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邪馬台国九州説vs邪馬台国畿内説
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0001日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

存分に議論してください
0002日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 16:39:37.75
>>238
焦りのあまり毎日ウソをつくのが日課になった九州説悲惨
0003日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 16:39:51.01
>>249
畿内説に関係あるウソ情報は潰すべき
0004日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 16:40:15.14
方角めちゃくちゃ、副葬品の入れ方もめちゃくちゃ
奈良と滋賀は棺の外、他の地域は全て棺の中に入れてる
しかも東日本の前方後方墳の歴史の方がもっと古い
古墳の大型化も東日本から
つまり古墳奈良起源説は韓国式起源説
0005日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 16:41:55.40
「殉葬百余人」から必死に逃げる畿内説は嘘つきの始まり

卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です
前方後円墳ではないという事は確かですね
卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0006日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 16:43:32.42
考古学に無知な畿内説は嘘つきの始まり

256:日本@名無史さん:2023/05/11(木) 16:41:30.86
>>250
常にまったく証拠を出さないのが九州説だな
0008日本@名無史さん
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2023/05/11(木) 20:24:58.20
勝負ついてるじゃん
九州説の敗残兵がネットの中でゲリラ戦やってるだけ
0010日本@名無史さん
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2023/05/23(火) 14:15:39.34
邪馬台を中国語で読むとシィマァタイ。
伊都国は後の怡土郡であり其の隣が志摩郡である。
怡土郡と志摩郡が合併して糸島となった。
伊都国の南に邪馬台国はあったらしい。
0011かじごろ@ウンコ中
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2023/05/23(火) 14:16:52.23
>>10は俺の書き込み。
0013ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/09(金) 16:18:49.08
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0014日本@名無史さん
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2023/06/09(金) 19:57:32.04
>>13
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑

まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ

残りの旧石器人は樺太から入って来ている

両旧石器人の融合人種が縄文人だよ

残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ

沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが

沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている

そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない

弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ

それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ

ない



よろしいですかな?よろしいですかな?

短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑
0015日本@名無史さん
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2023/06/16(金) 14:50:29.09
縄文の中心範囲は関東以北
九州から関西圏は環境か火山の活動なのか手薄だった
そこに大陸に広くいた縄文系が帰化人として戻ってきた
主に長江系、次に黄河系
長江系大和の中心地は長く北九州
だが、大和の範囲は北九州、中国地方、越の国ぐらいまで
コレが邪馬台国の範囲
だが、その後、鉄により時代変遷
そして、断続的に黄河系が流入し、山口、出雲、四国と移動し、四国で勢力を拡大する
で、神武天皇とされる時期に畿内を中心にして融合する
記紀や風土記、倭人伝や東夷伝もパーツとしては正しい
問題は最近まで研究には足りないものが多過ぎた
とくにハプロとO1b2とO2の違いは致命的
熊襲なども明らかに長江系縄文で卑弥呼などと大差無い
0018日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:22:18.84
神武天皇は高句麗王6代の「宮」。
西暦57年後漢の光武帝に朝貢した奴国王?
宮は西暦53年に即位して121年に亡くなり、7才で即位して、75才で亡くなっています。
一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。

高句麗では7代遂成が即位「後漢書高句麗伝」によれば、
121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。
第2代綏靖天皇と遂成は音が似ており、
なお107年に後漢に朝貢した倭国王の帥升(すいしょう・スサノオ)とも音が似ている。

E宮ーーF遂成ーーG伯固ーーH伊夷模
第8代伯固は博多とか箱崎に音が似てる、
高句麗の此の系統は倭人集団だったのでは?
0019日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:23:04.35
この高句麗王遂成は高齢76歳にして王位につくこととなった。
じゃあ、若い青年時代は何をしてたのか

それこそ倭国王の帥升で生口(奴隷)狩りで忙しかったんだろう。
高天原で暴れまくって出雲に追放された。
0020日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:36:21.02
春秋戦国時代の越の王 (在位前 497〜465) 臥薪嘗胆で有名な
越王勾践も本姓は鄒さんで、初代高句麗王朱蒙も(本名 鄒牟すうむ)で鄒さん

鄒姓是一個中國人的姓氏,在《百家姓》中排名第35位。 ... 據《史記・東越傳》所載,
閩越王無諸及越東海王搖,皆為越王勾踐之後,姓騶,據考證,騶亦作鄒。

鄒は中国の姓で、百姓の35位にランクインしている。... 史傳(史記〜東越傳)によると、
閩越王鄒無諸と越東海王鄒搖はともに越王勾践の子孫で、鄒(音ゾウ・すう)の姓を名乗っている。
0021日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:38:57.83
越wo人と云えば=倭wo人が通説。スサノオと云えば出雲から丹後、若狭越前の越の国
魏書韓伝には「奴」の付く国名が1国しかないが、

倭人伝には高句麗に縁のある「奴集団」の付く国名が10国ほどある。鬼奴国、狗奴国など。
それと、出雲から岡山、香川にかけて高句麗式積石塚古墳が南北にかけて多く
出雲地域には四隅突出型古墳がある。
0022日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:44:46.29
肥前・肥後の肥人(こまひと・くまひと)と万葉集などでは読んでる。

弥生時代より肥前と半島南西部とは支石墓・甕棺墓の墓制をもった同族と思われる
だから馬韓伝には乾馬・固麻・こまと呼ばれる国名が記録されてる。

高句麗と言えば、濊貊(わいはく、かいはく)と呼ばれるが濊族と狛族は
別民族で 狛こま族は北方騎馬族でボクリと突厥などは記録してる。
濊族(かい・わい)と呼ばれる集団は海人系で「貝・海・櫂・蝦夷・甲斐・解」などと関わる集団で
瀬戸内周辺の倭人じゃなく、日本海東北部や関東周辺の毛人・蝦夷などの縄文系だと思われる。
0023日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:52:15.49
もともと倭人の先住地、本貫地は半島南部、今の韓国地域
紀元前3世紀ころより、『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
と云われ、蓋国(今の北朝鮮地域)の南方(今の韓国地域)は倭人の地だと書かれてる。

三国志・濊カイ伝には海獣(アシカ・オットセイ)などの皮で衣服を作ると書かれ
これは蝦夷カイやアイヌなど鮭の皮やアシカでで衣服を作る文化と同じで
東北から北海道にかけて住んでた毛人・蝦夷カイなどの縄文系の人等と思われる。

その海獣(アシカ・オットセイ)などの皮で衣服だから汗だくになると想像が付く
漢民族に「臭穢不潔」と言われる原因だったのでは。。
0024日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 22:55:04.34
だけど、縄文時代の日本列島で中国系三足土器が出土するのが九州と思いきや
東北地方の、青森、秋田、山形、岩手、周辺からしか出土しないなぞ、
半島東部沿岸と日本海沿岸とは独特の交易ルートが縄文時代より有ったんだよ。
0025日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:00:02.65
東濊、嶺東七県に(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県)

古事記には出雲建の詩が載ってて、このヤツメの意味が長い事不明だった
「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」

それが、最近明らかになり半島東部東濊七県の中に「耶頭味県やつめ県」てのが有って
さすとは将棋を指すのサスで出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有った。
丁度いまの北朝鮮日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」
0026日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:00:56.45
東濊、嶺東七県に(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県)

古事記には出雲建の詩が載ってて、このヤツメの意味が長い事不明だった
「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」

それが、最近明らかになり半島東部東濊七県の中に「耶頭味県やつめ県」てのが有って
さすとは将棋を指すのサスで出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有った。
丁度いまの北朝鮮日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」
0027日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:07:48.17
日本人のハプログループは、
D1a2a系統(縄文系、約35%)、O1b2系統(長江・黄海平原系約30%)、O2系統(黄河系約20%)
後期旧石器時代を担ったのは、4万〜3万年前にやってきたD1a2a系統である。
D1a2aは日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県約50%(4%〜56%)
上位3系統で日本人全体の約85%を占めるほど高頻度に見られ、
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。

N系統(N-M231)はウラル系民族に高頻度で見られ、
日本には0〜8%見られるが、青森でもN1系統が7.7%観察される。
遼河文明の遺跡人骨からもN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が高頻度で見つかっており、
かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている。
0028日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:10:34.10
皇室のY遺伝子が縄文系、D1a2a系統なのは知られてるが、
このDNAが誰から繋いでいるのか?

高句麗王が三国志などでは「天帝の子、日子」と書かれ、正しく「彦ひこ」なのである。

古代では縄文人たちが広く東アジア・沿海州地域と交易してるので
当時の遼河文明地域とも交易を行って居ただろう事は想像が付く。
0029日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:18:58.88
欽明天皇の遺言
「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」
(日本書紀)欽明天皇(九十二)

「(朕(ワレ)は病気が重い。後の事をお前に引き継がせよう。
お前は新羅を打ち、任那を再建するべきだ。
また任那と夫婦となって、昔のようになれば、死んでも恨むことは無いだろう。)」
欽明は、最後まで任那復興を夢見ながら崩御したという。

半島から追い出されたのがよほど悔しかったのだろう。
0030日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:26:51.04
>>20-21 これで、全て繋がったな!!  全て繋がったな!!

春秋戦国時代の越の王 (在位起源前 497年〜465年) 臥薪嘗胆で有名な越王勾践も本姓は鄒さんで、
閩越王も鄒さん、初代高句麗王朱蒙も(本名 鄒牟すうむ)で鄒さん
越wo人と云えば=倭wo人が通説。 スサノオと云えば出雲から丹後、若狭越前の越の国

中国江蘇省、越王墓出土・陶器鐸 (銅鐸の元祖)
□□□p://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
0031日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:29:27.16
>>20-21 これで、全て繋がったな!! 全て繋がったな!!

春秋戦国時代の越の王 (在位起源前 497年〜465年) 臥薪嘗胆で有名な越王勾践も本姓は鄒さんで、
閩越王も鄒さん、初代高句麗王朱蒙も(本名 鄒牟すうむ)で鄒さん
越wo人と云えば=倭wo人が通説。 スサノオと云えば出雲から丹後、若狭越前の越の国

中国江蘇省、越王墓出土・陶器鐸 (銅鐸の元祖)
□□□p://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
0032日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:56:07.01
>百越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。

広東省・恵州・缚娄古国遺跡 始于春秋時期 3000年前
□□□p://i1.kknews.cc/SIG=3nam3j7/ctp-vzntr/EO2JyJH48VeIgu.jpg
□□□p://www.people.com.cn/mediafile/pic/20181006/95/9263562868866793675.jpg
0033日本@名無史さん
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2023/07/17(月) 23:59:16.18
> 弥生時代の代表的、吉野ケ里遺跡で日本最古の銅矛の鋳型や巴形銅器など、
全国から100点以上出土している、珍しいデザインの銅器です。

古代の日章旗と云われる。 「巴形銅器」
□□□p://www.maibun.com/KihonDate/open/002.html
さぬき市・森広遺跡の巴形銅器
□□□p://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-21c9.html
0034日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 00:06:23.61
AD8年に漢の平帝を殺害し帝位を簒奪して新たに新王朝を開いた王莽は、
高句麗を含む東夷諸族に新たな印綬を配布した。

この時従来まで王を名乗っていた高句麗の君主は高句麗侯へと格下げされ、
西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯鄒(すう朱蒙)に出兵を命じた際には、
鄒がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。
更に王莽は高句麗の国名を「下句麗」として卑しめた。

この後、前期高句麗は内紛崩壊の状態で高麗こま王「宮」神武が登場するまで
中国の記録からは消えた。

王莽が倒され光武帝によって後漢が開かれると、
「下句麗」侯は西暦32年に朝貢し、高句麗王へと戻された。

『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、
光武帝により、倭奴国が冊封され印綬を与えられたという。またの名を高句麗王「宮」と言う。
0035日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 00:07:48.68
神武天皇は高句麗王6代の「宮」。
西暦57年後漢の光武帝に朝貢した奴国王?
宮は西暦53年に即位して121年に亡くなり、7才で即位して、75才で亡くなっています。
一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。

高句麗では7代遂成が即位「後漢書高句麗伝」によれば、
121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。
第2代綏靖天皇と遂成は音が似ており、
なお107年に後漢に朝貢した倭国王の帥升(すいしょう・スサノオ)とも音が似ている。

E宮ーーF遂成ーーG伯固ーーH伊夷模
第8代伯固は博多とか箱崎に音が似てる、
高句麗のこの系統は倭人集団だったのでは?
0036日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 00:10:24.90
この政治活動の影響で業績が不明になり、
初代神武天皇から第2代綏靖天皇〜第9代開化天皇まで
業績が希薄になり欠史八代と言われるように成ったんだろな

単純に、半島とドンパチしてたのが黒歴史=欠史
日本書紀では出雲神話がだいぶ削られてるところからも察する
0037日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 00:14:07.08
俺は、
紀元前後ころには楽浪郡など、北や南に行き来する者たちがいて

北の寒い所と言えば「扶余(ピンインFuyu)」冬ふゆだな
南の暑い所はと聞けば「那の津」奴津」夏なつだな、どうじゃと自慢げに。
0038日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 08:10:47.87
2019年10月13日
中国のフェイ人(回族)の遺伝的起源
中国のフェイ人(Hui)の遺伝的起源に関する研究(Wang et al., 2019B)が公表された。
□□□ps://sicambre.seesaa.net/article/201910article_27.html

YHg-O1b2(旧O2b)はほぼ日本と韓国でしか見られず、フェイ人全体では3.54%
YHg-O1b2は中国の長江近くで、江蘇省高郵市のフェイ人集団37.5%の割合を示します。

このフェイ人集団におけるYHg-O1b2の割合は同じ地域の漢人全体では0.3%にすぎません。
YHg-O1b2は、以前はユーラシア東部で広範に見られたものの、中原ではおおむね駆逐され、
日本と韓国でしか高頻度で見られなく成った、それでもフェイ人全体では3.54%は結構多い。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 08:13:00.43
回族(かいぞく、ホウェイ族あるいはフェイ族、ピン音: Hui zu)は、
中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団である。
明代にアフリカまで航海したことでしられる鄭和もムスリムであり、本姓を馬といった。

結局、この回族とは交易海洋民で、 韓国伽耶のインド王女伝説と合致するし、
九州北部福岡県のスダレ遺跡からもインド系土器などが出土する。子持ち壷など。
0040日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 08:15:05.14
>この長江の畔と云えば呉の都があって
O1b2のY-DNA (37.5%) の人達が住んでて当然だな、納得。
春秋時代の呉の都、今の蘇州、三国時代の呉の都は建業(今の南京近く)

しかし今は回族とは、
それにしても凄いスケールで活動してたんだな。 O1b2アッパレ
そう云えば東南アジアやインド・タミル地方に有る甕棺墓・墓地に納得。

確か、インドネシアやベトナムにもこのO1b2が居たな。
0041日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 08:17:35.13
>このサイトを見てくれれば写真で理解しやすい。

古代シリアの子持壺、古代南インド
福岡県のスダレ遺跡から出土した弥生時代中期(BC300年頃)の壺
□□□ps://kiyond.blogspot.com/2010/03/blog-post_28.html

>これで百越王の墓から出土した鼎の巴紋が吉野ヶ里の巴形銅器と繋がって来てスッキリ。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 08:23:28.07
「載斯烏越等」の「載斯」サシは現在の(差し、指し)の事だと思う。

「差し向ける」は、上位の者が命じて行かせる意。 人だけでなく乗り物にもいう。
「差し遣わす」「遣わす」は、「差し向ける」と同義。
「尺」とも書くものさし。「サシを当てる」、 二人で向かい合ってすること。
さしむかい。「サシで飲む」「サシで話す」の意味。

「烏越等」ヲエツ、をち、瀬戸内水軍(越智氏おち)の事。平安時代ころの有名氏族。
0043日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 08:30:27.45
古事記の出雲建の詩に。
「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀
 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」

が有って、ヤツメとは「耶頭味県やつめ県」の事。
東濊、嶺東七県の(東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県)

サスとは将棋を指す、差し向けるのサスで
出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有って家臣を差し向けたって話。
丁度いまの北朝鮮日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」。
0044日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 08:44:57.86
建安中(196〜220年) 公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡
 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方

「建安中(196〜220年)、公孫康は、屯有県以南の荒地を分かち、帯方郡と為す。
公孫模、張敞等を遣はし、遺民を収集して兵を興し、韓濊を伐つ。
旧民はやうやく出づ。この後、倭、韓は遂に帯方に属す。 」
0045日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 08:54:57.89
箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は周辺にある前方部の低い纒向型古墳のような。

「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」
河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。

嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。
相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ)

江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円丘」として描かれている。
□□□p://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html
寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図
0046日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:01:02.88
『広志』には【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国と百女国がありと書かれ、郡より萬二千余里と

女王国は遠くて水行20日+水行10日陸行1月と書かれ、明らかに近畿くらいの遠さで
遠絶な場所と描かれ、陸伝いで行ける同じ九州島内とは思えない。

「女国」は伊都国の南、帯方郡より萬二千余里の近距離に描かれてる。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:04:17.20
この「百女国」がのちの八女で「百女ももぞ国」
この「百女ももぞ国」の女首長がのちに「邪馬台やまと国」の女王に共立された。

そして、八女周辺の住民の女首長(姫)が邪馬台国の女王だった記憶が残り
ヤマトがヤマトゥに八女津と訛ったんだろう

古代音が残ってる奄美、沖縄の人等はトとツの発音が曖昧でトゥと発音する
邪馬台やまとが八女津やめとゥと訛ってしまったんでは

結果的に八女周辺はのちの女王邪馬台国の範囲になり中国の使節が混乱してしまった。
「百女国」て女王国のことじゃんと、女王国が南、萬二千余里が固定してしまった。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:19:06.79
じゃあ、どうして八女津媛を祀る神社が奥地に有るのか?

それはね、神社のある筑肥山系は金山、砂金、が取れる事で有名なんだよ
「百女ももぞ媛」はこの金山、国家財源を管理してたんだろう
古代国家にとって金鉱山、星野川、矢部川の砂金は、絶対譲れない財産だからね。
近代でも、星野金山、鯛生金山が有名。

吉備津彦の西道将軍家にとって、江戸幕府の佐渡金山みたいな物だから。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:22:51.82
そう、九州北部は倭国の辺境だったから
国土の西方尽きる処で「つきし、つくし」

九州倭国の尽きるところだったから、尽くしから筑紫。
これより北東にも倭種はいるが倭国ではない。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:27:47.68
倭人伝に出て来る国名には畿内、瀬戸内、四国、九州、の令制国名と似た国名はあるが
出雲から越後など日本海側の国名らしきが出てこない。

恐らく、倭種ではあるが倭国の範疇ではないのでは、
彼らは、毛人、蝦夷カイと呼ばれた扶余、高句麗、などの主力 (濊カイ・穢ワイ)
と呼ばれた部族ではと思う、出雲には高句麗式の墓制がある
四隅突出型古墳や積石塚古墳など出雲、吉備、などから広まってる。

弥生の円形周溝墓も吉備から広まって、進化系が前方後円墳と言われる墳墓になる。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:34:25.77
>『魏志』倭人伝に係る、もう一つの解釈
>大阪学院大学 人文自然論叢 田中章介より。 2019.03.31

原資料X (魏政府の倭人との交渉記録・報告の類)
 <史書等> <編纂年次の大要>
X→王沈『魏書』<250−260年代前半>
  ↓
X→魚豢『魏略』<265年前後>
  ↓
X→郭義恭『広志』<266−280年>
  ↓
X→陳寿『魏志』<280−290年>

陳寿の『魏志』は、王沈『魏書』と魚豢『魏略』を参考にしてる。

東夷伝には「魏書 曰:」「魏略 曰:」が書かれてる。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:37:20.92
>『魏志』倭人伝に係る、もう一つの解釈
>大阪学院大学 人文自然論叢 田中章介より。 2019.03.31

原資料X (魏政府の倭人との交渉記録・報告の類)
 <史書等> <編纂年次の大要>
X→王沈『魏書』<250−260年代前半>
 ↓
X→魚豢『魏略』<265年前後>
 ↓
X→郭義恭『広志』<266−280年>
 ↓
X→陳寿『魏志』<280−290年>

陳寿の『魏志』は、王沈『魏書』と魚豢『魏略』を参考にしてる。

東夷伝には「魏書 曰:」「魏略 曰:」が書かれてる。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:41:29.55
>>「酸素同位体比年輪年代法」

酸素同位体比年輪年代法は2011年頃から名古屋大学の中塚武により実用化され、
その名称は従来法の年輪幅の代わりに年輪毎に含まれる主成分セルロースの
酸素同位体比、O18/O16比を測定する手法に由来している。

日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、
急速に発展してきた、日本での、この分野で一人勝ちの状況になった。

1990年代から有るレーザー吸収分光法で16Oと18O の比をとり、
吸収スペクトルを分析する方法。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:42:34.66
放射性炭素14年代法や
年輪年代法と合わせ技で
酸素同位体比年輪年代法使えば、年代特定はほぼ完ぺきだろな

最近の弥生開始年代は歴博のBC1000年が妥当だろうが大勢らしいな。
科学的な3種類の分析法だから信頼性は高いだろ。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:45:19.75
昔は水田稲作の開始時期と言われたが、今では縄文時代から稲作はしてるし、

今までの弥生時代の開始年代 国立歴史民俗博物館
弥生時代の開始期の新たな年代は、
佐賀県唐津市菜畑遺跡 9 ? 12 層出土の山ノ寺式と、
福岡市博. 多区板付遺跡 E-5 ・ 6 区第9層出土の夜臼T式の各 1 点で、

これらの開始年代を取り合えず弥生時代開始だろう。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:51:45.42
最近、吉野ヶ里が賑やかだが、あの遺跡は物部氏の環濠廃村で
すでに大阪府交野市のニギハヤヒ磐船神社・遺跡から
子・可美真手命(うましまでのみこと)生駒石切劔箭神社に移住してるからな。

大阪の別名、「ナニワ」 奴国人の庭だから奴庭=なにわ。
中心には住吉大社があり、そばには那珂、長、セレッソ大阪の長居競技場がある
どう言う訳か、住吉神社の傍には那珂川ならぬ長と付く地名がある

日本三大住吉には
下関の住吉神社は、「長門国一宮」
大阪、住吉大社には「摂津国一宮、東に長居」
そして博多にある筑前国一宮、住吉大社には「那珂川」これは偶然の一致ではない。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 09:54:19.17
そう云えば、阿波住吉神社にもチョット遠いけど
阿南市には那珂川が流れてるな。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:33:33.45
殷王朝は、紀元前17世紀?紀元前1046年まで続いたが遂に滅亡し四散する、
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で
朝鮮半島に逃れて箕子朝鮮を1100前ころ開いた伝承があるから

それらからの避難民や新天地開拓民が半島南部から九州北部に弥生人として
来た可能性はあるだろな、でBC1000年ころが丁度弥生開始年代と一致してくる。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:35:09.70
殷は太陽崇拝で自然信仰が強く、干支(えと)を使う、
亀卜、卜骨など鬼神に熱心で殉死の風習も持ってて青銅器が大好き、
部族ごとに「邑」制度があって共和制な面があったらしい、

青銅器の文様は「饕餮文」を使い、
まるでアイヌ紋様の様な端々がトゲの様な紋様を使う。

あれ、どっかで聞いた様な部族集団がいたな。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:44:33.82
殷王朝の箕氏は周代で、良政を惜しまれ遼西に配流され箕子朝鮮へ。
その後、燕が隆盛となり遼東、濊貊方面に追われ、
漢代の衛満の衛氏朝鮮に追われ、船で真蕃の地に渡って韓王を名乗った。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:49:28.89
>ここには、文書や賜遣の送り目録を伝送しと、文字を使った外交をしてる事を書いてて
ある一定の倭人たちは漢字を理解でき、当然、人物名や地名、出来事も記録してたはず。

『魏志倭人伝』は、西晋の陳寿により三世紀末ころに書かれた物。

王遣使詣 京都帯方郡諸韓国 及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、
皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」
0062日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:52:28.41
>ところが7世紀に書かれた隋書には、倭人は文字無く、ただ木を刻みて、と書かれ
侮蔑的に書かれた文章を真実かの様に「マスコミなどが広めてる」のは問題だよな。
日没する処の天子と書かれたのが頭に来たんだろ。まるで中国人の様。

『隋書・倭国伝』は、629年唐の魏徴らの撰。
無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡

文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て
、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」
0063日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:56:04.97
>5世紀後半(雄略天皇)倭王武の長文、上表文や

熊本の江田船山古墳と埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘文に
「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や「斯鬼(しき)宮」に居た時と、

古事記・日本書紀などの記録とほぼ一致する。と言う事は漢字などを可なり使ってた証拠。
卑弥呼時代の記紀などの記録もある程度正確なのではと思う !!

「百女ももぞ国」の姫こと百襲姫=八女津姫も正確な記録なのではと思う。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 11:58:36.83
「百女国」を「ももぞ国」と読めるのはほぼ、筑後川周辺の人等だけで

日本人や中国人にはまず読めないことから来る誤解が有ったのでは、
ヒント、「女山」と書いて「ぞやま」と発音する、

筑後平野の住民なら小学生でも読める。
女山、本来なら「じょやま」なんだろうけど、訛って「ぞやま」となったんだろな。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:04:11.09
>大和朝廷の時代、12代景行天皇が八女の地に巡幸の折、
水沼の県主猿大海が「この地方に女神あり。
その名を八女津媛といい、常に山中におる」と奉上したことから八女の地名が。と有る

実は、百襲姫の伝承地にはなぜか「水主、みずし、みぬし」と言った地名や氏名と絡む、
香川の水主神社の祭神が天照大神・百襲姫、

百襲姫命は大和の国、黒田盧戸宮くろだ いをど の みや)奈良県磯城郡田原本町黒田の生まれで、
傍に鏡作坐天照御魂神社(祭神天照国照彦火明命)が有って神主が水主直(みぬしのあたえ)

水主氏は船の水夫(水主/かこ)だったらしい
三女神で宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)と関係あるのではと。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:09:30.46
>宗像三女神が降臨し、筑紫水沼君等が祀るという。

今は海北道中に在り、名付けて曰く道主貴、此れ筑紫なる水沼君等が祭れる神是れなり。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:13:05.94
この黒田盧戸宮(くろだ いをど の みや)の盧戸(いをど)を

密かに天(奈良・高天原)の岩戸(盧戸いをど)じゃないかと、
皇族用語で岩戸隠れとは亡くなった事を意味するからね。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:22:53.49
日女(ひるめ)
日子(ひるこ)→蛭子/ひるこ・えびす

「蛭子伝説」によれば、日本最古の神とされるイザナギ(大倭)、イザナミ(出雲)夫妻は、
初めての子が生まれつき体が異常に柔らかく、蛭のような子「ひるこ」と名付けました。

不完全な王(伊都男王→狗奴国王)を追放し、完全な王朝(大倭・邪馬台国)に創り変えた。
日子(ひこ) →彦 /ひこ と呼ばれる様になった。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:26:31.22
倭人伝の奴国の東.百里に不彌国ふみ国ありの
フミは現代仮名遣いで「フ」が「ウ」に変化し宇美川の宇美国が正しいだろう。

古文・歴史的仮名遣い・・・現代仮名遣い

会ふ 合ふ 〔会ひ 会へ〕・ 会う合う〔会い 会え〕
祝ふ 〔祝ひ 祝へ〕 ・・・祝う 〔祝い 祝え〕
追ふ 負ふ 〔追ひ 追へ〕・ 追う負う〔追い 追え〕
買ふ 〔買ひ 買へ〕・・・・買う 〔買い 買え〕
競ふ 〔競ひ 競へ〕・・・・競う 〔競い 競え〕
0070日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:41:24.48
>この岡山、香川、徳島、など備讃地域には「ミマ」と付く地名が多い特異な地域で、
 美作みまさか、三間川、美馬、御間都比古神社などなど。

この辺りは地政学的に豊後水道や紀伊水道からの潮流がぶつかり潮止まりする地域。
潮の満ち引きを利用すれば、時間調整で艪を漕がずに行き来が出来る。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 12:53:21.32
そこで、例の「投馬国」なんだけど、
福山市、鞆の浦、玉津島〜〜倉敷市、玉島、玉野市、の一体に鞆トモや玉タマが付く地名が多い。

そこで気に成るのが、吉備地方関係者に「友トモ」と付く名。
第4代 懿徳天皇大倭日子鋤友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記』
(観松(みまつ)彦香殖稲尊 5代孝昭天皇・百襲姫の曽祖父)

御友別(みともわけ、御友別命)(時代は下るが、応神天皇時代)
または吉備 御友別(きび の みともわけ)は、
『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。吉備臣(吉備氏)の遠祖。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:10:01.18
>>70
京都、保津川の急流下りの様に岩礁にぶつかり転福しないよう注意するだけ
瀬戸内の潮流てゴーゴー音立てて流れるからね、何せ鳴門の渦潮のような潮流で流れる。

弥生時代の10人乗り程度の丸木舟や伝馬船なら
砂浜に直接乗り上げで充分だから係留設備とか大層な物は必要ない

弥生遺跡などは広い砂浜地域に多い、淡路銅鐸などは松帆地区の
白い砂浜に約5万本bフクロマツ林が麹Lがる景勝地、血c野松原と呼ばb黷髀�B
0073日末{@名無史さん
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2023/07/18(火) 13:14:45.09
旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」
宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」
元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」

隋書俀国伝
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:20:39.04
つまり、昔昔(紀元前のころ)倭の奴国人が畿内地域に移住開拓し
のち後に大和三山周辺で我は王であると宣言する者現れる。

またのちに大阪四条畷にある生駒、飯盛山、孔舎衛(衙)(くさか)、周辺に
日下(ひのもと)の草香(くさか)が日本(ひのもと)だと主張するものあり。

この地はニギハヤヒが「天磐船(あまのいわふね)」に乗りこみ、船出し、
瀬戸内海を通って、河内湾に入り、そして生駒山を見つけました。

そして、「この国は、まさに日の出るところではないか、そうだ!
この国を「ひのもとのくに」と名付けようと言い、日本(ひのもと)と名付けたとの事。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:24:13.81
そこで、大和三山の勢力、倭の奴国王と
生駒山を勢力地盤とする日本(ひのもと)ニギハヤヒ軍と戦闘状態になり

倭の奴国王(神武)が勝利したが、お前の(日本)国のほうがカッコいいなと言うことで
これからは、倭国を止めて日本国を名乗ろうと。 倭国は中国人が名付けた名だしなと。

つまり新・旧唐書の日本に関するややこしい記述(「日本は旧小国とか倭国を)は、
生駒、ナガスネヒコ、ニギハヤヒ、軍との戦闘から起きた話。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:31:03.11
>唐の魏徴チームが学者を率い、数年かけて戦乱の間に
バラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂し、
魏志は「都を邪馬臺国」と書き、 後漢書は「邪馬台国」と記した記事を調査、

隋代に、日本から遣隋使や、自から阿蘇山まで行って伊都国の南も調査した結果、
卑弥呼時代の都の所在地は「奈良ヤマト」だと結論付けた。
僅か、300年後の学者チームの結論だから間違いないだろ。

隋書倭国伝(貞観二年(628年))
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

地勢は東高く、西は下。邪靡堆(日本書記などの資料より奈良ヤマトと確定してる)に都する。
すなわち、魏志いうところの邪馬臺(、邪馬台国)なる者なりと。
0077日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 13:36:06.25
生駒山を拠点とする長髄彦と妹婿、饒速日が「日本ひのもと」の命名者か
そして故の奴国王、神武が戦闘に勝利はしたが、「日本」と言う国名は頂いたとさ?

それで、これらの話は全て納得。 ナニワが奴国の庭からも納得だな。
旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」
宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」 「日本国は旧小国なり倭国を合わせて」
元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」
0078日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 13:42:52.43
実は、百襲姫の少女時代の伝承が香川県に多く、
吉備や淡路島などにも伝承地がある、香川の水主神社や田村神社など

しかし成人してからが不明で、娘時代には博多湾や筑後平野に住んでて
弟吉備津彦、西道将軍家の対熊襲戦、進駐軍司令官の様であり、
「百女国」、八女津での金山管理のような任務で、

それで、邪馬台国の女王として共立されてから「奈良邪馬台」に移り
斎王卑弥呼として勤めた。 記紀的にはモモゾ百襲姫として伝承された。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:49:55.12
饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせず、ここに居させて下さい」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」

饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。
日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、
「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」
または「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。

それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた
(長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。
神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。
物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、
後にそれが纏向遺跡として発見された。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 13:52:00.78
パチ??パチ??パチ??

まるで、猿之助のスーパー歌舞伎、
ヤマトタケルを見てるようじゃ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 14:02:01.19
ニ二ギは北の水門から侵攻し飯盛山の麓、日向川と室見川との河愛の地に宮を置き

最古(BC3世紀)の「三種の神器」を納めた地、宮下文書では「長井の宮」と記している。
兄ニギハヤヒは南の水門から侵攻し今の吉野ヶ里に城を構えたと思われる。

その遺跡は1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され
吉武高木遺跡群として国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

これ以降、川合いの地は神聖な場所として崇敬され、京都の賀茂神社などが良い例である。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 14:08:25.71
そう博多湾がある筑紫、筑後平野が古の元高天原で
天の御中主が住まわれた地、天照大神にそこを統治せよと命じられたのじゃ。

所がじゃ、暴れん坊スサノオに父イザナギが海原の支配を命じたのじゃが、
姉天照大神に挨拶してから向かいますと言ったものの
高天が原では大暴れして、天地ひっくり返し、もうメチャクチャ、
怒った天照大神は誓約をさせ生まれたのが「三女神」

海原を治めようとせず泣いてばかりに怒ったイザナギは
とうとう新羅のソシモリへ追放したのじゃ。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 14:19:39.00
平安時代の海路は帆掛け船になるから、少し早く日数が短い

延喜主計式、平安京〜各国国府までの陸行日数。
山陽道、備中 上り9日 下り5日 海路12日
山陽道、安芸 上り14日 下り7日 海路18日
山陽道、長門 上り21日 下り11日 海路23日

平安京(京都府京都市)から太宰府(福岡県太宰府市)まで646キロの
朝廷が認める公定所要日数が陸行30日である。オーバーしたら自費でねと云う事。
備中高松攻めの秀吉軍が中国大返しで京都まで重装備で10日の記録があるから妥当かな。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 14:21:15.65
唐の「大唐六典」で陸行1日は28.05キロ、
現代風で言えば7時間×4キロ/時=28キロとなる為、かなり妥当な数字です。

これに当時の日本の道路事情を考慮して1割程差し引くと25.25キロ/日、
2割差し引くと22.44キロ/日程度となります。

邪馬台国は発音通り畿内の大和地方にあったと考え、
奈良県桜井市と福岡県糸島市の距離を30日で割ると凡その数字が出ます。

大和国(奈良県桜井市)〜伊都国(糸島市)=651キロ/30日=21.7キロ/日で
妥当な日数と思われる。
0085日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:25:42.74
大阪、福岡間 JRの営業キロは626.1km。艪を漕げるのは6時間位として
20日で約400km、岡山あたり+水行10日200km=600km
つまり、水行30日で600km、、陸行だと平安時代で30日=1か月でピッタリ!

和船の速度は、通常2ノット程度(およそ3.6km/h)らしい、
和船は水を含むと重く成り、水抵抗が多くなる。

手漕ぎ主体の中世「ガレー船」櫂だけで最初の1時間目は時速9kmで
その後の均しでは3kmから4.6kmに落ちるらしい。
0086日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:29:53.96
すると陸行も水行も日数的には大体同じか、人の歩く速度は時速4kmほどと言うから
当然海路の方が歩かずに済む分楽だけどね。

水行すると○日、陸行すると○日、説がリアルな現実味を帯びてしまった。
0087日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:34:32.20
東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
↓(不弥国から)南、投馬国に至る。

南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」
↓(投馬国から)南、邪馬臺国に至る。

南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月
「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。
0088日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:38:03.39
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490kmの街道です。
東海道五十三次『江戸?京都』間を72時間で走る飛脚たち!

もちろんリレー方式、宿場事の駅伝です。 さて当時、一般の人は
京都までたどり着くのに、一体どのくらいかかったのか!?

記録に残っているものをみると、
ドイツの医師ケンペルは駕籠や馬も使いつつ12日、
オランダ人御一行のシーボルトは17日、
弥次さん喜多さんは途中の四日市までで12日かかっています。

平均すると大体2週間前後。では、その内訳をちょっと計算してみますね。
490kmを14日で割ると一日の移動距離は35km、
日本橋からだと横浜市の保土ヶ谷の宿場までが32.4kmなので、
江戸時代の旅人は毎日その位の距離を歩けたということ。
0089日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:46:42.98
天児屋根命(中臣氏祖) → 天押雲命 → 天多禰伎禰命 → 宇佐津臣命 →
大御食津臣命 → 伊賀都臣命 → 梨迹臣命 → 神聞勝命(鹿島神宮、中臣氏の祖)

卑弥呼は239年(景初3)に難升米ら
 (難升米、中臣連の祖。梨迹臣命(なしとみ)、梨富命、那志登美、
 梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記する。
 伊賀津臣命『近江国風土記』逸文では伊香刀美は、梨迹臣・伊世理彦、兄弟の父。
 『尊卑分脈』の一本では伊香津臣命とも表記する。

243年(正始4)には伊声耆・掖邪狗ら
 (伊声耆、梨迹臣命弟、伊世理彦命いせり)

247年、魏に載斯烏越を派遣し、
 指し(刺史しし)?、越智氏。
0090日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:53:45.20
我家(わぎへ)(wagihe) などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、
我妹(わぎも)(wagimo) などは我(waga)の最後の音節の母音と妹(imo)
の語頭の母音が二重母音になることを避けている。日本人は二重母音が大嫌い!

だから梨迹臣(なしおみ)(nas io mi)の(i又はo)音を避けて(なそみ・なしみ)
と発音したのだろう。

伊都国の高祖山(今はタカス山)、(たかおや山を taka o ya山のoを外し)
も記紀などは二重母音を外し、高屋山(takaya山)と書いてる。
0091日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 14:56:03.88
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國

次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國

次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國

次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國

此女王境界所盡
0092日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:05:45.16
>これらは伊勢湾沿いの国々。
次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(五百木) 次有伊邪國(伊勢)
次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃)

>次は大阪から四国太平洋側を通って九州へのルート。
次有好古都國(高津の宮、大阪)
次有不呼國(深日フケ港、大阪府泉南の西端岬町、万葉集にフコの港が読まれてるほど有名)
次有姐奴シャヌ國(讃岐) 次有對蘇國(土佐)
0093日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:08:15.18
>次は九州南部から東側海岸を北上ルート。
次有蘇奴國(鹿児島、曽於そお郡) 次有呼邑國(宮崎、児湯こゆ郡)
次有華奴蘇奴國
(かのさの国、宗像大社のある筑前国宗像郡金埼、鐘崎で記紀にも記載)

>次は畿内に帰っての瀬戸内ルート。
次有鬼國(木津市、淀川支流木津川沿い) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(紀ノ國) 

次有邪馬國(山背、京都) 次有躬臣國(久須、枚方市樟葉くすはの宮が有った処)
次有巴利國(播磨) 次有支惟國(吉備) 次有烏奴國(宇佐) 次有奴國(博多、奴国)

此女王境界所盡 ここは女王の境界尽きる所なり。
0094日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:14:27.20
三国志魏志東夷伝序文を読む。 有異面之人近日之所出

顔志古は、「漢書」地理志に
如淳曰く、如墨委面は帯方東南の万里に在り。
臣瓉曰く、倭は国名なり用墨を謂わず。故に是を委と謂ふなり。
師古曰く、如淳、如墨委面を云ふに、蓋し音は委字のみ。此の音は否なり。
倭音は一戈切なり。今猶ほ倭国有り。魏略に云ふ、倭は帯方東南大海中に在り。
山島に依り国を為す。千里を渡海し、復た国有り。皆倭種なり」。

如淳は「倭」の意を踏まえた「委」を述べていると考える。
「如墨委面」は「倭人」のことになるので、 「委」は「倭」の意味を捉えたものである。
0095日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:15:57.13
「三国志」魏書の「異面之人」は発音からみて如淳の「如墨委面」を受けて
記述したと思われ、鯨面の倭人を意味したものと考えて間違いはないであろう。

「異面の人」について、異面=委面=倭面(いめん)と断定していることです。
異面の人=鯨面(顔に入れ墨をした)の倭人ということです。

「翰苑」の注釈のなかに、
「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王師升が至る有り」との記載があります。
これは、倭の国王の師升が、中国皇帝の安帝に107年に朝貢したことを記録しているのですが、

その倭の国王を「倭面」と表現していることからも、
この仮説が正しいことがわかります。
0096日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:25:57.80
つまり、何が言いたいかと言うと、
どうも三世紀の卑弥呼時代以前は、倭人に二種あって委面する者としない者とがあって、
「倭」の実権者を「委面をする委イのやつら」と思い発音していた。

卑弥呼時代の倭人伝からは「倭」と人偏が加えられ、音読みでもワ・イ 音がある。

そこで、例の「漢委奴国」金印はAD57年頃なので「委」とは現在の倭国を指すのである。
「倭面イメンの土(奴)国王師升スサ」となる
中国の古文書類は4~5世紀ころに正書したものが多い為、「倭国、倭人」と書かれた。

伊都国は「委奴国」倭面イメン土国王師升時代は平原平野や早良平野が奴国で
のち倭人伝卑弥呼時代に、御笠川、那珂川、周辺が奴国の中心地帯に移った。
0097日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:32:33.38
その奴国も彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)神武時代に

住吉神・塩土老翁(しおつちおじ)事シオジイに案内されナニワから奈良の地に都を移し
神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)と云われる様になる。
故の都、元高天原を子孫である百襲姫に統治させた。

が、諸国から共立され邪馬台国の女王卑弥呼として今高天原、奈良纒向で統治した。
0098日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:33:56.77
そして、
旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」
宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」
元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」

南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」

南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月
「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。と………

竹藪だろうと草藪だろうと、卑弥呼時代の人物が都まで陸行一月で行けますとの証言です。
0099日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:40:02.05
『随書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」

つまり、倭国=邪馬台連合国の都・首都が奈良ヤマト=邪馬台=邪靡堆だと断定した、

当然、都・首都、奈良ヤマトには邪馬台連合国の領土、領海、が有って
その中には、九州北部、筑紫平野や瀬戸内周辺、四国いわゆる畿内、などがメンバー国で、

ちょうど、卑弥呼時代には九州南部の狗奴国との対立とか有って、筑後平野八女辺りに
邪馬台連合国の駐屯地が有ったのだろう、進駐軍の司令官として卑弥呼がいたと云う話。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:43:04.56
の『随書倭国伝』の使者は、608年裴世清で奈良ヤマトに行ったのは資料から明らか、

「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」
を伊都国の南、噴石降る阿蘇山まで出かけ魏志の勘違いだと確認した。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:44:53.51
まだ邪馬台連合国は30か国程度で出雲など日本海沿いの国々はまだ連合国には参加せず
狗奴国と同じ対立状態だったのでは、

卑弥呼が共立されて女王連合国に成ったころには関東以西くらいが邪馬台国の範囲かなと。
そうじゃないと、侍女1000人も抱えられないだろう国力的に。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:47:42.48
世界一受けたい授業より。

江戸時代、幕府の中に大奥という機関がありました。
将軍一人のために作られた機関で、女性が300人〜1000人在籍していました。
維持費は幕府の予算の10分の1、今の金額で200億円と言われています。
と言うから古代国家にとっては莫大な費用なりと。いつの時代も女は金がかかるな。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:49:29.16
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡-297年(陳寿の没年)
の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如……」
国史大辞典万葉仮名 「を」 袁 遠 乎 越 呼 怨 烏 弘 塢 嗚

弁辰亦十二國、弁辰 彌烏邪馬國(みをやま・みわやま)国 三輪山(みわやま)国
0104日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 15:51:59.53
其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。
その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。
また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」

馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、
弁辰にだけ「城郭」があり、「王」が存在します。
辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。 弁辰は倭国王の直轄地だったのでは。

(弁辰の)瀆盧国とは、今の大邱市(テグ)辺りと云われ、その地が倭と界を接している。
と言う事は、手前の弁辰は倭国、倭国王の支配地と言える。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:53:33.35
邪馬台国女王卑弥呼、(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)
狗奴国の討伐。 第8代孝元〜9代開化天皇時代と思われる。
ヤマト兵と魏の軍とで狗奴国の討伐しようと画策する。

第12代景行天皇や皇子ヤマトタケルに熊襲討伐。
クマソタケル(熊襲梟帥)とは、大和朝廷に抵抗した熊襲の首長。
熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる
梟帥(タケル)がいたと記している。
 渠帥(きょすい)悪人のかしら。反抗者の頭目。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:55:52.71
神功皇后の九州熊襲征伐。
天皇の九州熊襲征伐に随伴する。第14代天皇仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して
遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。
女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅を攻め降した。三韓征伐。

第26代継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国造磐井の反乱。
新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、
ヤマト政権の朝鮮への出兵阻止しようとした。

第37代斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。
第35代皇極天皇(在位:642年2月19日重祚し第37代斉明天皇-661年7月24日)。
660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、
百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:57:33.40
倭の奴国王が東征し、空白になった実家、奴国に
南九州勢、肥国、熊襲が進出し大和=大倭=邪馬台連合国と対立するようになった
これは、けしからんと言う事で討伐の対照に、黒幕がどうも半島勢力がチラホラと。

渠帥者とは中華世界での反抗者の事で
どうも高句麗、扶余など半島戦乱時に亡命者やら敗残兵が、長崎島原ルートで
九州南部に逃げ込んだ者たちが、後に熊襲化し何百年もの反骨心が育ったのかも
肥前、肥後、日向、薩摩、と云えば日本史の世界ではいつも反中央勢力。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 15:59:09.88
魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、
邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が簡略化したのだと思う。
卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
楚山塗卑離(ショサントヒリ)国
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 16:00:12.09
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、

3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。

邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。

これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 16:03:00.22
4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。

南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに

南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時
0111日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:04:34.64
登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。
おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来ていた。

そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
0112日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:06:37.08
この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、
475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、

「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 16:09:18.76
七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。

紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
0114日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:11:19.61
>謎の4世紀とは、こんなもんか??
邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって
倭国騒動で女王豊トヨが共立され、
時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜)

(310年頃から?)
4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期
倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。

(360年頃かな?)
そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、
女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、
百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。
三韓征伐へと向かう辛卯年(391年)の出来事。
0115日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:16:30.88
崇神天皇は長浜説で241年崩御が...古事記だと258年... 318年説も根強い
 垂仁天皇の崩年干支「辛未」発見で。崇神崩年干支「戊寅」を318年から258年が妥当か

垂仁天皇の崩年干支「辛未」...311年 『住吉大社神代記』崩年干支「辛未」
景行天皇の崩年干支 古事記記載なし だいたい中間とって333年ころか?
成務天皇は長浜説で350年崩御が...古事記だと355年

仲哀天皇は長浜説で355年崩御が...古事記だと362年
神功皇后の崩年干支 住吉大社本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定
応神天皇は長浜説で410年崩御が...古事記だと394年
仁徳天皇は長浜説で428年崩御が...古事記だと427年
0116日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:20:00.09
>これは、700年前後の古事記・日本書紀より200年程前の墓誌から史実と確認できる、
 この三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。

『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」
『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」
[武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」
0117日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:22:07.36
魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰く、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。
汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。

北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか?
三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。
倭人たちは、どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。
0118日本@名無史さん
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2023/07/18(火) 16:24:20.50
>曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。

北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある

白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、
曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。
白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。
曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、
この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。
京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ
どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。
呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。 勾踐は北上し、
山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、
山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 16:50:31.45
魏志鮮卑伝では「汗人」
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。
後漢書を書いた范曄が魏志の「汗人」を調査したらどうも「倭人」だったと

帯方郡の役人にとって、委面(刺青)したものが倭人で、してない者を汗人(韓人)と
判断してた節があって、部族的な違いより見た目で判断、
倭人と云われる者の中にも二種あって、当然入れ墨などしない者も居た。

今の韓国南半分にも倭人らしき国や、風習を持った馬韓人が居て
考古学的にも勾玉、管玉、などを重宝埋蔵した遺跡も多い。

後漢書 弁辰条には「其国近倭、故頗有文身者
「その国は倭に近い。故に入れ墨をしている者が頗る多い。」と書いている。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/18(火) 17:08:02.28
朝鮮半島は起源前後ころより、高句麗・扶余・楽浪漢人などとの攻防があり
雑兵として汗人(韓人)・倭人・濊人・漢人などが混沌カオス状態だったろう

倭国王帥升などが盛んに生口(奴婢か)160人を連れて行ったのも雑兵だろうし
それらが白狼山周辺に住まわせてたんだろう
高句麗の遂成も盛んに生口を献上してるが、同一人物の様に見える。年代も同じ。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:00:25.81
最近、東大阪の鬼虎川遺跡で巴形銅器とひし形模様の描かれた楯が出土し
それが吉野ヶ里遺跡から出土した巴形銅器の鋳型とピッタリ一致したんだって
その遺跡の東正面が生駒中腹にある石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 饒速日尊と宇摩志麻遅命を主祭神とする神社、
吉野ヶ里遺跡はニギハヤヒ、物部氏の本拠地だと印象を持ってたが、確信がもてた。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:02:30.31
その石切神社の南側に近鉄額田駅があって、
その南側に枚岡駅、枚岡神社がある
枚岡神社は中臣氏の氏神で主祭神,天児屋根命,比売御神?,経津主命?,武甕槌命

なお、吉野ヶ里遺跡には今ひし形模様、巴形銅器が付いた楯が観光用に置かれてるが
あれ、石切神社鬼虎川遺跡から出土した楯がモデル。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:17:31.33
中臣氏の氏神・天児屋根命はニニギの随伴臣で、
関東茨城の鹿島神宮と千葉香取神宮などと関係が深い。

茨城水戸市の那珂川、霞ケ浦鹿島神宮の中臣氏、香取神宮のフツヌシ(経津主)。
霞ケ浦周辺からは、関東では珍しく巴形銅器も結構出土する地域。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:21:05.67
巴形銅器って、あれ太陽信仰のシンボルで誰にでも提供する物でなく天孫守護的な、
近代風に言えば親衛隊、皇宮護衛官の様な目印で、
部外者は近づくなと威嚇するものだろう。

奴国出土の巴形銅器鋳型からは香川さぬき市から出土した巴形銅器が製造され
側には、百襲姫伝承のある水主神社があり、関連が感じられる。
尾張一族が統治してた名古屋周辺、からも結構出土してる。

この巴形銅器の鋳型は九州北部吉野ヶ里と奴国地域の2か所からしか発見されてず
出雲には欠けらが有るとか無いとかと言う珍しい青銅器らしい。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:23:37.74
宮下文書と云われる何とも怪しい古文書があるが、富士王朝とか何とか?

富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある
北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司、宮下家に伝来した古文書

これを整理し1921年(大正10年)6月25日、宮下家文献をもとに
三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が隆文館から発行された。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:26:45.83
そこで、吉武高木遺跡群では1981年〜2005年まで19次にわたる発掘調査が実施。

当然古文献を元に宮下文書が書かれたのが大正10年で
1981年発掘の遺跡の事など知るわけがない。

それなのに発掘記録と宮下文書に書かれた内容がピタリと一致してて
ある一部分の内容は古文献が残ってて伝承されてたんだろうと思う。
吉武高木遺跡群の大型建物(長井の宮)と川合(河愛)の埋葬墓地の関係が
見事に一致してる、とても信じられないが。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:28:30.92
吉野ヶ里遺跡と「天孫降臨」

「南の水門」とは
『宮下文書』は「南軍」について「附地見島、南の水門より攻むる大将は、
元帥火須勢理命(海幸彦)、副帥経津主命・建御名方命、軍勢五萬餘神とす」と記す。
「附地見島(筑紫)」の「南の水門(有明海)」から攻めている。
「南軍は南水門より上陸し、賊の大軍と戦い、奮撃轉鬪六百五十日にして、
遂に賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。

「南の水門」とは「有明海」であろう。「南軍」は長崎を廻り、有明海に入り、
「佐賀県南部」に上陸している。 「賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。
先住民は「佐賀県南部」から「西北方向」に逃げている。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:38:14.43
生駒山系と言うのは標高300~642mの南北約30km、東西約5kmの山々で、
丁度、奈良盆地側からすれば都を守る城壁のように見える。

じつは、長髄彦(ながすねひこ)って生駒山体そのもじゃ無いかと思う。
大阪市内の高速道方面から見ると脛と膝(生駒山頂)のように見える。

石切神社の北方には神武東征に出て来る日下(くさか)、楯津(たてづ)の港の楯津があり
その北に行くと、吉武高木にある飯盛山(楠正成で有名)があり
その北方交野市にはニギハヤヒが天の磐船で降臨した磐船神社がある。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:42:18.68
つまり、生駒山、自体が物部軍団の山城だった、都大倭を守る城壁。

生駒山の麓一帯は物部一族、家臣団の拠点だったんだろう、
あの弓削道鏡の弓削神社や物部氏と関係深い矢作神社、渋川神社が八尾市にある。

そして後、物部氏は石上神宮へ
枚岡神社中臣氏は関東鹿島から白鹿に乗って春日大社へと移ったんだろう。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:44:06.08
九州博多湾、山幸彦ニ二ギ系と有明海、海幸彦ニギハヤヒ系が全国制覇へと進軍、
まるで、薩長土肥藩が革命、明治維新を進めたように。

神話や神社伝承伝説を見てると、いかにニギハヤヒ系物部集団が
日本全国、東北北陸から九州まで広がって行ったか分かる、まずは物部王朝が先行し

追いかけニ二ギ系の神武東征軍、天孫族たちが巻き返し王朝奪取、
悔しいけど物部さんはイワレヒコさんに同じ天孫組だとしり禅譲させられたんだろう。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:46:22.50
>ニギハヤヒが瀬戸内海を移動して大阪湾に現れたのが紀元前2世紀の終わり頃だろな。
>巴形銅器が出土した層が弥生中期だと云われてるから。
>そして、神武東征が建武中元2年(紀元57年頃、奴国王が金印授受)の後だろ。

弥生中期から後期の高地性集落「国立歴史民俗博物館(歴博)
紀元前2世紀〜紀元2世紀」環濠集落も巨大化していき、特に顕著となるのが
弥生中期、紀元前2世紀の終わりごろで、大阪湾岸から瀬戸内・北部九州にかけて集中する。

山口県でも清水遺跡など高地性環濠集落があり、
紀元前1世紀〜紀元2世紀では、広く瀬戸内から大阪湾岸に分布している。
紀元3世紀以降になると近畿とその周辺部にほぼ限られてくる。

畿内の高地性環濠集落の多くは、地理的に大阪湾や瀬戸内海、
それを囲む平野部を広く眺望する高台に営まれる。
その多くに火炊き場跡が検出された。のろしによる通信跡と推定されている。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:48:53.49
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そおたはくめか
うをえ にさりへて のますあせゑほれけ
布留部(ふるべ) 由良由良止(ゆらゆらと) 布留部(ふるべ)

>これ石上神宮の「ひふみ祝詞」とだけど、よく見ると今の五十音訓に似てて、
>いろは歌の古代版だろな。わをん、だけがなく(わを(うぉ))で発音してたんでは。

>高句麗の地名では、一ひ二ふ三み、七なぬ十とく、と発音してた様だし
>現代人がAエ- Bビ- Cシ- Dディ- と発声練習する様な感じだろ。和語も難しいから。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:49:54.31
「男子は大小となく皆黥面文身す-三国志がみた倭人たち」 

弥生後期中葉〜古墳前期の鯨面絵画(2〜4世紀)土器分布図
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a8/b91714890f2803e31299172d7f8a5c1b.jpg

邪馬台国と物部 黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。
https://i.pinimg.com/736x/bc/98/3f/bc983f5ef495dfa44c9f4bb245ead73f.jpg
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 20:54:04.34
>宗像地域と出雲、丹後半島までの日本海沿岸地域だけ、これが出雲文化圏なんだろな。
>中国と同じ6穴の土笛・陶塤けん、はこの地域にしかない。

弥生時代の土笛は、(陶塤けん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。
河姆渡文化晩期(かもとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

西日本で土笛が出土した遺跡の分布図
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/4.jpg
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/201501270037.html
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:00:21.08
淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さき)つ島も見ゆ
(『古事記』仁徳天皇御製)

奄美・沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられビロウの木の下が拝所である。
朝廷においても神聖視された植物で、
公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材や大嘗祭においては
現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられている。

ビロウにちなむ地名として、枇榔島(宮崎県門川町、鹿児島県の志布志市と南大隅町)、
高知県でも温暖多湿な、足摺岬や室戸岬、徳島県南部地域でも、
アコウ、ビロウなど亜熱帯植物が自生している。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:02:48.63
>>ビンロウとビロウは似た名だけど別種らしい。

ビロウ(Livistona chinensis、蒲葵、枇榔、檳榔)は、ヤシ科の常緑高木。漢名は蒲葵、
別名はホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄県)など。古名はアヂマサ。

ビロウの名はビンロウ(檳榔)と混同されたものと思われるが、ビンロウとは別種である。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:06:49.66
和歌山県の友が島(沖の島・神島(淡島)・虎島・地ノ島の4島の総称)が
「おのころ島」だったと云われる。
仁徳天皇が神島(淡島)が見える和歌山北部、加太に雛流しの淡島神社を遷座されたと伝わる。


宇佐のアチメワザ
朝廷においても神聖視された植物、檳榔(あぢまさ)の島のアヂマサと関連あるかも
神道の儀式には檳榔(あぢまさ)の植物を何かに使った?
現皇室でも、大嘗祭には用いるらしいから。

阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:09:08.92
岡山県内では、22遺跡で13000個を超える桃核が出土。
特に上東遺跡(倉敷市)、津島遺跡(岡山市北区)、百間川今谷遺跡(岡山市中区)
などでは、弥生時代の溝や河道などから大量に出土している。

岡山では桃核出土は当たり前でありすぎた故に、「全国どこでも同じように出土する」
と思われていて、考古学者の間では注目されることがなかった。

岡山県南の大弥生後期遺跡では、桃核祭祀は一般的に、
水を祀るものとして行なわれていたのではないか。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:14:48.95
岡山遺跡名 桃核出土総数 出土数(弥生時代〜古墳時代)

上東遺跡 9,608 9,608 波止場状遺構
津島遺跡 2,415 2,415 河道
百間川沢田遺跡 460 460 井戸 401 井戸 50
百間川米田遺跡 400 242 土坑 76 井戸 52 井戸 43
百間川今谷遺跡 384 384 溝 316 水田 63
鹿田遺跡・・・ 33 7以上
百間川原尾島遺跡22 22
雄町遺跡 10 10
南方遺跡 多数 多数

纒向遺跡(奈良県) 土坑 2,765 弥生後期
布留遺跡(奈良県) 流路上層 1,546 古墳後期
南滋賀遺跡(滋賀県) 溝 520 古墳後期
前田遺跡(島根県) 河道 408〜古墳後期?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:27:27.43
上東遺跡の位置は特殊器台祭祀、弧帯文祭祀で有名な、弥生後期最大の墳丘墓、
楯築遺跡から直下の位置にあり、王莽の新の貨幣である貸泉も 1枚見つかるなど、
足守川上流の高塚遺跡で貸泉25枚ほど出土し全国一位である。

吉備の王権の一大貿易港で行われた出航時の祭祀には、
毎回土器に盛った様々なものが供えられたのだろう。
そしてその祭祀の中心に桃核があったはずである。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:33:32.58
>骨を灼きて卜し、以って吉凶を占ふ。先に卜するところを告げる。その辞は令亀法の如し。

卜骨の出土数で鳥取県青谷上寺地遺跡は群を抜いているが、
大阪、奈良、岡山、東海、関東、神奈川県三浦半島の先も卜骨の出土数が多い。
卜骨は海人族が行った占いだったのであろう。

卜骨の分布と出土数
https://0743sh0927sh.up.seesaa.net/02140958N000000000/156469753986455539610.jpg
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:35:45.27
対馬文字(つしまもじ)
神代文字の一種。対馬卜兆文字(-まちがたもじ・うらかたもじ)とも呼ばれる。
日本語の五十音を表す47種の文字からなる。撥音の「ん」に相当する文字はない。
(「ん」が出来たのは室町時代以降である。)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Tsushima_characters_1.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

亀卜の卜兆(うらかた)から生まれた文字とされ、対馬市の雷(いかつち)神社で行われる
亀卜神事では、卦を読む際にこの対馬文字やアナイチが用いられる。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:38:48.35
>対馬文字と非常に似ている。

縄文時代中期の−刻文付有孔石斧
山形県羽黒町中川代遺跡から、縄文中期の土器と共に右のような磨製石斧が出土している。
これが大陸から渡来した玉鉞(えつ)の一種なのかどうか、未だ結論は出ていない。

中国・山東大学教授の蔡鳳書の所見は、
「大汶口文化(だいぶんこうぶんか)(黄河文明の一つ)の所産と思う。
文字は甲骨文ではないが、鉞形は王の意味で、上の孔は白、つまり記号も皇を表わしていて、
腰に佩用したもの。孔の開け方は中国風に両面から開けている」 

http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006toraibunnka/kokumonntuki_yuukousekifu300.jpg
http://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006_1tairiku_karano_toraibunnka-2.html
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:40:25.87
『隋書・倭国伝』の原文を見てみます。

「無文字、唯 刻木 結繩、敬佛法 於百済求得佛經 始有文字」と書かれています。

読み下すと、「(倭国に)文字は無い。唯(ただ)、刻木(こくぼく)結繩(けつじょう)のみ。
仏法を敬(うや)まい、百済於(よ)り仏経を求め得て始めて文字有り」となります。
「無文字」とは、中国人が理解できる漢字では無いと言う意味です。

「刻木(こくぼく)」とは「書契(しょけい)」のことで、「木に文字を刻む」という意味。
「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」です。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/26(水) 21:42:34.20
倭国では仏教伝来以前には「刻木文字、結繩文字」が使われていたと記しているわけです。

この「刻木文字」は、古いものですと紀元前14世紀(いまから3400年前)の
遺跡である河南省安陽市の遺跡「殷墟(いんきょ)」から発掘されています。
別名が「甲骨文字」です。「甲骨文字=刻木文字」です。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/ngyope/20210622/20210622054836.jpg

当時は、木に刻んだ文字の史料の方が圧倒的に多かったのでしょうが、
木は長い歳月の間に朽ちて溶解してしまうので、
現存しているのは亀の甲羅や鹿の骨に刻まれた文字である甲骨文字だけが残ったのです。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:10:08.02
これは京都五条天神社の「宝船図」だけども、明かに「対馬文字」の系統で
弥生時代ころには広く神官たちの情報伝達として使われていたのでは、
漢字が入って来てからは、細々と卜骨占いとしてだけ残った。

h□□ps://stat.ameba.jp/user_images/20130203/22/taka-hannari/fc/b4/j/o0800052212404408292.jpg
h□□ps://kyotowalker.club/wp-content/uploads/2017/12/f1c18b8679704e4f57489c8a99dc8254-800x555.jpg
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:13:40.29
>この経津主神(ふつぬしのかみ)の方が可能性が高いのでは?
>中国の古典などでは徐福より徐市(じょふつ)さんの名前の方がよく出るらしい。

『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」

経津主神(ふつぬしのかみ、正字:經津主神)は日本神話に登場する神である。
『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。
別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。
『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)
として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:19:33.38
対馬文字(つしまもじ)
神代文字の一種。対馬卜兆文字(-まちがたもじ・うらかたもじ)とも呼ばれる。
日本語の五十音を表す47種の文字からなる。撥音の「ん」に相当する文字はない。
(「ん」が出来たのは室町時代以降である。)
□□□ps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Tsushima_characters_1.jpg
□□□ps://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

亀卜の卜兆(うらかた)から生まれた文字とされ、対馬市の雷(いかつち)神社で行われる
亀卜神事では、卦を読む際にこの対馬文字やアナイチが用いられる。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:21:32.18
>この「斎部家極秘神字」、通称、忌部文字・斎部文字は、
>一部分、甲骨文字を工夫した対馬文字を借用した物に見える。

>阿比留草文字 アヒルクサモジ[ヒフミ順]など全国の主な神宮、大社などで使用され、
>元々、甲骨文字から発生した刻木文字などで後世に広まった文字と思われる。

忌部文字・斎部文字 イムベモジ[ヒフミ順]「斎部家極秘神字」
斎部(忌部),橘両家にのみ代々極秘裏に伝わった文字。他見は決して許されない。
斎部氏ゆかりと明記された文字として,「斎部家極秘神字」があり,
これは斎部氏の祖・天太玉命(あめのふとだまのみこと)が作った文字という。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:24:51.02
じゃあ、どうして日本では文字が民衆に広がらなかったのか
日本では縄文・殷朝時代より中原世界の亀卜・卜骨と一緒に甲骨文字も入って来てたし
前漢鏡などで、漢字の存在も知ってたはずなのに?
それらは、支配層や神官たちの情報通信の為で機密性を重視したんだろう。

一方、中国や欧州などは世界的な宗教を民衆に広めるための文字が必要だった
ところが日本では原始社会より元々ある神秘的自然崇拝で、
仏教、儒教、聖書、など哲学的思想を広めるための文字など必要ない。

むしろ既存支配層にとって外来の哲学や思想など邪魔で危険でしかない。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:26:53.19
秦から前漢時代の漢字の中には、明かに旧約聖書の哲学が刷り込まれてて
例えば、「義」我は羊。「禁」生命の木と善悪の木を示して禁じたとか
「船」ノアは家族8人を箱船に乗せ、救ったなど、

「君」もカタカナの「コロナ、ギリシャの王冠」を組み合わせた文字。
ギリシャ文化を知ってる中央アジア人が漢字の成立に関わってるんだろな。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:29:37.06
じゃあ、カタカナの「コロナ」も既に知ってた者たちが居た。
それは恐らくカタカナと似てると噂のあるヘブライ文字ユダヤ人。

そう、トンガリ帽子のユダヤ人、関東千葉辺りの古墳から出土する。
あれっ、中臣氏??? 千葉霞ケ浦周辺は中臣氏の縄張りで巴形銅器もよく出る地域。
埴輪の中には明らかに土着民と違う面長の顔で肩に鷹を乗せた貴人と思われる人物埴輪が。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/27(木) 21:31:46.42
確かにこの対馬文字(つしまもじ)は現在でも
使えるんじゃないかと思えるほど良く洗練された文字。
□□□ps://pbs.twimg.com/media/CPn7s5zVAAERIsZ?format=jpg&name=900x900

縄文中期の山形県羽黒町中川代遺跡から、出土した玉鉞(えつ)が間違いなく本物なら
これ、考古学会、古代史学会の大発見じゃないのか、如何じゃ専門家??
□□□p://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/006toraibunnka/kokumonntuki_yuukousekifu300.jpg
0155日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 21:36:46.46
>>154 (カ)の文字カラスの姿に見える、(シ)の文字はカタカナのキに見える

中川代遺跡の玉鉞(えつ)の文字は、対馬文字の虫食いされた箇所、
玉鉞=王の印 (オ)じゃ無いか、斧オノとか王オウ・大オウとか(オ)が頭に付くし。
0156日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 21:51:45.68
天火明命(あめのほあかりのみこと)は、日本神話に登場する神。ニギハヤヒの別名。
で、尾張国や丹波国にも移り、尾張氏・津守氏・海部氏・丹波氏など多くの氏族の祖神とされる。
『新撰姓氏録』による分類では「神別」の「天孫」。

天火明命の別名は次の通り。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと、『先代旧事本紀』)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと、真清田神社由緒記)
天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと、『日本書紀』、真清田神社由緒記)

『古事記』及び『日本書紀』の一書によれば、
天火明命は天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子とし、
天火明命が兄で、邇邇芸命は弟とされる。
一方、『日本書紀』の別の一書では、天火明命は邇邇芸命の父(邇邇芸命は天火明命の子)とする。
『先代旧事本紀』は、天火明命は穂積臣や物部連の祖の饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記す。
このことについて、世代関係や活動地域から疑問が大きいとする説もある。

一方、『播磨国風土記』では大汝命と弩都比売との子とする。
0157日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 22:13:04.06
吉野ケ里遺跡からも発見された石棺墓(せっかんぼ)の石ぶたに施された「×」の線刻。
出雲大社でも出土した358本の銅剣のうち344本に共通の「x」印が刻まれていた。

出雲王家の神紋<交い矛>は<X>という抽象的な記号として伝えられていました。
 @諏訪神社の御柱にかつて<赤いX印が3つ>刻印されており、
 、証拠の写真はありますが現在の御柱にはない。
 、昭和30年代旅行したおりに私も見た記憶がある。
 、大きな赤いX印が血の色に見え不吉な印象だった。
 A伏見稲荷神符に描かれている<違い鎌>は出雲の神紋の矛が折れたものと
 、以前のブログに「伏見稲荷神符」の謎ときを掲載しています。
 B出雲大社の神紋<亀甲に剣花菱>の中心にX印が隠されています。
0158日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 22:31:02.78
>倭国王帥升=扶余王始將、これ同じ人物だろ。
>最近、満州農安市の扶余族の遺跡から卜骨の鹿骨や頸に環のある須玖式土器などが出土してる

《後漢書 倭傳》
安帝の. 永初元年(一〇七)倭国王帥升等が生口百六十人を献じる。
《後漢書 夫餘傳》
安帝永初五年(111年)扶余王始將は歩騎七八千人で楽浪郡を略取した。

永康元年(167年),扶余王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。
0159日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 22:32:50.93
>この登高神は仏具の登高座、寝床の床や、台地、一段高い所の意味で、
>天之常立神(あめのとこたちのかみ)や国之常立神と同じ登高神(とこしん)のこと。
>同じ(とこ)と発音する神がいるのも引っ掛かるな。

『周書』巻49高句麗伝
『又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、云是其始祖夫餘神之子。
また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。
一つには常高神(とこしん)といい、始祖夫餘神の子だと伝える。
0160日本@名無史さん
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2023/07/27(木) 22:34:46.63
>倭人伝には、邪馬台國 女王之所都 水行十日陸行一月
>官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七万餘戸とあり

>彌馬升、彌馬獲支など彌馬(みま)と付く名前は崇神の家族だけ。

崇神天皇=扶余王・依羅か??
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
皇后 御間城姫
0161日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 13:41:42.13
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡-297年(陳寿の没年)
の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如……」
弁辰亦十二國、弁辰 彌烏邪馬國(みをやま・みわやま)国 ……三輪山(みわやま)国
国史大辞典万葉仮名 「を」 袁 遠 乎 越 呼 怨 烏 弘 塢 嗚
0162日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 13:43:58.12
其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。
その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。
また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」

馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、
弁辰にだけ「城郭」があり、「王」が存在します。
辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。 弁辰は倭国王の直轄地だったのでは。
0163日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 13:45:24.10
(弁辰の)瀆盧国とは、今の大邱市(テグ)辺りと云われ、その地が倭と界を接している。
 ……と言う事は、手前の弁辰は倭国、倭国王の支配地と言える。
0164日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 14:02:20.08
247年倭人船で伊都まで来て、駐留した張政の報告。

丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
(世々・代々王有)皆、女王國に属している。
(そして)郡使 (張政)は、(この伊都に)常駐した。 で、ある。
0165日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 14:08:27.82
@邪馬台国女王卑弥呼、(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)
 狗奴国の討伐。 第8代孝元〜9代開化天皇時代と思われる。
 ヤマト兵と魏の軍とで狗奴国の討伐しようと画策する。

A第12代景行天皇や皇子ヤマトタケルに熊襲討伐。
 クマソタケル(熊襲梟帥)とは、大和朝廷に抵抗した熊襲の首長。
 熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる
 梟帥(タケル)がいたと記している。
 渠帥(きょすい)悪人のかしら。反抗者の頭目。
0166日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 14:11:47.45
B神功皇后の九州熊襲征伐。
 天皇の九州熊襲征伐に随伴する。第14代天皇仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して
 遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。
 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅を攻め降した。三韓征伐へ 。

C第26代継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国造磐井の反乱。
 新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、
 ヤマト政権の朝鮮への出兵阻止しようとした。

D第35代皇極天皇(在位:642年2月19日重祚し第37代斉明天皇-661年7月24日)。
 660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、
 百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。
0167日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 14:15:34.81
倭の奴国王が東征し、空白になった実家、奴国に
南九州勢、肥国、熊襲が進出し大和=大倭=邪馬台連合国と対立するようになった
これは、けしからんと言う事で討伐の対照に、黒幕がどうも半島勢力がチラホラと。

渠帥者とは中華世界での反抗者の事で
どうも高句麗、扶余など半島戦乱時に亡命者やら敗残兵が、長崎島原ルートで
九州南部に逃げ込んだ者たちがいて、後に熊襲化し何百年もの反骨心が育ったのかも
肥前、肥後、日向、薩摩、と云えば日本史の世界ではいつも反中央勢力。
0168日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 17:48:03.10
>色々なサイトからの拾いコピペ。

三種の神器とは、太陽・大鏡 月読・勾玉 スサノオ・剣(戦い)十拳剣
伊勢の神宮 内宮・天照大御神 外宮・豊受大神
豊受大神さま=大宜都日女命さま=宇迦御魂命さま(月読)
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』には
当初の内宮と外宮の姿として
『五十鈴川の河上に並んで坐す、伊勢に斎き祀る大神という。』

イザナギさまの左右の目から生まれた、
天照大御神さまと、ツクヨミさまは同格の神様。
大倭姫である、宇那比姫さんと台与さん
ツクヨミさまと豊受大神 同一神
伊奘諾尊が、御身をすすがれたときに、三柱の神が生まれた。
左の御眼を洗われたときに成るところの神は、天照太御神と名のる。
右の御目を洗われたときに成るところの神は、月讀命と名のる。
鼻を洗うととたくましいスサノオノミコト
0169日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 17:49:26.57
邪馬台国には2通りの巫女がいたのでは?
台与時代献上品「青大勾珠二枚」
つまり、太陽の巫女と月の巫女。
太陽の巫女は、日神子、日を見る巫女さん。
月の巫女は、月読、月を読む巫女さん。
ユダヤでは、日の入りを一日の始りとしたそう。
つまり、太陽が沈むときから新しい一日が始まるってことね。
昼は人が造り、夜は神が造る。月読みの時間。

日が昇り、仕事をして、日が暮れると仕事を終わる。
だから、生活するうえでは、太陽のほうが身近であったはず。
夜は神秘的な時間。太陽が出ていた時には隠れていた者が活動を始める。
怖いもの、恐ろしいものの時間。今だってそうじゃん。
夜は怖い、暗いところは怖いって思いがある。だから、明るくするじゃない。
0170日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 17:50:46.26
卑弥呼
「宇那比姫(うなびひめ)」別名を「天造日女命(あまつくるひめみこと)」
「おおあまひるめのみこと」
男王
台与13才
「大倭姫(おおやまとひめ)」勘注系図 またの名が、
「豊受姫荒魂命(とようけひめあらみたまみこと)」
「大宜都日女命(おおげつひめのみこと)」

伊勢神宮「神道五部書」調御倉(つきのみくら)
宇迦之御魂神・宇賀能美多麻(うがのみたま)ウカ・ウケ受けの神
フツカ、ミッカというカ(ウカ)は、月夜の日数のことだからだそうです。
がお祀りされていて、又の名を大宜都比命という
伏見稲荷神社の御祭神
0171日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 21:10:08.18
どうも古代伊勢神宮には、太陽の神と月の神の二神が祀られてた様で
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』には、当初の内宮と外宮の姿として
『並坐五十鈴川上。謂伊勢齋大神』
『五十鈴川の河上に並んで坐す、伊勢に斎き祀る大神という。』

太陽の巫女は、日神子、日を見る巫女さん。月の巫女は、月読、月を読む巫女さん。
の二神を祀る巫女(斎王)がいたと謂う。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 21:44:37.92
その二神が何時しか内宮と外宮に分かれ
内宮では天照大御神を祀り
外宮では豊受大神を祀った

豊受大神には=大宜都日女命=宇迦御魂命=月讀命、等と同一神との伝承があり、
伊勢神宮「神道五部書」調御倉(つきのみくら)には、
宇迦之御魂神・宇賀能美多麻(うがのみたま)又の名を大宜都比命というと書かれてる。
ウカ・ウケとは受けの神の事で甥神、大山咋神を祭神とする秦氏と関係深い松尾大社、
伏見稲荷神社の御祭神である。五穀豊穣・食物の神様です。
0173日本@名無史さん
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2023/07/29(土) 22:05:48.77
太陽神は農耕の神で
月読神は海と関わりが深い、潮の満ち引き、月明かり漁業の神の様な、

で海部氏、丹後宮津の籠神社(このじんじゃ)主祭神:彦火明命ニギハヤヒ
天照大神、豊受大神がこの地から伊勢に移されたとの伝承。

『勘注系図』は、天火明命(あめのほあかりのみこと)を始祖として、
その六世孫に、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名を記す。
その別名を、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、
靈日女命(ひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 22:14:53.23
神大市比売命
櫛名田比売命の次に須佐之男命の妻となった神で、宇迦之御魂神と大歳神を産みました。

農耕・食料神の神とされており、名前の「神大市」を「神々しい立派な市」
と解釈することから、市場の守護神としても信仰されています。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/29(土) 22:39:54.40
卑弥呼? 倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、
『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

卑弥呼? 宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名を記す。葛木(葛城)の尾張氏系図。
『勘注系図』には宇那比姫命の二世代後、
八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。
天はこの一族の姓のようなもので、名前は豊で、『魏志倭人伝』の台与である。
この人もまた大和朝廷の女王の名である大倭姫と称される。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/08(火) 15:00:55.07
島根県・出雲国一之宮熊野大社の祭神名は
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」となる。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」=父神である伊邪那伎命がかわいがった御子
「加夫呂伎熊野大神(くまののおおかみ)」=熊野の地の神聖なる神
「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」
「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、
同一神という伝承に忠実なことでは一貫している。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「大気都比売神」の段で、
須佐之男命が食べ物を大気都比売神に求めると,
鼻や口、尻などから取り出したものを調理して出した。
それを見ていた須佐之男命が怒って大気都比売神を殺すと、
その身体から稲、粟、小豆など穀物が生まれた、という記述がある。
須佐之男命が穀物神と云われる所以であるが、「櫛御気野命=須佐之男命」とよく合う。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 17:33:30.22
インド、ブッダガヤ、伽耶、狗耶韓国、加夜臣?

加夜臣奈留美命から、『延喜式』「祝詞式」にある『出雲国造神賀詞』
に登場する賀夜奈流美命を想起する。

神賀詞では賀夜奈流美、飛鳥坐神社・加夜奈留美命神社では加夜奈留美とされている
女神だが、男神とする説もある。

『出雲国造神賀詞』には「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備尓坐天皇孫命能近守神登貢置天」とあり、
「大物主櫛長瓦玉命」、「阿遅須伎高孫根乃命」(アヂスキタカヒコネ)、
事代主とともに皇室を守護する神として述べられている。
『延喜式交替式』、『類聚三代格』には「賀屋鳴比女」とある。
『日本三代実録』によると貞観元年(859年)正月二七日に大和国の賀夜奈流美神を
従五位下から正四位下にしたとある。
0178日本@名無史さん
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2023/08/09(水) 20:55:59.92
八将神(はっしょうしん) - 超夢幻!
陰陽道からの八将神
牛頭天王の8人の息子たちを八将神という。
彼らは春夏秋冬とそれぞれの季節の間にある土用の日を回る行疫神である。
陰陽道 (おんようどう) で、方位の吉凶をつかさどるという八神。
太歳 (たいさい) ・大将軍・大陰 (だいおん) ・歳刑 (さいきょう) ・歳破 (さいは) 
・歳殺 (さいせつ) ・黄幡 (おうばん) ・豹尾 (ひょうび) 。
暦の最初にその年に位置する方角をしるした。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 20:58:51.13
古くは中国の神 、そもそも八幡神はどこから来たのでしょう。
『託宣集』2巻の表題は「三国御修行の部」です。三国とは「月支、震旦、日本」で、
月支は朝鮮半島南部に3世紀ごろまであった三韓(馬韓、弁韓、辰韓)の都が置かれていた地。
震旦は古代中国のことで、インド・サンスクリット語で
「秦(紀元前に中国を統一した帝国)の土地」との意味です。

『託宣集』には次の記述が繰り返し出てきます。
〈古吾は震旦国の霊神なり。今は日域鎮守の大神なり〉
「われは古くは中国の神で、現在は日本を守る神である」という意味。
主語の「われ」とは八幡神のことですが、ここに記述から漏れている「月支」を
加えるとすんなりと意味が通ります。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/09(水) 21:03:24.23
母系の祖は新羅の王子

 実は、応神も新羅系のようです。
『古事記』によれば、応神の母・神功皇后の始祖は「新羅の国の王子」である
天之日矛(天日槍とも書く)。妻の阿加流姫(比売神)
を追って新羅から渡来した王子は、但馬国(現在の兵庫県北部)に住み着き、
その中心地の豊岡市にある出石神社に祀られています。応神はその子孫になります。

 ちなみに、前述の〈八流の幡〉とは「八方に8色の旗を立てる」という密教の習わしで、
これが八幡の語源。 密教とは仏教の秘密の教えのことですから、
実は八幡さまの発祥は仏教で神道ではありません。神仏習合の産物です。
八幡は「やわた」「やはた」と読み、八幡信仰の広がりとともに
全国約60カ所にその地名があります。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 11:24:22.50
古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遣物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方で盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。

https://i.imgur.com/PyRM1oH.png
https://i.imgur.com/k2LAIg2.png

赤線は首長との結び付き、内陸部ルート
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/10(木) 12:32:11.32
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/09/29(金) 20:36:32.38
有城柵屋室 諸小別邑 各有渠帥 大者名臣智次有儉側次有樊秖次有殺奚次有邑借
「城柵、屋室あり。諸の小別邑はそれぞれ渠帥あり。大は臣智と名づけ、次は儉側あり、
次は樊秖あり、次は殺奚あり、次は邑借あり。」

東洋文庫本の注には、
臣智は朱智(国王)の意味で、倹側は旱岐(小国王・有力貴族)、樊秖(殺奚)は
不例(首長・貴族)、邑借は新羅官位名の烏知にあたり、日本語の長(おさ)にあたる。とある。

阿利叱智干岐(『姓氏録』) 都怒我阿羅斯等・角干阿羅斯等(記紀)とかのシチ、シトで、
漢字では須珍、須智、叱智、設智、朱智、,臣智などと記される。

朱智神社、須知神社、周知郷、周智郷、須知 など臣智(シンチ)と関系がと思われる。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/10/27(金) 17:10:34.13
>>183
畿内説は100年前と全く進歩してないなw
0187日本@名無史さん
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2023/11/18(土) 22:25:08.89
箸墓古墳は今、前方後円墳の形だけど
江戸時代中期の文献や絵図記録では「円墳」だよ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/19(日) 01:14:21.29
>他にも何件か円丘だと書かれた日記などが残ってて、
横の箸中大池は無く畑だと書かれてる。江戸末期の修復時に造成した跡。

河村秀根『書紀集解』尾張藩士河村秀根(1723‐1792)
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。
相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳。

(かつて大和へ行き、柳本村から箸中村を通った。道の右に円形の丘があり、
箸墓という伝承がある。大きな樹木はなく、茨の類が茂っているだけである)

この大和名所図会は西から見た図で、ちょうど前方部側から見た図。
https://i.imgur.com/lTxb8mn.png
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/19(日) 01:34:18.45
江戸後期に前方後円墳の名付け親 蒲生君平、明和5年(1768年)
がいて宇都宮藩が山陵修補を企画したんだよ、で尊王思想が広まって

主な古墳を修復と云いつつ可なり理想形の前方後円墳に造ってしまった。
で、明治期の写真では確かに前方後円墳で樹木に覆われた形で写ってる。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/19(日) 23:41:30.35
https://i.imgur.com/lTxb8mn.png
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html (中段位)

この「大和名所図会」は全体が描てる絵だけど、右に三輪山がハッキリ描かれていて
現在の国道169号線が合流する辺りからの描写で前方部からの絵だけども

前方部らしきが無いばかりか、前面部には畑らしき描写があり、
当然、箸中大池もない、地元の旧家の日記にも箸墓の周りは畑が取り囲むとある。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/22(水) 20:43:55.10
箸墓古墳が卑弥呼こと百襲姫の墓だろうと云われてたが??
>190の大和名所図会で確信が持てた、
魏志倭人伝に「径百余歩、円墳直径・約150m」でピッタリ。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/24(金) 19:43:38.88
>191、もう間違いないな、

でも一つだけ疑問があって倭迹迹日百襲姫命の姪っ子で
第8代 孝元天皇の皇女:倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)と言う方がいて、

古事記にはなぜか記載がない、倭迹迹日と百襲姫とは本来別人ではないのかと
卑弥呼こと百襲姫の傍で仕えた見習い稚児さんなのでは、高齢な百襲姫の杖代りとして
それで一身同体の存在で一緒に箸墓に葬った、で倭迹迹日百襲姫命と記載した。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/24(金) 20:00:54.93
箸墓が出来るまでは岡山、楯築古墳遺跡に仮埋葬してて奈良箸墓に埋葬する時、
岡山から宮山型特殊器台や都月型円筒埴輪を持って来た、土成分の分析で判明してる。

わざわざ岡山から完成品を運ぶって、並みの信仰心では出来ない
何百個と完成品を運んで来るなんて異常としか思えない、
奈良の土で作るか、土を運んできて奈良で作れば良いだけ、それだけ特殊な事情があった。
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