邪馬台国畿内説 Part960
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1699067208/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 畿内説は今降参しておかないと、公金チューチュー問題でトンデモ無いことになるだろうな、県知事はやる気だと思うわ >>847
>撤退畿内説軍の殿(しんがり)を務めるキナイコシさんから結論だけで理由がないと言われたので理由を書こう
>まず
理由が「邪馬台国は北部九州になる」じゃ循環論法 >>844
>既に何回も説明済です
と言って逃げる
つまり根拠がない >>846
>邪馬台国畿内説の根拠がないから青柳氏の言葉だろうよ
と決めつける理由は? >>855
魏志倭人伝に描かれた倭国・邪馬台国が畿内ではあり得ず北部九州でしかあり得ないことと、これが畿内ヤマト王権と並立していたことをなるべくバカでもわかるようにわかりやすく書いたんだが、それすらも理解できないとは。。(絶句 九州説の負け惜しみオンパレードスレだなw
自説スレで議論してない時点で終わってる事に気付こう >>858
【邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権】
つまり狗奴国に攻め込まれたりするような国ではなかったという事 いつも自己紹介しかしない畿内説さん
>860:日本@名無史さん:2023/11/09(木) 12:36:54.32
>九州説の負け惜しみオンパレードスレだなw
>
>自説スレで議論してない時点で終わってる事に気付こう 847.合議で王を決めるのは半島もそうであろう。
巫女女王の伝統がある?
平原のことかね?
柱信仰の方格規矩四神鏡は説明しただろ。
吾輩は卑弥呼は韓神信仰ではない巫女であるとする説で君らはね、韓神だ!と言っておるのだということを解っているのかね? >>861
>つまり狗奴国に攻め込まれたりするような国ではなかったという事
桜井茶臼山の布留0新相は、前方後方墳が卓越していた東国に
前方後円墳>前方後方墳の秩序が浸透し始める頃
つまり半世紀ほどで
邪馬台(やまと)国時代とは比較にならない圧倒的な倭国ヤマト王権へと成長していた つまり纒向遺跡が古墳造営基地局だと浮き彫りになりましたと >>859
>魏志倭人伝に描かれた倭国・邪馬台国が畿内ではあり得ず北部九州でしかあり得ないことと、これが畿内ヤマト王権と並立していたことをなるべくバカでもわかるようにわかりやすく書いたんだが、それすらも理解できないとは。。(絶句
証拠の出せない妄言は、ふつう理解されないものだ >>868
九州では台与がまだ生きている頃だけどな >>873
それはまさに畿内説
魏志倭人伝や記紀との整合性を説明してみなさいよ
出来るものなら 魏志倭人伝や記紀との整合を完全に無視して関西考古学界の一方的な言い張りに終始したのが畿内説の敗因 『後漢書』に書かれた2世紀以前の倭国(北部九州)の出来事
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。
↑
この歴史が畿内にはごっそりと欠落している 九州説信者は
箱式石棺墓が有棺無槨でないという
基礎知識すら無いのだから
つける薬がない 畿内ヤマト王権?
何故魏尺なんだよ。
でそのヤマト王権とやらは23代は筑紫じゃあるまいな。
もしそうであるとすれば23代の大事な場所、天御中主の場所は何処よ? 箱式石棺墓は有棺無槨であり畿内説自慢の巨大前方後円墳は常に槨(木槨や石室)があることも、倭国や邪馬台国は北部九州にあって畿内ではあり得ないという無数の根拠のうちの一つ 箸墓=卑弥呼と言う仮説が間違っていたな、そこに全員が突っ込んで討ち死にした。 >>875
>魏志倭人伝や記紀との整合性を説明してみなさいよ
魏志倭人伝の内部で地理観に自己矛盾があるので、ここはどの説も整合性がない
それ以外は問題ない
問題ないという根拠は、合理的な疑義が提出されていない事実
記紀ははるかに後代の史料なので整合性は必要ない >>882
>箱式石棺墓は有棺無槨であり
学問的常識に反する
>畿内説自慢の巨大前方後円墳は常に槨(木槨や石室)があることも、
前方後円墳に槨は無い つまり畿内説は魏志倭人伝の記載を都合よく無視する説と言う事だな >>1
証拠の出せない妄言は、ふつう理解されないものだ。 >>884
自己矛盾の内容は?
九州説からすれば、投馬国と邪馬台国までの日数と戸数に関して倭人からの伝聞情報が誇張されている以外は全て素直に解釈できるのだが >>885
前方後円墳に槨がないなどとは畿内説ありきの珍説 >根拠を示せと言う人がいる
言わない人が変な人
>里程と日程は同じ行程を距離と時間で二重に説明してた
根拠もなく、な
>魏志倭人伝を根拠に距離数だけを計算するとそうなる
魏志倭人伝が根拠だという証拠がない
ここまでくると、この人の求めているのは、根拠ではなく証拠であることが
分かる
残念ながら証拠はない だからこの問答がずっと続いている
金印でも見つからないとだめだろう >>893
>ここまでくると、この人の求めているのは、根拠ではなく証拠であることが
>分かる
じゃあ根拠は何なの?
あなた、まだ言ってないよね? >>890
>前方後円墳に槨がないなどとは畿内説ありきの珍説
だと言う根拠は? ヤマタイコクキナイセツは、
「「3世紀の洛陽の者達が、常識として知っていた、東夷の里単位や東治の位置」を、
全く知らなかった、後漢書の作者が、邪馬壹だと誤認した場所が、大和なのだ。」
という説として、リメイクすれば、嘘をつかずに、生き残ることが、できるよ。 畿内説は日本列島全域100余国に分かれて住んでいた倭人たちが
2世紀末に日本列島全域を巻き込んだ大乱になり
そのうちの30国だけが卑弥呼を共立して纏向に新都を建設したという途方もないデマだから >>896
成る程。成る程。
では、「真・邪馬台国畿内説」というスレッドを作成し、宣伝すれば、良いな。
そして、テンプレートが、必要だな。 >>895
帯方郡使が古墳の木槨や石室を見て無槨と書いたと主張してるんでしょ
珍説だわ そもそも最も目立つ前方後円墳のことを魏志倭人伝に一言も書いてない時点で畿内説は厳しい >>901
あげくに「前方」は完全スルーで「後円」は径100歩だから卑弥呼の墓!だもんね 文春砲が「やっぱり邪馬台国は畿内には無かった!」なんて書けば面白い。 >>903
そうそう
決めつけはよくないわ
古墳の木槨や石室の存在を知っても
それが魏志倭人伝の「無槨」と矛盾してるのに気づかない、理解できるだけの頭がないだけだよね >>905
なぜ畿内説が成立できたのか
畿内さんはアホだから珍説を唱えたのか
「仕事」だから建前で珍説を信じたふりをしているのか
この辺りを深く掘り下げた記事を書いてほしい >>906
根拠もなく矛盾だと決めつける九州説
それは非学問 スクープ!公的機関もさじを投げた邪馬台国機内説なんてね 「真・邪馬台国畿内説」というスレッドのためのテンプレートを、作成しています。
骨子。
@5世紀初頭に、大和盆地に、馬力の利用が出現した。
A馬力利用によって、西日本に広がる大和王権が誕生し、中国とも交流した。
B後漢書の作者が、大和王権について、知った。
C
D 「真・邪馬台国畿内説」というスレッドのためのテンプレートを、作成しています。
骨子。
@5世紀初頭に、大和盆地に、馬力の利用が出現した。
A馬力利用によって、西日本に広がる大和王権が誕生していたかもしれない。
していなかったならば、邪馬台国畿内説は、破綻します。
Bそして、中国とも交流した、倭讃とは、大和盆地を都とした王だったかもしれない。
そうで、なかったならば、邪馬台国畿内説は、破綻します。
C後漢書の作者が、大和王権について、知ったかもしれない。
そうで、なかったならば、邪馬台国畿内説は、破綻します。
D 面倒だな。
ヤマタイコクキナイセツは、やはり、馬鹿だな。 根拠のある話がまったくできない九州説が
学問の世界に復帰するのは
無理 スクープ!公的機関が5chを使って畿内説のプロバガンダうんぬんとか もう、終わっておるが
よおぅ~く考えてみるんだな、大事な平原のお姫様を。それからまずどういう解釈なのか答えを聞きたいわ。 青柳先生はかなり踏み込んだ発言をしたな
九州説なのか畿内説なのか、これまでの発言を見つけることはできなかった
少なくとも、畿内説を排除したことになる >>921
九州説に対する皮肉を込めたコメントに思えるのだけど 「自女王國以北 其戸數道里可得略載」
女王国より以北は、その戸数や道程の里数のおおよそを記載出来る
里程ではない「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」の文章は
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」が書かれた時点ては存在していなかった
後で追加挿入されたものものなのだ。
当初は「東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 自女王國以北 其戸數道里可得略載」と繋がっていたのだ。
里程と日程が並列で日程は里程を補うために後から追加された記事だと考えると魏志倭人伝の記事は分かり易い
従来の説の多くが里程と日程を連続して読んでた事が大きな誤りだったんだ。 「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
の文章は後から別資料からの引用されたもので他の文章とは完全に独立した文章である
なので「邪馬壹國 女王之所都」とは邪馬壹国とは首都の意味ではなく
単に投馬国に対して邪馬壹国を女王が都(す)べている意味。
陸行一月は末盧国から伊都国、奴国までの600里を行くのに掛かる時間ですから
陸行一日の誤記なんですね
明治時代の白鳥庫吉先生の指摘は正しかったんですね。
7000里に水行20日、4400里に水行10日、600里に陸行1日掛かったんですね。 郡使の出発地は帯方郡の中心地の郡治からではなく帯方郡の南の端の海岸から
だから海岸着けば至や到となる
7000里も帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸まで
4400里も狗邪韓国の海岸から末盧国の北の端の海岸まで
末盧国の北の端の呼子付近から伊都国との国境までが500里となる
600里は伊都国と奴国の国境まで
女王国までが12000里なので女王国とは伊都国と奴国を中心とした地域である事が分かりますね。
何故、陳寿は里程の後に日程を書き足したのか
それは魏志倭人伝の里が魏で使用されていた里よりも短い里(1里約80m)だったから
魏で使用されていた里なら7000里を20日、4400里を10日、600里を1日で行くとか不可能ですから
魏志倭人伝内の里が魏で使用されていた里よりも短い里である事が分かるから
陳寿自身も魏志倭人伝の1里が魏の何里に当たるのかは知らなかった
魏略等の魏志倭人伝の作成に参考にした資料で使われてる里が魏の里とは違う里であると気付いただけだったんだ。 >>919
卑弥呼は天照大神である平原女王の娘の伊都岐嶋姫。つまり宇佐神宮と宗像大社に祀られている宗像三女神。 >>920
杜撰な取材の石器捏造報道で名誉毀損に問われ謝罪広告掲載、慰謝料払ったとき
判決文で
「取材の悪質さが顕著」とか
「被告らの態度の悪質さや卑劣さ」
とまで言われた過去を忘れるな 狗邪韓国を含む朝鮮半島南部の地域が投馬国
北部九州地域が邪馬台国
南部九州地域が狗奴国
中国地方が倭種ですね
女王国とは邪馬台国の首都圏である伊都国、奴国、不弥国のこと
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、以って死す。大いに冢を作る。径百余歩に、徇葬者の奴婢は百余人なり。
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られ、百余歩の範囲に、徇葬者の奴婢は百余人であった。 狗邪韓国を含む朝鮮半島南部の地域が投馬国
北部九州地域が邪馬台国なら
邪馬台国と投馬国の戸数が韓の馬韓や辰韓、弁韓並みな訳も説明が付きますし
3世紀に70000戸の遺跡が日本に無い理由も説明が付き矛盾無く理解出来ますね。 考古学界が青柳発言を機に従来の「何が何でも纒向=邪馬台国の強弁」(合理的根拠は皆無)から「邪馬台国は北部九州か畿内かわからないがヤマト王権は邪馬台国よりも権力が強大」という至極ごもっともな主張に転換するとすれば好ましい
考古学界が本当に上記のように正常化したかどうかは、青柳氏以外の学者の今後の発言でわかる
注目だ >>928
わしは週刊誌で仕事をして現役の総理大臣に訴えられた事があるけど、出版社にとっては僅かなお金で済んだようだな、文春クラスの週刊誌は裁判に負けることは屁とも思ってないよ。売れれば勝ちだから。 >>926
>女王国までが12000里なので女王国とは伊都国と奴国を中心とした地域である事が分かりますね。
女王国の国境までが12000里なら当然その結論は間違い
九州説は支離滅裂だな >>924
廣志見ると、奴国と不弥国もなかったと思う 海峡渡るのに4千4百里費やすって珍説は九州説の中でも珍説だからな
根拠が珍説なら、当然結論も珍説だ >>933
女王国の国境と解すのは間違い
邪馬台国の卑弥呼が鎮座しているその場所まで12000里と解さなければならない >>928
あれ、印象操作工作活動の当事者ですか? >>910
古墳には木槨
記述は槨なし
両者に矛盾があると理解できないんだよね
まぁ、頑張れ 倭讃に合う者が、見つからないな。
あまり頭の出来栄えが良くはない、ヤマタイコクキナイセツは、どう考えているのだろうか。 >>938
>両者に矛盾があると理解できないんだよね
当然理解できない
古墳に木槨は無い 畿内が無関係なのは誰もが知ってる事
~ 中国史書に記された卑弥呼時代 ~
魏志韓伝によると、ちょうど鉄器時代ということもあり、
半島では中国に供給できるほどの鉄が取れ、倭人たちも
鉄を求めてやって来ていた様子が描かれている。
(弥生時代の鉄器出土量)
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。 >>936
>女王国の国境と解すのは間違い
>邪馬台国の卑弥呼が鎮座しているその場所まで12000里と解さなければならない
当然だ
トンデモ九州説は間違い >>940
ヤマタイコクキナイセツは、
「「3世紀の洛陽の者達が、常識として知っていた、東夷の里単位や東治の位置」を、
全く知らなかった、後漢書の作者が、邪馬壹だと誤認した場所が、大和なのだ。」
という説として、リメイクすれば、嘘をつかずに、生き残ることが、できるとも、思ったが、意外に難しいな。 >>942
つまり
3世紀末の「ヤマト王権は邪馬台国よりも権力が強大」という至極ごもっともな主張は畿内説の主張そのもの 邪馬台国を圧倒する桜井茶臼山政権は、邪馬台国ではない
すなわち、奈良盆地に邪馬台国はなかった >>935
魏志倭人伝を良く読むと郡使は帯方郡の郡治から出発せずに
帯方郡の南の端の海岸から出発している。
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
で始まってますね。
船で出発したとこから書き始められてます、陸上移動は全く無いですね。
郡の端から出発してるんだ。
この書き方だと国の端に着くと到着した事になる。
7000里は帯方郡の南の端の海岸から狗邪韓国の海岸までとなる
次の1000は狗邪韓国の海岸から対馬国の北端まで
ここで対馬国の北端から南端まで周る必要が出てくるので
対馬国の「方可四百餘里」を距離として換算し800里を行程入れる必要が生じる
同じ様に一大国でも「方可三百里」を距離換算して600里
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000となる。
末盧国の北端の呼子付近に上陸し、伊都国との国境でが500里なんです。 >>947
そのような数え方は同じ九州説としても到底採用し難い >>945
「ヤマト王権は邪馬台国よりも権力が強大」
というのは旧唐書の
「日本はかつて小国だった」
に整合していない
つまり破綻した畿内説の希望的妄想 >>945
北部九州か畿内かはわからないという前提で青柳氏は話している
畿内説が正しいという客観的な根拠がない以上、学者としては正しい態度だ
関西考古学界の畿内説ゴリ押し馬鹿たちに爪の垢を煎じて飲ませたい レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。