邪馬台国畿内説 Part900
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1685542412/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) ヤマト王権・前方後円墳体制○▢の主体は、大和在地の唐古鍵王か、それとも吉備〇出雲▢連合王権か? (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし ヤマト王権▢○は大和在地の唐古鍵王か、それとも吉備〇出雲▢連合による征服王権か? まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
「其南有狗奴国、不属女王。男王卑弥弓呼、副官狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
次に、「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、鬼道を、鬼籍に入った歴代倭王の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏)の祖霊を祀る祈祷室はまさに巫女の卑弥呼にピッタリです!まとめると、
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑
女王国〜(東渡海千里)〜複有国皆倭種(本州)
...↓..................................↓
狗奴国(菊地平野)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里 >>84
じゃ、狗奴国と戦争してた邪馬台国じゃないねw テンプレにどうぞ
998 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[sage] 2023/06/03(土) 12:02:34.26 ID:ZaoBl4Ve0
古墳時代成立の鍵となるのは鉄ではなく威信財や祭祀
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3037
九州北部の鉄の量は尋常ではありませんでした。これは倭国乱後も変わりません。つまり、鉄の中心が
西から東に移るという現象は、観察されていないのです。戦乱前と同様に、九州北部の鉄の保有量は
圧倒的で、鉄をめぐる優位性は変わっていません。
それに対して、明らかに分布の中心が西から東に移るものがあります。それは、鏡です。鉄は、武器であり
農耕具であり、すなわち利器、実用品です。一方、鏡や玉は、それを持っているからといって戦いに勝てるわけで
はなく、土地の開発が進むわけでもありません。ただ、それを持っていることによって、自分の威信が高まります。
その意味で、「威信財」と呼ばれています。この威信財の中心は、西から東に移る傾向が見られています。
その移動を示しているのがこちらの図です。これは紀元前1世紀から紀元後の2世紀まで、中国で作られた鏡が
どのような状況で日本の遺跡から出土するかを示したものです。
九州北部では弥生時代にもらったものは、もらった人の墓にすぐに副葬するのですが、近畿ではそれが200年から
250年後に造られた古墳から出てくるようになります。つまり、近畿では副葬されるまでどこかで保管されていたのです。
卑弥呼が登場すると、三角縁神獣鏡という魏の鏡が大きな役割を持つようになり、全国の首長たちに
配られるようになります。つまり、当時の倭国の大部分の地域では、鏡を持つことが自分の地位の高さを
示す威信財として、非常に高く位置付けられていた、という段階にありました。
しかし、九州北部の王たちの間では、そうした段階は紀元前後にはすでに終わっており、より実用的な利器に価値を見いだす
という段階に入っていたのではないかと考えられます。つまり、当時の九州北部地方と近畿地... >>85
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、同時期(甕棺墓)の殉葬者66体(うち2体は刺し違え)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`) >>87
つまり大和は九州の王たちの奥津城(王家の谷)だったってことだなw >>88
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)
帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム) >>85
>>88
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆ 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>91の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 中国が元のときの領土、万里の長城の外の騎馬民族のエリアも中国なわけじゃん。満州のあったとことか
日韓併合のとき明治政府内に首都を半島に移す案があった。もし首都を半島に移して天皇もそっちへ行って国号を韓国にしてたらどっちがどっちを併合したか後に分からなくなる
卑弥呼は占いで政治する時代遅れなので九州にいたとして
同時期の大阪や畿内にも後のヤマト王権に繋がる人たちが独自で古墳も作る
問題は併合のやり方だと思う
韓国がずっとこっちを恨んでいるのはどっちがどっちを併合したか分かるから
日本書紀みると分からなくなってるわけじゃん
そこから逆算するとどうなるか考えるの面倒なので誰か教えて 九州人が畿内を征服して邪馬台国(ヤマト王権)が成立した
征服者は銅鏡祭祀で原住民が銅鐸祭祀
征服王が後に神武といわれた王のモデル
斎王が卑弥呼
ネトウヨは否定したがるがヤマト王権は中国に臣従して金印をもらっている
江戸時代からウヨはこれを否定したがっているが歴史修正主義も大概にするべき >>90
>>93
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 前スレの続き、東遷の理由を公孫氏の領土拡張野心に求める説ですが、
寺澤先生も最新作で同様の理由で(共立と同時に東遷)を考えられていますので、
まぁ今後主流になってくる説だと思いますよ。
本当、昭和の邪馬台国論争からそろそろ脱皮しても良いじゃないですか? >>95
最近の考古学の進展により、記紀による比定の誤り【西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)→おそらく箸墓≠モモソ姫♀陵も、伝履中陵(長男)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(次男)も】が次々に明らかになっているわけで、まとめると、
卑弥呼の冢…祇園山古墳(同時期=甕棺墓に殉葬66体。うち2体は刺し違え)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
饒速日の墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)
細かい点はともかく、概ね編年がピタリと合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神 お〜い、馬鹿トナカイ!
>>97
岡上がまだこんなこと言ってるぞw論破してやれ! 岡上古代史論に独立した意義があるとすると、
原田先生・寺澤先生らは、考古学を主軸にしているのに対して、
純然たる文献学から、東遷という結論に至ったというところです。
全然別の立場から、結論が同じってところがポイントなんですよ。 >>97 岡上
>まぁ今後主流になってくる説だと思いますよ。
ないない。 そらは「阿波」。 @阿波 >>99
結論としては、ほぼ寺澤説なんですから、論破出来るわけない。
トナカイさんは、史料批判はまだまだこれからですから、立論の方に
いろいろ突っ込めるとも思いませんね。 庄内期にもっとも鉄が出る場所、そこが狗奴国と戦争中だった邪馬台国の所在地だよ。 >>104
筑紫哲也だよw
纏向は鏡とデカい墓が築けるほどの平和地域w そもそも、私とトナカイさんは、日本海ルート、箸墓=卑弥呼=モモソヒメ、
っていう点で結論として全く同じですからねぇ。
伊都国への認識の違いは結構差がありそうですが、それでも
トナカイさんも原田先生への評価も高いようですし。
どこかの名無しさんよりはよっぽど好印象です。 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれ る 大和し 美し
邪馬台国から東征したのは倭健命だから、
コレが東征の真実だよ。 >>104
狗奴国だけじゃなく、247年に卑弥呼が死んで男王が立ったら、邪馬台国連合内で争いが起きて1000人も殺害されてるんだよw
血生臭い紛争地域じゃないか?w ヤマト王権は伊都から東遷したのだろうが、邪馬台国は伊都に残った方の勢力だろう。
東遷後の筑紫の話が記紀にないのはあまりにも不自然。 大和王権って基本は神功皇后が確立したモノだから、
邪馬台国=大和で問題ない。 >>94
逆にヤマト王権が筑紫に攻め込んだ話を探せばいい。
景行天皇しかり、神功皇后しかり、継体天皇しかり。
4世紀くらいから逆転したのだろう。 >>97
その寺沢さんもやっと
邪馬台国の過大評価、お花畑の願望から解放かな?
tps://book.asahi.com/article/14902522
土木工事等が邪馬台国の実態だな >>108
そんな互いに殺し合う一触即発の超不安定な共立王権じゃ、箸墓みたいな巨大古墳の築造なんて無理だ罠w
し・か・もw「居處宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里にはピッタリだが、纏向大型建物とは掛け離れた記述だ罠w >>95
中国に朝貢していたのは筑紫の倭国。
畿内のヤマト王権は倭の別種、朝貢していなかった田舎者。
これで丸く収まる。 垂仁辺りは実際は日向生目の豪族です。
景行が崇神の家臣、吉備津彦の娘の播磨姫と婚姻して、
大和に進出して行った。 >>110
筑紫倭国の女王を倒して応神政権が誕生した。
日本書紀があそこだけ妙に詳しく筑紫における歴史を記したのは、邪馬台国滅亡という大イベントだったからた。 >>113
吉野ヶ里は卑弥呼がいた所
纏向遺跡は邪馬台国の一部 邪馬台国九州説はネトウヨ芸人御用達の説だからな
安倍信者や統一協会や日本会議や暇アノンの類が支持している
リベラルアーツをおさめた一定以上の教養人はほぼ皆が畿内説
古史古伝をおさめた安倍信者の類がほぼ九州説 >>116
違います。
豊受大御神が丹後の元伊勢籠神社の神なように、
豊の時代に丹後に進出して行った。 未だに邪馬台国連合とか?
共立されたのは卑弥呼。
土木工事の邪馬台国が中心なんて滑稽だな。 キチンと理解してください。
邪馬台国の豊のグループは、
倭健命が播磨姫の息子というコネを活かして、
吉備津彦や崇神の勢力と同盟して、
丹後に進出して、その後、北陸、近江東海関東と倭健命の東征を行って、
日本の本州の制圧の基盤を作った。 >>120
> な?畿内説て変なのばっかだ
そいつら畿内説じゃないから >>113
つまり巨大な墓がバンバン造れるような平和で物流も安定的な地域は、邪馬台国じゃないってことだねw 一方、彦湯産隅王の一派は、
四国から讃岐や鳴門に進出して行った様ですが、
コレは大和までは至らなかった。
讃岐木垂根王として讃岐に留まった様です。 【邪馬台国の滅亡】
筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、八咫の鏡を含む三種の神器を持ち、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るときに伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が三種の神器をもって出迎えたが、これは卑弥呼共立と同じ儀式だったろう。
しかし足仲彦は筑紫香椎宮で崩御してしまう。
足仲彦の妃の息長帯姫は、筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍であったのだろう。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったのかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならず、九州北部は魏志倭人伝のような互いに攻伐する状況が続いていた。
その中でも、筑後川流域に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰によるものであり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の崩御から誉田別の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳をしている。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となっている。 >>122
九州北部の倭国の一部である豊国の一部が流れていった先での話。
つまり魏志倭人伝でいうところの倭種についての話。 >>125
そう。つまりそういう平和で安定した地域は、世襲制の安定的な「王朝」が誕生したということ。
邪馬台国卑弥呼の様に、政権基盤が不安定な「共立」女王で、死んだら互いに殺し合うような不安定な政権によるものではないということ。
つまりヤマトではないということ。 一方、倭姫命の兄、伊支馬長官=生目入彦の息子の景行天皇は、
纏向に進出して崇神朝を乗っ取ってしまった様です。
この時、倭健命と吉備津彦連合を警戒して、
実際に倭健命を大和に入れなかった所、
セルフ経済制裁になってしまって、
結局倭健命の血筋が天皇になることになった。
コレが大和政権の始まりです。 血で血を洗う筑紫の歴史こそ魏志倭人伝の邪馬台国に相応しい。 奴国も不彌国も倭種に過ぎない
女王国は倭種の集まり >>131
邪馬台国(不安定な共立王権)≠ヤマト王権(安定的な世襲王権)だね、納得! >>130
豊の國は倭国の一部ではなく、
邪馬台国の一部です。
邪馬台国とは、倭面土国であり、
帥升は彦坐王で、
その兄弟の彦湯産隅王が別府の支配者。
つまり、107年の時点で、倭面土国は
山門八女から別府大分を含む範囲だったのです。 寺澤先生は卑弥呼をヤマト王権の初代大王と位置付けされておられる
恐らく崇神の姉か何かというイメージなのだろう
卑弥呼が初代の可能性も否定はできないだろう
ヤマト王権の初代を名付けて神武とするのならば実は神武は女性であったという話になる
ただジャップは血筋に対する信仰が強いから卑弥呼の出自が尊くないと女王にはなれないだろう
やはり過去の男王の一族とするのが適切でそうなると卑弥呼は初代ではなく繋ぎという事になるのでは無かろうか
しかし民族性というのは変わらないな
今でも歌舞伎役者は十三代市川團十郎とか政治家でも岸家四代目の岸信千代氏など日本人は血筋への信仰が異常に強い
日本のドラマやアニメでも実は主人公は高貴な出自だったといった設定が多く世界のスタンダードとは違うと実感させられる >>125
版築から特殊器台から葺石まで専門の工人が必要なわけで、狗奴国や継承戦争で背後から弓矢が飛び交う(造ってるそばから破壊されるような)紛争地域ではないってこと
>>136
王権のDNAが全く違うということだね おそらく、伊都国は倭面土国の彦坐王の外戚の関係で、
巫女達も伊都国から山門八女に来ていた様です。
で、107年頃、山門八女、別府大分、伊都国で奴国を包囲して、奴国を制圧した。
この時漢に献上した奴隷が奴国の王族達だったにでしょう。
それ以来、奴国には王は居ません。 >>139
今更、何 言ってんだよ。
本来は男王
共立で女なんてイレギュラー。
邪馬台国など中心になるわけない。 で、そこから数十年経って、
彦坐王の跡取り、
狭穂彦王が投馬国=妻・都間に進出した。
ここで日向の生目と争いになって、
破れてしまったのが倭国大乱と言われる狭穂彦王の乱です。 ここで生目は邪馬台国の長官になり、
彦坐王の娘たちを人質にとって、
その間に出来た娘の倭姫命を
邪馬台国の女王にしたのが
女王共立と言われるものです。 彦坐王の別系統の男子が丹波道主牛比古で、
コレが都市牛利です。
また、倭姫命の直属の家臣に大若子が居て、
コレが別名御間皇子の異名があり、
コレが彌馬升で間違い無いでしょう。
で、おそらく、倭健命はこの御間皇子の養子になった。
彌馬獲支が乙若子で倭健命です。 >>141
うむ。みんな、卑弥呼の身になって考えよう!
死ぬ間際、247年に帯方郡の新太守に、狗奴国と交戦中で(負けそうだからと)援軍を要請した。
もし魏の援軍が来なくて(来ても少なくて)狗奴国に負けたら、見せしめのために、自分の墓は破壊され荒らされることは間違いないわけだ。
そんな状態で大和盆地にあるような巨大古墳を造らせるか?w
そんな巨大古墳作らせようとしてたら、伊都国常駐の帯方郡使から、そんなカネがあるなら、早く卑弥弓呼と狗古智卑狗を倒せ!ふざけるな!もう鉄を売ってやらないぞ!って言われちゃうだろw また、外交で中心人物として活躍した難升米は梨迹臣で、後の中臣氏=藤原氏です。
そして藤原氏が邪馬台国の歴史を封印してしまった。
その為に記紀には邪馬台国の記述は出てきません。 >>137
豊国の定義が違うのだ。
後の豊前豊後ではない。
本来の豊国は、豊玉彦がいる志賀島であり、豊国王家は志賀島の倭王家そのものだ。 >>85
>>88
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) >>150
と言いつつ卑弥呼と邇邇芸との関係とか
書き出すのもいるだよね 邪馬台国卑弥呼=倭姫命(ヤマトノヒメミコ)
伊支馬=生目
彌馬升=御間皇子
張政が旗を授けて狗奴国との戦いで激を飛ばした=夷狄との戦いで活躍して旗を授かり大幡主となった大若子。
卑弥呼に歳の離れた弟がいて卑弥呼の世話をした=大若子の弟、乙若子が倭姫命の世話をした逸話がある。
以上の事からも、倭姫命が卑弥呼、
大若子が彌馬升、乙若子が彌馬獲支で決定です。 >>151
志賀島は奴国の一族筋であった阿雲氏が逃れて行った場所で、
豊国たり得ません。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 西都原古墳群にある男狹穂塚、女狹穂塚は、
文字通り、狭穂彦王の乱で死亡した、
狭穂彦王と狭穂姫の記念塚です。
ここが妻国=投馬国である事も歴史の必然です。
狭穂彦と狭穂姫は生目氏にとっては反乱軍ですが、
その後に彦坐王の系列の神功皇后が
権力を掌握したことで復権したと言えるでしょう。 誰か寺沢薫の主張を理解できる香具師っている?何言ってるか全然伝わって来ないんだけどw 魏志倭人伝を読んだ中国の人々が最も注目したことは卑弥呼の墓の大きさ
これは人々を驚かせたことだろう
それに付随して女王の都の邪馬台国が7万余戸と人口が多いこと、
さらに侍女が1000人という宮殿の規模
これらが卑弥呼の時代を画する指標
人口が集積して巨大な土木工事が可能になった時代 中華が昔から適当でいい加減で周辺国を蔑むクソみたいな連中で解決
正直、大して面白くも驚きもない
振り回されて何やってたんだ、って感じ 神功皇后の時代、
夫の仲哀天皇は熊襲にブチ殺されてしまいました。
この時、本来の邪馬台国の山門八女も破壊されてしまったでしょう。
しかーし、既に本州を支配していた丹波國造には一切関係ありませんでした。
倭健命の東征によって拡大した勢力を束ねて、
秒で熊襲を粉砕、その勢力を持って、
三韓征伐へと繰り出しました。
また跡目争いも有無を言わさず、
自分の腹の子供を仲哀天皇の跡取りに強引にしても、
一切問題は発生しないだけの権力を掌握していました。 >>159
香具師は、継ぎ接ぎだらけだって喚いてるだけw >>158
寺澤氏は先ず纏向は吉備出身の豪族の崇神朝の都ということで、
纏向邪馬台国の都から緩やかにシフトしていきたい。 >>164
そんな感じ。香具師の言ってることって何が何だかさっぱり解らない。ということは本人も何言ってるか自分で判らないんだろうから、どうでも良いけどw 寺澤氏は本当は
「纏向が邪馬台国は嘘で~すテヘペロ」
「本当は日本各地に四道将軍を派遣した、
吉備出身の豪族、崇神の王都って分かってましたテヘペロ」
って言いたいけど、
日本の考古学会が崩壊する可能性が高いので、
その辺はぼやかしながらソフトランディングを狙っている所。 >>167
あんたに吉野家の牛丼の1杯も驕りたい気分。サンクス。 >>167
解りやすい解説、乙!
ということは、香具師は(本音では)邪馬台国九州説(伊都国)? >>167
吉備王・崇神(◎円墳・直弧紋・特殊器台)が(◇葺石方墳・出雲王倭大物主と同盟して?)、大和在地の唐古鍵王を征服し、樹立したのが纏向ヤマト王権◇◎ってこと?
ということは、寺ちゃんは箸墓を誰の墓に比定しているんだろう? いくら5chでもこの流れは酷すぎでしょ。
市販されていて読めば幾らでもわかるものを。
一般書籍一冊読み抜く気力もないなら、議論する資格ないでしょ。 >>159
結局伊都国頼みだしね、伊都国使ってオレオレ詐欺 よぉ〜岡上!
良い所に来た、汚舞は卑弥呼が共立されて東遷したって言ってる(桶?w)けど、
寺澤の香具師は、吉備の崇神が纏向王権樹立したって言ってる(桶?w)ぜ 日向の豪族が大和に進出したのは、
実際には垂仁・景行時代しかあり得ず、
神武が吉備に長期滞在したという所は、
実際には垂仁・景行が吉備の吉備津彦と仲良くなって、
娘の播磨姫と景行を婚姻させて、
それで大和に進出して行った事が
題材になっていると考えられるのである。 邪馬台国畿内説支持者
→日本人は遼河文明人の末裔。日本神話の神々はインドラやジュピターやゼウスなどの大陸の神々とその起源を同じくする。韓国人も日本人も起源同じ。
邪馬台国九州説支持者
→日本人は縄文人の末裔で世界文明の中心で日本文明が世界の雛形になった。韓国人は不潔な濊人なんだそうだ(草生えすぎて大笑い
九州説支持者はさすが安倍晋三を支持するレベルの低学歴としか言いようがない。古史古伝とか信じてる愚民の類だろう >>96
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>178
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 無駄だよ、箸墓が女性墓卑弥呼の墓、また、西殿塚も宮内庁が比定者は女性墓としているように西王母、臺與の墓。前方後円墳は神仙思想信仰教団等の墓。
大物主とやらは万物を象徴する太一。
卑弥呼下の大倭と大率で管理され、まだ抜きん出る規模の豪族なぞおらん。
東遷とやらがあったかどうかは知らんが秦国王神武とやらがいたことは高麗伝に残る。秦国王神武なら多々良(任那)姫を嫁にしてもおかしかない。
何れにしろ、卑弥呼の時代に筑紫は無いし宇佐もない。その後南下して秦王国を築いたのであろうが隋書では倭に属した王国だな。 >>181
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。 阿蘇、秦王国は香春信仰であって阿人の国なんだよ。それは魏志韓伝に鬼神と記されているので卑弥呼の鬼道とは違うので
阿蘇邪馬台なんて無理なんだな。 無駄だよ。
女王国から東に渡海で倭種とある以上、崇神だろうが吉備だろうが、女王国に属さない倭種に過ぎない。 >>183
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(「倭」→「和」を以て貴しと為す)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長 今城塚古墳に眠る大王のピンクの棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう? 吉備は投馬(玉)(桃魔)国。
女王国に属する。
邪馬台者は地勢東高西下の奈良盆地におるのだよ。 だいぶ前から考古学的に弥生文化は朝鮮半島の「無文土器文化」の亜種だということが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から
支配階級は松菊里型住居(半島起源)に住んでいて、被支配階級が縄文型住居に住んでいたのが判っている
弥生人は縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていき、そこで一時停滞したあと一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文明などとあほヌカすが、ジャップは縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも古日本語が半島に存在していたことが確実視されていて、Peninsular Japonicで記事が作られている
日本語版もあるから読んでみろ
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は朝鮮半島なんだよ
縄文人は「プレアイヌ」というべき人たちでジャップは縄文人をジェノサイドした側だからネトウヨのいう縄文文明とかお笑いよな
ジャップ神話は扶余系神話で縄文文化の要素はゼロ。記紀に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
土蜘蛛は狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
天ころが葛で作った罠に原住民を嵌めて焼き殺したとか、それで「葛城」という地名になったとかジェノサイドの自白がてんこ盛りだ
この国の教科書では日本民族は太古の昔から列島に住んでいてとか大嘘書いてるからな。歴史を歪曲してるのはジャップの方だ
縄文人が弥生人になりクニが統一されて天ころが生まれて日本国になるなどというお伽話が普通に教科書になっている
そんな訳ねーだろ。ジャップは弥生人が縄文人を悉く殺戮や奴隷化した末に若干の混血で産まれた民族
九州から南に行ったのが琉球人になる
蝦夷は本州アイヌに違いなく、その存在は倭人によるジェノサイドが弥生時代から平安時代まで続いたことを意味している
今の東北人は征服された蝦夷の末裔などではなく後から入植した倭人の侵略者の末裔
本州アイヌの民族浄化が終わった頃から倭人は北海道アイヌの民族浄化に入りその完了形が日帝の北海道内地化だ >>土蜘蛛は狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
このスレでも通じないことあるから、今でも両方いるんだろう おいコラ、馬鹿トナカイ!
>>167
寺沢薫は九州説に寝返ったぞ!w
>>186
九州王朝説支持者なんてもういないよ
>>167
纒向が崇神の王都って当たり前じゃね?邪馬台国畿内論者の総意だと思うよ
と思ったけど、俺も邪馬台国九州説を信奉していた時代(暗黒時代)には「纒向は崇神の宮だろ!」と言えば畿内論者に効くと思って同じように書き込んでたわw
https://i.imgur.com/GnXe9MZ.jpg
懐かしいなぁ俺もそんな時代があったわ
知識の蓄積がある閾値を越えてからは、スゥッと畿内説に転向出来たけどね
マジで面白いほどに俺の後を追ってきてるよなぁ
君たちが今いる場所を俺は既に通過してる。君らもあともう少し勉強すれば畿内説の域に到達出来ると思うわ
>>197
寺澤氏の「卑弥呼とヤマト王権」読んだけど相も変わらず邪馬台国纒向説だったよ
>>108
百襲姫薨去の次の記事が、崇神天皇による四道将軍派遣記事だから完全合致してるな
一致しすぎてて怖い 仮に邪馬台国の場所が判ったとして
何か歴史が変わるような事になるのか?
それとも単純に
見つかったやったー!で終わりのやつ?
東殿塚古墳あたりは宮内庁の管理下でもないし掘ればなんか出てくるだろうに掘らねえからな
纒向古墳群も石材露出してるのに掘らねえ
学芸員・学者やる気無さすぎだわ
金が無い?いや死ぬ気で集めろよ この俺も物書きの端くれだが
もっと簡潔に書いてくれよw
もしくは読みやすいようにさ ということはつまり、所詮は仮説にすぎないという事だなw
奈良県民が皆原田大六先生みたいになれば一瞬で邪馬台国論争に終止符打たれるんだろうが
奈良にそんなガッツあったら今の体たらくにはなってねえしな >>205
そういうこと。箸墓は掘らせないし、他の墓は掘らないんだからw
馬鹿トナカイ、乙!w
>>205
【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】
─
①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg
※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg てか古代史って一般人にはそれほど重要視されてないんだよ
発掘も現在の市民の生活に影響の出るようなことはまずやらない
たまたま駐車場になってるとことか建設用地でないと発掘できない >>202
もちろん、次は↓これ
吉野ヶ里遺跡群を世界遺産に
日本最大の集落「吉野ヶ里」 吉野ヶ里遺跡は、およそ700年続いた弥生時代(紀元前4世紀から紀元3世紀頃)の生活の跡を残す国内最大規模の環濠集落跡であり、一つの農業集落が地域の中心的集落へと発展していく姿を残しています。
U字形鉄製品が九州で出てきたり
漢鏡7期の鏡がもっと九州で出てきたら俺も考古学者も九州説に転向するんだよな
でも出てこない
邪馬台国時代の九州には、対中外交主体があった考古学的史料が全く無い >>208
それ知ってるw 馬鹿トナカイ、乙でしたw
でも面白かったよw
>>209
それをどうにかするのが考古学専業の仕事だぞ
奈良県民・奈良県行政の無能には呆れ返る
それに比べて佐賀県知事の迅速果断大胆不敵さよ。有象無象の単なる石棺墓であれだけメディア大騒ぎさせたんだから完全に負けてるね >>205
なるほど 人間にすらなれない四〇動物の口車に騙されちゃいかんなw >>213
そんな簡単なことじゃない
議会で予算が通らない
纏向小学校の改修とかが優先される
おまえらが用途を指定してふるさと納税しろよ それからこれは関係あるかわからんけど
西殿塚古墳から用途不明の
U字型木製品というのが出てる
>>216
それは広報活動が足りないから
あのね、『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ
奈良県は佐賀県知事を迎え入れた方がいいよ
PR力が全然足りてねえもん。ふざけてんの?
>>217
勝山古墳では? というか古代史ファンが爺になって
もう金を落とさないんだよ
奈良だったら大仏とか見に行ったほうがいいし
えっ、もしかして黙ってれば予算が降りてくるとでも思ってるの?
例えば土建屋が工事受注するためにどれだけ血の滲むような思いしてるのかとか知らねえ?未曾有の豪雨に備えて下水道整備してください。とか営業掛けまくってステマしまくってやっと予算通して貰うんだよ
まさか議員と接触したことすら無いくせに無理とか言ってないよね?
まさか自分達は研究だけしていたいんですなんて甘ったれた事で金が落ちるとか妄想してないよね?
そりゃ採算取れなきゃ予算通るわけねえだろ公費なんだから 邪馬台国には4代の王がいた。
「正始中、卑弥呼死、更立男王@、国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女台与為王。其後復立男王A、並受中国爵命」
卑弥呼→男王@(国中不服・更相誅殺)→台与→男王A(受中国爵命)
男王@は神武で、内乱の責任を取らされて、瀬戸内海の吉備経由で東征し、大和の饒速日王権を征服して纏向王権を打ち立てた。
男王Aは崇神で、台与の死後(巫女なので結婚できない)、纏向王権が邪馬台国を吸収して、全国支配が確立した。
どや?w いや、それとは違う
あと大きな発掘をしたければ
桜井市のレベルでは無理ぽ
県でも無理、国を動かさないと
>>227
面白い発想だとは思うけど
「其後復立男王並受中国爵命」て倭の五王のことでは
正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王賛
文脈的に倭の五王を指してると思うわ >>229
その後「晉安帝時,有倭王賛」と続くから、男王Aとは別人ジャマイカ?
だけど、倭王権としては男王Aと賛は繋がっているとも読めるのでゎ?
確か、其後復立男王並受中国爵命が邪馬台国の男王とか言ってたのは寺沢薫さんだっけ?
流石におかしい誤読だと思うわ >>231
「正始中、卑弥呼→男王@→台与→男王A。(〜時間の経過〜)晋安帝時、有倭王賛」ということ? >>186
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに、帯方郡の鉄の独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→継体3男・欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) >>232
「其」後復立男王の「其」は台与じゃないの?
梁書「復立卑弥呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中国爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟弥。弥死、立子済。済死、立子興。興死、立弟武」
>並受中国爵命だから倭の五王を指してますよね。
「並」ですよ
>>235
勿論臺與で
男王ってのはその後に中国に朝見してきた倭の五王のことでしょう 「晋安帝時」とわざわざ入れてることから、男王Aと倭の五王は(繋がりはあるが)別人だと思われ。 中国・陝西省にある石?(Shimao、シーマオ)遺跡から2019年に口琴が発見された
放射性炭素による年代測定で石?遺跡の一部は、4300年前に遡ることが明らかになっている
減地(表面の削剥)陽刻技術で、符号や人面、神面、動物、神獣などが彫られている石刻も発見されている
南米の遺跡の彫刻と似ているとする説もあり、古代中国から南米へ船で渡った人々もいたのではという大胆な仮説も述べられている
日本で口琴と言えばアイヌの文化が思い浮かぶ
衛星を利用した地形の探索など新しい技術が古代史の解明に活用されている現代
好奇心が今ある考古学的上の発見を繋ぎ合わせて、眠っていた過去の姿を蘇らせるということがあっても不思議ではない、 >>237
つまり、「『晋』安帝時倭王賛」の『晋』は東晋のことで、
台与と男王Aまでは西晋に朝貢し爵命を受け、しばらく間が空いて、東晋の安帝の時(396年〜403年)、倭王賛がいて朝貢してきたっていうこと。 【宿題】
4世紀初頭に中国様が鐙の原型を開発していたころ、なぜ箸墓に完成形が落ちてたんだ?
ニュース:箸墓古墳で馬具出土
2001年12月「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
■魏志倭人伝の記録
倭国に馬はいなかったと書かれている
■馬具研究史より
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、
中国では4世紀初頭の騎人俑に足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。 >>234
ちなみに、東晋の安帝(司馬徳宗)は翌404年〜418年にまた皇帝に返り咲いているから、倭王賛の最初の朝貢413年とピタリ .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 奈良県民は維新の知事を当選させる民度だからな
尾口五三氏がもう少し伸びると思ったのだが残念だ 翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
tps://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
中国の史書において、連続した行程の場合は「又~至る」と記述される
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり >>245
もちろん翰苑が間違いで魏志が正しいのは常識
魏志を無視する九州説はトンデモ >>247
<魏志倭人伝>
中国側の認識と倭人が訪れた際の記録をもとに後世の陳寿が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
陳寿は南国をイメージしているので記録に記された邪馬台国の方角は南で間違いないでしょう。
久しぶりに訪れた倭人に女王国までの行程を確認したところ、
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
行程と位置関係:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
これを陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した可能性があります。
その他の記述を見ると、
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
なお、女王国の西側の国については一切触れられていないことから、おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかります。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている※魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている 記紀の人物は半分神代の話だからな
無理矢理に邪馬台国の人物に当てはめると
帥升→九州にいた神武の祖父つまりニニギとかだな
卑弥呼を共立した男王→邪馬台国を作った王つまり神武
卑弥呼が死んだ後の男王→孝昭か孝安
壹与→百襲姫
壹与の後に男王として統治に成功した王→崇神 新参だけどテンプレ長くて読む気失せる。京極夏彦かよ
読んで欲しいなら厳選した方がいいのでは
>>248これを見て>>249こう受け取るのが畿内論者? 噂通りやばいな >>284.何処が短い里が使われとるのだ?。
一里が延びとるわ、アホタレ。 >>251
そうだよ。いやなら二度と来るんではない。
そもそも、畿内スレである 説の意味
①とく。ときあかす。考えを述べる。「説明」「演説」
②せつ。意見。考え。「新説」「学説」
③はなし。ものがたり。また、うわさ。「小説」「風説」
ここは③が多数 行き当たりばったりでその場しのぎの言い訳を繰り返してきた畿内説が詰んだな
当たり前や ネトウヨは江戸時代の平田篤胤の説を守ろうと必死だからな
邪馬台国は九州と連呼するのは平田信者だから
最新の学説は邪馬台国畿内説だからな 前スレで畿内派が出してた古墳を全部調べた。全部前方後円墳だった 本居宣長は学者として偉大だったと思う
平田信者でない人間にとっては九州説プゲラなんだが百年以上前の説をネトウヨ信条のために擁護する輩がいるらしい >>259
阿波さんは前方後円墳の起源は四国と言ってる >>259
実は、前方後円墳の原型と言われているタイプの円墳が奈良にだけ無かったんだよ
数年前になんとか捏造して発見してたけど まだ、本居なんかを支持するものがおるのか?
国学者なんて者はその時代の権力にしたがうものだ、倭国であればまた違うことを言っとる、東大寺の坊主と同じ。 >>263
考古学者の白石太一郎氏も、「前方後円墳の始まりは四国吉野川下流域のすぐ北で出現し‥‥‥。」と述べておられます。(古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」第3回ここまでわかった日本の古代(平成27年9月27日(日)東京有楽町朝日ホール) >>227
君、いいねぇ〜、良い筋だw
それは良いんだけど、ニギハヤヒってどこの遺跡の王様だったんだ? まさか唐古鍵ってこたぁないよね?
Wikiより引用
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社)に降臨し、その後大和に移ったとされている。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていることや、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には日本古代史上、多くの重要な問題が含まれている。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。 他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする。
ニギハヤヒの墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である。 >>227
筑紫邪馬台国連合の共立女王・台与の死後、巫女だけに出産できないから跡継ぎが絶え、卑弥呼の時みたいにまた内乱勃発で殺し合いになることを恐れた邪馬台国連合30ヶ国の王たちが合議の末、崇神の纏向ヤマト王権に所領安堵を条件に加盟を願い出たのではないか?.
まさに今話題のウクライナのNATO(事務局長ストルテンベルク)やEU(ミシェル大統領)への加盟のように、緩やかな連合体www
>>259
そうだよ
前方部は祭壇で、百襲(卑弥呼)の墓は後円部
そして後円部直径は150m 魏志倭人伝に書かれている径百歩の冢にビッタビタなのは謎のエリア
https://i.imgur.com/NcHVWR1.jpg >>271
なるほど
ヤマト王権がNATO(集団的自衛権のある軍事同盟)やEU(経済同盟)のような超国家間同盟と考えると、
筑紫邪馬台国連合30カ国が倭国大乱や狗奴国戦争、卑弥呼死後の内乱でウンザリしているところへ、北部九州に急速に広がった理由がイメージできる。
しかも、崇神の父・神武はかつて卑弥呼の急死後に立った伊都国王で、平原女王(天照大神)の子か孫であり、かつての邪馬台国連合30カ国の仲間だったとなれば、お互いに親戚同盟関係もあるだろうし、1も2もなく崇神ヤマト王権への加盟を願い出ただろうw
内乱の責任を取って東征する際、神武は神宝として国内最大の内向花紋鏡の6枚目を持って饒速日に見せて従わせ、後に垂仁創建の伊勢神宮に御神体(八咫鏡)として祀られたと考えれば、一応辻褄が合うw
>>273
箸墓は掘らせないし、他は掘らない以上、仕方がニャーよw >>275
魏志倭人伝に伊都国1千戸には代々続く(世襲の)王がいるとあるけど、それが後に卑弥呼の死後に立って、国中が従わずに殺し合いになったという男王(神武)か!
でも、神武東征は日向から始まっているから、或いは神武は平原女王(天照大神)の子か孫という血筋の良さで、投馬国王5万戸も兼ねていたのかもしれん(王なし。官:弥々、副官:弥々那利)。 >>279
自分が立ったせいで、国中が従わず、筑紫邪馬台国連合30カ国同士で(しかも狗奴国と戦争中で、帯方郡に援軍要請中w)殺し合いになって千人も死んだとなれば、もう常駐している郡使の手前、伊都国にいられなくなり、兼務している投馬国に一旦雲隠れし、
新女王台与のお告げ(実は帯方郡張政の命令w)で汚名返上のために、曹魏帯方郡から買った邪馬台国連合自慢の純度の高い鉄器でニギハヤヒの大和を征服し、国内統一して来い!と命令されて、
日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和へ出発したと考えられるw 生まれ変わり
再生御魂 50~60年 2~3年
再誕御魂 300年 一般的
降誕御魂 菩薩 如来 諦観 神位
降臨御魂 神居ます肉身を神心貫く
再臨御魂
神臨御魂
佛臨御魂
私は、神仙で、観音行だから、降誕御魂かな >>283
よくもまぁ、そんな複雑な妄想を思い付くなぁ。。。
でも、それ(神武東征は、帯方郡・張政の命令だった!?)が史実なら、天皇家としても邪馬台国の存在は、是が非でも消さねばなるまい... >>279
伊都国には郡使が常駐してるし、奴国と並び、後漢から交流が続く名門王家だったのだろう
代々(続く世襲の)王がいるとわざわざ書いているのは、その上に君臨する倭王である卑弥呼が、伊都国のような世襲の王朝女王ではなく、臨時の共立女王であることを強調するためと考えられる >>285
イレギュラーなんだから
邪馬台国は中心国にはならない。 しかし、まぁ勝手な都合のいい話ばかりするのが九州だが、地に足がついてないから薄っぺらでてんで話にならんな、
終ってることをいつまでも言っても無駄だよ。
九州は前漢鏡ばかり出てくる卑弥呼前に終ってる場所。
魏度量衡北枕前方後円墳、神獣鏡、桃、女性墓箸墓、から神仙思想を否定しようがないがそれが都合の悪いことだと思っているのが本居らなんだね。だが、もう、無理だね。ホトを突いてはダメだね。 台与が貰ったのが日田の鉄鏡だとすると、卑弥呼も鉄鏡を貰っているかもしれんね、それが明日出てくる可能性もある。 今いちばん本質に迫ってるのが 「濊倭同系」 説
斎藤成也 @Saitou_Sayer
日本語系統論共同研究会で、伊藤英人先生が開陳された濊倭同系説に深く興味を持ちました。
そこから私の妄想がはじまり、倭(わ)とは、朝鮮半島の東西南沿岸から遼東半島、山東半島、
さらに南下して台湾島の反対側あたりまでの海岸一帯に居住していた人々ではなかろうかと・・・ 濊人と倭人 西北大学考古学部 王建新
中国の学者は古代の倭人についてあまり研究していません。
日本の学者はこの分野を重視していますが、国民感情よって制限されるため客観的に議論することはできません。倭人の起源は未解決の問題です。
1996年から1999年にかけて、著者は北東アジアの青銅器時代に関する研究を実施し、日本で「北東アジアの青銅文化」という本を出版しました。
著者は研究に基づいて、濊人と貊人と倭人などの古代北東アジアの集団を体系的に分析しました。
「山海經・海内北經」「後漢書・鮮卑伝」「論衡」などの文献には、古代倭に関する記録があり、多くの学者が日本列島の倭人と関連づけて研究しています。
しかし、文書に記録されている倭の状況から判断すると、彼らは日本列島に住んでいる倭人ではなく、
遼東、吉昌、長白山周辺及び朝鮮半島北部に住んでいた古代濊人です。 地動説がちらほら。
過大評価や願望定義に気がつく人も
増えてくるだろう。 >>281
>甕棺は殉葬じゃないの?
それだと石棺は卑弥呼なんかよりはるか昔の墓ってことになるね
九州説残念でした >>288
日田の鉄鏡は、
曹操の墓に埋葬されていた鉄鏡と同じ
9寸の金銀象嵌の鉄鏡で、
曹操は鉄鏡を授けた皇帝側ではなく、
鉄鏡を授かった貴人公司の側である事が確定した。
つまり、日田の鉄鏡も漢の皇帝が貴人公司に授けた40枚の鉄鏡の1枚であり、
しかも曹操に授けたと同じ、
金銀象嵌の鉄鏡ということで、
曹操と同格の貴人公司に授けた鉄鏡が
日田にあったということが確定したのである。
従って日田の鉄鏡は卑弥呼が授かった鏡のうちの1枚という説は成り立ちようが無くなった。 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ 記紀と旧事紀以外の上代の伝承はないとされているがそんな事はない
因幡伊福氏系図や海部氏系図や住吉大社神代記など記紀とは内容を異とする伝承が残っている
これ以外にも多くあったと思われるが長い歴史のなかで失われてしまったのだろう
宋書に神武は筑紫城にいたという記載がある
これは比叡山の僧が渡宋して中国側に伝わった知識だろう
記紀の説と違う内容だがここから比叡山と日吉大社にも記紀にない別伝があったと思われる
信長の比叡山焼き討ちが無ければ残っていたかもしれない
叡山の伝がどのようなものであったか今となっては不明だが古書に面白い記述が残っている
日蓮遺文の中に日本は三韓と同種であったがその類の書は桓武の時代に焼き捨てられたとある
比叡山は平安鎌倉の日本の最高学府であり記紀を超える史書が独自編纂されていても不思議では無かった
神武が筑紫城にいたというのは興味深い伝だと思う
日本では無理だろうが中国や韓国から日本に関する別伝が見つかること期待したい 鏡は貰ったり作ったりしてもすぐに副葬しないだろ。使用期間を計算に入れないとな。 >>296
> 被葬者が女性の古墳って奈良にあったっけ?
箸墓、手白髪、五社神ほか >>301
> 鏡は貰ったり作ったりしてもすぐに副葬しないだろ。使用期間を計算に入れないとな。
根拠なし 現代の日本人は明らかに大混血種なのに祖先はコレだとか頭がおかしいの? >>303
ほうほう、卑弥呼はもらった鏡を自分が死ぬ前に埋めたと? >>300
> 宋書に神武は筑紫城にいたという記載がある
> これは比叡山の僧が渡宋して中国側に伝わった知識だろう
いや、東大寺僧
> 神武が筑紫城にいたというのは興味深い伝だと思う
ほかの人は興味ない
築紫日向宮の書き換えと判明済みなので >>305
> ほうほう、卑弥呼はもらった鏡を自分が死ぬ前に埋めたと?
誰も言ってないことを妄想するのは異常な人 北部九州が女王制度を取り入れ、卑弥呼は東の倭種の国を含め100国すべを和解させるつもりで鏡を100枚貰ったんじゃないかな >>308
ならば受領から副葬までタイムラグがあるのだな? 存在したらしい、秦王神武がタタラ(任那)の姫を嫁にとっても不思議ではないわな。 曹操の鉄鏡に関して、
曹操が授けた側で、
曹操は1尺2寸の皇帝が持つ鉄鏡を持っていた
なる文献が多数存在していたが、
コレが曹操の墓から出た鉄鏡が9寸であったことで、
間違い無いである事が分かったのだ。
鉄鏡を授けたのは漢の献帝で、
曹操は9寸の鏡を授けられた貴人公主の側だったのだ。
それに金銀象嵌を施していたということで、
日田の鉄鏡が授けられた人物は、
曹操と同格の貴人公主であり、
実際に誰が日本に渡来したのか、
考察が待たれる。 ネトウヨは知らぬだろうが平安末期から中世神道といわれる記紀の時代とは違う新しい神道が隆盛しはじめる
仏教理論を持って再構築された神仏習合の神道である
恐らく上代の日本では言霊信仰からくる宗教的な漢字忌避が存在した
古墳から墓碑がまったく見つからぬのはそれが理由だろう
江戸時代に写真を撮ると魂が抜けるという迷信があった
写真に被写体の魂が宿ってしまうゆえに生命力が抜けるという発想だ
文字に名前が記されなかったのも同じような発想だった可能性がある
つまり漢字でしるされた墓誌に故人の魂が入ってこの世に残ってしまうと考えたのかもしれない
上代の神道の神学や儀式体系などは言挙げされなかったと考えられる
故に今となってはよく分からない
中世に入ると仏教と集合したが故に言挙げが始まり次々と神道理論書が現れるようになる
もっとも早期のものに中臣祓訓解というものがある
また伊勢神道の五部書なども出てくる
初期のものは記紀に収録されなかった上代の伝承が入っている事がありなかなか興味深いものがある
しかし晩期になるとドンドン創作のとんでもないものが出てきてオカルト書の度合いが増してくる
その典型が古史古伝の書籍一群だ
東日流外三郡誌などは最後の古史古伝と言って良い
古史古伝は信用ならぬ書物であるが、それ産まれしまった理由もまた日本の歴史の一部であったわけだな 漢字忌避www
このスレは完全にアタオカホイホイと化したな。 吉野ヶ里
被葬者と漢委奴國王印が出土
だったら面白い 荒神谷遺跡の銅剣が博多湾周辺の部族の出雲進出を表し、
銅鐸の分布の時代変遷が大国主の國造の変遷と一致し、
高地性集落や銅剣銅矛の出土が、記紀の国譲りや天孫降臨の伝承と一致する等から、
前2世紀~2世紀の日本の出来事が、
720年においてもかなり正確に伝わっていた事が分かる。 昨日の続き
寺澤先生の最新作「卑弥呼とヤマト王権」では、卑弥呼共立の舞台裏(p270〜)では、
卑弥呼の出自が、ヤマトの地ではないことを明確に主張されています。
つまり、東遷です。では、卑弥呼の出自はどこかというと、
「伊都国の王系に繋がる可能性ことは、排除できない」というちょっと
煮え切らない表現ではありますが、候補として上がっているのは、伊都国だけです。
吉備がどうとか、崇神がどうとか、何をどう読んでるですかね?
もちろん、纏向を考える際にはどちらも重要ですが、
寺澤先生の視野では明確に伊都国東遷が捉えられています。 同書では、平原出土の大鏡を「日暈鏡」と読んで、それが太陽信仰の象徴であると、
原田、柳田の先行研究を肯定的に捉えた上で、寺澤古代史論の核心的部分、
前方後円墳での首長霊継承のアイテムとして、ヤマトでも「日暈鏡」が使われたと推測しています。
(p253)
つまり、血統というのは証明できませんが、文化としては、伊都国東遷であると、
明確な主張をおこなっているんですよ。 畿内説にとって共立は重要なワードなんだよな
やたら共立、からの連合を強調するなと思ってたが、
周辺地域の人たちの支持を取り付けたいという現代的な意図があることに気づいたわ
大和王権は各国の支持のもと民主主義的に成立したんだよ
あなたの国も参画してたの
(だから畿内説を支持してね) 九州勢力が瀬戸内の国々を巻き込んで近畿東遷が起きて邪馬台国(ヤマト王権)が出来たという理解がアカデミズムの世界では一般的になってきていると思う。
上代の日本では宗教者には神との交信能力が求められており、これは血筋によって決まると考えられていたから、卑弥呼の血筋はかなり良かったはず。アマテラスの末裔で無ければアマテラスの祭祀はできないというのが当時の思想。記紀でいう天孫の一族に相違ないと思う。ここは彼女を男王帥升の一族と考えたい。 あと、寺澤先生は、p274からは、「共立=東遷」という出来事の背景として、
公孫政権による204年の帯方郡設置を考えています。
共立によって国内混乱を収束させて、対外交渉窓口を一本化する外圧に晒されていたということですね。
寺澤史観は、明確に「イト倭国から新生倭国へ」という骨格構造があります。
>>167 は、いくらなんでも酷すぎます。 >>321
伊都が東遷して何故ヤマトを名乗るんだよアホすぎる。 >>1
これらは約100年間のあいだに連続して起きている事
魏志倭人伝に記録されている倭国の政治的出来事
1.倭国大乱
2.卑弥呼を女王として共立(AD180年前後)
3.女王国vs狗奴国の戦争勃発
4.卑弥呼死去(AD247年頃)
5.男王を立てるも内乱勃発し死者1000人以上
6.台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)
それぞれどの遺跡、どの痕跡が該当するのか? 東征だけだよ
遷都なんてしなかったから後で神武の物語が必要になったんだ 邪馬台(ヤマト)が東遷してヤマト王権。これでいい。伊都が無理やり出る幕なし。 >>330
そんな名称だけの薄っぺらいものじゃないんですよ。
伊都国の文化が、ヤマトに継承されている、その関係性が重要なんですよ。
個人的には、平原=卑弥呼、箸墓=トヨ であっても全然構わないですね、
平原から箸墓という継承関係こそが重要なんですよ
その継承されたものこそが、一番重要なんです。 >>328
その遺跡が邪馬台国とは限らないのだな。
卑弥呼がいた所なら理解できる。近畿 ヤマトの原義は山の麓
即ちヤマト国は三輪山の麓、もしくは畝傍山の麓の国
纏向遺跡か橿原宮のことだな >>320
それは考古学から出てくる結論じゃないから眉唾
研究生活を終えると、森浩一の生徒だった頃に教わったことがぶり返しちゃうんだろうかねえ 伊都は邪馬台に服従してた国。文化の吸い上げはあっただろう。 文化云々言ってたら前方後円墳の起源が四国ならヤマト王権は四国発祥になるんか?バカですか? >>334
考古学から出てくる結論は学問において眉唾 ネトウヨは中国人が穢人を不潔極まりない民族と書いているのを見て韓国人の先祖を不潔な穢人などと言っていたが実は穢は倭と同根の言葉であり半島日本語(Peninsular Japonic)の話者だと言われているんだよな
見事なネトウヨブーメランで笑いが止まらない >>296
>>302
最近の考古学の進展により、記紀による比定の誤り【西殿塚≠手白香姫♀陵(継体妃。6世紀の人物)→おそらく箸墓≠モモソ姫♀陵も、伝履中陵(兄)→伝仁徳陵(父)→伝反正陵(弟)も】が明らかになったわけで、まとめると、
卑弥呼の冢…祇園山古墳(同時期=甕棺墓に殉葬66人)
台与の墓…那珂八幡山古墳2号主体(本殿下の1号主体は父「男弟」)
饒速日の墓...ホケノ山
神武の墓…箸墓(吉備特殊器台)東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→【吉備→大和】)
細かい点はともかく、概ね編年がピタリと合う比定
@箸墓A黒塚B中山大塚C椿山大塚D西殿塚E柳本大塚F桜井茶臼山G東殿塚Hメスリ山H行燈山I渋谷向山
@神武A綏靖B安寧→C懿徳→D孝昭→E孝安→F孝霊→G孝元→H開化→I崇神 >>317
吉野ヶ里の石棺墓が倭王帥升の墓だったら、歴史が変わるなw ニギハヤヒは登美の族長の娘を娶ってウマシマジという子を儲けている
イワレヒコの一族は磯城の族長のクロハヤ(弟師木)の娘達を娶って子を儲けている
ニギハヤヒとイワレヒコはやっている事が同じ
共に他所からの移住者であったが故に先住民統治のため現地の族長の娘と婚姻関係を結んだのだろう
ニギハヤヒが九州人移民の第一波でイワレヒコが第二波だったのだろう
このように何波かに別れて人が移住してくるというのは伊都国が遷都したのではなく飢饉で九州の部族が何度もやってきたからと考えるのが自然だと思う
蛇足だが記紀では長髄彦が全て悪かった事になっているが怪しいな
ニギハヤヒやウマシマジがイワレヒコと戦端を開いた責任を全て長髄彦に押し付けて言い逃れしたのではないかと思う >>320
つ>>279
邪馬台国の傘下だった伊都国には代々王がいる、って書いてあるよw >>282
気まずい「神武の雲隠れ」を盛りに盛って、天孫降臨という神話にしてたら笑うw >>343
「伊都国王は女王国に代々統属していた」というのが、おかしな解釈なんですよ。
女王国は、新たに女王が立ったからこその女王国ですから。 >>342
つ>>270
最初の直感は常に当たっているというけど、あんたの見立てでは、ニギハヤヒはどこの弥生遺跡の王様だったと思う? TBS NEWS DIG Powered by JNN
【旧石器発掘ねつ造】次々と石器を発掘し“ゴッドハンド”と呼ばれた男…実は200か所以上の遺跡で“ねつ造”していた【平成の記憶】
https://youtu.be/JqJ1SG_5ogo 大陸倭語の「濊語」とか充分な史料が無かったために無かったかのように扱われてきた訳で
研究方法の発達でそれが変わることが歴史研究の真骨頂かと思う。
「濊倭同系説」も東京大学教授の福井玲氏が発表してても簡単には世の中に広まりそうに無いと思っていたが
現代日本人のDNAの8~9割が遼寧地域に由来するとなると現実のものになってきた。
濊は渡来系弥生人の祖先の大陸側に残った集団と見られる。 ホケノ山にも箸墓にも殉葬なし!w 纏向大型建物に楼観、厳設城柵なし!(猪除けのみ)w
捏造以前の単なる舌先三寸じゃないかw yamataikoku
yamat
aikoku
あっ… >>279
伊都国の記紀における呼称が筑紫の日向の高千穂宮
高祖山の南端がクシフル峯、その南に日向峠、東に日向川、北に小戸、西に平原遺跡 寺澤はヤマト王権の誕生は明治維新のようなものではなかったかと考えているようだが、
幕末は尊王、倒幕であって、千年以上続く天皇という存在が畿内にあり、
倒す政治体制が維新以前にあり、
また、慶喜が尊王論の水戸学であり、
さらにイギリス全権公使パークスの外交戦略の成功が大きかったのだが
そういったものは3世紀には一切ない 伊都国の平原遺跡は16人の殉死が確認出来る。
コレは卑弥呼の直属の巫女が存在していた事を表している。 >>345
(伊都国女王)卑弥呼が大和に東遷した後も、伊都国には王がいたって書いてあるのでゎ? >>354
弥生時代終末期になると、王は中国の支配者層に倣い石棺墓に、既存の甕棺墓は位の低いが王に仕えた使用人をまとめて埋葬する棺として製造されるようになったと考えられる。 >>345
倭の女王が共立された後の、
伊都国の丗(30年くらい)の王たちは皆女王国に隷属している >>303
前漢鏡と後漢鏡が同時に副葬されたりしているので、時間差があることはしばしばあったと思われる。
籠神社の饒速日の神鏡も前漢鏡と後漢鏡。
実は饒速日も、それより若い神武も、後漢代つまり紀元後の人物であることがわかる。 >>330
> 邪馬台(ヤマト)が東遷してヤマト王権。これでいい。伊都が無理やり出る幕なし。
その邪馬台の中心が伊都だよ。
筑紫城とも、筑紫の日向ともいう。 また、あの金印を授かった奴国が王を廃止させられて尚、
伊都国には王が居続けたということで、
奴国vs倭面土国の構図の中で、
伊都国は倭面土国の側の国であった事が分かるのである。 記紀は筑紫からの東遷ではなく、筑紫の東征なんだよな。
こういうところで嘘をつけないのが記紀。
あくまでも王都は筑紫。 >>355
伊都国にいた卑弥呼女王の前は男王が代々いた。 >>361
奴国と伊都国は墓制も神器も同じなので同じ一族。
奴国から伊都国に遷都した。 畿内説は畿内を一まとめにするくせに、奴国と伊都国を別々の王統にしようどなどと、スケール感がおかしいだろ。 イワレヒコにとっての畝傍山にあたる聖地がニギハヤヒにとっての岩舟神社にあたると思う
岩舟神社の位置から考えると登美はそこからあまり遠くない場所、即ち富雄丸山のトミで古来からの伝承どおり生駒山の麓と考えるのが自然という事になる
後の時代になるが物部は河内に大きな勢力を持っていた
ローマ帝国でも中国でもそうだがおよそ大乱の時期というのは一種の民族移動時代でもある
倭国大乱の時期にも部族の移動があったと考えておかしくはない
実際に考古学的にも倭国大乱が終わる頃に畿内での銅鐸祭祀は消滅して九州系の銅鏡祭祀に移行している
これは九州人が畿内を征服した証拠だろう
宗教が変わっているのだから九州勢力が単に軍を派遣して畿内を制圧したのではなく九州から部族丸ごとの移住が起こって畿内の現地人を完全に飲み込んでしまったのではないだろうか 伊都国に居た長官は爾仁ということで、
コレは神社の禰宜の事であり、
卑弥呼という巫女に仕える禰宜という役職が
当時から存在していた事が分かるのである。 >>365
誰が読んでもそうなるねw 岡上は現代文の読解力もゼロなのに、文献学者を名乗ってるから誰にも相手にされないのだw 伊都は倭国大乱で没落して邪馬台に降ったが統治の都合から伊都王家は解体させられず「王」の名乗りだけは許された。 >>366
その様な解釈は成り立たない。
何故なら、奴国王が逃げ込んだのは志賀島だからだ。 >>356
3世紀前半には、最大の弥生墳丘墓の倍くらいの規模の高塚(前方後円墳)が
畿内大和や博多に造られる時代が始まる >>368
君、いいねぇ〜、良い筋だw
でもニギハヤヒは河内磐船に天下った後、大和盆地に移り、そこで神武東征を迎え討ったっていうようなことが記紀に書いてあるんだよ。
ヤマトに引っ越した後の弥生遺跡と言えば?w
Wikiより引用
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社)に降臨し、その後大和に移ったとされている。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていることや、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には日本古代史上、多くの重要な問題が含まれている。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。 他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする。
ニギハヤヒの墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である。 桓帝霊帝の時代に韓と濊貊が強勢になって楽浪郡で制御できなくなったんだよ
その時代に倭国大乱も起きた
つまり韓か濊貊が南方にも強勢になってて列島に攻め込み倭国大乱を起こしたんじゃないかな
濊倭同系説にも繋がる >>372
女王国の内務省(治安監視機関「一大率」)や外交館(郡使常駐)が置かれてるんだもの、その解釈しかないね。 倭国大乱は狭穂彦王の乱で、
邪馬台国の皇子、狭穂彦王が
投馬国=妻に勢力を拡大し、
日向の生目と対峙したことで発生した。
ここで生目氏が勝つのだから、
日向生目氏が強かったとしか言いようがない。 壱岐の3分の1の小さな隷属国に倭国の中央官庁はない >>373
考古学的根拠を示した。
逃げ込んだというのはまったく意味がわからない。 >>377
「郡使【往来】常所駐」
郡使は常駐しない >>380
その解釈は間違い無いで、
単に風習が同じだったというだけでしかなく、
実際に奴国王が逃げ込んだのは志賀島という事実がソレを明確に否定している。 アカデミズムの世界では邪馬台国(ヤマト王権)は伊都国と繋がっていると考える人が多いかもしれない
これに対する反発は、筑後川流域だとしたい人たち(平田学徒)、宮崎県南部(恐らく妻国と言われていた)にしたい人たち(国家神道)、の存在があるからだな
オレとしては筑後川流域も宮崎県もそれなりに可能性はあると思っているが邪馬台国は畿内だから本質的には平田学徒とは相容れない >>377
内政と外交の中心で、王もいるなら、王都だろ。 >>383
筑後川流域は4世紀に熊襲として討伐された。
これが邪馬台国だろ。
吉野ヶ里もその中にある。
宮崎県は明らかに都万神社を中心とする投馬国だしね。
邪馬台国とは別の国だ。
つまり邪馬台国は九州北部しかない。 >>384
なら、そのまま代々(世襲の)王のいる伊都国が、女王之所都って書くだろw
狭〜い伊都国に、伊都国王と邪馬台国女王が2人で住んでましたってw 倭としての王都は伊都で、筑後川流域から共立された卑弥呼が伊都に入ったということで、全て説明がつく。
墓は平原遺跡。 志賀島の大祝家の阿雲氏は糟屋出自の一族と言う事で、
山門八女の勢力が糟屋に屯倉を置いて奴国一帯を支配していた事から、
奴国王が阿雲氏であった事は確実で、
ソレが志賀島に居て金印を隠していた事から、
奴国王阿雲氏は志賀島に逃げ込んだという歴史の事実が確定する。 奴国から伊都国まで一貫して墓制が甕棺墓だったのに、倭国大乱後の平原遺跡から木棺墓にかわる。
つまり卑弥呼が伊都国の外から招かれたことがわかる。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>387
伊都に代々王がいたと書いてあるが、伊都国王というものは魏志倭人伝に書かれていない。
伊都に代々いたのは、倭王だよ。
志賀島の金印を受け取ったのも、年代的には伊都の倭王だ。 奴国も伊都国も同じ王家。
博多湾沿岸のあちこちに宮家があっただけ。 倭が統一されるまでの倭王は自称だろ。朝貢して中華に認定されても同じことよ。 >>390
となると、明らかに格下の?吉野ヶ里の王様が、後漢支配層の模倣と思しきの石棺墓に葬られた意味が気になるなw
「倭面土国王」帥升の墓だったりしてw 統属も統制の下に属する以外に、系統・血統に属するの意味があるからな 平原遺跡も祇園山古墳も、
甕棺墓の最終期の日佐原kfv期の甕棺墓が存在し、
石棺や木棺と併存していた事から、
ちょうど埋葬方式が切り替わる時代だった事が分かる。 女王国というのは、180年ごろ女王が共立されて初めて成立した国ですよ。
伊都国王が代々女王国に統属することは出来ません。
「魏志倭人伝」はそもそもセンテンス同士が自己撞着が存在しているんですよ。
この問題は、魏略逸文と魏志倭人伝を見比べて初めて解決するんですよ。 >>393
3世紀前半の2万戸の奴国(博多)は纏向石塚と同じ当時九州最大の前方後円墳
糸島(平原1号は200年ころ)は馬韓と同じ大木を立てる蘇塗 >>395
原始的な弥生の石蓋土坑墓のただ大きいだけのブツじゃね? ベースである原東夷伝(魏略逸文)を杜撰に編集するから、
矛盾が出てくるわけです。 >>399
ナンセンスな我流説だな
倭人伝を無視するから岡上説が破綻してるだけ
常識では平原1号、2号、3号と三代伊都国王が変わってるから、代々女王に統属してて全然おかしくない >>394
中華に認定された時点で正式な倭王だよ。 >>402
架空の魏略で陳寿を否定するトンデモ説には説得力ゼロだよ >>406
外交デビューできるわけだからな。
中華皇帝による冊封は、今のNATO(集団的自衛権のある軍事同盟)とEU(経済同盟)への加盟認可と同じ意味を持つ。 頼む、現代文の読解力もない岡上を相手にするのはレスの無駄だから止めてくれw >>399
違うね。
魏代には女王だったから女王国と呼んでいるだけで、卑弥呼の称号が親魏倭王なのだから、卑弥呼の国は倭国。
志賀島の金印をもらった伊都国にいた王と同じ国。 57年に後漢から金印をもらったのは倭奴国王
これが女王が共立された倭国の一番南の国
後漢書には伊都国はない 卑弥呼は吉野ヶ里に嫁いだ平原王家の王女で倭国大乱で夫を亡くした後に共立されたのだろう まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
「其南有狗奴国、不属女王。男王卑弥弓呼、副官狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
次に、「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、鬼道を、鬼籍に入った歴代倭王の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏)の祖霊を祀る祈祷室はまさに巫女の卑弥呼にピッタリです!まとめると、
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑
女王国〜(東渡海千里)〜複有国皆倭種(本州)
...↓..................................↓
狗奴国(菊地平野)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里 >>412
後漢の頃には遠く離れた倭の情報は少なく、博多湾沿岸全体がぼんやりと認識されていただけだったのだろう。
そもそも奴国と伊都国が同じ王統ならわざわざ説明する必要もない。
八女と糟屋と志賀島が同じ王家なら、博多と糸島と早良だって同じだろ? >>413
吉野ヶ里から伊都に共立され、平原に葬られたのだろう。 >>414
去年の秋にも同じ書き込みをした事があるよ >>411
> 志賀島の金印をもらった伊都国にいた王と同じ国。
九州説は史料無視がひどいな
伊都国じゃ万二千余里に足りないだろ
足りない九州説 中国の史書は外国人が書いた書物だからね、
日本人に読ませるために書かれたものでもないし >>415
投馬国(宮崎平野)を足してみますた!
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑.............................↓(九州東岸)
女王国〜(東渡海千里)〜↓〜〜〜〜〜複有国皆倭種(本州)
...↓.............................↓...............↓
狗奴国(熊本菊地)投馬国(宮崎)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里 >>419
万里は超えているね。
一万二千里はそもそも中国の側の事情で、概念的な数字。
実際の郡使の行程は少しそれより短かっただけ。 >>85
>>93
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)
帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム) 平原遺跡か卑弥呼の墓だとする説は、卑弥呼が八女、高良など筑後などから共立された可能性を否定するものではなく、むしろ支持するものだ。
平原遺跡がそれまでの奴国や伊都国の王墓であった甕棺墓ではなくなるからだ。 世有王皆統属女王国
代々王あり皆女王国に統属している
伊都国王墓は紀元頃からあるから通説通り読むと破綻してるんだよ >>416
小さな伊都国は、女王国が誕生した後に
丗(30年くらい)女王国に隷属したから倭人伝に書かれている
首狩り甕棺墓は女王が共立される前にど没落しているので
同じ王統だという根拠が無い
八女は特に何もないのでどうでもいい 王が代々いるのはどこの国も同じ
伊都国だけ特筆されてるのは、それが伊都国王ではなく倭王を意味してるからだ >>424
否定するものだよ
誰にも鏡をやってないだろ? ここは普通に、伊都国には、後漢の時代以前から続く代々の世襲王がいて、邪馬台国の女王卑弥呼が共立されるとその傘下に入ったという解釈では? >>427
残念だが大和にそんな力はない
倭王が九州出身の場合のみ、その配下にいてもいいと思えるかもな >>428
それはお前の思い込みだよ。7世紀の山城国、摂津国、河内国、和泉国に王がいたか? >>428
魏は卑弥呼を倭の女王と認めたので
国々の代々自称王は魏から見て官
王がいる伊都国はまだ女王国の外の隷属国 >>434
従属国の中では従属前は中心的な国だったんだろうね。 >>429
王権の象徴たる八咫の鏡を渡したらダメだろw >>432
とても小さな伊都国は、邪馬台国にではなくて、女王国=連合に隷属している >>125
つまり畿内説は、霊感壺商法で濡れ手に粟のカルト宗教 >>433
> >>428
> それはお前の思い込みだよ。7世紀の山城国、摂津国、河内国、和泉国に王がいたか?
いないな。
倭王がいたのは博多湾沿岸だけだ。
それは志賀島、博多、糸島などだ。 まだ各国共立とかママゴトみたいな事を言ってるのか?女で混乱が収まるのは王統内での後継者争いだって。 >>434
伊都にいた代々の王は漢王朝が任命した倭王だよ。
志賀島の金印がその証だ。
博多湾が倭であり、卑弥呼の時代に拡大した九州北部邪馬台国の王都。 >>421
>>423
水泳部JKの割れ目クッキリ競泳水着みたいに、ピッタリやん! >>436
卑弥呼が火の国女王であるなら、当たらずとも遠からず。
伊都にいた代々の倭王は、卑弥呼の時代には伊都国の官吏として存続していた。
そして卑弥呼が倭国全体の女王として共立され、王都である伊都国に勧請された。 >>443
>>409
中華皇帝のお墨付きをもらった倭王なら半島の国々とも交流しやすくなるからな >>443
それは高麗盗人の考え
57年に後漢から金印をもらったのは倭奴国王 >>440
日本書紀は、神功皇后を卑弥呼に見立てている。
神功皇后が筑紫香椎宮に入る時に、伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王が三種の神器を榊に掛けて出迎えている。
これが筑紫城で倭王となる者を迎える儀式として描いているんだよ。
日本書紀の編者らは魏志倭人伝を読んでいるからね。 江戸時代で喩えると、邪馬台国時代の伊都国は吉良家や織田家など、朝廷との交渉・相談役である高家、邪馬台国は徳川将軍家 倭人在帶方東南大海之中依山?為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
倭在韓東南大海中依山?為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統
この二つは同じ事が書いてあるけど時代は漢代
だから魏志倭人伝に書いてあるけど300年前の話し >>442
博多湾沿岸のそれぞれの宮家が卑弥呼を共立することで家督争いがおさまった。
博多湾沿岸の国々を現代の感覚で別の国、別の王家と考えるからおかしいわけで、記紀では遠い出雲や大和も親族なくらいなのだから、狭い博多湾沿岸の王家はすべて同じ一族だよ。
後の制度では宮家みたいなもの。 >>449
何言ってるかわからんが共立と書いてるのは魏志倭人伝 >>449
伊都高祖宮というのは無い
糸島鮮人の作り話 >>451
【漢委奴国王・帥升】100カ国国→【倭国大乱】→共立女王・卑弥呼の邪馬台国連合30カ国(女王国)
割れ目クッキリ水泳部JKの競泳水着みたいにピッタリやん! >>455
もっと古い話で武帝滅朝鮮は紀元前108年 >>448
博多も糸島も、甕棺墓で共通しているから同じ王家だ。
宮家が博多湾沿岸に散在していただけ。
日本書紀では、伊都高祖宮と筑紫香椎宮と筑紫岡田宮が併存している。 >>453
その共立の日本側での記録として、神功皇后と仲哀天皇が筑紫香椎宮に迎えられた話が書かれているんだよ。
日本書紀の建前は、卑弥呼=神功皇后だからね。
共立に触れないわけにはいかなかった。
少なくとも7世紀頃には、2世紀の卑弥呼共立を三種の神器で迎える儀式として理解していたということがわかる。 纏向遺跡と箸墓古墳そして三輪山
距離が近いというだけで関連性があるようには見えない
https://i.imgur.com/7SuLrg5.png
方角もズレてる 博多湾の国々には王は居なかったので、
その争いの中での女王共立というのは、
考え方として間違っている。 >>457
> 日本書紀では、伊都高祖宮と筑紫香椎宮と筑紫岡田宮が併存している。
併存ってガセだろ >>457
1世紀くらいの奴国の中心地は春日のあたり
甕棺墓は朝鮮半島南部にもあるから同じ王家ではない
日本書紀に伊都高祖宮というのは無い >>461
で、共立女王の死後、再び倭王位継承戦争が起こって1000人殺されているので、むしろピッタリw
巨大古墳がバンバン造れるような、平和で物流も安定した地域ではないw >>461
中国の立場としては、冊封した倭王だけが王だ。
つまり伊都国にいた王だ。
しかし日本側としては、その王族は博多湾沿岸の各地にいた。
志賀島、博多、香椎、糸島、早良、八女、高良、香春。 >>461
あたま変な人ですか?
倭国王を共立したら、もう各地に王はいないでしょ? >>463
朝鮮半島南岸も倭人の支配地域だから、甕棺墓の範囲が後漢書などの倭国の支配地域。 伊都国王=邪馬台国女王・卑弥呼?
じゃないだろ、筑紫女王卑弥呼と伊都国王は別人でしょう。 >>466
だからかつては自称王がたくさんいたとあるだろ?
後の天皇家の宮家の制度を見ればわかるだろ。
王位を継承したら、伊都または香椎に入ったんだよ。 >>468
別人とはどこにも書いてない。
倭王は代々伊都にいたと書いてある。
あと、伊都国王などという地位もない。
伊都にいたのは倭王。 >>470
まして畿内など、まったく魏志倭人伝と関係ない地域ということだよね?
福岡県内ですら何ヶ国にも分割するんだろ? >>467
「博多も糸島も、甕棺墓で共通しているから同じ王家だ」といトンデモ説が潰れました >>472
> 倭王は代々伊都にいたと書いてある。
九州説さん捏造おつ >>466
ソレはアンタの勝手な主張。
倭面土国として奴国を制圧した際に、
その他の国々の王も制圧され
いなくなったというのが正しい考え方だろう。 >>467
後漢書の倭国は後漢末期に女王が共立された倭国(女王国+隷属国)
その一番南が1世紀に朝見した倭奴国
首狩り頭ど変形甕棺墓は宇土半島まで分布し
女王が共立される前にど没落した >>473
近畿なら水行から関係するけど。
行っていないけどね。
万二千餘里は奴国や不彌国まで。
丹、ト骨、絹、鉄はある。 >>473
3世紀前半の畿内の纏向石塚と同じ高塚は博多に造られる
畿内の土師器を模倣制作で成立した筑前型庄内甕も博多
有明海沿岸とはほぼ関係ない 女王共立とは、
邪馬台国の彦坐王の跡継ぎ、
狭穂彦王が生目との戦いで
命を落とし、
生目に娘たちを人質を取られ、
その間に出来た倭姫命を、
彦坐王と生目氏のお互いの後継者として認め、
女王にした事を指すのであって、
この彦坐王の系列が女王を王にするシステムの集大成が、
神功皇后の排出に繋がっているのである。 >>479
3世紀の博多はすでに商業の町。
各地から多様な人々が集まり、畿内からも上京していた田舎者がいた。
しかし大事なのは王墓がある糸島の方だ。
魏志倭人伝も奴国より伊都国を重視している。
畿内説が博多にこだわるのは、そこしか畿内との関わりがないから。
しかもその関わりは一方的であり、全国の産物が博多湾沿岸めがけて集まるのである。 纏向石塚古墳や東田大塚古墳をドローンレーザー測量で調べて欲しいものだ
中身が透けて見えるから掘り返さなくてもよい
重要な何かが見つかるだろう
箸墓や行燈山も調査願いたい 漢委【奴国王】→倭面土【伊都国王】→共立女王筑紫【邪馬台国王】と
奴国→伊都国→筑紫(吉野ヶ里)へと倭王権が北部九州を推移していったたわけで、
卑弥呼より1世代前の平原女王(天照大神)の子の伊都国王・神武が卑弥呼の後の倭王に立とうとしたものの、
国中が不服で内乱抗争が起き、1000人殺害された責任を取って、新女王台与(実は帯方郡張政)の命令で汚名返上のため、
曹魏帯方郡から輸入した筑紫邪馬台国連合自慢の鉄鏃で瀬戸内海吉備経由で東征し、大和のニギハヤヒ王権を征服して、纏向ヤマト王権を打ち立てたのだ。 >>476
そんなことは日本の歴史にも中国の史書にもない。 >>483
記紀を知らないアンタの知性の無さの自白でしかない。 >>482
>しかもその関わりは一方的であり、
奴国王の墓制が畿内式になってますけど? 倭人が魏に朝貢したように、倭種も北九州に朝貢していたのだろうね >>474
博多と糸島が別の国なら、はるか離れた奈良などましてまったく関係ない国だよね。
奈良は尾張としか交易していなかったみたいだし。 >>487
もう少し日本書紀や古事記を読み込もうな。 >>489
魏志倭人伝の時代には奴国王はない。
残念でした。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>458
何言ってんのか全然わかんね
魏志倭人伝に共立だと書いてるんだしそれで良いじゃん
それが間違ってると言うなら話にもなるけど て~かさあ、記紀を知らない読まないヤツがさあ、
オレはそんなこと知らんから、
そんなことはナインや~
っつても通らん訳。
まず倭姫命(ヤマトノヒメミコ)周辺部分は、
キチンと読んで書き込もうや。 >>494
那珂八幡古墳は王や豪族
ではないのか? >>500
土器の中に食べ物とかが入っていたんだよ。
土器そのものは九州でいくらでも作れるからね。
あと製鉄はたくさんの燃料を必要とするから、しだいに王都から離れたところに産地を移すしかない。
ただし列島で最古の製鉄遺跡は糸島にある。 >>482
3世紀前半九州最大の前方後円墳は博多の那珂八幡古墳86m(纏向石塚96mに続く)
倭人伝は女王国が郡とのルート上の隷属国に一大率を置いて統制したことが書かれ
考古学的にも今宿今山に博多の筑前型庄内甕が多量に搬入され
糸島内陸平野には、減少する楽浪土器に替わる馬韓系土器が搬入されない
平原蘇塗跡は200年ころの1号の後の2号以降貧乏になる >>501
共立でどのような話し合いをしてどのような勢力が参加してどのような儀式をした?
その記録、と少なくとも日本書紀の編者がみなしたのが、仲哀天皇を伊都と岡田が香椎に迎える話なんだよ。 >>271
なるほど
ヤマト王権がNATO(集団的自衛権のある軍事同盟)やEU(経済同盟)のような超国家間同盟と考えると、
筑紫邪馬台国連合30カ国が倭国大乱や狗奴国戦争、卑弥呼死後の内乱でウンザリしているところへ、北部九州に急速に広がった理由がイメージできる。
しかも、崇神の父・神武はかつて卑弥呼の急死後に立った伊都国王で、平原女王(天照大神)の子か孫であり、かつての邪馬台国連合30カ国の仲間だったとなれば、お互いに親戚同盟関係もあるだろうし、1も2もなく崇神ヤマト王権への加盟を願い出ただろうw
内乱の責任を取って東征する際、神武は神宝として国内最大の内向花紋鏡の6枚目を持って饒速日に見せて従わせ、後に垂仁創建の伊勢神宮に御神体(八咫鏡)として祀られたと考えれば、一応辻褄が合うw >>500
各地の産物だろ 倭人伝には酒が好きと書いているから地酒だなw て~かさあ、記紀を知らない読まないヤツがさあ、
オレはそんなこと知らんから、
そんなことはナインや~
っつても通らん訳。
まず魏志倭人伝と共通する伊都国が登場する仲哀天皇の周辺部分は、
キチンと読んで書き込もうや。 >>491
>奈良は尾張としか交易していなかったみたいだし。
そうやって姑息にニセ情報で急場をしのごうとしている限り
九州説は生き返れない >>508
製鉄技術は伊都または伊都を含む博多湾沿岸の海人族が西日本一帯に広めたんだよ。
天津神と言い換えてもいい。 >>509
おまえ頭おかしいのか?
共立と書いてるんだしもうそれでいいじゃん
根拠不明の記紀を持ち出しても何の意味もない >>510
魏志倭人伝に伊都国1千戸には代々続く(世襲の)王がいるとあるけど、それが後に卑弥呼の死後に立って、国中が従わずに殺し合いになったという男王(神武)か!
でも、神武東征は日向から始まっているから、或いは神武は平原女王(天照大神)の子か孫という血筋の良さで、投馬国王5万戸も兼ねていたのかもしれん(王なし。官:弥々、副官:弥々那利)。 >>510
残念ながら神武は八咫の鏡を持っていなかった。
饒速日と見せ合ったのは天羽羽矢であると明記されている。
八咫の鏡を持っていたらそれを見せたはずなのに。 >>516
その通り。
だから那珂八幡は意味がない。 >>520
邪馬台国には4代の王がいた。
「正始中、卑弥呼死、更立男王@、国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女台与為王。其後復立男王A、並受中国爵命」
卑弥呼→男王@(国中不服・更相誅殺)→台与→男王A(受中国爵命)
男王@は神武で、内乱の責任を取らされて、瀬戸内海の吉備経由で東征し、大和の饒速日王権を征服して纏向王権を打ち立てた。
男王Aは崇神で、台与の死後(巫女なので結婚出産は不可)、纏向王権が邪馬台国を吸収して、全国支配が確立した。
どや?w 崇神は風土記を見れば、
孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇といった、
中国地方の逸話の残る中国地方出自の豪族の一派であることが分かる。
コレはおそらく平型銅剣の分布する地域の部族で、
このことからおそらくはこの部族も、
元をたどれば博多湾出身の部族ということになるだろう。 >>518
三種の神器がないし、魏志倭人伝にも奴国に王の記事はない。
後漢書では倭奴国の王に金印を渡したことになっているが、魏志倭人伝では実は代々の王は伊都国にいたと明かしているのである。
後漢の頃は、博多湾沿岸全体を区別していなかった。 >>516
>奴国に王はなし。
倭国王共立に加わって奴国王を降りた人物が国王の礼で王墓に葬られることに、なんの問題もない 九州説 サッパリわからない。
天皇側の記紀とは関係ないのでは?
なんで八咫の鏡とか伊都国が血筋など出てくるのか?邇邇芸とか?関連づけようとするのだろうか? >>516
倭人伝では、女王国の卑弥呼以外の代々自称王だった者は官と書かれている >>523
投馬国王も兼務する伊都国王である自分が立ったせいで、(投馬国5万戸とのパワーバランスが崩れると)国中が従わず、筑紫邪馬台国連合30カ国同士で(しかも狗奴国と戦争中で、帯方郡に援軍要請中w)殺し合いになって千人も死んだとなれば、もう常駐している郡使の手前、伊都国にいられなくなり、兼務している投馬国に一旦雲隠れ(天孫降臨)し、
新女王台与のお告げ(実は帯方郡張政の命令)で汚名返上のために、曹魏帯方郡から輸入した邪馬台国連合自慢の純度の高い鉄器でニギハヤヒの大和を征服し、国内統一して来い!と命令されて、
日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和へ出発したと考えられる >>520
卑弥呼の前の男王が神武の祖父たちだ。
魏志倭人伝の70から80年は、日向三代でピッタリ。
しかも糸島の鎮守である高祖宮は神武の祖父の彦火火出見を祭っている。 >>522
必死に考古学から目を逸らそうとすればするほど、九州説に対する世間の目は冷たくなっていくよ >>526
王として葬られた場合は三種の神器が副葬される。
前漢の時代には早良などにそれがあり、確かに奴国にも王がいた。
しかし後漢になってからは糸島に遷都した。 >>527
三種の神器を貰ったのが邇邇芸と書かれているからな >>531
高麗人が縣主の伊都郡の高祖神社は式外社 >>530
30カ国は300年前の話しでそれ以降変わってないとは考え難い この崇神系の豪族は、
縁戚関係を見ると、
物部氏と結んで大和に進出し、
モモソヒメが大物主を取り込んで、
三輪山纏向を手中に収めた事が分かる。
その後四道将軍を各地に派遣し、
初国の主と呼ばれるようになった、
大和を中心に日本を収めた高天原を出自した最初の人物と言うことになる。 >>529
>王墓はどこにある
当然、当時九州最大の墳丘もつ墓、那珂八幡でしょ >>520
>>530
よくもまぁ、そんな複雑な妄想を思い付くなぁ。。。
でも、それ(神武東征は、帯方郡・張政の命令)が史実なら、天皇家としても邪馬台国の存在は、是が非でも消さねばなるまい.. >>527
日本書紀は神功皇后を卑弥呼に見立てて、筑紫の話をそこだけたくさん書いている。
魏志倭人伝と同じ時代の同じ場所の日本側の記録と比較するのは当然だ。 >>535
だよね。なんで記紀と合わせるのか?
サッパリ わからない >>528
伊都にいた代々の倭王は、卑弥呼の共立とともに中国の立場としては官と書くしかない。
ネギがかつての天孫ニニギの末裔だろ。
そして伊都国の高祖宮が、記紀の筑紫の日向の高千穂宮。 >>533
後漢書は「國皆稱王丗丗傳統」
倭人伝の国々では官
王が居るとてつもなく小さな伊都国は隷属國、
男王が居る狗奴國は不屬女王 >>532
那珂八幡から三種の神器が出たら考え直すよ。
出るまでは那珂八幡はたくさんいた前方後円墳の豪族の一人だ。 >>541
比較はいいけど、血統は違うのでは?
卑弥呼は記紀とは関係ない人物で済むのでは? >>542
記紀に描かれた三種の神器、特に八咫の鏡まで出土したからね。
考古学的証拠を無視するなよ? >>530
>>531
神武=伊都国王(平原女王の子孫)=投馬国王も兼務(官:弥々)
→新女王台与(実は帯方郡張政)の命令で東征(日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和ニギハヤヒ王権征服)
確定だな! >>545
弥生中期の首狩り甕棺墓は卑弥呼以前にど没落したので関係ない >>548
していないけど?
九州説は卑弥呼が記紀に登場しないとか書くからだよ。 一方の日向出身の豪族が大和に進出したのは、
垂仁景行天皇時代しかなく、
景行天皇が崇神系の豪族、
吉備津彦の娘、播磨媛と結んで、
その縁で大和の崇神纏向に進出していった事が読み取れる。
コレをモチーフに、
吉備に長期滞在してから大和に進出していったというのが
神武の東征の物語で、
実際には倭国大乱の狭穂彦王の乱で勝利を収めた生目氏が、
宇佐の妻垣に拠点を構え、
そこから吉備津彦と縁を結んで、
崇神朝の纏向に進出していったのが、
日向生目の東征になる。 >>540
卑弥呼が消された理由も確定してスッキリ! >>546
そうだね。
でも同じ時代の同じ場所の話が書かれていることになっている。
あと、卑弥呼が皇族だとは一言も書いてないからね。
筑後山門から共立されて伊都に入ったのだろう。
だからこそ、記紀は本当の卑弥呼を消し去り、120年後の神功皇后にすり替えたんだよ。
皇族以外が倭王として君臨した記録など、記紀編纂者にとってはあってはならな話だからね。 確かに、崇神の宮跡と纏向遺跡はぜんぜん違うところにあるな
シンプルだがこういう指摘は大事だ >>549
神武は四男で、筑紫を出た時にはまだ権力はなかった。
大和に着く前に兄たちが全て亡くなった。 ヤマト王権の初代王は男王でも女王でも血筋はかなり高貴だったはず
昔はクニの王=クニ神の大禰宜=クニ神の祭神の子だった
王として共立されるのならば各国の族長の中でももっと血筋の良い神の子でなければならない
奴国王は恐らく海人族であろうから邪馬台国の大王になるには役不足だろう
当時の倭国で王と共立されるには日の御子で無ければならない
クニ神が太陽信仰である宮崎の王か高祖神を祭る伊都国の王あたりが候補になるだろう >>548
三種の神器が出た時点で
天皇側になるだろう。 >>550
その通り。
糸島の甕棺墓王家は卑弥呼共立とともに権力を失い、官として扱われた。
平原遺跡の卑弥呼は甕棺墓ではなく木棺墓である。 >>555
筑後山門は国学者がホラこき盗人と断じただけの説
考古学的には何の根拠もない >>530
>>549
なぁ〜んだ、結局、纏向ヤマト王権=伊都国王(神武・崇神)ってことか、ああ、つまんねw >>555
卑弥呼が消された理由もはっきりしてスッキリ! >>555
天皇の風習や祭事と異なるなら
理解できる。 短里と呼ばれるものは周代の単位の可能性がある
そうなると紀元前660年の神武と整合性が取れる
記紀編纂者はそれに気付いて書いたのかも で、この高天原出自で、
日本に最初に統一政権をもたらした崇神が、
後の倭健命の血筋の男子を王にする天皇というシステムの垂仁景行と直系の親子関係だっていう創作が、
記紀のこの辺りの物語の部分で、
神武は居たとしても実際には日向高千穂の豪族で、
東征はしていないというのが正しい見方になる。 >>560
平原蘇塗跡の大木を立てるのは馬韓伝にある記述
倭人伝にはない >>559
天皇家の一員ではないが、倭王として三種の神器を持っていた。
日本書紀では、神夏磯姫や、伊都と岡田の王族も三種の神器を掲げている。
天皇家と関係なくても、博多湾沿岸の王族であればいい。
天皇家の遠縁ではあるのだろうけど、景行天皇の様子からは、もう彼らは親族とすら認識できないくらい離れていたことがわかる。 >>568
だが郡使は見ていたはずだ。
見たが書かなかっただけ。 九州説から東遷とか東征が出るのも
おかしな事。記紀を真っ向から否定なら理解も
できよう。 >>561
高麗人が住んだ糸島を日本神話の起源にしたい
特殊な人が言い張っているだけの主張で根拠はない 女王共立はあくまでも
邪馬台国の彦坐王の跡取り、
狭穂彦王が生目氏に討たれたという特殊な状況で、
生目氏と彦坐王の両方の血を受け継ぐ
倭姫命が女王として邪馬台国の王になったという
特殊な状況を表しているのである。 >>574
なんで邪馬台国が皇族なんだ?
九州説ではないなら理解できる 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
これは陳寿自身が漢代だと書いている
それに距離単位が周代だと考えれば時代がバラバラだ >>563
平原遺跡と纏向大型建物は、共通して太陽信仰(東西軸線一直線上に建物を並べる)の同じDNA 卑弥呼の時代には既に奴国や不彌国、末盧国、投馬国、対馬国、一支国には王は居なかった。
これらの国は一大卒を置いて支配していたので、
これらの国と共立して女王を選出したという考えは間違った考え方になる。 >>570
郡使は、倭の女王国に隷属したど小国だから寂れた馬韓人の墓地もあるんだなと思った >>530
伊都国王が投馬国王(官:弥々)も兼務していたとなると、女王国(筑紫邪馬台国連合30カ国)にとっても無視できない存在だったろうな 中国も秦の時代で初めて統一した
記紀編纂者はそれを知ってて合わせたんだろう >>579
投馬国も邪馬台国も王がいなかったでいいな >>580
べつにしなくても
そこは指摘するだけのこと >>578
馬韓人の平原蘇塗跡1号は頭を西北に向けているので太陽は意識していない 垂仁は実際には日向生目に居て、
生目古墳群が生目氏の拠点。
狭穂彦王は妻の西都原に居て、
西都原古墳群が狭穂彦王の拠点。
この間の戦いが狭穂彦王の乱になる。 短里で書かれた国名は周代で魏の時代にはおそらく存在しない >>588
邪馬台国以外は女王国ではないでいいか? ここで狭穂彦王が破れて、
生目垂仁が勝ち、
生目が邪馬台国の長官になったのが、
魏志倭人伝の伊支馬長官になる。 >>589
畿内には日向の豪族が進出して
狭穂彦王と争った弥生の痕跡が無い。
日向生目と妻西都原にはソレがある。 以上をまとめると、
筑紫邪馬台国の4人の王
「初代・卑弥呼→2代目・伊都&投馬国王・神武(国中不服の汚名返上で東征、大和ニギハヤヒ王権を征服、纏向ヤマト王権樹立)→3代目・台与→4代目・崇神(台与死後に筑紫邪馬台国連合を併合、国内統一)」
どや?w >>593
邪馬台国には王はいなかったでいいんだな。
共立王でいいのだな。 世襲王も共立王も王は王。朝貢して親魏倭王の金印貰ってるんだしw 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
この時に倭の事を聞いて記録してたんでしょう >>597
親魏倭王印が出てくるとしたら、台与の墓かな? >>125
>>595
もうそれでいいよ、細かい事グチャグチャ言ってても永遠に埒が開かんからなw 邪馬台国の卑弥呼=倭姫命(ヤマトノヒメミコ)
伊支馬=生目、生目古墳群、生目神社
倭国大乱=狭穂彦王の乱
男狭穂塚=狭穂彦王
女狭穂塚=狭穂姫
日向の豪族が大和進出した時代=垂仁景行天皇の時代
倭姫命の家臣大若子が夷狄との戦いで活躍して旗を授かり大幡主と名乗った=博多祇園山笠祭り
彦坐王の子孫丹波氏が高良大社の始祖の大祝家。
倭姫命は櫛田神社から伊勢に遷宮した伝承がある。
など、ありとあらゆる弥生の痕跡が、
邪馬台国が山門八女にあったことを示している。 今年は皇紀2683年って、どの神社にも掲げてありますw >>607
日本人は生まれながらにして記紀の嘘に染め続けられて生きるわけだな >>595
全く違います。
107年の倭面土国王帥升が
邪馬台国初代王の彦坐王。
この時別府大分に居たのが弟の彦湯産隅王で、
その後、彦坐王の皇子として産まれたのが狭穂彦王で、姫として産まれたのが狭穂姫。
彦湯産隅王の皇子は丹波道主命で
その娘が日葉酢媛命で生目氏との間に生まれたのが倭姫命。 >>609
記紀の登場人物にあてようとする
九州説は畿内説だな。 奈良時代中国にも今より記録が残ってたはずで躍起になって調べたんだろう >>611
畿内では考古学的に記紀を実証出来ないので、
考古学的に九州で狭穂彦王の乱が起こったと考えざるを得ない。 >>591
九州北部の邪馬台国以外は女王国ではない。 >>600
代々伊都にいて世襲していた。
倭国乱でそれが途絶えて、新たに卑弥呼が共立された。 >>616
邪馬台国以外の奴国等は女王国ではないでいいのだな? 例えば吉備出身の豪族崇神系は、
考古学的には孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇などが婚姻関係を通じて大和に進出したと考えるのが考古学的に理にかなっている。 >>606
邪馬台国の王が倭国の王に共立されたのだよ 最終的に物部氏と婚姻関係を結んで大和に進出し、
モモソヒメが大物主を取り込んで、
三輪山纏向を手中に収めたと考えるのが考古学的に理にかなっており、
崇神が大和に進出する以前に、
日向の豪族が大和に進出して、
物部氏を従えていたなどというのは、
考古学的に実証が出来ない。 考古学的に見れば、
日向の豪族が大和に進出したのは、
垂仁景行天皇の時代で、
そういった意味では、
神武の東征は吉備に進出した高天原出自の豪族崇神系と、
日向進出した高天原出自の豪族垂仁系
を
一系に統合するために作り出された創作で、
神武は居たとしても生目の祖先として日向高天原に居た祖先というのが合理的だろう。 学生時代、数学は満点取れてた? 数学が解けなかったくせに邪馬台国の謎が解けるわけないと思うわ >>293
>それだと石棺は卑弥呼なんかよりはるか昔の墓ってことになるね
「石棺とは、古墳時代の初め頃を除いて、ほぼ古墳時代の全期間に認められる石製の棺のことである」(兵庫県立考古博物館)
石棺の方程式と、甕棺の方程式と、それらは別々の方程式だぞ
石棺の「変数」を動かすか甕棺の「変数」を動かすかを、さらに別の方程式と照らして考慮しなきゃいけないんだが、たぶん今何を言われているかも分からない気がする で、神武の東征の、
宇佐に逗留した後、
吉備に逗留し、
大和に進出したという物語は、
実際には垂仁が狭穂彦王の乱で勝って、
宇佐に進出し、
その後吉備津彦と婚姻関係を結んで、
その縁で大和に進出して行った
生目氏の東征がモチーフになっているとするのが理にかなっている。 >>530
パワーバランスで「国中不服、更相誅殺」か、数学だけでなく、政治学も学ばねば、邪馬台国論争は解けないな 維新の国会議員が数学は大人になったら使わないとか言ってるが、いや思考そのものが数学的かどうかで精度が変わるわ!
関西人いたら維新の議員に数学教育大事やでって陳情してくれ >>620
邪馬台国は七万戸あるから、奴国や伊都国を含めた九州北部だろう。 >>622
何そのつまみ食い。
酷くて反吐が出る。 弥生時代の甕棺墓が倭国乱で終わり、卑弥呼の平原木棺墓を経て、壹與の吉野ヶ里末期の石棺墓から古墳時代に入るのだろう。 >>615
考古学的に九州で狭穂彦王の乱が起こった
とする出土物は何? もう一回言うぞ。
邪馬台国=山門八女国の初代王は彦坐王。
この時別府大分に居た弟が彦湯産隅王。
コレが伊都国と同盟して奴国を制圧したのが
107年の倭面土国王帥升の生口朝貢になる。
この後、彦坐王の皇子、狭穂彦王と狭穂姫が投馬国=妻国、西都原に進出。
ここで日向生目の生目氏と対峙し、
狭穂彦王の乱=倭国大乱が勃発。
ここで狭穂彦王が破れて、
生目氏が邪馬台国の長官になり、
彦湯産隅王の皇子、丹波道主命の娘の日葉酢媛を人質にして産まれた娘、倭姫命(ヤマトノヒメミコ)を、
邪馬台国の女王にしたのが卑弥呼の女王共立となる。 早稲田が本当ならトナカイは当然分かるよなこれ>>625-626>>629
岡上って人はどうなん?
ただ好きな先輩研究者の説を受け売りしてるだけじゃなくて様々なことを数学的に考えてるんか? それならいいけど 箸墓の様に前方部が撥型に開いた出現期前方後円墳(全長37m)が、神奈川県厚木市「及川伊勢宮遺跡」で出土!
出土品から4世紀初めの築造だってw 倭在韓東南大海中
後漢書の韓はどう見ても半島の事なんだが何故ここが韓なんだろうな? >>632
でも前期古墳は基本的に割竹型木棺(高野槙)だよ >>632
言えるものがお墓しかない、哀れなトンデモ野郎。 @阿波 >>623
考古学的なら垂仁期における
九州系土器等の出土、畿内にあるの? もう崇神の纏向ヤマト王権になってるわけだから、九州系の土器なんか必要ないでしょう >>638
確かトナカイは東遷説を明確に否定していたと思うけど、岡上ちゃんが東遷説を言い始めて畿内説も分裂したようだ >>633
生目氏の出自した日向生目が宮崎県生目古墳群にあり、
狭穂彦王と狭穂姫を記念して作られた男狭穂塚と女狭穂塚が妻の西都原古墳群にある。
彦坐王の皇子が山門八女から勢力拡大して、投馬国の南で生目氏と対峙した事は地勢的に理にかなっている。
この様な考古学的な事例を、
大和纏向周辺に求める事は不可能であり、
狭穂彦王の乱は日向の生目と妻の狭穂彦王の間で起こったと考えざるをえない。 >>125
>>646
とうとう畿内説の空中分解が始まったねw 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
朝鮮が滅んだ後、韓と呼ばれるようになったのかね? >>644
四道将軍は九州には派遣されていない。つまり九州は奈良盆地の勢力圏外なのです。 卑弥呼死亡の後、臺與が女王になったのは、
卑弥呼自身も彦湯産隅王の系列、
つまり大分別府の人脈である事から
理にかなっている。 >>648
トナカイは寺澤薫否定派、岡上は肯定派。どっちも畿内説なのでアウトだけどね >>647
それは宮崎だよ
聞きたいのは畿内にあるとする考古学的なもんは何? 短里なんて存在しない
あるとすると周代
つまり里数で書かれた国名は周代 張政の子孫、弓長氏が日本で拠点とした場所は3箇所しかない。
大分宇佐、大分国東、徳島県那賀郡だ。
このうち徳島県那珂郡は、
彦湯産隅王の子、大筒木垂根王の子の讃岐木垂根王の関連で四国に進出して行ったと考えられ、
そういった意味では、大筒木垂根王が居た場所は、
大分宇佐か、大分国東のどちらかであり、
弥生の大集落安国寺遺跡のある大分国東が張政の子孫が出自した場所ということになるだろう。 なんと、張政が19年倭国に滞在していた場所は、
伊都国ではなく、
別府大分の温泉近く、安国寺遺跡だったのだ。
おそく、彦湯産隅王か丹波道主命が居た。
そっちに19年暮らしていた訳だよ。 紀元前の遺跡自体は池上曽根遺跡や唐古鍵遺跡他にもあるよ >>657
ないなら、不確定だな。
考え方として面白いね 迦具夜媛は垂仁の時代、
大筒木垂根王の娘と言われているが、
コレが成人して月に帰って行った逸話が、
張政が19年日本の大分別府付近に滞在して、
晋に帰って行った史実モロ被りだ。 また、倭姫命の家臣、大若子は、
別名御馬皇子の異名があり、
夷狄との戦いで活躍して、
旗を授かり、大幡主を名乗った伝承がある。
コレが邪馬台国の副長官彌馬升で、
張政が狗奴国との戦いで黄幢を授けて激を飛ばした魏志倭人伝の記述と重なってくる。
また、大若子の弟、乙若子には、
倭姫命の世話をした伝承があり、
コレが卑弥呼の世話をした年の離れた弟がいた魏志倭人伝と重なってくる。 コレと、倭姫命が櫛田神社を出自して
伊勢に遷宮した逸話と合わせて、
邪馬台国の卑弥呼は、北部九州に居た倭姫命と言う事になるだろう。 で、臺與は、豊受大御神で、
コレは丹後に進出して行った。
ここが邪馬台国の本体であり、
後の神功皇后の勢力となっていく。 天照大神は、てんてるおおかみと読み、てるてるぼうずの祖となった コレが邪馬台国の顛末であり、
ここまで伝承が残っていれば、
そうとしか言いようがない事で、
後は伝承にのっとって、
粛々と発掘を進めていけばいい
ちなみに外交の中心人物となった難升米は梨迹臣で、中臣氏=藤原氏で、
記紀の編纂を主導した氏族で、
邪馬台国の歴史を完全封印してしまったため、
少なくとも難升米が授かった率善中郎将の銀印は出て来ない。 >>668
酸素同位体比年輪年代法のでっち上げ解析を大宣伝で復活する模様。 >>671
大笑いだ、九州説の一部も畿内説と同じ運命。 天皇の血筋となった倭健命は、
倭健命は景行天皇に嫌われた伝承があり、
景行天皇の妹の倭姫命に養子に出されたと考えられる。
コレが乙若子ではないかと考えられる。 >>668
> 畿内説が好き勝手に言えるのはあとわずか
ははは
九州説信者の泣き顔が目に見えるようだ 吉野ヶ里遺跡は華奴蘇奴国で、
山門八女とは目と鼻の先で、
卑弥呼の死亡時期と同時代の石棺ならば、
それなりのモノは出るだろうな。
おそらくは方格規矩四神鏡、
ワンちゃん内行花文鏡だろうな。 ただ、吉野ヶ里遺跡には殉葬の痕跡が無い。
やはりその他大勢の国的な埋葬品になるだろうな。 >>676
殉葬とは卑弥呼のために戦って死んだ兵士の埋葬の事だったのではなかろうか? >>675
面白いね。楽しみ。
福岡、大分説は切腹するかな?
57年や107年の王でも面白い 近畿 >>644
九州と関係ない倭種の国、それが畿内
魏志倭人伝にも出てこないし、邪馬台国とも関係ない 明日は期待が高まっているけど、そんなに大した決定打にはならないような希ガス 短里なんて存在しない
あるとすると周代
つまり里数で書かれた国名は周代 >>686
俺もそう思うよ
九州説諸君は
九州内 地動説へシフトしなさい。
アドバイス。近畿 >>686
石棺の字みたいなのは
亀卜を表してるねw
被葬者は占いをしてた人ってことw
石棺も亀の甲羅っぽいっしょw このスレで何度か発言したように吉野ケ里は他の弥生集落遺跡と同じように卑弥呼の時代になると濠を埋めて急速に衰え、住民は戦乱に備えなくても良く耕作に適した低地に移り住むようになる
これが倭国大乱を経て卑弥呼を女王にした当時の倭国の人々の意志 >>678
違う違う、
祇園山や平原遺跡の例を見ると、
卑弥呼に仕えていた女性の巫女が死ぬ事だ。 倭人伝に記された卑弥呼の宮殿「楼観城柵厳設」が、
なぜ吉野ヶ里と申し合わせたかにようにピッタリなのか?
なぜ纏向大型建物と全く一致しないのか?だね。 >>695
冢はいいとして
「楼観城柵厳設」はどこにあるの?近畿 >>693
>卑弥呼の時代になると濠を埋めて急速に衰え
埋めたんじゃなくて、大洪水で埋まってしまい急速に衰えた。 @阿波 唐古鍵の楼観は、吉野ヶ里みたいに掘立柱もぶっ太〜い実戦向きの本格的な物見櫓というより、王様の見晴らし台=遊びっぽいしね…orz >>694
卑弥呼が即位してから長い平和な時代が続いた
次の男王の即位が人々の支持を得られず、卑弥呼の後継者が女王となり収まった
これは、卑弥呼の治世がいかに人々の支持を得ていたかの証左 邪馬台国の都は、
北部九州の要害の地、高良山から、
港があったと考えられる玉垂宮の間にかけてだろうな。 高良山って筑紫平野を見晴らす扇の要なんだよね。
その山麓にあるのが祇園山古墳w >>704
言えるのは、お墓だけ。 わははははは @阿波 オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:三角縁神獣鏡ってシナでは1枚しかでないのに、どうしてザクザク畿内から見つかるのですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知らんがな!!
Q:纒向遺跡から馬具が出ましたよね?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!シバくぞ!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!! >>703
見つけろ。
そこに何もない方がおかしいだろ?? もう10年ぐらい畿内説からは何も出てないきてないね 今さらだが銅鐸も九州由来?
銅鐸は紀元前から弥生時代の終わりにかけて近畿地方を中心に発達した釣り鐘のような器物で、農耕にまつわる祭器ともいう。
土中から偶然見つかることが多く、その分布圏は北部九州の銅矛・銅剣文化と対峙したとの説もある。
ただ、その成立や埋納過程には謎が多く、日本考古学上の重要テーマだ。
シンポの主催は、銅鐸の完全な石製鋳型で有名な東奈良遺跡を擁する大阪府茨木市教育委員会。
2023年の鋳型発見50周年を前に、「銅鐸から弥生時代社会を見直す」と銘打って昨年11月上旬に開催した。
銅鐸といえば近畿発祥という通説に一石を投じたのが、明治大の石川日出志教授。
青銅器文化のルーツはもともと朝鮮半島や大陸にあるが、「近畿に朝鮮系青銅器は希薄で、ここで銅鐸の由来をたどるのは無理がある。
むしろ最古の銅鐸の構成要素は北部九州にほぼ出そろっており、それが近畿に波及し飛躍的に発展したのでは」というのだ。 >>707
消費税2%upでどうだ?
政党にかけあいな。近畿 >>710
>今さらだが銅鐸も九州由来?
もちろん、銅鐸王国「阿波」だ。 @阿波 >>701
壹与になってまた平和になったことを考えると、単なる後継者問題にも思える。
スペイン継承戦争、ネーデルラント継承戦争、オーストリア継承戦争など。
継承戦争が起こらないようにする為にイギリスはヴァージンクイーン・エリザベス1世が「私はイギリスと結婚した」と言ったが、テューダー王朝はエリザベスの死を持って滅亡。 中国大陸が母体で、朝鮮半島が乳房で、日本列島は赤ん坊と言われるだろ?
本当にその通りなんだよ。 >>714
黄海と渤海湾見てみ
いやで抜け出したんだよ。
背を向けて、はるか彼方の米を向いている 近畿 >>716
結局どっちが掘れるかの勝負になってるよな
金印出てこれば簡単に決着つくけど、出てこなければ考古学のダメさがあらわになるだけ 良い場所は結局、住宅地になったり工場になったりしちゃうからね…orz これからの畿内説
卑弥呼の墓は纒向石塚古墳(墳丘墓)なのだ!
径百余歩も殉葬も無視w >>712
島根→兵庫→徳島と広がったのではないか?比較的に新しいタイプ銅鐸ばかり。 >>724
>島根→兵庫→徳島と広がったのではないか?比較的に新しいタイプ銅鐸ばかり。
島根がか? @阿波 一番新しい巨大銅鐸は近畿東海でしょう
山陰のはちょっと古い >>728
今でこそ別の自治体だが、淡路島も「阿波」の一部。 @阿波 >>421
>>423
女王国の東には海があったんだね… >>732
琵琶湖沿岸は阿波淡路島に比べるとちょっと遅いと思う
代わりに玉類の生産地だった >>727
滋賀県野洲市の大岩山遺跡
古墳と同じくデカくなる >>738
まぁ、それを言えるのは「阿波」だけだ。 わははははは @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! まあ、吉野ケ里は殉葬が確認出来ないから。
方格規矩四神鏡と内行花文鏡ですわ。 丹後は彦坐王の本体が移転しているからな~
豊受大御神ということで、
豊です。 >>746
残念だけどそれは明確に否定できる。
殉葬とは刺し違い巫女の2体という
特徴的な埋葬方法だからな。 >>726
少し古いが
http://doutaku.saloon.jp/kodainonazo/syutudosuu.html
出雲 菱環鈕式 1 外縁付鈕式 37 偏平鈕式 10
摂津 菱環鈕式 0 外縁付鈕式12 偏平鈕式 14
阿波 菱環鈕式 0 外縁付鈕式 3 偏平鈕式 22 >>747
中国はそんな倭人の風習は知らない
陳寿も然り >>749
平原遺跡や祇園山古墳でハッキリしている事なんで。
我々にはどうすることも出来ない。 汚舞ら餅付けw
卑弥呼の墓は祇園山古墳なんだから、何も変わらんよ、何もw
難升米クラスの銀印くらいは出るかもしれんがなw てか、もう弥生後期の殉葬とは何か、
確定してるのよ。
そういうところを、
考古学の常識として皆さんに認知してもらってから、
邪馬台国論争に入ってもらいたいな。 >>753
古 小 菱環鈕式→外縁付鈕式→偏平鈕式 新 大 日本書紀も読み物として面白いんだよな
耽羅国(現在の済州島)の位置を南と記していたり
そこが百済に朝貢してたのだが
百済が滅亡してから急に日本に朝貢するようになったり
いろいろと察するもんがあるw >>756
>古 小 菱環鈕式
大きさ(高さ)は? @阿波 アレキサンダー・ボビンによると弁韓は日琉語を話していたらしい
済州島は耽羅(タムラ)と呼ばれてて
これは日琉語で谷の国の意味
書紀の記述「南海中耽羅人初通百済国」
↑なんで百済目線で書いてんだ?w 百済は韓語話者と半島日本語話者の二つの民族がいたようだ
確かに百済の故地にあたる全羅道は韓国の中でも少し特殊な地域で文化的違和感のある地域だな
今と違って昔は言語による民族意識が薄かったから民族の混住にさほどの抵抗はなかったのだろう
九州には原と書いてバルと読む地域がある
これは明らかに韓語であり韓語を話す人たちの集落があったのだろう
神武の日向の国だったのではと言われる伊都国も中心地は筑前前原でバル地域となっている
伊都国は周辺の地位と比較しても韓民族の割合が非常に多い国だっと考えられる
伊都国では文字が使われていたようだし文化レベルが高いから韓人が支配階級にかなりいたのだろう ネトウヨは認めないだろうが九州にはバルという韓語起源の地名がある
そして本州の東部にはベツやナイといったアイヌ語起源の地名が多い
百済に半島日本語話者がいたのと同じように九州には韓語話者がいて東北にはアイヌ語話者がいたのだ
ネトウヨのイメージするような固有の民族というのは存在しないのだ >>752
自分だけの心の中の常識を振り翳されてもね。 >>763
逆だろ。
バルは倭国の言葉で、半島の一部が倭人の影響を受けたんだよ。
この売国奴が。 神武の橿原も、もとは九州のバルから転化して訛ったもの。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>761
wikipediaによると百済三書の一部が日本書紀に引用されてる。
とある。
日本書記は外国の史書を集めて書いたのかな? >>766
知らないことを武器にしないようにしましょう。 >>774
畿内説は不弥国から血迷って東に行ってしまった時点でとっくに崩壊してるけどな 明日の吉野ヶ里
卑弥呼とトヨの間の男王の可能性もあるな >>773
知らなくてすみませんでしただろ??
謙虚にならないと、人間成長しないぞ。 ここは学問板なので妄想をテンプレにするのはやめて下さい 石棺から何も出なかったら、どんどん謎のエリアを広げるかもしれんぞ >>784
お葬式会場からパーティー会場になるの? 吉野ヶ里では甕棺墓であれだけの副葬品だから、金印や銀印はムリだろうけど、頂上の石棺墓ならかなり期待できるなw
ところで、金印紫綬や銀印青綬や銅印赤綬は、その中華王朝が滅びたらもう不要になるわけだから、そのまま下賜された王の手元に残るんだろうな。 伊都国や不彌国だとすると
やっぱり、九州説の一部が葬式会場になる。 >>415
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑.............................↓(九州東岸)
女王国〜(東渡海千里)〜↓〜〜〜〜〜複有国皆倭種(本州)
...↓.............................↓...............↓
狗奴国(熊本菊地)投馬国(宮崎)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里 >>788
岡上リスペクトで書いていたトナカイが岡上にハシゴを外されて脳天から転落死した模様ですw🙏 日吉神社や那珂八幡宮でこんなだったら、宇佐神宮の本殿下には何が埋まってるんだろう… >>794
距離は盛っていい(必ずその前で着くから)、しかし方角は変えないのがルール(絶対に到着しないから) >吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だとは九州説の人ですら言わないのがもどかしいな
>結局は九州のどこの何遺跡なんだ
これが畿内説がおかしい理由を自爆してるんだが書いてる本人も気づいてない
九州説などというものはない
倭人伝を分析して、それぞれ宇佐説、八女説、甘木説、久留米説、島原説などが同列であるだけ
吉野ヶ里説もそのたくさんの説のひとつにすぎない
だが、畿内説は倭人伝の内容はほぼ無視。まず当時の日本の中心はここだと決めてかかって、
後の時代にはこんなに発展した、こんなに人が住んでた、桃の種が見つかった(倭人伝に桃のことなんて書いてない)
と倭人伝などお構いなしに、ただ「すごい」というのを並べて、だから邪馬台国だとやってる
そんな異常なことを当たり前と思っているから、九州説もどこかひとつに決められると思ってる >>799
畿内には(倭人伝の記述と全く異なる)纏向しか候補がないんだよw
ということゎ?w どういうことなんだろう?w そう
九州説なんて最初から存在してない
妄想だから 奥野正男氏『邪馬台国はここだ』
ヤフオクで昨日売れたわ
明日吉野ヶ里が邪馬台国じゃないことが確定して0円になっちまうだろうから値が付くうちにと思ってね >>799
>宇佐説、八女説、甘木説、久留米説、島原説などが同列
つまり3世紀に九州でもっとも発展し、畿内と密接な交流関係の博多を中心とした筑前の
外側(女王国の外)の妬み根性が一人一説雑多北部九州説 あれで石棺の被葬者が男とかだったら盛り下がるだろうな >>770
分注には『百濟本記云「久羅麻致支彌、從日本來。」未詳也。』とあるが。
日本書紀の分注は編纂当初からあったとする説の方が有力。 吉野ヶ里には立派な環濠がある!が口癖の九州説
吉野ヶ里を失い茫然自失に >>810
蓋に刻まれた封印〆切(蘇らないでくださいw)的な✕✕✕線刻から、呪術的な力を使って民衆を惑わせてた、巫女シャーマンのような女王様じゃないかなぁ?と思うけどね… ん?w 「狗奴国うざい。東へ引っ越そう。生駒山の向こうに良い土地があるらしい。徐福様の遺品は持っていかなくていいぞ。あの丘の上にタイムカプセルするから」 >>813
まあ、巫「女」なら、まず間違いなく女だからな まぁ、卑弥呼の冢は祇園山古墳なので、誰の墓であろうと、痛くも痒くもないw 関西人ってやっぱ東京来た時驚くの?「俺達は井の中の蛙だったんだ...」て
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1685799711/
トナカイが関西人叩きしてるぞ!w
九州説に寝返る準備かw >>813
確かにあの✕✕✕線刻の尋常じゃない多さは、何か呪術的なものに散々惑わされて、ヒドい目に遭った民衆たちの怒りを感じるな 石棺墓の不規則な蓋4枚だけど、甕棺墓に似せてる感じがするのは気のせいだろうか? 卑弥呼「あなた、地獄に落ちるわよ!」なんていう占い師みたいな感じだったのかもなw 漏れのイメージでは、典型的な弥生顔、フィギュアスケートの荒川静香みたいな感じだったと思うなw
そして中身が細木数子かw >>822
写真を見ると蓋の継ぎ目が、下見板張りの壁みたいに頭に近い方が上になって重なっているから、足元から頭に向かって蓋をしていったんだろう 今回の石棺墓の蓋は、国宝金印が見つかった志賀島の堂ノ山箱式石棺墓に似てる希ガス 畿内派ヒエヒエで笑える
発掘現場行って演説でもしてこい >>829
おめでたい奴だな。
九州説の一部もヒエヒエだ >>832
北部九州の国々は共立した側なので全く困らないよ >>826
専門家の知見を重視すれば九州vs九州の決勝戦になるのでは
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 俺は畿内説じゃなくて阿波説にしろと何年も前から言ってた
今からでも畿内派は阿波と合流しろ
そっちの方が可能性ある >>836
トンデモカップル、とてもお似合いですね 吉野ヶ里説が否定されたら世間一般的には九州説も終わりってことになるからな 世間一般が考える邪馬台国九州説「えーと...吉野ヶ里遺跡とか聞いたことあるし?」
つまり石棺墓の副葬品がショボければ九州説終了 >>833
邪馬台国 福岡説や大分説とかいなかったか? 爺の頭の中は1970年代の邪馬台国論議はなやかなりし頃で
止まってるからな 高齢化社会だからな
まだ古田や安本の残党がうようよいる >>844
まず、こいつらが逝くな。
古田は博多説だったよな。
管玉やガラス玉が出てきたら「女性祭主」
剣・鏡・勾玉セットなら「三種の神器」と結びつけて大騒ぎするんだろうがそれも一過性の物に過ぎないだろう
吉野ヶ里が邪馬台国ならば、魏志倭人伝において邪馬台国が従属させていたとされる伊都国王墓(平原一号墓)よりも豪華あるいはそれに劣らぬ副葬品が出なければおかしいわけだからな
まあまあ
最期の時の言い訳くらい聞いてあげましょうよ
ポップコーン買ってくっか
40年続いた「吉野ヶ里説」の終焉(フィナーレ)を実聞実見できるなんて、二度とない最高のショーだろうし
あれ?このいつも攻撃的な子犬ちゃんは吉野ヶ里説信奉者だったの?
明日からどんな顔してこのスレに書き込むのかな、失踪しちゃうのかな >>852
知っているけど?
博多説とか田川説とかピンポイントだろ。
そこに卑弥呼がいないなら、終わりって事だな。 >>855
あらあら強がりのトナカイちゃんの遠吠えがそよ風の様に心地よい
邪馬台国吉野ヶ里説[奥野説]
享年42歳 若すぎる死であった... 佐賀県はあんまり言わないけど
あの石棺はしょぼい
塚は盛り土でもないし >>859
棺有りて槨なしは魏志倭人伝にマッチしている
>>859
南極の自然地形のことを、古代南極文明のピラミッドだとか月刊ムーが騒いでた時代があったでしょう
同じなんですよ
誰しもが夢を見たいものなんです >>861
夢を見ていたのは畿内説だと言うことに気がつくよ
九州説の巨匠こと安本美典氏は、吉野ヶ里遺跡を魏志倭人伝に五文字しか登場しない「華奴蘇奴国」に比定しているようで
https://i.imgur.com/E6q91FG.jpg
九州説の中にも一切味方がいないとは中々厳しい戦いしてますね~ なんだここ殺伐としてるな
せっかく聞けば速報を教えてくれそうな中の人のTwitter教えようと思ったけどやめとく 今日は報道陣も待機しているようだから午後には速報が出て夕方には知事の会見があるかもしれないな。畿内説にとっては玉音放送になるだろうね
じゃ代わりに貼っておく
マスコミ環視での、この手の発掘報道は、私が経験したものでは1995年?の唐津・久里双水古墳以来かなあ。高松塚やキトラなどの特殊なのはのぞいて。国営公園内で、開発に伴う緊急調査ではないからこそ可能なのですね。当日は佐賀総局と連携して最新情報をお届けします。
https://twitter.com/pokuchinN/status/1664448410227994624
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>868
田川説も博多説も玉音放送になるだろうね 報道陣はバカだから
佐賀の県興しに引っかかっとるがな >>867
一番高くて見晴らしがいい場所って言ってたから盛り上がってるんじゃないの? >>872
完璧に削れるわけじゃないし
土が違ってるからわかるだろ >>873
いいじゃないか?
昔は自己申告で透明性や信憑性にかける
立ち会い人や第三者の団体は必要と思う だいたい高島氏の年代観は庄内の終わりが
300年ごろとする特異なものだし 維新財を中心には考えていない
あればあったな。
ショボければショボい
程度だな。 近畿 吉野ヶ里は邪馬台国ではなかろう
ただ文化的に貴重なものであるのは間違いないから佐賀県民はこれに気を落とす必要はない
勾玉ネックレス要はみすまるだがここら辺はありそうだな
ちなみにスバルという星の原義はすまるであり勾玉ネックレスという意味だ
星を勾玉に見立ててネックレスと捉えたのだろう
もし勾玉ネックレスが出たら吉野ヶ里歴史公園で勾玉のみすまるを販売すると良い
歴史ファンが喜んで買っていくだろう >>883
奈良に棺有りて槨なしの石棺ってあるの? >>882
正直大阪人も橋下も好きじゃないけど維新には政権取って欲しいから投票するぞ 三種の神器の解説で鏡を太陽に勾玉を月に例える話があるが勾玉は星の可能性の方が高いと思う
スバルの話の蛇足だ
以上 >>886
商売絡みなんで
消費税20%まであげてくれる政党だな。
ないけど。 維新はネトウヨだろ
安倍晋三の清和会と同じだ
あれは野党ではなく与党補完勢力 確かに(格が)違うね
直葬石棺なんて小酋長の墓制だろうから >>894
馬鹿トナカイが通っている学校の創立者は佐賀の人 いくら副葬品がショボくても管玉やガラス玉が出たら女性祭主だから卑弥呼だーとか騒ぐんだろう管玉ガラス玉身に纏った女性祭主なんて日本中に居たのに
佐賀よ、そういう詐欺的手法が通用するのはネットの情弱に対してだけという事を覚えておけ
副葬品がショボかったら何が出ようと終わりですよ
卑弥呼の墓だというならば最低鏡30面くらい、あと魏志倭人伝に書かれてる五尺刀もほしいね
従属させていた伊都国よりかは豪華な物が出なきゃ九州説内予選会敗退だな~ トナカイはいつも大言壮語して大恥を晒している、懲りない奴だw 維新は大阪派が強いから南海トラフが他人事じゃないのでちゃんと仕事しそう
吉野ヶ里論者には前科があるんすよね
北墳丘墓を卑弥呼の墓と大騒ぎして銅剣しか出なかったっていう
今度はもっとしょぼい直葬石棺墓を卑弥呼の墓だと大騒ぎ。懲りないなぁ >>905
纏向に平原や丹後以上の威信材が出るといいね。
まあ、ないと思うけどね 近畿 お前ら南海トラフ大丈夫か
九州北部は大丈夫。京都とか日本海側も大丈夫。古代にはそういう場所の方がいいのか
なんか倭人が難民になって半島や九州に押し寄せたってあるよな? 南海トラフ関係ない?
>>911
当然箸墓古墳にはあるでしょうね。
箸墓より遥かに小さい黒塚古墳ですら
《鏡》
・画文帯神獣鏡1面
・三角縁神獣鏡33面
《武器》
・鉄刀17点(素環頭大刀3点)
・鉄剣3点
・鉄槍14点
・鉄鏃280点
《防具》
・小札
・帯状鉄板
・円頭鉄板
─
だものw
庄内式期ホケノ山のスペック
画文帯同向方式神獣鏡1面、内行花文鏡片、半肉彫表現の鏡若干、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣10口、銅金族60本以上、鉄金族60本以上
まずここは最低限飛び越えなきゃいけないハードルよね >>914
ショボいな翡翠等すらない
で箸墓はいつ、証拠品を出すの?
近畿 >>916
不弥国から南へのハードルを超えていない畿内説はとっくに失格してますよ >>916
まあ、マイ・ルールだな。
邪馬台国は近畿 阿波爺なら、全部 下賜したもんで
終わりそう。近畿 >>918
騎手を振り落として失格になっているのに、ゴールを目指して走る競走馬のような畿内説。いと哀れなり 威信材がどうれあれ
卑弥呼でないと意味がないと思うけどね
近畿。 今日 お発掘でついに九州説の勝利とでも思っておるのかね
墓にあたすがヒミコよ とでも刻んでれば確定だがあり得ないわな つまり畿内の勝利確定へ >>913
畿内説はそれを九州まで制圧したとか勘違いしてるわけよ 畿内派と九州派で決闘でもして決めたらいいのに
まあ九州派の圧勝だろうけど 畿内派は今頃
「頼むー何も出ないでくれー!」
ってお祈りでもしてるの? あと数日で畿内説派が集団自殺すると思うと少し寂しくなるな お互いにドン引きの結果に終わる可能性もあるのに
以前の発掘で出てきた鏡の文言からして心配してます
更に高貴な人間の石棺なら解読できるだけ文言が刻まれた何か出てくるんは確実だから 歴史変わっちゃう
以前の発掘では漢文で
https://twitter.com/yayoibot8/status/1133603651736309761
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 私がその立場の人間ならこっそり石棺を開けさせて公開前に中身をまず確認します 世に出せないものは出せないのです 世に出せないものなんてない。
すでに平原遺跡で八咫の鏡まで出てしまっているのだから。 丘の上の石棺墓に卑弥呼、手前の旧型甕棺墓に殉葬奴婢百人でゎ? >>945
いまさら畿内説の自己紹介なんか必要ないのにw >>944
まぁ、奴婢に石棺墓はないだろうし、奴婢でも卑弥呼に直接仕えた黄泉の国への随行者なわけで、土葬じゃなく、一応旧式の甕棺墓だろう
ちな、ホケノ山に殉葬者は見つかったの?w >>939
なかなかエグイよな この時期なら殷王朝系か >>415
>>423
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑.............................↓(九州東岸)
女王国〜(東渡海千里)〜↓〜〜〜〜〜複有国皆倭種(本州)
...↓.............................↓...............↓
狗奴国(熊本菊地)投馬国(宮崎)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里
...................................↓
東冶.....................邪馬台国(×蛇足=陳寿のプロパガンダ) 先祖が大陸や楽浪郡あたりの戦乱を逃れて南下した経緯や名族の家系が分かる石碑が出てくるのは必至か
素材まで考慮した上で必ず残してるはず記録を
先祖の無念の渡海の思いを長々と残してるかも 宮内庁が派遣する高位の使者の意向で公開は中止もあり得るのではないか 前方後円墳を卑弥呼が始めたかのように宣伝しまくってきた畿内説だが、
箸墓古墳が4世紀と確定してしまったので
墳丘墓の纒向石塚古墳を卑弥呼の墓に仕立て上げる計画が起案された
現在、吉野ヶ里の石棺開封待ち >>953
徐福はいずれ始皇帝に殺されると考えて、百工を連れて日本に亡命を決めたんじゃないのかな?
でもそれは沖縄らしいよ。孫権が傭兵を求めて沖縄を攻めた時、現地の古老が自分たち沖縄の民は徐福の連れて来た百工の子孫ですと話したそうだから。 >>595
>>958
箸墓以前の纏向型前方後円墳こそが、河内磐船に天下って後に大和盆地に蟠踞し、神武東征を迎えたニギハヤヒ(古墳時代に前方後円墳の築造を担当した物部氏の祖)政権だったんじゃないか?
倭大物主は出雲大国主(スサノオの子)と同一人物らしいし。 まあ様々な理由で開けないほうがええかもな
色んなもんが出てくるよ いいのか @阿波さんは 発掘も公開も止めにいってくれ
取り返しつかなくなるかも >>963
つまり、初期ヤマト王権=ニギハヤヒ王権、纏向ヤマト王権=神武・崇神王権、ということ? >>963
ニギハヤヒは大阪湾型銅戈を祭祀の道具とする集団。 >>966
他に考えようがないだろ
神武東征でニギハヤヒ(初期ヤマト)王権を、曹魏帯方郡から輸入した筑紫邪馬台国御自慢の鉄製武器で征服し、その墓制を発展させたのが神武・崇神父子の纏向ヤマト王権だよ。
時代が下り、蘇我(仏教)物部(神道)戦争で蘇我氏が勝利し、古墳時代に物部氏が主導してきた前方後円墳は、欽明と稲目の墓(五条野丸山)を最後に築造が中止され、仏教寺院全盛の飛鳥時代になっていく。 死者も遺族もまさかこんな形で墓あばきされるとは思わなかっただろうね >>920
下賜出来るのは「阿波」以外どこにも居ないからな。 結果的にそうなるわな。 わははははは @阿波 >>510
>>530
一方、筑紫邪馬台国では共立女王・台与を最後に後継者が途絶え、卑弥呼の時のような大混乱を避けるべく、崇神ヤマト王権の傘下に吸収されて、ヤマト王権の全国統一が完成したと見るのが自然だろう。 >>965
>取り返しつかなくなるかも
どのみち、「倭人(阿波勢力)」だから。 大騒ぎする必要は全くない。 わははははは @阿波 >>965
>取り返しつかなくなるかも
どのみち、「嘘付き(=阿波)」だから。 大騒ぎする必要は全くない。 わははははは @阿波 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1685771513/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>951
>>93
阿波爺ちゃん、阿波は侏儒(小人=少名彦)国だってさ >>975
だって、「阿波」にそんな小人おらんがなww わははははは @阿波 >>975
だって、「阿波」にそんな小人しかおらんがなww わははははは @阿波 神話の人物を実際の人間の如く考えるのは平田学の影響なのか?
非常に違和感があるのだが古史古伝か?
古伝の書物で学問的価値があるのは鎌倉時代までだろう
それ以降は滅茶苦茶なオカルト書だらけになってしまう
大物主やら大国主やらの話だがこれは古人が記述を残していないため平安末期から鎌倉時代にかけての三輪山の教学から推測するしかない
この頃ならば古代が終わったばかりの時期だからそれなりの伝承が残っていたからな
これは三輪山の絵巻を見れば推測できる
海を照らして依り来たる大物主の神を天照大神と書いている
大国主を天照の化身と考えていたのだろう
その証拠に日吉大社では祭神を天照と同じとしていた
中世人の理解はかくの如しであった 徳島から佐賀方面の切符が売り切れ続出という噂。奴らが動いたのか? だって 古墳時代に前方後円墳築造を主導した 物部氏の祖先は(出雲スサノオ→大国主)ニギハヤヒなんだもの みつを
物部氏なんか存在しなかったら、蘇我氏は誰を滅ぼしたの?w 司馬遼太郎
「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」
「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」
「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」
「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模倣したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」
「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」
「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」
「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする。」 >>982
物部氏も蘇我氏も「倭人(阿波勢力)」
「倭人(阿波勢力)」有力豪族の権力闘争。 @阿波 >>982
物部氏も蘇我氏も「倭人(阿波と無関係)」
「倭人(阿波と無関係)」有力豪族の権力闘争。 @阿波 奈良起源の物は何も無いという事
単なる空き地だったので出てくる物は他所が持ち込んだ物ばかり >>968
出雲のスサノオや大国主は、北部九州漢委奴国王や帥升などとは別ルートで半島から鉄を入手し、ニギハヤヒの代で河内磐船に天下り、大和に移って初期ヤマト王権を打ち立てた、本州の英雄ではなかっただろうか?
>>530
でも結局、卑弥呼の死後に立ち国中不服の男王(伊都国&投馬国王)の神武に征服されてしまったと。 忘れてほしくないのですが、スサノオもニギハヤヒも筑紫の生まれです。
彼らこそ博多湾沿岸から弥生文化を広めた筑紫からの征服者です。
弥生時代とは、筑紫倭国が彼らを通じて支配を広げた時代のことです。 >>984
辰韓、弁韓、馬韓の韓は韓氏の韓で周に倒された殷王朝系の王族、辰は夫余、辰韓=秦韓で秦人も多く流入していたされる。半島と言っても大陸系の連中が多く、大陸の政府も辰王に完全な独立は許していないなど漢人地帯という認識だったのであろう。 >>988
その出雲スサノオも実は伊都国の平原女王(天照大神)の弟、もしくは小父さん(母の弟)だったりしたら、
ニギハヤヒが東征してきた神武の神宝を見て服従し、垂仁創建の伊勢神宮に祀られた八咫鏡(平原女王の国内最大の内向花紋鏡)と共に、ピッタリ整合するなw >>986
八倉比売と大宜都比売はどんな関係ですか?
無関係ですか?
どう考えてますか? 後に渡来して来た秦氏も東漢氏もヤマト王朝に自らを漢人と申告したように半島は春秋戦国時代の前から大陸の人間が流入してくる場所であった、倭にとっては大陸文化の中継地。大陸の植民地であって半島独自の文化などない。 >>988
つまり、
−出雲スサノオ→大国主(倭大物主)→ニギハヤヒ(初期ヤマト王権)も伊都国系
−平原女王(天照大神)→神武・崇神(纏向ヤマト王権)も伊都国系
−卑弥呼と台与だけ、漢委奴国王→帥升(の孫娘とその姪〜男弟の娘)の奴国(王なし)系で、
>>530
神武東征が、実は狗奴国戦争で派遣された張政の命令だとすると、天皇家が邪馬台国の歴史を完全に消したくなる理由も判るなw >>994
福岡空港の滑走路の下に、邪馬台国卑弥呼・台与の大宮殿が眠っているんだねw このスレッドは1000を超えました。
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