邪馬台国畿内説 Part943
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1694858845/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmでる。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>1-75
つまり、ヤマタイコクキナイセツは、完全に破綻し消滅し、💩が残ったのだね。 笑いリラックスだ。笑いリラックスだ。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。 前スレでは東治問題は畿内説の完敗と言う結論で落着しましたね >>1
奥山氏よ。スレッドを、作成したこと、ご苦労さまでした。 食事会のメンバーが、一人、来られなくなってしまったな。 >建物Dの最東列の北から2番目の地点は、
>溝も何も無い場所
>なのに跡地の柱列ではその地点にも柱が立ててある。
??□□□
??〇〇
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???〇〇
???□□
歴史教科書の次は、道徳の教科書に掲載予定だそうでご愁傷様です
『ゆうわにく負けない 正しい心の そだて方』
』 馬具といえばお馬さん。
>5世紀か6世紀における厩舎
>北の2房に2頭まで屋内飼育できた
>・は逃げないよう繋いでおく杭跡
>南の1房は馬体を洗ってあげるスペース
水水□□□
水水・・
水水□□□
水水・・・
水水□□■
水水・□?
水水水□□
水水水・・
水水水□□ テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 おいテンプレ!
畿内、東海、千葉の3国のアライアンスに変えとけよw http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki.htm
纏向2式の時代には関東系の土器が増加し吉備系と匹敵
纏向3式の時代には吉備系土器が大きく減少し関東系の土器が吉備系を上回る
東海系の土器は全時代区分で最も多い
九州系の土器は全時代区分でゼロ
俺「畿内、東海、関東のアライアンスじゃん」
畿内説「北部九州、吉備、畿内のアライアンス!」
は?w >>93
関東(天竜川以東)の土器は全く出土してないよ
ここが狗奴国だから 九州爺、東国に存在した狗奴国を盗む
狗奴國は熊本だと荒唐無稽な起源主張😭
https://i.imgur.com/ICfJhX3.jpg ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したので、スレッドが、不活発になってきたな。 伊都国や不弥国の南に投馬国や邪馬台国、その南に狗古智卑狗のいる狗奴国があった
すなわち筑前の伊都国や不弥国の南に筑後の投馬国(妻=後の上妻・下妻・三潴)や邪馬台国(筑後山門郡+肥後菊池郡山門郷)があり、その南に久々知(後の菊池)彦のいた隈(熊本・球磨)の国があった
魏志倭人伝の倭国はざっくり筑前・筑後の連合体であり、その南の肥後は倭人の国ではあったが倭国に属さなかった
東に海を渡った倭種の国々が本州・四国だ >>1
おい、奥山氏。
今から、サイコロを振るから、サイコロの目で討論会を開催するぞ。
この投稿の時刻の下二桁が、テンプレートの投稿番号なら、それが、討論会のテーマだ。
奥山氏よ、少しは、意地らしく、必死で闘え。
サイコロ、コロコロ。 >>104
二つあるが、一つ目で良いな。
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png >>94
リンクを確認できないほど願望で語るしかないのか
お気の毒に >>105
ヤマタイコクキナイセツが、繰り返し論破された議題だな。 >>1
まず、質問から始めます。
ホケノ山古墳の、丸底坩と加飾壺や小枝が、コンタミネーションだという判断の証拠となる、写真やスケッチを提示できますか。 魏志倭人伝の倭国は、対馬海峡一帯の文化圏(狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国)と筑後川・有明海一帯の文化圏(投馬国・邪馬台国)の連合体とも言える
吉野ヶ里は後者の文化圏に属したクニだろう(おそらく華奴蘇奴国=カンノサキまたは弥奴国=ミネ)
邪馬台国は倭国に属さない南の狗奴国と主に菊池川流域で戦った
このあたりで鉄鏃が大量出土するのはこのためだろ >>98
ん?東海、関東と畿内は仲良しだっただろ? 東の倭種の国=纏向連合
狗奴国=纏向連合勢力下であった南部九州
ヒミココ=太陽の御子を名乗る神武系の王
キクチヒコ=ヒミココ配下の熊本の官 ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したので、九州の何処に、卑弥呼の城があったのかについて、探究するスレッドに、なってきたな。 >>112
だが、それでは、小一時間かけて、スレッドを作成した奥山氏に対して、失礼だな。
このスレッドでは、やはり、なぜ、ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したかを、研究する方が、良いね。 >>112
だが、それでは、小一時間かけて、スレッドを作成した奥山氏に対して、失礼だな。
このスレッドでは、やはり、なぜ、ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したかを、研究する方が、良いね。 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう 学問である歴史の議論に政治的イデオロギーを持ち込むバカが来た 畿内ヤマトの人間がわざわざ東国語方言を使ってお国紹介してた説か
現代で言うなら関西人が「東にふぐすまっていう国がある」って言うようなもんだな 畿内説くん謎の珍説
「畿内ヤマトは東国人の支配する国!狗奴国に関する単語が証拠!だから邪馬台国は畿内!」
意味不明すぎて笑う 狗邪韓国から対馬・壱岐を経て筑前・筑後までが魏志倭人伝の描く北部九州倭国
奈良盆地を拠点に西は吉備から東は東海までの地域と交流していたのが畿内ヤマト王権
弥生末期から古墳時代に掛けてそれぞれ存在していた全く別の国 >>121
纏向なめんな!千葉まで手を伸ばしてる大国やぞ!邪馬台国と関係ないだけで! 畿内、東海、千葉の3国のアライアンスの盟主、それが纒向遺跡や! 石野が修正した外来土器の分布を見ると吉備・東海・河内がメインでそれに続くのが山陰北陸
近接する河内と四道将軍派遣地域が初期ヤマト王権の交流範囲だ
ここに北部九州倭国は入らない 畿内人が東国語しゃべってたんならやはり畿内、東海、千葉のアライアンスやな >>124
いわゆる銅鐸文化圏だな
銅鐸はヤマトとも関係ないんだが何者なんだろ? >>126
こう言うのを持ち出すのはいつも破綻するトナカイだろ 纏向が会稽東治の東にもしあれば倭人伝の記述と矛盾はないわけだろ?
つまり纏向は会稽東治の東にあったってことなんだろ?畿内説に矛盾はないって言い張るってことは 倭人伝では夏后少康の子が封じられた会稽の事を書いているがその会稽郡は上海周辺の事だねhttps://i.imgur.com/S1E147M.jpeg ヤマトは銅鐸文化と無関係だな。
狗奴国は音韻的にジャップランド語の東海東国方言だから富士山の麓だろうな。これも銅鐸文化と無関係だと思う。
畿内の銅鐸文化は九州からの征服者によって消滅し、その後を継ぐ文化圏はなかったのだろうな。 >>133
じゃあ四隅突出によって銅鐸出雲帝国は滅ぼされたんだね >>130
畿内説は「倭人伝は畿内の事を書いていません」と主張しているのでしょう >>131
その東にちょうど纏向があるってことだろ?
畿内説的には矛盾はまったくないそうだから 畿内説も九州説も矛盾点はあるのよ
完璧な比定地はないからこそ何百年も論争になってるわけだから
なんでそこが認められないかねこの畿内説くんは
めちゃくちゃ精神的に幼稚だよな
70代で精神が劣化してんだろうな 邪馬台国=ヤマトだな。
ネトウヨは諦めろよ。
ジャップが中国に朝貢してても良いだろ。
今後学問のレベルが上がるにつれて、ネトウヨが望む輝かしい古代日本像は否定されていくだろう。
ジャップの起源についても既にこれは遼寧省だと判明した。ネトウヨは反知性主義者だから胸に学問の世界で敗北する。
ネトウヨはいい加減にジャップの祖先についての認識を改めろよな。 邪馬台国=筑後山門だよ
投馬国=筑後妻(上妻・下妻・三潴)だ
魏志倭人伝は帯方郡から出発して倭の北端の狗邪韓国、対馬、壱岐、筑前(一部肥前)諸国、筑後諸国、肥後の狗奴国と北から順番に実に整然と記述している
北部九州の倭国から西は海なので記述はなく、東の本州・四国は東に海を渡った倭種の国としてきちんと言及している
陳寿がこんなにもわかりやすく位置関係を書いてくれたのに、なぜ畿内説だの阿波説だのというあさっての方向の珍説を主張する◯◯がいるのか理解に苦しむ >>1
奥山氏よ。お早う。
ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅し、💩が残ってしまいましたね。 おい、プロ固定、スレッドを活発化しろ。
解雇だぞ。 >>147
奥山よ、5chはお前の所有物では無いんだよ 帯方の東南にならない
会稽東冶のちょうど東にない
倭人伝と齟齬しまくりの九州説は
もう亡びました 東夷の里の長さを常識的に知っていた者達が住んでいた、魏志倭人伝時代の洛陽とは、時代も場所も離れていた、ヤマタイコクキナイセツと同じく、頭の出来栄えが悪い、後漢書の作者が、魏志倭人伝を読み混乱し、会稽東治(蘇州を第一候補とする揚子江デルタの何処か)を会稽東冶と書き換えたのだったな。 九州説は証拠を出さずに言い張る
九州説は嘘をつく
九州説はただ罵る
九州説は捏造する
他、何かした? 畿内説「倭人伝は畿内の事を書いていませんが、倭人伝に出てくる邪馬台国は畿内です」(・・) ヤマタイコクキナイセツのショウコは、白線が写った風景写真と5世紀に書かれた桃の木板の文章。 >>152
>会稽東治(蘇州を第一候補とする揚子江デルタの何処か)
なにひとつ根拠のないガセネタを撒き散らす
それが九州説 >>1
「東夷の里の長さを常識的に知っていた者達が住んでいた、魏志倭人伝時代の洛陽とは、時代も場所も離れていた、ヤマタイコクキナイセツと同じく、頭の出来栄えが悪い、後漢書の作者が、魏志倭人伝を読み混乱し、会稽東治(蘇州を第一候補とする揚子江デルタの何処か)を会稽東冶と書き換えた」
という物事の根拠は、前回のスレッドに書いたよ。
理解したければ、日本語学校に再入学しろ。 >>161
倭人伝では夏后少康の子が封じられた会稽の事を書いているがその会稽郡は上海周辺の事だなhttps://i.imgur.com/S1E147M.jpeg >>158
「三世紀中頃には古墳時代が開始していた」という常識だな では訂正しよう、倭人伝は畿内の事を書いていませんので、倭人伝に出てくる邪馬台国は畿内ではありません。 >>164
>倭人伝では夏后少康の子が封じられた会稽の事を書いているがその会稽郡は上海周辺の事だな
なにひとつ根拠のないガセネタを撒き散らす
それが九州説 >>168
今日の畿内説はラベルの低い人が担当のようだな >>166
前方後円墳の元祖は千葉の神門3号
畿内、東海、千葉の3国のアライアンスだな 畿内説には矛盾はないんだから纏向は会稽東治の東にあるってことだろ? >>169
博多近辺や小郡、唐津がもう古墳時代に入っているから 前スレ989
>倭人伝の行程記事が抱えている矛盾は結構大きい
「畿内説を前提にした方が矛盾が大きいが
それは畿内説のせいではなく、魏志倭人伝のせいだ!」というなら
畿内説に都合のいい魏志倭人伝の箇所だけ採用する「史料のつまみぐい」というやつでは?
九州説は距離の誇張以外は辻褄があうから
ほとんどつまみぐいしていない >>137
>畿内説も九州説も矛盾点はあるのよ
だから、矛盾点が無いのは「阿波」だけなのよ。 わははははは @阿波 東京芝の増上寺の横にも前方後円墳古墳があるね、近くの東京タワーも不自然な丘の上に立っているが古墳かもしれないな >>174
「地理情報が間違っている」というのが畿内説だから
「纏向は会稽東治の東にない」が正解 魏志倭人伝の地理情報が間違っているのではない
畿内説が間違っているのだ >>176
>畿内説に都合のいい魏志倭人伝の箇所だけ採用する「史料のつまみぐい」というやつでは?
証拠なし ヤマタイコクキナイセツが、無余に関して現存する最古の記事の頃の会稽について、無知すぎるので、基礎知識を掲載しているホームページを紹介します。
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%B3_(%E8%B6%8A%E5%9B%BD) >>177
畿内説は>5みたいに「邪馬台国時代に文明的な瀬戸内連合が成立していた」とするみたいなんだが
自分は空白の四世紀の原因は
「蛮族の瀬戸内連合が、先進国の九州邪馬台国を破壊して文明が失われたから」と見る
つまり四国も蛮族の内であり、邪馬台国のような
中国と直接交流するような能力もなかったことになるので
阿波説もなかったことになる 東西南北の様子が完全に九州を指してるもんな
どう見ても魏志倭人伝が間違ってるわ
なぜなら奈良が邪馬台国だから
と言う畿内説 >>182
>国宝が一つもない阿波れな国
「邪馬臺国」や王都遺跡があるので、それで十分だ。 わははははは @阿波 >>188
思うのは自由だが県民以外誰も納得していない >>189
お前が心の中で密かに恐れ、納得しているからそれで良いのだ。 わははははは @阿波 つまり畿内は東の倭種の国であり邪馬台国とは関係無し >>187
そんな感じですよねー
「魏志倭人伝は完全な間違いで邪馬台国はないが
当時、畿内政権があった」というなら、まだわかるんだが
「魏志倭人伝は信用できないが邪馬台国は確実にあった」という奇妙な主張が畿内説
「反証可能性」といって、
科学には常に覆る可能性があるものだが、
覆らない前提を持つのは宗教なのでは? ヤマタイコクキナイセツは、無知な者達の妄想でした。 >>197
「阿波」の恐るべき真実に対し、捏造だ捏造だと自分に言い聞かせて、
自説を崩壊された心の傷を舐めている閑古鳥スレ主・物部東遷・大物主・日本書紀バカ。 @阿波 >>187
このように
ただひたすら捏造する九州説 >>198
>日本書紀バカ
磤馭盧島(オノコロ島)は日本書紀に書かれているわけだが、お前も日本書紀バカだなhttps://i.imgur.com/j0eUd54.jpeg >>180
アンチ乙
畿内説に矛盾はないんだから纏向は会稽東治の東にあるんだよ だが、もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg >>201
>やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から
これがデマ >>204
いつも捏造してるのは九州説なんだけどね ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したので、
巻向遺蹟が、何だったかを討論するためのスレッドが、必要になってきたな。そして、スレッドのタイトルは、
破綻した邪馬台国畿内説の研究を活かすスレッド
が良いな。 正々堂々の討論から逃げ回る、ヤマタイコクキナイセツが、アンカーの宛先をわざと、間違えながら、何の反論もない、ただの中傷を発表したな。 >>203
貴方は、
「だが、もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg 」
という真実を、発表しましたね。 纒向とは何か
簡単なことで、北部九州倭国やその中の邪馬台国とは全く別の権力である畿内ヤマト王権の発祥の地 始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A= 畿内説は頭悪いので斜め上行ってるだけ
>404:ウィズコロナの名無しさん:2023/09/19(火) 09:49:12.64 ID:QeaNMTxa0
>考古学で勘違いしている人が多いけど、卑弥呼から何かが始まったわけでは無い
>むしろ邪馬台国の最後の王だったと言った方が近い
>邪馬台国時代は〜3世紀中頃
>卑弥呼時代は2世紀末から3世紀中頃
>3世紀中頃に衰退した文化や風習を調査するべきなんだよ >>201
>磤馭盧島(オノコロ島)は日本書紀に書かれているわけだが
淤能碁呂志摩(おのごろしま)は、古事記 下巻に書かれているわけだが? わははははは @阿波 東治だろうと東冶だろうと関係ないのよね
どっちにしろその東に纏向があるわけだから
纏向は世界のどこにでも存在するし、それはあなたの心の中かもしれない 会稽東治と会稽東冶では南北にだいぶ離れてるからね
会稽東治の東だと九州本島だが、会稽東冶の東だと那覇近辺になる >>204
いつも捏造してるのは九州説なんだけどね 畿内説は命題を勘違いしてるんだよな
「倭人伝に記される邪馬台国はどこか」という命題のはずが
「倭人伝に記された3世紀中盤の時点で最大の国はどこか」という命題にいつのまにかすり替えて、その命題を示そうとしてる
で、その「最大の国は畿内にあった」という命題さえ畿内説は証明できてない、という状態
負けに負けを重ねてるのに議論をずらし続けて逃げ回ってる >>220
どちらだろうとその東にあるのが纏向
なぜなら畿内説には一点の矛盾もないから 東治問題は反論出来ない畿内説の負け確定でよろしいな >>225
>どちらだろうとその東にあるのが纏向
>なぜなら畿内説には一点の矛盾もないから
本当に東にあったら「地理は間違いだ」という畿内説と矛盾するよ むしろ、ヤマタイコクキナイセツには、反論できることは、一切ないな。
木製鐙。無鉄器と蛙の骨。少住居。建物Dの切り合い関係。抱朴子。以北。南至。東治。淮南子天文訓。空気シャワー。。。。 >>227
>東治問題は反論出来ない畿内説の負け確定でよろしいな
いくら反論されても無視して証拠を出さずに結論だけ言い張る九州説の負け >>228
倭人伝は間違いだらけ
畿内説に当てはまらない箇所は基本的に間違いだと見ていい >>222
まったく証拠を出さずに言い張り続ける九州説の負け >>229
ズレやすい交差編年。卑弥呼の塚の大きさ。奴国⊂女王国。 >>223
全然違うよ
東治だと江蘇省や浙江省
東冶だと福建省
ずいぶん離れている >>1
貴方は、全く証拠を出さずに言い張り続けるだけですね。 >>222
しかも3世紀から何かが始まったと勘違いしてる
卑弥呼時代はもともとあった邪馬台国の倭国大乱が終わり、国を立て直してた時代
あたかも卑弥呼が邪馬台国を作ったかのように勘違いしてる畿内説は頭おかしい 2世紀の畿内には邪馬台国の痕跡が無い、あるならエビデンスを >>234
そういうウソばかりついてると、九州説がみじめになるだけだよ >>239
九州説さん
無いと主張するなら、そのエビデンスが必要だよ 逃げ回るヤマタイコクキナイセツ。
0241日本@名無史さん
2023/09/19(火) 10:33:53.02
>>234
そういうウソばかりついてると、九州説がみじめになるだけだよ >>242
無いことは証明できない
あると主張するほうがエビデンスを出す必要がある 奥山氏が、誰かに、「悪魔がいないことを証明しろ。」という、頭の出来栄えが悪い者の台詞を吐いたな。 エビデンスを出せない畿内説の負け確定でよろしいか? 2世紀ならば、木製鐙時代からは、300年前なので、近畿第4様式時代だよ。 >>249
奈良は、池沼だらけなのでは、ないのかな。 ヤマタイコクキナイセツが、逃げ回っている物事のリスト(仮)
木製鐙。無鉄器と蛙の骨。少住居。建物Dの切り合い関係。抱朴子。以北。南至。東治。淮南子天文訓。空気シャワー。ズレやすい交差編年。卑弥呼の塚の大きさ。奴国⊂女王国。 >>251
九州の土器が出ないという致命的な矛盾もあるな 畿内説「3国のアライアンス!」
俺「はいはい畿内、東海、千葉の3国な」 ヤマタイコクキナイセツが、逃げ回っている物事のリスト(仮)
木製鐙。無鉄器と蛙の骨。少住居。建物Dの切り合い関係。抱朴子。以北。南至。東治。淮南子天文訓。空気シャワー。ズレやすい交差編年。卑弥呼の塚の大きさ。奴国⊂女王国。九州の土器が出ないという致命的な矛盾。 逃げ回ってるのは九州説なんだけどね
証拠出せずに逃げ回ってる 狗邪韓国拠点の天物部が遠賀川エリアに渡来して物部氏になりさらに畿内に渡来してニギハヤヒ政権を立てた >>252
>九州の土器が出ないという致命的な矛盾もあるな
どこが矛盾?
何と何が矛盾してる?
こう聞かれても、また九州説は答えずに逃げるだろうね
九州説は逃げ回りの負け犬キャンキャンだから 遠賀川エリアは博多エリアの配下にあったが自立
博多湾原の辻ルートではなく
宗像沖ノ島ルートをつかって狗邪韓国と交易
物部はヤマト王権と結び遠賀川エリアはヤマトの支配下となる >>257
都ではなく、倭種の国の霊園ってとこだな
古墳建造が無い時は無人の広場だから市を開催したりしてた >>257
このように
結論だけ言い張るけど理由をまったく言わない
それが九州説 3国のアライアンスという珍説をひり出さないと正当化できないわけだろ?
九州の土器がもし見つかってたら3国のアライアンスなんて珍説を強弁しなくて良かったのにな
残念だったな 畿内説は無能考古学者と桜井市教育委員会とメディアの三国アライアンスで成り立ってます このように
根拠の無いことだけ言い張る
それが九州説 壱岐原の辻遺跡の興隆と衰退を見ると一大率の機能が腹の辻から伊都国に移動してることがわかる
で、さらにヤマトの遠賀川沖ノ島ルートの開拓ともリンクしてるのがわかるのよ
つまり伊都国で一大率に監視されたくないから遠賀川ルートが発展したわけよ
あれは税関みたいなものだから
持ち物チェックされて税金払わされるわけでしょ?
そんなのバカバカしいから遠賀川沖ノ島ルートを開拓したと 毎日新聞は捏造事件で叩かれた考古学界がまた捏造する事は無いだろうとたかを括ってたはず
言いくるめられて非論理的な内容を報道してきたという事にも気づいていない
一部気づいてるかもしれないが所詮低学歴よ ん?邪馬台国連合は北部九州をエリアに含んでたんだろ?
で、その都が纏向なんだろ?
纏向で属国エリア各地と交易してたんだろ?
でも?でも?
その纏向から東海、吉備、千葉の土器は出るのに九州の土器は出ないんだろ?
あれあれおかしいな
邪馬台国連合は北部九州を属国にして、さらに海外とも交流してたんだろ?
おかしいなおかしいな
なんでかな?笑 >>268
2世紀の畿内に邪馬台国の痕跡はあるのか? >>259
九州が畿内の支配下にあったのなら
九州から土器を使って年貢や交易の品が運ばれた筈
つまり九州は畿内の支配下にはなかった、別勢力ということになる。 >>271
この矛盾を畿内説くんはどう説明するわけ? >>269
>つまり伊都国で一大率に監視されたくないから遠賀川ルートが発展したわけよ
馬鹿だな
近道だろ
ほんと九州説って頭悪っ 沖ノ島なんて小さい無人島を中継地点にしたくないだろ普通に考えたら 九州で畿内の土器が出る理由
鉄もねえ、絹もねえ、生まれてこのかた見たことねえ
毎日古墳作りでぐーるぐる
オラこんな村いやだ~ オラこんな村いやだ~
オラ土器に桃と蛙入れて九州さ行ったら鉄のやじり買うだ〜 >>141
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに、
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w 普通は壱岐ルートだよ
沖ノ島なんて小さい無人島を中継地点には選ばない
食料補給することもできないだろう
有人島で村がある壱岐なら休憩も食料補給もできる 「近道だから」とか言ってるやつは船旅したことないんだろうな >>278
>近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに、
>中国地方をすっ飛ばして
それはあなたの主張
つまり、あなたの主張がおかしいだけ >>1
それはあなたの主張
つまり、あなたの主張がおかしいだけ さあ、畿内説が歴史捏造事件で終えるか、考古学者が頭悪すぎた事件で終えるのか、二択になってしまいましたね 石野が修正した纒向学研究記載の論文を見ると、纒向の外来土器の上位は吉備25%、東海20%、河内20%、山陰・北陸17%となっている
つまり纒向の初期ヤマト王権の主な交流範囲は、近隣の河内プラス四道将軍派遣範囲ということだ
初期ヤマト王権の交流範囲に北部九州は基本入っていない
大陸と外交した北部九州倭国と畿内ヤマト王権は並立する別の国、別の権力だったということだ >>276
>沖ノ島なんて小さい無人島を中継地点にしたくないだろ普通に考えたら
「中継地点だ」って、誰が主張したの? >>284
>並立する別の国、別の権力だったということだ
ところがどっこい、
単に倭人(阿波勢力)の進出地だったということだ。 わははははは @阿波 >>264
>石野が修正した纒向学研究記載の論文を見ると
チョンボ関川は築紫型庄内甕が識別出来なかった >>264
>石野が修正した纒向学研究記載の論文を見ると
チョンボ関川は築紫型庄内甕が識別出来なかった >>1
ヤマタイコクキナイセツには、証拠どころか、直感的な理由も無いな。
残っているのは、邪馬壹(or臺)と大和のダジャレだけでは、ないのかな。 >>287
関川が悪い!関川が間違えたんだぁ!
断末魔の叫びやん >>293
九州説が間違いだという事実の指摘なんだが >>289
>ヤマタイコクキナイセツには、証拠どころか、直感的な理由も無いな。
このように
証拠の示せない主張だけするのが
九州説 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 奥山氏が、僕達に、「「ヤマタイコクキナイセツの証拠や、直感的な理由」という、悪魔に例えることも出来る物事がないことを証明しろ。」という、頭の出来栄えが悪い者の台詞を吐いたな。 >>1
おい、奥山氏よ。
「ヤマタイコクキナイセツの証拠や、直感的な理由」という、悪魔に例えることも出来る物事を、貴方が、示してみせろ。 都合の悪い事実に対してすぐ「間違いに違いない」と思っちゃうのやめたほうがいいぞ 関川氏が外来土器を分類
↓
石野氏が再チェック
石野氏の再チェックで一部間違いは見つかったものの
九州系の土器はやっぱり見つかりませんでした!笑
畿内説終了 >>299
三世紀中頃には古墳時代が始まっていたという学問的常識 関川氏と石野氏という畿内説の重鎮がダブルチェックしてもやっぱり九州系の土器は見つからなかったんだね
完全終了で笑う >>304
倭人伝に前方後円墳の記述があったのかな?
倭人伝と関係ない事項上げても何の証拠にもならないんだが笑 >>304
魏志倭人伝には邪馬台国が前方後円墳を作っていたという記述は無いので証拠にはなりません 3世紀に古墳時代が始まっていたことを証明できたとして
それが倭人伝に記された邪馬台国とどう関係あるかロジックがつながってないのよ
「纏向学」として勝手にやっといてね笑 >>313
九州から畿内の土器が出たのは納税の証拠かもしれんね 海を越えて納税の義務を果たすなんてかわいいもんじゃないか 4世紀の巻向、つまり、崇神天皇や垂仁天皇は、納税者だったのだろうか。 >>311
古墳時代の意味がわかってりゃロジックも分かるだろ 初期古墳は日本の限られた部分で局地的に作られ始めただけで
箸墓の年代を遡らせてもそれで倭国全体のムーブメントがそこで始まったことにはならんだろ
そもそも墓の巨大化は出雲の四隅からだし 畿内説論者はなぜか出雲の四隅を「古墳ではなく墓」と謎の分類をして畿内を古墳時代のはじまりとしようとしてるけど根拠がまったくない恣意的な分類
その間には双方中円が吉備にできてる 古墳と言えるのは前方後円墳だけ!それ以前のものは墓!
という宗教的政治的な発想で分類してるから学問じゃないんだよね >>305
>関川氏と石野氏という畿内説の
関川は九州説
そして無能 >>323
>畿内説論者はなぜか出雲の四隅を「古墳ではなく墓」と謎の分類をして畿内を古墳時代のはじまりとしようとしてるけど根拠がまったくない恣意的な分類
そう思ってる学者はいない
分類の理由を知ってるから ついに「ボクチンに都合が悪いことを言うやつはみんな九州説!」とか言い出した
カルト宗教の末期信者やん 箸墓が古墳で吉備の双方中円が古墳じゃない理由は?笑 ヤマタイコクキナイセツを宣伝する係員の奥山氏が、可哀想になってきたな。 Q古墳と墓の違いは?
A古墳時代に作られたのが古墳、それ以前のものは墓だよ
Q古墳時代の開始の基準は?
A古墳が作られ始めた時期を古墳時代の開始としているよ
俺??? >>321
>初期古墳は日本の限られた部分で局地的に作られ始めただけで
証拠は? 那珂八幡古墳は纒向の模倣ではなく独自型なので、日本海ルートや瀬戸内海ルートの貿易を活発に行う博多の首長も西日本の首長層に流行った前方後円墳ブームに早い段階で乗っかったということだな
遠くて海もない奈良盆地の支配下にあった訳ではない >>334
どことどことどこで古墳が作られ始めたん?
そこが畿内の属国エリアになるけど
九州が入ってないならアウトだな あからさまになんでもかんでもパクってウリナラ起源を唱える半島系畿説w 弥生時代は弥生土器が出土する時代だしまあ昔からそのレベルではある 取り敢えず古墳の有無が邪馬台国比定の根拠にはならないのだから
畿内説の人は古墳以外のエビデンスを挙げて下さい >>344
>取り敢えず古墳の有無が邪馬台国比定の根拠にはならないのだから
理由は? >>335
那珂八幡古墳の3世紀前半(北部九州TB期新相)には
まだ前方後円墳ブームというのはない >>335
>那珂八幡古墳は纒向の模倣ではなく独自型なので、
間違い
纒向型から定型化する途上ね
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png >>341
2世紀の畿内に邪馬台国の痕跡はあるのか? ヤマタイコクキナイセツは、古墳時代の開始時期が3世紀である空想世界でも、成り立たないのだろうか。 >>346
>那珂八幡古墳の3世紀前半(北部九州TB期新相)には
初期古墳は3世紀前半だけじゃないんだが? >>351
ヤマタイコクキナイセツは、古墳時代の開始時期が3世紀であるという、完全に破綻した前提で討論しても、
論破されそうになってきたな。 >>343
千葉が最古の前方後円墳らしいからこのエリアが千葉の支配下ってことになるのか >>355
>千葉が最古の前方後円墳らしいから
根拠なし >>352
庄内式期の那珂八幡古墳より前は纏向古墳群でも纏向石塚古墳くらい >>354
何者か達と奥山氏の古墳についての討論会を傍聴しただけでも、やはり、
「前方後円型物体という、社会の一要素に過ぎない物事をもってしても、巻向が、九州に影響を与えたことは、証明できない。」
ことが、解るな。 ヤマタイコクキナイセツという泥舟が、沈み始めたな。 2世紀の畿内には邪馬台国の痕跡は無いと言う事でよろしいか? やはり、卑弥呼と奴隷100人分の、101基の、径100余歩の墓場は、やはり、前方後円型物体とは、無関係だよ。 >>356
箸墓が最古だという根拠もないわけだろ? 箸墓は最古の前方後円墳ではなくて、
最古の定型化された巨大前方後円墳 邪馬台国とは関係のない古墳学としてやってるならわかるけど
邪馬台国と何も関係ないことを一生懸命がんばっても畿内説の補強にはならんよな >>348
纒向よりも進化形を博多で作ったのだから纒向の模倣ではない 邪馬台国って畿内にあったん?そもそも
なかったんじゃね? ヤマタイコクキナイセツのショウコは、女奴隷1000人の20年分の古糞。 まだ弥生墳丘墓よりはるかに大型で特異な形状の前方後円墳が各地に造られていない時期に
畿内と博多が密接な交流関係であるということ
最初の定型化された箸墓以降西日本各地に前方後円墳が造られるということ >>372
同じものだという根拠がなければ別物と判断せざるを得ないだろう >>370
>纒向よりも進化形を
纒向よりも進化形だって証拠は? >>374
北部九州邪馬台国が狗奴国との争いを制して畿内に東遷したってことだろ? >>376
上から見た図ばっか気にしてるけど
墓制で大事なのってむしろ石室や槨だろ >>370
まだ段築、葺石がない段階だから進化形ということではなくて、
不成形な段階 大雑把に言えば、3世紀半ばくらいから西日本の首長層に流行ったのが前方後円墳、東日本の首長層に流行ったのが前方後方墳 >>372
2世紀の畿内には邪馬台国の痕跡は無いと言う事でよろしいか? 結局発掘してないから石室の形状が不明で
それゆえ自由に想像を働かせて(笑)元祖だ元祖だ言ってんだろ? いずれにしろ前方後方墳は畿内ヤマト王権を含めた西日本首長層ネットワークを示すものではあるが、魏志倭人伝に書かれていないので邪馬台国の根拠には全くならない
むしろ纒向が邪馬台国だったのであれば、箸墓より古い、すなわち卑弥呼存命中に存在したはずの纒向石塚古墳が魏志倭人伝に記載されていないのは致命的におかしい >>349
魏志倭人伝に
倭人の王達はは競って大きな塚を作った
みたいな記述があるならそこを君が抜粋して引用すればいいんだよ
でも出来ないだろう?
何故ならそんなものは無いからな。
結論
古墳の有無は邪馬台国比定の根拠にはならない >>377
狗奴国に九州から叩き出された
というパターンもあり得る 畿内で特徴的な巨大前方後円墳や銅鐸への言及が魏志倭人伝には全くない
一方で北部九州に特徴的な鉄鏃・絹・有棺無槨の墓などの記述が目立つ
魏志倭人伝の書く倭国・邪馬台国が北部九州にあったことは間違いなかろう >>385
だが博多には3世紀前半に当時九州最大の前方後円墳があるから >>385
>魏志倭人伝に書かれていないので邪馬台国の根拠には全くならない
魏志倭人伝に書かれていないという根拠は? >>388
それを全部無視して畿内説を成立させるためには墓をゴリ押しするしかないんだよ やはり、ヤマタイコクキナイセツは、巻向遺蹟の年代を100年以上繰り上げても、九州への影響を証明できないので、成立しないのだな。 >>388
>北部九州に特徴的な鉄鏃・絹・有棺無槨の墓などの記述が目立つ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓が北部九州に特徴的
だという証拠は? 九州の頂点である最大経済都市博多は
周りにとても悪い異人種が住み着いて囲まれて嫌がっていた
そこで産物が豊富な本州の最大勢力との政治連合に参加したということもあり得る 奥山氏が、証拠の提出を要求しているが、証拠を提出しても、次は「それは、嘘だ。」と言い放ち、奥山氏は、逃亡するよ。 >>393
絹
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 ヤマタイコクキナイセツの討論の方法のリスト(仮)
1.周知の物事の証拠の提出を要求する。
2.提出された、周知の物事の証拠を、反論せず、ただ嘘だと言い放ち逃亡する。
3.悪魔がいないことの証拠を要求する。 ヤマタイコクキナイセツの討論の方法のリスト(仮)
1.周知の物事の証拠の提出を要求する。
2.提出された、周知の物事の証拠を、反論せず、ただ嘘だと言い放ち逃亡する。
3.悪魔がいないことの証拠を要求する。
4.テンプレートに、証拠のない意見を書く。
5.証拠や質問の回答を要求されると「テンプレートに書いてある」という嘘をつく。 ヤマタイコクキナイセツは、完全に破綻し、💩だけ、残ったよ。 >>400-402
ほら
九州説は全く証拠が出せない 畿内説の長考の時間切れの為、2世紀の畿内には邪馬台国の痕跡は無いと言う事が確定しました。 ヤマタイコクキナイセツの討論の方法のリスト(仮)
1.周知の物事の証拠の提出を要求する。
2.提出された、周知の物事の証拠を、反論せず、ただ嘘だと言い放ち逃亡する。
3.悪魔がいないことの証拠を要求する。
4.テンプレートに、証拠のない意見を書く。
5.証拠や質問の回答を要求されると「テンプレートに書いてある」という嘘をつく。
6.都合の悪い事は徹底的に無視する。 前方後円墳という考古学用語は江戸時代の国学者、蒲生君平の山陵志の中の宮車模倣説が起源だが
3世紀には宮車(御所車)は無いし、鍵穴形も無い
当時では壺の形であり、神仙思想では東方絶海の中にあって仙人が住むのが三神山(三壺山)であり
神仙思想を取り入れたのが張陵によって創始され,張衡,張魯に継承され鬼道と呼ばれた初期道教であり
神仙界を図象化したのが2世紀に広漢で成立し銭塘江系と華北東部系に移った神獣鏡
曹操軍の中核は初期道教の一派の太平道の青州黄巾軍 >>395
>書いてあるならそこを引用してみてよ
卑弥呼以死、大作冢径百余歩 ヤマタイコクキナイセツは、もはや、撃退するべき物事ではなく、笑いリラックスのための物事だよ。 >>407
九州説撃退のマニュアルは要らないね
「証拠を出せ」のひとことで駆除できる >>409
それが全国に広がった、とはどこにも書いてないな >>409
前方後円型だったとはどこにも書いてないな >>413
>前方後円型だったとはどこにも書いてないな
径百余歩もある冢は前方後円型だけだよ 奥山氏が、可哀想になってきたな。魏志倭人伝には、大きな塚については、一切、書かれていないよ。
卑弥呼以死、大作冢。 径百余步、殉葬者百余人。
卑弥呼、死を以て、大いに塚を作る。
径百余步に殉葬する者百余人。 >>409
殉葬者百人をあえて削る誤魔化しをしてるな
そして殉葬者百人の痕跡も伝承も箸墓にはないな >>418
頭の出来栄えが、普通の者ならば、言語脳に心地良い表現だね。
■百余■、■■■百余■。 殉葬者百人については?大袈裟に書いてるだけだから無視していいと?
だとしたら径百余歩も大袈裟に書いてるだけだから無視していいよなw >>419
>殉葬者百人をあえて削る誤魔化しをしてるな
必要ないから >>423
都合の悪いことは隠蔽するってのが畿内説の基本的な態度ということをお前自身が証明したな >>422
>だとしたら径百余歩も大袈裟に書いてるだけだから
という理由は? >>426
ん?箸墓から殉葬者何人見つかったん?
見つかってないなら矛盾だな 巻向の年代を100年以上繰り上げても、前方後円型物体は、魏志倭人伝とは、完全に無関係でした。 >>428
>ん?箸墓から殉葬者何人見つかったん?
必要なし 箸墓
径百歩→△
殉葬者→✕
当てはまらないなあ笑 >>433
都合の悪い部分は倭人伝の間違い!
まーた子供の言い訳か 径百余歩の記述は絶対視して「当てはまるのは箸墓だけ!」と言うくせに
殉葬者百人の記述は「うん…別に…当てはまらなくてもいいんじゃね…」
卑怯者の論法なんだな畿内説ってのは 畿内説の長考時間切れの為、2世紀の畿内には邪馬台国の痕跡は無いと言う事が確定しました。異議があるなら痕跡を出してね 殉葬者百人の記述を無視していい理由は?
径百余歩の記述は無視してはいけない理由は?
根拠持って説明できないだろ? >>439
>殉葬者百人との記述と矛盾してんな
矛盾してるという理由は? 径百余歩の記述に当てはまるのは箸墓だけ!
ん?殉葬者百人の記述は?なんで勝手に無視してんの? >径百余歩の記述に当てはまるのは箸墓だけ!
ここツッコムところだが 倭人伝「径百余歩、殉葬者百余人」
畿内説「径百余歩は重要な情報!殉葬者百余人は無視してよし!」
どういう解釈なんだこれw
都合好く「ここは考慮しなくて良し!」とか言い出したらどこにでも邪馬台国を比定できるだろっていってんだが >>442
>殉葬者百人の記述を無視していい理由は?
検証が不可能だから
>径百余歩の記述は無視してはいけない理由は?
検証可能だから 東の海の先に倭種の記述も勝手に無視してるからな畿内説はw >>450
え?カエルの骨は出るのに?殉葬者の骨は出ないの?笑
あ!カエルが殉葬者だったんだ!
人じゃなくてカエルを埋めたのか!笑 カエルの骨は出るけど殉葬者の骨は出なくていいの!
まーたすごい論法出してきたな笑 東の海の先に倭種の記述とも矛盾してるしな
そこも「それは倭人伝の間違いだから無視していいの!」とか言って逃げてるw
カスの理屈やんけw >>455
殉葬の記述は大袈裟に書いただけってこと?
じゃあ径百余歩の記述も大袈裟に書いてるだけかもしれないから無視しても大丈夫だな笑 2世紀の邪馬台国の痕跡は寺澤薫が50年探しても出てこなかった。 径百余歩は大袈裟に書いてない!
でも殉葬者百余人は大袈裟に書いてるだけだから無視していいの!
持論に合わせて都合好く解釈する態度が常態化してないと出てこない言い訳だよなこれ笑
学問未満の駄文だよ笑 >>456
>東の海の先に倭種の記述とも矛盾してるしな
>そこも「それは倭人伝の間違いだから無視していいの!」とか言って逃げてるw
ほら
九州説がまた捏造した >>457
大袈裟ではなくて、日本では一つも見つかっていない >>463
え?「東の海の先に倭種」を畿内説は説明できないだろ?
説明できるなら言ってみ? >>461
>径百余歩は大袈裟に書いてない!
>でも殉葬者百余人は大袈裟に書いてるだけだから無視していいの!
>持論に合わせて都合好く解釈する態度が常態化してないと出てこない言い訳だよなこれ笑
ほら
九州説がまた捏造した
反学問の詐欺だよ笑 >>464
>いやあるぞ
ほら
また九州説が証拠なしで言い張る >>455
じゃあ卑弥呼の墓の候補は存在しない
それだけの事だろ >>455
じゃあ卑弥呼の墓の候補は存在しない
それだけの事だろ >>451
>痕跡を提示して反論出来ないのはなぜ?
その必要がないから 祇園山古墳
墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。
墳裾外周の埋葬施設群は、方墳とほぼ同時期に造られた甕棺墓を最古として、石蓋土壙墓・箱式石棺墓・竪穴式石室墓へと墓制が時期差を持って変遷しており、墓制・遺物の検討からおよそ半世紀ほどの期間で造営された集団墓と考えられている。また、このような大型の主墳の墳裾に複数の小型埋葬施設が従属的に造られる事例は、祇園山古墳以外にも久留米市の七曲古墳群(旧・放光寺古墳群)や岡山県赤磐市の用木古墳群など、各地で見られる。
卑弥呼の墓説
古代日本では、『魏志倭人伝』や『記紀』の中に殉死・殉葬に関する記事が見られるものの、実際の弥生墳丘墓や古墳において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。福岡県糸島市平原遺跡の3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六の見解もあったが、殉葬溝とは見なさず、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみを殉葬墓とする意見がある以外は全て追葬墓と見なされている。祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、半世紀ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている。 >>471
>じゃあ卑弥呼の墓の候補は存在しない
ほら
また九州説が理由なしで断定する この考えは、良い閃きだ。悔しいが、全く考え付かなかった。
0454日本@名無史さん
2023/09/19(火) 14:50:50.24
カエルの骨は出るけど殉葬者の骨は出なくていいの! 返答出来ないので2世紀の畿内に邪馬台国の痕跡が無い事が確定したな >>467
>畿内説はウソと誤魔化しの研究所
ほら
また九州説が理由なしに中傷する >>468
径100歩の距離についても議論はあるし
前方後円墳は中国では見られない特異な形状の墓だからそれに言及しないのもおかしい。
付け加えるなら径100歩の墓である
というのは卑弥呼の墓の必要条件の1つでしかなく
充分条件にはなっていない。
卑弥呼の墓であると比定するためには殉死100人の痕跡が必要。
ちなみに邪馬台国比定の際に必要なのは卑弥呼の古墳の有無だけなので
畿内に巨大な古墳が幾つあるかとかは完全に無関係
ちなみに倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は
そもそも倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼とは100%別人なので
完全に邪馬台国とは無関係 「方墳とほぼ同時期に造られた甕棺墓」
殉葬墓と確定してはいないだけで魏の使者が見たら殉葬だとみなしただろうな >>465
>え?「東の海の先に倭種」を畿内説は説明できないだろ?
>説明できるなら言ってみ?
伊豆七島や南関東への航路がこれに該当しうる >>474
魏の使者が見たら「殉葬」とみなしただろう 祇園山古墳の殉葬跡に畿内説くんだんまり
日田だんまり古墳w 「前方後円型物体は、ヤマタイコクキナイセツの証拠なのだ。」と宣伝していた奥山氏の元気が、次第に、無くなってきたな。 >>484
畿内説くん珍説「倭種の国は伊豆七島!」 >>490
そもそも、巻向の前方後円型物体は、抱朴子より新しく、木製鐙より少しだけ古い時代に、出現したよ。 >>477
>理由は?
殉葬者はどこに埋葬されたのか、それ以前に埋葬されたか否かも倭人伝で確認できない
また箸墓は発掘できない
周囲の周堤帯は耕作された私有地や大きな溜池で調査ができない
周囲が墓域であれば破壊されている可能性が高い
したがって明かに検証不可能なので、検討する価値がない >>489
>祇園山古墳の殉葬跡に畿内説くんだんまり
うそ
否定済み 伊豆諸島や南関東には、軽く笑いリラックスだな。
つまり、ヤマタイコクキナイセツは、東を南に換え、都合よく、また、東に戻すのだな。 >>484
伊勢のあたりに邪馬台国を比定しないと成立しないだろそれは >>483
>殉葬墓と確定してはいないだけで魏の使者が見たら殉葬だとみなしただろうな
見ない
甕棺の年代から言って3世紀末〜4世紀初頭のもの 纏向は伊勢までつながる巨大遺跡だからセーフなの!東に海はあるの! 畿内説くん「東の海の先の倭種の国は伊豆七島!南関東!」
邪馬台国三重県説でも唱えとけや笑 >>499
>伊勢のあたりに邪馬台国を比定しないと成立しないだろそれは」
理由がない >>505
>なら箸墓は4世紀だな
箸墓から甕棺は出ていない >>498
アンカ間違ってるだろ
>>477 への回答として適切 >>514
当時は周濠が掘られて30年以内といっていたな >>513
2世紀の事を聞いているのに箸墓も殉葬も関係ないだろ >>515
>当時は周濠が掘られて30年以内といっていたな
言っていない
デマ 甕棺は九州では弥生前期からあるんだが
何か勘違いしてるな畿内説くんは 箸墓大古墳の周濠の、20年間分程の堆積した層から、布留一式土器と一緒に、5世紀まで他に確認されていない、木製鐙が、発見されました。 ヤマタイコクキナイセツは、空想科学小説としても、危うし。 大阪人の筑後説は九州の考古知識はほとんどないだろうが、
祇園山集団墓地裾の甕棺は在地系最終期のUC期
博多の方形周溝墓の周溝隅に埋められたのと同じ 奥山氏が、ズラせることを科学的に否定できない編年のことを、持ち出したな。 >>1
質問します。
謎の在地系最終期のUC期という物事の始点と終点は、何時で、そのそれぞれの理由は、何ですか。 では、どの部分が、デマですか。
0526日本@名無史さん
2023/09/19(火) 16:04:23.96
>>521
はい
九州説さんデマおつ ヤマタイコクキナイセツが、謎の少年に、追い詰められてしまったな。 >>526
>では、どの部分が、デマですか
全部
だってソースないでしょ?
つまり捏造ってこと ヤマタイコクキナイセツの討論の方法のリスト(仮)
1.周知の物事の証拠の提出を要求する。
■■2.提出された、周知の物事の証拠を、反論せず、ただ嘘だと言い放ち逃亡する。
3.悪魔がいないことの証拠を要求する。
4.テンプレートに、証拠のない意見を書く。
5.証拠や質問の回答を要求されると「テンプレートに書いてある」という嘘をつく。
6.都合の悪い事は徹底的に無視する。 ヤマタイコクキナイセツが、謎の少年から逃亡したな。 また奥山がニュース板を荒らしてたよ
>616:ウィズコロナの名無しさん:2023/09/19(火) 16:14:08.31 ID:z9PtFDWX0
>畿内説のソース=学者が書いた論文や文献
>九州説のソース=邪馬台国の怪とかいう同好会や素人のブログ >>1
繰り返し質問します。
謎の在地系最終期のUC期という物事の始点と終点は、何時で、そのそれぞれの理由は、何ですか。 >>1
繰り返し質問します。
謎の在地系最終期のUC期という物事の始点と終点は、何時で、そのそれぞれの理由は、何ですか。 ヤマタイコクキナイセツの討論の方法のリスト(仮)
1.周知の物事の証拠の提出を要求する。
■■2.提出された、周知の物事の証拠を、反論せず、ただ嘘だと言い放ち逃亡する。
3.悪魔がいないことの証拠を要求する。
4.テンプレートに、証拠のない意見を書く。
5.証拠や質問の回答を要求されると「テンプレートに書いてある」という嘘をつく。
■6.都合の悪い事は徹底的に無視する。 >>538
畿内説マニュアルの6番を行使中のようだね >>534
このように
毎日のように作り話をする
それが九州説 >>534
このように
毎日のように作り話をする
それが九州説 手が震えてるから連続投稿してしまうのですね
わかります 謎の少年に追い詰められた奥山氏が、プルプル震えているな。 >>1
繰り返し質問します。
謎の在地系最終期のUC期という物事の始点と終点は、何時で、そのそれぞれの理由は、何ですか。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! ヤマタイコクキナイセツは、無知と捏造で、作られました。 径百余歩←邪馬台国比定の絶対条件!
殉葬者百余人←無視していいよ
なぁぜなぁぜ? 径百余歩、殉葬者百人
↑里数と同じで実際よりも大袈裟に水増しして書いてるだけ
実際は径30メートル、殉葬者10人がいいとこだろう
ということで当てはまるのは祇園山古墳やろな とうとう唐古鍵が本命だとか言い出したw
>650:ウィズコロナの名無しさん:[sage]:2023/09/19(火) 16:54:19.51 ID:IgSj0Obn0
>>>640
>だから畿内説の本命は唐子・鍵遺跡 ヤマト王権が採用していない銅鐸製造、その拠点が邪馬台国とかありえへんやろ ヤマタイコクキナイセツを宣伝している奥山氏のおかげで、毎日、笑いリラックスできるので、良いな。 奥山の捨て台詞はいつも決まってる
20種類も無いんじゃね?w
>675:ウィズコロナの名無しさん:2023/09/19(火) 18:02:17.33 ID:z9PtFDWX0
>九アノンにとって学者は敵、学問は障害物 奥山氏が、ニュースの掲示板にも、出現しなくなったな。 奥山氏は、ニュースの掲示板で、鬘を被っていることを、バラされたのだろうか。 おい、プロ固定、出現して、スレッドを活発化しろ。
解雇だぞ。 >>549
明確な回答があっても聞こえないフリをする
それが嘘つきの宗教九州説 >>550
>径百余歩、殉葬者百人
>↑里数と同じで実際よりも大袈裟に水増しして書いてるだけ
>実際は径30メートル、殉葬者10人がいいとこだろう
主張にまったく根拠がない
それが九州説
ということで当てはまるのは祇園山古墳やろな >>561
え?じゃあ箸墓は殉葬者百余人見つかったの? おい、プロ固定、もっと勉強してから、意味のある意見を発表し、スレッドを活発化しろ。
解雇だぞ。 箸墓から殉葬者が見つからない矛盾をどう説明するんだ?笑 箸墓が卑弥呼の墓、纒向が邪馬台国だったと仮定しよう
そうすると、卑弥呼存命中に既に存在したはずの巨大前方後円墳(少なくとも纒向石塚古墳があったはず)のことを魏志倭人伝はなぜ一言も書いてないのか
中国に存在しない珍しくて一番目立つものを書かなかったのはあまりにも不自然だ
やはり纒向が邪馬台国だという仮定が間違っているとしか考えられない 1000人の奴婢が進んで働き、昼はヒトが造り夜は神が造ったとされ、隋代まで一番の影響力を築いた女王だぞ。列島初代思想指導者だよ。
墓に一緒の訳がないだろ、畏れ多い。
死を哀しみ殉教したものが約100人はおったという話だ。
陳寿の時代に殉教という言葉はない。
殉教者は片付けるわ。五斗米では中華でも後追いの事例はある。
また、伊万里一万里、そっから2000里、800キロ、大体あってる。方角は隋書にて修正されてる。問題無し。
卑弥呼は217年以降列島に現れたとしているので邪馬台は3世紀以降であり、2世紀に邪馬台なぞない。全て辻褄は合う、なんせ我輩の比定者は本人だからな。 >>569
貴方は、ヤマタイコクキナイセツを宣伝しているプロ固定に、発破をかけたな。 そもそもヤマト王権・大和朝廷は歴史的に中国帝国をあまり恐れていない
やはり大陸から地理的に遠いことが影響しているだろう
聖徳太子が隋の皇帝と日本の天皇を共に天子と呼んで同格に扱ったのは、隋が畿内まで攻め込んでくることはないと踏んでいたからであろう(実際に煬帝は非常に不機嫌になったが外交上は友好的な対応をした)
邪馬台国が帯方郡・魏と親密に外交しその冊封下にすんなりと入ったのは、やはり当時の倭国・邪馬台国が大陸と近い北部九州にあったからだろう
畿内と北部九州では、朝鮮半島まで進出してきた中華帝国に対して感じる脅威や危機感が全く違うだろう
魏志倭人伝に書かれた倭国・邪馬台国・卑弥呼の行動は、どう見ても北部九州の勢力ならではのものだ ヤマタイコクは、💩が、支配した國だ。
分かったか。 >>567
>そうすると、卑弥呼存命中に既に存在したはずの巨大前方後円墳(少なくとも纒向石塚古墳があったはず)のことを魏志倭人伝はなぜ一言も書いてないのか
>中国に存在しない珍しくて一番目立つものを書かなかったのはあまりにも不自然だ
一番目立つものじゃないから自然 >>565
>箸墓から殉葬者が見つからない矛盾をどう説明するんだ?笑
矛盾だという理由は? >>576
魏志倭人伝の記述と異なるから箸墓は卑弥呼の墓ではない
魏志倭人伝の記述とはことなるが箸墓は卑弥呼の墓だと主張するのは矛盾している。 石塚は二分の一、卑弥呼より先に亡くなった幹部もおるだろ。横槌が出とるから繊維を扱う幹部であったかも知れん。そもそも中華は前方後円墳を不思議な形と認識していないであろう、卑弥呼の墓は冢と記してるから見ていたら石塚も冢と思ったであろうな。 卑弥呼の墓は冢と認識していたのだから巨大前方後円墳の箸墓ではないだろう 少なくとも卑弥呼を鬼道としている中華は前方後円墳を天地と解釈するであろうし、墓は天にあると理解しとるだろ。愚問だ。 >魏志倭人伝の記述とはことなるが箸墓は卑弥呼の墓だと主張するのは矛盾している。
魏志倭人伝の記述と、どう異なるの?
なにと何が「矛盾」しているの? >魏志倭人伝の記述とはことなるが箸墓は卑弥呼の墓だと主張するのは矛盾している。
魏志倭人伝の記述と、どう異なるの?
なにと何が「矛盾」しているの? >魏志倭人伝の記述とはことなるが箸墓は卑弥呼の墓だと主張するのは矛盾している。
魏志倭人伝の記述と、どう異なるの?
なにと何が「矛盾」しているの? おい、h瑛教大祭酒よ。
日本人に校正してもらってから、投稿しろ。 おい、h瑛教大祭酒よ。
日本人に校正してもらってから、投稿しろ。 おい、h瑛教大祭酒よ。
日本人に校正してもらってから、投稿しろ。 おい、h瑛教大祭酒よ。
日本人に校正してもらってから、投稿しろ。 君らは感情論争だな。俺がアラブ人であろうがアメリカ人であろうが同じ事だ。
卑弥呼が中華でないという根拠は全くない。ましてや宇佐秦王国は阿と呼ばれた連中だ、倭人では無い。半島人は受け入れ中華はダメなのか?
3世紀に神仙思想なぞ倭人が独自に生んだりできない。何故畿内巻向箸墓は中華度量衡で北枕なのだ?
ごく普通に結論付ければ、中華の影響は普通のことだ、秋成でさえそう言っとる。 >>586
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」
卑弥呼の墓であるなら100人余りの殉葬者がいなければならない 帯方郡から見て九州は東南で間違いないが、畿内は真東に近い東南東になる
よって、「東南問題」は明らかに九州に有利 >>586
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」
卑弥呼の墓であるなら100人余りの殉葬者がいなければならない 帯方郡から見て九州は東南で間違いないが、畿内は真東に近い東南東になる
よって、「東南問題」は明らかに九州に有利 帯方郡から見て九州は東南で間違いないが、畿内は真東に近い東南東になる
よって、「東南問題」は明らかに九州に有利 帯方郡から見て九州は東南で間違いないが、畿内は真東に近い東南東になる
よって、「東南問題」は明らかに九州に有利 589.君は程度が低いので相手にしたくないのだが、
映倫か?規制をかけたがるタイプだな。つまらん危険な男だな。 >>586
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」
卑弥呼の墓であるなら100人余りの殉葬者がいなければならない 589.君は程度が低いので相手にしたくないのだが、
映倫か?規制をかけたがるタイプだな。つまらん危険な男だな。 >>586
>卑弥呼の墓であるなら100人余りの殉葬者がいなければならない
どこに? >>600
当然殉葬者は居ただろう
記紀を読んだことないのか?ヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降だ、それ以前は殉葬していたということだ 投稿し辛くなってきたな。
完全に論破された奥山氏が、嘘の通報を実行したのだろうか。 >>600
当然殉葬者は居ただろう
記紀を読んだことないのか?ヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降だ、それ以前は殉葬していたということだ >>600
当然殉葬者は居ただろう
記紀を読んだことないのか?ヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降だ、それ以前は殉葬していたということだ 投稿し辛くなってきたな。
完全に論破された奥山氏が、嘘の通報を実行したのだろうか。 投稿し辛くなってきたな。
完全に論破された奥山氏が、嘘の通報を実行したのだろうか。 投稿し辛くなってきたな。
完全に論破された奥山氏が、嘘の通報を実行したのだろうか。 >>600
当然殉葬者は居ただろう
記紀を読んだことないのか?ヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降だ、それ以前は殉葬していたということだ 実は、畿内説の根拠が消滅してるんですよ
素粒子ミューオンで箸墓“透視” - 埋葬施設など内部探る/橿考研など調査
https://www.nara-np.co.jp/news/20200110090536.html
あれから3年以上経過
いまだに結果発表無し(畿内説は都合の悪い結果は一切公表しない事で有名) >>576
ん?箸墓から殉葬が発見されたのか?されてないなら矛盾だろ >>576
ん?箸墓から殉葬が発見されたのか?されてないなら矛盾だろ >>576
ん?箸墓から殉葬が発見されたのか?されてないなら矛盾だろ >>619
>ん?箸墓から殉葬が発見されたのか?されてないなら矛盾だろ
どうして矛盾? >>622
お前らが騒いでた吉野ケ里石棺墓みたいに骨が溶けて分からなくなってるだけ 九州説が記紀を読んだことない事が判明。ヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降だ、それ以前は殉葬していたということだ >>568
>方角は隋書にて修正されてる
はい、ウソいただきました。どのように修正したのか答えろ また、狗奴國泥棒が、人様のスレに出張ってきて、必死だな おいおいなんか幼稚な言い訳してるぞw
> >>622
> お前らが騒いでた吉野ケ里石棺墓みたいに骨が溶けて分からなくなってるだけ >>630
倭人伝「殉葬者百余人」
箸墓からは殉葬の跡は見つからず
はい矛盾 骨はすべて溶けたんです!カエルの骨は残ってるけど!人間の骨は畿内の土壌では溶けやすいんです! >>627.南になってないだろ?ちゃんと魏志倭人伝いうところの邪馬台者は地勢東高西下の奈良盆地となってる。
頭が悪いな。 魏志倭人伝は、ソウルないし平壌にあった帯方郡から、倭国の北端である朝鮮半島南部金海付近の狗邪韓国まで南や東に水行して七千里と書く
そこから初めて海を渡って対馬や壱岐を経由して唐津付近の末盧国に上陸し、今の糸島市にあった伊都国に着く
伊都国から、あるいは少し東に行った不弥国から南に水行陸行して邪馬台国に着く
倭国の北端は狗邪韓国、そこから南に移動して南端が邪馬台国だった(邪馬台国の南は倭国に属さない狗奴国)
倭地を周旋(巡り歩くこと)するに島伝いに渡って五千里とあることから、
狗奴韓国から海や島を経て南に五千里の地に邪馬台国があったことになる
帯方郡から水行七千里で狗邪韓国、狗邪韓国から南に五千里で邪馬台国があったということだ
そして、これは帯方郡から邪馬台国(狭義の女王国)まで一万二千里という記述とも一致する(五千里+七千里=一万二千里)
また帯方郡から伊都国までの合計が一万五百里なので、伊都国から南に水行陸行しておおよそ千五百里のところに邪馬台国は位置した
博多湾側から御笠川→宝満川→筑後川と船で南下して上陸した筑後あたりに邪馬台国はあったことになる
この南に肥後の菊池や熊本あたりに比定される狗奴国が位置していた
(邪馬台国と狗奴国の国境付近の紛争地域と思われる菊池川流域から鉄鏃が大量に出土する)
こうした位置関係は魏志倭人伝の距離や方角を何ら読み替えることなく極めて自然に整合的にプロットできる
当時の中国の認識する倭国は、朝鮮半島南部から対馬海峡を経て筑後邪馬台国までの南北に細長い地域であった
魏志倭人伝に倭国の西に関する記述がないのは倭国が日本列島の西端に位置したからであり、また東には海を渡って倭種の国が存在したとするのも、これを本州や四国と考えれば整合する
魏志倭人伝には、箸墓=卑弥呼の墓とすれば卑弥呼の時代には存在したはずの前方後円墳(纒向石塚古墳)や銅鐸など畿内大和に特徴的な事物の記載が一切なく、鉄鏃・絹・有棺無槨の墓(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述されていることとも考え合わせれば、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国や倭国が北部九州にあったことは明白だ もう、終わったんだよ。
九州の何処に卑弥呼がいて何処に墓があり、なんで隋代に邪馬台者は畿内にいるのよ?
その間の前方後円墳はなんだよ?1つも根拠ある説明できないだろ?
でも不彌国から南の南の九州にいるんだろ?
お話聞かせて。 魏志倭人伝で記述される倭国が、狗邪韓国から対馬海峡を経て伊都国・奴国を経由して筑後の邪馬台国までの南北に長い形状であることは素直かつ丹念に読めば明らかだ
しかしこのことが今の日本人になかなか理解されにくいのは、倭国は今の日本の前身、ないし日本の古い呼び方だという誤った先入観があるからだ
今の日本国のルーツであるヤマト王権は、卑弥呼の統治した北部九州の倭国と同時代、ないし卑弥呼よりも少し後の時代に奈良盆地で発生した倭国とは別の国、別の権力だ
これが婚姻や同盟を駆使して奈良盆地を統一し、畿内で影響力を広め、東海・北陸・丹波・吉備などと密接に交流した
しかしこの王権は初期には北部九州とは殆ど没交渉で、大陸との外交も皆無だった(これらは纒向遺跡の調査から明らか)
大陸と直接交流したのは専ら北部九州倭国であり、日本海や瀬戸内海に繋がる各地の勢力は、貿易都市博多(奴国)を通じて大陸と間接的に交易を行なっていた
この当時すなわち3世紀頃は、後に滅亡する老舗の北部九州倭国と、現在の日本国に繋がる新興の畿内ヤマト王権がそれぞれ独立して並立していたのだ
そこを理解しないから、魏志倭人伝の記述と全く整合しない畿内説などという珍説が一部(関西考古学界など)に蔓延るようなことになる >>643
伊都国を通じて間接的に交易を行っていたのが邪馬台国
つまり邪馬台国は畿内 そもそも、巻向遺蹟には、殉葬者100人分の住居が無さそうだな。 >>640
なぜ矛盾しているか言えないんなら
矛盾なんて無いんですよ? 別政権ヤマトはなんで中華度量衡で北枕なの?
お話聞かせて。 ヤマタイコクキナイセツの脳内では、伊都国を通じて間接的に交易を行っていた邪馬台国は、何を交易で、輸入したのだろうか。 ヤマタイコクキナイセツは、完全に破綻し消滅し、💩が
残ったよ。 ・南投馬国
・南邪馬台国
・邪馬台国の南に狗奴国
・狗奴国から南4000里に侏儒国
・さらにその東南船行1年で裸国、黒歯国
・女王国から東に渡海でまた国があり皆倭種
この問題を解決できない限り、残念ながら畿内説は排除せざるを得ない。
逆にこの問題を解決できれば、畿内説を採用しても良い。 >>634
箸墓の調査なんてしてないのに殉葬されてるか否かなんて分からなくね 卑弥呼の交易目的、曹叡のそなたの好物。の解釈が結構難しいな。1.は卑弥呼から要求した物と捉えているようだしそれなら鏡と剣を求めていたとすると言えるでしょう。我輩は曹叡は理解しているので曹叡のほうから渡したとおもっているわけだ、また、卑弥呼は老子道徳教なので基本的にあるものでこなしましょうだから、信仰に必要なもの以外に求めていたものは何か?はわからんな。
鉄、鉄と騒ぐが卑弥呼が鉄を求めていたなんて書いてはいないな。 むしろ記紀を信じればヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降、それ以前は殉葬していたということ
九州説は記紀など文献史料を完全無視しなければ成立しないのよね 卑弥呼以上のカリスマはえらんから、その後殉教者は出ないだろ、中止にしとかなきゃ立場が無い話だな。 >>655
>逆になんで当てはまると思うんだ?
矛盾なんて無いということで、よろしいですね? >>653
>この問題を解決できない限り、残念ながら
この問題って、なに? ヤマタイコクキナイセツが、殉葬のことでも、完全に論破されてしまったな。 >>661
殉葬のあとは見つかってないなら当てはまってないじゃん むしろ記紀を信じればヤマト王権が殉葬禁止したのは垂仁天皇以降、それ以前は殉葬していたということ
九州説は記紀など文献史料を完全無視しなければ成立しないのよね 当てはまらない記述だらけだな
逆にどうして邪馬台国が畿内だなんて思ったんだ? >>663
径100余歩の墓場の殉葬は、やはり、卑弥呼を守ろうとして、死体になってしまった兵士や女奴隷を、埋めた物事の可能性があるな。 >>666
記紀の大王と邪馬台国がどう関係あるんだ? ぜんぜん当てはまってないのに「矛盾はない!矛盾はない!なぜなら発掘してないから!」って
だったらあらゆる任意の場所が「見つかってないだけでここを掘ったら卑弥呼の王宮跡があるんだ!」って言えてしまうだろ?って言ってんの
そんなレベルの話しなきゃいけないかね畿内説くん 発掘してないだけで殉葬者はいるんだ!
柱の跡が見当たらないだけでここに柱があったんだ!
こんなんばっかやん畿内説 >>668
径100余歩の墓場の殉葬者は、卑弥呼が、死んだので、無理やり殉死させられた女奴隷だった可能性も、あるのでは、ないのかな。 柱の半数以上が失われてるのに妄想で復元模型作ってそれをもとに柱があったことにしてんだろ?
それ捏造っていうんだぞ畿内説くんよ >>662
それすら理解できないのですか?
それとも、理解できてるくせにいちゃもんをつけたいのですか? >>665
>殉葬のあとは見つかってないなら当てはまってないじゃん
何に当てはまってないの? >>670
>だったらあらゆる任意の場所が「見つかってないだけでここを掘ったら卑弥呼の王宮跡があるんだ!」って言えてしまうだろ?って言ってんの
そこにあるとい理由もなしに?
それはデタラメでしょう
九州説は、そういうデタラメが平気なの? >>673
どちらにせよ、10%ほど発掘した巻向遺蹟には、100年分以上の地層から、数軒の住居しか発見されていないので、発掘が100%に達しても、数十件から100件程でしかなく、建物一世代を、20年とすれば、同時に存在した建物の数は、せいぜい、5∽10件程だな。
だから、女奴隷1000人どころか、殉死者100人も用意できないよ。 >>670
>ぜんぜん当てはまってないのに
何が当てはまってないの? >>675
>それすら理解できないのですか?
何も言わない人の心は理解できません
超能力者じゃないので? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 卑弥呼はモモソ!
これが前提で考古学は成り立ってんの!
違うこというのはアマチュアの妄想に違いない! >>679
10%ほど発掘した巻向遺蹟には、100年分以上の地層から、数軒の住居しか発見されていないので、発掘が100%に達しても、数十件から100件程でしかなく、建物一世代を、20年とすれば、同時に存在した建物の数は、せいぜい、5∽10件程であり、
女奴隷1000人どころか、殉死者100人も用意できないので、ヤマタイコクキナイセツは、完全に破綻し消滅したのだったね。 >>682
なんで全く言えないの?
あなた、自分でも理解できてないのでしょう
だから他人に説明出来ないのですよ
何も考えず「九州説正しい!」という予断だけなのです >>1
なんで全く理由が、言えないの。
貴方は、自分でも理解できてないのでしょう。
だから他人に説明出来ないのですよ。
何も考えず「ヤマタイコクキナイセツは正しい。」という予断だけなのです。 >>643
九州の経済の頂点に君臨する中継貿易都市博多(奴国)を通じて3世紀に対外交易を行なっていたのは畿内
これを博多湾貿易(TB期〜UC期 3C〜4C前半)と呼んでいる
水害多発地帯で産物無しの筑後は奴国のお荷物になるだけなのでまだ不要な土地
VA期(4世紀中頃〜)から畿内ヤマト政権と伽耶中枢部との直接交易の金海貿易に移行し
沖ノ島祭祀が始まる 沖ノ島の縄文時代はミチ(ニホンアシカ)猟の漁業基地 静岡理工科大学 名誉教授
矢田浩氏の論文によると
「宗像海人族が縄文時代以来祭ってきた市杵島姫を沖ノ島の神とする信仰は、近世に到るまで 根強い」と記されていますねhttps://i.imgur.com/6Ex6xDS.jpeg >>658
?
日本書紀によると14代天皇の后である神功皇后の時代が邪馬台国の時代
11代である垂仁天皇の後なわけで、もう殉葬は禁じられている
むしろ記紀を信じるなら殉葬された卑弥呼は
ヤマト政権でも畿内勢力でもない 神功皇后「3年前のセックスで懐妊した天皇の子供を福岡で産みました」
武内宿禰「応神天皇が生まれた福岡のカダの近くにわしが祀られております。わし、ずっと神功皇后と一緒で一緒に福岡を通りました」
????「旦那の天皇の名前は仲哀天皇とする」
明治の人「神功皇后を歴代天皇から外せ!はやく!」
大正の人「外しました」 >>694
沖ノ島ルートと博多壱岐ルートは並行してるだろ
ヤマトは博多を使わせてもらえなかったから遠賀川エリアの宗像氏を頼ったんだよ
それは出土物の分布からも明白 >>1
奥山氏よ。お早う。
ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅したので、ご機嫌は、如何かな。 >>694
方格だったか弥生銅鏡や、銅矛も出土してる つまり、ヤマタイコクキナイセツにショウコとして残された物事は、年代の始点も終点もハッキリしない、博多湾貿易という、謎の物事だけなのだな。 タケミカヅチは海に剣を突きさしてから上陸してるから、沖ノ島の磯を探したら銅剣銅矛ざっくざくかもしれんよ 纏向からは九州の遺物も海外の遺物も出てないわけだ
そこから時代を経て吉備経由でかろうじて間接的に海外にアクセスしたり
各勢力が畿内に手を伸ばす過程で徐々に海外との交易を持てるようになっていったような状況なわけだ >>705
出雲の国譲りは遠賀川だよ
遠賀川に進出していた大国主勢力を、天孫勢力が狗邪韓国から渡来して土地を奪った
だから遠賀川エリアには大国主とオシホミミが並列的に信仰されてる 出雲の国譲りって、最終的に出雲に大社が建つわけで
あれは「出雲以外を譲らせた」って話なんだよな
広大な領地を持つ大国主政権を、出雲に閉じ込めて、出雲以外の領地を奪った
だからある時期から出雲には銅器が極端に少なくなって、その代わりに四隅突出墓ができるようになる 狗邪韓国から最初に渡来したのはオシホミミで、場所は遠賀川
だからあのへんにオシホミミ(オシホネ)の神社や伝承があるわけよ
で、出雲大国主と天孫オシホミミが交わる場所だから宗像三女神が祀られるわけだ 根本的にインストールしなきゃいけないのは
博多湾エリアと遠賀川エリアは別勢力で、畿内ヤマトと密接につながってたのは遠賀川エリアのほうという事実なのよ
博多湾エリアはプライド高いから安々と畿内ヤマトに従ったりしないわけよ
それは磐井の乱の6世紀あたりまでそうで
神功皇后の三韓征伐の際にも住吉大神は仲哀天皇に天罰を下す、上位者の神として描かれてる >博多湾エリアと遠賀川エリアは別勢力で
考古学的にも流通する物品が違うらしいね >>712
遠賀川エリアの英彦山に天孫降臨してるからな
天孫降臨は複数なのよ
古事記ではニニギの降臨場所は明らかに伊都国エリアの高祖山だからな
降臨したニニギは「ここはカラクニを臨むいい土地」と言ってるわけだから 仲哀天皇「南部九州を征伐するから協力してくれ」
博多住吉大神「南部九州はうちと仲良くやってんだよ、攻めるなら韓国攻めて来いよ、それなら協力するよ」
仲哀天皇「嫌だ!南部九州を征伐するんだ!」
博多住吉大神「それなら死ねえ!」
仲哀天皇「うわあ」
神功、武内宿禰「…はい、韓国を攻めて参ります」
博多住吉大神「よろしい」 あと海人族っていっても貿易海人族と漁業海人族がいると思わなきゃいけない
安曇氏は漁業海人族で、住吉宗像なんかは貿易海人族なのよ
で、もっと古い貿易海人族がツクヨミで、壱岐島がエリアよ
壱岐島にはツクヨミの神社が複数あってそれぞれ祭られてる
原の辻に「壱岐卒(一大率)」がいて、そこで貿易管理してた時代には壱岐が栄えた
貿易管理の機能が伊都国側に移動するとともにツクヨミの地位も下がっていった ゴーストオブツシマでもそうだけど
壱岐って海外勢力が武力で攻めてきたとき守りきれないのよ
元寇でも刀伊の乱でも壱岐は対馬とともに殺されまくってる だから貿易管理の機能は九州島側に移動しなきゃいけなかったわけだ >>715
つまり背景には
畿内と博多太宰府エリアは同盟関係
博多太宰府エリアと南部九州は同盟関係
畿内と南部九州は仲悪い
っていう三角関係があって
仲哀の狙いは博多太宰府エリアの孤立化なのよ
畿内ヤマトが南部九州を取れば、博多太宰府エリアは孤立化してヤマトの属国になるだろうという目論見
だから南部九州を攻めようとした 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。
マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。 >>713
遠賀川エリアはヤマトに搾取されてるよ
博多湾太宰府エリアの古墳からは副葬品、出土物が豊富だけど
遠賀川エリアの古墳からは副葬品、出土物がほとんど出ない 遠賀川エリアはヤマトの属国として搾取されていた
それに対して博多湾太宰府エリアはヤマトの「兄弟国」くらいの認識じゃないか?明らかに同一文化圏ではあるが、明らかにヤマトに従ってはいない ニニギは二人いるわけだ
糸島の高祖山のニニギと
宮崎高千穂のニニギと
あるいは一人のニニギが糸島に降臨し、一定の拠点を築いた後、さらなる領地を求めて宮崎に移動したのかもしれない 南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶。 このように
なにも根拠のない主張を言い張る
それが九州説 邪馬壹國は、やはり、滅ぼされた可能性が、そうではない可能性よりも、高いな。 >>733
投馬国が、東に遷ることが、出来たのは、関門海峡を抑えていたので、鉄の力で東に拡大できたからでは、ないのかな。 >>733
邪馬壹國は、やはり、拡大する余地も無かったし、何よりも、九州の他の国々にも、鉄の力があったので、競争に埋もれてしまった可能性が、高いね。 仲哀天皇の宮が、畿内ではない理由が、解けそうだな。 だが、やはり、ヤマタノオロチ退治事件が、難解だな。 饒速日と神武も宇佐を経由してるね、小野妹子は隋に向かう瀬戸内海上で病気になり宇佐神宮に病気平癒と航行の安全祈願で参拝している。かように宇佐は古代の海上交通の要所だったのです やはり、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命が、投馬国の官なのだな。 >>743
だが、中国人は、どのような物事を、「官」と表現したのだろうか。 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう では、ヤマタノオロチは、元々の投馬国王だったのだろうか。 投馬国は筑後の妻(上妻・下妻・三潴)
邪馬台国は筑後山門+肥後山門(菊池郡山門郷)
日本書紀によると、景行天皇が九州巡幸した際に八女の県で
「山の峰々が美しいことこの上ない、若しやあの山に神かあらせられるのではないか」
と尋ねたところ、水沼の県主が
「八女津媛という女神がいらっしゃいます」
と答えたという
水沼の県は筑後の三潴のこと
投馬国の地域は景行天皇の時代にも山門・八女の巫女女王を崇拝していたということだ
邪馬台国の卑弥呼は投馬国含め筑後地域で宗教的権威があり、これを伊都国や奴国など筑前側の有力国も担ぐ(=共立)ことで筑紫連合が成立していたというのが、魏志倭人伝の描く倭国だろう 宇佐では八頭の鍛冶の翁が八幡神になっているのでヤマタノオロチは“矢幡のオロチ”かもしれんね ヤマタノオロチは
本来1つの物が8つある妖怪
ですね。 スサノオが退治したヤマタノオロチはその時期に出雲に侵攻・略奪を繰り返していた越前の勢力だろう
四隅突出型墳丘墓は出雲など山陰で広まり、そこから丹後など近畿をすっ飛ばして越前・加賀・越中などに広まっている
出雲と越は密接な関係にありつつ、そうであるが故の争いもあったのだろう 鉄や青銅と翡翠が、高価な商品だった可能性が、あるな。
そして、交易で、儲けた者が、勝ち残ったので、三つのシンボルになったのでは、ないのかな。 叢雲剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉。
元々は、鉄、青銅、翡翠だった可能性が、あるな。 >>758
三種が、揃ったのは、新しい時代だったが、ヤマト王権の者達は口伝で、先祖が扱った交易品を、伝えていたのだな。 纏向にいっぱい桃の種がでたから邪馬台国だとか
無茶すぎるんだよね
魏志倭人伝はそんないい加減な書ではない 魏志倭人伝は、卑弥呼に監視されながら、対馬海峡を南北に交易していた、ヤマト王権の先祖については書いたかもしれないが、まだ存在していなかった奈良盆地のヤマト王権については、書けるわけはないな。 畿内におっきな勢力がいた →→→ 超えられない壁 →→→ 邪馬台国
これがいきなり=で結びつくのは流石にどうかと思う >>761
このように
九州説は今日も
ありもしない藩士を捏造して言いふらす 関川氏と石野氏という畿内説の重鎮がダブルチェックしてもやっぱり九州系の土器は見つからなかったんだね
完全終了で笑う >>764
桃が卑弥呼の時代と一致したから邪馬台国なんだと言う論法だろ、卑弥呼の時代のものなんて日本中に埋まっているだろうにw >>765
>関川氏と石野氏という畿内説の重鎮が
このように
九州説はニセ情報を流して
ひとに迷惑をかけ続けるのだった >>766
>桃が卑弥呼の時代と一致したから邪馬台国なんだと言う論法だろ
纒向遺跡は4世紀だと言い張るトンデモ説に唾棄しない人がいなくなった 畿内説を取る限り、魏志倭人伝の記述は無視するか、記述のどこかを大きく捻じ曲げて読むかしないと畿内に行き着かない
素直に読めば九州、福岡県の筑後平野、みやま市あたりに落ち着く 土器編年はインチキだな、そのうち布留マイナス1とか出て来そう >>767
ダブルチェックしても九州系の土器が出なかった事実に対してコメントは? >>770
このように
九州説は理由もなく悪口ばかり言い続ける まあ畿内説というのは自己判定だしな、野球で言うとピッチャーがストライクかボールを決めるようなもの >>772
ニュータイプが出て来た時の対応を予想してみたのだが >>771
ダブルチェックしても東海の土器を2倍に数え間違えたままだったということは
ダブルチェックしたというのが教え子の関川を庇う方弁だったということだろう 土器の外見の様式だけで、前後関係を決定してしまうのは、あまり、科学的では、ないな。
なぜならば、人間には愛着や懐古という感情があり、その使用期間の終点が、ハッキリとは、定まらないからだ。 纒向の古墳造営基地局遺跡をよく調べれば古墳建造方法の解明などに繋がるのでは?
どう足掻いても卑弥呼とは無関係なんだから真面目に研究しろよ >>776
石野氏の修正のことをダブルチェックっていってるからな >>779
胎土の変遷を研究している者達も、いるのでは、ないのかな。 土器を時代によって画一された規格になると言う考え方は間違っている >>763
畿内説論者は倭人伝読んでないからな
「その時代に一番大きい国は畿内だった」ことをなぜか示そうとしてる
それを示したところで倭人伝の記述とあってなければ邪馬台国とは対応せんだろうに >>779
>土器の外見の様式だけで、前後関係を決定してしまうのは、
型式学は外見の様式だけではなく技法や材料の分析も含めて研究されている 強大な権力を持っていたから畿内は邪馬台国なんだと言う発想が間違っている >>786
このように
理由もなく決めつける
それが九州説 箸墓周濠にゴミとして捨てられた土器は作られて100年後に捨てられたものかもしれないしな >>785
>「その時代に一番大きい国は畿内だった」ことをなぜか示そうとしてる
>それを示したところで倭人伝の記述とあってなければ邪馬台国とは対応せんだろうに
邪馬台国が、倭人伝に記載された一番大きい国なのだが そりゃそうでしょ
自分の家の茶碗何回も買い替えるか?
一回買ったら10年くらい使うだろ
ものがない古代ならもっと長く使うだろ >>787
>強大な権力を持っていたから畿内は邪馬台国なんだと言う発想が間違っている
女王の置いた一大率は、諸国を検察して畏憚されているのだが >>783
各地の庄内式と名付けられた土器の胎土の研究が、何の柵もなく真摯に実行されれば、土師器という物事の正しい伝来経路が、判明しそうだね。 邪馬台国が倭人伝に記された一番大きい国だと勝手に判断して、その勝手な判断の上に全部のロジックを組み立ててる
そうやって成り立ってるのが畿内説っちゅうことやね >>794
それは北部九州での話。南の狗奴国とは敵対関係だよ 古代の日本列島は90度傾いてたから北部九州は奈良の北ってのは畿内説の間じゃ常識なんですけど? >>795
巻向が、一番新しい、最後の伝来地だったことが、バレるよ。 >>801
それ月刊ムーですら取り扱わない3流のオカルトネタ >>801
畿内説は倭人伝では無くて月刊ムーが教科書 少なくとも邪馬台国連合に匹敵する勢力だったのが狗奴国だろ
だから魏に助けを求めてまで必死に戦ってたわけだ >>796
>邪馬台国が倭人伝に記された一番大きい国だと勝手に判断して、
数値がそう記載されている >>808
ん?
倭種の国のサイズ記載されてた?狗奴国のサイズ記載されてた?
されてないのにどうやって比較するんだ? >>806
>だから魏に助けを求めてまで必死に戦ってたわけだ
倭人伝にそのような記述は無い >>811
え?魏に助けを求めてる姿は思いっきり書かれてただろ 書かれてないものが見えて
書かれてるものは見えない
どういう病気なんだ? >>809
>倭種の国のサイズ記載されてた?狗奴国のサイズ記載されてた?
つまり倭人伝に記された一番大きい国ではあり得ない 黄幢という軍旗を難升米が掲げて畿内まで進軍して黒塚古墳に葬られたんじゃねーの?
だから卑弥呼死んで難升米が狗奴国討伐を果たして畿内入りしたって話がもっとも考えられるストーリーだろ >>814
どうやって比較したんだ?と聞いてるんだが 魏の使者は狗奴国にも倭種の国にも行ってないからサイズなんて記せるわけないだろ
で、だから邪馬台国が最も大きいんだとはならんやろアホかこいつ >>812
>え?魏に助けを求めてる姿は思いっきり書かれてただろ
書かれていない >>814
殉葬者百余人が見つからない箸墓が卑弥呼の墓はあり得ないってことになるぞお前の論法だと
大丈夫か?自分の首締めてるぞ? >>818
>で、だから邪馬台国が最も大きいんだとはならんやろアホかこいつ
最も大きい数値が記載されている >>814
日本語が苦手なのかな?
倭人伝には狗奴国や倭種の国が出てきて、それらのサイズは記されてないんだから
邪馬台国が一番大きいかは倭人伝の記述ではわからんだろ?と言ってる >>822
狗奴国は?倭種の国は?
なんで狗奴国や倭種の国より邪馬台国が大きいといえる?いえないだろ? 自分で自分の首絞めてるからなコイツ
殉葬者百余人のくだりで「発掘してないだけで存在するんだ!」ってわけわからんこと言ってたからなこいつ ほら、このように畿内説なんて頭の不自由な人しか信じない >>825
>殉葬者百余人のくだりで「発掘してないだけで存在するんだ!」ってわけわからんこと言ってたからなこいつ
九州説がまた捏造した 討論会が、活発化してきたな。
ヤマタイコクキナイセツは、起死回生の意見を発表できるだろうか。 >>827
>こいつどうせ矛盾するから
畿内説が矛盾したことは無い 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>824
>なんで狗奴国や倭種の国より邪馬台国が大きいといえる?いえないだろ?
そのような主張はない >>832
つまり纏向連合の勢力が大きくてもそれが狗奴国や倭種の国である可能性は消せないわけだわな
違うというなら根拠を示せよw 九州説の根拠:記録と整合する出土品や遺跡
畿内説の根拠:低IQの妄想作文と整合する出土品や遺跡 邪馬壹國は、本当は、佐賀平野から奈良盆地まで広がっていた銅鐸王国のことなのだぞ。
卑弥呼の城も、卑弥呼と女奴隷100人の径100歩の墓(塚)場も、箸墓古墳の地下に埋まっているのだ。
分かったか。 >>833
>違うというなら根拠を示せよw
博多地域と密接で友好的な関係だったと判明済みなので 畿内畿内と騒いでも、倭人伝の記述に従う行程や物証に乏しい。
邪馬台国と違う文化圏が畿内にあったの方が説得力がある ←←←←←← 別れて100余国 →→→→→→
女王国30か国 → 渡海 → 東倭種??か国 >>836
答えになってなさすぎやろ
サイズの話をすり替えんなよ >>836
>博多地域と密接で友好的な関係だったと判明済みなので
判明してませんが? 東の倭種が九州と交戦中だったわけでもないしそりゃ交易くらいしてただろう
縄文時代から 博多地域と密接だから纏向が邪馬台国!
↑とくに密接でもないだろ九州系の土器出てないじゃん
で?「博多と密接な国が邪馬台国」ってこと? >>834
>九州説の根拠:記録と整合する出土品や遺跡
あるという証拠は? 畿内説 必死だな
石野も寺澤も、纏向王都、箸墓卑弥呼の墓から手を引いてるぞ
あいつら、花火打ち上げて銭と地位を得たら手のひら返し
所詮、纏向、箸墓なんて彼らの出世の道具
それに付随する畿内説互助会の研究者
彼らだって内心は纏向が邪馬台国の王都と思ってないよ
倭人伝記述と合致するところ少なすぎ 纏向は崇神の都だ! → じゃあ箸墓はモモソの墓だ! → じゃあ畿内の九州侵攻はもっと後の時代だな! → 「絶対うそやー」「いややっ」 四道将軍は九州まで派遣されてない、つまり畿内の影響力は九州に及んでいない事がわかる テンプレくんのテンプレ読んでも「へー倭種の国ってのは意外と発展してたんだなあ」って感想にしかならんよなw
纏向が倭種の国である証拠しか言わんしw >>845
>↑とくに密接でもないだろ九州系の土器出てないじゃん
筑紫型庄内甕が出ている
>で?「博多と密接な国が邪馬台国」ってこと?
博多と密接な国が狗奴国や名も知れない倭種の国ではないってこと >>835
貴方は、ついに、魏志倭人伝時代が、銅鐸時代だという、当たり前の真実に気付いたな。 >>841
>判明してませんが?
していないという理由は? 纏向は東海、吉備と密接
九州とはまあ単発のやり取りはあったのかもな程度の関係だろ
出土物の割合みたらわかるやん >>843
>箸墓の年代決定はとても危うい方法だね
そう決めつける理由は? >>859
箸墓周濠にゴミとして捨てられた土器は作られて百年後に捨てられたものかもしれない、もしそうだとすれば箸墓の築造時期は四世紀になる。このように箸墓の年代決定はとても危うい方法だと言えるのである >>858
>九州とはまあ単発のやり取りはあったのかもな程度の関係だろ
>出土物の割合みたらわかるやん
つまり東遷説は妄想 筑紫式庄内甕が出てるから密接なんだ!
何個出たの?鉄器は?銅器は?
纏向が密接なのは東海と吉備でしょ? >>848
>石野も寺澤も、纏向王都、箸墓卑弥呼の墓から手を引いてるぞ
証拠は? 吉備東海千葉纏向のアライアンスやな笑
九州とはそりゃなんらかの単発のやり取りはあったかもな笑 ◆FAQ 101の纏向の大型建物だけど
以前にも指摘を受けてるが
同時代の建物と比べ敷地面積は広いようだが、
柱穴の狭さ、深さの無さ同年代の建物に見られる
石や板の基礎が無いのは致命的だと思う。
簡易的な建物で長くはもたない。古墳作りの資材置き場か?
もしくは葬儀場???? 纏向は九州とは関係が薄々そうだなあ
https://i.imgur.com/dRhwtjC.jpg
吉備25%
東海20%
河内20%
山陰、北陸17%
淡路、讃岐、播磨8%
近江5%
西瀬戸3%
紀伊1.5%
駿河0.5% >>867
>九州とはそりゃなんらかの単発のやり取りはあったかもな笑
大和型を模倣して筑紫式庄内甕が成立し、首長墓が畿内式に代わるくらい密接 卑弥呼東遷説の寺澤説が正しければ九州土器が出ても良いだろうが、出ていないという事は寺澤説も間違いだという事だな >>871
一方通行やなあ
畿内から九州に移住した技術者がおった程度の評価しかできんわ >>865
知らんの?
石野なんかは吉備に傾いてるよ。
寺澤なんぞは俺は纏向が邪馬台国の王都と言ってないとの論調だよ
ネットでググれば出てくるよ >>868
>同年代の建物に見られる 石や板の基礎が無いのは致命的だと思う
普通そんなもの無い
たまに地盤が軟弱な場合の補助に礎板が使われる程度 筑紫の属国吉備出雲の属国畿内くらいのポジションだよ >>872
>卑弥呼東遷説の寺澤説が正しければ
寺澤は九州からの東遷に否定的 >>876
君ね いいから
調べてから投稿しろよ。
この指摘以前にもやってるから、写真もでてくると思うよ。 魏と外交して魏志倭人伝に記載された倭国・邪馬台国は北部九州の勢力で今は政治的には存在しない
それと同時期ないし少し後に奈良盆地で勃興したヤマト王権はそれとは別の国で現在の日本国に繋がる
文献資料と考古学資料を考え合わせればそのような結論に行き着くだろう >>879
最近意見変えてるぞ
さすがに纏向から何も出てこないからな >>879
寺澤の卑弥呼は伊都国頼りだよ、“卑弥呼とヤマト王権”を読めばわかる >>876
君 正解
よっぽどの建物じゃない限り、大きな柱を使ったり、
礎板や砂利などの基礎固めはしない。
つまり、纏向の建物は王宮ではないだろうな。
他にも、いろいろあるけど巫女千人
兵士はいずこへ?桃やカエルは見つかるけど武具が見つからんのは何故?
楼観と言われる建物は360度見渡せない。後ろの大型建物が邪魔をする。
などなど、、、、、、 >>1
大和型を模倣して筑紫式庄内甕が、作られたという証拠は、何ですか。 >>1
繰り返し質問します。
大和型を模倣して筑紫式庄内甕が、作られたという証拠は、何ですか。 東の倭種の国を邪馬台国にすり替えようと必死になって証拠捏造と事実隠蔽を繰り返す畿内説
見苦しいぞ 奥〇さんよ
あんたの畿内説は時代遅れだな
ワハハ! ヤマタイコクキナイセツが、完全に破綻し消滅し、💩だけが、残ったな。 >>890
寺澤は伊都国の卑弥呼を共立で畿内に連れて来たとする説だろ 正しい時代の流れを発表します。
抱朴子(4世紀初め)→巻向前方後円型物体→布留1式土器と木製鐙(5世紀)。 寺澤は畿内から北部九州まで広がる倭国の中心・都が伊都国から纒向に移ったという考え方
北條もほぼ同じ 卑弥呼の着ぐるみを無駄にしたくない、薄汚い者達が、いるのだろうか。 >>894
結局は、50年程前の年代認識が、正しかったのだな。 寺澤も論調がコロコロ変わるな。
>>1は犠牲者だよ >>895
そしてその時代は248年より後だということだな 橋本も相当、頭痛めてねーか
寺澤の犠牲者の一人とはいわんが、自業自得
次のポスト狙ってるから我慢してるんだろな
纏向が邪馬台国の王都なんて思ってねえと思うよ 畿内説「径百歩だ卑弥呼の墓で邪馬台国に間違いない」
その後の畿内説「あれ、困ったなあ2世紀の遺跡が出ないぞ」
その後の畿内説「卑弥呼は3世紀に伊都国から来ました」
畿内説信者「えっ?聞いてないよ〜」 ←今ここ 唐古鍵を掘り尽くしても邪馬台国である根拠遺物が薄いなあと頭抱えてたところに纏向が見つかったから「これぞ!」と先走っちゃったんやろなあ 20年前は纏向がどうとか言ってなかったよな
唐古鍵メインだった
2009年の纏向の発掘で建物跡っぽいのが見つかって一気に纏向纏向言い出したんだよな
なんで唐古鍵を放棄して纏向纏向言い出したかって、箸墓に近いからだろ?
だから結局日本書紀史観の亜流なのよ
箸墓がモモソ姫でモモソ姫が卑弥呼だっていう つまり、邪馬台国唐子鍵説から邪馬台国巻向説に乗り換える時に、年代を繰り上げたのだな。 別に日本書紀史観でもいいと思うんだよな
一定の参考にはなるだろうし
でもなぜか畿内説派は必死に否定するんだよな 纏向は崇神の都だ → じゃあ箸墓はモモソの墓だ → じゃあ畿内が九州侵攻するのもっと後の時代じゃん → ほれ桃食え!カエルの足もあるぞ! 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 大規模に税金を投入しての、捏造行為や単なる推測の宣伝が、バレたので、好古学の危機なのでは、ないのかな。 畿内説ってキナ臭い匂いがするね
私利私欲だと困るんだよね。
調査や報酬に税金も投入されてるから。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 畿内説の学者はその場主義で自説をまくし立ててどこかへ行ってしまうオッサンが多い >>873
福岡の考古資料に大阪のど素人の評価などいらんから 千葉の神門古墳群も邪馬台国時代の古墳だな、畿内説があるなら邪馬台国千葉説もありだぞ 日本の好古学は、もう、科学ではないな。少なくとも邪馬台国で町起こしをしている自治体の職員は、科学者とは言えないな。 素人で失礼
箸墓が女性墓であると言う遺物があるのですか
既に古代天皇陵の比定が終わってたので強引にモモソにしたのでは?
モモソ=卑弥呼も取ってつけたような詭弁のような気がしますが。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したので、今回のスレッドが、最終回になりました。
なお、完全に論破されたテンプレートを撤去した、新しいシリーズが、始まっているので、紹介します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1692049807/1
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注意*いつでも書き込んでください。
なお、書き込みは
意味のある良い内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することも、良いよ。
ロケットやミサイル発射は、荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 奥山氏が、テンプレートを完全に論破され、ヤマタイコクキナイセツを宣伝する元気を失ったな。 まだ、ヤマタイコクキナイセツを、積極的に証明しようと試みている学者は、いるのだろうか。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. モモソヒメはモモソヒメだし、卑弥呼でも台与でもないと思うぞ
卑弥弓呼辺りじゃないかな >>931
阿波では、弥生時代終末期には、「前方後円墳」の前段と言われる「墳丘墓」が登場する。
一方、畿内には「前方後円墳」の前段と言われる「墳丘墓」がどこにも存在しない。
それにもかかわらず、 なんの助走・前触れもなしに突然、大型の「前方後円墳」が造られるようになる。
その不可解な現象は、古墳王国の「倭人(阿波勢力)」によってもたらされたものなのである。 @阿波 「卑彌呼」などの大王墓は、山の上。 これ、常識。
畿内や九州の御用学者や郷土史家、みんな揃って非常識。 @阿波 「卑彌呼」などの大王墓は、山の上。 これ、常識。
畿内や九州の御用学者や郷土史家、みんな揃って非常識。 @阿波 古墳の大きさは、「倭人(阿波勢力)」臣下豪族の勢力誇示。
だから、奈良湿地も河内湿地も古墳の大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。
これらがもし、歴代続く大王陵・天皇陵ならば、陵墓の大きさ・向き・墳型など一定の規則性があるはず。
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波 4世紀の初め頃、遺跡がほとんど無い寒村にもかかわらず、
奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の「前方後円墳」が造られるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 わははははは @阿波 そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。
神は山稜に宿るもの。 卑彌呼などの大王墓は、今も古代も山稜に、こじんまりとした円墳
若しくは円墳に近い形状の墳墓を造営するもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波 次回のスレッドを作成しました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1695201952/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
御要望に応え、テンプレートを、縮小しました。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
トリップは、変更しました。
他人の意見の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 箸墓古墳の周濠建造時に発掘されたあとゴミとして破棄された布留0式土器を
現代の畿内説がまた掘り返して歴史捏造に利用しているスレッドはココですか? また敗者九州説がニセスレ立ててんのか
ほんと捏造が好きだな 奥山ひとりぼっちで纏向・箸墓を語る
後ろ盾の学者はもうとんずらしてるのに
哀れよのーーー 次回のスレッドを作成しました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1695201952/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
御要望に応え、テンプレートを、縮小しました。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
トリップは、変更しました。
他人の意見の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 真偽と美醜は、別の物事だよ。
ヤマタイコクキナイセツは偽。 南と書かれているのを東に読み替える合理的な説明をまだ一度も聞いたことがない。
この問題が解決しない限り、畿内説を取り得ない。 >>947
よって、取れ得るのは、「阿波」だけ。 @阿波 俺は里数は九州有利でないと主張する九州説支持だ。
ただし、北部九州限定。
なぜなら、宮崎、鹿児島にはほとんど全く中国鏡が出てないから、宮崎は絶対に無い。
同様に、四国も中国鏡が出ないので無し。
奈良県も微妙だが、大阪、兵庫なら中国鏡がある程度出ているのでワンチャンある。 >>1
おい、奥山氏よ。元気を出して、スレッドを作成しろ。
テンプレートを貼り付ける事が、大変ならば、投稿の一番目は、
邪馬台国畿内説の主張は、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1695023298/1-75
に、書いてあるぞ。分かったか。
に、しろ。簡単だよ。 >>951
>同様に、四国も中国鏡が出ないので無し。
ただし、「阿波」は多く出ているがな。 わははははは @阿波 >>951
>同様に、四国も中国鏡が出ないので無し。
東四国(徳島・香川)では、古墳時代前期の古手の古墳には、
漢鏡(とくに後漢晩期のもの)が副葬される例が多い。
通常は単数副葬例が多いが、東四国(徳島・香川)では、2面副葬される例が複数ある。
例:天河別神社5号墳(上方作系浮彫式獣帯鏡・斜縁神獣鏡)
例:阿王塚古墳(舶載画文帯神獣鏡2面)(宮内庁保管の優品) @阿波 >>951
>同様に、四国も中国鏡が出ないので無し。
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」
「斜縁上方乍銘獣帯鏡 西山谷2号墳」
「内行花文鏡 阿南市国高山古墳」
寺山3号墳を含む寺山古墳群から破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」
「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土 @阿波 >>951
>同様に、四国も中国鏡が出ないので無し。
東四国(徳島・香川)では、古墳時代前期の古手の古墳には、
漢鏡(とくに後漢晩期のもの)が副葬される例が多い。
通常は単数副葬例が多いが、東四国(徳島・香川)では、2面副葬される例が複数ある。
例:天河別神社5号墳(上方作系浮彫式獣帯鏡・斜縁神獣鏡)
例:阿王塚古墳(舶載画文帯神獣鏡2面)(宮内庁保管の優品) @阿波 >>947
九州北にして本州を南にした地図が有っただろ >>1
おい、奥山氏よ。諦めてしまったならば、そこで、人生、終了だよ。 >>1
おい、奥山氏よ。諦めてしまったならば、そこで、人生、終了だよ。 5chのサーバーは忙しいんだから
書き込みボタンクリックして画面が変わらなくても
1~2分待てよ
全く同じコメントを連続書き込みするな 5chのサーバーは忙しいんだから
書き込みボタンクリックして画面が変わらなくても
1~2分待てよ
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1~2分待てよ
全く同じコメントを連続書き込みするな 阿波も所詮阿と呼ばれた連中、阿讃、阿王塚、
卑弥呼の時代はまだ阿波とは呼ばれていない地域であろうが。 奥山氏が、5ちゃんねるのプロ固定であることを、隠さなくなってしまったな。 奥山氏が、5ちゃんねるのプロ固定であることを、隠さなくなってしまったな。 奥山氏が、5ちゃんねるのプロ固定であることを、隠さなくなってしまったな。 ボロボロに論破されてしまったテンプレはもう何の役にも立たない。
誰も読まねーし。 ボロボロに論破されてしまったテンプレはもう何の役にも立たない。
誰も読まねーし。 「モモソこそ卑弥呼」
この前提で畿内説は成立してんだからテンプレは正しい 畿内説は「考古学界の申し合わせ」的な臭いとゴリ押し感があって凄く嫌だ
根拠やロジック自体は万人が納得するようなものでは全くない 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1695210989/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ オマエラどう足掻いても喚いても
纏向には勝てないわい 上代東国語がーとかいう謎コピペはテンプレに入れなかったんや笑 >>975
全くだ
九州が戦乱に明け暮れるなか
環濠も厳重な警備も鉄鏃もいらない平和な巨大都市ができて、のんびり周りの国と協力して巨大古墳を造れるなんて
纏向すごいわ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>974
畿内説すら認めずスルーするテンプレにはいったいどんな意味があるのだろうか 田油津媛、速津媛など日本書紀には九州に女性首長がいた記述が割とある
女性首長に否定的なヤマト政権より卑弥呼は九州の方があり得ると思う 8世紀の記紀では男系の王が九州から畿内に入ったという話だから >>957
だから何?
それは魏志倭人伝を元に「のちに」作った誤った地図と解すべき。
3世紀にその地図が存在したならば熟慮に値するが、そうではない。 魏志倭人伝を元に作ったら本州が九州の南になってしまったと >>957
中国人には倭国=奴国=邪馬台国=ヤマト政権と考えてる人がいるらしく
倭国の中心地が九州から畿内に移動したことに気付いてない人がいるみたいだ
だから九州政権時代の「倭国は南北に広い」と考えたままの中国人もいるから
そんな地図になるらしい
しかし隋書のように実際に倭国を訪ねた使者の報告に基づくものでは
そんなことは起きてなくて「倭国は東西に広い」になっている
三国志も実際に中国使者が倭国を訪ねている時期の本なんだし
「倭国は南北に広い」も実地を訪ねた報告によるものだろう
そうなら九州しかあり得ない >>988
古来よりいくつも作られた日本地図のうちの一つが方位が狂ってたってだけのことを大袈裟に拡大解釈しないほうが良い 方位は致命傷
季節に関わらず太陽が一番高く上る位置のは真南
北極星は北の空に輝く
これ知ってるから航海できたのだよ
魏の使いは2か月以上、片道に要している
2往復なら、累計8か月
方位は間違えようがない
万が一、初回に間違えていたら2回目は邪馬台国にたどり着かない それは振り出しに戻ってるだけだろ
邪馬台国論争のスタートはそこ
方位が間違ってるなら畿内
距離(日数)が間違ってるなら九州
記述通り解釈すると沖縄に行ってしまう 沖縄はありえないから方位か距離のどちらかが間違ってたんだろうというのが論争のスタート 距離は短里で解明すればよいよ。
韓の国も4千里四方だから、魏志韓伝も短里で解明できる。
日数は畿内説も九州説も難題だけど、
畿内説の主流である瀬戸内ルートの難波から纏向まで一ケ月に順ずれば
九州説も畿内説もイーブン
テンプレでは宿泊日数も入れての一ヶ月を要し約40キロ、 >>992
方位と距離 いずれも間違ってることにしないと畿内説は成り立たないのでは?
行程は魏の使いの報告の重要な要素である。嘘をつけば、他の者が言った時すぐにばれるから。
また、二往復もして間違うとは考えづらい。
それ以前に 畿内説は魏志倭人伝記述の邪馬台国の様子に合致しない点が多すぎる。
纏向が卑弥呼の居た王都なんてもってのほか。倭人伝とどこが一致してるのかな? >>951
>俺は里数は九州有利でないと主張する九州説支持だ。<
里数からいって、畿内説が有利になろうはずが無い。詭弁に詭弁を重ねるしかない畿内説だよ これはわかりやすいナイス
>季節に関わらず太陽が一番高く上る位置のは真南
北極星は北の空に輝く<
畿内説の諸君 上記をどのように間違えたのか解説してくれないか? 方位と距離 いずれも間違ってることにしないと畿内説は成り立たないのでは?
行程は魏の使いの報告の重要な要素である。嘘をつけば、他の者が言った時すぐにばれるから。
また、二往復もして間違うとは考えづらい。
それ以前に 畿内説は魏志倭人伝記述の邪馬台国の様子に合致しない点が多すぎる。
纏向が卑弥呼の居た王都なんてもってのほか。倭人伝とどこが一致してるのかな? このスレッドは1000を超えました。
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