邪馬台国畿内説 Part914
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1687677659/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 「日本」という国号は、もともとは中国からみて日が昇るところ、つまり朝鮮半島の西部(百済)を指すものだった
ジャップは人種も言語も国名もぜんぶ半島系だよ。「日本人」とかいう架空民族をつくりあげて、そういうものになりすましているだけ
http://sakuwa.com/yz.html
>東野治之・奈良大教授(日本古代史)
>「『日本』は百済の残党の活動,『風谷・・・』は高句麗が唐の侵攻に備える様子を記しているのでは」
>中国・鄭州大の葛継勇副教授
>「『日本』と『風谷』『扶桑』と『盤桃』は対句で、ともに東方を指す言葉。抵抗する百済の残党のことを指している」 「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」
「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」
「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」
「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」 O1b2には色々な型があり
大阪に確実に百済系(濊系)と見られるO1b2型が20%以上もいるのは畿内政権=百済同系説を推していると言わざるを得ない
百済ハプログループO1b2-L682
https://i.imgur.com/IjCtWvl.png もう3世紀中頃は古墳時代と決着がついてるのに、なんで九州説老人は抵抗してるんだ 畿内説に反論できない九州説がテンプレを目の敵にしてるからな
これまでもしつこく偽スレを立てたりスレ立て妨害したりしてきた >>86
全然ついてないよ
箸墓は3世紀後半とか台与の墓とする畿内説考古学者も多い >>91
九州説は考古学の話が全然出来ないから勝ち目がない >>86
北部九州で卑弥呼が死んだ頃、東の倭種の国で古墳時代が始まったんですね
わかります >>91
開けてないから何もわからないよね
ミュー粒子の透視調査でかなり新しいと判明してたみたいだけどw >>91
卑弥呼の生前に古墳時代が始まっちゃってるんだから決着はついているのでは? >>95
もっと早いよ
卑弥呼が生まれる前から東日本では前方後方墳が造られ始めてるから >>94
ガセネタ
ミュー粒子の透視調査じゃ、古い新しいはわからない >>94
開けてなくても、葺石を見れば4世紀の築造とすぐ分かる。 @阿波 >>96
>卑弥呼が生まれる前から東日本では前方後方墳が造られ始めてるから
証拠なし なんで前方後方墳はなかったみたいに無視されてしまうん? 考古学は歴史捏造するだけの簡単なお仕事です
実際のところ古墳時代は2世紀の東日本の前方後方墳で始まっています
奈良盆地の前方後円墳から始まったわけではありません
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
前方後円墳より先に、遠く離れた北部九州にも造られています 弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
これが通説 >>89
1は何度もスレ立てミスってるし、前回も2つスレ立てて片方は放置、
今回は何時間も出遅れでのスレ立て、
頭を冷やした方が良いと思うよ。 前方後方墳というと誤解をまねきそうだな
方墳に通路が着いた形
厳密には定型化した前方後方墳とは違う >>107
>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
まさにその画一的特徴は、古墳王国「阿波」の墓制である。 @阿波 >>105
>考古学は歴史捏造するだけの簡単なお仕事です
あなたは証拠のつもりで出した図も考古学者の作ったものですが? >>107
>その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
そんな大層なものが、「卑彌呼」の時代にある訳もなく、まぎれなく「倭人(阿波勢力)」の全国進出を物語っている。 @阿波
j 方形周溝墓なら珍しくなくて、それにお参りする通路がついた形
そりゃ古いだろ >>113
畿内説統一教会のエセ考古学者の話ですが?
高尾山古墳は箸墓古墳より古い時代のものですが寺何とかという畿内説な馬鹿学者が1人だけ280年頃だと言い張ってましたよ >>105 の出した廻間T式の年代は賛成者が少ないので証拠能力が弱い >>117
なお福岡には前方後円墳の那珂八幡古墳より先に前方後方墳の焼ノ峠古墳が造られています >>121
いいんだよ。 それで収入を得ているプロなんだから。 @阿波 あたかも卑弥呼が前方後円墳で古墳時代をスタートさせたかのような印象操作はいつになったら修正されるのでしょうか?
日本の学問の恥ですよね 印象操作だよなあ
埴輪あるなら崇神じゃなくて垂仁の時代だろうし
そもそもモモソの墓かどうかすらわからんだろっていう モモソは奥さんだから
一緒に埋葬されただけだろうさw
本来の墓主はオオモノヌシ >>124
> 印象操作だよなあ
>埴輪あるなら崇神じゃなくて垂仁の時代だろうし
それは記紀の話で考古学と無関係
それこそ九州説の印象操作だな
垂仁天皇のアレは形象埴輪の話だろ
形象埴輪と特殊器台・円筒埴輪を混同するなよ 土師氏の墓 → 7世紀に日本に箸が伝来 → 後付けでモモソのエピソード創作 → 箸墓と漢字をあてる
そもそも垂仁天皇陵より遥かに古い古墳から特殊器台が見つかってる時点でねぇ
記紀に拠れば垂仁天皇の時代までは殉葬やってたわけだから、崇神や百襲には当然殉葬者がいたことになる
これは魏志倭人伝の記述と符合し、九州説は終わる >>123
>あたかも卑弥呼が前方後円墳で古墳時代をスタートさせたかのような印象操作は
そんな誰も言ってない話を自作して畿内説を批判したような芝居をするとは、あなたの行為は印象操作そのものだな
恥を知るべし
記紀を無視するのが九州説だからね
記紀を読めば、殉葬者が居て後円部径100余歩の箸墓こそ卑弥呼の陵墓だと解るんよ >>119
>なお福岡には前方後円墳の那珂八幡古墳より先に前方後方墳の焼ノ峠古墳が造られています
証拠は? 卑弥呼の墓には100人の徇葬者がいるはずなので埴輪が出てきたらハズレです >>128
箸墓古墳の呼び名は大市墓だよな
記紀によればモモソヒメは大市(纒向)に葬られたとの事 古墳に決まった定義があるわけではないし
弥生時代の方形墳丘墓、円形墳丘墓などに通路がついた形というのが
あの形の始まりで そう考えれば古いものはまだこれからも見つかりそうだけど
前方部が極端に低い形のものを古墳と言っていいかは難しい >>130
前方後円墳に殉葬の痕跡は無い
構造上も無理
>>139
つまり記紀無視?
>前方後円墳に殉葬の痕跡は無い
箸墓古墳を根掘り葉掘りしてみなければ解らないね
記紀に拠れば、垂仁天皇以前のヤマトに殉葬の風習があった事は確実だから
九州説ってすぐ記紀を無視するよね >>138
>古墳に決まった定義があるわけではないし
あるんだが 畿内説お得意のスッとぼけw
そろそろキナイコシモードに入って証拠は?を繰り返すだけ 箸墓がモモソの墓ということにこだわってる考古学者はそう多くない
てかモモソとかは本来、考古学で扱うものではないだろう >>145
物理的定義じゃなくて都合上の定義だろ
いつでもどこでも自作自演の畿内説だからなw >>141
埴輪の意味くらい自分で調べろよ
文献上では『日本書紀』の垂仁天皇32年条に、
野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める
代わりに土で作った人馬を立てることを提案したところ、
天皇が喜びその通りにしたとする記述があり、
これが埴輪の始まりとされる。 >>142
>>>1が豪語してたよな
証拠は?
九州説作り話大杉 >>143
箸墓古墳と同時期同型の古墳が京都の向日市にもある
そいつ掘ってみりゃいいのにさ
土部(はじべ)100人を呼び寄せました。そして自ら土部を率いて埴(はにつち)をとり、人や馬などいろいろな形のものを作って献上し、この土物(はに)を生きた人に替えて陵墓に立てることを提案したのです。
九州説は特殊器台や円筒埴輪が、人や馬の形をしているように見えるらしい
幻覚かな >>145
定型化されたものに関してはあるだろ
しかし弥生墳丘墓と古墳の区別ははっきりしてない >>152
それを中国人が殉葬と記録するわけないだろ低偏差値
>>154
あ、お前マジでアホなのか
これ垂仁天皇の話だぞ >>147
>てかモモソとかは本来、考古学で扱うものではないだろう
しかも倭国大乱で王が居なかったってはっきりかかれてるのに卑弥呼はモモソとか崇神の立場がなさすぎて草
垂仁天皇の時代に初めて【形象埴輪】が誕生して、殉葬の代わりにしたってだけ
つまり百襲姫の時代には殉葬があった >>146
>畿内説お得意のスッとぼけw
>そろそろキナイコシモードに入って証拠は?を繰り返すだけ
九州説がなんの証拠もない事ばかり言うからだ
レストランで飯食って金払わずに帰ろうとすれば「お代は?」と言われるのと同じ
九州説信者は社会常識が無いよ そうそう王が居なかった国30国が卑弥呼を共立したんだよな
BC660年から倭王が途絶えた事無いとする畿内説は予選失格だ 崇神「卑弥呼BBAが死んでようやく俺の出番やな!」
各国「おまえは引っ込んどれや」
天皇家が倭王輩出したのは百襲姫が初めてだろう
それ以前は単なるヤマト地方の土豪に過ぎない 日本語で書くと
畿内説がなんの証拠もない事ばかり言うからだ
レストランで飯食って金払わずに帰ろうとすれば「お代は?」と言われるのと同じ
畿内説信者は社会常識が無いよ
>>161
そして妥協案として、娘の豊鍬入姫を祭祀王にしたわけだな
豊鍬入姫つまりトヨ 埴輪の置き方が殉葬者の並べ方
100余歩の経路に100余人の殉葬者
まさに埴輪の並べ方・置き方と合ってる このところ確かに古い前方後方形の墳墓はよく報告されるようになった
しかし全欧部は低く葺石もない
それを地方の教育委員会が古墳として発表する
こんなケースが多くなってきている >>148
>物理的定義じゃなくて都合上の定義だろ説
>いつでもどこでも自作自演の畿内説だからなw
このように、なんの証拠も出さないで、いつでもどこでも中傷ばかりするのが九州 >>164
妄想が迸っとるな
どこの考古学者がそんなこと言ってんの? >>160
>そうそう王が居なかった国30国が卑弥呼を共立したんだよな
その30国は、鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。 @阿波 >>164
モモソは、まだ生きてるぞ?w それだと
>>166
倭王だろ
天皇より巨大な墓で日本最初の定形型前方後円墳に埋葬されているのだからね
後に日本中が彼女の墓と同一規格で古墳を築造し始める。完全に倭王だよ
大物主は百襲姫の口を通じて神意を伝えたようだね
つまり百襲姫の言葉は神の言葉であって、天皇でも逆らえるものではなかった >>163
>畿内説がなんの証拠もない事ばかり言うからだ
証拠は? まあモモソの逸話は荒唐無稽な記紀の特徴を持ってるので
考古学では何かを言うのは難しい 九州説信者が証拠を出すことを極度に嫌がるのは、嘘をついてるという状況証拠だよ 記紀が難しいのはモモソの存在を認めれば
必然的に蛇身の大物主の存在も認めなければいけなくなってしまうことだな
だから考古学では扱えない
この区別はきちんとしておいたほうがいい さて話を戻そう
高尾山古墳は箸墓古墳より古い時代のものですが寺何とかという畿内説な馬鹿学者が1人だけ280年頃だと言い張ってましたよ
だいたい皆さん250年前後と推定していましたが、寺澤さんはその後自分の推定年代を撤回したのでしょうか?
高尾山古墳は前方後方墳でもほぼ完成形なのでそれより古い前方後方墳はいくらでもあります
九州のも古そうですね >>179
このように根拠をまったく出さないのが九州説
>>178
崇神紀の中の大物主は、殆ど実体の無いものとして扱われているだろう
人の体に憑依するんだぞ
>>179
なにいってんだこいつ
そもそも寺沢氏は箸墓280年説でしょ >>181
はっきりした記述を恣意的に判断するのはよくないと言っている
ヤマトタケルは実在だがヤマタノオロチは架空と
いうのはいいとは思えんね 森浩一はそういうのを古代学と言ってるな
それはまあかまわんのだが
考古学で扱う題材ではない 記紀が成立した年代を考えれば、三世紀の史実が書いてあると考えるのは無謀だ >>186
森浩一はもともと神話研究が専門で、考古学はあとから始めた 記紀は伝承と創作が入り混じってるから良く分析すれば何かわかるかも知れない
伝承の意味や創作に関してはなぜそのような話をでっち上げたのかまで深読みするとキリがないが まあ魏志倭人伝をベースに
と言うか、似た話が口伝として記紀に残ってるのはわかる
だから魏志倭人伝のここは
記紀のあの話っぽいとなる やまたのおろちはどう見ても年貢取り立ての話
年貢を取ってたのが大和朝廷でなければ邪馬台国だろ
やまたいのおろちが訛って伝わったんだろ
蛇の金印が象徴となって役人の刺青になり
酒を飲ませて寝たすきに殺害し、刀を奪った。 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝を信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴 てか縄文人だって、どっかから来たんだし
こだわる理由がコンプレックスでなければいいのだが >>194
>てか縄文人だって、どっかから来たんだし
アフリカから来たらしいぞ。 @阿波 日向風土記
高天原を出発した瓊々杵尊は日向の高千穂の二上峯に到着されました。
しかし、霧が深く夜や昼の区別もつかず、道もわからず、物の色もよく分かりません。
その時、この地に住む大鉗・小鉗という二人があらわれて、「尊が手に持たれている
稲千穂を籾にして、あたり一面にまかれるとこの霧は必ず晴れるでしょう」と進言しました。
尊がその通りにすると、霧が晴れ地上界に無事におりることが出来ました。
それでこの地は智鋪(高千穂)といわれるようになったそうです。
↑
これなんか渡来してきた倭人が水稲栽培はじめたらお米いっぱい取れておいしーねという話しだよな
これはまあ風土記だがもとネタになるエピソードは弥生時代の初めに倭人が渡来してきて水稲栽培はじめたとかいうそんなもん何百年もよく口伝してきたなっていう .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 記紀の皇室の祖先(血統的には既に何度か入れ替わっていて生物学的な祖先ではないだろうが)が九州から来たと言う伝承は真実の可能性が高い
例えば神武東征の時にイワレビコはナガスネヒコに敗れた初戦で生駒山麓の白肩津まで船で行ったとされているが、ここは記紀が書かれた時点では既に内陸だった
これは本当にここまで船で行けた時代の伝承が残っていたと考える他ないのではないか
記紀は脚色や創作や伝承の混乱なども部分的にはあろうが、大枠はある程度信用できると考えられる
神武東征もそのようなことを創作して皇室の権威上は何も得がないと思われるので、現実の伝承を書いている可能性が高かろう
では神武東征伝承を真とする前提で邪馬台国とヤマト王権の関係はどう考えられるか
選択肢は、
①神武東征後の大和が邪馬台国(畿内説)
②神武東征前の神武勢力九州時代が邪馬台国(九州説・邪馬台国東遷説)
③九州の邪馬台国とは別の九州勢力が卑弥呼前に東遷して同時代にヤマト王権と並立(九州説・二王朝並立説)
④九州の邪馬台国とは別の九州勢力が東遷して卑弥呼後にヤマト王権樹立(九州説・名称不明)
になる
私は④だ
神武東征は卑弥呼と同時代の可能性があるが、崇神朝が開かれたのは3世紀後半と思われる(布留0式期の箸墓を3世紀後半、布留1式期のホケノ山を4世紀と考える)
ただし、神武や欠史八代のプレ崇神朝が北部九州邪馬台国と同時代だった可能性はあるだろうが 日向(伊都国)の王族が稲を持ってこの国に天孫降臨してきたというのは、図らずも韓半島から日本列島に日琉系民族が移住して弥生時代が始まったと云う歴史のメタファーになっているな。 >>201
>記紀にすがってるのはどう見ても畿内説
このように、いつも全く証拠を出さないのが九州説 神武東征と邪馬台国を無理やり関連図けてるようにしか思えんな
菜畑遺跡の水田跡は前10世紀とかだろ そもそも記紀を資料としようとしても
年代がはっきりせんのよね
しかも干支が書かれてたりするが、そもそもこの時代のに列島が
干支を理解して取り入れてたとも思えんし 桜井教育委員会の学芸員来ててワロタ
171 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2023/06/25(日) 23:37:59.07
>>170
何をもって玄人と言うかわからんが
大学の先生ではないが教育委員会の学芸員だよ 日本書紀で3世紀と言えば崇神天皇の頃のようにも思えるが
日本書紀の作者は神功皇后の頃を3世紀にしたがってるようにも思えるし
やっぱり年代が何とも言えんのよね
無理に言おうとすると不確かな解釈になってしまう >>208
このスレを運営してるのがそいつらだなw 阿毎多利思北孤(西暦600年)がアマテラス
日本の歴史はこの辺から始まった
これで無問題 どうせ憶えちゃいないし西暦600年くらいが妥当なところでしょう 馬鹿馬鹿しい。紀は266年に朝貢した皇后がおるのだよ。何で崇神とやらが3世紀後半であるのか?また、箸墓は九州は4世紀と譲らない、百襲姫が4世紀なら神功はどうなるのだ?266年と記した書物はどう扱うつもりなんだね。
つまるところ、全く年代の史料にもならんいい加減な話。
だが、ホトを突くは間違いなく道教の指導者を指す。 鉄器文化の広まり方を見れば一目瞭然
弥生時代末期までの鉄器量
https://i.imgur.com/M5fyOVO.png
倭人が半島まで鉄を取りに行っていた時代
北部九州の卑弥呼が女王となり中国への朝貢を開始
↓
古墳時代の鉄器量
https://i.imgur.com/ULcccRR.png
鉄器が畿内にも行き渡るようになった
つまり畿内は北部九州の傘下となった >>216
ちょっと頭固すぎね?
太安万侶は魏志倭人伝も参照しながら、もしやこれかなあ???などと想像しながら編纂されていたわけで
確かな歴史と言えるものが何も残っていない状況下で作られた作文が記紀なんだよ 各地にいた王たちに関する伝承などを一系に仕立て上げて作られてる記紀で年代を想定したりする行為は無意味 >>217
つまり北部九州は、鉄器王国「阿波」からの鉄器被供給地域となった。 @阿波 >>219
>各地にいた王たち
すなわち、倭国(阿波)から全国へ進出していった「倭人(阿波勢力)」たちだ。 @阿波 >>223
残念ながら中国史書には
伊都国の王
卑弥呼女王
狗奴国の卑弥弓呼素
卑弥呼死去後に立った男王
臺与女王
しか登場しない
阿波は圏外だな >>221
記紀をベースに考えてる九州説なんてここには居ないだろ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>227
いるいる
崇神天皇が四世紀の人だからその大叔母さんの墓が三世紀中頃のものなはずが無いとか、埴輪があるから殉死があった筈の卑弥呼の墓では有り得ないとか
馬鹿なこと言う九州説信者
いるいる なるほどねえ
古墳の始まりは前方後[方]墳 ← 墳丘が四角いやつ
古墳時代は2世紀の東日本の前方後方墳から始まりました
その派生が前方後円墳と思われます
https://i.imgur.com/XDeB4Ot.png
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/ropaqAT.png
前方後[円]墳より以前に、遠く離れた北部九州にまで前方後[方]墳が造られています >>230
なるほどねえ
2世紀ごろから、「倭人(阿波勢力)」が全国へ進出していたのか。 @阿波 「刻目突帯文土器」も「遠賀川式土器」も「阿波」から西日本一帯に広がった。 @阿波
縄文時代晩期後半には、名東遺跡(図 1-11)で刻目突帯文土器単独の組成であるのに対し(勝浦編 1990)、
三谷遺跡(図 1-3)では刻目突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する状況が認められる(勝浦編 1997、中村編 2017)。
http://tokudaimaibun.jp/pdf/rist/syo/syou30watarirouka.pdf 記紀をベースにしてるのしか知らんぞ九州説は。
三種の神器が出たとか、これがいい例。 記紀を資料として使おうとしても
年代がはっきりわからないから
最初から独自研究になってしまって
万人がうんと言うようにはならないんだよな
それに成立したのは8世紀だし 三種の神器と言ったところで
墓からそれが出てくるからそう言ってるだけで
当時のお宝だったとは言えるが
かといって三種の神器を副葬することが
王として絶対必要だったなんてきまりがあったという
証拠は出てこないんだよな
循環論法みたいになってる それに玉も勾玉じゃなくてガラス製管玉とか
何でもいいことになってて、ご都合主義なんだよな 三種の神器はともかくお宝を副葬する慣習が九州から
畿内に移ってきたという考古学者はいる
しかしその程度なんだな 畿内は独自の銅鐸祭祀を捨て、九州北部の三種の神器を祖先を祭る神器とした。
祖先を祭る神器とした。 >>238
三種の神器そのものを引き継いでいたわけではなく、九州でお宝三種を副葬する習慣が生まれたという事だよな
それが次第に広域でも定型化していったと >>235
三雲南小路遺跡は王と王妃の墓と言われるが、三種の神器のセットが揃っているのは王の方だけ。
平原遺跡は宝飾品ばかりで女性の墓と言われるが、剣を一振りだけ追加してわざわざ三種の神器の様式を揃えてある。
意図的に、王だけ三種の神器を揃えている。
そして平原遺跡が女王であるというのもこれが根拠となっている。 なんで天皇家は墓に埋めなかったのって疑問が出てくるわけで >>211
無知は恥ずかしい。
天の某という名前は神代からたくさん記紀にいる。
タラシヒコの名前も天皇の諡号としてはしばしばある。
例えば景行天皇の和風諡号はオオタラシヒコ、その子はワカタラシヒコ、孫はタラシナカツヒコ。 >>239.道徳経の三種の神器な。
お宅らのは何に使うのか知らない、神璽剣鏡な、
これがまた、神璽剣と神璽鏡なのか、神璽と剣と鏡なのか、だな。後者だと思うが、道徳経と被るから認めないんだろ? >>242
分家だから一組しか持っていなかった。
九州は鏡を含めていくらでも手に入るが、畿内はこっそり持ち出した分しかない。 >>244
生前の本名だという説が有力。
まあ、同じ家系でずっと継承していた称号なんだろ。
歴代ではあわせて7人ほどもタラシヒコ天皇がいるらしい。 文献学者によって記紀のどのあたりから信じられるかというのは
その人ごとにまちまちだな
ある人は継体天皇とか、ある人は雄略天皇とか
ある人は欽明天皇とか言ってる
まあ雄略天皇は証拠らしいものもあるが >>247
畿内は一族で一組しかないから、埋めたら手元に身の証がなくなってしまう。 纒向遺跡という崇神天皇の宮が出たのだから、少なくともそこからは実在だろうね。 >>248
オオタラシヒコとかワカタラシヒコとかタラシナカツヒコとか実在したと思ってるのか?
俺は隋書を読んで阿毎多利思北孤てのが居た事を初めて知って名付けたんじゃないかと言っている タリシヒコは倭国王だろ、その後と繋がりが有るかはまだ、疑問。 >>246
>九州は鏡を含めていくらでも手に入るが、畿内はこっそり持ち出した分しかない。
その空想になんか理由らしいものは有るのか? 西暦600年に大王阿毎多利思北孤てのが居た
甘樫丘に邸宅らしき燃え跡があるから乙巳の変はあった
この辺が事実かな 延喜式に皇御孫之命は八衢彦八衢姫クナトって書かれている
アイヌの古語で女陰をアラハバキ、男根をクナトというらしい
男根は縄文時代から石棒として崇められていたからな
クナトは旧石器時代からいる石神だろうね 記紀を捏ねくり回しても史実はわからんだろ
いろんな解釈が出来すぎるから http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
後ろのほうに遣隋使について書いてあって
日本書紀にはさまざまなウソがある。と、この人は言っている 門脇禎二勧められたので読んだけど悲劇だな
せっかく頭良かったはずなのに関西のしがらみや洗脳で畿内論にならざるをえず
でも内心は不安でいっぱいで
ようやく80超えてから病床で九州説を書いたのが遺作になった >>174
古事記の崇神の夢枕で大物主が自分を祀れと告げたと言うのが真相でろうな、日本書紀のモモソヒメはよくある後付けのフィクションだよ 関西の歴史学・考古学周りでは本音は九州説だがしがらみでそれが言えないビジネス畿内説が結構いそうだな >>269
奈良の教育委員会にも問い合わせてみるといい >>259.単なる語呂合わせでも構わないが、それなら狗古智卑狗も菊池彦だはおかしいだろう。
九州に持っていきたいのは明らかな皇国史観。
だが、桃を仙薬とする神仙思想の連中が突然畿内に存在したという事実は動かせない。纏向、箸墓は中華度量衡、北枕であり、北に方形纏向、南に円丘を配置する中華の都の構造を持ち、箸墓は唯一五段、最上位の前方後円墳と言え、当てにできない史料でさえ女性墓であり、その後大王も五段築造と並ぶ者さえ居ない。
鬼道とは初期神仙思想を伴う道教であり、卑弥呼以前の列島人では興せない思想理念である。
無駄だね。ただそうであってはならないとする皇国史観。 教育委員会のメンバーが名誉毀損の書き込みってマスコミが飛びつくな 何で皇国史観が邪馬台国を九州に持っていきたいんだよ
九州説は地方勢力が各地に並び立っていて北部九州も大和もワンノブゼムが前提だぞ
大和一強支配、万世一系の皇室最強が前提の畿内説が皇国史観だろ 安本美典氏、心理学者がなんで邪馬台国にのめり込んでしまったんでしょうね?
考古学や史学はいつ、何処で習得したのでしょうか?
氏の来歴だと心理学は専門分野ですが、邪馬台国は趣味の延長のように見受けられます。
まあこれは、考古学や史学の専門家は邪馬台国論争に参戦することは少ないため、
専門家以外の参入のほうが多いという現状を反映してますが >>277
天皇の統治する神の国日本が、域内の小国との争いに手を焼いて大陸に救いを求めたりするわけ無いでしょう、
何を言ってるんですか? 邪馬台国畿内説 Part829の964の書き込みは名誉毀損だな、他にもいくつか確認できる >>279
ああ、本居宣長はそっちか
皇国史観だけでは九州か大和かは言えんな 少なくとも九州説の主流は邪馬台国の時代は日本列島に広域支配の突出した権力はまだなく地域勢力がいくつも分立しているという前提だ
皇国史観とは関係ない 本居宣長か
江戸時代を考えれば、学問的な真実を追及するなんて考え方はなかったからな
誰に認められるわけでもないし
それよりも日本が中国に朝貢したなんてことはなかったとする
国学の目的のほうがずっと重要だった 九州説は皇国史観から生まれたものだよ
これは歴史的事実 明治になって、いわゆる皇国史観ができた
つまり天照大神などを軽々しく扱ってはならないというタブーが生まれた
気軽に語れるようになったのは第二次世界大戦後だな 九州説には、今も記紀盲信とか万世一系事実視とかの人が多い ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝を信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む 名前が出てた安本氏も皇国史観が壊れた
恩恵を受けてる一人だけどな
戦前なら検閲されたかもしれない >>282.それは帥升等の時のことと考える。
卑弥呼がそれを変えた。邪馬臺は謂わばバチカン。
創価学会に例えると学会は直接統治しない。政治は公明党が行う。卑弥呼の祭酒らが各々統治する、やがて豪族と呼ばれる者が出てくる。 >>289
>名前が出てた安本氏も
万世一系前提の歴代天皇実在説だね うがった見方をすれば
満州生まれで戦中派の安本氏には
皇国史観に対する反発心があったのかもしれない >>291
それは彼が数理文献学とやらで
天皇在位の平均年数を出すために
基準となる天皇の数をまず決めなければいけなかったからだろう 天照大神・神武天皇実在説の安本美典に皇国史観に対する反発心だって? 天照大神=卑弥呼なんだろ
本居宣長と真逆じゃないか 新井白石は皇国史観無関係に純粋学問的にまず畿内説、後に九州説だな 新井白石はそうだな
しかしそれが合ってるとも言えるわけではない 神武東征を書いてるから真実とするなら
ヤマタノオロチだって真実としないと
変だと思うけどな
神武天皇の母親がサメだったことなんかも ちなみに皇国史観バリバリの竹田恒泰がどう言ってるかなと思ったら邪馬台国が畿内か九州かはどちらとも言えないそうだ
どちらであってもやがて大和朝廷が全国統一するから変わらないということのようだ
https://youtu.be/vCSnMNvc518 ヤマタノオロチだって史実の反映の可能性はあるだろう
例えば真偽はわからないが一説には越の勢力が出雲にちょっかい出してきたのを撃退した話だとか >>300
都合のいい事つまみ食いが九州説のお家芸だ >>303
そうそう 日本書紀の一部は
恣意的に何とでも解釈できてしまう
ヤマタノオロチだって
溶岩説、洪水説、製鉄説などがあるが
しょせん答えの出る話ではない 創価学会と公明党は政教分離しないと
憲法違反だからだろ >>301
>邪馬台国が畿内か九州かはどちらとも言えないそうだ
「阿波」を知らない薄学素人だから。 @阿波 皇祖神話って、半島出身の伊都県主が持ってた天神の子って話や、倭国造家が持ってた海神の申し子説をパクりまくったツギハギだと思うぞ >>303
>ヤマタノオロチだって史実の反映の可能性はあるだろう
本体が大河四国三郎吉野川
「頭が八つ、尾が八つ」は、その吉野川に流れ込む多くの支流を表す。 @阿波 >>308
公明党のオーナーは池田大作だけど生死は不明w まあ別にヤマタノオロチがどうということではない
ただ、神武東征は真実だがヤマタノオロチは常識的に考えてありえない
とかする姿勢はどうなんだろうな
どっちもはっきり書いていることなんだし >>315
神話の時代吉野川は暴れまくりで全然退治出来てないじゃないですかw 神話は大抵の場合「史実の反映」であって「史実そのもの」ではないからな くにびき神話は縄文海進の後の海面が下がった時の事の様だし、ヤマタノオロチも100%空想と思えない。 6000年前の人類の祖先はネズミのような猿だったので蛇の怖さは遺伝子に組み込まれているのだろうな >>323のように幼稚園児並みの言い返ししか出来ないのが九州説脳 >>327
畿内説の安本美典への名誉毀損は深刻な問題 >>80
スレ立て3時間以上遅れて重複スレ立てといてこっちをニセスレ呼ばわりは無いわ。
このスレ 2023/06/27(火) 13:07:31.40 [0回目]
重複スレ 2023/06/27(火) 16:31:56.35 [0回目] >>330
なんの証拠もないことで畿内説を謗るのは名誉毀損だよ >>319
>ただ、神武東征は真実だがヤマタノオロチは常識的に考えてありえない
とかする姿勢はどうなんだろうな
その通り! 記紀神話も「阿波」で起こった紛れもない真実。 @阿波 >>332
某教育委員会の組織的な犯罪の可能性があるな、真相究明のためにも安本氏には訴えて欲しい >>>333
そっちはテンプレ無いから偽スレで確定だぞ 九州説は捏造やニセ情報が異常に多い
平原遺跡で日佐原式甕棺が出たとかいうのもデマだし 九州説はちゃんと証拠を出すという普通のことができないんだよね
証拠を出せと言われると相手を罵り出す >>335
阿波も関係はしてるだろうが、書込みが不真面目が故に無視される。 >>344
去年の秋の安本氏への名誉毀損はひどかったね ほら>>345みたいな子供の言い返ししか出来ない
九州説が証拠が出せないと言う証拠、自分で出しちゃったね
酸素同位体比年輪年代測定法で安本氏の説は崩壊すると思うけど、どうすんだろね >>350
お前の妄想はどうでもいい、結果が出てからものを言え 九州説信者は、語気の荒さや印象操作で説得力が得られると誤解してる非理系脳の持ち主だな
生き方を間違えてる >>351
そんなもの無いよ
証拠の大切さを理愛できない九州説は永遠に負け組だ >>354
文系未満の底辺畿内説が妄想しても事実は変わらないから 九州でもどこでもいいけど
あれだけ発掘しておいて邪馬台国らしさがない纏向を邪馬台国だと主張するのは無理がある
他の遺跡を探しなよ >>355
嘘をつくのが畿内説という証拠だな。
邪馬台国畿内説 Part829の964の書き込みを探せばいい
>>359
年層内分析の精度を高めてる最中だからだよ >>361
つまり結果が出て無いって事だろ、ミューオンと同じだな >>362
じゃあ畿内にはなかったんだよ
諦めろw 年代に関わらず畿内説は成り立たないよ。
纒向には帯方郡とやりとりしていた痕跡が皆無だもの。
マジで邪馬台国東遷説ってどうなるのかね
酸素同位体比年輪年代法で終わりだろうな >358
だから九州説さん、主観ばかりべらべら喋っても世間には通用しないんだよ
大事なのは証拠を出すこと
これができないから九州説は滅んだ トナカイの論は女を知らない筆下ろし前の男が女の性感帯を論じるが如し、つまり空想。 >>367
纏向はその証拠とやらがないじゃん
スライドするのみっともないよ >>346
>書込みが不真面目が故に
「阿波」の真実が怖いことの言い訳。 @阿波 纒向出土の木材による酸素同位体比年輪年代測定は既に行われているはずだが、結果が一向に発表されないね
畿内説にとって思わしい結果になるよう試行錯誤しているのかな? >>355
実在する物を無いと言い張るのが畿内説のようだ >>358
>他の遺跡を探しなよ
もう無い。 @阿波
>>372
30年輪以下の木材は年層内分析しなきゃいけないんだぞどアホ
調べてから物を語れ
標準パターンが完全に公開されているから、誰々に都合の良い計測結果にはならない
不可逆的に纒向遺跡の年代が確定する
ダッサw
纒向遺跡の木材が3世紀中盤になれば、畿内説の土器編年が正しいことが証明されるので平原は自動的に卑弥呼の墓候補から脱落する
二度と復活する事は無い >>382
結果はまだ出ていない、このそうろうやろう。
『纒向学の最前線』に「纏向出土の杭材で興味深い年代」と寄稿しているので、歴博の炭素14年代測定による箸墓(布留0式)の推定(240~260年)に近い年代が得られているのだろう
あとは年層内分析で精度を高めて世に発表するだけ
それだけで邪馬台国東遷説は地球上から消滅する 一応、酸素同位体比年輪年代測定の結果は出つつあるが、多数の杭材の年代データの統合による確度の高い遺構年代を得るに至ってないというのが研究サイドの説明
まあ畿内説にとって思わしい結果が出ずオクラ入の可能性もない訳ではあるまい 酸素同位体比年輪年代測定でAD400年とか出たら畿内説どうするんだろうな
纒向全面依存なので完全崩壊だ
可能性はなくはない ヤマタイ国土蜘蛛説の俺にはあまり関係ないけどいつ頃発表されるの? >>386
ぶっちゃけ炭素同位体年輪年代法と変わらんよ
当然木片では正確な年代は出ない
出土品の酸素同位体と出土場所近くの樹齢2000年ほどのクスノキがあれば精度は上がるが
畿内では無理だね
酸素同位体比年輪年代法は数年、もっと言えば季節単位で年代特定出来るぞ
ノーベル賞級の発明だよ
数年じゃないな
一年。もっと言えば季節単位
>>390
頭が悪すぎる
年輪年代法と混同してるんだな
酸素同位体比年輪年代法は樹種関係なく年代を確定させることが出来る上に、標準パターンも完全公開されていて九州説の崩壊を決定づける一撃になること間違いなし 酸素同位体比年輪法でネトウヨが減る事を望む。
調査結果待ちだな。 >390
要するに九州説は科学で何が出ても「信じない」とヒトコトで済ますんだから気楽で良いでしょ
お好きな説を言い張ってくださいね
説得力ないけど >>387
年代が3世紀中頃でも苦しいまま何も変わらないよ
今と変わらず同じ時代の何かですね、で終わるだけ
文系もしくはそれ未満の畿内説の勘違い発言は日常茶飯事じゃんw 九州説は根っからの文系脳だから、科学分野の反論は無理 >>398
幼稚園児の言い返ししか出来ない九州説に未来なし >>404
自分で何言ってるか全く分かってないんだろ?
科学のカの字も理解出来ないのか? おいおい想像以上に>>1は馬鹿だぞ
マジで文系未満確定 畿内説スレが、乱立しすぎですぞ。
スレ主を共立すべき。 >>410
某組織のポンコツ新人がやらされているのだろう 酸素同位体比年輪法は、寺沢先生のイト倭国の王統が畿内に移って邪馬台国になったという説の裏付けになりそうだな。
これで邪馬台国は早期ヤマト王権であったと教科書に書けるようになる。
源頼朝の鎌倉幕府開設をもって鎌倉時代の始まりとするように、卑弥呼のヤマト王権樹立が古墳時代の始まりという時代区分になるのだろうな。 >>412
>>230の通り古墳時代の始まりは2世紀の東日本です 寺澤薫はだいぶ九州説に近いビジネス畿内説だな
しがらみ的に畿内説の体裁は崩せないのだろう >>416
そんな買いかぶっちゃダメだよ
単なる馬鹿だからw >>412
東遷説わろた
畿内さん、それでいいの?w 仕事してまーすアピールか
それで食っていけるから畿内説は手放せないね 年輪年代法の「標準パターン」が正しい事を誰がどうやって証明するんだ?
年輪年代法の標準パターンは公開されてないだろ
酸素同位体比年輪年代法の標準パターンなら既にダブルチェックで正しいことが確定済み
既に公開されているんだから、間違ってると思うなら具体的にどこがどう間違ってるのか指摘しに行けばいい
九州説酸素同位体比にガクブルでわけわからん事を口走り始めててワロタ 酸素同位体比年輪年代法はもう20年以上前からやってる手法
それを文化財にも流用しようというのがつい最近の話
大した事無いやつ
そんなに年代精度にこだわるなら土器そのものの年代を測定すべきだな
もしくは土壌の鉄分探しw
年層内分析は新しい試みなんだが
知ったかぶり九州説ガクブルでワロタ >>320
ヤマタノオロチの退治は、吉野川流域の敵対勢力討伐を意味しているのだろう。 @阿波 年代精度が上がっても木製土木用具は鉄器にはならないからw
むしろ鉄器時代が来なかった事が証明されて九州とは縁がなかったんですねで終わるだけ >>427
全然大した事無いのに誇大妄想に明け暮れる猿みたいだぞw
【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】
─
①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg
※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
当時日本で一番高精度の鉄製品はヤマトにあったということだわな >>433
「倭人(阿波勢力)」によってな。 @阿波 >>434
「倭人(阿波勢力)」によってな。 @阿波 そもそもヤマトってあったのかな?
邪馬台国の人が九州人であることが判明しました
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう >>437
神武天皇がそんなクソ田舎なんぞには行かん。 @阿波 >>440
>東征の証拠だね
東征の証拠として、もうちょとまともな物は無いのか? わははははは @阿波
酸素同位体比年輪年代法で東征説が消滅すると、もはやU字形鉄製品は畿内邪馬台国に下賜された黄幢に他ならない事になる >>431
コピー銅鏡の古墳ねぇ
これが3世紀半ばって言い張っていいのかなw >>438
>後漢書では「邪馬臺は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
そんなこと書かれてませんが
正気ならそんな変んな読み方しません
酸素同位体比年輪年代法で、邪馬台国が畿内であることが確定するのだよ >>443
>これが3世紀半ばって言い張っていいのかなw
三世紀後半の古墳と公式に発表されている
邪馬台国時代の博多湾岸には前方後円墳。しかも畿内でコピーされた三角縁神獣鏡が埋葬されているので、当時の九州が本州勢力の勢力圏内であった事も確定する >>447
当時の九州が「倭人(阿波勢力)」の勢力圏内であった事も確定する。 @阿波
まあ帯方郡は朝鮮半島だし、そうかもね
いつ黄幢が九州論者に盗まれるかわからんわけで厳重に警備してほしいわ >>448
九州説は絶対に理由を言わないの?
それで学説として生きのこれるわけ無いよね 畿内説こそ断言する理由を言わないよね
魏志倭人伝の世界観を無視してこじつけるの恥ずかしくないのかな
魏志倭人伝・日本書紀・隋書倭国伝
全てを無視した先の邪馬台国九州説 >>456
だという理由は?
常に理由のない九州説 >>444
畿内説が漢文読めないのは世間の常識ですから まあココの畿内説が畿内説という訳じゃ無いからな
何とか教育委員会の印象操作係が個人プレーしてるスレだから >>461
>畿内説が漢文読めないのは世間の常識ですから
だって証拠は?
言い張るだけで、なんにも証拠が出せない九州説
ゴミですね >>463
それも証拠ないね
意味ないことを言い張るだけの九州説 なんにも証拠のないことを、ただ言い張って言い張って
中傷するだけが九州説って
証明できたと違います? >>468
興奮すると日本語がおかしくなるキナイコシはチョソと認定してOK?
>>463
その前方後方墳に東国系異物は入っていたの?
那珂八幡古墳には三角縁神獣鏡が副葬されていたってとこがミソだよ >>469
どう「おかしい」のか全く理由を言わない九州説
いつも嘘ばかり
鏡作坐天照御魂神社製の三角縁神獣鏡が那珂八幡古墳へ持ち込まれたわけであります 畿内説はこじつけばかりしてるせいで第三者から「証拠ないでしょw」ってバカにされてるから
違う仮説の人に証拠は?!って詰め寄るんじゃないかな
歴史で真実を証明するのは困難だって、素人でも察するというのに情けないわね 何でも証拠は?!っていえば論破した気分
工作員はバイトなんかな >>473
それ、証拠は?
九州説って異常だね
絶対に証拠を出さない人 那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡は京都や岡山の古墳からも同笵鏡が出土している
西日本各地の首長に流行ってその階層に流通してたんだろうね >>475
九州説は、そんなに証拠を出すのが嫌なら
なんにも主張しなきゃいいのに >>438
>後漢書では「邪馬臺は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれ
これは唐代に李賢が後漢書に加えた注釈
また、隋書、北史では、
「邪(靡)堆に都す、則ち魏志のいわゆる邪馬臺なる者なり」
とされていることから、「惟」ではなく「堆」が正しく、
魏代の「臺」を隋唐代には「堆」と発音していたという意味 >>480
卑弥呼は物流担当の大倭に鏡が欲しいと頼まれて仕入れただけだから 銅鏡は古墳ごとに加工してた説が出てたからな
外国の職人集団があちこちに呼ばれて現地で加工するのにコピーもとの鏡も持ち歩いていただろうね
そしてそんな職人たちが帰国するときにはそのコピーもとの鏡ももって帰ったかもしれない >>482
九州説とかどうレッテル貼ろうとかまわないけど
客観的に見ると纏向こそ証拠なくこじつけてるよ もともとヤマイ国だったんだな
「案今名邪摩惟音之訛也」(今の名を案ずると、邪摩惟という音が変化したものである) 三角縁って一つの古墳に何十枚も放り込まれるような低価値な副葬品だろ?
しかも棺の外に置かれてたとかw
後世が卑弥呼伝説を聞いて真似したんだろうよ
笠松模様は中国人には発想も出来ない模様だ 近畿でなきゃマズイんだろ?
どうせなら渡来系で真っ赤かな近畿、四国のハプロ分布も縄文系に変えればいいのに
それと纒向やホケノから反重力物質と古代常温核融合炉とハドロン衝突型加速器が出てきたまでやってほしい 確か纒向遺跡の規模も捏造してたよな
敷地面積か何かで
全国一胡散臭い遺跡になっちまったな
素直に古墳造営基地局だと言っておけば良いものをw
笠松は黄幢だろうね 近畿はサービス良いんだから近畿でもいいけどな
最大規模の古墳と副葬品で大盛り勝負
お客さんに言われれば、何世紀にだってしてくれる
やっぱり関西の商売の仕方だよね
それに比べて九州は >>488
そう
オリジナルは3世紀のものかもしれんけど、大量のコピーは4世紀以降っぽい >>495
結果が平安時代とかだったら笑う
纒向でそのあたりの遺物も出てたはずだから >>492
九州は商売が下手すぎるよね
小学生や歴オタ狙いで観光地化すればいいのに 三角縁神獣鏡は呉から来た鏡職人が日本で作った量産品だからね
それを持っているから政治的にどうというものでもあるまい
九州は滅茶苦茶必死だろ
こないだ自然地形を前方後円墳で卑弥呼の墓だと言い張ってて驚いた >>498
単品経済かな、九州は
複合的じゃなくてブツ切れでワザワザ行く気がしない
観光資産を活かせないとは思う 近畿に道教が入ってきたかはわからないが
三角縁神獣鏡はおそらく外径を普通の鏡より増して作られてる
笠松文様は中国の鏡にはなく、おそらく黄幢
西王母が卑弥呼、東王父が男弟、あるいは男王
九州説は国のバックアップを受けているよ吉野ヶ里の復元にどれだけの国費が注ぎ込まれたことか
国&愚民(九州説)
vs
アカデミズム(畿内説) かつて朝鮮半島には日本語と同系言語を話す人々が存在した。
これは757年の地名改正による「高句麗地名」の音訓表記から明らかであり、これを濊人の言語であると考える。
百済及び伽耶諸国と大和朝廷の密接な関係は、この濊人の仲介によるものであり、そのため通訳も必要ではなかった。
弥生時代からこの濊人を中心とした大陸倭語の話し手は何波にもわたって渡来し続けてきた。
しかし白村江の戦以降、半島側での倭語は消滅した。
列島側では半島とは異なる国家としてのアイデンティティ確立のため、制度は一新され、半島との関係は消し去ろうとした。
日本列島におけるアクセントは周圏論的な分布を示しているが、比較言語学からは中央に位置する方が祖体系であると考えられている。
無アクセントの諸方言(八丈型基層語)が日本語の古い特徴を保持しており、これらの特徴には内的関連性があると考える。
これに対し、母音優位・有アクセントの言語(近畿上層語)は遅れて広がったが、それ以前は八丈型基層語が広範囲に分布していたとみる。 まあ奈良は、法隆寺とか平城京とか松永弾正とか発掘するものが山ほどあるからな 近畿で見たいのも青銅器や甕棺墓みたいなもんだがな
いい加減、古墳や鉄剣、副葬品を2世紀でも1世紀にでもして勢いだけで言いくるめようとするのは何とかしてほしい
それじゃない感は確かにある ところで何で黄幢というか知ってるかな
陰陽五行説で漢の国家の色が赤、魏の色が次の黄色
だから魏の最初の年号が黄初
ついでに黄巾の乱は偽物 >>508
今の半島人やザパニーズには何の関係もない
古代朝鮮との関係を証明出来ないんだから
黄幢が出土してない九州に邪馬台国があったとかさぁ
流石に考古遺物無視しすぎでしょ 黄憧というのは眉唾物、仮にそうだとしたら九州勢が東征で持ち込んだ物だろう 自然地形なら上部をのぞいて地層がある
古墳の盛り土ならない 国&国民(九州説)
vs
韓国式歴史捏造学会(畿内説) そうだよね、正統遺物がある台湾が中国、紫禁城は偽物だよね 何で国の色が決まったかというと超古代の中国の伝説の
黄帝とかからきている >>504
ほんとそう
九州は分散しすぎてて行きづらい
新幹線も博多から佐賀(吉野ヶ里)、武雄温泉、早岐(ハウステンボス)を経由して長崎に繋げれば良かったのに
観光客を招くつもりなさそう 子供が地面に倒れて駄々をこねているような九州説
古稀すぎてこれをやるところが痛い 8世紀濊語と平安アクセントの間には語の高起・低起に関して類似した特徴を有する可能性がある。
BC11世紀から統一新羅時代にかけて、朝鮮半島において濊語集団の活動が確認される。
濊人は中国沿海から東渡した海民として漁撈の加工品の中国市場への流通に関わる一方、
水田農民として、鴨緑江以北から朝鮮半島最南端に至る全域で活動していた。
BC1世紀には、楽浪郡の濊語話者の中には、漢字と中国語を非母語として習得する者が現れ、
4世紀の魏晋代には、江原道の濊人は、「濊貊」を「東濊」と改めるほどに漢字文化と華夷意識を内面化していた。 ついでに言えば黄幢は三角縁神獣鏡の笠松文になり
豪族居館の 蓋(きぬがさ)になり、さらに特殊器台型埴輪に変化していく
畿内である証拠は明白 >>525
だから遠くて詳しくは分からないと国名だけ紹介されてたんだよ >>529
隙あらば九州下げ
伊都国は邪馬台国の一大率だろ 越前だな
糸魚川静岡構造線から畿内を含む、出雲隣接地域までがヤマタだった
近畿は九州からの派遣軍で越前に対峙するのに近畿に陣取ってそのまま 関西弁が日本のなかでもあれだけ特異なのは
畿内に住み着いた支配層が
半島日本語(Peninsular Japonic)を話す百済人だったから
関西弁とかいうけど、つまり実際はただの百済人の方言 >>533
半島経由の遺伝子分布と関西弁の分布が一致してたりして 日本と古代半島は近縁種
半島でそれを滅ぼした末裔が今の半島種
つまり、古代からの敵対種 九州で儲かるようにすれば、九州説になるよ
儲からないからダメだよ まあ倭人がもともと西遼河付近から南下してきた集団だろうし近縁とは言葉も遺伝子も混じってるわな >>536
なるほど
畿内だと儲かるから畿内説なのか
商売上手だねぇ >>533
>関西弁とかいうけど、つまり実際はただの百済人の方言
関西弁とかいうけど、つまり実際はただの「阿波」の方言。 @阿波 >>538
そうだよ
邪馬台国は時空を超えてどこにでもあるからね
但し、金次第 >>537
今の半島人には独自ハプロもないし、満州人とも差異がないんだから参加する資格すらない 纏向遺跡という現実の遺跡があるから俺はそれを信じる
卑弥呼が居たかどうかはともかく ザパニーズはいつの時代にも地獄だった半島を離れることをもっと感謝するべきじゃないの? >>543
纒向古墳造営キャンプ場の事かい?
あの建物は被葬者の遺族が古墳完成を待つための宿だよ >>546
行程に整合性があって九州説の方がわかりやすいし >>543
古墳造り職人のおうち、おもしろいよね
いいと思う 起源が偉いらしいからオレはアフリカ邪馬台国説を取るよ >>549
理由書いてるんだが
よく張られてる調査でも九州支持のほうが多いでしょ >>553
は?だから、なんで本が売れるの?
因果関係が不明なんだけど >>543
纏向遺跡という現実の「倭人(阿波勢力)」の遺跡があるわけだ。 @阿波 >>548
整合性があるのは九州でも
客が読みたいのは「(バカでも)読みやすい」「(誰でも読めて)SNS栄えして」「(予備知識なしで)理解した気分になれる」
そんな本だよ
「邪馬台国からヤマト政権になった」
は単純で分かりやすいフレーズでお客さんにぴったりじゃん
さらに観光で行けるならバッチリ
関西は歴史的な観光資源の宝庫で密集してるから大人気
九州は観光地がバラけていて行きづらい >>557
数数えたわけじゃないけどYouTubeも九州説が多いでしょ やっぱり発展が遅れるから邪馬台国の呪いなんかイラネェ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>558
知識のある人は九州説に傾くけど、万人はそうじゃない
一般ウケして金になるのは畿内説 >>562
それは結局インテリ気取りの馬鹿では?
売れなくて新作撮れなくなる気取りの馬鹿映画監督みたい >>562
YouTubeでは近畿は卑弥呼と切り離した遺跡の紹介が多く九州は遺跡と卑弥呼を結び付けてる印象
近畿は纏向箸墓一点て感じだからかも >>564
インテリ気取りの馬鹿は、板野の売郷奴ですが? @阿波 >>565
九州はあちこちにそれらしき遺跡があるから定まらないんだろう 俺の推してる伊勢遺跡説はYouTubeで殆ど無いからな >>569
自分で作ればいい
阿波説だらけだぞ今w 九州は行程に整合性があるから遺跡で補強すればいいけど
近畿は纏向箸墓で最初から結論が出てるから書くことが無い >>571
>九州は行程に整合性があるから
ない! @阿波 >>572
細かく見ればそうだけど最初の印象じゃ九州だよ >>570
>阿波説だらけだぞ今w
当然、そうなる。 @阿波 >>573
その印象に騙されてきて、今の現状がある。 @阿波 まー邪馬台国に興味を持つ人も少なくなって、少数の熱心な古代史爺だけになった
こいつら金を使わんからなあ 畿内説で本を出版しようとするとストップがかかるらしい
大衆が好むのは九州説だから、そっちで出してくれませんか?てね >>577
真偽は知らんが纏向箸墓一点だから内容が専門的になって解かり難いってのはあるかも まあどんだけ纏向を深掘りしてもそれと魏志倭人伝との整合性まったくないからな…… >>580
>内容が専門的になって解かり難い
屁理屈をこねくり回すから解り難くなるわな。 わははははは @阿波 近畿の方には勢力が2つ在ったと考えるが、なかが良いか悪いか知らんけど >>577
嘘だ!!出版詐欺以外で考古学本なんて
そんなジャンルのコーナーを本屋で見たことがない それでいながら孫正義の庭みたいなイメージしかない九州
本当は四国や近畿こそが日本で一番渡来系色濃いのに >>587
なんでそう思うのかわからん
大衆が食いつく内容をたくさん話せるのはどう考えても九州でしょう
とにかくあの行程が大きい
細かいことに目を瞑ればすんなり入ってくる 邪馬台国の候補地があるやつは使途限定で3000万くらい
ふるさと納税でもしろよ 畿内説のこの理屈は一般にはわかりにくい(私はわかった上で賛同できない)
①炭素14年代測定で箸墓築造は卑弥呼の時代
↓
②同時代にこれだけ巨大な古墳はない
↓
③纒向勢力はこの時代の日本列島最強権力
↓
④列島を代表して魏と外交したのは最強権力の纒向勢力に違いない
↓
⑤纒向が邪馬台国! >>593
纏向箸墓しかないからそこを掘り下げて話すしか無いのよね >>593
近畿は規模と数がすべて
年代は後からついてくる
青銅器や甕棺墓などは指標ではない
あくまでも古墳と類する副葬品がすべて
当然、他地域は勝てない
魏志倭人伝すら関係ないから
直接表現以外は否定する 畿内説は日本の最大勢力はどこに居たのか?近畿
コレだけ
あとはどうでもいいのよ >>593
100余国あるうちの30国連合とその他70国だからなあ
30国が倭の最大勢力かどうかはなんとも言えん >>593
で、その最強勢力が狗奴国ごときに脅かされてたと 日本の最大勢力は近畿と認めて
邪馬台国や卑弥呼がゴミ勢力ってことなら近畿は喜んで捨てるんじゃないか?虚栄心から勘違いしてんだろ? 魏志倭人伝は情報の信頼度の濃淡がある
つまり魏の洛陽で起きた出来事を書いた記事は信頼度が高い
帯方郡での出来事がそれに次ぐ
北部九州での信頼度もかなり高いが
帯方郡を経て魏に伝わった情報だから少し落ちる
その他の九州の地、本州などの場合は情報の信頼度が落ちてくる 纏向箸墓の本の売れ行きや講演の不利さを説いてるだけで
俺は伊勢遺跡説だからそこまで盲信してるわけではない >>598
その朝貢していた30国は、鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。 @阿波 >>599
>で、その最強勢力が狗奴国ごとき
お前の妄想する「狗奴国」はショボいんだろうが、
実際の「狗奴国(長国)」は、鉄器を自作し、経済も豊かな超大国だ。 @阿波 畿内説はやはり韓国式ウリナラ起源ということよ
■旧唐書より
<倭国伝>AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(畿内)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論:
記録文献には倭人は呉越(中国)の末裔だったと記されています。
ヤマト民はおそらく半島系人種だったので「別種」と記述されたのでしょう。
O1b2(L682) 半島系固有の遺伝子分布
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png >>600
>日本はかつて小国だった
そりゃ、東の倭種クラスだったからな。 @阿波 >>602
>その他の九州の地、本州などの場合は情報の信頼度が落ちてくる
心配ご無用。 「倭人(阿波勢力)」はしょっちゅう大陸へ行き来したいるから、常に互いの最新情報を得ていた。 @阿波 ヤマタは越前
但し、その範囲は糸魚川静岡構造線から出雲に接するまで
近畿はその討伐勢力 O1b2は半島由来でも無けりゃ固有でもないしなぁ
いい加減、ウゼェなぁ
半島の工作は
漢民族に長江、マレー系のO1b2足した半島人が
比率変えりゃ満州人と変わらないのに
正しく独自ハプロを持たない大陸の合の子って感じの半島 大陸はいつだって半島と日本の区別はついているし、ハッキリと差をつけている
同一視したことはない
そんなことは半島だけの妄想 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝を信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む >>382
年代がどうであろうと、帯方郡との交流の痕跡を示せなければ畿内説はあり得ない。
出雲説や阿波説、それこそ関東でも北海道でも差はない。 >>385
> 一応、酸素同位体比年輪年代測定の結果は出つつあるが、多数の杭材の年代データの統合による確度の高い遺構年代を得るに至ってないというのが研究サイドの説明
> まあ畿内説にとって思わしい結果が出ずオクラ入の可能性もない訳ではあるまい
これって、測定結果が思ったよりバラバラで精度が低かったということでは? 渡来系の日本最大勢力は近畿
魏志倭人伝とは関係ないが 出たデータがバラバラでいいからそのバラバラなデータは発表されるのかな
どのくらい幅のある年代が検出されたのか見てみたい 魏志倭人伝は日本の最大勢力を示しているワケではないからなぁ
べつに大陸コンプレックスみたいな近代的な最大勢力を近畿にしてくれて構わないんだが
むしろ、原始人ぽさを見せてくれよ >>517
> 黄憧というのは眉唾物、仮にそうだとしたら九州勢が東征で持ち込んだ物だろう
同意。
九州から関西圏を征服に行った将軍にでも授けたのだろう。
そして畿内は九州北部の銅鏡銅矛文化に塗り替えられた。 出るデータがばらばらにならないように木材サンプルそのものの相関関係をできるだけ
統合しようとしてるんだろ >>596
畿内説は魏志倭人伝関係ないって?
それじゃただの妄想だよ。 >>597
> 畿内説は日本の最大勢力はどこに居たのか?近畿
> コレだけ
> あとはどうでもいいのよ
倭種だよ。 チートスタートの近畿は非難されて当然
非難されても関係ないのが近畿勢だが
まずはひのきのぼうから
何が古墳に鉄剣に桃の種だよ
なめとんか データがバラバラ過ぎて発表できないんだろ。
畿内説は頼みの綱が次々と切れていくなw >>628
それ、データの恣意的な操作だよ。
捏造ともいう。 1年ごと(それ以下でもできる)の酸素同位体の変化のパターンをできるだけ正確にそろえるというか
全資料で合わせようとしてるんだろ >>629
畿内説で言えば、他の説は住所書いてないだろ
ヤマトと書いてあるのは近畿だけ
後からつけたもんでもな
比喩的表現や間接的な表現は一切証拠にならない
有棺無槨とかも全くダメだろ?
ヤマトとハッキリ住所が書かれているのは近畿だけ
こういう理屈なんだろ? まんま2つに別れている文化圏ってあるじゃん?
長江系と黄河系の2大対立に見えるんだが 信じないなら信じないで良いんだけど全部信じるなよ
おまえが選別するなって話し >>637
つまり屁理屈なんだよ。
奈良県をヤマトと呼ぶ国内の文献は7世紀以降しかないわけだから。 >>641
だから超時空古墳ですよ
1世紀にだって彼には出来るよ >>641
そこは邪馬台がヤマトなのか違うのか、これにかかってくる >>636
全試料に対して○年~○年という測定・判定をするのはまあそんなんだろうが
そうして得られた各試料を羅列するんじゃダメなのか
統合とはなんぞ >>619
>出雲説や阿波説、それこそ関東でも北海道でも差はない。
「阿波」と一緒にするな! @阿波 >>626
>魏志倭人伝は日本の最大勢力を示しているワケではないからなぁ
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 @阿波 資料Aと資料Bのグラフがあったとして、ある部分とある部分の変化がだいたい一致するんだけど
もっと一致するとこがないか探すってことだよ
まあ、大雑把に言えば >>596
>魏志倭人伝すら関係ないから
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 @阿波 >>641
>奈良県をヤマトと呼ぶ国内の文献は7世紀以降しかないわけだから。
奈良県以外をヤマトと呼ぶ国内の文献は現在過去未来、どこにもない 酸素同位体比年輪法によって、邪馬台国は畿内にあったと明らかになる事だろう。日本が中国に朝貢した歴史を隠したいという江戸時代からの邪説である九州説が終了する
やっと邪馬台国は早期ヤマト王権であったと教科書に書けるようになる。
源頼朝の鎌倉幕府開設をもって鎌倉時代の始まりとするように、卑弥呼のヤマト王権樹立をもって古墳時代の開始となるだろう。 >>648
つまり変化のパターン見たら年代が○年~○年とバチっと特定できるようなもんじゃなく
ぼんやりと似てるパターンを探すだけなのか >>651
頼朝の肖像画や幕府成立年数すら違うと言い出してはコロコロ変わるがな >>650
>奈良県以外をヤマトと呼ぶ国内の文献は現在過去未来、どこにもない
大和国だから、「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。
阿波国が「倭」だから、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。
当たり前のことである。 @阿波 >>647
個人的感情しか無いのが九州説
だから永遠に一人一説 >>653
ぼんやりというの印象操作だな
酸素年代はかなり正確なうえに海とか噴火とかの影響を受けにくい
ただ、資料が膨大になるためコンピュータで探しても時間がかかる
炭素年代よりはるかに正確 >>656
他地域の発掘遺物を足蹴にするのが畿内
まるで一神教カルト
多様性があって何が悪い >>657
もともとの測定方法とか技術を知らん素人の疑問なんだが
三百年生きた木の内側と外側でそれぞれ木片を切り取って測定したらパターンは同じになるの? >>658
それはまぁ、byの近畿説と同じようなものだがな。 @阿波 伊勢遺跡は1世紀後半から2世紀後半とされている
これは炭素年代測定で出てる
じゃあこれが絶対正しいのかと言えば知らんよ
3世紀説もあるみたいだし >>659
重なる部分があれば同じ木材ならほぼまったく同じになるだろ
違う木材でもだいたい同じになる
ただし結局、こういうのが出てきても信じる、信じないはその人間だし
何とでも言い逃れできてしまう >>642のような中身の無い悪口をいうだけにまで堕落してしまった九州説
みじめすぎる敗者 >>651
畿内になかった事が明らかになるの間違いだな
畿内の年代が3世紀だったら邪馬台国なのだー!
と思ってしまう理由は? どうせ畿内から金印とか封泥とか出てきても言い逃れするんだろ
自分の障害をかけた趣味が失われるわけだから
人間の防衛本能だわな >>662
わかりにくくてすまん
内側と外側で試料が重ならない場合という例え話をしたつもり
例えば1000年生きた木の内側10年分と外側10年分の木片を比較してパターンが同じになるのかどうかが知りたい >>666
あのなあ10年じゃあパターンそのものがわからんだろ >>665
それいつもの畿内説の思考じゃん
漢委奴国王の金印でも偽物だと言ってたり >>662
とにかく科学は信じないというスタンスに生き残りを賭ける九州説 >>667
10年ではパターンがわからないとはどういうこと? >>666
厳密にはならないよ
今よりちょっと見やすくなるだけ
ホケノ山古墳の小枝で4世紀が確定するだけ >>670
例えば10年のパターンなんて短くて、似てるものはいくらでもあるだろ
あと自分で調べてくれ >>668
悪いがあれは信用できないわ
出処のわからんもんを信じるわけにいかん >>673
つまり木片が小さければ小さいほど年代特定が不可能になるのか 魏志倭人伝に書かれてるのは先住民文化の終焉だろ。
終焉があるのはその前があるのは当然だから 低偏差値しかも理系音痴な畿内説さん、この調査結果はまだかい?
卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/ 例えば1000年生きた木の前半100年分の木片ならどうだろうか
紀元前5世紀~5世紀まで生きた木の最初の100年分の木片の年代はいつと出るのだろう 明らかに他の遺物とかけ離れてて原位置不明な桃があればコンタミと判断するのが常識j もし金印が魏の時代に作られた事が確定すれば九州が最有力になる
何故あの場所から?ってのがあったとしてもね >>648
そのように恣意的に操作することを捏造するという。 【最新】
箸墓古墳は4世紀だそうです
前半か後半かはまだ不明ですが >>682
小枝は棺の中央部から採取された物らしいが? 卑弥呼の前の倭王の金印は博多湾で見つかったのだったね。
卑弥呼が畿内にいたなら、倭が東遷したことになる。 やはりホケノ山古墳が3世紀後半で箸墓古墳が4世紀じゃないのか? 小枝では原理的に測定できないってこと?
たくさん年輪がないとわからないと。 >>689
本物であれば盗掘の可能性のほうが高くなる トナカイ男ではないが、これが出て3世紀半となれば、まず世間的にはだいたい決まりだろうな
捏造だと思うやつは、資料が公開されるだろうから自分で文句つければいいし 例えば2世紀に切り倒されてウン10年ほど乾燥放置されて3世紀に加工埋葬された木片だと年代はいつと検出されるのだろうか? >>690
理由もなく言い張っても、それってまるで九州説(蔑称) >>691
>たくさん年輪がないとわからないと。
年輪が多いほど、サンプルも多くなり、正確性がアップするんだろ? @阿波 丸太がそのまま残っていれば、かなり正確に分かるんだろうがw @阿波 年輪がわからなくなるまで乾燥、加工されてればもちろんダメだろ
あと切り倒されてから何十年もたったようなのは資料として向かない
あと木の種類があるから、細くても年輪の詰まってる木や
太くても年輪の少ない木があってまあケースバイケースだな >>689
>卑弥呼の前の倭王の金印は博多湾で見つかったのだったね。
そんなもの見つかってませんが 科学的に出た結果をおまえが選別しちゃ意味ないのよ
根拠が陰謀説じゃ話にならん 板材や角材に加工した、丸太の一部分のものは、かなり難しいと思われ。 @阿波 >>696
材は使い回ししてるからそういうの想定する必要があるね >>704
適用できる木片の範囲がそうとう厳しそうだな
輪切りの木が古墳から見つかればいいんだが…… >>705
例えば手ごろなサイズの丸太が見つかったとして年代が2世紀と特定できれば
古墳の年代は2世紀以降となって1世紀となることはないが2世紀なのか3世紀なのかはわからないということになるのだろうか 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 辞書にこんな説明が
箸墓
はしばか
奈良県桜井市大字箸中にある前方後円墳。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと) の大市墓ともいわれる。 >>703
年代操作技術は科学とは呼ばず犯罪と言うんだよw >>714
完全葺石墓だから、4世紀の築造だな。 @阿波 酸素同位体比年輪年代法によれば、庄内式土器共伴の寝屋川小路遺跡矢板が227年
https://i.imgur.com/ARJhUzr.jpg
邪馬台国東遷説終わるんじゃね? >>714
これが積石墓だったら、3世紀末。 @阿波 庄内式土器が3世紀後半~4世紀初頭でなければ成立しない邪馬台国東遷説
危機に追い込まれた >>690
ホケノ山は、のかつき銅鏃が出ているから4世紀 纒向建物の柱穴の年代はは2世紀から3世紀まで何種類かあったよな
建物を建てたり壊したりした時期と古墳建造時期とが重なるとか 東遷説なんてこのスレにはいない
もとから終わってる >>721
>纒向建物の柱穴の年代はは2世紀から3世紀まで何種類かあったよな
えっ? 柱穴だけで年代が分かるようになったのか? わははははは @阿波 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 >>720
>ホケノ山は、のかつき銅鏃が出ているから4世紀
これもデマ
九州説はインチキだね 木を切り倒してウン10年乾燥させてから板に加工したらどうなるんだろう 一つの遺跡だけじゃなんとも言えん
纒向でも3世紀前半なら決定と言っていいだろう >>727
切った年代しかわからないでしょ。奈良時代の寺院の建立時には木材の再利用が確認されているようだが? 纒向が2〜3世紀の東の倭種の国の一部だと判明して嬉しい理由がわからんw 再利用材か否かは観察すれば解る
樹皮がついていれば最外辺か解る >>703
選別に時間をかけて結果を発表しないのはどう思う? 再利用とかそんなのどうでもいいんだよ
年代が合えば邪馬台国だなんて言い出す奴は今も昔も変わらず池沼扱いだから
邪馬台国東遷説ガチで終わったじゃん
もう書き込み禁止な 布留0式期の箸墓が3世紀後半、布留1式期のホケノ山は4世紀
纏まった量の鉄器が出るホケノ山は卑弥呼の時代の遺跡から鉄器が殆ど出ない畿内説にとっては救世主みたいなものなので箸墓と共に無理やり古くしたがるが、むしろホケノ山からだけ鉄器が出るのはおかしいのでやはり4世紀以降と見るのが自然
布留0が3世紀中盤でいいみたいだね >>736
年代の合わない遺跡を邪馬台国だと言い張る九州説は、とてもみじめ
箸墓古墳は年代的にOKということで
テンプレに追加しておいてください >>739
このように非科学、反考古学を言い張る九州説は、もう亡んでいるのです
布留0式と関係の深い纒向木材が3世紀中盤であるという事が判明し、平原一号墓は卑弥呼の墓候補から脱落して箸墓が確固たる地位を築くことになった >>737
一番古いやつで230年か
石塚古墳建造時期だな
>>746
石塚は庄内式だろ そりゃ巻向だって何もないところに建造したんではなくて
3世紀の痕跡だってあるだろ
だからといって3世紀に建造したことは限らない
後は論文が公表されるだけで、不可逆的に平原一号墓は卑弥呼の墓候補から脱落します 木材が伐採されて建材として建物になるまでにはタイムラグがある
AD670年に焼失・再建された法隆寺五重塔の木材を奈良文化財研究所が年輪年代法で測定したら、624年、631年、663年という結果が出た
230年代の木材が出たから纒向が230年代に築造されたとは限らない
弥生古墳時代を100年遡上させた!
という東遷論者の夜迷い言は地球上から消滅することになった つまり北部九州で卑弥呼の女王国が狗奴国と戦争していた頃、東の倭種の国々は纒向でひたすら古墳を造ってました
と判明したのですね
>その後、年層内変動パターンからもこの年代が確認できたので
時間が経てば経つほど証拠が積み上がっていき、東遷説は追い込まれる 「とは限らない」「とは限らない」と連呼しても、科学は否定できな 俺は九州説だけど、邪馬台国論争は結局水掛け論になってあまり意味がない。
この無駄な議論に時間をかけることをやめようと思います。
邪馬台国論争より膨大な知識が必要な司法試験の勉強に全振りします。
トナカイ氏は、邪馬台国論争も司法試験も両方いける人になってね。
まずは、TBすら知らないことを反省した方が良いと思います。
トナカイ氏、本当に邪馬台国論争は司法試験には邪魔です。
弁護士になってから邪馬台国論争にのめり込んだ方がいいと思います。
ちなみに、福岡県弁護士会は当然九州説を採っています。 >>754
何で?
100%ないし高確率ではないものをその通りに指摘したら非科学的なのか? >>750
纒向で出た木片は何種類もあるよ
古い物から新しいものまで
建物を何度か立て直してるので
まあほとんどが布留1だけど
年層内分析で他の標本も軒並み同じ時期だと判明したら、超高確率になるだろう
倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼が真実である以上、すべての理化学調査と研究は同説に収斂していくのだよ >>750
ごもっともです
しかし卑弥呼が居たのは代々巫女の痕跡が濃い北部九州一択ですから
東の倭種の国に纒向古墳造営キャンプ場があったかもね
という話で終わり
>>750
君、もしかして年輪年代法の仕組み理解してない?
それって心材なんじゃないの
50年前の木材が使用されたとか思ってんの?
あのさぁ...それ外側に年輪が残されてただけでしょ トナカイ君は司法試験目指してるのか
私は経営者として弁護士を何人も使ってるし知ってるが、弁護士も玉石混交だね
出来る人はすごく出来るがごく一部
あと大手か外資に入らないと収入も大したことない
YouTubeだの5chだのやる暇があったら勉強したまえ
司法試験に合格しても上位じゃないと大手に入れないからね(裁判官や検事も上位) 邪馬台国論争は老後のフィールドワークに取っておくべきw
俺が高齢者になるころにはもう畿内説で決着付いてるやろ
東殿塚古墳あたり掘れば金印出てくるよ
崇神天皇4世紀論者って今どんな顔してるんだろうね
纒向大型建物Cの存在により、庄内3式期に廃絶された同建物が崇神の磯城瑞垣宮である事が判明したわけだから
崇神が活躍したのは3世紀前半になるんだよね >>756
そうなると全部信じるなよって話なのよ
纏向だけ指摘するってことはどういう原理かわかんないんでしょ 桃の時も美味しいサンプルを探しまくった結果でしょう? 揉めてない。吉野ヶ里ショックの九州説がまだ四十九日迎えてないだけ 九州説派こそ吉野ヶ里には期待してないよ
邪馬台国時代に廃れてった集落だから
そこから見て筑後川の向こうが気になるところだろう
あ、赤村は論外ね
前方後円墳もどきを卑弥呼の墓とか脳みそおかしいレベル 科学的な測定なんて信用できない、全て信じないってんなら筋は通ってるんだけど
>邪馬台国時代に廃れてった集落だから
九州説って邪馬台国弥生時代説じゃないの?
酸素同位体比年輪年代法で、九州説がどんどん宗旨替えし始めた
東遷説は終わった
『邪馬台国非存在説』の伊太乃も終わった >>781
えっ?! 板野の詐欺師、そんなこと言っていたのか? @阿波
なあ、崇神天皇4世紀説で仮説を組んでた輩は今どんな顔してるんだ
だから言いましたよね
崇神天皇は3世紀だって >>781
ヤマタイコクというクニは無い、有ったのはヤマトコクで有るという主張、
江戸時代以前から有る説。
伊太乃さんはこれから一生、寺沢先生と共に纒向石塚を卑弥呼の墓だと主張し続けるようですね
無理だと思うなぁ 箸墓古墳が4世紀と判明したので畿内説の次の候補は纒向石塚古墳に変更いたします
悪しからず >>749
そんなに平原遺跡が気になっていたのかw
>>791
そりゃ一応九州説で最強でしょ オレは邪馬台国=ヤマト王権の立場であるが、崇神は3世紀末から4世紀初頭の大王だと思う。崇神を3世紀前半にすると、一人当たりの大王の在位年が長くなりすぎる。
卑弥呼の瑞垣宮を崇神が引き継いだのではなかろうか。
崇神の前にも事実上の大王である男弟がいるはず。
大王を卑弥呼と台与の2人だけとすると、纏向勝山やら東田大塚やらホケノ山には誰が入っているのかということなる。
卑弥呼は長生きだったから、男弟(と言われる役に就いていた人)は何回か交代しているはずだ。
オレは纏向石塚に初代の男王がいて箸墓に卑弥呼がいたとしてもおかしくないと思う。
九州説で最強の平原王墓が脱落し、箸墓だけが勝利する >>751
東遷は関係ないだろ。
この板に東遷論者はいないし。
あ、岡上さんは東遷か? >>768
まあ、女王国より東の倭種なんだけどね。 纒向の年代でなぜ平原遺跡の可能性がなくなるって?
わけわからないなw
どう見ても女王に相応しいのは平原遺跡だろ。
そもそも纒向は大陸や半島の帯方郡とこ交流の痕跡が皆無だからね。
論外だよ。 東遷と東征は違うしw
東征したのは鏡だしw
鏡こと、洩渓觚さんねw
>>798
西新式直前の平原は2世紀末になるとテンプレにも書かれてるだろう
【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳出土】=【黄幢】
─
①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg
※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
>>801
帯方郡との交流の証拠
布留0新相
真実はいつも一つ
全てが『倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼説』に収斂していく! >>789
そう言えば纏向石塚古墳、葺石も石棺も見つかってないのに何で石塚って名前なんだろう?
ちょっと名前に引っ張られている可能性はあるな、
今後要検討だわ。 どう足掻こうと真実は変わらない
【結論】里数行程と日数行程はどちらも帯方郡からの行程
半島南部~対馬が投馬国
伊都国の一大率が対馬海峡の南北沿岸部を監視
北部九州が邪馬台国(筑紫平野)
東の倭種の国は70国(纒向など)
https://i.imgur.com/noNigmO.png 伊都国の官から読みとく三種の神器
魏略では、洩渓觚 鏡(けいこ)
柄渠觚 玉(ぎょこ)
↓
魏志では、泄謨觚 矛(ぼこ)
柄渠觚 玉(ぎょこ)
鏡こと、洩渓觚さんは
畿内に移ったから居なくなったw
洩れる渓谷のごとき觚、字義だけ見ると
アマテラスの荒御魂であるセオリツヒメっぽいねw
記紀では、ニギハヤヒが畿内入りんご!
(ニギハヤヒに代わって、山幸彦が伊都国の官に)
ニニギは三種の神器を持って天孫降臨
伊都国の官・爾支がニニギなら有り得る話
もちろん、俺の独自新解釈 卑弥呼が女王に即位したのが180年頃
女王国vs狗奴国の戦争が245年頃に勃発
247年卑弥呼死去
男王が立ち内乱が発生し死者1000人以上
臺与を女王に選出しやっと平和になった(266年)
つまりこれらの痕跡が皆無な纏向説は論外 臺与は266から、何年間王位についていて、どこに葬られているんだろうね、大乱を治めた女王なんだから立派な墓に葬られていてもおかしくない筈。
首都のど真ん中で戦争するわけないだろ
臺與が大乱を収めた女王だって?
13歳で擁立されてんだから傀儡だろう 張政が帰国した後は台与の権威がボロボロになって内乱起こりまくりかも知らんぞ
臺與、つまり豊鍬入姫の後継は倭姫だよ
倭姫は伊勢まで飛ばされて完全に都と隔離されたから、対外的に祭祀王は女王と認識されなくなった。これがヤマト王権が男王国に変貌した転換点 from中国人
卑弥呼は卑弥呼であり、今日見ることができる歴史書に明確に記録された理論はありません。
魏志和人伝に記された倭国と邪馬台国の諸事件は、日本独自の歴史書には記録されていない。
したがって、この説では、卑弥呼が支配していた政権は3世紀中頃から後半にかけて消滅したと考えられ、
卑弥呼と彼が支配した邪馬台国を現存する史書に対応させる必要はない。
このような理論は、卑弥呼邪馬台国に関する問題を比較的簡潔に解決していると言えますが、
この理論を裏付ける十分な証拠があるかどうかは今後の研究課題です。 3世紀の畿内には蚕を養殖する技術もないのにないんだよね 【基礎知識】
倭人の墓に関する記述
■魏志倭人伝に記載された倭人の墓のつくり
「有棺無槨 封土作冢」
棺が有り外郭は無い、土で封じて塚を作る
■魏志倭人伝に記載された卑弥呼の墓のつくり
「大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人」
大きな塚を作った 直系約百歩(150m) 殉葬者は約百人 【応用編】
魏志倭人伝:邪馬壹国:ヤマイ国
広志:邪馬嘉国:ヤマガ国(邪馬臺国の誤写)
後漢書:邪馬臺:ヤマタイ
後漢書の注記:邪摩臺(ヤマタイ)は邪摩惟(ヤマイ)の発音が訛ったもの
隋書:邪靡堆:ヤビタイ(北史の邪摩堆の誤写)
この時代は国としてではなく都の名称のように解釈されているもよう
要するに隋の使者は倭に入って都を成す場所にたどり着くとそこが「邪馬臺」だと思っている様子
行程が全然違うので「倭人は里を知らない、日を以て示すのみ」と書かれている。
という事はこの「隋」の時代の邪摩堆と「魏」の時代の邪馬壹は場所が異なっているということです。 箸墓が崇神の墓でホケノ山が崇神の娘の可能性は無いのか? >>801
4世紀以降のコピー銅鏡が大量に見つかった遺跡かw 石野氏談
「黒塚古墳は布留1式以降であると思っているので、邪馬台国時代のものとは思っていない。」
>>820
臺與(豊鍬入姫)の墓がホケノ山だって?
前後関係滅茶苦茶すぎるね 【おしらせ】邪馬台国関連遺物の出土状況(2023年6月)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・吉野ヶ里の日吉神社の下の甕棺墓で絹を纏った巫女の遺骨発見
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・唯一の弥生遺物「銅鐸の破片」
>>824
畿内側に黄幢も追加しておいてくれ
>>824
そういえば君、酸素同位体比年輪年代法で完全崩壊した邪馬臺國東遷説の残党か
これからどうすんの君ら
>八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
弥生後期って邪馬台国関係なくね? 国内最古級の矢入れ具「靫」の部材見つかる 古墳時代初頭か、滋賀・彦根の遺跡
>邪馬台国の有力候補地とされる纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)でも古墳時代初頭の筒状の繊維製品が出土している。市は、稲部遺跡の靫と近い織り組織を持つ同時代の数少ない資料として注目。
「近畿の南に位置する大和(纏向遺跡)と、北の近江(稲部遺跡)が何らかの緊密な関係があった可能性もある」とみる。
森岡秀人・古代学協会客員研究員は「綾織りという高い技術が、3世紀中ごろの邪馬台国から倭国形成への移行期に大陸から入ってきていたことがうかがえ、中国外交の証とも言える。
纏向遺跡で約50年前に出土した繊維製品も同様のものとみられ、先駆的なものが日本海ルートで北近畿に入った可能性もある。当時の近畿の中心地が纏向だけでなく、北部の北近畿にあったとの見方もできる」としている。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1055027
https://i.imgur.com/c8NmmIk.jpg
庄内式土器(後期)で矢板が全て227年
布留0式が伴った纒向木材で230年代前半(※今後標本が増えて更に精度が上がっていくと思われる) 【速報】国内最古、箱形の矢入れ「靫」 卑弥呼時代、滋賀の稲部遺跡
>年代は靫などの放射性炭素分析や土器から240年ごろとみられ、卑弥呼(248年ごろ没)時代の祭祀の実態を知る手掛かりとなる。繊維片は、2019年9月に出土。絹糸と植物繊維の織物で、表面には黒漆が塗られていた。木の板、ガラス玉、モモの種などの祭祀具とともに出土。
https://www.47news.jp/9517951.html
八女市の集落は2世紀のもんだろう
邪馬台国は無関係だね >>832
(2世紀で終わった集落だ!きっとそうだ!
ずっと続いて巫女女王や筑紫氏に繋がってるはずがない…)
完全に邪馬台国時代と同一の箸墓古墳が後円部『径100余歩』であり
黒塚古墳からは『黄幢』が出土している事を合わせ鑑みると、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命であると考えざるを得ない
>>834
君東遷説じゃなかった?諦めが悪いね 今日発表された稲部遺跡の靫のニュースだけど、纏向と稲部の関係性が気になるな
稲部遺跡で桃の種も見つかってるようだし
中国三国時代の織り方で、中国との関係性が伺える
後は正式な論文が公表されるだけで、邪馬台国東遷説は不可逆的に終了だよ
>>837
これ絹製品なんだ
近くの土器はなんだろ
>>840
嘘だと思うなら検証してみればいいよ
標準パターンは完全公開されてるんだからさ
>>829
ふーん
邪馬台国時代の近畿に広く絹製品が流通していた証拠になろうね
しかも矢入れ具か
卑弥呼没後の戦乱跡だね あのな、卑弥呼以前から継続性のある鬼道の巫女道なるものがあったなら、卑弥呼以前にも殉葬があり、岱與にも殉葬はあるのよ、で、紀の記す266年の神功にも殉葬がなくてはならないのじゃないかね?九州さんの言い逃れを聴こうじゃないか。 畿内説は稲部遺跡を邪馬台国にしたらいいじゃんw
纏向よりはマシでしょ
纒向からは日本最古の天蚕絹製品も見つかってるし問題ないよ >>823
モモソヒメが箸墓という伝承を信じるならホケノ山の豊鍬入姫という伝承を信じないわけにはいかないだろ。崇神天皇の時代の大神神社の神主は大田田根子だったわけでいい加減な伝承をするはずが無いだろ。
>>848
ホケノ山が豊鍬入姫の墓って、大神神社の社伝に過ぎないぞ
紀にはそんなこと書かれてない
一々社伝なんか信じてたら群馬県に崇神皇子豊城入彦の墓があるって話も真実になっちまうな
滅茶苦茶だ
>>847
恐れてないよ
もう終わった説じゃないか >>828
お前の脳内では空き地に7万戸の邪馬台国が突然出現するのか?
卑弥呼時代以前からそれなりの人口が居なきゃ成り立たないだろ 大物主神裔は周辺にもごろごろいるのにわざわざオオタタネコを連れてきたとか大変嘘くさい。箸墓伝説も他国の風土記の焼き直しで非常に嘘くさい。箸墓はオオタタネコの物であるのをひた隠しにしているんだろう。
>>852
そこ邪馬台国要素ゼロだからなぁ
記載されている黄幢は黒塚古墳から出土 >>855
そこって何処だよ?
お前誰と話してるか分かって言ってんのか?
>>858
ん?貴方は名無しさんでしょ?
九州説の土器変年は酸素同位体比年輪年代法で完全崩壊しましたな >>849
大神神社の目と鼻の先の墓だよ大田田根子の子孫の大神氏が代々伝承していたのだろうよ、主君崇神の娘さんの墓だから忘れるはずもないだろ。 崇神の娘が岱與であるなんて臍で茶を沸かす話。
で、崇神は何をしているのだ?
NHKの事だから九州説偏重だろう
マスコミが九州説に支配されていることは吉野ヶ里騒動でハッキリした 吉野ヶ里のあの墓は出雲にもある墓だわね。
顔に×が書いてあるのが九州説。
九州説がマスコミを動員して騒いでいる間、畿内説は粛々と証拠を積み上げ続けたのであった 180年頃:倭国大乱終結および卑弥呼が共立女王となる(邪馬台国誕生)
193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
~ 卑弥呼が最も活躍した時期 ~
239年:卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る
~ 卑弥呼の力が弱くなった
2XX年:女王国vs狗奴国の戦争勃発
247年:卑弥呼死去 クローズアップは中立だろ。
阿波先生に言わせると大したことない宗族だよ。 67年間女王は❌だな。
少しは現実的な話をしたほうが良いよ。 >>876の上の図の丸で囲まれた範囲を狗奴国としても辻褄が合う
大分県って秦王国なだけあって大陸系が濃いのな >>875
魏志倭人伝に倭人は長生きで80-90-100歳も居ると書いてある 卑弥呼の統治下で安定し長寿信仰を表現しただけだろ。この時代専門家によると平均寿命は30位らしいがね。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. ホケノ山はモモソヒメの姪孫の墓なので4世紀が妥当だな また、史料1に、247年ころに卑弥呼が死去し、直径100歩あまりの塚をつくったことがみえる。
その有力候補に、奈良県桜井市の三輪山のふもとに立地する箸墓古墳がある。
さらに、箸墓古墳に隣接する纒向遺跡では、3世紀の巨大集落跡がみつかり、都市とみる意見もある。
この遺跡では、列島各地の土器が大量に出土し、巨大な運河などの土木事業の痕跡も確認された。
(清水書院『高等学校 日本史探究』 2023年) あらゆることで否定できる67年だよ。巨大国家だよ。 >>888.そんなことはないよ。東晋、孫恩の乱にみられるように、殉宗だよ。当時殉宗という言葉がない。陳寿が殉葬と記しただけ。
>>888
殉葬の存在は紀が証明している 【径百歩は陳寿の想像】
魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は朝貢記録の部分に記載されているので倭人からの伝聞です。
隋の時代まで中国の単位である「里」すら知らなかった倭人が「歩」という単位を知るはずもありません。
陳寿はその記録に記載されていた殉葬100余人という情報をもとに大きさを径100余歩と見積り、追記したのでしょう。
つまり墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って大勢の人々が死んだというその痕跡です。
卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のよう様相であると考えられます。
https://i.imgur.com/pjfObaD.png
邪馬台国九州説
~太平洋への旅・伝説のムー大陸を探せ~ 卑弥呼は10代の即位で八十近くまで生きていた。
彼女の本物の男弟などとっくの昔に死んでいる。
総じて男は女に比べて短命だからな。
卑弥呼の親族が男弟の名で摂政してたのだろう。
表向きの女王は卑弥呼だが、実際は卑弥呼の一族が政治の実務を行なっていた。後に男弟が女王を理屈をつけて伊勢に移動させたことで、裏方だった男王が崇神天皇や垂仁天皇として表舞台に出れるようになったのであろう。 >>755
誰かは知らぬ知らぬが法曹を目指す者がいるのかな。
それは素晴らしい事だ。
今は暇アノンのような連中がマイノリティの人権擁護を犯している。
赤旗か週刊金曜日か忘れたが、ゲーム的訴訟に対する危惧感が上げられていた。
昔なら差別主義者は皆で押し寄せて奴らの家に豚や牛の生首でも投げ込んでおけば良かったが、今はネットの匿名性に隠れて差別主義者のやりたい放題。
訴訟のカネはカンパで集めるという新方式を使い始めた。
ネット時代の法律闘争は新たな局面を迎えつつある。
法曹の道を志すのであれば、是非とも弱者の人権を守り、権利に阿るネトウヨを打倒してほしい。
我々は地球市民であり、倭人優先主義の差別主義者であってはならぬのだ
九州説瀕死だな
>絹糸と植物繊維が使われ、大部分は中国・三国時代に用いられた「綾織(あやお)り」で編まれ、福井県鼓山(つづみやま)古墳で出土した古墳時代前期ごろの靫の繊維と織り方が似ているという。一緒に出土した土器の特徴や、放射性炭素年代測定の結果などから、西暦240年ごろのものと推定している。
─
へぇ
中国の技術か
これもう決まったな
九州説が吉野ヶ里で遊んでいる間の畿内説の進撃が速すぎる
『邪馬台国時代は弥生時代』←嘘でした
『邪馬台国時代、畿内には鉄鏃が無かった』←嘘でした
『邪馬台国時代に絹が流通しているのは九州だけ』←嘘でした >>900
> 卑弥呼は10代の即位で八十近くまで生きていた。
> 彼女の本物の男弟などとっくの昔に死んでいる。
> 総じて男は女に比べて短命だからな。
> 卑弥呼の親族が男弟の名で摂政してたのだろう。
伊都国に代々王が居たでしょ
あれ卑弥呼の弟が摂政して伊都国にいたんだと思う
で卑弥呼の弟が死んだあとも伊都国の王が代々いて皆女王国に属したのかもしれん
九州説、お通夜だな
邪馬台国時代には鏡作坐天照御魂神社製の三角縁神獣鏡が那珂八幡古墳へ持ち込まれており、かつ博多湾岸(奴国)の王墓が前方後円形になっている事が判明
もう九州説は終わった
口を開けば『東の倭種』
しかしだね。その『東の倭種』に博多湾岸を抑えられていた事が確定したのだよww 台与のそ266以後の朝貢の話が晋書に書かれてないのはなぜだろう
中国が戦乱の時代になったから中国の史書に倭記録が残らなかっただけだろうね
あと呉を牽制する必要も無かった晋は金印をトヨに渡さなかったし、魏の時代から一転、倭が軽視されていたのだろう >>915
張政が帰国したあと内乱が起こってそれどころじゃ無くなったのかもしれん
あるいは東から倭種が攻めてきて一致団結して対抗しようにも結束力皆無で各個撃破されたり
『纏向遺跡に争いの痕跡が無い』
これ面白いよな
首都のど真ん中で戦争してたら、それはもう敗戦寸前だろうw
もう終わった
九州説のみんなは終わったんだよ
庄内式が3世紀前半だなんてイヤだイヤだ!
もうね、諦めましょうや もともと土器の年代観は小林行雄が崇神天皇の干支を信じてて
しかも60年新しく見てしまったことから始まった
それがやっと訂正できるようになった >>845
稲部遺跡はかなりデカいのよね
大型建物跡もあるし
でも人が暮らす集落であって王宮ではない
卑弥呼を共立した豪族でしょう 稲部遺跡が狗奴国かもって説もあるみたいだがなんでそんな事考えるかね?
卑弥呼と卑弥弓呼の仲が悪いだけだし狗奴国なんかどうでも良いじゃん 300年ごろになると楽浪帯方郡は高句麗に攻められ
多くの氏族が安全な倭国に帰化したと見られる
それを畿内が受け入れて発展したんじゃないか? ♪ サン・トワ・マミー 九州説は~ 終わったのよ~ 統一候補さえ出せずに~
サヨナラと~ 顔も見ないで~ 去っていった~ 畿内説の 心~
サン・トワ・マミ~ 夢のような~ 最盛期を~ 思い出せば~
目の前が 暗くなる~ サン・トワ・マミー~~ 畿内にお医者さんはいませんか?トナカイのメンヘラ症状が進行中です 吉野ケ里がロウソクが燃えつきる前の明かりだったわけだ 正義の畿内説が九州説という邪教を粉砕した
九州説は氷の地獄に閉じ込められ、二度と世に出ることはないだろう 畿内説は吉野ヶ里に本気でビビってたんだな
九州説としてはあれは元から華奴蘇奴国か弥奴国だと思っているから卑弥呼や邪馬台国の証拠が出るとは端から期待してなかった
何か当時の倭国の様子がわかるものが運良く出ればいいな、くらいだった
もし卑弥呼の証拠(親魏倭王の金印とか)が出たらこっちこそ驚天動地だった 邪馬台国は畿内、卑弥呼は北部九州イチキシマヒメ
結論が出たようだな イチキシマってどう見ても壱岐島だよな
壱岐で斎(イツキ)やってたんだろうか >>923
そうですよね
ただ、266年以降なかったとは言えないと思います 289年が最後の記録
東夷30国だが女王の名は無い >>941
倭人とか倭だと一文字二文字で済むのにわざわざ情報減らしてそんな書き方するかな?
別の国じゃない? >>941
八王の乱の直前までは記録されてると読むこともできるのではない?
毎年ではなかったようだしね >>910
書かれてる文字だけを重要視するからだろうが、
出所不明の情報は鵜呑みにするものではない。デマに発展する。 >>947
それ畿内説だろw
嘘と恥の上塗りを重ねるだけの日々w >>938
可能性はあるね
ニニギの養育係がイチキシマヒメ
>男弟佐治国
弟は年下の意味だから、その関係性も高い 纒向って魏志倭人伝の記述に一致するものが一切無いよね 晋書武帝紀の東夷絶遠三十余国に倭が含まれるかどうかは不明だが、感覚的には含まれていない気がする
中国史書は倭については割とちゃんと書くことが多いので >>949
>男弟佐治国
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3姉弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 「倭人(阿波勢力)」が畿内以東へ進出したから、畿内は東の倭種。 @阿波 >>959
その朝貢していた30国は、鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。 @阿波 纏向石塚古墳
https://www.gensetsu.com/060325makimuku144/doc1.htm
ここで一つ疑問が・・・葺石も石棺も見つかってない、土を積み上げた古墳なのになんで「石塚」っていう名前のなの?
だれか分かる人居たら教えてください! >>959
その朝貢していた30国は、便器王国「阿波」内で、便器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
@阿波 >>962
>葺石も石棺も見つかってない
完成を待たずに放置されたんだろう。 @阿波 箸墓と違って、纏向石塚古墳と名がついたのはそんなに古い話ではないだろう
住所が大田字石塚で、これから石塚という名がついたのかもしれない
では、石塚という地名はどこから来たのか 桜井市役所に問い合わせるのがいいのではないか 俺もよくは知らんけど
昔から仁徳天皇陵と呼ばれていた古墳が、被葬者を誤解させるということで
大仙古墳だか大仙陵古墳だかに変わったのが1970年代だったはず
そのあたりに名前が改めてつけられた古墳は多い
箸墓も箸中山古墳という学術名に変わった
纏向石塚も、たぶんその頃に地名をもとに名ずけられたのではないかと思う
昔から何と呼ばれていたのかは知らない 纏向石塚の正確な築造年代が明らかになるのも間近だろう。
それのみならず、伊都国平原1号墳→ (瀬田遺跡円形周溝墓 )→纏向石塚→勝山・矢塚→東田大塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚、という形で歴代の大王墓が築かれていった事が確定する。 欠史八代というが、オレは孝元と開化は事績の伝承はあったが、何らかの事情で記紀に収録されなかったと見る
孝元の元は国や都を建てた人に付けられる諡号。
次の開化はそのまま文明開花という意味。
何故このような諡号が付いているのか。
孝元(国玖琉)の時代に魏と修好して国都の建設が行われ、開化(大日日)の時代に魏の文物が流入して文明開花したという伝承がなければ、こんな諡号にはならない。
魏に朝貢した事実を隠したかったから、2人の事績が記載されなかった。なお倭の五王の朝貢も記紀では隠されている。
開化の妃は孝元の元妻だから、この二人は兄弟だろう。
物部や海部や伊福部の系図をみると、神武の代から崇神の代までが5代〜6世代で天皇家と世代数があわない。
天皇家の欠史八代の系図が完全にでっち上げだとすると、物部や海部や伊福部の尾張や中臣の系図の登場人物との整合性が全く無くなるはずだが、そんな事はなく複雑に絡み合った婚姻関係も幾つか矛盾はあっても各系図で整合性が取れている。
欠史八代は実在で兄弟相続を親子相続と間違えている箇所があると見るのが自然だろう。
オレは崇神の前の大王墓にこの2人が入っていておかしくないと考える。 >>969
>歴代の大王墓が築かれていった事が確定する。
あほか! そんな湿気た平地に大王墓は築かん。 @阿波 >>971
完成を待たずに放置されたんだろう。 @阿波 >>969
纏向石塚の正確な築造年代のみだけではわからないよ。他も同様に調べないと。 >>971
完成を待たずに放置されたんだろう。
こういう視点で捉えられるのは「阿波」だからこそ。 @阿波 >>971
完成を待たずに放置されたんだろう。
こういう視点で捉えられるのは「阿波」だからこそ。
つまり、大王墓なんかではなく、見栄っ張りの「倭人(阿波勢力)」豪族墓だから。 @阿波 >>968
>大仙古墳だか大仙陵古墳だかに変わったのが1970年代だったはず
考古学の記紀離れムーブメントだな
今は大和朝廷という言葉も使わなくなった その頃に、日本書紀とかに書かれてる天皇の生没年などの
干支も参考にされなくなった
そして、実年代を推察する指標がなくなり
土器編年の年代観の見直しが行われるようになった >>953
卑弥呼をイチキシマヒメと比定した場合
俺もトヨイヨはトヨタマヒメだと思ってる
トヨタマヒメならイチキシマヒメと
海つながりであり
山幸彦ヒコホホデミの奥さんだから
関係性は高いし、世代間も近いので筋も通る
卑弥呼はアマテラスとイチキシマヒメの2代に渡る
卑弥呼は1人じゃない説も後押しする ちなみに、狗奴国は
こうぬ→おほぬ で大国主の国
つまり、国津サイドの国で確定かなw
狗は「子犬」の字義
蔑字として「大」の対義なので筋も通る >>951
倭については割とちゃんと書くことが多いなんてなんの根拠もないよな
それより東夷絶遠三十余国と今使譯所通三十國は共通の資料かもしれない >>951
国数だけで他の国名も書いていないのに、倭だけ特別扱いされることはないのでは? >>984
だから私は客観的には「不明である」、しかし「感覚的には」と書いてるよね
あなたがあなたの感覚で反論しているのと同じ >>984
だから、「今使譯所通三十國」は、鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々 だと何度言えばw
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。 @阿波 >>986
まあ怒るな
それより東夷絶遠三十余国なんて記述があると知らんかった 字石塚
小字だから耕地(畑)に小石が多かったんだろう ヤズカやツジも耕地の小石由来の地名
扇状地は小石、粗い砂が堆積した土地 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>987
>その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。
それにしても、「阿波」から大陸へ渡る航海術と経済力。 倭国(阿波)恐るべし。 @阿波 >>964
小字名を古墳の名前に付けたのは理解、
ありがとうございます。
近くに他の石塚があったのかもね、
東石塚古墳と言う、埋もれた古墳もあるみたいだし。
方形周溝墓も見つかってる、
石塚古墳周辺は古くらの墓域だったみたいだね。 >>994
葺石を葺く直前で、何らかの理由で中止だな。 @阿波 造営途中で中止された割にはしっかりと残っているもんなんだね。 >>994
>ちょっとクスッと来た^_^
お前では「常識」「定説」に捉えられて、その枠から出た発想は出来ない。
最初期の湿気た平地の「前方後円墳」築造だから、試験的な意味合いがあった可能性がある。 @阿波 >>996
>造営途中で中止された割にはしっかりと残っているもんなんだね。
だれが造ったと思ってるんだ? 「阿波」のスーパー土木技術集団なんだぞ。 @阿波 古墳建造中に南海トラフの津波で流されて跡形もなく消えた阿波の古墳って何古墳? このスレッドは1000を超えました。
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