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邪馬台国畿内説 Part902
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/06(火) 18:45:27.52
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1685924369/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:47:00.76
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:47:25.99
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/06(火) 18:48:10.09
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:48:42.14
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:49:13.49
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:49:43.31
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:50:14.47
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:51:06.57
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:51:38.02
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:52:09.56
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:52:41.14
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:53:13.86
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:53:44.36
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:54:16.02
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:55:18.24
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:55:49.60
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:56:21.77
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:56:53.04
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:57:23.92
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:57:54.80
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:58:25.57
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:58:56.61
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:59:27.35
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 18:59:58.33
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:00:30.41
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:01:02.65
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:01:35.54
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:02:06.80
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:02:38.15
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:03:10.30
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:03:40.27
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:04:11.88
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:04:45.64
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:05:18.63
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:05:50.27
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:06:29.40
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:07:00.22
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:07:25.69
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:08:02.07
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:08:32.97
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:09:05.07
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:09:36.41
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:10:08.82
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:10:40.11
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/06/06(火) 19:11:16.83
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/06/06(火) 19:11:48.62
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/06/06(火) 19:12:20.83
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/06/06(火) 19:12:56.72
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/06/06(火) 19:13:32.10
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/06/06(火) 19:14:15.51
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/06/06(火) 19:15:18.89
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/06/06(火) 19:16:01.63
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0055◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:16:36.78
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0056◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:17:16.67
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2023/06/06(火) 19:18:04.59
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/06/06(火) 19:18:46.36
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2023/06/06(火) 19:19:21.40
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/06/06(火) 19:20:02.13
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2023/06/06(火) 19:20:43.48
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/06/06(火) 19:21:32.58
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2023/06/06(火) 19:22:21.43
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2023/06/06(火) 19:22:53.70
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/06/06(火) 19:23:41.42
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/06/06(火) 19:24:04.73
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2023/06/06(火) 19:25:11.97
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
bp:祇園山古墳bヘ庄内期の古墳bセ! 卑弥呼の封謔フ第一候補だ=I

b`:祇園山古墳bヘ盗掘により伴緒o遺物皆無のたb゚、墳丘裾の甕滑サ墓K1の年代で血黷轤黷驕B

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2023/06/06(火) 19:25:52.22
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2023/06/06(火) 19:26:21.63
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:26:54.68
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:27:47.03
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:28:15.85
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:29:41.25
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:30:20.70
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0076◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:31:17.25
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
0077◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/06(火) 19:32:13.82
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0078日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 19:35:29.31
邪馬台国には4代の王がいた。

「正始中、卑弥呼死、更立男王@、国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女台与為王。其後復立男王A、並受中国爵命」

卑弥呼→男王@(国中不服・更相誅殺)→台与→男王A(受中国爵命)

男王@は神武で、内乱の責任を取らされて、瀬戸内海の吉備経由で東征し、大和のニギハヤヒ(初期ヤマト)王権を征服して纏向王権を打ち立てた。
男王Aは崇神で、共立女王台与の死後(巫女なので結婚・出産は不可)、纏向ヤマト王権の傘下に入り、崇神の全国支配が確立した。

どや?w
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:36:17.09
この数ヶ月で纏向邪馬台国説は壊滅したな。
0081日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 19:39:29.44
>>78
投馬国(宮崎日向)王も兼務する伊都国王である自分が立ったせいで、(投馬国5万戸とのパワーバランスが崩れると)国中が従わず、筑紫邪馬台国連合30カ国同士で(しかも狗奴国と戦争中で、帯方郡に援軍要請中w)殺し合いになって千人も死んだとなれば、もう帯方郡使の手前、伊都国にいられなくなり、兼務している投馬国に一旦雲隠れ(天孫降臨)し、
新女王台与のお告げ(実は帯方郡張政の命令)で汚名返上のために、曹魏帯方郡から輸入した筑紫邪馬台国連合自慢の純度の高い鉄製武器で、大和ニギハヤヒ(初期ヤマト王権)を征服し、国内統一して来い!と命令されて、日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和へ出発したと考えられる。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:44:32.63
狗邪韓国=金官伽耶
對馬国=対馬
一支国=壱岐島
末盧国=松浦
伊都国=糸島・怡土
奴国=那の津・那珂川
不彌国=宇美
投馬国=妻・都間
狗奴国=隈・球磨
侏儒国=種子島

ということで、邪馬台国は、
帯方郡から12000里で、
狗奴国と南で接し、
4000里(280km)南に侏儒国のある地域は山門八女になる。
また、邪馬台国の東を海を渡って1000里に倭種の国があるということで、
邪馬台国が瀬戸内海に面する大分宇佐を含む地域であることが分かる。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:47:12.97
>>81
箸墓以前の纏向型前方後円墳こそが、河内磐船に天下って後に大和盆地に蟠踞し、神武東征を迎えたニギハヤヒ(古墳時代に前方後円墳の築造を司った物部氏の祖)政権だったんじゃないか?
倭大物主は出雲大国主(スサノオの子)と同一人物らしいし。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:49:42.59
東征時の大物主の存在感の無さは異常
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:51:30.57
>>83
他に考えようがないだろうw

神武東征でニギハヤヒ(初期ヤマト)王権を、曹魏帯方郡から輸入した筑紫邪馬台国御自慢の鉄製武器で征服し、その墓制を発展させたのが神武・崇神父子の纏向ヤマト王権だよ。
時代が下って、蘇我(仏教)物部(神道)戦争で蘇我氏が勝利し、古墳時代に物部氏が主導してきた前方後円墳は、欽明と稲目の墓(五条野丸山)を最後に築造が中止され、仏教寺院(蘇我氏)全盛の飛鳥時代になっていく。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:53:31.90
奈良に邪馬台国あったというなら纏向なんかより唐古・鍵遺跡だと言い張った方がまだマシだろうに
纏向で大型の建物出たからって「卑弥呼の王宮だ!」と大声で叫んだのが仇になったね
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:57:13.82
登場人物
邪馬台国の卑弥呼=倭姫命(ヤマトノヒメミコ)
伊支馬長官=生目(垂仁天皇)
彌馬升=御馬皇子(大若子)
彌馬獲支=乙若子
狗古智卑狗=久々知彦(菊池彦)
爾支=禰宜
彌彌・彌彌那利=美々津の豪族
難升米=梨迹臣
都市牛利=道主牛彦(丹波道主牛命)
臺與=豊受大御神

倭面土国王帥升=彦坐王
倭国大乱=狭穂彦王の乱
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 19:59:30.79
>>85
出雲のスサノオや大国主は、北部九州(漢委奴国王や帥升など)とは別ルートで半島から鉄を入手し、ニギハヤヒの代で河内磐船に天下り、大和に移って初期ヤマト王権を打ち立てた、本州の英雄ではなかっただろうか?

でも結局、卑弥呼の死後に立ち、「国中不服更互誅殺」の男王(伊都国&投馬国王)の神武に征服されてしまったと。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:04:51.58
>>89
出雲が河内磐船に天下り、大和に進出する際吉備との同盟は欠かせないし、
神武東征ルート(日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和ニギハヤヒ)に一応あるからね

その出雲スサノオも実は伊都国の平原女王(天照大神)の弟、もしくは小父さん(母の弟)だったりしたら、
ニギハヤヒが東征してきた神武の神宝を見て服従し、垂仁創建の伊勢神宮に祀られた八咫鏡(平原女王の国内最大の内向花紋鏡)と共に、ピッタリ整合するな
0092岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:05:03.94
前スレ終わりの方見てましたが、まぁやっぱりここのテンプレは、ちょっと古いって感じがしますね。
トナカイさんの堂々たる論陣にくらべるとねぇ。名無しで反論したつもりというのがなんとも。。。

まぁ自分のブログかどっかでやって頂く分にはいいんですけどね。
私もトナカイさんもyoutubeで好き勝手やってますし。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:06:22.81
>>91
つまり、
−出雲スサノオ→大国主(倭大物主)→ニギハヤヒ(初期ヤマト王権)も伊都国系
−平原女王(天照大神)→神武・崇神(纏向ヤマト王権)も伊都国系
−卑弥呼と台与だけ、漢委奴国王→帥升(の孫娘とその姪〜男弟の娘)の奴国(王なし)系で、

>>81
神武東征が、実は狗奴国戦争で来日した張政の命令だとすると、天皇家(伊都国系)が、倭王として華々しく描かれる女王卑弥呼の邪馬台国(奴国系)の歴史を完全に消したくなる理由も判るな。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:07:18.77
邪馬台国より北の国で王が居たのは伊都国のみ。
また、奴国は107年に倭面土国王帥升によって制圧され、
山門八女の勢力が代々糟屋に屯倉を置いて支配している事から、
糟屋出身の部族、阿曇氏が奴国王であったと考えられ、
ソレを志賀島に追い込んで行ったのが107年ということになる。
この時、金印を封印したのが志賀島の山中で、
コレが漢委奴国王の金印として江戸時代に出土した。
また、彦坐王の弟が彦湯産隅王で、
コレが別府温泉の支配者と考えられる事から、
山門八女、伊都国、大分別府で奴国を包囲して征圧したと考えられる。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:07:35.54
>>92
トナカイと岡上さんのYouTubeチャンネル教えて!
0096岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:07:48.06
それと、土器の搬入と政治動向を同一視するのは、ヤバイとおもいます。
纏向は東海の影響下って事になっちゃいそうです。

基本的には現代でもそうですが、メイドインチャイナで溢れてますが、
それは別に現実政治とは関係ない話ですから。ちょっと頭を使えばわかりそうなもんですけどね。
0097岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:09:37.04
お、有難う御座います。私の分はこれです。
この動画が一番当たってますね〜。

【悲報?朗報?】〜邪馬台国論争、完全解決のお知らせ〜【古代史完全論破シリーズ@】
https://youtu.be/RG_mSl-JjGk

トナカイさんのはもっとバズってますよ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:10:21.83
鉄じゃなくて壺で北部九州を支配、霊感壺商法の畿内説w

爆買いブームの時、日本の炊飯器が飛ぶように売れ、それを持ち帰った中国人がそれを自宅で大量に使用し投棄したとするでしょ?
2000年後、中国から日本の炊飯器がこんなにたくさん出土するから、日本が中国を支配していたというようなもんw
ただの民生品を 畿内による支配の証拠だなんて みつを
0099日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:11:51.68
倭国大乱は、彦坐王の皇子、狭穂彦王が、
投馬国=妻・都間の西都原古墳群辺りに進出して、
日向高千穂生目氏と対峙し争った狭穂彦王の乱と考えられる。
この時日向生目氏が狭穂彦王に勝ってしまい、
生目氏が邪馬台国の長官になって、
彦坐王の姫たちを人質にとって、
出来た姫の倭姫命を邪馬台国の女王にしたのが、
女王共立である。
0100日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 20:13:37.48
>>97
サンクス!トナカイさんのも教えて! 岡上さん、↓こういう読み方はどう思います?

まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
「其南有狗奴国、不属女王。男王卑弥弓呼、副官狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

次に、「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里遺跡そのもので、鬼道を、鬼籍に入った歴代倭王の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏)の祖霊を祀る祈祷室はまさに巫女の卑弥呼にピッタリです!まとめると、

末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑.............................↓(九州東岸)
女王国〜(東渡海千里)〜↓〜〜〜〜〜複有国皆倭種(本州)
...↓.............................↓...............↓
狗奴国(熊本菊地)投馬国(宮崎)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里
...................................↓
東冶.....................邪馬台国(×蛇足=陳寿のプロパガンダ)
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:14:37.18
>>100
よく張られているコレについてもw

陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:17:53.05
その後、生目氏は宇佐の妻垣に拠点を移して、
吉備の吉備津彦と外交で仲良くなり、
息子の景行天皇と吉備津彦の娘の播磨姫を婚姻させて、
その縁を通じて大和纏向に進出して行ったのが、
日向の豪族の大和進出になる。
この宇佐→吉備→大和の進出の行程を元に、
崇神系の部族と垂仁系の部族を一系の一族にするために、
物語を創作したのが神武天皇の東征になる。
0103岡上 ◆Lv09mLa3HM
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2023/06/06(火) 20:18:23.03
よくわかりませんけど、私は基本的には倭人伝は、

「原東夷伝」+「追記記事」

で成り立っており、日程記事は追記記事にあたると思っています。

で、「原東夷伝」の時点では、伊都国=女王国だと思っていますので、
その線で考えた方が合理的な解釈ができるのではと思っています。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:22:43.07
>>96
>>98
ホントそれ!
少ない燃費で済む土器を開発したら、それが大ヒットしたってだけの話で、なんでそれが政治的な支配の証拠となるのかイミフw
0106日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 20:24:00.30
>>104
ありがとう!
↓岡上さん、この人の考え方についてはどう思います?
>>93
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:24:02.99
崇神天皇は、
孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇辺りを祖先にする、
中国地方出身の豪族で、中型幅広銅剣の分布範囲の豪族とすれば、
コレも本来は高天原=博多湾周辺の、銅剣を祭祀の道具とする部族だったということになる。
コレが四国や山城に進出し、
物部氏との婚姻関係を通じて大和に進出し、
モモソヒメが大物主を取り込んで、
三輪山纏向を手中に収めて纏向に都をおいて、
日本各地に四道将軍を派遣したのが、
初国主と呼ばれる所以になった。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:28:01.70
出雲の荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣は、
博多湾周辺の銅剣を祭祀の道具とする部族が、
出雲に進出した事をあらわしており、
博多湾周辺の銅剣を祭祀の道具とする部族=高天原の天孫降臨族で、
最初に出雲に進出した人物像=素戔嗚尊が、
荒神谷遺跡の主と言うことになる。
0109岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:29:16.97
>>106
断片的でよくわかりませんが、
二系統に分ける必要がそもそもないかなと。全部が伊都国系です。

私は「倭の奴国」でなく「委奴国は伊都国」という一元論論者ですので。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:36:24.92
一方、素戔嗚尊の助けを借りて、
國造を始めたとされる大国主は、
その國造の地域の時代変遷が、
銅鐸の分布の時代変遷と一致することから、
銅鐸の作成と伝播を象徴とする勢力が大国主ということになり、
出雲の最も初期の銅鐸の生産地加茂岩倉遺跡が、
大国主の遺跡ということになる。
また大物主と同盟して國造の中心地が大和に移動したのが1世紀中期の事になる。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:36:26.33
漢「委奴国」王も漢「伊都国」王?
ならさすがに魏略も魏志も、同胞に誤解のないように委奴国と書く気がします。
0112岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:38:56.44
「委奴国」は、イト国の他称表記、「伊都国」は、イト国の自称表記ということです。
0113岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:40:03.26
「伊都国」だけ、漢字が良すぎるんですよね。他称とするには。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:40:14.34
銅鐸とは、大国主が須勢理姫と共に、
素戔嗚尊から逃れて行った時に、
山中で木に触れて鳴ったとされる天の詔琴と考えられ、
銅鐸が山中から出土する事は、
山中で鳴らす道具であった事と一致する。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:41:31.51
伊都は賎字が使われていないよね、さらに伊は聖なると言う意味もある。伊都国はバチカン市国みたいな宗教都市だったのだろう
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:43:32.25
漢委奴国とは、奴国=那の津那珂川の奴国であり、
金印が奴国王であった阿曇氏の氏神神社のある志賀島から出土した事で、
奴国=那の津主に贈られた金印である事が確定している。
委奴国が伊都国などというのは荒唐無稽な暴論である。
0117琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/06(火) 20:47:23.83
無駄だ、北枕。生者南面死者北面、礼記を知るものが突然畿内に現れているのだよ。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:48:07.07
>>112
卑字と好字だろ?そういうことじゃなくてさ、もし同じ国なら、そのまま卑字で委奴国と書かないと、中国人にとっては混乱の元では?
つまり、米国(アメリカの日本語表記)を美国(アメリカの中国語表記)と勝手に変えると、「美国?どこの国だ?」ってならないか、って意味
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:48:28.55
素戔嗚尊が、高天原=博多湾周辺の銅剣を祭祀の道具とする地域の部族で、
前2世紀に実在していたということで、
その姉弟の天照大御神も、
前2世紀の人物ということになる。
前2世紀に北部九州で女王が居た場所は、
現状伊都国周辺ということになるだろう。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:48:57.01
>>117
吉野ヶ里は北に墓地
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 20:51:12.66
また素戔嗚尊が出雲に進出した際に、
銅剣と共に、天の詔琴=銅鐸も持って行ったということで、
九州で唯一銅鐸が出土する吉野ヶ里遺跡周辺が、
素戔嗚尊が元々北部九州にいた場所と言うことになる。
0123岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2023/06/06(火) 20:56:01.17
>.116
>金印が奴国王であった阿曇氏の氏神神社のある志賀島から出土した事

亀井南冥さん、ここが臭いですよ。
ほんとは、井原ヤリミゾからでたものじゃないですか?
0124琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/06(火) 20:56:36.73
鬼道と中華は例えるが
卑弥呼教団にとって都とするところは神聖なる地。1000人が指示なくとも働く生き甲斐ある地だろう。首の無い甕が横に埋ってるなぞオカルトだろ。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:00:36.44
吉野ケ里を見ると救いようのない田舎臭さを感じる
中国と通行していた感じがしない
あの線刻の記号とか、まさに田舎
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:00:40.07
伊都国は邪馬台国の時代には、
邪馬台国が支配した国の中で、
唯一王が居た国であり、
また卑弥呼の死亡時期と同時代に作られた平原遺跡からは、
16体の殉死が確認されている事から、
卑弥呼に近い部族のいた国である事が分かる。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:03:10.93
吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝で言う華奴蘇奴国であり、
卑弥呼の時代には、
特筆する必要のないその他大勢の国の一つであった様である。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:04:23.68
>>105
だな。土器を政治的な支配・被支配と必ずしも結びつけて考えるのは短絡的なものの観方。

伊都国の土器の中心は楽浪帯方土器なわけだが、魏志倭人伝では郡使が来た時は必ず滞在したとあるだけで、帯方郡の支配下というわけではない。
魏の冊封体制にあったといえば、支配と言えなくもないが、あくまでも中華帝国内における半島との交渉を円滑に行うための外交手段だろう。

さらに言えば、墓制・前方後円墳だって、支配・被支配とは限らないw 今、このお墓が立派で新しい!という、隣の王がこんなに立派なお墓を築きましたが、それに引けを取らないために、あなたもぜひ!というお墓のブームみたいなものかもしれない。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:08:00.95
>>129
邪馬台国はどこかい?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:11:07.65
また、魏より派遣されて19年倭に滞在したとされる張政は、
その子孫の張氏、弓長氏が代々暮らしている場所から、
大分県国東市安国寺集落遺跡付近に滞在したと考えられる。
また、張政の娘と考えられる迦具夜媛が、
彦湯産隅王の子、大筒木垂根王の娘とされている事から、
別府温泉周辺に滞在していた事が分かる。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:13:10.48
中国の使者が伊都国に滞在したのは、生活環境が倭人の環境より中国に近かった、居心地よかったからだろう。
伊都には中国に近い環境があったろうと考える。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:13:20.70
邪馬台国は山門八女を都とし、
東は別府大分を含む広い範囲が
邪馬台国であった事が分かる。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:17:48.86
>>121
ついにそこ気付いちゃった?

奴国も邪馬臺国も
伊都国の人間がそう説明したと
わかっちゃったねw
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:21:09.59
邪馬台国の彦坐王が倭面土国王帥升として奴国を征圧した107年、
その弟の彦湯産隅王は別府大分の支配者だったと考えられる。
つまりこの2世紀初頭に、
既に山門八女から別府大分までの
広い範囲の支配者としての地位を
邪馬台国は確立していたと言えるだろう。
0137琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/06(火) 21:21:31.26
伊都には卑弥呼の刺史がおるのだよ。また作り話を。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:26:45.35
>>135
そういうことか! ほとんどの国を賤字で書いているのに、伊都国だけ好字で書かせているから「邪馬台国=伊都国」て論法は成立しないだろw
いきなり「邪」馬台国、「卑」弥呼なんだし、魏使には「弥馬台国・日巫女」って書かせるだろ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:26:54.34
邪馬台国の卑弥呼の周りには1000人の巫女が働いていたという。
コレは祇園山古墳や平原遺跡に埋葬された、
差し違い巫女の遺体の出土からも証明されているが、
伊都国に16人の殉死があったということで、
邪馬台国の巫女の相当数が伊都国出身の巫女だったと考えられるのである。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:30:52.43
>>108
>出雲の荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣

結局、出土した遺跡は一か所のみ。 たまたま大量に残っていただけのこと。
出土遺跡が他にも多数あれば、出雲が栄えていたと言えるだろうが、一か所だけでは、
ショボい地域と言わざるを得ない。   @阿波
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:36:58.33
邪馬台国は高良山を霊山とし、
玉垂宮付近を港とする都だったと考えられるが、
玉垂宮は月読神が居て、
有明海の干潮を観測してたと考えられるが、
その天体観測関連で、
伊都国では天照大御神が居て、
太陽観測を行い、
潮位関連で月齢観測をしたのが
玉垂宮の月読神で、
お互いに交流が盛んだったのだろう。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:40:26.02
>>140
高天原の部族が出雲に進出したのは素戔嗚尊のみであり、
博多湾周辺の部族が出雲に進出したことを示す大量の銅剣が、
荒神谷遺跡1箇所のみからしか出土しない事で、
高天原から進出した部族は素戔嗚尊のみの記紀の記述が正しいことを証明しているのである。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:41:39.50
>>140
まぁ、出雲忌部の国だから、本国「阿波」に及ばないのは当たり前ではある。   @阿波
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:43:21.33
実際に国造りと称して、
日本各地に素戔嗚尊から伝え聞いた技術を
広めて行ったのは大国主であるので、
日本各地に広く伝播し出土するモノが、
銅鐸になっているのである。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:45:57.33
出雲はその銅鐸の出土範囲を見ればデカいんだよ。
しかし国譲りによってニギハヤヒなどに
蹂躙されてしまったこともまた歴史の事実である。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:50:56.08
青谷上寺地の虐殺はなんなんだろうね
東海方面の矢じりだなんて指摘もあるが
0149日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 21:51:07.49
銅鐸も実は九州由来だという流れになってきた

銅鐸は紀元前から弥生時代の終わりにかけて近畿地方を中心に発達した釣り鐘のような器物で、農耕にまつわる祭器ともいう。
土中から偶然見つかることが多く、その分布圏は北部九州の銅矛・銅剣文化と対峙したとの説もある。
 ただ、その成立や埋納過程には謎が多く、日本考古学上の重要テーマだ。
 シンポの主催は、銅鐸の完全な石製鋳型で有名な東奈良遺跡を擁する大阪府茨木市教育委員会。
2023年の鋳型発見50周年を前に、「銅鐸から弥生時代社会を見直す」と銘打って昨年11月上旬に開催した。
銅鐸といえば近畿発祥という通説に一石を投じたのが、明治大の石川日出志教授。
青銅器文化のルーツはもともと朝鮮半島や大陸にあるが、「近畿に朝鮮系青銅器は希薄で、ここで銅鐸の由来をたどるのは無理がある。
むしろ最古の銅鐸の構成要素は北部九州にほぼ出そろっており、それが近畿に波及し飛躍的に発展したのでは」というのだ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:57:37.36
例えば国譲りの際に武甕槌神と争った建御名方神は、
科野に逃げ込んだと伝わっている。
そして銅鐸の分布の最東北の地が長野県柳沢遺跡である。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 21:59:49.17
>>130
政治とは何の関係もない民生品である土器を支配・被支配と結びつけるなんて本当に頭おかしいね、畿内説
ただ民間レベルの交流があったってだけでしょう
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:00:52.72
>>96
おっと、岡上先生のディスリに耐えられるか?トナカイの馬鹿w
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:01:00.55
>>151
日本の神話は本筋では史実を記しているな
研究者ももっとちゃんと向き合った方がいい
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:02:42.97
また柳沢遺跡からはニギハヤヒの進出に関連していると考えられる、
大阪湾型銅戈も出土している
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:04:39.37
トナカイは東遷説否定派、岡上は東遷派。ファイト
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:09:18.18
>>149
銅鐸は九州が出雲から攻められた証拠。スサノオが筑紫の生まれとかトンデモ。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:13:36.95
>>144
玉祖命が出雲に移住しただけで出雲が出雲忌部の国というわけではない。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:15:54.48
>>159
その玉祖命が出雲忌部。   島根は、忌部の痕跡だらけ。   @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:18:57.94
>>157
伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯いだときに産まれた

んじゃなかったっけ?
wikiのコピペだけど
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:19:17.96
出雲忌部は勾玉製作に不可欠な鉱物「紅蓮石」を本国「阿波」から取り寄せている。   @阿波
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:21:11.32
>>137

> 伊都には卑弥呼の刺史がおるのだよ。また作り話を。

その刺史は、伊都から出かけて周辺諸国を検察したのですよ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:22:08.07
>>162
>阿波はなぜ忌部なのか?

それは、忌部が物部だったから。 それだけ「倭人(阿波勢力)」の中でも物部が群を抜いていたからだろう。   @阿波
0166日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:22:57.78
>>128

平原遺跡の年代は厳密にわかってはいない。
200〜250年くらいという大雑把な程度。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:23:42.51
>>139
考えられません
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:23:53.49
>>123

本当は糸島の細石神社が保管していたという口伝がありますね。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:26:05.77
九州説の人が集まっているようなのでその人たちに問いかけたい

魏志倭人伝には最初の8か国の戸数が示されている
それは150,000戸、一戸3名とすると人口は450,000人
これだけでも、当時の九州内に収めることは不可能
研究者による西暦200年の九州の推定人口は105,100人

さらに倭国のうち人口を計上していない国々21か国ある

この記録を陳寿が残してくれたことで、九州説諸君のメルヘンは成り立たないことがはっきりと示されている
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 22:27:54.82
>>168
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   
物部氏の衰退後から、忌部氏が歴史の登場し始める。   @阿波
0174日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:29:15.45
>>161

その通りです。
だからスサノオが筑紫から出雲など日本海沿岸に農耕を広めたのです。
そしてその生誕の地である小戸は、糸島に面していて、大率が管轄する伊都国の港なのです。
伊都こそ歴代倭王の王都であり、スサノオやアマテラスも伊都の王族です。
0176日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:31:11.70
>>171


> 研究者による西暦200年の九州の推定人口は105,100人

小山のは1978年の古い推定値
0177日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:31:23.47
>>100
>>101

ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
◆邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸◆
0178日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:31:44.72
>>170

三雲南小路遺跡の祭殿なので、弥生時代にはあったはず。
戦国時代には多くの名家や神社仏閣などが消滅して、日本史に断絶を生んでいるのです。
でもそれは過去を否定する根拠にはなりません。
江戸時代に廃絶していたら、平安時代や奈良時代や古墳時代や弥生時代の歴史も消滅するのですか?
0179日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:32:32.98
>>171

邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0180日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:33:50.96
>>171

そのアホ研究者の推計は、奴国二万戸だけでも達してしまうので、魏志倭人伝と照らして誤った推計であることが容易にわかる。
0181日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:34:02.07
>>177の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0182日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:34:35.59
>>171

725年推定人口・・・奈良時代推定人口
・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)
筑前 112,000人 ・85,400人 ・92,900人
筑後 ・59,300人 ・75,300人 ・73,300人
豊前 ・47,200人 ・75,300人 ・71,600人
豊後 ・51,600人 ・82,500人 ・87,400人
肥前 ・48,300人 ・85,400人 ・81,400人
肥後 108,700人 178,000人 185,500人
日向 ・30,800人 ・47,700人 ・43,800人
大隅 ・40,600人 ・21,100人 ・28,400人
薩摩 ・38,400人 ・17,400人 ・28,500人
壱岐 ・12,100人 ・・9,400人 ・10,600人
対馬 ・・9,900人 ・・7,000人 ・・7,000人

最小を使っても
筑前 ・85,400人
筑後 ・59,300人
豊前 ・47,200人
豊後 ・51,600人
肥前 ・48,300人
肥後 108,700人
壱岐 ・・9,400人
対馬 ・・7,000人
合計 416,900人(1戸5人として83,380戸)
500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸
0184日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:35:51.93
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0185ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/06(火) 22:35:54.60
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0186日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:36:25.25
>>101
>>181
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は▶狗奴国の位置◀であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(奴婢用甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
0187日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:36:26.43
近年の考古学は、伊都国が弥生時代における倭国の鉱工業地帯だったことを明らかにしつつある。
だが工業地帯は単体で成立できない。
労働者の住居や、食糧生産の地域が付随する必要がある。
すなわち、単体の環濠集落で完結する国邑ではなく、九州北部では複数の国邑が機能を分化させて担っていたのである。
これが連合国家または領域国家としての邪馬台国である。
そしてその中で最大の権威として周辺諸国から畏れられていたのが伊都国であった。
魏志倭人伝は、その支配機構を大率と記録している。
率は帥と同音同意であり、後世の大宰の帥と同じく、国王の代理人である。
郡使は常に伊都に滞在し、女王に謁見していた。女王が畿内にいたら不可能な話である。
0188ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/06(火) 22:37:20.95
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
これは統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

邪馬台国は畿内で確定している
倭の五王の時代の少し後だが中国で描かれた梁職貢図という有名な絵がある

ここに出てくる倭人の姿を見てみると面白いぞ
他の国々の施設は礼服を来て靴を履いているのにジャップは裸足で半裸で変な布をかけているだけ

昔の絵画はデフォルメが多いから書き手の主観が強く反映される
当時の中国人から見て倭人はただの野蛮人だったのだ

ネトウヨは縄文文明などと笑わせるくれるが早く目を覚ませよ
何とか文書とかの古史古伝や神代文字など信じてるのは驚きだ(草
凄いのになると世界文明の中心なんだそうだ(草はえすぎ

ジャップはただの野蛮な東夷に過ぎなかったのだ
下らない妄説を捨てて歴史を直視すれば邪馬台国は奈良県だと分かるだろう
0189日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:37:28.75
人口は渡来人の数をどのくらいに見るかによって
かなり変わってくる
0190日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:37:36.58
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)または島原(斯馬原)(長崎県島原市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)または博多(福岡県福岡市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川、高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺、浮羽郡)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
ここまでが邪馬台国(女王の都するところ)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0191日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:38:05.19
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。
0192日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:38:05.52
>>173
近代以前の日本の人口統計
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88_%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%88%A5%E6%8E%A8%E5%AE%9A%E4%BA%BA%E5%8F%A3

この表を見ると関東から九州までの西暦200年の推定人口は456,400人
陳寿の記録とそれほど違わない、陳寿の時代の役人の優秀さが実感させられる
0193日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:38:43.88
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 出雲の国譲りで大国主が失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫倭王であった応神による統一王朝へ
0194ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/06(火) 22:39:48.75
ジャップの起源についてはO1b2のM176を観ると分かりやすい
遼河文明から韓半島に広がりそれが日本列島に拡散していった

日本でハプロDが多いのは偶然ヤマトの大王家の父方の遠い先祖が縄文系だったからと思われる
日本人のゲノムは西日本では九割以上が西遼河系であり縄文系は非常に稀れな存在だった
特に男系で縄文というのは珍しいのだが大王家はこの稀な出自だった

O1b2が多くなったのは古代において藤原氏が子孫を増やしたからだろう
今も昔もそうだが男性というのは貧困であると女を売る事ができず子孫を残す事ができない
そして上流階級や一定以上の収入のある中産階級が子孫を残していく
これは現代社会でも知的水準の高いリベラルの人たちと底辺ネトウヨを比べて見れば体感的に理解できよう

中世以降になると源氏や平氏など皇別氏族が子孫を増やしていくことになる
こうした歴史的経緯の結果として日本人の多くがDとO1b2になっていったというわけだ
なおO2は恐らく韓半島系の秦氏だろう

上記の理由によりY遺伝子の比率だけでは日本人における縄文分子と弥生分子の割合を求めることは不可能なのである

ただネトウヨに福音を与えるとDであるというのならば先祖は神武である可能性があるのでそれは喜んでよいと思う
0195日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:40:02.61
>>189

遺跡の数や食糧生産に制約される。

【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0196日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:41:28.72
>>176
>>192参照のこと
0198日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:44:33.80
>>174
やはり伊都国が重要な国なんだな
>>81
問題は天孫降臨が投馬国(日向宮崎)という点だ。伊都国王は投馬国王も兼務していたのじゃないだろうか?
0199ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/06(火) 22:45:35.22
ジャップはアメリカでは吊り目で出っ歯のモンキーとして嘲笑の元になっている
これはジャップの強いものに従うという卑しい習性に対する欧米人の無意識的拒否感の賜物であろう

これは欧米人だけなく世界的に卑しい民族人種と考えられているだろう
差別主義者でアジアの名誉白人(草)で喜ぶネトウヨの惨めさは一種の喜劇だ
世界の笑い物だぞジャップはよぉ
0200日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:45:48.60
属国伊都に夢と希望を持っている人って何?
0201日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:47:22.24
>>196
2012年には九州の遺跡数は1877から7893に増えている(文化庁)つまり九州の人口は4倍に計算する必要がある
0202日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:47:27.64
>>182
>>183
これらは小山氏が独自の計算基礎で推定した遺跡ごとの人口推定を文化庁の遺跡数の最新の統計に機械的に当てはめただけのもの
こういうペテンを九州説は行う
0204日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:49:42.48
人口増加曲線を見れば200年頃で日本の人口は120~150万くらいだな
(東北以北のぞく)
0207日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:52:02.86
>>201
小山市の研究と文化庁の統計はまったく関係がない

新しい遺跡は今後も発見されてゆくだろう それにともなって西暦200年の推定人口がスライドして増えてゆくなどということはない
0208日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:52:17.15
>>205
2世紀の巻向は未開地
0209日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:53:11.30
>>179
全くの同意見

魏志韓国でも
馬韓50国で10万戸
その他26国で4-5万戸
当時の国の規模はそんな程度
0211日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:54:00.41
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0212日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:54:20.58
>>207
小山の推定値の算出方法はどういうものなのかな?
0213日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:55:59.74
基礎人口数に遺跡の数をかけたものだろ
怪しいけど、それしか方法がない
0214日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:57:02.20
>>210
そして3世紀中に古墳時代になったと言うので纏向の弥生時代は超短いw
0216日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 22:59:57.99
小山氏の推計は遺跡の規模は考慮されてない
大きい遺跡も小さい遺跡も1つとして計算してる
だから最低値として見るべき
0218ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/06(火) 23:01:38.01
邪馬台国(ヤマト王権)は普通に考えれば纏向であろう
九州から移住してきた部族がヤマトを征服して王権を建てた

銅鏡祭祀族の初期の本拠地は磐余から畝傍山の近辺にあったが何代かたって纏向に遷都した
これは考古学的にも間違いなかろう

第三代懿徳あら第六代孝昭までは磯城のクロハヤ(弟師木)の娘や女の従兄弟を妻にしている
妻の世代と夫の世代は基本的に同じであるから第三代から第六代は同世代で兄弟か従兄弟と考えられる
明らかに親子相続ではない
もし親子相続なら弟師木は一体何百歳まで生きたんだよという話になる

神武は西暦180年頃で崇神は西暦300年頃の人。
卑弥呼は神武が13歳で擁立した斎王で西暦240年頃に亡くなった
神武の息子が孫の世代で亡くなった皇女だろう
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:04:20.64
纏向遺跡は年代問題がすべてだろ
大量に出土する東海系土器(s字甕)などから
大勢の古墳造営作業員がいたのは間違いない
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:05:19.76
>>212
近代以前の日本の人口統計
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

人口推計は時代区分ごとの遺跡数に係数をかけて算出するが、それはその時代の研究者よって様々に工夫されたもの
小山氏の推定人口はこの分野の研究成果として広く認められている
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:05:59.68
>>219
邪馬台国だからね。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:06:54.38
>>161
日本書紀本文にはないですね。異伝の第六だったかと古事記ではそうなのかな。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:07:31.55
>>220
遺跡数が増えた現代では推定値が増えるのは当たり前
0224日本@名無史さん
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2023/06/06(火) 23:09:04.74
>>223
そんなことがありえないことは自明

しかし、君がそういうのなら君の説を補強するような研究者を教えてもらいたい
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:09:09.62
>>217
無知ゆえの間違ったイメージだ
実際には古墳造営が始まるずっと前から建設が始まっている
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:09:30.70
>>215
邪馬台国はそういう所
水行30日1月だしな。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:10:20.67
>>225
唐古・鍵遺跡の復興もある
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:11:50.91
というか、文字資料のある
奈良時代頃なら小山氏の統計はまあまあ正確だよ
それ以前については小山氏は鬼頭宏氏に丸投げしてるだろ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:12:19.69
>>228
屋台はないが桃の種が出た。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:13:06.72
邪馬台国研究史はよく分からんが素直に読めば九州のことだとしか読めない
誰だよ奈良とか言い出したのは
江戸の誰かだった気がするが
海をへだてて東に倭種がいるんだからどーみても九州です
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:14:05.72
>>231
間違い。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:15:16.29
>>230
寿司とかバーベキューの屋台もあったそうじゃないか
年三回だけ集まってお祭りしてテキヤの書き入れ時だったんだろう
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:16:18.59
>>233
記述はない。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:16:46.25
>>234
全部
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:17:53.62
>>225
>ずっと前から建設が始まっている

無知ゆえの勘違い
墓をつくる度に拡張されてきた、だな
古墳造営キャンプ場とは、前方後円墳に限らずこのあたりに墓をつくるたびに準備された広場だ
建物は完成を待つ遺族の宿泊所
作業員は野宿または近隣からの通い
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:17:58.61
>>229
>>220に示した資料の中に
1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)がある
私の書き込みは、この表を基にしたもの
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:19:40.45
>>239
何が?
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:21:00.29
>>241
お祭りの記述はない。
邪馬台国の一部だな
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:22:23.67
>>238
古代の人口なんてだいたいの概算値しかわからないに決まってるだろ
小山氏の講演会に行っても本人がそう言ってる
奈良時代あたりの人口から、人口増加曲線の傾き(増加率)を
あてはめると、200年頃の人口は最低120万くらいだな(東北以北をのぞく)
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:22:36.59
>>243
ピッタリだな。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸の紹介程度で終わるからね。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:24:14.81
>>243
要する行く必要がないて事
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:26:24.73
北部九州の邪馬台国が鉄器を輸出してくれないのでほそぼそ自作していたマキムク
中国のお土産もナッシング
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:27:09.35
>>243
工事現場、見てもしょうがないんだよ。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:28:31.83
>>248
九州には邪馬台国はない。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:28:54.18
>>245
鬼頭宏氏の200年の推定人口は594,900人
君がこの分野に興味関心がある人なら先人の研究に敬意を払うべき

君個人の推定は何の意味もない
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:37:23.55
2017年頃の片山一道によると
弥生中期(2000年前) 60万人
弥生時代の終わり頃(1700年~1800年前) 220万人
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:40:23.59
邪馬台国が土器輸出してくれないのでトヨタから土器買ってたマキムク
桃はよくとれました
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:41:22.39
てか班田収授以前のことは正確にわかると思うほうがおかしい
>>252の数字はまあまあいい線だろ
0255伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/06(火) 23:41:59.41
>>215
発掘済みの纏向遺跡は王家の祭祀用の一時的な宮の跡地では無いですかね。
纏向遺跡とされる地域のすべてが発掘されている訳では無いので、現状では何とも言えないというのが正解かと思います。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:48:29.52
>>252
片山氏はコンピューターを用いた縄文時代の人口の推計の研究があるようですが、近代以前の日本の人口統計には反映されていないようです 人骨資料による分析が専門のようです
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:53:16.14
>>257
不要だろう物流の邪魔
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/06(火) 23:59:17.26
>>224
吉野ヶ里の人口は含まれていないよね
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:05:34.47
>>186
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:06:06.10
瀬戸内海から九州で倭国大乱してても平和な辺境マキムク
暇だから年に三回お祭りしました
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:07:33.93
>>262
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝(樟葉・筒城・弟国・磐余玉穂)ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:07:55.58
九州には邪馬台国はない
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:09:05.46
>>264
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐王朝に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて、初代大王墓(箸墓)の築造年代を繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト)という虚構のゴール地点からの牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(紀元前660年の奈良は縄文時代晩期)。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:11:22.34
>>265
まとめると、今から1360年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(第一条「倭」→「和」を以て貴しと為す)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への避難・遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極=斉明重祚&天智・天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧(熊本県玉名市和水町前原の石原家文書)
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
0268日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 00:11:28.90
なので邪馬台国は九州にはないのである
0269日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:12:22.73
今城塚古墳に眠る大王のピンクの棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:13:21.83
>>268
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+対中朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに、帯方郡の鉄の独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→継体3男・欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:15:31.76
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

近畿説は不弥国から畿内まで投馬国しかないんか?

女王国が九州で邪馬台国が畿内という奴もたまに見かけるが
全部で30国しかないんやで?
四国や山陽は無人国家なのか?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:18:31.12
来週の初めには吉野ケ里から親魏倭王の金印出て来て近畿説死亡だと思うと
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:22:08.57
>>271
行っていないからね。無人ではない
其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 の国々だろうな。投馬国も水行しかわからないけど丹だな。四国と近畿。
0274日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 00:24:26.56
>>272
なんで?金印は卑弥呼に与えらたもの
それも親魏倭王。邪馬台国に与えられたもんではない。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:25:15.23
>>266
近畿の大国発足当時に大倭(タイワ・ダイワ)と読んでたからこそ当て字が大和になった
おそらく倭の五王の時には内乱が続いており、歴史あるヤマトの後継として認められなかった
遣隋使の時に、かつてのヤマトの後継であることをわかりやすくするために大和をヤマトと名乗る事になったと考えられる

そう考えないと大和をヤマトと呼ぶようになる経緯が全く成り立たない
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:27:33.83
>>272
その考え方なら
機内、他の九州説や他の説も終わりになるけどね
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:27:56.26
塞曹掾史の張政等は卑弥呼が死に、内乱に明け暮れ壱与を立てて安定する19年間の間ずっと伊都国にいたと申すか?
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:29:15.96
>>272
畿内だな。スマホ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:29:53.56
>>277
ひとりごと?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:35:37.51
>>274
そこがこの謎を説くヒントになる
奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
こんなしょぼい貢物に対して
金印をはじめ豪勢な贈り物を与え、このように諭す

還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
もともと漢の時代は(100国規模の)大国であったが今は倭国大乱を経て30国規模でしかない女王に対して
魏が認める国として、諸国に示し、昔の勢力を取り返し、友好国として貢献できるように豪勢な贈り物をするのだと。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:46:00.14
このスレの馬鹿に教えてやると邪馬台国は倭人伝の中の国だから
親魏倭王の金印出ればその墓の主は邪馬台国の王確定なわけ
近畿説の奴らは邪馬台国の定義を無視して環濠もない纏向を王都などと言ってて笑う
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:49:41.96
>>274
安帝永初元年
倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
が金印を与えられない理由は何が考えれるか?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:52:20.07
>>281
続き
魏の目的は半島情勢の安定にあり、その協力関係を倭国勢力との友好が大いに役に立つ戦略となることは明白
従って、今は小国の連合であるが、倭国諸国も漢の時代のようにまとまってお互いの利益になるようにすることが金印までもを与える目的となる

その流れが狗奴国との戦闘状態における支援は、軍隊を送るのではなく
塞曹掾史の張政等を派遣し、その目的は倭国の和解と統一を促すことにある。
しかしそれは思うように運ばず、目的を果たせないまま帰るわけにはいかず19年間も滞在することになる

なんとか形だけでもまとめあげ、塞曹掾史の張政等が倭国の使者に送り届けられやっと帰ったその時、すでに魏はなくなり西晋に置き換わっていた。
この倭国の使者が帰って、報告を受けた邪馬台国はさぞ大混乱におちいったことだろう。
後ろだてがなくなったも同然、安定するわけがないわな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:52:49.02
>>283
環濠があれば王都という定義もおかしなもん
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:53:37.58
>>286
倭王ですけど?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:58:02.28
>>287
お前日本語読めない馬鹿だね
倭人伝の中にある数多くの条件の一つが環濠
それすらない時点で候補にすらなれないって話
お前偏差値いくつよw
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 00:58:05.22
帥升も委奴国王印を使っていたからでは?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:00:56.07
後漢は奴国王に倭国の代表的地位をすでに与えてる
帥升がどの立場で朝貢したのかがはっきりしないが
帥升が奴国王だった可能性もあるし
別の国の国王だが倭国を代表するにふさわしいかどうか判断できなかった可能性もある
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:03:51.51
>>290
同意見だな。でも57年王とは別な
国、伊都国が倭国王だろうな。
で後継者なしとか?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:04:11.13
266年の晋への禅譲に伴い邪馬台国の王が送った朝貢団は
本来なら親魏倭王の金印を返却して新たに親晋倭王の金印を貰って帰ったはずなんだよな
でも中国の史書にはそのことが書かれてない
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:06:37.75
>>284
帥升が貰えなかった理由は、台与と同じ。
漢委奴国王(親魏倭王)の子孫で、奴国王(邪馬台国女王)だったから、不要。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:07:22.06
>>289
どこに邪馬台国に環濠がある記述があるのか?
卑弥呼がいた所にあればいい。
なので、邪馬台国が近畿
卑弥呼が九州でも成り立つ。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:08:12.69
>>293
金印は王朝が滅びた以上、不要だし無効なので下賜された王の手元に残るよ。
だからいろんな周辺国の王墓から出土(もはや不用品)なので。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:11:24.94
>>294
別政権に変わった場合はどうなる?
0299日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:12:36.69
>>294
>>296
そうか、でもそれは重大な問題を提起しているぞ!
つまり「漢委奴国王」は帥升の墓から、「親魏倭王」は台与の墓に、副葬されていた(る)ことになるな
後漢(曹魏)も禅譲して滅びちゃって不要だからね
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:12:56.17
>>298
君が死ねばいい
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:15:45.56
前の金印は返還して新しいの貰う説もあるから一概には言えんな
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:17:36.11
>>294
曹魏(西晋)の役人にしても「後漢(曹魏)のハンコなんかもう要らんよ、記念に取っとけ!」って感じだったろうしな
新王朝の徳の高さを示すことにもなるし
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:17:47.46
>>299
57年の王と帥升の墓がどこかにある
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:19:41.96
>>302
カッコエエなw
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:19:54.34
何にせよ266年を最後に邪馬台国は朝貢止めたから
残ってるのは親魏倭王の金印だな
吉野ケ里から出て来るとは思えんが
平原が卑弥呼の墓なら台与の墓はどこにあるんだろうなぁ
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:22:15.61
倭国内で別政権に変わった場合はどうなる?
伊都国には代々王がいた。本来男王とか
漢委奴国王は伊都国が持っていた?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:23:49.94
漢委奴国王の金印は持ち主が倭国大乱で滅んだんだろう
そのまま行方不明(実際は奪われないように隠された)
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:23:59.97
>>306
イト国への金印なんだからそうでしょ
怡土の付近から「発見」されてるし
百姓が見つけたとは思えんが
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:24:46.71
其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歷年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。

その国は倭国全体を差している、伊都国じゃないよ、岡ちゃんw
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:26:12.45
>>305
宇佐かな?近畿
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:27:11.70
伊都国じゃないよ、岡上ちゃん!w
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:27:35.51
>>308
奴国ではないってことか?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:29:01.14
漢委奴国王は、倭国王に最初に与えたのだから、倭を入れるはず。
倭の奴国王が正解。漢の委奴国ではない。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:29:40.11
伊都国東遷説じゃないよ、岡上ちゃん! トナカイよりw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:31:04.96
難しく考える必要はない
委奴国も伊都国もイト国
所在地は環境変化で移った可能性はあるが、北部九州で独特の地位を占めた国
そりゃ外交貿易窓口なんだから当たり前なんだが

それとは別個、政治都市ワシントンとでもいうべき邪馬台国があった
宗教都市でもいい
高祖山付近のどっかでしょ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:31:59.19
伊都国じゃないよ、岡上ちゃん!w
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:36:32.67
岡上ちゃん、伊都国じゃないってばw
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:36:35.54
では卑弥呼(称号)はどこから推戴されたのか
イト国からでは争いが収まらないから霊力豊かな宇佐となる
トヨも縁者なのだから豊なんだ
そしてもう一人女王がいた形跡が宇佐神宮にはある
0320日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:37:51.87
漢委奴国王は、倭国王に最初に与えたのだから、倭を入れるはず。
倭の奴国王が正解。漢の委奴国王ではない。

残念だったね、岡上ちゃんw
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:38:43.97
いずれにせよ今回の発掘、盗掘の可能性がないからそれなりのもんが出て畿内説は息の根が止められる
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:39:04.91
>>317
卑弥呼に漢委奴国王の
引き継いはないのか?
漢が滅んだのは220年だったよな。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:40:53.55
>>320
もとは奴国でも金印に寄せてイト国と呼称した可能性だってある
いずれにせよ連続性を認めればすっきりするんだ
0324日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:41:13.08
後漢朝が滅びてるんだから、もう不用品だよ、岡上ちゃんw
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:41:47.71
>>323
説としてある
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:42:37.22
卑弥呼って伊都国出身だから漢委奴国王が伊都国を指すのなら親魏倭王の印いらなくね?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:43:38.06
>>323
だって岡上ちゃんと原田先生だけだもの、伊都国が邪馬台国だったなんて言ってるのw
伊都国には王様いる(男でしょ、女王ならそう書くはず)って書いてあるじゃん。それも卑弥呼名の?w
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:43:50.28
漢委奴国王が伊都国王ならこの金印は平原の卑弥呼の墓に入っててしかるべきな気はするな
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:44:08.18
>>322
そもそもイト国で金印は管理していたんだろう
その使い途からすれば当然
卑弥呼がせっせと捺すものじゃない

しかし卑弥呼は称号だろう
トヨみたいに本名があったはずだが、記紀に痕跡あるだろう
そこらはどうよ
わしゃよく知らないが
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:44:27.43
>>326
天才あらわるw
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:44:46.38
>>326
漢から魏に変わってるから新調が必要だろ
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:45:20.05
伊都国ならなぜ志賀島から出て来るのかって感じだけどね
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:46:38.85
>>332
帥升が奴国王だからだよw
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:47:02.57
>>331
それなら魏に朝貢した時に金印持って行って
元々漢から倭国代表と認められてた伊都国王ですって言うと思うんだよね
魏も金印持ってきたら「あぁあの伊都国王ね」って話も早いし
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:48:14.93
>>326
だよな。邪馬台国だしな。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:48:34.38
伊都国説は説得力ないなw
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:51:48.48
だいたい常識で考えなさい
奴国はチョーコーするほど国力があって大陸半島に近かった
イト国も同様の役割を果たしている
そうそうチョーコーできる国力や立地が変わるわけないだろう
立地ってのが最大の栄える条件なんだぞ?
両者は連続していると考えるのが常識
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:51:57.43
漢の後ろ盾がなくなったとたんに倭国大乱
その後女王による勝連合による暫定政権下で始まった魏との交流

もっと時代背景を理解したほうがいい
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:52:41.88
>>335
倭国大乱で金印は有耶無耶になったのじゃ無いかな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:53:18.83
倭人伝では伊都国に一大卒があったって話だから
伊都国王の金印ならそのまま伊都国王が持ってたはず
それが志賀島から出てるのは矛盾する
奴国なら出土場所の辻褄は合う
出土場所が嘘なら話は別だが
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:53:53.43
>>338
衰退しない国てあるか?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:55:02.97
>>338
倭人伝では奴国と伊都国は別の国としてわざわざ書かれてるのに連続してるとは?
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:56:01.61
>>339
後ろ楯がなくなったからイト国が弱くなって大乱なんでしょ
だからイト国以外から女王を共立した
すっきり話が通るじゃん
依然として力は強く政治・経済の中心がイト国、宗教首都が邪馬台国だったわけだ
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 01:59:54.99
>>342
>>343
厳然としていまも九州で圧倒的に栄えているのは博多だ
地形の移り変わりもあるだろうが福岡市西区のイト国が栄えていたのも間違いないし、その前進が奴国と考えるのも当然
立地がすべて
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:00:31.91
>>344
奴国はどうなるのか?
抑え込むまでの力がない
奴国も衰退だよな
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:01:16.22
これは地政学的要因だから
立派な王様がいたとかは関係ないわけね
立地がすべて
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:02:07.74
>>347
同族が分裂?
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:04:10.28
独裁政権が続くと組織は必ず腐敗し、諸国の不満が蓄積する
倭国大乱は起こるべくして起こった

混乱を収めるためには男王ではなかなかまとまることができず
女王をトップに立てることで不満をそらす必要があった

ただ、行政機関や兵力がないと話にならないので奴国の権力はそのままに
行政機関として伊都国を分離したんだろ。
しかし伊都国のトップは奴国の王が譲らず、狗奴国をはじめ、多くの国は賛同に至らず
そんなとこだろ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:04:45.98
>>349
それだと現状では奴国が一番古い国だから
奴国が分裂して伊都国が誕生したことになるね
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:07:41.26
>>351
分裂というより分家だろうね
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:08:01.06
>>344
共立なんかで行政はできんよ
なんせ奴国だけが2万戸というけた外れの勢力もってるから

実態は >>350 みたいな感じになる
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:09:11.72
奴国王の王子は10人単位でいたと思うよ
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:09:56.77
>>350
違う奴国=イト国
イト国が代々倭国王を出していたが大陸がわちゃわちゃした
これまで一手に鉄を筆頭に輸入を統制していたイト国には不満が集まり、後ろ楯が弱くなって倭国大乱
イト国から王を立てるのは諦めて「卑弥呼」という称号をつくりイト国出身以外の女性を立てて宗教首都邪馬台国を造った
実際に軍事力を握っていたのがイト国ってのも明らか
0356日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:10:03.36
>>350
違う奴国=イト国
イト国が代々倭国王を出していたが大陸がわちゃわちゃした
これまで一手に鉄を筆頭に輸入を統制していたイト国には不満が集まり、後ろ楯が弱くなって倭国大乱
イト国から王を立てるのは諦めて「卑弥呼」という称号をつくりイト国出身以外の女性を立てて宗教首都邪馬台国を造った
実際に軍事力を握っていたのがイト国ってのも明らか
0357日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:12:28.89
>>352
それだと北部九州最強レベルの奴国と伊都国が同族だから
倭国大乱なんか起きなかったんじゃない?
奴国と伊都国が戦ったなら別だけど
0358日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:13:36.33
>>355
伊都国単体がこの時代にそこまで権力を持っていたなら
倭人伝の記載では至伊都国で終了し、奴国はその他大勢の中に埋もれる。
0359日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:15:18.02
>>357
壬申の乱と言う例もあるよ
0360日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:16:55.78
>>352
伊都国は分家というより、有識者や諸国の代表を集めた官僚組織だろ。
トップに奴国の王が君臨するが、決して独裁政権ではないというてい
0361日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:18:00.45
言っても仕方ないことだけど金印が志賀島から出たって話自体が胡散臭いんだよな
その後調査しても第一発見者の言うような金印を隠してた石の囲いや蓋は発見できなかったって
当時の役人が書いてるし

実際金印公園行ってみたけどなぜこんなところに金印埋めてたんだよって感想しか起きない
実際はどっかの墓盗掘して出てきたものを盗掘だと死刑だから掘ってたら見つかったって話にしたんじゃないかと
その位置がもし今の糸島市なら全て辻褄は合うんだよな
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:19:06.89
>>358
あくまでチョーコーしたのは宗教政治首都邪馬台国だよ
エスコートしたのはイト国だが
イト国は倭国大乱でこりて経済首都ニューヨークでよしとした
嫌気がさして東征した人がのちにヤマトから北部九州連合を倒しにきた
神話にかいてあるんだから
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:20:08.86
>>359
お隣の伊都国と奴国の戦争なら筑後平野まで巻き込んだ
100か国の倭国大乱にはならない気がするんだよね
0364日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 02:21:02.43
>>360
違う
イト国は貿易外交と軍事を司った人口大国でもある
唯一、文字も使えた
これはすごいアドバンテージよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:22:07.85
57年の朝賀は倭の奴国(共立女王国の一番南の国)=春日市あたり
107年に請見を願ったのは倭国の王(代々王を称す国々)の帥升ら
2世紀ころに大規模弥生墳丘墓を築くのは吉備と出雲
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:23:02.42
>>361
あそこは1400年ころまで水面だというボーリング調査がある
ナンメーは嘘をついている
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:23:43.32
>>364
だから、その軍を動かせるのは、もともと権力者である奴国の王以外ありえんのだよ
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:25:48.03
そもそも論だが邪馬台国って国は存在して
それを中心とした連合国に伊都国も奴国も入ってるってのが倭人伝の内容だよね?
それをもってして便宜的に邪馬台国連合と言ってる訳で
で共立された王が邪馬台国の女王ってなんか違和感あるよね?
邪馬台国は王がいるのに連合で共立した卑弥呼が邪馬台国の王になるんでしょ?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:27:25.58
>>366
公園の丘の上に金印のオブジェあるけど
実際の発見場所は今の地形だと崖下の海岸道路の辺りだったらしいしね
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:27:46.69
>>368
だから邪馬台国は共立された女王だけの都なんだよ
街がでかかったなんて記述はない
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:29:58.77
>>370
あぁそういう事か
ワシントンDCとかヴァチカンみたいなポジションで都として連合国の中心都市なわけね
どこの国にも属さずに
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:32:04.03
>>368
男王の独裁が争いの元になるわけだから
普段の行政は今まで通り奴国王がトップで諸国の代表の承認を得る
話がまとまらないことも多いから、その時は女王の占いで決めましょうという感じ

しかし、女王は奴国の軍事力に守られ、なにかと忖度するでしょ。
だから、納得できない狗奴国とは戦闘状態という流れ。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:34:44.43
倭人伝で奴国の後に南に投馬国じゃなく南に邪馬台国って書いてくれてたら
吉野ケ里が邪馬台国の王都で良いような気がするな
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:34:59.52
邪馬台国は7万戸の最大国
大国の投馬国や奴国と傍の国々の連合の中心の国
伊都国は30年ほど女王国に隷属した国
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:36:25.71
まぁ一週間後には金印出て全ての邪馬台国論争に終止符が打たれるんですけどね
0376日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:37:03.04
まとめようか
奴国=イト国
ここは外交貿易、文字を独占した国で、立地としては福岡近辺しか考えられない=イト
大陸の後ろ楯が弱って倭国大乱、代々倭国王はイト国が出していたが、よそから共立(おそらく霊地宇佐)して女王国を立てた
しかし依然として強い力を持っていたことが記録されている

そのうちの誰か、王位に着けなかったものが東征
出雲やヤマトで力をつけてのちに北部九州連合を服属させた

神話に書いてあることと常識がぴったりじゃないか
地政学は揺るがないんですよ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:42:46.42
>>376
誰も納得してないことまとめられてもw
魏志倭人伝にははっきり奴国と伊都国は別の国だと書いてるんだから
同族だとも書いてない
むしろ伊都国には一大卒があって邪馬台国連合の中では特別な地位すら感じさせる
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:48:13.93
>>377
だから特別な地位なんだよ
ぶーぶーうるさいから卑弥呼(称号)をよそ(宇佐)から立てただけで
強国ってのは立派な王様ではなく立地で決まる
委奴国=イト国なのは揺るぎようがない

文字の独占が想定され、計数にも富んでいただろう
立地から
卑弥呼が鬼道に使う天文もイト国が教えたんだろう
それまでは宇佐の神がかり少女
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:48:38.32
吉野ヶ里の墓が王墓クラスなのは朱の存在でほぼ明白だが
もし三種の神器出てきたところで現状は何も変わらんのがね
もはや金印か石板に刻まれた墓誌でもないことには
でもこの時代文字の書かれた遺物は出てこないからなぁ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:50:21.66
平原が卑弥呼の墓なら卑弥呼は伊都国出身ってことになるけどなぁ
宇佐云々は考古学的に何か根拠あるのか?
宇佐神宮とか言い出すのは無しで
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:54:06.96
>>381
吉野ヶ里の日吉神社はたまたまだろうが(丘で立地がいいから建てただけ)、宇佐神宮は二ノ御殿を絶対に移してはいけないという口伝がある
卑弥呼の墓だよ
そこは三女神がまつられているから称号卑弥呼、トヨ、そして中国の史書にない三代目卑弥呼がいたことを示している
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:55:06.03
倭奴国なんて記載はない
委奴国なら存在する
金印掘る時にわざわざニンベン省略するほど画数増えるわけでもないし
やっぱイトなのかなとは思うが
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:56:44.77
>>383
何の根拠もないね
50年前くらいに宇佐の改修工事かなんかで
石棺出てきたのを見たとか言ってるオッサンが出現したりしてたが
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 02:59:31.63
「建武中元二年【倭奴国】奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(後漢書)
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:03:10.66
>>385
ならばなぜ朝廷は宇佐神宮の神託を信じたのか
祖先も一目置く霊地だったからだ
直接の祖先ではないから記録や位は薄いんだけどな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:03:16.37
>>385
ならばなぜ朝廷は宇佐神宮の神託を信じたのか
祖先も一目置く霊地だったからだ
直接の祖先ではないから記録や位は薄いんだけどな
0389日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:04:44.60
奴の発音は上古音ナ(nag)、中古音ヌ(nuo)
ドは日本語の発音
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:05:27.63
>>387
それもよく言われるけど後付けだよね?
しかも朝廷は日本書紀の中で神功皇后を卑弥呼と誤認してるし
邪馬台国の時代について的確に把握してる形跡すらない
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:07:58.55
なっ
ちょっと目を離すと何の根拠も無い話しをだらだらとし出す
なんなんだこいつらは?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:11:24.57
「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。釈迦菩提の化身なり。」『宇佐託宣集』
八流の幡は「八方に8色の旗を立てる」という密教の習慣
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:14:05.36
よく卑弥呼の共立云々言うけど
実際は弟が取次役として牛耳ってたんでしょ?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:19:21.89
>>381
邪馬台国だな
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:21:41.86
卑弥呼が天照で弟がスサノオなら
弟は卑弥呼が死んだ後で追放されて出雲に逃げ込んだのかな?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:22:03.63
王が気に入らないと倭国大乱起こしてるから
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:25:06.27
卑弥呼だけが共立じゃなくそれ以前も共立でしょう
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:25:24.40
公開はしないけど占いの結果は絶対!というルールだけは徹底させたんだろうね
人前にも出ないということだから、病死していても、後継者争いで揉めたくないからかくして影武者がいたのかもしれん。
さすがに高齢すぎてざわざわしてきたので、事実を知る関係者ともども抹殺殉葬ということもありえる。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:28:21.35
邪馬台国は近畿
卑弥呼が九州だな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:28:51.69
卑弥呼に関しては当時の異常気象による不作に加えて日食まで起きて
日の巫女としての力の衰えで殺された説はしっくりくるけどね
平原の割られた鏡だらけの墓も平穏な老衰って感じには到底見えないし
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:31:02.83
>>400
むしろ倭人伝の邪馬台国は北部九州で確定で
ヤマト王権が近畿ってだけの話だな
ヤマト王権と邪馬台国が繋がってるという
倭人伝無視の勝手な妄想ベースで考えるから
邪馬台国が近畿にないと困るようになるんだよw
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:34:47.05
他に全部割られて葬られた墓なんて無いだろう
そうなるとその時だけの事情があったと考えるか?
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:37:34.27
割られたって事は価値が無いって事なのかなぁ?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:39:02.83
あの時代鬼道で鏡使った演出してたらしいし
卑弥呼が異常気象を理由に殺されたのなら
卑弥呼の使ってた鏡は呪われてるから叩き割るのはわかる
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 03:45:27.51
その場で叩き割ったのか?
それ以前から割れてたのか?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:31:11.70
内藤湖南は倭面土をやまとの中国表記ではないかとした
>>389
倭面土だと何て発音になりますか
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:37:23.14
>>407

Wō miàn tǔ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:40:42.86
>>109
>私は「倭の奴国」でなく「委奴国は伊都国」という一元論論者ですので。
奴をドと解釈していいの?>>389
こうすればありってこと?>>323
0410日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:44:36.26
>>408
邪馬台、ヤマト王権のヤマトを意味する可能性はありますか
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:50:28.00
卑弥呼共立が220年以前なら金印引き継ぐ
魏に変わり返却したのが卑弥呼になる。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:50:31.49
>>410
可能性は低いと思います
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:52:59.95
>>410
低いでしょうね。
邪馬台国は近畿ですが
卑弥呼が共立で九州と思います。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 04:58:34.59
魏志倭人伝には邪馬台国が近畿とする記載は1ミリも無い
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:02:50.85
>>412
>>413
それは発掘や文献などの推理ではなくて
純粋に古代中国の発音問題として苦しいですか?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:07:32.54
国名とか人名で何かを言うのは難しいな
中国人の倭語の聞き取り、そして漢字の音仮
これで原語とだいぶニュアンスが違ってくる
さらにそれを現代の日本語で読んだりすると・・・
アインシュタインが愛因斯坦になるようなもんだ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:07:54.86
>>410
邪馬台国について願望が先行と思います。
威信材が豊富でないといけない
他国を支配とか。
共立されたのは卑弥呼であって邪馬台国ではない。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
この程度で紹介で終わる
古墳工事や土木工事等が実体です。
卑弥呼らの霊場とかあったのでしょう
行く必要がない国なのです。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:24:19.64
>>410
水行30日陸1月の遠方な国が
邪馬台国連合とかナンセンスな話です
ありえないと当方は思いますよ。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:30:44.07
>>410
極めて高いと思います
隋書倭国伝でも畿内ヤマトは魏志の邪馬臺だと明確に記載されていて古代中国人は両者を同じものだと考えていたようですから

それを現代人が否定したところで何にもなりませんね
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:40:00.88
>>420
隋使が卑弥呼に金印を授けたわけじゃ無いから根拠にはなり得ない
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 05:58:28.12
>>420
則魏志所謂邪馬臺者也ですね。
者ですよ。側近かもしれません。
近畿
近畿
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:05:14.80
>>423
自殺でもするのか?
ならば臓器提供お願いします
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:07:56.42
動物園の餌ぐらいにしか使い道は無いだろう
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:08:09.01
>>422
漢文読めないひと?
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:12:11.69
>>426
では訳してくだされ。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:19:48.37
>>427
自分で出来ないの?
「自分は漢文が読めませんから」と認めてお願いするなら訳してあげる
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:25:09.74
>>428
訳せないのか?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:26:18.07
>>429
訳せるよ
おねがいしないの?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:26:53.61
>>430
しないよ。
訳せないのか?
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:30:13.58
>>431
訳せるよ
あなたは訳せないんでしょ?
無能だから?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:31:06.38
>>432
怪しいな。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:32:18.36
>>432
本当は
訳せないんでしょ?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:33:53.01
>>179
絶対にあり得ない。
三国時代で中国人が殺し合った後の人口が1600万人。
日本はその約10分の1の180万人
・洛陽11万戸
・長安4万戸
・成都5万戸

邪馬台国が洛陽に迫り、長安、成都を上回る戸数であったわけがない。
戸籍で人口を把握していた中国とは違い、日本は戸籍も文字もない。
すなわち、テキトーに7万戸とか5万戸とか書いただけ。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:34:20.84
>>434
こっちが>>426先に質問したんだから、答えてね
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:34:29.59
>>432
本当は
訳せないんでしょ?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:34:58.13
>>436
本当は
訳せないんでしょ?
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:36:03.25
>>219
じゃあ邪馬台国じゃないな
戦争中に墓づくりに税金使うバカな国は存在しない
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:38:35.31
>>438
自分が漢文読めないので、先に他人に読ませて
後で「俺も読めた」て嘘つくヒトでしょ
無教養な嘘つきって恥ずかしいね
人間として終わってるよ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:40:02.44
>>440
訳せないのか?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:42:58.72
>>283
それは厳しいと思う
邪馬台国は内乱の国
親魏倭王金印は次の男王、さらには壹与に引き継がれたであろう。
金印・滇王之印も棺から出てきたが、それを下賜された離難王の墓かどうかは分かってない
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:43:45.42
>>441
ほら、必死に誤魔化して先に正解を聞き出そうとしてる
みっともないね
漢文ぜんぜん読めないって認めなよ
みっともない無学なひと
w
0444ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 06:44:12.05
邪馬台国は畿内というのを否定したいネトウヨたち
ツイッターのネトウヨ芸人たちと同じだから統一教会や安倍神社や日本会議や暇アノンの教義なんだろうな
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:45:35.86
>>443
訳せないのか?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:47:59.02
くだらないレスバしてんじゃねえよ🐙
0447ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 06:48:06.04
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0448日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 06:49:18.96
>>447
お前もガイキチのようだな
0449日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 06:50:22.88
>>443
訳せないのか?
0450日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 06:51:23.37
>>445
>訳せないのか?

そうまでして必死になって先に正解を聞きたがるってことは
自分が漢文を全然読めないって認めてるんだね
無教養って、かなしいね
0451日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 06:52:54.17
>>450
訳せないのか?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:56:24.94
>>451
無学男が必死で藁
0453ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/07(水) 06:57:49.77
水行10日(日本海航路で北九州か韓半島から敦賀港)
陸行1ヶ月(敦賀港から徒歩で纏向まで1ヶ月)

どう見ても邪馬台国は奈良県
何ともネトウヨの歴史修正主義の往生際の悪さよ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 06:58:52.28
>>452
訳せないのか?
0455日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 06:59:16.93
🐙🐙茹蛸が二人居ます
0456日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:00:27.45
>>455
冷静ですけど?
0457日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:00:47.61
>>453
方向音痴さんがいます
0458日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:01:18.30
>>452
訳せないのか?
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:03:38.19
>>453
方角修正主義の関西ネトウヨ
0460ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:04:58.30
韓半島から南行して壱岐を出た辺りで日本海海流に乗って流されて進むから南行して10日で敦賀に着くというのは何も間違っていないだろう
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:06:16.66
>>458
発狂してるのって、近畿?
0462日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:06:43.81
>>461
訳せないのか?
0463ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:08:10.51
渡邉某や何とかの宮やハゲの小説家のような反韓で売り出してるネトウヨ芸人はみな邪馬台国九州説なんだよな
スポンサーの統一教会や日本会議や安倍支持者や暇アノンの連中の教義なんだろう
自民や維新を投票してそうな連中はファシストレイシストが多い
0464日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:08:43.46
>>460
240日間、太陽の昇り沈みを見てれば、絶対に気づく
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:12:42.41
>>463
脱糞共産党支持者なの?
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:13:02.54
>>452
訳せないのか?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:13:20.97
>>464
何に?
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:15:26.35
>>261
鬼頭宏氏の推定人口は、小山修三氏の研究に (1978,1983年)に依拠している
一方、吉野ケ里遺跡を取り上げた報告は昭和9年ころにから相次いで発表された
昭和27年にはみかん園の開墾、翌28年の水害にともなう護岸工事と緊急発掘調査があった
昭和40年以降は大規模開発の増加に伴い本格的な発掘調査が実施されるようになる

神埼工業団地の開発計画に伴う埋蔵文化財確認調査は昭和57年に丘陵部、昭和61年に水田部の調査が行われた
小山氏の推計(1983年)はこの昭和57年(1982年)の埋蔵文化財の確認調査の結果が反映されていると思う
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:16:22.05
>>467
仮に、東に流されていたならば気づく
南に進んでいるはずなのに、いつも正面から太陽が昇り、背後に沈んでいく。
「ああ、俺らは東に進んでるんだな」って普通に気づく
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:16:22.76
>>467
仮に、東に流されていたならば気づく
南に進んでいるはずなのに、いつも正面から太陽が昇り、背後に沈んでいく。
「ああ、俺らは東に進んでるんだな」って普通に気づく
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:16:58.49
>>460
バカ
0472日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:17:57.92
>>466
「生意気なこと言いましたが、実は自分は漢文がカラキシで読めないので、正解を教えてくださいお願いします」
って謝れば、おなさけで訳してあげるよ
いつまでも威張ってるなら、サービスしてあげない
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:19:00.32
>>472
訳せないのか?
0474ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:19:09.18
日本海側は冬は曇りが多く太陽が見えない
だから海流に陸地を見て海流と季節風を頼りに進むしか無い
特に山陰から北陸にかけては冬に太陽を見る事は稀
ひどい時は一ヶ月に1回も太陽が出ない日がある
方位磁針の無い時代に方角など分かるわけもない
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:19:46.54
>>202

明らかに魏志倭人伝と矛盾するアホらしい推計をもとに反論したつもりになっている畿内説はおかしい。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:20:15.33
>>473
お前って近畿?」
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:21:13.63
>>468

1986年からの発掘だとwikiには書いているから反映されていないよ
0478ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:21:46.96
ネトウヨは統一教会のイデオロギーを守るために邪馬台国論争やってるからな
壺がかかってるから必死
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:24:29.16
>>474
太陽見てないのに、240日間も南に進んでいると確信したわけか
トンデモだな
0480日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:25:05.29
>>472
訳せないのか?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:25:17.75
>>251

いくつもある研究のうち、自説に都合がよいものだけ押し付けようとしているだけだろ。
しかも魏志倭人伝と明確に矛盾する誤った推計だ。
0482ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:26:16.83
ネトウヨ芸人が畿内説を唱え出したら九州説を支持しても良い
スポンサーの統一教会の一味の教義に反するから出来ないだろうが(草
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:28:20.33
後漢の後ろ盾がなくなったとたんに倭国大乱

その後、女王による連合による暫定政権下で始まった、魏との交流

もっと時代背景を理解した方が良い
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:28:41.95
邪馬台国の遺跡であれば
・たびたびの戦で厳重に警備された集落、戦死者の墓、鉄鏃などの鉄製武器が出てくる
・大陸と交流した形跡、大陸で生産された品々が出てくる
・南に狗奴国らしいクニ、邪馬台国と対等に戦える鉄武装したクニがある

この3つは外せないでしょ
どこだろうとこれらをコンプする遺跡を示してから言え
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:30:22.95
>>472
訳せないのか?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:32:41.77
其国本亦以男子爲王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歷年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。
事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治国。自為王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入。
【居處宮室、楼観、城柵嚴設、常有人持兵守衞】

女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有、侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千余里、
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:34:11.99
>>483
正始6年には狗奴国と戦う為に黄幢もらって檄を飛ばしてもらうも効果なし
正始8年にはいよいよ事態が緊迫したのか、張政を派遣な
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:34:32.74
>>479
あんたこそ根拠のない妄想だ
行程も記事が魏使の報告だと理由なく決めつけている
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:34:39.12
>>100
>>181
なるほど、侏儒(小人)国が少彦名命で四国か!
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:36:03.30
>>487
おお、サンクス!
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:37:32.15
まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
「其南有狗奴国、不属女王。男王卑弥弓呼、副官狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

次に、「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里遺跡そのもので、鬼道を、鬼籍に入った歴代倭王の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏)の祖霊を祀る祈祷室はまさに巫女の卑弥呼にピッタリです!まとめると、

末盧国・伊都国・奴国・不弥国(九州北岸)
...↑.............................↓(九州東岸)
女王国〜(東渡海千里)〜↓〜〜〜〜〜複有国皆倭種(本州)
...↓.............................↓...............↓
狗奴国(熊本菊地)投馬国(宮崎)〜〜又有「侏儒国」在其南(四国)↖去女王四千里
...................................↓
東冶.....................邪馬台国(×蛇足=↓陳寿のプロパガンダ↓)

陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:38:32.41
>>371

それ、伊都国の立場じゃ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:39:13.90
>>474
魏志倭人伝に書かれている温暖地とはかけ離れている
0494日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:40:13.04
>>493
なるほど良い指摘
0495ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/07(水) 07:40:27.04
邪馬台国は中国に朝貢して金印を貰ってたんだよな
ネトウヨ悲報だがヤマト王権の宗主国は中国だった
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:40:31.97
冬に日本海とか大雪だよな
0498日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:41:37.76
>>377

地理的に目と鼻の先の奴国と伊都国は同族だろ。
宮家が違うだけ。
志賀島から金印が出たのかどうかは不明だが、伊都国から志賀島に渡って祭祀を行うことも容易なので、おかしくはない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:41:47.75
>>493
その温暖地とは、黒潮太平洋沿岸のこと。   @阿波
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:42:06.44
>>496
日本海ルート説、一瞬で消えた!w
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:42:44.32
>>495
九州説だが、邪馬台国は確かに中国の犬
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:42:53.75
>>381

卑弥呼の墓が平原だとしても、卑弥呼が伊都国出身だとは思わない。
筑後または肥国の出身だろう。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:43:55.91
申し訳ない>>410ですが質問の仕方が悪かった
>>407の内藤湖南の説、倭面土はヤマトと読んで大丈夫かを聞きたかった
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:44:45.27
>>493
自爆した日本海ルート説!w
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:47:08.13
>>504
自爆した九州説や畿内説!w   @阿波
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:48:06.06
>>181
アワワ侏儒国だってさw
0507日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:49:07.23
>>385

実は九州のあちこちで色々出ているが、きちんと考古学的に調査が入るのは何割かしかない。
いまだに皇国史観から抜け出せないアホが畿内以外を王都と認めないため、福岡が倭国の王都であったという前提が認知されず、そこにある遺跡の重要性も無視されがち。
数100年の間に何十人もの倭王がいたはずだが、墓がちきんと発掘されたのは数個しかない。
平原遺跡でさえ、いまだにこのスレにチラホラあるようにその考古学的価値を認めたがらないネトウヨがいる。
神武が即位したヤマト以外は王都だと認めたがらない。
それが畿内説の本質。
だから魏志倭人伝と関係ない倭種のくせに、邪馬台国だとか言い出す。
0508ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 07:49:29.05
金印を志賀島に埋めた人たちならば志賀島を本貫地とする部族だろう
奴国王は海人族の国だったと考えるのが自然

三種の神器の八尺瓊の勾玉だが実はこれは中世日本では印璽と考えられていた
記によると八尺瓊の勾玉のみすまるとなっているのでネックレスだったのかもしれない
源平の戦いで壇ノ浦で回収されたときの記録だが幾つかの石が入っていたそうだ
魏志倭人伝の金印がネックレスの飾りに混じってて不思議ではないよな
0509日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:49:49.16
>>504
>>506
自爆してないのは、筑紫説(其南有狗奴国不属女王)と瀬戸内海ルート説だけw
0510日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:50:48.36
>>403

破鏡って知らんのか?
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:50:52.11
邪馬台国は、魏志倭人伝にある邪馬壹が
邪馬壹→邪馬臺→邪馬台となった名称。
文字と読みを変えることによって、魏志倭人伝にある国とは別の国なってる。大和に結びつけるためにしたのだろう。
ところが、参考にするのは魏志倭人伝。
そして、わけがわからなってる。
0512日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:52:18.69
>>475
魏志倭人伝の記録による推計と小山氏の推計は驚くほど一致している
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 07:52:53.95
>>509
瀬戸内海って地中海性気候で、冬でもそんなに寒くならないんだよな。
年末年始に大阪から岡山行って新幹線から降りた時、全然寒くなくてダウン脱いだw
0514日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:53:50.22
>>435

邪馬台国七万戸は連合全体の名前だろ。
最大の国邑は奴国二万戸で、七万戸の一部。
それなのに畿内説は内訳と合計をさらに合計して九州説はおかしいなどと、捏造した証拠で中傷する。
0515日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:57:46.26
>>477
君が見ているwikipediaの
「歴史「」項目中の
「近代以後」
「工場団地造成計画」
の項目を見てみなさい

私の書き込みは、それをやや詳しく述べたもの
0516日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 07:58:23.52
>>509
魏使(郡使の情報か)は【冬】についても書いているw

兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖(ベトナム国境付近)同。

倭地温暖、【冬】夏食生菜(【冬】や夏でも未加熱の料理「刺身や漬物か」を食べる)、皆徒跣(裸足で歩く)。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:06:03.53
>>515
甕棺が出た遺跡としてカウントしていたら僅か56人のプラス計算じゃないの?
0518日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 08:08:30.07
>>516
冬の、悲しみ本線・日本海を完全に舐めてるな、日本海ルート説w
0520日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 08:14:32.35
>>519
「生」は未加熱であること
「菜」は加工調理したおかず
つまり生野菜という意味ではなく、「未加熱の料理」という意味
カルパッチョや刺身、しめ鯖、漬物など
0522日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 08:16:57.20
>>517
小山氏の旧石器・縄文・弥生時代の推定人口は広く認めせられている

鬼頭宏の200年の推定人口はこの小山氏の推計に依拠している

他の研究者の研究成果としてあげられるのは、
McEvedy & Jones (1978年) 700,000
Biraben (1993, 2005年) 500,000

君がこの分野で何か成果を出したいのなら、研究成果が広く認められるように地道な努力をしてゆくしかない
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:18:45.70
畿内説統一協会の壺を売ってるのはここですか?
0524ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 08:22:02.94
魏志倭人伝ではサラダを食っていた倭人だがいつしか生野菜を食する習慣が無くなった
理由は人糞肥料の利用によって寄生虫リスクが高まったからだろう
有名な話だがGHQの米兵が日本の野菜をサラダで食べたら寄生虫被害が続出したので日本の畑を調べたら野菜に人糞をかけていたので彼らは驚愕したのだという

日本の土壌はリン分が少なく農業に不向きな一面がある
よってそれを補うために人糞を肥料に使うようになった
中世には既にこれが使われていた事が明らかになっている

蛇足だが明治になって北海道アイヌの人たちが本州ジャップのような農業を受け入れ拒否したのは人糞を使うのが不潔に思われて嫌がったからだそうだ

魏志倭人伝に云うが如くに倭人が生野菜を食していたというのならば人糞肥料は未だに使っておらず農業生産力はかなり低かったと思われる
そのような生産力の低い時代にも関わらず人口7万戸のクニがあったというのならば奴国のような国邑ではなく広域支配国家であったとしか思えないな
0525日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:22:15.26
自分は素人だけど、今回の吉野ケ里での新発見とかみてると九州が邪馬台国だったのは間違いなさそうだけどな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:24:26.09
>>520
しめ鯖や漬物などの保存食だよw
0527日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 08:26:17.03
>>522
現在の吉野ヶ里の推定人口は5400人と言われているが小山の推定人口にはカウントされていないだろうね
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:27:44.24
>>527
5400人(千戸)もいれば、卑弥呼の宮殿(衛兵500人、奴婢1000人)としてはピッタリじゃないか?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:28:55.27
>>518
天候が荒れるとエンジンのある船でも遭難するのに、丸田舟で長距離の旅なんてするかな
せいぜい商人や漁師が近場まで船を出すくらいだと思うわ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:34:28.70
>>525

吉野ヶ里や博多や糸島を含む、九州北部全体が邪馬台国たとすれば納得がいく。
その外側に狗奴国、投馬国、さらに海を渡って倭種と続く。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:35:45.82
>>526

ああ、邪馬台国が九州だから、しめ鯖や高菜漬けを食べていたのか。
やっぱり邪馬台国は九州だな。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:36:45.81
>>491
まぁ、何らかの余計な忖度なしに、普通に読めばなw
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:39:14.47
>>531
辛子明太子を漬け込むにも壺が要るw それに高菜漬けって、博多名物とんこつラーメンの定番トッピングじゃん!w
0534ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 08:39:14.61
魏志の船は構造船であり丸木舟ではない
そして倭人の船だが準構造船は既にあったろう
ヤマト王権が韓半島への侵略を繰り返していた時代だが倭人は数千から数万の軍で新羅や高句麗に襲来を仕掛けている

丸木舟では武器も馬も兵糧も運べないし戦利品も持ち帰れない
今城塚古墳の円筒埴輪には船の絵が沢山描かれているがそれらの船はマストを備えていて船室らしき構造物まで備え付けられている

漁師の類は丸木舟だっただろうが外国へ行くのに丸木舟はない
紀によると欽明の時代に約千人の兵を馬付きで四十艘の船で百済に派遣している
ヤマトの船は百人乗りの大型船だったことが分かるだろう
0535日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:42:09.57
>>533
辛子明太子も、スケトウダラの卵巣を唐辛子と浸け込んだ「生菜(未加熱料理)」w

邪馬台国は九州だなw
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:44:44.88
>>534
6世紀の話を持ち出されてもなあ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:47:59.70
>>527
>>468を参照のこと
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:50:36.17
畿内説って畿内の多数派の朝鮮系渡来人が
弥生時代に大和に来て、
大和王朝を建国して、
邪馬台国→大和朝廷になったっていうプロパガンダだろうな。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:52:23.31
>>535
まぁ、全く同じじゃないにしても、似たような保存食(発酵食品)は、当時でもあったろうからな
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 08:54:12.48
干物は食べる直前に焼く(炙る)だろ
0543ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 08:55:57.97
辛子明太子の起源は韓国のキムチ
だから韓国にも似たようなものが色々とある
宗主の話はネトウヨが騒ぐからここで止めておくが博多の明太子は美味いと思う
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:01:17.69
>>537
吉野ヶ里遺跡で何人の人口をカウントしたのかな?
それに吉野ヶ里クラスの上唐原環濠集落の人口は全くカウントされていない
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:08:41.50
>>538
そりゃ日本人の8割が朝鮮人と一緒の遺伝子だからその仮説になるだろう
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:09:51.05
>>538
今の日本人は殆どが朝鮮系
日本の伝統と教育で作られた精神でもって辛うじて日本人をキープしている状況
その精神が揺らぐと朝鮮人と同じ事をやらかす
畿内説みたいに
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:09:58.02
>>538
それは嫌韓皇国史観九州説による捏造
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:10:07.58
紀元57年に奴国王が漢の武帝に朝貢したが、
紀元107年には倭面土国王帥升が代わって朝貢している。
3世紀中期の卑弥呼の時代には奴国に王はおらず、
磐井の乱の時代(527)には、
山門八女の磐井の君が、
糟屋に屯倉を置いて、
奴国辺りを支配していた。
そして金印の出た志賀島は、
奴国の糟屋出身と言われ、
日本各地に進出した阿曇氏が、
氏神を祀っている志賀海神社がある。
コレラを総合すると、
57年に漢に朝貢した奴国王は阿曇氏で、
ソレを107年に制圧したのが倭面土国王帥升=邪馬台国の彦坐王で、
その時引き連れた奴隷が奴国の奴隷で、
その時伊都国や大分別府の彦湯産隅王と包囲して攻めたために、
阿曇氏は志賀島に金印を持って引きこもったと考えられる。
以降、奴国は山門八女の勢力が代々糟屋に屯倉を置いて支配する土地となり、
邪馬台国時代に王が存在していない理由はそういう事。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:10:43.42
朝鮮の唐辛子のルーツ日本じゃ無かったっけ
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:12:23.21
>「面土(めと)」(面土国)の位置には諸説あるが、七田館長は古墳時代の行政区分に用いられた「米多(めた)」に通じるとして、現在の上峰町米多(めた)や、吉野ケ里の「目達原(めたばる)」に引き継がれたと推測する。

>吉野ケ里遺跡周辺で発見されている首長墳墓は時代によって集落の位置が異なり、七田館長は「都市に当たる吉野ケ里を治めた王は周辺の有力な集落から選ばれ、役割を終えると出身集落に葬られた」と指摘する。

内藤湖南の言うように倭面土がヤマトだったら吉野ヶ里を含む広範囲が原ヤマトではないか
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:13:19.31
>>550
安曇氏は安心院を根拠地にしていて宇佐氏の出自も安曇氏だそうだ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:15:32.66
>>546
小山氏の推計は1983年の研究によるもの

これは、その後新しい遺跡が発見されたことにより変わってゆくという性質のものではない

ただ、Biraben (1993, 2005年)の研究では200年の日本の人口推計を500,000としている
これはこの分野の最新の研究の成果と言ってもいいと思う
それは、小山氏の推計値を下回るものになっている
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:18:58.78
>>557
国土の7割は山勝ちな地形だからね
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:20:14.43
>>554
宇佐は阿曇族の進出に伴う分家だろうな。
金印を持っていた奴国王、志賀島の阿曇氏は
糟屋出身と言われている。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:26:53.49
>>555
日本人の精神を捨てた連中は畿内説になる
わかりやすい

大陸や半島系に多い思考回路は複雑な確立分布から結論を見出す能力が無い
だから辻褄の合わない事を平気で発言する
0561日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:28:26.58
紀元57年に漢に朝貢した奴国が、
なぜ107年に倭面土国に朝貢されてしまったかということ。
3世紀中期にも奴国は存在していたので、
107年に奴国が滅亡した、
あるいは倭面土国になった、
あるいは伊都国になったなどということは否定できる。
ということで、奴国は倭面土国に植民地化されてしまったのが107年の
倭面土国王帥升の奴隷の朝貢ということになるだろう。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:29:17.38
>>558
倭人在帯方東南大海中 依山島為国邑
倭人は帯方郡の東南の大海の中にあり、山島によって国邑をなす

って、よく観察してるねw
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:29:23.71
方角は分からないが水行20日、方角は分からないが水行10日陸行1月なら、ワンチャン日本海説、畿内説もあり得たんだけどな
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:30:37.08
>>283
> 近畿説の奴らは邪馬台国の定義を無視して環濠もない纏向を王都などと言ってて笑う

九州説の作った定義とやらがヘンテコなだけでは?
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:30:44.84
>>560
朝鮮系マスゴミが畿内説に固執しているのも、
邪馬台国は畿内の朝鮮系渡来人が建国した
というプロパガンダの為だろうな。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:31:35.09
>>562
その島に向かって南へ南へと移動すると島の西部に到着するわけよ
そこが邪馬台国な
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:35:42.67
>>491
まぁ、「何らかの余計な忖度」なしに、普通に読めばなw
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:37:52.26
>>564
作ったのは魏志倭人伝だよ
戦続きで鉄鏃を使ってたとか魏と交流したとか記載されてんじゃん
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:41:00.31
畿内説はやたら3世紀にこだわり4世紀のものを前倒ししてきたが、卑弥呼の時代は2世紀に始まってるんだぞ?
しかもその前から巫女がいたわけで祭祀文化も代々伝えられてきてるわけだ
日吉神社の下にも巫女の墓があっただろ?
漢鏡と沖縄の貝で作られた装飾品が出てる
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:41:06.72
日本海側には卑弥呼の時代のクスノキはあるのかな?
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:41:39.55
>>181
>>491
距離を盛るのは良いんだよ、目的地はその途中=手前にあって必ず着くんだからw
でも(南→東)と方角を「箸墓=卑弥呼の冢」ありきで勝手に解釈を変えたりしちゃダメ(この時点で学問的にアウト!)でしょ(絶対着かないんだから、間違った場所に着くんだから)w
しかも女王国東渡海千里複国有皆倭種も東、其南有狗奴国不属女王も東、ってダブってるじゃないか!書いてる本人だって書いてるそばから、アレ?おかしいぞって解るような文章書くかよ、バカの岡上じゃあるまいしw
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:48:35.04
>>571
まぁ畿内説のやってることは登山道の標識の方角を変えるようなもの
>>516
さらに日本海ルート説は殺人罪に相当するなw
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:49:09.95
>>559
その阿曇族は、読んで字のごとく、「阿波」の海人族なのである。 いわゆる、筑紫忌部の一派。   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:52:05.98
>>571
南→東と解釈すれば、箸墓も卑弥呼の墓になれる!w
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:52:39.39
阿呆も阿波の事だよな
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:53:59.62
>>534

ヤマト王権と倭を区別したら?
準構造船で半島まで足を伸ばしていたのは、博多湾の海人族の国、倭国だろ。
内陸の大和がはるばる船出したとは考えにくい。
仮にそのようなことがあったとしても、それは博多湾の海人族の末裔だったからだろう。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:55:42.83
>>543

唐辛子はかなり後になってからで、それまでは韓国のキムチも辛くはなく、日本の漬物と似ていたと聞く。
高菜漬けだな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 09:57:46.33
>>574
そして、それまでは南=南だったものを、倭に入って以降は(南→西)と解釈すれば、孫権墓も卑弥呼の冢になれるんだよ、君w
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:03:06.17
>>574
(南→北)の誤写と解釈すれば、帯方郡に逆戻りしちゃうねw そこにある、無理に無理を重ねて解釈すれば、それっぽいお墓も卑弥呼の墓になれるじゃないか、君!w
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:03:19.97
>>576
準構造船で半島まで足を伸ばしていたのは、博多湾の海人族の国、筑紫忌部だ。   @阿波
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:09:34.42
>>563
倭人在帯方東南大海中
ちゃんと東南方向にあるが
0582日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:12:26.50
>>581
四国だな。 九州は違う。   @阿波
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:13:41.68
>>581
まさに四周を海に囲まれて浮かぶ四国だな。 九州は違う。   @阿波
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:16:45.72
>>581
まさに四周を海に囲まれて浮かぶ四国だな。 
中国人にとっても、特徴的な位置なのだろう。   @阿波
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:17:14.37
>>181
>>491
倭地に着いた途端(南→東)の誤写としないとたどり着けない畿内説
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:21:29.07
>>181
女王国東渡海千里「複有国皆倭種」の中に女王国(大和)がある、という論理矛盾に気付かない、ワケワメな畿内説w
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:22:48.17
>>585
卑弥呼時代というのは、阿波が南海トラフの津波で流されて更地になってた頃だよ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:22:48.82
佐賀県知事のはしゃぎぶりを見て、後藤田徳島県知事も負けじと派手なパフォーマンスをすることだろう。
なんせ、徳島はここ掘れわんわん状態だからな。  わははははは   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:24:15.70
日本の船はショボいけど中国のはジャンク船と呼ばれるものでデカい
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:25:28.34
>>588
「阿波」にとって津波なんぞ、いつものことだがww  なにを大騒ぎしとるんだ? お前はアホか。   @阿波
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:25:35.11
>>586
陸行ひと月案内してもらえるから重要じゃない
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:25:56.42
>>587
倭地に入った途端に(南→東)となるだけでなく、女王国の東に(また)女王国がある、とする箸墓ありきの畿内説は、大学の教養課程で論理学を勉強した人間なら絶対に引っ掛からない罠w
つまり、高卒以下ってことw
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:27:24.47
>>592
一月も歩けば、倭人の伝聞だとしでも、東に向かってるか、南に向かってるか判るだろw
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:28:12.14
>>590
ジャンク船は10世紀以降。   @阿波
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:30:15.54
>>594
出雲から伊勢遺跡まで歩いたから先ず南で吉備に行って東だな
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:32:03.24
>>596
無理筋を言い張っても無駄だぞ。 いい加減に諦めたらどうだ?   @阿波
0598日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:32:52.09
>>597
ちゃんと東南方向にあるが
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:33:31.86
なんら矛盾せず
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:39:26.32
倭人から聞いた話しの中で、信頼できないと判断されるものは、日数で書かれてる。
信頼できない情報は無視すれば良い。
と思うが…
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:41:01.55
阿波や淡路島に青銅器が入ってきたのも出雲→吉備からじゃないか?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:42:39.12
>>600
日数こそ信頼できるし倭人の伝聞ではない
短里なんて存在しない
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:44:32.87
>>599
近畿説はキンキーkinky
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:49:41.36
>>604
出鱈目な短里より日数だろ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:50:11.19
日数は帯方郡から。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:51:09.42
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0609日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:52:32.94
大体殆ど船だから里数なんてあてにならんのよね
上陸してからは案内人が居るし里数は要らない
0610日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:53:33.97
陳寿の蛇足(嘘)…中国大陸沿岸の行程日数を、倭国内の行程日数として描写している(なぜか?↓)
└→「その道里を計るにまさに会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(呉の背後)にあるべし」(と結論付けるため)

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
南越(ベトナム)
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:53:39.24
>>606
日数は信頼できない情報として書かれてる。信頼できると判断されたものは里数に換算されてる。
と、考えるが。
短里の話はしてない。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:57:31.27
>>611
換算などしてない
邪馬台国まで行く日数行程こそ正しく不弥国までの里数行程は間違い
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 10:57:58.10
>>283
邪馬台国に環濠があるけど
唐古・鍵遺跡 
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:04:09.90
>>614
帯方郡→水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で出雲→陸行ひと月で伊勢遺跡
里数と日数は記録した人が違うし時代も違うでしょう
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:05:45.59
>>611
> 日数は信頼できない情報として書かれてる。信頼できると判断されたものは里数に換算されてる。
> と、考えるが。

理由は?
0617日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:05:46.55
それでも100里単位なんだよね。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:07:34.13
>>618
遺跡は増え続けるわ
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:09:07.28
>>615
書いてること解らん。
信頼できない情報を元に話を作るから、わけが解らなくなる。
と、考えられる。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:09:54.25
古代の水行31日が高千穂から岡田宮までだから。
不彌国から投馬国まで水行20日は美々津で間違いない。
そうなるともう邪馬台国のある場所は山門八女から大分の範囲しかなくなってくる。
後は水行20日陸行1月で、不彌国の港から10日かけて大分辺りに着いて、
そこから内陸を1ヶ月かけて山門八女まで行ったんだな~という程度のもん。
実際に唐書や隋書に、
倭国は東西5月行南北3月行と書かれているから、
古代の倭国の1月行はそんなもんだわっていう程度のもんよ。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:12:29.09
>>620
なんで?
日数行程だけで伊勢遺跡に到着してるだろ
不弥国までしかない里数行程は間違ってると言っている
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:15:26.65
>>618
小山氏の研究成果の係数に文化庁の遺跡数統計を単純にかけたもの
学術的にまったく無意味
近畿説はこういうペテンを平気でする
かつまた、否定された後、厚顔無恥に同じ行為を繰り返す
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:16:10.71
>>624
そうでもないと思うがそうかね?
0627ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 11:17:08.37
倭国大乱期の九州は人口過密なうえに飢饉の際に余剰人口を他所に出さねばならなかったのだろう
当時の奈良盆地には未利用の湿地帯が広がっていたが銅鐸祭祀族の原住民にはこれを開墾する技術が無かった

そこで九州の部族が東方への民族移動を起こし畿内の征服と大量移住が発生した
オレはこれがヤマト王権の正体であり邪馬台国だと考える

古代の東ゲルマン人たちはスカンジナビア起源説という伝承を伝えている
ゴート族の場合だとスカンジナビアの故地で飢饉が起きた結果として部族の何割かをバルト海の南に移住させたのが発祥なのだという
何処まで本当か分からないがヴァンダル族もランゴバルド族もみなスカンジナビアが発祥なのだと伝えている

倭国大乱期に飢饉が起きて民族移動があったのだろう
畿内で銅鐸祭祀が廃れて九州瀬戸内系の銅鏡祭祀に移行したのはただの軍事征服とは思えない
宗教が変わるレベルの征服なのだから民族移動だろう
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:18:00.61
>>625
文中の近畿説を九州説に訂正します
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:18:31.88
狗邪韓国=金官伽耶
對馬国=対馬
一支国=壱岐島
末盧国=松浦
伊都国=糸島・怡土
奴国=那の津・那珂川
不彌国=宇美
投馬国=妻・都間
狗奴国=隈・球磨
侏儒国=種子島
結局コレなわけで、
そうすると山門八女から大分まで何もなくて、
邪馬台国は奈良の大和に想定するんかという話になる訳で、
実際に弥生後期に最も栄えた地、
山門八女から日田、大分宇佐別府辺りに邪馬台国があったとしか言いようがない。
そうすると狗奴国=隈・球磨と南で接し、
帯方郡から12000里で、侏儒国へ南に4000里、邪馬台国の東を海を渡って1000里に倭種の国があるが、
全て再現できる事になる。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:20:35.04
>>625
遺跡が増えれば人口も増えるのは当たり前
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:25:50.68
>>629
魏志倭人伝の距離、方向は無視が前提だったよな
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:27:19.76
>>629
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
裸國黒齒國はさすがに無いと思ってるでしょ?
侏儒國も無いんだよ


  
0633日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:29:17.68
>>631
邪馬台国は山門八女から大分まの範囲を前提に、
各方位と距離について議論すればいいだけで、
距離と方位がこうこうだから邪馬台国は大和で、
山門八女や大分は空白地帯だとか言うのは本末転倒だろう。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:31:38.57
>>632
邪馬台国を南に4000里は280キロ南で、
弥生後期の成人小人の集団墓地のある種子島の広田遺跡が侏儒国で確定している、
覆しようがない。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:31:58.39
>>633
地名優先を選択したんだよね。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:33:14.83
>>634
小人なんて居ない、常識的に考えて
0637日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:35:39.43
>>635
>地名優先を選択したんだよね。

山門とか、発音のかけ離れた地名を使ったらダメ
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:36:40.62
>>630
そう主張するなら、自分で研究して発表し、支持を得るしかない
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:38:39.13
まず考古学的に、
弥生後期の最も先進地域の山門八女から大分にかけて、
この地域に何もなかったということを想定していいのか?
ということになり、
ソレは考古学的に出来ないということで、
後は狗奴国=隈・球磨と南で接し、
南に4000里に侏儒国=種子島があって、
帯方郡から12000里で、
東を海を渡って1000里に倭種の国がある地域はどこか?
ということでしか無いのである。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:38:46.57
原始人じゃあるまいし僅か2000年前に小人なんか居るわけねえ
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:39:57.64
>>636
種子島の広田遺跡に、
弥生後期の大人の小人の集団墓地が出ちゃったから、
もうどうしようも無いの。
抗うだけ無駄な事。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:41:38.62
>>623

魏志倭人伝を否定するなら邪馬台国論争から手を引いたら?
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:42:18.52
>>642
短里なんて存在しない
0644日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:44:17.45
>>639
先進地域かわからないけど
山門八女から大分にかけて
遺跡があるならばいたのだろう。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:53:24.06
>>637

現代人に区別できないくらい似た発音だね。
九州訛りと関西訛りの違いかもしれない。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:53:59.39
まあ、九州の人口の問題はないということで。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:55:04.86
>>638
それよりも小山の古い推定値を引き合いに出して当時の人口を語るのは辞めてもらいたい
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 11:56:15.36
>>630
その遺跡が集落遺跡ならいいが、古墳ではなぁww  あほらし。   @阿波
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:00:13.29
阿波は自分の墓の心配をした方がいい
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:02:53.92
>>646
君の説のように仮に200年の九州の推定人口がこれからも増加してゆくとして、
それは九州説にとって何か有利な条件になるのだろうか?
いくら増加しても魏志倭人伝の記録から導き出される当時の倭国の人口を九州内に包含することは絶対に無理なことに気づこう
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:03:38.20
今は弥生遺跡数は4万以上あるので
小山さんの計算方法だと
人口は4倍の700万人くらいになるよ。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:04:22.48
>>649
「阿波」は、「墓制の総合商社、墳墓の百貨店」だから、心配など一切いらん。

「配石墓」も「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も
「積石墓」も「突出型墳丘墓」も「円墳」も「双方中円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も
すべて揃って存在するのは古墳王国(阿波)だけ。   @阿波
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:04:57.46
>>651
移動とか消滅を顧慮しているのかね
0654日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:05:42.05
>>650

邪馬台国合計に奴国二万戸などをさらに加算する詐欺的計算をしなければいいだけ。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:05:45.83
>>651
奈良時代の人口を超えたな
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:06:41.28
>>652
お前は甕棺墓に入るのか?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:16:00.13
>>651
何回も言っているように、それは学術的な根拠が何もないペテン
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:18:24.13
>>595
なおさら、畿内、四国は無理ゲーだな
0659日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:18:24.20
>>654
魏志倭人伝に記載されている8か国の戸数を合計して積算しているだけ
二度加算などしていない
どんな意味で言っているのか?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:21:48.53
>>611
その通り。
水行20日、水行10日、陸行1月とか概数すぎる
これが邪馬台国までは行ってない説を強力にする。
水行9日、水行11日、陸行29日ならかなり信頼できるのだが
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:25:35.67
>>656
選り取り見取りで迷うよ。 贅沢な「阿波」だ。  わははははは   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:27:15.59
>>659

どの8カ国?
0665日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:28:34.49
>>661

墓制と祭器も同じ。
これで別族なはずがない。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:28:46.41
>>611
さらに、言うと、
水行20日、水行10日、陸行1月の概数が何を意味するかというと、放射説の後押し
0667日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:29:31.12
>>658
>なおさら、畿内、四国は無理ゲーだな

朝鮮半島や関東・北陸ぐらいなら「阿波」の海人族に任せとけ。  わははははは   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:31:15.68
>>666

帯方郡からの放射説でよろ。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:41:52.00
まぁ、なんやかんや言っても、全国へ進出した事績を語られる氏族は忌部(物部)だけ。   @阿波
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:44:24.29
>>664
魏志倭人伝に登場する、帯方郡から近い順に邪馬台国まで列記されている8か国
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:46:25.48
>>669
阿波の居残り組はトンデモの阿呆しかいないようじゃのう
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:50:20.07
福岡空港の滑走路の地下に吉野ヶ里の4倍くらいの大環濠集落が埋まっている。
そこが「以婢千人自侍 宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」の倭王卑弥呼の大宮殿なのだ!
0673日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:52:14.77
>>671
阿波の居残り組は、7世紀末まで王都(観音寺・敷地遺跡など)で雅に暮らしたよ。  わははははは   @阿波
0674日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:53:35.86
>>665

墓制は宇土半島まで同じ
首狩り頭顔面ど変形甕棺墓はいろんな物を集めて入れているので
墓によって違う
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:54:34.81
>>670

邪馬台国と投馬国は領域の呼称なので、はじめの5カ国は邪馬台国に含まれるんだよ。
二重帳簿詐欺。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:55:49.89
>>674

たからそれが倭国の範囲だろ。
個人の思い出の品ではなく、祭器としては明確に三種の神器が見られる。
それが倭王の墓。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 12:57:30.53
邪馬はGoogle翻訳だとXié mǎ シマと聞こえるヤマじゃ無いかも
0678日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:00:22.79
>>675
粉飾だな。近畿
0679日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:00:48.05
>>675
私が話しているのは「倭国」の戸数

君が邪馬台国に含まれるという国々の名前とその戸数の合計は?

倭国の中での位置づけは?
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:01:49.78
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。

そして3世紀中頃の築造で、同時期(甕棺墓)の殉葬者66体(うち2体は刺し違え)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮「高良大社(←Google地図検索を!)」で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:02:20.88
>>679

コピペだけど、概ねこれに賛成

邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国~-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:04:33.73
>>675
の口調は近畿風だと思ったが、>>678で本人が登場

カムフラージュで自己レスをするのは彼の常套手段
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:04:49.44
>>668
行き先が違うのに放射説ってなんだ?
おまえの中で整合性が取れてるのか?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:05:46.46
>>682
別人だよ。阿保 近畿
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:05:51.04
>>676

それが倭国の範囲だと極南界は宇土半島ということになる
三種の神器というのは大和朝廷が編纂した歴史書の神話
首狩り頭顔面ど変形甕棺墓は九州東部にも拡がることはなくど没落した墓制
弥生中期に倭人の風習の卜骨は九州には無い
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:07:29.94
邪馬台は(シマト)じゃあないのかな
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:07:54.34
>>685
後期にあるだろう 近畿
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:08:09.72
>>680
高良大社の式年遷宮(本殿建て替え)の時、発掘調査をお願いできないかなぁ...
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:08:41.85
>>681
これも、>>680も近畿がいつも繰り返し貼るコピペ

あきれた
粘着する短文でおかしいとは思っていたが
またよ近畿のなりすましだったとは・・・

時間を無駄にした
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:08:44.93
>>683

行き先が違うから放射説なんだろ
対馬海峡を渡ってから、邪馬台国と投馬国でルートが違うんだよ。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:10:03.83
>>685

記紀でも三種の神器は高天原から筑紫に持ち込まれ、いつのまにか畿内に移動している。
筑紫にあるのは全然おかしくない。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:10:22.35
>>691
里数行程は?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:12:38.97
>>685

もともとは狗奴国熊本も倭国の一部。
ただ、後漢の頃は博多より南の情報が皆無だった。
郡使が伊都まで来て、さらに南や東があることが知られるようになった。
ただ、王都はあくまでも博多湾沿岸。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:13:13.89
>>695
ヤマトである必要は無いよね、邪馬台の正しい読みが知りたいのよ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:13:45.29
島門

筑前国遠賀郡島門村。現在の福岡県遠賀郡遠賀町にあたる。遠賀川の西岸にあり、古くは大宰府への官道の宿駅があった。

宗像も近いんだよな
https://i.imgur.com/NXEnd3M.jpg
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:13:56.14
>>693

首狩り頭顔面ど変形甕棺墓は九州東部にも拡がることはなくど没落したので畿内に移動していない
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:15:09.59
>>680
高良大社だとすると、全山中世山城のような感じじゃなかったかな?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:16:09.13
>>692
卑弥呼の時代は?
近畿
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:21:17.42
>>704
邪はシに近いんだな
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:22:06.43
高良は、
高牟礼→高礼→高羅→高良

むれ【牟礼・山】
(古代朝鮮語から)山のこと。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:22:17.49
>>692
壱岐にあるが? 近畿
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:24:45.53
邪馬台国はシマト国でした
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:27:47.45
>>697

筑後山門のヤマト
畿内ヤマトへは地名の移転
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:35:51.16
志摩たい
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:36:21.50
ヤマトィ国だ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:53:36.09
>>710
> 筑後山門のヤマト
> 畿内ヤマトへは地名の移転

ぜんぜん違う発音の言葉には変化しない
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:54:34.50
志摩国って、斯馬國で出てるだろ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 13:58:05.29
>>704
> 邪馬台の正しい読み方はどうでも良い。
> 何でもヤマトと読みたいだけ

九州説とは、そういう非科学的思考をするものだよ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:03:23.55
>>571
>>593
なるほど
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:03:28.80
音義はあくまでもオマケ
字義で探求すべき

邪心のある馬韓(百済)系の都が、邪馬台国

新羅系伊都国と齟齬な関係とわかる
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:08:44.60
>>593
学問じゃなく、我田引水ってことね
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:19:36.11
邪馬台国は近畿だけど卑弥呼は九州って書いてる人いるけど
この人って邪馬台国も卑弥呼も倭人伝の中の国と人物って理解してないんじゃない?
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:25:42.91
奥山が息を止めて3日ほどになりますが、まだ生きているのでしょうか?
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:26:23.78
>>716

ほとんど同じだろ。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:29:49.37
>>723
何が言いたいのか?
近畿
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:30:04.77
邪馬台国は倭人伝の中の国
ヤマト王権と繋がりがあるとはどこにも書いてない
近畿説の奴らは邪馬台国が最後に朝貢した266年から
ヤマト王権の倭の五王が出て来るまでの空白の100年を理解していない
0729日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:31:10.66
>>728
ひとりごと?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:34:50.66
>>730
おまえが間抜け。
ヤマト政権などまだ後の話
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:37:36.42
>>571
卑弥呼の援軍要請を受けて、帯方郡の太守がわざわざ張政を派遣した狗奴国戦争を無かったことにしないと成立しない畿内説w
大和と尾張の間に245・247年頃の戦乱の痕跡皆無w
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:38:37.09
長江系縄文混血が最初は偉そうにしてたけど、後から黄河系縄文混血に下剋上されただけだろ?
何がそんなに凄いんだ?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:44:21.63
>>728
ヤマト王権と繋がりがあるとかは書いていない。
又、狗奴国も九州南部だ。
投馬国、邪馬台国には行っていない。近畿
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:44:58.79
>>732
纏向は物流も安定し、本州各地から派遣された荒工員が集まり、和気あいあいの建設ラッシュに沸く平和遺跡。血の匂いが全くしないw
しかも大和国の卑弥呼と交戦中の尾張狗奴国(卑弥弓呼・狗古智卑狗)からの派遣工員が長期間滞在し、大和以外では一番多く働く矛盾w。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:47:38.35
ニュー速の吉野ヶ里スレは常に畿内説フルボコ状態
土蜘蛛連呼ジジイのトーン下がっててワロタ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:49:09.00
大和族は九州、長江系
押し出されるように日向族が中国地方へ
先に押し出された隼人族と合流
更に黄河系が合流
そして、大和を下剋上して古墳人、神武天皇の頃ぐらいに日本人の原型が形成、畿内に
なんも不思議がない
揉める意味もわからない
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:51:01.05
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0739日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:54:58.07
>>728
わかった?
近畿
0740日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:55:28.66
>>735
邪馬台国=大和説に改めて問い詰めたい
@「女王国東渡海千里複有国皆倭種」はどこなんだ? そして、
A「其南有狗奴国不属女王。副官狗古智卑狗」はどこなんだ?
0741日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 14:57:51.79
大和、邪馬台国、九州
薩摩隼人

なんか後から九州に住んでいるだけのヤツがやたらと古代九州、九州、九州魂見せろ!ってやたらと本土人に言ってきて偉そうにしているだけに見える
本土人からすると有り難くもなんとも無い
0742日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:02:18.30
大和魂とは九州人だけのプライド
しかも、勘違いの
本土の日本人には無関係
ってことでOK?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:03:56.68
>>740
> 邪馬台国=大和説に改めて問い詰めたい
> ①「女王国東渡海千里複有国皆倭種」はどこなんだ? そして、
> ②「其南有狗奴国不属女王。副官狗古智卑狗」はどこなんだ?

無駄なことはするな
みんなテンプレに書いてある事なんだから、ただ読めばいい
0744日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:04:54.35
生きてる間に決着がつくとは思わんかったよ。寂しさもあるよ。さよなら畿内説。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:06:24.23
>>740
イジメてあげるなよw
もうみんな畿内説なんか嘘って解ってるからw
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:08:04.33
吉野ヶ里発掘の会見始まってるはずだけど
まだかな
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:08:51.09
>>746
なんか見つかった?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:10:07.36
>>743
クソチャイナの無理矢理侮蔑蔑称やめて
菊池彦とか久々知彦とかに書き直してくれん?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:10:57.87
もうね、ガチで邪馬台国は九州で決まりだよ。
久 不 相 見 長 母 相 忘

畿内にワンチャンがあるとするなら、箸墓を掘るしかないだろう。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:11:29.79
>>749
台風でこれからしばらくお休みだけど
今日の結果は15:00ごろに発表すると言ってたから
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:16:10.97
>>735
尾張狗奴国の工員が地元大和以外で一番多く働いてたら、卑弥呼や台与は自分を暗殺する刺客になるわけだから、すぐに追っ払う罠w
だのにw、卑弥呼や台与の目の前で長期滞在して、外来系では一番多く働いている矛盾w
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:17:25.29
なにも情報ないのに勝った気になってる九州説信者が滑稽 
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:18:04.12
なにも情報ないのに勝った気になってる畿内説信者が滑稽 
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:19:43.69
>>752
> 尾張狗奴国の工員が地元大和以外で一番多く働いてたら、

という証拠は?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:21:14.19
>>756
> なにも情報ないのに勝った気になってる畿内説信者が滑稽 

情報たくさん有りますけど
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:22:48.31
>>78
>>299
箸墓は、崇神ヤマト王権が筑紫邪馬台国を吸収した後に築いてあげた、共立女王台与の墓かもしれない
もし箸墓から「親魏倭王」金印が出てきたら、死後、筑紫邪馬台国から瀬戸内海吉備経由で運ばれた台与の副葬品、ということだ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:25:38.79
狗奴国もクマ国とかで
全部、古語の神、太陽、日、とかばっかでワケワカランことになってんだろうなぁ
どうせ、日本のことだから
バカチャイナに違いなんか分かるわけがない
全員が神国です、日国です、男だから彦です、女だから子です、と言ってきたようなもんだろ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:29:17.38
古代の畿内に発足したのは大倭(タイワ)
畿内が文字がかけるようになるのは硯の発掘状況から古墳時代以降となり
大和(タイワ)と改名するのは少なくとも古墳時代以降
倭の五王や遣隋使のどちらかで我々はかつての邪馬台国と名乗ることで
大和をヤマトと呼ぶことになり、700年代に完成した記紀では古くから
倭や大和をヤマトと読んでることにした
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:32:08.56
>>761
なるほど。
「親魏倭王」台与をそこまで丁重に葬ってくれるなら、筑紫邪馬台国連合の王たちも進んでヤマト王権の傘下に入タッと考えられ、筑紫に前方後円墳が普及していった理由も納得だな。
なにしろ箸墓=女王台与の墓なのだからw
祇園山古墳(甕棺墓に66体の殉葬。うち2体は刺し違え)との整合性も取れる!w
0766日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:33:33.60
>>765
箸墓が台与の墓なら、西殿塚が真の神武陵かもしれんなw
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:35:27.26
卑弥呼が個人名称であるかすらあやしい
日見の子
日の国から来ました天子です程度なら性別すら胡散臭い
スサノオも
将軍職名ぐらいだったらお手上げ
総帥将軍王みたいな
みんなアホだわ
後漢書に帥升、スサヌウで
魏志に卑弥呼だし
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:42:52.20
>>765
最後の女王台与を丁重に葬ることで、筑紫邪馬台国連合の王達の心を掴み、ヤマト王権の支配下に置いてしまった崇神...
戦国時代、武田氏滅亡→本能寺の変の後、恵林寺を再興して、旧武田家の重臣達の心を見事に掴んで配下に入れ、天下を取ったコ川家康に通じるものがあるなw
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:44:09.57
>>728
倭の五王が畿内なら卑弥呼もと考えるのは当然だろ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:44:27.94
結局、日本は古代から日本で
天皇と将軍がありました
力関係も絶えず変動してました
近代までずーっと同じでした
だけど、海外にはそんなの区別付かねぇよ、バーカ
で、いいじゃん
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:45:28.36
親魏倭王の金印と同時に
57年の金印見つかったら
面白い。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:46:33.61
>>772
なかなかいい線、そういう事だ
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:49:18.94
共立王なんてのは象徴天皇に近いだろ
0777日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

まず、瀬戸内海勢力(及び畿内ヤマト)だけでは奴国支配を説明できても糸島支配を説明できません

吉備型甕・当時の纒向型前方後円墳は奴国までだし、庄内式土器も伊都国ではあまり見つかっていない
https://i.imgur.com/WLqeXRI.jpg
こんな基本的な事を見落としてるのがトンデモテンプレです
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:51:27.84
>>761
>>765
もう九州説は箸墓(台与の墓)から「親魏倭王」の金印が出てきても、痛くも痒くもないなw
0780日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

てか那珂八幡古墳も畿内から直接規格配布されたもんじゃなくて、見様見真似で作ったもんに見えるしな
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 15:59:24.84
>>737

いろいろ出鱈目
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:00:43.40
トナカイのbot タイム?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:02:34.38
>>742

江戸っ子が喧嘩っ早いのは有名だが、それは江戸の下町の大工は家康の江戸開闢の時に大阪の難波っ子が連れてこられたから。
そして難波っ子が騒がしいのは、博多っ子の気質が受け継がれているから。
では難波っ子はいつ博多から連れてこられたのか。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:03:28.50
>>96
>>98
なるほどw
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:05:24.90
>>771

倭王卑弥呼が九州なら、倭五王も九州だろJK
倭奴国王や倭王帥升が九州なのに、なんで倭王卑弥呼が畿内なんだよ!
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:19:55.75
>>784
当然の事ですな。
壺が支配て、シュールだな 近畿
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:20:46.15
>>785
大乱の後だから
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:21:27.93
これ面白いな。

唐書

九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城に代々
 天之御中主神
 高御産巣日神
 神産巣日神
 宇摩志阿斯訶備比古遅神
 天之常立神
 国之常立神
 豊雲野神
 宇比邇神・須比智邇神
 角杙神・活杙神
 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
 伊邪那岐神・伊邪那美神
 大綿津見神(豊玉彦)
 天津彦火火出見尊(山幸彦)
 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)

神武は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の4男坊

記紀との違いは、博多湾沿岸にいなかった天照大神と素戔嗚、大国主などを飛ばして、かわりに志賀島の綿津見を入れてある。
おそらくこれが中国から冊封されていた倭王の王統なのだろう。
記紀はなぜか傍系の大国主や天照大神を重視している。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:22:25.24
石蓋がものによっては裏面に記号があるって一度盗掘されてんじゃないのかね?
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:22:34.74
参考

宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:24:18.91
>>777

> まず、瀬戸内海勢力(及び畿内ヤマト)だけでは奴国支配を説明できても糸島支配を説明できません

説明されてるけど
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:27:04.17
奴国は那の国、那津国で博多と分かるし
末盧は松浦、伊都は怡土、投馬は都萬/薩摩あたりだと分かるけど
不弥国はどこに相対するの?
0794日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:28:05.52
>>792

こじつけだろ。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:29:24.58
奴国が広すぎて、どこにするかだな。
伊都国からの距離と同じだけ延長すればいい。
個人的には香椎宮だが、名前は全く違うね。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:35:31.31
>>793
宇美町じゃなかったかね?

けど宇美の由来は神功皇后が三韓征伐の帰りに応神天皇を産み落とした土地から「産み」だと読んだ気もする
ちなみに糞されておシメを変えた土地が志免町
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:38:53.55
>>181
>>491
不弥国から南に二十日で投馬国とあるから、あえて音を無視して、港町宗像ではどう?
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:40:51.96
昔は海が広がってたしね。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:44:00.42
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉の口八丁に騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(崇神纏向王宮)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は(記紀の後付け地名)ヤマト王権ってあれほど言ったのに...orz」
0803ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 16:49:02.09
旧唐書は唐王朝が滅びて間も無く編纂された書だが二人の日本人名が記載されていてそれが何故か橘逸勢と学僧空海。
阿倍仲麻呂のような人物もいたのだが日本人としてはこの二人のインパクトが強烈だったということなのだろうか
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:49:16.23
>>798

投馬国への水行二十日は帯方郡から。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 16:51:15.04
>>804
>>181
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:00:55.76
これから畿内説の隠語でタイタニック(沈没)、九州説のことをオリンピックって呼ぶか?w
君はタイタニック?それともオリンピック?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:02:51.47
吉野ヶ里「今日は水を抜いて4枚目の小さな石を取って目印の紐で8区画に分けてこれからどう土をどけていくかの作戦会議をしました。全貌が分かるのは来週中だと思います」
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:06:07.70
畿内に蚕を伝え、天皇に使えた秦氏が来たのは
『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君[3]を秦氏の祖とする

あれれ?弥生時代の畿内から絹が出ないはずや。
0811ネトウヨ撲滅隊
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2023/06/07(水) 17:07:19.11
統一教会の一味が九州説を推しているからな
ハゲの小説家とかネトウヨ芸人がジャップの歴史を解説して邪馬台国は九州ですとかアピールしまくり
0812日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 17:08:54.09
>>810
秦氏以前に
九州に養蚕を伝えたのは
誰なんだろね
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:09:41.24
>>810
だから、それは「阿波」のことだと何度言えばw

「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」が遺っている。 23氏487口の名簿である。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、
「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。   @阿波 
   
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:10:03.63
まあちゃんとテントかけただけでもマシ
台風で飛ばないんだろか
0817日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 17:11:08.77
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)


 



ハイ終了

解散!
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:11:09.94
統一教会の一味が畿内説を推しているからな
ハゲの小説家とかネトウヨ芸人がジャップの歴史を解説して邪馬台国は畿内ですとかアピールしまくり
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:14:35.62
纒向は4世紀初めで閉鎖されてるけど、その後はどうなったの?
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:14:52.72
>>816
使えなくなった鍬を加工した木製仮面もねw
0823日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:15:00.18
>>810

なるほど。
これはもう畿内説はあり得ないわけだ。
卑弥呼は絹を献上しているからね。
やはり邪馬台国とヤマト王権は別の国だね。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:15:46.90
壺商法の畿内説の化けの皮がまた一枚剥がれた。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:15:47.53
>>816
桃の種って邪馬台国となんか関係あるの?
0826日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:16:06.74
これら「阿波」の物証があれば、九州や畿内のアホどもは、気が狂わんばかりに狂喜乱舞するんだろうな。   @阿波
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:16:38.32
>>825

畿内説によると、纒向から桃の種が出たので、鬼道の祭祀を卑弥呼が行った痕跡だろうと。
アホだろ。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:17:06.88
>>752
まぁ、巨大古墳をバンバン造ってるような、建設ラッシュに沸いてる地域は邪馬台国じゃないってことだねw
0829日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:17:18.58
鬼といえば桃太郎
小学生かよ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:18:09.55
>>828

その巨大古墳も卑弥呼より後の時代だろうけどね。
畿内説は年代前倒し詐欺だから。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:18:59.71
>>831

ないな。
0834ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 17:20:18.66
卑弥呼は名前ではないからな
昔のジャップには実名を隠すという習慣があった
特に女性は深く名前を隠匿した
だから紫式部も清少納言も実名はよく分からない

何故実名を隠したのかというと実名を使って呪術をかけられると効き目が強くなって危険と考えられていたかららしい
古代も終わり頃になると男性は実名を隠さなくなるが女性の実名忌避は後々まで続いた

今でも日本人は実名を使わず「社長」とか「部長」とか肩書きで人を呼んだりする
これも昔の実名忌避の文化の残滓ということだ

よくネトウヨは韓流ドラマを歴史考証無視と誹謗しているがジャップの時代劇でも暴れん坊将軍が臣下の名前を呼び捨てしてたりして有り得ないことをやっているからな
例えば暴れん坊将軍の徳川吉村でも実名で人を呼び捨てにすることなど無かった
0835日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:24:29.35
吉野ヶ里の日吉神社でも絹が出てたんだね
2世紀の絹が

「実際、この日吉神社の鎮座する丘の頂上から、特別な墓が見つかっています。
埋葬されていたのは40から50歳の女性で、甕棺からは銅鏡、両腕に南海産貝殻性腕輪36点、絹の布片、朱などが発見されています。
この墓は巫女の墓と思われ、弥生時代中期後半くらいのものだとか。」
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:24:42.16
ヒミコの本名と畿内九州説なにか関係ある?

ヒミコが名乗ったわけじゃなくて周りの人間たちが姫巫女さまや日巫女さまって呼んでただけだと思うが
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:29:45.52
畿内からは絹が出てるの?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:30:50.46
>>837
甕棺なのと年代が合わない
0841日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:33:50.06
学会が年代をズラしまくったから古すぎると判断せざるを得ないという事はないのかな?
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:35:55.72
甕棺だからダメということはない。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:36:32.80
現在の年代基準は本当に正しいのだろうか?
縄文人が平安時代まで居たって話もあるし
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:39:22.80
吉野ヶ里周辺の埋葬地にも時代による変遷があって
件の甕棺が発見されたのは紀元前1世紀頃の埋葬群
その後も埋葬地はどんどん拡張していくんだけど
なぜか今回の石棺がある小山は避けて広がってるんだと
0845日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:41:59.44
卑弥呼より前にも肥国には女性首長がいたんだな。
もう九州北部が邪馬台国でいいだろ。
キナイコシはオーバーキルされてるね。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:46:10.96
ヒメヒコ制に名残があるように
日本は女性の権力者も多かったんだろな
東南アジアに残る兄弟姉妹の守護信仰が起源という説があるけど
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:46:15.15
卑弥呼が木棺でこっちが石棺
そこだけ見ればこっちの方が期待できるけどなぁ
0849日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:47:47.15
呪術のためではない…? 奈良時代の桃の種の穴、ネズミの仕業か
https://mainichi.jp/articles/20220713/k00/00m/040/079000c

 奈良市の西大寺で大量に出土し、古代の呪術跡と考えられてきた奈良時代の桃の種(核)の穴が、実はネズミがかじった跡だった可能性が高いことが奈良文化財研究所の調査で分かった。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:48:01.29
>>847
卑弥呼はシャーマン
実権は弟

天照とスサノオの関係だと
卑弥呼が死んでスサノオは出雲に逃れたから
卑弥呼の弟も邪馬台国追放されて出雲に逃げ込んだ可能性
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:48:23.41
>>783

東国は頼朝のころにはすでに喧嘩っ早い
難波は百済郡があったところ
博多は口より手を出すほうが早い
0853日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:52:30.03
>>850
古代文明の宗教的権力は武力による権力と同等以上な例が多いから
実権という言葉の定義次第だな。
ヤマト王権が宗教的権威の確立に必死だった痕跡見てわかるようにね
つうかアマテラスなんて宗教的権威そのものだし
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:53:43.47
>>848
>卑弥呼が木棺

青石の「阿波」だから、絶対に青石石棺だ。   @阿波
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:53:45.43
吉野ヶ里は間違いなく邪馬台国の一画だろう。想像を越えるほど出まくりなんだよ。
畿内説派からしたら見て見ぬふりをしたいだろう。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:53:47.07
>>852
ミューオンとかいうやつの仕組みはよく分からないが、使えないらしい
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:54:09.99
箸墓は出てきた土器から4世紀だと分かってる
それをインチキ炭素年代法で3世紀だと言い張って
それを基準に半世紀以上にわたって積み重ねられた土器編年を
無理やり100年前倒しした結果近畿、東海、北陸、吉備辺りの土器編年がメチャクチャになってる
0859日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:54:18.41
アメノミナカヌシノミコト
「ナカ」つまり朝貢した奴国王
奴国が東征したことを示している
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:55:03.39
>>856
棺が3500だからな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:56:06.47
>>849
纒向のはかじり痕の無い桃の種と発表してたから
かじり痕のある桃の種が存在しては困るのでネズミのせいにした

まで読んだ
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:56:17.69
ほんとならあの石蓋どけたら
三種の神器と金印があったー!って流れ期待してたのに
土で埋まってましたってw

卑弥呼の墓と言われる平原は人間は跡形もなく朽ち果てちゃってたけど
こっちは骨片くらいは残ってんのかなぁ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:56:47.16
>>852
3年前にミューオン(素粒子)測定までやったけど
その後の結果報告が一切ない
何も見つからなかったんだろなと
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:00.88
>>862
副葬品は出てくるでしょ
盗掘されてないのは確実
あとは中身と状態だな
骨は期待しない
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:08.76
>>827
モモソ姫のモモって桃だったりしてw
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:22.03
『魏志倭人伝』では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕からは馬具(木製の輪鐙)が出土している。

この辺はなんて反論してんの箸墓
0869日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:26.72
>>852
ミュー粒子観測による透視調査をした
2年ぐらい前かな
調査結果も何も無くフェードアウトした

最近吉備の古墳で同じ調査をやるとか言ってたな
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:33.22
>>862
城野遺跡も骨は溶けてたけど少し残ってたね
未盗掘なら副葬品は出るだろし
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 17:58:56.07
そもそも論だが考古学会の古ければ正義みたいな発想そろそろ止めさせた方が良いね
旧石器捏造事件と同じことを近畿説の奴らがやってるし
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:00:09.36
>>869
石室でも検知されれば
鬼の首取ったかのように報告するはずなので
それすらないと言うことは
墓ですら無くただの築山の可能性もあるのかw
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:00:39.40
>>860
連続性から考えても決まりだよね。石棺墓の位置も有力者で間違いないし、弥生時代に丹が使われたら石棺墓なら、畿内説論者はあらゆる権威を行使するだろう(笑)
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:01:25.31
>>874
たぶん前期の割竹型木棺(高野槙)じゃないかな?
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:01:29.45
>>866
出て来ても金印か鉄剣に倭国王とでも刻まれてない限り
三種の神器があったところで邪馬台国論争には何の影響もないよね
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:01:31.43
>>806
纏向の弥生時代は30年くらいで終わってる
0881ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 18:01:50.26
統一教会や日本会議のネトウヨがうじゃうじゃ湧いてきたな
こいつら安倍晋三とか支持してそう
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:02:45.41
畿内説の研究者が水銀朱だろうから珍しくないと宣ってたぞ
卑弥呼と書かれた紙でも見つからないと証明にならないってさw
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:02:50.81
畿内説の研究者が水銀朱だろうから珍しくないと宣ってたぞ
卑弥呼と書かれた紙でも見つからないと証明にならないってさw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:04:07.75
>>876
まあ卑弥呼の墓ではないとは思うけど
城野遺跡に続いて、この年代の支配層の埋葬が
畿内の影響がなんら認められない内容だとわかれば
記紀の記述や畿内説を否定するに十分だからな
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:04:57.05
>>844
なんか凄いな
文字で読んだだけでゾワゾワ来た
ただならぬ丘だったんやろな
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:04:57.84
モモソ姫のモモは桃じゃないかな?w 

どや?w
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:05:27.52
>>877
箸塚古墳自体は最近の炭素年代法の補正によって
4世紀初頭の築造と判明してるけどね
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:07:53.78
そもそも倭迹迹日百襲姫命を無理やり卑弥呼に比定したのが近畿説の運の尽きだよな
大物主神の妻って日本書紀に書いてんだから倭人伝に一生独身と書かれてる卑弥呼の訳がない
箸墓古墳の前方後円墳も明らかに3世紀の構造物ではない

もはや全てにおいて破綻してるのに嘘も100回言えば真実になると信じて叫び続けてる
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:08:20.79
百襲姫のアソコに箸が刺さって死んだから箸墓らしいけど箸が伝来したのは仏教と同じく飛鳥以降だから本当に女墓なのかすら怪しい
土師氏とかの墓じゃねーの?土師墓が語源とかで
0892日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:09:38.77
九州説のみんなは一旦畿内悦に、畿内説のみんなは一旦九州説に、交換して討論してみようじゃないか!w

どっちだって古墳時代になれば結果は一緒なんだから、九州王朝説を除いてw
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:10:04.26
>>882
黒塚古墳だったかな
朱をふんだんに使われていると大げさに騒いでたけど
調べてみたら棺の底だけ水銀朱であとはベンガラだったな
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:11:20.83
案外本当に卑弥呼の墓なのかもな
故郷に埋葬されたと
王殺しにあってるならその後の吉野ヶ里の衰退とも符合する
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:11:40.17
>>889
まあ畿内説派も
これまでなかなか物証が出なかったところに
纏向遺跡で大型建物なんてものが出ちゃったから、後先考えずに飛び付いたんだろなと
考古学が慎重さと地道さを失ったら終わりだわ
0896日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:11:47.81
>>892
何か新しい発見があるかもしれないねw

モモソのモモは、桃じゃないか?とかw
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:13:04.04
>>889
百襲は子どもを残していないし大物主の妻というのは神に仕える巫女てことだぞ
巫女が独身なのは神と結婚しているという体裁があるから

つまり卑弥呼と完全一致
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:13:10.71
すもももももももものうちw
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:14:02.31
桜井市のヒミコちゃんモモヒメちゃんに変更しなきゃだな
ていうか何で勝手にヒミコちゃん名乗ってるわけ?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:14:54.98
畿内説が困ったことになるのは
じゃあ纏向遺跡ってなんなのという最大の謎w
あの規模の建物や都市遺構が、ヤマト勢力圏の中心地にありながら
記紀には一切記述が無いわけで
0902日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:16:00.61
>>878
>三種の神器があったところで邪馬台国論争には何の影響もないよね

「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱で決まりだ。  わははははは   @阿波
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:16:39.86
吉野ヶ里は少集落
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:17:06.60
>>901
なるほど
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:17:14.19
>>899
いいね、君!センスいいよ
名前だけモモ(桃)ちゃんしないとねw 
さらに、菊池(彦)桃子(狗古智比孤&モモソ)を親善大使に任命!w
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:18:26.17
桃の種が一箇所からたくさん出てくるのは
熟した果汁を発酵させて酒を作ったんだろうな
0911日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:18:49.78
最盛期5400人なら千戸で、立派な国だよw
伊都国も千戸
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:20:42.27
中国人の論文読んだら、倭人は越の出身ではないかということだった。
越人が中国の史書で次第に北へ移住し、楽毅将軍の時の燕に倭人の記録が残ってると。
で、後にさらに日本に南下したのではないかと。
越人は、黥面していたらしい。

特に、ハニ族との共通点も指摘している。
ハニ族に「倭」の文字を見せたら、「アカ」と答えたそう。
アカとは、遠くの客人を意味し、チベット自治区のラサイゴンマが源流らしい。
ハニ族は日本人とほぼDNAが一致するとのこと。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:21:02.35
>>895
奈良で邪馬台国的な遺跡って唐古・鍵遺跡だよなぁ
環濠集落だし
何考えて纏向なんて言っちゃったのかw
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:22:04.66
>>903
纏向遺跡という名前は纏向宮伝承にちなんで
発掘者が後付けしたものです
考古学的な関連性は今のところ全く見つかってない
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:22:10.23
>>910
良いね、君、すばらしいよ!
桃のジュースで帯方郡使をもてなしてたんだよw
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:24:21.53
マスコミと畿内説派の芸能人を使って大々的にここが邪馬台国です!3ヶ月以内に出ますなんて断言して、、、
桃の種と馬具が出ましたなんてお粗末過ぎる
0920日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:25:27.08
そもそも纏向は復元図では宮殿ってことになってるけど
出て来る各地の土器なんか見ると
ヤマト連合の貢物の集積地だったんじゃないの?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:26:14.02
農民の使う鍬を再利用した木製仮面も出たよw
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:27:13.44
こうやって読むと箸墓が卑弥呼の墓な理由ひとつもないなw
箸墓だけが邪馬台国を名乗ってる頼みの綱なのにw
0924ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 18:27:17.23
中国人の論文は信用できんな
自国の過去の歴史書を無謬であるという前提で論を立ててくる
ジャップにも劣らぬ偏狭な民族主義で例えば東北工程のような事を仕掛けている

やはり欧米人の論文が一番良い
0925日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:28:45.89
>>924
それでも畿内御用学者はすごい遺跡だと言う。   @阿波
0926日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:29:29.79
大型吉備特殊器台に、大阪山からの葺石でしょう?殉葬はない気がするね箸墓ってw
0927日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:30:06.47
淡路説にすら劣るトンデモ吉野ヶ里説
0928日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:30:18.75
>>923
ていうか近畿説も纏向箸墓に乗っかっては見たものの
時間が経つにつれ明らかに違うと分かったけど
もう引くに引けないって感じなんだろうな
実際纏向は違いましたって言った瞬間に近畿説崩壊だから
纏向以前は近畿のどこかにあったというぼんやりした主張だったのが
纏向だとピンポイントで特定しちゃったのが運の尽き
0929日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:30:48.72
箸塚古墳はモデルルーム説が面白かった
纏向遺跡はそのための展示場兼スタッフ養成所w
だから農耕具は一切出ないのに、土木用具は出てくる
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:31:49.66
>>930
手前の北墳丘墓がそれじゃないかな?
0932日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:34:03.30
>>930
別に卑弥呼の墓だとは言ってないからね
そこらが近畿説と違って九州説の余裕のある所
あくまで吉野ケ里遺跡を支配してた有力者の墓ではないかと言ってるだけ
結果的に副葬品で大発見になったとしてもそれは結果論
0933日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:35:50.50
弥生時代後期の最有力者の石棺墓って、紀元前後から250年間の幅があるよw
0934日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:37:06.43
>>928
おいおい、勝手に作るなよ。
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州。
近畿
0935日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:37:58.70
>>928
関西人らしい首の締まり方だな
新喜劇で悪役が自分を追い詰めてくパターン
0936日本@名無史さん
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2023/06/07(水) 18:41:27.96
>>931
あそこってみんな同じ年代の甕棺墓だっけ?
だとしたら怖すぎるな…
吉野ヶ里行くの好きだけど殺された人たちの墓かと思うと見る目変わってくるわ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:42:31.91
倭迹迹日百(桃)襲姫の墓であることは確からしいことは判ったw
じゃ、桃襲姫=卑弥呼なのか? 出でよトナカイ!w
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:43:51.02
>>929
本当に古墳のサンプルならウケるなw
それを税金で必死に守ってる宮内庁も
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:47:24.71
箸墓なんて明らかに前期古墳時代だし
弥生末期を示すものは何も出てない
むしろ出土物は弥生末期をすべて否定してるw
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:52:52.42
>>929
大繁盛したヤマト王権の前方後円墳ビジネスの起点みたいな古墳だからな
伝説の卑弥呼アイテムとして三角縁神獣鏡も大量に複製して
顧客豪族のハートをがっちりゲットですわw
あれ考えた大王は天才プロデューサー
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:54:47.51
>>943
当時もゆるキャラひみこちゃん見たいな村おこしをしてたかと思うと笑うw
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:56:02.03
畿内説も吉野ヶ里の発掘終わるまでガクプルだな
何も出なかったら一気に息吹き返すんだろうけどw
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 18:56:04.50
>>942
それでも畿内御用学者はすごい遺跡だと言うww   @阿波
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:00:57.09
>>946
すごい遺跡なのは間違い無いけど
バイアスかかりすぎてちゃんと調査して貰えない
可哀想な遺跡だよね
0948日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:04:52.07
箸墓は古墳時代前期の初期前方後円墳
纏向はヤマト王権の何らかの大型施設
それだけのことだよね
これを邪馬台国だ卑弥呼の王宮だ墓だ!と言い出したからおかしくなってるだけで
遺跡としては重要なもんだよ
邪馬台国と関係ないけど
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:09:22.91
>>940
吉野ケ里の石棺って郭ないよね?
倭人伝の『有棺無槨、封土作冢』の墓制通りだよね?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:12:35.66
>>948
>遺跡としては重要なもんだよ

どんな遺跡でもな。  わははははは   @阿波
0951琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/07(水) 19:14:12.71
吉野ヶ里と卑弥呼の関連性は結論は出ている、首なしの埋る横で嬉々として過ごすカルト集団と卑弥呼は関係無い。
邪馬臺は鬼道の宗教道観、いわばバチカン。既に邪馬臺の主人は神様扱いなのだよ。
無駄なんだな、紀ですら隠せなかったんだから。
太一、大物主信仰なんだよ。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:14:15.19
>>948
>遺跡としては重要なもんだよ

重要ではあるが、すごい遺跡ではないけどな。  わははははは   @阿波
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:15:24.10
>>940
【吉野ヶ里の石棺発掘】
予定では15日までの調査期間だが明日から雨降るので雨降ったら調査は中止
土日はしない
一応来週金曜までを目途に調査を終えたいが終了時期は後ろに延びるかもしれない
出来るだけ来週中に石棺内の調査は終えたい



ずっと雨だから来週中に終わら無さそう
0954琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/07(水) 19:26:11.42
つまり、この列島にあるとされる独自の道の始祖は居たということなんだがそれは認めないというところなんだな。
この列島の骨を作りあげたのが箸墓に眠る巫女。
原始道教を伝えた巫女。
魏尺度量衡、礼記北枕を知る巫女。
中華から鬼道を操るとされる親魏倭王卑弥呼さ。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:26:25.93
>>945
別にどうでもいい。
宮内庁から許可でない事を知っているからね

近畿
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:26:38.73
>>940見ると石棺本体も一枚岩じゃないね
蓋が分割されてたのと一緒で何枚か組み合わせてる
隙間だらけっぽいね
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:26:48.90
「有棺無槨、封土作冢」は、甕棺墓も当てはまるよねw
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:34:53.63
(英雄曹操の薄葬令に配慮したであろう)卑弥呼が石蓋付き甕棺墓、ってことはないよね?
「親魏倭王」に冊封されている身で、しかも狗奴国戦争に負けそうだからと帯方郡に援軍を要請している身で、
箸墓みたいな魏帝より巨大古墳は論外だけどwww
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:37:29.19
卑弥呼の墓と言われる平原王墓は割竹形木棺
こっちは石棺だからこっちの方が格上に思えなくもない
0960◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/07(水) 19:42:31.14
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1686131278/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:44:31.11
何か出たら、
「第2回吉野ヶ里、日本の中の古代韓国展」を開催しないといかんな
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:48:40.97
今回の石棺墓は、その外側に2倍くらいの広さで墓穴が掘られているとか。

「有(石)棺無槨、封土作冢」はまさにピタリでは?w
0963ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 19:51:30.46
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
これは統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

邪馬台国は畿内で確定している
倭の五王の時代の少し後だが中国で描かれた梁職貢図という有名な絵がある

ここに出てくる倭人の姿を見てみると面白いぞ
他の国々の施設は礼服を来て靴を履いているのにジャップは裸足で半裸で変な布をかけているだけ

昔の絵画はデフォルメが多いから書き手の主観が強く反映される
当時の中国人から見て倭人はただの野蛮人だったのだ

ネトウヨは縄文文明などと笑わせるくれるが早く目を覚ませよ
何とか文書とかの古史古伝や神代文字など信じてるのは驚きだ(草
凄いのになると世界文明の中心なんだそうだ(草はえすぎ

ジャップはただの野蛮な東夷に過ぎなかったのだ
下らない妄説を捨てて歴史を直視すれば邪馬台国は奈良県だと分かるだろう
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:51:31.22
前方後円墳のパターン的に箸墓古墳も郭有だと思うんだよね
宮内庁が調査させないと言ってるけど本音では調査したくないだろうね
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:53:26.21
「有棺無槨、封土作冢」の無槨とは追葬不可能という意味。しかも土で封印してしまうんだから余計無理w
0966日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:55:12.17
「有槨」とは曹操高陵のように、本人以外に、夫人と愛人の棺が追葬できるような、本格的な石室。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 19:57:03.49
当時の魏人による「有棺無槨、封土作冢」の本意は、一応棺はあるけど、土葬に近いってことを言ってるわけよw
0970ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 20:00:32.16
早く宇宙線ミューオンでの箸墓調査を行なってほしいものだ
レントゲンのように透けて見えるから掘らなくても中身が分かって良い
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:01:19.17
「有棺無槨、封土作冢」ってアメリカの墓みたいに土掘って
その中に御棺入れて土で埋めて更に土を盛ってる塚を作るってこと
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:01:30.12
箸墓は墳丘は巨大だけど、「有棺無槨、封土作冢」ジャマイカ?
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:03:15.04
吉野ケ里のって石棺じゃなくね
魔除けの重石みたいなもんか
あの様子じゃ期待薄だ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:03:38.72
今回の石棺墓は、大きめに掘った墓穴の中に、左右非対称に石棺を置いてるから、その空いたスペースに副葬品が埋まってそう!
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:05:52.90
吉野ヶ里の石棺は前方後円墳の中にある一枚岩くりぬいたような石棺じゃなく
蓋が4枚の石並べてたように何枚かの石組み合わせて石棺作ってるね>>940見ると
隙間を漆喰的なもので塞いで作ってる
一般的な石棺のイメージとはちょっと違うな
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:06:46.31
平原女王が割竹型木棺で、箸墓も前期古墳のように割竹型木棺なら、主体部は全く同じわけで、ヤマト王権の大王家は伊都国系かも!
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:07:02.92
吉野ケ里から感じるのは強烈な田舎臭さ
やはり佐賀・熊本はないな
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:08:55.02
石棺を掘った穴に置いたというより
人が入る大きさの穴を掘ってその壁に合うように石板を並べて
隙間を漆喰的なもので塞いで作ったっぽい
だったら副葬品出て来るのは石棺の中に限られそうだな
0979ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/07(水) 20:09:52.58
箸墓の中には物凄いものがあるだろう
歴史の常識が変わるレベルのものがあろう
宇宙線ミューオンでの調査をはやく行うべきである

今の人間が思っている以上に大王家の権威は大きかった
無いと思うがもし宮内庁が躊躇するのであればそれは杞憂だ
これでジャップのナショナリズムを傷つけるようなことはない
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:11:55.53
>>976
あっ!そうか!
主体部だけ見れば、平原王墓も前期古墳も、割竹型木棺で全く同じだ!w
ついに九州伊都国と大和纏向王権が繋がったじゃん!w
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:16:23.11
>>980
つまり、箸墓を因数分解すると、

主体部=伊都国平原女王(割竹木棺)
+高塚墳丘【後円部=吉備楯築弥生墳丘墓(特殊器台)+前方部=出雲四隅突出墓(葺石)】

倭迹迹日百(桃)襲姫=卑弥呼の墓かも!w
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:22:53.69
箸墓なら、竪穴石室あるんじゃないか?
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:27:02.35
>>982
葺石があれば竪穴式石室もあると見るのが自然だろうね。
ただそうなると、明らかに「有棺無槨、封土作冢」じゃないだろうw
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:30:05.12
やっぱり九州だねw
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:32:49.20
だから畿内説が前方後円墳を卑弥呼の墓だと言ったのは悪手なんだってばよw
墓制が違うのは決定的な証拠になるから
ヤマト王権と邪馬台国を繋げて考えようとする悪い癖が畿内説にはあって
それが纏向発掘のせいでやらかしちゃったのよ
0988琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/07(水) 20:36:42.65
有棺無槨は倭人の風習で卑弥呼の墓とは書いてない。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:38:38.94
>>981
>>985
良い分析だ。
でも割竹木棺であることには変わりないわけで、ヤマト王権(大王家)は伊都国王の末裔である可能性は低からず、
北部九州のDNAがあるのではないだろうか?
0990琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/07(水) 20:40:35.18
つまり、前方後円墳は石室がある、当然箸墓にもある。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:40:43.65
>>988
もし卑弥呼の墓が竪穴式石室ならそう書いてるよw
この時代の中国の史書にとっては墓制は重要な情報だからな
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:40:50.51
>>989
平原女王の5面の大型内向花紋鏡は、垂仁創建の伊勢神宮の御神体「八咫鏡」と同型鏡らしいしな
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:42:33.17
魏の死者は卑弥呼の埋葬を見てるから『卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩』と書いてる訳で
箸墓の前方後円墳みたいな特異な大構造物なら詳細に書いてるよw
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:44:37.15
>>78
>>93
これが正解かもな
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:51:22.04
>>993
箸墓ならどう描写するか?
「長二百余歩 前方後円w」
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:53:39.34
「長二百余歩 半方半円」だろw
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:54:53.02
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0998琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/07(水) 20:55:43.42
卑弥呼のことを何者か知っとる魏、中華はそんなことは書かない。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/07(水) 20:56:34.78
>>915
それは何を意味するかと言うと既に忘れてて知らなかったって事
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