邪馬台国畿内説 Part884
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1681486499/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし このテンプレ、詐欺師の論法が多用されている。
中身を読むと気持ち悪くて吐きそうになる。
具体的な根拠は何もなく、勝手な決めつけのオンパレード。 狗邪韓国が倭に属するかどうか、書いた陳寿もよく分からなかった可能性が高い
鮮卑や烏丸の国境線を引けと言われても無理なわけで >>78
スレ立てるんだしそのくらい許してやれよ
読んでないし邪魔だけどさ >>80
狗邪韓国は魏志韓伝には記載されていないので少なくとも韓国ではない
女王国でいう狗奴国のような存在と思われる
どちらかと言うと倭国寄りの国という 資料を書き写してるだけで陳寿はわかってないってのはそうなんだけど
資料を書いた人は実際見てるし資料だけで地形とかイメージするのは無料 のちに倭の五王という記録も出てくるんだから3世紀は卑弥呼1人で西日本を牛耳るような時代時代ではない
東の倭種の国にも王は居たんだろう
そのうち卑弥呼の居た北部九州30国は朝貢を出していたので記録に残った
それだけの事よ
記紀は邪馬台国とは関係の無い東の倭種の国の歴史だ >>83
>倭と接するとも書いてるから
書いてるから何?
釜山と対馬は接してるよ >>84
>狗邪韓国は魏志韓伝には記載されていないので少なくとも韓国ではない
弁辰狗邪国という書き方で魏志韓伝に記載されてるけど >>86
30国が何処で70国が何処なんて書いてないし
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國以来の交易の歴史がある
本州にも大量の青銅器が入ってきてるのよ >>88
「接」とは境界が繋がってること
境界は海でもいい >>87
魏志韓伝 東西以海為限南與倭接
東西は海で南は倭と接する
この記述が間違ってると言えよ 一応、学校教科書では半島は倭の色と別の色にしてあるな
奴国は博多辺りに白丸
邪馬台国は九州では熊本辺りに白丸で「邪馬台国?」
畿内では奈良辺りに白丸で「邪馬台国?」となってる
奴国は博多周辺確定なんだな 無理やりな解釈で史書が正しいなんて言い張るからわけわかんなくなるのよ
間違ってるもんは間違ってると言えよ >>95
まったく反論できず小学生のようにムズカる
九州説のいつもの敗退パターン >>95
どこが間違ってるか、書くのが良いと思うが。 放射説も陳寿がそんなもん書く分けないんだから
陳寿が間違ってると言えば良いだけなんだよ >>96
それ卑弥呼時代だと言うのか?
時系列無視して適当に当てがうのはペテン師のやる事だ >>102
どこをどう間違ったか書くのが理想だけど
俺は里数行程と日数行程は別物だと書いてる
だからつながった行程は間違いだと言っている >>102
>どこが間違ってるか、書くのが良いと思うが。
「接」するというのを地続きとトンデモ解釈するところが間違ってる >>104
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
後漢時代から続いてるから あらゆる分野の研究結果で半島南部に倭人が居たことが確認されている
それを無かったことにしたがるのは韓国人と韓国式畿内説のキナイコシだけ >>108
答えになってない
銅鐸文化圏は倭種の国なんだから邪馬台国とは関係無い
お疲れさん >>109
なんで畿内説だと半島に倭人が居たら都合が悪いか言えよ >>110
証拠もないこと言い張っても反論にならない
ご苦労さん >>110
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
後漢時代からずっと続いてる事だから
30国が入れ替わったとか考える方がおかしい >>111
投馬国が半島南部、北部九州が邪馬台国だから
帯方郡
↓ 南に船で20日
投馬国(半島南部)
↓ 南に船で10日
邪馬台国(北部九州)
↓
女王の都は上陸後徒歩すぐ
計一か月の道のり
郡から万二千里である >>109
>あらゆる分野の研究結果で半島南部に倭人が居たことが確認されている
それ、半島に倭人の国があったってトンデモ説と関係ないから 神話は当然話を盛ることも多いが、全部ウソとするのは違う
シュリーマンはただの神話と言われたトロイの木馬を発見し、エヴァンズもただの神話と言われたクノッソスを発見した
記紀も同様であろう >>113
朝貢の証拠の金印は福岡で発見されている
当時の福岡と出雲は無関係
以上 >>114
当たり前だけど北部九州が邪馬台国なんて思ってないから >>115
はいはいトンデモ考古学では真実がトンデモ扱いなのかw >>114
九州には上陸できない。
済州島の通過して、南西諸島へ至る 半島に倭人が住んでいたというのは、中国の歴史教科書にも書いてある事 >>117
無関係であろうが交易してなきゃ大量の青銅器が入ってこないだろうが >>120
真実だって証拠もなく
賛成者もいない
史料の解釈として妥当性もなく
考古学的にも完全に否定されている
それが九州(クズ)トンデモ説 魏志には半島に倭人が鉄をとりに来ていたと記されている
鉄器がトレンドな時代だ >>126
馬鹿部門には最新情報は届かない仕組みかもなw >>122
倭人が複数住んでいたのは確実
ただ、狗邪韓国が倭国かどうかは微妙 >>121
いやいや、畿内説でも必ず狗邪韓国→対馬→壱岐→福岡、このルートは鉄板だから 畿内説に言いたいのは瀬戸内海を通れない場合話が違ってくるでしょ? >>130
韓国って書いてあるんだから韓国だろうに >>117
移動できるもんだから
何ら証拠にならない。
以上 >>135
頭に狗
これは反目を意味する
狗奴国は反奴国の国という事 >>138
そうか?
青銅器のルートは日本海側または太平洋側から入ってきてるでしょう >>140
狗邪韓國の名前の事か?
別にそこに倭人が住んでてもおかしくないだろ >>131
北岸は、北の水ぎわの事だろ。
北岸を北に行くと水域があり、土地がない。 >>141
当然だな。
日光東照宮から親魏倭王の金印出てたら
日光が邪馬台国になるのか?
戦利品や掠奪品、盗品もありうる >>144
到其北岸狗邪韓國
東西以海為限南與倭接 中国の倭ってのは倭人の居住区だから
日本がどう認識してたとか関係ないから >>147
三国志の魏の時の匈奴居住区みたいなもんだよな
Googleマップないからそこにその民族が住んでいれば、その民族の国になる >>146
狗邪韓國とは水域で隔てられている。
という意味だろ。 >>116
シュリーマンはトロイアの発掘はしたが、トロイの木馬を発掘したわけではない
トロイの木馬の話は神話を基にした、紀元後、後期古典ギリシア文学時代の創作 ここまでのまとめ
精神論という非学問が畿内説の実態である 卑弥呼以死をどう読むか?
NHK FOR SCHOOLの小学生版だと、「卑弥呼もって死す」
中高生版でも「卑弥呼は西暦250年ごろに亡くなった」と
すなわち、いずれも「もって死す」を採用し、「すでに死す」は排斥されている。 >>152
現在の辞書だと「以」は、理由、限界を表すようです。
過去はその意味に無い。 >>110
銅鐸文化圏という、すでに否定された用語を使っている所を見ると、
30年以上前の知識からアップデート出来てないね。 >>152
だから250年頃まで生きていた可能性も全然ある訳だよね >>155
そういう固定概念しか無いのお前は非日本人かな?
銅鐸文化圏が存在したこと自体は確かな事実
それが何を意味するかを解明出来ず無かった事にして、
作り話に置き換えようとしてるのが畿内説 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>157
^_^間違いは訂正すれば良いんだよ。
誰でも間違いは有る。
>>156
無い
卑弥呼は正始年間中に死んだと記載がある 他人の墓を勝手に卑弥呼の墓に仕立て上げたり
古墳造営基地局を宮殿だと言い張ったり
建物を取り壊した後にカエルを食って桃は食べずに穴に埋めてただの
畿内説の低脳っぷりに予算削減というご褒美w >他人の墓を勝手に卑弥呼の墓に仕立て上げたり
ワロタw
それな
そこに私はいません。眠ってなんかいません >>161
お年寄りは頭が硬いなぁ、そうはなりたく無い。 予算を要求したのはパヨパヨ民主党じゃなかったっけ?
もし九州山門(甲類)に女王の都する所があったのなら、その場所は伊都国同様に「邪馬“都”国」と表記される筈
しかし実際には邪馬臺國となっている
乙類のヤマト、すなわち畿内ヤマトだという事に他ならない 山門は不弥国の南にあるが、畿内は南にはないのでアウトだな 7万戸あった痕跡もないし3Cの145mくらいの古墳もない
臺[dəi]と都[tɔ]は全然違う
山門は甲類だから都[tɔ]の方 言語学的知見から邪馬台国はヤマトで確定すると私は主張しています
なぜなら①3世紀の中国語辺境方言の発音で邪馬台はヤマド、②私は3世紀日本の方言分布を研究していて、狗奴国が東海地方の上代東国語であることが確定する
使者「都市牛利」は古代九州方言に一致するので辺境から派遣されています
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1517675638173634561
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 経路の問題に関しては
①日琉祖語において西と北が同じ言葉で表されるので通訳に混乱が生じている
②通説とは異なり瀬戸内海経由ではなく山陰の出雲経由でヤマトに入っている
③隋書に引用された古伝などと重複して、倭が大陸にいた時代の記述が混ざっているが卑弥呼の時代の話ではない
これで解決
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1517677735694696449
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>174
会稽の東に九州があるから魏志倭人伝の南の記載は正しい >>176
奈良の可住地面積は全国最下位だからなあ 出雲経由なら陸行時に西(南)に方向転換する話があるはずだよね 福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
2023/3/30 6:02
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1073771/ >>176
沖積平野の筑後平野と奈良盆地、
現代の広さでただ比べても無意味でしょう。
2世紀、3世紀のデータを元に比べる必要があります。 >>192
ニセモノにしたい気持ちはわかるが事実です >>194
あるあると言い張るだけで証拠なし
九州説は夢のまた夢 会稽之恥という言葉があるから会稽山は紀元前からあったと思うぞw つまり畿内説は仮説すら存在していないオレオレ詐欺ですよと >>197
24号線と212号線が通ってる場所を
揚子江南岸とか言い張っちゃうお脳の質に
全国が失笑 会稽郡(かいけい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて設置された。
揚州東部の長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。
wikiから >>205
不正確だな
越が呉を併合したので最大時は長江下流域まで含んでいたが
2世紀前半に呉郡が分離したので北緯30度以南となった
会稽東冶は北緯26度付近 >>207
魏志倭人伝では東治だからね。東冶とは違います >>206
九州説に真実はないから
いつも嘘ばかり >>208
場所は同じ
東冶以外に東治と呼ばれた場所はない 「東治」とは、中国古代の政治的な地域区分を示す用語で、ある地域を統治する役所や官署が置かれた場所を指します。中国古代の政治システムにおいて、地方行政の最高権力者である州・郡・県などの官庁が置かれた場所として使われました。 陳寿が郡と同じ緯度の場所から東南に1万2千里の場所を計ったら会稽だったのだよ。陳寿の推察はほぼ正解だった
https://i.imgur.com/Z0VPxpU.jpg 倭人伝では東治が正解。東冶は後漢書の誤りで梁書ではただの会稽に訂正されている >>90
だからその本州が連絡が途絶えた70カ国だろ。 >>111
倭とは半島南部の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までという定義が都合悪いんだろ。
畿内はおろか本州が中国の眼中にないことになる。
まあ、実際にそうだったのだろうけど。
>>84
こいつ弁辰狗邪國も知らないのか
>>93
「韓」の意味知ってる?倭じゃないのよ .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>115
国と言っても魏志倭人伝では集落程度の意味しかない。
半島南岸のリアス海岸にしがみつくように渡海基地があったのだろう。
半島南岸に拠点がないと制海権を握れないからね。
もちろん実権を握っていたのは、伊都の大率だろう。
女王国から北の海を検察していたのだから。
>>226
>当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
なんで勝手に奈良という呼称が無かった事になってんの? >>117
筑紫が出雲を下したため、制海権が完全に筑紫の大率のものとなり、九州の30カ国のみが後漢と交流できたのだろう。
出雲の国譲りだね。 >>140
地理的に半島であるというだけ。
後漢書に明確に倭の一部として描かれている。 >>147
そうだね。
中国の史書における倭とは、半島南岸の狗邪韓国から、九州北岸の倭奴国まで。
卑弥呼はその女王。 >>228
奈良市のあたりの事を最初は添(そほり)と呼んでいたみたいですよ
遷都で開発されて地が平されてナラと呼ぶようになったようです >>191
奈良湖のせいで、奈良はさらに不利になる。
生駒山を越えた河内も水浸し。
筑紫平野は有明海と博多湾の間の丘陵なので、川の水運を支えるけど水没なしw 畿内は女王国の東の海を渡り千里先にあった倭種の国
何を言っても単なる妄想 森博達や長田夏樹の時代から言語学が進んだ点として、中国語側では上古音から中古音への滑らかな繋がりが見えるようになっていて、日本語側では古代の辺境方言が明らかになりつつある
この知見に基づけば従来の邪馬台国研究のレベルは非常にクソ
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1520056172166127616
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>234
奈良湖は弥生時代には大幅に縮小してしまって、
むしろ稲作適地になりつつあった筈です。
筑紫平野の丘陵地よりは稲作に有利ですよ。
稲作が発展する時代に、忽然と現れた、人口も少ない稲作適地、
という感じではなかったかと。 >>244
教科書に載ってるのはね
でも実際は20年くらい前から歴博年表の前10Cが弥生開始
この板で考古学絡みで語ってる場合はほとんど歴博年表での弥生の時代区分 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>239
そのヤマト王権が九州から来たって言ってるのですけど?発音云々で「山門」ではないと?それは名前が似てる別の国じゃないですか?神ヤマト(邪馬台?)伊波礼毘古命が九州から奈良に東遷したとヤマト王権がそう言っているのだから何で無視するのか?で、卑弥呼は東遷前か後かだろ?
>>248
ヤマトとイワレはセットでしょ
ヤマトイワレヒコは、ヤマトのイワレの男って意味で、磐余があるのは奈良県だよ 神武が即位した橿原は、梶原や柏原と同源で、そもそも原というのが九州の用語で集落を意味する。 >>251
それは朝鮮語だよ
日本語の場合は平地の意味 >>252
畿内説を信じるのは万馬券を買うようなものですな 哀れなのは10年間ここのスレ立てを生き甲斐にしてきた人 無駄だよ、半島に倭人国が在るなぞ倭人伝には書かれていない、妄想以外の何物でも無し。それに加え対海国は九州、列島から見た国とは言えない。はっきりしない地域と言えるし祭祀も色々だろ、畿内卑弥呼には特別影響は無い、卑弥呼の将軍が監視しているからな。 >>221
>間に海があるのは接するとは言わない。
言うよ
これ、間違いない >>250
>奈良の地名の多くが九州からの移転だからなあ
奈良の地名も九州の地名も関東の地名も「阿波」からの移転だからなあ。 @阿波 >>260
はっきり言って、何言ってるかわからない。
妄想に浸りすぎるとこうなるのか? >>253
朝鮮語にそんな使い方がかるのか?
むしろ初耳なのだが?
九州には今でも原とつく地名は多い。 高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城
玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島の磐座が高天原
その名残が古墳時代の岩上祭祀
まあ、倭が半島南岸から九州北部にかけての国なら、朝鮮語と共通点が多くても当然か 甲乙の区別が分化したのが神武東征より後だったのではないか。
文献として残ったのは畿内訛りの方だけだし。 >>221
魏志倭人伝は、外国語で書かれている。
日本語と意味、使い方が異なることはある。 >>271
>文献として残ったのは畿内訛りの方だけだし。
文献として残ったのは「阿波」訛りな。 @阿波 >>271
>文化として残ったのは「阿波」踊りだけな。 @阿波 伊都はひみこ&おとうとの将軍によって治められてる地域。九州は畿内の支配下。 >>272
その中国語でも接するというのは接することだよ。
離れていたら接するとは言わない。
半島南岸に倭人がいたというのが魏志倭人伝。
伊都の大率の検察範囲だろうね。 >>278
そこで畿内が出てくる根拠はない。
九州北部が卑弥呼の支配地域、女王国だよ。
そして本州は女王国から東に渡海したところにある倭地。
魏志倭人伝の邪馬台国が九州であることは明白。 >>280
>九州北部が卑弥呼の支配地域、女王国だよ。
「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡。
特に鮎喰川下流域集落群のように集中して存在する所は、全国的にどこにも無い。
まさにこの鮎喰川下流域が女王「卑彌呼」が君臨した女王国なのである。 @阿波 >>280
>九州北部が卑弥呼の支配地域、女王国だよ。
「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳~と続く複合集落妄想遺跡。
特に蟋蟀喰川下流域集落群のように集中して存在する所は、全国的にどこにも無い。
まさにこの蟋蟀喰川下流域が半万年不毛の地阿波なのである。 @阿波 狗邪韓国と対海国とに別けてあるから、ここが接点だよ。三韓は国境が曖昧、混ざっていると記してあり韓と倭は初めて海を渡るで分けてあるだろ。いずれにしろ、半島南と北九州で100は無理で伊都の南九州に卑弥呼の鬼道の痕跡となるような地はない。 >>279
根拠なし
言い張るだけが九州説
学問ではない >>283
初めて海を渡るは郡使の行程の話だよ。
狗邪韓国と対海国が別だから何?
別の国邑なのは当然だ。
魏志倭人伝における国は、国邑と、支配機構に基づく国家と両方の使い方があるんたよ。
狗邪韓国は明らかに倭人の居住地。 >>273
ジャワにあった国がバリと接してる例が出てるうお
ないと言い張る九州説はトンデモ >>283
九州は30カ国だよ。
本州を含めると100カ国になるけど、途中で本州は大陸との交流が途絶えたんだよ。
記紀に照らせば、出雲の国譲りで筑紫が出雲から代表権を取ったのだろう。
魏志倭人伝に照らせば、伊都の大率が玄界灘の制海権を掌握したんだろう。
考古学的には、半島からの鉄の流入が弥生後期に九州に集中することに対応するだろうね。 >>286
>狗邪韓国は明らかに倭人の居住地。
任那忌部だ。 @阿波 >>288
>考古学的には、半島からの鉄の流入が弥生後期に九州に集中することに対応するだろうね。
それは、鉄器・鍛冶王国「阿波」だけだ。 @阿波 >>283
九州に特有の三種の神器の祭祀を郡使が見たら、鬼道と呼んでも不思議ではない。
時代はすでに古代神道が再立しているんだよ。
仏教伝来前夜だそ?
日本の歴史において道教なんて関係ない。 >>282
コラコラ、川の名前を勝手に改竄するなよ、
ゴロも合ってないし、捻りも効いてない、
ただ、コウロギ言いたいだけじゃろ。 >>251
九州訛では、原は「バル」というのでないの? >>296
だからさ、途中まで鉄が流通していたのに、なぜか九州が独占し始めるんだよ。 >>299
紛争地に武器が集まっただけでは無いの? >>298
そうだよ。
でも現代においてはハラに読みが転化する例もあるだろうし、畿内では早くからハラに鈍ったのだろう。
橿原だって、弥生時代の読み方はカシバルとかだった可能性がある。 >>300
九州では農機具や調理用の鍋とかもある。
他の地域では戦闘用が多い。 >>301
村という意味で使ってない
そうく使い方は朝鮮と北部九州 半島南部が倭人居住区だった事は学問の常識です
考古学は学問ではないので知らないのでしょう >>279
>半島南岸に倭人がいたというのが魏志倭人伝。
国はない 半島南部は雑居地で、倭人も住んでたって言う話では? >>307
>なんで同じで原の文字をあてるの?
日本語では平地や原野の意味で広く使われているから、朝鮮語を使っていた一部地域の地名を誤解して同じ漢字を用いてしまったのだろう 同じ畿内でも、大阪の柏原はカシワラと読むくらいだから、畿内と九州で同じ語がかなり訛りにより発音が変わるのは明らかだ。
ヤマトのトの甲乙など、畿内と九州の訛りの前には無意味だな。 >>306
>半島南部が倭人居住区だった事は学問の常識です
証拠がない
九州説信者が理由なく言い張っているだけ >>315
>大阪の柏原はカシワラと読むくらいだから
カシワバラの音便
全国共通 >>320
ほら、九州説は反論がsできず罵るだけ
学問じゃない ちなみに九州で柏原といえば福岡県と鹿児島県。
関西だと滋賀県と兵庫県。
某ブログでは、読みは「かしはら」「かしわら」「かいばら」「かしばら」「かせばら」「かしわはら」「かしわばら」「かしわばる」「かしょうばら」「かしわっぱら」とのこと。
柏原以外の表記は「樫原」「橿原」「加志波良」「貝原」「皆原」「栢原」 >>305
神武の橿原は集落だろうね。
神武自身が九州出身だし。
環濠集落から転化して城の意味もあるそうだ。 >>313
それは後世の日本語で、倭と呼ばれていた頃は違うのだろう。 >>310
魏志倭人伝における国には、国邑とか集落の意味がある。
半島南岸の倭人の集落が狗邪韓国。
戸数の記録がないところを見ると、非常に小さな集落だったのだろう。 >>314
大阪平野もまだ同時は氾濫原だったのだが、開墾に必要なはずなのに使わせてもらえなかった。 >>324
甲乙とか、地方の訛りの前にはどうでもよくなるな。 >>328
泥なので必要がない
石ころだらけの九州で必要だった >>332
強がりを言うんじゃないよ。
煮炊きにだって鉄鍋の方が便利だろう?
君の家ではまだ土鍋を使っているのか? 当時文字は無いんだから地名人名はカタカナで書けよ
ややこしい >>330
そういう訛りだったという証拠がない
古代朝鮮語では集落のことをプル、ポルといい、火とか伐とかいう漢字を当てていた
原をバルと呼ぶ地名の9割は九州で、壱岐では触の字も使われている
村の意味で使うのは朝鮮語が使われていた地域で、集落だから指す面積が狭い
畿内では倭人語で平野、原野の意味で使うので面積が広い >>333
「商人は?」と聞かれてお天道様と答えるような
九州説らしい低レベルさだ
具体性がない >>337
っていうか倭で鍋って一般的じゃないから
煮物は甕でする >>311
そうだよ
半島南部はそういう地域だったんだよ
倭人はそれを投馬国と呼んでいた
それだけの事よ >>343
半島南部から奴国含む北部九州一帯が女王国だから >>344
倭人在帶方東南大海之中依山?為國邑
島全部倭なんだよ
それでなんで北部九州が極南界になるんだよ? >>336
九州だって、狭い地域にたくさん原地名があるから、集落のことだよね。
古い倭語をあなたが勝手に朝鮮に限定しているだけ。
そもそも倭とは半島南部から九州北部にかけての国だから、言葉も共通なのが当たり前。
原をハラと読むのが東の倭種の方言。 しかし奈良の橿原は、奈良盆地のごく狭いエリアだけを指すから、九州の使い方だね。 >>349
全部倭だから
別に何処の誰が朝貢に来ても良かったんだよ 日本政府は領土問題で嘘をついている。
国境線は戦争によって変わるものだし、領土というものは歴史のある時点からその国の領土になったのであって、国家が誕生するまでは世界中のどこの地域も無主の地だったから「固有の領土」なる地域はそもそも存在しない。
日本政府が主張する「北方領土は我が国固有の領土」「竹島は我が国固有の領土」「尖閣諸島は我が国固有の領土」というのは国家の政治的主張にすぎないのは自明であるし、そもそも国際法には固有の領土を規定した条文が存在しない。
さらに言えば「固有の領土」という言葉の国際社会共通の定義すらもない。
日本政府の領土問題に関する主張を支持する国は世界中に一つもないことは言うまでもない。 沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに2022年5月15日に行われた沖縄復帰50周年記念式典の式辞で岸田首相が自ら証明してしまった。
その証拠に岸田首相はその式辞で沖縄について「戦争によって失われた領土」と発言している。
一方で、外務省は固有の領土の定義を「一度も他国の領土になったことがない領土」と説明している。
岸田首相が言うように沖縄は戦争によって失われた領土だったなら、外務省が説明している固有の領土の定義に合致せず、沖縄は日本固有の領土ではないということになるし、その沖縄に属する尖閣諸島も日本固有の領土ではないということになる。 >>350
実際に来て金印をもらったのは、博多湾の沿岸だったのが事実。 毎年のように朝貢に来てたのに倭奴国や帥升や卑弥呼の朝貢は特別だよね
毎年朝貢に来てたのは半島の倭人じゃないかと思うんだけど >>341
それは倭の王都から離れた雑種の地域のことだろ。 >>358
倭の極南界にあるのが倭奴国でしょ
なんで福岡なんだよ? 俺の説でも半島と列島の二つに分けて列島が極南界だと思ってるから
別に福岡でも良いんだけどそうじゃないんでしょ? >>357
証拠なし
九州説、いつも言うこと証拠なし
言い張るだけ
そして紹興が揚子江南岸とか
一億人に一瞬でバレる嘘を平気でつく
それが九州説 後漢書の筆者は、雑な反逆事件やらかして一家揃って死刑になるような人物で
著書にも雑なとこがあるので要注意 YouTubeが発達するにつれ、邪馬台国論争に加われなかった素人が九州説になびいてる
YouTubeもほとんど九州説
中国人も九州説
九州説でほぼ確定なのを考古学でどうにかイーブンに持っていこうと頑張ってる状態 当時の知識は物凄く大雑把でピンポイントの場所を指してるわけがない
それでも極南界と書いてるんだしそれは鹿児島とか和歌山じゃないし勿論福岡でもない
もっと大雑把 >>367
知らん
奴国なんて存在しないんじゃないか?
金印を貰ったのは倭奴国だ >>348
>しかし奈良の橿原は、奈良盆地のごく狭いエリアだけを指すから
樫の木の生えた原野なら広い森だろ
大阪の柏原と二つに分かれたんなら相当広い >>369
絶対に調べないで妄想するか嘘をつくのが九州説 極南界ってそもそも魏志倭人伝には出てこないからな
范嘩が魏志倭人伝を読んで勝手に解釈したんだろう
確かに、魏志倭人伝を読めば一番南にあるように思えなくもない >>364のように全く証拠を出さないで言い張るのが九州説
韓国の愛国者さんにそっくりですね >>359
極南界は范嘩が勝手に使った言葉
魏志倭人伝を読めば、奴国が邪馬台国より南にあったはずがない
女王国以北は道程を記載できるとしているが、次に◯◯国ありの部分は、北側にないから詳細を記載できないだけで、西と東にあったと考えられる
南には狗奴国がいるので、邪馬台国より南に奴国があると考えるのはおかしい >>370
間に山地があるから別の地域だね。
つまり橿原や柏原はかなり狭い地域を指す地名だ。
原っぱではなく、集落だろう。 >>374
後漢の時は倭奴国までしか知られていなかったんだよ。
魏のときに伊都国や奴国まで郡使が来て、さらに南や東の海の向こうにも倭人がいるということが知られた。 紹興が揚子江の南岸と言い張るのが
九州説の異常さだよ >>375
カシハラもシキも大阪・奈良両方にまたがってある
元ひろい地域名だったんだよ 中国って、15世紀まで沖縄と台湾の区別もついてなかったんだぜ?
どんだけの確度を保持してたと勘違いしてるんだ?
会稽から東に何があるかなんてGoogleマップでも見なければ分からない
船を出して黒潮に乗って「まあ東だろう」ぐらいの認識 >>379
計算するとちょうど東
と陳寿が書いている
九州説は倭人伝無視 あらゆる科学とあらゆる学問、あらゆる証拠を無視して
とにかく九州に決まってる
とだけ連呼するのが九州説だから >>379
その会稽を揚子江南岸と言い張るのが
うそつき九州説ですね >>381
それ畿内説の自己紹介でしかないが?w
箸墓古墳がなぜ卑弥呼の墓なのか説明してみろ 古今華夷區域總要圖とか混一疆理歴代国都之図とか四海華夷總圖とか見たことないのかな?
あれ見ても、中国人はGoogleマップアプリ持ってたの? 箸墓古墳は、古墳なので弥生時代の卑弥呼の墓の訳はない。
古墳とは古墳時代に造られた大型墳丘墓の事を指す。
よってどう転んでも年代は合うわけない。 >>374
どれだけ詳しく知ってると思ってるんだよ?
国名は挙げてても地形なんて全然知らないよ もっとも、箸墓古墳を古墳時代、最初期に造られた古墳で、
箸墓古墳以降を古墳時代とする意見が有るのは承知している。
ちょっと強引な説だと思うけど。 >>347
>原をハラと読むのが東の倭種の方言。
それは集落という意味ではない
別の言語 >>385
>箸墓古墳は、古墳なので弥生時代の卑弥呼の墓の訳はない。
「弥生時代の卑弥呼」という理由は? >>390
>大きいものが最初というのもおかしな話だ。
大きいものが最初という理由は? 隋書 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
昔はこのように言われていた >>383
>箸墓古墳がなぜ卑弥呼の墓なのか説明してみろ
年代が合って径100余歩に該当
共立された初代倭国王の墓と推定できる特徴を備える >>392
数年前にここの畿内説がよく言っていただろ
卑弥呼の墓が当時最大であり最初の古墳だと主張してただろ
で、俺が最大を作る時点でそれより小さい古墳があったという事だから箸墓が最初の古墳な訳ないだろと突っ込んでた >>394
箸墓古墳は年代不明で径200歩弱ですが?
証拠どころか根拠にすらなり得ない遺物で非論理的霊感商法を使って卑弥呼の墓だと言い張ってるのが
ザ・畿内説だ 混一疆理歴代国都之図を見れば分かるが、朝鮮半島や山東半島はわりと正確に描けてるのに対し、日本やインドやアフリカはめちゃくちゃ
インドとアフリカの緯度が朝鮮半島と同じ
日本はインドやアフリカよりも南にある
あの時代にGoogleマップなんてないんだから、海を挟んだ真東には何があるのか?遠くの国の真西に何があるのか?なんて知りようがない >>394
>共立された初代倭国王の墓と推定できる特徴を備える
年代が合わず、径100余歩にも該当しない。 @阿波 【考古学とは】
記紀や中国史書などといった正史として認められている記録文献を精神論で否定し、たまたま掘り出した遺物から希望的観測で想像した「僕の作文」こそが真実なのニダ!
と言い張るだけの簡単なお仕事です
by 畿内説 其人壽考或百年或八九十年
つまり歳なんか数えてないし適当な事をいったんでしょう 古墳時代の始まりは、畿内で大型の墳丘墓(古墳)が造られるようになった時点と言うのが目安になっています。
箸墓古墳が初めての(古墳)で、卑弥呼の死後に造られたものとすると、卑弥呼は弥生時代に生きた人で、
卑弥呼の墓の造営によって古墳時代が始まった、と主張するのは間違いではありませんが、
そうすると、古墳時代の始まりが、数十年早くなる事になり、
歴史編年の見直しが必要になります。
それがもし事実なら、勿論そうすべきですが果たして・・・。 原始道教の集団が現れたのはもう否定できないんだな。ただこれを認めるとな…というのは察するよ。
だが、いまやもはや箸墓が卑弥呼の墓であり、この列島の骨を拵えたのだな。度量衡は魏尺であり北枕。方形臺地に真南の円丘。神獣鏡、斉宮太一、それに山奥に桃。
中華鬼道に溢れた場所だよ。無駄だね、覆すのわ。 鑑真も日本に行く時、沖縄を経由している
ただし、あの辺は波が荒く、1回目は暴風で失敗、2回目は目的と全然違う海南島に漂着
3回目でやっと35日かけて沖縄に到着し、鹿児島に上陸した
会稽から直接日本列島に行くバカなんていない
ましてや3世紀 投馬が半島南だ!
畿内は東の倭種の地だ!と言い張ろうが、中華度量衡を使う神仙思想が畿内に存在しているのだよ。九州説はまやかしに過ぎない。 >>408
普通にカシの木が生えてた原っぱだったのでは? >>407
崇神天皇の時代なら、皇宮に八咫の鏡を祀っていた時代だから、道教ではなく神道だよ。
一部が道教の要素に見えたとしても、全体としては日本の固有の神道なんだ。
それを外国の宗教だと言い張るのはおかしい。 >>411
ヒント
橿原に即位した神武天皇は九州男児 >>408
>じゃあ橿原の地名の由来は何なんだ?
橿原の地名の由来は、阿波市土成町樫原の「樫原神社」由来。 @阿波 菊の十六紋を神紋とする「神武天皇を祀る樫原神社」
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが
「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武天皇の元名・「神倭伊波礼毘古命」とし、菊の十六紋を神紋とする。 @阿波
http://www.awainbe.jp/info/20190426/
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>411
少なくとも柏原が同じ由来なら、単純にカシノキではないはず。
貝原なども同じ地名だとすると、まったく植物が関係なくなる。 >>415
阿波には東武ワールドスクエアみたいなもんがあったのか?
何なんだよ。
江戸時代あたりに仕掛け人がいたのかな? また、崇神の登場か、その書物によると崇神も紀元前ではないのか?新羅から朝貢も受けたのか?
その書物は箸墓は百襲と断言し崇神の墓より大きいだろう?何故だい?
曖昧で参考にしかできない物だよね。 >>418
>江戸時代あたりに仕掛け人がいたのかな?
8世紀だよ。 わははははは @阿波 >>418
>阿波には東武ワールドスクエアみたいなもんがあったのか?
8世紀の遷都後に、奈良に東武ワールドスクエアみたいなもんが出来た。
仕掛け人は、阿波の人。 @阿波 1507年のドイツ人ヴァルトゼーミュラーの地図はヨーロッパや北アフリカの緯度がほぼ正確
赤道も正確
しかし、ジパングリ(日本)だけは多分中国人が作った地図をそのまま採用した為、縦長で島の上部分を北回帰線が通り、下部分は緯度7度ほど、赤道ギリギリ
会稽の東とかクソテキトーで無視して良い >>410
八世紀頃はな
卑弥呼は2世紀から3世紀前半であり倭国大乱と狗奴国との戦争の狭間だ
畿内にそんな痕跡は無い >>410
お前の勝手解釈は妄想、半島南部が倭人居住区だったというのはグローバルスタンダードであり遺伝子研究など多分野における研究成果 植物名辞典
檍
読み方:アオキ(aoki)
常緑樹の称,柾の別称、または、桑の品種
檍
読み方:アオキ(aoki)
ミズキ科の常緑低木、園芸植物、薬用植物
学名 Aucuba japonica
檍
読み方:アワキ(awaki)
黐木・橿木などの総称 ほぼ確実にカシハラと発音する地名
■ 橿原(かしはら): 石川県珠州市
加志原・柏原とも書く。能登半島北東部、鵜飼(うかい)川下流左岸に位置する。地名は、地内の広国村に鎮座する加志波良比古神社に由来し、加志波良比古神社は式内社と伝える。 >>423
東武ワールドスクウェアってミニチュア集めたテーマパークの事だよ。
んなもん古代に無いわ。 >>432
田舎者でバカなヤツ相手に東武ワールドスクウェアで例えたアンタが悪い >>408
>じゃあ橿原の地名の由来は何なんだ?
橿原の地名の由来は、阿波市土成町樫原の「樫原神社」由来。
菊の十六紋を神紋とする「神武天皇を祀る樫原神社」
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが
「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武天皇の元名・「神倭伊波礼毘古命」とし、菊の十六紋を神紋とする。 @阿波
http://www.awainbe.jp/info/20190426/
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ >>430
橿原、柏原の橿は紅葉樹の一般名称であるという説を読んだ。
そうすると、常緑樹の一般名称であるアワキとは対になるが別の概念ということになる。
もっとも、倭国王都である伊都国の港であるアワキハラに対して対となるカシハラがヤマト王権の神武の即位の地の名前であるというのは、非常に興味深い。 橿が檍と同義だとすると、神武の即位の地名は筑紫の日向の小戸つまり伊都国の地名と同じということになる。
伊都国から来た王族が、かつての都にちなんで同じ地名をつけたのだろう。 アワキハラは集落の名前だろうとは思っていたが、カシハラと同じ意味だとは思い至らなかった。
大発見でちょっと関心している。
しかし、画数が多い字はスマホでは読みにくいなあ。 ■ 大祓の祝詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす 東武ワールドスクウェアは関東人と東北人以外はほとんど知らんだろw 東武ワールドスクエア
栃木県日光市鬼怒川温泉大原
この原も集落かの? >>395
>卑弥呼の墓が当時最大であり最初の古墳だと主張してただろ
学問的に、定型化以前を弥生墳丘墓、以後を古墳と定義してるだけ
>で、俺が最大を作る時点でそれより小さい古墳があったという事だから箸墓が最初の古墳な訳ないだろと突っ込んでた
無知だから >>429
>お前の勝手解釈は妄想、半島南部が倭人居住区だったというのはグローバルスタンダードであり遺伝子研究など多分野における研究成果
証拠なし >>406
>そうすると、古墳時代の始まりが、数十年早くなる事になり、
>歴史編年の見直しが必要になります。
>それがもし事実なら、勿論そうすべきですが果たして・・・。
もう教科書に三世紀中頃から古墳時代と書かれてますが 畿内説に聞きたい、張政はどう言う行程で箸墓を見たというのか? >>441
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
>つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
「つくしのひむか」は北部九州にありません
あるのは「ひなた」峠 >>445
>学問的に、定型化以前を弥生墳丘墓、以後を古墳と定義してるだけ
これが典型的ご都合定義なんだよ
考古学が馬鹿にされる最大理由w
定義と言いつつ、こじつけや非論理的な条件付きだったりで頭悪って言われるだけw >>446
>もうそれ無意味な定義だからやめたら?
無意味という理由は? >>452
>定義と言いつつ、こじつけや非論理的な条件付きだったりで頭悪って言われるだけw
「こじつけ」とか「非論理的」とかいう理由は?
理由のない罵声は、非論理的で頭悪って言われる >>455
>行程では畿内には行っていない
という根拠は? >>458
「阿波」に行く行程が書かれているだけ。 @阿波 >>451
読み方が時代によって変わっただけ。
小戸は現在の福岡市西区小戸。
小戸で生まれたのが博多住吉の神。 不弥国から畿内に向かった場合、日本海ルート瀬戸内ルートは共に概ね東に進む事になります。進行方向から日が上り、夕陽を背にして漕ぎ続けるわけですから、ずっと右手が南になるのです。この状況を魏使が南に水行と間違えるはずはないでしょう。これを持ってしても畿内説はありえないのです。
https://i.imgur.com/RoMTxnw.jpg ヒムカがヒナタになつたり、アワキハラがカシハラになるくらい日本語は流動的なので、ヤマトのトが甲か乙かなんて、実に無意味だ。
どうせ今でも九州と関西と関東と東北ではそれぞれ別の発音で話しているくらいだし。 >>456
畿内説統一教会が論理性を理解できないてことを裏付ける返答乙 明治になった時に標準語を制定したのは、あまりにも方言がひどくて日本軍の中で話が通じにくかったからからだという話もあるくらい。
ゴールデンカムイでも明治の薩摩軍人の発音が通じない話しが出てくる。
まして交通の便が悪かった弥生時代なんて… >>461
>この状況を魏使が南に水行と間違えるはずはないでしょう。
畿内説は「間違った」と主張していない
存在しない主張をいくら否定しても
反論にはならない 日本語には過去2回の大きな文法上の変化が知られている。
700年頃と1600年頃だ。
1600年頃は政治の中心が関西から江戸に移った頃だ。
学校で学ぶ古文が江戸時代の文書ではなく平安時代の文献なのは、江戸時代はすでに近代で現代文と近いから。
では700年頃の上古文から古文への変化は何が原因だったのか。
そこにも大きな政治的な変化があり、九州から関西への政治の中心の移動があったのではないか。 >>466
結局、畿内説は郡使がどうやって九州北部から畿内まで移動したのか、まったく説明できていない。
行ったという証拠もない。 >>469
仮に、畿内の卑弥呼がちょっと来いと言ったら
それを伝えるのに2か月
連絡を受けた一大率が来るのに2か月
計4か月w
とことん当時の状況を読めない妄想家ってw >>466
もちろん魏使は間違った事は記していないのだよ 次から次に巨大古墳を造ってた畿内って相当ヒマだったんだろうなw 弥生時代と古墳時代を一つにして、筑紫倭国時代でいいのだろうと思う。
白村江の戦いまでは倭国と呼ばれていたことが確実。
日本の国号の使用で明確なのは701年の大宝律令からである。 >>472
つまり郡使が滞在した倭の王都は伊都国。 >>470
>と煽ってるだけで何も反論出来ないお前
なにに反論? >>479
記紀
八世紀ごろだ。
中国書
隋書からだな >>477
>結論としては張政は箸墓を見ていないという事だ
そんな結論が出る理由は? 宋史日本国伝では築紫日向宮に代々いたとある。
新唐書では筑紫城になっている。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 正直俺も基盤の弱い共立王の分際で呑気に墓なんか造ってる場合かよとは思うけどさ >>461
だから、「阿波」に行く行程が書かれているだけ。 @阿波 宋史日本伝は、基本旧唐書を踏襲している。
ちょうねん、坊主までこういうことを言っている国だ、と記されているだけ。 >>473
>次から次に巨大古墳を造ってた畿内って相当ヒマだったんだろうなw
違う。 大洪水で荒れて、墓地ぐらいにしか用がない土地だったのさ。 @阿波 >>485
>見たという証拠が無い
それが「結論としては張政は箸墓を見ていないという事だ 」という結論が出る理由
のつもりなら
確実に薄馬鹿 >>483
>宋史日本国伝では築紫日向宮に代々いたとある。
築紫国ではない。 @阿波 >>449
へー今の教科書はそうなんだ!
流石に知らんかったわ。 要は箸墓古墳ができたのが古墳時代の始まりって事だろ?
そんな区分どうでもいいわ >>497
張政が箸墓を見た証拠があったら九州説が即死なんだが
わかってるのかな? >>503
根拠でないと思いたい願望でしょう
反論が出来ないのだから >>495
という畿内説のコメントが記載されてるというだけの話
学者は間違ってたら後で訂正すればいいからってノリで適当な思いつきをコメントしてる 九州説は卑弥呼の墓が径百余歩と書かれた事実を合理的に説明できないでしょ? >>506
毎度テキトー思いつきをコメントしてる九州説 >>507
径百余歩とは、陳寿が殉葬百余人という記録から推測した歩数だよ 箸墓古墳の後円部径は160mであり、径百余歩ではなく径百十余歩が正しい >>510
なんで張政は卑弥呼の墓を見たこと無いの? 径百余歩だけをチェリーピックしてる畿内説学者なんて居ないし居たらトンデモ学者だよな >>513
張政なんて関係無いだろ馬鹿
陳寿は箸墓なんて知るわけもなく単に当時の記録からアレコレと想像しながら文章を書いていたわけで >>516
都合の悪い文言は不要ってか?w
畿内説が霊感商法と言われる所以w >>515
>張政なんて関係無いだろ馬鹿
張政はまちがいなく >>494
コオロギってパソナ案件やったんか?金の亡者だな。邪馬台国まで金にしたいと? >>515
張政は間違いなく北部九州を通ったのに
卑弥呼の墓を見ていない
そういう主張でいいんだね? 古墳の大きさを他人に説明するとき、ふつうは全長を伝えるものだが、
なぜ後円部径を伝えたと思うのかも不自然 前方後円墳という特異な形状に触れてない時点でお察し。 >>521
妄想乙
陳寿が手にした記録が何だったのか?というのをよく考えるべきなんだよ
普通に考えて魏の保管記録=朝貢記録だろ
つまり陳寿が手にしたのは倭人のコメント集なんだよ 後円部が天、墓だと知っているからだろ。
倭人は100歩を知っていて教えてくれたというのか?それでもいいが、卑弥呼以死~、ちゃんと見て報告されてる。 >>522
そうですね。
大きい墓を造ったから、大きく言うだろうね。
大きく造って小さく言うのは理屈に合わない。 >>525
>卑弥呼以死~、ちゃんと見て報告されてる。
「阿波」でちゃんとな。 わははははは @阿波 >>488
しかもすぐに完成している
張政がいる間に >>531
>しかもすぐに完成している
だから、裏山。 @阿波 >>531
>しかもすぐに完成している
だから、気延山。 @阿波 まさか畿内説の間抜けって魏使が畿内に行ったと妄想してんのか? 「大作家」を、大いに墓を作った。
と言ってる人もいるが。 正直キナイコシの書き込みはキモい人柄が現れていると思う 魏 = 高木神 = タカミムスビ
「魏」の部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典
音読み: ギ; 訓読み: たかい.
意味. ①高く大きいさま。「魏魏」「魏然」 [類]巍(ギ)
②中国の王朝。また、国の名。「魏志」「魏書」 ...
黄幢がヨロズハタの栲幡千千姫
黄憧がオモイカネ
タカミムスビは魏のことだった!
女王アマテラスと一緒に狗奴国に国譲りを迫った!
答え見えてます! 会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg >>524
>普通に考えて魏の保管記録=朝貢記録だろ
なら径100余歩とか殉葬の人数とか何故書いてあるわけ? >>522
>なぜ後円部径を伝えたと思うのかも不自然
いや、自然でしょ
例えば全巻の皇帝陵は方丘の正面に寝と呼ばれる建物が伴うので前方後方型になるが、方丘部分しか記録されてない
前方後円墳を見ても円形の墓と付属設備に見えるよ >>542
倭人が卑弥呼の後を追って100人以上が自害したと報告した >>548
その倭人、張政と一緒だぞ
壹与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺
張政はどうして黙ってるんだ? >>549
いつも理由の言えない九州説は知能がない >>547
通路のサイドの植林は陵ではないぞ
チリトリ型だろうに 曹操陵も中はドーム型だから、天円になっとるんだろうに。天円地方の本家に何文句つけてんだ。 円墳と方墳なら円墳径と辺長を伝えるのは全然ふつうだよ
だが前方後方墳の場合は全長を伝えるのがふつうだろ 🐢かん墓に入っているのは阿人だよ。魏志韓伝を何度でも読め、竈信仰の阿人様だろ、阿蘇を竈神と祀る秦王国、宇佐だろ。 >>554
前方後円墳の前方部は祭壇であって墓ではない
メインの被葬者は後円部に埋葬される >>560
漢代のものも建物が残ってないだけ
陵の正面に方形の建物があったので平面形は前方後円型や前方後方型 >>550
>張政はどうして黙ってるんだ?
しらんがなw
>>515
陳寿関係ねーだろ
魏略逸文知らないのか? .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>566
また論破されて思考停止で現実逃避する九州説
畿内論者集反転攻勢の時!みんなyoutubeに動画上げまくれ!
我々が黙ったままじゃネットはもっと九州説で氾濫してしまうぞ
Youtubeで畿内説・ネットワークを形成しよう。とりあえず岡上って人のチャンネルは登録しといたが
岡上さんって卑弥呼の墓は寿陵と考えればいいとしても
①男王立つ
②千人死ぬ
③臺與擁立
が全部正始8年中の出来事だと考えてる? >>569
論破とか言ってやがるwww
自己紹介乙w さて、根拠がすべてガセだと明白になってしまった畿内説がこの先生きのこるには・・・
内行花文鏡の件で岡上って人に論破されて悔しいんだけど、なんとか「画文帯神獣鏡>内行文花文鏡」だった状況証拠みたいなの見つからないかな
琪瑛教大祭酒さん、畿内では内行花文鏡より画文帯神獣鏡の方が格上として扱われていましたよね? >>576
鏡種に貴賎あるの?
図象の意味って本当に理解されてる?
大小で比較されてるだけでは?
作りやすい幾何紋様だから倭人にも大きく作れただけじゃないの?
ダ龍鏡とか上手く作れてないし 根拠が誇大妄想な畿内説と対話するのは時間の無駄です。
邪馬臺国の場所は魏志倭人伝にちゃんと書いてありますので。
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>572
youtubeってw
そもそも邪馬台国動画を見たがるような人いないからw
>>582
数十万回再生されてる動画が何本もあるぞ
しかも軒並み九州説と来た。世論が九州説優勢なのはネットを通じた世論工作による賜物 >>580
>根拠が誇大妄想な畿内説と対話するのは時間の無駄です。
それ、逃避
東京書籍の教科書も、邪馬台国記事に何故か吉野ケ里遺跡の写真載せてるし
あらゆるメディア&権力が畿内説を潰しに来ている
畿内論者は声が小さいから、いつの間にか天動説並の反知性主義集団が跋扈するようになってしまったんだよ
もっと声を上げなきゃダメ >>587
加害者による被害妄想乙w
纒向遺跡が宮殿???w
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png ちょっと引用させてもらいます
https://note.com/duke315/n/nb93fdd3a76c0
どの教科書も肝心な「魏志」にどう書いてあるかについて全く触れていない件w
【倭人伝】
・倭の北岸である半島南部の狗耶韓国から海をわたり対馬・・・
・邪馬台国は南方です
・女王国の東に海がありその先にまた倭種の国がありました
【韓伝】
・韓国は東西は海に接し、南は倭と接していました
・半島南部の鉱山には倭人が鉄を採りにきていました >>576
無理だろ。
神宝八咫鏡が内行花文鏡だし。 >>415
そんな江戸時代の神社でいったい何を証明出来るって言うんだ?バカか?
そういえば公孫淵の子孫が「常世氏」て名前なのなんでだろ
大陸って常世だったの?
公孫淵の子孫というか自称してるだけだけど
いや平原大鏡が後の八咫鏡である事は動かぬ事実だよ
でもあれって八葉座&超巨大だから価値があるんだろ。有象無象の四葉座花文鏡の価値なんて画文帯神獣鏡未満じゃね?
【八】頭花崎【八】葉で円周が【八】咫
この「8」への拘りようはなんなんだろ
>>600
いやわかるやろ
記録されてるやん
八頭花崎八葉の特徴具備してる鏡って平原大鏡しか存在しなくね? 女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
里数があるから
一大國(壱岐)から東の宗像、福津周辺だな。
唐古鍵遺跡の首長って磯城縣主になったのかな
実は私は畿内論者なのに人生で一度、数年前の修学旅行でしか奈良県に行ったことがない
箸墓古墳前に博物館とか出来れば行くんすけどね
奈良県ってあんなに観光資源あるのに行政が活かせて無さすぎじゃね?どうやったらあんな無能になれるんですか
京都と比べるとますます地方行政の怠慢にしか思えない
JR三都物語にも入れてもらえず悔しくないのかね
【百襲姫=卑弥呼説】
視聴回数10200
高評価率は93%
https://i.imgur.com/1heVNen.jpg
一本動画上げるだけで単純計算9500人を畿内説側へ引っ張ってこれたということ
Youtubeの威力は絶大だな
倭迹迹日百襲姫命の「迹迹日」は「鳥飛」であって
①倭[ヤマト]
②鳥飛[トトビ]
③百[モモ]
④襲[ソ]
⑤姫命[ヒメノミコト]
すなわち『①ヤマトの國に御座す②魂が飛び立ちて③あらゆる姿を④重ね着する⑤高貴な女性』ということになる
彼女の脱魂型シャーマン的性格を形容した名前だろう
弥生時代の絵画土器に鳥装シャーマンが多く出現する理由はおそらく、古代人が鳥を人間の魂を運ぶ存在だと捉えていたからであろう。
自らを「魂を運ぶ鳥」に擬することで祖先の霊や常世との交信を試みたというわけだな。モモソヒメも鳥=脱魂型シャーマンであったわけだ
https://i.imgur.com/HZMpsGN.jpg
https://i.imgur.com/LPu9jAn.jpg >>592
>そんな江戸時代の神社でいったい何を証明出来るって言うんだ?
奈良県橿原神宮は明治二十二年の創建ですが? わははははは @阿波 >>584
YouTubeの邪馬台国動画で再生数が多い所は
なんか変なカルト宗教のリーダーがやってて
信者が再生数上げてたりするから信用ならんぞ
コメ欄見てみ。気持ち悪いぞ 鏡は1.に出てるだろう、卑弥呼の時代は、広漢西蜀でつくられた物。
花文鏡は一世代前の話で大衆用の安物。
八咫鏡で注目されてる、させようとしているだけで八咫鏡を見たものはいないんだから。
曹魏の時代は神獣鏡だよ、曹操も鉄鏡のほか臺一鏡が出てんだから。 >>573
お、トナカイさん、ご質問有難う。
もちろん全て正始八年中の出来事だと考えますよ。正始八年から始まる記事ですからね。
翌年に跨るなら、編者は「明年、云々」と書けば済む話ですからね。
百歩譲っても正始年間中まででしょう。譲る合理的な理由もないんですけどね。 >>576
論破とかは別にどうでも良いですが、悔しい思いをする必要は無いですよ。
実態として畿内でも大型内行花文鏡が優位(レイヤー最上位)なんですから、
それを素直に捉えるだけで良いんですよ。
たしか最近書きましたが、畿内の大変化は銅鐸→銅鏡 への宗旨替えが一回だけあり、
時代区分も弥生から古墳への一回限りです。画文帯に浮気している暇なんてないんですよ。 トナカイさん、あ、あとチャンネル登録有難う御座います。
精密読解シリーズに、正始八年問題をトコトン説明していますので、
是非通してみてくださいね。youtubeに削ぐわないほど、詳細に説明しています。 記紀編纂した奴らでさえ
神功皇后を卑弥呼にして九州の話にしてんのにw >>622
>記紀編纂した奴ら
記紀に、「阿波」に王都があったなんて書くわけがない。
ついこの間、「阿波」から引っ越してきたことは、記紀の編纂者も含めて、
当時の奈良大和の人々(元阿波人)は、みんな知り抜いているんだから。 @阿波 「邪馬台国はどこだか決められないが九州のどこかだ」じゃ説にならんだろ >>626
邪馬台国九州説に分類できる説はある(あった)が
邪馬台国九州説という説はない >>585
中国には日本人の知らない文献が多く残存していると思われ >>633
邪馬台国九州説という説はない
あるなら存在を証明してみろ
出来ないだろ >>634
焚書坑儒の歴史もある中華帝国でっせ。
孔子さんの教えの本は日本に残っていて、
中華帝国には残って無かったり。 なるほど
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模) >>633
証拠のないことばかり言い張る九州説は
日本のスシが韓国からのパクリだと叫ぶ人々に似てる 史書との整合性について一貫した説明が全く出来ていない畿内説はオワコンどころか始まってすらいない訳か >>638
陳寿の書いた行程を間違いだといい出した九州説は
「邪馬台国は九州にあった」と主張する理由を失った
死亡確定 >>642
いつもまったく理由の言えない九州説は宗教 >>640
>史書との整合性について一貫した説明が全く出来ていない畿内説は
出来ていないという証拠は? >>643
と、何の反論も掲げず誹謗中傷を繰り返すだけの低能畿内説w >>645
>>580のようにA4一枚で解説してみろよ >>638
>・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模
倭は大きい2国だけで馬韓すべてより戸数が多いよ
統一が進んでいたということ 墳墓の大きさを他人に伝えるとき、ふつうは全長を伝えるものだが、
なぜ後円部径を伝えたと考えるのか不自然すぎる >>638
此女王境界所盡
であって女王国は30国の記述てあったけ? >>647
あれ? >>580って資料との整合性が説明できてないよね? >>651
畿内説が倭人伝と整合しないのは、行程が間違って居ると主張している1点だけ
そして行程が間違っていることは証明されている
したがって畿内説は倭人伝と正しく整合している >>649
>墳墓の大きさを他人に伝えるとき、ふつうは全長を伝えるものだが、
という根拠は?
理由もなく言い張るだけが九州説 >>653
根拠も糞もない
それがふつうだし、それが常識だから >>647
陳寿の書いた行程と違う行程を主張して、その行程が正しいことを全く証明してないような九州説は
史料と全く整合性が無いと言えるな 論理的思考ゼロの畿内説w
まあキナイコシだから当たり前だなw >>638
これは考えられなくもないけど、実態はそうじゃないと思う。
陳寿は「南至投馬国」と「南至邪馬台国」2つの竹簡を見て、これを繋げれば良いのか、放射読みすれば良いのか分からなかったので、とりあえず、不弥国の次にくっつけただけだと思います。 >>654
>それがふつうだし、それが常識だから
ふつうで常識だという証拠は? >>659
>論理的思考ゼロの畿内説w
だという証拠は? >>654
埋葬施設は円形部分だしそれは言い切れないな
現代の感覚だと前方部を何に使ってたかわからんからひっくるめてるけど 陳寿が何をもとにして倭人伝を編纂したのか?
そこを全く現実的に想定出来ない畿内説は文系未満のゴミ >>665
「現実的に想定出来ない」と決めつける理由は?
いつも理由もなく結論だけ言うのは
論理的思考ゼロの証明 >>661
君が初めて見る前方後円墳の大きさを読者に一言で伝えるとき、
どこの長さを伝える? >>667
>畿内説の根拠は「大作冢」の3文字だけw
だと言う証拠は? 後円部は埋葬者のものだとしてじゃあ前方部は誰のものかがわかんないのよね 前方とか後円とか中国人にわかるかと思うかも知れんがこれこそ実物を見たかわからんのよ 実際テンプレは霊感商法詐欺の洗脳マニュアルみたいな書き方だもんな >>675
YouTubeの動画も酷いぞ
俺は反論しか書かないけど罵倒はしないけどな >>671
ないね
徒歩だから遠方で古墳が見えない状態から徐々に大きくなっていくんだから
全体の大きさが確認できるんだし スレ立てやってくれてるんだしテンプレくらい許してやれよ
読まなきゃ良いだけだし >>678
スレ立ては誰でも出来るよキナイコシがやらなくてもいいんじゃね >>680
だったらおまえがスレ立てすればいいだろ .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
テンプレ見ないやつはスレに参加するなよ テンプレだけで70レス消費するようなスレ他にあるのかな? 畿内説論者には、以下のような間違いが指摘されています。
1. 証拠不十分な点を無視して主張すること。畿内説論者の一部は、畿内に関する考古学的証拠が不十分であることや、古代の史書に直接的な言及がないことを無視して、邪馬台国が畿内に存在したと主張しています。
2. 間接的な証拠に過度に依存すること。畿内説論者の一部は、邪馬台国が畿内に存在したとする間接的な証拠(例えば、古代中国の史書や神話伝承など)に過度に依存して、畿内説を支持しています。
3. 説を確定的な事実のように扱うこと。畿内説論者の一部は、畿内説を確定的な事実のように扱い、異論を許さない傾向があります。しかし、畿内説は未確定の説であり、他の説も存在することを理解すべきです。
以上のような間違いがあるため、畿内説論者は留意する必要があります。歴史研究においては、客観的な証拠と科学的な方法を用いることが重要です。
とAIが申してます。 多くの歴史学者や考古学者は、箸墓が卑弥呼の墓であるとは考えていません。したがって、箸墓が卑弥呼の墓であるという主張は、現時点では間違いと言えます。
とAIが申してます 論理的思考ゼロの発言
>694:日本@名無史さん:[sage]:2023/04/20(木) 14:18:57.71
>つまり九州説はウソ 畿内説が誤りであるとする証拠は、複数の研究者や学者によって指摘されています。
まず第一に、畿内には邪馬台国と関連する考古資料が発見されていないことが挙げられます。邪馬台国は、古代の中国文献に記載があるだけで、具体的な場所や文化的な遺産は明らかになっていません。畿内説が正しい場合、畿内には邪馬台国と関連する遺物や考古資料が発見されているはずですが、現在までにそのようなものは見つかっていません。
また、畿内説が主張する邪馬台国の支配範囲や勢力は、実際に存在したとされる周辺諸国の規模を大きく上回るものとなります。そのため、畿内が邪馬台国の中心地であった場合、それだけで古代日本全体を統一したと考えるのは過大評価であるとの指摘もあります。
以上のような点から、畿内説は証拠不十分であるとされています。
とAIが申してます 畿内説に騙される人がいる原因として、以下のような要因が考えられます。
メディアや一部の研究者の発言による誤解:畿内説は、メディアや一部の研究者によって大々的に報じられ、広まった説です。そのため、情報が少ない一般の人たちにとっては真実であるように感じられ、誤解を招く原因となっています。
偽史や陰謀論に惹かれる傾向:畿内説は、一部の人たちには陰謀論的な要素を持つものとして魅力的に映ることがあります。また、偽史に興味を持つ人たちが、畿内説に惹かれることもあると考えられます。
歴史に対する知識不足:畿内説に関する論争は、学術的な専門用語や知識が必要であり、一般の人たちにとっては理解しにくいものとなっています。そのため、正しい情報に接する機会が少ないことが、畿内説に騙される原因となっているとも言えます。
意図的な誤情報の拡散:インターネットやSNSなどの普及により、誰でも情報発信者となることができるようになりました。そのため、意図的に畿内説を広める人たちがいることもあり、その情報に流される人たちがいるということも考えられます。
以上のような要因が複合的に作用することによって、畿内説に騙される人がいると考えられます。
とAIが申してます 一部の畿内説論者が、自説を押し付けるために意図的に事実を歪めたり、批判的な意見を無視したり、異なる説に対する中傷を行ったりすることがあるとされています。このような行為には、研究者としての倫理的な問題があるとされ、批判がされることもあります。
また、畿内説を鵜呑みにしている一般の人たちには、情報の不足や誤解、異なる説に対する偏見があることも考えられます。そのため、畿内説に騙される人がいるというのは、単に情報にアクセスできなかったり、自分の持つ情報が偏っていたりすることが原因となっている場合もあります。
とAIが申してますよキナイコシ 要するに1のテンプレは全く証拠になっていないという事だな > 一部の畿内説論者が、自説を押し付けるために意図的に事実を歪めたり、批判的な意見を無視したり、異なる説に対する中傷を行ったりすることがあるとされています。このような行為には、研究者としての倫理的な問題があるとされ、批判がされることもあります。
AIはこのスレを読んでるのかなw 放射説も短里も証拠にならないのに絶望した九州説が脳内AI で発狂中 それこそ九州説てか、書かれたことにもっとも忠実よな 投馬国が半島か日本かだって色々いるよ
俺は行程は投馬国→邪馬台国の二つしかないと思ってるから
半島→列島の二つだけだと思ってるけど >>691
>畿内説論者には、以下のような間違いが指摘されています。
それはウソ
指摘していない >>709
魏志韓伝では単に「倭と接する」としか書いてない 乍南乍東してたどり着くのが半島の最終目的地の投馬国(対馬)
ここから邪馬台国(日本)に向かって出発する >>673
>後円部は埋葬者のものだとしてじゃあ前方部は誰のものかがわかんないのよね
前方部は周溝墓の陸橋部に由来するので
礼拝する者の物 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>618
大衆用の安物って、量産型の三角縁神獣鏡のことだよ。
粗製乱造という言葉が相応しい。
超大型内行花文鏡は、見たことがある人も少ない秘中の秘だからね。
纒向遺跡って確か最古の天蚕(日本在来種)絹製品見つかってるんだよね
魏志倭人伝に天蚕っぽい物品乗ってたりする? >>649
全長だとすると、該当する古墳が畿内にも無くなってしまうからねえ。 >>657
>>647
陳寿の書いた行程と違う行程を主張して、その行程が正しいことを全く証明してないような畿内説は
史料と全く整合性が無いと言えるな
九州で流行ってた、ただの家蚕絹製品なんか中国にはいくらでもあるんだし魏への献上品に相応しくないでしょう
https://i.imgur.com/28qYCrL.jpg
>>649
いや後方部は祭壇であって墓じゃないし
失礼
前方部 >>724
>投馬国は宮崎県都万
そんなヘボい所に強大国「投馬国」が在る訳ないだろうがよ。 @阿波 >>720
それ、厳密には纏向遺跡じゃないだろ。
あそこもここも纏向遺跡だということにしようというだけ。
消防署の方から来ましたというような詐欺的論法だろ。
範囲が他の遺跡と被りまくっているじゃないか。 >>725
魏志倭人伝で雑錦と書かれているのはそのためだろ。 纏向遺跡は後の神社の様式の先駆けなので、外郭部についてもその様式だと考えるべきだ。
つまり3つの建物を囲む瑞垣までが纏向遺跡。
中の建物は本殿と拝殿と神鏡の倉だからね。 纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。 纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞籬宮だとわかると、遠くの溝もあわせて纏向遺跡と呼ぶのは不適切だとわかる。
近くには景行天皇の纒向日代宮など他の宮もあったはずであり、それらと範囲が被るからである。
周囲に住居跡が少ないこととあわせて考えると、用水路で区画された田畑の間に王宮が点在していたのだろう。
王宮といっても平屋の高床建物なので、風景としては昭和の頃の奈良盆地とたいしてかわらぬ様子だったろう。
突如として出現した大都市など、畿内説の夢の中の物語に過ぎない。
>>732
やっぱそっか
じゃあ天蚕絹製品出てない九州はありえないってことだね
邪馬台国の時代の天蚕遺物見つかってんの奈良だけだもんな?
天蚕絹製品も黄幢らしき鉄製品も径100余歩の墓も全部奈良にあって九州にはないのに九州説が優勢なのはやっぱ世論工作の賜物よなぁ >>737
そうじゃない。
魏でありふれた絹を献上してきたから雑錦なんだろ。
>>741
“異文”雑錦だよ?
ありふれてる家蚕が異文なわけないじゃん
というか倭錦て書いてあるから倭特有の絹製品ってことだわな
倭錦(天蚕絹製品)有り
径100余歩の塚有り
黄幢(U児型鉄製品)有り
日本書紀崇神紀と魏志倭人伝邪馬臺國の人物名が一致
はい確定~ >>747
>倭特有の絹製品ってことだわな
「阿波の神様 大宜都比売」の職掌だ。
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・養蚕の「阿波」女神である。 @阿波 8世紀の記紀編纂者にとっては、「卑彌呼」および「壹與」は
大日霊女命でもあり、天照大神でもあり、大宜都比売でもあり、豊玉比売命でもあり、
みんな同じ阿波の女神なのである。 @阿波 >>721
黒塚古墳があるじゃないの
全長134m、濠を入れると約150mで百余歩に完全に合致する
黒塚は>>11によれば布留0古相だから卑弥呼の墓ではない 悪いけど俺の特殊能力は外しませんので
神声ですので もう、無駄ですよ。
箸墓が卑弥呼の墓。
神仙思想の鏡として広漢神獣鏡。
三種の神器は、剣と鏡と印璽。
鏡は淮南子、明鏡物の性を形わす。不老長生の願い。
剣は国鎮め、百邪を除く。百を襲うわけだよ。
デカイかもん鏡は御盆。 卑弥呼は太陽信仰ではない。木星を観ておるのだよ。
隋書、日出便停現務。
夜、斎を行うのだよ。 ゲンコクワ教授は、諸説ありに出てから邪馬台国論争にハマったのか、邪馬一国説を支持してるな 東渡海わしゅ。これも解決しただろ、卑弥呼等で無くても確実に中華皇帝の墓が畿内にあるのだよ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>763
倭在韓東南大海中
倭人在帯方東南大海之中
倭国在高麗東南大海中
倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
新羅東南大海中 >>763
シンプルだけど永遠に越えられない壁だよな
東治が東冶に書き換えられても、
邪馬壹が邪馬臺に書き換えられても、
南が東に書き換えられることはないもんな 本州から半島へ行ってるだろうから、ごっちゃになってるかもしれん。 不弥国が宇美町あたりなら南に水行するには川を下るしかないな
宝満川で下って久留米あたりが投馬国か
邪馬壹支持してる人の話なんて聞かなくてよくね?
>>775
そんな人が邪馬壹國説唱えてんのはワロタ
やべえな
あーなんだ世界漢字学会って凄い所だと思ったら2012年創立なのね
ならまあ会長が邪馬壹論者でもしょうがないわな
2019 年 9 月、立命館大学土曜講座という公開講演会で、中国の漢字研究者臧克和により、「“邪馬臺”か、それとも“邪馬壹”か?」と題した講演がおこなわれた。邪馬壹国と邪馬臺国との新たな関係が説かれた。臧は二つの字は相互に通用したり混用したりすることはなく、その形跡もないことから、字が似ていることによる混用説を退け、当時のその地方の発音が記録された歴史資料
とし、「一地二名(音)」の現象と指摘した。いずれもヤマイの異字表現と考えたのである。その根拠として二つを挙げる。一つは、『史記』の地名「盱臺」を、注釈者は「盱怡」クイと読んでおり、臺の字は地名で「怡(イ)」と読めるとし、二つめには、韓国語方言に「臺」は dai のほかに
yi とあることをあげた。
ただし、『史記』の当該か所は版本では「盱台」などとあり、「臺」の用例として確認できない。また、韓国の方言資料も不明のため、未だ使用例を確認できない。とはいえ、臺をイと読む可能性を検討することは重要なテーマとなろう。
>ただし、『史記』の当該か所は版本では「盱台」などとあり、「臺」の用例として確認できない。また、韓国の方言資料も不明のため、未だ使用例を確認できない。
>ただし、『史記』の当該か所は版本では「盱台」などとあり、「臺」の用例として確認できない。また、韓国の方言資料も不明のため、未だ使用例を確認できない。
─
つまり全く根拠無くてワロタ
なにいってんだこの人 >>772
>不弥国が宇美町あたりなら南に水行
そこへ行く前に
もう末盧から伊都の方位の間違いを
認めちゃってる事になるので
南に固執する正当性は喪失してるよ
九州説って残念だね 魏志倭人伝を日本読みするのはあり得ない
なぜ、今我が国がジャパンと呼ばれているのか?
それは「日本国」を中国読みすると、ジーベングゥオとなるからである
ニホンコク、ジーベングゥオ、全然違う >>779
>臺をイと読む可能性を検討することは重要なテーマとなろう。
ならない
古代日本語に連母音は無い
世界漢字学会(2012年創立)会長の唱える邪馬“壹”國説はさぞ手強かろうと身構えていたら論拠全てが不確定の怪文書が出てきた
なんだこれは
よく九州論者が「中国人学者は邪馬臺國は九州だと言ってるぞ!」みたいに威張ってるけど
その中国人学者がこれじゃ意味ないじゃん >>781
数日湾曲した海岸線や山間部を移動して方角を間違えるのと二ヶ月間方角を間違い続けるのとは同列じゃないよ >>786
方角を間違えたと主張していない畿内説に対し
トンチンカンでしか対応できない九州説のミジメさ 唐津から糸島へ行く海の上に道は無いから東南に道なりに進む事になる。
https://i.imgur.com/SrRTQ2B.jpg >>788
関係ない
こちらは「間違っている」と主張しているのだから
いくら「間違えた」を否定しても
無関係だ >>789
>唐津から糸島へ行く海の上に道は無いから東南に道なりに進む事になる。
なんメートル?
それ、明らかに詐欺だよね >>790
なぜ間違っているのかは答えられないの? 女王卑弥呼は大麻をやってましたか?
女王卑弥呼が大麻を使用していたかどうかは、歴史的な文献には確実な記録が残されていないため、はっきりとは分かっていません。ただ、当時の日本列島で大麻が栽培されていたことは記録に残されており、古代の人々が薬草として使用していた可能性はあると考えられています。しかし、女王卑弥呼自身が大麻を使用していたかどうかについては、現在のところ不明です。 >>791
横浜から館山に陸行する場合東南には進まない。
行程は北に進む事になる
https://i.imgur.com/iRCaYyE.jpg >>795
それ、畿内に行ってもいい理屈だよ
九州説崩壊 >>792
なぜ間違っているのかは答えられないの?
何度も
回答済み 陳寿が絶対書かない珍説を言い張っても意味ないのよ
間違ってると言えよ 邪馬台国が出てくる唯一の文献の行程を認めない畿内説はただのトンデモ確定です。
邪馬台国は不弥国の南にあります。
魏志倭人伝にはそのように書いています。
https://i.imgur.com/hUOEMvn.jpg >>805
俺は日数行程は別だと言ってるから
陳寿は間違ってるのよ >>808
倭在韓東南大海中
倭人在帯方東南大海之中
倭国在高麗東南大海中
倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
新羅東南大海中
これに関しては間違いはない 東南大海中に倭国はある
でも倭国ってのは中国語
日本語だとヤマト、つまり邪馬台国 >>814
日数行程の投馬国→邪馬台国だけが正しいと言ってるだろ >>816
だからおまえは有明海から台湾に行けば良いだろ >>819
やっぱりそうか、じゃあトンデモ確定だ‼ 伊勢遺跡説はキナイコシの超劣化版として有名だけどなw 末盧国から東南だから佐賀市方面、もしかしたら吉野ケ里に行った中国人も居たんでしょう 末盧が松浦で伊都が糸島なら歩く理由がない
吉野ケ里まで歩いた方が説得力がある 吉野ケ里が邪馬台国と言ってるんじゃなくて
末盧から東南だから吉野ケ里が目的地の中国人も居たんじゃないかってだけ 九州説が完治するのは不可能なので寛解の程度を判断するしかない 乍南乍東して20日で投馬国(対馬)に到着、次は10日かけて日本列島
陸行ひと月は案内が無いと行けないし航海するならこれで十分 畿内説の霊感商法詐欺にご注意ください
纒向遺跡が宮殿???w
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png >>836
唐古鍵遺跡の土器の絵は当時多層階の建物があった事を証明してるだけ
それが何故あんなバカでかい建物になるんだよ? >>807
それ、陳寿の間違いではなく、読み手の間違いだろ。 >>837
底面の大きさは柱跡でわかるから、高さは柱の太さから推定できる。 900 世界@名無史さん [sage] 2023/04/21(金) 08:35:27.11 ID:
中国人は大昔から数勘定が下手糞なので、数量や金額は話半分でいいよ
ともかく数字は盛る、何はにつけても白髪三千丈 陳寿は間違えたんじゃない。
・「南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸」で竹簡1枚
・「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」で竹簡1枚
3世紀の竹簡だと、1枚にせいぜい20文字程度しか書けなかったので、これをどこに繋げれば良いのか分からなかったのだろう。
おそらく、陳寿自身も放射読みにするのか、順次読みにするのか分からなかったはずだ。 >>1
新説もほぼ出し尽くした感があるので、そろそろ従来から唱えられてきた諸説の整合的なとりまとめの時期に入るべきではなかろうか。
各々の項目に関し、自己の見解について、肯定か否定かをチェックしてみていただきたい。
○女王卑弥呼の時代では、日本列島内の主要地域に有力な部族国家体がいくつか成立していたか。
○女王卑弥呼に具体的に比定されるべき人物は、記紀には登場しないのか。
○女王卑弥呼から四世紀大和朝廷の大王(仁徳など)まで、同一国家が同一地域に連綿とは続いていないのか。
○(九州説を採られる場合には)邪馬台国そのものは東遷しなかったか。なお、東遷の時期は問わない。
○帯方郡から女王国に至る「万二千余里」には、行程記事の「水行、陸行」の日数は含まれていないのか。なお、女王国の定義としては、「女王が居住した国〔直接治めた国〕、またその宮都」の意味で、邪馬台国と同じと解しておく。
○伊都国から女王国までは、千五百余里の距離であったか。
○現存『魏志倭人伝』の行程記事は、古代の中国では直線的(順次式)な行程として読まれていたのか。
○魏の正使は女王国の都に詣り、女王卑弥呼(ないしはそれに準ずる高官)に拝謁したか。
○当時の行程記事の記録者(魏の正使等)の認識は正しかったか。また、『魏志倭人伝』には誇張なしに記述されたか。
○女王国の都や中心(主要)領域は、海に接していなかったのか。
○現存『魏志倭人伝』の記述には、誤記誤植がないはずはないか。また、記事の事後改変はあったか。
○現存『三国志』(『魏志倭人伝』を含む)の記述だけで、女王国の都の所在地が確定できないのか。
○『魏志倭人伝』の記述に見える末盧国・伊都国・奴国は、現代地名に類似する松浦・怡土・儺でよいのか。
○投馬国の位置を確定しなくとも、女王国都の位置探索には影響がないのか。
○狗奴国は肥後以南にあったのか。
○『魏志倭人伝』には、いわゆる「短里」の記述があるか。なお、それが部分短里か全体短里かを問わない。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/SINRI-A.HTM >>845
○女王卑弥呼の時代、大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって博多を含む広域の政治連合が形成されていた
○女王卑弥呼に具体的に一対一で比定されるべき特定の人物は、記紀には登場しない
○女王卑弥呼から四世紀大和朝廷の大王まで、同一国家が同一地域に連綿と続いている
○東遷は無い
○帯方郡から女王国に至る「万二千余里」には、行程記事の「水行、陸行」の日数相当の距離が含まれる
○伊都国から女王国までは、概ね千五百余里の距離である
○現存『魏志倭人伝』の行程記事は、古代の中国では折れ線の順次式な行程として読まれていた
○魏の正使は女王国の都に詣り、女王卑弥呼に拝仮した
○当時の行程記事の原記録は存否からして不明
○倭女王の王畿は、少なくとも大阪湾に接している
○現存『魏志倭人伝』の記述には、誤記誤植も記事の事後改変もある
○現存『三国志』の記述だけでは、女王国の都の所在地が確定できない
○『魏志倭人伝』の記述に見える末盧国・伊都国・奴国は、現代地名に類似する松浦川中流域・怡土・儺でよい
○投馬国の位置を確定しなくとも、女王国都の位置探索には致命的影響がない
○狗奴国は肥後以南ではない
○いわゆる「短里」は実在しない 不弥国までで10700里使ってるの忘れないで
順次説はあり得ない >>843
間違いではない
行っていないから、当然
詳細な記述が書けない
女王の都とする所で
中心国であるという固定観念
女王国の都ではないのである。
漢時有朝見者 今使譯所通三十國
なのに女王国が30ヶ国も固定観念。
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
女王国の境ではなく此女王境界所盡
中国側も把握できない部分がある
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ >>851
当方は
不彌国と奴国までで万二千餘里だよ。
投馬国と邪馬台国はさらに遠方。
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ >>851
根本的に
不弥国までで10700里使ってるとかの
そういう定義はない 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 魏志倭人伝→邪馬壹国の次に斯馬国あり
廣志→邪馬嘉国の次に斯馬国あり
完全一致 半島系渡来人にそそのかされてヤマタイに成りすましたヤマト
これが真実 >>860
>廣志→邪馬嘉国の次に斯馬国あり
廣志は伊都国→又南→邪馬嘉(臺)国、次に斯馬国あり・・・だな >>863
魏志倭人伝と廣志
間に投馬国もない
不一致 >>864
投馬国は伊都国より北
つまり半島南部ですから >>866
九州説はこのように理由の言えないトンデモ 誰も提唱してこなかった私の自説は、陳寿はそもそも集めた竹簡をどう繋ぎ合わせるか分からなかったし、陳寿自身も別に「ある特定の場所」を邪馬台国だと読めるように魏志倭人伝を作らなかったというもの。
不弥国までで10700里使ってるのに、「南投馬国水行20日、南至邪馬台国水行10日陸行1月」は、完全に陳寿も意味不明だっただろう。
仮に、順次に行くならば、後漢書のように「又」南投馬国、「又」南邪馬台国として「又」を入れたに違いない。
混乱した為に、後漢書のように「又」を入れなかった。
投馬国と邪馬台国をどう解釈するかは本人もパニクったので、読者の解釈に丸投げしたとも言える。
彼は邪馬台国まで正確に辿り着く為の行程について、本当にあまり興味がなかったに違いない。
何しろ、陳寿自身はそもそも倭国に来たことすらない。 霊感商法詐欺やオレオレ詐欺によって作り出された畿内説はいわゆる壺です
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>851
なぜ、ひとことも理由を言わないのだろう >>866
伊都国か、不彌国から
南に至から北にはないし
倭人の居住地があっても
半島南部にはない >>872
陳寿がどのような記録を読んでどのように解釈したのか?
を考えれば特に難しい事ではない
希望的観測のための現実逃避を繰り返してると畿内説になっちまうぞ >>873
君が現実逃避
邪馬台国は近畿である。
卑弥呼が九州へ >>873
難しくないから
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ 景初元年 陳寿4才
正始元年 陳寿11才
いづれも推定だが東夷伝には何故か
高句麗の条と倭人の条に後から付け加えたように
景初~正始の事が書かれてる
陳寿が書いたのではなく
後の写本で誰がが何らかの思惑で付け加えたのではないか? >>873
「陳寿がどのような記録を読んでどのように解釈したのか? 」
という
「希望的観測」による「現実逃避」
乙
だって、そんなふうに決めつける理由が
なにも言えないだろ
ナムヂ読んだら投馬が於投馬になって出雲に比定されてるんだけど、於はどう考えても単なる前置詞だよな 一般に、炭素年代測定法の誤差は、年代が1000年以内であれば、測定値に対して最大で50年程度、年代が数千年の場合には100年から数百年程度の誤差が生じることがあります。ただし、これはあくまで目安であり、実際の誤差は測定環境や測定方法によって異なるため、専門家による正確な分析が必要です。 byAI
つまり箸墓は4世紀の可能性が高いという事だろう >>883
は?
景初から正始は、楽浪帯方の攻略、遼東の平定、高句麗との抗争と大忙しだぞ
お馴染みの弓遵や王頎が大活躍してる
王頎なんかウラジオの近くまで遠征してるぞ
で、韓国の反乱鎮圧中に弓遵が戦死して、八年に王頎が後任の帯方太守として赴任した
難升米の黄幢も含めて、みんな繋がってる事件だ
>>878
いつ公孫氏が滅んだか知ってますよね
なら何も不自然ではないと思いますよ
至於投馬國ってarrive in 投馬國だろ
「in投馬國」という国名だって言い張るのと同じくらいの詭弁だと思う >>886
>・・・るため、専門家による正確な分析が必要です。 byAI
>
>つまり箸墓は4世紀の可能性が高いという事だろう
馬鹿は人間の方だろう
AIは専門家による正確な分析が必要と言ってるが
お馬鹿な人間が専門家を無視してる つまり畿内説は仮説すら成立せず単なる老害の妄想でしたと言う事だ >>893
俺がそう言ってるんだから陳寿は間違ってるんだよ
無茶苦茶な珍説で陳寿は正しいと言い張るからわけわからなくなる 投馬国は山国川、駅館川流域だから放射説は考えなくても良いのだよ
https://i.imgur.com/t1aZ4ke.jpg 陳寿は倭地の地理感無し
その陳寿が、読者がイメージできるよう表現を駆使しながら編纂してるんだよ
行ったこともない国について紹介文を作成するのは現代でも難しいだろ?
陳寿は編纂途中で訳分からなくなり破り捨てたという逸話もある 帯方郡に戻ったり伊都国からとかいろいろ居るだろうよ
俺の場合は正しいのは日数行程の投馬国→邪馬台国だけで
里数行程は不弥国までだしなんの関係もない >>901
陳寿が間違ってると言ってるだろ
関係ない資料をくっ付けたんだよ >>896
>俺がそう言ってるんだから陳寿は間違ってるんだよ
>無茶苦茶な珍説で陳寿は正しいと言い張るからわけわからなくなる
俺がそう言ってるんだから俺は正しいというのは
無茶苦茶な珍説
俺が言ってるから俺は正しいと言い張るから
赤の他人はわけわからなくなる >>902
>陳寿が間違ってると言ってるだろ
と、トンデモは言う。 わははははは @阿波 >>903
無茶苦茶な珍説であろうが俺の説だし魏志倭人伝の記述とは違う >>902
>陳寿が間違ってると言ってるだろ
そう言い張る理由は? 対馬には卑奴母離がいるが、
投馬国にはいない。
明らかに別の国だよ >>908
だってあれがあるから南の海上とかになるわけで 卑奴母離って生口をさらってくる役職?
卑しい奴婢を母親から引き離すのが仕事とか
ちょっと妄想してみました。
マジレスだと卑奴母離は日向ひなたと関連するかもね 会稽の東には九州島がある事を理解できない人がいるのな >>899
>陳寿は編纂途中で訳分からなくなり破り捨てたという逸話もある
その情報の出処は? .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>912
距離から割り出してるんだし九州でも近畿でも緯度は変わらん
そもそも間違ってるし >>905
L>無茶苦茶な珍説であろうが俺の説だし魏志倭人伝の記述とは違う
お前の説が無茶苦茶な珍説で、魏志倭人伝の記述とは違ってるのか
つける薬がないな >>917
だから里数行程と日数行程は別の資料で陳寿は間違ってると言っている 有耶無耶にして誤魔化して魏志倭人伝は正しいと言い張る方がおかしい 魏志倭人伝では【会稽東治】は夏少康の子の話の流れで書かれているが、その時代の【東冶】は夏少康の子とは無縁の地、東治は会稽山付近で港のある場所とするのが正しいだろう。よって陳寿の記述は正しい
https://i.imgur.com/qR2OdsS.jpg >>919
>有耶無耶にして誤魔化して魏志倭人伝は正しいと言い張る方がおかしい
と、トンデモは言い張るw @阿波 >>923
勿論、会稽の緯度と同じ場所は何処だって話でしょ
当時の地球は平面だから正確ではないにしても 倭人伝の大部分が九州の事を書いている、
畿内の事と判別出来る記載は倭種の国だけ。 >>926
・・という理由は言えない?
異常に頭が悪いの? >>911
「離」は八卦から来ている
方位は「南」
八卦の離 wikiより
>外側に陽剛の卦、内側に陰柔の卦がある。
原義は「一見明るいが中は暗い」。
また「二つのものが一つをはさんで向かい合う」である。
即ち火・光・稲妻(雷の光)・麗・雉・目・心臓・乳房・喜び·華やかさ・中女・別離対立・紛争・外見・赤(紫)色などを象徴する。
方位としては南を示す[1](地支では午と一致)。
>マジレスだと卑奴母離は日向ひなたと関連するかもね
「二つのものが一つをはさんで向かい合う」
あながち、合ってるかも >>922
>魏志倭人伝では【会稽東治】は夏少康の子の話の流れで書かれているが、その時代の【東冶】は夏少康の子とは無縁の地、東治は会稽山付近で港のある場所とするのが正しいだろう。
じゃ、なんで「会稽之東」って書かないの?
会稽東冶が会稽よりずっと南だからだよ >>900
その時代は、破り捨てることのできる紙がないけどな 陳寿は、行程はあってるが方角は間違えてる、隋書で訂正されてる。
何れにしろ、何を言おうが魏尺の皇帝陵墓があり、方形臺と南に円丘の中華の都の構造が窺える臺が存在し、神仙思想の鏡が出、山奥にして桃が出、そして何よりも道教の指導者の墓であると断言している書物さえ存在する。
全く無駄だね。びくともしないよ。
九州は雑種の地。 知能が低すぎる、聴いてあげられない。
こちらが唸るような、息を飲むような話を持ってこい、そんな話では銀行は金は貸さない、あんたらの話相手は闇金業者むけ。 九州説って具体的にどの遺跡かまとまってないんだから説ですらないでしょ >>940
それを言うなら、畿内も同じこと。 わははははは @阿波 >>940
縄文時代からの吉野ヶ里などの筑後川流域の文明だな >>944
>縄文時代からの吉野ヶ里などの筑後川流域の文明だな
弥生時代の大洪水で消滅文明だな。 わははははは @阿波 「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳・飛鳥~と続く複合集落遺跡。
特に鮎喰川下流域集落群のように集中して存在する所は、全国的にどこにも無い。
まさにこの鮎喰川下流域が女王「卑彌呼」が君臨した女王国なのである。 @阿波 >>947
伊勢遺跡も複合遺跡だから
ただ前後と無関係ってだけで >>948
>ただ前後と無関係ってだけで
それが複合遺跡か? わははははは @阿波 >>950
そら、いつかは人が住むわな。 わははははは @阿波 >>902
関係ない資料を繋げるのと、間違いだというのは別の話だ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、日程なら水行10日、陸行1月と読めばいい。
陸行1月は1日の誤りかもしれないが。 >>939
ホントそんなもんに税金使わんでほしいね 漢字に詳しい中国の偉い人に倭人伝読んでもらったら
邪馬台国は九州北部だと思われるって言ってた
岡上さんはニギハヤヒから西山古墳を論じようとしてるっぽいが
俺は、東海(狗奴)征服に参加した十千根(東海各国国造の祖)の墓だから後方墳という墓制が取り込まれてるんだろうと思ってる
いや、やっぱコメント消しといた
議論は5chでやった方がいい
【コメント】
動画投稿お疲れさまです!興味深い動画ありがとうございます!
─
西山古墳はその所在地と築造時期から物部十千根の墓であるとも考えられていますね。
とすると、彼は『先代旧事本紀・国造本紀』に拠れば「遠淡海(遠江)国造」や「珠流河(駿河)国造」「久努国造」の祖とされる人物ですから、同古墳に東海地方の墓制(?)が取り込まれた理由はこの辺にあるのかもしれません。
それにしても、前方後方墳の“上”に後円墳が乗っかっている特異な形。この上下関係に何か意味あったりするのか気になっちゃいます。 >>957
西山古墳が示しているのは、前方後円墳は前方後方墳の後継ですよ、という事だよ
おそらく垂仁天皇の代に東海の狗奴國は滅亡してる
狗奴國の事を知りたいなら物部・尾張の系図をめっちゃ調べなきゃいけないっぽい
キッツいなぁ
誰か「【ゆっくり解説】先代旧事本紀の尾張・物部系図徹底解説してみた」みたいな動画上げてくんねえかな
日本史板なのに豪族の系図研究してるスレとか無いんだな。やばすぎ >>963
どの道、各地の豪族は元々「阿波勢力」。 @阿波 尾張連の遠祖 高倉下タカクラジ
↓
塞曹掾史さいそうえんし 張政
布都御魂(=黄幢・黄憧)をもたらした
高倉下タカクラジ は 魏の塞曹掾史 張政 がモデル?
答えが見えてきます
いや布都御魂って剣ですよね すでに卑弥呼が誰か? も
ようやく、答えが出ました!
まず 卑弥呼 = 日女子(児)
と紐解きました
日女は「姫」から来てるのではないだろうか? と
もちろん、太伯の後裔から
魏略では卑弥弓呼が「女男子為王」となっており
「女」は誤字ではないかと言われてますが
上記の「姫姓」から察するに女男子為王でも問題ない
間違いないと結論を出しました
これにて卑弥、卑狗で、ヒメヒコ制の出来上がりです
ここで卑弥呼が誰か? を語る前に
卑弥弓呼は、これまで発表比定済みの
イワレヒコこと神武天皇です!
布都御魂(=黄幢・黄憧)をもたらした
高倉下タカクラジ は 魏の塞曹掾史 張政 がモデル?
そこから邪推の紐解きしました >>966
記紀では剣ですね
俺の永平寺アーカイブより
874 日本@名無史さん sage 2023/03/16(木) 22:53:09.11
◆倭の使者 人物比定
・載斯烏越 さいしうえつ 斎主神・経津主神(【さいしゅ】【ふつ】ぬし)
さらに建御雷神と同神?
※天鳥船神(アメノトリフネ。熊野諸手船)に乗って(載って)
経津主神と建御雷神で葦原中国を平定させることになる(国譲り神話)
(神武東征時には熊野で助ける建御雷神)
※やはり狗奴国は国津との戦いが濃厚か まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>962
無理じゃないか?尾張の系図は怪し過ぎるし「天牟羅雲命」と「天村雲命」の系図が錯綜して収拾がつかない。 400年後に書かれた物にはその目的が有る訳よ。
誰々が誰?って自分の先祖なら解るように書くだろ、まぁ引合に出すのは自由だが簡単には信用しないよ。 君らに十代前まで書いてこいって言っても半分は嘘だろ。 >>968
斎主神(伊波比主神)はイワイヌシだよアホバカ。
でも尾張国造に任命された乎止与あたりからは系図信用できるでしょ?
https://i.imgur.com/UONOd9B.jpg どれだけ考古学者が頑張っても九州説には勝てないと思う
フルゼロ式とか一般人は全く興味湧かないし
尾張大印岐(オワリのオオイナギ)って人がいるのよ
イナギは稲置だろうから(系図は古い漢字をそのまま使っている場合が多い)「尾張大稲置」と読める
つまり尾張氏とは別に、尾張地方を支配する人々が居た。尾張氏は外からやってきたという事になる
もう尾張氏葛城の高尾張出身氏族説でいいってことなのかな 保証出来るものがなくてはダメだね。
参考にした資料すらない。何を元に昔話が書けるのだよ、何故それが残っていない、残して置かないのかね、それを見せれば別種とは言われないと思うがね。この話はこの辺までな、1.に怒られるからな。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1682081360/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>975
そこら辺からなら露骨な書替えはないだろうけど。
しかし、真清田神社の祭神の変遷とか考えて始祖から数代は信用度が低い。 >>980
>この話はこの辺までな、1.に怒られるからな。
って「卑弥呼が中国人」の方が怒ると思うぞw
1だけじゃなくて畿内説の皆さんがwww
①箸墓古墳(百襲姫=卑弥呼)
↓
②西殿塚古墳(崇神天皇=後の男王弥馬獲支)
↓
③黒塚古墳(豊城入彦[崇神長男])
&
④桜井茶臼山(※被葬者不明)
↓
⑤東殿塚古墳(豊鍬入姫=臺與)
↓
⑥メスリ山古墳(被葬者不明)
西殿塚古墳は墳丘形状から2人メインの被葬者眠ってる説あるから、崇神と追葬で豊鍬入姫の可能性もあり
では東殿塚古墳は誰の墓になるの? 卑弥呼が中国大陸人なら漢字の文章を遺すだろうに(嘲笑
竪穴式住居にも住めないだろうね
卑弥呼の時代の2000年以上前にはすでに中国大陸は戸建て住居なんだから
貫頭衣なんかも着てらんないだろ
4500年くらい前から女性は上着とスカートのある漢服なんだから
それと何よりも裸足が耐えられなかっただろうな
3000年以上前から中国大陸人はカンフーシューズ(布靴)を履いていたんだから(嘲笑 愚か者だな、老子道徳経が解っていない。
倭人は裸足だが卑弥呼が裸足とは何処に書いてあるんだ?
全ての畿内説のことまでは知らんわな。
それとな1.をよお~く読めな。
何れにしろこの時代の鬼道で巫女を伴うものは五斗米道しかないんだよ。
太一を祀るんだな、伊勢のように。 卑弥呼以前に倭道なぞ存在しない、したなら誰だよ教祖わ?その痕跡の場所わ?
君らが信じてるものは中国人巫女が教えたんだよ。
五斗米道は来てないだろ
神仙思想が来ただけ 卑弥呼の鬼道が中国の宗教由来なら漢字を使えるはずだわな
漢字もなければ中国語もない
卑弥呼の鬼道は北方アジアに広がる北方系シャーマニズムと同根だろうな
北方系シャーマニズムと土着のアミニズムが融合して日本神道の原型になったんだろう このスレッドは1000を超えました。
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