ里の近くにある。
倭奴国は目と鼻の先だ。
畿内人とは言葉が通じないかもしれないが、福岡と佐賀なら話くらい通じるだろ。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:04:48.52
>>814

宮崎は投馬国。
隼人は伊都の彦火火出見の兄である海幸彦の末裔だからね。
熊襲は有明海沿岸の肥国、つまり佐賀、熊本。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:08:28.54
>>829

畿内説風に表現すると、纏向は濃尾平野の影響下にあったというはずなんだが?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:09:24.20
モモソヒメ=卑弥呼は破綻しました。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:13:31.07
>>893
そんな、なんの根拠遺跡もない妄想を語って面白いのか?  わははははは   @阿波
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:15:44.45
>>920
そんな、なんの根拠遺跡もない妄想を語って面白いのか?  わははははは   @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:20:30.48
>>891

天津神がもともとは天ではなく海の神のことであることに思い至れば、同根の神だよ。
綿津見と大山祇、海幸彦と山幸彦など、何度も繰り返される同じモチーフのひとつ。
つまり博多湾の海人族があちこちに名前を変えて出てくるだけ。
尾張はその拠点の一つで、さらにその配下が纏向。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:22:12.54
>>900

葛城の原住民を葛で編んだ網で召し取って占領したんだよ。
筑紫からの神武東征に協力した神だろ?
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:23:27.54
>>905

誰かが夜這いすると、全部大物主か三輪山の神のせいにするのが記紀神話。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:27:10.56
筑紫で生まれた素戔嗚が、新羅に行って種苗を持ち帰り、出雲や越に広めた。
その神を祀るのが越後国総鎮守の弥彦神社。
弥生時代の倭国って、基本的に筑紫と出雲と越など、日本海側だろ。
畿内の海なし県の出る幕はない。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:31:04.25
そうそう。
後漢書では倭奴国としていたのだけれど、実際に来てみたら奴国は大きいけれど、支配していたのは伊都国で、両者を合わせて昔は倭奴国として扱っていたのか、それとも奴国から伊都国に遷宮したのを誰かが誤魔化して説明しなかったのか。
紀元前は三種の神器の墓は福岡平野にあったのに、後漢の頃には糸島平野に移動している。
まあ、奴国と伊都国は博多湾を共有するから、一つとみなしてもたいして変わらないけどね。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:32:12.01
記紀
物証や証拠とかの裏付けつるもんがない。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:32:46.48
>>921
>畿内説風に表現すると、纏向は濃尾平野の影響下にあったというはずなんだが?

なんで?
理由は?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:32:56.60
>>918

後漢と魏は禅譲しているから、それによって血縁ではないけれど権威を継承している特殊な例だよ。
ちなみに卑弥呼は公孫氏に朝貢していたと考えている人の方が多いと思う。
魏志倭人伝は立場上、知っていても書けない。
0937日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

系譜上、尾張氏が尾張国と関係を持ち始めたのは建稲種の父乎止与命(成務天皇の代に相当)の時から
尾張の大印岐の娘を娶ったのが切っ掛け
0938日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>936
同意
公孫氏に朝貢していただろう
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 21:44:45.18
伊勢や濃尾平野からの食糧供給
や丹などの採取だ
支配ではなく、共同事業だな
近畿周辺に狗奴国はない

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0941日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

大印岐はオオイナギと読むわけだが
イナギは紀における『稲置≒県主』であろう(隋書倭国伝にも『伊尼翼』あり)。

つまり「オワリのオオイナギ」とは「尾張大稲置」なのだ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 22:02:12.42
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0943日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

久努って大した古墳無くね?
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 22:19:03.14
さて、静岡の久能山と神奈川の久野の間には一体どんな古墳があるでしょうか?

久努国は5C以降に大和王権によって名付けられて作られた国で
4C中頃まであった旧「くののくに」とは全く別の国です

もちろん旧「くののくに」の名残から名付けられた国名ではありますが
0945日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

遠江以東に狗奴國があったってことは、当時已に濃尾平野が女王国に征服されてたってこと?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 22:33:34.44
最初の弥生土器の事を刻目突帯文土器と呼びまして、西日本中でつくられましたが
その東限が浜松なのです

浜松以西の西日本は同じ種族意識があったのではないでしょうか?
0947日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そして沼津からは庄内形甕や布留0形甕が見つかってるようだが
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 22:50:50.99
ここ読んでると
日本書紀はどのようにして書かれたかなんとなく解るな
0949日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>913
先代というか、卑弥呼の前に登場する倭人は帥升ですね
0950日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>918
これにも同意
漢代の倭のどっかの国の王との血縁関係とか要らない
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 23:05:21.31
>>917
それはないな。
沖縄本島の3人の国王をそれぞれ、山南王、中山王、山北王として承認している。
したがって、狗奴国はそもそも中国に使者を出してない。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 23:07:38.55
本州には狗奴國はないな。
九州だな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0953日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>917
するってーと、伊都国の王も倭王を自称していたのですか?
0954日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>942
残念だが、狗奴国は濃尾平野だろう
0955日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

濃尾平野を飛び越えて遠江諸国と対立する理由がわからない
もし濃尾平野が女王国に含まれるなら大和の土器も沢山持ち込まれている筈
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/14(金) 23:52:42.80
濃尾平野なら渡海する必要がないね
0957日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>956
そりゃ狗奴國に渡海なんて書いてないからね
0958日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

女王国の南(東)に狗奴國がある
濃尾平野だな
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 00:16:17.34
自女王国東度千余里至拘奴国雖皆倭種而不属女王
自女王国東度千余里至拘奴国雖皆倭種而不属女王
自女王国東度千余里至拘奴国雖皆倭種而不属女王
自女王国東度千余里至拘奴国雖皆倭種而不属女王
0960日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>959
それは後漢書でしょ
先行する魏略にも魏志にも南に狗奴國があると書いてあるんだから、范曄が勝手に倭種と狗奴國を混同しただけである
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 00:47:25.20
国津サイドと思われていた狗奴国の山幸彦が
伊都国で天津サイドと合流し
のちに神武東征して、祟神天皇になった

答え見えてきました、予想どおりです!

>御間城入彦五十瓊殖天皇
御孫(瓊瓊杵尊の)城=筑紫城に入って
瓊瓊杵尊(天津)の子孫を増やすため
殖民(土地を開拓するため人を移住させる)

字の通りですw

古事記だと、真木ですが
真木=檜ひのきとのことで、火の木=火の弟です
丁卯テイボウこと山幸彦

「古に ありけむ人も 吾がことか
 三輪の 檜原に 挿頭折りけむ」
 万葉集 柿本人麿

卑弥弓呼=彦火火出見=山幸彦=神武天皇=祟神天皇
同一人物で俺は決まりました!
0962◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/15(土) 01:18:35.12
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1681486499/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 01:32:01.39
>>959
南を東に間違えるとか畿内説みたいだな
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 01:50:18.65
范曄説だからね。
魏志倭人伝との照合がない
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 02:15:09.21
>>963
畿内説が南を東に間違えると言っているという証拠がない
九州説の妄想だろう
0966日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

確かに狗奴國と久努地名の類似性も気になるんだよ
けど畿内の土器が持ち込まれてる遠江じゃ考古学的におかしい。未開の東日本に広域連合があったとも思えない
0967日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

東日本に広域連合があったとしても濃尾平野が中心地だろう
0969岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/04/15(土) 08:55:15.54
>>608

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。
【倭女王卑彌呼】遣倭載斯烏越等、詣郡、說相攻擊狀。

上記の「遣」の主語は、倭女王卑彌呼以外には考えることはできませんね。
書かれてないのに主語を別に切り替えるというのは反則でしょう。
つまり、247年時点の遣使時点では卑弥呼はまだ生きています。
(その後張政が到着した際には已に死んでいた)

これは、上田先生の隠れた主語の見落としでしょうね。

まぁ、卑弥呼の死亡で狗奴国と揉め出して、帯方郡に救援を求めたというのも
仮説としては興味深いですが、文献には別にそうは書いてないですね。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 10:30:40.33
作り話しかできない九州説による意味不明な造語が放射説と短里
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 10:41:08.21
>>976
曲芸
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 10:44:02.68
・九州から水行20日投馬国まで南に進んでると思ったら実は東に進んでて、しかも20日間誰も気付かない。
・投馬国から水行10日南に進んでると思ったら、実は東に進んでて、しかも10日間誰も気付かない。
・陸行1月、南に進んでると思ったら実は東に進んでて1月も誰も気付かない。
・帰りは、北に陸行1月進んでると思ったら実は西に進んでて誰も気付かない。
・水行10日北に進んでると思ったら、実は西に進んでて誰も気付かず投馬国に着く。
・投馬国から水行北に進んでると思ったら、実は西に進んでて20日間誰も気付かず、九州に戻る。

これを正始元年、正始4年、正始6年、正始8年の4回繰り返したというのがとんでも畿内説。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 10:49:19.38
仮に邪馬台国が畿内だった場合

⭕倭人は帯方から東南にある(Googleマップで見れば九州も畿内も東南にあるので正解)
⭕対馬からまた南に進んで一大国
❌ 南に進んで投馬国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 南に進んで邪馬台国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 女王国以北はその行程や距離を示すことができる(女王国以西はならば正解。畿内から北に進んでも日本海しかない)
❌ 女王国以北は伊都国の一大率が監視している(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国が有り。みな倭人である(そもそも畿内の東に海がない)
🔺また侏儒国がその南にあり。女王を去ること4千里(和歌山とかなら成立し得ないこともないので🔺)
❌ また裸国、黒歯国がその東南にある。船行1年(和歌山から東南に船行しても太平洋)

↑このように都合の悪い部分だけ方角をいじりまくってしか成り立たないのがトンデモ畿内説
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:16:23.61
>>979
>・九州から水行20日投馬国まで南に進んでると思ったら実は東に進んでて、しかも20日間誰も気付かない。

などという誰も主張していない設定を勝手に創作して
それが畿内説だと言いふらす
九州説の捏造体質
醜悪
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:17:04.57
>>978
心が、な
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:26:37.14
>>979
結論ありきだから細かいことは気にしない
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:30:33.74
>>986
>結論ありきだから

そんなこと、どうでもよろしいがな。  
会稽東治がどうあれ、漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:36:56.57
>>986
やばいよな畿内説
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:57:29.40
>>966
そりゃ畿内の土器だって持ち込まれているでしょう

邪馬台国と狗奴国は交流していたんだから

ところが卑弥呼が銅鐸撤廃令を強要してきて狗奴国はこれを受け入れられず
反発し、やがて戦争へと発展した

信仰上の戦争だったと思われます

卑弥呼の銅鐸撤廃令はいつ始まったかまでは分かりませんがせいぜい戦争が始まる
10年20年くらい前ではないでしょうか

そうすると銅鐸撤廃令の公布は227〜237年頃になります

卑弥呼崩御後に即位した男王は連合国中が不服で千人ほど死者を出す内戦の様相を
呈していますので連合国に属していない狗奴国とは早々に停戦したのではないでしょうか

いずれにしましても台与即位の266年には再び平和が訪れる訳ですから、
国交がなかったのはせいぜい15〜40年くらいじゃないでしょうか
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 11:58:08.59
>>990
出来てないでしぃ?
それが現実
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:00:12.71
>>986
>結論ありきだから細かいことは気にしない

九州説はこのように結論ありきだから
いかなる時も絶対に証拠を出さない
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:19:18.26
論理的に考えると半島に近い北部九州
魏志倭人伝を読むと北部九州

私は関西人でも九州人でもなく、親族みなそのどちらにも縁もゆかりもない人間です
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:26:39.29
>>994
>論理的に考えると半島に近い北部九州

なんら裏付け遺跡が無くても、妄想に浸れる北部九州馬鹿。   @阿波
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:26:57.50
百田とか竹田とか茂木誠先生とか三橋とか、保守はだいたい九州説だよな
あれ多分、日本がチャイナに朝貢してるのが嫌なんだろうな
倭の五王も朝貢してるのに
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:43:38.12
>>996
正に畿内脳
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/15(土) 12:53:56.96
畿内じゃありま1000
10011001
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