邪馬台国畿内説 Part928
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1690874810/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 1~2世紀の九州で確実な土器編年は今も存在しない
1966年のやつは論外
久住氏のやつは確認中 >>83
2世紀の纒向に邪馬台国があった証拠の遺跡が無いからである 寺澤の言うイト倭国の卑弥呼が纏向に行ったのならば
、纏向に鉄や漢鏡を持って行かないのはおかしい。
寺澤以外の畿内説が言うように、畿内人の卑弥呼が纏向にいたならば、やはり纏向邪馬台国は九州を支配下に置いてるので漢鏡や鉄が出てこないのはおかしい。 >>89
行っていないかもしれないが、邪馬台国は九州で収まる 北部九州内の対立により地元を脱出し吉備経由で奈良盆地に入ったのが神武東征でありヤマト王権の祖だろう
初期のヤマト王権が北部九州と疎遠だったのはこの理由によるだろう
景行天皇の九州巡幸は北部九州倭国との関係修復の旅であり、これ以降畿内日本国に鉄器・銅鏡・絹が流入するようになったと考えられる 貿易都市博多は河内や播磨などと瀬戸内海ルートで交易があった
庄内式土器や前方後円墳が流入したのはこのルートによるものだろう
海のない纒向勢力は殆ど関与していない 航海技術のない纏向人は当然九州人にお願いして、朝鮮半島に行かなければならない
イト倭国が武力で圧倒的に格下である纏向人の言うことを聞くならば、卑弥呼イト国出身説に頼らざるを得ない
これが寺澤の結論だろう 邪馬台国は後漢書にも記載されている
代々王が居た国である
卑弥呼時代は倭国大乱が終わった180年頃〜240年頃
巫女は他にもいたが最も民衆の支持を得ていた卑弥呼が女王として選ばれた
結局は狗奴国と戦争に陥り情勢は乱れる
卑弥呼が死去し男王が立ったが反乱が起き1000人以上の死者を出す
まだ幼かった台与を女王とする事でようやく平和になった
この記録に対し、纒向には適合する痕跡が全く見当たりません 元は奈良湖の湿原に孤立した掘立柱建物だと空気成分の10パーセントくらいが虫で大変だったろう 2世紀の纒向と伊都国を比べると邪馬台国に相応しいのは段違いで伊都国だよ 2世紀の纒向には歴史が無いが、伊都国には歴史がある >>101
まったく理由を書かない決めつけが
実に九州説らしいな
思い込みと偏見だけで出来ているのだろう? >>100
倭国大乱前の男王が70-80年続いた時代に30国連合を築いてた畿内の国ってどこ >>104
ほおら、またまったく理由を書かない決めつけが
実に九州説らしい 畿内説は何故そんなに纏向=邪馬台国に拘るんだろうか?
魏志倭人伝の邪馬台国とは別の連合国があったとは考えられないのだろうか?
なぜ中国に王として任官された謂わば属国の邪馬台国としたがるのか?
あれだけ立派な纏向がそこに拘ってる限り歴史の解明が遠のいてる気がする >>107
そもそも纏向は早くても3世紀後半でしょう
卑弥呼が死んだ後、または壹与が死んだ後に九州から遷都した 纏向は現代日本に続く礎なのは間違いないし以降も拡大し続けている
しかし邪馬台国は卑弥呼の死後混乱し中国の力で壹與をたてなんとか鎮めた
その後の記述はないが斜陽だったのではないか 1つ嘘をつく。それが嘘だとなれば信用失墜するから嘘を嘘にしないためにもう1つ嘘をつく。それを繰り返すうちに逃れることのできないゴッドハンドと化す。 >>105
邪馬台国が
「倭国大乱前の男王が70-80年続いた時代に30国連合を築いてた」
などと書いた史料は実在しない >>112
じゃあ倭国大乱は遠くのお他所の争いに我も我もと参戦してきた無関係の国がたくさんあったというのが畿内説か >>107
蛙食ってた未開土人に俺たちが全て教えてやったんだと諭して生意気に築き上げてきた国富を気持ちよく仏像ってやるためさw >>109
>そもそも纏向は早くても3世紀後半でしょう
このようにいつも九州説は、まったく理由を言わないで
学問も世間常識も否定する >>111
>1つ嘘をつく。
いや九州説は毎日嘘をついている
例えば
「intcal20を使ったら、箸墓の年代適合度は16パーセントしかなかったと」
など >>113
その時代に伊都国より誇れるものは出ているのか? 畿内説トナカイの嘘5連発
①隋書で方位を修正した
↓
航路が変わっただけでした
②大津くんがテレビで絹がなんちゃら言いました
↓
そんな事言ってませんでした
③黒塚古墳は黄幢です
↓
公孫氏の赤幢の絵を使ったフェイクでした
④九州説に転向する
↓
大嘘でした
⑤ Metaの「Threads(スレッズ)」でコミュニティを作る
↓
作りませんでした >>113
纒向の建物が利用されたのは3世紀後半だろ そろそろ畿内説は邪馬台国ではなく別国家として推論をたてた方が良いと思う
結論ありきで邪馬台国に設定している限り事実に基づく発想ができない
むしろ辻褄合わせによって間違った解釈になる可能性が高い
纏向は日本史にとって重要な遺跡だからこそ慎重になるべきだ >>110
>纏向は現代日本に続く礎なのは間違いないし
それが間違いの始まりだろう
纒向遺跡は単に古墳を造る時に利用された臨時施設だろ >>120
>纒向の建物が利用されたのは3世紀後半だろ
このようにいつも九州説は、まったく理由を言わないで
学問も世間常識も否定する >>122
それすらも畿内説に拘るあまり議論が深まらないだろ >>124
そういや教育委員会の学芸員が書き込んでたな
このスレは桜井市教育委員会が運営してるという事かな >>110
纏向遺跡の場所において、
大型建物群の、その次に現れる建物なり住居ってどれなの?(古墳を除く) >>120
大型建物が廃絶したのが庄内3式期=3世紀中ごろ >>129
>大型建物群の、その次に現れる建物なり住居ってどれなの?(古墳を除く)
九州説が纒向宮殿だと嘘をついてニセ情報作りに利用した柱穴の葉っぱ(3世紀第3四半期) >>131
>従来の通説
つまり50年前の説
佐原真が提唱して一時は通説にまでなったが、間違いと分かって本人がすぐ撤回した短命説ね 畿内説はビッグモーターと同類
組織ぐるみの霊感商法詐欺 ホケノ山の小枝をC14にかけたら、328年〜409年が74.1%と出たと
まあ、そうだろう 真実は一つだから多数ある説のほとんどが嘘ということになる
でも仮説を立てるのは悪いことじゃない
どんどん「嘘」をつきましょう >>134
いつも嘘ついてるのは九州説なんだけどね
>>132でも>>117でも指摘されてる >>138
>どんどん「嘘」をつきましょう
九州説さん、犯罪はダメ
嘘と分かっててニセ情報流すのは悪いことだよ
良心が無いの? >>141
九州説の人は、なんで嘘ついても平気なの?
なぜ根も葉もない中傷ばっかりするの? 九州説が証拠を求められると
ググれない無能とかリンク先が読めないバカとか罵って誤魔化すのは
ウソと知ってて流布してるってことだな >>144
九州説さん、思考停止してオウム返しすると。あなたみたいに嘘つきになるんだよ >>146
畿内説さん、思考停止してオウム返しすると。あなたみたいに嘘つきになるんだよ >>132
葉っぱ?建物について聞いてるのに、やっぱダメだわw 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに、
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
↑
今日見た超しっくりくる書き込み
多分このスレにいるだろ
このスレにも書いてくれよ 勝手に南を東にすり替えるわ、
他人の墓を勝手に卑弥呼の墓に仕立て上げるわ、
倭人伝の記述と全く仕様の異なる古墳建造時の土木事務所を卑弥呼の宮殿だと言い張るわ、
畿内説はまるでチョソだなw まるでじゃなくてそのものだよwだからID出ないこの板に巣くってるw >>151
2万戸の奴国も緩やかな連合国なので
北部九州を軍事的に統括していない
異人ベルト地帯のなかでとても小さな伊都国だけが女王国に隷属しており
末盧国には倭国の官がいないので寒村の津だけを利用していた
他は倭国の外 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>156
>嘘という自覚があるのは畿内説だけだろうな
いや、いくら証拠を要求されても
>0739日本@名無史さん
>2023/07/25(火) 01:13:26.69
>その中のリンクに論文があるだろが。
>どこまで畿内説は馬鹿なんだよ。。。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1689945486/739
などと嘘をついて相手を侮辱し、誤魔化して逃げようとする九州説は
明らかに自分が嘘をついているという自覚がある 嘘をついて相手を侮辱し、誤魔化して逃げようとする畿内説は
明らかに自分が嘘をついているという自覚があるキナイコシです >>159
そんなことしたって証拠は?
九州説さん、思考停止してオウム返しすると、あなたみたいに嘘つきになるんだよ 畿内説の主張
3世紀に突然、住居の無い70000戸の国が纒向に誕生したニダ
その辺にいた女性がいきなり巫女となり女王となったニダ >>161
畿内説がそんな変な主張したって証拠は?
九州説さん、嘘ばかりついてると誰からも信用されなくなるよ >>162
ほう
そんな主張はしてないのか?
じゃあ後漢時代の数万戸の住居跡は畿内の何処にあるんだ?
卑弥呼以前から巫女が居た痕跡はどの遺跡だ? 纏向は2世紀末に建設が始まり、
3世紀前半から3世紀中ごろまで大型建物群が存在していたと考えられている
3世紀日本最大の纏向遺跡は畿内第X様式末から始まっており、
土器や遺物で吉備や河内の影響が見られるので
これらの地域と関係が強い勢力の女王が畿内で共立された後に纏向王都が建設されただろう
北部九州の博多が畿内の影響を受けるのは3世紀前半からだから
畿内-吉備連合の後に博多(おそらく奴国の新興勢力)が共立に参加したのであろうと思われる 畿内ってのは、大阪湾岸〜で良いんだろ。
奈良ってのは、そもそも住居と言うより
紛争嫌いな豪族の王子や姫の宮を集めた場所じゃないのか?
半島進出の倭の五王時代はくだってて、隋唐成立でまた登ったし。
邪馬台国ではないけどw >>164
纒向遺跡という場所における、
大型建物群以外の建物(古墳を除く)は、最も近い時代でどれ? >>163
>じゃあ後漢時代の数万戸の住居跡は畿内の何処にあるんだ?
>卑弥呼以前から巫女が居た痕跡はどの遺跡だ?
そんなものが有ったと書いた史料は無い 「纏向王都」ってのは具体的にはどの範囲のどの遺跡を意図しているのだ? 免田式土器が屋久島、奄美、沖縄本島で出る
これこそ南の侏儒国、裸国、黒歯国へたどったことを示す遺物だろう
ところが、庄内式、布留式は沖縄では出ない
九州人は沖縄まで来れたが、畿内人は沖縄まで来れなかったということ >>168
「纏向王都」ってのは、墓しか無い所。 @阿波
めんどくせー >>167
論理性皆無な畿内説の典型w
低能どころか低知能なんだなw 卑弥呼の居住区には自立した奴婢が1000人居たと書いてあるよな
纒向遺跡で発見された建物は何棟? 古墳時代の畿内を見渡せば、墓しかないだろ。 @阿波 墓しか無い畿内に、「邪馬臺国」を夢見る畿内と九州のバカ学者。 @阿波 >>168
魏志にいうところの邪馬臺
纏向ヤマト王権遺跡(纏向王都)
奈良盆地の東南、三輪山の麓から西になだらかな平野が広がり,農地の間に住宅とともに、古墳が点在する。
纏向遺跡はこの三輪山から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロに広がる一帯をさす。
何年にも渡って少しずつおこなわれた発掘調査によって遺跡はその特異な姿をあらわしはじめた。
それはのちの藤原京や平城京にも勝るとも劣らない。たとえば、この遺跡から竪穴住居はほとんど見つかっていない。
高床式建物が立ち並んでいたようだ。大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場もみつかった。
またよその地域からきた土器が異常に多く出土している。
これらの土器から推定すると、纏向には少なくみても5人に一人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々が行き交い、
大和川によって遠く外海へとむすばれている・・。この大きな遺跡は、まさに3世紀の都市といえる。
そしてそれは、ちょうど邪馬台国の時代に重なる。 (石野博信氏著・纏向遺跡より)
https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/makimuku01/index.htm 九州説って
証拠のあることは
なにひとつ言えないの? >>181
纒向遺跡と三輪山なんて全然関係無いしw
妄想甚だしいなw 大和川によって遠く外海へとむすばれている・・。この大きな遺跡は、まさに3世紀の都市といえる。
そしてそれは、ちょうど邪馬台国の時代に重なる。 (石野博信氏著・纏向遺跡より)
纏向遺跡は、まだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 大和川によって遠く外海へとむすばれている・・。この大きな遺跡は、まさに3世紀の都市といえる。
そしてそれは、ちょうど邪馬台国の時代に重なる。 (石野博信氏著・纏向遺跡より)
纏向遺跡は、まだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 大和川によって遠く外海へとむすばれている・・。この大きな遺跡は、まさに3世紀の都市といえる。
そしてそれは、ちょうど邪馬台国の時代に重なる。 (石野博信氏著・纏向遺跡より)
纏向遺跡は、まだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。わははははは @阿波
めんどくせー >>183
>纒向遺跡と三輪山なんて全然関係無いしw
九州説って
証拠のあることは
なにひとつ言えないの? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 荒らししか出来ない無能
それしか出来ない九州説は無能 それでこのスレは長持ちしてんだろうが
ガタガタ言うなw >>187
纒向遺跡と三輪山がどう関係してるのか論理的に説明してみろ猿 2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡は全く無い。痕跡があるなら証拠を出せばいい 纏向遺跡と箸墓の占地が上つ道に沿っていることは常識
三輪山は上つ道と伊勢街道の交差点のランドマーク >>195
>2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡は全く無い。
証拠は?
証拠のあることは なにひとつ言えない九州説 >>193
証拠も出せずに逃げ回ってるけど、
纒向遺跡という場所における、
大型建物群以外の建物(古墳を除く)は、その直近でも無いの? 免田式土器が屋久島、奄美、沖縄本島で出る
これこそ南の侏儒国、裸国、黒歯国へたどったことを示す遺物だろう
ところが、庄内式、布留式は沖縄では出ない
九州人は沖縄まで来れたが、畿内人は沖縄まで来れなかったということ 邪馬台の名は大八州国の統一、中心国(都)の象徴。日本のルーツ。
狗奴、伊都などの地方国とは違う。 >>200
その九州人って、北部九州と対立してた大隅隼人じゃないの? 天照誕生の地の九州は畿内に負けての政治的に邪馬台を名乗る資格を失った可哀想な国。 墓しか無い畿内に、「邪馬臺国」を夢見る畿内と九州のバカ学者。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 庄内式土器は畿内では桜井市と天理市と
大阪府八尾市で多く出て
これら以外の畿内の他の地域では庄内式はあまりでない
北部九州の庄内系土器出土主要遺跡
https://tsukudaosamu.com/pdf/2-4.pdf
161ページ
1今川遺跡 2久原瀧 ケ下遺跡 3御床松原遺跡 4三雲遺跡 5西新町遺跡
6多々良込田遺跡 7那珂深フサ遺跡,瑞穂遺跡,板付周辺遺跡
8柏田遺跡 9井手ノ原遺跡 今光遺跡 10小田道遺跡,神蔵古墳(下層)
11塚堂遺跡 12西一本杉遺跡 13西原遺跡,本川原遺跡 14.千塔山遺跡
15赤塚古墳周濠 16.安国寺遺跡 17守岡遺跡
福岡県、佐賀県、大分県でも庄内式がでる
古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究
file:///C:/Users/hp/Downloads/jinbunkagakukiyo_66_251%20(1).pdf
3世紀に九州北部で庄内式の搬入土器が九州北部でも多く見つかる
この資料だと多くの場合九州北部の粘土(胎土)ではない搬入土器だが
那珂遺跡で九州北部の地元在地の粘土で作られた庄内大和型甕が出てくる
布留式も出てきてなで肩で九州北部の型だけど製法は布留式
布留式が出るころになると
畿内の庄内式や北陸?の布留式の手法で作られた
九州の粘土の庄内式や布留式が出てくる
大和の職人が那珂に来ていた可能性もあると考える
または大和に修行
土器を見ると3世紀初めくらいから大和と九州北部と繋がりがある 失敗
古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究
で検索して明治大学のやつみて 九州北部では庄内式の手法で
土器がチョコレート色で雲母が含まれていても
土師器とするところがある 糸島市とか
良心的なところは庄内式とかく 福岡市とか
あと庄内式に酷似とか
論争があるのでデリケートな部分なんだろうが調べようよ そりゃ半島との玄関口なんだから列島-半島の交易ルートは基本ソコを通るだろ 東遷説としては大和から九州北部に
桜井市、天理市、八尾市などの限られた地域でしか多く見つからない
庄内式土器に物資を入れて大量に運ばれたとする
論争があるから九州では庄内式が出ても
土師器として体裁として搬入土器と書くのが精一杯なんだろう
産地は調べない チョコレート色で雲母でキラキラしていても 出来心は仕方がない
報告書を書くのは地元の自治体だからな 登呂を消した修正版 5回建て替えられた跡がある下長遺跡は
建て替え頻度によっては1世紀の可能性もあるが2世紀としている
■紀元前2世紀の大型建物
・福岡市西区 吉武高木遺跡 14×13m 柱の太さ1~1.5m
■紀元前1世紀の大型建物
・大阪府和泉市 池上曽根遺跡 いずみの高殿 19.2m×6.9m 高さ11m
年輪法紀元前52年
・滋賀県守山市 下之郷遺跡 大型建物10棟 竪穴式住居なし 戦いの跡?
・奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡 11.5mx7m 13.2mx6mの2棟
■1世紀の大型建物
・滋賀県守山市 伊勢遺跡 主殿 楼閣
・滋賀県守山市 下長遺跡 祭殿があったと思われる 建て直される
・滋賀県守山市 下釣遺跡 祭殿 年輪法69年+α
■2世紀の大型建物
・滋賀県守山市 伊勢遺跡 建て直された主殿13.6m 祭殿 楼閣
円形配列建物群の中に大型建物が計4棟
伊勢遺跡の変遷
https://ise-iseki.yayoiken.jp/hensen.htm
・滋賀県守山市 下長遺跡 7.8mx4.5m 祭殿 2世紀末 5回建て直された跡
・滋賀県守山市 下釣遺跡 別の場所に祭殿 用途不明2棟 青銅器生産
■3世紀の大型建物
・奈良県桜井市 纏向遺跡 大型建物D 19.2m×12.4m
・佐賀県神埼郡 吉野ヶ里遺跡 主祭殿(3階建て) 12.7m×12.3m 他多数
・長崎県壱岐市 原の辻遺跡 祭殿 8mx6m 壱岐島の接待遺跡
■3~4世紀
・名古屋市西区 朝日遺跡 南居住域に大型建物 時期絞れず 伊勢遺跡の大型建物群が楕円の中央よりずれているのは
1世紀の伊勢遺跡でも伊都国と同様に3倍暦の太陽観測地点だったけど
伊都国から集団で引っ越ししてきて調査したら数10mズレてて修正されたと考えてる
伊勢遺跡では山が低くて遠くて観測しづらいので
銅鐸24個を大岩山に埋めて
3倍歴が観測しやすい纏向に再度引っ越ししたと個人的に考えてる 紀元前1世紀の滋賀県守山市の下之郷遺跡の大型建物10棟は
技術的に吉武高木遺跡と繋がっていると考えてる
古墳出現時期に出雲に大型建物はない
大型建物の技術は特別なもので出現地域は九州北部とつながりがあるはず
国譲りした出雲は高さ48mの大社を建ててもらう 紀元前1世紀何もない伊都国の三雲に遺跡ができる
1世紀滋賀県守山市の何もないところに伊勢遺跡ができて2世紀に最盛期を迎える
そして3世紀初め奈良県桜井市の何もないところに纏向遺跡ができる
何もないように見えるが3倍暦の太陽観測地だったことが共通していると思われる
夏至や冬至の太陽方向に山頂があり2月22日ごろ10月22日ごろに凹み 証明は無理だぞ
自分が書いているのはあくまで説だ
妄想と書いてもいいけどそれなりに成立した反論付けてくれよ
夏至や冬至の太陽方向に山頂があり2月22日ごろ10月22日ごろに凹み
これで3倍暦は可能
それが三雲、伊勢、纏向の3つ地点で共通していたら確率論的にはかなり有利だろう 伊勢の直径220mの楕円形の建物配置は
山が遠くて観測のしにくさ故に補助的に楕円形に建物を配置したと考えてる
それもうまくいかなくて纏向に再度引っ越す
近江の弥生遺跡
http://www.mfutamura.com/sub93B.htm
歴史秘話ヒストリア 2019,2,06,NHK-TVより引用
まぼろしの王国 銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの
伊勢遺跡は女王卑弥呼の共立の場だった?!
http://www.mfutamura.com/ise_kyoritsu3.mp4
伊勢遺跡が卑弥呼共立の場だったとする説
この動画見てね これが違っていたら自分の東遷説は成り立たない 伊勢遺跡の楕円形に建物配列の中心に楼閣があるな
観測所だろう
見張りのためではなく 円環の列の外側に別途首長館のような建物があり
床は焼物のように焼成され、壁には煉瓦のような石が積まれている
こんな弥生建築聞いたことがない
中国に似た建築があるとのことだ 自説なんて真実の前ではどうでもよくね?
論争に勝ち負けなんてない あるのは真実
真実以上のものを求めることに意味はない
九州が何を求めているか自分にはわからないが
真実よりもプライドを求めてないか?
学問的にはそれは間違ってる断定 論理的に自分を否定してみろ
それが論理的に正しければ今は否定しない
だって新発見あるんだもん 約束はできない 自分には主義がない 流動的だ
そして今の考えでは東遷説だ
ただ新発見で変えるぞ
邪馬台国論争なんてどうでもいい
自分が知りたいのは真実だ ここまで2世紀の纒向に邪馬台国の痕跡があった証拠無し、証拠があるなら出せばいいだけ。 庄内式土器はその出土量や胎土から見て河内の発祥でありそれが播磨・纒向・北部九州などに広がった
貿易都市博多は元から瀬戸内海ルートの交易関係があり、庄内式土器も関係の深い播磨などから入ってきたと思われる
纒向は庄内式土器の受容の客体に過ぎず、また海がなく北部九州との関係も疎遠であるため、北部九州の庄内式土器受容と纒向勢力とはどう見ても関係がない 畿内説、論理が破綻していようが公金チュウチュウ出来ればいいんです >>227
>庄内式土器はその出土量や胎土から見て河内の発祥でありそれが播磨・纒向・北部九州などに広がった
畿内での庄内式、布留式土器の登場は、畿内第X期に阿波國鮎喰川下流集落群で生み出された「東阿波型土器(薄型軽量土器)」の技法伝播を示唆する。 @阿波 畿内説の主張
3世紀に突然、住居の無い70000戸の国が纒向に誕生したニダ
その辺にいた女性がいきなり巫女となり女王となったニダ 樓觀城柵など集団で暮らしてれば何処にでもあるだろう。
少ない人数なら無いかもしれないが 縄文海進で海面が高い時でも、琵琶湖周辺は海面より高く平地だから、昔から人は多く暮らし栄えた所だろう。
海面が下がってから回りの地に行く人もいても不思議ではない。
だが、魏志倭人伝とは関係無い 吉野ヶ里は北部九州倭国を構成するクニ(おそらく華奴蘇奴国=カンノサキか弥奴国=ミネ)なので邪馬台国(筑後山門+肥後菊池郡山門郷)とは関係がある 魏志倭人伝と天照も関係ないし、魏志倭人伝の卑弥呼は天照のモデルでもないし、天照は近畿で発展した。
天照の元は何か知らんが、 邪馬台国などと言う江戸時代にできた国を探すより、天照の元を探した方が良いように思う。 畿内での庄内式、布留式土器の登場は、畿内第X期に阿波國鮎喰川下流集落群で生み出された
「東阿波型土器(薄型軽量土器)」の技法伝播を示唆する。
阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、「東阿波型土器」と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。
徳島県埋蔵文化財センター専務理事(当時) 菅原 康夫 @阿波 >>240
天照大神は娘たちに祀られなさいとは言っているが自分を祀れとは言っていないんだよね >>243
伊勢神宮ではなくて宇佐神宮や宗像大社の方が正統だと思うぞ TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ と、お隣の国の方が、上から目線で諭してらっしゃいます。 >>246
>今のジャポニカ米はその子孫だ
「阿波」は、米の二期作が出来る所。
長江流域でアワとかヒエとか米が原産する環境があるなら、「阿波」でも原産する環境がある。
日本のアワとかヒエとか米は、「阿波」が原産地だと言って誰が否定できるというのか。
なぜなら「阿波」は、米の二期作が出来る温暖多雨地域なのである。 @阿波 「阿波」には良田がなく、近世に藍が生産されるまで不毛の地 @阿波 >>248
>伊勢神宮は地産の神では無いから
「阿波」の神を祀っているんだから、倭国(阿波)から遷宮した神社に決まっている。 @阿波 >>254
「倭人(阿波勢力)」は大洪水時代に灌漑稲作ができなくなると、
イネに替わりアワ・キビ・ヒエなどの雑穀栽培法を開発し、生き延びる糧とした。 @阿波 「阿波」は満潮時海没で稲作が出来ないと、現実逃避して踊る阿呆に見る阿呆に分化し、生き延びる糧とした。 @阿波 >>257
こっちはID気にしなくていいから、元気だな。 わははははは @阿波 >>258
こっちも基地外扱いされてもいいから、能天気だな。 わははははは @阿波 >>255
阿波神
阿波和紙の始まりは、今から1300年ほど前に遡ると言われています。
忌部族(いんべぞく)という朝廷に仕えていた人たちが阿波の国に入り、麻や楮を植えて紙や布を製造し、その地名が麻植(おえ・現在の徳島県吉野川市)となったとの記録が、古語拾遺(807年)に残されています。
だそうな。 >>227
庄内筑前型は,庄内大和型甕の系譜を引くもので,口縁部は外反するものが多く,
タタキは左上がりが大多数で,水平は少ない(一部右上がり)。(佐々木) >>260
>忌部族(いんべぞく)という朝廷に仕えていた人たちが阿波の国に入り
斎部 広成(いんべ の ひろなり)のチョンボ。 @阿波 >>262
>庄内筑前型は,庄内大和型甕の系譜を引くもので
畿内での庄内式、布留式土器の登場は、畿内第X期に阿波國鮎喰川下流集落群で生み出された
「東阿波型土器(薄型軽量土器)」の技法伝播を示唆する。 @阿波 >>265
お前には「阿波」は荷が重すぎるわけだ。 わははははは @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>265お前には「阿波」の症状は重すぎるわけだ。 わははははは @阿波 五十猛神(イソタケル)と一大率(イータールー)は似ている気がする >「草木茂盛行不見前人」
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。
これは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の猿田峠・赤木峠越えの場面。@阿波 >>256
雑穀の栽培自体は縄文時代から連綿と行われている。
阿波に稲作適地が少なかった為のたまたまでは無いのか?
勿論、粟族が、名前の通りに積極的に雑穀栽培をしていたのだとは思うが。
だったらキビ族はどうなんだろうね? >>272
>雑穀の栽培自体は縄文時代から連綿と行われている。
それを、栽培技術として確立したのが「倭人(阿波勢力)」。
勿論、粟族が、名前の通りに積極的に雑穀栽培をしていたのだとは思うが。
だったらキビ族 >>272
>だったらキビ族
キビ族を漢字で書いてみろ! 能足りん。 @阿波
勿論、粟族が、名前の通りに積極的に雑穀栽培をしていたのだとは思うが。
だったらキビ族 ここはコマーシャルが邪魔をして実に書きにくい。 @阿波 アンヤチャンネル言ってるけど視聴者が
実際はスパイファミリーのアーニャのことだよねw
阿波さん 馬鹿バトルが始まったなら。
「阿波」が居なくなると永遠ループバトルが始まる。 @阿波 伊都国に港は無い。
港の「末盧国(福津市・万津浦)」から東南陸行500里の内陸に伊都国(直方辺り)が在る。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >倭人伝には壱岐は三百里四方と書かれています
直線距離 20km四方 1里=67m
>魏志は帯方郡から狗邪韓国が7000里
直線距離 500km 1里=71m
>で後漢書は倭奴国(女王国)から西北界の狗邪韓国(巨済島周辺地域)が7000里
直線距離 540km 1里=77m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 去其西北界狗邪韓國七千餘里」
女王国「阿波」から西北へ七千餘里行ったところが狗邪韓國。
まさに「倭人在帶方東南大海之中」と見る方向が真逆の見方をしている。
因みに、西北界の狗邪韓國は、巨済島周辺地域。 @阿波 「去其西北界狗邪韓國七千餘里」
女王国「阿波」から西北へ七千餘里(直線距離550km 1里=79m)行ったところが狗邪韓國。
まさに「倭人在帶方東南大海之中」と見る方向が真逆の見方をしている。
因みに、西北界の狗邪韓國は、巨済島周辺地域。 @阿波 「郡使往來常所駐」
この「往來」とは。
これは、行きも帰りも、ここ伊都国(直方辺り)に立ち寄るってこと。 @阿波 漢鏡の変移を見るに
ちょうど倭国大乱あたりを境に
北部九州から畿内へ移ってる
アマテラス信仰が北部九州から畿内へ移ったと読むべき
https://i.imgur.com/xP8T6jU.jpeg
女王はアマテラスとわかるだろう
キリシタンに「あなたのアルジは誰か?」と問えば
「デウス様です」と答える
必ずしも女王=生きてる人間とは限らない
女王はアマテラス
卑弥呼はアマテラスを神降ろしできる女性
と読むのが妥当とわかる なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか。
理由は、大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なるから。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。
ちなみにその朝鮮半島・大陸への出航地は、平戸市周辺。 @阿波 「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)
投馬国(着岸地 土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か?
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は、末盧国(福津市周辺 万津浦)→ 豊前経由 → 四国(阿波)へ。
大陸への復路は、四国(阿波) → 豊前・筑前・肥前(松浦)→ 大陸への出航地(平戸市周辺)。
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(巨済島)で、
一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。 @阿波 倭国大乱を境に北部九州の衰退が顕著になる
どの地域で大いに乱れたのかよくわかる >>289
>倭国大乱を境に北部九州の衰退が顕著になる
倭国乱は、文字通り倭国(阿波)の乱。 北部九州などなんの関係も無い。 @阿波 アマテル信仰を知らないニワカが何か言ってるが女神アマテラスなどせいぜい7世紀辺りからだろ。 「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波 >>292
根拠なく妄想を羅列するのがお前ら阿波説の信者。アホすぎる。妄想ならまだマシだが捏造ネタも大宣伝。 すげ〜 あぼんスレだなw
フォントの違いで抜けてたのも有るみたいだけど解決。
5ちゃんの書き込み規制って、また、そろそろ始まるのかな? Talkに圧勝と判断したらね。今のシェアってどうなのだろう? 太古の「山海経」には東夷の始祖は太陽の女神で、日本が日巫女を敬うのもわかりますね。 義和をググったら十日の母って出てくるんだがトトヒモモソって架空のキャラなんかいな >>285
漢鏡5期が饒速日で7期が東遷とかかもな
こういう資料は面白い
もし共立して卑弥呼が北九州で立っても文化の中心は既に東に移ってたとかもありそう >>300
反論できないので、目障りか? わははははは @阿波 >>301
>こういう資料は面白い
妄想のネタになるのか? わははははは @阿波 >>304
捏造だ捏造だと自分に言い聞かせて、「阿波」に痛めつけられた心の傷を舐めている物部東遷・大物主・日本書紀バカ。 @阿波 平原の大型鏡は日本製だろ?
九州では100年代には、既に漢鏡複製してて、
平原卑弥呼の大型八咫鏡オリジナルも作ってたんだろ?
もちろん、製作技術はBC200年からの本州銅鏡が上だが?
本州銅鐸は、古墳、埋葬とは、無関係なんだよね?
考古学課題なんだけど、このギャップを、どうすんだ?
記紀が無ければ、どうにかなるのか? 考古学者は皆、卑弥呼はアマテラスだ。
とか、わけわかんないこと言って死んでいけば良いのか?
卑弥呼の墓は平原で、一大卒は246年に畿内王朝が送った大宰府だろ?
歴史の事実として、倭人伝論争や、記紀とは無関係に、
この時、大和朝廷が成立してんだよ。 卑弥呼が一大率を受け入れた246年に
多分、武内の宿祢が、八咫鏡を受け取った。
熊襲隼人や、東北の平定は当分無理でw
日本列島の大倭王になった訳ではないが、
ヤマト朝廷の成立とは言える。後宮性治なんだけどw
三国志的な、日本の軍事統一、天下布武は信長までない。
壹與は、奈良の宮でどっかの豪族の婿を得て、
筑紫の君の租となったと思いたい。 実際、九州物部だけどなw >>308
捏造だ捏造だと自分に言い聞かせて、「阿波」に痛めつけられた心の傷を舐めている
物部東遷・大物主・日本書紀バカが、まったく根拠の無い夢物語をほざいております。 @阿波 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>309
物部東遷の意味もわからないし、超絶後付け設定の天物部とか認めないし。物部の祖はあくまでもウマシマジである。 >>311
宇摩志麻遅命も「倭人(阿波勢力)」の一人だから安心しろ。 @阿波 大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は、末盧国(福津市周辺 万津浦)→ 豊前経由 → 四国(阿波)へ。
大陸への復路は、四国(阿波) → 豊前・筑前・肥前(松浦)→ 大陸への出航地(平戸市周辺)。
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(巨済島)で、
一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。@阿波 畿内で庄内式土器が出るのは、物部の土地がほとんどらしいね 卑弥呼王権は高度な技術や窯が必要ない
庄内式や布留式の作り方を
関東新潟や九州北部にまで広めているように思う
九州北部では3世紀から地元の粘土で庄内式を作ってる
そして3世紀中ごろには
各地は在地の胎土で庄内式や布留式が作られる
結果的に簡単に作れて軽い土器は各地の交易を活発化させただろう
これって今世界がやってるのと同じ
経済的に繋がって戦えない状況にする
卑弥呼は民衆に対して献身的だったんじゃないか
私欲が見られない
大型建物Dは40年以上経過して雨漏りしてたと思うぞ
王は支配するものではなく奉仕するものだと心得ていたんじゃないか
伊都国というか三雲で赤ん坊を集めて共同で世話をしていたら
子供は利他的に育つ可能性がある
0歳児同士でできないことのまどろっこしさが共感になり他人を想う様になる
そして3歳までに形成された性格はずっと変わらない
自分に0歳の記憶があるの書いたよね
5月に産まれてすぐ保育園に入って0歳児は自分ともう一人いて
保母さんは2人だった
最終的に6人の0歳児と3人の保母さんになる
できない0歳児たちをみてきた自分は利他的に育つ
私欲があまりないのはとても苦労するが信頼はされる 多分だけど卑弥呼は軍隊を持たず徳によって治めるという
力なのない天皇を生み出した
それは紀元前2~1世紀の戦乱ゆえ
ただ結果的に戦国時代までそこそこ戦乱があまりない
平和な日本をもたらしたと考えてる
卑弥呼はかなりすごい
このことを多くの日本人は知らない 卑弥呼に変な幻想抱いている人が非常に多いけど所詮、女王は政局不安定時の臨時。問題の先送りにすぎない。トヨちゃん13才がそれを証明している。 10文字以下のレスはほぼキナイコシだと思って良いだろう 九州説はウソの奴はキナイコシじゃないで
スレ立ての途中で書き込むからキナイコシが怒ってた >>321
キナイコシに騙されて精神を患った被害者だよw キナイコシという概念自体が心を病んだ九州説信者の妄想が生んだ虚像 キナイコシの騙る概念自体が心を病んだ信者の妄想が生んだ虚像 >>327って、いつもウソの発掘情報とか偽データ流してる人だろ
九州説マジ異常だ 「倭人(阿波勢力)」は大洪水時代に灌漑稲作ができなくなると、
イネに替わりアワ・キビ・ヒエなどの雑穀栽培法を開発し、生き延びる糧とした。 @阿波 『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも、日本で粟国のみである。 @阿波 「古事記」にあるオオゲツヒメの虐殺は、阿波が侵略された史実を表す。 @阿波 オオゲツヒメは東南アジアが起源のイモ類(根栽農耕文化)を神話化したもので
古事記が書かれた時代に日本でまだ稲作が普及してないのは阿波だけだったから
阿波に割り当てたんだろうな 「魏志倭人伝」には、「水行」と「渡海」の区別を行程記述にちゃんと記述している。
帯方郡→狗邪韓国は水行。
対馬海峡は歩いて行けないから、「水行」ではなく「渡海」ときちんと区別している。 @阿波 >>333
「阿波」は、米の二期作が出来る所。
長江流域でアワとかヒエとか米が原産する環境があるなら、「阿波」でも原産する環境がある。
日本のアワとかヒエとか米は、「阿波」が原産地だと言って誰が否定できるというのか。
なぜなら「阿波」は、米の二期作が出来る温暖多雨地域なのである。 @阿波 だから、日本のイネは、日本固有種であり、
日本の稲作は、「阿波」から全国へ広まっていった。 @阿波 >>336
豊予海峡(豊後水道)の狭いところは、わずか14q。 その間には、高島が浮かび、さらに短くなる。
陳寿や魏使は、豊予海峡のあの短い距離を「水行」と認識したのだろう。 @阿波 年間を通じて温暖で雨量の多い地域が根栽農耕文化
16世紀以後西欧人が南太平洋の島々と接触したときには新石器時代で
イモ類を中心とした栽培植物によって生活していた >>336
豊予海峡(豊後水道)の狭いところは、わずか14q。
実際は弥生海退でもっと近かったであろう。 @阿波 「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)
投馬国(着岸地 土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か?
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>343
>壱岐と馬渡島間は14kmくらいしかないが渡海
そもそも、壱岐から馬渡島へは行けないから論外。 @阿波 原の辻貿易時代は糸島の弥生土器が壱岐に多量に搬入され
糸島には半島からの遺物が運ばれているので
壱岐から東松浦半島に渡れないというのは阿波人の感想 >>346
>糸島の弥生土器が壱岐に多量に搬入され
糸島人の感想。 @阿波 紀淡海峡はもっとも広いところが4kmくらいなので
豊予海峡のもっとも広い9km(高島-佐田岬)が水行で、
紀淡海峡が渡海というのは考え方としておかしい >>345
>大宜津比売の逸話
こんな逸話が語られるのは、全国で唯一「阿波」だけ。
如何に「阿波」がすごさが分かる。 @阿波 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>349
おまえの話だと、よそ者を餌食にするのが阿波土人だろ >>348
>紀淡海峡はもっとも広いところが4km
阿淡海峡はもっと近いよ。 わははははは
つまり、阿淡海峡も紀淡海峡も論外。
「阿波」から渡海千余里は、紀伊水道を渡ること。 @阿波 >>352
>よそ者を餌食にする
灌漑稲作に代わる雑穀栽培法や古墳の築造技術(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、
関東の土民も、朝鮮半島の土民も、九州の土民も、畿内の土民も、出雲山陰の土民も、北陸の土民も、
「倭人(阿波勢力)」の超先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「倭人(阿波勢力)」を王と仰いだことだろう。 @阿波 大宜都比売は侵略者が付けた名称。殺されたのは先住民。
死から生きる糧が生まれるのは、侵略者側の思想を反映したものだろう。 >>355
こんな大宜津比売の逸話などが語られるのは、全国で唯一「阿波」だけ。
如何に「阿波」がすごさが分かる。
こんな逸話の無いトンデモどものねたみ節。 わははははは @阿波 四国の西側はもっとも狭いところを選び水行とし、
東側はもっとも広いところを選び渡海というのはご都合主義 >>354
阿波の墓は積石為封(高句麗伝)
倭人の墓は封土作冢 >>359
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」は、女王国までの工程記載じゃないからな。 わははははは @阿波 近畿が倭人の卜骨の風習がある側
四国東部は卜骨の風習が無い側
近畿の東の東海関東も卜骨の風習がある側 卑弥呼の墓は平原
ピアスが出てるし、銅鏡40面出てる
日本で最も大きい内向花文鏡に加え、銅鏡大きさランキングトップ5が平原から出てる >>367
>卑弥呼の墓は平原
それもう、カビだらけだぞ。 いつまでお墓に頼るんだ? わははははは @阿波 平原は卑弥呼の母親のアマテラスの墓だろうね、そして卑弥呼は娘のイチキシマヒメ。イチキシマヒメが葬られた場所が卑弥呼の墓。 >>370
またまたお墓。 レベル低く〜ww @阿波 時々アマテルとアマテラスは違うという説を見かけるが、平安時代にはアマテルアホンカミと言っていた。
誰がそんな与太話をし始めたのか。 数ある構成国(大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群)よりなる「邪馬臺国」の首都が、
女王国(鮎喰川下流域集落群)。 @阿波 呼子や唐津が「末盧国」なら、中国・朝鮮半島の宝物を収蔵する「宗像大社」や、
朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容の「今川遺跡」などがあるはずだが
そんなものとは無縁の地。 @阿波 >>379
阿波説の都合で末盧国の場所を決めないで欲しい >>380
阿波説の都合ではなく、「魏志倭人伝」の指示によるものだ。 @阿波 >>381
いくら宗像を末盧国にしても阿波説は破綻しているけどな 「倭人在帶方東南大海之中」
四国は、四周大海のど真ん中。
北に瀬戸内海・西に豊後水道・南に黒潮太平洋・東に紀伊水道
まさに、「帶方東南大海之中」そのまんまの四国だね。わははははは @阿波 >>385
だから、負け犬の遠吠えは聞き飽きた と何度言えばw
逃げずに、向かってこい。 当たって砕け散れ! わははははは @阿波 卑弥呼の前がアマテラスって、
倭国大乱が、高天原?
50年程度で女王が被らないだろ? >>386
阿波は電波系なのでとっくに破綻している、簡単に言えば阿波はキチガイの思考 >>388
だから、遠吠えせずに、向かってこいよ。
当たって砕け散ってみろ! わははははは @阿波 >>391
その学者の年代測定が正しいという根拠は? C14で箸墓の布留0式土器は二つ出る 240~260年 または2903~40年
布留0式土器は庄内3式との並行期があって
庄内式の専属性や
次の布留1式まで何十年も土器が途切れることはないのと
記紀で纏向は4世紀半ばに放棄されることから
240~260年と考える方が自然である お墓しかない、畿内と九州。
いつまでたっても、お墓しか語るものがない遺跡乞食。 @阿波 外からいくら土器が出ようがそれより新しいとしか言えんだろ?いつまで意味のないことやってんだよ >>390
お前が捏造糾弾スレに当たって砕け散れ。
聞き飽きた遠吠えって自分の声だろ。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. つまり九州女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がありましたという事よ >>402
つまり九州には、女王国に見合う遺跡が無いってことよ。 @阿波 平原は、銅鏡の数で一番
銅鏡の大きさトップ5も平原が占める
ここが倭国のトップであったことは確実だ
問題は、いつイト倭国が纏向に遷都したのかだ
180年にはすでに纏向に遷都していたのか?
それはないだろう
早すぎる
イト倭国の纏向への遷都は早くても3世紀末、普通に考えれば4世紀半ばだ >>405
>イト倭国の纏向への遷都
まだこんなアホがいるとはww @阿波 ニギハヤヒ(物部勢)が東に移動したのが2世紀末くらいじゃないか
こいつらが河内に庄内式土器をもたらしたんだろう >>408
その勢力が纏向を作ったんだろなって思ってる >>405
このように
言うことに根拠を全く言わないのが
九州説 >>411
寺沢が徳島で講演したとき、徳島の郷土史家にタジタジになっていたぞ。 わははははは @阿波 逆立ちしても思いつかない発想を前提に質疑されたら
素で困るに決まってる >>413
>逆立ちしても思いつかない発想
お前らトンデモの妄想のようなことは、徳島の郷土史家は言わんよ。
「阿波」には、畿内や九州にはない、特異な遺跡がゴロゴロしているからな。 @阿波 >>415
九州に女王国に見合う遺跡は無い と何度言えばw @阿波 >>415
九州に女王国に見合う遺跡は無い と何度言えばw @阿波 >>419
Talkは、IDが付くのでお前らみたいなアホがいないんだよ。 わははははは @阿波 >>421
九州は「阿波」と戦う場に出てこないんだから、どうしようもないだろ? わははははは @阿波
>>422
博多まで船で来れない阿波はすでに終わっている >>423
博多は、行きも帰りも通らない地点だからな。 わははははは @阿波 >>424
関門海峡を通れないヘタレが魏に朝貢すると言うギャグ 阿波さんよ、ニュース速報+に諸説あり邪馬台国のスレッド立ってるぞ
なんか知識ある人が前スレから来てるぞ >>425
関門海峡を通れないヘタレが、
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄器素材や中国鏡や中国朱などを交易していたんだとさ。
こんなこと出来るのは倭国(阿波)の国々以外に無いだろ? わははははは @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 畿内説ありきでシナリオできてるな
決めてしまった方が編年が定まって研究はしやすいだろう
ただ彼らは証明せず200年ごろから古墳時代が始まったことにしている
確かに畿内説に対立軸がいない
九州北部最強は伊都国と奴国
30国の王になるのにふさわしいが
ただ伊都国は伊都国で奴国は奴国
国の名称は邪馬台国ではない 九州北部で王の中の王といえるのは57漢委奴国王と107スイショウ
この王の中の王は伊都国か奴国にいた
その王の一族の子孫が共立の王として認められる それは納得できる
伊都国や奴国の王の一族以外が共立の王に選ばれたとしたら納得できない
客観的に見ても最強である必要がある
卑弥呼が伊都国の平原の女王を継いだ女王なら賛同する人は多いだろう
ただ共立の銅鏡の飾り耳が削られたり納得できていない人もいた ちょっと遺跡わからん
卑弥呼は四道技術指導隊を派遣して軽くて作るのが容易な庄内式の作り方の指導や
ご近所の地域との取引の物々交換を推奨したんじゃないか
崇神の疫病も移住により免疫力がない人がかかってしまったんだろう
ただ卑弥呼は守られた 男弟としか合わない
百襲姫は朝に小箱を開けて小さな白蛇に驚いて大事なところを疲れて死ぬ
これって日課の太陽の登る位置の確認とお祈りのために窓を開けたところに
潜んでいた兵士に弓で射られたんじゃないか
男王には理由が存在すれば言い訳できる 247年の日食 当時の日本で王の中の王としてふさわしいのは伊都国や奴国の王族
ただ伊都国や奴国は邪馬台国ではない
東遷説ってそれなりに成立してね? 王の中の王として認められる資格があると
57漢委奴国王と107スイショウの朝貢と結果が
その子孫を後押ししたんじゃないか
卑弥呼は公孫氏滅亡をきっかけに朝貢するが大成功してしまう
通常の朝貢の返礼品以外に望むものをもらう
また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、
皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。
帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、
我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。
そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。
銅鏡百枚とかは倭人が望んだもの 難升米はかなりドキドキしながら
銅鏡百枚くださいって言ったら認められたと思う 2世後半とされる東遷まで伊都国や奴国の王の一族はその地にいたようにおもう
卑弥呼一行は吉備や播磨で待たされるけど各地との交渉や宮の用意のためだろう
神武東征で寄り道が多いのは各国への説明のため
伊都国王には立場があり各王に対面してその説明をする必要があった >>415
徳島に郷土史家などいない。いるのは地方老人。辺境だけに。 陰(ほと)の語源は火処
太占(卜骨)は、表面には火箸状の熱した金属を押し当てたとみられる点状の灼痕がみられる
「則箸撞陰而薨」とは、倭迹々日百襲姬命が太占を行う姫であったことを伝えているのだろう
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%BB%E3%81%A8 銅鏡なんて、当時も帯方郡の市場で比較点安価で手に入っただろ
それまでも漢鏡なんてそうやって購入してきたりしたんだろうし
クレクレとは言ってないと思うよ 現状において東遷説より有利な説はない
それどころか伊都国や奴国以外の国が邪馬台国として
卑弥呼がいたとするのは弱すぎる
伊都国や奴国以外の九州北部で
30国の王の中の王になる資格や
そのとんでもないであろう遺構は見つからない
九州最強は伊都国と奴国で
吉野ヶ里は環濠集落防衛ラインの中核として
伊都国と奴国で守る存在でしかない 戦略的には
女王は前線にいない
一番安全な場所にいる 九州説が弱すぎる
他の説の証明を求める行為の正当性を主張するのは
自説が弱い表れではないか 九州説は頻繁に湧く伊都国盟主ヤツのせいだと思うよ
視野が狭い >>441
>現状において東遷説より有利な説はない
このように、ひとことも理由を言わないのが九州説
>それどころか伊都国や奴国以外の国が邪馬台国として
>卑弥呼がいたとするのは弱すぎる
理由なき断定
つまり九州説とは、ただの気分 >>441
>現状において東遷説より有利な説はない
このように、ひとことも理由を言わないのが九州説
>それどころか伊都国や奴国以外の国が邪馬台国として
>卑弥呼がいたとするのは弱すぎる
理由なき断定
つまり九州説とは、ただの気分 ニュー速は民族スレになってしまったな
書き込めない… 伊都国と纏向の繋がりは寺澤の説でもあるんじゃないの >>436
そうか難升米のアドリブの可能性あるのか 門脇禎二『邪馬台国と地域王国』
「『魏志倭人伝』といっても岩波文庫だけしか持たず、しかも内容不消化のままの当時の私が、大和説論者にならないわけにはいかなかった。以後、その立場でいくつかの本も書いた」
「大和盆地での倭国と葛城国との並立の検証や、五〜六世紀における有力地域王国としてのヤマト王国への発展などの考察を重ねた。そいした考察と検証をすすめるうちに、大和説でいることにしだいに不安がつのった」
「「畿内」で古代史の研究を続けていると、文献史学・考古学の発達とともに、邪馬台国大和説は多様な論理と議論によって、実にさまざまなかたちで目にも耳にも入ってくる。その中でも、前節に述べたような不安は軽減されるより、私には却って強まり反撥にまで至るようになった」
「「倭人伝」の方位を修正して比定したのは邪馬台国だけでなく(中略)岐阜・滋賀・静岡・愛知各県の各地に比定したために、「倭人伝」の「周旋五千余里」と「高句麗伝」「韓伝」それぞれの領域記事「方二千里」「方四千里」との相対的な広さ感を、まったく無視する結果になったのである。「周旋」は周囲ではなく島々や岬を周り回っての意と解されて来たが、それならば面積としての範囲は五千里よりさらに狭くなる。ここに思い至れば、不安はもう反撥へと変っていった」 >>451
「邪馬台国=大和説に固執するかぎり、内藤論文のこのくだりを容認し従わねばならないが、『魏志』と『魏書』(王充)・『魏略』との関係や、『魏志』と先行の『漢書』、後にできた『後漢書』以下との比較による違和性の指摘など史書研究の発展を学ぶと不安は募った」
「しかもその一方で、内藤論文が多くの人に迎えられた魅力はなんだろうとも考えた。内藤論文が発表された当時は、邪馬台国=九州説では、ヒミコを九州の女酋と解することになり、そのようなものをもって大和朝廷の女王や神功皇后とするのは不当とみる思想的論調(例えば那珂道世説)もあった」
「ところが、この内藤論文については、大和説をとる研究者はまったく指摘しないのだが、やはりいくつかの問題点がある」
「方位を修正して「倭人伝」を読む内藤説を補強するかのように資料として登場したのが、「混一疆理歴代国都之図」(図3)による日本列島南展図である」
「『倭人伝』の倭地の方角観の誤りを支える地理像としての『混一疆理歴代国都之図』については、すでに弘中芳男『古地図と邪馬台国――地理像を考える――』(大和書房、一九八八)の批判と否定がある」 >>452
「九州説に転ずる根拠になって大きな導きをえた文献学の主要な成果は、私の場合は二つある。早くは、水野裕氏の『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣出版、一九八七年)である。(中略)本書は実に多くの学術分野からの考察が加えられた六六四頁にわたる大著のせいもあってか、右に記した点は余り引用されることはなく残念に思っていた」
「いま一つの業績は、平野邦雄氏の近著『邪馬台国の原像』(学生社、二〇〇二年)である。氏は、近年大いに進んだ『魏書』『魏略』『魏志』の文献学的研究の新水準をふまえ(中略)『略』は『前漢書』地理誌の顔師古注の逸文だが、そのAと『志』の両条はまったく一致した倭の地理観を示したものとされた。つまり、『略』『志』とも「倭人伝」にのべる倭国には、東方の倭種の国は含まないことを認識していたとされたのである。まったく明快で原文訂正など不要の論である」 >>453
「だが原出雲国は、当時は大和より北部九州との接点のほうがはるかに強く多様であったし、吉備津とその後背地は、楯築墳丘墓に象徴されるように、大和の「統属」下どころか逆に前期古墳の出現過程では大和に一歩先んじていたと私は習得していたのである」
「要は、大和政権が国家権力の中枢たる地位を占めるに至ったのは、邪馬台国段階ではなく、「朝廷」の確立より以後のことである。それは、記紀においては大臣・大連と大夫による政治形態の形成であり、雄略朝前後の五世紀ごろとみられている」 >>454
「伊都国までの一万五百余里を帯方郡から女王国までの一万二千里から引くと、伊都国から一五〇〇里以内に邪馬台国はある、ということになる。この点、『広志』も、倭国に着いて『東南陸行五百里』で伊都国に至るが、その伊都国の次にすぐ続けて「又南邪馬台国」に至ると記している。いずれも、邪馬台国は、伊都国から一五〇〇里ほど、あるいは後者でも、わざわざ行程を記すほどの遠距離とはみていない」
「以上から、要は、邪馬台国は伊都国から『南』約一五〇〇里で至るところにあった、と解される。このことは、多くの論者が主張してきたことであり、私も賛同する」
「狗奴国を九州の南部で考える説は、学説史的には白鳥庫吉氏のクマソ説を継承するものだが、地域をより限定的にいえば、菊池川流域以南で、宇土、天草を含むあたりの勢力が中心だと私はみる。この地域は、その南方のクマ、後の球磨郡(現八代)となった地域とも連帯して呉と通交していた」 >>455
「つまり、それによって衆をまとめたり指導するのではなく、明らかにヒミコの鬼道は否定的にみられていることである」
「鬼道には諸説あるが(中略)陳寿がそれを旧俗として否定的にみていた結果と解する提言はまことに傾聴すべきだと思う(金関恕「陳寿がみた卑弥呼の鬼道」『大和王権と渡来人(展示図録)』大阪府立弥生文化博物館、二〇〇四年)」
「陳寿もまた(中略)それ以上に彼は、倭の実態を従来より遥かに明らかにしたいという自負心から、ヒミコの鬼道は中国の礼と比べはるかに未熟で、女王国の宗教的統制にも役立っていないことを認めざるをえなかった」 >>456
「そこで留意すべきは対馬・一支・奴・不弥国の副官のヒナモリである。この点を的確に留意した平野邦雄氏は、ヒナモリを女王国の北縁に配置したものとし、南は交戦中なのでそのような官をおける状態ではなかったとされ、狗奴国との境界はほぼ菊池川流域だろうと示唆された」
「このことからすれば『大いに塚を作る。経百余歩、殉葬する者、奴婢百余人』という記事は大和の初期前方後円墳から出てくるイメージではない。むしろ吉野ケ里遺跡V期(一〜三世紀)の、墳丘墓と列埋葬墓群とのイメージがはるかに近い」
「陳寿が「倭人伝」に記した邪馬台国・女王国は、以上に記してきたように九州説として理解せざるをえない、と私は思う」 >>457
「“邪馬台国を大和・九州いずれの説にみるにせよ以後の歴史は、大和王権を中心に展開した”式の論法は欺瞞であり到底ついていけない」
「たとえば「高句麗好太王碑」や『三国史記』には、韓へ攻め込んだ「倭」や「倭人」がいくどとなく出てくる。その「倭」「倭軍」の実態を、邪馬台国=大和(近畿)説にたつ研究者は、当然のごとく“大和朝廷とか大和王権の軍隊”と解す。果たしてそうか。大和朝廷にせよ大和王権が独自の軍隊を組織したのは七世紀後半の百済遠征軍であり、それに編成されたのも有力氏の率いる軍や国造軍というのが実態であった。しかもこの場合、日韓間の“「魏志倭人伝」ルート”と新たに形成された“沖の島ルート”との意味は大いに違うが、これに関する所論は、とくに文献史家には少ない」 >>458
「1、「倭人伝」にみえる玄界灘沿岸四国のうち伊都国の王とその後の様態と、「倭人伝」にみえない岡地域首長の様態が、かなりのリアリティをもって記される。2、そのリアリティとは、両地域首長が海人集団の首長として、制海・通交海圏(中略)等を、ほぼ同時代に通じる復元地形に即して考察できる。3、海人集団の首長としての服属儀礼を象徴する鏡・剣・玉をもってする餝船の様子を記す。(中略)沖の島祭祀遺跡の形成――韓への沖の島ルートの開設と併せて考えると、瀬戸内の沿岸首長とヤマト王権との結合は、古墳時代前〜中期になって俄かに政治性を持ち、活発な動きをみせるものと判断できる」
「後の岡県主の祖とされた熊鰐(わに)は(中略)要は、下関海峡を中心に東西の海域を抑えていたわけである。ちなみに西方の五十迹手が同じく迎えに出たのが「引嶋(ひこしま)」(現、彦島)であったのは、相互の通行・制海圏の境界であったことを示唆している」
「天皇の船の「狭杪者(かじとり)」に水門神(みなとかみ)の大倉主・菟夫羅媛への祭りを求めたのは、彼が常にこの水門神を祀っていたことを示す。(中略)この湾は満潮時には水路で遠賀川につながっていたのであり、ここを通って皇后は岡津で天皇一行と合流した」
「洞海湾周辺の小村落はもとより、何より遠賀川流域の農耕村落も支配していた」
「熊鰐の瀬戸内・大和連合への参向は、女王国に属した縁海諸国に大きな影響を与えた。この場合、熊鰐の参向は、前もって五十迹手にも伝えられていたであろう。両者は協同の行動を取ったのであるから」
「邪馬台国の崩壊は内陸諸国からも生じた。たとえば、筑紫平野に通じる甘木は、韓文化受容の拠点となるが、甘木が北の海縁に通じる先に不弥国はあった。不弥国はしだいに奴国に吸収されつつあった。北九州の、「倭人伝」段階と違うのは、末盧・伊都・奴の三国が統合され伊覩県となり、その東方の遠賀川下流勢力が岡県とされたことであった」
(これ以降、未執筆で逝去。前方後円墳の広がりと民族形成の進展を書く予定だった) 追加
>>459
「ここで念のため、狗奴国を東海地方とみる説にふれておきたい。(中略)学問的手続きをあまりにも欠いている。邪馬台国=大和(近畿)説を前提にしてのみ着想できる典型的な亜流学説」
「狗奴国=東海説の主張者は全然ふれないが、「狗古智」の地名だけではなく、「狗古智卑狗(ヒコ)」という官名にも注意して欲しい。つまり、対馬国、壱岐国、狗奴国の大官の称にはヒコが付いている。ヒコという官名は、中国では『国の良臣』(『魏志』)、つまり立派な官をいう」
「しかも、「周旋五千余里ばかり」の中に、女王国と対立した狗奴国も入っている。これら東夷の諸国の範囲にかかわる「東夷伝」の記事を、大和(近畿)説はまったく無視する」
「狗奴国を東海地域に宛てる説は(中略)東海地域が「温暖」なことや、呉と交通した可能性はもとより、女王国と「素より不和」であったことなど問題にもされない。東海説は、邪馬台国=大和(近畿)説が正しいことを前提としてのみ成り立つ所論にすぎない」
「文献的には、静岡県の西の方で「久努国造(くぬのくにみやつこ)」というのが出てくることなどで、ここが狗奴国だろうとおっしゃるんです。しかし、国名を地名で語呂合わせしていくのは明治以降の論争でも、もう相当行き詰っている」 >>460
(高槻市での講演)
「近ごろは、私は最初から九州論者と思われているらしく(中略)冗談じゃない。きょうも証拠品として持ってきていますが、私が最初に書いた本では、ご安心ください、立派な大和説です」
「それなのに、その後どうして近畿・大和説でいかなくなったか。どうしても書けなくなった理由の一つが地域国家論を考え始めたこと。もう一つは、日本の国家形成は、大和が最初から飛び抜けた中心で、周りがそれに寄り添っていく宿命を負っていたようなものではない。(中略)こういう発想から考えていくと、邪馬台国近畿・大和説は非常に心細い、むしろ間違いじゃないか、このように思いつつあるわけです」
「「倭人伝」だけを読んでいてはダメで、少なくとも「東夷伝」全体を読んでほしいと言っているのです」
「それは太宰府天満宮が持っている『翰苑』ですが、この中に引用された『広志』には伊都国のすぐ南に邪馬台国はある、と書いてあるんですよ。(中略)これは岩波文庫本の後ろに引用されてあります。ですから、『魏志』倭人伝で、後にごちゃごちゃになった旅程の記事をなぜ真に受けとめる必要があろうか、このように思います」
「『古事記』『日本書記』でも、九州にはなんとかのミミというのがかなりある。(中略)もともとミミという官ないし地域首長個人に対する敬称が最も多いのは九州です。ですから、こちらに来るとミミの意味もだんだん変わって、たとえば、有名な聖徳太子なんか豊聡耳命(トヨミミノミコト)というでしょう。大和の三山の耳成山(ミミナシヤマ)もそうですね」
「茨木市総持寺遺跡の「調」という字を書いた須恵器をどうみるか。発表当時の新聞記事も、そこへ取材を受けて登場あるいは投稿された先生方も全部、律令制の税だとお書きになっていたのでびっくりしたわけです。少しは文献史学のことも考えて欲しい。(中略)結論的に言うと、地域の首長がヤマト朝廷と人間的な隷属関係を結ぶときに出すものが「調」なんですよ。(中略)そう考えると、邪馬台国段階ではなくて、六世紀に入ってようやくこの地域の首長もヤマト朝廷の支配下に入り始めたことを示す」 >>462
「三輪山信仰は、縄文文化の段階から確かめられている三輪山への自然信仰、つづく磐座信仰、ご神体を蛇とする箸墓伝説などから発して、大物主神がヤマト王国の国家的祭祀組織の中心となり、さらに、天照大神が皇祖神とされる以前の皇祖神「高天の神王高御魂の命」の静まる国家的神山であり神なびとなっていった」
「神賀詞ではすでに「大倭の国」の表現を用いているのに、とくに留意したい。『日本書紀』でも、「倭国」と「大倭国」は実は使い分けられている。その違いを祭祀面でいえば、大和盆地東部の元来の倭国の主神は倭大国魂神であった。しかし、のちの律令制下のほぼ「畿内」の範囲をすでに支配領域にした「大倭国」(これを「ヤマト王国」と表現する)は、祭祀体制の主神を三輪山の大物主にした。つまり、記紀が最初の「倭国」の王が祀ったとする天照大神ではなく、大物主を主とし倭大国魂神を併祭する組織を整えた」
「飛鳥の渡来人といえば、韓からの渡来人とその文化的影響が主に考えられてきた。私もその一人であった。しかし、飛鳥寺創建時に百済から来た指導工人からして幾人ものペルシャ人が含まれていた。この場合、かれらのゾロアスター教はなぜ受容されなかったのか。これには、その宗教思想よりも慣習(中略)による違和感によるところが大きかった、と思われる」
「私は大変不勉強でしたが(中略)作家の松本清張さんがお亡くなりになる前に、飛鳥文化にはゾロアスター教が入っている、ペルシャ人も来ていると、しきりにおっしゃった。(中略)さっき挙げたタラミダ(太良未太)はペルシア語だったのです。『日本書紀』には百済から来たと書いてあるし、私も百済人だとばかり思っていたのです」
「タラミダは人名ではなく、寺造りの名手としての『寺工』という意味になるのだそうです」
「要するに私共は、飛鳥文化は昔に言われたように日本独特のものではなく、むしろ主に朝鮮半島からの渡来文化の影響による、と言ってきた。そこで止まってしまっていた。知識の乏しさでした。伊藤先生の研究をもっと早く見ておれば、そして、松本清張さんがあれだけ言われたのに、見られていた資料から受け止めておれば……と反省しています」 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む 伊邪那岐もスサノオもニニギも天皇もD1a2遺伝子だろな いくら誤魔化しの話をしても無駄。
中華尺を使い北枕の神仙思想の連中が畿内を中心に現れたのは事実。
卑弥呼の宮が纏向、墓が箸墓、卑弥呼は中華鬼道の巫女。
あんたらの話は幻想。 >>467
>伊邪那岐もスサノオもニニギも天皇もD1a2遺伝子だろな
遺伝子が何かは知らんが、
「天皇家」も「賀茂氏」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」 @阿波 >>469
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 Y染色体で何でも判断出来ないだろう。戦国時代あたりの家督という考え方に従えば必ずしも男系の子孫とは限らんと思うし、まさかの托卵もありえなくはない。 >>469
箸墓古墳の年代推定は、ほかの古墳と同様に土器の編年によります。
当初は、前方部から出土した壺形の土師器が布留式土器であり、4世紀から5世紀のものだった為に、古墳時代前期~中期の古墳であるとされていました。
ところが1970年頃に、後円部から吉備の国に見られるような特殊器台や特殊壺も見つかったのです。
これは吉備における弥生時代末期の典型土器ですので、箸墓古墳もまた弥生時代末期、つまり3世紀の造成であろう、という推定がなされた訳です
一般に、時代の異なる土器が出土した場合、より新しい土器の年代に合わせて編年が行われます。当たり前ですよね?
古い土器の時代に、未来の新しい土器を埋める事は出来ませんから。
ここで3世紀とした理由は、後円部が3世紀に造成され、後円部は4世紀~5世紀頃に造成された、という曲解でした。これはいけませんね?
奈良盆地以外でこんな時代推定をしようものなら、考古学の権威たちは、口から泡を吹かんばかりに激怒するでしょう。
「有り得ない」と。箸墓古墳だからこそ許されているのです。
考古学会が近畿中心主義なのは有名な話ですが、さらに何らかの圧力が、時代推定を邪馬台国時代へと曲解させたようですね?
なお、周辺の古墳からも同じような事例がありますが、こちらは正しい時代推定が行われています。
三角縁神獣鏡の大量出土で有名な黒塚古墳や椿井大塚山古墳などで、しっかり4世紀~5世紀とされています。 >>469
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 >>469
ほうほう、葬儀の際に日本語では意味不明な「真言」を梵語で唱える人たちはインド人なのですね。わかります。あなたも漢字を常用しているので漢民族なのですよね。 つまり卑弥呼時代の畿内は女王国の東の倭種の国でしたという事よ 門脇禎二の論は全体的に極めて穏当で納得的な九州説だ
京大を出て関西の大学で研究をしていたから邪馬台国に関しては畿内説の立場を取らざるを得なかったのだろうが、最後に我慢できずに本音の九州説をぶちまけた
同じことをやりたくてもしがらみで出来ない関西の歴史学者は他にもいるのではないか >>477
>つまり卑弥呼時代の畿内は女王国の東の倭種の国でしたという事よ
つまり、その女王国は「阿波」の鮎喰川下流域集落群でしたという事よ。 @阿波 >>479
阿波の南に強大な敵国がいて魏に援軍求めたのか? >>469
こういう嘘情報を流すようになった九州説は終わりだな >>480
>阿波の南に強大な敵国
「阿波」南部の長国「狗奴国」だ。 @阿波 超大国「狗奴国」とは、こういうものだ。 @阿波
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 >>482
それを裏付ける出土品(鉄の鏃や戦闘に備えた村の遺跡等)はある?
地名として狗奴国に当たる地名はある? 狗奴(くな)国が、長(なが)国になった可能性。 @阿波 阿波には中国(特に魏)との交流を示す出土品はある? 畿内説は霊感商法詐欺の壺だ
箸墓古墳はモモソヒメの墓
纒向建物は古墳建造時の葬祭会館
纒向遺跡は古墳建造時のキャンプ場
畿内説の根拠は全て作り話 >>485
>それを裏付ける出土品(鉄の鏃や戦闘に備えた村の遺跡等)はある?
初心者かな? 「阿波」の勉強不足のようだな。
「加茂宮ノ前遺跡」や「芝遺跡」 @阿波 >>487
>阿波には中国(特に魏)との交流を示す出土品はある?
もちろん有るが、前漢時代から鉄器を作っているよ。 @阿波 >>487
>阿波には中国(特に魏)との交流を示す出土品はある?
もちろん有るが、前漢時代から鉄器を作っているよ。
当然、中国と交流していたんだろう。 @阿波 >>492
>天皇家の出自を忌部氏と詐称
そんなことは一言も言っていない。
天皇家の出自は倭国(阿波)で、「倭人(阿波勢力)」だ。 @阿波 >>492
>天皇家の出自を忌部氏と詐称
そんなことは一言も言っていない。
天皇家の出自は、太古より践祚大嘗祭で「麁服」調進の大役を務めている倭国(阿波)。 @阿波 忌部は天皇のパシリをしていただけ、天皇との血縁は無い >>500
なんの縁も無いからといって、僻むなよ。 わははははは @阿波 どんな切り口からでも、「阿波」に結び付く。 当然のことだが。 @阿波 経歴詐称の阿波の信用は失墜、てか最初から電波系の阿波に信用は無い >>503
すぐに詐欺にかかりやすそうだな。 わははははは @阿波 天皇家の故地が北部阿波だった可能性は有り、ただ、一方で阿波忌部は、時代とともに忘れられ、
扱いが軽くなってしまっているのも事実。
粟凡直一族が正当な姓で扱ってくれと何度も請願したという記録もあり〼 >>508
そう思うなら新しいデータを探してくればいい >>503
移動可能な鉄器の多寡より、
鍛冶炉遺構の多寡を示すべき。
「阿波」の文化水準の高さが一目瞭然。 わははははは @阿波 >>509
移動可能な鉄器の多寡より、
鍛冶炉遺構の多寡を示すべき。
「阿波」の文化水準の高さが一目瞭然。わははははは @阿波 >>507
藤原(中臣)もな。 つまらんことしか言えん能なし板野。 @阿波 阿波で出土したものも他の場所から移動してきたもの
ということになるのだが 淡路島に船でやって来た集団が始まりなのだろう。
近くにあった阿波は関係はしてると思うが、列島の先住民に良いように関係はしてないと思うが >>513
だから、>>511をよく読め!
鍛冶炉遺構は移動できんぞ、アンポンタン。 @阿波 阿波忌部の三木がD1a2遺伝子でなければパチモン決定 >>515
>淡路島に船でやって来た集団
あのなぁ、淡路島に行く前に、「阿波」だろうがよ。
淡路島の鍛冶遺構にそんなに惹かれるのか? わははははは @阿波 >>521
すぐに詐欺にかかりやすそうだな。 わははははは @阿波 >>519
>あのなぁ、最初に作ったのが淡路島。
なにを最初に作ったんだ? @阿波 >>521
いつのデータの図よ?
九州説の人は古いデータがすかやな。 >>522
まともな反論は無しか。
阿波説も大したこと無かったな >>527
「阿波」に一目置いてた訳だな。 わははははは @阿波 >>528
そういう理由のない罵りや妙な陰謀論ばかりになってしまった九州説が哀れでならない >>534
淡路島じゃないよ。
オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できない。 @阿波 オノコロ島が伊豫の二名島の中にあるって言うのは、物語の流れ上不自然。
何でもかんでも阿波発祥にしたいと言うのは欲張りすぎ。
阿波説信者はがめつ過ぎて話にならん。 >>531
だって具体的なデータ無しで主張して
具体的なデータ出して反論したら
詐欺に騙されそうだな
と言って逃げるだけなんだぜ?
そんなん学問とは言えないだろ >>539
九州説は具体的データを出さない
そんなん学問とは言えない 畿内説のやってることって
纏向の周辺に巨大な勢力があったってことを立証してるだけだからなあ
魏志倭人伝の邪馬台国に繋がるものが一つもないことはやってる方だって分かってるだろうに
学問じゃなくて宗教だってのはその通りだと思う
ドグマありきで全てを捻じ曲げてそこに繋げるだけだからね彼らのやってることって
これが日本の考古学会だってんだから泣けてくるよ
ゴッドハンドから何一つ進んでない 結論ありきで自説をゴリ押しして勝手に勝ち逃げ宣言してるだけだもんな
「もはや畿内説で決まっていてあとはより強固な証拠を見つけるだけ」とか本気で言ってる学者がいて絶句したわ 文献が頼りの九州説が距離も戸数も誇張と称して
親魏倭王の国が列島の最大勢力である必要なしと居直っても
それで学者らを説得はできないからね
自ら九州に近づいてくる学者はいないわけではないから
そこと連携していけば良いけど >>537
>オノコロ島が伊豫の二名島の中にあるって言うのは、物語の流れ上不自然。
お前の感想などいくら聞いてもなんにもならんのだよ、能なし板野よ。
「阿波」の圧倒的状況証拠に文句言え。 わははははは @阿波 >>546
カビの生えた無効データしか出せない九州説はオワコン 鉄の場合インゴットをそれごと国内のどこかへ持ち運ぶよりは
入国してすぐの場所で用途ごとに加工して流通させるほうが都合はいい
三韓の中でそれが出来れば本当は一番いいし
実際それは試みたんだろうけど需要量にはとても見合わなかっただろう なんぼ時代を合わせようともそれが魏志倭人伝に書かれてるものかどうかは別の話だとわからないもんかな 魏志倭人伝に記載されている市の監視役「大倭」がヤマトの原型だよ 弥生の各地域の統合は周濠が消えることで達成された
銅剣や鉄剣ではないんだよ。少なくとも近畿ではね
大王の徳治というのがどういうものかが分かる
ニュー速には手塚治虫の書いた手塚の思う専制君主の詔勅が貼られているけど まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>549
最新のデータ出しながら書いてくれれば議論になるんだが? >>552
>なんぼ時代を合わせようともそれが魏志倭人伝に書かれてるものかどうかは別の話だとわからないもんかな
わからないと言いつつ別の物と決めつけて
説得力が皆無だったので
九州説は消滅していった >>555
最新のデータでも大して変わりなかったぞ
それで寺澤も畿内に鉄が無かったと認めたわけで
お前は希望的観測を叫ぶだけの虫ケラだ >>518
阿波以外にも立ち寄ってはいるだろう。場所は知らんけど >>558
最新のデータでも変わりがないなら九州でF.A.だなw >>556
> 九州説は消滅していった
纏向説が消滅の危機 >>557
>砂州は溜まった所、積もった所ではない
お前、板野だろ? 揚げ足取りがそっくりだ。 わははははは @阿波 阿波にも大きな国なり文化圏があって
それが畿内に進出して大和朝廷になったか、
或いは大和朝廷に大きな影響を与えた
というのはアリだと思う
渡来系のDNAの分布はそれを示唆してると思う。
ただそれと邪馬台国はまた別の話だとも思うわ。
阿波の文化は邪馬台国のような猛々しいものじゃなくてもっと雅なものだろう >>478
門脇禎二は日本の中の古代韓国吉野ヶ里説のようだが、
北墳丘墓は紀元前1世紀ころ
県知事がワクワクしていた謎のエリアの細すぎ石棺は残念ながら空だった 阿波と言っても今の板野郡や徳島市をイメージするのは誤り
三好市や吉野川市あたりが古代的な阿波の姿 >>563
>阿波にも
「にも」って、まじ、「阿波」以外にあるか? @阿波 >>503
つまり鉄関連遺跡が多いところには倭人の風習卜骨が無い >>563
>邪馬台国のような猛々しいもの
妄想しすぎ。 @阿波 >>569
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。
諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある。
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。
海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、
シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、
肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。
これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、
もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。
そのジサイに至らぬところがあったというわけである。 >>568
そんな相関は見られない
単なるお前の妄想よ >>570
相手を論破したいわけじゃないからね
むしろ『なるほど、確かにそれなら畿内(又は阿波)だ』
みたいな知的好奇心が満たされるような反論やデータが読みたい 伊都都比古「邪馬台国ですか?南に、ありますよ。ヘヘッ。
それがどうかしたんですか。それより女王国の話をしましょう」 畿内説は低能学者ホイホイというトラップ(ビッグモーター)
桜井市教育委員は情弱を言いくるめる役(損保ジャパン) >>579
罵るだけで反論ひとつ出来ない九州説の低能ぶりが証明されているのだが >>572
弥生中期には本州の関東まで卜骨は拡がっているが
首狩り頭顔面ど変形の風習の九州には全く卜骨は無い
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg >>581
そういうニセ情報流すしか打つ手が無くなった九州説って、みじめだね >>585
そういう根拠のない中傷しか打つ手が無くなった九州説って、みじめだね >>586
絹も鉄の鏃も鏡も全てが九州説の証拠になっている。
根拠が無いのは畿内説 畿内説の大御所である寺澤薫に見放された畿内説自生論、頼りは伊都国ですか? 寺澤が畿内説の生き残りをかけた卑弥呼東遷説、つまり2世紀の奈良に邪馬台国の痕跡は全く無かったと言う事です。 >>440
位至三公鏡が朝鮮半島で1面
蝙蝠鈕座内向花文鏡は6面
三角縁神獣鏡はゼロ
よって、安価で買えたという証拠がない >>587
倭人の風習卜骨が九州には無い弥生中期に多かった絹は、終末期-古墳初には出なくなる
鉄鏃は3世紀中ごろのホケノ山で出ている
九州では木弓短下長上というのは出ていない
銅鏡は倭人特有の持ち物ではない >>589
>絹も鉄の鏃も鏡も全てが九州説の証拠になっている
どんな根拠? >>593
量の問題だよ
2000年後に日本はどこにあったかを考えたら
日本の硬貨が最も多く出土した地域が日本だと推定される
アメリカやヨーロッパでも日本の硬貨が発掘さることはあるだろうが
それを以てアメリカやヨーロッパに日本があったと解釈するのは馬鹿な話 >>594
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 >>594
825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>593
ホケノ山は4世紀。
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井 好
ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。
その証拠は
1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。
2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。
3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。
4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。
5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。
6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。 >>596
箸墓の馬具の件もそうだったな
馬具専門の研究者からするとあり得ないほど古く編年してたよなw
畿内説基準だと、日本は中国様より先に馬を導入して輪鎧を開発してたらしいw >>594
庄内期の鏡の出土数は圧倒的に福岡が多い
西暦320年頃から畿内に発見の中心地が移るから
多分鏡に関しては東遷説を強く示唆してるように思う >>600
>馬具専門の研究者からするとあり得ないほど古く編年してたよなw
証拠は? >>602
畿内説派の寺沢薫氏のデータ
ネットでは拾えなかったけど持ってる本だと
福岡30
佐賀10
奈良は3 溝から出た馬具と近くから出た土器
一緒に捨てられたのかも分からない代物
土器も新しいものを捨てたのか長いこと使用されて捨てられのか
そういうことを一切捨象して土器自体の編年から割り出したら
こんな時代に馬具はねーよと当然そうなる
周濠は、堀られたてが古墳の竣工年代になる
そこに土砂が堆積すればするほど竣工年代から遠ざかるのが
どうして分からないのか >>595
魏使が倭国に来たのは240年なので、
弥生中期の絹を見ることはない
終末期-古墳初には出なくなるということは、養蚕をしていなかったか
首狩り頭顔面ど変形甕棺墓だから残っただけということになる >>825
>弥生時代の鉄分布と北部九州を
残念でした
卑弥呼の頃にはもう古墳時代に入ってます >>599
航空工学では考古学は専門外
ただの趣味 >>451
下に弥生時代の遺構があることを知らずに造り上げたのが箸墓古墳じゃないのか? 441:社説+で新規スレ立て人募集中:2023/08/07(月) 13:52:47.36 ID:zJ5l3ue/0
実は事実上唐会要が邪馬台国は九州だと言っているw
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。 >>609
専門家だと学会や先輩たちの意見を裏付ける研究や調査をするのが仕事なんだっけ?
稼ぐために大変だよね >>607
卑弥呼の時代は弥生時代末期だから君の言ってることは噓
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっている。
3世紀前半に魏の歴史文献に倭国王(親魏倭王)卑弥呼が現れるが、その所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
古墳時代前期に、この両地域の勢力が母体となって、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられているが[19]、過程ははっきりしない。ただしヤマト王権と邪馬台国とは異なる勢力と見なす説もある。
考古学の成果は、奈良盆地勢力が列島各地の豪族勢力(吉備政権など)と連合しヤマト王権へ次第に成長してゆき、この過程で北部九州の勢力は衰退したことを示唆している。ただし北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もある。 >>610
なるほど
弥生時代が過去の遺構となり忘れ去られた頃に箸墓が造られたってことね >>615
畿内派学者のデータが九州説を支持してる
という話なんだぞ?
www 奈良ナラという地名は土地を均ナラしたというのが語源だったよな
表層を削りすぎて弥生時代の遺構と古墳時代の遺構がほぼ同じ層にあるのかもな >>622
データそのものは日本の考古学の基礎資料だよ
九州派が自分達の正しさを証明するために調査した結果じゃない 箸墓は3世紀の住宅跡地を埋めて作られた墓って事かもな >>611
邪馬台国から見てではなくて、
倭國の北は大海で百済と新羅と接している 九州説の図表は確かに古くさいが、今は何もかも細分化されている領域
ざっくり東西日本を比較した資料なんてのはデータを拾って自分で作るしかないだろうな >>628
その通り。倭国と邪馬台国は互いに重複する部分と
そうでない文脈とを分けて考えろと寺澤が言ってるのは
そういう部分だろう >>628
魏志倭人伝でいうところの「東の倭種」ってやつね >>631
280年頃とか300年頃って説を見かけたわ >>596
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
つまり卑弥呼が魏に献上した高密度絹は優秀には無いので、邪馬台国は九州でない >>626
鏡の出土状況を分析したページ見付かった
https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku389.htm
古い時期は福岡が圧倒的で古墳時代には畿内が中心になる
やっぱり東遷があったんじゃないかな >>635
>鏡の出土状況を分析したページ見付かった
倭国大乱で逆転してるということは
九州が没落しただけ >>635
そこのサイトおもしろいけど
纏向説にとって不都合なことだらけだから証拠にならないって言われるぞw >>638
キナイコシが最も敵視しているサイトだから信用できる >>618
>卑弥呼の時代は弥生時代末期だから君の言ってることは噓
証拠なし >>640
卑弥呼が死んだのが247年頃と言われてるから
魏とやり取りしたのは弥生時代末期だよ 都合が悪いときの魔法の呪文「根拠なし」「根拠は?」
目の前に根拠を並べられても唱えよう >>643
使ってるデータは考古学者の調査結果なんだから証拠に関しては問題ないだろう >>641
>魏とやり取りしたのは弥生時代末期だよ
もう古墳時代が始まってるよ >>640
卑弥呼は180年頃に既に活躍してたから女王に選ばれたんだよ
しかしその後は異常気象による飢饉や狗奴国との戦争など苦難の時代が続いた >>1
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
と、しょっぱなから嘘をつくキナイコシ。 東遷なら卑弥呼の所伝ももう少し解像度高く保存されてるよな
隠す必要ないんだから >>646
>使ってるデータは考古学者の調査結果なんだから証拠に関しては問題ないだろう
使ってるデータが考古学者の調査結果だって証拠は? よりにもよって100年ズレの(架空の)神功と比定するってことは
倒した土蜘蛛の姫たちが卑弥呼の末裔だって認識があったんじゃねーの 確かに倭国大乱が何かの契機だということと
近畿で鏡が流行るのは2週くらい遅れるのは分かるけど
九州でのその熱量がそのまま継続しているという風でもない
>>631の後には恐ろしい数の三角縁神獣鏡が記録されることになるだろうけど
ちょっと間が空く 鏡は舶載鏡、仿製鏡あたりの区分をすべて調査しなおしたほうが良いよ
顕微鏡でやすり加工跡をしっかりみて古墳毎に特徴が一致したものはすべて国産に分類し直せ >>650
なるほど
根拠を目の前にしても認識できないってことかw >>653
すぐ反論できなくなって悪口だけになるので
九州説が論破されたって分かりやすい >>656
つまり意味のないデータを集めたわけ
2世紀前半とかの古い鏡ばかりでは九州に邪馬台国がなかった証拠だから どうせ副葬されるのは後の時代だからな
何かの神獣鏡に曹叡より愛をこめてとか書いてるなら 魏から送られた鏡をもったいながらずバンバン消費し始めるのは常識的に考えて魏が滅んだ後だろう >>664
纒向には2世紀に邪馬台国の痕跡が全く無いけどな >>664
参照したデータは考古学学者が出した論文だよ 倭国大乱で互いに攻め合い没落した地域こそ卑弥呼を共立した地域ですよね 蝙蝠鈕座内行花文鏡や位至三公鏡は、小さな墓の中、下級官人が持つ安物の鏡
朝鮮半島で少ないということは郡経由ではなくて盗掘品闇ルートだろう 3世紀に九州でもっとも発展している博多は畿内のグループなので
没落してないほうが女王国の連合国 沖縄人ですが、どうでも良い話と思って聞いてみて下さい。
愛知県豊田市に住んでいた時、真冬はクソ寒くて、イメージとしては毎日雪降ってる。
これが岐阜に行くともっと寒い。
エアコンが無意味なほど寒い。
ところが、同時期に東京に行くと超暖かく感じるので、ヒートテックが4枚から1枚に減る。
奈良県の冬はどうですか?
奈良県の冬を経験したことがないので 倭国大乱の影響がない地域ってそれ卑弥呼と関係ないべつの集団なんじゃ…… 古代中国では生前に使っていた鏡をそのまま副葬品として埋葬するから
あまり大きすぎないものが埋められた。
日本も最初はそんな感じだったんだろうが
古墳時代になると鏡を副葬品として埋めるのがブームになって
三角縁神獣鏡が量産された >>668
>参照したデータは考古学学者が出した論文だよ
時代をズラせば無意味なデータ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 東京の都心はヒートアイランド現象があるのでなんとも言えないけど
奈良も博多も沖縄と比べると寒い >>676
どの時代のものかも論文には書いてあるぞw
疑うなら自分で元の論文に当たって
そのサイトで挙げているここのデータは元データを改竄してる
と具体的に指摘すべき >>671
>3世紀に九州でもっとも発展している博多は畿内のグループなので
それは無いw
博多にすり寄る畿内説はストーカーという犯罪者 >>665
そういや吉野ヶ里から見つかった巫女の墳墓
「会えなくてもお互いに忘れないでいましょう♡」
って書かれた銅鏡が副葬されてたね
曹叡からのメッセージが書かれた銅鏡が見つかるといいな >>674
倭国大乱の痕跡が無い地域は九州女王国の東にあった倭種の国ですね >>675
:後漢末頃の九州の鏡はカケラばかりだよ 九州はなかなか面的な勢力がないな
筑後は鏡すらなく地域の統合もずっと遅れていたんだろうけど
大和が攻めてきた時は力を合わせて戦ったんだろうな熊襲として >>681
中国人がその巫女こそが卑弥呼だ!
と言ってたぐらいだもんな >>680
それが福岡の学者の研究成果
博多を中心とした筑前の外の異人ベルト地帯説が拒絶している >>674
平和な場所に卑弥呼の都市を造ったの!
卑弥呼が共立されたから平和になったんだし矛盾はない
纏向は環濠もなく、東海(「南」の狗奴国?)と仲良く箸墓古墳を造れるくらい平和で豊かな都市なんだから
悪口は言わないで >>679
>どの時代のものかも論文には書いてあるぞw
書いてあるって証拠は?
結局やはり九州説は根拠なし 魏のえらいさん「難升米よご苦労だったな返礼品以外にもなにか好きなものがあったらやるぞなんなりと申せ」
難升米「あじゃあ鏡くださいよ鏡好きなんスよね」 >>592
一般に流通する鏡の値段について、ハーバード美術館群蔵の内行花文鏡にしるされる銘文の「竟直三百」を鏡1枚300銭の意味と解釈する説がある。
300銭は後漢初期の下級官人の月俸と比べても安く、この銅鏡が「公孫作竟」というブランドであることを考えれば、もっと安価な銅鏡も流通していたと考えられる。
岡村秀典『鏡が語る古代史』 卑弥呼の宗女岱與であり、倭の鬼道の岱與ではない。
無駄な作り話は止めなさい。
中華の鬼道だよ。 2世紀に列島に卑弥呼は居ない。217年以降、列島に現れたのだよ。 >>690
卑弥呼が共立されて平和になったとは書いてない
卑弥呼は警備厳重な集落に住み、狗奴国とは一触即発の状態だったわけで
卑弥呼の死後の男王も内乱を引き起こし死者1000人以上を出す始末
台与が女王となってようやく平和になったと書いてある 台与はバックに魏がついててサポート受けてたわけで
それで一時的に倭国(連合)がようやくひとつにまとまったとして
張政が帰国した後の台与の治世ははたしてどんな展開を見せたのだろうか >>700
纏向は平和な都市なんだから、卑弥呼の時代も平和だっての! ケツやミケツの名前は神武や素戔嗚も持っているので
食われる側とか差し出す側といった読み込みは妥当ではない
大宜津比売の娘が石見地方の「伝説」で活躍するけど
あちこち飛び回るいわば旅する女神の類型の一つなのかもしれない
豊受や天照も旅する女神だからね。ってことでどうでしょう阿波市民の方 >>704
そこは倭国大乱とも無縁だった東の倭種の国だから
銅鐸時代がらずっとのほほんと過ごしてきた地域だよ
纒向は無人だったけどな 典型的韓国脳w
今こうだから過去もそうだったニダ!
>704:日本@名無史さん:[sage]:2023/08/07(月) 18:11:45.53
>>>700
>纏向は平和な都市なんだから、卑弥呼の時代も平和だっての! 大宜津比売はトンスルをスサノオに食べさせたのだろう 倭国大乱の影響は青谷までは来てる
時期がピタリ一致するからね
吉野ヶ里から出雲の銅鐸が出、崇神期でも出雲振根が
筑紫を行き来していることからしても
地政学的な影響は間違いなく受けた >>709
そら怒るわな。でも大宜津比売が出したのは口から >>695
>不満なら元の論文に当たれよ
九州説はこのように、根拠がないと認めて撤退した 戦乱や不良不作からくる飢饉から逃れるために
九州から畿内へと人口の大規模な移住はあったかもしれない >>706
>あちこち飛び回るいわば旅する女神の類型の一つなのかもしれない
弥生時代民草の「大宜津比売」の化身となった「倭人(阿波勢力)」の全国進出 @阿波 >>705
瀬戸内海を南に水行して纏向に着いたんだから東海でしょ 8世紀の記紀編纂者にとっては、「卑彌呼」および「壹與」は
大日霊女命でもあり、天照大神でもあり、大宜都比売でもあり、豊玉比売命でもあり、豊受大神でもある。
みんな同じ阿波の女神なのである。 @阿波 >>707
「東」の倭種?
そら北のことだろう
瀬戸内海を「南」に水行したんだから
琵琶湖が海に見えたのさw 壱岐(一大国)の3分の1のとても小さな伊都国の三十年くらいの王たちが皆女王国に隷属しているということは
倭国の外交上とても重要な意義がある
中華では天命を受けた天子の徳を慕って周辺国が来朝する
倭国では女王の徳を慕って遠方の伊都国王が隷属しているのを
魏使は見ることになる 瀬戸内海を東に行くのに南と言い張る畿内説は破綻している >>728
不弥国から大阪湾に行く距離を南に水行しても九州内だと言うことがいまだに理解出来ない畿内説、頭悪いですね。 >>724
そこまでが女王国、琵琶湖の北に「倭種」 >>727
倭国に上陸したら東西南北が南北東西になる仕様なの!
日の出る方角に水行してても「南」なの!
平和な纏向こそ邪馬台国だから >>732
出てきてないか溶けたんだよ
畿内の鉄だって溶けただろ? 九州や畿内では語ることのできない「阿波」の女神。
「阿波の神様 大宜都比売」=「天石門別八倉比売命」=「大日霊女命」=「天照大神」
この神話の舞台が、まさに「阿波」であることをこれ以上示すものはない。 @阿波 北部九州から見た邪馬台国の方角と、
邪馬台国現地から各地を見た方角とが一致するとは限らないのよ。理論上は
渡海東は東で、それは三河以東を指すだろうし
其南の狗奴国は熊本でいいわけ
記紀では新羅を西としているので、その南は九州でいい 弥生時代民草の「大宜津比売」の化身となった「倭人(阿波勢力)」の全国進出 @阿波 「阿波の神様 大宜都比売」=大正解
「天石門別八倉比売命」=別人
「大日霊女命」=別人
「天照大神」=別人 >>738
まぁ、別人でもなんら問題にならない。 どのみち伊勢神宮で祀られている神様だ。 @阿波 >>734
それは学問ではない
そもそも畿内は魏志倭人伝に書かれている習俗があった地域とは思われない
>>571の他に
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。
赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。
みたいなのもあるし >>742
>そもそも畿内は魏志倭人伝に書かれている習俗があった地域とは思われない
根拠は? >>743
男全員刺青して日常的に素潜りして魚や水鳥をとって食う
温暖で一年中生野菜食えてずっと裸足
これは南国の習俗だろう 高知県あたりならあったかもな
というレベルの南国さ >>552
魏志倭人伝では「倭」は国ではなく「日本人」という意味で使われています。国を表現しているのは「女王国」、邪馬台国はその女王がいる場所、すなわち首都という意味で使っています。
「大倭」とは体の大きな人物、あるいは地位の高い倭人という意味でしょう。交易や市場の監視に大きい倭人を使っていたという意味。 >>742
>赤い顔料をその体に塗る
希少な朱丹を惜しげもなく使っていたので驚いたことだろう。 わははははは @阿波 南に2ヵ月と書かれているのを東に読み替える納得可能な説明をまだ聞いたことがない >>729
だから南に2か月行った邪馬台国がどこなのか勇気を出して言ってごらん 結局「庄内期の鏡の出土数は圧倒的に福岡が多い」とか言っていたのは
九州説の根拠どころか、その逆だったわけね
2世紀の鏡の破片しか出ないということは
九州越には絶望的だね >>750
順次説はおかしい
廣志に「伊都国又南至邪馬嘉国」とあるから、投馬国と邪馬台国の日数記事や戸数は明らかな誇張である >>742
>赤い顔料をその体に塗る
希少な朱丹を惜しげもなく使っていたのでさぞ驚いたことだろう。
希少な朱丹が潤沢に採れた倭国(阿波) @阿波 >>754
廣志に「伊都国又南至邪馬嘉国」とあるという証拠なし >>742
学問ではない?
畿内説を裏付けることこそ学問(ドヤ)
それで飯食ってんの
他は根拠なしの妄想 >>742
>赤い顔料をその体に塗る
希少な朱丹を惜しげもなく使っていたのでさぞ驚いたことだろう。
希少な朱丹が潤沢に採れた倭国(阿波) @阿波 >>738
まぁ、別人でもなんら問題にならない。
どのみち伊勢神宮で祀られている「阿波」の神様だ。 @阿波 >>753
寺澤がそう言ってるからしょうがない
畿内説の寺澤が言ってるんなら
九州説にとって不利な証拠だろ >>762
畿内派でも認めざるを得ないデータが
九州説を示唆してる
というか畿内派はなんで畿内説を支持してるのか本当に意味不明 >>764
そうそう
桃の種より確実な証拠なんてないっての >>562
砂洲がどうのこうの以前に善入寺島(粟島)は島ではなかったのだがw >>768
いつ? と聞かれて、黙り込む東遷日本書紀バカ。 @阿波 >>768
いつ? と聞かれて、黙り込む閑古鳥スレバカ。 @阿波 阿波は365日エイプリルフール男だから責めんといて >>770
承徳2年(1098)の洪水により善入寺島はそれまで地続きであった吉野川南岸から切り離された。
現在は本流となる島の南の流れはこの時に発生したものです。
なぁお前、現地人だろ?やる気あんのか? >>771
俺、お前みたいに暇じゃないから即レスなんかしないっての。 >>752
だから南九州のどこか一つ言ってみてごらん >>773
>承徳2年(1098)の洪水により善入寺島はそれまで地続きであった吉野川南岸から切り離された。
天下の暴れ川、吉野川の洪水はそれだけか? ボンクラよ。 わははははは @阿波 >>754
お前は暴れ川筑後説だっけ
このように雑多九州説は南に2か月行かない さすが、閑古鳥スレ主だけあって間抜けも一品じゃのう。 わははははは @阿波 >>777
途中から曲がってるじゃねえか
日田、朝敵筑後に行くのに北九州市を経由するバカはおらん >>779
>吉野川の洪水はそれだけか?
主張がわからないんだが?新たな川の流れが生まれるほどの洪水がいつもなら人なんて住めませんけど。 最初にこの結論と信じ込んだらそれに合わせてすべて情報を合理化していくんだろう
実にカルガモのような男である >>779
確実に言える事はお前のオノコロ島の「アホバ仮説」は完全に間違っているって事だよw >>781
代々住み続けているから仕方がないわな。 わははははは @阿波 >>780
あの時代にまっすぐな道や川は無いし、洪水のシーズンは筑後川の渡河を避けるのだよ。 >>784
確実に言える事はお前は、間抜けの閑古鳥スレ主だってことだ。 わははははは @阿波 1>>788
間抜けの閑古鳥スレ主も、脳足りん。 わははははは @阿波 >>787
古代史塾の藤井をはじめにYouTubeで阿波動画作っている連中が裸足で逃げ出すからなw
情けない奴らだよ。再生回数伸びるからって俺のカキコミから逃げ回って動画を上げて何が楽しいのかね。理解出来んわ。 >>765
>というか畿内派はなんで畿内説を支持してるのか本当に意味不明
それはお前の妄想だから
3世紀前半、当時の中国鏡は破片以外ほとんど九州に入って来ていない
三角縁をのいぞいてw >>790
結局、間抜けのお前は「阿波」を一生懸命宣伝してくれているってことだ。
お前ほど「阿波」を取り上げてくれる者はいない。 わははははは @阿波 まぁ、それだけ「阿波」が飛び抜けて特異ってこと。 @阿波 >>792
>砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
>海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できない。
うけるぅ〜www
善入寺島(粟島)では、な〜んにも何にも説明出来ないwwwwww ヤマタノオロチ伝説の、「頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体」というのは、
大河「四国三郎吉野川」に流れ込む、数多の大支流を表したのが、ヤマタノオロチ。
吉野川本流が胴体。 流れ込む支流が頭や尾。
真っすぐ東西に80kmをも貫く暴れ川「四国三郎吉野川」を上手く「八俣遠呂智」に見立てている。 @阿波 蛭子命を乗せた葦舟は、吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作ったのだろう。 @阿波 蛭子命を乗せた葦舟は、吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作って
ここから流したのだろう。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 元々摂津河内和泉辺りが卑弥呼より前の時代の中心地じゃないの
畿内は北陸山陰と共に弥生時代の早い時期から鳥形の地域だった
紀元前後に加茂岩倉遺跡の営みが終わり近畿の各地から加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかるようになる
出雲と畿内の二大勢力が近畿地方で手を結び統一国家に向けての国作りが始まったんじゃないか
河内と同じ形の鳥形が琵琶湖北部に、摂津と同じ形の鳥形が東海地方に一斉に広がる
1世紀になると近畿では近畿式の、東海では三遠式の巨大銅鐸が作られるようになり、両者の特徴を備えた巨大銅鐸が滋賀で誕生し、畿内北陸東海の真ん中に伊勢遺跡が作られる
統一国家の誕生には東征も東遷もないのは明らかだな >>798
ムー大陸も阿波にあったとか言い出しそうだな
ど田舎のくせに 現代の治水された川でイメージしてしまうのは歴史オンチ >>804
エジプトもインダスも氾濫農耕と言う手法を取っていてだな.. >>791
畿内には幾つあるんだよw
畿内説の第一人者寺沢氏の調査結果が
福岡30奈良3だぞw >>791
あと三角縁神獣鏡は古墳時代の国産だからな?
ちゃんと勉強しとけ >>812
>あと三角縁神獣鏡は古墳時代の国産だからな?
もちろん「阿波」での製作、 @阿波 阿波の場合、目の前に吉野川が流れているのに、そこからの取水は困難で、農業用水は、支流や溜池に頼るしか無かった、と言うのが実情だからね。
堰を作って用水を引けるようになったのは明治以降の話、
麻名用水が完成したのは明治41年、板名用水も明治41年通水開始、大正元年全通、だ。 >>815
どのみち、「卑彌呼」の時代は灌漑稲作は出来なかったので、稲作云々はどうでもいい話。 @阿波 >>814
>揚子江の稲作も洪水と共存し発展したと考えられる
吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の陸稲も洪水と共存し発展したと考えられる。 @阿波 >>773
アット阿波の中の人は、歴史的知識が足りない、
しょっちゅう現代の地理感覚をそのまま当てはめてしまっている、
そう言うことが多すぎて、どれがそうとか指摘するのも難しいぐらい。 >>817
種禾稻紵麻蠶桑と書かれているので、稲作の無かった阿波は邪馬台国では無い 阿波が粟を食べていた頃に吉野ヶ里遺跡ではジャポニカ米が栽培されていたhttps://i.imgur.com/E16niG1.jpeg >>818
粟島が南岸と切り離されて中州となったのはずっと後の話し、
陸稲は水稲に比べると面積あたりの収量が少ないのが課題だね。 「種禾稻紵麻蠶桑」
これみんな畑作。稲も陸稲だろう。
吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の陸稲も洪水と共存し発展したと考えられる。 @阿波 >>823
粟島は中洲じゃなかったらしいから、オノコロ島が実在するとしても粟島ではない別の場所だろうな。 >>822
>粟島が南岸と切り離されて中州となったのはずっと後の話し
わざわざそんな最近の資料を持ち出して、
古代に中州でなかったとお前には言えるんだな? 断言できるのか? @阿波 >>824
>粟島は中洲じゃなかったらしいから
急に中州が出現したかのように言うアホ。
確かに中州じゃなかった時期もあったんだろうが、
この大河に中州が無いほうが不自然。
それも分からん能なし板野。 @阿波 >>826
最古の水田は、庄蔵本遺跡や南蔵本遺跡にある。 @阿波 ヤマタノオロチ伝説の、「頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体」というのは、
大河「四国三郎吉野川」に流れ込む、数多の大支流を表したのが、ヤマタノオロチ。
吉野川本流が胴体。 流れ込む支流が頭や尾。
真っすぐ東西に80kmをも貫く暴れ川「四国三郎吉野川」を上手く「八俣遠呂智」に見立てている。 @阿波 >>817
阿波の頭の中では今日もエイプリルフールのようだなw >>831
>唐津の菜畑遺跡での縄文時代
実際は、弥生時代初期。 @阿波 水稲始まってたならもう弥生時代にしちゃってもいいような >>835
奈良で稲作が始まるのはもっと後の時代だから弥生時代とひとくくりにできないのではないかな >>827
粟島が中洲じゃ無かったことも知らないおのれの無知さ加減に恐れ慄きなさい。 >>837
急に中州が出現したかのように言うアホ。
確かに中州じゃなかった時期もあったんだろうが、
この大河に中州が無いほうが不自然。
それも分からん能なし板野。 @阿波 >>838
中洲が有っても粟島以外の別の場所なんだろ、鴨島とか。 >>839
鴨島も中州だったんだろう。
急に中州が出現したかのように言うアホ。
確かに中州じゃなかった時期もあったんだろうが、
この大河に中州が無いほうが不自然。
それも分からん能なし板野。 @阿波 >>839
ついでに川島も中州だったんだろう。
吉野川流域の島が付く所は、中州だったんだろう。
急に中州が出現したかのように言うアホ。
確かに中州じゃなかった時期もあったんだろうが、
この大河に中州が無いほうが不自然。
それも分からん能なし板野。 @阿波 >>842
倭国(阿波)の話題だから避けては通れん。 @阿波 >>842
ときどき、売郷奴アホの板野が恥をさらすがご勘弁を。 @阿波 つまり、善入寺島がオノコロ島と言う説は根拠が薄すぎて話にならんって言うだけの事。 >>847
舞中島でもいいぞ。 わははははは @阿波 848日本@名無史さん
2023/08/08(火) 08:39:39.75
>>831
菜畑遺跡は末盧国にない。 @阿波 >>846
>ただの村おこしだとバレてんの
まぁ、「阿波」の大河吉野川・剣山系・徳島平野・黒潮太平洋・辰砂鉱山・銅鉱山・温暖多雨
古代人にとって、「阿波」ほど恵まれた土地はなかろう。
ここに日本の古代文明が興るのは自然の摂理だな。 わははははは @阿波 それに引き換え、奈良盆地などと戯けたことをw @阿波 >>811
>畿内説の第一人者寺沢氏の調査結果が
>福岡30奈良3だぞw
何十個あっても2世紀の鏡のカケラばっかりだもの
卑弥呼の時代の九州って、魏とは付き合いが無かったってこと >>854
2世紀の纒向には集落さえ無かったそうじゃないか 近くに唐古・鍵があるしなぁ
大規模水害があったらしいし、そこら辺がまとめて新しいムラ作ってもおかしくなくね? >>856
>そこら辺がまとめて新しいムラ作ってもおかしくなくね?
どうも定住を止めて、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせたらしいぞ。 @阿波 >>858
トンデモ老人の妄言
纒向出土土器の7割は地元型の炊飯用土器 >>849
ほんまにそれでええの???
粟島が粟の国名のルーツで粟島こそが粟の発祥の地って誰かが書いてたぞ。 >>860
実際にイザナギ・イザナミ時代に粟島が現在地に在ったかどうかは分からん。
とにかく、大河吉野川中流の中州がオノコロ島ってことだ、カチカチ石頭よ。
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
海に浮かぶ博多湾の能古島や淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できないし、葦も生えない。 @阿波 まぁ、「阿波」の大河吉野川・剣山系・徳島平野・黒潮太平洋・辰砂鉱山・銅鉱山・温暖多雨
古代人にとって、「阿波」ほど恵まれた土地はなかろう。
ここに日本の古代文明が興るのは自然の摂理だな。 わははははは @阿波 >>859
>纒向出土土器の7割は地元型の炊飯用土器
古墳造営の季節労働者が地元の土で「東阿波型土器」を焼いたものだ。 安心しろ。 わははははは @阿波 葦原の中つ国(大河吉野川中流の中州)は、さぞや豊穣の地だったことだろう。 @阿波 ここも「阿波」の独断場。 ヘタレばかりで退屈じゃのうww @阿波 >>867
ここはほら吹き大会の会場になったのかw >>869
>それは阿波だけ
むしろ、「阿波」以外と言うべきだろう。
「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳・飛鳥〜と続く複合集落遺跡。
特に鮎喰川下流域集落群のように集中して存在する所は、全国的にどこにも無い。
まさにこの鮎喰川下流域が女王「卑彌呼」が君臨した女王国なのである。 @阿波 >>870
いやお前が以前から引用している徳島の学者の研究は
阿波が縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせたと書いている 徳島だけとは限定していないが? わははははは @阿波 >>872
水害があった痕跡が徳島だけではなく広域
縄文的な生業と地域社会へ回帰したのが阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. つまり卑弥呼時代の畿内や阿波は東の倭種の国でしたという事か 卑弥呼時代の3世紀に畿内と密接な交流関係なのが九州でもっとも発展している博多 >>875
残念ながら、「阿波」の西に女王国が無いんだよな。 わははははは @阿波 >>876
それにしては、博多には碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構がないなぁ。 @阿波 >>876
それにしては、博多には碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構がないなぁ。 @阿波
めんどくせー >>880
なら、さっさと示せ、ボンクラ。 @阿波 >>880
お前なぁ、怒られてシュン太郎になったのか? @阿波 >>882
阿波人は口汚いな
貼れないから「比恵那珂遺跡群」でググれ
詳細は、「比恵・那珂遺跡群 〜弥生時代後期の集落動態を中心として〜」( 久住猛雄)を読むがよい 九州説の俺が畿内説に鞍替えする条件は、今裁判中の年輪年代法の標準年輪曲線を奈文研が見せてくれて、それが間違いないとなった時だな
奈文研が裁判してまで見せたくない理由が分からない IntCal20は世界各地の多くの樹木年輪データが新たに採用された
北半球の陸上資料に適用される汎用的な較正曲線 較正曲線 INTCAL20 は、紀元前後~AD450 年頃は日本産樹木較正曲線 JCAL
が基準となり、JCAL= INTCAL20 としてほぼ統一された(2020 年 8 月、歴博発表) >>885
>阿波人は口汚いな
この方がストレートに表現しやすいのだよ。
オブラートで包んだ言い方では上手く伝わらないから荒っぽい表現を使っている。
で、この「比恵那珂遺跡群」がどうかしたのか? どこにでもある普通の遺跡にしか見えんが?
どこに鍛冶炉遺構や朱の精製遺構などがあるんだ?
他地域との交流拠点としての痕跡などはないのか? @阿波 >>888
日本産樹木較正曲線をまったく使用していないIntCal98でも265年イベントが確認され、年輪年代法の標準年輪曲線に間違いがないことが判明した 北半球の陸域資料に適用される較正曲線「IntCal」には,
これまで主に欧米産樹木年輪の炭素 14 年代が用いられてきたが,
昨年改訂された IntCal20 では日本産樹木年輪のデータが初めて採用された(Fig. 1)。
IntCal20 は,日本列島周辺域の樹木年輪のセルロース酸素同位体比(δ18O 値)が
降水量と強い逆相関を示すことを利用した新しい年代法(酸素同位体比年輪年代法)によって
年代付けされた樹木年輪が用いられた,初の較正曲線でもある。(坂本稔) >>887
それを年輪年代法で作り上げてるのがダメ C14もブラックボックス年輪年代法を基に作り上げてるのでダメ 畿内の遺物年代が合ったとしてもそれは女王国の東の倭種の国の遺物でしかない
同じ時代に畿内も何かやってたんですね、という話で終了 奈文研が裁判をしてまで標準年輪曲線を見せたくない理由が分からない
しかも奈良県ではなく、国の税金で運営されてるのだから、開示するべき >>898
奈文研が裁判をしてるんじゃなくて、
鷲崎のところの素人爺さんたちが、奈文研が見せてくれないから訴訟を起こしたんじゃないの 国の研究機関は、
暇な素人お爺さんたちの相手ばかりはしてられないんだよ 在りもしない邪馬台国を探し求めて300年。
見つかるかな~ >>893
わざわざtalkの隔離スレに行って呼び出した人がいたみたいですよ、
余計な事をするなぁ。 余計なレス
133 日本@名無史さん[] 2023/08/05(土) 10:01:27.80 ID:CVzHX
@阿波がいなくなって5ちゃんが平和になったというのはここに封印されているからだったのか。誰もいない閑古鳥スレ乙ですw もうしばらく邪馬台国は纏向って事にしておかないと正解にたどり着いてしまったら飯のタネがなくなるからな。 ある邪馬台国の説明に
弥生(やよい)文化中・後期に確認される倭(わ)の女王国。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の刊本には邪馬壹国とみえるが、定説どおり邪馬台(臺)国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和(やまと)王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。
文字を変え、読みはこじつけ。
実在した国を探したが良い。 反日の連中も記紀の記述が年代を除いてある程度は信用できるものってなるのはイヤだろうし。邪馬台国で濁してるんだろうね。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>912
九州筑紫から出てきて奈良へ
のちに北部九州の女王国を併合していった
これは事実でしょ
じゃあいつ東征があったかだが、第一波は191年の飢饉
その後は女王国支配圏から次第次第に渡っていき、周辺も含め王権を築いた
その王権に卑弥呼の伝承がないのもうなずける >>915
女王国が奈良であればそのままヤマト王権に移行したと考えるのが合理的だろう
だのに史書編纂にあたって肝心の日本側が卑弥呼について「?」だからな
渡来人から倭人伝見せられてびっくりしたんだろ
畿内説はどう説明するのかな
箸墓がどうのじゃなく、明確に卑弥呼の記憶がない >明確に卑弥呼の記憶がない
これをモモソとか言っちゃうんだから目も当てられない畿内説。 >>914
>九州筑紫から出てきて奈良へ
>のちに北部九州の女王国を併合していった
>これは事実でしょ
いかなるときも理由が無いのが九州説 金印だってヤマト王権が引き継いでいてもおかしくないんだがな
ないときてる >>922
出自が違うという証拠よ
そもそも卑弥呼時代にヤマトなんて存在しないから >>885
>阿波人は口汚いな
この方がストレートに表現しやすいのだよ。
オブラートで包んだ言い方では上手く伝わらないから荒っぽい表現を使っている。
で、この「比恵那珂遺跡群」がどうかしたのか? どこにでもある普通の遺跡にしか見えんが?
どこに鍛冶炉遺構や朱の精製遺構などがあるんだ?
他地域との交流拠点としての痕跡などはないのか? @阿波 >>923
桃の種は出てくるのになあ
3世紀の鉄だけ溶けちゃう地質みたいだし
ヤマト王権に卑弥呼の記憶がないってのはかなり重要なポイントだと思うよ
捨ててきた国の巫女なんて知ったこっちゃないわけだ
平原が卑弥呼の出生地だとすると、たびたび東征したのは伊都国以外の連中なんだろう 阿波の忌部氏が大嘗祭で献上するのは粟、麻、木綿←
水田もなけりゃ絹もないときてる >>926
天皇家と無縁の者は、指をくわえて見ておれ。 わははははは @阿波 「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う
御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。
南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。
このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 >>925
卑弥呼=日霊女
記憶はあるが皇祖神として持ち上げた為に素直には書けなかったって事。 僕達が知っている、あのトリップキーで、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝していた奥山氏は、完全に死体になってしまったのだろうか。 天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。 これが中央忌部である。 阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。 母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。 @阿波 大嘗祭は7世紀の天武天皇の時代から行われており、式次第を書いた平安時代の法令集「延喜式」では、
大祀・中祀・小祀とある国家祭祀のうち大嘗祭だけ大祀と規定している。
「天皇が一代に一度しか行わない格別の祭祀だから」と指摘し、詳しい内容は「口伝で秘儀」とした。
阿波国木屋平貢の阿波忌部氏の末裔三木家が作る麁服、愛知県豊田市稲武町の一般財団法人古橋会が作る繪服。
いずれも大嘗祭に不可欠な調度品と強調している。
「麁服も繪服も原初の頃は梶か麻で織った布」という江戸時代の国学者も。
これは本居宣長や本居門下で徳島藩士の野口年長、賀茂真淵の主張で
「細い糸で精密に織ったのが繪服、織り目を粗く織ったのが麁服。
時代が下り繪服に絹が用いられた」と。
平成・令和の大嘗祭に麁服を調進した三木家当主の三木信夫さんは、
三木家が代々、山に住む理由について、「忌部氏は、良質の麻ができる風土を探していた。
住居は平地より気温が3〜5度低い標高500〜700mの所に在る。朝霧が出て西日が差さない所。
大麻の茎の太さが大人の小指ぐらいに育つ所」という。 @阿波 このスレッドに、僕達の知らないトリップキーで、破綻してしまったテンプレートを貼り付けている者は、何者なのだろうか。 大嘗祭の主要儀式「大嘗宮の儀」では、最も重要な祭祀の場「悠紀殿」と「主基殿」の神座に徳島産の麻織物「麁布」が供えられる。
麁布とは何だろう。
先月、29日、皇居に納められた美馬市木屋平貢の三木信夫さん(83)によると、
大嘗祭の責任者、宮内庁の楠本祐一賞典長は「神が降りる依り代が麁布です」と語ったという。
平成の大嘗祭の賞典長鎌田純一さん(故人)は、著書「平成大禮要話」(錦正社)で、麁布を置く神座の重要性をこう話した。
「古来神座は神の坐す座として天皇もつつしみ対されて来たところ」
徳島新聞 2019年(令和元年)11月15日 朝刊 @阿波 >>937
阿波先生。結局のところ、ヤマト王権は阿波出身である事を隠しているのですか?古事記は阿波の事って言っても日本書紀は明らかにそうではありません。阿波は畿外として登場します。
陰謀だと言ってみたり普通に阿波の事だと言ってみたりあやふやで意味がわからないのですがもし、隠しているとしたら阿波は隠さなければならない程に恥ずかしい事ってでしょうか? >>938
>阿波は畿外として登場します。
奈良へ遷都した以上は、「阿波」は畿外となる。
倭国(阿波)の時代は、「阿波」が畿内。 @阿波 >>938
「記紀」は、常世の国・懐かしい故郷「阿波」で起こった事件・出来事を忘失しないために、
今までの口伝ではなく、6世紀から7世紀頃になって漢字を読み書きできるようになったので、
文字で明文化したもの。
敢えて隠す理由を挙げるとすれば、白村江の戦で大敗し避難疎開遷都した負い目なんだろう。 @阿波 取れた物、作られた物が届けられればいいのですよ。1000人の女性が居るところが邪馬臺。纏向が女王の信仰の道観です。箸墓が卑弥呼の墓。
中華鬼道、神仙思想の始まりの場所、大市の住む場所です。無駄ですな。他では巨大古墳、列島の神仙思想を説明できませんね。 >>941
>中華鬼道、神仙思想の始まりの場所
お前はそれだけで敵中正面突破するつもりなんだな。 わははははは
関ケ原西軍の島津義弘隊かドン・キホーテかってとこだな。 @阿波 研究者の成果を無視してはいけませんね。
突破も何も陳寿は卑弥呼は鬼道を使うと言っているんですよ。主人公の姿です。まず、考えるのは中華でいう鬼道です。あとは痕跡があるのかどうか、肯定できるのか、否定されるのか?から始まりますね。で答はでた訳ですね。
他ではもう無理です、8世紀の書物でさえ矛盾しません。
今はでは誰か?です。
女王卑弥呼には条件があります倭人ではクリアできません。無駄ですな。 >>944
中国人だと明記しないのがまずあり得ないし、本国では邪教である鬼道の国を支援するか?
あほくさい >>944
平原の三種の神器は道教由来だよ、魏使が見たのは三種の神器を使った鬼道というわけさ >>944
>突破も何も陳寿は卑弥呼は鬼道を使うと言っているんですよ
鬼道といえば、「卑彌呼」。
神道といえば、「忌部一族」。
大麻といえば、「阿波忌部」。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 生まれた所は知らんな。
だが漢中で民を集め国を築くことを知り鬼道を学んだのだよ。倭人の卑弥呼では師が居ないし、国を纏め治めることを知ることさえできない。
倭はまだ未開人の集団にすぎぬ。
神道とは後に名付けられた道教だよ。
道教を否定しながら、自らが太一であると祀っとるからな。8世紀に変えたのさ 卑弥呼鬼道の三種神器に勾玉は無い。玉璽。
魏も勾玉の話はない。そなたの好物には剣と鏡。そして玉璽、これは魏も理解している。あんたらの言う三種神器は8世紀の書物からの受け売りだよ。卑弥呼がそうであるという確証はない。 >>950
だとすれば邪馬台国とヤマト王権には断絶があるわけだ
なおさら畿内や阿波はあり得ない
それはまた天武朝に卑弥呼の記憶がなかったこととも符合する >>939
では、阿波は隠されてはいないのですね?
しかし、壬申の乱で登場す高市社、牟佐社、村屋社は式内社で大和國高市郡にしかない存在しないのですが、やはり阿波は恥ずかしい所なので隠しているのではないでしょうか?でないと辻褄が合いません。 卑弥呼の記憶が天武朝に無いわけあるまい。そもそもそう思い込んでるのがおかしい。
天武紀はなぁ、男女別人口を見てもその政権の姿が解るんだよ。
畿内に邪馬台者がいると隋書にある。信じるのは自由だが
もう少し分析して疑わないと真実には近づかないよ。
信じ過ぎ飲まれてる、それだけ効果はある物だと感じるね。 >>951
>だとすれば邪馬台国とヤマト王権には断絶があるわけだ
なぜ「だとすれば」なのか理由が全くわからない >>954
人口比?
邪馬台国が下戸でも一夫多妻だったってことか?
天武朝のことがなにか知らんが、女性戸籍が多すぎるというのは課役ダレ逃れだろ
邪馬台国については戦乱で男性が減っていた、プラス食えない男性は奈良へ引っ越した
これで説明できる 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>954
そもそも書紀は一書いわくなんだから卑弥呼の記憶がないのは明白だろ
じゃあ天智系が卑弥呼を特別に祀っているかというとそうでもない >>939
阿波は恥ずかしい所?と聞かれて、黙り込む阿波妄想バカ。 @阝可 シ皮 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1691505958/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 忌部は首(おびと)だから部曲名を氏とする部民の統率者
部曲(かきべ)は豪族の私有民 このスレッドに、僕達の知らないトリップキーで、完全に破綻してしまったテンプレートを貼り付けている者は、何者なのだろうか。 >>900
新しいものと古いものが同じ遺跡で見付かれば
新しいものの年代がその遺跡の年代になる 九州説はいい加減「論より証拠」という言葉を覚えてくれ 東遷はあった
なぜなら東遷はあったからだ
うるさい 東遷はあった ここのスレ立て人って交代したの?
畿内説の組織がやっているのですか? >>971
弥生後期は田舎の畿内が4世紀からいきなり古墳作りまくりの先端地域になる
東遷があっとすれば合理的に説明できる >>973
>散々出てるだろw
何が出たかは言えない九州説 >>976
ごめんなさいとは言えないだろ?
何故か俺には分かるぞ
邪馬台国は畿内にあって欲しいという願望から畿内説を支持してるから。
だから畿内説に不利な証拠は見てみぬ振りをするから頑なに認めない
畿内説は学問ではなく願望であり宗教だから
現実と畿内には説が矛盾する時は
現実の証拠を否定するしかない。
それが畿内説を支持する人達の正体 >>977
ほら、どこで何が出たかは言えない九州説
現実の証拠じゃなかった >>979
アホか
論文だって出てるしコピペも腐るほど貼られてる >>980
ほら、どこで何が出たかは言えない九州説
何故か皆には分かってるぞ
邪馬台国は九州にあって欲しいという願望から九州説を支持してるから
具体的な現実の証拠は頑なに出すことを拒む
九州説は学問ではなく願望であり宗教だから
畿内には矛盾があると連呼するが
現実に何と何が矛盾するかは決して言えない
それが九州説を支持する人達の正体 纏向は崇神朝の遺跡で確定、邪馬台国とは無関係。なぜなら共立時に王都があった証拠を出せないから。 >>972
今までこのスレで検出されたのは
・自称研究者というニート
・桜井市教育委員会の学芸員
・月刊ムーの編集長 >>982
鉄鍛冶工房の分布
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>103の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの >>982
鏡の分布
中国鏡の専門家によれば卑弥呼の時代の鏡は北部九州が出土の中心です
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif >>982
鉄製品の分布
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>982
おまけ
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 どれほど具体的な証拠があっても理解できない知的障碍者が畿内説支持者 >>986
畿内に限り証拠はなくても邪馬台国と確定 >>996
日本語わかります?
具体的って言葉の意味、知ってます?
誰が作ったかわからない、いつの時代か曖昧な絵の、どこが具体的? このスレッドは1000を超えました。
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