邪馬台国畿内説 Part984
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1706083082/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の正しい意味
「女王卑弥呼は女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は魏に於ける刺史のようであった。」 ヤマト王権は、筑紫邪馬台国女王・台与が肥後狗奴国男王・卑弥弓呼&狗古智卑狗(熊本県菊地市)を制圧した後、曹魏帯方郡張政の命令で、「親魏倭王」としての権力を本州「東渡海千里 複有国皆倭種」で誇示するべく、東征将軍・日向投馬国神武(更立男王 国中不服。日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和)を従えて東遷した統一王権で、そのシンボルとして築いたのが【自分の叔母】卑弥呼の改葬箸墓「径百歩(後円部)」(当初墓は祇園山「殉葬百人」)。
ちょうど家康の日光東照宮と久能山東照宮と同じ。ちなみにホケノ山は真のニギハヤヒ陵
台与は暗殺されて金印「親魏倭王」と共に西殿塚に葬られ、ヤマト王権を引き継いだ崇神(266年複立男王 並受中国爵命)が、箸墓を【自分の大叔母】百々襲姫の墓と偽る、でいいんジャマイカ?
北部九州の土器が出土しないのは、征服した本州各地の奴隷を使ったから。
どや?漏れって天才?w 鬼頭宏, 1996年(1戸を5人として計算)
725年の大和国推定人口171,700人、(34,340戸)
800年の大和国推定人口130,300人、(26,060戸)
900年の大和国推定人口129,800人、(25,960戸)
1150年の大和国推定人口123,300人、(24,660戸)
これから考えると250年頃の大和国推定人口100,000人(20,000戸)くらいか? 邪馬台国畿内説、邪馬台国は畿内にあったと言う事なんだろうが、証拠もないのに長く続くな。 畿内説は願望を云い張るだけだ、
だから頭脳も学もいらん、朝昼晩、唱えてればいいからな >明らかに1里が約80m程度の特殊な里が存在した事は明らかですね。
で、それでもなお、足し算・引き算はするのかい? @阿波 紀年銘鏡が畿内と中国地方にかたまってるから、九州説は厳しい @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、楼観城柵厳設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(台湾対岸の福建省)の東(の海上)にあり」とするための※虚構(種子島〜沖縄〜台湾=幻の邪馬台国島)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の虚構=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-遠賀川)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
........................↓「南水行十日」
......................種子島=幻の邪馬台国島⇩
.....................亶州(沖縄)「陸行一月(虚構)」
会稽東冶(福建省)〜夷州(台湾)✖架空の女王之所都 九州説の行程里数を足したり引いたりする蛮行は、畿内説も同じなのか? @阿波 >>83
「南水行十日陸行一月」は「会稽東冶の東の海上(魏と対立している呉の背後)にあり」とするための方便、つまり投馬国(宮崎都万)から南水行十日で種子島。そして【種子島〜沖縄〜台湾】という南北に長大な三日月型の島(架空の邪馬台国島)を想定して、まとめて「陸行一月」と表現したのではないか? >>87
どこも無理だ。
大和州を治めるだし
州レベルだよ。 >>85
>女王の居處が屋根裏部屋w
おまいは、天才か!!!
「共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者」
「王となって以来、見た者は少ない」の謎を解きやがった!!! >>86
日の出る方向に船を進めて「南に水行」だもんね
使節らは邪馬台国に行ってなさそう 魏志倭人伝では家と戸を使い分けている
戸は徴税の単位を指しているだろうから、7万戸は(徴税可能な)成人が7万人というのとほぼ同義だろ
7万戸だから約30万人と短絡的に考えるのは間違いだろ そういえば、吉野ヶ里の主祭殿は国会議事堂によく似てるw
構造は1階が高床の吹き放ち、2階が男弟が議長を務める国会議事堂、3階屋根裏部屋が姉・卑弥呼の祈祷所。
つまり、卑弥呼姉弟主催の邪馬台国会議事堂というわけだ。
一方、纏向の大型建物は王の私邸だ。王たちが集まれるわけでもなく、政治の舞台としての議事堂にはなりえない。 >>94
前期難波宮さえ畿内に無いのに、纏向の大型建物が王の私邸な訳ないだろうがよ。 @阿波 中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年頃生〜247年没)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
https://i.imgur.com/boCZvL8.png
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池郡)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) 畿内説は郡から不弥国までは短里、不弥国からは1里400メートルというダブスタ。 伊都国こそ王の中の王
九州にその伊都国をはるかに上回る邪馬台国を求めることは不可能 張政が片道一月もかかる蛇や虎でも出そうな山道を歩いたとかそれも妄想癖で現実的ではない病気の一種だろw
中国からの使者は伊都国に滞在したと魏志倭人伝に書いてあるのになぜそんな妄想に走るだか、邪馬台国はなんでこんなおかしなやつばかり集まるんだ?不思議でならんw >>99
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐」
「丗有王(ここに、王有り)」
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。 @阿波 >>100
>張政が片道一月もかかる蛇や虎でも出そうな山道を歩いたとか
心配ない。 倭人(阿波勢力)がしょっちゅう通っている慣れた道だ。 @阿波 >>98みたいな捏造屋がいるから九州説が卑しまれる >>103
>そのように考えない
で、それでもなお、足し算・引き算はするのかい? @阿波 「戸は徴税の単位を指している」
また、馬鹿な先人の鵜呑みかね? ヤマト王権は、筑紫邪馬台国女王・台与が肥後狗奴国男王・卑弥弓呼&狗古智卑狗(熊本県菊地市)を制圧した後、曹魏帯方郡張政の命令で、「親魏倭王」としての権力を本州「東渡海千里 複有国皆倭種」で誇示するべく、東征将軍・日向投馬国神武(更立男王 国中不服。日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和)を従えて東遷した統一王権で、そのシンボルとして築いたのが【自分の叔母】卑弥呼の改葬箸墓「径百歩(後円部)」(当初墓は祇園山「殉葬百人」)。
台与は暗殺されて西殿塚に葬られ、ヤマト王権を引き継いだ崇神(266年複立男王 並受中国爵命)が、箸墓を【自分の大叔母】百々襲姫の墓と偽る、でいいんジャマイカ?
北部九州の土器が出土しないのは、征服した本州各地の奴隷を使ったから。
どや?漏れって天才?w >>110
>魏書の中の世は基本的には魏の世だよ
であるならば、わざわざ、あえて書く必要はない。 @阿波 >>114
魏の世だよ。 わざわざ、あえて書く必要はない。 @阿波 「丗有王(これ・ここに、王有り)」
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。 @阿波 無理な主張だな「丗」と「此」は流石に間違えないなw >>117
文脈が通じるのは「此」。 「世」を有王に使うのは不自然。 @阿波 >>120
居た時期は、「魏志倭人伝」なんだから、魏の世は当たり前。
わざわざ、居た時期など書く必要はない。
それよりも、「伊都国に王が居た」ことをわざわざ言っている。 @阿波 「世有王」で魏によって倭王に任命された卑弥呼が伊都国に居たことをハッキリさせたかったんだ。 倭で王は狗奴国の自称王と魏から任命された卑弥呼の二人だけなんだ
伊都国の王とは倭王卑弥呼のこと。 倭国王の系譜
漢委奴国王
|
帥升
|
伊都国王ー平原女王
|
卑弥呼 >>122
>魏によって倭王に任命
違うな。
倭国(阿波)王権によって、伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波 文脈が通じるのは「此」。 「世」を有王に使うのは不自然。 @阿波 「阿波」とともに、更なる真実を探求しましょう。
そして、日本古代史を正しい道に戻しましょう。 @阿波 >>128
まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「国宝の無い県」「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。 @阿波 >>129
「世有哲王」
これも、ここに王有だな。 残念でしたw
「世德作求」はなんとする。 @阿波 三雲南小路大王、井原鑓溝大王、平原大王
伊都国の代々の王とは彼らのこと >>131
哲王とは周代の王のことを言っているのだから「ここに王有」は文脈的におかしいだろ
というか「世」は「此」の誤字じゃなかったの? >>131
>「世コ作求」はなんとする。
「世有」じゃないから関係無いよ。 >>132
魏代よりも古いものは「世有」の対象外。 >>137
「魏書の中の世有」の対象は魏代だけだよ
常識がないね。 済州島→五島列島→伊万里→脊振山地の南を通り→佐賀→筑後川の北岸→日田→中津
海流と港、地形と魏志倭人伝に書かれた方角を合わせるとこのルートだと思うけどね
弥生時代後期から末期に九州で卜骨が見つかったのは筑後川河口周辺だけ >>138
三雲南小路では、1号甕から前漢鏡35面、2号甕から前漢鏡22面
前漢の時から続いてる王族 考古学の遺構・遺物をめぐる解釈では、魏志倭人伝で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が主要な論点となっている。
卑弥呼が景初三(239)年に魏からもらったとされる三角縁神獣鏡は、中国からは一枚も出土していない。これは倭国で作られた鏡であり、魏の鏡ではない可能性が高い。
魏の鏡は、後漢の官営工房で作られたものである。これは魏が後漢から禅譲された正統な政権であることを示すためであった。
したがって魏の鏡はそのまま後漢の官営工房で製作された「後漢鏡」であり、卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」も後漢鏡であったはずである。
前期古墳の鏡の副葬状況を見ても、後漢鏡は棺内に置かれ、最も重要な鏡として扱われている。
これに対して三角縁神獣鏡は棺外に置かれている。弥生時代後期以来、最も権威ある鏡であったのは後漢鏡であり、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。
古事記など日本の古代文献に大王が、服属した豪族に鏡を配ったという記述は無い。
反対に服属した豪族が鏡を大王に捧げ、恭順の意を示したという場面は描かれている。
三角縁神獣鏡は棺外から何十枚と副葬された状態で発見されることが多いが、これは服属した下位の首長から古墳の被葬者である王に献上されたものと解釈できる。
このことから考えて、三角縁神獣鏡は当時、地域の首長クラスの支配者が持つことができた鏡であり、卑弥呼が魏の皇帝から貰った「銅鏡百枚」とは考えられない。
九州地方の3世紀後半の文化所産は貧弱になると言われてきたが、吉野ヶ里遺跡の発見でその定説は覆された。
吉野ヶ里遺跡のような物見櫓や北内郭の主祭殿、倉庫群などを備えた大規模な環濠集落が3世紀後半の北部九州に存在することが確かめられた。
魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の「楼観」「城柵」「宮室」「邸閣」に相当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ吉野ヶ里遺跡だけであり、近畿地方の遺跡からは発見されていない。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>143
三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡100枚かどうかなんて大した問題じゃない ヤマト王権は、筑紫邪馬台国女王・台与が肥後狗奴国男王・卑弥弓呼&狗古智卑狗(熊本県菊地市)を制圧した後、曹魏帯方郡張政の命令で、「親魏倭王」としての権力を本州「東渡海千里 複有国皆倭種」で誇示するべく、東征将軍・日向投馬国神武(更立男王 国中不服。日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和)を従えて東遷した統一王権で、そのシンボルとして築いたのが【自分の叔母】卑弥呼の改葬箸墓「径百歩(後円部)」(当初墓は祇園山「殉葬百人」)。
台与は暗殺されて金印「親魏倭王」とともに西殿塚に葬られ、ヤマト王権を引き継いだ崇神(266年複立男王 並受中国爵命)が、箸墓を【自分の大叔母】百々襲姫の墓と偽る、でいいんジャマイカ?
北部九州の土器が出土しないのは、征服した本州各地の奴隷を使ったから。
どや?w ◆位至三公鏡
中国の学者は「これが卑弥呼の鏡」と説明するが、安本先生は「年代が客観的に判る鏡という意味で大変重要な鏡」と述べる。
前回も説明したが、洛陽付近で出土した位至三公鏡19面のうち18面が、西晋代のものであり、洛陽晋墓から出土したものは、西暦295年と302年の墓誌を伴っていた。
卑弥呼の鏡は、位至三公鏡よりも少し前に盛行した長宜子孫銘内行花文鏡などの後漢鏡であると考えている。
これらの鏡は、日本での分布の中心が九州であり、北部九州からは大量に出土するが、奈良県からは全く出土しない。
すなわち、西暦紀元直後の後漢の時代から、300年頃の西晋代まで、中国と交流があったのは九州であると判断できるのである。 卑弥呼時代の紀年銘鏡が畿内、中国地方から出てるから位至三公鏡は関係ないな 三国時代、魏や呉の紀年鏡は中国地方に多いことから、邪馬台国時代(190年頃から266年頃)の九州の豪族が(首都が筑紫から大和に移った)ヤマト王権の成立後、本州に移っていったことを示しているのだろう 伊都国こそがまさに代々九州の王
伊都国を上回る投馬国、邪馬台国などというものを九州に求めることはできない 中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年頃生〜247年没)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
https://i.imgur.com/boCZvL8.png
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池郡)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) 纒向ができる前の畿内の超大国であった唐古鍵王国では全く銅鏡を出土しない
一部の九州説が「畿内は鏡が大好きというだけに過ぎない」と揶揄することがあるが、鏡が大好きなのは九州人であって、古墳時代に銅鏡が畿内からたくさん出土するのは、九州人が畿内に入ったことを意味するのだろう そこで阿蘇山を祷祭していた倭王阿毎多利思比孤ですよ!w 丗は、三十并也。(说文解字)
https://www.zdic.net/hans/%E4%B8%97
「丗有王 皆統屬女王國」
三十年ほど王が有り、皆女王国の統制に隷属している 畿内説は庄内土器の分布が九州制圧の証拠だと言い張るけども、神武の東征で土器職人の生口をお土産にしたと言うのが正解だろう。 はい、令和の正解
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25 >>155
>丗は、三十并也。(?文解字)
文脈が通じるのは「此」。 「丗」を有王に使うのは不自然。 @阿波 ニニギノミコトはアマテラスから授けられた三種の神器を携えて筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天下り、「ここは韓国(からくに)に向いた良い土地だ」(大意)と言った
伊都国の領域であった糸島にクシフル山があり、ここが天孫降臨の地だと考えられる(宮崎では韓国に向かっておらず意味が通じない)
平原王墓には鏡・玉・剣の三種の神器が副葬されており、この組み合わせが皇室に伝承された可能性がある
考古学者の柳田康雄・寺澤薫・北條芳隆らもそれぞれの研究の結果、伊都国からヤマト王権への強い影響や東遷を想定する
纒向学など最近の考古学の研究成果を見ればヤマト王権は北部九州や吉備からの征服勢力が建てたと考えられるが、記紀には卑弥呼や親魏倭王の伝承が見られず神武東征伝承に巫女女王の姿もないことから、ヤマト王権を建てた勢力には伊都国が関与し、かつ邪馬台国は関与していないと思われる
邪馬台国はそのまま北部九州(伊都国や不弥国の南かつ肥後にあったと見られる狗奴国の北なので筑後山門であろう)に残り、田油津媛の代に滅亡したのではなかろうか 魏志倭人伝には卑弥呼やその後の男王や台与などは邪馬台国王ではなく倭国王として書かれている
倭国王卑弥呼が邪馬台国にいたことは記載されているが、それ以外の倭国王が邪馬台国を都としたかどうかは不明だ
例えば卑弥呼の後に立った男王は伊都国や奴国などのトップが倭国王に着いた可能性もある
卑弥呼の後に男王が立ったが国中服しなかったとあるが、この「国」は明らかに邪馬台国ではなく倭国だ
魏志倭人伝は邪馬台国・伊都国・奴国など小国単位の「国」(日本の歴史学で通常「クニ」と表記)と、クニが集まった連合国としての「国」すなわち倭国が出てくるので、混同しないよう気をつけなければいけない >>166
旧山門郡の地域は田畑が多くまともに発掘されていないが、弥生遺跡自体は複数出てくる
基本的に遺跡というものは工事などで掘り返されなければなかなか発見されない 魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表す小国で「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる はい、正解
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25 >>168
>×.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
〇.「丗有王 皆統屬女王國」⇒ここに王がいて皆女王国に属してきた @阿波 「邪馬臺国(首都女王国)の場所」
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km) 1里=75m
∴1里≒70mは、概ね妥当。 @阿波 >>173
阿波さん、そのクオリティで
>>172←ワイの仮説(南「陸行一月」は東治⇔東冶の距離580q=19q×30日だった!倭地に牛馬なし)を描いてみてくれないか? 代々圧倒的な大王がいた伊都国が、ついに邪馬台国に属することになってしまった
倭国乱が原因で、歴年主無しの時代についに邪馬台国に取って代わられたか? @倭国大乱…帥升死後、倭王権が奴国2万戸(漢委【奴国王】→帥升)から南の筑紫平野・邪馬台国7万戸に移る
A狗奴国戦争…筑紫邪馬台国に倭王権が移ったことで南で国境を接する狗奴国(狗古智卑狗=菊地彦+後の熊襲=球磨阿蘇)との緊張感が高まり、卑弥呼が老齢になると、ついに相攻する交戦状態へ
B卑弥呼の朝貢…(呉の孫権を後ろ盾にした)狗奴国に対抗するため、曹魏に朝貢し「親魏倭王」に封じてもらい、帯方郡が管理する狗邪韓国(伽耶)の鉄を輸入する。
さらに狗奴国を側面から牽制するため投馬国(宮崎)と同盟を結ぶ。 >>175
この伊都国に王が居た」ことをわざわざ言っている。
倭国(阿波)王権によって、伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波 >>175
ほんとデマばっかだな。
伊都国の一貴山銚子塚古墳は、
頭部に鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡<<"鍍金">>
脇に三角縁神獣鏡8面
これだけでも、威信鏡がなんたるか、がわかる。 沖縄は稲作が始まったのが早くても8世紀
邪馬台国沖縄説は阿波説より可能性が低い 根拠を示して、すっきり正解
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25 >>179
4世紀末の前方後円墳
伊都国は明確に凋落している >>175
この伊都国に王が居た」ことをわざわざ言っている。
倭国(阿波)王権によって、伊都国に王(一大率=出入国在留管理庁長官)を置いた。 @阿波 >>185
しかし、いまだに天皇家と深い交流があるから。 @阿波 >>183
伊都国は元々千戸の王都だっただけだし、
その時期には王都では無かった可能性が高いだろう。
だが、威信鏡は平原遺跡と同じ方格規矩四神鏡と内行花文鏡。 文化の日に天皇から授与される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
もう一つ付け加えると、「阿波の青式」がある。 @阿波 >>187
魏略の1万戸を採用する
4世紀末の前方後円墳という時点でもはや価値なし
内行花文鏡と方格規矩鏡なんて別の地域でも出る
それより、平原の超大型内行花文鏡の方が価値が高い ◆位至三公鏡
中国の学者は「これが卑弥呼の鏡」と説明するが、安本先生は「年代が客観的に判る鏡という意味で大変重要な鏡」と述べる。
前回も説明したが、洛陽付近で出土した位至三公鏡19面のうち18面が、西晋代のものであり、洛陽晋墓から出土したものは、西暦295年と302年の墓誌を伴っていた。
しがたって239年に卑弥呼が貰った鏡は、位至三公鏡よりも少し前に流行した長宜子孫銘内行花文鏡などの後漢鏡であると考えている。
これらの鏡は、日本での分布の中心が九州であり、北部九州からは大量に出土するが、奈良県からは全く出土しない。
すなわち、西暦紀元直後の後漢の時代から、300年頃の西晋代まで、中国と交流があったのは九州であると判断できるのである。 >>189
魏略は魏志倭人伝に比べて大幅に情報が少なく、
伊都1万戸はもっと前の時代の情報。
つまり吉武木遺跡に首都があった後漢以前の伊都。
伊都國とは、高祖山を中心とする東西平野であり、
東の早良平野・吉武遺跡群が後漢代首都で、
西の糸島平野・三雲井原遺跡群が魏代首都で、遷都した。 令和の満額回答うれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25 >>190
位至三公鏡が出土するのは5世紀古墳から
神奈川の5世紀古墳からも出てる >>191
>阿波には国宝が無い
でもまぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「国宝の無い県」「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。 @阿波 漏れちゃんによる、令和の正解
南「陸行一月」は(倭国内ではなく)中国大陸側【東治⇔東冶】の距離580q=19q×30日だった(倭地に牛馬なし)!への感想よろw
https://i.imgur.com/530Jlx1.jpeg 伊都国を上回る邪馬台国はおろか、投馬国の比定地さえ九州には見出せない 伊都国の一貴山銚子塚古墳は、
頭部に鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡<<"鍍金">>
脇に三角縁神獣鏡8面
これだけでも、威信鏡のなんたるか、がわかる。 >>195
そのコピペお気に入りのようだが、「文字」は漢字の事だと思うので起源は大陸であって阿波出ないのは明白。
阿波が起源(かも)と言えるのは、
「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「緑色片岩製柱状片刃石斧」ぐらいですね。 >>198
そりゃ伊都が邪馬台国の首都なんだから、上回るものはないだろうよ。
人口だとニューヨーク奴国があるけれども。 >>172
面白いですな。
私なら
侏儒国を種子島
奄美大島を投馬国
沖縄を邪馬台国 北部九州倭国に、伊都と奴国でうれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/27 きちんと説明うれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/9-11 >>199
4世紀末の前方後円墳というだけで価値無し しゅ‐じゅ【侏儒/朱儒】 の解説
1.背丈が並み外れて低い人。小人。一寸法師。
2. 見識のない人を嘲っていう語。
侏儒国=四国阿波そのものw >>205
サンドイッチ法で、方格規矩四神鏡と内行花文鏡がずっと威信材。対馬海峡最重要拠点の糸島で。 >>207
4世紀末の前方後円墳というだけで価値がない
内行花文鏡なんて桜井茶臼山だけで3面出る
ヤマトの前方後円墳を押し付けられて(あるいは自ら好んで)、しかも畿内人が作った三角縁神獣鏡を下賜されてる >>208
畿内人が小銭を稼いでいた仏壇の脇を飾る造花はどーでもいいとして、
鍍金の鏡って同時期の畿内から出てるの?
銅鏡あるいは金銀錯嵌珠龍文鉄鏡でもいいけど 九州説の人は時間の観念が無いんだね
歴史研究には致命的だよ 八咫鏡(平原王墓)
↙︎ ↘︎
宗像大社 伊勢神宮 >>168
>5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
この文は、乃ち一女を共立して王と為す、の後に出てくるので、倭30国=倭国=女王国となる。
後世の太平御覧倭人伝では、倭国の東渡海千余里・・、と改められている。 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。
常識:山東半島→帯方郡
指摘:会稽東治→倭国
常識:台湾→→南西諸島
常識:南越(ベトナム)
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國、萬二千餘里」
「計其道里、當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、
東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 というわけで、令和の正解
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25 令和の正解ウザいw
⇩これが魏志倭人伝の正解(転載&拡散自由w)
https://i.imgur.com/2wTbDuY.jpeg 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は熟知している。
自国領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録されている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下のように緯度を示したのだな。
常識:山東半島=帯方郡
指摘:会稽東治=倭国
常識:台湾=南西諸島
常識:南越(ベトナム)
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國、萬二千餘里」
「計其道里、當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、当然のことながらそうではなく、
東夷伝里(短里)とは、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 真摯に大文字で説明うれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/42-43 >>221
邪馬台国の東は海だから中国地方が倭種である事は確実だが
南は何処までが邪馬台国の範囲なのか難しいな。 >>220
>三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており
何も証拠のない現代日本だけの都市伝説だ
陳寿は倭が会稽東冶の東と試算しており、当然ながら短里など知らない >>200
奈良盆地にカモメが群れ飛んでいると言う、板野の「売郷奴」は黙ってロムってろ。 わははははは @阿波 >>227
三国志東夷伝を東夷伝里(短里)で君が読まないから訳が分からないんだよ。 >>230
何が言いたいのか意味が分からんな
ちゃんとした文章で主張してね。 >>233
それでもまだ、行程里数を足し算・引き算するんだろ? @阿波 >>220
夷州のことなら台湾
沖縄じゃない
@沖縄人 郡から阿波までの直線距離はどうやって計測するんだ? >>235
足し算引き算が出来ない阿波の名門の出の一流学者! 短里があったとしても、九州に投馬国の比定地が見つからない 725年で人口が50,500人だから阿波は邪馬台国を諦めろよ。 >>237
言えることは、陳寿は足し算して万二千余里とは一切書いていないってこと。
勝手に足し算・引き算して「魏志倭人伝」の行程をもてあそんでいるのがトンデモども。 @阿波 不彌国以降は道理がわからず日数しかないのになんで帯方郡から邪馬台国まで12000里だとわかるのか。
12000里という数字に根拠がないか、何らかの方法で直線距離が測れたと考えるしかない。 >>242
投馬国は帯方郡から水行20日の場所だから朝鮮半島南部だよ
その中心が帯方郡の南の海岸から船で7000里の狗邪韓国。 >>244
伊都国に遠く及ばない
石塚山古墳だけが希望だ 不彌国の次に来るのは投馬国ではなく傍国の斯馬国なんだ
帯方郡から12000里の場所は伊都国と奴国の国境付なんだ。 >>246
>何らかの方法で直線距離が測れたと考えるしかない。
その通り。 @阿波 >>247
>投馬国は帯方郡から水行20日の場所だから
「魏志倭人伝」をもてあそぶな! @阿波 >>248
知られていなようだが吉野ヶ里クラスの環濠集落が出ているけどな >>249
魏志倭人伝を矛盾無く読むと投馬国は朝鮮半島南部となる。 >>250
「魏志倭人伝」をもてあそぶな! @阿波 >>256
古田説は不完全だったので可笑しな点を無くすように再考したんだ。 >>259
その狗邪韓国は、巨済島周辺です。 @阿波 >>261
魏から下賜された鏡は、画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡。 このどちらかだろうね。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
または、同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡 @阿波 ぼう製鏡「三角縁神獣鏡」の見本は、斜縁二神二獣鏡なんだろうね。 @阿波 畿内説でほぼ決まり、証拠があると言ってたのが怪しくなり、嘘だと言われる始末
九州側も、吉野が里、平原王墓も却下されるとあとは金印か銅鏡を見つけるしかない
あの時代の文字による証拠、魏志倭人伝はそれなりに正確で九州と思うが
数字が意図的に操作されている、水行20日、7万戸、などについて考慮せず
畿内説は厳密に考えるようだ 最初期型の三角縁神獣鏡は本当は斜縁神獣鏡
つまり三角縁神獣鏡が日本でしか出土していないと言うのは実はウソ
吉野ヶ里の謎のエリアなるものから、前2世紀の銅矛の鋳型が出たんだってな
吉野ヶ里邪馬台国説も絶望的 >>264
>畿内説でほぼ決まり、証拠があると言ってたのが怪しくなり、嘘だと言われる始末
それ、一部の人が妄想してるだけだけどね
だって
「怪しくなり」とか「嘘だ」とか、証拠ないもの >>264
>魏志倭人伝はそれなりに正確で九州と思うが
「魏志倭人伝」の行程里数を足し算・引き算してはいけない。 @阿波 なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(台湾対岸の福建省)の東(の海上)にあり」とするための※虚構(種子島〜沖縄〜台湾=幻の邪馬台国島)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の虚構=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-遠賀川)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.....................……投馬国(宮崎平野)
.............................↓「南水行十日」
会稽東冶(江蘇省)〜〜〜種子島=架空の邪馬台(女王)国島⇩
【580q=19q×30日】〜沖縄↓「陸行一月」
会稽東冶(福建省)〜〜〜台湾 ✖架空の女王之所都 稽東冶が江蘇省だとか
満座の失笑を買うような証拠のない馬鹿話を平気でするから
九州説は滅んだ >>270
ご指摘お産クスコ!訂正してみますた!
⇩実際の地図で確認おながいしまつ
>>218
投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(台湾対岸の福建省)の東(の海上)にあり」とするための※虚構(種子島〜沖縄〜台湾=幻の邪馬台国島)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の虚構=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-遠賀川)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
建業(呉の首都).............↓「南水行十日」
東治(江蘇省)〜〜〜〜〜種子島⇩架空の邪馬台(女王)国島⇩
【580q=19q×30日】〜沖縄↓「陸行一月」
東冶(福建省)〜〜〜〜〜台湾⇧✖架空の女王之所都 ⇧ >>272
沖縄は狩猟採集時代
沖縄が邪馬台国である可能性はゼロ
@沖縄人 >>273
違う違う♪そうじゃな〜い♪w
魏志倭人伝には本当の位置(筑紫平野=帯方郡から12,000里)と嘘の位置(会稽東冶之東=呉・建業の背後)が書いてあるから、みんな混乱しちゃってるってこと! >>274
違う違う♪そうじゃな〜い♪w
混乱してるのはオマイさん自身だよ、いい加減におよし >>276
違う違う♪そうじゃ♪そうじゃなぁ〜い♪
「(邪馬台国は)帯方郡を去ること一万二千里にして、会稽の東(海上)にあり、儋耳朱崖(海南島の東西両郡)と相近し」とあるから、
沖縄や、さらに台湾より遥か南にある海南島に近いということを書いてるわけ(魏の都・洛陽から見て呉の建業の背後にあれば最高の牽制球になるという魏の希望的観測でw)
⇩たのむ、もう一回よく見て♡
つ>>196 魏志倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記述しており、当然その内訳も記述している。
その内訳は7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000である。
つまり、伊都国と奴国の国境付近を指して女王国と魏志倭人伝では呼んでいる。
不弥国までの100里も記述しているが、それは不弥国から更に傍国の最初の国の斯馬国へと続くからである。
女王国の東へ渡海1000里で倭種とあるが、これも不弥国から東へ渡海1000里で倭種のこと。
不弥国は室見川下流域で斯馬国は糸島半島(旧志摩郡)。 >>278
その内訳も記述しているが、それを足し算しろとはどこにも記述していない。
陳寿を愚弄するべからず。 @阿波 >>272
「(邪馬台国は)@帯方郡を去ること12,000里にして(半島南岸の金官伽耶=狗邪韓国までが7,000里)、A会稽の東(海上)にあり、儋耳朱崖(海南島の東西両郡)と相近し」
つまり@本当の位置(筑紫平野)とAウソの位置「當在会稽東冶之東(の海上)=魏の洛陽から見て、呉の建業の背後」が一つの文章になってるw
このせいで畿内説などというトンデモ電波が生まれてしまったわけw >>279
古田氏は島巡りを提唱したがその理由を説明出来ていないので理由を説明してあげよう
魏志倭人伝を読むと帯方郡内の記述は一切無いので魏使は帯方郡の南の端の海岸から出発している事が分かる
海岸からの出発なので次も狗邪韓国の海岸までとなる
狗邪韓国の海岸から次は対馬国の北岸へ
対馬国の北岸から対馬国の南岸へ
対馬国の南岸から一大国の北岸へと続くのである
出発地が帯方郡の南の端の海岸からだったので島巡りが必要なのだ。 >>282
>狗邪韓国の海岸から次は対馬国の北岸へ
>対馬国の北岸から対馬国の南岸へ
>対馬国の南岸から一大国の北岸へと続くのである
それが対馬海流の流れ利用航海というものだ。 @阿波 >>282
>「(邪馬台国は)@帯方郡を去ること12,000里にして(半島南岸の金官伽耶=狗邪韓国までが7,000里)、A会稽の東(海上)にあり、儋耳朱崖(海南島の東西両郡)と相近し」
会稽東「治」(サンズイ)じゃなくて、東「冶」(ニスイ)が正しい理由は、「儋耳朱崖(海南島の東西両郡)と相近し」とあるからなんだよね 次は、一大国の南岸から「末盧国」は福津市(万津浦)辺りだ。 @阿波 >>278
国境までの里数だと国内移動距離を加えると12000里以上になるので
伊都国と奴国の国境付近ではない 下らない枝葉末節をいつまでもウダウダとw
其南有狗奴国 官 狗古智卑狗 で筑紫平野以外ないんだよw >>286
>国境までの里数だと国内移動距離を加えると12000里以上になるので
だから、加えるんじゃない! トンデモは、すぐ加えたがる。 @阿波 >>287
いくらウダウダ言っても、筑紫平野に強大国「狗奴国」の遺跡がないんだよw @阿波 >>286
海岸から海岸までなので末盧国へは末盧国の北岸に着く事になる
この北岸は呼子付近だと考えられる
呼子付近から南へ唐津市方面に向かい東へ向うと500里(40km)で伊都G.C.付近の丘陵に着く
この丘陵地帯が末盧国と伊都国の国境
更に100里(8km)で糸島峠付近に着く
この峠付近が伊都国と奴国の国境で当に女王国と記された場所。 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀漢の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、孫呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、其南有狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
つまり、長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−「女王国 東渡(海)千余里 (複有国)皆倭種」
〇九州説…海=関門海峡〇 複有国=本州(皆倭種)〇
✕畿内説…海=鈴鹿山脈✖ 複有国=北海道(非倭種)✖
−「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼」
〇九州説…熊本(狗古智卑狗=菊地彦)
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其(女王国)南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。 >>291
>この北岸は呼子付近だと考えられる
考えられない! @阿波 >>292
糸島峠を中心とした糸島市や福岡市が女王国だね。 伊都国には代々王がいるし、福岡市は奴国2万戸なので✕ >>295
糸島市や福岡市に女王国の遺跡がない! @阿波 >>296
伊都国、奴国、不弥国を併せて女王国と魏志倭人伝では呼んでいる。 >>300
>周旋5千餘里だよ
だからなんだ? @阿波 >>302
だからいつまでたってもトンデモのまま。 @阿波 周旋可五千餘里とは奴国、不弥国、斯馬国・・・奴国へ一周が5000里
邪馬台国内を一周だな。 >>303
おまえが陳寿をバカにしている。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 >>306
>周旋可五千餘里とは奴国、不弥国、斯馬国・・・奴国へ一周が5000里
だからいつまでたってもトンデモのまま。 @阿波 >>307
その「周旋可五千餘里」は、絶在海中洲?之上の四国のこと。 @阿波 ヤマト王権は、筑紫邪馬台国女王・台与が肥後狗奴国男王・卑弥弓呼&狗古智卑狗(熊本県菊地市)を制圧した後、曹魏帯方郡張政の命令で、「親魏倭王」としての権力を本州「東渡海千里 複有国皆倭種」で誇示するべく、東征将軍・日向投馬国神武(更立男王 国中不服。日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和)を従えて東遷した統一王権で、そのシンボルとして築いたのが【自分の叔母】卑弥呼の改葬箸墓「径百歩(後円部)」(当初墓は祇園山「殉葬百人」)。
ちょうど家康の日光東照宮と久能山東照宮と同じ。ちなみにホケノ山は真のニギハヤヒ陵
台与は暗殺されて金印「親魏倭王」と共に西殿塚に葬られ、ヤマト王権を引き継いだ崇神(266年複立男王 並受中国爵命)が、箸墓を【自分の大叔母】百々襲姫の墓と偽る、でいいんジャマイカ?
北部九州の土器が出土しないのは、征服した本州各地の奴隷を使ったから。
どや?漏れって天才?w >>295
何もない糸島峠までの里数などは書かない
小隷属国伊都国を完全に通り過ぎて12000里で至る2万戸の奴国の中心地博多が
畿内と密接な政治連合である女王国の入り口 >>299
伊都国には代々王がいるし、卑弥呼は世襲女王ではなく、その霊能力による共立女王なので✕ >>314
參問だ。バカ
邪馬台国まで
直線距離と書いていない。 >>302
>伊都国、奴国、不弥国を併せて女王国と魏志倭人伝では呼んでいる。
このように
まったく理由を言わない九州説が
学問であり得ないことは一目瞭然だ >>196
投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(台湾対岸の福建省)の東(の海上)にあり」とするための※虚構(種子島〜沖縄〜台湾=幻の邪馬台国島)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の虚構=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-遠賀川)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
建業(呉の首都)...........↓「南水行十日」
東治(江蘇省)〜〜〜〜種子島⇩架空の邪馬台(女王)国島⇩
【580q=19q×30日】沖縄↓「陸行一月」
東冶(福建省)〜〜〜〜台湾⇧✖架空の女王之所都 ⇧ 「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。
文脈が通じるのは「此」。 「丗」を有王に使うのは不自然。
「丗」は、代々ではない。 @阿波 >>312
參問倭地とは倭地に付いて倭人から情報を集めたら一周が5000里くらいかなって意味だな
女王国(伊都国、奴国、不弥国)までしか魏使は来ていないから傍国の話を倭人に聴いて一周が5000里ぐらいだと判断したんだ。 伊都国と奴国を足しても投馬国の5分の3しかない
九州に邪馬台国を求めることは事実上不可能 >>315
「世有王」だから魏の世に倭王卑弥呼が伊都国に居ましたって意味なんだよ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>322
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20国で邪馬台国は形成されてたんだよ
中心メンバーが女王国の伊都国、奴国、不弥国。 >>325
三國志内で「世有」の用例を調べると魏書では殆どの場合、魏の世を指してるんだよ。 >>325
代々と訳した場合でも魏の世内での代々で2〜3代の意味で使われている。 >>321
伊都国、奴国、不弥国は、「絶在海中洲?之上」でないから× @阿波 >>326
その場合、投馬国の比定地が見つからない >>323
>「世有王」だから
違う。「丗」は、世ではない。 @阿波 >>323
全く支持できない
あまりにも魏志倭人伝を無視しすぎている >>327
>三國志内で「世有」の用例を調べると魏書では殆どの場合、魏の世を指してるんだよ
そんな事実がどこにあるの? >>328
邪馬台国まで来てはいるが、女王国(伊都国、奴国、不弥国)までだね
邪馬台国全体を見て回ってないね
南の方の傍国辺は見てない。 >>335
女王国の首都が邪馬台国である
そのような珍説は採用できない 世という漢字を調べたら、30年の意味とか、代々の意味とかも出てくるな >>333
先人の人の意訳が滅茶苦茶だったんだよ。 >>335
>邪馬台国まで来てはいるが、女王国(伊都国、奴国、不弥国)までだね
伊都国、奴国、不弥国は、「絶在海中洲?之上」でないから× @阿波 >>336
そもそも、。「丗」は、世ではないから。 @阿波 >>336
>自分で確認してごらん
>勉強になるよ。
ほら、証拠が出せない
ウソだったんだ
九州説信者は
恥知らずの嘘つきだ >>337
>女王国の首都が邪馬台国である
逆だ。
「邪馬臺国」の首都が女王国。 @阿波 >>338
30年は「丗」だな
「世」と本来「丗」は別の字なんだ「十」が10「廿」が20
「世」は元々は一生のことなんだ、植物の芽の形から出来た漢字。 >>326
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、邪馬台国、投馬国、傍国22国の、
合計30国で、倭国が形成されてたんだよ
(傍国華奴蘇奴国は、華奴国と蘇奴国の2国結合表記)
女王側の中心メンバーは、戸数、官名などが書かれている対海国〜投馬国の8国。 >>344
「世有」の用例は過去に何度かここに揚げたけど見てないのね
新参の人だな >>346
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。
文脈が通じるのは「此」。 「丗」を有王に使うのは不自然。 @阿波 >>346
一生の意味も後ろの方に載ってた
だいたい最初の方の意味が30年になってるぽい
人生ひとサイクル、一世代が30年という感じのようだ >>348
>「世有」の用例は過去に何度かここに揚げたけど
そもそも、。「丗」は、世ではない。 @阿波 >>346
「世」と「丗」は別の漢字だったんだが、「世」を「丗」とも書くようになったんだ
それで混乱している。 伊都国は女王国に属す、
女王国の北は一大卒を伊都国に置いて諸国を監視。
伊都国と女王国は別だと明らかに魏志倭人伝読めばわかるのに、それもまたお得意の妄想で勝手に同じとかもうやめたら?w
病気やんまじ。 >>355
そんな事は魏志倭人伝には書いてないな。 >>355
>伊都国と女王国は別だと明らかに魏志倭人伝読めばわかるのに、それもまたお得意の妄想で勝手に同じとかもうやめたら?w
同じように、行程里数を足し算・引き算するとかもうやめたら?w @阿波 >>345
間違いだ、
「邪馬臺国」の首都は 女王都である。
最近の阿波はチョンボがちらほらww >>355
女王国は伊都国をも含んだ概念として使用される名称なんだな >>360
「邪馬臺国」の首都は 女王都である。
そうだな。 「魏志倭人伝」に女王国は無いな。 たぶん。 @阿波 伊都国→三雲南小路大王、井原鑓溝大王、平原大王
奴国→須玖岡本大王
伊都国、奴国こそが九州の王の中の王である
それでも3万戸だ
これを超える勢力、投馬国や邪馬台国を九州内のどこかで見つけることは不可能 邪馬台国が北部九州地域なんだから投馬国は朝鮮半島南部だよ
他に5万戸もの国が収まる所はない。 >>364
>これを超える勢力、投馬国や邪馬台国を九州内のどこかで見つけることは不可能
「狗奴国」も含めて、これら大国が存立するのは、温暖な黒潮太平洋沿岸地域。 これは自然の摂理だ。 @阿波 >>360
それが間違いなんだ
7萬戸の都なんて3世紀の日本には無い
7萬戸だと旧国の大きさで6〜7か国分の大きさ
邪馬台国とは地域の名称だよ
投馬国に対して邪馬台国は女王の都べる所だと言ってる >>368
>7萬戸の都なんて3世紀の日本には無い
「狗奴国」も含めて、これら大国が存立するのは、温暖な黒潮太平洋沿岸地域。 これが自然の摂理というものだ。 @阿波 >>361
そうですよね、女王国とは伊都国、奴国、不弥国の3か国を指してますね。 >>369
四国には5万戸の投馬国も7万戸の邪馬台国も入りきらないからな。 >>371
入る、入らないはお前の頭の中の話。 @阿波 ワンチャン投馬国を九州のどこかに比定するなら、石塚山古墳が入っている枠内の地図のコピペのやつ
石塚山古墳は120mの出現期前方後円墳で三角縁神獣鏡7面(備前車塚古墳、椿井大塚山古墳と同笵)
しかし、なぜ伊都国、奴国から福岡県苅田町に中心が移ったのか分からない
伊都王家が畿内に移動したのか?
ちなみに、備前車塚古墳は、三角縁神獣鏡11面で石塚山古墳より格上(さらに内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1) >>368
>邪馬台国とは地域の名称だよ
邪馬台国とは、明らかに都市国家ではないな。
当時はまだ狩猟・採集・焼き畑・農耕・漁労などの民が、広く散らばって暮らしていた。
邪馬台国は熊本・阿蘇に散在する7万戸の範囲のこと。 >>373
古墳の話しか出来ない時点で、限界集落。 @阿波 狗奴国狗古智卑狗は熊本県菊池市、のちの熊襲=球磨+阿蘇 なので邪馬台国・熊本説は✖ >>374
熊本に、伊都国、奴国を超える国の存在が見当たらない >>374
>邪馬台国は熊本・阿蘇に散在する7万戸の範囲のこと。
そんなんだったら、日本全国「邪馬臺国」だらけだ。 @阿波 理由のないこと、証拠の出せないことをただ言い張る
それが九州説
恥ずかしい人々 >>374
熊本県だけじゃ邪馬台国は無理だよ
北部九州地域全体くらいの広さないと。 >>373
全国に古墳を造ってくれた倭人(阿波勢力)のお陰で、古代史を語れて良かったな。 @阿波 >>370
>そうですよね、女王国とは伊都国、奴国、不弥国の3か国を指してますね。
まったく理由の言えない不合理なことを
ただ連呼する九州説って
間違いなく低能 >>384
理由は説明したろ
帯方郡から12000里の場所だからだ
健忘症か? >>378
広ければ、どこでも邪馬台国というわけではない
その広さを纏めるには、道路と橋がいる。道路工事と橋の建設にはハガネ鉄のオノやノコがいる。
邪馬台国の中心の工業中心の山鹿・菊池には、たくさんのハガネ鉄工房が有ったのだが、
そこにハガネ鉄材を供給し加工技術を支援したのが、楽浪郡であり帯方郡だったのだ。阿波の鉄はずっと後世。 いや、方形・円形周溝墓や突出型墳丘墓などもだな。 @阿波 >>387
島巡りの理由も説明したけど納得出来ない? >>389
>熊本は狗奴国
大国「狗奴国」に失礼だ。 @阿波 >>1
>>2
現代の日本人= 西遼河流域の青銅器時代人+縄文人
中国人と韓国人の染色体の50%以上を占める中国黄河古人の成分は、現代の日本人にはほとんど見られません
https://i.imgur.com/wP9S1y5.jpeg
https://i.imgur.com/QrE7Uzt.jpeg
現代の日本人と現代の朝鮮民族は、常染色体から見ても明らかな違いがある。中国23魔方で調べたところ、日本人はほぼ100%の日本人成分で、朝鮮民族の割合が最も大きいのは中国北方の漢族成分です。
日本の渡来人≠朝鮮人
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
朝鮮人は中国人と日本人の混血種
https://i.imgur.com/CLuFPAZ.jpeg
https://i.imgur.com/Ze89HPK.jpeg >>391
だから、九州説を攻撃したからといって、畿内説なんかにするなよ。 @阿波 伊都国説だが熊本県民なので熊本県も邪馬台国に入れたいw
狗奴国は鹿児島辺りにしてね。 >>396
熊本は免田式文化圏なので、北部九州との関わりは薄い 狗奴国は北部九州地域の邪馬台国に対抗する力を持っていたのだから九州を南北に分けるくらいの大国だったのだろうな。 >>398
>狗奴国は北部九州地域の邪馬台国に対抗
単に南北での決めつけ。 アホ過ぎ。 @阿波 女王国は12000里の奴国で、
邪馬台国は纏向中心の広域国家。
と2行でこんなん結論出るのに延々と妄想合戦してるおまえらは病院いけw >>385
>帯方郡から12000里の場所だからだ
唐津から、東南陸行 →又東南、と2回も続けて書かれているのに、古田は、倭人伝に逆らって船に乗り、
東の糸島へ進み上陸した。明らかに支那人の陳寿に反感を示した敵対行為、
何を血迷ったか、出だしの一歩を大間違いしたのだ(泣く、、 @ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。 >>402
>唐津から、東南陸行
何を血迷ったか、出だしの一歩を大間違いしたのだ(泣く、、 @阿波 >>403
>以上からは、世有王
そもそも、「丗」は、世ではない。 @阿波 >>402
古田氏は置いといて
魏使は呼子付近に上陸したから伊都国(糸島市南東部)へ東南でいいの(伊都G.C.付近の丘陵)
更に糸島峠だからまた東南なのだよ。
そこから >>407
>呼子付近に上陸
何を血迷ったか、出だしの一歩を大間違いしたのだ(泣く、、 @阿波 >>404
3世紀の日本に7万戸の都なんて存在していないよw
邪馬台国は首都じゃなくて地域の名称だよ。 >>406
元々は「丗」は、世ではなかったんだが世も丗と書くようになったんだよ
それで一世30年とか言われるようになった。 >>409
地域の名称というのはそう
畿内第V様式圏が邪馬台国
しかし、女王国の首都が邪馬台国である
狭義では纒向を指す >>410
その流れは、「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王」
の、誤解釈によって以降の話だ。 アホ学者の苦肉の解釈だな。 @阿波 >>411
だから、纏向遺跡ごときを持ち出すなよ! はずかしい。 @阿波 >>411
里程に出てくる国は郡や市規模のもので
日程に出てくる国は地域の名称なんですよね
そもそも里程と日程は別の資料からの引用で全然別の文章なんですよ
だから続けて読んではいけないのですよ。 >>414
放射で頑張って読んでも投馬国の比定地が見つからない >>411
>しかし、女王国の首都が邪馬台国である
「国」の首都が「国」なわけない。首都とは書いて字のごとく都(みやこ)であるべし。 >>414
同じように、行程里数を足し算・引き算するとかもうやめたら?w @阿波 >>415
放射じゃないんですよw
里程も日程も帯方郡からのもので同じ行程を距離と時間で説明してるんですよ
陳寿は里程での記録と、日程での記録があったのでそれを合体させたんですよ。 >>403
@ >夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。
魏の后妃傳だから 魏の后妃の話だけ書くのが当然で、「世」に「魏の世」の意味があるのじゃない
A >語曰「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
古代からずっとの話をしてるので「魏の世」の話じゃない
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七 >今汝先人、世有冠冕、 >現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
後漢の頃から「代々」冠をつける役職についてるから「魏の世には」はペケのトンデモ解釈
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十 >而公孫淵、仍父祖三世有遼東。 >父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
むろん後漢代からの話
「魏の世には」はペケのトンデモ解釈
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三 >當世有聲名 >当時は名声が高かった。
蜀での話だから「魏の世には」はペケ
>以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
明らかにデタラメ >>407
>魏使は呼子付近に上陸したから伊都国(糸島市南東部)へ東南でいいの
呼子みたいなドイナカ辺鄙へ、郡使が上陸するものか。
唐津の古墳は、11基の内9基までが、松浦川東岸にある。
残りの2基は離れ小島で、航海の目印・守り神だったのだろう。
出入港は、唐津インター出口の中原遺跡から〜JR山本駅近くの双水遺跡までの松浦川中流。
此処から糸島は、鬼門の方角の北東に当るんだよ・・、 >>418
意味不明だけど、
行程里数を足し算・引き算するとかもうやめたら?w @阿波 里程の記録では郡や市くらいのものを国として書いてあり
日程での記録では地域の名称を国と書いてたんですよ
里程に出てくる国と日程に出てくる国では同じ国でも全然違うものなのですよ。 >>420
>出入港は、唐津インター出口の中原遺跡
何を血迷ったか、出だしの一歩を大間違いしたのだ(泣く、、 @阿波 >>420
古代は唐津じゃなくて呼子付近の港を使用していたって肥前風土記にはある。 伊都国と奴国を足しても投馬国の5分の3しかない
九州に邪馬台国を求めることは事実上不可能 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 北部九州に遅れた本州で2世紀末(倭国乱後)、突如として吉備に楯築という弥生最大の墳丘墓が現れる
ここから副葬品が貧弱だった本州でも、副葬品の多彩化が進む
この吉備こそ投馬国だ >>430
>北部九州に遅れた本州で2世紀末(倭国乱後)、突如として吉備に楯築という弥生最大の墳丘墓が現れる
それは、倭人(阿波勢力)の吉備進出を意味するものである。 @阿波 古田信者の人って東日流外三郡誌を信じているのかね?
ツボケ族とか卑弥呼の兄弟のミミコとかさぁ wiki楯築
香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。
2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。
このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。 >>434
>このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。
双方中円墳の萌芽も、「阿波」の前山1号墳に見られる。 @阿波
「前方部中程が一番低く、前方部端が高く盛り上がるという側面観は、
爺ヶ松古墳や石清尾山古墳群の双方中円墳である猫塚などに似ています。」
https://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/65.htm
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5024266 >>424
>奈良時代の地誌『肥前国風土記』には、大陸への出口を呼子港近くの「登望駅」としています
対馬海流を乗り切る関係上、大陸への出港は出来るだけ西の方が都合が良かった。
だから呼子〜玄海町岬が出港専用地。唐津から出港するときは事前に呼子方面へ行って潮時を待った。
しかし入港時は、流されて糸島沖まで来て、そこで沿岸反転流に乗り換えて西の唐津中原へ入港した。
つまり好適な出口と入り口は違った。だから郡使は唐津中原に入った。 >>436
倭国乱は九州でも良い
ちなみに、倭国乱を戦争と見るなら、青谷上寺地遺跡がそれだ >>424
>古代は唐津じゃなくて呼子付近の港を使用していたって肥前風土記にはある。
古代ってせいぜい飛鳥奈良だから >>422
>里程の記録では郡や市くらいのものを国として書いてあり
このように
九州説は史料無視
勝手に読み替えてトンデモ説を維持する >>441
1800年前も松浦は「まつうら」と呼ばれていた事に驚く >>437
>だから呼子~玄海町岬が出港専用地。唐津から出港するときは事前に呼子方面へ行って潮時を待った。
いや、元寇船が集結した平戸辺りが出港専用地だったのだろう。 @阿波 >>445
マツロ国は、寺澤によると王の次にランクされる「オウ」らしいので、マツ村はないかな >>443
畿内説はこのように事実を無視するのです。 >>441
末盧国は旧松浦郡及び糸島市二丈まで
唐津市も呼子も当然含まれる。 >>437
唐津に大きな港は無かった
唐津港が整備されたのは幕末から
博多港からだな。 >>419
三國志魏書では曹操の時代から書いてるから漢代末も魏の世に含まれるんだよ。 >>455
こいつも九州説なん? 九州説信者は、こういうのも有りなんか? @阿波 >>415
帯方郡から水行20日で投馬国(朝鮮半島南部地域)
帯方郡から7000里で狗邪韓国(朝鮮半島南部の国)
7000里行くのに20日掛かるんだ。 >>456
参考までに聴くけど投馬国は何処って考えてるの? >>458
帯方郡(沙里院市)
↓【南 或は 東】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島)
↓海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町 出航地 厳原町)
↓【南】海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠・赤木峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
紀伊半島(有田辺り)
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
女王国「阿波」から東へ1000里(50km)1里=50m 紀伊水道渡海→紀伊半島(有田辺り) @阿波 畿内説の学者は狗古智卑コについてどういう解釈なの?w
まさか河内(大阪)彦+東海狗奴国(支離滅裂)じゃないよね? 卑弥呼が日巫女(日見子)である以上、卑弥弓呼は「ひみここ」じゃなくて日見彦(ひみひこ)の可能性が高い。 狗古智卑狗は単に沼津の足高尾上遺跡群を都とする狗奴国の外務大臣だろ その後の歴史を考えると、菊池彦は熊本県菊池市以外にないよ 一大国は一支国の誤りならば
一大率も一支率の誤りなんでしょうな 狗奴国東海説は採用しない
狗奴国が倭国の最南端であると、呉の牽制にならない
呉と狗奴国は同盟を組めることになる 狗古智卑狗という名前の人が当時は熊本しかいなかったのかってな話だわな
んな訳ない
日本全国に狗古智卑狗という名前の人はいただろう 女王国の南が狗奴国、南九州だろう。
やたらおまえら勝手な妄想で歪曲するやつばかりで呆れ返るわw 邪馬臺国卑弥呼と争った形跡のある集団となるとくまモンが2周くらいリードしてる >>477
>女王国の南が狗奴国、南九州だろう。
南北で決める単細胞。 @阿波 >>477
ヤマト女王国の一部である北部九州と南九州の対決 神武が東征した日向→宇佐→岡田宮このエリアが投馬国だろうな >>481
>神武が東征した日向→宇佐→岡田宮
いまだにこんなアホがいるww @阿波 九州説最大の弱点が投馬国問題
トナカイとムキになって戦ってた俺が九州説をやめた理由が投馬国問題 >>483
同じように、行程里数を足し算・引き算するとかもうやめたら?w @阿波 @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、楼観城柵厳設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!
投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(台湾対岸の福建省)の東(の海上)にあり」とするための※虚構(種子島〜沖縄〜台湾=幻の邪馬台国島)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の虚構=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-遠賀川)
...↑▲▲脊振山地▲▲.......↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓..............【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)........↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
..........................................投馬国(宮崎平野)
建業(呉の首都)..............↓「南水行十日」
東治(江蘇省)〜〜〜〜種子島⇩架空の邪馬台(女王)国島⇩
↓【580q=19q×30日】沖縄↓「陸行一月」
東冶(福建省)〜〜〜〜台湾⇧✖架空の女王之所都 ⇧ >>484
そう そんな幼稚な算数を止めて虚心坦懐に読めば
邪馬台国は安房 そもそも戸数が正しいという決めつけに根拠が無いからな
里数日数もあてにならんし行程に拘ってもさほど意味はない 中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年頃生〜247年没)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池郡)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) >>490
非常に苦しい
「投馬」の発音要素もない >>492
神武が母親を祀ったツマガキ神社の妻が投馬に当たるのと投馬国の官のミミナリの子孫であろうミミタリが居た 畿内説でほぼ決まり、証拠があると言っていたのが怪しくなり、嘘だと言われる始末
あの時代の文字による証拠、魏志倭人伝はそれなりに正確で九州と思うが >>502
宇佐家口伝では宇佐津媛が神武の嫁になっているからな >>494
やはり投馬国は耳川がある宮崎だね!
免田式土器は西の狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との交流があった証に過ぎないw
まだ環濠集落は見つかっていないが、そのうち吉野ヶ里クラスのが見つかる可能性は十分ある。 >>505
阿波爺はロードローラーで押し潰されそうだなw
それ以上にあの世では畿内説と共に地獄行きだろうねw >>508
まぁ、「阿波」が憎くなるのももっともだろう。 @阿波 だいたい畿内説が史実なら、みんな納得できて論争になんかならないはずで、こんなにも多くの九州説が涌いて出るわけがないよw
みんな畿内説に納得できないから論争になってるわけだw
つまり九州王朝(大和奥津城)説が史実ということ>阿毎多利思比孤@阿蘇山祷祭 日本の神話に書いてあることを軽視しすぎなんだよ
紀元前に九州からやってきました
4世紀ごろには九州を併合しました
登場人物は別として大きな流れとしては
考古学的にもいうほどおかしくないでしょこれ 畿内説も九州も、寄ってたかって誰一人としてギャフンと言わせられないからなぁww
たった一人だぞ。 普通ならとっくに消えていることだろう。 いかに「阿波」がすごいかってことだ。 @阿波 >>510
素人は考古学を勉強せずに言葉遊びしかしてないから九州説になる まぁまぁ汚舞ら餅突けw
阿毎多利思比孤は永遠の謎で良いジャマイカw
ヤマト王権は、筑紫邪馬台国女王・台与が肥後狗奴国男王・卑弥弓呼&狗古智卑狗(熊本県菊地市)を制圧した後、曹魏帯方郡張政の命令で、「親魏倭王」としての権力を本州「東渡海千里 複有国皆倭種」で誇示するべく、東征将軍・日向投馬国神武(更立男王 国中不服。日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和)を従えて東遷した統一王権で、そのシンボルとして築いたのが【自分の叔母】卑弥呼の改葬箸墓「径百歩(後円部)」(当初墓は祇園山「殉葬百人」)。
ちょうど家康の日光東照宮と久能山東照宮と同じ。ちなみにホケノ山は真のニギハヤヒ陵
台与は暗殺されて金印「親魏倭王」と共に西殿塚に葬られ、ヤマト王権を引き継いだ崇神(266年複立男王 並受中国爵命)が、箸墓を【自分の大叔母】百々襲姫の墓と偽る、でいいんジャマイカ?
北部九州の土器が出土しないのは、征服した本州各地の奴隷を使ったから。
どや?漏れって天才?w 九州説は政治思想なんで、みんなが納得してても一部に反通説する人がいます >>506
伊都国、奴国こそが九州の大王である
宮崎にはその大王を上回る5万戸に値する副葬品が出てない そうだよ、日出処の天子・阿毎多利思比孤は永遠の謎、古代のロマンで良いw >>517
魏志(倭人伝)の邪馬台と同じ場所に都して、阿蘇山を拝んでいた…あっ!w 読んで字の如くだよ、
半島多利国を思う彦だろ。
三韓人だよ。 >>514
寺澤の論文読んだら九州の土器もあるらしい
安本美典のではゼロだが
四国も確か1個か2個ぐらいしかなかったはず >>483
そりゃ福岡県内に邪馬台国を収めようとしたら投馬国で引っかかる >>514
筑紫に伊都国・奴国を上回る副葬品が出てない
銅鏡100面はどこ? 邪馬台国は旧国でなら5〜7国分くらいの大きさだな
福岡県や奈良県みたいな1県内には入らない
北部九州地方や畿内地方くらいの規模 >>524
考古学を勉強してないことは認めますか? >>526
畿内説も九州も、寄ってたかって誰一人としてギャフンと言わせられないからなぁww
たった一人だぞ。 普通ならとっくに消えていることだろう。 いかに「阿波」がすごいかってことだ。 @阿波 オレはヤマト王権の母体は伊都国だと思っているが、弥生時代古墳時代の宮崎県には何か秘密があると思う。
宮崎市に皇宮神社という神武の日向時代の宮の旧跡という場所があるのだが、このすぐそば(下郷遺跡)に弥生末期の宮崎県南部のクニの中心的拠点集落があったようだ
しかもこのクニは鹿児島県都城市を版図に入れていたようで、そこで霧島連山を祭祀していたようだ
伊都国のヒムカと宮崎のヒムカが重なっているように見える
これは何だろうか?疑問は深まる 「阿波」の真実が、トンデモどもへの反撃材料を次々と提供してくれる。 実に頼もしい存在だ。 @阿波 >>520
本州の土器だらけの中で、九州っぽい土器の破片が見つかってんなら
九州の土器があるとみなすのも、ないとみなすのも、どっちも正しいよ 伊都国大王(三雲南小路、井原鑓溝、平原)
奴国大王(須玖岡本→銅鏡32のうち内行花文鏡13)
九州の最後の大王は、超大型内行花文鏡5面を出した平原イト大王(女王)
次の九州の王は福岡県苅田町(ほぼ大分県)の石塚山前方後円墳の王(三角縁神獣鏡7面→畿内人から下賜されたコピー)
銅鏡100面、親魏倭王金印、他多数の宝物をもらった可能性のある遺跡がどこにありますか?
平原大王が九州で最後の大王です >>527
結局寺澤薫も卑弥呼は伊都国生まれ説に落ち着いたのだろ。通説の畿内説は破綻したのだよ >>532
神社の下になっていて発掘できない古墳はたくさんあるだろう >>529
弥生時代は免田式文化圏
古墳時代(ただし4世紀以降)になると、急に前方後円墳を作りまくるからな、しかもデカいやつ
だけど副葬品はかなりしょぼい
確かに謎だ >>534
>結局寺澤薫も卑弥呼は伊都国生まれ説に落ち着いたのだろ。
それで学者? @阿波 平原の女王が最後の伊都国王だろうな
次の王は卑弥呼であり畿内に遷都している
そしてヤマト王権は中国に朝貢して属国になったんだ
ネトウヨが否定したくて仕方がない歴史だが、これを否定するのが無理筋だ
ネトウヨ悔しいのお
ねぇネトウヨ今どんな気持ち〜どんな気持ち〜(笑) 平原の女王が最後の伊都国王だろうな
次の王は卑弥呼であり畿内に遷都している
そしてヤマト王権は中国に朝貢して属国になったんだ
ネトウヨが否定したくて仕方がない歴史だが、これを否定するのが無理筋だ
ネトウヨ悔しいのお
ねぇネトウヨ今どんな気持ち〜どんな気持ち〜(笑) >>535
吉野ヶ里の日吉神社から出てきた謎のエリアから出てきたのが、銅矛の鋳型だったのはガッカリ >>539
密入国犯罪者ってどんな気持ちで生きてるの? 歴史学はジグソーパズルに譬えられるが、まったくお手上げなのが倭王(大王)阿毎多利思比孤。
もう誰にも解けない永遠の謎w >>540
「蛇紋岩の鋳型」
蛇紋岩といえば、「阿波」の勾玉。 吉野ケ里も「阿波」。 @阿波 >>541
ヤマト王権の初代王が卑弥呼でいいのか? 畿内説でも信用できるのが寺澤
畿内説でも全く信用できないのが岸本直文
九州説でも信用できるのが関川
これが畿内説をとる私の意見です >>544
畿内人から下賜された三角縁神獣鏡と前方後円墳で繁栄してるのか? >>549
岸本直文だけは本当に要らん!あいつ、なんで歴史学なんかやってんだろw >>552
「本書で私が第一に強調したかったのは、国家の第二段階である「王国」の誕生は、ヤマト王権の成立そのものであり、その初代大王が卑弥呼だったということだ。つまり新生倭国 =ヤマト王権 =卑弥呼政権の関係が、私が到達した結論である。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>554
寺澤の論文をもっと読むべき
ヤマトはカタカナ >>232
え~漢字が阿波起源とかいうお笑いよりは遥かにましでしょ? 寺澤先生についてはやはり大御所としての周りからのリスペクトが大きいという感じだな
九州説を信奉するネトウヨ以外なら大筋で寺澤先生の意見は最も妥当なものであると考えるだろう >>546
>>232
え~漢字が阿波起源とかいうお笑いよりは遥かにましでしょ? 寺澤の卑弥呼東遷説は考古学とは無関係の私小説だけどな >>560
失礼
はやとちりした
卑弥呼が最初の天皇だと言ってるのかと思った 無駄なんだよ、天御中主の聖地が筑紫には無い。
いくら作り話をしたところで無駄。 >>561
>寺澤の卑弥呼東遷説は
実在しない
お前の妄想 >>561
状況証拠として十分に採用できる
東遷説は幾何級数的に高まってる >>549
>九州説でも信用できるのが関川
なんであれが信用できるの?
脳の病気?
それとも、他の九州説が途方もなくクズだっていう皮肉? >>564
倭国乱の前の吉備のことか?
それなら鏡文化はないね
ただし、梯儁239年、張政247年には鏡が文化になっている >>567
寺澤先生により近いから
岸本直文みたいな畿内優越史観を俺も受け入れない >崇神天皇の代に疫病が大流行し、国民の半分ほどが死亡
幕末のコレラも外国人が持ち込んだ
魏志倭人伝によると卑弥呼とトヨ一年目までに疫病の記述がないのでそれ以降 >>574
阿保過ぎ。何を読んでいるのか?
貿易は考えないのか?
輸出入の要だ九州
鉄、銅は輸入、倭国の特産品は輸出 >>565
「 三世紀初め、この国はイト倭国体制から新生倭国体制へと大きく舵を切った。同じ「倭国」という名称であっても、歴史的国家形態からいえば、それは部族的国家連合の段階から王国という段階への飛躍であった。それに応じて倭国の王都も、イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纒向遺跡へと一気に東遷したのである。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著 倭国の王都は結果的にイト国内からヤマト国内へと
東遷したという言い方もできるかもしれない。
しかし、それはイト倭国勢力母体の東征でもなければ、
キビ勢力を介在した上での東遷でもない。 (寺澤薫) つまり畿内説は東遷ありきでないと成立しないって事だな 倭国大乱が起こる経緯を考えると
まず大きな集団がある(後漢に使訳を通じた大倭王の統べる30余国連合)
なんらかの理由で揉める(大倭王が不在になる)
各国が停戦して大倭王を共立する(卑弥呼を共立した30国連合)
後継者争いなのか内乱で大倭王を追い落としたのかは分からんが
まず集団の母体がないとなかなか「大乱」には発展しないわ
そういう母体となる集団が畿内にはあったのか?ていう話よ 大乱は奴国(奴国と狗奴国)の家督争いだったかも知れんね https://www.sankei.com/article/20230707-PYQNSTRJOBMWRAFUKRL4FUH3NI/
>魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。
>この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。
>
>しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。
>「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。
> この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。
・出雲や吉備に大きな勢力が現れるのは2世紀末頃
・畿内にはとびぬけた権力者はいなかった
・一強体制が崩壊した九州こそが倭国大乱の舞台だったのでは?当然共立イベントが起こるのも大乱を戦った九州各国の話 皆さん勘違いしてるけど畿内は倭国ですら無いからな、倭国ですら無い畿内に倭国大乱はありません。 どこにも倭国の乱の当事国から選出とかの記述はない。投馬国、邪馬台国、傍国の一部には乱がなく交易国かもしれん。交易国も倭国という場合もある。相変わらず女王国30ケ国というのがいるけどね。 なるほど、乱 当事国から選ぶと
揉めるという思考ですな。
邪馬台国は九州以外だよね 磯城の唐子鍵は銅鐸文化人の村落であり、ヤマト王権の支配層の銅鏡文化人とは違う人たち
当然だが邪馬台国のものではない
記紀の神話では兄師木と弟師木という兄弟が磯城の邑の首長であったが、兄師木は東征軍に反抗して殺されて弟師木は帰順したという。
この話の元ネタになった磯城の邑が唐子鍵だろう
銅鏡文化人が畿内を制圧したあと、彼らに合流した唐子鍵の人たちがいて征服者の本拠地になった磐余(坪井・大福遺跡)で銅鐸を破壊して武器を作っていた痕跡が見られる
唐子鍵の人たちの一部は纏向遺跡を作った人たちに合流している
記紀神話の弟師木というのは唐子鍵の降伏者たちを擬人化した存在だろう
繰り返しになるが、唐子鍵遺跡はヤマト王権=邪馬台国のものではないのである 後漢、中華乱れてる中、張魯五斗米道は国家にまで持っていく
同じようにしたのだよ卑弥呼わ
そして列島畿内に神仙思想
帰墟が生まれのだよ。
状況証拠の墓制が支配者の変遷を伝えている
北九州も甕棺→前方後円墳→八角
熊本も同じ🐢→前方後円墳→八角、江田→菊池山城
卑弥呼から前方後円墳が列島を覆い始めるのだよ
その中心が唯一五段箸墓。 >>585
>畿内説は決して理由を言えない
と言う理由は?
九州説いつもブーメランで自己撲殺 >>589
九州での乱の形跡
吉野ヶ里遺跡では、有名な「首なし人骨」や銅剣の先端が刺さった人骨、顔面に朱が付着している頭蓋骨などが発見されています。
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031311/index.html >>580
>そういう母体となる集団が畿内にはあったのか?ていう話よ
まったく無い! @阿波 >>596
吉野ヶ里だけでいいなら、青谷上寺地遺跡でも戦争の後がある >>597
別になくていいし
邪馬台国はないかも
ないほうを定義としよう。
あるほうを定義とする人はご自由に。 なるほど、乱 当事国から選ぶと
揉めるという思考ですな。
邪馬台国は畿内や四国以外だよね >>551
三角縁神獣鏡の鋳型は北部九州地域で出土してるから三角縁神獣鏡は北部九州地域で製造されて全国へ配られたものだよ。 >>596
>九州での乱の形跡
>吉野ヶ里遺跡では、有名な「首なし人骨」や銅剣の先端が刺さった人骨、顔面に朱が付着している頭蓋骨などが発見されています。
それ、時代がぜんぜん違うだろ
そういう詐欺をするから
九州説は卑しまれる >>602
>三角縁神獣鏡の鋳型は北部九州地域で出土してるから
どこで?
そういう詐欺をするから
九州説は軽蔑される >>603
弥生時代後期だから時代的あってるんじゃないの? >>604
三角縁神獣鏡の鋳型ではなかったすまん
紀元前2世紀ごろの鏡の鋳型が須玖タカウタ遺跡で出土だった
その内には三角縁神獣鏡の鋳型も出土するかもな。 >>606
>弥生時代後期だから時代的あってるんじゃないの?
弥生時代後期だなんて情報、どこにある?
そういう詐欺をするから
九州説は軽蔑される
w 寺沢氏の言っているのは典型的な九州説、神武天皇東征の話でも卑弥呼と
行ったわけでない
卑弥呼が倭国王として九州に残れば、伊都国東遷、神武東征、卑弥呼は
天照大御神、邪馬台国はどっちにもあったなどの物語は記紀に矛盾しない >>608
じゃあ何時の時代?
甕棺墓は北から広がって行ってるので北が古くて南が新しい
糸島市のが弥生時代中期後半〜弥生時代後期だから吉野ケ里の甕棺墓は弥生時代後期だろ。 >>611
・蛇紋岩の鋳型
・顔面に朱が付着している頭蓋骨
まさに、吉野ケ里遺跡も、「阿波」 @阿波 紀元前2世紀頃には北部九州地域で道鏡の制作が始まっていたんだから三角縁神獣鏡等の記年鏡が国産である可能性も高いんだよな。 >>611
>じゃあ何時の時代?
逆質問で誤魔化すな
なんで「弥生時代後期だ」「時代的あってる」なんて嘘をついたのだ
九州説は詐欺師か
詐欺師なのか? >>615
「阿波」の横取りがお前らトンデモ。 @阿波 >>615
蛇紋岩を加工したり、水銀朱を精製したり出来るのは、倭人(阿波勢力)。 あきらめな。 @阿波 まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。 @阿波 文字が阿波起源と言うトンデモ発想の人物の説は全く信用できない。 あわ沸騰してご臨終間近か、、 葬儀屋の手配はできたかな 吉野ヶ里の時代が倭国乱に合っていたら、鳥取青谷上寺地遺跡と吉野ヶ里の戦争か?笑
伊都国、奴国に戦争跡はない 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同
骨もあるから鉄だけみてもな?
まあ、多いから邪馬台国という解釈もあるが
少ないから邪馬台国という解釈もできる。
邪馬台国について詳細な記述はない。 いずれにせよ卑弥呼時代の奈良は墓域となっていたという事だ >>627
その墓域を含む地域が邪馬台国かもしれん
或いは含まない地域が邪馬台国かもしれん
邪馬台国について詳細な記述はない。 [呼子浦]
>古代から中国大陸へ渡る船の寄航地として知られた呼子浦は,
肥前国風土記の「登望(とも)駅」に比定されている。
古代〜近世まで、対馬海峡は潮の干満の流れと櫂の力で渡った。
で、大陸への出口は西の呼子〜玄海町岬の範囲だが、大陸からの入り口は東の糸島沖。
その中間の唐津松浦川中流が乗船・下船・停泊の好適地だった。 邪馬壱国は七万戸だからな、奈良が邪馬壱国ではないよな
せめて畿内全域が邪馬台国と主張するなら分かるが
この場合は「邪馬壹國 女王之所都」の解釈に誤りがあった事を認める事になるけどな
「邪馬壱国は女王の都べる所なり」とは邪馬壱国は女王の首都って意味じゃなくて、邪馬壱国の中に女王の首都があるって意味なんだと
つまり。邪馬壱国は小国の連合体の事だと。 >>629
古代は唐津の港は呼子付近の港だったんだ
唐津の近くは遠浅で港には適していないからな。 >>629
糸島周辺も古代は遠浅だったから呼子港を使用してたんだ。 唐津の古墳は松浦川東岸に集中している。
で、唐津インター出口の中原〜JR双水の古墳遺跡辺りが末盧国の津だったと
見られる。
そこから→東南500里の伊都国は佐賀川上の大神宮跡。復たそこから東行100里の不彌国は吉野ヶ里、
其の吉野ヶ里の南至(180qの宮崎平野)に投馬国、
同じく南至(80qの熊本平野)に邪馬台国で、女王の都は(110qの阿蘇の)高千穂に有った。 >>628
じゃあ畿内説は墓域の事を邪馬台と呼んでいたと主張するべきだな
つまり邪馬台=霊園なのだー!ってね >>622
さすがに象形文字が「阿波」発祥などとは言わんよ。 日本での文字習得に決まっている。
奈良飛鳥の王都遺跡も示せず、奈良盆地にカモメが群れ飛んでいたなどとたわけたことを言う板野の詐欺師は
黙ってロムってろ。 わははははは @阿波 >>629
>対馬海峡は潮の干満の流れ
こいつ、瀬戸内海と勘違いしていないか? @阿波 >>631
>邪馬壱国の中に女王の首都があるって意味なんだと
その通り。 @阿波 >>632
>唐津の近くは遠浅で港には適していないからな。
こいつ、大型鋼鉄船と勘違いしていないか? @阿波 >>632
>唐津の近くは遠浅で港には適していないからな。
無知ゆえの大まちがい
唐津は昔は自然堤防のある潟港だったことは常識
九州説信者って、どうしてそんなに無学なの? >>636
おまはん自分で「文字」が阿波起源と書いておきながら、ほんな苦しい言い訳するんやな。
人に厳しく、自分には甘い、どこぞのお坊ちゃんですか? >>637
>畿内第V様式圏の首都が邪馬台国奈良
奈良盆地に、首都たる遺跡は微塵も無い。 @阿波 >>642
さすがに象形文字が「阿波」発祥などとは言わんよ。 日本での文字習得に決まっている。
こんなことは、いちいち言わんでも分かること。
さすが、揚げ足取りの板野じゃのうww わははははは @阿波 >>635
え?別に畿内説ではないよ。
それに、霊園のみだけではないしな。
それぞれの説の勝手な定義設定を楽しんで
いるように当方も楽しんでいるだけです。 まぁ、能無しの板野の詐欺師は、揚げ足取りが関の山。
つまらん揚げ足を取るまえに、奈良飛鳥の王都遺跡でも見つけてこい! わははははは @阿波 >>631
>せめて畿内全域が邪馬台国と主張するなら分かるが
多くの学者がそう考えている
>この場合は「邪馬壹國 女王之所都」の解釈に誤りがあった事を認める事になるけどな
誤った解釈をじてるのは九州説だけだが? >>615
蛇紋岩を加工したり、水銀朱を精製したり出来るのは、倭人(阿波勢力)。 あきらめな。 @阿波 まぁ、縄文時代晩期末~7世紀末までは、「阿波」がすべての起源と思ってくれてよいから。
「文字」「律令制」「条里制」「古代政務」「白鳳寺院」「三角縁神獣鏡」「鉄器」「水銀朱」「東阿波型土器」「前方後円墳」「勾玉」「銅鐸」
「稲作」「「泥質片岩製石棒」「緑色片岩製柱状片刃石斧」「刻目突帯文土器」「鯨面土製仮面」「弧帯文土器」などなど。
ただし、国宝はないぞ。 @阿波 都斯麻(つしま)、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、伊都都比古(いつつひこ)、伊都之尾羽張(いつのおはばり)
三世紀〜九世紀頃、都はツと読ませていた。トと読むようになったのは平安・鎌倉の頃から・・
故に、先学の云う「怡土だから伊都国イトコク」は根拠に欠ける。
伊都国は「イツコク」と読まれるべし。 >>651
つまり、九州説も畿内説も間違いってこと。 @阿波 伊都国(イツコク)は佐賀川上の太神宮跡、この辺りは律令制下で小津郷(ヲツゴウ)といった。 >>651
>トと読むようになったのは平安・鎌倉の頃から・・
それ、日本の話だから三国志は無関係 >>644
どこが揚げ足取り?
誤りを何十回も何百回も書き込んでるのはおまはん自身やぞ。 ツという発音を都と書くのはもっと時代が下ってからじゃ 伊都之尾羽張ー武御雷神父子の太神宮跡を示せない四国も、間違いってこと。 >>655
つべこべ言わずに、奈良飛鳥の王都遺跡とカモメを探してこい! わははははは @阿波 >>654 >>656
都斯麻(つしま)は隋書に出てくるぞ 畿内説でほとんど決まり、つまり証拠があるからと
期待していた人は生きているうちにと願っているらしい >>660
でも、九州説も畿内説も間違いってことだ。 @阿波 時代が下るにつれタ→ト→ツと発音が変化
魏晋時代はタないしはトだろう
イツ国じゃなくてイタ国の可能性ならありうる >>656
いつまで下ればよいのじゃ、日本書紀の頃は、都はすべてツじゃぞ。 >>663
ほほうなるほど、ではその使用例を少し示してくれい >>665
古代中国語の上古音調べるサイトで検索したらいい
漢字の意味も出るぞ 【お知らせ】発掘調査結果報告(2024年1月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
[畿内説(纏向学)]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの) >>667
つまり、九州説も畿内説も間違いってこと。 @阿波 でも、実質国宝が無いのは徳島県だけって、ある意味凄いことかもしれん。 @阿波 >>667
どこにもあってはならない。
邪馬台国にクスノキ、大量の鉄製武器、鉄製工具他、絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた記述はない。 >>670
阿波爺という珍宝で十分。
こづきましょう。 >>673
全部魏志倭人伝に書いてあるが?
畿内説の脳内同人誌「偽書倭人伝」には書いてないかも知らないがw 倭国大乱はなかったとか
大乱の当時国じゃない無関係の国が卑弥呼を共立したとかもはやなんでもアリだな >>671
明治政府の徳島県に対する得も言われぬ畏怖
ってとこかww @阿波 >>676
>全部魏志倭人伝に書いてあるが?
あるって証拠は?
九州説さん、また嘘まみれ? >>680
そんな事したって証拠は?
九州説さん、また嘘まみれ? >>678
>倭国大乱はなかったとか
>大乱の当時国じゃない無関係の国が卑弥呼を共立したとか
誰かそんなこと言ったって証拠は? 九州説は投馬国が地名的
投馬国を九州のどこにも見出せない >>685
>レス読んで出直せ、間抜け野郎
証拠が出せないで罵って誤魔化す詐欺師
九州説さん、また嘘まみれだったね >>676
書いていません。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
量についての記述はありません。 >>678
倭国大乱とは書いてない
倭国乱である
そして、2世紀の日本には大規模な戦争があった跡が見られない >>678
倭国の乱はあったけど、さて全ての国々なのか定かではない。 >>689
> >>676
> 書いていません。
>0686日本@名無史さん
> >>683
> 九州説さん、また嘘まみれ?
>0683日本@名無史さん
>畿内説は公金目当てのオレオレ詐欺
何が「書いていません」? 鳥取の青谷上寺地遺跡見ると、少々の戦争はあっただろうな
もっと見つかると面白いが >>648
奈良時代でも2万戸程度しか大和国はないから纏向が邪馬台国は諦めろ
阿波国は1万戸邪馬台国は諦めろ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>687
投馬国は朝鮮半島南部だよ、後の任那
邪馬壹国は北部九州地域全体だよ。 >>696
そう言う事です。
福岡も佐賀も熊本も奈良も滋賀もあきらめろ。
州レベルだな >>698
朝鮮半島に投馬国を持っていきたくなるよな?
分かるぞ気持ちは
それ以外一発逆転がないもの >>700
後漢書にも倭奴国は倭の極南界とあるように博多湾岸の倭奴国が倭の南の端だったんだから
漢代から朝鮮半島南部は倭だったんだよ
それが魏代の投馬国で後の任那なんだ。 3世紀の九州で一番多い銅鏡は三角縁神獣鏡
卑弥呼がもらった100面の銅鏡とやらは、九州説では畿内のコピー三角縁神獣鏡ということになる 九州説信者って、なんて馬鹿なんだ
証拠もなしに人から信用されるわけないだろう >>703
アホ、三角縁神獣鏡が出る古墳は4世紀以降のものだよw >>706
仮にそうだとしても、九州では平原王墓以降、銅鏡が、ほとんど出なくなる
次に出てくるのは石塚山古墳の三角縁神獣鏡、那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡だ
九州説詰んだ >>702
「極南界」は、南の界まで極めると読む、だから倭奴国は博多で良い
{其の北岸}とは、倭の北岸でなく、「大海の北の岸辺」だから半島南部は倭地でなくて韓地 >>706
>アホ、三角縁神獣鏡が出る古墳は4世紀以降のものだよw
それが妄想 >>708
>{其の北岸}とは、倭の北岸でなく、「大海の北の岸辺」だから
可成りの珍説ですなw
始めて聞いたwww >>708
結論は正しいのに思考がアホってことも有るんだな >>712
それ誰の説?
なんで其のが大海を指しの??? >>714
「極南界」は、南の界まで極めると読むなんて人はド素人だけだよ >>710
それは不自然
三角縁神獣鏡をありがたがって、100mを超える前方後円墳に埋葬している 伊都国(イツコク)は、日本書紀の云う糸島の怡土(イトウオ)ではない。
原典のとおり、末盧国・唐津の東南500里の佐賀にあった。 >>714
恐れ多くも、東京帝国大学白鳥庫吉博士の解説だ。
つまり、大海を進む郡船に乗っている魏使から見ての北岸だ。倭の北岸などとちゃんちゃらおかしい。 >>717
「極南界」なんて読むのは教養なき東夷の土人
宣帝之平公孫氏也・・、同じ構文だが、さてこれをどう読むかな >>702
女王が共立された倭国の最南端が筑前で、
後漢書では「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と
南の狗奴国が東の倭種に修正されているので
筑前から北東に伸びる本州が倭国・倭種と正しい地理となっている 後漢書にはこうある
楽浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界狗邪韓國七千餘里 >>725
>後漢書では「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と
南の狗奴国が東の倭種に修正されているので
それはちがうな。
後漢の時代には倭奴国王(倭国大夫)が南界まで極めていたので、不属の狗奴国は存在しなかった。
だから、渡海千里の倭種の国々を東至の拘奴国として書いたのだよ >>731
「楽浪郡徼去其國萬二千里」=楽浪郡からその国(女王の都)まで萬二千里
「去其西北界狗邪韓國七千餘里」=その国(女王の都)から北西方向 七千餘里で狗邪韓國((巨済島)
もちろん、その国(女王の都)=「阿波」 @阿波 九州説信者は高等教育を受けてないので漢文が読めないのです 倭国大いに乱れて暦年主なしという状況にふさわしいのは九州だな
そして卑弥呼の統治時代を通じて狗奴国と相攻撃状だった >>734
後漢書(後漢 25年-220年)は女王卑弥呼が共立された倭国を書いている
最南端の倭奴国が朝賀したのは建武中元二年(57) まぁ、結局筑紫平野か直方平野なんだろうけど、南の狗奴国(おそらく熊本平野)ともとより和せずというから、筑紫平野なのだろう。 3世紀頃の日本で鉄製品とかの出土品が多いのは北部九州地域と山陰地方だけだよな
畿内や阿波には殆ど無いよな。 >>742
七万戸だから筑紫平野とか直方平野なんてもんじゃないな。 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。(180年代が倭国大乱か?)
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。(189年頃に即位か?)
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
正始八年(247年) - 卑弥呼が死去。
正始八年(247年)以降 - 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與(台与、いよ、とよ)」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。 >>731
「楽浪郡徼去其國萬二千里」=楽浪郡からその国(女王の都)まで萬二千里
「去其西北界狗邪韓國七千餘里」=その国(女王の都)から北西方向 七千餘里で狗邪韓國((巨済島)
もちろん、その国(女王の都)=「阿波」 @阿波 魏志倭人伝で「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年」だから
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。から70〜80年後の180年代が倭国大乱
189年頃に卑弥呼が即位と後漢書と魏志倭人伝は完全に繋がってるな。 鉄器も鍛冶工房もあり、3世紀九州最大の外港都市博多は
畿内と葬制を共有する政治連合
洪水地帯筑後とは交流関係はほぼない つまり当時の畿内は単なる墓域
だから古墳が多いのは当然
そして必然的に副葬品の出土量が多くなるのも当たり前
よって邪馬台国畿内説の根拠は印象操作でしたと >>752
安本美典の統計で福岡398
椿井大塚山だけで200 弥生中期に副葬品が多い北部九州は墓域ということになってしまう Wikipedia椿井大塚山古墳
>日本最古の刀子も出土している。
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、
工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土している。 >>754
奈良に墓だけ作りに来るとか口先でだけ言って
ひとに信じてもらえると思ってる九州説じいさんって
おめでたいね
九州にごろごろある墓は、なんなの? >>755
椿井大塚山は三角縁神獣鏡が出てるから4世紀以後の古墳だよ。 2世紀末の段階で畿内から北部九州が統一国家なんてありえないだろ。 >>760
こんなふうに
根拠のないことだけ主張する
それが九州説
w >>762
投馬国を九州内に見出せない以上、そう考えるしかない >>762
統一?
共立されたのは卑弥呼、邪馬台国ではない。 763
王たちが女王を共立したわけだろ
だいたい見えてきたなあ😩 いかなる主張をするときも
理由を言わないのが九州説 >>759
九州倭国の墓に対する文化は倭種の国畿内とは異なる
畿内の特に奈良は農地には適さない土地(鉄が溶ける地質)なので墓場ぐらいにしか使えなかったんだろうよ >>760
椿井大塚山が4世紀なら、石塚山古墳も4世紀となる
平原の大女王の墓から少なくとも120年以上、九州にはそれなりの権力を持つ王が現れなかったことになる >>762
あり得ないね
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>776
各国の鉄器の量を示す記述はない。
多いから邪馬台国とはいえない。
鉄なら関東まで出土。 >>774
そもそも石塚山古墳は4世紀だよw
>平原の大女王の墓から少なくとも120年以上、九州にはそれなりの権力を持つ王が現れなかったことになる
何で??? 150年ごろ、倭国の王の中の王、平原大王が葬られて120〜130年後、福岡苅田町に三角縁神獣鏡7面の石塚山オウが現れる
あるいは那珂八幡オウ
ミッシングリンク
親魏倭王金印、銅鏡100面のスーパー大王のお墓が九州のどこにもない >>761
三角縁神獣鏡が出た古墳は4世紀以後のもの。 >>766
それじゃ投馬国の5万戸には全然足りないよ。 後漢書には代々王を継いできた30国と記載されている
畿内にはその代々継がれた王の墓が無い >>782
4世紀なら150年250年は平原大王を出してから、九州には王が存在しなかったことになる
吉備車塚以下のオウ、石塚オウ
九州の凋落ぶりが酷い 漢と使訳を通じた30国ほどは皆王を称して代々継いでおりさらに大倭王がいるとか
そんなこと言ったらこのスレの住人発狂しそう >>788
>後漢書には代々王を継いできた30国と記載されている
魏志倭人伝と齟齬するので信憑性なし 後漢書の筆者が相当いい加減な人物であったことをお忘れなく 後漢書は魏志の間違いを正しく書き直してるハズなのにどうして…… 交易が関東まで広がっているんだな。
不彌国
起点に南に至、水行20日で関東(投馬国)東馬国、
南に至、水行10日陸1月の内陸部
近畿以降、諏訪、戸隠が邪馬台国(7万戸)かもしれん。女王の都は修験道、鬼道は鬼門の方角か?
まあ、両国とも遠方地、行く必要性もない。
実際に行っていたら詳細な方向や宿泊地の記述があるだろう。共立で卑弥呼が九州だろうな。
傍国は九州の一部から東へ山陰、山陽、四国
女王国、海渡り東千里は壱岐から福津方面(傍国?)、末盧国は唐津、東南500里で佐賀(伊都国)
東行く不彌国。南へ奴国、二万戸だから博多から
筑後川流域が奴国、南に狗奴国。
狗奴国の関係もあるな。女王去る南4千里に侏儒国(種子島)。太平洋ルートかもしれんな >>793
「正しく書き直してる」なんて保証、どこにも無いだろ? >>791
後漢書の内容の多くは卑弥呼共立の前なんだから、30国が代代王を継いで当たり前田之クラッカー >>794
隋書でも本州のことはほとんど書かれていない >>794
続き、連続読みにしたら、20日で近畿
10日で関東に入り埼玉、群馬県、から諏訪へ。
千葉の神門5号(前方後円墳)
高部古墳、前方後方墳の斜縁二神二獣鏡
斜縁四獣文鏡? >>796
後漢書の内容の多くが卑弥呼共立の前だとか
なんの根拠もない >>797
邪馬台国については魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸のみ。
隋書でも都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
旧唐書でも出てこない。 邪馬台や邪馬嘉の邪馬は山(屋間)だろうから、脊振山地のことなんだろうな。玄界灘諸国から見て、脊振山の山向こうの国などという意味なのだろう。 >>802
高部30号墳・32号墳も邪馬台国とは関係ない
それぞれ銅鏡1面と破片1枚ずつ
これは大王の墓じゃない つまり畿内説は史書と全く異なる脳内作文が根拠でしたよというお話 >>805
大王の墓など書いていないよ
投馬国と邪馬台国の領域の事
卑弥呼は九州で良い。鉄や絹は豊富
環濠なら近畿、東海、関東まである。 >>808
銅鏡1面の墓を邪馬台国の論拠にするのは荒唐無稽 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 倭国はかつて100国あった
それが朝貢に出向いたのは30国のみ
卑弥呼が銅鏡を百枚貰ったのは100国を取りまとめるため
だとしたら各国には一枚ずつしか配布されていないはずだ
9割の古墳が盗掘されているにも関わらず600枚も出土する三角縁を根拠に持ち出す畿内説は文系未満の運動音痴
つまり帰宅部
半島に帰って引きこもっておけって事だ >>809
誰が根拠にしているのか?
前方後方墳地域、ト骨地域が
邪馬台国や投馬国かもしれん。
阿波にも斜縁二神二獣鏡出土がある。
九州にも近畿にもある。
卑弥呼が貰った鏡かもしれん。 >>799
後漢の歴史書なんだから、後漢の時代のことをメインに書くのが当然。
基本的には、卑弥呼共立前を舞台に書いているから各国に王がいた。。
後漢は220年までだから、共立後のことも多少書いているけどね。
魏の時代のことを書いたのが魏志倭人伝。
行程記事は、卑弥呼共立直前の設定なので、各国のトップは官となっている。
共立前後のことは多少ダブっているけど、魏の事項は年号を書き入れて一応かき分けてる。
台与の朝貢は、もう晋の時代だったから、年号が入っていない。 >>811
9割が盗掘されているにも関わらず、600面も鏡を作れる。
原材料の銅は中国に行かないとゲットできない。
超大国にしかできないことだ。 >>809
斜縁二神二獣鏡は、中国にも半島にも
出土あるんだよ。
これを模写したのが三角縁神獣鏡かもしれん。 >>812
すなわち、何の根拠もなく高部30号墳・32号墳があるから関東が邪馬台国だと?
もっと荒唐無稽だ 前にも書いたが、北陸、関東あたりの弥生時代古墳を50基ぐらい調べたら、大体出てくるのは土器。
良くて鉄剣か鉄矛が1本。
超良くて鉄剣と鉄矛の2本セット。
うっかり作者ハルキーさんも、平原のことを「超スーパーウルトラすごい」みたいなことを動画で言っていたが、その通りだ。
超大型内行花文鏡5面含む40面の銅鏡を出した平原は本当に圧倒的だし、1号甕から35面の銅鏡と、2号甕から22面の銅鏡が出た井原鑓溝遺跡も圧倒的な大王。
奴国・須玖岡本遺跡の32面銅鏡も圧倒的な大王。しかも、銅鏡の種類が多彩。
本当に、他の古墳とは一線を画す超スーパーウルトラ凄いのが、この3古墳だ。 >>814
昔使ってた銅鐸を溶かしてリサイクル
後世でもやってただろ >>816
鏡とト骨、鉄はある。
別に邪馬台国が多いとかの記述はない。
邪馬台国とする物証は何? >>818
銅鐸を溶かす金が必要
それを600面、盗掘またはまだ土の下にあるのを考慮すると1000、5000
金持ち超大国でなければできない >>819
高部30号墳・32号墳が邪馬台国の根拠となる理由をどうぞ >>820
卑弥呼時代に金として使えた鉄が豊富だったのは北部九州だが?w
しかも近年鉄器のリサイクル工房も長崎県で発見されてる
銅鐸は相当数が眠っていたはずだが纏向では銅鐸の装飾部の破片2つしか発見されていない
つまりほぼ全てを他の青銅器に作り替えたんだろうよ >>817
威信材が凄いのが邪馬台国という
定義に過ぎない。
遠方地、水行20日、10日陸1月なので当然、遅れる物資の量も少ない。 三角縁の仿製鏡を日本で作っていたなら、その雛型くらい出てくるはずだが
それがない
帯方郡に作ってもらっていたんじゃないかな? >>821
邪馬台国の一部な
鉄、ト骨、鏡。
で君が言う邪馬台国の根拠は? >>822
卑弥呼時代に入ってから、畿内が九州を上回るようになる >>824
斜縁二神二獣鏡は中国からも半島からも
出土あるだよ。 >>824
数年前、仿製鏡も船載鏡も同じ鋳型で作られている可能性が高いという結果が出てたの知らないのか? >>823
私が書いたのは九州の3古墳のことですが? >>826
卑弥呼時代は2世紀末だろ
3世紀は狗奴国に戦争を仕掛けられるほど落ちぶれていたんだから
だから魏に助けを求めたわけで
その時代背景と北部九州の遺跡の衰退期がほぼ一致する >>827
わからないな。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
これしかない。官が4名、広範囲と推測。 >>831
2世紀末から畿内が九州を上回るようになる >>829
だったら朝貢のたびに100枚ずつもらってた訳ね 伊都国(井原鑓溝、平原)
奴国(須玖岡本)
この2国は弥生時代の超大国であったと見てまず間違いない
1万戸の伊都国の5倍、2万戸の奴国の2.5倍の投馬国
1万戸の伊都国の7倍、2万戸の奴国の3.5倍の邪馬台国
これを九州の別の場所に見出すことはできない 九州最大の外港都市博多と関東は交流関係がないから
邪馬台国は無理 >>837
鉄やガラス、鏡はどこから?
近畿、東海経由だよ。
近畿、東海系土器も出土あり
関東も近畿、東海系土器あり。 >>833
そんな事象は一切報告されていないが脳内希望的観測か?
実際北九州の城野遺跡の3世紀末にも畿内の影響は何も発見されていない 女王国は男の数が半分くらいになってる
そりゃ衰退もするわ >>837
高尾山古墳から朱。
中国産らしい
博多以外からの入手かな? 何でこんな単純な事が理解できない?
卑弥呼は伊都国に居た
邪馬壹国は北部九州地域全体
12000里は帯方郡から伊都国と奴国の国境までの距離
帯方郡から水行10日で朝鮮半島南部の投馬国
投馬国から水行20日陸行1日で北部九州地域の邪馬壹国
里程と日程は別の資料からの引用で、同じ行程を別の人が書いたものを併記しただけ。 九州からは女性が手厚く葬られた墓がいくつも発見されているが畿内では聞かないよな?
卑弥呼は数多くの巫女の中から選出されたはずだ
吉野ヶ里では卑弥呼時代以前の巫女の墓も発見されている
絹を纏い漢鏡を持った女性の遺骨がな
実は中国側ではそれがまさに卑弥呼だと言われていた
卑弥呼自身は魏鏡より古い鏡を引き継いでるはずだと >>788
>後漢書には代々王を継いできた30国と記載されている
「丗」は、代々ではない。 @阿波 >>794
>交易が関東まで広がっているんだな。
交易と言うより、倭人(阿波勢力)の進出だな。 @阿波 【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg >>817
古い墓を何でもかんでも古墳と呼んではダメ。
学問板なのですから、
学問板らしく、弥生時代の墓と古墳時代の墓は区別しようぜ。 >>821
で、君が邪馬台国とする根拠はなんですか? >>854
陸地をどうやって水行するんだ? @阿波 >>848
投馬国は朝鮮半島南部
>>854
不弥国の次は斯馬国だよ
投馬国は帯方郡から水行20日 ちなみに古墳は前方後円墳より先に東日本の前方後方墳で定型化されている
認めたがらないのは畿内説に固執してる連中だけ
特に寺澤
さらに前方後円墳の前身と言われている円形周濠墓が奈良で発見されたのはつい最近のこと
他所では多数発見されてるのにな
奈良起源説がいかに無理をして作られた作り話なのかよくわかるだろ
つまり畿内説は歴史歪曲大好き韓国人とウリ二つの思考回路という事よ 前にも書いたが、北陸、関東あたりの弥生時代墳墓を50基ぐらい調べたら、大体出てくるのは土器。
良くて鉄剣か鉄矛が1本。
超良くて鉄剣と鉄矛の2本セット。
うっかり作者ハルキーさんも、平原のことを「超スーパーウルトラすごい」みたいなことを動画で言っていたが、その通りだ。
超大型内行花文鏡5面含む40面の銅鏡を出した平原は本当に圧倒的だし、1号甕から35面の銅鏡と、2号甕から22面の銅鏡が出た井原鑓溝遺跡も圧倒的な大王。
奴国・須玖岡本遺跡の32面銅鏡も圧倒的な大王。しかも、銅鏡の種類が多彩。
本当に、他の墳墓とは一線を画す超スーパーウルトラ凄いのが、この3墳墓だ。 ローマ帝国ともつながる卑弥呼墓に、
ゴキブリの痕跡で対抗しようってのが無理スジ >>860
伊都国がいかにレベチであるかが分かる
この伊都国1万戸の5倍の投馬国、7倍の邪馬台国を九州で探すことは不可能 >>863
投馬国は朝鮮半島南部
邪馬台国は伊都国を首都とする北部九州全域 >>850
>広志いわく、
>---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
広志にそんなこと書かれていたという根拠はまったく無い >>866
相当な無知だなw
広志曰くで始まる逸文なんだが? 邪馬嘉国って明記されてるのを勝手に書き換えてる詐欺師だからね。
そいつの唱える説はウソってことだ。 >>859
威信材は凄いのはわかる。
実際に行ったことあるし
何がいいたいのかわからないよ。 >>864
纒向古墳群のどれか
箸墓は若干の疑問がある >>871
反論になってないな。
広志曰く「邪馬嘉国」だ。 朝鮮投馬説を馬鹿にできなくなった九州説
確かにこれにすがるしかない(笑) >>873
それが史実だからな
君のような朝鮮人には受け入れられないようだがな。 >>869
紀元前から続く伊都の王家が150年〜170年頃?に平原に他を隔絶する副葬品を埋納
次に出てくる九州で一番凄そうな墓が石塚山古墳280年頃?
120年ほど全く王クラスの墓が登場しない
九州は卑弥呼時代に没落した
よって邪馬台国は九州ではない 起源から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り。
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。
台与が那珂八幡古墳。
魏志倭人伝に記録された通りだ。 支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
もはやそういうことだな。
漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
任那=那珂・奴国に任せる >>878
三角縁神獣鏡が祇園山から広がったならワンチャンある
ただし、那珂八幡は前方後円墳でアウト 壹與は與止日女神社だから肥前川上だよ。
いつかすんごいのが見つかるかもしれんが、佐賀が今後も佐賀のままなら見つからんかもしれんw >>881
朝鮮半島南部だよ。
碁盤型支石墓の分布域ね。 >>867
>相当な無知だなw
>広志曰くで始まる逸文なんだが?
相当な無知だなw
信頼性皆無の逸文なんだが
だから誰も信じない >>882
肥前川上は伊都国だよ、大神宮跡だけどね。
壹與は與止日女神社の巫女13才で、卑弥呼の跡継ぎの倭女王になった 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝に記録された通りだ。 >>887
肥前川上が南の邪馬嘉国ですね。佐嘉です。 >>889
もはや反論もできないのかw
お星さまに願いをかけるがいいさw 川上太神宮の伊都国の東100里に吉野ヶ里不味国があった。
其南180qの宮崎平野に投馬国、80q南の肥後に邪馬台国国衙、110q南の阿蘇高千穂に卑弥呼の宮殿があった。 >>891
誰も受け入れない朝鮮投馬説は消えていくのみ 支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
もはやそういうことだな。
漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
任那=那珂・奴国に任せる >>877
だから、邪馬台国は九州以外と推測している >>896
国外から、根拠のない願望の書きこみ、あざっす! >>891
証拠ださなきゃ誰も受け容れるわけないでしょ 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝に記録された通りだ。 >>898
根拠はさんざん説明してきたけど理解力の無い人だなw 吉備に突如として作られた弥生最大の楯築は、九州一強だった時代の変わり目を示唆している >>900
そもそも放射読みがあり得ないし、放射で読んだとしても伊都国の首都は邪馬台国にはならない
邪馬台国は女王国の首都である >>897
根拠のない九州さん
ありがとうございます。 >>881
既に朝鮮半島南部だと特定されてる
朝鮮人の皆さんからしたら朝鮮半島南部が古代に日本領だったなんて受け入れられないんですねw >>901
>九州一強だった時代の変わり目を示唆している
九州一強なんて無い。 倭人(阿波勢力)の拡散進出に過ぎん。 @阿波 一つ解けた!
>支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
>もはやそういうことだな。
>漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
>任那=那珂・奴国に任せる
「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 >>902
伊都国説では放射読みなんてしてないよ、放射読みを否定してる
里程と日程は別の資料からの引用で、魏志倭人伝では同じ行程を距離と時間で説明しているんだよ
帯方郡からの行程を二重に説明してるんだよ。 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝に記録された通りだ。 そもそも伊都国には親魏倭王金印と銅鏡100枚を贈られた墓がない >>909
>帯方郡からの行程を二重に説明してるんだよ。
だから、トンデモと言われる。 @阿波 邪馬壹国の王都は伊都国であり、女王国とは邪馬壹国の首都圏(伊都国、奴国、不弥国)のことである。 >>914
気持ちはわかる。だが世界遺産は破壊しちゃダメだよ!
>支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
>もはやそういうことだな。
>漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
>任那=那珂・奴国に任せる
「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 >>914
君の脳が老化して新しい情報が入らないだけだよ。 >>918
貴方は80歳過ぎの老人のように思える。 >>919
トンデモは行程里数を足し算・引き算する。 @阿波 40でも若いのかw
トナカイって二十歳くらいだろ?
トナカイの異質さが目立つ 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝に記録された通りだ。 >>915
到底採用できない
九州説としても全く無理 >>927
日本人のフリをした〇鮮人
九州説のフリをした畿〇説 >>927
到底受け入れがたいその気持ちはわかる。だが世界遺産は破壊しちゃダメだよ!
>支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
>もはやそういうことだな。
>漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
>任那=那珂・奴国に任せる
「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 仮に邪馬台国が九州だとして、なぜ九州は三角縁神獣鏡や前方後円墳を畿内に押し付けられるほど成り下がってしまったのか? 考古学者に色々質問したい
自分で調べた範囲によると位至三公鏡は5世紀古墳からしか出てない
ハルキーさんいません? >>913
放射状よみとは行程が放射状に分岐する読み方
伊都国説は一切分岐しないので連続読みです
陳寿は別の資料から引用した里程と日程を併記したとするもので
同じ行程を距離と時間で二重に説明しているとの説です。 どこまで行っても畿内説は妄想でしかない
空想を根拠と言ってる時点で学問のガの字も知らないんだろうよw どこまで行っても九州説は妄想でしかない
空想を根拠と言ってる時点で学問のガの字も知らないんだろうよw >>934
君の云う学問とは何?
嘘を吐き通すこと? >>933
状況証拠の積み重ねを頑張っているのが畿内説
魏志倭人伝しか読んでいないのが九州説
考古学者達が状況証拠の積み重ねを頑張ったおかけで「邪馬台国は九州」から「邪馬台国は九州ではない」というところにたどり着いた
オラが村根性は学問じゃない
トナカイと同じように私も畿内や九州とは全く無縁 >>936
邪馬台国を論ずるには、まずは魏志倭人伝を読み込まないといけないよ
十分に魏志倭人伝を理解してからじゃないとそれが状況証拠足りえるのかの判断も付かない
君にはそれが出来ていないね。 >>936
なんの状況証拠だよw
住居ゼロの遺跡で勝負ありだよバーカw 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝の記録と、状況証拠が完全に一致している。 >>937
書いてある通り、最初は魏志倭人伝とか隋書とか魏略とか廣志とか旧唐書とかで「邪馬台国は九州」と思ってトナカイと戦っていた
考古学者の論文を読み漁ったら畿内説になった >>937
>邪馬台国を論ずるには、まずは魏志倭人伝を読み込まないといけないよ
トンデモは、陳寿をこけにして行程里数を勝手に足し算・引き算する。 @阿波 >>940に追加
それと安本美典先生の邪馬台国の会のサイトも読み漁った >>940
だったらウジウジと豊国投馬国から筑後邪馬台国に迷走させんなよw蝙蝠野郎がw 到底受け入れがたいその気持ちはわかる。だが世界遺産は破壊しちゃダメだよ!
>支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
>もはやそういうことだな。
>漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
>任那=那珂・奴国に任せる
「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 >>944
トンデモは、陳寿をこけにして行程里数を勝手に足し算・引き算する。 @阿波 倭人伝の解読と解析・・・
主線行程始点の末盧国は、唐津・中原の津 →東南500里の伊都国は佐賀川上太神宮、
→(東南奴国は行きどまり傍線行程につき省略)。
→川上伊都国より東行100里の不彌国は吉野ヶ里、ここが主線行程終点。
終点からは東西南北の四至説明で、南至の投馬国・宮崎と、復南至の邪馬台国・熊本の2国並記。
この結果、不彌国(吉野ヶ里)の南1400里=約110qに、女王の宮殿があったと判明する。
驚くなかれ其処は、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮! >>943
蝙蝠ヤロウではなく柔軟に考えている
最初から決め打ちは良くない 倭人伝の解読と解析・・・(追補)
女王国までの1万2000余里から、不彌国(吉野ヶ里)までの1万600里を差し引けば、1400里。
つまり不彌国(吉野ヶ里)の南1400里=約110qに女王の宮殿があったとなる。
小学生レベルの差し引きで、倭人伝が解読できるのだよ。 簡単! 簡単! >>944
小学生レベルは、陳寿をこけにして行程里数を勝手に足し算・引き算する。 @阿波 >>949
小学生レベルの足し算引き算もできない、阿保の阿波悲し! >>949
小学生レベルの足し算引き算もできなくなった、認識不全症の阿波悲し! >>950
「阿波」へは、足し算引き算できなくても着く。 @阿波 そうか、無事帰りついて、阿波宮殿のお掃除でもしてろや、
明日から、遠い道をわざわざ来なくていいぞ >>953
そうはいかん。
なんせ、鉄器をいっぱい作って、九州土民に下賜してやらんといかんからな。 @阿波 阿波とプロレスして話題逸らしするいつものマッチポンプ 紀元前から続く伊都の王家=吉武高木王家
57年金印奴国王が一代限り<ゴホウラ貝輪・中広型銅矛>
その後に伊都の王家が三雲井原遺跡へ遷都。
倭国乱を挟んで、
240年頃に平原に他を隔絶する副葬品を埋納。
男王は祇園山古墳。高良大社。
台与が與止日女神社。
魏志倭人伝の記録と、状況証拠が完全に一致している。 オセロがひっくり返ったからって世界遺産は破壊しちゃダメだよ!
>支石墓がMAX500年ほど北西九州のが古いことになったから、
>もはやそういうことだな。
>漢委奴国王=漢は奴国王に「碁盤型支石墓エリア」を委ねる
>任那=那珂・奴国に任せる
「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 >>958
そういや女王国は奴国とかいってたな。そうなるとつまりは親魏倭王金印もまた同じ領域はカバーしていただろう。 >>958
「阿波」へは、足し算引き算できなくても着くぞ。 @阿波 >>959
邪馬台国
漢委奴国王金印
親魏倭王金印
が、記紀に無視されているのは、
半島南部領土=投馬国が領土だったから、だな。
白村江の敗戦で懲りて、
海外領土の維持に莫大な国費を費やすのをやめたんだろう。 南水行二十日投馬国(ヅマ=アヅマ)で相模
南水行十日陸行一月邪馬台国(ヤマト)で奈良
これでいいだろ
で、女王がヤマトにいなかったことにしたいなら
女王の都べる所=女王が統治するところ >>940 考古学者の論文を読み漁ったら畿内説になった
いつの頃でしょうか。幻と思っていた邪馬台国の都、纏向が見つかって、これで畿内説は
間違いないと思った考古学者の論文でないといいのですが
多くの論文の積み重ねがあっても進歩したように思えない。畿内ではありえない説まで
ある、 >>940
へえ、畿内説ってこういう小芝居するんだw >>930
後漢が元気な時代 → 九州にあった大倭王が統べる九州が元気
後漢が崩壊三国時代 → 倭国大乱、九州一強の終わり
魏が元気な時代 → 台与が国中遂定した時代
魏が西晋に禅譲 → 266年を最後に女王国の消息が途絶える >>966
まぁ、判断できるもんと言えば、大陸・半島と交易していた「鍛冶炉遺構」が一番多い所だな。 @阿波 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1706530938/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>960
徳島の県南の長国が狗奴国と言いながら、
@阿波の主張する行程は、長国を通過する不自然なルート。
アホだから何も考えてない。 >>971
>新スレ立てました。
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡が無いくせにスレ立ては熱心だな。 @阿波 >>972
>徳島の県南の長国が狗奴国と言いながら、
それ、「卑弥呼」の時代だけな。 遅くとも、前漢時代から長国を通過しているから。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>972
「卑弥呼」の時代は、「狗奴国(長国)」の「丹」が手に入らなかったので、中国産を入手したんだろうな。 @阿波 ギリシャも中国も考古学がきちんと考古学やってていいよなあ 邪馬台国と狗奴国は卑弥呼の時代には敵対していたという主張ですと、魏に素早く遣使したときにはどのようなルートを駆使したのか疑問が生じますね。 対馬国、一大国、末蘆国、奴国、不彌国 までは女王国の属国
投馬国、邪馬台国が女王国
「女王国以北」は女王国の属国だから一大率を伊都国に置いて監察させた。
「女王国以北」は戸数、道里を略載することができたが、女王国はあまりにも遠方なので日数表記しかできず、
戸数も可五万戸、可七万戸と「可」の字を入れている。 >>974
邪馬台国と狗奴国は卑弥呼の時代には敵対していたという主張ですと、魏に素早く遣使したときにはどのようなルートを駆使したのか疑問が生じますね。 >>981
伊都国を中心とした九州倭国は倭人伝の段階で邪馬台国=ヤマト王権に服属していたことになる。
これは、古墳時代が3世紀にさかのぼるとする近年の考古学者による年代観と符合する。 ある国の構成員としてその権力支配の統制下に入るという意味ではなく、ある国の下部に位置して従属するという用法の「統属」は三国志にある? >>981
投馬国からが女王国だと、
遠方なので日数表記しかできないのに
「自郡至女王國 萬二千餘里」の里数が書かれるのは矛盾する
萬二千餘里で至るのは倭国の官がいる2万戸の奴国 ここで何回か主張したことだが、一大率はその職務から考えて文字で記録することが必須の職
しかし当時の日本には文字がなかった
中国語を学び中国語で記録するか、後の万葉仮名のように中国語の文字の音を借用して日本語の言葉を記録するしかない
それで記録したとしてもそれをほかの日本人が読むことができただろうか
私はそれは非常に難しいことだと考える
だから一大卒は倭国の官ではなく、魏が派遣した役人だったと思う 自竹斯國以東皆附庸於倭
逆に明確に従属国を意味する付庸を単なる属すると訳したりするんだよね
筑紫より東は皆倭の従属国である >>985
ヤマト王権に服属したことにしたいから年代感を弄ってるんじゃなくて? >>989
隋書の時代になると筑紫以東の東に海を渡った先が皆倭に属してしまう
東に海を渡った先は魏志も後漢書も女王に属していなかったのと対照的 >>988
「傳送文書賜遺之物詣女王」
通訳できる者がいるから伝送している >>991
魏志、後漢書の東に海を渡るのは千餘里
隋書は十余国を経て海岸に達するので
魏志の不弥国からの水行三十日 >>993
秦王国(宇佐)から渡海して(瀬戸内の)十余国を経て(難波津の)海外に達する 女王宛の文書や贈り物を女王まで届けて不足のないようにする
これは魏の役人の仕事の評価として間違いの起こらないようにするための施策
女王は文書や贈り物を受け取る側
贈り物が足りないとか判断できるだろうか >>996
「還到録受」
目録見て足りないくらいわかるだろ このスレッドは1000を超えました。
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