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邪馬台国畿内説 Part991
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/13(火) 15:50:33.82
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1707650432/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:51:16.09
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:51:46.15
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/13(火) 15:52:16.85
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:52:46.29
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/13(火) 15:53:15.99
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:54:29.67
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:54:59.91
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:55:29.71
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:55:59.66
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:56:30.18
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:57:30.25
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:58:00.14
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:58:30.57
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 15:59:00.10
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:00:01.11
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:00:31.22
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:01:00.61
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:01:30.50
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:02:31.38
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:03:00.61
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:03:30.82
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:04:30.52
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:05:01.57
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:05:30.61
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:06:00.44
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:07:00.31
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:07:31.31
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:08:00.50
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:08:31.06
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:09:00.75
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:09:30.52
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:10:00.86
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:10:30.20
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2024/02/13(火) 16:11:02.18
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:11:30.54
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:12:00.81
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:13:01.22
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/02/13(火) 16:13:31.65
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:14:01.90
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:14:30.77
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/02/13(火) 16:15:01.63
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:15:31.07
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:16:01.06
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:16:31.15
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/02/13(火) 16:17:01.22
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/02/13(火) 16:17:30.82
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/02/13(火) 16:18:01.36
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/02/13(火) 16:18:30.37
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/02/13(火) 16:19:00.95
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/02/13(火) 16:19:30.80
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:20:00.21
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/02/13(火) 16:20:31.36
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2024/02/13(火) 16:21:00.59
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:21:31.26
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/02/13(火) 16:22:01.30
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2024/02/13(火) 16:22:30.46
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/02/13(火) 16:23:00.72
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/02/13(火) 16:23:30.73
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/02/13(火) 16:24:31.05
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2024/02/13(火) 16:25:07.26
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:25:38.85
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/02/13(火) 16:26:10.17
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/02/13(火) 16:26:40.78
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/02/13(火) 16:27:10.57
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2024/02/13(火) 16:27:41.65
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/02/13(火) 16:28:11.57
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/02/13(火) 16:28:41.53
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/02/13(火) 16:29:11.59
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:29:41.61
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:30:11.49
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:30:41.37
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:31:11.66
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/13(火) 16:31:41.23
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/13(火) 16:32:11.89
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/13(火) 16:35:42.37
>>>>>>>>>>>>>>>>

スレッド名を間違えました。
こちらはPart.992です。
ご承知ください。

>>>>>>>>>>>>>>>>
0077日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 16:49:13.67
重要なので何回も書きます
伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえて魏志倭人伝を読むと内容が矛盾無く理解出来ます。

「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王卑弥呼は女王国より北には、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は(魏)国中に於ける刺史のようであった。」

この様に伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえると、訳の内容が全く変わるのです。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 17:05:09.09
>>77
でも、伊都国に女王「卑弥呼」が居た痕跡など存在しないから。   @阿波
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 17:59:31.10
>>1>>75
ポエムだな。
0082日本@名無史さん
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2024/02/13(火) 18:00:39.49
>>79
痕跡て何?
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:04:33.65
阿波は糸島の一大率に立ち寄っていないので魏に朝貢はしていない
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:05:29.71
阿波は密入国犯
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:10:19.47
まずは「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」
これだな。邪馬台国にあるとは限らない
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:15:31.26
>>85
卑弥呼の都城の事だから邪馬台国の話だよ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:17:01.01
>>83
「阿波」は魏と通交しているから、魏の水銀朱が使われている。   @阿波
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:19:53.21
>>86
いいえ違います。女王之所都のみ
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:25:11.02
>>88
都とは都城を意味する
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:27:26.11
>>89
それだけではありません
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:30:29.85
>>85
当然、統一国家などない。
国々の集まり。都の集まり。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:32:55.08
 

九州説は誰も理由を言わない



 
w
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:37:51.64
邪馬台国固有の情報と言えるものは実は少ない
ほんとんどの説の根拠とするものは、王都だからこうだろうという先入観によるもの
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:41:24.00
>>90
陳寿が都と書いているので中国の定義で考えるよろしアル。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:48:37.63
師行三十里」(漢書律歴下)、
「師日行三十里」(同王吉伝)

これは、主に陸地を行く場合を指している
つまり陸行30日は1日 約13キロが進む距離であろう。
さすれば、
難波から、纏向を陸地で40キロと想定した場合3日で十分であろう。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 18:50:44.81
>>92
あいかわらず くっとろい奴の投稿だねWw
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:02:08.66
@まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
Aそして、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+対馬400里+1000里+壱岐300里+1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11,300里から半径700里=50qの範囲)に限定され、北は玄海灘、東は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子→卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東治(実は冶)の東(の海上)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
..................................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都(沖縄那覇あたり)
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:03:23.42
>>98
対馬と壱岐の帰港先は言えませんか?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:04:24.23
中国では
韓の国をどこまで把握していたであろうか
紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる
紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置
紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く
紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する
紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]。
紀元前37年 高句麗が成立


つまり、紀元前には中国は韓国の地理を把握しており

「魏志韓伝」で言う「およそ四千里四方。」はほぼ合致しており、
 テンプレで言う「戦果は10倍に報告する習慣があるので本来は400里」なるトンデモは成り立たないのである。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:06:28.28
中国では
韓の国をどこまで把握していたであろうか
紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる
紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置
紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く
紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する
紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]。
紀元前37年 高句麗が成立

¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
つまり、紀元前には中国は韓国の地理を把握しており

「魏志韓伝」で言う「およそ四千里四方。」はほぼ合致しており、
 テンプレで言う「戦果は10倍に報告する習慣があるので本来は400里」なるトンデモは成り立たないのである。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:07:29.36
>>100
>「およそ四千里四方。」はほぼ合致しており、

証拠は?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:07:57.08
>>95
中国定義だからだよ。
女王国之都、倭国之都の記述なく
女王之所都。共立されたのは
卑弥呼であって国ではない。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:08:19.90
YouTubeライブ配信

17土曜21時 

古代史チャンネルでダブル別配信w

試される阿波説wwwwwwwwwww
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:15:52.18
>>103
王のいる場所が都
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:17:55.72
>>94
孫呉が倭地を目指してたどり着けなかった
正確な測量技術が逆に仇となったw

倭地の位置が誤認されていた紛れもない記録であり
倭地温暖も納得の陳寿もそういう認識だったと読める

↓壱岐から千里の距離で、方角がおかしくなる理由の一つ

190 日本@名無史さん sage 2023/08/20(日) 23:01:02.77
九州と西日本が混同されてるのが、そもそもの発端

つまり、西日本は「大きな九州地方だった(勘違い)」ってワケw

これですべて答え解明です! 方角もw

海岸線も緑と橙の線がまっすぐでソックリw
(初見なら博多湾を関門海峡と間違えてもおかしくないw)
https://i.imgur.com/w7SkGDg.jpeg


759 日本@名無史さん sage 2023/05/13(土) 07:14:42.19
前にも指摘したが
九州地方と西日本の地形は酷似している
https://i.imgur.com/XajP3ZC.jpg

壱岐から千里と聞いたら
そりゃ勘違いするだろうさw
(呼子じゃ近すぎるw)
https://i.imgur.com/HRYk81g.jpeg
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:20:17.98
>>106
倭人の案内人が案内するから間違えないだろうな
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:23:12.73
>>107
なんせ、倭人(阿波勢力)は、前漢時代から通交しているからな。   @阿波   
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:24:00.48
つまり記録がおかしい
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:28:41.27
>>105
あっちこっち遠征したらそこが都か?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:29:52.88
>>106
アクロバットすぎる
九州説どころじゃないな
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:32:11.10
ツヌガアラヒトはイツツヒコの穴戸と間違えたけど?w

261 ウィズコロナの名無しさん 2023/12/27(水) 15:53:01.39 ID:LIrmduOl0
当時は「大地が方」「天は球体(半球)」な地球平面説

方位と距離だけで測量したら、地形が歪むのは当然!

706 日本@名無史さん 2023/11/22(水) 20:30:16.05
天子のいる洛陽を中心に
距離と方位を正確にすると
こういう地図が出来上がりますw

>其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同
後漢書でも地図的に合ってますw

727 ニューノーマルの名無しさん
2021/07/15(木) 11:06:18.17 ID:UT3ee60x0
前も書いたけど
正距方位図法なら、距離も方位も説明できるんだよねw

地図の中心から離れるほど地形が歪む

そして南米大陸のように、東にある日本も間延びして大きくなる

半島が方4千里と書かれてたのがヒントになってたよ

中華思想によって、天子のいる洛陽が世界の中心
これで魏志倭人伝の距離も方位も正しいとw
https://i.imgur.com/LM4HMdk.jpg
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:34:57.59
>>103
そうだよ
首都でも中心国でもない
支配もしていない国だよ。
パクリだけど、宗教的なもんで
山々が連なる所がある広域国
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:35:08.42
つまり、卑弥呼時代は九州地方
トヨ時代は西日本となった

それがごっちゃになってるのが魏志倭人伝の行程w
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:36:02.73
>>110
宮処だな
斉明天皇は
 1. 飛鳥板蓋宮
 2. 飛鳥川原宮
 3. 飛鳥後岡本宮
 4. 飛鳥田中宮
 5. 朝倉橘広庭宮(九州)
と変えているな
0116日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:40:07.52
>>114
九州地方に、「卑弥呼」が居た痕跡は無い。   @阿波
0117日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:43:28.68
>>103
首都ではないですね
軍や経済、政治機関の説明がなく
伊都国での記述が多い
行く重要性もない国と思う
維新財、鉄や絹が少ない
大陸伝播が遅れた所が邪馬台国かもしれません
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:48:45.85
>>107
247年の張政は倭人船で来たので
伊都で常駐だが、案内は必要ない。

240年の案内は、
壱岐の馬=海峡

奴の佳是=難升米の家臣
卑弥呼の邪馬国の 二人、
で、ある。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 19:52:36.18
>>117
旧唐書(倭人伝等の過去の文献も参考している)
倭国条
首都と判断していないから邪馬台国の
記述がないとか?
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 20:34:39.97
>>119
なに言ってるかわからん
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 21:25:42.54
昨日の宿題、畿内説よ陸行の上陸地点を明らかにせよ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 21:30:43.92
>>119
それの判断もありw
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 21:39:42.33
>>103
王が不在でも都
共立王だしな。
重要地の宮に入ればよい
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 21:52:06.42
理由のない妄想しても馬鹿に見えるだけ
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:02:01.73
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:23:18.49
>>124
畿内説の事ですね
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:30:14.75
>>126
畿内説はわざとだろ
仮にも学者なんだから、分かってても仕事のためにそう言うしかないように見える
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:42:36.72
>>113
女王之所都この場合の都は名詞の「みやこ」ではないな、動詞の「統べる」「まとめる」の意味だ。
女王の領域の事を指してるな、邪馬壹国は女王の領域である。
投馬国は女王の領域ではない、邪馬壹国は女王の領域である。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:45:17.21
投馬国には官がいるので倭国だよ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:45:36.90
>>118
張政は魏の人なんだから倭船なて小舟には乗らないよ
魏の楼船で来たんだよ。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:47:03.65
>>128
>女王之所都この場合の都は名詞の「みやこ」ではないな、動詞の「統べる」「まとめる」の意味だ。

という根拠は?
ないでしょ?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:47:25.00
>>129
投馬国は朝鮮半島南部の倭人の国だが邪馬台国には属していなかったんだ。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:48:29.45
>>131
「都する」なんて動詞はありませんよ。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 22:58:28.76
>>132
あなたは間違っています、不弥国から南に水行したら投馬国です。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:03:25.76
>>133
>「都する」なんて動詞はありませんよ。

という根拠は?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:13:43.17
「都」の動詞は建都する
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:15:56.14
女王の都とする所(首都)じゃないのん
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:17:43.54
>>1は無知か詐欺

中国では
韓の国をどこまで把握していたであろうか
紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる
紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置
紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く
紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する
紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる[4]。
紀元前37年 高句麗が成立

¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
つまり、紀元前には中国は韓国の地理を把握しており

「魏志韓伝」で言う「およそ四千里四方。」はほぼ合致しており、
 テンプレで言う「戦果は10倍に報告する習慣があるので本来は400里」なるトンデモは成り立たないのである。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:28:34.83
>>139
合致してるっていう理由は?


イミフ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:47:29.27
>>140
記述が正しいということだろ
すると4千里が書き間違いか、短里を使用してるかでしょうね。
いずれにせよ、テンプレは妄想でしょうね。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/13(火) 23:48:56.79
>>141
記述が正しいっていう理由は?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:08:56.58
>>141
>>142
横から御免
これのことだろうな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Aが成り立つ条件として
1,韓と中国(魏)が戦闘状態であった
2,中国(魏)が韓の国に初めて進行し、過去はこの地を一度も訪れたことがない

この1と2が成り立つ必要があるがいずれも該当しない
1,については、戦闘状態で魏国がどうして韓の国を通り数度日本を訪れられたか
2,については、彼が中国と朝鮮の歴史を記述してる通りすでに中国では韓のおおまかな地理感は知っていたことは容易にわかる。(韓伝の四方4000里とも整合性がある)

もし、Aどおり10倍にして魏の使いが報告していたら即座に嘘はバレル。
以上より、テンプレのAはQになんら答えていない。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:17:11.28
>>142さん
横から失礼しましたが
たぶんアナタは>>1でしょうね

間違いを指摘されても
1,相手は24時間張り付いていないから根負けするくらい投稿する
  そのうち、他の話題に移りおしまいと思っている。
2,よって、言い張っておればよい

こんなとこでしょうかね。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:17:23.55
郡から狗邪韓国までが7000里なので一辺が4000里は妥当
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:20:08.10
>>144

解説ご苦労さん キナイコシのテンプレは妄想だからしょうがないよ
説明しても無駄、頭も相当悪い。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:32:50.61
>>146
その通り
韓の国は
東西の一辺の長さは約280kmで、南北は約260km

すると4千里=260キロ〜280キロ
   倭人伝では海岸沿いを右左行って7千里
倭人伝と韓伝は
整合性が取れていると見ていいでしょうね。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:34:42.13
九州説信者は高校生程度の日本語が難しくてテンプレの内容わからないんじゃないの?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:36:44.98
お恥ずかしい限りのテンプレWw 長いしWw
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:37:37.59
テンプレは高校レベルだとよ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:50:52.26
反論ができない九州説
悪口いうだけ
みじめ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 00:55:48.31
>>152
惨めなのはお前の人生じゃないの?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 01:30:19.35
いや、馬鹿を晒して生きるお前の人生が惨めだ
知ってるはずだから正い〜なんて論理が通用するはずなかろ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 01:36:55.63
>>154
お前のように誤った事を信じたまま死んでいくのは惨めだよ
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 01:49:13.70
最近のキウスは夜行性
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 04:14:36.29
>>154 
テンプレは修正なしで良い
畿内説の馬鹿さがよくわかるテンプレはそのままで良い
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 04:18:18.52
キナイコシに悪いが 張り付けといたろ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Aが成り立つ条件として
1,韓と中国(魏)が戦闘状態であった
2,中国(魏)が韓の国に初めて進行し、過去はこの地を一度も訪れたことがない

この1と2が成り立つ必要があるがいずれも該当しない
1,については、戦闘状態で魏国がどうして韓の国を通り数度日本を訪れられたか
2,については、彼が中国と朝鮮の歴史を記述してる通りすでに中国では韓のおおまかな地理感は知っていたことは容易にわかる。(韓伝の四方4000里とも整合性がある)

もし、Aどおり10倍にして魏の使いが報告していたら即座に嘘はバレル。
以上より、テンプレのAはQになんら答えていない。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 04:58:04.50
傍国の一部、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:05:45.90
昨日の宿題、畿内説よ陸行の上陸地点を明らかにせよ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:18:35.04
テンプレしかり、このスレの畿内説論者はまるで化石のようだ。
纏向邪馬台国王都説はすでに畿内説で論ずる学者も激減している現状を知らないのであろうか。
また、畿内説の学者達は迷走しているのは事実であり。一人一畿内説という売名行為にも似た醜い学への向き合い方である。
なお、テンプレは一応、拝見させていたいただいたが駄作というより意味不明である。これが畿内説の現状かもしれないが、、、、
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:29:15.59
悪口言ってるだけじゃ反論にならんって
w
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:36:31.44
畿内説はそっ閉じ中。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:39:59.12
畿内説は陸行1月がグダグダなのでボツですね
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:40:17.71
>>161
九州説でも纒向が我が国最初の王都と認めている
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:43:34.59
>>165
邪馬台国と関係の無いヤマト王権のね
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:46:50.76
ナイトキウス相変わらずアホでワラタ
見え見え捏造で失敗こいてる
FAQ 61のAは
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だから、文の途中からチョン切っちゃっても、即座に嘘はバレる
「テンプレのAはQになんら答えていない」って
詐欺丸見えじゃね?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 06:51:51.07
>>159
投馬国は九州ではいい加減だからな
説得力のある説を見たことがない
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 07:14:30.05
>>168
不弥国から南に水行すれば良いよ、探してみな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 07:40:09.96
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 07:55:51.01
>>171
>邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる

北部九州に、「邪馬台国やそれを含む連合国倭国」の痕跡は無い。   @阿波
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 07:58:42.34
区画整理された他人の田んぼの畦を壊して我田引水するのがトンデモ阿波説
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:00:42.12
>>170
>不弥国から南水行します

遠賀川をさかのぼれないので、南水行できません。   @阿波
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:05:16.19
>>174
遠賀川でも田川まで水行出来るが、海が穏やかな時は周防灘で水行する。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:06:38.91
筑前に伊都国・奴国・不弥国などの諸国
筑後に邪馬台国・投馬国などの諸国(博多湾側からは御笠川→宝満川→筑後川経由で南に水行)
これに末盧国や吉野ケ里(カンノサキ=華奴蘇奴国?ミネ=弥奴国?)など肥前東部と、日田・玖珠など豊後西部を合わせたあたりが女王卑弥呼の治めていた北部九州倭国だったと考えられる
これは言わば玄界灘文化圏と有明海・筑後川文化圏の連合体だ

その南の肥後北部に同じ倭人だが倭国に属さない狗奴国があった(「狗古智卑狗」や「卑弥弓呼」は倭国と同じ倭人の言語と見られる)
この狗奴国と邪馬台国が、鉄鏃が大量出土する菊池川流域あたりの国境地域で戦争した

さらにその南、熊本県南部、宮崎県南部、鹿児島県などに熊襲がいた
渡来系の影響が濃い倭人と縄文系の影響が濃い熊襲は言語や文化がだいぶ違っていたと思われるが、後にヤマト王権の支配下で同化していった
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:08:11.98
宇佐は宗像族なので宗像から宇佐は勝手知ったる航路なのだよ。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:12:04.71
宗像は博多湾あたりの勢力とは別物のようだ

宮地嶽神社(宮地嶽古墳は安曇氏の古墳)あたりから西が安曇氏など博多湾沿岸の勢力で主に壱岐ルートを押さえ、宗像大社より東が宗像族など出雲に近い勢力で主に沖ノ島ルートを押さえていたと思われる
魏志倭人伝の頃の北部九州倭国に出雲系に近い宗像は含まれなかったのではなかろうか

宇佐は宗像に非常に近く、かつ神功・応神勢力もこれらと同族だったと思われる(4世紀後半以降、沖ノ島祭祀が国家祭祀として営まれたのは神功・応神勢力の伸長と関係があるように思われる)

神功・応神勢力は田油津媛の邪馬台国を滅ぼし、朝鮮半島に出兵して百済・新羅・高句麗と戦い(広開土王碑文)、畿内に上って崇神朝を滅ぼしたと考えられる
倭王武の上表文にある先祖の征服譚のうち「西」と「海北」(朝鮮半島)については上記を念頭に置いている可能性がある
0179日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:15:24.63
>>175
>遠賀川でも田川まで水行出来るが

人力で曳船したらな。   @阿波
0181日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:23:51.21
不弥国(室見川下流域の博多湾岸)の次に続く国は斯馬国(糸島市の志摩)
帯方郡から投馬国が水行20日、即ち朝鮮半島南部に投馬国は在ったんだ
邪馬台国は北部九州地域全体のことで、狗奴国は南部九州地域
難しい話ではない。
0182日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:24:45.96
>>180
宗像からは南水行できません。   @阿波
0183日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:26:21.51
>>181
>不弥国(室見川下流域の博多湾岸)の次に続く国は斯馬国(糸島市の志摩)

もうハチャメチャ。   @阿波
0184日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:26:28.02
宮地嶽古墳は高市皇子の祖父の宗像徳善の墓とする説がありますが、地下の正倉院と言われる豪華さは天皇の外戚だったからでは無いかと思われます。
0185日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:28:39.64
>>182
宗像族のテリトリーは北は沖ノ島、南は宇佐。
0186日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:31:49.20
>>185
宗像からは南水行できません。   @阿波
0187日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:33:24.50
>>185
「阿波」のテリトリーは、関東・北陸から朝鮮半島南部までだ。   @阿波
0188日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:33:56.34
>>185
東遷して畿内に入ったのは宗像族かな
0189日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:35:11.50
>>186
不弥国は宗像氏と同族の宇佐氏の岡田宮付近までなので問題なく南に水行出来る
0190日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:37:58.08
>>188
物部宗像とも言われていますね
0191日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:42:33.75
赤間物部は宗像族の事ですね
0192日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:53:05.38
>>166
大爆笑
長くしても同じじゃん
これ関係ないし なんも答えになってないじゃん
あんたアホね おほほ
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
・・・・・・・
どこが >混用による錯誤も有り得る。<
だよ

おまえアホか
0193日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 08:54:27.86
>>171
>肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、

地名の「隈」は、九州全体にある。肥後だけに限定して論ずるのは、無知か下心ありだな、、。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 08:59:32.99
>>189
南に水行してどこへ行く?   @阿波
0197日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:04:21.26
>>166
キナイコシさんよ
>FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。

FAQ58の約2000里を出す計算式出してくねーか
0198日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:22:29.47
熊と言う地名は宇佐にあるな、熊がいたのかも
0199日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:24:17.76
熊襲=球磨+阿蘇
0200ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/14(水) 09:25:32.87
九州説の距離や方角の議論を見てみると、伊能忠敬のよりも前の弥生時代に既に正確無比な日本地図を魏使が持っていたような錯覚してくるよな

ネトウヨは馬鹿だから知らないのかもしれないが、地図は三角点を打って測量していかなければ正確なものは作れない

オレは弥生時代の人たちが天文観測のうえ三角点を設定していた事は100パーセントないと思っているが、ネトウヨは違うのかもしれないな

南に100里だったら、南だと思うが100里くらいの進んだような感覚だ、という意味なんだと思うぜ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:29:50.53
>>194
狗古智比古の「智」は、臣智、智将のように、王に仕える官、将軍を意味する。
どこにでもいて、どこにでも移動するありふれた官名さ。
肥後の隈にこだわるなら、隈=球磨=狗奴だろう、ただの個人の官名と違って国・地域の名は偉大。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:31:28.64
狗古【智】卑狗➡鞠【智】城(熊本県山鹿市)
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:36:18.33
侏儒国に里数ある
投馬国、邪馬台国に里数がないのは
さらに遠方であるという事。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:36:24.04
天智=【天】垂彦(阿毎多利思比孤)+狗古【智】卑狗
0206日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:40:51.91
>>178
呼子の田島神社も宗像三女神を祀っているので宗像族のテリトリーだと思う。
0207日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:47:07.05
>>167
頑固だね-----
その文書でも同じ。
一度、それなりの知識ある人に見てもらったほうがいいよ。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:56:17.70
細かいルートが納得いかないなら
魏志倭人伝に書かれた東南大海の中にある100余国に分かれた倭地の様子をマクロな視点で見てみたらいいじゃん

北 半島からの渡海ルート
南 狗奴国
西 会計東冶の東の海
東 海を渡るとまた倭種の国々がある

帯方郡
 ↓
  →狗邪韓国
    ↓
    渡海
    ↓
    女王国 → 倭種の国々
    ↓
    狗奴国
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 09:56:51.45
自力じゃ連敗キウス爺
0210日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 09:58:52.58
>>164
畿内説に限らず、陸行一月の納得出来る説明は見たことが無い
陸行一月は陸行一日の誤記としか考えられない。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:02:05.55
>>200
僅かに角度がズレてる(20〜30度)から正確な地図はないな
歩測で測量した程度の見取り図だな
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:02:58.02
>>210
それも納得出来る説明でない
0213日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 10:03:31.88
>>165
認めてないよw
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:04:36.65
>>212
日本国内で陸行一月は無理だよ。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:05:44.99
>>211
>歩測で測量した程度の見取り図だな

歩測で「混一疆理歴代国都之図」を描いたのか?   @阿波
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:06:36.07
>>214
なんで?   @阿波
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:06:42.67
キウス連敗記録更新中

かんたんに論破される
「ほかの人に聞けー」と言って逃走

完全にパターン化してる
0218日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:12:00.24
陸行一月を陸行30日と言い換えたら解り易い。
1日も休まないんだったら、20qが限度だろうから600qということ(実はここで、実際の行程ではないことが判るのだがw)
「女王国東渡海千里 複有国皆倭種」を無視して、日本海ルート(出雲投馬国)・瀬戸内海ルート(吉備投馬国)なら水行十日で丹後・大阪。そこから600qというと畿内を通り越して北陸(山形)・関東(水戸)くらい。そうすると今度は南有狗奴国が北になってしまう矛盾。
つまり、たとえ(南⤴東)と読み替えても、畿内説は成り立たないという事。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:12:44.15
>>211
倭人伝とは違った方角へ進んでいるんだから、地図がネジレているように見えるのは当たり前。
自己中のわがまま感想文。
倭人伝の指示通り進めば、捻じれてはいない!
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:13:31.66
我が国=日本国とするなら纒向はたしかに我が国最初の王都だな
魏志倭人伝に描かれた邪馬台国を都とする北部九州倭国は奈良盆地に興った日本国よりも前から存在した別の国だから
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:14:59.04
>>215
「混一疆理歴代国都之図」は李氏朝鮮時代に作られたもので幾つかの地図の切り張りだ
朝鮮半島は短里の地図で朝鮮半島の形も四角くなってて朝鮮半島の南岸の海岸線が東西水平になってる
日本列島は方向を間違えて貼り付けてる
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:15:37.87
>>220
存在したためしがない。   @阿波
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:16:39.96
コオロギ会社破産。阿波は何一つものに出来ない
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:16:55.44
>>221
幾つかの地図は、歩測で描いたのか?   @阿波
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:18:14.71
>>223
でも、王都遺跡が出来た。   @阿波
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:19:02.46
>>218
>「女王国東渡海千里 複有国皆倭種」を無視して、日本海ルート(出雲投馬国)・瀬戸内海ルート(吉備投馬国)なら水行十日で丹後・大阪。そこから600qというと畿内を通り越して北陸(山形)・関東(水戸)くらい。そうすると今度は南有狗奴国が北になってしまう矛盾。

「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南 去女王四千里」
つまり四国を見ていたわけで、南水行二十日は豊後水道ルート(日向投馬国)が正しかったのだ!
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:19:11.47
>>213
関川も安本美典もか?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:19:12.91
「混一疆理歴代国都之図」で朝鮮半島の南岸の海岸線が東西水平になってるが
人間の感覚では少しの傾きは無視されるんだ
同じように北部九州地域の海岸線も傾いているが人間の感覚では少しの傾きは無視されるんだ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:21:30.40
>>214
自動車時代の現代人の感覚で読むからそうなる。
古代官道に設けられた駅家は物資輸送の1日1駅。これを辿れば陸行1月はざらにある。
ただし成人徒歩・伝令・早飛脚は別だよ。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:21:31.26
>>226
意味不明?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:22:41.16
>>229
陸行1月は600〜750kmなんだがw
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:22:44.09
傾きを度外視しても出雲・吉備投馬国では、邪馬台国は丹後・大阪を経由して、新潟・水戸あたりになる。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:23:34.42
>>228
九州に、「女王国があったためしがない。   @阿波
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:26:23.28
畿内説の貴兄にはぜひ↓を今年の書初めとしていただきたいw

「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:27:04.37
>>231
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  
投馬国(着岸地 土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か? 
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:27:50.24
>>234
九州に、「女王国があったためしがない。   @阿波
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:32:22.62
帯方郡から南は韓西岸
歴韓国までが4000里
乍南乍東して3000里は投馬国南岸
・狗耶国を狗耶韓国と言った247年には、
投馬国の仮称は採用されなくなった。
弁辰韓24国5万戸である。

渡海1000里3回で九州上陸
陸路南東500里が、伊都、
一大卒、臨津捜露? 何故歩いた?

自女王国以北? 諸国畏怖
狗奴国より北の女王国に
誰が刺史を送った。倭王だろ?
つまり
倭国は、女王国じゃないだろ?

南水行20日、投馬国
水行10日、邪馬台国、九州北岸上陸
南陸行1月 女王の処都

女王国、邪馬台国は、帯方の南
倭は在、帯方東南大海の中
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:32:56.37
畿内説のお兄様たちには、ぜひ⇩この2つを今年の書初めとしていただきたいw(安本美典先生を囲む女性たちの卑弥呼会より) 

「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国在其南(四国)、去女王四千里」
「其南有狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)。官 狗古智卑狗(熊本県菊地市)」
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:34:57.02
>>231
そりゃ、夜ごと宿場町に宿泊した江戸時代頃の計算だろ。
三世紀には、食糧持参、途中でおかずの魚でも捕まえて、三度三度自炊し、
ちと大き目の河は腰まで浸かって渡り、渡ったらふんどし乾かしてから、又進み、夜は野営した。、
人足は、弁当持ちで昼すぎまで付き添ったが、午後は元来た道を自分の家へもどった。
だから実質半日行。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:35:12.96
>>237
「陸行一月」がないので、ボツ。   @阿波
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:37:21.92
陸行一月のうち半分くらいは宴会にかかった時間だと思う
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:37:23.59
一大率が女王国以北を検察していて、それは中国の刺史の如しと書いてあるな。
中国で刺史が検察官だったのは漢の時代。
つまり一大率が含まれる部分は漢代に記録されたもの。
漢魏西晋の幅のある記録が断りもなしにパッチワークされているから困るね。
編者はハナクソをほじりながら杜撰な仕事をしたんだろう。
九州だ畿内だとか、真面目に読んでるのは時間の無駄と言えるな。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:39:33.00
>>242陳寿にとって重要なのは蜀が正統王朝であった事。魏の周辺国など基本的にどうでもいい
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:45:08.98
@まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
Aそして、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+対馬400里+1000里+壱岐300里+1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11,300里から半径700里=50qの範囲)に限定され、北は玄海灘、東は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子→卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東治(実は冶)の東(の海上)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
..................................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都(沖縄那覇あたり)
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:49:59.46
>>242
>一大率が女王国以北を検察していて、それは中国の刺史の如しと書いてあるな。

この記述は女王国が使われているので公孫氏末(230年代)の記録からの引用です。


>中国で刺史が検察官だったのは漢の時代。

中国ではなく公孫氏の統治下では刺史が検察官だったのでしょうね。

>つまり一大率が含まれる部分は漢代に記録されたもの。

漢代とするよりも公孫氏時代の記録でしょうね。
0246ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/14(水) 10:52:35.04
富雄丸山の木棺から、邪馬台国関連の何かが出てくれば良いのだが。
魏晋の年号が刻まれた剣とかありそうな気がする

ここはトミだから初期の物部氏の関連だと推測できる
蛇行剣や盾方銅鏡が出ているから、これは軍事の物部に相応しい

ヤマト王権の宗教は中国の道教色が強い
物部のフルやフツというのは道教の五行説で震のことだろうと見る

震は奮い立つ力や雷や若さなど象意を持つ
フツヌシやフルノミタマやタケミカヅチなどヤマトの武神は震の要素が濃いように感じられる
神武も神話ではフツノミタマの剣で気力を取り戻したりしているからな
ヤマト王権は中華思想をかなり知っていたのではあるまいかとも思う

蛇行剣も震の形象を表したものかもしれない
漫画にもなっているあの有名なふるへゆらゆらという呪言も関連あるかもしれん
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:52:35.11
>>241
それはないな、将来的に倭に軍事介入する事も考慮して日数は記録されてる
軍隊の行動速度を考慮してるから1日は24km〜40kmですね。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:52:40.67
>>242
>それは中国の刺史の如しと書いてあるな。

倭人伝は歴史書だから、後漢時代〜魏〜晋にかけての記録を歴史順に綴っている。
行程記事は、卑弥呼共立の直前頃の後漢時代の設定で書いているから、
後漢の刺史の如し、でもいいんじゃないの。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:53:15.88
中1地理歴史の期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県桜井市 B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)
0250日本@名無史さん
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2024/02/14(水) 10:56:15.04
>>235
そこだけ陸行する合理性が無いw
距離も陸行一月には短すぎる。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:58:06.46
>>247
倭人「そんなこと考えてないぞ」
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 10:58:59.03
>>245
私も国中を漢や魏の事だと思ってましたが
よく考えたら公孫氏の国中の事ですね。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:00:46.65
>>251
倭人は知りませんよ、探検記録は侵略の第一歩なのです。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:02:00.99
日数は倭人からの伝聞情報
魏使は日数行程は実際には移動していない
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:03:42.76
後漢時代〜魏〜晋にかけて、ずっっっと刺史は検察官でもあった
行政官とか軍司令官とかいろいろ兼任して地方軍閥化したが、単なる検察官でなくなっただけ
つまり魏代には検察官じゃなかったと言った学者(自称w)は実際は不勉強な素人
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:05:45.03
>>254
伝聞であれば参問とか書きますよ
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:05:58.10
>>252
>私も国中を漢や魏の事だと思ってましたが
>よく考えたら公孫氏の国中の事ですね。

公孫氏だって刺史じゃないんだから違う
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:08:15.26
ニセモンはすぐバレる
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:08:32.91
>>250
>そこだけ陸行する合理性が無いw

水行十日 または 陸行一月だ。 太平洋が荒れて水行出来ないときに陸行したんだろう。 二者択一だ。   @阿波
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:09:38.89
>>256
原資料には書かれてても編纂する時に情報が脱落することはよくある
竹簡木簡の時代は文字数ケチりがちだしな
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:10:11.81
>>257
公孫氏が領土内に刺史を派遣してたんだろうと
国中とは公孫氏が領土内の事だと思うんです
公孫氏の刺史が検察官だったんだと。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:11:11.65
>>250
>距離も陸行一月には短すぎる。

橋もなく道端も狭い危険な当時の道路事情を考えると、距離約350km 歩行速度11.7km/日は順当だろう。   @阿波
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:11:59.10
郡から女王国12000里のうち伊都国までで10500里消費した
女王国まで残り1500里。
当時の使者は1日50里すすむ
一里435メートルかける50
20キロメートル程
要するに陸行一月とは伊都国から女王国までの1500里を日数にすると30日ですよという意味しかない
もちろん最初の12000里というのが既に政治的な虚構の数字なので真面目に捉える意味はないが
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:12:31.52
>>260
里数は体験した距離で日数は伝聞?
何の理もなく続けては書かないですよ。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:13:30.22
>>261
公孫淵は燕を国号としていたから、それジャマイカ?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:13:42.88
>>263
>郡から女王国12000里のうち伊都国までで10500里消費した

そんな勝手な計算、陳寿は求めていない。   @阿波
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:13:47.22
>>262
そんな道なら陸行しませんよ
陸行する合理的な理由がない。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:14:04.59
>>261
>公孫氏が領土内に刺史を派遣してたんだろうと

刺史は中国の12州にしかいない
公孫氏が刺史を派遣することはない
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:14:11.67
>>264
時代も場所もばらばらな情報がなんのことわりもなく他史料から引用されて続けて書かれてるぞ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:14:49.48
>>263
そんなこたぁないw

末盧➡500里➡伊都➡100里➡奴国➡100里➡不弥国
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:15:18.53
>>267
>そんな道なら陸行しませんよ

陸行がいやなら、水行すればよいだけ。   @阿波
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:16:31.64
>>263
12000里で1日50里だと240日
計算が合わないのでその説は没。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:18:44.59
>>268
燕王として自立しようとしてましたから
漢を参考に独自の統治システムや短里を制定してたのでしょうね。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:22:59.69
水行は1日350里進む。
よって郡から半島南端まで水行20日な
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:25:04.51
後漢や魏ではなく、公孫燕の短里だったのか!
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:26:59.05
>>265
>公孫淵は燕を国号としていたから、それジャマイカ?

それは237年
翌年には首級になって洛陽に晒されてる
刺史なんて置く余裕はないし、そんな刺史を魏が追認するわけもない
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:27:26.61
>>1=キナイコシ=キウス

アホ丸出し 
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:27:36.17
>>275
そんなもの無い
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:28:39.15
>>242
魏は、238年魏は司馬懿を大将、毌丘倹を副将として公孫淵討伐

245年の玄菟太守の王頎(この後246帯方太守到官)を従えて
高句麗を東臨大海に追った毌丘倹はこの時、幽州刺史

晋だが、313年 楽浪帯方郡を追った高句麗は
350年代に朝貢し、幽州刺史、楽浪候に任ぜられた。

刺史は普通に辺境太守より上位の中央任命または派遣の将軍
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:28:43.83
>>275
いずれにせよ中国史書の距離表示は、編纂した時代の権力度量衡で、直線距離を示しているってこと。  
ボンクラ御用学者では、到底思い至らない思考。  
直線距離でないのであれば、方向と距離を記載する意味がない。   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:28:49.66
燕て朝鮮て国号に関係あるのやろ

燕国朝鮮て呼ばれていたわけだしな
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:29:10.38
じゃなぜ短里を?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:29:45.77
>>256
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:29:59.25
>>276
急に独立しようとしたのではなく
前もって準備をしてたんでしょうね
短里とか魏や漢とは違い里を使う事によって領土を大きくみせようとしていた。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:30:20.16
短里なんてない
一里は435m

大月氏の16370里より遠方におきたいから
倭国を郡から12000余里としたので、おかしくなっただけ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:30:22.31
てs
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:31:12.56
>>281
朝鮮は明の皇帝に選んでもらった国号
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:32:07.09
>>277
うそつキウスが恥かきに登場
昨日1=朝鮮投馬国だと言ってたのと同じパターンだな
自分で作った汚点を他人にナスリ付けようとする恥知らず
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:33:01.23
明らかに短里だろw

対馬400里→1000里→壱岐300里→1000里→末盧500里→伊都100里→奴国100里→不弥国
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:33:15.98
>>284
理由はどうあれ、時の権力者によって度量衡は決められる。   @阿波
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:33:46.64
>>282
>じゃなぜ短里を?

短里?
そんなもの昭和生まれの日本人しか知らんわ
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:34:00.77
燕は戦国時代に北京辺りにあった国の名だな
公孫氏は東方の国だから燕王を称したのだろうな
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:34:22.20
>>290
短里だ。   @阿波
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:34:45.73
>>292
>>290
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:35:59.24
287
そりゃ李(すもも)の話だろ
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:36:34.02
>>284
>急に独立しようとしたのではなく
>前もって準備をしてたんでしょうね

急にヤケクソ起こしただけ
諫めた重臣を処刑してるくらいだから準備なんてしてない
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:36:40.51
>>290
短里で、直線距離だ。

直線距離でないのであれば、方向と距離を記載する意味がない。   @阿波
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:37:22.97
中国廬山⛰のある洞庭湖が朱氏の本願地らしい

そこで勉強でもしたやつらが皇帝に名乗りを上げたんだろな
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:38:27.72
本来郡から女王国まで3000里程度のところを
12000里に引き伸ばすことになった。
それに伴って各国間の里数も水増しした。
陳寿が適当にやったんだろ、どうせ。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:40:47.68
>>298
直線距離として
一里を何メートルとかんがえるのだ?
どうせ恣意的に数字を当てはめるのだろ?
12000里がアワに来るように
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:43:17.50
>>290

実際の距離と比較してみれば、短里で書いてあるのが明らかだよw
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:47:49.36
つまり畿内説はウソ
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:50:02.57
>>303
その一里70メートルという根拠を教えて下さい。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:51:04.60
>>305
帯方郡(沙里院市)
↓【南 或は 東】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島)
↓海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町  出航地 厳原町)
↓【南】海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町  出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠・赤木峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・黒潮太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
紀伊半島(有田辺り)


「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
女王国「阿波」から東へ1000里(50km)1里=50m 紀伊水道渡海→紀伊半島(有田辺り)   @阿波
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:51:27.61
中国史の謎、一月行は
倭人伝の陳寿によって暴露されている。

漢書地理志 東南アジアだが徐聞は海南島辺
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國 (中略)
自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣

他に、京畿湾〜済州島が3月行
遣隋使、裴世清 日本の領土
南北3月行、九州南北 
東西5月行、奈良の東山の向こうは毛人国
倭人伝 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國
畿内説では、去女王が、無理ですがw

1月行は辺境の地図上の2千里です。
ちなみに
裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
2万4千里に小笠原、まさかね!
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:52:09.58
>>302
>実際の距離と比較してみれば、短里で書いてあるのが明らかだよw

あんた、自分は実際の距離と比較してないから妄想で短里で書いてあるとか言っちゃうんだよ
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:54:30.24
>>308
帯方郡(沙里院市)
↓【南 或は 東】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(巨済島)
↓海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町  出航地 厳原町)
↓【南】海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町  出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠・赤木峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・黒潮太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
紀伊半島(有田辺り)

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:57:55.50
>>309
がっかりしました
帯方郡とアワの直線距離を12,000で割って、
出た数字が70メートルってだけじゃないですか
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 11:59:43.75
>>310
それ以外になにがある?  陳寿が示した通りだ。   @阿波
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:01:34.27
>>308
対馬400里→1000里→壱岐300里→1000里→末盧500里→伊都100里→奴国100里→不弥国

長里なら
対馬200q→500q→壱岐150q→500q→末盧250q→伊都50q→奴国50q→不弥国
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:07:20.34
>>312
短里で、直線距離だ。

直線距離でないのであれば、方向と距離を記載する意味がない。   @阿波
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:09:17.30
>>312
ほら
あんた、自分じゃ実際の距離と比較してない
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:11:39.29
つまり畿内説はウソ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:12:11.15
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:12:17.47
対馬方400里→1000里→壱岐方300里→1000里→末盧500里→伊都100里→奴国100里→不弥国

短里なら
対馬64q→80q→壱岐48q→80q→末盧40q→伊都8q→奴国8q→不弥国
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:15:16.44
>>317
ほら
九州説は自分じゃ実際の距離と比較しない
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:15:49.26
>>317
末盧国以降は概ね合ってるな
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:19:07.76
>>319
何となにが概ね合ってる?
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:19:45.33
海上の距離以外は合ってるな
韓の方4000里も320km四方で合ってる。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:21:50.31
畿内説のお兄様たちには、ぜひ⇩この2筆を今年の書き初めとしていただきたいわw(安本美典先生を囲む女性たちの卑弥呼会より) 

「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国在其南(四国)、去女王四千里」

「其南有狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)。官 狗古智卑狗(熊本県菊地市)」
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:24:22.04
>>321
>海上の距離以外は合ってるな

何となにが合ってるの?

>韓の方4000里も320km四方で合ってる。

合ってる証拠は?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:25:06.78
>>283
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭地について問うてみると 絶海の島の上にあり あるいは孤立しあるいは連なりしているという
5千余里ばかりだろうか
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:31:01.01
現在、東京と大阪間はJRだと約550km、直線距離だと約400km。

大阪から東へ550km東京に到る。
地図で計ると400kmなので1kmは約700mである。
明らかにおかしい計算である。
0326
垢版 |
2024/02/14(水) 12:43:03.70
女王国の東に海があるって言う記述は
機内説にとっては致命的だよな
伊勢湾のことを言うのかもしれんが、やはり無理がある
普通に考えたら周防灘だもんな
畿内説の人は東にある海をどのように考えているの?
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:48:44.97
>>326
>普通に考えたら周防灘だもんな

でも、九州に女王国の痕跡がないからな。   @阿波
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:50:05.51
>>326
東の倭種とは山海經にも出てくる黒歯国や裸国のことだ。実在する国でないことは言うまでもない。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:51:53.23
おや?東に海を渡ってある倭種の国は狗奴国ではなかったのか
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:52:53.99
>>329
実在するよ。

「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
「又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參」
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   
論理的に侏儒国・裸国・黒歯国を比定できるのは「阿波」だけ。
トンデモ畿内や九州では、まったく説明できない。 @阿波
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 12:53:54.20
>>261
>公孫氏が領土内に刺史を派遣してたんだろうと
>国中とは公孫氏が領土内の事だと思うんです

国中とは、倭国中に於いて(中国の)刺史の如く振る舞っている、だろ・・、
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:02:26.13
>>327
それは朝鮮投馬国説の東の海、本当は豊州の東
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:02:42.02
>>329
実在するよ。

関東忌部の航行ルートだな。 

神津島の阿波命神社・日向神社・物忌奈命神社   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:05:03.41
1300里を水行30日陸行1月したんだよ。倭人伝にそう書いているだろ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:08:40.25
>>327
関門海峡は、一日中潮の流れが速すぎて、三世紀当時は航行できなかった
だから倭人伝では除外され、書かれなかった。
後世、下関と彦島の間の細い湾・小瀬戸を繋ぐ水門(今の彦島水門)が掘削されて、
瀬戸内海から日本海側へのう回路が出来、通過・通行可能になった。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:12:37.01
>>337
島根で大分姫島の黒曜石が見つかっているから縄文時代から関門海峡は通れたと思うぞ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:14:32.56
>>324
どこからどこを測った?
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:14:50.26
関門海峡ごときでNGなら陸続きの東海どうすんだよ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:16:37.95
>>339
測ってない
単純に万二千里から七千里引いた残りを書いただけの意味のない数字
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:19:56.11
>>337
>関門海峡は、一日中潮の流れが速すぎて、三世紀当時は航行できなかった

証拠は?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:21:16.50
宗像族は西は呼子、北は沖ノ島、南は宇佐をテリトリーにしていたから関門海峡は平気で通れる。通れないのは阿波などのよそ者。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:21:38.45
>>341
違う。狗邪韓國から不彌国
二島 方300里、方400里で5千里。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:26:34.09
神武も関門海峡から洞海湾にある岡田宮に入っている
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:27:58.33
>>326
南が東になり、北が西になる畿内説では東の倭種は北の倭種になる
琵琶湖の向こう、越の倭人のことだ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:28:14.04
>>344
対馬と壱岐の帰港先を教えろ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:28:52.13
神武も物部の系譜なのかい
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:29:36.67
奴国、投馬国、邪馬台国には行っていない。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:30:55.57
>>348
饒速日と同族だから物部だろうな
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:31:35.63
>>347
帰港先とは何?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:34:18.10
>>339
奴国から不弥国、斯馬国・・・傍国18か国・・・烏奴国、奴国が5000里くらいかなと言ってる
計算は
末盧国から伊都国が500里、伊都国から奴国が100里、奴国から不弥国が100里
平均すると(500+100+100)÷3、これを斯馬国から奴国までの平均距離と同じとし
21倍して4900里、最後に奴国から不弥国が100里を足して5000里。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:35:17.79
>>352
寄港先だ
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:35:56.88
>>337

博多と畿内が葬制を共有する政治連合なので
関門海峡を利用して本州と九州を切り離して
倭国を小さくするのは無理
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:36:21.49
>>353
古今東西、そんなに足したり引いたりする行程はないぞ。 いい加減にしろ!   @阿波
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:37:14.00
>>329
去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
この部分は又別の資料からの引用だね
古典かな。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:37:59.19
348
縄文土器ってのはもともと祭儀用の土器だからな

土器の中に死んだ人間を切り刻んて入れて🔥を付けて燃やし火葬したの

祭列を組んでそれで祈祷でも上げたのかもな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:38:07.94
>>355
2世紀の纒向に卑弥呼の居場所は無いのでボツ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:39:08.11
もうこれ狗奴国=神武=畿内だろ
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:41:00.37
埴輪だのなんだの多く作られて埋葬されてるならそのときに誰かが死んだことを現しており葬儀でも執り行われたのやろな
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:41:11.08
>>360
畿内に神武ゆかりの場所は何がある?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:43:15.88
おーーーい
畿内説はどこから陸行が始まったんだ???
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:45:00.99
>>352
揚げ足とってどうすんの 寄港だろ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:46:58.46
>>318
おまえの頭おかしくねーか
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:49:02.25
https://i.imgur.com/odcLMiP.jpg
もう狗奴国=神武にしとこうぜ
神武は九州南部の出身でした。ってことで
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:50:05.66
>>342
大和川を遡上するより数段むつかしいでしょうな。
ところで
魏の使いは瀬戸内航路の終点の纏向まで水行して、纏向近辺をウロウロ1月陸行してたでいいのでっか?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:51:29.55
>>366
豊前豊後日向は投馬国だよ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:52:26.01
>>323
おまえさ
この程度のこと理解できないのか。
ドアホ
皆 理解できてるぞ
自力で一度考えてみなドアホ(笑)
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:54:47.82
>>354
壱岐は勝沼だな。
対馬は唐崎遺跡周辺
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:55:46.97
>>357
なんの資料?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:58:05.72
>>372
裸國や黒齒國の載ってた昔の資料
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 13:59:31.72
>>373
なんという資料?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:04:30.39
>>332
>つまり畿内説は自己矛盾多発で事故多発してますよと

誤解スンナ 
奥山が事故多発してるだけ
オイ >>1奥山コテつけろ 迷惑だ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:08:27.00
>>374
山海經だ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:18:52.50
亀の瀬から纒向は15キロくらいだな。1日に500メートル進む行程かよw
0379
垢版 |
2024/02/14(水) 14:19:29.71
倭国が玄界灘九州中国近畿を領域として都が奈良にあったとすると、大和朝廷が九州の異民族的な存在の土蜘蛛を征伐したって話とあわなくないかな?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:22:08.23
>>377
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
里数ある方は何の資料?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:28:37.46
>>380
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺

上の文を参考に下の文が書かれてるな
裸國黒齒國は山海經等からの引用だな
四千餘里や船行一年可至は何処から持って来たのか分からんな

去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:34:56.30
>>380
女王国(対馬〜奴国、不彌国)
壱岐から東千里で宗像だな。
奴国から南四千餘里で種子島あたり。
交易のある里数を知る外国人から聞いたかもしれん。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:36:36.53
>>382
あなたは朝鮮投馬国のアホですか?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:38:20.21
>>383
誰が朝鮮に投馬国あると書いたのだ。
奴国、投馬国、邪馬台国には行っていないだけ。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:40:51.50
>>384
末盧国はどこかな?
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:42:35.70
>>380
裸國と黒齒國は今使譯所通三十國の国数が不足してたので計算が合うよう追加したんだろうな
対馬国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20国、侏儒国、狗邪韓国で28か国にしかならないから。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:44:32.98
>>385
唐津港 山に丹ありで
ベンガラ、水銀鉱脈から伊万里周辺
赤といえば、唐津焼より伊万里焼
どちらかだな。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:47:18.16
>>387
伊都国はどこかな?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:47:22.00
日琉語は語頭に濁音はこない
しかるに投馬国はヅマコクまたはドウマコク
でありかならず濁る
つまり投馬は倭人による呼称ではないのか、誤字か
投馬の前に一字が脱落しているのか
謎が多い国である
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:48:41.87
>>387
唐津港は幕末くらいからの新しい港だよ
末盧国の港は呼子付近の港だね。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:49:19.72
>>386
投馬国、邪馬台国で30だけど狗邪韓国は不要
狗奴国と思う。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:49:42.63
>>389
アズマじゃ無いのかな
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:50:04.21
>>384
陳寿
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:50:29.46
>>388
有明海沿いだね。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:51:17.54
>>393
書いていないよ。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:51:53.98
>>394
では奴国はどこ?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:52:08.50
>>391
投馬国、邪馬台国、狗奴国は小国の名ではなく地域の名称だから30国には入らないので追加したんだ。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:52:26.53
>>390
阿保か弥生時代の遺跡は圧倒的に多い
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:52:30.62
狗邪韓国、対馬、壱岐
末盧國、伊都国、奴国、不弥国
投馬国、邪馬台国、狗奴国
傍国20国

これが台与が国中遂定した倭国の範囲
使訳を通じた大倭王の30国連合
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:54:43.81
>>394
九州説として恥ずかしいから馬鹿な事は言わないで
伊都国は糸島市の南東部だよ
奴国は糸島峠付の先
室見川下流域の博多湾岸が不弥国
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:55:35.45
>>396
福岡から祇園山あたりの広範囲。
その南に狗奴国
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 14:56:59.59
>>400
九州説でもない
邪馬台国は九州以外
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:00:14.42
>>339
参問だから測ったのではなく、教えてもらった情報を基に推測した値が可5000里
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:00:31.56
>>400
却下
同じ九州でも
佐賀説、熊本説の方がしっくりくるけど?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:03:12.00
朝鮮半島南部が投馬国
北部九州地域が邪馬台国
南部九州地域が狗奴国

中国地方が倭種
四国地方が侏儒国
実に分かり易い。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:04:49.10
>>403
推測より魏志倭人伝の里数
狗邪韓国から不彌国までの合計で5千里になる事を採用している。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:07:50.85
>>406
周旋可五千餘里・・・可が付いてるから推測した値を示しているので、通って来た距離ではない
参問とは教えを乞うことであり訪問とかの意味は無い。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:10:06.30
>>404
そりゃ、そうだ。
30度とか
畿内説の一部は90度だしな。
畿内説の1/3トンデモが朝鮮投馬国だな
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:18:09.84
皇帝から金印を渡して、親魏倭王に冊封するに際して
魏の使者が邪馬台国に赴きもしないなんてことがあるのか?
糸国あたりで倭人に預けておわり?そんなことあり得るの?
ないでしょう常識的に考えてw
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:20:58.54
>>410
あるから常識的に考えて。
邪馬台国に与えられたもんではない。
親魏倭王は倭王にあたえらたもん。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:21:45.29
其冬帝崩,無嗣。武召侍御史河閒劉儵,參問其國中王子侯之賢者,儵稱解瀆亭侯宏
その冬、桓帝は崩じ、後継者はいなかった。竇武は御史の河間郡の劉儵を召し、国の中の賢い王子や侯を問うた。劉儵は解瀆亭侯の劉宏を褒めた。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:22:31.26
>>409
デマだな
参問は仏教用語で弟子が師匠に教えを乞うこと。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:24:13.80
>>413
魏は仏教国なのか?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:25:26.39
>>408
倭人伝の30度のズレは真実、磁気偏角を勉強してくださいね
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:26:00.69
>>413
或いは漢は仏教国なのか?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:26:35.80
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
参問した倭地はこの女王の境界が尽きる邪馬台国21国以外には無い。
境界 所盡と言う処の、盡は境界線や点ではなく書き尽くしたという意味が有る。

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

この文脈では、船行一年可至のような広大な倭国の概念に於いて
参問 倭地=女王国は、洲島之上 でたったの 周旋可 五千餘里しかない。
と言っている。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:27:21.44
糸国が女王の国だったと、喚いてるのは誰だ。
ま、どうせ糸博がつぶれては困る者の流れだろう
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:27:58.82
>>415
要らないな。読み手に
負担かける書き方はしない
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:28:06.25
>>416
行く場合は参問ではなく参訪だな
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:28:50.94
>>326
>畿内説の人は東にある海をどのように考えているの?

遠州灘や相模灘
なにか問題でも?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:29:38.32
>>420
行って聞くですけど?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:33:24.91
>>417
其餘旁國遠絶 不可得詳は?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:34:02.74
呼び出して聞くのも参問になってるぞ 参問其国中王子侯之賢者
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:35:53.64
>>422
参に行って意味はないよ
集まる、集めるって意味だよ
参拝、集まって祈る。
参道、神に集まる道
参議、集まって議論する人
参上、偉い人の前に集まる
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:36:13.08
>>390
>唐津港は幕末くらいからの新しい港だよ
>末盧国の港は呼子付近の港だね。

無知すぎる
町田川河口の潟が弥生時代の末盧の港
弥生後期以降は松浦川の競艇場近くが港
呼子にあるのは地元民の漁村
渡海するような船は島陰で潮待ちするだけ
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:36:50.52
>>419
魏使が偏角した東を東と書いたのだよ
今の日本でも偏角はしているのだよ。あなたが方位磁石で見た北は正確な北では無いよ。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:37:42.80
参問は問いを集める
だから聞いたって意味なんだ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:39:05.45
>>426
小舟しか利用出来ない小さな船着き場程度だよ。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:41:53.99
>>415
そのくらいのずれは人のには分からないからな
北部九州の海岸線を東西方向と誤認識してただけだな。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:44:10.66
>>423
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
は、梯儁の報告の引用ではなく陳寿の補足説明で
文脈に不適切な挿入と思って抜いたけど、

其 餘旁國 遠絶 不可得詳については名前も知らないし
邪馬台国人も東渡海の本州倭種など遠くの国名は知らないはず。

女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載
については、女王宮迄南下してきて既に記述の有る行程内の国
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:45:44.99
九州説はもう月刊ムーの世界から帰って来られないな
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:46:34.46
>>390
>唐津港は幕末くらいからの新しい港だよ
>末盧国の港は呼子付近の港だね。

唐津城近くの唐津港は新しい。
古代には松浦川を遡った、今の唐津インター出口の中原港
古墳や遺跡も、唐津城・唐津港方面にはなく、松浦川東岸に集中してる
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:48:26.25
>>428
阿保か?
参じて或いは参じさせて
聞くですけど
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:51:45.95
>>435
呼子ではないでいいんだな。
松浦川東岸だな。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:51:49.61
>>436
日本語でお願いします
意味がわかりません
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:51:51.29
>>436
日本語でお願いします
意味がわかりません
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:52:55.50
>>440
日本語、勉強しろ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:53:54.43
>>438
そんな浅いとこに楼船は入港出来ませんよ。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:54:12.82
>>438
呼子が正解、宗像族の祀った田島神社があるのが証拠
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:54:42.06
>>437
むしろ倭国が女王国で邪馬台国が畿内なら
女王国の南の狗奴国がムー大陸です。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:54:59.33
参は加入すること集まること
または目上の人のところに行くこと、謁見すること
くらいの意味でどこかに出掛けていく意味は無さそう
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:55:51.54
なんで中国語で考えないんですかね
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:56:50.57
>>442
十分入るから気にしなくていいよ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:58:11.52
>>445
参拝は?1人でも成り立つ
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:58:14.66
変な日本語で意味が掴めないが
参じて或いは参じさせて
は使うと言いたいのかな?
参じるは誰かの前に集まるの意味ですよ
行くじゃありませんよ
参に行くの意味はないの。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 15:58:24.61
>>438
グーグルマップか、唐津の遺跡資料で、唐津市の古墳分布を見ればわかる。
松浦川西岸に古墳はなく、東岸〜中上流域に偏在している。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:00:57.98
>>450
おっと、久里双水古墳忘れていた。
そこいら辺だな
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:01:11.00
>>448
一人でも参拝だか
そこには神も居るんだよ
神と祈る一人の二人の集まり。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:02:42.59
>>452
人でも場所でもいいんだよ。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:04:16.73
>>445
>目上の人のところに行くこと、謁見すること

つまりこの場合の参とは目上の人のところに集まることなんだ
参問の場合、集まりに行って問うでは意味が通じない。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:07:13.50
>>451
そうだよ。久里双水古墳から唐津インターあたり一帯は
北風の影響少なく波穏やかな内水面 
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:10:21.30
>>456
灯台がわりになるな。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:10:28.97
参を行くみたい使うのは日本語だけなんだ
参の意味は集まる、集める
日本語の場合は参を拡大解釈してるね。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:12:53.74
>>458
行かなきゃ、集まらない
中国辞書調べたか?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:14:26.40
>田島神社は、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島にある神社。
>大陸への最も安全な渡海ルートの要所であり・・、

此処は大陸へ向かう時の出港地だった。だから宗像族も、宗像からはるばるやってきて出船の潮時を待った。
しかし大陸からの入国は、対馬海流に流され糸島沖まで来て、そこで沿岸反転流に乗り換えて東西した。
入港停泊地は、淡水の港の唐津松浦川中流の中原港一帯。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:15:13.49
>>455
中国語ですから中国語辞典で引かないとですねw
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:18:42.31
>>461
引いているだろうが!
節穴か?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:21:40.93
>>457
港を見下ろす絶好の位置に作られた久里双水古墳、
港の守護神でもあり、船からすれば入港時の優れた目印だった。当時の繁栄ぶりがしのばれる。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:21:45.95
>>462
褒めてるんですよw
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:23:44.82
>>464
褒める必要はない。
事前に調べることはあたり前だから。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:24:28.67
>>463
倭人の小舟だけですね
大陸から来た大型船は唐津にはよりませんね。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:25:13.51
>>464
なので行って聞くでいい。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:25:44.94
>>465
思い込みだけで変な主張をする人が多いもので。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:27:09.57
>>466
呼子には行かないだけです。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:28:04.72
>>468
勘違いしてスマソ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:28:26.45
>>467
参問のどこに行くって字があるの?
辞書にも@尋ねる。 A仏教語。しかないでしょ
思い込みだけで変な主張をしないように。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:29:39.61
>>469
根拠の無い主張は止めましょう。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:32:29.79
>>469
余計にあぶない、
後の時代に整備されたが呼子。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:34:21.68
>>471
魏は仏教国なのか?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:36:08.61
>>471
行かないでどうやって尋ねるんだ?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:39:26.45
>>473
陸路でっせ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:40:24.25
>>476
伊都国で倭人に倭地を周旋(奴国から奴国まで)したらどの位の距離ですかと聞いたんだよ
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:40:25.47
>>471
尋ねるの意味は?
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:41:42.33
>>478
記述はない
倭人は里数知らず
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:41:45.66
>>477
東松浦半島を南下して唐津市街付近から東へ500里
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:43:33.53
>>477
伊都国の方角と解すれば良い
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:44:42.75
>>481
記述はないけど
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:44:59.99
倭人在帶方東南大海之中とあるが、東南に陸行したわけでは無い
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:45:34.96
>>482
しない方向で考えてみればいい
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:46:18.67
>>480
倭人は中国の単位である里を知らないので傍国20か国を巡ると奴国に戻ってくる来ると答えたんだ
そこで計算して
奴国から不弥方法国、斯馬国・・・傍国18か国・・・烏奴国、奴国が5000里くらいかなと言ってる
計算方法は
末盧国から伊都国が500里、伊都国から奴国が100里、奴国から不弥国が100里
平均すると(500+100+100)÷3、これを斯馬国から奴国までの平均距離と同じとし
21倍して4900里、最後に奴国から不弥国が100里を足して5000里。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:47:36.09
>>482
糸島市以外でね
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:49:55.15
>>483
あるよ
濱山海居・・・呼子付近の風景
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内の風景
好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之・・・二丈海岸付近の風景
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:52:13.72
>>482
呼子付近から糸島市方向は見えないから
南に進んで東へ進んだので東南と感じたのさ。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:52:29.06
>>488
呼子とは断定できないな
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:53:58.17
>>480
倭人は中国の単位である里を知らないので傍国20か国を巡ると奴国に戻ってくる来ると答えたんだ
そこで計算して
奴国から不弥国、斯馬国・・・傍国18か国・・・烏奴国、奴国が5000里くらいかなと言ってる
計算方法は
末盧国から伊都国が500里、伊都国から奴国が100里、奴国から不弥国が100里
平均すると(500+100+100)÷3、これを斯馬国から奴国までの平均距離と同じとし
21倍して4900里、最後に奴国から不弥国が100里を足して5000里。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:54:15.03
>>490
定かではないよ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:55:41.31
九州説は空想だらけ
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:56:58.04
>>490
15〜20度くらいのズレですね。
方位を8等分にして22.5度以下だとズレても関係ないですね。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 16:58:49.48
>>491
末盧国の北端に着いたと考えられますから呼子付近ではありますね。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:00:26.79
>>491
風景描写は呼子港と一致してますけどね。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:00:34.49
>>497
時期もわからん。
厳冬期や台風もあるし
冬至、夏至とは限らないけどね
決めつけはできない
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:01:19.70
>>499
断定はできない。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:02:45.23
>>501
海岸線沿いは呼子でなくても一致する。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:03:46.75
伊都は考古学だと吉武高木辺りの可能性が高くて
北西500里は糸島半島北西岸かと?

でも伊都は一大卒が臨津捜露なんで
今宿とかまで有るし船が来る。
そもそも呼子だの松浦半島なんてのは歩けるのか?

壱岐から唐津湾方面に船で来て
対岸の糸島〜博多まで歩く事がおかしい。
陸路より航路だろ?
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:06:56.65
>>503
考古学は文献より
出土物基準だからね。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:07:08.88
対馬から壱岐の方角も30度ずれている、これも磁気偏角の影響と思われるhttps://i.imgur.com/MjKkBDi.jpeg
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:11:04.97
>>471
お前が変な主張だろう。
尋ねるの意味は?
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:13:32.28
畿内説の水行の主流は瀬戸内航路ですが
陸行のがどこからどこまでか明らかにしていません。
いっそ、方位同様に水行も陸行も無視すべきかもしれませんね。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:13:56.93
畿内説の水行の主流は瀬戸内航路ですが
陸行のがどこからどこまでか明らかにしていません。
いっそ、方位同様に水行も陸行も無視すべきかもしれませんね。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:21:30.49
このごろOtykenというバンドをYoutubeで知りました
最初は落研のことだと思いふざけたジョークっぽいネーミングだと思っていました
入れ墨やアイヌの民族衣装に似た衣装を着ていて、私はてっきり日本人のバンドだと思っていました
今日詳しく調べてみると、シベリアの寒村に暮らす現地の人たちのバンドでした
見た目は黒い髪で日本人にとても似ています

このスレで日本や近隣諸国の歴史に興味をお持ちの諸兄にご紹介します
オティケン:シベリアの先住民たちのバンドが世界を魅了した!(動画)
https://jp.rbth.com/arts/86839-otyken-siberia-senjyuumin-band-sekai-wo-miryou
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:25:09.59
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:26:11.95
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:37:54.77
瀬戸内海は無理
伊都は九州北岸で、日本海ルートしか無い。
陸行は敦賀とかから琵琶湖ルート。
王族は船あるよね?

ハッキリ言って240年なら
まだ朝廷の首都は奈良に登らないので
河内でも難波津でも良い。
徒歩1月行は無い。

朝鮮進出は応神〜仁徳の、
四郡撤退313年以降で
その後、対魏晋防衛の為
姫や王子の宮を内陸の大和=山都に移した。

南北朝で対高句麗戦、
百済新羅建国の倭の五王交渉だよ。
歴史の常識だろ?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:44:09.32
弥生遺跡に武器出土ないのに苦戦とか阿保過ぎ
壹与の後のだろうな。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:49:24.84
九州説の人はなぜ全く理由を言わないのだろうね
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 17:58:06.75
邪馬台国時代の 21国である
190年から247年までの弥生遺跡と言うのは九州なら
板付 菜畑 吉武高木 今宿 宇木汲田 桜馬場
三雲南小路 平原 井原鑓 吉野ヶ里 須玖 金隈
とか、かと思うけど

畿内説だと、梯儁が女王宮で参問した、邪馬台国21国が、
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
に収まりますか? 片道5千里越えて周旋可?
韓は方可4千里の基準だよ?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:03:04.03
倭人伝論争で
考古学が畿内説を支持するのは、
有り得ない話だと思うんだが?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:05:33.31
畿内には大乱の痕跡がないので大乱は無かったことにします
これが日本の考古学だよ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:07:13.98
>>506
尋ねるの意味も分からいなら死ねw
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:13:40.57
>>517
掘って出てきたモノで考えるのが考古学の基本だからね
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:14:15.41
>>516
>有り得ない話だと思うんだが?

理由は?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:16:39.84
>>517
大乱の痕跡どころか、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い寒村畿内だ。  @阿波
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:17:34.25
>>519
畿内の話じゃないからなのにね
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:19:47.82
畿内説「ええこと考えた!伊都国から卑弥呼連れてこよ?!」
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:21:40.16
九州説妄想爆発
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:22:12.34
投馬国、邪馬台国は半島、本州以外ですね
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:25:17.10
九州説のひとって思考して無いんじゃないの?


 
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:25:34.95
>>525
四国だよ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:26:40.31
>>526
妄想だろう。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:26:45.51
>>516
考古学では畿内説が定説
あり得ないというのは勉強が足りないだけ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:30:02.31
>>526
>妄想だろう。

九州説のひとは思考せず妄想するってこと?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:30:24.36
>>517
九州で倭国乱
そこですでに広域の連合ができていた本州にイニシアチブを取られた
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:32:16.03
参問が仏教語は無理かな?

中国の仏典翻訳の本格化は300年以降
陳寿は卑弥呼時代の卑弥呼王位の190どころか
卑弥呼朝貢の238〜の三国志で蜀の官。
蜀の滅亡から魏で、かろうじて登用された文人。

参問倭地は
単に金印を卑弥呼に届けた際に
梯儁が参問した女王国国勢の21国の名前。

参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:33:32.96
まず古代中国の文字の意味を調べたらいいのに
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:34:11.27
そもそも魏志に「倭国大乱」って出てこないから
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:36:33.54
>>534
だったらなに?
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:36:57.05
>>534
九州でも限られた地域だしな。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:42:29.00
>>534
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國

卑弥呼が倭国大乱を納めて女王位に着いたんだが
大乱は、女王国が筑紫なら狗奴国とも関係ないかもな?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:42:46.79
>>535
>だったらなに?

実際は「倭国大乱」なかったって結論でいいでしょ?
痕跡ないんだから
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:45:37.98
>>537
70、80年も戦争をした跡がない
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:50:27.04
>>503

吉武高木は3世紀前半あたりは断絶している
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:51:04.83
三角縁神獣鏡の牙城を崩さないと畿内説は全くビクともしない
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:54:44.99
>>539
しょうがない子だねえ
70-80年間安定していたのに、その後数年間倭国が乱れた。これを俗に倭国大乱という。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:56:29.43
>>542
すなわち、九州説しかあり得ないという結論は導けない
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:57:17.35
>>537
その通り、女王が伊都国なら、狗奴国は乱に関係ないね。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 18:57:22.24
>>538
弥生時代中・後期の高地性集落が倭国大乱の証
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:00:15.82
大阪平野の開拓が仁徳天皇の時代やで

おそらく西暦420年ころ

神宮皇后の時代が西暦350年ころだろうからなあ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:01:42.60
>>538
後漢書にははっきり書いてあるが?
しかも魏志より情報が増えて詳しくなってる

魏志  倭國亂相攻伐歴年
後漢書 桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:01:44.59
>>546
>大阪平野の開拓が仁徳天皇の時代やで

根拠は?   @阿波
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:01:46.02
>>533
お前は調べたのか?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:04:46.55
>>543
畿内には大乱の痕跡がない
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:06:10.06
>>547
會稽東冶之東
だから1里130mぐらいでいいか?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:06:23.40
>>523
>畿内説「ええこと考えた!伊都国から卑弥呼連れてこよ?!」

そうだね、連れて行って、「今回出土した糞石は、卑弥呼の糞石の可能性があります・・、」
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:07:33.71
高地性集落はかつては倭国大乱と関連付けて考えられたが、倭国大乱よりも時期が古いので今はそのような見方は取られていない

https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/

>弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落。人が住むには不向きな山上や山腹に営まれた集落は、武器類の出土などから邪馬台国の女王・卑弥呼の共立につながったとされる「倭国大乱」と関連づける見方があった。が、近年の科学測定などにより、出現時期はほとんどが倭国大乱以前だった可能性が高まり、歴史像の再考を迫られている。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:09:07.46
例えば唐古・鍵遺跡に注目してみると
卑弥呼の時代にはその大環濠は大量の土器などで埋められてて消滅していた
大乱どころか平和を享受していたわけだ

しかし古墳時代に入るとこの大環濠が再掘削されて復活する
つまり古墳時代の唐古・鍵遺跡には戦の足音が聞こえていたわけだ
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:13:39.83
伝承を信じるなら帯方郡開拓団がそのあと大阪平野開拓団に回された

つまり東漢氏の伝承です
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:14:32.02
>>551
>會稽東冶之東
>だから1里130mぐらいでいいか?

理由は?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:15:00.61
>>555
信じないので没です。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:16:06.42
>>553
つまり>>10はデマカセだった
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:16:33.69
>>556
會稽東冶之東だからだよ。
郡から何kmある違うなら訂正する
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:18:10.21
>>554
>卑弥呼の時代にはその大環濠は大量の土器などで埋められてて消滅していた

証拠は?
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:23:15.19
倭国大乱は卑弥呼が収めた。

しかし、卑弥呼は軍事政権ではない。
大乱自体が、意味不明だろ?

238年魏に朝貢だが、
246年韓王滅亡で魏の侵攻の危機は
九州に及んだ。

卑弥呼は245年の魏軍からの
韓制圧の激に出兵しなかった。

247年に張政が査察に来た。
これが、歴史だろ?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:23:27.07
>>556

會稽東冶之東だからだよ。
郡から何kmあるのか?
違うなら訂正する

返事よろしくね。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:26:34.83
>>550
畿内とは大和国(奈良県全域)
山城国(京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)
河内国(大阪府東部)
和泉国(大阪府南西部)
摂津国(大阪府北中部および兵庫県神戸)

高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:29:53.78
>>562
韓が二郡に攻められたのは反旗を翻したからだし
張政が倭国に派遣されたのはその騒乱より前に黄幢やるよって決められてたのを持ってきたから
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:30:02.65
>>553
再考を迫られているとする人もいるのだろうが大規模な紛争があった証
卑弥呼の即位によって、この高地性集落も環濠集落も姿を消すことになる
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:36:55.40
>>562
男王の時代が70-80年ほど続いてのち
相攻伐暦年大倭王が居なかった
各国は女王を共立して停戦に漕ぎ着けた
卑弥呼没後に男王が立つも再び内乱になりかけて
今度は台与を共立した

となると大倭王の後継者争いを疑うわけだが
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:38:15.67
其南有狗奴国 で畿内説はすべて崩壊するw
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:40:10.15
>>565
245年の、黄幢やるよ
が、魏の正規軍事として参戦せよ!
の激だが?

韓制圧戦で、太守が戦死
新太守が到官で、張政は査察に来た。

日本は抗戦の準備の有る
博多湾を張政に見せなかった。

だから、軍港のある
伊都までの500里を歩かせた。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:42:09.40
正始8(247)年、倭女王卑弥呼が帯方郡に遣使し、狗奴国の卑弥弓呼と交戦中と説明する で、「箸墓=卑弥呼の墓」説は完全に瓦解するw
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:49:15.15
>>569
時間が前後してて草
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:52:04.27
>>568
倭国の南に狗奴国(熊本・鹿児島・西南諸島)でどこにも矛盾がない
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:52:28.66
卑弥呼の墓を見たのは張政だが?
伊都に常駐した。

卑弥呼の墓は九州上陸港から
南東500里の伊都周辺に有る。
箸墓って、何?
平原なら、有るよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:53:41.07
文字使用痕のない遺跡は邪馬台国ではない
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:56:22.21
>>562
>倭国大乱は卑弥呼が収めた。

お人よしだねえ、
卑弥呼の後にいた公孫康が、難升米らに命じておさめさせたんだよ。卑弥呼ちゃんはお飾り。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:58:41.39
>>573
張政が見た卑弥呼の墓の後円墳部の大きさがそのまま三国志・魏志倭人伝に記されて残ることになった
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 19:58:51.34
>>570
古墳時代を通して征服しながらでかい墓作ってるから問題ない
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:02:52.67
公孫康が父の後を継いで太守となったのは204年、倭国大乱は桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:03:08.05
>>574
平原の破鏡は、100年代でも
日本製の可能性が高いが
文字は書かれている物も多い。

三角縁でも紀年鏡が有る。
卑弥呼時代は文字が有る。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:05:54.04
倭国乱とは九州での出来事
戦争跡は纒向政権の主体である出雲・吉備勢力が、内乱をしている伊都国に攻め入った時の死者の跡
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:08:09.54
>>580
君にはwikipediaで「倭国大乱」を調べてみることをお勧めする
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:10:23.49
>>576
前方後円墳?

卑弥呼の墓は
狗奴国と抗戦中と言った遣使から
往復の一年以内で盛った
盛り土の墓だろ?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:10:56.30
>>569
>245年の、黄幢やるよ
>が、魏の正規軍事として参戦せよ!の激だが?

これまた、お人よしだねえ。
黄幢は、官に征伐のお墨付きと支援を与える「征夷大将軍の錦の御旗」のこと。
黄幢と共に、それなりの兵団も与えられたのだよ。
倭国大乱で、親魏倭王卑弥呼・率善中郎将難升米に逆らった、博多奴国などの反乱軍を討伐せよの意味。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:11:32.49
>>580
>纒向政権の主体である出雲・吉備勢力

主体が出雲・吉備勢力で、纏向に政権とは実に滑稽な妄想だな。   @阿波
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:13:52.90
>>582
張政が台与とともに纏向にいたときに、卑弥呼の前方後円墳・箸墓の築造が始まっていたのだろう
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:15:33.78
>>581
大乱などない
大乱してたら、銅鏡は入ってこない
しかし、漢鏡7期には画文帯神獣鏡が畿内で100以上入ってくる
要するに、邪馬台国が九州であったならば、漢鏡7期鏡をもらいに、畿内勢力が大乱中に通過できたのかが問題になるが、そんなことは考えられない
よって、九州説は排除されます
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:17:36.85
>>578
204年は帯方郡が出来た年で、公孫康が帯方郡の太守になった。
それ以前は、楽浪郡が倭国の統治を進めていたが、その時代の公孫康だよ、
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:18:40.76
>>583
なんで、倭人船で義軍が来る?

魏の公孫氏追討から韓王朝廃絶以降、
九州と日本海諸国の日本は
対義軍で、防衛体制だ。

青銅、鉄器の輸入が止まるんだよ?
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:20:37.25
投馬国、邪馬台国は半島、九州、畿内以外ですね
自女王國東度海千餘里はどこだろう?
三重県は女王国ではない。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:21:45.84
>>586
普通に沖ノ島経由で渡るれる
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:22:31.12
>>587
倭国大乱は189年には終結している
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:28:13.50
畿内では、2世紀末〜3世紀初頭に画文帯神獣鏡が増え、銅鏡の数では北部九州を上回るようになる
その間、イト倭国はお家騒動か、まあ本当にまあまあの内乱で死に体だったのだろう
共立王卑弥呼によって、乱好きの北部九州は、一大率を設置される(大陸と交流できなくて迷惑だから)
イト倭国はこれによって畿内邪馬台国へ事実上の禅譲を余儀なくされる
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:28:29.52
>>588
公孫康は2代目で、
後漢時代の曹操から左将軍(東夷征伐将軍)に取っり立てられたほどの親密さ。
魏の公孫氏討伐は、それから約30年後の237年から238年にかけてのこと。
その時代は、4代目のバカ殿公孫淵だったのだよ。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:29:26.16
>>590
沖ノ島は北部九州そのもの
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:32:17.54
東夷征伐掲げてるのに魏と日本が通交あっただの妄想してるのは魏を信奉する中国人か日本内の歴史改変者かどちらかよな
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:37:02.83
>>595
東夷征伐掲げてるのは半島の人
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:42:39.33
卑弥呼の時代に北部九州は衰退していると近畿至上主義の畿内自生説は言いたがるが、考古学的には否定される

例えば松木武彦は「古墳とはなにか」(角川ソフィア文庫)で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:45:43.67
>>592
おおよそ関東から北部九州までが倭国
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:45:47.52
古墳時代の北部九州については、久住猛雄もXのポストで以下のように弱体化説を否定する

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
0600日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 20:56:00.21
2世紀末〜3世紀前葉に萩原2号を作った阿波の人たち
A「北部九州はまだ内乱してます」
B「あいつらガチ邪魔じゃね?」
A「あいつらのせいで中国産の水銀朱取りにいけない」
B「ああ、誰かイト倭国を倒してくれれば良いのに」

吉備の人たち「俺らも昔はよ、楯築作る為に(半分を国産と仮定する)32キロの半分の16キロもの大量の水銀朱を中国まで取りに行って、船で運んでわざわざ吉備まで持ってきたんだぜ?ガチでイト倭国迷惑だわ〜。あいつら倒す為にみんなで考えようぜ」

纒向政権卑弥呼によって、イト倭国は卑弥呼の属国となる。
安心して中国に行き、水銀朱をゲットし、阿波に帰って萩原2号完成。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 21:01:26.71
>>600
吉備忌部が楯築を造ると言うもんだから、水銀朱を下賜したが、32キロはちょっと気前が良すぎたな。   @阿波
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 21:38:05.41
丹後 赤坂今井墳墓の朱は?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 21:51:04.43
>>585
卑弥呼の墓は径100歩ではない
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼は既に死んでおいた。多くの冢が作られ、径百余歩に徇葬者の奴婢が百余人であった。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 21:55:39.04
>>586
歴年とは数年間で長期間ではない
また、新品の銅鏡を輸入したとも限らない。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:03:49.45
>>604
九州説はデタラメが好きで漢文が嫌い
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:04:21.20
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:09:22.17
>>605
そうではなく、漢鏡7-2の画文帯神獣鏡と漢鏡7-3の斜縁鏡が共伴されることが大切だ
斜縁鏡は三角縁神獣鏡の兄弟鏡であることからも極めて重要だ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:24:01.16
墓についての私見を述べる
雑魚キャラなら死んでから墓を作る
王候レベルは死んでからデカい墓を作ると、その間は石棺なり木管なりに数年は放置しなければいけないから、死ぬ前にある程度は作っておく
卑弥呼は婆さんなんで、すでに生前に造営が開始されていたと見るべき
棺に入れたまま箸墓ができるまで、何年もどっかで管理していたというのは考えがたい
かといって、まだ完成していたとも思えない。それは張政が見たことからも分かる「徑百餘歩」

すなわち、張政が見たのは「徑百餘歩」に卑弥呼の棺を入れた時である
張政は完成形は見てないはずだ。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:41:26.67
どうも銅鏡は和製の判定が難しいなら
年代の特定に使えないらしいね。

2世紀の八咫鏡とかの平原鏡と
250年以降の三角縁は和製だろ?

卑弥呼の250年以降に
銅鏡輸入なんて必要なのか?

公孫氏滅亡で、楽浪帯方に居た
呉の鏡師が渡来してるだろ?
それが本州古墳の和製鏡だろ?

何が考古学年代の規定だよ。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:46:35.15
>>609
九州は古墳時代じゃないし
箸墓はいつから誰のために用意した?

卑弥呼は大乱後で古墳時代以前の
190~247年の女王だが?
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 22:54:55.55
邪馬台国論争がアホらしいのは
そんな倭の女王はあり得ないのに
大和朝廷の王に批准出来ると思ってる事
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:03:28.91
>>611
漢鏡7期に銅鏡の数で、北部九州より畿内の方が多くなり始めますよね?
仮に、卑弥呼が九州にいたならば、なぜ九州では漢鏡7期で畿内に抜かれるのでしょうか?

卑弥呼は銅鏡に全く興味がなかったのでしょうか?
銅鏡に興味がないのに、魏帝から銅鏡100面をもらったのでしょうか?
そして、それとは別に畿内では同時期に画文帯神獣鏡や斜縁鏡のような鏡をもらっていたことになる。

魏帝は、北部九州邪馬台国には漢鏡5期をあげて、畿内には漢鏡7期をあげたということでしょうか?
それをどう理解すればよろしいですか?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:15:43.96
卑弥呼の時代は公孫氏が帯方郡を設置して後漢と朝貢が絶たれた時代だな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:18:50.34
漢鏡を大量に九州から畿内に持ち運んだ集団がいたんだ(物部勢)
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:33:49.05
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:34:49.52
>>612
朝廷という言葉に何か権威のようなものを感じている様子ですが、これは朝の広場という意味
廷は英語で言えばcourt、何かをするための空き地、テニスコートはテニスをするための空き地 裁判所も集まって裁判をするための広場
朝が付くのは昔の中国の朝廷は朝早くに集められていたから、暗いうちに集まったのは議決事項を周知したり実施するための時間を確保するため
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/14(水) 23:40:08.53
>>615
景行が九州侵攻してきたとき神夏磯姫は仲間の土蜘蛛裏切って密告したが
もしかしてこいつ物部勢か?
0619琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/15(木) 00:21:14.43
無駄だよ。
八角墳墓は神獣鏡を使わない
それ以前に神獣鏡神仙思想はあり
鬼道とは道教。
箸墓が卑弥呼墓であり五斗米道の巫女であり殉葬は当時まだ使われていない殉教に過ぎない。
九州は全くの出鱈目な作り話に過ぎず自らの馬鹿さ加減を誤魔化しているだけに過ぎない。
憐れ
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 01:19:11.59
鬼道は仏教かもしれんぞ、インドから糸島に仏教が入ったのは2世紀だからな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 02:26:52.65
糸島最古の雷山千如寺が成務天皇四十八年(一七八年)に清賀上人の開創というのは間違い
清賀上人は8世紀の西域の僧で
聖武天皇の御代に油山観音を開基し椿油を搾り、
怡土郡(現在の糸島市)の天皇勅願寺(五力寺)に灯用油として送るとされている
成務天皇の父は景行天皇なので、
2世紀前半に景行天皇が九州に親征したことになってしまう
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:01:32.28
そうか
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:14:07.42
アホらしい、遠賀川遡上説はみごとに崩壊しました。

遠賀川で田川まで行けます。 江戸時代に帆をかければww  「阿波」はぜんぜん困りません。   @阿波
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:31:41.50
阿波説がインチキだと言うのは決着が着いている、諦めろ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:46:24.70
阿波説がインチキだと思うほど、驚異的ってことだな。   @阿波
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:46:41.91
銅鏡祭祀を畿内に持ち込んだのは物部氏
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:51:03.10
キナイコシの頭じゃあ理解できないときに投稿する嘆き。何も論ずることができず、悔しさがにじみ出てる。無駄なレス。


>九州説の人はなぜ全く理由を言わないのだろうね
>理由は?
>九州説のひとって思考して無いんじゃないの?
>証拠は?
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 06:55:21.89
>>604
畿内説は漢字を読めない 
南と東の読みの区別もつかない
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:01:32.58
>>628
阿波も同じ、海の無い場所を水行しますw
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:04:33.68
畿内説の人は万二千里の二千里だけ長里を使うんだよね。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:07:23.46
阿波説は商工会の町おこしだかなあ〜
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:10:25.39
>>626
>銅鏡祭祀を畿内に持ち込んだのは物部氏

つまり、倭人(阿波勢力)   @阿波
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:10:54.86
九州の遺跡などは、邪馬台国とか卑弥呼とか叫ばなくても人は集まるけど、
桜井市纏向はいくら叫んでも誰も来やしない。
なぜだかわかるかなあ??????
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:25:45.02
>>633
箸墓を上から見るロープウェイでも作れば少しは集客があるかもだがw
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:27:36.25
支那北朝も三国魏と同国号にして南朝と後継争い。
日本も邪馬台国→大和国で継承。
もう女王は天皇家に統治委託した天照=卑弥呼でいいだろw
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:32:14.18
>>635
>日本も邪馬台国→大和国で継承。

違う。
倭国(阿波)→大和国で継承。
「邪馬臺国」は倭国(阿波)の一部に過ぎない。   @阿波
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:32:48.61
>>635
卑弥呼には子孫がいないのでボツですね。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:41:42.16
>>609
>>604なのでボツ
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:42:53.37
投馬国、邪馬台国は四国、本州以外ですね
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:45:33.19
>>639
>投馬国、邪馬台国は四国

四国でも、黒潮太平洋沿岸の南四国な。  「狗奴国」も。   @阿波
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 07:55:50.25
大国は、興るべく環境の地に興る。   @阿波
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:00:03.44
>>637
神や巫女の世界に直接的な子孫はいねぇw
天皇は天照と素戔嗚の占いで生成された子孫w
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:14:38.47
>>642
皇祖は誰なんだ?
0644ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/02/15(木) 08:24:30.98
参問が仏教語のように見えたのは、仏教の一宗派である禅門の言葉に雰囲気が近いからだろう

さすがに三国時代に禅宗は難しいのではないか

そもそも唐王朝時代までの中国仏教は真言宗や華厳宗や天台宗や法相宗などが有力であった
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:30:59.51
>>643
天照だろw
天皇と三種の神器の関係で宗教的に親子関係ってことだw
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:33:50.61
>>645
最初の男系の皇祖は誰かな?
0647ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/02/15(木) 08:38:18.29
記紀で巫女や神職が神の子だとか娘とか出てきたら、大抵は祭神に仕える宗教者という意味だからな

良く巫女が朱塗りの矢を神から受け取る話が出てくるが、朱塗りの矢というのは日本文化だけのものではない

ヨーロッパでは恋愛の神(キューピッド)は恋の矢を射るのだという
インドでも愛の神であるカーマは矢を持っている
瞑想に耽るシヴァ神に矢を放った話は有名だ

後の日本の時代では愛染王という仏尊が重んじられた
この愛染王は真っ赤な姿で手に弓矢を持っている

おおよそ大陸では愛の神は手に矢を持つのである

朱塗りの矢を神から受けるというのは神に大いに気に入られたという古代的な表現だったのだろう
ただヨーロッパだと的は心臓だがホトというのが日本的なところではある

纏向から方相氏の仮面が出てきたり桃の種が出てきたりと、ヤマト王権は大陸の宗教の影響をかなり強く受けている
愛の象徴が矢というのは大陸の影響ではないかと思うのである
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:42:39.40
縄文壺🏺は死体を焼くのに利用された古代の儀式焼却用容器だった可能性が高いわけな

まあ神事には関連してるのやろ

だからあれだけ装飾だのこった作りになってるわけ

埴輪だのも誰かが死んだときに大量に製作されたりしとるわけ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:43:43.57
白羽の矢は人身御供を意味する
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:44:06.00
高句麗埴輪みたいのが大量に見つかってるとこもあるやろ

ならそこに高句麗人でも移住してたのかもな

それを縄文人らが作ったわけ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:46:01.78
縄文人は朝鮮を通ってないよ
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 08:46:35.45
穀類などを貯蔵する用途に利用されたのならあんな装飾に凝る必要がないわけな

食料の貯蔵に壺が利用されたのなんてのもそりゃ大陸の方の話なわけ
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 09:06:42.62
天照大神が人の代に関与した人物は神武天皇と神功皇后のみ。天照が卑弥呼!
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 09:26:58.16
記紀と結び付ける思考もある一方で
まったく関係ないとする思考もある。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 09:32:14.00
>>654
月読と思う。
男神にさせられたとか?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 10:18:36.40
邇邇芸や饒速日はどうなるんだ?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 10:31:55.79
邪馬台国と関係ない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 10:56:06.74
>>643
皇統を応神以前に遡るのは無理なので
卑弥呼も含め300年以前の豪族は
無関係である、とも言い切れない。

300年以降でも、
物部朝、蘇我朝、その他地方豪族の
後宮性治によって5~600年辺りまでで
貴族化している。

記紀で地方豪族に神話の神が
割り当てられたのは
これが、原因。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 11:10:16.51
>>659
>物部朝、蘇我朝、その他地方豪族

物部氏も蘇我氏もその他豪族も、全部倭人(阿波勢力)なのだ。 記紀神話の神々は「阿波」の神々。   @阿波
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:19:58.19
理由の言えないやつは頭が悪い
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:22:53.60
639
無理だ
下手したら漢王の系譜を天皇の系譜と入れ替えてるところもある
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:24:02.65
天皇に絡むところ調べていったら

😳これ漢王に繋がらないか?🤔やべ〜な

誰だよこれ組んだの?😳ってな
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:25:31.63
応神以前は切り捨てるしかねえな😂こりゃってな
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:30:38.34
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:32:34.14
応神とかもう完全に宗像だか物部だかの王権だろ
崇神王朝は神功応神で宗像物部勢力に乗っ取られたな
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:33:53.65
>>667
妄想の世界だな。   @阿波
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:38:32.34
@まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
Aそして、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+対馬400里+1,000里+壱岐300里+1,000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11,300里から半径700里=50qの範囲)に限定され、伊都→博多までの北は玄海灘、東(正面)は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子→卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東治(実は冶)の東(の海上)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
..................................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都(沖縄那覇あたり)
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:44:31.05
呼=児=子 =觚(←new!)

744 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 17:00:22.16 ID:i7D+QrZN0
卑弥呼 = 日女の子(児)

つまり、アマテラスの子 = イチキシマヒメ

>男弟佐治國
弟は年下の意味(兄弟関係なく)

伊都国の官トップ爾支はニニギ
イチキシマヒメ(年上)は天孫降臨時のニニギ(年下)の養育係

トヨはトヨタマヒメ
トヨタマヒメは山幸彦の奥さん
トヨタマヒメとイチキシマヒメは海つながりで
その関連性も一致
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:45:37.82
狗奴国 河内説だけはない件

239 日本@名無史さん sage 2023/07/04(火) 12:34:03.43
狗奴国河内説
↑9月末に反乱して10月には終息
伊都国まで1ヶ月以上の片道、魏に報告する前に終了w

一番、破たんしてる説w

>崇神天皇10年
9月、四道将軍派遣、武埴安彦の叛乱
10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:46:50.52
字義から考察すれば、ここまで見えてくる新解釈

24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家

邪馬台国の官トップは

伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬

あてた字を見れば一目瞭然な分家


北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり

本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 12:49:20.03
字義考察で見えてくる邪馬台国の「馬」

979 日本@名無史さん sage 2024/01/27(土) 18:14:00.23
邪馬台国の「馬」という字は、どこから来てるか?

以前は、馬韓の由来から超考察したが
(魏志倭人伝を正しく読むスレの過去ログ参照)

最近の俺の考察では「御者」から来てるのではないかと

御者 = 馬をあやつる者 = 別の漢字で「馭者」とも書く

太陽は馬車で引っ張られて、天を駆けていた

だから、御者

↑天照大御神の「御」も、ここから来てる?

神武天皇の「始馭天下之天皇」の「馭」も、そこから来てる?w

つながるねーw
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 13:15:22.81
卑弥呼=日見子 か!
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 14:27:47.61
そこで英彦山(日子山)、物部氏支配地遠賀川の霊山が怪しい
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 14:31:35.00
日田で魏に関連する重要な品物が出てるしな
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 14:35:33.29
馬鹿げた、遠賀川遡上説はみごとに崩壊しました。

遠賀川で田川まで行けます。 江戸時代に帆をかければww  「阿波」はぜんぜん困りません。   @阿波
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 14:58:54.30
魏は日本にとり敵国だから非常にまずいことなんだがな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 15:38:37.82
田川は奴国(二万戸)だ。   @阿波
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 15:47:37.52
英彦山は大国主が住んだとの伝承があるので宗像大社の奥宮であろう
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 15:52:09.30
九州説の人って誰とも会話しないの?
0685ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/15(木) 15:53:20.89
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

漢字を現代音で読むネトウヨ多すぎだな
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 15:54:23.86
>>683
>英彦山は大国主が住んだとの伝承

大国主は海の人。 そんな山奥には住まない。   @阿波
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:01:38.01
>>685
チョンコは劣等遺伝子
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:06:07.39
大国主の嫁が宗像族。大国主は宗像に婿入りしたのだろう
0689日本@名無史さん
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2024/02/15(木) 16:12:15.12
>>688
>大国主の嫁が宗像族

宗像族は、いわゆる筑紫忌部の一派。   @阿波  
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:23:43.72
阿波の捏造はもう飽きた😩
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:26:11.90
その程度、九州説の捏造に比べたら可愛いもんやで
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:30:35.11
>>690
「阿波」が捏造だと思うほど、驚異的ってことだな。   @阿波
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:33:28.32
阿波説の頭の悪さは驚異的
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:36:15.78
阿波はほっとき
ホルモンやで
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:36:56.61
唐の二王三恪が漢→魏→晋→魏→周→隋→唐のルートなんで倭の五王が記紀に載ることはないw
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 16:49:32.57
>>695
海の恵みを一切得られない、九州や畿内の山奥で発展する見込みが全く無い所には落ちたくないものだ。   @阿波
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:03:02.71
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:11:19.40
海の恵みを一切得られない、九州や畿内の山奥で発展する見込みが全く無い所には落ちたくないものだ。

まさかそんな所に落ちる馬鹿はいるはずがないよな。   @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:22:53.58
漁港の水揚げ高で見れば、福岡は金額で全国2位、数量で全国10位、長崎は金額で全国3位、数量で全国4位と上位
翻って徳島も含め四国は金額でも数量でもベスト10に入っていない

阿波より九州の方が海の恵みがありそうだが

https://www.minato-yamaguchi.co.jp/minato/e-minato/articles/119294#:~:text=%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%91%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E8%A6%81,%E4%BD%8D%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%A8%E7%B6%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:23:22.07
>>700
まぁ、海に関して言えば、北部九州だな。   @阿波
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:28:56.59
>>702
だけど九州には、よりによって海の恵みを一切得られない畿内の山奥を目指す好き者がいるらしい。   @阿波
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:40:48.28
>>698
馬鹿のおかげでって何?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:46:43.94
畿内の山奥に遷都、征伐とか書く
阿保がいるけどね
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:51:48.50
>>705
畿内の山奥に遷都したのは、万やむを得ず避難疎開のため。  好き好んで遷都した訳ではないから。   @阿波
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:53:59.43
>>706
しかし、大和朝廷として日本全国を統治するには、四国から出たのは正解だったと言える。   @阿波
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:55:45.91
邪馬台国論争をする際に、阿波も検討するのが学者
あり得ない場所は排除していく
投馬国は九州に設定することがダメなので排除(九州は有力なので他にも排除せざるを得ない多数の理由を挙げなければならない)
阿波は比定地、出土物などから排除
東海以東は文献上は成り立つが、出土物から排除
沖縄も文献上は成り立つが、出土物から排除
外国は文献で排除
吉備説、出雲説はまあまあ悪くはないが積極的に評価する理由がない

結局、九州と畿内の頂上決戦で畿内となる
考古学者に、九州説と畿内説しかいない理由がそれ
と言っても、九州説をとる考古学者は極めて少ないが
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 17:57:03.30
>>707
これは、藤原不比等に先見の明があったのかもしれない。   @阿波
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:00:13.40
伊万里じゃ水銀朱とれないよ
陶土に不純物として検出されるだけ
古代じゃ採掘不能
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:07:44.09
>>408
>畿内説の1/3トンデモが朝鮮投馬国だな

そんな狂った人は九州説信者だけ
畿内説は「方位は間違ってる」と証拠を出して言ってる
九州説は「方位は合ってる」けど30度も違ってると根拠もなく変なことを言ってる
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:11:27.55
>>411
>あるから常識的に考えて。

そんなおかしな常識が有るって証拠は?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:16:13.65
>>711
>松浦あたりは掘らなくても落ちてるから

ウソをつくのは九州説
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:22:44.73
>>712
証拠ってなに?
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:27:44.83
>>712
倭人伝の方角が30度ずれているのは正しい。畿内説が90度ずれているのはトンデモだからである
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:29:45.52
>>410
伊都国が女王卑弥呼の王都だから親魏倭王に冊封するに際して
魏の使者は伊都国までしか来てないんだ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:31:08.09
>>717
20度程度のずれだな
人間が気付かない程度のずれだな。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:33:43.30
>>718-719
まぁ、トンデモならではのバカバカしい話題だな。   @阿波
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:35:29.33
>>716
>証拠ってなに?

九州説の人は見たこと無いものだな
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:37:19.43
>>719
>20度程度のずれだな
>人間が気付かない程度のずれだな。

九州説は太陽見ないんだね
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:38:53.55
>>418
>伊都国が女王卑弥呼の王都だから

倭人伝無視の九州
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:43:39.19
>>722
キモ過ぎ
畿内説と違って太陽見てるから南を東にしないよWw
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:44:56.49
>>717
>倭人伝の方角が30度ずれているのは正しい。

間違いなのに正しいと言い張る九州説
不合理な主張


>畿内説が90度ずれているのは

間違いを間違いと言う畿内説
合理的なだけ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:47:29.80
>>724
>キモ過ぎ
>畿内説と違って太陽見てるから南を東にしないよWw

太陽見てれば北東を東南とか言わないよね
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:48:06.29
>>723
倭人伝 読めない畿内説
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:50:07.89
畿内説の人って、誰とも口を利かないの
馬鹿は一人でうろうろしちゃいかんよ
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:51:00.54
>>721
説明できないものだったか
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:53:27.51
>>726
倭人伝読んでないのかな??
草木が茂って、前も行く人も見えないとか書いてないかな?
多少の方位の狂いはあっても不思議でない。
畿内説みたいに360度見渡せる瀬戸内海で、南を東にするのとはわけが違うWw
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:55:31.60
>>726
おまえはアホか
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:58:44.87
>>726

あんた松浦から陸行で北東に進みなよ。
海にドボンだよ。
小学生以下の頭(笑)
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 18:59:47.18
>>725

日本語でよろしく
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:01:13.10
その程度の勘違いなら、畿内説の捏造に比べたら可愛いもんやで
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:04:03.99
>>726

あんた松浦から陸行で北東に進みなよ。
海にドボンだよ。
小学生以下の頭(笑)
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:07:54.85
今日もキナイコシは馬鹿を言って笑われるのでした。
いつものとおり負けても勝った勝ったと泣いて帰るキナイコシであった。
キナイコシのお馬鹿数行投稿に悔しさがにじみ出てる。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:08:59.30
何回も書くが、南は東と読み替えるべきというのが畿内説の立場
タイムマシーンに乗って、纒向に卑弥呼いたならば、魏志倭人伝の「南」は間違いで、「東」が正しいことになる

畿内説には、タイムマシーンに乗って、纒向に卑弥呼がいたのを視認したレベルの状況証拠がうず高く積み上がっている
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:12:11.64
>>737
>畿内説には、タイムマシーンに乗って、纒向に卑弥呼がいたのを視認したレベルの状況証拠がうず高く積み上がっている

海の恵みを一切得られない、九州や畿内の山奥で発展する見込みが全く無い所には落ちたくないものだ。

まさかそんな所に落ちる馬鹿はいるはずがないよな。   @阿波
0739倭人伝の読み込み
垢版 |
2024/02/15(木) 19:20:59.20
倭人伝には行程のヒントとなるものが記述されています
1,循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
   これは単に方位と手段(水行)を記述せず詳しく海岸沿いを南に行ったり東に行ったりと説明しています
2,次に
   東南陸行五百里到伊都國 の 前段で
   濱山海居 草木茂盛 行不見前人と記述し末盧國の陸地の様子を記述しています

つまり、南至投馬國水行 南至邪馬壹國 とは違い単純に方位と水行か陸行かだけでは行程は断定できないので様子を記述しています。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:23:09.81
>、南は東と読み替えるべきというのが畿内説の立場

明快な根拠を示すべきである
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:23:12.61
畿内説的には邪馬台国の存在を疑わないのはなぜだ?
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:25:34.09
>>722
太陽見ただけでは20度程度ズレは気付きませんよ。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:28:02.59
>>740
考古学で、もはやタイムマシーンで纒向に卑弥呼がいたことを視認してきたレベルに達したからだ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:29:36.79
>>737
>纒向に卑弥呼がいたのを視認したレベルの状況証拠がうず高く積み上がっている<

3世紀に纏向に人がいなかったと誰も言わないよ。日本各地に人は居たのだからね。
肝心なのは纏向遺跡に倭人伝記述と合致する遺物が数多くあるかどうかでしょうね。
残念ながら、三世紀に人はいたことはわかるが、残念ながら土器、カエル、桃、水路、大きな建物の類は倭人伝に記述されていない。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:30:55.03
>>744
残念ながら、倭人伝と合致するか否かは九州と畿内で大差がない
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:32:08.31
>>743
笑えるけどジョークもほどほどに
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:33:26.29
太陽が朝真東から登っても、その後は刻刻方角を変える。
顔を洗った頃には東南東、9時には東南、12時には南だ。東行の頼りにはならん。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:34:27.38
>>746
あなたが仮にタイムマシーンに乗れたとして、纒向に卑弥呼がいたのを視認したとしたら、「南」は間違いであることが分かりますよね?
それとも、それでも「南」だと言い張りますか?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:35:28.99
>>745
>残念ながら、倭人伝と合致するか否かは九州と畿内で大差がない

具体的に証拠を列記しなさいよ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:39:21.24
>>749
・短里が存在しない 
・吉野ヶ里の代わりは畿内説だと唐古・鍵である(吉野ヶ里に卑弥呼がいたと主張する人々だけが、それはおかしい!と言い切れる)
・畿内説では九州を包括しているから、魏志倭人伝に書かれたのは九州だという主張そのものが無意味
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:40:58.05
>>748
あんたのタイムマシーンの性能が悪いので乗れませんWw
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:45:19.72
>>745
>残念ながら、倭人伝と合致するか否かは九州と畿内で大差がない

「阿波」とは大違いだがな。   @阿波
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:49:40.95
>>750
>短里が存在しない・・・私もそう思いますよ。倭人で記述の里数と実数値を計算し導かれた一里の距離でしょうね。
この理数的な分析では万二千里で畿内には至りませんね
>野ヶ里に卑弥呼がいたと主張する人々だけが、それはおかしい!・・・・私も現調査段階では時期尚早だと思います。
>畿内説では九州を包括しているから、魏志倭人伝に書かれたのは九州だという主張そのものが無意味・・・
畿内説の立場からの意見でしょうね。九州説には関係ないでしょうね。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:50:11.31
>>752
阿波には、吉野ヶ里や唐古・鍵みたいな遺跡はありますか?
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:52:18.63
>>753
そうです。畿内説の立場からです
したがって、畿内説では九州か畿内か分からないので考古学で状況証拠を積み上げてきました
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:53:41.87
>>754
「吉野ヶ里や唐古・鍵みたいな」ってどういう意味?
鉄器「鍛冶炉遺構」や水銀朱精製遺構があったらだめ?   @阿波
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:57:59.74
>>747
時計の無い時代だからな
太陽が一番高い頃がお昼でその時の太陽の方向が南
それから90度が東
20度程度の誤差は当たり前の時代
流石に東と南は間違いようがないな。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 19:59:21.46
>>756
九州説では、吉野ヶ里や唐古・鍵みたいな遺跡がないとダメらしいです
水銀朱を検討材料に入れて、九州か畿内か択一で選べと言われれば、無論畿内が有利になりますが、
畿内か阿波かどっちか択一で選べと言われれば阿波が断然有利になります
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:03:41.82
畿内説の人に質問?

畿内説?の方に多いと思いますが、桃は中国では祭祀に使うから、纏向で祭祀がウンヌンとよく言いますが。
はたして、「事鬼道能惑衆」の作法は当時、中国と似ていたのでしょうか?
国それぞれで祭祀の作法も違うと思うのですが、、、、、
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:07:35.39
畿内説とムーの親和性の高さがすごい
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:10:28.58
>>759
桃の種そのものは状況証拠のごくごく一部
無視してもいいレベル
「南」を「東」に読み替える方がはるかにハードルが高い
ただ、桃の種のC14の結果は大きな状況証拠の一つ
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:11:22.38
>>758
あなたも勘違いしてますね。

「其山有丹」の「其」は倭地を指します。
倭地は九州だけを指していません。
なお、九州でも丹が採取できると言う方もいますが、「倭地の山に丹が有る」との本来の倭人伝の解釈で良いでしょうね。
以前はずいぶん議論になったみたいですが、今では「其」は倭地を指すということで学会でも統一されているようです。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:12:54.26
>>758
>水銀朱を検討材料に入れて、九州か畿内か択一で選べと言われれば、無論畿内が有利になりますが、
>畿内か阿波かどっちか択一で選べと言われれば阿波が断然有利になります

鉄器「鍛冶炉遺構」は?   @阿波
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:13:46.57
>>762
畿内説では、そのように考えない人もいるし、そもそも無視している人もいるので何の問題もないです
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:18:08.31
>>763
客観的に阿波の方が九州より凄いと示せたならば、阿波有利
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:18:08.36
>>761
纏向で3世紀桃を食べてたら邪馬台国と関係あるのでしょうか?
市?とか、古墳造営?で人が集まってた証拠にはなるかもしれませんがイコール邪馬台国とは飛躍しすぎでしょうね。
現在の調査状況では古墳造営基地、兼、葬儀場とも考えられますし、そう唱える研究者もいますね。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:20:19.42
>>766
桃の種だけで、「畿内で決まりだ!」と言ってる考古学者がいたら、それは考古学者失格でしょうね
上東遺跡の方が圧倒しているわけだから
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:21:01.65
>郡より女王国に至るは、万二千余里なり。
これは帯方郡を出発した人が島嶼部以外の女王国に達するまでの距離
つまり九州に上陸するまでの距離
魏の人々は倭国の地理に疎いのでこの上陸地点が地理的な説明の起点となる
この起点から倭国を進めば進むほど帯方郡からは遠くなる
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:21:40.11
>>765
>客観的に阿波の方が九州より凄いと示せたならば、阿波有利

畿内とは?   @阿波
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:23:12.60
>>713
410に聞いてくれ
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:23:33.78
>>769
畿内は鍛冶炉遺構だけで考えると、九州と阿波に負けてると思います
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:24:54.50
>>713
ないというおかしな常識の証拠は?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:24:59.11
>>771
九州と畿内が「阿波」に勝っているものは?   @阿波
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:25:39.28
>>773
水銀朱だけです
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:26:09.06
>>771
別に邪馬台国に鍛冶炉遺構が多くあるという
記述はない。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:26:58.50
>>774
鍛冶炉遺構は?   @阿波
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:28:19.87
>>776
さっき答えました
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:30:56.85
>>777
>客観的に阿波の方が九州より凄いと示せたならば、阿波有利

これ?  阿波だけと九州全体を比較するの?   @阿波
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:30:59.76
>>775
考え方の前提となる条件が私とあなたでは違います
私の前提条件では、鍛冶炉遺構だけに限ると、畿内は九州と阿波に負けていると判断しました
が、タイムマシーンに乗って、卑弥呼が纒向にいることは確認してます
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:32:19.52
>>778
九州全体でなくても良いです
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:34:51.44
>>779
>タイムマシーンに乗って、卑弥呼が纒向にいることは確認してます

卑弥呼が纒向にいることをどうやって確認したんだい?  卑弥呼じゃないのでは?   @阿波
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:35:00.62
>>710
伊万里焼と関係するのはベンガラ。
希少価値な岩石を見つけたかもしれん
別に採掘とは書いていないけど
又若杉山採掘遺跡あるけど?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:37:38.65
>>781
比喩です
こう言わないと、文献(伝聞証拠)だけで決めつけようとする人がいるので
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:45:01.18
やっぱ、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:46:12.51
>>783
で、考古資料で決めるとすれば、何説なんだい?   @阿波
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:51:36.18
>>785
何度も書いてます
畿内説です
阿波説は九州説より無いです
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:55:43.50
>>786
たとえば、畿内に有って「阿波」に無いものってなに?   @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 20:57:09.15
>>786
たとえば、畿内に有って「阿波」に無い考古資料ってなに?   @阿波
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:01:05.01
>>787
「有」か「無」かという考え方をまずしません
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:02:59.11
この地理的な起点から伊都国で政務を執っている一大率について考えてみると
この起点から北を検察していると記されているが、これは一大率のいる伊都国と帯方郡の間を検察しているという意味
帯方郡に至るまでの朝鮮半島の国々が検察の対象で、卑弥呼の権限の範囲を超えている
したがって一大率は魏が任命した役職であると判断することになる

もう一つ重要な地理的な説明がある
この上陸地点から邪馬台国までは8か国が記載されているが、倭国は全部で29か国であるので女王の都よりも遠い国々が21か国もあることになる
帯方郡から見て奈良より遠方の国が21か国もあるということ
北陸・東海・中部・関東に及ぶ範囲で、これらの国々が展開していたのだろう
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:09:38.62
>>773
失礼しました。
阿波が「九州と畿内に勝っているものは?」と誤読しました。
それに対して、私は水銀朱だけですと答えました。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:15:09.59
>>791
阿波の鉱山跡は卑弥呼の時代には枯渇している
奈良には卑弥呼の時代以前から昭和に至るまで操業を続けていた大和水銀鉱山があった
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:28:42.69
>>792
まあ、それも一説です
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:34:16.15
>>791
再度、九州と畿内が「阿波」に勝っているものは?   @阿波
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:35:16.76
>>789
>「有」か「無」かという考え方をまずしません

では、どういう考えで畿内説なんだい?   @阿波
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:35:59.58
>>792
>阿波の鉱山跡は卑弥呼の時代には枯渇している

そう言い切る根拠は?   @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:36:46.30
丹生鉱山
三重県多気郡多気町は?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:36:48.16
>>786
たとえば、畿内に有って「阿波」に無い考古資料ってなに?   @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:37:55.77
>>794
ほとんど全て
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:38:30.99
>>799
たとえば?   @阿波
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:44:01.50
>>779
>タイムマシーンに乗って、卑弥呼が纒向にいることは確認してます

どうやら、卑弥呼じゃなかったようだな。   @阿波
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:45:57.21
>>796
>>801を参照のこと
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:49:23.56
>>801
「若杉山辰砂採掘遺跡」   辰砂を採掘していたと国が認めた遺跡

「大和水銀鉱山」  鉱山の名称だけであって、全国に存在する鉱山の一つに過ぎない。   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:50:50.25
>>789
>「有」か「無」かという考え方をまずしません

では、どういう考えで畿内説なんだい?   @阿波
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:51:04.73
>>786
たとえば、畿内に有って「阿波」に無い考古資料ってなに?   @阿波
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:51:17.31
>>799
たとえば?   @阿波
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:52:31.97
>>804
違いは「遺跡」かどうか
古墳時代前期には枯渇し遺跡になっていた
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:57:05.57
>>808
>古墳時代前期には枯渇し遺跡になっていた

そう言い切る根拠は?  >>801では根拠にならない。   @阿波
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 21:59:18.72
>>808
>古墳時代前期には枯渇し遺跡になっていた

枯渇していたと言い切る根拠は?  >>801では根拠にならない。   @阿波
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:00:35.36
>>808
>古墳時代前期には枯渇し遺跡になっていた

「卑弥呼」時代に枯渇していたと言い切る根拠は?  >>801では根拠にならない。   @阿波
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:03:10.79
>>779
>タイムマシーンに乗って、卑弥呼が纒向にいることは確認してます

せっかくタイムマシーンに乗ったが、どうやら卑弥呼じゃなかったようだな。   @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:03:54.43
やっぱ、投馬国、邪馬台国は四国、本州以外ですね
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:06:07.75
「阿波」の前からみんな消えていく。   @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:07:10.65
>>809
>>801の記事に反論できる事実を発見したら、君が反論しなさい
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:09:33.60
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:11:04.54
>>815

>>801の記事には、「卑弥呼」時代に枯渇していたとは書いていないが?   @阿波
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:11:15.01
>>816
やっぱ、投馬国、邪馬台国は
半島、九州以外ですね
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:11:45.53
>>815

>>801の記事には、「卑弥呼」時代に枯渇していたとは書いていないが?   @阿波
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:13:11.65
>>818
私の超能力は絶対にウソを言いません
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:14:00.84
>>817
古墳時代前期には枯渇したとある
>卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:17:35.50
>>821
>古墳時代前期には枯渇したとある

平然とウソをついてはいけない。

「弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、朱の原料である辰砂の採掘を行った遺跡。」とあるではないか!   @阿波
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:19:05.19
>>821
>古墳時代前期には枯渇したとある

古墳時代前期まで採掘を行った遺跡だ。   @阿波
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:20:15.28
>>820
九州以外説だからありうるよ。
けど範囲が狭い。邪馬台国には行っていないので
南至以降が書くことができないだけ
後は官名と戸数の説明でお終い。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:20:45.78
せっかくタイムマシーンに乗ったが、どうやら、どこぞのおばさんを卑弥呼と見間違ったようだな。   @阿波
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:20:54.29
>>822
卑弥呼の時代に創業して卑弥呼の死後数年の後に最終的に枯渇したものだろう
操業期間は弥生時代後期から古墳時代前期とされている
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:23:12.75
>>826
>古墳時代前期には枯渇したとある

平然とウソをついてはいけない。 古墳時代前期まで採掘を行った遺跡だ。   

「弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、朱の原料である辰砂の採掘を行った遺跡。」とあるではないか!   @阿波
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:24:29.73
せっかくタイムマシーンに乗ったが、どうやら、どこぞのおばさんを卑弥呼と見間違えたようだな。   @阿波
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:24:33.94
>>827
古墳時代前期まで採掘を行ったということは、古墳時代前期に枯渇したということ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:25:40.22
>>829
違う。
古墳時代中期からだ。   @阿波
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:27:09.61
>>829
違う。
古墳時代中期からだ。  日本語をもっと勉強してからで出直ししなさい。   @阿波
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:27:44.75
>>831
誰でもいいから君の言い分を話してみなさい
君に同調する人がいたらレスするように
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:28:46.72
>>823
日本語をもっと勉強してからで出直ししなさい。   @阿波
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:29:14.65
>>833
日本語をもっと勉強してからで出直ししなさい。   @阿波
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:33:17.88
>>833
どうやら、ポンコツのタイムマシーンだったようだな。   @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:35:37.36
阿波はガイコツだな
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:37:05.30
>>820
投馬国だったな。
これも行っていないだけだな
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:37:38.07
>>837
水銀朱で真っ赤に染まったガイコツもあるぞ。  @阿波
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:39:27.92
>>839
見た事ある。
阿波はションベンガイコツになるだろう。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:40:53.89
>>840
小便小僧はどこいった?   @阿波
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:42:14.71
>>841
阿波が死ねばわかる。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:42:50.53
投馬国や邪馬台国に魏使が行ってないって言ってる人は魏志倭人伝を読んだことがない人だな。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:43:20.67
>>843
理由は?
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:43:43.59
>>842
あの世で待っているのか?   @阿波
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:44:48.58
>>845
いや、阿波が先でないと
ションベン供養できない。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:45:31.31
>>844
伝聞なら参問のようにそれと分かるように書かれている。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:46:25.70
>>846
箸供養は阿波市だぞ。  箸墓だな。  @阿波
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:46:50.19
>>847
どこの箇所?
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:48:27.43
>>848
お前だよ。くたばればわかる。
糞供養でもいいぞ。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:50:52.64
>>850
まぁ、トンデモのお前にとっては「阿波」は死んでほしい存在なんだろうがな。   @阿波
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:52:12.21
>>851
阿波でなく、お前だよ。
0853
垢版 |
2024/02/15(木) 22:52:13.66
狗奴国を帯方郡と共同で攻撃しようとしてたんだっけ? 
それならヤマダイ国も狗奴国も九州辺りだな。
奈良や遠江ではないのは確かだ。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:52:56.32
>>849
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
0855
垢版 |
2024/02/15(木) 22:54:26.12
桃の種なんかは吉備で死ぬほど出てる。
よって吉備が邪馬台国
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 22:54:46.51
>>854
投馬国、邪馬台国には里数無し。
女王国はある。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:01:06.95
>>855
これもありうるね。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:05:14.35
南至投馬国
行っていないよ。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:08:12.50
頭の悪い人は理由が書けない



 
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:08:41.86
>>856
里数も日数を言い切ってるから実際に測ったり掛かったもの。

>>857
邪馬壹國は女王の都べる所だか邪馬壹國まで行かないと魏使は使命が果たせない。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:11:48.62
>>862
女王国の都でもない。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:13:57.23
>>863
邪馬壹國は女王の領土ですね
女王の領土内へ魏使は行かないと使命は果たせませんね。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:14:21.37
>>862
里数は別として
日数は聞けるよ。
水行20日、10日、
陸1月はどこにも寄らないのか?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:15:08.44
>>864
目的を果たすのに距離は関係ありません。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:15:48.15
>>865
いいえ、邪馬壹国は行く必要はない
女王国で十分ですね
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:16:05.11
>>866
伝聞であれば参問のように分かるように書く。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:16:42.81
>>867
ありますよ。手遅れになります。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:17:16.52
>>869
どこの箇所?
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:17:37.42
>>868
貴方は「女王之所都」をどう理解しているのか?
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:19:05.93
>>871
手遅れ?何が?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:20:12.84
>>873
君はどう理解しているのか?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:21:27.92
>>874
日本人か?
対応だよ。決断、伝達が遅れる。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:27:01.70
魏を頼るのだから
地政的に近い方がいい。
輸出入の重要性もある
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:29:29.04
使命が果たせないと行きたがるから、水行20日、10日、陸行1月。
遠方になったのだろうと、考える。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:31:03.19
>>878
考えればいい。
考えはさまざま。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:32:00.25
>>876
何の決断、伝達だよ?
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:32:56.18
倭人は電卓を使わなくても掛け算ができた。
頭よかったのです。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:33:16.00
結局行かなかっとする理由は意味不明だな?
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:37:12.30
行かなかたとする理由を説明してよ?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:41:34.26
>>880
情報遅れの弊害は考えないのか?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:42:23.33
>>882
行ったというのも不明だな
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:43:41.18
>>883
行ったとする理由を説明してよ?
0887
垢版 |
2024/02/15(木) 23:46:02.15
普通行くよな。
皇帝の命を受けて親魏倭王に冊封しなきゃならないんだから。 
遠いから行かないなんて言ったら君命を果たしてないことになる。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:47:47.92
>>887
別に邪馬台国でなくていい。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:48:10.87
>>884
何の?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:49:31.99
>>889
日本語でお願いします。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/15(木) 23:54:14.17
>>887
行ったとする理由を説明してよ?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 00:13:58.91
>>891
魏志倭人伝には卑弥呼の墓の大きさが書かれている
>卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩
この「歩」は中国の長さの単位、普通の二歩分で一歩
倭人は距離の単位を知らないから、測ったのは倭人ではく魏の役人
つまり、中国の役人が卑弥呼の墓を見て記述したもの
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 00:16:04.59
>>892
別に邪馬台国にあったという記述はない。
共立王。判断できない。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 00:23:30.18
>>893
その時代に三国志の記述どおりの古墳が一か所だけある
それが箸墓古墳
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 00:31:20.26
>>894
不弥国の南に無い箸墓はボツ
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 00:57:50.44
つまり殉葬100人も実際に確認されたわけだな
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 01:13:44.49
畿内説はオレオレ詐欺。
詐欺師は絶対に自分の非は認めない。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 01:17:21.32
>>891
>行ったとする理由を説明してよ?

「詣倭国、拝仮倭王」と明記されているので勅使は倭女王の都に行った
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 01:40:52.11
近畿説(=吉野ヶ里説)の主張は、
倭国には王都がなかったから属国の伊都国に居たということだから
遠いから魏使が行かなかったというのはおかしい
邪馬台国に倭国の女王の都がないなら遠かろうが、近かろうが魏使は行かない
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:07:30.23
>>898
邪馬台国の記述はない
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:09:11.84
>>897
>詐欺師は絶対に自分の非は認めない。

善良な人をも詐欺師に仕立てる中傷論法
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:13:32.51
近江志賀高穴穂宮
紀伊徳勒津宮
角鹿笥飯宮
穴門豊浦宮
筑紫橿日宮

卑弥呼と同時代設定の仲哀天皇もこれだけミヤコを作っている
女王の住まい=都が邪馬台国の一つだけとは限らない
邪馬台国が特筆されたのはむしろ都を置くに相応しくないところだったから驚きを以て記されたのかもしれん
戦地近くに設けられた行宮のようなものかもしれんし
それなら魏使が行かなかったように見受けられる点も合点がいく
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:15:38.94
>>899
女王の都にいないから行かないだけだな。
倭国の都、女王国の都の記述はない。
つまり、共立されたのは卑弥呼であり
邪馬台国ではない。国の支配はない。
共立された卑弥呼が伊都国いれば済む。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:24:51.71
>>903
狗奴国が九州て事か?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:26:25.04
>>903

近畿説(=吉野ヶ里説)は、
「女王之所都」は過去(共立前の出身地)のことなんだろ
女王の都にいないのではなくて、共立された女王の都が無いという主張だろ
倭国は韓と比べて大国などではなく、
数百年前の水害から復興してない邪馬台国(近畿)という単なる地域名を書いてるだけで
実質吉野ヶ里と筑後しかない国なんだと
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:28:17.96
>>904
当然、九州だよ。
不和は卑弥呼であって邪馬台国ではない。
どこに邪馬台国と不和の記述があるのか?
奴国の南だよ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:30:43.39
>>905
邪馬台国に女王の都はあるという主張だな。
いないだけですね。女王国にいる。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:32:25.28
>>907

お前言ってることが前と変わってるな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:33:50.56
>>908
全然、変わっていない。
勝手に変えるな。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:38:53.00
>>909

お前byは「女王之所都」は過去(共立前の出身地)だと言ってただろw
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:46:36.37
>>910
過去だろうが都だろう。
最近は、さるお方の影響では諏訪方面まで考えている。陸1月だしな。
国々の集まり。他国の人からみれば邪馬台国は自国の都ではない。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:49:57.11
>>911

卑弥呼は女王に共立されてから倭国の女王なんだよ
共立前の出身地なら女王の都ではなくて故郷だ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:51:14.55
>>912
都でいいんだよ。
統一国家などない
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:53:47.41
>>913

近畿説(=吉野ヶ里説)の主張は、
倭国には王都がなかったから女王卑弥呼は属国の伊都国に居たという主張
魏使は女王の故郷には行かない
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:54:10.33
>>912
どこに邪馬台国が倭国の都、女王国の都の記述があるんだい?女王之所都の記述はある。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:55:08.54
>>914
だから行っていないと書いたけど?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:57:03.97
>>915

邪馬台国は国なので倭国の都、女王国の都ではなくて、
邪馬台国に共立された女王国の都がある=女王卑弥呼が居る
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:57:51.66
>>914
最近は近畿以東だな。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 02:59:48.82
>>916

だから遠いから行っていないのではなくて、
共立された女王は王都がなく属国に居て
共立された女王の故郷に行っていないという主張
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:00:51.62
>>917
解釈違いなのでね。
当方は邪馬台国は国々の一つに過ぎない。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:04:24.75
>>920

近畿説(=吉野ヶ里説)の主張は
女王卑弥呼の出身地の邪馬台国は数百年前の水害から復興途上の地域で
実質吉野ヶ里と筑後しかない国なんだという主張だよな
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:05:20.65
>>919
卑弥呼、女王国にいるよ。
属する伊都国だな。
二島、不彌国、奴国も属する国
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:06:49.96
>>922

有明海沿岸だけの女王国な
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:07:12.57
>>921
しかないとか書いていないけど?
当然、四国も吉備も丹後もあるよ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:09:35.79
>>923
其餘旁國遠絶 不可得詳〜
次有奴國 此女王境界所盡はあるけど。
女王国の記述はない。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:10:39.13
>>924

女王卑弥呼の出身地の7万戸の邪馬台国が水害から復興途上の地域名なら
実質吉野ヶ里と筑後しかない国という主張だろ
5万戸の投馬国は朝鮮半島か?
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:11:19.48
>>923
投馬国、邪馬壹国は女王国
飛び地だな。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:12:51.19
>>926
それは九州説だろ。
投馬国は関東かもしれん。四国かもしれん。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:13:29.26
>>927

飛び地もなにも7万戸の邪馬台国は卑弥呼の出身地というだけの水害から復興途上の地域名なんだろ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:15:05.20
>>928

だから近畿説は吉野ヶ里説
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:15:56.56
>>929
出身地だけとは書いていない
開拓も含む。宗教地も含む
事は書いたよ。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:17:31.14
>>931

宗教地という根拠の遺跡を示してないだろ
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:17:32.63
>>930
邪馬台国は近畿以東だな。
頭、おかしいね。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:18:58.12
>>932
だから開拓中、その後、京都、奈良は宗教地だな。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:19:46.20
>>932
行ったという根拠は?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:22:27.98
>>933

邪馬台国論争というのは共立された女王卑弥呼が居る王都がある邪馬台国はどこかという議論
お前だけが邪馬台国は卑弥呼の復興途上の出身地で
女王国は有明海北部沿岸だけだと主張している
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:24:46.16
>>934

開拓中だから倭国には王都は無いという主張な
その後は関係ない
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:25:42.26
>>936
していないけど?
投馬国、邪馬台国も女王国。傍国は女王国の記述はないが此女王境界所盡はある。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:27:05.45
>>937
どこに倭国に王都の記述があるんだい?
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:28:15.98
>>938

復興開拓途上の地域名なら国ではない
実質吉野ヶ里と筑後しかない国なんだという主張
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:28:30.76
>>937
女王之所都の記述はあるけどね
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:29:55.46
>>940
邪馬台国という国だよ。
広い国もありゃ、小さい国もある。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:30:29.37
>>939

女王之所都は倭国の王都ではなく、
倭国には王都が無いというのが近畿説(=吉野ヶ里説)
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:30:40.17
>>940
半島朝鮮説?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:32:03.64
>>943
倭国の王都ではない記述はない。
女王国はある。
頭おかしい。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:32:44.05
>>942

近畿説(=吉野ヶ里説)は、広い国じゃなくて、復興開拓途上の地域名という主張
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:33:35.86
>>946
邪馬台国という国ですけど?
頭おかしい。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:34:52.02
>>945

邪馬台国に倭国の王都はないんだろ?
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:35:31.75
>>946
お前の主張だな。

俺の主張
邪馬台国という国ですけど?
頭おかしい。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:36:29.70
>>947

お前だけまったく違うことを主張してるんだよw
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:36:40.12
>>948
ない。女王之所都はある。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:37:27.67
>>950
お前だけですね
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:38:29.95
>>950
俺の主張
邪馬台国という国ですけど?
頭おかしい。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:38:39.13
>>951

属国の伊都国(吉野ヶ里)も王都ではないなら
倭国には王都は無いという主張だろ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:39:09.59
>>954
女王国はある
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:40:04.76
>>954
王都の記述あったけ?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:40:56.11
>>952

邪馬台国が女王卑弥呼の復興開拓途上の出身地で
卑弥呼は属国に居るというのはお前だけだよ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:41:49.92
>>957
女王国にいる。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:42:56.12
>>956

お前だけが倭国には王都が無いと主張してるんだよ
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:43:17.81
>>959
俺の主張
邪馬台国という国ですけど?
頭おかしい。吉野ヶ里は近畿にあるのか?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:44:46.54
>>960

邪馬台国と書かれている国は復興開拓途上の地域なんだろ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:44:50.24
>>959
どこに記述があるの?
女王之所都はある
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:45:57.40
>>961
国ですけど
女王之所都ですね。
倭国の王都の記述はない。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:46:02.65
>>962

だからお前だけが女王之所都は倭国の王都ではないと言っている
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:47:49.87
>>964
倭国の王都の記述はどこだい?
と聞いている。
女王之所都の記述はある。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:48:42.85
>>964
行ったとする理由は?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:50:41.58
>>965

邪馬台国論争では、女王之所都を倭国の女王卑弥呼が居る王都がどこかを議論している
お前だけが邪馬台国にも属国伊都国にも王都はないと言っている
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:52:05.29
>>967
ある記述を聞いている。
女王国はある
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:57:39.61
>>968

ごまかさないで主張を明確にしろよ
邪馬台国論争は女王之所都を倭国の女王卑弥呼が居る王都としてそれはどこかを議論している
お前は邪馬台国にも属国伊都国にも王都はないと言っている
つまりお前は倭国には王都が無いと主張している
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:58:25.18
>>967
邪馬台国がどこにあるかが論争。
卑弥呼は関係ない。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 03:59:28.06
>>969
邪馬台国がどこにあるかが論争
卑弥呼は関係ない。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:01:13.69
やっぱ、邪馬台国は九州以外ですね
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:01:18.93
>>970

邪馬台国に女王卑弥呼が居る王都があるというのが邪馬台国論争
卑弥呼は関係ないと言ってるのはお前だけだから
倭国には王都は無いとはっきりと主張しろよ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:04:36.73
>>973
勝手な定義だな。
邪馬台国がどこにあるのかが論争
卑弥呼がどこにいたとは別論争
だからどこよ?倭国の王都は?
根拠は?はっきり書いてね
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:08:23.97
>>974

邪馬台国がどこにあるのか=女王卑弥呼が居る王都がどこにあるのか
が邪馬台国論争
お前だけが別論争だと言い張っている
お前だけが倭国には王都は無いと主張している
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:08:49.08
>>972
俺も邪馬台国は九州以外
卑弥呼が九州ですね。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:10:29.00
>>975
勝手な定義だな。
邪馬台国がどこにあるのか、
卑弥呼がどこにいたとは別。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:12:22.24
>>977

別というのはお前だけの主張だろ
倭国に王都は無いんだろ?
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:14:11.08
>>978
別だよ。
倭国の王都
あるんだったら理由も書いてね。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:15:40.47
>>978
行ったとする理由は?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:16:53.83
>>979

どの説も、
邪馬台国がどこにあるのか=女王卑弥呼が居る王都がどこにあるのか
を議論している
お前の主張は倭国に王都は無いんだろ?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:17:54.93
>>978
女王卑弥呼は女王国にいる。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:19:07.70
>>981
卑弥呼は女王国にいる
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:19:52.48
>>981
していないけど?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:20:50.61
>>982

女王卑弥呼は属国伊都国に居るが王都ではないという主張だろ
なぜ自説の主張をごまかすのか
倭国に王都は無いという主張をなぜごまかす?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:28:04.54
>>985
倭国に王都は無いのか?
あるだったら理由書いてね。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:31:13.16
>>986
あるのか、ないのかが定かではないのか?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:32:42.52
>>987
だから聞いている。
あるんだったら理由書いてね。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:35:41.58
>>987
寝る。又ね
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 04:36:12.70
>>986

どの説も、
倭国には女王卑弥呼が居る王都が邪馬台国にあるというのが前提だから
邪馬台国がどこにあるのかを議論している
お前は倭国に王都は無いという主張内容なのだから
隠さないで明確にそう主張すればよい
0991◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/16(金) 04:55:52.02
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708024410/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:13:00.33
>>801
畿内説だが、大和水銀鉱山を邪馬台国の根拠にするのは考古学的にはアウトでしょ
若杉山辰砂採掘遺跡は出土物から卑弥呼の時代であることが確定しているが、大和水銀鉱山は卑弥呼時代含め、それ以前に使われた形跡がない
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:28:46.63
>>992
>畿内説だが

それでも畿内説をとる気が知れん。   @阿波
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:35:01.91
>>992
>考古学的にはアウトでしょ

科学的にも、イオウ同位体比でアウト。

ホケノ山古墳は-5.4、大和天神山古墳は-6.1、中山大塚古墳は-5.2である。
三重県丹生鉱山が-8.88±2.69、奈良県宇陀の大和水銀鉱山が-3.13±3.47
どっちも大きく外れている。
片や「阿波」の「若杉山辰砂採掘遺跡」出土朱は、ど真ん中の-6.03±2.88%である。
まさにホケノ山も大和天神山も中山大塚古墳も、「若杉山辰砂採掘遺跡」の水銀朱で確定する。   @阿波
 
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:41:29.24
魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する

では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する

(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である

(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない

以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:50:14.64
>>995
何十年も同じこと書かなくていいよ
文献しか読まないなら、せめて新説でも出してくれよ
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:51:44.60
>>996
わかってない奴が多いからだよ
皆が理解するまで正しいことを何度も投稿する
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:55:15.71
>>995
>どちらを指すかは文脈で判断する外ない

で、どうしろと?   @阿波
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 06:57:45.35
>>998
単体の邪馬台国を指す場合と連合国の倭国を指す場合がある「女王国」の語を、一義的に意味が定まる固有名詞のように使うなということ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/16(金) 07:00:46.18
>>997
分かってるだろみんな
10011001
垢版 |
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10021002
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