邪馬台国畿内説 Part990
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1707310081/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし ピッタリじゃん
南に水行は「南南東へ船を進めた」ってことか はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ 飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。
「キトラ古墳」「高松塚古墳」(7世紀末~8世紀初め)も、朝鮮半島避難渡来人のお墓だろう。
倭国(阿波)はもちろんのこと、日本のどこにも天文図や四神を描く文化は無い。 @阿波 三角縁神獣鏡が邪馬台国畿内説を否定すると挙げた1〜5に対し、私はむしろこの1〜5全てが畿内説の根拠と考えております 記念明鏡で予想される反論
1.魏の敵対国である呉の年号の鏡がある。
2.景初4年という存在しない年号がある。しかも2枚もだ。
3.異なる形式の鏡がまざっている。
4.上図の紀年銘鏡は皆中国製だろうか?
5.出土は畿内だけであろうか?いつの時代の遺跡から発掘されたのであろうか
他
↑
これらは、畿内説を否定する材料ではなく、全て畿内説を肯定する材料です >>81
鉄も絹も銅戈銅矛も畿内にはあります
その知識はどこから手に入れましたか?
安本美典ですか? 投馬国、邪馬台国、狗奴国は日程の人が書いた国名で
半島南部に投馬国、北部九州が邪馬壹国、南部九州が狗奴国なんだよ
下記の部分が日程の人が書いた文
「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
「此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」 重要なので何回も書きます
伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえて魏志倭人伝を読むと内容が矛盾無く理解出来ます。
「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王卑弥呼は女王国より北には、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は(魏)国中に於ける刺史のようであった。」
この様に伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえると、訳の内容が全く変わるのです。 「女王國」を使用してるのは里程文等の公孫氏時代(230年代)の記録からの引用だな
張政等の魏使の報告書では邪馬壹国や女王を使用している。 >>86
>半島南部に投馬国
陸行一月は? @阿波 また九州説、伝聞証拠(法律上は証拠能力なし)だけ
伝聞は、知覚→記憶→叙述をたどり証拠能力が低いので、証拠採用になりません >>89
陸行一月は陸行一日の誤記だよ
3世紀の日本で陸行一月も出来る道路は整備されていない
上陸後に25〜40km陸上を移動したんだよ
陸行一月はそのまま考えたら750〜1000kmだからな。 >>91
>陸行一月は陸行一日の誤記だよ
それならいっそ、「魏志倭人伝」などなかったことにしろ。 @阿波 里程文と日程文は別の時期に別の人が書いたものなんだ
日程文(>>86)を読めば女王之所都とは投馬国に対して邪馬壹国が女王之所都だと言ってるだけで
邪馬壹国が首都だとは言ってない事が分かり、戸数七万戸の謎も解決する。
里程文と日程文を分けて読む事です魏志倭人伝の矛盾とされていた事は全て解決する
矛盾の無い読み方こそ正しい読み方なのである。 安本美典が鉄や絹が多い所が邪馬台国だそうですが、当方は遠方地で内陸部を含むのでむしろ
ない方が邪馬台国です。 >>92
陸行一月が誤記でないなら邪馬台国は日本の外になるけど?
阿波説では陸行一月を何処に当ててるの? 末盧国に上陸して薮をかき分けて進む描写と
(伊都国の)浜に荷物を降ろして数えて伝送する描写と
二種類のはなしが混ざってたわけだ 証拠捏造やるのは九州説だけ
実在しない出土品をデッチあげたり
ニセの測定数値を宣伝したり
自然地形を墳丘と偽ったり
やりたい放題やってきた
その報いが
九州説の滅亡だ >>95
矛盾だらけだよ
里程の計算が合わないだろ >>95
同じ人でしょうね。
不彌国で倭人から聞いたと推測。
まあ、投馬国、通過さえしていないし
邪馬台国には行っていない。 >>99
畿内説は何もかもがチェリーピッキングで出来ている >>100
7000里に水行20日、4400里に水行10日、600里に陸行1日(月)
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
で計算が合います。
>>101
投馬国や邪馬台国の官職が記載されてますから実際に行ってますよ。 >>98
濱山海居・・・上陸した呼子付近の風景
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内の風景
好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之・・・二丈海岸付近の風景
呼子付近から糸島市南東部の伊都国までの風景を順番に書いてある。 >>97
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)
投馬国(着岸地 土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か?
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>105
そんなに遠いなら知ってる人はいませんよ。 >>107
四国なんて最大でも250qないのに何を言ってるの?
意味が分からんなw >>110
海峡の幅は図る術が無かったので一律に1000里と書かれてるだけだよ
女王国から倭種までの1000里を流用したものだろうな。 >>109
意味不明だ。
交易で邪馬台国や投馬国から来た人に聞けるし
ましてや女王之所都の経路だよ。
行っていなくても聞けるよ。 使者一行が距離を測定したというドグマから解放されなさい >>116
里程文と日程文は別の資料からの引用で
里程文は公孫氏時代末の記録、日程文は張政等の魏使の記録
この二つを分けて読めば行程文は矛盾の無く読める
が私の主張ですけど?
貴方の主張は意味が分からん。 >>118
使者が測らないで誰が測ったの?
当時、里なんて中国人しか使ってませんよ。 >>119
外国人工作員の主張は、ただただ半島南部投馬国と狗邪韓国を倭人領にしたくないだけですから、中身はありませんw 短里説は100年前に九州説の白鳥庫吉が論破して以来ただの都市伝説だよ >>117
太陽の角度だろ。
出発を0とする60度差なら千里とか目安。 >>121
極右の主張は、ただただ半島南部日本領にしたいだけですから、中身はありませんw >>126
半島南部、対馬、呼子はお互いに見えてるから全部1000里ですねw >>130
半島南部のどこよ。
高い山あったけ?見えませんよ。 >>111
>四国なんて最大でも250㎞ないのに
なんのこっちゃ? @阿波 >>118
>使者一行が距離を測定したという
前漢時代から阿波までの距離は分かっている。 @阿波 >>133
べつに精密でなくても日の出から日の入りで
千里でもいいんだよ。 魏志によると倭人は絹を生産していたようだが、邪馬台国で作っていたとは書いていないから、倭のどの国が絹の大産地だったのは不明だ
纏向遺跡からは絹の中の絹である天蚕の布が出ているから、倭国の最上級の支配者がいた地域と考えてよい
後世の話になるが、遣唐使が中国に倭錦を持っていって非常に喜ばれたそうだ
どうやら天蚕の布を鮮やかに染めたものだったらしい
ちなみに普通の家蚕の質では日本産は二流品で、明治になって初めてチャイナシルクのレベルになる >>141
別に鉄も絹も丹も根拠にならない。
鉄は関東まで出土
絹は近畿まである。
丹鉱脈はあるのだから。 >>141
邪馬台国を首都だと言ってるのなら
首都に高級品の絹織物が集まるはずですよw 畿内説の諸君に質問
Q末盧國から伊都国までの東南の陸行が間違いだとしたら
畿内説にどのような影響を及ぼすのでしょうか?
>>138
太陽の角度の差で緯度を出すには同時刻に測定する必要があるからでしょうね
瞬間移動するか正確な時計がないと難し技術ですね。 >>142
雨や曇り以外として
海なんだか180度見える。
90度なら500里と目安。 帯方郡の南の端の海岸から出発してるから
島巡りが発生し
九州への上陸地点は末盧国の北端の呼子付近となるんだ。 >>146
正確とは書いていないよ。
時計が必要なのは知っている。
目安だよ。 >>148
島巡りが発生するのはいいけど、
呼子になるのかわからない。 >>145
>Q末盧國から伊都国までの東南の陸行が間違いだとしたら
影響なし
もともと間違いだとしてる >>149
太陽の角度で地上の距離を出すには地球の一周の距離を出してからじゃないと出来ない
高度な天文学と測量術が必要なんだよ
伊能忠敬が苦労してたな
3世紀の帯方郡の使者には無理ですよ
歩測や紐での測量が精一杯。 >>152
潔いな。
屁理屈つけて倭人伝道理とかよりはマシだね >>151
南端〜海〜北端〜島巡り〜南端〜海〜北端 >>155
畿内説では魏志倭人伝は間違いだらけで信用しない
がスタンスですからw >>154
別に地球の距離は不要。
日の出出発お昼ごろつけば500里。
日没なら千里程度。 >>152
間違いとするのが間違いだな、簡単に諦めずに何故そのように記されたかを読み解く事が必要。 >>151
島巡りはダメだろ
そんな表記法ほかに聞かない
そもそも対馬は長細いし 魏志倭人伝に書かれた邪馬台国がどこか、の議論で魏志倭人伝は間違いだらけと決めつけて勝手解釈するのが畿内説
根本的に自己矛盾に陥っている >>160
そうやって無理やりの曲芸をするのが間違い >>154古代から伝わ阿る、あの有名な一寸千里の測量法を知らぬのか、
緯度の違いによる南北距離は簡単にわかる。
それが分かったら、見通しのきくいくつかの高山に上り、
相互間の角度を測って補正すれば、ほぼ実用的な二点間距離が分かる。九州全域など簡単なこと。 >>163
だったら邪馬台国があったとするのも間違い >>162
どこが矛盾してる?
日本語知らない人ですか >>161
島めぐりでなくて方400里、300里の記述はある
移動距離と考える。
対馬は二島なので北か南のどちらかでは? ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的に整合するところにあるはずだ
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く) (続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ
「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ 日本人に地図を作るような測量技術はない
江戸時代まで使われた行基ですら、あの有様だからな
江戸後期に作られた伊能図は非常に正確だが、これは軍事機密として庶民には隠されていた
まして弥生時代のジャップに方角や距離の測定なんぞできるわけなかろう >>171
このスレで最も差別主義的な恥ずべき人間ですな、貴殿は >>168
方400里は対馬の縦横ではなくて、対馬南島にあった対海国というクニの縦横の里。
島巡りの根拠にはならぬ。 ネトウヨは無教養で古史古伝を信じてしまう低レベルだから行基図を知らないのかもしれないが、あれが近世までの日本地図だ
正確な地図は軍事機密なので公開されず、庶民はデフォルメされたイメージとしての地図しか知らなかったんだよな
羅針盤もなければ数学知識もなく天文を知らず暦もない倭人に地図なんか作れるわけないだろう >>152
私は九州説ですが私も間違だという説に賛同してますが九州説になんら影響はありません。
東南については、いろんな説があるのは承知してますが。 >>171
阿保のチョンコが作ったのが行基図を逆さまに合成したバカ地図だったな 魏志倭人伝の行程記事のベースとなる調査報告書を書いた帯方郡使はおそらく呼子・名護屋あたりで上陸したと思われる
ここから現代の地図で伊都国(三雲・井原遺跡あたり)を見るとほぼ真東に当たる
しかし実際に移動するときは東の唐津湾を南回りで進むので、しばらくは東南方向に進むことになる
調査報告書には上陸後東南方向に進んだことが書かれており、陳寿は魏志倭人伝でそこを抜き出したと考えられる
魏志倭人伝は総文字数約二千文字で簡潔に記述されており、伊都国までの道程だけをだらだらと長く書くはずもない
末蘆国の港で上陸してから東南へ陸行五百里で伊都国に着いたという趣旨の議事倭人伝の記述は、このように考えれば特に矛盾はないと考えられる >>168
>移動距離と考える。
理由は?
>対馬は二島なので北か南のどちらかでは?
渡海の距離が相当違ってくる
短里説はつぶれる >>173
島めぐりというより
調査だね。壱岐なら道ありそうだが
対馬はなさそう。南の島かな?
北端に上陸、調査
出航、西側海岸線の沿って巻く感じで
東側へ上陸。 >>179
当然、海渡はすでに潰れる。
真っ直ぐなど無理だから海流に流されたり
カーブを描くので目安に過ぎない。 倭人伝の東はこちら、伊都国の東南問題も会稽の東問題も全て解決ですhttps://i.imgur.com/oKFsUUt.jpeg >>178
その通りですよ。
伊都国までの道程を、唐津湾南回りですすんだら、今度は東南だ東だとだらだら書くはずも無し。
佐賀川上の伊都国まで、そのまま東南へ進んだのですよ。 >>178
>末蘆国の港で上陸してから東南へ陸行五百里で伊都国に着いたという趣旨の議事倭人伝の記述は、このように考えれば特に矛盾はないと考えられる
それ、「東南へ陸行五百里で伊都国に着いた」というのは間違いだって説でしょ >>183
そこは一致だな。
日本の地理や地名がわからない人が読めば
方角道理進む。 >180
使者の一行がそんなことしないだろう
何しに行くんだ >>180
里数稼ぎの回り道なのは明白。
大宰府が邪馬台国だと決め撃ちした本人が、里数が合わず、苦し紛れにホラ話しただけ。 >>141
倭人伝を読み込んでないね。絹は邪馬台国で生産してる。
其山有丹の其は倭地の様子の項だが絹は邪馬台国の様子の項
これ常識だよ。 >>141
倭人伝を読み込んでないね。絹は邪馬台国で生産してる。
其山有丹の其は倭地の様子の項だが絹は邪馬台国の様子の項
これ常識だよ。 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>186
植物等調べているよ。
島のどの位置に停泊できるかも調査。
避難地や征服する攻撃の起点もあると思う >>187
記述があるだから移動距離
邪馬台国は九州以外ですけど。 >>167
瀬戸内航路で南を東とするか?
それも2往復として4か月間も瀬戸内海にいるんだぞ。
太陽の南中は四国側、北極星は山陽側だぞ。
120日間も瀬戸内にいて東を南とするか?南は南でいいんだよ。 投馬国は妻木晩田遺跡だと思うなあ
あの規模のクニを無視する事はあり得ないから投馬国でないならどこだ?となる >>192
倭人伝の
1.邪馬台国の様子の項
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬
・・・・・・・ 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
2,これ以降が倭地の様子の項
倭地温暖 ・・・・・・・ >>196
倭人伝では投馬国の情報が少なすぎるね
どこでもいいんでねーの 計其道里 當在会稽東治之東
なんで、侏儒国までは里数ある。
邪馬台国や投馬国には里数はない。 ミューオン透視の結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま >>202
そうなんです。侏儒国より
遠方地と思います。
不彌国からの日数でしょう。
投馬国、邪馬台国には行っていないんですよ。 やっぱり九州説は政治思想であって学問ではないようだ >>207
そもそも、里数があるから
その里数に対する日数書く。
郡から倭人に聞くことはしない。
倭人から聞いたのみ
傍国も其餘旁國遠絶 不可得詳
不彌国からの日数と推測する。 >>206
はっきり言ってミューオンなんか無視しても畿内説で決まりだよ 遥か後の時代の明史日本伝ですら中身はメチャクチャなんだから魏志倭人伝の距離だの方角だの国順を真面目に推理したってなんの意味もないと思うけどな
一番デカい遺跡を邪馬台国、次にデカいのを投馬国とするくらいが限界だろ >>211
その通り
明史は豊臣秀吉とか明智光秀とかグチャグチャになってる
すなわち、史書(伝聞証拠)は、法律的には、知覚→記憶→叙述という過程を辿るのであるから、誤りが混ざってしまう可能性が極めて高い(刑訴法では伝聞証拠は証拠として採用されない)
したがって、間接証拠(考古)と伝聞証拠(史書)を突き合わせなければならない >>193
>記述があるだから移動距離
距離と面積の違いが分かっておらんな。
道里とは、ここからあそこまでの2点間の距離を示すための書き方。
方里とは、国の縦横の里数でおよその面積を示すための書き方。中国では小学生でも知っている。 >>196
妻木晩田を含めた中国地方が投馬国であろう >>214
縦と横は進んでいるんだよ
移動はしているのだから距離に含める
計算すれば面積が出るだけですよ。 >>203
知ってる教授に聞いたらわかるよ。
漢文に詳しい人でもいいかもね。
これ常識だから。 方四千里の三韓と
帯方郡から狗邪韓国までの七千里
整合してるな 島根県、妻木晩田遺跡は弥生時代最大の遺跡である
150ヘクタールで吉野ヶ里の110ヘクタールよりも広い
纒向は300ヘクタールで弥生最大の妻木晩田の2倍
、吉野ヶ里の約3倍
九州説はこの時点で消える 文部科学大臣がああなって畿内説の外国人工作員がなぜか焦っているね >>221
根拠にならないことを根拠と言い張っても何の意味もない >>216
俺の場合は
女王国の範囲である
壱岐から宗像あたりになる。
墓制度が違うから倭種と推測。 ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま >>218
伊都国は代々王がいた
しかも、三雲南小路、井原鑓溝、平原と明らかに日本の首都であったことが明白
そのお隣の「漢委奴国王金印」の奴国も伊都国のお仲間であろう
奴国は2万戸であるから、その2.5倍の投馬国、3.5倍の邪馬台国を九州に求めることは不可能 >>228
それは全く気にすることがない
奴国の3.5倍である 文部科学大臣がああなって畿内説の外国人工作員がなぜか焦っているね 都合が悪いものはすべて無視するのが畿内説
いつもこれ ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま >>227
俺は近畿以東、長野あたりまでが範囲
卑弥呼の都は山岳地帯が連なる地域を
含む。修験道とかの宗教的観点。
陸1月からの推測。なので行く必要性もない。
簡素な説明で終わる。行っていたら南至以降に
詳細な方角とか停泊地の記述、里数等記述したと思う。卑弥呼が共立で九州だな。 >>234
纒向は九州最大の吉野ヶ里の3倍はあるから、住居があったとこは確実
纒向の発掘はわずか2%
仮に、纒向に住居がないならば、レベチ
とんでもない王権 >>227
伊都国や奴国を含む北部九州地域全体が邪馬台国なのだよ >>222
しょうがないです。
倭人伝の記述に文句言ってもねえーーー >>240
レベルの低いあなたと会話することは不可能 >>214
方○○里とは一辺が○○里の土地のことだよ
だから面積も示すし、単に一辺が○○里の土地のことも示す
面積しか示さないとは嘘だね。 少なくとも「住居ゼロ」とかニセ情報を流す人は願望だけの物証なし >>233
そういう証拠のない発言はすべて無視するのが常識人 >>202
帯方郡からの日数だからですね
里数での説明は不弥国で済んでるからな
里数行程は公孫氏時代末の記録で日数行程の10年前くらいの資料からの引用だな。 >>242
正方形の島なんて実在しない以上、面積のことだな >>246
>帯方郡からの日数だからですね
妄想乙 投馬国5万戸
奴国の2万戸を九州に設定することは不可能 >>220
1里は80mくらいですね
短里は今や魏志倭人伝の研究者では常識で定説ですね。 奴国2万戸
投馬国5万戸を九州に設定することは不可能 >>246
いいえ。不彌国からですね。
不彌国までの里数で十分です。
投馬国、邪馬台国の簡素な説明を受けただけですね。 文部科学大臣がああなって畿内説の外国人工作員が焦っているのはなんでだろう ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともな反論なし >>247
正方形と見なした場合の島一辺の長さですね
そうそう正方形の土地はありませんから
対馬国や一大国の面積なんて郡使が知り得ない情報ですから
方可○○里が面積であるはずがないんですよ
島に上陸して面積なんて測量する時間や暇はありませんからね。 >>255
行っていないから着くわけない。
畿内?
近畿以東長野あたりが範囲ですよ。 >>252
半島南部です
投馬国、邪馬台国、狗奴国は日程の人が書いた国名で
半島南部に投馬国、北部九州が邪馬壹国、南部九州が狗奴国
下記の部分が日程の人が書いた文
「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
「此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」 魏志韓伝では、王がいない
かつては王がいたが、魏志の時点では韓国のトップは臣智とかいうやつである
九州に倭国王卑弥呼を設定することはできるか?
不可である >>260
逆だろ。九州に倭国王卑弥呼がいて、韓にもにらみを利かせていたから、
韓に王がいないんだよ。
馬鹿じゃね?w 文部科学大臣がああなって焦る畿内説の外国人工作員にとって朝鮮半島が最重要課題で邪馬台国はどうでもいいようだなんでだろう >>260
九州には漢委奴國王印を貰った倭奴国王が既に居たのだから親魏倭王の卑弥呼を九州に設定は可である。 ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともな反論なし >>257
>島に上陸して面積なんて測量する時間や暇はありませんからね。
じゃあ人口はどうして分かってるの? >>262
恥じゃない
お前が恥
邪馬台国を九州にするには投馬朝鮮しかない >>265
つーか、金印対象が九州外なら詳しくそう書くよね。 >>261
韓に睨み?
一大率の範囲ってそこまである記述は
見当たらない。
韓伝に記述あったけ? >>267
また「住居ゼロ」とか妄想を垂れ流す九州説 文部科学大臣がああなって焦る畿内説の外国人工作員にとって朝鮮半島が最重要課題で邪馬台国はどうでもいいようだなんでだろう ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともに反論することはできないようだ 戸数は倭人に聞いたんだろうな
倭人は里を知らないから方○○里は知らない。 >>268
戸数は倭人に聞いたんだろうな
倭人は里を知らないから方○○里は知らない。 >>278
無知だなあ
楽浪人は壱岐にも糸島にもたくさん来ている
もちろん里を知っている >>279
投馬国が半島南部を認められないのは半島系の人だから? >>282
隋書に倭人は里を知らないってありませんでしたっけ? 文部科学大臣がああなって焦る畿内説の外国人工作員にとって朝鮮半島が最重要課題で邪馬台国はどうでもいいようだなんでだろう ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともに反論できないようだ マスコミ報道によると文部科学大臣は壺からの選挙推薦状をもらっていたという
壺や日本会議を利用して長期政権を運営したアベの負の遺産がこの国を悪くしているよな
九州説のネトウヨもこのラインの輩というのを忘れてはいけない >>208
魏率善だった。三国志によると魏から率善を授かったのは・・ >>288
比較すればよくわかるが、九州説はなんの恩恵も受けていない >>283
>投馬国が半島南部を認められないのは半島系の人だから?
あたままがマトモだから 箸箸を造営するためには、述べ135万人の作業員が必要だったと推測されている
これは邪馬台国の人口が極めて大きかった物理的証拠となる
本気で夜は神が作ったと信じているネトウヨなら纏向は無人に見えるのだろう >>291
文部科学大臣がああなってなぜか畿内説の外国人工作員がとても焦っているようだ >>292
つまり奈良に住居が増えた時代でないと作れない ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともに反論できないようだ >>295
「住居ゼロ」とか妄想し続ける異常者
それが九州説 京都市長選挙で維新の松井が当選したのもこの国の先行きを暗くしている
自民党にはまだリベラル派がいるが、維新は新自由主義のポピュリスト政党でアベの思想と極めて近い
維新は日本の歴史研究予算を削減しようとしており本当に歴史研究を志す人間ならば維新ではなく共産党に一票を投じなければならなかった 纏向に大きな古墳が作られたのは
纏向周辺がたいへんに平和な時代
畿内説の学者によると倭国大乱すらなかったという
一方卑弥呼の時代は倭国大乱後の動乱の時代
狗奴国との争いは続き、男の数も極端に減っていた
とても巨大古墳をつくるようなリソースはない 文部科学大臣がああなってなぜか畿内説の外国人工作員が狂ったように焦っているようだ 纏向に纏向連合政権(のちのヤマト王権)が誕生する前
倭国大乱の時代には大倭王が不在の時期があったハズだが
この纏向連合の前の大倭王がいた倭国とは一体何者なのか?
畿内説だとその説明ができない
なので苦し紛れに伊都国から大倭王を誘拐してきたりするハメになる >>303
邪馬臺国論争に敗れて傷心のあまり現実逃避して妄想に耽る九州説 卑弥呼がいた時代
唐子鍵遺跡はその大環濠が埋まっていたそうな
いかに平和だったのかがよくわかるな
266年を最後に女王国の消息が途絶えた時代
3世紀後半から4世紀にかけて
唐子鍵の環濠は再掘削されて環濠集落が復活したと考えられている
その時代になにか動乱でもあったのかもしらんな 纏向が大陸と交流があった以上、大陸への航路のある九州北部は勢力下に治めていたのは間違いないからね 結論を先に決めつけて、あとから情報を取捨選択するのは畿内説の常套手段 >>303
大倭王が不在の時期には、大倭王はいない 纒向遺跡が建設される前の周辺の在地弥生勢力は極めて後進的かつ政治的に脆弱で、纒向遺跡を作った勢力との連続性がまるで見られない
また畿内には、纒向より前の倭国の王都にふさわしい先進的な遺跡が存在しない(どの遺跡も同時代の北部九州に比べて鉄器も銅鏡も圧倒的に乏しく文化的にも政治的にも明らかに劣後する)
このため最近の畿内説は、伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見が急速に台頭している
だが、そこまでして畿内説を墨守する意味が果たしてどこまであるのか
魏志倭人伝から素直に読み取れる通り、邪馬台国を都とする倭国は北部九州にあったことを認め、その一部勢力が吉備を巻き込んで奈良盆地東南部を征服してヤマト王権を建てたと考えるべきではないか
このときにそれを邪馬台国の東遷と考える人もいるかも知れないが、皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないことや、伊都国と纒向との政治的・文化的共通性が複数の学者から様々指摘されていることから、伊都国勢力が東遷し、邪馬台国は北部九州に留まった(後に田油津媛の代で滅んだ)と考える方が自然であろう 3世紀後半になって掘り返した唐子鍵の大環濠の土
どこに捨てたん? >>313
伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見は急速に台頭
していない 前方後円墳も三角縁神獣鏡も
大陸との交流がなくなった時代に日本独自に発展したドメスティックな文化なのでは? >>316
寺澤、北條、久住
むしろこっちがメインストリームになってきた >>319
伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見の人でない >>320
纒向前は北部九州中心、畿内での共立に北部九州も参加のような考え方だな
寺澤や北條に近いし畿内自生説をはっきり批判 邪馬台国が東遷してヤマト王権になったとは思ってないけど東遷は実際あったんやないかね
神話だと聞こえよくしてあるけど、要するに倭国大乱で負けて大和に追いやられたんではないかと思うんやけど
あちこち立ち寄りながら大和に辿り着いとるけど、要するにあちこちで庇護を求めながら東に向かったということかと >>321
でも纒向研究成果から近年はっきり否定された時代遅れの畿内自生説にはみな否定的だ
畿内説の最近の潮流としてそこが重要だ 邪馬台国と纏向は全く関係ない
なんで、纏向に都を九州から移すんだよ
何人行ったんだよ。住居跡もありも殆どない纏向に誰が行くんだよ 久住猛雄氏(福岡市埋蔵文化財課)によると、那珂八幡古墳の造営時期は彼自身の久住編年IB期、215-250年だそうです(『二万余戸の実像 奴国』伊都国歴史博物館 2021年)。
那珂八幡は箸墓より古いね
https://i.imgur.com/WzpQJmn.jpeg 纏向は邪馬台国どころか初期ヤマト王権の都でもないと言う意見も出てきたよ。
致命傷は住居跡。 纏向王権の宗教は銅鏡祭祀であって、過去の銅鐸祭祀と文化的に断絶しているからな
ここで畿内は九州勢力や吉備勢力からの征服を受けたと考えるのが自然というもの
ヤマト王権の支配階級は明らかに畿内の在地人ではないね ネトウヨの九州説
→邪馬台国が畿内に東遷した
→天皇家は中国に朝貢していない(ネトウヨが譲れないライン)
今の主流の畿内説
→伊都国が畿内にヤマト王権を樹立した
→ヤマト王権は中華の属国になった(当たり前だろ) 瀬戸内海は象が歩いていた
https://www.okayamania.com/colum/washi/7.htm
瀬戸内海の海底からステゴドン象、ナウマン象の化石が発見されています。
昔、日本列島が大陸と地続きであったこと、瀬戸内海が陸地になっていたことを物語るものです
つまり、陸続きだったから魏志倭人伝の記述は間違っているということ ネトウヨは炭素14の測定法がおかしいといって、纏向遺跡4世紀説という珍説を信奉しているが、酸素同位体比年輪年代法でそれは否定されるんだよな >>332
チョンコに整形美人しか居ないのは、
美人は中国に献上していたから不細工な子孫しか残らなかったのである 山門を邪馬台国にしたいのなら
まず、他所のことはいいから山門では何が見つかっていて
それが九州最大の都市博多とどう関係しているのかを論ずるようにしなさい >>332
邪馬台国が畿内に東遷したのはいつ頃?
そして王都は?纏向が王都なら兵、官僚などの住居跡は? >>338
測らないと2:1と8:5の違いなどわからない
不整形の時期の葬制を共有する関係 >>331
寺澤 だんだん九州説に近づいてるな。
彼、そのうち九州説になるんじゃないの。 >>342
>寺澤 だんだん九州説に近づいてるな。
逆だよ
森浩一の教え子で、九州説・東遷説からの脱会者 伊都国は衰退して倭国盟主の座を邪馬台国に取られたんだよ
もちろんある程度の文化的影響は受けているが政治的な連続性はない >>348
>別物だな
言い張るだけじゃ説得力ゼロ 纏向は祭政一致時代の政治都市だから、現代人が見たら巨大な神社のようなものだろう
周囲の集落、磐余の坪井大福遺跡や、あの有名な海石榴の近辺から通勤していたんだろう
今でも基本的に伊勢神宮の境内に住んでいる神職はいないし、神域の外から通っている >>282
里は中国が独自に定めた単位で、隋の時代の日本では未だ知られていなかったんだ
里を知らない倭人は方○○里を測れない
郡使に島の面積まで測る余裕はない(面積だと対馬国と一大国の面積比が現実よりも小さ過ぎる)
ので方○○里は面積ではなく島の横を通過した時に測った島の半周分(縦と横)の距離ですね。 文部科学大臣がああなってなぜか畿内説の外国人工作員がとても焦っている ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
まともに反論もできない 奈良県は、邪馬台国砂漠の地といってよいほど、
『魏志倭人伝』と結びつくような遺跡・遺物にとぼしい。
この地に、思い込みと、思いつきと、「解釈」によって、
ディズニーランドのお城をつくるような感覚で、
卑弥呼の居処・宮殿・城柵が、つくられていく。
フェイク(偽の)ニュース、大本営発表に、だまされるな。 このように
証拠をひとつも出さないのが九州説
明らかなウソ多し 最近の大本営発表
畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した。
いよいよ終戦間近ですね。 >>359こそ大ウソの極致だ
それは畿内説の教科書的な主張なのに
考古学者が九州説を支持しているかのようにニセ情報にして連呼する 浦野氏
「纒向=卑弥呼の都はありえない。寺沢薫氏は纏向の特徴を8つ挙げるが卑弥呼と結びつくものは1つもない(規模・搬入土器・非農耕・ベニバナ・前方後円墳・呪具・導水施設・王宮)。纏向には楽浪や九州との交流の痕跡がない。箸墓が3世紀中頃という根拠もない。」
https://x.com/xmasnight/status/1756230429768896551?s=46&t=jWZFRdmwp0KW2-6kNqRixg >>358
方○○里は面積ではなく縦横の長さに反論ないな。 >>353
面白いけど
憶測でしょ
普通に考えたらどうなのかな、今に続くヤマト王権の都の変遷から考えたらどうなの。
また。国中が混乱して卑弥呼擁立 死んでからも混乱でしょ
卑弥呼が無防備で九州から遠い纏向でお祈りしてると思うの? もう九州説は終わったから嘘つくくらいしか打つ手が無いんだろうね >>365
嘘を吐き続けるしか能がない畿内説w
哀れだな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>354
>同じに見えるのはふし穴だからだろう
言い張るだけなのは論破された人の特徴 >>367
>嘘を吐き続けるしか能がない畿内説w
嘘だって証拠は? もしオレがネトウヨならさすがに九州説は無理だから畿内説に転向する
想像だがネトウヨは日本神話を歴史の真実にしたいのだろう
ネトウヨのためにそれらしいストーリーを考えるとこうだ
宮崎の豪族が隼人を引き連れて、刀伊の入寇のような形で畿内に乱入して、原住民を征服してヤマト王権を建てた。
卑弥呼が諸国の推戴をうけて女王になった
伊都国から倭王の地位を譲られて、伊都国の指導を受けて伊都国風の祭祀や文化を導入して纏向遺跡を作った
これでどうかな?
ネトウヨ的願望を入れたお話を考えてやった
九州説は無理だから辞めた方がいい 7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
この計算に異論はないな。 神功皇后は卑弥呼系列の巫女だよ。大倭(邪馬台)の帯方郡侵攻は実在するからね。 >>372
根拠もない古田式島巡り読法に賛成者なんているのか?
w
w
w >>372
じゃないと12000里が説明つかんからね。 >>372
島巡り加算をするなら
1里=75mとかいうトンデモ説はキッチリ撤回してくれよな >>371
俺がチョンコだったら理想の国朝鮮に帰るよ、お前も帰れ。 (女王国以北の国々)一大率により監察される九州諸国。道里戸数略載。
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国
(女王国)
長門以東の本州
投馬国(吉備or出雲)、邪馬台国(大和)(女王の都するところ)
余の旁国 >>372
なら伊都説は諦めろ
伊都国が女王国に含まれないってことだからね >>382
相変わらず倭人伝無視だね。
統属されてるから伊都国は女王国に含まれてる。
里程とかあんたの願望とか関係ない。
魏志倭人伝に、統属と書かれているから、伊都国は女王国に含まれてる。
それが首都なのかどうかは別として、含まれてるのは絶対条件。 文部科学大臣がああなってなぜだか畿内説の外国人工作員がとても焦っている ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
冷や汗かきながら九州説の話題に逸らすばかり >>372
いいよ。
伊都国まで10500里の方が
魏志倭人伝無視だな。 女王国の統制に隷属しているのだから
伊都国は女王国に含まれていない
女王国とその隷属国合わせて倭国 >>372
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。 @阿波 阿波説捏造糾弾スレ主が作った動画だぜ
邪馬台(やまと)国阿波説!⑥小説アマテラスサーガと阿波国風土記の真実!?
https://www.youtube.com/watch?v=0JpkE6eOXdc (女王国以北の国々)一大率により監察される九州諸国。道里戸数略載。
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国
(女王国)
長門以東の本州
投馬国(吉備or出雲)、邪馬台国(大和)(女王の都するところ)
余の旁国
女王国=本州
不彌国から1300里で本州到達。 >>377
>じゃないと12000里が説明つかんからね。
満二千余里は、行程とは別項目だから無関係。 @阿波 文部科学大臣がああなって畿内説の外国人工作員がひどく焦ってる ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
冷や汗かきながら九州説の話題に逸らすばかり >>372
周旋5千里とも一致。
いいと思う。
投馬国、邪馬台国は朝鮮、九州以外ですけど。 >>392
>隷属と捏造する畿内説
伊都国王が女王国に統属すると明記されてるけど? >>1よ
やっぱ邪馬台国畿内説はないな、これも畿内説のマイナス材料だな
1卑弥呼擁立前の倭国は戦乱状態
倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑彌呼
2、卑弥呼の死後またもや戦乱状態
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
畿内は戦乱の匂いが少ないし、先進的な武器である鉄も少ない
畿内は倭種の別国か集合体 >>400
统辖されとるから一部
三国志全体でも統属は全て外部ではなく内部 やっぱ畿内説は共産党系なんだな、歴博の成田闘争の展示を見れば分かる 文部科学大臣がああなってひどく焦ってる畿内説の外国人工作員が無宗教の共産党にごまかそうとしている ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
冷や汗かきながら九州説の話題に逸らすばかり >>396
彼は誇張してるだけだよ。君も反論しろよ。
住居跡が少ないんだろ。寄せ集めて十数棟だったっけ。 >>407
九アノンの陰謀論がどんどんひどくなってきた >>411
卑弥呼を共立して、かつ統属されてるから、ほぼ確実。 >>403
別に邪馬台国で起こった事ではなく
卑弥呼が共立された九州の出来事。 九アノン
「橿考研がミューオンの結果を隠蔽している」
「畿内説は外国人工作員」
「畿内説が公金チューチューのために事実を捻じ曲げている」 >>377
>じゃないと12000里が説明つかんからね。
満二千余里は、行程とは別項目だから無関係。 @阿波 >>377
>じゃないと12000里が説明つかんからね。
万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。 @阿波 伊都国王の子孫は丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)の宮司になったよ >>405
统辖は管理
伊都国の三十年ほどの王たちは皆女王国に管理されている
女王国に属する国々は女王を共立している 文部科学大臣がああなってなぜか畿内説の外国人工作員がひどく焦ってる ミューオンの透視結果お蔵入り
住居ゼロの遺蹟が教科書に載ったまま
反論もできないようだ 当時の日本で最大の勢力は畿内、そして次に出雲
仮に九州が独立勢力だったとして上記の二大勢力相手に対馬を確保出来るはずがないからな >>422
それは官だな。
伊都国王がいた。過去形では? 重要なので何回も書きます
伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえて魏志倭人伝を読むと内容が矛盾無く理解出来ます。
「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王卑弥呼は女王国より北には、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は(魏)国中に於ける刺史のようであった。」
この様に伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえると、訳の内容が全く変わるのです。
女王國が使われてるので里程文を書いた人と同じ人が書いた文章だな。 あんなに女王、女王言ってるのに、なんで伊都国女王と言わないのさ >>411
>>429は公孫氏時代末の記録で伊都国の王とは卑弥呼自身だな。 >>429
>伊都国王が女王卑弥呼
伊都国の東に渡海千里の海が無いので、却下! @阿波 >>429
日程も同じ人ですよ。
投馬国、邪馬台国には行っていない
簡素な説明で終える。 >>433
女王国とは伊都国、奴国、不弥国のこと
博多湾岸の不弥国から東へ500里で倭種 大陸の影響を受け計画的に作られた最先端の都市が畿内にある時点で九州勢は何言っても無理なんよな
遺跡という動かぬ証拠がある以上、畿内勢力は大陸と交流があり、その為には九州北部から対馬も勢力下に治めていたことになる >>435
日程文では女王国でなく、邪馬壱国や女王と書かれてるから別人。 纏向がただ大きいだけで建物が乱雑に建てられてたらまだ九州説も足掻けたかもしれないが
整然と方角を揃えて計画的に作られた都市は自然発生的に出来た都市ではないからな >>395
残2千里で北部九州から纏向まででピッタシなんだよ >>438
不彌国からなら納得いくけど?
郡からの日程なら却下します。 >>429
東南陸行五百里到伊都国 ←伊都国の話
官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚 ←伊都国の話
有千余戸 ←伊都国の話
世有王 ←伊都国の話
皆統属女王国 ←伊都国の話に決まってるだろ
郡使往来常所駐 ←伊都国の話
「皆統属女王国」だけ「倭の国々は皆、女王国に従属していた」だなんて言う人の脳は廃品だよ
だって知能がないだろ >>441
だめ!
万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。 @阿波 >>444
@阿波
FAQ58を読んでから反論しなよ 納得するぞ >>445
>FAQ58を読んでから反論しなよ 納得するぞ
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので
だめ!
万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。 @阿波 文献と考古極めし者だけがたどり着ける領域、それが邪馬台国大和説
YouTubeで今日も素人が九州説で間違いないと言ってます
高みの見物 >>448
色々と無視しないと畿内まで辿り着けませんね 万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。 @阿波 >>450
何故不弥国から東に行ったか説明してください 近代まで、瀬戸内海の航路ってあちこちの港で休みながら進むんだよね
なぜ瀬戸内海を「南に水行」した使者たちは瀬戸内海に港を持つ国々の報告をしなかったのか
纏向より大量の桃の種を出土している吉備とか当時の大国だったはずで、印象に残りそうなのに
実際には行ってなかったとしか思えない >>452
あなたがタイムマシンに乗れるとします
そして、邪馬台国が纒向にありそこに卑弥呼がいたことを確認できたとします。
そうすると、「南」という伝聞証拠は間違いであり、「東」であることが明らかになります。 >>453
>なぜ瀬戸内海を「南に水行」した使者たちは瀬戸内海に港を持つ国々の報告をしなかったのか
瀬戸内海に港を持つ国々って、なんて国? 飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。
「キトラ古墳」「高松塚古墳」(7世紀末~8世紀初め)も、朝鮮半島避難渡来人のお墓だろう。
倭国(阿波)はもちろんのこと、日本のどこにも天文図や四神を描く文化は無い。 @阿波 >>461
あなたはフィクションでしか答えていませんよ >>458
古代だと難波から始まって、武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦
この港を持つ国の、3世紀の頃の名称までは分からんけど、遺跡が点在してんだから国はあっただろう 倭国(阿波)はもちろんのこと、日本のどこにも天文図や四神を描く文化は無い。
こんなことは、素人でも分かること。 学者が誰一人として言わないのは、なんでだ? なにが怖いんだ? @阿波 >>443
魏略
東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也
「東南五百里。伊都国に到る。万余戸。(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚、柄渠觚という。その国の王はみな女王に属すなり。」
魏志倭人伝
東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国
「東南陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸がある。世に王があり、みな女王国に統属している。」
魏略でその国の王とは倭の国々の王のことだから、魏志倭人伝ではそのとは倭の国々のこと。 >>465
>この港を持つ国の、3世紀の頃の名称までは分からんけど、遺跡が点在してんだから国はあっただろう
それが投馬国でも邪馬台国でも無いって思う理由は? >>442
帯方郡からの二つの記録があったのさ
一つは里数で細かく書かれてて
もう一つは日数で書かれていた
この二つの文を合体させたのが魏志倭人伝。 「キトラ古墳」「高松塚古墳」(7世紀末~8世紀初め)も、朝鮮半島避難渡来人のお墓だろう。
倭国(阿波)はもちろんのこと、日本のどこにも天文図や四神を描く文化は無い。
こんなことは、素人でも分かること。 学者が誰一人として言わないのは、なんでだ? なにが怖いんだ? @阿波 >>453
中国船が瀬戸内海航路を通れるようになったのは平清盛が瀬戸内海航路を整備した後
それまでは各所に難所があり大きな船は瀬戸内海航路を通行出来なかったので九州泊まり。 >>469
だから邪馬台国(纏向)に向かって水行したんだろ?
途中でいくつもの国に立ち寄ったはずなのに記載がないから、実際には水行まではしてないんじゃねーかって話 >>473
じゃあ魏の使者たちは水行はしてないのか >>468
魏略と倭人伝の時代は近いが、内容が被らないよう別の時代状況を書いている。
つまり魏略の時代は、まだ各国に王がいたが、
倭人伝の時代になると、倭国は公孫氏に属した関係上、氏の介入で、
各王は魏の官位を与えられ、それぞれ官に降った状態を書いている。
依って世有王は「世にありし」と過去形で読む。
すると「伊都国の(魏略の時代の)過去の王たち」は、皆統属女王国であったとなる。 >>478
日本海は、不弥国の南には無いのでボツ。 @阿波 >>480
ここは畿内説のスレなんだから合わせてやれよw >>484
畿内説だとタイムマシンに乗らないとわからないらしいw >>470
不彌国からの日程の記録あったなら理解できる。 ヤマト王権と深く関係している遺跡はこれだ
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html しかし福岡から奈良は東のどころが東北東だよね
90度どころじゃないな >>468
大宰府の平安時代の書写版翰苑(唐代の幼学書)の魏略逸文
「魏略曰 從帶方至(亻妾)循海岸水行暦韓国到?(狗耶)韓国【七十】餘里」
「東南【五東里】到伊都国〜其国王皆屬【王女】也」
https://www.eonet.ne.jp/~temb/8/image002.gif
(亻妾)というところに至るには、帯方郡から海岸に沿って【七十餘里】水行すると
なんとか?韓國に到り、始めて渡海する
東南に五東里で伊都国に到る 戸万餘 その国の王は皆王女に属す
誤字が多すぎて3世紀を考察する史料としては役には立たない >>489
>それも不弥国の南では無いな
「不弥国」=築上の南に太平洋がある。 @阿波 >>482
遣隋使や遣唐使は九州の博多や坊津から出港 >>482
遣隋使や遣唐使は九州の博多や坊津から出港 >>494
東南は変わらず
佐賀方面だな
平原から佐賀あたりが伊都国だったのか?
伊都国の衰退?万から千戸。 遣新羅使は瀬戸内海を通っていて航路の記録は残っている 胎土研究の結論ですかね
米田敏幸(1999:庄内式土器研究19号)
・河内の庄内式土器は西日本各地に移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。いままで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかないということである。
・さらに胎土の研究を進めていくと庄内式の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
・纏向遺跡をはじめ大和は畿内文化発信の拠点であるという根拠は現在のところ見あたらず、庄内式文化も布留式文化も他地域からの文化を受け入れた結果に他ならない。 >>500
遣新羅使船は遣唐使船ほど大きな船じゃなかったんだろうな
朝鮮海峡渡るだけだから。 >>504
大船だった事は万葉集に残っている
「大君の命かしこみ 大船の行きのまにまに宿りするかも」 >>502
形式論を無視して胎土だけで言ってるので他の学者に受け入れられてない説
播磨で古い庄内式が見つからないのが致命的 >>501
九州では
播磨系、近江系、東海系。
なるほどね。
うきは市あたりから双方中円墳
筑前町 前方後方墳
赤坂古墳 佐賀県鳥栖市
前方後円墳より先にできる。 同時期あたりに唐津
前方後円墳の久里双水古墳
面白いね >>501
>・河内の庄内式土器は西日本各地に移動が確認されている
それは、倭人(阿波勢力)の西日本各地への移動を意味しているだけのこと。 @阿波 つまり、魏の使いは瀬戸内海を水行してないってことね
日本海も違うなら太平洋…?
それでも複数の国に立ち寄りながら纏向を目指すと思うが 瀬戸内の航路整備と日宋貿易
平安時代の末、平家は日宋貿易による富を得るため瀬戸内航路の整備につとめ、日本と宋の交流、九州・瀬戸内と京との交流・連携を活発化させた。平家清盛はそれまで北九州までしか来なかった宋船を畿内まで導き入れるため、大輪田泊(兵庫港)や音戸の瀬戸の整備、さらに海上交通を守る厳島神社の建立を行った。
日本からは金や木材、美術品等が輸出され、中国から絹織物や陶磁器等、南アジアから香辛料等、高麗から人参や紅花等が輸入された。
平清盛は唐船と呼ばれた宋の商船を何隻も所有しており、上皇や貴族の厳島神社参詣の折りには大輪田泊からこの船で送迎したり自ら唐船に乗って航海を先導した。 >>514
貿易のためなら大量の積荷を乗せた大型船でも
卑弥呼への贈り物くらいの荷物ならそこまで大きな船ではないのでは?
隋の時代、裴世清は筑紫から瀬戸内海経由で難波へ
難波で川船に乗り換えて大和川をさかのぼり都へ向かっている 魏志倭人伝前半の行程記事のベースになった調査報告書を書いた帯方郡使は、末廬国の港で上陸して北部九州倭国の外交窓口である伊都国に滞在し近隣の奴国と不弥国までは足を伸ばした
しかし南の内陸の投馬国と邪馬台国には直接赴かず、倭人から話を聞いて情報を書き留めた
ちなみにこの帯方郡使は魏が公孫氏を滅ぼして帯方郡を接収したすぐ後に周辺諸国に朝貢を促す目的で派遣されたと考えられる
なぜならば、倭国のことを調査する前に倭の使者をわざわざ洛陽まで連れて行って皇帝に拝謁させて高い地位と金印を与えることは考えにくいからだ(つまり調査報告書が書かれたのが梯儁や張政のタイミングとは考えにくい)
その意味で、魏の帯方郡接収直後のタイミングとは違うもう一つの可能性として、この工程記事部分の調査報告書は公孫氏政権下の帯方郡の時に書かれた可能性もありそうだ
いずれにしろ帯方郡は既に倭国を訪問し調査して国家体制や文化水準に相応の評価をしていたから、卑弥呼の使者である難升米・都市牛利らを皇帝に拝謁させるなど厚くもてなしたのだろう
なお、張政は邪馬台国を訪問した可能性が高いと思われるが、彼は調査報告のミッションではなかったから邪馬台国への行程記事のような文書を残していないのだろう >>517
つまり、最初は伊都国とその周辺の国々について記述していて邪馬台国までは行ってないわけね
それなら北部九州から倭国っぽい遺跡が出てきても辻褄が合う
めでたしめでたし 纏向が魏志倭人伝の倭国と似つかなくてもokだね
行ってないんだから 墓は九州だな
移動して奈良へ行ったとか
行橋は行箸 墓とダジャレ >>516
>隋の時代、裴世清は筑紫から瀬戸内海経由で難波へ
「裴世清」
『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。 @阿波
>>521
張政から又聞きしたんだろ
そいつがてきとーな報告をしたから、前方後円墳の箸墓が「径100歩」としか書いてもらえなかった @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(神)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く巫女の卑弥呼にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
https://i.imgur.com/yeSFSbh.jpeg
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(帯方郡から12,000里)←架空の女王国 纏向まで行ってないなら、「殉葬百人」はどうなるんだ?www >>501
大和型庄内甕を母胎とした筑前型庄内甕のほうが
播磨の庄内式よりも若干早い >>516
>隋の時代、裴世清は筑紫から瀬戸内海経由で難波へ
「裴世清」
『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。 @阿波 >>516
外洋航海して来た中国船は大型だから平安時代末までは瀬戸内海航路は利用出来なかったんだ
和船は小型だから通れたかもしれんが。 >>508
筑前町の焼ノ峠古墳(方方38.8m)は3世紀後半
畿内の纏向石塚と葬制を共有する博多の那珂八幡古墳(方円86m)は3世紀前半 >>516
>隋の時代、裴世清は筑紫から瀬戸内海経由で難波へ
>難波で川船に乗り換えて大和川をさかのぼり都へ向かっている
それは君の創作だねw @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+400里+1000里+300里+1000里+500里+100里=奴国11,300里から半径700里の範囲)に限定され、北は玄海灘、東は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(神)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く巫女の卑弥呼にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
https://i.imgur.com/yeSFSbh.jpeg
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都 >>530
真実は、小説よりも奇なりだよ。 @阿波 >>534
>A帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+400里+1000里+300里+1000里+500里+100里=奴国11,300里から半径700里の範囲)
対馬は方400里、壱岐は方300里だが、これを行程に含めないとすると、奴国(博多)まで10,600里になるから、半径700里〜1,400里に邪馬台国があるわけだ。 >>539
万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。 @阿波 まさかと思ったのだが、ネトウヨの書き込みを見て確信に変わった
鎌倉時代の博多が何故貿易港として繁栄したと思うか
恐らく九州説のネトウヨは中国の大型船舶が畿内や鎌倉に直行出来たと考えていたのだろう
つまり無教養のレベルが常軌を逸していて我々のような高等教育を受けた人間のは理解できなかったのだ >>541
同じ項目ですよ。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里とも一致する。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 博多から半径700里〜1,400里なら半径52q〜105qの範囲だなw
しかも博多の北は玄海灘、西からきて正面は東不弥国だから、南の筑紫平野方面に行くしかないw
さぁ、どこだ?w 泄謨觚=洩らす、はかりごと=潮満珠、潮涸珠を使う
=せつもこ=折・もこ=ほおり=【山幸彦】
=謨觚=ほこ =矛 ※予備考察
柄渠觚=柄の渠師=大きい大きい
=ひょうごこ=照・ごこ=ほでり=【海幸彦】
=渠觚=きょこ=玉 ※予備考察
洩渓觚=渓觚=けいこ=鏡 ※予備考察
からのー!
卑弥弓呼=ひよぅごこ=柄渠觚
柄渠觚=海幸彦=隼人=はや(ひ)と=速日=【ニギハヤヒ】=火照ほでり
解けましたw このパズル、完璧でーーーーすw
992 日本@名無史さん sage 2024/02/10(土) 10:14:20.77
海幸彦 = 隼人 = はやと = 速日
山幸彦イワレヒコの神武東征は
海幸彦ニギハヤヒを取り込むストーリーだったw
どっちにもシオジイが出てくるわけだw
そして、西日本は大きな九州地方!
(ちょうど 南部九州は、西日本で見ると畿内地方の位置付け)
答え見えてますw もう迷わない!
やっぱり卑弥呼の居所は宮室(主祭殿)楼観・城柵・邸閣(租賦)4点全て揃った唯一の遺跡・吉野ヶ里で良かったんだよ!
この春18きっぷで行ってくるよ! >>554
このくらいなら羅針盤がないと東と感じる範囲だな
北とは思わないし、西でも南でもないからな。 >>554
乍南乍東 到其北岸狗邪韓國だ。
基地外 >>556
朝鮮半島の西海岸を南下し、南海岸を東へだな。
方位磁石の原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃からだから
まだ普及してないな。 >>556
その東が30度ほど北に傾いているのだよ >>546
博多から半径700里〜1,400里なら
里数で書く 30度ほど北に傾いた方角を東と見れば、呼子の東南は伊都国になり伊都国の東は奴国となり、倭人伝と整合しますhttps://i.imgur.com/7Wxehbm.jpeg エネルギーの無駄遣いだよなお前ら。
もっと議論すべきことはたくさんある。 倭人伝の東の方位ズレは夏の日の出の方角だよ、魏使は日の出の方角を東と記録したと考えられる。 対馬の南に一支があると書いてあるんだからその通りにすればいいんだよ
書いてある通りにズラさなきゃ魏志倭人伝は読み解けない >>567
30度ずらしても不弥国の南は大分なのでボツ 倭人伝になんの問題も無し
天円地方、地は方。
帯方から韓は方(口)4000
左辺4000下辺3000で狗邪韓国7000、女王の都まで残り5000海を渡り3000北九州、巡り巡って2000で畿内。大体合っている。
無駄だよ。 >>572
郡から南に20日の水行は朝鮮投馬バカ説だけ >>571
不弥国の南に畿内は無い、30度ずらしても無理なので畿内説はボツ >>577
不弥国から南に行くと倭人の風習卜骨が無い >>580
卜骨は魏使を案内した倭人の風習なので問題無い >>581
中国の令亀法の如し卜骨は倭人の風習
案内した倭人などということは書かれていない >>584
ないですね。
其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 魏使といつも一緒に居たのが倭人の案内人、その案内人が何かある毎に卜骨をしていたのだよ、だからそう記した。 洞海湾から周防灘か遠賀川の二通りの行程が考えられますね >>589
郡から南20日、30度ズレ
陸路でしょうか?
乍南(30度ズレ)乍東(30度ズレ)
イメージが出てこないんですよ おーーい
>>1 奥山君の時間だよ
瀬戸内航路の君のテンプレも含め議論されてるぞ。
君のテンプレより (当然3世紀の話)
1,日本海航路は寒冷化で衰退と瀬戸内航路が隆盛
2,纒向は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点
3,推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?四国西部、山陽西部に国はなかったのかな
なんで、日本海だけ寒冷化の影響受けて瀬戸内は受けないのかね
なぜ、大和川を遡上せず難波から陸行1か月もかけてまきむくに行くのかね
瀬戸内航路を往復4か月もいて、南を東に誤らない。
いっぱいでてるぞ
今回は逃げずに回答しろよ おーーい
>>1 奥山君の時間だよ
瀬戸内航路の君のテンプレも含め議論されてるぞ。
君のテンプレより (当然3世紀の話)
1,日本海航路は寒冷化で衰退と瀬戸内航路が隆盛
2,纒向は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点
3,推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?四国西部、山陽西部に国はなかったのかな
なんで、日本海だけ寒冷化の影響受けて瀬戸内は受けないのかね
なぜ、大和川を遡上せず難波から陸行1か月もかけてまきむくに行くのかね
瀬戸内航路を往復4か月もいて、南を東に誤らない。
いっぱいでてるぞ
今回は逃げずに回答しろよ おーーい
>>1 奥山君の時間だよ
瀬戸内航路の君のテンプレも含め議論されてるぞ。
君のテンプレより (当然3世紀の話)
1,日本海航路は寒冷化で衰退と瀬戸内航路が隆盛
2,纒向は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点
3,推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?四国西部、山陽西部に国はなかったのかな
なんで、日本海だけ寒冷化の影響受けて瀬戸内は受けないのかね
なぜ、大和川を遡上せず難波から陸行1か月もかけてまきむくに行くのかね
瀬戸内航路を往復4か月もいて、南を東に誤らない。
いっぱいでてるぞ
今回は逃げずに回答しろよ 瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?
隆盛であれば、四国西部、山陽西部に国はなかったのかな
(東部は投馬国という畿内説に従うとして) >>590
どちらも不弥国からの南に水行だと考えます。遠賀川の場合は田川まで水行が可能です、川を遡上するので20日の日数はかかると考えます。
洞海湾から関門海峡の難所経由の場合は潮待ち等を考慮すれば20日かかっても不思議ではありません。https://i.imgur.com/Uh2WzpA.jpeg のんびり歩いても2〜3日だろw
というか、笹栗から歩いたほうが早い その1
太陽は東の空から昇るから方位は違えないのQに対して
Aとして季節により東とは限らないと言うバカがいるがその時は
南中(太陽が一日で一番高い位置にある時)は真南であるから間違えないと答えればよい >>597
不弥国はかつての小倉県(豊前)の領域では無い >>593
奧山という畿内説人格は全く姿を見せず、
入れ替わりで投馬国九州南東部説が同じように比定地ありきでぐだぐだやってる >>598
べつに宿泊も入れゆっくりでいいだろう。
畿内説なんか難波から纏向まで40キロを一か月かけるんだぞ >>600
じゃああんたの伊都國、奴國、不弥國、はどこだよ >>596
不弥国をワープさせていいなら畿内説も成り立つわな。
若狭湾を不弥国にして、近江が投馬国、奈良が邪馬台国でいい。
あんたの屁理屈は最初から破綻しとるよ。 >>601
奥山は次スレたての作業員なんだ
くだらんテンプレが長すぎるけど よしとしてこう >>605
奧山という畿内説推しで邪馬台国伊都説へぐだぐだ言ってた人格が消えて
入れ替わりで投馬国九州南東部説が半島南部投馬説へ同じ論調でぐだぐだ言っとる >>603
伊都国は糸島、奴国は筑前南部、不弥国は筑前北部。 >>602
末盧から何か月かけるんだよw
畿内説は、行程記事には齟齬があるから使えないので
考古学研究成果で交流関係が明らかになった >>608
>>609
ほらねぼんやりとしたイメージでしかない。
本来ならその返事で示せない時点でやましいところがある詐欺確定だが、
一応きいてやるよ。
伊都国が糸島、はまあいいだろう。
じゃあ、
>奴国は筑前南部、不弥国は筑前北部
はそれぞれ現在の市町村でいうと、どの範囲のことだよ? >>612
博多周辺が奴国、宗像を中心とするのが不弥国でいいだろう >>613
東南陸行五百里到伊都國(糸島)・千戸
↓
東南至奴國百里・二万戸
↓
東行至不彌國百里・千家
伊都国からたった二百里で不弥国まで至ってしまう。
不弥国は千家しかないから、宗像までは広げられない。 >>614
末盧国が500里で4000戸なので問題無い。 おーーーい
おーーい
ここは九州説のスレじゃない
畿内説のスレだ >>617
スレ主が畿内説をあきらめて投馬国だけでも祖国朝鮮半島から出そうとしてるんだよ もしかして奴国を直径100里ほどの国だと考えてるバカがいるのか? >>622
その間(奴国の国境から不弥国まで)にはなにがあるのだ? >>616
考古学的に、末蘆国は唐津平野こそ4000戸相当で古くから栄えているが、
末蘆国東部の広い二丈海岸線はめぼしい集落が無かったことがわかっている。
一方で、不弥国範囲は多数の集落遺跡が見つかっている。
伊都から二百里で不弥国なので、福岡市東部で既に不弥国。
吉野ケ里遺跡エリアつまり神埼市で5000人1000戸だったと見積もられており、
不弥国千家だと広く見積もっても宗像市西端くらいまで。
遠賀川にははるか届かない。 >>618
なるほどね くそテンプレじゃあ舵切り替えるしかないかなWW >>621
那珂比恵遺跡から那珂川沿いにびっしりと住居が出土するから、
筑紫野市くらいまでの遡上範囲を総計したら二万戸いくよ。
縦長の帯状ね。
那珂川沿いだから古代国家範囲としては理にかなってるし。 倭人伝の行程で不弥国の次に登場するのが投馬国だ、倭人伝を読む限り不弥国の国域が広い可能性は排除出来ない。 >>622
>>627
で、その間(奴国の国境から不弥国まで)にはなにがあるのだ? >>625
>くそテンプレ
小文字なんだよね。
本当に伝えたい内容なら読みやすい大文字になるよう調整する。
それが空白とか放置して小文字のままってことは、
深層心理でなるべく読んでほしくないってこと。
かわいそうだねw >>632
説明のできない不弥国から九州南東部の投馬国へ移動して、
そこからどこの邪馬台国へ行くのだね? >>630
説明になっていない。
>>622
>奴国の国境から100里だな
では、伊都国の東端が糸島市の東端だとして、
奴国の東端はどこまでで、
奴国の東西横幅は何里という仮定なのだね? 至は境界に至るで、
到は国内主要地点に到着だから、
到伊都國は伊都國内の主要地点に到着、
至奴國は伊都國内の主要地点から奴國との境に至る、ということになり、
至奴國百里は伊都國内での移動距離。
奴國内での移動距離は、次の至不彌國百里だけだから、
奴國の横幅はたったの百里しかないことになるよ。
あるいは全体構成を無視して到も至も同じ意味にしても二百里しかない。 >>1キナイコシは24時間張り付いてる理由
1,友達がいない
2,体が不自由
3,家族がいない
4,家族、親戚がいた場合、相手にされていない
5,家族、親族の嫌われ者、キナイコシがSNSで遊んでてくれて喜んでる
6,外出しようにも金がない
7,養護施設にいる
以上の合わせ技であろうな
5ちゃんで、こんなに頭が悪く粘着質なやつ見たことない つまり博多(奴国)から半径700〜1,400里というと、北は玄界灘だから、南の筑紫平野に行くしかないということだね >>544
>參問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里
これも、行程とは別項目である。 @阿波 5000里じゃ、畿内は無理だね
倭国=九州のみということだよw >>637
まずは東の不弥国へ百里行ってからだ。
博多奴国の横幅が百里二百里なら、不弥国は通説通り那珂川東岸でよく、
那珂川を遡上して南行してもいい。
だがその場合、不弥国千家は吉野ケ里千戸と同じくらいの範囲だから、
東西に引き伸ばしてもせいぜい宗像市西端まで。
九州南東部投馬国は成り立たない。 各説に質問です
不弥国から投馬国まで
投馬国から邪馬台国までの間に国は無いとみてよいですか?
つまり、不弥国・投馬国・邪馬台国は 連続して続いているということで良いですか?
特に畿内説の瀬戸内海航路で
北部九州から投馬国(吉備?)までに国がないのが不思議である。
テンプレの瀬戸内航路が隆盛であれば、瀬戸内西部にいくつかの国があっても不思議でないが、、 丸木舟でも作って、太陽の方角だけを頼りに帯方郡から船旅をしてみればいいじゃん >>639
万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。 @阿波 >>641
里程と日程を繋げるなら全て連続だね。
里程がこれだけ精密に書かれているのに、金印女王の本国までが曖昧ということはありえない。
金印というのは東アジア全体でも希少な外交交渉であり、
本国までの道のりが曖昧な相手に渡すなんてことは、
高句麗その他の他国への外交バランス上ありえないことだからね。 >>640
>那珂川を遡上して南行してもいい。
古今東西、荷物を積んだ川船を、手漕ぎで上って航行していた記録など何処にも無い。 @阿波 >>639
キナイコシ=畿内説スレ主=九州南東部投馬国説が、
>奴国の国境から100里だな
って言うからさ。
だったら奴国の横幅が100里以上なのであれば、
至については各国の大きさをいくらでも足していいというルールになって、
対馬海峡部分である程度好きに里を足せることになり、
12000里は北部九州で完結する。
だから逃げやがったぜww >>625
>くそテンプレ
小文字なんだよね。
本当に伝えたい内容なら読みやすい大文字になるよう調整する。
それが空白とか放置して小文字のままってことは、
深層心理でなるべく読んでほしくないってこと。
かわいそうだねw >>645
もちろん例えであって自分も川を遡上するなんて考えてない。
その辺りの川ならせいぜい水行一日だし。 @まず、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+400里+1000里+300里+1000里+500里+100里=奴国博多まで11,300里から半径700里の範囲)に限定され、北は玄海灘、東は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
Aそして「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(神)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く巫女の卑弥呼にピッタリです!
なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
https://i.imgur.com/yeSFSbh.jpeg
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都 島巡りに短里って古田説丸出しだけど、その2つって互いに矛盾してるからな >>644
架空の邪馬台国に金印はあげられませんよね。
魏に援軍を送った高句麗その他が怒りますから。
邪馬台国倭国についてはよく理解したうえでの金印授与であり、
北部九州倭国=北部九州邪馬台国で、首都も漢魏がよく知る(楽浪土器)伊都であるとする、
いわゆる伊都説が最も理にかなっています。 もう畿内説のスレにしか人が集まらないのを見ても内心わかってるんだろうな >>653
そんなところに大国「狗奴国」はない。
大国「狗奴国」は、黒潮太平洋沿岸地域。 @阿波 >>651
君なんか論じてるかな?
お題挙げるから答えてごらん
引用失礼
0641質問
2024/02/11(日) 07:53:00.59
各説に質問です
不弥国から投馬国まで
投馬国から邪馬台国までの間に国は無いとみてよいですか?
つまり、不弥国・投馬国・邪馬台国は 連続して続いているということで良いですか?
特に畿内説の瀬戸内海航路で
北部九州から投馬国(吉備?)までに国がないのが不思議である。
テンプレの瀬戸内航路が隆盛であれば、瀬戸内西部にいくつかの国があっても不思議でないが、、 >>650
本当の位置(筑紫平野)と会稽東冶の東(沖縄那覇)を混ぜて書いてるから、畿内説なんて言うトンデモ電波が生まれてしまったわけだ >>656
まあね、
ああ勘違いの畿内説のバカを教育してやるのが邪馬台国論争の終焉だからね。 >>659
とっくに答えてるのは無視かい?
>>644
ほらね。
・話題逸らしのために脈絡のない質問を投稿
・都合の悪い回答を無視して自分は回答を求める
つくづく卑劣な奴だ。 >>659
>テンプレの瀬戸内航路が隆盛であれば、瀬戸内西部にいくつかの国があっても不思議でないが、
これ何度も指摘受けてるけど畿内説のやつら答えられない。 >>665
だよね。
もう一回書いとくわ。
里程と日程を繋げるなら全て連続だね。
里程がこれだけ精密に書かれているのに、金印女王の本国までが曖昧ということはありえない。
金印というのは東アジア全体でも希少な外交交渉であり、
本国までの道のりが曖昧な相手に渡すなんてことは、
高句麗その他の他国への外交バランス上ありえないことだからね。 卑弥呼の時代よりそのあとの渡来人らの影響の方が日本においてはでかくなってきてるだろ
その渡来人て呼ばれる連中らのルーツは要するに朝鮮半島脱出組のこと
阿残と呼ばれた楽浪系の人々だよ
その連中らの日本への痕跡が見えるのが300年代から400年代
西日本に多く住み着いたと思われる
いちいち中国のやつらが言ってることだけを信じてるんじゃねえぞ キナイコシ=畿内説スレ主=九州南東部投馬国説
朝鮮人って大人気じゃん 三韓だの呼ばれた地域からの移民の方が少ないくらいだろ
船での移動手段を持たないからな
こおいうやつらは王権だの確立されてるところには住み着かん
そいつらが入り込む隙間がないからだよ
泥棒は都合のよい妄想抱くみたいだがそんなの許すバカはいないぞ
倭地って呼ばれたところの方が空き地が多かったんじゃねえのか?
そおいうところにしか移民なぞできねえんだよ つまり畿内説は印象操作を使った霊感商法詐欺でしたって事だ >>668
全1病がますます悪化してるな
もう入院レベルだろ 中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年頃生〜247年没)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・副官狗古智卑狗(熊本県菊池市)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) こんな捏造しかできない九州説が人から見捨てられるのは当然だな
w 漢文読めても、漢字一字の謂れを知らない
漢文読めても、其のが指す場所が分からない
漢文読めても、竹簡の並べ方ルールを知らない [魏志韓伝 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
解 説:
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
倭人伝の各国も、邪馬台国の女王の他に王はいません。官だけです。
難升米も率善中郎将の官位を授けられました、魏・郡の支配が一段高まったことを表しています。 >>665
>テンプレの瀬戸内航路が隆盛であれば、瀬戸内西部にいくつかの国があっても不思議でないが、
>これ何度も指摘受けてるけど畿内説のやつら答えられない。
それ、個人的主観の連呼だろ? 指摘じゃない
それにさ・・・
九州健忘爺さんの毎度おんなじアホな質問に答えるのダルいからテンプレが作られたんじゃないのか? 農耕が広まって定住と集団化が進んだ弥生時代の日本列島では、小規模なムラからクニへの発展が進んだ
このクニは約500年後に始まった律令時代の国郡里制の里か、せいぜい郡のサイズだ
さらに弥生時代末期になると、筑紫、出雲、吉備、丹波(但馬丹後含む)、大和、尾張、高志、毛野など日本列島の各地に国郡里制の国に匹敵するサイズの緩やかな地域連合体が出来ていった
このうち大陸に最も近い筑紫の地方勢力は、朝鮮半島南部に領地を持つなどして朝鮮半島と活発に交易し、中華帝国にも朝貢した
これが魏志倭人伝に描かれた倭国であり、その構成国が邪馬台国や伊都国だ
一方、大和の地方勢力は婚姻や同盟を駆使して戦略的に少しずつ影響範囲を拡大し、最終的に今の日本国に繋がる発展を遂げた
これがヤマト王権だ
纒向遺跡は魏志倭人伝に描かれた倭国のクニとは似ても似つかないことがはっきりしてきたが、これは当然だ
北部九州倭国と畿内ヤマト王権は全く別の国なのだから
桜井茶臼山古墳は、3世紀前半の北部九州倭国女王の権力よりも3世紀末(以降)の畿内ヤマト王権の権力の方が強大だったことを示していると見て良かろう 畿内説が根拠とする前方後円墳、三角縁神獣鏡、桃の種、ベニバナ。。
何れも魏志倭人伝には一言も書かれていないので、これらは邪馬台国の根拠には理論的になり得ない
(場所や後世との連続性から考えて初期ヤマト王権の祭祀や権力の物証にはなり得る)
畿内説論者は土器編年をこねくり回して邪馬台国の根拠にしようとするが、そもそも纒向の外来土器は基本的に吉備以東(吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%、阿讃播8%)で北部九州のものは殆どない
これでは伊都国に一大率を置き奴国や不弥国を勢力範囲としたはずの畿内説はまるで成り立たない
彼らは土器の一体何を見ているのか
魏志倭人伝との整合を考えないから畿内説論者は頓珍漢な主張ばかりするのだ
彼らが邪馬台国の根拠だと主張するものは全て初期ヤマト王権の根拠であり、邪馬台国の根拠になり得るもの(=魏志倭人伝の記述と整合するもの)はびっくりするほど何もない
邪馬台国の真実は魏志倭人伝などの文献と考古学が総合的に整合する所にのみ存在する >>662
それで、、、
四国西部の国々の名は?
山陽西部の国々の名は?
みんな投馬国なの????? ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ
まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる
次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く) (続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ
「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ >>681
>邪馬台国の真実は魏志倭人伝などの文献と考古学が総合的に整合する所にのみ存在する
つまり、「阿波」一択。 @阿波 纏向遺跡は2世紀末以降の倭国最大の政治センターであった
この纏向王権は全国に展開する纏向型前方後円墳の所在地から考えて、早期から北九州の筑前や南九州の日向をも勢力圏に入れていたと考えられる
魏使は筑前の伊都国から何処にある邪馬台国へと向ったのだろう
伊都国の宗主国ならば纏向王権のヤマト国であり、これが邪馬台国=早期ヤマト王権と確定するわけである >>662
これにこたえてない
>特に畿内説の瀬戸内海航路で
北部九州から投馬国(吉備?)までに国がないのが不思議である。
テンプレの瀬戸内航路が隆盛であれば、瀬戸内西部にいくつかの国があっても不思議でないが
魏志倭人伝は倭人伝でありできるだけ数多くの国を魏の使いが回ろうとしてるのがわかる。
邪馬台国だけなら玄関口の伊都国と邪馬台国だけでいいだろうが、邪馬台国へたどりつくまで各国を訪れている
瀬戸内はどうだろう??瀬戸内西部に国はなかったのだろうか?
あれば水行もあり当然寄港して記述するであろう。 >>686
>纏向遺跡は2世紀末以降の倭国最大の政治センターであった
纏向遺跡ごときを頼りにするアホ。 アホとしか。 @阿波 >>671
>全1病
了解 あんなテンプレじゃあ スレ主重度の病気だな >>686
カエルの骨まで齧る湿地帯のどこが政治センターだよw
お前は今日からキナイセツボクメツタイ!に改名しろ
でもって、教科書から住居ゼロの遺跡を削除しておけ
わかったな? 共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない。
親魏倭王だよ
邪馬台国に金印とか阿保すぎる。 >>599
魏志「東はどっちだ?」
通訳「アガリ(東)を聞いてる」
倭人「アガリ(日の出)ならあっちだ」
https://i.imgur.com/yaSJocd.jpg
これで対馬の南に一支がある謎が解けた >>685
意見変わってねーか
伊勢神宮みたいな王都だとか言ってたな?
住居跡がないのはだからだとか。。。
それでさ君に質問しただろう
倭国は卑弥呼擁立前、卑弥呼の死後戦乱状態なんでしょ。
なんで、兵や官僚のいたであろう住居後もない無防備な纏向に都をおくのかな?
ありゃ、、地方豪族たちの墓地兼古墳造営の基地だよ。 >>678
えーー
事実じゃん(笑)
まいいよ
答えられなんだろ
瀬戸内西部の状況
弥生期の遺跡はいっぱいあるけどね(過去レスにだれかまとめてたよ) >>693
>ありゃ、、地方豪族たちの墓地兼古墳造営の基地
だから、その地方豪族が、倭人(阿波勢力) だと、何度言えばww @阿波 >>678
それで、、、
四国西部の国々の名は?
山陽西部の国々の名は?
みんな投馬国なの????? 纏向王権は二世期末に九州や吉備からやってきた外来者によって建てられた政権であった
纏向遺跡には人が多く暮らしていた形跡が見られない
これは祭政一致時代の行政府ゆえに今でいう巨大な神社だったからで、今の伊勢神宮の境内に神職の家がないのと同じで、纏向でも勤め人の自宅は神域の外にあって、職場に通勤していたのだと考えられる
考古学的調査の進展で、そのうち居住区域も分かるだろう
後々まで大きな市場があった海柘榴市周辺か、磐余の坪井大福遺跡などに自宅があったのかもしれないと思う
そういえば今日は建国記念の日という祝日だそうだ
オレは神武天皇的な人物はいたと考えている
纏向王権を建てた初代の王がいたはずだからだ
イワレヒコというくらいだから坪井大福遺跡にいたのかもしれないな 瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?四国西部、山陽西部に国はなかったのかな
なんで、日本海だけ寒冷化の影響受けて瀬戸内は受けないのかね
なぜ、大和川を遡上せず難波から陸行1か月もかけてまきむくに行くのかね
瀬戸内航路を往復4か月もいて方位が南なのかね >>700
おや頭の調子が悪い子かな?
女王の都の様子の記述が無いってのはおかしいだろう。
てことは、様子の記述が有る場所が邪馬台国ってことだ。
つまり北部九州広域国家の邪馬台国と、
首都が伊都。
平原女王墓が卑弥呼のお墓。 >>696
自分が好きな位置で試せばいいじゃん
それで魏志倭人伝と整合が取れるか試行してみればいい >>687
>これにこたえてない
テンプレに書いてること答える必要ないよな
それに「あっても不思議でない」なら無くても不思議もないよな >>698
境内に神職の家がないのと同じなら、卑弥呼の宮殿じゃないなw
お前は今日からキナイセツボクメツタイ!に改名しろ
でもって、教科書から住居ゼロの遺跡を削除しておけ
わかったな? >>699
>瀬戸内航路が当時隆盛だったという証拠は?
>>6テンプレに記載
>寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
文句があればテンプレへ >>703
何一つ有用な情報の含まれていない逃げのレス
さすが大崩壊キナイコシ >>703
書いてねーーよ
再度
それで、、、
四国西部の国々の名は?
山陽西部の国々の名は?
みんな投馬国なの????? >>689
>了解 あんなテンプレじゃあ スレ主重度の病気だな
悪口いうだけで反論ひとつマトモに出来ないって
九州説はミジメだね >>708
>書いてねーーよ
へー >>30が読めないの
文盲? >>703=>>1でしょうかな?
君 逃げないほうが良いよ。テンプレに書いてあるなら底の部分を張り付けたらいいよ。
ないから 張り付けられないと思われるよ。
私も興味あります。
確か 投馬国は吉備あたりと書かれてますがそれ以西の瀬戸内についての言及がないと思いますが。 纏向まで行っていないのに「径百歩」「殉葬百人」とはこれいかに?w >>710
それ誰の説
なんだって、、、誰も読まないからって
中国地方、四国は投馬国だって???証拠は?根拠は?
なんで、瀬戸内は寒冷化の影響受けてないの?
おまえ適当だなWwwwwww 妄想テンプレをはりつけて説明したと言われても困っちゃうな >>716
>なんで、瀬戸内は寒冷化の影響受けてないの?
寒冷化って、どういう影響が出るから知ってる? >>710
完全にバツ
畿内に邪馬台国ありきからの推測でしかないからアウト >>722
そこ、女王国じゃないから地方支配の有り様を観察したんだろうね 女王の都の様子の記述が無いってのはおかしいだろう。
てことは、様子の記述が有る場所が邪馬台国ってことだ。
つまり北部九州広域国家の邪馬台国と、
首都が伊都。
平原女王墓が卑弥呼のお墓。 >>724
九州説って、いつも全く理由を言わないけど
思考してない人々なのかな ホケノ山にも箸墓にも殉葬者なし、これで畿内説は死んでいるw >>726
そこ、女王国の外にある別の国だぞ
卑弥呼いるわけない 前方後円墳なんて物珍しい墓形が記録されてない時点で終わってるよw >>621
教えてよ
どういう影響なの?????
日本海に限った影響なんて知らんし。
それも、舞鶴以東は影響を受けず航路として遺してるしバカもいるし。 >>729
畿内説って、いつも全く理由を言わないけど
思考できないキナイコシなのかな 文部科学大臣もああなったし、そろそろ住居ゼロの遺蹟は教科書から削除しましょうや 魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる 邪馬台国まで陸行一ヶ月は間違いではあるまい
住吉大社神代記という古書によると難波津が整備される前は播磨の津で荷下ろしをしていたそうである
播磨の津がどこか不明だが、姫路から明石の間の何処かだろう
魏志倭人伝によると当時の倭国は道の整備が全くなされていなかったようだ
江戸時代の初期の四国遍路の資料を見てみると巡礼が終わるまでだいたい百日程度とのことで、江戸中期の道が整備された後だとこれが半分ほどになるそうだ。
魏使が姫路あたりから輿にのっていったのならば、一ヶ月かかってもおかしくない >>722
伊都国を中心とした北部九州の描写ね
仮に纏向まで航海したんなら、古代〜近代の航路のように陸に沿ったルートであちこちの港に立ち寄ってるはずだがそこの国々の描写はない
「水行した先に邪馬台国があるよ」
と又聞きして記載しただけだろう 畿内説に対してもテンプレに対しても全然反論ができない九州説
なにも証拠が出せない九州説
みじめじゃない? >>732
>どういう影響なの?????
潟港が機能低下する >>737
街道の無い弥生時代に陸行一ヶ月できない
なんで畿内説のためにわざわざ姫路で上陸して銅鏡百枚かついで歩かされないといけないんだよw
お前は今日からキナイセツボクメツタイ!に改名しろ
でもって、教科書から住居ゼロの遺跡を削除しておけ
わかったな? >>728
卑弥呼の冢は未発掘ということだね
つまり畿内説は早撃ちマックw >>730
行ってはないんだよ
仮に行ってんなら、道中の国のことやら桃の種やら記録に残すだろ
あっちに邪馬台国があるよって又聞きしただけw >>721
瀬戸内海航路が基幹航路で終点が大和川を遡った桜井市なんでしょ
だったらなぜ、魏の使いは難波からわざわざ陸路で桜井へ二往復もするのかな??
さっぱり、わからない教えてください。 >>745
畿内説の記憶時間は金魚並ですか?
行ってない伝聞だけの国の女王に金印をあげたら、
援軍を送った高句麗など東アジア各国が魏を見放しますよ。 >>738
>仮に纏向まで航海したんなら、古代〜近代の航路のように陸に沿ったルートであちこちの港に立ち寄ってるはずだがそこの国々の描写はない
あちこちの港?
九州でも、ひとつの国に最大一つづつしか描写ないけど? >>737
大和川という適した水行ルートがあるのに荷物抱えて徒歩とかありえないwww
もしかして馬でもいたの? >>745
卑弥呼が九州にいたんだよね。
行く重要性は全くない邪馬台国なら
理解できる。 >>740
君が適任だ
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げてくれないか?
水路、大きな建物、カエル、もも、土器なんか倭人伝に出てないけど
こんどは逃げないでね >>747
>畿内説の記憶時間は金魚並ですか?
>行ってない伝聞だけの国の女王に金印をあげたら、
「行ってない伝聞だけの国」だって、誰の主張? >>748
弥生時代に無寄港で瀬戸内海横断はできないっしょ。 >>749
>大和川という適した水行ルートがあるのに荷物抱えて徒歩とかありえないwww
亀が瀬は遡れないけど? 卑弥呼の頃は海とつながった河内湖で生駒山の麓までは舟で行けたよ。 >>737
後世のまれな例をだされてもね。各説宿泊も日数に入れちゃうよ。
問題は瀬戸内航路で纏向なら大和川を遡上するのが普通だという意見。
これはテンプレでも述べられてるが瀬戸内海航路の終点が大和川遡上の纏向だって >>748
水行ルートに投馬国しかなくて、投馬国の港にしか立ち寄ってないというの? >>754
テンプレで載ってる。
>纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。<<< >>740
黙ってたほうがいいよWW
みんなの頭がついていけないんだろ。
まあ なぜ魏の使いは大和川を遡上しなかったんだろうと考えたら、、 >>759
北部九州邪馬台国の首都である伊都国で外交交渉を終えて帰国したからだな。 >>759
>なぜ魏の使いは大和川を遡上しなかったんだろう
>
答え 畿内は倭種の別国だから行ってない。 >>760
>北部九州邪馬台国の首都である伊都国で外交交渉を終えて帰国したからだな。
どうして女王国じゃないところに首都があるの? >>762
統属されてるから伊都国は明確に女王国の一部だよ。 >>759
>黙ってたほうがいいよWW
対話を嫌がる九州説の姿勢が敗北主義で藁 もう
メチャクチャのテンプレ談義やめねーーか
奥山が馬鹿なだけじゃん
奥山も最初は大和川で纏向だったのだけど、
陸行一月の追及を受けた苦肉の策が難波津からの陸行
これも随分非難をいまもあびてるけどね >>765
とりあえず住居ゼロの遺蹟を教科書から削除してこい 邪馬台国はどこだろうと
魏の使節団は瀬戸内海や大和川は水行していない
これでスッキリ >>764
>統属されてるから伊都国は明確に女王国の一部だよ。
統属されてるのは伊都国の王なんだから、女王国は伊都国じゃありえないね
「(配下)統属(上位者)」という関係だ >>767
住居ゼロって妄想なんど繰り返す気かね
嘘は何度連呼しても本当にならないぞ >>771
もちろんイコールじゃないさ。
けど統属されてるから女王国の一部なのは確実だよ。
そして三国志での統属の使用例からは首都である可能性もあるよ。 >>766
議論を嫌がるのは負けてる自覚がある証拠
証拠を出さないのは嘘ついてる自覚がある証拠
結局また悪口しか言えないのは九州説敗北の証拠
なさけないね >>773
>けど統属されてるから女王国の一部なのは確実だよ。
理由もなく結論だけ強弁するのは実に九州説らしい
つまりまた九州説は論破された
>そして三国志での統属の使用例からは首都である可能性もあるよ。
また理由も言わずに言い出す
それが九州説
FAQ58でも簡単に論破されてたっけな FAQ58
>以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
キナイコシみじめw >>773
倭国の首都は伊都国
卑弥呼の都は邪馬台国
というのもありか 精神勝利はいいから住居ゼロの遺蹟をさっさと教科書から削除しておくんだぞ >>774
お前のことじゃん 爆笑
早く 論じろよ
なんで 魏の使いは瀬戸内海航路の終点の大和川を遡上しなかったの?? >>779
卑弥呼は倭国王、親魏倭王だからない
倭国=邪馬台国の首都が伊都国 >>778
>具体的になにがどう負けたの?
九州説はFAQ58が矛盾していると言い出して
何と何が矛盾してるのか? と聞かれたら沈黙
次は計算がおかしいと言い出して
誰のやったどの計算が? と聞かれたら沈黙
全て一行で論破されてて滑稽だった >>781
>なんで 魏の使いは瀬戸内海航路の終点の大和川を遡上しなかったの??
魏の使いが大和川を遡上しなかった、という主張は誰がしたの? >>772
ほんとそれ
たいして出てこないだけでゼロとは決まってない >>779
まずこの辺のコンセンサスもない。
邪馬台国も倭国の一つの国に過ぎない
或いは、倭国や女王国、女王境含め
邪馬台国呼ぶ人もいる。 >>788
女王国の用法は邪馬台国と倭国の二種類あるように思えるが
邪馬台国に用法のブレはあるだろうか >>791
あるよ。邪馬台国の中に
伊都国があるとか >>791
邪馬台国の中に
投馬国があるとか?
コンセンサスもない。 邪馬台国って名称は秦の始皇帝絡みの名称なんだけど
邪馬台国なんてのが日本にあったと?
しかもそれがヤマトになったってか? 「希薄」を読めないレベルの連中が
自分のレベルを客観視できず
専門家に対抗できると自分を過大評価して
騒ぎ立てている状況
というのが邪馬台国論争と言われるものの実態 後年になるほどなんだかよく分からなくなってアヤフヤになってきてねえか? 単純な話なんだよ
3世紀の一番大規模な遺跡が邪馬台国
どれだけ頑張って他の地に邪馬台国を求めようとしても
「じゃあ纏向遺跡は?」で終わってしまうのよ >>796
纏向が最有力候補()だったのに
魏志倭人伝の記述とは程遠いし、むしろ北部九州や阿波の遺跡や出土品のほうがそれっぽいんだもん
邪馬台国がどこかは知らないけど
「魏の使節団は纏向には行ってない」は正解だろね まず一番大きいのが邪馬臺国なんてどこにも書かれていない >>798
魏志倭人伝の記述とは程遠いって?
理由は? >>802
それが倭人の国で一番大きいなんてどこにも書かれていない >>800
そもそも倭種の国がどんなもんか知らない >>805
女王国連合ですら詳細の分からん国がようけあるしな >>801
いいところに来たね
纏向遺跡で魏志倭人伝の記述と何が同じか書いてってよ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>804
>どこが一致してんの?
理由を聞かれて答えられずに質問返しするってことは
「魏志倭人伝の記述とは程遠い」って理由がないってことで、いいね? 魏志倭人伝の記述とは?
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸。
詳細な記述あるのか? >>812
「魏志倭人伝の記述とは程遠い」って理由::「橘」や「楠」が自生しないこと。 @阿波 奴国は、大和時代の儺県のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多いとWiki。つまり奴国の東端は新宮町あたりで福津からが不弥国だなhttps://i.imgur.com/JmXJCx2.jpeg >>804
>どこが一致してんの?
3世紀前半の祭祀施設多数
環濠集落なし
卜骨あり
国産水銀朱あり
列島最大の首長居館あり
鬼道と関係あり
大陸との交流あり
魏鏡あり
直径百歩の墓あり
鉄鏃多数 >>818
自分で思うところにプロットしてみたらいいよ
それで説得力があるならそれでいい >>820
思案中だから答えは未だない。
説得力がないから呼子はボツ より説得力のある推論が出せないならしょうがないなw >>815
伊都国・奴国・不彌国は、記述通り唐津東南の佐賀平野にあったのだが、
倭人伝を読み誤った江戸の本居宣長の権威に釣られ、後世の学者もゾロゾロ博多方面ついてへ行った。
正しくは、傍国の最後に出てくる奴国が儺の縣ですな。 九州説は終わりだよ
説得力がないから同じ九州説同士の中で多数派が無いんだ
最大派閥でも1割ちょいで過半数など夢の夢
歯軋るゴマメ烏合の衆
そのまま終了した 纏向の研究が進んだ結果
伊都国から卑弥呼を連れてこようとする畿内説の学者が現れてしまったな [魏志韓伝 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
解 説:
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
倭人伝の各国にも、邪馬台国の女王の他に王はいません。官だけです。
難升米も率善中郎将の官位を授けられました、魏・郡の支配が一段高まったこ
とを表しています。
(魏志の韓伝と倭人条はセットです。続けて読むと後漢/魏による倭国支配の実態が良く分かりますね) それほど高まった魏の威光もやがて地に堕ち
266年の朝貢では西晋が取って変わってしまった
おそらく張政が後見人になって共立された台与などは
魏が消えて一体どんな目に遭わされてしまうだろうか 振り返って見れば倭国大乱暦年主無しも後漢の威光が地に落ちて
大倭王が不在になってしまったのだったな…… そんなタイミングで東倭種の大酋長がやってきたとしたら
九州各地の小国家の酋長たちはさあどうする?
ていうかそういうタイミングだからこそ東倭種の大酋長が仕掛けたのかもしらんね >>823
佐賀から金印が出ていないのでボツですね 畿内や中国地方にあんなデカいクニがあって九州の小国家が独立性を保てるわけないだろうと
大陸との安全な航路の要の対馬なんか真っ先に抑えられるわ
で、巻向差し置いて九州の小国に金印授けたって?大月氏國と同等の扱いなんだが朝鮮半島国家が納得すると思うのか?
巻向が大陸と敵対してるならともかくしっかり交流してて大陸から最新の都市計画を学んでるのに
じゃ巻向はどうやって大陸に渡ってたんだよと
そこまで九州にこだわる意味がマジでわからん それなりの規模の遺跡が出てるならまだしも遺跡もないのにこだわり続けるのはムー大陸信じてる人と変わらんだろ 都市造りの技術が九州を飛び越えて畿内に最初に入ってるのがポイントだよな 自分の田んぼに水を引くためには他人の田んぼを壊すのが阿波説。捏造の金太郎飴https://i.imgur.com/aEzLArQ.jpeg >>837
倭国大乱以前 → 後漢、楽浪郡に朝貢
卑弥呼時代 → 帯方郡に朝貢
台与時代 → 魏に朝貢
西晋時代 → 朝貢が途絶える
纏向はどれだい? >>839
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い「奴国」ww ならいいのか? @阿波 >>666
離島〜不弥国までは2万戸の奴国以外は国が小さく
倭人伝の奴国が後漢書の「倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」で「漢時有朝見者」、
投馬国〜邪馬台国は5万戸、7万戸と広域
この倭人の住む地域が東夷伝序文の「荒域の外、譯を重ねて至るも、足跡車軌の及ぶ所非ず」所で
「夷人不知里數但計以日」(隋書) 日本の遺跡築造年代みたいの西暦400年代あたりを示す遺跡群が多いでしょ >>816
環濠すら不要ってw
平和で戦乱とは無縁で良かったじゃん
宮室・楼観・城柵のセットはないうえ、古墳の副葬品でこじつけるしかないのか
年代測定の件がバレたらボロボロになるね 秦王国は6世紀前半にヤマト政権によって秦氏が京都盆地から豊前に進出してから
3世紀は小国 >>842
阿波はまだマシだよ
北部九州との深いつながりが示されてるだけ、大陸と交流できた可能性大 >>850
宮室樓觀城柵は卑弥呼の居處で
唯有男子一人が出入するところ
集落全体ではない >>816
魏鏡ってどこぞの古墳から大量に出土したコピー銅鏡のことか
お疲れさん 後漢時代から続く30国連合=倭国=大倭王=卑弥呼=九州
VS
3世紀になってようやく連合を組んだ東倭種=畿内
魏の威光を背景に倭国をまとめていた台与政権が魏の消滅とともに揺らぐ
東倭種が目の上のたんこぶの九州を攻めるまたとない機会だな >>859
その東倭種も南九州あたりからの流入なんじゃね? 後漢時代から北部九州に30国連合が存在したら
「その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。」なんてことはない >>861
30国連合ですらない無関係の国々の名前をずらずら書き記すことはもっとない >>850
>年代測定の件がバレたらボロボロになるね
年代測定の件ってw九州説さんwまたなにかニセ情報を流す気かい? 纏向を陥れるのは九州に違いないって思い込んでるのか
どれだけ九州を意識してんだよw >>830
それ馬韓の官ではなくて、馬韓五十余国中の辰王の治めている月氏国の官の中に魏から官位を受けているものがいる、というくだり >>863
30国連合などは無い
「今使譯所通三十國」
女王を共立しているのは、2万戸の奴国、不弥国〜投馬国(5万)〜邪馬台国(7万)〜遠絶な旁国21国の25国が女王国
小隷属国と離島を合わせて倭国 おいおいキナイコシ逃げてしまったな😊
寒冷化かなんかしらんが瀬戸内海航路(終点地点 桜井市)が基幹航路だったという主張だろ。
だったら、纏向まで大和川で行けばいいんだろ。
なんで、難波津経由で陸行しないかんの?????
なんも答えてねーじゃん。 つまり畿内説は後世の渡来系によるオレオレ詐欺でしたと おいおいキナイコシ逃げてしまったな😊
寒冷化かなんかしらんが瀬戸内海航路(終点地点 桜井市)が基幹航路だったという主張だろ。
だったら、纏向まで大和川で行けばいいんだろ。
なんで、難波津経由で陸行しないかんの?????
なんも答えてねーじゃん。 >>852
銅が出るところは全て大陸と交流できてる
すなわち、紀元前から日本列島のほとんどは大陸と交流できた >>868
正論です
>なんで、難波津経由で陸行しないかんの?????
畿内説では陸行1月の説明がつかないので無理やり「推古記所載裴世清の旅程」を持ち出し説明したのでしょうね。
所詮 畿内説の諸氏の考えるレベルはこんなもんです。
纏向を邪馬台国の王都と花火をぶち上げるぐらい思慮がないのですから。 テンプレで推古記所載裴世清の旅程を記してるが
大和川は交通路として重要であり、飛鳥時代、遣隋使の帰国とともに来た裴世清の記録では
大和川を舟で行き交い、大陸の文化が取り入れてますよね。
なぜ、難波津から陸行一月もかけ魏の使いが纏向に2往復しなければならないのでしょうか? >>873
銅が出てきてんだから大陸と交流があったー!!!!
って
もうそのレベルなのか >>878
難波津から陸行一月かけて魏の使いが纏向に2往復って、誰の説? 畿内説にとっての最大の敵は纏向説だな
いつまで箸墓にこだわるんだか 畿内説
関西の騙されやすい頭の悪い学生向けの説
関西の頭の良い学生はかかわらない畿内説 >>881
纏向に行った使節団は元来た道を戻って帰るとは限らないのにね >>883
騙されてないさ
分かっててやってんだろ 推古21年(613)以前には、大和川を利用した舟運が難波津から飛鳥への主要ルートだったと考えられます。
推古16年(608)に隋から裴世清(はいせいせい)、同18年には新羅からの使節が小墾田宮(おはりだのみや)を訪れ、どちらも大和川水運を利用したようです。裴世清は難波に一ヶ月半滞在し、海石榴市(つばいち・奈良県桜井市)で出迎えられ、そこから小墾田宮へ向かっています。遠回りになる海石榴市を経由している点から、船で河内湖から大和川を遡るルートが想定されます。 >>845
>阿波説が奴国とする直方
「奴国」は田川辺りだ。 @阿波 >>1
奥山さん テンプレ一度しかるべき人に見ていただいたほうがよろしいですよ。 >>847
>投馬国はのちの秦王国
秦王国は瀬戸内海を東の東四国一帯倭国のこと。 @阿波 >>880
現実に、ニセ情報流してるやつって九州説以外に、いる? >>888
なんで 妄想テンプレにこだわるのかね?
無視でいいよ。 >>856
>仏教伝来は九州から
まぁ、確かに九州は通過はしているのは確かだ。 「阿波」への通過地域ではある。 @阿波 >>888
あなたが自分の言葉で全く反論できないってこと?
それは情けない >>877
>『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。
大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。 @阿波 >>886
>大和川を利用した舟運が難波津から飛鳥への主要ルート
大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。 @阿波 >>791
行程文は2種類の資料を基に書かれてるから邪馬壱国だったり、女王国、女王と違った表現があるんだ。
女王国は伊都国、奴国、不弥国の事を指し
邪馬壱国、女王は北部九州地域全体に在った国をさしてる
女王国は公孫氏時代(230年代)の記録からの引用で
邪馬壱国、女王は張政等魏使の報告書からの引用 >>815
末盧国が二丈まで、伊都国が糸島市南東部、不弥国が室見川下流域の博多湾岸、斯馬国が糸島市の旧志摩郡
その他の筑前が全部奴国だろうな。 >>897
なにひとつ根拠のないことを書いていませんか? >>900
奈良時代に大和朝廷によって建設されたんだろう。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>906
室見川下流域の博多湾岸が不弥国で
上流域から東が奴国だと考えると魏志倭人伝の記述に合う。 [魏志韓伝 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
解 説:
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
倭人伝の各国にも、邪馬台国の女王の他に王はいません。官だけです。
難升米も率善中郎将の官位を授けられました、魏・郡の支配が一段高まったこ
とを表しています。
(魏志の韓伝と倭人条はセットです。続けて読むと後漢/魏による倭国支配の実態が良く分かりますね) 普通 瀬戸内から纏向だと大和川だろうな
なんで魏の使いが難波から陸で行かんといけないのかさっぱりわからん >>912
>室見川下流域の博多湾岸が不弥国で
南へ水行できないので、ボツ。 @阿波 >>912
それだと奴国の東に不弥国は無い事になる >>914
>なんで魏の使いが難波から陸で行かんといけないのかさっぱりわから
で?
魏の使いが難波から陸で行ったというのは誰の説? >>916
伊都国と奴国の国境の糸島峠付近から東(室見川沿いに100里8km)で不弥国 >>912
3世紀の奴国の中心は九州最大の外港都市博多なので
その西側の室見川下流域の藤崎遺跡、姪浜遺跡は不弥国ではない
藤崎遺跡はUA期以降(3世紀後半)から西新町集落の盛期と一致して方形周溝墓が展開する
姪浜遺跡はUB期以降住居群が展開する いま歴博教授・松木武彦氏の「古墳とはなにか」(角川ソフィア文庫)という本を読んでいるが、かなり興味深いことが書いてあるので一部引用する
彼は畿内説ではあるが、政治的・宗教的な中心が畿内大和、経済的な中心が九州の博多湾沿岸と考え、その緩やかな連合体を「邪馬台国連合」と想定する
畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず、畿内と北部九州をきちんと等身大で位置づける客観的な考え方が急速に主流になってきている
彼らの書いたものは九州説の私にも非常に参考になるし、結論として私の持論である北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説こそ様々な要素を最も矛盾なく説明できる考え方だとの思いを強くする
以下、同書より抜粋
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
(続く) (続き)
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 >>921
>畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず
そりゃ、「阿波」のズバリの遺跡群を目の当たりにすれば、変えていかざるを得まい。 @阿波 >>925
そりゃ、誤魔化しているからな。 @阿波 >>917
キナイコシじゃねーの
あんたは、陸行1月を畿内説で説明しろよ 記年銘鏡だけど、
中国で一枚も発見されてないよね
特注として年号が一致してないよね
呉の年号もあるよね
景初4年という存在しない年号があるよね。また景初4年は存在したという物証になるなら中国政府はなぜ放置してんの。 >>930
>中国政府はなぜ放置してんの。
中国政府の仕事じゃないから 畿内と九州は仲良くしとけよ
魏志倭人伝は伊都国を中心とした北部九州のことを書いてるし
古墳時代は畿内から発展している
両者は戦国時代でいうところの大阪と江戸みたいな関係だろう >>933
結局、畿内と九州のトンデモ説は行き詰る。 @阿波 >>933
呼子の時点でダメです。
直接行くか、より近い所に停泊が合理的です。 >>933
那珂八幡古墳が奴国のエリアに入っていないので完全に❌ >>935
じゃあ末盧国、伊都国、奴国はどこだい? >>935
呼子は悪く無いよ、案内人が卜骨で決めたのだから 考古を少し勉強すれば畿内しかあり得ないことが分かる >>939
どうせ邪馬臺国は日本列島で一番でかい勢力という根拠のない決めつけだろ >>942
説得力が無いのでね。
繰り返すのみです。 >>943
少しは考古を勉強しようぜ
九州だと思う一方で、畿内かもしれないと思いながら死んでいくのは悲しいでしょう 倭種の国は強かったから土蜘蛛(女王国)を滅ぼせたんだなーとしか >>948
邪馬台国から
共立された卑弥呼の後継者が
土蜘蛛、邪馬台国によって滅ぶ
面白いね。 >>931
中国の歴史にないからだよ
あるなら中国の歴史変わるよね
でも変えてない
日本製だから間違った年号入れたんだよ >>941
其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
「その俗、事を挙げ、行来するに云為するところあれば、すなはち、骨を灼きて卜し、以って吉凶を占ふ。先に卜するところを告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て、兆しを占ふ。」
つまり倭人の案内人は卜骨で陰陽師のように凶方位を回避したのだろう 普通に勢力範囲が畿内から九州北部に及ぶ大和王権だよな >>953
まだ、ない時代じゃないの?
交易の時代とか?弱い結びつき。
魏を頼るんだかから。 >>953
>畿内から九州北部に及ぶ大和王権だよな
8世紀の大和朝廷な。 @阿波 >>954
当然、卑弥呼統治時代。
邪馬台国が統治する記述や
伊都国が統治する記述は見当たらない。
記述はない 弥生中期後半の島根県荒神谷遺跡から銅剣358本出てる
銅は日本では取れないから、中国にもらいに行ったか、北部九州からもらったかのどちらか
纒向には列島各地の土器が出て、畿内の土器は静岡、千葉からも出る
九州説の素人が思ってる以上に、日本では広域な交易が行われていた >>957
>九州説の素人が思ってる以上に、日本では広域な交易が行われていた
倭人(阿波勢力)がな。 @阿波 >>933
国の位置関係じゃなくて行程の説明だからだよ。 >>935
呼子付近は末盧国の北端ですから上陸地点です。 >>960
だからダメと書いた。
伊都国が目的なら直接行くか、
より近い所まで行くのが合理的。
或いは伊都国 想定地が違うかもしれん。
わからん。 >>957
畿内説の素人だろ
ちょろっと九州の土器の破片が出てきただけで九州と交流がぁーって言ってんじゃん
交易くらいあるがな 楯築の水銀朱32キロも国産と中国産のブレンドだろ?
国産は多分阿波 台風の季節だから最短で上陸できる呼子に行ったんだろう
それ以外に末盧に行く合理性がない >>965
行っていないと思う。
台風の記述は見当たらない。 交流とかかわいいもんじゃなく畿内は九州の属国だって >>961
伊都国近くの海岸は遠浅で大型船が接岸出来なかったんだよ
だから天然の良港である呼子付近へ入港したんだ
船が長期間停泊しても安全だからね
また呼子付近が壱岐と最も近い。 >>964
ブレンドなんて言っていないよ。 当時、国産と中国産が同時に別々に流通していたってこと。 @阿波 「卑弥呼」の時代は、「狗奴国(長国)」の「丹」が手に入らなかったので、中国産を入手したんだろうな。 @阿波 >>970
目的地から遠いからダメだよ。
より近い唐津もあるだろう?
弥生時代の遺跡の数も規模も違う。 萩原は全て中国産の水銀朱
四国からでも中国産の水銀朱を取りに行けるという事実 北部九州が畿内の属国だったなどとは魏志倭人伝のどこにも書いていない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているし、まともな学者は誰もそのように読んでいない)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者はそのようには考えていない
例えば松木武彦氏は畿内説ではあるが、政治的・宗教的な中心が畿内大和、経済的な中心が九州の博多湾沿岸と考え、その緩やかな連合体を「邪馬台国連合」と想定する
また久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」 >>977
寺澤と久住を学べば素人九州説から定説畿内説になれる >>975
交易範囲は広い。
東海の古い前方後方墳も
中国朱かもしれんないな >>977
>畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず
そりゃ、「阿波」のズバリの遺跡群を目の当たりにすれば、変えていかざるを得まい。 @阿波 どうもこのスレの畿内説論者はまともな畿内説ではなく、畿内説内でもかなり偏向した考え方を持っている
たしかにかつては近畿至上主義イデオロギーに塗れた偏向した学者が幅を効かせていたが、最近は畿内説学者もバランスの取れたまともな言説をする人が増えた
このスレの畿内説論者はまるで化石のようだ 九州説から入った人の最後の一押しをしてくれるのが寺澤 卑弥呼以前は九州の話
トヨ以降は畿内・西日本の話
つまり、卑弥呼は北部九州で、邪馬台国は畿内
俺の考察どおりになってきましたw 客観的に見れば纒向調査の進展で滅んだのは畿内自生説だ
纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう
最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は、
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること、
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること、
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡がないこと、
など >>984
その時代に交流がなくても邪馬台国の一部かもしれん。
ピンポイントで邪馬台国の様子の記述は見当たらない。使者は九州止まりだったかもしれんない。
畿内説でもないけどね。 文献史料は畿内が九州を併合したことを示唆している
それはおそらく266年以降に起こった出来事だ
東遷というものが仮にあったとすれば
①卑弥呼よりも前の出来事
②266年よりもあとの出来事
③女王国とは無関係な勢力
のどれかだな >>988
畿内が九州を併合?
いったいどこに書かれているのだ? >>967
交易な
纏向と交流があったのは吉備と東海 紀年銘鏡なんか異なる年号なのに成分が一致してしまい
同じ時に一緒に作られたとか指摘されてしまってるじゃん
偽物だよ >>986
コピー銅鏡にすがるしかないってやべーな >>989
後世の人は景初3年までしか知らないので作れません >>984
とうとう九州にすがりだしたか
ご愁傷様 >>988
合併以外や
東遷というものが仮にないとすれば
の思考もよろしくお願いします。 >>994
呉の職人なんじゃね?
魏の年号とか知らんだろw 令和に解明うれしいな
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/45 新スレ立てました。
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