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邪馬台国畿内説 Part993
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/18(日) 16:00:32.76
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708024410/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:01:30.76
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:02:00.62
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/18(日) 16:02:31.10
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:03:31.23
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:04:00.83
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:04:30.75
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:05:01.32
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:05:32.14
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:06:02.95
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:06:31.40
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:07:01.87
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:08:02.34
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:08:31.78
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:09:01.68
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:09:31.88
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:10:02.19
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:10:32.14
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:11:02.17
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:11:59.75
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:12:31.94
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:13:02.19
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:13:31.88
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:14:01.84
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:14:32.08
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:15:02.07
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:16:00.48
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:16:31.87
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:17:02.34
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:18:31.95
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:19:01.52
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:19:30.99
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:20:01.36
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:20:31.21
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2024/02/18(日) 16:21:01.27
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:21:30.82
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:22:02.30
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:22:31.47
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/02/18(日) 16:23:01.29
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:23:31.63
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:24:01.80
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:24:31.85
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:25:01.89
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:25:31.45
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:26:01.63
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/02/18(日) 16:26:31.96
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/02/18(日) 16:27:01.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/02/18(日) 16:27:32.02
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/02/18(日) 16:28:01.55
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/02/18(日) 16:28:31.58
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/02/18(日) 16:29:01.88
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/02/18(日) 16:29:31.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/02/18(日) 16:30:02.10
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2024/02/18(日) 16:30:31.91
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2024/02/18(日) 16:31:01.47
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/02/18(日) 16:31:31.66
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/02/18(日) 16:32:01.99
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/02/18(日) 16:32:31.89
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/02/18(日) 16:33:01.71
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/02/18(日) 16:33:32.41
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2024/02/18(日) 16:34:01.85
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2024/02/18(日) 16:34:32.19
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/02/18(日) 16:35:02.15
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/02/18(日) 16:35:31.80
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/02/18(日) 16:36:01.94
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2024/02/18(日) 16:36:31.65
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/02/18(日) 16:37:01.64
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/02/18(日) 16:37:32.05
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/02/18(日) 16:38:01.91
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:38:41.23
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:39:11.75
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:39:42.28
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:40:12.86
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:40:43.79
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/18(日) 16:41:14.39
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 16:57:48.21
@まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
Aそして、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+対馬400里+1,000里+壱岐300里+1,000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11,300里から半径700里=50qの範囲)に限定され、【伊都→博多】の北は玄海灘、東百里は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子→卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東治(実は冶)の東(の海上)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...............................投馬国(宮崎平野)
..................................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜〜架空の邪馬台国・女王之所都(沖縄那覇あたり)
0077日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 17:09:57.28
約40ヘクタールの吉野ヶ里が女王の都であるわけがない
約300ヘクタールの纒向こそが女王の都、王都
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:13:48.27
>>78
>国内最古級とみられる銅剣・鋳型が新たに発見

蛇紋岩の鋳型といい、水銀朱といい、「阿波」丸出し。   @阿波
0080日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:16:33.27
>>77
だから、吉野ヶ里は邪馬台国ではなく
卑弥呼が宮を置いていた所だな。
てっか邪馬台国にはいなかったんだな。
どこかわからんけど簡素な説明で終わる。
なので投馬国、邪馬台国は半島、九州以外。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:23:09.89
>>80
あんなしょぼいところに置くわけないだろ
出土物から言っても平原の方が上
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:23:27.91
>>80

倭国には王都はなかったという民族願望
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:31:51.43
吉野ヶ里の見た目は紀元前
奴国の首都、須玖岡本がどんな姿だったのか、今や知るよしもない
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:33:07.22
「謎のエリア」は最初吉野ヶ里遺跡が始まるころの墓域と説明していたのが
知事が記者会見をするときになるといつのまにか卑弥呼の時代ということになっていた
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:42:43.60
吉野ヶ里からこの前出た石棺は見た目からして明らかに弥生後期のものだよ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:45:34.12
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:49:45.43
日本の各地で土を盛った弥生墳丘墓が造られた後
吉備や出雲では2世紀に大型の墳丘墓が造られ
3世紀前半の西日本では畿内、博多にさらに大型の前方後円墳が造られる
「謎のエリア」の石棺には墳丘が無い
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:52:43.57
>>87
蛇紋岩の鋳型といい、水銀朱といい、「阿波」丸出し。   @阿波
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:53:59.13
>>83
女王国(対馬〜奴国、不彌国)と女王之所都はあるよ。中国視点から王都らしきもん。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:54:41.41
>>83
倭国には王都はあったという民族願望だな
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:56:20.49
卑弥呼の墓は冢とあるから土盛りはあっただろうな
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:58:17.66
>>92
倭国の都、女王国の都の記述は見当たらない。
女王之所都という記述になったのか?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:58:34.59
>>92

お前の説は女王が属国に住んでたという主張だろ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 17:58:59.19
武田春樹さんの動画見たがかなり詳しい人っぽいが何者?
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:01:44.45
>>97
邪馬台国オタク
あれはセミプロレベル
一応普通の仕事をしているらしい
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:01:48.87
>>95
中国歴史から似たような共立体制がなかったとかと思う 個人的な意見ですけど
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:03:03.84
>>96
奴国、不彌国、投馬国等も属する国ですけどね
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:03:42.33
吉野ヶ里を女王の都にしないといけない九州説哀れ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:06:01.94
>>101
女王の都は邪馬台国ですから
宮を置いていていた所が吉野ヶ里。
邪馬台国ではない。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:07:52.58
>>102
蛇紋岩の鋳型といい、水銀朱といい、「阿波」丸出し。   @阿波
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:09:24.02
「従来では近畿説の研究者の一部には、不禰国から先の投馬国、邪馬台国が
距離ではなく日数になっているのは九州から遠く離れた場所だからであると主張もしているが、
これは「魏志倭人伝」記述の「自郡至女王圃萬二千餘里」や
「倭地絶在海中州鴬之上、或絶或連周旋可五手余里」を無視した暴論である」

「魏志倭人伝」の記述では不偏国から先の投馬国、邪馬台国まで二か月ほどの期間を述べているが、
この期間は魏使節が調査見聞の旅をした期間で具体的に距離は示していない」
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:09:38.83
>>103
誰からも支持されない説
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:11:16.32
>>105
行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。   @阿波
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:20:12.71
>>107
だから直線距離を計測方法があったとする証拠を見つけたらほざけ、アホが
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:23:40.76
なんで吉野ヶ里で盛り上がるのか?
ここは畿内説のスレだぞ。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:29:31.05
>>109
畿内説ならば、考古学を多少は勉強していなければいけない
畿内説は、考古学によって得られた物的証拠を元にしなければ辿り着けない領域
ところが、このスレでは考古学なんて見たくも触りたくもありませんという九州説が、朝から晩まで毎日同じことを書いている
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:30:46.13
>>108
>だから直線距離を計測方法があったとする証拠を見つけたらほざけ、アホが

無かったら、わざわざ距離を記載しない。 でたらめなら、距離を記載する意味・必要がない。   @阿波
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:31:53.81
倭人伝読めば畿内説は邪馬台国失格。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:33:01.67
>>111
行程が里数だよ、アホ。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:34:36.33
纏向をいくら掘ってもなんの証拠も見つからないどころか
九州からやってきたとか言い始める始末
記紀に書かれたとおりになってしまったらどうすんだ?
0115日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:35:24.66
阿波説というのは特殊学級を相手にするトンデモです
0116日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:38:50.09
>>114
記紀と照合させようとする九州説の一部は
阿保だしな。卑弥呼がアマテラスとか神功とか
とか壹与がxx姫とか。
0117日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:39:47.50
>>97
ハルキーの邪馬台国は山国川沿岸
0119日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:43:35.18
>>118
卑弥呼の墓は前方後円墳?
0120日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:46:33.85
>>119
畿内説が前方後円墳なら、九州説が前方後円墳であっても問題ないだろな
0121日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:47:58.20
ハルキーさんは岡村編年が大体合ってるなら、九州説が崩壊することを理解している数少ないノンプロ
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:52:56.45
約40ヘクタールの吉野ヶ里や約300ヘクタールの纒向が女王の都であるわけがない
3.68万 平方キロメートルの九州の北半分が邪馬台国、南半分が狗奴国。
0123日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:54:54.81
>>122
卑弥呼はどこに居たと思う?
0124日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 18:56:09.41
中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 18:58:51.27
>>122
纒向は女王の宮
邪馬台国は畿内第V様式圏
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:01:05.71
>>113
>行程が里数だよ

なんの呪文なんだ?   @阿波
0127日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 19:08:29.40
纏向なんてショボ過ぎるよw
0128日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 19:09:27.34
>>127
皇居は336ヘクタール
皇居としては纒向は十分
0129日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 19:11:13.48
>>125
>邪馬台国は畿内第V様式圏

みんな、喜べ。 「邪馬臺国」に入るらしいぞ。   @阿波
角南聡一郎氏によると、
特に畿内系甕(伝統的第Ⅴ様式系甕)が頻繁に出土するのは、備前・備中地方の岡山平野周辺地域と、
筑前地方の博多湾沿岸地機器、そして肥前地方の佐賀平野一帯であることが看取される。
形態別では、伝統的第Ⅴ様式系甕は主として、備中地域の量的に多くみられる。
また、山陰地方では量的に伝統的第Ⅴ様式系甕が最も多く出土している。
長門地方では伝統的第Ⅴ様式系甕が多く出土しているが、在地系甕の影響がある可能性もある。
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10533924-19970300-1007.pdf?file_id=3508
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:11:24.98
魏志倭人伝の楼観もなし、城柵もなし、邸閣もなしw
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:11:33.25
>>123
伊都国(糸島市南東部)
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:15:45.17
>>130
吉野ヶ里が邪馬台国?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:17:25.40
>>129
邪馬台国の支配領域の広さが分かるというもの
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:17:57.66
>>130
纏向には桃の種とカエルの骨、人糞混じりの畑を耕していた鍬の再利用の木製仮面があるジャマイカ?
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:18:32.52
>>130
まだ2%しか掘ってない
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:18:42.37
>>132
汚舞の目は節穴か?w
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:20:06.33
>>135
あんな畑だらけのど田舎纏向で?w
じゃ住宅や工場だらけの筑紫平野も掘ればまだまだ出てくるってことだねw
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:23:05.37
阿波で生まれるという事は、生まれた時から島流しの刑。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:26:12.19
将来ブリジストンの甘木工場が建て替えられて、吉野ヶ里以上の大環濠遺跡が出てきたりしたら、安本美典先生は英雄になっちゃうねw
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:26:50.59
>>137
ど田舎ほど掘りにくいのは事実
筑紫平野は無理だろう
すでに数百基の弥生土器を掘って、何にも出てこない
纒向はホケノ山を掘っただけで鉄鏃60本、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口、鉄製農具、(合計約70以上)
纒向石塚、纒向勝山、東田大塚、纒向矢塚もまだ未調査

纒向遺跡とは見做されない桜井茶臼山や、椿井大塚山、黒塚などからもある程度の類推が可能
他方、筑紫平野には祇園山古墳しかない上、「国中を綏撫させる銅鏡」が出る古墳もろくにない
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:28:10.11
>>139
三角縁神獣鏡が石塚山古墳が最強な時点で詰んでます
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:29:04.23
まぁ魏志倭人伝に何一つとして合致しない場所でないことは確かだねw
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:30:00.24
>>141
鉄器も自前で作れないようでは、「石塚山古墳が最強」などと悠長なこと言うとる場合じゃないぞ。   @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:30:41.36
富雄丸山古墳の木棺は平原女王墓タイプだな
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:31:21.27
つまりヤマトは奥津城
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:33:00.58
大和は青山墓地とか多摩霊園みたいなもんか?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:35:52.99
平原王墓の次の墓のタイプが前方後円墳の九州
完全に畿内の傘下になってしまった九州
同様に畿内の傘下であった出雲では、方墳のまま出土物が畿内と同じ
前方後円墳を受け入れるのは100年後
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:38:07.67
前方後円墳は九州出自の物部氏のビジネスモデルですね
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:39:01.26
九州王朝説が史実。大和はその奥津城「王家の谷」
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:43:29.18
>>149
庄内式は九州発祥ではないか?と安本美典みたいに主張したいわけだな
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:43:51.58
記紀伝承地に古墳時代の大王宮が出土しない問題はどうなった?
雄略の脇本遺跡は倉庫しかないw
畿内には死の匂いしかしない
それに対して神功や斉明の筑紫、阿毎多利思比孤の阿蘇ヤマタイは活気に溢れてるw
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:44:54.38
>>150
あの内削りは明らかに楽浪帯方土器のマネだろw
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:45:06.15
>>137

筑紫平野は高速が通ったから仕方なくそこそこ調査してるほう
特に何も無いことがわかった
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:46:16.58
大型建物の周りには何も出ない纏向w
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:48:11.25
>>151

阿蘇は人の匂いがしない
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:48:51.08
>>155だが訂正

阿蘇は人の匂いしかしない
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:49:27.66
>>154
ホケノ山だけで相当出てますけど?
同じ桜井市の桜井茶臼山はご覧の通りあの凄さ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:49:29.00
>>152
>あの内削りは明らかに楽浪帯方土器のマネだろw

「東阿波型土器」に決まってるだろうがよ。   @阿波
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:50:53.22
つまり記紀伝承地に大王宮が一切出ない大和盆地は、九州王朝の奥津城
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:52:19.74
巨大古墳と倉庫だけ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:53:01.17
>>160
哀れな九州説
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:53:14.24
>>147
畿内にそんな力ないよ
出雲の属国から筑紫の属国になっただけ
コンプとバイアスまみれの関西人が事象を反転させて優越感に浸ってるだけで見苦しい
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:54:09.41
>>156

景行天皇が「阿蘇」へと入った時、
人の姿が見えなかったので「ここには誰も人は居ないのか?」と景行天皇が尋ねたところ、
阿蘇都彦と阿蘇都媛が人の姿へと変じて
人ならここに二人居る言った
景行天皇は「あっそ」と言って立ち去った
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:54:25.22
倭国に併合されたのが畿内。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:54:36.54
古墳時代の関西は巨大古墳と倉庫だけ
つまり全国から人を集めて作った奥津城
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 19:55:44.88
阿蘇リモナイト
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:01:12.37
武田春樹さんただのオタクか、
ほとんどどっかの大学教授みたいな専門的なこと言ってたが、
ただのオタクでよくあそこまでやるわ。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:06:54.81
>>162
関西人じゃない
関西人はあまり好きじゃない
0169ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/02/18(日) 20:07:02.42
箸墓古墳はのべ123万人の動員で造られたという試算がある
ここから分かるのは古墳時代の奈良盆地はかなりの人口を抱えていたという事である

夜は神が作ったと信じてる人間には無人の地に見えるのだろう
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:09:06.67
>>147
箸墓以前のまだ型が定まる前の前方後円墳なんか体制の固まる前の話だな
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:12:08.09
岡上さんのイト倭国東遷説が結論でもういいじゃないか?w
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:12:47.35
>>169
ここから分かるのは古墳時代の奈良盆地は、鉄器さえ自前で作れなかったので、
どこかで作った鉄器を副葬してもらったという事である。   @阿波
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:15:24.13
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と本州ヤマト(唐古鍵を征服した吉備)王権が並立〔直弧紋・吉備特殊器台・三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕。

247年、台与は肥後狗奴国(熊襲=球磨🌋阿蘇)の卑弥弓呼を下したお祝いに日田出土の曹操鉄鏡を貰い、266年、曹魏➡西晋の禅譲に倣い、巫女だけに世継ぎのいないことから王位継承戦争の再発を見越して、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲。

新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の崇神「複立男王 並受中国爵命」が筑紫邪馬台国を併合して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」も継承。
これにより、ヤマト=邪馬台国 の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=吉備ヤマト王権混同)説に至っているのである!
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:16:00.70
>>169
ここから分かるのは古墳時代の奈良盆地は、鉄器さえ自前で作れなかったので、
どこかで作った鉄器を副葬してもらったという事である。   @阿波
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:17:30.59
おおざっぱにいうとこういう時代の流れ

卑弥呼台与時代 ~266年
倭国大乱以前からずっと継続的にゆるやかな交易的な繋がりで九州と畿内とが文化も人も行き来していた時代

箸墓以後 250年頃~
畿内から東西に伸長を開始して政治的に圧力を強めた時代

空白の四世紀
ついに日本列島を統一し、畿内勢力が半島に進出し始めた時代

遠賀川流域の物部あたりは上手いこと畿内勢力に取り入ったよね
それがいつ頃のことかはわからんけど
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:19:12.59
>>169
戦争なんかなかった平和な時代だったんだろうな
女王国なんか男の数が半分以下になるほど疲弊してたわけだし
とてもじゃないがそんな人的リソースひねり出せない
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:19:35.61
>>169
ここから分かるのは古墳時代の奈良盆地は、鉄器さえ自前で作れなかったので、
古墳もどこかの強大勢力に造ってもらったという事である。   @阿波
0178ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/02/18(日) 20:22:49.77
淡路島に五斗長垣内という難読地名の遺跡がある
この遺跡は弥生後期の鍛冶の村で職人たちが大量の鉄器の生産を行っていた

そしてこの五斗長垣内遺跡の製鉄集団は邪馬台国の出現とほぼ同時期に淡路島から姿を消すのである

恐らくヤマト王権(邪馬台国)によって奈良盆地に移住させられたのだろう

ネトウヨは畿内に鉄はなかったというが、実は邪馬台国では鉄器の供給が豊富だったというのが分かるのである

なお淡路島といえば国生み神話が有名だ
定説では八世紀に淡路島の神話がヤマト王権に取り入れられたというのだが、オレは淡路島集団が奈良盆地に移住した古い時代に伝わったものだと思っている

何故ならば淡路島には前方後円墳が一つも存在しないという謎がある

これは箸墓以前には国生み神話がヤマト王権に伝わっていて、古墳時代の早い時期から国産みの島として神聖視されていたと考えれば説明できる

伊弉諾伊奘冉の話は邪馬台国による製鉄集団の確保によってもたらされたと考えたい
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:26:32.97
>>178
奈良盆地に鉄器制作集団の痕跡が無いので、
ここから分かるのは、古墳時代の奈良盆地は、古墳もどこかの強大勢力に造ってもらったという事である。   @阿波
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:29:56.64
>>167
言うほど物凄く知識があるわけでもない
現代人(老人も含めて)はスマホYouTubeの普及により、活字を読むのが苦痛になったのだろう
YouTubeで考古学は勉強できないので論文を読むしかない
YouTubeに慣れて論文を読みたくないから、知識が増えない
ただそれだけ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:29:58.49
>>178
おそらく後漢の元気だった時代には九州勢力の出先機関として製鉄してたのに
後漢の威光が衰えて九州で倭国大乱が起こったら
製鉄集団の需要が九州で激増したもんだから集落全体が九州に帰還してそのまま卑弥呼の女王国に移住したんだと思う
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:33:57.10
>>181
九州に鉄器制作集団の痕跡が無いので、
ここから分かるのは、古墳時代の奈良盆地は、古墳もどこかの強大勢力に造ってもらったという事である。   @阿波
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:35:07.78
阿蘇リモナイトを知らない阿波の無知
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:35:29.83
>>181
九州にも鉄器制作集団の痕跡が無いので、
ここから分かるのは、古墳時代の九州は、古墳もどこかの強大勢力に造ってもらったという事である。   @阿波
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:35:43.29
>>182
強大な勢力は、弱小勢力の為に墓を作りません
0186日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 20:36:43.73
阿波は生まれた時から可哀想な島流し
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:37:08.88
女王国東渡海千里 複有国皆倭種
其南有狗奴国 狗古智卑狗
で筑紫平野しかないんだがw
おまいら本当に日本人か?w
0188日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 20:40:41.09
>>185
>強大な勢力は、弱小勢力の為に墓を作りません

弱小勢力は、絶対に強大な勢力の為に墓を作れません。 そんな能力も資金もありません。   @阿波
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:44:09.09
>>187
1行目は魏晋南北朝史学会副会長の陳長崎先生の説を採用する
それは前時代の竹簡だ
大体、漢鏡5期ごろの竹簡
九州人が中国人にそう言ったんだろうな
多分、帥升

2行目は南九州で問題なし
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:48:13.14
>>188
弱小勢力の命は安い
南宋人は元寇でたくさん死んだ
被征服民をあえて戦争に行かせる中国の戦略のこと何て言うんだっけ?
誰か博学な方いませんか?
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 20:57:09.03
裁兵?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:00:20.25
>>190
九州にも鉄器制作集団の痕跡が無いので、
ここから分かるのは、古墳時代の九州は、古墳もどこかの強大勢力に造ってもらったという事である。   @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:01:51.31
裁兵

中国の言葉

戦争で処理した軍が、敗軍の将兵を他の戦争で最前線に送り込むなどして、消耗させてしまう事。
敗軍兵は放っておけば浪人になって治安を乱したり、敵と結んだりする可能性があるので、次の戦争のときに最前線に投入する。
勝てばそれでよし。負けても(将来謀反軍になる可能性がある)敗軍将兵を片付けられるのでそれよし。
どっちにしても損はない。

戦国時代でも同様なことが行われた。降伏した相手の将兵は先方として戦わされた。
秀吉の朝鮮出兵も九州の大名が大動員されていることから、キリシタン勢力の削減を同時に狙っていた可能性がある
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:03:00.47
訂正

✕戦争で処理した軍が、

〇戦争で勝利した軍が、
0195日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 21:07:11.99
>>193
ああそれだ
0196日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 21:13:02.27
畿内邪馬台国に属する北部九州と南九州狗奴国の戦いも、裁兵の一種かもしれない
白村江の戦いでも九州人が全滅したように、九州人は反抗的なのでそういう使われ方をするのかもしれない
今はすっかりおとなしくなって、関西の方が反抗的だけど
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:16:58.63
筑紫邪馬台国卑弥呼が日向投馬国と肥後狗奴国を挟み討とうとしたため、「窮鼠猫を噛む」で卑弥弓呼が吉野ヶ里の卑弥呼に弓を引いて襲い掛かり、びっくりした卑弥呼は帯方郡に報告し、張政が来た
正始8年、西暦247年のことであるw
0199日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 21:18:18.97
>>197
畿内説の岡上も狗奴国南九州説
0200日本@名無史さん
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2024/02/18(日) 21:24:12.85
岡上さんはイト倭国東遷説で狗奴国は東海だよたしか。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:26:19.38
>>200
ふるしょうさんとのコラボで狗奴国は南九州とはっきり言ってたよ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:30:19.21
変なの
「邪馬台国の北側が伊都国、東の海の向こうが倭種の国、すぐ南に狗奴国」と記載されていて
南に水行ではなく東だーと言って伊都国の東にある畿内を邪馬台国だというのに
伊都国からみて南の南九州が狗奴国?
さらに東の東海が狗奴国ならまだ分かるけど
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:35:34.40
狗奴国は河内でしょう
銅鐸勾玉鳥形龍の絵画土器勢力の本拠地にて生き残り
邪馬台国は奈良で鏡を掲げた新生ヤマト政権かな
単純な話だよ
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:35:40.80
古田武彦は九州説でありながら狗奴国は畿内って言ってお亡くなりになられたんだよな
畿内説の狗奴国の比定地は東海が通説
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:37:41.60
魏志倭人伝を読むとこんな感じじゃね?

    北 伊都国
           
西  【邪馬台国】  東
記載なし    海の向こうに倭種

    南 狗奴国
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:38:35.35
>>204
方角はどうすんの
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:38:51.43
247年に大和と交戦中の尾張伊勢狗奴国と大阪河内彦が、箸墓の築造を手伝っている畿内説w

正始8(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
0210日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:41:42.44
>>209
狗奴国が南九州にあったなら、東海人は箸墓作りを手伝ったのだろう
狗奴国が東海なら東海人は箸墓作りを手伝ってない
非常に簡単な話
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:42:32.10
つまり南九州ということだねw
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:43:17.69
阿波一宮神社に卑弥呼シバの女王の墓があったのか、へえ。
では、この卑弥呼に旦那や子供はどれくらいいたんですか?
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:43:18.55
魏志倭人伝には陳寿が書いたものと後世の人が書き加えたものの両方がミックスしてそう
陳寿は九州説で、後世の人は畿内説とかな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:45:25.06
畿内説にお勧めしたい今年の書き初めがこれw

正始8(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:46:02.38
>>211
何でそんなに頭が悪いの?
わざと頭が悪いフリしているのか、それとも本当に頭が悪くて理解できてないのか、どっちと思えばいいですか?
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:47:17.47
ふるしょうさんのライブ見てみたが、こちらは初心者向けっぽいからおまえらや武田岡上さんらオタクには物足りなさそうでコメントも少なくて笑ったわw
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:48:12.57
247年に帯方郡に援軍を要請して張政が来倭するほどの激戦中じゃ、東海狗奴国は箸墓築造を手伝えないねw
0218日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:50:03.58
>>217
本当に頭が悪いと見るべきですか?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:50:41.15
>>217
主体的に古墳を造る力は無いが、手伝いぐらいは出来るであろう。   @阿波
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:51:34.38
>>217
239年に銅鏡百枚を貰った親魏倭王卑弥呼に戦いを挑むということは、東海狗奴国w卑弥弓呼と大阪河内彦wは決戦(負ければ死刑)だからなw
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:51:37.63
仮に北部九州〜出雲吉備〜畿内の巨大国家だった場合

巨大国家vs南九州の一国

ここに魏が介入するのかw
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:53:32.69
畿内説だったら南九州狗奴国は一発で片づけられただろうw
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:56:15.79
>>222
一発で片付けられたか分からない
圧倒的な魏の曹操も赤壁で大敗北を喫している
それに、裁兵説も浮上してきた
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:56:42.57
まだ東海狗奴国が関東の猛者たちを味方につけて攻めてきたーのほうが現実味があるがな
で、仲良く箸墓作り
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 21:58:48.46
>>223
張政が来るまでもなく一撃で平定される南九州狗奴国w
北部九州を支配下に収めながら、鉄鏃がないから?w銅鏃を使っていたのだろうかw
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:00:40.61
>>221
黄幢と銅鏡渡しただけ
銅鏡を見せて南九州の連中を綏撫しなさいということ
でも銅鏡は南九州人には効果なかった
南九州では銅鏡はほとんど出ない
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:01:16.63
魏志倭人伝に何一つとして合致せず、矛盾だらけの畿内説はウソ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:02:20.37
卑弥呼は銅鏡配ったの?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:02:32.44
>>229
三角縁神獣鏡で畿内確定している
紀年銘鏡も出てるしな
これほどの物的証拠は他にない
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:03:20.46
すでに500枚、もうすぐ600枚を超えるw
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:04:27.83
>>231
>三角縁神獣鏡で畿内確定している

鉄器も作れないのに?   @阿波
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:05:49.36
曹操鉄鏡でもう結論出ちゃってるんだけど?w
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:05:50.60
どこかにコピーさせてもらった銅鏡をありがたがってる時点で邪馬台国じゃなさそうwww
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:05:52.28
常陸国風土記に鏡を見ると逃げていくトキ鬼の話があるな
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:05:52.83
>>235
>コピーしすぎ

鉄器も作れないのに?   @阿波
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:07:05.17
>>230
間違いなく配った
三角縁神獣鏡も一つ
画文帯神獣鏡もその一つとなり得る
両方配った可能性が高いが、画文帯神獣鏡は三角縁より格上なのは確実
いずれにせよ、三角縁でも画文帯でも魏の年号が入った紀年銘鏡が出て、同笵を線で結ぶと畿内に集まるから、畿内から配布されたのは確実
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:08:08.86
>>240
>間違いなく配った

鉄器も作れないのに?   @阿波
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:08:52.70
それがヤマト王権なのか邪馬台国なのかはまだこれからw
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:09:52.17
>>242
>それがヤマト王権なのか邪馬台国なのかはまだこれからw

鉄器も作れないのに?   @阿波
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:10:29.55
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:10:41.64
>>241
鉄器は作れた
ホケノ山だけで70以上
椿井大塚山だけで200以上
安本美典の弥生時代1000年で福岡398を、この2古墳だけで猛追してる
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:11:30.47
>>245
>鉄器は作れた

「阿波」で?   @阿波
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:11:59.08
>>246
阿波に外注するのも一つの手段
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:12:50.46
>>247
鉄器も作れないのに?   @阿波
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:15:14.47
>>247
鉄器も作れないのに、古墳なんてトンデモない話だよね?   @阿波
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:17:38.21
さて、今日の講義はこれまで。   @阿波
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:19:59.92
唐子・鍵遺跡の環濠と同じく、吉野ケ里遺跡の環濠も卑弥呼の時代になってから埋められた
これは卑弥呼の政権の意思が吉野ケ里にも反映されていたということ
吉野ケ里遺跡に環濠があったのはが狗奴国と対峙するため
今九州説の人は吉野ケ里に思い入れがあるようだが、卑弥呼の時代に吉野ケ里に住んでいた人々は倭国としての一体感で纏向の卑弥呼の政権の意思に従った行動をとっていた
これが考古学的に明らかになっていること
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:21:57.23
>>250
阿波に外注するのも一つの方法ではあるが、畿内でも作れただろうな
椿井大塚山の副葬品は、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、鉄製甲冑1領が、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本(合計約300の鉄)

福岡の鉄は弥生時代1000年を通して福岡県398(安本美典)に対し、畿内では一つの古墳でこのレベルだから、作れたと見るべきでしょう
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:31:41.67
>>245
椿井大塚山を300に訂正します
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:36:43.16
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と本州ヤマト(唐古鍵を征服した吉備)王権が並立〔直弧紋・吉備特殊器台・三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕。

247年、台与は肥後狗奴国(熊襲=球磨🌋阿蘇)の卑弥弓呼を下したお祝いに日田出土の曹操鉄鏡を貰い、266年、曹魏➡西晋の禅譲に倣い、巫女だけに世継ぎのいないことから王位継承戦争の再発を見越して、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲。

新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の崇神「複立男王 並受中国爵命」が筑紫邪馬台国を併合して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」も継承。
これにより、ヤマト=邪馬台国 の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=吉備ヤマト王権混同)説に至っているのである。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:37:50.74
>>240
根拠は?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 22:40:25.13
漢委奴国王の子か孫の奴国(博多)王帥升(≠吉備楯築王=後漢鏡なし)死後の王位継承戦争である倭国大乱収束(186)から、266年に吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に朝貢するまでの暫定政権のような筑紫邪馬台国80年。
それと年代繰り上げ印象操作により吉備ヤマト王権を混同してるのが畿内説。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/18(日) 23:18:44.28
>>255
>266年、曹魏➡西晋の禅譲に倣い、巫女だけに世継ぎのいないことから王位継承戦争の再発を見越して、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲。

うむ、「親魏倭王」台与が曹魏という後ろ盾を失った以上、潮時が来たと考えて、本州島の覇権を確立したヤマト王権に禅譲するのが良いと判断したのかもな
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 00:06:13.58
台与は卑弥呼以来の巫女の霊能力によって国をまとめる時代はもう終わった、ということを肌で感じていたのだろうして崇神のヤマト王権に禅譲したと
卑弥呼があれほど有り難がって平伏していた魏もなくなったことだし、もはや親魏倭王の金印も無用となった...
そんな時に本州島の覇権を握って飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ヤマト王権を見て、ここは今は亡き宗主国・魏と同じく禅譲しよう、と決意したものと考えられる。
0260最終結論
垢版 |
2024/02/19(月) 00:29:09.43
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/dfa59145b6f22f0389661bcbae7276d8_cde83c477739ffbcf034a8828ad247b5.jpg

対  馬(対 馬)---長崎県対馬市
一  大(壱 岐)---長崎県壱岐市
末  魯(松 浦)---佐賀県東松浦郡
伊  都(怡 土)---福岡県糸島市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
不  弥(宇 美)---福岡県宇美町
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
邪 馬 壹(山 門)---福岡県みやま市---女王山・女山(ぞやま)
---------------------------------
斯  馬(志 摩)---福岡県糸島市
己 百 支(柴 刈)---福岡県久留米市
伊  邪(伊万里)---佐賀県伊万里市
都  支(筑 紫)---福岡県筑紫野市
彌  奴(耳 納)---福岡県久留米市
好 古 都(多 久)---佐賀県多久市
不  呼(浮 羽)---福岡県うきは市
姐  奴(竹 野)---福岡県久留米市
對  蘇(鳥 栖)---佐賀県鳥栖市
蘇  奴(佐 嘉)---佐賀県佐賀市
呼  邑(糟 屋)---福岡県粕屋町
華奴蘇奴(神 埼)---佐賀県神埼市---吉野ヶ里遺跡
  鬼  (杵 島)---佐賀県白石町
爲  吾(我 鹿)---福岡県赤村
鬼  奴(嬉 野)---佐賀県嬉野市
邪  馬(八 女)---福岡県八女市
躬  臣(御 笠)---福岡県太宰府市
巴  利(把 伎)---福岡県朝倉市
支  惟(基 肄)---佐賀県基山町
烏  奴(大 野)---福岡県大野城市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 00:35:36.07
>>260

江戸時代レベル
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 00:51:50.30
>>259
最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき
南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています

二度目は神功皇后(14代仲哀天皇妃)の熊襲征伐のとき
日本書紀に...
「山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた」
「田油津媛には夏羽という兄がいたが 夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡した」
という記載があります
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 01:09:20.85
>>262

山門郡じゃなくて山門縣
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 01:22:54.20
日田の比佐津媛が卑弥呼か台与じゃないのかな
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 02:50:34.15
阿波説が卑弥呼の墓と言い張る墓はハルキーにあっさり否定されてて🌱🌱🌱
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:13:19.50
日本の歴史は北魏の歴史
邪馬台国は曹魏で日本は北魏
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:14:32.66
まだおまえらしつこく生き延びていたのか

ぶち殺さなきゃ分からないようだな
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:36:26.27
>>257
>漢委奴国王の子か孫の奴国(博多)王帥升(≠吉備楯築王=後漢鏡なし)死後の王位継承戦争である倭国大乱収束(186)から、266年に吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に朝貢するまでの暫定政権のような筑紫邪馬台国80年

筑紫邪馬台国は、奴国帥升死後の王位継承戦争に端を発した倭国大乱@北部九州の「戦後処理内閣」と考えれば解りやすいかもな

王朝女王ではなく共立女王だったからいつ崩壊して、大乱再開になるか解らないため、曹魏に朝貢したらそれが向こうの歴史書に記録されたもんだから、実力以上に過大評価されて超有名になってしまったとw

その後、共立女王の不安定さに気付いた台与が崇神ヤマト王権に禅譲して、筑紫邪馬台国(倭国大乱の戦後処理内閣)はその役割を終え、本格的な古墳時代が始まったと

筑紫邪馬台国80年の歴史に必死で焦点を当てようとしてるのが九州説で、大雑把に崇神ヤマト王権と混同してるのが畿内説ということかw
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:42:52.57
「阿波」とともに、更なる日本の真実を探求しましょう。

そして、日本古代史を正しい道に戻しましょう。   @阿波
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:45:52.18
阿波みたいなど田舎に邪馬台国あったわけないやろ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:46:47.93
つまり筑紫邪馬台国とは、弥生時代という蝋燭(灯もし火)が燃え尽きる瞬間に、ヤマト王権と争うことなく禅譲し、新王・崇神と共に西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれて、輝きを放った存在「灯滅せんとして光を増す」といえるのかもなw
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:58:37.15
>>271
そう思いたい気持ちは理解できる。   @阿波
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 08:59:05.51
禅譲😳そりゃ中国の話だよ

中国では中国の神山と呼ばれたところで修行でもしてたよあなのが皇帝になる❗ってんで名乗りを上げてるだろ

仏教には中国の影響がどおせ色濃く残ってるだろうからな

仏教を見て中国人らの考えなどを見出すのも簡単なのだ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:00:09.70
>>270
阿波説は国賊の共産党
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:01:11.37
旧皇族のやつらみたいの人間界は真っ平だ😂ってんでやがて人間らの手が及ばない神山あたりに移り住むようになっていったからな

そおいうところでしか皇帝学みたいの学べなかったんだよ
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:02:54.19
後漢書には、邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかる

3世紀に突然と7万戸の邪馬台国が現れたかのように印象操作している畿内説はいわゆる霊感商法詐欺に相当する
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:06:29.14
>>272
筑紫邪馬台国女王(台与)はヤマト王権(崇神)に禅譲して、一緒に西晋武帝に朝貢することで崇神に恩を売り、自分の身の安全を図ったともいえるかもなw
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:07:07.36
畿内説から見ると倭国大乱は都合が悪いので無かったことにします
畿内説から見ると大乱前の30国連合は都合が悪いので無かったことにします
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:10:50.01
後漢時代から続く邪馬台国連合30国には共通して鉄器文化が浸透していたはずである

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

邪馬台国時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:11:28.79
畿内に倭国の歴史はありません
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:12:26.62
国譲り=禅譲
日本は禅譲を正統とする国家
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:13:09.61
つまり筑紫邪馬台国は倭国大乱の戦後処理内閣 
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:14:33.79
>>278
東遷して、崇神に早変わりしたのだよ。
だからその後、半島大陸の航路は、対馬ー沖ノ島ー宗像ー中津・宇佐ー瀬戸内ルートに変わり、
近畿が列島の中心になった。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:15:41.40
補足

筑紫邪馬台国は北部九州で勃発した倭国大乱の戦後処理内閣

不安定な共立(✕王朝)女王政権で魏帝に朝貢したため、本場中国の歴史書に記録されて過大評価されてしまっているということ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:24:12.51
禅譲は中国文化

禅譲を行う場合は法師らが集まって会議して決まった者が次の皇帝に立つ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:25:29.17
そう言えば、出雲大国主の国譲りも禅譲だなw
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:25:49.30
中国北朝の場合は武将から成り上がってそのまま皇帝を宣言するだのあったわけやろ

それでは各地から反乱の🔥が上がるだけだ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:26:29.27
漢字(→カタカナ→ひらがな)も中国文化だが?w
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:26:41.68
中国の皇帝主義もしょさんは神聖主義の上にのみ成り立つものだからよ
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:27:14.63
[魏志 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
・馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
・王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
[魏志 倭人条]
・倭人伝の各国にも、邪馬台国の女王の他に王はいません。官だけです。
・難升米も率善中郎将の官位を授けられました、魏の支配が一段高まったこ
とを表しています。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:27:26.06
中国文化の亜流でしなかない倭人が何を偉そうにw
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:27:47.11
閣内では諸法師と互いを呼び合う

一般人らの前では導師と呼ばれる
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:28:47.27
それもともと漢式だろ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:29:21.03
日本のベースは縄文
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:31:31.73
ベースは縄文(の原始人w)でも、文明生活はすべて中国由来w
漢字(カタカナひらがな)から始皇帝が決めた度量衡(尺貫法も)
オリジナルは畳と箸置きくらい(あとはすべて中国にもあるw)
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:43:48.12
>>285
そんな感じだろね
狗奴国ひとつ制圧できない弱小連合体
最強畿内さまから、土蜘蛛として滅ぼされてそう
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:46:18.40
>>297
いや247年に狗奴国と交戦中wで張政が来て、曹操鉄鏡貰ってるから、たぶん狗奴国は何とか下したのだろう
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:52:27.40
邪馬台国論争は終結しました。
投馬国は朝鮮半島南部
邪馬壹国は北部九州地域全域、倭種は中国地方
狗奴国は南部九州地域、侏儒国は四国
ハイ解散。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:55:46.12
😄はい、狗奴国は滅びました

やがてその生き残りが日本で軍勢を整えて攻め込みました😳

それが三韓征伐です😃

あくまで俺の見立てだけどね
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:56:59.39
>>298
勝敗が書かれてないから、なんとか追い返しただけっぽくね?
もし制圧していたならさ
邪馬台国をアゲアゲしたい陳寿のことだから、邪馬台国は強かったとか狗奴国に勝って配下にしたとか書いてそうじゃん
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 09:59:18.75
魏志倭人伝まとめ

    北 伊都国
           
西  【邪馬台国】  東
記載なし    海の向こうに倭種

    南 狗奴国
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:00:26.08
卑弥呼の朝貢247年

三年後250年
魏による討伐軍により卑弥弓呼、血祭りにされて討ち死に🤪🩸
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:03:52.10
>>301
台与が国中を遂に定めたと書いてある
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:08:29.69
>>301
英雄曹操鉄鏡は、狗奴国に見事勝利し、天下統一のお祝いに皇帝曹芳から貰ったとしか考えられない
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:10:46.73
え?逆賊でしょ曹操は
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:13:12.13
バカかお前はw
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:16:48.39
倭側から通商の使者が立つのは晋(司馬政権)となってから

それでも最初は様子見の感じ
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:17:43.10
>>306
唐の二王三恪(前正統王権の子孫を礼遇する制度)は漢→魏→晋→魏→周→隋→唐wwww
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:17:52.76
魏と関連なんかあったっけ?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:23:48.66
古事記序文にこんなのがあるの知ってる?

先帝の功績をずらずら書いてんだけど、

「即、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。」

この「賢后」っていうのが崇神のことなんだよね、
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:24:00.18
曹姓のやつらなんぞ日本に来てないしな

司馬懿の子孫なら日本でも来てもいいよ😊ってんで引き受けたけどな

その子孫は僧侶となっておった

日本に初めて仏教を伝えたとされてるが実際には仏教を信仰していた中国人らはおり彼らだけで法事やっとった😃
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:33:29.10
中国文明を受け継いだだけの原始人(縄文人)の分際で、何を偉そうにw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:38:42.46
帯方郡の支配地は馬韓等の三韓でしたが、神功皇后は、その三韓に攻め入っています。
つまり、魏の郡使が糸島や博多や宇瀰を通行することはありませんでした。
皇統は、馬韓や(後裔の)百済とは長年敵対してきましたから・・、と不比等は書いたのです。

7世紀、唐の進駐軍2000名を念頭に、白村江へ攻め上った倭軍の正体は、
皇統偽僭の九州女酋を戴いた馬韓再興の百済軍でしたと、言い訳したのです。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:38:45.78
314
我らはその真贋を見抜く👁を持っておるのや👁🗨👁🗨ってことやろ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:41:19.47
315
👁👁うむ
神功皇后に正当なる辰韓の王位継承権があったとされたのがその理由だ
応神天皇はそれを引き継いだ

だがそれも130年だけの歴史だけどな
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:43:18.20
漢→魏(邪馬台)→晋(邪馬台)→魏→周→隋(邪摩堆)→唐(夜摩苔)w
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:43:26.76
>>314
縄文文明は1万年以上続いた世界最古の文明なんだよ。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:50:13.68
縄文文明とかどこの害務省だよ
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 10:53:34.62
中華史書の「末盧国東南伊都国」を軽んじて、神功皇后の後を追いかけ、
北東の怡土や儺縣に向かったのは、不比等を読めなかった本居氏以来の軽率。
不比等は、神功皇后を帯方郡や三韓に立ち向かった英雄女傑として、描いているのです。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:05:56.22
筑紫邪馬台国が倭国大乱の戦後処理内閣(共立=暫定倭王権) とゎ盲点だった...orz
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:08:16.05
そして266年台与は崇神のヤマト王権に国譲りとw
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:12:29.61
魏志倭人伝は九州の事が書かれてる、近畿の事を知りたいなら近畿の事が書かれてる古文書を探すべき、
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:24:14.58
>>326
近畿の事を知りたいのではなく、邪馬台国がどこにあるのかを知りたいと思って、文献を読み、考古の論文を読んだ結果、それが畿内にあることが分かった
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:27:25.12
邪馬台人はみんな百歳以上長生きする
天皇家もな!
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:32:07.34
>>327
それで騙されるんだよ、みんなw

>>329
ヤマイチ?何が違うんだ?
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:32:24.06
>>286
禅譲による権力移譲は日本でこそ進化した文化だ。中国は北宋滅亡で終わった。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:33:33.15
九州説はもう侵攻ですな
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:37:28.90
大国主の天照への国譲りといい、筑紫台与の大和崇神への国譲りといい、大政奉還と言い、日本は国譲り(無血革命)の文化
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 11:53:57.70
とすると、新政権・天照大神が旧政権・出雲大国主を祀る(称える)古代出雲大社を建ててあげたように、
新政権・大和崇神が旧政権・筑紫台与を祀る(称える)ために造ってあげたのが箸墓なんジャマイカ?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:01:54.12
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:05:22.65
帯方郡の支配地は馬韓等の三韓でしたが、神功皇后は、その三韓に攻め入っています。
ですから、魏の郡使が糸島や博多や宇瀰を通行することはありませんでした。
つまり皇統は、馬韓や(後裔の)百済とは長年敵対してきました・・、と不比等は書いたのです。
7世紀、唐の進駐軍2000名を念頭に、白村江へ攻め上った倭軍の正体は、
実は、皇統偽僭の九州女酋を戴いた馬韓再興の百済軍でしたと、言い逃れしたのです。

中華史書の「末盧国東南陸行伊都国」を軽んじて、安易に神功皇后の後姿を追いかけ、
北東の怡土や儺縣に向かったのは、不比等を読めなかった本居氏以来の軽率。
不比等は、神功皇后を、帯方郡や三韓に立ち向かった英雄女傑として、描いたのです。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:18:43.66
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王」
「丗有王(これ・ここに、王有り)」 
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。   
同じく、「邪馬壹國」も「邪馬臺国」の誤字だろう。   @阿波
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:22:35.64
岡上さんのイト倭国東遷が正解。
異論は認めないw
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:24:29.40
>>339
どこへ遷都したんだ?   @阿波
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:28:22.27
>>335
卑弥呼・男弟=奴国(博多)王帥升の孫娘姉弟
台与=伊都国平原女王(天照大神)の孫娘

であり、吉備ヤマト王権の前期古墳に伊都国の要素が加わり、伊都国東遷説という錯覚が生まれたわけです。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:29:35.75
岡上さんのイト倭国って、イト倭国という言葉は寺澤が前から使ってるだろ
寺澤のオリジナルかどうかは知らんが
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:33:01.00
纒向遺跡が建設される前の周辺の在地弥生勢力は極めて後進的かつ政治的に脆弱で、纒向遺跡を作った勢力との連続性がまるで見られない
また畿内には、纒向より前の倭国の王都にふさわしい先進的な遺跡が存在しない(どの遺跡も同時代の北部九州に比べて鉄器も銅鏡も圧倒的に乏しく文化的にも政治的にも明らかに劣後する)

このため最近の畿内説は、伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見が急速に台頭している
だがそこまでして畿内説を墨守する意味が果たしてどこまであるのか

魏志倭人伝から素直に読み取れる通り、邪馬台国を都とする倭国は北部九州にあったことを認め、その一部勢力が吉備を巻き込んで奈良盆地東南部を征服してヤマト王権を建てたと考える方が自然だろう

このときにそれを邪馬台国の東遷とする考え方もあろうが、皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないことや、伊都国と纒向との政治的・文化的共通性が複数の学者から様々指摘されていることなどから、伊都国勢力が東遷し、邪馬台国は北部九州に留まった(後に田油津媛の代で滅んだ)と考えるのが自然であろう
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 12:46:26.66
縄文由来の日本人とそうでない朝鮮人だと色々違う
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:27:57.75
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:28:52.06
>>347
why?
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:38:38.25
>>344
考古を見ると、邪馬台国を北部九州に求めることはできない
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:43:31.24
>>349
理由は?
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:45:43.91
3世紀中頃はもう古墳時代だから
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:46:48.96
>>351
それで?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:49:09.18
「有丹」丹有り。
「有之」之有り。
「有王」王有り。   @阿波
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:49:16.56
>347
お爺ちゃんは静かにしてな
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 13:58:42.94
阿波は生まれた時から島流し。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:02:38.96
倭王権の推移をまとめると、

漢委奴国王・帥升➡筑紫邪馬台国卑弥呼・台与➡吉備ヤマト王権・崇神朝へ禅譲&東遷➡宇佐応神朝(倭の五王)へ西遷➡継体🌋阿蘇💗ピンク石)朝へ南遷
兄=九州本家(天垂彦・天智)
弟=大和分家(欽明推古・天武)
➡天智天武兄弟統合➡藤原京・平城京へ

博多→筑紫→大和→宇佐→阿蘇→大和
奴国→邪馬台国→崇神→応神→継体→天智・天武
ということ

古墳時代は、鉄を求めて(秀吉の)朝鮮出兵が常態化していた時代。
大本営は北部九州になければおかしいのだ。
崇神朝は大和でも、応神朝は九州宇佐に西遷して戻って来ており、継体朝は阿蘇ピンク石へ南遷し、日本国日出処の天子天垂彦に繋がり、阿蘇山大噴火で天智が太宰府に北遷したわけです

古墳時代=秀吉の朝鮮出兵

肥前名護屋城(九州)に太閤秀吉(大王)がいて、大坂城(大和)には関白秀次(留守番・副大王)がいた。
これが🌋天垂彦の兄弟王朝に繋がるわけだ。

と捉えることで、大和中心から、九州中心史観に転換できる

記紀伝承地に古墳時代の大王宮が出土しない問題も解決!
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:02:48.33
>>349
日本列島で銅鏡・鉄器最先端の伊都国は北部九州
最先端かどうかが魏志倭人伝ではわからない邪馬台国が北部九州にあっても何らおかしくない

しかも考古と言っても「魏志倭人伝に一言も記述がない」=「理論的に邪馬台国の客観的根拠になり得ない」前方後円墳や三角縁神獣鏡や庄内土器のことを指してるんだろうから、君の意見は何ら傾聴に値しない

それとも別の真に説得力のある根拠があるかい?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:17:47.11
>>357
邪馬台国を北部九州に求めることはできない。
銅鏡・鉄器・「倭地温暖」・「其山有丹」 を見ると、倭国(阿波)。   @阿波
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:21:06.26
>>350
九州には3000以上の弥生遺跡があるが、めぼしい物が出てきたのは、三雲南小路、井原鑓溝、平原、須玖岡本だけ
漢鏡4、5期の平原か須玖岡本が最後の倭国の本拠地
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:24:07.94
倭国大乱がポイント
倭国は帥升の時代から続くもの
卑弥呼が即位したことで大乱は収まった
卑弥呼の都は纏向
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:25:37.70
つまり古墳時代の大和は九州倭王権の奥津城
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:27:26.04
倭国大乱がポイント
倭国は帥升の時代から続くもの
卑弥呼が即位したことで大乱は収まった
ここまで〇

卑弥呼の都は纏向 でドボン   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:29:33.82
>>361
九州倭王権があった痕跡など微塵も無い。   @阿波
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:30:26.06
つまり、筑紫邪馬台国女王卑弥呼が吉野ヶ里で「大和盆地を我が奥津城にせよ」と命じて日向投馬国王・神武を東征させ、箸墓を造らせたのだ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:31:58.38
>>360
根拠なくいきなり東の倭種に飛ぶのはNG
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:32:33.20
>>364
と、夢は膨らむ。   @阿波
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:32:45.30
>>363
奴国は漢から金印もらうくらいの大国なんだが
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:35:05.50
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:35:44.56
阿波には国宝が無いから日本じゃありません
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:39:02.82
>>364
魏志倭人伝通りに宮室・楼観・城柵・邸閣4点セットが揃う吉野ヶ里がある九州説は、箸墓が卑弥呼の墓であっても痛くも痒くもないなw
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:41:41.33
>>369
阿波に国宝が無くても、王都遺跡があるのでそれでよいのだ。   @阿波
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:42:34.20
>>370
邪馬台国を北部九州に求めることはできない。
銅鏡・鉄器・「倭地温暖」・「其山有丹」 を見ると、倭国(阿波)。   @阿波
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:44:03.33
>>371
誰の王都か?
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:44:51.31
阿波は特殊学級向けの勧誘員
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:46:28.37
無国宝
無世界遺産
無宗廟
無王都
無電車
無下水道
無脳

阿波の特徴です
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:46:32.73
>>373
>誰の王都か?

倭国の王都。   @阿波
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:47:38.89
>>376
そんなの聞いた事ないな、嘘はいけません
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:49:47.23
>>377
>そんなの聞いた事ないな

御用学者は「阿波」を取り上げないから。   @阿波
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:50:22.16
無の総合商社が阿波
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:50:28.75
名門出の一流漢文学者らしいが、
素行は、田舎のガキ大将がそのまま大人になった感じ、阿波の@ジャイアンてえとこだな。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:50:51.10
御用学者は「其山有丹」も取り上げない。   @阿波
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:51:19.15
>>378
王都が無いからな
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:54:16.94
>>382
御用学者は「其山有丹」も取り上げない。   @阿波
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:54:17.93
>>365
根拠は倭国大乱
高地性集落の分布と
大乱後に環濠を埋め立てた唐子・鍵遺跡や吉野ケ里遺跡などの存在
それらと卑弥呼の即位後の纏向遺跡と箸墓の存在
それらが雄弁に倭国のありよう、卑弥呼の都を物語っている
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:55:00.47
神功卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

神功卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

神功卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:55:56.73
>>382
御用学者は鉄器王国「阿波」も取り上げない。   @阿波
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 14:58:06.21
>>384
>大乱後に環濠を埋め立てた

大洪水で埋まったのを、埋め立てたとはww  さすが御用学者。   @阿波
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:13:01.03
岡上さんのイト倭国の崇神入婿説が正解。卑弥呼はその連れの伊都国の王女。
こんな掲示板より岡上さんの動画見たほうが早いw
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:15:12.45
>>384
高地性集落は倭国大乱の時期(180-190)とは無関係
相関性が無さすぎる
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:34:30.92
>>389
高地性集落はその収束した時代が問題となる
大乱の後、卑弥呼の時代には収束している
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:37:22.07
>>359
それがどうした
邪馬臺国が畿内だという根拠に全くなってないぞ
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:39:40.10
>>390
日本人の死亡と米食に関係があると言ってるようなもんだな
無関係というやつだ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:39:50.96
>>387
吉野ケ里遺跡wikipediaより
>古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。
また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:42:53.23
>>392
>>393をよく読むように
長い戦乱の時代を経て平和を渇望する時代となった その結果発生した事象
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:50:17.82
>>365
根拠なくというのが間違い
文字による歴史が存在しなかったから、「いきなり」という表現になってしまうが、それで考えると楯築墳丘墓も「何もなかった所にいきなりできた」ことになるが、実際はそんなことはなく、
吉備の人々は文字に現れることはなかったが、あれだけの文明を築けるだけの歴史を持っていた
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:53:06.20
>>394
土蜘蛛が討伐されたからじゃね
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:54:01.40
>>395
あれだけの文明を築けるだけの先進文化を持っていた吉備の人々は、いわゆる吉備忌部。   @阿波
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:55:08.41
>>395
考古学の範囲から逸脱してね?
じゃあ纏向が突然できたと言われてるのもデマか
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:55:17.24
阿波は日本の陰部
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:57:28.74
>>399
阿波が日本の陰部だとしても、王都遺跡があるのでそれでよいのだ。   @阿波
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 15:59:12.16
>>399
阿波が日本の陰部だとしても、王都遺跡があり、今もって天皇家と繋がりがあるのでそれでよいのだ。   @阿波
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:02:09.47
>>396
帥升が倭国王となって以降、卑弥呼・台与の時代まで天皇の系譜につながる人物は登場していない
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:04:14.51
>>402
>倭の南極界は奴国

この二回目の「奴国」は倭国の南の端、「狗奴国」の間違いなんだろう。   @阿波
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:14:23.57
>>402
里数はわかるが境がわからんてこと?
東南100里て至るが、狗奴国までの里数がわからんて事か?
乱で57年の当時と違うかもしれん
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:27:49.19
阿波にあるのは“住めば都”だけ
0407日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:32:50.63
>>403
帥升が神武?
欠史八代は不安定期とか?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:35:03.81
>>407
台与の時代まで、天皇につながる人物も神話も生まれていないということ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:36:49.78
404
半島においてはほんとに南にあるとこだよ

要するに狗邪秦王と呼ばれた人物がいたとこだろ

その向こうが倭種の国か
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:37:07.64
>>401
阿波はたかだか麻服の調達人なだけ、宮内庁御用達の八百屋みたいなもの
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:37:36.66
>>388
伊都国王の血筋なら倭人伝の伊都国の説明に
記述すると思う。血筋は関係ないと
考えています。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:40:44.92
その跡地から発展したのが神功皇后による征伐後の任那・伽耶

日本から派遣された代官がいた

それを歴代務めたのが毛野一族
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:41:20.57
>>408
記紀や風土記もずいぶん、
後の編纂だからね。伝承も変化したり
なんらかの比喩だったりて事もありうるね。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:41:48.16
麻の麁服よりも絹の繒服の方が上等。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:42:39.44
辰韓から任那・伽耶となり

もとは辰韓に従ってたような部族が独立して新羅を立てる

やがて任那も百済も滅ぼして半島南部を統一しちゃったんだな
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:46:46.45
帯方にいた連中らも狗邪韓国まで渡りそこから日本まで来たわけか

わざわざ航路が書いてあるくらいだからな
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:53:58.30
>>410
>阿波はたかだか麻服の調達人なだけ

そのたかだかに、誰でもなれないから。   @阿波
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:56:29.66
>>414
践祚大嘗祭などの、すべての貢進物の中で「麁布」だけが唯一、神祇官扱いなのである。   @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 16:59:54.17
>>415
任那(旧三韓=馬韓、辰韓、弁韓)は、倭国(阿波)の支配圏。
任那の北側に百済、新羅があった。
西暦399年、旧辰韓領にいた倭国(阿波)軍が任那領を超えて新羅に攻め込んだ。   @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:06:37.71
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:13:59.18
>>417
丹後の羽衣伝説等
絹、繊維、織に関連は面白いですね
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:23:43.82
「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う
御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 
南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。
このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。   @阿波
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:33:43.74
>>423
おまえが書くと下品で陳腐になるだけだよ。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:38:46.89
パクれるものは何でもパクるのが阿波説
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:41:16.00
「天皇家と縁も所縁もない九州や畿内」
阿波忌部は、天皇陛下即位式である大嘗祭に「麁服」を調進する大役を担い、今現在も天皇家と繋がっている。 
それは、「阿波」が天皇家の出身地だから。
宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭、新嘗祭の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。 
今の天皇家が九州や畿内出身なら、天皇陛下即位式である大嘗祭において、蚊帳の外に置かれる筈がない。
九州や畿内が天皇家の故地ならば、有り得ない話である。   @阿波
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:41:52.03
>>427
下品な説明
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:43:25.06
帯方郡の支配地は馬韓等の三韓でしたが、神功皇后は、その三韓に攻め入ったとなっています。
つまり皇統は、馬韓や(後裔の)百済とは長年敵対してきました・・、と不比等は書いたのです。
ですから、魏使が神功皇后の足跡に誘われて糸島〜博多〜神湊を通行するなどあり得ないことでした。

則ち7世紀、唐の討伐進駐軍2000名を念頭におき、白村江へ攻め上った倭軍の正体は、
「皇統を偽僭する南九州の女酋を首領に、馬韓再興を期した百済軍」でした、と言い逃れしたのです。
中華史書の「末盧国東南陸行伊都国」を軽んじて、安易に神功皇后の尻を追いかけ、
北東の怡土や儺縣や宗像へ向かったのは、不比等の計を読めなかった本居氏以来の軽率。
不比等は、神功皇后を、帯方郡や三韓に立ち向かった英雄女傑として、描いたのですからね。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:44:51.18
過去の大嘗祭の斎田は福岡や大分が選ばれている
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:48:25.84
>飛鳥時代の都の跡は、飛鳥地域各地にある

奈良飛鳥に飛鳥時代の古代政務や律令制度の実態、官人層の生活等の様相を示す遺跡は存在しない。

飛鳥時代の都の跡は、飛鳥地域各地にあるのなら、奈良飛鳥の王都遺跡とカモメを探してこい! わははははは   @阿波
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:51:29.56
>>430
アオウミガメの亀卜によってな。 毎回、場所が変わる。   @阿波
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 17:56:58.57
阿波には宗廟が無いので王都では無い
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:00:00.47
糞尿臭い阿波でも住めば都w
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:02:07.44
住からイ`を取れば王都だなw
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:04:10.17
飛鳥の王都が在ったのは、鮎喰川下流域集落群の地。   

飛鳥の王宮が在ったのは、小松島の地と讃岐難波郷津田の地。   @阿波
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:06:31.49
淀川の無い阿波はボツ。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:10:56.64
邪馬台国が何処にあるかは定義によるだろう。
邪馬台国が想像上の国ならば、可能性があるのは阿波だろう。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:11:49.86
>>430
昭和天皇の時に福岡県早良郡脇山村と上皇明仁に大分県玖珠郡玖珠町大字小田が選ばれている
これ以外は九州以外 何か九州が特別な扱いであるような表現は不適当
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:13:40.28
>>439
文章中「上皇明仁」を「上皇明仁の時」に訂正します
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:17:21.92
>>436
阿波に難波があったと言うなら難波に帰った斉明天皇の亡き骸を葬った墓はどこに作ったのか?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:18:20.66
>>441
>阿波に難波があったと言うなら

言わない。   @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:20:32.80
>>442
四国に難波があったと言うならだ?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:24:52.48
阿波、淡路、琵琶湖は太古の工場地帯だよ。
重要地。畿内開拓には欠かせない。
0445ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/02/19(月) 18:30:45.75
イリヒコが入婿というのはありえない
タカキイリヒコやイホキイリヒコも婿だったのだろうか
タマクシイリヒコ(事代主神)はどう解釈すべきなのか

そもそもミマキイリヒコ(崇神)の前にイサセイリヒコ(吉備津彦)という人物が存在している
吉備津彦は楯築と関係あるかもしれないな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:32:35.70
>>304
卑弥呼のあとの男王で内紛が起きたのを、壹与が女王になることでまとめたってだけじゃん
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:36:41.75
>>323
>筑紫邪馬台国が倭国大乱の戦後処理内閣(共立=暫定倭王権) とゎ盲点だった...orz

同じ頃、本州「東渡海千里 複有国皆倭種」では、吉備楯築王家が唐古鍵を征服して初期ヤマト王権を樹立したということ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:39:04.66
>>439
宗像大社や宇佐神宮に天皇の勅使が行っているから特別な存在であることに変わりはないよ
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:42:23.19
>>438
維新財が豊富、豪華で立派な建物があって
先進国で中心国という願望定義も
ある一方で逆の願望定義もあるからね。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:43:26.24
ヤマト王権が吉備楯築王家である証拠
−直弧紋
−吉備特殊器台
−三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:45:56.21
やはり高天原が邪馬台国
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:53:32.61
>>446
それじゃもとより不和の狗奴国が不和のままじゃないか
全然国中遂定になってない
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:54:49.19
>>444
>阿波、淡路、琵琶湖は太古の工場地帯だよ。

倭人(阿波勢力)のな。 工業地帯というほどではないが。   @阿波
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 18:58:39.42
>>448
>宇佐神宮に天皇の勅使が行っているから

阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇狭の宮」な。   @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:01:11.84
委奴国が倭国の極南界にあると言うことは
九州の南がその委奴国、つまり狗奴国ということだろう
そしてその狗奴国は九州北部の女王国連合の勢力と均衡するほど力を持っていた

倭国大乱で暦年大倭王が不在になったのは後継者争いで
各国が女王を共立したことが受け入れられずに大乱以後もずっと
狗奴国は卑弥呼と不和を続けていた

そして台与の時代に魏の威光に屈した狗奴国は女王国連合に加わり
台与政権のもと倭国はその国中が遂に定まった
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:03:16.83
>>455
いわゆる、「出雲の国譲り」だ。   @阿波
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:03:35.08
>>454
はいはい、捏造がお好きなようで
0459日本@名無史さん
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2024/02/19(月) 19:14:55.93
>>448
>勅使は天皇の命を伝える使者のことで、特に伊勢神宮やその他の諸大社に遣わされる祭使(奉幣使)を称した
九州が特別ということはない
ただ、大神神社には専用の勅使殿が設けられている これは特別な例
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:15:02.05
>>454
このように何でも捏造するのが阿波説
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:16:54.53
>>459
邪馬台国、卑弥呼、壹与とは
関係ない天皇
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:21:06.19
>>459
>大神神社

「大御和神社」の劣化コピーな。  神紋もお粗末。   @阿波
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:22:08.48
>>459
宇佐への勅使で有名なのが和気清麻呂。その後の天皇家があるのも宇佐の神勅
「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」があってこそです
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:22:12.94
>>459
>大神神社

「大御和神社」の劣化コピーな。  神名も神紋もお粗末なやっつけ仕事。   @阿波
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:24:17.81
>>461
卑弥呼と台与は天皇が一人も生まれていない時代を生きた人
その意味で関係がない
ただ、のちの天皇たちは我が国の偉大な先達として敬意を抱いただろう
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:26:20.12
>>452
文脈を読みとれよ
国内で紛争が起きたことを書いたあとにそう書かれてんだから狗奴国関係ねーじゃん
それに、勝たなくても追い返すだけ、相手が何らかの理由で撤退しただけでも戦は終わる
「勝った」と決めつけるのは妄想でしかない
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:27:01.74
>>462
>>464
神罰が下るよ
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:28:47.59
>>465
>卑弥呼と台与は天皇が一人も生まれていない時代を生きた人

先進文化の中心「阿波」でな。   @阿波
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:30:07.15
>>466
撃退したなら不和のままだ
内乱を治めたなら内乱限定のはなしでそれでは倭国の国中が定まってはいない
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:30:39.60
>>467
>神罰が下るよ

「阿波」の神社を愚弄する輩にな。   @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:33:51.65
>>459
>大神神社

「大御和神社」の劣化コピーな。  祭神も神名も神紋もお粗末なやっつけ仕事。   @阿波
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:36:37.47
阿波が発展しないのは神罰が下っているからだろう、皇祖中の皇祖である素戔嗚様にウンコを食べさせたら永遠にバチが当たり続けると思ったほうがいい
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:37:30.95
>>472
下品なもんはコピーしないよ。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:38:33.47
九州説のハルキーさんは、親魏倭王印が出てこなくても邪馬台国論争は決着できると言ってる。
・洛陽焼溝漢墓から斜縁鏡や三角縁神獣鏡か出てこれば畿内説で決着だと。
・箸墓から4世紀の紀年銘鏡や木製鎧が出てこれば九州説で決着だと。

これは事実上、畿内説に負けていることを理解しているということ。
ホケノ山や桜井茶臼山や椿井大塚山を見ても分かるが、4世紀紀年銘鏡は出てないし、そもそも日本で4世紀の紀年銘鏡は1面も出てない。
箸墓から4世紀紀年銘鏡が出る可能性は限りなく低い。
木製鎧が埋葬施設から出てくる可能性もほとんどない。

また、ハルキーさんは三角縁神獣鏡が仮に卑弥呼が魏からもらった銅鏡100面でないとしても、三角縁神獣鏡は斜縁鏡のルーツとか兄弟と言っていることや、
華北東部系鏡が「全てを後破産にする」とも言っているから、これまでの三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡=呉鏡説を破棄し、三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡=魏鏡説に鞍替えする準備ができているということだと認識できる。

今、橿考研が中国に行って華北東部系鏡の調査をしているから、ハルキーさんはすでにソフトランディングの用意ができたように見える。
ノンプロとしてはよくここまで九州説にしがみつけたと思うが、プロはもはや別の多くの理由から畿内説しか成立し得ないことを理解している。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:41:20.22
>>474
つまり、上品だから、コピーした結果が祭神も神名も神紋もお粗末なやっつけ仕事。   @阿波
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:44:32.16
>>476
阿波が下品だな
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:45:25.21
>>476
おまえのところが下品
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:47:35.15
>>479
いいね。卑弥呼がいたかもしれん。
邪馬台国ではないかもしれんけど。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:49:51.15
帯方郡の支配地は馬韓等の三韓でしたが、神功皇后は、その三韓に攻め入ったとなっています。
つまり皇統は、馬韓や(後裔の)百済とは長年抗戦してきました、
ですから、魏使が神功皇后の足跡をたどって、糸島〜博多〜神湊を通行するなどあり得ないこと・・、
と不比等は強調したのです。

則ち7世紀、唐の討伐軍2000名を念頭に、白村江へ攻め上った倭軍は、
「皇統を偽僭する南九州の女酋を首領に、馬韓再興を期した百済軍でした」、と言い逃れしたのです。
中華史書の「末盧国東南陸行伊都国」を失念し、神功皇后の色香を追って我先にと、
北東の怡土や儺縣や宗像へ急いだのは、不比等の計を読み損なった本居氏以来の軽率でしょう。
不比等は、神功皇后を、帯方郡や三韓に立ち向かった英雄女傑として、描いたのですからね。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 19:59:00.19
>>470
倭国が?w
どう読んでも邪馬台国の国内の話だろ


更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
  復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
「さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。」
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:05:51.38
>>482
男王の名前ぐらい書いて貰いたかった。
狗奴国との関係もわからず。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:10:02.10
ハルキーさんは、C14や年輪年代法が正しいならば、邪馬台国論争は畿内説で決着することも理解している。
今、奈文研を提訴している日本古代史ネットワークもC14や年輪年代法が正しいならば、畿内説しかあり得ないことを理解している。

纒向の桃核13個のC14は正しいか?
「限りなく正しい」
4世紀の可能性を潰した桃核が3個もある。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:16:41.01
倭国には阿蘇山がある

→九州嶋や、韓国南端あたりを倭人の住む国と認識していた


女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り、それらも皆、倭人と同じ人種

→本州は倭人と同じ人種と書いているあたり、倭国であると明言していない


さらに侏儒国がその南にあり、人の背丈は三、四尺で、女王国から4000余里

→四国は明らかに倭国としていない
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:17:42.85
>更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

これは「卑弥呼の次として男王を立てたが、(卑弥呼を共立していた30の)国中が不服で、更相誅殺 當時殺千餘人」の意味。
それで、またもや、女王臺与を立てることで30国は治まった。
だから、以前から男王卑弥弓呼がいた狗奴国は関係無し。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:27:20.57
>>482
卑弥呼の後継者で台与の前任者だから「倭国(女王国)」の「大倭王」のことだね
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:28:24.63
>>483
たしかに
魏志倭人伝の悪いとこだよね
情報が中途半端だから憶測や妄想が追加されるw
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:31:18.77
>>486
どう見てもそうなんだが
どうしても狗奴国を制圧したことにしたい畿内さん哀れ
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:33:37.04
セミプロレベルの在野の邪馬台国九州説ですら、「畿内説で確定してないのではないか?ならば九州説も全然イケる」というレベル。
プロである関川やセミプロの安本美典ですら、こういう感じ。

すなわち、関川や安本美典は、画文帯神獣鏡が呉鏡であるという大前提のもとに成り立っている。
画文帯神獣鏡が魏鏡であると確定すれば、関川や安本美典は畿内説になるしかないのである。

そして、近年ここに、華北東部系鏡なるものが現れた。
魏の領域である徐州で出る銅鏡であり、しかもこれが呉鏡と魏鏡のハイブリッドのような鏡。
これがまさに、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡なのである。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:36:31.75
①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼(天照大御神)」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼(須佐之男命)」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、卑彌呼宗女「壹與(豊玉比売命)」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」 
⑤「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:38:40.05
出雲は狗奴国(長国)。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 
これが記紀に言う、「出雲の国譲り」  
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、
倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、
倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。   
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。   
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:39:20.10
倭国大乱以前は狗奴国も使訳を通じた倭国30余国連合の一国だった

倭国大乱になって暦年大倭王が不在の状態になった

各国が相攻伐していたが女王卑弥呼を共立することで各国は停戦を実現した

が、ここで狗奴国は女王卑弥呼の共立に同意しなかった

247年「卑彌呼は狗奴國王ともとより不和であった」

卑弥呼死亡

男王が立つも内乱

台与共立(おそらく魏の張政の後見)

狗奴国も和して国中遂定

これ全部「倭国」の「大倭王」の話ね
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:41:08.20
>>493
つまり、
①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼(天照大御神)」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼(須佐之男命)」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、卑彌呼宗女「壹與(豊玉比売命)」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」   
④卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」 
⑤「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。   

これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:48:02.73
山門郡の土蜘蛛 田油津媛の系統が皇室と関係あるわけがない

但し、魏の時代は女王国(福岡・佐賀)が最大の国だった
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:50:25.43
朝廷に服しないわけだから、神功時代でも相当な大国であったはずである
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:50:37.13
>>494
下品なもんと整合性とるアホ。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:50:59.49
>>491
>A「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼(須佐之男命)」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。

なんでスサノオなん。
スサノオは天照軍に取っつかまって、生ヅメはがされて出雲に追放になった。
その出雲に征服され、1年1回出雲大社へ出頭したのが阿波など八百万の神々。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:52:26.25
九州説ハルキーさんは見落としている点がある。

纒向の桃核C14の結果は、確かに4世紀の可能性もあるが、12個全てが「3世紀前半〜3世紀半ば」の可能性が極めて高いという結果を示しているのである。
さらに、言えば、4世紀の可能性が1%もない桃核が2個もある。とはいえ、4世紀の可能性が1%しかない桃核も「4世紀の可能性がある」に含めているのはおかしい。
これは4世紀の可能性がゼロである桃核は3個であると解すべきである。
さらに、12個のうち、4世紀より2世紀の方が確率が高いと示した桃核が4個もある。

したがって、纒向が4世紀の遺跡であるという可能性は限りなくゼロに近くなったと理解すべきであるどころか、纒向が3世紀前半〜半ば(210年〜250年まで)の遺跡であったと理解せざるを得ないのである。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 20:59:55.26
天皇家の宗廟伊勢神宮と宇佐神宮が卑弥呼なんですね。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:05:11.12
奈良県に邪馬台国があるとしたら、わざわざ対馬とか松浦とかのショボイ国に寄るわけがない
又、降りたとしても、そんなショボイ国だけ記述して、大きい国は2国しか記述しないというのは考えられない
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:05:25.19
比売大神が卑弥呼だろう
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:07:05.58
>>501
奈良に行くのなら九州を陸行する必要が無いよな
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:10:58.09
>503
なぜ?
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:12:32.65
狗奴国側の和睦の条件が卑弥呼の死だったんじゃね?
「以て死す」って「死んでた」じゃなくて「だから死んだ」みたいな原因示してる言い回しでしょ
魏としたら銅鏡100枚をばら撒かせた筈なのに威光が行き渡らずに争いが続いてるような統治者では死罪は当然
もしかしたらその時点(247年)でばら撒かずに溜め込んでたのかもな
1000人死んだのは邪馬台国内の話で狗奴国関係なくても成り立つ
男王ではやっぱ駄目だと思って台与にした
それに対して狗奴国がどう感じたかは知らん
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:12:48.49
>>500
当時は三重伊勢ではないだろう。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:12:56.31
畿内説の祖の内藤氏、自著「卑彌呼考」で支那のことを云い放題
・支那史書は、後世史家の疑惑を惹いている
・支那史家范嘩の数条は、馬脚を露す
・支那の古書が方角を云う時、混雑を生ずること珍しからず
・支那の記録より、邪馬台国は大和朝廷の外なし

畿内説の学者は、支那の古書に関心なし
これからして、金印・銅鏡・その他お土産担いで、支那が大和へ朝貢に来たとカンチガイしてたんだね。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:14:00.89
>>503
絶滅危惧種の九州説の学者は、全て貴殿が言うような文献論争を全く相手にしてない。
絶滅危惧種九州説の学者の考えは以下↓
・画文帯神獣鏡が呉鏡でないならば畿内説を認めるしかない。
・纒向が3世紀の遺跡ならば畿内説を認めるしかない。
・C14が概ね正しいならば畿内説を認めるしかない。
・年輪年代法が概ね正しいならば畿内説を認めるしかない。

アマチュアの「魏志倭人伝には〜」とか「記紀には〜」とか「旧唐書が〜」とかは九州説のプロ学者ですら無視しているのである。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:15:28.06
>>504
なぜ陸行する必要があるのか?
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:17:17.32
裴世清は陸行していませんね
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:19:05.65
>>506
狗奴国の王も死んだとか?
この辺の記述はない。狗奴国があったのか定かではないですね。不安定な統治に激を喩したとか?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:20:35.25
>>511
時代も違うのでは?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:21:28.36
>>506
狗奴国とのことは一行だけ。
その次からは、倭女王国の30国内の騒乱のことだよ。
それがあまりにも大騒動だったから、狗奴国とのイザコザを挟み込んで、印象を和らげた。
陳寿の印象操作だね。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:21:55.33
>>501
>又、降りたとしても、そんなショボイ国だけ記述して、大きい国は2国しか記述しないというのは考えられない

誰が記述したと?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:22:08.05
>>513
魏使と裴世清では目的地が違うのだよ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:22:09.90
>>513
場所もあるね
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:22:49.83
>>517
当然ですね
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:26:40.29
>>498
>出雲に追放になった。

その出雲が「狗奴国」阿南市周辺(長国)。 「卑彌弓呼(須佐之男命)」だ。   @阿波
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:29:31.21
畿内説嫌いの久住ですら、畿内説だからな
畿内説の連中は嫌いだが、私情を挟まずに考えると、畿内であることはひっくり返しようもないということだ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:31:36.49
>>521
鉄器も自前で作れない畿内がか?   @阿波
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:35:56.32
>>522
自前で作る必要があるのか?
家来に作らせるだけのこと。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:37:35.32
>>523
>家来に作らせるだけのこと。

鉄器も自前で作れない畿内がか?   @阿波
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:40:34.81
岡上さんのイト倭国東遷説で全て解決するw
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:40:39.04
>>524
自前で作る必要があるのか?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:42:21.37
外国の玄関口という有利な地勢のくせに邪馬台国の証拠も出せない九州はダメダメw
間違いなく畿内に邪馬台国は移動したなw
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:42:32.17
>>526
恵んで欲しいのか?  臣下になるか?   @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:42:59.68
>>528
自前で作る必要があるのか?
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:44:35.56
>>527
>間違いなく畿内に邪馬台国は移動したなw

鉄器も自前で作れない畿内が邪馬台国か?   @阿波
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:45:02.06
>>528
阿波は臣下だよ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:45:35.23
>>530
自前で作る必要があるのか?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:46:20.79
無国宝
無世界遺産
無宗廟
無王都
無電車
無下水道
無脳

阿波にあるのはウンコ臭とアホだけ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:46:31.97
ここでよく名前出るふるしょうさんの動画見たが女王国九州説で、邪馬台国は纏向というのが正解な気がするな。
この人も武田春樹さんの友人らしいしセミプロのオタクなのかな?よく知らんが。
0535日本@名無史さん
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2024/02/19(月) 21:48:20.64
>>532
鉄器を自前で作る力が無ければ、そうしろ。   @阿波
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:48:22.55
古荘さんの故郷は丹もピンク石も出る臼杵だったかな
0537日本@名無史さん
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2024/02/19(月) 21:48:33.20
>>534
ふるしょうは文献はセミプロだが、考古は全くのど素人
岡村編年すら「難しい」と言ってる時点でど素人確定
0538日本@名無史さん
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2024/02/19(月) 21:48:58.43
>>535
するか!阿保
0539日本@名無史さん
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2024/02/19(月) 21:50:29.95
>>538
畿内はしている。   @阿波
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:51:34.20
>>538
自前で作る必要はないでしょう。
阿波、淡路、滋賀等の家来でいいでしょう
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:52:00.11
>>539
嘘つき
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:53:17.37
嘘だらけの阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:53:38.44
>>540
>阿波、淡路、滋賀等の家来でいいでしょう

まぁ、倭人(阿波勢力)だから下賜はしてやるけどね。   @阿波
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:54:15.93
>>543
阿波勢力は家来
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:55:32.41
>>543
サボるなよ。家来
ちゃんと作れよ。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:55:37.32
岡上さんもふるしょうさんの動画に出てるし、セミプロの集まりかふるしょうさんの動画は?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 21:57:34.38
古荘さんが阿波をけなしているところは好感が持てる
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:00:28.35
楼観なし 城柵なし 邸閣なし 宮室のみw
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:03:31.24
ふるしょうさんが最新動画ライブで邪馬台国の謎が解けたから火曜日か水曜日にアップするらしいな。凄いなここで年がら年中議論してる問題あっさり解いてしまうあたりかなり頭良い人なんだろう。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:07:08.73
>>527
眼が節穴だなw
吉野ヶ里(宮室楼観城柵邸閣)と曹操鉄鏡があるジャマイカ!
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:07:26.64
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:07:31.77
>>549
平原の豪華絢爛な服装品と
としょぼい墓、取り仕切ったのが卑弥呼とか?
盗掘がない?ので密かに行われたとか?
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:08:46.70
古荘さんは丹波に行ってから変節したと思う
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:13:48.26
>>554
それから投馬国は吉備とか言い出したのか?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:14:05.23
畿内説嫌いの久住ですら、畿内説だからな
畿内であることはひっくり返しようもないということだ

自分が考古学を牛耳っているようなことを言っているが、
このような主張は、考古学とは無縁の素人に多い
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:15:28.50
>>548
だからさー魏の人たちは畿内には行ってないんだよ
瀬戸内海を日の出る方向に航海しておいて「南に水行」とかアホな報告をするわけねーし
仮に瀬戸内海横断してんなら途中で立ち寄る国についても記載するってば
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:16:43.78
>>556
>畿内であることはひっくり返しようもないということだ

鉄器を自前で自在に作れない畿内がか?   @阿波
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:17:32.04
古代史新説チャンネルの伊藤さんとかいう人もふるしょうさんの動画にいたがこの人も誰よ?w
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:21:19.86
>>555
伴とし子に洗脳されてしまったかもね
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:21:36.75
>>557
共立王が自国にいるかよて話かな
国連事務総長みたいなもんかな?
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:22:40.66
纏向に行ってないのに「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」「殉葬百人」とはこれいかに?w
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:24:07.20
来年阿波は津波で沈没するらしいな
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:24:57.24
「阿波」で持ちきりだな。   @阿波
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:25:18.73
武田春樹さんあんなに詳しいのに九州説でどっかよくしらん田舎に邪馬台国があったと思ってるようだしなぜだ?
七万戸なのに。知識はあっても知能はあまりないオタクの典型タイプか?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:26:16.24
>>563
阿波では天皇が自らで鉄器を作るらしいよ。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:27:13.76
>>565
投馬国も鹿児島だったかな?
あの人は畿内説であることを心の中では認めてるよ
「邪馬台国論争は、九州か畿内かなんかどうでもいい。編年が大切だ」と言ってる
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:28:16.08
>>561
どこかは知らんよ
書いてねーし
だけど、魏志倭人伝の記述だと魏の使者が瀬戸内海を横断したとは思えないってだけ
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:28:55.96
>>565
山国川沿いは天然の環濠に囲まれた万の水田がある穀倉地帯だよ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:29:23.03
>>566
女王は、鉄器よりも、
麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えたな。   @阿波
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:30:34.03
>>568
まあ、そういう考え方もある。
卑弥呼と邪馬台国 分離説。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:31:32.37
>>260
瀬戸内海の国々
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:33:03.62
ふるしょうさんは関裕二とも友人みたいだし古代史ではかなり有名な人なのか?全然知らなかったがw
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:34:05.57
>>572
仮にそうなら邪馬台国までの道のりに名前が出てくる
可能性あるのは投馬国ひとつ
瀬戸内海でひとつの港にしか立ち寄らずに横断は無理
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:37:29.12
漢委奴国王の子か孫の奴国(博多)王帥升(≠吉備楯築王=後漢鏡なし)死後の王位継承戦争である倭国大乱収束(186)から、266年に吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に朝貢するまでの暫定政権のような筑紫邪馬台国80年

筑紫邪馬台国は、奴国帥升死後の王位継承戦争に端を発した倭国大乱@北部九州の「戦後処理内閣」と考えれば解りやすいかもな

王朝女王ではなく共立女王だったからいつ崩壊して、大乱再開になるか解らないため、曹魏に朝貢したらそれが向こうの歴史書に記録されたもんだから、実力以上に過大評価されて超有名になってしまったとw

その後、共立女王の不安定さからくる倭国大乱の再発リスクに気付いた台与が崇神ヤマト王権に国譲りして、筑紫邪馬台国(倭国大乱の戦後処理内閣)はその役割を終え、本格的な古墳時代が始まったと

筑紫邪馬台国(倭国大乱の戦後処理内閣)80年の歴史に焦点を当てようとしてるのが九州説で、大雑把に崇神ヤマト王権と混同してるのが畿内説ということだな
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:43:37.63
>>573
位至三公鏡も知らなかった
考古学は超絶素人
今から君たちが勉強すれば、ふるしょうに3時間で追いつける
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:45:44.58
>>565
3世紀の日本で五萬戸や七萬戸だと中国地方や北部九州地域くらいの広さが必要だからな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:48:19.59
そもそも卑弥呼が鏡を配ったというところからして根拠の薄い想像
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:48:56.02
>>574
平安時代末期に平清盛が瀬戸内海航路を整備する前で
外洋船みたいな大型船が瀬戸内海航路を未だ通れないから
瀬戸内海航路はないな。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:49:23.07
里数、日数、戸数などの数字に拘ってるうちは目眩しにあってるようなもんだ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:54:12.48
素人のセミプロvs畿内定説学者の戦い

素人九州説レベル1「魏志倭人伝を読んだ。記紀を読んだ。旧唐書も読んだ。絶対に邪馬台国は九州だ!」
素人九州説レベル2「文献を読んで、平原と吉野ヶ里を考えろ。邪馬台国は絶対九州だ」
素人九州説レベル3「岡村編年が100年ずれている。纒向ができたのは4世紀で間違いない」
素人九州説レベル4「平原の銅鏡は、漢鏡4、5鏡だが、これこそが卑弥呼がもらった銅鏡100面だ」
素人九州説レベル5「C14は歴年標準パターンがおかしい。データを見たい
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:54:28.23
>>577
普通、倭人伝の方におかしい所があると考えるが、互いに都合のいい所だけは
正しいに違いないと思うので無駄に複雑化する
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:55:18.54
今回、四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、
今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけた。
人間の顔をした猿とか、小さな妖怪など、伝説・架空の生きものとされているが、この「猩々」が「こびとの国」の人ではなかったのか。
(猩々には、猩々バエ、猩々トンボ、などの言葉もある)
おそらくは『土佐清水市史』(土佐清水市史編纂委員会編、1980年)に収録されている話であろう。
「猩々(しょうじょう)」は侏儒(しゅじゅ)の音にも通じる。これだけだと荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、
江戸時代の地誌『沖島の記』(天保十四年頃〈1843〉)にも、沖の島の島人の習俗について似たような記述がある。

https://rekisi.tosalog.com/%E4%BE%8F%E5%84%92%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:55:48.09
>>580
里数、日数、戸数などの数字を矛盾無く説明出来る説が正しい説ですよw
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:58:45.43
つまり畿内説だけ





 
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 22:58:57.48
不弥国から方位が90度ずれる畿内説は問題外だな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:04:59.28
邪馬台国が従えている国の数は30か国でしょ?
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、
その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
って国名がずらずら出てくるけれど、現代でいえば市町村レベルの小さな集団なんだよ、絶対に県レベルの広い範囲の国じゃない
もしも畿内にあるとすれば市町村レベルの小さな国なら九州北部から畿内までの勢力で30か国というのは少なすぎる
つまり30か国を従える邪馬台国の勢力範囲というのは九州の中だけだと思うよ

とても九州から畿内に至るような広域にわたる勢力じゃない
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:06:44.56
>>585
まず里数からして大幅に盛られているのだから無駄な努力
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:09:47.88
不弥国は宇美(奴国から東100里)でそこから港も無いのに航海出来んからな

港まで出るなら、港までの里数がここで途切れるのは不自然

普通に川登りとなる
又、川登り以降は各国訪問(筑後平野の諸国群)なので、20日掛かる
ツマからは陸路・水路で諸国訪問で40日となる

22国も訪問したら60日掛かるだろう
1国で1〜2日滞在するし、雨の日は動かんだろう
川沿いの国は水路の方が早いので、基本水行だろう
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:09:49.55
末盧国から伊都国は500里(実測40キロ)なので伊都国から邪馬台国は1500里(120キロ)です。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:15:52.68
@まず、「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国:人長三四尺=少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
Aそして、帯方郡から12,000里(狗邪韓国7,000里+1,000里+対馬400里+1,000里+壱岐300里+1,000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11,300里から半径700里=50qの範囲)に限定され、【伊都→博多】の北は玄海灘、東百里は不弥国なので南(筑紫平野)に行くしかないこと。
B次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)、男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子→卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東治(実は冶)の東(の海上)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:20:00.99
>>594
平野が無いところに戸数も無いだろ

山門が望む筑後平野は九州で一番大きい
次いで大きいのが筑紫、熊本だろう
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:24:49.78
>>595
日田は投馬国から邪馬台国への入り口。全域は日田、筑後、肥国で7万戸
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:28:04.61
>>589
>現代でいえば市町村レベルの小さな集団なんだよ

7万とや5万戸の国をそう言う九州説は倭人伝無視
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:29:39.90
>>597
田舎の中都市小都市レベルだろ?
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:32:01.79
日田なら東南と書くはずだからあり得ない

三潴、山門は宇美八幡宮の真南に位置する
0600ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/19(月) 23:35:43.77
ネトウヨは九州の山門が好きなようだな
邪馬台とは母音が違う

あと朝倉には大神比義の実家の筑紫大神氏がいた
筑紫大神氏は神功皇后の時代にヤマトの大神氏から分家した一族

大神比義は恐らく自分の氏族の生みの親になった神功皇后や応神天皇を深く尊重していた
彼が宇佐に移住して応神や神功を祀ったのが後の八幡信仰に繋がるのだろう

もし九州に畿内のヤマトと似た地名があるのならば、それは大神氏がヤマトの地名を移したものではないか
因果関係が逆だろうよ
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:41:03.92
>>597
畿内説でも戸数に拘った途端にグダグダになる
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:42:11.21
そもそも邪馬臺はヤマダだから
駄洒落でこじつけるのにも限界がある
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:44:13.23
ぼいんw
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:44:30.70
>>600
大神比義はわしの先祖だな、比義の子孫は宇佐から豊後に下って源義経と共闘したよ。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:49:09.89
山門は山の出入り口とか狭まった通路とかの意味が取れるけど
畿内のヤマトはどんな意味なの
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/19(月) 23:51:53.35
>>606
遣隋使時代の学者が当時の魏志倭人伝の邪馬台国を「やまとこく」と読み間違えた、とかかな
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:02:17.89
>>611
狗奴国は球磨だろうな
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:04:26.33
3世紀だから、日本列島にいくつもの王朝があったと考えるべきで、
最初から大和朝廷ひとつしか存在しないと考えるのはあり得ない事
記紀にも出て来る様に、ほとんどの時間は奈良・大阪だけの王朝
それ以外の地域には別の王朝がいくつもあった

「持統」は九州王朝に替わり政権をほぼ掌握したとあるから、少なくともこの頃までは朝廷の治下ではなかった
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:05:10.27
邪馬台国は日本海沿岸の国々+北部九州
狗奴国は畿内

って説を見かけて吹いたわw
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:13:12.13
>>615
まあ我が国の神話では始祖王が隼人の出身なので
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:13:23.32
球磨は熊襲タケルの地元なので狗奴国が熊襲だったと考えられる
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:15:02.63
方角を読み替えるのは頂けない
古代人は太陽の位置を頼りに進んだ
距離は少しアバウトでも方角だけは正確だったはずである

女王国が奈良としたら、女王国以北だけが分かって、それ以外の方角が分かるという事は、
琵琶湖や福井ぐらいまで分かって、大阪や和歌山や三重は分からないという事か

女王国から海を渡って東にまた別の国とあるが、奈良は海無し県である
倭人伝の記述で、男は海に潜りとある
海に関する記述が多く出るので、日田や奈良県などはまずあり得ないだろう
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:17:21.70
古代人は一日に何時間も移動したわけではないだろう
20国以上も訪問していたら60日は掛かる
訪問の先々で食事をしたり泊まったりするから
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:24:06.99
『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。
また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。
国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:40:13.43
>>619
3世紀には指南魚と言う方位磁針を使っていたとされていますが、磁気偏角があります。現在でも北海道では10度の偏角があります。3世紀は20度以上の偏角があったと考えます。https://i.imgur.com/hxRQkFI.jpeg
https://i.imgur.com/hiPDYqd.gif
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:45:10.27
>>614
なんか播磨風土記とか読んでると崇神でも落ち着いて奈良入りしてないんじゃないかって思えたりするんだよね
その後の景行、ヤマトタケルとか見ても複数の王朝があって、一応連合してただけに過ぎない気はする
欠史八代からしてあいつ等並立してただろとかね
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 00:58:42.65
>>614
大和王権が畿内から出て各地を平定したのは
景行天皇が息子のヤマトタケルに命じて、九州の熊襲を平定して、出雲を平定して、関東を平定してと
物語通りに進行していったんだろう
歴史学者はヤマトタケルは雄略天皇に比定している


雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう、418年?〈允恭天皇7年12月〉 - 479年?〈雄略天皇23年8月7日〉は、日本の第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇。考古学的に実在がほぼ確定している古墳時代の天皇。

となっているのでヤマト王権は5世紀まで日本を平定していないのでしょうね
0626日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 02:38:04.69
なるほど投馬国、邪馬台国は半島、九州以外
0627日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 04:40:05.36
>>484
>ハルキーさんは、C14や年輪年代法が正しいならば、邪馬台国論争は畿内説で決着することも理解している。
今、奈文研を提訴している日本古代史ネットワークもC14や年輪年代法が正しいならば、畿内説しかあり得ないことを理解している。<

あんた間違ってるよ。
1,前提が炭素年代が正しい。間違ってたら×ということ
2,炭素年代が正しいとしても3世紀に纏向に人がいたという証明でしかない。全国いたるところに人はいたのだから纏向にいてもおかしくない程度。
3,桃は中国同様に祭祀に使われたと言うが、桃を備えるという中国の祭祀の風習が日本でも行われたという証拠がない。

炭素年代もいいけど、そこから見えてくるものは何かが重要。いまの発掘状況では邪馬台国どころか初期大和王権の都すら見えてこない。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 04:52:28.81
纏向VS吉野ヶ里
纏向VS平原
纏向VS平塚川添

九州の多くの遺跡と纏向を出土物からどちらが邪馬台国の王都にふさわしいかと比較すると
すべて九州の遺跡が勝ってしまう。

これが現実
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 04:59:59.70
桃、カエル、水路、大きな建物、ゴキブリ、ベニバナ 倭人伝に出てこない。

桃、カエル、水路、大きな建物、ゴキブリ、ベニバナ 倭人伝に出てこない。

桃、カエル、水路、大きな建物、ゴキブリ、ベニバナ 倭人伝に出てこない。

桃、カエル、水路、大きな建物、ゴキブリ、ベニバナ 倭人伝に出てこない。

桃、カエル、水路、大きな建物、ゴキブリ、ベニバナ 倭人伝に出てこない。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 05:09:05.74
>>627
我が国最初の大王都
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 05:53:16.97
>>627
C14は正しいという結果を得られたけど?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:02:40.24
>>627
纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚、東田大塚、ホケノ山古墳、箸墓古墳
各地から集まる土器
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:23:26.79
>>630
我が国最初の共同墓地
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:25:40.76
>>631
よく読みなさい
C14は正しいとして
2,炭素年代が正しいとしても3世紀に纏向に人がいたという証明でしかない。全国いたるところに人はいたのだから纏向にいてもおかしくない程度。
3,桃は中国同様に祭祀に使われたと言うが、桃を備えるという中国の祭祀の風習が日本でも行われたという証拠がない。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:29:46.25
>>632
土器 倭人伝に載ってない
各地から集まるって東海などの近隣だろ
古墳造営に駆り出されてきた人が持参してきて、
物々交換したかもな
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:31:15.72
>>632
それで 兵 巫女千人  官僚 などはどこで寝泊まりしたのかな??
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:33:25.10
>>632
君が適任だ
纏向の出土物で倭人伝記述と合致する物を数多く上げなさい。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:35:28.29
>>635
レベルが低いね
初心者🔰さんたね
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 06:37:20.20
>>637
楼観、武器、銅鏡、編年、紀年銘鏡など
0640琪瑛教大祭酒
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2024/02/20(火) 07:01:15.45
無駄だよ、倭人伝に於ける最も重要な卑弥呼は鬼道。の痕跡はここなんだよ。
半島にも列島にもなかった北枕が続くことになるのだ
無駄だよ。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:09:51.65
>>634
>2,炭素年代が正しいとしても3世紀に纏向に人がいたという証明でしかない。

これは完全にチエオク級
ここまで学問を無視するやつも珍しい
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:20:54.21
葛築目=壹与か、その次の女王あたりじゃないの

最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき

南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:24:51.46
>>639
ト骨、絹
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:30:53.52
農耕が広まって定住と集団化が進んだ弥生時代の日本列島では、小規模なムラからクニへの発展が進んだ
このクニは約500年後に始まった律令時代の国郡里制の里か、せいぜい郡のサイズだ

さらに弥生時代末期になると、筑紫、出雲、吉備、丹波(但馬丹後含む)、大和、尾張、高志、毛野など日本列島の各地に国郡里制の国に匹敵するサイズの緩やかな地域連合体が出来ていった

このうち大陸に最も近い筑紫の地方勢力は、朝鮮半島南部に領地を持つなどして朝鮮半島と活発に交易し、中華帝国にも朝貢した
これが魏志倭人伝に描かれた倭国であり、その構成国が邪馬台国や伊都国だ

一方、大和の地方勢力は婚姻や同盟を駆使して戦略的に少しずつ影響範囲を拡大し、最終的に今の日本国に繋がる発展を遂げた
これがヤマト王権だ

纒向遺跡は魏志倭人伝に描かれた倭国のクニとは似ても似つかないことがはっきりしてきたが、これは当然だ
北部九州倭国と畿内ヤマト王権は全く別の国なのだから

桜井茶臼山古墳は、3世紀前半の北部九州倭国女王の権力よりも3世紀末(以降)の畿内ヤマト王権の権力の方が強大だったことを示していると見て良かろう
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:32:25.26
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿の方保田東原遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

北部九州説は、魏志倭人伝の方角、距離を何ら読み替えることなく実際の地理と綺麗に整合する
畿内説含め邪馬台国候補地でこのような地域は他に存在しない
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:36:05.73
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:36:46.48
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:38:24.35
>>645
>北部九州説は、魏志倭人伝の方角、距離を何ら読み替えることなく実際の地理と綺麗に整合する

北部九州説は、魏志倭人伝の「其山有丹」、「倭地温暖」でアウト。 実際の地理と綺麗に整合しない。   @阿波
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:39:46.09
歴博教授・松木武彦氏の「古墳とはなにか」(角川ソフィア文庫)という本を読んだが、かなり興味深いことが書いてあったので一部引用する

彼は畿内説ではあるが、政治的・宗教的な中心が畿内大和、経済的な中心が九州の博多湾沿岸と考え、その緩やかな連合体を「邪馬台国連合」と想定する

畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず、畿内と北部九州をきちんと等身大で位置づける客観的な考え方が急速に主流になってきている

彼らの書いたものは九州説の私にも非常に参考になるし、結論として私の持論である北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説こそ様々な要素を最も矛盾なく説明できる考え方だとの思いを強くする

以下、同書より抜粋
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
(続く)
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:40:09.64
(続き)
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:51:57.21
九州説は完全に終わったようだな



 
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 07:53:04.28
纒向遺跡が建設される前の周辺の在地弥生勢力は極めて後進的かつ政治的に脆弱で、纒向遺跡を作った勢力との連続性がまるで見られない
また畿内には、纒向より前の倭国の王都にふさわしい先進的な遺跡が存在しない(どの遺跡も同時代の北部九州に比べて鉄器も銅鏡も圧倒的に乏しく文化的にも政治的にも明らかに劣後する)

このため最近の畿内説は、伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見が急速に台頭している
だがそこまでして畿内説を墨守する意味が果たしてどこまであるのか

魏志倭人伝から素直に読み取れる通り、邪馬台国を都とする倭国は北部九州にあったことを認め、その一部勢力が吉備を巻き込んで奈良盆地東南部を征服してヤマト王権を建てたと考える方が自然だろう

このときにそれを邪馬台国の東遷とする考え方もあろうが、皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないことや、伊都国と纒向との政治的・文化的共通性が複数の学者から様々指摘されていることから、伊都国勢力が東遷し、邪馬台国は北部九州に留まった(後に田油津媛の代で滅んだ)と考えるのが自然であろう
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:05:05.48
つまり寝ても覚めても畿内説は単なる作り話でしたと
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:19:00.24
>>652
>北部九州説は、魏志倭人伝の方角、距離を何ら読み替えることなく実際の地理と綺麗に整合する

北部九州説は、魏志倭人伝の「其山有丹」、「倭地温暖」でアウト。 実際の地理と綺麗に整合しない。   @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:22:11.10
弥生時代後期の地域圏
私は従来帥升・卑弥呼の時代の倭国は北部九州から関東ととらえてきたが国立歴史民族博物館最新の研究報告によると
土器の発掘調査から北部九州から東北南部に及ぶ範囲と捉えられているようだ

倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp › record › 290 › files › kenkyuhokoku_185_12.pdf
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:22:50.77
畿内説は10年間何の進歩もないのに、相変わらず
今では学会、考古学者のほとんどが畿内説だと主張する
考古学とは全く無縁の素人が多い
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:28:31.47
>>657
そりゃ、鉄器さえ自前で自在に作る力を持つ勢力がいないんだから。   @阿波
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:38:42.02
岡上さんのイト倭国東遷説で全て解決。
初期段階は九州にあり東遷して纏向に移動したからこんがらがるだけ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:40:32.74
>>657
まったく議論ができなくなり
なにひと根拠のない妄想をただ呟くだけになった
負け組九州説の悲哀



 
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:47:22.81
>>660
>負け組九州説の悲哀

そりゃ、畿内と一緒で、鉄器さえ自前で自在に作る力を持つ勢力がいないんだから。   @阿波
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:49:15.81
>>656
倭国の国家形成時期を倭国乱と卑弥呼の共立からとしているが、私は史書に記されている帥升の倭国建国からと捉えるべきだと思う
ただ、それを語るための考古学的資料が不足しているので現在は難しいことなのだろう
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:50:07.79
>>659
物事が妄想で解決することは無い
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:52:06.64
>>662
文献的資料も不足してますが
0665ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/20(火) 08:57:27.55
YouTubeでアイヌ民族をシベリアからやってきた虐殺者といっている連中が邪馬台国九州説なのがネトウヨうじゃうじゃの証拠だよな

百田や渡邉や竹田宮が九州説なのは確認済み
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 08:59:34.84
>>664
新たに文献的資料が発見されることもあるかもしれないが期待できないと思う
考古学的調査で、いずれ帥升の時代の国家形成プロセスが解明される時が来ると思う
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:04:25.95
畿内説の祖の内藤氏、自著「卑彌呼考」で支那のことを云い放題
・支那史書は、後世史家の疑惑を惹いている
・支那史家范嘩の数条は、馬脚を露す
・支那の古書が方角を云う時、混雑を生ずること珍しからず
・支那の記録より、邪馬台国は大和朝廷の外なし

どうやら氏は、支那が、金印・銅鏡・その他お土産担いで大和へ朝貢にやって来た、
と勘違いしてたんだね。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:04:26.59
帥升王=スサノヲ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:17:43.35
>>667
そんな勘違いしてたって証拠は?

それとも、ただの中傷?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:17:44.29
>>667
そんな勘違いしてたって証拠は?

それとも、ただの中傷?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:30:29.47
>>668
ダメだりゃ、コリャ
記紀や天皇絡みの風土記と整合性とったのでボツだ。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:34:43.03
九州説、終わってるな
中傷専門じゃないか
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:47:18.34
>>656
 弥生時代後期の地域圏
狗奴国を愛知あたりとしている点が残念な点
狗奴国は中国と東シナ海を利用して交流していた
南部九州以外はあり得ない
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 09:55:04.47
>>674
それ、なにひとつ証拠ない
 
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 10:14:07.49
哀れなキナイコシ
抵抗するも 論じられず 畿内説の末路


>レベルが低いね 初心者🔰さんたね 
>これは完全にチエオク級 ここまで学問を無視するやつも珍しい
>九州説は完全に終わったようだな
>なにひと根拠のない妄想をただ呟くだけになった 負け組九州説の悲哀
>九州説、終わってるな中小中傷専門じゃないか ←何も語らずお前じゃん
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 10:23:29.68
そのうち縄文時代から倭国は日本列島全体を支配していたとか言い出しかねない
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 10:28:04.24
2014年の学術論文に、三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に
特定されとあるので、素人は信じると思うが、議論は続いている
その後の新しい進展があれば示して欲しい、事実があれば議論する必要はない
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 10:31:42.64
>>675
魏志倭人伝に持衰についての記事がある
これは倭地・狗奴国から東シナ海を通って中国に航海する逸話が記されている
一人の持衰が航海に同行する 持衰の役割はまじない・祈りで航海の安全を確保すること
安全に航海ができたときは褒美が与えられる そうでないときは罰を受ける

これは朝鮮半島を経由しての旅ではなく、長い航海が必要な旅
日本からのそのような旅は東シナ海を横断して中国大陸への旅以外考えられない
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 10:40:18.37
>>678
先ほど紹介した岸本直文氏の
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス
に詳しく記述されている
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:02:34.70
>>678
>素人は信じると思うが、議論は続いている

議論は続いていない
変な信仰に凝り固まった素人が学問を拒否しているだけ
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:04:05.06
>>681
空想することは自由だが、そのまま発言することは慎重に
>男子は大小なく、みな黥面文身す。いにしえより以来、その使、中国に詣るや、皆、大夫を自称す。
とある

>中国における大夫とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族(王族・公族も含む)のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫と呼ばれ、その上級のものが卿と呼ばれ、国政に参加した。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:05:05.66
碌に鉄器さえ作る力の無い地域は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。   @阿波
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:06:57.73
>>683
それは朝貢した場合の倭人の対応かな
周の時代から倭人が朝貢していたようだから
そんな昔には大夫の役職貰った倭人が居たのかもね
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:07:27.28
倭人伝、主線行程始点の末盧国は、古代遺跡が集中する唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡 →、
… (東南至奴国100里は、傍線行程行き止まりの佐賀城址)。
→元の佐賀川上伊都国に戻って、東行100里の不彌国は吉野ヶ里、ここが主線行程の終点。

この終点から、東至 西至 南至 北至の四至説明となり、以下の南至2国を列記。
→ 南至の投馬国は、南180qの宮崎平野5万戸、(自郡至)水行20日。
→ 同南至の邪馬台国は、熊本〜阿蘇の7万戸、(自郡至)水行10日陸行1月。
なお自郡至女王国1万2000里から、主線行程不彌国・吉野ヶ里までの1万600里を差し引けば1400里、
故に、不彌国・吉野ヶ里の南至1400里(約110q)に女王の宮殿城柵があったとなる。
驚くなかれ、そこは、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮跡!
0687
垢版 |
2024/02/20(火) 11:12:39.08
倭人伝を読むと、壱岐とか対馬とか伊都国とか、市町村レベルの国を移動している。さらに奴国不弥国と九州内陸を歩いて移動している。

仮に万が一、目的地が奈良だとしたら、伊都国の港に寄った後北九州の港、山陰の出雲但馬地方をそれまでと同様に、市町村レベルで刻んでいくだろう。その国々の国名や官なども記したろう。そして但馬半島あたりから船を降りて陸行、または河川を利用した水行をするだろうが、同様に途中寄った国々の概略を記録していくだろうね。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:14:34.30
685
そんな記録あるか?
初めて聞いたぞ
朝貢とか言ったら支那や半島のバカがまた調子づくんじゃねえのか?w
あの乞食どもどんな手を使っても日本に入り込もうとするみたいやからな
ぶち殺すしかねえだろ
0689日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 11:16:21.19
>>665
チョンコが共産党や令和や立憲なのは確認済み
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:16:29.33
阿蘇・高千穂の女王卑弥呼の所都には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山が守護神で、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25qもの断崖渓谷で守られています。
なんと奈良の三輪山を含む桜井市と、ほぼ同面積の天然の大要塞なのです。
依って縄文〜弥生の昔から、幾多の王国が興り、衰退し、また興り、を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝がありました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そして更に、高千穂王朝、大神・三田井王朝と続きました
ここは万年の歴史の地なのでせう。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:19:21.00
>>688
あるんだよ
0693日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 11:20:53.62
なるほど作った犯人らがおるわけやな🤔
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:25:31.36
末盧国から伊都国が500里
伊都国から邪馬台国は1500里。
畿内説はこれに異論ある?
0695日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 11:34:09.93
>>694
>伊都国から邪馬台国は1500里。

万二千余里から引き算するトンデモ説は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。   @阿波
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:34:35.89
>>685
>大夫を自称す。
とあるので、中国から与えられた官命ではないだろう
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:35:45.96
>696
「官命」は「官名」に訂正します
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:35:59.75
トンデモ阿波の相手は時間の無駄です
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:36:50.98
>>695
お前はお呼びでない
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:37:20.34
>>267
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里は、行程とは別項目だから無関係。   

万二千余里から引き算するトンデモ説は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。   @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:38:14.29
>>700
誤爆   @阿波
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:39:09.82
阿波はアホですね
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:39:39.30
無国宝
無世界遺産
無宗廟
無王都
無電車
無下水道
無脳

阿波にあるのはウンコ臭とアホだけ
0704日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 11:40:49.17
何度も言うが、
後漢書には、邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかる

3世紀に突然と7万戸の邪馬台国が現れたかのように印象操作している畿内説はいわゆる霊感商法詐欺に相当する
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:40:54.69
>>703
だけど、「鍛冶炉遺構」はいっぱい在るぞ。   @阿波
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:41:08.89
後漢時代から続く邪馬台国連合30国には共通して鉄器文化が浸透していたはずである

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

邪馬台国時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:42:42.71
>>704
>魏の時代で7万戸と記されているので

なんせ、前漢時代から大陸と通交していたからな。   @阿波
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:44:06.84
>>687
>仮に万が一、目的地が奈良だとしたら、伊都国の港に寄った後北九州の港、山陰の出雲但馬地方をそれまでと同様に、市町村レベルで刻んでいくだろう。

どうして?


理由もなく突然結論が出る九州説の不思議
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:44:40.30
>>705
人口が6万戸足らないのでボツだ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:45:30.92
>>696
自称してるというのはおそらく後漢の時代の記録だと思われる
役職貰ったのだとするならそれは周代のおはなし
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:46:54.72
10年前の論文が畿内説の根拠のようだが、年代論に揺らぎが無ければほぼ正しいのだろう
間違っているとすべて間違う
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:50:30.56
>>710
>人口が6万戸足らない

仮に人口が6万戸足らなくても、、「鍛冶炉遺構」はいっぱい在るぞ。   @阿波
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:52:09.74
>>715
大琉球=九州だな。 倭はもちろん四国。   
小さな沖縄に「大」が付いて、大きな台湾が「小」な訳がない。
小さな沖縄が描かれて、大きな四国が描かれない訳がない。   @阿波
四海華夷総図(1532年・中国)
https://map-freak.com/japan-in-foreign-oldmaps1/
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:52:47.86
>>714
鉄器なら熊本で自前で作れる
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:53:53.72
>>709

日本海ルートでも瀬戸内海ルートでもいい
それまで1000里、500里、100里と移動して
国名、首長名、戸数を記録しているのに
不弥国から奈良までそれらの記載がないのは不自然ということだろう
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:54:34.45
>>716
ヨーロッパの地図見てみろよ、四国なんて金魚の糞レベルに小せえぞw
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 11:55:33.52
>>717
明確な「鍛冶炉遺構」ではない。   @阿波
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:00:02.96
戦いは多かっただろうから、大量の武器を作る必要あるから、五斗長垣内で作ったんだろう。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:03:08.79
>>721
だから、鉄器さえ作る力の無い地域は、「邪馬臺国」論争から退場するべき。   @阿波
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:04:06.91
>>721
五斗長垣内は3世紀前半には稼働停止してたはず
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:06:44.97
>>724
九州ってまるでミニ中華じゃん
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:08:20.42
>>724
九州もかなり小さいぞ。   @阿波
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:09:08.08
>>725
たった100年しか稼働して無いから卑弥呼によって鉄の供給をストップさせられたのだろう
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:10:18.85
>>727
四国の4倍はあるな
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:17:42.40
>>728
弥生の大洪水で廃棄したんだよ。   @阿波
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:24:42.07
つまり畿内説は邪馬台国と無関係な後世によるオレオレ詐欺でしたと
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:27:12.91
岡上さんのイト倭国東遷説で解決だと言ってるだろーが。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:29:12.74
>>734
岡上は日本海ルートだっけ?
0736ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/20(火) 12:29:49.09
淡路島に五斗長垣内という難読地名の遺跡がある
この遺跡は弥生後期の鍛冶の村で職人たちが大量の鉄器の生産を行っていた

そしてこの五斗長垣内遺跡の製鉄集団は邪馬台国の出現とほぼ同時期に淡路島から姿を消すのである

恐らくヤマト王権(邪馬台国)によって奈良盆地に移住させられたのだろう
ネトウヨは畿内に鉄はなかったというが、実は邪馬台国では鉄器の供給が豊富だったというのが推測できるのである

なお淡路島といえば国生み神話が有名だ
定説では八世紀に淡路島の神話がヤマト王権に取り入れられたというのだが、オレは淡路島集団が奈良盆地に移住した古い時代に伝わったものだと思っている

何故ならば淡路島には前方後円墳が一つも存在しないという謎がある

これは箸墓以前には国生み神話がヤマト王権に伝わっていて、古墳時代の早い時期から国産みの島として神聖視されていたと考えれば説明できる

伊弉諾伊奘冉の話は邪馬台国による製鉄集団の確保によってもたらされたと考えたい

なおイサナキから接頭辞のイを取るとサナキ(鐸)になる
淡路島は銅鐸の大生産地でもあった

イサナキとイサナミは淡路島の神だから銅鐸と関わりがあるのかもしれないな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:35:48.43
   壱
伊邪那岐
都馬国
国台
 国

伊邪那岐は
伊都国
邪馬台国
那国
壱岐
の国名で出来ている
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:36:26.33
そもそも前方後円墳は卑弥呼時代より後の時代であり、卑弥呼時代にマッチするのは強いて言えば前方後方墳である
それは2世紀以降に東日本に多く見られ3世紀には近畿を飛ばして福岡に造られている
墓の形式は政権とは関係なく人種に関係するのでは?とも思われる

>半島系固有DNAの分布
>https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
>
>中国の記録文献には、倭人は呉越の末裔だと記されている
>
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:37:03.25
>>736
>恐らくヤマト王権(邪馬台国)によって奈良盆地に移住させられたのだろう

鉄器さえ、自前で自在に制作できない奈良盆地へか?   @阿波
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:38:27.91
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:43:06.63
阿波説はこの日本海の距離を計測出来たと言うが地図の無い3世紀には不可能だろhttps://i.imgur.com/USDjyHk.jpeg
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:44:49.98
邪馬台国の定義が人それぞれ。定義が違う人から見れば嘘書きだろう。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:45:51.08
倭地は周旋5000余里
女王国の東に海があり1000里海向こうにも倭種がいる。
九州説なら周防灘、阿波説でも問題ないと思います。
畿内説では致命的で、おそらく伊勢湾とするでしょうが当時の海岸線が今よりも内陸に入っていたとはいえ、陸続きを海の向こうとするのは苦しいところでしょう。

その南に狗奴国あり。
九州説なら熊本平野菊池平野でよいとして、阿波説はよく分からないが土佐あたりの勢力?
畿内説では遠江あたりの勢力を充てたいが南を東に読み換えるわけにもいかない。
とすると熊野あたりとするのでしょうか?
九州から畿内を領域とする倭国に熊野が脅威になっていたとするのは不自然ですね。

女王国以北に一大率を置いていた。
九州説なら対馬海峡玄界灘を管轄させていたということで問題なし。
畿内説だと、更に出雲や但馬の日本海沿岸、丹波や山背などを伊都国にいる一大率が検察していたとするのでしょうか。
阿波説だと、以北の意味がよく分かりません。

西については、会稽トウヤの東ということで、呉の側面をつける位置にあるという事をいいたいのでしょう。どの説も九州北部中部を倭国の領域としているみたいなので問題なさそうです。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:47:32.78
>>740
「「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!? IIIβ」

が寂しくなってますが
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 12:54:04.78
>>744
>倭地は周旋5000余里
狗奴国と南西諸島の説明

>女王国の東に海があり1000里海向こうにも倭種がいる。
四国のこと 複数の倭人の国があることは認識していたが魏とは交流が無かった
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:05:00.30
>>742
不正確ではあるが、なんらかの直線距離が計測できる測量技術があったのだろう。
無かったら、わざわざ距離を記載しない。 でたらめなら、距離を記載する意味・必要がない。   @阿波
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:06:01.59
>>747
何らかとしか言えない阿波はトンデモ確定
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:07:02.55
>>744
>阿波説はよく分からないが土佐あたりの勢力?

「邪馬臺国」の南に位置する、阿南市周辺地域。   @阿波
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:10:17.75
>>745
そっちは、反「阿波」の連中に「阿波」のプロパガンダを任せているんだよ。   @阿波
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:21:46.39
>>751
お前は阿波を貶めるプロパガンダに貢献している
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:24:43.05
>>752
まぁ、「阿波」のプロパガンダに貢献しているなら、上等だ。   @阿波
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:28:48.53
>>753
阿波説がアホだと知らしめるアイコンがお前だ。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:31:36.36
>>754
上等上等。 もっともっと「阿波」を出してくれ。 まるでここが「阿波」のように。   @阿波
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:36:03.23
今や、Youtubeや5chは「阿波」で持ち切り。   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 13:37:02.38
>>756
ほらな。 今や、Youtubeや5chは「阿波」で持ち切り。   @阿波
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 14:12:05.25
阿波のせいで皇室がいかに
卑しくて下劣なもんが証明されたな。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 14:24:39.81
阿波説は日本の歴史を歪め、皇室の歴史さえも捻じ曲げる反日思想
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 14:30:34.84
>>759-760
上等上等。 もっともっと「阿波」を出してくれ。 まるでここが「阿波」のように。   @阿波
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 14:33:17.09
>>672
秋田茨城はなんだろうね?
騙されやすい人が多いのかな
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:18:10.90
阿波は畿内邪馬台国の出先なんだよ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:23:33.04
四国は畿内の家臣だろ。三好氏みたいに下剋上する気かw
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:33:35.85
>>765
>四国は畿内の家臣だろ。

碌に鉄器も作れない畿内のか?   @阿波
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:36:49.65
>>765
>四国は畿内の家臣だろ。

碌に鉄器も作れない畿内のどこに惹かれるんだ?   @阿波
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:45:10.67
四国は侏儒国
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:45:10.78
すぐに反論できないところが痛々しいww   @阿波
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:46:50.84
田舎の鍛冶屋に政治は出来ない
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:48:55.91
>>770
でも、鍛冶屋がいない畿内は、鉄器が使えないぞ。   @阿波
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:52:04.82
>>771
田舎の鍛冶屋に金を払ってやればホイホイ作るよ
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:53:04.72
>>772
鍛冶屋がいない畿内の古墳に副葬されている鉄器は、どこかから恵んでもらったのか?   @阿波
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:56:32.70
>>773
村の鍛冶屋は命令された物をおとなしく作ればいいのだよ
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:57:25.58
>>744

倭地の旁国は遠絶で里数がわからないので
倭地が周旋5000余里ではなく、
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」は、
倭地の情報を尋ね集めるには、
絶へて海中の洲島の上に在り、或いは絶へ、或いは連なり
周旋五千餘里ばかり
狗邪韓國から12000里で至る女王国の入り口の奴国までの間がおよそ5000里
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 15:58:57.73
>>774
ついでに古墳も村の鍛冶屋に造ってもらったのか?   @阿波
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:01:22.36
>>776
古墳は物部さんが作るよ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:02:39.19
>>777
物部さんは、鉄器も作れないのか?   @阿波
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:12:08.28
こういうときって、九州説信者は、九州に火の粉が飛んでくるかとヒヤヒヤしているんだろうな。   @阿波
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:14:27.70
鉄器の製造方法は昔から国家機密だよ

中国政府も他国に漏れないように緘口令引いてるしな
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:16:13.87
戦争なんかで敵の武器を手に入れるだろ

それでそれを再現しようといろいろ試してみるわけだ

それでやり方は違ってるかもしれないが近いようなものを作るんだよ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:17:15.25
まぁ、遺跡が無いことには勝負にならんよ。   @阿波
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:20:33.90
鉄ってのはいくらでも再生可能だからよ

錆びてようが溶かしてしまえばいくらでも作り直すことができるの
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:20:38.58
ふるしょうさんが邪馬台国と卑弥呼の謎解けたという新作動画出したぞ。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:22:32.66
プロ(学者)はほとんど畿内説だが、ごくわずか九州説がいる
とはいえ、彼らは「やっぱり畿内かもしれない」と思いながら生きてる
阿波にプロはいるのかは不明
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:23:13.34
また妄想に都合よくすり替える連中らが出てくるから楽しみやな😄
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:23:40.90
狙われるだけなのによ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:26:37.51
>>785
魏使の行程は物部氏を巡る旅だったかもな
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:30:57.65
>>789
物部氏は鉄器も作れんヘタレらしいぞ。   @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:32:24.06
神武に武器を提供したのが遠賀川の物部氏だろうな
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:37:25.83
そして物部氏の石上神社は武器庫
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 16:56:18.35
>>792
>そして物部氏の石上神社

物部氏の衰退(丁未の乱587年7月)後、残党が「忌部氏」(斎部)や
石上氏を名乗ったのであろう。   @阿波
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:02:04.28
「石上氏」の石は、物部(忌部)の郷、四国山地の青石を指しているのだろう。   @阿波
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:07:24.77
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:16:59.62
遠賀川流域のは物部氏が掌管した部民(渡来人の隷属民)だろ
部は百済の部司制
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:18:27.32
>>796
トンデモは、決して中臣などを言わない。 物部大好き。   @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:19:59.82
>>797
ハプロが違うよ物部宗像はd1a2だからね
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:20:54.49
>>798
中臣氏の祖は宇佐氏だよ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:20:58.32
やはり、投馬国、邪馬台国は
半島、九州以外ですね。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:23:43.89
つまり畿内説は韓国式オレオレ詐欺による居直り事件でしたと
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:29:01.28
>>800
>中臣氏の祖は宇佐氏だよ

それを言うなら、逆じゃないのか?   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:37:48.90
ふるしょうさんの新作動画だと卑弥呼は纏向から伊都国まで使節を出迎えに行ったんだと。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:42:15.67
>>804
中臣氏はどれだ? どうでもいいんだけど。   @阿波
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:44:45.61
天皇家には藤原氏(中臣)の血が濃く入っているので、宇佐は父系母系の宗廟と言っても良いね
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:50:55.30
やはり、投馬国、邪馬台国は
四国、本州以外ですね。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:51:46.06
宇佐には産物が何もない
香春の銅を掘ってた新羅人に銅を畿内に運ばせるための拠点が宇佐
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:54:49.26
>>810
宇佐神宮は九州一の荘園主。
九州の三分の一の荘園を所有していた
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:56:14.79
>>810
でも、天皇家と繋がりがあるらしいぞ。 アホの言うことには。   @阿波
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:57:36.69
>>775
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」は、
倭地の情報を尋ねると、
絶へて海中の洲島の上に在り、或いは絶へ、或いは連なり
周旋五千餘里ばかりか
((500里+100里+100里)÷3)×21+100里=5000里
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 17:59:22.77
>>811

宇佐神宮は大神比義が神仏習合の八幡宮を創建した
八幡神は密教
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:02:13.36
>>814

>((500里+100里+100里)÷3)×21

根拠なし
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:03:25.48
狗奴国についての記述で
>其使詣中國 皆自稱大夫
という部分だが使者が誇り高いふるまいをしている様子が描写されていると思う
事実だけを書いているわけだが「自稱大夫」は本来は省いてもいい事柄

後の旧唐書にはこんな記述がある
>入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉
使者の態度が尊大で真実味がないので中国側が疑った
尊大な態度をとろうとするのは実体がない空虚さを逆に演出してしまう
そのまま史書に記されてしまった
普段からありのままの誠実な態度を心掛け、尊大な態度など軽蔑の対象だと認識していよう
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:04:04.18
>>815
神仏習合したのが1300年前なので、大神比義よりものちの時代ですね
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:05:55.34
>>805
ふるしょう爺さんもついに九州一本足打法が無理と悟ったのか
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:06:56.48
>>819
変節したのは客寄せの為だろうな
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:09:31.34
>>820
ハルキーに考古学(物的証拠)を多少は教えてもらってるんだから、そうすると九州一本足打法が無理ゲーなことは普通の人なら理解できる
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:12:57.33
>>821
ハルキーは唐原説であって畿内説では無いけどな
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:15:40.60
日本に統一政権ができる前の各地に地方政権が乱立していた時代なんだから、魏志倭人伝の倭国は筑紫の地方政権だったのか大和の地方政権だったのか、という話でしかない
文字も馬もない弥生時代に唐突に西日本統一政権が出現したなどと考える人間は単なるバカでしかない(つまり日本の考古学者は冗談抜きでバカばっかり)
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:19:09.73
>>822
ハルキー氏は、九州説が畿内説に全く歯が立たないことは良く理解してるけどな
あの人は、畿内説で120%確定してないなら、九州説もイケると思ってるだけ
九州説を信じてはいない
洛陽焼溝漢墓から斜縁鏡か三角縁が出てきたら畿内説で決まりと言ってるし
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:20:36.42
邪馬台国探しは簡単です

末盧国
|(500里)40キロ
伊都国

|(1500里)120キロ

邪馬台国。

伊都国から120キロの場所を探せば良いのです
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:20:39.55
>>817
魏志倭人伝の頃の倭人は誠実だと記録されていたのに、日本国の使者は本当の事を言わず不誠実だと書かれている

つまり魏の時代の倭人は呉越から渡ってきた縄文系であり、日本国と名乗った倭人は半島系渡来人だったわけよ
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:21:06.92
>>816
奴国から奴国まで周旋が可5000里
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:21:17.71
>>823
>日本に統一政権ができる前の各地に地方政権が乱立していた時代

その、「各地に地方政権」というのが、倭人(阿波勢力)の進出拠点なのである。   @阿波
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:21:58.20
>>823
唐突にできてない
楯築墳丘墓や妻木晩田遺跡などを見ればそれが理解できる
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:23:12.22
>>825
行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。   @阿波
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:24:51.41
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里
7000里=水行20日
1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里=水行10日
500里+100里=陸行1日
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:24:55.55
>>829
楯築墳丘墓や妻木晩田遺跡などを見ればそれが倭人(阿波勢力)の痕跡だと理解できる。   @阿波
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:25:09.83
では、ふるしょうさんの動画を見てみよう
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:25:23.89
>>830
伊都国から阿波には1500里で着かないので阿波はボツ。悔しいか?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:25:52.90
>>831
いい加減、算数するのやめろ! うざい!   @阿波
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:26:25.22
>>834
口惜しくない。   @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:26:55.92
ふるしょうさんの新作動画だと例の水行十日陸行一月は卑弥呼が伊都国へ使節をもてなすために移動した日数らしあか。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:34:31.01
畿内説でも、
・三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった銅鏡なんだろ?なら畿内説だ
・何となくそういう空気だから
とかいう素人畿内説はたくさんいる
特に関西人に多い

九州説も「九州に間違いない!俺は魏志倭人伝を読み、旧唐書を読み、記紀を読んだエリートだ!」という馬鹿が多い


文献史学を学び、考古を学んだ者だけがたどり着ける領域、それが真の邪馬台国畿内説
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:37:52.73
畿内説を潰す一文字「南」

by Xのポストより拝借
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:38:54.15
>>840
南でずっと立ち止まっている素人九州説
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:39:54.75
>>839
>文献史学を学び、考古を学んだ者だけがたどり着ける領域、それが真の邪馬台国畿内説

碌に鉄器も作れない畿内がか?   @阿波
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:40:15.14
>>841
コースアウトで落馬の畿内説
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:42:10.89
>>842
鉄器は鍛冶屋に作らせばいい
織田信長は鍛冶などしない。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:43:01.41
>>843
南の海でずっと沈みっぱなしの九州説よ、少しはふるしょうさんみたいに考古をやりましょうよ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:43:59.73
>>845
畿内が倭国だった証拠はある?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:46:31.13
>>846
抽象的すぎて答えようがない
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:47:06.89
>>826
人種差別をするような人は判断力・知性に欠けると見なされ、軽蔑される対象となる
米国では特に厳しい
あなたの周りにそれを注意してくれる人がいないなら不幸なこと
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:47:17.72
>>845
伊都国から120キロは南の海じゃ無いよ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:48:04.02
>>848
畿内には倭国の歴史がまず無い
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:49:14.21
>>851
倭国の定義をまず教えて
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:49:45.30
>>839
>文献史学を学び、考古を学んだ者だけがたどり着ける領域、それが真の邪馬台国畿内説

それがまさにペテン師の領域だ

目の前にあるものから目を逸らさず、書いてある事を素直に読み、当時の状況を科学的に解析していけば
自ずと北部九州説に落ち着くんだよ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:51:26.35
>>854
画像見れないが、『古今華夷區域總要圖』か四海華夷總圖だろ?
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:51:36.23
>>852

漢時有朝見者

漢の時に朝見していること
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:53:03.71
>>849
>>672のの通り、ウリナラ韓国人と全く同じ習性があるのは何でだ?
DNAが思考回路を継承しているとしか思えないだろ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:54:24.18
>>856
漢の時に朝見してない勢力は倭国ではないという定義か
漢書地理紙だけだと考えると、もはや日本の全てに倭国の歴史なしになるね
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:56:09.01
>>854
日本の史書が中国で読まれるようになって、それまで中国が把握していた歴史と異なる部分をどう判断すればいいのか混乱があった
中国人は史書に絶大な信頼を寄せる それを知っているから記述する人も真剣になる
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:56:21.67
>>858
それを元に、畿内には倭国だった歴史がないと解しているということですね?
私の感想は、「へ〜そうですか」
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:56:47.44
>>859
卑弥呼の朝貢はリピーターだと言うことだね、前回は帥升その前は奴国王
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:58:26.77
>>861
別の人と混同しないように
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:58:27.58
>>857
あなたは哀れな人だ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:59:25.02
>>861
旧唐書の日本伝の冒頭に「日本国は倭国の別種なり」と書かれている

この地図を見ればこの旧当初の冒頭の意味が理解できるでしょ?
https://ul.h3z.jp/svhZyUKG.jpg

漢の時代から倭国といっていたのは日本列島の中でも九州だけを差していたのであって
あとからできた大和王権の日本国は、それまでの倭国とは別の国ですよという意味だったことが
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 18:59:49.69
>>864
ジャップジャップと日本人へのヘイトは許すのか?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:01:55.08
>>865
>>860をよく読むこと
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:02:53.22
>>866
どのヘイトも許さない
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:04:08.31
>>868
ではまずネトウヨ撲滅隊を撲滅したらどうだい?
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:04:18.75
>>865
旧唐書は50回以上は読んだ
いくつかろ論文も読んだ
その結果、旧唐書は邪馬台国論争には全く使えないというのが俺の考え
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:05:23.56
>>869
ネトウヨ自体がそういうヘイトに染まった存在
君もそうなのか?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:05:57.27
>>844
>織田信長は鍛冶などしない。

信長はしなくてもよい。 好きなら、してもよい。   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:07:32.25
>>870
なぜ?
思っただけじゃ、反論にならないんだけれど

少なくとも中国人の常識では倭国=九州という認識がずっと続いていたってこと
なぜ中国人はそんな常識がにづいていたのか?
もともと漢の時代も魏の時代も倭国=九州という認識だった可能性が高いでしょう?
それとも後の時代に中国人が倭国は九州限定という認識に変わる合理的な説明ができますか?
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:08:07.01
>>871
普通の日本人だが、ジャップジャップと書くネトウヨ撲滅隊は不愉快だ。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:10:11.29
るるしょうさん→文献セミプロレベル、考古素人
ハルキー→文献も考古もセミプロレベル
岡上さん→文献は多分セミプロレベル。考古はバイト店長レベル。
伊藤さん→文献はセミプロ。考古は素人
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:10:22.83
>>874
君の文章を読む外国の人も君と同じような不愉快さを味わうだろう
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:10:23.99
>>872
信長は「おいそこの阿波の鍛冶屋、名刀を作っておけ、作らなければ殺す」と言えばいいだけ。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:11:02.96
>>876
それは別人な
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:13:25.53
>>878
誰と別人なのか?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:15:35.80
>>825
不彌国、奴国でそれぞれ万二千餘里で
終わりました。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:16:19.76
>>865

四海華夷総図は16世紀の倭寇=高麗盗人時代の地図
0882日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 19:16:55.30
>>877
信長の尾張の城下は、鍛冶屋が大勢、鉄器を作ったことだろう。 さぞ賑やかだったことだろう。 畿内は鍛冶屋もいない、寂しい寒村。   @阿波
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:19:05.68
>>879
わしのレスは>>866が最初
0884日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 19:19:21.88
>>881
だから後の中国人がこのような常識をもっているってことは
魏の時代もこのような地理的な常識を持っていたのではないか?
それとも後に中国人が九州だけは倭国と呼ぶようになったという合理的な説明ができますか?と書いているだろ
0885日本@名無史さん
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2024/02/20(火) 19:20:04.76
>>873
言ってること全てがどうでもいい
例えば、あなたが私に「なぜ中国人はそんな常識がにづいていた(根付いていたの間違い?)
【根付いたのは確かだろう。それ以外でもそれ以上でもない】
・もともと漢の時代も魏の時代も倭国=九州という認識だった可能性が高いでしょう?【漢の時代は超ゆずってあなたの主張を認める。】
それとも後の時代に中国人が倭国は九州限定という認識に変わる合理的な説明ができますか?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:22:28.58
>>877
信長の尾張の城下は、鍛冶屋が大勢、鉄器を作ったことだろう。 さぞ賑やかだったことだろう。 

畿内は鍛冶屋もいない、寂しい寒村。   @阿波
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:23:21.63
>>883
そうなら、そのことを明示しないと
突然レスされても混乱する
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:23:22.40
中国が倭国を認識したのは漢倭奴国王が最初だな
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:26:10.87
>>885
いや重要だと思うが?
九州だけを倭国と呼ぶようになった理由

もしも魏の時代は畿内まで倭国と呼んでいたのに
後の時代には九州だけを倭国と呼ぶようになったのは何かしら理由を説明しないとわけがわからないが

もともと九州だけを倭国と呼んでいて、後に外交を送ってきた
倭国の別種なりの日本国は本州にあったのなら、このような認識になる理由もセットで説明できるだろ?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:26:23.34
>>888
中国が倭国を認識したのは、前漢武帝(紀元前108年)からだろう。   @阿波
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:26:26.63
>>887
わしは日本人へのヘイトは問題にならないと言うのが問題だと思っている
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:27:26.30
>>870
当然、使えないな。
邪馬台国の記述がない
女王国の記述もない。
去京師一萬四千里
既に其王姓阿每氏になっている。

倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:28:14.83
>>891
私はどのヘイトも同じように問題だと思っている
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:28:29.94
>>888
中国が倭国(阿波)を認識したのは、前漢武帝(紀元前108年)からだろう。   @阿波
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:28:51.04
>>889
邪馬台国が日本かもしれんないね。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:30:09.82
>>895
それなら魏志倭人伝に日本国という名称が出てくるだろ?
しかし倭国30か国の連合国の中の邪馬台国という説明になっている
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:31:51.72
>>896
旧唐書にはないよ。
よく読めよ。
日本と改名したと記述ある。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:32:42.81
>>896
旧唐書には邪馬台国はないだろう
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:34:37.07
>>897
旧唐書を出しているのは
冒頭の「日本国は倭国の別種なり」という記述の意味の話

この文章とこの地図を合わせて考えると
倭国は古くから知られている九州のことで
日本国は新興国で外交使節団を送ってきた本州にある国という認識だったと考えられるってことを言っているんだよ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:36:28.02
>>898
共立されたは卑弥呼なのに
邪馬台国が支配だの、中心国とか
首都だと決めつけるからだよ。
どういう都の説明はない。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:36:36.79
>>899
この文章とこの地図を合わせて考えると
倭国は古くから知られている四国「阿波」のこと。   @阿波
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:37:53.38
>>899
邪馬台国については、言っていません。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:39:01.03
>>901
そもそもこの地図に四国なんて描かれていない
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:39:39.60
>>902
邪馬台国があった倭国については記述されているだろ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:39:51.28
>>900
日本側が邪馬台国という考えも理解できる
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:40:32.07
だよな
日本人に対してヘイトしてきたクズはいくらでも見てきたからな
これからその責任を取ってもらい死んでもらうべく行動を開始しよう

かなりなめたやり方やってきたやつは五体切り裂いてもよいよな

てめえ軍事経験者相手に大見え切ったんだから最後までやるぞ
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:40:46.82
>>904
邪馬台国の記述はありません。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:41:56.55
有事には参与するのが義務となってるからな

周りにいる連中らも兵隊に仕立てるべく行動するのも義務なんだわ
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:42:35.23
>>908
なんだこいつ?botか?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:43:15.27
>>905
去京師一萬四千里だしな。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:43:22.96
>>903
どの地図?   @阿波
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:45:24.83
>>906
どのヘイトも規制されるべき
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:45:53.11
>>901
アレがドンブラコと流れきて溜まる吉野川下流の阿波に、高貴な王権、王朝が興るわけがない
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:46:10.48
>>912
この地図を見ればこの旧唐書の冒頭の意味が理解できるでしょ?
日本国は倭国の別種なり、という文章の意味が
倭国は九州のことで、本州は倭国の別種で日本国というのですよ、って意味

https://ul.h3z.jp/svhZyUKG.jpg
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:47:30.86
>>907
君の発言自体が犯罪行為の境界を越えている
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:48:56.45
もともと倭は百国あったが、魏が交流出来たのは後漢時代から続く邪馬臺連合30国のみ
戦争に明け暮れ衰退した邪馬臺30国は国の再建を卑弥呼に託した
しかし異常気象やそれに伴う飢饉に見舞われ、南の狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退してしまった
これが記録に残された卑弥呼が死去する3世紀中頃までの倭国の歴史である

畿内説が全て作り話で構成されているのは自明である

「邪馬臺国は3世紀に突如誕生した!卑弥呼が強力な権力を持って統一していた祭祀国家だ」by 畿内説

史書にも記紀にもそんな話は一切記されていない
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:49:30.04
>>915
そういう意味はないな。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:50:37.37
>>913
まずはネトウヨ 撲滅隊を撲滅してください
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:50:47.95
>>918
では、なぜ九州を倭国と描いていて
本州を日本国と描いているのかな?
この地図では
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:52:43.37
>>920
書いた人の個人的な思考に過ぎない。
九州説の人かもしれんない
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:53:59.55
>>921
明時代の漢民族が邪馬台国九州説とか畿内説とか論じていないだろw
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:54:10.51
>>919
しつこい
スレチの話題
甘えるのはよしなさい
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:56:14.25
>>922
誰が論じたと書いた?
九州を倭国と見ただけだよ。
57年時点かもしれん。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:58:14.64
>>914
でも、王都遺跡があるという不思議。   @阿波
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:59:14.43
>>925
ボケ?
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:59:19.50
チョンコにヘイトされたらヘイトで返したら日本人だけが規制されるのは理不尽だな。ジャップと言われたら何だチョンコでいいだろ。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:59:44.23
>>915
大琉球=九州だな。 倭はもちろん四国。   
小さな沖縄に「大」が付いて、大きな台湾が「小」な訳がない。
小さな沖縄が描かれて、大きな四国が描かれない訳がない。   @阿波
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 19:59:52.65
もうふるしょうさんが邪馬台国問題解決しちゃったよw
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:01:40.86
小琉球は石垣島だな
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:01:44.79
>>917
その前漢武帝(紀元前108年)に朝貢していた30国は、
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。   @阿波  
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:02:30.10
>>924
水行20日、10日陸1月だから
日本(旧邪馬台国)、漢の57年、当時は小国だったかもしれんないね
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:04:06.56
>>925
アレがドンブラコと流れきて溜まる吉野川下流の阿波に、
高貴な王権、王朝が興るわけがない

王都遺跡と云うのも、どのみち牛馬小屋かアレを溜める小屋の残骸
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:04:37.01
>>931
関門海峡を怖がる阿波が対馬海峡を渡れるとは思えないな
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:04:59.63
>>924
この地図が作成されたのは1532年、もちろん倭国など存在していない時代
でも地図作成者の漢人は、本州は日本という国で、九州は倭国という国という常識を持っていたということ
この常識がなぜ根付いていたのか?ということを考えると
そもそも古代より中国人の常識として倭国=九州だったのではないか?と言っているわけね
もしも畿内説が本当ならば、中国人にこんな常識が残るわけがない
本州も含めて倭国という常識が根付いていたはずだろう?
畿内説が本当ならば、古代では本州、九州含めて倭国だったのが
途中で本州だけが日本国、九州が倭国という常識になった理由が必要ということ
その理由を説明できないならば、逆に言えば畿内説の可能性は低くなり
九州説が正しいということになるということを言っているわけね
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:06:06.00
>>935
邪馬台国は九州以外が正しいてことよ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:07:18.36
日本国は倭種だな
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:07:28.14
>>934
鳴門海峡を渡り慣れているからな。   @阿波
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:07:59.45
>>936
畿内説論者は反論できなくなって、実質負けましたということね、了解しました~
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:08:17.03
>>937
伊都国も奴国も、
不彌国も倭種だ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:09:33.93
>>939
うん、畿内説は反論できない。
邪馬台国は九州以外ですね。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:09:52.59
>>940
それは倭国
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:11:05.85
>>933
飛鳥時代(7世紀中頃)の古代政務や律令制度の実態、官人層の生活等の様相を示す遺跡が、
ここ「阿波」にしか存在しない状況証拠からの必然的帰結だ。   @阿波
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:11:23.55
>>942
国でなく倭種なのだ。
伊都国人、奴国人だよ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:12:36.08
>>944
そう、倭人伝だしね。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:13:39.28
倭人と倭種人は住んでいる国が違う
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:16:10.05
>>946
伊都国人、奴国人も国が違う
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:16:34.21
>>947
倭国です
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:17:16.89
北朝鮮人と韓国人が違うのと同じ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:17:53.73
昔はお国は?と聞かれる
と土佐、越後とかだしな。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:18:48.90
>>948
倭人です
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:22:28.26
投馬国⇒投馬⇒馬投⇒御馬投⇒任那
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:24:20.74
>>933
飛鳥時代(7世紀中頃)の古代政務や律令制度の実態、官人層の生活等の様相を示す遺跡が、
ここ「阿波」にしか存在しない状況証拠からの必然的帰結だ。   @阿波
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:34:42.84
国府跡を王都跡と言い張るアホがいます
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:40:21.43
>>954
7世紀中頃の国府跡を出してみな。   @阿波
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:42:31.88
阿波国観音寺遺跡出土木簡には、「評」の表記、サト「五十戸」の表記、「里」の表記、「郷」の表記、「其郷其里」の表記が見られる。
「評」の表記があって、「郡」の表記がない。
これはつまり、「観音寺・敷地遺跡」が7世紀の遺跡であることを、明確に証明している。   @阿波
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:43:26.49
全国広しと雖も、7世紀中頃の木簡が出土した官衙は、倭国(阿波)だけ。
つまり、奈良時代の律令制国府が置かれる前夜に、
「阿波」に王都政庁が在ったことを示している。   @阿波
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:44:28.27
>>955

筑紫大宰は609年
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:57:24.70
>>915
その地図には
耶摩堤(やまてい)=邪馬台国が九州のはるか南に書かれている。
邪馬台国が九州にあるとは思われていなかったようだな。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 20:59:47.37
中国人が呼称する大琉球は沖縄、小琉球は台湾のこと
Wkipediaにも書いてある一般的な話

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83

「琉球」の説明文
「台湾 - 中国側の古称。区別するときは台湾を小琉球、沖縄(阿兒奈波)を大琉球と呼んだ。」
0962◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/20(火) 21:01:01.23
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:01:02.61
>>959
それがなんだというんだ?   @阿波
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:03:19.23
>>961
>中国人が呼称する大琉球は沖縄、小琉球は台湾のこと

大琉球=沖縄を含めた九州だな。 倭はもちろん四国。   
小さな沖縄に「大」が付いて、大きな台湾が「小」な訳がない。
小さな沖縄が描かれて、大きな四国が描かれない訳がない。   @阿波
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:04:46.11
>>963
筑紫大宰は九州の統括機関
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:06:47.67
>>966
日本書紀に九州なんて出てこない。   @阿波
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:10:43.61
文献史学をマスター(途中から妄想や願望になる奴もたくさん)し、さらに考古学を学びし者だけがたどり着ける領域、それが邪馬台国畿内説

登ってこいよ!九州説、阿波説!東海説!
状況証拠を確認すれば、君らは間違いなく九州説になれる。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:15:47.82
>>928
一番馬鹿すぎるのがお前
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:19:55.98
>>967
筑紫大宰だと言っている
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:20:02.49
もうYouTubeの古代史チャンネルの人たちも
俺と同じ結論になってきたぞw

ゆえに、卑弥呼は北部九州で、邪馬台国は畿内

完璧でーすw


呼=児=子 =觚(←new!)

744 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 17:00:22.16 ID:i7D+QrZN0
卑弥呼 = 日女の子(児)

つまり、アマテラスの子 = イチキシマヒメ

>男弟佐治國
弟は年下の意味(兄弟関係なく)

伊都国の官トップ爾支はニニギ
イチキシマヒメ(年上)は天孫降臨時のニニギ(年下)の養育係

トヨはトヨタマヒメ
トヨタマヒメは山幸彦の奥さん
トヨタマヒメとイチキシマヒメは海つながりで
その関連性も一致
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:21:48.34
字義から考察すれば、ここまで見えてくる新解釈

24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家

邪馬台国の官トップは

伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬

あてた字を見れば一目瞭然な分家


北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり

本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:23:58.31
卑弥呼時代に「邪馬台国」はなかった、俺の説

比定した官からも読み取れますw

979 日本@名無史さん sage 2023/10/23(月) 17:14:02.78
彌馬は崇神天皇のミマから
ミマの叔父さんことヒコイマス
ミマの名をもらったツヌガアラシト

108 日本@名無史さん sage 2023/10/03(火) 18:44:10.12
これも、ほぼ確定ですねw

◆邪馬台国の官 人物比定
・伊支馬 いきま 垂仁天皇
・彌馬升 みます 彦坐王
・彌馬獲支 みまかくき 任那の王子ツヌガアラシト
・奴佳鞮 ぬかてい 垂仁朝の中臣連祖

邪馬台国の官トップは垂仁天皇
丹波に、半島南部の任那、奴国と
(さらに投馬国の出雲も含めた)
日本海ルートを押さえた広域連合国家体制が
邪馬台国の官から読み取れる
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:30:27.00
何故、女王と天皇家を結び付けたがるのか、私には理解出来ない
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:45:55.30
>>970
そうなんだよ。
南への飛地だな。
しかし旧唐書の
倭国条、日本条
共々、女王国、邪馬台国、卑弥呼等の
記述がない。どうしてでしょう?
0977◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/20(火) 21:46:15.10
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708430370/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:51:20.59
>>971
>筑紫大宰だと言っている

阿波市の筑紫城の近くか?   @阿波
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:52:18.78
>>978
相変わらず無知を晒すアホ。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:53:05.04
伊勢遺跡はやっぱ凄い遺跡じゃないのか?
草創期の倭国のありよう、統一国家の始まりを示す遺跡じゃないか?
1世紀後半、倭国の男王の治世が始まる
銅鐸と鳥形、ヒスイの勾玉
龍と鳥の国作り
ヤマト政権の始まりと国作りは同じでしょ
記紀が嘘だらけってことじゃないの
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:53:20.10
>>975
それも理解できるよ。
記紀や天皇絡みの風土記との
整合性が必要と言う阿保な説もあるみたい
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:55:26.11
>>979
全国広しと雖も、7世紀中頃の木簡が出土した官衙は、倭国(阿波)だけ。
つまり、奈良時代の律令制国府が置かれる前夜に、
「阿波」に王都政庁が在ったことを示している。   @阿波
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 21:56:53.51
>>980
>銅鐸と鳥形、ヒスイの勾玉

まさに、倭人(阿波勢力)の形見。   @阿波
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 22:02:31.98
>>982
国府を王都と抜かす田舎者がいます
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 22:03:51.04
>>980
>銅鐸と鳥形、ヒスイの勾玉

ところで、固い翡翠に穴を明ける方法知ってるか?

「日本の翡翠加工の技」
翡翠穿孔の媒材(研磨材)としては、簡単に得られたと思われる蛇紋岩あるいは翡翠の粉末で十分だっただろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9193b99fd255b75bc75e24a7d04ca987c06a96f7?page=3

蛇紋岩といえば物部(忌部)の郷、四国山地。 翡翠は蛇紋岩鉱脈で採れる。
太古には、川田川でも翡翠が採れたと思われる。
また、勾玉を作る工程で、内磨き(内側へ湾曲部)の砥石に阿波吉野川産の「紅蓮石」も採れる。   @阿波
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 22:06:12.29
>>984
7世紀に国府があったと抜かすアホがいます。   @阿波
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 22:23:26.04
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 22:35:00.02
>>986
609年(推古17)に初見される筑紫大宰
阿波の国府遺跡よりも古い。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 23:11:50.24
欠史8代のころはもっともらしいが、断片的なもので脈絡がない、存在しないと
言う人もいる
後世の人もあれほどの重要な人物をよくわかっていなかった、畿内としても卑弥呼
のことが年代通り整合性をもって記紀に書かれていると期待するほうが無理がある
よくわからない時代のことに説をとなえても、決定的なものを発掘しない限り決着
しない、どちらの説が正しいとは言えない
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 23:23:17.27
漢風諡号の的確さを見たら欠史の歴史は普通に知られていたと思うが
明治以降じゃないの、歴史の記憶を消されていったのは
湯津磐村の歴史も明治迄は当たり前に知られていたんじゃないかな
0991ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/02/20(火) 23:27:39.74
開化や孝元などは事績が無ければつけられない諡号だ
恐らく伝承はあったが中国への朝貢に関する話であったが故に記紀から削除された

雄略の朝貢も隠蔽されているしな
欠史八代など全部隠しても不思議ではない
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 23:44:35.78
帯方郡が魏の直轄地になってから直後に卑弥呼の使者が帯方郡を訪れ皇帝への面会を求めると、さっそく洛陽に案内されて皇帝と使者が面会し、卑弥呼は親魏倭王の称号を受ける
これが1年ほどの間の出来事 卑弥呼の都から九州までは2か月かかることを考えると超スピーディーな外交交渉だった
驚くのは卑弥呼はこのような展開を予見していたかのようであること
このことだけでも驚くべき歴史ドラマ的な展開 大河ドラマになってもおかしくない
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/20(火) 23:44:58.26
九州説は思考をやめた人が支持する説だとよくわかる
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/21(水) 00:04:21.64
>>884

北京が書かれてる四海華夷総図は
明代の後期倭寇が台湾などを拠点として日本人の格好を真似て(偽倭)
中国南部や琉球を襲撃した時代
0999琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/21(水) 00:28:39.13
さっき否定された地図であろう。無駄だよ。
また次回も無駄な作り話が続くんだろ
びくともしない。
所詮八角の戯言。
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