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邪馬台国畿内説 Part996
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/25(日) 15:19:02.24
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708671212/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:19:41.43
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:20:15.85
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:20:46.00
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:21:16.18
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:21:46.05
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:23:01.00
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:23:30.48
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:24:00.22
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:24:30.96
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:25:00.51
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:25:31.00
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:26:00.69
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:26:31.15
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:27:01.00
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:27:47.56
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:28:19.51
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:28:50.85
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:29:21.00
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:29:52.85
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:30:23.11
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:30:54.95
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:31:25.97
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:31:57.88
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:32:28.88
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:33:00.98
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:33:30.88
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:34:00.94
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:34:30.77
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:35:01.66
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:35:31.32
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:36:00.25
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:36:30.73
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:37:01.18
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:37:30.71
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:38:00.74
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:38:31.18
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:39:31.75
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/02/25(日) 15:40:00.73
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:40:30.74
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:41:00.26
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/02/25(日) 15:41:30.40
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:42:00.81
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:42:31.44
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:43:01.68
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/02/25(日) 15:43:30.68
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/02/25(日) 15:44:00.82
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/02/25(日) 15:44:30.95
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:45:00.48
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:45:42.06
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/02/25(日) 15:46:14.75
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/02/25(日) 15:46:46.51
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/02/25(日) 15:47:16.70
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:47:46.64
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:48:16.81
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/02/25(日) 15:48:47.18
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/02/25(日) 15:49:21.18
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/02/25(日) 15:49:50.44
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/02/25(日) 15:50:21.60
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/02/25(日) 15:51:31.24
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0061◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:52:01.05
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0062◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:52:31.11
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:53:00.63
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/02/25(日) 15:53:31.33
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/02/25(日) 15:54:01.75
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2024/02/25(日) 15:54:31.46
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/02/25(日) 15:55:00.57
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/02/25(日) 15:55:32.01
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/02/25(日) 15:56:05.21
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:56:37.99
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:57:09.35
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:57:42.75
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:58:15.70
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:58:52.70
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/25(日) 15:59:25.39
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:05:14.36
魏志倭人伝の記述の内、公孫氏の残した資料を参考に書かれた部分がないか検討すると
短里を使用した行程文と、短里で書かれてる女王国が使われた部分が公孫氏の残した資料を参考に書かれた部分であると考えられる。下記

従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳

自郡至女王国 萬二千余里

自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒国在其南 人長三四尺
0077日本@名無史さん
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2024/02/25(日) 16:06:13.49
>>76
女王国と短里は同じ文章で使われている事が多く、同一の基資料からの引用である事が分かる。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:06:19.12
>>76
>短里を使用した行程文と

そんなもん無いでしょ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:07:07.29
>>76に対し下記の文では女王と書かれている

南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸

次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国 次有支惟国 次有烏奴国 次有奴国 此女王境界所盡 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王

これは公孫氏の残した資料ではなく魏の最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる
0080日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:10:23.13
>>79
張政が倭に来た時には卑弥呼は死亡しており、張政は卑弥呼とは会っていないので女王とは書かないと考えられるので、梯儁の報告に基づくと思われる
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:10:31.36
三角縁神獣鏡で学者はまとまっている
この牙城を崩さないと畿内説はびくともしない
これへの反論は今のところ「後世ヤマト王権が邪馬台国を偽証する説」しか出されてないが、全く支持を得られていない
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:17:55.46
もはや畿内説は韓国式霊感商法詐欺による歴史捏造事件といえますね
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:18:56.91
後漢書では、邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかる

当たり前だが7万戸の邪馬台国が3世紀に急に出来るわけが無い
そんな馬鹿げた妄想を垂れ流してるのは韓国式畿内説だけ
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:19:18.85
>>80
>張政が倭に来た時には卑弥呼は死亡しており、

根拠ありません
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:20:06.62
【基礎知識】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:20:25.17
>>83
>当たり前だが7万戸の邪馬台国が3世紀に急に出来るわけが無い

理由は?
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:20:48.76
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:21:10.13
>>83
急に九州に7万戸の超大国ができるわけがない
いつのまに、伊都国、奴国をはるかに上回る勢力ができたのだ?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:21:17.07
>>85
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

あるという証拠がない
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:22:31.26
>>87
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

見なせるという理由は?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:22:31.82
>>87
ホケノ山や椿井大塚山を見ると、すでに3世紀には畿内が九州の鉄の量を圧倒している
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:25:22.66
寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸

「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:27:16.81
鳥取の妻木晩田遺跡は156ヘクタール
纒向の300ヘクタールの半分もある
吉野ヶ里はたった40ヘクタールだ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:27:42.25
畿内説の主張は中国の文献記録と全く関係の無い作り話で構成されています。
また、纏向で出土する遺物も倭人伝に記述されていない物ばかりです。

【お知らせ】発掘調査結果報告(2024年2月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・住居跡がほとんど無い大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物近くの柵列の下の穴(建物と無関係)に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国の鐙より古い4世紀物と主張中)
・ゴキブリの羽のカケラ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:27:47.56
>>91
寺澤は石塚古墳が卑弥呼の墓と言っているので、ホケノ山は卑弥呼の後の墓。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:28:46.15
九州説やめて、寺澤の本を読んだら畿内説になりました
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:30:02.62
>>91
鉄器時代が到来していた地域か見極めるための定義
・古墳の副葬品は基本的に外部からの持ち込み品
・農具や工具、刀子などの日用品は北部九州に集中している
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:34:12.73
>>97
最古の鉄製刀子は椿井大塚山
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:37:51.87
鉄製でなくても良いなら、山形の三崎山遺跡が日本最古の刀子(3000年前)
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:38:41.23
>>97
>古墳の副葬品は基本的に外部からの持ち込み品

持ち込まれてたら鉄器時代でしょ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:40:31.69
>>101
纏向は墓域であり、墓の主が地元民とは限らない
唐古・鍵も閉鎖後は墓域として利用されていた
0103日本@名無史さん
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2024/02/25(日) 16:41:54.75
>>81
>三角縁神獣鏡で学者はまとまっている
この牙城を崩さないと畿内説はびくともしない


情報が古すぎねーか?
三角縁神獣鏡は国産ということで、すでに論争の対象からはずれ、
今は画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡だという畿内説の学者の主張なのです。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:42:23.37
>>100
弥生末期に鉄器が生活用具として使われていた事を示す遺物は北部九州に集中している>>87
0105日本@名無史さん
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2024/02/25(日) 16:42:46.78
>>94
>畿内説の主張は中国の文献記録と全く関係の無い作り話で構成されています。

おまえの投稿は発掘結果と関係ない作り話だ
だって証拠だせないだろ
0106日本@名無史さん
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2024/02/25(日) 16:43:38.62
>>96
じゃあ卑弥呼は伊都国生まれでいいな
0107日本@名無史さん
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2024/02/25(日) 16:44:03.10
>>103
FAQ83を読めば??
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:44:12.29
>>104
邪馬台国の所在と関係ないな
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:44:45.32
安本美典の鉄の数は、いつからいつまでというのが明確でない
弥生時代としか書いてない
例えば、福岡は398であるが、畿内が九州の鉄を圧倒する3世紀は福岡いくつで京都いくつなのかが分からない
また、仮定として2世紀前半に福岡100、京都50なら、2世紀後半には畿内が九州を上回っていても不思議ではない
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:46:00.53
>>103
三角縁神獣鏡が国産か否かで畿内説を否定している学者はいない
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:46:40.97
>>105
中国の記録文献に>>94であげた畿内説の出土品が記載されているなら抜粋してみろ
出来ないなら感情任せの精神論に過ぎん
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:48:58.01
>>112
ほとんど全て
畿内説とは、九州から畿内、いや広くは東海、関東までも包含する説である
九州に丹は出ない
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:49:15.31
>>110
何度も言われてるだろ
畿内の鉄は全て副葬品であり実際纏向で出土した土木用具やらはみな木製だ
纏向に鉄器文化の痕跡は無い
それどころか住居も無い
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:50:20.21
>>114
溶けたので仕方ない
テンプレの通り酸性土壌で溶けた
0116日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:50:29.43
>>113
また畿内説が嘘をつきました
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:51:32.26
>>109
だからこそ三角縁神獣鏡が極めて大きな証拠
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:51:42.95
>>113
そういった低IQ特有の精神論でガセを撒き散らしてるのが畿内説馬鹿学者どもだ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:56:39.24
>>107
>FAQ83を読めば??

読むまでもないので意見だけ載せます。
テンプレの情報が古いのかしれないが
三角縁神獣鏡は現在では学者間の論争でほとんど議論されない。
(▲は魏からの贈物でなく国産と考える学者が多数を占めているのが現状だからでしょう)

今は画文帯神獣鏡、方格規矩鏡が畿内説の一部学者の主張だがパンチ力に欠けあまり議論されていない。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:58:40.41
>>84
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られた、径百余歩に、徇葬者の奴婢が百余人である。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 16:59:55.97
高IQに文献と考古の資料を見せたらもれなく畿内説になる
逆に文献しか読んでない天才にいくら思考させても無意味
この間の「あっと驚いたのち、膝を打つ」古代中国の法則で邪馬台国論争に一石を投じる画期的新説
「文藝春秋」編集部 2024/02/09

これの桃崎さんも結局は畿内説であったが、文献しか読んでない人の新説など無意味
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:01:22.63
南の一言ですっ転ぶ畿内説
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:02:05.05
>>123
すっ飛びません
すっ飛ぶのは素人だけ
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:03:46.03
>>120
現在、橿考研が九州で現地調査中だが?
九州大学の中西哲也とかいう教授も調査団に入ってる
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:04:39.11
>>125
九州を中国に訂正
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:06:03.56
>>111
>三角縁神獣鏡が国産か否かで畿内説を否定している学者はいない

三角縁神獣鏡は魏からの贈物の銅鏡の対象から外れたということです。畿内説を否定してはいないですよ。
寺澤氏も認めてるように三角縁神獣鏡は国産で、魏からの贈り物で無いというのが今の学者間のコンセンサスです。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:06:51.14
>>127
全て国産であるというコンセンサスは得られていない
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:07:14.38
>>96 畿内説への皮肉はやめたほうが良いよ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:09:20.35
>>91
>ホケノ山や椿井大塚山を見ると、すでに3世紀には畿内が九州の鉄の量を圧倒している

碌に鉄器も作れない畿内だけどな。   @阿波
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:10:50.43
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:11:03.48
>>97
>農具や工具、刀子などの日用品は北部九州に集中している

碌に鉄器も作れない北部九州だがな。   @阿波
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:11:27.45
>>76->>80から
「南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸」
「南至投馬国水行二十日」は帯方郡からの日数行程で、朝鮮半島南部に投馬国、北部九州に邪馬壱国となる
「女王之所都」とは投馬国に対して邪馬壱国に女王の都が在るとの意味だと理解出来る
邪馬壱国は女王卑弥呼の都ではなかったのある。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:12:36.56
>>104
>弥生末期に鉄器が生活用具として使われていた事を示す遺物は北部九州に集中している

碌に鉄器も作れない北部九州だがな。   @阿波
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:17:59.99
結局、畿内の鉄器も九州の鉄器も、鉄器王国「阿波」からの下賜品。   @阿波
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:18:32.07
>>135
半島からもらってるだけ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:20:09.94
>>96
>九州説やめて、寺澤の本を読んだら畿内説になりました



邪馬台国論争の楽しみ方の一つかもしれませんね。その時その時で主張が変わっても良いでしょう。
寺澤本は推理の積み重ねで推理小説みたいで、読んでて楽しいですよね。
推理が好きな方はそれもよいでしょう。私は推理の面白さより、この学者はいかに証拠の積み重ねで論じてるかを優先させて評価してます。
関川尚功さんなんか好きな学者の一人です。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:20:20.50
暇つぶしの阿波に構うのは時間の無駄
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:22:02.19
>>120
>▲は魏からの贈物でなく国産と考える学者が多数を占めているのが現状だからでしょう

空想書いても意味ないし
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:23:29.07
>>125
情報提供ありがとうございます。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:23:47.26
>>96
そんなあなたに寺澤さんの言葉を

「私が本書で提案したのは、そろそろ「邪馬台国」という一部族的国家に拘泥した議論はやめにしようということである。」

『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:29:16.92
>>141
同意する
邪馬台国は畿内だが、楽しめる
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:30:26.05
>>138
確かにここは暇つぶしの場だが。   @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:31:29.65
>>1
テンプレの三角縁神獣鏡の情報が古いとの指摘があります。
よくわからないですが、読み返してみてはいかがでしょうか?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:31:31.62
>>141
右翼を批判してるんだろうな
竹田とか
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:31:36.52
奈良県立橿原考古学研究所の
青柳正規所長は桜井茶臼山古墳の調査の意義について「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。

https://www.sankei.com/article/20231106-YQ2CEHEOWRLK3EV2AME3WDEYFU/
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:33:04.81
>>144
施設の消灯時間までの暇つぶしだろ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:33:37.14
>>141
邪馬台国は畿内で決着しちゃったからね
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:34:22.63
>>146
>3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。

碌に鉄器も作れない奈良盆地だけどな。   @阿波
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:35:15.72
>>145
ヤマト王権売りの為のソフトランディングだな
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:35:31.24
>>144
結論だけだと指摘じゃないから
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:36:36.43
❌畿内の邪馬台国は強大な権力を持っていた

⭕ 畿内には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した

と言う事だな
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:38:07.45
>>145
寺澤は本の中で畿内説の中の人を批判していたな
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:42:19.26
畿内説が多く反論を受ける理由

九州説しかり出雲説、阿波説・・各説証拠の積み重ねを重視します。
かたや畿内説は推理で説を成立させます。
倭人伝記述と合致しない部分も多いし、倭人伝に基づく遺物が乏しから推理優先とならざるを得ないのかも。
だから反論には弱いのは致し方ないですね。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:45:26.54
ヤマト王権畿内説で良いんだけど

青銅輸入の窓口だったであろう
公孫氏を滅ぼした魏に
ヤマト王権が朝貢して、
南の狗奴国との戦争に魏の正規軍の旗
を貰う理由が全く解らない。

ヤマト王権は中国王とは無関係に
日本の覇者であって300年代に
半島95国も平定したと荘語する。

幽州刺史楽浪侯の高句麗戦を戦い
牛馬の生産を国内化して
百済新羅の独立を後押しした。

なんで在位50年のヤマト王権大女王が
三国平定もできてない魏に朝貢する?
せいぜい任那王レベルだろ?
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:45:38.19
>>146
畿内で決着したという意味だな
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:48:29.63
>>146
橿考は花火を打ち上げるのが仕事ですから。橿考の規模を縮小しろとか毎度のことのように批判も出てるようですし。
成果を示すために過大な花火を上げる機関と私は見ています。その象徴が纏向遺跡でしょうね。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:49:53.58
>>154
>九州説しかり出雲説、阿波説・・各説証拠の積み重ねを重視します。
>かたや畿内説は推理で説を成立させます。

証拠の出せないこと言い張っても馬鹿に見えるだけだから
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:50:11.42
>>156
倭種の別国の話ですよ
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:50:21.89
>>157
吉野ケ里遺跡も同じ。   @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:50:38.54
日本は北魏コピー。九州は北魏でいうと烏洛候国で北魏帝室南遷以前の故地。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:53:20.75
九州説見てると福島ネガキャンしてる韓国のデモ隊思い出す
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:53:59.93
>>158
あんたが、適任だ
纏向遺跡で倭人伝記述と整合する遺物を数多く上げてくれないかな。
邪馬台国の王都なのですからさぞいっぱい出るのでしょうね。
カエル、桃、水路、土器、大きな建物、ゴキブリの類は倭人伝に記述されてませんので省きます。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:54:27.54
倭種であって倭国とは言っていない中国地方の西部あたりの話だろう
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:56:34.61
国粋右翼はどれだけ証拠出しても絶対に畿内説を認めない
本居宣長を否定するわけにはいかない
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 17:59:16.56
橿考花火打上隊
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:08:21.96
>>165
どれもこれも的外れすぎるんだもん
曹操の鉄鏡と瓜二つの鉄鏡くらい持ってこないと
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:09:05.14
>>158
あきらめな
南を東に変えないと成立しない畿内説
推論と言ってもらっただけ喜べ
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:12:36.35
>>167
銅鏡100枚
魏志倭人伝と違う
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:13:52.50
黄幢が出たぞー!ってぶち上げたのに
魏の黄幢ってどんなの?って聞くと全く似てない壁画持ち出すか
よそ向いて沈黙するのが畿内説
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:14:57.96
>>170
黄幢は一証拠に過ぎない
最大の証拠は三角縁神獣鏡
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:17:44.10
>>146
相変わらず 橿原考古学研究所は公金チュウチュウの体質だな。
いつも花火打ち上げ公金チュウチュウ、その後は進展なくてもそれで食っていくパターン。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:21:27.67
橿考花火打上隊
橿考花火打上隊
橿考花火打上隊
橿考花火打上隊
橿考花火打上隊

元隊員 石野 寺沢 橋本 他
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:25:34.42
纏向遺跡の発掘状況だけど
ここ10年 ずーーとまだ3%程度しか調査終わってないと言い続けてるけど
成果が出ないから3%と言い続けてるのかな??
もしくは、公金を引き出すため??????
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:29:32.20
>>157
さもありなん
>橿考は花火を打ち上げるのが仕事ですから。橿考の規模を縮小しろとか毎度のことのように批判も出てるようですし。
成果を示すために過大な花火を上げる機関と私は見ています。その象徴が纏向遺跡でしょうね。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:30:29.46
>>171
100枚だけだったらまだしも
何百枚もその上も出てきたら、ね
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:31:20.80
>>133
朝鮮半島南部に投馬国5万戸
北部九州地域に邪馬壱国7万戸
晋書にも「倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好 戸有七萬」
とあり北部九州地域に倭国7万戸であったと書かれている。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:32:44.89
>>174
私有地だから掘れない
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:34:34.08
>>174
全体調査は済んでる
掘るに値する場所が3%しか無かったとの事
残り97%は大したものは出ないだろうと
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:36:13.22
邪馬台国は大和、狗奴国は河内でいいんじゃないの
そろそろ畿内説は誤りを認めたらいいと思うよ
畿内説は歴史を修正しようとした明治維新と変わらない
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:39:42.86
NHKも邪馬台国畿内説でばんばん報道したんだから、
今度は邪馬台国は大和、狗奴国は河内でちゃんと特集を組み報道しろよ
更に弥生時代後期から山陰北陸近畿東海にまたがる銅鐸と勾玉、鳥形と龍の絵画土器で象徴される統一国家に向けての歩みがあったことも
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:43:23.15
魏志倭人伝の記述による国の配置は
朝鮮半島南部に投馬国
北部九州地域に邪馬壱国
南部九州地域に狗奴国
中国地方に倭種
四国地方に侏儒国
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:45:17.50
>>176
国中を綏撫する為にコピーしたので当然
しかも銅鏡の枚数が権力の大きさを表すので、かなりコピーした
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:48:18.83
先住民の主権を守り抜く為に戦い続けてきたのは河内のおっさんたちじゃないのか?
侵略者の嘘のレッテルを貼り100年近くもヘイトする土壌を作ってきた歴史学者とNHKは国民の誤った歴史認識が正される迄、今までとは真逆の努力を続けるしかあるまい
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:51:45.28
ここに来る畿内説の奴は馬鹿ばっかし
算数できない
文書読めない
話聞かない
証拠もなく言い張る
わけのわからん投稿をする

馬鹿ばっかしWWWW
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:58:15.82
>>179
>全体調査は済んでる
>掘るに値する場所が3%しか無かったとの事
>残り97%は大したものは出ないだろうと

どうして九州説は、そういう見え見えのニセ情報流すんだろね
自分が不利になるのに
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 18:59:27.51
九州説のハルキーさん
「三角縁神獣鏡が卑弥呼のもらった銅鏡でないとしても、いや、国産だとしても斜縁鏡が三角縁神獣鏡のルーツ」

すなわち、九州説ですらもはや国産か否かを論じていない
年代が80年とか100年ずれると主張しているだけ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:00:27.49
>>185
まったく証拠ださない中傷も、結局は自分が不利になるのに

ばかなんだろうか
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:02:55.03
最近も邪馬台国とは関係ないが酷いヘイト記事があったな
光る君へに因んだ平安時代についての記事だった
東京生まれで東大教授で中世史が専門の歴史学者が、平安時代の大阪は鬼が出る魔境と書いた
平安時代上町台地には寺社が立ち並び、天皇即位に関する重要な八十島祭の舞台であった
熊野詣のルートでもある
大嘗祭の五節舞を教習指導したのは和泉国の十生という人たちである
こういう事実を中世史が専門なら当然知っているのにである

歴史学者の間にある大阪への差別意識、歴史の事実から目を背ける姿勢をなくしていかないといけない
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:04:55.51
>>188
畿内説はほんと証拠や根拠を示さない、想像だけだよな。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:05:24.81
>>178
農業離れで荒れ果てた田畑あるよ 
俺の地域では空き家なんか銭だしても引き取ってほしい人結構いるよ
公有地(空地)もあるよ。公有地は数に入れてないのだろうな。庁舎なんか建て替える時に何も出てこなかったんだろうな。

調査してもしょうがない土地が大半じゃないの。湿地帯だったし。

いつまで3%で引っ張るの?調査してもしょうがない土地は省いたら。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:09:14.25
>>188
つぶやきでレス稼ぐなよ 論じろよお馬鹿さん
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:09:45.23
狗奴国は天竜川以東にあった「くののくに」

都は沼津の足高尾上遺跡群
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:12:02.14
石見神楽の道反しに鬼の住処は九州の高千穂と書いてある
これが明治より前の人々の認識
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:15:20.81
魏志倭人伝には難しい事はかかれいない
朝鮮半島南部に投馬国、5万戸
北部九州地域に邪馬壱国、7万戸
南部九州地域に狗奴国
中国地方に倭種
四国地方に侏儒国

邪馬壱国の中に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と傍国20か国が在った。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:15:50.46
>>186
全体感はほぼ把握してるよ。むやみやたらに掘るようなマネは学者はしない。素人じゃないから。掘っても仕方がないところを含め3%ととしてるよ。
しかし、調査したいとこらに家が建っているとか、持ち主の許可が出ないとか苦戦はしてるかも。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:17:40.49
>>188
また432Mやるか?算数できないくせに。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:18:47.00
現実、金がなくて掘れないというのもあるだろう
何しろ、畿内の墓はデカい
纒向石塚も埋葬施設は未調査だし、纒向勝山、纒向矢塚、東田大塚ですら未調査だ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:26:30.11
>>198
わかるよ。調査に値するところは数に入れればよい。
明らかに調査してもしょうがないところを省いた数字を出せとい言うこと。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:26:47.42
国内最大の円墳である富雄丸山古墳も1972年の初の発掘調査から50年の時を経て、蛇行剣と盾型銅鏡が発見されたからな
それよりデカい箸墓を掘れたとしてもお前ら死んでるかも
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:37:31.49
>>196
全体が300ヘクタールと分かってるだけで、掘ってないだろ
掘ったら何が出てくるか未知数
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 19:52:09.52
ダンワラみたいにこっそり破壊して知らんぷりされた遺跡山ほどあるんだろうな
0203日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:07:03.90
>>189
中国の豊臣秀吉も酷い
倭奴平秀吉だろ
後漢書の倭奴国は「倭の奴国」とかの逃げ道があるが倭奴平秀吉は単純に差別
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:23:49.74
神門5号のYouTube見ていたが、最古の前方後円墳と言っているのは、前方後円墳をどう解釈するかによって違うから別に良いのだが、
神門5号の築造は西暦230年
すなわち、卑弥呼時代
しかも、畿内や東海や北陸の土器が出ている
これの畿内の土器とは何のことなのか誰か教えてくれませんか?

あと、阿波さん、萩原前方後円墳(2世紀末)を作った連中が、千葉に移住して神門5号を作ったとも言ってましたが、どう思いますかね?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:43:26.53
>>190
>畿内説はほんと証拠や根拠を示さない、想像だけだよな。

という証拠は?
また墓穴掘った九州説の自殺点
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:46:26.50
>>197
>また432Mやるか?算数できないくせに。

そうやって自分が算数できない実態を晒してしまう九州説の悲惨
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:51:12.65
畿内説の432メートルは非現実的。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 21:52:34.61
郡から狗邪韓国 7000里 
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。
邪馬台国が桜井市だと確定していない以上畿内説の言う1里432メートルは倭人伝においては架空の数字なのです。

https://i.imgur.com/wpROL4g.jpeg
0210日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:01:30.10
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:39:20.76
>>209
>畿内説の432メートルは非現実的。

絶望的にあたまが悪いな
里という単位は漢魏のものがあるだけ
短里は存在しない
だから1里は400m超で確定している
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:39:23.72
数字(距離・日数・戸数)は誇大表現するが、方角は間違ってないだろ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:42:38.68
>>211
どこの行程が432メートルなの?アホなの?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:44:19.06
1里432メートルで不弥国から南に水行すれば熊本に着く。畿内説さん残念でしたhttps://i.imgur.com/T68VAMh.jpeg
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:47:25.98
>>212
畿内説と末盧国(呼子説)はボツ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:47:29.26
>>205
>これの畿内の土器とは何のことなのか誰か教えてくれませんか?

「庄内式の初期の系譜を想定すべき」ものと形容されているので純然たる畿内の土器ではない
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:49:00.35
>>213
>どこの行程が432メートルなの?アホなの?

どこの行程かは関係ない
「里」は漢魏の里しか無い
0218日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:50:01.28
>>212
>数字(距離・日数・戸数)は誇大表現するが、方角は間違ってないだろ

理由は?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:51:37.42
>>217
ほら証拠を出せないのが畿内説のアホ
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:54:19.02
>>214
>1里432メートルで不弥国から南に水行すれば熊本に着く。

根拠が未提出
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:55:18.89
魏志倭人伝には難しい事は書かれていない
朝鮮半島南部に投馬国、5万戸
北部九州地域に邪馬壱国、7万戸
南部九州地域に狗奴国
中国地方に倭種
四国地方に侏儒国

邪馬壱国の中に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と傍国20か国が在った。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 22:57:22.05
>>219
>ほら証拠を出せないのが畿内説のアホ

証拠は常々提出されている
出土資料から1尺=23.1〜24cm
文献資料から1里=1800尺が確定ずみ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:01:00.99
>>222
1里432メートルを信じて郡から出発したら九州には到着出来ない
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:07:55.15
>>223
という証拠なし
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:08:29.26
里数を記録したのは1里432メートルを使用していた魏の郡使じゃないね
その前の公孫氏の郡使だね
公孫氏の郡使が短里を使用して書いた記録だね。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:12:04.08
郡から1里432メートルで水行1万里するとフィリピンの東に到着するので1里432メートルは誤りだと言う事がわかる。アホでなければね。https://i.imgur.com/Gevwzbg.jpeg
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:37:42.41
>>226
1万里が間違ってると思わないところがチエオク
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:40:17.65
>>227
都合の悪い事は何でも間違いにする何でもありの畿内説のアホ。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:40:51.66
>>225
短里が存在すると思っちゃう理由は?

3択です
以下から選んでください
1.ばかだから
2.痴愚だから
3.魯鈍だから
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:42:24.61
>>228
証拠は?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:42:42.55
ついに畿内説は1万2000里が間違いだと言い始めたのかw
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:43:45.80
畿内説がアホを晒すだけのスレ
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:44:55.82
俺が畿内説側だったら精神が崩壊してると思うなw
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:52:54.46
倭人伝を間違いだらけにする畿内説だが、邪馬台国は間違いにしない不思議
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:54:42.11
>>231
>ついに畿内説は1万2000里が間違いだと言い始めたのかw

は?
昔からある主流説だけど?
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:56:14.09
今日箸墓古墳行ってきた。その周辺一帯も迷子になりながら周って見てきた。
直感でしかないがあの一帯は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国ではありえない。
論理的な根拠はない!がw。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/25(日) 23:58:16.48
>>234
>倭人伝を間違いだらけにする畿内説だが、邪馬台国は間違いにしない不思議

当たり前だろう
せっかく邪馬壹國は間違いで邪馬臺國が正いというのが世間常識になってるのに
なんで自分の主張を否定せにゃならんのだ?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 00:02:35.29
>>235
畿内説によると郡から邪馬台国までは何里なのかな?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 00:07:47.86
孫栄健説で全て矛盾なく説明できる
もう他の説はいらね
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 01:54:32.77
孫栄健説は伊都国からの分岐のみ
共立だ。それ以外はボツ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 02:39:01.39
1里が432Mだと言う証拠はテンプレに載せてある
FAQ58
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 02:41:09.78
↑を理解できたか 算数のできない九州説さんたちよ
倭人伝でも魏里432Mで計算された距離があるのだ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 02:49:14.98
魏里58Mはいいが
FAQ58のこれは無理

>推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰・・」「・・十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
以上、結論として検証に耐える。

>陸行日程が妥当<・・・・・・大和川航路りようだから陸行ではない
>検証に耐える<・・・・・・・水行だから
陸行の検証に耐えられない
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 02:54:30.66
FAQ58の これは無理

>推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰・・」「・・十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
以上、結論として検証に耐える。

>陸行日程が妥当<・・・・・・文献では大和川航路利用だから陸行ではない
>検証に耐える<・・・・・・・大和川(水行)利用だから陸行の検証に耐えられない
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 03:14:25.21
正解は

>>241
>>244

こんなの、算数ができて文書読めれば理解できようなもんを
>>1奥山氏は理解できないから何年もFAQ58を正しいと思ってる。
ここで皆に指摘されても一向に修正しない。
親しい友達に聞くなりすればよいのに。友達いないのかなーー十年以上ここに張り付いてるし、病気でずっとベッド生活?

三角縁神獣鏡については昨日 テンプレの情報は古すぎるとの指摘を受けていたね。
△については、私はあまり詳しくないが、△は多くの学者が国内産ということで議論は落ち着いていて、今は画文帯神獣鏡、方格規矩鏡が話題とか???

いずれにせよテンプレはしかるべき人に検証してもらったほうが良いよ
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 04:12:22.77
>>242
邪馬台国が桜井市とは確定して無いんだよアホ
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 05:12:02.57
>>241
なんで 残距離だけ432M使うのか理解に苦しむな やっぱキナイコシは馬鹿だな 
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 05:27:41.41
畿内説は寺澤薫もペテン師

「当時の中国人の地理観では、倭地は南北に長く延びた島国と考えられていた(参照)。したがって『魏志』倭人伝の「南」は、実際には「東」と読み換える必要がある。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した「混一疆理歴代国都之図」だとしているが、これは詐欺的手法と言える

https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 05:41:46.15
寺澤薫は一里の数字に関しては全く言及していない、ただ「儒教経典『尚書』『周礼』などの理念的世界観から作られた数字だという」との説を紹介するに止めている。つまり寺澤の考えの中に倭人伝の1里が432メートルとする考えは全く見受けられないのである
0250宗像海人族
垢版 |
2024/02/26(月) 05:50:56.03
>>44FAQ51
>弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に・・・・
>壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地・海上交通ルート・・・・この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。

*文中の{海上交通に従事する職能集団}={宗像海人族}
*青谷上寺地遺跡=鳥取市にある縄文時代末から平安時代にかけての複合遺跡で特に弥生時代の集落遺跡として知られる。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 05:51:37.61
「また邪馬台国の所在地をめぐる論争で争点となってきた、帯方郡から邪馬台国にいたる里程は、儒教経典『尚書』『周礼』などの理念的世界観から作られた数字だという[渡辺、二〇〇三年/東、二〇〇九年/渡邉、二〇一二年]。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0252宗像海人族
垢版 |
2024/02/26(月) 06:05:59.25
青谷上寺地遺跡(鳥取市)
発掘物*鉄器・前漢鏡・後漢鏡・青銅器・木器・石器・骨角器な・
多彩で、
弥生時代の情報量の多さ、船に乗って中国大陸・朝鮮半島を含む
日本海沿岸各地と交流を行っていたことは、豊富な出土資料から窺い
知ることができる。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:09:51.62
>>245
>三角縁神獣鏡については昨日 テンプレの情報は古すぎるとの指摘を受けていたね。

それ、世間常識的には指摘じゃないから
具体的に問題点を指し示すのが「指摘」なんで、そういう漠然とした感想は自分以外の他人に理解されないの
日本語を勉強しようね
FAQ58についても何も指摘していないのだから1が修正するわけないのさ
もちろん反論もしてないでしょ?

>△は多くの学者が国内産ということで議論は落ち着いていて、今は画文帯神獣鏡、方格規矩鏡が話題とか???

これも事実の摘示がないから、指摘にも反論にもなってない
無意味なおしゃべりだよ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:10:49.09
宗像氏と宇佐氏のルーツは隠岐島ですね、宇佐氏口伝によると因幡の白兎の話が宇佐族の話だそうだ
0255宗像海人族
垢版 |
2024/02/26(月) 06:12:43.51
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
*日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
>>1の示した青谷上寺地遺跡(鳥取市)は大陸との交流を示す遺物が多数出土しており、魏の使いが日本海ルートで畿内に入ったと考えてもおかしくない

以上 私は畿内説ではありませんが、畿内説を誤解させるようなテンプレはいけないと思います。
 
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:16:30.02
>>249
>寺澤薫は一里の数字に関しては全く言及していない、
・・・
>つまり寺澤の考えの中に倭人伝の1里が432メートルとする考えは全く見受けられないのである

これ、論理的に破綻してる
当時の1里が400m超だという常識があるのだから、普通の人は一里の数字に関しては全く言及しない
12000里という里数の方が「理念的世界観から作られた数字」だから現実じゃなくって「一里の数字」は現実の常識のままというのが普通の人の考えなんだよ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:20:51.56
>>241
>里が432Mだと言う証拠はテンプレに載せてある
FAQ58「自郡至女王國萬二千餘里」のうち・・・残余は1,300〜2,000里
👆
>>1に騙されtるよ。よく読めよ。残余1,300〜2,000里は萬二千餘里の内枠と言ってるだろ、
すると萬二千餘里も432Mで計算しないと整合性が取れないでしょ。12000×432M=5182キロ
邪馬台国は纏向どころか国外と畿内説は言っているようなもん。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:23:31.01
>>257
違うよ「帯方郡から邪馬台国にいたる里程は、儒教経典『尚書』『周礼』などの理念的世界観から作られた数字だという」と書いているから1里432メートルが矛盾する事になるんだよ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:23:52.65
>>248
本当にあきれるな。畿内説は公金チュウチュウのバカ集団化したな。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:26:18.86
張り付けたろ

0255宗像海人族
2024/02/26(月) 06:12:43.51
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:26:38.36
張り付けたろ

0255宗像海人族
2024/02/26(月) 06:12:43.51
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
0263ペテン師>>1
垢版 |
2024/02/26(月) 06:30:36.59
>>255
サンキュウ 
本当に畿内説は>>1に代表されるご都合主義だなWWW
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:31:42.13
>>253
古すぎるとは言ってない
三角縁神獣鏡がやはり卑弥呼のもらった銅鏡だろうが、その中に画文帯神獣鏡が入っている可能性もある
これは個人的な感想
方格規矩鏡はないでしょう
三角縁神獣鏡に方格規矩鏡の要素がない
問題になってるのは華北東部系
これもまだよく分かってないので現時点でテンプレを変える必要はない
0265ペテン師>>1
垢版 |
2024/02/26(月) 06:33:58.93
>>255
サンキュウ 
本当に畿内説は>>1に代表されるご都合主義だなWWW

寒冷化の影響で島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡・・出してるが
みごとに
青谷上寺地遺跡(鳥取市) は省いてるな

>>1 おまえはダブルスタンダードのかペテン氏か
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:36:09.20
FAQ58の これは無理
>陸行日程が妥当<・・・・・・文献では大和川航路利用だから陸行ではない
>検証に耐える<・・・・・・・大和川(水行)利用だから陸行の検証に耐えられない
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:38:01.50
1里が432Mだと言う証拠はテンプレに載せてある
FAQ58
>「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:44:19.64
>>267
却下だ❌
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:48:16.65
>>253=>>1
>FAQ58についても何も指摘していないのだから

指摘受けてるから読めよ
>>244
>>258

今は日本海ルート衰退の話題だから、おわったらよく読んで反論したら
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:52:46.63
郡から狗邪韓国 7000里 
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。
邪馬台国が桜井市だと確定していない以上畿内説の言う1里432メートルは倭人伝においては架空の数字なのです。https://i.imgur.com/XIK2i96.jpeg
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:53:22.53
>>267
同意する
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:54:08.50
>>271
あなたもアホですね
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:56:09.17
>>255
>テンプレは明らかに矛盾をはらんでいます

何と何が矛盾してる?
引用できないってことは、矛盾なんて無いってことでしょ
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 06:58:25.89
>>256
ありがとうございます
でもなんで>>1は寒冷化の影響で日本海ルートは衰退してたとしたのかな?
片方では 「卜骨」の流通?ルートで日本海ルートを出しておきながら。。。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:00:35.19
俺も九州説の時に疑問に思ってたんだよな
不弥国まで10700里は示しておいて、そこからは日数表記になる。
短里なら130キロぐらいなんだから、日数にする必要はないだろうし、水行1ヶ月、陸行1ヶ月もかからないだろうと。
不弥国南して投馬国500里、南して邪馬台国800里、これで良いだろうと。

その時に出会ったのが元高校教諭のYouTube動画だ。
里数は大月氏16370里を上回る為の帳尻合わせだという主張に納得して、不弥国からは1里432mに戻すと、ここはむしろ畿内説有利だろうと。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:00:45.83
0250宗像海人族
2024/02/26(月) 05:50:56.03
>>44FAQ51
>弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に・・・・
>壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地・海上交通ルート・・・・この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
*文中の{海上交通に従事する職能集団}={宗像海人族}
*青谷上寺地遺跡=鳥取市にある縄文時代末から平安時代にかけての複合遺跡で特に弥生時代の集落遺跡として知られる。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:02:24.32
>>1 キナイコシは畿内説で締め出しくらってねーか。
いずれにせよテンプレはしかるべき人に検証してもらったほうが良いよ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:02:58.57
>>265
ダブルスタンダードってなに?

指摘できないってことは、ダブルスタンダードなんて無いってことだよね
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:04:13.00
>>277
九州説さん、それ妄想
だって証拠ないでしょ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:06:08.16
>>275
不弥国までの1里は何メートル?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:08:59.89
これだな キナイコシらしい詐欺だなWw
ーーーーーーーーーーーーーー
0255宗像海人族
2024/02/26(月) 06:12:43.51
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
*日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
>>1の示した青谷上寺地遺跡(鳥取市)は大陸との交流を示す遺物が多数出土しており、魏の使いが日本海ルートで畿内に入ったと考えてもおかしくない
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:09:28.70
キナイコシとやらの論法は言葉尻を取る事、言葉尻さえ取れば勝ちだと思っているようだ、アホですね
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:09:59.49
>>269
>指摘受けてるから読めよ

どの部分が指摘?
どうして指摘しないの?
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:12:12.27
>>281
>テンプレは明らかに矛盾をはらんでいます

何と何が矛盾してる?
引用できないってことは、矛盾なんて無いってことだよね
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:14:39.79
>>264
今の畿内説の潮流は画文帯神獣鏡、方格規矩鏡だよ
現代 橿考が福岡に入って調査してるようだよ。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:15:40.48
>>280
九州説の時にちょっと考えたのは、不弥国までは短里。
漢代に短里があって、倭国に来た時にそれを竹簡に記した。
ところが、梯儁が倭国に行くと、不弥国から2ヶ月もかかる例えば鹿児島とかまでの里数が合わなくなると思って日数表記に変えたんじゃねーかと。
そうすると、むしろ畿内説の方が有利なのではないかと考えた。
ところが、短里は存在しないと知って、この考えは捨てた。短里を捨てた時点でもまだ九州説だった
「中立説」と名乗って書いた書き込みが過去スレに残っているだろう
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:17:42.22
>>263
ヤラセ投稿はイカン
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:17:56.45
>>285
華北東部鏡を中国に行って調べてる
その中に、九州大学の中西哲也とかいう教授が入ってる
方格規矩鏡はいても少数派
三角縁に方格規矩鏡の要素がない
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:18:47.28
>>263
あんた一人だけが△に言及してないよ
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:20:21.42
>>286
郡から九州までの行程は4320キロだと思っているのかな?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:20:58.36
>>288
じゃあ卑弥呼のもらった銅鏡は八方ふさがり状態か??
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:24:10.44
>>290
全然違う
ちゃんと文章を読みましょう
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:24:23.06
>>285
>今の畿内説の潮流は画文帯神獣鏡、方格規矩鏡だよ

だから証拠は?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:27:52.98
>>292
それが「鏡作り神社が作った三角縁神獣鏡の試作品」だって証拠は?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:29:26.30
>>279
君が適任だこの矛盾をにつき論じてくれ
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
*日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
>>1の示した青谷上寺地遺跡(鳥取市)は大陸との交流を示す遺物が多数出土しており、魏の使いが日本海ルートで畿内に入ったと考えてもおかしくない
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:31:58.91
>>275
数字は距離や戸数と同じく過大と評価しても、日数をかけて20余国を訪問したらそれぐらいかかる
1国訪問につき3食用意して貰ったらそれぐらい滞在するだろう
移動は1日数時間だろう

距離、方角で無理が生じるのは畿内説
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8c29dbb5e575185903719edf03106712_b8ff3339e00f2f03e056b2b9f97e7fe3.jpg
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:33:31.90
>>284
レス稼ぎかよ 宗像海神くんの投稿読んだらいいと思うよ

日本海ルート 青谷上寺地遺跡(鳥取市)
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:38:20.79
>>1 キナイコシ 
反論できずに 
数行の逆質で凌いでるな

「どこで反論した」と言いそう
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:38:45.97
>>297
傍国21ヶ国は遠すぎてよく分からない
寄ってないだろうな
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:41:52.63
森浩一「八尾の鏡作神社には、三角縁神獣鏡の内区だけの遺品があって、鏡製作の原型(鋳造のもとになる型)と推定することができる。」
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:42:17.52
女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能

斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。

此れが女王の境界が尽きる所である。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:43:14.30
>>294
君が適任だこの矛盾をにつき論じてくれ
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
>>1 のテンプレは明らかに矛盾をはらんでいます
*日本海ルートの衰退と言いながら 片方では日本海ルートの有益性をうたっています。(FAQ51参照)
>>1の示した青谷上寺地遺跡(鳥取市)は大陸との交流を示す遺物が多数出土しており、魏の使いが日本海ルートで畿内に入ったと考えてもおかしくない
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:43:58.54
其の他の傍国とは山を越えなければならないところ

即ち、北九州市、大分、熊本などである

>女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り

本州のこと
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:46:52.72
あのーーーーーーーーーー
三角縁神獣鏡は国産なのか中国(魏)産なのかは畿内説の中で統一してから論じてくれねーかな。
寺澤は国産だと言ってるという投稿もあったし。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:48:58.89
>>297
九州説だけど、その行程には疑問
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:53:20.07
>>286
何が狙いの投稿なの????
イミフなんだけど????
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:54:42.66
FAQ58の これは無理筋
>陸行日程が妥当<・・・・・・文献では大和川航路利用だから陸行ではない
>検証に耐える<・・・・・・・大和川(水行)利用だから陸行の検証に耐えられない
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:54:50.56
>>299 
>反論できずに

なにに反論?

いつも具体性のない九州説
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:56:07.76
>>296
>君が適任だこの矛盾をにつき論じてくれ

矛盾って、何と何の矛盾?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:56:42.81
>>1
日本海ルート立派に機能してるじゃん
FAQ51
>弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に・・・・
>壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地・海上交通ルート・・・・この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:57:25.53
>>308
「文献では大和川航路利用だ」って証拠は?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:58:51.57
>>296
FAQ51
>弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に・・・・
>壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地・海上交通ルート・・・・この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:59:36.97
>>311
>日本海ルート立派に機能してるじゃん

機能してないって誰か言ったか?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 07:59:48.12
>>305

寺澤薫「私は原則として国産説だが」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:02:02.96
>>296
日本海航路は衰退してるよな
テンプレより
>寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:05:50.29
>>314
青谷上寺地遺跡(鳥取市) すごいよなーーー
大陸との交流を示すお宝どっさりだって

発掘物*鉄器・前漢鏡・後漢鏡・青銅器・木器・石器・骨角器な・
多彩で、弥生時代の情報量の多さ、船に乗って中国大陸・朝鮮半島を含む
日本海沿岸各地と交流を行っていたことは、豊富な出土資料から窺い
知ることができる。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:08:01.82
>>314
誰も機能してないと言ってないよ。立派に機能してると言ってるんだよ。
機能低下と>>1は言ってるようだけど。。。。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:11:04.50
>>314=>>1
>機能してないって誰か言ったか?

誘導してるような馬鹿な投稿
答 誰も言っていない

馬鹿な投稿しないで論じなさい
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:13:53.31
>>309
君が適任だ下記どう思う?正論だと思うけど。
否なら少し論じてくれないか?
ーーーーーーーー
FAQ58の これは無理筋
>陸行日程が妥当<・・・・・・文献では大和川航路利用だから陸行ではない
>検証に耐える<・・・・・・・大和川(水行)利用だから陸行の検証に耐えられない
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:15:24.15
機能低下を否定できなくてムキになるキウス
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:17:47.53
>>320
無理筋だって理由は?
理由がなきゃ反論にも指摘にもならないよね
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:19:40.49
>>320
なんで正論だと思うの?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:21:00.46
>>1 奥山さんよ
あんた病床の身とはいえ
人の投稿読まないで 数行でオーム返しとか、わめいてるのは良くないよ
論じないと、、、、
テンプレより
「勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。」
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:23:59.04
全1病の発作
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:24:01.94
>>323
逆質はいいからさ
あんたさあ 早く論じなさいよ
お手上げなのかい?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:27:31.61
>>305
>三角縁神獣鏡は国産なのか中国(魏)産なのかは畿内説の中で統一してから論じてくれねーかな。

無理
両説あるから
どっちにせよ畿内説になるから畿内説内で議論する意味あまりない
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:29:55.79
>>326
>逆質はいいからさ

理由聞かれてるの、わかる?
理由言わないと反論にならないから畿内説の勝ちになるよ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:30:26.10
>>322
簡単じゃん
陸行日程の説明に水行(河川航行)ぶつけてもしょうがないじゃん。
推古紀では難波から桜井までは水行でなく陸行だと言ううなら、
証拠と根拠を論ずるべきだよ。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:31:57.40
>>328
アナタ逃げてるよ 答えないといけませんよ
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:34:32.33
>>321
おれキウスでもいいから、
論じろよ
ごねてるだけだろ君は
論じろよ
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:35:48.99
>>320
結論でちゃったね

なんど聞かれても
「文献では大和川航路利用だ」という理由を言えない
したがって
 文献だけでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
 陸行一月という誤記がありうる、という結論になる

FAQ58無理筋説、論破されました
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:37:32.53
>>321
キウスは論じない
なぜなら」理由が答えられないから
つまり反論してない
よって畿内説の勝ち
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:39:53.26
>>330
>アナタ逃げてるよ

それウソね
理由を聞かれた九州説側が答えられず、逃げ回っている
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:39:58.14
>>327
そうですか
卑弥呼が魏からもらった銅鏡はまだ▲かどうかは畿内説では統一されてないのですか
邪馬台国論争に畿内説がぶつけるには▲は不向きかな???
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:43:09.04
>>332
昨日説明受けてるじゃん
同じこと言ってちゃダメ 探してやろうか彼の投稿
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:43:38.84
魏志倭人伝の各部の基資料を誰が書いたから考察しないと魏志倭人伝の内容は理解出来ない。
里数や女王国を使用した部分は公孫氏時代の記録からの引用
日数や女王を使用した部分は魏の郡使梯儁の報告書からの引用
分けて読まないと正しい解釈は出来ない。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:45:54.62
>>336
>昨日説明受けてるじゃん

受けてないな

>同じこと言ってちゃダメ 探してやろうか彼の投稿

自分の投稿だから覚えてるでしょ
なんで理由が言えないの?
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:47:55.52
畿内説の言い分は総じて変ですね。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:49:20.42
>>302
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。

此れが女王の境界が尽きる所である。

上記と下記は基資料では繋がった文章だったものが、編集時に離れた

倭地に付いて尋ねると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったりして、一周は五千余里ほどであらしい。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:50:56.94
里数や女王国を使用した部分は公孫氏時代の記録からの引用
日数や女王を使用した部分は魏の郡使梯儁の報告書からの引用
なので、どちらも帯方郡からの里数と日数である。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:52:54.95
>>335
>卑弥呼が魏からもらった銅鏡はまだ▲かどうかは畿内説では統一されてないのですか

鏡の専門家を中心に舶載説、そうでない人中心に国産説があるが議論してもあまり意味がない
1は消極的舶載説みたいで、あまり正面に出してこない
どっちにせよメモリアルイヤー説が消えたので畿内説の有力な証拠になっている
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:53:26.79
>>300
傍国21ヶ国も「參問倭地」の説明ですね
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:54:08.50
>>339
根拠なし
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:54:41.00
>>342
鏡の研究なんて邪馬台国究明には役に立たないよ
魏志倭人伝の内容の解明が先だよ。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:55:49.04
>>341
>里数や女王国を使用した部分は公孫氏時代の記録からの引用

なぜいつも九州説はまったく理由を言わないのだろう
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:56:53.43
>>345
お前なんて邪馬台国究明には役に立たないよ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 08:57:59.28
FAQ58への反論は返り討ちに論破されました
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:00:32.47
>>338
ほらよ彼の投稿
アンタの投稿もあるよ(これは自分で探せ)
まだ彼の投稿もあるけど、あんたの意見聞いてから張り付けてやろうかなWW

0273日本@名無史さん
2024/02/24(土) 10:08:50.44
FAQ58推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「陸行日程が妥当である」と言ってるが
柏原市文化財課の見解では
@裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられる。
A発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降である

つまり、裴世清らは大和川利用(これは陸行ではない・・テンプレも言及している)
次にかりに裴世清らが陸行としても難波大道、竹内街道とも裴世清らが来た後に設置された街道である。

よって公的機関である柏原市文化財課の公的発表から照らし合わせると
テンプレで言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」は根拠となりえない。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:02:41.00
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+1000里+対馬400里+1000里+壱岐300里+1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50q)の範囲。伊都➡博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野にいくしかないこと。
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:08:52.79
>>346
説明済みだよ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:08:54.75
>>348
誰かのかわからんけど これも出てきたぞ・・まだあるよ
きみ そろそろ論じろよ

0344日本@名無史さん
2024/02/24(土) 17:24:57.28

俺説明するよ
FAQ58記述=原文
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
現代誤訳
6月15日客たちは難波津に泊まる。飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。
秋8月3日唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、
海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。

次  
1,定説(テンプレでも一部記載あり)
桜井市海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終点・・ググれば数多く出てきます
2,裴世清は大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられており、大和川を利用している(原文を元にした柏原市文化財課見解)

以上より 原文を読み解けば裴世清は大和川で飛鳥へ来たといううことがわかる。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:10:18.41
>>347
畿内説自体が邪馬台国究明の邪魔なんだよ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:11:06.20
>>346
記憶力ゼロくん 
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:11:07.32
>>346
記憶力ゼロくん 
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:11:07.54
>>346
記憶力ゼロくん 
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:11:56.59
裴世清が瀬戸内海航路を通ったとする説は誤りである
瀬戸内海航路を中国船が通行出来るようになったのは平清盛が瀬戸内海航路を整備した後の平安時代末以後
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:13:18.75
俺説明するよ
FAQ58記述=原文
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
現代誤訳
6月15日客たちは難波津に泊まる。飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。
秋8月3日唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、
海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。

次  
1,定説(テンプレでも一部記載あり)
桜井市海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終点・・ググれば数多く出てきます
2,裴世清は大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられており、大和川を利用している(原文を元にした柏原市文化財課見解)
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:13:56.63
>>349
>よって公的機関である柏原市文化財課の公的発表から照らし合わせると
>テンプレで言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」は根拠となりえない。

はい失格
文献だけでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
 陸行一月という誤記がありうる、という結論になる

陸行日程、妥当だね
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:18:56.76
キナイコシ
数行投稿戦術
オウム返し戦術
言葉尻とらえ戦術
のど元過ぎるまで投稿しまくる

こんなんばっかし、
無駄なレス稼ぎすぎ、長いテンプレと言い 
こんなんで 1,000スレ言っても誇れたもんじゃない(労力は買うけど
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:20:40.87
>>358
>1,定説(テンプレでも一部記載あり)
桜井市海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終点・・ググれば数多く出てきます
>2,裴世清は大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられており、大和川を利用している(原文を元にした柏原市文化財課見解)

 現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
 陸行一月という誤解がありうる、という結論になる

倭人伝の陸行日程、「一日の誤記だ」なんて説より、そのまま読む方が遥かに妥当だね
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:21:44.60
>>343
馬鹿の君だけに労力使わないと思うよWW
一生懸命馬鹿の君にお相手してる人もいるようだけど
感謝しないと
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:22:15.86
>>360
でも、公孫氏の残した資料が魏志倭人伝の内容の多くを占めてる事が判明した成果が得られたな。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:27:20.14
根拠なし
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:28:33.58
>>362
お前、論破されると必ず罵りだけの投稿するから分かりやすいな
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:30:59.07
唐津から、お手手つないで博多まで来たというに、
着いたとたんに大喧嘩!
にもかかわらず1000スレまで付き合う畿内説と雑多九州説は、いったいどんな関係なんじゃ??
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:38:22.79
>>361
また昨日と同じ投稿だね 
根負けするまで待ってるだけでしょ
>陸行日程、妥当だね
君みたいに「妥当だと言う理由は」と投げ捨てないから以下

1,妥当だと思う陸行はどのような陸路でいったの?
2,推古紀では飾り船30隻で迎えに行ってるけどその船に乗らなかったのか?
3,桜井市海石榴市(つばいち)で歓待を受けるけど、京(飛鳥)に行くのにわざわざ迂回してまで桜井市海石榴市まで行く必要があるのかな???
柏原市文化財課もこれら考え大和川航行と結論づけたのじゃないのかな
推古紀の君の陸行と言う解説は??



柏原市文化財課
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:42:19.77
日本書紀の裴世清の話は隋書を呼んで創作された作り話だな。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:43:40.25
>>366
俺に限れば 畿内説の馬鹿ども(主にキナイコシ)を相手にしてると
優越感に浸れるから、時折覗いている。妄想テンプレ、罵声や数行投稿も無視だけど読みづらいのは確かだよ。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:45:20.75
>>367

 現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
 陸行一月という誤解がありうる、という結論になる

と言っている相手に

>推古紀の君の陸行と言う解説は??

と聞く人の
知能は推定ゼロ

 
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:48:11.36
>>366
批判してもらうと何処に問題点があるか分かる
一人で考えても自分の考えの何処に問題があるのか気付けない。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:51:53.15
そうとう知能が低くないと九州説になれないって帰納的に証明されてるな
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:53:02.24
>>366
同じ考えの物だけで集まって議論しても議論にならない
違う考えの人と意見をぶつけ合ってこそ議論になるんだよ。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:53:31.13
>>371
>批判してもらうと何処に問題点があるか分かる

ばかの書いた批判だと
そいつのお脳の問題点が分かる
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:54:06.66
>>370 >>1
簡単なことだと思うよ
陸行なら、難波津から桜井市海石榴市経由、飛鳥の陸路を示すのとなぜ迂回したかの解説と証拠
を示せば柏原市教委も納得するんじゃないのか。知らんけど。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:56:01.92
>>374
多くの批判は的外れなのもだが、たまに鋭い指摘もあったりする
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 09:58:13.60
>>370
おまえ やめたら昨日の繰り返しじゃん
まだわからんの
推古紀にかいてあることの解説じゃん。
間違いと思うなら推古紀の作者に言えば。
書いてあるからしょうがないじゃん。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:02:34.50
>>370
昨日とまるっきり同じ投稿だね
保存してるのかな

さて
>現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半に読めてしまう実例

「現地を知らない人」って誰のことを指してますか?
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:04:51.11
>>377
お前さ、九州説って極度に知能が低いんだな
>現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
と言っている相手が
陸行だと主張してると思ってんの?

白痴同然じゃね?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:05:45.97
>>366
きみも楽しんだら
今日もキナイコシの馬鹿さを餌にみな遊んでるよWw
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:08:29.38
>>378
>「現地を知らない人」って誰のことを指してますか?

「現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半に読めてしまう実例」
と聞いて、わからないのは相当に無能

He who「現地を知らない人」だろ
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:09:05.25
>>379
だから 現地を知らない人って誰のことなの????
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:10:45.23
>>380
おお、そうか
可愛がってやってるわけか!
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:10:47.84
>>380
いくら九州説だって、あんたみたいな馬鹿が何人もいるとは思えない
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:11:23.39
九州説は老害で滅亡した
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:12:33.10
>>382
>だから 現地を知らない人って誰のことなの????

相当あたま悪い?
現地を知らない人全てだと読めないなんて
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:15:27.97
海石榴市(つばいち)・仏教伝来地碑 (桜井市 金屋)
裴世清(はいせいせい)一行を朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたと日本書紀は伝えます。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:16:25.78
九州説は老害
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:19:39.09
>お前が中卒の老害で有る事があからさまになったなw
>このご時世に学歴を何らかのしきいとして持ち出すのは確実に老害だからw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594696181/461

九州説信者はこんなアホ文章書いちゃう知能の持ち主です
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:21:33.77
>>387
現地を知らない人をだますためにキナイコシは推古紀を持ち出して陸行と言ったのだね?
まあ
現地を知らなくても 海石榴市 でググれば 瀬戸内航路の終点とか、裴世清が仏教をもたらした地とか色々出てくるから。
地理を知らなくても河川で行ったと想像がつくけどね。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:22:22.48
桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。
古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があったという。
山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。ゆえに、多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:24:02.56
孫栄健説には誰も反論できない
女王国=奴国
邪馬台国は北部九州30国の連合国家の名称で確定
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:24:32.20
大和川となって大阪湾に注ぐ。河口部の難波津は、大陸文化の上陸地。そこから大和川を遡り、亀の背を越え大和で大陸文化が花開いたのだ。
 金屋は古くは海石榴市(つばいち)といわれた歴史のある土地。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:27:47.51
>>386
現地を知らなくても
「桜井市海石榴市 裴世清」でいっぱい出てくるよ
裴世清らは大和川で遡上したといっぱい出てくるよ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:28:32.08
>>386 および >>1
現地を知らなくても
「桜井市海石榴市 裴世清」でいっぱい出てくるよ
裴世清らは大和川で遡上したといっぱい出てくるよ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:31:10.12
>>390
>現地を知らない人をだますためにキナイコシは推古紀を持ち出して陸行と言ったのだね?

どこまで知能が低いのか九州説
難波、海石榴市、大和川を知らない人なら陸行一月半だと誤解する文章の実例がある
つまり倭人伝の「陸行一月」という非現実的な日程が簡潔な報告文書だけ読んだ現地を知らない著作郎によって書かれる可能性は十分にあるってこと
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:35:25.16
FAQ58は削除で決まりだね
意地でも削除しないだろうけど

畿内説を馬鹿にするには残しておいたもらったほうが都合がいいけど
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:36:20.56
>>392
間違いだよ。
方300里、400里
今使譯所通三十國だよ。
奴国と投馬国で7万戸
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:36:36.67
>>392
奴国の「奴」とは、奴隷の意味だろ。
糸島・博多の女王国は、魏の奴隷だったわけか、なるほど納得!
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:38:17.92
紀伊半島から遠回りするしか方法は無かったんやろな
若狭も琵琶湖北部も大阪も女王国じゃなかったということだろう
陸行1か月は1か月やね
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:41:55.88
魏の曹操ってのは日本では悪人扱いやからな
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:43:02.40
393
おまえな早く死んだ方がよいと思うよ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:43:17.23
孫栄健説と古田説でバトルか、
大阪のパクリ同士でどっちも頑張れ!
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:45:12.49
>>400
投馬国、邪馬台国も女王国ではないかもしれん。
里数がある所が女王国。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 10:47:38.66
>>404
女王の都する所が女王国で、別名は邪馬台国
0406ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/02/26(月) 10:48:14.32
卑弥呼=百襲姫でほぼ確定である

正確には百襲姫のモデルになった人なのだろうが、それを厳密に言い始めると聖徳太子はいなかったとか面倒なことにになるし、そもそも史書と完全一致でなければ伝説的人物は実在と言えないとなると、源義経や弁慶なども架空としかいえなくなってしまう

だからモデルという言葉は、ここでは敢えて使わず百襲姫=卑弥呼と書くことにする
0407ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/02/26(月) 10:51:28.49
時々揶揄する書き込みを見るが、古田氏は東日流外三郡誌の人だから、ネトウヨレベルには丁度良いのかもしれないな

オレはバカらしくて著者を読む気にもならぬ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:07:04.34
>>404
女王之所都であって
女王国の都の記述はないからね
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:12:21.75
>>357
裴世清は遣隋使の船で招請されたんだし
新築の法隆寺が整うのを
瀬戸内海の秦国で待たされたんだけど。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:15:03.89
>>409
女王国、投馬国、邪馬台国、傍国、
狗奴国、今使譯所通三十國以外の国かな?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:17:17.49
>>409
あのなあ
倭国の女王の都が倭国の都じゃないはず 無いよな?
女王国って なんだ?
0413日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 11:19:05.55
>>412
倭国の都ではありません。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:19:35.56
>>410
>裴世清は遣隋使の船で招請されたんだし

それじゃ帰りはどうやって帰ったの?
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:21:06.07
>>411
邪馬台国は女王之所都です。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:25:10.39
>>415
共立されたのは卑弥呼であって邪馬台国ではない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:26:40.77
(200年頃まで):女王之都する所のある国が女王国で、別名・邪馬台国

(200年頃以降):倭30国により女王が共立されたあとは、倭30国が女王国で、別名・倭国。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:32:47.50
別に邪馬台国が首都や中心国である必然性はない
てことだ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:41:51.06
邪馬台国の頃には日本という概念も首都という概念も無かっただろ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:44:35.18
>>418
必然性がないというのは珍奇な独自説を言ってみたい君だけの都合
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:44:38.91
テスト
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:47:04.07
トンデモは理由も言わず断定する
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 11:47:23.04
>>414
それ重要かな?
行きは難波まで船で迎えに行ったんだろ。
帰りも想像出来るじゃん
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:07:33.10
狗奴国は台与が国中遂定した結果、使訳通じた30国になりました
0426ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/02/26(月) 12:18:05.49
卑弥呼を旗印に九州や吉備の国々が連合して畿内の原住民であった銅鐸文化人を制圧し、倭の連合王国としての纏向王権が樹立された

これが邪馬台国の建国で早期ヤマト王権樹立の経緯だろう

卑弥呼を擁立して纏向王権を建てた九州出身の人物こそが神武東征伝説の元ネタとなったヤマト王権の初代王と推測できる
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:19:03.55
>>424
大和川の河口に難波津などない!   @阿波
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:24:18.00
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:35:37.12
>>396
>難波、海石榴市、大和川を知らない人なら陸行一月半だと誤解する文章の実例がある
つまり倭人伝の「陸行一月」という非現実的な日程が簡潔な報告文書だけ読んだ現地を知らない著作郎によって書かれる可能性は十分にあるってこと


きみのは却下  畿内説のみならず推古紀の解釈を否定するものだから問題が畿内説にとどまらない
桜井市教育委員も比定してる
「泊P川畔の金屋河川敷公園に「仏教伝来の地」の大きな石碑建っています。そして、説明書きにはこのように書かれています。
 この付近は難波津から大和川を遡行してきた舟の最終地で、大和朝廷交渉をもつ国々の使節が発着する、都の外港として重要な役割を持っていました。」
0430日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:37:55.31
陸行は1日の誤写でほぼ確定だろ
手書きで日が月に似てしまう人は結構いる
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:42:22.09
傍国、投馬国、邪馬台国には行っていないな。
説明のみだな。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:42:28.01
>>429
大和川の河口に難波津などない!   @阿波
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:45:58.05
>>396
畿内倭種は、著作部でなくて、優秀な創作部員だわ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:47:27.97
>>432
傍国は邪馬壱国の南部地域で行っていないな。
投馬国は狗邪韓国だけ、邪馬台国は対馬国〜不弥国くらいは訪れてるな。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:48:33.74
>>1

これが君がいつも言う桜井市の公式発表だ
「難波津から大和川を遡行してきた舟の最終地で、大和朝廷交渉をもつ国々の使節が発着する、都の外港として重要な役割を持っていた。」
また
「裴世清らは大和川を遡上して海石榴市に着いた」

もっと3世紀に近づけようか
{欽明天皇13年(552年),百済の聖明王の使者が、この地( 海石榴市)に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされ、初瀬(泊瀬)川沿いに「仏教伝来地」の顕彰碑が建てられている。}
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:49:13.51
>>430
隋書は日を月に書き間違えてるか所が幾つかあるね。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:50:10.55
難波津って大阪の石切あたりじゃねえの?
大和川とは随分離れた場所だったかと
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:52:45.17
>>409
女王は魏の使者の梯儁使ってた表現で
女王国は公孫氏の帯方郡の使者が使ってた表現だね。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:53:24.72
>>430

>陸行は1日の誤写でほぼ確定だろ

畿内説の推古紀裴世清の説明よりは数段支持できる。
あいつら、人をだまそうとするからな。推古紀を陸行だと詐欺行為
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:54:50.77
邪馬台国は女王の支配してる国
投馬国に対してのみ言ってる事だな。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:56:02.89
誤写ではなく、距離、日数、戸数は過大誇張した数字
各国訪問したら2ヶ月かかってもおかしくないが、2週間ぐらいかもしれない
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:56:11.50
>>426
妄想じゃなくて根拠のある話しをしようぜ。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:56:36.13
卑弥呼の時代は帯方郡に朝貢していたという理解をした途端に魏志倭人伝の行程読み解きが進み始めたな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:57:13.63
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡に違いない、箸墓は卑弥呼の墓に違いない、ヤマトは
大和に違いない、十数年あまり進歩していない
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:57:30.98
おーーーーい
>>1 キナイコシ  および>>396「現地を知らない人」連呼くん

もう同じ投稿するなよ。きみらに親身に答えた人の投稿も保存しておくように。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:57:40.06
>>432
投馬国も邪馬台国も行っていない
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:58:10.67
>>443
陸行1月は里程では末盧国から伊都国までの五百里に当たる
陸行は1日の誤写で確定
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:58:53.44
邪馬台国からの帰路は有明海から帰った
それで、嶋が離れたり連なったりという、
長崎の光景を見たのだろう
周回5000里もちょうど当て嵌る
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 12:59:52.97
投馬国、邪馬台国は魏の梯儁の報告書からの引用
実際に行ってるね。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:01:44.22
>>414
-------------------------
>裴世清は遣隋使の船で招請されたんだし
それじゃ帰りはどうやって帰ったの?
-----------------------------------

君はどう思う。 行きに船を30そうも連ねて歓待したのだから、帰りも船だと思わんか?
大和川の下りだし早いし、お客を歩かせることはしないだろう。
おれは帰りも船で難波まで送ったと思うよ。
君はどう考える。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:02:44.21
日数に変えたのは宇美から以南の福岡平野、筑紫平野の各国訪問したからだよ
筑紫平野の南端に山門の女山がある
だから女王以北は記載出来ても、
山で隔絶される南部や東部は記載出来ない
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:02:56.11
>>450
参問は中国語で訊ねるの意味だからボツ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:03:36.07
>>1
推古紀、もう同じ投稿するなよ。きみらに親身に答えた人の投稿も保存しておくように。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:03:59.49
>>448
投馬国、邪馬台国は魏の梯儁の報告
から行っていない。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:05:30.71
>>452
大和川の河口に難波津などない!   @阿波
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:05:42.55
>>453
里数は公孫氏時代の記録からの引用
日数は魏の使者梯儁の報告書からの引用
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:12:52.62
>>453
里数行程も日数行程も帯方郡からのもので同じ行程を距離と時間で二重に説明してるんだ。
基資料は書かれた時期も書いた人も違うんだ。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:13:35.45
万二千餘里は里数なので
邪馬台国ではなく伊都国から分岐の
奴国、不彌国までだな。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:15:29.42
>>457
@阿波 難波津の件わかったから
難波津を大阪湾の港と理解して静かにしてくれないか

何も倭人伝の話でなくて畿内説の馬鹿を諭してるんだから。地名は重要じゃないから。
たのむ 論点がぼやけるから頼む
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:16:32.95
万二千餘里
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+10=12000

万二千餘里に水行20日、水行10日+陸行1日掛かるんだ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:20:53.54
倭人伝そうは書いてない
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:24:13.71
>>461
>難波津を大阪湾の港と理解して静かにしてくれないか

そもそも、大阪湾は「波が難い」所ではない。 鳴門海峡周辺が「難波」の地。   @阿波
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:25:07.56
丗有王 皆統屬女王國
自女王國以北 其戸數道里可得略載
自郡至女王國 萬二千餘里
自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

南至邪馬壹國 女王之所都
此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

この女王国と女王の表現の違いは基資料を書いた人が違うからだな。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:26:48.62
>>461
>何も倭人伝の話でなくて畿内説の馬鹿を諭してるんだから。地名は重要じゃないから

畿内説の馬鹿は、難波津を大阪湾と思い込んでいる。   @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:31:19.57
>>429
>きみのは却下  畿内説のみならず推古紀の解釈を否定するものだから問題が畿内説にとどまらない

九州説の知能は低いな
推古紀の文章を読んだだけでは大和川の存在すら判らない
予備知識のない者には陸行で1月半かかったと読めてしまう
同様に魏使の報告が陸行一月と誤解される余地は十分にある
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:32:45.50
>>466
阿波さんまで揚げ足取りに走ったのですか
わかってるくせに  
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:32:50.32
>>466
阿波さんまで揚げ足取りに走ったのですか
わかってるくせに  
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:33:24.08
つまり卑弥呼時代の畿内は「女王国の東の海を渡り千里ほど」にあった「倭種の国」でしたと
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:35:39.50
>>468
ハイ ハイ  

理解できないままでいいよ

テンプレもそのままでいいよ

君の頭もそのままでいいよ

また楽しめるからねww
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:35:42.23
>>471
倭種と書かれているのは中国地方のことだから
畿内のことは魏志倭人伝には書かれていないね。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:37:18.27
女王国、傍国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は倭種
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:40:27.80
>>468
その通りかもしれませんね
>>1
予備知識がなかったので、勘違いしてテンプレで解説したのでしょうね。
今は知識が増えたでしょうから、DAQ58は修正すべきでしょうね
。畿内説のみならず、推古紀が誤解されないためにも。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:41:00.19
魏志倭人伝には本州にも倭種が居ると書かれてる
倭種は倭人と同じ種だが投馬国、邪馬台国、狗奴国に属してない人達のことだろうな。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:42:20.07
>>476
属する、しないの記述はない。
傍国の国々かもしれん。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:44:11.22
>>465
素晴らしい
行程の謎読解が進んできたな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:45:03.03
>>473
畿内説の場合は魏志の1里は0.435kmだそうで、
門司から大阪までの航行距離がおよそ千里となる

つまり畿内は東の倭種の国
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:50:58.71
>>468
>予備知識のない者には陸行で1月半かかったと読めてしまう

そうでしょうね。予備知識がない人は>>1の裴世清の旅程は陸行と信じてしまいますね。
>>1は瀬戸内航路の終点は桜井市という知識があるのですからFAQ58のような解説はいけませんね。

>同様に魏使の報告が陸行一月と誤解される余地は十分にある
 これはFAQ58と直接関係ありませんが、あるとすれば>>1の勘違いでしょうね。陸行1月については君の言う通りで、九州説の人で陸行1日の間違いだと言う人もいるようですから可能性はあるでしょうね。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:55:03.61
つまり可能性がゼロでは無いが最もあり得ない話だけを寄せ集めると畿内説になるわけよ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:55:39.15
倭国とは九州のこと、東に海を渡ると倭種の国々がある
東南大海の中に分かれて100余国
使訳通じたのが九州30余国、残りは東の倭種の国

半島
 ↓
女王国 → 倭種
 ↓
狗奴国

============

九州 倭国大乱ー卑弥呼ー台与ー266朝貢途絶
畿内 ーーーーー四道将軍ーーーヤマトタケルーー三韓征伐ーー倭の五王
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:56:12.25
>>480
>>1は瀬戸内航路の終点は桜井市という知識があるのですからFAQ58のような解説はいけませんね。

なんで?
鴻臚の文官あたりの思考シミュレートとして納得できると思うが?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 13:59:35.24
使訳通じたのが30余国
九州以外もあるだろうな
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:03:07.18
>>483
そうですか。
今は >>1はいろいろわかってきたのでしょうから、FAQ58を修正すればよいだけでしょうね。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:08:30.51
>>414
遣隋使で帰ったよ
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:13:32.63
>>485
なんで修正される必要があるの?
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:25:56.56
>>484
当然
縄文時代から東アジアにおいてヒスイは糸魚川でしか取れなかった
0489ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/26(月) 14:27:09.65
ネトウヨは何故か必ず邪馬台国九州説を主張する
これは壺や日本会議の教義なんだろうな

この調子だともし纏向から親魏倭王印が出てきても屁理屈を作って邪馬台国=ヤマト王権と認めないだろう
彼らはネトウヨ教の教義の方が現実よりも正しいと思ってるからな
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:27:30.63
交易と朝貢は全く別の話
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:28:28.41
>>489
チョンコは日本人をネトウヨとヘイトする
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:28:57.55
>>489
まるで九州から曹操レベルの鉄鏡が出ても認めない畿内説のようだ
なかには漢委奴国王金印すら認めようとしない人もいるしな
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:36:33.51
>>488
当然、貢ぐの記述はない。ガラスの交易もある。
今使譯所通三十國だから九州以外もあるね。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:36:43.85
>>487
FAQ58
推古紀裴世清は河川航行で桜井市についているのは理解できましたよね。
FAQ58では
>外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。<
と解説してますね。外交使節旅程の類例=裴世清らの水行日程(河川航行)であり陸行日程ではないからです。

またFAQ58の最後でも同じように
>以上、結論として検証に耐える<
と解説してますが、同じく陸行を水行で検証してますので「耐えうる」とはいえません。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:38:11.28
そりゃ認めないさ
出てきた遺跡、時代が違うもの
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:38:34.29
>>492
金印や鏡など持ち運べる物は証拠と言えない
とか言ってたくせ三角縁ガー!っと騒ぐ低能畿内説学者とかな
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:42:32.14
>>494
陸行じゃなくて陸行日程と誤認される類例だろ
問題ない
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:44:15.99
>>487
横から見てたけど
あんたさ レス稼ぎだろ
自分で言ってるじゃん
「現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半・・・」

こういった誤解を与えないためにもFAQ58を修正したほうがいいんじゃないの
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:46:15.83
>>496
何説だろうが証拠とは言えない。
裏付ける文献の記述、目録等があればいいけどね。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:48:19.22
>>496
持ち運べようが運べなかろうが卑弥呼の朝貢年近辺の青銅鏡が広く分布してるんだから
畿内説の証拠だよな
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:48:35.36
女王国だから宗像あたりが倭種だな
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:50:32.29
>>500
国産鏡をなんぼ持ちだして来ても桃の種やゴキの破片と大差ない
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:52:09.71
「弥生時代の遺跡から出土した中国鏡となると、畿内では完形のものは一枚たりとも存在しない。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 14:54:08.24
>>498
>「現地を知らない人が文献だけ見たのでは陸行一月半・・・」

現地を知らない人が記録だけ見たので「陸行一月」になった可能性があるんだから畿内説は非該当じゃない
検証パス
以上、問題なし
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:01:26.27
>>496
1個だけなら統計学的に意味をなさないが、500個となると、もはや移動可能物とは言えなくなる
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:09:20.21
>>497

彼の結論は「陸行日程が妥当である」であり、
あなたの言う「陸行日程と誤認される類例」ではありません。

あなた流に言うならば推古紀を陸行と誤認したのは>>1でしょうね

まとめ
推古紀を類例として>>1が導きだした答え
  「陸行日程が妥当である」「陸行日程が妥当である」
しかし、推古紀は陸行日程でなく水行日程
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:15:21.99
魏との関係を強める為に
呉攻めのネタで南至にしたかもしれん。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:16:40.00
>>497
>陸行日程と誤認される類例<

間違いだよーーん
「外交使節旅程(推古紀)の類例に照らし、陸行日程が妥当である。」


(倭人伝の)陸行日程は推古紀の類例に照らしあわせれば妥当である
国語ができればわかるでしょう
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:23:42.43
>>506
だから渋川〜纒向は「陸行一月」で妥当なんでしょ?
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:25:00.29
はずかしいねーーー
畿内説の馬鹿を相手にして盛りあってるだけのスレじゃん
スレは進めど最低じゃん  見づらいし
もう畿内説の諸君はバカやってレス稼ぐんじゃによ 特に>>1
>>1は馬鹿を装いなんども繰り返させてるだけじゃん。

スレ主はスレが進めば良いだけの存在かよ
手法が畿内説の学者そのものじゃん。
脚光を浴びればそれでよしと纏向ぶち上げたのと同じやん
中身の濃い討論しようよ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:29:04.18
>>497
彼の結論は「陸行日程が妥当である」であり、
あなたの言う「陸行日程と誤認される類例」ではありません。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:30:09.24
>>497
あなた流に言うならば推古紀を陸行と誤認したのは>>1でしょうね
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:31:54.34
>>497
推古紀を類例として>>1が導きだした答え
  「陸行日程が妥当である」「陸行日程が妥当である」
しかし、推古紀は陸行日程でなく水行日程
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:32:00.19
>>505
多すぎやろタコ
古墳の9割以上が盗掘されているにもかかわらず、600枚も発見されてということは、当時は6千枚以上流通していた汎用品だったということだ
つまり三角縁は国産の汎用品
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:33:38.95
>>497
あなたの主張
「陸行日程と誤認される類例」
しかしFAQ58=>>1の主張
「陸行日程が妥当である」
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:34:09.96
ちなみに統計というのは「偏った見方をすればこう見える」を示す際に利用する文系擁護ツールの一つだ
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:42:09.14
>>515
>「陸行日程が妥当である」

纒向が瀬戸内航路の終点と言ってる1が「陸行日程が妥当である」とも言ってるってことは
「陸行日程」つまり倭人伝の陸行一月は
水行(難波〜海柘榴市)が陸行1月半に読めるのと同じ(類例)って意味でしょ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:44:55.92
>>512
>>497
あなた流に言うならば推古紀を陸行と誤認したのは>>1でしょうね

どうして誤認?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:47:09.25
推古紀裴世清の旅程に興味あるやつで
難波宮から京(飛鳥)まで陸地で行ったと思う奴は
>>1キナイコシなど一握りの馬鹿じゃねーの
それも堂々とテンプレに載せちゃってさ
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:51:53.04
>>508
>(倭人伝の)陸行日程は推古紀の類例に照らしあわせれば妥当である
>国語ができればわかるでしょう

国語ができればわかるでしょう
(倭人伝の)陸行日程(実際は水行なのに陸行。30kmくらいなのに一ヶ月)は
推古紀の類例(実際は水行なのに陸行と読める。近くなのに入京まで一ヶ月半)に
照らしあわせれば妥当である
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:52:51.68
日本語が読めない>>519
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:56:22.21
>>517
御免 前段が抜けてたかな
「外交使節旅程(推古紀)の類例に照らし、」
陸行日程が妥当である。

つまり>>1の主張は「推古紀の類例から陸行日程が妥当である」
 
あとアナタみたいに
>水行(難波〜海柘榴市)が陸行1月半に読める<

そのように>>1がFAQで解説すればよいのですが、、、
文面から>>1の推古紀の勘違いの可能性が高いと思いますよ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 15:59:47.40
>>518
>どうして誤認?

>>1の結論から
「推古紀の類例から陸行日程が妥当である」
 
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:03:40.87
>>521
悔しそうだな奥山君
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:12:27.89
>>517
これがわかりやすいかも

アナタの主張の「陸行日程と誤認される類例」を

>>1の結論にあてはめますね
まず>>1の結論
「外交使節旅程(推古紀)の類例に照らし、陸行日程が妥当である。」
   ↓
合体
「陸行日程と誤認される類例に照らし、陸行日程が妥当である。」
となります。
文書的におかしいでしょ。つまり1の主張とあなたの主張は違うのです。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:14:01.27
>>522
>文面から>>1の推古紀の勘違いの可能性が高いと思いますよ

1は「この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点」って言ってるんだから
それの類例だという推古紀も明らかに水行って解釈してることになるんだが
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:16:25.87
>>525
>文書的におかしいでしょ。

別におかしくない
陸行日程=倭人伝の「陸行一月」だから
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:17:46.01
>>517
合体これがいいかな
「外交使節旅程(推古紀)が陸行日程と誤認される類例に照らし、陸行日程が妥当である。」
となります。

おかしいでしょ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:22:58.08
>>528
別におかしくない
「陸行一月」という日程は誇張でも誤写でもないって意味だろうから
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:28:25.58
>>527
こういうことですか???
「外交使節旅程(推古紀)が陸行日程と誤認される類例に照らし、倭人伝の「陸行一月」は妥当である」
これですか?

もう一つアナタ最近投稿しはじめましたか?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:30:32.51
>>520
お前 くるってねーか
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:38:42.61
>>530
テンプレは纒向を「大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点」と考えてる人が
倭人伝の「方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らか」な行程記事を
検証しているのだから
結論は「陸行一月」が大和川を遡上して纒向に至る箇所に相当するのが妥当だ、と言ってるわけ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:39:06.36
孫栄健説で全て矛盾なく解釈できる
このスレのテンプレは矛盾と妄想だらけで話にならんけどw
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:41:52.80
>>527

>>526さんのも読んでおいてください

また「推古紀を陸行日程と誤認される類例」と思ってるのはここの投稿者であなた一人のような気がします。
>>1は以前、推古紀を陸行としてどなたかと議論してましたから。「日数に宿泊を入れたらいけない」とかどうのこうのと。
>>1は当時推古紀は陸行と思ってたし、今もFAQを変えてないから陸行と思ってるかも。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:45:37.81
>>532
おまえ 何一人芝居してんだよ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:46:21.58
>>534
証拠だせる?
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:52:21.93
>>527

席を外すのでコメントも入れます
「外交使節旅程(推古紀)が陸行日程と誤認される類例に照らし、倭人伝の「陸行一月」は妥当である」

この文書もおかしいでしょ
くだけば
「推古紀の水行日程(49日)が陸行日程(49日)と誤認される類例に照らし、倭人伝の「陸行一月」は妥当である」
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 16:56:33.64
>>536

もう消されてると思いますよ。
彼の記憶には残ってると思いますよ。

アナタが彼ならトリをつけてそんなことはないと言えばいいです。

席 外そうとしたのに、、、メッ
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:14:55.24
魏の一里は435メートル
帯方郡から女王国まで12000里
435*12000=5220000
とすると、ジャワ島かパプアニューギニアあたりが有力な比定地となりそうだ
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:17:15.95
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:26:08.67
日本語(和語)で語頭に濁点が来ることはない
投馬国は語頭に濁点が来るので日本語ではないことになる
もしくは誤字か、語頭の脱字かもしれない
アズマとかイズモなど
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:29:49.92
>>532
キナイコシは推古紀を単純に陸行と間違えただけだよ
今日の朝も指摘してたよ
日本海ルートが機能低下とか衰退してると言いつつ、卜骨で日本海ルート出したり青なんとか遺跡だしたりしてたし、海上の職能軍団がいるとか
あいつが馬鹿でなけりゃ二枚舌だよ
今回もダダこねて 根負けするのを待ってるだけだよ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:30:56.06
>>538
>もう消されてると思いますよ。
>彼の記憶には残ってると思いますよ。

あなた、証拠も無いのに言い放題なんですね
こっちは1が纒向を「大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点」と考えてる証拠を示して
「陸行一月」の類例として挙げられた推古紀も水行なのに陸路のように書かれている例として挙げられている例だと論証したのに
あなたは、ただそう思う、というだけのゴリ押しで上から目線
だれかんに老害と言われてたのって、あなたですね
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:33:35.95
>>542
それのどこが二枚舌?
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:40:41.53
>>539

12000里の南成分は8000里分くらい
中国は方万里(尚書萬貢篇)だから、
平面の大地の中心の中国も大きいし東夷も大きい
現代の地図で考えてはいけない
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:48:12.39
>>534
>>1は以前、推古紀を陸行としてどなたかと議論してましたから。「日数に宿泊を入れたらいけない」とかどうのこうのと。


あった あった 宿泊入れてもいいなら九州説も使っちゃうよだったな。
難波から纏向まで40キロをなんで一月かかるんだとかな。
あったあった「現実に難波から陸行で一月かかった例だから・・」とかでキナイコシ押し通してたな
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:49:28.94
>>541
投馬国が倭国の国ではないという傍証か
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 17:52:15.63
>>146
3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
3世紀初めの初期連合邪馬台国と3世紀末の強力な大和政権の変遷が、纏向を
発掘して考古学的にわかるのか、わかっているなら論文を教えて欲しい
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:04:54.22
>>546
九州説は言い張るだけ
決して論じない
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:16:06.09
>>514
三角縁神獣鏡は明確に枚数で序列が分かる
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:27:51.89
>>541
ダーマと訛って当時は呼ばれてたんだろうな

対馬も對海国(ツイカイコク)とかなりギャップあるね

おそらく對海国は對毎国(ツイマコク)の誤記だとは思うけど
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:27:53.16
鏡が何らかの意味を持って棺の中に一枚納められている墓は大阪〜奈良北部の西側にあり、東側の天理〜桜井の墓の場合は棺の外に無造作に差し込まれている形式だ
邪馬台国が大阪河内を含むというのであれば、副葬形式の異なる天理〜桜井は外れる
近畿説を取ったとしても邪馬台国は奈良北部の東側までであり、その東と南の纏向などはいわゆる狗奴国だったとなってしまう

まあヤマト=狗奴国という説もアリだよ
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:28:17.19
>>543 爆笑
お前キナイコシと自分で言ってるのか(笑)
お前も、あいつが嘘をついてると言う証拠出せないじゃん(笑)
俺も「畿内説では徒歩で一日1キロしか進まないんだってよ」と投稿してるぞ
キナイコシは確実に水行とは思ってないよ。俺も推古紀なんて詳しく読んでねーからてっきりFAQどおり陸行と思ってたからな。
普通あのFAQ見てたら俺みたいに陸行と思うよ。キナイコシもそのつもりで応戦してたし。
嘘と思うのはお前の勝手だがねWw
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:29:49.40
つまり畿内説は詐欺師
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:30:27.00
>>548
桜井茶臼山古墳こそが初期邪馬台国との違いを表している
盗掘されているのに、銅鏡103面
しかも、通常画文帯神獣鏡は1面だけしか出てこないのに、桜井茶臼山からは19面も出ている
まさに化け物級の大王
これが初期邪馬台国とヤマト王権の違い

103面の詳細な内訳は分からなかったが、三角縁神獣鏡26面、画文帯神獣鏡19面の他に、斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡が出ている(詳細な内訳を知っている人がいたら教えて欲しい)
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:36:53.21
>>556
畿内ヤマトが九州倭国を合併した後の大王か

>墳丘に特殊器台や円筒埴輪を使用した痕跡がない。段築面には葺石が施されている[3]。また、陪墳群がみられない。
>この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿が建てられた年代はいつなのか、詳細は不明である。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:41:33.83
>>557
確かに、邪馬台国時代の一大率を置いての間接支配から、畿内ヤマト王権が直接支配した後かもしれない
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:42:59.69
>>558
根拠なし
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:46:14.54
>>554
このように
なにも証拠のないことを言い張るのが

九州説
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:47:00.53
桜井茶臼山の三角縁神獣鏡は、群馬県蟹沢古墳と同笵である、陳是作の正始元年紀年銘鏡が出ている
やや、蟹沢古墳の方が後と見られているが、3世紀末には関東も支配下に入ったと見るべきだろう
そうすると、卑弥呼はやはり纒向にいなくてはならない

247年頃卑弥呼死亡→臺与→桜井茶臼山→群馬蟹沢の族長も支配下に→4世紀に入ってたびたび半島に侵攻
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:50:44.59
>>561
>そうすると、卑弥呼はやはり纒向にいなくてはならない

碌に鉄器さえも作れない纏向にか?   @阿波
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 18:51:28.89
九州 倭国大乱ー卑弥呼ー台与ー266朝貢途絶
畿内 ーーーーー四道将軍ーーーヤマトタケルーー三韓征伐ーー倭の五王

倭王武「先祖が東に55国、西に66国、海を渡って北に95国平らげた」

============
ちゃんと神話に記されてたわ
中華の史書と神話を照らし合わせたら何があったのか見えてきたな
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:06:35.51
>>563
残念ながら、三角縁神獣鏡を畿内から下賜されている九州は邪馬台国ではない
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:11:06.68
>>565
交易で流れてきただけか
あるいは編年が狂ってるんだな
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:14:14.05
鏡職人があちこち渡り歩いて古墳ごとに出吹きしてた説がある
そうすると東の倭種の国で流行したデザインを
流れの鏡職人が九州に持ち込んだ可能性ある
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:17:49.86
>>566
編年が間違っているという一縷の望みに希望を託すしかないよな九州説は
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:19:43.58
つまり、反学問
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:23:00.94
方位と距離を変えるしか望みのない畿内説
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:25:58.69
編年が間違っている説はかなり苦しい
理化学的な手法でも3世紀前半に纒向が出来ていたことは確実である。
この場合、伊都国、奴国2万戸の3.5倍を誇る超大国を九州内に求めることはできず、纒向こそが邪馬台国の首都と見るべきである。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:27:33.04
里数、日数、戸数は大幅に盛られているので検討に値しない
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:30:11.30
>>573
誤魔化しか望みのない畿内説
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:31:38.79
>>575
じゃあ奈良のどこに7万戸の集落があったか指摘してみて
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:32:21.74
>>572
邪馬壱国=倭国
北部九州地域全体が邪馬壱国でその中に対馬国〜不弥国、傍国があったんだよ。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:33:11.03
奈良は0が一つ足りません
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:34:14.10
3世紀の日本に7万戸の集落が在った痕跡はない
北部九州地域全体が邪馬壱国でその中に対馬国〜不弥国、傍国があったんだよ。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:39:51.57
畿内説は九州説を切ったつもりで畿内説ズタボロにしとるな
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:40:23.75
邪馬台国がそのまま大和朝廷になるなら、シナとの外交の空白の期間は生まれないはずだ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 19:43:29.14
旧唐書
「日本(大和朝廷)は、昔は小国だったが、その後倭国の他の国々を併合した」

魏志倭人伝に小国の事が記載されているはずが無い(シナから離れた地域は辺境)
0583日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 19:45:40.00
九州説の場合、三角縁紀年銘鏡は、後のヤマト王権が邪馬台国を偽証する為に作ったという仮説を必ず採用しなければ成り立たない。
かつ、土器編年も間違い、C14も間違い、年輪年代法も間違いであるという前提に立たなければならない。

そうでない場合の仮説は非常に苦しい。
九州に邪馬台国があり、三角縁紀年銘鏡を持ってソッコーで畿内に東征することを想定しなければならない。
そうすると、まず臺与が266年に朝貢なので、臺与は九州にいたことがほぼ確実であるから、267年に東征して、畿内を支配下に置き、280年〜290年頃に桜井茶臼山大王がいきなり誕生し、
ホケノ山大王もいきなり誕生し、黒塚大王もいきなり誕生し、椿井大塚山大王もいきなり誕生し、箸墓大王もいきなり誕生し、
4世紀に入って、ソッコーで半島に侵攻しなければならない。

これは現実的にあり得ないので、土器編年が間違ってる&C14が間違ってる&年輪年代法が間違ってるというしかないのである。
この立場に立つのが、ハルキー氏、安本美典氏関川氏、日本古代史ネットワークである。
0584日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 19:49:04.69
>>571
福岡平野から筑紫平野に入ったところに、ミズマ、ツマ(水沼氏)という地域がある
0585日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:00:53.32
旧唐書
倭国にも日本にも
邪馬台国の記述はない。
0586日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:02:00.27
投馬国を超能力で見ると、ただひたすらタマタマと言ってきて岡山を見せてくるだけ

広島の鞆、出雲なんじゃないかと何度聞いても岡山に戻されてしまうの
0588日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:04:52.15
奈良が後に日本の首都になることは事実
では、九州に奴国の2.5倍の投馬国、奴国の3.5倍の邪馬台国を置くことは可能か?

不可能である
0590日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:14:40.07
>>588
宮崎・投馬国の遺跡を見ると、
北部に西都市都万の西都原古墳群有り、
瓊瓊杵尊と木花咲夜媛の墓と伝えられる巨大古墳2基を始めとする壮大な規模。
現在、高塚墳319基が現存し、内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基である。

南の宮崎市には生目古墳群あり、生目は邪馬台国の官の伊支馬の故地とされる。
3世紀後半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群である。
高塚古墳は、前方後円墳7基、円墳36基など計51基。
外に、地下式横穴墓36基、土壙墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。
0591日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:14:40.79
>>589
平野があれば何でも良いわけではない
しかもその筑紫平野から、「何にも出てこない」ことが一番の問題だ
伊都国→三雲南小路、井原鑓溝、平原
奴国→須玖岡本
これを超える副葬品が出ている遺跡がない
0592日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:16:00.39
>>585
旧唐書
倭国条 阿毎氏、一大率、官有12等
日本、天武天皇?
0593日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:16:07.15
>>590
すなわち、畿内の傘下
0594日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:16:45.54
>>590
宮崎は、墓地だな。   @阿波
0595日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:21:41.79
ぼちぼちでんなあ
0596日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:22:17.90
>>588
阿蘇・高千穂の女王・卑弥呼の所都には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山を守護神とし、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25qもの渓谷断崖で守られていました。
なんと、奈良の三輪山を含む桜井市と、ほぼ同面積の天然の大要塞だったのです。
依って縄文〜弥生の昔から、幾多の王国が興り、衰退し、また興り、を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝があり、更に神武後孫の高千穂王朝も続きました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そして宇佐神宮宮司が建てた大神王朝、三田井王朝へと続きました
ここは万年の歴史の地なのです。
0597日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:24:44.52
>>588
熊本平野の山鹿市と菊池市の境界に、なんと「臺」という地区がある。
念の入ったことに、今も臺集落や、臺郵便局、とりで保育所まである
その北側には、30haもの方保田東原の鉄工房団地が埋まっているが、発掘されたのはまだわずか。
ここが邪馬台国の軍事・経済を担った国衙と推定されている。
0598日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:25:18.09
>>594
@阿波さん
愛媛が震源地の地震は大丈夫でしたか??
投稿してるから大丈夫ですよね。

さて、誰だったかな>>1FAQ58のことでお話してたの??
探してみます
0599日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:29:35.84
>南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。
>南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。

投馬国までの推計5万戸余
邪馬台国までの推計7万余戸
とも考えられる
0600日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:31:31.98
>>588
この熊本平野の邪馬台国の国衙「臺」からは、今の国道325号線に沿って阿蘇南谷を進み、
高森町から外輪山を越えるとあとは下り道で高千穂町。
この高千穂町三田井の字「神殿(こうどの)」に女王卑弥呼の宮殿があった。
高千穂町は、奈良の桜井市とほぼ同じ面積。
古えの高千穂宮殿と山鹿の国衙は一本の街道で結ばれていたのであろう。
その街道が、今も国道325号線として自動車産業、電子産業、観光客でにぎわっている。
0601日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:34:08.04
ほほう、女酋、土蜘蛛と呼ばれた女王のいる山門と邪馬台国は関係無いと?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 20:39:08.73
長屋王が殺されて宗像徳善の血は天皇家で絶えたと思ってたら、なんと今上天皇の直系祖先だと言うのがわかったよ

https://rekishi.directory/宗形徳
0603日本@名無史さん
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2024/02/26(月) 20:40:09.34
>>543
>あなた、証拠も無いのに言い放題なんですね<

この件(推古紀を>>1は陸行と思ってた)は覚えていらっしゃる方もいるようですが、
あなたがそうでないと思うなら、それはそれでよいです。
言及しても平行線でしょうから。

さて、すでに提示済みですが、あなたの主張をFAQ58にあてはめたらこれで良かったですか?
「推古紀の水行日程(49日)が陸行日程(49日)と誤認される類例に照らし、倭人伝の「陸行一月」は妥当である」
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 20:48:59.90
>>601
山門なんて、猫の額ほどの有明海沿いの半農半漁の貧困邑。
そこを国道、JR、西鉄電車の三本がひしめいて通過している。
三世紀の頃は、まだまだ海が迫っていたそうな。

名ばかり有名な神護石だが、
あれは農地を荒らす猪と鹿を追い込むための基礎石組と木柵の大罠だったのだろう。
いわば、猪・鹿を捕らえる定置網だな・・、
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 20:52:00.28
女山(ぞやま)の眼下に広がるみやま市はかつて山門(やまと)郡とよばれていました...
史書によれば この地は二度も 大和朝廷の征伐に遭っています

最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき
南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています

二度目は神功皇后(14代仲哀天皇妃)の熊襲征伐のとき
日本書紀に...
「山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた」
「田油津媛には夏羽という兄がいたが 夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡した」
という記載があります
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 21:04:02.54
いわく付き日本書紀の、
女山伝説と土蜘蛛媛と山門の地名に目がくらんで、
ここがヤマタイコクだー、、と早トチリした史家がいたというだけのこと。

藤原不比等は、九州に女酋長を12名も登場させて目くらましに使い、、
高千穂に目が向かないようにしたのではないか。
火種の無いところに煙は立たぬ・・・、
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 21:05:06.19
博多周辺から見て東(あずま)にある国が投馬国ですよ
0609琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/26(月) 21:07:37.27
無駄だよ、
八角朝鮮アサガオ墳墓族が以前の前方後円墳を知らん訳無いだろ。
日本は倭の別種、この認識は正しい。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 21:33:20.72
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 21:55:26.04
>>603
>この件(推古紀を>>1は陸行と思ってた)は覚えていらっしゃる方もいるようですが、

証拠がないことを平気で言う人って九州説には何人もいるの?
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 22:02:24.32
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 22:24:10.09
>>587
晋書
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好 戸有七萬
晋書では倭は7万戸(邪馬壱国)
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 22:34:37.18
>>611
ご自由に君が思うままに
しかし論点ずらしちゃいけませんよ
再度
さて、すでに提示済みですが、あなたの主張をFAQ58にあてはめたらこれで良かったですか?
「推古紀の水行日程(49日)が陸行日程(49日)と誤認される類例に照らし、倭人伝の「陸行一月」は妥当である」
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:12:38.97
東に海がある=周防灘
以北は玄界灘
南に狗奴国、ククチヒコ=熊本平野、菊池平野
西は会稽トウヤ

要するに宇佐から日田盆地、筑後平野を経て有明海に抜けるルートをおさえた勢力。
それがヤマカド国。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:31:33.30
>>611=>>1
あなたの 今日の投稿 順次読むといいですよ

随分勉強したと思いますよ
推古紀は水行行程であることを確信しましたね。
それだけであなたの収穫でしょうね
・・・ご自分の投稿を順次みていってください。できれば君が忘れていた昨日?一昨日?の投稿も見るほうが良いでしょう。
あなたのFAQ58の解釈はあなたの自由ですから、ご自由に。

あまり、この件で長くスレを占領するわけにはいかないのと、
他に議論したいこともありますので私は私でFAQ58が変わらない限り、後日同じ指摘をまたさせていただきます。
貴君のご健勝をお祈りします。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:32:45.09
畿内説の寺澤薫もペテン師

「当時の中国人の地理観では、倭地は南北に長く延びた島国と考えられていた(参照)。したがって『魏志』倭人伝の「南」は、実際には「東」と読み換える必要がある。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した「混一疆理歴代国都之図」だとしているが、これは詐欺的手法と言える

https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:36:04.00
寺澤の腹の中は分からんよ
畿内説のフリしながら畿内説をコケにしてるようにもみえる
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:44:30.47
>>583
いや、九州説は年代論だけで全てが決まるとは思っていない
むしろ年代論だけで畿内説が証明されたと考えるバカが考古学界に多いことに正直呆れている
畿内説が理論的に成り立つための条件を項目を改めて次に書く
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:44:50.79
纒向邪馬台国説を立証するには以下の二つが必要
⓵纏向の時代が卑弥呼の時代と被っていること
②金印や封泥のような物証が出てくるか、そうでなければ同時代の遺跡の中で纏向が魏志倭人伝に記述された倭国や邪馬台国の様子と最も合致すること

考古学界は炭素14年代法の測定結果などを古い方に目一杯ストレッチさせながら⓵の証明に躍起になってきた
しかしながら②については、魏志倭人伝の記述との整合性を何ら指摘できず、苦し紛れに
「纏向の墓が一番大きいから列島で一番強大な権力」
⇒「だから列島を代表して魏に朝貢したはず」
などという極めて非学問的で雑な論理に終始している

魏志倭人伝の記述と纏向遺跡の発掘結果があまりに大きく掛け離れていることは畿内説にとって致命的だ
奈良県や桜井市の公金が欲しい考古学界がどんなに「畿内説が通説だ」などと徒党を組んで強弁しようとも、②が成立しない限り畿内説が邪馬台国論争の中で説得力を持つことはない

纒向を調査した結果、邪馬台国らしいものや大陸との交流の痕跡(銅鏡・鉄器・楽浪土器・硯など)が何も出土せず、魏志倭人伝の倭国・邪馬台国とは別の国であることがはっきりしつつある
纒向=邪馬台国だとする関西考古学界の強弁ももはや限界に来ているだろう
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:45:14.12
>>618
的ハズレな感想言っても指摘にはならないのに
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:46:27.06
畿内説が根拠とする前方後円墳、三角縁神獣鏡、桃の種、ベニバナ。。
何れも魏志倭人伝には一言も書かれていないので、これらは邪馬台国の根拠には理論的になり得ない
(場所や後世との連続性から考えて初期ヤマト王権の祭祀や権力の物証にはなり得る)

畿内説論者は土器編年をこねくり回して邪馬台国の根拠にしようとするが、そもそも纒向の外来土器は基本的に吉備以東(吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%、阿讃播8%)で北部九州のものは殆どない
これでは伊都国に一大率を置き奴国や不弥国を勢力範囲としたはずの畿内説はまるで成り立たない
彼らは土器の一体何を見ているのか

魏志倭人伝との整合を考えないから畿内説論者は頓珍漢な主張ばかりするのだ 
彼らが邪馬台国の根拠だと主張するものは全て初期ヤマト王権の根拠であり、邪馬台国の根拠になり得るもの(=魏志倭人伝の記述と整合するもの)はびっくりするほど何もない

邪馬台国の真実は魏志倭人伝などの文献と考古学が総合的に整合する所にのみ存在する
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:49:26.10
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがキナイコシやトナカイのようにこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:50:13.78
(続き)また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:51:56.76
倭人伝には徴税が記されているが、畿内に都があったのなら九州からいったい何を徴税したと言うのだろうか?
0628琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/26(月) 23:57:44.41
魏志倭人伝に書かれてなかろうが半島にも無い北九州にも無い東日本にも無い
北枕の墓制の者が前方後円墳を造り出したのだよ
無駄だよ。
否定したがる理由は何だね?
認めたくない理由は何だね?
崇神だ!神武だ!宗像3神だ!なんていつまで言ってんだよ、説得力0、信者にだけ言っとけ
もう終了している。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:59:13.65
>邪屆伊都 傍連斯馬

/\/\ギザギザで届く(いたる)伊都(国) 傍らで/\/\連なる島(々)

簡単ですね、これはw

「邪」の字義は「オオカミの牙」
牙のようにギザギザ、と言うわけですw

「邪」は、斜めではありません、だから「到」

斯馬は100%「島」です

字義考察だと「斧(斤)でゴロゴロに切り分ける(其)」

つまり、斯馬国は100%「オノゴロ島」ですw

イザナギとイザナミによる国生み神話で知られる
神々がつくり出した「最初の島(島国)」

イコール!

魏志倭人伝の傍国は
のちの記紀の国生み神話の参考文献になった
& 口伝されてた国生み神話が伝聞され魏志倭人伝に書かれた
と俺は考察してます

答えここまで出してます!

余談 盖伊耶國 ←伊邪国の分国

盖 = 建てる = 国生み神話において建のつく国は、どーこだ?w
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/26(月) 23:59:16.74
>>628
私が畿内説を否定する理由はただ一つ
理論的に肯定し得る客観的な根拠が何も無いからだ
そこに尽きる
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:05:52.25
神功の大和と田油津の山門以外にヤマトはないから。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:05:53.66
>>628
去年の吉野ヶ里の石棺は北枕だな
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:06:00.53
>>620
>寺澤の腹の中は分からんよ
畿内説のフリしながら畿内説をコケにしてるようにもみえる<

同意します
彼は次から次へとカメレオンみたいに色を変える人です。
畿内説が行き詰まってる象徴かもしれませんね。
石野も今年で92歳 いまだに兵庫県立考古博物館名誉館長の肩書にしがみついていいるようですし。
基本 石野も寺沢も自己顕示欲が強いです。だから次から次へと色を変えて注目を浴びたいのでしょう。
寺澤も纏向学研究センター長のポストを利用してるが本心はもっと良いポストと思っているでしょう。
石野の後釜を狙ってるかも???二人とも私利私欲が強いと思う。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:13:44.67
>>629
>邪屆伊都傍連斯馬

これは、邪(馬臺)は伊都国の傍らにあり、斯馬(国)に連なる

となります
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:19:08.53
>>628
宗像三女神は今上天皇の直系の祖だよ

宗像三女神

大国主

吾田片隅

宗像徳善

長屋王

堀河天皇

今上天皇
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:34:49.28
>>623=>>1

>>332でアナタの発言
「なんど聞かれても「文献では大和川航路利用だ」という理由を言えない」

こんな程度だったのですよ。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:40:59.70
0332日本@名無史さん
2024/02/26(月) 08:35:48.99
>>320
結論でちゃったね

なんど聞かれても
「文献では大和川航路利用だ」という理由を言えない
したがって
 文献だけでは陸行一月半に読めてしまう実例なので
 陸行一月という誤記がありうる、という結論になる
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 00:56:59.20
>>623 >>1
これを読んで「文献だけでは陸行一月半に読めてしまう実例」と思うかねーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
FAQ58のAより
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 01:21:24.69
>>623=>>1
夜中だから人のレスの邪魔にならないだろうから
☟もう一つ昨日の投稿
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
0327日本@名無史さん
2024/02/24(土) 13:57:10.89
>>321
つまり「陸行一月半」に見えてしまう情報
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
👆
なんで こんな結論を導けるの?、再度掲載
どこに注意喚起があるの???
&&&&&&&&&&&&&&&&&
FAQ58のAより
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 01:28:13.64
キウス深夜の発狂
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 02:44:28.42
👆24時間張り付きお馬鹿
 奥山 友達いねーのか
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 02:46:34.14
倭人伝には、
陸行一月は万二千里マイナス一万里
で、二千里だと書いてあるが?

陳寿は引用元とこれを共有している。
なんで、遣隋使と関係有る?

遣隋使では、倭国領は
南北三月行、東西五月行だが
これは、九州島南北三月行と
東西が、奈良の東山までで五月行
その向こうは、毛人域だからだよ。

一月行は、漢書地理志以前から
普通に使われた単位なのだが?
陳寿は東夷伝里の2000里だと書いた。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 04:28:41.32
つまり畿内説は詐欺師
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 04:54:27.56
>>636
裴世清たちは陸路で48日かけて飛鳥へ行ったから、難波から桜井まで陸行1月は考えられるという説明だろ。
宿泊込みだから例にならないし、まれなケースを引用してもダメだよな。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 05:06:41.97
>>644
>1里432メートルで計算すると邪馬台国は東京になります

????7なんで畿内説は残里数2,000里だけ1里432MかけるのかなWw
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 05:53:07.44
>>646
末盧国から伊都国の500里は架空だとかわけのわからない事を供述してますねw
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 06:25:07.33
倭人伝の1里は432メートルでは無い、しかも不弥国から南に水行すれば畿内に着く事はない。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 06:44:53.85
>>646
>残里数2,000里

万二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。   @阿波
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 07:01:20.15
>>650
周防灘から宇佐の駅館川経由で筑後川流域に向かえば水行10日陸行1月ですな、松本清張ルートの逆ルート。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 07:02:07.69
>>647
>末盧国から伊都国の500里は架空だとかわけのわからない事を供述してますねw

現実の距離と合わないなら間違いか作り話だろ?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 07:08:39.98
畿内説が間違いの作り話ですね
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 07:59:53.73
>>649
>行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ
キナイコシ>>1のテンプレがそう計算してるよ(FAQ58参照)
1万2000里から1万里を引かないと2000里は出てこないもんな
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 09:42:31.91
オレは、名門帝国大学出の超一流学者と鼻にかけてるものは、
支那の歴史書は学術書だー。今さら小学生の足し算・引き算が出来るかー、といきり立つ。
何言ってんだよ。三国志は洛陽の暇人の読み物。
日本でも、あらかたそうだろが・・。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 10:40:43.98
>>652
末盧国から伊都国、奴国、不弥国への道
https://i.imgur.com/qL2aXUe.jpeg
1里は約80mで現実の距離と一致するな。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 10:49:51.33
>>642
隋書では「其南海行三月 有𨈭牟羅國」とか三日を三月と誤記してるから
(朝鮮半島南部から済州島までは90kmほど)
「南北三月行 東西五月行」は「南北三日行 東西五日行」の誤記だな。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 10:51:55.51
俺が畿内説を否定する理由
理論的に肯定し得る客観的な証拠が何も無いからだ

推論推論のオンパレードで 証拠の積み重ねがない。
だから畿内説は破綻するであろう
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 10:54:40.94
朝鮮半島南部から済州島までは90kmほどですから1日30kmで3日
五月行とか1日20kmでも3000kmですからあり得ないですよ。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 11:01:19.77
五月行は5ヶ月かかると、どこかに書いてあったのですか?
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 11:02:44.10
>>649
一般の伝記:
伝記とは、記録や文書のこと。または、古来伝わる事柄の記録、伝説、伝承を書き記したもの。
古伝、又は伝とも言い、「烏丸鮮卑東夷伝」、「魏志倭人伝」のように記される。

特定個人の伝記:
特定人物の生涯を時間に沿って記述しながら、その性格や業績などをたどったもの。
こちらも伝と略されることがあり、「人物名○○伝』のように記される。
執筆者自身について書かれたものは、特に自伝、自叙伝という。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 11:03:26.02
>>663
貴方の考える五月行の意味は?
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 15:58:59.02
>>660
>俺が畿内説を否定する理由
>理論的に肯定し得る客観的な証拠が何も無いからだ

無いという客観的な証拠は?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:03:11.18
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:10:25.36
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:13:03.38
畿内説は寺澤薫も詐欺師

「当時の中国人の地理観では、倭地は南北に長く延びた島国と考えられていた(参照)。したがって『魏志』倭人伝の「南」は、実際には「東」と読み換える必要がある。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した「混一疆理歴代国都之図」だとしているが、これは詐欺的手法と言える

https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:29:05.45
寺澤薫は一里の数字に関しては全く言及していない。「帯方郡から邪馬台国にいたる里程は、儒教経典『尚書』『周礼』などの理念的世界観から作られた数字だという」との説を紹介するに止めりのみである。つまり寺澤の考えの中に倭人伝の1里が432メートルとする考えは全く見受けられない。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:35:00.64
>>670
>寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した「混一疆理歴代国都之図」だとしているが

証拠も出さずに詐欺呼ばわりは中傷と言える
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:37:21.01
3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
この発表にはなんとなく不可解な所がある
倭国女王がいた邪馬台国も畿内説では3世紀の初めのころ奈良盆地にあったはずだ
そのころ初期ヤマト王権も奈良盆地にあった、この頃は男王のころで卑弥呼を共立
した地方王権の一つだったので王権は弱かった
しかし同じところにある倭王卑弥呼の邪馬台国の力は、九州まで実質的に支配して
いたのだから弱かったとはおもえない
1世紀の間に倭国諸国の邪馬台国連合がいつのまにか地方のヤマト王権に変わられて
ヤマトの王が邪馬台国の盟主、倭国王になってしまったと言うのが畿内説となる
この発表では倭国、邪馬台国の力が相対的に弱かったしているのが不可解に思える
3世紀中ごろには倭国女王の卑弥呼の墓、箸墓を作るほど強い力を持っていたはずだ
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:40:11.97
>>672
>寺澤薫は一里の数字に関しては全く言及していない。「帯方郡から邪馬台国にいたる里程は、儒教経典『尚書』『周礼』などの理念的世界観から作られた数字だという」との説を紹介するに止めりのみである。つまり寺澤の考えの中に倭人伝の1里が432メートルとする考えは全く見受けられない。

その論理、おかしいな
全く言及していないなら通説通りに考えていると思うのが普通の脳みそ
通説を否定していると思うのは異常者の脳みそ
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:40:20.32
>>673
ならば寺澤薫はひっくり返った日本が3世紀の地理観だと言う事を証明しなければならない。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:42:51.19
>>675
1里432メートルだと東京なので知的異常者はお前だ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:47:34.43
>>674
>3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した
>この発表にはなんとなく不可解な所がある

そう思う人の脳が不可解
倭国に統一された時点で邪馬台国という部族国家は発展的に解消済みなのだから
連合の単なる盟主国だった頃に比べたら
統一国の中央政府には
以前と比較にならない圧倒的な王権が存在しているのは当然だ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:50:32.90
>>676
>ならば寺澤薫はひっくり返った日本が3世紀の地理観だと言う事を証明しなければならない。

そんな要求するには
「寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した『混一疆理歴代国都之図』だとしている」
と言う事を証明しなければならない



墓穴
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:52:29.10
>>677
>1里432メートルだと東京なので知的異常者はお前だ

「1里432メートルだと東京なので」という
証拠は?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 16:56:39.69
行基図が3世紀すでに中国にあった説はNG
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:00:38.91
つまり畿内説は韓国式霊感商法を真似た低能考古学者による歴史捏造事件でしたと
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:02:00.95
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:03:23.81
最悪でも、隣の狗奴国との戦争で
帯方郡の下っ端役人が口出しできるような国
魏の正規軍の旗で国威を自慢できるような
国が、ヤマト朝廷だったら
高句麗との交戦権を南朝で求めた、400年までに
東西55+66国平定、半島95国平定にはならんと思うぞ?

370年には百済王は皇太子を日本の宮廷で養育して
中国の候王となった証の、七支刀を大倭王に献上しているんだが?
中華三国も平定していないような魏に朝貢する、
卑弥呼に半島平定が出来るのか?

協力するなら、公孫氏同様半島利権に遠い呉だろ?
倭の五王で、魏晋が南朝に追われてるのも不思議だがwww
中国王は、ダサい。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:05:29.69
>>679
根拠は寺澤薫の著書

「写真 は、李氏朝鮮の一四〇二年に作成された『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。正しい方位の地図がすでに存在する一五世紀でも、こうした地理観は残っていたようだ。朝鮮半島から最初に到達する九州島が日本列島の北端にあたるという認識は、唐の賈耽の『海内華夷図』(八〇一年)にまでさかのぼることができる[海野、一九九九年]。倭国に対する中国人のこのような地理観は、それ以前はより普遍的だったとみてよいであろう。」

https://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著 
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:07:17.89
>>684
そういうファンタジーおしゃべり要らんから
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:15:29.89
>>685
15世紀にこうだったから、千二百年前の三世紀もそうだったというのは、
ただの個人的主観で、普遍的、合理的、学術的根拠にはならないよねえ。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:20:37.47
>>666
>無いという客観的な証拠は?

纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げてくれないか
蛙、桃、水路、大きな家、、、なんぞは出てこねーぞ。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:22:42.48
混一疆理歴代国都之図をWikiで見ればどのように合成されたのかがわかるよ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:23:13.42
今の地図でこうなんだから、15世紀のその地図は明らかに間違ってるよね。
その明らかに間違った地図を根拠に論理展開するのは社会正義に反し、
そもそも論争にならない。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:24:49.48
>>689
無いという客観的な証拠が出せないんだね
じゃ、君の珍説は却下だ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:26:43.80
>>680

FAQ58からだ
2000里に432Mかけて直線距離なら福岡から東京だ

まあFAQ自体が阿保がつくったから
まず、郡から福岡までの1万里(×432M)だと福岡飛び越しちゃうのも知らんバカのテンプレだがな。

算数もでき奴のテンプレ  わはは
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:27:07.99
>>692
ないと思っているから「無い」と言っとるんやないの?
君があると思っているなら、その事例を挙げればいいだけの話やろ?
あるんやろ?ないの?
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:27:17.08
>>691
>その明らかに間違った地図を根拠に論理展開するのは社会正義に反し、

「寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した『混一疆理歴代国都之図』だとしている」
と言う事を証明も証明しないで中傷するのは
社会正義に反し、そもそも論争にならないな
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:29:07.25
>>692
ほら 上げられねーだろ
纏向から数多く 証拠を出せないんだろ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:29:58.60
>>685
>根拠は寺澤薫の著書

「寺澤は南を東と読み換える根拠を、朝鮮人が行基図の方角を間違えて合成した『混一疆理歴代国都之図』だとしている」
という証明が出来ていないので、失格
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:30:42.06
朝鮮ファンタジーか?
邪馬台国論争が守護神だな。

古代韓=百済新羅は
畿内ヤマト朝廷の成立が無ければ成立しない。

卑弥呼は、魏に朝貢した。
ヤマト朝廷は、卑弥呼国を平定しなければ
鉄の国内生産技術導入や牛馬を移入できなかった。

卑弥呼王系統では
日本の300年代から350年には
幽州刺史楽浪候となった、
高句麗戦は成立しない。

公孫氏と韓王朝を廃絶した魏は、卑弥呼以外
間違い無く日本国の敵国だった訳だが、

400年以降は、南朝になったので
倭の五王の半島利権交渉が成立した。

歴史の話だぞ? 考古学が曲げられるのか?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:31:08.69
>>696
>ほら 上げられねーだろ
>纏向から数多く 証拠を出せないんだろ


という証拠は?
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:31:53.58
>>692
君さ 答えられないからといって逆質に走ってるだけだよ
テンプレの冒頭を読みなさい
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:33:12.20
Wikiから転載

混一疆理歴代国都之図

龍谷大学図と本光寺図には、地図の下段に権近による奥付がある。『陽村先生文集』(陽村は権近の別名)にも同様の記録がある。権近によると、疆理図作成の際に4つの地図を参考にしている。

李沢民による声教広被図(世界地図)
清浚による混一疆理図
無名の朝鮮半島地図
無名の日本地図。行基図と考えられている
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:33:16.19
>>694
>ないと思っているから「無い」と言っとるんやないの?

証拠も無いのに言ってるの?

証拠を挙げればいいだけの話やろ?
ないの?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:34:04.98
>>699
君さ 答えられないからといって逆質に走ってるだけだよ
テンプレの冒頭を読みなさい
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:34:23.02
畿内説がバカだと言う証拠はたくさんあるな
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:35:50.61
>>702

君さ 答えられないからといって逆質に走ってるだけだよ
テンプレの冒頭を読みなさい
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:37:59.36
>>1キナイコシが馬鹿だと言う証拠はいっぱい集まったなWW

小出しにしようっとWww
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:39:22.37
>>702
不勉強で申し訳ないんだけど、こっちはないと思っているんだから、なんでもいいから例を挙げてよ
そしたら納得するし
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:39:57.04
Q 畿内説って、朝鮮人のプロパガンダでしょ?
A 古代韓みたいな歴史の話は、考古学が真実ですwww

ドラマかよ?
歴史の話なんだが?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:41:43.11
後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書いてある
この後継が卑弥呼女王である

魏志には邪馬台国は7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかるが、倭国大乱により衰退し女王を共立する事で再建を試みたものと考えられる
他の史書によれば卑弥呼時代に倭国で飢饉が発生したとも記録されている
さらに3世紀中頃には狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退し、滅びた国とも考えられる

畿内にはこれら受難の時代を示す遺跡などの痕跡は無い
邪馬台国があたかも3世紀に突如として現れ、栄えた国であるかのように印象操作している畿内説は霊感商法詐欺なのでご注意ください
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:45:42.47
>>700
>君さ 答えられないからといって逆質に走ってるだけだよ

どこまでおつむが弱いやら

ーーーーーーーーーー
660日本@名無史さん 2024/02/27(火) 10:51:55.51
俺が畿内説を否定する理由
理論的に肯定し得る客観的な証拠が何も無いからだ
 ーーー
 666日本@名無史さん 2024/02/27(火) 15:58:59.02
 無いという客観的な証拠は?
  ーーー
  689日本@名無史さん 2024/02/27(火) 17:20:37.47
  纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げてくれないか

w
「俺が畿内説を否定する」君は、証拠が答えられないから逆質に走ってるだけだよ

九州説は墓穴を掘るのが好きだね
おつむが弱すぎだ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:48:13.06
>>707
>不勉強で申し訳ないんだけど、こっちはないと思っているんだから、

思ってるだけ?
無いって客観的な証拠が何も無いのに
「理論的に肯定し得る客観的な証拠が何も無い」って言ったの?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:50:40.21
考古学では、
明治天皇がアマテラスである可能性が有る。
は、無理だがwww

三種の神器の鏡は
平原鏡と時間差はどれくらいだ?

計れない という言い訳が学問に有るのか?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:52:42.27
>>709
>後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書いてある

それ、范曄が陳寿の倭人伝をパクったときに、伊都国に代々王がいると書いてあったとこを読み間違えただけだよね
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:53:43.97
沖縄語は日本語と弥生末期から古墳時代に分岐したという。
その後沖縄語話者は数百年間九州南部に逼塞し
十世紀前後に南九州から沖縄諸島に移動侵入したという。

この分岐というのがよく分からないが、恐らく人の移動が制限されて
両者の交流が少なくなり、ある程度の期間が経ち、
それぞれの言葉が独自に変化していった結果、
別の言語と言えるほどに隔たりが大きくなったということなのだろう。

なぜそのようなことが起きたのか
思うに、九州島と本州を境にして、別の政治体があったのではないかな。
北朝鮮と韓国のように、ある程度拮抗する勢力が一定の期間(数十年?)並立し、
敵対的とまではいえないが、人の移動交流を妨げるような関係だったのかと思う。

その後本州の勢力が北部九州に侵入して土蜘蛛などと言われた琉球人の祖先は
九州南部に押し込められたのだろう。

分岐した年代がちょうどヒメコやドヨの時代に被るので興味深いですね。邪馬台国にからめて沖縄の言葉や文化、信仰を調べるにも楽しいかもしれません。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:54:21.72
>>712
いや、だからさw
あるなら君が例を挙げればいいだけの話やろw
いくつか例を挙げてくれればこっちも納得するし

こっちは本当に不勉強で、奥山先生には申し訳ないんだけどさ
是非先生のご高説を賜りたいんだけどね
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:57:42.28
>>712
無いものをどうやって示せるんだよ

だから あると思う人が あるものを出せばみな納得するじゃん
¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げてくれないか
蛙、桃、水路、大きな家、、、なんぞは出てこねーぞ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 17:58:47.19
>>713
>三種の神器の鏡は
>平原鏡と時間差はどれくらいだ?
>計れない という言い訳が学問に有るのか?

三種の神器の鏡というのが正体不明だから
「計れない」と答えるのが学問だ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:00:42.21
>>714
魏志
舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
丗有王 皆統屬女王國
南至邪馬壹國 女王之所都

後漢書
凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國

後漢書には魏志にない情報が入ってる
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:02:21.22
>>717
>無いものをどうやって示せるんだよ

つまり
「理論的に肯定し得る客観的な証拠が何も無い」
という発言が証明不能なたわごとってこと

この発言が「悪魔の証明」の典型で、言うと自分が地獄に落ちる
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:02:53.95
文献では九州の女酋長の話なんだが?
日本の大倭王になるであろう王が、
魏と国交して、日本の王朝作るのに
何か利益有るか?

魏と同盟したら、
常識と言うか結果だけど
すぐ滅びるだろ?

おまえら、
ホントに歴史の話してる?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:03:37.33
>>720
証拠出せばいいだけでは
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:04:34.43
>>720
君さ 答えられないからといって なに言ってんの
テンプレの冒頭を読みなさい
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:05:25.46
おーーーい
奥山  グダまかないで
ハッケヨイ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:06:16.73
>>712
こっちは魏志倭人伝読んで、さらに纏向遺跡から出土したものを見比べてみても、合致するものは特にないなと思っているわけよ
証拠出せと言われても、こっちで魏志倭人伝読んだ感想だって言われりゃそれまでだけどさ

こっちは無いと思っているけど、君はそうじゃないと思っている
思うのは勝手だろうけど、君が「ある」というならその例をあげてほしいんだよ
纏向遺跡のことに精通している君ならそのくらいのことできるやろ?
こっちは不勉強なせいか、実際ないのか知らんけど、どう考えてもあるようには思えんものでな
君が例を示せばそれで済む話
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:09:16.47
結論

奥山氏および畿内説は

纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げられません
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:09:26.60
>>719
>後漢書には魏志にない情報が入ってる

つまり范曄は軽薄でいいかげんな性格を文才で補っていて、パクリがバレないよう技巧を凝らした
そういう性格は常々皇帝から注意を受けていたが、案の定軽率な行為が元で死刑になり、執筆中に後漢書は完成しなかった
処刑場で母親や妻に罵られながら死んだという
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:10:33.89
>>727
>奥山氏および畿内説は
>纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げられません

証拠は?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:10:47.82
>>712
結局、何も例を出せないの?
君が不勉強なだけ?
それとも実際にないの?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:12:58.95
歴史の事実は日本は半島を喰って
中華の侵攻には反発し続けている。

何か、歴史認識が間違ってるか?
中凶は半島や台湾を喰うのか?

属国より独立国とか日本領の方が良いと思うぞ?
倭人伝論争って、半島問題だったんだな。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:13:57.36
>>725
>こっちは無いと思っているけど、君はそうじゃないと思っている
>思うのは勝手だろうけど、君が「ある」というならその例をあげてほしいんだよ

きみは「ない」と断定したね?
君が「ない」と言ったんだから、その証明をしなさいよ
逆質問で誤魔化さないでさ
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:14:57.93
>>730
>結局、何も例を出せないの?

出せないって決めつける理由は?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:18:21.12
>>732
未来の出土物についてどうこう言っとるんやないぞ?
今現在出土しているものについてだけ言っとるんやけどね

今現在出土しているものについて、こっちは魏志倭人伝の記述に合致するものが無いと思っているけど、君はあると思っているんだろ?
あるというなら例を示してくれと言っているだけやぞ?
そんなに難しいこと要求しているか?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:18:22.95
>>728
たしかに魏志からコピペしてくる時に魔改造して情報がねじ曲がってる部分はあるけども(ex.東に海を渡ると拘奴国があり女王に属さない)魏志にない情報は他の資料を参照してるのではないか
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:19:51.00
邪馬台国時代の倭国は鉄器時代だった

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:19:59.40
>>733
理由は君が例を挙げようとしないから
それ以外に何も無い

例を出せるなら例を挙げればいいだけ
別になんてことのない簡単なことだろ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:21:07.09
>>734
>今現在出土しているものについて、こっちは魏志倭人伝の記述に合致するものが無いと思っているけど、

だからその証明しなさいと言われてるわけだが?
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:21:52.09
>>736
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

論理が飛躍してるよ
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:22:24.91
悪魔の証明を理解できるだけの脳みそが無いらしい
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:22:53.18
>>738
魏志倭人伝読んで、さらに纏向遺跡から出土したものを見比べてみて、共通するものがないと思っているということ
要するにこれは個人の感想だよ
あるというなら例を挙げてくれとお願いしているんですが
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:23:09.92
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:23:18.52
【最新】発掘調査結果報告(2024年2月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:24:24.23
>>730
>結局、何も例を出せないの?

九州説は
問い詰められて窮すると
後から逆質問して誤魔化す悪習をやめろ

悪臭が漂うから
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:25:41.64
>>744
何か例をあげればすぐ終わる話なんですけどね
本当にこっちは不勉強で申し訳ない
教えていただきたいんですよね
お願いします
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:26:01.87
>>741
>あるというなら例を挙げてくれとお願いしているんですが

これまで何人もの人が答えたのに無視して同じ質問を続ける理由は?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:27:52.03
>>746
君が例を出せば一瞬で終わる問答だよ
早く出せばいいのに
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:30:10.98
>>740
>悪魔の証明を理解できるだけの脳みそが無いらしい

悪魔の証明ってなんだか説明してみな
間違ってるから九州説の無学さが晒されて見ものだぞ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:30:13.81
>>743のような纏向に固執する畿内説ってマジで詐欺じゃないかって言われはじめてるね
確かに計画的なら詐欺だよこれ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:30:41.90
>>729
君さ 答えられないからといって逆質に走ってるだけだよ
テンプレの冒頭を読みなさい
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:31:47.11
>>747は嘘つきだね
後から逆質問して逃げようとする
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:33:16.74
逃げまくる 奥山
何も答えられず 逆噴射
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:33:55.98
>>746
こっちが不勉強であることは十分自覚していますから、奥山先生にきちんと教えていただきたいんですわ
早く例を挙げてよ
さっさとやらんから、こんなこと書かれてしまうんやろ?


727 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2024/02/27(火) 18:09:16.47
結論
奥山氏および畿内説は
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く上げられません
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:34:20.13
おーーい
奥山
ハッケヨイ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:34:37.74
>>750
事実と真逆
答えられないから逆質に走ってるのが九州説だという証拠は>>710
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:36:37.40
>>753
>さっさとやらんから、こんなこと書かれてしまうんやろ?

それ、九州説が悪質な嘘つきだって証拠だから乱発していいよ
九州説の恥だもの
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:36:51.84
>>751
いやいやいや、例を出してくれってお願いしているんですけどね
本当に知りたいんですよ
お願いしますから教えてください、奥山先生
魏志倭人伝の記述と合致する出土物を僕に教えてください
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:38:00.69
>>753
これまで何人もの人が答えたのに無視して、ずっと同じ質問を続ける理由は?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:38:29.61
>>748
無いことの証明はできないが
あることの証明は「悪魔の証明」に該当しない
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:39:01.44
>>757
奥山は見ちゃいねえよ
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:40:12.38
>>758
答えてくれないから質問が続いているんですけどね
お願いしますから教えてください
先生に何か例を挙げていただきたいんですよ
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:42:58.87
>>759
「悪魔の証明」ってなんだか説明できない九州説の無学
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:43:48.71
>>761
>答えてくれないから質問が続いているんですけどね

という証拠は?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:45:12.40
>>755
ほら 答えられない
根負けするのを待ってるだけじゃん

無いと言ってる人に証拠示せと言っても無いで終わりじゃん

これ常識

例えば車を持ってない人に 証拠を出せと言っても
出す車がないからしょうがないじゃん

あると思ってる人が そいつの車見つけ出して「そらあるだろ」と言うしかないじゃん
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:45:21.77
>>762
説明してみ?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:45:55.62
>>763
先生が何か一つでもいいから例を挙げれば済む話ですよ?
そんなに難しいことお願いしていますか?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:46:18.37
>>755
「悪魔の証明」ってなんだか説明できない九州説の無学
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:47:05.28
>>767
九州説は無学で嘘つき
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:47:14.71
これマジで悪魔の証明を理解する脳みそ持ってないだろ
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:50:03.45
「神がいることを証明しろ」と言われたって、そんなものは証明しようがないけど、
「纏向遺跡の出土物に魏志倭人伝の記述と一致するものがあるか?」という質問に対して答えることがどうしてできないのでしょうか?
特段に難しい質問しているわけではないですよ?
例をいくつか挙げればそれで終わりなんですから
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:50:21.70
九州説と倭人伝の決定的な相違
九州に卑弥呼の都がない
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:51:11.61
今のところ何も見つかっていないなら「ない」って答えればいいだけだし、あるならその例を挙げてくれればいいだけ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:51:51.83
>>711
>「神がいることを証明しろ」と言われたって、そんなものは証明しようがないけど、

それで神がいると言い張り続けるのが九州説な
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:53:18.71
>>774
そうやって話を逸さなくてもいいので、何か例を挙げてくださいよ
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:53:50.32
>>770
>これマジで悪魔の証明を理解する脳みそ持ってないだろ

九州説は脳がないと証明された
いくら言われても悪魔の証明とは何か説明できないから
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:54:28.33
こっちが不勉強なことはもう本当に自覚があるので、纏向遺跡のことに精通しておられる立派な先生方に是非教えていただきたいです
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:56:18.18
ネーーーーーーマダーーーー

纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物の列記

マダーーー
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 18:59:29.56
>>778
この書き込みが答えってこと?

870 1 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2023/11/19(日) 21:42:28.50
>>866
3世紀前半の祭祀施設多数
環濠集落なし
卜骨あり
国産水銀朱あり
列島最大の首長居館あり
鬼道と関係あり
大陸との交流あり
魏鏡あり
直径百歩の墓あり
鉄鏃多数
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:01:09.83
>>778
それだけ?なの?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:03:26.59
>>780

巫女伝人と兵や官職の人の住居跡ないのーー
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:04:36.54
>>780
楼観 城柵 ないのーーー
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:05:37.58
>>678
倭王卑弥呼の邪馬台国を大和の王が簒奪したのではないか
それで天孫降臨の大和朝廷が大王卑弥呼のことを記紀に書
けるはずがない
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:07:12.43
>>780

>直径百歩の墓あり
・・・・ 円墳はありませんよ
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:08:17.70
>>782
どうやって巫女や官職の人の住居跡だって見分けるんだ?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:08:57.89
記紀に卑弥呼の存在を匂わすような記事が皆無なのは畿内説にとって致命的よな。親魏倭王に冊封された大事件なのに、全く関係する記事がないのはどうにも不自然よな。普通書くわな、何かしら。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:09:18.93
>>780
>鬼道と関係あり・・・これ推測じゃないの??
           桃は食用かもね
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:09:46.59
>>785
>・・・・ 円墳はありませんよ

倭人伝に円墳なんて出てこないな
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:11:24.67
>>778
>魏鏡あり・・・・これ畿内説の推測じゃないの
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:12:49.76
>>787
皆無だって証拠は?
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:13:10.34
>>780
>大陸との交流あり

ないやんw
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:15:54.69
悪魔の証明が理解できない九州脳
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:16:27.72
>>789
>倭人伝に円墳なんて出てこないな

「径百歩の塚」だから円墳かそれに近い形のはずだけど
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:18:35.71
卑弥呼が倭王に共立されたってのも倭人世界での大事件だわな。
倭国乱が終結したのだから。
それについても記紀に記載がないんだな、一つとしてないんだわ。
その理由を教えてくれ。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:19:44.84
>>795
別の国だからでしょうね
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:22:07.80
壊れてるやん
いやとっくの昔に壊れてたのか?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:22:09.09
>>778
3世紀前半の祭祀施設多数  →△ 多数と倭人伝に記述なし
環濠集落なし →? 兵 巫女 官職 などの住居は?
卜骨あり → 〇
国産水銀朱あり→一応〇
列島最大の首長居館あり→大きい館は 倭人伝に記述なし
鬼道と関係あり→ △ 根拠は桃?カエル??倭人伝に記述なし
大陸との交流あり △ 少ないが一応
魏鏡あり → △ まだ結論が出ていない 国産?
直径百歩の墓あり ✖ 円墳は無い
鉄鏃多数→△ 少ないが一応△

あまり 合致する物ないね
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:24:44.89
邪馬台国は倉敷にあった。
なぜなら桃の種が一万個近く発掘されている。
これは纏向の三倍である。
卑弥呼は倉敷にいたのである。
そして奈良の先住民(狗奴国)を滅ぼし東遷したのである。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:25:20.90
九州の出土物に魏志倭人伝の記述と一致するものがあるか?
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:26:32.14
>>799
>なぜなら桃の種が一万個近く発掘されている。

いくつの遺跡から?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:28:49.97
邪馬台国に絞った記述はない。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:30:01.96
>>786
>どうやって巫女や官職の人の住居跡だって見分けるんだ?

見分ける必要ないよ 数多くあればいいんじゃない
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:33:11.62
上東遺跡から一万個近い桃の種が出ているんだ。
だから卑弥呼は倉敷にいたんだ。
弟の桃太郎を派遣して纏向の鬼を退治したんだ。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:36:29.64
>>798
3世紀前半の祭祀施設多数
 卑弥呼が鬼道で能惑衆だから多数ないと不自然
環濠集落なし
 六つの居住区が発見済みだし近隣にも集落あり
列島最大の首長居館あり
 女王の館なのにちっこいとか倭人伝に記述なし
鬼道と関係あり
 桃の祭祀痕跡、桃園あり
 西王母と桃の関係は周知事項
大陸との交流あり
 アカネやバジル花粉は決定的
魏鏡あり
 画文帯が確定
直径百歩の墓あり
 円墳である必要無い
鉄鏃多数
 あり
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:38:42.07
>>803
見分ける必要ないよ 数多くあればいいんじゃない

必要あるな
農民ばかりいても不可だから
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:39:02.60
>>778
奥山ごくろうさんだけど、、、倭人伝記述にないものもあるし少ないね

やはり、、纏向は倭人記述の物証にが少ない 

少ない物証
  +
倭人伝に記述ない水路、桃、土器、、、

推理推測 の 積み重ねだね 
多くの住居跡など致命傷となる物証もない  楼観 城柵・・・・・ないものも多い
これで王都と断言するのは学者としていかがなもんかな???
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:41:10.57
>>795
>それについても記紀に記載がないんだな、一つとしてないんだわ。

記紀が目指した天皇の神格化に邪魔でしょ?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:47:29.50
>>807
少ないっていう客観的証拠は?
6つも居住区が判明してるのに「多くの住居跡」が無いって根拠は?
楼観や城柵がないって証拠は?

>倭人伝に記述ない水路、桃、土器、、、

水路は都城につきものだが、わざわざ書かねばならないって理由は?
鬼道といえば桃があって何の不自然もないし、土器のない集落があるか?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:48:34.96
>>804
>上東遺跡から一万個近い桃の種が出ているんだ。

いくつの遺構から?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:50:27.45
>>794
>「径百歩の塚」だから円墳かそれに近い形のはずだけど

前方後円墳は突出部付きの円墳だから「それに近い形」
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:50:54.27
>>807
そうですね
纏向は初期ヤマト王権の王都も?ですね。
初期ヤマト王権の施設が良いかも(祭祀場とか古墳造営基地とか)
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:56:27.63
>>811
近い形には見えないけどなあ…
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 19:58:31.66
>812
客観的な根拠は?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:01:28.46
>>809
水路は倭人伝に記述ないし 
灌漑用 古墳造営の運搬用とも考えられる
また 防衛上としては倭人伝記述では城柵

鬼道と桃
桃が当時 日本において祭祀用に使われたという証拠がない
中国では供え物としてとか言われるが 当時 中国の風習=日本の風習と考えるのは??
また、伊勢遺跡に祭祀跡はあるが桃は発見されていない。吉備、纏向など限られているの特段祭祀に使われたと言うには??食用と考えても不思議ではない。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:04:29.56
>>805
推理推測はできるが、確証となる遺物ではない
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:20:19.50
>>809
>桃が当時 日本において祭祀用に使われたという証拠がない

纒向辻土壙4、六大A遺跡、礒野北遺跡などの祭祀遺構で出土していて、これらは祭祀用に使われたという証拠
SK-3001でも動植物遺存体以外は祭祀用具ばかり
桃も果肉付着個体や未成熟個体が含まれ、明らかにお供え
礒野北遺跡では櫛と一緒に出土し、黄泉醜女神話との関連が窺われる
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:22:16.86
>>809
>楼観や城柵がないって証拠は?

これから出るかもしれんが今のところはないやろ
未来のことは誰にも分からん
それとも楼観、城柵かも、って言われているものがあるのか?
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:24:38.02
>>819
>これから出るかもしれんが今のところはないやろ

ないって客観的証拠は?

w
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:24:39.93
>>816
九州説は理由言わずの否定ばっかりやってると第三者から見放されるよ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:26:54.30
>>818
>祭祀遺構で出土していて、

祭祀遺構と断言できる証拠は?
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:30:24.94
>>819
唐古・鍵遺跡からは楼閣を描いた土器が出土した
楼閣を見て描いたのだろうから唐古・鍵遺跡には楼閣があった
纏向遺跡は唐子鍵遺跡の近くで規模が大きい
纏向遺跡にも楼閣が作られたと考えるのは至極至当
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:30:26.38
>>819は今、博多湾岸や筑紫平野に邪馬台国があるという説を否定したわけだが
ご気分は?
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:32:25.41
>>818
>祭祀用具ばかり

祭祀用具をあげてください
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:33:43.55
>>822
>祭祀遺構と断言できる証拠は?

祭祀の行われた跡だから
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:36:01.70
>>820
君が奥山と呼ばれてる人でしょうね。
良い流れでレスが進み勉強になってますので駄弁はやめて静かにしていただけませんか。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:39:48.11
お病気の人はテンプレを肯定すると誰でも奥山と呼ぶようだ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:40:53.61
>>826
祭祀が行われた跡だという証拠なのですが??
それが 桃とかだとループしてしまいませんか?
祭祀跡から桃が見つかった⇔桃が出たから祭祀跡

??解説願えませんか?
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:43:33.38
>>823
推測ですよね
現物が出るのを待ちましょう
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:43:43.62
>>825
>祭祀用具をあげてください

各種ミニチュア土器、弓と木剣、木製槽など
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:46:43.18
>>830
九州でも出ないだろ
九州説否定します?
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:52:39.65
>>829
>それが 桃とかだとループしてしまいませんか?

していない
湧水点や流路などの水辺で実用品でない精製土器や実用品を模倣した木器を使って何らかの儀式を行ない、使用後は破砕するというパターンが観察されている遺構
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:52:41.19
>>831
???
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:55:38.99
>>833
ありがとうございます
ググってみます
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 20:58:26.76
纏向は
邪馬台国=初期ヤマト王権の
伊勢神宮みたいな所と俺がいった通りに話が進んでるね
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:04:41.70
そうかぁ
モモが好きだから
やまととととももそそ姫なのか
いや、逆か
ももそ姫が好んだからモモと読むのかぁ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:07:37.44
>>836
伊勢
それが男性社会の中で退化した祭祀女王の成れの果ての棲み家
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:26:09.43
>>810
804ではないが岡山で発掘すると桃核が普通に出るから当たり前と思ってたって見たな
纏向でまとまって出たときにマスコミが卑弥呼の祭祀跡とか騒ぐから取っておいたやつの個数を数えたって
記録は細かく取ってないだろうと思う
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:37:46.65
つまり一回の祭祀で最多の桃は纒向
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:47:07.15
やはり

纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記できないのが現実。
推理推測が先行してる遺跡と言わざるを得ない。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:54:29.52
>>842
私もそう思います。
纏向で祭祀が行われたとすれば1回かもしれません。
桃核の炭素年代もほぼ同じ数値を示しており数年に何度も祭祀を行われたは言いきれません。
大型建物も柱穴の深さもなく太さもさほど大きくなく、簡易的に建てられた可能性があります。
箸墓とは断定できませんが、被葬者の葬儀に使われた簡易的な場所が大型建物付近だとも思います。

勝手な想像です
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:56:41.65
成る程。
邪馬台国畿内説は、💩だったなだな。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:57:14.15
成る程。
邪馬台国畿内説は、💩だったのだな。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 21:59:31.14
>>846
貴方は、投稿文を、校正しましたね。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 22:07:21.23
>>843
>纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記できないのが現実。

そんな現実があるという客観的証拠は?
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 22:09:51.62
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0850琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/27(火) 22:35:17.76
💩だろうがなんだろうが無駄だよ。九州は朴信仰の国だわ。紫のタマゴを有り難がる人々の地だわ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 22:42:18.41
倭国大乱後、高地性集落は姿を消す、その分布は弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている
消滅した理由は卑弥呼の即位で倭国が平和を取り戻したから

また魏志倭人伝に「卑弥呼の冢を大きく作る。径は百余歩なり」とあるが歩は中国の長さの単位で魏では1.4472mほど
100余歩は145mほどとなる
箸墓古墳の後円部は約150m
魏志倭人伝の描写が当てはまる

この2点だけで卑弥呼の都がどこだったかについては動かしがたい
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 22:45:38.47
>>820
すでにあるなら教えてください
自分は知らん
もちろん将来出てくる可能性がゼロとは言わないが、未来のことは誰にもわからない
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 22:56:48.58
>>848は纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記できるってこと?!

ぜひ知りたい
妄想(桃の種が出土したから鬼道やってたーとか、ベニバナの花粉が出たから大陸と深い交流があったーとか)
は要らんから、客観的な証拠になる遺物を書いてみてよ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:01:56.13
>>848
じゃあ数多く列挙してみなよ
みんな黙ると思うよ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:03:02.21
>>853
>>851を見ること
倭国大乱も卑弥呼の冢も魏志倭人伝に書かれている事柄
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:08:26.78
>>855
「径百余歩」だけは合ってて
平和になったんだから卑弥呼の即位のおかげに違いないってか

で、他は合ってないのね
0858日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:10:28.46
>>856
「他」とは?
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:10:51.28
いや、列挙しろよ
サイズが近いからっていうけど、古代の中国人にとって前方後円墳は珍しいじゃん
後ろの円のサイズだけ記載して前の方は完全スルーってw
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:12:28.64
>>857
歴史的な紛争があった後に倭国がたどり着いた平和

魏志倭人伝で倭種と分類しているのは四国のこと
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:16:49.71
>>859
張政たち中国の役人にとって冢は丸く土を盛った墓
前方部は供物をささげ祈りをささげる場所と受け取ったのだろう
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:37:19.40
花札だよな
桜に幕
幕は幕府であり将軍のことだな
兵を束ねる者

桜の語源は稲作を表すサに神がいる場所クラがついた
或いは木花咲耶姫に関係するとか色々説がある
木花咲耶姫は富士山から桜の種を蒔いたという
富士山の麓に水田が誕生するのは弥生時代後期
区画化された登呂遺跡が誕生する
登呂遺跡からは摂津の玉津田中遺跡の鳥形と同じ形の鳥形が見つかっている
摂津はかつて猪名県だった地であるが、猪名川下流など弥生時代中期まで灌漑を伴う稲作で栄えていた集落は弥生時代後期になると急に規模を縮小する
摂津の稲作民は新たに富士山の麓の開拓に乗り出したんじゃなかろうか?
摂津はアマテラスの荒魂が祀られている地だな
アマは甘いのアマで穀物を表す説もある
駿河国風土記には神女降臨神話が残り、松に掛けてあった軽い衣が漁師に盗まれ2人は夫婦になり衣を取り返し天に上がったという
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:40:40.19
>>862
祭壇に使われたと仮定して、それを記録にしないって
それこそ倭人独特の風習だろうに魏の使者は無能だな
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:44:35.06
畿内説ありきの先入観で主張された過去の学説は近年続々と否定されている
例えば高地性集落と倭国大乱の関係についても時期の違いから現在は否定的に見るのが通説

例えば以下の通り

高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落。人が住むには不向きな山上や山腹に営まれた集落は、武器類の出土などから邪馬台国の女王・卑弥呼の共立につながったとされる「倭国大乱」と関連づける見方があった。が、近年の科学測定などにより、出現時期はほとんどが倭国大乱以前だった可能性が高まり、歴史像の再考を迫られている。」

広島県教育事業団 埋蔵文化財調査室の資料よりwww.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2014/koukogakukouza.pdf
「発掘調査の増加による集落遺跡の性格の分析や土器編年の進展などにより,高地性集落が倭国大乱と関連した軍事的意味合いを持つ集落とはいえなくなっている。」

香川大学瀬戸内圏研究センターのHPより
https://www.kagawa-u.ac.jp/setouchi/index-20101204-3.html
「もっと端的に申しますと、この軍事基地、紫雲出山の遺跡は、善通寺の勢力が作ったのではないかということです。このように、瀬戸内海の高地性集落は理解されています。ですから、紫雲出山遺跡は、善通寺の勢力によって、倭国大乱に関連して造られた基地であるという可能性です。ところが、近年の意見で、心経山遺跡や紫雲出山遺跡があった弥生時代の中期は、魏志倭人伝より前の時代で、大乱にはそもそも時期的には合わないということになります。もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。そのことから、戦争、倭国大乱による軍事施設として設けられたものでないのではということになってきています。」
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:45:05.70
>>863
区画化された水田がある
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:48:59.00
>>864
前方後円墳という概念が無かったと思う
彼らにとって冢は丸く土を盛った墓
しかし、その規模には度肝を抜かされたと思う
「大作冢 徑百餘歩」に雰囲気が現れている
その記録を読んだ魏の人々も驚いたはずだ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:50:55.07
平地で稲作集落
米が取れればもう狩猟採集の為に動き回る必要性が下がり、
山の狩猟採集民も定住を始めたのではないかな
狩猟採集の縄張りで稲作を認める代わりに収穫物を分け合うとかしてたかもね
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:51:57.06
>>865
卑弥呼の即位を境に高地性集落が放棄された点が重要
それまで散発的にあったとしても、最終的に卑弥呼の即位によってそれが消滅した
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:52:22.95
神さまに農作物を捧げる、現在の信仰の形の始まり
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:54:00.52
天女の羽衣は松や岩にかけてある
この原則を破ったら世は乱れるわな
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/27(火) 23:54:10.39
>>869
それは君しか主張してない珍説
まあ君がそれを信じるのは自由だが他人は誰も納得しない
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:00:21.37
君引用のような主張も出てきているが、wikipediaの記事を紹介すると
>集落の分布状況から、弥生中期 - 後期にかけて、北部九州 - 瀬戸内沿岸 - 畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。つまり、畿内を中心とした地域で進められていた統合・連合への動きであった。豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。さらに、弥生中期 - 後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方[4]がある。
私の珍説などではなく広く一般に認められている説
これを知らないとしたら君は学習が足りない
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:01:19.15
>>873>>872へのレス
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:06:25.57
>>873
Wikipediaが古い見方を紹介しているだけだろう

あと珍説というのは卑弥呼の即位によって高地性集落が消滅したという君の意見のことだ
西日本の大半の地域では卑弥呼の時代より前に高地性集落は消滅しているし、越後のように卑弥呼死後も高地性集落が存在した地域もあり、地域によってマチマチで全体としてはどう考えても卑弥呼など全く無関係だ
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:10:21.87
今時まともな学者で高地性集落を倭国大乱の証拠だと考える人間など皆無だ
考古学的知見の蓄積が浅かった昭和の時代じゃあるまいし
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:11:30.85
寺沢先生曰く
「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:12:38.15
高地性集落は、その始まりも終わりも倭国大乱と無関係過ぎる
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:13:08.61
>>875
高地性集落は誰かが書いたように農業の面からは不利
それが必要だったのは戦乱の世だったから
卑弥呼の即位により、戦乱の世が終わり高地性集落の役割が終わった
吉野ケ里遺跡も卑弥呼の即位に合わせて堀が埋められ放棄されいった
人々はより低地の農耕に適する土地に移動した
このように、歴史は卑弥呼の即位によって動いていった
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:16:27.25
九州説諸君は高地性集落と倭国大乱をどう解釈するのか、まずそれを述べるべき
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:18:28.12
稲作は貴重な水源を奪い水辺の貴重な狩場を奪うことを忘れてはいけない
水源と動物が集まる水辺は狩猟採集民の命の源
稲作を行うということは先住民にそれなりの対価を払う必要がある
低地の稲作民と高地で定住を始めた狩猟採集民
新たな共存の形だろうな
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:21:36.60
「大作冢」

 この語は「三国志」では呉書・孫和何姫伝の裴松之注に引く「江表伝」に用例がみえる。孫皓が張布の娘を美人として寵愛し、この夫人が死んだ時、孫皓は悲しみと思慕から後苑に大きな冢を築いた。工人たちに命じて柏の木で人形を作らせ、それらを冢の中に入れて墓を守る護衛兵とし、金銀や珍宝を夫人と一緒に葬ったが、その数は莫大なものであった。葬礼が終わった後、孫皓は後宮に引きこもって喪に服し、半年も姿を見せなかったので、都の人々は葬礼が大いに豪奢であったため、みな孫皓が死んで、このように葬られたのだといった、とある。
 ここでは「大作冢」が厚葬の象徴として用いられており、その葬礼が呉の皇帝である孫皓の葬礼と見紛うほどのものであったことを示している。このような用例と用法を敷衍し、しばしば参照されるように経書などにみえる墳丘の高低を厚葬の規範とするならば、卑弥呼の墓についての「大作冢」という語の用い方も厚葬を指すものとみてよかろう。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0046/OS00460R071.pdf

   
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:25:14.23
讃岐は貴重な刃物の元のサヌカイトの産地五色台があるところだ

奈良湖の水を河内側に流すとそこには稲作に適した湿地が誕生する
弥生時代後期、橿原には龍の絵画土器、鳥装のシャーマンの絵画土器、高地性集落が誕生する
大阪側の柏原には奈良から降りてきた龍神が留まり大和川の治水を行った伝承が残り大和川の川辺には弥生時代後期の大集落跡が見つかっている
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:28:45.26
黒田なり黒田なり黒い龍神が手に入れた水田なり
山の狩猟採集民、稲作技術を持たないが体が大きく力が強い龍の民、稲作民が協力したのが弥生時代後期である
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:35:13.00
高地性集落の民、樫の鳥形が見つかった松江の西川津遺跡、奈良で鯰に打ち勝った龍の絵画土器の人々
高地性集落、龍と鳥が揃う橿原の地はやっぱりヤマト政権誕生のシンボルの地に相応しい
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:47:06.82
橿原市の弥生時代 詳細
https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1058/gyomu/3/2/5/3815.html
>上ノ山遺跡、忌部山遺跡は弥生時代後期の高地性集落として知られていますが、なぜ平坦地に比べわざわざ不便な高い場所に住んだのかわかっていません。これらの遺跡は高い場所に位置し周辺の見晴らしがきくなどの特徴を持っています。弥生時代後期の日本は、中国の書物を見ると国内が戦乱の最中にあったような記載があり、その特徴から高地性集落は”軍事的集落”として利用された可能性も十分に考えられます。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 00:55:44.15
>>886
川の上流だとウンコが流れてこないから
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 01:08:37.53
>>865

高地性集落は弥生中期に造られ始めるから、
倭人の風習卜骨(鹿骨、猪骨)が本州で拡がった時期と一致する
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 01:23:12.75
九州って、倭国乱の痕跡まるで無いんだよね
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 01:23:44.10
また、農耕社会の形成が早い瀬戸内や近畿では、
米を主食とするのに必要な土器製塩が始まっている
土器製塩には燃料(木材)が必要になる
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 01:27:35.82
>>890の追加というか貼り漏れ

「弥生時代の中期後半(紀元前1世紀)頃になると大阪湾や備讃瀬戸で製塩土器が出現し、
塩の専業がはじまることが確認されている。」(農耕社会の形成 甲元眞之 熊本大学名誉教授)
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 02:38:18.94
>>889
>九州って、倭国乱の痕跡まるで無いんだよね

初心者?? 
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:15:56.37
>>889
あるなら挙げてみな
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:17:20.14
纏向型前方後円墳・・(寺澤説より)
後円部と前方部の長さが2:1と前方部が短く、かつ前方部が低い前方後円墳
纏向石塚古墳(墳長99m)
矢塚古墳(93m以上)
ホケノ山古墳(80m)

箸墓古墳はこれに該当しなくの、定型化した前方後円墳
寺澤氏が箸墓は卑弥呼の墓ではないと言う理由の一つ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:24:16.18
>>889
>九州って、倭国乱の痕跡まるで無いんだよね

九州は倭国に含まれているのは常識なんですけど・・
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:27:11.98
畿内には倭国の歴史が見当たらない
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:37:59.36
赤坂今井墳丘墓って平原王墓っぽいな
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:38:59.21
@北部九州では、弥生期の銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。
こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈されている。
@佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多いことを示すと考えられている。また甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。
@人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。
@鉄鏃についてはご存じの通り
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:53:54.11
>>898
つまり九州って、魏志のいう倭国乱の痕跡まるで無いんだよね
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 03:57:13.23
北部九州の殺傷人骨は、
倭人伝の倭国乱の100年以上前だからな
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:06:51.81
環濠が必要だったという事は何かしらの争いがあったという事だろう
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:10:52.31
倭国が確定してるだけでいいんでねーの
畿内はどうなの??邪馬台国以前のもんだなんだけど。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:16:57.97
>>900
?????
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:22:22.67
鉄剣や鉄刀などが想定される鋭利な殺傷痕跡
鉄は国力
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:45:42.19
九州説の人って全員初心者なの?
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 04:47:05.64
>>901
九州に環濠って少ないよね
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:05:30.94
畿内に倭国大乱の証跡を多く示せばいいだけなのに、、、、
九州に振ってどうするのかね????
九州は倭国に決まってるし(爆笑)
レス稼ぎもいいけださーーーー
畿内説では
九州内では戦いは起きてないとでも言うんのかな??
馬鹿じゃないの。
大型の武器(鉄刀、鉄剣、鉄戈)は、北部九州に集中している。鉄刀の87%、鉄剣の77%が北部九州に集中しているし、、、
当時 大陸とチャンチャンバラバラやってたという記録もないし。倭人伝でも北部九州の国々紹介してるし、、、、

畿内説の学者で九州では倭国大乱はおこってないと言う人いつのかな????
キナイコシだけじゃねーーの馬鹿言ってるのは。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:13:17.80
失礼
〇 畿内説の学者で九州では倭国大乱は起こっていないと言う学者いるのかな?????

キナイコシさんよ、、
いつもの「証拠は?」とか連呼する前に調べたら、、どうせ君のことだから何でもかんでも引っ張ろうとするからね。
馬鹿の君にお相手してくる人もいるだろうがね。
君の重要な仕事、次スレ立ても頑張ってね。しかしスレ千に届きそうだけど、、キナイコシの投稿がテンプレも入れ3割は超えてねーか??
友達いねーーーの???病態????引きこもり????
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:17:44.90
寺澤は箸墓は誰の墓だと想定してるの????
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:19:46.94
>>906
>九州に環濠って少ないよね

少ないっていう証拠は。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:36:32.98
>>865
>高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
>「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落

この現象は、弥生の大洪水によって灌漑稲作が壊滅状態となり、弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、
終には平地の暮らしを放棄し、縄文的な生業と地域社会へ回帰するように高地性集落が形成されたのだろう。   @阿波
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:37:41.94
唐古・鍵遺跡などは戦乱の卑弥呼時代には大環濠が土器などで埋められてて
古墳時代になると再掘削されて環濠が復活するそうな
その時でた大量の土砂はどこにいったのだろうか
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 06:40:07.20
>>869
>卑弥呼の即位を境に高地性集落が放棄された点が重要

この現象は、倭人(阿波勢力)により、雑穀栽培が広く普及したためだろう。   @阿波
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 07:23:18.58
後にも先にも、全国各地に今もって古代氏族の地名を残しているのは「忌部一族(阿波勢力)」 だけ。
「忌部一族(阿波勢力)」は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、
麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、
日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。   
これは、「阿波」を中心として古代は動いていたを示している。   @阿波
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 07:24:03.07
灌漑稲作に代わる雑穀栽培法や古墳の築造技術(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、
関東の土民も、朝鮮半島の土民も、九州の土民も、畿内の土民も、出雲山陰の土民も、北陸の土民も、
「倭人(阿波勢力)」の超先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「倭人(阿波勢力)」を王と仰いだことだろう。   @阿波
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 08:20:59.93
畿内説の言う倭国の東の倭種というのが東海地方()だからな
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 08:35:14.60
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 08:39:22.73
魏志倭人伝と纏向遺跡は共通項が少な過ぎて話にならんな
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 08:40:07.30
>>908
マジか?
テンプレはアボンだが・・・

名無しもか?
キナイコシこてハンじゃなかった説。
阿波がアボンなんで気付かなかったw
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 08:51:31.76
>>919
中身のない総論しか言えない九州説はオワコン
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 09:11:05.62
>>921
九州説ではない
しかし、共通項が少な過ぎて話にならないのは事実だから仕方ないやろ?
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 09:12:40.87
魏志倭人伝には九州と中国地方、四国くらいまでし書かれていないな。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 09:16:08.44
せんせ〜い、
松沢病院から逃走した阿波がここにいま〜す。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 09:25:46.49
>>922
事実だっていう客観的証拠は?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 09:30:14.54
>>867
でかいだけで度肝?w
曹操の薄葬令が出るまで、古代中国では山みたいな陵を造られてきたのに物知らずな使者だね
で、手前の舞台のような盛り土での儀式はスルーか
どこに目がついてんだか
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:05:05.13
>>923
そうだね
九州(卑弥呼を共立した国々、邪馬台国、狗奴国)
中国、四国(倭種)
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:07:19.24
>>917
それはない
畿内にとって伊都国が「北」で瀬戸内海を「南」に水行して辿り着くんだよ
さらに「南」の狗奴国が東海で、「東」の倭種は琵琶湖の向こうの国だろう
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:34:57.71
>>925
また繰り返すのかよw
共通項が多いというなら例をたくさん挙げろよ
それで終わる話やん
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:46:05.18
>>925
証拠、証拠にしがみ付き、今日も1日過ごすのかい。
ま、無いものは証拠に出来ぬからな。そういうのを無いものねだりの空論法という。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:52:59.21
そだね
纏向遺跡は倭人伝に完敗だったね
倭人伝強いね 
嘘つき畿内説は成敗されたね
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:56:11.34
>>922
証拠は 倭人伝さんに聞いてくれるかな
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 10:58:35.77
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50q)の範囲で、伊都→博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野にいくしかないこと。
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:07:26.95
つまり畿内説の根拠は低能ペテン師の妄言でしたと
故意なら詐欺行為ですね
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:17:33.50
>>935
故意という証拠は?
詐欺行為という根拠は?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:18:37.27
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:23:27.04
>>936
倭人伝さんに聞いてくれるかなあーーー
倭人伝さん畿内説の嘘つきと言ってたよ
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:33:20.22
>>939
倭人伝さんが怒ってたよ
南は南だがそんなところに行ってないと言ってるよ
あと。畿内説くんは馬鹿ばっかしと言ってるよ。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:51:00.97
>>939
筑紫邪馬台国はないのでボツ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:53:31.41
>>941
架空でなくて
奄美、沖縄だな。
無論、戸数は過大。
まあ、行っていない。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 11:57:10.52
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:00:34.68
畿内は倭種の国、名前は無い。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:06:43.61
>>930
昨夜君の問いに答えた
倭国大乱を鎮めた卑弥呼の事績と卑弥呼の墓の大きさで十分な答えとなる
両方とも魏志倭人伝に書かれている事柄
素直に敗北を認めなさい
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:10:03.14
ずーと短里(直径30m)で書いてる倭人伝が、卑弥呼の冢だけ突然変異で長里(直径140m)で書く畿内説w
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:11:30.10
里数表記は魏使が実際に行った場所、日数表記は倭人官僚からの伝聞ってことは、九州説・大和説の共通理解ですよね?
つまり魏使は纏向まで行ってないってことですよ?
それなのに「居所宮室楼観城柵厳設」「殉葬百人」「径百歩(30メートル)」って書くっておかしくないですか?
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:12:16.39
>>949
君の言う短理などは幻だということ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:13:03.44
つまり畿内説は年代繰り上げオレオレ詐欺
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:15:24.63
短里がないならスケールを大きくするしかない
東夷世界は距離で5、6倍の大きさになっている
これが倭人伝の世界観でしょ
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:17:20.43
>>951
張政は卑弥呼の死後纏向に台与と共に滞在し卑弥呼の墓も目視していた
これも動かしがたい事実
実際に見ていなければ墓の規模を記録することはできない
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:20:26.97
>>949
少なすぎたな ワハハ
読み返せ ワハハ
もうねーーんか ワハハ
倭人伝君があきれてたよワハハ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:20:49.33
九州説は何度も同じ迷路を彷徨って人の話に耳を傾けない
畿内説で君たちに辛抱強く付き合った人々は愛想をつかして離れていった
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:21:37.29
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:22:15.96
>>906
>九州に環濠って少ないよね

少ないっていう証拠は。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:24:23.16
>>958
君が適任だ

箸墓が卑弥呼の墓だと言う証拠を数多く上げてくれないか
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:30:55.82
>>961
昨夜書いたことを読んでいないのか?
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:37:53.65
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:39:43.52
後漢書を書いた范曄も先行する史書を参考にして帥升について書いた
魏志倭人伝も倭国の歴史について触れ卑弥呼より前の男王について記述している
陳寿も何かの史料を読んでいたはずだ
倭国大乱と卑弥呼の事績は卑弥呼の死以前に魏に知られていた蓋然性が高い
卑弥呼を女王と呼ぶとき、それは既に倭国大乱を治めた女王として知られた存在に対しての敬意を持った呼称だったのかもしれない
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:46:28.60
公孫三代が遼東〜東夷を支配下に入れたのが190年ごろとすると
後漢は倭国大乱後にどうなったか把握できていなかった可能性ある
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 12:53:34.76
>>962
前方後円墳のことか?
0967◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/28(水) 12:58:41.35
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709090189/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 13:01:13.92
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 14:04:57.20
>>965
韓や倭に勢力広げたのは公孫康の帯方郡以後だしだろうから200年より遡らないと思う
公孫淵の時代になるまでは忠実だったとされてるから、遣使が都に行かないことはあっても報告はある程度上げてたと思うぞ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 14:15:54.36
>>969
東夷伝序文
而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絕域委以海外之事遂隔斷東夷不得通
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 15:13:35.90
漢には107年以降、魏以前の倭の情報なんて無いよ。
卑弥呼が抑えた倭国大乱があがあ、
どころじゃなくて、
漢が大乱で三国志で公孫氏も独立なわけで…

統一直前?古墳時代始まったヤマト朝廷が、
隣国狗奴国と戦争で、魏に朝貢で
魏の正規軍の旗貰うって絶対無い。
記紀なんて、
楽浪帯方の向こうまで征伐しちゃうんだぞwww
畿内説って、半島人だろ?

公孫氏が遼東治めて韓、穢、倭が属した。が、嘘だし。
この倭は、半島に有るっぽいw 弁韓が入り会い。
韓情報も246年の制圧前が無い。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 15:37:31.73
短里の使用が異常なのは間違いない。

これは、郡役人帳政の報告書を陳寿が引用している文。
つまり、陳寿が採用を認めた公文書なのに、である。
と言うか、公文書だからこそ、だと思う。
写本、版本時にも修正されることの無い、理由が存在した。
韓伝の方可4千里は246年以降の話だが
歴史書としてもダメだろ?

倭人伝は、景初、正始年間で終る。
三国志の同年間で公文書の記載が有るかは未調査だが、
陳寿の三国志スケールの時系列で書かれて居れば
この間のみを、書き換えることもおかしい。

東夷伝の、この間のみでは、郡役人が
公文書で短里を使用することが有り得た。
としか、考えられない。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 15:49:36.56
でも、短里など使われてはいないのは事実
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:35:46.04
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)ことの合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国や邪馬台国までは行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:40:49.24
>>951
畿内、九州説でもないけど、
おかしくない。
邪馬台国にある記述はない。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:58:00.99
>>951
自分は里数表記も日数表記も魏使の報告という考え
不称国→投馬国ではなく、投馬国と邪馬台国への日数は帯方郡からの日数
最後にどのくらいの日数がかかるかをまとめて表記した
晋書には倭国の個数は七万戸とある一方で、魏志倭人伝の邪馬台国の戸数が七万戸
つまり、邪馬台国とは卑弥呼を共立した連合国家=倭国の名称と考えると辻褄があう
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:16:47.63
脳が正常な人はそんな書き方しないよ
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:20:37.37
>>976
>つまり、邪馬台国とは卑弥呼を共立した連合国家=倭国の名称と考えると辻褄があう

共立前の枠組みと、共立後の枠組みは大きく違っている。
卑弥呼は邪馬台国1国の女王から、倭の30国の女王=倭女王=親魏倭王へと出世した。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:22:56.36
>>974
>公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)ことの合理的説明がつく

なのに誰も確認してないということは
短里なんて無いという証拠だね
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:29:07.70
>>976
>つまり、邪馬台国とは卑弥呼を共立した連合国家=倭国の名称と考えると辻褄があう

それだとw倭国は女王の都する所だという、とても間抜けなことになる
そんな間抜けは世界に何人もいない
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:30:18.72
>>979
畿内説は決して計算をしない、計算をしたら負けだから。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:31:02.13
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:33:29.71
>>979
電卓やエクセルで確認することも出来ない異常に無能な君以外はみんな確認してるよ
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:41:00.71
畿内説は方位も距離も破綻している
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:42:03.94
そうでんな
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:42:38.73
>>981
>畿内説は決して計算をしない、計算をしたら負けだから。

九州説は決して証拠を出さない
すべて脳内捏造だから
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:43:38.82
畿内説は算数が出来ない、馬鹿だから
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:44:11.38
埋めちまおうぜ

次スレに

持ち越すと

訳が、わからんから
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:44:49.51
畿内説は算数が出来ない、馬鹿だから
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:45:02.67
畿内説は算数が出来ない、馬鹿だから
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:45:42.02
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:46:18.89
梅干し
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:46:28.31
>>984
>電卓やエクセルで確認することも出来ない異常に無能な君以外はみんな確認してるよ

なのに
だれも確認した証拠を出さないのは
確認したというのがウソだという証拠
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:47:36.85
九州説は証拠を出さない
ウソだから
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:47:52.96
>>995
証拠などいらない
君が自分で電卓かエクセルで確認すれば良いだけ
本当にできないとしたら脳が余程重症だ
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:48:21.70
計算したら負け。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:48:40.79
奥山 次スレで会おうぜ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:48:49.98
奥山 次スレで会おうぜ
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垢版 |
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