X



邪馬台国畿内説 Part895
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:32:09.18
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1684300702/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:33:01.31
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:33:31.61
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:34:01.74
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
(本項 続く)




◆3ー2
(承前)
 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:34:31.54
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:35:01.33
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:35:31.88
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:36:01.80
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:36:31.57
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:38:01.52
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:38:31.52
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:39:33.56
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:40:04.40
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:40:36.41
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:41:09.54
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:41:41.78
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:42:13.55
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:42:44.84
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:43:16.36
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:43:45.95
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:44:16.90
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:44:48.06
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:45:20.75
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:45:52.45
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:46:25.68
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:46:58.83
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:48:00.54
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:48:31.55
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:49:01.93
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:49:32.48
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:50:04.34
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:50:35.79
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:51:08.64
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:51:40.59
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:52:11.72
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:52:43.42
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:53:21.88
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:53:53.88
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:54:24.48
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:54:57.77
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:55:31.00
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:56:02.80
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:56:34.20
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:57:07.31
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:57:41.29
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:58:13.44
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:58:51.45
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:59:24.01
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 13:59:56.39
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:00:27.86
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:00:59.97
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:01:30.77
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:02:02.67
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:02:35.94
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:03:06.46
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:03:41.31
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
0057◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:04:28.20
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 


◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:04:59.58
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:05:30.56
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:06:03.35
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:06:34.95
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:07:04.74
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:07:37.21
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:08:08.48
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:08:40.59
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0066◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:09:11.73
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:09:43.08
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:10:15.24
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:10:48.75
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:11:20.78
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:11:52.80
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:12:24.30
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:12:55.98
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:13:27.36
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/19(金) 14:14:03.31
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 14:42:33.77
宗像三女神はうけい(占い)で生まれているので、宇佐も宗像も占いとは繋がりが深いのだろうね。占部は宗像大社の神官
0077日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 14:55:20.60
1000 日本@名無史さん 2023/05/19(金) 14:52:25.20
>>999
近畿の説だと卑弥呼はどこにいたのじゃ?


伊都国か不彌国だな。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 14:56:46.34
>>77
そこが邪馬台国では無い理由は?
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 14:59:14.38
>>78
水行が始まる地点だが、
行っていないし、なんら中心国でもない。
工事だらけが邪馬台国だな。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:04:56.26
>>78
花の都 邪馬台国
お探しの方は頑張ってくださいしかない。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:06:16.52
>>79
その未開な奈良から卑弥呼は派遣されたのか?
そしてそれは立証できるのか?
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:07:03.50
卑弥呼時代の纒向は無人地帯
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:08:32.03
>>81
どの説も立証できないじゃないの?
定義がそれぞれ違う。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:09:02.62
>>82
なので邪馬台国だな
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:09:45.22
>>82
伊勢遺跡つってんだろうがバカ野郎
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:09:55.85
>>82
それにそれは纏向説
0087日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:16:31.22
>>81
派遣なの?
一国にとどまって
どうやって衆を惑わすのか?
共立前に何をしていたのだろうか?
近畿
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:20:25.97
>>87
何時どんなタイミングで行くか説明できなきゃ話にならん
卑弥呼以前も倭王は居たんだから
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:26:58.56
>>88
いたけどね。範囲もわからない
資料もない。答えようがない。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:32:39.45
>>89
後漢書は大倭王居邪馬臺國で魏志は邪馬壹國女王之所都と書いてあるのに
それでも卑弥呼は邪馬臺國から伊都国に行ったと言い張ってるんでしょ
これは他人には伝わらないし説明が必要 
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:33:09.65
王になるには血筋が大切だろ、奈良の馬の骨が倭国王に共立されるわけが無い
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:38:29.56
>>90
書いてあると正しいと言い張るのか?
范曄の解釈もある。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:39:38.67
魏の年号が記された紀年銘鏡11面の内、九州出土は一面のみ

なぜ九州は魏からも卑弥呼からも完全無視されていたのか
徹底討論が必要

https://i.imgur.com/A2EnWG4.jpg
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:40:24.60
>>92
どう間違ってるか言えよ
それすら全くわからんから
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:41:31.64
>>91
君の論理ではな
民族、人種、風習も宗教は超えるんだな。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:42:00.83
間違ってるなら間違ってるでいいのよ
有耶無耶にするなって
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:43:49.67
>>97
また魏志倭人伝無視
鉄鏡じゃなくて銅鏡だぞ
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:45:09.40
>>95
天皇家も血の繋がりを最も大切にするだろう、馬の骨が天皇になる事は無い。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:45:57.76
>>99
そう
だから天皇家と血のつながりが無い九州は魏からも卑弥呼からも無視された
https://i.imgur.com/A2EnWG4.jpg
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:47:22.57
卑弥呼だけ鉄鏡を持っていてもおかしくはない
もちろん自家製のな
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:49:03.92
>>98
鉄鏡を貰っていないとは書いてはいない99枚は諸国に配る為の銅鏡で鉄鏡は卑弥呼へのプレゼントだったと思うがな、もしくは魏使が卑弥呼に直接渡したかもしれない。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:49:29.74
青銅好きの東の倭種の国には三角(コピー品含む)がよく売れたんだろう
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:50:04.23
>>102
まーた魏志倭人伝無視
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:50:41.75
>>102
王は鉄鏡を持ってたかもな
三角はザコ用
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:51:05.27
https://i.imgur.com/A2EnWG4.jpg
魏からも卑弥呼からも徹底的に無視された九州。悔し紛れに存在しない年号『景初四年』銘をでっちあげてしまう
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:51:07.68
>>94
大倭王居邪馬臺國まずここ、
范曄の解釈と思われる。
女王之所都 邪馬台国
をいるにして万二千里にしている。
餘がない、不要としている。
大きな所で狗奴国、字が違う、方向も違う
属さないけど争いがある記述はない。
魏志倭人伝でいう素から悪いのもない。
参考程度
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:51:11.43
>>100
魏志倭人伝に天皇家は出てこない
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:51:54.57
>>99
ないから記載ない
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:52:01.42
>>106
なるほど
哀れだなぁ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:52:49.82
トナカイって戻ってきたの?どうでもいいが
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:55:29.19
模様のはずなのに景初四年が日本製なら何故年号だとわかったんだろう?
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:55:38.62
>>107
卑弥呼時代の大倭

「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:57:04.18
>>111
名無しで書いてるよw
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:57:31.83
女王国「お前ら、俺たちに服属した証拠として前方後円墳を造れ」

九州「ひゃ、ひゃいいいいい!!(那珂八幡古墳,原口古墳,名島古墳,稲葉古墳,双水築造)」
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:57:50.62
>>116
つまり九州は一大率の国
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 15:59:09.05
>>114
これと勘違いか?
邪馬台国に大倭職がいたとか?
ありうる。
近畿
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:00:01.58
>>107
後漢書が信用できないのはわかったけど記述の何が間違ってるんだ?
後漢時代には倭王は居ないのか?
有耶無耶にするのやめて
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:00:57.08
>>119
女王国「お前ら、俺たちに服属した証拠として前方後円墳を造れ」

九州「ひゃ、ひゃいいいいい!!(那珂八幡古墳,原口古墳,名島古墳,稲葉古墳築造)」
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:02:08.10
>>119
これは決定打ですね
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:03:13.67
>>122
大倭は役職名じゃないでしょ
中国人が読んでもわからん
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:04:37.40
>>120
57年、107年にいるが107年は等があるので複数(?)

領域もわからない。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:06:02.03
一大率の国を邪馬台国だと言い張る九州説
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:06:17.07
>>124
たぶん、范曄も理解していないかも?
解釈間違い
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:07:35.88
>>126
誰だ?
近畿
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:08:30.03
前方後円墳は3世紀後半~
その前から「前方後方墳」の大型化は始まっていた
つまり古墳の大型化は東日本の影響である
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:08:38.21
倭人伝には前方後円墳の記載は無い
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:09:01.62
>>125
大倭王居邪馬臺國だから
大倭王は居たけど邪馬臺國に居たって部分が間違ってるのか?
何が言いたいか伝わって来ないのよ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:09:35.30
>>129
那珂八幡は詐称なのか?
近畿
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:10:41.68
>>127
魏志倭人伝の記述だから
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:10:42.44
>>131
その大倭が卑弥呼の時代には市場の監視役に成り下がってる

ということ>>114
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:11:53.40
>>131
君の言いたい事もわからない。
伝わらない
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:13:10.22
>>133
参考にしたけど、意味がわからないかったのか?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:13:48.64
>>134
中国人に大倭が元大倭王とかわからんでしょ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:15:00.18
>>137
文献批評は難しいな
近畿
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:16:06.54
大倭が日本の役職であればダイワだし大倭王ならダイワオウ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:17:14.52
>>131
そうか、
文献批評は難しいでいいか?
近畿
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:19:45.63
書いてある 鵜呑み?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:24:23.61
>>140
何も難しくはない
当時日本に文字は無い事を理解してればいい
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:24:31.92
>>141
まあ、陳寿にせよ、范曄にせよ
メインは中華、端の話

近畿
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:25:41.69
>>142
そりゃ、そうだがね
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:28:15.87
大倭は役職ではない
後の大和とも関係はない

しかし倭人である誰かを指していることは間違いない

これは私の想像だが、有力者を「大人」(たいれん)と言うように
「倭人の地域の有力者」を指して、こう呼んだのだと思う
0146日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:30:31.55
>>145
偉い人とかそんな感じだろう
いきなり日本の役職名の当て字書かれても中国人にわからんよ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:31:25.12
まあ、花の都 
邪馬台国をお探しの皆様の頑張ってください
出かける。近畿
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:31:59.37
>>145
妄想乙
そうやって脳は死んでいくんだよ
医学的常識
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:32:34.92
まあ、花の都 
邪馬台国をお探しの皆様は、頑張ってください
出かける。だな 近畿
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:46:15.28
後漢時代の大倭は魏の頃になると卑弥呼女王にアゴで使われてたんだな

それでいくと辻褄が合うかもな
旧唐書も
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 16:59:42.43
>纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡。国の史跡に指定されている。

>2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である[2]。一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる]。邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。
>2009年にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。
>唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする説がある
>このような巨大な集落は、三世紀の日本列島には他に存在しない。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 17:02:15.55
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 17:03:29.19
大倭は倭国大乱の負け組だったわけだな
なるほど
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 17:44:59.26
>>151
古代(誇大)妄想という末期症状ですね
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 19:29:26.50
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 19:34:27.35
考古君お客さんだよー
0158日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 20:11:56.03
>>156
ほう、ハノい
 
実にブタチックでハノい








で、弥生土器の元とおまえがウソブく、その三韓に駆逐される前の松菊里文化人が
入植した証拠の先松菊里式土器遺構や欣岩里式土器遺構はどこ?どこ?どこ?どこ?






で、弥生土器の元は沿海州南部のシニ・ガイ文化の刻目突帯文土器なんだが、
同期する朝鮮半島の刻目突帯文土器遺構はどこ?どこ?どこ?どこ?









早く言ってみろよ視界に入るとウンコ臭がしてくる南支那短顔ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇チンクピーノ(嘲笑
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 21:17:53.71
大陸倭語の研究してたアレキサンダー・ボビンが胡散臭いので
遼河人が半島から直で日本に来た系の話は胡散臭い
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 21:46:39.75
ボビンは「耽羅国」が「田村国」で倭人系国家とか言ってて失笑したわ
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 22:02:09.50
外人の考古論文は9割以上の確率で考古論文じゃなくて単なる都市伝説

まともな論文に出会った試しがない
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/19(金) 22:16:42.58
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0165西智正悦
垢版 |
2023/05/20(土) 01:21:03.33
>国生み神生み神話で淡路島

淡路島ではなく、粟島だ。 大河四国三郎吉野川に在る日本一の砂洲。   @阿波
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 02:28:16.64
日本一はサロマ湖
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 02:28:34.37
>>163
だな
殺人事件において、「血液が一致したから沓掛良一が犯人だ!」と言って、冤罪を生み出したのに似てる
0168西智正悦
垢版 |
2023/05/20(土) 04:04:24.51
そうか、剣山のソロモンの秘法が何処か別のところに移された可能性があるのか
確かに、発見されていないものね
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 04:42:48.33
>>167
証拠突きつけられててアリバイも無いのに
まだ言い逃れしようとするオワコン九州説
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 05:37:03.14
国生み神生み神話で淡路島

淡路島で鉄器生産が始めたことがヤマト政権の
土台となったという比喩かな。
近畿
0173岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 07:34:50.89
糸島の稲葉古墳ってなんか検索当たらないですね〜。
那珂八幡古墳とかは、九州説には見たくない現実かもですね。
三角縁がでちゃうとねぇ。

トナカイさんはトナカイ辞めたんですか?
識別ないと議論にならないし、デメリット多いと思いますけど。
「女王国」論は新しい論点でもっと知られて良い内容だと思います。
0174琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 07:38:06.45
九州は終わっている上に説明が稚拙で馬鹿馬鹿しく聞いてあげられない。
卑弥呼の時代は神仙思想の神獣鏡の時代。中心は西王母であり、二神、西、東、なんだな、それは西殿にも繋がるわけだ。
ところで九州の倭奴国の王墓は何処にあるのだ?
滅ぼされて墓も無いだろ?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 07:47:40.24
卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です

魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です

卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 07:49:20.16
『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国~(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称

福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 08:58:55.14
広範囲の年代から文献を持ち出して、ごちゃ混ぜにするから、わけが分からなくなると思うが。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 08:59:15.94
最近5chの畿内説がめっきり減ってきたな
逝ったのか?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:28:59.10
卑弥呼の時代の勾玉が奈良から出土していないので畿内説はダメかもしれんね
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:32:15.57
>>174
で、卑弥呼は何という神で祀られているのかな?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:36:12.37
>>182
ないから邪馬台国だな。
あったら邪馬台国ではない
近畿
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:36:30.83
倭奴国ってなんだ??
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:39:15.61
>>183
お前は畿内説の補完勢力だな
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:41:13.60
相変わらず、既存説は、夢の邪馬台国ですね。
威信材があるのが大前提なんだな
近畿
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:44:38.78
>>185
違うよ。
当方は邪馬台国は他を支配していないし
中心国でもない。女王国を構成する国々の
ひとつに過ぎない。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:45:28.38
余裕かましてたら弥生時代の奈良がショボ過ぎてあわてて古墳時代を遡上させたという流れ
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:46:38.86
>>186
近畿説には何の証拠も無い、あるのは脳内の妄想だけ。
お前は近畿説のスレで1人でお名ってろ
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:50:53.62
>>187
畿内説に問いかけている時ににお前は出てくるなよ。
まるで親がマージャンしていて負けそうなときに横から牌をガラガラと掻き回してしまうガキにしか見えないから
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:51:58.95
>>189
当然、1人で充分だし
証拠?纏向に丹後や平原並みの威信材ないだろう。ないのが証拠。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:53:26.88
根本的に王が居たのは伊都国だけ。
他の国は王がいない状態だったわけで、
コレを畿内周辺や前方後円墳の築造域に設定するのは不可能。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 09:55:40.85
>>190
お断りします。取り方が畿内説とは違うけど
内陸部、環濠からの脱却が視点なのでね。
人の流れとか物流と丹とかの鉱物資源の方面から
アプローチ。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:00:28.66
>>193
よっしゃ、お前の名前はガラガラ近畿で決定な
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:00:59.81
>>190
見ればいいじゃないないの?
ご自由に。俺が知って事ではないし
気にもせず。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:02:07.93
>>194
お前は夢の邪馬台国で決定だな
0197日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:02:31.93
>>195
意味不明なガラガラ近畿であった
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:03:07.63
>>197
意味不明な、夢の邪馬台国であった
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:03:40.71
botは楽でいい 近畿
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:12:06.12
>>200
そういうウソをついているうちは九州説の復活はない
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:12:34.46
花の都邪馬台国は探さないの?
0204琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 10:22:53.85
>>175、まず、ここからな、空想を根拠にされても困るな。徑100と記されている以上、まず探すことだな、次に張政が掖邪狗に送られていることから、都に居た可能性は否定できない。であるから徑100が勝手な想像とは言い難い。
次は181.だな。
天照だろ、巫らの頂点だからな。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:24:37.29
>>173
岡上さん、卑弥呼の共立されたのは13歳、16歳ではないか?のようつべ、見ました。
当方とは逆の見方で面白いと思います。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:26:45.41
>>204

> 次は181.だな。
> 天照だろ、巫らの頂点だからな。

天照大神には五男三女の子供がいるからボツだな
0207琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 10:28:52.33
はははは、13歳の卑弥呼が共立?寝ぼけたことを、左ける弟はいくつだ?小学校国家か。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:29:39.01
>>203
卑弥呼以前からある
0209琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 10:31:35.63
勾玉は卑弥呼の鬼道の神器ではない。また、その後の天皇も神璽だよ。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:31:47.67
>>176
廣志でもう答えが出てるのに、無視する奴多すぎるよな
0211日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:32:04.55
>>207
簡単な説明だよ。
詳細なもんはようつべ見ては? 阿波爺
0212日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:34:59.03
>>176
至る邪馬臺国
到ではない。何故 伊都国は到を使ったんだろう? 
0214岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 10:40:34.27
>>205
お、有り難う御座います。
247年に死んだのですから、それぐらいに共立されたと考えないと、計算が合わなくなりますね。次代は13歳で立てられてますから、
文献的な根拠も十分かと。

>>207
共立時の年齢を後にすると、超・長寿命になって、それこそ不自然ですよ。
まぁ「日巫女」という役職名で二人いたと考えると解決ではありますが、それでも文献的には
根拠がないので、予想の範疇を超えない。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:41:03.59
到るは目的地の一大率の事
一大率は中国語で「イタリュ」と発音する
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:42:01.97
>>213
深くもないな。単純な事
広志も参考にするが
はて鵜呑みになっていないか自答だな
0217日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:45:23.08
台与は勾玉を献上しているのでその時代の勾玉が出土していない奈良には邪馬台国の資格が無いと言える
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:50:17.66
>>217
そっちの定義ではね。
当方はないのが定義、あったら邪馬台国ではない
工事だらけの邪馬台国には不釣り合い。
古墳なら別だがね
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:52:55.77
>>214
共立された卑弥呼は纏向に居していたと考えてますか?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:54:08.19
残念だけど宮内庁管轄が多いから
古墳調べられず 近畿
0221岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 10:55:58.10
おっと、それはネタバレにあたりそうなのでyoutubeの方の更新をお待ちください!
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 10:56:15.87
国産み神話のはじめは淤能碁呂島こと能古島。
伊奘諾大神が銅矛を武器にしてはじめに手に入れた領土。
倭国創建の地は博多湾沿岸。
能古島からは銅矛も出土している。
水稲稲作を含めた弥生文化そのものが博多湾から全国に広まった。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 11:01:21.10
>>221
未開の地に居していたとするのは無謀なので、出雲か吉備から3世紀に引っ越して来たとか?
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 11:04:47.63
>>223
東海もありうるし
唐古・鍵遺跡もある。
都と言っても山中から伊勢湾を
霊場とか修験地の意味かもしれない。
宗にとっては都 近畿
0225岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 11:06:45.03
まぁ纏向出身じゃないのは鉄板かなと思います。
寺澤史観とも整合性しません。纏向というのは舞台に過ぎないかな?
巫女が舞う舞台。それでも十分すぎるほど素敵だと思います。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 11:14:21.61
>>225
奈良、三重の丹等の鉱物資源の
産出もあると思いますが?
搬入、搬出、運搬、港 九州までの停泊地等とか?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 11:39:01.76
>>225
ひとまずヨウツベ楽しみにしてます
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 11:40:00.21
>>214
岡上さんは
超・長寿命になって、それこそ不自然と取る
当方は稀と取る。卑弥呼が共立されたは何故か?
一国のみで衆を惑わすただけでは、共立されないと思う。やはり、主要な吉備、丹後等を回っていて九州まで行っていたのでは?
共立前の話 近畿
0230岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 11:55:49.25
184年、16歳で共立として、16年+63年で、79歳没ですからね。
26歳共立なら89歳ってことで、ちょっと厳しいかなと思っています。

共立時の卑弥呼についていえば、老女のイメージというは、払拭されるべきですね。
youtubeの方は結構真面目に論考を重ねていっているだけなのに、
あれよあれよ、となっていきますので、是非お楽しみに!!
0231日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼つまり百襲姫の母親(ハエイロネ)の出生地は淡路だから百襲も淡路系なのでは
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:25:52.79
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0233日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

淡路島って弥生時代最大級の鍛冶遺跡「五斗長垣内遺跡」あるし「舟木遺跡」でも鍛冶やってたみたいだし結構重要なんじゃね~?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:30:31.70
>>233
それだけではないのである。
近江の稲部遺跡もあるんだな。
邪馬台国は近畿、卑弥呼は九州へ
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:31:27.60
淡路は安曇族の拠点でもあるから鉄は九州の安曇族が持ち込んだのだろう
0236日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

それにしても百襲姫は凄いよな
母親が淡路で父親は孝霊天皇で弟は吉備の大首長で夫は大物主(神婚)

淡路&ヤマト&吉備&出雲全てをコンプリートしてる
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:34:23.29
百襲は倭国とは全く縁のない人
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:36:14.49
人というか空想の人物
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:36:41.27
>>236
女王だからな
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:36:47.55
>>237
当方も記紀はあくまでも後の時代のもの
誰かにあてはめる趣向はないな 近畿
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:38:38.42
四道将軍も九州には派遣していないので九州は勢力圏外
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:41:07.68
>>241
当然、たぶん 邪馬台国の4人の官が元ネタ
本来は開拓である。勇ましい話が
好まれるのはどの時代でも同じ。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:47:17.36
>>245
台与は卑弥呼では無いからその説はボツ
0247日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ハエイロネの別名は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(オオヤマトクニアレヒメ)

アレは「阿礼」で神霊の出現の縁なる者を指すのだろう。つまり百襲姫の霊力は母親譲りって設定だったのでは
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:49:48.53
ホリエモンネタ
マスコミもあおる

魏志倭人伝では
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:51:14.53
>>248
続き 246とどう意見 近畿
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:51:44.24
>>246
天皇の在位ですら10年20年
50年以上は疑問を通り越して1人では無理
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:52:55.87
>>250
昭和天皇、エリザベス女王と稀もある
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:55:36.21
自分の尺度で図らない
稀や例外はある 近畿
0253日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

孔子とか74歳まで生きたんでしょ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 12:59:51.94
>>253
となっているがね。さて?
当方は卑弥呼は100歳
100歩、100人
あくまで妄想の領域ですが?
近畿
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 13:05:57.51
百(桃)
百済
新羅(「斯蘆」(しろ、白)

これも当方の妄想の部類

近畿
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 13:16:09.79
里も百里単位だしなー
山海経の延長線も含ませる?
近畿
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 13:19:56.40
ザーと書いた。
出かける、又ね 近畿
0258岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 13:43:45.73
「常識で考えて無理」っていうのは、事実によって簡単に塗り替えれられますからね。
大谷翔平や藤井聡太なんかを見ても天才っていうのは、これまでの常識では考えもつかなかったでしょう。
倭国の卑弥呼体制が60年程度続いたというのも笑い事で済ませることはできませんね。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:15:02.09
めんどうなので卑弥呼の死は隠されていたのだろう。トヨの成長待ちだね。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:30:28.52
魏志倭人伝には倭国の歴史が書かれている
倭国は最初は男子が王だった
70から80年の後、(倭国王は数代を経ていたろう)、倭国は内戦状態になる

暦年(中国正史で暦年は8年ほど
この大乱が収束した時期は184年あたり
卑弥呼が即位したものそのころ
卑弥呼は即位したころの年齢は35才を過ぎていた(中国史書では35際に達すると年長大と表現される)
 
逆算してみると大乱が始まったのは176年あたり
倭国が建国されたのは96年から106年あたり

57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王はこの記録にある倭国王ではない
107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升は倭国王であったという可能性がある

紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていた我が国の都市遺跡は滋賀県守山市伊勢町の伊勢遺跡
遺跡の名前は1981年に発見された場所、伊勢町に由来している
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:40:18.02
卑弥呼を共立した倭国の国々にとって最重要課題は平和な時代を築くこと
長期間の激しい戦闘に疲れ果ては戦気分が世の中を支配したろう
環濠集落が消え耕作に適した低地に住むこともできるようになった
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:42:05.76
>>264
>は戦気分
は、厭戦気分
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:50:18.57
>>264
交易も安定、鉄も増加、武器から道具へ
農業、開拓と進む、五穀豊穣、産業を起こす
卑弥呼と関係あるのか定かではないが
本来、天皇の行事には戦いがテーマの行事はないと思う 近畿
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:54:21.23
邪馬台国の卑弥呼は倭姫命(ヤマトノヒメミコ)だから。
女王共立とは、倭国大乱=狭穂彦王の乱で、
邪馬台国の皇子狭穂彦王が生目との戦いに敗れて死亡し、
姫たちが生目の人質に取られて、
その間に出来た倭姫命を邪馬台国の女王にしたということ。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:56:02.78
何か質問はありますか??
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:56:41.08
>>235

> 淡路は安曇族の拠点でもあるから鉄は九州の安曇族が持ち込んだのだろう

どう逆立ちしても、日本海も瀬戸内海も博多湾沿岸の海人族が征服して回ったから、全ての勢力はその末裔となる。
吉備だろうが出雲だろうが摂津だろうが河内だろうが大和だろうが尾張だろうが
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:59:10.11
従って、邪馬台国の長官は伊支馬=生目になっています。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 14:59:21.34
医学的には十分あり得る歳なので問題ないな。
引きこもりで感染症と戦乱に出会う機会が少なければ、人は80歳くらいまでは生きる。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:00:43.25
>>268
ゼレンスキー、韓国、インドも
陛下の面前に? 近畿
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:03:19.65
副長官の彌馬升は御間皇子の異名を持つ大若子で、
その弟の乙若子が年老いた倭姫命の世話をした伝承があり、
魏志倭人伝の記述に一致する。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:03:55.45
>>271
そうなんだ。共立される前に免疫がつ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:05:39.75
大若子は夷狄との戦いで活躍して、
倭姫命より旗を授かって大幡主となった伝承があり、
これが狗奴国との戦いで張政が黄幢を授けて激を飛ばした記述と一致する。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:06:05.45
>>274
続き、免疫がつき、後は隔離
長生きはするだろう
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:08:33.58
>>275
魏志倭人伝を参照して書けば
一致するのは当然。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:08:52.38
卑弥呼が子供を産んでないのも長生きの理由かもね
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:10:36.79
あるある、根本的に野菜だしな。
農薬などない時代
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:10:52.00
>>277
アンタのああ思うこう思うはどうでもいい。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:12:38.26
>>280
どうでもいいんだよ。気にするな
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:14:15.82
張政が黄幢を大若子に授けたとはなってないからな。
魏志倭人伝を見て書いていない事が分かる。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:15:36.23
>>282
物語が作れるだけの話。気にするな
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:19:02.06
倭姫命→豊受大御神→神功皇后が、
邪馬台国の女王の変遷かな。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:24:49.24
もし仮に倭姫命が大若子に旗を授けた物語が、
魏志倭人伝を元に作られた話しだとしたら、
当時から既に邪馬台国の卑弥呼は倭姫命(ヤマトノヒメミコ)であるということが分かっていた事になるな。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:27:08.53
>>285
定かではないがな。
魏志倭人伝に倭姫命の記述があれば確定
いかようにも取れる。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:31:14.97
なんでやねん。
鎌倉時代まで、邪馬台国の卑弥呼は倭姫命という認識が残っていたということだな。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:37:08.19
>>287
人物を変え、尾鰭背鰭をつけただけでは?
認識ではなく、倭姫命という事にしただけだよ。
魏志倭人伝側に記述ないだろう。

後の文献なんだから
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:38:48.12
>>287
認識ではなく願望もあるな
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:41:06.51
ちなみに張政の娘とされる迦具夜姫を元に
竹取物語が作成されたのが平安時代前期。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:43:24.23
>>287
気にするなよ。当方は認識とかは思っていないだけの話。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:45:44.22
>>290
張政の娘とされる迦具夜姫も物語と取る
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 15:46:09.75
大幡主が熊襲征伐に成功して行われた博多祇園山笠祭りを、
藤原氏が設立した祭りにしたのも平安時代。
生目氏出自の日向の生目神社も、
藤原氏建立の神社にされたのも平安時代。
やはり、平安時代~鎌倉時代には
まだ日本各地に残っていた邪馬台国の記憶を、
藤原氏が消し去った事が読み取れる。
0294日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>287
まー畿内説同士仲良くやろうや
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:00:17.66
魏志倭人伝に書かれている倭国の国々の名前は帯方郡から近い順に羅列してあるだけ
何かの経路を示すものではない

九州から壱岐対馬さらには狗邪韓国に渡航することに何の制限もない
国境もなければパスポートもない

伊都國で一大率が検察するのは、そこが帯方郡使の滞在地だったから
郡使はそこを通るように指示されていたのだろう
帯方郡から女王への手紙や品物を検察して不正を防ぎ、安全を確保するのが職務
一大率は魏の役人

だから、倭人が狗邪韓国を訪れ帰国するルートは自由に選択できた
また、帯方郡からの特別な使節、女王卑弥呼に直接品物を送り届けるような場合は伊都国を経由しないで最短距離を用いたかもしれない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:08:02.33
魏の使者張政が実際に逗留したのは
温泉のある別府辺りだったんだわ。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:08:03.46
>>295
倭王同様一大率も魏が任命した可能性はあるな
てかその可能性が高いかも
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:09:07.47
>>297
その時代に迦具夜姫に比定出来る姫はいません。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:10:50.20
>>299
いなくても物語は書けるしな
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:12:28.35
>>298
根本的にソレはない。
先ず魏の使者の張政が別府辺りに居たという事実。
更には一大率は他の国にも派遣されていたという事実。
0302岡上 ◆UYpGkO/Xng
垢版 |
2023/05/20(土) 16:13:23.21
>>261

>中国史書では35際に達すると年長大と表現される

結構しっかり論考されていますが、これは大嘘。
劉曄伝を読むと長大は「手足が伸び切る(大人になる)」ぐらいの意味なのがわかります。
 
>>逆算してみると大乱が始まったのは176年あたり
これも勿体無い。「倭国大乱」というのは幻想で、「倭国乱」です。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:13:50.81
>>298
両国じゃないかな?双方に関係する
その可能性が高い。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:15:14.44
>>300
その反論は意味がない。
確率の低い設定を史実にすることは出来ないからな。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:16:54.62
>>301
書いてないからわからない
とにかくその人が刺史のように見えたってだけだから
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:17:43.59
>>304
史実なのか?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:20:57.49
一大率が日本の役職なら漢字じゃなくイチダイリツ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:21:37.60
>>304
史実なのか?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:22:22.83
>>307
カタカナはあったのか?
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:22:49.29
57年に漢に朝貢して金印を授かった奴国王ですら、
50年後の107年に生け捕られて、
奴隷として献上され、
卑弥呼の時代まで、王は存在せず、
磐井の乱の時代にも、
磐井の君の植民地だった奴国糟屋。
一大率を置いたということは、
邪馬台国の植民地化されていたということですよ。
その中で、伊都国のみは王が居た訳で、
伊都国と邪馬台国は一族に近い国同士だったと考えられる。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:23:22.52
>>309
おそらくない
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:24:26.26
>>311
一大率でいいだろう
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:24:36.59
>>310
おまえはイチダイリツ派か?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:26:18.92
>>312
日本の役職ならよくないんだよ
読んでも中国人に理解できないから
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:28:58.21
卑弥呼が任命したならイチダイリツ
魏が任命したなら一大率
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:29:54.85
>>302
>「手足が伸び切る(大人になる)」ぐらいの意味なのがわかります
年長者に敬意を抱くという点がポイントです
社会的に敬意を抱かれるような年齢の境目が35歳くらいなのでしょう

>「倭国大乱」というのは幻想で、「倭国乱」です。
それはあなたの価値観による判断
倭国大乱は普通に通用する表現です
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:29:55.12
一大率はおそらく大若子がトップで、
伊都国では櫛田神社辺りに滞在していた可能性が高い。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:32:14.73
そう考えると、
邪馬台国時代の奴国は、
糟屋だけだったかも知れない。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:33:05.82
イチダイリツと書いてるけど中国の読み方知らない
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:33:54.78
>>314
共立なら理解できる
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:35:45.71
>>320
共立は関係ない
一大率で役職名だと中国人にわかるのかどうか?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:36:09.02
>>314
スマソ
共通だな。日本側でも、中国側でも一大率
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:37:11.14
>>322
日本に文字は無い
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:38:35.52
>>323
じゃ、どうやって書簡のやり取りするんだ?
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:43:06.45
>>323
漢字をそのまま使えば済む。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:43:08.10
邪馬台国時代の外交の中心人物は難升米で、
これが梨迹臣の命だから、
魏との実際のやり取りは、
藤原氏が封印してしまったのは間違い無いだろう。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:48:47.02
>>324
>>325
なんの痕跡も無いのに何故あったと思えるの?
役職名が漢字なら何処かに残るでしょう
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:49:51.13
>>327
魏志倭人伝に残っているが?
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:51:53.60
>>328
中国人が書いてるんだし当たり前だろ
一大率が言葉に文字をあてたのかどうかだな
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:53:14.34
【ヒント】IQ 130を下回るやつがいくら妄想しても無駄

<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。

卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。

卑弥呼時代の倭:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。

<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:53:20.89
>>329
そのまま、中華読みでいいじゃないの?
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:53:52.50
一大率はイタル
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:55:32.77
卑弥呼時代の「大和」は、
女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 16:58:59.17
>>334
ひとりごと?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:01:48.09
>>333
「使大倭監之」でわかる事
「大倭」のみでは何の事かわからない
0337岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 17:04:45.69
>>316

ですので、年長者でなく「手足が伸び切る」ですよ。
劉曄伝での用例、確認しましたか?

普通に通用する表現って何ですか?
「倭国乱」は、魏志倭人伝の本文の表現ですよ。
私の個人意見な訳がない。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:06:40.34
女王国を女王と記している文献もある
使大倭国監之かもな
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:06:44.08
>>333
大倭が何か中国人にわかるのか?
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:10:15.80
日本に文字が有った事を前提にするとかもう無茶苦茶だ
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:11:13.47
>>338
国国有市 交易有無 使大倭監之
交易を土地がどうやって監するんだよ。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:17:39.21
>>342
あはは、面白い
気に行った。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:19:24.25
>>343
なんで大倭国になるんだ?
国の字が見当たらないだろう
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:20:55.51
【纒向は市場説】
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります

纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
0347日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:21:39.19
>>337
ですので・・・の意味が取れない
私の説明に同調するということですか?

これは卑弥呼の人となりを読者に伝える部分
身体的に大人になったという意味ではありません

乱は一般的な状況をいう言葉
その次に>相攻伐歴年とある
これが大乱の状況を表している

辞書でも辞典でも倭国大乱で項目立てられている
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:24:11.06
いやーしかし半年前までは
纏向が邪馬台国の都が学会の定説とか言ってた奴がウジャウジャ居たんだが、
今となってはもう影も形もない。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:25:47.01
>>346
何らかの言葉に中国人が大倭の文字をあてたって事だよな
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:32:57.02
>>348
都かもしれんよ。
君が希望する都のイメージが違うだけかも?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:35:04.56
このレベルじゃ話にならん
倭はヤマトと言ってもなんも響かんだろうな
0353琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 17:36:30.00
年長大は結構いい加減に使われている。三國志呉では20代でも年長大と記されていたりもする。
当時中華皇后の寿命がおよそ40、学者によると列島の平均寿命は30らしい。
女王になってから見るもの少なし、即位40年以上はカリスマ性として有り得ないと思うね。また、13歳なぞ、悪いが無いよ。岱與は卑弥呼の伝承者であるから13でもなりたつが卑弥呼を始祖と我輩は考えるがそうでないなら誰の鬼道をいつ何処で身に付けたのか?説明が必要だな。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:40:30.83
花の都 邪馬台国はいずこに?
近畿
0355琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 17:49:50.61
邪馬臺は纏向だよ。1000人の奴婢が自主性をもってして生活していた卑弥呼の道観。元祖伊勢神宮だよ。
葦原の中津国だよ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 17:55:40.87
>>355
おたくもしかして1000人の奴婢が通勤していた説?

■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。

[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png

吉野ヶ里周辺建物と人
https://i.imgur.com/ieqxWzX.png


■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
0359岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 17:58:58.47
>ですので・・・の意味が取れない
>私の説明に同調するということですか?
日本語でOKです。

>辞書でも辞典でも倭国大乱で項目立てられている

辞書辞典って、いつ編纂されたものですか?
重要視するのは結構ですけど、その辞書には、
「長大は35歳」というようなトンデモ記載があるんですか?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:02:27.27
>>356
ハイ 定番
纏向 邪馬台国の一部
吉野ヶ里 卑弥呼が居た所
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:03:38.23
>>356
また、よろしくね 近畿
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:07:55.54
天道説頑張れ 近畿
0363琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 18:22:14.98
纏向はいまだ5%程度に過ぎないだろ。
であるが箸墓が道教指導者の墓であるのは、
ほぼ間違いない。 
であるから覆しようがないんだな。
神獣鏡、勾玉の万物をかたどる形、漂う神仙思想。魏尺度量衡、桃、仙人が住むとされる大市。
後継者岱與山。巴西出身の陳寿が鬼道とだけの説明。卑弥呼の鬼道は絞られる。卑弥呼以前に倭には道なぞ無いよ。あるなら卑弥呼の師匠らが統合理念として纏めている。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:25:21.03
>>359
中国の歴史でいろんな人が皇帝になったり王になったりしました
若くして王になった人もいれば年取ってから(年長大)王位に就いた人もいた
しかし、例えば、18才で王になった人に年長大とは言いません

辞書や辞典は調べてみてください

wikipediaでは倭国大乱で項目が建てられています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E4%B9%B1
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:34:59.62
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0366岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 18:39:00.07
流石にWikiとか、冗談ですよね?
で、Wikiには、「長大は三五歳」というような表記は有りますか?
なければ編集されてみては??
0367琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 18:39:11.53
まぁ、女王になってから見るもの少なし。裏を返せばそれまで必死になっていたということだろう。そして認められた。年少ではあり得ない。
2世紀即位はちょっと考え難いね、魏朝貢は即位してそんなにたってはいないと考えているけどね。わが説卑弥呼鬼道は7歳で道徳経を教える。岱與は伝承者として充分な年齢でもある、が心配な中華はよく諭したんだな。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:39:59.32
売電 高齢でも大統領になれたよ
チャールズ皇太子も今では王様

近畿
0369琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 18:44:37.84
売電、メルケルに我甚哀汝なんて言わないわ。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:46:46.22
>>369
言ったら事件だな 
それも面白い 近畿
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:47:54.79
>>366
倭国大乱の記事は張り付けてあります

その記事の概要
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)を見てください

>其の国もまた元々男子を王として70?80年を経ていた。倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 18:51:26.21
身長や骨格の違いは稲作で定住したからだろう
0374岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/05/20(土) 18:57:16.72
いやー、参りました。wikiを根拠にされてたんですね。
まぁ其々ですからお互い頑張って古代史研究に励みましょう。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 19:17:18.24
>有男弟佐治國

この情報で共立時点ではなく
その後に得た情報ってわかるよねw

もしくは共立時点で卑弥呼はすでに年長
弟がそれなりの年でないとねw
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 19:29:36.48
>>375
後は各地の情報を知っている。
共立前の卑弥呼はアクティブ?
近畿
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 19:46:58.49
淡路島の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡 今からおよそ1,800~1,900年前の弥生時代後期に鉄器づくりを行っていたとされる
1900年前だとしたら、それは123年のこと 後漢書にある倭面上國王帥升が後漢に貢献した107年の16年後のこと

倭国の成立とこの鍛冶梶遺跡は関係があると思われる
100年以上広大場所で複数の棟の工房が営まれた 当時、我が国の最大規模の鍛冶工房だった
倭国大乱を経て工房は突然操業を停止する

この工房が安定的に操業するためには定期的に朝鮮半島から鉄材を輸入しなくてはならなかった
逆に言えば、そういう鉄材の供給に不安がないから操業が開始できたのだろう

私は倭国の成立は当時我が国の最大の都市遺跡である伊勢遺跡だったのだろうと思っている

だが、淡路島から伊勢遺跡は少なからぬ距離を隔てている
なぜもっと都の近くに作らなかったのか疑問だった

その解答にあたる記事を読んだので紹介したい
https://www.xhimiko.com/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%89%84%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%89%84-%EF%BC%91/

この記事によると鉄加工工房は大量の木材を消費して初めて成り立つとある
よって、工房は首都から離れた場所を選ぶのだそうだ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:00:29.07
>>377
滋賀には稲部遺跡があるから
この鉄工房もデカいよ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:04:44.75
>>333

> ※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』

これさあ、大率かなんかの間違いだろ。
倭は国の名前だし、中国史書の普通の書き方なら、大倭は倭が周辺諸国を従えたときの書き方だ。
しかしそれが市を監督とか、意味が通らない。
大率なら役職だから意味が通る。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:06:38.22
>>377

伊勢遺跡は最大でも何でもない。
纏向遺跡に期待を寄せていた阿呆と同じだな。
弥生時代の最大の都市は奴国だよ。
二万戸が福岡平野を埋め尽くしていた。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:06:57.36
>>379
偉い倭人とか大きい倭人とかそんな感じでしょ
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:14:42.27
>>380
伊勢遺跡には人は住んでないから
周辺にはたくさん住んでるけど
0383琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/20(土) 20:38:05.58
住むこと7.80年。これは帥升らの情報だわね。倭奴国ではないわね。陳寿は帥升らのことも把握している、さて、その国とは、帥升らの中の誰か一国なのか?帥升の国面上国=卑弥呼のいる場所にある国なのか?はたまた別の場所にある国であるのか?
いずれにしろ、倭奴国のあった場所ではなさそうだわねぇ。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 20:45:34.48
帥升=綏靖天皇
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:04:02.39
>>379
後漢書の大倭王の事だろ
卑弥呼時代には市場の監視役に成り下がってたって事だよ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:08:45.88
>>380
>57年に朝貢した倭奴国は自ら大夫と称した、倭奴国は倭国の極南界である-後漢書東夷伝

>弥生時代後期の国内最大級の大型建物群

>東西約700m、南北約450m、面積約30haに及び、弥生時代後期の遺跡としては、国内最大級です
>伊勢遺跡が栄えた年代
>実年代としては、紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていたと考えられます。
https://ise-iseki.yayoiken.jp/iseki.htm

200年での人口の比較
畿内 30,200人
畿内周辺 70,300人

北九州 40,500人
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:17:38.84
>>385
奈良のヤマト王権の成立はまさに卑弥呼の時代と言えると思います
この中に天皇はまだ存在していません
倭国はそれ以前の帥升に始まる、我が国の対外的な呼称です
大宝律令の成立時期、701年前後に国号が倭・倭国から日本と改められたとされています
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:30:05.85
>>388
倭国は中国の呼称だ
倭・倭国から日本に変わっても日本での呼称はヤマトだ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:30:41.76
>>389
帥升の倭国建国から701年に国号が改まるまでの間の、我が国の対外的な呼称でした
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:33:09.99
ヤマトは邪馬台のパクりだろうな
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:33:32.57
>>382
伊勢遺跡も行った事があるが妻木晩田遺跡だな。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:38:06.45
>>393
妻木晩田遺跡はでかいけど人が生活してる遺跡ってどうなんだろ?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 21:44:35.10
倭は「委ねる」という意味の穏やかで従順なさまで、悪字とか言う人がいるが、それは当たらない
魏の役人がこの文字を使うときは、まず発音が中国語の「我」と同じなのに気づき親近感を抱くだろう
魏は中国語で「ウェィ」でどこか似ている

人に委で悪字なら
委ねるに鬼の魏の方がよほど悪字になる
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:00:26.95
>>336

後漢時代は、「國皆稱王丗丗傳統」 なので「其大倭王居邪馬臺國」
大司馬、大司徒、大司空、大将軍の大と同じ
魏は卑弥呼を倭国の女王と認めたので
大倭は、倭女王の臣下のトップ
卑弥呼の男弟が國を治むるを佐けているので、
弟が大倭の中心的存在
つまり、卑弥呼は大倭王の一族
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:02:09.05
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:05:38.14
倭・倭人は紀元前150年ころから中国の書物に登場しますが

後漢書東夷伝で
>安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
とここで、初めて倭国が登場します

この後の著名な倭国王としては、女王卑弥呼です
魏志倭人伝には卑弥呼から帥升に遡る系譜のあらましが紹介されています
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:07:57.35
>>399
>>396へのレスでした
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:16:20.55
倭国としての政治的なまとまりを生み出した最初の倭国王帥升は本来であればもう少し重要視されていいのですが、
天皇の系譜との繋がりが不明
107年ころに建国となると、我が国の史書と齟齬が生じる
などという理由で、正面から捉えようとしない傾向があったと思います

このスレに参加している人は薄々気づいていると思いますが、歴代天皇に連なる最初の大王が誕生するのは卑弥呼の時代から数代後のことになると思います
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:32:23.87
>>401
倭國王帥升“等”ですので、国々に王がいたのでしょう。帥升も国々の王のひとりで王達による協議制ではなかろうかと思います。協議制が上手くいかず、乱に発展したと思います。
帥升から卑弥呼の系譜はないと思います。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:37:55.18
>>404
お説の通りだとしたら
倭国王帥升、某国王だれそれ、さらに某国王誰それと名前を記したはずです

さらに、そうであっても、倭国王は帥升で、その後継者の中に卑弥呼がいる図式は変わりません
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:38:19.73
>>404
国々に王がいたのは後漢書に書いてあるしそれは魏志に引き継いでる
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:42:38.90
>>405
不要です“等”なのですから
帥升から卑弥呼の系譜はないと思います
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:46:07.88
後漢書・・・凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:49:37.60
倭王は邪馬台国にずっと居るよ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:49:43.84
>>408
倭国王帥升等には大倭王の称号はありません。
又、范曄の解釈が強いものと思われます。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:50:28.70
>>409
卑弥呼ではないでしょう
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:51:12.37
>>410
倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:52:08.23
>>411
帥升だよ
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:53:43.89
>>413
確定できませんね。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:56:50.84
>>412
等ですから国々の王から集めたのでしょう
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:58:54.30
魏志・・・舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 
邪馬壹國女王之所都 
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 22:59:42.20
>>412
或いは実際にはなかったと思われます。
願い出たのみとも思われます
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:00:40.15
>>417
なかったとはどういう事?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:00:59.73
>>416
帥升の記述はないですね
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:01:21.72
後漢書は三国志の成立より100年以上後にできたもの
邪馬台国のくだりは三国志の影響だと思います
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:01:50.22
>>418
中国側に受け取った記述がないからです
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:02:14.56
魏志・・・舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 
昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である
邪馬壹國女王之所都 
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:03:10.83
>>419
魏志だから当たり前だろ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:03:59.96
>>421
何を受け取るの?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:04:11.88
>>420
だから范曄の解釈が強いものです。
狗奴国等も一致しません。属はしないものの
敵対関係は見受けられません
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:05:51.28
>>423
当然だけど、何が言いたいのか?
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:06:19.68
>>424
生口
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:06:35.83
>>420
魏志に書いてない記述があるだろ
しかも魏志には漢の時代の事だと書いてる
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:08:32.45
>>427
生口を受け取ってても受け取ってなくてもどうでもいいじゃん
そこは確かに書いてないけど
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:09:06.79
>>428
だから何か?
漢の時代の事なら帥升の記述がありません。
邪馬台国ではないのでしょう。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:10:17.46
>>430
魏志なんだから書かねえよ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:10:48.84
>>429
いやどうでもよくないと思います
願い出たに過ぎないのでしょう
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:14:29.58
>>431
帥升が邪馬台国の王とは確認は取れませんね
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:16:34.74
>>433
倭王帥升と書いてあるだろ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:16:58.75
>>434
邪馬台国とはないだろう
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:17:42.79
>>434
倭王帥升等だな
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:18:44.11
>>434
倭國王帥升等だな
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:20:16.19
帯方郡使は魏の皇帝に対して出鱈目な報告は出来ないと言っておきながら
楽浪郡使は漢の皇帝に対して嘘の報告をして良いのかよ?
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:21:43.40
>>436
帥升等って名前でも良いけどどっちにしても倭王だろうが
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:21:59.15
>>438
何が嘘なんだ?
何が言いたいのか?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:22:57.68
>>439
意味不明。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:23:49.41
>>440
倭国王帥升でしょ
倭王ではないってどういう事?
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:26:06.66
>>442
大倭王ではないて事
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:27:07.72
>>442
大倭王とは?
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:27:27.87
>>443
卑弥呼も大倭王ではないけどどういう事?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:29:30.93
>>445
俺もそう思うけど?
范曄の解釈
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:31:00.82
漢と交流のあったのは三十国ほどである。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る
この大倭王とは何?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:33:00.90
>>447
何でしょうね?
人名もない
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:33:30.67
>>446
陳寿も范曄もそれぞれの解釈だけど間違ってると考えてるならそれはっきり言って
0450日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:35:29.51
>>449
最初からそう聞けよ。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:37:39.27
>>450
俺はどっちも矛盾はないと考えてるし後漢書はより詳しく書いてるだけとしか思えない
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:40:08.80
後漢の時代の事だし魏志より詳しく書いててもおかしくはない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:40:39.16
景初二年(238)六月、難升米等は帯方郡に派遣された 皇帝にお目通りして献上品をささげたいと求めた
この年は遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし司馬懿は征討を命じられる
司馬懿は1年で公孫氏を滅ぼした
この司馬懿の活躍がなければ、難升米は帯方郡までも、さらに洛陽までも行けなかった
景初二年の年初の段階では帯方郡は公孫淵に支配されていた

このような情勢を正しく判断し外交交渉を成し遂げるということは並大抵のことではない
卑弥呼の外交手腕の素晴らしさは大河ドラマになってもおかしくない

我々現代人はとかく古代の人々を下に見るような風潮もあるが、それは反省すべき
先人の人々のたゆまない努力の跡に思いをいたし感謝するべきだと思う
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:40:50.66
>>451
君が決める事。
当方は57年と107年の記述
後は范曄説としている。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:42:26.39
>>454
57年と107年の朝貢が嘘って事か?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:49:10.46
金印も嘘か?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:51:53.07
>>455
定かではないて事
0458日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:52:31.81
>>456
本当の事
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:53:38.89
出鱈目な金印作ってこりゃ黒田藩失敗したな
0460日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:55:24.80
>>455
なんで嘘となるのか?
サッパリわからない。
107年は実際、生口を受け取ったか定かではないが願いがあっただけ
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/20(土) 23:58:00.22
>>460
57年と107年の記述が嘘なのかと思った
だってわかんねえじゃん
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 00:00:36.67
>>461
わかるわけがない。
中国側の文献にはあるが
詳細な事はわからない。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 00:02:01.07
>>462
勿論そうだけどそれは魏志も同じだから
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 00:11:14.26
>>463
当然だな。魏志に記述がないから
みみずもバッタもいなかったにはならない。
馬もいないとなっているが小型馬の骨の出土がある。あくまで使者が見たり、聞いたりした範囲の事。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 00:28:46.10
>>453
時代は違うが
乙巳の変とか出てくるドラマあったけ?
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 05:25:17.86
神武天皇は、ガド族の一人だそうです。
つまり、外人です。
深見東州著、日本霊界風土記 磐梯と言う本に、
天眼通力で見たと書かれています。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 05:26:13.69
ということは、天皇家はある意味外様ということになってしまいます。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 05:30:39.12
天津神は国津神と違い外来種だが百済王氏等帰化人とは神別が異なる
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 05:56:22.64
しかし、邪馬台国の祖とされるソロモンはユダ族なんだよな・・・
これは、どういうことだろう?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 05:59:35.96
つまり、天皇家は、ソロモン一族ではないということだ。
シバの女王の男妾の一族なのだろうか?
ということは、ソロモン一族が裏天皇家として存在しているのだろうか?
統合失調症の夢変を語っているに過ぎないが、
学問をしていると、色々なことが分かってくる。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 06:02:38.97
シバの女王の、ソロモンの後夫一族なのだろうか、天皇家は?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 06:08:10.69
少なくとも、ソロモンの種は絶えたと思って間違いないだろう
0474日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 06:30:25.78
あ、そうか・・・
ソロモンの種が、天皇に残されていないということは、
真正の裏天皇は居ないということか
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 06:30:40.06
卑弥呼は魏帝に朝貢
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 07:37:51.77
>>465
あってもおかしくないと思いますが、知りません
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 08:06:42.67
当時の中国が、金印を新しく作るのと、所持してるのを加工するのとでは、どちらが早い?
新しく作ったが早いように思うが。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 08:10:03.09
>>465
韓流ドラマで「大王の夢」
というのがあったぞ。皇極天皇が理解力があって情の深く描かれていた。けど白村江はあっさりだった。まあ 自滅みたいもんだしな
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 08:55:15.39
文字を彫って完成したが、つまみの形が違っていたので加工した。
ですかね。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:02:38.74
少なくとも奈良盆地には金印を貰えるような国は無かった
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:17:27.66
>>482
当然だろう。金印があったら邪馬台国ではない。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:18:39.77
>>483
何故?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:19:22.87
ガラガラ近畿かなw
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:23:39.92
>>484
邪馬台国だからだよ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:25:33.04
>>487
アタオカかよ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:26:06.20
>>488
君がな。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:27:26.50
>>489
近畿のアタオカは共通認識
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:28:46.49
>>490
お花畑の九州説?畿内説
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:30:29.21
近畿でビンゴだったなw
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:31:51.41
>>492
阿保、俺しかいないよ。
お花畑だな
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:31:55.19
アタオカと会話を成立させるのは困難なんだよ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:34:01.04
>>494
お花畑もだよ
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:40:55.78
まあ、出るとしたら九州だな
邪馬台国ではない。
近畿
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 09:56:02.00
>>404

卑弥呼が帥升の直系ではなくても、王統は同じが近い、また王都は同じところなどがなければ、魏としては卑弥呼を漢代の倭王の正統な後継者とは認めなかったはず。
その時点で読めば、魏志倭人伝は帥升がいたであろう博多湾沿岸までの道のりと、博多湾沿岸諸国を卑弥呼が大率を介してどのようにきちんと支配していたかを具体的に説明していることがわかる。
つまり卑弥呼は博多湾沿岸の倭王の後継者として親魏倭王に任ぜられたのだよ。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:01:19.21
帥升=スサノオとすれば卑弥呼はイチキシマヒメで決まりだろうね
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:02:40.53
倭人たちを取りまとめた博多湾沿岸の国邑が倭で、その支配域が大倭。
倭の王が広域を支配した時に大倭王と呼ばれ、その王都は当然博多湾沿岸。
大倭王は邪馬台国にいる。
つまり倭王の代表である博多湾沿岸の大倭王帥升の後継者が卑弥呼。
ただし倭国乱があったから、直系の血縁ではない可能性が高い。

もしも王統も王都も違うなら、それはもう倭ではない。
少なくともどちらかは同じでないと。
卑弥呼の場合は王都が同じ。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:03:28.49
市杵島姫説は面白いけど、もう少し傍証が欲しいところ。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:07:15.80
>>498
>倭奴国は倭国の極南界
奴国が福岡市あたりだとしたら、この表現は九州から本州をまたぐ広い領域が倭国と推量できる
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:07:43.61
大率=伊都国で一番偉い人
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:10:46.49
福岡平野の倭奴国から糸島平野の伊都国への遷都を無かったことにして、誤魔化した人物がいる。
考古学的には明らかに三種の神器の王墓が移動している。
ただ、博多湾沿岸という枠組みで言えば一貫しているとも言える。
高祖山の東西をまとめて王都とみなせば倭国としては一貫している。
新唐書ではまとめて筑紫城となっている。
高祖山には九州唯一の中国式山城である怡土城がある。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:12:50.14
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1~1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1~2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2~3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって冊封された倭王は、博多湾沿岸にいた。
それには倭王卑弥呼も含まれる。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:14:13.28
武力で倒したんじゃないなら血縁者じゃない人物が王にはなれない
これは魏志に書いてないからとかじゃなく解釈の違い
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:16:23.82
>>506
偉い人ってのは武力を持ってるからであって与えられた役職ではない
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:23:38.71
一大率だから偉いんじゃない
刺史のように見えるから偉い
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:38:29.48
>>502
卑弥呼は日の御子つまり天照大神の子供、宗像三女神の中で唯一子供が居ないのがイチキシマヒメ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 10:59:09.47
>>500
しなければ?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:01:09.26
>>507
何言ってんだ
威信材がないから邪馬台国なんだ。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:05:07.50
>>513
卑弥呼がイチキシマヒメならば帥升はスサノオで決定だな
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:05:50.25
>>514
近畿は引っ込んでろバカが
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:06:05.27
>>504
院卒が偉い
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:06:32.58
>>516
お断りします
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:07:48.77
>>517
学士、修士、博士?
近畿
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:09:59.91
しかし学士課程がなくて修士もいる
近畿
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:14:16.20
>>519
青谷学院等なら院卒?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:16:37.01
阿波爺は精神科院 卒
最近、入院か?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:16:54.87
>>509

大率は置いたとあるから任命だよ。
刺史のようというのも同じで、任命された官職だということ。
もちろん卑弥呼が任命した。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:19:09.06
>>514

威信財を持たない大倭王なんていない。
魏から親魏倭王に任ぜられた証がないと、誰も王とは認めない。
三種の神器のうち、鏡や剣は中国でも威信財だ。
なぜ畿内にはそれがない?
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:21:04.36
>>524
大率が刺史のように見えたんでしょ
伊都国では強大な権力を持ってたんだよ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:21:18.14
>>524
「勅使のような」という記述から卑弥呼だろうな
中華が置いたいう解釈もできるが? 近畿
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:24:03.57
>>525
邪馬台国だからだよ
持っているのは卑弥呼だよ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:24:03.85
近畿の書き込みを読む時間がもったいないので近畿という単語をNG設定したよ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:24:33.49
>>525
魏から親魏倭王に任じられないと王ではないなんて事はない
自分たちが選んだ王なんだから
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:24:55.62
>>529
近にする
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:25:01.64
>>528
近畿はアホだなあw
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:26:05.44
>>531
菌にしろ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:26:15.36
>>529
九州きんきにもする
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:27:02.25
>>533
卑弥呼、邪馬台国にする
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:27:13.61
近畿は荒らし確定
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:27:38.08
>>532
君はお花畑
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:29:56.38
>>537
近畿はケシの花畑で年中ラリパッパ
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:30:19.38
>>529
すれば阿保
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:30:28.17
伊都国で強大な権力を持つ人物
俺はそれを伊都国王だと解釈している
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:31:46.80
>>538
お花畑,大丈夫か?
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:32:57.14
>>538
お花畑,大丈夫か?
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:33:11.51
>>541
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:33:20.11
>>538
お花畑,大丈夫か?
0545日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:33:50.82
>>543
お花畑,大丈夫か?
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:34:09.18
>>543
お花畑,大丈夫か?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:34:32.86
>>543
お花畑,大丈夫か?
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:35:30.52
>>543
お花畑,大丈夫か?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:36:30.31
>>548
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:36:38.64
近畿が病気をこじらせたようだw
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:37:29.02
>>550
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0552日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:39:02.16
>>529
おまえが発端だ。阿保
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:39:56.28
近畿の正体はキチガイで決定
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:40:31.31
>>553
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:40:55.96
>>553
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:41:20.30
>>553
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:41:52.48
>>553
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:41:56.38
キチガイが発狂してます
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:42:44.32
>>558
キチガイが発狂してます
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:43:36.23
>>558
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:44:23.40
>>558
鏡を見てみな気狂いが映ってるぞ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:44:44.20
>>560
イケメンがいる
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:45:31.94
>>562
よかったな。お花畑
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:46:41.98
>>540
>伊都国で強大な権力を持つ人物
>俺はそれを伊都国王だと解釈している

そこまで史料とかけ離れちゃうと「解釈」とは言わないな
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:50:49.83
>>529
お前が発端だから、気をつけろ
botで済む
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:54:13.99
近畿が阿波以上のキチガイだという事がわかった
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:54:22.42
>>564
スマン 続けてくれ キンキ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:56:33.08
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:57:27.74
>>566
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:57:55.60
>>566

あら、継続希望?
お花畑
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:58:12.47
>>566
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 11:59:29.66
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:00:01.96
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:00:44.51
>>566
>>566
あら、継続希望?
お花畑
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:04:55.85
>>564
刺史が居て伊都国王が居るなんておかしいでしょ
同一人物と考えてなんの矛盾が?
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:26:41.74
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:27:36.63
やめとけアク禁食らうぞ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 12:41:37.94
>>576
そうか。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:29:14.20
発狂近畿はアク菌くらったなw
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:45:50.46
>>581
あら、継続希望?
お花畑
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:46:01.89
>>581
あら、継続希望?
お花畑
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:48:00.29
>>581
大丈夫だよ。
主要キャリア3つ アク菌までbotで済む。
挑発とみなす
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:49:16.55
>>581
あら、継続希望?
お花畑
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:50:04.57
>>581
大丈夫だから安心しな。
お花畑
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:51:34.89
>>581
あら、継続希望?
お花畑 
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:53:36.38
>>581
あら、継続希望?
お花畑
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 13:55:36.67
>>581
どうした、挑発しないの?
アク菌が怖いの?
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 14:02:54.93
>>580
スマンな。挑発には徹底する。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 14:04:47.64
>>575
>刺史が居て伊都国王が居るなんておかしいでしょ

なぜ?

>同一人物と考えてなんの矛盾が?

自分のことは検察できないから矛盾がある
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 14:28:16.71
>>591
伊都国で一番偉い人だと言ってるだろうが
2人居てどうする?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 14:38:52.58
>>592
一大率の方が偉いわけだが
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 14:43:19.73
>>593
伊都国王よりか?
そんなんじゃ国王なんかやってられん
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 15:59:10.72
臨済宗開祖、臨済
随所において主たらしめば、立所悉くこれ真なり

やはり、主体性を持っていこう
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 15:59:42.23
>>540

そもそも魏志倭人伝に伊都国王なんて登場しない。
伊都に代々いたのは、帥升以来の男王達だよ。
帥升から70〜80年でちょうど倭国乱になる。
伊都にいた倭王はこのとき失脚した。
伊都国の官のネギがその末裔だろう。
かわりに卑弥呼が共立されて伊都で即位した。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 16:02:16.13
>>580

市杵島姫と豊玉姫だと2世代も離れるじゃないかと思ったが、卑弥呼が超高齢で壹與は幼若だから、世代的には問題ないのか。
しかし絶対年代はどうなるんだ?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 16:46:18.59
>>595
臨済宗ではないので
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 16:47:10.27
>>596
国王と刺史が何故一緒に居るのかと言っている
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:10:35.28
伊都の大率はしょっちゅう周辺諸国を検察するために伊都から出かけていただろ。
刺史のように。
念を押しておくが、大率が検察したのは伊都ではなく、伊都の周辺の、女王国から北の諸国だからな。
そこのところを間違えるなよ?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:12:53.73
つまり検察した対象は壱岐や対馬、奴国や末盧国だ。
女王国が本州だというなら、出雲や丹後も伊都の支配下だったのかもな。
それこそ伊勢遺跡だって伊都の大率を畏怖していたかもしれない。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:14:18.26
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:15:25.20
>>600
そうなの?
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
0604日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:18:05.77
>>596>>600もおまえの言ってる事は書いてないから
伊都国王が誰かなんて書いてないし女王国とは何処よ?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:22:41.15
>>602
倭王が居て豪族がいる
一大率ってのは豪族の事でしょう
軍隊を率いてるからな
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:28:19.67
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:39:20.47
>>602
漢委奴国王印
倭国はいにしえの倭奴国のことである。

h倭国はいにしえの委奴国のことである。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:40:26.64
一大率は卑弥呼と同族の海人族だろう、安曇か宗像だね
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:42:41.53
>>607
倭の奴の国王なんて出鱈目で倭奴国王だ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:46:40.55
倭国はいにしえの邪馬台国の記載はない
やはり邪馬台国は中心国ではない
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:48:55.31
>>609
そっちでなく倭と委の違い
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:50:37.69
>>610
倭国は中国語、邪馬台国は日本語
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:51:51.37
>>602
旧唐書は945年成立、
日本書紀が記された後の書で日本の史書である日本書紀との整合性を取ろうとして混乱した記述がある
倭国と日本を分けたのはそのため
0614日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:52:37.53
>>612
倭奴国は日本語?
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:52:53.30
>>611
後漢書にはしっかり倭奴国と書いてあるが
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:53:36.27
>>615
だから書いた
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:53:56.64
>>614
倭国は古の倭奴国だから中国語
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:55:19.58
>>617
伊都国は?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:56:38.06
>>618
文字をあててるんだから日本語でしょう
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:58:02.73
>>619
倭奴国は?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 17:58:50.83
>>620
>>617
0622日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:01:34.81
>>621
君の解釈は置いおく。
>>619と同じく文字を当てたと解釈
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:02:54.92
>>597
ニニギ=爾支=一大率
弟=年下の意味

イチキシマヒメは養育係として、ニニギとの関係も深い

トヨタマヒメ
壹を與える(あたえる)、イチキシマヒメと海つながり
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:04:41.96
>>622
日本語でワナと言う国があって後にワに変わったのか?
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:09:55.64
>>624
金印、本物か定かではない
漢委奴国王印
委奴国が正しい?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:15:21.80
>>625
偽物だろうが倭奴国の事だろう
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:17:43.91
>>626
なので問題提起している。
日本語と見るか中国語と見るか?
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:17:51.47
>>626
日本列島
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:19:58.86
>>630
置き換えて
倭国は古の日本列島でいいのか?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:24:23.98
>>631
書き換えと言うより日本の範囲だな
倭国の極南界が倭奴国
これは倭を半島と列島の二つに分けた南の意味
でも後に半島の倭人の領土を失っていくでしょ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:25:00.29
>>632
成る程、なんだろうな?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:27:56.02
>>633
57年、107年、
卑弥呼の時代と範囲が違うて事?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:29:32.94
>>608

安曇は博多湾沿岸の倭王そのものだろう。
綿津見の神なら記紀でも大山祇と並ぶ伊奘諾の直系だからね。
宗像は記紀の記事からは倭王を支持する豪族に読める。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:31:38.30
>>604

だから伊都国王なんてものはなく、伊都にいたのは倭王だろ。
帥升から70〜80年で倭国乱になるから、帥升の一族がずっと博多湾沿岸つまり伊都にいたんだよ。
魏志倭人伝に王は代々伊都にありというのは、倭王のこと。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:31:41.47
>>633
隋書もあるね。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:34:45.34
>>639

後漢書も魏志倭人伝も、倭の範囲は変わったとは書いてない。
つまり、基本的には卑弥呼の時代も倭とは狗邪韓国から倭奴国および伊都国まで。
これが大率が検察した範囲でもある。

畿内説だと後漢書と矛盾するし、伊都の大率が支配した範囲が若狭湾あたりまで伸びてしまう。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:35:00.45
>>639
古の倭奴国の事
後漢の頃は半島と列島を併せて倭国で列島側が倭奴国
でも半島の領土は後に失うから
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:36:54.05
>>633

もともと半島側の狗邪韓国はそれほど大きくないんだよ。
リアス海岸で平地がないから、入江の中に渡海基地があっただけ。
現代風には漁村程度だろう。
ただ、大率が支配して明確に倭人の領土ではあった。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:38:15.21
>>643
隋書は?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:38:42.61
>>643
半島と列島を併せて倭で列島側が極南界で倭奴国
後に半島の領土は失っていく
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:40:39.65
>>644
稲荷山古墳 鉄剣 は?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:44:12.23
狗邪韓国には戸数の表記がなく、壱岐三千戸や対馬千戸よりはるかに小さかったと思われる。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:45:47.36
>>648
なんか関係する事書いてあったっけ?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:48:33.39
卑弥呼の時代も、卑弥呼の直轄地は大率が支配した玄界灘沿岸。
加えて、伊都の周辺の傍国20カ国ほど。
これだけ。
女王国の南は狗奴国、東は海を超えて本州の倭種。
魏志倭人伝からは畿内説は成り立ちようがない。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:49:01.78
>>651
倭国は古の倭奴国
隋書では都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
さてどう考える
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:50:14.37
>>641
どっちにしても伊都国に王が居るんでしょ
同時に刺史も居るなんてないから
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:51:24.77
>>653
東は海を超えて本州の倭種?
どこを起点として本州 千里だ?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 18:56:36.81
一大率が検察して諸国が畏憚してるのはそれが軍隊だからだよ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:06:18.55
>>655

大率は伊都から出かけて周辺諸国を検察したの。
伊都を支配したわけではない。
もっと広域を担当する役職だった。
それに、伊都国王などというものは魏志倭人伝にも他の史書にも登場しない。
伊都にいたのは帥升以来の倭王。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:07:25.12
伊都国で一番偉いのは一大率だよ
別に王なんて居ないんだよ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:08:58.52
>>657

軍隊かどうかはわからない。
水戸黄門だって、軍隊ではないけれどみんな平伏するだろ?
大率自身が軍事力を持たなくても、大率をないがしろにすれば女王に報告され、女王の軍隊が送り込まれるかもしれない。
それが刺史の役割なんだよ。
刺史そのものが軍事力を持つこともあるけれど、制度的には必要条件ではない。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:10:24.19
>>661
検察して諸国が畏憚して刺史のように見えるんだから軍隊だよ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:11:58.92
>>662
伊都国で一番偉いのは刺史のように見える一大率だよ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:12:23.14
つまり魏志倭人伝は、伊都が倭王のいる王都であると書いている。
その王が周辺諸国を支配するための監督職が大率。
魏志倭人伝は、伊都にいる倭王がどのような仕組みでどこまでの範囲を直接支配しているかをつぶさに記録している。
その上で、博多湾沿岸を実効支配する卑弥呼を倭王に任ずることの正当性を説明している。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:13:16.29
>>663
諸国の代表が頭を下げて平伏している様子を見ていただけだ。
それが軍隊であるとは書かれていない。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:13:48.40
>>662
伊都国に王は居ないんじゃなかったのかよ?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:14:15.66
>>664

> 伊都国の王は、伊都国の筑紫城に居たと

倭王は伊都国の筑紫城にいた。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:16:33.58
内閣総理大臣が東京にいても、彼は東京都知事ではない。
倭王が伊都にいても、伊都国王ではない。
大率が伊都に置かれていても、大率の管轄範囲は伊都ではない。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:16:51.78
>>670
それで伊都国で一番偉いのは一大率なのか
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:17:13.46
厳島は伊都岐島とも書くので、伊都との関係が深いのだろう
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:17:44.80
>>671
その地方で一番偉いのな
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:17:50.44
>>671

伊都の周辺の地方を管轄して検察していたから、間違いではない。
大率は伊都に置かれていたが、検察した対象は伊都の周辺の玄界灘の北方諸国。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:19:06.38
>>677
大率ってのは日本の役職なのか?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:21:29.61
刺史ってのは軍隊を掌握してるんだよ
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:21:30.20
>>678

倭王が任命した役職だからね。
ちなみに率は帥と同音同義なので、大率は太宰の帥と同義だよ。
明治初期まで続く、日本で一番古い官職だ。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:22:10.69
一大率はイタル
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:23:38.83
>>680
日本語に大率という文字を中国人があてたのか?
なんと読むんだろうな?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:23:59.15
太宰府も軍隊を動かしたが、太宰の帥本人は軍隊ではない。
繰り返しになるが、率と帥は同義語で、将軍のような意味になる。
軍隊そのものではなく、軍隊を動かす権能も備えた官職の名前。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:25:39.53
>>683
一大率は到る
0686琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 19:26:13.70
>>666.まったくの出鱈目。伊都に邪馬台は無いよ、やがて筑紫とやらになり、その横に秦王国ができる。そして隋書は畿内が邪馬台の都であり邪馬台者であると言っているのだ。遷都されたとは記されていない。元々畿内が邪馬臺なのだよ。
大体、刺史が治めているとある。卑弥呼の属国。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:27:09.26
>>683

「おほみこともちのかみ」かもしれないが、どうも伊都にいた倭人は漢語も使えた形跡がある。
まあ、そうでなければ郡使とコミュニケーションが取れないもんな。
伊都も倭都の意味なのだろうが、わざわざ好字にしてあるくらいだし。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:27:12.87
>>669
筑紫など魏志に後漢書にもない
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:28:08.59
>>685
と言う事は日本語でイタルという役職名?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:29:24.53
>>686

隋書は遥か後の文献なので、卑弥呼の時代を語る根拠にならない。
後漢書で倭とは狗邪韓国から倭奴国までの間であり、その直後の卑弥呼の時代まで、倭が遷都したような記事はない。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:30:12.78
イタルって日本語でどんな意味があるんだ?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:31:15.22
>>688

筑紫そのものは後の名前だが、新唐書でははるかに遡って筑紫城と呼んでいる。

新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:35:19.56
五十猛命(イタルタケルノミコト)

素戔嗚の子。
新羅に渡り種苗を持ち帰り、林業を広めたとされる。
林業の神として信仰されている(『日本書紀』、『先代旧事本紀』)
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:35:59.09
イタルという役職名はどんな意味が考えられるんだ?
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:36:18.87
>>689
そう、伊都のイタルさん
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:37:09.19
>>691
外国からの目的地
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:38:47.33
>>696
イタルは外国からに限るのか?
0698琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 19:38:48.09
>>690.後漢書だからそう記してあるのだ、1.もちゃんと説明してある。結局、フェードアウトしたとしてるのだよ。続いているなぞいつまで言っておるのだ。大体金印が本物なら滅んでいるし、その後帥升等が後を治めたとしても7.80年後に崩れ主無しの時代が続いたのだよ。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:41:45.27
>>697
魏への朝貢もイタル経由
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:44:01.05
>>692
城のみである。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:44:28.63
日本書紀

五十猛神は天下りする時に樹の種を沢山持って天下ったが、韓地(からくに)には植えずに、ことごとく日本に持ち帰った。筑紫から始めて、大八洲国(おおやしまのくに)に播(ま)いて増やし、青山でない所はなくなった。
ゆえに五十猛命を名付けて「有功の神」(いきをしのかみ)とした。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。

紀伊国一宮 伊太祁曽神社
伊太祁曽神社にお祀りされている神様は、五十猛命(いたけるのみこと)と申します。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:45:19.84
伊都国に一番偉い人が2人居ない
一大率と伊都国王が同一人物なら矛盾はない
こんな簡単に説明出来る事なのに何を無理やりな解釈してるのよ?
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:45:37.25
北九州には到津という地名がある
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:45:56.95
>>698

滅んでないだろ。
伊都の帥升らの後継として卑弥呼が共立され、それを郡使が伊都まで来て確認して、再び倭王に任じたのだから。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:47:22.07
五十猛の子孫が宇佐の神託に関わっていたのだよ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:48:12.22
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:48:23.84
>>692
魏志倭人伝に筑紫城はない
0711日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:48:24.71
>>706
魏の任命でしょ
倭王と同様に
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:49:56.79
>>710

ないが、後世にそのように呼ばれることになる卑弥呼の王城があったということになる。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:51:26.00
>>711

それなら任命記事があるはず。
実際、卑弥呼以外の数人の倭人は魏から官位を受けている記事がある。
しかし大率はその中にない。
つまり大率は倭王が独自に任命したもの。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:51:28.88
>>690
隋書には日本の記載がない。
日本て何処?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:53:00.05
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:53:17.70
>>713
大率は本当に日本語か?
日本語なら卑弥呼が任命だろうけど
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:54:08.07
>>712
ならないよ。卑弥呼の名が唐書にはない
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:54:44.73
魏志倭人伝の時代に「日本」という概念や、現代の日本の領域と重なるような広域の「倭」の概念はない

北部九州から朝鮮半島南部にかけての対馬海峡界隈に先祖が呉から来たと自称し入墨や素潜りによる漁撈を行う人々が住んでいたのを、中国側がかつて長江下流域に住んで習俗も似ていた人々を呼んでいたのと同じ「倭」と名付けただけだ
当時の中国側も日本列島の住民側も現代の我々が持つ「日本」のような概念はそもそも持っていないのだ

大和と九州のどちらが遺跡が大きいか、どっちが支配的だったかなどと考えるのはナンセンスだ
どちらも互いを殆ど意識もしないし、交易も殆どないし、おそらくお互いのことを直接には殆ど知らないのだから(物流は日本海や瀬戸内海の国々を経由して間接的に行われる)

筑紫と大和は、日本列島の独立した様々な地方勢力を包摂する上位概念など存在しない時代の全く別個の国であり別個の勢力ということだ
このあたりについての大いなる勘違い、無理解が畿内説なる時代観のズレた珍妙な学説が出てくる根本原因だろう
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:55:22.55
>>712
壹与もない
0720琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 19:55:46.85
金印がホンモノなら倭奴国は滅んでいるよ。あんなところに落っこちているんだからな。そして何処に住んだか解らないが帥升などが各王を語り7.80年後には争いあったのだろう。そもそも倭奴国が最南端とは確めた訳じゃないだろ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:56:18.16
宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:57:23.10
>>721
卑弥呼も壹与もなし
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:57:41.91
九州に比べれば奈良盆地は歴史の浅い国
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:57:52.91
>>717

唐書は、九州の邪馬台国が滅んだ後に畿内政権が書いた日本書紀を元にしているから。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:58:20.76
>>718
中国が倭と言ってるのにそれに相当する日本語がない方が不自然
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 19:59:37.31
金印が見つかった志賀島は博多湾沿岸を支配した倭王が儀式を執り行う聖地だよ。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:00:16.34
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:00:20.26
>>726
金印が出た場所の特定ができてないじゃん
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:00:25.28
>>723
当然、内陸部の神話や伝承が少ない
邪馬台国の一部
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:01:44.75
>>728
当時神社はないしなまえも漢字は無い
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:02:38.84
>>724
邪馬台国が滅んだて何でわかるの?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:02:58.42
君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:03:51.89
>>733
卑弥呼も、壹与もない
君が代
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:04:50.00
金印は奈良盆地とは無関係だから
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:05:32.00
>>734
石を退けたら下にあったと言ってるだけでしょ
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:06:08.67
>>737
王宮の遺跡は?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:06:43.58
博多湾沿岸の倭王の王統は何度か交代していると思われる。
安曇の倭王は、倭王卑弥呼とは別の王統なのだろう。
ただ、博多湾沿岸を治めることが倭王の条件であった。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:07:53.98
>>739

繰り返し同じところに建てているから、下を掘れば出てくるかもね。
でも上に神社があるうちは掘らないだろう。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:08:21.51
今ある神社なんかなんの関係もねえじゃん
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:10:41.46
>>742
墓なんて言ってねえじゃん
田んぼの下に石があってそれ退けたら金印が出てきたんでしょ
0745琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:11:00.61
志賀島が聖地なのか?
和白だと思っていたよ。
まあ、卑弥呼の時代の後、確実に香春に染まる地域であること。秦王国が出来上がる地が北九州だわね。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:12:52.59
>>728

奴国王と謙遜しているが、倭奴国の王を倭王と任命した経緯を考えると、この安曇の奴国王こそ、中国から見た倭王だろうね。
ちなみに安曇磯良は神功皇后のもとで重要な役割を果たすし、五十猛と同一視されることもある。
五十猛、イタル、大率?
卑弥呼の元で実権を掌握していた大率が五十猛、安曇磯良かもね。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:14:23.01
>>746
じゃないかもしれない
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:15:07.34
>>745

その香春を治めていた田油津姫こそ、邪馬台国王統の最後の女王だと思うね。
その祖母の神夏磯姫は八咫の鏡を持っていたそうだ。
おそらく宗像大社の辺津宮の八咫の鏡だろうと思うけど。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:15:16.10
>>746
人命を漢字で書かないで
そんな奴居ないとしか言えなくなるから
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:17:02.17
>>749

現代に残る文献は漢字で書かれているから仕方ない。
まだ仮名が発明されていなかった。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:18:09.45
>>745
秦王国というか宇佐王国が後の日本の命運を握る事になるのではある。今の天皇家があるのは宇佐王国のおかげだよ
0753琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:18:10.96
>>748.卑弥呼は多神教だが香春ではない。竈も韓神も祀ることはない。
それは倭の別種。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:18:14.79
>>751
文字無いから口語としてのカタカナ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:18:58.84
例えば五十猛も読みが多種あり、どれが元の読みかわからない。
いそらたけ?
いそたける?
いたるたけ?
いたる?
全て間違いではない。
ならば五十猛と表記した方が間違いない。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:20:45.73
>>755
名前も読めない奴なんか実在しない
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:21:00.56
紀伊国一宮 伊太祁曽神社
伊太祁曽神社にお祀りされている神様は、五十猛命(いたけるのみこと)と申します。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:23:31.64
苗字なんかあったのか?と思ってるくらいだから漢字で書かれても説得力が無い
0760琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:23:52.97
和白か?単に今の地理にそうなっているから、後漢以前に半島の影響を受けていた可能性でもあるのか?加わっていてもおかしかないな、と思っているだけで邪馬台にはどうでもいい話だよ。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:26:31.33
>>753

卑弥呼の後に邪馬台国は香春まで支配したのだろう。
卑弥呼から半世紀ほど後の神夏磯姫の時に景行天皇と共闘して各地の豪族を粛清したからね。
倭種はあくまでも女王国から渡海した本州の方だよ。

卑弥呼崩御から神夏磯姫まで半世紀しかない!
0763琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:27:57.69
>>752、まったく同意だよ。だから東遷もありえるわけだ、だが宮崎じゃあ無いな、北だろ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:29:45.02
>>762
だからせめてカタカナで
文字は無いんだから
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:30:26.61
宇佐は筑紫から瀬戸内海に出るための土地だからね。
宮崎からなら、宇佐による必要はない。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:31:42.85
>>765

そのカタカナが正確にはわからないんだよ。
漢字表記しか残されていないから。
大率や卑弥呼だってそうだろ?
大率をイソラタケと表記したら意味が通じるのか?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:32:05.85
>>764
何処にあるのか?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:33:12.25
>>767
漢字なんか無いんだから残ってると言わないんだよ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:33:22.77
>>768

君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:34:38.72
>>767
大率は中国の史書にあるんだからそれとは違うんだよ
0775琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:36:12.96
>>761.卑弥呼は死んでるから卑弥呼は支配してないよ、秦王国が出来上がるのは高句麗が南下してからだろ、邪馬台は受け入れたので従属で支配とはちょっと違うであろう。阿人だから阿蘇を動かんだろ。またちょっと違う種だろうな。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:37:27.18
博多湾沿岸を治めていた倭王の名は、安曇の君

卑弥呼より前か後かは知らん
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:38:15.66
>>773
日本書紀の漢字は後から付けたもの
そもそも数百年前の話をなんで憶えてるんだ?
0780日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:40:32.78
>>778

記録があったからだよ。
日本書紀はたくさんの当時あった史書を再編集したものだ。
日本書紀と古事記と先代旧事本紀が現代まで伝わった。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 20:42:55.01
>>780
史書なんかねえわ
あれば何処かに文字が残る
0782琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 20:48:28.45
そうか、宇佐は秦王国であり阿人なんだよ。阿蘇を霊山とするわけよ。半島竈信仰だな。
また、平原も阿残墓の遺跡で半島と繋がりあっただろう、つまり北九州は色々雑種の地域とも言える。だから、この地に卑弥呼は根を降ろさないのだよ。
0783琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/05/21(日) 21:00:08.46
であるから、韓伝にあるのが秦王国の祭祀であり鬼神と陳寿は記す。
卑弥呼は老荘思想、道を最上位とし鬼神と鬼道とは違うのだよ。であるから鬼道は香春信仰では無いよ。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:08:16.98
年代が違うんでないの?
田油津姫を倒した後は神功皇后が香春の主になるからね。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:08:40.64
魏志倭人伝において唯一畿内が関連しそうな記述は以下の一文のみ
『国国有市 交易有無 使大倭監之』

卑弥呼時代の「大和」は、女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:13:09.22
大率の誤りなんじゃないの?
交易の監査は伊都でもやってたろ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:40:13.35
漢字の意味、成り立ちから紐解けば簡単に考察できるのにw

尊 ←これの対義語は「卑」

やはり、卑弥呼は黒歴史にされてる?w
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:44:08.58
>>783
残念ながら道教の研究家の福永光司は宇佐神宮と道教の繋がりを述べている
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:49:27.54
>>776
安曇て朝鮮半島から南下かな?
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:51:21.77
>>785
邪馬台国がある。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:52:25.38
宇佐だって主がコロコロ変わってるだろ。
景行天皇は宇佐の川上の鼻垂を倒しているぞ。
神武天皇は宇佐の一柱騰宮で饗応されていたのに。
九州北部は内乱だらけ。
まさに魏志倭人伝の世界だ。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:55:52.24
>>782
安曇、阿曇、阿積など半島だね
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 21:57:24.70
>>791
鼻垂は宇佐氏の敵対勢力じゃないかな
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:00:04.81
阿每、阿波、もかな?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:00:05.48
魏志倭人伝による倭国の政治的出来事

1.倭国大乱
2.卑弥呼女王共立(AD180年頃)
3.狗奴国との戦争
4.卑弥呼女王死去(AD247年頃)
5.男王を立てるも内乱勃発
6.台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)

畿内説の主張内容はすべて無関係な作り話
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:01:46.35
>>797
半島 当然だろう
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:04:35.05
阿毎一族に邪馬台国は滅ぼされて大和州なら納得
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:06:34.01
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:07:13.96
>>800
東征でもない、東遷でもない侵略だよ。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:11:13.85
>>802
納得した
記紀上の登場人物に
あてるのは間違いかも
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:11:27.35
魏志倭人伝は一部だが倭国の人口も記録している

人口を記している8か国の合計戸数は15万戸、一戸3人とすると45万人
残りの倭国21か国は一国辺り2000戸とすると全部で42000戸、人口にすると126000人
倭国全体では576000人

さらに倭国に含まれない狗奴国がある これは九州北部とのバランスで考えると戸数20000戸、人口で60000人と推計しておく

さらに、四国は倭人の国が複数あったが魏との交流が無かったために存在だけを記している
この推計値は仮に30100人としておく

これをすべて合計すると、当時日本列島に住んでいたのは、666,100人


wikipediaに
1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)という現代の研究者の推計値の表がある
その中の200年の全国の人口推計は594,900人
そのうち南九州から北関東までの数字の合計は561,500人

この数字と比較すると魏志倭人伝による推計値は104600人多いことになる

卑弥呼が親魏倭王になったのは景初二年(238年)、その38年の人口増加も考慮すると、魏志倭人伝かの推計値が驚くべき精度を持っていたことがわかる

この数字から九州説の諸君の言い分はまったくありえないことがわかる
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:38:21.35
弥生時代の遺跡数は北部九州の方が多いよね
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:40:03.78
>>804
すげー
0807日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼の母に注目したい
淡路島出身のハエイロネ。彼女もまたキーパーソンになる筈だ
0808日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ハエイロネは神武東征時の先住豪族磯城系だよな
磯城一族って淡路まで進出してたんか
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 22:46:35.13
卑弥呼の母親は平原王墓の被葬者だよ
0810日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼(百襲姫命)の母親は淡路のオホヤマトクニアレヒメ。「アレ」を名前に含んでいるから恐らくこの人も霊験あらたかな巫女

でオオヤマトクニアレヒメの父親は和知都美(ワチツミ)
和知都美の父親は磯城津彦
磯城津彦の母親は阿久斗比売
阿久斗比売の父親は磯城縣主の波延(ハエ)


うーむ
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:02:48.57
欠史八代じゃ話にならない
0812日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

卑弥呼がいきなり霊力獲得したわけじゃなくて、母方も先祖代々巫女みたいなのやってたんだろうな
0814日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

弥生遺跡といえば朝日遺跡は面白いよな
三重環濠だっけ?結局古墳時代には衰退したみたいだけど
0815日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

でも朝日遺跡って人口1000人くらいだっけ?
こんな規模、邪馬台国(三輪王権)なら数ヶ月で叩き潰せるだろうし狗奴国としては役不足感が否めないねぇ。狗奴国濃尾平野説よりも天竜川以東説の方が信憑性増してきたな
0816日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>15
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する

すまん。これって結局どのくらいの範囲なの
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:20:19.37
>>815
それ環濠内だけでしょ
かなりデカい
0818日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

でも吉野ケ里遺跡と同じくらいだからね
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:26:19.63
>>803
そこが記紀の凄さだよ。
たいていの人は記紀の登場人物に
あてようとするだろう。
0820日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

尾張から沼津あたりまで狗奴国連合なら納得できる
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:30:39.82
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:32:09.03
>>821
775等とのやり取りから
思っただけです。
0825日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説なのはまあ勝手にやってろって感じだけど
未だに邪馬“壹”国とか書いてるのはどうなのか
0826日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬壹国論者が悔し紛れに李賢の注釈出してたけど、「今名」は『隋書』の「邪靡堆」『北史』の「邪摩堆」で『後漢書』李賢注の当初の姿は「堆」だったに決まってんだろ...と速攻終わってたよな

幼稚園児相手ならこんなのでも通用するんだろうが、大人になっても邪馬壹国なんて言ってたら恥ずかしくてしゃーないだろう
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:43:01.19
>>803
阿毎が襲った痕跡がないから武器でなく
丹の副産物のヒソとかじゃないか?
物的証拠はないけど。
0828日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)とかいう皇族もいるし、阿毎多利思比孤って単なる聖徳太子の尊称では
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/21(日) 23:50:54.28
>>803
寝ちゃったかな? まあ、いいや
筑紫を初め北部九州は阿残系
祇園山古墳も阿残
0830日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

聖徳太子じゃなくて豊聡耳神子か
0831日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

豊聡耳神子さんは『万機を総摂』してるから倭王と誤認されてもおかしくないし
この人『大王』名乗ってたみたいだしex.)法大王:上宮記,豊聡耳法大王:日本書紀

阿毎多利思比孤=通称聖徳太子でよくね
0832日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あー旧唐書の話ししてるのか
それって隋書から引用しただけじゃん
0833日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>613
しかも倭国伝に高表仁載ってるから、倭国も日本も同じじゃんっていうねw
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 00:00:38.57
>>803
付き合ってくれて、ありがとうございます。
記紀の登場人物に合わすのでなく
逆を考えてみる。あたかも記紀の登場人物であると刷り込む手法が記紀にある。凄いな
0835日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

旧唐書は記紀より新しいからそんなわけないと思うがね~
0836日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

時系列を無視した議論は無意味よな
タイムスリップ前提じゃないか
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 00:03:35.15
>>803
オイラも寝ます
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 00:05:25.89
マキムクって単なるお祭り広場でしょ
その名残が神無月
この時代の中心は北九州
中国と近く、半島で鉄を確保できる
当たり前なるよ
0840日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>838
神が居なくなるから神無月って、中世に出雲の御師が広めた話だから違うだろうね
0841日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

大胆な発想は素晴らしい
しかし基礎教養が欠けているから在らぬ方向に思考が飛んでいってしまってる
もう少し勉強が必要だあね
勉強したら畿内説になれるよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 00:16:27.44
>>834
ふむふむ、成る程
このスレみると記紀等の誰かに合わそうとしているから記紀等の罠にはハマった感じかな?
面白いもんである。近畿
0843日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

平原一号墓の発掘に携わり平原大鏡を自費で修理して、伊都国こそ日本の源流であると主張した伊都国のゴッドファーザー原田大六さんは邪馬台国畿内説なんよな
しかも百襲姫=卑弥呼説

つまりだね
伊都国を過小評価するこのスレのテンプレは、畿内説に宣戦布告してるのと同義なんだよ
0844日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国のプロフェッショナルが百襲姫=卑弥呼説
この事実は重いよ
だから伊都国歴史博物館に行って「平原一号墓は卑弥呼の墓ですか?」て聞くと『違うと思います』と返答される

歴史博物館のゴッドファーザーが畿内説だからね
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 03:23:52.06
>>844
ただの地元愛かもよ
0846日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>845
もちろん原田さんは糸島生まれなんだから伊都国を愛しているだろう
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 05:47:20.51
七ヶ瀬遺跡

://www.asahi.com/sp/articles/ASP7B75J6P7BTTHB00K.html

経路 伊都国は吉野ヶ里遺跡
卑弥呼と三種の神器が関係するのか定かではない。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 05:59:24.86
原田は東遷説だよね、でも2世紀の纏向が未開の地だという事を知っていたら考えは違っただろうね
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:23:42.09
>>838

纒向は宮がひとつだけなので、神奈月にはならない。
伊勢遺跡は宮が円形に多数配列しているので、神々が集まって利用していたと感が得られる。
つまり両者は全く違う性格のもの。
神奈月は伊勢遺跡に集まっていた。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:27:09.08
>>847

倭王なんだから三種の神器は持っていただろう。
それに吉野ヶ里からも三種の神器は出ている。
基本的には糸島と同族だしね。
しかし豪華さで糸島が遥かに上なので、吉野ヶ里はあくまでも分家だ。
ただし卑弥呼の出身地とかの可能性はある。
吉野ヶ里は肥国の中心国邑の一つだろうから。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:30:07.81
tps://headtopics.com/jp/2147622707261781491197-34632181

案外出ているのだな。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:33:26.51
>>851
三種の神器自体に疑う
どう使っていたかの記述もない
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:38:12.36
奈良から勾玉が出土するのは4世紀になってから
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:41:59.82
>>851
糸島市方面には行かない
分家というより衰退だろうな。
全盛期は奴国と対等だったかもしれん
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:43:15.76
>>854
邪馬台国らしいな
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:47:27.05
相変わらず、九州説の願望が
威信材が豊富というのが
邪馬台国。
当方は逆である
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:50:58.79
誰にも支持してもらえない畿内説は韓国式霊感商法が見抜かれているから
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 06:58:09.29
近畿説だし、畿内説ではない。
畿内説、指示はトナカイ、岡上さん等も
いる。誰にも とか?嘘ばかりである。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 07:12:15.78
>>861
日本語で
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 07:21:08.88
つまり九州説はウソ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 07:54:44.57
>>863
簡単でいいね。俺もそうしようと。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 07:55:13.78
>>853

日本書紀に記載がある。
榊に掛けて船の舳先に立てる。
八咫の鏡については一緒に寝るともある。これは現在でも即位のときにやつている。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 07:57:42.47
>>858

漢や魏から貰っていた膨大な威信財はどうした?
なくしたのか?
後漢の時代の倭つまり博多湾から遠く離れた何もない奈良盆地で何も持たない姫がいても、なぜそれを魏が倭王に任命する理由がある?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:00:02.99
少なくとも倭奴国と、王統が同じか、王都が同じつまり博多湾でなければ、倭王ににする根拠がないだろ?
卑弥呼の直前は乱つまり王統は乱れていたから、卑弥呼を倭王に任ずる根拠は博多湾沿岸を統治していることしかない。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:03:41.22
j
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:12:55.68
日本書紀のよると神武は数々の苦難を乗り越え中州(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた そして事代主(大物主の神)の娘を正妃とし、翌年即位して初代天皇になる
神武が征服するときまで奈良には為政者がいた それは卑弥呼たちの後継者
三輪山や箸墓古墳は動かせないが威信財は動かせる
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:13:28.64
>>866
共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:15:15.40
魏の時代の纒向は空き地
0873日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:27:32.01
>>872
伊勢遺跡だ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:31:59.87
>>866
青銅器か?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:39:21.80
>>872
三国時代の魏は220年から265年の45年 
それまでは後漢 196年曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れ、董卓の元配下であった李?・呂布・張?などの勢力を滅ぼす 200年には官渡の戦いで袁紹を破り、207年に後漢の丞相となる

魏の時代は220年から、卑弥呼が倭国王になったのは184年ころ 纏向は新い都市だったとはいえ、卑弥呼の即位から36年も経っている
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:48:25.19
>>876
実際はそうだ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 08:54:53.66
>>877
威信財は威信財だから
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:05:23.48
中国人は半島を倭だと認識してたけど日本人はどう見てたんだろうな?
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:09:15.64
南の狗奴国が列島を指すなら邪馬台国は半島になってしまうな
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:10:20.73
>>880
倭人は半島南部を投馬国と呼んでいた
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:10:55.22
>>881
頭悪すぎ
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:11:21.23
>>882
投馬国は対馬だと思うがまあそうだろうな
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:13:08.19
>>883
いろんな資料を寄せ集めてるから一貫性は無いと考える
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:19:27.56
倭の奴国なら狗の奴国?
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:24:13.47
両説と落ちつけばわかるのに
現状、宮内庁管轄の古墳が多い
発掘できない以上、どうしようもない。
近畿
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:25:05.87
>>888
威信材はほとんど墓遺跡
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:25:55.97
>>889
当然
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:29:14.20
魏志韓伝

韓国は帯方郡の南にあり東西は海に面し南は倭と接する
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:31:22.52
YouTubeやTwitterのネトウヨ配信者はは文が鮮明に統一されたように九州説だもんな(草
安倍神社や日本会議や統一教会や暇アノンの教義か何かな草生える
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:33:04.53
箸墓古墳の年代は不明
畿内説統一狂の歴博が周濠から出た土器の年代を使って印象操作してるだけ
話を聞くと希望的観測を見てきたかのように語るジジイの妄言
マジで思考回路が韓国人と同種
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:35:42.20
纒向遺跡も桃の種の年代を使って印象操作してるだけ
建物と桃の種は別の遺構であり畿内説統一狂の学者はそれらの関連性をロジカルに説明出来ていない
単に言い張ってるだけ
問いただしても黙り込むだけ
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:36:24.33
>>892
俺は半島の倭人は徐々に南に追い詰められて最後白村江で全て失ったと思ってる
だから歴史が古いほど半島の領土は大きい
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:37:15.68
>>891
威信材は証拠にならないて事。
配るとか、鉄を得る為に使うもあるだろう
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:38:06.85
>>895
調べたものを嘘だと言い出すと全てに言えるわけで
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:43:33.63
>>891
丹で奈良と三重
唐古・鍵遺跡、纏向、滋賀の伊勢遺跡、稲部遺跡(鉄、絹)等、大阪(古泉)や淡路島(鉄)にもあるが?

邪馬台国と確定するものは何?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:45:28.71
>>896
どのあたりまで倭人がいたのかはわからないけど今の韓国人の遺伝子にもほんのわずがに縄文人の名残があるそうだ

中国の教科書には半島の歴史がわずか1ページしかなく、そこには元々倭人が住んでいた
と書いてあるのみ
これに気づいた韓国が激怒して抗議したとニュースになった事がある
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:46:27.40
伊勢遺跡は炭素年代測定と僅かな遺物から一世紀後半から二世紀後半と出たけど
どういうわけか三世紀になっている
どちらを信じるかはご自由にって感じ
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:47:25.69
>>898
畿内説ありきで作文する事を調査とは言いません
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:49:54.40
>>901
田舎だと100年物の甕とか皿とか普通に使ってたりするし
それぐらいの誤差は仕方ない
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:50:39.85
>>902
君は何説なんだ?
邪馬台国は
不確定なもんだな。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:51:42.05
>>900
中国人の認識と日本人の認識は違うからな
日本人は半島なんか日本(ヤマト)じゃないと思っても中国人は同じだと思ったかも知れん
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:54:19.19
>>906
中国人でも人よっては違うと思う。
確立したのがあったのかどうかわからない
0909日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:54:59.58
>>907
邪馬台国はどこ?
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:57:07.79
>>910
君の場合はそれでいいじゃないの?
架空の邪馬台国でも構わん
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:57:50.94
>>911
なんだろうな?
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:58:46.31
中国人は同じ倭人が住む地域だろって感じでも
日本人はそんな奴ら知らねえって感じかも
0917日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 09:59:25.49
>>914
何が言いたいサッパリ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:01:36.23
まず考古学者の質の悪さというか学界のレベルの低さというか
その辺の問題は国策で対策する必要があるんじゃないかと
論文での言い回しやメディアでのコメントやらがまるでペテン師論法だもんな
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:03:52.74
だから九州説みたいな明らかなインチキが跋扈してるしな
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:06:49.09
>>918
考古学者ははっきり考えを言わない
何が不満なんだ?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:07:22.47
>>99
天皇家に限らず血の繋がりを大切にするだろう、いろんな人の集まりだから
馬の骨が天皇になっともいい
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:08:45.81
>>920
楽しいと思うけど
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:12:59.66
>>923
知らないもの探す事がですか?
それとも、他人には言えないものを探してるとか。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:13:41.33
考古学者に質問してもそうかも知れませんねって感じだからイラつく
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:17:31.50
>>924
それもわからん。何か目的とかあるかもしれない
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:18:43.59
>>924
何が出てくるかという楽しみもあるかもね
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:22:59.93
>>925
煮えきれないのは確か。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:23:36.81
>>928
あるんじゃないの?
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:35:43.90
>>931
ガチャですかね
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:41:04.81
つまり九州説はウソ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:43:41.30
驚愕の事実 つまり九州説はウソ

いま頃かいな
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:51:40.61
>>918
>まず考古学者の質の悪さというか学界のレベルの低さというか

なにも反論せずに考古学者の悪口を言っても
考古学的に否定されたオワコン九州説は復活しない
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 10:53:59.68
つまり畿内説の質の悪さだなw

936:日本@名無史さん:2023/05/22(月) 10:51:40.61
>>918
>まず考古学者の質の悪さというか学界のレベルの低さというか

なにも反論せずに考古学者の悪口を言っても
考古学的に否定されたオワコン九州説は復活しない
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:18:06.71
史書を自分たちの都合に合わせて、安易に原文改定してはいけない。史書の一つの部分だけを取り出して結論づけてはいけない。他のすべてを調べつくして、整合性があるか検証しなくてはいけない。史書と遺跡、出土物などの、考古学的成果と一致していなくてはいけない
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:23:59.19
>>938
史書が正しいとは限らない
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:27:03.97
>>939
それは史書が読めていない状態
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:33:17.42
>>940
いや、史料は証言の一種なんだから信憑性を問うのは当然だ
相手構わず証言を信用したりしないだろ?
だから学問なら必ず史料批判をする
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:33:50.21
>>939
史書の間違いがわかる話もある
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:33:52.76
>>938
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)陸行ひと月で伊勢遺跡
質問があれば何なりと
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:34:22.67
>>943
ない、勝手にどうぞ
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:37:02.28
>>941
史書が読めないのは状況をシミュレーションする能力の低さ
社会経験の不足もだが、一般的には低能と言われるタイプ
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:38:00.65
>>865
あくまでも参考で証拠にはなり得ない。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:40:10.06
>>943が投稿された後すくネットにアクセスしたとしても<
>>944
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:42:26.22
>>948
別の史書も遺跡もある
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:42:46.83
>>947
の追加
その発言の内容を読んだあと、30秒以内で>>944をタイプ゜して投稿することは不可能
これは自演

こういうことをしているのが近畿という人物
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:44:14.78
>>950
ありゃ まあ?
近畿
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:46:12.03
>>950
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で伊都国(出雲)→陸行ひと月で伊勢遺跡
質問があれば何なりと
何言ってんだおまえ?
あんな短いの打てるだろうしおまえも質問していいぞ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:48:45.16
>>953
伊勢遺跡某、今度 ゆっくりと反応するね
まあ、5chだし自演も、なりすましも無問題
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:49:15.48
史書に誤解やウソが含まれているというのであれば、それを先に解明し、何をどう誤解したのかという理由を論証するべき
遺物との照合はそれからだ
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:50:05.50
>>945
>史書が読めないのは状況をシミュレーションする能力の低さ

いや、それ以前に漢文読めなきゃ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:53:11.52
>>937
>つまり畿内説の質の悪さだなw

悪口しか言えないのは負け犬な証拠
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 11:56:31.63
>>958
んな、事ない
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 12:00:31.52
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0961◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/05/22(月) 12:49:47.27
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1684724852/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 12:54:31.41
いっちょつ!
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 13:19:14.90
キナイコシが間抜けな証拠
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 13:20:10.98
バイトなら即首レベル
0968
垢版 |
2023/05/22(月) 13:59:58.33
つまり九州説はウソ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 14:19:27.54
また畿内説が羞恥心の無いレスを書き込んでますね

967:日本@名無史さん:[sage]:2023/05/22(月) 13:59:46.87
九州説は羞恥心がないからな
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 15:01:28.27
進歩は無いが百歩だけが証拠ですキリッ
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 15:41:53.11
>>976
殉葬百余人の墓は何処にもないし
ただの墓地を殉葬だと嘘を言い張るのは良くない
0979日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 15:48:08.92
>>978
無視すればいいじゃん
なんで嘘書くの?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 16:20:48.68
>>980
だって何処にも無いんだからしようがない
勿論それでも良いけど完全に合致する場所なんて永遠に無いだろうよ
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 16:25:15.44
>>981
3世紀の墓を100%発見できるとでも思ってるのか?
全てを発掘したわけでも無いのにどこにも無いと言い切る理由は?
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 16:58:15.72
>>980
嘘をついてるのは九州説だけ
畿内説の候補は箸墓
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:02:11.06
>>984
それは嘘
無視してる史料など無い
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:06:33.59
>>983
それは畿内説の寺澤薫も否定してる
0987日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:08:55.85
>>982
殉葬も含め記述全て完全に合致する場所だよ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:08:59.12
ニュー速遠征終わったんだな
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:10:54.99
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:10:58.56
ニュース速プラスではキナイコシは畿内説ディスカウント部隊(1人)として活躍してたな
作戦通り畿内説が総スカンくらってた
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:12:35.09
>>986
寺澤とか知らんから
そいつがほざいてたらなんかあるの?
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:13:52.25
>>992
箸墓を卑弥呼の墓に比定してるのは桜井市韓国式教育委員会とキナイコシだけ
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:15:00.21
>>993
そんな奴ら事知らんから
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:18:40.24
>>992
お前はもぐり
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:19:49.24
伊勢遺跡もアホよのう
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/05/22(月) 17:20:15.12
>>995
学者の名前なんて一人も知らない
しかし俺は伊勢遺跡説
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 3時間 59分 28秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況