邪馬台国畿内説 Part905
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1686340548/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性 格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、 博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>79
> 坂靖は北部九州の考古知識がない
というか布留0の定義を間違えてるだろ
学者としてダメダメじゃん 北九州にはもっと卑弥呼の臺となるような場所はないよ。隋書にもあるように邪馬臺者であり、宗教道観があればいいだけ。赤坂御所か吹上位で
いいのだよ。そして鬼道は万物。太一を祀ればいいだけで張魯漢中の城まで規模はなくて十分。各都市、国には幹部祭酒を魏曹操の祭酒達のように
配置しておけば問題なし。
つまり、政治システムにおいても卑弥呼は知識を持ち、30を纏める技量を持ち合わせている、倭人では無理のある人物なんだな。 >>84
で、それだけ規模のある連合国を束ねておきながら、南の和歌山(狗奴国)から攻め込まれて魏に泣きつくのかw 「日本」という国号すら、もともとは中国からみて日が昇るところ、つまり朝鮮半島の西部(百済)を指すものだった
ジャップは人種も言語も国名もぜんぶ半島系だよ。「日本人」とかいう架空民族をつくりあげて、そういうものになりすましているだけ >耽羅国の王統
>もとは九韓の一つで、一説に九韓の時代に亡羅との国号を付け、
>新羅から耽羅という名で封ぜられ、百済から耽牟羅という名で封ぜられたという。
ここから推察されるのは、
新羅では「閉音節 tam-ra」、
百済では「開音節 ta-mu-ra」の言語が
使われていただろうということだ。 >>84
纏向は邪馬台国から派遣された祭酒が配置された場所か
なるほど
だから唐古・鍵集落や銅鐸文化が廃れて、銅鏡や古墳の風習が広がったのか 設定ガバガバすぎて笑えてくる初期天皇 神武天皇(127歳没) 景行天皇(143歳没) 中国「この日本人とかいうヤツラなんだか嘘くさい・・・。」
『旧唐書』巻一九九上 列伝第一四九上 東夷「日本国伝」
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(和訳)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。
東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。 吉野ヶ里の石棺、城野遺跡の奴に似てるな
ただ墳丘墓の規模も水銀朱の量も完全に城野遺跡が格上。
吉野ヶ里のは墳丘墓ですらなく、丘陵に埋めらた石棺墓だし。
https://i.imgur.com/mi3f6cn.png 城野遺跡の完全下位互換の石棺墓が吉野ヶ里遺跡の首長墓だったみたいだね 喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった。」
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html 太陽が昇る所はどの国でも遥か東の方だから、そうかもしれん >>84
意味わからん。
卑弥呼は倭人の王なのに。 『石切劔箭神社』の社史によれば、天照大神から大和建国の神勅を拝し『十種の瑞宝』を授かった饒速日尊が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『天羽々矢』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。
途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。
宇佐から瀬戸内海を渡ると饒速日尊は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。
天磐船が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね『生駒山』)に着くと、饒速日尊は辺りを見渡し「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。
これが日本の国号の始まりとなった。
当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。 15:30から記者会見
はっきり言って17時まで掘れよと思うがw >>102
8:30から発掘始めたと佐賀テレビが言ってた 伊都国は現代では陸の孤島のようなイメージかもしれないが、古代においては博多湾が半島大陸への窓口として重要であった。
三方を山で囲まれた自然の要害でありながら、海路で貿易や遠征に適していた。
海人族にとっては理想的な王都だっただろう。
魏志倭人伝では、伊都の大率が周辺諸国を検察して、諸国はこれを畏怖したとある。
伊都は強大な権力を持った海人族の内政、貿易、外交の要であった。
列島で鉄器生産、銅器生産、水稲稲作が始まったのも、伊都を含む博多湾沿岸である。 >>86
> で、それだけ規模のある連合国を束ねておきながら、南の和歌山(狗奴国)から攻め込まれて魏に泣きつくのかw
、南の和歌山(狗奴国)から攻め込まれて魏に泣きついたって
誰の説? 石棺の深さそこそこあるだろうから
副葬品あっても木曜くらいまで出てこないと思う
早くて水曜だろう >>108
じゃあ畿内説では、邪馬台国の南にある敵国の狗奴国ってどこなのさ。 >>93
逆に城野遺跡はおもろいよなw
幼児のために墳丘墓まで作ってるわけで何があったんだろな なんか考えれば考えるほど大したこと無さそうな石棺墓だなこれ
吉野ヶ里の未発掘地域から出てきただけで墓の形態自体はありふれてる 百済には韓語話者と半島日本語話者がいた。
そして九州には上代九州日本語(=琉球祖語)と韓語話者がいた。
新羅による三国統一で韓半島は新羅語で塗りつぶされて日本語系の言葉が消えた。
そして倭国でも奈良平安前期に日本列島は畿内語で塗りつぶされて九州語や東国語が消えた。
上代東国語の末裔は八丈島と青ヶ島に残ったが絶滅寸前。
上代九州語の末裔は琉球語になったが絶滅寸前。
同じ倭語といえ邪馬台国時代では九州方言と近畿方言でかなり違いがあっただろう。相互意思疎通性は保持していただろうが訛り方や一部の単語の意味は違っていたはずだ。 >>110
> じゃあ畿内説では、邪馬台国の南にある敵国の狗奴国ってどこなのさ。
濃尾から北関東 なぜ知事が食いついなのかわからないな
教育委員会の担当者が「未発掘地域の石棺墓は初です」なんて言っちゃったのかな?
嘘ではないが吉野ケ里では石棺墓は珍しい訳ではなく過去に14基見つかってるらしい >>118
東日流外三郡誌も驚きのトンデモ大国があったのですね! 狗奴国は邪馬台国の南にあるそうだからな
邪馬台国を本州に持ってくれば、自動的に「その向こう」にはなる
俺は信じないが >>115
狗奴国と戦争しながら作った墓だから仕方ない ジャップの起源についてはO1b2のM176を観ると分かりやすい
遼河文明から韓半島に広がりそれが日本列島に拡散していった
日本でハプロDが多いのは偶然ヤマトの大王家の父方の遠い先祖が縄文系だったからと思われる
日本人のゲノムは西日本では九割以上が西遼河系であり縄文系は非常に稀れな存在だった
特に男系で縄文というのは珍しいのだが大王家はこの稀な出自だった
O1b2が多くなったのは古代において藤原氏が子孫を増やしたからだろう
今も昔もそうだが男性というのは貧困であると女を売る事ができず子孫を残す事ができない
そして上流階級や一定以上の収入のある中産階級が子孫を残していく
これは現代社会でも知的水準の高いリベラルの人たちと底辺ネトウヨを比べて見れば体感的に理解できよう
中世以降になると源氏や平氏など皇別氏族が子孫を増やしていくことになる
こうした歴史的経緯の結果として日本人の多くがDとO1b2になっていったというわけだ
なおO2は恐らく韓半島系の秦氏だろう
上記の理由によりY遺伝子の比率だけでは日本人における縄文成分と弥生成分の割合を求めることは不可能なのである
ただネトウヨに福音を与えるとDであるというのならば先祖は神武である可能性があるのでそれは喜んでよいと思う 中国暦(太陰太陽暦)は大の月 が30日、 小の月 が29日 TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
これは統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
邪馬台国は畿内で確定している
倭の五王の時代の少し後だが中国で描かれた梁職貢図という有名な絵がある
ここに出てくる倭人の姿を見てみると面白いぞ
他の国々の施設は礼服を来て靴を履いているのにジャップは裸足で半裸で変な布をかけているだけ
昔の絵画はデフォルメが多いから書き手の主観が強く反映される
当時の中国人から見て倭人はただの野蛮人だったのだ
ネトウヨは縄文文明などと笑わせるくれるが早く目を覚ませよ
何とか文書とかの古史古伝や神代文字など信じてるのは驚きだ(草
凄いのになると世界文明の中心なんだそうだ(草はえすぎ
ジャップはただの野蛮な東夷に過ぎなかったのだ
下らない妄説を捨てて歴史を直視すれば邪馬台国は奈良県だと分かるだろう >>126
まあまあ
残り一週間くらいは夢を見せてあげましょうよ >>118
さあ!
畿内説のトンデモぶりが明らかになりました! わざわざ東京からも記者呼び寄せて
2週間も張り付かせるような墓には見えない
本来なら佐賀新聞が扱えば十分な墓
知事が記者会見までして煽ったから
マスコミも「よほど自信があるんだな」と大集合したけど 今日の成果はどんな感じ?
誰か3行でまとめてくれませんか? 狗奴国が関東でもおかしくはない。
俺は狗奴国は久能国で東海+関東の大国であったと思う。
時々高尾山古墳が狗奴国と書いている人がいるが実は俺も同じ意見だ。
高尾山古墳と共通する文化が東国一帯に広がっていて、もしこれが狗奴国だとする相当な大国だったのは間違いない。
畿内の邪馬台国連合と対等に近い存在だったかもしれない。 >>122
> 狗奴国と戦争しながら作った墓だから仕方ない
戦争していた証拠なし >>129
> さあ!
> 畿内説のトンデモぶりが明らかになりました!
九州説はまったく反論出来ないようだ
勝負あったな >>136
> おいおいおいw
ほら、まったく反論出来ない九州説 狗奴国は、天津に反抗してる国津サイドのこと
魏志倭人伝に書かれてるのは
国譲り神話と神武東征の話がダブってる情報 記者会見
・石棺の深さは今掘ってる深さの倍程度(掘ったのは15㎝なので深さは30㎝+α)
・石棺墓の内側に赤色顔料が確認された
この二つだけ
もう立て掛けた内行花文鏡(八咫鏡)が出る可能性は無くなったな >>132
・石棺の中からも赤い顔料
・半分の深さくらいほった
・主任のおっちゃんが髪切った 近畿は方形周溝墓圏。関東はかなり早い時期から
前方後方墳が作られたらしいよね。んで瀬戸内は円形墳だと
(そこから前方後円墳へ)
東海を介して畿内と関東がゆるく似てんのよ。中四国よりは
纏向遺跡時点でもまだ東海の品が多い
箸墓の時点で、吉備に総取りされている感じ
それでも関東の畿内とのつながりは九州なんかより余程早い
これが旧狗奴国だろうか >>140
だとしても水入ってないから保存状態は多少期待
明日は今日の掘り残しの15センチだからなんも出ないな 初日、蓋の一枚が裏返ってたよな
石棺を開けたのはイザナギ
被葬者はイザナミだろう
黄泉の国な >>140
四つに分けてた残りの二つから出てくるかもよ 記者会見
墓の内側の半分を15㎝掘り下げた
明日は残りの半分を15㎝まで掘り下げる
この調子だと木曜には底に到達するかもしれんね
副葬品無ければ >>148
赤色顔料が水銀朱だと分かった時点で、「倭人(阿波勢力)」のお墓と確定する。 @阿波 在京の記者たちは佐賀の美味いもん食って出張は堪能したろ
田舎に金落とせ >>153
まあ知らないけどなw
羊羹だって誰か言ってた 記者会見 土で埋まってるが水は入ってない
土が流れ込むような隙間があるのに雨水が流れ込まないなんてありえるのか? 朝の8:30から発掘作業だから記者は博多じゃなく鳥栖か久留米辺りに泊まってると予想 >>156
滑石(蛇紋岩)勾玉が出土した時点で、「倭人(阿波勢力)」のお墓と確定する。 @阿波 吉野ヶ里公園のそばにキムパの店がある。
日本の海苔巻きも好きだがキムパは酒に合うから大人向けだな。 >>160
ニュース速報で畿内説が朝鮮人だとバレてただろw 男弟じゃね
卑弥呼は生涯未婚だから台与は男弟の娘で卑弥呼が宗女とした >>164
お前何処の人?
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別結果
https://i.imgur.com/Vqxgjwv.png
と半島系DNAの分布 これで底までの15㎝で期待できるのは後漢鏡と金印くらいになったな >>161
> ニュース速報で畿内説が朝鮮人だとバレてただろw
このように、まったく証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 >>165
よく見たら「父王」って縦に並んで刻んであるぞ
「王」は縦線が下まで伸びきってないがご愛敬
そうか台与パパのお墓か 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>162.石棺に父の字があったのかい?そりゃあ良かった。なんて意味だね?何人が描いたのかね? >>173
出てきたところで「だから何?」って感じだしなぁ
やっぱ平原は特別だったと証明しただけだったねこの石棺墓 >>176
写真見てみ?
石蓋のほぼ中央部分に縦に「父王」と刻まれているよ
とうぜん、吉野ヶ里人が掘ったのだろう
残念ながら「ヒミコ」は発見できなかったw >>172
> >>167で聞かれたことに答えなよ
江戸時代から現東京都の人 記紀に佐賀県の辺りの奴らは侏儒みたいに小さいって書いてある
北部九州弥生人が162cm以上あるのに対し、西北九州及び南九州弥生人は160cm以下であり低身長 >>174
地名はコピーされる。クヌ国との間に戦乱の跡はあるのか? 絹もないといけない 侏儒国って台湾だと思うぞ
先住民族の伝説でチビの部族がある
ホモサピエンスじゃなさそう >>183
長篠や桶狭間、関ヶ原に戦乱の伝承がある >>137
南を勝手に東に書き換えるから畿内説はトンデモなんだろ >>139
別に筑紫から見た熊襲でいいじゃん。
神武が辿り着いた先にいた饒速日も天津神、それも天孫だぞ。 >>184
種子島で120〜130cmくらいの人骨が複数発見されてる
元々大隅に属さず多禰国だった
多分日向国の人間なら多禰国と交流してたんじゃね 今でいう門司フェリーターミナル辺りからチンタラ海岸沿いに進んで国東半島経由して
別府あたりに上陸してそこから日田経由で陸路筑後平野まで進めばまぁ水行10日
陸行一月くらいになるんじゃね?
当時の邪馬台国人もバカじゃないから博多から女王国首都までの最短経路見せるほど馬鹿ではなかったのでは?
もし将来中華帝国から攻撃されたらあっさり落ちちゃいそうだし >>178.吉野ヶ里人は漢字を使っていた人達なんだな。 >>166
ツキヨミのほうがそれっぽい
昼は太陽の神、夜は月の神 今日の記者会見見たけど記者もなんか頭抱えてる感があるな
15㎝掘って赤色顔料見つかっただけ
こんな事のために何日張り付かされるんだよと
知事が大発見がどうたら言わなければ誰も来なかったのに >>194
赤色顔料が水銀朱だと分かった時点で、「倭人(阿波勢力)」のお墓と確定する。 @阿波 >>192
そりゃ王族なり高級官僚は簡単な漢字の読み書きくらいできたでしょ
硯は北部九州中心に出ている
桃の種と違ってね >>165
宗女は一族の娘
>日本に置いて妻問婚は、飛鳥・奈良時代に先立つ古墳時代に一般的であったと考えられている。妻と夫はそれぞれの氏族で居住し、妻の財産は妻方の氏族が、夫の財産は夫方の氏族が管理した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E5%95%8F%E5%A9%9A
>子の養育は母の一族が行うものであり、夫方の一族が介入することはできなかった。
台与が宗女と記されているのはこの妻問婚の形態で、卑弥呼と台与は同居していたかもしれない 古墳時代の日本人は基本的に文盲。古墳からの金石文出土は絶望的。
飛鳥時代の終わり頃から本格的な官僚階級が生まれてきて、知性のある人は豊かな暮らしが出来るようになり、文字の読み書きが出来る人というのは庶民の憧れの対象になった。
奈良時代には平城京の役人たちの間で先祖が韓国人という系図を作るのが大流行して朝廷がニセ系図を作ること禁じている。
渡来人は文字の読み書きに強いつまりインテリの血筋というイメージがあり、先祖が韓国人というのは憧れの対象であった。
学力によって身分が上がる社会になると、その国の知的水準が上がる。
ネトウヨは低学歴低知能だから、自民党議員のような世襲政治家が好きで学力による決まる社会をとても嫌うというわけだ。
底辺ネトウヨは韓流をねつ造というが、歴史を知らないから馬鹿な勘違いをするだよな。
天皇自らが桓武天皇の皇后が韓国人であり韓国との縁を感じると言ってたのにな。 >>200
墓の幅が狭すぎて
ある程度の副葬品なら立て掛けてただろうってのが想像できるからね >>199
卑弥呼が筑紫の王族の神子で台与が豊の王族の神子なら、
筑紫のパパーママ
↓
卑弥呼(未婚)、男弟ー豊のママ
↓
台与
となるか >>200
出るわけないだろ
たいてい何でも底に埋もれてる >>199
それなら娘と書くよ。
宗女というのは娘ではない親戚。 卑弥呼は肥国から共立された日の巫女、壹與は佐賀の與止日女様。 吉野ヶ里遺跡石棺墓の上位互換の城野遺跡石棺墓からは何が出てるんだ? >>207
大したものは出てない
王の子供かそれに準ずる上級民の子供が手厚く葬られてただけ >>186
> 南を勝手に東に書き換えるから畿内説はトンデモなんだろ
書き換えないとテンプレは言ってる しきりにテンプレテンプレ言う奴は、テンプレ書いた奴。 分かりやすい。 @阿波 頭蓋骨見えないところ見ると骨はないっぽいね
甕棺なら骨残ってるのよくあるのに >>211
誤魔化せていると思っているのはお前だけ。 わははははは @阿波 馬もなかった3世紀前半に「大和」と「濃尾から北関東」が戦争してたのか
1300年後の戦国時代でも大和の松永久秀と北関東の上杉や武田が戦争するとかあり得ないな
畿内説はやっぱりめちゃくちゃだ
馬鹿しか主張しないファンタジー、それが畿内説 > >>211
誤魔化しているのは阿波説だけ。 わははははは @阿波 宗女とは卑弥呼道の後継者よ。して、岱與とは霊山第一座の岱與山よ。陳寿はこれだけでその当時の邪馬臺の状況を記しているわけだ、中華は女王国の行く末も理解しているが、夢中にさせるものが卑弥呼邪馬台にあったということが倭人伝に良く出ている。
無駄だな、九州なぞに邪馬台はない。 >>215
> 馬もなかった3世紀前半に「大和」と「濃尾から北関東」が戦争してたのか
戦争していたと誰が言ってる? >>219
邪馬台国と狗奴国が戦争をしていたことは魏志倭人伝に書いてある
魏志倭人伝にしか書いてない邪馬台国の存在は信じてるだろ
都合よくそれ以外の記述は否定するのかい? だから、卑弥呼と弟の後継者で揉めた内輪揉めだと考えていると言っとるだろ、その証拠に箸墓は単独墓で左ける者の墓が付随していない。
卑弥弓呼が弟、弟と不和だから中華に助けを求めた(助けを求めたのか?は不明)のであろう。 吉野ヶ里論者が絶望して自刃するかもしれない
慰めてあげるのも俺たちの仕事だぞ >>203,205,218
魏志倭人伝には狗奴国の葬送儀礼について記した部分があるが、そこには妻問い婚を感じさせる表現はない
また、
>その会同の坐起に、父子男女の別なし。
>国の大人は、皆、四、五婦なり。下戸は或いは二、三婦なり。
とあるので、少なくとも狗奴国では妻問い婚の風習はなかったとと思われる
ただし、妻を複数娶るのは、倭国大乱で寡婦が増えていた影響だったかもしれない
卑弥呼が暮らしていた奈良には妻問い婚があったとすると、このことも畿内説の補強になると思う それは無いだろ、残念ながら半永久的に対立させられるのが現代。
それに九州は何よりも図々しい。 佐賀県民なのか分からんけど素人がいくら喋っても無駄って
定期的に言う奴が出てる。吉野ヶ里が陥落しても
まだ甘木・宇佐・八女・久留米・長崎・日田・福岡・糸島が控えているから
九州説にとってはまだまだ終わりの見えない話 223.このように狗奴国の話が書いてあるなぞの勝手な思考である、心配は無用である。
因みに倭人(庶民)の葬祭を説明しただけである。 吉野ヶ里は華奴蘇奴国か弥奴国だろう
傍国21カ国まで北部九州にあるとなると、魏志倭人伝は狗邪韓国と東に海を渡った倭種の国以外は北部九州で完結している公算が高くなる
畿内説論者は震えて待て >>225
一番強力なのは糸島だな
それ以外は弱すぎて話にならん
阿波説と戯れていてくれ 今のところ明日も何も出ないだろうから水曜以降だな
もし何か出れば発掘も遅れるだろうね
何も出なけりゃ木曜にはほぼ終わる しつこく言うが方形石棺墓は楽浪漢墓。
阿残墓であり、阿人のお墓なんだよ。
隋書にあるように秦王国。
半島人のお墓で鬼神信仰と韓伝に記されている。
卑弥呼は鬼道なんですよ。 >>221
卑弥呼と弟の後継者の後継が戦った痕跡は畿内のどこにあるんだ? >>223
そこは倭人の風習だろ?
なんで狗奴国になっているんだ?
倭人は妻問婚がなかったから、倭は畿内ではない。 まあ、倭国乱のすぐ後の女王墓である平原遺跡が出た時点で、邪馬台国論争は終わりにするべきだったよ。
それをここまでズルズル引き伸ばして国費をチューチューして日本史を歪めまくった畿内説の罪は重い。 華奴蘇奴国ねぇ?個人的には、宇佐の前身だと考えるけどね。対蘇とかそういうところじゃあないの? 九州説は声だけがデカく
中身が伴っていない事が吉野ヶ里石棺騒動で判明しました >>230
金銀鉄鏡、小迫辻原の日田は最多勝取れる強さ 九州論者がマスコミを駆使し単なる石棺墓で大騒ぎしている様子を後目に、畿内論者は黙々と証拠を積み上げ続けているのでした >>236
伊勢にある八咫鏡を公表すればすぐに決着つくんだよね
皇居にあるレプリカでもいいけど
平原の内行花文鏡と同じ工房で作られてるの証明できるから 234.そんなもの片付けました、卑弥呼のお墓作らないとならないから。
岱與との争いも当然片付けました。 >>241
魏志倭人伝に八咫鏡は登場しませんよ(笑) >>240
>畿内論者は黙々と証拠を積み上げ続けているのでした
つまらん冗談はやめとけ。 @阿波 >>247
だから相手してやると何度言えばw ヘタレ。 @阿波 >>227
葬送儀礼については、庶民というより、ある程度財力のある人の描写
停喪する期間は十余日で、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲むとある
庶民がこういうことをできたとは思えない
複数の妻を持つというのは、「大人(タイレン)」についての描写、地域の有力者という意味だろう マスコミの九州説への当たりが更に厳しくなりそうだね
「あんなに騒いで何も出なかったじゃねえか!」てwww 神聖な地だから、血生臭いは無いことにするんですよ、ひとつ言うとね、御所でカラスを払うのと同じね。 >>245
実際に平原にあったんだから当時から存在してたのは明白
邪馬台国の倭人が鏡を特別視してたのは中国の史書に書かれてる 249.その集落の頭程度ですよ、行き先々で大人死なないでしょ。 >>235
狗奴国の風俗について記述した部分にある
狗奴国は現在の熊本を中心とした地域
卑弥呼が暮らしていた奈良に妻問婚の風習があったすれば、それは卑弥呼の畿内説を補強するもの 妻問婚が補強するとは思わないが、倭人は女性が多いから自然とそうなるのか、高句麗の影響か、は知らん。 あくまでも倭人の風習を記している部分で政権の位置となんの関係があるのか?わからんな。 古代史周りで一番声がデカくて中身がなかったのは「考古学は畿内説で決まり!」とドヤ顔で話していた纒向畿内説の考古学者だろう
結局、邪馬台国の根拠になるものは綺麗サッパリ何にも出なかった
纒向は大陸と交流してないし、そもそも人も住んでなかったw >>255,256
台与が卑弥呼の宗女と記されていることから、卑弥呼の時代も妻問い婚があったのではないかという推測
確証があるわけではない
この分野の碩学諸氏の検討を待ちたい >>260
狗奴国の家族関連の記述について触れたのは、狗奴国では妻問い婚の風習があたようには見えないことに触れたもの 何で宗女から妻問婚が出てくるんだ?宗女って娘ではないが親族の後継者的な意味じゃないのか? なんとしても、血の繋がりを求めているからなんだな。そんなのないよ。あきらめな。 卑弥呼は弟やその他の豪族が利用してた神輿
卑弥呼殺した次の男王の時に弟は出雲に逃げた
邪馬台国の機密情報知ってる卑弥呼の弟は出雲としても有意な人材だったんだろう >>265
「宗女」とは、卑弥呼と台与は血縁であることを意味している >>264
妻問婚の時代だとは思ってるんですけどね。
全然、説明になっていないんですよ。妻問婚でなければ一族の娘はいない?はぁ? いずれにせよ血統は重視される時代だろう。流れの中国人を担ぐとかアタオカすぎるわw 根の国→求婚の国→出雲
日本人はこういう駄洒落が好き >>268
そんなことは言っていない
何の説明を求めているのか? >>271
>台与が卑弥呼の宗女と記されていることから、卑弥呼の時代も妻問い婚があったのではないかという推測
>>260のこれ意味がわからない。 >>272
私が、
「台与が卑弥呼の宗女と記されていることから、卑弥呼の時代も妻問い婚があったのではないかという推測」
をしたということ >>273
だからその推測理由が不明すぎて「何故ですか?」と聞いてるんです。 <旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。
「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉」
(其の入朝者、多くは自ら尊大、真実をもって答えず。故に中国、これを疑う。) 狗奴国にはイヌの字が使われている
字面だけ見れば犬の国だ。これは倭国人の悪口にすぎず
音が地名を表していない可能性もある
南九州の隼人は犬鳴きをする風習があったらしい
犬の真似をして鳴いてどういう意味があるのか知らんが
免田式土器の北限も鉄器出土ベルトと重なり合うし
兎にも角にも狗奴国は南九州だろう >>276
>兎にも角にも狗奴国は南九州だろう
南だったらいいってもんじゃないぞ! @阿波 分かったぞ
「物や文化の移動と国境線をごっちゃにしている」
これが答えだ
南米で縄文土器が見つかるが縄文人が南米を支配していたわけじゃないし、縄文人が直接南米に行ったとまでは言えない。わらしべ長者的な物々交換が何回もあって最後に南米古代人の手に渡ったかもしれない
北朝鮮に日本のアニメDVDがあったとしても日本が北朝鮮を支配しているとはならない
物の移動と国境は別
万葉集に「近畿からみて大分の海岸線が国の境目」とある
それと同じ線引きが中国側にもある>>275
自動的に>>174の海は大分との境なので瀬戸内海と分かる弥生時代の絹の分布とも一致。よって卑弥呼の倭国は九州エリアとなる >>274
魏志倭人伝に台与は卑弥呼の宗女と記されているから
宗女は一族の娘
妻問い婚や
母系制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E7%B3%BB%E5%88%B6
に関連するもの
>母系制は継承・相続が母方の血縁によることだけを意味する 吉野ヶ里の石棺墓が肩透かしだったせいで
先週お通夜だった畿内説の奴らが息を吹き返したなこのスレw 例えば纏向にいた強奪者が関東から何か持ってきても関東までが国境とはならない
関東から鹿児島のものが出ても同じ
交易自体は縄文からやってる
「何が出た」というのは交易がある以上あまり意味ない。ただし絹など「出るはずのものが出ない」なら重要
出ないのは厳しいが、出たとしても国境にはならない
こんなことを学者の多くが分かっていないとしたら学者といえども大したことないな >>278
奴国の段階で極南海なんだから博多と半島南端が倭国とイメージしてたわけだろ
それが一気に奈良まですっ飛ぶわけがない >>279
>母系制は継承・相続が母方の血縁によることだけを意味する
これは理解出来るけど宗女が母権性に関わるってのは理解し難い。
妻問婚でなくても婿取婚でも嫁取婚でも宗女はいるでしょう? 纏向は初期ヤマト王権が各地から届く貢物のを保管する倉庫ってオチだろうな 犬狼崇拝はモンゴルや新羅にも見られたらしい
それを指摘した上で宝賀は狗奴国はあくまで縄文在地系の国だろうとする
ただ阿蘇での鉄器生産力が圧倒的だから上から下まで縄文系ではなく
渡来系と在地系の連合政権みたいに考えている >>267.そう思いたいのは理解するが倭人伝の流れから卑弥呼の鬼道の弟子だね。そして、岱與であり西殿(西王母)と引き継がれるのだよ。優秀な親戚なら卑弥弓呼とも戦争になるほど揉めんよ。
卑弥呼が後継者として相応しいと思う優秀な巫女だからだな。 妻問い婚について言及したが、もし興味を持つ人がいたら調べてみてほしい
私たちが普段思い描く家族の姿とはずいぶん違う
母は出産をするだけ、育児は一族の女性たちで行う
父親は育児の責任が無い
子供も母に対する愛情よりも、一族の一員としてのアイデンティティが優先する
この制度は育児という面を見れば、人口を増やすことに優れている
むしろ、それに特化した制度と言えると思う 西殿が岱與の墓。これは宮内庁も女性墓として比定者を探して当てている、女性墓と解釈している。 >>280
精神が崩壊した畿内説しかいないからカオスw >>283
>>287参照
>>286
誰が優秀な親戚ではないというのか? 男1人に対して女が数人、争いが起き男を失えば、女は余る。そのような状況が倭人なんだよ。
卑弥呼が神になるのもそのような状況だからだ。 >>245
しかし卑弥呼の時代に郡使が駐在していた伊都に実際にあったわけだよな。
ちなみに日本書紀にもその時代の筑紫に天皇家とは別に八咫の鏡があったことが書いてあるし、風土記にも宗像大社の神宝が八咫の鏡と書いてある。
郡使は鏡の大きさに興味がなかっただけだろ。
実際に存在していて、出土してしまったのだから。 >>254
郡使は狗奴国に行ったわけはなく、したがってその習俗も知らない。
書いてあるのは倭国邪馬台国の卑弥呼の女王国の習俗だよ。
たまたま魏志倭人伝で狗奴国の説明の近くに詰め込まれただけw
畿内説はやはり漢文が読めてないw >>260
宗女と妻問婚と何の関係もないだろ。
畿内説はこじつけるしか生き残る道がないと見える。 >>264
読んでもこじつけにしか見えない。
論理が飛躍している。
アホとしか言いようがない。 >>291
あなたクナ国との戦争は大したことなかったと言ってましたよね? >>268
妻問婚と宗女は関係ないだろ。
自分の子供は母親が育てる。
それだけのこと。
つまりは女系相続だということ。
ぶっちゃけ、父親は誰かわからないから。
でも宗女は関係ない。
卑弥呼が育てていたなら、それは卑弥呼の娘だ。
でも魏志倭人伝からは娘がいたとは読めない。
むしろ宗女という表現からは、同居していない親戚と読める。 290.知らんよ親戚なんて話は。何れにしろ跡を継いだのは卑弥呼の鬼道の後継者であり、また、それに続いていく予定なんだよ。巫女主体の宗教教団を望んだのが卑弥呼。 >>279
魏志倭人伝は宗女と書いており、親子関係ではなく、すなわち母系相続でもないことを意味している。 >>284
東海からしか届かなかったらしいから、どちらかというと配給? >>285
記紀を読むと、熊や鰐、鳶などは崇拝していたようだが、犬は出てこない。
やはり中国側の一方的な蔑称だろう。 >>293
魏志倭人伝の狗奴国の風俗の部分は実際に見聞した役人が記録したものがベースだろう
私たちは倭国の末裔なので倭国中心でものを考えるが、魏にとって倭国も、狗奴国も通訳を通して交流している国
むしろ呉の後背国と考えれば、倭国よりも軍事的な重要度があったとも言える >>287
そもそも魏志倭人伝に書かれた倭人の習俗とは違うんだよな。
妻問婚は、畿内あたりの東の倭種の習俗かもしれない。 卑弥呼パパT卑弥呼ママ
/ \
卑弥呼 男弟T台与ママ
|
台与(豊) >>299
君が
>>286に書いていること
>優秀な親戚なら卑弥弓呼とも戦争になるほど揉めんよ。 >>299
時代は明確に三種の神器による神道の時代なんだよ。
道教が入り込む余地はない。
神道に道教的な要素はあれど、道教ではなく神道だ。
もう崇神天皇が八咫の鏡でうなされてどうのこうのと書かれている時代なんだよ。 >>305
敵国を視察できるわけないだろ。
魏志倭人伝の習俗の記録は伊都に滞在していた郡使が直接見聞きしたもの。
つまり伊都の習俗だよ。 魏の使者は鏡の大きさには興味がなかったってことだろうな >>305
ちゃんと通しで魏志倭人伝読んだことなさそうだな(笑) 妻問い婚についての書き込みに大きな反響をいただいたが、私の推測を述べたもの
私自身あまり詳しくない
このスレをこの分野の碩学の方が見ていることに期待したい 崇神天皇がなぜ磯城纒向に宮を構えたか。
それは物部氏の母を持つからだ。
つまり妻問婚は畿内の習俗。
そして魏志倭人伝における邪馬台国の習俗には妻問婚はない。
畿内は邪馬台国ではない。 >>314
宗女と書いてある以上、娘ではないし、同居もしていなかった。 >>310
魏にとって狗奴国は敵国ではない
通訳を通して交流している30か国のうちの1国
あとの29か国は倭国 >>318
狗奴国の習俗と読めないからだよ
最後に狗奴国の紹介はされているが、その後に「自郡至女王国、万二千余里」でリセットされている
以降のは明らかに女王国の風俗 309.勾玉は神器かね?
勾玉は3世紀から万物を生み出すとされる子宮の形に変わるのだよ。神仙思想だ。日本の池もそう。神道があるならすでに卑弥呼の前の巫女が倭を纏めていたであろうし、陳寿も倭の神道に関心を持ち細かく説明したであろう。
黄ろを纏い仙洞にくらすは明らかになんだね。 >>319
君の読み方はごく一般的なもの
わたしのように解釈する人はほとんどいないことは認める >>309.もうひとつな。
神道があるなら、ホトを突くまでする必要はないな。
これが決定的なんだね。 >>317
邪馬台国の卑弥呼を倭王に冊封しているのだから、皇帝の意向に反して王を詐称する狗奴国は明確に敵ですよ。
魏志倭人伝はあくまでも邪馬台国についての報告です。
邪馬台国が妻問婚という中国人に目新しい制度を持っていたら、その説明をしてから、他の国の説明をするはずです。
魏志倭人伝に、当時の畿内で行われていた妻問婚についての描写は あ り ま せ ん。
>>309
そもそも「神道」という用語からして道教教団の自称なんだが >>320
勾玉は子宮の形なんかではありません。
あんな形してないわwww 纏向が邪馬台国だったとして狗奴国は「吉野」?
狗奴国の卑弥弓呼も卑弥呼の一族っぽいし、弥生時代末期でも南北朝時代があったってことなのかな
>>324
>魏志倭人伝はあくまでも邪馬台国についての報告です。
─
違います
対馬─伊都までの見聞録が文量的にも圧倒的に多いので >>323
ホトはただの事故の記録だろ。
宗教は関係ない。 >>325
どこにある教団?
日本では神道といえば神社庁の管轄なんだけど。 宗女に関しては二者に分かれても仕方ないが、始祖の跡を継ぐものらも宗族で問題ないのだよ。宗教宗族なんだな。 >>327
纏向と吉野の間で千人の死者を出し年余に及ぶ戦乱?
どこにそんな遺構がある?
その時代の大和の記録である記紀のどこにそんな記録がある?
畿内説はこんなカスしかいないのか? >>328
対馬から伊都にかけてが邪馬台国なんですよ。
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>332
言葉遊びではなく、中国人が中国人向けに中国語で書いた文献なんだよ。
そんなこじつけは通用しない。 >>334
おめー他人の提供するエンタメ消費するだけの立場?
話に入りたかったら自分で何か喋れ
共感されるか叩かれるかしてくれるから 魏は倭に軍隊を派遣した訳ではなく身分のあまり高くない役人を派遣しただけだから、狗奴国に対して敵としてではなく直接には調停者として望んだだろう(邪馬台国側には負けないように檄を飛ばしたがこれは邪馬台国が滅んだり衰退すると本国から帯方郡の責任が問われるから) 鬼道が原始神道というだけ
だいたい卑弥呼が中国人ならそう記録するだろ
>>331
「神道」は『易経』初出
後に道教教団は「鬼道」と呼ばれるのを嫌い神道と自称し始め、倭国は道教教団に影響を受け名前も教義もパクりまくり日本の神道が完成したというわけ 過去に散々議論し尽くした話今更延々とやられてもね
10年ROMれとしか 記紀の崇神天皇の時代の記事を読めば、魏志倭人伝の邪馬台国の記録とかけ離れているのは明白なんだけどね。
はあ
>>333
千人の死者を出したのは狗奴国戦争じゃなくて男王に不服だった諸国が起こした戦争でしょ
九州説の人ってちゃんと魏志倭人伝読んでないから困るのよ >>330.はは、そんな簡単な結論を出すようでは洞察力は無いな。 >>324
魏志倭人伝の最初にこう書いてある
>今、使訳通ずる所は三十国なり。
これは倭国29か国と狗奴国
使訳通ずるとは、交流をしているということ
ただ倭国とは区別して「倭地」としている
倭人が住んでいるが交流のない国々もあることも記載している それは四国のこと、倭種と区分している
私が妻問い婚を考えたのは、魏志倭人伝に載っている「宗女」という言葉から
卑弥呼はその一族の長だったろう、その一族の次の長は台与
これが、一族のまとまりとして示されている
>>346
百襲姫の次の豊鍬入姫やね
あーでも魏志倭人伝精読してたら九州説にならんか
何度も書くけど、知識の蓄積がある閾値を越えると畿内説に転向する仕組みになってるのよね
もうちょっと勉強して畿内説の域に早く到達して欲しいなぁ >>338
郡使は皇帝の特使として派遣されていて、卑弥呼を倭王に冊封しました。
その皇帝の権威に反する者は明確に敵ですよ。
調停なんてしません。
視察もしません。
派兵して殲滅しなかったのが不思議なくらい。 >>346
だから、考えすぎ。
最後の一段落は脈絡かない。 筑後山門や肥後山門など、筑後川下流域から菊池川の北の領域が邪馬台国(山門)だろう
それより南が狗奴国(隈・熊・球磨)で、邪馬台国との最前線の菊池川流域に勢力を持って戦いの当事者だったのが菊池彦(当時は久々知彦)だろう
邪馬台国としては狗奴国王だけでなく戦場で対峙していた菊池彦の名前も帯方郡使に伝えたのだろう >>349
だから、考えすぎ。
魏志倭人伝から逸脱して妄想しているだけ。 >>350
帯方郡は下級役人しか派遣してないのだから戦争の当事者は明らかに無理
小国間の争いに大国が調停に入るのは古今東西至って普通のこと >>349
余計な予備知識なく読んでみろよw
明らかに九州島のことだろ
東に海を隔てて倭種がいる
これ東京湾かなんかなのか? このスレで短文で脈絡のない書き込みを習慣としているのは近畿
僕も福岡に邪馬台国があると思っていた馬鹿な時期がありました...あぁ恥ずかしい
もう邪馬台国が九州にあった可能性なんて0.数%にも満たないというのに...
─
【邪馬台国復活】福岡市、ビルの高さ規制が緩和されとんでもないことになる [237216734]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1662753543/ 邪馬台国としても最前線の山門に女王の都は置かないんじゃないか?
鞠智城の城門は南向き
つまり南に出撃できるようになってる
狗奴国が侵略するなら城門は北向きにつける
裏口につけるのは搦手
考古史料・魏志倭人伝・日本書紀崇神紀・隋書倭国伝
これら全てを無視すれば九州説が成立するかもしれんが...流石に厳しくなりそうだね
>>361
ワロタ
旧唐書を例に出してるやつで、旧唐書をマトモ読んでるやつ遭遇したことないw 魏志倭人伝は倭国の北端の狗邪韓国から始まり、南に向かって
伽耶(狗邪韓国)→対馬→壱岐→肥前筑前(末盧国・伊都国・奴国・不彌国)→筑後(投馬国=妻・邪馬台国=山門)→肥後(狗奴国)
と実に整然と記述している
本州・四国のことも東に海を渡った倭種の国としっかり書いてくれている
陳寿がこんなに整理してわかりやすく文書を残してくれているのに、なぜ畿内説だ阿波説だと奇説を主張する人がいるのか理解に苦しむ >>349
閾値を越えると出土と国境を分けて考えられるようになる>>278
国境は大分の海岸沿いにある
【新旧唐書無知さんを啓蒙してあげますね】
─
「倭国─日本別種説はでたらめですw」
第一に、旧唐書は唐滅亡後に編纂された後世の史料である事。先行史料で唐代に編纂された「唐暦」及び「通典」には『倭─名日本』とあり、倭国と日本が同じであると明記されていまsね。
https://i.imgur.com/F8v0i2A.jpg
第二に、そもそも旧唐書は専ら「倭と日本は別種」だと主張しているわけでは無い事。旧唐書を読むと分かりますが、「倭&日本同種説」と「倭&日本別種説」の両論併記です。編者も混乱していたのでしょう。
第三に、旧唐書倭国伝には『高表仁』渡倭記事が採録されている事。日本書紀に拠れば同人物は難波津(大阪)にやってきた人物ですよね。
【倭国】伝に大阪に来た人物の事が書かれているのですから、どちらもヤマト朝廷の歴史を書いている可能性の方が高い(後の時代になって国号が変わったから国も変わったと勘違いした)だけとしか解釈できませんが、どうなんすか(笑) >>362
倭国より東にあるから日本でしょ
かつては小国でした
記紀の記述とも合致する
①先行史料を無視
②日本書紀(高表仁渡倭記事)を無視
③旧唐書両論併記の一方が正しいと決めつけ
完全にトンデモ説でワロタ
旧唐書を真面目に読んでたら高表仁に気づくよなぁ~w
>>369
残念!
旧唐書【倭国】伝には大阪まで来た高表仁が登場するんすよね
もう倭国と日本が別物とか書き込んだ瞬間論破決定!www
でもしょうがないよ
知らないから九州説になるんでしょ?
もう少し勉強すれば旧唐書がどうこう言ってた人も畿内説の域に到達するよ 363.では説明してくれ、前方後円墳は誰が何故造り始め、神獣鏡は何処から何故仕入れたのか?
まず、箸墓が何故1姫で在りながら崇神よりデカイ墓なのだ? .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
畿内説への転向を恐れないで
現にぼくは潔く負けを認め畿内論者になって今に至るわけだが、とても充実しているよ
卑弥呼が中国人なわけないでしょう
百襲はハエイロネと孝霊天皇の子どもだぞ 考古史料・魏志倭人伝・日本書紀崇神紀・隋書倭国伝
これら全てを無視すれば畿内説が成立するかもしれんが...流石に厳しくなりそうだね
僕にもそんな時代がありました
知らない事は恥ずかしいことじゃないし間違えることも恥ずかしい事じゃない
さあ、正しい道(畿内説)に戻ろうよ >>364
ああ?
邪馬台国と狗奴国の国境だろ?
南は免田式土器の領域だ。
それより北が邪馬台国。
つまり邪馬台国は福岡佐賀長崎と、大分の一部。 吉野ケ里石棺予定
13日 残りの半分を15㎝まで掘り下げ ←たぶん何も出ない
14日 半分を底まで掘り下げ? ←副葬品出てきたら遅れる
水曜で概ね勝負決まるな >>371
旧唐書には難波にいったとは書いてないな
一万四千里先にいったわけだが、それどこですか?
>>381
四神鏡くらいは出ると思うけどね
ゴホウラ貝輪とかも、分解されてっかな? >>373
横からだが、魏志倭人伝とまったく関係なくてワラタ
畿内説はこんなのばかりw >>382
福岡から二千里くらい。
わかった関門海峡だ。
>>382
つまり【日本書紀を無視して】高表仁が九州王朝に朝貢したと仮定し、その上倭国日本同種説の先行史料も悉く無視し、旧唐書両論併記の一方だけが正しいと解釈するわけかな?
https://i.imgur.com/F8v0i2A.jpg
まあ止めはしないよ
日ユ同祖論とかも流行ってるくらいだしさ >>384
邪馬台国が倭人伝の中に存在する国だという前提が分かって無い人多いよね
絹、鉄があるのは当たり前で城塞もなくちゃ邪馬台国じゃない
卑弥呼云々よりこれが重要な条件
そういう意味では奈良なんてこの条件満たす遺跡が何一つない
纏向なんて城塞どころか何の防御も考えられてない
鉄といえば纒向遺跡のホケノ山古墳だね
単独で鉄鏃75点以上出土してる >>385
太宰府としか思えん
倭国を僭称していたから太宰府で応じたけど礼を失して帰られた
紀には難波まで来たことにした
礼がなってないのは日本伝の記述そのまま
ちなみに弥生時代最大の鍛冶遺跡は淡路島の五斗長垣内遺跡だね
卑弥呼(百襲姫)の母親の出身地の淡路島よ
なんとも示唆的ですな 384.説明できなくてどうする。隋書、邪馬臺者なりだぞ。 >>386
両論併記だが、常識として後者に真実と考えることを配するし、書きぶりもそうだろ
太宰府で怒らして帰られちゃった
あっちの記録が雨多利思比孤なのも説明がつくよ
>>393
え....もしかして隋書倭国伝も九州王朝だと思ってんの
東日流三郡誌事件で絶滅したと思ってましたが、古田武彦信者の方ですか。絶滅危惧種の方をお目にかかれるとは幸いです >>389
平原遺跡と同じ木棺、平原遺跡と同じ内行花文鏡なので、伊都の分家ですね。
しかも槨ありなので魏志倭人伝とは不一致。
鉄鏃も鏡と同様に九州から持ち込んだものでしょう。
隋書倭国伝に関しては筑紫(那の津の屯倉か)
↓
秦王国(秦氏の多かった豊前か)
↓
東に十カ国通過して邪馬堆
なんだから畿内に行ってるとしか思えないんだが、ここまで来ると病的だな >>391
ちなみに列島最古の製鉄遺跡は伊都にある。
淡路島は博多湾沿岸の海人族の出先ですね。 >>393
後者が律令制以後の日本国の主張だというだけ。
それ以前の記録にそもそも日本国が出てこなくて、魏志倭人伝で倭種扱いなんだよ。 畿内説の奴らが出してくる古墳って槨ありなのが致命傷だよね
4世紀以降の古墳に鉄が見つかろうが当たり前
その頃はヤマト王権なんだから
>>396
>槨ありなので魏志倭人伝とは不一致
邪馬台国の文化だとは一切書かれていないんですよね~
見聞記録が伊都国で途絶えてることも考慮すれば、倭人の習俗は郡使の駐する所たる伊都周辺の文化を書いたものと解するのが適当でしょう >>389
それも足した鉄器出土分布図(~3世紀半ば)
https://i.imgur.com/khp2Y4M.png
畿内に鉄が出回るのは卑弥呼時代の後 >>395
違う
ヤマト王権が倭国後継と詐称したんだよ
倭国伝の一大率を置くという記述からも太宰府付近での話と分かる
三韓征伐のときに女王国は服属してるが、奴国と邪馬台国の権威と名望は捨てがたかった
ほら弱すぎる
黥面文身とか槨が反証になると思ってる時点で弱すぎる
読めちゃうんだよね、飽き飽きするよ
>>403
>倭国伝の一大率を置くという記述からも太宰府付近での話と分かる
わかりませんね
単に魏志倭人伝引用しただけなんで
>>403
で、隋書の裴世清は太宰府に到着したの?
隋書倭国伝:壱岐島から東に進んで筑紫、筑紫から東に進んで秦王騎、秦王国から東に10カ国通過した先が太宰府だってよ
もう九州説の人達の頭の中が凄すぎるだろ >>404
反論できていないのは畿内説ですよ。
魏志倭人伝に書いてないことばかり根拠として持ち出されても、倭種の話で終わるんだよ。 >>405
あらやだ、文字も仏教もあるとか魏志倭人伝にない習俗も書いてるのに
一大率だけ魏志倭人伝の引用?w
畿内説はもうめちゃくちゃ
畿内にするためならなんでもこねくり回す
そもそも南と東間違えるバカはいないだろw
張政は南から太陽が上るとでも思ってたのか? 九州説と古田武彦説を一緒くたにしないで欲しい
古田説はかなり特殊 天国(あまくに)は、奈良時代または平安時代に活動したとされる伝説上の刀工
隔絶した技術が称賛され、今日のヒストリーチャンネルでは、宇宙人から技術が与えられたのではと言われている
ま、ヒストリーチャンネルにかかると天照大神をはじめ日本の神話の神々も地球外生命体だったと言うことになる
>>411
なにいってだこいつ
倭奴国とか後漢時代の史書からも引っ張ってきてるじゃん
>>410
倭種?
あぁ、伊勢湾越えた向こう側に点在する前方後円墳集団のことだろうね
>>411
>そもそも南と東間違えるバカはいないだろw
テンプレ>>15読みなよ...置き論破されてるよ... 同じ前方後円墳だし、日本よりもっと太い川がある中国の人が川と海を間違えるわけがない。 >>409
仮に隋書倭国伝の読み方をそうだと仮定して、
卑弥呼は隋の時代の女王なのか?笑 >>349
九州から東に水行した時点で落馬失格した畿内説が魏志倭人伝を読んでいるとは思えない >>414
一大率がいて諸国が怖がってるなんて実地で見なきゃ書かないだろw
文字を使いこなし仏教に帰依する描写や裁判なんかは描いてるのに、一大率でびびらせてるだけ勝手に引用してきたと
京師から14000里なんだから太宰府だよ
>>418
議論の流れを読んでないなら突っかかってこないでくださいね
『隋書倭国伝も旧唐書倭国伝も全部九州王朝の事を書いてる』と意味不明な主張してる人相手に言ってるんですよ
>>422
トンデモだなぁ
隋書倭国伝:壱岐島から東に進んで筑紫、筑紫から東に進んで秦王騎、秦王国から東に10カ国通過した先も太宰府だっていうの?
>>424
伊勢湾知らないの?
まあしょうがないか
知らないから未だに九州説の域に滞留してるんだもんな そもそもこの時代に方角知る唯一の方法って太陽の位置だろ?
時間とか季節でだいぶずれるからな >>416
江戸中期の一例だけだされてもねえ
張政は瀬戸内か日本海か知らないが、朝日の上る方角に進んで南と思っていた
なわけあるかよw 槨埋葬文化圏は吉備からだからなあ。
もう言い訳するだけ無駄よ。
冠位十二階も九州王朝だしオオキミも九州王朝だし蘇因高(小野妹子)も九州王朝ってか
もう九州説って大泥棒だろw
>>428
まあしょうがないのよ
知らない人が九州説になるんだから >>425
それは難波かもしれんがそれで?
隋より唐の方が明らかにこの国への不信感がある
奴国、邪馬台国後裔として太宰府で接遇したんだろ intcal20によってホケノも100年は戻される。
考古学のケンイガーに騙されるアホです。
ダメだあまりにも弱すぎてつまらん
九州説の中に骨のあるやつはいないのか >>410
>反論できていないのは畿内説ですよ。
何に?
>>434
太宰府で接遇した(どこの史書にも書かれてない妄想) 隋書倭国伝自体聖徳太子の頃の記録であって倭王姓は阿毎、字は多利思比孤って卑弥呼と何も関係ない
大和= 邪摩堆ってだけ 我々はintcal13の改定の時点で、
この改定は考古学上おかしいと言い切っていた。
そしてintcal20によって、
それが正しいことが明らかになった。
やはり、考古学の知識がないと、
こういう事は難しいんだよ。
畿内説の時点で、
もう邪馬台国論争の土俵からは脱落している。
我々は畿内説は切り捨てて
前に進んでいかなければいけないのだよ。
考古学の発展の為にな。 >>423
IDが出ないから誰の何のレスか分からん 隋書も筑紫の東の秦王国とやらで記載が止まっているのはなぜだ? >>428
時間や季節でお前の太陽の位置は変わるのか?
北極星も南極に行ったか >>442多分秦王国から水行したか、実際に行ってないか
>>443
やっぱ昔の人って移動してる日中もポラリス目視出来るくらい目良かったん?君の住んでる世界だと >>430
>槨埋葬文化圏は吉備からだからなあ。
間違い
日本列島における弥生時代の木槨墓は北部九州を中心に分布している
>>444
其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也
だから十中八九で秦王国(豊前か)も通り過ぎてるけどな >>445
俺の世界だと太陽は沈んで夜だけど太陽の位置は変わってないぞ
お前の世界では世界は太陽がずっと動き回って今は昼か モモソヒメはあの出雲帝国の大物主と婚姻して三輪山の支配を奪い取った。
そこが日本史上最も大きなエピソードだが、
魏志倭人伝には一切記載はない。
コレを生涯独身の卑弥呼とか、
アホかとバカかと言う話だわ。
やはり考古学の素養がないと、
こういう事を言ってしまうという典型
が畿内説。
>>449
大物主は非実在だし巫女の神婚(独身)だよ 夜になれば北極星が見えます
北極星は常に北を指します
真北にあって動かずに見えるのです
では朝になったら行方不明か? >>438
日本伝には鴻臚館が実名で出てきてますし、その他の記述も正確ですよ
倭国伝に鴻臚館はでてこず、14000里の距離で一大率がいたとある
こっちも信じられますね
太宰府です 442.それはなあ、伊都に長く待たされるからだな。暇潰すんだよ。 >>446
その場しのぎの嘘をつくんじゃないカスが。 >>431
歴史泥棒は畿内説なんだよ。
盗人猛々しい。 >>445
GPSもグーグルマップもない時代に方角間違えたらお陀仏だよ
いまより遥かに敏感だった
いま、地図読めない人も多いでしょ
そういうのは退化するもので、この時代の人が間違えると死活問題になる
家にも帰れないんだから
>>452
鴻臚館が出てこないから太宰府って意味がわからないんだけど
つまり100%君の妄想ってこと? 大物主と言われる大和の豪族は、
大國主との國造において、
銅鐸の出土の変遷から、
1世紀中期に実在していた事は明らかである。
それを覆すことは不可能。
>>457
反論できず人格攻撃
神婚も知らなかったのかな 旧唐書の記述に混乱が見られるのは日本の史書との整合性を取ろうとしたため
彼らにとって史書の記述は重い、それを否定することはその国を否定すること
日本史を学んでいる私たちは中国の当時の筆者たちの苦衷が理解できる なぜ、そんな混乱が生じたのかも判る
それを理解していながら自説のためにその混乱を利用しようとするのは人として最低の行為
>>458
またテンプレ>>15に置き論破されてて笑っちゃう 大物主が実在じゃないとか、
考古学や日本の古代史の素養がない典型ですわ。 太陽が好き勝手動き回ったら暦なんて成立してないし朝も毎日来ないから大変だな
仕事サボれていいな
>>465
いや百襲媛に憑依してる時点で実体を持ってないだろ...
崇神紀読み直そうよ >>462
オマエの人格は尊重するに値しない。
詭弁で誤魔化すということは止めて、
もっと真摯に日本の歴史に向き合いなさい。 畿内説がよく持ち出す魏志倭人伝の冒頭の一文
『倭人在帶方東南大海之中』
帯方郡から見て東南の方向
https://i.imgur.com/auRwxS5.png
>>468
崇神紀を読み直しましょうね
大物主は百襲姫の体に乗り移ったりしてるんだから、崇神紀の時代には既に実体を失って信仰の対象たる『神』になってますよ >>460
日本伝は正確なのは認めるな?
なら倭国伝も正確だろう
一大率だけは魏志倭人伝から現地も見ずに引用し、酷似する14000里は無視する
畿内説ってのは都合のいいところだけつまみ食いし、大半の都合の悪い部分は無視するんだ
どんな歴史も著述できるね、詐欺師 昔のジャップは実際にオオキミに即位していなくても事実上の大王と観たならば周りはそれをタラシヒコと呼んだんだよな。
だから金石文に聖徳太子をトヨトミミ大王と書いているものがある。
是れを以てトヨトミミは天皇だったという説を立てた学者もいたようだが、オレは違うと思う。当時の人たちは推古は名目的なオオキミで、トヨトミミこそが本当のオオキミと捕らえていた。当時の人たちは儒教の影響が薄かったゆえに、形式的な礼法に捕らわれず現実的な立場からオオキミが誰かの判断を行ったのであろう。
隋書の会ったタリシヒコとはトヨトミミで間違いとおもう。
ネトウヨは平田篤胤の神学が大好きなくせに古代のジャップの発想を儒教的に捉えているんだよな。
これを自己矛盾というのだが底辺低学歴だから理解できないだろうな。 >>467
全くお話にならない。
もっと真摯に日本の歴史に向き合えよ。
大國主が少名毘古那と別れて、
大和の大物主との國造を始めたのが
1世紀中期のこと。
コレは銅鐸の変遷によってハッキリしており、
大物主なる部族が大和に存在した事は確定している。
そしてこの出雲帝国の主を取り込んだからこその
崇神の初國主たる所以である。 >>471
大物主は大国主なんだから出雲絡みでしょうよ
ヤマト王権が故郷の西へ「西征」するなにかだよ
>>472
いやいや、唐の時代も短里が使われていたと思ってる時点で頭がおかしすぎて話になりませんよ
>>476
その大物主って200年とか生きてたんですか?
科学を無視するのやめてくれませんかね 出雲の国譲りって邪馬台国に降伏した出雲って考えりゃ簡単だわな
神武が東征するなら出雲は潰すか従属させておかないと吉備なんか攻撃できない 中華は疑ってからは、疑い続けているよ、その後はすべて彼らが言うにはだからな。
『唐の時代も短里使ってた説』って九州説の中でも今までいなかったんじゃないすか?
このスレで新説誕生しましたよ 唐の時代は三国志の時代じゃないから長里だろうな
そのヤマトは大和だ
そのうち日本に改名する
日出る国の電子レンジとかブチ上げてアゲアゲのまま白村江で唐にボロ負けする
>>482
崇神天皇が出雲振根殺害してるからね
で四隅突出型墳丘墓も消滅と
畿内邪馬台国が出雲制圧しちゃったんだろう >>464
たった江戸中期の一例でなにいうのw
だからつまみ食いだって言うんだよ
距離は正確に把握って、そりゃ日本人に聞いたからだろ
自分はなんもせずとも行進は続く
方位より距離が気になるのは人情だ 短里か何かわからないが
日本書紀
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている >>471
全く無意味な詭弁で失笑モノですわwww
キチンと考古学の成果に真摯に向き合おうな。
それがないといつまで経っても
日本の歴史の理解度は深まりようがない。
私のようにまっさらな気持ちで日本の考古学の成果に向き合えよ。
そうすれば、銅鐸の分布の時代の変遷が、
大國主の國造の変遷と一致し、
ソレが即ち大和に大國主の國造を主導した大物主の存在が明らかになる。
ソレと婚姻して取り込む事で、
崇神は、初國主と言われる権力を手にした事が分かる。
この極めて重大なエピソードが一切書かれていないのに、
魏志倭人伝の卑弥呼が、
あの大物主を取り込んだモモソヒメだとwwww
全く筋が悪いね畿内説は。
考古学的にも、史学的にも、
どうにもこうにもならない。
>>488
魏志倭人伝から拝借したんだろう 隋書倭国伝は大和国、後の我が国日本の話なんやから魏志倭人伝の邪馬台国とは関係無い
邪馬台国は倭国であって畿内の大和国ではない
吉備国でも出雲国でもない
筑紫国ではある可能性高い >>479
短里と認めてるなら邪馬台国は九州だろw
あほか 吉野ケ里がどうも卑弥呼関係ないとバレちゃったから
畿内説が息吹き返してて草
>>489
大物主を信仰していたのが邪馬台国だよ
その大物主と神婚していたが故に人間の夫を持たなかったのが卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)
>>492
へ?短里認めてないけど
魏晋短里説は聞いたことあるけど唐短里説主張する狂った人は初めて見たから驚いてるのよ そう、唐の時代は里が伸びる、14000里がその時代の畿内までの距離としたんだろう。地勢東高西下、見渡せば奈良盆地だよ。無駄だよ、吉野ヶ里も関係無いと言っただろ、現代の政治家、役人は真実より金だよ。 聖徳太子がテンションブチ上がりで煬帝に我日出る国の天子とか宣ったせいで、親唐・新羅派の中大兄皇子は白村江で劉仁軌にボッコボコにされる
祭祀王の時代を終わらせたのが崇神天皇(ミマキ=邪馬台国官ミマワキ)ね
自分の娘を斎王にして傀儡化し、宮の外に追放して政治への影響力を排した
そして崇神天皇自らが祭政両方に於いて君臨したから、ハツクニシラススメラミコトなのよ オマエがいくら畿内説を唱えようと、
全く響かない訳よ。
槨は出ちゃってるし、
intcal20で戻っちゃってるし、
馬具は出てるし、
土器は北部九州一切無いし、
弥生後期の鉄器も無い。
鏡も西晋鏡ばかり。
絹の生産地でもない、
もちろん大陸との交易も無いに等しい。
ものすごく筋が悪いんだが、
その筋の悪さが、卑弥呼モモソヒメ説に繋がっってしまっているとしか言いようがない。 488.それも解決した話。3000×魏400
2000×韓550
大体同じ。
はい
また勝利してしまいました
弱いなぁ、九州説 出雲の国譲りは比喩だろう。実際の歴史のメタファーだろう。
春日大社の縁起によると鹿島の武甕槌の神は鹿に乗って奈良までやってきたのだという。朝廷の史記によると藤原氏が鹿島から武甕槌の大神を勧請したと書いている。比較すると分かるが、朝廷の歴史書は人を主語としていて、春日大社縁起は神を主語にしているわけだ。結局書いている内容は同じということになる。
出雲で大国主が国譲りしたというのは神を主語にした物語だ。
人を主語にしたらどうなるか考えたことはあるか?
オレはこう推測する。
垂仁の時に物部十千根が出雲を制圧して神器の検分を行った。
その時に同行したのが中臣の某だっだ。名前は忘れたが確か日本書紀に書いてある。
これを神を主語にしてみよう。どうなるか?
すなわち物部の主神の布都主の神々と中臣の主神の武甕槌の神は出雲の大国主を下して是を降伏させて現実の政治は天皇家に任せることを誓約させたという話になる。
教養のないネトウヨには分からぬだろうが、奈良時代以降の古書を読んでいれば推測できる話よ。 畿内アホ説はもうええて
公金毟ってる日本人の学者のアホしか相手にしてない
本場中国人の学者は九州説一択 バチカンに最新式の武器は必要ないだろ、バチカンで服編むのか? >>501
そもそも箸墓は簡単に日本書紀を信じるのに東征や筑紫日向降臨は無視するんだい?
それは権威付けの捏造だというなら旧唐書日本伝の認識と変わらないな
魏志倭人伝の時代の倭国は九州島、もしくは北部九州(あと半島南岸)
>>505
東征や筑紫日向降臨
無視してないよ?1世紀頃に神武東征があったのでしょう 投馬国が都萬神社としたらヤマト王権って投馬国から出来たんじゃね 日本書紀を信じてないよ。
信じているのは阿波さんに書記バカと言われているような人。
古韓尺まで持ち出して何とか否定しようと努力している人。 >>507
崇神前に九州の女王国がたくさん討伐されてますね
それも無視ですか
>>511
崇神前って神武の時代のこと?
別に女酋長なんて丹敷戸畔とか日本中にいたじゃん 神武東征は2世記後半。倭語大乱が終わった頃。考古学的には畿内て銅鏡祭祀が廃れたのがその時代だから、このように位置付けないと辻褄が合わない。
神武東征を1世紀するのは壺系のYouTuberの動画で見た記憶があるな。 私のように筋が良いと、
邪馬台国の卑弥呼は倭姫命(ヤマトノヒメミコ)
と言い切れる訳。
狗奴国との戦いは熊襲との戦いと言い切れるし、
そうすると、倭国大乱は彦坐王の皇子狭穂彦王の乱で、
女王共立は邪馬台国の彦坐王の娘と生目の間に生まれた姫を邪馬台国の女王にしたことと、
全てが繋がってくる訳だよ。
倭姫命の家臣の大若子命が夷狄との戦いで旗を授かり大幡主となった事が、
張政が狗奴国との戦いで黄幢を授けて激を飛ばした記述と一致し、
弟の乙若子が、倭姫命の世話をした伝承が、
歳の離れた弟が卑弥呼の世話をしたという魏志倭人伝の記述と一致する。
また大若子命は別名御間皇子のいみょうがあり、
コレが彌馬升ということになる。
ありとあらゆる事が、邪馬台国の卑弥呼=倭姫命ということで、
全て繋がってくる。
こんなもん、多少の素養があれば、
常識的に行き着く所だが、
邪馬台国は大和纏向で、箸墓のモモソヒメが卑弥呼(笑)を前提に、
様々な事を構築しようとすれば、
全てが間違ってくる。
最初のボタンが間違ってるんだからな。
ココが分からないということは、
邪馬台国論争の土俵の上に最初から乗れて無いの。
まあ、それすらもわからんだろうなあ。
もうそれぐらい素養がない事をさらけ出しちゃって救いようがない。
>>515
倭姫は流石に時代が遅すぎね? >>513
逆に聞くが邪馬台国と狗奴国はどこなんですか 最初のボタンを間違えているのはあなただと思うな。後書き書物を中心にしている。
>>518
邪馬台国はヤマト王権で狗奴国は東海地方だろうな >>519
卑弥呼が大陸人なら必ず記述されるだろw
トナカイより話にならん
東海地方といっても天竜川以東の土器は纒向に運ばれていないからそのあたりがやっぱ狗奴国なのかもしれんね
首都は沼津で高尾山古墳がククチヒコの墓ってのがベタよな >>520
> >>518
> 邪馬台国はヤマト王権で狗奴国は東海地方だろうな
根拠もなく言い張る畿内説はおかしい また私のように、
真摯な気持ちで日本の考古学に向き合えば、
纏向の特殊器台埴輪、
モモのタネ、犬の骨、
外来土器の出土状況から、
「あ、これ、桃太郎伝説の吉備津彦を家臣とする、吉備出身の豪族出自の崇神の都やん、四道将軍を派遣した」て、
秒で言えちゃうわけ。
私のような素養のある人間が考古学会に居れば、
2000年代初頭に、既に纏向は崇神の王都て言えてたで。
秒で分かることを何年かけてんだよ畿内のアホは。 >>1
田中英道 #44 邪馬台国は存在しなかった!神社を辿れば日本がわかる
未来ネット / 2021/04/07
https://youtu.be/U6FUG-LB4iQ
田中英道・東北大学名誉教授
「邪馬台国や卑弥呼などは、日本の何処にも、物証どころか民間伝承の一つすら存在しない。従って、魏志倭人伝自体が中国人特有の"捏造"である。」 >>1
田中英道「漢委奴国印(金印)は偽造であった」日本国史学会 令和3年7月10日 日本経済大学(2021/7/10)
Hidemichi Tanaka
https://youtu.be/zoHCHJC11YM
「所謂『金印』は、発見された江戸時代当時の製法そのものであり、明白に『偽造品』である。」
つまり、古代日本が中国に朝貢していたとされる唯一の根拠である『金印』が偽造品だと判明した事により、日本が中国の属国で有ったと言う歴史的事実は一切無く成った。
書籍紹介:
・鈴木勉『「漢委奴国王」金印・誕生時空論』(雄山閣 / 2010年)
・三浦佑之『金印偽造事件—「漢委奴國王」のまぼろし』(幻冬舎 / 2006年) >>1
田中英道「『倭の五王』は捏造(?)である」日本国史学会 連続講義 令和3年6月14日自宅代講(2021/06/14)
Hidemichi Tanaka
https://youtu.be/jRktdf9K_PA
田中英道「『こじつけ』で考えて見ても、何とか一致性が見られるのは一人だけである。つまり捏造である。」 >>1
田中英道「秦の始皇帝はユダヤ人であった」日本国史学会 第69回連続講演会(2019/9/14)
Hidemichi Tanaka
https://youtu.be/EV9w3zQCWg0 >>1
黄河文明はコーカソイド、つまり白人の文明だった。
夏王朝は「西方の牧畜民=コーカソイド」が築いた? - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243011
龍信仰を体系付けた紅山文化は五千七百年年前の寒冷化で崩壊して新たに小河文化が誕生します。
この小河文化それを担っていた人々は西方の要素が濃いとされおり、実際に発掘調査の結果、旧満州や黄河流域にはコーカソイドが住んでいたことが確認されています。
つまり現在中国と自称する国が有る地域は、白人に征服された歴史を持つ間抜けな地域であり、
間抜けな黄色い雑種のコーカソイド、それが中国人である。 >>1
【世界最古の縄文文明】
1998年に世界最古となる1万6千500年前の土器が日本(青森)で発見された。
(その数ヶ月後に中国で1万7千年前の土器が発見された!と報じられたが、国際的な学術検証が為される前に「アイヤー、何者かに盗まれたアルヨ!」)
世界最古の文明は日本から? 【CGS 日本の歴史 1-2】
https://youtu.be/7DK8zIy2Fzg?t=1m56s
大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%85%83I%E9%81%BA%E8%B7%A1
因みに、世界最古の磨製石器(3万5千年前)も日本(群馬県・岩宿遺跡)で発見されている。
更にその後の全国的な発掘調査で、日本の磨製石器は3万8千年前の物まで遡る事が判明した。
これらは勿論、断トツで日本が世界最古である。
https://youtu.be/GyLwODomZmY >>521.書いてあるよ、卑弥呼は鬼道だと。道徳経は無名が真髄。司馬遷がそう語る。 >>1
鬼畜中国人に占領された国の凄惨な末路。
【中国共産党】インドのTVでも放送された、ドローンによる望遠撮影が記録したウイグル人強制連行の様子
https://youtu.be/gGYoeJ5U7cQ
【BBC】駐英中国大使、BBC番組でウイグル人の強制収用否定 証拠ビデオを見せられ「何の映像か分からない」と白を切る 6分13秒★2 [どこさ★]
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1595296065/
駐英中国大使、BBC番組でウイグル人の強制収容否定 ビデオを見せられ
BBC News Japan
https://youtu.be/166ZyVlBG2Q
英BBC記者「電話で肝臓を確保」前中国衛生部副部長「答えたくない」
https://youtu.be/IsOGUsp7Fn0
BBCは8日、『誰を信じるべきか?中国の臓器移植』(Who to Believe? China’s Organ Transplants)と題する番組を放送しました。
中国で死刑囚の臓器摘出に関与した元医師もスタジオ出演し、番組の中で証言を行いました。
BBC記者はまた、中国衛生部の黄潔夫元副部長に、臓器移植の実態について質問しました。
~1兆円規模に膨らんだとされる中国臓器移植「産業」~
専門家、15年積み上げた「臓器狩り証拠」明かす 東京で来日講演
https://www.epochtimes.jp/p/2019/09/46750.html
2019年09月11日 11時00分
現在ウイグル地域には複数の再教育施設があり、この収容所が現在1兆円規模に膨らんだとされる中国臓器移植「産業」の最大の供給源であると指摘されています。
長く中国の「臓器源」は99年から始まった法輪功迫害で捕らえられた修練者であるとされていましたが、それが近年ウイグル再教育キャンプの被収容者に移っています。
すなわち、「数十万人規模」と言われた『修練者の臓器はほぼ狩り終わってしまった』ので、『新たな臓器源が必要となった』――ということなのです。
>>524
若いなぁ
俺も去年の8月頃は君とおなじことを書き込んでたよ
https://i.imgur.com/55mwmDo.jpg
まあ今では崇神の宮=邪馬台国の都だとハッキリ確信するレベルにまで到達できたんだけどね >>1
>>532
【石平氏が吠える!証拠がゾクゾク。。中国共産党の臓器強奪に臓器売買!『強制収容所6000人が一人も帰って来ない!』】行方不明の15歳少年が無惨な姿で発見!!全力で臓器強奪を隠蔽する中国政府に中国警察!
https://youtu.be/K_zb6lB0l6o >>523
>根拠もなく言い張る畿内説はおかしい
ありますが?
テンプレ参照のこと >>520
するってえと、纏向は卑弥呼時代じゃなく、邪馬台国と狗奴国が和解したあとの遺跡になるねえ
で、その前後に戦乱史跡はあるんですか?
現代人からすると尾張は大和の東なんですがねえ
張政は度重なる救援要請で邪馬台国に入ったわけだ
男弟に会ったあとは伊都国にいたんだろうが
少なくとも張政が出張した要因を過小視して魏志倭人伝を読むのはダウトだ
鉄鏃の出土が集中する菊池川以南の線が戦線だよ >>1
北朝鮮よりずっと深刻、中国のミサイル脅威に直面する日本:朝日新聞GLOBE+
https://globe.asahi.com/article/11534967
中国人民解放軍が日本の各都市を標的として配備している核ミサイル配置図
https://p.potaufeu.asahi.com/7e36-p/picture/12528674/f7d4b246e41cc002e74299ee0274511a.jpg
「このように、中国軍は北朝鮮軍の数倍数十倍の対日攻撃用弾道ミサイルや長距離巡航ミサイルを取りそろえ、日本全土を焦土と化す態勢を整えているのである。」 >>533
曹操墓の金銀鉄鏡が日田から鍍金鏡が糸島から出てきてるんですけど >>1
>>538
海外「日本こそ核を持つべきだ!」日本には世界最大の戦略核兵器があるという事実に海外が仰天 [784885787]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1680784856/
1 メトポン(大阪府) [BR][] 2023/04/06(木) 21:40:56.86 ID:Q976UiMv0●
日本が実質的な核保有国であることが話題になっていまいた。
日本には既に核兵器を開発する技術があり、プルトニウムの備蓄量も核弾頭5000発に匹敵するという、
あまり知られていない事実を紹介した内容になっています。
そんな日本はすぐに核武装可能だという事実に、海外からは多くのコメントが寄せられていました。
http://dng65.com/blog-entry-10606.html
・日本がその気になれば半年で核兵器が生産できるという試算がある。
・日本は核保有国と考えられてる。
・原発によって大量のプルトニウムが備蓄されてる。中国が驚異に感じて廃棄を要求するほど。
・1980年代には核開発の技術が揃っていたらしい。
・日本には47トンのプルトニウムがあり、核弾頭5000発分に匹敵する。中国も超えてる。
・中国は219発と言われるけど、1000発に増やすという報道もある。 >>1
>>538,540
以下、海外の反応
・海外の名無しさん
マジかよ。この数字を聞いてめっちゃショックを受けた。日本大好き!
・海外の名無しさん
中国共産党の侵略に対する究極の答えが日本だよ。日本は悪者の扱いを心得てるから。
俺達アメリカは全面的に支持すべきだね。
・海外の名無しさん
日本は今すぐ核武装したほうがいいよ。
・海外の名無しさん
日本ならすでに核ミサイルを持ってても不思議じゃないよ。
・海外の名無しさん
日本ならめっちゃ信じるよ。
・海外の名無しさん
日本はやっちゃってぇ。中国に本当の強者が誰かのか教えてやってぇ。
・海外の名無しさん
日本は真の眠れる巨人だし、これから目覚めようとしてる。
・海外の名無しさん
核保有国2つに囲まれてるのに、なんで日本は核開発をしなかったんだろう。 >>1
憲法は「改正」では無く「破棄」若しくは「無効宣言」なら、国会の過半数の賛成決議だけで破棄出来る(国民投票不要)。
そもそもイギリスには憲法が存在しない。
つまり、そもそも憲法など持つ必要も義務も無い。
日本も、アメリカに押し付けられた「足枷憲法」を破棄して、完全なるフリーハンドを手に入れるべきで有る。
安倍総理:(アメリカがハーグ陸戦条約に違反して押し付けて来た)【憲法】これは無効であると、過半数でできますからね
https://youtu.be/6WC6bsF4Y4M
2012/10/17 に公開
衆議院議員【安藤裕】成文憲法の落とし穴~今国会で憲法改正を争点にすべきか否か?[桜H31/1/29]
SakuraSoTV(日本文化チャンネル桜)
https://www.nicovideo.jp/watch/so34546389
安藤裕
「日本が新たに憲法を持つとするなら、『日本国は、万世一系の天皇これを知らす。』、これだけで良い。」 >>1
五毛党 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指すネットスラングである。
正式名は網路評論員(インターネットコメンテーター)であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(0.5元)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、中国共産党政権に有利な書き込みをする。
または共産党「それに関連する事」を批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を担っている。
2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、年間で4億8800万件に上るという[6]。
中国「五毛党」のやらせ書き込み、年間4億件超=ハーバード大研究発表
https://www.epochtimes.jp/p/2016/05/25689.html >>1
「五毛は受刑囚だった」10万ポイント稼げば半年刑期短縮か=中国
https://www.epochtimes.jp/2021/02/68886.html
https://img.epochtimes.jp/i/2021/02/23/c_vrpenc9s7dinhxgguuee.jpg
「網易新聞」は中国共産党のサイバー囚人軍の報酬基準をうっかり暴露した(ネット写真)
「ネット工作員は、実は受刑者だ」中国大手ポータルサイトの網易新聞は17日、「ポイント稼ぎに奮闘する受刑者たち」と題する記事を掲載し、その働きぶりを評価するポイントの重要性を強調した。点数は減刑や仮釈放の決定に直結するという。
内情に詳しいとみられるあるネットユーザーが、同記事のコメント欄に「1投稿に3ポイント、1コメントに1ポイント、10万ポイントで半年減刑」とコメントした。
>>539
日田の鉄鏡て畿内から再分配されたやつでしょ?
ダンワラ古墳って6世紀築造らしいけど、豊後国風土記によればまさにその時期に日下部氏がやってきてるからね
日下部氏が持ってきたんだろね
日下部氏は和邇氏(神宝を管理していた)と同祖なんで、その好に貰ったのかな 新井白石「外国之事調書」邪馬台国を筑後国山門郡に比定
本居宣長「偽僣説」卑弥呼は、神功皇后の名を騙った九州の女酋長
本居めちゃめちゃやな笑
それでも、東に行ってしまった畿内説よりはマシや笑 >>545
畿内から再分配されたなんて邪馬台国は畿内にあったのと同じ意味でしょ
ただの妄想やん 邪馬台国はそれまでヤマトと読まれてた
ヤマタイとなったのは本居宣長の影響 >>531
鬼道は縄文由来の原始神道だよ
諏訪に残ってるもの
神道と仏教が習合したようにいまの(国家神道含め)神道とは違う 九州説は終わった。今は卑弥呼後いつ頃から半島に圧されたのか?を考えてる所だね。 銅鐸も未だに誰がどういう目的で作ったのか分からない~とか、
畿内のアホは言ってやがるが、
コレ、完全に大國主の國造の時代変遷と分布の時代変遷が一致だからな。
ということで、
「銅鐸は大國主が須佐之男命から持ち出した天の詔琴じゃん」
て秒で分かっちゃう。
となると、加茂岩倉遺跡が大國主の遺跡で、
荒神谷遺跡が須佐之男命の遺跡じゃんて、
秒で分かり、
じゃあ須佐之男命が出自した土地は、
北部九州から銅鐸が出土する吉野ケ里周辺じゃんて、
秒で分かるんだよ。
ということで、天照大御神も前2世紀に実在した人物ということも分かる。
こういう事はやはり考古学の素養がないとムリで、
ソレはやはりフラットな気持ちで日本の考古学に向き合えたからこそ至る所であって、
最初から大和纏向が邪馬台国、
初期の前方後円墳が邪馬台国の権威の象徴とか、
ストーリーを決め打ちしてたら、
一切たどり着くことは出来ないと言い切れる。
アナタねえ、そういいところが見透かされちゃってるわけ。
私とは邪馬台国に対して向き合うプロセスが違いすぎる。
だから全く響かないの。 >>548
知能が閾値を下回ると畿内説になるのさ。
>>549
いや300年間に及び放置されていた鉄鏡が、日下部氏が来た途端に副葬されたのだから同氏の持ち物だと考えるのが合理的よな
昔の人が記録残してくれてて良かったぁ~
豊後国風土記が無かったら九州説に騙されるところだったわな >>554
九州の銅鐸は出雲のスサノオに攻められた証拠。神話でも田を壊されたり糞撒かれたりと。 >>556
だからそれが原始神道だといってるだろ
縄文人の一部の信仰でもある 旧唐書は不正確。新唐書のほうは旧唐書よりも考証が加えられている。
ネトウヨ大好きな旧唐書だが、これは日本国と別に倭国を上げながら書いていることは魏志倭人伝の引用。
日本国について書いている項目は登場人物が何故か橘逸勢と仏僧空海のみ。両者ともに伝説の書家であるが唐の朝廷でも伝説を作った人だったのかもしれない。そうでなくては阿倍仲麻呂や吉備真備のような人物を差し置いてわざわざ正史に記載される理由が説明できない。
旧唐書は唐王朝が滅んで間も無く編纂されたものである。当時の中国の知識人や官僚たちにとって、印象深い日本人といえば橘逸勢と仏僧空海だったという事なのだろう。
新唐書になると唐の時代の官僚たちの心情といったようなものではなく、史的批判を加えた記事が多くなる >>557
いや、ダンワラ古墳は、古墳時代後期に特徴的な横穴式石室を持つ古墳だそうですが、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、横穴式石室よりも下にある、より古い古墳の竪穴式石室の中から見つかったとされているから、ダンワラ古墳自体は5〜6世紀の建築だが金銀鉄鏡の竪穴式石室(被葬者不明)は3〜4世紀の建築だ
九州大准教授「ダンワラ古墳の鉄鏡は近畿などの別の土地に当初持ち込まれた物が、日田地域に搬入された可能性が考えられる」
https://i.imgur.com/5WzRDDr.jpg
↑正論
国立大学の専門家に九州説唯一の希望ダンワラ鉄鏡が木っ端微塵に論破されてしまう 鉄鏡は他に鏡がない。神仙思想の者の墓じゃないだろう。
>>563
竪穴式石室で出土した辻金物の細工から6世紀だと判明しているよ
嘘はやめようね >>564
そんな意味不明な可能性だけ言われても邪馬台国は畿内にあった並みに意味不明 柱は半島だよ。で、陽物かけるんだろ。皆やってなきゃおかしいんだな。
>>567
300年間に及び放置されていた鉄鏡が、日下部氏が来た途端に副葬されたのだから同氏の持ち物だと考えるのが合理的よな
現実を直視しようか... 畿内説のアホタレドモは、
「何故どうして金印が志賀島から出たのか分からない~」
とか、未だに言ってやがるが、
考古学の素養がある私に言わせれば、
「志賀島には奴国出自の阿曇族の氏神の祀られた志賀海神社があり、志賀島から漢委奴国王の金印が出るのは必然」
と秒で言い切れる訳よ。
結局ねえ、考古学の素養のある人間とそうでない人間との間には、
物凄い差があるわけよ。
私はもう先の先まで行っちゃってるのに、
未だに畿内説とか言ってやがる、
バカジャネーノという話しで、
人格とか主張するんじゃないっつうのアホが。
え、もしかしてダンワラ古墳出土鉄鏡が九州説の根拠なの
いくらなんでも弱すぎるだろ...
>>570
お前倭姫=卑弥呼説なんだし畿内説だろ >>564
縄文から交易してるから物の移動は国境の特定にあまり関係ない
逆に絹など畿内にはないものは重要
これを見てくれ>>278 >>566
いや、3~4世紀式竪穴石室の上に盛り土をし、あとから6世紀式の横穴石室が付加されている時間差のある石室がある九州でも珍しい古墳なんですけど
絹といえば纒向遺跡で出土した日本最古の天蚕絹製品よな 570.
1.は一応受け入れてくれてるだろ、フェードアウトしたと締めくくっている。
>>574
残念
その竪穴石室から出土した辻金物の細工は6世紀のものです >>577
それは、梅原氏が出土した辻金物の細工から古墳が5世紀~6世紀に作られたものだと言ってるだけ ダニングクルーガー効果の図貼ったら書き込めなくてアク禁なったけどあかんのか?
>>571
九州説の根拠は>>278
>>575
巾着袋が一つだろ? 南米で見つかる縄文土器と一緒。これも>>278で言ってる さらに>>575はトナカイさん?
最古というのは本当ですか? 根拠は? 吉野ヶ里遺跡の絹は何時代か知っていますか?
>>580
吉野ヶ里の絹は家蚕でしょ
纒向はもっと上等な天蚕だよ そもそも、1933年に線路の盛土を採集するため、ダンワラ古墳を破壊していた時に渡辺音吉によって発見されたが、ダンワラ古墳自体は跡形も無い
日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断しただけ
何がどこから出土したのかは誰にも分からない
>>578
そして梅原氏の主張は正しい >>584
梅原氏の主張が正しいのかどうかは邪馬台国より分からない
だって見てないから
テンプレ>>28によれば
>献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
─
なるほど
献上品と照らし合わせても九州説は厳しいな 三内丸山遺跡で絹が見つかったら凄いなとは思うけど邪馬台国とは思わないだろう
理由は>>278と同じ
国境線を特定する作業なんだから。物の移動は交易があるのであまり意味ない >>571
考古遺物、文献史料、両者が北部九州と語ってるんですが
張政は度重なる要請で戦の調停のために訪れ、そこで倭国の風俗を報告した
戦の痕跡が邪馬台国周辺にはマストなんだよ
なんで無視するのかね
戦がなければ張政来てませんから
その痕跡は圧倒的に九州
鉄の配分法も似てるから吉備、出雲も菊池彦勢力かもねえ 東大王谷先生の「ならなにシリーズ 奈良から超難問」2 けん牛子塚古墳
https://www.youtube.com/watch?v=3C3G8NU04Fw
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳
2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている
二度天皇になり、乙巳の変に立ち合い、蝦夷地への阿倍 比羅夫を後方羊蹄まで見送り、白村江の戦いへの遠征軍を見送るために筑紫の朝倉宮に遷幸、当地にて崩御した
こんなに大活躍をした天皇の陵が最近まで牽牛子塚古墳であるとは認識されていなかったのは驚くべきこと ダンワラと呼ばれる古墳があったところから出土した
これは間違いない
3〜4世紀の竪穴式石室があった
これも間違いない
5〜6世紀の横穴石室があった
これも間違いない
梅原氏は副葬品から横穴石室から出たんじゃないかと推測
推測したことは間違いない >>586
wikiでは奈良県下池山古墳は4世紀となってるけどどっち? 私のように考古学の素養があると、
臺與は豊受大御神というのも秒で分かるし、
その時代に邪馬台国は倭健命の東征で、
日本海側から、丹後に拠点を置いて、
近江美濃伊勢尾張三河東海関東へと進出して行ったのだなと秒で分かる。
それで、彦坐王の子孫やその家臣の子孫が、
丹後近江美濃伊勢尾張三河甲斐に居るのかって言うのが分かる訳よ。
結局、考古学の素養がある無しで、
1秒が100年1000年になっちゃう訳よ。
我々はそこにとどまる事が出来ないわけ。
日本の考古学を次のステージで語っていかないとどうしようもない。 絹 鉄 城塞 墓にカクなし
これが邪馬台国の最低条件
畿内説には何一つない 梅原氏は完全なデムパ。論文で津軽外三郡史を引用とすると恥かくのと同じくらい触れてはならぬ人。あれが持て囃されたのは何なんだろうな。壺っぽく感じぬでもないがオレが知らないだけかもしれない。
>>592
じゃあ貴方畿内説じゃん このように>>278
大分の海岸線に国境があった
西側(九州)に倭人がおり東側(吉備から畿内)にも和人がいた。関東にも東北にもいた
交易は縄文からやっている
それと国境線は別 アインシュタインがe=mc²って言い切ってるのに、
なにそれわかんない~っていい続けたら、
原子爆弾の開発に遅れを取って、
原子爆弾落とされちゃう訳よ。
アホは切り捨てて、素養のある人間で先を行かざるを得ない。
キミら、我々の土俵の上に乗りたかったら、
先ず真摯な気持ちで日本の考古学に向き合ってミロって。 梅原の功績は金銀鉄鏡を奈良の古物商から買い取り、天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げたこと
こいつの論文は価値は無い
>>596
畿内から再分配された鉄鏡もある >>598
e=mc²と原爆なんて全く関連性がありません。あなたGPSが相対性理論で成立してるとか言う偽科学の人ですか?畿内説ですよね?アホだから。 我々は畿内説が
邪馬台国は畿内に渡来した朝鮮人が設立した政権で、
ソレが大和政権となり日本になったという
韓国政府の文化的侵略政策に基づく、
プロパガンダである事も分かっている。
そうとも知らずに畿内説なんて唱えちゃってるアホは、
今すぐ悔い改めたほうがエエぞ。
工作員でなければな。
アホだから分かんないだろうけどな。。。 長宜子孫大型内行花文鏡が八咫の鏡と同形同型とすると長宜子孫金銀錯嵌珠龍文鉄鏡、鍍金方格規矩四神鏡は先年発見された曹操墓と同形同型のものであり、八咫の鏡より価値があることになる
長宜子孫大型内行花文鏡が曹叡下賜百枚の銅鏡由来なら日本の三種の神器は曹操由来の可能性もある 畿内説「なんや吉野ヶ里の石棺なんも出んやないかーいw」
↓
金曜金印発見
↓
畿内説消滅
鉄鏡の価値は倭人に認識されていなかったのだろうね
最終的には有象無象の小さな墓に埋められたわけだし、皇室の八咫鏡も銅鏡だし >>607
馬鹿じゃないのかこいつ
大型内行花文鏡なんて国産で決着ついてんだよ >>604
オマエさあ、歴史の素養がなさ過ぎるわ。
マンハッタン計画とか知らない癖に、
そうやってレスつけちゃうのな。
バカを露呈してしまったな。
人格も問題あり過ぎるぞ。 日本と中華半島の史書に書いてあるんだよな
倭国は北部九州で、ヤマト政権は倭国を併呑したが、倭国の名称はほしがった
それだけだ どう言おうが宇佐は秦王国、半島人の流れだよ。スサノオもな。 トナカイのウソは大津君がテレビで喋ってもいない事を喋ったと大嘘ついた前例がある
https://i.imgur.com/x7siXbi.jpg >>617
まぁないと思う
むしろ何の価値もないと思う
でも金印は小さいから底まで行かないとわからないし0.0001%くらいの可能性はある >>607
根本的に三種の神器は曹操以前の時代から、
北部九州で出土してるんで、
ソレは間違いな。 今回の石棺に夢を抱いている時点で終ってるのが解らないんだな。箸墓以外、どんなに掘っても出てこんよ。列島では。 >>611
大陸での出土例が無いだけで仿製にしてるだけ
銅鏡百枚が何なのか分からんのだから現段階で仿製かどうかは誰にも分からん
まだあの石棺墓に望みを託してるやついて、泣けてくる >>612
なぁなぁマンハッタン計画とe=mc²に何の関係があるん? >>621
吉武高木が最古だけど三種の神器が今の三種の神器と同じ意味の物体なのか分からん あっちの専門家が銅鏡じゃなくて鉄鏡送っててもおかしくないと言ってるんだぞ 202 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 13ac-pFCJ)[sage] 2023/06/12(月) 22:14:48.47 ID:JI7Um9EE0
幅が狭すぎる。横向きに入れたんか? 雑な扱いやの
その割に朱を塗っとる。丁寧やな
丁寧にしてはバツ印の石板を一枚、面裏を間違えてるな。急いでたんか?
いくら急いでるたって蓋をする最後の作業で流石に間違えんだろう。するとわざとだな
わざと一枚だけ逆にする必要があった
小学生のとき兄貴のエロ本を勝手に読んで戻したら怒られた
何でバレたんだろうと思ったら一冊だけわざと逆向きに重ねてたらしい
204 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 13ac-pFCJ)[sage] 2023/06/12(月) 22:24:26.83 ID:JI7Um9EE0
埋葬者のために新しく塚を作ったなら頂上の方に埋めるはずや
でも頂上には前の時代の別な人がすでに埋まっていた
ということは新しく作った卑弥呼の墓ではない
次の男王か? それだとさらに狭いな。台与か?
そこは吉野ヶ里で一番見晴らしの良い場所らしいな。見晴らしが良いということは掘り返す作業も丸見えということや
台与は畿内へ東遷したという説があるな。うちの兄貴は東京に出るとき実家にエロ本置いて行ったわ。厳重に封をしていたので開けるのを諦めた
206 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 13ac-pFCJ)[sage] 2023/06/12(月) 22:31:53.31 ID:JI7Um9EE0
持っていくと危ないから金印を埋めたか?
この推理を兄貴にしたら「俺なら二重に罠を張る」と言った
石棺の底にはまあそこそこのものしかない。そこそこの鏡とか腕飾り。はい終了。それが罠だ。それは本当の底ではない
底の石板を外した後、さらにもう少し掘らなきゃいけない
「俺ならそうする」と兄貴は言っている 結局なあ、畿内説なんかに日本の考古学がとどまっていると、
朝鮮半島南部の狗邪韓国が倭の領土だった事も確定できない訳よ。
書いてあるのに。 >>624
なぁ
邪馬台国が近畿だという証拠を示してくれよ
考古遺物含め 大型の銅鏡送ったのか、9割サイズの鍍金金銀鉄鏡送ったのか、鍍金銅鏡送ったのか、全く分からん
内行花銅鏡は何十枚か入っていたと思われる
鍍金鏡は日本では精製不可能なので中国製なのは間違いない >>623
>大陸での出土例が無い
十分な理由だなw
黒塚古墳から黄幢が出土した時点で終わったよな 小学生の時に家から100メートルほどの場所で甕棺を発掘した事があって中は土で埋まってなんだけど、小さな白いかけらが混じっていて当時は全く気にしなかったけど、今思えば歯だったのかもしれない。🙏 後漢鏡には平原の内行花文鏡みたいな大型鏡はない
あくまであっちでの鏡の用途は手鏡
倭国のような威信材としての用途はない
>>634
そりゃすごい経験だね >>612
オマエさあ、歴史の素養がなさ過ぎるわ。
マンハッタン計画とか名前だけ知ってて
そうやってレスつけちゃうのな。
バカを露呈してしまったな。
人格も問題あり過ぎるぞ。
畿内説だろ? >>632
石棺が長いから黄幢が入ってるかもと書いたら
畿内論者が黄幢は張政が持って帰るからあるはずがないと言ってたぞ
あと物の移動は国境の特定にはならない>>278参照 須久遺跡から茶戸里遺跡と同じ度量衡単位の権が見つかりましたて、
「あ、やっぱり後漢書東夷伝の狗邪韓国は倭の領土って本当やったんや」
て秒で分かる訳よ。
しかーし、韓国政府のプロパガンダ、
邪馬台国畿内説に考古学会が牛耳られている為に、
「日本は朝鮮半島と同じ度量衡を用いていた」
となるわけです。
絶対に許されない。
黄幢は黒塚古墳で見つかってるよ~ こっち
>>633
石棺が長いから黄幢が入ってるかもと書いたら
畿内論者が黄幢は張政が持って帰るからあるはずがないと言ってたぞ
あと物の移動は国境の特定にはならない>>278参照 >>632
少なくとも同形のものは出土してる訳で
9割サイズ金銀鉄鏡みたいに11割サイズ銅鏡送ったのかもしれない
何れにしても大型鏡が仿製としても金銀鉄鏡は八咫の鏡より価値があるかもしれない >>638
君の常識は世間の非常識
そろそろ気づこうね
吉野ヶ里の石棺墓に期待し過ぎなのよ
あの程度なら日本中にあるでしょ。なんで黄幢なんて話になるんだかw
>>642
価値が無いと倭人が判断したから小さい地方豪族の墓に副葬されたのよ >>645
弥生時代最大の居館が城柵が側にあるんですけど >>625
マンハッタン計画に対して、
アインシュタインが手紙を書いた。
e=mc2故に原子爆弾は製作可能だとな。
そういう事を知らない故に無知を武器にして人を攻撃しちゃう訳よ。
無知は罪なの。
>>646
ダンワラ古墳の竪穴式石室は6世紀だし弥生時代関係ないっすね >>636
当時は歴史学者もノータッチで高校の郷土部が発掘調査してたような時代だったな、そこより少し高台にある俺の家の下にも石棺が埋まっているかもしれない 仿製鏡の技術があるなら、卑弥呼が鏡を要求する必要はない。卑弥呼の必要とする鏡が倭国に無いから要求したものだよ。卑弥呼の要求は神獣鏡。 >>637
オウム返しはバカの印よ。
ググってミイや。
しかも竪穴式石室から共伴したもんが全然大した物じゃないんでしょ
じゃあ地方豪族でも手に入れられるレベルにまで価値が忘れ去られてたってことよ >>640
三角縁神獣鏡も見つかってる
>同じ石室から出土した三角縁神獣鏡(33枚)のデザインに 日本オリジナルの笠松形 が高頻度(うち32枚)で描かれている状況があり、U字形・Y字形・棒状の鉄製品をセットとして、飾り旗の類としての、笠松形から考えてもよいのではないかと考えています。
>>654
うわっ福永晋三とか好きそう >>652
竪穴式から共伴したものなんてお前見たのか
梅原妄想エッセイなんて何の意味もない
見つけて磨いた時点で大業果たしたわ >>642
根本的に曹操の墓から9寸の金銀象嵌の鉄鏡が出土した事で、
曹操は皇帝(献帝)から貴人公主として、
鉄鏡を貰った側であることが確定した。
鉄鏡に関しては曹操が皇帝として1尺2寸の鉄鏡を持っていたなる文献があったが、
ソレが間違いであることが分かったのだ。
従って、日田の鉄鏡は、曹操が授かったと同格の金銀象嵌の9寸の鉄鏡で、
献帝が曹操と同格の貴人公主に授けた鉄鏡と言い切れるし、
曹操が献帝から授かったと同格の鉄鏡を、
曹叡が卑弥呼に授けたなどというのは理論として有り得ない事を理解しなければいけない。 >>659
曹叡じゃないかもしれない
司馬家かもしれない
曹操から直接貰ったものじゃないことを理解しないといけない >>653
三角縁神獣鏡が見つかっちゃった事で、
ソレは西晋時代以降の墓であることが確定してしまったのだよ。
残念だが仕方が無いコレが畿内説の現実だな。 黒塚のあれはむしろ倭の5王が朝鮮半島進出して
ああいう旗があるのを知って真似して作っただけだべ >>660
司馬炎が皇帝となった時代は、
既に徐州の銅山を集中にした
画文帯神獣鏡の時代で、
鉄鏡なんかは作ってない。 金銀鉄鏡が見つかったのが何故か日田
鍍金銅鏡や大型銅鏡、たくさんの内行花銅鏡は糸島から見つかっている
糸島から見つかったものは恐らく卑弥呼が貰った銅鏡百枚の一部だろう
魏は銅の生産地呉と戦争中のせいで慢性的銅不足で決して銅鏡をたくさん作って倭国にあげる余裕は無かった >>663
だーれも金銀鉄鏡を司馬炎が作ったなんて言ってないわハゲ 現状邪馬台国の候補地は北部九州しかないし
卑弥呼の墓と考えられるものは平原しかない
そもそも畿内なんて箸墓が卑弥呼の墓だと言い張ってるが
それを証明するものは何もない
むしろ箸墓の埋葬者は結婚してると日本書紀にも書かれており
卑弥呼とは似ても似つかない 日田の鉄鏡は、6世紀に日田に居た、
曹操と同格の貴人公主を祖先に持つ貴人公主は誰か?
つうアプローチが必要になってくる。 >>665
司馬炎じゃなくても、
西晋時代以降は、
鉄鏡なんて作る必要無いっつうの。 >>668
だから司馬炎が作ったなんて言ってないっての
司馬家からしたら曹操が献帝から貰ったものと同種なんてどうでもいい
同種のものを誰から貰おうが司馬家のもの
誰にあげようが司馬家の勝手
>>667
だから日下部氏だと言っておろうに
祖先は和邇氏と同じ彦坐王だぞ 三種の神器は、
天叢雲剣が、須佐之男命から貰った剣で、
コレが銅剣であるということで、
荒神谷遺跡の銅剣と同じである可能性が極めて高い。
考古学の素養があると、
こういことが秒で分かっちゃうのよ。
畿内説論者とは脳の出来が違う訳。 盗品を鏡好きな倭国の者に売ったんだろ。いつ手に入れたかは解らんね。 纏向は卑弥呼の王宮だー
倭人伝には城塞だと書いてあるw
纏向のどこに堀や見張り台あるんだ?w >>670
アホかオマエは。
オレが言っているのは日下部氏の祖先が誰かではない。
良く読めやアホタレが。 >>671
草薙の剣は出雲が邪馬台国に降伏する時に渡してる >>672
畿内説は投げやりで頭悪いっぽいね
ヤレヤレ 司馬懿が帯方郡に近づいて邪馬台国が朝貢した
司馬炎が皇帝になって邪馬台国が朝貢した
だいたい分かんだろ ダンワラに眠る者に渡るまでは何百年とあるからな。その間どうなっているかは解らんね。投げやりでは無く問題にしていないのだよ。
卑弥呼の墓は他に無いから。 三国志読んでたら諸葛亮が死んだらいきなり爽やかが司馬懿のライバルみたいな感じで出てくる
曹魏の大物みたいな感じで
いや、お前誰やねんと
多分、卑弥呼もそう思ってたはず 結局石棺墓の主は誰なんだよ
骨もないっぽいし副葬品もパッとし無さそうだから
そっ閉じ案件になるんだろうな
>>674
じゃあ公孫に渡された鉄鏡だろう
公孫氏帯方郡(204~238)時代に倭に齎されたのだよ
>>683
してるけど
魏志韓伝に書いてあるぞ
公孫模、張敞等を遣はし、遺民を収集して兵を興し、韓濊を伐つ。旧民はやうやく出づ。【この後、倭、韓は遂に帯方に属す。】 >>675
勝手なことを言うなよ。
それより遥か以前に
須佐之男命が天照大御神に渡している。 >>684
公孫氏に朝貢しましたってか
邪馬台国は畿内にあった的なやつか
卑弥呼が239年に速攻遣使できたのも、それ以前から公孫氏と通じていたからだろう
倭国にリアルタイムで公孫滅亡&魏進出の報が入ったのだよ >>685
公孫模、張敞らを三韓、濊の地に派遣して、これらを討伐させた。これによって以後三韓、濊は帯方郡に属するようになった。 >>686
それは2代目天照の台与のこと
天照(卑弥呼)が隠れて(死んで)スサノオ(卑弥呼の弟)が追放されて
スサノオが岩戸から出てきた天照(台与)に草薙の剣を渡した 天照大御神はおそらく太陽観測遺跡のある伊都国、
須佐之男命は銅鐸やその型の出土した佐賀の脊振山地南部を治める様に言い渡されたのだろう。
そうすると、おそらく月読命は筑後川の南部、
山門八女に派遣され、
玉垂宮辺りで、有明海の月齢と潮位観測を担当したのだろう。 「桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強く盛んになり、郡や県は制御することができず、住民が韓国に流入することが多かった。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して、遺っている民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」
この時点の帯方郡は魏だろ
実際に朝貢したのは、魏、明帝の景初二年(238)六月、卑弥呼の使者、難升米が帯方郡を訪れた
この時、帯方郡楽浪郡の公孫淵を討伐したのは司馬懿
238年ではなく239年が通説
定説ではないが >>692
そういう考え方はおかしいわけ。
高天原から出雲に最初に進出した須佐之男命の遺跡は、
大量の銅剣の見つかった荒神谷遺跡であり、
コレが前2世紀の事で、
須佐之男命と同時代の前2世紀の人物の天照大御神を、
3世紀の卑弥呼や臺與に当てはめるなどは筋が悪い。
漢代に倭国が楽浪郡と交易してるわけだから(漢書地理志燕地条)、公孫と通じていない方が不自然
スサノオが最初どこに降り立ったのかは記紀自身が混乱してるからわからんよ
出雲とか安芸とか新羅とか 公孫と通じてたのは間違いないが、邪馬台国が実際に朝貢するのは公孫ではなく魏だ
邪馬台国が公孫に朝貢したことはない
広い意味では、指定暴力団曹魏会の直参公孫一家の舎弟が倭組
その後公孫一家が独立して公孫燕会になり、曹魏会のライバル孫呉会と四分六の盃を交わして舎弟になった
それで曹魏会舎弟頭の司馬懿がケジメ取りに公孫燕会に乗り込んでドンパチした
結果として倭組は曹魏会の直参になった 奴国が漢の武帝より金印を授かったのが57年。
で、倭面土国王帥升が奴隷を朝貢したのが107年。
奴国はその後の卑弥呼の時代にも奴国として存在するので、
倭面土国は奴国ではない。
しかも、卑弥呼の時代の奴国は王が存在せず、
一大率を置いて邪馬台国に支配されていた。
これらを考えると倭面土国は邪馬台国であり、
倭面土国王帥升が朝貢した奴隷は、
奴国の奴隷と考えられるのである。
で、漢委奴国王の金印を持っていた阿曇氏が、
元々糟屋出自で志賀島に移住したと言われており、
また糟屋には山門八女の支配者、筑紫の君が屯倉を置いて支配していた事から、
107年に山門八女の邪馬台国が奴国を支配し、
糟屋にいた奴国王阿曇氏が志賀島に移住し、
邪馬台国は奴国の奴隷を引き連れ、
漢に朝貢したと考えられるのである。 倭国大乱=狭穂彦王の乱が146年 - 189年とすると、
39年~82年前の帥升とは、彦坐王かその父の開化天皇と考えられるのである。 >>698
そうじゃねーだろ。
高天原=北部九州から出雲に最初に進出した部族、須佐之男命だ。
須佐之男命が最初に行った場所じゃねーぞ。
ちゃんと日本語読めや。 トナカイって隋書で魏志倭人伝の方位の間違いを訂正したとか言い続けて大恥をかいたよな、正解は航路が違っただけだったのにw >>662
黒塚古墳は椿井大塚山古墳、浦間茶臼山古墳と同じように箸墓古墳の2/1の設計
築造時期も出現期古墳とされている
黄幢があり難升米のお墓とも言われている >>704
奈良県天理市の黒塚古墳は、「三角縁神獣鏡」や「水銀朱」「鉄器」などの副葬品から、「倭人(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 阿波を捨てて出て行った者は決してクソ陰気な阿波には戻らなかった >>710
専門家の誰が黄憧だと言ってるのかな?まさかトナカイの事じゃ無いだろなw >>696
お前みたいな頭のおかしい奴いるんだな
スサノオなんて記紀に出て来る架空の人物
記紀には神武はBC660年と書かれてるのにスサノオは前2世紀?w
もうちょっと頭使えや無能w 炭素年代法で100年以上年代繰り上げた畿内の古墳築造年代なんて
何の証拠にもならんよw
歴博のアホは古ければ古いほど良いみたいな発想で動いてるしな
弥生時代ももっと昔に始まったとか10年くらい前に叫んでたがw 「矢野遺跡 十数棟の掘立柱建物に注目」 令和5年 6月13日(火) 徳島新聞朝刊
矢野遺跡の一部に含まれる県立国府支援学校内の発掘調査では、弥生時代中後期の竪穴住居跡や掘立柱建物を確認し、
矢野遺跡における弥生集落の形態を知る手掛かりを得た。
注目すべきは掘立柱建物十数棟だ。
桁の間が2~4間、梁の間が1間の建物が並ぶ。
最も精緻な建物の寸法は、桁の間1.5m等間、梁の間が3mあり、他の建物も近い。
1尺がおおむね25cmすれば、桁の間6尺、梁の間12尺の整数倍の数値が得られる。
また、祖霊祭祀に関わるとみられる建物があった。
掘立柱建物の中で唯一、建物の方位が異なる「独立棟持柱建物」だ。
竪穴住居や掘立柱建物が混在したエリアだが、土器が埋められていたため、
共同体の祭祀をする施設の役割を果たしたのだろう。
調査から弥生集落の様相の一端を垣間見ることができた。
(勝浦康守・県埋蔵文化財センター主席研究員) @阿波 須佐之男がBC2世紀なんて初めて聞いたが
何を根拠に言ってるんだろうね? 歴史上倭国が出て来るのはAD57年の朝貢
それ以前は文字も出てこない倭国で年代特定など不可能 >>713
> 炭素年代法で100年以上年代繰り上げた畿内の古墳築造年代なんて
> 何の証拠にもならんよw
なるさ
反論出来ないだろ? >>703
> トナカイって隋書で魏志倭人伝の方位の間違いを訂正したとか言い続けて大恥をかいたよな、
正しいんだから恥はかかない トナカイはコンプレックスのかたまりだな、唯一自慢できる事が東京在住で早大阿呆学部w >>717
何故前2世紀か、ロジックまで全部書いてあるのに、
そういうレスするってことは、
「私はバカでーす」って言ってる事だぞ。
本当にどうしようもねぇ。。。 >>726
それでも地球は動くとガリレオは言っているがね 狗邪韓国 伽耶
対馬国 対馬
一大国(一支国) 壱岐
末盧国 肥前松浦郡
伊都国 筑前怡土郡
奴国 筑前儺県(ナノアガタ)
不彌国 筑前糟屋郡宇美または筑前穂波郡
投馬国 筑後上妻郡・下妻郡・三潴(ミヅマ)郡
邪馬台国 筑後山門郡
狗奴国 肥後山鹿郡・菊池郡・託麻郡(古来、肥後は隈庄・隈部・隈本→熊本・託麻・球磨など「クマ」の音で呼ばれる地名が多い)
狗奴国の狗古智卑狗は菊池彦(魏志倭人伝当時は久々知彦)
吉野ケ里遺跡は
華奴蘇奴国 肥前神埼郡(元はカンノサキ)
または
弥奴国 肥前三根郡
東に海を渡った倭種の国は本州・四国 >>727
おまえみたいな精神病患者にネット与えるなよw 魏志倭人伝に王がいたとされるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国の3カ国
それぞれ筑前、筑後、肥後の最強国
卑弥呼を女王に共立したのは端的には伊都国と邪馬台国
卑弥呼が伊都国王と邪馬台国王を兼ねることで、倭国=筑紫の王となった
筑後の邪馬台国は筑前の伊都国と手を組み、肥後の狗奴国と菊池川流域あたりで戦った(菊池川より北には肥後でも山門の地名=肥後国菊池郡山門郷がある)
東に海を渡った本州・四国には倭種の国があった
これが魏志倭人伝に描かれた倭人世界 NHKの番組では崇神は紀元前でやっとったな。
まあ、色々なのがおるわ。そんな中から確かであろうとするものを選択せねばならない。
箸墓は女性墓で崇神や垂仁よりデカイ墓であり、父よりもでかく形も違うということは確かであるな。 陳寿は倭国の北端狗邪韓国から南端の邪馬台国、そしてその南にある倭国に属しない倭人の国狗奴国まで、北から順に実に整然と記述している
ご丁寧に東に海を渡った倭種の国々として本州・四国まで言及してくれている
これで畿内説だの阿波説だのという珍説が出て来る理由がわからない 魏志は倭国と女王国を使い分け、しかも万二千里の距離を
倭国の境界には適用していない。万二千里は女王国(連合)との境界になる
九州説は割とナチュラルにここと邪馬台国を同一視する
畿内説は女王国連合のうち、邪馬台国は一番遠い場所だと
認識しているので躊躇なく距離を取れる
もちろん畿内をとる場合でも方角や日程の妥当性には疑問が残る
ただ万二千里が不利に働くことはない >>738
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州説という珍説が出て来る理由がわからない。 @阿波 >>739
>もちろん畿内をとる場合でも方角や日程の妥当性には疑問が残る
即ち、畿内説も消える。 わははははは @阿波 >>741
かといって、九州説も地名打線は組めるが決め手に欠ける
だから文献を一旦棚上げにして、考古の視点から考えることにした
鮎食川の遺跡と纏向遺跡のどちらに軍配が上がるでしょう >>739
>もちろん阿波をとる場合でも方角や日程の妥当性には疑問が残る
即ち、阿波説は最初から論外。 わははははは @阿波 日本人の古代の文献は古墳の場所に関する記述が適当に過ぎる。
稗田阿礼のような人間が代々語り継いだのだろうが、伝承人たちがどんなに正確に記憶していたとしても、途中の誰かが古代の地名と今の地名を混同したりすると、訂正する人がいないから間違ったまま伝わってしまって、墳墓が何処なのか全く分からなくなる。
墓誌を立てる習慣が無かったから完全に分からなくなる。本当に困ったもんだ。伝承が続いていたとしても地名の混同があったというのを前提で考えねばならぬ。
紀に用明の時代の事として磐余の池に掖上の桜の花びらが流れてきた話がある。これは安倍山の桜だと考えられている。葛城から流れてくるわけないからない。葛城の掖上にいたという孝昭や孝安は本当は安倍山の近所にいたのだろう。秋津島の宮などというのも御所市ではなく磐余の何処かだろう。安倍山の周りには被葬者不明の大王墓である桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳がある。これを孝昭や孝安のモデルになった大王の墓に比定して良いのではと思う。、 >>742
>鮎食川の遺跡と纏向遺跡のどちらに軍配が上がるでしょう
考古の視点から考えることにしたら、比べるまでも無い筈だが? @阿波 >>744
>途中の誰かが古代の地名と今の地名を混同したりすると
今の地名は、記紀の好字をパクった後付け地名。 @阿波 >>744
>途中の誰かが古代の地名と今の地名を混同したりすると
阿波の地名は、記紀の好字をパクった後付け地名。 @阿波 相変わらず支配とか?
邪馬台国は近畿
卑弥呼が共立で九州へ >>749
byに、根拠は不要。 わははははは @阿波 >>749
阿波に、根拠は不都合。 わははははは @阿波 古代の日本人の地名の付け方の基準は分からぬが、ロシアなどでは昔の旅人がオビ川とエニセイ川を間違えたからという理由で、なぜかオビ川流域の村がエニセイ村と命名されたり、古人の地名の付け方が相当いい加減だったりする。これでは旅人を余計に間違えさせるトラップになっている。とにかく地名の起源というのは日本に限らず適当なものなのである。 >>750
> byに、根拠は不要。
これ阿波の方言か? >>622
寝言か?
掘ってから言え。
一部のアホが持ち上げているだけで、箸墓なんていくつもある前方後円墳の一つに過ぎないぞ? >>622
寝言か?
掘ってから言え。
一部のアホが持ち上げているだけで、吉野ヶ里なんていくつもある弥生時代の遺跡の一つに過ぎないぞ? >>754
という理由は?
ただ罵っても反論にはならないぞ 岡山と木津川と山辺に自身のもっとも信頼の厚い盟友が葬られている
箸墓の被葬者は誰なのだろうな >>757
纏向遺跡に望みが無くなったので、あとは未掘の箸墓に頼るしかなくなった哀れ畿内説。 わははははは @阿波 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、帥升は天孫ニニギ
大国主がその2代前でスサノオはさらにその前なので、スサノオは紀元前後か >>754
年代別にみると、隔絶的に巨大な前方後円墳というのは各世代に一つづつしか無い
だから大王墓だという学者の定説に反対する人はいない
少なくともマトモな人間では >>761
纏向遺跡に望みが無くなったので、あとは未掘の箸墓に頼るしかなくなった哀れ畿内説。 わははははは @阿波 >>761
最初から望みが無く、あとは素人の妄想に頼るしかなくなった哀れ阿波説。 わははははは @阿波 >>761
アホか
だったらなんで各地にたくさんあるんだよ
数だって多すぎる
何が各世代一つだ
根拠なく言うなよ 箸の語源は諸説あるのだが、柱や梯子や嘴のハシとの共通性を指摘させることが多い。つまり長いもので端を持つものというイメージ感となる。
昔の倭人の箸は神事に用いるもので神饌を皿に盛るための竹製木製のトングのようなものだったらしい。どの地域でもそうだが祭祀具というのは徐々に神聖視されていくものだ。例えば祓串だったりしめ縄であったりもしくは仏具であったり、これらのものが粗末に扱われることはないだろう。今と違って箸には神聖なイメージがあったはずだ。
箸墓の主はやはり偉大な神聖王や偉大な宗教者だったのではなかろうか。
現代の日本では箸を宗教的道具として使うのは葬式の際に飯の突き刺すくらいしかないが、これは元々箸を何かの依代としていた風習の名残りなのかもしれない。 墓の上に宮を建てるのが好きなようだから、百襲の遺体は日吉大社の下かも。 土師の墓だという見方もある
岡山あるいは出雲の連中がたくさん流れ込み指揮を取って造成された
その印象が名前に残っているのかも
箸に関して素戔嗚の狼藉でワカヒルメが同じ死因で亡くなってる
国史と言いながら全く説明不足にも程があるよな 現段階で畿内説が主張可能なのは
「台与の時代から畿内だった」
まあ単純に
卑弥呼時代 北部九州
男王時代 出雲、吉備
台与時代 畿内
ぐらいの主張で精一杯だろうな
それを超えたらオカルト扱い 箸墓含め古墳の学術調査を宮内庁が認めないと古代史は結論がなかなか出ないな
宮内庁は事実がわかるとヤバいとでも思ってるのか? >>728
>>731
バカのアタマを良くすることは出来ないんで、
オレにはどうすることも出来ないんだよ。 夜は神が作り昼は人が作った。
昼夜兼行の突貫工事で作り、遺体が腐る前に埋葬した。と言いたいのだろう。
死因は不思議だし、口外できないような事が起こったのだろうと思う。 箸で陰部をついて亡くなったというのは怪しいな。
下腹を槍や刀で刺されて亡くなったのではないかとか、エグい話だと妊娠中絶の掻爬が原因で亡くなったのではないかという説まである。
自分としては伊奘冉がホトを焼かれて死んだとかワカヒルメがホトを負傷したとかと同じ話で、モモソヒメは女神として薨じたという話だと思いたい。妊娠中絶の掻爬というのは酷すぎる。 単なる物語というか昔話でモモソという人がいたかどうかも怪しいだろ
そいう話をテンプレに入れないとこはよい >>770
自分の先祖の墓が他人の可能性があるから掘らせろ
と言われたらどう思う? >>773
モモソは若いときに亡くなったイメージ
婆さん卑弥呼とは違う人だと思う >>771
> バカのアタマを良くすることは出来ないんで、
> オレにはどうすることも出来ないんだよ。
つまり根拠もなく、ただ言い張ってただけだと認めるんだね? >>769
九州説さん、なんの理由もなくそんなこと言い張って、誰が信じると思うんです? 日本書紀や古事記の古代史部分は
全部信じるかまったく信じないかのどちらか
ここは信じられるがここは嘘だろうとか言い出せば
学問にならない
このことがどうして理解できないのだろうな >>765
> アホか
> だったらなんで各地にたくさんあるんだよ
巨大前方後円墳は各地にたくさん無い
> 数だって多すぎる
多くない
> 何が各世代一つだ
> 根拠なく言うなよ
根拠は明確で、学術書に書かれていて、歴史を知ってる人たちには常識だよ 畿内説の根拠
箸墓古墳
モモソヒメの墓、径200歩、殉葬無し、古墳の年代不明
三角縁神獣鏡
4世紀の国産鏡 大倭が卑弥呼を通じて輸入した物を大量にコピーした可能性もある
推定存在数10000枚
纒向遺跡
明らかに古墳造営キャンプ場 >>785
キャンプしてたらそこで生活するだろうがよ
その痕跡は? 近畿で大昔から人が多く住み栄えた思えるのは琵琶湖周辺だろ >>788
奈良で発見された水田跡は琵琶湖のより遥かにデカい >>787
残飯が出てる
イノシシの骨、カエルの骨、鯖の骨、桃の種 >>791
確かに古いよ
でも水田に適した土地って事だ >>790
> 残飯が出てる
> イノシシの骨、カエルの骨、鯖の骨、桃の種
ニセ情報
それはおマツリの供え物
桃は実が付いていた >>792
水田が出来る前はどうだったのでしょうね モモソヒメは箸の事故で亡くなったと言う
しかし魏志倭人伝によると倭人は箸を使わず手掴みで食べる
そもそも日本で箸が使われ始めるのは飛鳥時代ないし奈良時代以降とされる
モモソヒメが亡くなる時の逸話はどう解釈すべきなのか
後世の作り話とするのは簡単だが、何の下敷きも意図もなく作り話はしないだろう 勘違いしないで欲しいのは3世紀の奈良盆地にも当然国はあったという事
4世紀には長髄彦のような優秀な王が統治して神武の東征軍を撃破して
神武の兄貴を死に至らしめた
だがこの国は邪馬台国ではないしヤマト王権でもない 弥生時代の水田は斜面につくるのが難しい
傾斜地を平にならすことができないからだ
必然的に水田は川の近くにでき
洪水の被害を受けやすい 弥生前期の大規模な水田跡は服部遺跡(滋賀県、約1万8700平方メートル)や
池島・福万寺遺跡(大阪府、約1万8000平方メートル)などで見つかっている
弥生後期(約2000年前)になるとさらに大規模化し、登呂遺跡(静岡県)では
約8万平方メートルの水田跡が発見されている 御所市の水田跡もその後の何度もの洪水で
泥をかぶって埋まっている 葛城氏族は盆地の平野部に進出する前は山間部に住んでいたと伝えているから
稲作が本格化する前から弥生人?は住んでいたと思う
イノシシでも食ってたか、あまり縄文人と変わらない生活をしていた可能性もある 琵琶湖周辺の水田もデカいし遺跡が集中しててかなりの人が生活してたのが想像できる
総面積はわからんが奈良で発見された水田遺跡はそれより遥かにデカい そもそも論だがなぜ邪馬台国が九州でそれが東遷してヤマト王権になった
というシナリオを受け入れないのか理解に苦しむね
記紀には神武東征が書いてる訳で考古学的にも何の矛盾点もない
もはや奈良の町興しとそれに乗っかって金儲けしてる学者のエゴでしかないな畿内説は 奈良が栄えるのは海面が下がり始めてからだろうと思う >>808
弥生時代に天下統一なんかしてないだろうし故郷を捨てる意味がわからん 弥生時代の戦闘は石投げ、そして弓矢の戦い
接近戦もあるが稀
奈良から見つかってる鏃(やじり)は茎(なかご)の
あるものばかりで九州タイプの茎のないものは見つかってない >>811
狗奴国との戦いで邪馬台国の軍事組織が肥大化
狗奴国の降伏か和睦かは知らんが狗奴国の軍事力と合わせればさらに強大
かと言って発言力の増した将軍連中差し置いて軍縮できるわけもない
だから東征させただけ
で遠征軍の将軍だった神武が長髄彦倒した後で大和で独立
邪馬台国本国は追認するしかなかった
こういう前例は劉秀や韓信で実際にあった話 >>800
このように、九州説はいっさい根拠を言わない >>808
> そもそも論だがなぜ邪馬台国が九州でそれが東遷してヤマト王権になった
> というシナリオを受け入れないのか理解に苦しむね
証拠がなにも無くて考古学と矛盾するから学者が否定してる 東遷をどう見るかだが
九州方面から奈良に人が移住してきたことは
当然あっただろ
ただし大規模な戦闘の痕跡はない >>821
この時代の戦で痕跡なんか残るとしたら
死体を穴掘って投げ込んで埋めたとかくらいだろ
そんなもんたまたま見つかってないだけ 馬鹿が他人を馬鹿と言ってるのはこっけいでしかないw 今でも
福岡「市」民 150万人
奈良「県」民 150万人 武器や焼け跡で想像できるだろう
ただの火事かもしれんけど 先週畿内説の奴ほとんどいなかったのに
週開けたら旧に沸いてきたな
やっぱ吉野ヶ里の石棺墓気にしてたんだな .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 纒向学研究の第一人者の寺澤薫は、纒向は九州からの東遷勢力が吉備勢力と協力して作ったとしているな
彼は三雲・井原遺跡を王都とする伊都国が3世紀前半に奈良に遷都して纒向を作ってヤマト王権になったと言っている
ギリギリ畿内説を維持するための苦し紛れの説明に聞こえるが、大事なのは彼は纒向を発掘研究した上で弥生時代の畿内勢力と纒向の間には政治的文化的に明確な断絶があるとしていること
弥生時代の大和の勢力が自然に、連続的にヤマト王権になったという古い畿内説の考え方はもはや考古学的にも成り立たない(記紀には神武は九州から来たと明記しているので文献的にはとっくの昔から成り立たない) >>833
3世紀前半ってw
倭国大乱で九州が大混乱してた時に東遷とかw 私は北部九州にあった邪馬台国とは別のクニが倭国大乱など何らかのきっかけで北部九州をエクソダスし、吉備勢力を巻き込んで弱い勢力しかいない(当時の奈良盆地は湖が干上がって農業ができるようになって間もないので強い勢力がいない)奈良盆地に拠点を構えたのが神武勢力であり、その後裔で奈良盆地の王になって纒向を作ったのが崇神朝だと見ている
当時の大和で銅鐸が突然破壊されて祭祀や墓制が一気に塗り替わったのはこうした経緯によるものだろう 畿内説の倫理観を疑う
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 纒向遺跡って4世紀初頭で終了してるけど、その後どうしたの?
ヤマトが途絶えたの? 九州から来たのかもしれないが都を移動さてはいないと思う 北部九州の邪馬台国を含む倭国と、大和の崇神朝(後の日本国)は並立していたであろう
どちらも当時は「列島にいくつかある有力な地方政権」を超えるものではなかった 纒向の担い手であった崇神朝は北部九州海人勢力に倒された
そして新たな畿内の支配者になったのが応神朝
これによって古墳の場所が変わりさらに巨大化した
大陸との交流も一気に活発になった(倭の五王) 桃の種って実は吉備で纏向の10倍くらい出てるからなw >>844
実際にところ桃の種は何に使ってたかって事だな
ネタで食ってたと書くけど食ってたわけじゃないだろうし 大陸から北部九州に渡ってきた渡来人は何故かどんどん畿内を目指した
神武勢力然り応神勢力然り
これはDNAを見てもわかる
渡来系の血が最も濃いのが近畿と四国
大陸に近い北部九州は意外にも縄文系の血がまあまあ残っている >>846
そもそも桃=鬼道ってのも何の証拠もないしね 大阪に引っ越した根拠は墓があるからであって人名とか要らないから >>838
> 畿内説の倫理観を疑う
>
> ◆畿内派による印象操作
> 「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
捏造
調査機関の発表は、建物の撤去に際して何らかの儀式が行われた跡だろうというもので、九州説が言ってることはデマ
> ◆畿内説の反論
> 「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
デマ
それは第一報の内容なので、反論ではあり得ない
> 以降沈黙
公式に発表したことを覆す必要はない
つまり九州説はデマ
既に敗退した九州説がニセ情報で畿内説を誹るなんて、卑劣ですね つまり畿内説は何の根拠も無い作文ビラを配ってるようなものか つまり九州説は何の根拠も無い作文ビラを作って自宅をゴミ屋敷にしてるようなものか >>505
> そもそも箸墓は簡単に日本書紀を信じるのに東征や筑紫日向降臨は無視するんだい?
壬申の乱の記事なら信じていいだろ?
ほぼリアルタイムだ モモソヒメは結婚してて卑弥呼は独身だから
箸墓説の奴らは完全に日本書紀も無視してる >>511
> 崇神前に九州の女王国がたくさん討伐されてますね
田舎なんだろう
未開社会に女酋長はよくある >>833
寺澤は伊都国が3世紀前半に奈良に遷都して纒向を作ったとは言っていない
後漢帝国との册封関係を楯としてきたイト倭国の権威が失速し、
イト倭国にかわる新たな外的国家=倭国の枠組みを誕生させる必要があった
「倭国乱」と書かれたこの閉塞的情況を打破すべくカードを握ったのが、
列島内では「キビ」の部族的国家連合の王だったのであろう
と言っている >>861
何にせよ何の根拠もない妄想まともに相手するだけ無駄 纏向学研究 第1号
日本列島における国家形成の枠組み ―纒向遺跡出現の国家史的意義― 寺澤薫 3世紀のほぼ同じ時期に、同じくらいのサイズで前方後円墳と前方後方墳が築かれ、どちらの古墳からも、三角縁神獣鏡が出土している。
日本でもっとも三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳は、奈良盆地ではなく、木津川流域に築かれている。
二番目に多い黒塚古墳は、ヤマトの地の大和川上流部に築かれている。
そして、黒塚古墳の近くの纒向遺跡(奈良県桜井市)が、初期ヤマト王権の拠点と考えられており、ここに、古墳出現期の前方後円墳が多く築かれ、
そのため、前方後円墳が、ヤマト王権を象徴するものだとみなされるようになった。
その説に基づいて、奈良盆地の三輪山の近くに築かれている大型の箸墓古墳が、邪馬台国=奈良説の人々を中心に、かつては卑弥呼の墓などとされていた。
しかし、考古学的な調査から、箸墓古墳は、卑弥呼の時代(3世紀前半から中旬)より新しく、3世紀後半、もしくは4世紀中旬だという説もある。 三角縁神獣鏡が出てるからむしろ4世紀なんだがw
わかんねーのかな馬鹿には 寺澤氏は閉鎖的な考古学ムラからハブられない範囲内で畿内説の修正を図ろうとしている
箸墓が卑弥呼の時代とか、奈良盆地の弥生勢力がそのままヤマト王権に発展したとかの強弁はさすがに苦しいからね 畿内説主張する限り矛盾しかない
この手の馬鹿は邪馬台国は倭人伝の中の国だという前提が分かってない
よく大学教授なんかやってられるよなそんな理解力でw https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-1
こっちでもやってんのかよ
平原遺跡の方がよっぽどおかしいのよ
もちろん箸墓古墳も断定できるものではないと思うけど 学者が思い浮かべるヤマト王権の前身である邪馬台国は九州にはないけど
魏志倭人伝の邪馬台国は多分九州 邪馬台国は倭人伝の中の国
ヤマト王権との関連性とか何の関係もない
畿内説は邪馬台国とヤマト王権の連続性を主張するが
倭人伝にはヤマト王権の話は一切載ってない >>873
邪馬台国官ミマワキ→ミマキイリヒコ
女王トヨ→トヨスキイリヒメ
完全一致 >>865
> しかし、考古学的な調査から、箸墓古墳は、卑弥呼の時代(3世紀前半から中旬)より新しく、3世紀後半、もしくは4世紀中旬だという説もある。
四世紀とかいう説もう、ないです >>873
女王国で市の監視を担当していた大倭がヤマトでしょう >>879
きょうは上っ面15センチの続きだから期待薄
赤い顔料が追加で出るくらいだろう >>880
倉庫の監視役なんて書いていないだろ
物々交換市場の監視役だ
必要な時に必要なものが行き渡るように物流を調整していたんだよ 女王が交易を監督させていたのが大倭
つまり倭国の経済を監督していた弟が大倭の中心的人物 後漢書では、女王が遣使する前で
皆王を自称するのが伝統だった倭国の女王だと認められていないので
大倭王居邪馬臺國と書かれている
つまり、卑弥呼は大倭王の宗族 >>874
てっか魏志倭人伝を元に
創作したと思うけど? 吉野ヶ里の石棺はすでに盗掘されてるな
何も出ないぞ
底の方に刀子ぐらい残ってるかもしれないが >>885
つまり北部九州で完結
ヤマトは関係ない >>886
日本書紀編者は神功皇后の時代が邪馬台国の時代だと思ってるんだぞ
日本書紀の年代観だと前漢代に相当する崇神紀を魏志倭人伝に寄せたと思ってる時点で滅茶苦茶、もう暗に畿内説を認めたようなもんだな >>886
はい九州論者認めちゃったね
日本書紀側が寄せたとしか思えないほど魏志倭人伝と一致してたわけだ
もう九州説終わったな 吉野ヶ里は華奴蘇奴国(カンノサキ=神埼)か弥奴国(ミネ=三根)だから 日本書紀だと神功皇后の頃が200年代
ただしこれが実際に間違えたのか
わざと何か隠してるかは何とも言えんけどな 卑弥呼さまは高天原の主宰神になったアマテラス、そして実在の人物は初代斎王 日本書紀の古代部分が干支2周り(120年)
ずれてるのは周知の事実
これが何故かということだな 「と、ととと盗掘だ!盗掘されたんだァァッアー!!(粘土で密封された石棺を見ながら)」
九州説、狂う まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>900
密封した跡はあったが開け閉めさたかどうかは判別できない 監視を厳しくしろ
九州説の奴らが夜な夜な潜入してゴッドハンドしに来るぞ 参照)魏志倭人伝、広志、魏略
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 次有斯馬国~」
女王国北部は詳細確認出来たがあとは遠くてわからない
~その他を国名だけ列挙
という事は、
・女王国の南は狗奴国なのでその他の国々は東西にある
・詳細確認出来た投馬国、邪馬台国は女王国の北部に位置する
比定するとすれば
女王国は長崎、佐賀、福岡、大分の連合国
邪馬台国は筑紫平野の首都(八女)
投馬国は半島南部~対馬(一大率監視下) まあ自然の丘に葬ってるあたり
>大作冢 に反してるからな なんとしても蘇ってほしくない被葬者という見立ては一貫してるんだな
これが天の岩戸なんじゃないか? >>913
証拠隠滅?祟れないように
さらに思い石を置いて粘土で密閉。 おそらくこの人を最後に
侵攻してきたヤマト民族に隷属していくんだろうな 日本で最も底辺な県はどこだ?
青森ーりんご 秋田ーかまくら・ナマハゲ 鳥取ー砂丘 熊本ーくまもん・おてもやん
佐賀ー何もなし >>913
縄文人の習性の一つだよ
縄文人の場合は太陽に背を向けて埋葬(屈葬)してたって ヤマト王権の代々の墓は無いの?
紀元前から続いてるんでしょ?
石棺時代もあったんじゃ無い? 吉野ケ里現地説明
・20~25㎝掘り下げたが何も出てきていない
・深さは後2~3㎝を残すのみ
・石棺全体が赤色顔料で塗られてた形跡があった
完全終了寸前w >>923
蓋が一枚裏返しだった時点でお察し
被葬者はイザナミ
盗掘者はイザナキだ 骨もねぇ鏡もねぇ勾玉も鉄剣も何にもねぇ
おらこんな遺跡嫌だぁおらこんな遺跡嫌だぁ大和へでるだぁ
大和へ出たなら三角縁神獣鏡掘って畿内説で飯食うだぁ >卑彌以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
この「以死」をいろいろと解釈する人もいるが、私は単純に卑弥呼の死に際しての様子を書いているだけだと思う
魏志倭人伝のヒロインがついに亡くなったというような感慨も表現されているのかもしれないが・・・ 最終的には子供の墓で副葬品ゼロで骨も溶けて何もなしの空っぽだった
で終りそうだね 記者連中が「これじゃ記事にならねーよ」って感じでちょっとイラついてるな これだけ騒いで空の石棺でしたはさすがにマズいでしょ
九州説のネガキャンになってる >>929
それでいいんじゃないのか?
その監視役だろ 吉野ヶ里としては相当知名度が上がったので作戦は成功だろう >>935
開けてみたら空でしたw
九州説を体現してるな 日本は骨が残りにくい地質なんだそうで、しっかりとした石棺でないと残らんだろう。 マジでなんで石棺如きでこんな騒ぎになったのか分からんなw 謎のエリアとか径100歩とかあおりすぎた
自然の丘なのに 近畿には大きな岩をくり貫いて石棺にした墓があるそうな、大変な作業だが、遺体を残す事と、外部との遮断がその理由だろう。 >>888
倭の五王時代の後漢書では南が東に正しく修正されているので
女王が共立された倭国の一番南が倭奴国=倭人伝の奴国(筑前)
その西側の異人地域が、別の王がいる伊都国とまだ官がいない末盧国
北東に拡がる【卜骨】が出る本州の畿内が邪馬臺國
女王国の東に度海した倭種の拘奴國が【卜骨】が出る伊勢湾の東側から関東 吉野ヶ里について畿内説論者はビビッてたんだなw
九州説の私は始めから華奴蘇奴国か弥奴国だと思ってるから邪馬台国としての決定的な証拠はハナから期待してない
ただ、魏志倭人伝の記述に合うのが圧倒的に北部九州の遺跡だという事実が重い 九州説は終わった...
悔しいけど...認めるしかない... >>942
佐賀の知事がわざわざ自ら記者会見して
吉野ヶ里の謎のエリアから石棺墓が出てきたと煽ったから >>946
> 倭の五王時代の後漢書では南が東に正しく修正されているので
証拠は? 九州爺(くすじじ)とは
頑迷固陋な低学歴者の群れ
高校時代は剣道部等に所属、九州男児を自称する
多くは年金生活者
趣味は庭いじり、孫いじり、放屁など
考古学を理解せず伝承の採集などを好む 仮に石棺に鉄器が残ってたら、九州は鉄器が残りやすいのだー!って言い出すんだろうなw てか、もし邪馬台国なら
高い確率で中国製品や楽浪郡の製品があるはず 特別な祭祀で特別な土を埋葬した可能性もあるのでは? あの棺のせまさを考えれば
まだしも改葬を考えたほうがよい 吉野ヶ里の石棺は、幅36cm深さ30-35cmで人を埋葬できるのか? >>960
大陸から伝わった貴重な土かも。石蓋の印は人では無いの意味。? >>961
子ども用だろ
城野遺跡石棺墓と同じ。吉野ヶ里は格下だけど 何も出ないのか?それは残念だなぁ。卑弥呼とは直接関係無い所ではあるが何か面白い物が出てこないと専門家も辛いわな。まぁ、頑張ってくれ。 >>961
少し前に行橋で発見された石棺31基も小さかった
理由はよくわからない
洗骨葬かもしれんよ >>966
片足だけとか
昔は九州にも熊がいたんだろ? しかし、前例があり、最初から幅は解っているんだから、大人かどうかは解っていたな。 石棺31基はすごいな
奈良には無いの?
ヤマトの先祖の墓は 初めからまやかしなんだな、卑弥呼の墓だとか、大騒ぎしたメディアのいい加減さが情けないね。 九州説「九州からは魏の紀年銘鏡が一枚しか出土してないけど、邪馬台国は九州!」
https://i.imgur.com/pa1FjnN.jpg
もうわけがわからないよ... お前らトンデモどもよ。
本場「阿波」の石棺とは、こういうものだ。 バカ騒ぎなど身の程知らずだ!
「鶴島山2号墳」
古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、
赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、
徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています。 @阿波
https://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/51.htm そもそも、九州説は終わっているのだよ。
九州の何処を掘ろうが卑弥呼は出てこない。 九州説最期の拠り所は畿内から再分配された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だから... コレが卑弥呼の墓でないことは、
刺し違い巫女の2体の埋葬がない事で、
既に分かり切っていた。
こういうところが考古学の素養な訳よ。 記念鏡は臺與などが進出した各地に出土しており、
邪馬台国は彦坐王の国の裏付けになる。 「恵解山古墳(いげのやまこふん)群」
棺内のうち,頭部 から胸部にかけては朱が散布され,蓋石には,ベンガラが塗布されていた。
北棺内からは,棺内の頭蓋骨付近から臼玉 11 点が,中央部から管玉 1点が出土した。
棺外からは,石棺の南側 から,棺の長軸に沿うように鉄刀が出土している。 @阿波
https://museum.bunmori.tokushima.jp/kiyo/2018/02%E5%B2%A9%E4%BA%95%E3%83%BB%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%88%A5%E5%86%8A.pdf 「朱塗りの完全人骨出土「韓崇山古墳」(徳島県板野町)」
円墳、前方後円墳の可能性も、現在は消滅。
【年代】5世紀~6世紀
【特徴】箱式石棺に朱塗りの完全人骨が納められていた。
直弧紋装飾の刀剣装具が副葬品として出土している。 @阿波
https://plaza.rakuten.co.jp/utiwauke/diary/201610100000/ 「女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)」
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。 @阿波
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/52348696 阿波の朱って意味無いのよ。
大陸の丹砂じゃないとなー 畿内説っていうか、
なんで近畿は丹後に
辺りを付けなかったかなあ。
分かると思うんだよね普通は。
【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】
─
①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg
※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
>>994
黄幢が発見されたので邪馬台国論争は既に決着付いた 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1686648388/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>994
客観的に見て、
ソレは張政が授けた黄幢ではない。
何故なら、最終的に黄幢は
大幡主に授けられたからだ。
従って大幡主の痕跡がない黒塚古墳のソレは、
張政が授けた黄幢ではないと断言できる。
畿内説勝利 このスレッドは1000を超えました。
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