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邪馬台国畿内説 Part88
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:03:03.71
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1682081360/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:04:32.87
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:05:16.87
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004日本@名無史さん
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2023/04/25(火) 03:05:55.02
間抜け
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:06:01.43
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:06:46.41
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0007琪瑛教大祭酒
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2023/04/25(火) 03:07:11.64
毎週3時まではキツいわ、今日もはええのに。
お前らも早く寝ろよ、無駄話ばかりしてないで
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:07:17.86
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:07:48.40
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:08:20.59
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0011日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

テンプレに嘘を書くのはヤメロ!

【万二千余里観念的数字説】
【魏使瀬戸内海経由説】
【投馬國吉備説】

全部嘘!畿内説を内側から破壊せんとする荒らし行為反対!
>>8
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:09:01.65
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:09:51.99
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0015日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>8
考古学博士「日本海がメインルート」

昨夜はニューイヤーコンサートを視ていたので録画しておいた邪馬台国サミットを今視ていますが、なぜ皆さん日本海側の諸国を無視するのかが、全く理解できない。
私が企画したYAYOI展をご覧になった方々にはお分かりだと思うが、この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
https://twitter.com/gijyou/status/1345169348093038594

>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:10:31.55
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0017◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:11:21.44
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:11:52.85
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:12:22.01
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0020日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>16
出雲のみならず朝鮮半島の影響も受けて成立した方形貼石墓、中国由来のコバルトブルーガラス釧、ゴホウラ貝輪全部無視する奴が考古学を語るな!
外国人にとっては日本海ルートの方がよく慣れ親しんだ航路であることが歴然!
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:12:52.78
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:13:31.78
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:14:01.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:14:31.97
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:15:17.73
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:15:53.43
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:16:22.79
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:17:01.62
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:17:32.83
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:18:16.44
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0031日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

そもそも議論する気が無いんだろ
貴方はいくら反証出されても考えを曲げる気がないみたいだね
もうろくでもない、邪馬台国東遷論者と寸分違わずアカデミズム軽視
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:19:01.07
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:19:49.50
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:20:32.05
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:21:03.32
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:21:38.60
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0037日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

無駄無駄
貴方がいくら詳しくても決定的な所で間違えてるし修正する気も無いみたいだからもうテンプレ読まれないよ
適宜変化するならまだしも圧倒的不利なのに自分の考え曲げないんだもの

自説を批判的に検討したことないんだろ
それもう終わりだよ
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:22:11.34
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0039日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

一切反映しようとしないその態度がおかしい
荒らし行為と看做しますと言われても知らねえよ?こっちこそ畿内説荒らされてんだから
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:23:02.36
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:23:47.10
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:24:32.53
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:25:17.37
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0045日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>38
※訂正
考古学博士「日本海がメインルート」

昨夜はニューイヤーコンサートを視ていたので録画しておいた邪馬台国サミットを今視ていますが、なぜ皆さん日本海側の諸国を無視するのかが、全く理解できない。
私が企画したYAYOI展をご覧になった方々にはお分かりだと思うが、この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
https://twitter.com/gijyou/status/1345169348093038594

>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
>この時期のメインルートは圧倒的に日本海側ですよ。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:25:50.30
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0047◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:26:35.78
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0048◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:27:16.74
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0049◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:27:46.79
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0050◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:28:19.92
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0051◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:29:00.48
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0052◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:29:34.25
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0053◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:30:16.84
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0054◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:30:47.59
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2023/04/25(火) 03:31:17.53
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2023/04/25(火) 03:31:47.06
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/04/25(火) 03:32:18.84
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/04/25(火) 03:32:48.26
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/04/25(火) 03:33:23.29
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/04/25(火) 03:34:01.55
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/04/25(火) 03:34:32.86
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/04/25(火) 03:35:08.69
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/04/25(火) 03:35:52.09
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/04/25(火) 03:36:32.51
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/04/25(火) 03:37:02.04
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0066◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:37:33.39
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0067◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:38:11.76
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0068◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:38:46.89
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0069◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:39:16.88
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:39:48.66
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:40:35.24
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:41:19.72
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:41:49.81
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:42:28.45
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:43:17.73
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:43:54.38
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0077◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:44:36.45
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/04/25(火) 03:45:18.17
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/04/25(火) 03:45:53.51
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0080◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:46:31.17
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0081◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:47:16.94
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0082◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:47:53.25
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0083◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:48:31.09
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0084◆ondZSOlfxeS6
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2023/04/25(火) 03:49:11.52
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0085◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:49:48.15
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0086◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/04/25(火) 03:50:19.52
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 04:01:02.70
part88という証拠は?
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 05:42:17.35
>>87
886の「6」が消えただけだろ
奴国が2つあるのはひとつが落丁と言われてるのと同じ
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 05:48:08.11
纏向遺跡は新都建設だよ
じゃあ旧都はと言えば伊勢遺跡だ
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 05:50:50.44
>>88
間抜けでドジな証拠
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 05:52:24.78
>>90
タイプミスくらいにしか反論できない九州説は無力
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 05:55:13.02
いちおう反論できてるトナカイに比べると九州説がクズすぎる
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 06:05:40.51
>>92
テレビに出てた?海のネットワークって弥生時代だからトナカイも論破されてるけどな
外国人にとっては日本海ルートの方がよく慣れ親しんだ航路だって証拠も出せないみたいだし
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 06:36:58.77
弥生後期を最後に首長墓が小さくなるのが、イヅモ・タンゴ
大きくなるのが、ヤマト・キビ・ツクシ
意味わかるでしょ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 07:29:59.77
>>961
 https://i.imgur.com/TFlMqXz.png

この分布図から、瀬戸内航路がなかったことが良く分かる。   @阿波
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 07:56:18.01
>>95
島経由だな
後はト骨だな
弥生後期に何故か、松山、有明海沿に出土
しかし、それ以外に離島除く九州には
出土が今のところない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 09:28:51.58
>>98
女王国は倭種の集まり
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 09:32:43.85
阿波徳島は嘘つきの集まり
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:29:47.34
日本海ルートは無いな
投馬国と邪馬台国の間に別の国があったら倭人伝と不整合だ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:35:57.97
>>102
方角の間違いくらいよくあることだ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:37:45.55
日本海ルートだと、魏使が上陸したところにあった国が書いてないことになる
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:38:02.77
>>101
投馬国(対馬)→邪馬台国(日本)だから無い
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:39:29.88
>>104
書いてない
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:40:33.51
>>105
5万戸の大国が津島に入るわけがない
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:41:22.58
>>106
なんで書かないの?
国があるのに
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:42:10.19
>>107
半島側だけど対馬しか寄港地がないから
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:43:11.58
>>108
行程が半島→列島だからだよ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:43:11.96
>>103
畿内説はそうじゃないと成り立たないからなw
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:46:33.71
中国人はヤマトで国家の邪馬台国を集落だと勘違いしてる
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:47:58.11
>>103
オレオレ詐欺と言われる所以だな
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:53:46.11
日本名ヤマト、中国名倭
倭人在帶方東南大海之中
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 11:56:55.84
正しい行程は日数の投馬国→邪馬台国だけなんだよ
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:02:53.54
帯方郡

船で南に20日

投馬国=半島南部

船で南に10日

邪馬台国=北部九州

女王の都まで徒歩すぐ

合計30日(一月)の道のりである
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:13:30.27
>>109
>半島側だけど対馬しか寄港地がないから

半島に倭国なんてないぞ
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:16:56.04
>>111
水行10日陸行1月の陸行をどこから始めるんだ?
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:24:13.11
宮崎説、熊本説の人向け

帯方郡

船で南に20日

投馬国=半島南部〜北部九州

船で南に10日

邪馬台国=宮崎or熊本

女王の都まで徒歩すぐ

合計30日(一月)の道のりである
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:30:39.62
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:37:30.30
>>113
>中国人はヤマトで国家の邪馬台国を集落だと勘違いしてる

七万戸で集落とか勘違いしないさ
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 12:46:33.10
>>124
九州説が惨敗しているな
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:00:47.70
>>124
統一新羅ができたとき、百済や高句麗から亡命者が大勢来て、当時の首都圏に住んだだけ
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:06:16.27
>>127
罵倒しか返せない無能九州説
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:28:45.30
いまどき九州説してる人は知能が低いから、反論ということが出来ないんだ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:32:04.82
>>124
確かにウリナラ起源を主張するときの屁理屈とたたずまいに畿内説は似てんだよな
血は争えんね
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:42:41.22
九州は 吉野ヶ里遺跡で発掘されてる大規模な墓群と同じ形態のが中国河北省で大規模で見つかっちゃったから

河北省で110以上の甕棺墓見つかる
http://j.people.com.cn/n3/2016/1011/c95952-9125340.html

春秋戦国時代に戦乱逃れて何百年もかけて南下してきたんですかね

邪馬台国、卑弥呼にしても卑字で記録されてるので現役の中国系ではなさそうだが
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:44:26.53
>>130
教科書の記載にこだわるあたりは今の韓国と同類だよね
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:51:54.00
>>124
日本には中国大陸から入植した考古痕跡はない

当時の中国人の単なる勘違いに過ぎん
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:56:40.82
>>134
最新情報によるとチベットや呉越を経由して日本列島に辿り着いた古代人が縄文人だってよ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 13:58:10.64
>>124
成る程
邪馬台国は近畿てことだな
卑弥呼が九州へ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:09:54.53
>>135
で、その証拠文献は?

クッサイ汚らしい醜悪すぎる南支那ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇チンコロ汚物のおまえ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:13:40.82
畿内説統一教会信者がさりげなく自己紹介文を添えてますね
  ↓


137:日本@名無史さん:2023/04/25(火) 14:09:54.53
>>135
で、その証拠文献は?

クッサイ汚らしい醜悪すぎる南支那ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇チンコロ汚物のおまえ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:24:09.49
>>138
人種差別好き右翼九州説儲の自演連投
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:28:49.14
>>130
>確かにウリナラ起源を主張するときの屁理屈とたたずまいに畿内説は似てんだよな
>血は争えんね

それは九州説
庄内式は九州発祥とか言い張って赤恥かいたとことか、ソックリだ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:32:13.75
>>138=135
で、その証拠文献は? 証拠文献は?

早く出せよハノイフルでブタチックな容貌をした
南支那ハナノアナガヨクミエルサブニグリーデの汚物すぎるナンポーチンコロのおまえ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:32:33.37
根拠も示さず妄言を返すことしか出来ない畿内説あわれ
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:35:22.15
ひなた峠があるだけなのに筑紫ひむかの元祖と言い張ったり、金印を糸島にあった物と言ったり
まさに韓流起源説そのものだぞ九州説
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:36:13.35
畿内説スレにくる九州説だろ
気になってしょうがないのか?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:36:22.13
Twitterで「邪馬台国 アンケート」で検索
九州説支持が圧倒
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:38:03.67
九州説が他人を罵しる言葉はなぜか
九州説本人にのみ当てはまる

まさにプロのオウンゴーラー
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:38:22.53
>>145
だから何?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:39:21.56
>>145
また九州説が捏造したのか?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:41:24.85
>>141
えっ?マジで知らないの?w
テレビや動画で公開されてたのにw
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:44:33.81
>>149
学問的に意味ないから興味ない
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:49:20.32
>>149=138=135
だから早く出せよ


真夏の香港の路地裏に漂うハッカクを帯びた腐った生ゴミみたいな汚臭を顔面から放つ
南支那ブタチック黒人形質類人猿チンコロの醜悪で汚物すぎるおまえ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:50:20.05
>>150
学者が説明してたんだけど?w
もうすでに論文出てるんじゃね?w
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:52:06.24
>>152
じゃ、リンクよろしくな
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:52:29.18
>>124
要するに九州説で正解

畿内説は半島系思考回路に逆らえない低能によるウリナラ起源説でしたという事よ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:54:06.87
>>154
自民党が正解と変わらないな
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:54:54.77
情報すら入手出来ない情弱畿内説w

153:日本@名無史さん:2023/04/25(火) 14:52:06.24
>>152
じゃ、リンクよろしくな
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:55:50.99
AKB48方式?
になったのか?
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:56:41.89
>>156
面倒だ。リンクよろしくな
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 14:58:39.14
>>152=149=138=135
だから早く出せよ


南支那ウンコ色短顔ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇チンコロエレクトスの
クッサイ汚らしい醜悪すぎて汚物すぎるナンポーチンコロのおまえ
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 15:07:05.93
>>152
どういう論文なの?
学者同士でも視点の違いがあるので
リンクよろしくお願いします。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0162日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

神武東征ってやっぱり2世紀後半なのか
はて3世紀後半までに第10代崇神まで行かなきゃいけないわけだが、100年じゃ少し厳しくないかね
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 15:21:09.17
>>162
東征てより職探しの部類かも?
流浪とは書けないだろう。吉備で職業訓練とか?
創作部分もあるだろう
0164日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

平原一号墓の被葬者が生きてた時代に東征したのかな
もしかしたら確かに伊都国東遷の可能性ゼロでもないかもな
0165日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>163
継承者争いに負けた王族が新天地求めてやってきたのかもしれない
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 15:36:15.43
平原せよ、祇園山にせよ
被葬者が残っていないのが残念だな。
副葬品のみでは決定できず。箸墓や百舌鳥古墳群も内部の被葬者まで調査が入るとは思えない。
内部、学説調査できないもんは世界遺産や
国の重要文化財 登録不可にして貰いたいもんだ。
又、吉野ヶ里や青谷上寺地遺跡には被葬者が出ているので遺伝学が使えそうだが、何故かやらないんだよな。土器、鉄剣等もイマイチだ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 15:45:13.93
畿内説は半島系オレオレ詐欺です

■旧唐書より
<倭国伝>AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された

<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(畿内)は倭国の別種なり。

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。

■結論:
記録文献には邪馬台国の人々は呉越(中国)の末裔だったと記されています。
ヤマト民はおそらく半島系人種だったので「別種」と記述されたのでしょう。
参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
O1b2(L682) 半島系固有の遺伝子分布
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:04:06.50
>>167
結論できないよ。九州にもいるのだからね
ハプロでは三系統あるね
北海道あたりから南下もありえそう
4系統
ト骨の経路は半島経由以外
ト骨の出土、縄文時代 北海道からもあるし
tp://www.town.yoichi.hokkaido.jp/kurashi/kurashinojouhou/kyouiku-bunka/files/fugoppe2003.pdf

O1b2(L682) 半島系固有の遺伝子分布
は使えないよ 現代だろう?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:10:14.88
>>169
何故、そうなるのか?
交流等があった証拠にもなりえるんだからね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:13:39.75
>>167
降臨した天孫ってのも韓国人なんだろ?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:18:48.78
ト骨風習
データ古いが
tps://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900118039/2014no.276_97_121.pdf
その後に纏向で出土で一部、推測が崩れている
ト骨
壱岐、有明海沿以外の九州から山陰、山陽の
空白地帯も不思議なんだな。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:25:02.97
>>171
邪馬台国は半島人の入植も多いてことだな
入れ墨文化が消える。ト骨が亀に変わる



邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:31:22.51
>>175
>ト骨が亀に変わる

違う!
ト骨が、本来の亀から代用の獣骨に拡散する。   @阿波
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:31:38.43
>>171
そもそも韓氏を名乗った一族は殷王朝系の一族だから
戦国七雄で周王朝の韓国とは関係ないが
周王朝の臣下であると言うことで韓姓を名乗った
これが半島の韓の原点
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:32:03.48
>>171
韓国人というか、百済人だろ

実際のところ韓国人と日本人の先祖は同じ縄文人なんだとか
半島に居残った方は混血しまくってほぼ原型を留めていないだけだってよ
それが日本で渡来人と呼ばれ、外国人のように思われているが実は倭人の一種なんだよ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:32:15.62
>>175
>ト骨が亀に変わる

違う!
ト骨が、本来のアオウミガメから代用の獣骨に拡散する。   @阿波
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:36:55.08
>>174
物流網等の開拓地、丹の出る地域
宗教地と推測する。
吉備や丹後、越、東海 JV工事だよ
物流の観点から湾岸部もあるから
近畿一帯の広範囲
女王の都だが女王国の都でもない
中心国でもないから
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみで詳細な方向や停泊場所
がない つまり、行っていない。
卑弥呼が九州にいるのだろう。

卑弥呼連合はあっても
邪馬台国連合とかはないよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:39:10.08
だから邪馬台国で卑弥呼が出てきたときには
半島でしぶとく生き延びてきた殷王朝系の連中はすでに1000年程度、燕系などもいて秦氏や漢氏の先輩格がいたわけや 帯方郡と近接していた馬韓の構成国でも中国系とそれ以外は名前で分かるだろ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:43:13.00
日本のことを倭国「わこく」というのは中国人
大和言葉では、国のことを「こく」とも言わなかった
なんと呼んでいたのか
それは「やまと」、「やまとのくに」

それに後に漢字の文字をあてはめるとき、さまざまな文字があてられた
日本書紀では夜摩苔つまり?ia mw? d? もしくはjia mo t?aiと表記されていた
「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆」は"yamato"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致し現在の「奈良県」にあたる。
筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[3]。なお、山門や山都などの「と(甲)」が「魏志倭人伝」に記録された場合、「伊都(怡土郡)」や「都支(土岐郡・刀支)」のように「台」ではなく「都」が当てられた可能性が高い。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 16:43:43.01
>>181
纏向説でないけど?
近畿説

一部だな。内陸部の開拓だよ
唐古・鍵遺跡の復興もある
近畿には
ト骨や絹、丹、鉄、出土ある。
陸1月は近畿周回と推測

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:04:37.70
>>186
九州には邪馬壹国も邪馬台国も
邪馬臺国はないよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:06:18.63
142:日本@名無史さん:2023/04/25(火) 14:32:33.37
根拠も示さず妄言を返すことしか出来ない畿内説あわれ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:07:22.68
>>188
ひとりごと?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:08:41.15
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:11:09.39
>>182
>女王の都だが女王国の都でもない
>中心国でもないから

女王国の女王の都が
どうして女王国の都じゃないんだ
詐欺だろそれ
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:16:52.06
>>191
国々の集まりだから
国際連合みたいなもん
現 事務総長にとってはポルトガルは都
さて世界の首都か?

詐欺なら警察へ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:23:35.04
>>119
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:33:44.23
>>192
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
邪馬臺國に居た大倭王は何処に行ったのよ?
 
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:34:43.03
tps://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/list_kusiro1.htm

島根がない

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:38:35.27
>>196
何言ってんだ?
大倭王だろうが
中国人が考える大倭って何?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:40:10.73
>>194
伊都国か、不彌国だな。
奴国の南に狗奴国だから奴国にはいない
魏との交流
輸出、輸入の要
報告、支持や命令等、遠方の邪馬台国では日数が
かかるので、合理的ではない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:41:43.94
>>198
それで中国人にわかるのか?
何故王が付いてるんだ?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:42:29.08
>>199
何歳で行くの?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:46:19.66
>>194
で狗奴国(?)は、女王国の東千里?
魏志倭人伝とは違うけど?

どっちが正しいのか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:50:05.22
>>201
記録にはないが
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
年已長大だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:50:50.32
>>202
狗奴国など無い
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:53:10.23
>>203
卑弥呼だけを言ってるんじゃない
大倭王は何歳で邪馬台国から伊都国に行くんだ?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 17:56:54.33
>>204
どっちを取るの?
魏志倭人伝に記述があるが?
後漢書では拘奴國 東千里

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:00:32.85
>>205
大倭王は後漢書以外に出てこないだけど?
記録がない以上、わからないよ
大倭王かどうかは定かではないが
壹与は13歳だよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:00:36.71
>>206
あっても無くてもどうでも良い
俺が重要視してるのは倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和  
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:02:07.59
>>207
どう考えるかはっきり言え
大倭王は居ないのか?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:03:52.09
拘奴国が狗奴国である事は今さら論じるまでもないよね

倭人伝では狗奴国は女王国の南

後漢書では拘奴国は女王国の東

つまり、どちらかが間違っているという事
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:05:46.34
>>208
君はどうでもいいけど
当方は重要だな。
なんでおまえに合わす必要性もない
まあ、卑弥呼と不和であって、邪馬台国や壹与との関係性の記述はない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:05:51.92
卑彌呼と卑彌弓呼が揉めてるのであって国同士が揉めてると思ってない
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:07:19.55
>>209
他の文献にはないからいないよ。
范曄説に過ぎない
0214日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:08:18.78
狗野郎の国は南にも東にもあった、と見るべき
卑弥呼の時代は南のそれが課題だった
それを平らげたがら東に向いたわけだ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:09:01.98
>>210
南であり東でもあると解釈すれば倭国の大きさがわかるんじゃね
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:09:10.86
>>213
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
この文自体が間違ってるって事か?
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:15:19.17
仮に狗奴国が東国の毛人だとしたらその王となんで不仲になるの?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:18:37.90
>>212
国同士が揉めるだろ

いきなり神様そのものである銅鐸を祀る事を禁止されたんだから

狗奴国へ渡る天竜川の東岸に邪馬台国側からよく見えるように
大量数の銅鐸を並べて抵抗した痕跡遺構が遺っている
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:19:13.32
>>164

魏志倭人伝によると先代の男王の治世が乱れたため卑弥呼が共立された。
記紀によると、世が乱れたため、東で成功した饒速日を頼って神武らは筑紫を出た。
2世紀末に筑紫を出たグループと筑紫に残ったグループに分かれたのだろう。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:19:49.81
>>218
聞かなきゃ良いじゃん
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:31:09.41
>>220
聞かなかったから邪馬台国側からよく見えるように天竜川東岸の船着場に
銅鐸を大量に置いて見せるというボイコットに出たんじゃないか
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:32:06.04
福岡県を倭国とすると、熊本の菊池は福岡県の八女の南であり大牟田の東にある。つまり倭国の南であり東にあるのが狗奴国と考えて良いだろう
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:32:10.32
>>221
クマソな
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:33:21.65
>>223
そんなの無視しとけば良いだろ
卑弥呼は怖いのか?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:35:28.14
竹田恒泰も「邪馬壹」であって、邪馬臺ではないと主張してるね
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:39:38.07
>>226
そりゃ怖いだろ

卑弥呼の方が遥かに大きい軍事力を持ってるんだから
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:43:26.37
>>228
なんかよくわかんねえな
卑弥呼政権内の権力争いだろ?
王位継承権の権力争いだろ?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 18:52:04.42
卑弥呼に王位の座を争って敗れた
または卑弥呼がいつまでも経っても王位を譲らない
こうなればしこりは残る
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:03:48.43
卑彌弓呼ってヒミヒコ?それともヒミコト?
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:05:15.99
>>216
范曄の解釈だな
俺は范曄の解釈には
あいいれない部分があるだけだよ。
魏志倭人伝もそうだが全てが
正しいとは思えない。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:05:45.00
ヒミクホ
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:12:05.29
>>233
あいいれない部分は俺もそうだし良いけどどの部分をどう間違えたか書いて欲しい
後漢書のこの部分は魏志を詳しく書いてるだけだし
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:24:57.80
>>232
そもそも「ひみこ」って読まないよ
魏志倭人伝を知らない中国人に、「これはどう発音しますか?」って言っても1人も「ひみこ」って発音しない
北京でも広東でも四川でも黒竜江でも内モンゴルでも広西チワン族自治区でも海南島でも、誰も「ひみこ」と発音しない
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:28:26.24
ヒミホと読むのが一番近いの
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:30:13.09
このスレにいる岡上?さんは、ビミフってYouTubeで言ってたはず
0240日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>232
*pie-mie-hɔ

ピミホだからヒミコでいいと思う
日本人が漢(han)を漢(kan)と呼ぶのと同じでホをコと解して何ら問題ない
0241日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本人はヒミコ?のつもりで発音しても当時の中国人にはピミホと聞こえるからそう音写されただけ
0242日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「ピミホ」か「ピミハ」
倭人は「ヒミコ」か「ヒミカ」のつもりで発音していたと思われ

似ている単語はヒメミコトとかかな
御子と巫が結びつくのはあとの時代からだから日巫女じゃないと思う
0243日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

姫子でヒメコとかかね?
0244日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>232
だからそれはヒミクコorヒミクカになる
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:52:45.75
>>235
詳しいというのは君の取り方だから
当方は何も言えないよ
詳しいとか間違いと言うよりは
范曄視点に過ぎない
しかし、魏志倭人伝には
57年や107年の記述はない。
57年、107年は共立王ではないので
伊都国に代々の王がいたに留めたかもしれない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0246日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本語は昔(今で言う)ハ行の発音がなくて、ハ行を(今で言う)パ行で発音してた
じゃあハ行の音はどう聞き取られてたかと言うと、カ行

漢とか韓とかが「かん」だし、母のことをカカと言ったりするだろ?

卑弥呼をヒミコとは読まないとか言ってる奴はこの程度の知識も持ち合わせてない人達だから耳を傾ける必要無し
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 19:56:38.10
台与を考えると卑弥呼も卑弥弓呼も役職名じゃなくて人名
0248日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いるんだよねぇ
俺だけが真実知ってるんです!卑弥呼はヒミコと読まない!
教科書に書かれてない真実!みたいな人達
0249日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

■卑弥呼をヒミコと読まない
■魏使は瀬戸内海経由して邪馬臺に来た
■投馬国は吉備
■万二千里は観念的数字


畿内説を内側から破壊するエージェント
0250琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 20:08:27.19
熊本の菊池?菊なぞ卑弥呼の時代ではないわ。
チョウセンノギクは6世紀以降だろ。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:12:13.26
琉球の山北王、中国の史書では「怕尼芝」
これを翻訳にかけるとビックリ、「はねじ」
そのまんま完全一致
悪鬼納=沖縄は「ウヴィナー」
ウチナーに近い
一方、薩摩の慶長検知長では「おきなわ」
どう考えても薩摩人の方が耳が悪い
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:13:34.58
>>245
何言ってるかわからん
間違ってるのを付け足したって事か?
0253琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 20:15:16.88
男王立つが不人気で争いが起き、13歳が勝ったんだよ。
東海狗奴国では争いの規模が大きい上になんで13歳に負けるんだよ。
卑弥呼の指名後継者だからだよ。卑弥弓呼は弟。官、河内ひこはひょっとしたら弟の子。
0254日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>251
8世紀には阿児奈波だったけどこれどう読むと思う?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:26:20.92
狗奴国 狗古智卑狗(くこちひこ)

鞠智城(きくちじょう/くくちのき)

平安時代の『倭名類聚抄』では「菊池」と書いて「久々知」(くくち)と訓じている
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:28:27.94
>>254
学者によると、ウォージナーらしい
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:30:35.64
對馬、都斯麻、対馬、一支、未盧
発音あんま違わないと思うけどな
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:32:15.39
>>255
九州説スレでやってくれ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:36:07.63
>>259
狗奴国の話は邪馬台国とは無関係では無い
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:38:20.27
>>258
狗古智が後に菊池になったのだよ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:39:19.37
>>255
クナとクコチヒコ、全然違うじゃん
0263琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 20:40:00.59
卑弥呼の時代では、菊は生えてたかもしれんがほぼ無視だよ。
後々チョウセンノギクな。
0264日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

今本読んでるんだけど鬼道を五斗米道と考えるのは早計って書いてあったな
なるほど?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:42:57.52
>>261
クナとクコチとキクチ、原型は?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:44:14.12
>>231

肥国女王であった卑弥呼が大倭王として即位するために筑紫伊都に移動したため、本国であった熊本で卑弥弓呼が王を名乗った。
当然、卑弥呼とは犬猿の仲となる。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:45:36.22
>>262
官の名前が地名になる事はよくある事、私の名前も平安時代の城の名前で地名が苗字でもある
0269日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>267
ちなみにそういうのを「トポニム」といいます
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:47:40.20
>>266
それだけじゃならない
倭王になった卑弥呼が伊都に行くならそれは当然のこと
何故それを卑弥弓呼が恨む?
0271日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

神日本磐余彦(神武天皇)も奈良県磐余邑のトポニムだしな
まあ狗奴國は東海だから九州の話はどうでもいいんだけど
0272琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 20:48:32.22
そう、おれは道という字は嫌いでな、路が好きなんだな、足に各々だからな。
だが、これに関してはな、巫女と道を結びつけたものは五斗米しかなく、国を築けたのも張魯教団しかないんだな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:49:41.70
>>267
クナとクコチじゃ地名が全然違うだろ
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:51:10.64
>>259

魏志倭人伝に畿内どころか本州の地名が一つも出てこないからしょうがない。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:52:50.56
>>269
官の本名が先にありきなのだよ
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:54:39.58
>>273
国名と地域名は同じじゃ無いだろ、倭国と奴国が違うように
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 20:56:12.39
>>276
だったらなんの関係もねえじゃん
クナとクコチとキクチってのはなんなんだ?
0278琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 21:01:08.73
司馬家の都合上、河内とは書けないよ、不人気な上に13歳に負けるんだからな。
タリシヒコ、これも加羅(辛)の多利(口偏)国の人間だね。と思うね。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:01:38.77
>>270

筑紫と肥国だから、仲が微妙だったんだろ。
それに卑弥呼がいなくなったのなら我こそはというのもあったかもね。
そこらへんは想像するしかない。
ちなみに松野連系図では熊襲タケルは卑弥呼の孫。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:01:53.58
解かり易いから漢字にしてるだけなら良いけどその文字に意味を持たせようとするからダメなのよ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:03:12.74
>>279
クマソタケル?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:03:58.04
>>277
狗奴国の首都が「くくち」だったのだろう
0284琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/25(火) 21:04:17.07
卑弥呼に孫が居るのか?
九州はなんでもありだね。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:05:38.68
古代の発音はこのようにかなり変動するので、ヤマトのトの甲乙など無意味なんだよ。
現代だって関西と九州で発音が違うくらいなんだから。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:08:25.52
>>285
對馬、都斯麻、対馬、一支、未盧
そんなに変わったようには思えないが
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:08:33.54
>>283

地理的には王都ではなく、筑紫に近い最前線だな。
邪馬台国の傍国のリストの最後は支惟国こと基肄城、烏奴国こと大野城だと思う。
菊池城とあわせて、九州の古代三城が魏志倭人伝に揃っている。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:08:48.95
北部九州では宇佐神宮から任命された荘園主の名前が地名として残っていることが多い。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:10:11.46
>>288
漢字で書くなよ、絶対だぞ
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:10:46.22
>>289
そもそもクナは?
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:10:52.41
>>289
ヒント:中国人のヒアリング
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:18:17.23
>>290
なにをいっているのかまったくりかいできない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:30:21.23
鞠智城って夢殿を三段重ねしたような形なのな
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:34:26.51
>>274
鬼國 吉備
為吾國 丹後
鬼奴國 出雲(杵築)
巴利國 播磨
だろうな
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:37:48.67
>>298
おまえの感想などどうでもいいんだよ。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 21:45:04.87
国造の前だしな。
筑紫、出雲もない
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 22:12:12.32
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0302日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ごめんこれソースどこ?

980 日本@名無史さん 2023/04/25(火) 02:34:55.25
纏向遺跡に搬入されている外来系土器は
吉備25%
河内20%
東海20%
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/25(火) 23:48:34.81
里数行程は中国が待っていた資料の写し
日数行程は卑弥呼の使者が来た時の記録の写し
どちらも帯方郡から北部九州までの行程です

陳寿は渡された魏の時代の記録を繋ぎ合わせ、想像を盛り込みながら魏志倭人伝を編纂しました
多少誤解が生じてしまうのは仕方ありません

帯方郡

船で南に20日

投馬国=半島南部

船で南に10日

邪馬台国=北部九州

女王の都まで徒歩すぐ

合計30日(一月)の道のりである

これを陳寿は陸行30日と勘違いしたのだろう
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 00:25:40.82
>>303
里数行程は不弥国までしかないぞ
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 00:48:33.02
>>305
邪馬台国まで行くのに、遠回りして不弥国と投馬国に寄るのはおかしい
行程パズルが拠り所の九州説には痛すぎる弱点
根本的に国の配置が間違ってることになる
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 00:55:38.87
>>306
安全保障上の理由だろうと考える。
魏が敵国になって攻めてきた時の事も考慮してわざとそのルートをチョイスしたのではないかな
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:05:14.20
もう一つの理由としては国を大きく見せたいと考えていたのかもしれないね
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:06:52.99
>>307
属国の分際でそんな不誠実な対応があるか
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:14:19.12
>>309
卑弥呼は公孫氏と近しい関係だったという話もあるから警戒してもおかしくは無い
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:30:33.79
実は近い所だから司馬氏が遠回りを報告したのかもな。とにかく洛陽から万七千里(帯方郡から万二千里)は絶対に譲れない。
ライバル曹爽の父親が西方の大月氏国の使いを万六千里彼方から連れてきたからだ。記紀は皇国史観で嘘だらけ、中華の書物はそのような事がなく信用できるってスタンスは大間違い。むしろ全く逆なんだよね。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:37:19.32
不彌国からまず南至て投馬国(四国)
投馬国からまず南至て邪馬台国(近畿)だよ
日数、官名と戸数のみの説明のみ
まあ、行っていないから詳細な方向や停泊場所等の記述がないのである

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州にいるのだから
行く必要性がないのである
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 01:41:47.54
晋書に
舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定
乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也

とあるが公孫淵とは書いていないので、卑弥呼は公孫氏なりと読めなくも無い。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 02:29:48.51
>>313

晋書」 巻九十七 「四夷伝」
「舊以男子為主  漢末 倭人亂  攻伐不定  乃立女子為王  名曰卑彌呼  宣帝之平公孫氏也  其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初、遣使重譯入貢」

倭の難升米が率いる倭の軍隊 (遣使) が
公孫攻めに参加したかもしれません
半島を倭人に任せるつもりだったかも?
倭国側は新羅(白羅)、百済を建国させたとも考えられる。
だから金印であり、難升米等に役職与え
銀印を送る。




邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0315日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なんでこの墓、マトモに調査もせずに破壊したの?場所的に神武天皇のモデルになった人物な可能性もあったわけですよね
https://i.imgur.com/AoGjhJD.jpg
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 03:34:01.43
宇佐にはかつて都麻垣と書かれた『妻垣神社』があるが、これこそ投馬国の名前の出所では無いだろうか
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 06:33:28.83
中国の歴史書に書いてある数値は必ず数倍盛ってある、
って中国人や日本人の中国の歴史書の
研究者達が言ってるのに
お前らの倭人伝に書いてある里数や日数への
全幅の信頼は何なの?バカなの?
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 06:37:31.11
それどころか短里と言う単位を発明する九州説と言う基地外が居る
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:14:24.37
>>319
そんなこと、どうでもよろしいがな。  
短里がどうあれ、漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:16:57.14
>>306

それは一部のアホの主張を揚げ足取りしているだけでは?
それとも畿内説の工作かな?
投馬国は宮崎県都万、九州南部の要所だよ。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:21:30.54
>>322
>投馬国は宮崎県都万、九州南部の要所だよ。

と、なんら裏付け遺跡が無くても、妄想に浸れる「靄っと」馬鹿。   @阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:21:43.12
>>318
「必ず数倍盛ってある」なんて言ってない
そういう戦略的な欺瞞情報が入り込みやすいっていうか、可能性が多分にあるって、当時の政治情勢判断から言ってる学者が多数派なだけ
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:35:14.31
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:39:02.71
>>326
>糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ

九州説と名乗る一部の泡沫的な現代日本人だけからね
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 07:52:54.35
>>326
されていないけど
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 08:08:39.40
しっかりと人物を明確に比定!

・狗(拘)古(右)智卑狗 槁根津日子こと、珍彦(うづひこ)

※神武東征において登場する、のちの倭国造の祖
(まさに神武天皇の知恵袋)

狗奴国は、天津サイドに相対する国津サイドの国(素より不和)
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 08:11:12.75
>>302
>ごめんこれソースどこ?

石野博信「3世紀、大和・河内に王権を樹立した吉備・出雲連合」(纒向学研究第9号)
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 08:25:00.00
つまり畿内説は考古学統一教会の壺という事
盲目的に霊感商法詐欺の謳い文句を並べるだけ
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 08:31:19.54
>>331
>石野博信「3世紀、大和・河内に王権を樹立した吉備・出雲連合」(纒向学研究第9号)

吉備・出雲連合  つまり、「倭人(阿波勢力)」ってこと。   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:30:41.45
>>331
>石野博信「3世紀、大和・河内に王権

3世紀、大和・河内に王権があった痕跡など一切無いよ、石野博信さん。  
この程度が御用学者の実力だ。  わははははは   @阿波
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:37:10.29
御用考古学者は、土器や古墳の形態比較分析が出来るのが関の山。   @阿波
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:38:34.52
非御用考古学者は、脳内妄想が出来るのが関の山。   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:46:48.68
「どちらでもない可能性」を提示し続けてるのは@阿波だけかよ 情けねえ
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:49:17.62
>>324
多数の専門の学者達が言ってることを無視して
妄想垂れ流しの自論をさも事実の様にばかり言ってる奴ばかりやん
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 09:58:43.49
>>326
漢字で書くなと言っとるだろバカ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 10:18:25.95
>>345
お前は阿波に王権があったことを否定出来ないだけ。 情けないのはお前。   @阿波
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 10:21:30.68
卑弥呼の後の男王が引き起こした内乱は記紀で言えばどの記事が該当するんだ?
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 10:38:59.71
>>347
「出雲の国譲り」   @阿波
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:08:32.32
>>347

卑弥呼から後の九州は記紀に詳しい記述はない。
すでに神武らが去った後なので。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:20:56.61
>>352
そんな訳ねえじゃんて事で勝手に卑弥呼の時代辺りにしてるんだよね
そういうのダメだから
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:26:06.71
>>352
記紀の古代天皇の歳が太陰太陽暦の1年と合致してると言うなら神武即位は紀元前660年。中国史の記述から春秋暦を使用してたと言うなら神武は3世紀後半の人
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:26:18.86
>>352
記紀の
立証できない部分は信用しない。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:28:28.17
>>354
まあ、神武は、半島か大陸系だろうな
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:29:56.47
>>356
まだ言うか?
ジンムなんか居ないんだよ
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:30:43.92
①卑弥呼の後の男王時代
②幼い台与女王時代
③倭の五王時代

これらについて記紀に該当する記事が無いのであれば、ヤマト王権は卑弥呼時代から何も引き継がれていない全く別系統の家系である
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:34:15.79
>>359
そんな人物の事を憶えてたと思うか?
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:36:18.83
>>358
そこは記紀じゃなくて考古学だな
継続するものがあればそうとも言えない
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:39:09.41
>>362
徳川家康の祖先は?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:41:01.86
始祖はアフリカに住んでいた
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:43:58.03
要する日本には始祖いない
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:44:31.10
徳川家康は源氏てのは本当?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:45:36.23
要するに九州説というのは後世の作り話を盲信する非学問ってことね
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:52:12.77
>>367
関白になると豊臣からの簒奪になり拙いので足利によって虚官化した征夷大将軍を引っ張り出した。家康の先祖に婿養子に入った上州人が居てそれを新田氏流得川と結びつけたが、家康存命時に本物の得川氏は健在
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 11:53:31.09
徳川家康が始祖という考え方もできるがそれは実在がはっきりしてるから
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 12:13:38.28
平氏でなく平家なら男系は全滅。女系は現皇統はじめ多数健在
0374琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 12:13:39.10
大きな声では言えないが、神武とはな、今の日本では、武豊のことなんだな。わかるかね。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 12:14:45.08
当時の日本で土地の奪い合いなんて起きてないと思うのよ
推定人口が60万人だし天下統一も目指してないだろうし
結果的に大和朝廷ができたってだけだと思う
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 12:43:02.56
吉野ヶ里遺跡や纏向遺跡は、何ら特異な遺跡ではない。   @阿波
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 12:45:34.81
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 12:58:53.37
>>354

世代数から逆算すると、2世紀後半くらいが良いのではないかと言われている。
つまり神武らが筑紫を去ったのは、卑弥呼共立直前の倭国乱。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:00:06.11
>>355

年代を補正すると、魏志倭人伝と一致することになる。
また、畿内の銅鐸の廃止、前方後円墳の定型化などと重なる。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:03:11.56
こう年代にしてみると分かりやすいw(改訂版)

080綏靖 ウヒヂニ スヒヂニ(師升?)
100安寧 ツノグヒ  イクグヒ
120懿徳 オホトノジ オホトノベ
140孝昭 オモダル  アヤカシコネ
160孝安 イザナギ  イザナミ
180孝霊 アマテラス スサノオ
200孝元 オシホミミ 大国主 大年神
220開化   ニニギ 事代主 
240祟神 神武 山幸 姫タタラ ミマツ姫 
260垂仁 綏靖 ウガヤ
280景行
300政務
320仲哀
340神宮
360応神
381仁徳 讃
400履中
438反正 珍
451允恭 済
462安康 興
478雄略 武
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:04:01.48
>>361

九州北部には、彩色古墳という独自の伝統があった。
前方後円墳も入っては来るが、それとは別に独自色は残っている。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:14:58.90
>>380
筑紫もない時代
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:25:27.47
すぐ釣れる低脳畿内説

388:日本@名無史さん:[sage]:2023/04/26(水) 13:24:25.03
つまり九州説はウソ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:34:41.82
>>390
そいつ九州説だけど、お前の自演?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:41:05.66
>>388は卑弥呼は九州、邪馬台国は近畿という説だから
畿内説から見ると九州説だなw
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:46:38.90
卑弥呼の正体

天照大神(比売大神、八女津姫)
   VS
祭祀王(倭迹迹日百襲姫命)

の永遠の戦い
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:47:44.71
纏向説も九州説だ。
畿内説ではない
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:49:03.88
>>395
漢字なんか認めない
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 13:50:24.89
>>392
388は俺じゃないよ。
畿内説は日本語や地理がわからないのか?
近畿て九州にあるのか?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 14:04:00.21
地理も末期症状の畿内説
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 14:26:51.89
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
0404日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>395
天照大神を無理矢理実在の人物に比定しようとしたら、まあそれは平原一号墓の被葬者になるだろう
邪馬臺國の時代よりちょっと前
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:04:50.77
>>401
>記紀も史書もガン無視するのが畿内説の瀬戸内航路説

その、無視されてる記紀や史料って、なに?
あなた、すごく学力が低いね
小学校低学年並みだ
それが九州説の知的水準なの?
0406日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

宇佐とか八女とか当時ど田舎で、一番先進的だったのは副葬品的に間違いなく平原一号墓

墓の東西軸線上に高さ15mの御柱が立ってて、その延長線上日向峠からは、10月20日に太陽が昇る。見つかった鏡も日輪や太陽光を表したとされる連弧文や重圏文。
太陽信仰に関連する女性祭主の墓である
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:08:39.22
卑弥呼の墓やね
0408日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そもそも俺は九州からの東征を疑ってるけど、もし、もし神武東征があったのだとしたら出発地点は南九州ではなく伊都国だと思う

何故なら、天皇家のレガリア『八咫鏡』と同型と思しき鏡が糸島市の平原一号墓で出土してるから。というかここでしか出土してない。
遠く離れた畿内のヤマト王権と北九州糸島の王権の鏡が全く一致しているというのは、何か繋がりがあったとしか考えられまい
https://i.imgur.com/BTvkouM.jpg
0409日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>407
平原一号墓は年代的に卑弥呼の墓ではない
0410日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『九州からの東征を疑ってる』は言葉足らずだったな
九州から東征があったとは思ってない
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:14:13.10
>>408
>遠く離れた畿内のヤマト王権と北九州糸島の王権の鏡が全く一致しているというのは、何か繋がりがあったとしか考えられまい

降伏の印にレガリアを捧げる
0412日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

だが、2世紀半ばに存命中だった伊都の女性祭主(天照大神)が王族の末子に命じて東征を開始し、吉備で8年逗留した後に畿内入りした。
というシナリオは結構説得力あるかもしれない。

吉備の楯築墳丘墓や孤帯文の影響が2世紀後半に畿内へ入ってきて入れ代わりで銅鐸祭祀も廃れるわけだしな
0413日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>411
その可能性もかなり高い
というか紀では伊都県主の五十迹手が神器掲げて天皇に帰順してるもんな
0414日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

草薙の剣も崇神天皇が物部十千根に命じて出雲宝器奪った時に齎されたんじゃね?説あるし
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:18:45.41
>>412
ヤマトには伊都の影響がほとんど無いよ
厚葬の悪習が伝播しただけ
0416日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

応神天皇の出生地候補の1つが伊都だから、この時に伊都国と邪馬臺が合併したのかもしれない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:27:35.49
渡来系の第一派が縄文系と平和的に今日あおんしてるところに、渡来系の第二波が暴力的にやって来た、というような民族的な記憶が神武東征の本質だと思う
歴史上の具体的な個人の英雄譚じゃない
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:30:07.13
>>416
一大率が上洛して近江系政権を倒した話じゃないの?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:33:16.39
魏志倭人伝と徹底的にマッチしない畿内説ってオレオレ詐欺じゃね?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:35:47.93
>>419
具体的な話が徹底的にダメな九州説の知性は徹底的に低い
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:37:59.04
>>420
誰か他人の吹き込まれた話を街宣車で連呼してるだけだから
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:41:33.65
>>418
話が飛躍し過ぎてわけわかんね
一大率って誰よ?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:45:22.37
畿内説の霊感商法詐欺にご注意ください
魏志倭人伝との整合性について一切触れようとしない
畿内説w

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png


[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:45:54.80
投馬国はここだ、妻垣山は神武が母親を祭った聖地でもあり
ミミナリ(耳垂)は耶馬溪に居していた
https://i.imgur.com/1pe7Fl4.jpg
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 15:51:46.91
>>423
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:01:06.66
>>404

> >>395
> 天照大神を無理矢理実在の人物に比定しようとしたら、まあそれは平原一号墓の被葬者になるだろう
> 邪馬臺國の時代よりちょっと前

平原遺跡は卑弥呼の治世、邪馬台国時代そのもの。
まあ、後漢書でも大倭王は邪馬台国にいると書いてあるから、1、2世紀も邪馬台国だったろうけど。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:02:17.59
>>406

太陽を象徴する文様の八咫の大きさの鏡があったから、卑弥呼の墓ですね。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:06:15.93
>>408

賛成。
筑紫の日向の高千穂は高祖山のこと。
後の怡土城が高千穂宮だろう。
福岡県内の他の山城や、対馬の山城は朝鮮式山城だが、怡土城だけは中国式なんだよね。
なんなら西日本各地の高地性集落も朝鮮式山城だが、怡土城だけは中国式。
楽浪帯方の中国人の影響で、外交の場としての王都にふさわしい宮城を立てたのだろう。
0431日本@名無史さん
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2023/04/26(水) 16:08:17.27
宇佐で宇佐津姫が天種子命の妻になったとされているけど神武の妻になったのが真相じゃ無いのかなと思う
0432日本@名無史さん
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2023/04/26(水) 16:08:38.68
>>430
何でそれが分かったの?
0433日本@名無史さん
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2023/04/26(水) 16:09:42.48
>>412

誰かが伊都から東征したのは間違いない。
ただ、平原遺跡の女王の年代は少し遅すぎる。
平原の卑弥呼が八咫の鏡の持ち主だったのは確実だが、神武より前ではないので、記紀の編纂者も苦労しただろう。
0434日本@名無史さん
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2023/04/26(水) 16:11:50.61
>>415

銅鏡の副葬という習慣が影響を受けた。
しかも他の独自の祭器を捨てて銅鏡に切り替えた。
これは、首長層が筑紫の勢力に入れ替わったと考えるべきだ。
0435日本@名無史さん
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>>428
えぇ
卑弥呼が太陽信仰ってどこに書いてあったの?
逆に太陽信仰の高句麗とかは魏志高句麗伝で「天神を祀る」と評されてるけど卑弥呼は鬼道だし違うと思うわ
0436日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>433
平原の卑弥呼ではないわ
平原一号墓は2世紀末期だから、卑弥呼の時代にはとっくに亡くなってる
0437日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>430
いや古い漢鏡しか出てないし通説通り2世紀末期でいいと思う
0438日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>427
卑弥呼が亡くなったのは3世紀中盤
平原とは50年以上の開きがある
0439日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>434
祭器が銅鏡に入れ替わったわけではない
銅鐸の意匠はむしろ特殊器台などに受け継がれている。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:17:17.38
>>436
帥升の奥方もしくは子供で卑弥呼の母親かもしれんね
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:17:31.15
>>435

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:19:06.54
>>437

後漢鏡より新しい国産の大型鏡が多数あり、むしろ古墳時代の畿内の特徴を備えている。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:19:22.80
縄文人は埋葬状況から方角を意識していた事が確認できている

対して前方後円墳は向きがめちゃくちゃ

つまり古墳は渡来人の風習だ
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:21:26.68
>>439

それは下請けの作り手、工人が変わらなかったから。
しかし祭器の様式が銅鐸から筑紫の銅鏡にかわった。
しかも古墳の中で最上位に置かれていたのは平原遺跡と同じ内行花文鏡。
0448日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>441
卑弥呼は百襲姫だから違うと思うが
帥升の二世代あととかそんくらいかね
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:23:02.30
銅鐸は墓から出ないから個人のものじゃないし威儀具じゃない
0450日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>447
銅鐸から銅鏡に代わったとしても、それは庄内式期の出来事だから邪馬台国以前の話だよな
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:23:47.83
>>441

三雲南小路遺跡の例から、三種の神器は王だけのものであり、王妃には副葬されないことがわかる。
平原遺跡は三種の神器かつ女性の装飾品なので、女王であるとわかる。
魏志倭人伝によると、卑弥呼の前はずっと男王であり、卑弥呼が最初の女王。
つまり平原遺跡は卑弥呼の墓。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:25:22.28
>>449

つまりまったく新しい文化が新しい首長層により筑紫から畿内にもたらされた。
しかも、彼らは吉備に立ち寄って特殊器台や前方後円墳の原型も会得してきた。
0453日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>451
時期が違うね
女王の都する所も伊都国じゃなくて邪馬臺國だし
畿内説に関係ない新説なら九州説スレで発表してくるといいよ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:26:17.43
>>450

そうだね。
だから誰かが筑紫から東征して、その後の混乱を治めるために卑弥呼が筑紫で共立されたのだろう。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:26:47.03
>>452
鏡の種類が違うみたいだが
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:26:55.35
>>451
男王が若かったので神功皇后のような摂生だったかも
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:28:27.59
>>448
モモソヒメが存在していたと思うのはお花畑だろ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:28:41.32
>>453

年代順から言えば、畿内にいたのは、その少し前まで三雲つまり伊都国にいた首長層なんだよ。
ことは、畿内大和にいたのは何者かということでもある。
誰が前方後円墳を作った?
誰がそこに内行花文鏡を副葬した?
0459日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>458
そうだね
新説なら九州説スレで発表してきて
ここ畿内説スレだから
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:31:08.86
平原王墓の首元の剣が気になるのよね、
まるで西洋の魔女狩りの鎌のように見える
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:38:05.59
>>460
> 魏志倭人伝に書かれていないことを創作しないように。

畿内説の事ですね
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:39:12.92
>>461

剣がないと三種の神器にならないから、あとからあれだけ追加したんだな。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:46:10.87
>>426
魏志倭人伝には土器の記述はない
何ら証拠にならない。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:48:25.61
墓遺跡だしな。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 16:59:26.14
須玖岡本遺跡も墓遺跡
建物跡も少ない
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:09:51.35
>>356
半島南部にいる支配層も大陸系やろ 半島に入った時代が違うだけ 覚えておきなさい
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:18:23.62
原田大六が悪いんだろう
バカに権力を持たせると碌な事にならない
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:20:04.14
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:26:50.02
>>471
当時、第三者等の立ち合いが入らないから
胡散臭いんだよな。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:33:38.60
モモソヒメ=卑弥呼説を言い出したのは徳島県人だぞ、察しろw
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:43:33.94
>>466

土器の記事はなくても、郡使が滞在したことが明記されている。
その証拠があるのは三雲。
これは考古学的に明白だよ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:45:50.76
弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西
其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
混血種の国々かな?
瀆盧国與倭接界
ト骨出土が、韓国泗川勒島
この辺が境で倭人居住地と推測

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:46:52.00
崇神の在位は3C末〜4C前半が有力だから百襲姫は必然的に台与になる訳だが
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:48:51.25
>>474
笠井新也の時代には、矢野遺跡など「阿波」の特異遺跡がまだ発掘されていなかったからな。   @阿波
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:49:20.90
>>475
どこが明らかなのか?
土器生産地とも考えられる
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:51:35.46
>>475
>その証拠があるのは三雲。

お墓に郡使が滞在したのか?  わははははは   @阿波
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 17:52:24.47
>>477
崇神の在位は3C末〜4C前半
立証できない記紀は参考程度
証拠にもならない
0482日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もちろん中心地は三雲井原だけど
伊都国が西区って意見も正しい
なぜなら伊都国常駐の一大率は津に臨むんだから海(おそらく博多湾)に面してなきゃいけない。ということは、伊都国唯一の環濠集落今宿五郎江遺跡に一大率が常駐していたと考えるのが整合的だね?
0483日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか今宿五郎江は伊都国から奴国に入る道を遮る様な立地だから、関所ってのは大正解
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:11:21.18
>>482
一大率はびくびくしながら環濠集落に引きこもっていたのか?  わははははは   @阿波
0486日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>484
そりゃ外敵からの攻撃にも備えなきゃいかんでしょ
0487日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

筑紫率(太宰帥)が水城に囲まれた要塞都市の中の大宰府政庁で政務行ってたようなもんよ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:15:58.52
岡湊と伊都が三種の神器を差し出して平和的に畿内勢力に帰順したってのは史実の反映っぽいと思う
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:17:09.15
>>486
そんなヘタレは「一大率檢察諸國畏憚」じゃなさそうだな。  わははははは   @阿波
0491日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>489
いや、九州諸国には「卑奴母離」がいるでしょ?
大宰府が防人を指揮してたのと同じく、一大率は各地の卑奴母離を指揮する事で統治防衛を行ってたのよ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:21:40.58
>>490
非科学的な妄想いくら述べても、通説は動かないから
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:22:21.54
>>491
だから、一大率はびくびくしながら環濠集落に引きこもっていたのか?  わははははは   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>496
津に臨んで賜物の検査とかもしてたみたいだよ
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:26:24.99
>>498
そんな任務を、環濠集落に引きこもっている奴ができるか!   @阿波
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:26:29.39
>>497
前方後円墳の埋葬頭位は統一されていない
統一されているかのように霊感商法詐欺が吹き込んでるだけw
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:28:18.66
>>489
だな。そこは阿波爺と同意見
まあ交易も北部九州のみではなく
九州の西側や有明海もあるだろう
呉王権との交流はないと思うが
呉鏡(赤鳥)等で交易の面はあると思う

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0503日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>500
なんで?
じゃあ水城に囲まれた大宰府政庁に引きこもってた大宰帥は任務遂行出来てなかったってこと?
0504日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もしかして一大率が直接剣を振り回して国々を脅して回ったとか考えてるの?
常に伊都国で政務を行ってるんだよ
基本伊都国から出る事はないよ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:32:21.49
小学校の教科書見たら、九州説と畿内説の両論併記で、畿内では巻向、九州では吉野ヶ里がいかにも邪馬台国である風な感じの表記だった
0507日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

一大率が諸国を動き回ってたと考えるのは完全に倭人伝本文無視だよ
「常治伊都國」なんだから
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:32:48.50
>>503
大宰府政庁?  8世紀の話をしたいのか?  わははははは   @阿波
0509日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>508
いやいや3世紀の話も同じだよ
一大率は「常治伊都國」だから殆ど移動しない
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:35:16.56
>>507
本部が伊都にあっただけ
FBI、CIA、ゲシュタポ、王の目王の耳みたいな活動をするわけだから、当然地方にも一大率の役人はいる
0511日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>510
だからそれが卑奴母離だって言ってるだろ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:36:57.04
投馬国に卑奴母離はいない
0513日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑奴母離(*pie-nɔ-mə-liɑi)は知ってるよな?
記紀や倭名類聚抄にも夷守として登場する役職だよ

「鄙(辺境)を守る」ってことなな
0514日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>512
当たり前だろ
そこ本州じゃないし
0515日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>512
間違えた
そこ九州じゃなくて出雲だし
一大率の管轄してる九州じゃないもの
0516日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

不弥国までは九州なんで一大率の管轄下で卑奴母離設置
投馬国は本州だから一大率の管轄を外れて卑奴母離無し
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:40:46.87
>>515
出雲は不弥国の南には無い
0518日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

というか、出雲は女王国の構成国家なんだから鄙(辺境)じゃねえよ
九州は女王の都する所から見て辺境だったからヒナモリ置かれてるけどな
0519日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>517
あーあなた九州説ね
ここ畿内説スレだから貴方と議論するつもり無いよ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:42:46.18
>>519
説明出来ないと言う事だな
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:49:22.43
一大率はその地方で一番偉い人だよ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:51:27.84
>>490
いや、無知な素人がナニ言ってもw
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:52:00.20
郡使が常に立ち寄ってた伊都国で一番偉いのは一大率に見えた
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:53:10.82
>>505
証拠ある事実の指摘は罵倒じゃ無いから
0525日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

トピ主ってツイッターとかやってないの?
0526日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ネットで「魏使は瀬戸内海経由で来た」とか言ったらドン引きされるし発言の信頼度が失墜するから注意したほうがいいよ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 18:57:08.01
魏志倭人伝によれば投馬国も邪馬台国も不弥国の南にしかない
https://i.imgur.com/dcvnujB.jpg
0530琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 19:03:23.52
北枕だよ、前方後円墳の向きが違うとか言っとんのだろ、これは陰陽だろ
、それぞれだな。
阿人の墓、阿残墓九州には卑弥呼は眠らない、親魏は貰えないし、寝苦しいだろう。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:05:13.63
>>506
邪馬台国である風て何?
邪馬台国と特定する記述は何?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:09:52.61
>>528
最終的に陸行するのである程度は奥地でしょうね
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:16:04.23
>>512
邪馬台国にもいない、副の記述もなく
次にである。次官、次々官、次々々官読むより
対等関係と読む、纏向を含む
広範囲な地域のインフラ整備
租税や軍事に関する記述はない
中心国とは思えない



邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0534琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 19:16:55.71
昼は人がつくり夜は神がつくるような墓に眠る女性は卑弥呼以外に誰がいると思っているんだ!。
箸墓は卑弥呼のお墓。
九州に親魏を与えられるような墓はない。
倭人伝を何度も読め、卑弥呼と魏、どっちが臣下か解らないぞ、魏が尽くしたことしか書いてない。同等の女王だよ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:24:41.33
>>534
大国主だよ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:26:30.51
>>510
>FBI、CIA、ゲシュタポ、王の目王の耳みたいな活動をするわけだから、

どこの誰が?
そんな仕事するって根拠は?
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:29:47.40
>>526
>ネットで「魏使は瀬戸内海経由で来た」とか言ったらドン引きされるし発言の信頼度が失墜するから注意したほうがいいよ

理由もなくそんなこと言うと、ドン引きされるし発言の信頼度が失墜するから注意したほうがいいよ
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:38:45.32
>>528
だから、直方辺りだ。   @阿波
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:40:24.95
>>532
だから、直方辺りだ。   @阿波
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:40:57.40
>>535
大国主など魏志倭人伝にも後漢書にもない
記紀は後付けだよ。大国主て何?
根拠や立証するもんてあるのか?
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 19:49:57.59
>>540

大田田根子の爺さんの爺さんが大国主だよ
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:04:20.74
>>541
大田田根子ていたのか?
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:06:59.47
>>541
大田田根子て
照合できる中国等の文献あるのか?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:07:27.85
>>542
大神神社の初代宮司で三輪氏の祖だよ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:14:21.52
一大国が壱岐国なら一大率も壱岐率の可能性がある
福岡市西区には壱岐という地名がある
また海岸は神功皇后の伝承がある生いきノ松原という
なんか意味深なんだよな
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:17:19.31
>>544
祖いつ頃からいたのか?
租の父は、爺はどこにいた?
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:18:38.53
>>546
人物でなく
役職名なのか?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:19:37.39
>>546
それは違う
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:21:39.71
>>546
役職名が大物主のモデルか?
成る程ね
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:22:34.35
>>547

大田田根子の父は、『古事記』によれば「大物主大神が陶津耳命の娘である活玉依毘売を娶って産んだ櫛御方命の子の飯肩巣見命の子の建甕槌命の子」とされ、『日本書紀』では大物主大神と活玉依媛の子とされる。子には大鴨積命、大友主命、大多彦命、意富禰希毛知命がいたとされ、三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏(賀茂朝臣氏)、神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:24:19.26
>>551
古事記によらない場合は?
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:25:18.38
>>551
日本書記にもよらない場合は?
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:26:33.41
大物主て何だ?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:29:52.91
>>554
架空の神様だよ。
いないよ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:30:09.12
>>552
初代宮司だった大神神社に問い合わせてみたらどうだい?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:31:51.37
>>554
記紀での創作だ
あっちこっちに出没する
つまり大倭がモデル
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:32:25.30
大物主の祟りを鎮める為に大物主の墓(箸墓)を祭ったのよ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:33:03.57
>>556
聞いたけど、知らない
記紀上の事しかかえってこん
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:33:46.01
>>559
だから大物主て何のか?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:35:12.65
架空の神様でいいだよ
実在などしない
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:48:36.05
>>561
大倭だよ。
逆らうと酷い目にあう
大物主のモデルになる。
推測だけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:53:30.11
ヤマト王権は大物主に対して後ろめたい事を感じていたのだろうね
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:57:32.08
大物主(大倭)
賄賂おくっていたとか?
或いは
ヤマトが大倭の一部で
賄賂やクーデターとか?
推測だけどね

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 20:58:10.88
>>545
別に井木でも伊木でも息でも良いんだし漢字で書くの止めてもらえますか?
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 21:13:40.30
畿内は倭国や邪馬台国とは切り離して国の成り立ちを考えた方がいいよ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 21:25:39.58
>>569
畿内は倭国や邪馬台国とは切り離して、8世紀の大和朝廷国の成り立ちを考えた方がいいよ   @阿波
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 21:33:34.13
天照大神と大物主大神が共存する神社ってあるの?
0572琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 21:37:48.78
>>535.大国主だよ。ハハハハ、わかってないねぇ。
記紀編纂には目的があるんだよ。本居の朝貢を認めないとか真に受けてんのかな。
記紀は置いといて、道教なんだよ、大国主も大物主も概念だよ。
因みに卑弥呼以前には主無し、大国主が存在するならそれは卑弥呼だよ。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 21:49:41.87
根拠なし妄想はそこそこにな。大物主は大歳彦明神。スサノオの子。
0574琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 22:00:57.77
まだ、そんなこと言ってるのか、と言いたいがそれが現状だわね。だから論争は永遠に続くわな、間違ってるけど、よかったね。
0575琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 22:03:52.92
それとな、主無しは、根拠無しではないだろう、
あんたのほうが根拠ないの。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 22:05:18.36
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0577琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 22:11:03.55
>>573.いい例出してくれたね、それ太乙彦明神だろ?それだよ。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 22:22:17.79
>>572
卑弥呼を祭った神社はあるのか?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 22:24:13.56
>>575
だから「主」がいる奈良は倭人伝の倭とは違う国。要は畿内説は間違いなんだよ。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 22:30:17.13
>>577
学者とは言え江戸時代の人間でも舞台は九州だってわかるのにインターネット時代に畿内説とかどんだけやねん?
あと、卑弥呼は九州へとか言う奴がお前の次にキモい。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 22:33:11.44
畿内説は不弥国の東に彷徨う時点でアウト‼
0583琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/26(水) 23:02:46.84
説で落とせない九州、頼みの綱は己の思想か。
箸墓が卑弥呼の墓、
原始道教の指導者、この列島の骨。
国を纏める理念をもたらした女性。
卑弥呼以前に倭道なぞ存在しない。また、蛮夷に道は中華は使わない。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:11:08.22
年代「測定値」の過誤がこのように明らかになりつつあっても,それを根拠にいったん喧伝された箸墓古墳 3世紀説という,まさに結論だけがひとり歩きする状況がいまなお続いている 。 もちろん,こうした年代「測定値」によってではなく, 三角縁神獣鏡やその他の物証について の旧来の解釈と推論だけに依拠して箸墓古墳 3世紀説を唱える立場もあるが,新たな物証の出現などによっていまや説得力は希薄になったといわざるをえない。
https://www.jinbun-db.com/journal/pdf/vol_17_63-70.pdf
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:20:08.94
【データ操作が恣意的であるとの集中的な批判が加えられている 】
恣意的と言うと何だか柔らかいが「要は捏造」である。畿内説は阿波説と同レベルな事にいい加減に気がつけないかな?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:20:21.87
>>584
年代なんて話半分って感じの者にとっては箸墓だけ異常に拘られても
ど素人にはわかんねえのよね
他と比較してもらえると少しは判り易いかもな
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:34:01.24
SPring-8の構造とか技術的な事とかど素人にわかんねえもん
もっと解かり易いのでこのやり方は違うってのを証明してくれないと
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:41:14.50
炭素年代測定とかホントのところわからんから話半分
それを間違いなく違うってんならもっと解り易く
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:47:31.29
後になって実はこのやり方で正しかったって可能性だってあるんでしょ?
それじゃダメなのよ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/26(水) 23:59:03.37
科学的に測定された値に対して、なんにも反論できないで
嘘だー、間違いだーって叫んでる九州説って
知性ないって自白してるのと同じでしょ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:06:12.98
SPring-8は超高解像度顕微鏡だと思ってください
成分分析は可能ですが年代測定は不可能です
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:09:18.45
YouTubeでも年代にケチつけてる人ってあまり居ないと思うけど
そんなに多く見てないけどみんな半信半疑だけど
否定する根拠も持ち合わせてないって感じじゃないかな?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:09:38.57
炭素年代法はプラスマイナス50年ほど誤差が出ます(当たり前です)
実際14世紀頃の最古の日の丸を測定したところ15~16世紀頃という結果が出ました
年代測定の精度なんてその程度です
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:11:05.82
炭素年代測定の問題点をAIは指摘しているけどな
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:11:08.36
>>591
つまりやり方自体が今までも今後も間違ってるって事か?
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:13:01.68
恣意的に数値を出しているのでは?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:15:49.85
>>596
技術的な事なんてわかんないのにそうなんじゃないかって疑うだけじゃ
説得力を持たないのよ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:18:29.94
>>595
たとえば成分比率に見られる特徴で分類すれば、産地や年代も見当がつくはずだ
というのが畿内説の主張です
漢鏡の成分比とよく似た成分比の鏡は漢の時代の鏡だ、とかね
しかしそこに日中共通の公的基準は存在せず、あくまで畿内説の独自基準なのです
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:22:26.96
>>599
何が出来るかってのはわかんないけど
異物の検出が出来れば産地や製造地もわかるんじゃないか
製造過程で何か入るだろ?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:22:55.37
>>598
誤差が無い測定法なのか?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:25:22.69
>>601
そんな事も知らんけど必ず間違いだと言うのであればはっきりしたのが必要
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:30:56.29
>>573
それも創作部類だよ
実在せず。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:33:22.97
>>600
SPring-8は放射光(電子から剥がれ落ちる光子)というとてつもなく細く強い光を利用して原子の種類や分子の構造を見極める事が出来ます
しかし青銅品の場合は溶かす→再鋳造を繰り返すことが可能なものなので畿内説のような主張は通らないのです
例えば3世紀に漢鏡を溶かして作られた鏡を漢鏡だと結論付けてしまうかもしれません
そもそも3世紀当時は中国産の原材料しかなかった時代なのですべて中国製の鏡という結果しか出ません
日本でしか出土しない独自の大型銅鐸も中国製という結果が出てしまうのです
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:34:57.74
箸墓纏向の年代だけに異常に拘ってる
そうなると他はどうなのかって疑問は当然出てくるわけで
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:36:33.70
>>604
製造過程で何か入るだろうと思うんだけどな
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:39:34.36
銅と鉛の成分だけで完璧に100%になるわけじゃないでしょう
不要な遺物も混ざってるでしょ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:39:51.30
>>593
>炭素年代法はプラスマイナス50年ほど誤差が出ます(当たり前です)

という理由は?

理由がまったく理解できないで言ってるということは
誰かに言われたことを鵜呑みにしてるってことだけど
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:42:28.49
スサノオは帥升の事とする説があるが、そうであれば卑弥呼はスサノオの孫か曽孫あたりかな
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:42:42.16
>>599
>しかしそこに日中共通の公的基準は存在せず、あくまで畿内説の独自基準なのです

そんなこと決めつける理由は?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:45:15.37
炭素年代測定に誤差はあるだろう
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:45:32.12
>>597
>4世紀ですね

そのグラフを見て、そんなこと言う理由は?

なんでまったく理由が言えないの?
誰になんと言われて鵜呑みにしているの?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:46:54.80
>>611
>炭素年代測定に誤差はあるだろう

どんな誤差が?
それで全く信じられないと言うの?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:47:27.65
>>613
誤差は無いのか?
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:50:19.07
炭素年代測定の方向性が正しいのか間違いなのかもわからんからな
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:50:41.54
>>614
あらゆる測定には誤差がある
あなたは自分の体重も信じないの?
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 00:54:39.13
原子で見分けがつかないのは俺でもわかるけどさ
0618琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 00:57:24.70
4世紀に何者が箸墓を築いたというのかね?
隋代まで影響を及ぼし、邪馬台者とされる者らは確実に畿内に居、にもかかわらず4世紀以降の前方後円墳者等が魏の年号の鏡を持っていた理由わ?
伊勢の始祖は誰だね?
作り話しかできない九州。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:00:51.12
>>616
> あらゆる測定には誤差がある

何年の誤差があるのか?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:09:10.49
>>619
あなた、標準偏差が理解できる?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:11:41.64
>>620
炭素測定法で3世紀と思われるものの測定をした場合の誤差は何年かと聞いている
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:14:14.32
>>618
>4世紀に何者が箸墓を築いたというのかね?
纒向古墳造営キャンプ場に縄文人奴隷を連れてきて古墳造らせてたんだろ

>隋代まで影響を及ぼし、邪馬台者とされる者らは確実に畿内に居、
隋書の「邪靡堆はいわゆる魏志の邪馬臺なり」というのは筆者の想像だ
ヤマトなら邪馬「都」と名乗っただろうに

>にもかかわらず4世紀以降の前方後円墳者等が魏の年号の鏡を持っていた理由わ?
奈良で「魏の年号の鏡」?景初三年の紀年鏡は島根でしか出てないだろ詐欺

>伊勢の始祖は誰だね?
魏志倭人伝とは全く関係無い話が何か?

作り話しかできない畿内説。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:16:22.98
>>620
纏向桃核の年代誤差を説明してくれ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:17:12.75
ホケノも4世紀か?
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png

「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:18:14.03
3世紀当時、倭国には馬なんていなかったはずなのに

■箸墓古墳で馬具出土
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。

■参考
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。

・馬具研究史より
『樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。』
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:19:30.58
■卑弥呼死後の状況に関する記述
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」
 男王を立てたが国中が不服で殺し合いに発展し、1000人余りが死んだ。

箸墓近辺、纏向遺跡に戦乱の痕跡は無い
0627日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>622
>ヤマトなら邪馬「都」と名乗っただろうに

俺があれだけ言っても上代特殊仮名遣い知らない人がこんなスレに顔出してるのかー
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:21:28.32
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:22:04.79
>>621
つまり、全く理解できてないということ?

誤差は測定のたびに違うよ
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:23:11.50
参考
別スレより

>考古学的には、5世紀の河内の大発展があり、大陸から、干拓・灌漑土木・鉄・縫製・馬などが持ち込まれ、経済的に発達した。
>河内には全国制覇を成し遂げた獲加多支鹵大王もいた。
>大和が太古より倭国の中心であり続けたわけではなかった。

>河内は倭の五王の後の6世紀も日十大王からアマタリシヒコ大王が王権を構成していた。
>書紀は、五王の後、淀川水系の継体へ王権を移し、そこから大和の欽明へと繋いだ。
>書紀が王権を迂回させたのは河内政権を歴史に残したくない意向からである。
0631日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州の山門なら邪馬土or邪馬都と表記されただろうね

畿内ヤマトのトは乙類で夜摩苔とも表記される
これくらい知ってから邪馬台国論争に参加してほしいけど、まあ知識が付いたら畿内説に転向する仕組みになってるからね
まだまだ勉強が足りないねー
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:24:20.68
普通の畿内説の見解

近畿説の吉村が、このように語っている。
「『書紀』の編者は、『魏志』を通じて倭国に卑弥呼がいたことは知っていたが、ヤマト王権の王の系譜や伝承のなかには卑弥呼がいなかった、
と解釈するのが一番いいのではないかと思っています。
ところで『書紀』が、あえて卑弥呼を神功皇后にあてたことは、『卑弥呼が女性であるので、天皇としては適当でない』という判断ではないでしょう。
『書紀』が編纂される前の日本では、7世紀代に女帝が輩出しています。
また、8世紀にも女帝が出現しています。したがって、卑弥呼をはじめ『倭の女王』の存在は、何も問題はありません。『倭の女王』の記述から、
『書紀』では卑弥呼を神功皇后にあてざるをえなかったのは、苦肉の策ではないでしょうか。
ヤマト王権の伝承に卑弥呼が含まれていれば、別の扱いになったと思います。
つまりヤマト王権の伝承には卑弥呼がなかったと思います。
したがって、卑弥呼の没後に、ヤマト王権の歴史が始まったと考えます」。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:24:20.89
>>626
>箸墓近辺、纏向遺跡に戦乱の痕跡は無い

誅殺って言葉の意味を知らないの?
それが学力が低いな
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:26:30.68
>>627
デマ拡散装置のトナカイの事は........
0635日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

中古音では夜麻苔jĭa muɑ dʱɑ̆i
邪馬臺or邪馬堆と表記されるのも納得だよね
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:27:15.02
倭種の意味も知らん畿内説(東の倭種の国説)

史書に登場する倭人は中国の呉・越の末裔だと書いてある
同じ倭人でも直接九州に渡ってきたグループと、一旦半島を経由し山陰~北陸に渡来してきたグループがある

参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:28:07.20
>>629
桃の種の誤差は最大何年だったのか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:29:17.58
>>623
>纏向桃核の年代誤差を説明してくれ

どこで見つかったどの試料に、どんな誤差があったという話?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:32:29.37
※魏志倭人伝の『国国有市 交易有無 使大倭監之』について

女王国の国々には市場があり「大倭」がその監視役として使われていた
と記録されている
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:34:24.10
纒向調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
0642日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

唐津が伊都国だって言い張ってる奴と出会ったんだけど、どうすればいいかな
0643日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

こういう突然変異と遭遇すると対処の方法に困る
唐津にも大きな墓があると言うが、それって魏志倭人伝の時代より前だったよな
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 01:52:32.22
>>642
糸島市が伊都国同様に
放っておけよ。
0645日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

何がどうなったら唐津を伊都国だと思うの?さっぱり理解できない
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 02:06:36.61
チェリーピッキング
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 02:12:59.07
末盧国(唐津)
長崎県側にある波佐見水銀鉱山
伊万里よりピッタリだな
伊都国は吉野ヶ里だな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 02:49:06.10
>>646
>桃の種、1世紀から4世紀の幅がある

BPの標準偏差で16.7しか無いんだけど?
「1世紀から4世紀の幅」とか言ったおバカ文系はどこの誰?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 05:30:46.76
吉野ヶ里が伊都国、
牟田寄遺跡
西裏池池淵遺跡
ト骨出土地域を通るルート

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 05:39:16.24
tps://www.gsj.jp/data/chishitsunews/83_11_03.pdf
7/9ページ、水銀鉱脈図より
呉とは交易があるだろうな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 07:12:45.64
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

使者が確認したと仮定すると
起点は里数表示がある所 
壱岐だろうな。福津、宗方あたりが倭種の国々

交易のある中国人等から聞いたのみなら
候補はいくつかある。
其餘旁國遠絶 不可得詳〜
奴国 此女王境界所盡
であって
此女王国境界所盡ではない
不確定要素だな

今使譯所通三十國であって
女王国が三十國ではないのである

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0654琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 07:27:25.84
>>632.まあ、大体そのような言い方で良いでしょう。
邪馬臺は邪馬堆とされてることには、前方後円墳があちこちに現れてることにもよるかもしれません。
何れにしろ隋代には宇佐に阿人国家が出来阿蘇をデッカイ竈としている竈信仰族が九州に現れていますが、魏志言うところの邪馬台者は、地勢東高西下、奈良盆地であると書いてあります。
九州さようなら~
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 07:30:47.65
さようならと言うよりそもそもこんにちはしてないのが九州説
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 07:35:58.09
>>655
彼ら、倭人伝ろくに読んでないから
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:00:23.75
>>656
読んだら畿内には行ってない事がわかるだろ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:10:52.55
>>654
地勢東高西下は日本列島の事だろ、常識的に考えて
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:15:46.94
>>654
消防署の方から来ました的なw
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:16:49.95
>>653
陳寿が言う倭種は本州でしょう
倭人在帶方東南大海之中だから間違ってるけど
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:18:06.25
>>657
このように理由も言えない決めつけオンリーが九州説の実態だ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:19:40.94
>>664
福岡から見て大阪も東京もどっちも東だ
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:19:43.90
>>665

このように理由も言えない決めつけオンリーが畿内説の実態だ

まさにお前w
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:20:29.02
>>664
>陳寿の記述だと邪馬台国は会稽の東

じゃなくて会稽東冶の東ですけど
つまり、もっと南
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:23:29.83
>>668
東冶じゃなくて東治
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:26:58.83
>>671
このように中国の地理まで捏造するのが九州説
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:27:42.33
>>670
>東冶じゃなくて東治

同じ場所だよ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:32:33.84
魏志倭人伝では会稽東治は夏少康の子の話の流れで書かれているが、その時代の東冶は夏少康の子とは無縁の地、東治は会稽山付近で港のある場所とするのが正しい
https://i.imgur.com/qR2OdsS.jpg
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:35:09.45
>>675
会稽郡の最北端は北緯30度
九州説は無理
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:35:13.68
>>613

グラフから誤差範囲も読み取れないなら、炭素年代法を根拠に何かを論じるのはやめた方がいい。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:35:53.28
会稽の東に向かうには不弥国から南に行くのが正解
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:39:54.22
>>631

日本語の発音はもっとダイナミックに変化しているよ。
現代ですら畿内と九州で発音が違うくらい。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:40:07.91
>>681
同じ地名と言うだけだろ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:43:44.22
>>657
投馬国、邪馬台国にも
行っていない

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:44:57.39
野麻登 椰麼等
はどうなんだろうね?
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:45:07.02
>>675
>その時代の東冶は夏少康の子とは無縁の地

その子孫である越人の
第一の都市が会稽
第二の都市が東冶
だから関係あるんだよ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:45:30.69
畿内説は不要でした

里数行程は中国が待っていた資料の写し
日数行程は卑弥呼の使者が来た時の記録の写し
どちらも帯方郡から北部九州までの行程です

陳寿は渡された魏の時代の記録を繋ぎ合わせ、想像を盛り込みながら魏志倭人伝を編纂しました
多少誤解が生じてしまうのは仕方ありません

帯方郡

船で南に20日

投馬国=半島南部

船で南に10日

邪馬台国=北部九州

女王の都まで徒歩すぐ

合計30日(一月)の道のりである

これを陳寿は陸行30日と勘違いしたのだろう
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:46:50.27
>>686
郡から末盧国までの1万里に異論があるのか?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:50:44.32
>>692
それ畿内説の自己紹介だろ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:51:03.42
>>678
>グラフから誤差範囲も読み取れないなら、

あなた、読み取れて無いでしょ?
誤差の意味もわかってない
それともx^2=100のとき−10〜+10が誤差範囲とか妄想しちゃう無学さん?
勉強してね
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:52:32.29
キナイコシって年代測定詐欺の関係者?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 08:54:30.83
>>679
難航海だな。
其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
謂其持衰不勤だしな。

会稽から不彌国は
渡航しやすい。
条件が最良だとヨットで2日と言う
中国朱の輸入

tps://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:04:28.67
陳寿が畿内に邪馬台国があると思っていたのなら、会稽の東とは言わず、青州の東と記したはずだ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:09:41.91
考古学会は皇国史観を否定しないと学界で出世できないんで、
「日本の古代は何がどうだかサッパリ分からないー」
と言っているが、
実際には高天原は博多湾周辺で、
銅剣銅矛の伝播と高地性集落が国譲りを示しており、
銅鐸が大国主命の国造りを示していて、
荒神谷遺跡が須佐之男命の遺跡、
加茂岩倉遺跡が大国主命の遺跡であることも
既に歴史の事実として確定している。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:17:08.07
>>699
不弥国から大きく誤魔化すのが畿内説
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:20:26.43
>>698
否定?証拠や物証があれば
否定はしないよ。東遷にせよ、東征にせよ
記紀等の文献上のみの話
鵜呑みに事実とは言えないだけだよ。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:24:44.15
荒神谷遺跡が前2世紀~の遺跡で、
この頃須佐之男命が北部九州の
博多湾周辺の高天原より出雲に進出した。
つまり、この頃に兄妹である天照大御神も存在していたのであり、
この頃の一番大きな女王墓が、
天照大御神の墓で間違い無いだろう。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:33:55.05
銅鐸の分析によると、
最も初期の銅鐸の生産地が出雲の
荒神谷遺跡で、
その後に加茂岩倉遺跡で大量生産され、
紀伊や越前などに伝播し、
その後に大和に生産地が移って、
最東北の地が信州諏訪である事が分かっているが、
これが大国主命の出雲で国造りを始め、
大和の大物主と連合して拡大し、
やがて国譲りによって一派の建御名方が
信州諏訪に逃れていった記紀の経緯に一致するため、
銅鐸が大国主之命の国造りを象徴する遺物であることが確定している。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:38:14.36
>>704
大国主て何?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:39:07.64
つまり畿内説は精神分裂症によるパラレルワールドのお話
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:42:22.22
>>705
魏志倭人伝や後漢書には登場しない
推測だけど大倭がモデルでは?

邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州へ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:44:51.83
また、高天原から出自した部族が、
日本各地に天孫降臨した事が書かれているが、
先ず第一陣が須佐之男命の出雲で、
第二陣がニギハヤヒの河内→大和であり、
第三陣が日向→大和の神武天皇であるが、
この第一陣が荒神谷遺跡の銅剣の出土に一致し、
第二陣が大阪湾型銅矛の出土に一致し、
その銅剣銅矛の元々の主要生産地は博多湾周辺であるため、
銅剣銅矛を祭祀の道具とする博多湾周辺が高天原で、
その部族が出雲や河内→大和に進出した天孫降臨が実際にあった事が、
考古学的に確定した。
そしてその同時代に瀬戸内海を中心に盛んに作られた高地性集落が、
瀬戸内に勢力をはっていた事代主神が
船を壊して作って隠れ住んだとされる
青柴垣である事も確定している。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:47:59.12
>>708
考古学的に確定した?
論文 リンクよろしくお願いしますよ
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:49:42.35
>>708
考古学的に
ニギハヤヒの河内とかの記述あるのか?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 09:51:40.27
銅鐸が大国主の国造りや国譲りの勢力拡大の経緯を示しており、
銅剣銅矛が須佐之男命や饒速日命の天孫降臨を示しており、
高地性集落が事代主の青柴垣を示しているが、
考古学会は皇国史観を否定しないと出世できない為に、
記紀に書かれている通り、
大国主に国造りや、
須佐之男命や饒速日命の天孫降臨や、
事代主の青柴垣が、
考古学的に銅鐸の分布や銅剣銅矛の分布や高地性集落の分布として残っている
とは言う事が出来ないのが今の日本の考古学会の現状だよ。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:05:03.07
>>711
物は判別できても
名前が書いているわけでもない
須佐之男命や饒速日命だの立証できないよ
どうやって立証するのか?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:06:08.27
この様にして、記紀や風土記の記述と
考古学的な発掘成果をリンクさせていくと、
纏向の桃の種や犬の骨や特殊器台埴輪は、
桃太郎伝説を持つ吉備津彦を家臣とする
御間城入彦崇神天皇の王都である事が分かる。
また、外来土器の分析によって、
それらが四道将軍を派遣した地域に見事に一致する事によって、
御間城崇神天皇が御肇国天皇と言われる通り、
軍事的に最初に日本を統一した天皇である事も分かる。
また記紀や風土記から孝昭考安考霊考元と、4代かけて吉備から纏向に進出した事も分かる。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:11:38.30
大物主が饒速日の事だったらスッキリするかも
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:25:33.16
>>714
饒速日が実在するのか
定かではないけどね
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:30:51.53
>>717
理由は?
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:34:07.19
>>720
レス間違いね
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:37:39.20
>>713
要する卑弥呼の部下
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:41:29.06
>>722
ヤマトは
御間城等による
クーデター政権
卑弥呼、壹与等の系譜宗属は土蜘蛛扱い?
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:42:20.69
>>715
饒速日は物部氏の祖だから大物主なのかと
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:44:34.20
>>724
物部
魏志倭人伝、後漢書には登場しないから
後の時代の人物?
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:44:39.26
>>723
崇神以前は欠史だからクーデターでは無いでしょ、いわゆる東征
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:48:02.29
>>726
東征の痕跡もないけど
創作部類だな
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:49:40.81
漢字辞典では

邇→近い
芸→わざ
速→はやい
日→日光

饒→豊か
速→はやい
日→日光

意味が違うが、何なんでしょう
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:51:23.29
>>726
記紀原理主義でもないから
御間城等によるクーデター政権
邪馬台国を乗っ取り
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:55:29.13
>>730
成る程、旧唐書で言う別種扱いになるな。
気がつかなかった。考え方としては面白い。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:55:50.82
>>727
痕跡は
大物主の祟り
  ↓
大物主を祭る
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 10:59:40.41
>>730
邪馬台国が畿内にあった証拠は皆無
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 11:02:09.98
>>733
邪馬台国の証拠って何?

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 11:05:43.40
カタカナで調べてみました。

ニギハヤヒ
ニギ → 天と地
ハヤ → 魚の一種
ヒ → 古代の神名や人名の語尾につけられる称号

天と地の魚ですか?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 11:08:28.19
>>730
ヤマト政権が
東や西の旧卑弥呼勢力を攻める
ヤマトタケルか?

まあ、入れ墨文化やト骨風習も消え、亀に変わる。
辻褄合いそうだな

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 11:29:23.78
ひらがなで調べてみました

にぎはやひ
に → ふたつ
ぎ → わざ
は → 握る
や → 練り上げる
ひ → 称号

技術者ですかね
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 12:00:56.74
文字も無い時代人名を漢字で書くんじゃないと言ってるだろ
バカヤロ
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 12:09:10.10
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 12:30:02.37
つまり畿内説は霊感商法による韓国式歴史改竄テロという事よ
0741琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 12:30:38.71
>>713.で崇神が纏向で魏尺を使い、北枕にした理由はなんだね。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 12:33:49.19
>>739
お前がバカなのが解ったけどな
0743琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 12:37:28.40
266年に炎帝に使いを出したときの倭王は誰だね?崇神かね?
0745琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 12:44:52.94
あなた方の説を分析している、考えてあげてるのだよ、何故?崇神は北枕に魏尺を使ったのかね?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 13:29:44.94
>>741
魏の植民地が半島にあったから魏尺でも不思議はない
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 14:50:45.28
「生者南面、死者北面」は吉野ヶ里の甕棺ロードがまさにそれ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 15:49:50.89
Wikipedia 崇神天皇(120歳)‥・存在しない
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 15:56:54.02
500年前の事なんて憶えてねえよ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 16:30:05.28
>>750
雄略も124歳だから実在しないってことか?
0753日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神紀って事績が17年から48年まで一気に飛んで、その後60~68年だからな
実際は約30年しか即位してないんじゃね
0754日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

春秋二倍暦は微妙。あんま信じてない
だって崇神7年に春と秋が同居してるし
0755日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

単に初代神武天皇即位を紀元前660にするために歴代天皇の在位年数を引き伸ばしたんだと思うがね
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:03:14.17
>>755
俺は憶えてないと思うけどな
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:07:05.85
卑弥呼 → フトニ(即位248年頃?)→ 台与(フトニの娘、即位266年?)→ ミマキイリヒコ(即位3C末?)
0758琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 17:26:10.14
>>747.それは魏の時代崇神であるということかね、で、266年の倭王は崇神かね。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:30:09.73
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:42:17.54
>>702

むしろ荒神谷遺跡は大国主の武装解除ではないだろうか。
ただ、八咫の鏡はかなり遅れて登場するので、やはり記紀はいろいろ年代順を誤魔化していると思う。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:46:35.99
>>713

神武も吉備に滞在した後で畿内に向かうのだけれど。
また、それは先行した饒速日の足跡を辿っていると思われる。
筑紫から吉備を経て畿内へは何波も移動があったと思われるので、どの時期のものかを対比させるのはなかなか困難と思われる。
まあ、畿内政権は筑紫の分家であることに変わりはない。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:49:41.41
>>725

後漢書、魏志倭人伝は九州について述べている。
饒速日や物部は畿内の勢力なので、中国の史書には登場しない。
もちろん卑弥呼は九州。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:54:14.74
>>728

饒速日や邇邇芸のニギは、稲穂が賑やかに=赤く実ることを表すめでたい名前なのだとか。
筑紫出身の彼ら天孫族は、弥生文化の担い手なので。
水稲栽培か博多湾沿岸から全国に広まったのも、筑紫からの東征の考古学的証拠と言える。
越後平野に稲作をもたらしたのは、素戔嗚の息子の五十猛るで、越後国総鎮守弥彦神社の祭神。
0765琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 17:54:28.01
>>747.御間城を任那とする渡来と考える説があるけれど、そうではなく開化の後すぐ畿内で即位でいいのかな?
即位65年に任那から朝貢とあるが何年ごろかね?
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 17:58:34.08
馬城と言う地名は宇佐神宮の奥宮がある場所だ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:01:34.79
>>762

首狩り甕棺墓は宗像以東には拡がらずに、2世紀までにど没落した
韓国の歴史的被差別地域の全羅南道では6世紀くらいまで存続する
0768琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:01:46.01
一度には難しいかな、
では魏の時代の畿内纏向の東渡海倭種の大王で卑弥呼は九州の倭王でいいのかね?
魏尺はどうやって手にいれたんだね?
0769琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:08:45.73
766.宇佐は香春信仰を公言している渡来人の地だよ。秦王国。阿人。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:12:26.85
>>769
知ってるのはそれだけ?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:16:20.88
>>767

甕棺墓を使っていたのは、三種の神器を持つ皇統だよ。
朝鮮半島にも倭人の居住地があった訳だが、韓人からは嫌われただろうね。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:16:58.75
>>725
天照、スサノオウ、ツクヨミも出てこない
神武、彦火火出見尊も邇邇芸、出てこない。
魏志倭人伝の彌彌那利等からの創作だよ
全く関係ない57年の王と
関連性を持たさる為の創作だ
0775琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:17:51.52
まずは、崇神纏向は魏の時代かね?違うのかね?
266年の倭王は九州の倭王で崇神ではないのかね?
0776日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>730
卑弥呼(百襲)と崇神は一応親族だからクーデターってわけでもないだろ

ただ邪馬台国官の一人に過ぎなかった「弥馬獲支(ミマワキ)」=「崇神天皇(“ミマキ”イリヒコ)」が天皇になった経緯は気になるけどね
0777日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>775
266年は倭女王だから臺與
崇神の娘で初代斎王の豊鍬入姫だと思うよ
0778琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:22:13.59
774.いいと思うよとはどういうことかな?
九州を押さえている卑弥呼の隙をついて中華の影響下にある、東倭種が存在したということかな?
0779日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神のクーデター?関連だけど、強いて言えば天照大神宮外奉斎がそれを象徴している様に思えるよね
崇神天皇が斎王(豊鍬入姫命=臺與)を宮の外に追い出してしまうわけだ

魏志倭人伝中で描写されていた様な、巫女がトップに立つ体制はそっから終わりに向かっていくのでは?
0780日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

斎王を自分の娘(豊鍬入姫)にして傀儡に、かつ宮の外に追い出す事で政治への影響力を削いでしまう。
ここにヤマト王権は【シャーマニズム体制】から【大王専制体制】への脱皮を果たし、崇神帝に於いて初めて祭政両方を掌握したので、第10代天皇であるにも関わらず『御肇国天皇』とまで称揚される様になったと。

垂仁天皇の代になると斎王(倭姫命)は伊勢の地まで飛ばされ、もう完全に都の政治とは隔離されてしまうから、笠縫邑に居た豊鍬入姫までが、対外的に「女王」として認識されうる最後の人物なのだろうな。
0782日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

墓の大きさ的にも百襲姫が崇神帝を凌ぐ権威を誇っていた事はもう確実だろうし、纒向遺跡が崇神の都なら、それは邪馬臺國に他ならないという事になる
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:27:29.45
豊鍬入姫が女王とかw
0784琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:27:55.25
崇神は開化の後翌年に即位しているんじゃあないのかね?倭王卑弥呼も岱与も関係ないんじゃあないのかね?
0785日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬臺國官名の接頭「弥馬(ミマ)」とかもろに纒向三代で頻出する名前だしな
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:29:53.50
>>776
親族なのか立証できない
記紀の文献上でのすり合わせだね
それに何言ってんだい?

壬申の乱
クーデターだよ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>784
関係ないわけないじゃん
百襲姫は日本書紀崇神紀に、崇神の大叔母として登場するんだよ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:31:36.88
近い将来、歴博の捏造がバレる時にこいつらの書き込みは爆笑ネタになるな。
0789日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ただ崇神天皇が万世一系の詔を出したのは百襲姫が死んだ後だけどね
0790日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>786
臺與=豊鍬入姫が卑弥呼の宗族とされているんだから、豊鍬入姫の父親の崇神も卑弥呼の親族で全く問題なし
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:36:02.66
>>775

記紀は全体に年代を前倒ししているから、崇神纏向は300年頃かな。
桃はたまたま同じ場所にあっただけみたいだし。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:36:18.85
万世一系の詔
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:37:40.22
>>779

九州では、卑弥呼の120年後といわれる神功皇后の時代まで女性首長だらけの時代が続く。
0796日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

崇神没年は崩年干支「戊寅」で258年説と318年説があるけど
前者でいいと思う
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:40:16.74
倭人伝には倭国が女性首長だらけということは書かれていない
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:41:58.65
>>794

内行花文鏡は中国でも匈奴も持っているので日本神話の三種の神器ではない
0799日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なんで匈奴が持ってたら三種の神器じゃなくなるんだよ
変なやつしかいねえなあ
0800日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

蒙古も扶余も高句麗も倭(皇室)も日光感精なり太陽神なりで太陽信仰は共通してんだから、匈奴で内行花文鏡が出るのは何も不思議じゃないよ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:45:22.42
なんで日本神話を知らない匈奴が三種の神器を持ってるんだよ
0803日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なにいってんだこいつ
三種の神器って勾玉以外「剣と鏡」なんだから外来だろ
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:48:57.46
未だに崩年干支とな?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:49:25.30
>>803

なにいってんだこいつ
「剣と鏡」ならなんでも三種の神器ということではない
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:49:27.71
内行花文鏡は中国の皇帝が配布したからだろ。
倭王は皇帝が冊封したから、権威の象徴となり得る。
ただし漢が滅んだら意味がなくなるので、平原の卑弥呼が新たに八咫の鏡を作らせた。
0808琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:50:42.77
791.すると卑弥呼、岱与は畿内かね?九州かね?
崇神とは時代がずれ、魏代は開化の時代であったでいいのかな?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:51:23.87
>>806

三種の神器の様式は紀元前から筑紫において完成している。
当時は前漢鏡であり、後に後漢鏡に代わった。
そして平原遺跡では国産の大型鏡が登場する。
平原遺跡は倭国大乱後の倭国女王の墓ということ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:51:25.74
スジンなんて居ない
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:51:55.11
馬韓系祭祀の平原蘇塗跡はサビ色塗装鏡群だから
日本神話とは関係ない
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:52:52.65
いや、万世一系の詔だろ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:52:53.83
>>808

壹與は肥前一宮與止日女神社の淀姫様。
卑弥呼の次の火の国女王だからね。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:53:13.94
>>807
それじゃ有難味がない
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:54:52.20
>>813
ヨドとトヨでは無理すぎる。ウンコとウコンより違うよ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>802
一世代約20年在位で大体合うじゃん
七支刀372年でしょ
0819日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>806
あのさぁ
内行花文鏡が三種の神器に含まれるか否かって話をしてるんでしょ?
0820琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 18:56:12.83
813.すると畿内は開化の時代でいいのかね?
0821日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:56:36.10
西北九州で祀られている與止日女は済州島のヨンドンハルマン(ヨンドン婆さん)
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:56:39.72
記紀に合わせる必要性あるのか?
0823日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>804
え?銅鏡なんて大抵中国産でしょ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:56:59.34
佐賀川はもともと筑紫最大の大河てあった筑後川の支流であり、與止日女神社は河上神社とも呼ばれた。
後に與止日女神社は畿内に勧請され、畿内最大の大河の名前が淀川となった。
大阪城にいた淀姫もその名を受け継いでいる。
もともとは火の国女王の名前に由来がある。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:57:28.08
言ってる事が結論有りきだから無茶苦茶だ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:57:49.60
>>814

当時は遥か海の向こうの皇帝様から頂いたということで、ものすごくありがたみがあった。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:58:30.90
>>824
だからヨドとトヨは無理だって。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 18:58:41.22
>>819

だから漢人や匈奴が持ってるのはただの中国産銅鏡
日本神話の三種の神器ではない
0830日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>828
無理なら構わなきゃいいじゃん
そもそも畿内説スレで肥がどうのこうの言ってる時点で荒らしなんだし
0831日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:00:46.72
>>816

三雲南小路遺跡は甕棺墓で三種の神器を持つ。
その他に中国の皇帝の権威の象徴であるガラス璧などもあった。
中国産の水銀朱がふんだんに使われていた。
そして三雲南小路遺跡を祭る細石神武は邇邇芸の妃であった木花佐久夜毘売を祭る。
伊都の高祖宮は細石神社を母宮と仰いて神事を取り行っていたという。
0832日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>829
日本神話の三種の神器が中国産じゃないってそれ貴方の考えでしょ?
というか伊都の大型内行花文鏡なら国産だろうし
0833琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 19:01:05.84
はっきりしないからな、
九州と畿内と倭には2大王時代があった、でいいのかな?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:02:08.85
>>817

與止と壹與。
なぜ音が入れ替わっているのかは知らない。
しかし畿内も筑紫も、その大河の守護神が淀姫なのは事実。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:02:10.69
仕方ない、ここは万世一系の詔でどうにかしよう。
0838日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>834
だから何よ
日本神話だとそもそも皇祖が高天原から天下ってるんだけどそういうのも信じてるの?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:03:27.52
>>819

伊勢神宮の宝鏡は、『神宮儀式帳』によると内行花文鏡であるという。
『伊勢二所皇御大神御鎮座傳記』(新道五部書)によれば「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座である。
平原遺跡の超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないため、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
0840日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>836
コテ付けてくれ
マトモに話出来そうなの君くらいしかおらん
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:04:15.80
>>835
淀姫が川の女神なのは問題ないです。問題はそれが倭人伝のトヨだと言う事です。論点がズレておられます。
0843日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>839
それな
平原大鏡についてまとめた図作ったけど、これが後に八咫鏡でいいと思うわ
反論するなら平原大鏡以上に八咫鏡の特徴を具備するもんを持ってきてくれって話
https://i.imgur.com/htzcfaH.jpg
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:05:51.18
>>834

そんな都合が悪いことをわざわざ書かないよ。
しかし銅鏡そのものが中国の文化の影響であることは明白。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:06:02.32
>>831

中国の皇帝は破片なんか下賜しない
首狩り甕棺墓には使わない木棺用の金具が出てるから墓から盗んだものだろう
0847日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>846
貴方さぁ
三雲からは金銅製四葉座飾金具出てるんだけど知らねえの?
これ、前漢王朝が王侯クラスに下賜したもんだから伊都国が紀元前に中国へ直接朝見してたのはほぼ確定的だよ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:08:33.74
>>832
三種の神器の重要性 外してみると
玉璽なんだよ

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:08:54.45
>>845

書いてないことを言い張っている
文化の影響の日本産と下賜されたものじゃぜんぜん違う
0850日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

漢書地理志にも倭人朝見記事あるでしょ?
あれに当て嵌まりそうなのは奴国の須玖岡本or伊都国の三雲南小路しかねーから
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:09:27.73
>>846

平原遺跡は甕棺ではなく、木棺墓。


早・前期古墳が持つ構成要素には、近畿地方の弥生時代から継続されるものがない。
墳丘や主体部の形態は東瀬戸内、丸底形木棺と鏡を中心とした副葬品の風習が伊都国から持ち込まれており、内面的に重要な精神文化を北部九州的弥生文化が占めていることになる。
(柳田)
0852日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>849
じゃあ平原大鏡なら日本製だろうから整合するわな
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:10:33.91
>>847
伊都国が紀元前に中国へ直接朝見?
あったけ?文献資料よろしくお願いします。

邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:11:32.97
>>852

馬韓系祭祀の平原蘇塗跡はサビ色塗装鏡群だから
日本神話とは関係ない
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:12:36.89
>>826
自分で作ってなんの有難味があるんだよ?
0859琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 19:12:41.14
844.では魏と交流を持ったは九州倭国でいいわけだね。まず畿内開化の墓は何処かね?そして箸墓は誰の墓だね?
0860日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>856
皇祖ニニギからして降臨直後に「ここは韓国と向かい合っていていい場所だなぁ」なんて言ってるんだから半島との関係が濃密でも何ら矛盾しないだろ
そもそも弥生文化自体が基本的には半島の無文土器文化由来だよ
0861日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>858
じゃあ日本製の勾玉は有り難みないってこと?
滅茶苦茶だなぁ
0862日本@名無史さん
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2023/04/27(木) 19:14:45.78
三種の神器を王権の象徴とする畿内王権が伊都の王権の末裔であることは明白。
問題は、倭国大乱後と思われる八咫の鏡を副葬された平原遺跡から、同じく八咫の鏡があったと考えられる纏向遺跡までの経過があまりにも短いことだな。
纏向遺跡の建物Cは崇神天皇が皇居の中庭に作らせた鏡のための倉であり、伊勢神宮の八咫の鏡を納める神明造りだからね。
0865日本@名無史さん
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2023/04/27(木) 19:15:43.43
>>860
そのカラクニに関しては空の国(他の支配者がいない国)という説もありますが。
0866日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>862
ただ、纒向の大型建物Cに八咫鏡が納められてたってのも全然根拠ないけどな
0867日本@名無史さん
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2023/04/27(木) 19:16:19.91
>>856

天照大神まで遡らせなくてはいけないなら、古く見せかけないと。
神武より5代も前なんだから。
0868日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

そもそも纒向の大型建物って庄内式期だろ
流石に崇神関係ないんじゃね?どこまで遡らせる気だよ
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:17:07.11
>>861
おまえ漢から貰ったものだし権威の象徴だと自分で言ってんじゃん
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:17:08.57
>>858
鏡は太陽の依代ですから。逆に裏の模様がどうでもいい。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:18:48.26
>>870
>>869
0873日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>869

>>803で「勾玉以外」って明記してるんですが?漢から貰おうと国内で作ろうと、その宝器を受け継ぐ一族が強大になれば神器になるのよ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:19:09.63
>>861

実際、平原遺跡はシルクロードで運ばれてきたシリアだかイランだかのガラス細工の玉だ。
0875日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>871
物部氏の根拠地はむしろ前方後方墳が多いよ
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:21:03.42
>>872
鏡作坐天照御魂神社
社伝によると、「崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を(天照大神の代わりとして宮中で祀る為に)鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(時に試作された)【像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもの】で、この地を号して鏡作と言ふ」とある。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:21:11.54
>>866

纏向遺跡の建物の中で、Cだけが棟持柱を持つ神明造りなんだよ。
だからこそ、纏向遺跡が崇神天皇の磯城瑞垣宮であるとわかる。
0878琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 19:21:12.69
記紀には女性墓になってるが、嘘かね?
物部が巨大墓で大王墓は小さいのかね?
0879日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

物部氏の杣之内古墳群はむしろ前方後方墳が異様に多い
物部は前方後方墳系統
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:21:38.03
>>873
内行花文鏡は中国の皇帝が配布したからだろ。
倭王は皇帝が冊封したから、権威の象徴となり得る。
ただし漢が滅んだら意味がなくなるので、平原の卑弥呼が新たに八咫の鏡を作らせた。

これおまえが書いたんだぞ
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:22:31.73
>>870

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
0882日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>877
というか崇神の時代から八咫鏡が平原大鏡と同型だった確証なんて無いだろ

実際、現在の八咫鏡って燃えて形も大きさも変わってるみたいだしそういう事が古代にあっても何ら不思議じゃない
纒向遺跡から八頭花崎八葉鏡の現物が出土しない限り、当時から平原大鏡があったと断言する事は出来ない
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:23:18.25
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり饒速日物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260~280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0884琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 19:23:38.13
では崇神の墓は何処にあるのよ。真南にある巨大墓は誰の墓よ?
0885日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>880
書いてねえよ
俺は書き込む時かならずBE出すから別人だろうが
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:24:48.98
饒速日は筑紫を出て、宇佐で船団を二つに分けたと伝えられている。
饒速日の船団の畿内上陸地つまり降臨の地は二ヶ所あり、交野と日下である。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:24:52.59
>>881
倭人にとって鏡は太陽の依代であって神仙思想やら無関係ちゅー事ですわ。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:26:42.90
>>876

それって、天照大神の象徴である伊都の八咫の鏡の代わりにもう一つ鏡を作ったということなんじゃ…
そしてまたここでも崇神天皇。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:27:42.05
>>885
だったらおまえなんでレスつけたんだよ?
俺は>>826にレス付けたんだぞ
0890日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>887
それは内行花文鏡の話な
神獣鏡は普通に神仙思想と関係あるぞ。垂仁天皇紀にも神仙思想エピソード入ってくるし
0891日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>889
誰だろうと変なこと言ってたらツッコミ入れるでしょ
0892日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

この板ってIDとかワッチョイとか出せないんだっけ?
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:30:17.61
>>878

ヤマト王権の祭祀と軍事、つまり祭り事の全ては物部氏が司っていた。
記紀は物部氏が没落してから天皇家を中心に歴史をまとめなおしたもの。
崇神天皇が磯城纏向に宮を置いたのは、崇神天皇の母が物部氏であり、磯城纏向が物部氏の地盤だったから。
石上神宮に近く、天皇より強い三輪山の神もいた土地だから。
0894日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>893
石上神宮周辺は前方後方墳が多いね
物部氏といえば前方後方墳
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:32:35.02
IDとかワッチョイとか出すより万世一系の詔を出すのが先だよ!
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:33:22.02
>>891
権威の象徴である漢からの鏡が手に入らないからって
自分で作ったんじゃ有難味が無いだろってのは変か?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:34:12.26
>>894

しかし吉備に立ち寄って前方後円墳や特殊器台を畿内に持ち込んだのも饒速日だろ。
要するに前方後円墳も前方後方墳も物部氏なんだよ。
もちろん箸墓も。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:35:04.86
>>898

頑張って漢鏡より大きな世界最大を作って、さらに錆色で古いものに魅せたんだろ。
0901日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>899
>しかし吉備に立ち寄って前方後円墳や特殊器台を畿内に持ち込んだのも饒速日だろ

貴方の仮説ですね
そういう考えもあるでしょうね
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:35:51.54
>>855
漢書地理志

楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。

伊都国?
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:36:42.91
>>900
それがどうしたんだよ?
権威の象徴の漢の鏡だぞ
0904日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>897
あー悪いよく確かめたら万世一系の詔は崇神四年だったな
百襲姫が死んだ後の十二年に「御肇国天皇=初めて国を治めた天皇」だったわ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:36:52.05
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これを含めた八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都平原に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
0906日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>902
そうだよ
前漢の遺物が齎されてるっぽいのは奴国(須玖岡本)or伊都国(三雲南)しかない

他の地域が朝見していたって主張したいなら勝手にすればいいけど、それ何の考古学傍証無いよね
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:41:11.52
>>906
別に他の地域は関係なく
伊都国と断定できないだけだよ。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:41:35.81
>>906
伊都国もないけど?
0909日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>907
まあ断定は出来ないね
可能性はかなり高いと思うよ
0910日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>908
じゃあ貴方は倭のどの地域が朝見していたんだと思う?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:45:21.34
>>910
出雲だろう
それで青銅器をせっせと手に入れてた
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:46:38.14
饒速日が分けた船団の一つは四国に向かい、そこから和歌山へ行っている
それを率いたのは息子の天香具山で、その際父から韴霊剣を授かっている
熊野に至った命は 高倉下に名を替え 東征のみぎりこの剣の霊力により天皇を扶けた

伊予と大和には天界にあった天香具山が二つに裂けて地上に落ちた言い伝えがある
0913日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>911
前漢に関連する遺物は何か無いの?
王侯に配ってた金銅製四葉座飾金具みたいなやつ
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:47:37.92
>>912
漢字で書くな、ボケ
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:48:12.73
>>913
青銅器
0916日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

漢鏡7期に入るまでは鏡も殆ど九州に集中してるし、倭国大乱以前の倭の外交主体は九州にあったと思うんだけどな
それを覆す根拠を是非聞きたい
0917日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>915
青銅器に漢がどうこう書いてあるの?
例えば井原鑓溝の鏡には書いてあったみたいだけど
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:51:02.08
>>917
中国と交易がなきゃ青銅器が手に入らないだろ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:53:19.68
>>910
越 丹後かな?
0920日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>918
直接交易しなくても間接的に入手できるでしょ
東海地方にだって銅鐸あるけど、あれ東海が直接中国と往来して銅入手してたとでも思ってる?
0921日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>919
漢書地理志の時代に越・丹後が直接朝見!いやダイナミックですね
考古学的史料ある?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:55:03.73
>>920
山陰に青銅器がたくさんあるから
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:55:34.87
>>921
翡翠の経路だよ
0924日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>923
漢のマークとか文様とか字とか書いてある?
0925日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>922
なるほどー
そこに漢の文様とか文字とかが刻まれてるのかな?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:58:17.32
>>921
ガラス訓もあるね。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 19:58:46.54
>>925
青銅器がたくさんあると言ってるだろうが
0928日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>926
それ大風呂南だよね
2世紀の遺跡だから漢書地理志は関係ないかな
0929日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>927
青銅器なら北九州にもたくさんあるよ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:00:26.98
>>928
貰ったのはいつだかわからない
埋葬は2世紀かもしれないけど?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:00:36.96
>>929
そうだっけ?
出雲と比べて?
0932日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

銅鏡20枚以上・金銅製四葉座飾金具が出てる三雲南よりも中国王朝との直接的な繋がりの点でプライオリティある遺跡が出雲にあるんだよね?
気になるわ
https://i.imgur.com/QxwIF1X.jpg
0933日本@名無史さん
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2023/04/27(木) 20:01:41.74
副葬だな。スマソ 
0934日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>930
へーで、そのコバルトブルーガラス釧って前漢王朝的な意匠は込められてるの?
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:05:26.01
>>932
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡
0936日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

出雲の青銅器の原材料、朝鮮半島産であるとするもの、島根半島の西部の銅山の産出であるとするものとかかなり分かれてるんだね
これじゃ前漢王朝と直接繋がりがあったなんて特定出来ないかな
0937日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>935
漢の印章とか文字とかが沢山描かれてたりする?
0938日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

紀元前の銅鏡なら舶載鏡だって分かるけど
その時代の銅鏡は圧倒的に北九州に集中してるもんな
何か凄い未知の出雲情報を出してくれるに違いない
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:10:11.66
>>938
青銅器何処から手に入れるのよ?
使役のあった30国何処よ?
0940日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>939
今漢書地理志の話してるんだけど
圧倒的に知識量の差がありすぎて話にならないからこの話はもう切り上げましょうか
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:13:26.29
>>940
使役のあった30国は何処だと思うのよ?
0942日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>941
魏志倭人伝だろ?そりゃ俺は畿内論者だから使訳通じる所30カ国は西日本全域(隼人熊襲除く)の事だと思ってるよ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:14:37.08
>>934
こういうのあるよ。
p://abc0120.net/exhibition/abc2007065.html
まあ、加工技術も丹後のみに伝授かもしれん
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:16:04.15
>>942
だったら何故出雲とは使役が無いと思うんだ?
0945日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>944
へ?漢書地理志の時代と魏志倭人伝の時代って300年離れててほぼ関係ないだろ
何が言いたいのかさっぱりわからん
0947日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>946
そもそも大型内行花文鏡があったのは糸島だけども
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:19:41.02
>>945
おまえが使役の通ずる30国は何処だと聞いたんじゃないの?
それで俺は出雲だと答えたんだが
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:21:43.79
>>945
継続性や発展性はまったくないのか?
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:23:42.49
>>944
出雲も翡翠等
鉱物資源の経路
ありうるよ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:23:52.81
>>910
>>911
だから確かに俺が間違ってるな
0955日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>950
そんな話をしてるんじゃないんだけど
君は「漢書地理志の朝見国は伊都国じゃない出雲だ」と主張したんだよ

なら三雲南小路遺跡より前漢王朝との繋がりが強く見られる当時の出雲の遺跡を見せてくれなきゃいけないんだ
でも出来なかったね?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:25:53.31
>>951
青銅器たくさんあるし大量に手に入れてたんだよ
0958日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国時代の話に戻そう
もうどうでもいい。俺も悪かった
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:28:41.96
>>955
あ、レス違いだったスマソ 俺943
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:28:58.94
>>959
そうだけど一応まだ国産はしてないとされてる
0963日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:31:29.77
>>957

上の方に、出雲の青銅器は国産って書いてある。
筑紫の青銅器は中国産なのにね。
漢に朝貢していた倭というのは博多湾沿岸諸国。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:32:39.94
>>961

和銅年号のことなら、畿内政権下で最初の銅という意味に過ぎないからね。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:33:34.44
>>963
国産てのは銅の採掘でしょ?
それはまだ
国産じゃなかったら何処かから手に入れてる
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:35:24.94
>>964
既に銅の採掘をしてたって説もあるみたいね
0967琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 20:37:39.06
>>893、答えになってないよ。崇神が300年ならその前は開化なんだろ、魏尺の箸墓が物部の墓なら物部は何故、中華尺で北枕で大仙陵墓まで物部で大王墓(天皇墓)は何処でなんで小さいのよ。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:37:41.49
出雲も筑紫も、畿内大和とは別の国なんだよな。
その一方で、畿内大和は祖先が筑紫から来ましたと自認しているわけです。
畿内王権は筑紫の日向つまり伊都の王権の分家であり末裔。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:38:41.81
>>965

国産だったんでしょ?
国産の銅は和銅年間からだとかいう記紀を信じてる?
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:39:04.03
銅鐸は初期の小型のは朝鮮産の銅で大型のは中国産の銅らしい
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:40:13.88
>>969
>>970
国産説もある
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:43:35.56
>>967

饒速日だって漢鏡を持っていたくらいなんだ。
中国の文化の影響下なんだよ。
あ、饒速日の鏡は籠神社の内行花文鏡ね。
あと、崇神天皇からは物部氏の血が入っているから。
崇神天皇自身の権威は、神武ではなく、母方の饒速日に由来するもの。
だから王宮も物部の地である磯城纏向でなければならなかった。
大仙山がある河内も饒速日の上陸の地、物部氏の地盤。
まあ、物部の血を引く天皇の誰かでもいいけど。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:45:52.03
>>971

三角縁神獣鏡は二流の国産量産品だよ。
畿内の古墳での格付けは内行花文鏡が上。
籠神社に伝わる饒速日の鏡も、天皇家に伝わる崇神天皇の八咫の鏡も内行花文鏡。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:50:23.33
>>962
意味不明
貢ぎもんは国産品の翡翠だな
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:50:50.24
>>974
漢字を使うんじゃないと言ってるだろ
0978琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 20:50:56.14
大体8のつく鏡なんて唐代の鏡だな。
それに天皇も神璽で勾玉にいつ変わったんだよ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:53:10.63
>>962
下賜品がガラス製品
0980琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/04/27(木) 20:53:11.26
ニギハヤヒも漢鏡持ってたぁ、これを信じろというのか。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:56:14.19
>>980

籠神社に実物が伝わっていて、前漢鏡の内行花文鏡と、後漢鏡の内行花文鏡。
このことからわかるのは、実は天孫降臨は後漢になってから。
記紀はめちゃくちゃ年代を前倒ししている。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:56:32.02
>>978
下賜されず
金印の代用品とか?
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:59:12.80
>>982

金印も下賜されて、志賀島から出土したろ?
あれもこれも、貴重な財宝は全て中国から下賜されたもの。
これを朝貢貿易という。
またそれにより領土安泰を約束される体制を冊封体制という。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 20:59:28.96
神社なんか無いから
神社と言っとけばいくらでも時代を遡れると思ってやがる
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:01:24.48
>>984
スマソ
何が言いたいのかさっぱりわからない
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:02:43.13
籠神社に漢鏡があったことは事実。
神社の建物は弥生時代の高床建物の様式でもある。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:05:09.51
>>985
魏志倭人伝には出てこないしな
古墳から神社への流れ、国勢調査や出生、死亡
戸籍の収集
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:09:02.72
>>988
神社の遺跡がないから
弥生時代にあったなら遺跡で出る
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:09:10.42
>>981
造作もあるだろう
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:16:36.72
>>968
自認だから胡散くさい
なんら関係ない57年の王と万世一系の
関係性を作る。詐称かもね
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:17:06.71
>>905

宗像大社辺津宮の八咫鏡は大きな鏡という意味
糸島平原は馬韓系の蘇塗跡はサビ色塗装鏡群なので関係ない
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:18:48.36
>>992
で大陸からは八咫鏡サイズあるのだろうか?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:20:15.83
>>989

弥生遺跡に高床建物は含まれるよ。
それが少しずつ神社になっていく。
伊勢遺跡の建物は神明造り。
纏向遺跡では本殿と拝殿、瑞垣が整ってくる。
磯城瑞垣宮という名であり、建物群を囲む塀が神社の様式で言うところの瑞垣。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:24:03.77
>>992

天皇家の八咫の鏡も、大きいことを意味したいるだけという意見もあった。
それまではそんなに大きい鏡は見つかっていなかったから。
しかし、昭和になって平原遺跡が見つかり、八咫の大きさの鏡が実在することが証明されたを
おそらく宗像大社の八咫の鏡も同じ大きさだろう。
そもそも天照大神から八咫の鏡を授けられた天孫を守護したのが宗像三女神なので、宗像大社と八咫の鏡の関係は深い。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:25:33.60
>>994
可能性があるのは遺跡として埋まってたその二つだな
でもあれ程のものを作れるのは相当な権力者
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:28:37.20
>>995
乱での掠奪品を手に入れたかもしれん
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/04/27(木) 21:39:44.59
鎌倉時代の度会氏の神道五部書は、
外宮の祭神を内宮と同等以上にするために書かれた書なので信頼性がない
10011001
垢版 |
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