X



邪馬台国畿内説 Part913
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:20:59.96
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1687471879/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:21:59.13
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:22:30.84
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:23:01.14
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:23:30.98
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:24:00.89
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:24:30.73
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:25:01.26
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:25:34.86
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:26:05.23
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:28:27.19
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:29:01.83
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:29:31.30
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:30:04.75
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:30:35.36
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:31:06.14
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:31:37.44
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:32:09.08
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:32:40.43
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:33:11.01
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:33:42.97
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:34:13.28
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:34:44.83
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:35:15.50
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:35:46.98
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:36:17.54
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:37:31.07
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:38:01.56
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:38:31.59
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:39:02.46
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:39:33.54
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:40:01.65
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:40:31.95
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:41:02.32
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:41:31.59
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:42:04.77
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:43:02.21
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:43:34.26
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:44:06.10
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:44:37.57
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:45:08.49
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:45:39.43
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:46:10.27
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:46:41.38
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:47:13.40
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:47:42.43
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:48:14.44
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:48:45.60
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:49:17.15
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:49:46.57
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:50:18.25
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:50:48.77
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:51:19.43
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:53:30.77
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:54:01.37
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:54:31.12
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0057◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:55:02.73
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:55:44.58
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:56:17.45
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:56:49.30
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:57:21.65
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:57:54.45
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:58:21.02
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:58:52.89
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:59:23.47
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0066◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 16:59:56.00
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:00:27.65
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:00:59.35
> ◆FAQ 88
>Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
>
>A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
> 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
>
> また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
>
> 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
> 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
> https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
>また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
>
> このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
>
>
>◆FAQ 89
>Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
>   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
>
>A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
>3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
>本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
>
> 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
>・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
>対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
>・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
>・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
>・東辺が三遠式銅鐸圏
>に分裂している。
> この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
>
> 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
>https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
>
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:01:41.65
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:02:03.32
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:02:35.10
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:04:02.18
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:04:35.07
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:05:06.54
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/25(日) 17:06:04.04
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0078日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 17:23:55.75
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長

私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 17:24:23.85
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 17:49:55.05
>>79
正直者
本当に立派な人
0083日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 17:58:07.83
>>79
庄内式新相(布留0式)が纏向遺跡の最盛期だから、根本的に間違ってるよ
0085日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:03:07.01
後漢鏡も出ない位至三公鏡も出ない畿内は、中国との交流は極めて薄かったと言わざるを得ない
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:05:47.93
>>85
中国どころか北部九州との関わりも薄いわ
本当に伊都国を一大率にした邪馬台国だったのか謎すぎる
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:06:01.29
一人一人と畿内派が正直になれば雪崩を打って九州説に鞍替えするよ
今でも考古学者こそ、「畿内はあり得ない」と思ってても口に出せない人が多いに違いない
0089日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:07:15.59
>>078
>では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
>となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。

考古学の資料からは限定できないと言いつつ
北部九州のどこかではないかと言ってしまう自己矛盾
0090日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:08:05.07
>>87
印象論だと決めつけるのは好きにすりゃいいけど
あんなしょぼい遺跡でなぜ畿内に邪馬台国があったと推定できたのか教えてほしいわ
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:09:24.13
>>89
北部九州のどこかだと何か困るの?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:09:59.49
>>89
国語力低いなお前
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:10:39.59
倭国大乱でボロボロになった地域で共立されたのが卑弥呼なんだからその年代に衰退した地域を探せ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:13:36.70
>>94
探す必要ない
「邪馬台国に関わる歴史書なければ邪馬台国なし」
廣志に、伊都国又南邪馬嘉国と書かれてるんだから、伊都国の南こそまさに邪馬台国である。

であるから、九州以外にあり得ない
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:17:08.03
大乱が起きても「この人なら」と納得できるシャーマンがいたところ
卑弥呼の墓は宇佐にある
0097日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:23:54.35
>>95
>廣志に、伊都国又南邪馬嘉国と書かれてるんだから、

そう書かれていたという証拠なし
0098琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 18:26:36.42
>>78.だから中国人巫女が来たんだよ。
北九州には鬼道は無い。柱になにかぶら下げるか、竈。つまり半島南に影響を受けた鬼神信仰が九州。
初期道教。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:32:29.21
九州の土蜘蛛に女酋長が無茶苦茶多いのって卑弥呼→台与→の後継者狙いで連合各国が自国で巫女を育成したからだったりして
0101琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 18:33:56.27
書いてあるよ、鬼道だと。
中華を出た鬼道の女を儒教の中華は認め難い。
晋でも反乱が起きているからな。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:34:20.59
>>100
ありそうw
0103日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:35:08.24
土蜘蛛はトンネル型の墓を作る越関係の部族の事です。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:38:27.38
>>97
伊都国又南邪馬嘉国と書かれてるのが証拠
0105日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:41:11.62
外国から来る物や文化は全て九州を通ってくる
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:50:43.85
巻向からは1個も九州土器が出てきません
半島を行き来していた九州人と違い、畿内人の航海技術は低かったようです
0108日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:51:32.75
倭というのはそもそも越人の風習を持つ人達のいる地域総称でした。
ソレがいつしか九州を表す名称になったのですね。
熊襲の辺りにはトンネル型の墓がいくつかあります。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:51:59.32
>>100
日吉神社の甕棺から1-2世紀の巫女の遺骨が出ている
卑弥呼の前から巫女は居たんだよ
卑弥呼自身もその中で育ったわけよ
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 18:58:57.49
あれ
まだ【畿内説の域】に到達してない人がチラホラいるみたいだね
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:01:37.22
超時空古墳 近畿には勝てませんわ
見たいのは近畿の古墳でも副葬品でもないけど
0112日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:03:33.66
>>110
もう争点はのちのヤマト王権が北部九州邪馬台国の系譜につながるか否かってとこに移ってまーす!
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:06:33.20
>>112
ポイントは「東の倭種の国」だな
これは中国側の勝手な解釈なのか、倭人がそう説明したのかで意味が変わってくる
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:13:18.44
畿内説でなぜ方角をいじるのか合理的な説明を聞いたことがない
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:14:44.82
かなりの形質を保ちながら長江系と黄河系に影響を受けて、縄文から弥生、弥生から古墳に変遷していることと四国と近畿の渡来系の多さぐらい認めればいいのに
今の大陸や半島の状況とは全く違うんだから冷静に反論して
日本列島でそうなったのか大陸でそうなったのかも分からないのに
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:23:58.81
弥生時代と長江文明の類似性と古墳時代と黄河文明の類似性を日中の政治やイデオロギー抜きで見たいわ
征服者と非征服者みたいなのは抜きで
日本は半島などと違って独自性も形質も保っているんだから堂々と
そもそも古代チベットのものとか自分のものにしているだけのチャイナに言う資格なんかないんだから
0118日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:29:29.65
>>113
伊都国の外交官が「あっちの東にもわしらの民族暮らしてるたい。田舎もんですたい」と説明したんだと思いまーす!
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:31:03.30
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:37:38.39
>>78
正直者
0122日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 19:45:45.14
>>121
考古資料から割り出せないから文献史学使って北部九州なのでなんら矛盾はないと思いまーす!
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:04:33.92
後漢鏡も全く出ない、位至三公鏡が4枚(大阪4、奈良ゼロ)
西晋時代まで畿内と中国との交流はなかったと言って良いだろう
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:10:56.12
九州倭国、本州日之本

もう答え出ましたよ

>俀王以天為兄以日為弟

倭王は
九州倭国の天を兄に
本州日之本の日を弟に
している

天の兄は国体(祭祀)を
日の弟は政体(政治)を
すなわち、夜は神が作り、昼は人が作る所以

これで道理も義理もはなはだ有りw
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:13:27.93
>>124
魏鏡が出てますが?
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:15:04.84
>>126
出てませんが?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:16:12.93
文献史学なら九州以外だろう。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:26:29.18
>>113
一大から末盧の1000里が
結構ミスリードになってる

末盧が呼子じゃ近すぎて、ハア? みたいなw

穴戸を伊都だと思ったツヌガアラシトみたいになる

https://imgur.com/a/RZrGgoy
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:30:06.99
九州が魏鏡28枚、中国地方2枚、近畿地方4枚、中部地方1枚、四国ゼロ、関東ゼロ、東北ゼロ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 20:40:36.17
いくら掘っても掘っても奈良県から出てこない後漢鏡、魏鏡、西晋鏡
1枚も出てこない
ゼロ
しかも、九州土器すら1個も出てこない
0134日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 21:38:34.23
>>130
>九州が魏鏡28枚、

どこで出た?
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 21:57:04.92
>>135
なんという遺跡で?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:03:00.43
>>85
それじゃ銅鐸作れねえじゃん
0138日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:04:01.95
やはりこれだな

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志曰く、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国
-----(以降は魏志と同様に国名の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区付近にあり、一大率が対馬海峡の南北両岸を監視していた

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海を取り巻く広範囲に存在した国々の総称

<参考>
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西(2023/3/30)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:18:23.49
大阪とか兵庫とか中国地方からは、ワンチャン後漢鏡とも言えなくない鏡が1枚とか2枚とか出てる。
だが、奈良はゼロ枚。
魏鏡も大阪、京都で合わせて4枚。
だが、奈良はゼロ枚。
西晋鏡である位至三公鏡も奈良はゼロ枚。

それなのに、三角縁神獣鏡は奈良だけで100まい出てる。
中国からは1枚も出ない三角縁神獣鏡が奈良だけで100枚。
不自然極まりない。
前漢〜後漢〜魏〜西晋まで1枚も中国の鏡が出てない奈良県が、三角縁神獣鏡だけで100枚。

どう考えても4世紀〜5世紀にヤマト王権が作った🪞が三角縁神獣鏡
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:21:47.97
>>137
北部九州で作られた銅鐸が本州に渡ったというのが通説
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:27:21.13
いかなるときも、なにも証拠を出さないのが九州説
0142琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 22:28:22.36
位至三公鏡、九州はもうマトモな奴が居らんな。
突然現れた連中が畿内を中心に倭を纏めて行ったのだよ、
78.も結局そういうこと。
九州がやって来たでは文化が違う。
新たな思想、理念を持った者達。
中国人だよ。老子道徳経、それが卑弥呼と呼ばれた巫女。魏と縁のある巫女。
1.は崩せん、その延長上にあるのが比定者、琪瑛。彼女以外に卑弥呼に成れる者は存在しない。
0143琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 22:33:24.15
そして、全ての事象に自然に整合する、何よりも400年後の書物の理由も完全解決するのだよ。
無駄だな、いくら理屈を作り誤魔化そうとしても。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:37:35.35
魏晋時代の「蝙蝠鈕座内向花文鏡」の出土
◯日本全国で26面
◯中国でも26面
◯朝鮮半島で6面

・九州→11面
・近畿地方→6面(ただし奈良はゼロ)
・九州、近畿以外→9面

巻向とは一体何なのか?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:46:55.47
>>146
自分の事をまともだと思ってる?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:53:31.39
辟邪かもしれんし辟聖かもしれん
辟邪は外からくる邪悪な魔物を避ける
辟聖は墓の被葬者を畏れてよみがえりをさける
ふつう、辟邪の場合は副葬した鏡の鏡面を棺の外に向ける
辟聖の場合は逆に内側に向ける
ただし吉野ケ里で道教を知ってたようには見えんな
ただのおまじないじゃないのか
0149琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 22:54:55.93
その地を中心に波紋のように拡がっていかなければならないのだよ。
鉄が拡がっていっても、それはダダの産地。
例えば後々の宇佐を中心とした八幡のように(半島
竈、阿と呼ばれた連中の信仰だけどな)。
卑弥呼の時代には鏡や古墳。纏向から初期道教が拡がって行ったんだよ。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 22:58:54.38
位至三公鏡は10cmちょっとの粗末な小さい鏡で市場取引する日用品
文様をみれば一目だし
だいたい冊封した他国の王に、朝廷において
位が三公に至る、つまりこれを持ってれば出世しますよ
なんて吉祥句がついた鏡を配るとは思えん
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:01:31.30
>>149
道教のシンボルは桃
桃の種と言えば圧倒的に吉備
纒向に古墳が多いのは古墳置き場つまり墓場だったから
しかも前方後[円]墳より古い時代に東日本で前方後[方]墳が造られ、福岡にも2基造られている
奈良を起点として始まったものは皆無だ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:02:21.85
>>150
中国から見れば倭国は蛮族だからそれで丁度いいと思われたかもな
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:05:09.67
桃と西王母は後代の西遊記でわかるとおり
つながってはいるな
孫悟空は西王母の宴に出て蟠桃をむさぼり食った
0154琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/25(日) 23:05:45.58
だから、吉備は当時の産地だよ。卑弥呼は桃で民を惑わした訳ではない。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:06:50.17
それからイザナギが黄泉の国から追いかけてくる
ヨモツシコメに投げて追い払ったのも桃
0159日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:13:11.26
>>134
ほぼ確実なのは、福岡の前田山遺跡
同じく福岡の三雲寺口遺跡
0160日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:14:13.27
ただなあ纏向が道教とつなあがってるというのはどうも怪しい
桃のほかにカエルの骨とか出てるよな
銅鐸絵画につうじる素朴なまじないかもしれん
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:20:14.78
>>145
バカにでも分かりやすく書いててあげて優しいな
でもせっかく書いてあげても、畿内説は結論ありきだから理解できないんだよ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:20:17.26
>>150
そもそも鏡は中国では日用品
位至三公鏡は世界でも100枚に満たない
60枚ほど
ところが、三角縁神獣鏡は日本だけで500枚以上
日本以外ではゼロ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:25:50.66
てか九州は半島から鉄を入手してたんだから
そのときに鏡を交易してても不自然ではないわな
鏡は踏み返しで誰でも作れるし
0165日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:26:10.33
曹操墓から三角縁神獣鏡が出てくるのではないかと畿内派は期待した
ところが、曹操墓からは銅鏡すら出てこなかった
ただし、大分のダンワラと同じ鉄鏡は出てきた
0167日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:30:44.72
>>166
曹操墓から三角縁神獣鏡が出てくるとかつての畿内派は考えてたんだぜ?
恥ずかしいだろ?
曹操墓からは銅鏡すら出てこなかった
0168日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:33:14.10
われわれ玄人は日田の鉄鏡は出自を怪しんでる
スゴイ鏡ではあるのだが
見つかったのは骨董屋の店先
ダンワラから出たというのは一人の人物の証言に過ぎなくて
実際は中国から買った可能性もある
だからスゴイ鏡なのに重要文化財どまりで国宝にならん
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:34:48.16
>>167
誰が三角鏡の話とかした?
卑弥呼の鏡は画文帯、三角鏡は楽浪郡とか帯方郡で作ったんだろ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:37:59.07
>>170
何をもって玄人と言うかわからんが
大学の先生ではないが教育委員会の学芸員だよ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:39:15.75
>>168
来歴の怪しい金印は国宝でーす!
鉄鏡も同じ北部九州で出たとされてるんだから間違いないでーす!
桃の種はしっかり発掘記録残ってても指定されてないでーす!
無価値だからでーす!
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:40:44.80
曹操墓とされる西高穴2号墓は2009年発見
ダンワラ鉄鏡は1933年に発見
そう、日本で発見された曹操鉄鏡の方が76年も早いのである
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:41:14.20
雇われてる立場の「先生」はあてにならんと、ねらーなら知ってると思ってたけど
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:43:20.02
金印は見つかったのが江戸時代で論争はあるが
他でも似たようなのが見つかってるから国宝になった
あとまあ金には価値があるからな
鉄橋さびさびだしそれ自体の価値はほとんどないだろ
0176日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:45:05.10
歴史的価値と美術的価値は違う
そういう意味では桃の種は歴史的な価値はあるが
美術的には生ゴミだな
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:52:51.99
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0178日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:52:54.57
參問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里

倭地を参問した使者が、海中の島の上でぐるっとまわって5千里と申しております
0179日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:53:17.75
>>175
論争ないよ
蛇鈕印は漢委奴国王と滇王之印しかない
漢委奴国王金印は18世紀末に発見されたが、滇王之印は1956年に中国で発見された。
世界に2つしかない蛇鈕印を18世紀の日本人が作れるわけがない。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:57:43.40
>>176
金印も鉄鏡も主に歴史的価値から指定されてまーす!
ゴミ箱から見つかった桃の種は貝塚の貝と同じでーす!
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:59:14.73
>>169
画文帯は、4世紀〜5世紀
0184日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/25(日) 23:59:18.79
>>180
言ったことが理解されてないようだな
鉄鏡は出自がよくわからないうえに
錆びてボロボロだからお宝にはならない
なんでも鑑定団を見てないのか

歴史的な価値は怪しいところがあるし
美術的には残念ながらボロボロ
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:00:40.07
畿内説の人は「出どころが~」といいますが意味ありませーん!
畿内で出てきたものを無理やり邪馬台国に結び付けているのが畿内説でーす!
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:07:31.53
>>184
鉄鏡は全国で1枚しかないのに、三角縁神獣鏡は500枚以上という方が論理的におかしい
かつ、前漢〜後漢〜魏〜西晋までの出土品は九州が圧倒しており、畿内は1枚とか2枚

鏡もろくに持たなかった畿内説を取るのは難しい
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:09:01.30
わからんやつだな
鏡自体はすごいものだが
出自が不確かと言ってる
万が一、じつは中国から買いましたなんてやつが出てきたら
国宝の権威が傷つく
0189日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:11:08.87
あと三角鏡はデザイン面がつながってるので
前半は外国製で後半は国産なんてことはないと思う
全部外国製か全部国産のどっちかだろう
0190日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:12:11.26
わからんやつだな
曹操の墓から1枚しか見つかっていない同型の鏡がそう何枚もあるわけないだろ
しかも日田のほうが先なんだから。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:18:14.48
金印も鉄鏡も後世の他所の発掘の結果からお宝と認められたパターンだな
0192日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:22:10.61
>>191
それがその2とも九州
0193日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:22:54.33
>>191
だから鉄鏡は現状がボロボロだろ
金印はまがりなりにも金だし、刻印もきれいだ
たしかに正倉院の収蔵物の中にはボロボロのものもあるが
さすがに今さらケチをつけるやつは出てこないだろうし

歴史的価値と美術的な価値のどちらかが必要
鉄鏡もずっと後代に国宝と認められるかもしれんが
今は無理だろうな
0194日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:24:36.32
日田の鉄鏡と同じものは畿内からは出ていない。これ重要
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:27:52.33
阿呆学部のメンヘラチェリーボーイは日下が貰ったとか適当な事を言っていたが、奴の言う事はフェイクだらけ。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:28:15.04
奈良の現状
,後漢鏡が1枚も出てこない
・魏鏡が1枚も出てこない
・西晋鏡も1枚も出てこない
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:38:42.00
5秒差で同じスレが立っているけど、
スレ立て人が複数人いると言う事だね

https://i.imgur.com/88zclQK.jpg
0199日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:40:35.68
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0200日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 00:49:11.13
>>199
投馬国が吉備の場合、陸行一月はどう想定するの?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 01:37:56.29
>>194
墓の殆どは盗掘されてるのよ
つまりお宝の殆どは市場に出回ってるって事
0202日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 01:52:09.10
その甚だしいのが中国だな
そして中国の盗掘品はここで思われてるよりずっと多く
日本でも出回っている
0203日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 01:53:57.30
鏡なんかも考古学の本で取り上げられたことがないようなものが
日本のコレクターの収蔵品としてある
0204日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 01:55:49.30
畿内説が願望で出来ているという証拠だな
0207日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 02:19:25.92
景行は日田で久津姫と言う神に会っているが、卑弥呼か台与が降臨した神の事かもしれないと思う
0208日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 04:06:21.80
>>192
なので邪馬台国ではないんだけど?
邪馬台国は近畿だな。
卑弥呼が共立で九州である。
>>178
当然、邪馬台国には行っていない。
奴国、不彌国まで万2千餘里。
7千里から引くと5千里餘里

周旋可五千餘里と一致する。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 05:42:22.80
考古学者は古墳内から発掘されたものしか
研究の対象にできないからな 
後で新事実が出てくるかもしれないから怖くて何も言えない
これは中国で見つかった三角縁神獣鏡も同じ
0210ネトウヨ 撲滅 隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 06:10:56.94
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:12:34.22
>>212
なにごとも理由もなく判明しちゃうのが九州説の特徴
0216日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:22:17.39
①箸墓が最古の前方後円墳であり卑弥呼の時代、すなわち卑弥呼の墓

②各地の前方後円墳は箸墓のコピーであり纒向勢力への服属の証、すなわち卑弥呼の邪馬台国が初期ヤマト王権であり箸墓のコピーの那珂八幡古墳は北部九州のヤマト王権への服属の証

畿内説のこの妄想的なナラティブは既に考古学的に崩れている

https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/486635/

「ヤマトに服属」定説に一石か 福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状
2019/2/14 6:00

 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。

 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。

 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。一帯は魏志倭人伝に出てくる奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。

 似た形状を持つ古墳は、北部九州の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがあるとされるが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しい。香川県に分布する開始期前後の前方後円墳も近畿とは形が違い、「讃岐(さぬき)型」と呼ばれることがある。こうしたことから、九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。
0217琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/26(月) 07:22:33.91
九州の説明では、もう無理なんだな。
あんたらの好きな書物でさえ266年に朝貢を女性がしていたことを記し認めている。
まあ、足掻きだな。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:30:47.67
卑弥呼の時代の日本列島には、互いに交易などは行いつつも政治的に独立した地方勢力が各地に点在していた
例えば、筑紫、出雲、吉備、大和、高志、毛野など

その中の太陸に最も近く交流も密であった筑紫勢力が魏晋側の政治的事情もあってたまたま実力以上の大国として遇され史書にも残ってしまった
それが魏志倭人伝の邪馬台国だ

歴史の真実は得てしてとてもシンプルだ
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:35:08.44
>>218
>例えば、筑紫、出雲、吉備、大和、高志、毛野など
>歴史の真実は得てしてとてもシンプルだ

「倭人(阿波勢力)」が全国へ進出しただけのこと。   @阿波
0220日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:35:23.70
>>217
266年の畿内に女性天皇はいない
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:36:14.80
九州説ではもう無理なのはそのとおりだな
西日本全体が2世紀からすでに大きく動いてる

出雲と吉備の間でも、それぞれの土器が出て交流があったことがわかる
また、北部九州で行われてた交易にも山陰などの勢力が参加してたことがわかってる
庄内甕の西下していったルートもほぼ判明し
そして3世紀になり、九州は全体的に衰退してきたことがわかるようになり
本州式の豪族居館などが大分に、四国の勢力が宮崎に進出していく
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:37:28.55
>>221
>西日本全体が2世紀からすでに大きく動いてる

「倭人(阿波勢力)」が全国へ進出しただけのこと。   @阿波
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:40:06.13
纒向が魏志倭人伝に描かれた倭国の様子、邪馬台国の様子と似ても似つかない完全に別物であることが発掘で明らかになった以上、既に纒向=邪馬台国の畿内説は崩壊している
畿内説信者はいつまで考古学的根拠なき妄想を垂れ流すのか
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:43:18.42
>>216
>畿内説のこの妄想的なナラティブは既に考古学的に崩れている

妄想

>これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。

纒向型から定型化に向かう途上だな
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:45:15.21
>>223
具体的なことが何もいえない九州説は虚妄説ということ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:49:59.08
>>223
>畿内説信者はいつまで考古学的根拠なき妄想を垂れ流すのか

考古学者が主張している説なんですけど
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:50:54.51
畿内説の反論が中身スカスカだ
宗教的盲信のみで成り立っている畿内説の限界だ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:53:58.30
「おらが町の邪馬台国」
徳島県民のローカル説が阿波説、関西人のローカル説が畿内説だ
関西考古学界は畿内説で口裏を合わせるが、王様は裸、邪馬台国は九州だと本当のことを言う良心的な人も中にはいる
0229日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 07:57:06.62
>>228
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:04:44.46
九州説ののスカスカ連投ワラタ
具体的な内容ゼロじゃねーか
九州説そのものだw
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:08:59.68
畿内説のロジックを示した上でそれが考古学的に成り立たないことを示したが、畿内説はその中身には反論ができないようだ
表層的な中傷はいくらでもやって良い
痛くも痒くもない
0233ネトウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 08:10:42.58
九州説論者の持ち出す理屈はテンプレで論破されているのにな。
中国人や韓国人の友人や関係者に比べてジャップは執念深い性質があると感じるな。
京都人が持ってるあの嫌味っぽさを薄くしたようなもの、というべきものを大抵のジャップが持ち合わせている。

やはり革命的な文化改革が必要だよな。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:15:26.35
うむ 爺たちの生きたあかしとしての九州説ということか
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:16:50.67
>>236
畿内説も九州説もな。   @阿波
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:19:50.63
畿内説の反論が情緒的レベル
畿内説が単なる宗教的信念だからか
0240ネトウヨ撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 08:21:32.65
寺澤先生の著作を読ませていただいたが、オレの意見の八割方同じだと思った。
オレは九州勢力が武力で畿内を征服したと思うのだが、寺澤先生は話し合いで新生ヤマト国が生まれて纏向に都が出来たと述べておられる。
もし征服王の神話がお伽話なら、寺澤先生の説の通りであろうな
先生と違ってオレは少し口の悪いことを書いてしまうが、今の自民党政権の電通やパソナなどとの談合体質を見てみると、これもまた上古から引き継がれた日本文化の一面と言って良いのかもしれないと感じる。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:24:01.21
まあ 談合による可能性はあるわな
それだけ西日本は早くから大きく動いていたということ
九州内で収まる話ではない
0242日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:27:27.67
畿内説のロジックはこう

①卑弥呼の時代の北部九州は博多湾貿易が中心

②これを担った博多湾沿岸勢力は纒向型前方後円墳で畿内に服属している

③これは魏志倭人伝の伊都国が畿内の邪馬台国に服属している証

しかし那珂八幡古墳は纒向型ではなく独自型だってよ
②が成り立たず崩壊したな
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:27:43.25
>>239
ほら、九州説はまったく証拠を出さない
つまり九州説の反論が情緒的レベルで、単なる宗教的信念を語っているだけって証拠だよ
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:28:48.34
伊都から残り1500里だとか、翰苑が根拠になっちゃうのが九州説なんでしょ?
ロジックにすらなってない
まずは稚拙な九州説を淘汰しないとなw
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:29:49.37
畿内説に出来るのはせいぜい小学生レベルのオウム返し型反論か
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:32:34.94
>>242
相手の言っていることに自分の作文に反論するという九州説特有の脳の病気w

>しかし那珂八幡古墳は纒向型ではなく独自型だってよ

纒向型から定型化に向かう途上だな
畿内の影響を受け入れてネットワークに参加した証拠だよ
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
そうじゃなくて
0247日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:33:13.78
纒向勢力が卑弥呼の時代の伊都国を服属させた考古学的根拠は「完全にゼロ」だ
畿内説が描く西日本がほぼ統一されたような倭国観は幼稚な妄想
0248日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:34:32.98
>>245
ほら、九州説はまったく証拠を出さない
iいつまで経っても小学生レベルだな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:35:37.20
>>247
という証拠は?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:39:53.72
九州説を奉じて、残りわずかな人生を学者様ごっこをして生きるか 気楽でいいな
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:40:52.84
>>247
>畿内説が描く西日本がほぼ統一されたような倭国観は幼稚な妄想

とか証拠もなしに九州説は叫ぶけど
教科書に載って全国で学習されている
「古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた」
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:41:35.88
卑弥呼の時代の倭人社会には文字も馬もなかった
この時代に畿内と北部九州でどうやって行政的な上意下達の意思疎通するのかね?
物流はバケツリレー式に可能であるが直接的かつ日常的・反復的な意思疎通は困難だ
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:41:41.66
統一の定義は難しいよな
ある程度自治は認めるが強い影響をあたえる
あるいは宗主国、属国の関係くらいなら西日本レベルであったんじゃないか
畿内に九州を属国にするパワーがあるとは思えんが逆ならあったかも知れん
0254日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:43:39.58
馬どころか車もなかったが
のろしはあった
のろし台跡は見つかってるし
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:43:55.48
>>251
疑問が2つ
1. 出典はどこの出版社の教科書?
2. その「広域の政治連合」で想定されている「広域」とはどこからどこまで?
0256日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:46:42.09
纒向の搬入土器から考えて纒向勢力が吉備から東海までの地域と政治的に関わりを持っていたのはわかる
ただし、それが「卑弥呼の時代」という証拠はない(そう主張する学説はあるが未証明)
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:47:52.76
卑弥呼が魏志倭人伝の文面からも連想される「宗教的権威」の立場なら、命令系統と物理的距離の問題はある程度緩和できるのでは?
ローマ法王みたいな立場で祭祀だけ担当して、政治の細々したことは地方でやっていれば良い
0258ネトウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 08:50:05.46
インカ帝国は文字が無かったが、縄を結んだり木に刻みをつけて記録を残す術を活用して、広大な帝国を治めたという。
隋書に倭人は文字なく縄を結んだり木を刻むのみというから、インカ人と同じような形態だったのかもしれない。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:55:43.61
>>255
>1. 出典はどこの出版社の教科書?
 山川

>2. その「広域の政治連合」で想定されている「広域」とはどこからどこまで?

画期的な画一性を持つ出現期古墳の登場する西日本
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:57:10.00
>>256
>ただし、それが「卑弥呼の時代」という証拠はない(そう主張する学説はあるが未証明)

教科書に載るくらい通説
0261日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 08:58:07.90
>>256
>ただし、それが「卑弥呼の時代」という証拠はない(そう主張する学説はあるが未証明)

そうでないと主張する学説はない
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:00:04.12
九州爺はいちように畿内説の学者は陰謀に加担してると思ってるようだから
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:01:41.20
受験生定番の山川の詳説日本史Bの記述は以下だな
やや纒向を特別視しつつも畿内説と九州説は並列

-----

邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と、九州北部に求める説とがある。
近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立してたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
※奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:01:54.08
畿内説の妄想コンセプト

・ドラマチックであること
・発言者が権威ある人であること
・結論が畿内説につながること
・マスコミが報道してくれること
・予備知識のない大衆を騙せること
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:06:58.17
九州爺(クスジジ)のコンセプト

・いつも家にいて朝からパソコンをにらんでいるので妻には粗大ゴミあつかいされている
・孫に小遣いをやっても「クソ、ジジイ」と言われる
・頑迷固陋で近所から煙たがられている
・町内会の集まりでは「趣味は古代史研究です」と言う
・つねに爺臭くモコモコと動く

さあ、心当たりはありませんか
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:19:21.07
何でたかが1800年ほど前の事が、こんなに分からないんだ?
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:21:45.07
>>266
願望がお花畑だからだろうな。
中心国だの、支配だの
威信材が豊富、立派な建物が並ぶとか
ね。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:28:28.68
>>266
先史時代だからね
部分的に分かってるからこそ議論の俎上に乗せることが出来るとも言える
0271日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:36:09.68
>>262
>やや纒向を特別視しつつも畿内説と九州説は並列

そして古墳時代が3世紀中頃からと明記し
「古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる」
と畿内説に軍配を上げるのだった
0272日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:37:32.30
>>269
九州説さん、理由もなく言い張っても勝ち目がないと知れ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:38:32.34
>>263
山川の教科書がやたらと反日的記述をしたがるのは有名
基本的に教科書業界はザイニチと左派が牛耳ってるからな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:47:59.34
>>272
畿内説の自己紹介ですか?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:48:37.94
>>273
このように証拠も出さずに、ただ中傷するのが九州説スタイル
0276日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:51:18.35
>>274
これ、多分「畿内説に出来るのはせいぜい小学生レベルのオウム返し型反論か」と言ってた人だろ
それ、やってるのお前だから
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:55:33.10
~ 古墳時代は2世紀の東日本で始まりました ~

東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
一部遠く離れた北部九州にも造られています
0279日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 09:55:49.62
ホケノ山が4世紀なので畿内説は崩壊しました

『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井 好

ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。
その証拠は
1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。

2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。

3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。

4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。

5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。

6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 10:22:08.82
>>279
素人が何言ってもなあ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 10:40:44.05
1はバイト人生のど素人だよなw
0283ネ トウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 11:10:26.76
恐らく伊都国の王族が大和に移って卑弥呼が出て台与が出て、ついに崇神天皇が出るのだろうが、しかしヤマト王権は記録を残さなさ過ぎだな。
中国大陸や韓半島では族譜を作るから先祖を辿れるのだが、ヤマト王権は崇神以前の先祖を忘れてしまうのだから困ったものだ。

行政は縄結びや木の刻みでなんとかなっても、文字文化が無いと先祖崇拝が強い時代の人たちですら祖先の事跡が分からなくなってしまうものなのだな。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:14:42.29
>>282
バイトしてる様子もない
シルバー人材センターとかに登録してるだけのニートジジイだろうよ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:30:00.58
統一というか連合国家がしばらく続く
ヤマト王権から地方官である国司を出すようになったのは
だいぶ後
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:32:24.30
ヤマト王権の歴史は地方豪族である国造から
中央集権の官である国司に変わっていく歴史
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:37:36.86
前ぽ後円墳の歴史は大きく言うと吉備の楯築墳丘墓からだろう
0292日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:54:19.57
>>286
>統一というか連合国家がしばらく続く

畿内説が生き残る為の幼稚な妄想。   @阿波
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:55:22.69
>>287
すなわち、8世紀の大和朝廷からの話。   @阿波
0294日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 11:56:35.74
>>289
>前ぽ後円墳の歴史は大きく言うと吉備の楯築墳丘墓からだろう

その吉備の楯築墳丘墓は、「阿波」から。   @阿波
0295伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/26(月) 11:57:07.72
>>292
阿波ですら、粟国と長国に分かれていたんだから、
全然統一されてませんよね。

長国は、丹の採掘が停止した事になどにより、
単独では立ち行かなくなり、粟国に併合されてしまう訳ですが。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:02:35.76
>>295
>阿波ですら、粟国と長国に分かれていたんだから

不仲だったのは、「卑彌呼」時代だけな。   @阿波
0297日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:08:33.94
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0298日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:13:01.36
3世紀前半の奈良盆地に突如纒向が王都として現出し女王卑弥呼の墓として巨大な箸墓をオリジナルで築造
と同時に日本列島は突然一斉に古墳時代になり纒向にひれ伏した地方勢力が北部九州から関東までの列島各地に箸墓のコピーの前方後円墳を作り出した
また同時期に突如ホケノ山古墳に他の畿内地域にはまだ殆ど存在しない鉄器が大量に埋葬された
これが畿内説のストーリーだ

これを信じる人間は、歴史観というか、そもそもの合理的思考力にかなり問題がありそうだ
0299伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/26(月) 12:14:22.47
>>296
不仲かどうかなんて分からんよ、
長国が単独でクニとなる経済力があったのが、
無くなったと言う事が推測されるのみ、

そこを想像でストーリー組み立てるのは勝手だが、
分からん事は分からんのままでいいと思う。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:15:55.86
>>298
九州説も似たり寄ったりだがな。  わははははは   @阿波
0301日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:17:47.50
>>299
>無くなったと言う事が推測されるのみ

「出雲の國譲り」によってな。  わははははは   @阿波
0302日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:20:16.65
>>299
>無くなったと言う事が推測されるのみ

「出雲の國譲り」は、「壹與」の時代な。   @阿波
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:20:24.05
この時代、不作とか戦争、洪水で食っていけなくなった集落が
交易に出すことができるのは人間のみ
それが生口だろう 消滅というか吸収合併
そのようなことは多かったと思われる
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:23:58.29
>>232
>畿内説のロジックを示した上でそれが考古学的に成り立たないことを示したが、

それが畿内説のロジックであってお前さんの作り話でないという証拠がないと意味ないんだよ
0305日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:25:21.39
大人と奴隷の身分差が大きく広がったのもこのため
生産にたずさわる必要がなくなった階級は
余剰により余暇を生み出し楯築墳丘墓から前方後円墳が生まれる
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:26:24.45
>>300
九州説は現実的・合理的に卑弥呼の時代は列島各地に政治的に独立した小勢力が分立していたと考える
筑紫、出雲、吉備、大和、高志、毛野など
阿波?阿波は播磨や讃岐の金魚のフンだろう
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:27:34.71
出雲は狗奴国(長国)。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 
これが記紀に言う、「出雲の国譲り」  
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、
倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、
倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。   
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0308日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:28:02.89
>>298
>これが畿内説のストーリーだ

いや、お前の作り話
相手の言っていることにではなく、自分の作文に反論するという九州説独特の脳の病気だなw
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:29:11.42
>>308
否定するなよ
お前の主張を纏めるとそうなる
全体のストーリーとして成り立たないんだよ、畿内説は
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:31:09.51
九州は田舎だったから小集落に分かれていたのは確かだろ
吉野ケ里で環濠内1500人、周辺部合わせて5000人程度
0312日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:35:58.37
>>309
>お前の主張を纏めるとそうなる
>全体のストーリーとして成り立たないんだよ、畿内説は

異常にあたま悪いの?
「纏めるとそうなる」って立証しないと反論として 成り立たないんだよ

成り立たないようにデタラメなストーリーはいくらでも捏造できるだろ?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:37:47.29
>>310
大和は部族制国家の体制、つまりクニとしての仕組みが最先端の北部九州に比べて圧倒的に遅れていたことは纒向学(寺澤薫)も認める
突然纒向に出現して部族制国家の要素を備えるヤマト王権が外来勢力によるとされる理由だ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:39:46.22
>>313
その外来勢力は、「倭人(阿波勢力)」な。   @阿波
0315日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:42:23.99
唐古・鍵などの現地勢力が纏向を作ってないことは畿内説の多くが認めている
出雲から吉備、近江から東海にかかる大勢力があったんだろ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:43:57.64
>>315
>出雲から吉備、近江から東海にかかる大勢力があったんだろ

全部、「倭人(阿波勢力)」な。   @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:45:43.41
>>315
そう、それをあたかも纒向に何かが居てそいつが取り仕切ったかのように勘違いしてるのが馬鹿畿内説の学者どもなんだよ
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 12:47:52.03
>>317
いたろう?
居ないってお前は頑張ってるけど理由がない
0321ネ トウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 13:02:37.08
九州説は壺や日本会議や古史古伝の信者が多いからな。
総じてネトウヨの巣窟。自民党政権の駒。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 13:33:56.45
ところで何度もやったが「戸」という単位は何人ぐらいなんだ
この当時主流の竪穴式住居で10畳くらい
炉の面積もあるから、せいぜい1戸に5人くらいしか住めないが
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 13:36:22.56
>>322
だから、竪穴式住居に住める人は上位クラスだけ と何度言えばw   @阿波
0325日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 13:44:14.70
>>324
竪穴式住居は、結構手が込んだ造りだから、だれでも簡単に構えらるれるものではない。
設置場所も水捌けがよく、且つ水場に近い所を占有できる上位クラス者じゃないとな。   @阿波
0326日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 13:45:32.14
>>325
こういう考察は、アホの御用学者では出来ない。   @阿波
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 13:53:22.73
今の学者はマルクス史観はタブーだからな

しかし、この時代は大きく貧富差や身分差が拡大した時代
上にも書いたが、不作や天候不順、災害などで苦しんだ集落は
結局交易に人間を出すしかない
それが奴隷身分、生口になった
一方、上位層には生産の余剰が生まれ
余暇が生まれ政治的な動きに専念できるようになった
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:03:25.62
>>327
>上位層には生産の余剰が生まれ
余暇が生まれ政治的な動きに専念できるようになった

政治的な動き? そんなもの「卑彌呼」の時代にあるか! 食料確保に必死の時代だ。   @阿波 
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:07:25.96
>>328
西谷墳丘墓と楯築は双方の土器が出てて相互訪問してただろ
吉野ケ里の貴人の居館もそうだ
まああそこまでいかないだろうが貴人の住居は家屋文鏡みたいに
豪華だったろ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:12:07.86
>>329
吉野ケ里の貴人の居館??  あんなもの、倉庫以外にあるかい!   @阿波
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:15:58.00
>>319
>古墳造営キャンプ場だとすれば奴隷が居た
>それだけ

その過程が間違いなので結論も間違い
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:17:33.23
倉庫かもしれんが、どうせ建物の上部構造はわからんし俺は違うと思うね
身分差の拡大が集落拡大の原動力になる
そして小さな村がどんどんまとまって大きくなる

中国で始皇帝が誕生したのが数世紀前で、列島もやっといくらか追いついてきた
貴人や巫女は稲作や狩猟・採集はしない
結局ヒマがある
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:25:15.30
>>313
>大和は部族制国家の体制、つまりクニとしての仕組みが最先端の北部九州に比べて圧倒的に遅れていたことは纒向学(寺澤薫)も認める

進んだ遅れたという価値観を用いるのは間違いだ
寺澤自身の言葉を借りれば
「北部九州社会のごとき共同体間の政治的な支配−被支配関係に基づいた、首長層の重層的な階級関係を梃子に成立した大共同体群=『国』
の部族的国家とはかなり異なった、社会経済的、祭祀的、共同幻想的大共同体群=『国』レヴェルの部族的国家」だ

まさに卑弥呼が共立されるような下地だね
隔絶的な政治権力に発展したのは後者だった
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:25:45.35
比較にはならんが、古代ローマで彫刻や演劇があれほど発達したのも
奴隷の存在があったからだろ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:35:34.42
何の根拠も無い事がバレてしまった畿内説が顔真っ赤にして恥の上塗りを重ねるだけのスレw
0336日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:51:50.55
>>335
などとなんの根拠もなく、敗者九州説が呪詛の言葉を吐きにくるスレ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 14:52:50.87
♪九州爺さんちにお手紙着いた
九州爺さんたら読まずに食べた
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 15:06:37.46
九州を支配できる畿内の勢力はさぞでかかったんだろうな
たった10人の奴隷を朝貢したしただけで金印紫綬を勝ち取るほど魏は恐れおののいていたに違いない

と畿内説の方々は妄想しているんですか?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 15:25:27.06
真実に近付いたヤツはMIBが来るから
誰一人として真実に近付いてはいない
0341日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 15:28:52.31
帥升の160人に対して卑弥呼の朝貢が少ないのは意味があるんだろう
例えば難升米が鉄などの交易に来ていて半島に駐留していたとか
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 15:39:06.60
帥升は畿内説を取るの?
後漢書東夷伝の記述から九州という気がするし、あまり議論を聞いたことがないのだが
近畿勢も邪馬台国?日本の中心?は近畿だ、近畿だ、絶対に近畿だ、他のことを言うヤツは許さん!みたいな感じだけど
帥升や卑弥呼はなんかそれに比べると興味薄そうに見える
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:00:56.28
ドチラニシテモ鏡が出てくる、同じ類いなのは分かってる。出雲に代表される蛇龍信仰とはまた別なんだろう
0348日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:34:22.38
相当古い史書を見ても大和王権の事と思われる記述は存在しない

<1~2世紀>
「建武中元二年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(AD107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献
じ、請見を願ふ。桓・霊の間(2世紀後半)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」

【ポイント】
・倭人は呉越の末裔だった
・奴国が倭の最南端だった
・2世紀時点で倭を治めていた王は「師升」
・2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった

卑弥呼が女王だった時代に狗奴国には男王が居た
統一国家という概念が無い時代なんだよ

つまり畿内説はオカルトネタだ
オーパーツの類いだ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:37:41.55
記紀によると大和朝廷が九州に筑紫国を創設したのは初期の段階だと思われる国生み伝説があるが
筑紫に挨拶するどころか、そのほかの21国にも筑紫国は出てこない
これは、記紀の記述がでたらめだからという解釈?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:45:52.15
>>348
それでも疑問は残るけどね
帥升、男王が九州に居た、女王が別に居て共立され、例えば、近畿、四国や中国地方でもいい、一時的に居たとする
結局は男王を頂くことなるのにその後、九州は急激に衰退し、近畿で発展することになる
遷都だとしても不自然な感じもする
大陸や半島から離れたいということなら理解出来るか?
なんかどちらにしても
0354日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:49:54.13
>>352
まぁ、近畿は近畿で
見たいのは古墳がどこまでも超古代から今の形、副葬品で存在してました!言ってくれれば、どんな内容にも合致します!オールマイティなのが近畿古墳!じゃなくて
それ以前の青銅器や甕棺墓みたいなもっと古代を感じさせるものの継承性なんだけどな
0356日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 16:53:25.27
>>353
畿内説は北部九州の衰退という言葉をよく使うが、その時代は全国衰退してるんだよ
同時期で広範囲となれば考えられるのは自然災害や疫病などだろう
近畿が発展するのは4世紀以降
河内湖の活用が始まった頃だ
同時に渡来人住居が一気に増えてる
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:00:28.81
>>353
まさに大陸との貿易権をめぐる争いだったのは間違いない
壱岐・原の辻から伊都国・奴国での交易権
九州と本州の対立
本州側がそう簡単にまとまるかと思うかもしれんが
持てる者と持たざる者の連合の対立と畿内説では一般にとらえられてる

結局本州側が勝利し、ホケノとかに見られるように急速に鉄器等の量が増えていく
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:14:28.88
>>344
キナイコシ1号と2号がいるのだろう
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:15:11.17
邪馬台国は宮崎県西都原(さいとばる)で決まり。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:34:13.52
西都原は四国経由で本州とつながりができ
天皇の妃とか輩出してるけどな
邪馬台国論としては「おらが国さ」の域を出ない
0362日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:43:42.29
>>358
いや居ないよ
アイツスレ立てしていた覗いたけどエラーで反映されてなかったのを勘違いしてもう一度スレ立出たんだよ
何度もトリップ晒したりする老ぼれだからな
0363日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 17:59:28.21
>>363
老いぼれが5秒で対応出来ないと思うがね
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 18:36:27.21
>>346
>墓好きが多いんだね!

好きもなにも、お墓しかないからな。  わははははは   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 18:42:13.06
纒向遺跡

・やけに土木用具が出土する
・周辺には大型古墳が多数
・飯炊き土器と残飯が散らばってる
・定住者が居た痕跡は無い
・古墳の完成時期あたりで閉鎖されている

脳が正常なら古墳造営キャンプ場と結論づけるだろうね
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 18:57:07.25
>>350

筑紫の日向って伊都国のことだよ。
あとで筑紫という呼称になっただけだよ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 18:59:50.55
>>310

> 九州は田舎だったから小集落に分かれていたのは確かだろ
> 吉野ケ里で環濠内1500人、周辺部合わせて5000人程度

で?
纒向wは何人?
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:01:47.84
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:03:41.89
>>283

ヤマト王権は伊都の後継だろうけど、ヤマト王権とは別に、九州に邪馬台国王権でもいいのではないか?
伊都の王族が大和に移ったとして、その王都は空のままか?
魏志倭人伝からは伊都こそ権力の座に読めるのだけど?
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:05:53.63
畿内説を奉じて、残りわずかな人生を学者様ごっこをして生きるか 気楽でいいな
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:07:54.77
>>371
寝言は、それに見合う集落遺跡を見つけてから言え。   @阿波
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:09:31.76
>>283
>>371
伊都の王統だと前提??
そんなに権力ありそうか?
0375ネ トウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/26(月) 19:11:06.28
寺澤先生の説はごもっともなのだが、話し合いでイト倭国王がヤマトに新都を作ったというのは疑問な気がする。

政治というのはいつの時代も血で血を洗うものだった。
特に中国や韓国などでは、政争で負けるということは死や族滅を招く事になるので、権力争いは壮絶を極めたし、その文化は今も続いている。だからほぼ前の大統領は牢獄に行く事になる。それが嫌なら政権交代のない独裁政権ということになる。

弥生時代の倭国は大乱で国と国で殺しあいをしていて、全国各地に高地性集落ができるほどだったのだから、国家間の対立が話し合いで解決できるものだったのかオレは疑問に感じる。

伊都国は北九州と四国を勢力範囲に収めていて、2世紀末に東征軍を組織して東進、途中で宇佐や瀬戸内の国々に寄航しながら兵を集めて、畿内に大兵力で上陸して一気に占領したという方が現実的な気がする。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:16:45.31
>>377
証拠の言えない畿内説
0378日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:21:21.36
>>374
阿波はうわごとしか言わない
0380日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:29:22.93
長い間ご愛読ありがとうございました。
次回、畿内説先生の作品に乞うご期待!
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:30:47.08
>>221

点と線を繋ぐような厳しい根拠だなw
筑紫と出雲に交流があった。
それは明白だ。
しかしそこから先は、出雲を介した間接的な交流と、年代前倒し詐欺による強引な論説に過ぎない。
結局のところ、九州北部で周辺諸国から畏怖されていたという伊都には畿内はまったく影響力を示せていない。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:31:29.04
酸素同位体比年輪年代測定法で消滅間近の九州説
0383日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:33:10.29
>>381
結局のところ、九州北部で周辺諸国から畏怖されていたという「筑紫忌部」。   @阿波
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:33:37.02
>>110

> あれ
> まだ【畿内説の域】に到達してない人がチラホラいるみたいだね

そんな妄想の域に達したくはない。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:35:25.74
>>100

> 九州の土蜘蛛に女酋長が無茶苦茶多いのって卑弥呼→台与→の後継者狙いで連合各国が自国で巫女を育成したからだったりして

というか、そういう女性首長の中から倭国女王に共立されたのが卑弥呼なんだろ。
男尊女卑の畿内政権とは根本的に文化的土壌が違う。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:36:08.42
畿内説を極めると九州説に行きつく。
ヤマトは畿内だろうが、邪馬台国は九州北部以外あり得ない。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:36:23.09
>>384
インブは窓際族
0388日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:39:25.62
>>98

半島南岸に影響を及ぼした九州北部の三種の神器を榊にかける文化が倭国の鬼道、日本側の初期神道。
半島が影響を与えたのではない。
筑紫の日向が対岸の半島南岸にも影響を与えたのだ。
間違えるなよ。
そしてその影響は畿内にも及び、畿内は独自の銅鐸を捨てて九州北部の文化を受容した。
これが卑弥呼共立の2世紀末の様子だろ。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:43:10.20
酸素同位体比年輪年代測定法で消滅間近の九州説
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:44:21.24
>>385
丹敷戸畔は無視?w
たぶん当時の日本人は女性リーダーに対して、中国人ほどは抵抗感がなかったんだろうね
辺境の地では女性率が高いという中国の考え方が反映されているのかも
0392日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:44:40.70
卑弥呼は大王ではなかった。狗奴国にも王がいたのだから。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:45:20.39
筑紫の王家は各人が三種の神器を1組ずつ保有していたが、ヤマト王権は全体で1組しか持ち合わせていない。
これは国力を反映するとともに、ヤマト王権が分家に過ぎなかったことによるものだろう。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:45:35.25
>>391
早漏大学包茎学部のメンヘラチェリーボーイかな?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:49:03.26
>>389
でも皆統属女王国とか邪馬台国女王之所都という記述と整合するのかなあ
まずは寺沢先生の本を読めってことだねw
了解
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:53:18.14
>>394
せっかくレスもらったのに悪いけど意味不明
なんか下品だな
そんな書き込みしてる自分を恥ずかしくないの?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:54:00.69
>>395

読み方の問題なのかも。
伊都の王家は女王国の王統てある、卑弥呼は伊都の正統な後継である、とか。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:56:13.41
後漢書の記事や、考古学的な証拠から、卑弥呼共立直前の倭とは博多湾沿岸のことに他ならない。
だから卑弥呼が伊都と無関係なら、正統性はないし、魏も倭国女王に叙任しなかったろう。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 19:57:52.00
>>397
酸素なんとかはトナカイの主張だろ、結果が出たら書けばいい事
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:00:19.23
縄文文化が弥生文化化いたから弥生時代といい、弥生人という。   @阿波
0402日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:01:57.07
台与弥呼と書かないということは、卑弥呼は尊称ではなくて名前なんだろうな。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:04:38.59
台与弥呼と書いてないところを見ると卑弥呼は尊称ではなくて名前なんだろうな。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:09:41.03
>>403
正解

生前の実名だよ

ヒミコではなくヒミホと発音するのが一番近いんだとか

ヒミホさんは居ないがミホさんなら今もいる
0405ネトウヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/26(月) 20:14:51.65
寺澤先生の説では、伊都国の王統が畿内に移って纏向の邪馬台国になり、そこで女王になったのが卑弥呼ということだな。
また卑弥呼の墓は纏向石塚か纏向矢塚ではないかと述べておられる。

電子書籍でも買えるから、倭国の古代史に興味があるならは、一読すべきであろう。敬意を込めて宣伝しておく。

自分は一歩進んで畿内で卑弥呼を即位させた初代の男弟のメモリアルが神武天皇の話だと考える。
0407日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊都国と畿内の関係は希薄だよ
考え過ぎだと思うね
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:26:08.73
魏鏡の出土数
・九州→28枚
・中国地方→2枚
・近畿地方4枚(奈良はゼロ)
・中部地方→1枚
・四国→ゼロ
・関東→ゼロ
・東北→ゼロ
0410日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

最終的にすべての畿内説は私の理論の下に結集することになろうね
今までの畿内説には重大な欠陥があった


俺だけが真実(女王国本州説)に辿り着いたみたいだ
0411日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説は既に眼中にない
畿内説を統合する事に注力しようと思う
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:28:29.50
魏晋時代の「蝙蝠鈕座内向花文鏡」の出土
◯日本全国で26面
◯中国でも26面
◯朝鮮半島で6面

日本の内訳
・九州→11面
・近畿地方→6面(ただし奈良はゼロ)
・九州、近畿以外→9面

巻向とは一体何なのか?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:33:50.41
大阪とか兵庫とか中国地方からは、ワンチャン後漢鏡とも言えなくない鏡が1枚とか2枚とか出てる。
だが、奈良はゼロ枚。
魏鏡も大阪、京都で合わせて4枚。
だが、奈良はゼロ枚。
西晋鏡である位至三公鏡も奈良はゼロ枚。

それなのに、三角縁神獣鏡は奈良だけで100まい出てる。
中国からは1枚も出ない三角縁神獣鏡が奈良だけで100枚。
不自然極まりない。
前漢〜後漢〜魏〜西晋まで1枚も中国の鏡が出てない奈良県が、三角縁神獣鏡だけで100枚。

どう考えても4世紀〜5世紀にヤマト王権が作った🪞が三角縁神獣鏡
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:36:38.33
>>410
九州説で言うところの伊都説みたいなポジションかね
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:38:58.76
巻向の移入土器の割合

吉備 25%
東海 20%
河内 20%
山陰・北陸 17%
阿波・讃岐・播磨 8%
近江 5%
西武瀬戸内 3%
紀伊 1.5%
駿河 0.5%
九州→ゼロ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:39:51.18
巻向国は九州との交流もほとんど全くなく、中国との交流も全くなかった
0418日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

楽浪土器が出ない
九州系土器が出ない
そんな纏向遺跡は邪馬台国ではない!


ふむふむ
僕もそう思ってる時代がありました
懐かしいなぁ...
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:40:49.40
>>413
>だが、奈良はゼロ枚。

そりゃ当たり前。 奈良湿地なんだから、「倭人(阿波勢力)」の開拓が一番最後に回されるわな。   @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

面白いよね
何を主張してくるのかが全部読めちゃうのよ

僕は元々邪馬台国博多湾岸説から解脱して畿内説に到達した組だからね
0421日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

過去の自分とレスバトルして負けるはずがないのと同じなのよ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:44:21.80
>>418
反論ができないということですね
0423日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>422
俺は数ヶ月前から既に答えを言ってるよ
何度も何度も説明させないでよ
0424日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国の都・纏向遺跡から九州系土器や楽浪土器が出ない理由はこのスレでも何度も説明しましたが
きりが無いので動画にしました

ぜひご覧ください
https://youtu.be/qJWBM5UNM4Y
0425日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:46:49.58
未だに三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡の畿内説てダサすぎない??
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:47:21.66
>>420
>僕は元々邪馬台国博多湾岸説から解脱して畿内説に到達した組だからね

最悪の奈良湿地の寒村盆地が気に入ったのか?  わははははは   @阿波
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:47:34.54
>>424
全く誰にも支持されてなくてワロタwww
0428日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:50:28.31
最近本を買いまくりで読み切れないんだが早速Kindleでポチッた
0429日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

官名も事蹟も、魏志倭人伝と日本書紀崇神紀が完全一致している
もう邪馬台国はヤマト王権以外有り得ないんだよ
日本書紀を無視するな
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:50:59.97
>>424
アドレス晒して
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:51:35.28
>>423
私がトナカイ氏の反論に納得したのは、紹興本説だけですね。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:52:09.08
すまん
アドレス書いてあった
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:52:32.77
>>424
受け入れられるレベルの説明ではない
0434日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【魏志倭人伝&日本書紀崇神紀対応表】

①『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』:魏志倭人伝
①『流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀った』:日本書紀

②邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」:魏志倭人伝
②「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」:日本書紀

③邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」:魏志倭人伝
③崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」:日本書紀

④卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」:魏志倭人伝
④崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」:日本書紀

⑤径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓:魏志倭人伝
⑤『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体が眠る)も156m:日本書紀

⑥魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に乱が起きた』:魏志倭人伝
⑥百襲姫死亡の次の記事に崇神帝による四道将軍派遣:日本書紀

これ、全て偶然の一致?
日本書紀編者は卑弥呼=神功皇后だと思い込んでるんで崇神紀を魏志倭人伝に寄せたとかあり得ないっすよ。作為が介在せずして一致している。もはや卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命で確定
0436日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あのね寺沢先生は纏向都市論から少し違うんじゃないの?
あんなのを都市やら大市場やら主張するせいでむしろ畿内説は追い込まれてるんだよ

心の瞳で纏向遺跡を見つめたまえ
単なる新宮・古墳築造跡地に過ぎない。だから九州系土器が出る必要も一切ない
0437日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

都市ってのは那珂遺跡みたいなモンを言うのだよ。纏向は都市ではない。
百襲姫(卑弥呼)と崇神(男王)のためだけの宮だ
0438日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:59:32.25
トナカイ先生に>>412の反論をして欲しい
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 20:59:49.99
>>437
宮だけぽつんと荒野にあるのか?  わははははは   @阿波
0441日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

従来型畿内論者は辻地区大型建物を卑弥呼の居館と主張するが、とんでもない
巫女1000人が奉仕していたとされる卑弥呼の館があんなにショボい筈がない

あれは崇神の磯城瑞籬宮だろう
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:10:44.39
>>440
漢鏡ではなく、蝙蝠鈕座内向花文鏡のことを言ってるのですが?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:11:32.55
>>441
>あれは崇神の磯城瑞籬宮だろう

お前も従来型畿内論者と似たり寄ったりだな。  わははははは   @阿波
0445日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

百襲姫は三輪山の大物主と神婚していたのだから、神浅茅原は檜原神社だろう

纒向大型建物と同様に「柵」で囲われていた百襲姫の宮は聳える山に居する事で「城」に見えた。
『宮室樓觀城柵嚴設』とはこのことである
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:21:01.22
>>437
宮で良いじゃん
伊勢遺跡も宮
0448日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本書紀崇神紀=邪馬台国伝と言っても過言ではなかろう
すべてが一致している
0449日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:22:59.88
詭弁を駆使しても何も出てこない。
所詮、詭弁は詭弁だからな。
0450日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

出てきたのは日下部氏が畿内から持ち込んだ日田鉄鏡のみ
哀れよの
0451日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:26:30.70
漢鏡なんて、九州以東ではほとんど全く出土してないのに畿内説は何でもありだな
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:31:51.20
>>451
銅鐸用の青銅は必要なんだけどな
0454日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「吉備・出雲・畿内」の連帯を示す特殊器台出土分布図
https://i.imgur.com/DNfxkjm.jpg

女王国ってのはこの連合体に対する総称
そして女王国を構成する出雲が伊都国に一大率を派遣していたわけだ
0455日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なぜか『畿内vs九州』だと勘違いしてる奴が多いけど
当時は既に畿内・吉備・出雲が連合していたんだから『本州西日本全域vs九州』だぞ
0456日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:37:05.89
位至三公鏡も出ない畿内(奈良はゼロ)に、漢鏡が九州より出てるというのは合理的にあり得ない。
畿内説は魏志倭人伝の方角から、年代測定まで操作しすぎではないか?
中国社会科学院考古学研究会の見解を完全に無視して、邪馬台国時代に100年も古くしている。
畿内説の人々には、良心の呵責もないのですか?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:40:50.33
>>456
魏志倭人伝の方角は倭人在帶方東南大海之中
0458日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

韓国の最新の研究によれば、古式新羅伽耶式土器の出現は3世紀半ばであり、共伴する布留0式も3世紀半ばであることが確定した
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:43:03.29
>>457
畿内説では方角は90度回転するらしい。
すなわち、東南を90度回転すると北東になる。
よって、帯方郡の北東と言えば樺太あたりになる。
0460日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>459
不弥国以降方角変わってるんだろ
バカのふりをしているのか本当にバカなのかどっちだい
0461日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:44:03.66
>>459
帶方東南大海之中と書いてあるだろ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:45:21.34
>>458
仮にそれが正しいとしても、「鏡」の年代まで中国社会科学院考古学研究会の見解を無視して、100年も古くするのはやりすぎだと思いませんか?
0463日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>458
つまり、畿内説以外はワールドスタンダードから取り残されていると言えよう
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:46:08.79
>>460
なぜ、不弥国以降のみ90度回転するんですか?
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:46:22.09
史書は一貫して東南大海之中と書いてるし間違いないでしょう
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:46:58.45
>>461
>帶方東南大海之中と書いてあるだろ

ということは、畿内説では90度回転して日本海のど真ん中だな。  わははははは   @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:47:19.00
>>465
九州説なら問題ない
畿内説だと不弥国から90度回転
0468日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>464
『倭は南にある』という固定観念が反映されたのだろう
原資料の段階で誤っていたのかもしれないし、後に書き換えられた可能性も高い
0469日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:48:06.63
>>465
>史書は一貫して東南大海之中と書いてるし間違いないでしょう

ということは、畿内説では90度回転して日本海のど真ん中だな。  わははははは   @阿波
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:49:34.47
>>466
90度回転とは何の話だ?
陳寿が間違ってるとかか?
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:50:04.54
>>454
奴国は女王国共立に参加してないの?
出雲が地理的に奴国を飛び越えて伊都を支配するのはイメージできない
魏志倭人伝にも境界って書いてあるし
0472日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>471
参加していない
女王国まで12000里であるから、10500里の奴国は女王国連合に含まれない
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:51:45.06
はっきり言うが陳寿どころか中国人は日本の地形なんて知らねえよ
0474日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>471
それに関してはこの動画で考察しています
一大率が『ヒナモリ』を統括することで北九州港市国家群の支配を可能にしたのでしょう
https://youtu.be/yyX90FjhVdY
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:53:05.50
>>468
梯儁と張政で少なくとも240日間は、水行20日+水行10日+陸行1月してますが?
気付きませんかね?
九州→畿内だと、120日間、梯儁と張政の目の前に太陽が昇り、夕方になると背後に太陽が沈んで行く。帰りは、畿内→九州まで、120日間、梯儁と張政の背後から太陽が昇り、夕方はサンセット状態で夕日が目の前に沈んで行く。

絶対に有り得なくないですか?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:53:25.64
>>470
>陳寿が間違ってるとかか?

畿内説がとち狂ってるってこと。   @阿波
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:54:39.94
中国人は東南方向に倭人が住む島があると知ってるだけだよ
0478日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>475

テンプレFAQ5を見れば『あり得ない』は『あり得ない』と分かるだろう
また後世に書き換えられた可能性も高い
>>15
0479日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

呉に対する牽制だったのか
倭人は南方に居るという固定観念の反映のためか

方角を書き換えた可能性は十分考えられる
0480日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『水行20日+水行10日+陸行1月』

これは畿内以外じゃあり得んわな
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:57:29.06
>>479
>方角を書き換えた可能性は十分考えられる

と、トンデモ畿内説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。   @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:57:53.45
>>478
狗邪韓国→対馬は方角を間違っても理解できる。
多分、1日で着いたろう。
長くても2日。
ところが、畿内説が言う、九州→畿内は240日間である。
絶対に方角を間違えるわけがないと思いますが?
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:58:13.85
隋書「大和王権の都は魏志の邪馬臺と同じ」

九州説は史書無視
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:58:42.16
>>472
そっか
俺は奴国までで12000里だと思ってるので、その点は気にならないけどな
難升米や掖邪拘にも当てはまる人がいたら面白いね
0485日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>482
君は人のレスを全然読まないね
後世に書き換えられた可能性も高いと言ってるだろう
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:59:06.12
>>480
『水行20日+水行10日又は陸行1月』だ。   @阿波
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 21:59:15.00
>>480
順次説を取るならば、畿内も成立しうるが、南九州も成立しうるので、あまり意味がない
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:00:12.47
>>485
後世に書き換えられた説を本当に信じてるんですか?
状況証拠的にあり得ないと思いますが?
0490日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>奴国まで12000里

これ、博多湾岸説時代の俺と同じだな
孫栄健『決定版邪馬台国の全解決: 中国「正史」がすべてを解いていた』に影響受けてた時はそう思ってたよ
0491日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:00:20.38
>>485
>後世に書き換えられた可能性も高いと言ってるだろう

と、トンデモ畿内説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。   @阿波
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:01:10.78
>>492
ですね
0495日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

状況証拠て何?
魏略逸文の先を読んだことあるの?
0496日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>492
宮崎説を主張するならどうぞ
考古学的に厳しいと思いますがね
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:02:34.02
>>493
トナカイ先生がご存知でしょう。
書き換え説は限りなくあり得ないと。
もし、分からないのであれば明日書きます。
寝ます
0498日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>486
最新の韓国の研究では古式新羅伽耶式土器の出現が3世紀半ばまで遡り、箸墓古墳が邪馬台国時代とドンピシャであることが判明した
0499日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:03:19.67
經都斯麻國?在大海中又東至一支國
都斯麻國の東に一支國がある
隋書でもこの程度だ 
0500日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>497
トナカイ先生って誰?
俺20歳だから先生じゃないけど
0501日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>484
難升米は奴国の王族だと思ってますね(※奴をスメる)
博多湾岸説がまだ抜けきってないので
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:06:50.98
>>498
ハイハイ畿内説お得意の前倒し前倒し

そして何も無いスッカスカの4世紀
0504日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『邪馬台国∈女王国』
こう認識するだけで邪馬台国論争は終わるんですよ
0505日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>503
スッカスカの4世紀だって?面白いことを言うね

景行天皇の熊襲征伐とか仲哀天皇神功皇后の遠征とか、超高密度ではないか
ワハハハ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:08:55.23
>>503
4世紀ありすぎだろ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:09:05.92
ここ数週間で畿内説がオカルトだと露わになったな
残ってるのは歴史捏造大好きメディアと半島系のエセ学者ぐらいなもんだろ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:12:22.81
>>502
>南海トラフの津波で流されたんだろうよ

それしきで消え去るとは、情けないのう。   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:13:30.16
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:14:24.94
>>510
後世で書き換えられたという言い訳が通るなら津波だ消滅した説の方がマシだろ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:14:56.00
日本4大法律事務所のアンダーソン・毛利・友常法律事務所の人は、九州説をとってるね
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:15:21.73
>>512
どっちもどっちだな。  わははははは   @阿波
0515日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:15:54.25
銅鐸作るのにも材料が要るからな
畿内と大陸が没交渉は妄想
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:16:47.55
5世紀初頭から古墳は大阪方面に移ってるのに4世紀多すぎだろ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:17:15.72
>>515
>銅鐸作るのにも材料が要るからな

銅鐸王国「阿波」でな。   @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:17:35.47
>>515
九州に取りに行けばいい
0519日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>512
もしかして陳寿没後に書き換えられたとか俺が主張してると思ってる?

全然違くて原資料の段階で書き換えられていたと思ってるのよ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:18:20.23
>>517
奈良は手狭になったからな。   @阿波
0521日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

箸墓が4世紀だと、4世紀に古墳集中しすぎておかしいだろ
九州説は滅茶苦茶すぎる
0522日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:19:40.87
>>518
青銅器の殆どは銅鐸だし大量の青銅が必要
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:20:31.93
>>519
>全然違くて原資料の段階で書き換えられていたと思ってるのよ

と、トンデモ畿内説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。   @阿波
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:21:41.87
>>522
九州に取りに行けばいい
倭人が半島に鉄を取りに行くのは魏志に書いてるが、倭人が中国に青銅を大量に取りにきてるという記述がない
0525日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

景行天皇陵:渋谷向山古墳
成務天皇陵:佐紀石塚山古墳
仲哀天皇真陵:津堂城山古墳
仲哀天皇偽陵:五色塚古墳
神功皇后陵:五社神古墳
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:22:02.37
>>522
>大量の青銅が必要

青銅王国「阿波」でな。   @阿波
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:22:37.28
>>524
中国との交易品でしょう
0528日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:22:56.87
>>501
では都市牛利は都支国の牛利さんかなw
奴国が共立に参加してないということは、従属的に一大率の支配下にある想定?
それで重要な使者に奴国の王族を使うかなあ
0529日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>528
北九州は紀元前1世紀から中国と往来していたわけで、外交のプロでしょう
3世紀に勃興したばかりの畿内から外交官出すのは難しいのでは?
0530日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:26:15.07
>>529
銅鐸作ってたのは3世紀じゃないから
0531日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

難升米は畿内の百襲姫に仕えた証として、自分の墓を前方後円形にした。
つまり那珂八幡古墳こそ難升米の墓であり、一号主体部には銀印が眠っていることだろう
0532日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>530
青銅は出雲から入手したのでは
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:28:43.04
>>532
そんなとこでしょう
九州じゃないと思うわ
0534日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

出雲による一大率支配の瓦解も、日本書紀には克明に記されている
もう終わったんだよ
邪馬台国論争はね
0535日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

出雲振根は筑紫国に往還していた
これ、一大率支配関連で出向いてたんだろうね
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:32:51.82
>>535
伊都国は糸島じゃないと考えないの?
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:34:14.84
伊都国が出雲なら出向かなくて良いわけで
0538日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

糸島からは滅茶苦茶楽浪土器が出てるんだから、郡使の駐する伊都国でしょう
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:36:06.81
>>539
王が居るんだし戸数は間違ってるんでしょう
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 22:38:37.07
あれだけ青銅器が出たんだし出雲が中国との外交を担ってたと考えるのが妥当
0543日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本海勢力を軽視した本スレのテンプレは脱落するわけですな。
0544ネトウヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/26(月) 22:52:33.51
寺沢先生は平原1号墳は卑弥呼の前の男王つまりイト倭国王の最後の墓だと考察しておられるな。

ここでは氏の所説を尊重してイト倭国とカタカナで記したが、つまり伊都国の王が北九州と四国西部の大王であり、中国に認められた帥升の系譜にある正式な倭王権だったという指摘になる。

これはオレの感想になるが、記紀は先祖の本貫地である日向の事をすっかり忘れているようだな。伊都国王家とヤマト大王家は連続性があって、中国からは同一の王朝と見られていた可能性が高い。隋書を見ると邪馬台国と推古朝時代の大和朝廷と連続したものと考えているから、記紀が強く主張する万歳一系とは弥生時代から切れ目なく連続性を持った王権であり続けたという自己主張なのだろう。
0546日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

いや、あり得ないはあり得ないんですよ
九州説も5%くらいは可能性あると思います
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:03:14.74
>>492
博多湾からなら南に至ないけど?
九州の東海岸線に奴国か不彌国がないとね。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:05:27.15
伊勢遺跡に卑弥呼が居たと仮定すると出雲の王が統属してても不自然さはない
てか代々王が居て女王国に統属てのがおかしいけど
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:09:14.16
出雲が中国から手に入れた青銅で銅鐸を作ってたなら卑弥呼はまだ居ない
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:11:18.48
狗奴国との争いのために張政はやってきて、のちに証言を残したわけです
狗奴国との戦争の(ないしは倭国大乱)痕跡が考古資料で出てくるのはどこですか
そして文献史学からも分かるところはどこですか
九州島なんですよ

邪馬台国は筑紫のどこかで、残された論点は邪馬台国がのちのヤマト王権につながるかだけ
0552日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】


①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg

※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
0553日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>狗奴国との戦争の痕跡が考古資料で出てくるのはどこですか

黄幢が副葬されていたヤマトの黒塚古墳ですね
0554日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向王権(邪馬台国)は東海と戦争して捕虜を獲得し、古墳築造に従事させていた
これが狗奴国戦争の真実である
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:22:30.86
>>529
なるほど
でも従属国なら魏と直接結びつくことを女王国側に警戒されそうに思う

正直言って記紀にはあまり詳しくないんだけど、コアな部分で北部九州の伝承も多いでしょう?宗像三神とか
やっぱり奴国あたりは早くから共立に参加してる方が個人的にはしっくりくる
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:25:24.86
>>554
中国まで使いを出して旗をもらい、東海の土器ばっかつくっている土人に見せても意味がないだろう
中国の権威が身にしみる範囲といえば考古資料からも九州
もし黒塚のあれが本当にあれなら台与が東征したてえことだ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:31:51.56
>>551
九州島まで女王を共立する勢力が進出してたら?
仮に狗奴国との戦場が九州にあったとしても、女王の都である邪馬台国は畿内に存在しえるね
前半も怪しいけど、後半の主張は論理につながっていない
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:33:26.02
>>499
隋使節は半島西端を回り込んで、東方向の壱岐に直行したんだよ
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:33:37.37
>>554
それに巨大墳墓の建設に奴隷ってのは考え方が古い古い
公共事業ですよ
箸墓については気候が安定して農業従事者が余りはじめたってことだ
0560日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>556
実際大して意味無かっただろう
帯方郡は派兵してないし
0561日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>559
公共事業でやってたのは倭の五王時代だな
邪馬台国時代のヤマトは奴婢100人を殉葬させる人名軽視国家だよ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:36:53.21
>>558
都斯麻國を経て東一支国に至るだから無理がある
0563日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>557
そう。もうじき酸素同位体比年輪年代測定法で纒向遺跡の年代が確定し、同時に邪馬台国時代に那珂八幡古墳が築かれた事が判明して九州説は崩壊する
0565日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:38:37.53
>>557
畿内から九州をコントロールできるようになったのは天智王朝以後だろ
欽明ころかもしれんが
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:41:50.50
>>562
誤読ですね
0568日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そして邪馬台国時代に九州をコントロールしていたのは出雲だ
日本書紀崇神紀から判明している
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:44:53.87
>>560
張政が帰国したってことは安定したわけだ、トヨで
しかし266年以降の朝貢はない
また戦乱の時代になった
しかも中国の権威が通用しない
気候が安定して那珂八幡古墳で公共事業
しかし北部九州では増えた人口を賄えなくなって本格的な東征(以前に奈良に同族が移り住んでいた)

こう考えればすっきりする
箸墓は東海からあふれた出稼ぎを食わせる飯場
たまには食事にタイや桃も出たようだなw
0570日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:45:02.34
帯方郡が衰弱する300年ごろになると危険を逃れ大勢が倭国へ帰化した
そういう経緯で黄幢や銅鏡が出る可能性がある
0571日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

東征は100%あり得ないな
九州系土器が持ち込まれてないし
0572日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国東征説は『論外』
0573日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>569
>また戦乱の時代になった

うん。中国がね
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:49:37.30
>>565
墓制や土器からも見られるように、文化や宗教面での影響がすでに広域に広がっている
宗教的権威として一人の女王を崇めるだけなら、支配的である必要はない
後継者に不服で国中が乱れる程度の支配なんだから
0575日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

中国が戦乱の時代になったから中国の史書に倭記録が残らなかっただけだろうね
あと呉を牽制する必要も無かった晋は金印をトヨに渡さなかったし、魏の時代とは一転倭が軽視されたんだろ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/26(月) 23:52:14.80
>>569
東夷からの朝貢は続いているので、その中に倭国も含まれていた可能性は大いにある
266年以降なかったとは言えない
0578日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

あり得ないはあり得ないの原則を突破したのが邪馬台国東遷説
女酋長説の方が遥かに可能性高い
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:02:20.80
>>572
アメノミ「ナカ」ヌシノミコトが最高神なんだよ
那珂の主
奴国の王様だな
数次にわたる北部九州、倭国内からの東征で奈良に基盤があった
それからいつかしらないし、邪馬台国ではないだろうが北部九州勢が東征した
そしてのちに景行天皇のころに「逆西征」した記録がある
もちろんここらはジングーを卑弥呼に比定するためにぐちゃぐちゃになってるんだろうが、大筋はこんなことろだ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:05:44.52
>>577
例えば3世紀前葉でも交流はあったんじゃない?
それこそ縄文時代から往来はあったと思ってる
あとは影響の程度問題
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:09:28.76
>>580
交流は旧石器時代からあるんですね
問題は「強力な奈良王権」が糸島の伊都国に宰を置いて統率できるほどの巨大権力が奈良に弥生後期にあったんですかってことです
0582日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>581
弥生後期じゃなくて、弥生終末期から古墳時代前期初頭でしょ
0583日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>559

九州説の人もこう言ってる

319 日本@名無史さん sage 2023/06/26(月) 12:48:57.36
>>318
居た痕跡が皆無
古墳造営キャンプ場だとすれば奴隷が居た
それだけ
0584日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向都市論は畿内説を内側から破壊するエージェントだよ
大市場だったとか言ってるやつも大倭云々に寄せるための適当な妄想だろ。ハッキリ言って迷惑
0585日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向が大都市でかつ大市場だったのなら、何故集住の痕跡が乏しい上に九州系土器が搬入されてないのか

従来型畿内説はおかしいんじゃないかね
単に古墳・宮築造の痕跡と捉えれば、超遠方の九州から労力徴発する非合理を避けて九州系土器が持ち込まれなかったってだけの話になるだろ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:24:15.16
>>581
あのー
そういう巨大権力がなくても宗教的権威なら都は遠国に存在し得ると書いたつもり
0587日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そもそも魏志倭人伝には邪馬台国が伊都国を従えていたなんて書かれてないからな
女王国と邪馬台国を混同するのは究極の曲解である
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:31:23.21
纏向遺跡も伊勢遺跡も儀式用で普段使わないんでしょう
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:38:49.27
>>587
卑弥呼が居なきゃ女王国じゃないしこんな国名無いし
0590日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>589
「女王国」は女王を共立する国家の総称である
卑弥呼を戴いているのは邪馬台国だけではない
0591日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国は「女王の都する所」
つまり首都でしかないのだよ。東京都と日本国を混同するような真似を平気でやってるのが九州説
0592日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:44:00.15
>>590
女王国なんて国名無いから
0593日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>592
魏志倭人伝を読んでないんだな
「女王国」という国名が4度登場するんだがね。邪馬台国はたった一回
0594日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

①余傍21カ国が「女王の域内」にあるとされている事
②女王は【共立】されており、邪馬臺國以外の国邑も卑弥呼を戴いていると考えられる事

↑上記二つから「女王国」は共立連合体に対する「総称」と解釈出来る
0595日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:45:48.06
邪馬台国はこのあとも中国の史書で一貫して都市の名称として議論されている
奴国以来の伝統の倭国は日本とどうだかとある
0596日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:46:33.97
>>593
そういう問題じゃなくて国名が女王国なんて国無いから
0598日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>596
そりゃそうだ
女王を共立する国家群に対して便宜的に付けられた総称だからね
0600日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>599
>女王国は倭国

不正解
女王国まで帯方郡から12000里です
倭国の中の関門海峡以東が女王国
0601日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

帯方郡から出発して女王国連合に到達するまで12000里
この時点で北部九州説は消滅する
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:51:19.97
>>599
どこを読んだらそう解釈できるんだ?www
0603日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

・「女王国」は女王共立国家群の総称
・帯方郡から女王国まで12000余里

厳然たる事実を無視しなければ成立し得ないのが北部九州説
0604日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もういい加減にさ
魏志倭人伝無視し続けるのはやめようよ
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:55:54.71
>>598
だったら国名何よ?
0606日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>605
もう一度同じことを書くぞ
女王を共立する国家群に対して便宜的に付けられた総称だ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:57:12.56
九州内にも女王国勢力があれば理屈の上では消滅しないけどね
邪馬台国まで12000里とはどこにも書かれていないのにそれが分かってない人多いね
0608日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 00:59:31.34
>>606
卑弥呼は何処の国の王なんだよ?
中国は倭の王だと言ってるんでしょ
それにあたる日本語は?
0609日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>608
中国は倭の王だと言っているな

しかし伊都国やその周辺は一大率の記述から見て武力的に制圧されているようで、共立に参加したとは思えない
支配下である
0610日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

壱岐島や対馬や末盧や伊都国や奴国は女王国に含まれない事を明示するため、女王国までの距離をわざわざ記したのだろう
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:02:57.40
勝手に中国が便宜的に付けただけだから
実際女王国なんて言うわけない
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:04:33.90
>>612
だったら日本語は?
0614日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>613
そんなの3世紀に飛んでみないとわからんだろ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:08:34.48
>>614
邪馬台、ヤマトだよ
0616日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>615
なにいってんだ
ヤマトは「女王の都する所」でしかない
単なる首都に過ぎない
0617日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>615
まずお前は畿内説なのか九州説なのか名乗れ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:10:28.19
>>610
「女王以北」を考えても伊都の南に女王国の領域があって欲しいから、奴国はやっぱり女王国じゃないか?
伊都から東南なので奴国はギリで南だw
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:10:42.28
中国語 倭の王
日本語 ヤマトの王
0620日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

畿内説で女王国=邪馬台国説唱えてるなら完膚なきまでに論破してやる
九州説なら不毛だから俺の負けでいい
0621日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:11:15.94
>>617
伊勢遺跡説
0623日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>618
畿内説では当然、以北は以西と読み替える
関門海峡以西が一大率の管轄下というわけである
0624日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:17:45.40
>>622
勿論
0625日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:17:58.03
>>623
一律で全部置き換え?
たくさんの資料から編んだのだろうから、水行陸行の記事だけ間違ってたとか錯誤があったとかじゃないの?
道里が書かれた行程は大まかに正しいわけだし
0626日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊勢遺跡は琵琶湖帝国
邪馬台国とは無関係と思われ
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:18:58.10
>>620
無理
中国人「何処から来た?」
日本人「ヤマトから」
中国人「倭の邪馬臺国から来たんだな」
中国側の勘違いを前提にしてるから
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:20:31.85
>>573
岡上押しからの一転岡上ディスw
0629日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ヤマトって奈良県のことだぞ

やまとはくにのまほろば~って知らないのか
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:21:52.10
>>626
伊勢遺跡は僅か100年しか存在しないから
片付けて出て行ってるし何処かに移転したんでしょう
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:22:33.65
>>629
大和民族で違うんだよ
0632日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊勢遺跡は天之御影神の勢力だと言うことが系譜から分かる
彦坐王が息長水依比売と政略結婚して近江の統治権を確立したわけだが、その息長水依比売の親神ね
0633日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>631
それはヤマトが後の時代に拡大したから支配地域もヤマトになったというだけ
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:24:43.55
伊勢遺跡は徐々に拡大したんじゃない
どう考えても最初からあれを作るつもりだった
0635日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:26:39.36
>>633
範囲は知らんがその時のヤマトだ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:33:37.31
帯方郡から女王国に至るまで一万二千里の内訳について、専門家も含めて正しく読めている人がビックリするほど少ないのでこれを説明し、その論を踏まえて邪馬台国の場所を比定する

まず帯方郡から狗邪韓国までが七千里の部分
ここで狗邪韓国が出てくる理由だが、狗邪韓国は魏志韓伝には出て来ず倭人伝にのみ現れるので、陳寿が狗邪韓国は倭国と考えていたことがわかる
つまり、
帯方郡から倭国の北端まで七千里・・・①

また邪馬台国の南にあって女王に属さない狗奴国の説明をした後で、帯方郡から女王国まで一万二千里の記述がある
邪馬台国の南の狗奴国は女王に属さないので邪馬台国は倭国の南端である
つまり、
帯方郡から倭国の南端まで一万二千里・・・②

ちなみにこの部分の女王国が狭義すなわち邪馬台国であることは自明だ(「女王国」の語は魏志倭人伝に5回出てくるが、出てくる箇所によって狭義の場合と広義の場合があることに注意)

さらにしばらく後に、倭地を訪問すると、島伝いに陸地を進んで巡り歩くこと五千里と出てくる
つまり、
倭国の北端から南端まで五千里・・・③

上記は、①+③=②という関係になる

陳寿は狗邪韓国を倭国の北端、邪馬台国を倭国の南端とし、邪馬台国の南に狗奴国があるとする
帯方郡から伊都国までを足すと一万五百里なので、伊都国から南の邪馬台国までは残り一千五百里となる(12,000-10,500=1,500)
魏志韓伝は大凡300km四方の三韓地域を方四千里と書く
すなわち一里=75m程度となる
魏志倭人伝の一里も同様の距離感となっている
したがって伊都国から邪馬台国までは南に100km程度の道のり(陳寿は「周旋」と書くが、これは巡り歩くことの意味なので直線ではなく道のりで距離を考えている)となる

私が邪馬台国を筑後国山門郡(+肥後国菊池郡山門郷)に比定し、その南の狗奴国を肥後の菊池川流域以南の地域に比定するのは上記のような位置関係の考察を踏まえてのもの
菊池川流域あたりは弥生遺跡や鉄鏃の出土も多く、邪馬台国と狗奴国の領土を巡る争いがあったことが窺われる
0637日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>ここで狗邪韓国が出てくる理由だが、狗邪韓国は魏志韓伝には出て来ず倭人伝にのみ現れるので、陳寿が狗邪韓国は倭国と考えていたことがわかる

狗邪韓国は弁辰狗邪国であり、官名も記されていない事から韓の一部と考えるのが妥当だろう。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:36:45.91
>>636
周旋五千里=12000里-7000里
0639日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:38:12.06
陳寿は倭人のクニを帯方郡から近い順に極めて整然と記述する

狗邪韓国 伽耶
対馬国 対馬
一大国(一支国) 壱岐
末盧国 肥前松浦郡
伊都国 筑前怡土郡
奴国 筑前儺県(ナノアガタ)
不彌国 筑前糟屋郡宇美または筑前穂波郡
投馬国 筑後上妻郡・下妻郡・三潴(ミヅマ)郡
邪馬台国 筑後山門郡(+肥後菊池郡山門郷)

狗奴国 肥後山鹿郡・菊池郡・託麻郡(古来、肥後は隈庄・隈部・隈本→熊本・託麻・球磨など「クマ」の音で呼ばれる地名が多い)

東に海を渡った倭種の国々 本州・四国

ちなみに吉野ケ里遺跡は
華奴蘇奴国 肥前神埼郡(元はカンノサキ)
または
弥奴国 肥前三根郡(ミネ)
だろう
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:39:44.41
魏志倭人伝は狗邪韓国と東に海を渡った倭種の国々以外は九州で完結する
0643日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>「女王国」の語は魏志倭人伝に5回出てくるが、出てくる箇所によって狭義の場合と広義の場合があることに注意


そんなものは無い
どちらも広義の女王国である
0645日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「広義の女王国」「狭義の女王国」なんて煩瑣になってる事こそが、何よりも九州説の誤りを証明しているといえよう
畿内説ならば全て「広義の女王国」で説明が付く
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:45:33.34
>>645
つかないよ
もういっぺん読んでご覧
あなたに読解力があればわかるはず
あれば、だ
0647日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

①狗邪韓国を倭国に含める
②邪馬台国を九州に比定する

上記2つのトンデモをやらかした結果、自女王国以北を説明できず(弁辰諸国になってしまう)悔し紛れに「狭義の女王国」なんてもんを発明したわけだな
飛んでもすぎる
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:48:28.72
自女王國以北其戸數道里可得略載
0649日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「狭義の女王国」「広義の女王国」とは、九州説にありがちな邪馬台国=女王国説では東の倭種が説明つかず(宇佐説ではないので)
悔し紛れに誕生した【キメラ】
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:51:31.17
>>647
朝鮮半島南部に倭人の地があったことは後漢書にも魏志韓伝にも書かれている
もちろん魏志倭人伝(のみ)に狗邪韓国が書かれているのも倭人のクニだからだ
0651琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/27(火) 01:51:54.99
崇神とやらは行灯山古墳とされる。その西に被葬者が居ないとされる天神山古墳がある。西殿塚が岱與、東が内裏。行灯山が内裏。はて?西の巫女は何処に?
崇神は古墳からも居たとしても卑弥呼の後。
0652日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

畿内説(関門海峡以東女王国説)では全て「広義の女王国」で説明が付く


こいつ>>636の九州説だと「帯方郡から7000里で狗邪韓国」と「帯方郡から女王国まで12000里」が合致せず悔し紛れに狭義の女王国
東の倭種とか都合のいい時だけ「広義の女王国」

トンデモ
0653日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「都合のいい様に毎回毎回女王国の領域変えちゃう説」に認定
今まで出会った邪馬台国九州論者の中で一番愚か
0654日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>650
倭に含まれない事を明示するため「韓国」と明記したのでは?
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:54:53.59
>>649 
あなたは偉そうな割に国語力・読解力にはっきり欠けている
眠いし明日は朝一でmtgだからいずれ説明してあげよう
0656日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>650
テンプレ

◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0657琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/27(火) 01:55:19.36
636.弁辰狗邪が狗邪韓国。倭国なら狗邪倭国。
0658日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>655
説明不要
過去スレからお前の主張は既に網羅済み
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:56:43.78
自女王國以北其戸數道里可得略載
女王国以北は戸数道里は記載できるが他は遠くてわからん
女王国は何処にあるんだ?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 01:57:07.31
>>658
いくらわかった気でいてもあなたははっきりと読解力がない
うぬぼれないように
0662日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>659
狗邪韓国は魏志韓伝に「弁辰狗邪国」として登場する
どちらも後の伽耶に比定される国であり、倭に含まれないのは当然である
0663日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>661
俺に読解力が無くても良い
俺が出会った九州説の中で一番の駄説だ
ハッキリ言って古田武彦よりも酷い
0664日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

臨機応変に女王国の版図を操作できるなんてご都合主義極まれり
過去スレ辿ったが、わけのわからない2つの用法を併用している理由を全く説明できてないみたい

ならば単なる妄想に過ぎない
0666日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>665
今度は冷笑か
本気でやってないからそんな適当な解釈ばかり開陳するんだよ
0667日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>帯方郡から女王国に至るまで一万二千里の内訳について、専門家も含めて正しく読めている人がビックリするほど少ないのでこれを説明し

先に宣戦布告したのはお前
専門家を卑下する大言壮語を吐くもんだからすごい説が登場するのかと思ったら、トンデモだった
0668日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

○○と解釈出来ます

へー。解釈の仕方なんていくらでもあるんだから当たり前だろ。何故、陳寿or原資料の編纂者が「狭義の女王国」「広義の女王国」をその都度その都度使い分けたのか説明しろよ
0669日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

①テンプレの「どこが」間違っているのか指摘しない

②魏志韓伝の弁辰狗邪國を無視(通説では狗邪韓國と同一視されているにも関わらず)

③陳寿or原資料の編纂者が「狭義の女王国」「広義の女王国」をその都度その都度使い分けた理由の説明無し


これで専門家の読み方が間違ってるだぁ?
あのさ、これ最早「俺vsお前」の戦いでも「九州説vs畿内説」の戦いでもないよ
全員敵に回してんだからな
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 02:18:23.76
トナカイのメンヘラは進行中のようだw
0672日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

狗邪韓国(加羅)倭論者ってさ
「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」が倭人の名前に見えるのかな

干岐は典型的な韓の称号だし、加羅はどう見ても韓人国家だと思うよ
0673日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏志韓伝
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接
韓の東西は海で南は倭に接する

もしかしてこの記述が根拠か?
東西は海しかなくてすぐ南は倭人国邑があるんだからそりゃそうだろ
全く決定的根拠たり得ないな
0674日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>帯方郡から女王国に至るまで一万二千里の内訳について、専門家も含めて正しく読めている人がビックリするほど少ないのでこれを説明し

そりゃビックリするわな
「女王国」の用法が狭義になったり広義になったり幾ら何でも都合良すぎるもの
0675日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 02:52:46.96
トンデモキチガイvsトンデモキチガイ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 03:00:53.14
畿内説は嘘の研究所
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 03:13:14.43
狭義広義とか論外だし女王国を別の物として捉える時点でご都合定義
普通に読めば邪馬台国自体が連合国家
0680日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 04:26:44.30
普通に読めば
邪馬台国は女王国を構成する
国々のひとつ
0681日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 06:01:47.88
もし狭義のとか広義のとかの区別があれば、陳寿が同じ言葉は使わないだろ
万人にわかるように書くはずだ
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 06:03:14.57
「俺だけ読み解いたんだぜ すげえだろ」的な虚栄心だな
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 06:13:33.71
陳寿は日本に来たことはないし資料を編集してるだけで
何から何までわかってるわけではないと思うぞ
0686日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:06:25.55
邪馬台国論争の土俵は不弥国の南にあるのだが畿内説はその土俵には決して上がる事が出来ない
0688日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:18:10.66
>>687
川を船で移動することすら知らないのにここにいるの?
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:18:47.48
ちなみに日田から有明海までは筑後川の水行で行けたからな
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:19:22.41
畿内説の人って日本史の知識なさそう
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:29:02.46
神武の東征の逆回りなら計算は合う
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:30:09.58
岡田宮ー宇佐ー日向
0695日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:32:26.05
独自研究をやってみたいんだよ それが間違ってもべつにかまわないし
わしがただの耄碌爺いでないことを証明してやるんだ
曲解、捏造なんでも来いよ わははははは
0696日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:32:45.74
岡田宮ー宇佐中津ー日田も合う
0697日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:32:56.88
>>694
妄想は出来ても、根拠遺跡は一切無し。   @阿波
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:36:15.48
>>697
西都原古墳はなんなんだ?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:38:00.82
>>697
わははは それこそが九州説よ 記紀を使い、神社の社伝を使い、地元の伝承を使う
怪しい資料も何でもありよ
曲解に曲解を重ねて自分の地元に邪馬台国を持ってくるのが九州説なんだ
真実なんて知らんわ
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:38:41.43
>>698
お墓がどうかしたか?   @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:39:48.82
>>699
>曲解に曲解を重ねて自分の地元に邪馬台国を持ってくるのが九州説なんだ

畿内説もな。   @阿波
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:42:38.95
海(不彌)と山(邪馬)の間にあるのは

渡し場(津=投馬)

簡単ですw
0703日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:42:45.41
>>699
>曲解に曲解を重ねて自分の地元に邪馬台国を持ってくるのが九州説なんだ

阿波説には負けるがな。   @阿波
0704日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:43:34.57
西都原81号墳は3世紀中〜後半で卑弥呼の時代にマッチする
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:48:10.64
>>700
環濠集落もあるの知らんの?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:51:03.37
曹魏を擬神化 タカミムスビ
黄幢を擬人化 タクハタチヂヒメ
黄憧を擬人化 オモイカネ

古代から日本人は擬人化させるのが得意のようだなw

塞曹掾士張政 タカクラジ
檄      金鵄

檄は「木」+「敫」
敫の意味: 光が四方に輝き広がるさま。

>神武東征での金鵄
『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。


簡単ですw
0710日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:51:21.76
広義狭義を自己都合で使い分けないと成立しない九州説
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:54:54.90
>>708

2005年9月3日
81号古墳から土器の中に遺体を納める土器棺の一部が見つかった事が2日わかった。
土器棺は弥生時代に用いられた埋葬形式。
宮崎大学柳沢一男教授は「81号墳が国内最古級の前方後円墳である可能性がさらに高まった」としている。
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。宮崎日日新聞記事より
0713日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:55:42.75
陳寿が倭国について知り尽くしてるとはとても思えんけどな
先人が残した資料を編纂しただけで
陳寿自身に内容の真偽の判断がすべてついたとは思えない
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:58:04.31
西都原は地元の隼人の墓だろう
早くにヤマト王権に服属したため
後代に皇后を輩出した
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:58:11.22
崇神は東征途中で日向で死んだとする口伝があるな
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 07:59:25.51
>>714
証拠は?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:03:21.20
魏志倭人伝に「女王国」が出てくるのは5か所
以下、それぞれの「女王国」が何を意味しているかを考える

1.(伊都国は)代々王がいて、皆女王国に従属している
⇒この女王国は邪馬台国連合すなわち「広義」と解される
(根拠)もしクニとしての邪馬台国に伊都国王が代々従属しているのであれば伊都国は独立したクニとは考えにくくその長は王ではなく官名で呼ばれるはずだ(魏志倭人伝に王がいるとされるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国の3か国のみであり、どのクニにも王がいる訳ではなく倭人地域で王はある程度特別な存在と解される)
また狭義で解すると卑弥呼が各国に共立された王であるという状況とも整合しない

2.女王国より北はその戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて詳細な情報は得られていない
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)魏志倭人伝がこれまでに戸数や距離を記載したのは対馬国、一大(一支)国、末蘆国、伊都国、奴国、不弥国
これらの国が全て邪馬台国連合の外側にあるとは到底解釈できない

3.帯方郡から女王国に至るには一万二千余里である
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)伊都国が邪馬台国連合に属していることは明らかだが、帯方郡からその伊都国までの距離が一万五百里
女王国はそこからさらに千五百里掛かるということは、この女王国は邪馬台国連合ではなく邪馬台国を指す

4.女王国より北は特に一大率を置いて検察する
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)この女王国を広義で解釈すると、一大率は邪馬台国連合より北の外国、例えば三韓諸国などを検察したことになり極めて不合理
したがって、この女王国は邪馬台国を指す

5.女王国の東に海を渡ること千余里でまた国が有り、皆倭種である
⇒この女王国は「狭義」とも「広義」とも解釈可能
(根拠)邪馬台国がすぐ東に海がある場所に立地している場合は狭義でも広義でも解釈できる
邪馬台国のすぐ東が海でなくとも邪馬台国連合のすぐ東に海がある場合は広義で解釈できる
邪馬台国の位置が確定していない以上、この文章だけでは狭義か広義か判断がつかない
0719日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:05:35.92
>>717
2004年の調査で国内最古級と報道された81号古墳がその後の調査で4世紀初頭以後に訂正
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:10:56.70
昔、邪馬壹=邪馬臺=邪馬台
今は、邪馬壹=邪馬臺から離れ、幽霊国=邪馬台国になってる
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:12:24.78
>>703
なら、かかってこい! 相手してやる。 ようかかってこんだろうが。  わははははは   @阿波
0723日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:17:14.19
>>699
自己紹介してんじゃねーぞカス。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:21:53.34
>>505

> >>503
> スッカスカの4世紀だって?面白いことを言うね
>
> 景行天皇の熊襲征伐とか仲哀天皇神功皇后の遠征とか、超高密度ではないか
> ワハハハ

九州の話ばかりですね。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:25:50.98
○○説とか言って沢山あるのは、良く言えば誤解してるからだろう
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:27:47.40
>>718
貴方の言うところの広義で読めば全て説明できるのに、自説を成立させるために狭義という概念を導入すること自体に疑問符がついている
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:28:17.12
>>590

> >>589
> 「女王国」は女王を共立する国家の総称である
> 卑弥呼を戴いているのは邪馬台国だけではない

言い訳にしか聞こえない。
考古学無視の妄想。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:30:47.70
>>727
全てを広義で解釈出来ないのは>>718を読めば明らか
むしろ全体的には狭義で解釈すべき箇所の方が多い
0732日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:32:37.82
>>719
4世紀にした根拠は?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:35:32.59
女王の王権は移動式だから地名にちなんだ名前はつけられなかったんだよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:35:35.96
>>734
証拠出せないのかな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:36:19.42
>>730
全然明らかじゃないw
解釈できないのは前提から間違っているからだ
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:39:57.43
>>740
伊都国以北は共立に参加してない
その一点だけで矛盾なくなる
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:41:53.13
>>739
周辺では埋葬後の可能性が高いな
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:42:54.25
>>744
土器棺が布留1式なのか?
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:43:11.20
邪馬台国が倭国にとって侵略地だとしたら、伊都国が邪馬台国に統属するのはおかしな話で女王国との表現は的を射てるわな
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:44:13.99
81号が布留1式ならホケノ山と同時期だな
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:46:04.38
>>723
幼稚園児の言い返し
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:46:44.29
畿内説は以下の珍説を真顔で主張する
・伊都国は女王を共立していない
・魏志倭人伝の「南」は南だったり東だったりする
・東海地方は3つの顔を持つ
 ①纒向で仲良く古墳を作った
 ②南の狗奴国として邪馬台国と戦争した
 ③東に伊勢湾を渡った倭種の国でもある

奇説珍説畿内説
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:47:51.81
>>750
ホケノ山が布留1式というのは素人の空想でしょ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:48:20.84
このスレの畿内説論者に共通しているのは「読解力がない」「国語力がかなり低い」ということ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:50:12.69
>>745
珍説と否定する根拠あるのか?
普通に読んで解釈するのが当然
0757日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:50:20.41
>>754
素人の空想は1の事だな
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:50:51.90
このスレの九州説論者に共通しているのは「収入がない」「知能がかなり低い」ということ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:51:06.01
魏志倭人伝には、天皇も古墳も書かれていない
見なかったと考えるが
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:51:27.22
ホケノ山は4世紀なので畿内説は崩壊しました。

『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井好

ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。その証拠は

1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。

2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。

3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。

4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。

5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。

6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:58:07.21
>>760
素人がいい加減な噂話を書き込んでいるだけ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 08:59:37.21
>>762
畿内説の素人の願望カキコw
0764伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/27(火) 09:01:59.84
>>759
弥生時代にはまだ天皇は居ない、居るのは王や大王、例えるなら大阪府知事、大阪市長レベル、知事会の会長が大王かもって感じ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:02:45.47
畿内説が纒向邪馬台国が伊都国を支配していたと主張する唯一の根拠が、那珂八幡古墳が箸墓のコピーであり博多湾沿岸のヤマト王権への服属の証だ、とする論
しかし那珂八幡古墳が纒向型ではなく独自型であることがわかった以上、上記のロジックは崩れ去った
卑弥呼の時代に大和の勢力が北部九州を支配していたと考えるべき文献上・考古学上の根拠は皆無だ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:15:05.93
つまり畿内説は反論できず
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:15:13.06
>>766
お前はキナイコシだな
0769日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:15:58.16
キナイコシって何よ?w
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:18:45.86
畿内説を妄信する狂人って意味か
0774日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:21:32.08
2:1のはずが5:3だから無関係だって?
あの特徴的な形状が無関係なところで自然発生的に偶然出現するのか?www
0775日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:23:31.84
>>774
そりゃ関係はあるだろうよ
どこかに共通のルーツはある(吉備か)

しかし纒向の古墳を北部九州が服属の証としてコピーしたとする主張はもはや成り立たない
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:24:04.91
>>765
いくらニセ情報流しても畿内説には歯が立たないよ
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:27:03.78
>>775
「纒向の古墳を北部九州が服属の証としてコピーしたとする主張」というのがデマ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:30:21.31
コロナワクチンと一緒だね
接種推奨、学者やマスコミが支持=畿内説
接種様子見、一部の知識人が支持=九州説
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:31:59.49
畿内説って考古学界のネズミ講らしいなw
0781日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:34:21.60
>>775
それって、纏向と共通の勢力の影響がすでに北部九州まで及んでいたということだぞ?
理解して発言しているのか?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:37:11.09
>>780
現実だよ
覗いて来いよw
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:37:51.56
>>781
いつもの曲解w
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:41:59.12
>>784
どこがどう曲解なのか説明できるの?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:43:30.34
例えば九州からはるばる畿内まで土器を買い付けに来ていた
と言うのならまだ話は聞ける
しかし実際は畿内から博多へ出稼ぎに来た連中が地元の胎土を使って下手くそな土器を作って生計を立てていた
だもんなw
0788日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:49:15.94
福岡に前方後円墳より先に前方後方墳が出来ているという時点で、古墳形式に政治的意味は無いということ
中国でもそうだった
0789日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 09:54:56.79
江戸時代に書かれた箸墓古墳らしいが、後に方形部分を追加する理由は何だろう?
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:05:05.74
箸墓古墳は基礎から前方後円墳の形状で建造されていることが確認されています
円墳説はとっくの昔に破綻してますよ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:11:20.12
>>792
トンデモだから、畿内説にもいろんな奴がいる。   @阿波
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:14:41.65
>>718
怪文書
0796日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>743
正解
>諸國畏憚之。とあり、自伊都国以北に関しては共立と性格が違うことは明白

狭義と広義を都度都度使い分けたご都合仮定の理由を説明できてない時点で古今東西空前絶後の駄説
0800日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

自伊都国以北は女王国共立に参加せず一大率による武断統治「諸國畏憚之」と魏志倭人伝の通り考えるだけで、全部解決
九州説だとそれが成立しなくなるから狭義と広義だの意味不明になる
0801日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

つまり>>718は九州説の誤りを認めた間抜けなコピペにほかならない
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:26:12.02
>>790
ホケノ山から見たら円墳に見えるだけ
0803日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

何度も質問しているのに、何故陳寿or原資料の作者が「狭義の女王国」「広義の女王国」をその都度その都度使い分けたのる意味不明な行動をしたのか説明が無い。
終わってる
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:29:08.98
邪馬台国論争の土俵は不弥国の南にあるのだが畿内説はその土俵にも上がれない。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:30:17.88
西都原とは垂仁天皇とされる人物と関連のある遺跡
最盛期は4世紀後半から5世紀前半だな

四国の勢力を通してヤマト王権と早くから交流した
いわゆる隼人と呼ばれる人々だが
5世紀ころに皇妃を輩出していることから
それほど差別されていたわけでもないようだ
0808日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:30:43.64
>>788
あるいは畿内も含めて日本中が毛人の前方後方墳体制下か
0809日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:33:35.65
人の流れは基本的に西から東だろ
関東は登呂遺跡の様子からも意外に早くから開けてた
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:36:37.71
1世紀の段階から、列島はここの九州説が思うよりずっと開けてた
2世紀になると交流も活発になり
けっして九州島内に収まるような話ではないな
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:37:17.88
>>808
縄文時代の研究である特性がわかってる
縄文人は無駄に派手な土器を作って威厳を示す事で戦争を避けていた

古墳など巨大モニュメントを作ることで威厳を示すというのは縄文人の文化だよ
0812日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「全て広義」で成立する畿内説
「広義狭義を自己都合で使い分け」なければ成立し得ない九州説

どちらが正しいのか火を見るよりも明らか
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:40:40.32
>>812
広義狭義を九州説の総意にしないでくれないか
そいつ一人が言ってるだけだから
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:41:44.94
九州説は事実誤認と決めつけ、アクロバチックな論理の構築、
文献の記述や考古資料の曲解で成り立っている
0819日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日本書紀・魏志倭人伝・隋書倭国伝

全てを無視した先の邪馬台国九州説
0822日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:44:25.86
猿が逮捕されたけど安本氏の名誉毀損をした畿内説の逮捕はまだかな?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:45:45.89
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
女王国以北は一大率を置いて諸國は畏憚している
常に伊都国に居る
共立した国が何処とか書いてない
0826日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>817
拡大解釈って、狭義広義自己都合で使い分け説のこと?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:47:48.75
>>803
使い分けてるのは魏志倭人伝であって自説の都合じゃない
0828日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>827
なぜ魏志倭人伝が使い分けたのか、説明がないね
0829日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「女王国伸縮説」
いや笑っちゃうよ
酷すぎるでしょ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:50:02.89
だから狭義広義は九州説とは関係ない
そいつが勝手に言ってるだけ
0831日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【魏志倭人伝&日本書紀崇神紀対応表】

①『倭国大乱を収めるために卑弥呼擁立した』:魏志倭人伝
①『流行り病で国民の半数が死に、百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった時に百襲姫(大物主憑依状態)を祀った』:日本書紀

②邪馬台国で卑弥呼に仕える官「弥馬獲支(ミマワキ)」:魏志倭人伝
②「“ミマキ”イリヒコ(崇神天皇)」:日本書紀

③邪馬台国で卑弥呼に仕える官「伊支馬(“イキマ”)」:魏志倭人伝
③崇神の子ども「“イクメ”イリヒコ(垂仁天皇)」:日本書紀

④卑弥呼の後に女王になった「臺与(トヨ)」:魏志倭人伝
④崇神の娘で日本最初の斎王「豊鍬入姫(“トヨ”スキイリヒメ)」:日本書紀

⑤径100余歩(約150m)とされる巨大な卑弥呼の墓:魏志倭人伝
⑤『昼は人が造り、夜は神が造る』と評されたほど尋常ではない百襲姫の大市古墳に対応。大市古墳の後円部(主体が眠る)も156m:日本書紀

⑥魏志倭人伝『卑弥呼が死んだ後に乱が起きた』:魏志倭人伝
⑥百襲姫死亡の次の記事に崇神帝による四道将軍派遣:日本書紀

これ、全て偶然の一致?
日本書紀編者は卑弥呼=神功皇后だと思い込んでるんで崇神紀を魏志倭人伝に寄せたとかあり得ないっすよ。つまり作為が介在せずして一致している。
もはや卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命で確定
0832日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

なぜ九州論者は日本書紀を無視し続けるのだろうか
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:52:13.25
>>828
基本的には倭=邪馬台=女王国なのよ
でも邪馬台を女王の所都だと勘違いしてるから矛盾が出るのよ
だから女王国なんて言葉を使った
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:54:09.72
>>831
倭国大乱で何年も王がいなかった話が疫病エピソードと同じに思える時点で話にならんなあ
0835日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>833
>基本的には倭=邪馬台=女王国なのよ

不弥国から水行20日・水行10日陸行1月進んだ先が邪馬台国だから違うね
0836日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>834
>百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった
0837日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:55:19.51
>>836
それのどこが王不在なのか
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:56:05.92
>>831
崇神を3世紀前半とするなら証拠を示せ
0839日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>837
王不在だなんて書かれていないな
各地の王が争っていたんだろ
0840日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:56:46.07
考古学の名を借りたネズミ講にご注意下さい

畿内説馬鹿学者による霊感商法詐欺事例

『出土品の一つ、祭祀(さいし)用と考えられるモモの種の年代が、卑弥呼の時代と重なるとした論文は、
邪馬台国畿内説を補強するとして新聞各紙を飾った。』

桃の種の発見場所は柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/AKoIOjv.png

建物と同時期のものでは無いと判明した

畿内説の言い訳:建物を取り壊した後で祭祀を行い桃を埋めたのだ

なぜ建物を取り壊したのか?
なぜ建物を壊した後に祭祀が必要だったのか?
未だなんの説明も無い
0841日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>838
纒向遺跡大型建物は構造的にも崇神天皇磯城瑞籬宮に他ならず、築造時期は庄内式前期であるから3世紀前半でよい
0842日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 10:59:20.71
>>839
各地の王が争っていた話が疫病エピソードにすり替わるアクロバティックな曲解が畿内説か
0843日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>842
疫病から政情不安に発展したんだろ
>百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった
0844日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:00:36.32
>>843
そもそも中国の史書のどこに疫病の話が出てくる?
0845日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>844
中国の史書だけ見てどうする
韓国の史書からは倭国大乱当時食料不足に陥っていた事が窺えるし、我が国の史書からは疫病まで流行っていた事が窺える

横断的に立体的に資料を見て考察せねばなるまい
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:03:02.71
>>845
>横断的に立体的に資料を見て考察せねばなるまい
じゃあ後漢書に暦年主なしってちゃんと書かれてるぞ
0847日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向遺跡から磯城瑞籬宮が発見された事で崇神天皇の実在性は確固たる物となり、また大叔母の百襲姫(卑弥呼)が御座す神浅茅原も纒向周辺だと判明したのである
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:05:17.21
>>803
なぜ陳寿が使い分けているかはわからない
しかし読解力があれば「女王国」は狭義に解釈しなければ意味が通らない部分と広義に解釈しなければ意味が通らない部分がある
これは畿内説だ九州説だとは関係なく純粋に読解力・国語力の問題
0849日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>846
倭国全体を代表する主(倭国王)が居なくなっただけであって
国内的には王(きみ)同士の内戦だった筈だよ
0850日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>848
>なぜ陳寿が使い分けているかはわからない
では妄想に過ぎない

>しかし読解力があれば「女王国」は狭義に解釈しなければ意味が通らない部分と広義に解釈しなければ意味が通らない部分がある
畿内説ならば全て広義で意味が通る
0851日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:06:58.35
>>849
だから王不在じゃねーか
何言ってんだこいつ
0853日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>851
そりゃ内戦してるんだから倭王は不在だろうな
だからどうしたと
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:08:45.14
>>853
どこにも疫病エピソードとの関係がない
0857日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>諸國畏憚之。とあり、自伊都国以北に関しては共立と性格が違うことは明白

狭義と広義を都度都度使い分けたご都合仮定の理由を説明できてない時点で古今東西空前絶後の駄説。
0859日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>854
魏志倭人伝に書かれているのは
>百姓が流浪し背いて治める事すら難しくなった
の部分だけなんだろうな

三国史記にある食糧不足の件も倭人条には記載が無いしそんなもんだろ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:11:01.43
>>841
他ならないとする根拠が乏しい
0861日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>860
他に何があるんだ?
日本書紀を読んだこと無いのか
0862日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:12:44.22
>>859
長年大倭王が不在で卑弥呼を共立した
崇神がモモソを祀った

これが同じに思えるのはあなただけだよ
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:13:01.19
>>850
>>833
0864日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>863
>基本的には倭=邪馬台=女王国なのよ

不弥国から水行20日・水行10日陸行1月進んだ先が邪馬台国だから違うね
0865日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:15:35.54
>>848
>>833
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:15:53.69
>>861
日本書紀だと1世紀の人物になっとるがな
0867日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>862
日本書紀は天皇中心に描いている
考古学的には吉備がヤマトに進出した可能性が濃厚だが、紀では逆にヤマトが吉備へ進出した事になっているのは周知の事実

よって共立の事実は伏せられた
※但し、依然として百襲姫の系譜(吉備津彦・神婚相手の大物主)は吉備や出雲との深い関係を示唆している。
0869日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>858
畿内説では「女王国以北」は「関門海峡以西」になる
それで全て解決
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:20:23.99
狭義と広義を自説に都合よく使い分けるつもりは無いが記述がそうなってるからな
確かに九州説は曖昧にして使い分けてるけど
0871日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:22:02.01
>>841
>纒向遺跡大型建物は構造的にも崇神天皇磯城瑞籬宮に他ならず、築造時期は庄内式前期であるから3世紀前半でよい

⇒大型建物は3世紀後半以降

https://web.archive.org/web/20120627155838/http://www.sankei-kansai.com/2011/04/28/20110428-052260.php

「邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、同市教委が27日、発表した。建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという。」
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:23:51.80
>>809
>関東は登呂遺跡の様子からも意外に早くから開けてた

関東忌部のお陰だ。   @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:23:52.86
>>873
ただの妄想ゆーちゅーばー
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:24:49.92
>>871
その建物を取り壊したあとに埋めた桃の種の年代が3世紀初頭だと言ってたな

畿内説ありきだと編年がめちゃくちゃになるいつもの光景
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:25:17.89
>>869
あらま、解決したよ!
畿内説信者の妄想の世界ではw

はい、やはり妄想畿内説
0879日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:25:24.84
>>809
>関東は登呂遺跡の様子からも意外に早くから開けてた

関東忌部のお陰だ。   @阿波
0880日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>871
別の大型建物じゃん
垂仁天皇の宮では
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:26:48.68
>>877
おまえがそうしてるだけだろ
なんで同時期に古墳が固まるんだよ?
0884日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>881
いやスレを荒らしてるのは畿内説スレに首突っ込んできてるお前らだろ

75 1 ◆ondZSOlfxeS6 2023/06/25(日) 17:06:04.04
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:28:13.36
魏志倭人伝によれば、当時は統一国家も統一倭王も居ない
卑弥呼の他に男王も居たぐらいだから
0887日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:30:53.51
>>886
どういう事よ?
奈良の古墳はみんな4世紀なんだろ?
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:32:53.65
畿内説「ホケノ山が4世紀だと困るんです」
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:34:42.07
>>889
5世紀には古墳は大阪に移転してるから必然的に4世紀しかない
0892日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

韓国の最新の研究では古式新羅伽耶式土器の出現が3世紀半ばまで遡り、共伴する布留0式も同時期の土器だと言うことが判明したのである
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:41:03.77
トナカイは韓国大好きだなw
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:41:39.38
畿内説は韓国のスパイ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:42:22.28
>>887
古墳は4世紀以降だろうね
奈良は古墳造園特別区域だったから古墳が固まってるんだろ
被葬者は地元出身とは限らない
それ故に同時期に多数の古墳が建造されているわけで
何も難しいことは無い
0896日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【4世紀の天皇陵】

景行天皇陵:渋谷向山古墳
成務天皇陵:佐紀石塚山古墳
仲哀天皇真陵:津堂城山古墳
仲哀天皇偽陵:五色塚古墳
神功皇后陵:五社神古墳
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:44:11.59
>>892
卑弥呼時代は2世紀に始まってるのだが?
3世紀になると畿内でも何かやってたみたいですね
それだけの事
0898日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>897
布留0式(古相)に卑弥呼の陵墓、箸墓古墳が築造されたわけだね
0899日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もういいよ
日本書紀無視するのはやめようよ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:47:51.89
>>893
トナカイが好きなのはソ連の傀儡だった北だと思うぞ
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:47:53.39
>>895
5世紀には大阪方面に移ってるから4世紀以降じゃなく4世紀だけだな
0902日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もうじき中塚先生の酸素同位体比年輪年代測定法(標準パターン完全公開)で纒向遺跡の年代観が不可逆的に確定し、崇神天皇4世紀説が地球上から消滅することになろう
逃げるなら今のうちだぞ
0903日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:50:38.53
>>897
伊勢遺跡だ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 11:54:31.14
大阪のは一つが大きいから目立つけど総面積は奈良が圧倒的
それだけ数が多いってことだ
0908日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

中塚先生は『纒向学の最前線』で「纏向出土の杭材で興味深い年代」と述べているから、もう半分歴博の推定に近い年代が出てるんだろう

邪馬台国東遷説は消滅し「邪馬台国畿内説vs邪馬台国筑紫の女酋長説の一騎打ち」になる
0910日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

酸素同位体比年輪年代測定法はノーベル賞級の発明だよね
世界中の考古学を一変させた
0912日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:03:04.79
>>891
>登呂遺跡は静岡

東海忌部のお陰。   @阿波
0915日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>913
ハイテクだよ
もう誰も言い訳できなくなる
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:04:56.93
>>895
>被葬者は地元出身とは限らない

地元出身にそんな力はない。 すべて「倭人(阿波勢力)」。   @阿波
0917日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

「纏向出土の杭材で興味深い年代」とまで言ってるのに「纒向の杭材か不明」とはこれ如何に
0918日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:05:49.73
>>915
お前にとってはハイテクなのかwww
同位体の対象元素を変えるだけの茶番にノーベル賞とかwww
さすが文系未満
0919日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:06:31.67
畿内説の人には朗報じゃん
2〜3世紀のものとお墨付きがもらえるでしょ?
0922日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

1年単位で完全に年代を特定出来る酸素同位体比年輪年代測定法に勝る理化学分析無し
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:15:18.06
>>833
広義とか狭義とか言い出す前に、なんでその等式に疑問を持たないんだよwww
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:17:33.55
年代測定が正しいか間違ってるか確認できる知識はない
だからこの話は言い張るだけになって嫌なのよ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:19:30.19
まず最初に「纏向が崇神の遺跡と言う根拠は存在しない」ことに気がつくのはいつごろか
0926日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

酸素同位体比年輪年代測定法が正しい事はダブルチェックで判明済み
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:20:45.81
>>923
中国人「何処から来た?」
日本人「ヤマトから」
中国人「倭の邪馬臺国から来たんだな」
倭(ワ)は中国語だしそれに該当する日本語があったはず
自分の国の名前が無いなんて考え難い
0928日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>927
邪馬台国以前にヤマトが音写されていないのでNG
0929日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:24:19.52
>>927
だからなに?
等式の根拠に繋がるの、それ?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:24:33.64
>>927
だからなに?
等式の根拠に繋がるの、それ?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:25:18.11
おそらく倭面土がヤマトだろうけどこれが漢委奴国の後継の大倭王だろうな
もうその頃から九州は30国連合やってたんだなって
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:28:52.38
>>929
中国側の勘違いだよ
倭は日本だよね
日本人はヤマト(日本)から来たと言ったのに
中国人は倭の邪馬臺国から来たと思ったんだよ
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:30:41.46
畿内説の歴史

・歴博が独自データで年代測定し箸墓古墳は248年代ニダ
・前方後円墳の試作であるホケノ山古墳は4世紀なので箸墓古墳より新しいニダ?
・箸墓古墳はもともと円墳だったニダ
・卑弥呼の墓候補を纏向石塚古墳に変えたいニダ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:30:59.35
基本的に何も変わらなかった
すべては歴史の中で見つけられる事象に過ぎないツマラナイものだった
日本は各地域で見下し合い、時に争い、時に離合集散を繰り返した
半島は起源主張と盗みを繰り返し、
大陸は周辺国を侮辱しながら人民を送り込み、何でも自分のモノとした
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:31:39.07
邪馬台国はシマタイ国。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:32:45.30
>>932
等式は?
そもそも「倭は日本だよね」というフレーズにげんなり
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:32:46.02
>>933
どういう事かわからんが倭国者古倭奴国也であり
倭の極南界の倭奴国だよな
日本列島の事だ
0940日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:34:42.75
漢委奴国王金印も曹操の鉄鏡も九州から出てきたわけで実はとっくに勝負はついてる
0941日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

日下部氏が畿内から持ち込んだあの鉄鏡ね
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:35:25.41
>>937
そこは魏志では半島を含むのと倭人在帶方東南大海之中依山?為國邑で
日本列島のみと二通り使い分けてる
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:36:36.04
博多は伊都を畏怖して従属していたわけだから、博多に畿内と関係する者が住み着いていたとしても、何にも意味はない。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:36:39.13
魏志倭人伝に「女王国」が出てくるのは5か所
以下、それぞれの「女王国」が何を意味しているか、畿内説・九州説の都合抜きに純粋に文章として解釈する

1.(伊都国は)代々王がいて、皆女王国に従属している
⇒この女王国は邪馬台国連合すなわち「広義」と解される
(根拠)もしクニとしての邪馬台国に伊都国王が代々従属しているのであれば伊都国は独立したクニとは考えにくくその長は王ではなく官名で呼ばれるはずだ(魏志倭人伝に王がいるとされるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国の3か国のみであり、どのクニにも王がいる訳ではなく倭人地域で王はある程度特別な存在と解される)
また狭義で解すると卑弥呼が各国に共立された王であるという状況とも整合しない

2.女王国より北はその戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて詳細な情報は得られていない
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)魏志倭人伝がこれまでに戸数や距離を記載したのは対馬国、一大(一支)国、末蘆国、伊都国、奴国、不弥国
これらの国が全て邪馬台国連合の外側にあるとは到底解釈できない

3.帯方郡から女王国に至るには一万二千余里である
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)伊都国が邪馬台国連合に属していることは明らかだが、帯方郡からその伊都国までの距離が一万五百里
女王国はそこからさらに千五百里掛かるということは、この女王国は邪馬台国連合ではなく邪馬台国を指す

4.女王国より北は特に一大率を置いて検察する
⇒この女王国は邪馬台国すなわち「狭義」と解される
(根拠)この女王国を広義で解釈すると、一大率は邪馬台国連合より北の外国、例えば三韓諸国などを検察したことになり極めて不合理
したがって、この女王国は邪馬台国を指す

5.女王国の東に海を渡ること千余里でまた国が有り、皆倭種である
⇒この女王国は「狭義」とも「広義」とも解釈可能
(根拠)邪馬台国がすぐ東に海がある場所に立地している場合は狭義でも広義でも解釈できる
邪馬台国のすぐ東が海でなくとも邪馬台国連合のすぐ東に海がある場合は広義で解釈できる
邪馬台国の位置が確定していない以上、この文章だけでは狭義か広義か判断がつかない
0945日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>943
ほら
俺の想定内のレスしかしてこない
つまらないんだよなぁ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:39:00.71
>>807

西都原は、天孫邇邇芸の息子の海幸彦が筑紫を追われて行き着いた先であり、隼人は海幸彦を祖としているそうです。
隼人の国が西都原古墳群と都万神社を中心とする投馬国です。
0948日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

俺は元々邪馬台国九州説(博多湾岸説)だった人間だからね
九州論者の考えてることが手に取るように解るんよ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:39:53.21
帯方郡から女王国に至るまで一万二千里の内訳について、専門家も含めて正しく読めている人がビックリするほど少ないのでこれを説明し、その論を踏まえて邪馬台国の場所を比定する

まず帯方郡から狗邪韓国までが七千里の部分
ここで狗邪韓国が出てくる理由だが、狗邪韓国は魏志韓伝には出て来ず倭人伝にのみ現れるので、陳寿が狗邪韓国は倭国と考えていたと思われる
つまり、
帯方郡から倭国の北端まで七千里・・・①

また邪馬台国の南にあって女王に属さない狗奴国の説明をした後で、帯方郡から女王国まで一万二千里の記述がある
邪馬台国の南の狗奴国は女王に属さないので邪馬台国は倭国の南端である
つまり、
帯方郡から倭国の南端まで一万二千里・・・②

ちなみにこの部分の女王国が狭義すなわち邪馬台国であることは自明だ(「女王国」の語は魏志倭人伝に5回出てくるが、出てくる箇所によって狭義の場合と広義の場合があることに注意)

さらにしばらく後に、倭地を訪問すると、島伝いに陸地を進んで巡り歩くこと五千里と出てくる
つまり、
倭国の北端から南端まで五千里・・・③

上記は、①+③=②という関係になる

陳寿は狗邪韓国を倭国の北端、邪馬台国を倭国の南端とし、邪馬台国の南に狗奴国があるとする
帯方郡から伊都国までを足すと一万五百里なので、伊都国から南の邪馬台国までは残り一千五百里となる(12,000-10,500=1,500)
魏志韓伝は大凡300km四方の三韓地域を方四千里と書く
すなわち一里=75m程度となる
魏志倭人伝の一里も同様の距離感となっている
したがって伊都国から邪馬台国までは南に100km程度の道のり(陳寿は「周旋」と書くが、これは巡り歩くことの意味なので直線ではなく道のりで距離を考えている)となる

私が邪馬台国を筑後国山門郡(+肥後国菊池郡山門郷)に比定し、その南の狗奴国を肥後の菊池川流域以南の地域に比定するのは上記のような位置関係の考察を踏まえてのもの
菊池川流域あたりは弥生遺跡や鉄鏃の出土も多く、邪馬台国と狗奴国の領土を巡る争いがあったことが窺われる
0952日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

結局狭義広義クンの立ってる場所は、俺が一年前に通過した地点なのよね
すべてが遅れてる
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:41:17.82
陳寿は倭人のクニを帯方郡から近い順に極めて整然と記述する

狗邪韓国 伽耶
対馬国 対馬
一大国(一支国) 壱岐
末盧国 肥前松浦郡
伊都国 筑前怡土郡
奴国 筑前儺県(ナノアガタ)
不彌国 筑前糟屋郡宇美または筑前穂波郡
投馬国 筑後上妻郡・下妻郡・三潴(ミヅマ)郡
邪馬台国 筑後山門郡(+肥後菊池郡山門郷)

狗奴国 肥後山鹿郡・菊池郡・託麻郡(古来、肥後は隈庄・隈部・隈本→熊本・託麻・球磨など「クマ」の音で呼ばれる地名が多い)

東に海を渡った倭種の国々 本州・四国

ちなみに吉野ケ里遺跡は
華奴蘇奴国 肥前神埼郡(元はカンノサキ)
または
弥奴国 肥前三根郡(ミネ)
だろう
0954日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:42:19.83
>>942
倭という言葉には多義性がある
倭地という意味でも倭人という意味でももっと広い
黒歯国はインドネシアって言われてるな

で等式は?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:42:44.16
>>849

記紀で崇神天皇の御代に大王不在となり王が互いに戦ったのか?
そんなこと記紀に書いてないだろ?
0957日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

連合の最南部までが12000里
って孫栄健『中国「正史」がすべてを解いていた』でもう見たわ

使い古され過ぎてて何も面白くない
狭義広義だけは突飛で面白いけど
0958日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:42:54.50
俺も元々九州説
そらね細かい矛盾に目をつむり行程だけ読めば九州だよ
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:43:52.39
>>954
言ってる意味がわからない
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:45:31.04
>>896

こりゃ畿内説は無理ですね。
卑弥呼が共立された2世紀末と開きがありすぎる。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:45:56.96
女王はアマテラス
女王国はアマテラス信仰が拡がってる領域
卑弥呼はアマテラスの子(児)

簡単ですw
0962日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>960
卑弥呼(百襲姫)は孝霊天皇の皇女ですよ
妥当だと思いますがね。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:47:02.67
>>960
天皇も皇后もみなさん居ないんですけどね
0965日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:47:42.61
>>944
伊都国王が代々居て皆女王に属したなら、女王も代々居たわけだ

九州で確定だろ

そんな痕跡は纏向には無いし
0966日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

■畿内勢力が九州に進出したのは景行天皇の熊襲征伐以降
■奴国に前方後円墳があっても伊都国支配の証拠にならない
■12000里


これ、ぜーんぶ踏まえた上で畿内説なんだよな
むしろ面白いほど上記すべてが畿内説と一致するのよ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:49:03.32
>>959
倭という地域は日本列島と朝鮮半島だけを指しているわけではない
時代や文脈によっても変化しているが、東夷の地理情報に乏しかった時代にはインドネシアなどを含む広範を倭の地としていた
「倭は日本だよな」はそれだけだ噴飯もの
0970日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>967
僕はまだ社会人じゃないよ
大学生だし
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:49:09.83
>>965
女王も代々居たってそこからおかしいよね
なんで女王国なんだ?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:49:19.72
狭義と広義は実際に魏志倭人伝で書かれている「女王国」の意味を一つ一つ考えれば必然的に導かれる
0973日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

一大率を派遣していたのは日本海勢力(出雲)であるという事実に辿り着いたのは僕だけかね?

みんな遅いな
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:51:14.33
>>969
倭人の住む地域が倭だろ
勿論中国人に地形とかわからんだろうが
0976日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>972
九州説の場合、整合させるために「狭義」「広義」を併用しなければならない
畿内説の場合「広義」だけで整合する
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:52:29.97
>>941
また嘘つく
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:52:55.96
>>940
そこはオマケ
九州の遺跡は多重環濠集落で物見櫓、祭殿、大型建造物があり、鉄鏃や矛などの武器、絹製品が出土している
吉野ヶ里なんて戦死者の甕棺墓や、巫女の墳墓まである
そして中国北部(魏)や半島より暖かな気候
魏志倭人伝の世界観と一致してんのは九州
0979日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

681 日本@名無史さん sage 2023/06/27(火) 06:01:47.88
もし狭義のとか広義のとかの区別があれば、陳寿が同じ言葉は使わないだろ
万人にわかるように書くはずだ
0980日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『女王国伸縮説』は全会一致で退場
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:55:19.85
>>979
資料がバラバラだからそれは違うわな
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:55:44.47
投馬国や奴国はドイツやフランスみたいなもの
女王を代表にしてEUのような連合を構成している
この例で言えば、邪馬台国はベルギーにあたる
魏から倭王に任じられたられたのは、ヨーロッパの代表者として認められたということ

倭=邪馬台=女王国なんていうのは、ヨーロッパ=ベルギー=EUだよねって言ってるのと同じ
0983日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>982
面白い
かなり正解に近いと思う
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:57:14.27
>>976
その解釈をする場合、
①「女王国」は本州(四国も含む?)の連合で北部九州は「女王国」に含まれないが女王国に服属はしている(一つ理解しにくい状況)という前提
②陳寿は少なくとも魏志倭人伝の一部で南と東を間違えているという前提
が必要になる

これぞ邪馬台国を畿内に持ってきたいがための恣意的解釈に他ならない
私の解釈は純粋に文章読解として自然に導かれる
邪馬台国が畿内なのか九州なのかはその後の話だ
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:57:23.41
福岡では那珂八幡古墳より前に、東日本の主流だった前方後方墳「焼きノ峠古墳」が造られている
(中略)
よって畿内説はガセ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 12:59:35.52
>>971
北部九州はもともと女王国だった

その女王に東の倭種の国もあやかる事となった

だろうよ
0989日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>984
>一つ理解しにくい

魏志倭人伝に「諸國畏憚之」と明記されており、自伊都国以北に関しては性質の違う事が窺える。
「女王国」の構成国家ではなく外部的に統属しているが故に武力的な統治を受けている。むしろ自然な読みだな
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:00:51.90
>>988
ずっと女王じゃないだろうになんで女王国なんだ?
0991日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

わざわざ一大率を置かれて武力的に統治されている地域が、共立に参加していただって?その方が可笑しいね
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:01:58.10
トとは読まないとか拘ってヤマタノオロチが全く出てこないのもねぇ
越前だよ
それまでは越前の勢力が中国地方までを支配していた、それが出雲の話
越前の平定後にそれを取り込んで討伐隊は近畿で発展
越前から近畿ぐらいまでヤマタだったんだろ
討伐、派遣したつもりの九州勢力はその後、衰退
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:02:04.45
一国と大国が大乱で共立

鉄輸入ルートの分岐国として一大国が爆誕

その航海ルートを監視する一大率

一国はアマテラス天孫日向族
大国はスサノオ大国主海人族

のちに畿内にイワレヒコが跡国を建国
これが山跡国

簡単ですw
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:02:07.56
男王の時代が70-80年
これは漢委奴国王から倭面土国をへて九州北部の30国連合のことだな
そして桓霊の間(146-189)倭国が大いに乱れて王不在の時代が続いた
そんな地域で共立されたのが卑弥呼という女王
0995日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:02:48.51
>>991
一大率が伊都国王なら矛盾しない
0996日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>995
つまり矛盾を妄想で埋めていると
0997日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

素直に考えろ
畿内説なら最初から矛盾しないんだよ
狭義も広義も併用する必要は無いし、一大率を伊都国王に比定する必要もない
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:04:41.75
>>996
伊都国で一番偉い人だしおかしくないでしょ
0999日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>998
国王が刺史のような働きをするのか?
1000日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/27(火) 13:06:05.43
>>999
はい
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1日 20時間 45分 6秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況