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邪馬台国畿内説 Part915
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:32:11.63
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1687851116/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:33:31.01
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:33:59.67
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:34:30.50
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:36:01.47
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:36:31.38
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:37:02.32
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:37:33.67
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:38:05.78
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:38:36.26
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:39:07.78
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 08:39:15.72
テンプレ①

清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長

私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:39:39.46
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 08:39:55.12
テンプレ②
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0015◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:40:15.86
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0016◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:40:46.21
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:41:15.94
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:41:46.09
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:42:17.43
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:42:46.94
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:43:18.48
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:43:49.53
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:44:18.78
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:44:49.52
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:45:20.37
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0026◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:45:51.01
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:46:23.04
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0028日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 08:46:37.95
テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0029◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:46:53.69
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:47:26.07
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:47:57.28
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0032◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 08:48:28.79
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:49:00.81
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:49:31.36
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 08:50:03.46
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
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2023/06/29(木) 08:50:36.28
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
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2023/06/29(木) 08:51:07.34
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2023/06/29(木) 08:51:39.55
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2023/06/29(木) 08:52:16.01
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0040◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:01:21.15
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:01:52.91
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2023/06/29(木) 09:02:23.33
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:02:55.39
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:03:26.10
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:03:57.56
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0046◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:04:26.62
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2023/06/29(木) 09:05:00.80
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2023/06/29(木) 09:05:31.38
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2023/06/29(木) 09:06:01.48
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2023/06/29(木) 09:06:31.75
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2023/06/29(木) 09:07:01.97
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2023/06/29(木) 09:07:32.09
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2023/06/29(木) 09:08:03.15
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2023/06/29(木) 09:08:36.50
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2023/06/29(木) 09:09:18.05
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2023/06/29(木) 09:09:49.37
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2023/06/29(木) 09:10:20.54
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2023/06/29(木) 09:10:51.45
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0059◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:11:22.76
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2023/06/29(木) 09:12:01.01
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0061◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:12:32.70
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2023/06/29(木) 09:13:03.54
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0063◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:13:34.65
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2023/06/29(木) 09:14:29.90
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0065◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:15:01.82
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0066◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:15:31.24
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2023/06/29(木) 09:16:03.92
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2023/06/29(木) 09:16:34.45
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0069◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:17:04.34
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:17:36.23
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:18:07.87
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0072◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:18:38.26
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:19:09.35
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0074◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:19:41.55
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0075◆ondZSOlfxeS6
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2023/06/29(木) 09:20:12.62
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0076◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 09:20:41.18
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0077◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 09:21:13.61
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0078◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/06/29(木) 09:21:56.53
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0079日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 09:52:20.62
以上、こじつけ妄想作文でした

本物のテンプレ
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解

坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
0082日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 11:52:09.84
オレオレ詐欺はやめましょう、畿内と卑弥呼は無関係です。
0084日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

【日本で一つしか見つかっていない『U字形鉄製品』─黒塚古墳(3世紀)出土】=【黄幢】


①鉄製の中空構造で高度な鍛冶技術を要するため大陸製である事が明白
②織物が面的に付着し内部に紐状のものが確認できるため「旗」として使われていた。
https://i.imgur.com/uKIYeNo.jpg
https://i.imgur.com/j2hq4kr.jpg

※参考:中国壁画に描かれた幢(旗)
https://i.imgur.com/aFtmzf2.jpg
0086日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 13:28:51.69
130:ウィズコロナの名無しさん:2023/06/29(木) 13:13:52.74 ID:w5NuXcPH0
>>127

景初三年(239年)の銅鏡はどこの古墳から出たの?
0087ネトウヨ撲滅隊 
垢版 |
2023/06/29(木) 13:37:02.13
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝を信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
0088日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 13:48:47.28
127:ウィズコロナの名無しさん:[sage]:2023/06/29(木) 12:47:45.31 ID:ppiPBAq50
>>123
景初三年(239年)や正始元年(240年)という魏の年号の入った
畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文体神獣鏡

130:ウィズコロナの名無しさん:2023/06/29(木) 13:13:52.74 ID:w5NuXcPH0
>>127

景初三年(239年)の銅鏡はどこの古墳から出たの?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 14:10:29.71
中国紙 中国の属国だった歴史を否定しようとする韓国に待った
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20210323036/
韓国がかつて中国の属国だったことを示す「証拠」の例を3つ挙げている

李成桂が1392年に漢城を都として建国した際に国名をどうするかで大いに悩み、
最終的に明の皇帝・朱元璋に決めてもらった。次に、朝鮮半島では明および清に対して
朝貢を行い続け、その回数も頻繁であったとし、中国王朝の属国という身分であり続けた。

さらに、ソウルにある2つの建築物についても取り上げた。まず「独立館」は朝鮮王朝が
明、清の使節を迎え入れるために1407年に建造された「慕華館」であるとし、
独立門についてもその前身は中国の使節を迎えるための「迎恩門」だったと伝えた。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 14:15:23.93
荒らしがウザい
0093日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 14:19:50.84
畿内説によると皇女のモモソヒメが朝貢していたという事になり、中共の思惑通りに日本侵略が正当化されないか?
0094日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 14:29:32.67
亡んだ九州説は、勝手に変な畿内説を捏造すんなよ
0096日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:07:24.21
トナカイはパヨパヨだから百襲姫を卑弥呼にしたいのだろう
0098日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 15:20:25.36
>>90
その赤色顔料が水銀朱だと分かった時点で、「倭人(阿波勢力)」のお墓と確定する。   @阿波
0100日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:34:56.13
>>97
なぜなんだろうな?
デカいけど
0101日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:43:15.11
やっぱ古墳の形状は好みの問題でしょう
0102日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:52:49.52
好みとか流行とかしがらみとかの複合要因で決まるんだろうな
「俺、前方後円墳にしたいんだけどこの辺のボスが円墳にしろって言うんだよな」みたいな
0103ネトウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/29(木) 15:53:48.38
韓国が中国に朝貢していて日本は朝貢していないから日本が兄などというのはありえない事。
両者とも中国の藩屏国になった経緯があり文化的には韓国の方が兄なんだよな。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:55:31.54
どっちが兄とか死ぬ程どうでもいい
歴史板にイデオロギーを持ち込むな
0105日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

酸素同位体比年輪年代法で九州説が涙目逃亡して、有意義なスレになってきたね
0106日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:57:29.87
そうです
何の根拠もなく卑弥呼が前方後円墳で統一した
などという畿内説は詐欺なのです
0107日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 15:57:58.94
何で何の発表もないのに我々が逃亡しなきゃいけないのか
それより勉強しろ
0109日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

普通に作ればいいか
こういうツールがあるわけではないのね
0110日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:01:47.71
昨日の誰かも言っていたが答えの出ない邪馬台国論争は社会人が休日にやるか、のめり込むなら本職のリタイア後にやるもんだ
学生が将来を犠牲にしてやるもんじゃない
0111日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:06:58.07
遺伝子学の結果は歴史を知る重要な資料になるし、民話の中にある真実も見直され民俗学の重要性は高まるだろうな
江戸時代明治維新戦後で失われた歴史を取り戻さないとな
0112ネトウヨ 撲滅隊 
垢版 |
2023/06/29(木) 16:07:40.30
前方後円墳のような正確な後円部や綺麗に左右対称な前方部は統一された尺と土地の計測方法が確立していないと作れない。
やはりイト倭国の九州人が来た人たちが前方後円墳を作ったのだろうな。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:13:47.59
トナカイの就職先は月刊ムーがいいかもなw
0114日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:16:38.85
>>102
>好みとか流行とかしがらみとかの複合要因で決まるんだろうな

いや、「倭人(阿波勢力)」の部族別のよる。   @阿波
0115日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:28:18.92
前方後円墳の出現期(3世紀前半)には
好みとか流行とかというほど前方後円墳の数は無い
0116日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:31:06.75
>>115
そうなんだけど俺もあれが良いとかそんな感じじゃないの?
0117日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:36:07.22
>>116
いや、「倭人(阿波勢力)」の部族別のよる。   @阿波
0119日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:38:38.10
大和の纏向石塚でも博多の那珂八幡でも
そのまわりには小さな前方後円墳は造られないので
前方後円墳=首長層の墓ということになる
0120日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:39:09.04
二分の一とか三分の一という前方後円墳の築造レシピは
押し付けられたというより、被葬者が自ら望んだものだろう
ヤマト王権に子孫の代まで庇護してもらいたいという願望の現れ
0121日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>120
親魏倭王の威光は凄まじかったろうからなぁ
0123日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:43:22.17
>その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。   

それにしても、「阿波」から大陸へ渡る航海術と経済力。 倭国(阿波)恐るべし。   @阿波  
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:44:06.81
>>121
その時代だとな
だから卑弥呼と卑弥弓呼の争いは卑弥呼の政治工作なんだって
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:46:40.10
>>120
そこは難しいところだな
卑弥呼の時代にそこまで世襲の概念ができていたとは思えん
やはり自らが首長霊となることを望んだのだろう
0126チン太
垢版 |
2023/06/29(木) 16:52:18.42
そう、日本書紀の古代の部分の扱いが難しいのは、
すべて万世一系の思想で統一されているところだ
古代は世襲というより、有力者による王権の持ち回りと考古学的には考えられていて
そこが日本書紀の記述との齟齬をきたすんだよな
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 16:59:47.63
崇神天皇の墓は4世紀後半の物なので、崇神と卑弥呼は接点は全く無いとしか考えられない
https://i.imgur.com/kOoLFIg.jpg
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:01:11.15
>>126
>古代は世襲というより、有力者による王権の持ち回りと考古学的には考えられていて
そこが日本書紀の記述との齟齬をきたすんだよな

その齟齬の原因が、律令国家として王統継承を合法化するための証として
「三種の神器」を飛鳥時代に創設制定したことによる。   @阿波 
0129ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/29(木) 17:12:15.69
畿内説がますます固まった。
あとは纏向遺跡内の各大王墓の年代解析だな。
早期ヤマト王権(邪馬台国)の実情解明は粛々と進んでいくだろう。

あとは伊都の王統とヤマトの王統の連続性が証明されれば良いのだがな。髪の毛の一本すら残っていないのだからやはり難しいか。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:13:39.15
>>126
> 古代は世襲というより、有力者による王権の持ち回りと考古学的には考えられていて
> そこが日本書紀の記述との齟齬をきたすんだよな
時代が大幅に違うからアレだけど倭の五王見ても身内で世襲するのが畿内のやり方に見える
九州30国連合は委奴国や倭面土国など王が各国持ち回りに見える
0131日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:13:47.76
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0132日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:19:38.46
その齟齬の原因が、律令国家として王統継承を合法化するための証として
「阿波」の特産品である「三種の神器」を飛鳥時代に創設制定したことによる。   @阿波
0133日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:20:16.51
>>127
>崇神天皇の墓は4世紀後半の物なので、

トンデモ説
0134チン太
垢版 |
2023/06/29(木) 17:23:55.22
世襲の問題は政権の安定と深いかかわりがある
3世紀ころはまだ、1つの集落はそれほど大きくはなく
吉野ケ里でもせいぜい環濠内1500人程度

まだまだ天候不順や洪水などで、一歩間違えれば集落壊滅に至る時期
集団を率いていくことができる力を持つリーダーでなければ
首長となるのは無理だったろう
それに考古学的には、大きな力を持った子供の墓なども発見されてはいないし
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:25:18.73
委奴国は猪名県だった摂津だろうな
あの辺りはINの音の地名が多い
背後の六甲山系は縄文時代から磐座が無数にあるところだな
摂津国風土記には丹後から来たトヨウケが摂津の飯盛山に一時いたともある
摂津はかなり重要な地だろうな

彦根の稲部、箱根辺りの猪伝承、寒川神社の御神体の猪の頭とも関係するかもしれん
0136チン太
垢版 |
2023/06/29(木) 17:32:19.24
1960年代頃までは記紀が信じられていて論文にも採用されていた
小林行雄も古事記に記される崇神天皇の没年干支、戊寅年を318年としてしまい
土器編年の迷走が始まった 本当は258年のほうが近いだろう
最近の認識はそっちだな
このあたりの事情は弟子の都出比呂志が本に書いている

それと伝崇神天皇陵が必ずしも崇神天皇の墓と確定しているわけでもない
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:32:36.84
>>133
天理市観光協会のページに参考文献:奈良県立橿原考古学研究所編 2001 「大和前方後円墳集成」とあるがな
0139日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>136
そうですね
延喜式に『手白香皇后陵(西山塚)の墓守は崇神天皇陵の護衛を兼ねていた』と記載があるため、むしろ距離的に【西殿塚古墳】こそ崇神天皇の真陵だと考えられる
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:36:23.68
>>138
まぁ、状況証拠から言って「倭人(阿波勢力)」の墓には違いない。   @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>137
そもそも行燈山古墳とかどうでもいいがね
そこは崇神天皇の真陵ではないだろう
0142日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:39:26.80
>>137
観光協会が参考にしたら、なんなの?
0143日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:39:52.39
>>119
全く論理性無し
0144チン太
垢版 |
2023/06/29(木) 17:40:37.54
一方、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘をみれば
ヲワケの臣の先祖からの系譜が延々と書かれていて
この頃(雄略天皇の頃)にはすでに世襲の体制が構築されていたのではないかという
推測が成り立つようにも思える
0145日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 17:41:17.58
>>129
懲役年数が増えるだけ
0147日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:05:19.53
>>143
>全く論理性無し

論理的な反論が出来ないようだな
0148日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:06:41.07
>>146
>あれにぜんぶ書いてある

「阿波」の歴史がな。   @阿波
0149日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:07:15.50
>>147
論理性無し
畿内説はいつもそう
0150日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:09:16.39
>>149
ほら、九州説はいつも証拠が出せない
0151日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:17:37.71
なにこの池沼思考

>119:日本@名無史さん:[sage]:2023/06/29(木) 16:38:38.10
>大和の纏向石塚でも博多の那珂八幡でも
>そのまわりには小さな前方後円墳は造られないので
>前方後円墳=首長層の墓ということになる
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:19:12.78
畿内説の思考回路は韓国製


>大和の纏向石塚でも博多の那珂八幡でも
>そのまわりには小さな前方後円墳は造られないので
>前方後円墳=首長層の墓ということになる
0153日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

当時の前方後円墳=首長層という認識は正しいだろう
奴国で一番巨大な墓が前方後円墳だしな
0154日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:20:16.66
考えられるのは
・選ばれれば誰でも王になれる
・今の天皇のように王家の血筋のみ
俺は2番目だと思う
0155日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

うむ。選ばれれば誰でも王になれるのは唐古鍵とか弥生時代の話だよな
2世紀の畿内には首長墓が見えず、まだ首長の神聖化が始まっていないと言える
0157日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

2世紀末期になるとそれっぽい物が出現し始める
うん。邪馬台国だよ
0158日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説、吉野ヶ里騒動の時は『絶対蘇らない様に巨大な石で封印された』とか言ってたのに今度は愛されてた設定にしててワロタ
0160日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

発掘調査・理化学調査の進展とともに追い詰められていく九州説
君達ね、マスコミ動員ネット工作しても無駄だよ
真実には勝てないさ
0161日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

マジで酸素同位体比年輪年代法が決定的だったな
庄内式3世紀後期説主張してた九州論者がみんな黙って涙目逃亡しちゃった
0162日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:28:18.73
王になれるのは王の血筋だけだけど後継者を任命できる程の権力は無いんでしょう
0163日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:28:19.45
中国は倭国をカウンターパートと考えて歴代重視していた
そこに日本が出てきておったまげて疑った
倭国は北部九州、日本は畿内
もうこれは自明のことで、論点は邪馬台国とヤマト王権につながりがあるかに絞られているといっておろうが

アメノミ「ナカ」ヌシノミコト
那珂、奴国の主が最高神
0164日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:28:36.33
>>152
九州説は論理的な反論がまったく出来ないと自分で証明した
0165日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

天之御中主神

この神は、天地の始まりの中心的な位置を占めているのに比して、それ以降神話中には全く登場せず、また、歴史上何らかの氏族や集団に祭られた形跡が殆ど見いだされない。こうしたことから、この神は、実際に古くから信仰されてきた神ではなく、記紀編纂時に程近い新しい時期において、天の中心の主宰神という高度に抽象的な性格を担って、観念的に創出された神であろうと考えられており、その成立には、中国思想、とりわけ道教の影響を濃く受けていると言われている。
0167日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

淀みの中から世界が始まった~とかアメノミナカヌシとか完全に道教の影響で新しい神なんだけど
九州論者って教養無さすぎじゃないかね
0168日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州論者、中塚先生の論文発表が怖くて怖くて毎夜ガクブル号泣w
0169日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:33:19.26
吉野ヶ里日吉神社の下で発見された甕棺墓の巫女が卑弥呼かもな

出土した銅鏡に刻まれた銘文
「長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう」
0170日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:33:22.85
>>156
だから、「天石門別八倉比賣神社」裏手の1号円墳(35m) だと何度言えばw   @阿波
0171日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:33:25.58
天之御中主神は道教の元始天尊を模して天武天皇の勢力が考えたんだろ
0172日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

このスレの九州論者は今必死に酸素同位体比年輪年代法に間違いが無いのか調べてる

そして調べれば調べるほど超高精度で標準パターンも公開されており一切反論の余地が生じない理化学調査だと理解し、ついに狂ってしまう
0173日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:34:42.31
>>163
>倭国は北部九州、日本は畿内
>もうこれは自明のことで、

思考停止する九州説
0174日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:34:43.47
畿内説の思考回路が小卒だと判明した発言


>大和の纏向石塚でも博多の那珂八幡でも
>そのまわりには小さな前方後円墳は造られないので
>前方後円墳=首長層の墓ということになる
0175日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:37:47.75
昔から言われてるように結局は
卑弥呼時代と同じ時代に奈良にも人が居ましたね
という結論
0176日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国東遷論者『お、おおおお俺の完璧な仮説が壊れる!纒向遺跡は神武東征の影響で誕生したに決まってるのに!誰か、誰か中塚の研究を止めてくれぇエエエッッ!キエエエッーーー!』
0177日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:40:50.55
魏志 東に海を渡るとまた倭種の国がある
後漢書 東に海を渡るとみな倭種といえども女王に属さず
宋書 倭王武「先祖が西に66国平定した」←←←←←
隋書 (東に海を渡ると)十余国を経て(難波津の)海岸に達する 筑紫以東はみな倭に属する

魏志から隋書まで並べてみると当時の日本に何が起こったのか一目瞭然だった
それまで続いていた女王国の朝貢がいきなり途絶えたのも理由がはっきりしてた
0179日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『倭種の国!倭種の国!』


...じゃあ何故、奴国の王墓が「倭種」流前方後円墳で三角縁神獣鏡まで副葬されているんだい?
倭種の国の配下じゃないか
0180日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

つまり邪馬台国所在地論争とは土器編年論争であり、中塚氏の酸素同位体比年輪年代法で畿内説有利の結果が出た時点でその勝敗も決したのである
0181日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

失礼
土器暦年代・絶対年代論争
0182日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:44:20.35
>>169
>吉野ヶ里日吉神社の下で発見された甕棺墓の巫女が卑弥呼かもな

それ、弥生中期ちゃうか?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:45:01.31
>>175
>卑弥呼時代と同じ時代に奈良にも人が居ましたね

だから、「倭人(阿波勢力)」が畿内以東へ進出したから、畿内は東の倭種 だと何度言えばw   @阿波
0184日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>182
九州説は暦年代を自由自在に操ることが出来る
これが魏志言う所の「鬼道」であろう
0185日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:46:34.43
旧石器時代淡路島は四国常世陸続きで島ではなかった
淡路島ができたのは氷河期が終わった縄文時代だな
淡路島より先に生まれたひるこは縄文時代の草創期か
葦船に乗ったひるこのえべっさんが流れ着いた伝承が堺に残っている
0186日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:48:52.98
>>185
そのヒルコを葦船に入れて流したオノゴロ島とは、忌部の郷日本一の中州「粟島」   @阿波
0187日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:49:43.72
記紀を根拠にしても年代を自由自在に操ることが出来るだろが
0188日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 18:53:40.08
阿波は天石門別八倉比賣大神御本記が興味深い
全てではないが何か真実が含まれているかもな
勅命を出した大泉の神とはなんなんだろう?
0191日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

巫女の伝統を引継いだと言えば百襲姫(卑弥呼)だよな
母親が淡路島のオオヤマトクニアレヒメ
『アレ(阿礼)』てのは宗教系の語らしいっすわ
0193日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

つまり○○って連呼してる奴はなんなの
0195日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:04:11.48
>>187
歴史の話は応神以降で
それ以前の神代は、適当に神話に合わせています。

豪族の神々は、伊勢の狙神に帰結しなければならないので
記紀は在り得ない古代の神話と崇神期、神功応神期が重複します。

実際、日本の古代の歴史と言える話は、
仁徳天皇の370年七支刀位からと言えます。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:06:03.67
卑弥呼はAD180年頃女王即位
即位後半島に朝貢を出した記録もある(公孫氏?)
卑弥呼が大活躍した時期は180〜230年ぐらい
239年に親魏倭王になると引き篭もりになり弟が政治を担った

女王国の東の倭種の国というのはいわゆる銅鐸文化圏と言われた地域であり、結局女王国には属さなかった
晋書武帝記289年に東夷が来たと書いてあるが相変わらず30国のまま
0197日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>196
東夷30国が全部倭国だったと思ってる?
それはなくね
0198日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:07:17.30
>>195
応神も仁徳も居ないから
0199ネトウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/29(木) 19:07:20.28
西殿塚を崇神の墓とするとホケノ山や東田大塚が崇神の父の代の男王(男弟)になるな。
纏向勝山や纏向矢塚は崇神の祖父の代の男王(男弟)かな。

卑弥呼は八十歳を超えて生きていたようだし、その間に男王(男弟)は3世代は経過していたろうな。下手したら4世代かもしれない。
0200日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『東夷』の中には濊だって韓だっていただろうよ
0201日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:08:01.50
>>196
289年は倭人じゃない東夷だと思うけどな
0202日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

ホケノ山は周囲に小円墳が沢山分布していることから、氏族の長であった可能性がある
例えば三輪氏の大田田根子とか
0204日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

世代の話であれば、大王墓級であるにも関わらず被葬者不明の桜井茶臼山・メスリ山などがあるね
0205日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:12:01.72
>>197
東夷絶遠三十余国
絶遠だと日本の事でしょう
0206日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

東夷絶遠三十余国の中には辰韓・弁韓も含まれてるだろうね
0207日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:13:24.24
そんな文字数使わなくても倭とか倭人の1文字2文字だけでもっと情報込められるし
晋書は倭のことはちゃんと倭(倭人)って書いてる
0208日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:14:56.76
>>207
倭人は半島にも居る
0210日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

あと三十国じゃなくては三十“余”国だしな
0211日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:19:32.69
>>207
倭人伝以外のところにも記述あるの?
詳しく
0212日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:21:49.99
>>208
266年は倭人ってなってるぞ
0213日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:22:19.62
後漢書だと
武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
0214ネ トウ ヨ 撲滅隊
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2023/06/29(木) 19:29:20.74
西殿塚を崇神陵とすると桜井茶臼山やメスリ山は阿部氏の本拠地にあるから大彦と武渟川別かな。
大彦は大王に即位していたのかもしれないとも思う。

稲荷山鉄剣によるとヲワケの上祖はオホヒコ。
普通なら大王である孝元からの系譜を書くと思うのだが大彦からになっている。
孝元が架空の人物だったか、大彦が大王だったか、大彦が大王家に連なるという系譜が後世に創作された嘘か、のどれかだろう。
0215日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 19:30:08.74
>>213
前漢の時代に倭人がわかれて100余国となってて
後漢書で100余国中の30余国となってて
魏志では30国となってる
後漢書と魏志の30国は同じ30国連合のことだと思うけども
晋書のそれが倭国のことだとは思わない
0216日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

>>214
雄略天皇が葛城氏や吉備氏などの旧勢力を叩き潰して、新勢力をガンガン登用した関係で地方勢力の系図は信用できなくなってる
0217日本@名無史さん
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NGNG?2BP(1000)

雄略天皇『俺の味方になれ!そしたらお前らの氏族が欠史八代中の王族の子孫名乗ることを許可してやる!』

みたいな事をやったと思われ
0218日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

戦国時代には自分の曽祖父の名前知らん武将とか結構居たみたいで、古墳時代ならもっと何でもありだったろう
0219日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:38:04.08
>>211
武帝紀の266年11月
それ以外は知らない
0220日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

つまりヲワケ臣は『大彦後裔』を名乗る権利のみを雄略天皇から授けられた。実際には子孫でも何でも無い可能性が十分にある
0221日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:44:51.26
獲加多支鹵大王がワカタケル大王で雄略天皇てのは
邪馬台がヤマトより飛躍し過ぎ
0222日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:46:16.68
>>206
当然東夷伝の
馬韓 辰韓 弁韓 高句麗 沃狙 穢 百 倭 鮮卑 烏丸
扶余 女真のような国土不明な北方系、
日本自体には100国は有るとして、
この30ってのは数えられないと思うね。 嘘松。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:48:30.56
>>222
俺は100国の方が信用して良いかわからん
0224日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:50:14.57
100国あったらしいくらいの話しだと思うがな
0225日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:52:55.53
倭王武は「先祖が西に66国、東に55国平定した」と主張した
0226日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:54:07.79
>>215
東夷∈倭∈女王国(倭の30国連合)

東夷30余国と書かれた場合に倭国(女王国?)が入っている可能性はある
後漢書や魏志倭人伝では倭地の30国と使役が通じるという文意なので、289年の東夷30国と同一視するのは無理
266年に朝貢した実績があるし、晋書倭人伝でも朝貢が途切れていない感じで書かれているから、含まれていると考えても個人的には違和感ない
0227日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:58:18.18
>>226
おまえは軽視してるみたいだが俺は「絶遠」が引っかかるのよ
0228日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

倭王武の上表文とか滅茶苦茶だろ
朝鮮半島の95カ国従えたって、それどこだよ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:59:51.24
>>227
どうひっかかるの?
普通に遠方から来たという表現じゃなくて?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 19:59:54.47
倭国だったら遠くても絶えてないからなあ……
0232日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:00:21.17
>>228
それも実際のところはらしいって話でしょ
0233日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:01:23.08
>>230
来たじゃなくて遠くにある国々
0234日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:01:37.06
使訳通じてて詳細がわかるなら遠くても絶えないんじゃないかな
0235日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:03:33.92
>>234
遠く隔たってるとかそんな意味合いかな
0237日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:06:17.76
張政は19年間も伊都国で接待受けていた怠慢野郎
邪馬台国にはおそらく一度だけ顔出して、卑弥呼の墓すら実見していない
0238日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:07:00.05
>>236
安東大将軍に相応しいでしょと言ってるんだろ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:08:01.16
>>235
同意
0240日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:14:26.00
>>236
九州だけで100国はあっただろうから、半島にもそれぐらいあったんだろ。
0241日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

魏志倭人伝

>倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」
0242日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>241
つまり100余国が魏の時代には統合されて30カ国になっていたということだね
0243日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:15:51.65
>>242
後漢時代もな
0244日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:18:20.22
昔は100国くらいあったらしいが今は30国程になってるとか
そんな感じの意味じゃないかなあ
0245日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:20:42.82
>>242
ちがうよ邪馬台国勢力が、30ヵ国で属してない国が70国。全部九州「倭国」ね。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:24:08.85
魏志韓伝みると馬韓だけで50余国ある
0248日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そして邪馬台国の時代には、奴国が本州勢力に忠誠を誓い前方後円墳を築造して、本州勢力から三角縁神獣鏡の配布を受けていたことが判明したわけだね
0249日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:26:59.79
どう見ても東渡海の先にいる倭種も含めた全体で100余国
そのうち九州の「倭国」が使訳を通じた30国連合
0250日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

酸素同位体比年輪年代法で暦年代がほぼ確定し、倭種の国ロジックはもう使えなくなった
0251日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:29:02.56
>>249
「舊」を無視できないよ
「今」とも対比になっている
統合されたのか、単に使訳が通じなくなったのかはわからない
0252日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:29:53.29
>>251
九州北部の「倭国」が30国、九州南部は倭種ではない熊襲隼人の地
女王国の東に渡海してまたある倭種の国々が本州四国で70国
0253日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:31:27.50
武帝紀の東夷絶縁30余国は倭国だろ
魏志倭人伝でも大変遠い国なのに健気に遣いを送ってくる卑弥呼を愛おしく思うと書いてあるだろ
0254日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>252
そういう読み方も出来たね
暦年代が確定する以前は
0255日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:31:50.96
倭王武の先祖が西に66国平定したというそのスケール感とも齟齬はない
30国連合は九州北部に収まる規模だね
0256日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

邪馬台国時代、博多湾岸が本州勢力の手に落ちていたことは既に確定的であり九州説は阿鼻叫喚地獄の坩堝に投げ込まれてしまったのである
0257日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:33:27.47
そういう読み方できる??
0258日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

考古学的事実からすれば奴国も倭種の国になり、九州説は自縄自縛で崩壊する
0260日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:39:08.55
舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

これがどう読めば統合になるのよ
0261日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

もういいよ
考古学を無視するのはやめよう
0262日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:41:43.89
>>260
百餘國はそのくらいあったらしいって事じゃないのかな?
0263日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:42:20.02
漢書地理誌
楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来り献見すといふ。

後漢書
倭は韓東南大海の中に在りおよそ百余国。武帝朝鮮を滅してより、使駅を漢に通ずるは三十許国

魏志倭人伝
倭人は帯方東南大海の中に在り旧百余国。漢の時朝見する者有り。今使訳通ずる所は三十国

宋書
東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六

東南大海の中にある倭種がいる島々のスケール感は前漢の頃から一切変わっていないのよな
0264日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:43:31.69
“日本唯一人の天才史家”笠井新也を抹殺した津田左右吉ら
「共産党支配の古代史学界」の学的犯罪を糾弾しない、非国民ばかりの一億日本人
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2990#more-2990

筑波大学名誉教授、中川八洋

笠井新也については、私だけではなく、数で言えばそう少なくない有識者が、
エジソンのような彼の天才性に驚き高く評価する。が、これは全体で見れば極く少数。
笠井が「邪馬台国は大和朝廷である」との正しい歴史をぶち上げた1922年からすれば、
この笠井“無視・抹殺”という古代史学界の犯罪は、すでに百年。

戦後日本の“世紀の嘘八百”「邪馬台国=九州」説のプロパガンダ史家は、
「津田左右吉→榎一雄(精神異常者)→井上光貞→…→安本美典」であり、
皆、天皇制廃止の共産党に所属する。

画期的かつ偉大な笠井新也1922年論文は、シンプルで実に明快。
まさに天才史家・笠井の面目躍如。それまで誰一人解明できなかった『
魏志倭人伝』の地名「不弥国」を福岡県福間町、もう一つの難解な地名「投馬国」を出雲国に、
あっさりと比定した。天才の閃きとは、これだ。

 前者。「不弥ふみ」と「福間ふくま」は語音が相類似し、
「福間→不弥」と表記された(注1、390頁)。後者。「投馬」の「投」の古音はヅだから、
「投馬」はヅマの支那人宛て漢字。一方、出雲=イヅモの「イ」は聴きづらいので
「ヅモorヅマ」と聴こえただろう。結果、「ヅモ→ヅマ→投馬」となった
0265日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:43:38.48
旧くは百余国 漢の時に朝見する者あり いま使訳の通ずるところ三十国
こうだろ?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:46:21.28
>>265
そうだよねえ
0267日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:47:20.87
ともあれ後漢書と魏志の30国は同じ集団であることは間違いなかろうて
晋書の東夷30国は知らね
0268日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:50:56.19
ちんじゅさんは百余国を把握していない
引用しただけだから
いまは交流があるのは三十国といっている
これをもって統合と断言するのはおかしい
0269日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

酸素同位体比年輪年代法で粉砕されて以降、九州説が明らかに元気を失ってるのを感じる
このスレって東遷論者結構多かったのかな?
0271日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>268
魏書東夷伝倭人条からは、100国のうち30国とも断言できないね
0272日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>263
なるほど
(前)漢書地理志の頃の記述をそのまんま引用しただけか

前漢代から国の数が変わってないわけないもんなw
0273日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

九州説って面白いな
前漢の時代から国の数が変わってないと思ってるんだ
完全にファンタジーの世界に生きてるわな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:56:20.61
>>268
そもそもその百余国にはたくさんの国があるって程度の意味しかないのかも知れない
0275日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 20:58:02.09
>>272
倭王武の(先祖が侵攻する)時代まではほぼ変わって無さそう
0276日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

前漢の時代から国の数は変わってないと
面白いな、ここまで考古学を完全無視されると呆れを通り越して乾いた笑いが出てくるよね
0277日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:00:24.01
九州北部なんかごっそり国が減って隋書の時代には筑紫国が生まれてるからな
きゅうしゅうほくぶにいったいなにがおこったのかなぞだわー
0278日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:02:31.21
東遷ではなく東征

筑紫は筑紫で独自の王国のまま行く

伊支馬 ←伊から枝分かれした馬

伊都国から枝分かれしたのが畿内勢力ってわかるねw

九州倭国と本州日之本の実在で
倭の五王すら九州倭国の王たちだった可能性も出てきた?w
0279日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

凄まじい勢いで九州説が追い込まれつつあるよね
年代観が完全否定されて、もはや日下部氏が畿内から持ち込んだ日田の鉄鏡しか依代の無い状態
0280日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:03:23.94
肥国のど真ん中に肥国を引き裂くように生まれた筑紫国
いったいなにがあったんだ……
0281日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:03:47.76
今年の大河ドラマくらいお花畑ファンタジーだねw
0284日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:07:08.55
>>271
こうやって南を東に読み変えるんだろうな
漢書、後漢書から引っ張ってきたのが百余国
ちんじゅさんは張政の報告などでいま交流があるのは三十国といっているだけ
素直に読めよ
いずれにせよこの百も三十も九州島のお話なんだがな
0285日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:09:57.22
>>272
ほんと漢文読めないんだな
なるほどじゃねーよw
そう書いてあるじゃないか
だから南は南なんだよ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:10:10.70
>>284
東南アジアくらいまで倭の範囲なんだから100国全部が九州という解釈はあり得ない
0287日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:12:27.06
生口の数=1国1人づつ出した人質

臺與時代は生口30人だから
>今使譯所通三十國 となった

一度の朝貢で30国ぶん出来るってわけ

傍国は
魏使が直接現地調査は出来なかったけど
生口から聞き出した国名(+どんな国か)と言える

これにて
卑弥呼時代は生口の数から、10国程度の女王連合
臺與時代で30国程度の女王連合と読み取れる
0288日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:13:22.57
>>284
まだそんな事を言ってるのかよ
いつの時代かわからん
0289日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:17:01.73
持論に都合がいいように変に捻って解釈しようとしなくても
女王国が30国、東渡海してまたある倭種の国々が70国でいいと思います!
0290日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:18:54.91
>>289
他の史書の記述だろ
何も魏志倭人伝だけが正しいわけじゃない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:19:42.84
よーやく分かったわ
畿内説は漢文すら理解できていないってことを
0292日本@名無史さん
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2023/06/29(木) 21:22:48.84
>>290
魏志 女王国の東に海を渡るとまた倭種の国々がある
後漢書 東に海を渡るとみな倭種といえども女王に属さず
宋書 (倭王武の先祖が)西に66国平定した ←←←←
隋書 (東に海を渡ると)十余国を経て(難波津の)海外に達する 筑紫以東はみな倭に属す

各史書を並べて比較するのは大切だな
0293日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:27:29.08
>>264
画期的かつ偉大な「阿波」の高校教諭「笠井新也」が矢野遺跡や黒谷川郡頭遺跡を知っていれば
畿内説など言い出さなかったものをww  実に残念である。   @阿波
0297日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

伊勢神宮は神明造ですからかなり古いでしょう
纒向遺跡大型建物Cを継承する建物ですよ
0299日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

『伊勢神宮の考古学』読んだけど、結論としては雄略天皇の時代以降から明確に祭祀場の痕跡が現れるとか

@伊勢神宮内宮
0300日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:57:47.26
卑弥呼は伊勢の荒魂、撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命やろ

サカキであるイワの御魂を撞いて、塞がるものを取り除き天を通した、向かいの津の姫
神風の伊勢の国の、百伝ふ度逢県の、拆鈴五十鈴宮にます神、名は撞賢木厳之御魂天疏向津媛命なり
神風のは伊勢や八坂にかかる枕詞
拆鈴のは五十鈴宮にかかる枕詞 
拆はやぶるという意味
銅鐸の国を倒したんだろう
伊勢津彦は伊賀に石の城を作っていたがヤマト政権誕生時に敗れ風を起こしシナノに逃れたという伝承がある
播磨国風土記によれば伊勢津彦はイワ大神の子らしい
播磨風土記には暴風を起こした五色の玉を持つ石神の話も載っている
伊賀の名張に当時の要塞のような遺跡が見つかっている

卑弥呼は伊勢の向かいの愛知の海人の姫で、名張の砦を突破して近畿の銅鐸の勢力を滅ぼしたんじゃなかろうか
纏向遺跡の始まりは卑弥呼がいる近畿制圧の前線基地だったかもな
0301日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>>300
同意はしかねますが、よく調べていらっしゃいますね
0303日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 21:59:12.23
卑弥弓呼は大神神社の荒魂である狭井の神、薬と井戸と酒の神さまでしょ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:02:05.28
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0306日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:10:13.62
>>294
ひとつ確実に言えることは、「卑彌呼」の時代では九州は倭国ではないということ。   @阿波
0307日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:12:24.55
和泉地方に残る民話は面白いよ
高橋という薬使いの医者、なにわの軽業師の寅吉、高間寺の山伏の仲良し3人組の話
3人全員同時に亡くなり地獄行ったが、薬を使ったり、針の山をぴょんぴょんと飛び越えたり、温泉の秘術を使って蘇る話
落語や絵本地獄の宗兵衛の元ネタにもなっている

倭国大乱前3人が協力して国作りを行い、卑弥呼の時代辺りで同時に亡くなったが、百舌鳥古市古墳群の時代にまた復活したストーリーも考えられる
卑弥呼の時代より前の近畿地方は銅鐸と勾玉の時代
仁徳天皇陵の時代、考古学的に再び勾玉のブームが訪れる

高橋の医者は狭井の神であり蛸薬師で、
軽業師の寅吉は寅はインと発音するので委奴国、猪名の娘を娶った軽
高間寺の山伏は高天原の山の神さま、磐座の神さまだったら面白い
0308伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/29(木) 22:20:07.83
>>306
え~それって人と違う事言ってる俺様格好いい!っていうナルシズムでしかないよね。

客観的には「ものすごくカッコ悪い」よ。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:25:40.39
>>308
>客観的には「ものすごくカッコ悪い」よ。

お前の主観など聞く耳持たん。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:33:33.13
仲良いんですねw
0311日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:34:07.82
景初三年銘画文帯四神四獣鏡が見つかった古墳時代前期末の和泉黄金塚古墳からは勾玉や日本最大の水晶玉が見つかっている
ここは信太山の葛の葉伝説が残る場所
ウカノミタマが配下の者が迷惑をかけたお詫びに黄金の箱と水晶玉を授かる話
信太山の葛の葉伝説も史実を反映した話じゃないか
0312日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

>人と違う事言ってる俺様格好いい!っていうナルシズム

畿内説なのに箸墓古墳卑弥呼陵説を否定する某コテのことかな?
0313伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/29(木) 22:35:47.56
>>309
自己を客観視できるようになれば良いよね、自分もまだその域には達してない若輩者やけど、
他人の事は意外と良くわかるんよね。
0315伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/29(木) 22:40:50.43
>>312
箸墓を卑弥呼の墓と比定するのは勝手にすれば良いと思うよ。
まあでもそれはちょっと厳しいと「私は思います」

つか、数ある古墳、墳墓の中で箸墓が卑弥呼の墓だと特定する根拠が薄弱なんではないのかな。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:42:26.69
じつは箸墓がモモソヒメの墓とする根拠だって薄弱だけどな
0318日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:46:08.59
>>315
理由もなく思っちゃうの?
0319日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:47:21.64
それは九州でも同じでしょ
被葬者が卑弥呼とわかる墓なんて今のところない
だからみな勝手な説を立てて遊ぶことができるわけで
0321日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:50:25.37
どうせここでやってることは
学問でもなんでもなくて
ヒマな爺いの遊びだからな
0323日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 22:55:52.78
九州説は不真面目だね
0324ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/29(木) 22:59:59.78
江戸時代からのネトウヨ九州説は完全に論破されたわけだな。
自民党とくに清和会を支持していたような壺や日本会議の連中は九州説を前提に作られた古史古伝が否定されてしまってアイデンティティ崩壊の記紀を迎えているな。

科学の光は邪な嘘を明るみにさらし、虚偽に基づいたネトウヨ学説を信奉する輩はゴキブリのように散り散りに消えるだろう。自民党の駒となって働く壺や日本会議や古史古伝の信奉者を退治するには邪馬台国九州説を否定するのが一番早い。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:09:10.08
>>326
後世にはそういうトンデモ説も生まれた
0328日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:11:50.51
伊勢神宮が神明造という古すぎる構造なら、
伊勢神宮が邪馬台国の時に造られた可能性もあるのですか?
0329日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:13:58.89
眉に唾をつけて嘘をつき歴史を歪曲する妖に打ち勝たないとな

唾と言えば事解男
イザナギとイザナミは話し合いをして穏便に別れたという話もある
イザナギが別れ際に吐いた唾が事解男
唾は誓いの証だな

事解男が祀られているのは熊野の阿須賀神社で、境内とその周辺から弥生時代末期〜古墳時代前期の集落跡が見つかっている
熊野川の対岸には世界遺産のゴトビキ岩という磐座があり銅鐸の破片や銅鐸を模して作られた石の造形物が見つかっている
ゴトビキは現地の言葉でヒキガエルのことらしい

大阪や奈良にはあらゆるものを飲み込む蛙石の伝承が残っている

明治天皇が詠まれた歌にツバと蛙が詠まれているのは考えさせられる
夕蛙
つばくらめ飛ぶかげたえし小山田のゆふべさびしくなく蛙かな

伊勢にはダニグクというヒキガエルの神さま、興玉神石がある
興玉神は内宮にも祀られていて、遷宮後も中央の岩はその場に残され興玉神として祀られ続ける
0330日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:14:39.26
神明造
歴史は古く、記録に残っていないため定かでない。弥生時代の遺跡の柱の遺構が神明造の柱の配置に似ているため、弥生時代の高床倉庫が発展したものと考えられている。

うわ、まさか、俺の守護神の神涼観音って、そのまま当時の、
天照じゃねえだろうな・・・
0331日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:17:17.46
伊勢神宮の建物は何度も建て直されてるだろ
そもそも天照大神が伊勢神宮に移ったのはずっと後代の話
卑弥呼の頃には、地元で信仰してる何かとかはあったかもってくらいかな
0332日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:19:50.93
うわ、私の年収(以下略)を想起させるレス発見w
0333日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:28:30.94
>>331
でも、その神涼観音というのは、天照大霊女貴の直接化身なんだ。
輪廻転生の可能性もあるものの、
伊勢神宮が邪馬台国時代に建設されたものならば、
真逆とも思うのだが・・・
そうなると、恐らく私とこの神涼観音は同一血脈かなにかの深い関係が有るはずだから、
私はもしかしたら邪馬台国の重要人物、引いては、
記紀に出てくる後神名かもしれない。
これは、大変突飛な意見かもしれないが、
私も学問芸術宗教全部やってる方なので、
真逆なとも思う。
前世は、大天使ウリエルらしい。
その時点で、何かしらの神なのではと思うが・・・
0334日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:30:01.16
「倭国の王→倭の国王」「日本国の王→日本の国王」など、津田左右吉らが徒党を組んだ「支那人漢語の“嘘読み”」は、紙上テロルの「王おほきみ殺し⇒天皇殺し」
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=3003#more-3003

筑波大学名誉教授、中川八洋

『後漢書』倭伝にある「倭国王」の間違った訓みの問題も、この一つ。
支那人のこの種の文は、必ず「国名+官名」。間違うことは万が一にも不可能。
訓みの間違いは、訓みの意図的な捏造から生まれている。

 具体的には、『後漢書』倭伝にある西暦107年の記事「倭国王帥升」の、
「倭国の王」を「倭の国王」と訓読みしている。「王」は官名。「倭国」は国名。
なので、「倭国」と「王」の間に「の」を入れる。

 支那人の漢語では、「倭やまと」は、「倭国」という国名で用いなければ、
“日本(やまと)地方”とか“日本(やまと)民族”とかの意味として用いる。
「倭」の古音は「ヤ」で、「やまと」の最初の一音を表記。故に、
「倭国王帥升」は、表1の右欄のようにしか訓めない。

箸墓の大きさは、「墳長280㍍弱=円部150㍍+前方部130㍍」で、高さは16~30㍍。
今般、吉野ケ里で発掘調査しているのは、ゴミほどの「縦3.2㍍、幅1.7㍍」。余りに小さすぎる。
報道すること自体ナンセンス。嘘つき朝日新聞のエゲツナイ他意が丸見え。

『魏志』倭人伝が「邪馬台国」と表記した国が「大和朝廷のくに」を指すのは自明。
「台」の古音が「ト」なのも、この証拠の一つ。
しかも、『魏志』倭人伝が、箸墓を「径百余歩」と描写しているように、
魏帝国は、百襲姫が気になって気になって仕方がなかったほど徹底的に調査したようだ。
径とは後円部の直径の事、そして歩とは六尺で一尺は24.3㎝だから百歩は145㍍となる。
記述「百余歩」は、実際の150㍍とぴったり一致。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:30:54.89
だからといって、私が世界トップの人物ではないだろう
ただの一般人だ。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:34:28.27
ああ、そうか、よく読んだら、伊勢神宮に天照大神が祀られたのは、時代が遅いか・・・
しかし、神涼観音は、伊勢神宮建設に尽力した観音様らしいのだが、
天照大霊女貴御本人であるために、
何かしら邪馬台国と伊勢神宮の歴史に名を刻む方なのではないかなと思う。
というか、邪馬台国では、この天照は国母シバの女王ということであった。
どうだろう、やっぱり輪廻転生かな?
0338日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:37:10.45
大体、観音位は仏教が入って以後の話だから、
恐らく輪廻転生して伊勢神宮建設の時代まで時間が立つのだろう
ということは、伊勢神宮建設の時代にはすでに、
仏教が入り込んでいたことを意味する
0339日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:39:34.35
そもそも天照大神が伊勢神宮に移ったのはずっと後代の話

ということは、自分で祀られる神社に自分で尽力したというのもおかしな話だが・・・
0342日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:42:45.24
やはり、仏教伝来の時代考証をすれば、
きっと、天照大神上祀時代の伊勢神宮の時の方なのだろうな
しかし、なんでその方と私が縁があるのだろうか?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:44:55.95
眉と言えばスサノオの眉から生えてきた楠の話だな
枯野伝説や播磨風土記によると楠から作られたのは軽船や速鳥
卑弥呼の時代の遺跡である池上曽根遺跡は摩湯丘陵の海岸線にある
楠の巨大井戸、二上山のサヌカイトや紀ノ川の石でできた無数の石器、ヒスイの勾玉、蛸壺、木製の男根、山の女神を彷彿とさせる二股に分かれた木の柱、龍の絵画土器などが見つかっている
摩湯丘陵の言い伝え
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる

アリマは熊野なのか六甲山なのか
熊野の有間はイザナミが眠る場所だな

欠史の懿徳天皇の宮は軽の宮、孝元天皇の宮は軽之堺原宮
欠史と軽は関係が深いんだよな
0344日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:45:52.64
聖徳太子の時代に仏教伝来したはずだから、
伊勢神宮完成もそのころではという説も出てくるな・・・
詳しくはわからない
炭素同位体年代測定などで調べれば一発だが
0345日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:49:06.37
確か、478年雄略天皇倭王武の上表文だったよね
おおよそ、聖徳太子の頃と合うね
0346日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:51:27.45
>>334
面白い経歴の先生だな
学部は東大工学部航空で、大学院はスタンフォードの政治学科か
大学院で文転だね
0349日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:54:47.23
道の枕詞は玉鉾の
道の神さまは黄泉に逃れたイザナミ、道敷大神
延喜式の道饗祭に湯津磐村という言葉が出てくる

湯が湧き栄えた伝承が残る池上曽根遺跡のある摩湯丘陵
和泉から堺にかけての海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧いたらしい
奈良時代や平安時代、都から人々が堺に湯浴みにきたという記録が残っている
明治時代にもこの風習が続いていたらしく奈良から婦人たちが列をなして堺に湯浴みに行っていたらしい

池上曽根遺跡からは二上山のサヌカイトの石剣石槍、紀ノ川産の石で作られた数千点の石包丁が見つかっている
正に磐村やね
泉州の石工は有名で高野山にもたくさん作品が残っており江戸時代においても全国から引っ張りだこだったらしい

湯が湧く港の磐村、湯津磐村は池上曽根遺跡あるいは泉州のことじゃないか
0350日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:56:48.65
伊勢神宮 いつできた 西暦?
垂仁天皇26年:皇大神宮(内宮)創祀。 雄略天皇21年(477年):豊受大神宮(外宮)鎮座。 天武天皇14年(685年) : 式年遷宮の制を制定。 持統天皇4年(690年) : 第1回内宮式年遷宮。
うーん、神涼観音が天照で伊勢神宮建設に尽力したというのが本当ならば、
このころまでに仏教が伝来していないとおかしいはずなんだよなあ・・・
本格的に仏教興隆させたのが聖徳太子ということか。
それなら、理屈に合う。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:57:55.11
あ、違うや、外宮が477年か。まあ、でも、この頃だ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/29(木) 23:59:48.12
>>348
著書のリストをみるとなんか伝わってくるものがあるw
0353日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 00:03:58.78
神涼観音は、もしかしたら倭姫ではないかな?

倭姫命は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。 第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 00:12:21.52
でも、天照大霊女貴だからなあ・・・
可能性高いと思うんだよな
0357日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 00:17:58.59
伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は『日本書紀』に次のように載せる。

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國
(この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ)
??垂仁天皇25年3月丙申(10日)条

意味は、伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう、ということである。


常世の国は、つまり邪馬台国なのだろう。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 00:19:34.47
常世の国は竜宮城なので龍に纏わるところだな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 00:26:35.23
常世の国は竜宮城、海に近いところ
諏訪の神さまは黒い龍神だが内陸だな
河内には龍神が大和川の治水を行い最後は堺の方に去ったという民話が残っている
和泉地方の池上曽根遺跡からは龍の絵画土器も見つかっている
河内の狭山池の底には龍神淵があり龍神が祀られている
河内〜和泉は候補地の一つだろう
0360日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 01:15:50.64
竜宮城は古代のキャバクラです。浦島太郎は騙されたんです。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 07:38:12.15
つまり畿内説は統一教会の壺でしたという事か
0367日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:15:06.46
科学に見捨てられ、宗教に逃げる九州説
0368日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:26:47.00
新しい教科書を作る会などが目論む歪曲教育は排除せねばなるまい。
壺や日本会議のネトウヨを排除すれば、日本の教科書には邪馬台国について九州北部としか書きようがない。
畿内ヤマト王権の成立を過分に前倒しして、あたかも上古から大和が列島の覇者であったかのような妄言は、歴史という学問から排除されなければいけない。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:27:28.52
畿内にいつ何があっても、それは女王国から東に渡海したところにいる倭種のこと。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:33:22.54
>>344

伊勢への神鏡鎮座も仏教伝来も同じ日本書紀だろ。
どうして片方だけ採用するんだ…

それに式年遷宮というのがあってね、今の伊勢神宮の建物は2013年の新しいものなんだよ。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:36:38.06
>>278

記紀の神武の大和入りは東遷ではなく東征なんだよね。
つまり記紀は筑紫を本来の王都としている。
日向三代など、天皇家の祖は筑紫の伊都の王家であるとしている。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:37:10.64
元伊勢は日本各地に散らばっているが、
何故その様な状態になったかということで、
やはり熊襲が仲哀天皇の時代に北部九州を蹂躙した事が大きいだろうな。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:40:46.19
天照大御神はおそらく伊都国の太陽観測従事していた巫女だろうなあ。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 08:46:45.26
神武は垂仁の祖先としては存在していただろうが、
東征は垂仁景行の宇佐→吉備→大和への進出をモチーフにしたもので、
実際の神武は南九州で生涯を終えているだろう。
0378ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 08:59:52.76
2世紀後半まで畿内は後進地域。
故に伊都国の王統は畿内を新天地として開拓する事ができた。
畿内の後進性こそ畿内説の強い論拠となる。

紀によると神武は葦原中国を治めるために最適な新天地を畿内と定め、これを征服して国を建てたという。

これは新倭王として諸国に共立されたイト倭国の王が国を治めるために最適な新天地を畿内と定め、これを征服して国を建てたという話だったのだろうな。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:04:57.36
畿内説は最有力候補だった唐古鍵がなぜ消えたのか
人々は何処へ消えたのか?
を徹底的に調査する事が最重要課題だ
0380ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 09:11:45.62
和歌山市に岡村遺跡という集落跡がある。
この遺跡の周りには神武東征の時に滅ぼされたという名草戸畔を祭る神社がいくつも存在しており、九州勢力によって滅ぼされた在地勢力の集落だったのだろうと推測される。

この遺跡には銅鐸が出る一方、銅鏡が出ないという特色がある。
ここから銅鏡祭祀は後からやってきた九州勢力の宗教であって、銅鐸祭祀は征服された原住民の宗教だったことが理解できる。

畿内で銅鏡祭祀が始まった=伊都国の王統の畿内支配が始まったと考えるのが自然だろうな。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:13:29.78
>>378
そうそう
畿内は難波や近江が栄えていただけ
何もなかった纏向に外部からの勢力が拠点を作った
これが当時の本拠地だったのか
ただの亡命先や出先機関で4世紀以降に力をつけて本拠地を攻め滅ぼしたのか
いずれにしろ外部からの勢力は伊都国王の系統の可能性大

九州叩きはやめとけ
首を絞めることになるぞ
0383ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 09:22:13.02
畿内で銅鏡祭祀が始まるのは2世紀末。
よって伊都国王が畿内に移ったのも2世紀末と推測できる。

つい先日科学的証明により纏向の年代は3世紀初めには存在している事が確認できた。
もはや年代は動かない。4世紀などという戯言は全て否定された。

オレは神武東征のモデルになった事件は2世紀末で、神武のモデルになった人物は卑弥呼の親族の伊都国王と考えと良いと思っている。畿内の新都で行われた勝利宣言と共に女王卑弥呼が即位したのだろう。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:27:01.48
伊都国の王というか、その系統だと思うわ
狗奴国は南九州
北部九州の連合軍が狗奴国と戦って勝利したとき、伊都国王の系統が狗奴国の一部だった土地を占領して「日向」と名付けた
そして銅鏡、剣、勾玉を神器として崇め、一族の証として矢を持ち込んだ
それから何かの事情で吉備に行き、そこから畿内を平定した

…と素人予想
玄人の先生たちは畿内が九州との絡みなしで邪馬台国=ヤマト政権を作ったと言ってんだっけ?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:36:07.52
卑弥呼が伊都国王の娘の可能性は考えた
その兄弟は3人いて、1人は父親から権力を継承して卑弥呼を補佐
あとの2人は出雲や狗奴国に派遣されたか、亡命したか、とかね
0386日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:38:21.50
>>385
でも、その可能性は無かった
0387日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:38:26.68
233 ウィズコロナの名無しさん[] 2023/06/29(木) 23:19:45.90 ID:mQsFUYeo0
>>1
無駄無駄
南にある狗奴国と戦争していた痕跡があるのは九州だけ

87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ

https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg
0390日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:52:51.13
◆岡山はちゃんと調査結果を報告している

未確認石室か 岡山・造山古墳後円部に「空洞」確認 岡山大など4研究チーム発表、後円部を素粒子で“透視”
https://news.yahoo.co.jp/articles/b2223de8aca72428bd3deadd9c4a190b3a201ab1

◆対して纒向説は3年経過してるのに何の結果報告も無し

卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
0391日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 09:58:41.17
>>383
勝利宣言だったら女王なんて立てる必要ないんですよw
0393日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:02:07.09
揉めてるから女王であるというのを理解してないとかもうダメだね。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:08:56.09
>>387
邪馬台国?
卑弥呼だよ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:24:54.09
>>388
>どうやって「なかった」と証明するの?
>証拠は?

伊都国王は曽根丘陵に平原1号から4号まで連綿と続いている
そして東の博多、西の唐津が前方後円墳を取り入れても頑として受け入れず、伝統を守ったまま衰退しているから
0396日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:29:00.63
無理して記紀ベースの物語を作ろうとするから、九州説は倭人伝も考古学も無視することになり、現実や世間常識ととかけ離れていく
だが記紀を盲信しているので、自分たちのほうが常識的だと信じ込んできる
0397日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:30:10.05
証明できないことを書いてはいけないとなれば
ここの書き込みは三分の一以下になるけどな
0398日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:31:14.17
証明できないことを書いてはいけないとなれば
九州説の書き込みはゼロになるけどな
0399日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:32:33.69
そもそも箸墓が卑弥呼の墓だというのは証明されていない
0400日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:32:34.08
そして証明できないことは史実にはならず人に理解してはもらえず
大部分が妄想としてかたずけられる
0401日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:34:53.68
ただ「証明できない」ということにもレベルがある
発掘すれば証明できるかもしれないというレベルもあれば
絶対無理だろうというものもある
0403日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:41:53.82
今やってることは爺たちの学者様ごっこと自覚したほうがいい
最大限に良く言っても、高尚な趣味
でないと痛い人になる
0404日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 10:45:58.62
この趣味の怖いところは
自分の言うことは絶対に正しいと思い込むようになり
他の意見を持つ人にイラつきを覚えるようになること

便所の落書きと言われる5chの中で完結してるうちは何の問題もないが
実生活までそれが出てくると大変なことだ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:01:37.25
>>404
トナカイの将来が心配だ。てかどうでもいいw
0406日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:03:21.20
だから阿毎多利思北孤(西暦600年)がアマテラスで日本の歴史はこの辺から始まった
伊勢神宮創建はその後
0407日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:06:48.07
>>406
アマテラスはもっと古いアマテル信仰の乗っ取り。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:07:40.42
>>381
近江から纏向に移転した
0409日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:09:02.53
>>407
そんな証拠ないでしょ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:09:57.26
伊勢神宮を整備したのは天武天皇だな
天武天皇は式盤を持っていて戦いの占いをしたと記紀に出てくる

天武天皇のときに支配者の呼び名が大王から天皇に変わった
これは道教の天皇大帝から取ったもので
天皇大帝は北斗七星を神格化したもの
そして伊勢神宮には北極星(太乙)が祀られている

このあたりは常識だぞ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:10:23.35
0413日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:11:36.76
>>407
>そもそも箸墓が卑弥呼の墓だというのは証明されていない

ばかですか?
証明されてたら九州説は存在しない
0414日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:13:39.07
>>408
>そして証明できないことは史実にはならず人に理解してはもらえず
>大部分が妄想としてかたずけられる

だが九州説は滅ばない
世に薄馬鹿のいる限り
0415日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:14:30.65
箸墓が卑弥呼の墓とはもちろん証明されてない
だから教科書とか古代関係の雑誌には
九州説、畿内説の両論が併記される
0416日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:15:52.10
で、証明されてないのに
他の説を激しく否定するのが畿内説

焦ってるんだね
0417日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:16:38.04
>>411
北極星は天之御中主神と習合しているだけ。ただそれだけ。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:19:05.73
>>414
俺に対する批判か?
もしそうなら纏向の前は?
帥升は何処に居たんだ?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:19:49.97
>>409
あきらかに>>406の方が妄想だろw
0420日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:21:56.43
>>419
何故?
伊勢神宮の創建時期は西暦600年以降でしょ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:22:53.79
畿内説とは嘘のつき方を研究する学問です
0422日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:25:48.31
出雲大社は文献に出てくる平安時代時代だろうし
西暦600年なんて古すぎ
0423日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:26:16.46
>>410
>石室有りなら候補から除外して終了

それでは他人を説得出来ません
0424日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:26:47.72
>>418
どこにいたかわかるのか?
あの記述なら日本列島にいたかどうかもかなり怪しい
0426日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:27:37.92
>>424
だったら卑弥呼は?
0427日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:29:51.72
>>426
日本列島にはいたんじゃない?なんでその質問?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:30:51.29
>>415
>だから教科書とか古代関係の雑誌には
>九州説、畿内説の両論が併記される

でないと怒鳴り込んでくる九州説のクレー爺がいるらしいぞ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:31:13.51
建武中元二年(西暦57年)から日本の外交戦略が変わってる
だから金印を貰えた
それに相応しい国になろうとしたんでしょう
0431日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:31:30.42
そもそも畿内説が無理筋なんだよ
魏志倭人伝にしか出てこない九州の国をなんで畿内に持っていこうとするのかそこから無理がある
素直に別の国として考えれば何も捻じ曲げる必要ないのに
0432日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:33:14.84
>>430
貰っても誰も有り難がっていない
無くしても誰も咎めない、日本も大陸も
0433日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:34:42.67
>>416
>で、証明されてないのに
>他の説を激しく否定するのが畿内説

論理的に狂った主張だぞそれ
間違いだと証明された説は否定するのが当然だし、証拠出すどころか理由も言わない説も否定してかまわんだろ?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:35:11.88
>>431
超時空古墳近畿に不可能はない
移動すら可能
住所もしっかり書いている
後からつければ歴史的にというチャイナ理論で
0435日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:38:49.93
>>431
>そもそも畿内説が無理筋なんだよ
>魏志倭人伝にしか出てこない九州の国を

なんて証明されてもいないのに他の説を激しく否定するのが九州説
0436日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:40:48.41
>>425
>いやもう箸墓は候補から外れてるよ
>纒向は2020年で終了

証明どころか理由も言わず他の説を激しく否定するのが九州説
0437日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:41:03.20
国の体を成してないなら金印はくれない
0439日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:43:32.18
>>429
畿内説のババアだろw
0440日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:44:06.47
>>438
伊勢神宮創建時期から考えるとそう考えるのが妥当でしょう
0441日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:44:46.65
古代のアマテルは男神だった。それがアマテラスになってから女神になった。
何故わざわざ女神を皇祖神としたのだろうか?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:45:42.92
>>418
>もしそうなら纏向の前は?
>帥升は何処に居たんだ?

それらを解明しなくとも纒向を邪馬台国の都と推定する説の信憑性は十分だ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:45:50.46
>>431
畿内説を支持している連中のDNAが半島系だからw
行動パターンが韓国のそれよw
0445日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:47:16.31
>>442
だから伊勢遺跡から移転したんだよ
0447日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:50:43.04
吉備や畿内、東海の首長が死んだら奈良盆地の広い空き地にデカい墓を建てて葬ってた

それだけの事
0448日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:51:39.91
>>431
北部九州まで畿内勢力が及んでいたと仮定するなら、別の国と考える方が素直ではない
あとはその仮定を支える論拠を考古学的に集めていくだけだよ
九州説は素人の俺様解釈だけだろ?どちらが無理筋?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:57:07.61
>>450
前方後円墳の広がり
0454日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:57:55.65
いかなるときも理由を言わないのが九州説
0455日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 11:58:17.26
>>450
俺は那珂八幡あたりで十分有力な根拠になると思うけど「集めていく」と現在進行形で書いた

逆に九州にあるという考古学的な根拠は?
そこから考えられる当時の情勢は?
0456ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 11:59:56.45
九州説の人間は平気でチ◯ンなどというヘイト発言をするよな
壺許すまじ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:00:51.93
>>453
それはどんだけ遡らせてもせいぜい卑弥呼死亡後でしょう
倭国大乱があった地域で女王が共立された二世記末にはたどり着けない
0459日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:01:23.47
>>448
考古学者の妄想が現実離れし過ぎてるんだよ
社会経験の無い人間の空想はアニメやテレビドラマと同レベル
日本史の内容もほとんどがそれ
だから国策として理系重視に切り替えたわけ
0461ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:04:27.06
纏向遺跡の建設着手の年代は恐らく2世紀末。
つまり2世紀末には倭国王は畿内にいた。

これも今後、更に正確に詳細に絞られていくだろうな。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:04:33.70
>>457
福岡に最初に出来た古墳は前方後(方)墳だからな
当時東日本にしか無かった形式の古墳だ
東日本や畿内から渡航しようとして亡くなった人の墓だろうね
政治的な意味は無い
0463日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:06:17.35
>>458
>卑弥呼の時代ではなかろうて

いかなるときも絶対に理由を言わない九州説
0464日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:06:29.56
>>459
何の説明もなく妄想のレッテルを貼るだけ?www
0465日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:07:01.68
>>441
持統天皇(女帝)から孫の文武天皇という前代未聞の皇位継承の正当化。
アマテラスから天孫ニニギ。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:07:35.68
>>460
移動に時間がかかる時代に国という概念が芽生えた
当然ながら苦難の日々であり、都度迅速な判断が必要とされた時代だ
統治出来る範囲は限定的である
例えば島単位、平野単位が限界である
0467日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:07:47.19
>>457
>それはどんだけ遡らせてもせいぜい卑弥呼死亡後でしょう

どうして?
理由は?
0468日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:08:01.36
>>463
だったらどの古墳なんだ?
0469ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:09:09.24
インカ帝国には文字もなくウマもいなかった。
しかし彼らは広大な国を作り上げた。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:09:24.69
>>462
>福岡に最初に出来た古墳は前方後(方)墳だからな

という証拠は?
0471日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:10:40.17
>>466
中国とか遥かに広大だから
集落単位で金印を貰えると思うほうがおかしい
0472ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:12:04.40
トンガは文字がなくカヌーによる移動手段しか持っていなかった。
しかし彼らは広大な海上帝国を作り上げた。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:12:27.80
>>466
>統治出来る範囲は限定的である
>例えば島単位、平野単位が限界である

そういう各地の統治者が三世紀前半にネットワークで繋がったというのが教科書にも載ってる通説なんだがね
0475日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:13:54.89
ネットワークなんか縄文時代からあるわ
銅鐸だって列島規模で商売やってたろアレ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:13:58.36
>>466
それはあなたの感想ですよね?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:15:59.81
>>468
>だったらどの古墳なんだ?

那賀八幡と何度も何度も言ってますが
0478日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:16:30.81
>>474
日本は中国の事を知ってるよ
広大な漢王朝に対して集落が相手にしてもらえると考える方がおかしい
0479日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:17:53.52
>>470
少なくとも那珂八幡古墳より先に焼ノ峠の前方後方墳が建造されている
東日本にしかなかった前方後方墳が出雲や吉備や畿内を飛び越していきなり福岡に建造されている

墓制統一思考なんて考古学馬鹿の妄想なんだよ
0480ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:18:10.00
古代のシュメール人やアッカード人は文字はあったが馬を持っていなかった。
しかし彼らはオリエントを統一して広大なアッカド帝国を作り上げた。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:18:23.12
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0483日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:21:19.13
>>477
わからん
そこに何があるの?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:21:23.31
>>479
> 墓制統一思考なんて考古学馬鹿の妄想なんだよ
これはほんとそう
例えば銅鐸は支配の証拠だ銅鐸体制だって言ってるようなもんだ
0485日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:22:22.28
>>475
>ネットワークなんか縄文時代からあるわ

土器の拡散から分かる人の移動の活発化
格段に高まった葬制の画一性
古墳第一期の箸墓を頂点とした築造企画共有
これらを各地首長の統一への志向と理解するのが通説なんだがね
0486日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:23:10.78
>>479
>少なくとも那珂八幡古墳より先に焼ノ峠の前方後方墳が建造されている

という証拠は?
0487日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:23:11.42
北九州の城野遺跡は方形周濠墓だったな
あれは那珂八幡古墳の後に造られたんだろ?
墓の形式に特に制限は無かったわけよ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:23:32.07
>>485
墓なんか好みの問題でしょう
0489日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:24:33.85
>>479
共立後なのだから、例えば遠い文化圏の権力者が任地で没したと考えても不自然ではないよね?
むしろ広域な勢力圏の一部が北部九州にすでにあったという仮定を支える事実になるのでは?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:24:34.96
ところで墓制統一が勢力圏を示すだなんて誰が言い出したんだ?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:26:22.56
>>484
>墓制統一思考なんて考古学馬鹿の妄想なんだよ
>これはほんとそう

もう随分前から教科書に載ってて、全国の高校生がそう勉強してるんだけど?
0493ネ トウ ヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:26:35.74
古代のインド亜大陸は広大で交通は未発達であった。
しかし古代のマカダ国のアショカ王はインド亜大陸をほぼ統一し推定人口1億超の超大国を築きあげた。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:27:50.64
>>492
違う形状のがあるじゃん
0495日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:28:11.61
>>492
早く訂正しないと歴史捏造事件になっちまうぞ?
お前の代で歴史が固定されるわけじゃ無いんだから
いい加減な歴史を残すと後世に迷惑をかけるだけだ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:28:38.94
>>429
風説の流布
0497日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:28:52.23
こないだでっかい盾と剣が出てきた円墳も前方後円墳に敵対する勢力かっつの
0500日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:32:23.16
>>490
>ところで墓制統一が勢力圏を示すだなんて誰が言い出したんだ?

この通説を認めないんなら甕棺文化圏なんてものも無くなって、北部九州に大きな国があったなんて妄想になるよね
0501日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:33:41.67
>>490
現代でも教会で木魚叩くやつはいない
ましてや古代なら宗教的儀式がある集団への帰属意識そのものだっただろうと思う
敵対国の祭祀に理由なく従っていたと考えるが九州説?
0502日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:36:02.30
>>497
>こないだでっかい盾と剣が出てきた円墳も前方後円墳に敵対する勢力かっつの

墳型と規模で体系的序列があるというのが通説の前方後円墳体制論なんだが
0503日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:37:22.65
>>502
つまり体系的序列に沿わない大きな勢力の存在がうかがえるということですね
0504日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:39:25.46
仮に倭人が人種を区別していたとしよう
色んな人種が混在する時代だったと思う
墓の形式は単に出自によって決めてたんじゃないのか?
半島系が多い近畿は半島由来の前方後円墳が多い
縄文系が多い東日本は前方後方墳が多い
とか
0505日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:40:20.45
>>503
そんな説は無いけど?
誰が言ってる学者いる?
0506日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:40:38.72
>>500
通説が妄想ならさっさと修正すべき
まさに天動説に固執してた教会人と一緒だ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:45:28.45
>>506
>通説が妄想ならさっさと修正すべき

学者の通説を妄想だと言ってる人は誰? 
そう決めつける理由は?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:46:38.40
>>507
>勝手に変えるなよw

誰がなにをどう勝手に変えたの? 
あなたの日本語他人に通じない
0510日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:48:18.72
通説と合わないならここではそれに沿って考えれば良いじゃん
何でそんな事に拘ってんだ?
0511日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:49:07.48
天理教の支部が各地にあるが天理教が日本国を動かしてるわけじゃない
他の宗教も同様
特に日本は宗教に関しては寛容だよ
イスラム系に土葬を許可する地域も出てくるぐらい
神社と寺が共存してたりも
古代から多民族だったがゆえに育った日本人特有の感覚だろう
0512日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:50:40.15
>>509
お前は通説と言いつつ通説の解釈が行き当たりばったりで変えてるんだよ
だから畿内説からも支持されないw
0514日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 12:54:52.34
>>510
通説に固執してるのはここのスレ主で、通説という言葉を勝手に使ってるだけ
ほんの数人の畿内派の学者のコメントを通説と呼んでるだけ
実際の学者はそれぞれ考えを持ってる>>12

昔は通説を定説と呼んでいた学問知らずの低能だよ
0515ネ トウヨ 撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 12:59:26.02
九州説の殆どはネトウヨが壺や日本会議や古史古伝信者が自分ら教義を守るための主張と化しているからな。
だから畿内説論者に対してまるで自分の宗教を貶されたかのような発狂状態を見せてくる。
一種のネトウヨジハードなのだろうな。

自民党や維新が政権をとると学問が捻じ曲げられるという証明だ。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:04:57.88
滋賀はこの時代結構デカい遺跡はあるんだけど目立つ墓が無いのよ
考えられるのは破壊されたか墓に関心がなかったか奈良に埋めた
0517日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:09:00.60
>>510
>通説と合わないならここではそれに沿って考えれば良いじゃん

誰に言ってるの?
それって、なに?
意味がまったく分からない
0518日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:09:25.66
>>512

> >>509
> お前は通説と言いつつ通説の解釈が行き当たりばったりで変えてるんだよ
> だから畿内説からも支持されないw
0519日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:10:40.71
>>517
前方後円墳だけが墓じゃない
前方後方墳も同時期に作ってるし
0520日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:11:10.16
>>512
>お前は通説と言いつつ通説の解釈が行き当たりばったりで変えてるんだよ

変えてるとは、なにをどう変えてると?
証拠は?

>だから畿内説からも支持されないw

という証拠は?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:13:15.36
>>514
>通説に固執してるのはここのスレ主で、通説という言葉を勝手に使ってるだけ

という証拠は?

>ほんの数人の畿内派の学者のコメントを通説と呼んでるだけ

という証拠は?
0522ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 13:14:29.87
寺沢先生の著作にもあったが、邪馬台国論争やヤマト王権の起源となると、どうしても天皇家の話に絡まざるを得ない。

これは先生の説でなくオレの意見だが、ヤマト王権の初代が女王だったのだから次は愛子天皇で良いだろう。

天皇制については色々な議論があるが、この国の伝統的価値観が強すぎてマッカーサー元帥ですら廃止する事ができなかった。

愛子天皇が一般人男性と結婚して男子を儲ければ、皇太子は一般人となって流石に右翼勢力も天皇制の存続を諦めるだろう。

時間はかかるが、右翼が納得した形で天皇制を終えるのが一番の政治的解決法だろう。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:15:23.58
九州説は言ってることに具体的内容がなにも無いよ
0524日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:16:55.39
畿内説がとうとう糖質を発症したなw

515:ネ トウヨ 撲滅隊:[sage]:2023/06/30(金) 12:59:26.02
九州説の殆どはネトウヨが壺や日本会議や古史古伝信者が自分ら教義を守るための主張と化しているからな。
だから畿内説論者に対してまるで自分の宗教を貶されたかのような発狂状態を見せてくる。
一種のネトウヨジハードなのだろうな。

自民党や維新が政権をとると学問が捻じ曲げられるという証明だ。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:19:56.55
>>524
>畿内説がとうとう糖質を発症したなw

畿内説の者の発言という証拠は?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:21:40.35
>>525
>お前が初心者またはお前の理解力が低すぎる

九州説さん
また罵るだけで具体的内容なにも無し?
証拠もひとつも出さず?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:23:49.65
常に糖質発症してるキナイコシw

527:日本@名無史さん:2023/06/30(金) 13:21:40.35
>>525
>お前が初心者またはお前の理解力が低すぎる

九州説さん
また罵るだけで具体的内容なにも無し?
証拠もひとつも出さず?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:33:33.91
>>530
また罵るだけで何も証拠を出さない九州説
0532日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:36:27.74
キナイコシってなに?
会話が成立せずにずっと同じこと言ってる人いるね
変なbotか何かの類?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:42:00.26
ほら
罵るだけ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:48:52.24
結局まったく証拠を出さない放言だけ
それで通用するわけ無いでしょ九州説
0537日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 13:52:51.24
>>491
北部九州に何の政治的基盤がない、東日本や畿内出身の単なる旅人だと言いたいの?
古墳作るときに誰が労働力として働くのよ?www
0538日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:01:42.59
焼ノ峠古墳が那賀八幡古墳より古いという新説を再三主張してさながら、いっさい証拠を出さない九州説
0540日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:04:50.84
日本の中心探しにすり替わってない?
魏志倭人伝の記述はもっと原始的に見えるんだが
大陸と大差ない近畿古墳や副葬品とかツマンネェんだけど
日本の中心は近畿にしたっていいけど
0541日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:05:19.08
平原遺跡から日佐原式甕棺が出たとかウソ情報を流し続ける九州説
0542日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:06:44.37
焼ノ峠古墳より那珂八幡古墳が古いとなると箸墓古墳より那珂八幡古墳が古いという事になって畿内説が破綻するね
0543日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:09:10.56
>>542
畿内説は一貫して箸墓古墳より那珂八幡古墳が古いと主張しているが?
もちろん畿内説が破綻する理由は無し
0544日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:11:27.36
弥生時代後期、卑弥呼より前の時代から博多にいたのは播磨の勢力でしょ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:18:27.23
>>544
という理由は?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:21:39.50
ほら、◯◯の〜 はキナイコシの常套句
0548日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:24:49.34
那賀八幡古墳から三角縁神獣鏡出てんじゃん
0549日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:25:01.83
那珂八幡古墳は三角縁神獣鏡が出土した時点で論理的に破綻している。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:27:39.50
>>549
意味不明
理由言わず
九州説って白雉
0551日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:29:47.55
九州説は常に論理的に破綻している
0553日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:33:42.28
どっちが古いか比較するのは良いと思うけどな
0554日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:36:33.14
もう一つあるね
京都の五塚原古墳は箸墓古墳と同年代同型式
0555日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:41:57.81
3世紀中頃の狭い範囲に首長大量死の怪
0556日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:45:29.54
2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった
2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった
2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった

<1~2世紀>
「建武中元二年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(AD107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献
じ、請見を願ふ。桓・霊の間(2世紀後半)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」

【ポイント】
・倭人は呉越の末裔だった
・奴国が倭の最南端だった
・2世紀時点で倭を治めていた王は「師升」
・2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった
0557日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:46:27.85
<2~3世紀>
「旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」
「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。~」
「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」

【ポイント】
・倭国100国のうち魏に朝貢したのは女王国30国のみ
・戸数や里数表記された国々は女王国の北部に位置する国々である
・女王国の東には海があり、その先1000余里にまた倭種の国がある
・女王国の南には反女王派の狗奴国があった
・帯方郡から女王国まで約12000里である
0558日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:46:35.85
神の時代から戦乱の人の時代に
人間の欲望は止まることがない
0559日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 14:47:23.67
巨大古墳造りに明け暮れたという記録が何処にも記載されていない
0560日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:06:48.73
急激な変化がO2の比率って気すらしてきたわ
O1b2が稲作文化というのすら錯視かもしれんわ
D1の比率が高すぎるし
O2の変化って倭人伝や東夷伝の後って感じ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:40:45.57
理由のない主張に、ひとは興味を持たない
0563日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:42:37.24
>>562
理由に対し理由を問う日本語読解力ゼロの低能はキナイコシか畿内説しかいない
0564日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:43:53.69
もっと荒れて群雄割拠がいいよ
すべての地元に邪馬台国を
0566日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:45:21.20
>>563
どこに理由が書いてあるか聞かれて答えられない人は、決して理由を書いていない
0567日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:50:49.70
チャイナ方式で
続倭人伝でも続東夷伝でも発行して
ハッキリと住所書けばいいじゃん
それで歴史的にって
金で勝負つけろや
どうせ金目だろ?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:51:16.96
まあほとんどの人は仕事してきた人だろうから
根拠のないことは世の中に認められないことは十分わかってるはずだが

それでも古代史に関しては怪しげな独自説が出てくるんだよな
これは古代史があくまで趣味であって、生きて飯を食っていくことには
ほとんど関係ないせいかもしれない
0569日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 15:56:09.60
いや、根拠のない主張をする人は
根性が腐ってるんたと思うぞ
0571日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:03:49.08
>>569
そうだね

邪馬台はヤマトだとか
纒向建物は宮殿だとか
箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか
etc
0572日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:06:49.38
結局、世の中のことは自分で決められることは少なくて
ほとんどのことは他人というか世間の評価で決まる

だから独自の説であっても、どうしてそう考えたかという過程は必要
それがあれば、ここは違うんじゃないかとか同意とかの評価が出てくる

ただ結論だけ言われても、誰も評価できないし
きょとんとして終わるだけだな
0573日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:12:28.53
邪馬台国問題は答えが出ないから東大の歴史学では触るなと言われるらしいな
学問としては論点は出尽くして検証しようがない状態か
0574日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:16:02.98
酸素同位体比年輪年代法に期待している人間もいるが、それで出てくるのは年代論だけ
箸墓なりが卑弥呼と同時代だったとして、邪馬台国が同時代の九州ではなく畿内纒向だったと確定するにはもう一段の証明が必要
それが現状では出来ないだろう
0575日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:20:32.25
「強大な権力」では証明にはならない
「強大な権力だったから列島を代表して魏と外交した」こと自体が証明すべき仮説
ちなみに纒向には肝心の外交の痕跡がないから難しいかな
黄幢が出た騒いでる奴もいるが、これも証明すべき仮説
邪馬台国は仮説だらけだ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:25:06.55
>>571
>邪馬台はヤマトだとか
>纒向建物は宮殿だとか
>箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか

まったく反論出来ない九州説
0577日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:26:36.07
倭国大乱が収束し北部九州の女王国は親中派路線を選んだ

しかしかつて銅鐸文化圏と言われた山陰、近畿、東海は中国への朝貢を嫌い独立国家形成を目指した
朝貢を怠ったので中国史書に彼らの記録は無い
魏志倭人伝では東の倭種の国と一括りにされた

それだけのこと
0578日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:27:38.43
>>569
ほんと根性腐ってるよな畿内説って

>576:日本@名無史さん:2023/06/30(金) 16:25:06.55
>>>571
>>邪馬台はヤマトだとか
>>纒向建物は宮殿だとか
>>箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか
>
>まったく反論出来ない九州説
0579日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:27:49.66
>>574
>箸墓なりが卑弥呼と同時代だったとして、邪馬台国が同時代の九州ではなく畿内纒向だったと確定するにはもう一段の証明が必要
>それが現状では出来ないだろう

という理由は?
0581日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:30:54.09
>>578
>ほんと根性腐ってるよな畿内説って

ほら
悪口言うだけで
まったく反論出来ない九州説
0583日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:48:30.37
キナイコシが全く議論できないのはこのスレに出入りする者全員一致の認識です
0584日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:48:35.43
>>579
あなたが証明出来ていると思うなら私は別に構わないよ
ただし世間一般では九州説との対立が続くだけだ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:52:17.99
考古学者が論理性を全く理解出来ていないんだよ
年代測定の精密さをアピールしても邪馬台国論争には何の意味もなさない
同じ時代に畿内でも何かやってたんですねーで終わる話
0586日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 16:53:31.88
>>585
だという理由は?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:03:13.77
ところで畿内説の「強大な権力」のロジックは元々誰が考え出したんだろう?

こういうの↓

「──ほう。畿内説の根拠となるものは何ですか?
福永 そこに3世紀前半ごろ、強大な権力があったことが、近年の調査・研究で明らかになったことです。」(福永伸哉・大阪大学教授)

「纏向遺跡は三世紀の初めに忽然として出現した巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており、ヤマト王権のシンボルともいえる前方後円墳がここで誕生している…。三世紀の前半という時間幅で日本列島を切ったときに、これだけの要素をもった遺跡は他にあるでしょうか。ないだろうと思われます。…考古学的に見て、三世紀前半の政治の中心は纏向遺跡以外は考えられません。とすれば、自動的に、卑弥呼の政権中枢が置かれていた場所は纏向遺跡であり、そこは邪馬台国の領域内であったことになります。」(寺澤薫・纏向学研究センター長)
0588日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:07:50.65
>>575
集落に金印くれるか?って話だな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:10:14.44
強大な権力なんて史書には出てこないよな
民衆に愛されていた卑弥呼だろ?
おそらく権力欲の強い者であったであろう男王が立ったら即内乱が起きてるし
民衆がそういう権力欲の強い者を嫌っていた時代だよな
0591日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:22:02.31
>>587
福永伸哉・大阪大学教授や寺澤薫・纏向学研究センター長って、こんなのが考古学者?
素人ミーハー相手を小馬鹿にして発言しているのだろうか?   @阿波
0593日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:25:51.21
>>590
集落レベルじゃない強大な権力があったって事でしょう
0594日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:27:57.90
悪口言っても反論にならず
0597日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:39:34.43
>>596
このように九州説はニセ情報が好き
0599日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 17:59:59.02
>>598
畿内説は絶対答えないよ。 いや、答えられない。  
恥をかくか、嘘をつくかのどっちかだから。  わははははは   @阿波
0600日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:00:45.17
>>598
おまえ、江戸城は何戸と数える?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:02:43.50
>>600
>おまえ、江戸城は何戸と数える?

お前、城下町は何戸と数える?   @阿波
0602日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:04:12.08
福永伸哉・大阪大学教授や寺澤薫・纏向学研究センター長って、
この質問にどう答えているだろうか?   @阿波
0603日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:10:32.88
わからんものは分からんと答えるのが学者
デタラメ言うのが九州説信者
0605日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:18:30.42
>>603
>わからんものは分からんと答えるのが学者

それにも関わらず、「3世紀前半ごろ、強大な権力があったことが、近年の調査・研究で明らかになったことです」
とか、「巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており」と断言する学者はなんとする?   @阿波
0606日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:21:02.99
福永伸哉・大阪大学教授や寺澤薫・纏向学研究センター長って、
この質問にどう答えているだろうか? 
逃げ回っているのだろうか?  @阿波
0607日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:32:11.68
畿内説存続の根幹をなす質問に、なんで誰も答えないんだろうか?   @阿波
0611日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:41:47.45
>>609
>纒向に何戸あったのか?って聞いてるんだけど?

戸数はわからないが、居住区は六つ確認された
0613日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:48:12.20
西は吉備から東は東海までの人が集まって昼も夜もせっせと古墳を作ってた異様な光景を魏志倭人伝は何で記録してないんだろうな
卑弥呼が亡くなって径百歩の塚を作った、程度の記述で収まるような話じゃないだろ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 18:55:12.53
>>613
九州北部内ですら30国全て詳細を書かないでルート外は詳細がわからない絶遠で済ましてるのに
東渡海した先にいる倭種のことなんか何もわからんわな
0617ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 19:02:25.33
纏向遺跡が年代が3世紀前半には存在していたことが、つい先日に酸素同位体比年輪法によって明らかになった。

もはや邪馬台国=早期ヤマト王権と言い切って良い。
纏向石塚やホケノ山や桜井茶臼山やメスリ山などの古墳(ヤマト王権時代と分かったのだから、あえて古墳という)も、そのうち構築時期がより明らかになってくるだろう。

あわせて伊都国の平原一号墳も酸素同位体比年輪法による調査が必要だ。これで伊都国の王家とヤマト大王家の連続性が見えてくるだろう。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:05:50.47
>>615
>箸墓の話は4世紀だからね

いっさい理由を言わないのが九州説
相手にされなくなって当然だ
0619日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:08:11.45
>>617
>あわせて伊都国の平原一号墳も酸素同位体比年輪法による調査が必要だ。

なにを測る?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:09:04.99
>>603
>わからんものは分からんと答えるのが学者

それにも関わらず、「3世紀前半ごろ、強大な権力があったことが、近年の調査・研究で明らかになったことです」
とか、「巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており」と断言する学者はなんとする?   @阿波
0622ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 19:09:54.87
伊都国が卑弥呼の故郷と分かったならば、
筑前前原駅で卑弥呼弁当と卑弥呼まんじゅうを売らねばならぬな。
卑弥呼ちゃんグッズで町おこしできるチャンスとなろう。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:13:02.31
酸素同位体比年輪法て、
笑う所??
0626日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:19:02.86
>>624
違うだろ
全部どうでもいいが、とにかく畿内
とにかく古く、とにかく中心
それが畿内
卑弥呼とか邪馬台国とかどうでもいいこと
0627日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:20:34.73
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0628日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:23:12.31
>>626
そういう意味じゃ九州説派はとくに異論ないけどね。ヤマト王権が、日本を支配していった事に対してはそうなんだろうなぁとしか。邪馬台国だ卑弥呼だ言い出すから、、、それはヤマトと関係ない九州の歴史。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:23:25.67
>>626
まぁ、そんな雰囲気が畿内に漂ってはいるようだ。   @阿波
0630日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:25:20.39
>>628
>それはヤマトと関係ない九州の歴史。

と、言ってしまうから九州説も見下される。   @阿波
0631日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:26:48.67
>>628
>それはヤマトと関係ない九州の歴史。

と、言ってしまうから九州説も畿内説と同レベルと見下される。   @阿波
0632日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:28:03.97
>>628
邪馬台国や卑弥呼が尊い存在なら畿内のもの
土人蛮族部落集団なら九州のもの
0633琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/30(金) 19:31:04.70
吹上は何戸?伊勢神宮は何戸?と言われても困るわな。何戸が知らんが卑弥呼の宮廷だよ。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 19:33:45.60
>>632
倭王の金印もらったんだから素晴らしいに決まってるだろ!九州こそ倭国始まりの地。当然、神武東遷の歴史は実話。
0636琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/30(金) 19:38:09.22
九州はどう考えても半島の影響下。やがで秦王国が出来。香春信仰の本拠地。鬼神地域。
0637琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/06/30(金) 19:50:21.98
内向花文鏡が卑弥呼の要求した100枚もの鏡であればその後も内向花文鏡が拡がっていかなくてはならない。その様子は無い。
銘文も神仙思想ではない。
デカイだけでどうせ柱にぶら下げる陽物かなんかなんだろ。半島信仰。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:21:50.27
卑弥呼は100枚もの鏡をどう扱ったんだろうな。
下賜したなら、今までに見つかってる鏡のどれかの可能性があるが。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:22:13.74
景初三年の三角縁神獣鏡が発見された古墳は「方墳」です
0642日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:22:43.78
後漢の名君光武帝から金印もらったのも北部九州なんだよなあ
0643日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:25:11.89
衰退の仕方がまるで憎まれているようだがな、北九州
何したんだ?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:28:34.44
>>644
>狗奴国との戦争だろ

「狗奴国」に滅ぼされたと言うのか?   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:30:22.91
北部九州は磐井の乱で負けるまで畿内に勝ちっぱなしよ

神武東征 北部九州が鉄も銅鏡もない後進地域の奈良盆地を征服
神功応神朝 北部九州海人族勢力が筑紫を平定し朝鮮半島を侵攻した後に畿内に上って崇神朝を滅ぼす
筑紫君磐井 簒奪王朝継体朝に敗北
0648日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:33:53.27
弥生時代の奈良盆地が鉄も銅鏡もなく政治体制も脆弱な圧倒的後進地域だったことは考古学的にはっきりしている
0649日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:35:40.79
>>648
>弥生時代の奈良盆地が鉄も銅鏡もなく政治体制も脆弱な圧倒的後進地域だったことは考古学的にはっきりしている

それにも関わらず、「3世紀前半ごろ、強大な権力があったことが、近年の調査・研究で明らかになったことです」
とか、「巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており」と断言する学者はなんとする?   @阿波
0650日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:39:31.49
狗奴国は30国連合+余だよ
倭国大乱から卑弥呼共立したときに和さなかった国が狗奴国
台与が共立されたときあらためて30国連合の仲間入りをして「ついに国中が定まった」
0651日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:41:06.79
>>650
>狗奴国は30国連合+余だよ

「邪馬臺国」は?   @阿波
0653日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:45:16.04
東から畿内ヤマトが九州征伐に乗り込んでくるよりも前の時代にはおそらく
九州北部には肥国と豊国があり、南部には熊襲隼人の国があった

んでその肥国がおそらく30国連合のあった場所なんだけども
肥国の南半分が狗奴国で卑弥呼に和さなかった卑弥弓呼の国で
肥国の北半分が30国連合(女王国)

畿内ヤマトが九州征伐に乗り込んできて肥国はど真ん中から分断されて
30国連合があった中心部には筑紫国が作られたのだろう
0655日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:48:27.97
>>653
と、妄想を披露してみました  ってこと?   @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:49:52.93
>>655
そうだね
隋書のときにはそれまで存在しなかった筑紫国が誕生している
伊都国や奴国が潰されて筑紫国として生まれ変わった理由を考えると
畿内勢の九州侵攻くらいしかないなと
0657日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:51:48.79
日本書紀の中で、景行天皇が九州巡幸中に筑後八女の県を通る時に、山々を眺めてそのあまりの美しさに「神がいらっしゃるのではないか」と言ったところ、筑後水沼の県主が「八女津媛という女神がいらっしゃいます」と答えている
つまり、景行天皇よりも神格・神性の高い存在がそこにいた訳だ

万世一系ナラティブで徹底しているはずの日本書紀にこの話が載っているのが凄い
北部九州倭国王八女津媛の方が畿内日本国王景行天皇よりもはっきり格上であり、その伝承が記紀編纂の時代まで残っていたということだろう
0658日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 20:52:17.29
>>656
>畿内勢の九州侵攻くらいしかないなと

で、その畿内勢の本拠地はどこだと妄想するわけ?   @阿波
0660日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:10:56.66
>>659
なにか悪い事でも言ったか?   @阿波
0661伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:12:11.75
阿波にも素晴らしい遺跡が数多く残ってはいるけど、
畿内に比べると見劣りするからしょうがないやなぁ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:17:25.76
>>661
>畿内に比べると見劣りする

板野の売郷奴よ、お前も立派な畿内説病のひとりになったのう。  わははははは   @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:19:33.10
>>661
>畿内勢の九州侵攻くらいしかないなと

板野の売郷奴よ、その畿内勢の本拠地はどこだと妄想するわけ?   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:20:39.28
邪馬台国は近畿だな
卑弥呼が共立で九州である。
邪馬台国が支配とかが間違いである。
0669伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:24:13.09
邪馬台国の拠点の一つが阿波にも有ったかもね、
までは許容範囲だか、

飛鳥時代の王権の都が阿波に有ったwは、
暴走しすぎだし、無茶苦茶。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:24:31.97
>>667
それは後から応答するから、その前に
板野の売郷奴よ、その畿内勢の本拠地はどこだと妄想するわけ?   @阿波
0671日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:24:39.46
いや、ちょっと待ってほしい
本当に卑弥呼は卑弥呼、台与は台与なのだろうか?
呼弥卑、与台ということはないだろうか?
古見妃、淀ということはないだろうか?




知らんけど
興味もないけど
0672日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:26:35.19
>>669
それは後から応答するから、その前に
板野の売郷奴よ、その畿内勢の本拠地はどこだと妄想するわけ?   @阿波
0674伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:31:09.56
>>672
畿内、近畿各地の弥生時代遺跡群、淡路島、など、
当時は中央集権では無いので、いわゆる京はまだ成立してない、多数の国々が共立王を立てた辺りでようやく集権が始まったと考えます。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:32:45.92
>>673
>纒向以外にあるまい

纏向しかないからな。  わははははは   @阿波
0677日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:36:12.02
>>674
>畿内、近畿各地の弥生時代遺跡群、淡路島、など

淡路島も取り込んだかw  わははははは
で、近畿各地はいいが、畿内勢の本拠地はどこだと妄想するんだ?   @阿波
0681伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:39:47.84
四国東部も含む瀬戸内海沿岸部の勢力が結びついた結果、
ほんならどこかに拠点を作ろうかって流れかな?

あくまで個人的な想像だが。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:40:45.34
>>678
畿内勢って、本拠地と言える様な中央都市も無い、そんなショボい畿内勢なのか? わははははは   @阿波
0683日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:42:25.03
>>681
>あくまで個人的な想像だが。

軽いのうw  お前の頭に比例しとる。   @阿波
0684伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:43:21.95
瀬戸内海東部連合➕アルファやな、しょぼくは無い、
もちろん今の徳島県北部もそれを支えるクニの一つだ。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:45:13.96
>>678
畿内勢って、本拠地と言える様な中央都市も無い、そんなショボい畿内勢なのか? 

「阿波」に比べると見劣りするからしょうがないやなぁ   わははははは   @阿波
0686伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 21:47:51.68
ヤマト王権の成立期に今の奈良盆地が選ばれたのは、
空き地が沢山あって、各地の権力者を集めるのに都合が良かったからでしょう。

歴史上、こう言う未開に近い場所に中央都市が造られる事はちょいちょい有る。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:50:51.04
>>686
>歴史上、こう言う未開に近い場所に中央都市が造られる事はちょいちょい有る。

こら! さっき、「本拠地と言える様な中央都市は無い」と言ったばかりだぞ! いい加減な奴じゃのう、お前と言うやつはw   @阿波
0689日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:52:03.69
>>686
>
> 歴史上、こう言う未開に近い場所に中央都市が造られる事はちょいちょい有る。

例えば?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 21:52:31.22
今日も、遊ばせてもらった。 ありがとな。   @阿波
0691日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:02:14.38
熊本に山都町ってあるのな、報道ステーションで今やってた
0692伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 22:02:14.44
>>689
日本だと
平安京遷都とか、福原遷都とか、鎌倉府とか、江戸幕府とか。
現政権の色が付いてない場所に都や、都的な機能を持つ都市が作られいるでしょう。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:10:34.89
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0694日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:10:35.32
熊本の山都町は古くからの地名ではなくて近年公募か何かで決めた町名だから邪馬台国とは関係なさそうだ
肥後には菊池郡山門郷があって筑後山門郡と近接するから纏めて邪馬台国の可能性あり
0696ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 22:27:51.25
>>1
知能が低いのはジャップの方だろ。
変なスレ建てするな。ID変えて何度も差別スレ建ててるのなんでだよ。
ネトウヨスワップ協定の締結で助かるのは日本人の方なんだが認知の歪みが極まっているな
0697ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 22:31:31.88
興奮してたのかタブをきりかえるのを忘れてしまった。
ここは学問板だからな。なかなか難しいな。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:31:53.64
>>692
平安京や福原京はすでに出来上がっていた都をうつしただけじゃん
纏向はどこかから遷都してきたってこと?

鎌倉、江戸は将軍家が権力を握る前からの本拠地
鎌倉は源頼朝の数世代前から源氏のもの、江戸は家康が秀吉に命で国替えした先
権力を握ったからこの地に幕府を置いたわけではない
0700日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:34:07.79
中国視点から首都と呼べるもんがない
と思うけど?
0701日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:38:14.92
30カ国って、狗奴国を含めた九州の事な。
魏志倭人伝の国を数えてみいや。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:40:33.75
畿内説って日本史を知らん奴の集いか?w
0703ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/30(金) 22:42:55.02
ミヤコ(宮のある場所)という概念はあったろうが、倭人が首都の概念を獲得するのは飛鳥時代以降になるだろう。
あくまで纏向はヤマト国のミヤコだったと思う。

民族という概念は近代国家によって作られたまやかしにすぎない。
ブルジョワ階級が市民の共同体意識を利用して仮想的な家族関係を広範囲に適応した結果としてナショナリズムが誕生したのだ。

全てはブルジョワ階級の利潤追求のための所為にすぎない。
これを脱構築的に還元していけばアメリカ的資本主義の欺瞞が見えてくる。差別は資本主義によって生み出された。我々は今一度マルクスの視点にもどるべきであろう。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:53:21.93
反論のできない敗北者九州説
0706日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:56:02.72
>>702
理由の言えない敗北者九州説
0707日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 22:57:40.48
>>692が日本史を知らんのは明らかだろw
0709伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/06/30(金) 23:16:26.33
>>707
日本の場合、未開の地の殆どは、現実的に人が住むのは困難な地だからね。
そりゃあ多少の集落何なんかは有ったよ。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/30(金) 23:54:28.21
川があって平野があれば水田ができるから人は住んでるだろ
しかし大勢の人が集まるためにはその理由が必要
つまり大きな権力の中枢がそこにある必要がある
0714日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 05:26:07.10
方向と距離が違うアンチ魏志倭人伝の畿内説
0715日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 05:38:57.81
>>703

九州の倭人は太宰府があったから都城の概念を理解できただろうが、畿内の倭種は、飛鳥板蓋宮などが点在するだけなので都城は理解できなかったと思う。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 05:42:28.11
>>646

磐井だって、本人は倒されたけど、息子が後を継いで、継体は撤退したから、筑紫倭国の国体は護持された。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 05:42:44.51
方向も距離も違うが妄想でカバーするウンチ魏志倭人伝の九州説
0720日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 05:50:36.15
>>383

伊都国にいた王家がそのまま移らなくても、分家だけでもいいんだよ。
同じ祭祀で同じ祖先を祭るからね。
筑紫における宗家は狭い糸島平野から広い筑紫平野に移動して、後に広大な太宰府羅城を建設したわけだ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 06:21:33.14
>>719
旧唐書道理

倭國者古倭奴國也

邪馬台国は近畿だな。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 06:40:47.01
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 07:41:52.30
>>701
>30カ国って、狗奴国を含めた九州の事な。

その朝貢していた30国は、鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交辞令。   @阿波  
0726日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 07:45:01.40
>>707
>>692が日本史を知らんのは明らかだろw

インテリ気取りだけど、アホだろ? いつも恥をさらしてまんねん。  わははははは   @阿波
0727日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 07:49:13.60
>>710
大阪幕府になってたかも知れないのはどのタイミング?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 07:49:31.01
>>707
>>692が日本史を知らんのは明らかだろw

インテリじゃなくていつも恥をさらしてまんねん。  わははははは → @阿波
0730日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 08:03:46.28
豊臣家の天下が続いたらどうだったかな。
しかし太閤の方が征夷大将軍より上なんだっけ?
幕府ではなく他の呼び方になったかもしれない。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 08:08:30.50
>>715
太宰府に何があったんだ?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 08:13:53.75
>>730
関白は成人じゃなきゃなれず秀頼元服まで間を繋ぐ一族を秀吉生前に根絶やししてたから無理
0735日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 08:24:20.94
>>715
>九州の倭人は太宰府があったから都城の概念を理解できただろうが、畿内の倭種は、

残念でした
藤原京建設の方が先
0736日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 08:56:31.29
倭姫命は、第十一代垂仁天皇の皇女です。第十代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の後を継いで、「御杖代(みつえしろ)」として天照大神に奉仕され、天照大神を載いて大和国をお発ちになり、伊賀・近江・美濃などの諸国を経て、伊勢の国に入られて、御神慮によって、皇大神宮をご創設されました。

か。
神武天皇が阿波さんが言う通り7世紀の人物とすると、ちょっと合わなくなるな
うーん、記紀の整合性が疑われる

神涼観音は、一体何者か。天照その人らしいが。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:14:23.89
倭姫命を『三国志』魏志倭人伝に載せる邪馬台国女王の卑弥呼に比定する説がある。これは、命が神を祀る役目を負っていたことに由来する。
か・・・

卑弥呼と同じ役回りとすると、
天照である神涼観音が倭姫でもおかしくはないな・・・
0746日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:24:53.23
>>736
>神武天皇が阿波さんが言う通り7世紀の人物とすると、ちょっと合わなくなるな

?? そんなこと言った覚えはないが?

①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0747日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:30:18.14
>>745
話がそらされてるけど
徳川が江戸に幕府を開いたのは国替えで江戸が本拠地だったから
大阪に幕府を開いたとしても元から栄えていた都市だから

どちらにしろ
「未開に近い場所」ではない
0748日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:30:48.87
>>745
有名な話?
大阪を直轄地にしただけだろ? なんで大阪幕府になるんだ?   @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:32:42.63
>>745
知らんかった
ソースきぼんぬw

それにしても未開の地に中心を移したという例には当たらなそうだな
0750日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:33:23.56
>>747
>話がそらされてるけど

板野はその自覚さえないからww    @阿波
0752日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:36:51.20
>>745
>
> 歴史上、こう言う未開に近い場所に中央都市が造られる事はちょいちょい有る。

遷都ではなく「未開に近い場所」に「中央都市」が造られた例って何?
纏向はすでにどこかに政権があってそこから流入したようにしか見えないんだけど
仮に纏向が「都」であれば遷都だよ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:37:36.27
ああ、なるほど。
神武天皇は、卑弥呼を考えると、割と早く擁立されたんだなあ
卑弥呼擁立と、神武天皇即位は、年代わかりますか?
ちょっと参考文献がないかな?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:38:39.53
>>751
国替えの時点では田舎でも、幕府を開いた時点では徳川の本拠地になってただろ
0756伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/07/01(土) 09:40:24.63
纏向は奈良湖が干上がって陸地となったが、未利用の平地が広がっていた場所では無いかな?
権力が集中するタイミングで新しい宮を置くのに適した空き地だったという事。
0757伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/07/01(土) 09:42:51.66
>>754
まあでも家康は殆ど伏見に居て、江戸入りはしていない訳で、江戸が目覚ましく発展したのは、諸大名に土地を割り振りして江戸屋敷を作らせた頃。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:43:20.28
卑弥呼は、247年没ということは確定しているようだ
すると、神武天皇は、空白の4世紀に立ったのかな?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:43:38.36
>>752
板野よ、>>752さんに真摯に答えろよ。 お前の挙げた例は見事に否定」されているぞ。   @阿波  
0760日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:44:37.19
その頃、ソロモンとシバの女王は日本にやってきたのか
へえ
0761日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:45:08.24
>>758
>すると、神武天皇は、空白の4世紀に立ったのかな?

3世紀末ごろじゃないのかな?   @阿波
0762日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:47:18.92
神武は卑弥呼の前の男王じゃ無いのかな?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:50:03.65
あれ?そうすると、ソロモンとシバはイエス・キリストの後の人物になりますね
へえ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:50:29.92
もしも神武に相当する人物がいて東遷に相当するもとネタがあったとしてそれがいつなのか
1)紀元前
2)107年より前
3)倭国大乱前
4)倭国大乱の最中
5)倭国大乱後
6)卑弥呼没後
7)その他
0767日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:52:49.23
しかし、いろんなことが分かってきますね
学理の新奇性や可変性が史学の醍醐味ですね
0768日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:55:24.05
57年から中国へ朝貢してるが、その理由は日本側は知らない。
知っているのは中国側。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:56:14.71
>>765
7)その他(「壹與」没後)   @阿波
0771日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:56:59.60
伊勢神宮の建設年代わからないですかね
倭姫の年代が不明だから、わからないか
0772日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:57:43.37
>>768
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。   @阿波
0773日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 09:58:37.71
卑弥呼がシバの女王というのは、当然、合ってますよね
へえ、やっぱりキリストの後の人なんだ、ソロモンもシバも
0776日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:00:43.26
豊鍬入姫の元伊勢の移動範囲は非常に狭い、つまり崇神朝の支配エリアは畿内限定だったのでは無いだろうか
0777日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:01:15.42
>>775
鉄器王国「阿波」だから。   @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:02:15.77
阿波は日本最初の窓際族w
0779日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:02:20.02
>>776
「畿内」もそうとう広いが?   @阿波
0782日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:03:47.41
>>779
九州を支配していたというのは幻想だな
0784日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:04:35.71
それか、卑弥呼=シバの女王が250年くらい生きていたということだろうか?
鬼道をしていて大麻をやっていたせいだろうか?
0785日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:05:31.23
>>780
鉄器王国「阿波」を避けては通れないが?   @阿波
0790日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:09:16.51
阿波は九州を陸行して中国に行くらしいw
0791日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:12:13.78
シバの女王(シバのじょおう、ヘブライ語: ???? ???? Malkat Shva、ゲエズ語:???? ?? Nigist Saba、アラビア語: ???? ??? ? Malikat Saba?)は、旧約聖書に登場する女王。本名は伝承によって異なりニカウレー、ビルキース、マケダ などと呼称される。

『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「旧い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。

年代は合ってしまうな
0792日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:13:56.72
>>789
>正確な年代は知らないが昔の事だろ


鉄器王国「阿波」は、弥生時代中期末には鍛冶をやっていたので、
前漢時代には朝貢していたんだろう。   @阿波
0793ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/07/01(土) 10:14:17.05
ジャップは古代か中華に朝貢してたんだよな
それを認めたくないために邪馬台国をねつ造した。
ヤマト国が中華に朝貢したはずないという見苦しさ。

これも歴史修正主義の一つだよな。

韓国は中華に朝貢したが日本は朝貢していないから上位というネトウヨ の言い分は嘘。
韓国も日本も共に中華に朝貢した過去があり、その点では対等で兄弟だからだから位置付けは韓国が兄にあたる。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:15:17.70
>>794
ん?独り言か?   @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:16:20.63
>>793
朝鮮半島はただの中国の属国だろ、日韓併合で独立出来たのを忘れるな
0798日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:16:55.15
>>795
シバの女王が旧約聖書に載っていて、新約聖書の言葉を元に、2世紀だから、
・・・
0800日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:17:48.63
>>789
>正確な年代は知らないが昔の事だろ


鉄器王国「阿波」は、弥生時代中期末には鍛冶をやっていたので、
前漢時代には朝貢していたんだろう。   @阿波
0801日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:18:32.47
もし、卑弥呼が外人だったら、中国史書にその旨、載ってないかなあとも思いました
0802日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:19:22.40
>>792
阿波の事は知らんが、半島の楽浪郡で聞いた話しだから、朝見したのは 楽浪郡へ朝見だろ
0803日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:19:24.44
>>801
ん?独り言か?   @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:20:25.05
ちょっと、年代策定の根拠となるのが書物などでしか無いから、
年代を特定するのはこんなんだな・・・
0805日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:20:53.82
>>800
魏にとって阿波なんぞ金印を与えるような国では無い
0806日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:21:03.99
>>802
>阿波の事は知らんが

鉄器王国「阿波」を避けては通れないが?   @阿波
0810日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:25:22.95
>>809
だからすでに「魏志倭人伝」があるだろ?  わははははは   @阿波
0811日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:25:34.61
ああ、わかった。
イエス・キリストは紀元年に亡くなってないんだな。日本にやってきていたから。
でも、シバの女王が卑弥呼で親魏倭王の金印が239年だと、
やっぱりソロモンとシバは紀元後になってしまうな・・・
本当だろうか?
0812日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:25:36.34
阿波はひょっこりひょうたん島の元ネタw
0813日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:26:18.20
>>810
阿波は倭種と書いている
0814日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:26:56.73
>>807
ん?独り言か?   @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:27:55.76
恐らく、紀元年というのは、キリスト十字架磔の刑のときだと思うが、
その後、復活したと言っているのだから、やっぱり違うんだろうな
0816日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:29:24.78
>>815
吉野ヶ里の線刻は十字架だったかもな(嘘)
0817日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:29:46.10
うーん、シバの女王は旧約聖書に載っているか・・・
卑弥呼=シバだと、
色々と歴史学が覆るな
0818日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:31:23.38
>>817
芝公園に古墳がありますよw
0819日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:32:36.31
吉野ケ里の線刻はランダムで素人臭い。あれは一人がつけたのではなく、埋葬者が、ひとりひとり刻んだのではなかろうか。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:34:48.84
『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「旧い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。

ということは、旧約聖書はイエス・キリスト没後、
新約聖書は、その後2世紀くらいの間で書かれたということだ。
もしかして、どちらも2世紀からそして以後に書かれてない?
それだと、239年卑弥呼=シバの女王が成立可能だ。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:41:20.91
ソロモン、シバの母国の文化文明と、
邪馬台国のそれとを考えれば、整合性が取れそうだ。
キリスト以後の文化文明なら。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 10:48:10.42
>>757
大阪に中心地を移す計画があったという有名な話のソースまだ?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:03:33.30
難波京は飛鳥京より古くて規模も大きかった話も出てきている
大阪城周辺の発掘が進めば新しい歴史がわかりそうだ
記紀は色々隠していると思うけどね
0833日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:05:33.53
無理は承知だか、古代日本を本気で解き明かしたいならもっとアチコチを発掘調査しないとですな。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:06:05.78
>>793
朝鮮聘礼使
0836日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:16:09.07
>>825
板野よ、私のことはいいから、>>827さんにさっさと答えたらどうだ?
臭いから蓋をしているのか?  わははははは   @阿波
0838日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:22:15.90
>>832
>難波京は飛鳥京より古くて

そもそも、奈良に飛鳥京なんて無いから。
その飛鳥京と言われているものは、朝鮮半島からの朝鮮避難民の街跡。   @阿波
0839日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:29:36.01
>>832
>難波京は飛鳥京より古くて

そもそも、阿波に弥生時代の遺跡なんてないから 阿波と言われているものは、朝鮮半島からの朝鮮避難民の街跡。   @阿波
0843日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 11:57:29.90
>>842
>幕末まで出番が無かっただけだよ。

はぐらかすな!詐欺師。
>>827さんは、そんなことは聞いていない。 有名な話のソースを聞いている。

臭いから蓋をしているのか?  わははははは   @阿波
0844伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/07/01(土) 12:07:24.71
https://osaka-chushin.jp/event/42987

徳川幕府による大坂城再築の作事奉行だった小堀遠州が“大坂幕府”成立の見込みを記した書状を初公開します。
この書状は大坂城再築工事中の寛永3年(1626)、徳川大坂城の基本設計を担当した藤堂高虎に送られたもので、江戸時代が“大坂時代”となっていた可能性を伝える興味深い史料です。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:08:28.86
>>842
松平忠明移封後の大阪城主は常に徳川将軍だが、それは幕府の機能を大阪に移転するという意味にはならない
大阪幕府の構想があったという有名な話があるならソースを出してね
小堀遠州の書状はソースにならないよ

あと居城という意味では少なくとも慶喜の時に出番はあったんじゃね?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:15:46.45
大阪人はプライドだけ高くてどうしようもないな。邪馬台国も九州に間違いない。
0849伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/07/01(土) 12:16:57.64
江戸幕府の体制が磐石になっていく過程で、大坂に幕府を置く必要性が薄れたのでしょう。

小堀遠州は、将軍の居城となると事を前提で、大坂城の庭園を整備したみたいです。

現代には伝わってない、その時代の空気感が伝わる文書だと思います。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:26:22.58
日本書紀が卑弥呼を神功皇后にあてたのは何か隠してるのか
それとも本当に記憶がないのか どっちだろうね
0854日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:29:30.38
>>850
>どうすれば南と東をまちがえるんだ?

間違えたと誰が主張した?
あなた心の病気?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:33:47.12
>>852
記憶にないんだろ。女性のシャーマンにしてもキャラクターが真逆過ぎる
0856日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:34:50.66
隠すなら神功に当てたりしないでしょ
モモソにでも当ててれば今頃畿内説で固まってただろうに
知らなかったばっかりに適当なことしちゃったよね
0857日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:34:52.85
>>852
本当に記憶がないんだと思うよ。そもそも天武の時代でそれ以前の歴史がアッパッパーだから日本書紀作ろうてなったわけで。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:41:45.51
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0860日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 12:49:24.79
>>850
昔は地図の上が東だったんだよ
北ではなく

必然的に地図の右が南になる
0863日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 13:05:00.61
馬王堆漢墓の地図は上が南だな
現代の地図と比較してもかなり正確
0866日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 13:34:37.88
筆に見えるけどね
毛を漆で固めて束ねたものを使ってるんじゃないかな
0867日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 13:36:35.42
畿内説そのものはいいんだよ
難波も伊勢も古くから栄えてきたんだし、他にも栄えていた集落はあったかもしれない
その辺から巫女女王が誕生しててもおかしくない

だけど纏向
ここだけはないわ
魏志倭人伝の世界観と一致してないんだから諦めろ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 13:40:54.69
日本書紀は倭の五王にもふれてないし
隠してるかどうかはともかく、積極的に朝貢の事実を記してはいないな
0870日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 13:42:15.79
>>724
邪馬台国ではない。
つまり、邪馬台国は首都でも
中心国でもない。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:01:24.76
>>864
君、事、のヨの真ん中の横棒は右に垂れていたんですね。
下手な字ですが、記号を書いてる感覚だったろうか
0874日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:04:24.39
>>832
その可能性はある
何故なら古墳があるから
0875日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:06:49.03
>>856
それじゃ朝貢してましたと言ってるようなもんだろ
0876日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:07:06.42
侵略者(天皇)が教える歴史は嘘がてんこ盛り

みんな歴史を勉強して分かったつもりでいても、色々と隠されている部分がある
例えば、1300年前に天皇が来てから無数の戦いが勃発する
なんたらの乱、なんたら合戦、なんたらの戦い・・・いつも日本のどこかで戦闘を行っている

それは全て、朝鮮語の新羅人天皇(北朝)と、日本語の百済人天皇(南朝)の戦いなのだ
半島から来た2系統の天皇が、日本列島上で私利私欲で争っているだけの無意味な歴史
隣の家の庭でネコが喧嘩していたのが喧嘩しながら自分ちの庭に移動してきたぞ、という情けない歴史なのだ

その外来種の喧嘩を小説やドラマで見てるバカはいっぺん死ねと思う
そういう戦闘にアイヌ系の原住民も巻き込まれているのだが、それは歴史上では語られない
超下らないな日本の歴史は
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:08:18.81
>>867
伊勢の歴史なんてわからんし全然良くないが
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:09:48.90
神社を根拠にするなって
弥生時代に無いから
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:14:49.88
神社のもとになったものはあったかもしれないけど
ほとんどの神社は日本書紀以後にできたものだし
鳥居とか本殿、拝殿とかになったのは平安時代以後かな
0882日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:22:22.65
>>881
何がどうバラされたのかよくわからない。中国大陸から日本人の祖先が来てるというなら、そのとおりだろ。日本人の多くは誰も否定しない。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:25:06.59
>>882
あ、ごめん。今で言う中国少数民族ね。
現代の中国人は、モンゴルに支配されて別民族だから。
0884ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/07/01(土) 14:25:42.95
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
0885日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:25:46.60
こいつは国家の線引きができてからの渡来人の移動のことを言ってるんだろ
だが、日本人のルーツがどうでも
今の小汚い中国人とは違うんだけどね
0886日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:43:25.38
大陸3000年の歴史を正当に受け継いでるのが今の日本人で
何度も滅ぼされ侵略されて今の中国人が支配している
0888日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 14:55:58.43
というか漢民族というのはモンゴルや女真と混血した民族って意味だよな
0889日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 15:01:59.58
延喜式に皇御孫之命はクナトと書いてあるだろう?
アイヌの古語で女陰はアラハバキ、男根がクナト
男根の石棒がクナトだよ
旧石器時代からいる集団の子孫じゃないか
0890日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 15:04:29.43
旧石器時代から黒曜石やサヌカイトの石器を使っていた人々
日本人の最古層
0891日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 15:44:59.57
卑弥呼の居場所が無っかった纏向は邪馬台国では無い
0893日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 15:51:42.84
纒向は日本国の起こりである崇神朝の遺跡
魏志倭人伝に描かれた邪馬台国はそれとは異なる北部九州倭国の女王がいたクニ

景行天皇が九州巡幸した時には、まだ景行天皇が神と呼ぶ存在が北部九州にいた(八女津媛)
この当時は畿内日本国はまだ新興で北部九州倭国の方が格上
0894日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:28:16.71
>>731

平城宮など日本の都は城郭がないと言われるが、実は太宰府には城郭が見つかっている。
それも全長50キロを超える防衛線で、太宰府羅城と呼ばれている。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:30:59.78
>>735

太宰府の話は、畿内政権が知る限りにおいて、という注釈が必要なのだろう。
白村江で倭が敗戦して太宰府が唐の使節団2000人によってはっきり言えば占領されてからわざわざ羅城を作るわけがない。
つまり太宰府羅城は白村江より前のもの。
もちろん藤原京より古い。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:33:34.36
まぁ、ムリじゃね?
九州のその後の衰退ぶり見ると
いまだに徹底的に潰すという意思を感じる
強大な呪いのように見える
何やったん?オマエラ
本州側から嫌われ過ぎやろ
0898日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:35:50.49
>>753

卑弥呼即位は魏志倭人伝などから190年頃。
神武は不明。
天皇の代数から計算すると実年代は卑弥呼とほぼ同じという意見はある。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:38:20.67
>>765

倭国大乱の頃。
筑紫伊都から夜逃げしたんだよ。
親戚の饒速日を頼って畿内へ。
古事記にそう書いてある。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 16:41:56.60
水城は白村江の敗戦後に唐・新羅連合軍の報復を恐れた天智天皇が作らせたものだうよな
0903◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2023/07/01(土) 17:04:36.84
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1688195594/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0904日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:23:35.80
>>880

本殿と拝殿の配置は纏向遺跡が典型例だから、7世紀以降ということはない。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:25:33.71
>>897

白村江で無茶やらかしたんだろ。
20世紀にも同じことやらかしているけどを
0906日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:26:33.12
>>901

その時にはもうすでに太宰府は唐の占領下なんだよ。
だからそれはウソ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:27:19.63
>>902

> >>899
> 魏志倭人伝に筑紫が出てこないのがそんなに悔しいのか?

むしろ魏志倭人伝は筑紫の話ばかりだろ。
特に伊都が周辺諸国から畏怖されていた。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:31:10.75
>>907
伊都国ではなく、伊都国に置かれた大卒が畏れられてたんだろw
0910日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:46:13.37
>>907
このように
九州説は言い張るのみ 
証拠は絶対出さない
0913日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 17:54:30.21
>>912
葉っぱだけ、な
0914日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 18:05:43.77
>>904
>7世紀以降ということはない。


伊勢神宮は、倭国(阿波)から遷都した大和朝廷と期を同じくして、8世紀の倭国(阿波)からの遷宮。   @阿波
0915日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 18:23:23.11
大神神社も、倭国(阿波)から遷都した大和朝廷と期を同じくして、8世紀の倭国(阿波)からの遷宮。   @阿波
0916日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 18:40:14.37
法隆寺も、倭国(阿波)から遷都した大和朝廷と期を同じくして、8世紀の倭国(阿波)からの遷座。   @阿波
0918伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2023/07/01(土) 18:51:02.38
>>896
江戸城を作ったのは太田道灌って話でしょ、もっとも23区内には、旧石器時代、縄文時代、の遺跡や数多くの古墳も有る、

江戸城の辺りは、海辺に近く、そこから東は当時は利根川などの河口の三角州の湿地帯。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 18:56:09.28
>>919
>筑紫は大和朝廷になった後の話

その通り!   

阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
記紀に固有の「国名」など有る訳がない。
「好字二字令」は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0923日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:05:06.03
>>920
>どれも根拠のない妄想。

まぁ、7世紀に役人の装身具や政務道具、古神社や古寺院があるのは
全国で唯一「阿波」だけではあるがな。  わははははは   @阿波
0924日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:08:45.79
まあ邪馬台国論争で筑紫とか言い出すやつも相手にはできんけどな
もともと邪馬台国の頃に律令時代の国名などないし県境もない
0926日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:14:39.65
240日間も南を絶対に東に間違えるわけがない
0927日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:18:53.58
絶対に間違えるはずのない南を、東に変えるのはあり得ない。
畿内説はこれの説明を全くできてない。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:20:05.13
女王国の東ははっきり(別の)倭種ってなってるからな
後漢書では女王に属さずとまで書かれてる
0930日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:25:03.35
>>928
>女王国の東ははっきり(別の)倭種ってなってるからな

「倭人(阿波勢力)」が畿内以東へ進出したから、畿内は東の倭種。   @阿波
0931日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:25:58.30
魏志の時代筑紫がないとか当たり前だろ
発言者は福岡県あたりの意味でも言ってるのは誰でもわかる
そんなことに噛みつくとかさすがに頭悪すぎない?
0932日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:26:33.34
>>929
え?まさか、「大御和神社」からじゃないとか言うなよwww  わははははは   @阿波
0934日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:44:38.98
>>933
まぁ、この「@阿波」ってのが気違いさんであっても、
7世紀に役人の装身具や政務道具、古神社や古寺院があるのは
全国で唯一「阿波」だけではあるがな。  わははははは   @阿波
0935日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:45:56.81
>>932
府中村の「印鑰大明神」の異称を持つ「大己貴命を祀った大御和神社」ですか?

全部嘘なんだよ。本当の大御和神社は気延山を神体山とする杉尾明神(八倉比売神社)だよ。

名東郡 府中 (前略)○延喜式、大御和神社今府中に在り、印鑰大明神是歟と云ふ、然れども印鑰と名つくるは、惣社にあらずや、不審、矢野の杉尾社を參考すべし。<略>
矢野 (前略)○矢野の杉尾明神は、神山に在り、相傳へて天石門別八倉比賣祠と爲すも、疑はし、 阿波志云、按するに八倉姫社は名東郡一宮なり、寛延の勸進帳序にみ江たり、先輩の説も然り、扨此社は郡中の大社なれば、郡中の第一たる社の内にて一宮といひしならむ、此矢野村杉尾社は、大御和神社なるべし、さるは杉は三輪神に因由あり。 紀州石垣庄中尾氏文書に、承平六年八月十六日、阿波國北方杉尾より、明神兄廿三才弟十九才、紀國石垣中村へ渡り、彼地にて中尾大明神と崇むる由を載せたり、此矢野の杉尾社は即其明神なるべし。<略>亦臆斷を免れず、大御和神とや申すべき。

印鑰大明神社
名東郡府中村印鑰大明神 奉尋御神名 印鑰又名麝香童子
丁印通用金剛 本地釋迦如来也 辨財天十五童子之
第一也當社祭禮九月九日也

>>933
その通りです。でもまだマシな方。本物のキ印は阿波古事記研究会。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:46:33.99
>>894
弥生時代に何があったのかと言っている
0938日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:53:32.63
>>904
そう考えると空白が長すぎると思うけど纏向の次が何処だかわからない
伊勢神宮ならはっきり神社だと言えるんだが
0939日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 19:55:40.20
>>911
そんなデカいのなら掘って調査すればわかるって
伊勢神宮にも言えるけど
0941日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:02:51.13
>>940
まぁ、この「@阿波」ってのが悪気がある奴だったとしても、
7世紀に役人の装身具や政務道具、古神社や古寺院があるのは
全国で唯一「阿波」だけではあるがな。  わははははは   @阿波
0942日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:11:59.71
>>919

筑紫の名前は後世のものだが、魏志倭人伝の時代もその前の倭奴国王の時代も、博多湾沿岸つまり筑紫が倭そのもの。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:17:46.64
>>938

崇神天皇の磯城瑞垣宮の次は、垂仁天皇の纒向珠城宮、次は景行天皇の纏向日代宮と続く。
まだ見つかっていないだけ。
だから纏向遺跡はあの玉垣の中だけだよ。
そうでないと次の代の宮と重なる。
纏向遺跡が半世紀ほどしか使われなかったというのも、崇神天皇一代限りの、個人の邸宅だったからだよ。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:19:14.86
>>939

だからでかいのが見つかったんだよ。
大野城や基肄城や水城はその一部だとさ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:23:08.59
小さな神社みたいな宮が散在した田舎の奈良盆地と、山々を繋いで筑紫平野を囲った羅城を有していた太宰府と、どちらが王都に相応しいかわかるだろ。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:25:04.70
>>945
どっちも、碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い田舎だがな。  わははははは   @阿波   
0947日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 20:56:32.34
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0948琪瑛教大祭酒
垢版 |
2023/07/01(土) 21:00:45.13
纏向が崇神とやらの宮?
で、崇神の墓は何処だい?新羅からの朝貢はいつ頃あったんだい?
0951日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 21:18:15.84
作り話に仕立てやすいから
0953日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 21:51:19.95
記紀は何かマズいの?
神武が日向から来たのが都合悪いとか?
0954ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/07/01(土) 21:56:29.25
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
0955日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:05:40.64
>>954
さっさと祖国にお帰りください
0956日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:08:11.43
九州説が政治的なところから始まったのはその通り
だから正しくないとは言わないが
0957日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:12:49.89
卑弥呼壱与に被せた神功皇后を九州で活躍させたりして大和朝廷も九州説だったんだよな
0959日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:23:53.49
九州論者の話じゃないけどちょっと独特な古代史観のブログって縄文の心を大事にしよう、とかカバールマフィアと闘おう、とか何ていうか、政治的に香ばしいのが多いよね
九州論者の話じゃないけど
0960日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:25:46.89
>>953
古い時代ほど作り話だからね
どの時代くらいからは参考にできるのかな
0961日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:33:45.42
>>959
そういう手合いはもっとトンデモでそれこそ阿波説とか唱えている
論外の人達
0962日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:43:32.22
大切な歴史は誰もが知る昔話に残されているんじゃないか
一寸法師は百舌鳥古市古墳群の誕生と関係があると思うよ
【住吉の神さま】を味方に、【針】を刀に、【箸】を櫂に、【碗】の船に乗り鬼退治
【口】に入れられても【目】から出て、最後は【腹】の中から針の刀でついて鬼を退治する

針は播磨の石神さまか、箸は土師か、碗は持ち上げて使う軽い器で漢字もう意味深
0964ネ トウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/07/01(土) 22:50:16.68
今のジャップは人権擁護を忘れて少数派に対するイジメや差別が無罪のように放置されている。
子供の頃に受けた差別やイジメというのは一生物の思い出だ。
やった側は忘れていてもその恨は一生の呪詛だからな。
人権擁護法案が絶対的に必要なのだ。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 22:57:51.00
百舌鳥古市古墳群の前は佐紀陵山型古墳の時代だ
摩湯山古墳や五色塚古墳のように畿内中心部を取り囲むように作られる
畿内は鬼の腹の中の状態だな
五色塚古墳は讃岐の石工たちを連れてきて作らせた古墳だろう

在地の人々や讃岐の石工たちが住吉の神さまを味方に引き入れ立ち上がったんじゃないか
播磨風土記の速鳥の記述は興味深い

駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

その後佐紀陵山型古墳を作った勢力は大和盆地以東に移り勢いを失っていったようだ
0968日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:21:39.35
百舌鳥古市古墳群の時代と重なる、倭の五王の讃・珍・済はこじつけになるかもだが、讃岐のサヌ狭野、茅渟のチヌ、狭井のサイと音が同じなんだよな
0969日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:28:28.27
倭の五王の比定は難しい
そもそも日本書紀の記述が信じられるかどうか
0970日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:29:54.87
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0971日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:34:02.28
黒塚のU字型鉄製品は黄幢
これでほぼ決まりなんだけど
やさしい畿内説は九州説の存在を許してあげてるんだけどね
0973日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:42:48.20
平原もコピー銅鏡だからな
0974日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:46:33.97
U字型鉄製品が黄幢でない可能性→ほぼない
他から持ち込まれた可能性→せいぜい1~2%
0975日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:49:20.05
畿内から持ち込まれた日田の鉄鏡しか誇る物が無いのが九州説
0976日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:55:15.84
鉄鏡の話はもういいわ
あれはなんの根拠にもならない
0977日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:55:28.09
纏向遺跡から大分の土器が見つかっているんだよな
九州の一部の勢力も女王国の枠組みに関与していたんじゃなかろうか

岐阜には両面宿儺が天船に乗り降臨して龍を倒した伝承が残る
飛騨と大分の日田は関係あると思うんだよな
0978日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/01(土) 23:57:37.38
大分の日田のあたりは、九州の中でもいち早く畿内勢力が入って
畿内型の豪族居館が築かれた場所
0979日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

その大分の土器って、纒向5類とかじゃないの?いつの時代のやつよ
0980日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:02:39.70
お神輿が卑弥呼で実行部隊が東海山陰吉備で筋書きを書いたのが九州の一部の勢力の可能性も残る
九州を通って纏向遺跡に行くんだよな
九州にも仲間がいたんじゃないか

赤ら引く朝日
東海に赤引というところがありそこの糸を伊勢神宮に献上する習わしがあったんだよな
0981日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:05:01.95
ダンワラ古墳と言っても跡形もないし場所もはっきりしない
鉄鏡も出処不明で時代もわからん
0982日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:08:48.84
日田は古墳時代前期の豪族館があり重要な場所だな
魏の使者が通ったルートは日田を通る筑後川北岸を東に進んだんじゃないか
0983日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:10:57.36
ダンワラ古墳出土というのは一人の人がそう言ってるだけで
世の中にはオレオレ詐欺とかする人もいるので
全面的に信用が置けるとすることはできない
確かに言えるのは骨董屋で発見されたこと

戦争中のどさくさで中国から持ち込まれた、あるいは中国の盗掘品を買った
そういう可能性もあるので
考古学者は怖くて何も言えない
0984日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:14:49.80
博多や遠賀川、壱岐などには女王国に与しない勢力の残党がいて安全ではなかった可能性があると思うんだよな
博多は播磨の土器が多数見つかっているし遠賀川は南方刀美の地だし、壱岐には龍の女神への信仰が篤かった夫婦が竜宮城の宝、禿童(萩童?)を授かった民話が残っている
0985日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:16:04.43
三角縁神獣鏡の中国には見られない傘松文様は
黄幢を記念した意匠
0986日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:17:00.10
魏志倭人伝とは違うあさっての方向の畿内説はアウト
0987日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

大分県の土器(推定)っていつの時代のもんなんすかね
ご存じの方いらっしゃらない?
0988日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

纒向5類なら景行帝の時代だから、女王国関係なくなるんで
0989日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:20:14.11
畿内説はフエアだな
中国で見つかった三角縁神獣鏡も
出土状況があいまいなので
資料とはしない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:24:00.24
九州の東側(宮崎・大分など)は、はっきり本州、四国の勢力の
影響を受けてて、早くからヤマト王権の影響下に入ってる
0991日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:26:34.79
九州説のよくある論法

邪馬台国が九州だから、黄幢も九州から畿内に持ち込まれたものだ
→意味をなさない循環論法
0992日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:28:45.05
済州島→五島列島→末盧国じゃないか
末盧国は伊万里の港という人がいたな
なるほどと思ったよ
阿波の天石門別八倉比賣大神御本記に伊魔離神が出てくる
阿波は紀ノ川→淡路島→徳島→高知→九州のルートの拠点
当時の遺跡からもこのルートの存在が示唆されている
復路の候補ルートだな
往路は宮崎→黒潮→紀伊の港

九州の一部の勢力が阿波に拠点を置き畿内の情勢に関与していた可能性も考えられる
0993日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:34:35.10
魏志韓伝には済州島は馬韓とは言葉が違っていたと出てくるな
0994日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 00:34:39.35
倭人は呉の末裔を自称、呉人は鯰の冠と文身の風習
九州は鯰の神さまがあちこちに祀られている
阿波の忌部について少し調べたら忌部本宮は多那穂忌部神社のようだった
摂社には鯰の神さまが祀られている

奈良の生駒は邪馬台国の官伊支馬と同じ音でまた鯰石(船石も)がある
0996日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 06:25:51.38
>>940
まぁ、この「@阿波」ってのが悪気がある奴だったとしても、
7世紀に役人の装身具や政務道具、古神社や古寺院があるのは
全国で唯一「阿波」だけではあるがな。  わははははは   @阿波
0997日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 06:36:14.57
>>975
また根拠のないことを言う
0998日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 06:48:08.80
根拠なき 身にもあはれは 知られけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ
0999日本@名無史さん
垢版 |
2023/07/02(日) 06:53:56.29
畿内説はアンチ魏志倭人伝、卑弥呼と邪馬台国だけ頂戴したオレオレ詐欺
1000日本@名無史さん
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2023/07/02(日) 07:03:52.35
九州説が死んでいる
10011001
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